千葉一族 【し】~【そ】

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【し】

渋江

 千葉一族。武蔵千葉氏の庶流、または千葉実胤自胤とともに武蔵へ移り住んだ一族か。発祥地は武蔵国埼玉郡渋江村(さいたま市岩槻区内)。家紋は五瓜内唐花銀杏(『寛政重修庶家譜』第五百八十九)

 渋江景胤(弾正忠左衛門尉)は古河公方・足利義氏に仕え、その後、北条家に仕えた。号は徳陰斎

 景胤の嫡子・好胤(紀伊守)は北条氏康に仕え、武蔵国足立郡内に采地を賜った。天正18(1590)年の小田原合戦で討死を遂げた。北条家が滅亡したのち、足利国朝(左兵衛督)が喜連川に移った際、渋江弥五郎の名が見えるが、好胤の一族と思われる。

◎足利国朝(古河公方義氏養嗣子)が下野喜連川に移ったときに従った被官

高 修理頭 伊賀金右衛門 相馬靫負 渋江弥五郎 梶原平右衛門 堀江彦右衛門 印東内記 柴田 某
福田 某 後藤内蔵助 大草茂右衛門 高塩 某 星 某 高橋 某 石崎 某  
里見主馬 高城左衛門 浅沼友左衛門 水戸 某 武田一郎右衛門 海老名 某 佐藤 某 土屋織部
小俣 某 大谷 某 江戸 某 芦屋 某 一色刑部 相木与右衛門 石塔 某 中村四郎兵衛
椎木 某 伊賀伊勢守 鴻野修理 山名豊前守 国井 某 山名采女 逸見三郎  

 好胤の長男・重胤(平三郎)は早世し、二男の氏胤(弥十郎)が跡を継ぐが、父・好胤が討死を遂げ、采地も失うと剃髪して入道長喜と改め、徹斎(哲斎)と号した。医術を学び、寛永11(1634)年、その名を聞いた将軍・徳川家光に招聘されて御用医師となった。寛永14(1637)年、家光の長女・千代姫が病に罹った際には主治医として病を癒し、御紋入りの扇子と白銀を拝領した。寛永15(1638)年12月1日、給米百俵ならびに月俸十口を賜わる。

 寛永16(1639)年、家光の病を癒した功績によって法橋に叙せられる。寛永17(1640)年の日光東照宮社参にも侍医として従うなど家光の信任が篤かった。正保元(1644)年2月20日、七十五歳で亡くなった。法名は宗哲。市谷村(新宿区市ヶ谷)の月桂寺に葬られ、歴代渋江家の菩提寺となった。

澁佐

 相馬一族。高平青田氏の流れをくみ、青田三郎左衛門清常の三男・豊田越中守定常が行方郡高平村から澁佐村へ移ったことにはじまる。その孫・彦右衛門が澁佐を称し、高平村へ移った。その孫・澁佐半兵衛は原町へ移り、名跡は弟の澁佐九太夫が継承して在郷給人並となった。

 澁佐彦右衛門の弟・澁佐越後の系統は、孫の澁佐平兵衛が寛文年中に中村城に召し出され、台所役を務めた。法名は正心念清。中村城下の月海山蒼龍寺に葬られた。長男・澁佐六右衛門は徒士目附、徒士組頭、京都藩邸の呉服奉行等を経て兵具奉行、江戸藩邸の玄米方を務めた。享保15年10月15日に亡くなった。法名は一意浄円。娘は藩重臣の四本松弥兵衛正義に嫁いでいる。

下総

 東一族。木内胤朝(二郎、下総前司)の子・胤時(下総四郎)ほか弟たちはいずれも下総を称した。名字地は不明だが、父・胤朝が下総守であったため、その子供たちは下総守の「○男」ということで「下総○郎」を称していたと思われる。その後、彼ら兄弟は香取郡各地の地頭として移り住むが、「下総」をそのまま名字として用いる人物も出てきたのだろう。

 胤時の父・木内胤朝は承久の乱で幕府軍の一員として上洛、承久3(1221)年6月14日、宇治川の戦いで大功があり、戦後、但馬国磯部庄淡路国由良庄地頭職を授かった(貞応2(1223)年4月某日『淡路国大田文』)。その後、但馬国磯部庄はどうなったかはわからないが、由良庄については木内氏が代々地頭職を継承しており、元応元(1319)年12月26日の『淡路国由良庄地頭代沙彌円性等連署和與状』によれば、「淡路国由良庄雑掌大和民部大夫入道善阿」「地頭木内下総四郎左衛門入道道源代道政、円性」が年貢や地頭得分などについて揉めていたことがわかる。

 元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』)によれば、尼妙観が買い取った東盛義旧領の「下総国東庄上代郷内田拾貳町、在家拾貳宇」についての書状に、乾元2(1303)年6月26日に御使の名として「下総四郎左衛門尉胤直、米倉孫太郎光常」の名が見える。胤直は元応元(1319)年12月26日の「木内四郎左衛門入道道源」と同一人物であろう(『淡路国由良庄地頭代沙彌円性等連署和與状』『千葉大系図』)。また、米倉光常(孫太郎)は、匝瑳郡南条米倉村(匝瑳市米倉字城之内)発祥の椎名一族米倉氏か。

 また、胤朝の十一男・下総行胤(余一)の孫にあたる胤長(十郎)は元弘3(1333)年5月22日、新田義貞の軍勢に攻められて鎌倉葛西谷において戦死している。

 貞治3(1364)年10月28日、鎌倉公方・足利基氏(左兵衛督)が「地蔵院前大僧正御房」に宛て、「上総国飫富庄飫富宮別当職事(現在の飽富神社)」として「下総国小見郷木内彦五郎跡」と交替を命じているが、この「木内彦五郎跡」は胤直の従兄弟に当たる木内彦五郎胤持の知行を継いだ人物と思われる。

 天文21(1552)年9月14日、香取郡大戸庄牧野村の観福寺に関戸村の櫛箱田という田を寄進した「木内新次郎」があった。関戸村は大戸庄関戸村(佐原市関戸)であろうと考えられ、国分氏の領内ともいえる大戸庄内に木内氏の一族が所領を有していたことがわかる。この木内新次郎の父は「木内淡路守」「淡路入道永庵」という人物であり、由良庄に関わりのある木内一族の末裔は「淡路守」という受領名を冠していたのかもしれない。

元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

   売渡下総国東庄上代郷内田拾貳町、在家拾貳宇事

  直銭伍佰貫文者

 右、地者、東六郎盛義私領也、矢多田六郎左衛門尉康氏妻平氏取流質券、
 嘉元二年六月廿八日預御下知訖、妙観、徳治二年十二月三日買取之、
 同十九日給御下知領掌之間、相副平氏沽券、嘉元徳治御下知、
 盛義乾元二年六月廿四日子息重義、胤義加判、同廿六日券文、
 御使下総四郎左衛門尉胤直米倉孫太郎光常書状、
 盛義代盛弘坪付状、限永代、奉売渡平氏子之状如件。

    元亨二年六月六日     尼妙観 (花押)
 (裏書)
  「為後證、各所加判形也、

    元亨二年八月七日
                 右近将監藤原(花押)
                 左近将監橘 (花押)

●天文21(1552)年9月14日「木内新次郎寄進状写」
(『観福寺文書』:『千葉県の歴史 中世資料編』)

 下総国香取郡大戸庄牧野観福寺本尊
 奉寄進田地之事
 
  田坪関戸之村号櫛箱田具在親淡路守一札
 右田地、依有慈父淡路法名永庵存念、被寄附候、其子新次郎為孝行義、
 重而所奉寄進実正也、仍御代々朝暮御祈念、永庵毎月忌日廿六日、
 御懇志御回向肝要候、仍而為御代證文状、如件、
 
   天文廿一年壬子九月十四日
 
            木内新次郎
 拝進
 観福寺当住持神尊 

―下総氏略系図(1)―

→千葉介常胤-東胤頼-木内胤朝―+―木内胤家―――――→《木内氏》
      (六郎)(下総前司)|(次郎左衛門尉)
                |
                +―小見胤時――――胤直―――胤宗―――胤盛
                |(下総四郎)  (四郎)
                |
                +―下総胤長
                |(下総五郎)
                |
                +―虫幡氏胤
                |(下総六郎)
                |
                +―油田胤盛  +―成胤
                |(下総七郎) |(八郎太郎)
                |       |
                +―下総胤俊――+―公胤
                |(下総八郎)  (八郎四郎)
                |
                +―田部光胤――――泰胤
                |(下総九郎)  (弥九郎) 
                |
                +―下総胤定  +―基胤
                |(下総十郎) |(孫次郎)
                |       |
                +―下総行胤――+―惟胤―――胤忠―――胤祐――+―九郎二郎
                |(下総余一) |(彦二郎)(又二郎)(余二郎)|
                |       |               |
                +―下総信光  +―胤持            +―満犬丸
                 (下総余二) |(彦五郎)
                        |
                        +―胤長…元弘3(1333)年5月22日鎌倉葛西谷にて戦死
                         (十郎)

下斗米

 相馬一族。南北朝時代に北畠顕家と戦って、小高城に自害した相馬光胤の子孫とされる。家紋は繋駒、八曜内月、酢漿、下がり藤、月星。名字地は陸奥国二戸郡下斗米村(岩手県二戸市下斗米)。ただし、相馬光胤は建武2(1335)年末、または建武3(1336)年はじめに元服し、その直後に戦死をしていることから、子があったことには疑問がある。小高城に集まって北畠勢と戦った相馬一族の末裔なのかもしれない。

