鍋島胤信(1551-1632)
小城千葉氏十九代。千葉介胤連の嫡子。諱は房秀、胤信。通称は千葉左馬助、龍造寺作兵衛、鍋島右馬允、鍋島忠右衛門。母は龍造寺家純娘(心月妙鏡大禅定尼)。妻は草野左衛門尉家清娘(覚誉本慶大禅定尼)。藩祖・鍋島直茂とは従兄弟で義兄である。
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直
(駿河守) |(信濃守) (肥前守)
∥ |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂――――佐野茂久
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (右衛門尉)
(豊後守) | |
+―娘 |
|(心月妙鏡)|
| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞
| ∥ (右馬佑) | ∥―――――――千葉常成
| ∥ | ∥ (太郎介)
| 千葉介胤連 +―娘
|(千葉介) (心光妙観)
|
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
文禄元(1592)年の文禄の役では鍋島直茂に従って渡鮮したが、このとき、宿敵・東千葉氏の系統である神代喜平次家良(実は鍋島直茂の弟)もともに参陣していた。胤信(この当時は龍造寺作兵衛尉房秀)は8月16日の加耶山城攻めに加わり、攻め落としたのちは龍造寺太郎次郎茂成、姉川中務大輔信房、神代喜平次家良、龍造寺市兵衛信昭、内田助三郎家勝と同陣で敵衆に備えた。
●直茂公御供にて今度朝鮮渡海の人数(『直茂公譜』)
竜造寺六郎次郎家久 多久長門守 |
竜造寺七郎左衛門家晴 諫早道安 |
後藤善次郎家信 武雄十左衛門 |
竜造寺彦右衛門家俊 |
松浦太郎信昭 須古下総守 | 神代喜平次家良 | 鍋島三郎兵衛茂正 | 鍋島助右衛門茂良 |
千葉左馬佐胤信 (龍造寺作兵衛) |
馬場太郎次郎信員 | 馬場式部丞家員 | 姉川中務大輔信房 |
鍋島生三入道道泉 | 鍋島平五郎茂里 | 成富十右衛門茂安 | 小河市左衛門家俊 |
小河半内家尚 | 竜造寺又八郎久重 | 竜造寺太郎次郎茂成 | 鍋島新左衛門種巻 |
大田庄左衛門茂連 | 犬塚三郎右衛門茂虎 | 内田助三郎家勝 | 三浦四郎右衛門賢純 |
土肥孫次郎茂実 | 竜造寺新助家光 | 小田太郎四郎信光 | 中山備前守信増 |
鹿江伯耆守信明 | 馬渡相右衛門茂光 | 大木兵部少輔統光 | …… |
なお、文禄5(1596)年6月21日の龍造寺高房・鍋島直茂・鍋島勝茂への起請文に「千葉 龍造寺作兵衛尉房秀」とある(『葉隠聞書校補』首巻)。このころ胤信は主君・龍造寺藤八郎高房から「房」字のの偏諱を受けて「房秀」を称していた。
+=鍋島直茂
|(加賀守)
|
千葉介胤連―+―鍋島胤信―+―長女
(右馬佐) | ∥――――――――千葉胤仲 +―石井常豊
| 永田利右衛門 (作兵衛) |(二右衛門)
| ∥ |
+―次女 ∥――――――+―娘
| ∥ ∥ |(関平兵衛妻)
| 本告作左衛門 ∥ |
| ∥ +―義弁
+―馬場帯刀 ∥ |(東叡山一乗院住職)
|(馬場清兵衛茂周) ∥ |
| ∥ +―石井胤之――――――…→佐賀藩士晴気家
+=鍋島常貞 +―娘 |(武右衛門)
|(玄蕃丞) | |
| ∥―――――――+―千葉常成 +―娘
| ∥ |(太郎介) |(犬塚三兵衛妻)
| ∥ | |
+―三女 +―鍋島常治 +―娘
| (玄蕃) (三谷八左衛門妻)
+=千葉胤仲
(作兵衛)
慶長5(1600)年6月16日、徳川家康は豊臣秀頼に対する謀叛人・上杉景勝を討伐するとして、会津へ向けて大坂城を出陣した。対立していた石田三成は家康の留守の間に大坂城に入り、7月17日、家康追討の兵を挙げた。慶長の役(関ヶ原の戦い)の前哨戦である。鍋島信濃守勝茂と龍造寺藤八郎高房も家康に供奉して関東へ向かったが、近江国愛智川で三成の兄・石田木工頭正澄が構える関所に阻まれたため、やむなく大坂へ引き返すこととなった。
家康は畿内の留守として腹心の鳥居彦右衛門尉元忠を伏見城代に任じ、松平主殿助家忠、松平五左衛門尉近正、内藤弥次右衛門尉家長らをその麾下に配していたが、7月25日、石田方の宇喜多中納言秀家を大将とする六万の軍勢が伏見城を取り囲んで城の明け渡しを求めた。このとき、勝茂も寄せ手に加わっていた。その物頭に「千葉右馬佑胤信」の名が見える。このころまでに胤信は「房秀」の名を改めていたと思われる。その後、右馬允、忠右衛門と改めた。
