千葉胤勝 (????-1536?)
西千葉氏四代目。幼名は満童丸。少弐一族の横岳兵庫頭資貞の子で、千葉介胤朝の娘・尼日光明胤(胤朝娘、胤資室)の養子となる。通称は千葉介。
胤勝がいつ尼日光の養子になったかは不明だが、永正8(1511)年9月に、尼日光の養子・千葉介胤繁が十八歳の若さで卒したのちと思われる。
この晴気千葉家の家督相続については、惣領家である祇園山千葉家の千葉介興常や重臣層と相談なく進められたもののようで、「本千葉殿御若輩ニ而候故、誰とかや申人之校量ニ而、横武ト云人之子ヲ千葉ニ可取立と被仕候」とされ(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)、三十代半ばの興常を差し置き、「誰とかや申人(尼日光を指すか)」が本宗家を無視して他家より養子を迎えたため、「原、円城寺、中村、白井、平田なと申者共、本千葉ヲ奉捨、横武ヲ千葉ト不可仰と随不申候」(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)という事態を招いたと思われる。
少弐貞頼―+―少弐満貞――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経
|(太宰少弐)(太宰少弐)|(大宰少弐)|(大宰少弐)
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| +―千葉胤資 +―少弐資元―――少弐冬尚
| (肥前守) (肥前守) (大宰少弐)
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| 千葉介胤朝―+―明胤―――+=千葉介胤繁
| |(尼日光) |(千葉介)
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| +=千葉胤治 +=千葉介胤勝――千葉介胤連
| (満童丸) (千葉介)
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+―横岳頼房――横岳資貞―+―横岳資誠
(孫次郎) (兵庫頭) |(讃岐守)
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+―千葉介胤勝
(満童丸)
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胤勝花押 |
永正11(1513)年3月15日、肥前国佐嘉郡の龍造寺家和の嫡男・龍造寺新次郎に「胤」字を授け「胤久」の名乗りを与えた。
4月には、龍造寺胤家・盛家とともに、宿敵の東尚盛の館を急襲し、尚盛を上松浦郡に放逐。占領した東館には重臣の鑰尼胤光を置いて守らせ、少弐肥前守資元との関係を強めた。しかし、永正13(1515)年5月、勢力を回復した東尚盛によって館は取り戻されてしまう。
永正18(1521)年正月11日、胤勝は「民部大輔」の官途を京都へ推挙した旨を龍造寺胤久に伝えた。この官途は胤久が望んでいたものだった。胤勝の推挙は達せられたようで、胤久はこののち「龍造寺民部大輔」を称している。
このように胤勝は龍造寺氏との関係を深め、少弐氏・龍造寺氏と連携して鶴田氏を攻めるなど勢力を拡大していった。大永6(1526)年9月24日、胤勝は三浦右衛門大夫に「肥前国佐賀郡之内寄人七拾五町并豊益弐拾九町」の知行を認める知行宛を発給した。胤勝の勢力は佐嘉郡内にまで広がっていたことがうかがえる。
一方、少弐資元は永正14(1517)年、幕府を通じて正式に大宰少弐に任じられた。亨禄元(1528)年には嫡男・松法師丸(冬尚)に家督を譲り、資元は父・政資が大内政弘に敗れて奪われたままの大宰府を奪還し、名実ともに「大宰少弐」となるべく、大内方の松浦党を討って筑前に攻め込み大宰府を攻め落とした。大宰府を手放して以来二十年ぶりの少弐家の大宰府奪還であった。大内義興は大宰府陥落の報告を聞くと、危機感を募らせて将軍・足利義稙へ少弐家討伐を請うたが許されなかった。さらに、中国地方では尼子経久が領国を侵略しつつあり、その対応に追われて九州戦線へ深く介入することができないまま、12月20日に病死してしまった。跡を継いだのは嫡男の大内義隆で、九州の覇権を取り戻すべく積極的に動き出した。
亨禄3(1530)年3月、大内義隆は、将軍・足利義晴から(1)遣明船の復活と(2)少弐氏討伐の許しを脅迫に近い形で得ることに成功。ただちに筑前守護代・杉興連に少弐氏追討を命じ、肥前へ大軍を送り込んだ。
★肥前関係図16★―亨禄3(1530)年8月ー
少弐氏 | 大内氏 |
少弐資元 | 大内義隆 |
千葉介胤勝(晴気) | 千葉介興常(祗園。惣領家) |
馬場頼周(少弐家宰) | 杉興運(肥前守護代) |
横岳資貞(胤勝実父)→ | →横岳資貞(寝返って戦死) |
横岳資誠(胤勝実兄) | |
朝日頼貫(少弐一族)→ | →朝日頼貫(寝返って戦死) |
