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【ひ】
日貝
大須賀一族。「桧垣」とも。大須賀胤信の九男・行重(九郎)が日貝を称し、滑川城(香取郡下総町滑川)に拠ったとされる。日貝氏は中世、助崎大須賀氏の重臣として見え、千葉介への奏者としても活躍していた。
ただ、日貝氏の祖・大須賀行重(九郎)は『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には載っておらず、『吾妻鏡』にもその名を見せていないため、実際のところ不明。
―日貝氏略系図―
→大須賀胤信―日貝行重―行知―――――+―友親
(四郎) (九郎) (九郎左衛門尉)|(対馬守)
|
+―知興
|(対馬守)
|
+―滑川知吉
(与右衛門)
東野
千葉一族? 発祥地ほか不明。
日暮
千葉一族。「ひぐらし」とよむ。下総国葛飾郡日暮村(松戸市日暮)を発祥地とする。「日暮玄蕃」という人物が特に有名。
永禄7(1564)年1月2日の「国府台の戦い」に参戦した高城家臣・日暮又左衛門が見え、さらに天正18(1590)年の「小田原合戦」で小金大谷口城を守備した日暮又左衛門の名が見える。時代的に、国府台の戦いの又左衛門と小田原合戦の際の又左衛門は親子か。
相馬郡大井村(千葉県東葛飾郡沼南町大井)の福満寺境内の裏手には日暮玄蕃の墓塔がある。
江戸時代、小金原は水戸藩拝領の御鷹場となっており、水戸藩主専用の宿舎・小金御殿があった。この旅館の留守居役をつとめていたのが苗字帯刀を許されていた日暮玄蕃で、日暮玄蕃の祖は高城氏の重臣として活躍し、小田原城に詰める主君・高城胤則の命によって居城・大谷口城を開城して浅野長吉(彈正少弼長政)らにあけわたし、城下に退いた。その後、小金原が水戸藩拝領の地となると水戸藩と親密な関係をもって江戸小石川の馬市を宰領し、「粋な両掛けどなたの荷物 あれは小金の玄蕃様」と謡われたという。
正徳4(1714)年、駿河田中藩主・本多正武に仕えた日暮久敬(図書)が見える。本国が下総とあり、おそらく下総相馬郡の田中藩領内で召しだされたのだろう。
●土井家臣日暮家●
土井家臣・日暮忠居(源左衛門)の祖は千葉一族・日暮胤忠(玄蕃)とされ、その子孫・日暮薩摩守の時に相馬郡小金原に住し、日暮忠政(内蔵助)・忠次(七郎左衛門)の代に佐倉城主・千葉介に仕えたという。そして千葉氏が滅び、佐倉城主として土井利勝が入部すると150石で召出されて家臣となる。
宝暦元(1751)年8月、源左衛門忠居は土井家老職・小杉弥左衛門の弟で、四代・日暮七郎左衛門の養子となり、藩老職・鷹見十郎左衛門の娘と結婚し、大小姓から江戸屋敷在勤となり、翌年11月、日暮家100石を相続、宝暦9(1759)年、肥前唐津から唐津藩江戸屋敷へ戻った。宝暦11(1761)年に弓槍預となり、同年8月に徒歩頭に昇進した。このとき、おなじく千葉氏の流れを汲む矢作勝与(喜兵衛)も徒歩頭に列していた。
宝暦12(1762)年9月、土井利里(大炊助)が唐津に在城しているときに下総古河へ国替の命が出たため、江戸屋敷にあった源左衛門忠居が唐津までの急使となり、10月1日に江戸を出立した源左衛門は、わずか半月後の17日に唐津へ到着。藩主・利里は彼に功績として銀1枚を与えている。28日に江戸へ帰る許しを得ると、帰路は一ヶ月というゆるりとした行程を行き、12月1日に江戸へ到着した。
明和3(1766)年5月に古河藩目付、軍御道具預となり、翌年9月には御供小姓頭格押令、同6年には取次役、同8年には使番に累進した。しかし10月、利里が京都所司代として上洛するとこれに従って京都へ向かう。安永元(1772)年12月には留守居役200石(10人扶持)に累進した。そして同5年4月の将軍・徳川家治の日光社参御用掛をつとめ、8年4月には御内用勤となり、天明元(1781)年10月、用人250石に累進し、翌年8月には御内用勤を兼帯したのち、同3年12月17日、没した。