 相馬光胤(次郎)は兄・相馬親胤の嫡子・松鶴丸(胤頼)を補佐して惣領代という地位にあった。光胤の四男・胤茂(小四郎・三河)が松鶴丸とともに城を逃れ出たとされ、相馬を離れて斯波郡に住んだ。出家して宗元院入道。法名は覚心大禅定門

 その子・胤成(小四郎)は延文初年(1356ごろ)に斯波郡を去って糠部に移って南部政行に仕え、上斗米村・下斗米村を賜り、下斗米村に館を構えて下斗米を称したという。下斗米に移った際、斯波郡で信仰していた大宮大権現を下斗米村に勧請した。現在の下斗米上平にある大宮神社がこれにあたるという。延文5(1360)年、下斗米村に慶雲山聖福院を建立し、以降の下斗米家の菩提寺となった。

 胤成は応永6(1399)年に亡くなり、その跡は嫡男・家胤(次郎)が継ぎ、南部守行に仕えた。家胤の弟・胤定(平四郎)は寛正年中(1460~65)、甥で下斗米家当主である胤治(小四郎)より上斗米村を分地された。

 家胤の子・胤治(小四郎)は、南部光政に仕え、下斗米村を支配する。文明年中(1469~1489)に亡くなり、子の将達(小四郎)が継承した。胤治の法名は秀山宗孝大禅定門

 その子孫・将家南部晴政の側近。その子・家綱は天正7(1579)年に早世し、5歳の嫡男・将綱が家督を相続するが、幼少であるので、主君・南部信直は家綱の弟・将久(舜候。還俗後は刑部)に将綱の後見人を命じ、将綱の代理として数々の戦陣に参加している。将綱に目立った活躍はなく、寛永6(1629)年に54歳で亡くなった。

 将綱の子・将良南部盛岡藩に仕えて260石を知行され、以後代々続いていく。また、将綱の後見人だった将久の子・将貞は花巻に50石を給された。また、原因は分らないが、将貞の弟・政吉(平九郎)・政辰(平蔵)・家矩(三郎)は浪人している。子孫も代々南部氏に仕えたという。その後、慶長年間に南部領中部の宮野(現在は福岡)周辺の下斗米村(岩手県二戸市下斗米)で100石を領して、下斗米を称した。

 政勝の子孫・宗兵衛将信の次男に秀之進将真がいた。彼は幼いときから南部藩士の口癖であった、津軽藩に対する恨みつらみを聞かされて育ったため、成長するに従って津軽藩に対する敵意を抱いていった。彼は文武に長じた青年へと育ち、江戸へ出て兵法を学んで国元に武道場を開き門弟は数百人を数えた。

 そもそも津軽藩祖の津軽為信は、もともと南部家の家臣であったのに、姦計を用いて津軽の地を掠め取っていた。さらに津軽は非常に豊かな土地であったから、南部藩の人々の恨みはかさなった。

 江戸末期、津軽藩主・津軽寧親は嫡男・信順の夫人に御三卿の一家・徳川斉匡(田安中納言)の娘・欽姫(文化6年5月16日生まれ)を迎えいれた。 津軽藩の家格は本来、従五位下・柳ノ間詰めであり、外様大名のほとんどがこの家格であった。しかし、寧親は老中など幕府の重鎮に贈り物をして運動した結果、一気に4段階飛んで従四位下まで昇進、さらに侍従に任じられた。そして幕府内での家格も彦根藩井伊家をぬいて大広間詰めとなることが内定した。

 しかし、南部藩主・南部利敬の家格も大広間詰めであり、元家来筋の津軽家と同格になる事に持病の心臓病が悪化したといわれ、文政3(1820)年6月15日、亡くなってしまった。さらに、利敬には養子(妹の子)の利用がいたが、わずか15歳にすぎず位階が低かった。ここに津軽家の家格が昇進してしまったら津軽家の下に座らなければならなくなることになった。そして同年12月、津軽家の家格は昇進してしまった。

 南部藩士・下斗米秀之進はこの事に怒り、数名の門弟を従えて出羽と津軽の国境にあたる矢立峠で、参勤交代で国元に帰る津軽寧親を待ち構えた。討ち取るのが目的ではなく、隠居させる目的だった。しかしこれを訴える者がいて、寧親は道を変えて佐竹藩領を通って帰ったため、計画は失敗に終わってしまった。寧親は佐竹藩主にも大金を払って通してもらったのだ。津軽寧親はこの事件で、わずか数名の者のために道を変えて帰国したと、津軽藩の評判は非常に悪くなってしまった。秀之進はこの事件のあとしばらく身を潜めた。

 その後、江戸の麹町表三番町に道場を開き、名を「相馬大作」と改めて門弟を募集した。しかし津軽藩側はこれに気づき、秀之進が懇意にしていた美濃屋作兵衛の手紙と称して秀之進を呼び寄せて彼を捕えた。兵法の達人でもあった秀之進であったが、覚悟を決めて抵抗することなく捕えられた。「上意」という言葉に抵抗すれば主家にも累が及ぶと思ったのだろうか。彼を捕えたのは火付盗賊改方の長井五右衛門であった。秀之進の門弟たちはこれを不服に思って奉行所に訴えた。しかし北町奉行・榊原忠之(主計頭)はこれを何も知らなかった。彼はただちに長井を呼んで糾すと、津軽家からの依頼であったと答えた。長井は津軽家からの莫大な金品に目がくらんでの行動だったのだろう。

 しかし、津軽藩は大作一人を捕えるために、老中はじめ一橋家・函館奉行・側衆らまで買収しており、榊原の助言もむなしく、秀之進は処刑された。津軽藩の手回しのうまさは謀将とうたわれた津軽為信以来のものなのだろう。

●参考文献:『南部藩参考諸家系図』(国書刊行会)
      『岩手県史 第四巻』(岩手県史編さん委員会)

―下斗米氏略系図―

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下戸前

 千葉一族。「しもとまえ」と読む。発祥地は不明だが、下斗米氏と関連があるのかもしれない。

 下戸前常政は、陸奥国九戸郡小軽米(岩手県九戸郡軽米町大字小軽米)に寛永元(1624)年に誕生した。常政は幼名を小太郎、のち千葉上総介秀胤を称した。秀胤は文・武・医の三道に優れていたため「三哲」と称され、自らもそれを号とした。

 寛文5(1665)年、出羽国仙北郡角館(秋田県仙北郡角館町)に移り住み、続いて翌年には出羽国秋田郡十二所(秋田県大館市十二所)に移った。ここで秀胤は難産をしているという秋田藩士の家を訪れてその命を救い、藩士はその代金として半額を払い、残りは後日に支払ういう約定を交わしたが、この藩士は約定を守らず、秀胤は怒って年貢米を実力で妨害したことから、十二所城代・塩谷氏によって逮捕され、寛文12(1672)年6月17日、処刑された。49歳。

 秀胤は十二所内の山(三哲山)に葬られたが、その後、大館に大火があり、この大火を秀胤の祟りと恐れた住民たちは、三哲山に秀胤を祀る神社、三哲神社(大館市十二所字中岱)を建立して祀った。

白鳥

 大須賀一族。大須賀氏の一族・多部田時綱(四郎)の子・常成(権八)が白鳥を称した。ただし、常成の名が出てくるのは『大須賀系図』のみで、『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には出てこない。『大須賀系図』では「顕朝」という人物の次の代には「胤秀(次郎左衛門尉・号田部多)」とあり、また「田部多胤秀」という人物は大須賀胤信の弟にも見ることができる(『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』)

 「田部多胤秀」の子に「時綱(四郎左衛門尉)」があり、時綱の子には「胤時(掃部)」がいること、それから大須賀師氏の4代目・顕朝までの存在は『大須賀系図』『千葉大系図』両方に共通していて系図上で確認することができる。ただし、その「顕朝」のあとの系図はなく、ここで断絶したか、顕朝の子に「胤秀」という人物がいて、それが5世代も前の「田部多胤秀」と交錯してしまったのかもしれない。『千葉大系図』などの本には、時綱の子には、胤時(掃部左衛門尉)・胤連(四郎左衛門尉)・頼秀(孫四郎)・貞泰(五郎・遠康とも)と見ることができる。

―白鳥略系図―(『大須賀系図』)

→千葉介常胤-大須賀胤信-通信――――師氏――頼氏―――朝泰―――――顕朝――――胤秀――――――時綱――白鳥常成
      (四郎)  (左衛門尉)(三郎)(孫太郎)(左衛門次郎)(次郎太郎)(次郎左衛門尉)(四郎)(権八)

白井 [白井氏のページ]

 千葉一族。「しろい」「しらい」と読む。この一族は大きく分けて二つの流れがある。

1、平常兼の次男・常親の流れ。常親が下総国白井庄(千葉県佐倉市周辺)を領して白井を称した。
2、千葉介胤正の八男・胤時が、上記の白井氏を継承し、白井庄と香取郡白井郷を領した。

 常親と胤時の間には直接の血縁関係はないが、胤時は白井庄などを領して白井氏の祖となる。白井胤時の嫡子・胤定は下総国香取郡鏑木郷を与えられ、「鏑木氏」を称するようになるが、同時に白井氏の名跡も継承している。鏑木氏はその後、千葉四天王の第二位に列せられ、白井庄に館を構えてその地は鏑木と称された。現在の佐倉市鏑木町にあたる。

 嘉元3(1305)年4月23日、北条宗方(駿河守)は幕府の実権を握ろうと連署・北条時村(左京権大夫)を討つ事件が起こった。得宗・北条貞時はこれを怒り、5月2日、宗方に加担して時村を攻めた先頭の武士十二人の首を刎ねたが、そのうちの一人に「白井小次郎胤資」の名が見える。

