千葉介自胤

武蔵千葉氏

千葉氏HP千葉宗家目次下総原氏リンク集掲示板

―― 初代 二代 三代 四代 五代 六代
千葉胤賢
(????-1455)
千葉実胤
(1442?-????)
千葉介自胤
(????-1493)
千葉介守胤
(1475?-1556?)
千葉胤利
(????-????)
千葉胤宗
(????-1574)
千葉直胤
(????-????)

トップページ武蔵千葉氏千葉自胤


千葉介自胤(????-1493)

生没年 ????~明応2(1493)年12月6日
仮名 次郎
千葉中務大輔胤賢
不明
長尾四郎左衛門尉景信女(龍興院殿了室覚公大姉)
官位 不明
官職 不明
千葉介
所在 武蔵国石浜
道号 玄参?
法号 松月院殿
墓所 万吉山宝持寺松月院殿

 武蔵千葉氏二代。千葉中務太輔胤賢入道の次男。称は千葉介。仮名は二郎。諱の「自胤」「これたね」と読む。法名は玄参か。

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)
       |       |       |
       |       |       +―千葉胤賢―+―千葉実胤
       |       |        (中務丞) |(七郎)
       |       |              |
       |       |              +―千葉介自胤―――千葉介守胤
       |       |               (武蔵千葉介) (武蔵千葉介)
       |       |           
       |       +―馬加康胤――+―馬加胤持         +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
       |        (陸奥守)  |              |(千葉介)  (千葉介)
       |               |              |
       |               +―女            +―成戸胤家
       |                              |(成戸殿)
       |                              |
       +―馬場重胤――――馬場胤依――+―金山殿  +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
        (八郎)           |      |(千葉介)          (物井殿)
                       |      |
                       +―公津殿  +―成身院源道―+―光言院源秀
                       |      |(菊間御坊) |
                       |      |       |
                       +―岩橋輔胤―+―椎崎胤次  +―天生院源長
                        (岩橋殿)  (入道道甫)

市川合戦

 亨徳4(1455)年9月7日、父・千葉中務太輔胤賢入道は、「公方様」足利成氏と手を組んだ千葉陸奥入道常義(馬加康胤)原越後守胤房によって、香取郡「ヲツヽミ(小堤)に自刃した(『本土寺過去帳』七日上段)。当時彼らはまだ元服前の少年とみられるが、胤賢入道子息の七郎実胤次郎自胤は、おそらく千田庄には同道せず、惣領被官曾谷氏によって八幡庄(市川市)に匿われたと思われる。

国府台
武蔵国側から国府台城を望む

 胤直入道常瑞らの滅亡が京都に届くと、将軍義政「千葉の家両流になりて総州大いに乱れければ、急ぎ罷り下り一家の輩を催し、馬加陸奥守を令退治、実胤を千葉へ移し可(『鎌倉大草紙』)という御教書を奉公衆の千葉一族、東左近将監常縁に下したという。常縁は同じく奉公衆の浜式部少輔春利(常縁兄の氏数と交流のあった浜豊後守康慶の弟)とともに下総国に下向した。

 下総国に下着した常縁勢は、武蔵国からの馬加への道筋を考えると、まず八幡庄市川に入ったことは想像に難くない。この八幡庄には千葉実胤自胤が曾谷氏ら惣領被官に庇護されていたと推測できることから、この時点で千葉実胤自胤はすでに市川城に入って、成氏勢に備えていたと考えてよいのではなかろうか。そして、11月24日に常縁は市川を出立し、千葉陸奥入道の居城である馬加城へ攻め寄せたと想定される。この「馬加合戦」は市川から馬加にかけての相当戦端の長い合戦と思われ、11月24日の「馬加ノ合戦」(『東野州聞書』)では、常縁「馬加の城へ押寄、散々に攻」めたため、馬加城から「原越後守打ち出」て、常縁勢と「一日一夜防戦ひけれども、終に打負、千葉をさして引退」したという。この戦勝に常縁「此いきほひにて上総の国所々にむらかりてありける敵城自落せしかば、浜式部少輔をば東金の城へ移し、常縁は東の庄へ帰」ったという(『鎌倉大草紙』)

 翌11月25日には、市川城至近の「■■田正行寺(『内閣本』では「今嶋田正行寺」)市川市柏井町1丁目「馬加合戦」の軍勢が打入り、住坊とみられる日進がこれを防がんとして討たれている(『本土寺過去帳』廿五日上段)。この軍勢は、おそらく馬加合戦で敗北した原勢の一部であろう。

●天正本『本土寺過去帳』廿五日上段

日進位 ■■田正行寺享徳四
    ■■亥十一月馬加合戦
    軍勢打入ル■■御堂ヲ妨トテ
    ウタル■■

 また、年不詳だが11月25日に「曾谷浄宗」「野呂」千葉市若葉区野呂町で死去している(『本土寺過去帳』廿五日上段)。この曾谷浄宗が馬加合戦後に上総国へ向かった常縁の陣中にいた人物とすれば、馬加の南西部においても戦闘が行われていたことがうかがえる。なお、常縁は下総下向時に市川を経由していたということとなる。

●『東野州聞書』(『群書類従』第六輯所収) 

 …前略…
 
 一 元雅して富永駿河入道遣事、康正二七御旗の手を敵へ吹かくる事吉例なり、
   同く旗の面を敵に向也、祝等の時同前たるべきなり、
 一 康正元十一月廿四日馬加ノ合戦ノ時ハ、味方ニ旗の手を吹かくるといへども、
   得勝利、又同二年正月十九日敵に旗の手をかく、然共御方成敗軍易如何、
   若不定の事なり、原越後守御退治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也、 

 常縁はこの際、東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願し献歌したと伝わる。

 静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす

 下総国では東常縁の働きにより「馬加陸奥守、原越後守、野州常縁に度々打負け」ており、この状況をみた上杉方は「千葉新介実胤を取立、本領を安堵させんと、市川の城に楯籠て、大勢」を送り込んだ(『鎌倉大草紙』)千葉実胤自胤の「市川の城」への籠城がいつの出来事かは判然としないが、常縁もその救援のために市川城に入っていることから、馬加合戦があった11月24日以降であろう。市川籠城を聞いた成氏は「南図書助、簗田出羽守その外大勢指遣、数度合戦」に及んだ(『鎌倉大草紙』)。このとき寄手の大将から市川方に降伏勧告があったが、常縁は歌を詠んで遣わし、これを拒んでいる。

籠城しける時よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける
  命やはうきなにかへんよの中にひとりとヽまる習あれとも

 しかし、康正2(1456)年正月19日の合戦で「今年正月十九日、不残令討罰、然間、両総州討平候了」(「足利成氏書状」『武家事紀』巻第三十四)とあるように市川城は陥落した。この市川合戦では、円城寺若狭守円城寺肥前守曾谷左衛門尉直繁曾谷弾正忠直満曽谷七郎将旨蒔田殿武石駿河守相馬守谷殿などが討死を遂げる中、千葉実胤自胤兄弟は武蔵国へ逃れた。

●康正2(1456)年正月15日市川合戦の戦死者(『本土寺過去帳』十五日)

曾谷左衛門尉直繁法名秀典 康正二年丙子正月、於市河打死、其外於市河合戦貴賤上下牛馬等皆成仏道平等利益
曾谷弾正忠直満蓮宗  
曾谷七郎将旨法名典意  
円城寺若狭守妙若  法名は妙+若狭守の「若」
円城寺肥前守妙前 法名は妙+肥前守の「前」
蒔田殿  
武石駿河守妙駿妙駿 法名は妙+駿河守の「駿」
相馬盛屋殿妙盛妙盛 法名は妙+盛屋の「盛」
足立将監顕秀   
宍倉帯刀
宍倉掃部 兄弟
   