●永禄7(1564)年1月2日第二次国府台の合戦に参戦した高城氏の武士(伝)
高城和泉守胤吉 | 高城式部少輔胤辰 | 高城源六胤正 | 高城四郎右衛門 | 安蒜但馬守 | 田嶋兵部少輔 |
安蒜伊予守 | 安蒜備前守 | 血矢次郎右衛門 | 座間遠江守 | 鈴木新右衛門 | 田口因幡守 |
匝瑳牛五郎 | 吉野縫殿助 | 日暮又左衛門 | 秋山大学 | 新井郷左衛門 | 藤谷修理 |
海上隼人 | 戸邉靱負 | 池田雅楽助 | 梅澤兵庫 | 布施美作守 | 花嶋勘解由 |
斎藤大隅 | 林彈正左衛門 | ||||
都合で1000騎 |
●天正18(1590)年の小田原合戦で小金城を留守した高城氏の武士(伝)
安蒜備前守 | 吉野縫殿助 | 平河若狭守 | 血矢次郎右衛門 | 日暮又左衛門 | 高橋次左衛門 |
都合200騎と兵卒300名 |
肘谷
千葉一族。椎名氏の一族の野手氏の出。小田氏の重臣・多賀谷氏に仕えた野手清胤(八郎左馬允)が文明7(1475)年に結城郡肘谷村(下妻市肘谷)を領して肘谷を称した。その子・胤英(小次郎大学)が翌年に家督を相続した。彼の弟・胤時(小四郎大炊助)は長谷を称した。
菱沼
武石一族。亘理武石氏の重臣の家柄で、涌谷伊達家の「御一族」の一家に数えられる。発祥地は陸奥国亘理郡菱沼邑(宮城県亘理郡山元町内)と考えられる。
亘理綱宗(彦四郎)が天文の大乱の最中、天文13(1544)年3月25日の伊達郡穂原掛田の役にて討死を遂げたとき、菱沼時久(弾正)も奮戦の後、討死を遂げた。
慶長19(1614)年冬、徳川家康と大坂城の豊臣家との間で講和が決裂。家康は全国の大名に大坂への出陣を命じた。これに伊達政宗は10月14日、仙台を発して大坂へと向かい、その際に涌谷伊達定宗に政宗より三十騎の旗本が付与され、ともに出陣している。その騎乗士として、菱沼内膳の名が見える。また、翌慶長20(1615)年の大坂夏の陣でも、馬上の士十一騎の一騎に数えられている。
元和8(1622)年8月18日、出羽国山形藩主の最上義俊(源五郎)が幕府より国政不行届を理由に改易されてしまった際、定宗は伊達成実とともに山形城へ派遣された。このとき、定宗は四十三騎、千八人を率いて出陣している。この中に、菱沼弥惣次郎の名が見える。
(『涌谷伊達家関係資料集』坂本様御提供)
●元和八年八月定宗扈従馬上交名
長谷伊予 | 坂本伯耆 | 亘理越中 | 亘理半十郎 | 亘理蔵人 | 涌沢右馬助 | 渋谷将監 | 千石下野 |
大石圭介 | 蔵本太郎左衛門 | 加藤信濃 | 入間田縫殿助 | 菅原正左衛門 | 宍戸主計 | 米谷下総 | 佐々木藤左衛門 |
屋代次郎兵衛 | 安藤右馬助 | 坂本勘解由 | 千石外記 | 加川喜左衛門 | 千石作右衛門 | 佐藤介右衛門 | 蔵本雅楽介 |
末永源左衛門 | 森 新右衛門 | 生天目左吉 | 千石肥後 | 安倍左兵衛 | 菱沼弥惣次郎 | 富田半右衛門 | 遠藤隼人 |
菅野左伝次 | 大町源兵衛 | 千葉平左衛門 | 星又左衛門 | 鈴木肥前 | 三品新介 | 十文字助八郎 | 上野休閑 |
上野了益 | 坂本九左衛門 | 黒沢甚右衛門 | 千石清右衛門 |
常陸
千葉一族。
平川
増尾城址(柏市) |
国分一族。下総国八幡庄の国分寺東部平川(市川市内)に住んで平川を称した。のち谷中郷北方(市川市)へ移ったが、現在も市川周辺に平川氏は多い。この一族で小金大谷口城主・高城氏の家臣となった平川氏がいて、その子孫に小田原落城時に大谷口城で高城胤辰の留守を預った家老・平川若狭守がいる。平川若狭守は相馬郡増尾城主をつとめたともいわれる。
平木
椎名一族。松山胤平(二郎)の曾孫・彦太郎が匝瑳郡南条庄平木(匝瑳市平木)に住んで平木を称した。
-平木氏略系図-
→椎名胤光―松山胤平―胤澄―――胤重―平木彦太郎
(六郎) (二郎) (小次郎)(又二郎)
平田
千葉一族。千葉介胤正の四男・三谷胤広の長男・立沢胤義の子・胤俊が八幡庄平田村(市川市平田町)を領して平田を称した。子孫は不明。
