千葉介満胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1363-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

 

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千葉満胤 (1363-1426)

生没年 貞治2(1363)年~応永33(1426)年6月8日
幼名 竹寿丸
千葉介氏胤
不明
和田氏女
官位 不明
官職 下総権介?
役職 下総国守護職
所在 下総国千葉庄
法号 随光院殿円達道意、道山阿弥陀仏
墓所 千葉山海隣寺?

 千葉氏十三代。千葉介氏胤の嫡男で、母は不明。幼名は竹寿丸。延文5(1360)年11月3日誕生とされるが(『千葉大系図』)、貞治2(1363)年であろう(『本土寺大過去帳』)

千葉満胤花押
満胤花押

 貞治4(1365)年9月13日、父の氏胤が美濃国で二十九歳の若さで病死(『本土寺過去帳』)したため、竹寿丸(のち満胤)はわずか三歳で家督を継ぐ。

◆千葉介満胤略系図◆

千葉介貞胤―千葉介氏胤―――――千葉介満胤
      ∥       
      ∥―――――――――酉誉上人…《武蔵国芝、浄土宗増上寺開山》
 新田義貞―娘        (徳千代・胤明)

千葉氏と香取社の対立

香取神社本殿
香取神宮奥宮

 香取神宮は常陸の鹿島神宮と並んで、古く大和朝廷の東国における軍事拠点と考えられ、神官も軍事的な職であった「連(むらじ)」姓の中臣氏が就いていた。祭神の「経津主命(フツヌシノミコト)「大国主命」を出雲に降伏させた軍神である。蘇我入鹿を討った中臣鎌足は鹿島神宮の神官の家柄ともされ、天智天皇によって引き立てられて「藤原」氏の祖となると、香取・鹿島神社は藤原氏の「氏神」として春日大社に勧進され、下総国一宮として下総中部に於いて絶大な権勢を持つこととなる。

 千葉氏は豊嶋(葛西)氏と並んで、平安時代から下総国の代表的な豪族として、香取神宮の式年遷宮造替を担ってきた。ところが、鎌倉中期の千葉介頼胤代には千葉惣領家自体も経済的困窮がみられ(『平亀若丸請文案』:中尾堯『中山法華経寺史料』、石井進「鎌倉時代中期の千葉氏 ―法橋長専の周辺―」(『千葉県史研究 創刊号』)、佐々木紀一「法橋長専のこと(上)(下)」(『国語国文』第60巻所収)、国人衆も推して知る状況にあったと思われる。さらに、関東鎌倉家の崩壊に伴う地頭の存在基盤の不安定化、それに続く戦乱の中で、千葉介貞胤以降の千葉介は、自身の経済基盤を犠牲にしてまで香取遷宮を行う余裕も意欲も失ったと思われる。

●香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮 遷宮期間
台風で破損し急造
(藤原親通)
―――――― 保延3(1137)年丁巳  
―――――― ―――――― 久寿2(1155)年乙亥 21年
葛西三郎清基 ―――――― 治承元(1177)年12月9日 21年
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑
11月5日
建久8(1197)年2月16日
※「依大風仮殿破損之間、俄有聖断、以中間十九年」(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)
19年
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子
6月7日
嘉禄3(1227)年丁亥12月
※本来は承久元(1219)年遷宮予定(21年)だったが、「同年鎌倉右大臣家、若宮御参詣時、被打給畢、同三年公家与関東御合戦之間、依大乱、自建久年至于嘉禄三年、卅一ヶ年、御遷宮不慮令延引者也」(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)
31年
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申
6月日
宝治3(1249)年己酉3月10日 21年
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉
12月17日
文永8(1271)年12月10日 21年
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰
4月12日
正応6(1293)年癸巳3月2日 21年
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
 大行事与雑掌清貞
 親父伊豆入道相論間、延引了
永仁6(1298)年戊戌
3月18日
元徳2(1330)年庚午6月24日
※正和3(1314)年2月18日仮殿上棟(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)。ただし材木が揃わず、14本の柱のうち7本はまだ組まれてもおらず、桁梁も縄で代用という有様。
36年
千葉介貞胤・氏胤・満胤・兼胤・胤直
(造営次第にはない)
元弘3(1333)年? 康永4(1345)年3月『造営所役注文』が定められる。
観応元(1350)年庚寅の遷宮予定も遷宮できず(貞治五年『香取文書』断簡)
延文2(1357)年10月24日時点で仮殿上棟以降進展なし(氏胤は大禰宜長房に神官と中村入道を、仮殿所役を懈怠する大戸・神崎地頭のもとへ遣わして譴責するよう指示)。
貞治4(1365)年9月13日、氏胤死去でまた暗雲。
前回の遷宮から75年経過した応永12(1405)年11月25日時点でまだ造作は終わっていない。
さらに永享2(1429)年11月2日時点でも終わっておらず、実に百年レベルの遅滞となっている。

 香取神宮と千葉氏の紛争は、正安年中(1299-1302)には発生しており、千葉介胤宗従人中村六郎頼景、同孫三郎頼幹、同太郎頼経」が香取神領に乱入して稲を刈り取り、鎌倉の「信乃守時連」の指示に応じて胤宗は「召進論人」という請文を出しておきながら「于今無音」と無視を決め込む強硬な態度に出ている(「香取神官申状」『香取文書纂』)。こうした香取社との抗争は香取神官同士の争いも相俟ってその後も散発的に発生していたと思われる。

香取神社
香取神宮

 そして、千葉介氏胤代の遷宮について、康永4(1345)年3月当時の仮殿(遷宮に伴って「御正体」を一時退避させる神殿で「■殿」と称される。■は[女盛]で「アサメ」と訓ずる。「文永官符」によれば「二間四面葦葺、有金物仮殿也、仍最前造進之」(『香取神明記』)という)の造替所役をみるとは「当国大戸神崎両庄役所」(康永四年三月「造営所役注文」『香取神宮文書』)である。この仮殿の造替担当は、文永8(1271)年の遷宮(雑掌は葛西経蓮入道)当時も「大戸神崎両庄本役也、仍地頭等造進之」(『香取文書纂』)とあるので、康永4(1345)年3月当時にあっても神領大戸庄と神崎庄を預かる地頭職(国分小次郎跡、千葉七郎跡)がこれを分掌しなければならなかったにも拘わらず怠ったのであろう。そのため、氏胤は延文2(1357)年10月24日、本家の香取大禰宜から派遣される諸神官と、守護氏胤の被官・中村入道(六郎入道聖阿)「大戸神崎両庄」へ差し遣わし、地頭を譴責するよう指示している(延文二年十月廿四日「千葉介氏胤奉書」『香取神宮文書』)

●延文2(1357)年10月24日『千葉介氏胤奉書』(『香取文書』所収)

 造 香取社仮殿事、上棟以後、更未作之由、有其聞之間、度々催促之處、
 于今不事行云々、太不可然、所詮任先規、差遣諸神官於彼役所大戸神崎両庄
 中村入道相共、可致譴責之状如件、

   延文二年十月廿四日     (花押)
    大禰宜殿

 その後、仮殿については貞治2(1363)年9月24日、遷宮用途の明細が出されており(貞治二年九月廿四日「仮殿御遷宮用途注文」『香取神宮文書』)、氏胤の譴責から実に六年もの月日が経って、ようやく仮殿造替と御正体遷宮の目途がついたことになる。しかし、この仮殿も遷宮工事全体の端緒であり、工事全体はその後も遅々として進まなかったのである。

 しかも氏胤被官「生阿故中村入道、為別駕之旧臣、為当所之政所」「動誇其権威、恣令押知神領」(貞治七年三月十一日「平長胤申状」『香取大禰宜家文書』)と同様に、その子息「地頭代胤幹」もまた「恣年来押領之間、連々雖申子細、曾不承引、只誇守護之権威、寄事於左右」応安五年十一月「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』というような有様で、押領した神領返付の要請にも聞く耳を持たず、「依非法張行、一年中九十余ヶ度祭礼悉令退転」と「主張」したのだった。さらに、大禰宜長房に不満を持っていたとみられる香取神主大中臣実秋・実持を語らい、「去貞治四年正月四日、翌年二月十一日迄于両度、引率多勢押寄宮中、依令放火仮■殿、御供所并神主神官等在所、類火既欲移神殿之間、奉出神輿之處、忽射立申箭訖、其他切砕八龍神木像上者、神人殺害刃傷不勝計」応安五年十一月「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』という。

●応安5(1372)年11月日『大禰宜長房訴状』(『香取大禰宜家文書』)

  下総国香取太神宮大禰宜長房謹言上

欲早千葉竹壽丸家人中村弥六入道聖阿今者死去子息式部丞胤幹依非法張行、一年中九十余ヶ度祭礼悉令退転、剰相語氏人実持、実秋等、令放火假[女盛]殿、奉射神輿、殺害刃傷神人以下、罪責不可廻踵上者、可被處彼等於所当重科由、被成御挙於武家、且任建永承元例、停止地頭非分綺、為可社家一円進止旨、蒙御成敗、全社役、神領同国小野、織幡、葛原、加符、相根村、犬丸、金丸、司、大神田等事、

  副進
   一巻 次第證文等案
右於当社領等、地頭代胤幹、恣年来押領之間、連々雖申子細、會不承引、只誇守護之権威、寄事於左右、結句相語実持実秋等、去貞治四年正月四日翌年二月十一日、迄于両度、引率多勢押寄宮中、依令放火假[女盛]殿、御共所神主神官等在所、類火既欲移神田之間、奉出神輿之處、忽射立申箭訖、其外切砕八龍神木像上者、神人殺害刃傷不勝計、自爾以来社祠等被追籠社内、及多年之間、任雅意在々所々押領之條、不便次第也、所詮是等子細、即於関東雖歎申、近来依騒劇、御沙汰延引之上者、厳密可有御成敗之由、被成御挙於武家、至神領等者、任建永承元御裁許之例、停止地頭非分之綺、可為社家一円進止之旨、長房蒙御成敗、全社役、弥為抽祭礼御祈祷之丹誠、恐々言上如件、

    応安五年十一月 日  

 そして、下総国でこのような混乱が生じている最中の貞治4(1365)年9月13日、惣領「千葉介氏胤貞治四九月御年(『本土寺過去帳』十三日上)が美濃国で病死してしまう。これにより、当時三歳の嫡子竹寿丸(満胤)が惣領家を継承するが、香取社造替の機運は低下し、地頭代中村氏の神領押領(と神宮が主張する)事件の解決もまた遅滞が予想された。

 これらの訴訟は、香取郡諸所の神領及び神官領の地頭職であった千葉惣領家(地頭代中村氏などが実務を行う)が、死亡逃亡等の跡を収め越権行為による神領権益の浸食が大きな要因と思われ、大禰宜長房はこれらを一気に清算するべく実力行使に及んだのだろう。これに中村氏や円城寺氏らは地頭代としての正統性を主張して激しく抵抗することになる。

 貞治4(1365)年「十二月貞治四年十一日」、大禰宜長房は遷宮の由緒や遅滞のこと、「守護人」の被官による神領押領とそれに伴う祭礼の停廃を鎌倉に「捧申状」した(貞治五年「訴状断簡」『香取文書纂』)。なお、貞治4(1365)年には「社人等為達鬱訴於上聞、奉出 神輿於仮殿、其間之星霜、良積四箇年也」(貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書』)とあるように、神輿を奉じて鎌倉へ訴えており、この際に申状が捧呈された可能性があろう。その後、関東管領上杉民部大輔入道の被官とみられる「力石入道(「上杉若党力石兵庫助」(観応三年正月「佐藤元清軍忠状」『佐藤文書』)や「沙弥:力石孫三郎」(応永八年五月十三日「関東管領施行状」『三島神社文書』)など、力石氏は上杉氏被官人と見られる)を通じて何らかの御教書が下されている。

 ところが、この御教書が出された直後の貞治5(1366)年2月11日、中村式部丞、大中臣実秋・実持は再び多くの兵を率いて香取神宮宮中に乱入した。「依令放火仮■殿、御供所并神主神官等在所、類火既欲移神殿之間、奉出神輿之處、忽射立申箭訖、其他切砕八龍神木像上者、神人殺害刃傷不勝計」応安五年十一月「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』は、この二度目の乱入であろう。この放火により、建造されたばかりの仮■殿(■は[女盛]で「アサメ」と訓ずる。「■殿」の「艮(北東)」の方角にあった(『香取神明記』)は焼失。神人の住居なども類焼し、ついには神殿にまで燃え広がった。このため神人らは神殿に納められている神輿を急いで搬出したが、寄手はこの神輿に対して矢を射立て、主要祭神の八龍神像を破壊し、神人をも殺傷するなど、かなり怒りに任せた攻撃を行ったようである。なお、この乱入は「実秋実持等、奉射神輿、殺害神人、剰社頭放火之條、所行之企、罪科不軽、早解却神職、止神領之綺」(応安五年十一月八日「藤氏長者宣」『香取大禰宜家文書』)とあるように、大中臣実秋らもまた寄手として加わっていた様子がうかがえる。

 この香取神宮攻めにより、神宮は「幹胤中村式部丞押寄宮中、依致合戦、射立箭於神輿、被放火於■殿今■殿(■は[女盛]で「アサメ」と訓ずる)也、加之在々所々之神社仏寺等、或逢破損之難、或稟回禄之事」(貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書』)と、社殿の多くを焼失または損壊することとなったとみられ、「自爾以来社祠等被追籠社内、及多年之間、任雅意在々所々押領之條、先未聞之悪行絶常篇、就之逐年隨日面々牢籠之條、不便次第也」応安五年十一月「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』という状況となった。当然ながら神宮側(大宮司実公や長房であろう)もこの非道を「所詮是等子細、即於関東雖歎申」ている(香取神人らが神輿を鎌倉へ動座したか)。ただし、公的に鎌倉からこの兵乱の沙汰が下されるのは応安5(1372)年11月の大禰宜長房の上訴以降であり、当初鎌倉は千葉惣領家の「別駕之旧臣」が起こした騒乱への直接介入を忌避し、香取社神輿の帰座も含めて千葉家内で解決させようと試みたとみられる。

鎌倉による補佐人「浄心」の任命

 千葉宗家と香取神宮の紛争をみた鎌倉は、「去々年貞治五年之秋、依関東仰、竹寿丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之、世以無其隠者也」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』とあるように、貞治5(1366)年秋に、千葉一門の「浄心」を幼少の竹寿丸の補佐人と定めた

 浄心が補佐人に定められた理由は、延文4(1359)年10月の円覚寺大般若経開版への出資人として「為生阿 浄心」(貫達人「円覚寺大蔵大般若経官刊等について(二)」『金沢文庫研究』七六)と見えるように、浄心と「生阿故中村入道の深い関係からの可能性が考えられる。浄心の領有した千田庄田部郷香取市西田部以東と中村氏の中村郷は栗山川で繋がっており、地縁的な関係があったのかもしれない。

 香取郡千田庄に所領を有する浄心は、旧知の故中村入道子息・胤幹の香取郡内における神領押領などの狼藉に対処すべく、香取郡近郊の有力庶子家である国分氏、東氏、大須賀氏らに一揆の結成を指示したのであろう。そして「浄心(総州)を筆頭に「一族一揆」が結成され、「総州以下一揆(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が香取大禰宜長房とともに中村氏の神領押領の解決に乗り出したとみられる。

 ところが、浄心が補佐人に公認された直後氏政円城寺図書允以下名字之輩、非蔑如上裁而已、対于一族浄心、取弓箭動干戈、是又三ヶ年也」と、円城寺図書允氏政以下の惣領家被官が鎌倉評定の上裁(浄心の後見就任か)を無視するのみならず、「一族浄心」に対して「取弓箭、動干戈」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』という実力行使に出たようである。貞治7(1368)年時点で「是又三ヶ年」とあるので、彼らが弓矢の事態となったのは貞治5(1366)年の事となる。

 この「取弓箭、動干戈」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』がどのような結果に終わったのかは伝わらないものの、曖昧なまま収束したものと思われる。そしてその後、貞治7年までの間に宗家被官と香取社との対立に関して鎌倉から音沙汰はなかった。

 貞治7(1368)年に入ると、大禰宜長房と浄心子・平長胤(浄心は存生ながら長胤も補佐人となっている)以下一族一揆の間で、宗家被官層からの神領押領地の返付を鎌倉に訴える話が取りまとめられ、3月2日、一族一揆の五名(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)「任建永承元御下知、御神領之事」「任代々御下知之旨、長房所領」(貞治七年三月二日「聖応等連署御契状」(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収))について「総州方可口入」とあるように、一族一揆の代表である「総州方(総州=浄心と、継嗣の平長胤)」に、鎌倉へ香取神領安堵と大禰宜長房の所領安堵の申請を依頼するとともに、成就を願う願文を香取社に納めた。

 なお、貞治7年は2月18日に「今夜改元定」(『愚管記』貞治七年二月十八日条)が行われて「応安」となっているが、関東ではしばらくは変わらず「貞治」が用いられていたようである。

●貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署御契状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件
    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿歓(花押)
                    沙弥聖応(花押)

●貞治7(1368)年3月 日『聖応等連署御契状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

任代々御下知之旨、長房所領小野、織幡、葛原、次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々、或云下知、或云所務、并屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、

  貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                  沙弥宏覚(花押)
                  沙弥禅広(花押)
                  沙弥寿歓(花押)
                  沙弥聖応(花押)

●「総州以下一揆」の代表五名

名前 貞治7(1368)年4月25日 応安7(1375)年4月25日
『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康  
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 木内七郎兵衛入道?  
沙弥寿歓 国分三河守胤詮 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信 死没か。「大須賀左馬助(憲宗)」が相続

 一揆の五名から「香取御神領事」と「長房所領等事」についての申し出を受けた総州方は、四日後の3月6日、総州方」の「平長胤」香取御神領事、任先例不可有子細之旨」ならびに長房所領等事、一揆御契状見候了、尤可然存候之間」の二項について聞き届けたので、あとは「御沙汰之時、可心得申候」と述べるとともに、祈祷に専念するよう命じている。

●貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

香取御神領事、任先例不可有子細之旨、御沙汰之時、可心得申候、就中当国安全祈禱事、殊以可令致精誠給之状如件
 
   貞治七年三月六日   平長胤(花押)

●貞治7(1368)年3月6日『平長胤誓状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

長房所領等事、一揆御契状見候了、尤可然存候之間、御沙汰之時、可心得申候、就中当国安全祈祷事、殊以可令致精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月六日      平長胤(花押)

 また、3月8日には、「中村入道生阿」が押領した地は「御神領」であることは明白で、以前に「老父浄心が鎌倉へ願い出て、すでに「上裁落居」している事でもあり、この分については残らず社家に沙汰付るように命じた(宛名がないが、一族一揆であろう)。また、現状で鎌倉に上っている香取社神輿についても、香取神宮への帰座を命じ、祈祷に専念するよう指示した。

●貞治7(1368)年3月8日『平長胤施行状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

香取大禰宜長房申、中村入道生阿等押領之地事、御神領之条、文明明白也、然早任老父浄心所為之旨、上裁落居之間、無所残所沙汰付下知於社家也、仍奉帰座神輿、付公私可令致祈祷精誠給之状如件、
 
   貞治七年三月八日       平長胤(花押)

 そして、3月11日には「平長胤」「下総国千田庄田部郷内田地壱町事」「奉寄進 香取社」した(貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』)

●貞治7(1368)年3月11日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

奉寄進 香取社
 下総国千田庄田部郷内田地壱町事、
 
右当社者、本朝無双之地、別者当国有縁之神、霊験異于他、誰不奉欽仰哉、爰生阿故中村入道為別駕之旧臣、為当所之政所、勤誇其権威、恣令押知神領、是故社人等為達鬱訴於上聞、奉出神輿於仮殿、其間之星霜良積四箇年也、不測去々年貞治五之秋竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之畢世以無其隠者也氏政円城寺図書允以下之輩、非蔑如上裁而已、対于一族并浄心、取弓箭動干戈、是又三箇年也、次幹胤中村式部丞押寄宮中、依致合戦射立箭於神輿、令放火於あさめ殿、加之在々所々之神社仏事等、或逢破損之難、或稟回録之事、因茲田地者荒廃、黎民者失堵歟、世縦及澆季、神鑑争不至哉、冥慮不空、賞罰分明者、罰逆心、守当家、古語曰、神安者人即安、国安者民即安、文、測知神輿帰本座者、人又如元安穏歟、御帰座之費、其料分抜群也、為退散幹胤、令進発之間、依陣中忩劇、銭貨不足之餘、為償彼大営、所寄附小所也、微者著之始、小者大之赴也、志之所之、唯仰明鑑耳、就中神之為神者、依人之敬也、人之為人者、依神之助也、彼志趣全非限長胤父子息災為竹壽及一揆之仁、兼又国土安全、万民快楽、寄進之状如件、
 
   貞治七年三月十一日   平長胤(花押) 

 なお、ほぼ同文で3月某日に「下総国千田庄多古郷内田地壱町事」の寄進もしており、おそらく同日の発給であろう。

●貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

  下総国千田庄多古郷内田地壱町事、
 
右当社者、本朝無双之地、別者当国有縁之神、霊験異于他、誰不奉欽仰哉、爰生阿故中村入道為別駕之旧臣、為当所之政所、勤誇其権威、恣令押知神領、是故社人等為達鬱訴於上聞、奉出神輿於仮殿、其間之星霜良積四ヶ年也、不測去々年貞治五之秋竹壽丸幼稚之間、可補佐国務之旨老父浄心承之畢、世以無其隠者也氏政円城寺図書允以下之輩、非蔑如上裁而已、対于一族并浄心、取弓箭動干戈、是又三ヶ年也、次幹胤中村式部丞押寄宮中、依致合戦射立箭於神輿、令放火於あさめ殿、加之在々所々之神社仏事等、或逢破損之難、或稟回録之事、因茲田地者荒廃、黎民者失堵歟、世縦及澆季、神鑑争不至哉、冥慮不空、賞罰分明者、罰逆心、守当家、古語曰、神安者人即安、国安者民即安、文、測知神輿帰本座者、人又如元安穏歟、御帰座之費、其料分抜群也、為退散幹胤、令進発之間、依陣中忩劇、銭貨不足之餘、為償彼大営、所寄附小所也、微者著之始、小者大之赴也、志之所之、唯仰明鑑耳、就中神之為神者、依人之敬也、人之為人者、依神之助也、彼志趣全非限長胤父子息災為竹壽及一揆之仁、兼又国土安全、万民快楽、寄進之状如件、
 
   貞治七年三月 日   平長胤(花押) 

 そして、同3月12日、長胤は先に大禰宜長房が願い出て一族一揆五名が口入した通り、大禰宜家領である小野村以下を長房に沙汰付けるよう(一族一揆か)命じた。

●貞治7(1368)年3月12日『平長胤安堵状』(『史料編纂所蔵 香取大禰宜家文書』)

香取社人長房申、小野、織幡、葛原十二ヶ村散在犬丸金丸以下村々屋敷田畠等事、代々御下知老父浄心所為之旨、或云下地、或云所務、所沙汰付于長房之状如件、
 
   貞治七年三月十二日   平長胤(花押)

 こうしたことが行われ、「中村入道性阿押領地」の御神領も戻されるとの御状が出されたことで、神人も納得して神輿も香取神宮へT帰座するも、「其後一事以上無左様御沙汰候」と、まったく沙汰付される様子もなかった。これに香取神人らは不満を爆発させ、「又御 輿を出申候て、可訴訟仕候」と息まいたのであった(某年五月廿六日「聖応誓阿連署書状」『香取大禰宜家文書』)。これを「社人」から聞いた「沙弥誓阿」「沙弥聖応」は、「上総次郎殿(平長胤)」「然者、以前御沙汰も無正体様覚候」と不信感を持つとともに、この争議が「公方聞も不可然候」と、鎌倉方へ聞こえるとあまり宜しくないことも付記し、この上は「悉候ハすとも、一道御計も候て、社人等の心おもなくさめられ候へかしと存候」と、鎌倉自体の沙汰も不覚ない上、騒動を起こされても困るので、すべての要求ではなくとも、少しでも叶えさせることでなんとか香取社人を宥めるべきかと述べ、長胤に鎌倉に対しての譲歩と要求を依頼している。ここで彼らは「委細旨難尽書状候」という、不満と無念を文末に付け、鎌倉への不信感を露わにしている。

●某(貞治7)年5月26日『聖応誓阿連署書状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

其後何條御事候哉、仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間一揆一族等、少々先罷越候愚身も今明日之間罷越候

 一、香取就神領事、御 輿を出申候て、於公方訴訟仕候時分御越候て御輿奉成帰座候へ、
   中村入道性阿押領地可被帰之由、雖彼御状出候、其後一事以上無左様御沙汰候間、
   又御 輿を出申候て、可訴訟仕候由、社人等申候、然者以前御沙汰も無正体様覚候、
   且公方聞も不可然候、悉候ハすとも、一道御計も候て、社人等の心おもなくさめられ
   候へかしと存候、委細旨難尽書状候、恐々謹言、

        五月廿六日         沙弥誓阿(花押)
                      沙弥聖応(花押)
    謹上 上総次郎殿

 しかし、聖応、誓阿が長胤に書状を送った頃、世の中はまた物騒な戦乱が頻発する世になっていたことが察せられ、誓阿は「仰可有常州合戦候、此事鹿島東條大事候間」と、常陸国で鹿島氏と東条氏の間の紛争に「一族一揆」の出陣が命じられ、ここに署名のない宏覚、禅広、寿歓(または彼らの後継者)は「少々先罷越」ていたことがうかがえる。聖応、誓阿もまた「今明日之間」に出陣することを「上総次郎殿(平長胤)」に伝えている(某年五月廿六日「聖応誓阿連署書状」『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 この文書は年次不明ながら、鎌倉に動座していた香取神輿が香取神宮に帰っていることがわかるので、貞治7(1368)年3月以降となるが、この前年の貞治6(1367)年4月26日に「自関東早馬到来、左兵衛督基氏卿早世、去廿六日事也云々、春秋二十八」(『愚管記』貞治六年五月三日条)「四月二十六日、瑞泉寺薨」(『如是院年代記』)とあるように鎌倉殿基氏が亡くなっている。

~「総州方」浄心、平長胤~

 貞治5(1366)年秋、鎌倉から幼少の千葉惣領・竹寿丸(のちの満胤)の補佐人に補任された人物に「浄心」がいる。彼の伝は不明だが、貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』によれば、「世以無其隠者」という評価をされる人物で、大須賀氏や国分氏、東氏らよりも目上に立つ惣領家とも近縁の人物と思われる。また、浄心の子「平胤平」は、千田庄多古郷や千田庄田部郷を香取社に寄進していることから、千田庄内に所領を有する人物であったことがわかる。

 貞治7(1368)年3月11日、浄心の子「平長胤」「下総国千田庄田部郷内田地壱町」を寄進した『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)は、至徳2(1385)年10月4日に大禰宜長房から嫡子「まん志ゆ丸(満珠丸:幸房)」へ譲られた相続文書類に含まれており、その説明には「たへの壱丁田、かとさの次郎殿御こし御とうさの御き志んなり」と見えることから、

(1)「平長胤」は「かとさ次郎殿(上総次郎殿)」と同一人物である
(2)「平長胤」の父「浄心」は「上総(介?)」を官途名として有する人物であった(推測)

という可能性が高い。さらに、

【A】貞治年中に老境
【B】「上総」を称する
【C】千葉介近親(千葉名字)

 という条件で探してみると、

(1)延元元(1336)年4月現在の武者所三番衆に千葉上総介胤重」(『建武年間記』)

という人物がみられる。「胤重」を系譜で探すと、千葉介貞胤の兄弟に「胤重五郎(『神代本千葉系図』『徳島本千葉系図』)が見える。世代的には「胤重五郎」と「千葉上総介胤重」はまったく重なることから、両者は同一人物と考えることもできる。京都で武者所番衆を務めたほどの人物であり、鎌倉が一目置く理由もあり、血縁的にも故介氏胤の叔父(または伯父)となることから、惣領代としても相応しい血統となる。ただし、それは可能性の一つにすぎず、なんら傍証があるわけではない。

 このほか、関東における千葉氏と思われる「上総介」を探すと、

(2)延文2(1357)年4月5日開版の円覚寺大般若経出資者の「上総介平宗重」(貫達人「円覚寺大蔵大般若経官刊等について(二)」『金沢文庫研究』七六)
(3)延文3(1358)年4月16日開版の円覚寺大般若経出資者の「上総介平胤重」(貫達人「円覚寺大蔵大般若経官刊等について(二)」『金沢文庫研究』七六)

が見える。

 なお、活動の時期が二十年ずれていることから考えて、武者所の上総介胤重と円覚寺開版事業の上総介宗重(胤重)は別人と考えられる(「宗重」「胤重」はどちらかが誤記であろう)。

 時代的に見ると、円覚寺開版事業に出資した「上総介宗重(胤重)」は関東に在住しており、延文2(1357)年4月5日及び延文3(1358)年4月16日の開版には、宗重(胤重)とともに「左衛門尉平宗信」「平宗信」が見える。彼は一族一揆を率いた「沙弥聖応(大須賀越後守宗信)」と同一人物と思われることから、上総介宗重(胤重)と大須賀宗信は接点を有していたと考えられる。また、延文3(1358)年8月17日の開版では、「左衛門尉平宗信」とともに「東遠江入道宏厳」が出資者として見える。彼はおそらく貞治7(1368)年4月25日の一族一揆「沙弥宏覚(東次郎左衛門尉胤秀)の近親者(おそらく父)であり、彼もまた上総介宗重(胤重)と面識があったろう。

 東遠江入道宏厳――東胤秀入道宏覚―――東胤氏
         (次郎左衛門尉)  (遠江孫次郎)

 では「浄心」は系譜上、どのあたりに位置する人物なのだろうか。

(1)禅兵器「平長胤」千田庄多古郷、千田庄田部郷に私領を有していた。
(2)応安7(1374)年8月9日当時、一族一揆の筆頭「大隅次郎(千田胤清)」が見える。

以上のことを考えれば、「浄心」は、千田大隅守胤貞と「関わりを有した」人物だった可能性が高いと言わざるを得ないが、千田胤貞の譲状は「ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分のそうりやう職」について、「嫡子」の「孫太郎胤平」へ宛てたものしか遺されていない(建武元年十二月一日「千葉胤貞譲状」『中山法華経寺文書』)。同譲状には「庶子に分譲分」は除く旨も明示されていることから、庶子への譲状も作られたことは間違いないが現存していない。「胤重五郎が胤貞との猶子関係があった可能性もあるが、史料は遺されていない。

 長胤の父「浄心」竹壽丸の補佐人となったのは貞治5(1366)年秋だが、その数か月後の同年12月15日に胤貞嫡子「大隅守胤継」「下総国千田庄中村郷之内宮堂免田地等」「中山本妙寺奉寄進」しており(貞治五年十二月十五日「大隅守胤継寄進状」『浄光院文書』)胤継と浄心は明確に別人となる。

 この寄進状が大隅守胤継の最後の発給文書であることから、浄心のやや後の世代が胤継平長胤は胤継の子・胤氏(大隅次郎胤清の父)と同世代であろう。

 千葉介頼胤―+―千葉宗胤――――千田胤貞―――千田胤継―――千田胤氏――+―千田義胤
(千葉介)  |(大隅守)   (大隅守)  (大隅守)  (大隅守?) |
       |                             |
       |                             +―千田胤清
       |                             |(大隅次郎
       |                             |
       +―千葉介胤宗―+―千葉胤重―――平有胤          +―千田胤満
        (千葉介)  |(上総介?) (上総次郎
               |=浄心? 
               |
               +―千葉介貞胤――千葉介氏胤――千葉介満胤
                (千葉介)  (千葉介)  (竹寿丸) 

 しかし、胤貞の子孫が継承した千田庄多古郷の地頭職については、「応永卅三年丙午九月十七日」銘の妙光寺板碑(多古町南中)「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とあるように長胤の名はない。つまり、長胤は千田庄多古郷内に私領を有したが、胤貞嫡流(別家の小城千葉氏は除く)ではなかったと考えられる。

 永和5(1379)年2月25日の妙光寺(多古町多古)の祖師像胎内銘では中山「貫主日尊」を唱導として、「大檀那平氏女図書■母」「大檀那圓城寺図書左衛門尉源胤朝」が造立主として見えるが、「図書左衛門尉源胤朝」は応安5(1372)年2月に千田胤氏の子・義胤の代官として見え、「中山大輔法印御房(大夫僧都日祐)」に「下総国八幡庄内谷中郷事、為中山本妙寺之寺領」(応安五年二月「円城寺胤朝発給文書」『中山法華経寺文書』)ことを証している。

