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台
椎名一族。「臺」とも。椎名胤光(五郎)の子・福岡胤業(八郎)の子孫・十郎が匝瑳郡南条庄台邑(匝瑳郡横芝光町台)に住んで台を称した。
-台氏略系図-
→千葉介常重-椎名胤光-福岡胤業-岩室資胤-彦六郎-台十郎
(五郎) (八郎) (五郎)
醍醐
椎名一族。椎名氏初代の胤光の長男・胤高の子・胤玄が醍醐氏を称したとされるが、その発祥地は不明。
―醍醐氏略系図―
→千葉介常重-椎名胤光-胤高-醍醐胤玄
(六郎)
大悲山《大悲山氏のページ》
相馬一族。「だいひさ」「だいひさん」と読む。「大久」とも書く。相馬一族内でも相馬岡田氏に次ぐ名門で、相馬胤村の11男・相馬通胤(与一)が陸奥国行方郡大悲山村を領して大悲山相馬を称した。ただ他の一族と同じように、彼らは相馬氏の「家臣」ではなく「庶流」という立場であり、相馬宗家惣領のもとに一党を形成する立場にあり、彼らもそれぞれ一家における惣領職をもっていた。
鎌倉時代末期、大悲山相馬通胤の子どもたちの間で父の遺領をめぐる争いが起こり、勘当されていた娘が妹の所領を奪い取るなどの訴訟沙汰になったのち、嫡子・行胤のものとなった。
南北朝時代、北朝側=足利方に荷担した相馬氏は、北畠顕家によって居城・小高城を攻め落とされた際、留守の惣領・相馬親胤の代将だった相馬光胤(惣領代)が、一門の重だった者の多くを甥の胤頼(親胤嫡子)に付けて密かに城から逃れさせており、その中に行胤がいた。胤頼はその後、小高城を奪還し、生き残った一族を率いて東軍の陣に加わるべく、宇多庄熊野郷へ向かった。建武4(1337)年正月の到着状の中に「相馬孫次郎入道行胤」の名がみえる。その子・朝胤(次郎兵衛尉)の活躍は伝えられているが『大悲山系図』にも朝胤の跡は記されず、大悲山氏の名跡を系図でたどることはできない。しかし、室町中期の享徳3(1454)年8月23日、大久政胤(次郎□郎)に跡を継ぐべき男子がなかったため、岡田盛胤(次郎三郎)と娘を娶せて、所領を継承させたと『岡田盛胤契約状』に記されている。「大久」は「大悲山」のことと考えられ、「次郎□郎」を称していることから、相馬朝胤(大悲山朝胤)の末孫か。朝胤は建武4(1337)年11月21日に所領を譲られ、観応2(1351)年10月9日の書状まで名が見られる。朝胤から政胤まで約百年の開きであり、時代的に見ると曾孫か。その後の大悲山氏の活躍は再び見られなくなる。
江戸時代には、大悲山氏は中村城下中町に館を与えられ、100石の大身藩士となる。幕末におこった戊辰戦争の際には、一門筆頭・岡田泰胤(隊長)に従った大悲山要人重一(小隊長)が活躍している。要人は明治5(1872)年、北標葉郡酒井村へ移住した。
―大悲山氏略系図―
→相馬胤村――大悲山通胤――行胤
(与一) (孫次郎)
∥―――――朝胤――――――――…―政胤====岡田盛胤
相馬重胤―――娘 (又五郎・次郎兵衛尉) (次郎□郎)(次郎三郎)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
大久要人 | 大身 | 100石 | 中町 |
多賀
千葉一族か。名字地は下総国神崎庄多賀郷(成田市高岡?)。おそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われる。
鎌倉時代末期には、多賀郷地頭職であった野本氏の代官となっていたようである。建武4(1337)年、野本朝行(能登四郎)は足利尊氏に味方し、後醍醐天皇方の「千葉下総守(千葉介貞胤)一族等」が神崎庄多賀郷に攻め入ったとき、「千葉余三清胤、朝行代官等」が足利方として連日合戦して功績を挙げた。ここに見える「千葉余三清胤」もおそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われるが、系譜などが伝わらないため、不明である。
また、多賀郷代官である「多賀七郎行胤、小栗左衛門次郎重高、多賀七郎三郎」らは尊氏党である「千葉大隈守(千田胤貞のこと)」の留守を守るため、千田庄多古の大嶋城に入っていたようである(『熊谷家文書』「野本朝行子息鶴寿丸軍忠状」)。
高井
相馬一族。相馬胤氏(次郎左衛門尉)の子・胤行(次郎左衛門)が相馬郡高井村(柏市高井)に拠って高井を称したという。
戦国時代後期の高井治胤は、下総相馬氏の総領家で守谷城主の相馬胤晴(小次郎)の娘を妻に迎え、相馬一族のなかでも力を持った。そんな中の永禄年間(1558-)、古河公方家で家督をめぐって内紛がおこった。後北条氏・千葉氏は、北条氏康の甥で、婿でもある足利義氏を推して、足利晴氏・藤氏と争った。晴氏側では関宿城主の簗田晴助が後見し、関宿城に拠ってこれを迎え撃った。
