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武射
千葉一族。「むしゃ」「ぶしゃ」と読む。平常長の子・鴨根常房(千葉三郎常房)の七男・胤隆(七郎)が上総国山辺郡武射郷を領して武射を称したという。千葉介常胤の弟も「武射胤隆」を称したといわれるが、常胤の弟は「小海胤隆」であり、混同されているか。
-武射氏略系図-
→平常長-鴨根常房――武射胤隆
(三郎) (七郎)
虫幡
東一族。東氏初代の東胤頼の二男・胤朝(木内下総前司)の六男・氏胤が東氏領内の虫幡庄(香取市虫幡)を領して虫幡を領した。楽胤禅師は、香取郡東庄の夕顔観音別当ならびに稲荷山樹林寺(香取市五郷内)の中興開山となった人物。
稲荷山樹林寺は、千葉介常重が大治年間に真言宗寺院として建立したのが始まり。それを千葉介勝胤が禅宗の曹洞宗に改宗し、その時の開山に楽胤禅師を迎えた。なお、楽胤は号を覚源とあるが、肥前千葉氏出身の平心處斎(覚源禅師)と同定される向きもあるが、世代的に不可であり、別人と考えられる。
-虫幡氏略系図-
→東胤頼―木内胤朝―虫幡氏胤―+―胤清――――――祐胤――――胤貞
(六郎)(次郎) (六郎) |(小六郎) (六郎) (又六郎)
|
+―盛胤――――+―有胤――――胤勝
|(六郎四郎) |(四郎二郎)(小六郎)
| |
| +―胤久
| (六郎)
|
+―静胤――――――楽胤
|(六郎五郎) (覚源禅師)
|
+―胤次――――――胤義――――胤成
(六郎太郎) (又二郎) (弥九郎)
六崎
千葉一族。上総介常秀の子・胤朝(六郎)が香取郡六崎(佐倉市六崎)を領して六崎を称した。
建長元(1249)年11月20日、法橋長専(千葉氏の官僚)は、主・千葉介頼胤の命を「六崎殿」へ伝えており(『法橋長専奉書』)、何ごとか「いそぎ」の「御ようい」するよう指示している。系譜上に見える六崎胤朝の子孫へ宛てての文書と考えられる。
また、年未詳ながら10月10日、「胤氏」なる人物が蓮華王院造営の段銭として、六崎・篠塚両郷分(両郷とも現在の佐倉市内)三貫八百文のうちから三貫二百文を納める旨の文書を「法橋御坊」に宛てて提出している。蓮華王院は建長元(1249)年3月に焼失し、九条道家(関白)によって建長3(1251)年8月に上棟されていて、その際、千葉介頼胤は三百貫の分担金を求められているのだが、その一部を「胤氏」が負担していたことがわかる。この「胤氏」は、「胤」という字から千葉一族であろうと推測され、さらに六崎・篠塚という隣接した地域を領している人物ということで、六崎氏のことであろうと思われる。
建長元(1249)年10月10日、六崎胤氏は蓮華王院造営段銭として、3貫800文のうち3貫200文を納めたが、いまだ600文が未納であったため、11月20日、長専が「六崎殿」へ急ぎの用意をするよう指示したのではなかろうか。
室町時代中期の康暦2(1380)年8月8日、「八幡庄大野郷内釈迦堂阿弥陀堂」について、日清に安堵した「六崎将監入道」があったことが康暦2(1380)年8月8日『日清譲状』に記されている。この六崎将監入道は、他の六崎氏とは異なり、風早庄内近辺(松戸市)を領していたことが『香取社造営料足内納帳写』に記されていることからわかる。六崎新兵衛・六崎新左衛門尉は六崎を知行しているのに対し、六崎将監入道は「風早」の「大谷口」を知行地の一つとしている。この大谷口は、風早庄大谷口(松戸市大谷口)のことであろうと推測され、この百数十年後には高城氏の本拠地となった場所である。
-六崎氏略系図-
→千葉介常胤―胤正―上総介常秀―六崎胤朝――兵衛尉(胤氏?)―兵衛太郎
(六郎)
●康暦2(1380)年8月8日『日清譲状』(『浄光院文書』)
●『香取社造営料足内納帳写』(『香取大禰宜家文書』)
村岡
千葉一族。平常長の子・常義(小次郎)が村岡を称した。「村岡」は千葉氏の祖・平良文が名乗っていた。常義は従五位下・兵部正に任じられ、上野守護代を務め利根城に住んだという。ただし、「上野守護代」という役は当時存在せず、伝承である。
常義は長治2(1106)年、69歳で亡くなった。子孫は上野介や下野守を称していることから、関東北部に領地があったとおもわれる。また地理的に、下野国の大豪族・足利義康(源義家の孫)との関係があったと思われ、系図では、義永は「矢田判官胤康」という人物の娘をめとっている。「矢田判官」というのは義康の長男・矢田義清の別称であるが、義清のことか? 義清は上洛して上西門院に仕え、さらに源義仲の麾下となって平家と戦い、戦死している。のちの室町幕府管領職の細川氏の祖でもある。
-村岡氏略系図-
→平常長-村岡常義-常範―――義永―――義晴―――義宣――――常宣―――義胤―――義常―――常邦―――宣義―――+
(小二郎)(上野介)(上野介)(上野介)(刑部少輔)(下野守)(上総介)(下野守)(常陸介)(上総介) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―常高―――高義―――義当―――義広―――良景―――常業―――常朗―――業時―――業勝―――常勝―――常顕――+
