臼井氏は千葉一族のなかでも最も古く、平安時代後期に千葉氏から分かれた一族である。同じころに千葉氏から分流した白井・匝瑳・海上氏などが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城(千葉県佐倉市臼井田字城内)を中心に栄えた。
臼井城は、志津城(佐倉市上志津字御屋敷)・岩戸城(印旛村岩戸字高田山)・師戸城(印旛村師戸)といった支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていたという。しかし、その系譜や伝承については錯綜が多くある。上総権介広常の死や上総権介秀胤の滅亡など、臼井氏が大きな影響を受ける事件があったことが原因かもしれない。
臼井常康――常忠―――+―成常――盛常――常清――胤常――景胤
(六郎) (左衛門佐)|(四郎)(六郎)(四郎)(太郎)(彦太郎)
|
+―久常――家常――盛玄――康胤――昌胤―+―祐胤――――+
(五郎)(九郎)(日向)(与一)(六郎)|(太郎) |
| |
+―志津胤氏 |
(次郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| +―道庵曽顕
| |(瑞湖山円応寺)
| |
+―興胤―――+―尚胤――+―包胤――――冬胤―――之胤――――教胤―――+=持胤―+―為胤
(左近将監) (六郎) |(左近将監)(太郎) (右衛門佐)(左近将監)|(四郎)|(太郎)
| | |
+―胤盛 | +―幸胤
(上総介) | (左衛門佐)
|
+―俊胤―――景胤――久胤―――+
(備前守)(太郎)(左近将監)|
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+――+―忠胤―――――常数―――常慈――・・・
|(左近将監)
|
+―良胤 +―益胤―+―秀胤――安胤===善胤―――長胤――+―彦胤―――+=綏胤――――+―胤興
|(平十郎) |(平蔵)|(信斎)(儀太夫)(儀太夫)(儀太夫)|(登美之進)|(保) |(恒太郎)
| | | | | ∥ |
+―村胤―――+―嗣胤 +―貞笑尼 | +―延 +―胤相
(右近) (平介) | | (角太)
| | ∥
| +―鉄 本多氏
| (大山孝治妻)
|
+―年胤―――――銀治――――――鐏之進
(衛助) (穀蔵)
【大組士・臼井勘左衛門家】
…臼井豊後守 +―就房―――――娘
(藤次郎) |(勘左衛門) ∥――常清――――道常
∥―――――就方―――娘 | ∥ (勘左衛門)(勘三郎)
臼井尹胤―常行――+―娘 (藤次郎) ∥ +―元胤―――+―就常―――+―直常
(兵庫助)(兵庫頭)| ∥ |(勘左衛門)|(十左衛門)|(勘兵衛)
| ∥ | | |
+―興胤――+―隆常 ∥―――+―元光 +―元甫首座 +―勝次……弥伝次―胤勝
(対馬守)|(宗内) ∥ |(弥左衛門) (長府雲岩寺) (奇兵隊)
| ∥ |
+―景胤―――就俊 | 【大組士・臼井又右衛門家】
|(兵庫助)(対馬守)+―元徳―――就之――――説重――――義正―――成重
| ∥ (勘兵衛)(又右衛門)(五右衛門)(弥兵衛)(又右衛門)
| ∥
| ∥―――――就胤……【大組士・臼井惣兵衛家】
+―弥七郎 吉賀氏 (惣兵衛)
|
+―常喜……【継石川氏】
(新右衛門)
●下総臼井氏当主
臼井常安(1106-1186)
臼井氏初代当主。父は下総権介平常兼。通称は六郎。「常康」とも。
父・常兼は「下総権介」という肩書きを以って、子息たちを開発領主として下総各地に派遣したと思われ、六男の常安も印旛郡臼井郷(佐倉市臼井)の開発に携わったのだろう。常安の子息に「神保常員」が見えることから、萱田神保御厨(船橋市神保町から八千代市の一部)の開発も常安によってなされたと思われる。(→神保氏)
臼井郷がいつ頃立庄したのかを示す文書は残されていないが、遅くとも鎌倉時代中には立庄されている。鎌倉時代初期に「臼井郷」「臼井郡」と記載の文書が残されているが、元徳3(1331)年9月4日『千葉胤貞譲状』に「臼井庄」と見える。
○荘園の発生時期(初見)と荘園領主
荘官 | 荘園 | 荘園領主 |
千葉常重 | 千葉庄…元永(1118-19)以降、千葉荘の検非違使(『吾妻鏡』) | 鳥羽上皇→八条院 |
白井常親 | 白井庄…文治2(1186)年3月12日に見える(『吾妻鏡』) | 延暦寺領…平安末期に荘園化 |
臼井常康 | 臼井郷…天福2(1234)年正月12日に見える(『鎌倉遺文』) | 臼井庄は未成立か? |
匝瑳常広 | 匝瑳北条庄…永暦2(1161)年正月の源義宗寄進状(『櫟木文書』) | 平安時代に南北に分かれる |
海上常衡 | 海上庄…治承4(1180)年5月11日の皇嘉門院惣処分状(『九条家文書』) | 九条家領として九条良通に譲渡 |
常安は平家の軍勢と戦ったとされ、文治2(1186)年、81歳で没したという。
秋月藩士臼井家に伝わる伝承によれば、文治3(1187)年、常安は軍功によって頼朝より筑前国嘉摩郡馬見庄、碓井庄五百町を給わったという(秋月臼井家)。また、鳥取藩士臼井家も遠祖を常安としている(鳥取県立博物館蔵藩政資料『臼井家譜』)。
◎臼井氏と千葉氏の世代で見た矛盾(下段は『千葉大系図』記載)
●千葉常兼―――千葉常重―――常胤――――胤正―――――成胤―――――胤綱====時胤――頼胤
(1045-1126) (1083-1180)(1118-1201)(1137-1202)(1155-1218)(1208-1224) (1239-1275)
仕頼朝 承久の乱 宝治合戦
↓↑ここで80年の差が生じている。
●千葉常兼―――臼井常安―――常忠――――康胤―――――昌胤―――――祐胤―――――興胤
(1045-1126) 仕頼朝? 承久の乱 (1290-1314)(1312-1364)
元号 | 出来事 | 臼井一族ほか旧上総氏族 |
文治元(1185)年10月24日 | 勝長寿院供養の随兵 | 臼井六郎(有常) |
建久元(1190)年11月7日 | 頼朝の上洛の随兵 | 臼井与一(景常)・天羽次郎(直常)…後陣24列 |
建久6(1195)年3月10日 | 頼朝の随兵 | 臼井六郎(有常)・天羽次郎(直常)・印東四郎(師常)…30列 千葉次郎(師常)・千葉六郎大夫(胤頼)・境二兵衛尉(常秀)…31列 |
臼井常忠(????-????)