 室町時代末期の当主・白井胤治には男子がなく、常陸国の真壁胤吉の子・宗幹を養子としていたが、臼井城の戦いの年に胤隆(平蔵)が生まれた。しかし胤治はあえて胤隆を嫡子とはせず、宗幹に跡を継がせている。宗幹は天正18(1590)年の小田原城の戦いでは胤治の次男・胤邑を伴って小田原城に入城。胤隆には千葉郷多部田城を守らせ、胤隆も期待に応えて堅く城を守って徳川家康軍と戦った。

 宗幹は千葉介胤富の娘を正室としており、主君・千葉介邦胤とは義兄弟であった。秀吉に降伏したのちもその手腕を買われて、豊臣秀次の家老に抜擢された。秀次の切腹ののちも罪には問われることなく、秀吉の直臣として朝鮮出兵の際には、肥前国名護屋城に供奉した。彼の孫娘・於春(芳春院)徳川家康の侍女となり、その妹・於良淀君の侍女となった。その弟・伊信(忠左衛門・左馬助)は、元和2(1616)年、徳川頼房の小姓として出仕。その後、腰者番⇒歩行頭⇒書院番頭⇒大番頭へと累進を重ね、2代藩主・徳川光圀(権中納言)の代には水戸藩大老という重職に就き、子孫も代々、城代として重きをなす。於良の曾孫は江戸城大奥年寄となった絵島である。

 白井胤時の次男・信清は上総国長柄郡を賜って別家をたてる。しかし、信清の孫の胤友胤秋兄弟が家督争いを起こし、敗れた兄・胤友は下総国を出奔して安芸国沼田庄(広島県三原市・豊田郡本郷町)に土着し、南北朝期の道素入道は新田義貞に従って活躍した。安芸に白井氏の所領があったのかも。その子・白井詮常は室町幕府二代将軍・足利義詮の直臣となって偏諱を受けた。詮常は三代将軍・足利義満にも仕えて功があり「長門守」に任じられ、若狭国にも領地を賜わる。その弟・次郎左衛門は義満から偏諱を受けて満宗を名乗り、幕府奉公衆となる。おそらく若狭国・安芸国の白井氏はともに白井胤友の子孫と思われる。

◎中国地方の白井氏の動き◎

・下総国白井庄――→安芸国沼田庄――――――→安芸守護武田氏被官―+―→安芸武田氏被官(安芸国沼田庄)
         (南朝方。のち幕府奉公衆)           |
                                 +―→若狭武田氏被官(若狭国加茂庄)

1、安芸国の白井氏安芸武田氏大内氏(+陶氏)→毛利氏に代々仕える瀬戸内海賊衆(警固衆)の家柄。
2、若狭国の白井氏若狭武田氏丹羽氏藤堂氏(伊勢津藩士)

周西

 上総一族。印東常茂の子・常泰(助忠)が上総国周西郡(君津市周辺)を領して周西を称した(『千葉大系図』)

 常泰の父・常茂は、下総国印東庄ほか上総国夷隅郡伊南庄、伊北庄などの荘園の荘官でもあったようだ。常茂は兄・伊南新介常景を暗殺して上総権介を継いだが、源頼朝の挙兵時には京都にあって平家に仕えており、弟・介八郎広常が上総の実権を握っていた。広常は頼朝の挙兵に味方し、常茂は押領使として平維盛に従って富士川まで攻め寄せてきたものの、平家敗走のために捕らえられて殺された。

 常茂の子である常吉・常泰(助忠)が常茂の軍勢に随っていたのか、広常の軍勢に随っていたのか定かではないが、寿永元(1182)年12月30日、「上総國御家人周西二郎助忠以下、多以可安堵本宅之旨奉恩裁云々」とあることから、何時かの合戦で捕縛されて赦され、広常のもとに配されて、上総御家人として認められていたものの、旧領の安堵はされておらず、この時はじめて本宅安堵がされたのであろう。

 治承4(1180)年10月3日、伊南新介常景の嫡男・伊北常仲(伊北庄司)が千葉介常胤の厳命を受けた千葉太郎胤正葛西三郎清重らが上総国へ急行して常仲を討ち、「伴類悉獲」たという。この「伴類」中に助忠が含まれていたのかもしれない。

―周西氏略系図―

       +―長狭常伴
       |(六郎)
       |
       +――娘
          ∥―――――伊北常仲
→上総介常澄―+―伊南常景  (伊北庄司)
(上総権介) |(上総権介)
       |
       +―印東常茂―+―周東常吉
        (上総権介)|(太郎)
              |
              +―周西助忠
               (次郎)

周東

 上総一族。印東常茂の子・常吉(太郎)が上総国周東郡(君津市周辺)を領して周東を称した(『千葉大系図』)

 常吉(太郎)の父・常茂は、下総国印東庄ほか上総国夷隅郡伊南庄、伊北庄などの荘園の荘官でもあったようだ。常茂は兄・伊南新介常景を暗殺して上総権介を継いだが、源頼朝の挙兵時には京都にあって平家に仕えており、弟・介八郎広常が上総の実権を握っていた。広常は頼朝の挙兵に味方し、常茂は押領使として平維盛に従って富士川まで攻め寄せてきたものの、平家敗走のために捕らえられて殺された。

 常茂の子である常吉・常泰(助忠)が常茂の軍勢に随っていたのか、広常の軍勢に随っていたのか定かではないが、寿永元(1182)年12月30日、「上総國御家人周西二郎助忠以下、多以可安堵本宅之旨奉恩裁云々」とあることから、何時かの合戦で捕縛されて赦され、広常のもとに配されて、上総御家人として認められていたものの、旧領の安堵はされておらず、この時はじめて本宅安堵がされたのであろう。「助忠」は、常吉の弟・周西次郎助忠のことであるが、彼が上総国御家人の筆頭(広常を除く)であったようで、周東常吉はすでに亡くなっていたのだろう。

―周東氏略系図―

→上総介常澄―印東常茂―+―周東常吉
(上総権介)(上総権介)|(太郎)
            |
            +―周西常泰
             (次郎)

十文字

 武石一族。陸奥国亘理郡十文字郷(亘理町十文字)に館を持った武石氏の一族が十文字を称した。子孫は坂元氏・長谷氏と並んで奥州武石氏(亘理氏=涌谷伊達家)の重臣となる。

 幕末の涌谷伊達家家臣・十文字竜介(栗軒)は、坂元玄岡に儒学を学び、のち江戸の昌平校へ留学した。戊辰戦争がおこると、涌谷伊達家を勤皇派に導き、主藩である仙台藩の命を受けて、薩長側との折衝に当たった。戊辰戦争後は、北海道開拓のために北海道へ渡り、開拓使判官・島義勇の推挙で活躍をした。のち遠田郡涌谷村に帰郷して、教育者となった。

 その甥・十文字大元はアメリカ留学ののち、東京に日本初のガス・水道メーター機器製作会社を設立。大正期には「自彊術」の宣伝と普及につとめた。さらに女子教育の必要性を説き、夫人とともに現在の「十文字学園」を創立した。

―十文字氏略系図―

→千葉介常胤-武石盛胤…長谷胤安-坂元胤之-十文字胤則
      (三郎) (次郎) (四郎) (五郎)

諸徳寺

 東一族。諸徳寺氏はもともとは佐貫城主・片岡氏の重臣で、香取郡の諸徳寺城(旭市清和甲字城山)を居城とした。諸徳寺重高(民部)は片岡常春とともに千葉介常胤に滅ぼされた。その後、東胤頼の子孫・胤直(弥四郎左衛門)がこの領地と遺跡をついで、諸徳寺を名乗った。

 元禄5(1692)年、胤直の供養のために城址に石祠が建てられ、「多聞宮」と呼ばれた。天保4(1719)年3月2日には城址の近くにも石祠が建てられ、現在「御霊大明神」と呼ばれている。

―諸徳寺氏略系図―

→千葉介常胤-東胤頼…諸徳寺胤直
      (六郎)(弥四郎左衛門)

新野

 東一族。「甚野」「神野」とも称す。伝えるところによれば、東下野守常縁の三男で森山城主・胤景の末孫。ただし、常縁の三男に「胤景」という人物は伝わっていない。

 天正末頃、香取郡貝塚村に新野角助という人物があった。海上郡高神村の人で歌道に通じており、天正20(1592)年9月9日、角助は領主・松平家忠に書状と水鳥十羽と柿一枝を送り、家忠と親交を持つようになる。この松平家忠という人物は歌道に非常に造詣が深く、そのことは『松平家忠日記』から詳しくうかがわれる。10月24日、角助は松平家忠に「一折連歌興行候」という書状を送り、28日に家忠みずから角助の住まいを訪れて連歌の会を行った。

 角助は天正18(1590)年の小田原合戦では千葉宗家ともども小田原城に籠城。その後、浅野長吉(弾正少弼)に攻められると降伏し、浪人となって貝塚村に隠棲。慶長7(1602)年3月に亡くなり、貝塚の来迎寺に葬られた。法名は月山禅心居士

神保

 上総一族。臼井常康の子・常員が臼井庄神保郷(船橋市神保町から八千代市)を領して神保を称した。子に「胤親」など、「胤」字がついていることから、以降は千葉宗家の支配下にあったと考えられる。神保氏は臼井氏の所領経営の一貫として、神保郷・萱野郷・吉橋郷(船橋市~八千代市)の在地領主として地盤を築いたと考えられるが、房総平氏の惣領である上総介広常に従っていた臼井氏・印東氏・相馬氏などは、広常に連座して所領を没収され、広常から独立していた常胤に所領があたえられた。宝治3(1249)年の恒例の香取神社遷宮では、勢至殿・於岐神社の造営は、それぞれ神保郷・吉橋郷が負担しているが、地頭職は千葉介であるため、神保氏の所領も、臼井氏の一族であったがゆえに没収の憂き目を見たと考えられる。

