―― | 初代 | 二代 | 三代 | 四代 | 五代 | 六代 |
千葉胤賢 (????-1455) |
千葉実胤 (1442?-????) |
千葉介自胤 (????-1493) |
千葉介守胤 (1475?-1556?) |
千葉胤利 (????-????) |
千葉胤宗 (????-1574) |
千葉直胤 (????-????) |
(1442-????)
生没年 | 嘉吉2(1442)年?~???? |
通称 | 七郎、千葉新介(『鎌倉大草紙』)、千葉介(『上杉系図』) |
父 | 千葉中務大輔胤賢 |
母 | 不明 |
妻 | 扇谷上杉修理大夫顕房娘 |
官位 | 不明 |
官職 | 不明 |
幕府役 | 千葉介 |
所在 | 武蔵国石浜 |
法号 | 不明 |
墓所 | 不明。岐阜県可児郡御嵩町の大寺山願興寺? |
初代武蔵千葉氏。千葉中務太輔胤賢入道の嫡男。通称は七郎。千葉介を称した。嘉吉2(1442)年に生まれたという。妻は扇谷上杉修理大夫顕房娘。「七郎」は北斗七星にちなんだ通称かもしれない。弟の自胤は次男であり「次郎」を通称としている。
千葉介満胤―+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
|(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| |
| | 扇谷顕房――――娘
| |(修理大夫) ∥
| | ∥
| +―千葉胤賢―+―千葉実胤
| (中務丞) |(千葉介)
| |
| +―千葉介自胤―――千葉介守胤
| (千葉介) (千葉介)
|
+―馬加康胤――――千葉胤持
(陸奥守)
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多古・志摩城の位置 |
亨徳4(1455)年、千葉宗家被官の筆頭である原越後守胤房と円城寺下野守尚任との間で闘争が起こり、原胤房が千葉館に突如攻めかかった。胤房は侍所所司であった千葉介胤直入道常瑞の代官として「公方へも出仕申ければ、成氏より原越後守を頻に御頼ありける」と鎌倉公方足利成氏も胤房を頼りにしていたといい(『鎌倉大草紙』)、上杉氏と成氏の対立に際しては、胤房は胤直入道常瑞に「御所方になりたまへ」と説得したようだが、胤房と対立関係にあった「円城寺下野守、上杉にかたらはれければ、原はひそかに成氏より加勢を乞」うたという。結局、胤直は円城寺尚任の意見を容れて上杉方に付き、胤房は密かに成氏に加勢を乞うて千葉を攻めたようである。
千葉での戦いがいつから始まったのか具体的には不明だが、享徳4(1455)年正月5日、関東管領上杉憲忠が成氏に誘い出されて殺害された報が京都へ達したことから、幕府と関東の関係は修復不能なほど険悪化することとなる。そして成氏は、武蔵国高幡・分倍河原の戦いで上杉右馬助憲顕入道・上杉大夫三郎持房らを討ち、さらに上杉家の残党を常陸国小栗城(茨城県真壁郡協和町)に攻め落とした。千葉における胤房の挙兵もこれらと呼応したものであろうことから、享徳4(1455)年早々に始まったと推測される。これを裏付けるものが『本土寺過去帳』の二日上段に記されている「曾谷浄忠 二月 千葉合戦打死」である。曾谷氏は八幡庄を本拠地とする千葉宗家被官であり、千葉合戦は享徳4(1455)年正月末頃からはじまったのであろう。胤直入道常瑞らが千葉を放棄して千田庄へと落ちていったのは3月20日以降であるから、千葉合戦はおよそ一か月以上にわたって行われていたことになる。