臼井氏二代。通称は太郎(『吾妻鏡』)、三郎(『神代本千葉系図』)。父は臼井六郎常安。母は不明。妻は伊東祐親入道の娘とも。千葉介常胤の従兄弟にあたる。
御剣 | 千葉介常胤 |
御弓箭 | 千葉新介胤正 |
御行騰沓 | 千葉次郎師常 |
砂金 | 千葉三郎胤盛 |
鷹羽 | 千葉六郎大夫胤頼 |
一御馬 | 千葉四郎胤信 |
千葉平次兵衛尉常秀 | |
二御馬 | 臼井太郎常忠 |
天羽次郎直常 | |
三御馬 | 千葉五郎胤道 |
四御馬 | 寺尾大夫業遠 |
五御馬 | 不明 |
建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、「臼井太郎常忠、天羽次郎直常(真常)」が千葉四郎胤信らとともに年賀の馬を曳いており、千葉介常胤の麾下にあったことがわかる(『吾妻鏡』)。
常忠の妻は「伊東祐親入道娘」とも(『千葉大系図』)。祐親の娘としては流人時代の頼朝の子を産んだ娘(千鶴?)と三浦介義澄の妻(三浦義村生母)の二名が伝わっているが、臼井氏妻という伝はほかに見えない。また『臼居家家伝』によれば、鎌倉大町に館を持ったという(『臼居家家伝』)。
弟・神保次郎常員は臼井庄神保郷(船橋市神保町)を本貫とした。その後、神保氏は承久の乱の戦功によるものか、出雲国に所領を与えられて移っていく。出雲に移った系は室町期に大内氏に仕え、江戸時代は萩藩士臼井家となっている。(→神保氏)
臼井成常(????-????)
臼井氏三代。通称は四郎(『神代本千葉系図』)、次郎(『玄仙系臼井系図』)。父は臼井太郎常忠。母は不明だが、おそらく上総権介常澄女。
鎌倉時代末期に作成された軍記物『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は五千余騎という大軍を率いて上総から下総へ向かったとあり、そこで「上総権介広常」が頼朝の御前で跪き、先陣を願い出た(『源平闘諍録』)。その「可相随輩」として、「臼井四郎成常、同五郎久常、相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常、同四郎師常、伊北庄司常仲、同次郎常明、大夫太郎常信、同小大夫時常、佐是四郎禅師等」が挙げられている。そこに見られる人物名は、ほぼ広常の弟ならびに甥であり、広常はあくまでごく近い親族を率いての参陣であったことがうかがえるのである。
臼井氏については、成常・久常の父・臼井太郎常忠が建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、広常の甥・天羽次郎直常とともに年賀の馬を曳いている(『吾妻鏡』:臼井太郎常忠の項目参照)ことや、建暦3(1213)年2月16日に泉小次郎親平が企てた謀反の計画に加わって捕縛された「上総介八郎甥臼井十郎(成常弟の十郎常俊か)」(『吾妻鏡』建暦三年二月十六日条)とあることから、臼井氏は上総平氏の同族として扱われていたことがわかる。また、「大夫太郎常信、同小大夫時常」は大須賀氏であるが、この大須賀氏はその後失脚し、千葉介常胤の四男・多部田四郎胤信が大須賀氏領を継承していることから、おそらく彼らも臼井氏同様に上総平氏の縁者であり、後年の上総権介広常の殺害に伴って所領を没収されたと思われる。
千葉常長―+―千葉常兼――+―千葉常重―――千葉常胤――――千葉胤正
(千葉太夫)|(千葉太夫) |(下総権介) (下総権介) (千葉介)
| |
| +―臼井常安―――臼井常忠 +―臼井成常
| (六郎) (太郎) |(四郎)
| ∥ |
| ∥―――――+―臼井久常
| ∥ |(五郎)
| ∥ |
| +―娘 +―臼井常俊
| | (十郎)
| |
+―相馬常晴――+―平常澄――+―平広常
|(上総権介) |(上総権介) (上総権介)
| ?
| +―娘
| ∥――――――大須賀時常
| ∥ (小太夫)
| ∥
+―大須賀常継―――大須賀常信
(八郎太夫) (太郎)
建治元(1275)年「鎌倉幕府御家人交名」によれば、京都の六條八幡宮造営注文として、下総「臼井四郎入道跡」として、八貫文が課役されている。「臼井四郎入道跡」は成常の所領を受け継いだ者に賦課された所役であり、成常の所領を基礎として算出されていることから、成常が鎌倉前期の臼井氏を代表する人物ととらえられていたことがうかがえる。
臼井盛常(????-????)