 『吾妻鏡』では、承久3(1221)年の「承久の乱」宇治川の戦いで神保氏の一族と考えられる「神保太郎・神保与一・神保与三」の三名の活躍が見れるが、神保太郎は負傷、神保与一は宇治川渡河中に死亡、神保与三は敵を討ち取る功績をあげている。おそらくこれらの功績が認められ、恩賞の地として出雲国大東庄・仁和寺庄・近松庄・布施郷など得たと考えられる。

 文永8(1271)年11月付の『関東御教書』に出雲一宮杵築神社の三月会に関する文書が遺されているが(『鎌倉遺文』)、大東庄南北内九十丁は「神保太郎跡」、仁和寺庄五十丁・近松庄三十丁は「神保四郎太郎子」、布施郷五丁余は「神保二郎」、布施社八丁は「神保小四郎」が地頭とされている。おなじく、承久の乱によって出雲国久野郷・三所郷・万田庄一部の地頭となった中郡経元(六郎太郎)の子孫は神保氏の縁戚となっている。そのなかで「千庭(千葉)」を「神保」の前につけているということは、神保氏は千葉氏からわかれた一族であると誇示しており、当時の千葉氏はそれだけの威光があったことを示す。

 神保常員の9代の孫・下総「神保経胤」は三谷氏(おなじく千葉一族)の配下にあって活躍したが、その子・神保信胤が永正年中(1504-1521)に下総を退散して安芸国へ赴き、大内氏に仕えた。

 また、大内氏に仕えた神保氏の一流は、臼井常俊が嘉暦3(1328)年、越中国森山庄神保に移住して神保を称した。そして臼井常俊の7代孫・神保時綱(左近将監)の次男・神保尹胤は延徳元(1489)年に足利義尹(10代将軍)に仕え、偏諱をたまわる。義尹は義材と名を改め、明応2(1493)年に管領・細川政元によって義材は京都を追放され越中に逃れた。その翌年・明応3(1494)年9月、義材は細川政元追討のために越中で挙兵、政元も新将軍・足利義高(義澄)を奉じて義材討伐軍をおこし、義材は近江・河内の戦いで連敗したため、周防・長門守護の大内義興を頼って落ちていった。尹胤もこれに供奉し、大内氏の重臣となった。尹胤は永正5(1508)年の舟岡山の戦いで手柄をたてる。

 尹胤の孫・興胤は大内義興の偏諱を賜って「興胤」を称し、その子・隆常は大内義隆からの偏諱を受けて「隆常」を名乗った。しかし、大内義隆が陶隆房(のち晴賢)に討たれると、これに反発して毛利元就に寝返り、天文23(1554)年の折敷畑合戦では、陶氏の重臣・柿並隆幸(小平太)を討ち取った。子孫は萩藩大組士となり440石を給された。また、子孫・性海は妙玄寺の開基となり、神保氏の系譜が伝わる。

 神保泰宗(長門守)は戦国時代末期、三谷胤重(大膳佐)に仕え、天正元(1573)年に亡くなった。その子・宗長は慶長10(1605)年に亡くなる。その子孫・貞恒は伊能忠敬の実父。また、貞恒の長男・貞詮(伊能忠敬の実兄)の5男・延宜(正作)は伊能忠敬の測量の旅に供侍として同道している。

―神保氏略系図(1)―

→臼井常康-神保常員―+―胤親―+―胤光
(六郎) (次郎)  |(太郎)|(小太郎)
           |    |
           |    +―又太郎
           |    |
           |    +―四郎―?―+―四郎太郎
           |           |
           |           +―二郎
           |           |
           |           +―小四郎
           |
           +―常高―+―太郎
           |(六郎)|
           |    +―四郎
           |    |
           |    +―五郎
           |    
           +―景重
            (五郎)

―神保氏略系図(2)―(出雲神保氏と中郡氏との関係:野口実氏著『中世東国武士の研究』P.384参照)

→中郡経元――――――――――――重経―――――――――――――+――道意――――――娘
(六郎太郎)          (太郎六郎)          | (入道か)    ∥
・承久の乱で出雲諸郷地頭    ・文永8年11月『関東御教書』 |          ∥
「久野郷・三所郷・万田庄一部」 「久野郷地頭」         +――娘     千庭神保胤久
                                |  ∥    (与一)
                                |  ∥
                                | 千庭大弐房
                                |(大弐房)
                                |
                                +――光経――――――娘
                                  (三郎)     ∥
                                           ∥
                                         千庭神保胤重
                                        (孫太郎)

―萩藩神保・臼井氏略系図―

                                           +―常直====常知
                …臼井豊後守                     |      (市郎右衛門)
                (藤次郎)                      +―――――――――――――――――――+
                  ∥―――就方―――娘                                   |
 臼井常俊……尹胤―――常行――+―娘  (藤次郎)(神保就俊妻)  +―元信    +―常包―――――常直――――+―常章―+
(称神保氏)(兵庫助)(兵庫頭)|(兵庫助)             |(五郎左衛門)|(五郎右衛門)(市郎右衛門)|(宗内)
                |                  |       |              |
                +―興胤――+―隆常―――元高――――+―元道――――+―常直           +―三吉恒保
                 (対馬守)|(宗内) (兵庫)    (市郎右衛門) (清二郎)         |(与右衛門)
                      |                                   |
                      |                                   +―日野景相
                      |                                    (三右衛門)
                      +―景胤―――就俊――――+―元胤――――+―臼井就房―――娘
                      |(兵庫丞)(対馬守)  |(勘左衛門) |(勘左衛門)  ∥――常清――――道常
                      |            |       |        ∥ (勘左衛門)(勘三郎)
                      +―弥七郎        +―元光    +―就常―――――直常
                      |            |(弥左衛門)  (十左衛門) (勘兵衛)
                      |            |
                      +―常喜……【継石川氏】 +―元徳……【大組士・臼井五右衛門家】
                       (新右衛門)      |(勘兵衛)
                                   |
                                   +―就胤……【大組士・臼井藤兵衛家】
                                    (惣兵衛)

―神保氏略系図(3)―

→神保泰宗-宗長-長泰-重長-宗久―――宗重―+―宗載-幸宗-実之助
(長門守)         (大内蔵)    |
                       |
                       +―宗朗(神保寛重の養子)-林之-女(平山季孝の妻)
                       |
                       +―貞恒―+―貞詮―+―忠則
                            |    |
                            |    +―延宜(正作)
                            |
                            +―伊能忠敬(勘解由)-景敬

【す】

須江

 千葉一族。名字地は下総国須江村とされるが、現在比定地は見つからない。家紋は真庵中一文字(『衆臣家譜』)

 発祥は須江家の伝に拠れば、須江家の祖・千葉頼常(万次郎)は、上総介平忠常の次男とされ、常陸国信田浮島に住み、「宇喜嶋太郎」と号したと伝わる。常陸国浮島を出身とする伝を持つ相馬家の重臣に木幡家がいるが、系譜上の木幡家の祖・浮島清重「浮嶋太郎」を称している(『衆臣家譜』)。 

 頼常の曾孫・須江光春(源五郎)の代に「文間、木幡、須江、青田」の四家が「四殿」と呼ばれる家柄となったと伝わる。実際に須江家が相馬家に仕えた時期は不明だが、文間家・木幡家・須江家・青田家の四家は鎌倉時代後期までには相馬家の「家人」になっていた可能性が高い

 光春の五代の孫・須江時胤(備中)は相馬重胤に従って奥州に下向、建武3(1336)年には重胤に随って鎌倉を守り、南朝の北畠陸奥守顕家の軍勢と戦い、討死を遂げたという。享年三十二。法号は自天(『衆臣家譜』)

 時胤の孫・須江春進(八郎)は建武3(1336)年5月24日、相馬家の居城・行方郡小高城において、北畠顕家の大軍との戦いで相馬弥次郎光胤に随って戦い、戦死した。

 なお、建武3(1336)年当時、実際に相馬家の家人として名が見える人物として「須江九郎左衛門尉」「須江八郎」の両名がいる(『相馬文書』)。とくに「須江九郎左衛門尉」は二百石以上の兵糧を有しており、小高相馬家惣領・相馬孫五郎重胤から相馬弥次郎光胤に、彼の有する二百石の米を籠城に備えるために小高城へ運び込むよう指示が出されている。

 もう一人の「須江八郎」はおそらく上記の須江春進(八郎)だろう。須江八郎は、建武3(1336)年3月16日、宇多庄熊野堂の戦いで、結城上野介宗広入道道忠の家人・六郎左衛門入道を捕らえる戦功を挙げている(『相馬文書』)

 須江春進(八郎)の二男・胤常(平次郎)は「末永」を称していたが、兄・須江春近(八郎太郎)が早くに亡くなったため、須江家を継ぐ。建武4(1337)年正月26日、相馬松鶴丸(相馬胤頼)に随い、宇多郡熊野堂の結城上野入道道忠の家人・中村六郎広重との合戦で、多勢を相手に戦い討死を遂げた。しかし、その功績を賞せられ、永徳3(1383)年10月1日、幼少の嫡子・駒王(須江正春)に行方郡小谷木村、小池村の両村内に知行を受けた(『衆臣家譜』)

 駒王こと須江正春(図書)にははじめ子がなく、従弟にあたる須江春影(三郎)が相馬孫次郎重胤の命によって家督を継ぎ、治部左衛門と名を改め、さらに山城と改める。その後、相馬大膳大夫盛胤に随い、標葉氏との戦いに活躍。盛胤より「備前三郎」の太刀を賜った。