(下野守)(上総介)(信濃守)(常陸介)(下野守)(志摩守)(越後守)(遠江守)(上総介)(上総介)(上総介)|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―常賢―――胤慶―――隆胤―――隆常―――宣胤―――当胤――+―常善
(左京亮)(上総介)(上総介)(上総介)(上総介)(左京亮)|(大蔵)
|
+―胤言
(内記)
●亘理一族村岡氏●
武石氏の流れを汲んでいる村岡氏は、亘理宗元(右近大夫)の三男・胤信(右近)が村岡を称した。胤信の長兄・宗隆(兵庫頭)には男子がなかったため、娘と伊達稙宗との子、つまり宗隆の外孫にあたる彦四郎(綱宗)・乙松丸(元宗)の兄弟を養子に迎えて亘理宗家の家督を継がせている。また、胤信の兄・重景(紀伊守)は叔父の亘理胤重(美作守)の養子となっている。重景の子孫はのちに「長谷」と称し、涌谷伊達家の重臣となった。
村岡胤信の嫡男・実信(彦右衛門)は早世してしまったため、長谷盛景家を継いでいた二男・景長(善七郎)が村岡家に戻り家督を継いだ。そして景長の嫡男・景信(蔵人)が家督を継承した。
景信(蔵人)の跡は嫡男・重信(蔵人)が継ぎ、その弟・長信(善左衛門)は亘理長谷盛景家の家督を継承している。長谷盛景家は、景信の父・景長(善七郎)が継いでいたが、景長が村岡家を継いだために絶家となっていた家である。
重信の跡は嫡男・元知(太郎左衛門)が継ぐが、若くして亡くなった為、弟の元辰(彦右衛門)が継いだ。その跡は嫡男・盛唯(彦右衛門)、弟の胤信(太郎左衛門)、その子・虎常(典膳)と継ぎ、虎常の跡は、千石胤長の三男が継ぎ、常雄(右仲)と称し、のち往斎と号した。
景信の弟で三歳の・宝子(のち村岡伊予元信)は亘理本家・伊達定宗(安芸)より改めて村岡氏を賜り、17歳の時に父・景信より60石を分与されて別家を立てた。このとき、元信に従った家臣として、遠藤喜惣右衛門、金沢猪右衛門、安部文右衛門がある。元信の末裔・寛信(村岡弘見)は戊辰戦争の際、仙台藩軍小隊長として、奥州に侵攻した長州藩兵と秋田口にて合戦している。
-村岡亘理氏略系図-
→亘理元胤―+―元実 +―宗隆―――娘
(因幡守) |(彦五郎) |(兵庫頭) ∥―――――亘理元宗―――――――――重宗
| | ∥ (兵庫頭) (美濃守)
+―宗元―――+ ∥ ∥
|(右近大夫)| 伊達稙宗―+――娘 ∥
| | (左京大夫)| ∥ ∥
| | | ∥ ∥ 【涌谷伊達家】
| | | 相馬顕胤――盛胤 ∥―――――伊達定宗
| | |(讃岐守) (弾正大弼) ∥ (安芸守)
| | | ∥――――+―娘
| | +―娘 ∥ |
| | ∥ ∥ | 【陸奥中村藩主】
| | ∥―――――娘 +―義胤――――相馬利胤
| | 掛田俊宗 (長門守) (大膳大夫)
| | (中務大夫)
| |【長谷氏へ】
| +―重景 +―実信 +―景信―+―重信―――+―元知 +―盛唯
| |(紀伊) |(彦右衛門)|(蔵人)|(蔵人) |(太郎左衛門)|(彦右衛門)
| | | | | | |
| +―村岡胤信―+―景長―――+ | +―元辰――――+―胤信――――――虎常==常雄
| (右近) (善七郎) | | (彦右衛門) (太郎左衛門) (典膳)(右仲)
| | |
| | +―長谷長信―+―安信======定章――――+―良章
| | (善左衛門)|(五郎右衛門) (五郎右衛門)|(松之允)
| | | ↑ |
| | +―村岡良信――+―定章 +―胤章
| | (十郎左衛門)|(五郎右衛門) (善左衛門)
| | |
| | +―信安
| |
| +―元信―+―辰信―――――常信――――――昌信――――――有信
| (伊予)|(治郎左衛門)(伊予) (彦兵衛) (与五左衛門)
| |
| +―坂本常親
| (半左衛門)
|【長谷氏祖】
+―胤重=====重景―――+―景重=====長谷重長―景親=====重長――――――元章――――――盛文
(美作) (紀伊) |(修理亮) (伊予) (左馬助) (三郎左衛門) (三郎左衛門) (三郎左衛門)
|
+―盛景=====景長===長信
(又七郎) (善七郎)(善左衛門)
村田《村田国分氏》
国分一族。国分氏初代の国分胤通の五男・有胤が香取郡村田村(成田市村田)を領して村田を称した。
-村田氏略系図-
→千葉介常胤-国分胤通-村田有胤
(千葉介) (五郎) (五郎)
村山
千葉一族。亨徳3(1454)年、千葉介胤将が千葉猪鼻城で二十二歳で没し、胤将の弟・胤宣が18代当主となったが、翌康正元(1455)年、大叔父にあたる馬加康胤(陸奥守)と一族・原胤房(越後守)に敗れて自害し、千葉氏の嫡流は滅んだ。このため、胤将の遺児・胤光は家臣に守られて千葉から津田沼に逃れて農村に隠れた。胤光は長じて「千葉権介」を称した。
胤光の子・胤信(権兵衛尉)は鷺沼に住して土着。村山を称するようになった。
-村山氏略系図-
→千葉介胤直-千葉介胤将-胤光――――村山胤信――信次―――重胤―
(千葉介) (千葉介) (千葉権介)(権兵衛) (権兵衛)(権兵衛)
【も】
本沢