●応安5(1372)年2月日『円城寺胤朝発給文書』(『中山法華経寺文書』)

下総国八幡庄内谷中郷事、為中山本妙寺之寺領祖父胤継一円被譲申上、至永代不可有相違處也、但依為本知行分亡父胤氏譲之内被入之間、公方安堵之時伺被入之畢、雖然、任胤継之譲状、至子々孫々不可有違乱競望之義、若背此旨輩者、不可知行義胤跡之由、依仰如件

       応安五年二月 日    図書左衛門尉源胤朝
    中山大輔法印御房

 これらから推測すると、

 貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)を見る限り、浄心及び長胤は、千葉惣領を補佐する立場という大きな権力に執着は全く感じられず、香取社という絶対的神威に対する惣領家被官の円城寺図書允氏政や中村式部丞胤幹らの非道や無礼な対応に鉄槌を下し、長胤父子の息災ではなく、竹寿と一族、国家と民衆を救うための寄進であるという。のちに浄心や長胤の名が全く見えなくなるのは、香取社と惣領家被官との訴訟問題が、戦乱のために訴訟全般が延引された時点で、満胤補佐の依頼主であった鎌倉から解職されたためかもしれない。

「一族一揆」について

 香取神宮と千葉惣領被官人との激しい確執は、千葉介氏胤の死後、幼少の竹寿丸が継承したことで、惣領被官の横暴がますます強まったとみられ、香取社神領に食い込んでいた中村式部丞胤幹は、大禰宜長房と対立する神主の大中臣実秋・実持と組んで、香取神宮へ実力行使に出た。その結果、境内の社殿は灰燼と化し、遁れた神輿にも矢が射立てられるという騒擾となる。こうした行為に怒った神人は神輿を鎌倉へ動座して解決を迫るという前代未聞の事件となった。これらは鎌倉の関東公方らに強い衝撃を与えたとみられ、鎌倉は千葉一門で名のある「浄心」を竹寿丸の補佐人に補任する。「浄心」は香取郡千田庄に所領を有する人物であり、香取郡周辺の千葉一族の実力者を選任して、「一族一揆」を結び、香取神宮と惣領家被官との問題を解決しようと図ったとみられる。

 「一族一揆」の中心は「総州方(浄心および、その子・平長胤)」で、そのほか「沙弥聖応、沙弥寿歓、沙弥沙弥禅広、沙弥宏覚、沙弥誓阿」の五名がこれを支えることとなる(のち、沙弥誓阿は消え、大須賀氏を筆頭に国分、木内、東氏が中心となって問題解決に臨んだ)。それぞれの比定人は以下の通り。

●「総州以下一揆」

名前 貞治7(1368)年4月25日 応安7(1375)年4月25日
『鎌倉府執事奉書写』
総州(方) 浄心(上総介?)
平長胤(上総次郎)
--------
沙弥誓阿 木内下総介胤康? --------
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 木内七郎兵衛入道? 木内七郎兵衛入道?
沙弥寿歓 国分三河守胤詮 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信 大須賀憲宗(大須賀左馬助)

河越直重、宇都宮氏綱の挙兵

 基氏亡き後、鎌倉殿を継承した「金王丸(氏満)」(『鎌倉大日記』)のもとで、貞治7(1368)年2月5日、関東管領上杉憲顕と対立関係にあった河越出羽守直重が挙兵した。香取社遷宮造替の更なる遅延や千葉惣領家被官中村氏らによる神領押領への御沙汰延引の理由とされる即於関東雖歎申、近来依騒劇応安五年年十一月日「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』が、おそらくこの河越氏や宇都宮氏の挙兵という「騒劇」とみられる。

 もともと河越直重・宇都宮氏綱は足利尊氏の信頼が篤く、幼少の足利基氏を支え、旧直義与党上杉憲顕勢や関東南朝方を抑えるべく、関東執事畠山国清入道とともに要国の守護となっていた人物であった。ところが、延文3(1358)年4月に足利尊氏が薨去すると、基氏は京都の兄・義詮を通じて直義党の上杉憲顕を復権させることを画策した。康安元(1361)年、基氏は畠山国清入道を鎌倉から追放し、康安2(1362)年2月21日は「岩松治部少輔殿」「早相具白旗一揆、上野国藤家一揆、和田宮内少輔」して伊豆国「神余城」に発向し「畠山阿波入道以下輩誅伐」(康安二年二月廿一日「足利基氏御教書」『正木文書』)を命じている。また、憲顕に代わって越後国守護だった宇都宮氏綱も貞治2(1363)年8月頃に挙兵する。しかし、同月末頃には「宇津宮引退籠城了」(『後愚昧記』貞治二年九月九日条)と追い込まれて9月には降伏。赦免されるも越後国を失い憲顕が守護に復任することとなる。これら基氏による畠山国清入道ら旧尊氏派の粛清と旧直義派の復権計画は、上杉憲顕入道の関東管領就任により表面的には達成された。しかし、この極端な行為は、結局その後二百年以上にわたって関東を戦乱の巷に巻き込む「発端」となってしまった

 貞治7(1368)年正月25日に「執事上杉憲顕、鎌倉殿ノ名代トシテ」、足利義満の元服と家督相続の賀詞を伝えるべく上洛し、2月8日に「将軍ノ亭ヘ参上、東国静謐ノ旨ヲ言上シ、義満公御家督元服ノ儀ヲ賀シ奉」った(『喜連川判鑑』)が、この憲顕上洛の虚を突いて、2月5日に河越直重「二月五日、武州河越館、平一揆閉籠」(『鎌倉大日記』)した。河越直重は関東「平一揆」のうち武蔵国の「平一揆」を統べる人物で、彼の挙兵にあわせて宇都宮氏綱も再び挙兵したのだった。下総国の「一族一揆」も出陣した「鹿島東條大事候」「常陸合戦」もその余波と思われ、鹿島氏は文和2(1353)年9月、「鹿島烟田遠江守時幹」「依為平一揆」という理由で、基氏が「為凶徒御対治、武州御下向」に応召し、「去八月九日、国符馳参、同至于入間河御陣供奉奉候」(文和二年九月「鹿島時幹着到状」『烟田文書』)とあるように、「平一揆」として武蔵平一揆の河越直重と同調していることから、平一揆に属する鹿島氏と、鹿島氏とは対立関係にあった東條氏が戦ったのだろう。

 京都には2月中旬に河越直重挙兵の報が届いたとみられるが、上杉憲顕入道はその後もしばらく暇が出されておらず、ようやく3月下旬に至って帰国が許され、「上椙殿、去月廿八日進発候き、東国定可属無為候歟」(応安元年四月十日「妙葩消息」『鹿苑寺文書』)とあるように、3月28日に京都を出立している。余談だが、基氏の死を受けて、故直義入道党の主力で基氏に庇護されていた「桃井播磨入道俗名直常」が「自関東上洛云々、依兵衛督薨去出家云々(『師守記』貞治六年五月廿六日条)という。基氏は故直義の継嗣であったと思われ(関東公方家は左兵衛督直義末裔としての家格を伝えていたのだろう)、その縁で直常を匿っていたと思われる。

 そして、この基氏亡き後の騒擾は、河越直重ら武蔵平一揆の挙兵も、「関東事、去十一日於武州平一揆打負合戦、引籠川越館之由、使者到来」(『花営三代記』応安元年六月廿八日条)と京都に伝わっていることから、5月11日には鎌倉方の優勢が決している様子がうかがえる。

 これらの戦いには、いまだ元服前の「若君(金王丸:氏満)「御発向」しており、まず近隣の武士に軍勢催促をかけ、これに「善波十郎左衛門尉胤久」「土肥入道」らが応じて6月4日に「馳参鎌倉」している(応安元年十月「善波胤久軍忠状」『諸国古文書抄』)。このとき「六日夜、高大和入道并三浦下野入道以下、野心之輩没落訖」(応安元年十月「善波胤久軍忠状」『諸国古文書抄』)と見え、旧尊氏派で京都と関わりが強い人々を中心に関東管領上杉憲顕を認めない人々は少なくなかった様子がうかがえる。

 鎌倉から出立した軍勢(大将軍は上杉弾正少弼朝房か)「六月十七日武州河越合戦」で河越直重を破ると、一旦大きく南の「至府中」(応安元年九月「市河甲斐守頼房等軍忠状」『市河文書』)に戻り、しばらく宿陣している。ここに「去六月十五日、自甲州御発向、属御手、同十九日馳参武蔵府中畢」とあるように、おそらく甲斐守護代に属したとみられる「南部右馬助入道法言」が6月19日に武蔵府中に着到している(応安元年十月日「南部右馬助入道法言軍忠状」『萬澤家文書』:『諸家文書纂』所収)

 武蔵府中へと一旦退いたのは、武蔵国東部に敵が出没したためとみられ、6月「廿七日、属于当大将御手、罷向江戸牛嶋」(応安元年十月日「南部右馬助入道法言軍忠状」『萬澤家文書』:『諸家文書纂』所収)「廿九日、令発向当国牛嶋」(応安元年九月「市河甲斐守頼房等軍忠状」『市河文書』)と、甲斐武田勢などが入間川(隅田川)の牛嶋墨田区向島)に派遣されている。牛嶋は河越館と入間川で直接繋がる要衝であり、武蔵平一揆勢が城を構えていたのだろう。ただ、鎌倉勢が馳せ向かうと「御敵等令退散」したという(応安元年十月日「南部右馬助入道法言軍忠状」『萬澤家文書』:『諸家文書纂』所収)。牛嶋の敵を追い払うと、甲斐勢は「帰参府中御在所」し、改めて「後六月廿五日、令供奉足利」(応安元年十月日「南部右馬助入道法言軍忠状」『萬澤家文書』:『諸家文書纂』所収)とあるように、閏6月25日に武蔵国府を発って足利へと向かった。なお、宇都宮攻めで総大将が足利に宿陣するのは基氏の先例の踏襲と思われ、第一次宇都宮氏綱征討の際には、貞治2(1363)年9月5日当時「足利御陣」(貞治二年十月「烟田時幹着到状」『烟田文書』)だった。

 足利に宿陣した金王丸は、7月12日に「武蔵国比企郡内戸盛郷高坂左京亮跡事」(応安元年七月十二日「金王丸寄進状」『鑁阿寺文書』)を鑁阿寺に寄進した。関東管領憲顕入道がこれを執り行い、鑁阿寺への下地の沙汰付を子息の「兵部少輔入道殿(能憲入道)に命じている(応安元年七月十二日「上杉憲顕施行状」『鑁阿寺文書』)。なお、7月には「新田義宗、義治、越後上野ノ境ニ旗ヲ揚グ、憲顕、是ヲ聞テ嫡男憲将、二男能憲、三男憲春、追手ノ大将トシテ、千葉、宇都宮、結城、小山ヲ差向ケラル、新田敗北、義治ハ出羽ヘ落去リ、義宗ハ討死」(『喜連川判鑑』)したという史料もあり、平一揆に連動して南朝方新田党も挙兵した可能性もある。

 その後、鎌倉勢はいくつかに分かれて宇都宮を目指したようで、「七月廿六日、大将宇都宮御発向」(応安元年九月「市河甲斐守頼房等軍忠状」『市河文書』)した上杉憲春らの軍勢と、「八月五日宇都宮御発向」(応安元年十月日「南部右馬助入道法言軍忠状」『萬澤家文書』:『諸家文書纂』所収)の甲斐武田勢の軍勢が見える。7月26日に足利を出陣した軍勢は「八月四日、御付吹上之御陣」(応安元年九月「島津大隅弥三郎代軍忠状」『島津文書』:「青木鐵太郎氏所蔵」)「八月十九日、横田要害」、続いて「大塚御陣」「廿九日、贄木城合戦」「九月六日、宇都宮城攻」めている。一方、8月5日に足利を出陣した軍勢は、「令御共在々所々御陣」し、「九月六日、於石井城之合戦」となっている。そして、9月6日の宇都宮城攻めにより宇都宮氏綱は「則降参畢」(『鎌倉大日記』)している。

 戦後、河越直重ら武蔵平一揆の人々や宇都宮氏綱らは処刑などの極刑は免れるも、「御敵平一揆与同罪科輩、以薩埵忠賞、観応中拝領地被収公、御免本領計、但観応無拝領地仁者、本領三分一被収公」(『鎌倉大日記』)という厳罰に処されている。宇都宮氏綱は「薩埵忠賞、観応中拝領地被収公」されることで本領宇都宮などは維持されたが、河越直重のその後はまったく不明となる。

 そして、貞治6(1367)年5月3日、太閤近衛道嗣のもとに「自関東早馬到来、左兵衛督基氏卿早世、去廿六日事也云々、春秋二十八、所悩五ケ日、及廿六日晩陰、事切」(『愚管記』貞治六年五月三日条)という報告が入った通り、鎌倉殿足利基氏は二十八歳の若さで急死した。

 なお、基氏の死の直後の6月14日、平一揆とともに兵を挙げ降伏していた宇都宮下野守氏綱が、同国のライバルたる小山義政に下野守を「替」られている(従五位下叙爵はなし)。氏綱は8月24日に兵庫権助に補任されているが、事実上の降格であった。基氏の遺言か鎌倉政府内での措置かは不明だが、氏綱もこれを受け入れざるを得なかったのだろう。氏綱はその三年後の応安3(1370)年7月5日に卒したという(『宇都宮系図』)。ただ、この遺恨が、後年の小山義政と宇都宮基綱(氏綱嫡子)との確執、小山の乱へ発展した可能性もあろう。

●貞治6(1367)年6月14日『宣旨』(『師守記』貞治六年六月十四日条)

貞治六年六月十四日 宣旨
  藤原朝臣義政
   宜任下野守
      権中納言藤原(判)奉
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
謹請
 宣旨
  従五下敘不
  藤原朝臣義政
    従五下藤原氏綱替 貞■■八十三敘
     宜任下野守

●貞治(1367)年8月24日『宣旨』(『師守記』貞治六年八月廿四日条)

貞治六年八月廿四日 宣旨
  源光綱
   宜任治部丞
  藤原氏綱
   宜任兵庫権助
      蔵人右少弁藤原宗顕奉
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
跪請
 宣旨
  源光綱
   宜任治部丞
  藤原氏綱
   宜任兵庫権助
右 宣旨早可令下知之状、跪所請如件、師茂誠恐謹言
   貞治六年九月一日      大外記中原師茂請文

応安の訴訟

 応安元(1368)年の兵乱以降、しばらく香取社の訴訟問題について表沙汰になるものはなく、この間に起こった明確な動きは探れない。ただ、河越氏・宇都宮氏と鎌倉との近来依騒劇応安五年年十一月日「大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』により、鎌倉での紛争処理が立ち行かず、神宮の遷宮造替遅延問題や千葉惣領家被官による神領押領の問題に対する御沙汰延引について、問題はまったく解消されなかったとみられる。千葉勢が公方勢として出陣し、上州新田党との戦いに加わっていたとする史料もあり(『喜連川判鑑』)、こうした事情があった可能性もあろう。

 こうした中、応安5(1372)年4月に京都将軍足利義満が元服したことを契機に、大禰宜長房はこれらの問題を藤氏長者の二條師良家を通じて、京都将軍家からの沙汰を願ったのだろう。11月初旬、大禰宜長房は、訴状を京都二條家に送達した。

●応安5(1372)年11月日『大禰宜長房訴状案』(『香取大禰宜家文書』)

  下総国香取太神宮大禰宜長房謹言上

欲早千葉竹壽丸家人中村弥六入道聖阿今者死去子息式部丞胤幹依非法張行、一年中九十余ヶ度祭礼悉令退転、剰相語氏人実持、実秋、令放火假[女盛]殿、奉射神輿、殺害刃傷神人以下、罪責不可廻踵上者、可被處彼等於所当重科由、被成御挙於武家、且任建永承元例、停止地頭非分綺、為可社家一円進止旨、蒙御成敗、全社役、神領同国小野、織幡、葛原、加符、相根村、犬丸、金丸、司、大神田等事、

  副進
   一巻 次第證文等案
右於当社領等、地頭代胤幹、恣年来押領之間、連々雖申子細、會不承引、只誇守護之権威、寄事於左右、結句相語実持実秋等、去貞治四年正月四日翌年二月十一日、迄于両度、引率多勢押寄宮中、依令放火假[女盛]殿、御共所神主神官等在所、類火既欲移神田之間、奉出神輿之處、忽射立申箭訖、其外切砕八龍神木像上者、神人殺害刃傷不勝計、自爾以来社祠等被追籠社内、及多年之間、任雅意在々所々押領之條、不便次第也、所詮是等子細、即於関東雖歎申、近来依騒劇、御沙汰延引之上者、厳密可有御成敗之由、被成御挙於武家、至神領等者、任建永承元御裁許之例、停止地頭非分之綺、可為社家一円進止之旨、長房蒙御成敗、全社役、弥為抽祭礼御祈祷之丹誠、恐々言上如件、

    応安五年十一月 日  

 これに対し、二條関白家では11月8日、9日に実秋・実持の神職と濫妨の停止、神領押領と社家による一円支配、香取神領を「建永承元代々御下知」の通り長房が知行し、実秋・実持および中村胤幹の濫妨を排除すること、長房への大禰宜と神主両職と常陸下総両国海夫と戸崎・大堺・行徳の関務を長者宣により認めた。さらに二條関白家は11月8日に管領細川武蔵守頼之へも同様の御教書を発し(某年十一月八日「関白家御教書写」『香取大禰宜家文書』122)、武家方からの「成敗」を依頼している。

●訴状内容と長者宣旨・御教書内容

訴状内容 長者宣日付
御教書日付
長者宣(御教書)内容 「足利義満御教書」
(1)中村聖阿・胤幹の濫妨
(2)彼らと結んだ実持・実秋による神輿への射出、神人の殺傷、神殿への放火
(3)神領(小野、織幡、葛原、加符、相根村、犬丸、金丸、司、大神田等)の「社家一円進止」
11月8日(宣) (1)実秋、実持の「罪科不軽」→神職解却
(2)神領の綺を止め、社家一円進止とする
(3)11月9日に記される
 
11月8日(教) (1)実秋・実持、中村胤幹の神輿への射出、神人の殺害、神殿への放火の悪行狼藉の成敗 (1)「実秋、実持」と「中村胤幹」による狼藉の停止【11月14日】
(1)神領(小野、織幡、葛原、加符、相根村、犬丸、金丸、司、大神田等)の「社家一円進止」 11月9日(宣) (1)香取神領(小野、織幡、葛原、加符、相根村、犬丸、金丸、司、大神田等)について、「建永、承元代々御下知之旨」の通り、実秋・実持、中村胤幹の濫妨を停止し長房が領地すべし  
(1)伝わらず
(2)伝わらず
(3)「戸崎関務、大堺関務、行徳関務」の申状はあったものの現存せず
11月9日(宣) (1)香取大禰宜、神主両職
(2)常陸下総両国の海夫の支配
(3)戸崎、大堺、行徳の関務
以上を、大中臣長房が知行すべきこと
(1)なし
(2)常陸下総両国海夫事の遵行【11月14日】
(3)戸崎関務、大堺関務、行徳関務の遵行【12月14日】
(1)「当社造替、千葉竹寿丸并大須賀左馬助等無沙汰事」という申状はあったものの現存せず 11月12日(教) 可令斗成敗給之由、関白殿御気色所候 (1)造替の「千葉竹寿丸并大須賀左馬助等」の無沙汰を改める【11月14日】

 現在伝わっている訴状案は、中村胤幹の濫妨と神主実持・実秋の神宮への反逆行為、長房相伝の神領保全の一案のみで、竹寿丸大須賀左馬助(一族一揆の在地方筆頭で守護代と思われる)の造営無沙汰は訴状に基づいて二條関白家より管領を通じて御教書が下されており、申状自体はあったことがわかる。関務についても二條関白家より武家側に吹挙されており、こちらも申状は存在した。ただ、長房自身の地位と海夫支配についての申状は現在遺されていない。

●某年11月12日『二條関白家御教書写』(『香取大禰宜家文書』所収)

香取大禰宜長房

 当社造替、千葉竹壽丸大須賀左馬助等無沙汰事、申状如此、子細見状候歟、可令斗成敗給之由、関白殿御気色所候也、仍執達如件

 十一月十二日 左中弁宣方(花押)

謹上 武蔵守殿(細川頼之)

 11月12日、大禰宜長房からの訴状の一つ、「千葉竹壽丸大須賀左馬助等無沙汰事」によって造替事業が進んでいないことにつき、二條関白家は武家管領の細川武蔵守頼之に報告し、関白二條師良の「御気色」を副えて伝えている(某年十一月十二日「関白家御教書写」『香取大禰宜家文書』)。おそらく同日、この造営の沙汰のほか、香取海の海夫支配大中臣実秋や中村胤幹の悪行もともに細川頼之を通じて武家方に御教書が下されたと思われる。

 これを受けた武家政権は、11月14日に関東管領「上杉兵部少輔入道殿(上杉能憲入道)に沙汰を命じている(応安五年十一月十四日「将軍家御教書」『香取大禰宜家文書』)

●応安5(1372)年11月14日『将軍家御教書』(『香取大禰宜家文書』)

  香取社大禰宜長房申条々

 一 当社造替、千葉竹壽丸大須賀左馬助等無沙汰事、
 一 常陸下総両国海夫事、
 一 実秋、実持中村式部丞胤幹等、対于神輿及狼藉、神人殺害、社宇放火以下事、
   以前条々、関白家就被執申、所有吹嘘也、神訴異于他歟、早厳密且被遵行之、
   且可被申左右、更無遅怠様、殊可有其沙汰之状、依仰執達如件、

    応安五年十一月十四日  武蔵守(花押:細川頼之)

      上椙兵部少輔入道殿(上杉能憲)

 二條関白家から執達された上記の三箇条は、いずれも形式上の権威ではなく、実質的な力を担保とした権限を以て行い得るものであることから、二條関白家はこの三箇条の実行を足利将軍家を通じて履行しようとしたのだろう。

 この管領奉書(将軍家御教書)が下されて14日後の11月28日、「道諲上洛」(『鎌倉大日記』)のため、能憲入道は鎌倉を出立した。将軍義満の元服に伴う一連の儀式との関連による上洛とみられるが、この管領奉書は発給日時と上洛日時からみて、能憲入道はこれを読んだうえで上洛したのだろう。管領頼之との会談も当然想定され、関東と京都の若当主を支える政務の諸問題が議論されたのではなかろうか。

 12月20日、「関東一方管領上杉兵部入道上洛」(『花営三代記』応安五年十二月廿日条)し、「著三條西洞院大草太郎左衛門尉亭」に入った。ただ、「一向上椙、両三日自関東上洛、申次寺尾次郎左衛門違例之間、不入見参、近日可有来臨」(『祇園執行日記』応安五年十二月廿五日条)と、申次の寺尾次郎左衛門尉が病気のために将軍義満に対面できず、25日にようやく「参賀」(『祇園執行日記』応安五年十二月廿六日条)を果たし、26日には「上椙近日上洛、院西南角、三條西洞院昨日参賀」が八坂神社「神馬一疋河原毛、被引之、有送文、奉行金吾六郎左衛門入道、巻数奉行ハヤス」と、神馬を奉納し、巻数を依頼している(『祇園執行日記』応安五年十二月廿六日条)。27日に「上杉入道殿巻数返事、備後取之」と返事を請取り、29日には「上椙殿神馬用途一貫二百文、五郎三郎執進」している。

 その後、能憲入道は京都で年を越している。京都でどのような活動を行ったのかは不明だが、応安6(1373)年4月5日、関東下向を前に、能憲入道は義満から「伊豆国大見郷土肥宮内少輔入道跡、相模国鴨江平佐古三浦一族等跡事」「為下総国下幸嶋庄、武蔵国八林郷等之替不足分」として「所有御計」を受けており(応安六年四月五日「将軍家御教書」『上杉家文書』43)、所領関係の動きもあったのだろう。その二日後の「四月七日暁、下向了」と、能憲入道は鎌倉への帰国の途に就いた(『花営三代記』応安五年十二月廿日条)

 また、時期は不明ながら長胤は鎌倉から直接命を受け、大禰宜長房とその義兄弟(長房妻の兄弟)にあたる大中臣実公の知行分の「相根村」からの神物等の所務について安堵し、神事を勤仕するよう、惣領家被官の「内山又次郎入道殿」に命じている。

●某年4月15日『平長胤施行状』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

長房実公知行分香取内相根村神物以下所務事、如先々致其沙汰、御神事無退転可令勤仕之旨、自鎌倉所被申下候也、存其旨可有沙汰候、恐々謹言、
 
      卯月十五日    長胤(花押)
   内山又次郎入道殿

千葉介満胤と香取社との対立

 応永5(1372)年11月14日当時、満胤はまだ「千葉竹寿丸」と称した元服前の十歳の少年であったが(応安五年十一月十四日「将軍家御教書」『香取大禰宜家文書』)、応安7(1374)年4月25日時点では「千葉介満胤」(応安七年四月廿五日「香取大禰宜長房訴状」『香取大禰宜家文書』)と改められており、満胤の元服は応安6(1373)年から翌応安7(1374)年初頭、十一~十二歳にかけて行われたことになる。おそらく、関東管領能憲入道が上洛した際に、香取社問題の一環として、幼少の千葉竹寿丸の元服と「千葉介」継承が話し合われたのではなかろうか。「満」字は、氏満または満兼からの偏諱である。

 応安7(1374)年3月8日、「香取大神宮神輿」「鎌倉御動座畢、神訴悉道行」(年月不明「応安七年鎌倉動座関係文書跋」『香取大禰宜家文書』)した。兼て応安元(1368)年に「一族一揆」が再度の神輿動座による神訴を推しとどめるべく、香取者造替延引や神領返付の一部でも香取神宮側の訴えを受け容れえもらうよう「上総次郎殿(平長胤)」を通じて鎌倉に働きかけたものの、まったく実らなかったようである。香取神人の不満は頂点に達し、ついに再度の鎌倉への神輿動座が実行されてしまった。

 これを受けて3月22日、管領上杉能憲入道「山名兵庫大夫入道」と「安富大蔵入道」を両使として「令下向当国」め、「下総国香取社造替以下事、事書一通」を遣わし「守彼状、可致厳密沙汰」を千葉介満胤へ命ずる決定をする(応安七年三月廿二日「上杉能憲入道奉書写」『香取神宮所蔵文書』28、29)。この事書とみられるものが「下総国香取社大禰宜長房等申訴訟條々」の断簡として残されている(年月不詳「鎌倉府御教書断簡」『香取大禰宜家文書』97)

●年月不詳(「事書」)『鎌倉府御教書断簡』(『香取大禰宜家文書』97)

事書 内容
香取社造替事 大禰宜長房からの、造替が「雖徒経年序、一向不道行」という訴えに基づき、鎌倉は「召出千葉介満胤代官、相尋」したところ、「承伏」の返答があった。
このため鎌倉はその姿勢を汲んで、とくに「仍雖可被處罪科、以寛宥之儀」ながら、「所被定置年紀也、不日七ヶ年以前可終営作之功」を条件に定め、「若尚緩怠者、可有殊沙汰之由」を満胤に伝えるよう指示。
満胤家人中村式部丞胤幹事 大禰宜長房からの、胤幹が「対当社専為悪行張本人」という訴えに基づき、(上記)「満胤代官」に尋ねると「無誤」の返答があった。
代官は「雖陳謝之、胸臆詞不足許容」という雰囲気が見えており、もし「無糺決者、社人等愁訴不可休」となることが確実であろうことから、「仍来月十五日以前、召進胤幹」ことを満胤に厳命し、「尚及異儀者、可加退治」と満胤に仰せ付けるよう指示。
社人等相伝知行神領事 中村胤幹以下による神領押領につき、長房より「及烈訴」するも「満胤代官」は「不実之由」を陳述している。取り敢えずは各々その神領に赴いて押領があれば厳しく停止させ、社人等の所帯証文を守り、元のように下地を面々に沙汰付け、請取状を執り進めるように。
もし、社人等の知行所領ながら胤幹らが自らの所領だと奸訴しれていれば、注進して沙汰すべしと指示(後闕のためその後の内容は不明)。

 この「事書」を千葉介満胤に伝達後、安富・山名両使は一旦鎌倉へ帰還したとみられ、鎌倉方は管領能憲入道のもと4月25日に執事奉書が数通作成され応安七年四月廿五日「上杉能憲入道奉書」【一】【二】【三】【四】、5月8日、鎌倉から「安富大蔵入道、山名兵庫大夫入道以両使」がこれらを携えて下総国(「沙汰付下地」を行う予定であり、香取神宮に逗留か)に下向した。

執事奉書の宛先 御教書内容 出典
香取大禰宜長房 ・遷宮の造替
・社人相伝の神領
建永、承元、承久、文永等の下知状・京都御教書の通り沙汰すべし
『香取大禰宜家文書』96
香取神主実公 ・遷宮の造替
・相伝の神領
手継証文等の通り沙汰すべし
『香取大禰宜家文書』95
千葉介満胤 ・造替以下事(三箇条)
事書」の通り沙汰すべし
もし異儀がある場合は、罪科に処す
『香取大禰宜家文書』98
大須賀左馬助(憲宗)
国分三河入道(胤詮)
東次郎左衛門入道(胤秀)
木内七郎兵衛入道
・香取神輿の御帰座事
警固をすべし
『香取大禰宜家文書』99
(現存しないがあったもの)
地頭中
・内海の「当国浦々海夫事
「注文一通」に記される各地頭に先例の通り沙汰すべし(香取神宮に貢納する義務)
現存しないが、同日付で作成された可能性が高い
(現存しないがあったもの)
地頭中
・内海の「常陸国浦々海夫事
「先度被仰之處、不事行」とあり、常陸国の各地頭に先例の通り沙汰すべし(香取神宮に貢納する義務)
現存しないが、同日付で作成された可能性が高い
『香取大禰宜家文書』108

●応安7(1374)年4月25日『上杉能憲奉書写』【一】(『香取大禰宜家文書』96)

下総国香取社造替并社人等相伝知行神領事、任建永承元承久文永等下知状并京都御教書、可致沙汰之旨、所被仰安富大蔵入道、山名兵庫大夫入道等也、可存知其旨之状、依仰執達如件、

  応安七年四月廿五日    沙弥(花押)
   大禰宜殿

●応安7(1374)年4月25日『上杉能憲奉書写』【二】(『香取大禰宜家文書』95)

下総国香取社造替并相伝知行神領事、任手継証文等、可致沙汰之旨、所被仰安富大蔵入道、山名兵庫大夫入道等也、可存知其旨之状、依仰執達如件、

  応安七年四月廿五日    沙弥 有御判
   神主殿

●応安7(1374)年4月25日『上杉能憲奉書写』【三】(『香取大禰宜家文書』98)

下総国香取社々人等申造替以下事、任事書可致沙汰之旨、所被仰安富大蔵入道、山名兵庫大夫入道等也、且可存知其旨、若及異儀者、可被處罪科之状、依仰執達如件、

  応安七年四月廿五日    沙弥 在判
   千葉介殿

●応安7(1374)年4月25日『上杉能憲奉書写』【四】(『香取大禰宜家文書』99)

下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、

  応安七年四月廿五日    沙弥 在判
   大須賀左馬助殿

国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿四通同前

 ところが、「事書一通」を受けた『執事奉書』【三】について、満胤は5月18日、反論の請文をしたため、安富・山名両使に提出する(応安七年五月十八日「千葉介満胤請文」『香取大禰宜家文書』101)

●応安7(1374)年5月18日『千葉介満胤請文』(『香取大禰宜家文書』101)

去月廿五日御教書之旨両使被仰下之趣、謹承候畢、仰香取社造替事、尤早々可致営作之沙汰候、以前延引之謂、具令申御使候、次家人中村式部丞胤幹事、恣可召進之候、然者被召決訴人等日、長房等奸訴悪行之段、胤幹可申披候歟、次社人知行神領押領之由事、更以無其儀候、於地頭職者、重代相伝之本領候、乃于今知行無相違候、有限至神役者、致其沙汰候、且為本領文書等、両使披見候之間、其段可被申注進候歟、条々委細以代官追可言上候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