臼井氏四代。通称は九郎(『神代本千葉系図』)、六郎(『玄仙系臼井系図』)。父は臼井四郎成常。
寛元3(1245)年8月2日、幕府の陰陽師として出仕していた漏刻博士阿倍泰継・大膳権亮阿倍孝俊が継兄・阿倍季尚の嫡男・右京亮阿倍業氏を殺害した咎で逮捕され、泰継は遠山大蔵権少輔景朝に預けられ、孝俊は「駄三郎八郎入道則俊、臼井九郎」が預かった(『吾妻鏡』)。この臼井九郎が盛常か家常かは不明。
臼井常忠―+―成常―――――盛常―+―山無常道
(太郎) |(四郎) (九郎)|(四郎)
| |
| +―山無常清―――胤常――――――景胤
| (五郎) (太郎) (彦太郎)
|
+―久常―――――家常―――盛玄―――+―胤行――――――太郎
|(五郎) (九郎) (僧侶) |(宮内左衛門尉)
| |
+―有常 +―胤員――――――牛尾太郎
|(六郎) |(九郎左衛門尉)
| |
+―胤時―――――胤直 +―与一――――――原光胤
|(九郎兵衛尉)(太郎) (六郎)
|
+―景常
(与一)
宝治元(1247)年6月22日に示された三浦方に属して討死した武士の中に「臼井太郎・次郎」が記されている(『吾妻鏡』宝治元年六月廿二日条)。また、臼井氏と同じく上総権介広常に連座して所領・印東庄(佐倉市から成田市の一部の広大な荘園)を失った印東氏と思われる印東太郎とその子の印東次郎・三郎が討死している。彼らは上総権介秀胤の麾下にあった人々かもしれない。
秀胤の麾下として「臼井太郎・次郎」を考えた場合、友部臼井氏の「臼井太郎則胤・次郎則常」が見える。彼らの父・友部秀常は、諱に「秀」があることから見て、上総権介秀胤の被官であったとすると、ここで討死した臼井太郎・次郎は彼らかも知れない。
臼井常忠―+―友部宗常―――臼井秀常――+―臼井則胤
(三郎) |(二郎) (宰相) |(太郎)
| |
| +―臼井則常
| (次郎)
|
+―臼井成常―――臼井盛常――――山無常清
(四郎) (九郎) (五郎)
山無常清(????-????)
臼井氏五代。通称は五郎(『神代本千葉系図』)、四郎(『玄仙系臼井系図』)。父は臼井九郎盛常。
兄の四郎常道とともに「山無」を称しており(『神代本千葉系図』)、常道・常清兄弟は、臼井庄に南接する千葉庄山梨郷(四街道市山梨)を領していたか。
臼井氏は鎌倉大町に館を持っていたと伝えられ、鎌倉材木座の蓮乗院を菩提寺としたといい、常清の墓は蓮乗院にあったという(『臼居家家伝』)。蓮乗院の寺紋は月星紋、千葉介常胤の創建と伝えられる古刹である。
臼井胤常(????-1247?)
臼井氏六代。通称は太郎(『神代本千葉系図』、『玄仙系臼井系図』)。山無五郎常清の子。
その活躍は伝わっていないため、どのような人物かは全く不明。諱に「胤」を用いていることから、千葉氏の被官化していたとも考えられる。
臼井景胤(????-????)
臼井氏七代。通称は彦太郎(『神代本千葉系図』)。
その活躍は伝わらず、人物については不明。江戸時代に常陸国新治郡上曾村(茨城県石岡市上曽)に帰農した臼井家に伝わる『玄仙系図』では胤常の子は足利尊氏に従って戦功を挙げた臼井左近将監興胤となっている。時代的に見て景胤とは別人である。
これ以降の臼井氏の系譜は全く不明になる。
臼井康胤(????-????)
通称は余一。父は臼井日向入道盛玄?