この内紛のなかで、古河公方の奉公衆でもあった下総相馬氏は、足利晴氏か足利義氏のいずれかに味方せざるを得なくなった。このころ、下総相馬氏内部でも相馬整胤(小次郎)と高井治胤(胤晴娘婿)とが勢力争いを起こしていた。整胤は千葉宗家・北条氏と結んで足利義氏に荷担して治胤の放逐を謀った。一方、治胤も簗田氏と結んで古河公方・足利晴氏に味方して整胤と争った。しかし、相馬整胤が23歳で郎党に暗殺されてしまったため、跡を継ぐべき子がなく、治胤が相馬氏の家督を継いで、守谷城主となった。
高井氏は、治胤の弟・高井永胤(下総高井城)が継承し、その弟・筒戸親胤(下総筒戸城)とともに天正18(1590)年、小田原城に篭城したが落城、城下に隠れた。その後、関東に入府してきた徳川家康は、頼朝以来の名門を絶やすのは惜しいと、相馬秀胤(治胤の子?)を召し出して旗本とし、五千石(一説には三千石)が与えられたという。
胤治の弟・永胤の子・高井胤勝は小田原藩主・大久保忠常に客分として迎えられて相馬姓に復し、幕末まで小田原藩大久保氏の客分として360石を領し「大久保に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に相馬渡辺」とうたわれた。胤勝の次男・胤正は祖父の地・相馬郡高井に帰農して庄屋になっている。
―高井氏略系図―
+―師胤
|(五郎左衛門尉)
|
+―胤基――…―相馬胤晴――娘
|(左衛門尉) ∥
| ∥
→相馬胤氏―――+―高井胤行―…―□―+―相馬治胤―?―秀胤(信濃守・寄合旗本)
(次郎左衛門尉) (次郎左衛門) |(小次郎)
|
+―高井胤永―――胤勝(小田原大久保家客分)
|(民部大輔) (長四郎)
|
+―筒戸親胤
(小三郎)
高上
東一族。東盛胤の七男・資胤が香取郡高上(銚子市高上町)を領して高上を称した。盛胤は故あって兄・東胤行の養子となり、胤行の子・行氏の弟とされる。
行氏は承久の乱の功績で美濃国郡上郡に所領を与えられて移住し、盛胤は彼の代わりに下総国東庄小南沼闕城に拠っていた。その子・資胤(法号理慶)は香取郡高上に拠って高上を称した。そのあとを継いだのは有胤(法号成高)で、実は資胤の兄・胤世(七郎太郎・良円)の孫で、資胤の養子となった。有胤の子・胤俊(左馬助)は、高上氏を継ぐものの、のちに実の祖父・東高胤の後を継いだために高上の名跡はなくなった。
―高上氏略系図―
→東胤頼-重胤――――海上胤方-盛胤――――――高上資胤=有胤―――――胤俊
(六郎)(太兵衛尉)(次郎) (七郎左衛門尉)(弥七) (七郎左衛門)(左馬助)
千葉一族。または南家藤原氏系の二階堂氏の一族とも伝わっている。千葉氏被官として高城氏がはじめてみられるのは、貞治4(1365)年、千葉介氏胤が美濃国で29歳の若さで亡くなり、跡を継いだ六歳の嫡男・千葉竹寿丸の後見人に見られる「高城越前守」だが、彼には傍証がなく実在は不明。
文明2(1470)年 本土寺制札 |
永禄7(1564)年 胤辰文書 |
その後、高城氏は東金・土気の酒井氏とともに原氏(千葉宗家筆頭家老)の家老として活躍する。寛正3(1463)年、高城胤忠は根木内城(松戸市根木内)を築き、そこを居城とした。文明2(1470)年に本土寺に「高城」の名で制札が出されているが、この花押は某年10月に小金城下の東禅寺に出された高城胤辰の花押とまったく一致する。胤辰の書状は現存の初見が永禄7(1564)年であり、時代的に矛盾がある。
この亨禄3(1530)年、高城胤吉は根木内城が手狭になったため、家老の安蒜浄意入道に命じて、根木内城の西約1.5キロの大谷口(おおやぐち)に、7年の歳月をかけて天文6(1537)年に巨大な城を完成させ、高城氏はそちらへ移った。この城の完成に際して、9月25日に千葉宗家の当主・千葉介昌胤は佐倉城から祝賀のために訪れている。饗応役は縄張りをした安蒜浄意入道。また、昌胤の妹は胤吉の妻である。高城氏の城は居城・大谷口城を中心として周囲にいくつか存在する。
根木内城址 |
千葉家の筆頭家老の原氏は、この当時、宗家に優る軍事力を持ち、高城氏はその原氏を軍事的に支えていた。このときの下総の情勢を風刺した狂歌に「千葉に原 原に高城 両酒井」というものがあった。つまり、千葉氏を支えているのは原氏であり、その原氏を支えているのは高城氏と両酒井(土気・東金)であるという意味である。千葉宗家にとっても高城氏ならびに酒井氏は重要な家臣であったのだろう。のち、小田原北条氏は千葉氏とともに、高城氏・酒井氏などを北条家直々の他国衆家臣と認めていた。
胤吉は永禄7(1564)年1月2日の第二次国府台の合戦に一族郎党を率いて参戦し、その恩賞として北條氏康は「葛西・亀井戸・牛島・堀切・小曾根・新堀・飯島・行徳・舟橋」を賜った。また、天正7(1579)年2月9日には遠山甲斐守・遠山菊千代・高城下野守らに対して葛西堤を造ることを命じていることから、高城氏は江戸衆(遠山甲斐守政景は江戸衆筆頭)と密接な関係があったと思われる。しかし天正10年には葛西・行徳・亀井戸・牛島など、江戸川西部は岩槻の支配下になったようで、高城氏の名は見えなくなる。
