●陸奥国中村藩六万石●
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女(長松院殿) |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬敍胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬敍胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 不明 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 神戸氏 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 大貫氏(千代) |
■十二代藩主(相馬家二十八代)
(1819-1887)
<名前> | 秀丸(豊丸)→吉次郎→充胤 (みつたね) |
<正室> | 永子姫(柳沢甲斐守 保泰娘。夭折、本明院) |
<後室> | 銛姫( 松平大学頭頼升娘。夭折、天性院) |
<後室> | 綺子姫(太田資始道淳娘) |
<父> | 相馬長門守益胤 |
<母> | 高姫(松平大学頭頼慎娘:仙齢夫人) |
<官位> | 従五位下→従四位下→贈従三位 |
<官職> | 大膳亮→大膳大夫 |
<就任> | 天保6(1835)年 ~慶応元(1865)年 |
<法名> | 至徳院殿矢直覺性大居士 |
<墓所> | 東京青山霊園 |
●相馬充胤事歴●
中村藩十二代藩主。十一代藩主・相馬長門守益胤の子。母は松平大学頭頼慎娘・高姫。幼い頃から厳しく育てられ、「着実にして極めて実効性に富める真摯人」と称された名君となった。
■文武鍛錬と倹約謙虚に育てられる
中村藩桜田藩邸跡 |
文政2(1819)年3月19日、江戸桜田藩邸に誕生した。幼名は豊丸。彼が生まれた当時、藩政を執っていたのは名宰相と謳われていた池田図書直常、草野半右衛門正辰らだったが、彼らは充胤がいわゆる一般諸大名の公子のように、屋敷の奥深くで真綿に包まれるような育て方をされているのを見て、天保元(1830)年8月28日、御付人の総入れ替えを断行。8月30日からは女中と引き離しての教育を行うこととした。さらに藩公・益胤を諌め、
「殿が若君を愛されておられるのであれば、必ず困難がある所で教育されるように。古からの言葉で、幼少から屋敷の奥で婦人に蝶よ珠よと甘やかされて成長した者は、往々にして暗愚になり下々の難儀を理解することができず、放埓で国の衰廃を招くことが珍しくありません。今、国家が衰弱し、百姓たちが苦しんでいることは殿がご存知の通りです。若君を艱難の中で育てられ賢明の方にご成長されれば、父君の善政を地に落とすことなく、百姓を大切に育て国家再興の政は必ず成就いたします。もし愛に狎れ甘やかされて成長すれば、必ず凡庸となり嫌なことを厭い、臣下の言葉を用いず、艱難の意味を弁えない君となりましょう。殿のご仁政も一時の間に崩れ去り、もはや再生の道すら閉ざされましょう。これは殿のみの不幸ではなく、国を挙げての悲劇です。生まれながらに賢聖なる人はほとんどいません。賢い素質をもった人物でも苦難の経験をしない者は仁の心は育たないものです。ましてやその次の代は言うまでもありません。私は若殿が家臣から忠孝を尽くされ、百姓を大切に思われる名君に成長されることを希むのみです。」
と訴えた。このことに益胤も喜び、
「そなたの言葉は誠にわが藩を憂い、我ら父子を愛するが故の忠言というべきであろう。故に豊丸の養育のことはすべてそなたに任せよう」
と、草野半右衛門を豊丸の教育係に任じた。これを受けて半右衛門は朽ちた古小屋を修理して豊丸を住まわせ、実直の士・神戸光貞を推薦して豊丸の守役とした。半右衛門は仁義忠孝を中心に豊丸を教育し、朝は日の出前から文学の履修と武道の稽古、綿製の着物を着させた。食事も粗末なもので、庶民が味わっている艱難と君主としての資質を体に刻みつける教育を施した。現代では批判されそうなスパルタ教育は、長じてからの名君・相馬充胤をつくる素地となっていた。
■中村藩主となる
天保3(1832)年閏11月25日、豊丸は吉次郎と名を改めた。
天保4(1833)年6月5日、はじめて江戸城に上り、将軍・徳川家斉に拝謁を果たす。その2年後の天保6(1835)年3月5日、益胤の隠居願いと充胤の家督願いが幕府に提出されて認められ、3月7日、十二代藩主に就任した。家老職としては石川助左衛門、首藤猪助、佐藤勘兵衛が就任。3月22日、元服して「充胤」と名乗った。11月22日、加冠の儀が挙行され、12月16日、正五位上・大膳亮に叙任された。
天保7(1836)年2月18日、藩主となって初めての領内巡検を行った。高齢者に対して餅などを分け与え、飢饉で飢えている窮民たちに対しても御恵米として米一斗六升を下賜した。そのほか、子供を大勢育てている者についても一貫五百文の銭を、農業に功績のあったものにも褒美が与えられた。また、老百姓らに気候と作柄のことなどを尋ね、大根の種を仙台から二度にわたって取り寄せ、家中の者に作付けを命じた。充胤が家督を継いだとき、天明の大飢饉の余波が残っていたことから、まず農村の建て直しと収穫高の増強を第一と考えたようだ。
5月、充胤は松平甲斐守保泰(大和郡山藩主)の娘・永子姫との縁組願いが幕府に提出され、永子姫は持参金千五百両と御付金年々二百五十両とともに相馬家に嫁いだ。
6月14日、充胤はふたたび農村巡回に出発した。供には家老・池田八右衛門直常、御用人・佐藤勘兵衛、郡代・紺野文太左衛門ら十九人という軽装での出立となった。しかしこの夏は冷夏となり二度の豪雨にも見舞われ、稲の育ちも8月に入っても早稲が半分ほど、中稲・晩稲にいたっては三分の出穂に過ぎなかった。しかも花のつきが悪く、秋にかけて暑さが戻らなければ出穂の分についても実入りも覚束ないほどとなった。天明の大飢饉の際には一万六千人もの死亡・離散があり、飢饉の危機感を抱いた充胤は家臣・小河清記を幕府の勘定奉行・明楽飛騨守茂村のもとに派遣し、大坂表の米二千石の買米願いを提出した。もはや近国においても凶作の気配が漂っており、相馬中村藩がその支援が受けられないことを知った明楽飛騨守は家臣・下田幸太夫をして許可を出している。おそらく奥州諸藩においても同様の願いが出されていたのだろう。実際、この年の凶作は前代未聞の規模となり、昨年の十分の一以下の収入となっている。
