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東 常縁(1405?-1484?)

 郡上東氏七代。東下野守益之の子。母は藤原氏。通称は六郎。官位は正六位上のち従五位下。官職は左近将監、下野守。通称は東野州。号は素伝

 常縁の母については大内義弘の娘という伝もあるが、常縁の異母弟・正宗龍統が著した『故左金吾兼野州太守平公墳記』によれば、母は「藤氏」出身であることがわかる。

益之妻
【1】初妣(源氏) 氏数(下総守)・安東氏世(遠江守)
【2】中妣(藤氏) 男:宗祐(僧)・南叟龍朔(僧)・常縁(下野守)・素徳
女:素順(東林寺三世)・宗雲(東林寺二世)・壽休(早世)・宗林(野田氏光妻)・妙訓(早世)・永昕(早世)
【3】継室
 (【2】の妹)
正宗龍統(建仁寺住持)・僧童真超(早世)

 応永12(1405)年1月15日、東益之の子(五男か)として生まれ、はじめ一族の野田氏の家督を継いだと伝わる。異母弟の正宗龍統は正長元(1428)年生まれなので、 親子ほどの年の差がある。ただし、宝徳4(1452)年2月3日、「為持本」の「歌合弘長二年」を書写しているが、このとき「朦昧之身上、殊若年之比書之」とあり(1)、当時において四十八歳を「若年」と呼ぶかは疑問であるため(和歌の道における謙遜の意味での「若年」の可能性)、生年に関しては不明である。

 惣領の兄・下総守氏数は、嘉吉3(1443)年には「氏数」であるのに対し、文安3(1446)年には「入道」しており、文安2年頃には家督を継いだと思われる。氏数「常縁、今之所宗也、氏数擢之為後継」とあるように(『故左金吾兼野州太守平公墳記』)、自らの嫡子「藤三郎(東三郎)」こと東下総三郎元胤を差し置いて弟・常縁を後嗣と定めたことがわかる。まだ十代前半~半ばとみられる三郎元胤では宮仕えへの力量と和歌の家の体面など様々な判断から常縁を推したのであろう。

 文安5(1448)年2月23日、常縁は藤原氏保のために『定家仮名遣』を写して奥書きを添えて与えた。これが歴史文書中の常縁の初見となる。「氏保」がいかなる人物かはわからないが、美濃鷲見氏の鷲見氏保か? または、宝徳2(1450)年3月頃に、「或人の御方」から届けられた歴代勅撰和歌集選者の影絵・和歌を常縁とともに見ている「氏泰」と同一人物かも。文安3(1446)年4月21日の畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会には、常縁の異母兄「藤原氏世」が見え、「藤原氏保=氏泰」は彼の子なのかもしれない。室町時代末期の奉公衆に見える「安東泰職」が氏世の子孫であるとされており、「泰」字が通字として用いられていたのだろう。

 文安6(1449)年6月に行われた「藤原利永」が主催する月次連歌(土岐亭で行われたのだろう)に東福寺の招月庵正徹が会衆として招待されたが(『草根集』巻之七)、このとき「土岐左京大夫持益家」に九年間預けられていた「故鎌倉の持氏息(足利成氏)「来(八月)十九日関東還入」となったことを聞いた(『草根集』巻之七)招月庵正徹は成氏がまだ幼稚の際に対面したことがあるが、もう一度「見奉らん」と、元号改め宝徳元(1449)年8月10日に催された藤原利永の連歌に「会衆外」ながら参じている「藤原利永」は土岐左京大夫持益の被官の齋藤帯刀左衛門尉利永であることから、招月庵正徹は利永から成氏下向の話を聞いたと思われる。なお、利永の弟・持是院妙椿(齊藤妙椿)も優れた歌人であり、彼が歌道の友である東下野守常縁が留守中に、居城である美濃国郡上郡篠脇城を攻め落とした際、和歌の贈答により城を返した故事は有名である。

 この対面で、成氏は正徹に和歌を依頼されたため、その場で三首を書いて成氏へ献じた。

九とせ君こゝのへのうちをたに見すともなれし月なわすれそ
あやふきをあまかけりてや守りけん雲ゐの鶴か岡のへの神
いにしへの契たかへす栄なん都をあふけきみかゆくすゑ

 その後、成氏は五歳で上洛した折り、同道した祈祷僧の夢に出たという歌を正徹に語っている。その歌は、

つみの身をよそにさなから引かへてつけにきた野の悦としれ

というものだったという。成氏に憑いていた罪科を余所へ引き払って「付け」たことを「告げ」に「来た」「北野(=天神)」の慶報であったという意味であろう。成氏はこの歌をずっと覚えていたと見え、今回の対面の際に、この夢の歌を紙に記して正徹に渡し、それへの返歌を求めたのであった。それに正徹は、

よろこひと思ひあはせき此秋を告にきた野の夢のしるしは

あれが慶報だったと思えば合点がゆく、この「秋(あき/とき:重要な時、を掛けている)」を告げに「来た」「北野(=天神)」の兆しだったのだ、と返歌を書き付けて成氏に渡している。

●『草根集』巻之七より

(八月)十日、藤原利永沙汰せし月次にまかり出たりし頃、土岐左京大夫持益家に故鎌倉の持氏息、来十九日関東還入のよし聞えし、幼稚の御時見まらせし、今一度見奉らんとて会衆外に参る程に、今年九かへりまてむなしく在京の御事無為に又かへし申さるゝありかたく侍る対面ありて、歌の事なと承を、当座におもひつゝけて三首の歌を書てまゐらせし

 九とせ君こゝのへのうちをたに見すともなれし月なわすれそ
 あやふきをあまかけりてや守りけん雲ゐの鶴か岡のへの神
 いにしへの契たかへす栄なん都をあふけきみかゆくすゑ

その次に五歳の御とし自鎌倉上洛の御時、祈祷申僧の夢にみえける歌とてかたらせたまひし歌

 つみの身をよそにさなから引かへてつけにきた野の悦としれ

此歌をみつからかきて給はりし 只今和てとうけたまはりしに書付し
 
 よろこひと思ひあはせき此秋を告にきた野の夢のしるしは

 『東野州聞書』にはこの件の抄が記載されている。東福寺の招月庵正徹は、『東野州聞書』の著者・東下野守常縁の兄である東下総入道素欣と歌友であり、弟の常縁も積極的ではないが交流があった。図らずものちに刃を交えることとなった足利成氏の少年期の物語として記録したのだろう。細かい情緒は記されておらず、一つの聞書として載せられている。

●『東野州聞書』より

 一、土岐所に御座ありし持氏の御息、無為に関東へ御下向の時、招月庵詠歌也
 
    九年君こヽのへの内をたに みすともなれし月なわすれそ
 
  京に御座之間九年也、
 
    危きをあたかけてや守りけん 雲井の鶴かをかのへの神
    いにしへの契かはらす栄えなむ 都をあふけ君か行すゑ

 一方で、『鎌倉大草紙』はこれらを「物語」のひとつの付随情報として取り込んだが、内容は作者によって脚色がなされている。

●『鎌倉大草紙』より

関東へ下らるゝ、この若君の和歌の師にてありし正徹書記、餞別の歌を送る
 九年 君九重のうちをたに みすともなれし 月なわすれそ
 危きを 天かけりてやまもり剣 雲井の鶴か 岡のへの神
 古の契たがへずさかへなば 都をあふけ 君か行末

此人、五歳の時、召捕られ、十三にて関東の主となり、下向を致す事、君恩とは申ながら、偏に鶴が岡八幡宮、荏柄天神の御加護なりとて、
上洛の時、護持の僧が夢想の歌を語り給へば、徹書記、
 喜と 思ひ合せき此秋を つけに北野の 夢のしるしは

 8月18日、成氏は関東下向前日に天神(菅原道真)の御影招月庵正徹のもとへ送り、「歌一首、賛にかきて」(『草根集』巻之七)と依頼した。成氏が天神の御影を用意したのは、8月10日の正徹との対面により、自分が天神の御加護を受けて今があるのだ、という思いを強くしたためだろう。

 この依頼を受けた正徹は、成氏が「あすは夜中に進発あるへき」ことを知り、「やかて只今書付てまゐらせ」ている(『草根集』巻之七)

●『草根集』巻之七より

(八月)十八日、彼関東下向の御かたより天神の御影に歌一首、賛にかきてとうけ給はるを、あすは夜中に進発あるへきなれは、やかて只今書付てまゐらせしうた

 梅か香の東風吹くかたに旅たちて君を守りの神やそはまし

 この歌は、梅の香の「東風」が吹く方へ旅立ち、君を守る天神は傍らにいてくれるであろう、という餞別歌である。足利尊氏以来、足利家に伝わる北野信仰と、古くから武家の信仰を集めた鎌倉荏柄天神を重ね合わせた意図が感じられる。

 こうして、宝徳元(1449)年8月19日夜半に、成氏は鎌倉へ向けて出京したとみられる(『草根集』巻之七)。ただし、この下向当日の記録は残されていない。

 3月10日、常縁は兄・氏数と歌の友である招月庵正徹を訪ねて、歌道を学ぶ上で常に見るべきものは「三代集(万葉集、古今集、新古今和歌集)」の他に何があるか尋ねた。このころ、常縁は父兄所縁の東福寺招月庵正徹書記(冷泉流)、建仁寺常光院堯孝法印(二条流)と、御子左流の流れながら相対する二人の名歌人を訪ね歩いて学んでいたことがうかがえる(『東野州聞書』)。常縁は、正徹の来臨を「光臨」と記し、「比道の眼目にてこそ侍らめ」としていることから畏敬の念を持っていたことが察せられるが、「聊思ひ所の侍るぞなげきなる、これだに侍らずは」という一言が付されるように、常縁には受け入れがたい正徹の歌の性質があったことを窺い知ることができる(1)。また、常縁は正徹の歌に対して厳しい見方をすることもあり、10月9日に刑部大輔家歌会正徹が詠んだ、

 主しらぬいり江の夕人なくてみのと棹とそ舟に残れる

という歌について、「更にうらやましくもなき歌なり」と批評している。「主しらぬ」の「主」とはさまざまな意に取ることができ、「主しらぬ」という言葉から「乱世の声」が連想されると、あくまで「私の所存」という形で批判した(『東野州聞書』)。 

東福寺栗棘庵(招月庵)
東福寺栗棘庵(招月庵)

