継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(????-1202)
生没年 | ????~建仁2(1202)年7月7日(『本土寺過去帳』) |
父 | 下総権介平常胤 |
母 | 秩父太郎大夫重弘中女 |
官位 | 不明 |
官職 | 不明 |
所在 | 下総国千葉庄 |
法号 | 西岸慶宥院・常仙院殿観宥 |
墓所 | 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か)? |
千葉氏五代。父は三代・千葉介常胤。母は秩父重弘中娘。通称は太郎、千葉新介のち千葉介。
永治元(1141)年4月1日生まれとされるが(『千葉大系図』)、弟・相馬次郎師常は元久2(1205)年11月15日に六十七歳で「令端坐合掌、更不動揺」(『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条)とあるので、師常は保延5(1139)年生まれとなることから、胤正の実際の生年は保延5(1139)年以前となる。。
千葉・秩父・佐々木系図
●平良文―忠頼―+―忠常――――常将――――常長――――常兼―――――――千葉常重――常胤 +―胤正(千葉介)
(五郎)(次郎)|(上総介) (上総権介)(上総権介)(上総権介) (下総権介)(下総権介) |
| ∥―――――+―師常(相馬次郎)
| ∥ |
+―秩父将常――武基――――武綱――+―重綱―――――+―重弘――+―娘 +―胤盛(武石三郎)
(別当大夫)(別当) (十郎) |(留守所惣検校)|(大夫) | |
| | | +―胤信(大須賀四郎)
| | | |
| | | +―胤通(国分五郎)
| | | |
| | +―畠山重能 +―胤頼(東六郎大夫)
| | |(畠山庄司)
| | | ∥
| | | ∥――――――重忠
| | |三浦義明娘 (次郎)
| | | ∥
| | | ∥―――――重保
| | |北条時政―――+―娘
| | | |
| | | +―北条義時
| | | |
| | | +―娘
| | | ∥―――――重政
| | +―小山田有重―+―稲毛重成
| | (別当) |
| | +―榛谷重朝
| |
| +―重隆――+―能隆――――――河越重頼―+―重房
| |(惣検校)|(葛貫別当) (惣検校) |
| | | +―娘
| | +―娘 | ∥
| | ∥ | 源義経
| | 源義賢 |
| | +―娘
| | ∥
| +―江戸重継――重長――――――忠重 下河辺政義
| (太郎) (太郎)
|
+―小机基家―――――河崎重家―+―中山重実 +―重助
(六郎) (三大夫) |(次郎) |
| |
+―渋谷重国―+―娘
(庄司) ∥
∥―――――義清
∥ (五郎)
佐々木秀義
(源三)
流人時代の頼朝は、胤正実弟・千葉六郎胤頼と三浦荒次郎義澄と交流があり、千葉介常胤と三浦大介義明は何らかの形で頼朝に援助の手を差し伸べていたのかもしれない。
治承4(1180)年5月、京都では、以仁王(後白河院の皇子)と源三位頼政入道が結んで「清盛法師并宗盛等」の討伐を目的として挙兵(以仁王の乱)したものの、京都から馳せ下った検非違使の追捕により源三位頼政入道は宇治平等院で自害。以仁王はさらに南の木津川の綺田河原で討たれた。なおこのとき、以仁王の近侍だった胤正の異母兄・園城寺律静房日胤が綺田の大寺・光明山寺の鳥居前で戦死している(『玉葉』治承四年五月廿六日条)。
以仁王の乱が鎮定されたのち、六郎胤頼は三浦次郎義澄とともに東国へ帰国を企てるも、両名は「依宇治懸合戦等事、為官兵被抑留之間」とあるように身柄を拘束された。胤頼の兄「律上房(日胤)」が乱の「張本」(『玉葉』治承四年五月十九日条)である以上、胤頼は当然嫌疑をかけられただろうが、三浦義澄が拘束された理由は不明。しかし、半月ほど拘留されたのち胤頼たちは釈放され、帰国の途についた。胤頼・義澄が具体的に宇治合戦に関わった証左はないが、胤頼の周辺を見ると乱に関わった人物が散見され、胤頼・義澄も関係していた可能性は高いだろう。
東下した胤頼と三浦義澄はまず伊豆国田方郡北条の前右兵衛権佐源頼朝のもとを訪れた。ここで彼らは以仁王や頼政入道の挙兵や京都における平家政権の状態を告げたと思われる。以仁王の乱が勃発するまで伊豆国は源頼政入道が知行国主であり、目代も頼政入道所縁の人物であったと考えられ、承安2(1172)年7月9日以前から続いていた「頼政朝臣知行国」(『玉葉』承安二年七月九日条)のもと、下総国八条院領の下河辺庄司である下河辺氏、その一族で乳母家の小山氏らとの接触など、頼政の関係者との接触はそれほど厳しいものではなかったのかもしれない。
ところが、以仁王の乱によって、頼政入道知行国の伊豆国は収公され、平清盛の義弟・平時忠が知行国主に代り、伊豆守は時忠養子の平時兼、目代は当国流人の平兼隆が起用された。兼隆は治承3(1179)年正月19日に父・平信兼の申請によって「解官右衛門尉平兼隆」(『山槐記』治承三年正月十九日条)されて伊豆国へ流されるという稀有な人物で、在所は北条館に近い山木郷であった。兼隆は安元2(1176)年、平時忠が検非違使別当であった時期に「右衛門尉正六位上 平兼隆」と初見されることから、別当時忠のもとおよそ半年あまり(時忠辞官)その指揮下にあり、目代起用にはこうした過去の関係があったのかもしれない。
胤頼・義澄は頼朝との対面後、それぞれ郷里に帰り、頼朝は源頼政入道から遣わされた叔父・新宮十郎行家から「前伊豆守正五位下源朝臣(源仲綱)」の名による「以仁王の令旨」を受け取ると、舅・北条時政一族はじめ、伊豆の豪族たちを率いて、目代・平兼隆とその後見・堤信遠を攻めて挙兵した。時は治承4(1180)年8月17日である。
そして8月19日、頼朝は「在当国蒲屋御厨」った「兼隆親戚史大夫知親」が日ごろから非法を行って民を苦しめていると称してその権限を停止した。これが「関東事施行之始」であったという(『吾妻鏡』治承四年八月十九日条)。兼隆と中原知親がどのような親戚関係にあったかは定かではないが、知親は「平知親」とも称されるように(『吉記』治承五年三月廿六日条)、藤原忠清(平忠清)のように平姓でもって呼ばれるほど近い関係だったのだろう。彼は治承5(1181)年3月26日、県召除目で検非違使となり、左衛門尉に就いている(『吉記』治承五年三月廿六日条)。4月16日の賀茂祭では検非違使の筆頭として加わっている。
伝三浦義明墓(材木座来迎寺) |
このころ平氏は、「近曾為追討仲綱息、素住関東云々、遣武士等大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、以仁王の乱に加担した前伊豆守仲綱(源頼政子)の子息を追討するべく、清盛入道が公的な追討使ではない被官の大庭三郎景親を関東に戻した。清盛入道の地方武士追討の方針は「遣禅門私郎従等、其後可被遣追討使」(『玉葉』治承四年十一月十二日条)というもので、大庭景親の下向もこれに当たるものであろう。
しかし、この「仲綱息」は「迯脱奥州方了」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、すでに奥州へ逃れ去っていた。このようなときに「忽頼朝之逆乱出来」(『玉葉』治承四年九月十一日条)たことが報告されたことから、「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」(『山槐記』治承四年九月七日条)に頼朝追討が命じられることとなった。
頼朝の挙兵は甲斐の武田太郎の挙兵とともに「義重入道故義国子、以書状申大相国、義朝子領伊豆国、武田太郎領甲斐国」(『山槐記』治承四年九月七日条)と、上野国の新田義重入道から清盛入道へ伝えられて発覚している。義重入道は「義重在前右大将宗盛命相乖、彼家宗、坂東家人可追討之由仰下、仍所下向也者」と、宗盛の命によって追討のために上野国へ下向していた人物であった。
そして9月7日、戦いの結末が「義朝子慮掠伊豆、坂東国之輩追討之伐取舅男、於義朝子入筥根山」と報告されている(『山槐記』治承四年九月七日条)。その報告は合戦後五日目の8月28日に同地を発した脚力のもので、「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」が「相模国小早河」において頼朝の軍勢と合戦に及び、「伊豆国伊東入道(祐親入道)」の親族とみられる「伊東五郎」ならびに「相模国大庭三郎(景親)」に随っていた「甲斐国平井冠者」が討たれたこと、敵の「兵衛佐(頼朝)同心輩」として、「駿河国小泉庄次郎」「伊豆国北条次郎、兵衛佐舅」「同(伊豆国)薫藤介用光」「新田次郎」を討ち取り、「兵衛佐残少被討成、箱根山遁籠了」(『山槐記』治承四年九月七日条)ということであった。なお、北条次郎は頼朝の小舅・北条三郎宗時、薫藤介用光は工藤介茂光、新田次郎は仁田次郎(仁田四郎忠常の兄か)であろう。その兵力は「群賊纔五百騎許、官兵二千余騎」であったという(『玉葉』治承四年九月九日条)。
頼朝ら一党は箱根山中に潜伏したのち、土肥次郎実平の尽力で「土肥真名鶴崎」から相模灘へ出帆し、海上で三浦郡の三浦氏と合流。8月28日、安房国洲﨑(上総国猟嶋とも)に上陸した(『吾妻鏡』治承四年八月廿八日条)。
