相馬中村藩御一家筆頭 岡田家

相馬氏

■相馬岡田氏の歴代

代数 名前 生没年 初名 通称・官途(名)
初代 相馬胤顕 ????-1285   彦三郎、五郎 相馬胤村 尼妙悟
2代 相馬胤盛 ????-????   小次郎 相馬胤顕 尼妙悟? 尼専照
3代 相馬胤康 ????-1336   五郎 相馬胤盛 尼専照  
4代 相馬胤家 ????-???? 乙鶴丸 小次郎、常陸介、兵衛尉 相馬胤康    
5代 相馬胤繁 ????-1381? 胤重 五郎、常陸五郎、宮内丞 相馬胤家    
6代 相馬胤久 ????-???? 鶴若丸 小次郎、宮内大夫 相馬胤繁    
7代 岡田胤行 ????-???? 豊鶴丸 左京亮 相馬胤久    
8代 岡田盛胤 ????-????   次郎三郎 岡田胤久?    
岡田信胤 ????-????   伊予守 岡田胤行?    
岡田基胤 ????-????   小次郎 岡田基胤?    
9代 岡田義胤 ????-????   安房守 岡田基胤?    
10代 岡田茂胤 ????-???? 鶴若丸 治部太輔 岡田義胤?    
11代 岡田直胤 1560?-1591? 鶴若丸 右兵衛太夫 岡田茂胤   草野直清娘
12代 岡田宣胤 1584-1626 鶴若丸 小次郎、出雲、八兵衛 岡田直胤 草野直清娘?  
中村藩御一家筆頭岡田家
初代 岡田重胤 1608-1650 鶴若丸 源内、八兵衛 岡田宣胤    
2代 岡田長胤 1634-1659    左門、監物 岡田長次 下浦常清娘  
3代 岡田信胤 1654-1669 小次郎    岡田長胤   青田高治娘
4代 岡田伊胤 1656-1731 三之助 与左衛門、監物 中村俊世 青田高治娘 岡田長胤娘
5代 岡田知胤 ????-???? 千五郎 宮内、監物、内記、靱負 岡田伊胤 岡田長胤娘 堀内辰胤娘
6代 岡田春胤 1709-1755 専之助 監物 岡田知胤 堀内辰胤娘 堀内胤重娘
7代 岡田徃胤 1728-???? 専五郎 直衛、監物 岡田春胤 堀内胤重娘 太田清左衛門娘
8代 岡田直胤 ????-???? 和多利 帯刀、監物、靱負 岡田春胤 太田清左衛門娘 堀内胤長娘
9代 岡田半治郎 ????-1774 半治郎   岡田直胤 堀内胤長娘 佐藤元重娘
10代 岡田恩胤 1766-1817 常五郎、将胤 監物 岡田徃胤 佐藤元重娘  
11代 岡田清胤 1797-1828   帯刀 岡田徃胤   相馬祥胤娘
12代 岡田智胤 ????-1853 純太郎 帯刀 岡田清胤   相馬仙胤娘
13代 岡田泰胤 1840-1907 直五郎 監物 相馬益胤 御内証於藤 岡田氏、荒槇氏

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岡田重胤 (1608-1650)

 中村藩御一家。相馬岡田家十三代。十二代・岡田八兵衛宣胤の嫡男。幼名は鶴若丸。通称は源内八兵衛

 元和9(1623)年6月の徳川秀忠・徳川家光の上洛に際して主君・相馬利胤が両君に供奉し、父・岡田八兵衛宣胤は利胤に従い京都太秦村に宿陣した。重胤も父・宣胤に従って上洛を果たした。

 寛永3(1626)年4月20日、父・宣胤が四十三歳の若さで亡くなったことから、岡田家の家督を相続。寛永10(1633)年12月10日、将軍・徳川家光の姫・亀姫が前田筑前守光高へお輿入れしたとき諸大名は御祝いを献じたが、相馬大膳亮義胤重胤を遣わして、越前綿百把を将軍家へ御祝いとして献上した。

 寛永11(1634)年閏7月には川越藩主・酒井讃岐守忠勝が若狭国小浜城十二万三千五百石に移封されたことによる城地明け渡しに際し、相馬義胤が城番を命じられ、重胤も供として入城。正保2(1645)年の三春城明け渡しでも藩公・相馬義胤に従って三春に入っている。

 慶安2(1649)年2月、藩公・相馬義胤が大坂城加番となるにおいて、8月までの勤番に供して大坂へ上った。その後は江戸屋敷にあったようで、慶安3(1650)年11月19日夜、江戸の桜田藩邸で俄かに発病、急死した。享年四十三。法名は好巌宗雪

 重胤には子がなかったため、遺跡は甥の岡田勘十郎茂晴が継ぐこととなり、28日、江戸の義胤より原権右衛門宗也が遣わされ、茂晴が正式に岡田家家督を認められた。

 弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り、妹は新館彦左衛門胤治に嫁いだ。


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岡田長胤 (1634-1659)

岡田館
岡田家の岩崎館跡

 中村藩御一家。相馬岡田氏十四代。通称は勘十郎左門監物。初名は茂晴。父は十二代・岡田八兵衛宣胤の二男・岡田左門長次。母は下浦修理常清月山娘

 慶安3(1650)年11月19日夜、伯父の岡田八兵衛重胤が急死してしまった。重胤の死はあまりに急であり、また四十三歳という若さゆえ実子はなくとも養子も取っていなかった。遺言も遺されていなかったため、岡田家の断絶も危ぶまれたが、藩主・相馬義胤は、「岡田者代々為御当家重家之間、不可断絶」として、重胤の甥にあたる岡田左門茂晴を家督に定めた。

 翌慶安4(1651)年正月17日、茂晴は家督相続の御礼言上のため義胤に謁見し、義胤は改めて茂晴に「胤」字を与えて「監物長胤」を名乗らせ、家老職に任じた。

 その後、長胤は侍大将(藩士を統括する組頭)の一人として、岡田監物組を率いて藩政に臨むほか、江戸城の手伝普請などに藩士を率いて作業に参加している。

 しかし、万治2(1659)年6月11日、中村城下で療養中、二十六歳の若さで亡くなった。道号は本質良元。嫡男・小次郎が跡目を継ぐことが許された。

 長女は泉八兵衛乗信、次女は藤田七十郎清宗、三女は岡田監物伊胤に嫁いだ。


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岡田信胤 (1656-1669)

 中村藩御一家。相馬岡田氏十五代。通称は小次郎

 万治2(1659)年6月11日、父の監物長胤が急逝したため、四歳の小次郎が家督を継ぐこととなり、岡田監物組を率いることになったが、幼少の身では後見人が必要ということで、藩主・相馬勝胤は、重臣の堀内半右衛門胤興を岡田家付きとして、小次郎を守り立てることを命じた。

 しかし、寛文元(1661)年5月30日、堀内胤興が亡くなってしまったため、9月19日、家老・村田與左衛門俊世が信胤の守役を命じられ、岡田家に移った。これより村田俊世が岡田家代理人として、幕府や藩内との折衝にあたることとなった。藩の重臣が岡田家幼主の後見人を務めるという異例の対応から、岡田家が御一家の中でもとくに藩侯家に次ぐ特別な待遇にあったことがうかがえる。

 寛文9(1669)年5月29日、十四歳の若さで亡くなった。道号は一泡叟泄

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岡田伊胤 (1656-1731)

 中村藩御一家。相馬岡田氏十六代当主。通称は三之助與左衛門監物。父は村田與左衛門俊世。母は青田孫左衛門高治娘(是性妙実)。妻は岡田監物長胤三女(母は木幡加左衛門貞清娘)。

 寛文9(1669)年5月29日、岡田氏当主の岡田小次郎信胤が亡くなると、6月、岡田家の家督を継ぐことが定められ、寛文12(1772)年4月、三之助を與左衛門と改めた。

 寛文12(1672)年4月10日、実父の村田與左衛門俊世はかねて願い出ていた隠居が認められ、百人扶持とされ、不求と号した。そのため同日、伊胤に村田與左衛門組支配が仰せ付けられた。

 延宝元(1773)年12月26日、新藩公・相馬出羽守貞胤が家督御礼のために登城し、将軍・徳川家綱に目見えた際、その供として将軍の御前に召し出されている。

 延宝3(1675)年5月13日、御城代職を仰せ付けられ、さらに10月22日、老中職に任じられた。

 延宝7(1679)年7月22日、藩公・相馬出羽守貞胤が中村妙見宮へ社参、元服式が行われた。その元服の仮親を伊胤がつとめた。また、8月12日、貞胤は伊胤の屋敷を訪問して能見物をするなど二十四歳の若さながら御一家筆頭として認められる中、11月5日、母の青田氏が亡くなった。法名は是性妙実

