千葉一族 【い】の1

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【い】

飯倉

 椎名氏一族。千葉介常重の子・椎名胤光の孫にあたる胤秀(太郎)が匝瑳郡南条庄飯倉邑(匝瑳市飯倉)に住んで飯倉を称した。

―飯倉氏略系図―

→千葉介常重-椎名胤光――胤高―+―飯倉胤秀――胤春―+―次郎――十郎
      (五郎)  (六郎)|(太郎)  (十郎)|
                |          |
                +―堀川胤次     +―五郎
                |(四郎)
                |
                +―尾垂胤方
                 (次郎)

飯篠

飯篠長威斎墓

 千葉一族。「いいざさ」と読む。香取郡飯篠村(香取郡多古町飯篠)発祥の原常宗(前期・原四郎家の祖)の一族という。室町期の飯篠家直(長威斎)は香取大社に祈って、天神正伝神道流を開いたといわれる。その後は代々神道流の宗家として続く。長威斎の墓は香取神宮の奥ノ宮近くにひっそりとたたずんでいる。

 彼の門人には諸岡一羽、塚原土佐守、松本備前守政信らがいた。塚原土佐守は剣聖とたたえられた塚原卜伝高幹(千葉国分一族出身)の義父で、その門人には北畠具教(伊勢守護職)、足利義輝(室町幕府13代将軍)、細川藤孝(幽斎。古今伝授の宗家で、熊本藩初代藩主・細川忠興の父)、斎藤伝鬼坊、佐野了伯ら著名な名士たちがいる。家直の姓は「藤原」ともあり、家直が実際に千葉氏の出かどうかは不明。

 また、飯篠氏の一族には千葉太郎宗胤に従って円城寺氏、臼井氏、原氏などとともに九州におもむいた者もいた。子孫は肥前小城千葉家に仕えていたようである。

 永正13(1516)年4月29日、千葉介胤勝の被官・飯篠舎人が同じく千葉家人の江里口常寛(下総守)、野辺田新二郎ともに別府において討死を遂げているが、おそらく、大内方の東尚盛との合戦であろう。

 室町時代後期の肥前小城千葉家当主・千葉介胤連の子、鍋島右馬佐胤信には三人の娘と男子が一人おり、男子は馬場清兵衛茂周の養子となり、馬場帯刀を称したが早世した。長女は永田利右衛門に嫁ぎ、二女は本告作左衛門に嫁いでおり、胤信は三女に鹿江忠兵衛茂次の子を嫁がせて養嗣子とし、鍋島千葉家初代・鍋島玄蕃允常貞となった。

 一方、鍋島千葉家の名跡を継いだ常貞とは別に、長女(永田利右衛門妻)の子(胤信には外孫)を養子に迎え、千葉作兵衛胤仲を名乗らせた。胤仲は叔父で義兄の鍋島常貞の家臣となり、「千葉」姓を憚ったか、「飯篠」氏の名跡を継いで「飯篠作兵衛尉」を称している。

●「鍋島玄蕃允常貞家臣等連署起請文」より

結篠作兵衛尉 結篠百助 柳嶋右衛門佐 岩部久右衛門尉 岩部清太輔 岩部吉左衛門
鮎河利左衛門尉 鮎河金兵衛尉 鮎河角左衛門尉 鮎河市太夫 松本八郎右衛門尉 浅岡与一兵衛尉
藤田五郎左衛門尉 藤田忠兵衛尉 松村又兵衛尉 長才右衛門尉 河波八郎兵衛尉 大井与左衛門尉
大井南四郎 久間源左衛門尉        

 飯篠胤仲は義兄・鍋島常貞の娘を娶り、三男三女を儲けた。胤仲の長男・常豊は石井忠右衛門の聟養子となり、石井仁右衛門を称した。正徳元(1711)年9月25日に亡くなった。二男・義弁は江戸の徳川家菩提寺である東叡山寛永寺の塔頭・一乗院の住職にまで昇った。胤仲の長女は関平兵衛の妻、二女は犬塚三兵衛の妻、三女は三谷八左衛門の妻となった。

 胤仲の三男・胤之石井武右衛門を称し、その後、飯篠胤之と改めて飯篠家の家督を継ぐ。妻は石井権之丞の妹。はじめ二十石を賜り、その後も微増を重ねて享保6(1721)年に神埼郡六丁牟田に所領を給わり、八十石取りとなった。しかし、翌享保7(1722)年、江戸において人を傷つけ、家籍を没せられ、絶家とされた。

 一方、胤之の二男・作兵衛胤春は藩公・宗茂の命で「飯篠」を「晴気」と改め、晴気氏として幕末に至った。

 また、その一族と思われるのが大村藩領の開拓者・飯笹胤重(平六)で、千葉卜枕とも号した。

―飯篠氏略系図―

→飯篠家直-貞秀―――盛親―――盛信―――盛綱―――盛秀――――盛繁―――盛長―――盛久―――盛定――+
(山城守)(修理亮)(若狭守)(若狭守)(山城守)(左衛門尉)(大炊助)(修理亮)(修理亮)(修理亮)|
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―盛重―――盛次―――盛清――長照―――盛照―――盛重―――盛房―――盛貞
(修理亮)(修理亮)(修理亮)(修理亮)(修理亮)(修理亮)(修理亮)(修理亮)

飯嶋 

 大須賀一族。大須賀時通(四郎)の子孫・知勝(左近)が大戸庄飯嶋郷(香取市飯島)に住んで飯嶋を称したという。『大須賀系図』では時通の4代の孫となっている。家紋は「丸に桔梗」「丸に蔦」。飯嶋氏は藤原氏の出自という説もあるが、根拠が不明で信憑性に欠けるため、とりあえず系譜の残る千葉一族としておく。 

 この飯嶋氏の一流は、江戸時代に越前藩士となって続いていく。ただ、松平秀康の時代の家中帳に見える御馬廻衆・飯嶋治右衛門(三百石)は美濃を本国とする人物であり、別の飯嶋一族、もしくは越前藩士の飯嶋氏は下総から美濃へ移り住んでいったのかも? 系譜によれば、飯嶋知時(源太夫)がはじめて越前へ移り住んだという。 

 一方、『福井藩士由緒書』によれば、飯嶋由久(新左衛門)が多賀谷左近のもとに寄食していて、松平忠直の代に重臣の久世但馬が謀反の疑いで誅殺された際に、多賀谷左近のもとで弓隊士として参戦して功績をあげたとある。由久は林六兵衛という弓の名手の印可を受けた人物であり、大坂の陣でも多賀谷左近の手に加わった。彼の本国生国は上総である。

 大坂冬の陣では由久は城内へ向かい散々に矢を射こみ、和睦が成立した後、大坂城内から竹田伝兵衛という人物が「飯島新左衛門由久」という書付のある矢を二十六本持参して由久を訪ねてきた。城内に射込まれた矢のうち、この矢ほど多いものはなく、射術抜群の儀を感じ入り、師弟の契約を交わしたいと思い訪ねてきたという。由久は伝兵衛に持参の矢のうち六本を渡して師弟の契りを交わし、林六兵衛よりの秘術一巻を伝授した。 

 『大竹家系図』によれば、飯嶋知時(源太夫)の嫡男に由因(新左衛門)があるが、『福井藩士由緒書』によれば、この弓の名手・飯嶋由久(新左衛門)の嫡子が由因(新左衛門)とされている。 

 『大竹家系図』によれば、由因(新左衛門)は松平忠昌(伊予守)に仕え、長姉は五百石取の旗本・本多甚次郎の妻となり、次姉は府中城主・本多丹波守の家臣・金子猪右衛門の妻となっている。また、『福井藩士由緒書』には寛永18(1641)年に由久の家督を継承したという。 

