代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■三代惣領家
(????-????)
<正室> | 相馬尼(天野和泉前司政景女) |
<通称> | 次郎 |
<父> | 相馬五郎兵衛尉義胤 |
<母> | ―――――― |
<官位> | 六位(嘉禎2年8月4日の供奉で「五位六位」の後方に列する) |
<官職> | 左衛門尉 |
<法号> | ―――――― |
~相馬胤綱1代とその3人の娘について~
●相馬胤綱事歴●
父は相馬五郎義胤(能胤)。母は不明。通称は小次郎(「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」『島津家文書』)。官位は六位。官職は左衛門尉。千葉介常胤の曾孫である。
承久3(1221)年5月の「承久の乱」によって、上皇方に加担した淡路国御家人「刑部丞経実」から没収された「八幡宮御領」の「炬口庄(淡路国炬口庄)」が「相馬小次郎」に与えられたが(「淡路国大田文」『柏市史』)、貞応2(1223)年4月までの間に「地頭領家御沙汰」と、領家の石清水八幡宮が炬口庄地頭職の任命権を持ったため、「依領家訴」って相馬小次郎は地頭職を解任させられたと思われる。この「相馬小次郎」は胤綱と推測される。ただし、安貞2(1228)年7月23日、将軍頼経が三浦駿河前司義村の田村山庄に渡御した際には、父の「相馬五郎(義胤)」がいまだ供奉の列に参じていることから(『吾妻鏡』安貞二年七月廿三日条)、義胤はいまだ相馬家の当主であったと思われる。
その後、嘉禎2(1236)年8月4日の将軍・頼経の若宮御所移住に際する供奉にみられる「相馬左衛門尉」が『吾妻鏡』にみえる胤綱の初見である(『吾妻鏡』嘉禎二年八月四日条)。「御後五位六位」の後ろから三列目にあることから、六位の左衛門尉であったのだろう。その後ろには「直垂」衆として父の従弟・大須賀次郎左衛門尉胤秀が列する。
・千葉介常胤―+―千葉介胤正―――千葉介成胤――――――――――千葉介胤綱
|
+―相馬次郎師常――相馬五郎義胤―――――――――相馬左衛門尉胤綱
|
+―大須賀四郎胤信―大須賀次郎左衛門尉胤秀
そして8月9日、御行始の儀として、武蔵守北条時房の邸に移った際の随兵十二人の一人に数えられている(『吾妻鏡』嘉禎二年八月九日条)。
◎嘉禎二年八月九日随兵十二人
・北条弥四郎 (北条経時) |
・上野七郎左衛門尉 (結城朝広) |
・足利五郎 (足利長氏) |
・河越掃部助 (河越泰重) |
・近江三郎左衛門尉 (佐々木頼重) |
・葛西壱岐左衛門尉 (葛西時清) |
・河津八郎左衛門尉 (高津尚景) |
・宇佐美藤内左衛門尉 (宇佐美祐泰) |
・梶原右衛門尉 (梶原景俊) |
・相馬左衛門尉 (相馬胤綱) |
・三浦駿河次郎 (三浦泰村) |
・武田六郎 (武田信長) |
暦仁元(1238)年2月17日、頼経の上洛に供奉し、随兵として九十二騎の四十四番に「千葉八郎」「相馬左衛門尉」「大須賀左衛門次郎」の名が見える。ちなみに、四十七番に列する「小野澤左近大夫」という人物、さらに寛元2(1244)年8月15日の鶴ヶ岡八幡宮放生会の供奉侍「小野澤次郎時仲」は、相馬一族の泉五郎胤顕(相馬左衛門尉胤村の子)の弘安8(1285)年正月8日の譲状に見える「小野澤入道殿」とも関わりがあるのかもしれない。
◎暦仁元年2月17日の随兵部分
・千葉介常胤―+―千葉介胤正―――千葉八郎胤時
|
+―相馬次郎師常――相馬五郎義胤―相馬左衛門尉胤綱
|
+―大須賀四郎胤信―+―大須賀太郎左衛門尉通信―大須賀左衛門尉次郎胤氏
| |
| +―大須賀八郎範胤
| ∥
| 三浦行泰―娘
|
+―東六郎大夫胤頼―木内下総前司胤朝―下総十郎胤定
同年6月5日、将軍・頼経の春日大社参詣(春日大社は藤原氏の氏神。将軍・頼経は九条藤原氏の出)に「相馬次郎左衛門尉胤綱」が随兵として従っている(『吾妻鏡』暦仁元年六月五日条)。
仁治元(1240)年8月2日、頼経の伊豆二所(箱根権現・伊豆山神社)参詣に、後陣随兵十二騎の一騎として従った。その後、胤綱はしばらく見られなくなるが、代わりに嫡子「相馬次郎兵衛尉(胤継)」と当腹嫡子たる「相馬左衛門五郎(胤村)」が幕府の行事に参じるようになる。
寛元元(1243)年7月17日、度重なる将軍・藤原頼経の急な外出に対して困惑していた幕府は、将軍の急な外出に対応する供奉人を、上旬・中旬・下旬でそれぞれ分担することに決めたが、下旬の担当の一人に五男の「相馬左衛門五郎(胤村)」が命じられている。
また、翌寛元2(1244)年6月13日には、将軍・頼嗣の元服式後の御行始として秋田城介景盛の邸への渡御の供奉として「相馬次郎兵衛尉(胤継)」の名が見られ、同年8月15日の放生会供奉に「相馬五郎左衛門尉胤村」が見られることから、この頃すでに当腹嫡子であった胤村が相馬家の後継者と定められていたと推測される。
そして、建長4(1252)年8月1日、宗尊親王の「征夷大将軍」任命に対する鶴岡八幡宮拝賀の拝賀供奉人交名に「相馬次郎左衛門尉」が見えるが、こののち胤綱の名は『吾妻鏡』から見られなくなることから、引退したとみられる。