 さらに11月23日には、藩公・相馬貞胤が中村城で急死した。年わずかに二十一歳。伊胤はただちに江戸へ上り、12月18日、貞胤養子の昌胤の供として江戸城に登城、大老・酒井雅楽頭忠清より貞胤の「存生ノ願之通」りに昌胤へ家督相続を認める旨の将軍家の命を拝受した。このとき昌胤に従って登城したのは、伊胤のほか、熊川清兵衛長治、脇本喜兵衛元明、岡部求馬宗綱、谷六左衛門宗盈、佐藤長兵衛昌信の六名の家老。

 こうして昌胤は五代藩主となり、11月26日、継目御礼のため老中・土屋相模守政直(常陸国土浦藩主)とともに江戸城に上り、将軍・徳川家綱に献上品を捧げた。しかし、この日は家継がやや風邪気味だったことから、通例の三家老目通りは叶わなかった。このとき昌胤と同道した老中・土屋相模守政直は昌胤の父・相馬忠胤とは従兄同士という間柄になる。

 11月26日、昌胤の家督相続祝儀のため、中村表より惣家中名代として泉内蔵助胤和が江戸屋敷に到着している。その翌27日、叙爵のため登城するよう老中奉書が藩邸に届けられ、翌28日、昌胤は登城し、弾正少弼に任じられた。

 延宝8(1680)年正月15日、昌胤の継目御礼の際に叶わなかった三家老御目見のため、昌胤は伊胤のほか、脇本喜兵衛元明、岡部求馬宗継(家綱の「綱」を遠慮して宗綱から改名)を伴って登城し、将軍に面会した。

 元禄元(1688)年9月19日、先祖の通称を以って、岡田監物と改めた。しかし、元禄6(1693)年6月19日、家老・岡部兵庫宗継とともに突如職を免じられ、目通りも許されなくなる。さらに執権職の証文も御役御免であるとして召上げられた。この解職処分の理由として「両人無調法有之」とされるだけで、具体的な理由は不明である。しかし、藩公・昌胤が江戸から帰国した直後の処分であることから、城代として留守居を勤めていた岡田伊胤に重大な不手際があったためと考えられる。伊胤が支配していた岡田監物組は泉内蔵助胤和が侍大将となり支配することとなった。

 さらに、御家老・御城代職は御一家の堀内玄蕃胤親が就任することとなったが、御家老・御城代職は藩内筆頭の地位であることから、伊胤は堀内胤親の次席とされたうえ、その両職を代々引き継いできた岡田家の特権である「胤ノ御一字下ニ置名乗可」も、堀内胤親一代にのみだが奪われることとなった。ちなみに堀内「胤親」「辰胤」と胤字を諱の下につけ改名している。

 伊胤はこの事件を受けて隠居。7月20日、嫡男の千五郎が家督を継いだ。

 享保9(1724)年11月21日、中村に隠居していた岡田良山伊胤門馬対影(門馬藤右衛門房経)が家老に任じられた。門馬房経対影は享保10(1725)年4月18日に、御曹司・相馬徳胤の家老に移された富田五右衛門政実に代わって郡代に任じられている。良山伊胤は享保13(1728)年2月7日、老齢のため家老を免ぜられた。このとき尊胤より手ずから小袖が下され、長年の功労に報いた。

 享保16(1731)年6月23日、七十六歳で亡くなった。道号は良山元賢

 娘はいずれも藩の重臣・泉甚右衛門為信熊川兵庫長貞に嫁ぎ、長貞の妻は享保20(1735)年5月13日に亡くなった。六十三歳。法名は了性院霊誉法林妙寿

●岡田伊胤周辺系図

 岡田直胤――+―岡田宣胤―+―岡田重胤    +―娘
(右兵衛大夫)|(八兵衛) |(八兵衛)    | ∥――――――――泉成信―泉縫殿――泉為信
       |      |         | 泉乗信     (縫殿)     (甚右衛門)
       |      +―木幡貞清――娘 |(八兵衛)              ∥
       |       (嘉左衛門) ∥ |                   ∥
       |              ∥―+―岡田信胤              ∥
       |              ∥ |(小次郎)   +―岡田知胤     ∥
       |              ∥ |        |(靱負)      ∥
       |              ∥ +―娘      |          ∥
       |              ∥   ∥――――――+――――――――――娘
       |              ∥   ∥      |
       +―岡田長次     +―岡田長胤==岡田伊胤   |
       |(左門)      |(左門)  (与左衛門)  +―娘
       |  ∥       |                ∥   
       |  ∥―――――――+―娘              ∥―――――熊川長賀
       | 下浦修理娘      ∥            +―熊川長貞 (兵庫)
       |            ∥            |(兵庫)
       +―娘   熊川長治   ∥            |
         ∥  (左衛門)   ∥            |
         ∥    ∥―――+―熊川長定===熊川長治――+―姉
         ∥    ∥   |(左衛門)  (清兵衛)    ∥―――――泉胤和
         ∥    ∥   |                ∥    (内蔵助)
         ∥――――娘   +―――――――――――――――泉胤祐
         ∥                       (内蔵助)
        泉胤政
       (藤右衛門)

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岡田知胤 (????-????)

 中村藩御一家。相馬岡田氏十七代当主。通称は千五郎宮内監物内記靱負。父は17代当主・岡田監物伊胤。母は岡田監物長胤

 元禄6(1693)年6月19日、父・岡田監物伊胤が失脚して隠居したことから、7月20日、家督を相続。7月24日、「宮内知胤」と改め、城内御座間において正式に家督相続が許された。

 元禄8(1695)年5月6日、坪田村(相馬市坪田)の八幡宮遷宮式が執り行われ、御一家・重臣が石灯籠を寄進しているが、左側の石塔の二番目に「御一家 岡田宮内知胤」と見える。

 元禄9(1696)年8月8日、岡田宮内知胤泉内蔵助胤和泉田與次郎の御一家が昌胤の召しにより江戸屋敷に到着。ここで、泉田與次郎は元服して泉田掃部と改めている。

 元禄13(1700)年に入ると、藩公・相馬弾正少弼昌胤は家督を敍胤に譲ることを決めたようで、養嗣子である上に若い敍胤のために、藩主の権力を磐石のものとするべくさまざまな手を打ちはじめた。そのうちのひとつが、藩公の遠い一族で「御一家」と称される一族の特権の縮小であった。「御一家」は岡田家を筆頭として、泉家、堀内家、泉田家、相馬将監家の五家があったが、昌胤は「相馬」を苗字とする家を別格の扱いとしたようである。つまり、相馬将監家へのみ「繋ぎ駒」の幕紋を認め、そのほかの御一家にはその使用を禁じた。さらに「御由緒」の相馬将監胤充の次男・武岡外記延充蔓九曜紋の家紋と新知二百石の加増など、相馬将監家への待遇が際立っている。そして、昌胤は妾の妹を養女とし、御一家・堀内大蔵胤近に娶わせた。これも敍胤の周囲を固める意味合いがあったのかもしれない。

 12月11日、御一家の岡田宮内知胤泉内蔵助胤和泉田掃部胤冬には「繋ぎ駒」の使用を禁じた上で、改めて裾黒の幕紋を下賜した。

 元禄14(1701)年2月3日、病のため四十一歳の若さで幕府に隠居願いを提出した。そして11日、敍胤と昌胤の名代の旗本・黒川與兵衛正敦土屋頼母茂直がともに登城し、老中の面々が列席する中、老中・秋元但馬守喬知から将軍・徳川綱吉の上意として、敍胤への家督相続が正式に認められた。2月28日、敍胤は将軍家への御礼言上のため登城。これに岡田宮内知胤、泉内蔵助胤和相馬将監胤充の三人もそれぞれ将軍家に謁見した。

 4月25日、御一家筆頭の堀内玄蕃辰胤が江戸桜田屋敷で病死した。享年三十九。堀内家は辰胤一代に限り御一家筆頭格であったため、辰胤が亡くなると、これまで通り岡田家が御一家筆頭の席次となり、5月4日、岡田宮内知胤に先祖よりの「監物」の名乗りが許された。6月、知胤は侍大将に任じられ、堀内玄蕃組の支配が命じられた。9月17日、野馬追が催されたが、敍胤が病のため、御名代として知胤がこれを指揮した。

 宝永2(1705)年10月16日、知胤は家老職を仰せ付けられた。これは前年10月に家老職を辞した相馬将監胤充を継いだものと思われる。

 宝永6(1709)年6月5日、敍胤は隠居し、嫡子・相馬民部清胤へ家督相続された。そして6月12日、将軍に家督相続の御礼を述べに登城する清胤に随い、岡田監物知胤堀内大蔵胤近相馬将監胤賢がともに登城した。