 由因(新左衛門)の嫡男・源太夫は忠昌の三男で越前福井藩主・松平昌明(兵部大輔。三代・五代の藩主で「昌親」「吉品」と同一人物)に仕えた。『福井藩士由緒書』には由因の嫡男・由明(新左衛門)は元禄元(1688)年に家督を継承したとある。 

 由明には嫡男がおらず、島崎信和(市郎右衛門)の子・飯嶋由長(新左衛門)を養嗣子に迎え、由長は元禄15(1702)年に家督を継承した。その後、子孫は代々福井藩士として続いた。

主君 人物名 役職 石高 分限帳
松平秀康 飯嶋治左衛門 御番与衆 300石 『源秀康公御家中給帳』
松平忠昌 飯嶋新左衛門   250石 『隆芳院様御代給帳』
松平光通 飯島新左衛門
飯嶋源六
飯嶋市郎兵衛
飯嶋勘兵衛
飯嶋藤右衛門
  200石
100石
--
--
--
『源光通公御家中給帳』
松平綱昌 飯島新左衛門
飯嶋勘兵衛
  200石
御合力切米御扶持方
『清浄院様御代』
松平昌親
(吉品)
飯嶋勘兵衛
飯嶋源六
飯嶋伝左衛門
  30石7人扶持
20石5人扶持
25石5人扶持
『貞享三寅年 御家中末々迄被減覚帳』
松平吉品 飯嶋源右衛門   100石 『深源院様御再勤後給帳』
松平宗矩 飯嶋新左衛門 大御番組五番御金奉行 100石 『徳正院様御代御家中帳』

 幕末の飯嶋三五左衛門は慶応3(1867)年12月22日、嫡男の飯嶋源橘に家督を譲り、源橘は戊辰戦争で第一遊撃隊士となる。慶応4(1868)年3月4日、御馬廻に就任した。

 由因(新左衛門)の弟・義政(小五郎)も兄とともに忠昌に仕えており、その子・古市吉政(理右衛門)と成富(新助)は、忠昌の弟で越前大野藩主・松平直富(但馬守)に仕え、吉政の子孫は大野藩士として続くが、成富はのち京都所司代・松平興衡(のち松平因幡守信興)に仕えて、飯嶋伴内を称し、その後、豊前中津藩主・小笠原長胤(修理大夫)に仕えて、飯嶋新五右衛門を称する。

―飯島氏略系図1―(『藩士由緒勤書』より抜粋:『福井県史』所収)

→飯嶋由久――由因――――由明====由長
(新左衛門)(新左衛門)(新左衛門)(新左衛門)

―飯島氏略系図2―(『大須賀家系図』より抜粋:『下総町史』所収)

→大須賀胤信-時通―――――通政―――――胤勝―――――胤知―――島知勝――知頼―――知信―+―知基―――諏訪武知
(四郎)  (四郎左衛門)(四郎左衛門)(四郎左衛門)(孫八郎)(左近) (源太夫)(蔵人)|(藤三郎)(土佐守)
                                              |
                                              +―知行―――知資
                                               (和泉守)(和泉守)

―飯島氏略系譜3―(『大竹家系図』より抜粋:『下総町史』所収)

→大須賀胤信―胤勝――――+―胤知――――飯島知勝――知頼―――知信――知基―――武知―――知行――+
(四郎)  (四郎左衛門)|(弥四郎) (左近将監)(源大夫)(蔵人)(藤三郎)(土佐守)(和泉守)|
             |                                    |
             |+―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
             ||
             |+―知資――知春―――――知茂―――――政知―――知貞―――知員――――+
             | (源介)(次郎左衛門)(源六左衛門)(源五郎)(甲斐守)(式部)   |
             |                                    |
             |+―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
             ||         【越前福井】
             |+―…―+―知経―+―知時――+―娘
             |    |(帯刀)|(源太夫)|(旗本:本多甚次郎妻)
             |    |    |     |
             |    |    |     +―娘
             |    |    |     |(金子猪右衛門妻)
             |    |    |     |
             |    |    |     +―由因――――――――源太夫―…【越前福井藩士】
             |    |    |     |(新左衛門)
             |    |    |     |
             |    |    |     +―義政――――――+―古市吉政
             |    |    |     |(小五郎)    |(理右衛門)
             |    |    |     |         |
             |    |    |     +―娘       +―成富――――…【越前大野藩士】
             |    |    |     |(門奈新右衛門妻) (新五右衛門)
             |    |    |     |
             |    |    |     +―娘
             |    |    |     |(五十幡氏妻)
             |    |    |     |
             |    |    |     +―源六―――+―娘
             |    |    |     |      |(早世)
             |    |    |     |      |
             |    |    |     +―勘兵衛  +―勝明
             |    |    |            |(数馬)
             |    |    |            |
             |    |    +―知且―――知春    +―門奈太郎左衛門
             |    |     (藤三郎)(三郎右衛門)
             |    |
             |    +―大竹知義―――…【下総大竹家】
             |     (源次郎)
             |
             +―胤頼――――胤信――胤基―+―胤武―胤英―胤門―胤長―繁胤―胤家―胤景―+
              (次郎大夫)(四郎)    |                      |
                            |  +―――――――――――――――――――+
                            |  |
                            |  +―胤遠―実胤―胤経―胤衡―+―胤秋
                            |                |
                            +―胤行―胤資          +―将胤―政胤―胤益

飯田

 千葉一族か。居城は香取郡橘庄の飯田城(香取市岡飯田字根小屋)。東大社の宮司家に東一族の飯田家がある。

飯高

 千葉一族。発祥地は匝瑳郡北条庄飯高郷(匝瑳市飯高)。

◆匝瑳氏流飯髙氏◆

 匝瑳常広(八郎)の四男・政胤(四郎)が匝瑳郡北条庄飯高郷(匝瑳市飯高)の丘陵(字神の前)に飯高城を築いて飯高を名乗った。飯高氏はこの地にしだいに勢力を張っていき、匝瑳南条庄の領主、椎名氏と争った。しかし鎌倉末期から室町期には、椎名氏によって飯高城を攻め落とされたようで、匝瑳郡北条地頭として飯倉氏が最後に見られるのは、康永4(1345)年の香取神社文書に見える飯高彦三郎で、応永5(1398)年の北条地頭はすでに「山内宮内少輔」となっている。

 寛元2(1244)年8月15日の放生会に続き、翌8月16日に行われた「馬場の儀」の十列のうち、二番に「飯高弥次郎左衛門尉」が見える(『吾妻鏡』)。この「飯高弥次郎左衛門尉」は、飯高政胤の孫・飯高常道(弥次郎左衛門尉)のことだろう。

 文永9(1272)年4月5日、飯高胤員(左衛門次郎)が陸奥国(磐井郡?)八幡庄内萩薗・蒲生郷の境界について那須資長(肥前次郎左衛門尉)と争っている『関東下知状』。飯高胤員は寛元2(1244)年に「右衛門大夫長経」から萩薗郷を譲られたが、その境がわからず、御使がさし下され、「景衡」(貞永元年まで萩薗郷本主)の譲状(景衡⇒長経)に任せて糾明すべきことを命じた。このときは胤員が勝訴したようだ。胤員は飯高政胤(四郎)の5代目の孫にあたる。このように陸奥国には千葉一族の所領が入り混じっており、奥州千葉氏の祖も彼のような人物が多くあったのかもしれない。

 飯高氏の一族・飯高泰高(兵衛二郎)は香取郡山倉郷(香取市町山倉字土道)に住んで山倉を称したとされる。泰高は応永24(1417)年の「上杉禅秀の乱」で禅秀に荷担して幕府軍によって追討されているが、山倉氏の子孫には、康永4(1345)年の香取神社文書に見える飯高「彦三郎」と同じ仮名をもつ「山倉彦三郎」が何人かおり、泰高は椎名氏と争って敗れたために山倉に逃れたのかも知れない。

