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小泉
大須賀一族。大須賀氏の一族・多部田時綱(四郎)の子・成吉(弥六)が大須賀保小泉(千葉県成田市小泉)を領して小泉を称した。ただし、成吉の名が出てくるのは『大須賀系図』のみで、『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には出てこない。『大須賀系図』では「顕朝」という人物の次の代には「胤秀(次郎左衛門尉・号多部田)」とあり、また「多部田胤秀」という人物は大須賀胤信の弟に見ることができる(『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』)。
「多部田胤秀」の子に「時綱(四郎左衛門尉)」があり、時綱の子には「胤時(掃部)」がいること、それから大須賀師氏の4代目・顕朝までの存在は『大須賀系図』『千葉大系図』両方に共通していて系図上で確認することができる。ただし、その「顕朝」のあとの系図はなく、ここで断絶したか、顕朝の子に「胤秀」という人物がいて、それが5世代も前の「多部田胤秀」と交錯してしまったのかもしれない。『千葉大系図』などの本には、時綱の子には、胤時(掃部左衛門尉)・胤連(四郎左衛門尉)・頼秀(孫四郎)・貞泰(五郎・遠康とも)と見ることができる。
その末裔とも思われる小泉家が備中足守藩に見える(『御家中由緒書』:『岡山県史 第26巻諸藩文書』所収)。万治3(1660)年9月、足守藩二代藩主・木下利当(淡路守)の代、小泉吉康(四郎右衛門)が備中国足守(岡山県足守市)に移り住み、足守藩に牢人分として御合力米として百俵が下し置かれた。
その子・拝胤(友右衛門)は寛文6(1666)年11月、児小姓として召しだされて御切米が下しおかれ、母親には三人扶持が下賜された。延宝元(1673)年5月、御納戸役に就任。延宝5(1678)年10月には三代藩主・木下利貞(淡路守)の嫡男・木下利庸(肥後守)付となっている。そして利庸(のち公定)が藩主を継いだのち、元禄4(1691)年8月、切米から知行取りとなり、六十石が新知として与えられる。さらに元禄6(1693)年に四十石の加増があり、都合で百石を知行することとなった。
江戸城平川門(大奥の通用門) |
元禄14(1701)年3月14日、江戸城本丸に続く松ノ廊下で、播磨国赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が、三河国吉良郷の領主で高家筆頭でもあった吉良義央(上野介)を斬りつける事件が起こった。この事件によって、浅野長矩はただちに江戸城不浄門(平川門)より退去を命ぜられて芝にあった一関藩邸にお預けとなり、即日切腹を命じられた。さらに、赤穂藩は取り潰しの決定が出され、翌15日には赤穂城受城使ならびに受城目付が決定され、受城使には脇坂安照(龍野藩主・淡路守)とともに足守藩主・木下利庸が命じられた。拝胤は4月15日、赤穂城の明け渡しに、藩主・木下利庸の供として随っている。正徳4(1714)年2月、亡くなった。
その嫡男・実初(伴内)は宝永3(1706)年、児小姓として召し出され、二人扶持が与えられた。正徳4(1714)年3月、家督を許され百石を継承。御小姓役に就いた。享保5(1720)年、御奥番を仰せ付けられ、享保6(1721)年、利庸に随って江戸へ赴き、その後は、大納戸役、御蔵奉行、郡方奉行、御普請方奉行、山方奉行などを歴任し、二十石の加増によって、都合百二十石取りとなる。元文元(1736)年9月7日、勘定聞加役に就任。延享元(1744)年12月に亡くなった。
実初には跡継ぎの男子がおらず、藩士・井口又蔵の三男・井口伴内の養子となっていた義平太がその家督を継ぐこととなり、延享2(1745)年2月、百石に減知されたものの家名存続は許され、義平太は徳胤(友右衛門)と称した。宝暦9(1759)年8月24日に亡くなった。