千葉一族。仙台藩一家・片倉小十郎重長の家臣・本沢光徳(弥太郎)がいた。彼の子・武郷は万治2(1659)年に一家とされ、家老職に就く。しかしその子・常長が元禄7(1694)年に知行を召し上げられて平士とされた。その子・胤良は宝永6(1710)年に七人扶持で再び召し出されて一家となり、孫の永胤は家老に返り咲いた。その子・祥胤も家老をつとめた。その子・僕胤は北海道の開拓に参加して北海道に移住する。
常長の弟・信胤も片倉小十郎家に仕えて子孫の権平も宗家の僕胤と同じく北海道開拓に尽力した。
-本沢氏略系図-
→本沢光徳(弥太郎)―武郷―+―常長―胤良―――――則胤―――――永胤―――――祥胤―――――僕胤
|
+―信胤=胤勝=====胤元=====胤次=====守正―――――胤直―盛胤―権平
本沢常良次男 佐藤一信三男 高橋源蔵次男 遠藤本沢相続
森田
国分一族。伊達政宗の家臣・郷六重元の子の元猶が慶長3(1598)年に森田姓を賜った。
戦国時代末期、奥州千代城主・国分能登守盛氏は伊達氏と同盟し、子・盛顕に子がなかったことから、天正5年(1577)に伊達政宗の叔父・彦九郎政重が養子として送り込まれ、国分盛重と称して国分宗家の家督を継いだ。
一方、国分盛氏の庶子・七郎盛政は国分宗家とは別に伊達政宗に仕え、宮城郡国分郷愛子村・郷六村を与えられて郷六を称した。その孫・重元は慶長5(1600)年の最上氏・上杉氏の戦いで、政宗の命をうけて留守政景の手に属して出陣、叔父の馬場右衛門・弟の堀江源蔵らを率いて戦ったが、討ち死にした。その子・元猶はその2年前に政宗より森田の姓を与えられており、父のあとをうけて家督を相続。大坂の陣では伊達家の侍大将として出陣し、360石を与えられた。
その子・元家は藩の組頭などを勤め、弟・重治(宮蔵)は庶流の横沢家を継ぐ。元家の次男・直高は熊谷家を継ぎ、彼の子・定元が元家の嫡子・元房の跡を継いで森田を称した。定元は藩世子の傅役となり、元文4(1739)年、440石に加増された。その後も森田家は藩の中堅として幕末にいたる。幕末の元載は戊辰戦争に参陣して、白河口の攻防戦で戦死した。その子・元一は北海道開拓には参加せずに宮城郡広瀬村長をつとめ、仙山線の敷設に尽力した。
ところで、奥州国分氏については、国分盛胤が奥州に移住したと系図に書かれている。その子・盛経は、武石氏の子孫の亘理郡領主・亘理重胤と領地をめぐって争いとなり、応永19(1412)年3月に亘理重胤を討ち取った。しかし、重胤の子・亘理胤茂は父の恨みを晴らすべく、応永23年9月挙兵、国分盛経の館を急襲してこれを討ち取り、首級を父の墓前に供えた。
だが、戦国時代の奥州に覇を唱えた国分氏は千葉氏一族の国分氏ではなく、小山結城氏一族ともいわれる。宮城郡愛子村の諏訪神社棟札に「国分能登守藤原宗政」という名が見える。奥州に居住した国分氏と藤原秀郷流藤原氏が混同されて同じ一族とされてしまったのだろうか?
-森田氏略系図-
国分盛氏―+―郷六盛政―+―盛元―+―重元――――+―森田元猶―+―元家―+―元房―元直=定元―清元―直元―+
(能登守) |(七郎) | | | | | |
| | | | | | |
+―横沢駿河 +―政治 +―馬場右衛門 +―堀江源蔵 +―重治 +―熊谷直高―定元 |
| |
+―政朝 +―――――――――――――――――――――――――+
|
+…之元―元春―元長―元載―元良―元一
大松沢実富次男
森戸
東一族。東氏初代の東胤頼の嫡男・東重胤(兵衛尉)の五男・胤有が香取郡森戸を領して森戸を称した。
-森戸氏略系図-
→千葉介常胤-東胤頼-重胤―――――森戸胤有
(六郎)(平太兵衛尉)(五郎)
師岡
相馬一族。相馬胤実の孫、興秀(二郎)が武蔵国多摩郡師岡村(青梅市師岡)に住んで師岡を称した。子孫の師岡秀門(山城守)は北条氏照の家人で武蔵国高麗郡柏原(狭山市柏原)に四十五貫文を領していた(『小田原衆所領役帳』)。師岡将景(山城守)は天文19(1550)年、師岡勝沼城に説翁星訓を招き、曹洞宗の宝龍山宗泉寺を建立。さらに妙光院・光明寺を建立した。宗泉寺のカヤの木は都の天然記念物に指定されている。
-師岡氏略系図-
→相馬胤実―三田胤興―師岡興秀―…秀門
(常陸介)(二郎) (山城守)
師戸
師戸城の空堀 |
臼井氏の一族。鎌倉時代後期の臼井祐胤を助けた一族として、志津胤氏(次郎。祐胤弟)、岩戸安胤(五郎)、師戸四郎、用草三郎があったといわれる。
師戸氏が拠ったといわれる師戸城は、臼井城の対岸、印旛沼に突き出た台地上にある。臼井城とは舟を用いて連絡を取っていたと思われ、臼井城の惣構の一角を担っていたか。師戸城自体がかなり堅固な要害であり、現在でも堀や土塁がはっきり残っている。
現在、師戸城址は印旛沼公園として一般に開放されていて、春は桜の名所として有名。また、北と東には印旛沼を望む展望台があり、東側の展望台からは、風車がまわっている「佐倉ふるさと広場」が遠望できる。
文殊寺
上総千葉氏の祖・上総権介秀胤の子孫に文殊寺秀棟(四郎)が見える(『山門文書』)。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
|
+―澤田秀明
|(三郎)
|
+―文殊寺秀棟
(四郎)
門馬
蛟蛧神社 |
