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上野
千葉一族か。発祥地は上総国長柄郡上野村(長柄町上野)とつたわる。
牛尾
千葉一族。「うしのお」と読む。原氏の一族が香取郡牛尾城(香取郡多古町牛尾)を領して牛尾を称した。
天文19(1550)年11月23日、妙見社の遷宮の儀式に際して、原胤清(式部大夫・千葉氏筆頭家老)の献上する太刀を捧げ持っていた牛尾胤道(左京亮)が見える。また、胤清の嫡男・原胤貞(孫次郎)もこのとき「牛尾」を称していた。また、胤清の子で、胤貞の弟と思われる胤直(弥五郎)も牛尾家に養子に入っており(『千学集抜粋』)、ようで、牛尾氏は原氏の有力な一族であったと考えられる。
牛尾氏の庶流家で、原氏が小弓に移った際にともに移ったと思われる仁戸名牛尾家(千葉市中央区仁戸名町)の牛尾胤仲(右近)は牛尾宗家を継ぎ、千田庄牛尾城に拠ったが、天正元(1573)年、飯土井氏が拠っていた千田庄多古城(香取郡多古町)を攻め落として占領し、牛尾城は弟の加瀬胤時に任せてこちらへ移ったという。多古染井にあった妙印山妙光寺は千田氏、原氏らの尊敬を集めており、天正5(1577)年4月6日、胤仲は娘の病気平癒を願って「牛尾右近胤仲」の銘が入った鰐口が残る。この年、胤仲によって染井から南東の現在地に移されたといい、年未詳9月10日の井田因幡守宛の胤仲書状が残っている。
しかし、胤仲は小菅・勝又・加瀬諸氏とともに反北条連合を結成して北条家に従わなかったため、親北条派の飯櫃城主・山室常隆ひきいる軍勢に城を囲まれ逐電。配下の郡司新次郎にかくまわれて剃髪し、慶長17(1612)年3月8日亡くなった。
郡司家には現在、胤仲の刀・槍・陣羽織・甲冑などが残され、位牌も保存されている。多古町高根にある高根親社権現は胤仲を祭った神社である。
胤仲の叔父にあたる牛尾兵部少輔が、子息が修行していた千葉寺の愛染堂に大檀那として天文19(1550)年に奉納した「銅梅竹透釣燈籠(国重要文化財)」が明治時代に千葉寺跡から発掘されている。銘には「下総国千葉之庄池田之郷千葉寺愛染堂之灯爐」とある。
牛尾氏の末裔と思われる牛尾五郎右衛門(御馬廻四番)が、正保4(1647)年、二百五十石で三河岡崎藩に仕えている。承応3(1654)年から江戸留守居役を勤め、寛文9(1669)年3月の『寛文九酉歳三月之御分限帳』によれば、知行二百五十石は嫡男・牛尾弥右衛門(御馬廻三番)に継承されているものの、変わらず江戸留守居役を勤めている。また、中小姓の牛尾庄兵衛は五郎右衛門の子か?
元禄6(1693)年3月、牛尾正光(四郎左衛門)が五十石の加増を受けて三百石取りとなる。その養子となった牛尾公胤(喜内。四郎左衛門)は、牛尾家と同じく江戸御留守居年寄の松本尚信(百五十石取)の次男として天和元(1681)年に岡崎藩江戸藩邸で生まれた。
元禄7(1694)年1月、牛尾正光の娘婿として牛尾家に入り、元禄11(1698)年3月、養父・正光の隠居にともなって岡崎牛尾家四代当主となり、家禄三百石を継承した。その後、先祖と同様に江戸詰用人として江戸に向かい、正徳4(1714)年、藩主・水野忠之(和泉守)が京都所司代に就任すると側用人に就任。五十石の加増を受けて三百五十石となる。その後も藩主・水野忠之の信任厚く、次代の水野忠輝(監物)からも信頼され、元文元(1736)年6月23日、隠居願を出したものの許されず、その翌年、新藩主・水野忠辰(監物)に隠居願を再提出したが再び許可されず、その8年後の延享2(1745)年8月25日、65歳になってようやく隠居が許された。このとき、家禄のうち五十石が隠居料として公胤に与えられ、残り三百石は、養嗣子・牛尾胤明(弥左内。四郎左衛門)に継承された。宝暦9(1759)年11月9日、江戸において亡くなった。岡崎藩の名宰相のひとり。
岡崎藩牛尾家の五代目・牛尾胤明(四郎左衛門)は、正徳4(1714)年、藩侯の一族である水野正時(文左衛門)の嫡男として誕生するが、庶長子の水野正義(主殿)が家督と定められたため、藩侯・水野忠之の命によって牛尾公胤の養子となった。家老・公胤の養嗣子として順調に立身を重ね、延享2(1745)年8月25日、家禄三百石を継承している。養父・公胤と同じく藩侯の信任あつく、江戸留守居年寄に就任し三百五十石を食んだ。さらに、寛延2(1749)年正月の「岡崎騒動」(在国の重臣達が一斉に登城を拒否した事件)では、江戸から国元に急行し、双方の調停を成功させる手腕を見せた。藩主・水野忠辰は、若くから英邁な人物で、若干十九歳にして藩政改革に乗り出し、藩財政を完全に立ち直らせた。しかし、この急激な改革に、いつの時代も同じだが、これまで国元で藩政を牛耳っていた重臣達が反発して登城拒否をしたのが「岡崎騒動」である。
しかし、忠辰と重臣達の対立は続き、若き藩主・忠辰は重臣達の妨害のために改革を行えないことを悟り、ついに藩政を投げ出して江戸屋敷にて放蕩に明け暮れるようになる。そんな中、宝暦元(1751)年9月14日、忠辰の母親・順性院が忠辰を諌めるために自害して果ててしまった。忠辰は失意の中で11月11日、亡き母の墓参のため江戸藩邸表座敷に出て、胤明・中村紋左衛門と対面したが、このとき胤明は忠辰に飛びかかってその脇差を取り上げ、藩邸内の座敷牢に藩侯を幽閉した。江戸藩邸の宰相として信頼していた胤明に裏切られた形になった忠辰はもはや表舞台に立つ気力は失せ、宝暦3(1753)年、忠辰は座敷牢の中で憤死した。29歳。
一方、胤明は宝暦2(1752)年3月、忠辰は狂疾につき隠居許可を幕府に訴え、一族の旗本・水野守満(平十郎)の次男・忠任を養嗣子とする旨を嘆願した。その後は忠任に忠勤を励み、江戸詰家老のまま五百石に加増。しかし、明和元(1764)年、藩の負債についての責任を取らされて隠居謹慎を命じられ、家督を養子の牛尾喜内に譲った。
安永4(1775)年には謹慎を解かれたが表舞台に立つことはなく、安永9(1780)年4月18日に亡くなった。67歳。
―牛尾氏略系図―
→平常長―+―常房====常宗―――常継――常朝――朝房――親朝―――親胤―――――――牛尾泰親
|(鴨根三郎)(原四郎)(十郎)(平次)(五郎)(弥五郎)(弥平次左衛門尉)(五郎)
|
+―常宗
(原四郎)
→原胤親―+―胤房―――――胤隆―――+―胤清―――――――+―胤貞――――――胤栄
(孫次郎)|(越後守) (讃岐守) |(式部大夫) |(上総介) (式部大夫)
| | |
| +―範覚 +―牛尾胤直====胤仲――胤長
| |(妙見座主) (弥五郎) (右近)
| |
| +―娘
| ∥――――――――+―常覚
| 千葉介勝胤 |(妙見座主)
| |
| +―覚胤
| (妙見座主)
|
+―胤善―――――牛尾胤資―+―胤広―――――――――胤家――――+―胤重―――胤清===胤直
(新左衛門尉)(美濃守) |(尾張守) (隼人正) |(左衛門)(弥五郎)(弥五郎)
| |
| +―右衛門尉
| |
| |
| +―竹二郎
|
+―五郎右衛門――――――五郎右衛門―+―源七郎
| |
| +―胤道
| |(左京亮)
| |
| +―半七郎
| |
| +―出羽守
|
+―仁戸名三郎左衛門―+―大和守
| |
+――娘 +―牛尾主計――+―胤仲
| ∥ | |(右近)
| 高城和泉守 | |
|(小金城主?) | +―加瀬胤時
| | (薩摩守)
+――娘 |
∥ +―兵部少輔――――僧
府中石塚妻 (妙見座主範覚弟子)
●天正5(1577)年4月6日「牛尾胤仲鰐口銘文」(多古妙光寺所蔵:『中山法華経寺文書』所収)
●某年9月10日「牛尾胤仲書状写」(『井田氏文書』:『戦国遺文』所収)
牛袋
武石一族。陸奥国宇多郡亘理郷牛袋邑(宮城県亘理郡亘理町牛袋)を領して牛袋を称した。その子孫・牛袋忠胤(利兵衛)は徳川家康の使い番として召し抱えられ、御徒目付を経て二ノ丸火番となった。家紋は「九曜」。
―旗本牛袋氏―
→千葉介常胤-武石盛胤―…―長谷胤安-坂本胤之-胤則――牛袋胤祐-大平胤貞-小平長胤-牛袋胤時――+
(三郎) (次郎) (四郎) (五郎)(長門守)(八郎) (八郎) (治部少輔) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―時重――――照胤―――照氏―――長胤―――+―之民
(七郎五郎)(豊後守)(越前守)(太郎五郎)|(山城守)
|
+―之胤――――胤氏―――――直行――伯耆守-忠胤――+
(十郎三郎)(十郎左衛門)(左源次) (利兵衛)|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―宣胤===知重――――――秀胤―――垠胤==貞胤――――――――――胤房
(利兵衛)(小島昌沢の子)(左兵衛)(利作)(左兵衛・内藤助政の子)(左兵衛)
臼井城内より印旛沼を望む |
上総一族。千葉一族有数の大族。千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。
臼井氏は他に志津城(佐倉市上志津字御屋敷)・岩戸城(印西市岩戸字高田山)・師戸城(印西市師戸)といった支城があり、一族や重臣に守らせていた。また、葛西氏に養子に入ったとされる葛西清時(千葉介頼胤の子)に従って臼井常俊(三郎左衛門)が奥州に赴いたとされるが、葛西清時は実在の人物であるかどうか不明であるほか、ともに赴いたとされる「亀卦川」氏は千葉氏の一族ではなく、葛西庄木毛川の豪族であったと思われるため、葛西氏に従ったという臼井氏がいたのかは不明。
下総国臼井郷の臼井氏はその後、上総権介広常に連座して臼井郷を没収され、千葉介常胤が下総国を実質的に支配した際にふたたび臼井一族に与えられたか?