 須江春影(山城)の子・須江胤遠(山城)は行方郡堤谷村南相馬市原町区堤谷)に移り住み、その子・須江秀正(新十郎)は堤谷村に居住し、三貫七百七十文を知行した。

 須江秀正(新十郎)の嫡子・須江木工之進の代に至って跡継ぎがなく、名家の断絶を憂いた相馬長門守義胤は、相馬家奥に勤めていた木工之進の妹・於雲(新太夫)に父・秀正の遺領を継がせた上で、はとこに当たる木幡孫右衛門(於雲の祖父・須江胤遠の弟、須江彦四郎春盛が木幡家の養子となり、その孫が孫右衛門)と娶せ、その子・木幡清正(九郎兵衛)を養嗣子とした。

 須江家は中村藩政内では「末」とも称し、明治時代の戊辰戦争においては、須江懿春(三郎兵衛)は藩主・相馬因幡守秊胤の本隊に輜重隊として従軍している。娘は相馬家の二宮報徳仕法の祖・富田久助高慶に嫁いだ。

―須江氏略系図―

→須江時胤…胤遠―――秀正――+―杢之進
(備中守)(山城守)(新十郎)|
               +―雲====九郎兵衛―――三郎兵衛
                (新大夫)(木幡家より)

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
須江三郎兵衛 大身 100石 鷹巣町

◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
末 八郎左衛門 給人 15石 行方郡中郷高村
末 庄右衛門 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 任市 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 三五郎 給人 5石 行方郡小高郷小高村(のち上根沢村)

末国

 千葉一族。子孫は萩藩士となった。末国胤氏の次男・言和吉川経言(広家)に仕えている。「言和」の「言」は主君・吉川経言からの偏諱と思われる。

 その子・就氏は2代萩藩主・毛利秀就に仕えて「就」の字を賜り、大組士の家柄となった。その弟・氏昌は医術を学んで剃髪し、三好道益となのって若狭小浜藩主・酒井家に仕える。

―末国氏略系図―

→末国光氏-胤氏―+―胤貞
         |
         +―言和
         |(吉川広家=経言に仕えて偏諱を賜る)
         |
         +―元貞―+―元胤
              |
              +―就氏
              |(毛利秀就に仕えて大組士となる)
              |
              +―氏昌
               (三好道益・若狭小浜藩酒井家藩医)

菅生

 相馬一族。下総国相馬郡菅生村(茨城県常総市菅生町)を名字地とする。

 室町時代の末期には相馬治胤(左近太夫)の一族として菅生胤貞(越前守)の名を見ることができる。治胤は一族を重要拠点に派遣して守らせており、守谷城のすぐ北の要害・筒戸城には筒戸胤房(小三郎)・筒戸胤文(小四郎)を、南の高井城には弟の高井胤永(小次郎)を、大木城には大木胤清(駿河守)を、ほかに岩堀弘助(主馬頭)といった人物たちを派遣していたと思われる(『相馬当家系図』)

 永禄3(1560)年、北条氏照に上野国を追われていた横瀬氏長(能登守)は猿島郡弓田(坂東市弓田)の染谷民部を頼り、民部とともに菅生胤貞(越前守)の守る菅生城に攻め寄せた。これを知った胤貞は重臣の神谷某を城に残し、大部分の兵を率いて染谷民部の弓田城に向かったが、横瀬氏長はいちはやく菅生城を取り囲み、ついに城を攻め落としてしまった。これを聞いた胤貞勢は動揺し、弓田城の染谷勢に追い落とされて、胤貞は潰走。菅生城は横瀬氏長が占領したという。

 天正9(1581)年、守谷城主・相馬治胤は高野山へ書状を送り、一族重臣が連判をしているが、その連判者に「菅生越前守胤貞」が見えることから、菅生城を復興した可能性がある。また、横瀬氏も三名ほど見えることから、横瀬氏は相馬氏に降服したか。

●天正9(1581)年高野山連判(『相馬当家系図』)

菅生越前守胤貞 筒戸小四郎胤文 岩堀主馬首弘助 大木駿河守胤清 新木三河守胤重 横瀬伊勢守保広 横瀬弾正忠恒広
佐賀掃部介整満 佐賀美濃守久次 佐賀筑後守長弘 寺田弾正左衛門吉次 寺田出雲守長尚 横瀬源太左衛門貞広 木屋長門守満吉
松井主税広吉 鮎川筑後守安勝 安富斎朝直 遊座右京亮広直 泉勝坊光音    

菅井

 相馬一族。南北朝時代、千田庄内に「相馬小太郎一族菅井対馬守」が総勢十二人で芝山台(山武郡芝山町)に来訪し、おもいおもいに居住し、「主人小太郎常恒信仰」の観世音菩薩を本尊とした密蔵院性孝寺を建立したという(『千手院観音寺什器帳』:『千葉家実記』所収)

鈴木

 千葉一族。下総国は平安時代頃から伊勢神宮や紀伊熊野大社と関係があり、熊野の神官・鈴木家がこちらにわたってきたものと考えられる。また、その鈴木の名跡を継いだ千葉一族もあったろう。

 紀州鈴木家は日本史上最古の一族で現在までに120代を数える。発祥地は紀伊国熊野で、古代に物部氏から分れ、穂積氏を称した。穂積とは積まれた稲を意味し、熊野地方では「ススキ」とよんだことから鈴木の漢字を当てるようになった。「スス」は聖なるものをあらわし、「ススキ」は聖なる木の事で、神事にも通じる。

 紀州に移住したのは穂積濃美麻呂なる人物で、天平宝字3(759)年6月10日に87歳で没している。その子・忍麻呂は速玉神社の禰宜に就任している。その子孫・良氏から鈴木を称するようになった。良氏は検非違使に就任し、その子・重氏は押領使である。重氏の長男・重豊は左近将監に叙され、娘は中央貴族・藤原実方(陸奥守)に嫁いだ。のちの熊野別当職は実方の子孫であるという。つまり、源平合戦のときの熊野別当堪増は実方の子孫で、禰宜・鈴木氏の血を引いていることになる。源義朝の子・新宮十郎行家は熊野新宮禰宜の鈴木重忠の娘を母としており、やはり鈴木氏の血を引いている。

 さて、鈴木重豊の弟・重実は鈴木庄司を称した。つまり、熊野神領の管理人となっていたのだろう。鈴木氏はこののち代々庄司を称し、神領管理を行ったと思われる。鈴木重康の代に紀伊国名草郡藤白湊に館を構え、庶子一族は熊野神社の勧進による布教活動のために全国に広まっていった。源義経の忠臣だった鈴木重家・亀井重清兄弟は鈴木重倫(庄司)の子で奥州衣川で戦死した。重家の子・重治があとを継いで鈴木宗家になった。戦国時代には雑賀党を結成して本願寺顕如とともに織田信長に対抗。この戦いで伝説的な鉄砲の使い手・雑賀孫一は宗家・鈴木佐太夫の嫡男・鈴木重朝とも次男・鈴木重秀とも言われている。三河で徳川家康が戦った鈴木氏もこの流れ。

 鎌倉時代、熊野神領の代官として香取郡にも鈴木氏が入ってきたが、南北朝時代、神官・鈴木豊教は千葉氏と縁を持つために、嘉吉年中に次男・豊将を千葉氏に仕えさせ、豊将は羽鳥新介と称した。豊将は剛力の武将として知れた。

 鈴木氏の通字は「重」。家紋は鈴木の語源ともなった「稲」、熊野神社の神鳥「烏(カラス)」、神事に関係した「幣(へい)」「椰(なぎ)」。

―鈴木氏略系図―

→鈴木良氏――重氏―――重実――重武――重康――重光―――――重元――重邦―――――重倫―+―重家―――重治
(検非違使)(押領使)(庄司)(庄司)(庄司)(太郎右衛門)(庄司)(刑部左衛門)(庄司)|(三郎)
                                             |
                                             +―亀井重清
                                              (六郎)

周防

 千葉一族。平常長の八男・大須賀常継(元宗)が周防を称した。

―周防氏略系図―

→平常長-周防常継―――――野与近永
    (大須賀八郎大夫)(野与庄司)

【せ】

 相馬一族。相馬光胤(弥次郎)の子・胤成(下斗米小四郎)を祖とすると伝わる。家紋は繋駒・酢漿。名字地は陸奥国三戸郡関村

 下斗米胤成(小四郎)の末裔とされ、末裔の関光明(右京亮)は南部信直に仕え、二十五石を知行した。その婿養子・定時(甚内)は下斗米将綱(小四郎)の四男。定時は信直の嫡孫・南部重直に仕えた。子孫も代々南部家に仕えている。

―関氏略系図―

→下斗米胤成―…―+―光明―――+―娘
(小四郎)    |(右京亮) | ∥――+―定茂――――+―定照―――+―定広―――+―定光
         |      | ∥  |(与伝治)  |(甚右衛門)|(甚右衛門)|(甚右衛門)
         +―六郎…  +=定時 |       |      |      |
                 (甚内)+―定之……  +―定長…… +―定吉   +―盛恒……
                     |(重次郎)  |(甚内)  |(吉之助) |(平十郎)
                     |       |      |      |
                     +―定義……  +―定治…… +―定道   +―八十八
                     |(平三郎)  |(平九郎) |(与助)
                     |       |      |
                     +―娘     +―定正…… +―権八
                     |(神平房元妻) (甚之丞) |
                     |              |
                     +―娘            +―定好
                      (梅内祐弘妻)        (清右衛門)

●参考文献:『南部藩参考諸家系図』(国書刊行会)