行野隼人妙野妙野 法名は妙+行野の「野」
豊島太郎妙豊妙豊 法名は妙+豊島の「豊」
兒嶋妙嶋妙嶋 法名は妙+兒嶋の「嶋」
山口妙口妙口 法名は妙+山口の「口」。「足田殿下人、孫太郎男」
妙縛  与五郎、大野
妙大  平六
左近二郎妙光 弾正殿中間
藤郷与殿法名妙与  
匝瑳新兵衛妙新妙新 法名は妙+新兵衛の「新」。神田ノ。
匝瑳帯刀妙刀 法名は妙+帯刀の「刀」。
匝瑳二郎左衛門妙衛 法名は妙+左衛門の「衛」。
戸張中台孫三郎妙台妙台 法名は妙+中台の「台」。

 武蔵に逃れた実胤・自胤らには木内宮内少輔胤信、円城寺因幡守宗胤、粟飯原右衛門志勝睦らが被官人として見える(『応仁武鑑』)

国府台
国府台城(市河城)

 翌正月20日には「於下総市河致合戦、悉理運之由」という注進が成氏のもとに届いている(康正二年正月廿日「足利成氏文書」『正木文書』:戦古100・『東野州聞書』

 その後の常縁は、市川落城ののち、匝瑳郡(八日市場市)に移り、2月7日に匝瑳郡惣社である匝瑳老尾神社匝瑳市生尾阿玉郷香取市阿玉川中から三十石を寄進して祈願した(『老尾神社文書』)とされる(ただし、文書内表現から要検討であろう)。その後、千葉付近に再来した常縁は、「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤と於所々合戦止隙なし」(『鎌倉大草紙』)ともあるように、千葉陸奥入道や岩橋殿との合戦が続いたのだろう。

 6月12日、馬加陸奥入道の嫡男・胤持が上総国八幡市原市八幡町で討たれたことが『千学集抜粋』に記され、この没年月日は『本土寺過去帳』にも記されている(『本土寺過去帳』)。これは常縁勢によって討たれたものか。胤持の首は京都へ運ばれたとされるが、『松羅館本千葉系図』などでは康胤の首が京都へ運ばれたとされる。そして、11月1日に千葉陸奥入道もまた上総国村田川において討死しており(『千学集抜粋』、『本土寺過去帳』)、これもまた常縁勢との合戦の結果か。

石浜神社
伝石浜城跡(石浜神社)

 一方、市川から武蔵国に逃れた実胤自胤兄弟は、上杉家の援助を受けたとみられる。

 康正2(1456)年正月の市川合戦当時、実胤自胤兄弟は十代前半であり、元服前であったろうと推測される。兄「実胤」「実」字は、関東管領上杉房顕からの偏諱であろう。房顕は諱に「実」字を有さないが、山内上杉家は「実」「房」「顕」「定」といった自家の由緒字を国人や被官に偏諱しており、実胤もこの一例とみられる。自胤は二男であり、当初は千葉家の家督を継ぐ立場にはなかったと思われる。そのことは、実胤が扇谷上杉顕房の娘を娶っている一方で、弟自胤は山内上杉家家宰の長尾四郎右衛門尉景信の娘を娶るなど、地位としては兄の実胤が上位にあった

「豆州様」左馬頭政知の危機

 長禄3(1459)年11月当時、「豆州主君」は伊豆国田方郡の山内上杉家由緒の国清寺「公方様(成氏)ニハ未下野御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)「上椙(上杉房顕)「本陣五十子本庄市東五十子「同大夫方(扇谷持朝入道)「河越」「(渋部)川方(渋川伊予守カ。12月28日、浅草で病死)「浅草」、「鎌倉」には「駿河国人(今川範忠)被座者」という状況にあり、上杉勢と成氏勢が関東諸所で激しく交戦していた。とくに10月14日、15日の「羽継原」の合戦は、「五十子陣之事、管領上杉、天子之御旗依申請旗本也、当方者京都公方之御旗本也、桃井讃岐守、上杉、上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上椙扇谷、武上相の衆、上杉庁鼻和、都合七千余騎、五十子近辺榛沢、小波瀬、阿波瀬、牧西、堀田、瀧瀬、手斗河原ニ取陣、戴星負月、手斗河原日々打出々々相動、雖然隔大河間、その動不輙、京都方、関東方終日見合々々入馬、勝劣未定之大陣也、天帝修羅之戦モ角哉覧与想像計リ也」(『松陰私語』第二)と見える激戦であった。結局、この合戦は上杉方の敗北に終わり、管領房顕は五十子陣へと退却を余儀なくされている。なお、この合戦に岩松持国が子息の宮内少輔成兼とともに京方として加わっており「捨身命、及合戦」んだことに、11月24日、「豆州様」政知直々に御判御教書が下されている(長禄三年十一月廿四日「足利政知御判御教書」『正木文書』「韮山町史」第三巻)。これに探題の渋川義鏡(長禄三年十一月廿四日「渋川義鏡副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)と、奉行人「近江前司教忠」(長禄三年十一月廿四日「朝日教忠副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)も副状を発給している。

 この合戦直後、「主君様同年内中、山ヲ可有御越由、其聞在之」と、政知が箱根を越えるという風聞が鎌倉に流れている(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)。ところが、翌長禄4(1460)年正月時点で「鎌倉ニハ駿河ノ面々被座候處ニ、正月皆々被下者也、狩野方ノ被官人計少々被相残者也、介方者在国也」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)とあるように、駿河今川勢は鎌倉から撤退していることがわかる。享徳4(1455)年4月8日に京都を出陣(『斎藤基恒日記』享徳四年四月八日条)し、6月16日に鎌倉に進駐(『鎌倉大草紙』)して以降約五年間、鎌倉を警衛した駿河勢は本国へと帰還した。その撤退の理由ははっきりしないが、

(1)長禄3(1459)年10月の武蔵太田庄ならびに上野国羽継原、海老瀬口合戦の上杉方の大敗北の影響
(2)「今川殿ハ上杉と御一味にて毎度御加勢有といへとも、範忠其時分御病気也、御息五郎義忠、若輩にて御座候」(『今川記』)とあるような今川上総介範忠自身の病気
(3)「遠江国」の「本間中務丞久季」の訴えにある「今度当国乱之初、去長禄三年八月、於高部慈恩寺失い候」(寛正二年八月十八日「信久奉書」『本間文書』)という、長禄3(1459)年8月に駿河国の隣国遠江国内における兵乱。この兵乱は、「今河治部少輔并牢人已下事、近日令出張、可打入遠江国旨風聞」といい、室町殿はこの「今河治部少輔(貞相か(『今川系図堀越品川写』))」と浪人らの遠江国に討ち入るという風聞が、もし「事実者、不日可合力守護代之趣、可被加下知、同国榛原、新所地下人等之由」を当地の南禅寺雑掌に命じているものに相当するか(長禄三年八月九日「奉行人連署奉書」『南禅寺文書』208)。京都がこの奉書を作成した8月9日時点で、この風聞は現地では実際に起こっていた可能性があろう。

などが可能性として考えられるか。ただ、(3)の遠江国における兵乱は隣国のことで、且つ大きな騒乱とも見えず、8か月以上も前の事であるので、当主が鎌倉を放棄して帰還するほどの大事件でもないだろう。(2)は範忠自身の病が原因であれば、彼が帰還し、嫡子五郎義忠が代わればよいだけのことであり、これだけでは鎌倉蜂起の理由としては弱いだろう。この(2)の範忠病臥とともに、(1)の軍事的バランスの変化が大きな要因となっていたのではなかろうか。