その後、三女への所領譲渡が康元元(1256)年に行われていることから、胤綱はこの頃まで生存していたことがわかるが、その後あまり時を置かずして急死したとみられる。このとき譲状を残さなかったことから遺領配分が明確化せず、混乱したとみられる。その混乱が端的にみられるのが、二年後の正嘉2(1258)年3月1日の『吾妻鏡』の記述で、「相馬左衛門尉跡」が「天野左衛門尉(天野三郎左衛門尉景氏か)」とされていることから、正嘉2年時点で「相馬左衛門尉跡(胤綱遺領)」は、相馬尼の実家・天野家が介入していたことが確認できる(『吾妻鏡』正嘉二年三月一日条)。また、胤綱後妻の「相馬尼」が継子の相馬次郎兵衛尉胤継を「義絶(勘当)」しており(「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」『島津家文書』)、これも胤綱遺領をめぐる相続問題が原因であろうと推測される。
●相馬胤綱所領(推測)
国 | 村郷 | 伝由緒 | |
下総国相馬御厨 | 薩間村(鎌ケ谷市佐津間) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 胤村→胤顕 |
|
増尾村(柏市増尾) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 胤村→胤顕 |
||
粟野村(鎌ケ谷市粟野) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 胤村→胤顕 |
||
泉村 | 上柳戸(柏市柳戸) | 胤村→胤顕 | |
金山(柏市金山) | 胤村→胤顕 | ||
船戸(柏市泉周辺) | 胤村→胤顕 | ||
符河村(北相馬郡利根町府川) | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 | ||
文間郷 | 押手村 | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津時久 |
|
黒崎郷 | 上黒崎村 | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 | |
下黒崎村 | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 | ||
発戸村(我孫子市岡発戸) | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 | ||
甲斐御房村(?) | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 | ||
稲村(取手市稲) | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→島津貞久 胤村→有胤 |
||
鷲谷村(柏市鷲野谷) | ?→相馬左衛門尉 | ||
津々戸村(つくばみらい市筒戸) | ?→相馬■■六郎 | ||
藤谷村(柏市藤ヶ谷) | ?→相馬六郎 ?→相馬九郎等 |
||
大鹿村(取手市白山) | ? | ||
高井村(つくばみらい市上高井) | ? | ||
高柳村(柏市高柳) | ? | ||
安孫子村(我孫子市我孫子) | 尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→あくり御前 | ||
戸頭村(取手市戸頭) | 親鑑室(胤綱次女)→親秀(親鑑弟)→足利尊氏→香取社 | ||
横須賀村(北相馬郡利根町横須賀) | 足助尼(胤綱長女)→城介泰盛→北条貞時→足利尊氏…足利氏満→別願寺 | ||
陸奥国行方郡 | 小高村(南相馬市小高区小高) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 | |
岡田村(南相馬市小高区岡田) | 胤村→胤顕 | ||
院内村(南相馬市小高区内?) | 胤村→胤顕 | ||
大三賀村(南相馬市原町区大甕) | 胤村→胤顕 | ||
飯土江狩倉(相馬郡飯舘村飯樋) | 胤村→胤顕 | ||
矢河原狩倉(南相馬市原町区矢川原) | 胤村→胤顕 | ||
八兎村(南相馬市原町区下浦戸谷崎?) | 胤村→胤顕→胤盛 | ||
大内村(南相馬市鹿島区大内) | 胤村→胤顕→胤実 | ||
上鶴谷村(南相馬市原町区鶴谷) | 胤村→胤顕 | ||
盤崎村(南相馬市小高区飯崎) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 | ||
耳谷村(南相馬市小高区耳谷) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 | ||
村上浜(南相馬市小高区村上) | 胤村→師胤→尼阿蓮→重胤→親胤 | ||
高村(南相馬市原町区高) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
高平村(南相馬市原町区上高平) | 胤村→有胤 | ||
大悲山村(南相馬市小高区泉沢大久) | 胤村→通胤→行胤 | ||
大田村(南相馬市原町区下太田) | 胤村→胤氏→師胤→長崎思元(三分一) | ||
吉名村(南相馬市小高区吉名) | 胤村→胤氏→師胤 | ||