相馬一族。はじめは「文間」と書いた。相馬胤村の五男・胤家(五郎)が相馬郡文間村(北相馬郡利根町小文間)に住んで文間を称したとされ、相馬家の四天王の一家(木幡・須江・青田・門馬氏)となった。家紋は輪内木瓜。
「文間」とは、川が蛇のように入り組んでいることを表す「蛟蛧(こうもう)」から変化したとされ、「蛟蛧」⇒「交罔」⇒「文間」と変化した。現在も、北相馬郡小文間には「蛟蛧神社」が残されており、その宮には縄文時代後期の集落跡が残されていて、貝塚の貝が散乱している。
文間胤家は嘉元3(1305)年の相馬領の検分に嫡男・胤直(五郎)とともに奥州に下り、胤直はその後の相馬重胤の奥州下向に付き従って行方郡金場村に住した。
ただし「文間胤家」の出自については、系譜上にやや混乱がある。『奥相秘鑑』によれば、相馬義胤(五郎)の二男・胤継(小次郎)の子・胤経(左衛門尉)の嫡子・胤村(次郎)の五男を胤家とする。胤村の嫡子は氏胤(太郎)、二男は鷲谷胤定(次郎)、三男は根戸胤光(三郎)、四男は布施胤久(四郎)、そして五男が文間胤家とされている。
●『奥相秘鑑』をもとにした系譜 相馬義胤―+―胤綱 +―胤村―+―氏胤 |
●『相馬之系図』をもとにした系譜(『相馬文書所収』) +―胤綱――――――胤村―――――+―胤氏――――――師胤 |
上の系譜は『奥相秘鑑』『相馬之系図』をもとにした系譜だが、下の『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』とは相違点が多く見られる。下の系譜は裁判資料として作成されたものであるため、その信憑性は高い。また、上の系譜にのみ見える「胤経」に関しては、「胤綱」または「胤継」と同一人物であろうと考えられるが、いずれにしても文間氏は相馬小次郎胤継の子孫として記されていることがわかる。
相馬胤継(小次郎)は、弟・相馬胤村(孫五郎)の母・相馬尼、つまり継母によって義絶されている。相馬胤綱(左衛門尉)の死後、惣領代として実権を握った相馬尼は、おそらく胤綱の先妻の嫡子だった胤継を廃嫡とし、自分の子である胤村を惣領としたのだろう。この背景には、相馬尼の実家・天野家が一枚噛んでいた様子が伺え、胤綱亡き後、相馬家の所領は天野氏が握っていた。その後の胤継の活躍は見えないが、薩摩島津家に伝わる『相馬家文書』の中に胤継の子孫の名を見ることができる。
●『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』(島津家文書)
相馬小次郎左衛門尉 次郎兵衛尉法名法蓮 民部大夫法名蓮胤
民部次郎
胤綱――――――――+―胤継―――――+―泰胤―――――――――親胤
∥ | 相馬尼令義絶畢| 弥次郎左衛門尉 六郎兵衛尉
∥ | +―頼泰――――――+――泰綱
∥ | | | (追筆)九郎
∥ | | +――胤義
∥ | | 四郎左衛門尉 七郎左衛門尉
∥ | +―胤盛―――――――――胤直
∥ | 孫五郎左衛門尉 次郎左衛門尉 七郎左衛門尉
∥―――――――――+―胤村―――――+―胤氏―――――――――師胤
後家 | | 六郎左衛門尉
相馬尼 | +―胤重
天野和泉前司政景| 六郎左衛門尉 弥六左衛門尉 五郎
女子 +―胤景―――――+―胤貞―――――――――親常 今訴人
| | 七郎
| +―胤平
| 七郎 童名若王 (追筆)四郎左衛門尉 民部大夫
+―行胤―――――――胤盛―――――――――胤直
| 九郎左衛門尉 孫次郎
+―忠胤―――――――胤藤―――――――――竹鶴丸
| 足助尼
+―一女子被跡為闕所故陸奥入道殿御拝領畢
| 摂津大隅前司妻
| 刑部権大輔
+―二女子―――――女子―――――――――親鑑
| 島津下野入道後家
| 下野前司 上総前司
+―三女子―――――忠宗
尼妙智 法名道義 貞久 法名道鑑
↑「論人」と朱書されていたが、
消されて「貞久」とかかれた。
文間胤家(五郎)の嫡子・文間胤直(五郎)が相馬重胤の奥州下向に従ったとされる。元亨3(1323)年4月7日、相馬重胤は妙見・鷲宮・塩釜の三社の御輿を一つにまとめ、八十三騎の一族と千人の郎党をつれて、流山から奥州に下向し、胤直が先陣を務めたという。一方、胤家は下総国相馬郡文間村の西ノ台新館(茨城県北相馬郡利根町新館)にのこって、この地で没した。
太田妙見神社 |
重胤の先陣として奥州に下った胤直は、元亨3(1323)年4月21日、行方郡子鶴庄太田の三浦国清(左近)の館に到着した。現在、三浦家の館跡は太田神社(原町市下太田)となっている。三浦は太田を横領していたので、重胤は太田兵衛に命じて左近を追い出してこの地に館を構えた。重胤はその後、行方郡小高村の館(南相馬市小高区小高舘)に移った。胤直も重胤に従って、小高館の西1キロほどにある行方郡片草村金場(福島県南相馬市小高区片草字金場)に屋敷を構えた。
その子・文間胤往(次郎兵衛尉)は相馬重胤(孫五郎)に従い、建武3(1336)年4月16日、鎌倉郊外で足利方の斯波家長勢(相馬重胤が加わる)と後醍醐天皇方の北畠顕家勢が戦った片瀬川の戦いにおいて、相馬五郎胤康(相馬家御一家の岡田氏・泉氏祖)とともに討死を遂げた。
相馬家小高館跡遠景 |