 この長禄4(1460)年正月の今川勢の鎌倉撤退により、2月時点で「京都ノ主君者、未豆州ニ御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)とあるように、左馬頭政知は伊豆国に足止めとなり、鎌倉への下向は事実上不可能となった。この件に関してか、渋川義鏡被官人の「板倉(板倉頼次)が4月中旬に伊豆国を発って4月26日に上洛している。

国府台
伝堀越御所跡

 今川勢の撤退による影響か、鎌倉から伊豆にかけての情勢は不安定化し、長禄4(1460)年5月7日には「大相国之弟前香厳院主、以命還俗、為征東将軍、攻朝敵於関東、其師次伊州国清寺、敵放火々寺、士卒驚走、将軍徙陣於它云」(『碧山日録』長禄四年五月七日条)とあるように、政知の居留地である伊豆国清寺に成氏方の軍勢が放火し、政知以下は陣所を他所へ移したという。これがきっかけになったのかは不明だが、政知は狩野川東、願成就院北方の高台に新たに御所を移している

 5月に入り、上洛していた渋川義鏡の被官「板倉(板倉頼次)「参豆州、去月廿六日上洛之由」を豆州様政知に報告。同月、「昌賢(長尾左衛門景仲入道)もまた「豆州参」じたという(『香蔵院珍祐記録』長禄四年五月「韮山町史」第三巻)。この長尾の来訪は5月7日の敵勢襲来により焼失した政知の旧御所「奈古谷国請寺造営之」の件についてか。この国清寺は山内上杉家所縁の寺でもあったためである。

 8月、「使下自豆州、可有御越山之由、在其聞、但御延引」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年八月「韮山町史」第三巻)との風聞がふたたび鎌倉に立っている。この風聞は京都にも届いており、8月22日、将軍義政は「就関東時宜、可被越箱根山之旨、其聞候、事実者、不可然候「此條先度申下」しており、鎌倉下向の企ては「一向可為不忠候」と強く批判している。この御教書は「豆州様」左馬頭政知のみならず、「右兵衛佐殿(渋川義鏡)にも遣わされ、政知の鎌倉下向は厳禁としている(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)

●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)

就関東時宜、可被越箱根山之旨、其聞候、事実者、不可然候、此條先度申下之處、無左右楚忽之企、一向可為不忠候、相構不能注進、不可有聊爾之儀、委曲勝元可申之状如件

  八月廿二日       御判(足利義政)
    左馬頭殿

●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)

可被越箱根山之由風聞、事実者、不可然候、此趣先度申下之處、楚忽之企候哉、相構々々不可有聊爾儀候、巨細勝元可申候也

  八月廿二日       御判(足利義政)
    右兵衛佐殿

 その後も上杉方の敗戦が続いており、政知は閏9月中旬に京都に「朝日」を上洛させて関東の情勢を報告している。それによれば、「関東事以外云々、京都御方悉以打負了」という状況で、成氏勢の勢いが相当大きくなっていることを示していた。

●長禄4(1460)年閏9月27日『大乗院寺社雑事記』(「韮山町史」第三巻)

関東事以外云々、京都御方悉以打負了、仍朝日令上洛注進此子細、一天大儀且不可過之者歟

      +―上杉清方―――上杉房定――+―女子
      |(兵庫頭)  (民部大輔) | ∥―――――伊達稙宗
      |              | 伊達尚宗 (左京大夫)
      |              |(大膳大夫)
      |              |
      |              +―上杉顕定
      |               (民部大輔)
      |                ↓
      |       【関東管領】  【関東管領】
      |      +―上杉房顕====上杉顕定
      |      |(兵部少輔)  (民部大輔)
      |      |
【関東管領】|【関東管領】|【関東管領】
 上杉房方―+―上杉憲実―+―上杉憲忠
(民部大輔) (安房守)  (右京亮)
               ∥
 上杉氏定―+―上杉持朝―+―女子     千葉実胤
(弾正少弼)|(修理大夫)|       (七郎)
      |      |        ∥
      +―女子   +―上杉顕房―――女子
        ∥    |(三郎)  
        ∥    |       
        ∥    +―上杉朝昌―――上杉朝良
        ∥    |(刑部少輔) (治部少輔)
        ∥    |        ↓
        ∥    +―上杉定正===上杉朝良
        ∥     (修理大輔) (治部少輔)
        ∥
        ∥――――――今川義忠
        ∥     (治部大輔)
 今川範政―――今川範忠   ∥――――――今川氏親
(上総介)  (上総介)   ∥     (上総介)
               ∥
        伊勢盛定―+―女子
       (備中守) |(北側殿)
             |
             +―伊勢盛時―――伊勢氏綱
              (新九郎)  (左京大夫)

 また、左馬頭政知の勢力は「豆州時宜、事外無人数」という状況にあった。支えるべき今川勢が対応できていなかったことがわかる。今川家では長禄4(1460)年正月の鎌倉撤退ののち、病に臥せり、翌寛正2(1461)年5月26日に薨去(『今川家略記』範忠項)して嫡子義忠が今川家を継承しており、今川家内でも落ち着かない状況にあったと思われる。そして同年12月21日、室町殿より今川家に伊豆の左馬頭政知への支援のため「早速被打越、日致忠節」を命じる御内書案が作成され、寛正3(1462)年2月10日に御判が記されて「今川治部大輔殿(今川義忠)」へ送達されている(『足利家御内書案』)

「千葉介」自胤と、兄実胤の隠遁

 武蔵国へ遁れた千葉七郎実胤千葉次郎自胤の兄弟は、康正2(1456)年正月19日の市川落城以降、四年後の長禄4(1460)年4月19日まで名が見えず、詳細な動静は不明である。

 おそらくこの四年の間に、兄・七郎実胤は扇谷上杉家の故顕房(康正2(1456)年正月24日、「夜瀬」で討死。享年二十一)の娘を娶り、「千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候」(『太田道灌状』)となった。一方で、弟の自胤は山内上杉家の家宰・長尾四郎右衛門尉景信の女子(龍興院殿)を娶り、それぞれ扇谷上杉家と山内上杉家の影響下にあった。ただ、七郎実胤は千葉家の家督継承を放棄したのか、長禄4(1460)年4月当時、弟の次郎自胤が「千葉介」を公認されている。それは『将軍家御内書』からも明らかであるが、とくに両者に確執は見られず、将軍義政は弟・千葉介自胤に対して、「舎兄七郎隠遁」の帰参を促す御内書を送達しており、実胤自胤両名は互いに繋がりが保たれていたと考えられる。 

 長尾景仲―+―長尾景信―――+―長尾景春
(左衛門尉)|(四郎右衛門尉)|(四郎左衛門尉)
      |        |
      |        +――女子
      |        | (龍興院殿)
      |        |  ∥
      |        |+―千葉介自胤
      |        ||(千葉介)
      |        ||
      |        |+―――――――――――――千葉実胤
      |        |             (七郎)
      |        |              ∥
      |        |      +―上杉顕房――女子
      |        |      |(修理大夫)
      |        |      |
      |        |      +―三浦介高救
      |        |      |(三浦介)
      |        |      |
      |        | 上杉持朝―+―上杉定正
      |        |(修理大夫) (修理大夫)
      |        |        ∥
      |        +――――――――女子
      |                   
      +―長尾忠景―――――女子
      |(孫六)      ∥
      |          ∥
      +―女子       ∥
        ∥――――――――太田資長
        ∥       (太田道灌)
        太田資清    
       (太田道真)