小金大谷口城址 |
以降、同氏の居城として天正18(1590)年5月の小田原合戦まで栄えた。小田原合戦では胤辰と胤則(元次)の二人が、北条氏に味方した千葉宗家にしたがって小田原城に籠り、湯本口を固めている。しかし、小田原落城も時間の問題となったとき、胤辰は居城・大谷口城での留守を守って頑張っていた高野氏らに宛てて開城を示唆する密書を送っている。そして大谷口城は開城され、50年の歴史に幕を閉じた。
その後、胤則は蒲生氏郷にお預けとなり、蒲生家にいる胤則に宛てて、旧家臣たちが身の振り方の相談する手紙が届けられていたようで、胤則はそれに対して小さな紙に返事を書いている。そこには「おまえたちの嘆かわしい状況を聞き及んで、自分のことで苦労をかける。こうなっては、百姓となるにしても、いずれの家に仕官するにしても妻や子を大事にすることが肝心だ。しかし本当におまえたちの嘆かわしい様子には涙するばかりだ」と、旧家臣たちを思いやる気持ちがあふれている。胤則は慶長9(1604)年8月に33歳の若さで病死してしまい、嫡子の胤重はわずか3歳だったために仕官することもできずに、親戚の佐久間安次(胤重の母は柴田勝家の養女で、安次は勝家の姉の子)に厄介になっていたのだろう。
広徳寺の高城氏墓所 |
その後、元和2(1616)年6月、16歳になった胤重は佐久間安次の推挙で江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁を許され、200俵取りの旗本となり、麻布市兵衛町に屋敷を賜った。その2年後の元和4(1618)年12月、御書院番士になり、寛永10(1634)年に200石の領地を持った旗本となる。胤則の孫・清胤は元禄7(1695)年、父・貞胤の遺蹟を継いで700石の領地を賜る。清胤の屋敷には旧家臣の子孫が訪れている。その後も加増を重ね、天保年間の胤親は、旧大谷口城下に領地を持っていて1500石の旗本だった。
天保10(1839)年4月7日早朝6時、高城胤親は先祖・胤則の供養のために、麻布屋敷を出立して千住の先で昼食をとり、松戸に到着した。松戸では千葉氏にゆかりの風早神社を参詣し、金百疋を奉納。拝殿前にある樫の巨木「なんじゃもんじゃ(水戸黄門が命名)」を見学して、夕方4時に大谷口城下の広徳寺(高城氏の菩提寺)に到着した。翌日は朝から広徳寺と慶林寺で法事を行い、旧家臣の末裔・安蒜五右衛門らの案内で大谷口城のあとを見学した。この日は宿所の広徳寺にたくさんの人が挨拶に訪れている。その中には旧家臣の末裔たちも数多くいたことだろう。高城氏は戦国期から幕末まで、地元に愛された領主だったことがうかがえる。翌日、胤親は麻布屋敷に帰っていった(高城氏の江戸拝領屋敷地図)。
以上、胤吉以降の歴史はかなりはっきりしたものだが、それ以前は高城氏にとっては「先史時代」となっている。
家紋は「九曜」「井桁に九曜」のほかに、庶流と思われる相馬郡箕輪村の高城家(柏市箕輪)は「茶の実」「三つ茶の実」を用いている。旗本相馬家の家紋は「維馬」のほかに「丸に三茶実」が記録されており(『寛政重修諸家譜』)、旗本相馬家と家紋の共通点があるため、なんらかの関わりがあるのかもしれない。
高崎
大須賀一族。多部田胤秀の三男・盛知が香取郡高崎(佐倉市高崎)を領して高崎を称した。ただ、『千葉大系図』などによると、多部田胤秀の子に胤盛は書かれていない。胤秀は大須賀氏初代・胤信の子であり、顕朝(次郎太郎)の子は『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には書かれていない。この胤知という人物については詳細が不明なため、時代背景などが分らず、どの時代の人物か分らない。
―高崎氏略系図―(『大須賀系図』)
→千葉介常胤――大須賀胤信――+―通信――――――師氏――――――頼氏―――朝泰――――――顕朝――――多部田胤秀
(千葉介) (四郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)(三郎左衛門尉)(孫太郎)(次郎左衛門尉)(次郎太郎)
|
+―多部田胤秀―?―高崎胤知
(次郎左衛門尉)
高島
千葉一族。上総国市原郡高島発祥。
高田
千葉一族。発祥地は印旛郡岩戸郷高田か。千葉介胤直の家臣に高田胤行(中務大輔)がいて、胤直が馬加康胤によって攻撃されると、胤直とともに自刃している。
高滝
千葉一族。平常澄の子・相馬常清(九郎)の子・佐胤(五郎)が上総国市東郡高滝郷(市原市高滝)に住んで高滝を称したという(『千学集抜粋』)。
江戸時代の岩槻藩士に、高滝胤清(荘右衛門・左仲)がいた。阿部備中守定高の代、慶安5(1652)年に召し出され、その後、百三十石を給されて御使番となった。寛文13(1673)年には大御目付役に就任。幼少の若君・阿部正盛が少々病弱であったため、胤清がそばに仕えることになった。