鎌倉末期から南北朝期の争乱では、足利尊氏に一貫して荷担した臼井興胤がふたたび臼井郷を中心とした勢力を築き、戦国時代末期まで代々続いた。
[Special thanks:千葉江州様]
臼倉
千葉一族。武蔵国足立郡の豪族で、武蔵千葉氏の千葉介自胤の子孫と伝わる。
臼田
上総一族か。
「うなかみ」と読む。千葉一族と東一族の二流があって、最初は千葉介常胤の叔父・海上常衡が下総国海上郡を領して海上を称した。その一流を継いで、東重胤の子がそろって海上を称した。
[Special thanks:石毛様]
◆千葉氏流海上氏◆
平常兼の十一男・常衡(与一介)が下総国海上郡を領して海上を称する。平安時代末期、平常兼の嫡男・平常重が「下総権介」に任官して千葉介を称していたが、下総国千田庄には平家と婚姻関係にある下総藤原氏が国司としてあり、領地の支配権を巡って常重・常胤親子が対抗していた。藤原氏は千田庄周辺の下総平氏を支配下に取り込んでおり、常重の弟である常衡も海上庄司として藤原氏と密接な関係にあったと思われる。また、常重らと敵対関係にあった常陸佐竹氏とも深い関係があったと思われ、さらに子・常幹とともに、諱の「衡」「幹」から常陸大掾氏とも何らかの関わりがあったことがうかがえる。
-千葉・海上・佐竹・常陸大掾氏周辺系図-
+―千葉介常重―――千葉介常胤
|
平常兼―+―海上介常衡―――海上常幹―――片岡常晴
(下総権介) (下総権介) (介太郎) (太郎)
∥
佐竹義業 +―佐竹忠義―――娘
(進士判官代) |(太郎)
∥ |
∥―――――佐竹昌義――+―佐竹隆義―――佐竹秀義
∥ (三郎) |(四郎) (佐竹冠者)
∥ |
∥ +―佐竹義季
∥ |(蔵人)
∥ |
+―吉田清幹 +―佐竹昌成
|(多気権介) |(八条院蔵人)
| |
+―多気致幹―――多気直幹 +―娘
(多気権守) (常陸大掾) (藤原秀衡妻)
∥
∥―――――――多気義幹
∥ (常陸大掾)
千葉介常胤――娘
(下総権介)
*****************************************
◎海上氏略系図◎
⇒平常兼―海上与一介常衡―介太郎常幹―小大夫常親―小大夫次郎常宗
※上記の「介」という称は「下総権介」をあらわしているものと思われる。つまり「千葉介常胤」であれば「千葉庄(もと千葉郷)」に居住する「下総権介」の「平常胤」ということになる。これを常衡以下にあてはめると、
◎海上与一介常衡⇒「海上郡(海上庄)」を領し「下総権介」に任じられている、平氏の11男(与一)の常衡
◎海上介太郎常幹⇒「下総権介」の「長男=太郎」である常幹
◎小大夫常親⇒「従五位下=大夫」である父・常幹の子の「従五位下=大夫」の常親
◎小大夫次郎常宗⇒「小大夫」の常親の「次男=次郎」の常宗
常衡の背景には、下総西部に摂関家の家人である下総守藤原親通―下総大夫親盛の力が及んでいたと考えられ、さらに親通流藤原氏と関わりを持つ佐竹氏=常陸大掾家(常陸平氏)とも交流があった。とくに海上氏の本拠である三崎荘はのちに「殿下御領」として見えるように摂関家の御領であったのだろう。摂関家(忠実、頼長)の家人としてのつながりから下総守親通と海上氏は関係を有していたと思われるが、親通が千田庄の寄進(鴨根三郎常房からの寄進か)を受けたのも親通の下総守在任中か。そして海上庄に西接していたのが、橘庄(立花庄)であった。この橘庄の荘官が、鳥羽院領千葉庄を本拠とする千葉氏だった。千葉氏は「下総権介」(任用国司か)という有力在庁であり、下総国の既得権益を狙う摂関家家人親通にとって、鳥羽院に仕える千葉氏は厄介な存在であったことが推測される。千葉氏から合法的に知行地を奪う方法が、国司として租税未納を突くことだったのだろう。この結果、千葉氏は橘庄と相馬御厨の権益を奪われることとなり、橘庄についてはその後係争地とはなっておらず、千葉氏はこの地を放棄したのであろう(橘庄と千葉氏の由緒は語られず、それほど大きな由緒地ではなかったのだろう。一方で相馬御厨については相当に揉めており、この地が遠祖たる良文、忠常以来の由緒地だったためだろう)。そして「下総権介」も国司の任用であったのだろう。
千葉氏の「下総権介」が除目による本任か国司による任用かは不明だが、受領による任用は掾・目に限られていた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。ただし、祭祀や儀式、そして「辺境という特殊性を前提とする」場合等には、国司は「介」以下の任用国司を「推薦」することもできた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。この際には、国司が「誰かによる口入を経たうえで、年給の枠を持つ、より地位の高い有力者に推薦を依頼する必要」があったとされる(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。下総平氏が独占して代々「下総権介」に就いていた理由は、承平の乱や長元の乱といった大規模な騒乱のあった関東の治安の要として、当国に「一定の関係を持ち、地縁から現地において重要な役割を果たしうる存在として、歴代の受領から権介への就任を求められ続けた」(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)可能性が高いだろう。親通は千葉氏から「下総権介」を取り上げ、緊密な関係を持つ海上常衡を任じたのであろう。
しかし、頼朝が挙兵して親通流藤原氏が滅ぼされると、海上氏は千葉介常胤に放逐された。
◆東氏流海上氏◆…《海上氏のページ》
親通流藤原氏が滅ぶと、下総国の大部分は千葉介常胤に与えられ、海上庄・東庄などは六男・千葉胤頼に継承されることとなり、胤頼は「東」を称した。そして彼の嫡男・東重胤があとを継ぎ、その子、海上胤方(二郎)・胤有(五郎)・胤久(七郎)の兄弟が海上庄に移り住んで東氏流海上氏が成立した。
胤方の孫・海上胤泰(六郎)は、兄・海上教胤(太郎左衛門尉)を差し置いて三崎庄中島城・飯沼城を受け継いで海上惣領家となった。その子・海上師胤(理性)は応安3(1370)年8月、鎌倉に在府しているとき、義堂周信(夢窓疎石国師の弟子で足利基氏に招かれて鎌倉にいた。のち足利義満の信頼をうけて京都南禅寺の住持となる)と接触していることがわかっており、彼の子・海上公胤(理慶)は鎌倉にいて奉公衆になっているようなので、師胤が在府しているときに鎌倉公方との主従関係が発生し、その子・公胤はすでに奉公衆となっていたのではなかろうか。