 この頃、七郎実胤千葉介自胤「連年在陣」とあるように、比較的長い間戦陣にいたことがわかる。これはおそらく長禄3(1459)年10月中旬から武蔵国北部および上野国五十子付近で始まった、関東管領房顕(憲実次男)率いる上杉勢と「公方様」足利成氏率いる古河勢との、足掛け十八年間(文明9(1477)年正月まで)にわたる合戦「五十子合戦」であろう。市川合戦で敗れたのち、なんら由緒の所領を持たない武蔵国へ遁れていた兄弟は、上杉家の援助で所領が預けられていたと想像されるが、長禄4(1460)年4月初頭には「千葉介(自胤)」は困窮を訴えている。伊豆の左馬頭政知から京都へその旨が報告されたとみられ、長禄4(1460)年4月19日、将軍義政は政知に「千葉介困窮事」について、「堪忍候之様、別而被加下知之」を指示している(『将軍家御内書案』)

●長禄4(1460)年4月19日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)

千葉介窮困事、堪忍候之様、別而被加下知之可為本意之状如件

    四月十九日     御判      
    左馬頭殿 

 ところが、その後も千葉兄弟の「困窮」は続いており、2年後の寛正3(1462)年4月初旬、在陣のまま舎兄七郎隠遁」したとみられる。弟千葉介自胤はこの事態を管領上杉房顕(または房顕から政知へ報告)を通じて、すぐに京都へ伝えられたのだろう。

 これを知った将軍義政は、寛正3(1462)年4月23日、伊豆の「左馬頭(政知)「千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年父以下数輩討死候畢、連年在陣窮困之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意」と、歴代千葉介の忠節は他とは異なる上に、先年には父(実際は伯父)らが成氏方によって討たれて以降、連年在陣して「困窮」していると聞くので、早々になんらかの措置を取るよう命じている。

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)

千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年父以下数輩討死候畢、連年在陣窮困之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意之状如件

   卯月廿三日
    左馬頭殿 

 一方で、将軍義政は「千葉介殿(千葉介自胤)には別に「舎兄七郎隠遁」について「困窮推察」しているが、早々に帰参するよう申し含めよとする御内書を送達し、隠遁した「千葉七郎との」へも早々に「帰参」するよう指示している。なお、ここの書式の書止を見ると、自胤は「殿」で実胤は「との」と見えるように、実胤の方を薄礼で扱っており、自胤を正規の家督者「千葉介」とみていることがわかる。

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)

舎兄七郎隠遁事、被驚思食候、不日令帰参之様可申含、数年在陣窮困推察候、弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、早速遂本意候者、誠可為感悦候也

   卯月廿三日
    千葉介殿

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)

隠遁之由、其之聞候之條、被驚思食候、不日可有帰参候也

   卯月廿三日
    千葉七郎とのへ

 実はこの一月ほど前の3月中旬頃、「三浦介との(三浦介時高)「隠遁」しており、3月29日に将軍義政より帰参を促す御内書が届けられている。三浦介時高は相模守護だった扇谷上杉持朝入道の子(三浦高救)を養子に迎えるなど、扇谷上杉家と関係が深かった。実はこの頃、伊豆の左馬頭政知と扇谷上杉修理大夫入道との間で、所領(とくに兵粮料所と政知の御料所)に関して根深い対立が、政知下着以来、数年にわたって継続しており、政知は上杉修理大夫入道が相模国内で国人に設定した兵粮料所を収公して、修理大夫入道から激しい反発を買っていたとみられる。実胤も扇谷持朝入道の孫娘を妻としている「縁者」であり、政知は扇谷上杉家に関わる人々とは疎遠であったと考えられる。そして、三浦介時高の「隠遁」も、政知による兵粮料所の収公による困窮が原因であった可能性もあろう。

●寛正3(1462)年3月29日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)

飯尾左衛門大夫之種申之也
同前、以引合調之也

隠遁之由、其聞之條
、被驚思食候、早々可有帰参也

   三月廿九日
    三浦介とのへ   

 千葉実胤については、将軍義政が直々に政知へ御内書を下されており、政知は何らかの措置を講じる必要があったのだろう。困窮について兵粮料所を宛がう件で、側近の「探題」渋川右兵衛佐義鏡へ相談したのだろう。義鏡は「千葉兄弟進退」を政知に「武衞頻被執申」して千葉兄弟の困窮を訴え、彼らに「鹿王院両武州赤塚郷」を兵粮料所として与えるよう進言したのではなかろうか(寛正三年十一月廿三日「足利政知奉行人連署奉書」『鹿王院文書』)。これにより、政知より武蔵守護の管領房顕へその致指示が出され、赤塚郷が隠遁した七郎実胤に宛行がわれたのだろう。三浦介時高も同様の措置が取られたかは定かではないが、12月7日、政知が相模国で扇谷持朝入道が国人に宛がった兵粮料所収公分に関して、持朝入道に戻すよう御内書が発せられており、時高もこの例に含まれていたかもしれない。

 実胤に下された赤塚郷は、もともとは足利直義の先代闕所の恩賞地であり、その後は直義正室本光院殿(渋川貞頼女子)が譲与された所領であった。つまり、渋川氏にとっては由緒地で、渋川氏の拠点である蕨郷(蕨市)と南接していた。康暦元(1379)年6月25日、義鏡の玄祖父の妹・渋川氏(香厳院殿芳林如春)が夫・足利義詮の菩提を弔うために京都嵯峨野鹿王院の春屋妙葩へ寄進(永徳三年二月二九日「香厳院殿寄進状案」『鹿王院文書』)したことにより、鹿王院領となったものである。義鏡は「赤塚郷」を兵粮料所に指定することで、自家に取り戻すため将来的な「押領」を目指したのかもしれない。こうした事由もあって、義鏡は赤塚郷を自家の由緒地として実胤へ預けることを強く推したのだろう。

        足利宗氏―――足利高経――斯波義将―+―斯波義教――斯波義郷―――斯波義健===斯波義敏
       (尾張守)  (尾張守) (右衛門督)|(左兵衛佐)(治部大輔) (治部大輔) (左兵衛督)
                          |
                          +―女子
                            ∥―――――渋川義俊―――渋川義鏡―――斯波義廉
        高師直――――女子           ∥    (左近将監) (右兵衛佐) (左兵衛佐)
       (武蔵守)   ∥―――――渋川義行―――渋川満頼
               ∥    (右兵衛佐) (右兵衛佐)
               ∥    
 北条朝房―――娘    +―渋川直頼  
(備前守)   ∥    |(式部大輔) 
        ∥    |
        ∥――――+―源幸子
 渋川貞頼―+―渋川義季  (香厳院
(兵部大輔)|(式部丞)   ∥
      |        ∥
      +―源頼子    ∥ 
       (本光院)   ∥
        ∥      ∥
        ∥      ∥
 足利貞氏―+―足利直義   ∥
(讃岐守) |(左兵衛督)  ∥
      |        ∥
      +―足利尊氏   ∥
       (左兵衛督)  ∥
        ∥      ∥
        ∥――――――足利義詮
        ∥     (権大納言)
      +―平登子
      |
      |
 北条久時―+―北条守時
(陸奥守)  (相模守)

●寛正3(1462)年11月23日「足利政知奉行人連署奉書写」(『鹿王院文書』)

鹿王院領武州赤塚郷事、為異于他寺領之間、自最初、可被宛行兵粮料所之段、雖更無謂被思食、就千葉兄弟進退、武衞頻被執申間、先御成敗之処、如御覚語、彼地事、自京都、可被返付院家之旨、御下知之上者、可被沙汰付下地於彼雑掌、至于千葉七郎者、可被下替地、厳密可被注申相当地之由、処被仰下也、仍執達如件