 宝永7(1710)年2月6日、知胤は通称「監物」「内記」と改めた。これは、藩公の縁戚である土屋相模守政直の次男が「監物」と改めたことによる。その後も知胤は城代家老・御一家筆頭として中村の藩政を支え、正徳4(1714)年9月、通称の「内記」を「靱負」と改めた。

 享保3(1718)年12月、病気のため家老職・侍大将を辞し、岡田靱負組跡は佐藤惣左衛門以信が侍大将として継承した。そして翌享保4(1719)年3月16日、知胤は隠居願いを出し、18日、嫡子・岡田専之助春胤が家督を相続。享保5(1720)年、対水と道した。

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岡田春胤 (1709-1755)

 中村藩御一家。相馬岡田氏十八代当主。通称は専之助監物。父は18代当主・岡田靱負知胤。母は堀内玄蕃辰胤娘。妻は堀内十兵衛胤重娘太田清左衛門時治娘(前夫は富田甚右衛門要実)。号は

 宝永6(1709)年3月4日、誕生した。享保2(1717)年11月15日、専之助は父の岡田靱負知胤に伴われて中村城に登城し、初めて藩公・相馬讃岐守尊胤に御目見えし、手ずから「胤」字を専之助に与え、専之助は「春胤」を称した。

 享保4(1719)年3月16日、父・知胤は隠居願いを提出。18日、春胤が岡田家の家督を相続した。このとき春胤十一歳。享保10(1725)年6月24日、春胤は相馬将監胤賢の侍大将辞職(病気のため)によって、侍大将に任じられ相馬将監組を引き継いだ。

 享保15(1730)年7月7日、門馬対影房経が家老職在職のまま病死。春胤守屋八太夫親信が家老職に就任した。しかし、春胤はまだ二十二歳の若年であることから、祖父にあたる岡田良山が後見役を命じられた。同年12月、春胤の弟・鶴之助堀内十兵衛胤総の養子となった。のちの堀内十兵衛胤長である。

 享保18(1733)年7月3日、御家累代記の収録を藩公・相馬弾正少弼尊胤より命じられた。

 元文5(1740)年閏7月16日、「仍長病如願御家老職、組支配与御免」(『覚日記』)となったが、寛保元(1751)年2月、江戸に召され、3月11日(または12日(『覚日記』)、江戸藩邸にて改めて家老職・組支配を命じられた。早速、中村に帰国し、以前の岡田組の侍大将となり、5月の野馬追では、「谷川」という藩公秘蔵の青黒毛駒を賜った。

 ただ、「長病」は慢性的なものであったようで、寛保2(1742)年6月、嫡男の専五郎徃胤(ヒサタネ)への家督相続が認められ、寛保3(1743)年閏4月12日、病のために再び職を辞し(監物組は相馬外記胤寿が継承)、7月9日隠居してと号した。そしてその二年後の宝暦5(1755)年4月15日、病のために亡くなった。四十七歳の若さであった。法名は圓明院殿知月玄光大禅定門

 二男は御一家の堀内家を継いでいた叔父・堀内十兵衛胤長の遺跡を襲った堀内玄蕃胤脩である。

 娘は中村藩重臣・石川助左衛門邑昌に嫁いだ。

 岡田春胤―+―岡田徃胤―――――岡田恩胤
(監物)  |(監物)     (監物)
      |          ∥
      +―堀内胤脩     ∥
      |(玄蕃)      ∥
      |          ∥
      +―岡田直胤     ∥
      |(監物)      ∥
      |          ∥
      +―娘        ∥
      | ∥――――――+―娘
      | ∥      |
      | ∥      |
      | 石川邑昌   +―石川品昌
      |(助左衛門)  |(助左衛門)
      |        |
      |        +―石川朝昌
      |         (弥市兵衛)
      |
      +―娘
        ∥――――――+―堀内胤陸―――堀内胤久
        ∥      |(十兵衛)  (大蔵)
        ∥      |
        泉田胤重   +―泉田胤保―――泉田胤周
       (掃部)     (掃部)   (勘解由)

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岡田往胤 (1728-????)

 中村藩御一家。相馬岡田氏十九代当主。通称は専五郎監物。名乗りの訓は「ヒサタネ」(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。父は岡田監物春胤。母は堀内十兵衛胤重娘。道号は直衛。弟は堀内主水胤信。妻は堀内十兵衛胤長三女佐藤仁左衛門信重長女

                      堀内可長
                     (庄左衛門)
                      ∥
 岡田伊胤―――岡田知胤 +―堀内胤長―+―次女
(監物)   (靱負)  |(十兵衛) | ∥
        ∥    |      | 堀内胤陸
        ∥    |      |(十兵衛)
        ∥    |      |
        ∥    |      +――――――長女
        ∥    |      |      ∥
        ∥    |      |      ∥
        ∥    |      +―三女   ∥
        ∥    |        ∥    ∥
        ∥    |        ∥    ∥ 
        ∥――――+―岡田春胤―+―岡田徃胤 ∥
        ∥     (監物)  |(監物)  ∥
        ∥       ∥   |      ∥
      +―娘       ∥   +―――――堀内胤信
      |         ∥   |    (主水)
      |         ∥   |
 堀内辰胤―+―堀内胤重――――娘   +―岡田直胤―+=岡田恩胤
(玄蕃)   (十兵衛)        |(監物)  |(監物)
                    |      |
                    +―長女   +=岡田智胤===岡田泰胤
                      ∥     (帯刀)   (監物)
                      ∥
                      ∥――――+―堀内胤陸―――堀内胤久
                     泉田胤重  |(十兵衛)  (大蔵)
                    (掃部)   |
                           +―泉田胤保―――泉田胤周
                            (掃部)   (勘解由)

 享保13(1728)年3月20日、中村に誕生。元文3(1738)年3月3日、専五郎は初めて藩公・相馬弾正少弼尊胤に御目見えし、「胤」の一字を賜り「徃胤」と称した(『相馬藩世紀』『覚日記』)

 寛保3(1742)年7月9日、父の監物春胤が病のため隠居し、徃胤が十七歳で家督を相続。10月15日、「継目御礼」を行い、元服して監物を称した。12月28日にも「家督御礼」を行っている(『覚日記』)

 宝暦元(1751)年5月5日、泉田掃部胤守の跡を受けて、侍大将となり、泉田掃部支配組の組支配を命じられた。

 宝暦8(1758)年11月、江戸へ出府が命じられ、12月、江戸において家老職に任じられた。

 明和2(1765)年5月、藩公・相馬尊胤の隠居と嫡孫・相馬恕胤の家督が認められ、6月1日、尊胤・恕胤が登城して将軍・徳川家重への家督御礼の際、徃胤らもこれに随い、家重へ謁見する栄を受けた。そして6月22日、恕胤は初入部のため江戸を出立。徃胤もこれに随って中村に戻った。

 明和7(1770)年4月1日、恕胤が江戸に出立の際、恕胤より刀を拝領した。しかし、翌明和8(1771)年4月、病のため家老職ならびに組支配を辞し、弟の帯刀直胤が岡田家の家督を相続。徃胤は「直衛」と号して隠居した。しかし、5月4日には過失によって禁足を命じられている。

 寛政9(1797)年12月21日、直衛徃胤は家中七十歳以上の男女への長寿の祝いとして、白鳥の切身が下賜された。さらに享和2(1802)年2月3日には、七十四歳の直衛はふたたび白鳥の切身を賜った。

 没年は不詳。法名は法性院殿義山大勇居士。母の堀内氏は寛政8(1796)年5月25日に亡くなっている。

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岡田直胤 (1753?-????)

