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前澤
千葉一族。千葉介孝胤の子・通胤(彦二郎)が前澤を称し、佐竹氏に仕えたと伝わる。ただし、前澤氏の系譜では通胤は鎌倉時代後期の人物とされている。その父は千葉勝胤、祖父は千葉孝胤とあり、系譜に混乱が見られる。実際に前澤氏が千葉氏から分流した時代は不明とせざるを得ない。
通胤の子孫・前澤守胤(筑前守)は佐竹義舜(右京大夫)に仕え、明応9(1500)年3月、義舜は敵対していた一族・山入氏義に孫根城(東茨城郡城里町)を攻め落とされて金砂山に逃れたが、このとき守胤は忠節を尽くしたという。2年後の文亀2(1502)年8月、力を取り戻した義舜は佐竹一族らを糾合し、山入氏義を破った。守胤は感状を賜ったという。
その子・前澤篤胤(彦太郎)は佐竹義篤(大膳大夫)より「篤」の一字と「筑前守」の官途状を賜った。その子・前澤昭胤(九郎二郎)は佐竹義昭(右京大夫)より「昭」字を賜ったが、早世した。その跡を継いだ弟・前澤昭為(彦太郎、九郎三郎)は「昭」字と「筑前守」の官途を賜り、家老職・軍奉行に就任した。出家したのちは藝琢介と号した。
秋田藩士の由来書のなかに前澤氏の項目が見え、「下総国より来ル、千葉の一族也」とあり。また、冬期10月から12月までの奉行職であったことが記載されている(『秋田県史』)。関ヶ原の戦いののち、佐竹義宣が秋田へ移封となると、前澤昭為(九郎三郎)の嫡子・前澤重胤(筑後守)がこれに従った(『前澤家系譜』)。前澤重胤は佐竹義重(常陸介)より一字を給わった重臣である。
慶長7(1601)年の分限帳には五十石取りの前澤専八が見え(『慶長九年拾年扶持人覚』)、慶長11(1606)年7月の横手大番帳四番士に前澤主殿(前澤通胤)の名が見える(『秋田藩家蔵文書』三十五)。主殿は前澤重胤(筑前守)の子である。重胤は慶長17(1612)年9月22日、「故あって」山北郡六郷の大蓮寺にて死罪に処せられた。この「故」が何かは伏せられているが、おそらく六郷館にいた隠居の佐竹義重の不慮の事故による死去(4月19日)と関係があると思われる。義重は狩猟中に落馬しており、重胤がその狩猟の供として随っていた可能性がある。
江戸時代中期、久保田藩刀番の前澤胤重(主水)がいた。胤重は寛延2(1749)年に誕生。その後、漢学者として名を揚げた。通称は新之助。号は羽淵、容膝亭、楊陽陀。文化8(1811)年6月、63歳で亡くなった。その子・前澤胤秋(主水)も久保田藩の漢学者として見える。家紋は月星、八曜など。
-前澤氏略系図(『佐竹家中総系図』:東京大学史料編纂所)
千葉介孝胤――前澤通胤――重胤―――良胤――+―親胤―――正胤―+―頼胤―+―忠胤――胤綱―――繁胤―――+
(彦二郎) (彦太郎)(筑前守)| | | (左京亮)(下総守) |
| | | |
+―神澤盛胤 +―胤助 +―胤景 |
|(豊後守) | |
| | |
+―瀬谷安胤 +―長胤 |
(新六郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―守胤―――篤胤―――昭胤―――+―昭為―――+―重胤――――+―通胤―――+―娘
(筑前守)(彦太郎)(九郎次郎)|(筑前守) |(筑後守) |(主殿) |(川井土佐易忠妻)
| | | |
+―通貞 +―六寮 +―胤元 +―次胤―――主殿
|(内蔵丞) |(龍泉寺開山) (小源太) (民部)
| |
+―讃岐守 +―胤成
(靱負)
増尾
相馬一族。名字地は下総国相馬郡増尾村(柏市増尾)。もともとは増尾村の豪族か。増尾村に館を構えていた相馬重胤(孫五郎)が奥州に下向した際に従ったと推測される。
相馬隆胤の代に「一族郎従」として増尾胤重(五郎)の名を見ることができる(『相馬家譜』)。
牧
千葉一族。薩摩国の島津家家臣。千葉氏の末裔である千葉員胤(平六、武蔵守)を祖とする。員胤の孫・義胤(六郎)が牧を称したという。しかし、数代ののち牧家は断絶したため、一族の石塚親胤(太郎左衛門尉)の子・胤頼(九郎兵衛尉)が継ぎ、牧家を再興した。