 寛正三年十一月廿三日   散位(布施為基)在判
              信濃前司(朝日持清)在判
  長尾四郎右衛門尉殿 

 この「鹿王院領武州赤塚郷」については、5月頃には兵粮料所として設定され、これにより七郎実胤は隠遁から復帰したとみられる。弟の千葉介自胤は山内上杉家からこれ以外にも所領が与えられていたのか、実胤ほどの危急な状況にはなかったようである。ところが、11月に入ると鹿王院が京都の将軍義政に兵粮料所の解除を願ったようである。鹿王院は義満所願の寺院であり、豆州様政知は「為異于他寺領之間、自最初、可被宛行兵粮料所之段、雖更無謂被思食」と、自分は赤塚郷を御料所にすることは最初から乗り気ではなかったと逃げ口上を述べ、武蔵守護代「長尾四郎右衛門尉殿」に対して「自京都、可被返付院家之旨、御下知」があったため、「可被沙汰付下地於彼雑掌」ことを命じている。ただし、「至于千葉七郎者、可被下替地」を確実に相当地で埋め合わせをするよう指示している(寛正三年十一月廿三日「足利政知奉行人奉書」『鹿王院文書』)。隠遁から復帰した七郎実胤を再度隠遁させることは、将軍義政に対しても顔向けができないため、とくに強調させたのであろう。

 ただ、その後赤塚郷が鹿王院雑掌へ返付された形跡はなく、政知は寛正4(1463)年2月27日、「千葉七郎」に再度赤塚郷の鹿王院雑掌への返付を催促している(寛正四年二月廿七日「足利政知奉行人連署奉書」『鹿王院文書』)。この件は武蔵守護代長尾景信が受けており、管領房顕が管轄していることがわかる。しかし、その後も赤塚郷が鹿王院雑掌に返付されることはなく、管領房顕、景信、実胤は、政知が求める赤塚郷の鹿王院雑掌への返付を無視し続けたと思われる。

●寛正4(1463)年2月27日「足利政知奉行人連署奉書案」(『鹿王院文書』)

 (端裏書)「千葉七郎殿御奉書案文」
鹿王院領武州赤塚郷之事
任京都御成敗之旨、連可被返付寺家雑掌之由、処被仰下也、仍執達如件

 寛正四年二月廿七日    散位(布施為基)在判
              信濃前司(朝日持清)在判
  千葉七郎殿 

 一方で将軍義政は「上杉修理太夫入道」が過去に兵粮料所として相模国人に預け置いていた土地を近年、「左馬頭」が取り上げる措置を取っていることを「不可然」と断じ、「度々忠節異于他上者、如元無相違之様、可有下知」するよう命じている(寛正三年十二月七日「将軍家御内書案」『御内書案御内書引付』神:6285、6286)。相模国は扇谷上杉家の支配地域であることから、伊豆国に下向した政知は経済的基盤となる御料所が極めて乏しかったことから、御料所を確保するため、隣国相模国にこうした措置を取っていた可能性もあろう。

 

 この頃、政知は国清寺の御所を焼き討ちされて、西の狩野川辺の守山周辺に新たな御所を建造している時期であった。こうした中、7月末頃には堀越公方政知は今川氏不在となった鎌倉に入って勢力拡大を図ろうとしたか、「可被越箱根山」という計画を立てたが、上杉氏を通じてか将軍義政の知るところとなり、8月22日に将軍義政は「粗忽之企一向可為不忠候」と強い調子で中止を命じる御内書を発し、渋川義鏡に対しても叱責している(『御内書案』)

 同年8月26日、房顕を支えた「長尾左衛門大夫入道(景仲入道昌賢)が鎌倉で病死する。享年七十六(『双林寺所蔵記録』)。すでに家督は長男・四郎左衛門尉景信が継承していたが、房顕の落胆は大きかったようで、昌賢入道死去の報を受けた将軍義政は10月5日、「長尾左衛門大夫入道死去之由其聞候、不便候、心中併被察思召候也」という御内書を送っている(『将軍家御内書案』)

●寛正4(1463)年10月5日「将軍家御内書案」

長尾左衛門大夫入道死去之由其聞候、不便候、心中併被察思召候也

  十月五日    御判
   上椙兵部少輔殿

  同日      引合
父昌賢死去事、不便被思召候也
  同日      御判
   長尾四郎右衛門尉とのへ

 そして12月中旬、関東管領「上椙兵部少輔(房顕)」は関東管領職の「職事辞退」を上表(寛正四年十二月廿六日「足利将軍家御内書案」)した。ただし、これを受けた将軍義政は12月26日、「職事辞退之條、不可然候、如先々可有輔佐也」とその辞職を慰留して、これまで通り堀越公方政知の補佐を命じたことから、房顕は関東管領職に留まっている。

●寛正4(1463)年12月26日「足利将軍家御内書案」

 飯尾左衛門申之 寛正五正十六調進 引合
職事辞退之條不可然候、如先々可有補佐也

 寛正四癸未
  十二月廿六日   御判(足利義政)
   上杉兵部少輔とのへ

 なかなか寺家雑掌へ返付されない赤塚郷に関しては、12月上旬頃に政知は奉行人奉書(現存せず)を通じて管領上杉房顕に寺家雑掌への返付を命じたが、房顕は「職御上表候間、被返進御奉書候」と、関東管領職の上表(この上表は後日12月26日に京都で不受理されているため、この時点で関東には京都の決定は伝わっていない)をしていることを理由に、返付を命じた奉行人奉書(現存せず)を政知につき返している事実上の赤塚郷の返付拒否であった。

 奉行人奉書が戻された政知は、12月28日に長尾景信に再度の返付を命じている(寛正四年十二月廿八日「足利政知奉行人奉書」『鹿王院文書』)。これは京都から強い要求があった可能性もあるが、奉行人奉書が受け取られなかったことに政知は「如何存知候」と強く批判。「既先度如御申候者、雖縦職上表之儀候、在職可為同前、於被仰出候子細者、可有御成敗之由御申候き」と、この件は房顕の管領上表以前から申し渡している事であり、たとえ上表していても、在職時と何ら変わらず対処すべしと命じたのであった。伊豆守護代とも思われる寺尾礼春(山内上杉家被官)からも房顕に披露するよう副状が長尾景信に遣わされている。

●寛正4(1463)年12月28日「足利政知奉行人奉書案」(『鹿王院文書』

被仰出鹿王院領赤塚郷事職御上表候間、被返進御奉書候、如何存知候、既先度如御申候者、雖縦職上表之儀候、在職可為同前、於被仰出候子細者、可有御成敗之由御申候き、然上者、於此地者、可被沙汰付寺家雑掌候者、可然存候由、可有御申沙汰候、委細者、自寺尾方可被申候、恐々謹言

  十二月廿八日   散位為基在判
 謹上 長尾四郎右衛門尉殿

●寛正4(1463)年12月29日「寺尾礼春披露状案」(『鹿王院文書』

就鹿王院領赤塚郷之事、先度被成御奉書候処、御職御上表之間、被返進候哉、然自布施民部大夫方以状申候、依之自私も可言上仕候由、被仰出候、任御成敗之旨、被仰付候者、可然候哉、此段可預御披露候、恐々謹言

