●陸奥国中村藩六万石●
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女(長松院殿) |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬敍胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬敍胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 不明 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 神戸氏 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 大貫氏(千代) |
■二代藩主(相馬家十八代)
(1619-1651)
<名前> | 虎之助→義胤(祖父・相馬義胤より譲られるが、長門守義胤の烏帽子親・佐竹義重の子、佐竹義宣に了解を得る) |
<正室> | 内藤志摩守忠重娘 |
<父> | 相馬大膳大夫利胤 |
<母> | 長松院殿(徳川秀忠養女。土屋忠直の異父妹で岡田山城守元次の娘) |
<初謁見> | 寛永6(1629)年5月28日 10歳 ・泉藤右衛門胤政・泉内蔵助胤衡・立野市郎右衛門胤重 |
<叙任> | 寛永13(1636)年12月29日 17歳 |
<官位> | 従五位下 |
<官職> | 大膳亮 |
<就任> | 寛永2(1625)年~慶安4(1651)年 |
<役職> |
寛永11(1634)年6月18日将軍・徳川家光の上洛の随兵。 寛永11(1634)年閏7月13日酒井讃岐守忠勝が若狭小浜へ移封のため、武蔵国河越城在番。 寛永20(1643)年5月3日加藤明利改易のため、陸奥国二本松城在番。 正保2(1645)年4月1日松下長綱改易のため、陸奥国三春城在番。慶安2(1649)年1月8日大坂城加番。 |
<弓> | 慶安2(1649)年4月、稲葉八太夫信重入道東雲(日置流)より印可 |
<馬術> | 慶安2(1649)年9月23日、荒木十左衛門元政より印可 |
<法号> | 巴陵院殿月海霜剣大居士 |
<墓所> | 行方郡小高郷小高山同慶寺 |
●相馬義胤事歴●
旧中村藩上屋敷跡(現農林水産省) |
父は相馬家十七代当主・相馬大膳大夫利胤。母は徳川秀忠養女(剃髪後は長松院)。幼名は虎之助。元和6(1620)年5月、江戸桜田の相馬藩上屋敷で生まれた。兄に亀王丸がいたが早世しており、義胤が嫡男として育てられた。
父・利胤が寛永2(1625)年9月10日、四十五歳の若さで急死したために六歳で相馬家の家督を継ぎ、所領も以前のまま認められた。また、執権として泉藤右衛門胤政、藩老として岡田八兵衛宣胤、堀内十兵衛胤泰、熊川左衛門長春、門馬四郎兵衛経実が定められた。さらに、虎之助が幼少であることから、将軍・徳川家光は陸奥国標葉郡泉田村で隠居していた虎之助の祖父・長門守義胤へ上使を遣わしてその後見を命じた。
寛永3(1626)年4月20日、執政の一人である岡田八兵衛宣胤が四十三歳で急死した。岡田家は相馬一族中で最も尊重された一族で、執権の泉家と同族である。
6月24日、長門守義胤は将軍家の意向を受けて、隠居所である泉田村から中村城へ移り、さらに江戸へ出て大御所・徳川秀忠、将軍・徳川家光に謁見した。8月には両大君(秀忠・家光)は上洛予定であったが、虎之助はまだ七歳、対して長門守義胤は七十九歳という高齢であったため、供奉を免除され江戸の留守を守ることとなった。
10月3日、長門守義胤は七十九歳の高齢ながら諸大夫に任じられた。相馬家に対する徳川家の信頼をうかがうことができる。寛永4(1627)年6月、長門守義胤は中村へ下向することになったが、将軍家より御帷子反物を拝領した。しかし、翌年にはまた江戸に出府している。
寛永6(1629)年正月、江戸城本丸下石垣普請で、相馬家も手伝い普請が命じられ、奉行として家老の泉内蔵助胤衡を派遣した。
■相馬虎之助の元服