小嶋田村(南相馬市鹿島区小島田) | 胤村→通胤→行胤 | ||
目々澤村(南相馬市原町区米々沢) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
堤谷村(南相馬市原町区堤沢) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
小山田村(南相馬市鹿島区小山田) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
鳩原村(南相馬市小高区南鳩原) | 胤村→胤門→重胤→親胤 胤村→胤村長女 |
||
内山総三村(?) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
那良夫山(?) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
牛越村(南相馬市原町区牛越) | 胤村→胤門→重胤→親胤 胤村→胤村次女 |
||
千倉庄 (真野郷) |
仁木田村(鹿島区南右田?) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | |
安倉村(鹿島区山下安倉) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
北草野村(相馬郡飯舘村草野) | |||
太倉村(?) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
鷹倉村(南相馬市原町区高倉) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
横手村(南相馬市鹿島区横手) | |||
駒泉村 付大関 | |||
南草野村内堰沢(相馬郡飯舘村関沢) | 胤村→胤門→重胤→親胤 | ||
陸奥国高城保 | 波多谷村 | 胤村→胤顕 | |
長田村 | 胤村→胤顕 胤村→通胤→行胤 胤村→有胤 |
||
根崎村 | 胤村→胤村長女 | ||
陸奥国宮城郡 | 赤沼村(宮城郡利府町赤沼) | 胤村→胤氏→師胤 胤村→胤顕 |
◎相馬氏・三浦氏周辺系図
某氏
∥
∥―――――――相馬胤継
∥ (次郎兵衛尉)
相馬師常―――相馬義胤――――相馬胤綱
(二郎) (五郎) (次郎左衛門尉)
∥
∥―――――――相馬胤村
∥ (左衛門尉五郎)
天野遠景―――天野政景 +―相馬尼
(天野藤内) (和泉前司) |
∥――――+―天野景氏
三浦介義澄―+―娘 |(三郎左衛門尉)
(三浦介) | |
| +―娘
| (北条越後守実時母)
|
+―三浦義村―――三浦泰村
(駿河守) (駿河守)
◎正嘉2年3月1日条(先陣十二騎部分)
●貞応2(1223)年4月某日『淡路国大田文』(『皆川文書』:柏市史所収)
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●相馬胤綱の娘たちについて●
胤綱には3人の娘があったことが『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』に記されている。
●『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』(島津家文書)
相馬小次郎左衛門尉 次郎兵衛尉
法名法蓮 民部大夫
法名蓮胤 民部次郎
胤綱――――――――+―胤継―――――+―泰胤―――――――――親胤
∥ | 相馬尼令義絶畢|
∥ | | 弥次郎左衛門尉 六郎兵衛尉
∥ | +―頼泰――――――+――泰綱
∥ | | |
∥ | | |(追筆)九郎
∥ | | +――胤義
∥ | |
∥ | | 四郎左衛門尉 七郎左衛門尉
∥ | +―胤盛―――――――――胤直
∥ |
∥ | 孫五郎左衛門尉 次郎左衛門尉 七郎左衛門尉
∥―――――――――+―胤村―――――+―胤氏―――――――――師胤
∥ | |
後家 | | 六郎左衛門尉
相馬尼 | +―胤重
天野和泉前司政景|
女子 | 六郎左衛門尉 弥六左衛門尉 五郎
+―胤景―――――+―胤貞―――――――――親常 今訴人
| |
| | 七郎
| +―胤平
|
| 七郎 童名若王 (追筆罫線墨)四郎左衛門尉 民部大夫
+―行胤―――――――胤盛―――――――――胤直
|
| 九郎左衛門尉 孫次郎
+―忠胤―――――――胤藤―――――――――竹鶴丸
|
| 足助尼
+―一女子被跡為闕所故陸奥入道殿御拝領畢
|
| 摂津大隅前司妻 刑部権大輔
+―二女子――――――女子―――――――――親鑑
|
| 島津下野入道後家 下野前司 上総前司
+―三女子――――――忠宗 法名道義 貞久 法名道鑑
尼妙智 ↑「論人」と朱書されていたが、
消されて「貞久」とかかれた。
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足助尼(長女)
相馬胤綱の長女。「足助」については詳しいことは不明。三河国加茂郡足助庄の豪族・足助氏に嫁いだとみられる。
足助氏は清和源氏加茂氏の流れを組み、通字は「重」。承久の乱の宮方重鎮・足助重成、元弘の変の宮方・足助重範が有名(足助氏略系図)。足助尼の没後、彼女の所領は闕所として処理され、「陸奥入道殿」の所領となった。このころ「陸奥」を称していた人物は、