●慶長五年伏見攻めの鍋島勢物頭(『勝茂公譜』)
多久与兵衛家久 | 須古市兵衛信昭 | 納富市佑長周 | 有田八右衛門茂成 |
千葉左馬佐胤信 | 鍋島三郎兵衛茂正 | 神代六兵衛家良 | 馬場清兵衛茂員 |
鍋島七左衛門茂忠 | 鍋島助右衛門茂良 | 成富十右衛門茂安 | 山代喜左衛門茂貞 |
鍋島新左衛門種巻 | 石井清五左衛門茂清 | 久納市右衛門茂俊 | 出雲藤右衛門茂可 |
しかし、石田三成と徳川家康との合戦は、関東から急ぎ戻ってきた家康が、美濃国関ヶ原において石田方を壊滅させて決着。図らずも石田方に加わっていた勝茂は覚悟を決めたが、家臣・久納市右衛門が密かに黒田長政の陣へ参じて弁明し、勝茂の宥免を家康に取り次いで欲しいことを願ったため、長政も感じ入り、家康の幕僚である井伊兵部少輔直政と図って家康に言上した。家康も勝茂の父・直茂と懇意であったことや、円光寺元佶長老(家康と交流が深かった小城郡出身の高僧)を通じて赦免を願ったことにより赦免となるが、柳川城の石田方・立花左近将監宗茂の追討がその条件であり、勝茂は9月26日、27日両日で軍勢をまとめ、佐嘉へ帰国の途に就いた。
10月14日、勝茂は三万余の軍勢を整え、十二段の備えで佐嘉を出陣。10月20日に合戦と定めた。
●慶長五年柳川攻めの鍋島勢(『勝茂公譜』)
先陣 | 鍋島平五郎茂里 | 鍋島七左衛門茂忠 | |||
二陣 | 後藤左衛門太夫茂綱 | ||||
三陣 | 須古市兵衛信昭 | ||||
四陣 | 諫早七郎左衛門家晴 | 諫早右近允直孝 | 龍造寺安順 | ||
五陣 | 多久与兵衛家久 | ||||
六陣 | 鍋島信濃守勝茂 | ||||
七陣 | 本陣右脇に展開 | ||||
八陣 | 本陣左脇に展開 | ||||
九陣 | 鍋島直茂 | ||||
十陣 | 九陣右脇に展開 | ||||
十一陣 | 九陣左脇に展開 | ||||
十二陣 | 小川半助直房 | 馬場清兵衛茂員 | 千葉忠右衛門胤信 | 神代六兵衛家良 | 内田弥右衛門茂堅 |
成富十右衛門茂安 | 出雲兵部少輔茂通 | 犬塚三郎右衛門茂虎 | 鍋島生三道泉 | 倉町半三郎家秀 | |
鍋島新左衛門種巻 | 久納市右衛門茂俊 | 田尻平次郎房種 | |||
御留守 | 鍋島豊前守房茂 |
しかし、柳川城は守りが堅く、なす術がなかった。そこで、鍋島平五郎茂里・石井生礼茂賢は、深く親交があった立花家の重臣・小野和泉守への書状を捕虜に託して放した。この噂が立花家に広まったことで、小野和泉守は大いに疑いをかけられ、怒った和泉守は「サラハ討死シテ見スベシ」と、10月19日、三千余騎を率いて城外へ討ち出た。小野和泉守の手勢には立花吉左衛門、矢島佐介、小田部監物、由布雪可、由布七右衛門、足立正右衛門、十時勘解由、安藤津之介ら物頭が随った。
ここに大合戦が繰り広げられ、立花家重臣・立花三太夫が討死して立花勢は浮足立ち、小野和泉守も深手を負って退却。結果、立花右衛門太夫、立花善四郎、十時新五郎、田原九郎兵衛ら主だった部将三十名が討死を遂げた。しかし、鍋島勢も鍋島七左衛門、後藤茂綱、須古信昭らの家人あわせて二百余人が討死している。こののち、鍋島勢のもとに加藤清正、黒田如水から使者が遣わされて、
「軍ノ勝負已ニ極リヌ、我々実検ノ様子委細内府公ヘ可申上ノ間、即弓鉄炮ヲ止ラレ、軍兵ヲ被引上可然」
と指示したため、鍋島勢は早速軍勢を引き揚げた。また立花宗茂のもとにも加藤清正・黒田如水の使者が遣わされて降伏開城を勧告。宗茂はこれを容れて柳川城を開き、南の関へ移っていった。この戦いで討死した立花家の家臣の中に三百石取の「千葉太郎右衛門」がいるが、肥前千葉氏の流れかもしれない。
千葉胤信墓(圓通寺) |
胤信には跡を継ぐ男子がおらず、三女と鹿江忠兵衛茂次の次男・常貞(のち鍋島玄蕃)を娶わせて養嗣子としたが、三女(心光妙観大禅定尼)は寛永8(1631)年8月23日に亡くなったため、常貞は藩主・鍋島勝茂の養女(諫早石見直孝娘)を娶り、以降、千葉鍋島氏は佐賀藩重臣として続いていく。
また、胤信の長女は永田利右衛門の妻となり、その間に生まれた男子を胤信が二男養子に迎え、千葉作兵衛胤仲(飯篠作兵衛胤仲)を名乗った。その妻は鍋島玄蕃允常貞の娘である。
寛永9(1632)年5月23日、八十二歳で亡くなった。法名は大翁宗用大禅定門。小城円通寺に葬られた。そしてその五年後の寛永14(1637)年10月、妻・草野氏(覚誉本慶大禅定尼)も後を負うように亡くなり、円通寺に葬られた。
●文禄5(1596)年6月21日『起請文前書』(『葉隠聞書校補』首巻)