延宝9(1681)年4月22日、御留守居役に就任。元禄3(1690)年7月9日には御吟味約となり、さらに元禄10(1697)年6月21日には御番頭格となって三百五十石を加増され、五百石取りとなった。元禄15(1702)年12月26日、隠居して十人扶持を給された。正徳4(1714)年に亡くなった(『岩槻市史』)。
―高滝氏略系図―
→平常澄―――相馬常清――高滝佐胤
(上総権介)(九郎) (五郎)
高平
相馬一族。陸奥国行方郡高平村を発祥地とする。相馬胤村の子・有胤(十郎)が胤村の遺領配分状(実は有胤兄・師胤の偽造か)によって高平村15貫文を領し、その子・胤平(左衛門尉)は惣領家などほかの相馬一門と対立し、北畠顕家のもと南朝方に荷担して戦功をあげ、「左衛門尉」に任官した。しかし、顕家は上洛ののち、河内国で高師直の軍勢と戦死し、その後は胤平の勢力も衰えたか。
その後、高平村は胤村の三男・胤重(六郎)の系統が継承することとなる。胤重のあとは嫡男・氏胤(八郎)が継承し、その子(実際は弟か)の胤国(九郎了胤)、是胤(弁房円意)らは、小高城の惣領代・相馬光胤の召集に応じて、攻め寄せた北畠顕家の軍勢と合戦している。
胤重の曾孫・胤直(九郎左衛門尉)が、康正3年の戦いの功績によって与えられ、子孫に受け継がれた。子孫・西胤宣(右衛門尉)の娘は相馬惣領十三代当主・相馬盛胤(大膳大夫)の妻となって、14代・相馬顕胤(讃岐守)を産んでいる。その子孫・胤広(九郎左衛門尉)は、寛永18(1641)年7月10日、中村で暗殺された。
―高平氏略系図―
→相馬胤村――+―有胤―――高平胤平――時胤――――胤時
(五郎左衛門)|(十郎) (小次郎) (小次郎)
|
+―胤重―+―氏胤
(六郎)|(八郎)
|
+―胤国――+―胤景――――高平胤直――――胤治――西胤吉――胤宣―――胤次―――胤冬―――胤親――胤広
|(九郎) |(九郎五郎)(九郎左衛門尉)(九郎)(和泉守)(右衛門)(右衛門)(河内守)(右近)(九郎左衛門尉)
| |
+―是胤 +―胤長
|(弁房円意)(小五郎)
|
+―胤房
(与一)
滝
千葉一族。平常長の子・常実(三郎)が上総国東金郷滝(東金市滝)に住んで滝を称したという(『千学集』)。
―滝氏略系図―
→平常長-滝常実
(三郎)
田口
東一族。郡上郡篠脇城主・東下野守常慶の重臣だった遠藤胤縁(新兵衛)の二男・遠藤胤基(大隈守)の二男、遠藤胤久(五郎右衛門)を祖とする(『平姓遠藤氏系図』:「和良村史」)。ただし、遠藤胤久は他の系譜によれば、遠藤胤縁(新兵衛)の三男・遠藤胤重(彦右衛門)の二男とされている。遠藤胤久の兄・遠藤胤正(嘉兵衛)は「能筆」で知られた人物であったようだが、この胤正の母は藩公・遠藤慶隆(但馬守)の「御妹」であり、胤久の母も同じ女性だとすると、胤久は藩公の甥ということになる。
胤久は武勇の人として知られていたようで、八幡城下の小野村、府道村、鶴佐村に三百石を賜った。しかし、慶長5(1600)年の関が原の戦いの際か、慶長19(1614)年からの大坂の陣かは不明だが、乱世の中で浪人してからは「田口五郎左衛門」と名を改め、郡上郡東野村(郡上市和良町東野)に蟄居したという。
その子・田口胤次(作重郎)は東野村の庄屋となり、子孫の田口胤久(久米右衛門)は郡上藩主・金森頼錦(兵部少輔)の家臣・深井露清の養嗣子となって、深井久米右衛門尚充を称し、その後は末弟・田口胤永(文太郎)を深井家の養嗣子として迎え、胤永は深井文右衛門を称して金森兵部少輔頼錦の小姓として出仕した。
田口家は久米右衛門胤久の次弟・田口忠吉(伝右衛門)が継承した。東野村の庄屋を務めたと思われる。
―田口氏略系図―
→遠藤胤好―+―遠藤胤慶―+―遠藤胤俊 +―遠藤胤直
(新兵衛) |(新兵衛) |(大隈守) | (小八郎)
| | |
| +―遠藤胤基―+?遠藤胤久
| |(大隈守) (五郎右衛門)
| |
| +―遠藤胤重―+―遠藤慶重
| (彦右衛門)|(長助)
| |
| +―遠藤胤久
| (五郎右衛門)
| ∥
+―遠藤盛数 ∥―――?―――田口胤次
(六郎左衛門) ∥ (作重郎)
∥ ∥
∥―――+―遠藤慶隆 ∥
東常慶――+――友順尼 |(但馬守) ∥
(下野守) | | ∥
| +―遠藤慶胤―――娘
+―東常堯 (助次郎)
(七郎)
武岡
相馬一族。中村藩御一家の相馬将監家の庶流。
相馬義胤(長門守)の三男・相馬及胤(左近)の曾孫・相馬小六郎は、母は熊川清兵衛長春養女(高木新五左衛門娘)。妻は熊清兵衛安宣養女(桑原運治安利娘)。元禄11(1698)年7月12日、藩公・相馬昌胤の児小姓となる。7月24日、新たに「武岡」の氏を給わり、「武岡外記延充」と称した。
元禄13(1700)年8月1日、「蔓九曜紋」を給わり、9月21日、幼少といえども由緒家であるということから、行方郡上根澤村、小屋木村に二百石を給わる。
