(????-????)
郡上東氏八代。東下野守常縁の子。母は不明。妻は某氏。官途は左近将監。号は道長翁。法名は素光。はじめ「縁数」を称しており、伯父の氏数の養子になっていた可能性もあろう。文明10(1480)年8月当時には「頼常」を称しているが、文明16(1484)年頃以降、「頼数」と改めたようである。守護の土岐成頼の片諱を受けた可能性もあるか。【このページの当主の時系列】
■東氏想像系図■
東益之―+―東氏数――――――東元胤
(下野守)|(下総守) (下総三郎)
| ∥―――――――東尚胤――――東素山
| ∥ (下総守) (寿昌院)
| 慈永大姉
|
| +―東頼数―――――東氏胤
| |(左近将監) (宮内少輔)
| |
+―東常縁――――+―東常和―――+―東常慶――――東常堯
|(下野守) |(下野守) |(下野守) (七郎)
| | |
+―正宗龍統 +―東胤氏 +―東素経
(建仁寺住持) |(最勝院素純) (最勝院)
|
+―常庵龍崇
(建仁寺住持)
若くして戦陣に起伏すると同時に、父・常縁について和歌の研鑽を積み、東素純や東氏胤らが研究した東家の「家説」を確立した人物である。父・常縁と同様、将軍・足利義政に仕えると縁数も幕府に出仕したと思われる。そして寛正5(1464)年12月、義政の弟・足利義視が還俗して家督候補者となると、縁数は義視に近侍することになった。
しかし、寛正6(1465)年11月23日、義政に嫡男・足利義尚が生まれると、義政と義視との関係が微妙になった。義政は妻の日野富子の要求に折れて、実子の義尚を後継者に指名し、義視には再び出家を命じた。これに義視は怒り、応仁元(1467)年8月、大内政弘が入京すると義視は伊勢へ逃れた。縁数もこれに従ったと思われる。
幕府の内部では、義政・義尚を推す山名宗全入道らと義視を推す細川勝元らの二派に分かれ、応仁元(1467)年5月に、山名宗全・斯波義廉・畠山義就ら(=西軍)が挙兵して、細川勝元(=東軍)邸を襲い、「応仁の乱」が勃発した。
戦いが広がることを憂えた義政は、義視の怒りを解こうと、翌年5月、義視に山城・近江・伊勢の寺社本所領の半済を与え、義視を京都に召喚した。しかし、11月、再び義政と義視は不和となり、義視は身の危険を感じて比叡山へ逃れ、細川勝元と結んで義政と対立した。縁数も義視に随って入山し、剃髪した(『東氏代々集』)。
一方、義政は義視が謀反を起こしたとして、12月、義視一党の官位官職を剥奪し、義視追討令を発した。このような中で、翌年4月、縁数は義視のもとを離れて下総国で合戦中の父・常縁のもとに駆けつけている。このとき常縁は義政の命によって下総古河公方・足利成氏と合戦していた。文明元(1469)年4月21日、常縁が京都へ召還されたとき、縁数は下総国の守りとして残された(『鎌倉大草子』)。
文明10(1478)年8月21日、「平頼常」が「常縁」から切紙伝受し(1)、8月23日には常縁から三代集(古今、後撰、拾遺和歌集)の題号口伝を受けている(「古今和歌東家極秘」井上宗雄『室町期和歌資料の翻刻と解説』)。美濃守護・土岐成頼の偏諱を受けたものかもしれない。伝授された和歌については、「伝授哥之次第 皆以口伝授追書付為後日之」として、藤原基俊から俊成へ伝授された歌から始まり、頼常から素純への伝授で終了している。
文明14(1482)年正月10日、弟の「素純」へ古今伝授し、和歌を授けた(1)。
頼常から素純へ授けた和歌は、藤原定家が養和元(1181)年、まだ二十歳の頃の歌集『初学百首』から撰ばれた「天の原思へば変わる色もなし秋こそ月の光なりけれ」の歌であった。この歌が授けられたのは、当時の素純がおそらく二十歳であり、上の句下の句の関係から、今後の和歌の研鑽を願ったものと考えられる。
○「伝授哥之次第 皆以口伝授追書付為後日之」(『古今秘伝集』宮内庁書陵部本)
年号 | 西暦 | 授者 | 受者 |
保延四年八月十五日 | 1138年 | 基俊(藤原基俊) | 俊成(藤原俊成) |
治承三年二月九日 | 1179年 | 釋阿(藤原俊成入道) | 定家(藤原定家) |
貞応元年七月六日 | 1222年 | 定家(藤原定家) | 為家(藤原為家) |
建長三年十二月十三日 | 1251年 | 為家(藤原為家) | 為氏(藤原為氏) |