徳胤亡きあと、宝暦9(1759)年10月、嫡男・百之助に家督ならびに知行百石の相続が許され、儀胤(安右衛門)を称した。安永4(1775)年5月17日、御武具方に就任したが、翌安永5(1776)年6月7日に亡くなってしまった。
儀胤の子・槌之進はまだ幼児であったためか、安永5(1776)年9月、藩士・松元源之進の次男・安次郎が養嗣子として小泉家に入り、9月10日、八十石に減知されたが家督相続を許された。安永6(1777)年2月15日、相続の御折紙を賜ったのち、安次郎は義胤(友右衛門)と改名し正式に家督を継承した。天明3(1783)年10月18日に亡くなる。
義胤の跡を継いだのは、儀胤の子・槌之進で、義胤の準養子として天明3(1783)年12月23日に七十石の知行ならびに家督を継承して胤正を名乗った。享和元(1801)年4月13日、御武具方を仰せ付けられ、享和2(1802)年6月19日、御次番となり、名を「伴内」と改めた。
文化4(1807)年、名を「右衛門九郎」と改め、12月には「小泉」を「本名」である「千葉」に改めたい旨を藩に願い、文化5(1808)年正月22日、願いが聞き届けられて「千葉」を称し、「千葉右衛門九郎胤正」と名乗る。7月13日、御目付役に就任。文化9(1812)年7月22日、御普請方山方奉行となる。
胤正の姉二人は備前岡山藩一門・池田出羽の家臣である早川源右衛門の妻、足守藩士・松元吉左衛門の妻となっている。
―小泉氏略系図―(『大須賀系図』)
→千葉介常胤-大須賀胤信-通信――――師氏――頼氏―――朝泰―――――顕朝――――胤秀――――――時綱――小泉成吉
(四郎) (左衛門尉)(三郎)(孫太郎)(左衛門次郎)(次郎太郎)(次郎左衛門尉)(四郎)(弥六)
―足守藩小泉氏略系図―(『御家中由緒書』より編集:『岡山県史 第26巻諸藩文書』)
松元源之進 +―――――――吉左衛門 +―吉三郎
∥ | ∥ |
∥ | ∥ |
∥―――+―小泉義胤 ∥――――――+―娘
娘 |(友右衛門) ∥ |
| +―娘 |
+―娘 | +―娘
∥ | (丸橋多仲妻)
→…―小泉成吉―?―小泉吉康―――拝胤――――実初==徳胤――――儀胤―――+=義胤
(弥六) (四郎右衛門)(友右衛門)(伴内)(友右衛門)(安右衛門)|(友右衛門)
|
+―千葉胤正 +―武治
|(右衛門九郎) |
| ∥ |
| ∥―――――+―娘
| 瀬川治部平娘
|
+―娘
∥
∥
早川源右衛門
向後
東一族。幕末の嘉永4(1851)年に神代村大久保に生まれた向後胤吉は、明治時代には大久保村ほか10か村の戸長になっている。
神崎
神崎神社 |
千葉一族。「こうざき」と読む。千葉介胤正の七男・師胤(七郎)は現在の成田市内にあった遠山方郷(成田市小菅周辺)を領して遠山方を名乗った。しかし、「由有りて」兄・成胤の子となったとされる。
寛元2(1244)年8月15日の放生会に、師胤の子「千葉七郎太郎師時」が列している。
宝治元(1247)年6月におこった「宝治合戦」で、三浦泰村に加担した廉で上総権介秀胤(師胤の甥)が滅ぼされると、師胤は秀胤に協力したという罪で所領・遠山方郷を没収され、その子・師時(七郎太郎)が新たに香取郡神崎庄を賜って神崎を称する。そこに神崎城(神崎町並木)を築き、そこを居城とした。神崎城はJR神崎駅の西方・約1.3キロに位置し、利根川の幾筋もの支流の侵食によってできた島状の台地状につくられた巨城。城は「西之城」・「中之城」・「東之城」の3つに分けられていた。
建長8(1256)年6月29日、8月の放生会につき供奉人を選定した際、「千葉七郎太郎」がそのうちの一人に選ばれている。8月15日、「千葉七郎太郎師時」は後陣の随兵として列した。
しかし、神崎庄は神崎胤朝が元徳2(1330)年に「殺害の咎に依りて」所領を没収されるという憂き目を見る。その子・胤信が香取郡川栗(成田市川栗)に所領をもらって城を築き居城とした。しかしその後、神崎郡を復活したようである(→中世の香取海の略地図)。胤信の兄・神崎秀尚(左衛門五郎)は、はじめ千葉介貞胤に属していたが、貞胤が没したことから足利尊氏の直臣となった。その後は尊氏に従って各地の戦いで功績をあげ、千葉介満胤が6歳という幼少で家督を継いだ際には、その後見人のひとりとされる。応永5(1398)年3月10日、65歳で没した。法名は尚山。秀尚の妻は原氏の祖・原胤高(四郎)の娘であったようで、神崎氏は千葉氏の直臣化していったようだ。