 翌宝徳2(1450)年、「入道殿の腫物心許なきとて、招月庵来臨有、旧友なればしゐて見参有」とあることから東家の入道殿、つまり兄・下総入道素欣(氏数)が腫物を病んで、友人の正徹が見舞いに来たことがわかる。翌日、常縁は兄から返礼の遣いを任されて招月庵を訪ねたが、このとき正徹は常縁に『源氏物語』の歌について物語している(『東野州聞書』)

 12月2日、常縁は二條流中興の祖・頓阿の子孫で『古今集』こそ歌道の根幹であると説く常光院堯孝の弟子となり、契約状を提出した。常縁は前々から正徹の歌については「聊思ひ所の侍」るとする一方で、堯孝については「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受けており、正徹ではなく堯孝に師事したと思われる(『東野州聞書』)

 一 宝徳二年十二月二日哥道の事、常光院の弟子に被成、則契約ノ状書進ず、  

 宝徳3(1451)年2月1日、常縁はさっそく堯孝のもとを訪れ、和歌を懐紙に記す際の手順から学びはじめた。これまでも常縁は父・益之や兄の氏数などから歌学を学んでいたと思われるが、二條流歌学の基礎からの習得を志したとみられる。

 宝徳4(1452)年正月11日、正徹が将軍・足利義政に謁見し、「若君=義尚」の命によって歌を進上した。このあと、御所に伺候していた常縁にも一首進上が命じられ、詠んでいる(『東野州聞書』)

 末とをき君かみ影はあふきみつ我老の年を猶やのはへん  

 2月18日に堯孝が開いた北野天神での歌会では、常縁は兄・安東氏世、甥の東三郎元胤と同道で出席した(『東野州聞書』)元胤は長兄・氏数の嫡子だが、氏数は宝徳2(1450)年時点で腫物を病んでおり、おそらくは引退して安東氏世・常縁が元胤を補佐する形で出席したものと思われる。

 一 二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世元胤同道申て、罷て一座有、
   ・・・ 
   元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有、

 ○東氏略系譜○

 

 東益之―+―東氏数―――東元胤
(下野守)|(下総守) (下総三郎)
     |
     +―安東氏世
     |(遠江守)
     |
     +―東常縁
      (六郎)

 亨徳3(1454)年7月26日、「平常縁」は左近将監に宣任され、8月13日「正六位上 平常縁」は「旨叙従五位下」した(『康富記』)。また、12月27日には常光院堯孝より古今伝授されている(5)

◆下総国に下向

 康正元(1455)年、下総国において千葉介胤直入道常瑞原越後守胤房千葉陸奥守入道常義が対立していることを聞いた将軍義政は、「急き罷下り一家の輩を催し馬加陸奥守を令退治、実胤を千葉へ移し可申由御下知を蒙り、御教書を帯し下向」させこの際浜式部少輔春利をも相具し下向」させたという(『鎌倉大草紙』)。なお、浜春利の兄・浜豊後守康慶は、その子であろう「土岐浜豊後守」(『北野社家引付』長享三年六月三日条)が見えるように、土岐一族の奉公衆であり、美濃国を知行する誼及び歌人として交流があったと思われる。下向に当たり、常縁は「一族並国人に相ふれ」ており、「国分五郎、大須賀、相馬を初めとして、下野守常縁に相随」ったという(『鎌倉大草紙』)。ここに見える「大須賀、相馬」は、国分氏が「国分五郎(国分憲胤か)とあるので、表記の対として「大須賀相馬(大須賀左馬助憲康)となるか。

 11月13日、匝瑳郡「東方」で原一族の「原左衛門朗珍」「原右京亮朗嶺」が討死しているが、彼らは上杉家被官の伊北狩野氏と縁戚関係にあるため、常縁方に属していた可能性があろう。

原左衛門朗珍 十一月
康正元乙亥  兄弟東
同右京亮朗嶺 方 ニテ打死

 11月24日の「馬加ノ合戦」(『東野州聞書』)に際しては、常縁は「馬加の城へ押寄、散々に攻ければ、原越後守打ち出、一日一夜防戦ひけれども、終に打負、千葉をさして引退」し、常縁は「此いきほひにて上総の国所々にむらかりてありける敵城自落せしかば、浜式部少輔をば東金の城へ移し、常縁は東の庄へ帰」ったという(『鎌倉大草紙』)

●『東野州聞書』(『群書類従』第六輯所収) 

 …前略…
 
 一 元雅して富永駿河入道遣事、康正二七御旗の手を敵へ吹かくる事吉例なり、
   同く旗の面を敵に向也、祝等の時同前たるべきなり、
 一 康正元十一月廿四日馬加ノ合戦ノ時ハ、味方ニ旗の手を吹かくるといへども、
   得勝利、又同二年正月十九日敵に旗の手をかく、然共御方成敗軍易如何、
   若不定の事なり、原越後守御退治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也、 

 常縁はこの際、東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願し献歌したと伝わる。

 静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす

 下総国では常縁の働きにより「馬加陸奥守、原越後守、野州常縁に度々打負け」ており、この状況をみた上杉方は「千葉新介実胤を取立、本領を安堵させんと、市川の城に楯籠て、大勢」を送り込んだ(『鎌倉大草紙』)。これを聞いた成氏は、「南図書助、簗田出羽守その外大勢指遣、数度合戦」に及んだ(『鎌倉大草紙』)。このとき常縁も千葉実胤自胤の救援のために市川城に入っており、寄手の大将から降伏勧告があったが、常縁は歌を詠んで遣わし、これを拒んでいる。

籠城しける時よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける
  命やはうきなにかへんよの中にひとりとヽまる習あれとも

 しかし、康正2(1456)年正月19日の合戦で「今年正月十九日、不残令討罰、然間、両総州討平候了」(「足利成氏書状」『武家事紀』巻第三十四)とあるように、市川城は陥落。千葉実胤自胤兄弟は城下の湊から舟で武蔵国へ逃れたと思われる。一方、常縁ははるか東の匝瑳郡まで逃れ、2月7日、匝瑳郡惣社である匝瑳老尾神社匝瑳市生尾)に阿玉郷香取市阿玉川)中から三十石を寄進して戦勝祈願をしている。

国府台城
国府台城)

 この市川陥落の報は翌正月20日に「於下総市河致合戦、悉理運之由」という注進が成氏のもとに届いている(康正二年正月廿日「足利成氏文書」『正木文書』:戦古100・『東野州聞書』

  その後、常縁が下総国においてどのような動きをしていたのかは定かではないが、「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤と於所々合戦止隙なし」(『鎌倉大草紙』)とも。

 6月12日、馬加陸奥入道の嫡男・胤持が上総国八幡(市原市八幡町)で討たれたことが『千学集抜粋』に記されている。この没年月日は『本土寺過去帳』にも記されている(『本土寺過去帳』)。そして、千葉陸奥入道もまた、11月1日、上総国村田川において討死したという。享年五十九と伝わる(『本土寺過去帳』)

●将軍側と古河公方側●

京将軍家・足利義政側 古河公方・足利成氏側
足利義政 足利成氏
千葉七郎実胤千葉自胤 千葉陸奥入道常義(馬加康胤)
東左近大夫常縁浜式部少輔春利 原越後守胤房(千葉一族)

●東常縁と馬加康胤の対立●

年月日 ことがら
康正元(1455)年 下総の千葉一族内乱を鎮定するため、東常縁は浜式部少輔春利を同道して下総東庄へとくだる。
康正元(1455)年11月13日 常縁は千葉陸奥入道常義の本城・馬加城と原越後守胤房の本城・小弓城を攻め落とす。
         浜式部少輔春利を東金城に駐屯させる。
康正2(1456)年1月19日 古河公方・足利成氏は簗田氏を国府台城に派遣して千葉実胤千葉自胤を武蔵へ攻めおとす。
1月19日、実胤方の家老・円城寺若狭守(妙若)が討死。
康正2(1456)年2月7日 匝瑳郡の鎮守・匝瑳老尾神社に阿玉郷の土地を寄進して戦勝祈願をする。
康正2(1456)年6月12日 千葉陸奥入道常義の子・千葉胤持が没する。23歳。
康正2(1456)年6月14日 原越後守胤房、真間山弘法寺領を安堵する。
康正2(1456)年10月 岩橋輔胤、真間山弘法寺領を安堵する。
康正2(1456)年11月1日 上総国村田川での戦いにおいて千葉陸奥入道常義が戦死。59歳。

 千葉陸奥入道を討ったとはいえ、常縁の兵力は古河公方方に比べると少なく、上杉家も武蔵国内での紛争があったためか援軍を送るゆとりもなくなり、上杉家は幕府に関東への援軍を要求した。幕府はこれに応じ、長禄元(1457)年6月23日、「関東探題」として斯波氏と双璧を成す一門・渋川左衛門佐義鏡を武蔵国に派遣して古河公方勢を抑えようと試みたが、関東の諸将は成氏に荷担する者が多く、この状況を嘆いて常縁は歌を詠んだ。

 あつま路や 都のそらの恋しさに 更てなかむる夜な夜なの月
 
 をろかなる身を知りながら 世の中の思ひにたえぬ事そうらむる

 将軍・足利義政はこの関東の状況に、長禄元(1457)年12月19日、天龍寺に出家していた異母兄の香厳院清久に還俗を要請。足利左馬頭政知と名乗らせて、長禄2(1458)年、新たな鎌倉公方として東国に派遣した。しかし、関東の情勢は非常に悪化しており、政知は箱根を越えることができず、鎌倉を守衛していた駿河守護職・今川家の影響力が及ぶ伊豆国田方郡北条の国清寺に御所を構えた。しかし長禄4(1460)年に国清寺が古河公方勢に襲撃されて焼き払われたことから、西の北条一門居住域であった森山山麓一帯に御所を移動し、地名を取って「堀越公方」と呼ばれることとなる。