公胤の子・海上憲胤とその子・頼胤は鎌倉公方・足利持氏の近臣として幕府に出仕し、頼胤は鶴ヶ岡八幡宮に対して下野国佐野庄内富地郷の半分を寄進している(『前信濃守頼胤寄進状』)。上杉禅秀の乱では足利持氏に味方して武勇を示した。この時、禅秀に味方していた主筋にあたる千葉宗家の千葉介満胤・兼胤親子とは敵味方となったが、禅秀の敗戦と千葉介満胤の出家にともなう兼胤の千葉介就任・千葉家家督相続によって、足利持氏と千葉氏の和解が図られ、憲胤親子は奉公衆を離れて千葉氏に属すことになる。持氏と千葉氏の融和にはかつての千葉氏家臣だった竜崎氏・島崎氏・木内氏そして海上憲胤が調停役を果たしたものと思われる。ただ、その後におこった永享の乱では憲胤は足利持氏に味方することなく、持氏は敗死する。嘉吉元(1441)年4月12日、「海上信濃守」が「結城合戦」に参陣していることが『房総里見誌』の中に見え、同書によれば頼胤は幕府側として参戦していたようだ。
その後、幕府の許しを得て持氏のあとを継いだ足利成氏(足利義成=義政の偏諱を受ける)は、敵となった海上頼胤の所領・下総国天命を没収し、持氏とともに戦死した印東常貞(伊豆入道)の子(?)印東下野守に与えている。海上胤方の弟・胤有の子孫は、本庄氏の祖となった。また、海上胤保は徳川綱吉に仕えて小普請役まで出世した。家紋は「月に九曜」「九曜菊」「鶴丸」。
◆江戸~明治期の海上氏◆
幕末の有名な歌人・歌道評論家である海上胤平は、下総国海上郡三川村犬林(旭市犬林)において文政12(1829)年に生まれた。父は恵葉戸勘右衛門。幼名は猪之助、前名は正胤、通称は六郎、号を椎園と称した。
胤平は東氏の一族で東大神の神主・飯田胤将の3男・涛川胤苗に歌道の手ほどきを受け、その後17歳のときに江戸へ出て、お玉が池の千葉道場へ入門し、千葉周作より北辰一刀流の免許皆伝をうけた。その後武者修業のたびに出、父・賢胤が63歳でなくなる嘉永4(1851)年まで各地を転々とした。その後、紀州へおもむいて、紀州藩撃剣師範となった。そこで紀州藩の国学者・加納諸平に師事し、国学、とくに万葉集を修めている。安政4(1857)年に加納が亡くなると紀州藩を辞してふたたび武者修業のたびに出た。
明治時代になると、山形県地方裁判所判事補、さらに裁判所長官となり、国事犯として投獄されていた陸奥宗光の世話をしている。明治13(1880)年9月、兄の信胤が亡くなったので帰郷した。
胤平の祖は千葉介重胤の子・胤行とされ、千葉一族は小田原の陣に北条氏に味方したが、当主の重胤はわずか7歳であり、海上郡中島城主・海上保胤が彼を補佐した(『千葉大系図』)。しかし小田原城はあえなく落城、保胤は娘(5歳)と千葉介重胤を、娘の乳母・江波戸五郎左衛門に預けて、自身は中島城に戻って戦死した、とされる。ただ、千葉介重胤には『千葉大系図』などには子がないことになっており、胤行の事歴は不明。
『前信濃守頼胤寄進状』
●海上氏と水運交易●
海上氏は下総国北東の三崎庄周辺を治め、さらに香取海(現在の利根川・手賀沼・霞ケ浦などがひとつの内海になっていた)の水運や漁業に深く関与し、香取社に供物を運ぶ義務を負わされていた漁民達を支配下においていた。海上氏は三崎庄内(現在の銚子市)の垣根・野尻・渋川の三津と飯沼を支配していて、水運からの権益で莫大な利益を得ていたと思われる。海上氏の居城・飯沼城は香取海を望む高台(現在は飯沼山円福寺。飯沼観音で有名)に位置し、これら水運の利便を考えての築城だったと考えられる。海上氏のほかに、木内氏・神崎氏らも水運業を行っており、彼らの水運輸送によってもたらされた中国青磁や国産陶器、中国銭などが椿海(現在の旭市:旧旭市地区)沿岸にあった鏑木城・椿城・飯塚城などから発見されている。
●天正18(1590)年 ―小田原に入城した海上氏の一党―
海上山城守胤秀 | 宮内城右衛門 | 宮内右京進 | 本庄三郎右衛門 |
本庄五郎左衛門 | 本庄孫八郎 | 横根孫太郎 | 石毛太郎左衛門勝行 |
石毛豊後守 | 石毛東兵衛常行 | 石毛石見守 | 石毛三郎右衛門 |
石毛加賀守盛朝 | 石毛太郎兵衛 | 石毛内膳正 | 石毛孫六郎 |
石毛式部 | 石毛隼人 | 常世田右近 | 常世田七郎右衛門 |
常世田左内 | 長谷右馬助 | 中村三郎左衛門 |
●海上氏略系図一
→平常長-平常兼―+―千葉常重
|(千葉介)
|
+―海上常衡
(与一介)
●海上氏略系図二
海上介常衡――常幹―――片岡常晴
(下総権介) (介太郎)(太郎)
∥
佐竹義業 +―忠義――――娘
(進士判官代) |(太郎)
∥ |
∥ +―娘
∥ |(藤原秀衡妻)
∥ | 二階堂頼綱娘
∥――昌義―+―隆義―+―稲木義清―■■――――――義保――■■―義繁 ∥―――+―長倉義綱
∥ (三郎)|(四郎)|(又次郎) (三郎) (宮内大輔) ∥ |(三郎)
∥ | | ∥ ∥ |
∥ +―昌成 +―秀義―――南酒出義茂 +―娘 宍戸家周娘 +―行義 +―大内義高
∥ |(蔵人) (別当) (六郎) | ∥―+ |(常陸介) |(鷲子別当)
∥ | ∥ | ∥ | | |
∥ | ∥――+―義重――――+――長義 +―義胤――+―小川義継 +―大塚掃部助
+―吉田清幹 +―義宗―――娘 |(常陸介) | (常陸介)(常陸介)|(三郎) |
|(多気権介) (雅樂助) | | | |
| +―北酒出季義 +―義直 +―稲木義信 +―中条貞宗
+―平致幹――――直幹 (八郎) |(三郎) |(又次郎) |(六郎)
(多気権守) (常陸大掾) | | |
∥ +―岡田義澄――真崎義連+―登米義熈 +―高久景義
∥―――――義幹 |(四郎) (次郎) |(彦四郎) |(但馬守)
∥ (常陸大掾) | | |
∥ +―岡部義綱 +―高部景義 +―娘
∥ |(五郎) (五郎) |(額田義教妻)
∥ | |
+―娘 +―重氏 +――――――+
| (六郎) |
| |
→千葉介常胤―+―東胤頼―重胤―――+―海上胤方―+―阿玉胤景―+―海上教胤 +―貞義―――月山周枢
(六郎)(太郎兵衛)|(次郎) |(左衛門尉)|(太郎) (常陸介) (夢窓国師弟子)
| | | ∥
| | | ∥――+―義篤―――義宣
+―海上胤久 | +―海上次郎 +―娘 |(右馬頭)(伊予守)
|(七郎) | | | |
| | | | +―小瀬義春
| | | | (常陸介)
| | | |
| | +―海上胤泰―+―師胤―――公胤
| | (左衛門尉) (筑後守)(六郎)
| |
| +―兼胤――――胤見―――治胤――胤豊
| (五郎九郎)(孫六郎)(六郎)(兵庫介)
|
+―海上胤有――長胤
(五郎) (四郎)
●海上氏略系図三
→千葉介勝胤―+―千葉介昌胤―海上胤富 +―東棟胤
(千葉介) |(千葉介) (山城守) |(大膳大夫)
| ∥ |
| ∥―――+―千葉介邦胤
| ∥ |(千葉介)
| ∥ (?)