9月5日、高倉院御所において頼朝挙兵に対する追討使派遣について評議が行われ、その結果、「維盛、忠度、知度等」を追討使とする官宣旨が下され(『玉葉』『山槐記』治承四年九月九日条)、22日に追討使下向が決定された。
■治承四年九月五日「源頼朝等追討官宣旨」(『山槐記』治承四年九月五日条)
安房国に渡った頼朝は「御幼稚之当初、殊奉昵近者」であった安西三郎景益に「令旨厳密之上者、相催在庁等可令参上、又於当国中京下之輩者、悉以可搦進之」(『吾妻鏡』治承四年九月一日条)と指示をし、三浦義澄の手引きで安房国最大の平氏党・長狭常伴を追討。続けて和田小太郎義盛を「上総介八郎広常」へ、藤九郎盛長を「千葉介常胤」へそれぞれ遣わし親書を届けさせた。なお、頼朝は安房上陸後、乱暴狼藉を働いたようで、国府は京都の知行国主・頭弁経房のもとへ使者を走らせている。
安房国は左中弁藤原経房(蔵人頭)の知行国であった。経房はかつて上西門院司として頼朝の上に当たり、のち頼朝の武威が認められると親密な関係を築くこととなるが、少なくとも頼朝の安房国上陸当時は、安房国からの「分与諸郡於与力輩」「追捕人家、奪取調物」という報告に対し、頼朝へ対する強い脅威を感じて頼朝の振舞を院に奏上しており、また、後日追討使維盛らを破った「頼朝」「武田」をして「逆徒」「東国逆徒」と呼び、敵意を表している。経房は11月8日には蔵人頭左中弁として「伊豆国流人源頼朝」ならびに「甲斐国住人源信義」への「追討間事宣旨」を認め「左大将(藤原実定)」へ下しているが、実定はこの宣旨案を突き返しており(強硬な反平家)、やむなく太宰帥隆季(親平家)へ下している(『吉記』治承四年十一月八日条)。
■保元四年二月十九日上西門院(元皇太后宮統子)殿上始(『山槐記』保元四年二月十九日条)
別当 (元職) |
権中納言実定 (大夫) |
右衛門督信頼 (権大夫) |
刑部卿憲方(亮) | 右馬頭信隆 (職事) |
左少将実 (権亮) |
判官代 (元職) |
安房守経房 (権大進) |
||||
主典代 (元職) |
検非違使安倍資良 (属) |
左衛門府生安倍資成 (属) |
安倍資弘 (属) |
中原兼能 | |
殿上人 (元職) |
修理大夫源資賢 | 大宰大弐平清盛 | 治部卿光隆 | 内蔵頭家明 | |
右中将実国 | 右馬頭信隆 | 頭権左中弁俊憲 | 左中将成親 | ||
左中将実房 | 左中将成憲 | 左中将忠親 | 大宮権亮実経 | ||
左少将頼定 | 左少将家通 | 左衛門権佐頼憲 | 能登守基家 | ||
蔵人弁貞憲 | 中宮大進長方 | 中宮権亮実家 | 左兵衛佐脩憲 | ||
右少将信説 | 右少将実宗 | 但馬守有房 | 兵部少輔時忠 | ||
左中弁親範 (大進) |
蔵人成頼 (大進) |
||||
蔵人 (元職) |
左兵衛尉源頼朝 (少進) |
藤原仲重 |
そして9月6日夜、上総介八郎広常へ遣わした和田義盛が帰参。その復命した内容によれば、広常は「談千葉介常胤之後、可參上之由」だったという。
9月9日には藤九郎盛長が千葉より帰参して頼朝に復命している。それによれば、常胤邸に到着した盛長はまず客殿に通されると、常胤はすでに座にあって、その傍らには胤正と胤頼が座っていた。常胤は盛長の言を目をつぶって眠るがごとく聞いていたが、胤正と胤頼の二人は、
「武衛、興虎牙跡鎮狼唳給、縡最初有其召、服応何及予儀哉、早可被献領状之奉書」
と常胤に頼朝に協力すべきことを訴えた(『吾妻鏡』治承四年九月四日条)。常胤も、
「常胤之心中、領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也」
と協力を約束。盛長を招いた酒宴が行われ、常胤は、
「当時御居所、非指要害地、又非御曩跡、速可令出相模国鎌倉給」
と、源氏の故地である「相模国鎌倉」とへ向かうことを勧め、常胤も一門を率いて出迎えのために参向することを約して盛長と別れた(『吾妻鏡』治承四年九月九日条)。
なぜ常胤は頼朝に加担することを決めたのだろうか。
常胤の本拠である千葉庄は「八条院庁分」であり、いわゆる八条院領であった。常胤は八条院暲子内親王に仕える立場にあり、八条院猶子である以仁王とも関係を持っていたであろう。常胤の子(庶長子であろう)の律静房日胤が以仁王に侍り「以仁王の乱」の首謀者とされたことからも、常胤と八条院には密接な繋がりがあったことが予想される。当然、八条院に仕えた源三位頼政や伊豆守仲綱とも関わりがあったと思われ、頼朝との関係は八条院・頼政との関わりの中で生まれ、頼朝挙兵について加担を決めるポイントになったと考えられよう。
9月12日、常胤は子息親類を率いて上総国へ向かおうとするが、六男・胤頼がこれを制して、平氏方である目代を追捕することを主張した(『吾妻鏡』治承四年九月十二日条)。
そのため、常胤は胤頼と成胤(孫)に目代の追討を命じ、彼らは郎従を率いて下総目代の館(市川市国府台か)へと馳せ向かうが、「目代元自有勢者」とあるように「令数十許輩防戦」して、成胤・胤頼は攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけた成胤は、郎従をひそかに館の裏手に回らせて火をつけたところ、目代がこの出火に混乱して逃げ惑っており、胤頼がこれを討ち留めたという。
千葉氏が下総目代館(および国府も占拠したであろう)を落とした当日の9月13日、頼朝は三百余騎を率いて安房国から上総国へ入った。このとき広常は「而廣常聚軍士等之間、猶遅参」とあるように、軍勢を集め纏めるのに手間取っていたという(『吾妻鏡』)。広常の本拠は国府付近ではなく上総国一宮(長生郡一宮町)であり、平氏を知行国主とする上総国での軍勢催促、さらに頼朝の要請からわずか数日という、いささか無理のある要請であったと言わざるを得ないだろう。
安房国から上総国に入った頼朝勢三百余騎はまず上総国府を襲ったと思われる。かねて下総国府の陥落の報は上総国府にも届いていただろう。その報を受けた上総国府の混乱は想像を絶するものであったと思われる。そして、「治承四年庚子九月」の「上総国」での戦いで、平氏方の高倉院武者所「平七武者重国」が「源家」によって討たれた(『高山寺明恵上人行状』)。彼は「本姓者伊藤氏、養父の姓によて藤を改て平とす」と伊勢平氏の根本被官伊藤氏の出身者であり、国司・上総介忠清の同族であった。忠清は在京であることから、彼が上総国目代であったのかもしれない。
頼朝が上総国府を攻めた記録はないが、頼朝の上総国滞在期間は四日にも及んでおり、その間に上総国府が健在であれば、上総国府の目代は頼朝に対して何らかの対応をしているはずである。また頼朝は官道を進んだと考えられることから、その進行ルート上、国府に主敵が健在であることは許されない。必然的に頼朝は国府を占拠したとしか考えられないのである。そして四日間もの間、頼朝は上総国に逗留することになるが、これは広常の参着を待っていたと推測される。ところが広常は参着しなかったことから、9月17日に至り、頼朝は上総国府を出立して下総国に入った。この上総国府攻めは広常が行ったともされるが、広常が合流したのは後日、隅田河畔とされており、もし上総国府を攻め落としていたとすれば、この時点で頼朝勢と合流しない理由はないのである。つまり、上総国府を攻めたのは広常ではない。
下総国府では常胤が「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼東。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族が頼朝に面会。囚人の藤原親雅を引き据えたのち、駄餉が献じられたが、このとき「武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰」と告げたという。
その後、常胤は「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を頼朝に引き合わせている。平治の乱当時、父・陸奥六郎義隆(八幡太郎義家の子)が源義朝に属して比叡山龍華越えで討死を遂げた際、まだ生後五十余日の乳児だった頼隆を朝廷は常胤に命じて下総国へと配流に処したが(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)、常胤はそれ以降二十年にわたって養育を続けていたのであった。
そして9月19日、広常はようやく上総国周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の武士団二万余騎を引き連れて「参上隅田河辺」に参陣したという(『吾妻鏡』治承四年九月十九日条)。ただし、頼朝はいまだこの時点では隅田川はおろか太日川も渡っておらず(両川を渡河するのは10月2日)、日時の誤謬か川名の誤りとなる。このとき、頼朝は広常の遅参を激しく叱責し、広常は面食らって遅参を詫びると同時に頼朝を頼むに足る大将とみとめたとされる(『吾妻鏡』治承四年九月十九日条)。なお、広常の軍勢には国衙のあった「市東」「市西」が含まれておらず、国衙周辺には目代勢力が置かれていて、上総平氏の勢力は及んでいなかったのであろう。