永享年中、「大覚寺殿」が福島にて自害を遂げた際に、島津家に仕えたという。「大覚寺殿」とは、将軍・足利義満の子で、大覚寺門跡となっていた大覚寺大僧正義昭のことと思われるが、嘉吉元(1441)年3月13日、島津忠国の手によって討たれている。その後、島津家の家臣に加わったのだろう。江戸時代には、御犬手組に牧彦四郎があり、その嫡孫・源七が系譜を所持していた。
千葉介常胤―?―+―員胤―――――――則方―+―牧義胤―――胤与
(千葉介) |(武蔵守) |(民部少輔)(六郎)
| |
| +―則康
|
+―久胤―――――+―能胤―――石塚親胤―――+―久康
(左近太夫将監)|(武蔵守)(太郎左衛門尉)|(孫八)
| |
+―粟崎胤時――胤秀 +―牧胤頼――――盛里―――胤近
|(左衛門尉)(又次郎) (九郎兵衛尉)(大炊介)(大学頭)
|
+―石塚忠胤
|(次郎)
|
+―宗康 +―覚忍
|(三郎) |
| |
+―中原重胤―+―水手覚本
|
|
+―古郡康明
(子平次)
松崎
千葉一族。匝瑳常広の子・飯高政胤の孫・高政(高将)が匝瑳南条庄松崎郷(匝瑳市東小笹・西小笹)を領して松崎を称した。高政の子・胤信をはじめ、その4人の子供たち、泰氏・胤氏・政胤・胤村も松崎を称した。
-松崎氏略系図-
→匝瑳常広-飯高政胤-松崎高政-胤信-泰氏
(太郎)
松沢
国分一族。国分朝胤の子・光胤(弥五郎)が香取郡松沢庄を領して松沢を称し、香取郡長部村に長部城(旭市長部字八石)を築いた。幕末の嘉永2(1849)年、大原幽学が長部城址に庵をかまえて村政改革に努力し、農民を指導した。
-松沢氏略系図-
→国分胤通―常通―――――常朝―――松沢朝胤―+―光胤―――胤秀
(五郎) (二郎左衛門)(小次郎)(孫二郎) |(弥五郎)(又五郎)
|
+―胤盛
|(孫五郎)
|
+―泰朝
|(孫五郎)
|
+―胤門―――胤員
(六郎) (小五郎)
松本
東一族。本庄盛胤の子・胤基(九郎)は香取郡本庄村に隣接する香取郡松本村を領して松本を称した。
また、この流れから肥前国へ赴いた松本家があった。下向時期については定かではないが、系譜上松本長秀(越後守)は「飯篠長威ノ子養子兵法之達人」とあり(『肥陽諸系図』)、それ以降となろう。長秀の四世孫・松本胤利(右馬允)の孫・松本蔵人は慶長年中の人物とあるが、系譜はここで途切れており、これ以前には肥前と関わりを持ったと思われる。家紋は月星。
-松本氏略系図-
→海上胤方――本庄盛胤――松本胤基――秀胤――――胤清―――親胤
(七郎) (九郎) (九郎太郎)(孫九郎)
松山
椎名一族。椎名氏初代の胤光の三男・胤平(二郎)が匝瑳郡南条庄松山村(匝瑳市松山字城之内)に住んで松山を称した。
-松山氏略系図-
→千葉介常重-椎名胤光-松山胤平-胤澄―――胤村―――――胤継
(六郎) (二郎) (小次郎)(小次郎太郎)(又太郎)
麻里
上総一族。名字地は上総国望陀郡麻里谷村(木更津市真里谷)か。
上総権介広常のすぐ下の弟・相馬九郎常清の子・胤親(太郎)が上総国角田を領して「角田」を称したといわれるが、角田は下総国印旛郡角田村(印旛郡本埜村角田)かもしれない。胤親は千葉介胤正の娘を娶っており、千葉一族として遇されたのかもしれない。「胤」字は宗家から与えられたのだろう。
胤親には十人の子がいたとされ、その四男・満胤(四郎)が麻里谷を領して麻里を称したという(『千学集抜粋』)。彼の子が金剛授寺九世住持・法印円覚だとされるが、時代的には不自然であり、円覚の父は千葉介満胤なのかもしれない。
麻里谷
上総一族。名字地は上総国望陀郡麻里谷村(木更津市真里谷)か。
上総権介広常の弟・相馬九郎常清の子・角田胤親(太郎)の八男・時親(八郎)が真里谷を称したという(『千学集抜粋』)。
丸子
椎名一族か。文和2(1353)年12月13日、丸子胤宣が匝瑳郡南条庄の熊野神領内に勧進されていた宮本熊野社(匝瑳市宮本字宮屋敷)の別当寺光明院に大檀那として梵鐘を奉納した。この梵鐘には他にも「発願聖人上慶」「権別当財部秋泰」「禰宜財部秋守」「阿闍梨永詮」「別当正僧都永範」といった人々が書かれているが、丸子・財部氏は熊野社家にあり、熊野社家一族の丸子氏が神領の印旛郡南条庄に下り、地頭・椎名氏と縁戚関係を結んだか。