     応安七年五月十八日      平満胤請文

■千葉介満胤請文の内容

事書の条文 千葉介満胤の反論
香取社造替事 「尤早々可致営作之沙汰」については、「以前延引」の理由を両使に「具令申」している。
家人中村式部丞胤幹 「恣可召進之」については、「訴人」の長房もあわせて「召決」すべきで、そうすれば「長房等奸訴悪行之段」を「胤幹可申披候」であろう。
社人知行神領押領之由事 まったくもって「無其儀」。「地頭職」は「重代相伝之本領」であり、「為本領文書等」も両使に見せており、そのことは両使から注進されるだろう。

 安富道轍入道と山名智兼入道はこの「請文」を納めると、5月25日には、香取海の下総国側の津を知行する各地頭に「当国浦々海夫事」を先例の通り香取神宮へ納めるよう指示した(応安七年五月廿五日「安富道轍等連署奉書写」『香取大禰宜家文書』102)。おそらく同日、「常陸国浦々海夫事」についても同様の指示を行っていたとみられるが、こちらは実行されず、6月21日に両使が「所詮厳密可被致其沙汰」を再度指示している(応安七年六月廿一日「安富道轍等連署奉書写」『香取大禰宜家文書』108、109)

 翌5月26日には、惣領被官に押領されている土地(場所不明)に向かい、実際に「沙汰付下地於神官等」しようとしたが、ここに「満胤代官円城寺式部丞深志中務丞等」が出張っており、「曳橋塞路」して両使の遵行を妨害した。そしてその上で「被向御旗、被成治罰御教書輩事、猶以就歎申、被経御沙汰者傍例」と主張して譲らず、結局「不及打渡」こととなってしまう(応安七年五月廿七日「安富道轍等連署奉書写」『香取大禰宜家文書』103)。また、神輿の御帰座についても両使が「雖加催促候、神領等未道行候間、難成御帰座之由、社人等申候」として、香取社人も神輿の御帰座を承諾せず、安富道轍入道と山名智兼入道の両使は八方塞の状態となってしまった。 なお、円城寺式部丞政氏(円城寺図書允氏政とは別人)は千葉惣領家の有していた香取社造替に関する義務を行うべく、国衙職の「国大行事職」に任じられており(応安七年十月十四日「円城寺政氏避状」『香取大禰宜家文書』121)、造替に際して彼は千葉惣領家の国衙権限を以て香取社領に介入していたと思われる。

 結局、翌5月27日、安富道轍入道と山名智兼入道両使は「千葉介満胤候之處、請文如此、謹令進覧候」と、5月18日付の満胤請文を副えた一連の報告書を鎌倉「御奉行所」へ遣わした(応安七年五月廿七日「安富道轍等連署奉書案」『香取大禰宜家文書』103)

■安富大蔵入道奉書案の内容

事書案の事書 内容
千葉介満胤請文の事 千葉介満胤請文の現物を鎌倉へ送達する報告。
 ・造替遅延の理由はすでに両使に申し上げている。
 ・胤幹召進については、長房も召進めるべきで、そうすれば長房の悪行を胤幹が論ずるであろう。
 ・神領押領については、ない。地頭職は重代相伝の本領であり、証拠書類も両使は見ている。
香取社領の事 神官へ下地の打渡を試みるも、満胤代官の円城寺式部丞政氏と深志中務丞による遵行妨害により打渡すことができず。
神輿御帰座の事 御帰座を神官に催促するも、神領が未だ戻されないことには帰座もできないと催促に応じないため、御帰座も不可。

 この両使の報告を受け取った管領能憲入道は激怒したのだろう。6月5日、「安富大蔵入道殿」「山名兵庫大夫入道殿」へ宛てて、もはや異議に及ばず、すべて厳密に沙汰せよと指示する執事奉書を遣わした(応安七年六月五日「鎌倉府執事奉書写」『香取大禰宜家文書』106)

■能憲入道の執事奉書の内容

執事奉書 内容
千葉介満胤請文の事 満胤の「自由請文」の内容は「甚招罪科」である。
香取社領の事 「不日任先度事書之旨」て、安富・山名両使が、押領されている神領に臨んで、「縦雖及異儀、不可許容」の上、粛々と神官へ下地を打渡し、請取状を執進せよ。
神輿御帰座の事 「厳密有其沙汰上、直就被仰付乍令領状、於国難渋、難遁其咎」と神宮側の不実を詰問した上、有無を言わさず「急速可奉成帰座」を神宮側に命じるよう指示。「若尚令遅引者、為有殊沙汰、載起請詞、可注進」と強く神輿帰座を迫った。

 一方で、能憲入道はこの厳命が千葉家被官と香取神宮側で相当な混乱が起こる可能性があることを見越して、同6月5日、「一族一揆」の四名(大須賀左馬助殿、国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿)「先立 神輿御帰座時被仰了」と同様に、「所詮神領静謐之程」のために「香取社警固事」を命じている(応安七年六月五日「鎌倉府執事奉書写」『香取大禰宜家文書』107)

 6月17日、安富道轍入道と山名智兼入道の両使は、執事奉書に基づき「去十七日、莅彼所遵行處」すると、「千葉介満胤代官円城寺式部丞以下輩」が再び現れ、前回同様に「馳塞彼所々」「雖何ケ度候、不可渡」と遵行の妨害を試みた(応安七年六月廿四日「安富道轍注進状」『香取大禰宜家文書』110)。しかし、今回両使は厳命を以て下地打渡を行う意志のため、「不能許容」とその妨害を全く無視して「堅欲沙汰下地於社人等」しようとした。ところが、この地は千葉家代官による押領が行われているのが実情であり、神官等が打渡を受けたとしても、結局はまた押領されることは目に見えている。そのため大禰宜長房は「無知行実之間、不可請取」と主張し、押領が解消される確証がない限りは請取状は執り進めないと拒絶した(応安七年六月廿四日「安富道轍注進状」『香取大禰宜家文書』110)

 こうして「結句、両方及合戦」となり、兵力を有さない神宮側の「社人等打負者」「焼払社壇、奉失神体、各擬打死」と再びの大混乱となって打渡どころではなくなり、結局「不及打渡」となる(応安七年六月廿四日「安富道轍注進状」『香取大禰宜家文書』110)。さらに、別の地でも「満胤家人内山中務丞、称一城、遵行之時、率多勢、無是非欲打取使者という脅しまでかけてきたことから「不能打渡候」となってしまう(応安七年六月廿四日「安富道轍注進状」『香取大禰宜家文書』110)

 解決策が見出せないまま、両使はいったん鎌倉へ帰還したとみられ、管領能憲入道は府内で対応策を練り、改めて通達事項を事書として取りまとめ、8月9日に三度、安富道轍入道と山名智兼入道を両使として事書を持たせて下総国下向を指示する(応安七年八月九日「鎌倉府執事奉書写」『香取大禰宜家文書』111)

●応安7(1374)年8月9日『鎌倉府執事奉書』(『香取大禰宜家文書』111)

下総国香取社人長房等千葉介満胤相論当社領犬丸、金丸以下田畠在家等事、[事書]一通遣之、早安富大蔵入道相共令下向、可沙汰付下地於長房等之條、依仰執達如件、

 [応安七]年八月[九日]          沙弥(花押:上杉能憲)
    山名兵庫大夫殿(山名智兼)

「同文章御教書 在別紙  沙弥在判
 安富大蔵入道殿」

●年月不詳(「事書」)『鎌倉府條書写』(『香取大禰宜家文書』123)

事書 内容
香取社人長房等と千葉介満胤代常忠相論
※香取社領(犬丸金丸以下田畠在家等)の相論
満胤代官の円城寺常忠(在鎌倉か)は「或帯地頭職相伝安堵、或捧他人所得下知状案文」について子細を述べているが、長房が備進た「承元、承久、文永、正和、元亨等下知状并安堵等」と比べるべくもない。
その上、神輿御動座という「異于他」の異常事態が起こっている中では、まずは「任先落居、沙汰付下地於長房等、可執進請取状」し、「於満胤訴訟」は「追而可有其沙汰矣」すること。
満胤家人中村式部丞胤幹事 満胤は中村胤幹について「可召進之由、乍捧請文延引、難遁罪科」と糾弾し、「今月中可召進其身之由」を満胤に重ねて命じること。
実持、実秋の事 彼らについて「御沙汰落居之程、不可下国之旨」を満胤代官の円城寺常忠(在鎌倉か)に命じ、常忠はこれに応じながら、実持・実秋は「於国致狼藉之由有其聞也」という。この不実につき、中村胤幹と同様「可召取進」ことを満胤に命じること。
社人刃傷殺害放火の事
・貞治4年の事件か応安7年年6月の事件かは不明
中村胤幹以下の者が神主「油井検杖」の在所を襲撃し「致刃傷殺害放火等狼藉」を行ったことに対し「糺明之上、載起請之詞」し、事実を注進すること。
常陸下総両国の海夫の事 知行する地頭は、津の利益を香取社に納めるよう、「重厳密加催促」すること。

●常陸・下総国の内海の津と地頭『海夫注文』(『香取大禰宜家文書』124)

津名 津名(2) 地頭(知行分)  
下総国 いひぬまかうやの津 飯沼荒野津 飯沼 「海夫注文125」
かきねの津 垣根津 海上
野志りの津 野尻津 海上
も里との津 森戸津 森戸
さゝもとの津 笹本津 笹本
志本可王の津 塩川津 海上
いしての津 石出津 石出 「海夫注文126」
いまい徒ミの津 今泉津 今泉
さつさ可王の津 笹川津 東六郎  
おみ可王の津 小見川津 粟原彦二郎  
たとかうやの津 多度荒野津 大蔵 「海夫注文127」
そ者多可の津 側高津 中村三郎左衛門
ゑちこうちの津 越後内津 大蔵
本つ可王の津
堀川津 中村三郎左衛門
内山中務
(今は中澤)
 
よこす可の津 横須賀津 内山中務
(今は■■)
 
徒のミやの津 津宮津 中村式部  
志の原津 篠原津 けつさわ  
いとに王の津 糸庭津?
井戸庭津?
――  
さ王らの津 佐原津 中村  
せきとの津 関戸津 国分与一  
い王可さきの津 岩崎津 木内  
な可すの津 中州津?
長洲津?
国分三河
一方御料所
 
かうさきの津 神崎津 神崎西■■  
常陸国 阿者さきの津 阿波崎津 東條能登入道
一方難波
「海夫注文130」
(東條庄内)
むま王たしの津 馬渡津 東條
ふつとの津志た 福戸津
志太?
一方小田
一方吉原
「海夫注文」124に見えず 飯手津  
「海夫注文」124に見えず 大壺津  
かし王さきの津 柏崎津 小田兵部少輔入道  
ふつとの津 福戸津 ミうてう
一方東條能登入道
 
ひろとの津 広戸津 東條能登入道  
ふなこの津 船子津 東條能登入道  
あんちうの津   小田  
あさうの津 麻生津 麻生  
みやきさきの津 宮木崎津 玉造 「海夫注文131」
(行方郡内)
志まさきの津 嶋崎津 鹿島 「海夫注文129」
(鹿島郡内)
川むかひの津 河向津 鹿島
く王うやの津 荒野津 鹿島
さるを可ハの津 猿小河津 鹿島
につ可ハの津 新河津 鹿島
や多への津 谷田辺津 明石
者な可さきの津 鼻崎津 花崎
志者さきの津 柴崎津 柴崎
者き者らの津 萩原津 萩原
おき春の津 息栖津 鹿島
かむらの津 加村津 鹿島
た可者まの津 高濱津 石神
はたきの津 波田木津 鹿島
大ふなつ 大船津 鹿島
ぬかゝの津 糠賀津 ナラヤマ
かけさきの津   ツカ  
ぬま里の津   ツカ  
ならけの津 奈羅毛津 中村 「海夫注文129」
(鹿島郡内)
志ろとりふなつ 白鳥津 白鳥
多うまの津 当麻津 宮崎  
なるたの津 鳴田津 武田 「海夫注文131」
(行方郡内)
ふなこの津 船子津 小高
やまたの津 山田津 小高
ひら者まの津 平濱津 手賀
水者らの津 水原津 小栗越後
志まさきの津 島崎津 島崎
ふな可多の津 船形津 島崎  
いたくの津   島崎  
うし本里の津 牛堀津 鹿島  
とみ多の津 富田津 亀岡  
者し可との津 橋門津 小高 「海夫注文131」
(行方郡内)
さいれんしふなつ 西蓮寺船津 小高
た可すの津 高須津 玉造
者ねう船津 羽生津 羽生  
大ゑたの津 大枝津 大掾  
「海夫注文」128に見えず 高摺津   「両使連署奉書写」
『大禰宜』114
「海夫注文」128に見えず 尾宇津   「海夫注文131」
(行方郡内)
「海夫注文」128に見えず 江崎津  
「海夫注文」128に見えず 信方津  
「海夫注文」128に見えず 鎌谷津  
「海夫注文」128に見えず 土古津  
「海夫注文」128に見えず 逢賀津  

 また、両使の下向指示と同日の8月9日、両使の現地沙汰付を支援するため、これまでの「一族一揆」代表の四名以外の千葉一族にもその支援を命じる奉書を遣わした(応安七年八月九日「鎌倉府執事奉書」『香取大禰宜家文書』112、113)。「大隅次郎」は浄心、平長胤と同様、千田庄に拠点を有する千田胤清(千田胤氏子息)であり、長胤のあとを引き継いだものか。

●応安7(1374)年8月9日『鎌倉府執事奉書』(『香取大禰宜家文書』112)

下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件

  応安七年八月九日       沙弥(花押:能憲入道)
      木内七郎兵衛入道殿

[同文の奉書が遣わされた人々]
 大隅次郎
 相馬上野次郎
 大須賀左馬助
 国分三河入道
 同 六郎兵衛入道
 同 越前五郎
 同 与一
 東次郎左衛門入道
 神崎左衛門五郎
 那智左近蔵人入道

『鎌倉府執事奉書』に見える千葉一族

名前 法名   実名
大隅次郎     千田胤清
永徳2(1382)年12月30日「平胤清請文(『中山法華経寺文書』南北4122)
相馬上野次郎 茂林   相馬左衛門尉胤宗か?
大須賀左馬助   一族一揆 大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 一族一揆 国分三河守胤詮
国分六郎兵衛入道     国分小六郎胤任?
国分越前五郎     国分越前五郎時常
国分与一     国分与一氏胤?
東次郎左衛門入道 沙弥宏覚 一族一揆 東次郎左衛門尉胤秀
木内七郎兵衛入道 沙弥禅広? 一族一揆  
神崎左衛門五郎     神崎左衛門五郎秀尚
那智左衛門蔵人入道     ?(下総町の那智山に関係した大須賀・神崎・木内一族か?)

 満胤被官は8月9日付の御教書を受けた千葉一族の働きもあってか、急激にその権勢を衰退させ、訴訟問題は一気に香取社側に有利に動き始める。あまりに急な変化であるため、事書や一族の動員を命じた鎌倉の態度に強い危機感を抱いた大須賀左馬助憲宗を筆頭とする「一族一揆」が、事書を盾に現地に臨み、実力を以て惣領被官の専断や押領を排除したのではなかろうか。

 こうして、安富・山内両使の本来の目的である沙汰付や知行に関する遵行が可能となり、9月27日には「常陸国大枝津、高摺津以下浦々海夫事」「当国津宮以下浦々海夫事」「度々被仰之處、不事行」について、常陸国の津地頭(大掾殿、麻生殿、宮崎殿、小高殿、鹿嶋殿、東條殿、小栗殿、小田殿、同兵部少輔入道殿、吉原殿、難波殿、山河殿、鹿嶋大禰宜殿)や「千葉介殿」以下の津地頭(国分三河入道、同与一、海上筑後八郎入道、木内七郎兵衛入道、東六郎、同次郎左衛門入道、神崎安芸次郎、多田左衛門五郎、粟飯原彦次郎、同虎王)「厳密可被致其沙汰」を命じている(応安七年九月廿七日「両使連署奉書写」『香取大禰宜家文書』114、115)

 そして、10月14日、惣領家被官の筆頭で、さきに両使の遵行を妨害した「式部丞政氏(円城寺政氏)が、自らを含めた惣領被官による神官領の押領、政氏自身が千葉介代として所帯し香取神宮への口入権限だったと思われる「国行事職」を手放すことを宣言した避状を、おそらく両使に提出した(応安七年九月廿七日「円城寺政氏避状」『香取大禰宜家文書』121)

●応安7(1374)年10月14日『円城寺政氏避状』(『香取大禰宜家文書』121)

避渡條々
一 実持実秋跡、自作田并所務事
一 夫雑役事
一 諸神官訴訟散在地半分事
一 死亡逃亡跡事
一 国行事職并良田町事
右於国行事職者、避渡申社家者、向後不可成違乱煩候、仍避状如件

   応安七年十月十四日    式部丞政氏(花押)

 安富・山名両使は、『円城寺政氏避状』と同日の10月14日付で様々な文書を発給しているため、円城寺政氏は両使と対面の上でこの避状をしたためたと思われる。同14日、両使は「灯油料所下総国風早庄内戸崎大堺関務事」について「千葉介殿」「実持并実秋跡輩致違乱」を命じ、「木内掃部助殿」には「木内庄内虫幡郷年貢以下神役」の沙汰の連署奉書を下した。また、同14日、香取神宮からすぐ南の「香取郡大槻郷内神田畠等」「沙汰付下地」のために安富・山名両使が現地打渡を行っており、当時、円城寺政氏と両使は神宮を宿所としていたか。

 この応安7(1374)年10月14日の避状と両使遵行を契機に、千葉惣領家被官と香取社との長年の抗争はひとまず終止符が打たれ、以降、満胤の名を以て諸政を専断してきた惣領家被官は影を潜め、千葉介満胤は主体的(一族一揆の支えはその後も継続されたのだろう)に行動するようになる。

康暦の政変(京都と関東)

 永和3(1377)年11月17日、関東公方氏満は「小山下野守殿」「宇都宮下野守殿」(半国守護か)に対して円覚寺の「当寺造営要脚棟別銭貨」につき、「度々被仰之処、無音云々、太不可然」とし、「可被致厳密之沙汰」を命じた(永和三年十一月十七日「関東御教書」『円覚寺文書』)。このように、下野国は小山氏政と宇都宮基綱が互いに覇権を競い、深刻な「確執」が発生していた。一方で、京都でもこの頃将軍義満の信頼厚い管領細川頼之に対する大名の反感が高まり、「康暦の政変」と呼ばれる管領の交代劇が起こっていた。

 永和5(1379)年2月11日に南都の「十市退治」のために派遣された「尾張左衛門佐、吉見右馬頭入道、一色入道、富樫助、赤松蔵人左近将監、近江勢、土岐勢」が、2月20日に「夜洛中騒動、仍被召南都発向之勢」たが、「廿二日左衛門佐、土岐勢、自上洛之路次没落」(『花営三代記』永和五年二月廿日条)といい、斯波義将や土岐善忠入道が上洛の路次に離反した。即日将軍義満は「土岐大膳大夫入道善忠依有陰謀企、被討伐之由、被成御教書於国々畢」(『花営三代記』永和五年二月廿日条)した。2月24日に「左衛門佐義将、自路次江州帰洛」(『花営三代記』永和五年二月廿四日条)とあるように、義将は帰洛をしているようである(やや文意が通らないが)。

 こうした中、関東では3月7日に「関東管領上杉自害、不知其故、或有鬱憤、或為狂乱」(『迎陽記』永和五年三月七日条)という関東管領「上杉刑部少輔入道(憲春入道)の自刃という事件が発生する(東坊城秀長は「後聞」を三月七日条に追記した)。憲春入道の自刃は土岐氏の離反との連動によるものとされ、「氏満逆意思召、道珍雖奉折檻、無承引、因玆、同七日道珍自害、依之、無御逆心」(『鎌倉大日記』)とあるように、氏満が政変に同調して逆意を抱いた結果、それを止めるため憲春入道が諌死したとされる。ところが、憲春入道が自刃したわずか4日後の3月11日、義堂周信が「入山内房州宅、蓋房州以府命、率関東諸軍、近将赴京師、按為討土岐也、前記有土岐謀反之事」とあるように、上杉憲方入道が関東の軍勢を率いて上洛するよう命じられている事、近日京都へ赴くがおそらく土岐(土岐善忠または土岐康行)を追討するためであろうという旨を義堂周信が直に憲方入道から聞いており(『空華日用工夫略集』永和五年三月十一日条)関東軍の上洛計画は将軍義満の土岐氏追討の御教書を受けたものであろう。また、憲春入道の自刃についても、彼の自刃後も憲方入道の上洛下命に変更はない事から、憲春入道自刃も京都の政変とは関係がない可能性が高いだろう。なお、『鎌倉大草紙』にあっては、以下の通りとなっている。

●『鎌倉大草紙』

永和五年己未三月三日改元 康暦に移る時に、美濃国土岐大膳大夫を嶋田か讒言にて御退治あり、又国々の御勢を召さるゝ間、関東よりは此時の管領上杉憲春の舎兄憲方入道道合を大将にして五百余騎、御旗を給り出勢す此時京都の働闘に付て内々進めし人有けるにや、鎌倉殿思召立事あり已に憲春に御評定あり、上杉憲春大に驚きいさめ奉るといへとも、御承引なし、思召定められたる御返事を承り、上杉諫めかねて我舘山ノ内へ帰りて内室を近付、思ひ立事あり、尼になりて給りてんやと宣へは、女房けしからぬ所望かなと打案しける、我男なから賢者第一の人也、あしさまの事ありとても、いかて背へきと思ひ安き御望みに候とて、則チ髪を剪て衣を仕立なとしけるを見て、憲春打笑み、無体の所望申つる也、後に思召し合い給へと立給ひし、氏満公御謀反叶間敷由を再三自筆に書置き、持仏堂へ入て則チ腹切給ひける、法名道珍と号す、鎌倉殿大に驚き給ひ、忽に京都の御望をやめられ、御後悔有て、卯月晦日に三島迄打立ける土岐(上杉の誤)安房入道道合に管領を被仰付、是は去月十日(3月10日)に発足しけるか、三島に帰留有て、領状を申上くる也、抑京都には美濃国の土岐も没落して公方の思召まゝに成行、又関東氏満御逆心あり、上杉申止めむために自害のよし風説ありし程に、かくて叶ふまじと也、鎌倉氏満公、京都に対し申野心を不存由、自筆の告文を書て、瑞泉寺の古天和尚を使僧として京都へ進せらるゝ、此和尚、夢窓国師の末弟子にて京公方御崇敬の僧也、和尚の申され様、去事なれは、京公方御納得ありて、同五月二日公方自筆ニて返事に子細なきよし被仰下間、関東諸家安堵の思ひなしける、同日京都ニて斯波治部少輔義将に管領職を被仰付と云々、

 憲方入道は3月12日以降に鎌倉を出立している(3月11日に義堂周信が山内館で憲方と対面し、土岐追討のため出陣する旨を聞いている)が、『鎌倉大草紙』では3月29日に三島へ着陣したという。4月15日当時、憲方入道は関東にはおらず、4月15日、義満は氏満に「上椙安房入道々合」を関東管領とすることを命じるとともに康暦元年四月十五日「将軍家御内書」『上杉家文書』46「上椙安房入道殿」にも早々に引き上げ関東のことを沙汰すべしと命じている康暦元年四月十五日「将軍家御内書」『上杉家文書』47。また、義満は5月9日、故能憲の譲状の通り、憲方入道道合を上野守護職に補任している。改めて補任しているのは、「上野国守護職」が能憲入道の「永和四年四月十一日譲状」の通り家督の憲方入道に改替されなかったことを意味しているか。能憲入道は譲状の六日後、4月17日に薨じており、それ以前に上野国守護職を譲られていた憲春入道から守護職が移譲されなかった可能性が高い。結局、このことが山内家当主ではない関東管領憲春入道(本来、家督が持つ上野国守護も兼帯)と、山内家当主憲方入道(家督だが関東管領職も上野国守護職も持たない)の深い軋轢となり、のちの憲春自刃へと繋がってしまうのではなかろうか。

●康暦元(1379)年4月15日『将軍家御内書』(『上杉家文書』46)

関東管領事、可被仰付上椙安房入道々合候也
  卯月十五日      義満(花押)
  左馬頭殿

●康暦元(1379)年4月15日『将軍家御内書』(『上杉家文書』47)

関東事、不日令帰参、可有申沙汰候也
   卯月十五日     (花押)
  上椙安房入道殿

●康暦元(1379)年5月9日『将軍家安堵下文案』(『上杉家文書』48)

  御判(義満)

上野国守護職事、任上杉入道々諲永和四年四月十一日譲状、所令補任也、守先例可致沙汰之状如件
  康暦元年五月九日
     上椙安房入道殿

 憲方入道を「関東管領事」に補任し、「左馬頭殿(氏満)」への御内書が記されたのは4月15日の事であり(康暦元年四月十五日「将軍家御内書」『上杉家文書』46)、これは必然的に憲春入道自刃の闕を埋める補任となる。『鎌倉大草紙』に基づけば氏満はまだ「告文」の提出をしていない状況にあり、その「御謀反」が解決しないうちに、当の「御謀反」者本人に、上杉安房入道を関東管領とするよう命じる事は考えにくく、同日、義満は「上椙安房入道殿」に対しても、「関東事、不日令帰参、可有申沙汰候也」(康暦元年四月十五日「将軍家御内書」『上杉家文書』47)との御教書を下しており、これらから考えれば、憲春入道の自刃は、憲方入道との管領職や上野国守護職(一旦憲春に与えられていたが、永和4年4月11日の譲状で、憲春から憲方へ「家督分」として移譲が指示)を巡る問題が大きな原因であろう。古天周誓の上洛も『鎌倉大草紙』以外には確認できないが、もしこれが事実だとしても、氏満の「御謀反」の傍証がないことから、現在残る義満の当時の関東への唯一のアクションである関東管領補任から考えて、関東管領の自刃に関わる弁明と考えてよい。

●永和4(1378)年4月11日『上杉道諲譲状』(『上杉家文書』45)

譲与 安房入道々合
右、至所帯等者、去々年永和二年五月八日、相副文書、悉譲渡訖、次上野国守護職事故入道道昌遺跡配分之外、此間以別儀雖申付刑部太輔入道々弥、可為家督分之間、自今以後、可令知行之、此外分余所々註文在別紙同可知行之状如件

   永和二二年四月十一日    道諲(花押)

 上杉憲房―+―――――――――上杉憲藤――上杉朝宗―――上杉氏憲
(兵庫頭) |        (修理亮) 【禅助】   【禅秀】
      |         ∥
      |         ∥―――――上杉朝房
      |         ∥    (弾正少弼)
      +―上杉憲顕――+―女子
       (道昌)   |
              |
              +―上杉能憲==上杉憲方
              |【道諲】  【道合】
              |
              +―上杉憲春
              |【道弥】
              |
              +―上杉憲方
               (道合)

 このころ京都では3月18日、「土岐大膳大夫入道御免之由、御書被下之」(『花営三代記』永和五年三月十八日条)され、土岐善忠は赦免となるが、3月26日、今度は「土岐入道使者上洛」しようとしたところ、「近江国守護、塞路次之由、依有其聞」ために上洛ができず(妨害した近江守護職は佐々木高秀)、義満は「不可有路次之煩、於佐々木佐渡大膳大夫者可誅伐之由、重被成御教書」(『花営三代記』康暦元年三月廿六日条)、翌3月27日に斎藤三郎左衛門尉が近江国へ下向している。これにより、佐々木高秀の妨げは停止されたとみられ、4月1日、「土岐美濃入道、同伊予八郎上洛」(『花営三代記』康暦元年四月一日条)した。これらの政治的混乱を受けて閏4月14日、管領細川頼之は管領を辞して出家し、京都から領国の四国へ渡海を図った。そして閏4月28日、「左衛門佐義将、可被為管領之由、被仰之」(『花営三代記』康暦元年閏四月廿八日条)と、斯波義将が新たな管領となる。これらの政変を「康暦の政変」とよぶ。

小山義政の乱(第一次)

 関東管領憲春入道の自刃、京都での「康暦の政変」が起こった翌年の康暦2(1380)年5月10日頃、関東では「於野州裳原、与小山義政、宇都宮基綱合戦」(『鎌倉大日記』)が勃発した。

 両者は「小山下野守義政与宇都宮下野前司合戦」(『花営三代記』康暦二年五月十六日条)し、「数日出合、合戦」(『迎陽記』康暦二年六月十六日条)ののち、「宇都宮討死之由有其聞之」(『花営三代記』康暦二年五月十六日条)という。この合戦の情報は5月24日に「渋谷入道沙弥道喜(渋谷遠江入道)が書状にまとめて京都の東坊城秀長にへ送り、6月16日に「関東小山、宇都宮合戦事注進到来云々、以外大儀也」(『迎陽記』康暦二年六月十六日条)という内容が伝えられた。宇都宮氏に対し敬語が用いられており、「渋谷入道沙弥道喜」は宇都宮方の人物であったことがわかる。

●康暦2(1380)年6月16日『迎陽記』より書状部分(『渋谷遠江入道状』)

宇都宮、小山合戦、今月十六日候宇都宮討死、御舎弟父子、君嶋子息、市庭、なハ以下、宗者八十余人被討、小山方には大内入道父子、親類三十余人討死候、佐島惣領、志筑嫡子、泰内二郎以下二百余人討死候由承候、委細を可申入候、
             渋谷入道
   五月廿四日      沙弥道喜

 関東公方氏満は、予てより小山義政と宇都宮基綱の確執を案じており、固く「加制止」ていた(康暦二年六月一日「関東御教書」『迎陽記』康暦二年六月一日条)。ところが、「不応上裁、義政依寄来基綱在所而」とあるように、小山義政はその制止を聞かずに基綱の屋敷に攻めかかったという。合戦が行われた場所は「裳原(宇都宮市茂原町)「防戦討死了」とあることから、基綱の屋形は「裳原」の台地上にあったのだろう。小山義政は貞治6(1367)年6月14日、下野守に任じられているが、これは基綱の父・宇都宮氏綱に替えて任じられたもので、このあたりに確執のもとがあったのかもしれない。

 この治安を乱し、宇都宮基綱を討った行為に対して鎌倉公方氏満は激怒。6月1日、「義政狼藉罪科難遁」と糾弾し、「東八ヶ国」の地頭に対して「所令進発也、不日相催一族等、馳参」し、小山義政の追討を命じたのだった。

●康暦2(1380)年6月1日『関東御教書』(『迎陽記』康暦二年六月一日条)

小山下野守義政与宇都宮下野前司基綱確執事、固雖加制止不応上裁義政依寄来基綱在所而、防戦討死了、義政狼藉罪科難遁之間、所令進発也、不日相催一族等、馳参、可抽忠功之状如件
  康暦二年六月一日
   東八ヶ国同前 
 ※本間山背左衛門四郎殿(『本間文書』)、茂木越中守殿(『茂木文書』)、別符尾張太郎殿(『別府文書』宛の同文書が残る)

 千葉介満胤に対する御教書は伝わっていないが、『千葉伝考記』によれば「去年(康暦2~3年)以来陣営にありて忠戦を尽せり」(『千葉伝考記』)とも伝わる。

 6月15日、「先上椙安房入道道合、同中務少輔禅助、木戸将監入道法季等」が発遣され(『頼印大僧正行状絵詞』)、武蔵国府中に着陣している。6月18日には常陸国の「鹿嶋兵庫大夫幹重」「鹿嶋烟田刑部大輔重幹」(康暦二年十月「烟田重幹軍忠状」『烟田文書』)、20日には相模国の「波多野次郎左衛門尉高道」(康暦二年九月十日「波多野高道軍忠状」『相模雲頂庵文書』)がそれぞれ国府に参じた。

 7月初旬、氏満は武蔵国府で小山家との合戦についての注進状をしたため、布施兵庫入道、三浦次郎左衛門尉を使者として京都に遣わした。この使者は7月14日「東使布施兵庫入道、京着、仝使節三浦次郎左衛門尉、未到云々、小山下野守事注進」(『花営三代記』康暦二年七月十四日条)とみえる。

 その後、鎌倉勢は「武蔵府中、村岡、天明」と北上したのち官道を東へ向かい、8月12日には鷲城の東大手道にあったと思われる大聖寺付近小山市東城南、西城南「大聖寺御陣取之合戦」が起こっている(康暦二年十月「烟田重幹軍忠状」『烟田文書』)。そして、8月29日「義政屋敷西木戸口合戦」(康暦二年十月「烟田重幹軍忠状」『烟田文書』)「小山城合戦」(康暦二年八月廿九日「常陸大掾軍忠状」『安得虎子』)が起こっている。このことから、「義政屋敷」は「小山城(鷲城)」の一郭で西木戸口があったことがわかる。「常陸大掾■幹」「怨敵首討」ために奮戦し、「鹿嶋兵庫大夫幹重」も戦功を挙げているように、常陸平氏がこぞって鎌倉方として奮闘したことがわかる。