頼朝側の主な構成
国衙関係者 |
平 広常…上総平氏。上総権介の八男。 千葉常胤…下総平氏。下総権介。「千葉介」を称する。 小山朝政…秀郷流藤原氏で上野大掾を代々つとめる在庁官人の家柄。 狩野行光…南家藤原氏流。伊豆国在庁。「狩野介」を称する。 三浦義明…坂東平氏一族で相模国在庁。大庭氏と争う。頼朝の挙兵時から従う。「三浦大介」を称する。 河越重頼…武蔵国留守所惣検校職。後年、頼朝に疑われて誅されたのち、惣検校職は重忠に移る。 平 広幹…代々常陸大掾を勤める家。頼朝に降伏したのち重用された。のち八田知家と争い梟首された。 |
任官者 |
宇都宮朝綱…下野国宇都宮検校。八田権守宗綱の子息。左衛門権少尉。秩父党・稲毛重成の叔父。 工藤行政…代々駿河守をつとめた受領系の家柄。頼朝の縁戚で鎌倉に招かれて永福寺辺に住み二階堂を称する。 武田有義…武田信義息。重盛に仕えて左兵衛尉に進むが、父に従ったため妻子の首を京の武田邸前に晒された。 千葉胤頼…千葉常胤息。上西門院に仕えて従五位下に叙される。子孫の東氏は代々歌人として著名。 新田義重…清和源氏。新田庄下司職。従五位下大炊助・左衛門尉。はじめ頼朝に敵対していたため冷遇される。 足利義兼…八条院蔵人。頼朝近親。以仁王の乱にも関係し、発覚後は頼朝に合流。子孫は幕府に大勢力を築く。 後藤基清…左兵衛尉。父・仲清は摂政家随身。叔父・義清は鳥羽院北面の武士で、出家して「西行」を称する。 足立遠元…右馬允。もと武者所か。武蔵国足立郡の豪族で、頼朝とは挙兵以前からの知己。 天野遠景…内舎人。伊豆国田方郡の豪族で、工藤氏の同族。頼朝とは挙兵以前からの知己。 …等々多数 |
荘官 |
下河辺行平…源頼政の郎党・下河辺庄司行義の子で、八条院領・下河辺庄の庄司をつとめた。 葛西清重…武蔵国葛西庄の荘官。所領が隣接する秩父氏や千葉氏と関わりが深かった。 渋谷重国…武蔵国秩父庄司。石橋山では頼朝に弓を引いたが、その後降伏して活躍。頼朝の信任を得る。 畠山重忠…弱冠17歳で、惣領・河越重頼らの援助を受けて三浦氏を攻める。その後頼朝に降伏。 江戸重長…武蔵国在庁。秩父一族。頼朝が挙兵したときは、武蔵国の豪族の棟梁と目されていた。 …等々 |
在庁官人 |
比企能員…阿波国出身ともされる。頼朝の乳母
・比企尼の甥。 …等々 |
豪族 |
土肥実平、佐々木定綱 …等々 |
平氏家人 |
熊谷直実…武蔵熊谷郷の人。一谷で平敦盛を討った人物。伯父との所領問題で遁世し、法然門人となる。 武藤資頼…一貫して平氏被官として頼朝に敵対するが、捕縛されたのち御家人となった。少弐氏の祖。 北条時政…伊豆北条庄の豪族。長女(のち平政子)は頼朝室。 梶原景時…かつて大庭景親のもとで頼朝と戦うが、のち降伏して重用される。知略と剛腕で知られた人物。 小山田有重…平家の家人として木曽義仲と戦う。その後、頼朝に帰参し、子息・稲毛重成らとともに活躍。 …等々 |
京出身 |
藤九郎盛長…頼朝の古い被官人でのち宿老。妻は比企尼娘ではない。また足立遠元とも血縁上の関係はない。 藤大和判官代邦通…藤九郎盛長と「因縁」の人物で、盛長の推挙により頼朝の側近となる。 |
頼朝は下総国では「鷺沼御旅館」に逗留しており、下総国と武蔵国の境に留まっていたと思われる。「鷺沼」は習志野市鷺沼という説があるが、国府から東に退く理由はなく不可である。また、葛飾区新宿字鷺沼ともされるが、鷺沼は太日川より東でなければならないため、ここも不可である。つまり「鷺沼」は下総国府に隣接した地であることが想定されるのである。頼朝は17日の国府到着以降「大井隅田両河」を渡る10月2日までの半月間をこの鷺沼で過ごし、すでに兵を挙げていた甲斐源氏や武蔵秩父党との折衝、相模国の動向などを入念に調査していたと考えられる。
また、10月1日には鷺沼御旅館に京都醍醐寺の僧であった異母弟・悪禅師全成(義経実兄。幼名今若)が訪れて頼朝と対面している。全成は以仁王(最勝親王)の「親王宣旨」が頼朝に下されたことを京都で伝聞し、醍醐寺を密かに脱して修行者を装って鷺沼まで到来したことを告げ、頼朝は「泣令感其志給」ったという(『吾妻鏡』治承四年十月一日条)。
翌10月2日、頼朝一行は広常・常胤が調達した舟筏に乗って「大井隅田両河」を渡って武蔵国に入った。このとき頼朝が布陣した場所は「豊島御庄瀧ノ河(北区)」(『源平闘諍録』)とされるが、「豊島権守清元、葛西三郎清重等最前参上、又足立右馬允遠元、兼日依受命、為御迎参向」とあることから、豊島清元と葛西清重の父子が頼朝の麾下に加わったのは、葛西清重が荘官を勤めていた「大井」と「隅田」の中州の肥沃地・葛西庄以外にあり得ず、さらに同日、頼朝の乳母・寒河尼(八田権守宗綱の娘で小山政光の妻)が十四歳の末子を連れて「隅田宿(現在の台東区橋場周辺)」に参向し、頼朝はそこで少年に「朝」字を与え、「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」と名乗らせたとあることから(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)、頼朝勢は下総国府から豊嶋郡衙(北区西ヶ原)へ向かう官道を通って隅田宿へ入り、その後は豊島清元の案内によって武蔵野台地の急崖を経て豊嶋郡衙へ進んだのだろう。豊嶋郡衙は下総国府と武蔵国府を繋ぐ中継地で、大井駅へ向かって南下する官道も走っている要衝であった。
→藤原宗円―――八田宗綱―+―宇都宮朝綱
(宇都宮座主)(権守) |(左衛門尉)
|
+―八田知家―――八田朝重
|(右衛門尉) (太郎)
|
+―寒河尼 +―小山朝政
【頼朝乳母】|(下野大掾)
∥ |
∥―――+―長沼宗政
小山政光 |(淡路守)
(下野大掾)|
+―結城朝光
(左衛門尉)
10月3日の頼朝の動向は伝わらないが、この日、頼朝は常胤へ上総国の伊北庄司常仲(広常の甥)の追討を命じており、胤正は父・常胤の厳命を受けて、上総国に派遣された(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)。豊嶋郡から上総国伊北庄(いすみ市岬町一帯)へと遣わされたのである。彼らは百kmを超える道を進んで伊北庄に常仲らを誅した(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)。上総国の伊北庄司常仲は、頼朝に敵対して滅ぼされた長狭六郎常伴の外甥だった関係で頼朝から追討の対象とされたようであるが、実は常仲は頼朝に味方した上総介八郎広常の兄・権介常景の嫡子であり、この追討には少なからず広常および常胤の意向が関係しているのだろう。
平常長―――+―平常兼――――千葉介常重―――千葉介常胤――千葉介胤正
(上総権介?)|(下総権介?)(下総権介) (下総権介) (下総権介)
|
| +―長狭常伴
| |(六郎)
| |
| +―娘
|【上総権介】 ∥――――――伊北常仲
+―相馬常晴―――平常澄―――+―伊南常景 (伊北庄司)
(上総権介) (上総権介) |(上総権介)
|
+―平広常
(上総権介)
この戦いでは葛西三郎清重も上総国に出陣していたことが、文治6(1190)年正月13日の胤正の上申に「葛西三郎清重者、殊勇士也先年上総国合戦之時、相共遂合戦」(『吾妻鏡』文治六年正月十三日条)とあることからわかるが、平安時代末期にはすでに千葉氏と葛西氏は下総国の有力官人の二頭であり、一宮香取社の造営を交替で行っており、互いに交流を持っていたと推測される。
■下総香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)
名前 | 被下宣旨 | 御遷宮 |
台風で破損し急造 (藤原親通) |
保延3(1137)年丁巳 | |
―――――― | 久寿2(1155)年乙亥 | |
葛西三郎清基 | 治承元(1177)年12月9日 | |
千葉介常胤 | 建久4(1193)年癸丑11月5日 | 建久8(1197)年2月16日 |
葛西入道定蓮 | 建保4(1216)年丙子6月7日 | 嘉禄3(1227)年丁亥12月 |
なお、上総国伊北庄に展開した胤正らの軍勢が、その頃駿河国東部へ進んでいた頼朝と合流するには、三浦半島を経由したルートだとしても百km超の軍旅となるため、胤正勢はもともと上総国の平家与党鎮圧の別働部隊として派遣され、征西軍への再合流は考えられていなかったのだろう。
その後の頼朝一行は、おそらく武蔵国豊嶋郡衙から官道を南下して大井駅を経由し、荏原郡衙、橘樹郡衙、久良岐郡を経て相模国鎌倉郡へ入るルートをとったとするのが自然であろう。頼朝はさらに南下して、翌10月5日には相模国境に近い久良岐郡衙(横浜市南区弘明寺町)に駐屯したのだろう。そして翌10月6日、頼朝は畠山重忠を先陣、常胤を後陣として「着御于相模国」した。この「相模国」は相模国鎌倉郡へ入ったということと同時に、朝比奈方面から鎌倉内に入ったということであろう。朝比奈方面にはもともと上総権介広常の屋敷地があったと思われ、12月12日、頼朝が新造の御亭(鎌倉市雪ノ下)に移る際には「上総権介広常」の屋敷(鎌倉市十二所カ)から移っている。重忠を先陣としつつも、鎌倉の地理を熟知する広常の案内は重要であったろう。ただ、その日は「楚忽之間、未及営作沙汰、以民屋被定御宿館」とある通り、進軍があまりに急であったために、鎌倉の街中に頼朝が宿営できる場所を造っておらず、やむなく民家を陣所とした(『吾妻鏡』治承四年十月六日条)。