| 海上常元―+―娘 +―海上胤盛
|(山城守) | (山城守)
| +―妙柵
| ∥―――――房胤
+―成東胤定―――勝定 (権七郎)
(兵部少輔) (兵庫)
●海上氏略系図四
●旗本海上氏略系図
→海上胤保==良胤============胤房――――――胤貞――――通胤
(弥三兵衛)(弥兵衛・長谷川安茂の次男)(富永胤親の子)(弥左衛門)(久米之助)
●海上氏の家臣
・飯沼海上氏…木内・榎戸・海上・飯沼・森戸・笹本・石出・今泉・本庄・辺田・高上・松本・船木・馬場
祖母井
大須賀一族。「うばがい」と読む。君島範胤の子・貞範(左京亮)が下野国芳賀郡祖母井村(栃木県芳賀郡芳賀町大字祖母井)に住んで祖母井を称した。その後、君島胤元の子・貞久(伊予守)が祖母井氏を継いだ。
宇都宮頼綱―+―泰綱――+―景綱――――貞綱―――高綱――――氏綱――+―基綱――――満綱
(下野守) |(下野守)|(下野守) (三河守)(兵部少輔)(下野守)|(下野守) (左馬頭)
| | |
| +―氏家盛綱――娘 +―娘
| (上総介) ∥ ∥
| ∥――――泰胤 ∥―――――秀胤
+―上條時綱――娘 ∥ (四郎) ∥ (平次郎)
(美作守) ∥―――――綱胤 ∥ ∥
∥ (備中守) ∥――――知胤 ∥
+―君島成胤――胤時 ∥ (四郎) ∥
|(左衛門尉)(備中守) 益子貞正―娘 ∥――――――胤元――――祖母井貞久
| (出雲守) ∥ (備中守) (伊予守)
+―祖母井貞範 ∥
(左京亮) +―娘
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+―氏家綱経
(備中守)
康暦2(1380)年正月、小山義政(下野守)が鎌倉公方・足利氏満の召しに応じず、一族をあげて反抗の姿勢を示した。この関東屈指の大名・小山氏の反抗は鎌倉を騒然とさせたため、幕府は今川貞世(伊豆守)を鎌倉に派遣することとなった。この際、宇都宮基綱も一手の大将として小山城へ派遣され、先鋒軍の中に君島備中守・祖母井信濃守・風見源右衛門・大宮兵部右衛門・延生八郎右衛門などといった、大須賀氏系君島一族が名を連ねている。ここに見える「君島備中守」は君島胤元(備中守)であろうと推測される。「祖母井信濃守」は胤元の子・祖母井貞久(伊予守・信濃守)のことか。
また、上記の貞久と思われる「祖母信定久」が「御堀内(那須氏の重臣のことか?)」へ宛てた書状が残されている。某年3月18日、那須氏との領境で、祖母井氏の「召仕候者」が那須氏の家臣と争ったことについて、那須氏は那須氏側の該当人を成敗した上に、祖母井氏側の該当者をも討った様だ。貞久は那須氏を恐れ、「扨亦於此上も屋形様御立腹相止為可申候条、愚領一村も二村も取揚放火様、御取成畢竟頼入候」と那須氏の重臣に取り成しを頼み、さらに「累年奉対御当方、毛頭不存無沙汰旨趣ニ候、其上結城、中久喜之御事も、御当方御同前ニ奉執候間、有如何様も、悪事之者共取扱可申令逼塞候…」と、那須氏について毛頭異心はないことを強調した。「結城、中久喜之御事」とは先年起こった小山義政の乱を指しているのかもしれない(『祖母井貞久書状』:「瀧田文書」)。
永禄元(1558)年、上杉謙信・結城政勝・小山高朝らが宇都宮領内に押し寄せ、宇都宮広綱の重臣・多功長朝(石見守)は寄手の大将・佐野小太郎を討ち取るなど、上杉勢との激戦の末、ついに上杉勢を敗退させた。この戦いで、多功長朝(石見守)・房興父子、上三川頼成(越中守)・芳賀業俊(伊賀守)・簗河内守・簗吉朝(五郎)などが大功を挙げたが、祖母井吉胤(信濃守)・兒山兼朝(三郎)・矢板長則(周防前司)らが討死を遂げた。
元亀3(1572)年閏正月、北条氏政の命を受けて小山秀綱(弾正少弼)を討つべく、小山祇園城に北条氏邦(新六郎)・太田氏房(十郎)の軍勢を派遣したが、小山城は思川の激流と堅牢な要害で守られており、ついに北条勢は城を落とすことはできなかったため、多功城に攻め寄せた。このとき、寄手の大将・松田左馬助は、城方の簗吉朝(五郎)の放った矢にあたって討死を遂げている。結局、北条勢はここでも惨敗して退却した。
翌日、北条氏邦はさらに城攻めを続けようとするが、宇都宮城から赤垣高綱(信濃守)・戸祭房相(備中守)・野中則興(伊予守)・祖母井越前守・壬生伯耆守ら千五百騎が援軍として多功城に向かっている情報が入ったため、北条勢は武蔵国へと退いた。
天正年中、佐竹義重と北条氏政が常陸国小川台で対陣した際、宇都宮広綱は「所々之城代十二手」を率いて義兄・佐竹義重に味方しているが、これが宇都宮家の軍勢の中心となって活動していたと考えられる。この十二手のうち、祖母井城代として千二百八十石(のち千六百五十一石)を領していた祖母井信濃守が見える。
天正14(1586)年4月10日、「祖母井修理亮」が亡くなっている。法名は安宗道音禅門(『下野国日月供名簿』)。これは高野山の塔頭・清浄心院に伝わる供養帳の記載にあり、日牌供の依頼であることから、地位の高い人物と考えられる。
天正18(1590)年9月、那須資景(与一)・大田原資清(備前守)・大関資増(左衛門佐) ・福原資則(安芸守)・伊王野資信(下総守)・千本道長(常陸介)・芦野弾正忠・岡本信濃守ら二千騎が那須原に出張して宇都宮勢と対峙した。この那須勢の中に、祖母井氏の一族で宇都宮家臣であったはずの「岡本信濃守」の名が見えることから、岡本信濃守は宇都宮家から那須党に加わっていたことがわかる。
この那須勢を迎え撃ったのが、赤垣高綱(信濃守)・野中則興(伊予守)・祖母井越前守・壬生伯耆守・塩谷伯耆守・簗河内守ら八千余騎という大軍であった。しかし、戦いは一進一退で決着がつかず、両者引き退きとなった。
慶長年中に伊勢神宮の内宮御師・佐八氏が下野国の檀那をまわった際に記した檀那調書(『下野国檀那之事』:「芳賀町史」)によれば、「可尋衆之事」として「祖母井修理進殿」とあるが、天正14(1586)年に亡くなった「祖母井修理亮」の子か。
また、同書には文禄2(1593)年3月22日に月牌供「祖母井左京助家中為老母(妙照禅定尼)立之」の記述もあるが、この「祖母井左京助(左京亮)」は慶長年中に宇都宮家重臣として活躍している人物である(『大和田重清日記』)。「祖母井左京亮殿」は「遠州はま松ニテ遠行」とあり、浜松で亡くなっている。宇都宮国綱に従って朝鮮出兵時の上洛途中で亡くなったのかもしれない。また、「太田在所」の「祖母井五郎左衛門尉」が見える。「太田」は現在の塩谷郡高根沢町太田にあたり、伊勢神領の栗嶋(塩谷郡高根沢町栗ヶ島)の北隣にある地である。御師・佐八氏はこの栗嶋を本拠として活動をしていたのだろう。佐八氏の館は現在の栗嶋神明宮にあったか。しかし、佐八氏は「祖母井五郎左衛門尉」を「余ニよき人ニテハなく候ヘ共、栗嶋近所ノ人ナルニヨリ、祓をもやり懇ニ仕候」と評しており、彼にあまり良い感情を持っていなかったようだ(『下野国檀那之事』:「芳賀町史」)。
さらに同書には「祖母井之分」との項目があり、こちらは祖母井氏の惣領家にあたる人々のことと思われる。「祖母井信濃守殿」「同上様」「同御南様(御南)」「黒崎大膳亮殿」「権右衛門尉殿」「祖母井弥七殿」らの名が見える。「御南様」は「祖母井殿御隠居歟」とあり、「那須ニ御座候歟」とされていて、那須に住んでいたようだ。「黒崎大膳亮殿」は祖母井信濃守の奏者であり、以前は「助七」「遠江守」と称していた。
宇都宮家滅亡後の祖母井家の動向は不明。宇都宮家に従って水戸藩に仕えているのかもしれない。
また、伊予国にも祖母井氏が見えることから、鎌倉時代末期に伊予国守護となった宇都宮豊綱に扈従して伊予に遷った一族もいたと考えられる。
―祖母井氏略系図―
→大須賀胤信-君島範胤――+―成胤――――胤時―――綱胤―――泰胤―――知胤―――胤元―――祖母井貞久
(四郎) (十郎左衛門)|(左衛門尉)(備中守)(備中守)(備中守)(備中守)(備中守)(伊予守)