千葉を追われた千葉介胤宣・千葉介入道常瑞・千葉中務入道了心ら千葉宗家は円城寺下野守尚任ら円城寺一族とともに千田庄へと逃れた。千葉介胤宣は多古城へ、胤直入道・胤賢入道はその南にある志摩城へ入って原勢と対峙し、円城寺氏が上杉氏に求めた援軍として常陸国の「常陸大掾殿」親子が合流する。しかし、円城寺尚任(妙城)は一族の壱岐守(妙台)・日向守(妙向)や常陸大掾殿父子とともに戦死。さらに馬加城からは宗家一門である千葉陸奥守入道常義(馬加康胤)が原家に加勢して来攻したため、康正元(1455)年8月、多古城の千葉介胤宣は自刃。続いて志摩城も陥落して、胤直入道も「妙光寺」で自刃して果てた。胤直の弟で実胤・自胤の父である中務入道了心は志摩城の南の小堤城に逃れたが、彼も敢無く自害する。寛正3(1364)年卯月23日『将軍家御内書案』は、千葉介らの討死を伝える将軍義政の御内書である。宛名の「左馬頭殿」は義政義兄で伊豆国田方郡北条の堀越に下っていた足利左馬頭政知(堀越公方)である。
父の死から1年3か月の間、実胤・自胤兄弟の行方は伝わらないが、「上杉より今度胤直と一所に討死ありし中務入道了心の子息実胤、自胤二人を取立て下総国市川の城に楯籠」ったとあることから(『鎌倉大草紙』)、千葉を遁れた兄弟は、上杉氏の支援のもと、千葉宗家被官で八幡庄にいた曾谷氏らを頼っていたのだろう。
胤直入道常瑞らの滅亡が京都に届くと、将軍義政は「千葉の家両流になりて総州大いに乱れければ、急ぎ罷り下り一家の輩を催し、馬加陸奥守を令退治、実胤を千葉へ移し可」という御教書を奉公衆のひとりで千葉一族の東左近将監常縁に発給(『鎌倉大草紙』)。常縁は浜式部少輔春利を副将として下総に下向し、まず、本貫地の東庄へ下り、東大社へ参詣したのち、原越後守胤房の領地である千田庄内に攻め込んでいる。康正元(1455)年11月13日、場所は不明ながら「東方」で原一族の原左衛門朗珍・原右京亮朗峯が討死している。この原氏は弥富城(佐倉市岩富町)を本拠とする弥富原氏で、山内上杉家被官の上総伊北庄の狩野氏と血縁関係にあり、あらかじめ東氏と繋がっていたのだろう。そして、原朗珍・原朗峯は原越後守胤房との戦いで討死したのであろう。
長尾実景
(但馬守)
∥
狩野叡昌――+―理哲尼――――日寿
(修理進入道)| (本門寺貫主)
+―朗舜
|(本門寺貫主)
|
+―理教尼
∥――――+―原朗珍
∥ |(左衛門尉)
∥ |
原道儀 +―原朗峯
(信濃守) (右京亮)
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国府台周辺地図 |
常縁は東庄から千田庄を抜けて西へ向かったと考えられるが、このとき弥富原氏の支配領域である馬渡を通過するルートで千葉へ上ったのだろう。このルートは治承4(1180)年に千田判官代親正が千葉庄の千葉介常胤を追捕するべく上ったルートとされており、東からの主要な交通路であったと思われる。
常縁は千葉庄に入ると、馬加城(花見川区幕張)に逃れていた原胤房を攻撃。11月24日の馬加合戦で馬加城を攻め落とし、敗れた胤房は千葉へ逃亡、おそらく千葉陸奥守入道も逃走して馬加・原両氏の力は一時的に衰えた。この「馬加合戦」のとき、八幡庄周辺でも円城寺氏、曾谷氏といった千葉宗家の直臣勢力が原勢と合戦したようで、11月25日、「正行寺(唱行寺)」(市川市柏井町)にたてこもっていた原氏勢と戦っている(『本土寺過去帳』二十五日下段)。その後、馬加合戦に勝利した常縁は「千葉新介実胤を取立、本領を安堵させん」と、実胤らを取り立てて市川城に籠もった。
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国府台城(市河城) |