●将軍家略系図

 日野重光―+―日野重子  +―義勝             +―政資======+―日野内光 +―徳大寺公維
(大納言) |(勝智院)  |(征夷大将軍)         |(権中納言)   |(権大納言)|(内大臣)
      |  ∥    |                |         |      |
      |  ∥――――+―義政             |   徳大寺実淳―+―娘    |
      |  ∥    |(征夷大将軍)         |  (太政大臣) | ∥――――+―慶子    +―前久―――信尹
      |  ∥    |                |         | 久我通言   ∥     |(関白) (関白)
      | 足利義教  +―義視             |         |(太政大臣)  ∥     |
      |(征夷大将軍)|(今出川殿)  +―勝光――――+―娘       |        ∥―――――+―娘
      |       |        |(左大臣)    ∥       +―維子   +―稙家      ∥
      |       +―政知     |         ∥         ∥    |(関白)     ∥
      |        (後に堀越公方)+――――富子   ∥         ∥    |         ∥
      |                |   (妙善院) ∥         ∥――――+―娘       ∥
      |                |    ∥――――義尚      近衛尚通    (慶寿院)    ∥
      |                |    ∥   (9代将軍)  (関白)      ∥       ∥
      |                | +―足利義政                   ∥―――――+―義輝
      +―義資――――――重政―――――+ |(8代将軍)                  ∥     |(13代将軍)
       (権中納言)  (左兵衛佐)  | |                        ∥     |
                       | +―足利政知―――――――――義澄――――――+―義晴    +―義昭
                       | |(堀越公方)       (11代将軍)  |(12代将軍) (15代将軍)
                       | |              ∥       |
                       | +―足利義視         ∥       +―義維――――――義栄
                       |  (今出川殿)        ∥                (14代将軍)
                       |    ∥――――義稙     ∥
                       +――――娘   (10代将軍) ∥
                       |   (妙音院)        ∥
                       |                ∥
                       +―永俊―――――――――――――娘
                        (広福院)          (安養院)

 文正元(1466)年10月20日、常縁は前日に届いた宗祇の手紙に対して返信している(『東野州消息』)。この消息が認められたのは、一説には応仁2(1468)年のこととされているが金子金治郎『連歌師宗祇の実像』参考文献7、この説によれば応仁2(1468)年9月の斎藤妙椿による篠脇城陥落後、翌文明元(1469)年10月以降まで帰国することはなかったとされる。しかし、文明元(1469)年4月21日に常縁は上洛の途につき、5月12日に斎藤妙椿と「対面」したとされており(『鎌倉大草紙』)、常縁が宗祇に宛てた書状の内容にある「子細候而去秋之比も、又可罷上様候つ、十ニ七も八も帰国仕事候べく、その子細難尽紙面候題目候」と矛盾することになる。

 消息には「春は江戸辺に可有御住居にて候間」とあり、宗祇は翌春には江戸あたりにいる予定であることを伝えたことがわかる。文正2(1467)年正月1日、宗祇は武蔵国品川において『名所百韻独吟』を詠んでおり(早稲田大学図書館蔵『連歌集』)、文正2年初春に宗祇が江戸近郊にいたことがわかる。『東野州消息』の内容は、文明元年では矛盾することと、上記から、やはりこの消息は文正元(1466)年のものとすることが妥当と思われる。

 常縁は「時分柄不運に候て、当所ニ在陣候」と陣中にあって、「朝暮之御雑談幷御詠吟、数々御床敷コソ存候へ」と宗祇との邂逅を希望していることがわかる。この「在陣」がどこであったのかは記述はないものの、この消息に「旁一夜帰にも、江戸辺へ罷越度候え共」とあるように、江戸辺まで出張っても一泊程度で戻れる距離であったことがわかる。また、10月当時、宗祇は武蔵国五十子(本庄市五十子)あたりにおり、10月16日に宗祇が認めた書状が19日に常縁のもとに到着していることから、五十子陣から二、三日あまりの距離に在陣していたのだろう。このように考えると武蔵府中あたりに在陣していたのかもしれない。また、この陣中には「木参川在陣候」とある通り、木戸三河守孝範も在陣していた。木戸孝範は冷泉流の歌人武士で、宗祇の依頼で「細々参会候間、冷泉家と道之立様承候、本々伝承候に大に相替儀無之候、但、立入たる事は口伝候はでは難知事候」と、常縁は孝範と面会して二條流と冷泉流の歌道の伝授についての立ち様を聞きいている。聞いたところによれば、二條流と冷泉流では伝承については大差がないが、その解釈の深い部分は口伝を得ないことには知り難いと認めている。なお、常縁の子・下野守常和は、孝範の孫・大膳大夫範実(木戸正吉)を門弟としている。範実は母から冷泉流を継承し、常和から二條流を修めている(『二条家冷泉家両家相伝次第』)

●『二条家冷泉家両家相伝次第』(『中世歌壇史の研究』)

 小野宮大納言能実
 九代孫               法名素安
堯孝―――――――常縁―――――――常和――+   俗名大膳大夫範実   
          法名素伝        |   木戸       伊豆守忠朝  木戸
          東下野守        +――正吉―――――――賢哲――――――休波―… 
                      |   常和弟子             元斎
 大納言      従五位上参河守     |   
 号下冷泉     木戸      正吉母 |
持為―――――――孝範―――――――女―――+
          持為弟子

●木戸家略系図

新田氏?―木戸貞範―□□―木戸範懐――木戸孝範―■■―木戸範実――+―広田直繁―――広田為繁―――広田直範
            (小府)  (三河守)   (大膳大夫) |(式部)   (左衛門佐)
                                 |
                                 +―木戸忠朝―+―木戸重朝
                                  (伊豆守) |(右衛門大夫)
                                        |
                                        +―木戸範秀
                                         (和泉守)

 消息の本題として、「常縁進退事幷馬之事、御懇御物語候、畏入候」と、常縁は宗祇に自分の動向と馬の調達の苦労について相談しており、かなり突っ込んだ内容をこれ以前に宗祇に送っていた書面に認めていたことがうかがわれる。このことについては、宗祇が常縁の意向を受けて馬の手配をしていたと解釈される説もあるが、「馬ハ定而聞召及候」とある通り「馬のことについてはお聞き及びと思うが」という第三者への語り口であることから、これは常縁が行った馬の手配の苦労を語ったとするほうが妥当だろう。そして、「自有方所望候、乗事ハ未覚候、無子細候ハ今月之末可上候、多ハ馬無沙汰故、又煩事も可有候」と、馬は「有方」の所望で用意することになったが、この馬は人を乗せたことがない。とくに問題がなければ今月末に京都へ上らす予定(堀越御所を経てか?)だが、付き従う者たちは馬の知識がない者ばかりなので、苦労することだろうと述べている。「有方」が誰かは不明だが、前段に「吉井」という人物について記載があり、この「有方」もおそらく名字だろう。とくに敬語を用いていないことから、同格の者であろう。堀越公方政知の東国下向時には多くの西国出身の奉公衆が堀越公方付となっており、美作周辺に多い有方氏も奉公衆として下向した一人であろう。吉井氏も美作周辺に多いことから、有方氏同様に在京奉公衆で、宗祇と共通の知人であったとみられる。馬の調達の苦労についても手紙に認めていたとみられ、宗祇からの返信に対して「返々御懇尊意、尤真実ニ畏入候、此御一言肝要候」と感謝の言葉を述べている。

 こうした状況なので、「さ候程に旁一夜帰にも、江戸辺へ罷越度候え共、駿州辺之義、北条之御沙汰、彼是やるかたなくて候間、尓今無其儀、去秋之末之時分ハ、玉蔵主既申合罷越候処、不慮ニ又留候、無念千万候」と、来春に宗祇が江戸に来た際には、一晩泊まりでも江戸あたりへ出張したく思っているが、おそらく「駿州辺之義(今川家の情勢)」や「北条之御沙汰(堀越御所の命令)」によって動くことはできないだろうと予測している。こうした好機を逃すということは「去秋之末之時分」にもあって、その際には玉蔵主と申し合わせていたのに「子細候而去秋之比も、又可罷上様候つ、十ニ七も八も帰国仕事候べく、その子細難尽紙面候題目候」という事態が起こったために、結局玉蔵主との対面が叶わず、無念であったと記している。「玉蔵主」も実名不明ながら禅僧で、常縁・宗祇共通の知人であった。去る秋は上洛予定であって十中七八、美濃へ帰国する予定だったため、「玉蔵主」と面会の約束を交わしていたのだろうが、関東での「子細」によって上洛も帰国もなくなってしまった。「玉蔵主」はおそらく建仁寺や南禅寺など、東氏と所縁の寺の僧侶であったのだろう。この常縁が上洛を見合わさざるを得なくなった「去秋之末之時分」の事件とは、寛正6(1465)年9月に武蔵国太田庄に侵攻した古河公方足利成氏との合戦であろう。おそらく常縁も武蔵国に滞陣したのだろう。

 このような情勢の中、京都でも足利義政・日野富子足利義視(義政弟)が、足利義尚(義政嫡子)の将軍擁立をめぐって争いを起こしていた。義視は出家していたが、寛正5(1464)年、子のない兄・義政の要請によって還俗。「義視」と称して義政の養子となった。しかし翌寛正6(1465)年、義政と日野富子との間に嫡子・義尚が生まれたため、義政は義視にふたたび出家を要求したことから、義視は義政の変節ぶりを怒って出家を断固拒否し、管領・細川勝元と結んで義政に抵抗した。

篠脇城と東氏館跡
篠脇城と東氏館跡

 こうした険悪な雰囲気の中、応仁元(1467)年5月、足利義政・日野富子の意を受けた山名宗全入道(山名持豊)が、管領家の斯波義廉・畠山義就らをともなって細川勝元の屋敷を襲った。これがその後十年にわたって京都を焼け野原にする「応仁の乱」の始まりであった。「応仁の乱」の余波は近畿にとどまらず全国に及び、東氏の本拠地である美濃でも東西にわかれて争いがおこった。

 常縁はもともと義政の側近であったことから山名方(西軍)とみなされ、細川勝元(東軍)に味方する美濃守護・土岐成頼は応仁2(1468)年9月、被官の斎藤持是院法印妙椿に命じて郡上東氏の居城である篠脇城を攻めさせた。このとき篠脇城を守っていたのは兄の「平宗玄(氏数入道)」であったが、彼は少ない兵を指揮して斎藤勢と戦うも敗れた(「尊星王院鐘銘」)。常縁のもとに落城の悲報が届けられると、父・下野守益之の命日にあわせて心境を歌に詠んだ。「生きているうちにこのような世を見ることになってしまった。父がいた昔が懐かしく思い出されることだ」という意味が込められている(『鎌倉大草子』)

此所は常縁か先祖中務入道素暹、承久二年初めて拝領の旧地なり、代々十世に及ひて遂に他人は知行せさりけるを、我か代に至りて、思ひの外に東国に下向して其様に成り行きけること、無念といふも愚なり、其の折しも、亡き父式部入道素明かために追善の法事を営み、僧を供養しけるか、代々和歌を嗜む家なれは、斯く思ひつつけり。 

 あるが内に 斯かる世をも見たりけり 人の昔の猶も恋しき

 この歌を見た浜式部少輔春利は、京都の兄・浜豊後守康慶に送る手紙にこの歌を同封した。康慶はこれを見て感動し、歌会で常縁の歌として披露したところ、同じく歌人である斎藤妙椿が人伝えにこれを聞き、