 鎌倉方は鷲城を包囲し、義政の居住する曲輪もまた猛攻に曝され、ついに降参の旨を氏満へ遣わした。これを受け、氏満は頼印僧正を使僧として義政屋敷に派遣する。そして頼印は「義政ノ館ニ下著ス、義政降参之ヨシヲ歎キ申」(『頼印大僧正行状絵詞』)し、降伏を容れた。その時期は9月10日付の波多野次郎左衛門尉高道の軍忠状案の記述に「武州国府御陳以来至迄義政降参之期、致軍忠之上」(康暦二年九月十日「波多野高道軍忠状案」『雲頂庵文書』)とあるように、9月10日時点で義政は降参の意志を明確にしていて戦いは終わっている。9月21日に京都の東坊城秀長のもとに「小山下野守義政降参云々、関東注進到来」(『花営三代記』康暦二年九月廿一日条)しており、時期的な矛盾もない。

 そして9月19日、寄手の大将三人が小山を引き上げて氏満の「村岡ノ御陣参着」し、義政の参陣を待ったと思われる。

小山義政の乱(第二次)

 ところが、「然テ義政年内サン陣セズ」(『頼印大僧正行状絵詞』)とあるように、待てども義政が出頭する気配はなく、氏満は義政の不実の報告と小山追討の御教書の下賜を願うために被官「梶原」を上洛させた。

 12月28日、義堂周信は参府して管領斯波義将と遇し会話した際に「梶原上京、端為小山也」(『空華日用工夫略集』康暦二年十二月廿八日條)ことを聞いている。翌12月29日、「関東使者梶原至、出鎌倉殿書、嘱以小山事」という(『空華日用工夫略集』康暦二年十二月廿九日條))。これにつき義堂周信は「是日、応召入府、々君曰、小山事従関東請」という。

 年が明けて康暦3(1381)年正月12日、「梶原来謁、小山対治、請賜白旗一揆」(『空華日用工夫略集』康暦三年正月十二日條)という。当時、武蔵国や上野国には「白旗一揆」が勢力を持っていたが、「請賜」ということから、白旗一揆は京都直轄の氏族集団(武蔵国は関東管領の兼国、上野国は管領憲方の守護国であるが、白旗一揆は大きな損害が発生すると単独で帰国するなど、特殊な位置づけの集団だったのかもしれない)だったことがわかる。彼らは後述のように独立した行軍をしており、鎌倉の指示系統には入っていなかったようである。

 そして正月18日、「入夜梶原来出、府君書征伐小山、即日所書」とあり、義満は小山義政征伐の御教書を梶原に給い、梶原は義堂周信にその報告をしている(『空華日用工夫略集』康暦三年正月十八日條)。これにより小山義政追討は名分上は京都将軍家の命による公戦となったのである。

 将軍家から小山追討の「京都御教書」(永徳元年十月廿三日条「足利氏満軍勢催促状」『秋田藩家蔵文書』)を得た氏満は、その名分を以て、2月15日に「今度ハ上椙中務少輔入道禅助、木戸将監入道法季、両大将トシテ先陣」として出陣。鎌倉勢は鎌倉街道を北上し「村岡御陣熊谷市村岡を経て上野国から下野国へ入り、4月には「足利御陣足利市へと進んだ。「四月廿六日」(永徳二年二月「武州白旗一揆塩谷行蓮軍忠状」『中村直勝博士蒐集古文書』)以前から5月にかけて「天名佐野市犬伏町周辺(永徳元年十二月「善波胤久着到状写」『相州文書』)に滞陣した。

 ところが、5月になると「於武州依新田方蜂起」(永徳二年四月廿日「長谷川親資軍忠状」『武蔵江田文書』)しており、対応のために一部は武蔵国へと向かっている。小山攻めには上杉禅助入道と木戸法季入道の両大将が参戦していることや、軍忠状の承了判の該当者が不明(氏満近臣歟)であるところから、新田攻めの対応は氏満自らが務めている可能性がある。新田勢は「岩付岩槻市辺りに出没しており、鎌倉勢は5月13日、「長井、吉見御陣熊谷市上根比企郡吉見町を経て岩付の戦いで「追落敵候畢」(永徳二年四月廿日「長谷川親資軍忠状」『武蔵江田文書』)という大勝を収める。その後、小山へ向かう経路で「太田庄凶徒等御対治」し、「向于小山鷲城」った。「太田庄凶徒」は岩付で四散した新田勢か小山勢かは定かではないが、太田庄は小山氏発祥の地でもあり、所縁があったとすれば、タイミングから考えても小山義政は新田氏を使嗾していた可能性も比定できないだろう。

 一方、武蔵へ向かわなかった上杉禅助入道と木戸法季入道の軍勢は、「岩船山栃木市岩舟町小玉塚」(永徳二年二月「武州白旗一揆塩谷行蓮軍忠状」『中村直勝博士蒐集古文書』)へと進み、5月27日には「児玉塚」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)の木戸法季陣に「鹿嶋兵庫大夫幹重」及び「鹿嶋烟田刑部大輔重幹」が馳せ参じ、6月12日、6月26日には「本沢合戦」小山市上泉」、同6月26日には「千町谷御合戦」(永徳二年二月「武州白旗一揆塩谷行蓮軍忠状」『中村直勝博士蒐集古文書』、永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)と合戦が続いた。

 7月18日には「中河原合戦」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)、7月29日には「粟宮口日々夜々野臥合戦」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)があり、8月12日には、寄手が鷲城に取り付き、上杉中務入道禅助率いる軍勢が「為鷲戸張口及合戦」(永徳元年十二月「善波胤久着到状写」『相州文書』)「木戸左近将監入道法季」率いる軍勢が「鷲城陣取合戦」(永徳元年十月三日条「足利氏満感状」『茂木文書』、永徳二年二月「武州白旗一揆塩谷行蓮軍忠状」『中村直勝博士蒐集古文書』)「鷲城於東戸張口」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)で合戦している。

 8月18日には「新城外城没落之時合戦」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)と「新城(長福城?)」の外城で寄手側の何らかの進展があった様子がうかがえるが、小山勢の城や陣は「其陣広ク遠クシテ、鳥ノトブ事雲衢ニ迷フ」というほど堅牢であり、氏満は「計ゴトヲ垂帳ノ外ニメグラ」し、義政も「野臥ヲ四方ニ放テ、御方ノ通路ヲ塞ギ、火事夜々発テ、諸陣安穏ナラズ」と激しい抵抗を見せ(『頼印大僧正行状絵詞』)、戦いは膠着状態となっていく。

 10月15日に「夜合戦」(永徳元年十二月「善波胤久着到状写」『相州文書』)で、「夜鷲城放火之時、被切崖合戦」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)などの接戦もあるが、氏満はさらに神仏の加護を頼むべく、10月25日、「小山義政対治御祈祷のために参陣すへきよし、御書」(至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)を護持僧の遍照院「院主(頼印僧正)に下した。これと同時期に「即審、小山城潰者二所」(『空華日用工夫略集』永徳元年十一月九日条)という報告を京都に発しており、11月9日に義堂周信が受信している。小山城(鷲城と思われる)の曲輪が二か所潰されたという意味か。

 氏満から小山陣への招聘を受けた頼印僧正は「厳命そむきかたきによりて」(至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)、11月9日に鎌倉を出立(『頼印大僧正行状絵詞』)。11月12日に太田範連の陣所へ参着した(『頼印大僧正行状絵詞』、至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)。そして、頼印僧正は翌11月13日から「六字経法」の修法を開始する。

 11月16日夜には上杉禅助勢が「外城■破壁、向内城」(永徳元年十二月「善波胤久着到状写」『相州文書』)し、、「島津左京亮政忠」は先陣に属して負傷している(永徳二年四月「嶋津左京亮政忠軍忠状」『安芸島津文書』南北4087)。また、「武蔵上野之白旗一揆」「両大将ニモ案内セス」「鷲ノ外城小山市外城に攻め入るなど独立した行動をとっており、これは「十六日、はからさるに当国一揆、鷲外城をせめおとし畢」(至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)からも裏付けられる。そして12月2日、義堂周信のもとに「関東飛脚至、小山鷲城破、潜移入祇園城、一族降者矣」(『空華日用工夫略集』永徳元年十二月二日條)という報告が届けられた。

 鷲城は外城が陥落するも、北側の内城はいまだ健在で戦闘は継続している。12月6日の合戦では「鷲城堀填」により鷲城は丸裸となる。その際の合戦は熾烈を極め、武蔵上野の白旗一揆勢は「御方手負八百余名、打死三人也」という損害を受け、「手負死人ノ一党各帰国ノ間、陣中無人也」となるほどであった。ただ、この日、木戸法季は嶋津政忠らに「為西方通路可至警固」を命じ、嶋津政忠は「三谷信濃守所領内取野陳、差塞御敵通路、至警固」(永徳二年四月「嶋津左京亮政忠軍忠状」『安芸島津文書』南北4087)したことで、鷲城は完全に孤立した状態になったと思われる。翌12月7日の合戦も鎌倉方の損害は大きかったが、小山氏側の損害も相当なものだったと思われ、翌「八日、義政禅僧ヲモテ、両将へ申テ云」うには「某降ヲユルサレバ、出家シテ大衣ヲ着スヘシ、然ハ若犬丸カ出仕ヲユルサルベシヤ」(『頼印大僧正行状絵詞』)と、ついに降伏を請うに至った。

祗園城
小山祇園城址

 これを受けた上杉中務入道と木戸将監入道の両大将は、氏満にこの旨を伝えると、氏満は信用できないが降伏を受け容れることとし、「布施入道得悦ヲ奉行トシテ御教書」を遣わした。これに応じた小山義政は、12月9日に「鷲ノ城兵二百余人、甲冑ヲ帯シテ白昼ニ祇園城ヘ入」り、翌12月10日、鷲ノ城の城兵は「木戸ヲ開テ両将ニワタス、則チ御方勢入カハル者也」と鷲ノ城の接収が完了する。このほか「祇園、新城、岩壺、宿城等、悉ク城ヲ披テ御方出入」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)、「五箇所鷲城、祇園城、岩壺城、新々、宿城、木戸をひらゐて降参」(至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)、して「至于義政出家、若犬丸降参」(永徳二年二月「烟田重幹着到状」『烟田文書』)「剰出家をとけて大衣を着し、号永賢」(至徳四年七月『頼印申状案』「相模明王院文書」南北4363)とあるように義政は出家(下野入道永賢)し、嫡子若犬丸が氏満のもとに降参して、戦いは終結した。12月10日の小山落城は間違いなく「去十日、鷲城以下所令没落也」(永徳元年十二月十三日「足利氏満御判御教書」『明王院文書』)と見える。

 12月12日、「義政髪ヲ剃、大衣ヲ着スルヨシ」を上杉禅助、木戸法季の両将に伝え、これを聞いた氏満は「大ニ悦テ、梶原美作入道并三浦次郎左衛門尉、相共ニ実検之為ニ遣」したところ、彼らは実際に義政の法体を確認し「事虚ナラサルヨシ」を氏満に報告する。これを以て「小山若犬丸出仕ヲ免」ぜられて「降参一族三人出仕」とし、氏満は太刀や馬などを若犬丸に遣わした。若犬丸は祇薗城に帰参すると、12月14日、ふたたび氏満を訪れて「太刀鎧甲竜蹄二疋」を献上。これを聞いた人々は「三年ノ辛労一時ニ眉ヲヒラク」と安堵したという(『頼印大僧正行状絵詞』)

 氏満は小山氏の乱を平定したことを京都の義満に報告しており(注進状は残っていない)、永徳2(1382)年正月25日、義堂周信は「中吾(心月中吾)をして「府君、管領以下三十二封」とともに「賀小山平」の書状を関東に遣わした(『空華日用工夫略集』永徳二年正月廿五日條)

小山義政の乱(第三次)

 ところが、その四か月余りのちの「去月廿二日夜、小山下野守義政法名永賢没落祇薗城」(永徳二年四月「兼子家祐軍忠状」『長門金子文書』南北4085)「去月廿二日夜、依令没落小山下野入道永賢祇薗城」(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)「三月廿二日夜没落祇園城」(永徳二年四月「嶋津左京亮政忠軍忠状」『安芸島津文書』南北4087)とあるように、永徳2(1382)年3月22日夜、小山義政入道は祇園城を脱出した。「永賢并若犬丸、祇薗城ヲ放火」(『頼印大僧正行状絵詞』)ともされる。

 義政は祇園城直下の思川で繋がる堅牢な支城「糟尾山構城郭楯籠」鹿沼市中粕尾とあることから、事前に隠していた兵船を夜陰に紛れて思川に浮かべて脱出したのだろう。こうして義政入道は鎌倉に対して三度目の反旗を翻した(永徳二年四月「兼子家祐軍忠状」『長門金子文書』南北4085)

 ただ、氏満は一次の際とは異なり、軍勢を武蔵国へ引き上げずに駐留させたままにしている。二度目の反旗の際にも赦しているが、心中は「信用セラレズ」(『頼印大僧正行状絵詞』)とあるように、油断していなかった。3月23日、挙兵の報を受けた氏満は早速「問注所入道浄善、野田入道等忠」を使者として上杉・木戸の両将「諸軍ヲ卒シテ急キハツ向スヘキヨシ」「一日ニ両三度問答有リ」という(『頼印大僧正行状絵詞』)。ところが、「両将命ニ随ハス、ツヰニ廿五日ニハ申キリテ、立ヘカラザルヨシ治定ス」というように、上杉、木戸両将はここは出陣すべきではないと言い切ったという(『頼印大僧正行状絵詞』)

 これには氏満も驚き、3月26日早旦、氏満は頼印僧正のもとを訪れて「両使ヲ以テ三ケ日問答ストイヘトモ、中務入道禅助固辞スルアイダ、術ヲ失フ者也、所詮其憚アリトヘトモ、尊駕ヲ彼ガ方ニ屈シテ、愚慮ヲ伝ヘ給ヘ」頼印僧正に禅助の説得を依頼したという(『頼印大僧正行状絵詞』)。これに応じた頼印僧正は、禅助の陣へ向かい「問答スル事両度ニ及」んだ結果、説得に成功。禅助は「来廿九日、進ハツスヘキヨシ」を述べたという(『頼印大僧正行状絵詞』)

 小山討伐がようやく決定された3月26日、氏満は「祇薗城以下没落事、急承候、喜入候」(三月廿六日「足利氏満書状」『館山市博物館所蔵文書』南北4077)とあるように、祇園城の陥落を「若宮殿」より報告を受けたことを喜び、小山対治は「不可有幾候歟」と返事をしている。また「祇園城没落、誠目出候」という宛名のない書状も遺されているが(三月廿九日「足利氏満書状」『喜連川文書』)、宛先は明らかに氏満よりも目上となることから、被害を出すことなく祇園城を落手し、将軍家御教書のとおり小山氏を追い落としたことを将軍義満へ報告した文書となろう。

●永徳2(1382)年3月29日『足利氏満書状』(『喜連川文書』)

祇園城没落、誠目出候、就之、承候之条、畏入候、恐惶敬白

  三月廿九日      氏満(花押)

 糟尾城へ遁れた義政入道を追討するべく、上杉禅助と木戸法季率いる鎌倉勢は小山に展開していた軍勢を進めることになるが、要害が重なる思川流域ではなく、永野川流域から山を越えて思川流域を攻める戦略をとる。

 3月30日、常陸鹿嶋勢は大将某の「吹上御陣栃木市吹上町に参着(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)。4月5日には木戸法季勢の嶋津政忠らが「罷向長野焼払要害」(永徳二年四月「嶋津左京亮政忠軍忠状」『安芸島津文書』南北4087)った。「長野」の要害が現在どこに比定されるのかは不明だが、永野川と南北の山がもっとも迫る狭窄地栃木市星野町あたりか。この三日後の4月8日、常陸鹿嶋勢が「令供奉長野御陣」(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)し、二つの鎌倉勢がここで合流する。

 その後、鎌倉勢の部隊は長野から糟尾方面へ山越え(大越路峠)し、4月11日には「寺窪城(天狗沢城か)に攻め寄せて(永徳二年四月「嶋津左京亮政忠軍忠状」『安芸島津文書』南北4087)、翌12日に「追落糟尾寺窪城」(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)した。「寺ボリ之城ヲ襲フ、一戦ニ及ハズ弓箭ヲ捨テニグ」(『頼印大僧正行状絵詞』)ともあるが、攻めてから追落しまでに1日要していることから、小山勢の抵抗があったことがわかる。

 鎌倉勢は寺窪城を落すと、そのまま「櫃城(逼ノ沢城)」へ襲いかかっており、常陸鹿嶋勢は「即時仁罷櫃城、責登南山致合戦訖」し、嶋津政忠も「馳登逼ノ沢城」して「取陳至日夜合戦」している。

 「櫃城(逼ノ沢城)」は、

(1) 南側に攻口を持つ(思川の沢か)山城 『南北朝遺文』関東編4087
『南北朝遺文』関東編4088
(2) 諸軍櫃沢之城ニソノソム、御方気ヲ得テ、嶮ヲ履事平地ノコトシ、
強ヲ挫クコト枯ヲ折ルニ似タリ、然カシハ、永賢父子一族夜ニ入テ没落ス
『頼印大僧正行状絵詞』
(3) 4月12日の「櫃城」攻め直後の12日夜に義政入道は城から没落している 『南北朝遺文』関東編4088

 という記述から考えると、「櫃城(逼ノ沢城)」は義政入道が籠った糟尾城そのものを指している可能性が高い

 しかし、小山方は衆寡敵せず、4月12日夜に「永賢没落」(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)「永賢父子一族夜ニ入テ没落」(『頼印大僧正行状絵詞』)し、「同十三日、追手ヲ掛ル所ニ、巳刻計ニ永賢ヲ取囲ムアイダ、山中ニテヲイテ」(『頼印大僧正行状絵詞』)義政入道永賢は「至于腹切」(永徳二年四月「烟田重幹代井河信吉軍忠状案」『烟田文書』南北4088)した。義政入道の嫡男若犬丸は「行方ヲシラズ」(『頼印大僧正行状絵詞』)という。

◆小山・結城氏略系図◆

                    +―下妻長政 +―藤井時村                       +―小山朝郷
                    |      |                            |(左衛門尉)
                    |      |                            |
 小山政光―+―小山朝政―+―小山朝長―+―小山長村―+―小山時長――――小山宗長―――小山貞明―――小山秀朝―+―小山氏政―+―小山義政小山若犬丸
(四郎)  |(播磨守護)|(播磨守護) (播磨守護) (下野大掾)  (播磨守護) (下野大掾) (下野守)  (左衛門佐)|(下野守)
      |      |                                                 |
      |      +―薬師寺朝村――村田政氏                                     +―娘  +―結城満広
      |       (左衛門尉) (左衛門尉)                                      ∥  |(七郎)
      |                                                          ∥  |
      +―長沼宗政                                                     ∥――+―小山泰朝
      |(淡路守)                                                     ∥   (下野守)
      |                                                          ∥
      +―結城朝光―――結城朝広――+―結城広綱―――結城時広―――結城貞広―――結城朝祐―+―結城直光――――――――――結城基光
       (左衛門尉) (大蔵権少輔)|(上野介)  (左衛門尉) (左衛門尉) (左衛門尉)|(中務大輔)        (弾正少弼)             
         ∥           |                           | 
         ∥―――――山川重光  +―結城祐広―――結城宗広―+―結城親光        +―結城直朝
         ∥    (左衛門尉)  (左衛門尉) (上野介) |
 千葉介成胤―――娘                         | 
(千葉介)                              +―結城親朝―――結城顕朝―――結城氏朝―――結城直麻
                                    (大蔵権大輔)(弾正少弼) (弾正少弼) (中務少輔)

 義政入道を追討した上杉中務入道禅助は、氏満の陣へ「来ル十五日、永賢カ頸ヲ持サンスヘキヨシ」を注進。氏満は頼印僧正へ「廿日之内ニ頸ヲ見ルヘキヨシ、先日承リキ、今日廿日ニアタル、他心知リ不思議、ハシメサル事ナリトイヘトモ、イヨ々々頼モシク存ルモノ也」という書状を遣わしている(『頼印大僧正行状絵詞』)

●永徳2(1382)年4月15日『足利氏満感状』(『相模明王院文書』)

大小金剛護摩二十七ケ日未満、永賢自害了、祈念之至、超常篇者也、尤以神妙、弥可被致祈祷精誠之状、如件

  永徳二年四月十五日      (氏満花押)
   遍照院僧正御房

 5月8日、権大納言実冬のもとを「僧丘」が訪れ「小山、去月中末比没落、而追手懸之間、依難遁切腹了、彼頸既上洛、近日可京都之由有其説」(『実冬公記』永徳二年五月八日条)とあるように、小山義政入道の首級は上洛する噂が立っていた。その後、実際に上洛したかは定かではないが、後年、結城氏朝の乱が勃発した際は、主要な人物の首級は上洛していることから、小山義政の首級も上洛の上、曝されたのだろう。

 6月7日、等持寺での宝筐院忌に際して「府君、管領臨駕」のとき、義堂周信が義満と談話していたときにたまたま「及関東御山滅亡事」んだ際に、義満は「必神罰也」と述べている(『空華日用工夫略集』永徳二年六月七日條)

小山若犬丸の乱と小田氏の乱

 永徳2(1382)年9月29日、夢窓疎石国師の三回忌に際し、義堂周信は将軍義満と「府君話及関東事」した。関東からは小山の乱に伴う京都をも含めた何らかの不穏な風聞があったとみえ、義満はこの対応を周信に問うたと思われる。これに周信は「勿聴讒言、則天下安全、若一念動、則天下動、一切毀誉不動、則内外魔不能侵」(『空華日用工夫略集』永徳二年十月十一日条)と諭し、義満も「點心罷」った。

 10月11日、「自関東、出鎌倉殿并管領上杉書、蓋小山跡事」が京都に届いたことが義堂周信に知らされた。義堂周信は実見しておらず、小山跡に関するものだろうと推定している(『空華日用工夫略集』永徳二年十月十一日條)が、29日に参府すると「就関東幕府并管領書小山茂木等事」(『空華日用工夫略集』永徳二年十月廿九日条)であった。これは等持寺に「幾乎三十封、専為宝筐院忌料、新賜下野州茂木庄半分小山跡事」につき、義堂周信が永徳元(1381)年11月29日に「作関東書」って「中詳監寺為寺家使」として「鎌倉殿并管領以下、又京之公帖并施行等之案文共三十二通遣之関東」に関することか(『空華日用工夫略集』永徳元年十一月廿九日条)

 なお、この「関東幕府」なる表現は義堂周信が著した詩文集『空華集』でも使われている周信が頻繁に用いる独自の雅表現である。「貞治甲辰夏、朝廷有旨、関東幕府始置行宣政院、以十州管内禅教諸刹属焉」(『空華集』十九疏)という「関東幕府」と同列で用いられている「宣政院」とは、「貞治三年六月…佐々木判官為禅律二教総管」(『東海一漚集』洞春菴別源禅師定光塔銘)という貞治3(1364)年に設置されたという禅律宗の統制機関(禅律奉行か)を指す言葉で、元国の宗教統制機関名で表現した雅表現である。ほかに「府君」や、「大丞相」(『空華日用工夫略集』至徳元年閏九月十八日条)「伊豆副刺史大石并和田」(『空華日用工夫略集』至徳元年四月一日条)というように周信は唐名を日記や詩文に用いており、「関東幕府」という言葉は現実に用いられていた言葉ではない。また、鎌倉殿を指して「関東将軍家」と記す文書もあるが(康応二年七月五日「大中臣長房神物請取状」『香取田所文書』南北4500)、他用はなく関東の足利家当主または関東の左兵衛督を指す修辞であろう。

 12月14日、義堂周信が斎のために参府した際に義満と「府君話及関東幕府、武威殺罪等事」について語り、周信は「府君但行慈悲、則与仏在世無異也」(『空華日用工夫略集』永徳二年十二月十四日条)と返事をしている。小山氏追討のことに言及したものと思われ、義満は武威ではなく仏在世のように慈悲の心を持って諸事臨むよう諭した。

 ところが12月24日、義堂周信が参府して義満からの迎えを受けて邸内泉館に移った際に「話及関東事、問鎌倉殿有与余孤負之意否」と問われ、周信は「余曰、不也、伏乞殿下勿信流言」と氏満にそのような心はないと述べ、義満も「府君頷之」と一応は納得している(『空華日用工夫略集』永徳二年十二月廿四日条)。なぜ義満がこのような質問をしたのかは定かではないが、義満は弱冠二十五歳の揺れ動く心理状況にあり、氏満が「孤負之意」を抱いているという風聞を得て不安を感じていた様子がうかがえる(『空華日用工夫略集』永徳三年八月七日条)

 その後も義満は氏満に対する不審を払拭できず、永徳3(1383)年6月に氏満が「竊有隠居瑞泉之志」という風聞が京都に齎され、「故府君怪之」ったという(『空華日用工夫略集』永徳三年八月七日条)。この氏満隠遁の噂が事実かは不明だが、氏満には当時六歳の嫡子金王丸がいるため、実際にこうした動きがあった可能性も否定はできない。

 8月5日にも義堂周信は管領邸を訪れて「和会関東事」について話し合っており(『空華日用工夫略集』永徳三年八月五日条)義満は変わらず関東に不審を抱いていたことがわかる。その二日後の8月7日、宝筐院忌に参じた義満は周信と「独与余話、及関東事」んだ(『空華日用工夫略集』永徳三年八月七日条)。これは6月の「鎌倉殿、去六月竊有隠居瑞泉之志、故府君怪之」の問題を義満が相談したものだが、周信は「東西両府和解、可以安天下也、伏願、殿下莫聴小人讒言」と諭すとともに、「京師、鎌倉五山十刹諸山住持、宜挙叢林知名之士、以遏妄庸進之弊」と語ると、義満は頷いた。禅僧と政治が密接に関わっていた当時にあって、京都が関東の五山任免権も有していたことを通じて、有能な人物を関東禅刹の住持とすることで都鄙誤解が生じないよう諭したものである。

 8月26日、義堂周信は管領邸に赴くと、「与説関東并信州之事、領出鎌倉殿及管領上杉書」(『空華日用工夫略集』永徳三年八月廿六日条)と、氏満と関東管領上杉憲方入道からの関東の情勢と信濃国に関する問題(守護は管領弟斯波義種で守護代は二宮信濃守。小笠原氏との間での抗争か)のことに関する書状を確認している。そして翌至徳元(1384)年3月27日、「鎌倉殿洎管領二書至、蓋為助成相国寺造料」といい、翌3月28日、「出呈昨日関東二書、府君喜助成」(『空華日用工夫略集』至徳元年八月廿七日条)と相国寺造料を関東が助成する旨に義満は喜んだという。

 至徳2(1385)年6月30日、等持寺で行われた等持院忌で義堂周信は管領義将に召し出され、「関東幕府并管領上杉二月之書」について問われた(『空華日用工夫略集』至徳二年六月卅日条)。2月に氏満と上杉憲方入道からの書状は「河超、高坂等事」とあり、応安元(1368)年の武蔵平一揆の残党による挙兵があったのかもしれない。

 小山義政入道の叛乱は鎮定されたものの、その嫡子若犬丸は逃亡して行方知れずとなっていたが、至徳3(1386)年5月27日、「小山若犬丸打出テ、下野国祇薗城ニ楯籠」て挙兵した。鎌倉には「同廿九日、方々ヨリ早馬参ル」という状況だったが、まず下野守護木戸法季入道の守護代木戸修理亮がすぐさま対応し、6月5日に「羽田御陣佐野市下羽田付近、6月14日に「阿曾沼之御陣佐野市浅沼町を経て、6月16日「当国守護ノ代木戸修理亮、多勢ヲ卒シテ、同国ニフルウ山ニ陣」を取った(『頼印大僧正行状絵詞』)。「フルウ山」は古枝山栃木市岩舟町古江である。その後、小山祇薗城へと向かったのだろう。6月18日に「御合戦」(至徳四年八月「嶋津政忠軍忠状」『下野嶋津文書』南北4370)となり、嶋津左京亮政忠「自身散々太刀打仕」(至徳四年八月「嶋津政忠軍忠状」『下野嶋津文書』南北4370)という激戦になったようだが、「若犬丸勢競来テ散々ニ合戦ニ及ケルアイダ、守護勢打負テ、足利庄ヘ引退ク」(『頼印大僧正行状絵詞』)と、守護代木戸修理亮の手勢は大いに破られたようである。その後、木戸修理亮勢は7月2日には「古河御陣古河市と小山城の南へ移り、7月4日には「赤塚御陣野木町南赤塚付近に滞陣している(至徳四年八月「嶋津政忠軍忠状」『下野嶋津文書』南北4370)

 また、下野守護代木戸修理亮が6月18日合戦で敗走したことを知った氏満は、みずから出陣を決定すると、7月2日に「御所御発向アルヘシ、院主同道申サルヘキヨシ、及政ヲ使トシテ仰ラルゝアイダ、辞申サレカタキニヨリテ、供奉セシメ玉」って鎌倉を出立し、小山へ向かった。なお、このとき「御進発之間、於相模国軍勢等者、可致鎌倉警固之由被仰出」ことを命じている(至徳三年十一月「波多野高通着到状案」『』南北4334)

日にち 鎌倉殿氏満
の動向
下野守護代
木戸修理亮の動向
鎌倉留守 小山若犬丸
の動向
出典
5月27日       祇薗城に籠城 『頼印大僧正行状絵詞』
6月5日   羽田御陣     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
6月14日   阿曾沼之陣     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
6月16日   古枝山に布陣     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
『頼印大僧正行状絵詞』
6月18日   御合戦(小山か)     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
7月2日 鎌倉を出立 古河御陣 相模軍勢に
警固を命じる
  「烟田重幹軍忠状案」南北4320
『頼印大僧正行状絵詞』
「波多野高通着到状案」南北4334
7月4日   赤塚御陣     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
(7月4日辺り) 武蔵府中着陣       「烟田重幹軍忠状案」南北4320
7月7日 赤塚御陣 (合流)     「烟田重幹軍忠状案」南北4320
7月8日 千駄塚御陣 千太塚御陣     「烟田重幹軍忠状案」南北4320
7月10日   合戦で嶋津政忠負傷     「嶋津政忠軍忠状」南北4370
7月12日 塔本御陣       「烟田重幹軍忠状案」南北4320
7月12日       祇薗城を脱出 「烟田重幹軍忠状案」南北4320
『頼印大僧正行状絵詞』
11月   御帰     「波多野高通着到状案」南北4334

 鎌倉を出た氏満勢は、まず「武蔵国符中」に着到(至徳三年七月「烟田重幹軍忠状案」『烟田文書』南北4320)した。府中着神は7月3~4日であろう。その後、7月7日に「赤塚御陣野木町南赤塚付近で木戸修理亮勢と合流し、翌7月8日「千駄塚御陣小山市千駄塚、7月10日「塔本御陣小山市土塔付近かと小山勢を破りながら小山祇薗城に迫った(至徳三年七月「烟田重幹軍忠状案」『烟田文書』南北4320)。塔本陣は鷲城の東大手を押さえる地で、祇薗城の南一帯は氏満勢に押さえられた状態となっていた様子がうかがえる。そして、7月12日夜、「若犬丸于没落」(至徳三年七月「烟田重幹軍忠状案」『烟田文書』南北4320、『頼印大僧正行状絵詞』)して祇園城が陥落。若犬丸の叛乱はいったん鎮定された。ただし、氏満は「猶行末ヲ尋ラレムカ為ニ、下総国古川郷ニ陣ス」(『頼印大僧正行状絵詞』)という。その後、氏満は11月まで古河に滞陣して若犬丸の動向を探ったのち、鎌倉へ帰還した(至徳三年十一月「波多野高通着到状案」『』南北4334)