『臼井家系図』『千葉大系図』では「太郎常忠」の子として「余一康胤」、その子は「六郎昌胤」とある。一方『神代本千葉系図』では「常忠」の子として「与一景常」がみえる。また、常忠の子「五郎久常」の孫で僧侶の日向盛玄の子に「余一□□――原六郎光胤」という系譜が見える。
『千葉大系図』
臼井常康――常忠―――康胤――昌胤
(六郎) (太郎) (余一)(六郎)
『神代本千葉系図』
臼井常康――常忠―+―久常――家常――盛玄――■■――光胤
(六郎) (太郎)|(五郎)(九郎)(日向)(与一)(六郎)
|
+―盛常――常義――星名四郎
|(九郎)(六郎) ↓↑(同一人物?)
|
+―景常――――――星名景綱
(与一) (星名四郎)
常忠の子・余一景常は時代的にも見て、建久元(1190)年11月7日の頼朝上洛の随兵にみえる「臼井余一」のことと思われ、「康胤」ではないと考えられる。また、『千葉大系図』に見る「六郎昌胤」の項「承久年中有戦功」とある部分については作者の加筆、または世代的に「六郎常義」の戦功を書き入れたのかもしれない。
臼井常忠―+―成常―――――盛常―+―山無常道
(太郎) |(四郎) (九郎)|(四郎)
| |
| +―山無常清―――胤常――――――景胤
| (五郎) (太郎) (彦太郎)
|
+―久常―――――家常―――盛玄―――+―胤行――――――太郎
|(五郎) (九郎) (僧侶) |(宮内左衛門尉)
| |
+―有常 +―胤員――――――牛尾太郎
|(六郎) |(九郎左衛門尉)
| |
+―胤時―――――胤直 +―与一――――――原光胤
|(九郎兵衛尉)(太郎) (六郎)
|
+―景常
(与一)
系譜上、官途を得ているのは僧盛玄の子のみであることから、盛玄の系統が臼井家の本流と幕府から認められるようになったのかもしれない。九郎盛常の子が山無郷へ移っていったのもこうした背景があったとすると、系譜の混乱も同族同士での混乱から引き起こされた可能性もあろう。「与一―六郎」という系譜の続き方についても、「常忠」から「与一」へ至る過程での混乱から、『千葉大系図』に見るような数世代の省略という形で表れているのかもしれない。
ただ、僧盛玄の系統は臼井庄のかcなり西、千田庄内の牛尾郷、原郷(多古町牛尾)を領していたことがうかがえることから、彼らが臼井氏の嫡流として発展したかどうかはわからない。
臼井昌胤(????-????)
父は臼井余一康胤? 通称は六郎(『千葉大系図』)。
『神代本千葉系図』にみえる「原六郎光胤」もしくは「臼井彦太郎景胤」と同一人物?
臼井常忠―+―成常―――――盛常―+―山無常道
(太郎) |(四郎) (九郎)|(四郎)
| |
| +―山無常清―――胤常――――――景胤
| (五郎) (太郎) (彦太郎)
|
+―久常―――――家常―――盛玄―――+―胤行――――――太郎
|(五郎) (九郎) (僧侶) |(宮内左衛門尉)
| |
+―有常 +―胤員――――――牛尾太郎
|(六郎) |(九郎左衛門尉)
| |
+―胤時―――――胤直 +―与一――――――原光胤
|(九郎兵衛尉)(太郎) (六郎)
|
+―景常
(与一)
元弘元(1331)年12月25日、長井頼秀(大江広元曾孫)の妻である「尼しやうゐん」が、「ちやくしくら人さたより(嫡子蔵人貞頼)」に「しもつさのくにのうちうすいのほりの内に、うすゐのあま御せんの御あとのミやうてん、さいけ(下総国の内臼井の堀ノ内に臼井の尼御前の御跡の名田、在家)」が譲られた(『尼しやゐん譲状』:「北区史」所収)。これより、長井頼秀妻・尼しやうゐんは「臼井の尼御前の御跡の名田、在家」を所有しており、彼女の実家は臼井堀内(臼井城内)に所領を有する人物、つまり臼井家と関わりのある人物だったことがうかがわれる。「うすゐのあま御せん(臼井の尼御前)」は時代的に昌胤のころの女性と思われる。
●長井氏系譜
臼井某―?―尼しやうゐん
∥―――――――長井貞頼
∥ (蔵人)
長井泰茂――長井頼秀
(出羽守) (左近将監)
臼井祐胤(1290-1314)
父は臼井六郎昌胤。通称は太郎。
臼井家惣領となり、弟の次郎胤氏を志津郷に派遣して守らせたという。また、一族の岩戸五郎胤安(岩戸城主)、師戸四郎(師戸城主)、用草三郎(用草城主)にはそれぞれ臼井庄内の要害を固めさせたと伝わる。
正和3(1314)年、病のために弟の志津胤氏に嫡男・竹若丸の後見を命じ、二十五歳の若さで没したというが、文書等に見えない人物であるため、実在は不明。
臼井興胤(1312-1364)
臼井氏中興初代。父は臼井太郎祐胤。妻は木内余一胤氏の娘・磯子(『木内氏系図』)。幼名は竹若丸。通称は太郎。初名は行胤と伝わる。官途は左近将監。「臼井家中興の祖」とされる。
岩戸胤安碑 |
正和3(1314)年秋、父・祐胤は二十五歳の若さで没し、三歳の竹若丸は叔父の志津胤氏の後見で家督を継いだ。しかし、胤氏は自分が臼井家惣領になることをたくらみ、竹若丸の暗殺を計画したという。これを察知した一族の岩戸城主・岩戸五郎胤安は、修験者に身を変えて臼井城に忍び込み、その笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出。印旛沼の対岸にある居城・岩戸城にかくまった。