寛永6(1629)年5月、江戸藩邸にて、相馬長門守義胤は孫の虎之助に自分の諱である「義胤」を譲った。これ以降、虎之助は「義胤」と号し、同時に花押も定められた。時に十歳。ただし、長門守義胤の「義」の字は佐竹常陸介義重より偏諱された一字であるため、義重の子で義胤とも親交の深い佐竹右京大夫義宣へ知らせた上での譲りとなった。
5月28日、虎之助義胤は大御所・徳川秀忠、将軍・徳川家光へ初御目見となったが、このとき家老・泉藤右衛門胤政、泉内蔵助胤衡、立野市郎右衛門胤重が彼に供奉した。これ以降、藩主が将軍家に謁するときには、家老三人がつき従うことが通例となった。孫・虎之助義胤が御目見を済ませたことを見た長門守義胤は、6月、両大君に暇乞いを告げて中村へと帰国していった。
三縁山増上寺山門 |
寛永9(1632)年 正月24日、江戸において大御所・徳川秀忠が薨去。五十五歳の若さであった。三縁山増上寺に葬られ、法名は台徳院殿一品大相国公と定められた。遺物として、虎之助義胤にも白銀五百枚が下賜された。同じく、長門守義胤にも白銀二十貫目下された。
2月、増上寺の秀忠廟(台徳院殿御霊屋)の手伝普請として、虎之助義胤には三万石役高が命じられ、惣奉行・土井大炊頭利勝のもと、石川十太夫・岡田靱負胤元を奉行として派遣した。4月25日には立野胤重、塩松木工助、池田玄哲を伴い、日光東照社を参詣した。
9月9日、重陽の節句の御祝言上に登城した義胤は、将軍・家光に時服を献上。これが義胤はじめての御祝い言上であった。
寛永10(1633)年正月14日、徳川秀忠(台徳院殿)の一周忌であったため、増上寺において盛大な法事が行われた。義胤は一番組に編入されている。24日には増上寺に御仏殿が完成し、諸大名からは燈籠が次々と献じられた。その中で、義胤も燈籠一基を寄進している。
3月18日、虎之助義胤の御具足召初が行われた。祖父・長門守義胤が上帯を締め、御祝儀が行われ、長門守義胤より勝光の太刀、脇差、康光の脇差が贈られた。また、4月19日には、1月に亡くなった佐竹右京大夫義宣の形見として、備前三郎國宗の太刀一腰が虎之助義胤へ贈られた。
4月22日、長門守義胤の代より宿老として仕えてきた泉藤右衛門胤政が病死した。没年齢不詳。胤政は長門守義胤、利胤、虎之助義胤と三代にわたって仕え、戦国時代を生き抜いた生え抜きの戦国武将であった。戦乱の世が定まって後も相馬家の重鎮として家政を支え、義胤が家督を継いだ際には、筆頭家老に任じられていた。さらに5月1日には、同じく宿将で執政の堀内十兵衛胤泰が江戸で病死した。彼も義胤が家督を継いだときに執政に任じられた一人であった。泉胤政、岡田宣胤、堀内胤泰の三執政が亡くなったため、急遽、家老代中老職の泉縫殿助乗信が江戸へ出て、江戸藩邸を取り仕切ることとなった。この泉乗信は、かつて前藩主・相馬利胤が相馬家復興嘆願のために江戸へ出たときに、馬喰町の感応院で召抱えた寺小姓・花井門十郎である。彼をすっかり気に入った利胤は、藩老の泉胤政に彼を託し、「泉」の名字を譲って一族に加えさせた人物である。
12月10日、将軍・徳川家光の姫・亀姫が前田筑前守光高へお輿入れとなり、諸大名は御祝いを献じている。相馬家も岡田八兵衛重胤をして、越前綿百把を献上した。
寛永11(1634)年 4月8日、従兄弟にあたる相馬伊豆清胤がはじめて江戸へのぼり、義胤に太刀と馬代を献じた。義胤も年齢も近い従兄弟に親近感を持ったのだろう。たびたび清胤と交流を持つようになる。
相馬義胤―+―利胤――――義胤
(長門守) |(大膳大夫)(虎之助)
|
+―及胤――――清胤
(左近) (伊豆)
4月18日、堀内十兵衛胤貞が初上府し、義胤に謁見した。胤貞は先年亡くなった堀内胤泰の嫡男である。4月25日、清胤が御膳を義胤に献じ、義胤は清胤に太刀と巴金鍔を下賜した。
20日、将軍・徳川家光の上洛に際して、先例に従い義胤も供奉に加わるはずであったが、まだ若年であることを理由に今回も供奉御免となり、泉縫殿助乗信が藩主代として加わったようである。24日、相馬家累代相伝の「黒地日ノ丸御小旗」を長門守義胤より虎之助義胤へ相伝され、7月23日、長門守義胤は江戸桜田屋敷より中村へ帰国の途についた。