 その後、若犬丸の動きは知られず、比較的安定した状態が半年ほど続いている。この間に円覚寺最奥の黄梅院に華厳塔を建造するための勧進が行われており、至徳4(1387)年5月には、「瑞鹿山円覚禅寺黄梅院重建華厳塔」についての勧進が行われ、勧進の人々として「左丞相征夷大将軍 左大臣(義満)」「左兵衛督(氏満)」「左衛門佐(義将)」が連名で署名・押印し、続けて「妙葩(春屋妙葩)」、「周信(義堂周信)」、「周応(曇芳周応)の「大智」三名、円覚寺住持「存円(存円天鑑)」と続いた(「黄梅院華厳塔再建勧進帳」『相模黄梅院文書』南北4346)

●至徳4(1387)年5月『黄梅院華厳塔再建勧進』(『相模黄梅院文書』)

瑞鹿山円覚禅寺黄梅院重建華厳塔勧縁小偈并寂
 …
 諸檀那、揮金成此勝事、則合尖一句、不待挙而圓矣、偈曰、
 昔日浮図堕却灰、従新架起奈無材、直将大地為檀越、玄度何時不再来
   至徳四年丁卯夏五   周信謹識
      幹縁比丘
      都勧縁比丘 昌遵

 証明 左丞相征夷大将軍
  左大臣(花押:義満)
    左兵衛督(花押:氏満)
        左衛門佐(花押:義将)

 大智 妙葩    十貫文
    周信    
    周応    馬一疋
 円覚 存円    参貫文
          薄助    周敦
 助縁 臨川中嵩
 薄助 相国明応  薄助    周格
 随分 宝筐周佐  薄助    征脈周勛
 ……

 ところが、同5月頃、古河で若犬丸の動向を探っていたと思われる氏満の近臣「野田入道等忠」「古河ヨリ召人一人搦進」めた。野田が「子細ヲ尋ラルゝ処ニ、小山若犬丸、恵尊カ館ニ居住シテ、野心ヲサシハサムヨシ白状」(『頼印大僧正行状絵詞』)したという。恵尊は常陸国守護「小田讃岐入道恵尊(小田孝朝)で、小山義政入道追討後に関東の大名中でも「随一」という勢力を誇った人物であった。

 氏満はこの報を聞くと、6月13日に「恵尊并子息二人召籠メラレテ、人々ニアヅケラルゝ処也」(『頼印大僧正行状絵詞』)という。若犬丸が匿われていたという「恵尊カ館」は、当然ながら鎌倉の小田亭ではなく、本拠の小田であろう。小田孝朝入道は常陸守護として鎌倉常府であり、若犬丸の隠匿は小田孝朝入道の命ではなく在地の子息と執事信田某らが主導した可能性もある。

 その後、氏満と管領上杉憲方入道は小山若犬丸の追捕のため小田城攻めを行うが、その旨を京都へ報告していたとみられ、7月22日、義堂周信が御所に「参府」「出関東幕府左武衛将軍并管領上杉房州回書」(『空華日用工夫略集』至徳四年七月廿二日条)している。

 7月19日、氏満は「為小田讃岐入道子息以下輩、御退治大将御発向」(嘉慶二年六月「武州北白旗一揆高麗清義軍忠状」『武蔵町田文書』)として「上椙中務少輔入道禅助大将」として小田へ進発させたが、この報を聞いた小田方は小田城を放棄して「男体山ニ恵尊子息両人、執事信田已下、若党一族悉楯籠」った。禅助は多勢を率いて筑波山の男体山山麓に布陣して固めたが、男体山は要害であったために攻められず、滞陣となった。

 また、鎌倉から小田へ向かった武州北白旗一揆の高麗清義は、7月27日「常州布川御陣(本来総州ではあるが鎌倉街道が貫通する利根町布川、8月10日に「小田御陣つくば市小田に着陣して、ここで上杉禅助の軍勢と合流したのだろう。また、「小田発向事」を命じられていた結城弾正少弼基光「令致其用意」して小田へ兵を進めていたが、8月5日に「可令警固祇薗城之由、自大将重所被仰」(至徳四年八月五日「結城基光軍勢催促状」『下野島津文書』)と「大将(上杉禅助入道か)」から祇薗城の警衛へと持場の変更の指示があった。男体城が簡単に攻め難いことと、若犬丸の脱出を警戒した対応であろう。

 この直後、寄手の一部(武州北白旗一揆勢か)が、8月17日に「志筑御陣かすみがうら市中志筑付近、19日「山崎御陣石岡市山崎、20日「岩間御陣笠間市下郷)、28日「朝日山御陣笠間市上郷(嘉慶二年六月「武州北白旗一揆高麗清義軍忠状」『武蔵町田文書』)と、筑波山の東山麓を北上しているが、男体山の北東側(鬼門)から攻めるためか、または若犬丸が小田城を脱出して北へ向かったという情報を得たための別働の可能性もあるか

 8月7日、等持寺に滞在中の義満は義堂周信を招き、義満から「説関東小田事、手自作書、面付円西堂、遣東府」(『空華日用工夫略集』至徳四年八月七日条)ことを指示される。「円西堂」は鎌倉円覚寺(のち円覚寺六十六世)月潭中円義堂周信の法嗣である。8月9日にも御所に参府した周信は「鎌倉府主請免」「府君擯出鎌倉両寺僧徒耆旧濫進者」につき、義満が「今日赦之」ことを伝えられた。その後、常在光院に戻った周信は「自製関東書者八通、付中円西堂、欲被免小田罪、蓋是一節、乃天下安危也、是故終夜思案而作書」した。周信は「欲被免小田罪」の一節の書き方について、関東との対立を避けたい義満の意志を尊重しながらも、氏満と敵対する小田方の赦免を同時に行うという難しい問題を解決するべく、終夜思案して書き上げた。

 そして翌8月10日、義堂周信は「送円西堂東帰」するにあたり「而嘱小田事」すとともに「作八句偈」って「寄賀瑞泉心岩」した。春に鎌倉瑞泉寺が十刹に選ばれ、心岩周己が住持となったことの賀であった。「嘱小田事」は周信が義満の心情を記したものと思われ、帰東する弟子・月潭中円を通じて瑞泉寺住持の心岩周己に氏満へ働きかけを願ったのではなかろうか。9月15日、義満は閑談のため常在光院に義堂周信を訪問するが、周信と東閣へ向かう間の話で「話及小田事」といい(『空華日用工夫略集』嘉慶元年九月十五日条)、義満は小田合戦を憂慮していた様子がうかがえる。

 嘉慶2(1388)年5月17日暁、「俄大将以下ノ諸軍、心ヲ一ニシテ、陣取ノ為ニ責ノボル処ニ、折節修理ノ料ニ、鹿垣木戸以下トリ破タル処ニ御方ノ諸霧ニ迷イテ、陣取ノ処ヲ過テ、左右ナク城中ニ責入アイダ、各力ヲハケマシテ、勝ニ乗テ責戦アイタ、御敵百余人腹切テ、城中マテ灰燼トナス者也」(『頼印大僧正行状絵詞』)という。しかし、宍戸弥四郎(宍戸一木基里)は「去五月十八日男体城責合戦之時」「中務少輔入道禅助所注申」(嘉慶二年六月十七日「足利氏満感状」『常陸一木文書』南北4403)ていることや、武蔵北白旗一揆の高麗清義が「十八日城攻之時令先懸、於一城戸散々致太刀打」とあるように、18日に「一ノ木戸」に先陣として攻め寄せたとあるように、18日が攻撃の開始日だったと考えられ、『頼印大僧正行状絵詞』は誤記の可能性があろう。

 5月20日に男体城陥落の注進を受けた氏満は、梶原美作入道を使者として頼印僧正に報告している。そして、5月22日に「恵尊并子息孫四郎召出サルゝトイヘトモ、嫡子太郎ニヲヒテハ、那須越後守アヅカルモノナリ」と、鎌倉に召し捕らえていた小田孝朝入道と子息二人(太郎治朝、孫四郎)を釈放する。ただし、「嫡子太郎(治朝)」は「那須越後守」の預けとされた。このように戦後すぐに小田父子が赦されているのは、「将軍、海老(名)備中守ヲ使トシテ、カレラヲ扶ラルヘキヨシ口入」(『頼印大僧正行状絵詞』)したためか。

日にち 氏満方 小田方 出典
至徳4年(1387)
6月13日 小田孝朝入道と子息二人を捕らえる 小田孝朝入道父子捕縛(鎌倉) 『頼印大僧正行状絵詞』
7月19日 上杉禅助入道、鎌倉を出立   「高麗清義軍忠状」南北4406
7月27日 常州布川御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
8月10日 小田御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
8月17日 志筑御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
8月19日 山崎御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
8月20日 岩間御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
8月28日 朝日山御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
嘉慶2年(1388)
5月12日 男体城切岸御陣   「高麗清義軍忠状」南北4406
5月17日暁 男体城攻?(誤記とみられる)   『頼印大僧正行状絵詞』
5月18日 男体城攻 男体城落城 「高麗清義軍忠状」南北4406
「足利氏満感状」南北4403
5月20日 氏満、男体城の落城を梶原美作入道を使者として頼印に報告   『頼印大僧正行状絵詞』
5月22日   小田恵尊、子息孫四郎、赦免
嫡子太郎は那須越後守へ預かり
『頼印大僧正行状絵詞』

 5月18日の男体城の陥落を受けて、5月22日に小田父子を赦免するが、小田恵尊は所領没収の憂き目をみたとおもわれる。5月24日に「沙弥(上杉禅助)」が「為天下泰平、家門繁昌」を願って「諏方大明神」に寄進した「常陸国田中庄強清水郷内田地壱町事つくば市上境付近(嘉慶二年五月廿四日「上杉禅助寄進状」『常陸日輪寺文書』南北4397)はもともと小田氏の所領と思われる。隣接する日輪寺に諏訪社が祀られていたということか。また、「鹿嶋社宮中小田讃岐入道跡屋地」も収公され、氏満か禅助入道かがこれを鹿嶋神宮へ寄進し、奉行とみられる「得梁」が鹿嶋大禰宜(中臣宗親)へ打渡している(康応二年四月廿五日「得梁打渡状」『鹿嶋大禰宜家文書』南北4488)

満胤と香取神宮

 小山義政の乱、小山若犬丸の乱と小田恵尊入道子息の乱において、千葉介満胤がどのように関わったのかは定かではないが、千葉氏周辺で軍忠状等が遺されていないことから、千葉介満胤が合戦に参加することはなかったと思われる。鎌倉殿の軍勢は、主に関東管領や関東上杉一族が主体となり、鎌倉奉公人や上杉氏の守護国の国人・被官がその麾下として参戦したのだろう。原則、鎌倉殿は関東進止国の守護に対する動員権を有さなかったとみられ、このほか鎌倉から京都に許可を得て指揮した「武蔵北白旗一揆」のような存在、さらには関東に在住して鎌倉を支援する義務を負った京都被官人(京都御扶持之者)も確認されるように、鎌倉殿は関東を支配する上で京都から様々な制約を受けていたことがうかがえる。この制約が氏満の孫・足利持氏の代に「京都御扶持之者」による謀叛へと繋がり、以降、安土桃山時代まで関東と奥州を戦乱の巷に投げ込む遠因となった。

 千葉氏と香取神宮の神領「押領」事件は、円城寺政氏が避状を出した応安7(1374)年10月14日で解決されているが、事件は結果として香取神宮側が神威や権威を前面に押し立てたことで勝訴となり、千葉惣領家が地頭代中村氏を介して支配していた地頭職の権限は縮小されたと思われる。さらに鎌倉中期頃から国衙職として千葉惣領家が相伝した国衙職「国行事」も放棄することとなり、香取神官がこれを保有することとなった。

 永徳3(1383)年12月24日、満胤は前年に「大隅次郎(千田胤清)が鎌倉へ提出した中山本妙寺領を証する請文を受けて下された御下文に基づき、本妙寺領の安堵状を発給している(永徳三年十二月廿四日「平満胤安堵状」『中山法華経寺文書』南北4179)。千田千葉氏から千田庄や八幡庄の地頭職を継承したものではなく、守護として安堵したものであろう。この安堵状はひとつの場所ではなく、千葉胤貞以来の千田千葉氏から本妙寺に安堵された寺領全体を安堵したもので、そのひとつが「下総国八幡庄真間弘法寺本尊聖教御堂并敷地等事付諸末寺」(明徳五年六月廿九日「千葉介満胤遵行状」『中山法華経寺文書』)である。

●永徳2(1382)年12月晦日「平胤清請文」(『中山法華経寺文書』南北4122)

[本主大隅次郎■■(請文カ) 永徳二 十二 卅]
中山本妙寺弁法印日尊申所々、堂免田畠在家等并神田畠等事、本主胤貞胤継等寄進之後相続之、当知行無相違候、此旨偽申者、八幡大菩薩妙見大菩薩御罰可罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐々謹言、

 永徳二年十二月晦日    平胤清(裏花押)
進上 御奉行所

●永徳3(1383)年12月24日「平満胤安堵状」(『中山法華経寺文書』南北4179)

下総国八幡庄内中山本妙寺々領安堵事、永徳二年十二月卅日御下文之旨、於知行分至于子々孫々不可有違乱妨状、如件

 永徳三年十二月廿四日   平満胤(花押)

 至徳元(1384)年6月25日、氏満は関東進止国の守護に対して「円覚寺山門方丈等造営要脚」の棟別銭の供出を命じている。千葉介満胤は「下総国棟別銭」を指示された(至徳元年六月廿五日「上杉憲方施行状」『円覚寺文書』南北4196)

氏名 守護国 棟別銭 施行状年月 出典
千葉介
(千葉介満胤)
下総国 壱疋 至徳元(1384)年6月25日 至徳元年六月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4196
木戸左近将監入道
(木戸左近将監入道法季)
下野国 壱疋 至徳元(1384)年6月25日 至徳元年六月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4195
三浦介
(三浦介高連)
相模国 壱疋 至徳元(1384)年6月25日 至徳元年六月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4194
中務少輔入道
(上杉朝宗入道禅助)
上総国 壱疋 至徳元(1384)年6月25日 至徳元年六月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4197
結城中務大輔入道
(結城直光入道聖朝)
安房国 壱疋 至徳元(1384)年6月25日 至徳元年六月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4198
至徳2(1385)年10月25日 前年6月25日の施行状を万寿寺の訴訟を理由に行わず。ただちに円覚寺に納めるよう命じる。
至徳二年十月廿五日
『上杉憲方奉書』南北4270
大石遠江入道
(大石憲重入道聖顕)
武蔵国
(守護代)
壱疋 至徳2(1385)年3月25日 至徳二年三月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4255
小田讃岐入道
(小田孝朝入道恵尊)
常陸国 壱疋 至徳2(1385)年3月25日 至徳二年三月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4256
武田伊豆守
(武田伊豆守信春か)
甲斐国 壱疋 至徳2(1385)年3月25日 至徳二年三月廿五日
『上杉憲方施行状』南北4255

 嘉慶2(1388)年10月25日、「平満胤」は「大禰宜殿」に対して、「任応安七年十月十四日円城寺式部丞政氏避状」せて、香取神宮神官が訴訟を行った諸所の下地の打渡を「円城寺隼人佑胤泰、匝瑳弾正左衛門尉氏泰」を両使節として打渡すことを伝え(嘉慶二年十月廿五日「千葉介満胤書下」『香取大禰宜文書』南北4420)、同日に円城寺胤泰、匝瑳氏泰両名に遵行を命じた(嘉慶二年十月廿五日「千葉介満胤書下」『香取大禰宜文書』南北4421)

●嘉慶2(1388)年10月25日『千葉介満胤書下』(『香取大禰宜文書』南北4420)

 渡下総国香取社神官等訴訟所々事
一散在地残半分先立被渡残分三町弐反并渡残畠
一別当分    一八乙女
一定額     一御物忌
一少輔律師分  一死亡逃亡跡
右、任応安七年十月十四日円城寺式部丞政氏避状旨、為円城寺隼人佑胤泰匝瑳弾正左衛門尉氏泰使節、重所渡付下地於社家之状如件

 嘉慶弐年十月廿五日  平満胤(花押)
 大禰宜殿

 応安7(1378)年からすでに10年が経過しているが、この間にも神領に関して香取神宮側から「訴訟」があったようで、神官領の散在地半分のうち未打渡分のほか諸役分、死亡逃亡跡の打渡が鎌倉から命じられたようである。この打渡に際して香取神宮側に「押領」地とされた打渡対象となる田畠等の詳細な調査が指示され、12月2日付、諸神官から提出された目録に三奉行の案主、田所、録司代(慶海)が押判し、それに基づいて香取社領の地頭たる千葉介満胤方が同日付で打渡状を作成し、「左衛門尉氏泰、沙弥常義(円城寺胤泰は11月中に出家したとみられる)」の両使が大禰宜長房の代官に打渡を行った(嘉慶二年十二月二日「連署打渡状」『香取大禰宜文書』南北4425)

 嘉慶2(1388)年12月11日、中村胤幹は録司代慶海へ「かへしつくる田畠事」として、香取内海沿の津についての権益(越権分か)を返付した(録司代亭は佐原に存在した)。これにつき、千葉惣領家の奏者と思われる「ひかいとの(檜垣殿)」と「はしまとの(橋間殿)の両名が裏判してこれを証した。檜垣殿は大須賀一族檜垣氏、橋間殿は惣領奏者「橋間左衛門次郎胤保」(応永八年八月「千葉家奏者名字」『香取録司代文書』)の父と思われる。橋間氏の出自は不明ながら小城郡にみられることから、千田庄と関わりのある氏族の可能性がある。これらは目録地についての「還付状」と思われ、所領ごとに作成され、順次返付されたのだろう。

中村胤幹返付地 現在地
佐原いと庭 おそころしか在家 香取市佐原イ周辺
よこ田
つゝみの下一段平七作
宿八日市庭 こきぬ次郎大郎か屋敷 香取市八日市場
出口又三郎作畠併田分大
おゝまちの下 あしやり作小 不明

 こうして「香取社家訴訟事、如先日■■避渡候畢」(康応元年二月九日「千葉満胤書状」『香取大禰宜文書』南北4444)と、押領問題は解決されたことを述べている。そのうえで「但於去年嘉慶弐避状以前沽券之地者、任文書之旨、不可有知行相違候」ことを確認し「就中大応寺、宝幢院事、貞胤、氏胤三代為仏陀施入之地、有限被沙汰神役候上者、不可有社家違乱候」(康応元年二月九日「千葉満胤書状」『香取大禰宜文書』南北4444)ことを香取社に釘を刺している。

 康応元(1389)年4月11日、満胤は「下総国香取社録司代慶海事」として、往古からの地頭分の扶持で出仕せしめたところ、慶海が「及度々自社家止出仕条、自由之至也」(康応元年四月十一日「千葉満胤袖判書下」『香取案主家文書』南北4452)と大禰宜長房を批判するとともに、「於向後者、為地頭進止、不可有社家進退」を長房に命じた(康応元年四月十一日「千葉満胤袖判書下」『香取案主家文書』南北4452)

 そして6月18日、満胤は「香取録司代慶海」「大輔房跡一円安堵並任胤幹渡状之旨、可令知行也」を指示した(康応元年六月十八日「千葉介満胤安堵状」『香取録司代文書』南北4458)。録司代慶海は「香取社録司代慶海女子大須賀御方」(応永十六年十一月十四日「録司代慶海譲状写」『香取録司代家文書』)とあるように、大須賀氏に女子を嫁がせるなど、香取社神官ながら千葉惣領家と近い人物であったことがうかがわれる。嫁いだ先の大須賀氏は具体的には不明だが、世代としては一族一揆のひとり、大須賀憲宗か。

 7月6日、満胤は最終的な香取社領に関する安堵状(康応元年七月六日「千葉満胤安堵状」『香取大禰宜文書』南北4460)を大禰宜長房へ下した。

●康応元(1389)年7月6日『千葉介満胤安堵状』(『香取大禰宜文書』南北4460)

就香取社領事、於自社家注出目録以前、常義氏泰封裏内、除長房押書田畠并屋■■、任両使判形之旨、知行■■■相違之状如件

  康応元年七月六日  平(花押)
   大禰宜殿

 同7月、長房も2月9日の満胤書状に対する証状(康応元年七月「大中臣長房証状案」『香取録司代文書』南北4461)を満胤に提出。香取社領の問題は終結した。

●康応元(1389)年7月『大中臣長房証状案』(『香取録司代文書』南北4461)

■文
 屋敷五ヶ所内
■所 中村屋敷当城
■所 宝幢院在所
■所 大応寺在所
■所 中村三郎左衛門屋敷丁古
■所 相良屋敷返田
 於此五ヶ所屋敷者、不可異儀申候
  康応元年七月    長房

 明徳元(1390)年10月15日、録司代慶海のもとから「香取録司代文書少々被盗」ことにつき、千葉介満胤はもし「いつかたよりもいたしたらん物にをいては、そのさいくわのかれへからす」とし、慶海に「太刀ふたふり、かたなひとこし、小袖二」を添えて「円城寺ひやうへ三郎源満政」を通じて披露状を下した(明徳元年十月十五日「円城寺満政披露状」『香取録司代文書』南北4511)

●円城寺家想像系図

          …―円城寺政氏
           (式部丞)
                          【源朝臣
 円城寺貞政――――――円城寺氏政       …――円城寺満政―――円城寺源氏女
(図書右衛門入道)  (図書允)          (兵衛三郎)  (法名如幸)
            ∥
            ∥       【源朝臣
            ∥――――――――円城寺胤朝
            ∥       (図書左衛門尉)
            女子            
           【平氏女図書悲母】

 その後、満胤の周辺にはしばらく大きな変化は起こらず、具体的な動きを示す文書も残っていない。ただし、奥州及び京都では騒乱が勃発していた。

 明徳2(1391)年冬、京都では「山名氏清背武命、一家同意而蒙南朝勅命之由自称、振逆」(『鎌倉大日記』)という事件が勃発している。戦いの顛末は軍記物『明徳記』に述べられるが、12月26日に「同二年十二月廿六日、於同寺為兵革御祈被修」(『尊道親王行状』)「山名奥州、播州、謀反御所」(『四天王法記』)とあるように、山名陸奥守氏清と山名播磨守満幸らが挙兵し、30日「今曉既御合戦由、自京都被告申」(『四天王法記』)と、30日早朝には洛中で合戦が始まっていた様子がうかがえる。

 こうした状況を受け、義満は各地の守護へ軍勢催促を行い京都へ馳せ参じることを命じる御教書を下す。この御教書は遺されていないが、「能登国得田勘解由左衛門尉章長」は能登守護「畠山右衛門佐殿(畠山基国)」の手に属して「田野御合戦」などに従軍している(明徳三年正月「得田章長軍忠状」『得田文書』)

 義満は氏満にも山名奥州追討の軍勢催促を行ったが、これを請けた氏満は「陸奥出羽両国事、可致沙汰之由、所被仰下」(明徳三年正月十一日「足利氏満御教書」『結城小峰文書』)の御教書に基づき、氏満は関東のみならず「陸奥出羽両国」に対しても軍勢催促を行った。奥羽両国が関東成敗と定められ、その御教書が鎌倉及び奥羽国人に下されたのは、おそらく明徳2(1391)年7月頃と想定される。「京都義満公ヨリ大舘氏信ヲ関東ニ被差下、出羽陸奥両国ヲモ管領御政治有ヘキヨシ御教書ヲ被添、氏満公御領掌(『喜連川判鑑』)といい、御教書は義満側近の大舘氏信が関東へ持参したことがうかがえる。この御教書が鎌倉に到着すると、関東管領上杉禅助により、その旨の御教書と事書が作成されて、奥羽国人へ送達されたとみられる。これを落手した奥羽国人は鎌倉に対して請文を提出することになるが、白川結城満朝と思われる人物が請文を「岡屋豊前守殿」「長尾出雲入道殿」へ提出したのは某年9月2日だった某年九月二日「結城満朝?請文案」『仙台結城文書』

 満胤も当然ながら軍勢催促の対象だったと思われるが、満胤は香取社造替遷宮の役人であったことや、軍勢催促の時点で山名奥州の乱は収束していたことなどから、実際に関東から上洛することはなかったとみられる。

『喜連川判鑑』ではこの御教書は明徳2(1391)年2月の項に記載されている。ところが、これは氏満の御教書とは一年のずれとなっている。また、同書では氏満の山名奥州の乱は、旧冬(明徳元年)十二月晦日に鎮定された旨が記されるが、これもまた実際の応永2年12月晦日の事実と1年のずれとなっている。つまり、山名奥州の乱については『喜連川判鑑』では1年の錯誤があることが明白である。

●某年9月2日『結城満朝請文案』(『仙台結城文書』)

陸奥出羽両国事、可有関東御成敗乃由、御教書并御事書被下之候、仍捧御請文候、此趣得御意、御披露候者、恐悦候、恐々謹言

 九月二日    
謹上 岡屋豊前守殿
   長尾出雲入道殿

●明徳3(1392)年正月11日『足利氏満御教書』(『結城小峰文書』)

陸奥出羽両国事、可致沙汰之由、所被仰下也、早速可馳参之状、如件

 明徳三年正月十一日        花押(足利氏満)
   白河参河七郎■

 この頃京都では「至内野襲来、大将御発向、赤松以下義卒多以為彼等討死、氏清終一色右馬頭被討取、四十八歳」(『鎌倉大日記』)「及晩頭奥州打死之由、風聞」(『四天王法記』)とあるように、30日の夕刻頃に一色右馬頭によって氏清は討たれ、戦いは終結した。なお「十二月廿九日 山名奥州氏清成御敵、京中責入打死」(『常楽記』廿九日)とも。この合戦は山名方のみならず、御所方にも赤松氏、佐々木氏、富樫氏らの氏人に戦死者が出るなど、大将分も戦闘に加わるほど激しい市街戦が行われたことを物語る。

        山名政氏
       (小次郎)
        ∥―――――――――――山名時氏―+―山名師義―+―山名義幸
        ∥          (伊豆守) |(右衛門佐)|(讃岐守)
        ∥                |      |
        ∥                |      +―山名満幸
        ∥                |       (播磨守)
        ∥                |        ∥
        ∥                |        ∥
        ∥                +―山名氏清―+―女子
        ∥                |(陸奥守) |
        ∥                |      +―山名時清
        ∥                |      |(宮田左馬助)
        ∥                |      |
        ∥                |      +―女子
        ∥                |        ∥―――――山名持豊―+―山名教豊
        ∥                |        ∥    (右衛門督)|(弾正少弼)
        ∥                |        ∥          |
        ∥                +―山名時義―――山名時熈       +=養女
        ∥                |(伊予守)  (右衛門督)      |(熙貴女子)
        ∥                |                   | ∥――――――細川政元
        ∥                +―山名義理―――山名義清――山名教清 | 細川勝元  (右京大夫)
        ∥                |(弾正少弼) (中務大輔)(修理大夫)|(右京大夫)
        ∥                |                   |
        ∥                |                   +=養女
        ∥                |                    (熙貴女子)
        ∥                |                     ∥――――――大内政弘
        ∥                |                     大内教弘  (左京大夫)
        ∥                |                    (大膳大夫)
        ∥                |                   
      +―女子               +―山名氏冬―――山名氏家――山名熈貴―+―女子
      |                   (中務大輔) (中務大輔)(中務大輔)|(山名持豊養女)
      |                                      |
 上杉重房―+―上杉頼重――――――+―上杉重顕                     +―女子
(左衛門尉)|(三郎)       |(修理大夫)                     (山名持豊養女)
      |           |
      |           +―上杉憲房
      |           |(兵庫頭)
      |           |
      +―女子        +―藤原清子
        ∥          (浄妙院殿)
        ∥           ∥
        ∥           ∥――――+―足利尊氏
        ∥           ∥    |(権大納言)
        ∥           ∥    |
        ∥―――――足利家時――足利貞氏 +―足利直義
        ∥    (伊予守) (讃岐守)  (左兵衛督)
        足利頼氏
       (治部大輔)

奥州の争乱

 応永元(1394)年10月24日、関東管領「道合死」する(『鎌倉大日記』)。これにより関東管領が闕となり、さらに11月3日には「道合一男憲孝、職事辞退」(『鎌倉大日記』)したため、鎌倉は憲方入道道合とは血縁上で従兄弟に当たり、さらに各地の反乱追討の直接指揮者として名声も高い上杉朝宗入道禅助を新たな関東管領職に推挙することとなる。

 上杉憲房―+―――――――――上杉憲藤――上杉朝宗―――上杉氏憲―――女子    +―千葉介胤直
(兵庫頭) |        (修理亮) 【禅助】   【禅秀】    ∥     |(千葉介)
      |         ∥                   ∥     |
      |         ∥                   ∥―――――+―千葉胤賢
      |         ∥―――――上杉朝房   千葉介満胤――千葉介兼胤  (中務丞)
      |         ∥    (弾正少弼) (千葉介)  (千葉介)
      +―上杉憲顕――+―女子
       (道昌)   |
              |
              +―上杉能憲==上杉憲方―――上杉憲孝
              |【道諲】  【道合】
              |
              +―上杉憲春
              |【道弥】
              |
              +―上杉憲方
               (道合)

 こうした中、応永2(1395)年9月中旬、奥州において「田村」「庄司仁等」が挙兵し、「佐々河」を目指して進軍した。田村庄司が挙兵した理由は定かではないが、鎌倉に対する不満があったと推測される。

 前述のとおり、明徳2(1391)年中に「陸奥出羽両国事、可致沙汰之由、所被仰下也」明徳三年正月十一日「足利氏満御教書」『結城小峰文書』とあるように奥羽二国が関東に移管されたことで、翌明徳3(1392)年正月には奥州地頭らに京都で起こった山名奥州の乱への軍勢催促がかけられた。このほか、鶴岡八幡宮寺の「御修理反銭事」として、「坂東八ヶ国ニ被懸之、其後不足間、出羽奥州エ被仰下」(『鶴岡事書日記』明徳二年条)というような、新たに加わった鎌倉に関わる諸事の負担増大も、彼らの不満の可能性があろう。

●『鶴岡事書日記』明徳二年条

一 御修理反銭事
  一反別二十人宛、又重テ十人宛也、坂東八ヶ国ニ被懸之、其後不足間、出羽奥州エ被仰下

 そして、明徳3(1392)年から応永2(1395)年までの間に、鎌倉は奥州に拠点を構築したと思われ、そこが、鎌倉与党である白河結城氏や石川氏の影響下の北限であった「佐々河」だったのだろう。その篠川には先例に則り、奥州探題家である斯波刑部大輔満持が鎌倉から派遣されたが、この「佐々河」は、田村庄司の所領田村庄と阿武隈川を挟んで隣接しており、もともとこの地は田村氏と某氏(史料はないが石川氏の可能性)の係争地であり、応永2(1395)年9月中旬の田村庄司の挙兵は、田村庄司が不満を爆発させた可能性も十分考えられよう。

 田村庄司は守山城田村町守山を本拠としていたが、応永2(1395)年9月26日には篠川城郡山市安積町笹川東館に入っていた「蒲田民部少輔(石川光広)」「伊賀式部大夫(伊賀光隆)らとの間で「安武熊河戦」が起こっている。両者の間は直線距離で4キロ程度、田村庄司勢が「越河処」とあるように阿武隈川を渡河して篠川城に攻め寄せていることから、田村庄司側からの攻撃であろう。「安武熊河戦」とあるように、石川光広や伊賀光隆らは城から川に下りて応戦したと思われるが、その後城に籠っているので、川戦は敗れたのだろう。石川・伊賀等は「佐々河城被堅踏之条、神妙候」応永二年九月廿六日「斯波満持安堵状」『結城白河文書』室143と見えるように、田村勢の攻勢から篠川城を守り抜き、「刑部大輔(某年三月十八日の「満持」(『板橋文書』)、応永十四年四月廿八日「左京大夫官途吹挙状」の左京大夫と同形の花押であることから、この刑部大輔は斯波満持である)同26日付で「仍当知行不可有相違候」ことを保証した。

●応永2(1395)年9月26日『斯波満持安堵状』(『結城白河文書』室143)

庄司仁等退治事、越河処、佐々河城被堅踏之条、神妙候、仍当知行不可有相違候、随而本領地相分等、不可有子細之状如件
 
 応永二年九月廿六日       刑部大輔 (花押:斯波満持)
  蒲田民部少輔殿

 翌9月27日には「唐久野於御合戦」応永二年十月七日「斯波満持感状」『飯野文書』室149とあるように、斯波満持も「唐久野郡山市田村町御代田周辺域かへ出陣し、伊賀光隆は「及自身大刀打」ほど奮戦している応永二年九月廿六日「斯波満持安堵状」『結城白河文書』室143応永二年十月七日「斯波満持感状」『飯野文書』室149