秀尚の子・忠尚(上総介)と満秀(周防守)はともに千葉介の家臣として各地で活躍。しかし、満秀はのちに鎌倉府に仕えていることから、鎌倉府の奉公衆であったことが推測される。彼は永享10(1438)年の「永享の乱」で、持氏とともに自刃して果てた。永享の乱で活躍した千葉氏の武将として「神崎周防守」を見ることができる。
満秀の兄・神崎忠尚(上総介)は永徳元(1381)年の「小山義政の乱」で千葉介満胤に従って功績をあげ、さらに応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」においても千葉介満胤とともに活躍したとされる。満胤は嫡子・兼胤とともにはじめは禅秀に荷担しており、幕府軍・今川範政(駿河守護職)と争ったか?享徳2(1453)年、75歳で没したとされるが、逆算すると生年は永和4(1378)年となり、小山義政の乱の時にはわずかに4歳となることから、これは間違いであろうと思われる。
小田原の陣のときには神崎朝秀(右衛門大夫)が千葉重胤に従って湯本口を守ったとされている。また、神崎朝隆は一族と同じく小田原の合戦に臨んで、小田原陥落後は蟄居生活を送り、慶長2年4月5日60歳で亡くなった。また、神崎胤年・朝忠親子もこの戦いに臨んだ。
小田原落城後の神崎氏の動向は不明だが、元文2(1737)年5月、千葉重胤の末裔・千葉祥胤が江戸から請いによって下総国大須賀郷を訪れた際、宮兼蕃・飯高宗尭・神崎胤資(左門)が対面しており、元文3(1738)年12月には祥胤が記した神崎氏の系譜が神崎胤資へ与えられた。
―神崎氏略系図―
公津
千葉一族。椎崎家・鹿島家・成東家とともに室町時代後期の千葉宗家「御一家」としてもっとも尊重されていた家柄。
千葉介勝胤の子・久胤(左近大夫)が印旛郡公津村(成田市公津の杜周辺)に住んで公津を称した。久胤は鹿島左衛門尉のあとを継いだ胤重とは双子の兄弟であったが、久胤は生まれつき体が不自由であったために、父の勝胤は胤重を兄とし、久胤を弟としたという。また、庶子の常として地方豪族の名跡を継ぐことになり、下総印東庄の公津氏に養子に入った。
天文19年の妙見宮御遷宮にては、執政の原家やその一族・牛尾家のほか、一門として椎崎家・成東家・公津家・鹿島家より神馬が妙見宮に奉納されている。
―公津氏略系図―
→千葉介孝胤―+―千葉介勝胤―+―千葉介昌胤――千葉介親胤
| |(千葉介) (千葉介)
| |
+―成東胤定 +―椎崎勝信
(八郎) |(五郎)
|
+―鹿島胤重
|(大与次)
|
+―公津久胤―――信胤
|(左近大夫) (平内左衛門)
|
+―公弁
|(岩橋殿)
|
+―常覚僧都
|(妙見座主)
|
+―一印
|(佐倉吉祥寺)
|
+―重阿弥陀仏
|(千葉山海隣寺)
|
+―権大僧都覚胤
(妙見座主)
甲屋
武石一族。「高野」とも。亘理武石氏の重臣の家柄で、涌谷伊達家の「御一族」の一家に数えられる。発祥地は陸奥国亘理郡甲屋邑(宮城県亘理郡亘理町逢隈高屋?)。
天正18(1590)年5月18日、相馬氏と亘理氏との大合戦であった、小豆畑の合戦で討死を遂げた高野小太郎が見える。
古小高
相馬一族。「小々高」「古々高」とも。遠祖は平繁盛の子孫・海道成衡(小太郎)の五男・行方隆行(五郎)。隆行は行方郡を領し、小高館に館を構えて小高氏を称した。行方隆行の7代孫・胤勝(五郎)は子がないまま卒し、行方嫡流は滅亡した。古小高氏はその傍流にあたる。
妙見山歓喜寺 |
元亨3(1324)年の相馬重胤が行方郡太田村に下向してくると、小高氏は相馬氏に従属して重臣に列せられた。その後、重胤が小高郷に移住したため、小高氏は「古い小高氏」という意味で「古小高」を称した。古小高氏は150年にわたって小高郷を領しており、領民たちの敬愛も深く、古小高殿と呼ばれていた。