 中村藩御一家。相馬岡田氏二十代当主。通称は和多利帯刀監物靱負。父は十八代当主・岡田監物春胤。母は太田清左衛門娘。妻は堀内十兵衛胤長娘(堀内玄蕃胤脩養女)。岡田春胤の子で先代・岡田徃胤の異母弟にあたる。また、兄には堀内大蔵胤径(辰四郎)がいた。

 宝暦2(1752)年9月27日当時、直胤の母は「懐妊」しており(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)、この後生まれた子が直胤であるとすると、宝暦2年または宝暦3年の出生となる。

 明和7(1770)年4月25日、堀内胤長娘との婚姻が整い、藩公・相馬恕胤より御祝いの品が届けられた。

 明和8(1771)年4月、兄の岡田徃胤が隠居したことから、部屋住みであった末弟の帯刀直胤が家督を相続。5月5日、家督相続御礼を済ませた。9月には組支配・侍大将を仰せ付けられたが、安永2(1773)年11月9日、大病のため組支配御免願が認められ、翌12月に隠居。靱負と改める。

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岡田半治郎 (1771-1774)

 中村藩御一家。相馬岡田氏二十一代当主。通称は半治郎。父は岡田監物直胤。母は堀内十兵衛胤長娘(堀内玄蕃胤脩養女)。

 明和8(1771)年12月13日誕生。12月20日には御七夜の儀として樽肴が届けられた。

 安永2(1773)年12月1日、父・直胤の隠居にともない家督継承の御礼を行なうが、三歳と幼少のため、名代として堀内覚左衛門が登城して挨拶した。また、同じ日には御一家の相馬亀次郎も家督相続御礼を名代・田原彦之丞が勤めている。

 しかし、安永3(1774)年8月11日、半治郎は病が篤くなって亡くなった。享年三。岡田家の断絶は好ましくないとの意向により、10月28日、従弟の岡田常五郎への家督相続が認められた。

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岡田恩胤 (1766-1817)

 中村藩御一家。相馬岡田氏二十二代当主。通称は常五郎監物八兵衛。初名は将胤。実父は二十代・岡田監物徃胤。母は佐藤二左衛門元重娘。妻は石川助左衛門邑昌娘

                                        +―岡田清胤―――――――+―岡田智胤
                                        |(帯刀)        |(帯刀)
                                        |            |      
 石川直昌―+―娘                        +―岡田往胤―+―岡田恩胤―娘     |
(助左衛門)| ∥                        |(監物)   (監物) (中田憲良妻)|   
      | ∥                        |        ∥          |
      | 堀内胤重                岡田春胤―+―娘    +―娘          +―娘
      |(越中)                (監物)    ∥    |              ∥
      |                            ∥    |              ∥
      |                            ∥    +―石川朝昌―+―――――――石川芳昌
      |                            ∥    |(弥市兵衛)|      (助左衛門)
      |                            ∥    |      |
      +―石川宗昌         幾世橋房経――娘      ∥――――+―石川品昌 +―石川常昌
       (助左衛門)       (作左衛門)  ∥      ∥     (助左衛門) (助左衛門)
        ∥                   ∥      ∥      ∥
        ∥                   ∥――――――石川邑昌   ∥
        ∥―――――石川弘昌 +―石川昌清―+―石川庸昌  (助左衛門)  ∥
 泉胤祐――+―娘    (助左衛門)|(助左衛門)|(弥市兵衛)         ∥
(藤右衛門)|       ∥    |      |               ∥
      |       ∥――――+―娘    +=養女            ∥
      | 門馬辰経――娘      ∥      ∥             ∥
      |(嘉右衛門)        ∥      ∥             ∥
      |              ∥      相馬胤寿――――――――――娘
      |              ∥     (将監)
      +―泉胤和――――――――――泉胤秀
       (内蔵助)        (左衛門)

 明和3(1766)年9月8日誕生。安永3(1774)年8月11日、従弟の岡田家当主・半治郎が病死したため、九歳の常五郎が藩命により10月28日に家督を相続した。

 安永5(1776)年10月14日、常五郎は登城して初めて藩公に御目見えを果たし、「胤」の一時を賜り「将胤」と称した。その後、「恩胤」と改めている。さらに安永8(1779)年6月3日、「監物」と名乗りを改めた。

 天明2(1782)年、侍大将に任じられ、天明3(1783)年8月23日、相馬恕胤の隠居と讃岐守祥胤の家督相続御礼を恕胤・祥胤とともに将軍に御目見えするため、相馬将監胤豊岡田監物恩胤、堀内覚左衛門養長が江戸に向かって出立した。寛政元(1789)年10月6日、家老職に就任。

 寛政8(1796)年1月24日、病のため家老職・侍大将を辞すまで、七年にわたり藩政を支えた。しかしその後も御一家としての役割を担い、5月15日、城内的場に白猿が現れる吉瑞があり、急遽、歌絵が催された。恩胤堀内大蔵胤久泉右橘胤傳泉田左門胤保らが歌を献じた。

神祭るけふより千代も彌ましに君が栄へを仰ぐもろ人 恩胤

 寛政8(1796)年12月7日、旗本の大島家から戻った相馬鍋五郎肥胤と恩胤の養女・於久(相馬祥胤娘)との婚姻がなされた。

 享和元(1801)年、相馬讃岐守樹胤の家督相続の御礼のため、祥胤・樹胤は将軍に謁見することとなり、先例の通り、御一家より三名が同伴することとなった。そのため、岡田監物恩胤相馬将監胤慈相馬主税胤綿が江戸に出府。4月18日、因幡守祥胤讃岐守樹胤とともに将軍・徳川家斉に謁見。11月23日、家老職に就任した。

 文化5(1808)年5月13日の野馬追神事では藩公名代を務めた。文化8(1811)年5月19日の野馬追神事でも藩公名代を務めている。このころ藩公は野馬追に出陣することはなくなり、御一家の中から名代を立てて行うようになっていた。

 文化10(1813)年11月28日、泉左衛門胤陽相馬将監胤武とともに御隠居、御家督の御礼に登城した。

 文化11(1814)年3月15日、侍大将に任じられた。9月3日、「監物」を改め「八兵衛」と名乗りを変えた。

 文化13(1816)年4月17日、病により家老職・組支配が免ぜられた。恩胤はこのころから病がちとなっていたようで、8月21日、隠居して「貢」と号し、弟の岡田帯刀清胤に家督相続が認められた。

 文化14(1817)年3月26日に亡くなった。

 娘は中村藩医・中田玄珉憲良に嫁いだ。

                     川村寧広
                    (三悦)
                     ∥
 岡田往胤―+―岡田恩胤――娘    +―娘
(監物)  |(監物)   ∥    |
      |       ∥    |
      |       ∥――――+―中田精良  
      |       ∥    |(玄徹)
      |       ∥    |
      |       中田憲良 +―中田明良  木幡重清――娘
      |      (玄珉)  |(安次郎) (庄兵衛)  ∥――――中田儀八
      |            |             ∥ 
      |            +―中田良治==中田精良==中田明良
      |             (玄珉)  (玄徹)  (安次郎)
      |                    ∥     ∥
      |              須江懿春――娘     ∥――――中田弁八郎
      |             (三郎)   ∥     ∥
      |                    富田高慶  ∥
      |                   (久助)   ∥
      |                          ∥
      +―岡田清胤―+―岡田智胤==岡田泰胤        ∥
       (帯刀)  |(帯刀)  (監物)         ∥
             |                   ∥
             +―――――――――――――――――――娘

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岡田清胤 (1797-1828)

 中村藩御一家。相馬岡田氏二十三代当主。通称は帯刀。父は二十代当主・岡田監物徃胤。母は不明。妻は於巻(相馬因幡守祥胤娘)。寛政9(1797)年正月、誕生した。

 享和3(1803)年2月1日、清胤と於巻(相馬因幡守祥胤娘)との縁組が仰出され、於巻は4月27日、岡田家へ引き移った。於巻は寛政12(1800)年閏4月19日の生まれなので、数えで四歳であった。一方、清胤は七歳。

 文化13(1816)年4月17日、兄の岡田監物恩胤が病により家老職・組支配を辞し、8月21日、兄・恩胤が病のため隠居、清胤は岡田家の家督を相続した。閏8月25日には家督相続の御礼を済ませ、9月9日、侍大将に任じられた。

 文化14(1817)年12月24日、故相馬因幡守祥胤の姫・於巻と婚礼の儀を済ませた。於巻は藩公・相馬長門守益胤の妹にあたり、益胤は清胤に盃を下し、吉成の太刀一腰を与えた。その後も御一家の筆頭として藩政を支えるが、文政11(1828)年2月29日、三十二歳の若さで亡くなった。

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岡田智胤 (????-1853)

 中村藩御一家。相馬岡田氏二十四代当主。通称は帯刀。父は岡田帯刀清胤。母は不明。妻は於積(相馬縫殿仙胤娘)。幼名は純太郎

 文政6(1823)年11月23日、藩公・相馬長門守益胤は故弟の相馬縫殿仙胤娘・於積を養女とし、純太郎と縁組させる事とした。

 天保10(1840)年3月29日、病気のために侍大将ならびに組支配を免じられたが、天保15(1844)年8月13日、侍大将に任じられた。他、老職としては堀内大蔵胤賢泉藤右衛門胤陽らが見える。

 天保11(1841)年7月18日、養子と定められていた藩公・相馬益胤の子・東純之助が江戸の麻布屋敷で亡くなった。純之助は藩公子として、江戸の相馬家菩提寺・宝泉寺に葬られた。法名は速道提境大童子。跡継ぎのなくなった智胤であったが、天保10(1840)年に国元で生まれた藩公子・東直五郎を婿養子とするよう君命があった。