 そして、10月7日までは斯波満持が感状を発給しているが、11月22日には氏満の子・足利四郎満貞「石河長門守殿(石川光重)に感状を給わっていることから、「当城」に足利満貞が入部していたとみられる。

田村合戦は応永3(1396)年6月1日から6月19日の間に「田村退散」して終結していること(『鎌倉大日記』)から考えると、この某年11月22日は応永2(1395)年11月22日と推測され、満貞はこれ以前に篠川に派遣されていたと考えるのが妥当である。『今川記』に見える「奥州も其此乱るゝ事有之、鎌倉殿御子一人御下向有て大将に仰き、篠川殿と申き」(『今川記』)の「御子一人」「篠川殿」は満貞であり、のちの篠川殿満直(満貞兄)ではない。

●応永2(1395)年10月7日『斯波満持感状』(『飯野文書』室149)

田村御退治之事、自最前馳参、於御陣致警固并応永二年九月廿六日安武熊河戦同廿七日唐久野原於御合戦、及自身大刀打、被致忠節之条、尤以神妙候也、弥々可抽戦功之状如件

 応永二年十月七日        刑部大輔 (花押:斯波満持)
  伊賀式部大夫殿

●応永2~3年の氏満の小山若犬丸及び田村庄司攻め

日にち 鎌倉方
の動向
小山若犬丸
田村庄司の動向
出典
応永2(1395)年
9月中旬   田村庄司の挙兵 「斯波満持安堵状」室143
9月26日 斯波満持、篠川城を守り切った石川光広に感状発給 田村庄司、阿武隈川を渡河して篠川城を攻める(安武熊河戦) 「斯波満持安堵状」室143
「斯波満持感状」室149
9月27日   阿武隈川周辺の「唐久野」で合戦 「斯波満持感状」室149
10月7日 斯波満持、9月26日、27日の戦いに奮戦した伊賀光隆に感状発給   「斯波満持感状」室149
11月22日 足利満貞、「田村金屋并当城」での連日の合戦に対して感状発給   「足利満貞書状写」室161
応永3(1396)年
2月28日 足利氏満、「為小山若犬丸御退治」鎌倉を出立し、小山へ向かう。
上杉禅助、波多野高経以下に鎌倉留守居を下知する。
  『鎌倉大日記』
「上杉禅助奉書案」室185
ほか
3月2日以前 足利氏満、入間川陣に着陣。   「島津直忠軍忠状」室209
3月2日 島津直忠、入間川陣に参陣し、馬廻に配属される。   「島津直忠軍忠状」室209
3月4日 村岡陣   「島津直忠軍忠状」室209
3月10日
前後(推測)
古河御陣   「島津直忠軍忠状」室209。
【2か月半】 小山若犬丸との合戦(推測) 小山若犬丸との合戦(推測)  
5月27日 足利氏満、田村庄司追罰のため古河を出立 これ以前に、小山若犬丸は田村庄司を頼って奥州へ向かったか 「烟田重幹軍忠状写」室207
  小山御陣   「島津直忠軍忠状」室209
  宇都宮   「島津直忠軍忠状」室209
  青野崎   「島津直忠軍忠状」室209
6月1日 白河御着   『鎌倉大日記』
  白河で合戦   「大高成宗軍忠状写」室208
6月10日頃   「田村退散」 『鎌倉大日記』
6月12日 佐竹彦四郎義悟に行賞   「足利氏満御教書写」室201
6月13日頃 足利氏満、白河出立    
6月19日 足利氏満、古河着   『鎌倉大日記』
7月1日 足利氏満、鎌倉着   『鎌倉大日記』

 なお、四郎満貞の長兄・満兼は永和4(1378)年生まれで、応永2(1395)年当時18歳であることから、その四弟の満貞は篠川下向当時は十代前半と予想される。つまり、満貞の篠川下向は実際の政務を期待されたものではなく、関東公子の一人を派遣するという関東支配的を明確に主張したものであったと考えらえる。そしてこの少年公子を補佐したのが、斯波満持だろう。

              【奥州探題】
 足利宗氏―+―足利高経―+―斯波家長―――斯波経詮―――斯波詮将――斯波詮教【高清水斯波氏】
(尾張守) |(修理大夫)|(陸奥守)  (兵部大輔) (左馬助) (左馬助)
      |      |
      |      +―斯波義将―――斯波義重―+―斯波義淳
      |      |(右衛門督) (左兵衛督)|(左兵衛佐)
      |      |             |
      |      +―斯波氏経        +―斯波義郷――斯波義健【管領斯波氏】
      |       (左京大夫)        (左衛門佐)(治部大輔)
      |
      +―斯波家兼―+―斯波直持―――斯波詮持―――斯波満持――斯波満詮【大崎斯波氏】
       (式部大夫)|(左京大夫) (左京大夫) (左京大夫)(左京大夫)
             |
             +―斯波兼頼―――斯波直家【最上斯波氏】
              (修理大夫)

 11月22日、足利四郎満貞が石川光重に「田村金屋并当城、連日合戦致忠節」(応永二年カ十一月廿二日「足利満貞書状写」『秋田藩家蔵文書』室161)の戦功を賞した。「田村金屋郡山市田村町金屋篠川城の阿武隈川対岸の北東部にある氾濫沃野である。

●11月22日『足利満貞書状写』(『秋田藩家蔵文書/二十』室161)

[足利四郎満貞書]
田村金屋并当城、連日合戦致忠節、手者少々被疵条、尤神妙候、於賞者可有御計候、向後弥可抽戦功也、謹言
 
 十一月廿二日      (花押:足利満貞
  石河長門守殿(石川光重)

 田村庄司勢と篠川勢の競り合いはその後半年間にわたって続いている。

 篠川・田村合戦が起こっている頃、ふたたび「小山」で小山若犬丸の叛乱の動きが注進されたようだ。軍忠状等は残されていないが、小山若犬丸は至徳4(1387)年の小田城から逃亡後、九年間もの雌伏ののちに、ふたたび小山付近で兵を挙げたとみられる。

 応永3(1396)年2月、「為小山若犬丸御退治、氏満二月廿八日、古河御発向」した(『鎌倉大日記』)。この出立に際し、上杉禅助入道が「波多野小次郎殿(波多野高経)に一族を率いて「御留守居鎌倉警固」を下知しているが(応永三年二月廿八日「上杉禅助奉書案」『雲頂庵文書』室185)、この鎌倉留守居は、十年前の至徳3(1386)年、小山若犬丸挙兵に際して氏満が親征したときに「御進発之間、於相模国軍勢等者、可致鎌倉警固之由被仰出」(至徳三年十一月「波多野高通着到状案」『雲頂庵文書』南北4334)ことを命じている事と同様、相模国の人々が命じられたのだろう。

●応永3(1396)年2月28日『上杉禅助奉書案』(『雲頂庵文書』室185)

御留守居鎌倉警固事、相催一族、早々可被馳参由候也、仍執達如件
 
 応永三年二月廿八日      沙弥 在判(上杉禅助)
  波多野小次郎殿

 氏満は2月末に鎌倉を出立して「依小山御発向」(応永三年六月「島津直忠軍忠状」『下野島津文書』室209)した。これは小山若犬丸が小山で挙兵したことを指すのだろう。

 この氏満の親征に際し、下野国の島津彦次郎直忠は「三月二日馳参入間河御陣」している(応永三年六月「島津直忠軍忠状」『下野島津文書』室209)。3月4日には「村岡御陣」、次いで「致于古河御陣」した(応永三年六月「島津直忠軍忠状」『下野島津文書』室209)。また、常陸国の「鹿島兵庫大夫入道永光(鹿嶋幹重)や庶家「烟田刑部大輔重幹」は、「至于武州府中、村岡、古河御陣、宿直警固仕畢」(応永三年六月「烟田重幹軍忠状写」『烟田文書』室207)とある。

 その後、氏満勢は「其後、同五月廿七日為奥州田村御追罰、御発向之間、於白河御陣警固仕」(応永三年六月「烟田重幹軍忠状写」『烟田文書』室207)とあるように、5月27日に古河を出立し「田村進発、六月朔日白河御着」している(『鎌倉大日記』)。古河を発ったのちは「自小山御陣、宇都宮、青野崎、白河所々御陣」(応永三年六月「島津直忠軍忠状」『下野島津文書』室209)とあるように、小山小山市、宇都宮宇都宮市、青野崎大田原市野崎、白河白河市で小山若犬丸勢と戦闘があった(氏満の小山進出時にはすでに若犬丸勢は退いていたと思われることから、宇都宮、青野原、白河で合戦があったのだろう)。白河着が6月1日であることから、三か月余り古河に滞陣して小山若犬丸に対応していたことになる。

 白河での「於白河合戦」では、「大高二郎左衛門尉成宗」が奮闘し、その家人「吉田隼人、怨敵首討捕、同時大内四郎致合戦見知畢」(応永三年六月「大高成宗軍忠状写」『大高文書』室208)とある。

 小山若犬丸の叛乱と田村庄司の抗争には直接的な関連性はないが、波多野小次郎高経が、自分が鎌倉留守の警衛を命じられた理由として去二月廿八日為小山若犬丸御対治、自野州同奥州田村城御発向(応永三年六月「波多野高経着到状案」『雲頂庵文書』室206)と見えることから、鎌倉には若犬丸が没落後に田村庄司を頼った風聞があったことがわかる。氏満は本来的には去二月廿八日、上方為小山若犬丸御対治、御進発」(応永三年六月「烟田重幹軍忠状写」『烟田文書』室207)だったのだろう。そこに若犬丸が田村庄司のもとへ遁れたため、自らも白河着陣後、篠川城を目指したと思われるが、白河進発前の6月10日頃までに「田村退散間」(『鎌倉大日記』)のため、氏満は出兵を中止して、小山若犬丸追捕を満貞・満持らに命じたのだろう。

 6月12日には「佐竹彦四郎殿(白石義悟)「奥州田村庄司対治事、所発向也、為御馬廻可抽戦功」(応永三年六月十二日「足利氏満御教書写」『楓軒文書纂 六四』室201)を賞しているが、19日に古河へ帰還している(『鎌倉大日記』)ことから、白河で論功があったと推測される。氏満は6月13日頃に白河を出立し、6月19日に「十九日自白河還御」して、武蔵国府などを経由し「七月朔日入鎌倉」(『鎌倉大日記』)した。

 応永4(1397)年正月初旬頃には「小山若犬丸子五歳、七歳、葦名左京大夫令生捕」れている(『鎌倉大日記』)が、「葦名左京大夫」なる人物は『葦名系図』にも見られず、具体的な活動も不明な人物であり、どのような過程で若犬丸の子息を捕らえたのかは定かではない。ただ、彼ら兄弟は若犬丸が小田城から逃亡後に生まれた子であることや、若犬丸が幼少の子息を戦場に伴うとも考えづらいため、若犬丸は小田城から奥州へ逃れて(小田城攻めの一部の部隊が男体山東山麓を北上した形跡がある)会津方面に潜伏し、会津に拠点を置いていたと考えられる(こうした関係で田村庄司とも交流を持った可能性がある)。そして、彼ら兄弟の母は葦名氏所縁の女子である可能性があろう。

 葦名盛貞―+―葦名高盛               +―葦名盛政――+―葦名盛房
(遠江守) |(次郎左衛門尉)            |(修理大夫) |(三郎左衛門尉)
      |                    |       |
      +―葦名直盛―――+―葦名詮盛――――――+―葦名盛仲  +―葦名盛信――――葦名盛詮
       (若狭守)   |(弾正少弼)     |(五郎)    (左近将監)  (下総守)
               |           |
               +―下荒井盛久     +―中目助成
                (左衛門尉)      (民部大輔) 
                 =次郎左衛門尉満盛

 若犬丸が葦名氏の庇護を受けたとすれば、この葦名氏は鎌倉に何らかの異心を抱いていた人物と考えられるが、当時の葦名氏当主・葦名弾正少弼詮盛は鎌倉殿氏満に忠実であり、後述の通り、翌応永5(1398)年の氏満薨去時に追腹を切ったとされる(『異本塔寺長帳』応永五年十一月四日条)。つまり、もし小山若犬丸が会津を頼ったとすれば葦名詮盛ではなく、詮盛や鎌倉に反感を持つ葦名一族を頼ったことになる。応永7(1400)年2月中・下旬頃に「伊達大膳大夫入道円孝」と結んで「陰謀」した「葦名次郎左衛門尉満盛」との由縁も想定できよう。

 応永4(1397)年正月24日に「葦名左京大夫」に捕らえられた「小山若犬丸子五歳、七歳」は、その後「鎌倉進上、則被入海」られたという(『鎌倉大日記』)

 なお、小山若犬丸は会津で自害したとされるが、これが記された史料は信頼性の低い軍記物や後世史料であるため、小山若犬丸のその後は不明と言わざるを得ない。小山氏の名跡は故小山義政の実甥(義政姉妹と結城弾正少弼基光の子)である泰朝が入って祭祀の継承が許されることとなるが、雄族小山氏の直系は滅亡することとなる。

◆小山・結城氏略系図◆

                    +―下妻長政 +―藤井時村                        +―小山朝郷
                    |      |                             |(左衛門尉)
                    |      |                             |
 小山政光―+―小山朝政―+―小山朝長―+―小山長村―+―小山時長――――小山宗長――――小山貞明―――小山秀朝―+―小山氏政―+―小山義政――小山若犬丸
(四郎)  |(播磨守護)|(播磨守護) (播磨守護) (下野大掾)  (播磨守護)  (下野大掾) (下野守)  (左衛門佐)|(下野守)
      |      |                                                  |
      |      +―薬師寺朝村――村田政氏                                      +―   +―結城満広
      |       (左衛門尉) (左衛門尉)                                       ∥   |(七郎)
      |                                                           ∥   |
      +―長沼宗政                                                      ∥―――+―小山泰朝
      |(淡路守)                                                      ∥    (下野守)
      |                                                           ∥
      +―結城朝光―――結城朝広――+―結城広綱―――結城時広―――結城貞広――――結城朝祐―+―結城直光――――――――――結城基光
       (左衛門尉) (大蔵権少輔)|(上野介)  (左衛門尉) (左衛門尉)  (左衛門尉)|(中務大輔)        (弾正少弼)             
         ∥           |                            | 
         ∥―――――山川重光  +―結城祐広―――結城宗広―+―結城親光         +―結城直朝
         ∥    (左衛門尉)  (左衛門尉) (上野介) |(大田大夫判官)
 千葉介成胤―――娘                         | 
(千葉介)                              +―結城親朝――+―結城顕朝―――結城氏朝―――結城直麻
                                    (大蔵権大輔)|(弾正少弼) (弾正少弼) (中務少輔)
                                           |
                                           +―結城朝常―――結城政常―――結城満政―――結城朝親――結城直親
                                           |(左兵衛尉) (三河守)  (三河七郎) (三河守) (下野守)
                                           |
                                           +―結城朝胤―――結城朝治―――結城光胤―――結城憲朝――結城宗広
                                            (讃岐守)  (讃岐守)         (讃岐守) (讃岐守)
                                           

 こうして、十年以上に及ぶ小山義政・若犬丸の叛乱と田村庄司の処分は鎮定され、小山氏の遺領は鎌倉殿氏満に近い結城弾正基光の子息泰朝が継承し、田村庄は鎌倉殿の御料所となった(応永四年七月八日「足利氏満御教書」『結城家文書』室330)。この御料所田村庄の「陸奥国田村庄三分壱、肆拾村事」については、「結城三河七郎殿(白河小峰満政)「当年壱作所預置」き、年貢について一任している(応永四年七月八日「足利氏満御教書」『結城家文書』室330)。この措置のため小峰結城満政は現地に赴くが、「相催庶子等、可罷越当庄」(応永四年七月廿二日「足利氏満御教書」『結城家文書』室337)と、実際の荘園管理は庶子等を派遣して当たらせるよう鎌倉から指示を受けている。そして満政は8月下旬に代官を田村庄に派遣。8月23日に入部したことを鎌倉に注進した(応永四年九月八日「足利氏満書状」『結城家文書』室357)。早速年貢として栗毛の馬が選び出され、鎌倉に送られている。この栗毛馬が到着すると、10月2日、氏満は満政に礼文をしたためている(応永四年十月二日「足利氏満書状」『結城家文書』室361)

 こののち、南奥州は篠川駐屯の足利四郎満貞が管領することとなったとみられ、応永6(1399)年8月28日、あらたに御料所に設定した「陸奥国石川庄内澤井、同国依上保内鮎河上中両郷、同国高野北郷内大多和、深渡戸、沼澤参ヶ村以下事」を田村庄三分一と同様に「結城参河七郎殿(小峰満政)へ預けている(応永六年八月廿八日「足利満貞書下」『阿保文書』室539)。これらは石川氏や白河結城氏の拠点内にある御料所で、満貞駐屯に充てる為に石川氏や白河氏から献じられたものであり、その管理運営は小峰満政に委任された。

 満貞は南奥州において所領安堵や軍勢催促などの諸政務を行うが、これらを鎌倉から全権委任されていたわけではなく、鎌倉へ指示を仰いだり報告が行われたりした可能性が高い。応永9(1402)年2月19日、鎌倉殿満兼は小峰満政の「於奥州奉公異他之由、所聞食也」について「弥可致忠節」と賞しているが、これは満貞からの報告によるものであろう。同年の伊達政宗入道の反乱では、満貞は関東から上杉右衛門佐氏憲の派遣を知らされたのちに軍勢催促を行っている。

 前述のように、もともと満貞は関東管轄となった奥州支配の象徴的立場として派遣されたものと思われる(そもそも応永2年当時に十代前半で篠川へ派遣されていることを考えれば、実務を期待されたものではないことは確実だろう)。その立場はその後も変わらず、上杉蔵人大夫憲英左馬助憲光「奥州管領」(『深谷上杉系図』)として若い満貞を補佐したのだろう。満貞に設定された支配領域は当初計画から白河結城氏や石川氏らから提供された御料所のある南奥州のみであって、勢力の北進はその後も想定されておらず、軍事的な問題については通常は鎌倉直属の斯波左京大夫満持、持詮父子が主に担当し、上杉氏憲のように鎌倉から直接派遣されるケースもあった。

●応永9(1402)年2月7日「足利満貞書状」(『榊原結城文書』 室774)

陸奥国高野郡内常世郷事、任父三河守譲状并当知行等旨、不可有相違候也、謹言

 応永九年二月七日       花押(足利満貞)
  結城参河又七郎殿

●応永9(1402)年2月19日「足利満兼御教書」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室777)

(懸紙上書)[結城■河七郎殿  満兼]

於奥州奉公異他之由、所聞食也、弥可致忠節之状、如件

 応永九年二月十九日      花押(足利満兼)
  結城参河七郎殿

●応永9(1402)年3月20日「足利満貞書下」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室785)

陸奥国岩崎郡内島村、林原村等事、所宛行也者、守先例可被沙汰之状、如件

 応永九年三月廿日       花押(足利満貞)
  結城参河七郎殿

 満貞が南奥州に留まり続けて勢力の伸長がなかったのは、勢力を広げることが「できなかった」のではなく、鎌倉の出張機関としてその指示を受けながら諸政務を行う立場にあって、派遣当初から勢力伸長の目的を与えられていなかったためであるその軍事力の中核は、当初から鎌倉と関わりが深かった白河結城氏および石川氏に限られており、関東と敵対する勢力との戦いや勢力基盤の北進企図は、関東直属の大将による行動により行われ、満貞はこれに協力する立場にあった。

氏満の死

 応永5(1398)年2月中~下旬頃、香取大禰宜憲房は、造替遷宮の奉行を奉状しながら「数十年無沙汰」の「香取社造替遷宮事」につき、鎌倉に履行を訴えた。これを受けた鎌倉は、3月5日に満胤にその履行を命じるとともに、長房には満胤に履行を命じたことを伝えた(応永五年三月五日「足利氏満御教書」『香取大禰宜文書』室399)。鎌倉から満胤に造替遷宮を命じた文書は遺されていないものの、長房への御教書と同日付で出されていると思われる。

●応永5(1398)年3月5日『足利氏満御教書』(『香取大禰宜文書』室399)

香取社造替遷宮、役人千葉介満胤乍捧押書、数十年無沙汰云々、可有殊沙汰之由、所被仰満胤也、可令存知其旨之状如件、

 応永五年三月五日 (御判:足利氏満)
  大禰宜殿 

 香取社造替遷宮について鎌倉から改めて指示された満胤は、閏4月20日、香取大禰宜憲房が京都・鎌倉から「香取社大行事職」として定められ、先規の通り造替料米を沙汰する旨を諸地頭に伝達している。満胤はこの香取社大行事職は本来国衙職として千葉介が継承し、満胤代官として円城寺式部丞政氏が就いていたが、香取社との騒乱を経たのち、応安7(1374)年10月14日に香取社に避り渡したもので、香取社大禰宜に譲られる兼帯職となっている。

●応永5(1398)年閏4月20日『千葉介満胤奉書』(『香取大禰宜文書』室409)

香取社大行事職
右、於公家関東、以憲房被定上者、為当社造替、任先規可被致作料米之沙汰之由候也、仍執達如件、

 応永五年閏四月廿日   (花押:千葉介満胤
   葛西庄地頭殿(上杉憲定)

●応永5(1398)年閏4月20日『千葉介満胤奉書』(『香取神宮文書』室410)

香取社大行事職
右、於公家関東、以憲房被定上者、為当社造替、任先規可被致作料米之沙汰之由候也、仍執達如件、

 応永五年閏四月廿日   (花押:千葉介満胤
   北条庄内内山宮内少輔殿

 小山の乱などの大きな関東の叛乱を収束させることに成功した氏満であったが、それからわずか2年足らずの応永5(1398)年11月4日、「鎌倉殿氏満、御逝去十一月四日、依之当社八幡宮、八脚之門七ヶ日閉門之、陪従并御八講延引」(『鶴岡事書日記』十一月条)とあるように、鎌倉殿氏満が薨じた。享年四十。死の前兆が残っていないことから、急死だったのだろう。「兵衛督殿去四日他界」の一報は、11月13日に京都の東坊城秀長に早馬で到来している(『迎陽記』応永五年十一月十三日条、十一月四日追記条)。氏満薨去の際、「葦名弾正少弼詮盛」は「追腹切」という(『異本塔寺長帳』応永五年十一月四日条)。鎌倉殿は当時二十歳の嫡男・左馬頭満兼が継承する。

 12月25日、「左馬頭源朝臣(足利満兼)が鶴岡八幡宮寺に「陸奥国石河庄内石河大寺安芸入道跡(石河光義入道道悦跡)を寄進(応永五年十二月廿五日「足利満兼寄進状」『鶴岡八幡宮文書』室490)したのが満兼の史料上の初見となる。同日、管領上杉禅助が「左京大夫入道殿(斯波満持)へ施行を命じた(応永五年十二月廿五日「上杉禅助施行状」『鎌倉国宝館所蔵神田氏旧蔵文書』室491)。当時、斯波満持入道はおそらく鎌倉におり、奥州管領の立場にあったのだろう。

 なお『餘目氏旧記』『東藩史稿』では、応永5年、足利氏満が卒去した際、氏満遺命と称して、四郎満貞(『餘目』では兄弟二人)を伊達大膳大夫政宗と白河左兵衛尉満朝に託したとする。満貞が白河まで来た際に伊達政宗が対面し、奥羽諸将も満貞に所領を寄進したという。伊達政宗は一荘(『餘目』では長井北条荘三十三郷。白河満朝は宇多荘)を寄進するが、満貞は少ないから郡を差し出せという。政宗はこれを拒絶し、大崎の斯波満詮とともに白河を発つが、満貞はこれを追撃し、斯波満詮を大越で斬ったという。その子の斯波満持は十五歳だったが、伊達政宗が救出して大崎に帰し、大崎はその恩に名取郡を伊達政宗に納めたという。

●『餘目氏旧記』

永安寺殿御ゆいかいニ、今若御曹司、乙若御さうしとて、御兄弟御座ヲ、両国之御主ニ可奉成と御ゆいかい候間、鎌倉殿御台様、かたしけなふも、御すへへ伊達入、白川入道ヲめされ、御しやうしこしに、いまわかヲくたす事、いたてヲ父とたのみ、しらかハヲ母とたのむへきよし被仰、恐之余ニ夢ノ心地して、畏て候と申上、上杉の司忠官領職ニて、両御若君下給ふ、御宿ハ白川殿也、伊達殿鎌倉へおりのほりの定宿白河也…
其後又志ちういたて、白川へ先々御公領ヲ可被致進上といはる、心得かたく乍存、伊達よりハ長井はうちやうの三十三郷、志らかはよりは宇多庄ヲ可進之由被申、志ちう庄なとハ心得かたし、郡ヲ進上ト被云候故ニ、宮澤之先祖申様、此上ハ思召被定、大崎御一所ニて京都ヲ被守、御切腹候へしといふ間、伊達殿其旨ニ同事、迎ヲよひのほらせる、五百余騎勢衆のほる、去間白河中ニハ伊達可被逃、打留よと相ふれけり、政宗宿ニ心ヲあハせて、出羽ニかゝりてにけくたる、去程ニ白河中かねたいこヲ打テ、三千騎計おつかけ、信夫庄まておいけれ共、おいつかすして引返ス、大崎殿ハ瀬ケ崎よりにけ給しか、大勢ニおはれ、又行さきも大切之間、仙道大越ニてひそかに御はらヲめさる御子四代目のそくとう積燈寺をは国ニ置奉、御孫大洲賀さま向上院殿十五才ニ成給ふヲつれ奉りしか、にけ給ふ、東福院対馬守十七人御供のうちたりしか、仙道の中塚といふ人の聟也、彼方へくそく志たてまつる也、それより御とも十七人ヲ女房いてたちニて、南長谷まて御下、それより大崎へ付給ふ、去間、伊達殿京都へ注進被申間、美濃国きんたんし、若木、吉家、越後梶原、わたり半分給、大崎も若狭くらミの庄ヲ御給候…

●『東藩史稿』巻一

(応永)五年戊寅 鎌倉氏満卒ス、往テ之ヲ吊ス、継室遺命ヲ称シ、四郎満貞ヲ公及ヒ、白川左兵衛尉満朝ニ委託ス、満貞白川ニ至ル、公往ヲ見ル、奥羽諸将地ヲ割テ之ニ附ス、我亦一荘ヲ附ス、満貞之ヲ少トシ、郡ヲ請フ、聴カス、公大崎ノ斯波満詮ト竊ニ逃レ帰ル、満貞兵ヲ遣シ追テ満詮ヲ大越ニ斬ル其子満持年十五、公之ヲ救ヒ、大崎ニ還ス、乃チ之ヲ京師ニ聞ス、大崎氏恩ヲ謝シテ、名取郡ヲ我ニ納ル

 しかし、現在伝わる書状や文書によれば、四郎満貞は応永2(1395)年末時点ですでに陸奥篠川に駐屯し、あわせて斯波持満も在城して田村庄司と戦っていた様子がうかがえ、『餘目氏旧記』『東藩史稿』が主張する、満貞らが白河へ駐屯し大崎や伊達を追ったという事実は考えにくい。白河氏は応永7年時点で高野郡宇多庄を満貞から安堵されていることや、応永5(1398)年12月の時点で斯波満持は入道しているように十五歳などではないことなど、『餘目氏旧記』や『東藩史稿』の記述は古文書等との比較から創作が多く、信憑性は低いと言わざるを得ない。

足利満兼の「天下万民のための御むほん」と大内義弘の加担

 満兼は応永6(1399)年4月当時「従五位下守前左馬頭源朝臣」とあり(応永六年四月「足利満兼諷誦文案」『高野山文書又続宝簡集四一』)、すでに左馬頭は辞し散位だったようである。祖父基氏の三十三回忌に際し「祖父尊霊」追善の諷誦文ならびに古典も用いながら率直で雄渾な願文を高野山一心院に奉納している。

 こうした中、京都では中国・鎮西の大名、大内左京権大夫義弘入道が大軍を率いて和泉国堺へ上陸するという騒乱が勃発していた。

 そもそもは応永3(1396)年3月以来、九州探題として大宰少弐貞頼、菊池武朝らと戦っていた渋川右兵衛佐満頼「合戦以外之間」という苦境にあったため、応永5(1398)年10月16日朝に「大内入道下向鎮西」(『迎陽記』応永五年十月十六日条)が命じられたことに始まる。10月22日には満頼が阿蘇惟村に「此子細、京都ニ可令注進候間、定可有御感候哉、豊前辺事、大内渡海候間、対治不可有程候歟」(応永五年十月廿二日「渋川満頼書状」『阿蘇文書』)と伝えるなど、大内義弘入道の九州下向は大きな期待をかけられていたことがうかがえる。

 ところが、義弘入道の心中は、京都出征前から後述の通り様々な不満義満入道の政道に対する強い批判の気持ちがあり、この考え方を伝え知った鎌倉殿満兼が、在京の大内義弘入道に義満入道の政道変革のための挙兵を働きかけた結果、義弘入道がこれに応じて「政道を諫め奉るべき由、関東と同心申す」(『応永記』)という行動をとったとみられる。

 なお、これらの話が鎌倉側から持ち掛けられたものであることは、後日、敗れた義弘入道が「我れ由なき者の勧めに依つて、此事を思立ち、運の尽きぬる上は、何までか遁るべき」(『応永記』)と述べていることからも明らかである。なお、鎌倉殿満兼が抱いていた思想は、今川伊予入道了俊が述べるところでは、

●『難太平記』十八

今度鎌倉殿思食立ける事ハ、当御所の御政道余に人毎かたふき申間、終に天下に有益の人出来て、天下をうははゝ、御当家ほろひん事をなけき思召て、他人に取れんよりハとて、御発気有て、只天下万民のための御むほんとあまねく聞えしかハ、哀けに当御所も悉く御意をひるかへし給て、一向善政計と思召さすとも、此間の事に過つる御悪行、御無道を少々止給ひて、人の歎もやすまらんにハ、何しにかハ、今鎌倉殿も思召立へき

是程人毎にうらみ申そと見申けるたにも、御運もつよく、御威勢いかめしくわたらせ給ふに、まして御政道の少々もわたらせ給ハゝ、誰の人かハ鎌倉殿にも心よせ申、語ハれ申へき、今も御怖畏によりて様々の御祈祷もしけく、関東御調伏なとゝかや聞申事も多かるを、何の御てうふくも御祈もうち捨させ給ひて、天下の天下たる道を少々成とも覚しめされんに、殊更天道も仏神の御心にも立所に叶はせ給ふへきにと、愚かなる心にハ存そかし

というもので、満兼は、政道が正しく行われず人心が離れてしまっているときに、もし器量ある他人が出てきた天下が奪われれば、足利家は滅びさることを指摘し、他人に取られるよりは足利一族の自らが動き(「奉天命討暴乱、将令鎮国安民」)という、已むに已まれぬ思想から発起したものであるという。

 了俊は、満兼の行動が「只天下万民のための御むほん」と広く知られれば、義満入道も考えを変えて、ひたすら善政を行うとはいかずとも、現状の「事に過つる御悪行、御無道を少々止給ひて、人の歎もやすまらん」こととなれば、「何しにかハ、今鎌倉殿も思召立へき」と、どうして鎌倉殿満兼がみずから立とうと思うものかと述べる。さらに義満入道は、「御運もつよく、御威勢いかめしくわたらせ給ふ」のに加えて、「御政道の少々もわたらせ給」えば、誰が鎌倉殿に心を寄せて謀反の企てを考えようかと述べ、さらに、関東が恐ろしくて今でも様々に祈祷や調伏を行っているようだが、そんなことよりも「天下の天下たる道を少々成とも覚しめされ」れば、自ずと「天道も仏神の御心にも立所に叶はせ給ふへき」と義満入道の政道を痛烈に批判するのであった。

 また、義弘入道が感じていた義満入道の政道への批判的な考えは、応永3(1396)年春、大内義弘入道が今川伊予入道了俊亭を訪れた際の会話に、

●『難太平記』廿

ちかく居寄りて大内云く、
今御所の御沙汰の様見及申ことくハ、よはきものハ罪少けれとも、御不審をかうふり可失面目、つよきものハは雖背上意、さしおかれ申へき條、ミな人の知處也、貴方も御忠と云、御身と云、御心易おほしめすとも、御自力弱事あらハ、則御面目なき事も可出来か、義弘か事も、国々所領等、身にあまりて拝領候し間、此上ハ国所領をうしなハぬ様に可了簡…