嘉吉から文安年中(1441-1449)、古小高政胤(宮内少輔)は妙見を祀る岩迫山歓喜寺(福島県相馬市:現・妙見山歓喜寺)に寺領を送り、一族の祈願所としている。また、応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峰寺の塔頭・無量光院に「前讃岐守隆胤」以下、一族家臣多数が銭を寄進しているが、その中で「小々高宮内少輔政胤」は二百文を、「同御台妙玉」「御曹子」はそれぞれ五百文を、「聞忠」は三十疋、「俊胤」は三百文を寄進した。
上記三百文を寄進した「俊胤」とは、政胤の孫にあたる古小高俊胤(帯刀)と考えられるが、彼は天文中(1532-1555)に相馬顕胤に対して叛旗を翻し、顕胤は猛将・金沢胤清(石見守)を小高郷の古小高館に向かわせた。胤清は館に乱入したもののすでに人影はなかったため、油断していた彼は物蔭に隠れていた俊胤に気がつかず、俊胤によって斬殺された。俊胤も物音に気がついた金沢家の郎従によって殺害され、古小高嫡家は滅亡した。
小菅
大須賀一族。大須賀為信の曾孫・為也(六郎)が香取郡小菅(香取市大菅?)に住んで小菅を称した。
―小浮氏略系図―
→大須賀為信―――為胤――――――小浮為俊-小菅為也
(六郎左衛門尉)(次郎左衛門尉)(六郎) (三郎)
小平
武石一族。陸奥国伊具郡小平邑(亘理郡山元町小平)を発祥地とする。
―小平氏略系図―
→千葉介常胤-武石盛胤…長谷胤安-坂本胤之-十文字胤則-牛袋胤祐-大平胤貞-小平長胤
(次郎) (四郎) (五郎) (長門守)(八郎) (八郎)
小西
千葉一族。上総国山辺郡小西村(千葉県山武郡大網白里町小西)が発祥地。のち、千葉氏重臣の原氏の一族が小西に移り住み、小西原氏となっている。
木幡
相馬一族。遠祖は摂政・藤原良房の末裔(または藤原長良の子・高経の子孫とも)で常陸の豪族・藤原清名。彼は平将門に従っていたが、将門が滅ぶと没落し、常陸国香取海に浮かぶ浮嶋に蟄居し、浮嶋太夫を称したという。その七代目の子孫・藤原義清(周防守)が木幡を称し、義清の玄孫・範清(周防守)が相馬重胤に仕え、代々の重臣となった。なお、範清は木幡家系譜によれば「相馬左衛門尉朝胤」の子で、木幡周防入道龍玄の養嗣子になったとされる(『衆臣家譜』)。「相馬左衛門尉朝胤」が誰なのかは具体的に記載がないため、小高相馬家との系譜上の関係は見出せない。
木幡国信―+―師清―――――+=範清 |
相馬重胤の奥州下向の際には、範清(周防守)をはじめ、政清(伊予守)・盛清(蔵人)・胤清(紀伊守)・定清(三郎右衛門)・兼清(四郎左衛門)が従っている。範清は奥州下向の際に行方郡目々沢村に87貫文を賜り、相馬家の執権職についた。
永享年間(1429-1441)、木幡胤清(周防守・道弘入道)は幼少の当主・相馬治部少輔高胤を補佐し、相馬家の系図や証文を預かる重職につき、文正2(1467)年2月25日、21歳になる嫡男・定清(越前守のち隆清)に家督を譲った。定清も家政を取り仕切る重職となるが、その孫・盛清(主水正)は、青田信濃守・左衛門らの讒言を信じた若き当主・相馬盛胤によって殺害され、ここにおいて、相馬家家老の木幡家は断絶するが、盛清の妻は一子・藤五郎をつれて伊達晴宗(左京大夫)のもとに亡命し、藤五郎はのちに伊達家の重臣となって目々沢丹後守を名乗る。その孫は奥山常辰(大学)といい、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の執政となった。
一方、木幡家の断絶を悲しんだ相馬盛胤は、木幡一族の木幡政清(出羽)を木幡家正嫡とした。政清は盛胤以降長門守義胤まで四代に仕え、天正13(1585)年9月、相馬義胤の陣営を訪れた伊達政宗より目貫笄を賜った。
政清の子・木幡経清(因幡)は盛胤、義胤、利胤の三代に家老職として仕え、侍大将を兼ねる。数々の戦いで武功を挙げる勇猛果敢な人物で、天正18(1590)年5月14日の伊達政宗との駒ケ峰の戦いでは、敗戦の軍勢の殿軍を受け持ち、無事に全軍引上げに成功した。石高は八百九十六石という重職にあった。