常縁は元より和歌の友人なり、今関東に居住して本領を斯く成り行く事、いかに本意なき事に思ふらむ、われも久しく此の道の数奇なれは、いかて情けなき振舞をなさんや、常縁歌を詠みて送り給はは、所領元の如く返しなむ

と康慶に話したという。このことを康慶は舎弟春利への手紙にしたためて申し送ったところ、常縁はさっそく歌を詠み、妙椿へ送った(『鎌倉大草子』)

 堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ
 いかばかり歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを
 かたはかり残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道
 思ひやる心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら
 たよりなき身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春
 さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり
 木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ
 君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし
 みよし野になく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ
 吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを

 妙椿はこれら歌を受けて感動し、

 言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ

 との返歌を送った。これを受けた常縁は、春利舎兄・浜慶康に宛てて、

 和歌のうらや 汀のもくずもくずにも なをかすならぬほとそ見えぬる
 霧こめし秋の月こそ余所ならめ かさしににほふ古郷のはな

 と送ると、浜慶康は

 わかのうらやみぎはのもくずもくずにも見えずよみかく玉の光を
 帰来む君がためとや故郷のはなも八重たつ錦なるらむ

 と返歌した。こうして文明元(1469)年4月21日、常縁は子・東縁数を下総に残して上洛。5月12日、斎藤妙椿と対面して篠脇城の返還が決まった(『鎌倉大草子』)。このとき、斎藤妙椿から常縁へ一首が贈呈されている。

 
 世の中を遠くはかれば東路に 今すみながらいにしえの人  妙椿

 これに常縁は、

 
 世の中を遠くはからば今日までの 君が言葉の花におくれじ  常縁

 と返歌した。そして、郡上に帰郷した常縁は、

 
 故郷の荒るるを見ても先すそ思ふしる辺あらすはいかかわけこむ  常縁

 という歌を浜慶康へと送った。戦乱の世、友人が敵味方に別れて争って所領が荒されたとはいえ、雅心のある妙椿でなかったら城は戻らなかったであろうという、妙椿へ対する感謝の意がこめられた歌であった。慶康はさっそく妙椿に送ると、妙椿は、

 
 此頃のしるへなくとも故郷に道ある人そやすく帰らむ   妙椿

 と返歌を送った。これら一連の話は、後の世に美談として語られていった。

 余談だが、この斎藤家の重臣である長井弥二郎に仕えた人物に西村新左衛門尉がいた。彼はその後、長井姓を称して長井新左衛門尉と名乗り、主君の長井藤左衛門尉とともに斎藤氏を追放。さらに主君の長井氏をも滅ぼし、子・規秀は斎藤氏を冒して斎藤山城守を称した。のちの斎藤道三である。

明建神社
篠脇城ふもとの明建神社

 常縁は篠脇城と妙見社(明建社)を再建して荒れた所領を急速に復興させた。一連の戦いで、妙見社ならびに尊星王院(別当寺)が燃えてしまったために、鎌倉以来の伝来の書物の大部分がともに焼失してしまい、常縁は再建事業の一環として数多くの歌を書写してこれを納めた。しかし『古今和歌集』だけは焼失を免れたことが文明2(1470)年5月9日の文書によってわかる。

 翌文明3(1471)年、このころ常縁は伊豆国堀越の足利政知(堀越公方)に付けられて下向していたようで、三島(三島市日の出町あたりか)に在陣していた。具体的な陣所は不詳ながら、東に対する備えと南へ向かう敵方への牽制の意味で、三島明神に隣接する大場川の西側あたりとなろうか。

 宗祇が常縁のもとを訪ねた理由としては、京都は応仁の戦乱のために荒廃していたことや歌道を伝える家々が衰退してしまったことなど、さまざまあげられるが、郡上東氏は当時において聖格化されていた京極中納言定家や中院大納言為家の解釈を「家説」と称して受け継いでいた家であったことが大きな要因であろう。このときに詠んだとされる歌が『東常縁集』に掲載されている。

  宗祇法師より和歌の事尋ね侍けるに、詠みてつかはしける
 
 今更に身のをこたりそしられけるとはすはいかにしきしまの道

 『古今和歌集両度聞書』によれば、宗祇は初度として文明3(1471)年正月28日戌刻から4月8日午刻までの71日間、常縁から古今集の講釈を受ける。しかし、戦陣における古今集講釈であり、たびたび中断されたであろうことは想像に難くない。さらにこの講義の最中、常縁が同行していた「東殿子喝食(竹一丸)」「不例」となるという事態も起こり(島津忠夫著『島津忠夫著作集・四』第二章所収、久富哲雄氏校訂『防府天満宮蔵宗祇独吟千句』より)、この際も講釈は中断されたであろう。宗祇はこのとき三島明神に竹一丸の不例の平癒を願い、

 なべて世の風を治めよ神の春

と、「百韻の発句を以て立願つかうまつりしに、平癒いちじるしく侍りしかば」、2月24日から26日の三日間(島津忠夫著『島津忠夫著作集・四』第二章所収)千句を独吟し、初度伝授を受けたのちの3月27日、三島明神に奉納した(三島千句)。この発句には竹一丸の平癒とともに、古今和歌集仮名序で語られる、

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり

という和歌の持つ力を三島明神の神威とあわせ、この戦乱を終わらせる(春)ことを願ったものと解釈されている(両角倉一著『宗祇連歌の研究』参考)。なお、このとき病を患った「東殿子喝食(竹一丸)」は系譜を見ると東素純の項目に掲載されており、素純の幼名であったのだろう。

 こうした中で、5月8日に常縁の兄・氏数入道素忻が寂す。当時の常縁は箱根を越えて三島を窺う古河公方勢(小山・結城・千葉ら)への警戒を続けていたようで(『鎌倉大草紙』)、当然郡上に帰還することは許されない状況にあり、帰国するような状況にはなかったとみられる。

 その後、常縁は6月12日巳刻から7月25日巳刻までの43日間、上総村上の武士・大坪治部少輔基清(沙弥道教)の「懇望」によって古今集の講釈を行った(3)(4)。おそらく氏数入道の忌明けを待っての講釈開始か。宗祇もこの講釈を傍聴しているが、宗祇が基清への講義をともに聞いているのは、宗祇『百人一首抄』の奥書に「予も同聴つかふまつりしを、古今伝授の中ばにて明らかならず侍るを」とあることから、初度講義の際の不明確な点の確認のためであり、このことからも宗祇への初度講釈が合戦の合間を縫った忙しない中での不完全なものであったことが窺える。そして8月15日、常縁は宗祇「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給した(5)。なお、大坪基清も文明9(1477)年4月5日の時点で「十ノ物六」までの伝授に留まっていることから(『古今相伝人数分量』)、大坪基清への古今集講釈もいまだ戦乱が収まらない中で行われたであろうことが推測できる。

東林寺跡遠景
東林寺跡

 こうした郡上へ帰ることができない状況の中、文明4(1472)年2月16日、東氏の菩提寺のひとつで尼寺の東林寺(郡上市大和町牧)住持「尼宗雲長老」が入寂した(東林寺二世)。享年不明ながら彼女は常縁の実姉にあたる女性であった。六歳で母を喪った正宗龍統(建仁寺二百十七世)の母親代わりになって彼を養育しており、木蛇寺に入寺させたのも彼女であろう。正宗龍統はその死に際し、祭文を奉っている。宗雲と弟・常縁との関わりは伝わらないが、実姉であることから、やはり常縁の幼少期には非常に頼りにしていた人物であったのではなかろうか。

 東林寺の後継住持には長姉・宗順が就くこととなるが、彼女も常縁の実姉であること、常縁が郡上東氏の当主であることを考えると、宗順を東林寺三世と定めたのは常縁と考えられ、二人の実姉との信頼関係がうかがえる。

 その後、常縁のもとに宗祇が古今集講釈の筆録についての校閲を求めて訪れたとみられ、常縁はこれを確認しながら「常縁所存少々加筆加詞」えた奥書を5月3日に認め、宗祇に遣わしている(『古今和歌集両度聞書』)

 
伝受の後、宗祇庵主比一帖以被見、常縁所存少々加筆加詞者也、門弟随一思尤在之、仍為後証又加比詞畢、
 
   文明四年五月三日             平常縁(在判)

 その筆録の内容よほど常縁の意に沿ったものであったか、常縁は宗祇を「門弟随一思尤在之」と褒賞している。常縁が宗祇に伝えたものの根幹にあったものは、古今集の仮名序に見られる、

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり

という和歌の持つ人を動かしうる不可思議な力をもととし、さらに、「正直」というおのずと神の加護を受け得る人の気質を取り入れた考えを取り入れたようである。 三島での講釈のはじめ、常縁は宗祇にこの考え方を伝えており、

天下は正直の二字にておさまる物也、然バ、此集ハ正直を姿とせり、天地人を正直に取時ハ、天地は正、人は直なり、此国のことわざなれば、よむ所の歌も正直を可守也、尤歌人の可思処也

と講釈したようである(両角倉一『連歌師宗祇の伝記的研究』勉誠出版)。実はこの「正直」を根本に据えた考え方は宗祇も以前から持っており、三島での講釈を受ける前に、「長尾平六」へ宛てた歌道書「長六文」に次のように述べている(両角倉一『連歌師宗祇の伝記的研究』勉誠出版)

天地をもうごかし目にみえぬ鬼神をもあはれとおもはするみちなれば、ゆめゆめ正直にあらずしては不可叶事也

 常縁と宗祇の考え方は似通ったものがあったようで、両角倉一氏は「東常縁の講義は違和感無く宗祇の体内にしみとおっていったのではないだろうか」(両角倉一『連歌師宗祇の伝記的研究』勉誠出版P66)と評している。

 さらに6月29日、常縁は宗祇に『伊勢物語』の「当流之説」を伝授しているが(5)、常縁8月15日まで宗祇に『伊勢物語』の講義をしており(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)、この頃まで宗祇は三島に滞在していたことがわかる。そしてそれから間もなく、宗祇は三島を離れて美濃国へ向かった。これは常縁が郡上へ戻る予定がすでにあったことを意味していることと思われ、目的は郡上山田庄の妙見宮における「古今伝授」であったのだろう。

 明けて文明5(1473)年正月7日には、常縁から「源基清(大坪基清)」に「古今集相伝一流」の説を授けており、常縁はこの頃までは三島に在陣していたことがわかる。そしてこの「古今集相伝一流」の奥書に常縁ははじめて「従五位下下野守」と署名する(6)。この任官はこれまでの防戦での勲功であろうと思われ、堀越公方よりの吹聴によるものと推測される。この「下野守」は東氏惣領の官名「中務丞」「下総守」と並ぶ由緒あるもので、常縁には父・益之と同じ下野守が選ばれたのだろう。