●小城千葉氏の家臣
鎌倉時代末期、千葉太郎宗胤が元寇からの防衛を命じられて肥前へ下向した際、彼に随った「供奉衆」として、
「平田、原、薗城寺、中村、鎰山、白井、岡崎、船岡、山崎、矢作、岩部、相原、平山、篠原、結篠、山口、福島、樋口、仁戸田、金原、小出、此外ニモ供奉衆有之」(『正東山古文書』)
が見える。ここには岩部氏、中村氏、仁戸田氏、結篠氏、原氏、円城寺氏など、下総国千田庄を発祥とする千葉一族が随っている一方で、千葉六党ら有力一族は随っていない。これは、千田庄の千葉一族は千葉介の「被官」であるが、千葉六党や近親らは独立した「御家人」であり、異国警護番役に「九州に所領を有する御家人・非御家人」に該当しなかったためだろう。千葉介頼胤、宗胤は「被官」である岩部氏、円城寺氏らを随えて下っていったと思われる。
「供奉衆」の筆頭に「平田」氏が見えるが名字地は不明。ただし、下総国八幡庄平田村は宗胤の所領であったと思われることから(八幡庄は宗胤の子・胤貞の所領として継承されている)、八幡庄平田村発祥の平田氏が随従したか。
室町時代後期の永禄2(1559)年1月11日、小城千葉氏の一流である千葉介胤頼(祗園城主)が千葉介胤連(晴気城主)に大敗して討死を遂げた際、胤頼の子・胤誠は義兄・神代大和守勝利を頼って川久保城へ逃れたが、このとき平田胤家(左馬助)が随従している。しかし、胤誠に子がなかったため、祇園千葉家は断絶。胤家ら千葉家の家臣は神代家の家臣となった。
そして、胤家の子・正右衛門が佐賀藩士として召し出され、慶長16(1611)年、「三部地残十九石六斗」を拝領したという。その後、いったん断絶したが、正右衛門の子・助左衛門(治部左衛門?)が寛永14(1637)年に師岡彦右衛門組の手明槍として召し出され、知行物成三石六斗を拝領。寛永19(1642)年に藩士として採用され、物成十一石を下されたという。
●平田篤胤系
江戸時代の国学者・平田篤胤(大角)は出羽久保田藩の千葉一族・大和田氏から、平貞継(四郎入道)の末裔と伝わる平田家に養子に入ったもの。篤胤の養父は備中松山藩士・平田篤隠(藤兵衛)である。
平田篤胤は安永5(1776)年8月24日、久保田城下の下谷地町の大和田邸に誕生した。幼名は正吉。父は久保田藩士・大和田祚胤(清兵衛)。母は那珂儀右衛門交通娘。天明元(1781)年、八歳にして儒家・中山青莪に漢学を学び、天明6(1786)年、叔父の大和田柳老に医術を学び、十一歳にして玄琢と号した。寛政2(1790)年、十五歳で元服し、大和田胤行を称する。そして寛政12(1800)年8月、松山藩士・平田篤隠の養嗣子となり、これ以降、板倉家に仕えることとなり、平田家の常府家格の通り、江戸藩邸にて勤侍することとなった。
文化元(1804)年、国学者として眞菅乃屋を開き門人を集める一方、文化4(1807)年には医師となり元瑞と号して江戸の守山町に移り住んだ。翌年尾張町、神楽坂へ転居し、4月14日、次男の半兵衛が誕生した。しかし半兵衛は文化13(1816)年9月24日に病死。文政6(1823)年には、医学のために不都合があったとのことで、板倉家より追放されて浪人となった。翌文政7(1824)年、娘・千枝子の聟として鐵胤が入った。
天保9(1838)年5月、秋田藩侯・佐竹義厚は、篤胤の学業に対する真摯な態度に感じ、久保田藩士として帰藩すべしという内命が下った。その際は、実家の大和田姓を名乗らず、そのまま平田を称するよう指示があり、5月17日より久保田藩籍に入る。篤胤は江戸藩邸に出仕していたが、その著述書が幕閣の咎めを蒙ることとなり、篤胤は久保田へ帰藩が命じられた。しかし藩侯の篤胤への愛情は変わらず、却って旗本として取り立てられた。
唯一神道の吉田良長に師事し、国学者として大成した。彼は江戸に出ると、本居宣長の死後門人となった。彼の思想は徹底した儒教批判と尊王思想が根本となっていて、宣長の正統からは嫌われたが、信州から関東の名主などの有力層に彼の思想が広まり一大学派を形成、のちの幕末の尊王攘夷思想に強く影響した。弟子には佐藤信淵(幕府後期の大学者)・鈴木重胤(1863年暗殺)らがいる。その著書は『古史徴』『古道大意』などがある。