凶荒の兆しが歴然としてくると、充胤は救荒令を出して大綱を発表し、8月25日、家老・池田直常をこの凶作を打開する責任者に任命し、各郷に保管している米穀の量の確認を命じた。9月7日には百石以上(大身)の役人を会所に呼び出して凶作の旨を伝達し、凶作に対する心構えを示した。また、充胤はたびたび村々を巡検しては高齢者や病人、村役人に対して米や金子、薬、味噌などを下賜している。
相馬祥胤―+―相馬樹胤―――相馬博胤【佐竹中務義矩】
| (兼治郎)
|
+―相馬益胤―+―相馬充胤
(長門守) |(大膳亮)
|
+―千葉卓胤【佐竹山城義典】
|(寛次郎)
|
+―千葉宗胤【佐竹右京大夫義堯】
(清三郎)
一族の人事としては、天保9(1838)年8月22日、隠居の益胤は、庶子の千葉亀三郎の名を清三郎(キヨサブロウ)と改めさせた。この清三郎が幕末の久保田藩の英主となる佐竹右京大夫義堯である。また、御一家の泉田勘解由胤周の嫡男・又太郎と縁組した妹・於富が、8月25日本日泉田屋敷に引き移る。8月27日には、弟・千葉清三郎(キヨサブロウ)の名乗りを千葉清三郎(セイサブロウ)と改めさせた。
10月24日、弟・千葉寛次郎卓胤が久保田藩一門・佐竹中務義致の養嗣子となり、翌25日、中村城三ノ丸を出立し、秋田へ向かった。寛次郎卓胤は翌天保10(1839)年2月、佐竹山城義典(字は子惇)を名乗る。
3月29日、御一家筆頭の岡田帯刀智胤が病のため、侍大将ならびに組支配を免じた。智胤の妻は充胤の義妹(実父は充胤の叔父・相馬縫殿仙胤)にあたり、病が癒えたのちはふたたび侍大将として活躍する。4月24日、三ノ丸において父・益胤の御内証・於藤が男子(東直五郎)を出産した。彼がのちに戊辰戦争で中村藩隊長として活躍する岡田監物泰胤(明治期には岡田五郎、または岡田泰胤)である。
5月3日、天陽院殿(相馬兵部太輔隆胤)の二百五十回忌が野馬追いの関係で14日から10日に早められて同慶寺において行われた。隆胤は藩祖・相馬利胤の叔父にあたり、天正18(1590)年5月14日、伊達家の将・亘理重宗らとの戦いで討死を遂げた人物である。隆胤とともに討死を遂げた諸士もこのときに供養されている。
5月15日、秋田へ移ったばかりの佐竹山城義典(寛次郎卓胤)が久保田にて病死。21日に仮葬が営まれ、22日に久保田城下の菩提寺・白馬寺にて本葬が営まれた。法名は泰心院殿。24日、久保田からの使者・飯嶋佐助によって義典の死が中村に伝えられると、充胤は翌26日、早くも長松寺にて弟のために法要を営んでいる。ちなみに彼の死後、叔父の兼治郎博胤(実父は相馬豊前守樹胤)が佐竹東家の養嗣子となって8月19日、佐竹兼之助義矩(佐竹中務義祚)として秋田へ引き移り、卓越した政治手腕で佐竹本藩を支えたが、藩内で強大な権限を持ったことから乗っ取りを疑われて謹慎を命じられ閉居させられた。
8月22日、清三郎が元服。おそらく慣例に従って充胤より「胤」字を賜り、千葉宗胤と名乗る。
9月12日、江戸麻布藩邸で療養していた大殿・相馬豊前守樹胤が春先からの喘息をこじらせて危篤に陥った。この報告を中村で聞いた中殿・益胤は樹胤に対面するべく、16日に御一家・泉藤右衛門胤陽を至急江戸に走らせて幕府に益胤の江戸での療養願を提出したが、22日、樹胤は亡くなった。麹町の菩提寺・宝泉寺にて荼毘に付された樹胤は大隆院殿英厳徳雄大居士の法号が与えられ、10月16日、江戸を出立。熊川宿まで相馬将監が出迎えて24日に中村に到着。26日に葬礼が行われた。
天保11(1840)年6月28日、尚五郎が中村城三ノ丸西御殿へ引き移りとなった。7月18日には岡田帯刀智胤の養嗣子と定められていた東純之助(益胤庶子)が麻布屋敷において亡くなった。法名は速道提境大童子。このため9月9日、岡田家の婿養子として尚五郎に白羽の矢が立ち、尚五郎が成長して家督を継ぐまでは「東尚五郎」を称する事と定められた。
江戸城百人番所 |
弘化元(1844)年4月26日、大手組御防(大名火消)の命を受けた。すると5月10日の明け方、江戸城本丸から出火、炎上したため、大手組の方位御防であった充胤は手勢を率いて城内百人番所まで繰り入れ、消火に当たった。そして10月19日、老中より登城の切紙が到来、翌20日に登城し、本丸火災の消火に尽力したことを賞された。
■二宮尊徳の報徳仕法を導入する
このころ、中村藩の国元では、農政・財政は天保7(1832)年の未曾有の大飢饉に巻き込まれて危機に瀕しており、されに冷害や洪水、土地の減退などで収入高も年々減収の一途をたどっていた。人々の農業に対する意欲も薄れ、村を逃げ出してしまうことも多く、元禄の盛況時と比べると、農地や農民の数が半分ほどにまで減退してしまった。このとき中村藩では統計をうまく活用して国力を総合的に測ることがなされていなかったのだろう。藩主をはじめ、公子家臣女中鳶者に至るまで、毎日食べている米を節厳する触れを出したり、農民への種籾の配布など対症療法のみが行われ、根本的な解決策を見出すことができていなかったようである。
●農地と戸口の沿革
調査年 | 総反歩(約) | 在郷農戸 (在郷給人含む) |
在郷農家人口 | 馬数 |
天和元(1681)年調 | 15,002町 | 13,160軒 | 69,751人 | 15,991頭 |
元禄10(1697)年調 | 15,130町 | 15,292軒 | 75,290人 | 16,922頭 |
享保2(1717)年調 | 15,130町 | 15,315軒 | 74,173人 | 16,675頭 |
天保5(1834)年調 | 6,886町 | 7,251軒 | 37,380人 | 5,149頭 |
●各郷別農地振合(田畑計)
調査年 | 宇多郷 | 北郷 | 中ノ郷 | 小高郷 | 北標葉郷 | 南標葉郷 | 山中郷 | 計 |
元禄年度 | 3,156町 | 2,036町 | 3,087町 | 1,983町 | 2,415町 | 1,692町 | 1,487町 | 15,129町 |
天保年度 | 1,473町 | 1,016町 | 1,329町 | 1,035町 | 753町 | 629町 | 518町 | 6,653町 |
損耗率 | 46.67% | 49.90% | 43.05% | 52.19% | 31.18% | 37.17% | 34.84% | 43.98% |
●天保以降の中村藩豊凶一覧
調査年 | 収納米俵数 | 備考 |
天保元(1830)年 | 59,391俵 | |
天保2(1831)年 | 68,481俵 | |
天保3(1832)年 | 62,502俵 | |
天保4(1833)年 | 19,532俵 | |