永享11(1439)年、相馬重胤(奥州に下ってきた「重胤」の5代孫)はは大病にかかったため、嫡男・高胤に家督を譲り、行方郡馬場村の五台山で出家した。これに文間胤長(太郎)とその甥・文間胤末(文九郎)が付き従った。重胤は誰にも面会を許さず、領主・高胤も追い返された。そこで高胤は狩猟と称して山に入り、一人、五台山に登って重胤の館に入って面会をしたため、重胤もその孝行心に感心して年一度の面会を許した。
しかし、重胤は病が重くなってまもなく亡くなってしまったため、高胤は重胤の菩提寺として行方郷太田村郊外の原に(南相馬市原町区上太田)に岩屋寺を建立して彼をまつった。このとき、重胤に付き従っていた文間胤長・胤末は刺し違えて重胤に殉じた。地元の村人は「伯父太郎」こと文間胤長を矢河原村に、「甥太郎」こと文間胤末を益田村に、彼らの遺言通り、甲冑を着けさせて葬り、それぞれ「伯父太郎権現」「甥太郎権現」として祀ったという。
胤往の曾孫・文間胤久(五郎左衛門)は萱浜村(南相馬市原町区萱浜) に移り住み、萱浜を称した。相馬家惣領・相馬高胤に仕え、牛越城(南相馬市原町区牛越)の塁主・牛越定綱(上総介)に属した。しかし、その定綱が文安2(1445)年2月19日に突如、高胤に反旗を翻して挙兵した。高胤はこれを討つため出陣したが、小高郷中島城の飯崎胤秀(紀伊守)が牛越定綱と通じたために逆に攻めたてられた。胤久は、青田清弘(豊田三郎左衛門尉)とともに偽って定綱に降伏し、城内に入って定綱と対面するや抜刀して定綱を斬殺。高胤は混乱する牛越城を難なく攻め落とした。危機を救った胤久と清弘二人に対しては「豊田・萱浜両家は永代断絶させるべからず」という証文を与えたと伝わる。
その子・文間胤経(民部)は金場村に戻り、金場加賀守経康を称した(金場氏)。胤経には文間胤政(彦五郎)と文間経光(壱岐守)の二人の子があったが、次男の経光は相馬顕胤の誕生のときからの守役、補佐役を任され、顕胤を名将に育て上げた人物である。
胤政の長男・文間胤信(亦五郎)は天文11(1542)年2月10日の、伊達家との伊達郡懸田村の合戦で討死を遂げた。その弟・文間胤景(摂津守)が家督を継承して文間氏の惣領家として明治時代まで続く。
胤景の孫・文間胤友(美濃)は、天正11(1583)年8月15日、相馬義胤(長門守)から名字に「相馬」の「馬」字を使用することを認められ、胤友は名字を「文間」から「門馬」と改め、さらに諱の通字「胤」の使用を禁じて「経」字を用いるよう一族に通達した。これ以降、門馬氏は一族を含めて「経」字を通字とすることとなった。
家経の子・門馬貞経(上総介)は八十貫文を知行した重臣で、天正8(1580)年8月、宇多郡黒木城代として黒木城に赴任。天正17(1589)年7月18日の坂本犀鼻合戦、翌天正18(1590)年3月18日の大沢迫合戦に参戦して戦功があった。貞経の与力には、志賀掃部助、遠藤筑前、天野越中、台掃部ら七名がいたと伝わる。貞経の子孫・門馬嘉右衛門家は門馬家の宗家として、中村藩内でも重んじられ、一族の幾世橋門馬家とともに、家老職に就任する一家に準じる待遇を受けた。
天正18(1590)年5月14日、伊達勢の亘理重宗(坂元城主)、黒木宗俊(駒ヶ峰城主)、佐藤藤右衛門(小斎城主)が宇多郡中村城へ攻め寄せた。中村城を守っていたのは惣領・相馬義胤(長門守)の弟・相馬隆胤(兵部大輔)で、剛勇無双の猛将として知られていた。隆胤は伊達勢が押し寄せたことを知ると、わずかな手勢を率いて城外に出て迎え討った。
隆胤と黒木宗俊勢は石上村の南、潼生淵で合戦となった。しかし、隆胤の手勢は少なく次第に押されていった。ここに貞経が黒木城から加勢に駆けつけ、黒木勢を防いだが、貞経は矢田但馬の鉄砲に狙撃されて落馬したため、相馬勢は再び押されはじめ、ついに崩れた。負傷した貞経は水谷孫右衛門によって救出されたものの亡くなった。隆胤も敗走する相馬勢を立て直すべく自ら大なぎなたを振るって奮戦していたが、背後に回った伊達勢の攻撃を受けて深田に足を入れてしまい、身動きの取れなくなった隆胤は戦死。彼を救おうとした佐藤万七、泉藤六郎、荒藤八郎、佐藤文七郎、佐藤孫兵衛らも討ち死にを遂げた。
貞経の死後、幼い嫡子・兼経(本五郎)に代わって、貞経の弟・紀伊守が後見人となって門馬家を支えた。
慶長7(1602)年、慶長の役(関が原の戦い)で相馬家は石田三成方に加担したとして所領を没収されてしまったが、公子・相馬蜜胤(のち利胤)は将軍家へ相馬家再興の嘆願をしに行った際、家老の門馬経親(甚右衛門)のほか、門馬治右衛門、門馬泰経(吉右衛門)、門馬元経(長助)らが名が見える。この蜜胤の嘆願が功を奏して相馬家はもとのごとく再興することができたが、経親は本多正信(佐渡守)との折衝にあたるなど大きな功績があり、「第一雄器ノ忠臣」とされ、百五十石が加増(都合七百八十二石)、門馬泰経(吉右衛門)には五十石の加増(都合百十四石)がなされた。
文間胤治―――胤長――――胤久―――――胤経―+―胤信
(五郎左衛門)(五郎) (五郎左衛門)(民部)|(亦五郎)
|
+―胤景――――胤利―――――門馬家経――貞経―――兼経
|(紀伊守) (上総介) (美濃) (上総介)(嘉右衛門)
|
+―政経――+―清経――――経貞――――経親
(大炊助)|(大和守) (彦七郎) (甚右衛門)
|