しかし、翌康正2(1456)年正月、古河公方・足利成氏は市川城を攻め落とすために南図書助、簗田出羽守を派遣したため、古河公方勢は勢いを取り戻し、正月19日、ついに市川城は陥落。円城寺若狭守、円城寺肥前守、曾谷左衛門尉直繁、曾谷弾正忠直満、曽谷七郎将旨、蒔田殿、武石駿河守、相馬守谷殿などが討死を遂げる中、実胤・自胤兄弟は武蔵国へ逃れた。武蔵に逃れた実胤・自胤らには木内宮内少輔胤信、円城寺因幡守宗胤、粟飯原右衛門志勝睦らが家臣として見える(『応仁武鑑』)。
市川城は古河公方勢の手に渡り、陥落の報告は20日には、成氏のもとへ届けられた。4月4日には成氏から京都の三条家に宛てて、市川城陥落の報告がなされている。
市川落城ののち、匝瑳郡(八日市場市)に逃れていた常縁は、10月末頃にふたたび千葉へ進んで馬加城を攻めて千葉陸奥守入道を追捕し、上総国八幡の村田川辺で討ったという。胤直亡きあと、千葉家継承の最有力者であった馬加千葉氏は惣領家を継ぐことなく断絶することとなる。
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伝石浜城跡(石浜神社) |
一方、市川から武蔵国に逃れた実胤・自胤兄弟は、上杉家の援助を受けることになった。「実胤」の「実」字は、関東管領上杉房顕からの偏諱であろう。房顕は諱に「実」の字を有さないが、山内上杉家は「実」「房」「顕」「定」といった由緒字を偏諱しており、実胤もこの一例であろう。
長禄元(1457)年12月には、上杉房顕らの要請を受けた将軍義政は、成氏出奔後の新関東公方として、異母兄である天竜寺香厳院(二代将軍義詮室の香厳院殿香火所)の院主清久に還俗を要請。これを受けた香厳院は義政の一字を受けて「政知」と改め「左馬頭」に任官。翌年5月末にようやく京都を出立して下向するが、当時の関東は成氏の威勢が強く、情勢が悪化していたために鎌倉入りは行わず、駿河守護・今川上総介範忠の嫡子「今川治部大輔(義忠)」の後援のもとで伊豆国田方郡の国清寺に御所を構えた。国清寺は東南北を山に囲まれ、西に平地の開けた地であった。ところが、長禄4(1460)年正月には、古河公方成氏を鎌倉から追放して以来、五年にわたって鎌倉から堀越一帯を防衛していた駿河守護・今川範忠が、領国の不穏な動きと合わせて体調悪化のため、駿河国へと帰還することとなる。これにより鎌倉周辺が手薄となり、4月には古河公方勢によって御所の国清寺一帯が焼き討ちされる事態にも発展した。政知は新たな御所の地を、所縁のある鎌倉北条氏の尼寺・円成寺と氏寺・願成就院に隣接する守山一帯に定めた。これを「堀越御所」という。
+―上杉清方―――上杉房定――+―女子
|(兵庫頭) (民部大輔) | ∥―――――伊達稙宗
| | 伊達尚宗 (左京大夫)
| |(大膳大夫)
| |
| +―上杉顕定
| (民部大輔)
| ↓
| 【関東管領】 【関東管領】
| +―上杉房顕====上杉顕定
| |(兵部少輔) (民部大輔)
| |
【関東管領】|【関東管領】|【関東管領】
上杉房方―+―上杉憲実―+―上杉憲忠
(民部大輔) (安房守) (右京亮)
∥
上杉氏定―+―上杉持朝―+―女子 千葉介実胤
(弾正少弼)|(修理大夫)| (千葉介)
| | ∥
+―女子 +―上杉顕房―――女子
∥ |(修理大夫)
∥ |
∥ +―上杉朝昌―――上杉朝良
∥ |(刑部少輔) (治部少輔)
∥ | ↓
∥ +―上杉定正===上杉朝良
∥ (修理大輔) (治部少輔)
∥
∥――――――今川義忠
∥ (治部大輔)
今川範政―――今川範忠 ∥――――――今川氏親
(上総介) (上総介) ∥ (上総介)
∥
伊勢盛定―+―女子
(備中守) |(北側殿)
|
+―伊勢盛時―――北条氏綱
(新九郎) (左京大夫)