1.安達陸奥守泰盛入道覚真(1231-1285):陸奥守(1282)
2.北条陸奥守重時入道観覚(1198-1261):陸奥守(1249-1256)
3.北条陸奥太郎越後守実時(1224-1276):陸奥守実時の太郎であり、官途は越後守。
4.北条陸奥守業時入道全念(1241-1287):陸奥守(1284-1287)陸奥守重時子。
のいずれかだが、ここの「陸奥入道」は安達泰盛を指すと思われる。
1.安達陸奥守泰盛入道覚真
秋田城介義景(城氏)の子で、頼朝の個人従者・藤九郎盛長を祖とする一族である。官途は秋田城介。弘安5(1282)年、陸奥守に就任し、同年出家して「陸奥入道」と称された。相馬胤綱の長女・足助尼は跡を継ぐ子がいなかったのか、彼女の死後は所領は闕所とされて「陸奥入道殿」に打渡された。泰盛は内管領・平頼綱と争って、弘安8(1285)年11月に討たれている(霜月騒動)。
足助尼の闕所となった所領は不明だが、所領は泰盛に継承され、彼が弘安8(1285)年に没したのちは、外孫・北条貞時の所領となり、足利氏に継承されたとみられる。尊氏の孫・氏満(鎌倉公方)は永徳2(1382)年10月29日、「相馬御厨内横須賀村」を公方家菩提寺の鎌倉稲荷山超世院別願寺に寄進している(『足利氏満寄進状』)。鎌倉時代の相馬氏の下総における所領は相馬御厨のみであることから足助尼の所領も御厨内であったことは間違いなく、ここがその所領とされている(『相馬御厨と島津・摂津両氏』湯山学氏著、『中世相馬氏と島津・三池氏』『中世相馬氏の基礎的研究』岡田清一氏著)。
足助氏と城氏の関わりも不明だが、鎌倉初期の足助重秀の妻は「越中介盛長」とあり、藤九郎盛長のことかも? ただ、盛長は官職についた形跡はなく、さらに彼と比企尼の間の娘は3人とされていることから詳細は不明。重秀の子・足助重成は「承久の乱」で宮方について自刃、さらに重方・親重は昇殿も許されている。重範は後醍醐天皇の「御謀叛」に荷担して笠置山で奮戦ののち捕らえられ、六条河原で斬首、そして元弘3(1333)年5月の新田義貞の鎌倉攻めでは、重連が由比浜で戦死し、重信・卿房賢尊は葛西谷で討死した。
系譜で見ると、重成が承久3(1221)年の「承久の乱」で没しており、足助尼の時代的に見てその孫世代くらいにあたるのかもしれない。足助親重が他の兄弟とは違い「従五位下下総守」という官途を得ており、さらに彼に子はなく、弟・頼方が「惣領」とされており、足助尼は親重に嫁いだのち死別し、所領は足助尼の一期支配となったのち、三河国にゆかりの深い城介泰盛に伝えられたものか。
●安達(城)氏・足助氏系譜
・源重遠――山田重直――足助重長 +―重義―――――重純―――――重顕 +―重顕
(信濃守)(帯刀先生)(右兵衛尉) |(三郎) (三郎太郎) (孫太郎)|(太郎)
∥ | |
∥――――重秀 +―重朝――+―重方―――+―重貞―――+―重氏――+―重嗣
∥ (太郎冠者) |(太郎) |(佐渡守) |(太郎) |(与二) (次郎)
源為朝―――娘 ∥ | | | |
(鎮西八郎) ?―――――+―重成 +―娘 +―重方 +―助成
∥ (資平卿室)|(次郎) |(孫太郎)
藤原盛長―+―娘 小笠原長時娘 | |
(藤九郎) | ∥―――――泰盛 +―親重 +―有方
| ∥ (陸奥守) |(下総守) |(四郎)
+―城景盛――――義景 | |
(秋田城介) (秋田城介) | +―佐方
∥ | |(彦次郎)
∥―――――顕盛 | |
∥ (加賀守) | +―正純
飛鳥井雅経――+―城尼 | (九郎)
(美作権守) | |【惣領家】
+―教雅 +―頼方―――――貞親――――重範――重範
|(左近衛中将) |(佐渡六郎) (六郎次郎)(三郎)(九郎)
| |
+―教定――――雅有 +―重藤―――+―重経――――重宗
(右兵衛督)(参議) |(佐渡十郎)|(次郎) (次郎太郎)
| |
+―重連 +―重武――――重信
(佐渡四郎)|(三郎) (三郎太郎)
|
+―賢尊
(卿房)
●安達氏の祖・藤九郎盛長について(詳細はこちら)
安達氏の歴史が歴史に現れるのは、治承4(1180)年6月24日、源頼朝が「累代御家人等」を召集せしめた際の「御使」として北条を発った「藤九郎盛長」がはじまりである。7月10日、相模国内の豪族は大部分が味方するが、波多野右馬允義常、山内首藤滝口三郎経俊は頼朝に味方することを拒んだという報告をしている(『吾妻鏡』)。
盛長はおそらく頼朝母の実家・熱田大宮司家と関わりのある人物で、頼朝の傍近くに仕えていて信頼を得た。盛長の妻は、通説では比企尼(頼朝乳母)娘・丹後内侍とされているが、比企尼の娘は嶋津忠久の母となった「丹後局」であって、丹後内侍とは別人である。丹後内侍は盛長同様に熱田大宮司家と関わりのある女性で、宮仕えを経験したのち藤九郎盛長と婚姻して伊豆に下ったとみられる。
一説には盛長は武蔵国の足立氏の一族ともされるが、盛長が「足立」「安達」を称したことが確認できるのは、建久10(1199)年10月27日の「足立藤九郎入道」、翌28日の梶原景時の弾劾について、鶴岡八幡宮寺の回廊に集結した千葉介常胤、三浦介義澄を筆頭とする有力御家人三十九人中「安達藤九郎盛長入道」が初見で最後である(『吾妻鏡』)。また、足立遠元と藤九郎盛長の接点は『吾妻鏡』からも見出すことはできず、『尊卑分脈』など両者を同系とする系譜も相当な世代的矛盾を抱えており、信頼性は乏しい。