翌10月7日、頼朝は鎌倉北部から由比浜辺に建つ古社「鶴岡八幡宮」を遥拝したのち、「故左典厩義朝之亀谷御旧跡」(現在の寿福寺の地)を監臨して、ここに館を構えようとした。ところが狭小の上に、すでに岡崎平四郎義実が建てた義朝の菩提を弔う堂宇があったことから、結局この地をあきらめ、大倉の地に御所を建てることになる。
先の頼朝追討の官符を奉じた平維盛を主将とする追討使は、10月18日に富士川辺にまで進出して陣所を定め、19日に甲斐源氏へ攻め懸るべく準備を行っていたところ、「官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了」という状態となり、「無力于拘留、所残之勢、僅不及一二千騎」と、五千余騎という大勢で出陣した追討使のうち、過半が逐電する体たらくであったという。対する「武田方四万余」とし、「忠清之謀略」を以て「依不可及敵対、竊以引退」したとする。維盛に退却の意思はなかったが、忠清が説得し、諸将もこれに同調したため、京都へ戻ったという(『玉葉』治承四年十一月五日条)。また、「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走、自焼宿之屋形中持雑具等、忠度知度不知此事、追退帰、忠景向伊勢国、京師維盛朝臣入京、着近州野路之時有五六十騎云々」(『山槐記』治承四年十一月六日条)という報告もあった。
富士川から撤退した平家勢を追うため、頼朝は10月21日、彼らを追撃して上洛すべしと諸士に命じたが、「常胤、義澄、広常等」は「常陸国佐竹太郎義政并同冠者秀義等、乍相率数百軍兵未帰伏、就中、秀義父四郎隆義、当時従平家在京、其外驕者猶多境内、然者先平東夷之後、可至関西」と説得。頼朝はこれを容れて黄瀬川へ戻って宿陣したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿一日条)。
そしてこの日、頼朝の旅館を訪ねてきた一人の若者がおり、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実がこれを怪しんで対面を拒んだ。そのとき、この騒ぎを聞いた頼朝は「思年齢之程、奥州九郎歟」と、早々に対面させるよう指示した。実平がこの若者を頼朝の面前へ連れてくると、果たして九郎義経であった。頼朝と義経は「互談往事、催懐旧之涙」したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿一日条)。
10月23日、相模国府に到着した頼朝は、「北條殿及信義、義定、常胤、義澄、広常、義盛、実平、盛長、宗遠、義実、親光、定綱、経高、盛綱、高綱、景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、実政、家秀、家義以下、或安堵本領、或令浴新恩」したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿三日条)。この中に胤正以下の兄弟及び葛西清重の名が見られないことから、彼らはいまだ上総国から帰還していない、または鎌倉へ向けて帰還中であることがわかる。
また、頼朝のもとに出頭してきた石橋山の戦いでの敵方だった大庭三郎景親、長尾新五為宗、長尾新六定景、河村三郎義秀、瀧口三郎経俊らはそれぞれ所縁の御家人が預人となり、翌26日、鎌倉への帰途、大庭景親らは片瀬川で処断された(『吾妻鏡』治承四年十月廿六日条)。
片瀬川での景親梟首ののち、鎌倉へ帰還したかどうかははっきりしないが、翌27日には佐竹氏討伐のために常陸国へ向けて出立したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿六日条)。『吾妻鏡』によれば、頼朝は常陸国へ進出し、11月4日には常陸国府で上総介八郎広常・千葉介常胤・三浦介義澄・土肥次郎実平ら宿老を召集して軍議を行い、在京中で平家に伺候する惣領・佐竹四郎隆義の庶兄である「佐竹太郎義政(太郎忠義)」を招いて謀殺するため、彼の縁者の介八郎広常に指示して、国府向こうの園部川の大矢橋の中央に義政を誘い出し殺害させたという(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)。
しかし、義政(忠義)は本当に寄手の誘引に素直に応じて、麾下の将士を橋辺に残してのこのこと敵中に一人進み出る(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)不可解極まる行動をしたのであろうか。可能性があるとすれば和平の対話のためであろうか。一方、太郎義政(忠義)の甥で「其従兵軼於義政」の惣領嫡子・佐竹冠者秀義は、在京の父隆義の事も考えると容易に頼朝に加担することはできないとして、久慈川の氾濫原を望む久慈郡佐竹郷(常陸太田市磯部町)から久慈川を遡上し、北西の堅牢な金砂城(常陸太田市上宮河内町)へと引き退いている(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)。なお、頼朝が常陸国府を占拠することは後述のように後白河院に近い藤原経宗知行国ということもあって想定しづらく、さらに頼朝が布陣していたのは国府付近ではなく、筑波山の西側である小栗御厨(筑西市小栗)近辺と推測されることから、園部川の合戦は上総介八郎広常を派遣してのものであったのかもしれない。
その後、頼朝は金砂城へ籠っていた佐竹冠者秀義を攻めるべく「所謂下河辺庄司行平、同四郎政義、土肥次郎実平、和田太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重以下輩」を派遣したが、金砂城は堅固この上なく「自城飛来矢石、多以中御方壮士、自御方所射之矢者、太難覃于山岳之上、又厳石塞路、人馬共失行歩、因茲軍士徒費心府、迷兵法、雖然不能退去、憖以挟箭相窺之間、日既入西月又出東云々」と、味方の損害が出るばかりで攻めあぐねた(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)。
この状況に困り果てた実平や宗遠は頼朝へ使者を遣わし「佐竹所搆之塞、非人力之可敗、其内所籠之兵者、又莫不以一当千、能可被廻賢慮者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と具体的な対応策を依頼している。これによって頼朝は「及被召老軍等之意見」したところ、広常が「秀義叔父有佐竹蔵人、ゝゝ者智謀勝人欲心越世也、可被行賞之旨有恩約者、定加秀義滅亡之計歟者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と提案したことから、頼朝はこれを容れて広常を秀義叔父の佐竹蔵人のもとに遣わした。佐竹蔵人の陣所がいずこにあったのかは不明だが、すると佐竹蔵人は広常の来臨を喜び、歓待したという。広常はここで「近日東国之親疎、莫不奉帰往于武衛、而秀義主独為仇敵、太無所拠事也、雖骨肉客何令与彼不義哉、早参武衛討取秀義、可令領掌件遺跡者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と説得すると、佐竹蔵人は頼朝への帰順を誓い、早速広常を伴って金砂城の後ろに回り込むと、鬨の声をあげて城内の佐竹秀義勢を威した。するとこの声に秀義と郎従等は不意を突かれて慌てふためき、広常は混乱に乗じて襲い掛かると秀義勢は算を乱して壊走。秀義は行方をくらました。
翌11月6日、広常は金砂城へ入るとこれを焼き払い、兵を分けて佐竹秀義の追跡を行ったが、すでに秀義は「奥州花園城」北茨城市華川町花園)まで逃れ去った風聞があったことから、広常らは頼朝のもとに帰還し「合戦次第及秀義逐電、城郭放火等事」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)を報告した。とくに「軍兵之中、熊谷次郎直実、平山武者所季重、殊有勲功、於所々進先登更不顧身命、多獲凶徒首」と熊谷直実と平山季重の活躍を聞いた頼朝は、彼らは「其賞可抽傍輩之旨、直被仰下云々」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)と指示した。また、この戦いの勝敗を決定づけた佐竹蔵人も参上しており「可候門下之由望申」したため、これを功績を以て許容した。さらに、志太三郎義広は当時、八条院領の常陸国信太庄(稲敷郡美浦村信太周辺)の荘官であり、おそらく弟の八条院蔵人・十郎行家とともに行動をしていたのだろう。行家は義広及び佐竹氏にも以仁王の令旨を齎していたであろうから、頼朝の佐竹氏討伐に対して反対の立場を訴えたのかもしれない。また、義広もその後、頼朝と合戦の上、行動を異にすることから、義広も行家同様に頼朝を詰問したのかもしれない。