今川氏の撤退によって堀越公方側が劣勢となる中、千葉介実胤・自胤兄弟は武蔵国豊嶋郡石浜(台東区橋場周辺)など、上杉氏側の主要拠点である葛西城(山内上杉氏)や江戸城(扇谷上杉氏)とともに、下総国境付近を防衛する役割を担っていた。自前の戦力が僅かである上に、十代後半と思われる実胤・自胤が最前線に置かれたのは、彼らの影響力の大きさによるものであろう。実胤・自胤兄弟の兵站を支えるために尽力したのが、政知の執事として下向していた渋川右兵衛佐義鏡であった。渋川氏は足利一門でも斯波氏や吉良氏、石橋氏と並ぶ筆頭格であり、渋川氏の所領が武蔵国蕨に存在していたことから、白羽の矢が立ったともされる。また、政知が入寺していた天竜寺塔頭香厳院は渋川氏出身の二大将軍正室・幸子(香厳院)の香火所であることから、香厳院主時代の政知と渋川義鏡は何らかの接点を持っていた可能性もあろう。
●足利庶子家と北条氏の閨閥
足利義康―――足利義兼 家女房 【吉良氏】
(陸奥守) (上総介) ∥――――――足利長氏―+―足利満氏―――足利貞義――吉良満義――吉良満貞
∥ ∥ (上総介) |(上総介) (上総介) (左京大夫)(治部大輔)
∥ ∥ |
∥ ∥ | 【今川氏】
∥ ∥ +―足利国氏―――今川基氏――今川範国――今川範氏
∥ ∥ (今川四郎) (太郎) (上総介) (上総介)
∥ ∥
∥――――――――――――足利義氏 +―上杉頼重―+―上杉憲房――上杉重顕
∥ (左馬頭) |(掃部頭) |(兵庫頭) (左近将監)
∥ ∥ | |
∥ ∥ 上杉重房―+―娘 +――――――藤原清子
∥ ∥ (左衛門督) ∥ ∥
∥ ∥ ∥ ∥
北条時政―+―平時子 ∥――――――足利泰氏 ∥――――――足利家時 ∥
(遠江守) | ∥ (丹後守) ∥ (伊予守) ∥
| 三浦泰村――娘 +―娘 ∥ ∥ ∥ ∥ ∥
|(若狭守) ∥ | ∥――∥―――足利頼氏 ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥ (治部大輔) ∥ ∥
| ∥――――+―北条時氏―+―娘 ∥ ∥ ∥――――――足利尊氏
| ∥ (修理亮) | ∥ ∥ ∥ (治部大輔)
| ∥ | ∥ ∥ ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥――――足利貞氏 ∥
| ∥ +―北条時茂―――――――――――――――――娘 (讃岐守) ∥
| ∥ |(陸奥守) | ∥ ∥
+―北条義時――北条泰時 | +―北条時頼―+―北条時宗―――北条貞時―北条高時 ∥
|(陸奥守) (左京大夫)| (相模守) |(相模守) (相模守)(相模守) ∥
| ∥ | ∥ | ∥
| ∥ | ∥ +―北条宗頼―――娘 ∥
| ∥ | ∥ (修理亮) ∥――――+――――――平登子
| ∥ | ∥ ∥ |
| ∥ | ∥ ∥ |
| ∥ +―北条長時―――北条義宗――――――――――北条久時 +―北条守時
| ∥ |(武蔵守) (駿河守) (武蔵守) (相模守)
| ∥ | ∥
| ∥ +―北条重時―+―北条時継―――――――――――――――――娘 【斯波氏】
| ∥ |(陸奥守) (式部大夫) ∥ ∥―――――足利宗氏――足利高経
| ∥ | ∥ ∥ (尾張守) (尾張守)
| ∥ | ∥―+―足利家氏―+―足利宗家
| ∥ | ∥ |(尾張守) |(尾張守)
| ∥ | ∥ | | 【石橋氏】
| ∥ | ∥ | +―足利義利――足利義博――足利和義
| ∥ | ∥ | (太郎) (三郎) (左衛門佐)
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥ +―足利義顕―――渋川義春
| ∥ | ∥ (二郎) (二郎三郎)
| ∥―――+―北条朝時―――――――――――――娘 ∥
| 比企氏 (遠江守) ∥―――――渋川貞頼
| ∥ (兵部大輔)
+―北条時房―+―北条朝直―+―北条宣時 ∥ ∥ 【渋川氏】