ほかに元亨元(1321)年の葛飾八幡宮(市川市八幡・市川市役所の側)の梵鐘に願主として丸子真吉(右衛門尉)の名が見える。丸子胤宣と丸子真吉のあいだにどのような関係があるかはわからないが、丸子胤宣は「胤」という字から見て椎名氏と何らかの関係がある人物と見ていいと思われる。
丸山
千葉一族か。「丸山」という地名は下総国葛飾郡丸山(船橋市丸山)があるが、ここが発祥地かは不明。
江戸時代、会津藩士となった丸山氏がある。丸山胤頼(勝左衛門)を祖とし、本国は下総国。家紋は九曜。ただし、丸山氏の「胤」は「かず」と読む。子孫に会津藩の名士・秋月胤永(悌次郎)がある。胤永は丸山胤道の二男として生まれ、秋月家を継いだ。
-丸山氏略系図-
→丸山胤頼―+―胤俊―――――胤永――――――胤生―――――胤次―――――胤包――――胤智
(勝左衛門)|(勝左衛門) (勝左衛門) (勝左衛門) (勝左衛門) (勝右衛門)(勝蔵)
|
+―頼賢―――――胤安――――――時胤――――+―胤枝
|(四郎右衛門)(伴助) (与五右衛門)|
| |
| +―胤長――――胤通
| (与五右衛門)(四郎右衛門)
|
+―胤勝―――――胤成――――+―胤重
|(五太夫) (村右衛門) |
| |
| +―胤里――――――胤常――――胤成
| (五太夫) (勝助) (主水)
|
+―重好―――――重則――――+―重何
(弥次右衛門)|
|
+―重治――――――重矩――――重体―――――重■――重光
(弥次右衛門) (新平) (市郎右衛門)(伝治)(新平)
【み】
三浦
千葉一族。戦国末期に千葉宗家の居城・佐倉城の城代となった家柄・成東千葉氏の一族。
千葉介勝胤の八男・成東胤定(八郎)の子・勝定(将胤)が小田原で戦死したのち、その子・房胤が徳川家の旗本として仕官するために活動してきたが、幕臣・青山忠俊たちの斡旋もむなしく、房胤の急病のために認められなかった。これに絶望した房胤は承応2(1653)年5月23日に自刃してしまう。成東氏は房胤の子・胤秀(孫七郎)が継ぎ、その子・胤次(又八郎)が三浦を称した。
-三浦氏略系図-
→千葉介勝胤―成東胤定――勝定―――――房胤―――胤秀―――三浦胤次
(兵部少輔)(兵庫=将胤)(権七郎)(孫七郎)(又八郎)
水谷
相馬一族。岡田氏の庶流で、惣領・岡田胤家が庶流の胤利(遠江)を小高郷水谷村(相馬郡小高町水谷)においたことによって水谷を称した。水谷は本来「みずがい」と読んだが、のち「みずのや」と改める。
岡田胤家(当時は相馬を称す)は行方郡小高郷内に所領を持たず、相馬惣領家も水谷を含む「吉名村」を知行したのは延文3(1358)年11月20日ごろであるため、これ以前に岡田氏の一族がすでに水谷村にあって、相馬岡田氏が相馬惣領家の支配下に入った15世紀はじめごろ、相馬惣領家から胤利へと水谷村が与えられたのかもしれない。水谷氏の子孫は中村藩家老であったが、江戸中期に後継ぎがなく断絶。家禄四百石も没収されるが、羽根田重清(瀬兵衛)の三男・為清(弥藤次)が百石で水谷家の遺跡を継承した。
水谷村にある鎮守・牛頭天王は南北朝期の合戦によって荒れ果てていたが、胤利の孫・胤保(常陸)が永正元(1504)年3月25日、増福寺を建立した。永正12(1515)年2月27日には仏宇修復供養が執り行われた。そして天文15(1546)年、胤保の子・胤貞(伊予)が観音堂を建立。10月17日には入仏供養が執り行われ、牛頭天王社の別当寺を増福寺とし、牛頭天王を護寺神とした。
水谷胤貞(伊予)は天文年中、盛胤の命によって青田常治(左衛門)とともに亘理城を守っている。しかし、亘理城の武石家の旧臣が青田常治と諍いを起こし、常治を暗殺して伊達家へ仕えようとようと謀ったが、小沢三郎・大平主膳の二名がこれに反発して城を出る。同時に常治・胤清も脱出して相馬へ逃れた。
その子孫・胤氏(右兵衛佐)が討死したため、弟・胤満(伊予守)が甥の胤重(式部)を守り立て、胤満は相馬家家老職となる。成長ののち、胤重も家老職に就任。胤満の薫陶を受け、相馬家きっての智謀の将となる。天正19(1591)年5月22日、義胤の伴衆として名が見える。文禄2(1593)年の知行高は三十九貫百六十文。