これら佐竹氏との戦いには、おそらく常陸平氏の協力があったのだろう。彼らはいずれも千葉介常胤と相当に濃い血縁者(多気義幹らは常胤娘の子とされるが、世代的にみて常重娘の子が妥当か)であり、千葉介常胤とも連携があった可能性があろう。那珂郡馬場(水戸市)の馬場小次郎資幹(多気太郎義幹弟)は頼朝の信任厚く、のち、かつて氏族が世襲していた常陸大掾に就任することになる。また、筑波山地の西側、多気・真壁・下妻一帯を主な支配領域としていた地理的関係上、隣接する小山・下河辺氏との結びつきが考えられる。さらに頼朝は翌治承5(1181)年3月には、鹿嶋郷を支配していた鹿嶋政幹を鹿嶋宮「惣追補使」(『吾妻鏡』治承五年三月十二日条)に補任しており、常陸平氏は頼朝勢に協力の姿勢を示していた可能性が高いだろう(『源平盛衰記』には富士川合戦時の平家方の押領使として常陸国の佐谷次郎義幹の名がみえ、多気義幹と同一人物という説が提唱されている(野口実「平氏政権下における坂東武士団」『坂東武士団の成立と発展』所収)が、常陸平氏惣領が累代の本拠である多気を名乗らずに常陸国佐谷を優先して名乗る理由も不可解であることや、軍記物という性格上厳密ではないが、輩行名の不一致から、佐谷次郎義幹は多気太郎義幹とは別人と考える。常陸平氏の中にも国府に近い土地を所領としていた一族は国府の影響力が及び、国衙方・平家党となる庶子もいた可能性はあろう)。
佐竹義業 +―佐竹義政
(進士判官代) |(太郎)
∥ |
∥――――――佐竹昌義――+―佐竹義宗
∥ (相模三郎) |(三郎)
∥ |
多気繁幹―+―吉田清幹―+―女子 +―佐竹隆義―――佐竹秀義
(太郎) |(多気権介)| |(四郎) (太郎)
| | |
| +―鹿嶋成幹―――鹿嶋政幹 +―佐竹義季
| (三郎) (三郎) (蔵人)
|
+―多気致幹―+――――――――多気直幹
|(多気権守)| (平太)
| ? ∥
| +―――女子 ∥―――――+―多気義幹
| ∥ ∥ |(太郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―馬場資幹
| ∥ ∥ |(小次郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―下妻広幹
| ∥ ∥ |(四郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―東条忠幹
| ∥ ∥ |(五郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ +―女子 +―真壁長幹
| ∥ ? (六郎)
+―石毛政幹―――女子∥ |
(荒四郎) ∥ ∥―?+―千葉介常胤―――千葉介胤正
∥―∥―?―(下総権介) (千葉介)
∥ ∥
千葉常兼―――千葉介常重
(千葉大夫) (下総権介)
この頼朝と佐竹氏の合戦は12月3日頃に「上野常陸等之辺、乖頼朝之輩出来云々」(『玉葉』治承四年十二月三日条)という情報として兼実に届いている。
上野国の「乖頼朝之輩」とは、頼朝挙兵の報を受けた前右大将宗盛の命によって上野国へ下向した新田大炊助義重入道上西であろう(『山槐記』治承四年九月七日条)。上野国に下った義重入道は、東国が様々な勢力が入り乱れて統一されていない現実を見て「以故陸奥守嫡孫」という血筋を以って自立を志したようである(『吾妻鏡』治承四年九月三十日条)。義重入道は頼朝からの書状を無視し、却って寺尾城(高崎市寺尾町)に拠って軍兵を集めた。ところが、頼朝は瞬く間に安房、上総、下総を皮切りに武蔵国の秩父党をもその麾下に組み込み、義重入道と対立関係にあった下野の足利俊綱が頼朝に下り、義重入道の周りは確実に埋められていた。ついに義重入道は頼朝の召しに応じて鎌倉の玄関口である山ノ内に参着するも入境は許されず、漸く12月22日、鎌倉へ参上して頼朝と面会した(『吾妻鏡』治承四年十二月廿二日条)。予て義重入道が兵を集めて上野国寺尾館に立て籠もったという風聞を受け、頼朝は藤九郎盛長を使者として義重入道に遣わし子細を尋ねたところ「心中更雖不存異儀、国土有闘戦之時、輙難出城之由、家人等依加諌、猶豫之處、今已預此命、大恐畏云々」と述べたため、藤九郎盛長は義重入道の言い分を「殊執申之」し、頼朝も義重入道を赦し、鎌倉召喚をしたものであった。
11月8日、「被収公秀義領所常陸国奥七郡并太田、糟田、酒出等所々、被宛行軍士之勲功賞云々」と、常陸国奥七郡のほか太田、糟田、酒出等を勲功賞として常陸攻めの人々へ宛がわれた(『吾妻鏡』治承四年十一月八日条)。その後、鎌倉への帰還の途につき、路次にある小栗十郎重成の「小栗御厨八田館(筑西市八田)」に入御している。鎌倉への帰途に八田館が存在しているという事は、頼朝は当時、筑波山を挟んだ南東の国府付近にいたとは考えにくく、常陸大掾系氏族の勢力圏を押さえつつ、筑波山を挟んで頼朝(西部)と広常(東部)の二面から北上していたのではなかろうか。
11月10日、頼朝は下総国葛西庄(葛飾区葛西)の葛西三郎清重邸に止宿している(『吾妻鏡』治承四年十一月十日条)。ここで清重へ武蔵国丸子庄が下された。ここで2日ほど逗留し、11月12日に武蔵国へ入った。ここで頼朝は萩野五郎俊重を斬罪に処した(『吾妻鏡』治承四年十一月十二日条)。これまで頼朝に従属して功績も挙げていたようだが、かつて石橋山合戦で大庭三郎景親に属して頼朝に弓引いた恨みがあったとみられ、「日者候御共雖似有其功、石橋合戦之時令同意景親、殊現無道之間、今不被糺先非者、依難懲後輩如此云々」(『吾妻鏡』治承四年十一月十二日条)という。
そして11月17日、頼朝は鎌倉へ帰着。和田小太郎義盛を侍所別当に補した。これは石橋山合戦後に安房国へ逃れた際、義盛がこの職を望み許諾していた約定を履行したものであった。頼朝の家人・郎従を管理する秘書官的な職務である。そして、12月12日、頼朝の鎌倉における新造の屋敷が落成し、それまで住んでいた上総介八郎広常の屋敷から移ることとなった。このとき胤正は父・常胤、弟・胤頼とともに頼朝に扈従した。
■治承4(1180)年12月12日条(『吾妻鏡』)
先陣 | 和田小太郎義盛 | ||||
駕左 | 加々美次郎長清 | ||||
駕右 | 毛呂冠者季光 | ||||
扈従 | 北条四郎時政 | 江間小四郎義時 | 足利冠者義兼 | 山名冠者義範 | 千葉介常胤 |
千葉太郎胤正 | 千葉六郎大夫胤頼 | 藤九郎盛長 | 土肥次郎実平 | 岡崎四郎義実 | |
工藤庄司景光 | 宇佐見三郎助茂 | 土屋三郎宗遠 | 佐々木太郎定綱 | 佐々木三郎盛綱 | |
後陣 | 畠山次郎重忠 |
その後、治承5(1181)年2月1日、京都に頼朝の常陸攻めが届いている。それによれば「常陸国勇士等、乖頼朝了、仍欲伐之處、還散々被射散了、此由飛脚到来、今明被遣官兵者、自彼可攻之由申上云々」(『玉葉』治承五年二月二日条)という。「常陸国勇士等」とは佐竹氏とみられるが、彼らは「乖頼朝」いて凶賊頼朝を討たんと頼朝を攻めたが、却って散々に打ち負かされたという。これについては「但実否難知歟」と記すが、翌々日2月3日には続報として「頼朝寄攻常陸国之間、始一両度雖被追帰、遂伐平了云々」(『玉葉』治承五年二月三日条)を得ている。当初の打ち破られた佐竹勢からの使者の申上(自彼国上洛之者説)は、今明の官兵派遣がされれば頼朝勢を討つとのものであったが、3日の続報は「常陸国」へ攻め寄せた頼朝に、佐竹勢は数度追い返されるなど不利な立場にあったが、ついに頼朝勢を討伐したというものであった。兼実のもとには「縦横之説、随聞及注之、但於事外之浮説者、不能注、遂可見虚実歟」といくつもの情報が届けられ、情報を取捨選択しながら虚実の判断を行っていた。佐竹氏は頼朝に敗れた際に「官兵」と協力して攻めることを申上しており、おそらく国府は機能し続けていたと考えられる。
京都への報告の時期からして、この頼朝の二度目の常陸攻めは治承5(1181)年正月中のことであったことが推測できる。『吾妻鏡』では治承5(1181)年は正月24日以降の日記はなく、此の後の事であろうか。兼実はこの合戦の情報が実否か知り難いとしているが、「自彼国上洛之者説(常陸佐竹氏の使者であろう)」であることからこの戦闘は事実であろう。当時の常陸国司は、治承3(1179)年11月18日の除目で「常陸介平宗実」(『玉葉』治承三年十一月十八日条)とあり、平重盛の末子・十四歳の平宗実であった。知行国主は養父・左大臣藤原経宗であることから、目代も経宗の関係者であろう。経宗は平家と協調関係にありつつも後白河院に非常に近く(血統上も八歳違いの従兄である)、常陸国は院に近い体制が敷かれていたと思われる。朝廷にとって頼朝は「凶徒」「凶賊」であり、国衙が平家党佐竹氏と協調して「凶徒」頼朝と対峙することは当然のことであった。しかしながら、頼朝が後白河院を蔑ろにすることは考えにくく、常陸国府を占拠することはなかったのではあるまいか。