+―経英――――元経
(丹波守) (長助)
門馬経親(甚右衛門)のあとは婿養子の門馬経実(四郎兵衛)が継いだ。彼は相馬家に亡命した葦名家旧臣・富田家の富田隆実(備前)の次男であったが、彼が亡くなると門馬甚右衛門家は断絶した。
延宝5(1677)年4月14日、塩釜明神(上太田村)再建の際、代官の一人に「門馬仁兵衛」がある。仁兵衛は文間胤家の次男・胤時(孫四郎)の子孫と伝えられる小高村南堰場の在郷給人であったが、寛文8(1668)年に城下士に移されて中村城下に屋敷を与えられ、5代藩主・相馬昌胤の代に代官に就任。百石の加増があった。そしてその子・作右衛門は尊胤の代に五十石を加増されあわせて百五十石を知行し与頭となる。
天和3(1683)年の黒木村諏訪神社参拝では、藩主・相馬昌胤の代参として門馬宣経(嘉右衛門)が参拝した。
貞享3(1686)年4月、門馬豊経(六兵衛)が御台所頭役に任じられ、新知百石を給わった。豊経は百槻門馬家の末裔で、忠胤、昌胤の二代に仕え、祐筆、中小姓目付、御進物番、御台所頭、郡代、金銀本占役などを歴任した。
元禄7(1694)年7月17日、相馬昌胤は宇多郡宇多郷坪田村の八幡宮に寄進された右側の石灯籠の銘に用人の門馬辰経(嘉右衛門)、郡代の門馬重経(六兵衛)があるが、辰経は門馬宗家の金場門馬家、重経は六兵衛豊経の改名後の姿である。
元禄10(1697)年5月28日、辰経(嘉右衛門)は家老職に就任し、9月15日より中村城御殿大広間造営の奉行を務め、翌元禄11(1698)年正月、先々代藩主・相馬忠胤の祖母を祀った万年山長松寺を中村城南西の鷹巣山に移した際、その伽藍造営大奉行を務めて二か月の工期を経て落成に貢献した。同年9月には、昌胤の江戸山王防火使の幕命を受けると、辰経が名代として中村より二百五十名を率いて江戸に出張し、役を勤めた。しかし、元禄13(1700)年7月15日、辰経は過失によって家老職を召し放たれ、宝永元(1704)年5月19日に亡くなった。五十二歳。
同年7月中、百槻門馬房経(藤右衛門)が五十石を加増され、都合二百五十石を知行した。翌元禄14(1701)年に藩侯・昌胤が隠居して幾世橋に移ったときに用人として従い、惣士支配を勤めた。そして宝永2(1705)年12月には昌胤付家老職に就任した。宝永5(1708)年に病気のため家老職を辞して隠居、対影と号した。
宝永7(1710)年の塩釜明神再建は、藩主・相馬清胤(のちの尊胤)を大施主とし、奉行に門馬経通(文八)が見える。
享保8(1723)年の同社参拝には、門馬明経(卯右衛門)が奉行を務めた。享保13(1728)年9月22日、石川昌清(助左衛門)とともに門馬景経(嘉右衛門)が家老に任じられた。
幕末の分限帳には、門馬家の一族として250石の徳右衛門、150石の弥惣右衛門・庄太夫・孫太夫の三家、100石の亘・七郎右衛門などがおり、一族の知行を合計すると1,530石にもなる中村藩内でも屈指の大族。
《萱浜門馬家》
金場門馬氏の祖・門馬胤久(五郎左衛門)が行方郡萱浜村を知行して萱浜を称した。胤久は牛越定綱(上総介)の反乱鎮圧に功績をあげた。
《金場門馬家》
文間家の嫡流。江戸時代は代々「嘉右衛門」を称し、三百石を知行した最上級藩士の家柄。代々家老職に就いた。
文間胤直から6代目の門馬経康(加賀守)が「金場」を称した。その末孫、門馬貞経(上総介)は天正8(1580)年8月に宇多郡黒木城代を命じられ、900石を知行する。しかし、天正18(1590)年5月14日、新地に出てきた伊達家の軍勢と戦い、石上村において討ち死にした。法名は自徳院義顕保忠居士。
貞経が戦死したとき、嫡男・門馬兼経(嘉右衛門)はまだ幼く、貞経の弟・門馬紀伊守が彼を後見して門馬家を支えた。兼経は文禄2(1593)年の分限帳には97貫文を領したとあり、慶長7(1602)年の相馬家減封に際して、600石に減封されて中村に移り、叙胤の代にさらに半知となった。貞経の二男・門馬胤清(勘兵衛)は栃窪胤光(蔵人)の娘を娶ってその養嗣子となった。
天和元(1681)年3月27日、昌胤の初めての御国入りに門馬辰経(嘉右衛門)が随って江戸から中村へ下向。元禄7(1694)年7月17日、相馬昌胤は宇多郡宇多郷坪田村の八幡宮に寄進された右側の石灯籠の銘に用人に「門馬嘉右衛門辰経」の名が見える。辰経は藩政の中枢で二十年にわたって活躍している。
享保13(1728)年9月22日、石川昌清(助左衛門)が江戸家老に就任すると、門馬景経(嘉右衛門)があとを受けて国家老となる。享保16(1731)年4月27日、郡代頭に仰せ付けられた。享保19(1734)年10月、軍用引請が仰せ付けられた。元文2(1737)年9月5日、景経は病死。嫡男・門馬本五郎季経が跡目を継いだ。
《百槻門馬家》
門馬氏の一族。文間胤朝(四郎次郎)の六代目・門馬胤正(右兵衛)が宇多郡百槻村に住んで「百槻」を称した。