天保14(1843)年閏9月11日、68歳で亡くなった。屋敷から程近い廣澤山という眺望の開けた山に埋葬された。弘化2(1845)年3月、神祇伯白川家より神霊能真桂大人の謚号が贈られた。
-平田氏略系図-
→千葉介胤正―+―泰胤==三谷胤広―立沢胤義――平田胤俊――胤信
|(次郎)(四郎) (四郎太郎)(左衛門尉)
|
+―三谷胤広
(四郎)
-松山藩平田氏略系図-
→桓武天皇―葛原親王―高望王─+―国香―貞盛―維衡―正度―+―貞衡─――正季─範季─季房―家貞─+─家継
| | |
| | |
| +―正衡─――正盛─忠盛―清盛 +―貞能
| |
| |
+―良文―忠頼―忠常―常将―――常長―――常兼―常重―常胤 +―平田貞継――+
(千葉介) (四郎入道) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―…【数代略】…―宗経――――宗勝―宗次―+―宗重 平田盛胤
(源左衛門尉) | ∥
| ∥
+―又右衛門―篤敬―敬房―篤隠===篤胤――――――+=鐵胤 +―延胤――石子
(藤兵衛)(大和田祥胤の子)|(内蔵助)|(延太郎)
| ∥ |
| ∥――+―三木胤則
| ∥ |(鐵弥)
+―千枝子 |
| +―村瀬氏
| |
+―常太郎 |
| +―胤好
| |
+―半兵衛 |
+―高瀬氏
|
|
+―胤雄――熊之助
平山
千葉一族。飯高氏の庶流と伝わる。永禄年間に飯高城主となっていた平山時常(持常)がいた。時常は永禄9(1566)年12月23日に戦死。その跡は嫡男の常時(刑部少輔)が継いだが、彼も天正16(1588)年12月15日に飯高城において没し、その後は不明。千葉一族である新氏藤太入道従空の子孫という説、武蔵七党・平山季重の末裔で、上杉氏が上総守護職になった際に榛谷氏らとともに入部した一族との説もある。
-平山氏略系図-
→平山時常―常時
(三河守)(刑部少輔)
広瀬
相馬一族。下総相馬氏の家老の家柄。天正18(1590)年、小田原城が落城した際には、高井城主・相馬民部少輔胤永に仕えた家老・広瀬伊勢守がいて、高井城が秀吉の軍に攻められて落城すると、伊勢守は胤永の末子・胤正を託されて城を落ちて城下に隠棲し、胤正は伊勢守に養われて広瀬氏を継承した。
【ふ】
福岡
椎名一族。椎名氏初代の胤光の八男・胤業が匝瑳郡南条庄福岡郷(匝瑳市富岡付近か)を領して福岡を称した。姉は千葉一族・佐瀬四郎禅師の正室である。福岡氏は匝瑳南条庄の福岡郷12カ村を知行していた。
-福岡氏略系図-
→平常兼―椎名胤光―福岡胤業―胤泰
(六郎) (八郎) (四郎)
藤崎
千葉一族。相馬氏に従って奥州に下った前期原四郎家の末裔である。相馬高胤の時代、原胤安(大蔵少輔)が大井邑に移った。その子・原胤盛(玄蕃)と胤盛の子・胤寿(次郎右衛門)が宇多郡藤崎邑に移住し、その後、駒ヶ嶺堡主に任じられた。
胤寿の長男は藤崎摂津守を称し、その子・久長(治部丞)とともに相馬盛胤に仕えた。しかし、伊達政宗が駒ケ嶺に攻め寄せてくると、これを迎え撃って合戦におよんだ。しかし、守りきれずに天正17(1589)年5月18日に陥落。摂津・久長父子は盛胤のもとに逃れ、坂元の戦いで戦死した。
久長の3代目の孫・内蔵允(閑宗)は手柄をたてて、100石を給わり、さらに三代藩主・相馬忠胤の代に50石を加増され、旗奉行に抜擢された。しかし、子・十左衛門(閑水)は五代藩主・昌胤の代に50石を召し上げられ、100石取りとなり、のち50石をふたたび加増されて幕末に至った。幕末の当主は藤崎源太左衛門。
-藤崎氏略系図-
→原胤安―――胤盛――胤寿――――藤崎摂津守―久長――■―■―内蔵丞――十左衛門―…―源太左衛門
(大蔵少輔)(玄蕃)(次右衛門尉) (治部丞) (閑宗) (閑水)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