慶長5(1600)年6月、徳川家康は上坂を拒んだ上杉景勝を「謀叛人」として討つべく、諸大名を率いて大坂を出立した。このとき、伊達政宗も6月14日、豊臣秀頼が大坂城西丸に入ったことを聞くと大坂を経ち、15日には伏見で妻・愛姫らと会って戦いとなった際に伏見は戦場となるであろうからと、脱出の打ち合わせを行い、16日に京都から陸奥をめざして出立した。従うものわずかに50騎。中山道から碓氷峠を経て高崎に入り、そこから江戸に出て宿敵である佐竹氏領を疾駆して通過、7月11日に相馬領の手前まできた。
ここから標葉郡・行方郡・宇多郡の三郡は相馬領であり、伊達家を宿敵と見る者たちが待ち受ける中を通過することになる。ここで政宗は一計を案じ、重臣の原田宗資(甲斐)を呼んで、相馬義胤のもとに書状を遣わして、領内通過と宿所の提供を求めた。五十騎というわずかな家臣のみで、敵中に宿所を求めるという大胆不敵な行動を取ることによって、何かあると思い込ませる策であった。義胤もこの策にかかり、政宗の求めに応じて領内の古刹・花光院を宿舎として宛てるが、この絶好の好機に宿敵・政宗を討たねばあとで後悔すると重臣たちが騒いだために、義胤も政宗の暗殺を考えた。
しかし胤重は、いま政宗を討てば武士の心に反すばかりでなく道理も立たない、として政宗の暗殺に反対したため、義胤も考え直し、胤重自ら原田宗資と会見して領内の無事と、政宗への引見を求めた。こうして何事もなく翌日、政宗は相馬三郡を通過して岩出山城へと帰還した。
相馬家は関ヶ原の戦いでは中立を守っているが、どちらにもつかない態度は敵対とおなじ事になると、慶長6(1601)年正月20日、胤重の進言で上杉領・月夜畑を攻めたという。戦後、相馬三郡を没収され、ふたたび所領を戻された際、政宗を無事に通した件と月夜畑城を攻め落とした件が評価されており、胤重は相馬家を救った人物でもある。慶長9(1604)年から1年間行われた江戸城廻普請には、普請奉行の筆頭として江戸へ赴いている。
増福寺観音堂の建立から56年を経た慶長6(1601)年3月11日、堂宇が朽ちたため、同寺大檀那である胤重・将之父子がこの修理を行い、以降56年毎の遷宮となる。将之は慶長年中に中村城下へ移った。
慶長6年から56年を経た明暦2(1656)年、将之の子・通宣(長次郎・権兵衛)が堂宇の茅葺屋根の修理を行い、通宣の嫡子・堯宣(半左衛門)は五代藩主・相馬昌胤(彈正少弼)に仕えて御徒士頭となる。そして元禄6(1693)年6月25日、家老職に抜擢され、百石を加増されて都合四百石を知行する。さらに7月29日には、隠居した侍大将・谷宗盈(六左衛門)の谷組支配を命じられ、侍大将に就任した。9月16日、堯宣は御前に召され、水谷の「ミズカイ」との読みは「唱悪(水害と同韻か)」のため、「みづのや」と改めるよう命じられた。これ以降、水谷氏は「みずのや」と称する。
元禄8(1695)年5月6日、坪田村(相馬市坪田)の八幡宮遷宮式が執り行われ、御一家・重臣が石灯籠を寄進しているが、「老臣 水谷半左衛門堯宣」の石塔がある。元禄10(1697)年閏2月、堯宣は惣家中中屋敷支配を命じられた。正徳4(1714)年5月3日、堯宣は亡くなった。
その子・唯重(権之助)は23歳の若さで急死し、弟・直重(右兵衛)が跡を継いだが、直重も子のないまま早世してしまい、ついに水谷家嫡流は断絶。家禄も没収となった。
古くからの相馬一族である水谷家が断絶したことを憂いた藩主・相馬昌胤は、直重の叔父・羽根田重清(瀬兵衛)の三男・為清(弥藤次)を水谷家の継嗣として復興させ、百石を給させた。子孫は水谷長左衛門家として幕末に至る。
◎天正19(1591)年5月22日 相馬長門守義胤供衆
水谷式部胤重 | 中村助右衛門隆政 | 原三郎右衛門胤政 | 杉九郎右衛門胤正 | 中村内蔵丞隆清 |
大井孫助胤綱 | 木幡助左衛門清親 | 桜井四郎兵衛高久 | 小浦杢左衛門胤清 |
◎慶長6(1604)年江戸 御城廻御普請の奉行衆
水谷式部 | 岡田又左衛門 | 西内善右衛門 | 福岡弥左衛門 |
永禄13(1570)年年9月27日の「相三(相馬胤乗)」の同心衆に水谷胤信(助七郎)の名が見える。