天保5(1834)年 | 69,585俵 | |
天保6(1835)年 | 47,244俵 | |
天保7(1836)年 | 4,348俵 | 領中大凶作、家中扶持渡しなし |
天保8(1837)年 | 36,895俵 | |
天保9(1838)年 | 35,852俵 | |
天保10(1839)年 | 72,192俵 | |
天保11(1840)年 | 71,213俵 | |
天保12(1841)年 | 72,297俵 | |
天保13(1842)年 | 77,575俵 | |
天保14(1843)年 | 76,620俵 | |
弘化元(1844)年 | 78,309俵 | |
弘化2(1845)年 | 42,828俵 | 山中郷凶作、そのほか各郷不作 |
弘化3(1846)年 | 79,666俵 | |
弘化4(1847)年 | 80,982俵 | |
嘉永元(1848)年 | 84,483俵 |
このような中で、二宮金次郎尊徳に師事して関東で復興事業を行っていた藩士・富田久助高慶から、藩家老の池田直常、草野正辰に宛てて二宮報徳仕法を以って藩の窮乏を救うべしという手紙が幾度となく届いていた。富田高慶は若くして江戸に出て学問に勤しみ、天保10(1839)年に27歳にして二宮尊徳の門下となって以来五年にわたって尊徳のもとで勉学に励み、その手腕を発揮していた。彼はあるとき尊徳に相馬中村藩の窮乏を訴えると、尊徳は、
中村城内の二宮尊徳像 |
「中村藩ノ領内六万石ノ衰廃ハ必ズ再興シ得ベシ」と言った。これに高慶は喜びながらも、
「我藩ノ衰廃ハ一朝一夕ノ故ニ非ズ、殆ド窮極ニ達セリ、之ヲ恢復スルヤ実ニ至難ノ業ナリ」と言うと、尊徳は、
「茲ニ一樽アリトセン、試ニ錐ヲ刺シテ其一滴ヲ嘗ムレバ、全樽ノ酒タルカ将タ醤油タルカヲ知ルベシ、子ハ即チ中村藩ノ一滴液ナリ、余今已ニ其一滴ヲ嘗ム、豈樽中ノ其何タルヲ弁セサランヤ、子ハ小臣ノ次男ニシテ尚且深ク本藩ノ衰廃ヲ憂フ、今ヤ全藩窮已ニ極マリ上ハ藩主大夫ヨリ下ハ士庶人ニ至ルマデ、其恢復ヲ渇望スルヤ知ルベキナリ、既ニ上下擧テ恢復ヲ遊望スルモノトセバ、再興ノ機熟セルモ亦知ルベキナリ、是則チ我報徳ノ道行ハレテ再興ヲ期スル所以ナリ」
と高慶に言った。高慶は尊徳にその人物を認められたのだ。
御仕法屋敷と蔵 |
しかし、二宮尊徳は御普請役格という幕臣であることから、協力を得るためには幕府の許しが必要であり、天保14(1843)年7月26日、充胤は家老・草野正辰をして老中・水野越前守忠邦へ「領邑引立方手法教授ニ預度旨」の許可を願い出、8月28日、「相頼不苦」と許可を得ると、使者を尊徳のもとに派遣して丁重に藩の建て直しを依頼した。しかし多忙を理由に拒絶されてしまう。これに充胤はあきらめず、再三に渡って使者を送った。尊徳に宛てた充胤の書状には「図書」「半右衛門」の名が見えることから、池田図書直常、草野半右衛門正辰の両家老が遣わされたのだろう。この熱意を認めた尊徳は、相馬中村藩の建て直しのために重い腰を上げた。そもそも尊徳の「報徳仕法」とは上に立つ者がどれだけ熱意を持って改革を推し進めようとしているかがキーポイントとなる。中村藩では藩主自らが書状をしたため、二人の家老を派遣して教えを請う熱意があった。
報徳仕法は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の四つの基本項目を実践することで復興事業を行うのである。すなわち、真心(至誠)を持って働き(勤労)、自分の立場や限度を弁え、収入に見あった基準を設け(分度)、収支のバランスを保って生活する。そして、そこで生まれた余剰を自分の将来だけでなく他人に譲る(推譲)ことで社会全体を富ませていくのである。これは藩主、家老、代官など上に立つ者が模範となるよう、率先して行うことが重要になる。
尊徳は幕臣という立場や多忙であることもあって相馬に自ら赴くことはせず、改革の基本となる藩の「分度」を決めて、それに基づいて相応の藩政を行うことを指示した。そのため、過去百八十年間を三周度に分け、それぞれの藩内収穫高や人数などを詳細に記載した書類を提出させた。
●『中村藩天禄温故中庸為政御土臺帳跋文』をもとに作成
周度 | 収納米俵数 | 米平均 | 比較1 (寛文~享保) |
比較2 (享保~天明) |
寛文5(1665)年~享保9(1724)年までの60年 | 8,404,781俵 | 140,079俵 | ― | ― |
享保10(1725)年~天明4(1784)年までの60年 | 7,083,844俵 | 118,614俵 | 84.28% | ― |
天明5(1785)年~天保15(1844)年までの60年 | 3,827,626俵 | 63,791俵 | 45.54% | 54.03% |
180年間の計 | 19,316,251俵 | 107,312俵 | ― | ― |
藩が尊徳に提出した調べ書きによると、藩の国力は百八十年の間に半分以下にまで減退していることがうかがえる。尊徳はこれらを分析し、「為政鑑」一函を充胤に贈った。これに対し、弘化元(1844)年11月29日、充胤は尊徳に宛てて深く御礼を述べるとともに、編集に対する苦労についても深い感謝の念をしたためた手紙を送った。
弘化2(1845)年3月、尊徳は富田高慶を自分の代理として中村藩に復帰させ、為政鑑をもとにして恢復の法を創めさせた。高慶三十二歳の若さでの復興責任者となったのである。彼はまず12月より宇多郡成田村と坪田村の二村に対して報徳仕法に基づく農政を始めた。
これらを実践すると、人々はやる気を起こし、乱れていた風紀は一挙に改まったという。こうして成田村、坪田村は大いに賑わいを見せた。これを見た周りの村々も報徳仕法の導入を願い出てきた。そのため、領内の村々で最も風俗が優良である村落を投票によって決定し、その選ばれた村落から導入していくこととした。そして、村落の中で模範となりうる人物をこれまた投票で決定し、彼を見習わせ、村全体の活性化を図った。
荒専八至重墓(歓喜寺) |
富田高慶のほかに、中村藩士で二宮尊徳の弟子になった人物がいた。荒専八至重という扶持方の下級藩士である。彼は早くに父を失い、家は貧しかったが母によく仕えて孝行を尽くした。若くしてその才能を認められ、十五歳のときには藩命を受けて和算を学び、二十一歳にして江戸へ留学。数学、天文学、蘭学を修めて中村に帰藩した。そして嘉永3(1850)年、二宮尊徳の門に入り、二宮の復興作業を助け、報徳仕法を学んだ。帰藩ののちはその能力を買われて、北ノ郷代官職を務め、復興作業に尽力。領民からは父のように慕われた。