●建久10(1199)年10月28日条(『吾妻鏡』)
千葉介常胤 | 三浦介義澄 | 千葉太郎胤正 | 三浦兵衛尉義村 | 畠山次郎重忠 | 小山左衛門尉朝政 |
結城七郎朝光 | 足立左衛門尉遠元 | 和田左衛門尉義盛 | 和田兵衛尉常盛 | 比企右衛門尉能員 | 所左衛門尉朝光 |
民部丞行光 | 葛西兵衛尉清重 | 八田左衛門尉知重 | 波多野小次郎忠綱 | 大井次郎實久 | 若狭兵衛尉忠季 |
渋谷次郎高重 | 山内刑部丞経俊 | 宇都宮彌三郎頼綱 | 榛谷四郎重朝 | 安達藤九郎盛長入道 | 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道 |
稲毛三郎重成入道 | 藤九郎景盛 | 岡崎四郎義實入道 | 土屋次郎義清 | 東平太重胤 | 土肥先次郎惟光 |
河野四郎通信 | 曽我小太郎祐綱 | 二宮四郎 | 長江四郎明義 | 諸次郎季綱 | 天野民部丞遠景入道 |
工藤小次郎行光 | 右京進仲業 |
盛長が「安達」を称したのは、奥州藤原氏を追討したのちに功績によって安達郡を与えられたためともされているが、それ以前の盛長は名字がなく「藤原」を称していたのだろう。また、盛長はもともと三河国に所縁のある人物で、熱田大宮司家(頼朝母方の家)を通じて京都に出仕、頼朝や比企尼ゆかりの人物と交流を持つことによって頼朝に出仕するようになったと思われる。盛長と同じく頼朝の側近であった「藤判官代邦通」は「洛陽放遊客也、有因縁、盛長依挙申、候武衛」(『吾妻鏡』治承四年八月四日条)とあり、京都の下級官吏だった藤原邦通と盛長は「因縁」があった由が記載されている。盛長は在京した経歴を持っていたことがわかり、その際の縁によって邦通を頼朝に推挙した。
なお、盛長と邦通の「因縁」について具体的な記載はないが、「藤判官代邦通」の出自については、野口実氏の研究によっても明らかなように(『中世東国武士団の研究』高科書店)、藤原魚名の流れをくむ人物であり、系譜上の安達氏の出自(魚名流)と同様である。この一族には「盛」「長」という字を諱に使っている人物もおり、邦通と盛長は同族ではなかろうか。
藤原魚名―鷲取――――藤嗣――高房―――山蔭―――公利――――守義――為昭―則友―+―国成――+
(左大臣)(中務大輔)(参議)(越前守)(中納言)(但馬権守)(参議) | |
| |
+―国長 |
|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―友房――盛友――友業―――+―友長――――邦道
(大和守) (大和進士)| (大和判官代)
|
+―藤原維業
|(六条院蔵人)
|
+―藤原盛国
(諸陵頭)
文治5(1189)年の奥州藤原氏との戦いでは、盛長は平家一門・筑前守平時房(刑部卿平忠盛曾孫)の子で、屋島の戦いで捕らえられて盛長に預けられていた「筑前房良心」を同道した。良心は8月14日の物見岡の合戦で、藤原泰衡の郎党を討ち、功績によって罪を許されている。彼は僧侶とはいえ武芸に秀で、盛長は彼の武勇を買っていたため、囚人ではあったが同道していた。
盛長は幕府の役職として上野国奉行人、三河国守護職などを務めたが、朝廷の官職には就いた形跡は見えない。そのまま出家法体となり、正治2(1199)年4月26日、66歳で亡くなったという(『尊卑分脈』)。
小笠原時長―――女
(六郎) ∥
∥―――――――――――+―安達義景―――――――――+―安達泰盛―――安達盛宗
∥ |(秋田城介) |(秋田城介) (肥前守護代)
∥ | |
∥ | +―安達顕盛―――安達宗顕――+―安達高景
∥ | |(加賀守)(秋田城介) |(秋田城介)
∥ | | |
藤原伊尹――…?…―安達盛長 +―安達景盛 +―松下禅尼 北条重時女 +―堀内殿 +―女
(三条関白) (藤九郎) |(秋田城介) ∥ ∥ (覚山尼) ∥―――――ー北条時行
∥ | ∥ ∥ ∥―――――北条貞時――――北条高時 (相模二郎)
∥ | ∥ ∥ ∥ (相模守) (相模守)
∥ | 北条泰時 ∥ ∥――――――北条時宗
∥ | (相模守) ∥―――――北条時頼 (相模守)
∥ | ∥―――――北条時氏 (相模守)
∥――――+―女 ∥ (修理権亮)
∥ ∥ 三浦義村――女
∥ ∥ (駿河守)
比企尼 ∥ ∥
(頼朝乳母) ∥ ∥――――――――――――――吉見範円―――――吉見為頼―――吉見義春
∥ ∥ ∥ (二郎) (太郎)
∥―――――+―丹後内侍 源範頼
∥ | ∥ (蒲冠者)
比企掃部允 | ∥
| 惟宗広言=+―島津忠久
|(筑後守) |(左衛門尉)
| |
| 伊東祐清 +―若狭忠季
|(九郎) (左兵衛尉)
| ∥
| ∥
+―女
| ∥――――――平賀朝雅
| ∥ (武蔵守)
| 平賀義信
|(武蔵守)
|
+―河越尼
∥
∥――――+―河越重房
河越重頼 |(太郎)
(太郎) |
+―女
∥
源義経
(九郎)
2.北条陸奥守重時入道観覚
