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【一】上総氏について |
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか |
【三】頼朝の挙兵と上総平氏 |
平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
(????~1165?)
平常澄の嫡男。母は不明。妻は長狭氏。官途は上総権介。通称は伊南新介。
「長寛年中為弟常茂被害」とあり(『中条家文書』:「桓武平氏諸流系図」)、 長寛年中(1163~1166)に弟・印東二郎常茂に殺害されている。常景は父・常澄から上総国夷隅郡を継承し、次男・常茂は下総国印東庄を継承するが、常景の領する夷隅郡と隣り合う長南郡にも私領を有しており、何らかの対立軸があったとみられる。しかし、常茂は常景亡き後もその跡を継いだ形跡はなく、その弟・介八郎広常が常景の跡を襲って東上総一帯を支配することとなる。
なお、常景の子・伊北庄司常仲も広常に従ったとみられ、広常は「当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の軍勢を率いていたことが記載されており(『吾妻鏡』)、伊北庄も上総平氏惣領家の支配下として認識されていたのだろう。ただ、常仲は治承4(1180)年10月3日、頼朝の厳命を受けた千葉介常胤から派遣された千葉太郎胤正や葛西三郎清重らによって討たれている。その理由は、常仲が頼朝に敵対した長狭六郎常伴の外甥であったためだが、上総国を勢力基盤とし、事実上常仲を支配下にもつ広常ではなく、常胤が常仲追討の主将とされていることは、この追捕が広常に対する牽制の意味を持っていた可能性も考えられよう。。
常仲の甥・伊北太郎胤明は、諱の「胤」字から見て千葉介常胤の支配下に入っていたと考えられ、承久の乱の戦功によって、出雲国内に地頭職を与えられ赴任していった。《伊北氏》
●伊北氏系図●
+―長狭常伴
|(六郎)
|
+―娘
∥―――+―伊北常仲
∥ |(伊北庄司)
∥ |S
伊南常景 +―伊北常明――伊北胤明――伊北時胤
(伊南新介) (次郎) (太郎) (又太郎)