◎永禄13(1570)年9月27日 相馬胤乗(相三守謙斎)同心衆
藤崎与一郎胤清 | 水谷助七郎胤信 | 大内助七郎 | 木幡太郎右衛門清貞 | 文間惣太郎 |
佐々木十郎右衛門綱利 | 嶋 金平 | 音宗房長雄 |
下総国の水谷(みずたに)氏は結城家の一族で千葉氏とは関係ない。結城水谷氏は結城氏の重臣として活躍。戦国時代末期の結城政勝の娘婿になった水谷政村(水谷蟠龍斎)が有名。
-相馬水谷氏略系図-
→相馬胤村―泉胤顕――岡田胤盛――…―水谷胤利――越中守―胤保――胤貞――+
(彦五郎)(小次郎) (遠江) (常陸)(伊予) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤氏――――胤重―――将之――――通宣――+―堯宣―――+―唯重
|(右兵衛佐)(式部丞)(長左衛門)(権之助)|(半左衛門)|(権之助)
| | |
+―胤満 +―娘 +―直重
|(伊予) ∥ (市郎左衛門)
| ∥
+―村重 ∥――――――水谷為清
(尾張) ∥ (右兵衛)
羽根田重治
(瀬兵衛)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
水谷長左衛門 | 大身 | 100石 | 堀川町 |
水谷伝兵衛 | 小身 | 10石 | 鷹巣部屋町 |
水谷源之丞 | 小身 | 10石 | 清水町 |
水谷寅蔵 | 小身 | 扶持方 | 下川原町 |
水谷伊右衛門 | 小身 | 扶持方 | 清水町 |
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
水谷又右衛門 | 給人 | 12石 | 宇多郡富沢村 |
水谷久左衛門 | 給人 | 12石 | 宇多郡北郷小池村 |
水谷四郎右衛門 | 給人 | 10石 | 北標葉郡幾世橋村 |
水掛
大須賀一族。大須賀氏の一族・田部多時綱(四郎)の子・時義(助九郎)が大須賀保水掛(千葉県成田市水掛)を領して水掛を称した。ただし、時義の名が出てくるのは『大須賀系図』のみで、『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には出てこない。『大須賀系図』では「顕朝」という人物の次の代には「胤秀(次郎左衛門尉・号田部多)」とあり、また「田部多胤秀」という人物は大須賀胤信の弟に見ることができる(『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』)。
「田部多胤秀」の子に「時綱(四郎左衛門尉)」があり、時綱の子には「胤時(掃部)」がいること、それから大須賀師氏の4代目・顕朝までの存在は『大須賀系図』『千葉大系図』両方に共通していて系図上で確認することができる。ただし、その「顕朝」のあとの系図はなく、ここで断絶したか、顕朝の子に「胤秀」という人物がいて、それが5世代も前の「田部多胤秀」と交錯してしまったのかもしれない。『千葉大系図』などの本には、時綱の子には、胤時(掃部左衛門尉)・胤連(四郎左衛門尉)・頼秀(孫四郎)・貞泰(五郎・遠康とも)と見ることができる。
―水掛略系図―(『大須賀系図』)
→千葉介常胤-大須賀胤信-通信――――師氏――頼氏―――朝泰―――――顕朝――――胤秀――――――時綱――水掛時義
(四郎) (左衛門尉)(三郎)(孫太郎)(左衛門次郎)(次郎太郎)(次郎左衛門尉)(四郎)(助九郎)
三田
相馬一族。相馬胤実の子・胤興(弾正、常陸介)が武蔵国荏原郡三田村に住んで三田を称したと伝わる。家紋は「巴」「繋ぎ駒」「九曜」。
永正6(1509)年7月16日、連歌師の柴屋軒宗長が遠江国から白河の関へ向けて庵を出立した。19日、駿河国の国府を出立してからは、沼津、浮島が原、箱根路を経て相模国小田原へ到着。ここから藤沢を経て、8月11日、武蔵国勝沼に入った。ここの領主は「三田弾正忠氏宗」で、彼は宗長を手厚くもてなした。白河の関への道々の事なども話題となり、宗長は15日まで逗留し、連歌の会がたびたび行われたという。