子孫の門馬房経(藤右衛門)は昌胤に仕え、元禄11(1698)年6月3日、三略の文言を記した御指小旗(香餌之下必有懸魚)を手ずから賜り、翌年には陣羽織を賜った。そして昌胤の隠居に伴い、御用人として幾世橋村に移り、惣士支配を命じられた。そして宝永2(1705)年12月、昌胤付家老職に就任したが、宝永5(1708)年11月、中村家老・服部恒光(伴左衛門)が幾世橋の家老になるに伴い、藤右衛門は病気により依願退職。「門馬対影」と称し、岡田監物伊胤入道良山とともに本藩の家老職に抜擢された。享保15(1730)年7月7日、対影房経は家老職在職のまま病死。対影の跡は嫡男の御用人・門馬喬経(本右衛門)が継承し、岡田春胤(監物)、守屋親信(八太夫)らとともに家老職に就任した。
元文2(1737)年7月18日、喬経は隠居して「門馬奚疑」と号して家老職に再任され、さらに9月5日、家老・郡代頭で門馬惣領家の門馬景経(嘉右衛門)が病死したため、9月7日、奚疑が郡代頭を命じられ、御普請方・御兵具方引請を仰せ付けられた。元文3(1738)年11月25日、奚疑は病のため家老職を辞した。
喬経の孫に当たる門馬隆経(八郎兵衛)も家老職や郡代頭に就任するなど、藩侯からの信任も厚かったが、安永2(1773)年5月1日、百石の加増を固辞したため、藩侯・恕胤の疑惑を買い、20日、家老職を解任され、28日には所領もことごとく没収。熊川兵庫屋敷預けとされ、重罪露見との罪状によって10月3日、獄屋において処刑された。こうして百槻門馬家宗家は断絶した。隆経の辞世の句として、
と、従容として首の座についたという。
体興霊神 |
彼の死後、奇怪なことが次々と起こり始めた。恕胤はこれを隆経の霊による祟りとし、寛政5(1793)年、相馬祥胤(讃岐守)は隆経の霊を鎮めるべく、熊野神社に筒宮を建立して厚く弔ったが、まったく奇異な出来事は収まらず、祥胤はたまらず文化13(1816)年正月3日、隆経の後家(佐藤孫左衛門祐信娘)に旧禄二百五十石を給い、17日、隆経後家に門馬勝経(與左衛門)の娘を養女とするよう命じた上、佐藤信長(孫左衛門)の長男・初次郎を婿養子とさせ、門馬忠経(徳右衛門)と名乗らせて家名再興させた。
祥胤は公子・益胤とともに徳旨を以って京都吉田神道宗家の吉田家に隆経霊の鎮慰を依頼し、隆経を体興霊神として祠を建てて祀った。そして毎年3月16日に例祭を行うこととした。その後、災いはぴたりとやんだという。
《幾世橋門馬家》
門馬宗家の門馬嘉右衛門家の一族で、文間胤政(彦五郎)の三男・文間政経(大炊助)を祖とし、曾孫・門馬元経(長助)は、相馬蜜胤(利胤)の相馬領復興願の徳川家康への訴えに従って江戸に向かった老臣の一人である。元経の次男・門馬維経(作左衛門入道是仲)が藩主・相馬忠胤のときに二百石を給され、甥の門馬光経(作左衛門入道心空)が家督を継承した。
光経の次男・門馬為経(専馬)は元禄6(1693)年、10歳にして相馬昌胤の侍童となり、少進の名を与えられ、さらに右近の名を賜った。昌胤の信頼を一身に受けて元禄13(1700)年7月8日、四百石を給され、さらに「幾世橋」の氏を賜り幾世橋を称し、専馬の通称を賜った。その上、さらに家紋・幕紋・旗紋を賜るほどの恩寵を受ける。篤実な性格で熱心に仕え、正徳元(1711)年までの十八年間、一日の懈怠もなく昌胤の側近として勤め上げたが、病にかかっても少しの暇も取らずに働いたことが仇となったか、正徳2(1712)年正月15日、昌胤が見守る中で二十九歳の生涯を閉じた。墓所は昌胤の命により、幾世橋御殿のそば、崇徳山興仁寺に葬られた。
為経のあとは、中村城下に御使番などを勤めていた兄・門馬房経(作左衛門入道寿仙)が幾世橋御殿に召され、幾世橋氏の名跡を継ぐことが命じられ、弟のあとを継いで昌胤に近侍した。房経も信任を得て御用人に抜擢され、享保13(1728)年10月、昌胤が亡くなると、翌年9月、藩侯・相馬尊胤の命を受けて高野山巴陵院に遺骨を納めて石塔を建立している。その翌年に中村に召還されて尊胤の養嗣子・相馬徳胤の御用人となるなど活躍した。子孫も代々中村藩の重臣となり、御一家とも縁戚関係を築いて御一家に准ずる待遇を受ける。
-文間(門馬)氏略系図-
+―経光――木工助――内匠―経之―重経
|(壱岐守)
|
→文間胤家―胤直――胤住―――+―胤治――+―胤長―――金場胤久―+―胤経――胤政―+―胤信――+―胤高
(五郎) (五郎)(二郎兵衛)|(五郎左)|(太郎) (嘉右衛門)|(民部)(彦五郎)(亦五郎)|
| | | |
| +―胤秀―――胤末 +―経家 +―政経―+―清経―経親
| (蔵人丞)(文九郎) |(近右衛門) | | (甚右衛門)
| | +―――+ |
| +―経康 | +―経英―+
| (加賀守) | |
| | +―――――――――――+
+―胤朝――――<5代>―百槻胤正――… | |
(四郎二郎) | +―経信 +―経氏 +―尊経
| | | |(弥右)
| | | |
| +―高経―+―元経―+―維経
| (長助) (作左)
|
+―胤景――+―胤利――+
|(紀伊守)|(上総) |
| | |
+―政経 +―広経 |
(大炊) (伊賀) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―家経――+―貞経―+―兼経――――長経――――直経――辰胤――――寧胤―――+―治経――――+―景経―――+
|(美濃) |(上総)|(嘉右衛門)(四郎五郎)(喜内)(嘉右衛門)(嘉右衛門)|(八郎右衛門)|(嘉右衛門)|