藤崎源太左衛門 | 大身 | 150石 | 袋町 |
藤橋
相馬一族。実は常陸大掾氏の流れを組む一族。中村藩御一家・泉田氏と同族であり、同じ時期に相馬一門に準じる家格を与えられた。
標葉氏の標葉家初代の隆義の九代の後胤・標葉持隆(紀伊守)の三男・標葉隆連(平四郎)が持隆の命によって標葉郡新山に移り、ここを本拠とした。その嫡男・標葉隆重(平四郎)も新山城主となるが、彼は標葉惣領家・標葉清隆(左京太夫)の郎従、新谷某と半谷某に宿意を持ち、ついに惣領家の本條御舘の城下に攻め入り、新谷氏・半谷氏を討ち取った。しかし、城下にまで攻め込んできた隆重に、惣領家・清隆の怒りは爆発。隆重の居城・新山城を攻め落とした。
城を追われた隆重は、岩城一族の妹聟・駒木根隆資(主水正)を頼って岩城へ逃れ、標葉に戻ることなく亡くなった。その嫡子・標葉隆豊(小四郎)はいまだ若年だったため、家老の牛渡九郎兵衛、山内但馬、栃本五郎右衛門が彼を補佐し、その後、赦されて標葉に戻り、長享元(1487)年12月下旬に藤橋村に移った(『東奥標葉記』)。
明応元(1492)年冬、標葉宗家の標葉清隆(左京大夫)・標葉隆成(左馬助)父子と相馬盛胤との戦いに、隆豊は清隆に従って権現堂城に籠もって盛胤と対峙したが、盛胤の内応工作に応じて権現堂城の城門を密かに開き、相馬勢を導き入れて標葉宗家は滅亡した。この内応は、かつて清隆に居城を攻め落され、流浪することになった恨みがあったのかもしれない。
相馬家に降伏した隆豊は、同じく相馬家に内応した泉田隆直(隠岐守)とともに相馬盛胤に賞せられ、相馬家の通字「胤」と相馬家の幕紋「繋馬」を与えられて一門に準じる家格を与えられた。所領として、標葉郡坂田村、田尻村、藤橋村、牛渡村、高瀬村、千倉庄塩村などを与えられている。さらに盛胤嫡子・相馬顕胤夫人の西氏の妹(空寶眞公大禅定尼)を娶るなど、盛胤の重用ぶりが見られる。よほどの人物的器量があったのだろう。紋については、標葉家の紋である九曜紋から角九曜に改めている。
長享元(1487)年12月下旬に藤橋村に移ったときに「出羽守胤平」と改めたともされるが、この時期にはまだ相馬家の麾下に入っていないため、改名は明応元年以降と思われる。なお、胤平は重代の太刀として「豊後国定英(二尺四寸五分)」「備前三郎国宗(二尺七寸):黒沢丸」が伝わっていた。
胤平は永正11(1514)年2月3日に亡くなった。法名は岱霊貴山大居士。跡は西氏(西右衛門尉胤宣娘)との間に生まれた藤橋胤高(紀伊守)が継いだ。胤高には男女二人の子があったが、嫡子は突如出家し、のちに坂東の名知識と名高い法印権大僧都忠賢となり、天正18(1590)年に七十余歳で遷化した。嫡子が突如出家したことから、胤高は同族の泉田胤直(隠岐守)の次男・泉田松鶴(三郎)を娘婿に迎えて跡を継がせている。藤橋胤泰(紀伊守)である。
天文11(1542)年、相馬顕胤は藤橋胤泰(紀伊守)に宇多郡石上・新沼を与え、藤橋村から移ることを命じた。永禄6(1563)年、中村式部の反乱では、石上堡を守って中村勢を防いで奮戦するが、多勢にやぶれて火を放って退却し、相馬盛胤と合流した。永禄8(1565)年には伊具郡小斎堡主とされ、同郡金山に館を構えた。嫡男・胤清は金山彦四郎を称し、次男・胤長は石上邑に住んで石上玄蕃を称した。
しかし天正3(1575)年秋に、次男・石神胤長(玄蕃允)が亡くなり(秋栄常公大禅定門)、さらに翌天正4(1576)年春には、嫡男・金山胤清(彦四郎)が亡くなる(浄元道海大禅定門)という悲劇が胤泰を襲った。ときに胤泰七十一歳。胤泰自身も老い、国境の守備という大役はもはや成し難いとして盛胤に訴えたが、胤泰の武勇は近隣に聞こえていると、その訴えを退けた。これに「其性短慮」な胤泰は、天正4(1576)年3月下旬、独断で剃髪した上、金山城を退転してしまった。これを聞いた盛胤は、ただちに胤泰を中村に召喚して「老衰雖為蒙昧、境目の要城を明除條、大粗忽の至」と怒ったが、顕胤以来の武功を鑑みて、胤泰は藤橋邑での隠棲を命じた。その後、胤泰は相馬義胤より本領である藤橋邑十七貫三百文余に加えて、下浦邑の一部五貫文を隠居料として与えられ、跡は聟の木幡政清(出羽守)の次男・平四郎を養子に迎えて継がせた。藤橋隆重(刑部丞)である。このとき隆重十三歳。胤泰は天正7(1579)年12月5日、七十二歳で亡くなった。法名は玉山照公大禅定門。
