千葉直胤

武蔵千葉氏

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千葉胤賢
(????-1455)
千葉実胤
(1442?-????)
千葉介自胤
(????-1493)
千葉介守胤
(1475?-1556?)
千葉胤利
(????-????)
千葉胤宗
(????-1574)
千葉直胤
(????-????)

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千葉直胤(????-????)

生没年 ????~????
通称 小次郎、善九郎?
北条善九郎氏繁
不明
千葉胤宗娘
官位 不明
官職 不明
幕府役 不明
所在 武蔵国淵江郷か
法号 瑞林院殿岳室宗穹
墓所 不明

 武蔵千葉氏六代。初名は小次郎?(『荒川区史』)。父は北条善九郎氏繁。妻は千葉胤宗娘。初名は氏常胤村か。

 天正元(1573)年、千葉次郎胤宗の娘と結婚して千葉家の養嗣子となり、「小次郎胤村」を称したいという(『荒川区史』)

 翌天正2(1574)年正月、義父の千葉次郎胤宗が関宿城で討死を遂げたため、家督を継いだか。家督を継いだ胤村は、のちに北条氏直から偏諱をされて「直胤」と称したか? 実父・北条氏繁は北条一門の重鎮で、小田原城の東の前衛拠点・玉繩城主(鎌倉市玉繩)であった。直胤の妹は武蔵深谷城主・上杉氏憲の妻となっている。

 父・氏繁は天文5(1536)年の生まれであり、直胤が武蔵千葉氏の家督を継いだのは天正2(1574)年ごろであると考えると、直胤が家督を継いだのは十代であったと思われる。「千葉二郎幼少なればとて与力の侍并石浜の城を木内上野に預けらるる」ともあるように、武蔵千葉氏の家政は木内上野が取り仕切っていたと思われる。上野の討死後はその子・木内宮内少輔が継いだという『異本小田原記』

 木内宮内少輔は石浜四千貫を知行する大身侍で、主家を凌ぐ力を持ったと伝えられ、こうしたことから木内氏家中にも千葉家をないがしろにする空気が起こり、宮内少輔の家臣・宇月内蔵助が直胤に無礼をはたらくといった事件を起こした。これに怒った直胤の家臣・須藤某が石浜にあった千葉家の菩提寺・総泉寺(現在は板橋区に移転)において宇月と刺し違え、小田原で事件を聴いた北条氏政は石浜領を没収したという。

 没年不明および没年齢不明。法名は「氏繁公三男千葉善九郎殿 瑞林院殿岳室宗穹」(『高野山高室院蔵北条家過去帳』)とある。

●北条家系図(高野山高室院所蔵:『北区史』所収)

  左京大夫  左京大夫
…氏綱――――+―氏康――――――――+―女子
  春松院殿 |  大聖寺殿     |
       |           |
       +―女子        +―女子
       |  葛山氏元室    |  武田勝頼室
       |           |
       +―女子        +―女子
          北条上総介綱成室 |  岩付太田室
                   |
                   +―女子
                   |  古河河内守母
                   |
                   +―女子
                   |  今川氏真室
                   |
                   +―景虎
                   |  三郎 越後輝虎養子
                   |
                   +―氏光     +―氏直―――――女子
                   |  右衛門佐  |  左京大夫   池田武蔵守室
                   |        |
                   +―氏忠     +―太田源五郎
                   |  左衛門佐  |  岩附城主
                   |        |
                   +―氏規     +―十郎
                   |  美濃守   |  岩付城主
                   |        |
                   +―氏郡     +―七郎
                   |  安房守   |  佐久羅城主
                   |        |
                   +―氏昭     +―似安
                   |  陸奥守   |  新太郎
                   |        |
                   +―氏政―――――+―采女
                   |  相模守   |
                   |        |
                   +―女子―――+ +―女子
                      氏繁室 |    庭田宰相殿室
                          |
                          |
    福島     左衛門大夫   常陸介    |
  …正成―――+―綱成――――+―氏繁――――――+―氏勝
    上総介 |  甘縄城主 |  母氏綱女   |  左衛門大夫母氏康女
        |       |         |
        +―綱広    +―氏広      +―氏成
           刑部少  |  治部大輔   |  左馬介
                |         |
                +―女子      +―氏常
                   美濃守氏規室 |  千葉善九郎胤村
                          |
                          +―女子
                             深谷上杉左兵衛尉室

◆『異本小田原記』二(『北区史』所収)

 …此時石浜の千葉殿に女子ありて男子なし、氏政の御下地にて北条常陸守氏繁の三男を養子にして彼息女に合せ、千葉の一跡相続あり、然れ共、千葉二郎幼少なればとて与力の侍并石浜の城を木内上野に預けらるヽ、上野討死の後は子息、木内宮内少輔支配あり、彼与力衆は板橋肥後守、板橋城主松戸越前守、赤塚の城主大塚なり、以上石浜領は四千貫の所なり。

 然るに千葉二郎成人の間石浜を返し給はるべきとい度々申上げらるゝ、木内が家老宇月内蔵助と申す者、申上ぐるは、宮内少輔も素手に石浜居住の後父は討死す、その後数々の功名軍中不勝計、石浜の御改易有難き事なるべしと頻りに申す間、此事延引しける。

 千葉二郎のうちに須藤といふ者、主の所望空しき事を無念に思ひて石浜へ忍びて行き、彼宇月といふ者を召していひけるが、石浜の惣泉寺といふ会下の寺の中にて行き会ひ刺違へて死にけり、此由小田原へ聞こえける間、千葉二郎の所行なりとて本領をば遂に返されず、…

●某年正月12日『千葉直胤状』相承院文書

 御年之御巻数一種壱荷送給候、千喜万悦、珍重此事候、如承意之拙夫事、
 岩付今在城候、弥御祈念奉仕候、此等之趣、猶自是可申展候條、不能具候、
 
 恐惶敬白
               千葉次郎
   正月十二日          直胤(花押)
 
  相承院
     貴報

◆武蔵千葉氏の一族

千葉胤忠(????-????)


 武蔵千葉氏の一族? 通称は十郎。武蔵国忍城主・成田長泰の譜代侍として『成田家分限帳』に五百貫の武士として載る。他に「譜代侍」として尻高将監胤忠(300貫文)、尻高左京亮(120貫文)がいるが、「胤」という一字から千葉一族とも思われるが不明。

 また、「蔵米侍」のなかに、地葉伊助(300石)、千波彦太夫(200石)がいた。「千波」は「仙波」にもつながるが、こちらは武蔵七党・村山氏の一族の仙波家信を祖とする一族。村山・野與氏は平忠常を祖とし、千葉氏の遠縁。

千葉信胤(????-????)


 武蔵千葉氏の一族? 通称は隠岐守武蔵国志村城主(東京都板橋区志村二丁目)。武蔵千葉氏の本城・赤塚城(板橋区赤塚)からほどちかい場所にあることから、武蔵千葉氏の庶流か。

 城地は志村小学校、熊野神社の周辺一帯で、小字は堀之内。志村城は荒川に張り出した舌状台地上にあり、北・西・南は急崖のうえ湿地帯だったため、防衛能力の高い砦であった。この周辺は、信胤の官途名にちなんで、隠岐殿屋敷・隠岐殿坂という地名が残り、大永4(1524)年正月、上杉朝興が江戸城を追われるとともに千葉氏はここを去っていったと考えられる。

 また、志村城主・篠田五郎なる人物もあったようで、その家臣・見次権兵衛が屋敷跡に延命寺(志村一丁目)を建立したと伝えられている。


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