閏7月13日、京都の泉縫殿助乗信より、虎之助義胤に武蔵国川越城番が命じられた旨が届けられた。川越は老中・酒井忠勝(讃岐守)の領地であったが、転封となったため城の引渡しのための在番が遣わされることとなり、それが相馬家以下旗本数家に命じられたのだった。14日、懇意の島田弾正利正からも在番の旨が伝えられたため、虎之助義胤はさっそく国元の中村に麾下の人数を集めるべく使者を飛ばし、29日、川越へ出立した。また、国元の中村の留守は熊川左衛門長春、富田監物主次、門馬四郎兵衛経実の三家老が任じられた。
鉄砲百挺 | 大越右近正光、木幡甚五左衛門則清、田村利右衛門 |
弓三十張 | 稲葉八太夫信重 |
鑓百本 | 末永三郎左衛門、塩松木工助、佐藤長兵衛重信 |
弓十張 | 西内善右衛門胤宗 |
相馬虎之助義胤 | |
供衆 | 立野市郎右衛門胤重、脇本有庵、松井仙斎、相馬主計清胤、石川内匠三昌、立野伊織胤房、熊川大学長定、堀内十兵衛胤貞、石川専右衛門有尚、 芥久大夫、原金右衛門、高城左兵衛、半屋又右衛門、大野宗左衛門、木幡嘉左衛門貞清、門馬四郎五郎辰経、下浦源左衛門、木村久右衛門、 堀内半左衛門胤長、新館源助繁治、岡田半左衛門長泰、日下兵左衛門、大越與惣兵衛久光、石川助左衛門直昌、杉将監、田原吉左衛門清貞、 大浦隼人安清、水谷長左衛門将之、藤橋作右衛門胤清、伊藤太兵衛、岡田八兵衛重胤、熊清兵衛安清、立野八左衛門胤安、原左馬允、杉七左衛門、 岡田左門長次、猪狩四兵衛、村田與兵衛、門馬権兵衛、富田甚右衛門茂実、木幡市左衛門、一色五郎左衛門、竹村三郎右衛門、池田八右衛門直重、泉内蔵助胤衡(執権) |
8月1日、川越に到着し、受取御勤番を勤めることとなった。8月23日、京都より泉縫殿助乗信、中津吉兵衛幸政が川越に到着した。12月26日、幕府より正式に三万石の格式をもって川越城在番が命じられた。また、8月よりの在番での人件費として百石につき四人宛ての勘定で請求を出すよう指示した。
寛永12(1635)年3月5日、義胤宛に目付・斉藤源太利政と堀田家家臣・豊永藤右衛門をもって老中奉書が届けられた。川越城は堀田加賀守正盛へ預けられることとなったとのことで、3月7日、目付、井上新左衛門・斉藤源太利政へ川越城の引渡しをすませ、川越を出立して江戸へ戻った。このとき、川越代官や在番中に世話になった御用達町人たちに小袖などの贈り物がされている。
■姉於千ノ方、相馬虎之助義胤の結婚
寛永12(1635)年4月11日、義胤の姉・於千ノ方(岩松院)と寺沢兵庫頭堅高との婚礼祝い、ならびに義胤と内藤志摩守忠重姫君との婚礼の宴会が江戸桜田藩邸にて盛大に行われ、長門守義胤より虎之助義胤に出雲道永の太刀一腰が譲られ、執政・泉内蔵助胤衡より包利の太刀一腰、家中全員より御酒肴が進上された。
4月14日、御千ノ方と寺沢兵庫頭堅高との婚礼式が執り行われ、18日、虎之助義胤と内藤忠重姫との婚礼式が厳かに執り行われた。御輿渡は内藤家家老・奥田主水、輿を請け取るは義胤の従兄弟・相馬主水清胤。内藤家より奥年寄として久米半右衛門が相馬家へ入った。婚礼に際しては、縁戚の大名である佐竹修理大夫義隆、土屋民部少輔利直らからの祝いの品が贈られている。
+―佐竹義宣
|(右京大夫)
|
佐竹義重――+―岩城貞隆
(常陸介) (忠次郎)
∥―――――佐竹義隆【出羽久保田藩主】
相馬義胤――+―慶雲院 (右京大夫)
(長門守) |
|
岡田元次 +―相馬利胤
(大和守) (大膳大夫)
∥ ∥―――――相馬義胤【陸奥中村藩主】
∥―――――――娘 (大膳亮)
∥
岡部長敬―+――娘
(丹波守)| ∥――――――土屋忠直―――土屋利直【上総久留里藩主】
| ∥ (民部少輔) (民部少輔)
| 土屋昌恒
|(宗蔵)
|
+―神尾元勝――――娘
(備前守) (相馬大膳亮義胤養女)
19日、義胤は包利の太刀一腰を相馬主水清胤へ下賜した。20日、妻の父である内藤伊賀守忠重が一家、重臣を連れて相馬藩邸を訪問。相馬邸では内藤家一家を迎えて宴を催し、翌21日、虎之助義胤が岳父・忠重邸を訪問して昨日の返礼をした。
■相馬虎之助義胤の帰国と相馬長門守義胤の死