北条義時の三男で、母は比企藤内朝宗の娘。通称は相模三郎で、官途は修理権亮・駿河守・相模守・陸奥守。幕府での役職は、六波羅北方探題→小侍所別当→連署。建長元(1249)年6月14日に「陸奥守」に就任し、康元元(1256)年3月11日、出家して、弘長元(1261)年11月23日、64歳で没した。
足助尼の兄弟である胤継・胤村の初見が寛元元(1243)年ごろであり、足助尼がこのころ足助氏へ嫁ぎ、若くして夫と死別して子もなく没したとするならば、北条重時が彼女の遺領を拝領したとも考えられなくはない。
相馬郡内の足助尼の所領がどこにあったかどうかは全く不明だが、その所領が重時の子孫である極楽寺北条氏に代々継承され、最後の執権・北条守時もその所領を継承したとすれば、守時の妹・赤橋登子(守時妹)を通じて子・足利基氏、足利氏満と継承されたとも考えられる。氏満は永徳2(1382)年10月29日、「相馬御厨内横須賀村」を菩提寺の鎌倉稲荷山超世院別願寺に寄進している(『足利氏満寄進状』)。鎌倉時代の相馬氏の下総における所領は相馬御厨のみであることから足助尼の所領も御厨内であったことは間違いなく、ここがその所領とされている(『相馬御厨と島津・摂津両氏』湯山学氏著、『中世相馬氏と島津・三池氏』『中世相馬氏の基礎的研究』岡田清一氏著)。
3.北条陸奥太郎越後守実時
北条義時の五男・北条実泰の子で、母は天野和泉前司政景の娘。つまり足助尼の従兄弟。官途は越後守。通称は陸奥太郎。しかし、「陸奥守」に就任はしておらず「陸奥入道」にはなり得ない。
彼の一族は「金沢北条氏」とよばれ、金沢称名寺を建立し、彼らが収集した諸文書「金沢文庫」が有名。建治元(1275)年、六浦で療養し翌年病死した。実時の子・顕時(越後守)は下総国に所領をもっており、さらに千葉氏とも婚姻関係にあるなど縁が深い。また、安達泰盛の娘を娶るなど、安達一族とも関わりが深かったため、弘安8(1285)年11月の「霜月騒動」に連座して所領・下総国埴生庄に流された。
●足助尼周辺系図●
相馬胤綱
(左衛門尉)
∥―――足助尼…「被跡為闕所故陸奥入道殿御拝領畢」
+―相馬尼
|
| 安達義景―泰盛――――娘
| (陸奥守) ∥
天野政景―+―娘 ∥
∥ ∥
∥――――実時――――顕時――…【金沢流北条家】
∥ (陸奥太郎)(越後守)
・北条時政―――――北条義時――実泰
(陸奥守) (陸奥五郎) 足利高氏 +―義詮――――義満
∥ (治部大輔)|(大納言) (准后)
・比企掃部丞 ∥――+―名越朝宗――…【名越流北条家】 ∥ |
∥ ∥ |(遠江守) ∥―――+―基氏――――氏満
∥―――朝宗――娘 | ∥ (左兵衛督)(左兵衛督)
∥ (内舎人) +―重時 +―登子 ↑
∥ (陸奥守) | 「相馬御厨内横須賀村寄進」
∥ ∥―+―長時―――義宗―――久時――+―守時
比企尼==能員 平時親――娘 |(武蔵守)(駿河守)(越後守) (相模守)
(藤四郎)(大納言) |
+―時茂
|(陸奥守)
|
+―業時―――時兼―――基時――――仲時―――――友時
|(陸奥守)(尾張守)(相模守) (越後守) (左馬助)
|
+―娘
∥―――――時宗
北条時頼 (相模守)
(相模守)
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摂津大隅前司妻(次女)
摂津大隅前司の妻。彼女の娘の子が「刑部権大輔親鑑」であり、中原流摂津氏の一族の大隅前司に嫁いでいたことがわかる(『相馬系図』)。摂津氏は幕府の有力官僚で、評定衆・引付頭人を歴任した家柄。建長4(1252)年4月3日、将軍・頼嗣が京都へ送還された際の奉行として「大隅前司親員」の名がみえる(『吾妻鏡』建長四年四月三日条)。親員は評定衆・中原摂津守師員の次男で、時代的にも一致する。相馬御厨内の所領は、親員との間の娘に譲り渡され、彼女を通じて摂津刑部権大輔親鑑へと継承されたと考えられる。
親鑑は元弘3(1333)年の鎌倉陥落の際に、北条高時らとともに東勝寺にて自刃しており、弟・親秀(掃部頭)が生き残って足利尊氏に仕えた。親秀は「相馬御厨内戸頭村」(茨城県取手市戸頭)を安堵され、建武5(1338)年8月10日、戸頭村の代地として、「近江国柏木御厨地頭職」が安堵されており(『足利尊氏袖判下文』)、相馬胤綱から次女に譲られた所領は「相馬御厨内戸頭村」が含まれていたと思われる。
~戸頭村の継承~
…―相馬胤綱―→摂津大隅前司妻――→娘――――――→摂津親鑑――(?)→摂津親秀―→足利尊氏―→大中臣長房―――→万寿丸
(左衛門尉)(大隅前司親員妻)(摂津守親致妻か)(刑部権大輔) (掃部頭) (香取神宮大禰宜)(長房嫡子)
●中原氏略系譜
…中原師任――+―師平―――――師遠――――…【公家中原氏】
(大外記局務)|(大外記局務)(大外記局務)
| 【評定衆中原氏】
+―貞親―広宗―広忠―+―忠順―――師茂――――師員――+―師連―――親致 +―親鑑
| (摂津守)|(縫殿頭)(摂津守)|(刑部権大輔)
+―広季―+―中原親能 | ∥ |
|(掃部頭) +―親員 ∥―――+―親秀
| (大隅守) ∥ (掃部頭)
+―大江広元…【毛利氏】 ∥ ∥ ↑
(安芸守) ∥―――娘 【相馬御厨内戸頭村を領す】
相馬胤綱 ∥
(左衛門尉) ∥
∥―――+―娘
天野政景――相馬尼 |
(左衛門尉) +―足助尼(足助氏妻?)