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+―祖母井貞範
(左京介)
上総一族。庁南常成の四男・盛常(四郎)が潤野と称した。
―潤野氏略系図―
→庁南常成-潤野盛常
(四郎) (四郎)
【え】
江指
千葉一族。平常長の子・次浦常盛(八郎)の子孫・常重(右衛門尉)が香取郡千田郷江指村(香取郡多古町次浦付近か)を領して江指を称した。『神代本千葉系図』によると常盛の子には右馬允某と常重(右衛門尉)が見えるが、右馬允某の孫にあたる「常重(平次右衛門尉)」とその子「常光(平次六郎)」・「常後(常俊の誤りか。平次七郎)」は右馬允某の弟「常重(江指右衛門尉)」とその子二人「常光(六郎)」・「常俊(七郎)」は同一人物か。
『神代本千葉系図』
次浦常盛―+―右馬允――――千田常家―江指常重―――+―朝常
(八郎) | (平次) (平次右衛門尉)|(太郎兵衛尉)
| |
| +―常光 +―常光――――岩澤常忠―――常貞
| |(六郎) |(平次六郎)(平次左衛門)(六郎)
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+―常重―――+―常俊 +―常後
(右衛門尉) (七郎) (平次七郎)
ただ、右馬允系の常重・常光・常後は「平次」を「○郎」の前に附けている。これは、右馬允の子として書かれている「常家(千田平次)」が「平次」を称しているところから来ているものと思われる。常家に子がなく、叔父・常重が跡を継いだのかもしれない。
-江指氏略系図-
→平常長―次浦常盛―千田常家―江指常重――――朝常
(八郎) (平次) (平次右衛門尉)(太郎兵衛尉)
江藤
千葉一族。原氏の末裔・江藤胤晴(六郎左衛門)が円城寺胤清らとともに千葉胤貞(大隈守)に従って肥前国に下向した。戦国末期、江藤統晴は豊後国府内の大友義統に仕え、その孫・江藤重胤が肥後熊本藩主・加藤清正に仕え、子孫は細川忠興にも仕えている。熊本城の出城に「千葉城」なるものがあるが、これは文明元(1469)年に菊地氏の一族・井田秀信(筑前守)が築城した城で、「隈本城」の基礎となった城である。秀信は文明17(1485)年に御船で討死を遂げて空き城となったが、明応5(1496)年に鹿子木親員(寂心入道)が入城したものの、手狭であったために隈本城を築城して廃城となった。
肥前に残った江藤氏の子孫・江藤主計允は天文15(1546)年、龍造寺家兼が仇敵・馬場頼周を討つ際に粉骨砕身の働きをして勝利に導いた(『泰國院様御年譜地取』)。その子・江藤助右衛門は龍造寺家と有馬家の島原の合戦において江上家種(龍造寺隆信の子)の陣に加わり、鍋島直茂とともに活躍。『直茂公譜考補』によれば、この戦いで龍造寺家が敗れて敗走の際、助右衛門は鍋島直茂・鍋島丹波守とともにすばやく船を集めて島原へ渡海したことが記されている。その後、竜造寺氏が鍋島直茂に取って代わられると佐嘉を離れて隣接する木ノ角村に移り住んだ。さらに、朝鮮戦役では鍋島勢に加わり、吉州の戦いで助右衛門は比類なき軍功を挙げ、「御衣服」を拝領し、「格別戦功之家筋」であった。
18世紀の半ば、江藤道胤(助右衛門)の孫世代にあたる江藤惣次郎が、名君で知られる八代藩主・鍋島治茂から直々に取り立ての命を受け、藩士となることを命じられた。この治茂という藩主は藩主につくや、逼迫した藩財政を憂い、贅沢を禁じ、自らも質素な生活をおくる一方で藩校・弘道館を建てて、藩士の学力向上を図った。さらに「お取立て」という制度を設け、旧竜造寺家の家臣の子孫をお目見え格の藩士として取り立てて士風振興を図った。
しかし江藤惣次郎は、佐賀に移転する前の安永5(1776)年11月19日、妻とともに不可解な死を遂げ、その嫡男・新兵衛(助右衛門)が佐賀郡八戸村(佐賀市八戸町)へと移り、安永7(1778)年6月26日、移り住んだ屋敷内に祠を建てている。彼は藩に召し抱えられると、郡目付に抜擢されるが、汚職事件を起こして五郡払の処分を受けて追放。享和3(1803)年3月、赦免された。
―佐賀藩地方行政機構―
◎郡奉行―――代官―――目付役――手許役――――下役――――警護・門番・使番
(着座二名)(侍二名)(侍四名)(手明鑓六名)(徒士四名)(足軽九名)
新兵衛の二男は深堀の江口家を継いでいたが、寛政4(1792)年正月に兄が没したため、享和3(1803)年3月、嫡男・江口六郎太夫を江口家に残して佐賀に戻り、江藤家を継いで江藤道員(助右衛門)を称し、父と同じく郡目付となった。
その子・江藤胤光(熊三郎・助右衛門)も郡目付として有田地方の巡察を担当している。当時の藩主・鍋島直正も幕末の名君として有名。質素倹約を旨とし、17歳で藩主となって以来、木綿の着物を着し、千石以上の一門・家老などには俸禄米の約50%を藩財政の補填のために献納させる一方で、下級藩士などからの献米は最高でも18%にとどめるなど、藩内の改革をすすめていった。さらに大砲(日本初のアームストロング砲)などを鋳造し、明治維新の富国強兵の足がかりをも作った人物としても知られる。佐賀藩の石高は支藩も含めて35万石とされるが、直正が藩主をつとめていた幕末の弘化元(1844)年には、実高88万8792石という驚くべき成果をあげている。
胤光の嫡男・江藤恒太郎は父や祖父から厳しく教育を受け、幼いうちから馬術、剣術、水泳などを鍛えこまれた。さらに母・浅子(佐賀藩士・浦忠左衛門の娘)からは弟・江藤源之進(源作)、妹・栄子らとともに四書五経などの学問を教え込まれ、恒太郎は文武両道の青年となる。嘉永元(1848)年、元服して江藤又蔵胤風と称した。のちの明治新政府参与・江藤新平胤雄である。
彼は弘道館時代、大木民平(のちの大木喬任)や副島種臣と親しく交わっており、副島は「江藤は余の親友なり。佐賀の諸友中その交際の最も親密なりしは江藤を以って第一と為し、大木これに次ぐ」と語っているが、もともと副島は新平より六歳年上でなおかつ学問に優れていた。また、彼は弘道館の大教授・枝吉南濠の子という家柄もあって、はじめのうちは新平には近寄りがたい存在であったかもしれない。
嘉永3(1850)年5月25日、副島の兄・枝吉神陽は佐賀藩の勤皇志士を集めて「義祭同盟」を発足させたが、相良宗右衛門・副島種臣・島義勇・木原隆志・大木喬任・中野方蔵らに並んで新平も名を連ねた。その後、この同盟に大隈重信も参加しているが、次第に攘夷運動にまで発展。藩はこの尊攘運動を危険視して、新平らは永蟄居を命じられてしまった。しかし、王政復古の大号令が出されると赦免されて倒幕軍に加わり、東征大都督府軍監・江戸鎮台府判事をつとめて開城直後の江戸支配を任され、江戸への遷都を主張して認められ、明治天皇は江戸城に入ることになった。
佐賀本行寺の江藤新平墓 |
明治時代になると、新平は副島種臣・大木喬任らとともに新政府の重鎮となり、司法卿・文部大輔・左院副議長などを歴任し、司法整備に努力をした。しかし、西郷隆盛の征韓論に同調して大久保利通らと対立し、すべての官職を辞して佐賀に戻った。板垣退助の「民選議員設立建白書」などに参加もしているが、明治7(1874)年、新平を支持する佐賀の若者たちが彼を擁立して反乱を起こし、新平は新政府軍に捕えられて斬首された。彼に最後まで従った江口村吉は、新平の伯父・江口家に養子に入った六郎大夫の長男。彼の姉・千代子は新平の妻。
新平の死後、弟・江藤源作は新平の二男・江藤松次郎(長男・熊太郎は早世)と母親を長崎の屋敷に呼んでその世話をし、貿易商としても活躍した。尊敬する兄・新平を見習って、貧しい学生を書生として養ってもいる。新平がかわいがっていた書生の一人・福島安正はのちシベリアを単独横断して世界中に名を知られた人物。