しかし、岩戸城は臼井城とは目と鼻の先であり、発覚を恐れた胤安は鎌倉建長寺十四世の仏国禅師(高峰顕日)に竹若丸の身を預けたという。しかし、臼井城から竹若丸の姿が見えなくなったことに不審を抱いた志津胤氏は、岩戸胤安が竹若丸を連れ去ったことを知るや、岩戸城に軍勢を派遣。岩戸胤安・胤親父子は討死を遂げたという。こののち、胤氏が実権を握ったという。
建長寺山門 |
一方、仏国禅師は竹若丸を建長寺で教育していたが、正和5(1316)年、後事を弟子の仏真禅師(無礙妙謙・円覚寺三十六世)に託して死去。仏真禅師は師と同じように竹若丸を愛護し、竹若丸は建長寺において元服し、行胤と名乗った。
そのころ、臼井の実権は志津胤氏が握っており、仏真禅師は執権・北条貞時に行胤へ城地返還を訴え出たものの退けられたという。このためか、行胤は上野国で新田義貞の挙兵を聞くと鎌倉を出奔し、新田軍に加わっていた足利千寿王(のちの義詮)に従って鎌倉を攻めたという。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇によって懐古的な公家中心の政治「建武の新政」が行われるようになると、幕府追討の功績者・足利尊氏はこれに反発して新政を見限り、鎌倉を占領した幕府残党(中先代軍)追討を名目に鎌倉に下ったまま天皇の召還命令にも応じなかった。このため新政府から賊軍として征討されることになるが、行胤は足利尊氏に随って戦い、臼井氏惣領と認められたという。
暦応元(1338)年、行胤は正式に臼井城ならびに臼井庄の本領安堵がなされ、さらに尊氏は功績のあった武士の任官を朝廷に奏請し、行胤は従五位下・左近将監に任じた。このとき、行胤は尊氏の命によって「興胤」と改名したという。「行胤」という名は恩師である仏国禅師に名付けられた名前のため改めがたくあったものの、尊氏からの忝ない命であるため改名。しかし、法名には「行胤」という字を入れることを心に決めていた。
臼井行胤の存在を裏付ける史料がないために、同じく尊氏の側近として見える「白井弾正左衛門行胤」と混同されているという説もあるが、両者に共通するものは「行胤」という名が同じであることと尊氏の麾下だったことのみであり、その点から臼井行胤が創作されたとするにはやや早急な感がある。
臼井城内 |
興胤が臼井氏惣領に認められたのちも、臼井は叔父・志津胤氏が支配しており、尊氏は越前で足利方に降伏した千葉介貞胤に命じて、志津胤氏に臼井城明け渡しを指示させたため、胤氏もついに興胤に臼井を明け渡したという。
興胤が臼井城へ戻ると、胤氏はしぶしぶ興胤の下座に着した。しかし、胤氏はその後も興胤を侮った態度を改めることがなく、興胤は胤氏の殺害を計画。暦応3(1340)年8月14日、興胤は臼井城の城普請と称して胤氏に大量の人員を要求して志津城を手薄にし、夜陰に紛れて志津城を攻め、胤氏一族を滅ぼしたという。この戦いでは胤氏の妻の勇戦ぶりが伝えられている。この志津攻め以降、臼井氏の権力は惣領家に集中し、臼井氏の勢力は次第に大きくなっていく。このため、興胤は「臼井家中興の祖」とよばれている。
貞治3(1364)年4月18日、53歳で没したと伝えられている。法名は延応寺殿江鑑行胤大居士。
臼井尚胤(????-1376)
臼井氏二代。通称は六郎。父は臼井左近将監興胤。兄・道庵曽顕は臼井城下の臼井氏菩提寺・瑞湖山円応寺の開山である(『玄仙系臼井系図』)。
永和2(1376)年7月13日に没した(『千葉臼井家譜』)。法名は蜜傳道顕居士(『千葉臼井家譜』)。
臼井包胤(????-1383)
臼井氏三代。通称は六郎。父は臼井六郎尚胤。官途は従五位下・左近将監。
永徳3(1383)年11月3日に没し、臼井円応寺に葬られた。法名は太林道棟大居士(『千葉臼井家譜』)。弟の臼井上総介胤盛は臼井冬胤・之胤の後見人として、諸政を司っている(『足利氏満書状』中山法華経寺文書Ⅱ55)。
臼井冬胤(????-1402)
臼井氏四代。通称は太郎。父は臼井六郎包胤。
応永4(1397)年12月23日付の『足利氏満書状』によれば、「大須賀左馬助憲宗、臼井上総介胤盛」の両名が、足利氏満の代官として、真間弘法寺・中山本妙寺・法華寺が所領を実際に知行しているかを調べている(『足利氏満書状』中山法華経寺文書Ⅱ55)。臼井胤盛は冬胤の叔父にあたり、下総国守護代的な立場にあったことがうかがわれる。
●臼井氏略系図
臼井興胤―+―尚胤――――+―包胤――――冬胤
(左近将監)|(六郎) |(左近将監)(六郎)
| |
+―道庵曽顕 +―胤盛
(円応寺開山) (上総介)
応永9(1402)年8月23日に没し、大叔父・道庵曽顕が開山の臼井家菩提寺である珊瑚山円応寺に葬られたと伝えられている。法名は宗嶽常綱大居士。
[2] 応永4(1397)年12月23日『足利氏満書状』(『萩藩閥閲禄』所収)
※法花寺本妙寺 | 八幡庄中山郷にある日蓮宗中山門流総本山。室町時代後期に法華寺・本妙寺が合併して「法華経寺」となった。中世の古文書などが多数残されていて、中世下総の歴史を知る上で貴重な史料となっている。現在、市川市中山にある。 |