寛永12(1635)年7月4日、虎之助義胤ははじめて奥州中村への帰国が認められ、8日、祖父・長門守義胤は一足先に中村へ向けて江戸を発った。それに遅れること数日、虎之助義胤も帰国の途につき、はじめて中村城へ入城。その後、妙見社に参詣して帰国の報告をおこなった。
相馬長門守義胤墓 |
9月5日、義胤は相馬清胤邸を訪問して食事をともにした。一方で、孫の帰国を無事に果たすことができた長門守義胤は、肩の荷がおりたと感じたのか、このころから体に異常を感じ始めていたようで、9月6日、虎之助義胤に国家老・富田監物主次を送り、十七品の家宝を譲り渡した。
11月14日、死期を悟った長門守義胤は、家中惣登城の触れを出すと、病の体をおして御広間にあらわれ、今後のことを事細かに書き記した「遺言」を読み上げさせ、二日後の16日、中村城内において八十八歳の生涯を閉じた(『相馬藩世紀』、「古日記」(『海東家文書』))。法名は蒼霄院殿外天雲公大居士。導師は小高山同慶寺の長哲和尚。遺言により遺骸には甲冑を着せ北方を向けて葬り、廟所には五輪塔を建立した。伊達政宗との戦いに明け暮れ、慶長の役、大坂の陣など戦国の荒波の中で育った武人は死後も北方、仙台伊達家をにらみ、また、北極星=妙見を仰いで今も同慶寺の山門近くに陣を構えている。
寛永13(1636)年4月5日、義胤は江戸へ向けて中村を出立し、14日、江戸桜田屋敷に到着。義胤は一谷(市谷)・赤坂・牛込・小石川の御堀御手伝普請の命を受け、大奉行を泉縫殿助乗信、係奉行は稲葉八太夫信重、佐藤長兵衛重信、岡田又左衛門胤次、原主殿、木幡甚五左衛門則清、佐藤彦兵衛という体制で、4月24日に一谷に普請小屋を立て、7月に工事は完了した。
12月6日、朝鮮国王の使者が江戸に到来した際には、品川宿にて義胤が饗応を任されることとなり、26日、同役の織田左衛門佐長政とともに本誓寺の旅宿にて饗応を勤めた。28日、土井大炊頭利勝は義胤に使者を遣わし、明日29日に御用につき、登城あるべしと伝えた。このとき義胤は饗応の最中ということもあって、品川宿に宿をとっていたが、夜中に藩邸よりの急使が到着し、29日、朝鮮通使が滞りなく品川宿を通過したのを見届けて早速登城したところ、「諸大夫(=五位)」に任じられ、大膳亮に叙された。若干十七歳での叙爵であった。
■徳川家と相馬家
相馬義胤――相馬利胤
(長門守) (大膳太夫)
∥――――――相馬義胤
+=娘 (大膳亮)
|
徳川秀忠―+―徳川家光―+―徳川家綱
(内大臣) (内大臣) |(内大臣)
|
+―徳川綱吉
(内大臣)
寛永14(1637)年正月1日、義胤は登城して将軍・家光に謁見。杯と小袖が下賜された。将軍・家光とは血のつながりはないが、義胤の母は徳川秀忠の養女である関係から、義胤は家光の義理の甥という間柄になる。
4月22日、義胤は旗本で代々大坪流馬術を受け継ぐ荒木四兵衛元政に馬術の手ほどきを受けるべく門弟となり、熊清兵衛安清を使者として、三原太刀一腰と、利胤の代に荒木十左衛門元満より相伝された十七冊の御馬書を荒木家へ返した。現在でも相馬地方では大坪流馬術が伝えられている。
小高山同慶寺 |
4月25日、義胤は国元への帰国が認められ、5月28日に江戸を経ち、6月6日、中村城へ入った。途中、祖父の亡き長門守義胤の三回忌のため、小高山同慶寺において江湖和尚による供養が行われた。
10月5日、義胤が家督を継いだ六歳のときから守役として常にそば近くに仕えてきた家老・立野市郎右衛門胤が中村で亡くなった。悲しんだ義胤は岡田蔵人を使者として香典を立野家へ届けさせた。28日、胤重の子・立野八左衛門胤安を立野家四百石の家督と定め、太刀、銀二枚を贈った。
立野胤重に続けて10月21日、義胤の側近を務めていた老臣・堀内半左衛門胤長が病死した。胤長は寛永10(1633)年5月1日に亡くなった執政・堀内十兵衛胤泰の弟で、もともとは滝迫家五百石を継いでいた。その後、堀内氏に復している。12月13日、胤長の嫡子・堀内庄兵衛胤興に家督相続が認められた。
そんな中、11月14日に中村へ江戸留守居の藤田佐左衛門胤近より、肥前国島原において切支丹一揆が起こったことが伝えられた。乱の発生は10月24日、一揆の人数は三万七千人。古城の原城に籠城して領主の松倉氏に対抗した。この乱が起こった原因は、島原城主・松倉長門守勝家による切支丹弾圧と圧政である。また、隣接する天草の領主は唐津城主・寺沢兵庫頭堅高である。義胤の姉夫だが、やはり領内で厳しい切支丹弾圧を行っていたため天草からも数多くの一揆勢が島原へ加勢していた。