4月20日には「或人」の下人が「自常陸国、有上洛」し、翌21日に「或人」が兼実に常陸国の状況を話している(『玉葉』治承五年四月廿一日条)。この「或人」は常陸国知行国主の左府経宗かもしれない。この下人は「四十余日、遂前途、廻北陸道入洛云々」(『玉葉』治承五年四月廿一日条)と、東海道を経由して上洛することが叶わず、常陸国から北陸道を経由する形で四十余日かけて入洛したという。彼が語るには、「秀衡已没之由無実也」と、「頼朝可娶秀衡娘之由、相互雖成約諾、未遂其事」と、「凡関東諸国、一人而無乖頼朝旨者、佐竹之一党三千余騎、引籠常陸国、依思其名、一矢可射之由令存」ということが語られ、「其外一切無異途云々」であるという。これは2月下旬から3月上旬頃の常陸国府の情報であり、秀衡の死を否定するなど信憑性は高いだろう。ということは、頼朝と秀衡女子との間で縁談が進められていることもまた事実であったのではなかろうか(当然『吾妻鏡』で記されない部分である)。そして佐竹氏は頼朝の鎌倉帰還後も抵抗を続けていた様子がうかがえる。
治承5(1181)年4月7日、頼朝は御家人の中から、とくに弓術に優れ、なおかつ頼朝への忠節深い者を選び、毎晩寝所の近くに伺候すべきことが定められた。胤正もその一人に選ばれている。
■治承5(1181)年4月7日条(『吾妻鏡』)
江間四郎義時 | 下河辺庄司行平 | 結城七郎朝光 | 和田次郎義茂 | 梶原源太景季 | 宇佐美平次実政 |
榛谷四郎重朝 | 葛西三郎清重 | 三浦十郎義連 | 千葉太郎胤正 | 八田太郎知重 |
胤正は武術と忠節とをあわせもった人物として、頼朝の信任も厚い人物だったことがうかがえる。
伊豆国 | 伊豆山権現 | 土肥弥太郎遠平 |
相模国 | 筥根権現 | 佐野太郎基綱 |
寒川神社 | 梶原平次景高 | |
三浦十二天 | 佐原十郎義連 | |
武蔵国 | 六所宮 | 葛西三郎清重 |
常陸国 | 鹿嶋神宮 | 小栗十郎重成 |
上総国 | 玉前神社 | 上総小権介良常 |
下総国 | 香取神宮 | 千葉小太郎胤正 |
安房国 | 東條寺 | 三浦平六義村 |
洲崎神社 | 安西三郎景益 |
そして、政子の着帯のときには、嫡男の成胤とともに帯を持参、寿永元(1182)年7月12日、政子 が比企が谷の館まで移る際には弟・胤頼や梶原源太景季とともに警護し、8月11日夜、政子の陣痛が始まると、頼朝は祈祷のために伊豆権現、箱根権現ならびに近国の宮に奉幣の使いを送った。このとき胤正は香取神宮への使者となっている。
頼家が生まれたのち、8月18日、父母や弟たちとともに武具を持って参上、これを祝った。
文治元(1185)年10月24日に行われた勝長寿院供養に際しては、随兵十四人として、錚々たる御家人とともに先陣の随兵をつとめている。また、六郎胤頼は頼朝の傍近くに控えており、頼朝が勝長寿院の御堂へ昇る際にはその沓を取る役を務めている。
■文治元年勝長寿院供養に供奉した千葉一族(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)
随兵(先陣) | 一番 | 畠山次郎重忠 | 千葉太郎胤正 |
御後五位六位(布衣下括) | 十三番 | 千葉介常胤 | 千葉六郎大夫胤頼 |
随兵(後陣) | 七番 | 千葉平次常秀 | 梶原源太左衛門尉景季 |
随兵東方(弓馬達者、勝長寿院門外) | 三番 | 千葉四郎(胤信) | 三浦平六 |
十三番 | 大見平三 | 臼井六郎(有常) | |
随兵西方(弓馬達者、勝長寿院門外) | 三番 | 比企藤次 | 天羽次郎(直常) |
その後、導師公顕への布施として馬三十疋が納められるが、そのうち十疋はセレモニー的に御家人が引いた。その際、千葉介常胤が足立右馬允遠元と組んで一之御馬を納め、九之御馬は千葉二郎師常が一族の印東四郎と組んで納めている。千葉一族のうちいわゆる六党の祖となった胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼のほか、この当時では臼井太郎(常忠)、臼井六郎(有常)、臼井与一(景常)、天羽次郎(直常)、印東四郎(師胤)が独立した御家人として遇されつつも、特に千葉氏と密接に関係する存在としてたびたび名を見せている。
一之御馬 | 千葉介常胤 | 足立右馬允遠元 |
ニ之御馬 | 八田右衛門尉知家 | 比企藤四郎能員 |
三之御馬 | 土肥次郎実平 | 工藤一臈祐経 |
四之御馬 | 岡崎四郎義実 | 梶原平次景高 |
五之御馬 | 浅沼四郎広綱 | 足立十郎太郎親成 |
六之御馬 | 狩野介宗茂 | 中條藤次家長 |
七之御馬 | 工藤庄司景光 | 宇佐美三郎祐茂 |
八之御馬 | 安西三郎景益 | 曽我太郎祐信 |
九之御馬 | 千葉二郎師常 | 印東四郎(師常) |
十之御馬 | 佐々木三郎盛綱 | 二宮小太郎 |
勝長寿院より御所に帰還すると、頼朝は義盛・景時を召して、明日の上洛進発について軍士の着到を指示する。これは伊予守義経と備前守行家を追討するための軍勢催促であり、これに応じた群参の御家人は「常胤已下」主だったものは二千九十六人であった。このうち上洛に付き従うものは、小山朝政、結城朝光ら五十八人とされた。
10月28日、佐竹太郎と同調した片岡八郎常春から没収した下総国三崎庄が、常胤に与えられた(『吾妻鏡』文治元年十月廿八日条)。そして翌29日、「予州・備州等」の叛逆を追討すべく、延引していた上洛の途につき、先陣は土肥次郎実平、後陣は常胤が務めた。ただし、土肥実平ら追討使が入洛するより以前に伊予守義経・前備前守行家は京都から落ちたため、11月8日、頼朝は上洛を取りやめて黄瀬川宿から鎌倉へ戻っている。
文治3(1187)年9月27日、畠山重忠が召し捕られ、従兄弟の胤正が預かることとなった。重忠が逮捕されたのは、「太神宮神人長家綱」が重忠の代官・真正が不正を働いたと訴え出たためで、重忠は子細を知らなかったと謝したが、頼朝は重忠を胤正預けとし、所領四箇所を没収した。
■文治3(1187)年9月27日条(『吾妻鏡』)
重忠は胤正邸に預けられると、寝食を絶って身の潔白を主張。これを見た胤正は10月4日、頼朝の御所に参じて重忠の様子を頼朝に陳情した。この説得が功を奏し、頼朝も心を動かされ、重忠を厚面した。
■文治3(1187)年10月4日条(『吾妻鏡』)
喜んだ胤正は屋敷に「奔帰」ると重忠を伴って御所に再度参上した。頼朝と面会した記録はないが、御所に参じている以上、胤正とともに頼朝と面会し、直々に許しを得たと推測される。その後、重忠は里見冠者義成の上座に座ると、朋輩に対し、「恩を浴すの時は、まずその目代の器量を求めるべきである。その人がいないとするならば、その地を請けるべきではない。重忠は常に清廉潔白を旨としていたにもかかわらず、真正のような不義な男を目代として用い、かかる恥辱を受けてしまった」と語っている。その後座を立ち、そのまま武蔵国へ下向した。
文治5(1189)年6月9日、胤正は父の常胤のもと、弟の師常・胤信・胤頼らとともに鶴岡八幡宮寺の御塔供養に参列した。
■鶴岡八幡宮御塔供養列席者(『吾妻鏡』)
導師 | 法橋観性 |
呪願 | 法眼円暁(若宮別当) |
行事 | 三善隼人佐康清、梶原平三景時 |
先陣 随兵 | 小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、江間小四郎義時、武田五郎信光 |
御徒 | 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲) |
御後 参列 | 武蔵守義信、遠江守義定、駿河守広綱、三河守範頼、相模守惟義、越後守義資、因幡守広元、豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長 |
後陣 随兵 | 小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景 |
供養ののち、錦を奉納。その後、神馬を奉納する際の引き手は下記の通り。
■神馬の引き手
一ノ馬(葦毛馬) | 畠山次郎重忠、小山田四郎重朝 |
二ノ馬(河原毛) | 工藤庄司景光、宇佐見三郎祐茂 |
三ノ馬(葦毛) | 藤九郎盛長、渋谷次郎高重 |
四ノ馬(黒毛) | 千葉次郎師常、千葉四郎胤信 |
五ノ馬(栗毛) | 小山五郎宗政、下河辺六郎 |
7月17日、頼朝は奥州藤原氏を討つため、兵を奥州へ出立させることを決定。軍勢を東海道、北陸道、大手の三軍に分けて出立することとした。そのうち、東海道の大将軍として千葉介常胤、八田右衛門尉知家が任じられ、一族とそれぞれの任国の御家人を率いて出陣を命じられた。
千葉介常胤は当時は鎌倉にあり、翌18日に北陸道大将軍の比企藤四郎能員も奥州に進発していることから、常胤も翌日には鎌倉を発ったと推測される。6月9日の時点で胤正と弟の師常・胤信・胤頼は鎌倉にいるため、彼等は父・常胤とともに下総へいったん戻り、国府を管掌していた国分五郎胤通、千葉庄の留守を守っていたであろう孫の小太郎成胤ほか、国内の一族郎従、御家人に催促をかけたと思われる。
7月19日、頼朝率いる大手勢が鎌倉を出立するが(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)、その中に常胤とともに海道大将軍に任じられていた八田右衛門尉知家がいることから、八田知家は途中で常陸国へ向かう道をとり、常胤と合流したと思われる。そして8月12日夜、頼朝の大手勢が多賀城に入ると、常胤・八田知家は「千葉太郎胤正・同次郎師常・同三郎胤盛・同四郎胤信・同五郎胤通・同六郎大夫胤頼・同小太郎成胤・同平次常秀・八田太郎朝重・多気太郎・鹿嶋六郎・真壁六郎等」を相い具して阿武隈川を渡って多賀城に参向し、頼朝に閲した(『吾妻鏡』文治五年八月十二日条)。