関戸

 国分一族。国分朝俊の五男・朝綱が国分氏領内の関戸を領して関戸を称した。

 関戸氏の発祥地については、矢作国分氏領内の香取郡大戸庄関戸(香取市内)、もしくは香取郡松沢庄関戸(旭市関戸)などいろいろ説がある。

 「関戸」の「関」とは関所、「戸」とは津・港という意味合いがあり、関戸は香取海(現在の利根川や霞ヶ浦、手賀沼、牛久沼などが太平洋の入り江になっていた)の港湾があった場所と考えられる。大戸庄内の関戸は『海夫注文』(『旧大禰宜家文書』)によれば、「せきとの津」「国分與一」の知行とされている。この「国分與一」とは矢作国分氏の「国分与一氏胤」と考えられ、大戸庄関戸は矢作国分氏の支配下にあったことがうかがえる。

 一方、国分朝俊の子・朝綱の系統は、国分氏惣領家の松沢庄国分氏の流れをくんでおり、朝綱は大戸庄関戸ではなく松沢庄関戸を本貫地としていたと考えられる。ただ、松沢国分氏は次第に勢力が衰えていったのか、こののち戦国末期まで矢作国分氏が実質的な国分氏惣領家となる。松沢国分氏と矢作国分氏は両者とも「惣領」を称していることから、国分氏祖・国分胤通の兄である相馬師常を祖とする相馬における「相馬惣領家」と「泉相馬惣領家」の意味合いに似ていたのかもしれない。

 関戸氏について、粟飯原胤富千葉介昌胤の子)が千葉惣領家を継承した弘治3(1557)年、胤富とともに佐倉城へ移っていった関戸氏があった。佐倉へ移ると関戸氏は印旛郡関戸(成田市関戸)に居を構えたという。天正5(1577)年3月、松沢国分将頼の血をひく国分辰兼(丹波守)が常陸国行方郡潮来村に移り、嶋崎城主・嶋崎長国(左衛門尉)の手に属し、その姉(島崎国幹娘)を娶った。潮来の弁財天山城主となる。

 辰兼の養子・辰尚(玄蕃丞)は行方郡中居の川口左馬助の弟。十五歳の年に家督を継いだ。

 しかし、天正18(1590)年7月、秀吉の軍勢によって千葉一族はじめ小田原北条方の城は次々と陥落。関戸氏は香取海を渡って鹿島へと逃れたのだった。

 天正19(1591)年2月、佐竹義重は香取郡一体の名主を集め、暗殺をしている。このとき関戸氏は百姓になることを条件に助命され、旧領へ戻った。その後、土井利勝が佐倉藩主として佐倉に来ると関戸氏を150石で召抱えた。土井家に仕えた初代の妻は、常陸大掾家の一族で中居郷(鹿島郡大洋村中居)領主の中村秀幹(式部大夫)の次女であり、三代目の父親は中居胤秀(五左衛門尉)、その父は鹿島胤治(左衛門)というように、常陸大掾家との深いかかわりがうかがえる。

 また、佐倉藩主・堀田正信(上野介)に仕えた関戸氏があった。堀田正信は幕政を批判したがために所領を没収された人物である。一説には苛斂誅求の藩政を行い、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら名主が幕府に直訴して改易されたともいわれている。佐倉藩が改易され、藩士であった関戸杢左衛門は浪人となるが、寛文7(1667)年、まだ幼少の藩公・松平定重に仕え、二百五十石の徒士頭に任じられた。子孫は累進し、孫の関戸杢左衛門の代には三百五十石取りとなった。

(ご協力:関戸様)

千石

 武石一族。武石氏の重臣。発祥地は不明だが、利府城主の村岡氏(留守家臣)の庶流と思われる村岡氏(亘理家臣)と縁戚関係にあることから、陸奥国牡鹿郡千石邑(宮城県石巻市)か? 武石氏の一族である坂本氏・涌沢氏と縁戚関係にあり、いつの頃からか亘理武石氏の家臣となったのだろうか。

 慶長20(1615)年4月14日、伊達定宗長谷伊予、坂本伯耆、亘理越中、村岡大炊介、菱沼内膳、渋谷将監、森若狭、森新右衛門、安住織部・佐藤助右衛門、蔵本太郎左衛門、千石久胤(下野)ら十一騎の部将を随えて出陣している。久胤の姉は涌谷伊達一門・坂本常時(駿河)に嫁ぎ、その養嗣子・坂本常信(仲右衛門)の妻は久胤の娘である。また、もう一人の娘は、坂本家の本家である坂本重俊(加賀守)に嫁ぎ、坂本常信の養嗣子として、重俊の二男・久俊(仲右衛門)が入っている。

●慶長二十年四月定宗扈従馬上交名

長谷伊予 坂本伯耆 亘理越中 村岡大炊介 渋谷将監 千石下野 森 新右衛門 蔵本太郎左衛門 佐藤介右衛門 渋谷将監
森若狭 安住織部                

 元和8(1622)年8月18日、出羽国山形藩主の最上義俊(源五郎)が幕府より国政不行届を理由に改易されてしまった際、伊達定宗は伊達成実とともに山形城へ派遣された。このとき、定宗は四十三騎、千八人を率いて出陣している。この中に、千石久胤(下野)とその弟・千石氏胤(清右衛門)、千石外記千石作右衛門千石肥後ら一族の名が見える(『涌谷伊達家関係資料集』坂本様御提供)

●元和八年八月定宗扈従馬上交名

長谷伊予 坂本伯耆 亘理越中 亘理半十郎 亘理蔵人 涌沢右馬助 渋谷将監 千石下野 大石圭介 蔵本太郎左衛門
加藤信濃 入間田縫殿助 菅原正左衛門 宍戸主計 米谷下総 佐々木藤左衛門 屋代次郎兵衛 安藤右馬助 坂本勘解由 千石外記
加川喜左衛門 千石作右衛門 佐藤介右衛門 蔵本雅楽介 末永源左衛門 森 新右衛門 生天目左吉 千石肥後 安倍左兵衛 菱沼弥惣次郎
富田半右衛門 遠藤隼人 菅野左伝次 大町源兵衛 千葉平左衛門 星 又左衛門 鈴木肥前 三品新介 十文字助八郎 上野休閑
上野了益 坂本九左衛門 黒沢甚右衛門 千石清右衛門            

―千石氏周辺略系図―

 千葉宗胤―+―――――――宗俊   白石景氏―――+
(伊予守) |      (弾正忠)(三河守)   |
      |       ∥           ↓
      |       ∥――――隆俊====坂本俊久――定俊
      +―胤冬――+―娘   (弾正忠) (三河守) (伯耆守)
       (右馬助)|                  ∥――――重俊   +―元俊
            |            亘理重宗――娘   (加賀守) |(雅楽允)
            |           (美濃守)       ∥    |
            |                       ∥――――+―久俊
            +―俊常―――常時              千石久胤娘 |(仲右衛門)
             (備後守)(駿河)                   |
                   ∥======常信             +―武田信俊
                   ∥     (作右衛門)           (加右衛門)
                   ∥       ∥
                 +―娘     +―娘
                 |       |
                 |       |
                 +―千石久胤――+―娘――――――坂本久俊                       +―常久
                 |(下野守)  |(坂本重俊妻)(仲右衛門)                      |(宮門)
                 |       |                                   |  
                 +―娘     +―娘           +―元義―――――盛高―――――胤長――――+―亘理常雄
                 |(村岡勝重妻)|(千石太郎兵衛妻)    |(与市左衛門)(四郎左衛門)(四郎左衛門) (縫殿助)
                 |       |             |
                 +―千石氏胤  +―久胤―――+―行胤   +―娘
                  (清右衛門) |(左馬允) |(吉蔵)  |(千石久豊妻)
                         |      |      |
                         +―長胤   +―胤香―――+―小島兼味―――兼明――――兼教
                          (甚左衛門) (四郎左衛門)(善左衛門) (平左衛門)(喜兵衛)

【そ】

匝瑳

 千葉一族と上総一族がある。上総氏流は、上総権介広常の兄・常成(三郎)が匝瑳郡を領して匝瑳氏を称した。子孫も匝瑳を称している。

 千葉氏流は平常兼の五男・常広が匝瑳郡匝瑳郷を領して匝瑳を称した。『千葉大系図』によれば、常広の子供たちは「匝瑳党」という武士団を形成したとあり、長男・常正(匝瑳八郎太郎)は「匝瑳党惣領」で、惣社・老尾神社の祭祀を司っていた。次男・常定(鷲尾太郎次)は「由ありて」千葉郷鷲宮を造立して同地を支配し、三男・政胤(飯高四郎)は下総国匝瑳郡飯高郷を領したという。そして四男・宗光(湯浅兵衛尉)は上記の通り紀州湯浅氏の名跡を継いだという。宗光の子・湯浅宗景は平六を称し、下総国匝瑳郡南庄熊野領の地頭となったため、紀州から下総に帰って匝瑳党に列し、千葉家の家臣となったという。しかし、匝瑳氏はその後の文書にはあまり見えず、代わって匝瑳北条の領主に飯高氏が勢力を広げていく。飯高氏は鎌倉初期に南条に入ってきた椎名一族と代々抗争を繰り返し、敗れて滅亡した。

 上総氏流の匝瑳氏と千葉氏流の匝瑳氏がどのような関係にあったのか、それはわからないが、系図・諸文書上で見る限り千葉氏流匝瑳氏は繁栄したとは思えず、上総氏流匝瑳氏は系図上では子孫が繁栄している。匝瑳常広(千葉氏流)の子・常正(八郎太郎)に跡継ぎがなく、かわって上総権介広常の兄・常成(三郎)が匝瑳郡を押領(?)して匝瑳氏を称したかもしれない。嘉慶2(1388)年の『香取文書』には匝瑳氏泰(弾正左衛門)の名があり、『本土寺過去帳』には匝瑳新兵衛妙新神田ノ、匝瑳帯刀妙刀匝瑳二郎左エ門妙衛匝瑳妙秀(将監)・匝瑳道胤(隼人佑)・匝瑳肥前守匝瑳勘解由匝瑳道高匝瑳蓮頂(将監)らの名を見ることができる。