経清の嫡子・木幡長清(勘解由)は中村城の普請奉行を勤めた。しかし長清は元和8(1622)年6月18日に急死し、その跡を継いだ長男の信清(薩摩守)も早くに亡くなってしまったため、妹・於菊が惣領とされ化粧料として二百石を給された。木幡氏の断絶を惜しんだ藩公・相馬義胤は、御一家筆頭の岡田宣胤(八兵衛)の次男・嘉左衛門を於菊と娶せ、嘉左衛門は木幡貞清(嘉左衛門)を称した。
孫の木幡安清(嘉左衛門)は貞享4(1687)年正月5日、嘉例の謡初に際し、藩公・相馬昌胤(弾正少弼)より盃の相伴を仰せ付けられ、子孫がそれを継承した。以降、中村藩の大身として明治維新を迎える。
木幡出羽政清の弟・忠清(大隅)は標葉郡渋川館を守り、相馬顕胤・盛胤の時代の館持の家臣に見える。永禄6(1563)年、標葉郡新山城代となり、采地三十三貫七百文余を給わる。その後、百五十石の大身となるが五代目・忠左衛門は相馬昌胤(弾正少弼)の代に断絶した。
また、同じく館持として、標葉郷瀧迫館主に木幡胤清(尾張守)が見える。胤清は相馬顕胤に謀反した東郷胤光の舅で、顕胤に命じられて胤光をだまして誘ったが、討ち損ねて胤光は逃亡。しかし、胤光はその直後に自刃した。胤清がわざと落としたとも言われる。
木幡氏の庶流として、相馬重胤の奥州下向に従った木幡範清(周防守)の弟・政清(伊予守)がいる。政清の子・胤清(紀伊守)は小高郷に住み、胤清の5代目にあたる胤秀(紀伊守)は小高郷中島に古舘を建てて住み、飯崎氏を称した。
―木幡氏略系図―
藤原冬嗣――長良――――高経――――国豊――清名――――清重――常信――国範――高信――行定――兼顕――――+
(左大臣) (権中納言)(右兵衛督) (浮嶋太夫)(太郎)(太夫)(弾正) (弾正)(出羽太郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―国清――――+―木幡常清 +―安清 +―帰清―――――+=範清――+―親清―――+―目々澤清明――――――+
(弾正左衛門)|(出羽守) |(出羽守) |(周防守) |(周防守)|(主水正) |(一風入道) |
| | | | ∥ | | |
+―木幡義清―+―国重――――国信――+ +―娘 +―中村朝高 +―貞清―――正清 |
(周防守) (六郎太夫)(藤五郎)| |(範清妻)|(大和守) |(左兵衛)(左兵衛) |
| | | | |
| +―盛清 +―近藤清時 +―娘 |
| (蔵人) (主馬) (門馬五郎左衛門胤治妻)|
| |
+―政清―――――+―胤清 |
|(伊予守) |(紀伊守) |
| | |
+―定清 +―経清 |
|(三郎右衛門) |
| |
+―兼清 |
|(四郎左衛門) |
| |
+―藤谷家清 |
(五郎) |
|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―実清―――重清――+―胤清―――+―胤清――+―胤清――――――――+=盛清――――――+―娘
|(勘解由)(越前守)|(道弘入道)|(周防守)|(尾張守) |(主水) |(中村卯兵衛朝胤妻)
| | | | | ∥ |
+―宗清 | +―房清 +―娘 +―娘 +―娘
(但馬) | |(六郎) |(水谷伊予胤徳妻) |(木幡盛清妻) |(桑折左馬助久家妻)
| | | | |
| +―直清 +―滝迫胤治――清詮 +―娘 +―目々澤重清―――――+
| (七郎) |(日向守) (日向) |(東郷治部胤光妻) (丹後) |
| | | |
| +―朝清――――清長 +―定清 |
| |(隼人) (左衛門) (摂津) |
| | |
| +―乗清 |
| (左兵衛) |
| |
| +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
| |
| +―奥山兼清――常清
| |(出羽) (与一左衛門)
| |
| +―奥山常良――常辰―――――常定―――常有