その後の奥州藤原氏勢との戦いは終始優勢に進み、8月9日夜から10日にかけて行われた阿津賀志山の戦いを経て8月22日平泉へ入った。すでに平泉を逐電していた奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は抵抗を試みるも敗れ、「夷狄嶋(北海道か)」を目指して糠部郡まで遁れるが、9月3日、数代の郎従・河田次郎に裏切られて殺害された。泰衡二十五歳。
この奥州合戦の勲功によって常胤は奥州各所の地頭職を得たと思われ、のちの奥州千葉一族の基を築いたとみられる。また、「凡そ恩を施すごとに、常胤を以って初めとなすべし」という先例もつくられた。
しかし、頼朝が鎌倉に帰った直後、奥州藤原氏の遺臣・大河兼任率いる軍勢が反乱を起こし、奥州の御家人を統括していた葛西三郎清重からの飛脚がたびたび鎌倉に到着した。清重は平泉に検非違使所を設けて奥州の治安安定に努めていたが、大河軍が蜂起して平泉に迫っていた。このため、文治6(1190)年正月8日、頼朝の命を受けて常胤が海道、山道が比企能員の大将軍として鎌倉を出立した。ところが、その五日後の正月13日、嫡子・新介胤正が「承一方大将軍」として鎌倉を発している。これは海道大将軍が常胤から新介胤正に変更されたことを意味するが、常胤の年齢と厳冬の奥州を鑑みての頼朝の判断だったのかもしれない。胤正はこのとき、頼朝に「葛西三郎清重者殊勇士也、先年上総国合戦之時、相共遂合戦、今度又可相具之由被仰含云々」と頼み、頼朝も葛西清重に「可相伴于胤正」との書状を遣わしている(『吾妻鏡』文治六年正月十三日条)。
頼朝は、清重の派遣要請に急ぎ奥州派兵を行うものの、大河勢の攻勢は激しく、文治6(1190)年正月23日、「未無下著之軍兵」と鎌倉勢が奥州へ到着する以前に葛西清重は平泉を放棄して逃れた(『吾妻鏡』文治六年二月六日条)。実は、この清重のもとには胤正の嫡子・小太郎成胤が在陣していたとみられ、成胤はこの戦いでみずから先頭に進んで活躍。この報告を聞いた頼朝は賞しながらも、「但合戦不進于先登、兮可慎身之由」との書簡を送った(『吾妻鏡』文治六年正月十五日条)。
頼朝は2月5日、雑色真親・常清・利定・里長らを奥州に遣わして各地で戦っている鎌倉勢の検見させ、胤正をはじめとする御家人へ頼朝の戦略を伝えてさせている(『吾妻鏡』文治六年二月五日条)。
「合戦大体、至歩兵等者、踏山沢尋之有其便、然者求宗敵在所可襲之、凡於今度落人等者、至郎等皆可召進之、落人相論幷就下人等事、傍輩互不可」
平泉高舘より衣川を望む |
鎌倉勢が奥州に来た事を知った大河兼任は、一万騎を率いて平泉を発って泉田に向かった。一方、鎌倉方の上総介義兼や小山宗政・朝光の兄弟、葛西清重などがこれを迎え撃とうと栗原郡一迫(栗原市一迫)に向かったが、夜になってしまったために山越えができず近くの農村に駐屯した。しかし、この間に兼任の大軍は彼らの横をすり抜けて泉田に迫った。これに気づいた胤正は一軍を率いて泉田を出陣し、一迫で兼任勢を討ち散らし、さらに散り散りになった兼任勢を追撃した。こうして、2月23日、胤正・葛西清重・堀親家らは奥州平定の旨を使者に託した(『吾妻鏡』文治六年二月廿三日条)。
敗走した兼任はなおも五百騎を率いて衣川を眼前に陣を張って対抗したが敗れ、北上川を北に逃走。外浜と糠部の間にある「多宇末井之梯」の城砦に籠もった。これを追ってきた足利上総前司義兼の猛攻の前に敗れて兼任は逐電。その後、栗原郡の栗原寺に隠れた際、出達を怪しんだ「樵夫等」数十人に囲まれ、ついに斧で打ち殺された。首は胤正のもとに運ばれて首実検が行われた(『吾妻鏡』文治六年三月十日条)。こうして大河兼任の乱は平定されることとなる。
その後、胤正は鎌倉に帰還したが、その時期は不明。頼朝は戦後処理の一環として、3月15日、伊澤左近将監家景を新しい陸奥国留守職に任じ、民政を一任している(『吾妻鏡』建久元年三月十五日条)。また、古庄左近将監能直(大友能直)と宮六傔仗国平に陸奥・出羽「両州輩」のの「忠否」ならびに「兼任伴党所領等」の注進を命じている。この注進に基づき、9月9日、頼朝は平盛時を奉行として「両州輩」の賞罰について事書を作成し、古庄能直へと遣わしている(『吾妻鏡』建久元年九月九日条)。このときすでに葛西三郎清重は鎌倉へ帰還しており、古庄能直と宮道国平が葛西清重の奉行的地位を継承していた様子がうかがえる。なお、宮道国平は「傔仗」であることから古庄能直の副官的役割を担い、おもに出羽国を担当したと推測する。
建久元(1190)年10月3日、頼朝は上洛の途についた(『吾妻鏡』建久元年十月三日条)。去る9月15日、畠山次郎重忠が供奉のために武蔵国より鎌倉に到着。先陣隨兵については和田小太郎義盛が奉行し、後陣隨兵の奉行は梶原平三景時が任じられた。そして御厩奉行として、八田前右衛門尉知家とともに胤正の弟「千葉四郎胤信」が任じられた。しかし、上洛にあたってその八田知家が遅参した。頼朝は供奉人らとの打ち合わせのため、重鎮・知家の参着をかなりの時間待っており、甚だ不機嫌であった。そして昼過ぎになってようやく知家が参上。彼は行縢を着けたまま供奉人の郎従らが居並ぶ南庭を通り過ぎて沓解にて行縢を解き、頼朝の御前に参じた。
頼朝は怒りを抑えて「懈緩の致す所也」と咎めると、知家は所労であったことを告げて詫びるとともに、先陣後陣の人選を問うている。頼朝は、先陣は畠山重忠を起用したものの、後陣の人選に苦慮していることを告げると知家は、先陣は畠山次郎重忠で然るべし、後陣については「常胤為宿老、可奉之仁也」と、千葉介常胤を推薦した。このため、頼朝は常胤を召して、子の六郎太夫胤頼、孫の平次常秀を具して後陣の最末に供奉すべきこととした。そして11月7日、頼朝は上洛を果たす。
■建久元年十一月七日頼朝上洛時の千葉一族随兵(『吾妻鏡』)
先陣随兵 | 五十九番 | 千葉新介(胤正)、氏家太郎、千葉平次(常秀) |
後陣随兵 | 十九番 | 沼田太郎、志村三郎、臼井六郎(有常) |
二十四番 | 浅羽五郎、臼井余一(景常)、天羽次郎(直常) | |
三十五番 | 高橋太郎、印東四郎(師常)、須田小太郎 | |
後陣 | 千葉介(常胤) ⇒「子息親類等以為随兵」とあることから、 千葉次郎(師常)、四郎(胤信)、五郎(胤通)、三郎次郎(胤重)は同道していると思われる |
11月9日、頼朝は後白河院の仙洞御所へ院参し、その後参内する。このときの随兵七騎の一人として「千葉新介胤正」「葛西三郎清重」がみえる。頼朝はこのとき権大納言に任じられている。
11月11日、頼朝は六條若宮と石清水八幡宮へ参詣する。このときの先陣随兵に「千葉新介胤正」「葛西三郎清重」がみえ、頼朝の車の後騎として、三河守範頼以下の源氏門葉、宇都宮左衛門尉朝綱・八田右衛門尉知家の兄弟などと並んで父・千葉介常胤が列する。後陣の随兵には弟・千葉次郎師常が名を連ねる。11月29日の院参、12月1日の右大将拝賀にも「千葉新介胤正」が列し、12月14日、離京する頼朝の先陣随兵として供奉した。
建久2(1191)年正月1日、父・常胤が沙汰する埦飯が行われ、常胤の子息・一族たちによる進物では、胤正は「御弓箭」を献じている。
■建久二年正月一日献埦飯(『吾妻鏡』)
御劒 | 御弓箭 | 御行騰、沓 | 砂金 | 鷲羽(納櫃) | 御馬 |
千葉介常胤 | 新介胤正 | 二郎師常 | 三郎胤盛 | 六郎大夫胤頼 | 一、千葉四郎胤信、平次兵衛尉常秀 二、臼井太郎常忠、天羽次郎直常 三、千葉五郎胤道 、(不明) 四、寺尾大夫業遠 、(不明) 五、(不明 |
11月25日、永福寺供養が行われ、頼朝の先陣随兵として「千葉新介胤正」が供奉する。また御後供奉人として、弟の「千葉大夫胤頼」が列する。
建久5(1194)年2月2日の「江間殿嫡男童名金剛」の元服の儀が御所西侍で執り行われた。このとき、胤正は父・千葉介常胤、大須賀四郎通信(胤信であろう)とともに参列している。8月8日、頼朝の相模国日向山参詣に、弟の「千葉六郎大夫胤頼」とともに「御後」として供奉した。
建久6(1195)年2月2日、頼朝は上洛行の路地の沙汰を命じ、2月14日、畠山重忠を先陣に鎌倉を発した。今回の上洛は東大寺供養への参列が目的であった。3月4日、上洛を果たした頼朝は、六波羅邸に入御した。そして五日後の3月9日、奈良東大寺へ向けて出発した。このときの「先陣六騎」の二番に「千葉新介胤正」が「葛西兵衛尉清重」と並んで列する。一行は翌日、奈良南東院へ到着。ここで参列にあたって再編が行われ、後陣に「千葉新介胤正」が数百騎の郎従を率いて列する。
■建久六年東大寺参詣供奉人交名に見える千葉一族(『吾妻鏡』建久六年三月十日条)
車前隨兵(三騎相並ぶ) | 二十七番 | 糟屋藤太兵衛尉 | 臼井六郎(有常) | 中澤兵衛尉 |
二十九番 | 印東四郎(師常) | 牧武者所 | 多胡宗太 | |
三十番 | 土肥七郎 | 本間右馬允 | 天羽次郎(直胤) | |
三十一番 | 千葉次郎(師常) | 広澤与三 | 梶原刑部丞 | |
三十二番 | 和田三郎 | 河内五郎 | 千葉六郎大夫(胤頼) | |
三十四番 | 曽祢太郎 | 境平次兵衛尉(常秀) | 山内刑部丞 | |