 常縁は文明5(1473)年2月頃には三島の陣所を引き払い、郡上への道を辿ったと思われる。そして3月には郡上の館に到着。さきに郡上に入っていたと思われる宗祇と合流を果たした。そのときの歌と推測されている宗祇の発句に(『再編老葉』)

東下野守の山下にて、春の末つかた、祝の心を

春のへん千代は八峰のつばき哉

 とある(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)

東氏館跡
東氏館跡に残る庭園跡

 三月の末、暖かい日和の建間もない木の香漂う東氏の館での祝の歌であろう。さまざまに掛けられた「祝」のひとつが、常縁の下野守就任の「祝」であったのだろう。

 その後しばらく宗祇は古今集の講釈などを受けて過ごしていたのだろう。常縁と再開を果たしたおよそ半月後の4月18日、「八代末葉下野守平常縁」から「古今集之説悉以僧宗祇仁授申畢」の奥書を受け(5)、常縁から宗祇への古今伝授がすべて完了する。

 この古今伝授の際に詠まれたと推測されている宗祇の発句に(『常縁集』)

山田庄栗栖妙見の社にて

花ざかりところも神のみ山かな 常縁
さくらににほふみねのさか木葉 宗祇

があり、この古今伝授は妙見社を以て行われたものと推測される。神代から受け継がれた和歌の心という考え方を受け、氏神妙見の神前にて伝授を行ったのだろう。

宗祇水
宗祇水(宮ヶ瀬)

 その後、宗祇は山田庄の南、長良川の支流・小駄良川の畔、現在の宗祇水があるあたりの宮ヶ瀬に逗留したようである。具体的な住居の場所は定かではないが、後年の慶長4(1600)年9月に勃発した郡上八幡城での遠藤慶隆と稲葉修理との戦いを描いた合戦図(『郡上八幡町史』)によれば、この宗祇水に南隣する吉田川と小駄良川の合流する一角に「宗起屋敷」という建物が記載されており、百五十年前の宗祇が居住した建物が残されていた可能性があろう。その後、「宗起屋敷」がどのようになったのかは記録はないが、十七世紀半ばの寛文年間には同地に「牢屋」が置かれた(『寛文年間当八幡絵図』)

 この建物が常縁が宗祇のために建てた屋敷なのか、もともとあった被官屋敷だったのかはわからないが、古今伝授後はこの地で生活しながら、時折長良川沿いに山田庄の常縁のもとを訪れては、様々物語をしたのだろう。

 そして宗祇はこの郡上で半年あまりを過ごし、8月初旬に上洛の途についた。このとき常縁と宗祇は宮ヶ瀬の地で連歌のやり取りを交わしたと伝わる。

  宗祇庵主
 身をあはせともなふ人の世にもあらは

 いにしへ今をかたりてよ君 常縁

 同
 紅葉々のなかる々龍田しら雲の 

 花のみよし野思ひ忘るな 常縁
 同
 おろかなる事をはをきてつたへくる

 跡久堅の月を見よ君 常縁

 常縁は宗祇を郡上郡南端まで送って行ったと思われ、次の連歌はその途次に立ち寄った那比新宮でのものであろう(『常縁集』)。常縁が宗祇とともに領内巡検をした際の歌ともされるが(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)、この歌には夏の深緑の神々しさの中に哀惜の感が読み取れる。

郡上郡那比新宮といふ社にて

神もこゝにいくよか夏をすぎの森 常縁
宮井はなれぬ山ほととぎす 宗祇

 杉が生い茂る森に鎮座した幾世も経た古社の夏の情景を詠みつつ、去り行く宗祇への惜別を詠む常縁と、郡上再訪を誓う宗祇の掛合いの歌となっている。

乗性寺
乗性寺山門

 常縁と宗祇はこの那比新宮から相生に戻り、長良川を南下し東氏の菩提寺・乗性寺も訪れた可能性があろう(東家の「家説」を確立したとされる素暹入道廟所)。ここで常縁と別れた宗祇は近江国を経て奈良へ下り、年末に京都東山へ入っている。

 一方、常縁は文明7(1475)年には武蔵国に下っており、歳七十にして再び戦いの中に身を置くこととなる。常縁は在陣しつつも、知己の僧侶や被官らに古今集講釈を行ったのだろう。時期は不明ながら、文明9(1477)年4月5日の「相伝人数并分量等之事」によれば、先に三島で古今集講釈をした「基清 大坪治部少輔 本名村上」をはじめとして、禅宗僧侶「桂子蔵主竹影斎 素暁卜号」や浄土宗僧侶「宗順浄土宗」、被官の「胤道日置式部丞」「信秀(姓不詳)」らに講釈を行っている(『古今相伝人数分量』早稲田大学図書館蔵)

 その後、文明10(1478)年8月21日には、嫡男の「平頼常(前名は縁数、さらに頼数と改名)へ古今伝授を行った(5)。当時常縁は「病中」であったが、8月23日には頼常に三代集(古今、後撰、拾遺和歌集)の題号口伝を行っている(「古今和歌東家極秘」井上宗雄『室町期和歌資料の翻刻と解説』)。常縁が当時どこにいたのかは不明だが、七十歳を過ぎて病を押して戦陣にあることは考えづらく、すでに頼常へ家督を譲り、郡上に隠遁していたと考えるのが妥当か。

 文明12(1480)年5月、常縁は後土御門上皇の勅諚を受けた将軍・足利義尚の御教書に従って上洛。御所に上って後土御門上皇に古今集の講釈を行い、さらに勅命によって近衛政家(関白)・三条公敦(内大臣)・足利義尚(将軍)らにも講釈。京都東山において古今伝授を行った。これを俗に「東山伝授」という。

木蛇寺跡
木蛇寺跡

 その後の常縁はおもに京都の四条堀川邸に住んでいたのだろう。しかし、文明15(1483)年正月2日の歌会を最後に郡上へ戻ったか。そして文明16(1484)年3月16日に没したとされる。享年八十。法名は花山院徳元常雅。東家菩提寺の木蛇寺(郡上市大和町牧)に葬られた。

 なお、没年については明応3(1494)年4月18日に九十四歳で亡くなったという説もあるが、文明18(1486)年7月1日、宗祇三条西実隆の邸を訪れた際には、「故藤常縁」とあり、この時点ですでに亡くなっていることがわかる。

■常縁、宗祇と歌道の隆盛

 常縁は幕府奉公衆として武人の才覚を如何なく発揮し、下総の紛争時には東西に駆け回って戦陣に日暮し、在地国人たちとの折衝を行うなどの交渉力をも併せ持った人物。しかし、宮仕えの身としてやむをえないながらも、本心では意に沿わないことを行う場合などには、かなり弱みを見せたり愚痴や嫌味、泣き言まで飛び出す、非常に人間味の溢れる人物である。

 生前はとくに歌人として活動していたわけではないが、二條流の堯孝門に属して基礎から学び直すなど研鑽を重ね、武家歌人としての名は知られていた。しかし、常縁自身は歌人として積極的に活動する気はなく、「木三は世にしられざる事をうらみとおもはれたるだにも、是第一不及所御由候」と、冷泉持為門下の武家歌人・木戸三河守孝範が、自身が世に知られていないことを残念に思っていることと比べ、自分はそのような気も抱けず、及ばないことだ」と述べている(『東野州消息』)。おそらく常縁の当時の評価は二條流堯孝の門下の一人に過ぎず、高名ではなかったとみられる。しかしその死後、それまで内々で行われていた「古今伝授(切帋伝授)」が一種の「格式」としてもてはやされ、その祖として、実像以上に評価が膨れあがることになる。そして、この「切帋伝授」を大々的に利用して歌道の隆盛に尽力したのが、連歌師宗祇であった。おそらく宗祇は二條流・冷泉流などに分派していた御子左流歌道の源流を、東常縁に求めたのだろう。東家の「家説」が、御子左流が分派する以前の京極中納言定家や中院大納言為家の解釈を受け継いだものであると伝わっていたことを知り、常縁をその師と定めたとみられる。歌道の隆盛とその根底にある平和への憧憬を広めるため、この古今伝授を積極的に利用して朝廷貴族や有力大名、和歌の好士などと交わり、室町時代中期の歌壇形成に大きく関わっていくことになる。

●東常縁の動向(井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町前期』風間書房 1961を参考)