弘法寺 | 八幡庄中山郷にある日蓮宗寺院。「ぐほうじ」と読む。はじめは真言宗寺院で、隣接する国府との関わりも深かったと考えられるが、室町時代初期に日蓮宗寺院となった。残されている中世史料は貴重な文献。現在、市川市真間にある。乾くことのない「涙石」で有名。 |
治部卿大僧都日暹 | 日尊の弟子で応永4(1397)年7月10日、師・日尊から中山門流寺院・寺領を継承し、五世となる。この書状は、その際の寺領を確認する文書と考えられる。 |
師匠日尊 | 千葉胤貞猷子・日祐上人(中山本妙寺・法華寺三世)の弟子で、中山寺四世。本妙寺領の確保に努めるなど、日蓮宗中山門流の発展に尽くす。 |
重義 | 上総国周東郡埴谷村の豪族。法号は「法義」。周東郡末利上村を「避状」をもって本妙寺に寄進した。 |
大須賀左馬助憲宗 | 大須賀宗信の嫡子。鎌倉幕府に仕えて楠木正成討伐軍に参加。その後は千葉介貞胤とともに足利尊氏に対抗するが、降伏して家名を守る。その後、足利氏満の命によって、千葉介満胤の後見人となった。 |
臼井上総介胤盛 | 臼井尚胤の次男。憲宗と並んで守護代的な存在であったか、鎌倉府に出仕して、鎌倉公方に仕えていたか。 |
氏満 | ニ代鎌倉公方。足利基氏の嫡子で足利尊氏の孫にあたる。 |
右衛門督入道 | 斯波義将。斯波家は足利一門筆頭で、三管領の一家。 |
臼井之胤(????-1430)
臼井氏五代。通称は太郎。官途は従五位上・右衛門佐。父は臼井太郎冬胤。大叔父・臼井上総介胤盛が後見人を務めたという。
応永17(1410)年10月4日に初陣。応永24(1417)年の「上杉禅秀の乱」では、千葉介満胤の嫡男・兼胤が禅秀の女婿であった関係から千葉宗家は禅秀に荷担し、臼井之胤の鎌倉館に本陣をおいて鎌倉公方・足利持氏と戦ったという。しかし、上杉禅秀の乱は幕府駿河守護職・今川範政らの介入によって禅秀方が敗れ、千葉宗家は持氏側に降伏した。
永享2(1430)年5月12日に没し、菩提寺である珊瑚山円応寺に葬られたと伝えられている。法名は説山道顕大居士。
臼井教胤(????-1465)
臼井氏六代。官途は従五位下・左近将監。父は臼井右衛門佐之胤。
永享10(1438)年、足利持氏が嫡子・賢王丸(義久)元服の際、将軍偏諱の「慣例」を破ろうとしたため、関東管領・上杉憲実と対立。これがきっかけで関東の大乱となり、翌永享11(1439)年に持氏の自害によって一応の収束を見た。
翌永享12(1440)年、下総結城城主・結城氏朝が持氏の遺児、春王丸・安王丸を奉じて挙兵する(永享の乱)と、千葉介胤直は上杉氏と並ぶ幕府方の中枢として出陣。馬加陸奥守康胤・原越後守胤房・円城寺下野守尚任らを率いて結城城を攻めた。
この結城合戦では、下総臼井一族かどうかは不明だが、足利春王・安王・結城氏朝に加担していた臼井氏がいた。多賀谷彦太郎と「臼井五郎」の二名は抗戦したものの、上野国人「長野左馬介」に討ち取らた。さらに、長尾因幡守が生け捕った人物中にも「臼井」がおり、他にも臼井一族が加わっていたことがうかがえる。長尾因幡守に捕らえられた「臼井」ほか三十名はすべて殺害されている。
結城合戦は、結城氏朝・持朝父子が討死し、足利春王・安王は捕えられて乱は鎮定され、春王・安王の幼い兄弟は京都への護送中、美濃国で処刑された。しかし、春王らの弟・永寿王丸は許されて土岐家で養育されたのち、八代将軍・足利義成(のちの義政)の偏諱を受けて元服し「成氏」と名乗った。
成氏はその後、関東への帰国を許されたが、ここで上杉氏と対立し、亨徳3(1454)年12月、父・持氏を討った上杉憲実の子で、関東管領・上杉憲忠を暗殺したため、ふたたび幕府との間で戦乱が起こった。そして、この混乱のなか、千葉氏も内紛が勃発。家宰の原越後守胤房が馬加陸奥守康胤入道常儀と組んで千葉介胤直入道常瑞・千葉介胤宣らを千田庄多古で攻めて滅ぼしてしまった。
千葉介満胤―+―千葉介兼胤―――+―千葉介胤直―――+―千葉新介胤将
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介入道常瑞)|(千葉新介)
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| | +―千葉介胤宣
| | (千葉介)
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| +―千葉胤賢――――+―千葉実胤
| (中務入道了心) |(七郎)
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+―馬加康胤――――――胤持 +―千葉介自胤
(千葉陸奥入道常儀) (千葉介)
永享の乱ののちに出家して「常瑞」を名乗るようになった千葉介胤直は、幕命とはいえ成氏の父・持氏や、成氏の兄、春王丸・安王丸を滅ぼした中心人物の一人であり、成氏には親兄弟を殺した仇敵と見られていたのだろう。さらに、千葉宗家内の権力争いで原氏と円城寺氏が対立関係にあり、原胤房は円城寺氏を滅ぼす口実として、関東公方家に「謀反」した千葉宗家を攻め滅ぼしたものか。このとき臼井教胤も成氏方についたという伝承がある。
寛正6(1465)年5月22日に没し、菩提寺である珊瑚山円応寺に葬られたという。法名は本願念清大居士。
臼井持胤(????-????)