| | | | | |
+―清経 +―紀伊 +―栃窪胤清 +―明経 +―木幡邦清 |
|(主計) (勘兵衛) (内膳) (十右衛門)|
| |
+―富沢藤次 |
| |
| |
+―娘 |
|(泉田胤雪妻) |
| |
+―孫左衛門 |
| |
+―左馬 |
| |
+―蔵人 |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―季経―――+―名経―――+=孝経―――+―脩経――――+―昆経―――――+=命経――――基経
(嘉右衛門)|(嘉右衛門)|(嘉右衛門)|(嘉右衛門) |(嘉右衛門) |(嘉右衛門)(恒蔵)
| | ∥ | | |
+―中島好正 +―娘 +―娘 +―娘 +―文太郎
|(伝) |(木幡延清妻)|(大悲山要重妻)
| | |
+―生駒隆祐 +―娘 +―布施命経
(七郎右衛門) |(西内重暢妻)|(文四郎)
| |
+―富田実光 +―心
(竹蔵) |(宝蔵寺住持)
|
+―陸蔵
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
門馬嘉右衛門命経(金場門馬) | 大身 | 300石 | 不明門北扇子町 |
門馬徳右衛門治経(百槻門馬) | 大身 | 250石 | 鷹巣部屋町 |
門馬弥惣右衛門英経(百槻門馬) | 大身 | 150石 | 西御檀小路 |
門馬庄太夫備経 | 大身 | 150石 | 西御檀小路 |
門馬孫太夫守経 | 大身 | 150石 | 鷹巣町 |
門馬亘条経(百槻門馬) | 大身 | 100石 | 鷹巣町 |
門馬七郎右衛門求経 | 大身 | 100石 | 桜馬場 |
門馬仁兵衛重著 | 小身 | 75石 | 鷹巣町北西山 |
門馬六兵衛備経(百槻門馬) | 小身 | 67石 | 下川原町 |
門馬重兵衛 | 小身 | 67石 | 柏場町 |
門馬兵蔵経恭 | 小身 | 50石 | 新馬場横町 |
門馬兵右衛門那経 | 小身 | 50石 | 柏葉町 |
門馬市郎左衛門登経 | 小身 | 10石 | 柏葉町 |
門馬伝兵衛常驥 | 小身 | 10石 | 新町 |
門馬伊助宜重 | 小身 | 扶持方 | 砂子田表町 |
門馬文蔵泰経 | 小身 | 扶持方 | 清水町 |
門馬兵治右衛門那経 | 小身 | 扶持方 | 鷹部屋町上横町 |
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
門馬伴右衛門 | 給人 | 8石 | 宇多郡宇多郷大坪村 |
門馬孫左衛門 | 給人 | 10石 | 宇多郡宇多郷柏崎村 |
門馬勘之丞 | 給人 | 20石 | 宇多郡宇多郷日下石村 |
門馬弥兵衛 | 給人 | 5石 | 行方郡北郷蛯村 |
門馬十郎兵衛 | 給人 | 10石 | 行方郡北郷江垂村 |
門馬善次 | 給人 | 5石 | 行方郡北郷江垂村 |
門馬源太郎 | 給人 | 5石 | 行方郡北郷嶋崎村 |
門馬長左衛門 | 給人 | 7石 | 行方郡中郷深野村 |
門馬孫左衛門 | 給人 | 3石 | 行方郡中郷深野村 |
門馬又左衛門 | 給人 | 8石 | 行方郡中郷太田村 |
門馬卯右衛門 | 給人 | 18石 | 行方郡中郷南新田村 |
門馬友右衛門 | 給人 | 16石 | |
門馬次兵衛 | 給人 | 3石 | |
門馬次郎右衛門 | 給人 | 14石 | 行方郡中郷北長野村 |
門馬儀左衛門 | 給人 | 22石 | 行方郡中郷北原村 |
門馬覚右衛門 | 給人 | 11石 | 行方郡中郷牛来村 |
門馬兵左衛門 | 給人 | 20石 | 行方郡中郷大甕村(半地より) |
門馬助右衛門 | 給人 | 18石 | 行方郡中郷小浜村 |
門馬喜左衛門 | 給人 | 5石 | |
門馬彦右衛門 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷高村 |
門馬作兵衛 | 給人 | 9石 | 行方郡中郷鶴谷村 |
門馬次右衛門 | 給人 | 16石 | 行方郡中郷矢川原村 |
門馬新左衛門 | 給人 | 15石 | |
門馬早之助 | 給人 | 8石 | |
門馬五郎八 | 給人 | 6石 | |
門馬市三郎 | 給人 | 2石 | 行方郡中郷金沢村 |
門馬清左衛門 | 給人 | 29石 | 行方郡小高郷小高村 |
門馬与五右衛門 | 給人 | 20石 | |
門馬代次郎 | 給人 | 14石 | (飯崎村より) |
門馬金右衛門 | 給人 | 7石 | 行方郡小高郷金谷村 |
門馬清兵衛 | 給人 | 18石 | 行方郡小高郷川房村 |
門馬喜兵衛 | 給人 | 10石 | (岡田村へ) |
門馬喜右衛門 | 給人 | 8石 | |
門馬源六 | 給人 | 20石 | 行方郡小高郷行津村 |
門馬松之丞 | 給人 | 20石 | 行方郡小高郷谷津田村 |
門馬元右衛門 | 郷士 | 行方郡小高郷小高村 | |
門馬弥左衛門 | 郷士 | 13石 | 行方郡小高郷大富村 |
門馬作右衛門 | 郷士 | 行方郡小高郷金谷村 | |
門馬治左衛門 | 郷士 | 3石 | 行方郡小高郷大井村 |