  十二月廿九日   沙弥礼春在判
 謹上 長尾四郎右衛門尉殿

 結局、これまでしても赤塚郷は鹿王院雑掌へ返付されなかった。その後、赤塚郷について『鹿王院文書』には見られないが、この直後に起こった「応仁の乱」により嵯峨野は戦火に巻き込まれ、鹿王院もまたその被害を受けて全焼。再建されるも混乱の中で遠い赤塚郷の件は有耶無耶になってしまったのではなかろうか。室町末期の武蔵千葉氏の所領として「赤塚六ケ村」が見られるため(『小田原衆所領役帳』:塙保己一編『続群書類従 第25輯上』続群書類従完成会)、赤塚郷は結局鹿王院に返付されることなく、武蔵千葉家の根本私領となっていったのだろう。

●『小田原衆所領役帳』より

     一 千葉殿

  八拾貫文    江戸  赤塚六ヶ村 (板橋区赤塚付近)
  四拾貫文    同   新倉    (和光市新倉)
  廿貫文     小机  上丸子   (川崎市上丸子)
  卅五貫文    葛西  上平井   (葛飾区新小岩)
  百八拾五貫文  下足立 淵江    (足立区保木間淵江)
  卅五貫文    同   沼田村   (足立区上沼田)
  卅貫文     同   伊興村   (足立区伊興)
  拾五貫文    同   保木間村  (足立区保木間)
  拾五貫文    同   専住村   (足立区千住)
  六貫文     同   三俣    (墨田区墨田五丁目)
  拾貫文     上足立 内野郷   (さいたま市大宮区内野)
  三貫文     同   大窪村   (さいたま市桜区大久保領家周辺)
  一貫文     同   大多窪   (さいたま市緑区太田窪)

    以上 四百七拾五貫文

   春松院殿様御代より高除不入 於自今以後一切不被成候 
   但御人数者 其改可有之

「千葉介」自胤と、兄実胤の隠遁

 寛正5(1464)年10月、関東管領房顕は再度管領職の上表をした。寛正4(1463)年末に続いて二度目の上表である。この報告を受けた将軍義政は、10月16日「大不可然、所詮如元可輔佐之旨、可令申合給」よう、「左馬頭殿」へ申し伝えている(『足利将軍家御内書案』)。これにより、房顕はふたたび上表を撤回したと思われる。

 寛正6(1465)年9月、「今度自五十子勢、仕御敵数輩令降参候、目出候、仍政憲事、此刻可令出陣之由、豆州様被仰出」た。ここに見える上杉四郎政憲は、上杉禅秀の孫にあたり、父の上杉治部少輔教朝は政知の関東下向に供奉して以降側近となっていた人物である。ところが、政知近臣の教朝は寛正2(1461)年に「疫死」(『上杉長尾系図』)したため、同年10月23日、将軍義政が「左馬頭(政知)「政憲令下向候」したので「諸篇被加諷諫候」ように指示している。政憲の関東下向は比較的大きな事項だったようで、探題「右京佐(右兵衛佐義鏡か)にも「上椙四郎令下向」したので「毎事加諷諫扶助」を指示している。また、同日に在関東の「上椙兵部少輔(管領上杉房顕)」「上椙民部大輔(越後上杉房定)」「上椙修理大夫入道(扇谷上杉持朝)の上杉家当主三名に対しても「政憲令下向候、諸事無等閑、扶助候」ことを指示している(『将軍家御内書案』)。寛正3(1462)年までの扇谷上杉修理大夫との対立関係が一応解消されたが、当然ぎくしゃくした関係にはあったと推測されるため、義政は関東上杉三家に対してこうした書状を送ったのだろう。

 そして寛正6(1465)年9月19日、伊豆北条を出陣した上杉政憲は「越筥根山、相州扣馬ヲ、近日武州可進御旗候」との注進状を10月6日に認め、京都の蜷川親元に送達している(『親元日記』寛正六年十月十二日条)。その後、政憲は伊豆左馬頭政知の代将として武蔵国に進出して扇谷上杉勢と合流し、成氏勢と激しく合戦するが、寛正7(1466)年2月12日に関東管領房顕が上野五十子陣で病死(『旅宿問答』)するという事件が起こった。法名は大光院殿清岳道純。上杉房顕には継嗣がなかったため、房顕の従兄弟子・上杉四郎顕定が山内上杉家当主と定められた。

 上杉憲方―+―上杉房方―+―高倉朝方―――上杉房朝===上杉房定
(安房守) |(安房守) |(民部大輔) (民部大輔) (相模守)
      |      |
      |      +―山浦頼方
      |      |(七郎)
      |      |
      |      +―上杉憲実―+―上杉憲忠
      |      |(安房守) |(右京亮)
      |      |      |
      |      +―上杉重方 +―上杉房顕===上杉顕定
      |      |(三郎)   |(兵部少輔) (四郎)
      |      |      |
      |      |      +=佐竹実定
      |      |       (左京大夫)
      |      |
      |      +―上杉清方―+―上杉房定―+―上杉定昌
      |       (兵庫頭) |(相模守) |(民部大輔)
      |             |      |
      |             +―上条房実 +―上杉顕定
      |              (淡路守)  (四郎)
      |      
      +―上杉憲定―+―上杉憲基===上杉憲実
       (安房守) |(安房守)  (安房守)
             |
             +―佐竹義人―+―佐竹義俊
              (右京大夫)|(右京大夫)
                    |
                    +―佐竹実定
                     (左京大夫)

 なお、七郎実胤及び千葉介自胤の記録はこの頃とくにみられないが、やはり五十子陣の一将として活動していたのだろう。

 文明3(1471)年4月、関東管領上杉四郎顕定は、家宰の長尾四郎左衛門尉景信(自胤岳父)を古河へ派遣した。これに成氏を支え続けた小山下野守持政が恭順。さらに小田太郎成治佐野愛寿らも京都の命に従って長尾勢に合流して、古河方が支配する足利庄に攻め入り、4月15日には足利庄赤見城を攻略。続けて樺崎城も攻め落とし、成氏近臣の「南式部大輔父子」を討ち取っている(『豊嶋勘解由左衛門尉宛感状』:豊島宮城文書)。長尾勢は5月には古河城を攻め、奉公衆の沼田、高、三浦などを討ち取り、6月24日には古河を攻め落とした

 こうして「成氏古河城没落、移千葉館」「古河没落、御陣千葉御動座」(『鎌倉大日記』)とあるように、古河御所を追われた成氏は、千葉介孝胤(岩橋輔胤子)を頼って下総国千葉庄へと遁れた。当時孝胤は「康胤御子胤持、輔胤、孝胤、勝胤まで以上五世は平山におはしければ」(『千学集抜粋』)と見えるように、千葉庄平山城緑区平山町を居城としていた可能性があり、千葉の宗教都市とは都川で繋がる利便性のある要衝でもあった。成氏が庇護された「千葉舘」が千葉か平山城かは定かではないが、孝胤の強い影響力のある場所に住まっていたのだろう。同年7月21日には千葉介無二補佐申之際、先以御心安候」という書状を茂木式部大夫(茂木持朝)へ送っており、孝胤から手厚い保護を受けていたことがうかがえる(『足利成氏書状』茂木文書)

 そして文明3(1471)年後半、成氏方の結城城主・結城氏広「社家様」こと鶴岡八幡宮別当のせん (成氏弟)を奉じ、白河結城直朝へも加勢を要請したうえで挙兵し、これに応じた成氏も千葉から進発。文明4(1472)年2月、古河を奪還している