中村藩では、報徳仕法を導入した弘化2(1845)年より明治4(1871)年の廃藩置県までに報徳仕法を実施した村は中村藩226か村中101か村、そのうち復興した村は55か村に及んだ。およそ54.5%が復興したことになる。その後も天候不順や洪水などの天災があるものの、次第に藩の農業、財政は回復していった。
■武功士の家を表彰
充胤が復興を賭けて報徳仕法を導入したこの年、父・益胤は病に倒れていた。そして養生の甲斐なく6月11日、麻布中屋敷において亡くなった。享年五十歳。6月26日亥刻過ぎ、遺骸は江戸を出棺。7月7日、小高洞雲寺に到着。翌8日、公葬が執り行われ、9日夜、城下の小高山同慶寺に着棺。21日、同慶寺の東畑において葬儀が執り行われた。諡は以徳院殿寛量昭潤大居士。
12月21日、充胤は百石以上の大身藩士を会所に召し出し、「礼譲」の取り締まりについて十一か条からなる意見を申し述べた。立ち居振る舞いを正しく、模範となるよう心がける内容であるが、そのうちの一条に、
「田畑並ニ山海漁樵自身働之義ハ武士之筋骨ヲ堅メ地理ヲ試候為且ツ活生ノ筋ニ相成候事ニ付、出精可致ハ勿論ニ候得共、下々ニ卑劣之言ヲ以相交リ身分不相応之儀無之様可致事…」
小高山同慶寺 |
とあり、百石以上の大身とはいえども、畑作、漁労を自身で行うことを推奨している。ただ農民の上に胡坐をかいてふんぞり返っているだけではなく、みずからも生産者となる自覚を促す措置である。一方で、むやみに身分制度を崩してしまうことのないように、身分を弁えることにも釘を刺している。
弘化3(1846)年7月5日、充胤の娘・於艶が江戸藩邸にて亡くなった。牛込の菩提寺・宝泉寺に葬られた。
嘉永3(1850)年3月20日、巴陵院(相馬長門守義胤)の二百回忌が同慶寺にて執り行われ、義胤に殉死した金澤忠兵衛昌雄の供養もともに行われた。そして忠兵衛家の分家で現金澤家当主である金澤覚右衛門へ雁一羽が下された。さらに義胤について勲功のあった人物の末裔に対しては御酒が下された。
10月16日、天授院殿(相馬弾正大弼盛胤)の二百五十回忌の法事が執り行われ、百石以上の大身役人はすべて寺詰めとされ、盛胤に仕えて戦功のあった家の城下侍ならびに在郷給人、郷士、社家、小人までもが召されて御酒が下され、討死したものなどの供養式も天授院殿法要とあわせて執り行われた。
家格 | 盛胤代の武功士 | 充胤代の同家末裔 | 功績内容 |
御一家 | 岡田治部太輔茂胤 | 岡田帯刀家 | 弘治、永禄、元亀年中に中ノ郷・小高郷備頭。 |
御一家 | 堀内右兵衛尉俊胤 | 堀内兵衛家 | 永禄6年の草野式部逆乱のときに武功。 |
御一家 | 泉大膳胤秋 | 泉内蔵助家 | 子の泉左京胤政が幼年に付き守立陣代。盛胤、義胤の代に中ノ郷備頭。 |
御一家 | 泉田右近太夫胤雪 | 泉田勘解由家 | 盛胤、義胤代に標葉郷備頭。 |
執権 | 木幡主水盛清 | 断絶 | 前盛胤、顕胤、盛胤三代に勤仕。天文21年、青田信濃の讒により滅亡。 |
家老 | 青田信濃顕治 | 断絶 | 顕胤、盛胤二代に仕え、永禄6年出奔。その子・新館山城胤治が義胤の代に召し出される。 |
家老 | 牛来隠岐 | 断絶 | |
家老 | 水谷伊予胤満 | 水谷源之丞家 | 本家水谷式部を守り立て、家老職を務める。 |
家老 | 水谷式部胤重 | 水谷半左衛門 | 義胤代に家老職。 |
盛胤付 | 水谷尾張村重 | 水谷伝兵衛家 | 御隠居付として勤務中、天正18年討死。 |
盛胤付 | 佐藤丹波信綱 | 佐藤庄左衛門家 | 御隠居付として勤務。天正18年より黒木城代。 |
准家老 | 佐藤伊勢好信 | 佐藤辰之助 佐藤辰兵衛 |
顕胤代より家老に準じる。永禄6年の草野式部の逆乱のとき、夜襲して首級六十余を得る。 |
●天文18年より天正6年までの相馬弾正大弼盛胤代に戦死した者、武功者たちの供養
盛胤代の戦死者 | 充胤代の同家末裔 | 功績内容 |
草野小市郎晴清 | 草野與惣左衛門家 | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに坪田八幡で討死。 |
普化僧 | 夏菊 | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに郷民を下知し、伊達家大将・大谷地掃部陣に三度にわたり突撃。流れ矢に死す。 |
木幡藤重郎光清 木幡藤十郎常兼 |
木幡四郎左衛門家 | 天正4年6月の座留川の戦いで討死。 |
柚木多左衛門 | 柚木市郎兵衛家 | 永禄7年の北目合戦にて討死。 |
荒掃部助 | 断絶 | 永禄10年4月の小野村金谷合戦にて討死。 |
木幡彦市武清 | 木幡五藤治家(分家) | 天正4年6月の座留川の戦いで討死。 |
木幡四郎左衛門 (木幡武清子) |
木幡勘助家(分家) | 天正4年7月17日の冥加山合戦に討死。 |
木幡十郎兵衛友清 | 木幡十郎兵衛家(嫡家) 木幡利右衛門家(分家) |
天正4年6月の座留川の戦いで討死。 |
佐藤河内繁信 | 佐藤庄左衛門家(分家) | 金山城代。天正4年7月17日の冥加山合戦に討死。 |
高田六郎 | 高田武八(分家) | 天正4年7月17日の冥加山合戦に討死。 |
大浦下総 | 断絶? | 天正5年8月の坂本合戦で討死。 |
大浦監物 | 大浦五藤左衛門(分家) | |
大内上野胤房 | 大内孫左衛門家 | 天正4年8月18日坂本合戦で討死。 |
木幡雅楽尚清 | 木幡忠左衛門家断絶 | 丸森・赤井城代。天正5年、雉尾川の戦いで討死。 |
飯淵九郎左衛門 | 家不知 | 天正18年5月14日の敗戦で盛胤の馬が橋を踏み抜いて動けなくなったところを馬上に引き上げて救出。 |
木幡作助 | 木幡甚五左衛門家 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
羽根田主膳 | 断絶 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
羽根田源左衛門 | 羽根田源左衛門家 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
西山新兵衛 | 断絶 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
西山蔵人 | 西山雅楽助家 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