跡を継いだ隆重は、のち義胤から「胤」を与えられて「胤重」と改めている。石高は二百石とされ、慶長7(1602)年の中村藩成立と同時に中村城下に館を移した。寛永2(1625)年12月10日、六十二歳で亡くなった。法名は空岩山公大禅定門。
胤重の子・藤橋胤清(作右衛門)は寛永13(1636)年、二十八歳のときに中村に移した。明暦2(1656)年、所領が藤橋村・八景萩迫村(下浦村から移された)の両村から、小高郷飯崎村へと移され、判形を給う。寛文12(1672)年11月20日に六十四歳で亡くなった。法名は常安祖清大禅定門。
その子・藤橋隆重(作右衛門・平四郎胤近:月船)は五代藩主・相馬昌胤の御用人となり、元禄10(1697)年4月5日には、藩公養嗣子・相馬敍胤の御用人となる。元禄11(1698)年7月24日、敍胤の嫡男・次郎が誕生したときには、御胞取をつとめた。
隆重に男子はなく、藩公御一家・泉田主殿胤治の次男が養嗣子となって藤橋常隆(四郎左衛門)を称す。常隆も藩の要職を勤めたが、享保元(1716)年に故あって所領を没収されて蟄居を命じられ、享保3(1718)年、三十七歳で亡くなった。その子・藤橋秋隆(平四郎)は出仕せず、志あって享保6(1721)年4月15日、九歳にして仏門に入って諱の「秋隆」を法号とし、のち石上山常円寺に住した。のち他国に出て藤橋の正嫡は断絶となる。
藤橋胤泰の末子・家胤(小三郎)は新沼道海という僧侶を名刀・備前国宗(黒沢丸)で斬殺したことから相馬家を出奔、越後の上杉氏を頼って柿崎氏の家臣となって柿崎に住し、上杉氏の米沢移住にも従わずに柿崎に定住した。ただ、この僧侶斬殺の事件は一説には金山胤清のおこしたものとして伝えられている。
●標葉・泉田・藤橋略系図
→標葉隆義―……―持隆――+―隆安――+―標葉清隆――標葉隆成
(紀伊守)|(左馬助)|(左京大夫)(左馬助)
| |
| +―泉田隆光――泉田隆家―泉田隆直―+―泉田胤清 +―金山胤清
| (彦三郎) (彦次郎)(隠岐守) |(右近) |(彦四郎)
| | |
+―隆連――+―泉田教胤==泉田隆光 +―藤橋胤泰 +―石上胤長
(小四郎)|(孫三郎) (彦三郎) (紀伊守) |(玄蕃)
| ↓ |
+―隆重――――藤橋隆豊―藤橋胤高===藤橋胤泰――+―藤橋家胤――隆家
(出羽守) (出羽守)(紀伊守) (紀伊守) |(小三郎)
|
+=胤重―――――――――+
(刑部丞・木幡政清子) |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤清――――胤近===常隆―――――――――――秋隆
(作右衛門)(平四郎)(四郎左衛門・泉田氏より)(平四郎)
藤田
相馬一族。中村藩二代藩主・相馬義胤(大膳亮)の重臣に藤田胤近(佐左衛門)がいた。胤近は三代藩主・相馬忠胤(長門守)にも仕えている。相馬忠胤は、上総国久留里藩主の土屋家より養子に入った人物だが、承応元(1652)年2月8日、藤田胤近、猪狩高元(太郎左衛門)、齋藤高清(伊左衛門)が久留里まで迎えに行っている。
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
藤田又右衛門 | 大身 | 100石 | 江戸常府で江戸藩邸に居住 |
藤田又兵衛 | 大身 | 100石 | 西山大門通 |
藤田七郎兵衛 | 小身 | 30石 | 西山大門通 |
藤並
上総一族。紀伊国の湯浅氏の流れ。湯浅権守宗重の七女が藤並を称した。
布施
相馬一族。相馬徳誕(小次郎)の子・胤保が下総国相馬郡布施郷(我孫子市布施)を治めて布施を称した。