宝永7(1710)年2月に軍使役、享保元(1716)年6月には中目附、12月には武魁、享保9(1724)年2月、組頭となる。そして、享保12(1727)年7月7日、舎兄・相馬胤賢(将監)の養嗣子となり、本家を相続して相馬胤英(将監)と称する。
武岡家はわずか三歳の嫡男・熊之助が相続し、武岡忠充と称する。母は桑原安利娘。しかし、享保16(1731)年正月15日、七歳にて急死したため、4月、御一家・泉左衛門胤秀の次男・庄五郎が半知百石を以って武岡家を相続し、武岡忠親(次郎左衛門)と号した。
武岡忠親は母は石川弘昌(助左衛門)娘。妻は田中典恒(四郎左衛門)伯母、のち山田半左衛門娘。延享5(1748)年3月4日、在郷中頭となり、宝暦8(1758)年正月16日には物頭長柄奉行となるが、宝暦10(1760)年2月17日、実兄・泉胤寧(内蔵助)の願いによりその養嗣子として泉家へ戻り、泉胤殊(内蔵助)となる。
忠親には男子が二人いたが、嫡男・武岡平十郎は宝暦元(1751)年2月18日に四歳で亡くなっており、次男・武岡要之助が嫡子となるが、彼も病身のため、忠親が泉家へ戻る際にともに戻り、泉仙秀(矢柄)を称した。忠親が泉家へ復帰した同日、本家の相馬胤寿(将監)の次男・運治が武岡家に入り、名跡を継いで武岡咸充(次郎左衛門)を称した。
武岡咸充(次郎左衛門)は、母は石川昌清(助左衛門)養女(松平肥前守家中・鵜殿長左衛門安利娘)。妻は松本甚左衛門群重娘。明和8(1771)年5月8日に二十二歳で在郷中頭に抜擢され、安永元(1772)年9月21日に御台所頭、安永2(1773)年7月29日には町奉行に抜擢されるが、翌安永3(1774)年9月23日、二十五歳の若さで亡くなった。武岡家の菩提寺は崇徳山興仁寺だが、咸充は将監家からの養子だったためか、相馬将監家の菩提寺・永祥寺に葬られた。
咸充には幼少の男子・武岡運治がいたが、いまだ幼少であったため、親類の熊正清(清兵衛)の次男・幸之進が武岡家に入り、武岡茂充と称した。
武岡茂充(幸之進)は、母は佐藤広信(八郎左衛門)娘。妻は草野房重(武左衛門)娘。安永3(1774)年に武岡家を継ぎ、安永6(1777)年、通称を「次郎左衛門」と改める。しかし、天明5(1785)年10月19日、突如出奔して武岡家は断絶とされた。なぜ茂充が出奔したかは不明だが、兄・熊長左衛門の事件が関係しているのかもしれない。この四年前の天明元(1781)年9月10日夜、藩の最上級藩士の一人だった熊長左衛門は、屋敷に招いていた木幡知清(嘉左衛門)を口論の末、斬殺してしまう。この罪により、12月5日、清兵衛は采地五百石を召上げられ、家は断絶となっている。
茂充は、先代・武岡咸充(次郎左衛門)の実子・武岡貞充(運治)を養子としていたが、茂充が出奔したため、貞充は親族宅にて謹慎すべき旨が命じられた。そして、翌天明6(1786)年正月16日、武岡家は「一族庶流ノ家」ということで、貞充が半知五十石(采地は小屋木村内)を給わり、再興した。
武岡貞充(運治)は、母は松本甚左衛門群重娘。妻は森政次(嘉兵衛)娘。後妻は小野村の源右衛門家抱女。天明6(1786)年3月10日、通称を「勘右衛門」と改める。しかし、幼少より虚弱だった貞充はまもなく病のため隠居願いを提出。12月5日に隠居して、養子の武岡安充(鉄次郎)に家督を譲った。安充は本家・相馬胤豊(左衛門)の三男。ただ、安充は寛政4(1792)年閏2月21日、藩公・相馬恕胤の命により、太田茂春(清八郎)の養子となったため、隠居の貞充に再勤の命が下り武岡家の家督に復帰。享和元(1801)年8月19日に内蓮池御門番、文化元(1804)年正月19日、藩主・相馬樹胤の奥中小姓兼御広敷目附、文化3(1806)年正月29日には公弟・相馬仙胤(尚之助)の中小姓となり、文化5(1808)年12月9日まで勤めて、役を辞した。文化9(1812)年11月10日、通称を「次郎右衛門」と改める。天保9(1838)年12月に亡くなった。
貞充の嫡男・武岡昌充(運治)は、文化元(1804)年生まれ。文政3(1820)年9月9日、孝悌の道を重んじ、さらに文武の道にも精進していることを藩公・相馬益胤に賞され、褒賞として金二百疋を賜った。文政5(1822)年12月23日には、公子・相馬充胤の中小姓となり、江戸屋敷詰となる。翌文政6(1823)年2月15日、命により通称を「武」と改めた。しかし、翌文政7(1824)年閏8月25日、家督を継ぐ前に亡くなった。享年二十一。昌充が亡くなったため、文政8(1825)年2月15日、貞充は五女の娘婿として岡部品綱(造酒)の次男・主弥を迎えて養嗣子とし、主弥は武岡弘充(初身、発身)を称した。
武岡弘充(般若之助)は、母は日下宗政(治右衛門)娘。文政8(1825)年2月15日に貞充の婿養子となり、10月5日に隠居・相馬樹胤の小姓となる。文政10(1827)年9月晦日、小姓を免許されるが、天保6(1835)年5月22日、再度相馬樹胤の小姓に就任する。天保9(1838)年12月、養父・貞充が亡くなったことから家督を継ぎ、通称を「次郎右衛門」と改めた。翌天保10(1839)年12月、小姓を免ぜられ、天保13(1842)年8月、藩公・相馬充胤の母・仙齢院殿の御広敷目付となり、嘉永4(1851)年11月まで勤めた。