 嘉永元(1849)年12月24日、妻の於積がつつがなく男子を出産した。名は恭次郎岡田智胤の実子長男ではあったが、嫡子としてすでに藩公・益胤の末子、東直五郎(岡田監物泰胤)が定められていたため、彼は「岡田監物弟恭次郎」として智胤の妹が嫁いだ藩重臣・石川助左衛門芳昌の娘婿として、安政4(1858)年6月15日、藩公・相馬充胤の命を受けて石川家の家督を継いでいる。

 嘉永6(1853)年6月3日、病死した。家督は養嗣子の直五郎が継ぐこととなった。

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岡田泰胤 (1840-1907)

 相馬岡田氏二十五代当主。父は十一代藩主・相馬長門守益胤。養父は岡田帯刀智胤。母は御内証・於藤。妻は岡田帯刀智胤娘・菊子荒槙てい(荒槙政伯母)。初名は東直五郎。通称は帯刀監物、明治以降は五郎。異母兄に相馬長門守充胤佐竹右京大夫義堯(久保田藩)、佐竹壱岐守義諶(久保田新田藩主)がいる。明治時代には東京府士族。

 天保10(1840)年4月24日、中村城三ノ丸御殿にて御内証・於藤を母に誕生。益胤より「直五郎」の名が贈られた。

 天保11(1841)年6月28日、三ノ丸西御殿へ引き移った。同年7月18日、岡田帯刀智胤の養子となっていた直五郎の兄・純之助が江戸の麻布屋敷にて亡くなった(宝泉寺へ葬。速道是境大童子)ことから、9月9日、直五郎岡田帯刀智胤の娘婿として岡田家に入嗣することと定められた。このとき、家督を嗣ぐまでは、「東」を苗字とすることもあわせて定められた。

 弘化2(1845)年4月20日、幕府に直五郎の丈夫届けが提出された。

 嘉永6(1853)年6月3日、養父の岡田帯刀智胤が病死したことから、養嗣子の直五郎が家督を継ぐこととなったが、いまだ十四歳と幼少であったことから、高野左門に補佐が命じられた。さらに堀内清泉が岡田家の取締りに任じられた。そして直五郎は家督を継ぐと「監物」を名乗った。10月18日に家督相続の報告がされたようである。

岡田神社
岡田神社

 泰胤は、安政4(1857)年と元治元(1864)年の二度にわたって佐竹家への養子話が出ているが、安政4(1857)年の縁組は、異母兄・熊川兵庫長顕が佐竹家へ養子に入ることとなり、元治元(1864)年については、泰胤の頑強な抵抗のため、「御同姓直五郎殿」が代わりに佐竹家へ養子に入った。

 慶応元(1865)年、「平泰胤」が中村城内の岡田氏館(岩崎館)の堀をはさんだ西側の丘上にある妙見神社(岡田神社)に燈篭を奉納している。この妙見社は岡田家の鎮守として代々伝わっていたものである。神社の屋根には岡田家の家紋である並九曜紋が刻まれている。

隊長 岡田監物泰胤
番頭 木幡甚五右衛門
岡部求馬保綱
小隊長 池田八右衛門直行
金谷平左衛門貫顕
都甲伊右衛門良綱
中妻伊兵衛軌永
大悲山要人重一
砲隊長 鈴木弥五郎芳清
軍司 草野半右衛門正意
多田部藤蔵直信
軍目付 桜井次左衛門高箸
富田彦太夫武重
輜重 大越八太夫光寛

 慶応4(1868)年、奥羽鎮撫総督・九条道孝、副総督・沢為量、参謀・醍醐為敬より会津藩征討の命を受けた中村藩は、4月14日、岡田監物泰胤に歩兵五小隊二百二十七名を附属させて二本松に派遣。泰胤は醍醐為敬の命に従い、仙台藩兵とともに各地の鎮撫にあたった。

 閏4月2日の明け方、会津藩兵を警戒して岡田隊は益田峠へ陣を移し、池田八右衛門直行・中妻伊兵衛軌永の二小隊を唐沢村へ派遣した。このとき石筵に仙台藩が築いた砲台が火を噴いているが、これは会津藩を攻撃していると見せかけた空砲であった。会津藩の侵攻は午後にはいったんやみ、金谷平左衛門顕実・都甲伊右衛門良綱の二小隊に益田村を、中妻伊兵衛軌永の一小隊を坂下村へ進駐させ、監物本隊は玉之井村へと退却をした。

 閏4月11日、仙台藩・米沢藩は奥羽各藩に回覧状を出し、会津藩が降伏・恭順する旨を仙台藩に伝えたため、会津藩救済に関する取り決めのために、仙台藩領・白石城に列藩の代表者に招集をかけた。この呼びかけに16日、中村藩も相馬靱負胤就佐藤勘兵衛俊信が参加している。この会議は「白石会議」ともいう。この会議で会津藩の救済嘆願が文書に認められ、鎮撫総督府に提出された。

 17日、玉野井村の泰胤のもとに鎮撫総督府参謀・醍醐忠敬より、仙台藩が守る石筵砲台への応援は、仙台藩の人数だけで事が足りたので、早々に引き上げて泉藩・本多家と磐城平藩・安藤家の兵が到着するまで滑水を守ることが命じられた。

 一方、先日の白石会議から鎮撫総督府に提出された会津藩救済の嘆願書については、会津藩に私怨を抱く長州藩や薩摩藩が主体であった鎮撫総督府は嘆願を認めず、再び仙台藩、米沢藩に会津追討の命を発した。これに対して白石会議に出席した列藩代表は互いに諮り、鎮撫総督とは名ばかりの薩長軍に対抗するべく奥羽列藩同盟を結んだ。奥羽においてこの列藩に加わらざるものは協力討伐する決議を採択。仙台藩、米沢藩がまず会津征討軍を解兵して国元へ戻した。中村藩は鎮撫総督府がたとえ薩長主体の軍とはいえ、官軍と称しているにおいて敵対することは好ましくないとしながらも、奥羽列藩を敵に廻すほど中村藩の力はなく、閏4月20日、やむなく藩は岡田監物泰胤に解兵を命じ、二本松から中村に召還した。

 その後は相馬家も奥羽越列藩同盟の一員として、不本意ながらも官軍に対抗。堀内大蔵胤賢相馬将監胤真は湯長谷藩を下した官軍を抑えるべく、湯本口を固めた。一方、仙台藩主・伊達左京大夫慶邦は中村藩主・相馬因幡守誠胤の出陣を促したため、誠胤は御一家・相馬靱負胤就以下四小隊を率いて、原町に布陣して南方の官軍に備えた。

隊長 岡田監物泰胤
番頭 岡部求馬保綱
門馬弥惣右衛門英経
小隊長 池田八右衛門直行
金谷平左衛門貫顕
都甲伊右衛門良綱
中妻伊兵衛軌永
太田清左衛門弘中
軍使 小河清記則博
軍目付 猪苗代清太夫純盛

 7月14日、岡田監物泰胤銃兵五小隊を率いて棚倉藩領内河内村に出陣して山の手の間道の警備にあたった。その後、浪江(双葉郡浪江町)に堀内大蔵胤賢泉田豊後胤正が布陣して守備し、さらに脇本喜兵衛の精鋭部隊が来援し、士気は大いに奮った。

 このとき、家老・佐藤勘兵衛俊信が中村より浪江に到着。浪江は防戦に不利であり、原町まで陣を下げるよう主張したが、兵たちは「今や邦家危急存亡の秋に際し、進て敵を拒ぐ不能、退て社稷を保つことを得ず、一死君国に報ずるあらんのみ」と、樋渡村から東幾世橋にかけて高瀬川に沿って横一直線の防衛線を張った(地図)。しばらくののち、西軍の津藩・藤堂監物隊は高瀬村まで北上して布陣し、浪江に向けて砲撃を始めた。これに中村藩側も応戦し、数刻に及ぶ交戦が行われた。しかし、中村藩兵は少なく、来援の期待もないため、士気も落ちて次第に押されていった。

 7月29日、岡田監物泰胤は浪江の西五キロの大堀村に駐屯していたが、浪江の危急を伝令より聞くと、直ちに兵をまとめ、旗下の精鋭を率いて高瀬川沿いに浪江に出兵。中村藩兵を包囲しようとしていた西軍を見つけると、泰胤みずから抜刀してその左横腹に突っ込んだ。あわてた西軍は陣形を乱し、岡田監物隊に応じた浪江の堀内隊・泉田隊も勢いを取り戻して岡田隊と連携して西軍を挟み撃ちにして、見事敵勢を追い払うことに成功した。さらに岡田監物隊は、雨で増水した高瀬川を渡れずに逃げまどう敵兵を追い散らし、数多の敵兵を斬穫する勇猛ぶりを見せる。