愛澤清左衛門 | 愛澤十兵衛家 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。 |
木幡因幡 | 木幡四郎左衛門家 | 天正18年5月14日の敗戦で粉骨の働き。数度引き換えして敵と討ち合って伊達勢の進撃を食い止めた。 |
門馬甚左衛門 門馬治右衛門 |
門馬嘉右衛門家(分家) | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに活躍。 |
木幡與惣兵衛 | 木幡道陸家 | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに活躍。 |
半杭又右衛門 | 半杭十左衛門家 | |
大平雅楽之丞 | 断絶 | |
瀧迫日向清詮 | 堀内覚左衛門家が継承 | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに活躍。 |
桑折小左衛門 | 不詳 | 永禄元年の丸森城攻略時、16歳にして敵を討ち取り高名。 |
飯崎紀伊安元 | 飯崎市十郎(分家) | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに活躍。家臣高橋文右衛門が伊達家大将・大谷地掃部を討ち取る。 |
渡邊豊後 | 不詳 | 永禄6年の草野式部、青田信濃逆乱のときに活躍。伊達家大将・船山豊前を討ち取る。 |
高田内膳 | 伊達家大将・大谷地掃部を取り囲み五十余人を討ち取る高名を立てる。 | |
桑折太郎右衛門 | 田中城代。永6年野式部、青田信濃逆乱の直前、信濃の逆意を田中城に伝え、堅く守らしめた。 | |
藤橋紀伊胤安 | 藤橋四郎左衛門 | 永禄8年、小斎城主を討ち果たして義胤の軍を入れ、金山城に入る。 |
小野田刑部高光 | 小野田義左衛門 | 小斎城攻めの一番乗り。 |
杉目三河 | 杉目掃部左衛門家 | 杉目西館城代。天正17年、新地落城のとき、政宗の陣中に斬り込み、討死。 |
荒新八郎宗高 | 不明 | 永禄7年5月28日、伊具郡金津の小斎合戦で討死。 |
井戸川将監正則 | 不明 | 元亀元年4月、羽生川にて討死。 |
酒井将監忠興 | 不明 | 元亀元年4月、羽生川にて討死。 |
長野一露斎 | なし | 軍配者。天正4年7月17日の冥加山合戦に兵を指揮し、城主六人、名のある士四百余騎、兵千七百三十一人を討ち取る。18日、長者岡において一露斎が首実検の式を行い、勝鬨を挙げる。 |
山田源兵衛 | 断絶 | 天正4年7月17日の冥加山合戦に泉田式部太夫景時、亘理又七郎盛景を鉄砲で撃ち取る。のち石上源兵衛。 |
青田石見 | 不詳 | 天正4年7月17日の冥加山合戦に湯村備後を討ち取る。 |
荒縫殿助 | 荒源太郎家 | 天正4年7月17日の冥加山合戦に沼部玄蕃を討ち取り、赤地に白巴の旗を分捕り子孫が使用。義胤代の天正8年8月、伊達家の兵二騎を討ち取り、天正17年の鳥海合戦では亘理家の勇士・鷲足掃部を討ち取る。 |
太田越後 | 太田清左衛門家 | 天正4年7月17日の冥加山合戦に杉目将監を槍で突き落とし、首を取る。 |
小人・彌平次 | 断絶 | 天正4年7月17日の冥加山合戦に入間田近江、入間田孫三郎の二人を長刀で討ち取る。 |
黒木対馬 | 黒木十郎左衛門家 | 黒木弾正正房の子。天正4年6月の座留川の戦いで義胤が鎧袖に熊手をかけられたとき、川に飛び込んで敵の腕を打ち落とし、熊手と腕を取る。 |
鈴木杢之助 | 鈴木忠治家 | 天正4年6月の座留川の戦いで真っ先に進み、敵二騎を討ち取る。 |
鹽田銀之助 | 渡邊又左衛門家 | 天正5年8月の坂本城攻めのとき、扇の大地紙の指物で敵勢に斬り込み、武勇を振るう。 |
鈴木源右衛門 | 不明 | 佐藤宮内与力。天正5年8月の坂本城攻めのとき、坂本城代・後藤三河を討ち取る。 |
中村助右衛門隆政 | 村田半左衛門家 | 盛胤、義胤ニ代に仕え、猩々緋の鉄砲頭として高名。天正年中には合戦ごとに武功抜群。 |
馬場右馬助春経 | 馬場彌右衛門 | 天正4年4月の亘理合戦で鈴木式部を討ち取り、力戦して手傷を負う事八度に及んだ。義胤代の天正17年、討死を遂げた。右馬助の子、次郎右衛門・太郎右衛門兄弟は盛胤の命を受けて金山城に忍び入り、荒藤四郎を討ち取る。 |
彼ら武功の士の家柄の者たちは、登城の上、御酒が振舞われた。
●盛胤代に武功の家柄につき御酒被成下旨の者
岡田帯刀 | 泉内蔵助 | 泉田勘解由 | 堀内右兵衛 | 村田半左衛門 |
●御酒被成下旨の者
相馬将監 | 相馬靱負 | 泉田掃部 | 相馬外記 | 脇本喜兵衛 |
●盛胤代に家老職を務め武功の家柄の者
佐藤勘兵衛 | 木幡四郎左衛門 | 水谷友蔵 | 佐藤惣左衛門 | 佐藤辰之助 |
●盛胤代に討死武功の家柄の者
木幡次郎右衛門 | 草野與惣右衛門 | 大内孫右衛門 | 大浦五藤左衛門 | 井戸川仁平太 | 荒専八 |
柚木十郎平 | 酒井庄右衛門 | 木幡十郎兵衛 | 木幡勘次 | 高田武八 |
●盛胤代に武功抜群の家柄の者
太田清左衛門 | 門馬嘉右衛門 | 堀内安之助 | 木幡甚五左衛門 | 羽根田正助 | 伊東司 |
金澤重郎兵衛 | 荒源太郎 | 木幡道陸 | 渡邊又左衛門 | 馬場彌右衛門 | 西山雅楽 |
半杭十左衛門 | 小野田義右衛門 | 大浦源太 | 杉目掃部左衛門 | 飯崎市十郎 | 鈴木忠治 |
10月26日、天授院殿の法要について特別扱いとして、水谷伝兵衛に新地十石が宛がわれた。彼の先祖・水谷尾張村重が天授院殿(弾正大弼盛胤)の家老を務めて武功を数多く打ち立てた人物であったが戦死。その孫の甚左衛門は旗本・小笠原丹斎(かつて相馬義胤の客将を務めた赤沢常重。幕府の小笠原礼法の師)のもとに出仕して、礼法・故実を皆伝し、寛永年中に相馬家に戻って糺法方を仰せ付けられた。その甚左衛門より七代目の伝兵衛まで途切れることなく礼法を伝えたことは奇特なことと賞された。
嘉永4(1851)年10月13日、伯母に当たる樹胤後室・掃雲院(松平伊賀守忠済娘・駒姫)が江戸麻布藩邸にて亡くなった。牛込の菩提寺・宝泉寺に葬られた。
嘉永5(1852)年閏2月19日、充胤は領内巡検のため各郷を精力的に廻っている。充胤は中村にいるときには村々の状態を把握するためにみずから積極的に馬を出しては巡検を行っている。これは報徳仕法導入前から行っていたことで、充胤の藩政を重んじる姿勢がうかがわれる。巡検は28日まで十日間かけてじっくりと行われた。