弘充の嫡男・武岡永充(八十蔵)は、文政9(1826)年生まれ。弘化3(1846)年正月、仙齢院殿常詰中小姓、嘉永6(1853)年正月には広間番入、安政2(1855)年7月には徒士目附となるが、翌安政3(1856)年10月、嫡子のまま江戸屋敷にて亡くなった。享年三十一。弟の武岡普充(発身)が改めて弘充の嫡子に定められたと思われ、安政5(1858)年10月、常詰中小姓として出仕。文久元(1861)年4月、藩公・相馬充胤の小姓となった。
―武岡氏略系図―
【中村藩主】
相馬義胤―+―相馬利胤――相馬義胤===相馬忠胤―――相馬昌胤===相馬敍胤―――相馬徳胤―――相馬恕胤――相馬祥胤
(長門守) |(大膳大夫)(大膳亮) (長門守) (弾正少弼) (長門守) (因幡守) (因幡守) (因幡守)
|
|【相馬将監家】
+―相馬及胤――相馬安胤―+―相馬胤久 久米依時―――娘 +―伊東寿祐
(左近) (刑部) |(勘右衛門) ∥ |(太兵衛)
| ∥ |
+―相馬胤高 +―相馬胤賢 ∥――――+―相馬胤寿
|(主水) |(将監) ∥ (将監)
| | ∥
| +―――姉 ∥
| | ∥――――伊東久祐 +=相馬胤武
| | ∥ (傳右衛門) |(将監)
| | ∥ |
| | 伊東義祐 +―相馬胤豊――+―相馬胤慈―+―相馬胤宗――相馬胤真――相馬胤真
| |(又七) |(将監) |(将監) (将監) (将監) (瀧之進)
| | | |
+―相馬胤充―+―相馬胤英―+=相馬胤寿―+―武岡咸充 +―泉胤陽
(将監) (武岡延充)|(将監) |(次郎左衛門)|(内蔵助)
| | |
| +―娘 +―武岡安充
| | ∥ (太田佳治)
| | 泉田胤精
| |(掃部)
| |
| +―娘
| ∥―――――+―娘
| 池田直方 |(岡部雅綱娘)
| (八右衛門) |
| +―娘
| (熊川奉重妻)
|
| 泉胤秀――+ +―武岡平十郎 +=武岡茂充――+=武岡貞充――+
|(左衛門) | | |(次郎左衛門)|(次郎右衛門)|
| | | | ∥ | |
+―武岡忠充=+―泉胤殊―――+―泉仙秀 +―妹 +―武岡幸之進 |
(熊之助) (武岡忠親) |(矢柄) | |
| | |
+=武岡咸充――+―武岡貞充 |
(次郎左衛門) (次郎右衛門) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+=武岡安充
|(太田佳治)
|
+―娘 四本松義卓
| ∥ (大右衛門)
| ∥ ∥
| 門馬顕経 ∥
|(斎宮) +―娘
| |
+―娘 |
| ∥――――――+―娘
| ∥ ∥―――――――四本松豊之助【水戸天狗党】
| 四本松義剛 四本松鄰義
|(勘太夫) (大右衛門)
|
+―武岡昌充
|(武)
| +―武岡永充
+=武岡弘充 |(八十蔵)
|(次郎右衛門) |
| ∥――――――+―娘
+―娘 | ∥
| | 佐藤親信
| |(卯兵衛)
+―娘 |
∥ +―武岡発身
川村善成 |
(直記) |
+―武岡普充
|(発身)
|
+―娘
∥
岩城隆慶
(忠右衛門)
多古《千田千葉氏》
千葉一族。小城千葉氏の祖・千葉新介宗胤の孫・千田大隅守胤継の長男・胤氏が千田庄多古(多古町多古)を領して多古を称した。
応安5(1372)年2月、「図書左衛門尉源胤朝」が中山本妙寺領について文書を発給しているが、この文書の中で発給主の「義胤」は「祖父胤継」「亡父胤氏」とあることから、小城千葉氏の一族であることがわかり、円城寺胤朝は、その代官であることがわかる。九州に渡った円城寺氏の一族が、胤継の千田庄多古下向に従って下ってきたものか。【円城寺氏】
応永33(1426)年9月17日、妙光寺(多古町南中)で発見された板碑には「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平満胤霊位」とある。最後の「平満胤」はおそらくこの板碑の刻まれる4か月前に没した千葉介満胤と思われ、この板碑は満胤の供養のためのものかも知れない。
―多古氏略系図―
→千葉介宗胤-胤貞―――胤継―――――多古胤氏-義胤=胤清
(大隅守)(千田弥次郎)
多田
大須賀一族。ただし、鎌倉時代に生まれた大須賀氏(千葉介常胤の子・胤信の子孫)ではなく、平安末期に生まれた大須賀氏(平常長の子・常継の子孫)の末裔。大須賀常継の孫・常有(多田権守)が多田を称し、香取神領多田郷の地頭職を務めていた。香取社と所領についての争論を繰り返している。
この家は南北朝期以降の香取社関係文書に繁出しており、千葉宗家の被官となっていた様子がうかがえる。譲状や証状なども『香取文書』に多く遺されており、香取神社との結びつきを保ったまま、室町時代まで続く。