 このころ、中村城内では充胤が一門、重臣を集めて密かに西軍への降伏について話し合いをしていた。一方、原町の中村藩本陣においても重臣たちが恭順について討議し、隊長で藩公子の相馬秊胤に重臣の会議では恭順に決したことを伝えた。秊胤もやむを得ないことだとこれを了承。僧侶の宝蔵寺金性寺末長才助の三名に謝罪恭順の意を西軍の津藩隊に伝えるよう命じた。

 こののち、津藩隊長・藤堂監物は中村藩の謝罪恭順を認め、充胤は小高の同慶寺に宿陣すると、降伏嘆願書をしたためて、これを西軍・鳥取藩に提出した。一方、相馬家が同盟に背いているのではないかと予ねてから疑い、中村城下に宿陣していた仙台藩、米沢藩の軍勢は、相馬家がすでに降伏したことを知ると、慌てて軍勢をまとめ、北に逃れた。

 8月5日、各地に出兵していた中村藩隊は伝令を伝え聞き、この日中村城下に集結。岡田泰胤も原町から中村城に入った。8月7日には四条隆謌総督が中村城を総督府として定め、中村城に入城。その後、中村藩は征東総督の一員として仙台藩を討つべく北上し、新地、駒ヶ嶺、旗巻峠などで活躍。戦国期以来の伊達家から掴み取った勝利に喜び沸いたという。

 9月9日、仙台藩では勤王派の水沢領主・伊達将監邦寧、亘理領主・伊達藤五郎邦成らが主戦派の但木土佐坂衛力らを退け、藩論を恭順降伏と定めた。こうして仙台藩も西軍に降伏することとなり、仙台藩主・伊達陸奥守慶邦は水沢領主・伊達将監邦寧と家老・遠藤文七郎允信を降伏の使者として派遣。9月15日、仙台藩の降伏が認められた

 10月1日、四条隆謌総督は仙台城へ総督府を移したため、中村城は藩公子・相馬秊胤に預けられた。そして10月15日、秊胤は仙台城の総督府への出仕が命じられた。

大参事 岡田五郎(岡田監物泰胤)
泉田文庫(泉田豊後胤正)
権大参事 相馬靱負(相馬靱負胤就)
西市左衛門(西市左衛門喜治)

 明治2(1869)年6月になると、全国の諸藩は版籍を新政府に奉還(版籍奉還)した。これにより、旧藩公・相馬秊胤は中村藩知事に任じられ、12月4日夜、東京より飛脚が中村に到来。元武家の華族については、以降東京に居住するよう通達が伝えられた。12月19日、岡田五郎泰胤は大参事に任じられた。

 この頃、茨城県荒槙政の伯母にあたる荒槙てい(安政6年4月生まれ)を娶り、明治3(1870)年10月、嫡男の岡田省胤が誕生している(『職業別信用調査録』「国立国会図書館蔵」)。荒槙政が如何なる人物か定かではないが、文化6(1809)年3月2日の「御馬廻」に見える「荒槙政衛門」(「天保就藩記」『茨城県史料』)や元治元(1864)年の天狗党の乱に加わった水戸藩浪人中の「荒槙政右衛門」との関係がうかがわれる。

 しかし、省胤誕生翌月の明治3(1870)年閏10月18日、泰胤は「致仕漫遊」の旅に出立しており、藩政から離れた時期については不明。諸国に見聞を広めるたびに出ることとなった「五郎殿(泰胤)」に対し、学才に秀でていた旧藩主・相馬誠胤(前名は秊胤)より送別の漢詩が贈られている。

 明治4(1871)年7月の廃藩置県により「藩」という行政単位は姿を消し、代わって郡・県・府が置かれた。これにより、相馬誠胤は藩知事の職を解かれ、岡田泰胤もまた大参事を解任された。そして、相馬家は十万石未満の大名家であったため「子爵」を与えられ、東京に住むことが命じられた。

 泰胤も明治期になると、旧藩の一門筆頭の家柄とはいえ、普通の藩士と同格の「士族」に組み込まれ、岡田家の生計は一気に逼迫したらしい。このような中で相馬家に援助を頼っての生活が続いていたが、明治9(1876)年2月3日、泰胤は岩手県十四等の官吏として登用され、岩手県十五等小泉満信が住居の事について相馬家に問い合わせがあったため、相馬家顧問の富田高慶が泰胤に通達したが、泰胤は「決而御赴任不被成御決心之御容子」であり、夕方になって相馬家家令・志賀直道が泰胤の旅宿を訪問して、出仕するよう懇々と説いた。しかし翌2月4日になっても「御出仕之儀、御承引無之」だったようで、兄の太君・相馬充胤が泰胤の旅宿に自ら出向いてさらに説得をした。2月11日には誠胤が三田の相馬邸に泰胤を招いて夕飯をともにし、そこでも誠胤からの説得が続けられた。しかし、泰胤の決心は揺るがず、2月13日、誠胤は泰胤の旅宿を訪ねて説得したようだ。

 また、誠胤はかねてから叔父の従三位佐竹義堯東橋邸を訪れて泰胤のことについて相談しており、2月19日、誠胤は泰胤と同道して義堯邸を訪問し、佐竹義堯とともに泰胤を説得したが、泰胤はついにうなずかなかった。義堯もこの異母弟・泰胤の頑固さ加減にあきれてさじを投げ、「不得止御滞京中御世話被為成候而ハ、岡田家へ御対シ御不義理ニ付、己来御世話不被遊」と、泰胤のためにならないので彼が東京に留まっている限り援助は行わないことを誠胤に言い、誠胤は泰胤にこれ通告した。

 なぜ泰胤がそれほど出仕を嫌ったかはわからないが、「僻遠の地へは参らず」などと言っていることから、東京を離れることが嫌だったからなのだろう。言い訳として泰胤は、志賀直道をはじめ木村精一郎、青田綱三ら家令・家らが「奸謀相働き居り候に付き、此の末如何様の御憂慮を生ずべきやも計り難く、仍って東京は離れ難」いと発言した。これを聞いた充胤は激怒して、泰胤を三田の相馬邸に呼び出して問い質し、泰胤は弁解できずに邸をあとにしている。これは泰胤が東京から離れたくない一心から発言したことであったようで、このような理由で官途にもつかず、東京に留まったままであることは「相成り難き条理」であり、富田深造が「君上」に対して詫びる事が大切だと多々部藤蔵宅で説得したが、泰胤は納得しなかった。このときちょうど多々部邸を訪れた大槻某がこれをきいて泰胤を叱りつけたため、泰胤はしぶしぶ承諾。三田相馬邸で充胤、誠胤に詫びを入れた。なお、多々部藤蔵直信は戊辰戦争の際に泰胤隊の軍司として泰胤を後見していた人物である。しかし、泰胤の反志賀らの心は改まらず、相馬誠胤が亡くなったのちの相馬騒動でも、当事者の一人として裁判所に出廷したりしている。

 明治18(1885)年11月、嶋田直次郎が泰胤所蔵の岡田家系図を書写し、御用掛の男澤抱一が校した「相馬岡田系図」が国立公文書館に残されている。

 明治32(1899)年2月7日、正妻の岡田智胤娘・菊子が亡くなった。

 明治39(1906)年、泰胤は祖先・相馬小次郎胤盛の館跡に建つ初発神社に伝家の鑓を奉納し、翌明治40(1907)年9月4日、亡くなった。享年六十九(六十八)。南相馬の初発神社に明治41(1908)年に弓二張と矢二束(四本)を奉納したことが初発神社の年譜に記されているが、生前の望みが果たされたのだろう(初発神社「初発神社年譜」)

 嫡男・岡田省胤は明治3(1870)年10月25日生まれ(『福島誌上県人会』国立国会図書館蔵)。父泰胤の死去を受けて明治40(1907)年に家督相続する。明治29(1896)年に三井物産合名会社に就職すると頭角を現し、三井物産満州支店長代理、香港支店長、長崎支店長、松島炭鉱株式会社監査役、東洋レーヨン株式会社(現東レ)の監査役となるなど有能なビジネスマンとして活躍する。また、相馬恵胤子爵家の家令にも就く。妻のとせは静岡県士族千田耕作の妹であるが、彼女らの父・千田実は徳川慶喜家家従であり、とせの兄弟の小栗倉三郎は省胤父の泰胤従兄の小栗政寧(元勘定奉行、関東郡代を経て慶喜家家令。通称は尚三)の養子となっており、岡田泰胤と小栗政寧との関係から徳川慶喜家とも繋がりを持っていたことがうかがえる。小栗倉三郎は渋沢栄一とも交流があるが、倉三郎が慶喜の信頼あつい家従千田実の子であることから徳川慶喜との縁であろう。