 『本土寺過去帳』に掲載された匝瑳氏の同族と思われる匝瑳蔵人佑『小田原衆所領役帳』に見える。蔵人佑は戸ヶ崎(三郷市戸ヶ崎)に四十七貫三百六十文の知行を得ていた。

◎上総氏流匝瑳氏は諱に「常」字を使っていたが、匝瑳常成の3代あとくらいから「胤」字を用いるようになる。つまり、何らかの原因があって、千葉氏に吸収された構図が見える。匝瑳氏惣領と思われる「匝瑳泰常」の時代は時代的に三浦泰村が三浦党の惣領だった頃であり、上総国には三浦氏の所領がいくつもあることから、ひょっとしたら三浦氏との交流があったかもしれない。また、匝瑳氏の総本家・上総介秀胤は三浦泰村の妹婿である。秀胤の一族である匝瑳泰常は「三浦泰村」となんらかの交流を持ち、「泰」を賜って「泰常」を称したのかもしれない。そして宝治元(1247)年の宝治合戦で、三浦氏・上総氏が滅ぼされてしまうと、匝瑳氏は匝瑳郡を没収され、千葉宗家にお預けになり(上総介秀胤の子や孫・甥姪たちは助命されて千葉介に預けられている)、千葉氏家臣となって「胤」字を与えられたのだろう。

―上総・千葉両匝瑳氏略系図―

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相馬

 相馬一族。千葉介常胤の次男・相馬師常(二郎)が、常胤から下総国相馬郡(千葉県柏市周辺)を譲られて、「千葉」から「相馬」に改めた。千葉・相馬・武石・大須賀・国分・東氏という「千葉六党」の一家であり、その分流も非常に多い。

(1)下総相馬氏 相馬氏の惣領家。相馬郡北部の領主。子孫は喜連川藩重臣・彦根藩士・小田原藩客分など。
(2)奥州相馬氏 相馬氏の一流で、奥州相馬氏惣領。戦国大名に発展して伊達家などと抗争。子孫は陸奥国中村藩主。
(3)相馬岡田氏 相馬氏の一流。室町期に奥州相馬氏の一門となる。子孫は中村藩一門筆頭として1,336石を知行。
(4)相馬大悲山氏 相馬氏の一流。岡田氏と並ぶ家格であったが、勢力は急速に減退。子孫は中村藩士大身。

 陸奥国中村藩の一門に相馬将監家がある。中村藩初代藩主・相馬利胤(大膳大夫)の同母弟・相馬及胤(左近)ははじめ徳川家康の旗本として仕えていたが、日頃の行状がかんばしくないことから罷免され中村へ戻された。利胤も中央から追放された形の及胤を表立ってとりたてるわけにもいかず、行方郡津佐原村細入邸に軟禁した。

 及胤は大坂冬の陣では利胤とともに出陣、夏の陣では父・義胤に従って出陣した人物で、剛勇をもって知られていた。軟禁状態にあったとき、近辺に熊が出て人を襲うという事件があったため、及胤は愛用の槍を携え、ひとりの侍童を従えただけで、熊の巣穴に入っていった。そのとき、及胤の目の前に熊があらわれて襲いかかった。この不意の攻撃に及胤は驚くが、侍童がかわって脇差を抜いて戦い、これをしとめた。及胤はこれを賞して手ずから熊と戦っている児童の姿を描いて彼に与えた。

 万治3(1660)年、及胤は68歳で亡くなったが、津佐原村の領民たちとも親睦を深め、彼らからはとても慕われていたと伝わる。彼の遺体は相馬家代々の菩提寺・小高山同慶寺に葬られ、奥方は浄土三寺のひとつ、阿弥陀寺に葬られた。

 彼の孫・胤延(将監)が「相馬将監」を称して相馬将監家の祖となり、一門として幕末に至る。ほかに相馬家の一門として「相馬勘右衛門」「相馬靱負」「相馬左衛門」「相馬主税」「相馬左織」などがある。千葉氏流の相馬一族はこちら

曽谷

 千葉一族? 千葉胤鎮が伯父の曽谷重胤に下総国曽谷村周辺三千町余(市川市曽谷)を分与し、曽谷を称したという。曽谷村は下総国府近郊で鎌倉期の守護所があった場所とみられ、実際は曽谷氏は被官化した在地武士とみられる。

 おなじく、守護所での職務を行っていた被官の冨木常忍は日蓮と関わりを持つようになると、八幡庄若宮(市川市若宮)にあった屋敷の持仏堂を「法華寺」という寺院としている。同じく被官で若宮の南、中山に居住していた大田五郎左衛門尉(大田乗明)も日蓮と交流を深めており、彼の死後、子の伊賀公日高が屋敷を「本妙寺」とした。この法華寺と本妙寺は、国府に隣接する真間山弘法寺とならんで下総日蓮宗寺院の中心的存在となった。ただし、真間山弘法寺と法華・本妙寺は流派を別とし、法華寺・本妙寺は中山門流として受け継がれていく。室町後期に若宮法華寺・中山本妙寺は合体して中山法華経寺となり、現在に至っている。

 曽谷重胤の孫とされる・曾谷教信(次郎兵衛尉)は日蓮に帰依して「法蓮日礼」と号している。一説には、教信は元仁元(1224)年、八幡庄曽谷郷の大野政清の子として生まれたとされている。大野政清の出自は不明だが、八幡庄大野村(市川市大野)の大野氏の一族か。大野政清は日蓮母・妙蓮の弟ともされ、事実であれば日蓮と曽谷教信は従兄弟の関係となる(曽谷氏系図2)。

安国寺
長谷山安国寺本堂

 文応元(1260)年、日蓮が鎌倉松葉谷で、日蓮の他宗を排斥する言論に怒った念仏系の僧徒が日蓮の草庵を焼き、日蓮は八幡庄の富木常忍のもとへ身を寄せているが、このとき、教信は富木常忍の法華堂で行われた百日説法を聴聞して、日蓮に帰依したという。同時期に屋敷を長谷山安国寺(市川市曽谷)として日蓮宗寺院に改めている。

 文永元(1264)年、教信の招きで八幡庄曽谷郷へ赴いた日蓮は、曽谷館の妙見堂で三度の説法を行い、妙見像の開眼供養を営んだ。この説法の図は、静岡県の玉沢妙法華寺に『日蓮聖人説法図』として残されている。なお、安国寺には現在も妙見堂が置かれ、妙見像が祀られている。

 日蓮の弟子となった教信は法蓮日礼と号し、建治3(1277)年、妙法山本土寺(松戸市小金)の開堂に際して導師の日朗上人の与力として加わった。日朗(1243-1320)はこの地に屋敷を持っていた平賀氏の出身で、三兄弟すべてが日蓮の門弟となり、屋敷地を日蓮に寄付し本土寺を造立した。同年、教信自身も法蓮寺を開創した。

 教信の長男・曽谷直秀(四郎左衛門)も日蓮に帰依して道崇と号し、建治元(1275)年12月1日、野呂に妙興寺を建立し、日朗に住持を頼んだ。日朗は日蓮と相談の上、大受律師日合(日受)を住持に定めている。日合は十九年もの間住持を勤め、永仁元(1293)年10月11日に遷化した(『日隆置文写』千葉県史)

 教信の次男・曽谷山城守日心を号し、三男は日源を号して日蓮に帰依した。教信の姪(法頂尼)千葉介貞胤の妻になったと伝わり、京都で千葉介氏胤を産んだという。また、娘の千代寿(芝崎・妙林尼・日貞)は、八幡庄の千田胤貞(大隅守)の妻となっている。教信は正応4(1291)年5月1日、六十八歳で没した。

 教信の子・伝浄(????-1359)の代、延慶2(1309)年、千葉介氏胤の母である従姉・法頂尼が本土寺に平賀六ヶ村を寄進しており、本土寺の壇林のもとをつくった。

 さて、曽谷重胤なる人物の四代の孫・曽谷胤貞は、建武元(1334)年11月29日、三河国高橋で五十一歳で戦死したという。曽谷重胤は甥の千田胤鎮から所領を譲渡されたことになっているが、胤鎮は応永7(1400)年生まれであるから時代的に矛盾がある。

 「曽谷胤貞」が戦死したという建武元(1334)年11月29日の十日前の11月19日、同じく三河国で急死したのが千田胤貞である。胤貞は千葉大隅守宗胤の嫡男で、曽谷氏本貫の八幡庄領主であった。この千田胤貞「曽谷胤貞」両人ともに没年、場所がほぼ同じであり、同一人物と考えることができる。『千葉実録』『千葉盛衰記』には、千田胤貞の父・宗胤の館が「葛飾郡曽谷村」にあったとあり、事実であれば胤貞もこの館を受け継いでいた可能性もあろう。伝承の混雑により「千田大隅守胤貞」と「曽谷胤貞」が別人格となり、矛盾した伝として伝わったのだろう。なお、「曽谷重胤」「曽谷胤貞」といった人物が実在したかは不明。

 千田胤貞は肥前国小城郡周辺と下総国千田庄、国府周辺の八幡庄を支配しており、下総国における日蓮宗の最大の庇護者であった。胤貞の猷子となった日祐本妙寺・法華寺三代貫主であり、同寺中興の祖。冨木常忍(日常)、日高(大田乗明子)のあと、両寺を小城千葉氏の庇護のもとで飛躍的に大きくした人物。日祐の弟子・日貞小城郡松尾山光勝寺の開山となっている。