との記録が残る(『難太平記』)。この前後の会話に時系列的な矛盾があるものの、大内義弘入道は義満入道の政道に強い不審感があったことは事実だろう。

 義満入道に政道改革を求める計画は、応永5(1398)年10月16日朝の「大内入道下向鎮西」(『迎陽記』応永五年十月十六日条)するまでの間におおよそ固まっていたと思われる。九州と鎌倉で私的かつ隠密裏で意思疎通を行うことは相当ハードルが高いためである。

 そして、応永6(1399)年7月25日に満兼は「奉天命討暴乱、将令鎮国安民」を目的とする行動に興福寺へ最前に馳せ参じるよう命じる御教書(応永六年年七月廿五日「足利満兼御教書案」『大乗院文書 寺門事書條々聞書』室531)を作成し、九州の大内入道に遣わしたと思われる。

●応永6(1399)年7月25日「足利満兼御教書案」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』室531)

[表書 南都衆徒御中  満兼]

奉天命討暴乱、将令鎮国安民、最前馳参而致忠節者、可抽賞之状如件

 応永六年七月廿五日        源朝臣 判
南都衆徒御中

※御教書案を聞書にまとめる際に、筆癖のために「十月」を「七月」と誤転記した可能性はあるが、10月25日に鎌倉で記された文書がわずか三日後の10月28日に堺に到着して大内入道が副状を認めるには無理があるため、おそらく『大乗院文書』に見える転記の通り七月であろう。

 そして、大内入道は船団を率いて守護国である和泉国に向かい、応永6(1399)年10月13日、「大内左京権大夫義弘入道、和泉の堺の浦に著」(『応永記』)した。「大内助入道、率数千騎軍兵、自西国上洛、和泉堺」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)とあるように、かなりの手勢を率いての守護国和泉への到着だった。義弘入道は堺湊に到着すると、「平井新左衛門を以て案内を啓して、其身ハ参洛せしめす」(『応永記』)という。参洛しない理由は「條々不意を奉り、仔細あるに依つて参洛すべからざる由」(『応永記』)であるという。また、京都には大内守護国の「和泉、紀伊国には、筑紫中国の勢充ち満ちて野心の企てありなん」(『応永記』)と注進が飛んだ。

 青蓮院宮尊道入道親王はこの報告を聞き、使僧伊予法眼を義満入道に遣わして「早速に宥む可」と仰せになった(『応永記』)。義満入道は入道親王の意見を尊重するものの、義弘入道の行動は「扨は聞ぬる野心の條々勿論なり」とした。ただ「去りながら、若一旦の讒言広舌なんとにて恨を含みなし、世上の乱をなし、民間を悩ます事不可然、能々子細を可被尋」(『応永記』)と、10月27日、絶海中津を専使として堺へ派遣した。

 なお、同27日の記録に「大内左京大夫入道義弘、隠謀露顕」(『柳原家記録』応永六年十月廿七日条)と見えることから、世間はすでに大内入道の謀叛と認識しており、義満入道も同27日には「為彼治罰御祈、各本坊被始行之」(『柳原家記録』応永六年十月廿七日条)と、室町殿に前大僧正道意(園城寺長吏)、禅大僧正尊経(常住院)、前大僧正増珍(実相院)、僧正頼昭、権僧正範伊を招じて、五壇法の修法がはじめられた(11月4日結願)。二日後の10月29日には鞍馬寺で青蓮院宮尊道入道親王による四天王法が修法され(『四天王法記』応永六年十月廿九日条)、八坂神社や報恩院、後鳥羽院御影堂などでも次々に大内義弘入道調伏の祈祷が行われている。

 大内義弘入道は絶海中津が訪れる前に、新介弘茂「大内は上意再三に及び如何御返事申す可や」と内談したという。これに弘茂は、

「度々厳命ヲ疑ひ奉り、実否分明ならず、伝説を以て仰せを違背す、愚案の至なるべし、凡そ先祖は一国をも任ぜず、当代に至り六箇国迄拝領し、栄花身に余り、御意を軽んじ奉る御意の出来るにや、今度は上意殊に子細ありと覚えて、僧中の尊宿絶海和尚を以て仰下さる、如何にも先非を翻へし、上命に随つて参洛あるべし」(『応永記』)と義弘入道を諫めて上洛を勧めたという。

 さらに「平井備前入道(平井道助)も、

「此趣然るべく候、譬ひ如何なる御計あり、下となり幾度も歎き申さんこそ、常の義にては候へ、今は剰へ、上より宥め仰せらるゝ條々軽からず、猶以て承引なく、君臣の義に反せば朝敵となるべし、然らば則ち当家の滅亡、時刻を廻すべからず(『応永記』)と同調した。

 しかし義弘入道は「忠言耳に逆ふ、其心に違」うと耳を貸さなかった。そこに「杉豊後入道(杉弘信入道)が進み出て、「都鄙に於て多くの大敵を亡し、忠のみありて不忠を存ぜず、其忠賞に国々を拝領す、今何に依つてか分国を召し離すべき御企これある乎、偏に当家を滅すべしといふ御企みなり、仍ち其意恨を散ぜんが為め、当国に御越え、内儀早く外聞す、天下の大事を思召し立つ上、一応の御宥を以て、輙く仰に随ふべきの條、如何あるべき」(『応永記』)と義弘入道に述べると、義弘入道は大いに納得し、その後、絶海中津を招いて対面した。

 絶海中津は、「重ねて上意の趣を申さしむとて愚僧下向す、所詮世間の浮言を以て、上意を計り奉る事然るべからず、千万広説ありと雖も、急ぎ上洛を遂げ御目に懸り、此間の意趣を申し開かれ、又上意をも承分せらるべし、百聞一見に如かずとこそ申候へ、一朝の忿を以て、上方の御意を掠め申さるゝ事、遠慮なきに似たり」と上洛と申し開きを為すべきと説得した。

 これに大内義弘入道も、「上意の通り、亦御教誡の旨畏つて承り候、誠に君の御恩、大山よりも高く、巨海よりも深し、去れば蕭何が功をさみし、陳平が義を重んず、君の御為めに一命を軽んずること、風前の塵も喩ふるに非ず」と義満入道への恩と忠義を述べ、九州や山名奥州入道との奮戦、南北両朝一統と三種の神器の帰納の功績を挙げる。ところが、これらの忠義に対し、義満入道が取ったという四つの行為に対して、絶海中津に憤りの念を述べたのであった。

(1)義弘を密かに討たんとした風聞 九州での「少弐、菊池、千葉、大村以下大敵」との合戦では、「舎弟伊予守、同六郎を大将となし、五千余騎にて九州に発向」するが、「味方は小勢にて合戦延引するの間、入道罷下りて不日に大敵を退治す」るが、後に聞けば、「入道退治せらるべきの由、少弐菊池が方へ、竊に仰下さると」いう。
義弘入道は「三十箇年の間、無二の忠節を致す所に、何の仔細ありて斯様の御計ひありけるぞや」と憤りを隠さなかった。
(2)和泉・紀伊国の収公 山名奥州入道との戦いでの軍忠で賜った「和泉、紀伊国」についても「子々孫々迄も御違変ある間敷かと存ずる所に、幾程もなくして召し放さるべし」という。
(3)舎弟伊予守討死に対する無恩賞 少弐貞頼との合戦時に、大将として派遣していた舎弟伊予守満弘が「討死仕るの所に、その子勲功の賞」を受けることがなかった。
(4)上洛後に討とうとしたこと 義弘を上洛させ、「京都に於いて誅せらるべきとの御評議」があったこと。

 義弘入道は「是程に御意に違つては、爭でか上洛仕るべきや」と絶海中津へ告げる(『応永記』)

 これに絶海和尚も、「度々の忠節の事、天下隠れなし、去れば重賞世に勝ぐる者なり」とし、義弘入道が恨みとする四箇条それぞれに反論し、「條々御恨み其謂れあるに似たりと雖も、其忠却つて不忠となるべし…、其禄を持ちながら、上を軽んじ奉る事、天命に違うべし、神明仏陀も御加護あるべからず、能々慎べきか」(『応永記』)と説いた。

(1)少弐を贔屓していない 少弐退治の事は、深く上意に違へて、退治を加へらる上は、なんぞ彼を贔屓せられん、一事両様の御沙汰あるべきや、唯宗間が謀として、京都より仰せ下さるの旨ありとて、九州の国人を相語らふ事をば、なじかは上方御存知あるべきや
(2)和泉・紀伊国の収公 両国召離さるべきといふ事、更に仰出さるゝ旨これなし、亦拝領の人も無し、然るに世の広説を以て、上を恨み奉る事、卒爾の次第なり
(3)伊予守討死に対する無恩賞 豫洲討死の後、軈て上洛すべきの由、度々仰下さると雖も、参洛今に遅々の間、彼忠実の事延引す、是れ一に深き御遺恨に非ず、
(4)上洛後に討とうとしたこと 京都に於て討たるべきといふ事は、内外其沙汰なし、若し左様の趣これあらば、縦ひ上意たりと雖も、僧家の身となり、爭でか失人籌策を致すべき、

 これに大内義弘入道は納得せず、「政道を諫め奉るべき由、関東と同心申す仔細あつて、今仰せに随ひ、上洛仕りなば、関東の契諾相違すべし、来月二日、関東同時に上洛仕るべきの由、御申あるべし」(『応永記』)と、鎌倉殿満兼との約定を明らかにして「座敷を立」ってしまった。絶海和尚も「此上は是非なし」と堺を後すると、翌10月28日に帰洛して義満入道へ仔細を報告した(『応永記』)

 絶海和尚の報告を受けた義満入道は「既に隠謀露顕の上は、早く誅伐を加ふべし」(『応永記』)と怒り、「此三十余年間振舞ふ所の武威は偏に我力なり、全く義弘の力に非ず、縦ひ武力世に越ゆるとも朝敵とならば、何程の事かあるべき」と述べ、「天慶康和の逆臣、皆誅罰せられざるはなし、当代には山名氏清謀叛し、暫時に之を退治す、今の義弘もさこそあらんずれ」(『応永記』)大内追討の意思を明確にした。

●「応永六年雑々聞書」(『大乗院文書 寺門事條々聞書』第一冊)

一 大内助入道、率数千騎軍兵、自西国上洛、泉堺云々
一 大内上洛于和泉堺辺事ハ、関東同心、申謀叛之由、有其聞
一 大内謀反縡実也、仍自室町殿、以相国寺長老雖被仰誘、以御自筆自判御教書、可追討大内   入道之由、菊地以下西国皆以被成御下知、更不弁其謂、不便次第也、所詮御振舞毎時背儀之間、自関東被仰下子細在之者、不可自専旨申切了

 そして、各国の守護・地頭に対しては、自筆の御教書及び管領畠山入道の副状を遣わして「可追討大内入道」を指示した(応永六年十月廿八日「足利義満袖判御教書」『福原家文書』、応永六年十一月二日「畠山基国施行状」『福原家文書』)

 一方、大内義弘入道も10月28日、満兼御教書(七月廿五日御教書)に副状を付けて興福寺へ遣わし、請文の提出を求めている。この満兼御教書と義弘入道副状は11月4日早朝に興福寺に届けられている(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)

●応永6(1399)年10月28日「大内義弘書状案」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』室564)

鎌倉御所京都御発向候、被致忠節者、可目出候、仍被成御教書候、可被進御請文候哉、恐々謹言

  十月廿八日      義弘 判
 南都学侶御中

 義満入道の大内追討の命を受けた人々はすぐに行動を起こし、11月3日には「為大内入道対治、伊勢国司後詰」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)とあるように、伊勢国司・北畠権大納言顕泰(南朝官)が伊勢を出立し、11月5日に「著南都」(『東院毎日雑々記』応永六年十一月五日条)した。11月4日早朝に満兼御教書を受け取った興福寺も大内入道方ではなく御所方となっており、案が作られたのち正文は御所方へ渡されたのだろう。興福寺勢は11月19日「国中勇士、学侶六方」を引率して「富貴畑平群郡平群町福貴畑へ進み、11月22日には「信貴山平群郡平群町信貴山に登っている。

 北畠親房―+―北畠顕家
(大納言) |(鎮守府将軍)
      |
      +―北畠顕信 +―北畠顕俊―――木造俊泰
      |(准大臣) |       (権大納言)       
      |      |        ↓
      +―北畠顕能―+―北畠顕泰―+―北畠俊泰―――北畠持康――北畠教親―――北畠政宗―――北畠俊茂――――木造具康
       (権大納言) (権大納言)|(権大納言) (権大納言)(権中納言) (左近衛中将)(左近衛中将) (左近衛中将)
                    |
                    +―北畠満泰
                    |(左近衛少将)
                    |
                    +―北畠満雅―――北畠教具――北畠政郷―――北畠材親―――北畠晴具――+―北畠具教
                     (左近衛中将)(権大納言)(右近衛中将)(権大納言) (左近衛中将)|(権中納言)
                                                       |
                                                       +―木造具政
                                                        (左近衛中将)                   

 京都でも大内征伐のために「軈て細川右京大夫頼元、京極治部少輔入道、赤松上総入道、都合其勢六千余騎、淀山崎より和泉国に発向」(『応永記』)した。次いで11月8日、「公方進発東寺」(『東院毎日雑々記』応永六年十一月八日条)した。伝によれば「御馬廻二千余騎、御供の人々には、管領子息尾張守、前管領同子息左衛門佐、吉良、石塔、吉見、渋川、一色、今川、土岐、佐々木、武田、小笠原、富樫、河野等を始として、已上其勢三万余騎」(『応永記』)という。11月14日に「公方自東寺御進発八幡」(『東院毎日雑々記』応永六年十一月十四日条)「御進発八幡御陣」(『柳原家記録』応永六年十一月十四日条)「為御退治御所已有御出、被召八幡御陣」(応永七年四月廿一日「市河興仙軍忠状」『市河文書』室627)と、八幡山へ軍陣を動かし、同日、管領畠山基国入道を先手として「為大将御発向」(応永七年四月廿一日「市河興仙軍忠状」『市河文書』室627)している。「都合其勢三万余騎」で「和泉国に発向す」(『応永記』)という。11月19日には興福寺別当の一乗院門主(大僧正良昭)が八幡山に義満入道を訪れている(『東院毎日雑々記』応永六年十一月十九日条)

 信濃国新守護の小笠原信濃守長秀も、御教書を受けて11月6日に「伊那郡伊賀良庄有御立、御上洛」の軍勢を動かしている。長秀は国内の諸地頭等に軍勢催促を行い、その一人、市河刑部大輔入道興仙も「預御催促」って11月15日に「在所罷立、着美濃国釜戸」したが、「土岐宮内少輔、大内依令同心、塞路次之間、送数日、十二月晦日、自濃州釜戸令帰宅」し、「軈懸北国可令参洛之由、致用意」と、北国ルートでの参洛の計画をしている(その後、大内義弘入道は討たれたため、参洛に及ばずとなった)。

 一方、満兼は義弘入道との「来月二日、関東同時に上洛仕るべきの由、御申あるべし」という約束の11月2日時点では鎌倉から動かず、11月9日には陸奥国会津郡南山田島南会津町田島「長沼淡路入道殿」の「下野国本知行之内長沼又四郎跡事者、所還補」の御下文を下し、これを受けた管領禅助入道が下野守護結城弾正少弼入道へ「長沼淡路入道代」に打渡を命じるなど、なお在鎌倉だったことがわかる。

 ただ、11月12日に「鶴岡八幡宮神主殿」「武蔵国江戸金曾木三郎跡豊島郡小具郷内)を充行って「可致天下安全懇祈」(応永六年十一月十二日「足利満兼御教書写」『鶴岡神主家伝文書』室570、「上杉禅助施行状写」室571、応永六年十二月二日「武蔵守護代千坂越前入道打渡状写」『鶴岡神主家伝文書』室586)を命じているように、行動の前触れとも取れる寄進をしており、その九日後の11月21日、満兼は「武州府中御発向」(『鎌倉大日記』)している。「京都へ御加勢ノタメ満兼武州府中へ御発向、実ハ大内義弘、土岐詮直等ト内通有テ京都ヲ攻ント擬ス」(『喜連川判鑑』)ともあり、上洛のために府中ヘ向かった可能性はあるが、満兼が軍勢催促をした形跡はない。

 一方で、義弘入道謀叛が「関東同心申、謀叛之由有其聞」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)について、11月21日、義満入道は八幡山の陣中で、陸奥国菊田庄の「藤井四郎殿(藤井貞宗)に宛てて、もし関東が謀叛を企てているという噂が事実であれば、忠節を尽くすよう命じる袖判御教書を発給している。藤井氏は下野国下都賀郡藤井村下都賀郡壬生町藤井を本貫とする小山一族だが、京都被官人であった。

●応永6(1399)年11月21日「足利義満入道袖判御教書」(『上遠野文書』室576)

   (花押:足利義満)

関東事、々実者、為御方致忠節者、可抽賞之状如件
 
 応永六年十一月廿一日
   藤井四郎殿

 さらに、義満入道は関東上杉憲定入道へ「種々巷説驚入候間、進状候」と、満兼謀叛の巷説について問い質している。おそらく藤井四郎に遣わした御教書とほぼ同じ頃に遣わされたと思われる。

 この義満書状を受けた憲定入道は、円覚寺の「円西堂(月潭中円。義満入道の帰依あつい義堂周信の法嗣でのちの円覚寺六十六世)を京都に派遣し、「無為申沙汰」の返答をしている。関東管領禅助や憲定入道は、満兼と大内入道との繋がりを把握し、それも踏まえての「無為申沙汰」の返答と思われるが、この返答に室町殿義満入道は「為天下返々目出候」と満足している。

●応永6(1399)年12月2日「足利義満入道書状」(『上杉家文書』室585)

種々巷説驚入候間、進状候之処、無為申沙汰、為天下返々目出候、委細円西堂帰参時、可申候、かしく
 
  十二月二日  花押(足利義満)
 上杉安房入道殿

 のちに満兼が三島社に奉納した「足利満兼願文(応永七年六月十五日「足利満兼願文」『三島大社文書』)を見ると、自らの行いを恥じるとともに周囲から諌止があった旨が記されており、管領朝宗入道や上杉憲定入道等が満兼を説得したとみられる。義満入道への返答は彼らによる諌止の条項と具体的な内容が示されていたのだろう。満兼の武蔵国府発向も、武蔵国は管領朝宗入道の管国であることから満兼監視が行える状況にあったのかもしれない。12月2日、義満入道は鎌倉へ戻る「円西堂」に委細を言伝てているが、満兼諌止後の対応策などが伝えられたか。

 さて、11月28日には義満入道は「小笠原右馬助殿(小笠原政康)「属守護(小笠原長秀)手」して「大内入道退治事」に加わるよう命じている(応永六年十一月廿八日「足利義満袖判御教書」『小笠原文書』室583)。兄の守護小笠原長秀は11月6日にすでに上洛の途についており、留守居となっていた政康にも援兵を命じたものか。

 大内義弘入道は堺の城内を見て回ると、「此中に我が手の者千余騎籠りたらば、縦ひ百万騎の勢なり共輙ち破るべからず」と悦び勇むが、内心はすでに覚悟を決めており、「今度の義兵は、日頃の本意に引替へて、不慮に出来たる事なり、静に事の仔細を案ずるに、一且の恨を以て相公の御高恩を忘れ奉るの間、天命の責遁るべからず、運命尽きぬる上は、討死せん事必定なるべし」と思い定め、日頃から帰依する僧侶を請じると、「葬式儀式を調へ、七々箇日迄の仏事以下、懇に沙汰し置」いた。さらに「七旬に余る老母のありけるを、周防国に残し置きけるにも、色々の形見に文を副へてぞ下し」「舎弟の六郎が方へも、同じ色々の形見に文を副へ、此方の合戦は兎も角もあれ、其方分国相構へて、固く持つべき」(『応永記』)ことを説いた。

 これらが終わると、義弘入道は今生の思い出として、連歌や和歌の会を開き、酒宴乱舞も催したという。人々はみな「各母妻に形見を遣し、皆討死の用意をぞしける」(『応永記』)という。

 すでに杉九郎の籠る森口城は「今川上総入道、結城越後入道」が攻め落し、鵙山の杉備中守も堺に逃れ(『応永記』)、11月29日、御所方は「是程の平城、唯一度に攻落すべし」(『応永記』)と三方より堺を攻撃した。「管領の手二千余騎にて、北の方一、二の木戸を攻破る、既に三の木戸を攻破らんと手痛く戦ふ間、遊佐を始として手負い七百人、合戦難儀に及びければ、遊佐手負ひけれ共、一足も退かず、猶敵の中へ攻入りて討死せんとしければ、管領同子息尾張守、遊佐討死すなとて懸け給へば、続く兵七百余騎、命を惜まず攻め戦」い、「山名右衛門佐入道、同民部少輔」勢は管領畠山基国入道勢と入れ替わって堺城を攻め立てた。さらに「伊勢の国司北畠源大納言、同子息少将」勢もまた山名勢と一所となって義弘入道本陣に斬り込んだ。しかし、大内勢本陣は手堅く、「北畠少将を始として、矢庭に十余人討死」(『応永記』)する。左少将満泰の討死を聞いた父権大納言顕泰「元より子をも若党をも多く討たせてこそ、軍の功をばなすべし」と、自ら敵中に切り入り奮戦するなど、大内方、御所方ともに多くの「和泉国合戦死亡群衆等」(『東寺光明講過去帳』)が出た。

 12月6日には「国中勇士、進八幡御陣了」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)とあるように、軍勢催促に応じた御所方の武士が八幡山周辺に着陣して堺攻めに備えている様子がうかがえる。12月9日、興福寺衆も「八幡御陣」に合流(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)する。信濃国の「中野兵庫助頼兼」「当大将小笠原信濃守殿(小笠原長秀)に従って「於泉州境浜両度御合戦」(応永六年十二月廿七日「中野頼兼軍忠状」『市河文書』室606)で軍功を挙げており、信濃勢も和泉攻めに加わっていたことがうかがえる。

 そして12月21日、大内家奉行の杉備中守は「今日は定めて権大夫討死あるべし、然らば則ち豊後守も討死すべく、さあんに於ては、我は一番に討死せん」と、北の手の山名民部大輔の軍勢に攻めかかり、五人を負傷させ、三人を切り伏せたのち討死を遂げる(『応永記』)。義弘入道は富田尾張守から「宗徒の者共数多討死仕候、合戦難儀に及ばゝ、夜に入りて舟にて落ちられ、中国に御帰りあり、時を待つて本意を遂げらるべし」と告げられると、「我れ由なき者の勧めに依つて、此事を思立ち、運の尽きぬる上は、何までか遁るべき」(『応永記』)と述べてこれを拒絶する。義弘入道が「由なき者」と罵った相手は、11月2日に関東を出立して上洛するという約定を違えて関東を動かなかった鎌倉殿満兼であろう。

 大内義弘入度は自ら好みの大太刀を振るい、杉備中守が討死を遂げた山名民部大輔の陣に攻め入り、四方に斬り回ったという(『応永記』)。ここに管領畠山基国入道の嫡子・畠山尾張守満家が駆け入ると、義弘入道が目を懸けてわずか三十騎ばかりで襲い掛かった。尾張守も義弘入道を討ち取らんと百余騎で義弘入道を取り込め、奮戦ののち「義弘入道、流石深手負ひたる上、一日の合戦に力竭き」たため、義弘入道は大音声で「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾と思はん者共討取つて、相公の御目に懸けよ」と叫ぶと再び畠山尾張守勢に駆け入って散々に戦ったのち、尾張守満家と渡り合って討死を遂げた(『応永記』)。享年四十五(『応永記』)「大内入道、豊後已下、数百人打死、新助、平井ハ被生取、希代事也」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)と記録されている。

京都・鎌倉の和解

 大内義弘入道の滅亡後、義満入道、管領以下の人々は解兵となり各々帰国の途に就く。義満入道等は京都へ帰還し、合戦終結十五日後の応永7(1401)年正月11日、将軍義持(義満入道嫡子)の初の臨席で評定始が行われ、大将のひとり管領基国入道徳元が上座に坐している。

 この日の評定では、鎌倉殿満兼が大内義弘入道の叛乱へ関与したことが主要議題になったと思われる。義弘入道との堺合戦当時、鎌倉殿満兼は武蔵国府に動座しており、義弘入道討死後も「関東御謀反、未落居」(『大乗院文書 寺門事書條々聞書』第一冊)という状況にあった。

 また、前九州探題「今川伊予入道」が関東へ落ち延びたという報告(大内義弘入道と今川伊予入道了俊は、応永三年当時の了俊の九州探題解任時には何らかの対立関係にあったと思われるが、了俊の弟・仲秋入道仲高は義弘義父という「仲高入道縁者の事、世の知所也」であり、伊予入道了俊は義弘の義伯父にあたる)があり、使僧慶阿を上杉安房憲定入道に遣わして追討の指示をした(応永七年正月十一日「足利義満書状」『上杉文書』609)

●応永7(1400)年正月11日「足利義満入道書状」(『上杉家文書』室609)

年始慶賀珍重ゝゝ
今川伊予入道、関東へ没落のよしきこへ候、不思議の荒説の者候、かやうにて候者、天下のため不可然候、何とも御方便候て、討候ハゝ悦入候、其子細慶阿方より可申候、かしく
 
  正月十一日  花押(足利義満)
 上杉安房入道殿

 このほか、駿河と遠江の半国守護だった今川伊予入道了俊の没落に伴い、「今川上総介入道法高」駿河国の国務と守護職および遠江国の国務と守護職が補任されている(応永七年正月十一日「足利義満御教書写」『浅草文庫本古証文』室610、611)。いずれも評定日の正月11日のことであり、評定の結果を反映したものであろう。

●今川家略系図

 今川範国―+―今川範氏――――+―今川氏家           
(五郎)  |(上総介)    |(中務大輔)        
      |         |  
      |         +―今川泰範―――今川泰国   伊勢盛時―+―伊勢新九郎
      |          (上総介法高)(宮内少輔) (備中守) |
      |           ∥                  |
      |           ∥――――――今川範政        +―女子
      |           ∥     (上総介)          ∥――――――今川氏親
      | 上杉朝顕――――――女子     ∥             ∥     (修理大夫)
      |(中務大輔)            ∥――――――今川範忠―――今川義忠   ∥
      |                  ∥     (治部大輔) (上総介)   ∥――――+―今川氏輝
      |           上杉氏定―――女子                   ∥    |(五郎)
      |          (弾正少弼)                       ∥    |
      |                                中御門宣胤――女子   +―今川義元
      |                               (権大納言)        (治部大輔)
      | 
      +―今川貞世――――――堀越貞臣―――今川貞相―――今川範将―――堀越貞延―――堀越貞基―+―堀越氏延
      |(伊予守了俊)   (伊予守)  (伊予守)  (治部大輔) (陸奥守)  (治部大輔)|(六郎)
      |                                            |
      +―今川仲秋――――+―今川真秋―――今川持弘―――今川氏弘―――今川氏直        +―吉良氏朝
       (右衛門佐仲高) |(大蔵少輔) (大蔵少輔) (与五郎)  (中務少輔)        (左兵衛佐)
        ∥       |
        ∥       +―女子
        ∥         ∥
        ∥         大内義弘
        ∥        (左京権大夫)
        ∥       
        ∥―――――――+―今川貞秋―――今川持貞
        ∥       |(遠江守)  (中務少輔)
        ∥       |
        ∥       +―今川氏秋
        ∥       |(左馬助)
        ∥       |
 千葉胤泰―――女子      +―今川国秋―――今川国治―+―今川秋弘
(千葉介)            (九郎)   (近江守) |(相模守)
                              |
                              +―今川胤秋
                              |(伊予守)
                              |
                              +―今川胤弘        +―持永景秀―――持永盛秀
                              |(右衛門佐)       |(右衛門佐) (治部少輔)
                              |             |
                              +―今川秋秀―――持永秋景―+―持永家秀―――持永茂成
                               (治部大輔) (大蔵允)         (助左衛門尉)

 なお、今川了俊は関東との関わりなどについて、自ら記録した『難太平記』で下記のように述べている。

●『難太平記』十九

大内、和泉に攻めのほりし時我等野心の事かけても不存、まして従関東一言も一紙も蒙仰せたる事なかりき、唯大内申行けるにや、諸方の人並の御教書とて持来しかは、即時に上覧に及しかは、更に別心なかりしを、

「遠江国にて子とも家人等、関東心寄申故に、遅参のよし」

人の申けるにや
、疑思召と内々承り及しかは、

「九州に身一人以海賊舟遣さるへし」

にて有し事也、

「若なかし捨られ可申御方便か」

と、心の鬼有しに合て、鎮西の輩可有御籌策御故実なと申入て、御計有し御教書、御下文なとも、皆々召返されて、唯了俊を被差下也、

可致忠節と計の御教書三四通計給しに、弥上意不審に存て、国に下て我身は隠居して子共か事か任上意、追可相計、若猶京都の御助なくハ、今為天下とて、鎌倉殿思召立事、御当家御運長久と云、万人可成安堵にやと思ふなりし也、其故ハ、大御所、錦小路殿大休寺殿の御中違の時も、一天下の人の思ひし事は、当家の御中世をめされん事まて、あなかちに御兄弟の間をは、いつれと不可申とて、両御所に思ひゝゝに付申き、其時も諸人の存様は、大休寺殿は政道私わたらせ給ハねハ捨かたし、大御所は弓矢の将軍にて、更に私曲わたらせ給はす、是また捨申かたしと也、中御所宝筐院殿をハ、大御所さすかに御父子の事にて捨申させ給ひかたく、大休寺殿も又おなし御兄弟なからも、あはれなる御志ともにて、中先代の時、箱根山よりして天下をも御当家をもゆつり申給ひし事を、大御所はおほしめし忘給はて、

「只いかにもして大休寺殿より宝筐院殿へうつくしく天下をゆつり与申させ給へかし」

との御方便ゆへに、摂州井田の合戦の時も、師直師泰うたれしも、大御所ハとかめ申させ給ハさりき、又由比山の合戦の後、上杉民部大輔、自伊豆山引分て落行しにも、大御所とかめ申させ給ハて、又御合体いとゝ定りたりき、就夫両御所ひそかに御談合有けるにや、

「京の坊門殿は如何に申させ給とも、御あらためさせ給かたし、然は終に天下をたもたせ給かたかるへし、たとひ少々御政道たかふ事ありても、関東大名等一同せは、日本国の守護たるへし、然ハまた此御兄弟の御中にかまくら殿を置申されて、京都の御守目になし申されて、可有目出」

と御内談ありて、坂東八ヶ国をは光王御料基氏に譲申されて、御子々孫々坊門殿の御代々の守たれと、くれゝゝ申をかせ給ひし也、

其後、両御所隠れ給ひし後、京都を恨申輩、内々連々関東を勧申様なりしかとも、終大御所の御素意を専とさせさ給ひしを、自京都ハ大休寺殿の御申によりて、鎌倉を別に取立申さるとおほしめしつめられて、御内心は御怖畏有しにや、

「如斯にては、終に天下の可有煩」

と思召て、諸神に御ちかひありて、大鎌倉殿基氏、宝筐院殿に先立申させ給ひけるとこそ承及しかとも、実説は人の可知にあらす、

此度の事は、其時大御所思召置し御事なれは、只御当家の御中に、天下をもたせ給ひて、政道のたゝしかるへきを可仰と申とは、遠江に下て後、我等も思ひなしゝを、京都より遠江に打てくたる事必定と聞えし頃、関東にも御和睦の事、上杉堅申行と聞しかは、京都の御沙汰恐存せし程に、我身ハ藤澤に隠居し、子共の事は、京鎌倉の御間に御助に随へしと存て藤澤に有りしを、御和睦弥定りし後、我等藤澤にてハ猶鎌倉殿を勧可申とや、京都にも思召、上杉も存けるにや、遠州の事ハ就是非関東執御申有へき也、御和睦の上は、京都と云、関東と云、人々の分国并知行地相違有へからすよしさためらるゝ上は、隠居ハいつくもおなし事成へし、分国然るへきのよし、重々上杉申行間、また帰国せしを、関東より如御申者、我等か事可為京都御計、若可有子細ハ、関東としても可退治のよし、京都に御申と聞えしかは、不便の事と存せしに、忝も任先忠功、令参洛者御助有へしと、度々上意のよし蒙仰し故、参洛せし也