◆千葉氏流飯髙氏◆

 後世、岩橋輔胤の三男・胤忠が下総国飯高郷を領して飯高を称した。その子・貞政が江戸幕府の旗本になったという。しかし、飯高胤忠の時代と、亨禄2(1529)年生まれの貞政との時代は間が開きすぎているため、胤忠の子孫とすれば、貞政は胤忠の孫だろう。また、天正末期には、千葉氏家臣として飯高胤氏(左馬助)・飯高胤勝(四郎)・飯高胤房(河内守)の名が見える。家紋は「九曜」・「三亀甲」・「並び九曜」 。

―飯高氏略系図―

―旗本飯高氏略系図―

                                +―藤太郎
                                |
                                |
                                +=又四郎
                                |(青木安清三男)
                                | ∥
                                +―八十郎   +―娘
                                |       |(秋山政賓妻)
                                |       |
                                +―娘     +―娘
                                |(岩出氏室) |(大村貢詔妻)
                                |       |
                                +―娘     +―娘
→飯高胤忠-胤広――貞政―+                  |(和田教般室)|(人見忠義妻)
(三郎) (五郎)(主水)|                  |       |
             |                  |       |
+――――――――――――+                  +―貞躬    +―娘
|                               |(又十郎)  |(飯高貞仰妻)
|                               |       |
+―貞次――――+―貞成――――+―胤当―――胤晴===貞宣――+―貞友――――+=貞亮――――貞名
 (弥五兵衛) |(弥五兵衛) |(与兵衛)(吉兵衛)(源左衛門)(弥五兵衛) |(弥五兵衛)(弥吉)
        |       |                       | ∥
        +―娘     +―貞明―――――+―胤偏――+―求馬     +―娘
        |(松平文右妻)|(加兵衛)   |(加兵衛)|
        |       |        |     |
        +―娘     +―娘      |     +―胤雄===節吉
         (土屋知貞妻)|(鈴木重明妻) |     |(孫三郎)(久米五郎)
                |        |     |
                +―娘      |     +=胤貞――――+=胤久====胤蕃
                |(山田八左妻) |     |(加兵衛)  |(吉十郎) (胤久実弟)
                |        |     |       | ∥
                +―娘      |     +―娘     +―娘 +―娘
                |(飯高勝成妻) |     |(平賀景秀妻)    |(坂本忠篤妻)
                |        |     |           |
                +―鈴木明正   |     +―娘         +―胤貞   +―金可
                |(鈴木重明養子)|      (宅間憲元妻)    |(加兵衛) |(権左衛門)
                |        |                 |      |
                +―娘      +―貞如====貞基――――――――+=貞久―――+―貞亮
                |(鈴木重三妻) |(又兵衛) (宇右衛門)     |(宇右衛門)|(弥五兵衛)
                |        |                 | ∥    |
                +―娘      +―山田新五郎           +―娘    +―酒井正寿
                |(遠山景重妻) |(山田八左衛門養子)               (繁三郎)
                |        |     
                +―娘      +―貞宣                   +―胤因===胤親
                |(久留正綱妻) |(源左衛門)                |(七兵衛)(主水)
                |        |                      |
                +―奈良茂次   +―貞基                   +―節吉
                |(八郎左衛門) |(宇右衛門)                |(久米五郎)
                |        |                      |
                |        +―胤敬                   +―寺嶋胤行
                |         (新太郎)                 |(善三郎)
                |                               |
                +―貞勝―――+―勝成――――勝政―――+―益胤===胤節―――+―胤親
                |(七兵衛) |(七左衛門)(七左衛門)|(七兵衛)(孫左衛門) (主水)
                |      |            |         
                |      |            +―娘       
                |      |            |(杉原保勝妻)    
                |      |            |           
                |      |            +=娘         
                |      |             (杉原保勝後妻)   
                |      |                        
                |      +―胤英―――+―胤寿――+=胤雄――――+=胤叔
                |       (一郎兵衛)|(孫大夫)|(孫三郎)  |(新五郎)
                |             |     | ∥     |
                |             |     +―娘     +=節吉――――胤直
                |             |     |       |(久米五郎)(友之進)
                |             |     |       |
                |             |     +―娘     +=胤充    +―娘
                |             |      (青木義彬妻)|(庄之助)  |(葉山定綱妻)
                |             |             |       |
                |             |             +=娘     +―義章
                |             |              (節吉許婚) |(初三郎)
                |             |                     |
                |             +―胤重===胤敬===胤通===貞善―――+―娘
                |             |(新太郎)(新太郎)(友之進)(又左衛門)|(小川益利妻)
                |             |                     |
                |             +―娘         +―娘       +―娘
                |              (蜷川親和妻)    |(山本時亮妻)   (大竹信種妻)
                |                         |
                +―正次==貞恒―――貞邑――+―又太郎      +―娘
                |(百助)(又十郎)(百助) |          |(有馬満速妻)
                |          ∥   |          |
                |     原 胤氏―娘   +=貞躬―――貞仰――+―貞主
                |    (長右衛門)     (又十郎)(八兵衛) (金右衛門)
                |          
                +―貞久――+=胤守――+―娘
                 (伝八郎)|(源四郎)|(朝比奈義徳妻)
                      | ∥   |
                      +―娘   +―六之助       +―娘
                            |           |
                            |           |
                            +―胤就――+―胤美――+―胤道
                            |(市十郎)|(主税)  (亀太郎)
                            |     |
                            +―源次郎 +―娘
                                   (太田英正妻)

●文久9(1272)年4月5日『関東下知状』(小泉文書)

  飯高左衛門次郎胤員那須肥前次郎左衛門尉資長
  相論陸奥国八幡庄内萩園、蒲生両郷境事、

 右、対決之處、両方申言葉枝葉雖多、所詮、萩薗者、
 本主景衡貞永元年譲渡右衛門大夫長経、長経又寛元二年譲与胤員之處、
 不知其堺之間、被差下御使、任景衡譲状、被可糾明之由、胤員依令申、
 被差遣山内中務三郎経通高泉太郎信幹之處、如経通等取進進士次郎重宗
 文応元年六月二日起請文者、雖載子細、彼重宗者、依所従相論、
 為資長敵人之間、不足証人、此外無指証不及沙汰、次打越事、資長雖申子細、
 胤員本自不差申際目之間、不及付打越者v、依鎌倉殿仰、下知如件、

   文永九年四月五日
               相 模 守 平 朝臣(花押:北条時宗)
               左京権大夫 平 朝臣(花押:北条政村)

飯竹

 千葉一族。原常継(十郎)の子、家房(五郎)が香取郡飯竹村(香取郡多古町飯篠か)に住んで飯竹をなのった。 

―飯竹氏略系図―

→千葉常長…原常継-飯竹家房-泰友-重宗-重親
     (十郎)(五郎)

飯塚

 椎名一族。松山胤平(二郎)の曾孫・弥四郎が匝瑳郡南条庄飯塚村(匝瑳市飯塚)に住んで飯塚を称した。 

-飯塚氏略系図-

→椎名胤光-松山胤平――胤信-□□-飯塚弥四郎
(六郎) (次郎)

伊木

 千葉一族。武馬常遠の子・武馬尚遠が織田信長に仕え、尚遠は弟二人とともに美濃国伊木山城攻めの先陣をした功によって伊木を称するように命じられて伊木に改めた。「武馬」は「賦馬」のことか。

 伊木尚遠は嫡男・尚定を秀吉に仕えさせ、その子・尚重は秀頼に仕えた。そして豊臣氏が大坂で滅びると、信濃国松代の真田信之(真田幸村の実兄)に仕えて重用されるが、その子・尚次は真田家を出て奥州盛岡藩主の南部氏に仕えた後、毛利家分家の清末藩主・毛利元知の推挙によって萩藩に仕え、代々大組となる。明治維新時、萩藩の干城隊士・伊木尚忠は明治元年に越後桂峠で戦死した。