車後隨兵(三騎相並ぶ) | 二十八番 | 多々良七郎 | 臼井与一(景常) | 長門江七 |
三十七番 | 伊東三郎 | 千葉四郎(胤信) | 志賀七郎 | |
三十九番 | 千葉五郎(胤通) | 加世次郎 | 大屋中三 | |
後陣(郎従数百騎) | 梶原平三景時 | 千葉新介(胤正) |
建久8(1197)年3月23日、頼朝が信濃国善光寺へ参詣した際、先陣の随兵に胤正の弟「千葉次郎(師常)」が加わり、後陣の隨兵として「千葉新介(胤正)」と次男の「千葉平次兵衛尉(常秀)」が扈従した(『相良家文書』:「大日本古文書 家わけ五」)。
■建久8(1197)年3月23日『右大将家善光寺御参隨兵日記』(『相良家文書』所収)
正治元(1199)年10月25日、結城朝光は夢のお告げがあったとして幕府侍所で亡き頼朝のために「人別一万反弥陀名号」を唱えることを同僚の御家人に勧めたため、彼らはこぞって阿弥陀仏の名号を唱えた。このとき朝光はふと、
と嘆息を漏らした。朝光は頼朝の乳母・寒河尼を母とし、十四歳のときから近侍して「無双近仕」と称されるほど鍾愛された人物であり、その心を察して人々はみな涙を流したという。
しかし、このことを梶原景時がどこからか聞きつけ、朝光の「忠臣は二君に事へず」という発言を将軍・頼家に讒言した。これを聞いた御台所北条政子の実妹で御所の女房・阿波局は翌27日、朝光にそっと
と伝えた。これを聞いた朝光は困り果て、「断金朋友」である「前右兵衛尉義村」の屋敷を訪れて、火急の用事があることを告げて義村と会談。朝光は、
と弱りきって話した。
これを聞いた義村は、
と、この親友の為に一肌脱ぐことを決め、とりあえず和田左衛門尉義盛と藤九郎盛長入道を屋敷に招き、朝光の話をつぶさに伝えた。すると彼らは、
と、この二人も景時に対しては怒りをもっていたと記される。彼らは諸御家人の連署状を作成して将軍に嘆願することを決定した。誰にこの連署状の筆を執ってもらうかについて義村は、
と、文筆に長けている前右京進中原仲業が景時にも個人的に恨みを持っているとして、仲業を屋敷に招いた。すると仲業はすぐに走り来て、この話を聞いて手をたたいて喜び、
と、その連判状の作成を喜んで引き受けたという。この当時中原仲業は鎌倉家司の一人であり(建久八年八月十九日『将軍家政所下文』「鎌倉遺文」934号「高野山文書又続宝簡第百一」)、連判に名を連ねた中にも政所出仕の奉行人(経験者含む)や侍所関係者がみられることから、有力御家人及び鎌倉家の家政機関奉行人を含んだ人々による計画だったと考えられる。
この景時追放の密議が終わり、義村は彼らと杯を交わし、夜に入っておのおの三浦屋敷を退いていった。おそらく義村らはその後すぐに有力御家人に対して事の次第を伝え、明日28日に鶴岡八幡宮寺に参集するよう伝えたと思われる。翌28日巳刻(午前10時頃)には鶴岡八幡宮寺の廻廊に多くの御家人が集結した。
●建久10(1199)年10月28日『梶原景時弾劾状署名六十六名』(『吾妻鏡』)
千葉介常胤 | 三浦介義澄 | 千葉太郎胤正 | 三浦兵衛尉義村 |
畠山次郎重忠 | 小山左衛門尉朝政 | 小山七郎朝光 | 足立左衛門尉遠元 |
和田左衛門尉義盛 | 和田兵衛尉常盛 | 比企右衛門尉能員 | 所右衛門尉朝光 |
二階堂民部丞行光 | 葛西兵衛尉清重 | 八田左衛門尉知重 | 波多野小次郎忠綱 |
大井次郎実久 | 若狭兵衛尉忠季 | 渋谷次郎高重 | 山内刑部丞経俊 |
宇都宮弥三郎頼綱 | 榛谷四郎重朝 | 安達藤九郎盛長入道 | 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道 |
稲毛三郎重成入道 | 安達藤九郎景盛 | 岡崎四郎義実入道 | 土屋次郎義清 |
東平太重胤 | 土肥先次郎惟光 | 河野四郎通信 | 曾我小太郎祐綱 |
二宮四郎 | 長江四郎明義 | 毛呂二郎季綱 | 天野民部丞遠景入道 |
工藤小次郎行光 | 中原右京進仲業 | 小山五郎宗政 | 他27名 |
彼らは景時に対して向背することを八幡大菩薩に誓い、仲業が訴状を捧げて廻廊に並ぶ御家人たちに対して読み上げた。三浦義村が訴状の中でもっとも感銘を受けた文章が「鶏を養はば狸を蓄せず、獣を牧さば狼を育てず」という部分であったという。御家人(鶏、獣)の集団である幕府は異端の存在である景時(狸、狼)を認めないという意味であろうが、自らをも戒める意味にも捉えたのかもしれない。なお、胤正は父・千葉介常胤、甥の平太重胤とともに名を連ねるが(『吾妻鏡』建久十年十月廿七日条)、これを最後に『吾妻鏡』では胤正の記述はなくなる。
訴状が読み上げられたあと、六十六名もの御家人が署名し、判を加えた。しかし、その中で当の結城朝光の実兄である小山五郎宗政が署名はしたが判を加えなかったことに、弟の危機を救うために朋輩たちが身を捨てて事に及ぼうとしているのに、兄である宗政が異心を持っているのはいかがなものかと批判が集まっている。こののち、侍所司和田左衛門尉義盛、及び三浦兵衛尉義村がこの連判状を持って、鎌倉家別当の兵庫頭広元に手渡した。
大倉幕府跡(寝殿から西侍辺りか) |
しかし、兵庫頭広元はこの連判状を受取ったものの、どのように処理してよいか迷った。確かに景時の讒言妄言はいまさら言うことはないが、右大将家は景時を信頼して彼もこれに答えていた。このような事態になったからといってすぐに罪科に問うことはいかがなものか。景時とほかの御家人たちとの間を取り持つべきかどうか、考えに考えており、この訴状をしばらく将軍頼家に披露していなかった。すると11月10日、広元は和田義盛と御所で出くわし、義盛から、
「彼の状定めて披露せらるるか、御気色は如何に」
と問い詰められた。義盛はおそらく裁許が遅いことに苛立っていたのだろう。広元はやむなく、
「未だ申さず」
と答えた。すると、義盛は目を剥いて、
「貴客は関東の爪牙、耳目として、已に多年を歴るなり、景時一身の権威を怖れて諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんや」
と怒り散らした。これに対し、広元もプライドを傷つけられたのだろう。気色ばんで、
「全く畏怖の儀にあらず、ただ彼の損亡を痛む計なり」
と反論。すると義盛はさらに詰め寄って、
「恐れずば諍か数日を送るべしや、披露せらるべきや否や、今これを承り切るべし」
と責め立てた。広元も怒ったのだろう。「申すべし」と言い捨てて座を立った。
11月12日、広元は約束どおり、連判状を頼家に披露した。これを読んだ頼家はただちに景時にこの連判状を渡すと、どういうことだと景時に説明を求めた。結局、景時は陳謝することはせず、翌13日、一族を率いて相模国一宮の屋敷に出奔した。ただ、三男の三郎兵衛尉景茂のみは鎌倉に留まった。彼は18日の比企邸における酒宴で頼家に召し出され、父・景時の非を糾されたが、同席していた中原仲業の個人的な中傷がこうなったと披露し、諸御家人から「神妙」と評価されている。
12月9日、梶原景時は相模国一宮の屋敷から鎌倉に帰参して、連判状のことについて日々詮議を受けたが、おそらく諸御家人からの強い圧力もあったのだろう。18日、頼家の命を受けた和田義盛、三浦義村によって御家人としての地位を召し放たれ、鎌倉を追放された。六浦道沿い梶原谷の梶原邸は即日解体され、永福寺僧坊の用材として下げ渡された。
鎌倉を追放された景時は、仲の良かった甲斐源氏の武田左兵衛尉有義を新たな将軍に擁立し、もともと平家党の多い九州の豪族を語らって幕府に対して謀反を企てたようである。正治2(1200)年1月20日、上洛を企てた梶原景時一党は、駿河国狐崎(静岡市清水区平川地)において吉香小次郎友兼、渋川次郎、矢部平次、矢部小次郎、船越三郎、大内小次郎らに取り囲まれ、一族悉く討死を遂げた。
●正治2(1200)年1月20日条(『吾妻鏡』)
梶原平三景時 | 矢部小次郎に討たれた。郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。 |
梶原源太左衛門尉景季 | 矢部平次に討たれた。三十九歳。 |
梶原平次左衛門尉景高 | 矢部平次に討たれた。 |
梶原三郎兵衛尉景茂 | 吉香小次郎友兼と組み打ち、相討。三十六歳。 |
梶原七郎景宗 | 討死するが郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。 |
梶原八郎景則 | 討死するが郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。 |
梶原九郎景連 | 工藤八郎に討たれた。 |
建仁元(1201)年3月24日、父・常胤が八十四歳で世を去った(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。胤正はこれ以前に家督を譲られていたかどうかは不明である。しかし、これ以前に「下総権介」は譲られており「千葉新介」を称していた。
建仁3(1203)年7月20日に亡くなったという(『千学集抜粋』)。享年六十三と伝わる。法名は西岸慶宥院・常仙院殿観宥。なお、『本土寺過去帳』では「建仁第二壬戌七月」の卒去とされており、実際の没年は建仁2(1202)年7月7日とみられる(『本土寺過去帳』七日上段)。