二重橋前 |
3月26日、充胤は参勤交代のために江戸に向かい、4月4日、桜田藩邸に到着した。江戸に着くと方角御防(大名火消)に任じられた。しかし就任して間もなく、5月2日に西ノ丸より出火。大手組二番手として出馬し、大手門外に詰めていたところ、幕府の御使番の指図があり、城内に繰り入り、二重橋外に詰め所を移して待機した。人数は消火に当たり、結局、火災は西ノ丸御殿を全焼して鎮火することができた。充胤は、弘化元(1844)年に大手組御防となった際にも就任後すぐに城中より出火して火消しに当たっており、これが二度目の出勤であった。
8月5日、中村城内にて御内証・千代の方が男子を出産。吉太郎と名付けられた。のちの中村藩最後の藩主となる相馬誠胤である。吉太郎出生に伴い、家臣による釣りや狩猟などを原則として禁じる殺生取締りの触れが出された。
■ペリー来航と幕末の混乱の中での中村藩
嘉永6(1853)年6月3日、アメリカの軍艦が四隻、浦賀沖に現れた。アメリカ東インド艦隊である。艦隊の提督はマシュー・カルブレイス・ペリー少将。アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を持参し、国交を求める使者であった。一年後に返事をするという条件付でいったんは彼らの艦隊を退去させることに成功したが、外国に対する脅威を肌で感じた幕府は江戸湾に御台場を急造。外洋に面した沿岸を各藩に守らせることとした。
8月8日、小笠原左京大夫忠幹、榊原式部大輔政敬、酒井左衛門尉忠寛は各藩の留守居役を老中・阿部伊勢守正弘の屋敷へ呼び出し、江戸表に保管してある武器のうち、百目筒以上の砲を大小ほか弾薬の数量、撃ち方の人数を正確に幕府まで報告することが命じられ、8月10日、江戸家老の熊川左衛門長基が鉄砲、弾薬の調書を老中・阿部伊勢守まで差し出した。
●差出調書
・百目玉筒一挺 ・百目玉三十個 ・鉛二十七貫目 ・合薬三十貫目
・打方人数については藩主参府のときのみ江戸に置かれるため、藩主が領国に戻っている今は人数はない
しかし、熊川左衛門はこの直後、深川の鋳物師・新吉に五貫目の銅筒を発注しており、8月22日、老中・久世大和守広周に「五貫目玉唐銅筒 一挺」の発注を届け出た。
このような幕府の方針に対し、相馬家も急遽西洋砲術の技術鍛錬をはじめることとし、藩邸は藩士に未熟な者は習熟した者について勉強に励むことの通達を出した。また、5月21日には中村より江戸に鉄砲三十挺を回送する旨を幕府に連絡し、6月2日には麻布の中屋敷内に鉄砲射的場新設の許可が下りたことで、さっそく工事が行われ、6月14日、幕府へ検分のための御小人目付の出張願と、師範の姓名を記載した書面を差し出した。
●南蛮流師範(代理人)
・鈴木重左衛門(鈴木武右衛門) ・井戸川仁平太(井戸川求見) ・上野庄兵衛
幕府はさらに武備の為であれば、参勤交代の際の供回りなど行列の人数を減らしても構わないという方針を打ち出した。さらにそれまでご法度であった大船建造も許可を得ればさし許すという規制の緩和を発表。こうしたことが一方で幕府の威信を崩していく一因ともなっていった。
9月26日、相馬家は三十六貫玉の大砲一挺と六貫玉の大砲一挺を鋳造。幕府に届け出た。12月22日には武芸師範者に対し、用人・伊東司徳祐から藩金五十両の下げ渡しと武具の調達・整備を命じた。
安政2(1855)年3月3日、充胤は老中に登城を命じられ、江戸城中白書院において老中列座の中で阿部伊勢守より、海岸防備のために、寺院の梵鐘や由緒ある名器や時鐘などを除いた鉄や銅などは鋳物用に徴発し、大砲や小銃に造り替えるようとの叡慮があったことが伝えられた。
桜田門外 |
充胤はこののち武備の整備と兵法、砲術の訓練を奨励し、安政7(1860)年3月8日、領内巡検に出かけた充胤は18日までの10日に渡り、各地で槍組や鉄砲組の訓練を巡検した。このような情勢の中で、幕府が開国の勅許を得るため朝廷に伺いを立てることがあってから次第に朝廷の力が大きく作用してくることとなる。外国列強の実力を何も知らない朝廷は攘夷を徹底すべしとする一方で、実際に外国と折衝している幕府はその力の差を見せつけられて開国もやむなしという気配が強まっていた。しかし、いつまでたっても幕府は勅許を得ることができない。ついに幕府大老・井伊掃部頭直弼はついに勅許を得ずにアメリカとの間に日米修好通商条約を締結した。安政5(1858)年6月19日のことである。これに攘夷を唱える浪士たちが憤慨し、安政7(1860)年3月3日、江戸城桜田門外において井伊直弼は水戸浪士らによって暗殺された。桜田門外の変である。
文久2(1862)年3月28日、充胤は参勤交代のため中村城を発し、4月7日、江戸桜田藩邸に到着。5月16日、外桜田門衛を命じられた。そして6月1日、登城を命じられた充胤をはじめとする諸侯は黒書院まで召され、将軍・徳川家茂が見守る中で老中より「近年公武の情実、通徹せざるものあるにより上洛の上これを疏弁し、上下合体を謀り度」との旨を伝えられた。幕府の威信もここまで低下したが、さらに追打ちをかけたのが参勤交代の緩和と幕政への意見具申である。大名の妻子は帰国が許され、出府期間も三年に一度とすること、その在府期間も御三家や間の老中などは一年、のほかの大名は最大でも百日とされた。藩邸の家臣も削減が指示され、諸大名からは幕政について意見の具申を求めた。
充胤はこの参勤交代の緩和の命によって、10月15日には江戸を発って中村への帰途に着いた。また、充胤はこの年、幕政意見具申として、蝦夷地(北海道)の開拓と防備の重要性を建白した。蝦夷地の開拓と防衛は一日たりともなおざりにしてはならないことと、蝦夷地を松前氏一藩に任せるのは国防上得策ではないことを熱心に説き、蝦夷地の石川郷軍川(北海道亀田郡七飯町上軍川)に本拠を置いて開拓を進め、開拓した土地は幕府に献じて累代の恩に報じる事を訴えた。箱館奉行の堀織部正も中村藩が報徳仕法を以って民生の建て直しに成功したことを聞き、中村藩に開拓への協力の要望もあった。こうした動きに幕府はこれを許可したため、人数、金額の内訳などを幕府に提出。元治元(1864)年9月、軍川の地所引渡しのために藩士の草野菅右衛門、大越八太夫、志賀次右衛門、浜名仁左衛門が箱館奉行所に派遣され、11月に中村に帰藩した。そして慶応2(1866)年2月、大越八太夫、志賀次右衛門、川村茂助、中島庄次郎、遠藤利助が大工や木挽、屋根葺職人、農民らを召し連れて軍川に出張し、開拓事業を開始した。この地は駒ケ岳の火山灰の土地が広がる上、寒冷な気候もあって水田には適さなかったため、主に畑作で開墾に励むこととなった。