●寛元元(1243)年9月25日『関東下知状写』(『香取旧大禰宜家文書』:『鎌倉遺文』所収)
●弘安4(1281)年11月25日「北條時宗御教書」
(『旧大禰宜家文書』:千葉県史料 中世篇 香取文書)
●弘安10(1287)年7月18日「香取大禰宜実政書状写」
(『旧大禰宜家文書』:千葉県史料 中世篇 香取文書)
●正安元(1299)年12月28日「多田有時所務和与状」
(『旧大禰宜家文書』:千葉県史料 中世篇 香取文書)
●元応2(1320)年3月28日「伊予守奉書」
●暦応5(1342)年2月16日「掃部允家光等連署和与状案」
●文和3(1354)年11月18日 『左衛門五郎常家譲状』
(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料』中世篇 香取文書)
●応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』
(『旧大禰宜家文書』中世篇香取文書)
●某年10月24日「多田村神祭物目録」
●文亀3(1503)年10月27日「平胤家証状」
●大永6(1526)年3月5日「多田胤吉等連署寄進状」
―多田氏略系図―
→平常長―大須賀常継―常信――多田常有―+―有胤――+―胤平―――有氏――孫九郎
(八郎大夫)(太郎)(権守) |(太郎) |(小太郎)(九郎)
| | ⇒九郎入道蓮念カ
+―有基 +―常泰
(五郎) |(二郎)
|
+―有朝―――有時――+―祐有――――+―祐有女子
(四郎) (小四郎)|(沙弥性胤?)|
? +―祐有女子
+―胤親 |
| +―祐有養女
+―胤清
|
+―出戸女子
|
+―寺崎女子
|
+―掃部允家光
立野
相馬一族。祖先は不詳ながら、系譜上の祖は権現堂盛房(刑部)(『衆臣家譜』)。盛房には跡を継ぐ男子がなく、相馬一門筆頭の岡田義胤(安房守)三男・岡田永房(土佐守)を娘の聟に迎えて家督を継がせた。
岡田永房(土佐守)は標葉郡立野村(双葉郡浪江町立野)に住み、立野を姓とした。その嫡男・立野豊房(太郎左衛門)は宇多郡藤崎村に移り住み、藤崎を称した。次男・立野右京進は別家を立てている。
藤崎豊房(内膳)の嫡男・立野旨房(伊勢)は立野に氏を戻している。旨房には男子がなく、江井惣九郎の子・左之助を養子に迎えた。号は道閑。豊房の長女は藩公家の重臣・泉田胤政(播磨)の妻となり、次女は大坪長右衛門、三女は水谷尾張村重、四女は大曲大炊允隆之の妻となった。
立野旨房(伊勢)の養子・左之助は元服して立野則房(八左衛門)を称したのち、相馬義胤より「胤」字を給わって「市郎左衛門胤重」と改名した。胤重は初代中村藩主・相馬利胤(大膳大夫)の嫡子・虎之助が誕生すると、その守役に選ばれている。寛永6(1629)年5月28日、二代藩主・相馬虎之助義胤がはじめて大御所・徳川秀忠、将軍・徳川家光へ謁見したとき、家老・泉胤政(藤右衛門)、泉胤衡(内蔵助)と守役として立野胤重(市郎右衛門)が供として義胤に従った。その後は老臣に昇進し、日光社参や江戸への参勤交代などに義胤の傍近くに仕えている。
寛永14(1637)年10月5日、胤重は療養中の中村城下で亡くなった。法名は寶山鑑公。このとき江戸にいた義胤は胤重の死を知り、岡田蔵人を遣わして香典を立野家へ届けさせた。菩提寺の標葉郡新田村香積山華光院に葬られた。のち菩提寺は故あって栃窪村の水田山常安寺となっている。
10月28日、胤重の子・立野是房(八左衛門)が立野家四百石の家督となると、義胤は太刀、銀二枚を胤安に贈った。是房も藩公より「胤」字を許され「立野一郎右衛門胤安」を称する。その後、さらに百石を加増されて五百石を知行する大身となり、慶安2(1649)年の相馬家大坂加番に目付として加わっている。慶安3(1650)年12月には、御三家筆頭・名古屋藩主として徳川光友が入部するに当たり、胤安が相馬家の使者として名古屋へ赴いた。
しかし、寛文8(1668)年、中村藩領内で百姓濫訴があり、胤安は何らかの咎を蒙り、五百石は没収の上、11月4日切腹を命じられ、立野家は断絶とされた。長女は下浦定清(太郎左衛門)に、次女は従兄の立野胤政(八左衛門)に、三女は猪狩高常(七郎兵衛)にそれぞれ嫁ぎ、長男・立野胤盈(左之助)は父の切腹によって浪人となり、弟の立野重定(善右衛門)、立野重実(十郎右衛門)とともに山中郷津嶋村(双葉郡浪江町津島)に移り住んだ。このうち、次弟の立野重定はのちに一関藩に仕えて、芳沢弥左衛門を称した。
なお、立野家の嫡流は断絶となったが、胤安の弟・立野胤房(八左衛門)の子、立野胤政(八左衛門)が胤安の二女を迎えて本家を継ぎ、幕末に至る。
明暦3(1657)年1月18日に本郷本妙寺から起こった江戸の大火(振袖火事)によって焼失した江戸城諸門の工事に、藩主・相馬勝胤も手伝普請を命じられ、家老・熊川長定(左衛門)を惣奉行に工事を行った。このとき、足軽三十三人を率いた立野重春(五左衛門)が見えるが、彼は立野豊房(太郎左衛門)の弟・立野右京進の曾孫。また、瓦奉行・立野長清(與次右衛門)は立野右京進の玄孫である。