(武蔵守) |(武蔵守) |(陸奥守) ∥ ∥―――――渋川義季
| | ∥ ∥ (式部丞)
| +―北条朝房――――――――――――――――――――――娘
| (備前守) ∥
| ∥
+―北条時村―――北条時広――――――――――――――――娘
(相模二郎) (越前守)
「武衛(義鏡)」は「千葉兄弟」の兵糧料所として「武州赤塚郷(板橋区赤塚)」を与えるように「頻被執申」と訴えたため、これが認められて赤塚郷は千葉氏の預地となる(『鹿王院文書』)。渋川義鏡がなぜ頻りに赤塚郷を実胤に預けようとしたのか理由は記されないが、赤塚郷北端の戸田(戸田市戸田)は渋川氏の本拠である蕨郷(蕨市)と南接しており、もともとは渋川氏が知行した地であった。そして、康暦元(1379)年6月、義鏡の曽祖父の叔母にあたる渋川氏(香厳院)が義詮の菩提を弔うために鹿王院へ寄進したことにより、鹿王院領となったものである。
足利宗氏―――足利高経――斯波義将―+―斯波義教――斯波義郷―――斯波義健===斯波義敏
(尾張守) (尾張守) (右衛門督)|(左兵衛佐)(治部大輔) (治部大輔) (左兵衛督)
|
+―女子
∥―――――渋川義俊―――渋川義鏡―――斯波義廉
高師直――――女子 ∥ (左近将監) (右兵衛佐) (左兵衛佐)
(武蔵守) ∥―――――渋川義行―――渋川満頼
∥ (右兵衛佐) (右兵衛佐)
∥
北条朝房―――娘 +―渋川直頼
(備前守) ∥ |(式部大輔)
∥ |
∥――――+―源幸子
渋川貞頼―+―渋川義季 (香厳院)
(兵部大輔)|(式部丞) ∥
| ∥
+―源頼子 ∥
(本光院) ∥
∥ ∥
∥ ∥
足利貞氏―+―足利直義 ∥
(讃岐守) |(左兵衛督) ∥
| ∥
+―足利尊氏 ∥
(左兵衛督) ∥
∥ ∥
∥――――――足利義詮
∥ (権大納言)
+―平登子
|
|
北条久時―+―北条守時
(陸奥守) (相模守)
こうした事由もあって、義鏡は赤塚郷を自家の由緒地として実胤へ預けることを強く推したと思われるが、義鏡も千葉介実胤の下総復帰後の連携を模索していたのかもしれない。しかし、千葉兄弟の兵糧料所は他にあったのかは不明だが、いずれにしても兄弟が有する兵糧料所からだけでは「在陣窮困」という状況を脱することはできなかった。堀越公方は俄か作りの組織であることから、経済的な地盤が脆弱であり、その麾下となった諸大名たちは兵站を支えることが困難な状態が常態化してしまう。
実胤・自胤の経済的危機は、「千葉介窮困」として同年4月19日には将軍の耳に入っている(『御内書案』)。将軍義政はこれを不安視し、上杉房顕や渋川義鏡ではなく、堀越公方政知へ直接「千葉介窮困事、堪忍候之様、別而被加下知之可為本意候」ことを伝えている(『御内書案』)。この頃、政知は国清寺の御所を焼き討ちされて、西の狩野川辺の守山周辺に新たな御所を建造している時期であった。
こうした中、7月末頃には堀越公方政知は今川氏不在となった鎌倉に入って勢力拡大を図ろうとしたか、「可被越箱根山」という計画を立てたが、上杉氏を通じてか将軍義政の知るところとなり、8月22日に将軍義政は「粗忽之企一向可為不忠候」と強い調子で中止を命じる御内書を発し、渋川義鏡に対しても叱責している(『御内書案』)。
こうした勢力基盤の脆弱な体制では、諸大名たちへの支援や政策など円滑に進むはずもなく、将軍義政から命じられた実胤・自胤への困窮対策もなされることはなかったようである。その結果、「数年在陣窮困」という状態に耐え切れなくなった実胤は、ついに「隠遁」する。時は寛正3(1462)年早々の出来事であろう。