 仙台藩士となった伊木氏は、常遠の子・常尚が伊木城攻略に功績があり、兄弟で伊木を称した。常紀は天正11(1583)年、賎ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に組して功をあげ、天正18(1590)年の小田原合戦にも従軍した。その後、大坂冬の陣では大坂方に組し、真田幸村の手勢に加わって首級93を挙げるという武勇を見せる。

 しかし、結局大坂は落城し、常紀は浪々の身となってしまった。それを知った徳川家康は、彼を探し出してこれを許し、板倉勝重(京都所司代)にあずけた。その後、剃髪して有斎と称し、その子・常成は京極家の家老に抜擢された。京極家が改易されると細川忠興に迎えられた。常成の子・常任は老中・松平信綱(伊豆守)と面識があり、彼の斡旋によって伊達綱宗に召し抱えられて元禄16(1703)年、伊達家におもむき伊達家の重臣となる。

 一説には、尚遠の弟のひとりが池田恒興(池田勝入)に仕えて代々筆頭家老の家柄となった伊木家ともされているが、伊木家が藩に提出した由緒書きによれば、池田恒興に仕えた伊木家の祖は、加々輪新右衛門という武士で、生国・知行等も伝わっていなかったようである。その子・加々輪長兵衛は天文12(1543)年に尾張国清洲城下に生まれ、幼少から恒興に仕え、尾張国犬山に七十貫文を知行していた。のち、美濃国伊木山で「御吉凶之様子御座候由、其子細之儀者聢不存候」という中、名字を「伊木」とするよう命ぜられ、伊木清兵衛を称したという。その後、「豊後守」の官途名を与えられて伊木豊後守を称する。

 池田家が摂津国伊丹に領地替えとなると、豊後守も同行して千貫文を領した。豊後守は恒興に従って各地を転戦。摂津国鼻熊城攻めでは城の西側から攻め入り大功を挙げた。また、明智光秀との山崎の合戦でも安部仁右衛門とともに物見に出た際、それを知らない明智勢が有利な山上に陣しようとしていた所に奇襲をかけてこれを追い落とす戦功を挙げる。

 恒興が隠居すると、その嫡子・元助に仕えて美濃国岐阜へ移り、天正12(1584)年の小牧長久手の合戦では恒興入道勝入の手に加わり、大手軍の先陣として出陣し、犬山城を攻め落とした。池田恒興入道勝入・元助が討死を遂げると、池田家を継いだ二男・池田照政(のちの池田輝政)に仕え、五千貫文が下される。輝政が三河国吉田城に移されると、一万七千石を領した。

 輝政が播磨国に移ると豊後守は三万六千石もの領主となり、長男の伊木長門守、二男の伊木日向守にもそれぞれ千石が下され、伊木家領は三万八千石にも及んだ。豊後守は慶長8(1603)年12月17日に六十一歳で亡くなった。その遺言に基づき、五千石が伊木日向守に相続され、千石が長門守に与えられた。

 長門守は摂津国伊丹に誕生し、天正9(1581)年、摂津国伊丹に誕生し、慶長6(1601)年、播磨に千石が下された。慶長8(1603)年に父の豊後守が亡くなると、輝政より家督相続が認められ、伊木家の家督となった。大坂冬の陣では江戸屋敷留守居となったため、弟の日向守に代参を命じたが、続く大坂夏の陣では長門守とともに出陣し、家康・秀忠より直に言葉を賜った。しかし、その直後の元和2(1616)年8月に三十六歳の若さで亡くなってしまった。その子・伊木内記は寛永9(1632)年、池田光政が因幡国鳥取へ国替えとなるとこれに従い、12月30日に光政の御前に召し出され、翌日の寛永10(1633)年正月1日には「頼母」と改名している。寛永14(1637)年、伊木頼母は千石知行についての折紙を賜っている。その子・伊木頼母は慶安3(1650)年8月、家督を相続した。

 一方、長門守の弟にあたる伊木日向守は、天正13(1585)年に美濃国墨俣にて誕生し、慶長6(1601)年に13歳で輝政に仕え、千石が下された。慶長8(1603)年に父の豊後守が亡くなると、豊後守から四千石が下されて五千石の大身となった。彼は名古屋城の手伝普請、丹波篠山の城普請、江戸城手伝普請などの普請などを行っていた。大坂冬の陣でも池田勢の一員として参戦しているが、彼は兄・長門守の名代としての出陣で、長門守の家臣も率いて播磨国三木に出陣している。大坂夏の陣では長門守とともに出陣し、徳川家康・秀忠に謁見して長門守が直に言葉を賜った。光政は徳川家光の姉・千姫の娘の勝子を正妻として迎え、日向守は祝言の使者として江戸へ向かい、秀忠・家光に謁見した。光政の備前岡山への転封に際しても従う。寛永19(1642)年11月29日、五十四歳で亡くなった。

 その子・伊木玄蕃は寛永9(1632)年に誕生し、七歳で光政に謁見。寛永19(1642)年12月8日、家督を相続した。

 伊木忠澄(長門守)は幕末の岡山藩筆頭家老で、同じく家老の土倉四郎兵衛の子。伊木長門守家の養嗣子となり、3万2千石を領した。

-伊木氏略系図-

       【萩藩伊木氏
      +―伊木尚遠-尚定-尚重-尚次
      |(七右衛門)
      |
      |              【仙台藩伊木氏
→武馬常遠―+―伊木常尚-常氏-常紀-常成-常任=任雄――――――+=任世
(和泉守)          (有斎)     (伊木常喜の次男)|(任雄の弟)
                                 |
                                 +―任澄-実任=任治―任昭-任道-常任
                                        (太田良恭の次男)

■参考文献■

・『岡山藩家中諸士家譜五音寄 一』
・『宮城県姓氏家系大事典』
・『山口県姓氏歴史人物大事典』

池田

 千葉一族か? 発祥地は千葉庄池田郷(千葉市中央区亥鼻)。

 室町中期の千葉介胤直の重臣に池田胤相がいた。彼は千葉介胤直の四家老の一家・木内胤儀(左衛門尉)の妹・時子を妻とし、千葉宗家の重臣になったが、康正元(1455)年8月15日に胤直とともに自害した。このとき、舅・木内胤儀も自害している。

 また、奥州相馬家の家中に池田氏がある。もともとは甲斐国武田氏の家臣で笠井を称していた。武田氏の滅亡後は浪人し、元和年中に初代藩主・相馬利胤に仕え、采地二百石を賜り、氏を池田と改めた。その子・池田次郎左衛門相馬義胤(大膳亮)に仕え、二百石の郡代職となり、立身して五百石という大身藩士となる。嫡男・八右衛門(真斎)に家督を譲ったのちは新たに二百石が下され、そのまま郡代職にとどまっている。次郎左衛門はその二百石を嫡男・八右衛門の次男・善兵衛に、つまり孫に譲り、郡代職は八右衛門に継承された。

 八右衛門は家督を嫡男・八右衛門に譲り、真斎と号したが、父のとき同様に郡代職にとどまり二百石が下された。その後、二百石は三男・忠兵衛に継承され、忠兵衛は野坂次郎左衛門を称した。次男は笠井善兵衛を称する。

池田胤直菩提所・仏立寺

 八右衛門の嫡男・池田直重(八右衛門了月)は五代藩主・相馬弾正少弼昌胤の代に家老職となる。享保元(1716)年3月8日、大浦庄右衛門茲清の後を受けて郡代頭に就任。享保2(1717)年7月7日、直重は病気により家老職を辞した。

 以降、郡代職・家老職を務め、池田直方(図書)は九代藩主・相馬祥胤(因幡守)の家老職を務めた。寛政11(1799)年には直方の嫡男・池田直常(八右衛門)が出仕して詰番席に就いた。直方が文化3(1806)年3月に亡くなると、直常が池田家の家督を継承する。この直常こそ相馬中村藩の藩財政を復興させた池田図書胤直その人である。直常はのちに「胤」の一字を賜り、「胤直」と改名した。