月日 事柄 場所
文安6(1449)年  3月10日 招月庵を訪問し、常に見て勉強すべきものは三代集のほかに何があるか尋ねる。 京都
7月7日 御所(将軍邸か)にて七夕の歌会。常縁の兄・氏世が列席する。
7月22日  招月庵正徹が妙行寺辺に旅宿しているところを訪問して、例式歌の事を尋ねる。
7月26日 正徹、堀河の東家邸に光臨、物語する。常縁、正徹を「比道の眼目にてこそ侍らめ」と称賛する。
7月末 安東氏世、常縁に七夕の歌会について物語する。正徹、或人(具体名不明)が古歌の解釈の違いについて討論。
8月5日 或人(具体名不明)がおそらく堀河の東家邸を訪れて、招月庵の歌を語る。
8月7日 常光院堯孝、東家邸来訪。常縁、古歌の意について問う。
8月9日 常縁、建仁寺常光院を訪問。堯孝の「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受ける。その後、三代集について問う。
帰りに、招月庵正徹のもとを訪れ、式子内親王の御歌の意について問う。
9月3日? 東林寺の宗雲(常縁実姉)が古歌を語る。
9月16日夜 畠山阿波守が光臨。常縁へ古歌について質問し、基之、歌について語る。
9月17日 安東遠州氏世、御番として詰めていた際に人から聞いた三井寺持仏院の歌会について語る。
9月18日夜 畠山阿波守、常縁とともに招月庵を訪問。
10月4日 常縁、常光院を訪ねる。
10月16日 常光院堯孝、来臨。
10月22日 常縁、畠山基之邸を訪問し、基之。
10月28日 常縁、招月庵正徹を訪ねる。
10月中 安東遠州氏世、物語する。
宝徳2(1450)年 4月1日 常縁、今年はじめて招月庵を訪ねる。
5月 蜷川三郎親元から、親・蜷川新右衛門(智蘊)三回忌のために一品経の勧進を依頼。
6月18日 常縁、招月庵を訪問する。
7月頃 氏数、腫物を病み、招月庵正徹が見舞いのために来臨。
上の翌日 常縁、昨日の返礼として招月庵を訪ねる。
10月 常縁、招月庵を訪問。
11月3日 常縁、常光院を久々に訪問。
11月7日 常縁、使いとして常光院を訪ねる。
12月2日 常縁、常光院堯孝の弟子となる。
宝徳3(1451)年 2月1日 常縁、常光院を訪問。歌の懐紙への書き方を学ぶ。
3月1日 常縁、常光院にて歌の題について学ぶ。
3月3日 常縁、常光院にて勉強か。
10月14日 常光院、東家邸に光臨。
10月18日 常縁、常光院にて勉強。
宝徳4(1452)年 正月11日 常縁、幕府に出仕か。
2月1日 常縁、常光院に質問。
2月16日 安東氏世、東家邸を訪問する。
2月18日 常光院、北野に参籠。安東氏世・東常縁・東元胤らが従う。元胤、常光院の弟子となる。
7月22日 常縁、常光院を訪問して質問。
8月16日 常縁、常光院を訪問して質問。
10月19日 常縁、常光院を訪問して質問。
亨徳2(1453)年 7月26日 常縁、左近将監に任官。
8月13日 常縁、従五位下に叙される。
12月27日 常縁、常光院より古今和歌集の古歌を受ける。
康正元(1455)年 7月5日 常光院堯孝、65歳で寂す。
10月頃 常縁、下総の千葉一族内乱を鎮定するため、浜春利をを同道して下総東庄へ 下る。 下総
11月7日 常縁、『明疑抄』を書写。
11月13日 常縁、馬加康胤の本城・馬加城と原胤房の本城・小弓城を攻め落とす。
康正2(1456)年 1月19日 古河公方・足利成氏勢によって市川城陥落(市川城合戦)。
常縁、城を逃れて匝瑳郡方面へ退却する。
千葉実胤
千葉自胤、武蔵へ退却。
実胤方の家老・円城寺若狭守(妙若)ら討死。
2月7日 常縁、匝瑳郡の鎮守・匝瑳老尾神社に阿玉郷の土地を寄進して戦勝祈願をする。
常縁、鎌倉において『拾遺風躰集』を見、その中に先祖の東素暹の古歌を発見する。 鎌倉
6月12日 馬加康胤入道の子・千葉胤持が没する。23歳。 下総
6月14日 原越後守胤房、真間山弘法寺領を安堵する。
10月 平輔胤(岩橋輔胤)、真間山弘法寺領を安堵する。
11月1日 常縁、馬加康胤を攻めて上総国村田川まで追いつめ、討ち取る。
長禄3(1459)年 正月9日 招月庵正徹、79歳で寂す。  
寛正2(1461)年 6月25日 常縁が同門の円雅に依頼していた『井蛙抄』の書写終わる。 京都
7月16日 常縁、治承3年に行われた『右大臣家歌会』を「旅宿之徒然之余写留之畢」とある。
12月13日 常縁が同門の円雅に依頼していた『古今聞書』の書写終わる。
寛正6(1465)年 10月24日 常縁、貞和6(1350)年以降に写本された頓阿本の後鳥羽院御口伝を書写。「左近大夫平」の奥書。 武蔵
文正元(1466)年 10月20日 常縁、宗祇へ返信する(東野州消息)。
応仁2(1468)年 9月 斎藤妙椿、東氏の本拠地・美濃郡上郡篠脇城を攻め取る。
文明元(1469)年 4月21日 常縁、下総を発って京都へ向う。 京都
5月12日 常縁、妙椿から篠脇城を返還してもらう。
文明2(1470)年 5月9日 常縁、美濃郡上郡妙見社の焼け残った『古今和歌集』に奥書き。 美濃
文明3(1471)年 正月28日 常縁、伊豆国三島の陣中に訪ねてきた宗祇に古今集の講義をはじめる。 三島
3月21日 常縁、宗祇に古今伝授。
3月27日 常縁の子・竹一丸が風邪に伏せると、宗祇は三日で千句を詠んで平癒と和平を願った(三島千句)。
4月8日 常縁、宗祇への古今集講義を終了する。
5月8日 氏数、病死する。
6月12日 常縁、上総の大坪基清へ古今集講義をはじめる(宗祇聴聞)。
7月25日 常縁、大坪基清への講義を終える(宗祇聴聞)。
8月15日 常縁、宗祇へ「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給(古今伝授の奥書)。
文明4(1472)年 2月16日 常縁の実姉である東林寺住持・尼宗雲長老が亡くなる。
5月3日 宗祇の『古今和歌集両度聞書』の奥書を書く。宗祇を「門弟随一」とする。
8月 常縁、宗祇の所望のため、当流の説を書写して授ける。
10月26日 宗祇、美濃革手城下の正法寺で聖護院道興、専順らと百韻。
12月16日 宗祇、美濃革手城内で専順らと千句を詠む(美濃千句)。
文明5(1473)年 正月7日 常縁、源基清(大坪基清)に古今集相伝一流の説を授ける。「従五位下下野守平常縁」の署名。
4月18日 常縁、郡上郡妙見社前にて宗祇に古今伝授を完了。「八代末葉下野守平常縁」の署名。 美濃 
6月11日 常縁の書状が京の蜷川親元のもとに着く。「東下野守常縁書状京着」
6月12日 常縁の書状を披露。聴松院殿(正月に亡くなった伊勢貞親)の弔いの内容。
6月13日 蜷川親元、常縁に返事。
8月 宗祇、郡上を出立して上洛の途につく。常縁と贈答歌を交わす。
文明7(1475)年   常縁、江戸城を訪れて故実を語る。常縁は一時期、武蔵にいたことが伝わり、淵江にいたか? 武蔵
文明9(1477)年 5月20日 常縁、美濃紙二束を伊勢貞宗へ贈る。 美濃か
文明10(1478)年 8月15日 常縁、足利義政・足利義尚へ太刀を贈る。  
文明15(1483)年 正月2日 常縁、自邸で歌会。 京都
文明16(1484)年   常縁、亡くなるか。 美濃
文明17(1485)年 6月17日 頼数、老母から与えられた俊成女筆『古今和歌集』を白山長瀧寺に奉納。  
堯恵、美濃国の頼数が知行する山亭に逗留。  
文明18(1486)年 2月19日 頼数、足利義政・義尚に献上品。  

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「古今伝授」

 「古今伝授」とは延暦5(905)年7月に編纂された最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の解釈や作法など秘事や口伝を、その道に長じた特定の人に伝授することである。平安時代後期、藤原基俊から俊成、定家へと伝えられた古今集の解釈が基本となっていると思われ、これが「古今伝授」として切紙を以って伝授が形式化されたのは、常縁に始まる。 

 『古今和歌集』の解釈は、和歌の故実(作法・習わし・先例)や解釈などが口伝(口移しで伝えられること)されており、それが基俊、俊成、定家と伝えられてきたものの、その後は二条・冷泉・飛鳥井・六条など、各流派の人たちによってそれぞれに解釈が異なってきたため、解釈に多くの疑問や矛盾が出てその内容が混乱した。それを常縁は文字で形に残しつつ整理しようとした。 

明建神社
篠脇城ふもとの明建神社

 常縁は、口伝の条目を記した「切紙」に添えて古今集解釈の奥義を伝える「切帋伝授」という伝授の基本形式を作りだし、文明3(1471)年、はじめて宗祇に行われた。宗祇への「古今伝授」は文明3年(1471)の1月から7月にわたって伊豆国三島で2回行われた。宗祇はその後も常縁から教えを受け、「門弟随一」とされる。そして文明5(1473)年4月18日、常縁は宗祇に「古今集の説尽く授け申しおはんぬ」と伝授の完了を伝えた。

 その後、宗祇は文明13(1481)年10月3日、堺で牡丹花肖柏に(堺伝授)、長享元(1487)年6月18日、三条西実隆へ「古今伝授」した。さらに明応4(1495)年6月5日からは師・東常縁の子である東素純への古今集講義が開始され、7月18日に古今伝授を完了する。明応7(1498)年2月5日には前関白・近衛尚通に古今伝授した。こののち、三条西実隆から三条西家を通じて細川幽斎に伝えたられたものを「御所伝授(御所伝授)」、牡丹花肖柏から饅頭屋宗二に伝えられたものを「奈良伝授」という。公家だけの教養であった和歌も、武家でありながら教養深い一族・東家の影響で武家の間にもひろがり、室町中期の足利義政の時代には武家の必須教養のひとつとなっていった。東常縁→宗祇という「古今伝授」の影響は、のちの戦国大名たちの文化的教養の基本となっていく。

 古今伝授は東氏に伝わってきた「家説(二條流中院為家の古今集の「原解釈」)」、ならびに二条流宗家が作り出した伝来の家伝書と称するもの(『桐火桶』『和歌秘書集坤』『愚秘抄』など)が基本となり、古今集のうち解釈の難しいとされるもの数首が伝授されていったとされる。ただし、この「古今伝授」されること自体が重んじられ、和歌の幽玄を匂わす域を「格式」という枠で囲ってしまう弊害を生み出した。一方で、応仁の乱以来廃れてしまっていた和歌という文化にふたたび脚光が浴びせられ、公家だけではなく武家の教養の一つとして広まっていった。

●古今和歌集の構成

構成巻数 歌数 掲載されている歌を紹介
仮名序   やまとうたはひとのこころをたねとしてよろつのことのはとそなれりける
巻第一  春上 68 袖ひちてむすひし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ  紀貫之(春二)
巻第二  春下 66 ひさかたの光のとけき春の日にしつ心なく花の散るらむ  紀友則(春八十四)
花の色はうつりにけりないたづらにわか身世にふるなかめせしまに  小野小町(春百十三)
巻第三  夏 34  
巻第四  秋上 80 秋来ぬと目にはさやかに見えねとも風の音にそ驚かれぬる  藤原敏行(秋百六十九)
巻第五  秋下 65  
巻第六  冬 29  
巻第七  賀 22  
巻第八  離別 41  
巻第九  覊旅 16  
巻第十  物名 47 みよしのの吉野のたきにうかひいつる泡をかたまの木ゆと見つらむ  紀友則 (物名四百三十一)
巻第十一 恋一 83 ほとヽきす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな  よみ人しらす(恋四百六十九)
巻第十二 恋二 64 思ひつつ寝れはや人のみえつらん夢と知りせはさめさらましを  小野小町(恋五百五十二)
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき   小野小町(恋五百五十三)
巻第十三 恋三 61  
巻第十四 恋四 70  
巻第十五 恋五 82 月やあらぬ春や昔の春ならぬわか身ひとつはもとの身にして  在原業平(恋七百四十七)
巻第十六 哀傷 34  
巻第十七 雑上 70  
巻第十八 雑下 69  
巻第十九 雑体 68  
巻第二十 大歌所御歌
     神あそびうた
     東歌
32  
真名序    