宗長は勝沼の感想を「此山家、うしろは甲斐国の山、北はちゝふといふ山につゝきて、まことの深山とはこゝをや申へからん、此山ふかきこゝろなるへし」と日記に認めている。さらに宗長は勝沼の山寺(杉本坊)に参詣して歌を詠んでいる。
8月15日、氏宗と「息政定」は宗長とともに馬に乗って武蔵野の萩薄の中を歩んでいた。そして長尾孫太郎顕方の館である鉢形まで送り届けると、政定は馬上にて、
と詠じた。三田氏は和歌の嗜みもある武士であったことがうかがえる(『東路の津登』)。
相馬胤光の子孫で旗本となった家もある。三田綱勝は北条氏照に属して下総国小山城を守る。天正5(1577)年、越後において上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)が家督争いを演じたため(御館の乱)、景虎の援兵として越後へ馳せ向かい、3月17日に春日山において戦死した。その子・守綱は北条氏の滅亡ののち、徳川家康に召し出され、以降旗本として続く。
-三田氏略系図-
→相馬胤実―三田胤興―――胤勝――胤定(=氏宗?)――政定
(弾正常陸介)(弾正)(弾正) (弾正)
-旗本三田氏略系図-
→相馬胤光――三田常光―…―美濃守-三河守-綱勝―――――――――守綱―――守長―――守良――――+―守春――+
(孫次郎) (小太郎) (駿河守・仕北条氏照)(左兵衛)(左兵衛)(次郎右衛門)|(甚三郎)|
| |
+―守常 |
(左兵衛)|
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+=守常===守行===========守勝
(左兵衛)(孫三郎・三田守久の三男)(宇右衛門・三田守治の五男)
三谷
千葉一族。千葉介胤正の四男・胤広が上総国埴生郡三谷村を領して三谷を名乗った。この「三谷」は「さんがや」と読むため、「三谷氏」に詳細記載。
皆吉
相馬一族。本貫地は上総国真野郡皆吉郷(市原市皆吉)。本姓は惟宗氏(紀氏に養子に入ったのち惟宗に復姓する)。朝廷で代々陰陽師を務めていた惟宗氏の一流が、摂家将軍の鎌倉下向に従った事を始まりとする。
嘉禄2(1226)年正月26日、左大臣藤原道家の子・三寅(当時九歳)は「頼経」の名乗りを与えられ、翌27日、叙位が行われて頼経に正五位下の位が与えられ、征夷大将軍の宣旨が下された。これによりしばらく空白だった征夷大将軍がふたたび誕生し、鎌倉へ下向となった。このときに従った陰陽師の一人が紀文元(縫殿頭)である。
8月7日、鎌倉において天変地震の祈祷が行われ、「歳星」を担当したのが「文元」とあり(『吾妻鏡』)、これが紀文元の初出である。その後も陰陽師として将軍頼経の厚い信任を得てたびたび活躍、仁治2(1241)年7月26日、頼経の「御息災」のための祈祷として属星祭を執り行い、功として「上総国皆吉郷知行」を願い出ている(『吾妻鏡』)。この知行が認められたかは記述がないが、文元の子「皆吉大炊助文幸」や孫の「皆吉大膳亮文賢」が「皆吉」を名乗っていることから、おそらく認められたと思われる。
文元は北条経時や北条時頼の陰陽道を以って奉公すべきことと命じられていたため、武士ではなく陰陽師として幕府に仕えたが、その長男・紀文親(大蔵権少輔)は従四位下に叙任し陰陽師として活動する傍らで武士としても幕府に仕え、さらに弟・紀文幸(大炊助)に至っては陰陽師ではなく専ら武士として奉公した。
建長2(1250)年4月2日、「諸人訴論」については「引付」で行うことと定められ、「三方引付」へ触れられ、9月10日には、「諸人訴論成敗」は式条を守って行われるべきことが触れられた。そして翌建長3(1251)年6月5日、これまでの三方引付から五方へ、さらに結番せられて六方へ改組されている。このうち四番引付奉行人の一人に「皆吉大炊助文幸」がおり、彼はその後も引付奉行人として活躍する。もともと惟宗氏は明法道を以て朝廷に仕える家柄であり、こうした背景もあって文幸が引付奉行人に抜擢された可能性がある。
正嘉2(1258)年正月1日の椀飯(北条時頼入道による差配)では、各御家人らが幕府外庭の東西に着座したが、「皆吉大炊助」が東座に着している。さらに文応2(1261)年正月1日の椀飯(北条時頼入道による差配)でも「皆吉大炊助」が東座に着している。