 藩主・相馬益胤は借金のかさむ藩財政の建て直しに奔走し、藩政改革を断行した。その当時の中村藩の借金は二十万両にもおよび、利息は年二万両を超えたという。これに益胤は有能な人材を登用して改革すべき点を挙げさせて、これをもとに緊縮財政を行った。さらに農民に対しての扶助、絶家となった家を再興させ、荒地を開墾し、新たな産業を興させるなど藩政に新たな風を送り込んだ。この改革の立役者が、佐藤孟信池田胤直草野正辰今村秀興紺野文太左衛門らであった。

 池田胤直は郡代を経た後、家老職に就任。同職にあった草野正辰とともに藩士・富田高慶の建策を受けて二宮尊徳の農法を取り入れ、富田が二宮に師事して習得した農法によって藩は復興を遂げることになる。安政2(1855)年、三十七年の永勤の間にいろいろな非常事態が起こったにもかかわらず、無事に乗り越えた功績を称え、「国家之大勲労年来之御忠勤古今稀成義、出格之思召」をもって、家老御勤中は「御一家格」の家格と四百五十石の役料を下された。さらに代々亀甲ニ桔梗の紋を用いるよう仰せ付けられた。

 安政2(1855)年7月ごろから病が篤くなると、藩主・相馬大膳亮充胤は塩絶ちして妙見社で祈祷させ、みずからも妙見社に参詣。村田半左衛門野坂源太夫ら藩の重臣たちもそれぞれ参詣した。しかし病篤く11月29日、亡くなった。法名は慧光院殿誠忠日勇居士。菩提寺・仏立寺は宇田川沿いの住宅街にある日蓮宗の寺院である。のち昭光院殿と改められた。

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
池田八右衛門 大身 600石 堀川町
池田喜左衛門 大身 150石 鷹巣町横町
池田庄左衛門 大身 130石 鷹巣町北西山
池田三太夫 大身 100石 柏葉町
池田伊右衛門 大身 100石 柏葉町
池田 双 小身 3石 泉内蔵助屋敷内

伊居立

 千葉一族。「いこり」と読む。椎名氏の一族・野手氏から出ていて、小田氏の重臣・多賀谷氏の旗下に入っていた野手盛胤(十郎右馬允)の次男・時胤(次郎掃部)が文明7(1469)年1月に下総国結城郡伊居立郷(下妻市伊古立)に所領を与えられ、伊居立を称した。

伊西

 上総一族。上総介常澄の子・伊南新介常景は伊北庄伊西を領して伊西を称したという。常景は「新介」を称していることから、常澄から「上総権介」を譲られていたが家督は継いでいなかったと考えられる。

 常景は常澄の死後、弟の印東常茂(印東介)に暗殺されているが、嫡男・常仲(のち伊北庄司)は生き残っており、安房国の叔父、長狭六郎常伴のもとに逃れたのかもしれない。【→上総氏

-伊西氏略系図-

→上総介常晴-相馬常澄――伊南常景
      (上総介) (新介)
             ∥
             ∥――――伊北常仲
             ∥   (伊北庄司)
           +―女子
           |
           |
           +―長狭常伴
            (六郎)

石川

 千葉一族。奥州千葉氏の一族で、陸奥国石川郷に住んだ千葉胤吉が筑前国におもむいて大内氏に仕えたという。実際は小城千葉氏の一族?

 大内氏の滅亡後は毛利元就に仕え、孫の就常は元就の「就」字をもらっている。また、同じく千葉臼井氏の流れを汲む神保興胤(対馬守)の末子・常善(新右衛門尉)が石川氏を継いだ事が記されており、就常の父にあたるか?

 就常の子・就胤就辰はともに2代萩藩主・毛利秀就から「就」字を賜っている。就胤の子・胤長は御書院御番・御城酉御門番役をつとめ、その子・胤澄は所務方算用方に就任した。のち、大組士となった。就辰は毛利秀就の命により別家として取りたてられた。

―萩藩士石川氏略系図―

→千葉胤晴―石川胤吉―□□―就常―+―就胤―胤長―胤澄
                 |
                 +―就辰

石毛

 東一族。海上胤信(源五郎)が常陸国河内郡(豊田郡?)石毛郷(茨城県常総市)でおこった反乱を鎮圧したことから、千葉介より「石毛」を賜ったとされる。また、常陸大掾家の一族にも豊田郡を発祥とする石毛氏がある。

 また、香取郡猿田神社の神官にも石毛氏がある。猿田氏は鹿島・香取社大宮司の家柄である大中臣氏の流れを汲んでいるとも思われ、発祥地は常陸国鹿島郡猿田村(鹿嶋市猿田)か。室町時代末期、東氏流海上氏から養嗣子が入る。また、石毛氏は中世、森山衆の有力氏族として千葉宗家に仕えている。千葉介胤富辺田海上氏の養嗣子として森山城主となり、そののち海上氏ほか森山衆はとくに重用される存在となり、常陸の佐竹水軍に備える水軍を擁していたと考えられる。[Special thanks:石毛様]

―石毛氏(常陸大掾家流)略系図―

                          +―千葉介常胤
                          |(下総権介)
                          |
                     平常兼――+―海上介常衡―常幹―――片岡常晴
                    (下総権介) (下総権介)(介太郎)(太郎)
                                       ∥
                  佐竹義業         +―忠義――――娘
                 (進士判官代)       |(太郎)
                    ∥          |
                    ∥―――昌義―――――+―隆義――秀義
                    ∥  (相模三郎)  |(四郎)(佐竹冠者)
                    ∥          |
                    ∥          +―義季
                    ∥          |(蔵人)
                    ∥          |
 平維幹―――為幹――――繁幹――+―吉田清幹        +―昌成
(常陸大掾)(常陸大掾)(上総介)|(多気権介)       |(八条院蔵人)
                 |             |
                 +―多気致幹―――直幹   +―娘
                 |(多気権守) (常陸大掾) (藤原秀衡妻)
                 |         ∥
                 |         ∥―――――義幹
                 |         ∥    (常陸大掾)
                 | 千葉介常胤―+―娘
                 |(下総権介) |
                 |       |
                 |       +―東胤頼―――重胤―――海上胤方―阿玉胤景――胤俊――石毛胤信
                 |        (六郎大夫)(兵衛尉)(次郎) (弥次郎) (二郎)(源五郎)
                 |
                 |【豊田四郎】
                 +―石毛政幹――義幹―――幹重
                  (荒四郎) (兵衛尉)(兵衛尉)

―石毛氏(千葉氏流)略系図―

→海上胤方―胤景―――胤俊――石毛胤信―胤益―朝胤―忠朝―輝朝―延朝―弘朝―守朝―朝益―朝郷―助朝――+
(二郎) (弥次郎)(二郎)(源五郎)                  (大和守)    (加賀守)|
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―盛朝
| (加賀守)

+―常行=====胤衡
 (東兵衛)+―(加曾利権介)
      |
      |
千葉介邦胤―+――重胤
(千葉介)   (千葉新介)

石田

 東一族。東元胤(下野守)の次男・素胤(武蔵介)が美濃から下総香取郡新里郷石田(香取市新里字要害)に下って、石田氏を名乗ったという。

 ただし、元胤が「下野守」に叙任された形跡は見えず、さらに彼の子にも「素胤」という人物は見えず、元胤(もとたね)=素胤(もとたね)であるかもしれない。また、東氏は代々、号として「素○」というように、素字を用いており、東元胤「素通」という号を用いる。これが混同されているのかも知れない。山田町新里字塚の前に石田氏の墓地がある。

―石田氏略系図―

→東元胤――石田素胤
(下野守)(武蔵介)

石出

 千葉一族。千葉介胤正の七男・遠山方師胤(神崎七郎)の子、胤朝は香取郡石出郷(香取郡東庄町)を領して石出を称した。原氏・円城寺氏・鏑木氏とともに一時は「四天王」ともよばれた重臣。その後は東氏の家中に組み込まれたらしい。