●御子左流歌道略図●

歌道

★室町期の歌人★

招月庵正徹(1381-1459)

東福寺栗棘庵(招月庵)
東福寺栗棘庵(招月庵)

 備中国小田村出身の禅僧で、名は正清。字は清巌。号は招月庵冷泉流の大歌人。応永年のはじめ、冷泉為尹(1361-1417)に師事して冷泉流を学び、冷泉流の代表歌人となった。その後、東福寺の書記(徹書記とよばれた)となった。

 清巌は冷泉流歌道に飽きたらず、二条流・飛鳥井流(いずれも藤原俊成を流祖とする)を学ぶが、それらのいずれもが藤原定家の原解釈とは趣が変わっていることを嘆き、藤原定家の有心歌風に戻るべきだと主張し、余情美のある和歌の研究をした。その講義を受ける人物たちも多く、数多くの公家や文人、豪族たちと交流を持ち、長禄3(1459)年に没した。

 著書は『草根集』『正徹物語』がある。『草根集』には正徹と交流をもった人物が記されており、その中には「東益之」「東下総入道素忻」の名が散見される。「東下総入道素忻」は益之の嫡男・東下総守氏数のこと。

 常縁は文安年中、正徹の東家来訪を「光臨」「かやうの金言どもをおもふに有難人なり」「今の世には比道の眼目にてこそ侍らめ」「古歌難義などを申されんは、鏡の如くなるべしと覚えたり」とあるように、正徹の才能を尊敬していた節を見ることができるが、こののち、歌の捉え方の相違が見えてくると、常縁は正徹と距離をとるようになり、暗に批判するようになっていく。

 宝徳2(1450)年6月、氏数が腫物を病んだことを聞きつけた正徹は、「旧友」であると京外れの東福寺からわざわざ四条堀河の東邸まで見舞いに駆けつけた。そしてこの翌日、弟・常縁が返礼に招月庵へ赴いている。

宗砌(????-1455)

 連歌師。俗名は高山民部少輔時重。但馬国人で山名家被官。連歌を朝山梵灯庵に、和歌・歌学・古典を冷泉流・清巌正徹に学んだ。清巌正徹東下野守常縁の兄・下総守氏数との交流が深かったことで知られる。

 文安5(1448)年、北野連歌会所奉行となって「宗匠」の号を与えられた。前関白・一条兼良(1402-1481)と協力して『連歌新式追加今案』を編纂。門弟の宗祇が編んだ『新撰菟玖波集』にも多数入選している。著書に『初心求詠集』『花能萬賀記』『密伝抄』がある。

 享徳3(1454)年11月、山名持豊入道宗全が隠居して領国である但馬国に下向した際、宗砌は門弟の宗祇とともにこれに従い下向。翌年寂。

常光院堯孝

 冷泉流・清巌正徹と対抗する二条流の大歌人。建仁寺常光院主。常光院堯尋の子で権大僧都。二条為世の門弟で二條派の大歌人・頓阿(二階堂氏)の直系子孫である。歌道に深く通暁する碩学将軍足利義教の深い信頼を受けており、永享5(1433)年の『新続古今和歌集』の編纂に関しては、和歌所開闔として撰者・飛鳥井雅世(前名・雅清)を補佐した。東常縁は堯孝の弟子となって歌道を修めており、その後は正徹との関係は疎遠となっていく。

 宝徳2(1450)年12月2日、東常縁は堯孝門となり、翌宝徳3(1451)年2月18日の常光院堯孝法印が開いた北野天神での歌会では、兄の安東氏世や甥・元胤が出席、元胤も堯孝に弟子入りした(『東野州聞書』)

種玉庵宗祇(1421-1502)

 連歌師、二条流歌人。号は自然斎。庵名は種玉庵。和歌を飛鳥井雅親(1421-1494)に、和歌・連歌を徹・宗砌・専順東下野守常縁に学び、常縁から「門弟随一」として大きな信頼を得た。「宗」は師の宗砌の一字を受けたものか。

 応永28(1421)年、伊庭氏の子として近江国に生まれたとされる(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』角川叢書6)。ただし、江戸期成立の文書によれば「姓三善飯尾」「生于紀州粉河邑」と記される(『種玉庵宗祇伝』)

 幼少時または若年時には相国寺の稚児または僧侶となっていた。のちに宗祇が大内政弘に招かれて山口へ赴く道中、船木(宇部市船木)を訪れた際に「むかし、都相国寺にしておりおりたのみ侍る人、この山里をしめて吉祥院とて」(『筑紫道記』)と、相国寺時代に世話になった「旧友」が住持となっている大寺院・吉祥院を訪れたとある。

 長じて山名宗全入道の被官で、北野連歌会所奉行にして「宗匠」の号を拝領していた連歌師・高山民部少輔入道宗砌の門人となるが、享徳3(1454)年11月、山名宗全入道が将軍義政との対立の結果、隠居して領国である但馬国に下向した際、師の宗砌とともに但馬国へ下向。翌年の享徳4(1455)年正月16日に師・宗砌と死別する。

 その後上洛し、宗砌と交流が深く、かつ将軍義政の覚えも目出度い東洞院六角の頂法寺(六角堂)の執行・専順法眼を訪ねてその門人となった。おそらく宗砌からの紹介であったのだろう。その後はしばらく専順のもとで連歌の修行を重ねることとなる。文正元(1466)年正月18日には、北野連歌会所での月次連歌に師の専順とともに列座を許される。こうした師・専順とともに行う連歌会などで次第に歌人や歌人武士、さらには大名や権門との知己が増えていったと推測され、今川義忠や東常縁との交流もこの頃生まれたものであろう。

 同年6月、東国への下向のため京都を出立すると、7月には駿河国府中の今川義忠のもとを訪れた。ここにしばらく逗留した後、相模国を経て武蔵国に入り、9月の末から10月にかけて、上杉氏と古河公方との戦いの最前線である「五十子陣(本庄市五十子)」に入った。この陣中から10月16日に、武蔵国(府中あたりか)に在陣中の東常縁に書状を送っており、常縁はその書状に対し10月20日に返信をしている(『東野州消息』)。

 その後、武蔵国を南下して、知己の太田道真・道灌の勢力圏内である江戸を経て、年末には品川(品川区)へ入っている。しばらくこの地に逗留した後、応仁2(1468)年には白河結城氏の招きを受けて白河へ向かい、文明元(1469)年の秋には、京都での所用のためか関東を経って上洛の途についた。翌年文明2(1470)年正月10日には再び関東に下り、武蔵国河越の太田道真の館で連歌の会(河越千句)に列座した。

 文明3(1471)年正月28日、宗祇は伊豆国三島の東常縁の陣中で古今伝授ための古今集講義を受け始める。宗祇が常縁に古今伝授を求めた理由としては、京都は応仁の戦乱のために荒廃していたこと、二條流・京極流・冷泉流など歌道を伝える家が衰退してしまったなど、さまざまあげられると思われるが、郡上東氏は当時において聖格化されていた京極中納言定家や中院大納言為家の解釈を「家説」と称して受け継いでいた唯一の氏族であったことが大きな要因であろう。宗祇の熱意に感じた常縁は指導を行うことを決め、このときに詠んだとされる歌が『東常縁集』に掲載されている。

  宗祇法師より和歌の事尋ね侍けるに、詠みてつかはしける
 
 今更に身のをこたりそしられける とはすはいかにしきしまの道  常縁

 この陣中講義は約二か月間行われ、3月21日に古今伝授が為される(初度伝授)。ただし、この古今伝授は不完全なもので、以降数度にわけて講義が行われることとなるが、おそらくこの講義の最中、「東殿子喝食」「竹一丸」が風邪を患ったため、宗祇は三島社に参詣して、

 なべて世の風を治めよ神の春

 の句を奉願した。すると竹一丸の風が平癒したことから、三日間で千句を独吟して三島社に奉納した(三島千句)。この発句は「なべて世の風」を治める、つまり竹一丸の風邪の平癒と掛けて戦乱の収束を三島明神に願ったものであるとされる(両角倉一著『宗祇連歌の研究』)。なぜ不完全な状態で古今伝授が成されたのか。それは武蔵国品川に下向していた宗祇の知音である心敬権大僧都が『老のくりごと』の中で「いにしやよひの比より、あつまのミたれさへしきりに成て、たかひに弓矢なくゐのミ乃かまひすしさ、さながら刀山剣樹のもとと成り侍れは」という古河公方と堀越公方との合戦にあったのだろう(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)。常縁は政知に付けられた奉公衆であり、この古河公方方との戦いを第一義としなければならない立場にあった。ただし、その後も宗祇は常縁の講義を受けており、4月8日午刻でいったん終了する(『古今和歌集両度聞書』)

 そして、6月12日巳刻から7月25日までの43日間、上総国村上の武士・大坪治部少輔基清(沙弥道教・道暁)の「懇望」によって、常縁は大坪基清への古今集講義を行い、宗祇もこれを傍聴する(3)(4)。大坪基清も堀越公方の奉公衆または被官層として三島に在陣していた人物であろう。宗祇が基清への講義を聞いたのは、「予も同聴つかふまつりしを、古今伝授の中ばにて明らかならず侍るを」(『百人一首抄』奥書)とあり、理解できない部分の再確認であった。なお、大坪基清の伝授は文明5(1473)年にも行われているが、文明9(1477)年4月5日の時点で「十ノ物六」までの伝授に留まっている(『古今相伝人数分量』)

 そして8月15日、常縁は宗祇へ「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給しており(5)、宗祇への古今伝授が行われたことがわかる。宗祇はこの二度にわたる古今伝授を『古今和歌集両度聞書』として一帳にまとめると、師の常縁へ確認のために提出する。そして常縁はこの書に「常縁所存少々加筆加詞」を認め、文明4(1472)年5月3日に奥書し、宗祇に戻した(『古今和歌集両度聞書』)

 
伝受の後、宗祇庵主比一帖以被見、常縁所存少々加筆加詞者也、門弟随一思尤在之、仍為後証又加比詞畢、
 
   文明四年五月三日             平常縁(在判)