3月5日、引付が機能していないという訴えが幕閣の耳に入ったことで評定が開かれ、引付奉行人の懈怠に就いては引付頭人がきちんと把握して注進すべきことと、懈怠は重科に処す旨が触れられた。引付奉行人たる皆吉文幸にも伝えられたと思われる。
建治3(1277)年8月29日、「富来十郎光行、山名弥太郎行佐、藤田左衛門四郎行盛、清式部四郎職定、皆吉四郎文盛」の五人が問注所公人の不足のため、引付奉行人から問注所に寄人として加えられている(『建治三年記』)。この皆吉文盛の系譜は不明ながら、引付奉行人の系統ということであれば、文幸の子と見ることが妥当か。
永仁3(1295)年閏2月12日、引付奉行人の改組が行われ、一番奉行人として「皆由(ママ)図書助(皆吉文副)」が任じられ、同族の「皆吉彦四郎」は侍所に召し加えられた(『永仁三年記』)。
文保2(1318)年4月28日、佐野弥太郎増綱が所領の佐野庄内の土地を巡る相論につき、引付奉行人として裁決をした「文賢」がいるが(『鎌倉遺文』)、これは紀文親の子・皆吉文賢(大膳亮)か。文賢は「関東奉公有子孫帰本姓為惟宗」とある(『尊卑分脈』)。
『吾妻鏡』における皆吉氏の記述は文幸で終わるが、兄の文親の子・文賢が「号皆良(ママ)大膳亮」とあることから(『尊卑分脈』)、皆吉郷は文親と文幸の二人に分与されたものと思われる。
この皆吉氏の子孫は鎌倉幕府滅亡後も関東に残って鎌倉府に仕え、延文3(1358)年4月25日発給の鶴岡八幡宮寺の浜大鳥居上棟に関する注文に「奉行人」として「皆吉掃部助文康」が見える。時代から見て皆吉文賢(大膳亮)の子か。
室町時代後期には古河公方足利家に仕え、皆吉修理亮は足利義氏から「皆吉郷四ヶ村 三百貫文」を給せられている。その後、古河公方家臣・相馬胤晴(権右衛門)の二男・胤明が母方の皆吉家に養子に入って家名を相続。医師となって水戸藩領の久慈郡大子村に移住し「皆吉幽軒」と号する。
以降、代々大子村の郷医として続くが、喜連川藩主・喜連川家(旧古河公方家)が重病となると、当代の名医として診察を依頼され、御所に詰めている。また、一族の喜連川藩士・相馬家と交流を持ち続けるなど、喜連川と深い関わりを持ち続けた。
江戸時代後期には、分家と思われる皆吉立碩の名が喜連川宿馬場町にあり、幕末の当主・皆吉忠次郎胤景の養父・皆吉立碩と同一人物と思われる。また、大子村の本家も水戸藩と深い関わりを持ち、皆吉胤忠(皆吉立碩)は藤田幽谷と交流を持つ。さらに孫の皆吉胤俊(皆吉友軒)は水戸藩が大子村に建設した郷学校設立に携わった。
安政3(1856)年6月21日、喜連川藩士・相馬正胤(小次郎)の「養方之姪皆吉立碩次女」が亡くなったため、同席の浅沼友右衛門を以て忌引の口上書を提出している(『相馬家文書』)。この「皆吉立碩」は正胤の義弟(妻は相馬玄蕃與胤娘)にあたる「皆吉立碩(胤誠)」と思われ、皆吉家は相馬家と代々縁組を行って親密な関係にあった。
文久2(1862)年5月、藩侯・左兵衛督喜連川宜氏が病死したため、その死を隠しつつ急遽養嗣子のあてを探した。こうした中、喜連川義親以来親交のあった水戸藩に白羽の矢が立ち、水戸藩老公徳川斉昭の子・松平昭縄が養嗣子に決定し、喜連川へと迎えられた。「相馬小次郎」は御目付として御迎えに列している(『相馬家文書』)。しかし、この新藩侯・喜連川縄氏(松平昭縄改め)は、まだ十九歳と年若く政治に未熟であった上、生来病弱であったことから、逸見丹波、二階堂主殿助、渋川大隅ら家中重臣の専横を招くこととなった。重臣たちの専横は宜氏の代からすでに始まっていたと思われ、縄氏が喜連川へ国入りした直後、縄氏へ祝いを言上すると同時に重臣衆を痛烈に批判した上申書を提出した「皆吉立碩」は「不忠」として、永牢および妻子離散の処分を受けた(『相馬家文書』)。皆吉家の本家は水戸藩領太子村の郷医であり、水戸藩とも深く関わる医師であった。