高田宝泉寺の板倉重昌墓碑 |
幕府はこの島原の乱鎮圧のために九州の諸大名に出陣を命じているが、立花宗茂(柳川十一万石)、有馬豊氏(久留米二十一万石)、鍋島勝茂(三十五万七千石)、黒田忠之(四十七万三千石)、細川忠利(五十四万石)といった外様の大大名を統率したのは、わずか三河深溝一万九千石の幕府軍上使・板倉内膳正重昌であった。諸大名は重昌の命を聞かずに勝手に兵を繰り出し、抜け駆けするなど統率が取れず、幕府はその状況を受けて、老中・松平伊豆守信綱の派遣を決定。12月5日、義胤は江戸に佐藤長兵衛重信、岡田又左衛門胤次の両名を派遣し、それぞれ上使・松平信綱、寺沢堅高のもとに加わり肥前国島原に出陣した。しかし、板倉重昌は老中松平信綱の出陣を聞いて面目を失い、翌寛永15(1638)年正月1日、重昌はわずかな手勢を率いて自ら原城へ攻め寄せ、討死を遂げた。法名は源光大居士。
■相馬家と寺沢家
相馬義胤―+―相馬利胤―――相馬義胤
(長門守) |(大膳太夫) (大膳亮)
|
+―於千
(岩松院)
∥
寺沢広高―――寺沢堅高
(志摩守) (長門守)
寛永15(1638)年2月27日、一揆勢のこもる原城は落城。島原の乱は終結した。松平信綱は4月5日、従軍した諸大名を小倉城に集めると、松倉長門守勝家、松倉右近重利兄弟を改易の上他家預けに、寺沢兵庫頭堅高は唐津十二万三千石のうち天草領四万三千石が没収された上、江戸屋敷にて閉門が命じられた。堅高の室である義胤の姉については義胤から六百石の賄料が贈られた。松倉勝家はその後、領民への弾圧の廉で切腹も認められずに斬首となる。
4月22日、義胤の前髪断が行われた。このとき義胤二十歳。月代は手土嘉兵衛、髪揚は北仁右衛門が行い、家中総出でこれを祝った。
11月15日、義胤は相馬家代々の歴史を撰集した『外天記』の編集を岡田八兵衛重胤に命じた。この『天外記』は合戦の勝負や年号、月日を記録し、また将門以来の旧記、高胤から利胤にいたる代々の事跡を詳細に記載させたものである。書名は、祖父の長門守義胤の法名「外天雲公大居士」にちなんでいる。ただ、残念なことにこの『天外記』は明暦3(1657)年正月19日の江戸明暦の大火によって焼失してしまった。その後、古文書類を集めて寛文7(1667)年に再編されたものが『奥相茶話記』である。
中村城 |
寛永16(1639)年4月23日、国許帰国の許しを得た義胤は、5月7日、江戸を発って5月14日、中村へ着城した。翌寛永17(1640)年4月13日、日光社参のため中村を発した。従う面々は泉内蔵助胤衡、堀内十兵衛胤貞、相馬主計清胤、熊川大学長定、日下兵左衛門、門馬嘉右衛門長経、木村久右衛門、川久保道仙、安部茂兵衛。17日、日光を参拝し、江戸への途についた。
寛永18(1641)年 正月29日夜、京橋桶町愛宕下久保町から出火した火災は、折からの風にのって南は芝宇多川橋、西は桜田町、東は木挽町にいたる九十七町、武家屋敷百三十軒を焼失する大火となった。幕府はただちに諸大名へ火消の出動を命じ、義胤は老中・阿部豊後守忠秋の命により、みずから出馬して火元の久保町で火消の統率に当たっていたが、落馬して気を失い、意識不明に陥って藩邸に担ぎ込まれた。なお、同じく京橋で消火にあたっていた町奉行・加々爪民部少輔忠澄は火に巻かれて落馬し、亡くなっている。また、かなりの人数の大名火消が死傷したと伝えられている。
その後、義胤は意識を取り戻したが傷が癒えず、2月14日、伊豆国熱海での湯治を幕府に申し出て許され出立。17日に熱海へつき湯治を楽しんだ。また、江戸からは義胤へお見舞いとして親戚の佐竹修理大夫義隆や土屋民部少輔利直一門、日ごろ付き合いのあった秋田河内守俊季、水谷伊勢守勝隆、仙石越前守政利らが柿や雁、鮭などが贈られた。
3月4日、義胤は熱海を出て、江ノ島、鎌倉を見物し、7日に江戸へ到着。湯治によって義胤の容態はだいぶ回復したようで、5月25日には野馬追の神事を行うため、例年のごとく国許への帰国が許可され、6月22日、中村にて野馬追が行われた。