そして明治11(1878)年、源作は松次郎(新作)を東京の大学に入れるために上京。このとき源作は、兄・新平を殺した大久保利通の馬車を紀ノ坂で待ち伏せ、大久保と顔をあわせた。このとき、大久保がひどく驚き狼狽したことを娘・富貴に語っている。この直後から大久保は登庁の道を遠回りになる紀尾井坂に変更し、結果的に島田一郎らに暗殺される結果となる。
東京で学んだ江藤新作はのち佐賀に帰り、佐賀県から衆議院議員に立候補し、犬養毅首相の側近として活躍した。
―江藤氏略系図―
平常将―常長―原常宗―常行=行氏―――――岩部公常―常氏―常正―江藤胤晴―公晴―公将―繁常―+
(四郎) (岩部盛氏六男) (六郎左衛門) |
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―公氏―治定―公宗―統晴―胤氏―重胤
―江藤新平家系図―
→江藤胤晴―…―助右衛門―…―道胤―――■―惣次郎―――助右衛門―道員―――+―江口六郎太夫―+―村吉
(六郎左衛門)(仕江上家種)(助右衛門) (仕佐嘉藩)(郡目付)(助右衛門)| |
| +―千代子
| ∥――新作
+―胤光 +―――胤雄
(助右衛門)| (新平)
∥ |
∥――――+―源作―――源九郎
∥ |
浦忠左衛門―――娘 +―栄子
江井
相馬一族。「えねい」と読む。行方郡江井邑(南相馬市原町区江井)を発祥地とする。
相馬重胤の代には、相馬家の奥州行方郡在地代官として、江井館に江井丹波がいた。彼ら代官は相馬家の所領を横領しており、重胤は行方郡に下向した際に、太田邑日中内の太田兵衛に命じて各所の代官を集めさせ、忠誠を誓わせたという。
相馬胤村(五郎左衛門尉)の六男・相馬胤重(六郎左衛門尉)の子・氏胤(八郎)が江井邑を領したことから、江井を称したという(『衆臣家譜』)。胤重の子孫である相馬胤国(九郎)や相馬是胤(弁房圓明)たちは相馬惣領家に従い、北畠顕家との小高城合戦で活躍をしている。氏胤はこの胤国や是胤の兄か。ただし、氏胤はこの小高城合戦に名前が見えないため、すでに没していたものか。
小高城落城から半年ほど経った建武4(1337)年正月26日、相馬松鶴丸(のちの胤頼)は、南朝方・白河結城氏の宇多庄熊野堂を攻めたが、その軍勢に江井御房丸がいた。彼らは約半年前の5月24日、小高城が陥落したことによって城を失い山野に逃れていたが、宇多庄熊野堂で、足利竹鶴丸(斯波兼頼)・氏家道誠の軍勢が中村六郎広重(白河結城宗広の城代)と合戦に及んでいたことから、足利方として挙兵し、参陣していた。
応仁の乱のころ、相馬高胤に仕えた江井胤満(上野介)がいる。その孫、江井胤治は相馬顕胤から義胤の三代に仕えて、内政から戦いまで幅広く活躍、相馬義胤の代の天正16(1588)年に三春城内で田村梅雪の鉄砲に狙撃され、八十五歳で没した。
胤治には男子がなく、志賀右衛門次郎の次男・作兵衛が婿養子として家督を継承・その長男・江井新太郎は小高郷に十五貫二百七文を知行した。しかしその子・江井新右衛門は元和3(1617)年に所領を没収され、その子・江井弥五右衛門は二十一石余を与えられて渋川村に住する。弥五右衛門の子・江井新太郎は宗家として目迫邑に住し、その弟・江井定清(新右衛門)の子孫は、徒士目附や兵具奉行を務めている。
江井作兵衛の次男・江井八右衛門は小高郷に二十貫五百十文を知行しており、兄・新太郎よりも知行が多かった。その曾孫・江井治右衛門は万治3(1660)年に新知として百石を給わり、台所頭に就任するも寛文12(1672)年に卒去。跡継ぎがなかったため八右衛門家の本家は断絶した。
江井胤治の叔父・江井上野の子孫は幕末まで続いている。江井上野の三男・江井宗九郎の子・左之助は、相馬家重臣・立野伊勢入道道閑胤信の養子となり、立野則房(八左衛門)を称したのち、相馬義胤より「胤」字を給わって「市郎左衛門胤重」と改名した。胤重は初代中村藩主・相馬利胤(大膳大夫)の嫡子・虎之助が誕生すると、その守役に選ばれている。寛永6(1629)年5月28日、二代藩主・相馬虎之助義胤がはじめて大御所・徳川秀忠、将軍・徳川家光へ謁見したとき、家老・泉胤政(藤右衛門)、泉胤衡(内蔵助)と守役として立野胤重(市郎右衛門)が供として義胤に従った。その後は老臣に昇進し、日光社参や江戸への参勤交代などに義胤の傍近くに仕えている。
寛永14(1637)年10月5日、胤重は療養中の中村城下で亡くなった。法名は寶山鑑公。このとき江戸にいた義胤は胤重の死を知り、岡田蔵人を遣わして香典を立野家へ届けさせた。菩提寺の標葉郡新田村香積山華光院に葬られた。のち菩提寺は故あって栃窪村の水田山常安寺となっている。
―江井氏略系図―
→相馬胤村―――+―江井氏胤―…―胤満―――胤宗―――胤治――+―娘 +―新太郎―――新右衛門
(五郎左衛門尉)|(八郎) (上野介)(弾正忠)(河内守)| ∥ |
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+―胤国――胤景――――…【西氏】 +=作兵衛―+―八右衛門
(九郎)(九郎五郎)
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
江井八郎左衛門 | 給人 | 11石 | 宇多郡宇多郷柏崎村 |
江井又二郎 | 給人 | 8石 | 行方郡中郷中太田村(のち上浦村) |
江井寅松 | 給人 | 5石 | 行方郡小高郷川房村 |
江井小平治 | 給人 | 20石 | 行方郡小高郷大井村 |
江井久治 | 給人 | 8石 | 行方郡小高郷蛯沢村 |
江井平次左衛門 | 給人 | 22石 | 南標葉郡前田村 |
恵葉戸
東一族。海上氏の一流。「江波戸」とも。天正18(1590)年、秀吉の軍勢によって北条氏の小田原城が陥されたとき、小田原城に詰めていた幼少の千葉介重胤(7歳)の補佐をしていた海上胤保(蔵人)は、我が娘と重胤を娘の乳母夫・江波戸五郎左衛門に預け自らは下総国中島城に戻って籠り、徳川家康の軍と戦って戦死した。
一方、重胤はこの地に胤行を遺したといわれ、その子・忠胤は徳川家をはばかって(かつて胤保が徳川家康の軍に刃向かって戦死している)、忠胤は母方の江波戸姓と字の異なる「恵葉戸」を名乗り(母は江波戸五郎左衛門=海上胤保の娘の乳母夫の子孫か=の娘)、代々勘右衛門を名乗った。その後、幕末の信胤の代になってふたたび「海上」姓に戻った。信胤の弟・義胤は高力主計の陣代を務め、また商人としても大成した。その弟・胤平は明治時代の国学者・歌人・歌道評論家として知られ、東郷平八郎らが彼に師事したことは有名。また、胤平は北辰一刀流の名士としても知られ、千葉周作より免許皆伝されており、幕末には紀州藩撃剣師範になっている。
海老原
千葉一族。家紋は「九曜」。
江守
千葉一族。家紋は「七宝花輪違い」。
江里口
千葉一族。平常長の子・千葉常房(鴨根三郎)の子孫で、原常継(十郎)の孫・原忠綱(又七郎)の五代の孫・原秀胤(対馬守)が文明元(1469)年12月に肥前に下向して原口と号し、その次男・原口胤清(三郎)の子・常寛(下総守)が「千葉屋形」より肥前国小城郡江里口村(小城市小城町岩蔵江里口)に知行地を与えられて江里口を称した。常寛は永正13(1516)年4月29日、野辺田新二郎、飯篠舎人とともに討死を遂げた。この戦いはおそらく、大内方の東尚盛との合戦であろう。
常寛に男子はなく、仁戸田儀秀(左近)の子を養嗣子に迎えて江里口常併(左馬介)を称した。はじめ千葉家被官であったが、のち龍造寺隆信に仕え、神埼郡竹原(神埼市神埼町志波屋竹原)と小城郡大楊(小城市牛津町乙柳)の内に所領を与えられた。
常併の子・江里口信常(藤七兵衛信秀)は元来勇猛な人物で知られ、龍造寺隆信麾下の勇将として四天王(百武志摩守賢兼・木下四郎兵衛昌直入道生安・成松遠江守信勝・江里口藤七兵衛信常)の一に数えられている。天正12(1584)年、島津家との沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信が討ち取られると、島津家の家人を装って島津陣中本陣まで紛れ込み、寄手の大将・島津家久に手傷を負わせたのち、討死した。