実胤隠遁の一報はただちに京都へ伝達され、弟の自胤が急遽新たな「千葉介」と定められた。義政は実胤の「窮困」時と同様、4月23日に「左馬頭殿」に対して、「千葉介(自胤)」が窮困しているので援助をするよう御内書を発する(『将軍家御内書』)。また、自胤には「舎兄七郎隠遁事、被驚思食候」として「不日令帰参之様可申含」ことを命じた(『将軍家御内書』二)。さらに隠遁した実胤へも「隠遁之由其聞候之条、被驚思食候、不日可有帰参候也」と、直接帰参を命じている(『将軍家御内書』三)。この「隠遁」は堀越公方の体質による混乱に原因があり、実胤同様に三浦介時高、大森信濃権守実頼も「隠遁」している(『御内書案』)。一説には渋川義鏡による讒言に原因があるともされるが、彼らは明らかに兵站維持への窮困を原因とする隠遁と考えられる。また、寛正3(1462)年早々には、扇谷修理大夫入道道朝(上杉持朝)は「雑説」によって「分領」を召し上げられている。どのような「雑説」かは伝わらないが、将軍義政は道朝入道の「雑説」は「不可然候」と否定し、「上杉民部大輔殿(山内房定)」へその解決を命じている(『御内書案』)。
実胤はその後、義政の内命に従って帰参したようだが、さらに実胤・自胤を経済的に追い詰める事件が発生する。これまで「千葉兄弟」が兵糧料所として治めていた鹿王院領「武州赤塚郷」について、将軍義政は堀越公方政知へ鹿王院からの訴えの通り、赤塚郷を同寺雑掌への返付を命じている。後付けの理由かは不明ながら、政知は赤塚郷は「為異于他寺領」のため「自最初、可被宛行兵粮料所之段雖更無謂被思食」と当初から兵糧料所に充てることに反対していたと主張。政知は、寛正3(1462)年11月23日、奉行人を通じて関東管領山内房顕の執事である「長尾四郎右衛門尉(長尾景信)」へ、赤塚郷返付と「至于千葉七郎者可被下替地」を厳命している(『堀越公方奉行人連署奉書案』:鹿王院文書)。赤塚郷は、千葉介時代の実胤が主体となって受けていた兵糧料所であったことがわかる。
その後、実胤への替地が与えられたかは不明だが、このとき赤塚郷の寺家雑掌への返付は執行されなかったことから、しびれを切らした堀越公方政知は、寛正4(1463)年2月27日、長尾景信に対して「千葉七郎」に対する赤塚郷の返付の執行を命じた(『堀越公方家奉行人連署奉書案』)。しかし、この執行命令も無視され、その間に山内房顕は関東管領を辞する旨の「職御上表」を堀越公方を通じて幕府に提出する(『鹿王院文書』)。そしてこの上表とともに、赤塚郷返付の奉行人御奉書も「被返進」された。房顕はこの問題を棚上げにする考えであったのだろう。ところが政知はこの逃げを認めず、「雖縦職上表之儀候、在職可為同前於被仰出候」として、12月下旬に奉行人布施為基と房顕被官の寺尾沙弥礼春の両名に、長尾景信へ赤塚郷返付の執行の命を伝達させた(『散位布施為基書状案』:鹿王院文書)。その後、赤塚郷についての鹿王院返付に関する文書は見られないが、室町時代末期の武蔵千葉氏の所領として「赤塚六ケ村」が見られることから(『小田原衆所領役帳』:塙保己一編『続群書類従 第25輯上』続群書類従完成会)、赤塚郷は山内房顕と長尾氏の執行拒否によって結局返付されることはないままうやむやになってしまったと思われる。
●『小田原衆所領役帳』より
こののちの実胤の動向はしばらく不明となるが、このころに扇谷上杉顕房の娘を娶って扇谷上杉家の「縁者」となったと思われる。なお、上杉顕房は実胤兄弟が市川城の戦いで敗れた直後の康正2(1456)年正月24日、「夜瀬」で二十一歳の若さで討死を遂げている。この婚姻は太田道真・資長(道灌)主導で進められたと思われるが、下総千葉氏正統の実胤と縁者となり、下総国に復帰させて、下総国から古河公方勢を排除する目的があったのだろう。この考えは将軍義政も同様で、実胤が隠遁した直後の自胤への御内書であるが「弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、早速遂本意候者、誠可為感悦候也」(『御内書案』)と、「分国(下総国)」の被官や国人と計略を巡らし、「遂本意(下総国への帰還か)」ことを指示している。