船形
千葉一族。千葉氏流馬場氏の一流。天正年中、船形胤信(越前守)が活躍した。居城は香取郡揖波山城主(成田市)で、胤信は大永元(1478)年に久昌山東永院を建立している。城下の北須賀には妙見菩薩・牛頭天王を合祀した根山神社がある。
船木
東一族。海上胤方の子・行胤(七郎次郎)が船木を称した。行胤はのちに中務丞を称した。法号は理一。
-船木氏略系図-
→東胤頼―――重胤――――海上胤方―船木行胤
(六郎大夫)(太兵衛尉)(次郎) (中務丞)
賦馬
国分一族。「府馬」とも書く。国分直頼の子・時常が国分氏領内の香取郡賦馬郷(香取市府馬字茶畑)を領し、賦馬城を築いて賦馬を称したという。この賦馬時常は千葉介満胤の後見人となった人物。
時常の孫(実際は数代の子孫と考えられる)・時持は里見氏と結んで、木内氏の居城・米野井城を攻め落とし、時の城主・木内胤章が戦死している。しかしその直後、胤章の嫡男・胤統は大須賀氏・香取神社の大宮司家と結んで反撃し、里見氏の援軍・正木時茂・時忠兄弟を待つことなく、時持は戦死してしまった。
現在、小見川町木内の木内神社から虫幡の清水寺にいたる道の傍らにひっそりと建つ塚がある。地元では「左衛門塚」とよぶが、この塚が時持の墓だといわれている。一方で、小見川町米野井字押砂にも墓があり、その墓石には「賦馬左衛門以下惣勢三十四人討死精霊」と刻まれていたという。また、香取市府馬字日下部の天神坂の側にも塚があり、地元では賦馬時持の墓だと伝わる。時持の長男・良暁は、小見川(小見川町五郷内)の来迎寺の住職となり、父・時持の墓を建てて供養した。現在、賦馬郷の山之台の宇賀神社の境内には「大楠」があり、樹齢は1500年と伝わる。この楠は根回り19メートル。大正10(1921)年に天然記念物に指定された。
その後も賦馬氏は生き残り、天正末期には府馬行定(与二郎)・府馬直信(彦三郎)が見え、天正18(1590)年5月の小田原合戦のときには、千葉氏の率いる軍勢の中に府馬右衛門佐と府馬太郎左衛門が見える。前者グループと後者グループは同一人物か?府馬直信の「直」はおそらく北条氏直からの偏諱と思われ、小田原の陣に参戦していたのかもしれない。
-賦馬氏略系図-
→国分胤通―常通―――――常朝―――松沢朝胤―朝俊―――胤時――胤平―頼忠―――胤頼――満頼―――直頼――+
(五郎) (二郎左衛門)(小次郎)(孫二郎)(孫四郎)(弥五郎) (下野守)(五郎)(上野介)(五郎) |
+―――――――――――――――――――――――――+
|
+―賦馬時常―胤持――――時持――――勝若
(五郎) (左衛門尉)(左衛門尉)(良暁)
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●賦馬氏―松沢国分氏の末裔―
賦馬氏の系譜では、「国分胤平」という人物には通称その他の記載がない。また、その胤平の次代は「頼忠」という人物で、それまで国分氏の諱に代々用いられてきた「常」「胤」「朝」というような字が見られない。この頼忠の子孫は「頼」が用いられるようになっており、胤平までの国分氏とは一線を画しているようにうかがわれる。
系譜上、頼忠の孫にあたる「満頼」、その子「直頼」、その子「将頼」はそれぞれ、千葉介満胤・胤直・胤将の偏諱を受けているであろうことが推測され、国分直頼・将頼のあとが見られないのは、千葉大介胤直・千葉介胤宣(胤将の弟)が馬加康胤によって討たれたことに関係しているのだろう。
「下野守頼忠」は、「頼」という字を用いる国分氏から、通称や官途名など一切の記載がない胤平が、早世したために養子に入ったのかもしれない。「頼」を通字とする国分氏は、村田国分氏の村田師泰(孫五郎)の子孫にある。正中2(1325)年、大戸庄興徳院(大栄町堀籠)への寄進状には「妙心」「平氏女」「平胤朝」「平胤頼」「平師胤」「平胤近」の六人が名を連ねているが、彼らは村田国分氏の面々と考えられ、同じく正中2(1325)年、松沢国分氏の「国分胤時」が愛宕社改修を行っており、同時代の人物であろう。