信常の名跡は子・江里口九郎右衛門が継承し、その子・江里口九郎左衛門と江里口彦左衛門の兄弟は元和10(1624)年正月23日、藩公鍋島勝茂の嫡女・市姫(伝高院)が米沢藩主・上杉定勝(弾正少弼)に嫁いだ際に御付として附けられ、江戸米沢藩邸詰めとなったが、その逝去に際して兄弟で追腹を切った。家督は三男・江里口四郎左衛門が継承し、四男・又左衛門は三ヶ崎家の家督を継承した(『江里口家系図』『葉隠』)。
ただし、上杉家の資料によれば、「御婦人附属ノ諸士」としては「江里口右衛門」が記録されており、同年10月11日、「桜田御婦人従属ノ諸士ニ食禄ヲ賜」ることとなり、江里口右衛門は百六十六石六斗が宛てられた(『上杉家御年譜』四 定勝)。この江里口右衛門が九郎左衛門、彦左衛門いずれかと同一人物かは不明。ただし、信常の名跡についてはほかにも説がいくつかあり、信常の娘婿として藤島氏の子を迎えて江里口信貞(九郎右衛門)とし、上杉定勝正室の市姫の逝去に際して追腹を切ったとされる(『葉隠聞書後補』)。上杉家の資料では「江里口右衛門」が載せられており、江里口九郎右衛門のほうが信憑性があるか。
その子・江里口貞知(九郎右衛門)が跡を継いでいるが、その子孫・江里口近兵衛は神代鍋島嵩就(弥平左衛門)に仕えており、その書付に「先祖藤七兵衛二男筋、紀伊守殿家中江里口善右衛門、嫡子筋」とあるため、江里口信常(藤七兵衛)には兄がいた可能性がある。
一方、信常には男子がなく、草野家清(長門守鎮永)の次男・草野永理(左三郎)が信常の後家を娶り家督を継いだとも。永理は鍋島直茂より「江里口左三郎、衣裳立見苦敷候間、為加増米百石被下候」とあり(『葉隠聞書後補』)、困窮していた様子がうかがわれる。そして「追而従親藤七兵衛、無比類立御用候者候間、左三郎依覚悟、猶も可被仰下候」とされ、左三郎は信常の従子であったことがわかる。
延生
大須賀一族。「えんしょう」と読む。君島胤時の子・胤光(二郎左衛門尉)が下野国芳賀郡延生村(栃木県芳賀郡芳賀町下延生)を領して延生を称した。
-延生氏略系図-
→大須賀胤信-成毛範胤-成胤――――君島胤時――延生胤光
(四郎) (八郎) (左衛門尉)(備中守) (二郎左衛門尉)
円城寺[円城寺氏のページ]
千葉一族。原氏と双璧を成した千葉宗家の重臣である。
前期原氏一族である牛尾泰親(五郎)の弟・原胤春(孫二郎)の子・円城寺胤清(左衛門尉)が千葉大隈守胤貞に随い、肥前小城郡に下向して、晴気に住したことが記載されており(『円城寺西原之系図』鍋島文庫)、原胤春(孫二郎)の子孫が印旛郡城村(佐倉市城)に居住し、原氏とともに千葉家の重臣となったと推測される。室町時代には千葉四天王の第四席であったという。
出自としては、平安時代末期、いまだ挙兵前の源頼朝の祈祷僧であった千葉介常胤の子・園城寺律静房日胤を祖とするともされているが、伝承である。
室町時代中期までは原宗家を凌ぐ権勢を誇るが、康正元(1455)年、円城寺下野守尚任ら円城寺一族は、原胤房(越後守)との戦いに敗れて勢力を減退させた。この戦いでは千葉惣領家の千葉介胤宣・千葉介入道常瑞・千葉中務入道了心らも討たれて千葉宗家は滅亡し、傍流の馬場系千葉氏である千葉介孝胤が宗家を継承する。
円城寺氏はこの戦いの後、宗家側臣の一家という立場に追いやられ、原氏は千葉宗家を凌ぐほどの勢力をもつようになる。
●小城円城寺氏●
原氏一族である牛尾泰親(五郎)の弟・原胤春(孫二郎)の子・円城寺胤清(左衛門尉)が千葉大隈守胤貞に随い、肥前小城郡に下向して、晴気に住したことにはじまる。
胤清の子は円城寺胤直(式部丞)と円城寺常春(大和守)がおり、常春は小城山内に住した。その子孫・円城寺信胤(美濃守)は龍造寺隆信麾下の勇将として活躍し、天正12(1584)年、島原半島における島津家と龍造寺家の「沖田畷の戦い」で討死を遂げた。
信胤の長男は杉本房真慶という修験であったため、次男・円城寺吉三郎が家督を継承。隆信を継いだ龍造寺政家より感状を賜っている。その後、鍋島家へ仕えるが、円城寺家の家格は鍋島家家中においては高くなく、吉三郎の子・円城寺久右衛門は手明槍となった。
宝永元(1704)年、久右衛門の孫・円城寺実清(権兵衛)が侍に取り立てられ、切米二十石(その後、五石加増)を給された。元文5(1709)年2月に六十八歳で亡くなった。その後、五代の孫・円城寺信吉(権兵衛)が五石加増され、代々佐賀藩士として続き幕末を迎える。
円城寺信胤―+―杉本房真慶
(美濃守) |
|
+―円城寺吉三郎――円城寺久右衛門――円城寺権兵衛――円城寺実清―…四代…―円城寺信吉――円城寺信久
(権兵衛) (権兵衛) (権助)
遠藤[遠藤氏のページ]
東一族。美濃国の領地に下った東胤行には一族の遠藤・野田氏が従っている。その後、庶子は遠藤もしくは野田を称したという。遠藤の発祥地は不明だが、摂津国渡邊党の遠藤氏と同族か。この遠藤氏から出た鎌倉時代の怪僧・文覚は俗名を遠藤盛遠といい、武者所に勤務する武士で平清盛の同僚だった。しかし同僚の源渡の妻・袈裟御前を殺してしまったことから、出家を志して文覚と称した。また、遠藤盛遠の父・遠藤持遠(左近将監)の推薦によって東胤頼(美濃東氏の始祖)が上西門院統子内親王に仕えていることから、遠藤氏との関係がうかがわれる。
弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会で七番の流鏑馬が行われた。その五番手を「東六郎左衛門尉平行氏法師」が務め、射手として「遠藤左衛門三郎盛氏」が務めている。この遠藤盛氏は東行氏入道素道の郎党であったと思われる。
●弘安7(1284)年12月9日新日吉小五月会流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)
射手 | 的立 | ||
一番 | 武蔵守平時村 | 伊賀右衛門六郎藤原光綱 | 福田寺太郎兵衛尉藤原行實 |
二番 | 備後民部大夫三善政康 | 牧右衛門四郎藤原政能 | |
三番 | 葛西三郎平宗清 | 富澤三郎平秀行 | |
四番 | 肥後民部大夫平行定法師 法名寂圓 | 宮地彦四郎清原行房 | |
五番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤左衛門三郎盛氏 | |
六番 | 頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 | 奥野二郎太郎源景忠 | |
七番 | 後藤筑後前司基頼法師 法名寂基 | 舎弟壱岐十郎基長 |
東常縁(古今伝授の中興の祖)の次男・東常和の子・東氏胤の次男・盛胤が病弱だったこともあって、族臣・遠藤修理亮の跡を継いだ。そしてその子孫が遠藤を称し、常縁の兄・東氏数の子が美濃東氏の嫡流を継ぎ、遠藤氏は東氏の家老となった。
天文9(1540)年8月24日、越前守護代の朝倉氏が、東氏菩提寺の長滝寺に乱入してくる事件があった。東氏の当主だった東常慶(下野守)は、主戦論派だった娘婿の家老・遠藤盛数(遠藤盛胤の孫)とその兄・遠藤胤縁に命じて朝倉氏を美濃から追い出すことに成功した。しかし、東氏の館はメチャメチャに破壊されたため、赤谷山(八幡町)に新たに城を構えて、常慶は嫡子の東常堯(七郎)に家督を譲ってその城にいれた。
しかし、嫡子の常堯は人望が薄く、また粗暴な性格だった。そんなある日、常堯は遠藤盛数の兄・胤縁の娘を正室に迎えようと考え、その旨を胤縁に伝えるが、胤縁は常堯の人柄を知っていたためにこれを断って一族・畑佐備後に嫁がせてしまった。これを知った常堯は怒り、胤縁の暗殺を計画する。