 省胤は遠祖・相馬孫五郎重胤が祀られている増尾村・増尾山少林寺とも交流を持った(『増尾山少林寺』)。嫡女・幾世は大審院判事の岩野新平に嫁いでいる。

                  【徳川家達家家令、徳川慶喜家家令】
+―相馬樹胤―――室賀正発――――――室賀正容
|(豊前守)  (美作守)     (室賀竹堂)

|       【徳川慶喜家家令】
+―相馬仙胤―――小栗政寧――――+―小栗政良
|(縫殿)   (下総守)    |(鋼太郎)
|                |
|                +=小栗倉三郎
|                +―(東京紡績株式会社副商務長)
|                | ∥
|                | ∥
|                | 小栗なを子
|                |
|                +―千田耕作
|                |
|       【徳川慶喜家家従】|
|        千田実―――――+―岡田とせ            +―岡田幸胤
|                  ∥               |(神鋼レックス株式会社常務)
| 於積               ∥               |
| ∥――――――石川恭次郎     ∥―――――――――――――――+―八幡子
| ∥                ∥                 ∥
| 岡田智胤―――菊子        ∥                 ∥
|(帯刀)    ∥         ∥                 山内正瞭
|        ∥       +―岡田省胤             (法学士)
+―相馬益胤   ∥       |(東洋レーヨン株式会社監査役)
 (長門守)   ∥       |
  ∥      ∥       +―山内八萬子
  ∥      ∥       | ∥
  ∥      ∥       | ∥
  ∥      ∥       | 山内正瞭
  ∥――――+―岡田泰胤    |(東京商科大学教授)
  於藤   |(監物)     |
       | ∥―――――――+―岩野幾世
       | 荒槇てい      ∥
       |           ∥
       |           岩野新平
       |          (大審院判事)
       |
       +―相馬充胤――――――相馬誠胤
        (大膳亮)     (因幡守)

~久保田新田藩主・佐竹壱岐守義諶と「直五郎」~

 江戸時代末期の久保田新田藩主・佐竹壱岐守義諶(よしつま)は、相馬長門守益胤の子・東直五郎。兄の佐竹左近将監義核(よしさね)の跡を継いで久保田新田藩主となった人物である。

 久保田藩側の資料によれば、安政4(1857)年7月、久保田新田藩主・佐竹左近将監義核(のち久保田藩主・佐竹義堯)が、久保田藩主・佐竹義睦の急死を受けて佐竹宗家を継ぐことが決まったため、義核の実弟二人のうちから跡継ぎが選ばれることとなり、御一家筆頭・岡田家の養子となっていた東直五郎泰胤が選ばれたという。これを受けて、泰胤は岡田家から相馬本家に戻り、義核の養嗣子として久保田新田藩主・佐竹壱岐守義諶となったとされる。久保田藩家老・宇都宮帯刀孟綱が著した『御用番御留書』(佐竹文庫)には安政4(1857)年8月16日条に掲載されている『相馬家使者口上手控』にも「分家之儀は御弟直五郎様へ御譲云々」とあるようで、相馬家の使者も直五郎を養嗣子として送ることを口上として述べていたと思われる。しかし、実際には直五郎泰胤は佐竹義諶ではなく、その兄にあたり、相馬家家老・熊川左衛門長基の婿養子になった熊川兵庫長顕佐竹義諶である。

 泉胤秀――――泉胤寧
(左衛門)  (内蔵助)
        ∥
 富田貞重―+―娘    +―富田徳重
(彦太夫) |      |(亘)
      |      |
      +―富田直重―+―熊川奉重
      |(亘)    (清兵衛)
      |        |            +―岡田泰胤
      +―娘      |            |(監物)
        ∥      |            |
        ∥      ↓            |【佐竹義諶】
 熊川長則―+=熊川長福―+=熊川奉重    相馬益胤―+―熊川長顕
(兵庫)  |(兵庫)  |(清兵衛)   (長門守)  (幸之助)  【佐竹義脩】
      | ∥    | ∥              ∥――――――熊川幸之助
      | ∥    | ∥―――――+―熊川長基―+―広
      +=娘    +=娘     |(左衛門) |
               ↑     |      |
        相馬胤寿―+―妹     +―熊川胤隆 +―熊川壬子郎
       (将監)  |        (兵庫)       
             |
             +―相馬胤豊――――相馬胤慈
              (将監)    (将監)

 熊川長顕は天保8(1837)年1月5日、中村城三之丸で相馬益胤の庶子として誕生した。幼名は幸之助。一月後の2月8日、熊川左衛門長基の聟養子と定められ、12月15日、長基が病のため幸之助が熊川家の家督を継いだ。長基の娘・は天保6(1835)年7月1日生まれ。二歳年上である。

 その後、長基の病が癒えたことから、幸之助は熊川家嫡子に戻り、嘉永5(1852)年2月15日、元服して「兵庫長顕」の名を授かる。そして嘉永7(1854)年5月、養父の長基が亡くなったことから、喪が明けた12月に熊川家を相続した。安政3(1856)年9月9日には組頭に任じられ、泉内蔵助組の跡を受けて組支配を命じられた。

 そんなころ、出羽久保田藩の佐竹家では、藩公の佐竹義睦が若くして亡くなり、支藩の久保田新田藩主であった佐竹左近将監義核が本藩の跡継ぎと定められたため、義核の弟二人のうち、末弟で岡田家を継いでいた「東直五郎」が佐竹義核の跡継ぎと定められた。長顕が兄にもかかわらず佐竹義核の跡継ぎに選ばれなかったのは、彼が相馬家の「臣」の家柄である熊川家を継いでおり、一方、末弟の岡田監物泰胤(この頃はすでに岡田家の家督を継ぎ、東直五郎ではなく監物を称していた)は家臣ではない「御一家」を相続していたために、弟の直五郎こと泰胤が選ばれたと思われるが、相馬家は安政4(1857)年7月22日、兵庫長顕を相馬家公子に復し、「東直五郎」と改めさせた上で、佐竹家の養嗣子と定め、7月26日、江戸の桜田藩邸へ下向させ、8月2日、東直五郎は桜田藩邸に到着。8月22日、「佐竹求馬義諶(よしつま)」と名を改めた。このように、違う二人の人物が同じ「東直五郎」を称したことで、佐竹家側の記録が混乱し、岡田泰胤が佐竹家の養子になったという記録が残ったものと思われる。

 9月16日、義諶は兄の佐竹義就(義核改め)とともに将軍家に御目見えを果たし、義諶従五位下・壱岐守となった。妻の熊川左衛門長基娘・広は大館城代・佐竹近江義茂の養女となって寿(ちか)と名を改め、そのまま佐竹義諶正妻として久保田新田藩邸に移り住んでいる。

 元治元(1864)年11月7日深夜、江戸から飛脚が中村に届いた。それによれば、佐竹右京大夫義堯が今年四十歳なのに今だ男子がないため、義諶の嫡子・佐竹亀丸を婿養子に迎えることとした。しかし、これは久保田新田藩主・佐竹義諶の跡継ぎがなくなることを意味していた。このため、急遽、義堯・義諶の実家である相馬家に養子の願いが届けられた、ということだった。義諶の家老・岡野内記が中村藩邸を訪れ、義諶のときと同様に「岡田監物殿」を一旦「右京大夫様御家来家へ御貰受」け、義諶の養子に迎えたいという「極ノ頼談」を留守居の石川助左衛門に訴えた。助左衛門も事の重大さに「中村表え相談ノ上ニ大膳大夫様え思召伺候」との返答に留め、中村へ急使を発した。

 これを受けた家老・熊川兵庫胤隆は翌11月8日夕刻、泰胤邸を訪れ、養子願いの件を報告したところ、泰胤は「以ノ外御当惑御不肖ニテ迚も諸侯家御相続難被成何分御免御願被成度旨」を申し述べた。これに胤隆も「御自分ノ上ニは乍御尤右様ニも難相成、篤と御勘弁被成候」と念のため断り難いことを伝え、岡田邸をあとにした。

 しかし、ここから泰胤の抵抗が始まる。いくら急かしても泰胤は邸を出ず、養子願いについて諒承の返事を出そうとしなかった。11月10日夕刻には、熊川胤隆が泰胤邸を再度訪れて催促するも、「眩暈動悸」で臥せっており、会おうとしなかった。「何分早くと申来り候」と、江戸表からの言葉もあり、11月11日、泰胤の家臣三名が熊川邸を訪れたことを幸いに、熊川胤隆はもはやこの養子縁組の件は断ることは叶わない旨を伝えさせ、江戸表には諒承の旨を送ってしまった。