臼井氏七代。通称は四郎。千葉介某の子で、臼井家に養子に入ったと伝えられている。
●臼井氏略系図
臼井教胤―+=持胤――+―為胤
(左近将監)|(四郎) |(太郎)
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| +―幸胤
| (左衛門佐)
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+―俊胤――――景胤
(備前守) (太郎)
伝承によれば、文明9(1477)年5月、養父・臼井左近教胤の実子である俊胤に家督を譲って隠居しようとしたが、俊胤はこれを固持し、持胤の次子(長男・太郎為胤は早世)の幸胤に継承させるのが道理であると主張した。しかし、持胤は幸胤が幼少であることを理由に俊胤に強引に家督を譲って隠居してしまった。その後の活動は不明。
永正元(1504)年、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良の間で戦いが起こると、千葉介孝胤、千葉勝胤、臼井持胤は山内上杉顕定に味方し、重臣の原宮内少輔胤隆・木内氏は扇谷朝良に荷担しようとした。そのため孝胤は持胤を原胤隆のもとに派遣して寝返らせようとしたが、4月13日、捕らえられて討たれたという(『臼居家家伝』)。法号は月鏡清光大居士。ただし、原胤隆が千葉介孝胤と対立していた形跡はないため、伝承であろう。
臼井俊胤(1459-1517)
臼井氏八代。官途は従五位下・備前守。出家して玄光入道。父は臼井左近教胤。
●臼井氏略系図(伝承含む)
臼井教胤―+=持胤――+―為胤
(左近将監)|(四郎) |(太郎)
| |
| +―幸胤
| (左衛門佐)
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+―俊胤――――景胤
(備前守) (太郎)
長禄3(1459)年に生まれたという。七歳の時に父・教胤が没したため、義兄の持胤が臼井家を継承した。
文明9(1477)年5月、持胤から家督を譲られた。当初、俊胤は持胤の実子・幸胤へ継承されるのが望ましいとしてこれを固持したものの、持胤は幸胤が幼少であるとして、俊胤へ家督させたという。
文明10(1478)年、扇谷上杉家家宰の太田道灌入道は、古河公方勢力を駆逐するため、弟の太田図書資忠と武蔵石浜城主・千葉介自胤(武蔵千葉氏)を下総に出陣させた。一方、古河公方を支援する千葉介孝胤は、上杉勢迎撃のため軍勢を率いて西へ向かい、12月10日、境根原(柏市光が丘団地)で両軍は大激戦となった(境根合戦)。戦いは千葉介孝胤勢の大敗に終り、原氏・木内氏ら重臣たちが討死を遂げている(『道灌状』)。敗走した千葉介孝胤は佐倉城へ退却しているが、この戦いに臼井俊胤が出征していたかは不明。
臼井城より印旛沼を望む |
文明11(1479)年正月18日、太田図書資忠・千葉介自胤ら扇谷上杉勢は臼井城を包囲した。
臼井城は沼沢地に囲まれた城郭であったためか、上杉勢は攻めあぐねていつしか長滞陣となった。このため、上杉家の部将たちは戦に飽いて帰国するものが続出、資忠・自胤は必死に食い止めようとしたが効果はなく、太田図書は臼井城に攻め入り、図書をはじめとする五十七人もの将が討たれたという。このときの臼井城主が臼井俊胤であり、上杉勢を潰走させた武名は大いに轟いたという。
千葉介自胤は資忠の討死を聞いて臼井城の囲みを解き、武蔵へ帰国するが、この一連の戦いの中で、海上備中守(師胤か)や上総長南城主・武田上総介(宗信カ?)、上総真里谷城主・武田三河入道(道鑑)らが自胤に帰参し、中でも武田三河入道は嫡子・式部丞(信勝カ)を真里谷城に置いて、自胤とともに武蔵国石浜へ同行している。
文明18(1486)年2月、甥の幸胤が十五歳で元服したため、幸胤へ家督を譲って剃髪。「玄光」と号して幸胤の後見人となった。
しかし幸胤は病弱であり、延徳2(1490)年6月19日に十九歳の若さで没してしまい、俊胤は法体のまま再度家督を継いだという。
永正11(1514)年正月、嫡男・太郎景胤に家督を譲ってふたたび隠居。永正14(1517)年5月17日、五十九歳で没した。法名は和嶽常熈大居士。
臼井幸胤(1472-1490)
臼井氏九代。父は臼井四郎持胤。通称は右馬助、左衛門佐。兄・太郎為胤は早世。
父・持胤の死後は義理の叔父・俊胤に養育され、文明18(1486)年2月、俊胤から家督を譲られたという。しかし、わずか五年後の延徳2(1490)年6月19日、十九歳の若さで亡くなったという。法名は恭叟常懿大居士。
臼井景胤(1496-1557)