●掃部宿・石出掃部

 江戸時代に武蔵国千住宿を拡張した石出吉胤(掃部亮)も香取郡石出郷を発祥とする一族で、千葉幸胤(日向守)の嫡男。通称は徳太郎。千葉宗家に従って小田原城に籠城したものの落城。浪人となって遠江国榛原郡関川沢鳴村に住んだ。

 天正20(1592)年2月、実弟の覚源法印を頼って武蔵国足立郡本木村の吉祥院に身を寄せることとなる。これがきっかけで吉胤は千住宿を開発することとなり、かつて武蔵千葉氏の所領のひとつで、北条氏の滅亡後、武蔵千葉氏の家臣たちがこの地に数多く土着していった。千住宿(東京都荒川区千住・南千住)は徳川家康が整えた日光街道の宿場のひとつで、文禄2(1593)年、家康は関東郡代・伊那忠次(備前守)に「荒川へ大橋を架けよ」という命を下し、吉胤は忠次に与力して功績をあげ、千住村は人馬の往来が非常に盛んな宿場町となる。

石出掃部
石出掃部一族墓碑

 慶長3(1598)年、屋敷を千住へ移し、そののち十数年をかけて宿場を開発。元和2(1616)年には幕府の許可を受けて、荒川沿いに延長2キロに及ぶ水除堤「掃部堤」を築き、その堤の内側に新田を開発した。この新田は「掃部新田」と呼ばれ、のち「掃部宿(千住宮元町・仲町・東一丁目・二丁目の一部)」とよばれる。幕府はその功績を賞して、掃部宿を吉胤に与え、代々石出家が名主を務めるようになった。

 新田を開いた翌年の元和4(1618)年、石出掃部吉胤は77歳でこの世を去った。千住の源長寺に祀られている。

 寛永2(1625)年、日光東照社(のち東照宮)が秀忠の手によって造営され、千住村は日光街道の最初の宿場町として指定された。そして三代将軍・徳川家光によって、諸大名の参勤交代が制度化されると非常に発展していく。はじめの千住宿は千住一丁目~五丁目(千住新橋~千住警察)までだったが、ここに吉胤が開発した掃部宿はじめ、橋戸町(千住橋戸町)・河原町(千住河原町)、千住大橋を挟んだ対岸の小塚原町・中村町(南千住・日本堤)などへ拡大していく。

 明治2(1869)年の『神玉町鑑』(『江戸町鑑集成』第五輯)には、「千住掃部宿」「石出雄三郎」の名が見える。

 吉胤は三百回忌の大正4(1915)年、千住宿開発の功績によって「従五位下」を追贈された。

●囚獄奉行・石出帯刀

 江戸時代、小伝馬町の牢屋を預かった五百石取(一時三百石)の囚獄奉行・石出帯刀(石出勘太夫)もこの流れとも伝わる。囚獄奉行は若年寄支配で役料は三百俵。代々「石出帯刀」を称し、同心五十人を有する御目見格という高官であった。

 明暦3(1657)年正月18日、江戸本郷丸山の本妙寺を出火元とする火事があった。これを明暦の大火というが、俗に「振袖火事」とも言われている。江戸の大半およそ八百丁を消失、江戸城の天守閣や本丸、二の丸までも延焼する大火であり、十日間にわたって燃えつづけた。焼死者は十万二千百人あまりにのぼり、引き取り手のない遺体が続出した。この身寄りのない遺体は、芝増上寺の末寺として牛島に諸宗山無縁寺回向院が建立された。

 この明暦の大火では、小伝馬町にももちろん火の手は及び、奉行所に引火するほどになったことから、石出帯刀は「汝ら今は焼き殺されんこと疑いなきことにて、誠に不憫の事也、ここにて殺さんことも無残にてあればしばらく許し放つべし。足に任せていづくへとも逃れ行き、随分命を助かり火も鎮まりたれば一人も不残下谷の蓮慶寺へ来るべし。この義理を違えず参りたらば、わが身に替えても汝らが命を申し助くべし。もしまたこの約束を違えて参らざる者は、雲の原までも探し出し、その身のことは言うに不及、一門までも成敗すべし」と囚人たちに告げて解き放ちを実行した。

 囚人たちは思い思いに逃れていくが、みな帯刀との約束を守って蓮慶寺へと集まってきた。帯刀はこれに大いに喜んで、「汝ら誠に義あり。たとひ重罪なればとて義を守るものをば、いかで殺すべきや」と、登城して老中の阿部忠秋(豊後守)・松平信綱(伊豆守)・酒井忠清(雅樂頭)へ上申し、これが認められて囚人たちの命は助けられた。

 元文3(1738)年正月5日、江戸町奉行の稲生下野守・松波筑後守支配の「囚獄 石出帯刀」は二十九歳の若さで亡くなってしまった。帯刀は生前、跡目として姉の子・石出助之進(実父は石出勘助)を養子願いしており、翌6日、稲生下野守は相違なく跡目相続を認めた。そして、4月3日には「石出帯刀跡 養子 助之進」は石出家の禄米三百俵が認められた(『向山誠斎雑記』)

 最後の囚獄奉行は石出帯刀直胤といい、「安政の大獄」で安政6(1859)年10月7日に処刑された頼三樹三郎について、本来は許可されることのない裃の着用を許すなど、温情ある奉行であった。幕末から明治維新を生き抜き、明治6(1873)年11月には旧役宅の南、南茅場町の旧町奉行与力の佐久間長敬や原胤昭の屋敷の近くの南茅場町五十七番地に「石出直胤」の名が見える(『東京地主細覧』)

 明治8(1875)年8月12日、石出直胤は弟・石出甲子次郎と妹・田鶴を分籍し、深川富岡門前町六十五番地の別宅に住まわせ、商売で身を立てさせようと東京府に願い出ている。このとき、甲子太郎は十一歳、田鶴は七歳という幼さであるため、おそらく幕府時代からの使用人等がいたものと思われる。また、直胤自身の住まいも本所林町一丁目四番地(墨田区立川)ということで、南茅場町や深川は別宅だったのだろう。

―石出氏略系図―

→千葉介常胤-胤正-遠山方師胤-石出胤朝
         (神崎七郎)(次郎)

石浜

 千葉一族。室町時代中期、千葉宗家の家老・円城寺家と原家が争い、原胤房(越後守)は千葉亥鼻城(千葉市中央区亥鼻)に攻め寄せ、籠城した千葉介胤直入道千葉介胤宣千葉中務胤賢入道円城寺尚任ら円城寺一族と合戦して激戦ののち、千葉宗家を千葉から追い出した。

 千葉を逃れた胤直らは香取郡千田庄多古城・嶋城へ籠り、胤房もこれを追って千田庄に攻め寄せた。このとき、胤房は千葉介満胤の子・馬加陸奥守入道常義を味方につけており、陸奥守入道も軍勢を率いて多古に攻め寄せている。胤房は陸奥守入道の参陣を喜び、多古城攻めの大将としている。

 結果的に、多古城に籠った千葉介胤宣をはじめ、嶋城の千葉介胤直入道は討ち果たされ、円城寺氏もほぼ壊滅してしまう。しかしこのとき、胤直の弟・千葉中務胤賢入道は嶋城を抜け出して、南にある小堤城へ籠城した。子の千葉実胤自胤は円城寺氏一族らをつけていつの頃か不明だが落ち延びさせている。胤賢入道は約一か月の籠城ののち自害したが、実胤自胤兄弟は武蔵と下総の国境・市川城(市川市真間)に籠城している。この市川城周辺は、千葉宗家の直臣である曽谷氏・大野氏らの勢力拠点であり、実胤自胤らは彼らを頼って挙兵に及んだと思われる。さらに、京都からは千葉氏危急を聞いた将軍家より、美濃国の千葉一族・東常縁(下野守)が派遣されており、市川城に籠っている。