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
立野与治右衛門 | 大身 | 150石 | 北町 |
立野久左衛門 | 大身 | 100石 | 不明門北扇子町 |
立野文太 | 小身 | 扶持方 | 上向町 |
立沢
千葉一族。千葉介成胤の四男・三谷胤広の長男・胤義(四郎太郎)が立沢郷(富里市立沢)を領して立沢を称した。「千葉四郎太郎入道」という人物が、文永2(1265)年4月29日の千葉介頼胤の書状の中に見ることができる。この時代の「千葉四郎太郎」は、千葉とも称していた立沢胤義しかいないので、書状の人物は立沢胤義である。
●文永2(1265)年4月29日「平頼胤請文」
―立沢氏略系図―
→千葉介成胤-胤泰=三谷胤広―+―立沢胤義―+―三谷泰俊―+―義胤――――又四郎
(四郎) |(四郎太郎)|(四郎) |(弥四郎)
| | |
+―三谷通胤 | +―胤継――――氏胤
(次郎) | (四郎太郎)(彦四郎)
|
+―中沢胤直―――胤与
|(弥太郎) (彦太郎)
|
+―立沢胤幹―――信胤
|(又太郎) (平太)
|
+―蓮心―――――立沢胤行――胤義
(周防) (七郎) (彦七)
立谷
相馬一族。「たちや」と読む。相馬家御一家筆頭の岡田氏の流れをくむ名門で、権現堂城を守った岡田胤連(将監)の三男・胤久(越前)が、行方郡立谷村(南相馬市鹿島区小島田字立谷)に住んで、立谷を称した。
―立谷氏略系図―
岡田義胤―+―重胤――――【御一家筆頭岡田家】 +―胤和
(安房守) | |(吉十郎)
| |
+―胤連――+―胤信―――胤政―――――+―胤氏
(将監) |(摂津守)(與三右衛門) |(輪太郎)
| |
+―胤兼――…【岡田丹下家】+―胤通
|(右馬助) (権三郎)
|
+―立谷胤久――+―直之
|(越前) |(掃部助)
| |
+―江井胤清 +―岡田久方
(作兵衛) (助兵衛)
館
千葉一族。平常兼の曾孫・海上重常(五郎)の子・胤重(太郎)が館を称した。おそらく、胤重の代に千葉介常胤に仕えたのだろう。それまで用いられてきた「常」字がこれ以降見られなくなり、代わりに「胤」を冠した諱が続く。
―館氏略系図―
→海上常衡-常幹――重常――館胤重―+―康胤
(与一介)(庄司)(五郎)(太郎) |(小太郎)
|
+―胤員――+―頼員
|(弥次郎)|(次郎太郎)
| |
| +―教胤
| |(又二郎)
| |
| +―重員
| (四郎)
|
+―胤長――+―清胤
|(五郎) |(太郎)
| |
+―仏賢 +―胤盛
| (次郎)
|
+―胤幹――――有胤
|(八郎)
|
+―胤時――――兼茂
|(九郎) (九郎次郎)
|
+―行胤――――公胤
(十郎左衛門)
多名気
上総一族。上総権介常澄の孫・長南重常(太郎)の子・常泰(三郎)が上総国長柄郡多名気(長生郡長南町米満付近か)に住してを称したと伝わる。
―多名気氏略系図―
→平常長-上総権介常晴-上総権介常澄-長南常成-重常――多名気常泰
(次郎) (太郎)(三郎)
田中
千葉一族。秋田藩士の由来書の中に「下総国の牢人、本名原なり」という田中氏がある。おそらく臼井城主・原氏の一族で、秀吉による小田原攻めによって落城して牢人となり、佐竹家に仕えたものか。
田部
東胤頼の二男・木内胤朝の子・光胤が田部を称した。また、同じく胤朝の子・胤長も田部を称している。
―田部氏略系図―
→千葉介常胤-東胤頼-木内胤朝-+―田部光胤-泰胤-高胤-胤広-胤有-胤義-胤知-綾胤-胤泰-胤秋-娘
(六郎)(下総前司)| (弥九郎)
|
+―田部胤長-胤辰――――胤清―――胤家―――胤秀―――胤光―――胤房―――胤継――+
(五郎) (五郎六郎)(平十郎)(彦次郎)(平三郎)(新九郎)(新五郎)(新太郎)|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤広―――胤貴―――胤盛―――胤明―――胤尚―――胤元―――胤綱―――胤時―――胤宗―――胤昌―――胤利
(助九郎)(助五郎)(伝十郎)(長九郎)(権十郎)(権三郎)(権九郎)(弥七郎)(弥七郎)(弥一郎)(弥七郎)
多部
千葉一族という。片岡常春とともに下総藤原氏に従った多部師時(次郎)があって西田部城(香取市西田部字御城)を築いた。しかし、片岡常春が千葉介常胤に攻撃されると討死にした。
多部田
大須賀一族。大須賀胤信の二男・胤秀が大須賀氏領分だった千葉庄多部田(千葉県若葉区多部田)を領して多部田を称した。
―多部田氏略系図―
→千葉介常胤-大須賀胤信-多部田胤秀
(四郎) (次郎左衛門)
多谷
上総一族。上総権介常澄の4代目にあたる常英の子・常勝が多谷を称した。
谷川
千葉一族。