 古河御所周辺から退いた山内上杉勢は、武蔵国五十子陣本庄市東五十子全域に戻り、利根川を挟んで成氏勢と対峙していたが、翌文明5(1473)年6月23日、山内上杉家執事・長尾四郎右衛門尉景信(玉泉庵)が五十子陣に亡くなった。享年六十一。管領顕定入道はその跡に、なぜか景信嫡子の四郎右衛門尉景春ではなく、景信弟の長尾尾張守景忠を任じた。このため景春は強い反発心を抱いてしまう。この混乱の中で古河勢は五十子陣を攻め、11月24日には扇谷上杉家の当主・修理大夫政真が二十二歳の若さで討死を遂げた。政真に子はなく、跡は叔父の上杉修理大夫定正が継承する。

●山内上杉家宰長尾家

 長尾景仲―+―長尾景信――長尾景春
(左衛門尉)|(左衛門尉)(四郎右衛門尉)
      |
      +―長尾景忠
       (尾張守)

山内上杉家
扇谷上杉家
古河公方
(山内)上杉右馬助顕定入道 足利成氏
(扇谷)上杉修理大夫定正 長尾四郎右衛門尉景春
(山内執事)長尾尾張守景忠 豊島勘解由左衛門尉泰経
(扇谷執事)太田備中入道道真 豊島平衛門尉泰明
太田左衛門入道道灌  
太田図書助資忠  
上杉刑部少輔朝昌  
三浦介義同  
千葉介自胤  

 そして文明8(1476)年3月3日、予てより主家に強い反発心を抱いていた長尾四郎右衛門尉景春は、主の管領顕定入道へ叛旗を翻し、五十子陣を退転して武蔵国鉢形城(大里郡寄居町)へ移り、翌文明9(1477)年正月18日、五十子を急襲した。このときの景春には、石神井城主の豊島勘解由左衛門尉泰経豊島平衛門尉泰明兄弟も加わっており、管領顕定入道、修理大夫定正らは太田備中入道道真を殿軍として退却し、利根川を渡って上野国那波庄まで退くこととなる。

 この主家の危機を知った太田左衛門入道道灌(道真の子)は、昨年10月から居住していた江戸城を発ち、河越城(川越市)を弟・太田図書助資忠に、江戸城を上杉刑部少輔朝昌(扇谷定正弟)三浦介義同(扇谷定正甥)千葉介自胤に任せると、3月18日、長尾景春方の溝呂木城(厚木市)越後五郎四郎小磯城(中郡大磯町)を攻落し、金子掃部助の守る小沢城(愛甲郡相川町)にも攻め寄せた。

 一方、太田道灌の進軍を聞いた長尾景春は、河越城に矢野兵庫助を派遣。4月10日、道灌の弟・太田図書資忠らと勝原で合戦するも大敗している。

 4月13日には「太田道灌、上杉刑部少輔(朝昌)、千葉介自胤」『鎌倉大草紙』ら扇谷上杉勢と、景春与党の豊島泰経、泰明江古田・沼袋(中野区江古田)で激戦し、長尾勢はふたたび敗北。豊島泰経が討死した『太田道灌状』

 景春自身も太田道灌の軍勢に敗れ、武蔵国鉢形城に逃れた。これを知った足利成氏は、7月初旬、景春を救援するため、結城、那須、佐々木、横瀬らを従えて自ら出陣し、山内上杉顕定・扇谷上杉定正を上野国白井まで追い落とした。

 10月に入ると、景春長尾六郎為景(越後長尾家)は成氏の加勢を得て荒巻に布陣し、上杉勢を待ち受けたが、上杉勢は戦わずに退いたのでそのまま帰陣。両上杉家と古河公方の間に和議が整い、翌文明10(1478)年正月2日、成氏は武蔵国成田(熊谷市上之)へ引き上げた。正月24日には、扇谷定正も太田道灌とともに河越城へと引き上げ、成氏と上杉家の二十年にわたる戦乱は収束した。

―境根原合戦~臼井合戦―

臼井城
臼井城本丸より三の丸を望む

 千葉介孝胤はかつて古河を追われた成氏を下総千葉庄に保護するなど、一貫して成氏を擁護していたが、文明10(1478)年正月の成氏・上杉家の和睦には大反対した。このため成氏と孝胤の関係は悪化。これを好機と見た扇谷上杉定正の家宰・太田道灌は古河に遣いを送って孝胤追討の許しを足利成氏から得ることに成功した。

 承諾を得た道灌は、千葉介自胤を下総の主とするべく、各地で太田勢を率いる弟・太田図書助資忠を自胤に付随させ、万全の態勢をとって下総へ攻め込んだ。太田道灌と自胤の関係は、「灌公収在武者」(『梅花無尽蔵』)とある通り、非常に深いものがあった。このころ、万里集九は千葉介自胤へ献上する扇(西湘八景が描かれている)の賛を某氏から依頼されており、その賛が『梅花無尽蔵』掲載されている。

 太田・自胤勢は太日川を渡河して葛飾郡へ進み、 千葉介孝胤の軍勢と対峙。「十二月十日、於下総境根原、令合戦得勝利」『太田道灌状』と、千葉介孝胤の軍勢を潰走させた(境根合戦)。このとき千葉介孝胤の先陣となって展開していた原二郎、木内、津布良左京亮、匝瑳勘解由といった将士数百人が討死を遂げており、孝胤は敗残の軍勢をまとめて臼井城(印旛郡臼井台)へ退いて籠城した。

太田図書の墓
太田図書資忠の墓(臼井城内)

 翌文明11(1479)年正月18日、太田勢と自胤は孝胤を追って臼井城を包囲した。しかし孝胤が籠った臼井城は「惣構」で知られる堅城であり、攻めあぐねた。このため太田・自胤勢からは帰国してしまう者が続出。自胤はただちに陣へ戻るよう命じたが従わず、臼井城に攻め入った太田道灌の弟・図書助資忠は討死を遂げた『太田道灌状』。結果、太田勢と自胤は臼井城を攻め落とすことができず、武蔵国へ帰国していった。討たれた太田図書の遺体は臼井城下に丁重に葬られた。

 しかし、退却したはずの千葉介自胤のもとには、「海上備中守」「武田上総介(信隆?)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服し、武田参河入道は子息・式部丞(信嗣?)を国元に残してみずから武蔵国へと赴いている『太田道灌状』。武蔵石浜へ移った武田信興入道は、金龍山浅草寺を再建し、その後ふたたび上総長南城に戻った。上総武田氏は小弓原氏と対立しており、上杉家との関係強化を狙ったものと思われるが、遠く離れた海上備中守が自胤に通じた理由は不明。同じころに海上氏では「海上芳翁」の嫡男「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され、弟「海上正翁」が継いだといったような内部抗争が起こっており(『千学集抜粋』)、これが関係しているのかもしれない。

●『御土御門天皇綸旨写』(『武州文書』)

就当寺回禄、上総国住人武田参河入道道鑑可建立云々、神妙之至無比類者也、禰宜奉祈宝祚長久者、天気如此、悉之以状、
 
  明応八年七月九日  右少弁(花押:勧修寺尚顕)
   武州金龍山浅草寺衆僧中

 『鎌倉大草子』には、自胤はこの後臼井城を陥れて城代を置いたとされているが、太田勢と自胤の手勢で落ちなかった城が、自胤勢だけで陥落するとは思えず、自胤が武蔵へ帰国した事実があることから、臼井城は陥落せず、上杉氏の下総攻略は失敗したといえる。

 太田道灌、千葉介自胤は境根合戦よりも前から下総への侵入を試みていたと思われ、原氏の被官であったと推測される高城一族が文明8(1476)年に相次いで没している各地の高城一族。高城氏の領地は江戸川沿岸を堤防のように配置されていること、ちょうど文明年中から歴史上に姿を見せはじめることから、この地の領主であった原一族が、被官の高城氏を同地に配したか、土地の有力豪族「高木」氏を取り立てたとも思われる。