 しかし、胤房は古河公方・足利成氏と結んでおり、古河公方は市川城に軍勢を送ってこれを陥落させた。千葉実胤自胤は城下に広がる大日川(江戸川)を渡り、隅田川を渡って武蔵国へと逃れていった。おそらく幕府と手を組んでいる上杉氏の後援があったと考えられるが、実胤は赤塚城(板橋区赤塚)に、自胤は石浜城(荒川区南千住付近)に入っているが、この自胤が石浜氏の祖となったとされる。

 石浜には中世に石造り港(石浜)があり、水運の便に適した場所であった。自胤の子孫は武蔵に居をかまえたので「武蔵千葉氏」とよばれる。戦国末期、武蔵千葉氏は北条氏の圧迫を受け、北条氏の一族・北条氏繁の子の直胤が養子として入り、事実上滅亡した。

―石浜氏略系図―

→千葉介満胤-千葉介兼胤-胤賢――――石浜自胤――――――守胤――――――――良胤
            (中務大輔)(千葉介・中務少輔)(千葉介・中務少輔)(小次郎)

下総国南相馬郡泉妙見山
泉妙見山城址

 相馬一族。相馬師常の孫、相馬胤村(孫五郎)の三男・相馬胤顕が下総国相馬郡泉村(柏市泉字立ノ台)に住んで「泉彦三郎」と名乗ったことに始まる。また、『相馬藩世紀』によると、「相馬五郎義胤君ノ三男相馬六郎胤基子孫ト傳説」とあるが、相馬義胤の子に胤基という人物は見えない。

 胤顕の孫・相馬胤康(泉五郎・宮内太夫)は鎌倉時代後期の元亨3(1323)年に父の相馬胤盛とともに相馬重胤の奥州下向に従い、奥州相馬郡岡田村に移住してその家老となったという。しかし、胤盛はこれ以前にすでに没しており、胤康のみが下っていったか?…[岡田相馬氏]

 中世室町期では「相馬三家」の三席として中郷大将をつとめ、中郷の武将130騎を統括し、みずからも25騎の直臣を持っていた。文禄2(1593)年の検地では301貫780文(1500石ほどか)を領したとある。奥州相馬氏の一門の泉氏は、相馬胤康が移住して以来、村名になった行方郡泉村(福島県原町市字泉)に住んだ、相馬有胤(十郎)の末裔ともいわれている(『相馬義胤分限帳』)

 文正年中(1466~1467)、相馬隆胤の代に泉胤平(左京亮)の名を見ることができる(『相馬家譜』)。そして、応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峯寺無量光院(相馬家宿坊)への寄進の際、「泉 一貫文」「同影照 三百文」「胤実 三百文」とある。

 泉家は戦国時代末期に跡継ぎが無く断絶したため、相馬盛胤は三春城主・田村清顕の一族である中津川大膳亮を泉家の養子とし、彼は泉胤秋(大膳亮)を称した。彼ははじめ堀内近胤の娘(盛胤の従妹)と結婚して堀内家の家督を継いでいたが、彼女とそりがあわずに家を出てしまっていた。その後、胤秋は岩角伊勢守(塩松城主畠山一族)の妹と結婚し、嫡男・泉胤政(藤右衛門)が生まれた。成長したのち、相馬家の重臣・泉田胤清の子・掃部が幼少だったため、婿である胤政が所領を受け継いで泉田城代となり、300貫文を知行した。

 文禄2(1593)年9月当時の胤政の分限は、三千五十九石。一門筆頭の岡田宣胤(八兵衛)が二千六百八十五石、相馬義胤の弟である相馬郷胤(忠次郎)の知行が千三百八十三石であることを考えると、泉家の知行は群を抜いていることがわる。

 しかし、慶長2(1597)年、胤政(藤右衛門)は改易されてしまう。この年、相馬家は小高城から移るために、牛越城を築いており、その城普請で胤政も人夫を差し出していたが、相馬本家より差し遣わされていた本奉行と泉家の奉行が口論を起こし、裁判の結果、泉家側に落ち度があるにも関わらず本奉行を辱めたとして、義胤は自ら手勢を率いて胤政を誅伐のために出陣した。これに怒った胤政は、館に火を放って出奔し、会津柳津虚空蔵別当櫻本坊へ立ち退いたあと、上杉景勝に仕えた。そのため、遺蹟は収公され一門筆頭・岡田宣胤が賜ってこの地に館を構えた。

 胤政は慶長5(1600)年の上杉氏包囲網の中で、上杉家筆頭・直江兼続(山城守)の部隊に属して戦功を挙げた。一方、相馬家は石田家と入魂であったことから積極的に東軍につかず、関ヶ原の戦いののち、所領没収の憂き目に遭ってしまった。これを聞いた胤政は、相馬家の危機を見てじっとしていることができず、主君・上杉景勝に暇状を出して相馬家に帰った。義胤は胤政の帰参を許し、千七百十四石を知行し、泉田村に館を構えた。

 その後、相馬家は積極的に東軍へ味方しなかったことの陳弁のため、当主・相馬義胤(長門守)の嫡男・相馬蜜胤(利胤)が自ら江戸に出向くとともに、宿敵・伊達政宗の口入れもあり、旧領標葉郡・宇多郡・行方郡内に六万石を安堵され、大名家として存続する。慶長16(1611)年、胤政は中村城下に館を賜って移住する。

 胤政の嫡男・泉胤衡(藤右衛門・内蔵助)は寛永6(1629)年正月、江戸城西之丸御手伝普請の相馬藩人足の指揮を執ったが、このとき胤衡は土井利勝に呼ばれ、相馬家六万石の知行を正式に認められた。しかしそののち、胤衡はゆえあって所領を没収され、泉家は断絶した。そののち、泉家の断絶をなげいた二代藩主・相馬義胤(大膳亮)によって、胤衡の養子・泉胤祐(藤右衛門・内蔵助)が召し出され、のちに家老職となる。胤衡は元和元(1681)年には五代藩主・相馬昌胤より四百石を加増された。その後すぐ隠居して「円水」と号し、子・泉胤和(内蔵助)が跡を継いだ。彼は元禄7(1694)年7月17日、宇多郡坪田村の八幡宮再建に際して奉納された石灯籠(左右一対)の右灯篭に二番目に銘を打った。

子孫も代々一門・家老職として続いた。胤祐の曾孫・泉胤寧は寛延元(1748)年正月16日、七代藩主・相馬尊胤から二百石を加増され、七百石を知行する家柄となって幕末に至る。最後の家老・泉胤富(内蔵助)は戊辰戦争で活躍をし、藩兵を率いて出陣もしている。胤富は奥羽越列藩同盟瓦解ののち、藩主・相馬季胤の名代として大浦栄清(庄右衛門)・佐藤俊信(勘兵衛)と連署で、上杉家の竹俣久綱(美作)・千坂高雅(太郎左衛門尉)・毛利業広(上総)へ書状を遣わしている(『米沢藩戊辰文書』)

 また、別流に「泉縫殿助」系の泉氏がある。初代藩主・泉縫殿助を祖とするが、彼と「泉内蔵助」系泉氏とは血縁関係はない。泉縫殿助は常陸国出身の人物で、初名を「花井門十郎」といった。家康への謝罪のために相馬蜜胤(のち利胤)が江戸に赴いたとき、谷中の瑞林寺を宿所としたが、ここの寺小姓であったのが花井門十郎であった。江戸城で家康に面会したのち相馬へ帰国するとき、蜜胤は花井門十郎須藤嘉助(当時13歳、住持の甥)を伴って戻り、相馬では身寄りのない門十郎・嘉助を泉胤政・岡田宣胤にそれぞれ預け、親類分とするよう命じた。こうして、花井門十郎は「泉」を賜って「泉縫殿助」と称して八百石を与えられ、家老となる。一方、須藤嘉助も岡田宣胤から「岡田」姓をもらって「岡田蔵人」を称した。