ところが、文明3(1471)年には、実胤は「縁者」である扇谷上杉家から距離を置いて、山内上杉家に接近しており、山内上杉家の重臣「大石々見守」の招きで「葛西」に赴いている(『太田道灌状』)。これは大石石見守のもとに古河公方・成氏から実胤についての「公方様内々被申旨候」があったためである(『太田道灌状』)。山内上杉氏は「胤直の一跡として、実胤を千葉介に任じ、上杉より下総へ指遣」と、実胤が「千葉介」であった当時から下総帰還を見計らっていたが、成氏は千葉介孝胤を取り立てており、実胤はいったん千葉への入部を諦めて「武州石浜葛西辺を知行して時を待て居たりし」と、石浜・葛西周辺を支配して時期を待ったという(『鎌倉大草紙』)。そして、このとき大石石見守のもとへ来た成氏の使者は、おそらく実胤を下総に迎えるという内諾であったろう。このころ成氏は古河を追われて千葉介孝胤の厄介になっていたが、この事実を知った「孝胤」が成氏のもとに「出頭」して猛抗議したため、「無御許容」となってしまう。結局、実胤の下総帰還は失敗に終わり「濃州江流落」したという(『太田道灌状』)。
一方で弟の自胤も扇谷上杉家家宰である太田道灌の庇護下で下総国への帰還を狙っており、実胤が扇谷上杉氏を離れて山内上杉氏を頼ったのは、実胤と自胤はそれぞれがともに下総への帰還を図っていて、対立関係となっていたためであろう。
◎『太田道灌状』(『北区史』中世編所収)
結果として実胤の下総千葉介就任は失敗に終わり、美濃へ下ったのちの消息は不明である。かつて馬加陸奥入道、原越後守を討つためにともに戦った美濃郡上の東氏を頼ったとも思われるが、東氏の伝の中に実胤の記述はない。
実胤の弟・自胤の子孫は「武蔵千葉氏」として代々続くが、武蔵千葉氏は千葉氏の嫡々であり、京都の幕府も武蔵千葉氏を常胤以来連綿と続く「千葉介」と認めていた。そのため古河公方と結んで千葉介を称した下総千葉氏に対する敵愾心は強く、その後も下総千葉氏と対立している。
◎寛正元(1460)年(?)4月19日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)
◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)
◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)
◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)
◎寛正4(1463)年2月27日『堀越公方家奉行人連署奉書案』(『鹿王院文書』)
●関東の情勢1●康正元(1455)年当時
古河公方側 | 室町将軍側 |
足利成氏(古河公方) | 上杉房憲(武蔵庁鼻和城主) |
馬加陸奥入道常義 | 千葉実胤・自胤(市川城主) |
原 胤房(千葉氏執権) | 長尾景仲 |
原 胤義(胤房一族) | 長尾景信(山内執政) |
簗田持助(関宿城主) | 東常縁(下野守) |
武田信長(長南城主) |
●関東の情勢2●康正元(1456)年当時
古河公方側 | 室町将軍側 |
足利成氏(古河公方) | 足利政知(堀越公方) |
岩橋輔胤(馬加常義と関わりある人物) | 山内顕房(関東管領) |
簗田持助(関宿城主) | 山内房定(越後守護) |
武田信長(上総庁南城主) | 扇谷持朝 |
結城・小山 | 千葉自胤(武蔵石浜城主) |
長尾景仲・景信(山内執政) | |
太田道眞・道灌(扇谷執政) |