| (大学) (大炊) (勘解由)(勘解由)
|
+―胤定― +―胤序――――義清――+―政清―――――――――――――――――――――――――――――+
(出羽守)|(越前守) (出羽守)|(出羽守) |
| | |
+―勝清――――近清 +―忠清――+―尚清――清忠――――清世――――清茂 |
|(次郎太夫)(左馬助) (大隈守)|(雅楽)(忠左衛門)(忠左衛門)(六太夫) |
| | |
+―恒清――――重之 +―門馬彦左衛門室 |
(三郎兵衛)(孫九郎) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―経清――+―長清――+―信清======貞清―――+―盛清――――+―安清―――――――――往清
|(因幡守)|(勘解由)|(薩摩) (嘉左衛門)|(庄兵衛) |(嘉左衛門) (十右衛門)
| | | | |
| +―内膳 +―菊 +―岡田成信 +―娘
| | (貞清縁女早世) |(半右衛門) (笠井次郎左衛門光正)
| | |
| +―主殿 +―娘
| (川窪元的妻)
|
+―藤橋胤重
|(平四郎)
|
+―娘
|(岡田左衛門胤政)
|
+―清光――――娘
|(源兵衛) (岡田伝兵衛清重妻)
|
+―清重
(半平)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
木幡庄兵衛 | 大身 | 250石 | 袋町 |
木幡甚五左衛門 | 大身 | 225石 | 西御檀小路 |
木幡治郎右衛門 | 大身 | 150石 | 北町 |
木幡晴之進 | 大身 | 100石 | 柏葉町 |
木幡八郎右衛門 | 大身 | 100石 | 鷹巣町 |
木幡伯庵 | 小身 | 50石 | 北町 |
木幡道隆 | 小身 | 50石 | 下向町 |
木幡太郎右衛門 | 小身 | 39石 | 鷹巣町 |
木幡小十郎 | 小身 | 30石 | 上向町 |
木幡忠太夫 | 小身 | 30石 | 借家住まい |
木幡嘉右衛門 | 小身 | 25石 | 上向町 |
木幡利右衛門 | 小身 | 15石 | 上川原町 |
木幡七郎 | 小身 | 10石 | 西山通 |
木幡右源太 | 小身 | 扶持方 | 鷹部屋町 |
木幡孫兵衛 | 小身 | 扶持方 | 鷹巣町北西山 |
木幡五郎右衛門 | 小身 | 扶持方 | 原釜通中町 |
木幡三郎左衛門 | 小身 | 扶持方 | 原釜通 |
木幡厳治郎 | 小身 | 扶持方 | 砂子田北町 |
木幡宗兵衛 | 小身 | 扶持方 | 上天神町 |
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
木幡七郎兵衛 | 給人 | 5石 | 宇多郡宇多郷小野村 |
木幡次左衛門 | 給人 | 7石 | 宇多郡宇多郷初野村 |
木幡文左衛門 | 給人 | 19石 | 宇多郡宇多郷下石村 |
木幡三郎左衛門 | 給人 | 19石 | 宇多郡宇多郷柚木村 |
木幡次右衛門 | 給人 | 17石 | 宇多郡宇多郷柚木村 |
木幡勘左衛門 | 給人 | 10石 | 宇多郡宇多郷柚木村 |
木幡次兵衛 | 給人 | 20石 | 宇多郡北郷横手村 |
木幡介蔵 | 給人 | 5石 | 宇多郡北郷川子村 |
木幡宗右衛門 | 給人 | 9石 | 行方郡中郷石神村 |
木幡与左衛門 | 給人 | 9石 | 行方郡中郷大木戸村 |
木幡次左衛門 | 給人 | 9石 | 行方郡中郷馬場村 |
木幡次右衛門 | 給人 | 7石 | 行方郡中郷馬場村 |
木幡次郎兵衛 | 給人 | 12石 | 行方郡中郷北長野村 |
木幡五郎兵衛 | 給人 | 10石 | 行方郡中郷北新田村 |
木幡次郎右衛門 | 給人 | 16石 | 行方郡中郷高平村 |
木幡門左衛門 | 給人 | 8石 | 行方郡中郷高平村 |
木幡塩左衛門 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷泉村 |