筑紫尚門(少弐一族)→ | 筑紫尚門(寝返る) |
小田政光 | |
犬塚家清 | |
江上武種 | |
龍造寺家兼一族 |
4月、杉は少弐氏の本拠地・勢福寺城に迫ったが、少弐氏側も迅速に千葉介胤勝、龍造寺党、朝日頼貫、横岳資貞、馬場頼周、小田政光、犬塚家清、江上武種ら豪族たちに軍勢催促を命じ、資元は多久郡の梶峯城へ入り、嫡子・松法師丸(冬尚)が勢福寺城を守った。だが、杉興運による調略に乗った朝日頼貫や胤勝の実父・横岳資貞ら有力者が少弐家から離反してしまった。このとき、胤勝が父・資貞に随って大内方に付いたかは不明。7月15日、胤勝が龍造寺民部大輔胤久(少弐方)へ「肥前国佐賀郡之内与賀庄千町六郷之事」につき、「任先例之旨知行不可有相違」とする知行安堵状を発給していることから、胤勝は少弐方に留まった可能性が高い。
8月15日、少弐資元は勢福寺城に攻めよせてきた杉興運率いる大内勢を龍造寺党を先鋒として迎え撃たせたが、このとき大内勢の先陣として攻め寄せたのが、少弐家から寝返った朝日頼貫であった。龍造寺党はこの裏切りに対し怒涛の攻撃を見せ、頼貫を討ち取っている。
しかし、大内勢二陣の横岳資貞・筑紫尚門らが田手畷(三田川町田手)に現れると、龍造寺勢は次第に劣勢となった。このとき、龍造寺家の家老・鍋島清久が自軍に熊の毛を赤く染めた「紗熊」をかぶらせて横岳・筑紫勢の側面をついたため、大内勢は算を乱して敗走。横岳資貞や筑紫尚門らは討死を遂げ、大内勢の総大将・杉興運も劣勢を立て直すべく大宰府まで退却した。龍造寺家兼はこのときの鍋島清久の戦功を称えて、孫娘を清久の次男・清房の妻とした。法名は華渓、鍋島直茂の母である。
鍋島清久――――鍋島清房
∥―――――――鍋島直茂
∥
龍造寺家兼―龍造寺家純―+―華渓尼
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+―龍造寺周家―――龍造寺隆信
この北九州での劣勢を挽回するため、天文元(1532)年11月、大内義隆は大内家の柱石である陶尾張入道道麒(陶興房)を筑前国に送り込んだ。大内勢の侵攻を聞いた少弐資元は、筑前国怡土郡の高祖城(福岡県前原市大字高祖)に入るが、その後、肥前国多久郡梶峯城に移った。
12月、大内勢が筑前国から肥前国に攻め入ってくると、少弐資元・松法師丸は龍造寺家兼に守られて勢福寺城に移った。その後も大内勢の侵攻は止まらず、天文2(1533)年1月には養父郡朝日山城(鳥栖市)を攻め落として神埼郡に迫った。さらに2月には神埼郡から佐嘉郡へ入ったのだろう。2月15日、千葉介胤勝は佐嘉郡川上(大和町川上)の実相院に禁制を与えており、この周辺が戦場となったと思われる。2月29日には、陶尾張入道も同様に実相院へ兵士の狼藉を禁じた禁制を与えている。
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水ヶ江城跡 |
5月16日、大内勢は龍造寺氏の居城・水ヶ江城に攻め寄せた。しかし龍造寺家の家老・福地周防守家盈が善戦して持ちこたえ、7月15日に台風に乗じて大内勢の背後を突いた龍造寺家兼らの奇襲によって、大内勢は潰走。名将と知られた陶興房入道も持ちこたえられず、東の園部城まで退いた。
その後、晴気の千葉介胤勝(少弐方)と牛頭山の千葉介興常(大内方)との間に和議が結ばれたようで、10月17日、胤勝は興常と連名で実相院に禁制を出している。少弐氏が大内氏に勝利したことで、和睦が整ったのだろう。翌天文3(1534)年2月15日にも、胤勝と興常は河上社(別当は実相院)に連名の禁制を出している。
しかし、10月には大内義隆みずから兵を率いて九州へ侵攻したため、両千葉家の和睦は決裂したのと思われる。大内勢は陶興房入道・隆房父子を先鋒に肥前国三根郡、神埼郡へ破竹の勢いで進んだ。そして少弐資元の本拠・勢福寺城を取り囲んだ大内義隆は、千葉介興常らを龍造寺家兼のもとへ遣わし、少弐資元に大内家との和睦を提案するよう依頼した。家兼はこれに応じて資元に和睦を勧めたため、結局、少弐・大内両家は再び和睦することとなる。ただ、和睦とはいえ、大内家主導の和睦であり、少弐資元は勢福寺城を大内家に明け渡すという条件を飲むという事実上の降伏であった。
天文4(1535)年10月、大内義隆は大宰府に駐屯する陶興房に命じて、少弐氏の所領のうち三根・神埼・佐賀郡の三郡を没収させた。これは大内義隆の挑発行為だったのかもしれない。この措置に怒った少弐資元は、12月29日、東肥前を脱して多久郡梶峰城へ走り、松法師丸は重臣・小田資光を頼って蓮池城へ逃れた。
翌天文5(1536)年9月、陶興房入道を主将とする大内勢は少弐資元が籠る多久梶峰城を攻め、9月4日、陥落させた。少弐資元は末子の少弐元盛を譜代家臣の今泉・窪・平原の三人に託し、自らは城下の専称寺(多久市多久町)に入って自害して果てた。このときの千葉介胤勝の動向は不明だが、天文3年以降、胤勝の動向はうかがえないので、おそらく大内家との戦いの中で戦死したのだろう。法名等不明。