臼井氏十代。通称は太郎。父は臼井俊胤入道玄光。母は不明。
永正11(1514)年正月、父・俊胤入道から家督を継承。以降四十四年もの間、臼井家当主として権力を奮ったと伝えられている。
足利政氏―+―高基――――晴氏
(古河公方)|(古河公方)(古河公方)
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+―義明――――頼純
(小弓公方)
古河公方・足利高基から年未詳11月27日に「千葉介殿(千葉介勝胤)」へ宛てられた書状の中で「臼井不忠千代未聞候」となじられた「臼井」とはこの景胤か? おそらく足利高基(古河公方)と異母弟・足利義明(小弓公方)との対立の中で、臼井氏が義明に加担したことに、「臼井不忠」は「千代未聞(前代未聞)」となじっているとされる(『渡辺正胤氏所蔵文書』:「千葉氏 室町・戦国編」)。また、同文書には「昌胤并海上、原其外令供奉候、感悦候」とあり、千葉昌胤(勝胤嫡男)や海上氏・原氏らは足利高基に荷担していたことがわかる。
天文7(1539)年10月7日、足利義明は下総国国府台(市川市国府台)で足利晴氏(高基嫡子)の御内書を受けた小田原城主・北条氏綱と合戦におよび、義明は討死を遂げた(国府台の戦い)。こののち、臼井氏は千葉氏に降伏したか。天文19(1550)年11月23日、北斗山金剛授寺に妙見神を遷座した際、「臼井の一門、志津の御門、坂戸、吉岡、小舟木、栗山、中台、山梨、蕨の家風中、押田、渡辺、神保何れも太刀上け申也」と見え、臼井氏は千葉氏に降伏した後も臼井一帯に勢力を持ちつづけていたようすがうかがえる(『千学集抜粋』)。
景胤は弘治3(1557)年10月15日、六十二歳で没したとされ、十四歳の若い嫡男・久胤に「小弓城の原胤貞を臼井城に招いて、土地を守れ」と遺言したという。法名は天嶽常舜(『千葉臼井家譜』)。
臼井久胤(1544-1574)
臼井氏十一代。通称は左近将監。父は臼井太郎景胤。母は不明。妻は上野氏。
弘治3(1557)年10月、父・景胤の死にともなって、十四歳で家督を継いだという(『千葉臼井家譜』)。景胤は「小弓城の原胤貞を臼井城に招いて、土地を守れ」と遺言したといわれ、久胤は遺言通り、臼井城に小弓城の原上総介胤貞を招いたという。
原氏が建立した臼井妙見社(星神社) |
招きに応じた胤貞は、月の三分の一を臼井城で暮らすことにし、小弓城には嫡男・原胤栄を置いて留守を任せていたと伝わる。しかし、胤栄は天正4(1576)年当時二十六歳であったことは確実なので、弘治3(1557)年の時点で胤栄はわずか六歳。もし胤貞が久胤の依頼を受けて臼井城へ移ったことが事実だとしても、小弓城を胤栄に任せることは難しい。
伝承では、久胤は胤貞に本丸を譲り、久胤は胤貞が城内に建てた別館に移ったという。現在の臼井城下、字名「御屋敷」が久胤の隠居所と伝えられている。しかし、胤貞は善政を行ったために次第に領民の支持を得、臼井家の重臣たちも胤貞になびくようになると、久胤は城内でも孤立した存在となってしまったという。そして、永禄4(1561)年、安房の正木大膳大夫時茂が臼井城に攻め寄せてくると(『総葉概録』)、戦闘の混乱に乗じて久胤は臼井城を脱出。結城城の結城晴朝のもとに走ったという。久胤を迎えた結城晴朝は、久胤の話を聞いて憐れみ、「十二人円判衆」の列に加えた。その後、久胤は下館城主・水谷出羽守正村の客分となったと伝わる。その後の久胤は十年余り下館に住し、天正2(1574)年7月5日に三十二歳で没したという(『千葉臼井家譜』)。下館の蔵福寺に葬られた(『千葉臼井家譜』)。法名は常遍照阿弥陀仏(『千葉臼井家譜』)。
臼井氏から原氏へと臼井城主が変わったことについては上記のような理由が伝わるが、その交代のきっかけとなった事件は、永禄4(1561)年の正木時茂の下総侵攻であったことがわかる。おそらく臼井久胤は正木氏の攻撃に敗れて結城へ敗走し、永禄7(1564)年1月に国府台の戦いに敗れた里見・正木氏が下総から撤退するとともに原氏が臼井城を回復したというのが実際のところかもしれない。
◎結城晴朝の「十二人円判衆」◎
・水谷出羽入道・多賀谷和泉・筑四郎(筑波四郎?)・平沢美作・臼井左近
・黒田民部・小塙遠江・繁谷兵庫・神方掃部・鹿窪民部・磯筑前・片見上総
※永享12(1440)年の結城合戦では、「十二人円判衆」に見える水谷氏・多賀谷氏・磯氏らとともに、臼井氏の名前が結城方の武士として見えており、結城氏家臣の臼井氏は室町中期以前に分かれた一族なのかもしれない。また、久胤が結城へ逃れたことが事実とすれば、この古い一族を頼った可能性もあろう。
★協力者御芳名:千葉江州氏・山本祐義氏