|
+―尼妙智――――島津忠宗――島津貞久…【島津氏】
(島津久経妻)(下野守) (上野介)
名前 | 法名 | 官途 | 評定衆 | 引付頭人 |
摂津師員 | 行巌 | 摂津守・大膳権大夫・主計頭 | 嘉禄元(1225)年~建長3(1251)年 | |
摂津師連 | 性円 | 縫殿頭 | 文永元(1264)年~文永8(1271)年 | |
摂津親致 | 道巌 | 摂津守・左近将監 | 弘安元(1278)年~弘安7(1284)年 | 乾元元(1302)年~嘉元元(1303)年 |
摂津親鑑 | 道準 | 隼人正・刑部権大輔・左近将監 | 嘉暦元(1326)年~元弘3(1333)年 | 嘉暦元(1326)年~元弘元(1331)年 |
●建武5(1338)年8月10日『足利尊氏袖判下文』(『士林證文』柏市史所収)
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尼妙智(三女)
島津下野入道(島津下野守久経)妻。「谷殿」と号した。母は天野左衛門尉政景女(相馬尼)。子息に「下野前司忠宗」(『相馬系図』)。『京都四条東洞院敷地相伝系図』では、天野政景の娘(相馬尼)と尼妙智が混同して記されており、「嶋津下野入道母、号谷殿」が妙智のことである。
康元元(1256)年、胤綱から所領の相馬御厨内「黒崎村」を譲られ、胤綱の死後、弘安3(1280)年には母・相馬尼からふたたび譲状を受け取って継承した。そして久経の死後出家して「妙智」と号し、弘安7(1284)年3月、嫡子・島津忠宗(下野守)に黒崎郷を譲渡した。しかし、弘安10(1287)年10月24日の『関東下知状』によれば、彼女は幕府から「亡母尼(相馬尼)」から継承した「下総国相馬御厨黒崎内下黒崎村加発戸并稲村、文間郷内押手村」の安堵をされており、忠宗に譲られた「黒﨑郷」の中に「発戸村・稲村」は含まれていなかった可能性がある。
ただ、これらもその後は忠宗に継承されており、文保2(1318)年3月15日の「嫡子貞久」への『沙弥道義譲状』には「下つさの国さむまの内ふかわのむら、下黒さき、同ほんと」が含まれ、同日の「四郎時久」への『沙弥道義譲状』には「下つさの国相馬郡をしての内 黒さきさへもんきう五郎兵衛かきゆう」が譲られている。
忠宗は現在進行中である裁判について記した「置文」を貞久に与えているが、これらの懸案の中に「しもうさの国くろさきの越訴事」とあり、これと関連すると思われる『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』では「相馬五郎親常」の項に「今訴人」とされ、忠宗の項に「論人」と朱書きされている(のち消されて「貞久」と書かれる)ことから、相馬親常と島津忠宗との間で黒﨑村の領有をめぐる裁判があったと考えられる。
●島津氏略系図
伊達念性――娘 大友親時―娘 +―宗久
(判官入道) ∥ (因幡守) ∥ |(大夫判官)
∥――――久経 ∥ |
∥ (下野守) ∥ |【総州家】
島津忠久――忠時 ∥――――忠宗 ∥―――+―師久―――伊久――+―守久――――久世―――久林
(左衛門尉)(修理亮) ∥ (上総介)∥ |(上総介)(上総介)|(上総介)
∥ ∥ ∥ | |
相馬胤綱――尼妙智 ∥―+―貞久 | +―忠朝――――忠明―――相馬忠成⇒相馬氏系図
∥ |(上総介)| (上総介) (兵衛尉)(山城守)
∥ | |
∥ +―阿久里 | 【薩州家】
三池道智 ∥ | +―用久――――成久―――忠興―――実久―――義虎
(杢助入道) ∥ | |(薩摩守) (薩摩守)(薩摩守)(薩摩守)(薩摩守)
∥ ∥ |【奥州家】 |
∥――――+―名々 +―氏久―――久豐――+―忠国――+―立久―――忠昌―――勝久===貴久
∥ |(尼しんねん?) (陸奥守)(陸奥守) (陸奥守)|(陸奥守)(陸奥守)(陸奥守)(陸奥守)
後家尼如円 | |
+―貞宗――+―道喜――月光丸 |【相州家】
|(木工助)|(杢助入道) +―友久―――忠良―――貴久――+―義久
| | |(相模守)(相模守)(陸奥守)|(修理大夫)
| +―左近太夫 | |
| | |【伊作家】 +―義弘
| +―六郎蔵人 +―久逸―――善久===忠良 |(参議)
| |
+―近房――――米々 +―歳久
|(三郎蔵人)(中原氏) |
| |
+―師近 +―家久
(十郎蔵人) (中務少輔)
忠宗はその後出家して「道義」と号し、嫡男・島津貞久(上総介)に家督を継承した。貞久は九州の足利党として活躍しており、延文元(1356)年8月、多数の先祖伝来の品・所領を安堵されているが、その中に「下総国相馬郡内符河村、押手村、下黒崎村、発戸村、甲斐御房村」の地名を見ることができる。
●貞久に安堵された相馬郡内地●
貞治2(1363)年4月、島津貞久(上総前司入道道鑑)は嫡男・師久に所領を継承させ、その3年後の貞治5(1366)年3月、師久は嫡子・伊久と次男・小法師に所領を分配した。そのうち、嫡子・伊久に継承させた所領の中に「下総国所々本知行分但除伯父下野入道跡」とあり、除外された「伯父下野入道跡」が小法師の所領とされた。そして伊久の子・忠朝の孫・忠成が島津氏の相馬領を継承していき、「相馬」を称した。こののち島津惣領家の所領に下総国相馬郡の地名は見えなくなる。
忠朝は応安2(1369)年に薩摩国で生まれ、長じて平佐城主(鹿児島県川内市)となる。一族間の抗争のなかで奥州島津家と争い、島津陸奥守久豊と度々争うが、永利城へ逃れ、さらに隅之城、二福城へと逃れていったのち、応永28(1421)年、ついに陸奥守家に降伏し、子孫は都城島津氏の家臣となる。都城郷地頭として「相馬伝左衛門尉忠仍」「相馬仲右衛門尉久賢」が見え、都城郡梅北村宇佐八幡代宮司、安永村安原霧島大権現社司にも相馬氏の名が見える。
●島津氏流相馬氏(『新編島津氏世禄支流系図』より)
島津貞久
(上総介)
∥―――――師久―――+―伊久―――――+―守久 +―忠氏―――――相馬忠成―+―久国