この帰国のとき、堀内十兵衛胤貞、富田甚右衛門茂実、新館彦左衛門繁治の三名の重臣が改易処分となった。事の発端は富田茂実の組士・西九左衛門胤広が公事について罪を犯して切腹を命じられたが、取り調べていた執政・泉内蔵助胤衡に対して、関係した侍大将・堀内十兵衛胤貞、組頭・富田茂実、公事奉行・新館彦左衛門繁治三名それぞれの口上がすべて異なり、改易処分とされた。新館繁治はこののち中村を出奔して仙台藩に仕えた。
8月3日、家光に嫡男・竹千代(のちの家綱)が生まれた。知らせを受けた義胤はただちに中村より使者を発し、9日に祝いとして「備前三郎国宗」の脇差と、葵の御紋をつけた梨地金銀螺鈿の箱を献上した。
9月18日(19日)、長女於亀の方が 江戸桜田の藩邸で誕生した(『相馬藩世紀』、「古日記」(『海東家文書』))。母は内藤志摩守忠重女。24日には誕生祝として中村で能興行が催され、25日には家中総出で祝宴が開かれた。
寛永19(1642)年4月15日に義胤は「江戸へ御立被成候」し、「日光へ御参被成候」とあるように、4月17日の将軍家光の日光御社参に供奉した(「古日記」(『海東家文書』)。
同年8月には、中村城内に「妙見堂」の建立を命じた(22日棟上)。現在の中村妙見社である。9月21日、寺沢家から戻っていた姉のために幕府に江戸八丁堀に屋敷を求め、認められた。以降、義胤姉はこの屋敷に住むこととなる。なお、夫の寺沢堅高は、天草の乱を引き起こした一端の不行跡のために唐津十二万石のうち天草領四万石を没収され、折からの幕府からの手伝普請などでの心労も引き金となり、慶安元(1647)年11月18日に海禅寺で自害している。堅高と義胤姉の間に子はなく、幕府の法度にのっとり、御家断絶、改易とされた。
長松院殿
∥
∥―――+―相馬義胤―――於亀
相馬義胤 +―相馬利胤 |(大膳亮) ∥
(長門守) |(大膳大夫)| ∥
∥ | +―松岩院殿 ∥
∥――――+ ∥ ∥
長江義景娘 | 寺沢高堅 ∥
| (兵庫助) ∥
| ∥
+―慶雲院――――佐竹義隆―――義處
(岩城貞隆妻)(修理大夫) (次郎)
寛永20(1643)年2月14日、出羽久保田藩主・佐竹義隆の嫡男、佐竹徳寿丸が元服して「義處」を称したが、このとき義胤は義處へ小袖を、その母には縮緬十巻を贈呈した。義處の父・義隆は義胤とは従兄弟の間柄で、義隆の母は長門守義胤の娘・慶雲院殿である。のち、義處は義胤の娘・亀姫を娶ることとなる。
その後「二本松ノ城受取御番申様ニト被仰付」(「古日記」(『海東家文書』)たため、5月6日に江戸を出立した。二本松城は2年前の寛永18(1641)年3月25日、藩主・加藤民部大輔明利が卒去したのち除封されていた。5月11日にいったん相馬中村へ着し(「古日記」(『海東家文書』)、5月16日夜に二本松へ向けて出立。5月17日に川俣宿に宿陣して、翌5月18日に二本松へ着城し「御請取被成候」た(「古日記」(『海東家文書』)。義胤の軍勢は「御鉄炮仁百丁、御鑓百丁、弓五十、其外道具ニ御鉄炮仁十丁、鑓仁十丁、弓十張、又御持道具御鉄炮五丁、御弓立三丁、御鑓九丁内壱丁長刀、馬上七十三騎」というもので「御供老」として泉内蔵助胤衡が従っている。その後、8月1日に中村城に戻った(「古日記」(『海東家文書』)。そこから江戸へ戻ることはなく、参勤交代に伴う所役であったか。
10月12日、江戸で「御姫様御誕生被成候事、御名号ス千松様ト」という(「古日記」(『海東家文書』)。翌寛永21(1644)年3月14日、義胤は参勤のため泉藤右衛門胤衡を伴って中村を出立。3月18日、熊川宿を発ち、3月21日に江戸に御着した(「古日記」(『海東家文書』)。千松との対面も果たされたであろうが、7月始め頃「千松様御煩之由」が中村に届けられ、7月17日から21日にかけて「三ヶ寺へ御祈念」が指示されたが、7月14日暮に「七月十日ノ夜九ツ時分、千松様御死去被成候由」(「古日記」(『海東家文書』)を伝える飛脚が中村に到着している。