弘安元年十二月廿八日 | 1278年 | 為氏(藤原為氏) | 為世(二条為世) |
元応二年七月廿六日 | 1320年 | 為世(二条為世) | 頓阿 |
貞治三年四月廿一日 | 1364年 | 頓阿 | 経賢 |
応安五年六月一日 | 1372年 | 経賢 | 堯尋 |
応永十年正月十日 | 1403年 | 堯尋 | 堯孝 |
享徳三年十二月廿七日 | 1454年 | 堯孝 | 常縁(東常縁) |
文明十年八月廿一日 | 1478年 | 常縁(東常縁) | 頼常(東頼常) |
文明十四年正月十日 | 1481年 | 頼常(東頼常) | 素純(東素純) |
文明16(1484)年3月、父・常縁が亡くなると家督を継ぎ、翌文明17(1485)年6月17日、亡父・常縁が文明4(1472)年に親友の「西方行者宗順房」から譲り受けた(島津忠夫「東常縁に関する資料の再吟味(2)―宗順房より付与の『古今和歌集』―)藤原俊成女手筆(少々定家被加筆)の『古今集一部』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進して、子孫の歌業の隆盛を祈願している(『大和村史 資料編』)。この時の署名は「右近将監平頼数」とある。「頼常」から「頼数」に名を改めたものと思われる。
この年の秋、常縁と同門の堯恵法印が篠脇を訪れ、翌文明18(1486)年5月まで美濃に滞在して頼数に古今伝授した(『北国紀行』)。なおこの古今伝授の講義を受けている文明18(1486)年2月19日、「東左近将監頼数」が年始御礼として「東山様(足利義政)」に太刀と馬一匹を送っているが(『親郷日記』)、頼数は三条堀河の東氏邸からではなく、郡上から太刀と馬を運送したことがわかる。
この堯恵法印の旅は、美濃から北陸を通り、鎌倉、三浦半島までの長いものであったが、この旅は常縁の子に古今伝授するための旅で、郡上で頼数へ古今伝授したのち、堯恵は美濃から北陸、そして長享元(1487)年2月、武蔵鳥越から相模鎌倉へ、そして芦名(横須賀市芦名)の東常和(頼数弟)を訪ねている。三浦半島でも5月末までの四か月ほど滞在して、伝授のための講義をした(『北国紀行』)。
●二条流歌道の略系譜
二条為世―+―後宇多天皇 +―経賢―――堯尋――堯孝―+―東常縁――+―宗祇―――+―三条西実隆―+―東素経
| | |【八代末葉】| | |
+―二条為通 +―二条良基(摂関家) | | +―東素純 +―東氏胤
| | | |
+―頓阿――――+―足利尊氏 | +―東頼数――――東素純
| | 【十代末葉】
| |
| +―東常和――――東氏胤
| | 【十代末葉】
| |
| +―東素純
| |
| +―大坪基清
|
+―堯恵―――+―東頼数
| |【十代末葉】
| |
+―一条兼良 +―東常和――+―東氏胤
| |
+―東元胤 +―木戸範実(二條冷泉合流)
長享3(1489)年正月15日、「東将監」が三条西実隆の邸を訪ねており(『実隆公記』)、おそらくこの「東将監」は頼数であろう。なお、『和歌秘伝書』(井上宗雄『室町期和歌資料の翻刻と解説』)によれば、「女房の懐紙書様」の例として「東将監頼数妻」の和歌三首が記されている。頼数の妻は幕府女房であったとみられる。
系譜に拠れば頼数は天文12(1543)年1月21日に亡くなったと伝わるが、頼数の没年が百歳に近くなることから誤伝であろう。法名は寶慈院明行常意。
●頼数について●
書名 | 胤綱(=益之) | 縁数 | 氏胤(≠胤氏) |
『千葉大系図』 | 胤綱=「素珊」 | 縁数=「素光」 | 氏胤=「素純」 |
『系図簒要』 | 胤綱=益之=「素明」 | 縁数=「?」 | 胤氏=「素純」 |
『松羅館本千葉系図』 | 胤綱=益之=「素明」 | 縁数=「素光」 | 氏胤=「素珊」 胤氏=「素純」 |
・宮内少輔縁数の没年=天文12(1543)年1月21日と伝えられる(法名:寶慈院明行常意)。
・兵庫助常和の没年=天文13(1544)年1月21日に89歳で卒す(法名:尊勝院常照心月)。
・下野守氏胤の没年=天文16(1547)年1月21日に69歳で卒す(法名:聖慶院知寶常光)。
→いずれも「天文」10年代の「1月21日」に亡くなっている。違和感を感じる。
【参考文献】
(1)『古今秘伝集』宮内庁書陵部蔵
【東氏に関する基本的文献】