大友親張娘 (大夫判官)|(上総介) |(大夫判官)|(三郎兵衛尉)(山城守) |(上総介)
| | | |
+―碇山久安 +―忠朝―――+―干扇 +―女子 +―裕忠===久伯―――+
(三郎左衛門尉)|(上総介) | |(村田越後守)|(彦次郎)(越前房) |
| | | | |
+―北久照 +―上総禅尼 +―久続――――+―女子 |
(治部少輔)|(林香庵住持) |(山城守) ∥ |
| | ∥ |
+―禅尼 +―黒川久森 ∥ |
|(伊集院円通庵三代住持) (弥五郎) ∥ |
| ∥ |
+―忠長 宇佐美祐泰――――久伯 |
|(上総介) (美濃守) (越前房) |
| |
+―伊忠 |
(左衛門尉) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―祐忠――+―忠清――+―久東――――――忠益 +―氏芳―――+―女子
|(善財房)|(長善房)|(見性房) (宮菊) |(藤左衛門)| ∥
| | | | | ∥
| | +―女子 +―久賢―――+―久知 +=氏副
| | |(菊池重高妻)|(仲右衛門) (傳左衛門) (弥市右衛門)
| | | |
| | +―忠仍――――+―北郷忠村 伊集院久知
| | (傳左衛門) |(七郎兵衛) ∥―――相馬氏副
| | | 伊集院忠陳――女子 (弥市右衛門)
| | +―女子
| | (土持綱寛妻)
| |
| +―久岑――+―元忠 +―女子
| (良圓房)|(宮松) |(北郷久林妻)
| | |
| +=忠益――+―久雅――――+―忠興―――女子
| |(勝善房)|(長存房) |(善光房)(有馬純治妻)
| | ∥ | |
+―安久―――女子 +―女子 +―久通 +―久武
|(右近) (音松) (吉太夫)
|
+―女子
|(知覧久直妻)
|
+―忠恕―――忠次――+―久遠――――+―女子 +―氏有―――+―氏敷
|(勝善房)(良泉房)|(助左衛門) |(相馬久雅妻)|(勝善房) |(助左衛門)
| | | | |
+―忠尊―――久信 +―女子 +―忠経――――+―成山氏興 +―女子
(実相房)(善兵衛) (内藤利真妻)|(勝善房) |(伴左衛門)|
| | |
+―成山氏副 +―女子 +―氏昌
|(弥五右衛門) (彦七郎)
|
+―忠続
|(忠三郎)
|
+―女子
(日置忠質妻)
島津家文書の『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』の中で、「貞久 法名道鑑」は「論人」の朱記が消されたのちに記されていて、さらに相馬六郎左衛門尉胤景の孫・相馬五郎親常の項に、追記として「今訴人」と書かれていることから、相馬五郎親常と島津下野守忠宗との間で、相馬御厨内の所領をめぐる論争があったと思われる。この『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』は、その裁判に際して何らかの目的で作られたと思われる。忠宗は係争中である各地の裁判を貞久に家督・所領とおなじく継承させ、それら一連の裁判をまとめた文書『道義置文』が残されている。
師久ののち、島津氏は総州家・奥州家・相州家・伊作家・薩州家などと派生した分流がそれぞれ対立して、一族内紛状態となる。この内紛は16世紀まで続き、おおまかに奥州家と薩州家の争いとなり、伊作家当主・島津忠良と、その子で奥州家を継いだ島津貴久によって薩州家・島津実久一党は掃討されて、島津氏は忠良・貴久のもとに落ち着くことになる。貴久の子息の義久・義弘・歳久・家久はいずれも名将として知られ、伊東・龍造寺・大友氏など九州の諸大名を次々に攻め、九州統一を目前としたが、豊臣秀吉の九州派兵によってその夢は破られ、関ヶ原の戦いでは石田方として勇名を馳せたのち、薩摩60万5000石の大名となった。島津家はその遠祖・島津忠久が摂関家・近衛家侍であった縁か江戸時代も近衛家との縁が深く、島津家当主の正室に近衛家の姫を迎えたり、島津家の娘を近衛家に嫁がせるなど親密な関係を持っていた。
●弘安10(1287)年10月24日『関東下知状』(『我孫子市史』)
●正和3(1313)年正月24日『尼しんねん譲状』(『三池文書』:柏市史所収)
………………………………………………~漢字仮名混じり文~……………………………………
●文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』(1)(『島津文書』:柏市史所収)
………………………………………………~漢字仮名混じり文~……………………………………
譲り渡す●文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』(2)(『島津文書』:柏市史所収)
………………………………………………~漢字仮名混じり文~……………………………………
(裏書)「四郎殿への譲状案 嘉暦四十二十九 主の方へ遣はさるる也」●元亨元(1321)年9月6日『島津忠宗置文』(『島津文書』:柏市史所収)
………………………………………………~漢字仮名混じり文~……………………………………
●元徳3(1331)年8月9日『島津貞久譲状』(『島津文書』:柏市史所収)
………………………………………………~漢仮混じり文~……………………………………
●『京都四条東洞院敷地相伝系図』(『島津家文書』:柏市史所収)
和泉守 相馬小次郎左衛門尉妻 嶋津下野入道母
天野左衛門尉 法名妙智 号谷殿
政景――――――――女子―――――――――――女子―――――――+
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| 嶋津下野守 上総介
| 法名道義 法名道鑑
+――忠宗――――――――貞久
●『島津氏重書目録』(『島津家文書』:柏市史所収)
●貞治5(1366)年3月5日『島津師久所領処分目録』(『我孫子市史』:「島津家文書」)
●永徳2(1382)年10月29日『足利氏満寄進状』(『我孫子市史』)