 曽谷氏は下総千葉介とも婚姻関係にあり、千葉介氏胤の母は曽谷教信姪法頂尼と伝わる。ただし、八幡庄は14世紀末までは千田氏が支配しており、下総千葉介もこの地には進出していない。千田氏が発給した八幡庄に関する最後の文書は永徳2(1382)年12月晦日『平胤清文書』で、下総千葉介が八幡庄に進出したことを示す文書の初見は明徳5(1394)年6月29日『千葉介満胤文書』である。永徳2(1382)年から明徳5(1394)年の12年間の間に下総千葉介が八幡庄に入ったため、おそらくこのころには曽谷氏は下総千葉介被官となっていたのだろう。

 応永23(1416)年2月26日、千葉介兼胤は、木内三郎左衛門、曽谷弾正、円城寺新兵衛を奉行として飯沼円福寺(銚子市)に参詣している『新介殿当寺御参詣之時振舞置紙』。ここにみえる「曽谷弾正」は八幡庄曽谷一族と推定される。彼の実名や系譜は不明だが、9か月後の11月15日に「曽谷祐典」という人物が亡くなっており、「曽谷弾正」はこの曽谷祐典の可能性もあろう。また「曽谷弾正」は、後述の康正2(1456)年正月、千葉惣領家と対峙した庶家の馬加陸奥入道や被官原越後守が、千葉惣領家の甥にあたる自胤らが籠った市川城を攻め落とした際(市川合戦)、討死した曽谷左衛門尉直繁・曽谷弾正忠直満・曽谷七郎将旨らの父に当たる人物である可能性もあろう。

 曽谷氏は「弾正」という官途名を代々用いていたようで、文永3(1266)年に七回忌が行われた「粟飯原道光入道」「曾谷彈正忠内方親父」である(『本土寺過去帳』)。時代的に見ると道光入道娘が嫁いだ曽谷弾正は、曽谷教信と同世代となり、彼の妻・蓮華尼道光入道娘ということとなろう。しかし、教信が「弾正忠」を称した伝承はなく、詳細は依然不明。

●曽谷氏略系図

 粟飯原道光入道―弾正内方                 曽谷三郎蓮久  寿芳尼――――曽谷三郎将典――大膳公日能童子
        (=蓮華尼?)              (1423)  (1457) (1480)  (1476)
          ∥
          ∥                    曽谷妙光         
         (?)                   (1430)
          ∥              
          ∥                      妙照尼―――曽谷四郎妙典
          ∥                     (1440)(1440:鎌倉小坪)
          ∥
+―大野政清―+―曽谷教信―――+―道崇            +―妙慶比丘尼
|(1263)|(1294)  |(妙興寺開基)        |(曽谷山城殿姉)
|      |        |               ?
|      +―浄蓮     +―山城守           +―曽谷山城入典宗―――?――――――山城入道典寿―?―曽谷山城京宗
|      |(金原法橋)  |(日心)            (1443)           (1472)   (1534)
|      |        |                              
|      +―大進房    +―日源         +―曽谷祐典――?―弾正忠?―――+―左衛門尉直繁(秀典)
|      |(大進阿闍梨) |            |(1416)   ∥ ∥    |(1456)
|      |        |            |         ∥ ∥    |
|      +―三位房    +―伝浄――――曽谷典久―+―日福      ∥ 妙院尼  +―彈正忠直満(蓮宗)
|               |(1359)(1388)          ∥(1457)|(1456)
|               |                      ∥      |
+―妙蓮―――――日蓮     +―日貞                   堯院尼    +―七郎将旨(典意)
                 (千葉大隈守胤貞妻・妙林院)       (1457)   (1456)
 
         ■■―――――――法頂尼
                 (曽谷教信姪
                   ∥―――――千葉介氏胤―千葉介満胤―――千葉介兼胤
                  千葉介貞胤 (千葉介) (千葉介)   (千葉介)
                 (千葉介)

国府台 千葉一族内紛の跡
国府台城址公園

 康正元(1455)年、千葉介胤直入道千葉介胤宣らが馬加康胤入道常義原胤房(越後守)と戦っているが、このとき千葉介方について戦ったと思われる「曽谷左衛門尉直繁(秀典)」「曽谷彈正忠直満(蓮宗)」「曽谷七郎将旨(典意)」がいた。直繁・直満は、千葉介胤直に仕えてその偏諱をうけていると考えられ、将旨は胤直の嫡子・千葉介胤将からの偏諱を受けていると考えられる。つまり、千葉介にとって重要な一族だったことがうかがえる。

 曽谷直繁(左衛門尉)・直満(彈正忠)・将旨(七郎)はじめ、円城寺若狭守・円城寺肥前守・武石駿河守・守谷相馬氏・宍倉兄弟・匝瑳一族など千葉家家臣、武蔵国の足立将監・豊嶋太郎らが康正2(1456)年正月19日、市川で討死していることが『本土寺過去帳』に記されている。このころ千葉実胤・自胤(千葉大介胤直の甥)が市川国府台城にこもって古河公方方(馬加陸奥入道方)に抵抗していて、同19日に陥落していることから、実胤・自胤らとともに国府台城にこもり、討死したと考えられる。伝承によれば、曽谷直繁の娘・百合姫は父が亡くなった事を聞くや、曽谷近くの池に身を投げたという。

●永徳2(1382)年12月晦日の平胤清文書

 中山本妙寺弁法印日尊申所々、堂免田畠在家等并神田畠等事、

 本主胤貞胤継等寄進之後相続之、当知行無相違候、此旨偽申者、
 八幡大菩薩妙見大菩薩御罰可罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐々謹言、

   永徳二年十二月晦日    平 胤清 (裏 花押)
     進上 御奉行所

●明徳5(1394)年6月29日の千葉介満胤文書

  中山本妙寺弁法印日尊
  下総国八幡庄真間弘法寺本尊聖教御堂敷地等事付諸末寺

 右、日満背代々先師置文、引分門徒、向背師匠之条、希代所行也、所詮、
 任去永徳二年十二月晦日御教書之旨、可沙汰付所持物所帯於本妙寺之状、如件

    明徳五年六月廿九日   平 満胤 (花押)

●応永23(1416)年2月26日『新介殿当寺御参詣之時振舞置紙』(『房総古文書雑纂』所収)

  新介殿兼胤当寺御参詣之時振舞之事
 
 料足三貫、御酒七提、あみわかめ二ハ、なまあしほ一はち
 新介殿へ進上申候也、御さつしやうハ両代官とりもち申也、

  奉行方へ振舞の事
 五百 木内三郎さへもん、二百 そやのたんしやう
 一貫 円城寺新兵衛殿、高上あつかり人也、
  合四貫九百文也、

 末代之ため写置所也、
 
   応永廿三年丙申二月廿六日
    二月廿四日ニ有御参詣、仝廿六日後下向、

◆小城千葉氏略系図◆

         +―千葉新介宗胤―――――――――千葉胤貞
         |(千葉新介)         (大隈守)   
         |                 ∥―(?)―+―千葉胤平―――千田瀧楠
         |                 ∥     |(孫太郎)
         |                 ∥     |
   千葉介頼胤 |              +―日貞     +―千葉胤継―――千葉胤氏
  (千葉介)  |              |(妙林院)    (大隈守)  
     ∥   |              |
     ∥―――+       +―曽谷教信―+―伝浄―――――――曽谷典久―+―曽谷祐典
     ∥   |       |(日礼)   (1359)   (1388)|(1416)
     ∥   |       |                      |
 +―千葉泰胤娘 +―千葉介胤宗 +―□□□□―――法頂尼           +―日福
 |        (千葉介)            ∥
 |          ∥              ∥――――――千葉介氏胤―――千葉介満胤
 +―千葉泰胤娘    ∥――――――――――――千葉介貞胤   (千葉介)   (千葉介)
     ∥――――――娘           (千葉介)
   北条顕時

―曽谷氏略系図(1)―

+―曽谷重胤――道頂――教信―――――胤継――――胤貞
|          (次郎左衛門)(千代寿丸)(=教継?)

+―■■■■――胤鎮

―曽谷氏略系図(2)―

+―大野政清―+―曽谷教信―――+―道崇
|      |(次郎左衛門尉)|(妙興寺開基)
|      |        |
|      +―浄蓮     +―山城守
|      |(金原法橋)  |(日心)
|      |        |
|      +―大進房    +―日源         +―曽谷祐典
|      |(大進阿闍梨) |            |(1416)
|      |        |            |
|      +―三位房    +―伝浄――――曽谷典久―+―日福
|               |(1359)(1388)
|               |
+―妙蓮―――――日蓮     +―日貞
                 (千葉大隈守胤貞妻・妙林院)

―本土寺過去帳曽谷氏略系図―

+―曽谷―+―左衛門尉直繁法名秀典  康正二年丙子正月於市河打死其他於市
|    |            河合戦貴賎上下牛馬等皆成
|    +―彈正忠 直満 蓮宗  仏道平等利益
|    |
|    +―七郎将旨法名典意
|    
+―円城寺若狭守妙若 +―足立将監顕秀   +―山口妙口 足立殿下人
|          |          |      孫太郎男
+―同肥前守妙前   +―宍倉帯刀掃部兄弟 +―妙縛 与五郎 
|          |          |    大ノ
+―蒔田殿      +―行野隼人妙野   +―妙大 平六
|          |          |    藤郷与殿法名妙与
+―武石駿河守妙駿  +―豊島太郎妙豊   +―左近二郎 彈正殿
|          |                 中間  妙光
+―相馬盛屋殿妙盛――+―児嶋妙嶋―――――+―匝瑳新兵衛妙新 神田ノ
                      |
                      +―同帯刀妙刀
                      |
                      +―同二郎左エ門妙衛
                      |
                      +―戸張中台孫三郎妙台


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