⇒国分胤通―+―国分常通――――国分常朝―――松澤朝胤―――――朝俊―――胤時――胤平―頼忠―――胤頼―満頼――直頼―将頼
(五郎) |(二郎左衛門尉)(小次郎) (孫次郎) (孫四郎)(弥五郎) (下野守)(五郎)(上野介)(五郎)(四郎)
|
+―有通――――――村田師泰―+―胤幹 +―胤朝
(小五郎) (孫五郎) |(六郎・妙心?)|(孫五郎)
| ∥ |
| ∥―――――+―胤頼
| ∥ |(孫六郎)
| 平氏女 |
| +―乙若丸[=平師胤]
| |
| +―千代若丸[=平胤近]
|
+―頼泰―――――+―頼通
(七郎) |(十郎)
|
+―胤頼
(孫七郎)
時常に話を戻すと、時常(越前五郎)は『千葉大系図』によれば、国分直頼(五郎)の子という事になっているが、直頼の父・満頼あたりから千葉介の偏諱を受けていると考えられることから、『千葉大系図』の通りであるとすると、時常は嘉吉年間頃(1440頃)の人物ということとなるため、応安7(1375)年8月9日の『鎌倉府執事奉書』に記載された「国分越前五郎」とは時代的な矛盾が生まれる。
●松沢・千葉介関係図
[同世代の千葉介] [1291-1351] [1337-1365] [1360-1426]
千葉介成胤――時胤―――――頼胤――――胤宗―――貞胤――――――氏胤―――――――――――――満胤―兼胤―胤直――――胤将
⇒+―常通―――常朝―――――松沢朝胤――朝俊―――胤時――――+―胤平―――頼忠―――胤頼―――満頼――――直頼――+―将頼
|(小次郎)(小次郎太郎)(孫次郎) (孫四郎)(孫五郎) | (下野守)(五郎) (上野介) (五郎) |(四郎)
| | |
| 【1325年】 +―賦馬時常====================⇒+―賦馬時常
+―有通―――師泰―――――胤幹――――胤朝 (越前五郎) (越前五郎)
|(小五郎)(孫五郎) (六郎) (孫五郎)
|
+―常義―+―胤実―――――――――――胤長―――泰胤――――+―胤氏―――胤詮
(六郎)|(六郎太郎) (又六郎)(彦次郎) |(遠江守)(三河守)
| ∥ |
| ∥ 【1363】 +―胤任
| ∥――――大戸河胤村 |(小六郎)
| ∥ (彦次郎) |
+―胤義―――――定胤――――女 +―氏胤
(平太) (平太六郎) (与一)
永禄元(1558)年6月、「府馬左衛門尉平胤持」「左衛門弥五郎老母千代」「御弥五郎胤則」が香取郡賦馬村(香取郡山田町府馬)にあった愛宕山正法院地蔵寺(現在は廃寺)の堂宇一宇を造営寄進している。
おそらく、府馬胤持(左衛門尉)の子とも思われる府馬時持(左衛門尉)は、千葉介に反発して里見氏と結んでおり、永禄8(1565)年9月18日、正木時忠(里見家家老)とともに木内胤章(右馬助)を米野井城(香取市米野井)に攻めて討ち取ったとされる。系譜上、時持は千葉介満胤の幼少時の後見人である時常(越前五郎)の孫とされており、この両者には約二百年の開きがあるため、この伝承が事実であれば時持は時常の子孫であろうと思われる。
「府馬右衛門尉」という人物が、永禄8年以降の2月16日の『千葉介胤富黒印状』にあるが、永禄8(1565)年の府馬時持(左衛門尉)といかなる関係にあったかは不明。府馬右衛門尉は「三谷弥次郎」とともに八十内藤六郎の寄騎として加わっており、下総と上総の国境付近を領していた三谷氏と何らかの関係があったとも推測できる。『千葉介胤富黒印状』の主だった将七名はいずれも東総の豪族で、その寄騎はいずれも千葉介の直臣と思われる名字が多く、府馬右衛門尉も千葉介胤富の直臣であったのだろう。
元和2(1616)年2月20日、香取郡賦馬村の修徳院に「府馬左衛門尉平胤持」が建てた墓石があり、墓碑には「心源院殿鉄岩紹顕大居士」「真永院殿玉麟宗仁大居士」「徳雄院殿海運宗龍大居士」「昭哲院殿正範権空大居士」の四名の法名が記載されているという。この「府馬左衛門尉平胤持」は時代的に府馬左衛門尉時持の子か?