 11月13日になっても泰胤は返事をせず、胤隆はやむなく御一家・相馬靱負胤就に頼んで、泰胤の説得に当たった。しかし胤就が催促しても泰胤は「近く御挨拶可被成候」とはぐらかすばかりで、ついに返事を得ることはできなかった。

 11月20日、泰胤の説得は不可能と悟った胤隆は、「御同人も甚御当惑何レニも明日ノ御便リヲ以江戸表佐竹家御相続一条は御断ニ被及候外有之間敷との義無余義」について佐藤勘兵衛、大越四郎兵衛らと相談。すでに泰胤が諒承した旨を江戸表に発した件については、「此度御発病ニテ不得止候間、御相続一条御断被申上候旨、且又御同姓直五郎殿ヲ以御取替ニ御引揚被成候」として、「御同姓直五郎殿」をもって、泰胤の代理とすることを江戸表に発した。

 その後、泰胤邸に大越四郎兵衛が赴き、「江戸え相談ノ上、否ノ義は飛脚ヲ以も申遣し候」ことを伝えた。四郎兵衛が泰胤邸をあとにして帰途についたところ、途中で泰胤の使者が追いつき、歌を詠んだ手紙を渡した。

 黄草寒筵もすミよけれ 浮世の風のなとそくるしき

 相馬を離れ難い気持ちと、煩わしい大名の世界への嫌気が詠まれているのだろう。

 このとき、泰胤の代わりに義諶の養子に入ったのは「御同姓直五郎殿」だが、義諶の養嗣子は泰胤の甥・東常丸(のちの佐竹義理)であり、直五郎から改名したのだろうか。東常丸は安政5(1858)年9月4日、泰胤の異母兄・相馬大膳亮充胤の三男として生まれており、この騒動の時点で七歳であった。東常丸は叔父・義諶の養子となり、義諶が明治2(1869)年5月25日に隠居すると家督を相続した。

      +―相馬樹胤―――相馬博胤【佐竹中務義矩】
      |(讃岐守)  (兼次郎)
      |
 相馬祥胤―+―相馬益胤―+―相馬益胤――――――――――+―相馬充胤―――――――――――+―相馬誠胤
(因幡守)  (因幡守) |(長門守)          |(大膳亮)           |(因幡守)
             |               |                |
             +=相馬展胤【室賀美作守正発】 +―千葉卓胤【佐竹義典】     +―東常丸【佐竹義理】
             |(内膳)           |(寛次郎)
             |               |
             +=相馬真胤【根来采女盛真】  +―千葉宗胤【佐竹右京大夫義堯】===佐竹亀丸【佐竹義脩】
             |(大三郎)          |(清三郎)              ↑
             |               |                   |
             +=相馬博胤【佐竹中務義矩】  +―熊川長顕【佐竹壱岐守義諶】――+―佐竹亀丸【佐竹義脩】
                             |(兵庫)            |
                             |                |
                             +―岡田泰胤           +=東常丸【佐竹義理】
                              (監物)

―相馬岡田氏系譜―

 泉胤顕―+―岡田胤盛―+―胤康―+―胤家―――胤繁――+―胤久――+―胤行――――信胤―――基胤                  +―宣胤
(五郎) |(小次郎) |(五郎)|(小次郎)(左京亮)|(小次郎)|(左京亮) (伊予) (小次郎)                |(八兵衛)
     |      |    |          |     |                                |
     +―岡田胤兼 |    +―孫鶴丸      +―娘   +―盛胤――――直胤―?―義胤――+―茂胤――――+―直胤――――+―長次
     |(孫六)  |    |          |(亀鶴)  (二郎三郎)     (安房守)|(治部太輔) |(右兵衛大夫)|(左門)
     |      |    |          |                      |       |       |
     +―岡田宗胤 |    +―僧侶       +―娘                    +―娘     +―娘     +―娘
     |(孫七)  |               |(こくろ)                 |(泉田胤雲妻)|(金沢胤昌娘) (泉胤政妻)
     |      |               |                      |       |
     +―岡田胤俊 +―成胤―――福寿丸      |                      +―娘     +―胤景――――+―草野胤清
     |(十郎)  |(四郎)           |                      |(上野氏妻) |(兵庫助)  |(主膳)
     |      |               |                      |       |       |
     +―岡田兼胤 +―胤治―――竹鶴丸      |                      |       +―清胤    +―娘
     |(与次)  |(七郎)           |                      |       |(右衛門大夫) (熊川長春妻)
     |      |               |                      |       | 
     +―岡田胤元 +―長胤―――義胤―――胤頼  |                      |       +―娘             
      (与三)   (六郎) (孫鶴丸)     |                      |        (山口志摩妻) 
                            |                      |                       
                            |                      +―胤連――――+―胤信――――+―胤政
                            |                      |(将監)   |(摂津守)  |(与惣右衛門)
                            |                      |       |       |
                            |                      |       |       +―立谷胤久 
                            |                      |       |        (越前)
                            |                      |       |
                            |                      |       +―胤兼――――――清重
                            |                      |        (右馬助)   (伝左衛門)  
                            |                      |
                            |                      +―立野永房――――豊房
                            |                      |(土佐)    (太郎左衛門)
                            |                      |
                            |                      +―深野保平――――肥後―――――四郎右衛門
                            |                       (大学)
                            |
                            +―胤次―――大甕胤忠―+―胤盛――胤通―+―胤俊――胤勝――+―胤季
                             (二郎) (佐渡)  |(丹波)(丹波)|(丹波)(左馬允)|(藤八郎)
                                        |        |         |
                                        |        |         +=新里胤清―+―長泰
                                        |        |          (豊後)  |(半右衛門)
                                        |        |                |
                                        |        +―胤方――胤房         +―貞胤
                                        |         (美作)(七郎兵衛)       (靱負)
                                        |
                                        +―胤長――右近―+―右京
                                         (玄蕃)    |
                                                 |
                                                 +―与五右衛門―――与五右衛門

■中村藩岡田氏略系図<堀内氏の系譜はこちら

             中村貞俊       田中宗也娘 +―村田共世===敷之助
            (太郎左衛門)      ∥    |(与市右衛門)
               ∥         ∥    |
               ∥――――俊世   ∥――――+―娘
         杉政氏―――娘   (与左衛門)∥    |(村田重左衛門師世妻)          +―堀内胤信  
        (新右衛門)      ∥    ∥    |                     |(玄蕃)   +―恩胤
                    ∥――――岡田伊胤 +―娘         太田清左衛門――娘 |       |(監物)
               青田高治―娘   (監物)  |(藤岡道仙循性妻)          ∥―+―直胤    |
              (孫左衛門)     ∥    |                   ∥  (監物)   +―娘
                         ∥    +―村田敷之助     +―――――――春胤        |(木幡春左衛門妻)
                         ∥                |      (監物)       |      
                         ∥                |       ∥―――徃胤――――+―娘
                         ∥――――+―三千代       | 堀内胤重――娘  (監物)   |(中田玄俊妻)
 岡田直胤――+―宣胤――+―重胤===長胤 +―娘    |(早世)       |(重兵衛)            |
(右兵衛大夫)|(八兵衛)|(八兵衛)(監物)|      |           |                 +―智胤===泰胤
       |     |      ∥  |      +―――――――知胤  +―娘               |(帯刀) (監物)
       |     |      ∥――+――娘   |      (監物) |(泉田掃部胤重妻)        |
       |     +―木幡貞清―娘  |  ∥   |       ∥   |                 +=直胤
       |     |(嘉左衛門)   | 泉乗信  |       ∥―――+―娘                (監物)
       |     |         |(八兵衛) | 堀内辰胤――娘   |(服部伴左衛門妻)          ∥
       |     +―娘       |      |(玄蕃)       |                   ∥――――半治郎
       |       ∥       +―信胤   |           +―堀内胤長――――――――――――――娘
       |       新館胤治      (小次郎) +―娘          (兵衛)
       |      (彦左衛門)          |(熊川兵庫長貞妻)
       |                      |
       +―長次   +―長胤            +―娘
       |(左門)  |(監物)           |(泉甚右衛門為信妻)
       | ∥    |               |
       | ∥――――+―娘             +―娘
       |下浦修理娘  (熊川左衛門長定妻)       (原新右衛門長清妻)
       |                     
       +―娘               
         ∥                     
         ∥――――――胤衡
        泉胤政    (内蔵助)
       (藤右衛門)


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