 縫殿助の子・泉成信は大膳亮義胤の中老、のち家老となって藩政を執った。成信嫡子・泉乗信(縫殿助)も家老職となったが、慶安元(1649)年7月27日に「泉縫殿助乗信病死」(「古日記」(『海東家文書』)、その後は断絶。乗信の妻は一門筆頭・岡田宣胤(八兵衛)の娘。泉縫殿助家はその後、本氏の「花井」に戻り、相馬藩家中でも重きを成した。幕末の戊辰戦争のとき、「鬼将監」こと相馬将監胤眞の隊に属し、軍使として活躍した花井信祥(七郎太夫)がいた。

―泉氏略系図―

                                                 +―信政―――――熊川長盈
                                                 |(助右衛門) (勘解由)
                                                 |
→相馬胤村-泉胤顕――胤盛―――胤康……胤実…某=胤秋――――胤政 +―胤衡====胤祐―――――+―胤和――+
(孫五郎)(彦三郎)(小次郎)(五郎)     (大膳)(藤右衛門)|(内蔵助) (内蔵助・円水)      |
                         ∥     ∥  |       ∥            |
                         ∥     ∥――+―娘   +―娘            |
             四本松定義――尚義―+―娘  岡田直胤娘   ∥   |              |
            (修理亮)  (大蔵)|            ∥   |              |
                       |            ∥   +――娘           |
                       +―岩角伊勢守  +―本山豊前守 |  ∥           |
                                |       |  ∥――――胤賢――胤充 |
                                |       |  ∥   (将監)(将監)|
                                +―熊川長春――+ 相馬胤延         |
                                 (左衛門尉)  (将監)          |
                                                       |
                     +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
                     |
                     +―内蔵助―内蔵助…胤富  
                              (内蔵助)

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
泉 内蔵助 一門 700石 鷹巣町北西山

泉川

 椎名一族。椎名胤光(六郎)の孫・頼胤(二郎)が匝瑳郡南条庄泉川(旭市泉川)に住んで泉川を称した。

-泉川氏略系図-

→椎名胤光-福岡胤業-泉川頼胤――光時
(五郎) (八郎) (二郎)  (弥五郎)

泉田

 相馬一族。流れは桓武平氏繁盛流の常陸大掾氏標葉氏。発祥地は磐城国標葉郡泉田村(福島県双葉郡浪江町幾世橋)。標葉氏の一門筆頭。

 標葉宗家の標葉隆安(左馬助)の弟・隆連(小五郎)の子・教隆(孫三郎)北標葉郡泉田城に拠ったことから泉田を称する。彼らは建武年間に隆安に背いて殺され、隆安の子・隆光が継いで名跡は残った。その子・隆家(彦次郎右衛門尉)、その子・隆直(隠岐守)と代々泉田城に住み、相馬氏と戦っていた。しかし、宗家の標葉清隆はもはや老衰し、その子・隆成は粗暴な振る舞いが目立っていたため、標葉氏の重臣・いわゆる標葉六騎七人衆のほとんどが相馬家に内通し、相馬氏と対陣中(泉田村渋井)の隆直は相馬盛胤の勧誘を受けてついに降伏した。一門の筆頭である隆直が相馬氏に降ったことは、標葉城中に混乱をもたらし、ついに標葉清隆・隆成親子は自刃して果てて標葉氏は滅び、標葉郡は相馬氏のものとなった。

 相馬盛胤に降った隆直は、標葉氏攻略の功績として、「胤」字と「繋馬」紋を許されて「泉田胤直」と名乗って相馬一門とされた。また、標葉郡泉田の所領はそのまま彼に与えられ、標葉郷大将の家柄とされた。その後、嫡男・胤清(隠岐守)に家督を譲って隠居し、「桃林入道」と号した。胤直の次男・胤泰はおなじく標葉一族・藤橋家の養嗣子となった。

 胤直の嫡男・胤清(右衛門大夫顕清とも)は父の跡を継いで泉田城主・標葉郷大将となり、二十五騎の同心を率いた。その子・胤雪(右近大夫)は智将として知られ、嫡男・胤清(右近大夫)とともに伊達勢を防いだ。天正16(1588)年閏5月、伊達政宗が小手森城・石沢城などに攻め入った。この数日前に相馬義胤は三春城内の混乱に巻き込まれて鉄砲でねらい打ちされており、義胤によしみがあった大越顕光(紀伊)の居城・大越城に泉田雪斎(=胤雪)を入れて、伊達・田村氏に備えていた。ここに政宗は攻め込んできたが、城は落とされることはなかった。

 胤清は義胤に従って各地を転戦し、天正7(1589)年7月18日、義胤の坂本城攻めの後陣として標葉郷士150騎と歩兵130人を率いて従っている。文禄2(1593)年9月の検地によると、「泉田右近大夫胤清」二千八百五十一石を知行している。また、慶長年中の検地によれば、275貫30文を領していた。胤清が慶長7(1602)年に没すると、その聟・泉胤政(相馬三家の一家・泉家に養子に入っていた)が泉田塁主となった。

 慶長8(1603)年、先年亡くなった胤清に子・胤隆(掃部)が生まれると、母は胤政と相談し、将来、胤隆に一家を立てさせるために泉田を出て行方郡江井村に移り住んだ。そして胤隆が3歳になった時、藩主・相馬利胤は胤隆に標葉郡両竹村を与え、総計770石の知行地を領すことになる。胤隆は元服して掃部(法名:剛岩)を称した。その後、胤隆は両竹村を去って中村城下に居を移し、嫡孫にあたる胤連(内匠)に家を譲ったが、すぐに亡くなったため、胤連の弟・胤治(主殿)が家を継ぎ、その子・胤冬(掃部)の代には相馬家の一家とされた。

 元禄7(1694)年7月17日、宇多郡坪田村の八幡宮再建に際して奉納された石灯籠(左右一対)の左灯篭に岡田知胤(宮内)の次に泉田胤治(主殿)の名を見ることができる。

 泉田甲庵家は、泉田胤清(掃部)の子・隆常(四郎左衛門)を祖とし、その子・運隆(甲庵)が藩の医師となり、代々藩御一門泉田家の一族として大身の医師として幕末まで続いた。

 戊辰戦争の時、藩主・誠胤から特別に許されて一軍を率いた泉田胤正(豊後守)がいる。また、戊辰戦争時の家老・堀内胤賢(大蔵)の父・堀内胤陸(十兵衛)の父は泉田胤重(掃部)で、彼の妻は堀内胤重(十兵衛)の娘。

-泉田氏略系図-

→標葉隆連-教胤===隆光―――泉田隆家―隆直―――――――胤清――胤雪―+―胤清―+――娘
(小五郎)(孫三郎)(彦三郎)(彦次郎)(=胤直・隠岐守)(右近)(右近)|(右近)|  ∥
                                     |    | 泉胤政 
                                     |    |(藤右衛門) 
                                     |    |
                                     |    +―胤隆――胤清―+―胤連 +―胤冬
                                     |     (掃部)(掃部)|(内匠)|(掃部)
                                     +―娘           |    |
                                     | ∥――――胤政     +―胤治―+―藤橋常隆
                                     | 岡田胤信(与惣右衛門) |主殿) (四郎)
                                     |(摂津守)        |
                                     |             +―隆常―――運隆
                                     |              (四郎) (甲庵)
                                     |              
                                     |                   +―勘左衛門
                                     +―胤重――監物―+―勘左衛門――娘  |
                                      (河内)    |       ∥――+―伊右衛門
                                              |       ∥
                                              +―道雪   西藤左衛門

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
泉田勘解由 一門 772石 中村城内長友
泉田甲庵 大身 150石 北町

◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
泉田善左衛門 給人 6石 南標葉郡両竹村
泉田卯右衛門 給人 2石 南標葉郡中浜村

-亘理氏略系図-

武石氏


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