美濃東氏は、毎年8月1日は「八朔の礼」といって主君に挨拶を述べに行くしきたりがあり、もちろん胤縁も毎年登城していた。そして永禄2(1559)年8月1日、常堯はひそかに家臣の長瀬大膳に胤縁の射殺を命じて鉄砲を伏せさせた。そんなこととは知らない胤縁は登城途中に射殺されてしまった。これを知った胤縁の兄・盛数は怒り狂って挙兵、赤谷山城と川を隔てた山に城を造って対峙した。ここにのちに郡上八幡城が築かれることになる。この戦いで常堯方につくものはほとんどおらず、8月24日に赤谷山城は陥落して前当主・常慶は自害、常堯は岳父・内ヶ島兵庫頭氏理とともに、内ケ島氏の所領・飛騨国白川谷に逃亡した。
その後も常堯は盛数と小競り合いを繰り返したが、結局城を取り戻すことはできないまま、天正13(1585)年11月29日、白川谷を襲った大地震で屋敷の下敷きとなって圧死し、承久の乱以来340年間、郡上郡に栄えた美濃東氏は滅亡した。
一方遠藤氏は、盛数と東常慶娘(友順尼)の嫡男・遠藤慶隆が継いで東氏の旧領を併合。織田信長・豊臣秀吉に仕えて郡上郡を守り抜いた。そして慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では徳川家康に味方して美濃郡上郡5万石を安堵され、慶長9(1604)年には従五位下・但馬守に任じられている。その後は郡上藩主として代々続くが、5代藩主・遠藤常久(岩松)に子がなかったことから改易となる。しかし、遠祖・慶隆の功績が評価されて、将軍家と縁戚になる白須家から遠藤胤親が養子に入ることによって常陸国に知行を与えられて再興し、さらに近江国甲賀三上に移封されて明治維新にいたった。明治期の当主・遠藤胤城は子爵に叙爵され、勅許によって「遠藤」を「東」に改めた。旗本となった家系もある。家紋は「月星」・「一亀甲」「亀甲の内花菱」・「十曜」 。
■沼田・田中藩遠藤氏■
駿河国田中藩の筆頭家老になった遠藤家がある。田中藩中には遠藤家は「胤」を用いる家と「俊」を用いる二家があり、いずれも藩の重鎮となった家柄であった。特に「胤」字を用いる家は「大遠藤」と呼ばれた門閥である。
遠藤家の伝えによれば、祖は三浦介某。子孫は代々近江国に住み、藪谷宗広の代に織田信長に仕えたという。慶長7(1602)年10月、徳川家康の謀臣・本多正信(佐渡守)の弟である本多正重(三弥左衛門)が近江国額田郡に千石を知行したとき、藪谷宗広の子・遠藤宗継と子の遠藤宗成(甚蔵)とともに召し出されて、元和2(1616)年7月、正重が下総国相馬郡などに一万石を与えられた際に、宗成は家老に任じられ、三百石を与えられた。
本多遠藤家が、どうして藪谷氏から氏を変えたのかは不明。それまでの通字「宗」が、本家が「胤」を、分家が「俊」を通字と変わっているところを見ると、祖を遠藤胤俊(新右衛門尉)とし、慶長の役(関が原の戦い)で東軍から西軍に寝返って浪々の身となった美濃木越遠藤家の遠藤胤直と所縁があるのかもしれない。
宗成の子・遠藤宗忠(十郎右衛門)は宗成の跡を継いで家老職に就任。その長男・遠藤貞国(万右衛門)は千石に加増され、延宝5(1677)年7月、家老職に就任した。元禄9(1696)年、主君・本多正永(伯耆守)が若年寄となり、元禄16(1703)年、上野国沼田城主となると、貞国もこれに随って沼田に入る。宝永7(1710)年に家老職を辞し、正徳3(1713)年7月、70歳で亡くなった。一方、弟・遠藤俊信(嘉兵衛)は別家を立てて五百石を知行し、宝永元(1704)年11月に家老職に就任した。この俊信は一竿流兵学という兵学をひらいた兵法者としても知られている。
俊信ののち家老職を継いだのは、遠藤本家ではなく俊信の子・遠藤俊弥(嘉兵衛)であった。享保14(1729)年12月に家老を継いだ俊弥は、享保15(1730)年、藩主・本多正矩(豊前守)が沼田より駿河国田中に移ったときに走り回り、享保16(1731)年8月に辞した。俊弥の跡は遠藤本家の遠藤貞胤(甚蔵)が継いだ。貞胤の弟・利貞(帯刀)はもともとの藪谷氏を称し、天明2(1782)年9月から家老職を務めている。
貞胤が延享元(1744)年8月5日に45歳の若さで亡くなると、その子・遠藤胤封(十郎右衛門)が家督を継ぎ、宝暦6(1756)年5月、家老職に就任した。胤封には跡継ぎの男子がなかったため、先々代藩主・本多正武(遠江守)の娘・照姫を養女に迎えて、婿養子をとろうと考えたが、照姫は若くして亡くなってしまった。そのため、藩公・本多正供(紀伊守)の姪を養女に迎え、出羽国新庄藩主の子を婿養子として遠藤胤忠(百右衛門)を名乗らせた。胤忠は寛政6(1794)年11月から文政13(1830)年4月までの実に37年間にわたって筆頭家老職を務め、天保9(1838)年9月10日に亡くなった。
胤忠の筆頭家老在任中、遠藤家のうちでは分家の遠藤俊見(百右衛門)やその子・遠藤俊規(嘉兵衛)、胤忠の子・遠藤胤典(十郎右衛門)が家老に就任している。遠藤胤典は藩公・本多正意(遠江守)の弟・本多正福の娘を娶り、藩公一族として活躍した。また、自ら所領巡検のため、相馬郡内を巡検していることが記録に残されている。胤典は弘化5(1848)年2月9日、61歳で亡くなっている。
胤典の子・遠藤胤富(十郎右衛門)は天保14(1843)年4月、家老職に就任。家禄は九百石。安政4(1857)年1月7日に48歳で亡くなった。嘉永3(1850)年1月、俊規の子・遠藤俊臣(甚八郎)が家老職に就任。文久元(1861)年に53歳で隠居して家老職を辞した。しかし、徳川慶喜の大政奉還と江戸開城、慶喜の謹慎などで、田安徳川家出身の徳川亀之助に徳川宗家相続が許されて、駿府藩の立藩が認められた。それに伴い、駿府周辺の藩は転封になることとなり、慶応4(1868)年9月、最後の藩主・本多正訥(紀伊守)は安房国長尾に長尾藩を立藩。家老に遠藤俊臣(甚八郎)が再び選ばれ、遠藤本家からは遠藤胤孝(十郎右衛門)が同じく家老に抜擢され、明治4(1871)年7月の廃藩置県までの数年、混乱する藩政を支えた。
●田中藩遠藤氏略系図
藪谷宗広―遠藤宗継―宗成――宗忠――――+
(甚蔵)(十郎右衛門)|
|
+―――――――――――――――――――+
|
+―貞国―――+―貞胤―――胤封――――+=照姫
|(万右衛門)|(甚蔵) (十郎右衛門)|(本多正武娘)
| | |
| +―藪谷利貞 +=本多氏
| (帯刀) ∥――――胤典
| 【出羽新庄藩主】 ∥ (十郎右衛門)
| 戸沢正諶―?―+―遠藤胤忠 ∥
| (上総介) |(百右衛門) ∥
| | ∥
| +―戸沢正産 ∥―+―胤富―――――胤孝
| (上総介) ∥ |(十郎右衛門)(十郎右衛門)
| ∥ |
| 本多正温――――+―本多正福――娘 +―胤志
| (伯耆守) |
| |
| +―本多正意――+―本多正寛
| (遠江守) |(遠江守)
| |
| +―本多正訥
| (紀伊守)
|
+―俊信―――+―俊弥―――俊房――――――俊見――――――俊規―――俊臣――――俊性
(嘉兵衛) |(嘉兵衛) (百右衛門) (嘉兵衛)(甚八郎) (岩山)
|
+―甚八郎
●遠藤氏系図
東常縁-常和(下野守)-氏胤(左近大夫)-盛胤(遠藤八左衛門・遠藤修理亮の養子となる)-胤好(新兵衛)-胤縁(新兵衛)=盛数(六郎左衛門)-慶隆(但馬守)-慶勝(長門守)=慶利(但馬守・三木直綱の次男。母は慶隆の娘で慶隆の養子)-常友(越前守)-常春(右衛門佐)-常久(岩松・7歳で早世)=胤親(但馬守・白須政休の子)-胤将(備前守)=胤忠(下野守・胤親の三男)=胤富(備前守・松平信復の子)=胤統=胤昌=胤城(胤統の子・子爵)=胤禄
●旗本遠藤氏一
→遠藤慶隆(但馬守)=慶利(但馬守・三木直綱の次男)-常昭(大助)-常就(織部)=胤貞(式部・神保元茂の三男)=常之(宮内・戸田忠囿の六男)-胤明(外記)-常益(大之丞)=常寿(式部・遠藤常住の四男)
●旗本遠藤氏二
→遠藤将勝―――――――将羽===美昆===============尚徳
(又三郎・仕徳川吉宗)(又三郎)(又三郎・彦根藩士・久田見吉保子)(亀次郎・久田見守庸子)
-亘理氏略系図-