かやうの事を思ふに、なましひに昔の引きかけ又義理の勘故に、身をいたつらにして、名利ともにかくむなしくすへき事、歎に猶余有、すへて我等九州に発向せし事を申さハ、身のほと覚悟せさりけり、その故ハかならすしも当御所の御事ことなる御情も御なしみも、人程ハなかりし身成しかとも、我らハ御当家御為にハ殊更私を忘て、可致忠事と思ひし故に、西国を先可治のよし聞えしかは、只任志行て発向して、親類家人数百人討たせて、終に失面目本領にさへわかるゝ事ハ、家人等はたゝしらぬ事也、

人ハその身の位にしたかひて忠を致すへき事なりけり、身のほとより忠功の過たるハ、かならす恨の可出来かと思ふ故也

 以上は今川了俊の主張だが、了俊はあくまでも鎌倉殿満兼との関係はなく、タイミングや人々の疑心暗鬼などによって疑いをかけられたと断じる。ただ、義満入道の猜疑心は強く、さらに政道も混乱している状況にあって、京都の政道に変化がないようであれば、「今為天下とて、鎌倉殿思召立事、御当家御運長久と云、万人可成安堵にやと思ふなりし也」(『難太平記』)という、鎌倉殿満兼の心情に同調する。

 前述の通り、鎌倉殿満兼の行動は「今度鎌倉殿思食立ける事ハ、当御所の御政道余に人毎かたふき申間、終に天下に有益の人出来て、天下をうははゝ、御当家ほろひん事をなけき思召て、他人に取れんよりハとて、御発気有て、只天下万民のための御むほん」(『難太平記』)であって、今川了俊は根本的な原因を義満入道の「事に過つる御悪行、御無道」に求め、その変化が必要であると述べる。

 応永7(1400)年2月3日、京都から下向した興福寺の「廿五人衆」(義満入道に召されて正月18日に上洛)からの情報によれば、「関東事、諸大名依教訓申思召留之由、風聞在之」(『長専五師記写』応永七年二月三日条)とあり、管領及び閣職らが義満入道を諭し、関東追討は思い留まらせたという。京都も関東も、管領以下の補佐の人々が対局を把握し、互いに意思疎通を取りながら、必死に都鄙の衝突を回避していた様子がうかがえる。

 なお、下記の義満書状に見える「典厩」を満兼と同定し、義満が勘気を解いたとすることが通説化しているが、たとえ義満の自敬表現の文書としても意味が通らないことや、この文書後の評定でいまだ京都側は関東に対する「関東御謀反」の表現を改めていないことから、この書状は満兼とは関係なく、上杉安房入道が勘当した「典厩(憲定従弟の上杉左馬助憲光か)」について勘気を解くよう要請した文書であろう。

●応永6(1399)年? 12月29日「足利義満入道書状」(『上杉家文書』室607)

典厩御勘気事、勿体なく候、千万をさしをかれ候て御免候者、本望候、かしく
 
  十二月廿九日  花押(足利義満)
 上杉安房入道殿

 同2月、京都側は満兼に対し「従京都将軍、足利ノ庄ヲ被進」(『喜連川判鑑』)と見え、足利庄の管轄を鎌倉方に移管したことを示す。これは『鎌倉大日記』にも「同足利庄関東へ御進」(『鎌倉大日記』)と見えるが、武蔵府中に駐屯を続ける満兼に対して譲歩したものであろう。

 これらを受け、武蔵国府中に在陣していた鎌倉殿満兼は、「三月五日還御鎌倉」(『鎌倉大日記』)した。この情報は、3月12日夜に京都にも「関東注進到来、御力者参著管領畠山亭」して伝わっている。それによれば「左馬頭満兼、去五日、被帰本亭、無為云々、万民成喜悦之思」(『吉田家日次記』応永七年三月十二日条)という。ただ、吉田兼敦は「但始終之儀如何」(『吉田家日次記』応永七年三月十二日条)と今後の疑念を抱いている。

 3月20日、鶴岡八幡宮寺で満兼の「御代始」の儀が執り行われ、満兼は3月24日に社参(御幣役加古三郎、御剣役山名小三郎、御沓役二階堂下野守)した(『鎌倉事書日記』)。警衛は「辻固小侍所、鎧、直垂、矢負弓ヲ持」って行ったと思われる(『殿中以下年中行事』)

 5月25日、上杉安房入道(憲定)は「三島ニ参詣」(『喜連川判鑑』)し、6月4日には「満兼ノ仰」で三島から直に上州へ赴き、「下成ノ腹ノ乙若丸ヲ迎へ、鎌倉ニ帰」ったという(『喜連川判鑑』)。この「乙若丸」は「後ニ號持仲」している。そして、6月15日には満兼も三島大社に「願文」を納めている(応永七年六月十五日「足利満兼願文」『三島大社文書』)

●応永7(1400)年6月15日「足利満兼願文」(『三島大社文書』室643)

敬白
 三島社壇
  立願事
右、「満兼(異筆)」誤以小量欲起大軍、然依補佐之遠慮、有和睦之一途、仍止発向、早随時宜、重又有諫言、々々良所以、令定運命之通塞、須由冥助之浅深、若違冥慮者、争達微望、若有神助者、自開福運、不可求力、不可労心、故任彼諷諌、忽翻異心、即為改其過而謝其咎、記此意趣、偏仰冥鑑、伏願 当社早照丹心、弥加玄応、都鄙無事、家門久栄矣、仍願書如件、敬白

  応永七年六月十五日      左馬頭源朝臣「満兼(異筆)」(花押)

 前年の大内義弘入道の争乱に関わり(おそらく満兼がけしかけた)、騒乱を招いたことを全面的に認めて謝罪し、「補佐(管領朝宗入道、安房憲定入道を指すのだろう)」の先々までも考えた「遠慮」によって京都との和解も成立したことがうかがえる。満兼が好んだ漢詩文の表現方法により、実際よりも大げさな印象はあるが、満兼は「故任彼諷諌、忽翻異心、即為改其過而謝其咎」に至り、その心を三島社に宣言し、「弥加玄応、都鄙無事、家門久栄矣」を祈った。

 京都と鎌倉は大内入道の反乱後もしばらくはしこりが残り、前述のように、京都管領や関東管領らによる都鄙の戦闘回避が懸命に模索されていたが、満兼願文に見られるように満兼の全面謝罪があり、おそらくその後は本格的な和睦に向けて動き出したと思われる。

奥州の争乱

 満兼が武蔵府中から鎌倉への帰還を模索していたであろう応永7(1400)年2月中旬から下旬にかけて、「伊達大膳大夫入道円孝、葦名次郎左衛門尉満盛等」「陰謀」が露顕「已逃下」ったという(応永七年三月八日「足利満貞書下」『結城文書』室620)。これは「逃下」っている様子から、伊達政宗入道と葦名満盛は当時鎌倉におり、鎌倉殿満兼が留守中に何かを企てて露顕したので、奥州へと逃亡したと考えられる。奥州で「挙兵」したわけではない。

●応永7(1400)年3月8日「足利満貞書下」(『結城文書』室620)

伊達大膳大夫入道円孝、葦名次郎左衛門尉満盛等陰謀事、依露顕已逃下之上者、不日所可被加退治也、早可致忠節、於恩賞者、依功可有御計之状、如件

 応永七年三月八日       花押(足利満貞)
  結城参河七郎殿

 4月以降、白河結城氏や石川氏が知行の保証がなされているが、これらはとくに合戦での功績が述べられておらず、伊達・葦名の追討による恩賞というわけではないだろう。

●応永7(1400)年4月8日「足利満貞書下」(『白河結城家文書』室625)

陸奥国白川庄、高野郡宇多庄、石川庄内当知行地等事、如元不可有相違之状、如件

 応永七年四月八日       花押(足利満貞)
  白河兵衛入道殿

●応永7(1400)年6月17日「足利満貞書下」(『秋田藩家蔵文書』二十 室644)

当知行地事、如元不可有相違之状、如件

 応永七年六月十七日       花押(足利満貞)
  石河長門守殿

●応永7(1400)年9月28日「足利満貞書下」(『結城文書』)

当知行地等事、如元不可有相違之状、如件

 応永七年九月廿八日       花押(足利満貞)
  結城参河七郎殿

 伊達政宗入道は北山殿足利義満入道と血縁関係があり、京都と繋がりがあった可能性はある。ただし、京都管領や有司らは都鄙の平穏こそ重要という立場をとっていることから、京都側が伊達政宗入道に指示して隠謀を企てさせるとは考えにくく、政宗だけではなく葦名満盛もまた隠謀に加わった中心的な人物であることもわかり、伊達政宗・葦名満盛の「陰謀」は関東に対する不満が理由であろう。

        足利尊氏―――――――足利義詮
       (権大納言)     (権大納言)
                   ∥――――――足利義満
                   ∥     (太政大臣)
                 +―紀良子    ∥―――――――足利義持
                 |        ∥      (権大納言)
                 |        ∥
                 +―藤原仲子   藤原慶子
                 |(崇賢門院) (勝鬘院殿)
                 | ∥      
                 | ∥――――――後円融天皇
                 | ∥      ∥
                 | 後光厳天皇  ∥―――――――後小松天皇
                 |        ∥
                 | 三条公忠―――藤原厳子
                 |(内大臣)
                 |
        紀通清――――――+―女子
       (石清水八幡宮検校) (輪王寺殿)
                   ∥――――――伊達氏宗――――伊達持宗
 伊達行朝―――伊達宗遠       ∥     (兵部少輔)  (大膳大夫)
(左近将監) (弾正少弼)      ∥
        ∥――――――――――伊達政宗   那須資朝――+=結城氏朝
        ∥         (大膳大夫)        |(弾正少弼)
        ∥                       |
 結城宗広―+―女子       +―結城顕朝===結城満朝――+―田川広朝
(上野介) |          |(弾正少弼) (左兵衛尉)  (常陸介)
      |          |
      +―結城親朝―――――+―小峰朝常―――小峰政常――+―結城満朝
       (修理権大夫)    (参河守)  (参河守)  |(左兵衛尉)
                                |
                                +―小峰満政
                                 (参河守)

 応永7(1400)年7月4日、青蓮院の尊道入道親王が「為北山殿御祈」に花園御所で五壇法を修法した(『尊道親王行状』応永七年七月四日条)。この修法は「関東隠謀露顕之間、為被御祈、於七ヶ所同日被始行之」(『柳原家記録』百六十二 五壇法記 応永七年七月四日条)というように、七カ所(北山殿、妙心寺、園城寺、延暦寺、仁和寺、東寺、醍醐寺)で同時に始行されたもので、関東から「隠謀」発覚の報が届いたための修法であった。「為関東静謐御祈、仁和寺御室御本坊五壇法被始行之」(『柳原家記録』百六十一 五大成下 応永七年七月四日条)とあるように、その静謐(調伏か)を祈ったものである。

 余談だが、今川了俊は著書『難太平記』の中で

「今も御怖畏によりて様々の御祈祷もしけく、関東御調伏なとゝかや聞申事も多かるを、何の御てうふくも御祈もうち捨させ給ひて、天下の天下たる道を少々成とも覚しめされんに、殊更天道も仏神の御心にも立所に叶はせ給ふへきに」

「日本国中の人の心同して、君の御恵の悉事を仰は、いかなる凶徒も不可出来、然ハ御祈祷もさてこそ殊かなふへけれ、上の御意に若御悪事非義わたらせ給て、御祈祷にてつくのはせ給ハんと思召んに、秘法も如何とおほゆる也」

と述べる。了俊は義満入道について「関東を恐れるあまり今でもたびたび祈祷で調伏をおこなっているが、そんなことよりまともな政道を少しでも行えばよっぽど仏神の御心にかなうだろう」と皮肉を込めて批判するとともに、「義満の行動に悪事非義があれば、祈祷をいくら行っても意味はない」とこれまた痛烈に批判しているのであった。義満入道は何かあれば尊道入道親王を頼って災厄を打ち払う祈祷を行う癖があり、この大掛かりな「関東隠謀露顕之間、為被御祈」もその一つである。

 この修法の期間中、「奥州軍卒可背関東之由令風聞之間、可被宥仰之由」が鎌倉から京都にもたらされた。鎌倉から使者が出立したのは6月下旬と思われ、時期的にこの「奥州軍卒」の蠢動は奥州の「宇都宮広■」(『鎌倉大日記』)であろう。この「宇都宮広■子」『喜連川判鑑』に見える「宇都宮氏広父子」(『喜連川判鑑』)のことと思われ、謀叛風説の情報源は、満貞から鎌倉への「奥州軍卒可背関東之由」という「推測」の風聞であろう。

 義満入道が関東調伏を慌てて行った「関東隠謀露顕」の一報は、おそらくこの宇都宮氏広の蠢動に対応する鎌倉方の軍事行動であろう。その「関東隠謀露顕」の報告の直後に、鎌倉から叛乱を企図している奥州軍卒を「可被宥仰之由」を求める使者が到着してることも偶然ではない。つまり、宇都宮氏広の蠢動を聞いた鎌倉が軍事行動を起こし、この一報を京都「関東隠謀露顕」と認定して調伏をおこなったが、鎌倉は軍事行動と同時に京都へ奥州の蠢動を抑える御教書の発給を求めた、ということである。

 実際に宇都宮氏広が叛乱したのかは定かではないが、この3か月前に起きた「伊達大膳大夫入道円孝、葦名次郎左衛門尉満盛等」応永七年三月七日「足利満貞書下」『結城家文書』室620の陰謀と一連のものだった可能性があろう。伊達政宗入道は義満入道の母方の従兄弟であり、満兼が義満入道に対して「奥州軍卒」の挙兵を思い止まらせようと要請したのも、こうした背景があったためであろう。

 鎌倉殿満兼は、京都に奥州叛乱の防止を働きかけるとともに、斯波持詮を以て軍事的な対応をしている。斯波持詮は足利満貞を支えた斯波左京大夫満持の子(当時は鎌倉在住)で、父に代わって満貞を支えていたのだろう。

 そして、応永7(1400)年8月下旬頃には「斯波左京大夫持詮法名法英、於奥州追討宇都宮広■子公嶋等」を完了し、9月8日に「宇都宮広■子公嶋等首、鎌倉持参於侍所実検」(『鎌倉大日記』)とあるように、宇都宮氏広父子や「公嶋等」の首級は鎌倉へ移されて、侍所において実検された。

 このとき討たれた宇都宮氏広の出自は不明。ただし、被官とみられる「公嶋」は下野国芳賀郡君島村真岡市君島を本貫とする千葉一族で、下野国宇都宮氏の有力被官であることから、下野宇都宮氏とは血縁的に近い人物と思われる。当時、篠川付近には応永30(1423)年8月に持氏に討たれた宇都宮持綱の遺児・宇都宮藤鶴丸(のちの等綱)が潜伏しており、宇都宮氏広はともに下向した人物だったのかもしれない。また、宇都宮氏広との合戦がどこで起こったかも定かではないが、伊達郡と会津地方は連携していた様子がうかがえ、宇都宮氏広もその一党であったとすれば、満貞勢力の支配北限で、会津・伊達の勢力がぶつかる篠川付近の可能性があろう。

 年不詳12月24日、満貞は「結城参川七郎殿(小峰満政)に戦功を賞する感状を下している(某年十二月廿四日「足利満貞感状」『結城錦一氏所蔵結城文書』 室764)。『室町遺文』ではこれを応永8(1401)年と比定するが、おそらく応永7(1400)年と考えられる。小峰満政は宇都宮氏広らとの戦いで功績を挙げたものとみられ、満貞はこの戦功を鎌倉に報告し、翌応永8(1401)年正月29日、鎌倉殿満兼が「結城七郎(小峰満政)」に御教書を下しと考えられる(応永八年正月廿九日「足利満兼御教書」『結城錦一氏所蔵結城文書』 室697)

●某年12月24日「足利満貞感状」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室764)

(懸紙上書)[結城参川七郎殿  満貞]

今度連々致忠節条、誠神妙候、追可有異忠賞候也、謹言

 十二月廿四日       花押(足利満貞)
 結城参川七郎殿

●応永8(1401)年正月29日「足利満兼御教書」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室697)

(懸紙上書)[結城七郎殿  満兼]

奥州凶徒等退治事、致忠節之条、尤以神妙也、向後弥可抽戦功之状、如件

 応永八年正月廿九日    花押(足利満兼)
  結城七郎殿

 この宇都宮氏広の追討以降、しばらく奥州は静謐となったようである。

 なお、奥州は関東進止国となっていた関係で、陸奥国菊田庄の京都被官人である藤井孫四郎貞政に北山殿義満入道より「本知行」を証する御教書が下された際には、鎌倉にもその旨の通達がなされ、奥州探題家の「左京大夫(斯波満持)」が奉書を下している。なお、奉書には満持の副状が付けられ、三郎なる人物が藤井貞政と斯波満持の間に立っていた様子もうかがえる。「当方安堵事」と見えることから、藤井貞政は関東とは主従関係にはないことが明白であり、京都被官人として遇していたことがうかがえる。なお、孫四郎貞政はおそらくこの直前に父(藤井四郎)を亡くし、義満入道の御教書はその知行安堵であろう。

●応永8(1401)年7月8日「足利義満袖判御教書写」(『奥羽編年史料二二』 室731) 

  花押(義満)

 藤井孫四郎貞政本知行事、不可有相違之状、如件
 
   応永八年七月八日

●応永8(1401)年9月24日「斯波満持奉書」(『上遠野文書』 室747) 

陸奥国本領当知行事、去任七月八日御教書之旨、領掌不可相違之状、依仰執達如件

 応永八年九月廿四日    左京大夫(花押)
  藤井孫四郎殿

●応永8(1401)年7月8日「斯波満持書状写」(『奥羽編年史料二二』 室748) 

三郎方状委細披見候了、兼又自京都御判被下候、目出候、仍当方安堵事承候之間、認遣之候、次滝近江入道安堵事承候、是又遣候也、恐々謹言
 
 応永八年九月廿四日    左京大夫(花押)
謹上 藤井孫四郎殿

 ところが、平穏は長くは続かず、翌応永9(1402)年正月晦日、「応永九年壬午年正月晦、高田の宮殿謀叛起」(『塔寺八幡宮長帳』)と見えるように、会津高田地方で兵乱が勃発する。小峰満政はこの「高田の宮(伊佐須美宮)」勢との戦いでも勲功を挙げたとみられ、2月19日、鎌倉殿満兼から御教書を給わっている。これについては、満貞から満政の勲功につき「於奥州奉公異他」という注進があったものと推測される。

●応永9(1402)年2月19日「足利満兼御教書」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室777)

(懸紙上書)[結城三河七郎殿  満兼]

於奥州奉公異他之由、所聞食也、弥可致忠節之状、如件

 応永九年二月十九日    花押(足利満兼)
  結城三河七郎殿

 このときの恩賞が3月20日に宛行われた「陸奥国岩崎郡内島村、林原村等」であろう(応永九年三月廿日「足利満貞書下」『結城錦一氏所蔵結城文書』 室785)

 そして、この恩賞が下された直後、伊達政宗入道等が挙兵している。宇都宮氏広の兵乱から1年半あまりの兵乱はすぐさま鎌倉に発信され(満貞経由か)、4月初旬には管領禅助の子息・上杉右衛門佐氏憲の奥州出兵が決定した。氏憲出陣の決定が報告された満貞は、4月14日、小峰満政に軍勢催促の文書を送っている。

●応永9(1402)年4月14日「足利満貞書下」(『結城錦一氏所蔵結城文書』 室785)

(懸紙上書)[結城参河七郎殿  満貞]

凶徒等退治御合力事、近日右衛門佐可令下向也、早相触庶子等、弥可抽忠節之状、如件

 応永九年四月十四日       花押(足利満貞)
  結城参河七郎殿

 その後、上杉氏憲の奥州出兵は5月20日と定められ、軍勢催促が行われたと思われる。なお、氏憲の出兵は「奥州伊達大膳大夫円教、奉対満貞不義、為退治、五月廿一日、上杉金吾入道発向」(『鎌倉大日記』)ともあり、5月21日の鎌倉出立となった可能性がある。

●応永9(1402)年5月3日「足利満兼御教書」(『大庭文書』 室797)

奥州凶徒対治事、今月廿日所差遣右衛門佐氏憲也、殊可被致祈祷之精誠之状、如件

 応永九年五月三日       花押(足利満兼)
  若宮小別当御房殿

 その後の上杉氏憲と伊達政宗入道と戦いの詳細は不明だが、「犬懸入道、奥州伊達へ罷下、赤館ノ戦ノ時、両国ノ奴原被見限、今更何者カ値遇仕リ去事可有ヤトテ、曾テ不驚」(『旅宿問答』応永二十三年十月六日条)とみえる。これによれば、上杉氏憲は伊達郡へと下向し、赤館合戦の際に奥羽の兵に見限られたとあるが、『鎌倉大日記』では「於赤城合戦、九月五日、伊達討負降参」(『鎌倉大日記』)とある。いずれにしろ、伊達政宗入道は敗れて降伏したのは確かなようである。

 なお、近世伊達家の伝では伊達政宗入道の乱について、

●『伊達行朝勤王事歴』

応永八年に至て伊達郡の居城赤館に拠りて兵を挙げられ、義故響応せり、五月、鎌倉の上杉右衛門佐氏憲、兵を率ゐて来り攻めしかど、大敗して退きぬ、明年正月、高田宮も兵を奥州に起されたり、鎌倉より重ねて大軍を下して、赤館を攻めぬ、九月五日、赤館力竭きて没落し、明年高田宮も敗れて自害せられたり、

と記す。この編纂史料の典拠は不明。『伊達行朝勤王事歴』は「高田宮」を南朝皇族に擬したと思われるが、実際は前述の通り、会津高田の大社・伊佐須美宮のことである。また、伊達政宗入道は応永8年中に挙兵した形跡はなく、氏憲派遣の時系列も逆転するなど、『伊達行朝勤王事歴』の伊達大膳大夫政宗項に史料的信憑性はない。

 某年3月14日、「沙弥禅助(管領上杉禅助)「岡本孫三郎殿」へ宛てた書状で、「菊田事、御合力悦入候、随而敵城没落之間、殊悦喜候也」(某年三月十四日「上杉禅助書状写」「秋田藩家蔵文書10」室854)と見えるが、これは常陸国と陸奥国の国境を接する菊田庄における何らかの合戦であり、地域的にも伊達政宗入道の反乱とは関連しないものである可能性が高く、『室町遺文』の比定する「応永十年」に必ずしも当てはまるものではない。

 応永9(1402)年9月5日の伊達政宗入道降伏直後の10月11日、菊田庄の京都被官人・藤井孫四郎貞政が「懸田大蔵大輔宗顕」「一揆同心契約之状」を作成し、互いに連携を強化している(応永七年十月十一日「懸田宗顕一揆契状写」『上遠野家文書』室667)。どのような理由で一揆を結んだかは定かではないが、藤井貞政が手を組んだ懸田宗顕が伊達郡懸田の伊達一族とすれば、伊達政宗入道の叛乱との関連も考えらえれる。ただし、この懸田宗顕が伊達郡懸田の人物とすると、菊田庄と伊達郡懸田は直線距離にして約90kmも離れた地理的関係となることから、一揆同心は現実的ではない。さらに伊達郡懸田にはほぼ同時代に伊達氏と結ぶ「懸田播磨入道」(応永廿年十月廿一日「足利持氏御教書」『結城文書』)がおり、懸田宗顕は同地領主としては存在し得ないと思われることから、同族であるとすれば、菊田庄の近隣に移った懸田一族となろう。伊達郡懸田の懸田播磨守とこの懸田宗顕がどのような関係にあったかは定かではないが、藤井貞政は後述の通り、関東方の一族上遠野兵庫助と対立関係にあり、伊達政宗入道の兵乱にも関わっていた可能性がある。

 また、応永9(1402)年正月晦日に挙兵した「高田の宮殿」「次年乃正月晦日卯剋自害ス」(『塔寺八幡宮長帳』)と、応永10(1403)年正月晦日、自刃した。

 その後は、大きな兵乱は起こらず、応永11(1404)年7月、仙道の諸氏が一揆を結び、篠川の足利満貞へ「取分応上意同心、可致忠節」し、「於私大小事申談、可罷立用、公私共以殊不可等閑」「就公私事、無理申事并無正体振舞方ハ、不可有許容之沙汰」を守る連判契状を作成している(応永十一年七月「仙道諸家一揆契状写」『楓軒文書編纂九一』室916)。「中地沙弥性久」がセンター下でもっとも大きく記されていることから、発起人であろうか。篠川から東会津方面にかけて連なる伊東一族を中心とした同盟であり、中奥州からの警戒を強めていたと思われる。

中地沙弥性久 中地城主田平先祖 郡山市湖南町中野
稲村藤原満藤   須賀川市稲
須加川刑部少輔行嗣 岩瀬郡守屋館住 須賀川市守屋
佐々川藤原満祐   郡山市安積町笹川
伊藤下野七郎祐持 安積片平城主 郡山市片平町
久保田修理亮祐守   郡山市富久山町久保田
高倉近江守顕貞   郡山市日和田町高倉
大豆生田沙弥道綱 住所不詳 郡山市大槻
小峰藤原満政 白川居住、又高野郡棚倉共 白河市郭内
下枝沙弥性善 下枝住ス後田村小次郎住ス 郡山市中田町下枝
御代田平季秀 田村郡御代田住 郡山市田村町御代田中林
中津川三河守秀清 田村郡中津川住 郡山市中田町中津川
川田宮内大夫季隆 田村郡川田住 郡山市田村町川曲
猪苗代三川守盛親 猪苗耶麻郡代 耶麻郡猪苗代町
河内藤原祐春 河内村住藤田先祖 郡山市逢瀬町河内
多々野沙弥達久 只野村城主 郡山市逢瀬町多田野
川田左京亮祐義 川田城主 郡山市三穂田町川田
名倉藤原祐清 信夫名倉城主伊藤ヨリハカル 郡山市名倉
阿古島藤原祐善 阿古島城主治部太夫先祖 郡山市熱海町安子島
部谷田沙弥慶勝 住所不知 郡山市安積町成田

 応永12(1405)年5月14日、満貞は板橋掃部助の「谷地城石川郡石川町谷地での戦功につき、感状を発給している(応永十二年五月十四日「足利満貞感状」『板橋文書』)。谷地は海道筋と石川庄を結ぶ要衝の地で、この合戦は反関東勢力の攻撃と思われる。谷地は海道筋の菊田庄へ抜けるため、ここを攻めたの関東方の上遠野兵庫助と激しく対立した本家筋の藤井小山宗政(京都被官)による侵攻の可能性もあろう。

●某年11月3日『上杉氏憲書状』(『上遠野文書』)

去月廿六日注進、昨日ニ到来、委細非(被)見候了、
抑於上遠野、去廿五日致合戦、御舎弟九郎、同十郎手負、藤井家人下枝兵衛二郎討取頸到来候、目出候、今度属無為候者、名字地内可相計候、則■村注進申候、謹言

  十一月三日         氏憲(花押)
   上遠野兵庫助

 

関東と満胤その後

 奥州伊達政宗の騒乱がいまだ鎮定されていない応永9(1402)年7月17日、京都では吉田兼敦が「金吾禅門(斯波義将入道)の邸を訪問して義将入道と対面したが、「関東左兵衛督殿満兼、自今月二日、狂気之由注進、是上洛事、直被費心腑之故歟云々、邪心令違天心神道之謂歟」(「兼敦朝臣記」応永九年七月十七日条『吉田家日次記』)という。満兼はなおも上洛を企てるという邪心を抱いたことで7月2日に狂気を発したとする。ただし、その後の満兼は何ら変わりなく政務を執っていることから、満兼は病を発した可能性はあるものの、京都の疑心による誇大な風聞になったものか。

 応永12(1405)年9月12日、「上椙中務少輔朝宗入道禅助、管領職ヲ辞」し、10月8日、「上杉安房守憲定入道長基、任管領職」した。これにともない10月25日、管領替の「評定始」が行われる(『喜連川判鑑』)。なお、憲定入道は「八月十七日、管領職玉ヘリ」(『旅宿問答』)ともみえるが、いずれが真かは不明。ただ、10月11日に「禅助」が伊豆走湯山の契海上人雑掌に、「走湯山雷電権現、毎日朝講日供養料所」である「相州早河庄内小田原京極局跡等事、不足分」を、鶴岡八幡宮寺から避渡された「伊豆国大塔下村」を打渡しており(応永十二年十月十一日「上杉禅助奉書案写」『集古文書三十三 走湯山東明寺文書』室992)憲定入道の評定始までは禅助が管領の職務を執り行っていたものか。10月29日には「沙弥(上杉憲定入道)が「宝幢院宮僧正坊雑掌賢成」が鎌倉に訴えていた鶴岡八幡宮寺が避与した「武蔵国河越庄内小菅寺事」の別当(小俣法印賢光)が還俗した件に関する諸事糾明のために召状を発給しており(応永十二年十月廿九日「上杉長本奉書写」『相州文書 上山口村修験源皇院所蔵文書』室998)評定始後は憲定入道が管領実務を執り行っている

 この頃、千葉介満胤はすでに出家していたが、いまだ下総国守護職の地位にあり、応永12(1405)年11月頃、香取社から鎌倉にいまだ式年遷宮が完了しないことを訴えられ、満兼は満胤入道に「早速可終造作之功」を求めている(応永十二年十一月廿五日「足利満兼御教書写」(『香取大禰宜家文書』室1004)前回の遷宮から75年を経ているが、遷宮は終わっていなかった。

●応永12(1405)年11月25日「足利満兼御教書写」(『香取大禰宜家文書』室1004)

下総国香取社造替事、多年無沙汰云々、甚不可然、神慮難測、所詮早速可終造作之功状、如件
 
  応永十二年十一月廿五日        花押影(満兼)
   千葉介入道殿

 その後、応永16(1409)年7月22日、鎌倉殿足利満兼が三十二歳の若さで亡くなった(勝光院殿)。満兼は「御病気」だったようで「仍同廿二日御他界」(応永十六年十月廿日「鶴岡供僧契状」『高橋義彦氏所蔵文書』)「御所御幼少」の十二歳の幸王丸(同年、将軍義持を烏帽子親として持氏と名乗る)が関東公方を継承した。「七ゝ廿二ゝ、満兼薨 卅二歳」と同時に「依満兼御逝去、禅助令遁世、其夜ニ自殿中直ニ加上総国長柄山下向」しており、前管領上杉禅助は満兼の死とともに鎌倉を離れて上総国長柄に居住した。

 なお、この日「七ゝ廿五ゝ夜、満兼御逝去刻、新田■■殿、侍所于時千葉、於七里浜奉誅之」った(生田本『鎌倉大日記』応永十六)とあり、おそらく満胤入道が侍所所司だった可能性が高い。

 応永18(1411)年正月16日、「正ゝ十六ゝ長基職辞退、禅秀 右衛門佐入道、二ゝ九ゝ、管領職領掌、同廿始評定(『鎌倉大日記』生田美喜蔵氏所蔵)と見え、山内憲定入道が病により関東管領を辞退。2月9日に上杉氏憲が管領職となった。

 その後の関東は、鎌倉殿足利持氏(将軍義持猶子)と関東管領上杉氏憲入道禅秀の対立が勃発。応永23(1416)年に禅秀入道が満兼の弟・新御堂小路殿満隆を擁して挙兵し、持氏が鎌倉を逃れ出る事件が起こった(上杉禅秀の乱)。この乱では、満胤の嫡男・兼胤の妻が禅秀女子であったことから、満胤は禅秀に組したとされる(『鎌倉大草紙』)。ただし、具体的に満胤が禅秀の乱に加わった傍証はなく、さらに兼胤自信、禅秀の乱後もなんら処罰されることもなかったことから、実際は、千葉氏は禅秀に組した事実はなかったのではないだろうか。

 結局、禅秀の鎌倉殿持氏に対する「謀叛」は京都将軍家の怒りを買い、京都は駿河守護職の今川範政を関東に遣わし、持氏救援と禅秀追討に乗り出した。その後、今川勢は持氏勢と合流し、禅秀一族は鎌倉において自裁した。

 満胤はその後、兼胤に家督を譲り、応永33(1426)年6月8日、67歳で亡くなった。号は常安寺殿。法名は随光院殿円達道意

●明徳5(1394)年6月29日『千葉介満胤遵行状』(『中山法華経寺文書』)

中山本妙寺弁法印日尊
下総国八幡庄真間弘法寺本尊聖教御堂并敷地等事付諸末寺
右、日満背代々先師置文、引分門徒、向背師匠之条、希代所行也、所詮、任去永徳二年十二月晦日御教書之旨、可沙汰付所持物所帯於本妙寺之状、如件

   明徳五年六月廿九日   平満胤 (花押)

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