木幡利兵衛 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷泉村 |
木幡作十郎 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷萱浜村 |
木幡藤兵衛 | 給人 | 20石 | 行方郡中郷澁佐村 |
木幡利八 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷澁佐村(新田村へ) |
木幡惣右衛門 | 給人 | 14石 | 行方郡中郷鶴谷村 |
木幡彦兵衛 | 給人 | 12石 | 行方郡中郷鶴谷村 |
木幡覚右衛門 | 給人 | 10石 | 行方郡中郷片草村 |
木幡源右衛門 | 給人 | 8石 | 行方郡中郷鳩原村(大多和村へ) |
木幡政次郎 | 給人 | 7石 | 行方郡中郷川房村 |
木幡市右衛門 | 給人 | 7石 | 北標葉郡高瀬村 |
木幡五郎左衛門 | 給人 | 11石 | 南標葉郡野上村 |
木幡平十郎 | 給人 | 11石 | 南標葉郡熊村 |
木幡十郎左衛門 | 郷士並 | 7石 | 宇多郡小高郷小屋木村 |
木幡紋治 | 郷士並 | 有山村 | |
木幡末次郎 | 郷士並 | 有山村 | |
木幡惣兵衛 | 郷士並 | 羽倉村 |
小浮
大須賀一族。「こぶけ」と読む。大須賀為信(六郎左衛門尉)の孫・為俊(六郎)が香取郡小浮(香取市小浮)に住んで小浮を称した。
仁治2(1241)年1月14日、五代将軍・藤原頼嗣の鶴岡八幡宮社参に供奉した「大須賀六郎左衛門尉」が為信であろうと考えられる(『吾妻鏡』仁治二年正月十四日条)。
―小浮氏略系図―
→大須賀胤信―――通信――――――為信――――ー―為胤――――――小浮為俊-為行
(四郎左衛門尉)(太郎左衛門尉)(六郎左衛門尉)(次郎左衛門尉)(六郎)
小船木
上総一族。臼井氏の一族で、印旛郡臼井庄小船木郷(四街道市小名木)発祥。
小松
千葉一族。神崎師胤の四男・為胤(四郎左衛門尉)が千葉宗家の所領内の小松村を領して小松を称した。為胤の子の佐胤・宗胤・胤勝・家胤も小松を称している。
文永9(1272)年12月12日、為胤と伊豆走湯山燈油船梶取が神崎関の関税について争論をしている(『関東下知状写』:千葉県史料 中世篇 県外文書)。同書に「舎兄義胤」とあるが、神崎千葉家を継承した神崎義胤(二郎左衛門尉)のことである。
―小松氏略系図―
→千葉介胤正-神崎師胤-小松為胤-佐胤-行胤
小松川
上総一族。上総氏系白井氏の白井親忠(八郎)の次男・助忠(八郎太郎)が小松川(成田市内か?)を領して小松川を称した。助忠の孫・胤長は白井氏に復し、左衛門尉を称した。
―小松川氏略系図―
→千葉常長-白井常親-親忠――小松川助忠-有忠――+―盛時
(二郎) (八郎)(八郎太郎)(小太郎)|(又太郎)
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+―二郎太郎
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+―清胤
(六郎)
小宮
武石一族。文永5(1268)年、武石胤辰(左馬助)が島津忠綱(島津忠久の次男)を頼って日向国志布志郷に移住し、その後、大隅国国分に館を構えた。
文明11(1479)年、子孫の武石胤昔は大隅の大豪族・肝付兼久に属し、天文4(1535)年、胤昔の子・胤康が小宮を称した。しかし兼久の孫・肝付兼続が永禄9(1566)年に島津貴久に敗れて討たれると、肝付氏は急速に没落。島津義久の従弟にあたる肝付兼護が島津氏に降ると、胤康の子・胤常は浪人し、その子・胤幸は八幡大神宮殿守となって、代々社家となった。
胤辰は貞応2(1223)年に生まれているとされており、時代的に見ると武石胤重(次郎左衛門尉)の子の世代となる。
―小宮氏略系図―
→武石胤盛―…――武石胤辰―…―武石胤昔―胤康―胤常―胤幸
(三郎左衛門尉)(左馬助)
衣山
上総一族。佐賀常範の子・常定が衣山を称した。