正保2(1645)年4月1日、義胤は陸奥国三春城御在番の命を蒙り、国許の中村へ向かうべく江戸を出立した。今回は、三春藩主・松下石見守長綱が乱心し、改易させられたことによる在番である。在番中の扶持米として六百人扶持が幕府から支給された。4月18日、江戸を発った義胤は4月25日に中村へ到着。5月20日、在番中の法度「道中御法度」を定めて藩士に伝えた(「古日記」(『海東家文書』)。5月25日、義胤は三春へ向けて中村を出立。岡田八兵衛重胤、相馬主計清胤ら多数の将士を率いての出立であった。5月27日に三春城へ到着。8月3日に江戸からの御目付・藤堂主馬嘉長、下曾根三十郎信由から、次の三春藩主が秋田河内守俊季に定められたことを伝えられ、8月8日、秋田家の秋田四郎兵衛、秋田五郎左衛門らに城を引き渡して城を辞去し、翌9日に中村城に到着した。この留守中の7月8日夜中、江戸屋敷では正室内藤氏が「御姫様御誕生、お国様ト号」した(「古日記」(『海東家文書』)。
正保3(1646)年3月15日、義胤は参勤のため中村を出立。3月23日に江戸につき、4月1日「御目見被成候」した(「古日記」(『海東家文書』)。
7月28日、親類佐竹徳寿丸が将軍・徳川家光に初めて謁見し、義胤はその祝いとして帷子、太刀を贈呈した。8月14日、今度は佐竹義隆より招待があり、義胤は徳寿丸への帷子、太刀、長光一腰を持参して佐竹邸へ赴き、徳寿丸の初御目見を祝した。
こうした中で9月30日卯刻、一歳の姫君「お国様」が俄かに亡くなった(「古日記」(『海東家文書』)。実は母の「御台様」も5月頃から「御煩被成候」であり、5月18日から21日にかけて、三宝院、三蔵院、清覚院の三人の山伏が祈祷を行ったところ、「霊ハ御台様御局」が憑いているといい、この三名が祓いを行ったという(「古日記」(『海東家文書』)。しかし、養生も空しく御台所内藤氏は12月6日に「御遠行被成候」した。享年二十三。法名は聖衆院殿花岳栄心大禅定尼。相馬へは12月9日に知らせが到着している(「古日記」(『海東家文書』)。さらに翌正保4(1647)年3月29日、懐妊した義胤側室「おつち」が江戸から中村へ下着し、8月11日に「おつち腹」の「若公御誕生、御名長吉様ト号」したものの、「翌十二日申ノ刻、驚風ニて御果被成候」という不幸が続いた(「古日記」(『海東家文書』)。義胤はわずか4年の間に千松、お国、長吉と三人の子が立て続けに亡くなる状況に、9月3日、歓喜寺(北斗法)、長明寺(大威徳法)、安養寺(不動法)での修法を命じ、「御子不長久、又女ノ死霊生霊退散」を行わせた(「古日記」(『海東家文書』)。
また正保4(1647)年正月には、家老の「泉藤右衛門殿、御定ニ背キ、阿房へ、内蔵助殿同前ニ下ル」と、義胤の怒りを買い、泉藤右衛門胤衡、泉内蔵助胤祐父子は追放処分となり、泉家知行の二千五百八十三石八斗一合は召し上げられ改易されている。その処分の理由は「兼而之奢侈倍重」であった。義胤の怒りは大きく、2年後の慶安2(1649)年2月5日に泉内蔵助胤祐が義胤母・長松院(徳川秀忠養女)の願いによりようやく赦免されたが、知行は七百石と大きく削られている。
慶安元(1648)年3月18日、参勤交代のため「江戸へ御立被成候」して、同18日「小高御留」、翌19日は「永塚御泊」、20日は「熊川御留」って江戸へ向かった。26日、江戸桜田邸に到着。28日、将軍・家光に参勤を報告した。10月27日、将軍の声がかりにより、義胤の養妹・於鶴(実は神尾備前守元勝娘)が安房東条藩主・西郷孫六延員に嫁ぐことになった。なお、婚礼の儀は慶安2(1649)年9月20日に執り行われ、24日、義胤は西郷家より招待を受けて赤坂御門内の東条藩邸へ赴き、祝宴に供した。
慶安2(1649)年正月3日、大坂加番の秋田河内守が病死すると、正月8日、義胤に「大坂之御番被仰付」られた。義胤は国元に加番衆の催促を行い、正月11日に中村に使者が到着。「相馬主計(義胤従弟・相馬清胤。妻は旗本進藤三左衛門正成女子)」を筆頭に「岡田八兵衛(岡田重胤)」「熊川大学(熊川長定)」「藤田佐左衛門(藤田胤近)」「岡田勘十郎(岡田長胤。八兵衛重胤の甥)」「堀内庄兵衛」「熊兵三郎(熊清澄)」「本山主膳」