こうした逸見、二階堂らの上級重臣層の専横に対して、同年10月、渋江与市右衛門、浅沼友右衛門、大草仲、相馬小次郎ら計六名の重臣は二階堂安芸らを糾弾して「永御暇」を仰せ付けられた(『相馬家文書』)。糾弾文書を提出した六名はいずれも古河系の重臣であることから、小弓系の二階堂氏、逸見氏とは代々溶け合わない感情的なしこりもあったと思われる。皆吉立碩はもともと小弓系の藩士(医師)であるが、古河系の相馬家との重縁関係から、実質的に相馬家と行動を共にするようになったと思われる。なお、逸見丹波や二階堂父子の専横は家中からも非難が強く、正胤ら六名は翌文久3(1863)年には帰参が認められた。立碩も程なく許されたと思われる。
安政6(1859)年10月28日、中野常信の紹介で平田篤胤没後門人となった人物に、「塩谷郡喜連川郭内総社天王宮大宮司 高塩周防守清風」と並んで「同郡赤倉岬喜連川家 皆吉立碩誠胤」の名が見える(『平田先生門人姓名録』「信濃史料叢書」)。彼は皆吉胤俊(皆吉友軒)の弟で喜連川藩重臣の相馬玄蕃允與胤の娘と結婚した皆吉胤誠と同一人物か。
-皆吉氏略系図-
〔遣唐使〕 〔仕鳥羽院〕〔後鳥羽院上北面〕
→紀長谷雄――紀淑光――紀文実――紀重親――――紀知貞――紀親任――紀親房―――紀親光――紀文貞―――紀文光―――――+
(中納言) (右大弁)(但馬守)(大膳権大夫)(右馬助)(修理亮)(中務少輔) (左京権亮) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
|〔後鳥羽院北面〕
+―紀文長
|(内蔵権頭)
|
+―紀文平
|(玄蕃頭)
| 〔本姓惟宗〕 〔関東奉公有子孫〕
+―紀文盛===紀文元―――+―紀文親――――皆吉文賢―――?――皆吉文康―…―皆吉伯耆守―…―皆吉修理亮――――――+
(内蔵権頭)(縫殿頭) |(大蔵権少輔)(大膳亮) (掃部助) |
| →帰本姓為惟宗 |
+―皆吉文幸 |
(大炊助) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 【喜連川相馬家】
| 相馬胤晴 +―相馬胤道―――相馬胤将―――相馬胤知 +―娘 +―相馬音胤
| (権右衛門)|(玄蕃) (靱負) (権右衛門) | |(隼人)
| ∥ | ∥ | |
| ∥ | ∥―――――相馬盈胤―+?―相馬與胤―+=相馬正胤
| ∥ | ∥ (玄蕃) (玄蕃允) |(小次郎)
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥ +―妹
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ |【久慈郡大子村】 ∥ 【喜連川皆吉家】
| ∥――――+―皆吉胤明―+―娘 +―妹 +―皆吉胤誠
| ∥ (幽軒) | ∥ | |
+―?―娘 | ∥ | |
+=皆吉勝富―+―皆吉胤長――皆吉胤忠――――皆吉胤謙―+―皆吉胤俊
(立碩) (立膽) (立碩) (立膽) (友軒)
[Specialthanks:皆吉様]
[参考文献]『鎌倉期官人陰陽師の研究』赤澤晴彦著(吉川弘文館)
『尊卑分脈』『鎌倉遺文』『平田先生門人姓名録』『相馬家文書』
峯
千葉一族。千葉介成胤の四男(実は千葉介胤正子)・千葉四郎胤広の長男・胤義(四郎太郎)の子孫とされ、胤義の四代の孫・千葉吉成(式部大輔)が肥前国小城郡峯村(小城市小城町栗原峰)に下向し、「在名」を以て峯と号したという。おそらく建武年中の千葉胤貞(大隅守)の肥前下向に随ったものだろう。子孫は佐賀藩に仕えたと思われる(『肥陽諸系図』)。
宮内
東一族か。東氏の海上一族と伝わる。中島海上氏居城の中島城下の高田村の廻船商人・宮内清右衛門尉が永禄2(1559)年12月16日、千葉介胤富から「分国之中町役」を許され、翌年12月10日には、海上胤秀から「房州上総下総三カ国村於味方中商売不可有相違」の特権を与えられている。そして廻船は房総三カ国の太平洋岸を渡っていたものと思われる。そのことをしめすものとして、椿海沿岸の鏑木城などから、中国青磁や陶器、中国銭などが発掘されている。(→中世の香取海の略地図)
三与川
椎名一族。松山胤平(二郎)の曾孫・彦次郎が匝瑳郡南条庄三与川村(山武郡横芝光町宮川)に住んで三与川を称した。
-三与川氏略系図-
→椎名胤光-松山胤平-胤澄―――胤重―――三与川彦次郎
(六郎) (二郎) (小次郎)(又二郎)