しかし、このような中で、中央では尊皇攘夷の名のもとに、倒幕を志す不逞の輩がはびこりだしていた。このような不穏な世情の中で蝦夷地の開拓もいったん中止せざるを得ず、これまでに投資した一万六千七百二十両余を放棄して開拓をあきらめることとなったことは嘆くべきことであったが、明治の代となり、二宮尊徳の孫・二宮尊親が旧相馬家領内の人々とともに中川郡豊頃に移住して開拓に成功したことは、こうした充胤の先駆と経験があったからなのかもしれない。
京都御所前の中村藩邸(裁判所) |
文久3(1863)年12月8日、充胤は登城を命じられ、将軍・徳川家茂の上洛につき、その供奉が命じられた。また上京中は二条城警護役を土井能登守、松前伊豆守とともに務める予定が内示された。このとき充胤は「私屋敷無御座候間」と訴えているところから、御所前の中村藩邸はこの当時はすでに無くなっていたか、設置される前であったということになる。また、この急な供奉の命令に、供侍から二条城の警備に有する人数が揃わず、「在所ヨリ為呼不申事ニテハ間ニ合兼候處、往復廿日位ニ而参着相成候事故、早急出立仕候儀ハ当惑至極ニ奉存候」と、早急な出立は準備に余裕がなく無理であると訴え、将軍家が出立したのちに後追いで供奉することでも構わないかを問い合わせている。結局、幕府も「無拠儀」につき、家臣は後追いでも構わないが、充胤自身は有り合わせの人数とともに供奉するよう命じられた。そして、12月19日、充胤は侍百十六人、郷士五十九人、足軽五十人を率いて京都へ出立した。
文久4(1864)年正月2日、伊勢国桑名に宿泊していたとき、前年の八月十八日の政変によって薩摩藩と会津藩によって京都を追放されていた長門萩藩主・毛利大膳大夫慶親から使者が訪ねてきた。用人・稲垣織部が彼を応対したが、毛利家が京都を追放されたこと、尊皇攘夷と国を憂う手紙を持参してきていた。しかし充胤も謹慎処分を受けている毛利家とのおおっぴらなやり取りはできず、相馬家としては返答は形ばかりのものとなっている。
正月7日、充胤は京都に到着し、五条通の本元寺を旅館とした。また、後追いも含め相馬家が京都に率いてきた軍勢は総勢で八百六十七人となった。この手勢を配して二条城城門の開閉ほか治安維持に当たった。
相馬祥胤―+―相馬仙胤――室賀正発――室賀正容
(因幡守) |(縫殿) (美作守) (伊予守)
|
+―相馬益胤――相馬充胤――相馬誠胤
(長門守) (大膳大夫)(因幡守)
正月15日、将軍・徳川家茂が入京。20日、村津貞兵衛、木幡庄兵衛を使者として、禁裏、親王、准后ほか関白ら諸官に献上物を進呈し、2月4日、充胤は参内。孝明天皇に拝謁し天杯を拝受した。翌5日、将軍・家茂が側近の室賀伊予守正容(熊太郎。充胤従兄弟・室賀正発の子)を通じて妙見神の落馬除守、妙見神水を所望したため、それらを奉書に包み室賀伊予守を通じて将軍家に奉呈している。
京都御所 |
3月19日、攘夷の大詔が下され、老中・水野和泉守より諸大名に伝達された。5月2日、充胤は将軍・家茂に供奉して再度参内を果たし、孝明天皇の天顔を拝した。充胤の今回の働きに対し幕府は昇叙を奏請し、5月5日、二条城黒書院にて御用番・酒井雅楽頭より昇叙が伝達され、従四位下に昇り、7日には大膳大夫に任官した。
7日、将軍・家茂が江戸に戻るため京都を発したため、充胤も二条城警衛役を御免となり、後始末ののち13日に京都を発して29日、江戸桜田藩邸に帰着した。そして6月、充胤は帰国を幕府に願い出て中村に帰国した。
相馬祥胤―+―相馬仙胤――小栗政寧
(因幡守) |(縫殿) (下総守)
|
+―相馬益胤――相馬充胤
(長門守) (大膳大夫)
充胤は尊王の志が篤く、京都で事があれば朝廷のために働く素願があったが、相馬中村は京都から非常に遠く、京都の情勢に疎くなってしまうことを嘆いていた。すると、当時、幕府の京都町奉行を務めていた小栗下総守政寧から中村藩士・岡部正蔵綱紀を拝借したい旨が届けられた。小栗下総守は充胤の従兄弟に当たり、実家の相馬家に対する敬慕の年はとても強い人物だった。小栗下総守は岡部を拝借すると、相馬家のために岡部に京都の情勢を熟知させ、充胤の勤皇の志を各地で吹聴し、必要に応じて充胤に京都の情勢を報告している。
■戊辰戦争と中村藩
こののち、世情はますます混迷を極めることとなり、水戸藩の過激派である武田耕雲斎、藤田小四郎らの天狗党の乱に中村脱藩士が数名加わっていることが発覚。西貫之助は千葉小太郎と称し、一方の大将ともなっていた。彼は大砲の砲弾に当たって爆死したが、ほかに加わっていた脱藩士はいずれも捕らえられ、死罪を命じられている。また、京都では禁門の変が起こり、御所に向けて発砲した萩藩は追討の対象とされ、長州藩追討の詔勅を得た幕府は軍勢を長州に発するという「長州征討」が行われるなど、混乱はますます広がっていく。
このような中で、充胤の健康はすぐれず、慶応元(1865)年1月、嫡男・秊胤を中村から呼び出した。しかし、それからも体調はよくならなかったため、4月13日、充胤はこのとき西ノ丸大手御門番を務めていたが、もし火災などがあった場合には、嫡子・吉次郎秊胤を代理として詰めさせる旨を願い出た。そして24日、充胤は願いの通り秊胤に家督相続して隠居した。四十七歳。隠居ののちは、充胤は麻布藩邸に入らず中村に帰国して城中三ノ丸御殿に入り、十四歳の若い秊胤を後見することとなった。
慶応4(1568)年正月下旬、充胤は中村城で鳥羽伏見の戦いで会津藩、桑名藩などの幕府軍が薩長軍主体の官軍に敗れた報告を受けると、勤王を貫くべしとしたものの、国家の一大事につき、家老・泉内蔵助、泉田豊後、相馬靱負を同席の上、客僧・静慮庵慈隆ほか重臣を集めて協議を行った。ここで中村藩は勤王ではあるが、藩主の秊胤は危うい位置にある。また、大藩・仙台藩はすでに会津藩討伐の命が下っている様子もある、重臣一同で三策を建てた。
◆中村藩三策◆
(1) | 中村藩は承平以来、一旦徳川氏の譜代に列したとはいえ、大義に依って勤王に一決した上は、まずは重臣を上京させて、藩の状況を上申すべきこと。 |
(2) | 藩主・秊胤は当時、江戸にて病にかかって臥せっていたが、直ちに帰国させて軍事の指揮をとること。たとえ江戸にて嫌疑がかけられたとしても、脱出してでも直ちに中村へ帰国すること。 |