 6月29日には常縁から『伊勢物語』の「当流之説」を伝受しているが(5)、常縁と宗祇は8月15日まで『伊勢物語』についての講義を受けており(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)、この頃まで宗祇は三島に滞在していたことがわかる。その後まもなく三島を離れた宗祇は、東海道を上って、10月6日、遠江国の堀江駿河入道賢重亭で百韻し、三河国鳳来寺でも独吟。10月26日には美濃国の中心地である革手の正法寺(岐阜市正法寺町)での百韻、12月16日から21日の5日間、守護土岐氏の居館である革手城内で「美濃千句」を催した。この革手にはかつて郡上を占領した「三位大僧都妙椿」こと斎藤妙椿も居住しており、宗祇は彼とも対面していると思われる。

篠脇城と東氏館跡
篠脇城と東氏館跡

 一方、文明5(1473)年正月7日には、常縁は「源基清(大坪基清)」に「古今集相伝一流」の説を授けていることから、常縁はこの頃までは三島に在陣していたことがうかがわれ、この「古今集相伝一流」の奥書にはじめて「下野守」の署名をする。

 おそらく2月頃に三島を離れた常縁は、3月末には郡上へ戻ってきた。宗祇は東氏居城・篠脇城の山下、再建されて間もない木の香が強く漂う東氏の館で常縁と再会を果たしたと思われる。時期はまさに「春の末つかた」、暖かい日和の中で宗祇は祝の歌を詠んだ(『再編老葉』)

「祝」は郡上郡の返還、無事な帰国などさまざまな「祝」であったと思われるが、そのうちのひとつが、常縁の下野守就任の「祝」であったのだろう(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)

東下野守の山下にて、春の末つかた、祝の心を

春のへん千代は八峰のつばき哉

 その後宗祇は、常縁から古今集の講釈などを受けて過ごしたのだろう。常縁と再開を果たしたおよそ半月後の4月18日、「八代末葉下野守平常縁」から「古今集之説悉以僧宗祇仁授申畢」の奥書を受け(5)、常縁から宗祇への古今伝授がすべて完了する。この古今伝授の際に詠まれたと推測されている宗祇の発句に(『常縁集』)

山田庄栗栖妙見の社にて

花ざかりところも神のみ山かな 常縁
さくらににほふみねのさか木葉 宗祇

があり、この古今伝授は妙見社を以て行われたものと推測される。神代から受け継がれた和歌の心という考え方を受け、常縁は古今伝授の場所を氏神妙見の神前に選んだのだろう。

 その後、宗祇は山田庄の南、長良川の支流・小駄良川の畔、宮ヶ瀬に庵を編んで逗留しながら、山田庄の常縁と交流を持ったと思われる。そしてこの郡上で半年あまりを過ごし、8月初旬に上洛の途についた。このとき常縁と宗祇は連歌のやり取りを交わしたと伝わる。

  宗祇庵主
 身をあはせともなふ人の世にもあらは

 いにしへ今をかたりてよ君 常縁

  同
 紅葉々のなかる々龍田しら雲の 

 花のみよし野思ひ忘るな 常縁
  同
 おろかなる事をはをきてつたへくる

 跡久堅の月を見よ君 常縁

 常縁は宗祇を郡上の外れまで送って行ったと思われ、次の連歌はその途次に立ち寄った那比新宮でのものであろう。

郡上郡那比新宮といふ社にて

神もこゝにいくよか夏をすぎの森 常縁
宮井はなれぬ山ほととぎす 宗祇

 神は杉森に鎮座して幾世の夏を過ごして来たのか、社から離れないほととぎす、という情景を詠みつつ、過ぎ去り行く宗祇への惜別を詠む常縁と、郡上再訪を誓う宗祇の掛歌となっている。この那比新宮から相生に戻り、東氏菩提寺・乗性寺にも参拝した可能性もあろう(東家の「家説」を確立させた祖と定められる素暹入道廟所のため)。

 8月初旬に郡上を出立した宗祇は、革手城下を通過して不破の関を経て近江国に入ったと見られる。8月19日には、小笠原教長入道宗元(有職故実家の小笠原持長入道浄元の弟)らの連歌会に参会する。さらに10月8日には奈良興福寺大乗院に疎開していた一条兼良を訪問している(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)

 文明5(1473)年の年末には上洛しており、文明6(1474)年正月5日には「元盛」なる人物と百韻が催される(江藤保定『宗祇の研究』:金子金治郎『連歌師宗祇の実像』P108)。三条西実隆の用人・木村元盛との説があるが(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)、細川家被官の安富元盛であろうか。

 上洛した宗祇は、京都東山に種玉庵を建てると、この庵をみずからの活動の拠点とする。種玉庵が置かれた具体的な場所はわかっていないが、三条西実隆や正宗龍統、ほか大名や武家等も訪問しては講義や連歌が催されていることから、庵とは名ばかりのかなりの大きな邸宅であった可能性が指摘されている。宗祇自身、公家へ銭を献上したり、写本を依頼するなど、周囲のパトロンからかなりの収入を得ていた可能性が高い。また、この庵は庵主である宗祇が長旅などで留守の際にも利用されており、同好の士が集まるサロンのような位置づけであったのかもしれない。そして、この種玉庵ではじめて編纂されたのが、『萱草』である(金子金治郎『連歌師宗祇の実像』)

宗祇供養塔
早雲寺の宗祇供養塔

 長享2(1488)年3月28日、幕府の北野連歌会所奉行に就任。明応4(1495)年6月、大内政弘(宗祇門人)の発願で、宗祇が中心となって準勅撰連歌集『新撰菟玖波集』が編纂された。編纂には宗祇のほか、柴屋軒宗長、牡丹花肖柏、猪苗代兼載らが協力して完成させている。句数は約二千余。宗砌、専順、心敬、後土御門天皇、大内政弘ら二百五十人の句を集めた「有心正風連歌」の集大成である。

 明応7(1498)年2月、太政大臣・近衛尚通(1472-1544)に古今伝授を行った。また、三条西実隆にも歌道の講義を行っており、こののち実隆に伝えられた家伝は三条西家を通して宮廷に広まっていき「御所伝授」とよばれる。なお、宗祇から牡丹花肖柏らへの伝授を「堺伝授」という。

 著書には『竹林抄』『吾妻問答』『老のすさみ』『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』『筑紫道記』などがあり、『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は柴屋軒宗長・牡丹花肖柏との連歌で有名。

牡丹花肖柏(1443-1527)

 連歌師。父は従一位権大納言・中院通淳(1398?-1451)。和歌を飛鳥井宗雅(雅世の父)に、連歌を宗祇に学び、宗祇・宗長らとの連歌集『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は「有心正風連歌」の典型といわれる。

 堺で宗祇から古今伝授を受け(「堺伝授」)、のち、奈良の林宗二(饅頭屋宗二)に伝授した。これを「奈良伝授」という。著書に『春夢草』『肖柏口伝(弟子・宗牧が聞き書きした歌学書)がある。

宗碩(1474-1533)

 連歌師。尾張国の人で、宗祇の門人となった。号は月村斎。異母弟・永閑の生国が能登であった関係で、能登守護・畠山義総と親密で、義総も宗碩を通じて三条西実隆と交流を持っていた。

 永正12(1515)年、芥川城で柴屋軒宗長らと連歌の会を催し、翌年には「十花千句」を、大永2(1522)年には伊勢国山田で、細川高国のための連歌会「高国法楽両吟千句」を開催した。著書には『源氏男女装束抄』『佐野のわたり』などがある。

三条西実隆(1455-1537)

 清華家・正親町三条家(藤原北家閑院家)の一流。南北朝末期、正親町三条実継(1314-1388)の次男・公時(1339-1383)が三条家の西に屋敷をかまえて「三条西」を称したことにはじまる家。三条西家は代々和歌をよくし、実隆は三条西家の五代目にあたる。血縁上では実継の嫡男・三条公豊(1332-1395)の孫にあたる。

 実隆は後花園~後柏原天皇の3代に仕えて正二位、内大臣にまで進んだ。歌人としても著名で宗祇より古今伝授を受ける。文亀元(1501)年9月10日、東宮内少輔氏胤へ「新古今真名序」を授けたことが『実隆公記』からわかる。文亀2(1502)年6月、『本朝皇胤紹運録』を書写して進上。永正3(1506)年に内大臣となった。

 彼は和歌・漢詩・有職故実・書画・和漢学などに通じ、当代随一の学識者であった。連歌師とのかかわり合いもあって、近江などにも出かけている。主な著書として『詠歌大概抄』『装束抄』『再昌集』、実隆の日記『実隆公記』は中世の貴重な資料である。

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篠脇城

篠脇城と東家館跡
篠脇城と東家館跡

 美濃に下った東中務丞胤行(素暹)の孫・東下総守氏村は、本拠地・阿千葉城の南東に位置する砦・篠脇城を拡張して本城とした。これ以降、赤谷山へ移るまで郡上東氏の本拠地となった。

 応仁2(1468)年9月、東左近将監常縁が下総に下っているときに土岐成頼の守護代・斎藤妙椿に篠脇城を奪われた。城を奪った斎藤妙椿はもともと常縁の歌の友で、ともに足利義政の奉公衆だった。そこで、常縁は妙椿に城の返還を嘆願すると、妙椿は歌を送ってくれたら城を返そうと返事した。さっそく常縁は十首の心情を込めた和歌を送り、妙椿もこれにうたれて城を返還した。

 篠脇城は栗巣川に沿って立つ山頂にある。標高は570メートル。「臼目堀」という特殊な堀に囲まれた竪固な山城である。対岸には承久以来七百年の歴史を持つ明建神社が建っていて、妙見神を祀り、盛大な祭りが催される。

 城主の東氏は篠脇城の北麓に屋敷を構え、その遺構は昭和55年から行われた発掘で発見された。五百年以上も前の室町期の瀟洒な池泉庭園や館跡がほぼ完全な形で残されており、庭園好きだった東下野守益之(常縁の父)の影響があるのかもしれない。貴重な中世庭園の学術的価値と景観の素晴らしさから昭和62年に国の名勝に指定された。東氏館跡の公園内には古今集に登場する四季の植物が植えられ、景観に華を添えている。

【参考文献】

(1)井上宗雄、島津忠夫編『東常縁』和泉書院1995
(2)宮川葉子『三条西実隆と古典学』風間書房1995
(3)竹岡正夫『古今和歌集全評釈』講談社1998
(4)片桐洋一『中世古今集注釈書解題・三』赤尾照文堂1981
(5)『古今秘伝集』宮内庁書陵部蔵
(6)『古今和歌集』京都大学国語学国文学研究室所蔵
(7)金子金治郎『連歌師宗祇の実像』角川叢書1999:「東野州消息」を宮内庁書陵部蔵文書より発掘され、『続群書類従』本での脱漏、誤記を明確に指摘されている。宗祇の出身や足取りまで網羅されている名著である。


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