没年 月日 名前 場所
文明6(1474)年 6月16日 妙林尼 我孫子(我孫子市)
文明8(1476)年 3月21日 高城孫八 馬橋(松戸市馬橋) 
4月2日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
10月17日 妙泉尼 我孫子(我孫子市) 
文明14(1482)年 閏7月28日 高城六郎左衛門 花井(?)
文明15(1483)年 3月7日 高城安芸入道 馬橋(松戸市馬橋) 
延徳2(1490)年 閏7月19日 高城新右衛門 栗ヶ沢(松戸市栗ヶ沢)
延徳4(1492)年 6月17日 高城彦六 花井(?)
明応4(1495)年 6月17日 高城安芸道友入道 馬橋(松戸市馬橋) 
明応6(1497)年 2月29日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正10(1513)年 1月9日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
永正11(1514)年 7月27日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正12(1515)年 2月25日 高城和泉守 我孫子(我孫子市) 

 扇谷上杉家による自胤の下総攻略が失敗した翌年の文明12(1480)年には、自胤の兄・七郎実胤は「当方(扇谷上杉)縁者」ながら、山内上杉家の被官「大石々見守」の招きで「葛西」に赴いている『太田道灌状』。これは管領上杉顕定のもとに古河公方成氏から実胤についての「公方様内々被申旨候」があったためであろう(『太田道灌状』)。山内上杉氏は「胤直の一跡として、実胤を千葉介に任じ、上杉より下総へ指遣」『鎌倉大草紙』と、実胤の下総帰還を見計らい、成氏と交渉していたのだろう。これに成氏も合意して、実胤を下総国へ入れるために、葛西へ実胤を招き入れたと思われる。ところが、この事実を知った「孝胤」が成氏のもとに「出頭」して猛抗議したため、「無御許容」となってしまう。結局、実胤の下総帰還は失敗に終わり「濃州江流落」したという『太田道灌状』

◎『太田道灌状』(『北区史』中世編所収)

千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候公方様内々被申旨候、雖然孝胤出頭事候之間無御許容、濃州江流落候、

 結果として実胤下総千葉介就任は失敗に終わり、美濃へ下ったのちの消息は不明である。かつて馬加陸奥入道、原越後守を討つためにともに戦った美濃郡上の東氏を頼ったとも思われるが、東氏の伝の中に実胤の記述はない。

 自胤もまた明応2(1493)年12月6日、武蔵国三間田墨田区墨田五丁目で没した(『本土寺過去帳』)。享年不詳。法名は松月院殿。実胤の美濃隠遁ののち、自胤が継承した兵糧料所の赤塚郷は済し崩し的に武蔵千葉氏の知行地となり、自胤は延徳4(1492)年に赤塚郷内の鎌倉時代以来の古刹宝持寺を中興して、開基となって菩提寺とし、延徳4(1492)年11月5日、赤塚郷内の知行地から上がる年貢から計二十二貫文余と赤塚郷戸田(戸田市戸田)・袋野(不詳)を寄進することを約している『千葉玄参寄進状写』。寺号の「松月院」は自胤の法名に因んで付けられたものか。すでに赤塚郷は武蔵千葉氏の私領となっていたことがうかがえる。

 松月院の境内には自胤(千葉介自秀)の墓と伝わる宝篋印塔や妻室と伝える女性(龍興院殿了室覚公大姉)の墓(延徳元(1489)年9月15日没)が遺されている。

●系譜上で彼の兄の孫にあたる「二郎太郎良胤」という人物の法名は松月院であり、さらに良胤は「自秀」、松月院に伝わる「千葉介自秀」の位牌の法名は「松月院殿南州玄参大禅定門」であることから、自胤=良胤=自秀=玄参=松月院であろう。ただし、松月院の自秀位牌に見える没年は「永正三丙寅(1506)六月二十三日」とあり、『本土寺過去帳』の自胤没年である明応2(1493)年12月6日とは13年の開きがある。

●明応元(1492)年11月5日『千葉玄参寄進状写』(『松月院文書』)

 
 奉寄進 宝持寺
 
赤塚郷年貢之内、弐拾貫文、同谷田之年貢弐貫文、并平沼作田伍反、同郷内戸田、袋野之事、永代可有御成敗状、如件、
 
    延徳四年十一月五日  玄参(花押)
     宝持寺

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 参考までに、千葉自胤と同一人物と思われる「千葉自秀」「千葉良胤」「千葉惟胤」の事歴を下に記載。

▲千葉自秀(????-1506)

『千葉大系図』によれば、千葉介兼胤の弟。通称は七郎二郎。法号は元三

▲千葉良胤(????-1506)

 『千葉大系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は二郎。『松羅館本千葉系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は次郎。号は松月院(=千葉自胤)。「良」と「自」の誤記が伝わっていると思われる。

 具体的な事歴はなく、永正3(1506)年6月23日に亡くなったとされる。法名は松月院南州玄参

▲千葉惟胤(????-????)

 『千葉大系図』によれば、千葉良胤の子。通称は二郎太郎。大系図の中では「雅胤」『松羅館本千葉系図』によれば、千葉良胤の子。通称ほか不明。「惟・自」はともに「これ」とも読まれることから、千葉自胤と同一人物を指しているのだろう。

●康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状写』(『武家事紀所収文書』)

  …略…
 
千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心、宇都宮下野守等綱等、如合符所々江令蜂起處、千葉陸奥入道常義父子存貞節、属御方間、相副諸軍於総州多胡、志摩両城決雌雄、千葉介入道兄弟、同専一家人円城寺下野守一族以下千餘人討取候、餘党等尚以同国市川ニ構城郭候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討候了、
 
  …略…
 
庶幾者速預無為御返事候者、誠以可為都鄙安泰基候、此趣具被懸尊意候者、所仰候、
恐々謹言
 
   四月四日              成氏
    三條殿

●『太田道灌状』①(『北区史』所収)

一、千葉介孝胤御退治事、古河様江申成、自胤為合力向彼国、当方進発事好様存方も候歟、既都鄙御合体不庶幾旨、自最初孝胤被申者無覚悟候、特景春許容候之上、自胤為本意、鉢形様修理大夫彼方へ有御談合、関東御無為儀者、於以後小人頭不可出候間、以旁々儀廻其略、十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年向臼井城被寄陣候、長陣事候之間諸勢打帰難事成候之間、可被寄御旗旨度々被申候処無其儀候間、果而及凶事帰国候、雖然下総海上備中守上総州ニハ上総介武田三河入道者子息式部丞国差置、自胤方令帰服当国へ罷越候、両国為体如比候之間、於臼井城下同名図書助中納言以下親類、傍輩、被官人等数輩致討死候、比矢取合致校量候之処、遥御方御徳分候、其故者、知已前両総州為全、古河様御刷、如今者恐者可為御大儀候歟、

●『太田道灌状』②(『北区史』所収)

一、自胤事者、江古田原合戦時、刑部少輔一所馳加、自身被打太刀、上州自御下向刻、江戸城へ籠給候、彼家風中度々合戦、動無比類候、

●『梅花無尽蔵』(『五山文学新集』第六:『北区史』所収)

    便面 八景、或需讃、献千葉、蓋上総下総、千葉所管也、今寓武州者
       与上下総之千葉矛盾、一門分為二、灌公救在武者
 
  雪月碧湘煙雨後、漁歌鐘色送飛鴻、片帆千里売花市、上下総帰君握中
 
   蓋祝寓武之千葉惟種

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

© 1997- ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。