(3) | 伊達家は昔からの親類であるといえども、祖より数百年仇敵の国であるが、彼の藩はすでに会津討伐の王命を蒙っており、この上は私仇を忘れ、旧怨を解いて同心協力すべきである。しかしながら、積年の不和の人心は軍陣の間に確執があろう。和を結ぶには、我々より和を請えば、小国が大国に随従すると思われる嫌がある。佐竹は我々とは兄弟の国であり、伊達にあってもまた親戚である。このことを佐竹に図れば佐竹も必ず勤王となろう。両国遠隔の地ではあるが、ともに協力して朝廷のために勤めることを約すべきこと。 |
この三策に基づいて、充胤ほか家老の泉内蔵助、泉田豊後、相馬靱負らは、さっそく京都へ重臣の派遣を決めたが、中村には家老はこの三名しか残っておらず、かといって、江戸在勤の家老を上京させれば、幕府から嫌疑をかけられたり、東海道道筋にて留められることがあるかもしれない。そのため、番頭の杉本覚兵衛清親を秊胤の名代として上洛させることとし、岡部正蔵綱紀・高力民蔵宣元の二名を副使として、2月2日、東海道ではなく北陸道を使って京都へ向かわせた。
また、(3)に基づき、伊達と講和をすすめるべく、用人・石橋兵太夫義恭を出羽久保田藩に派遣した。久保田藩主・佐竹右京大夫義堯、岩崎藩主・佐竹壱岐守義諶は充胤の異母弟にあたる非常に縁の深い藩であった。この周旋は成功し、佐竹義堯より仙台藩主・伊達陸奥守慶邦へ使が送られ、中村藩と仙台藩は講和を結ぶに至った。
2月15日、江戸家老・佐藤勘兵衛俊信と用人・村津貞兵衛の二名が藩主・秊胤名代として上洛させ、(2)に基づいて2月19日、秊胤を中村へ帰国させる。そして2月28日、京都へ到着した佐藤勘兵衛らは、弁事御伝達所へ秊胤の書状を提出した。
その後、相馬家は奥羽鎮撫総督の命に従って、会津への軍勢を催し、弟の岡田監物泰胤をはじめとする部隊を会津へ派遣するが、もともと恨みのない会津藩であり、相馬家は大砲を撃つ際にも空砲を撃ち、負傷者が出ないような戦闘を行った。さらに米沢藩には会津藩から総督府に対して恭順を斡旋してもらえるよう嘆願書が届いていた。この嘆願書に基づいて、米沢藩、仙台藩が総督府に嘆願するも、総督府下参謀・世良修蔵によって受け取りを拒否されたことから、米沢藩・仙台藩は奥州諸藩を糾合して奥羽越列藩同盟を結成して官軍と対抗し、会津藩を救うことを決した。一方、相馬中村藩も大藩の威に逆らって民に塗炭の苦しみを与えることはできないとし、時期を見て官軍に通じることとして奥羽越列藩同盟に加盟した。
両殿が謹慎した長松寺(現洞雲寺) |
しかし、戦闘が激しくなり相馬藩領にまで官軍が攻め寄せてくるに及び、密かに浪江に駐屯する官軍に降伏を嘆願。仙台藩からの詰問使が藩侯・秊胤、老公・充胤、充胤夫人を仙台藩に預けるように詰め寄るが拒否。8月6日、官軍に降伏して、8月9日、充胤は城下の菩提寺・長松寺に入って謹慎した。藩兵は官軍の一員として仙台藩と戦火を交えた。その後、米沢藩、仙台藩など奥羽越列藩同盟の首班が降伏して同盟は瓦解。会津藩は徹底抗戦の末に謝罪恭順して奥州に吹き荒れた戊辰戦争も収束を向かえた。相馬中村藩ははじめ抗戦したものの、降伏や食料の提供などの功績が認められ、本領安堵が許された。
明治元(1868)年12月15日、相馬靱負の子・相馬亀次郎が中村城に召され、御座之間にて秊胤と対面。一字を下されて「胤紹」の名乗りを与えられた。そして翌16日、東京の情勢や屋敷のことなどのためか、靱負が東京へ派遣された。そして2日、東京屋敷にいた靱負は行政官より「東京諸重臣」の召喚の命によって出頭。棚倉藩、平藩、福島藩、二本松藩、会津藩、関宿藩の飛領の取締が命じられた。無主となった土地の民政取締に、支障をきたすことが考えられたため、相馬家がそれらの取締を命じられることとなったものだ。また、福島藩主・板倉教之助が三河国重原に転封になるに及び、相馬家が城地受取方を命じられ、泉田豊後が藩主名代として派遣されその任に当たった。城受取に際し、総勢二百六十四人がそれぞれ部署について守備警固役となり、明治3(1870)年8月1日に福島県が置かれるまで守衛を担当した。さらに8月20日、伊達郡、信夫郡の民政取締りの任もようやく解かれ、新たに置かれた白河県の県令の着任を待って引渡しが行われた。
明治4(1871)年7月14日、廃藩置県により旧藩主家は藩知事を免じられることとなり、秊胤も中村藩知事を免じられ、東京へ移住が命じられた。また、華族制度の発足に伴って万石以上の旧大名家「子爵」に叙され、7月23日、御家令・富田斉、御家扶・木村精一郎、御家従頭取・青田剛三がそれぞれ定められた。また、8月3日、誠胤は中村を発って東京に向かい、16日、東京の屋敷に入った。そして8月15日、充胤の母・仙齢院(松平氏高)、充胤夫人・太田氏(綺)、秊胤夫人・戸田氏(京)、叔母の慶、娘の忠が東京に向かい、9月8日、充胤も東京へ向かった。
こののち、相馬家は誠胤(秊胤改め)の病気がもとで家令・志賀直道らと旧臣・錦織剛清派との間で大きな裁判騒動が起こる。充胤はこのような大騒動に巻き込まれ、胃を壊してしまったと思われる。数々の苦難を乗り越えてきた充胤も身内の騒動は初めてのことであり、そのような心労も重なっていたのだろう。明治20(1887)年2月19日午前11時、充胤は胃潰瘍により六十九歳の生涯を終えた。破綻した藩財政と荒廃した農村や人心の建て直しに尽くし、第一に民衆のことを考えて藩政を執り行った幕末の名君であった。法名は至徳院殿矢直覺性大居士。東京の青山墓地に葬られた。
大正11(1922)年11月18日、特旨をもって従三位が贈られている。
◎相馬充胤代の中村藩重臣◎
年代 | 藩主 | 重臣 |
天保14(1843)年 | 相馬大膳大夫充胤 | 【一 門】岡田帯刀・堀内大蔵・泉藤右衛門・泉田勘解由・相馬将監・相馬靱負 【家 老】池田八右衛門・草野半右衛門・岡部求馬 【中 老】佐藤勘兵衛 |
弘化4(1847)年 | 相馬大膳大夫充胤 | 【一 門】岡田帯刀・堀内大蔵・泉藤右衛門・泉田勘解由・相馬将監・相馬靱負 【家 老】池田図書胤直・草野半右衛門・岡部求馬 【若年寄】小河清記・村田半左衛門・草野次郎右衛門・大越八太夫・富田五右衛門 【城 使】小河清記(兼) 【助 役】村津貞兵衛 |
嘉永4(1851)年 | 相馬大膳大夫充胤 | 【家 老】池田図書胤直・草野半右衛門・熊川左衛門 【若年寄】小河清記・野沢源太夫 【用 人】守屋専左衛門・小河清記(兼)・野坂源太夫(兼) 【城 使】小河清記(兼)・村津貞兵衛 |
万延元(1860)年 | 相馬大膳大夫充胤 | 【家 老】石川助左衛門・脇本喜兵衛 【中 老】野坂源太夫 【若年寄】村津貞兵衛 【用 人】羽根田正輔・西市左衛門 【城 使】村津貞兵衛(兼)・藤田又右衛門 |