10月25日、橲原で隠居生活をおくっている叔父・相馬左近及胤が中村に登城したため、義胤は彼を丁重に出迎えた。及胤の子の相馬主計清胤とは仲のよい義胤であったが、隠居生活の長い及胤と会うのは初めてであった。
慶安3(1650)年3月、 相馬家は西丸紅葉山石垣普請(七百六十三坪、土手百五十二坪)を承り、家老・熊川左衛門長定を大奉行に、堀内半右衛門胤興・稲葉八太夫重信・村田与左衛門俊世らを副奉行に命じて西ノ丸に派遣し、6月27日に工事は完了した。
こうしたあわただしい中の慶安4(1651)年2月22日、義胤は 江戸桜田藩邸にて不快を訴えて倒れ、将軍家より差し向けられた御典医・曲直瀬氏の治療のもとで養生を続けていたが、次第に容体は悪化、3月3日に亡くなった。享年32歳。法名は巴陵院殿月海霜劍大居士。
義胤は死期を悟ると江戸家老・泉縫殿助成信を、親戚の老中・内藤志摩守忠重に遣わし、土屋民部少輔利直の次男・土屋式部直方を養子にしたい旨を伝えており、3月5日、松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋、阿部対馬守重次、堀田加賀守正盛ら幕府首脳部に義胤の遺言が達せられ、義胤の死が公表された。このとき、相馬家より幕府に提出された相続願書上は、
「(前略)…大膳亮家、三拾代余相続仕来候處ニ、只今実子無是、名字断絶迷惑ニ存候…諸侍諸百姓ニ至る迄、重代相伝之者共ニ御座候、其上代々ノ墳墓も領内ニ有之事ニ候得は、今度子孫断絶、先祖之亡魂迄可致迷惑候…大膳亮子孫御座候得は、家来諸侍諸百姓重代主従ノ好身只今断絶仕候事…相馬跡式御仕置不被仰付内、相馬之在番仕候儀…万事ニ付、御公儀第一奉存、昼夜無油断念ヲ入可致勤仕候…(後略)」
というような鬼気迫る文章がしたためられている。
同慶寺の義胤廟 |
上記の上表文が提出された3月5日夜、義胤の遺体は棺に納められ、神田の曹洞宗宝泉寺で荼毘に付された。この寺は、相馬家の菩提寺・小高山同慶寺の住職である同安洞察和尚の同門が住職を務める寺院であり、その所縁によって江戸における相馬家の菩提寺に定められた。
荼毘に付された義胤の遺骨は中村に送られ、宇多川原にて葬送の儀が行われた。その後、御位牌所として月海山巴陵院が建立され、小高の同慶寺には御霊屋が建立された。また、江戸の宝泉寺には五輪の塔が建てられた。その後、この宝泉寺は牛込御門外に移されている。
義胤は心やさしい殿様として領民からも慕われていた人で、義胤は死に臨んで、家臣たちに手許の金子を分け与え、さらに罪に連座した罪人の家族を釈放した。義胤の遺骨が江戸から中村に戻ると、領民たちは髻を切ってその列に加わり、ともに小高山同慶寺に葬送したと伝えられている。3月17日、義胤の側近の一人、金沢忠兵衛昌雄が殉死を遂げた。忠兵衛の墓は義胤の墓の傍らにひっそりと立っている。
近親の名 | 説明 |
相馬亀王 | 相馬義胤の実兄か? 早世する。 |
於千 | 相馬義胤の実姉。宇多郡中村城にて誕生。将軍・徳川家光の命によって寺沢兵庫頭高堅(肥前唐津藩主)の正室となる。延宝8(1680)年12月25日、中村にて没した。法名は松岩院殿梅月景薬大姉。 |
於康 | 相馬義胤の実妹。早世する。 |
於鶴 | 義胤の養妹。母の伯父・神尾元勝(備前守)の娘で、慶安2(1649)年9月20日、西郷延員(若狭守)と結婚したが、翌慶安3(1650)年7月25日、産後の肥立ちが悪く亡くなった。法名は昌隆院殿月鏡日圓大禅定門。谷中の感応寺に葬られた。位牌は中村の法王山立正院仏立寺に安置された。 |
於亀 | 義胤の長女。母は老中・内藤志摩守忠重の娘。寛永18(1641)年、江戸桜田邸にて生まれる。四代藩主・貞胤、五代藩主・昌胤の母。 慶安4(1651)年3月、義胤の養嗣子として跡を継いだ相馬勝胤(式部)に嫁ぐ。延宝2(1674)年2月2日、三女・於羅牟を安産で産んだが、その後回復せず、2月10日に病死した。法名は圓照院月堂寿桂大姉。 |
千松 | 義胤の次女。母は姉と同じ。 正保元(1644)年生まれ。秋槿大童女。 |
◎相馬義胤代の中村藩重臣◎
年代 | 藩主 | 重臣 |
寛永6(1629)年 | 相馬大膳亮義胤 | 【家老】泉藤右衛門胤政、泉内蔵助胤衡、立野市郎右衛門胤重(義胤傅役) |