相馬孫五郎重胤

千葉氏 千葉介の歴代
代数 名前 生没年 父親 母親 備考
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘 相馬家の祖
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常 畠山重忠討伐軍に加わる
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤  
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱 胤綱死後、継母に義絶される
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏 濫訴の罪で所領三分の一を収公
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳) 幕府に惣領職を主張するも認められず
 7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤 奥州相馬氏の祖
 8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘 足利尊氏に従って活躍
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘 南朝の北畠顕信と戦う
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼  
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤  
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘  
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤 標葉郡領主の標葉清隆と争う
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤 標葉郡を手に入れる
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘 伊達晴宗と領地を争う
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘 伊達政宗と激戦を繰り広げる

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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相馬重胤 相馬氏六代 (1283?-1337)

<正室> 泉五郎胤顕の娘?
<後室> 田村三河前司入道宗猷の養女・藤原子女
<幼名> 松鶴丸
<通称> 孫五郎
<父> 相馬彦次郎師胤
<母> 不明
<官位> 無位
<官職> 無官
<家督> 永仁4(1296)年~建武4(1337)年
<法号> 興国寺殿実厳天叟
<墓所> 増尾山少林寺(千葉県柏市増尾)

●相馬重胤事歴●

重胤花押
重胤花押

 父は相馬彦次郎師胤。母は不明。通称は孫五郎。室は藤原氏(三春田村三河前司入道宗猷養女)。父・彦次郎師胤と同様、相馬惣領家が任官していた「左衛門尉」に任官した形跡はなく、重胤も鎌倉幕府においては相馬氏の庶家という扱いであった。

 重胤は生涯の大半を幕府や相馬一族との訴訟問題に費やし、東北地方へ移ったのちも南北朝の争いに巻き込まれ、足利尊氏方の武将として北畠顕家と鎌倉郊外で合戦し、右大将家法華堂で自刃する悲劇的な人物。奥州相馬氏の始祖として、相馬地方では今でも尊敬されている人物である。

 重胤は下総国相馬郡増尾村(千葉県柏市増尾)で生まれ育ったと思われるが正確な生年は不明。正応2(1289)年2月20日、父・師胤から『譲状』をうけて師胤妻分と叔父・胤門分を除いた「相馬御厨内益尾村、粟野薩摩、陸奥州行方郡内小高村、耳谷村、■■、村上浜」を継承した。このとき重胤はまだ「松鶴丸」と呼ばれており、元服前の少年だったことがうかがわれる。師胤はまだ幼少の重胤に家督を譲らざるをえないほどの大病を患っていたのかもしれない。

●正応二(1289)年二月廿日『平師胤譲状』(『相馬家文書』)

譲渡人 村郷 備考 伝由緒
女房 下総国相馬御厨 薩間村(鎌ケ谷市佐津間) 王四郎入道在家合■宇
又次郎在家合弐宇
(一期分。その後は重胤知行)
胤村→阿蓮→師胤
松鶴丸(孫五郎師胤) 下総国相馬御厨 増尾村(柏市増尾) 師胤女房一期分除く 胤村→阿蓮→師胤
薩間村(鎌ケ谷市佐津間) 師胤舎弟胤門分除く 胤村→師胤
粟野村(鎌ケ谷市粟野)   胤村→師胤
陸奥国行方郡 盤崎村(南相馬市小高区飯崎) 釘野のみ(他は胤門後家一期分)。
他は胤村→胤門→後家(一期)→重胤
胤村→阿蓮→師胤
小高村(南相馬市小高区小高)   胤村→阿蓮→師胤
耳谷村(南相馬市小高区耳谷)   胤村→師胤
■■ 未詳 未詳
村上浜(南相馬市小高区村上)   胤村→師胤
彦五郎胤門(舎弟) 下総国相馬御厨 増尾村(柏市増尾) 八郎掾在家合■宇
新平四郎在家弐宇
胤村→阿蓮→師胤

 師胤の舎弟・彦五郎胤門については、師胤は譲状に「胤門於無子息令死去者、松鶴可知行、…松鶴無子息令死去者、■■■彦五郎胤門可知行」と認めていることから、師胤は惣領の継承順位として、松鶴丸(孫五郎重胤)が早世した場合は、次弟・孫四郎胤実、三弟・与一通胤を差し置いて、末弟の彦五郎胤門をみずからの後継に定めていたことがうかがえる。

        +―相馬胤氏―――――相馬師胤
 正室     |(次郎左衛門尉) (五郎左衛門尉)
  ∥     |
  ∥     +―相馬胤顕―――+―相馬胤盛―――泉胤康――→[子孫は岡田家、泉家(中村藩御一家)]
  ∥     |(五郎)    |(小次郎)  (五郎)
  ∥     |        |
  ∥―――――+―相馬胤重   +―娘
  ∥      (六郎左衛門尉)  ∥
  ∥                ∥
 相馬胤村―――+―相馬有胤     ∥
(五郎左衛門尉)|(十郎)      ∥
  ∥     |          ∥
  ∥     +―相馬胤朝     ∥
  ∥      (孫九郎)     ∥         
  ∥                ∥
  ∥―――――+―相馬師胤―――+―相馬重胤―+―相馬親胤――→[子孫は中村藩主]
  ∥     |(彦次郎)   |(孫五郎) |(孫次郎)
 尼阿蓮    |        |      |  
        +―相馬胤実   +―娘    +―相馬光胤
        |(孫四郎)     ∥     (弥次郎)
        |          ∥
        |          ∥――――――大悲山朝胤――→[子孫は大悲山家(中村藩士大悲山家)]
        +―相馬通胤―――――相馬行胤  (又五郎)
        |(与一)     (孫次郎)
        |
        +―相馬胤門―――+=相馬重胤
         (彦五郎)   |(孫五郎)
                 |
                 +―彦犬

 父・師胤は正応2(1289)年2月20日に譲状を作成したのち、時を置かずに亡くなったとみられる。師胤は文永9(1272)年10月9日当時、松若丸と称されていたことから、師胤は三十代前半で亡くなったのだろう。その当時、重胤はまだ幼少(松鶴丸)であったが、師胤没の直後に元服し、孫五郎重胤を称した。通称は孫五郎胤村の孫という主張が見て取れる。

 その後、祖父胤村の未処分の所領二百三十九余町の配分が決定され、永仁2(1294)年8月22日に胤村の子孫それぞれへ『関東下知状』が発給され、師胤がもっとも信頼した末弟、彦五郎胤門にも「陸奥国高村并萩迫」が配分された(永仁二年八月廿三日『関東下知状』)。そして、この頃には胤門は「■■(しやけいひこ)二郎もろたねけいやくふかゝりしに■■(より)、しやくしにたつる也」と、甥の孫五郎重胤を養子と定め、二年後の永仁4(1296)年8月24日、胤門は重胤に「和字譲状」を以って所領を譲った(永仁四年八月廿四日『平胤門和字譲状』:『相馬家文書』)。胤門がわざわざ「和字」で譲状を作成しているところから、当時重胤はまだ十代の幼童であり、師胤亡き後のやむを得ない措置のために元服を果たしていることがわかる。

●永仁四(1296)年八月廿四日『平胤門和字譲状』(『相馬家文書』)

 
譲渡人 村郷 備考 伝由緒
孫五郎重胤 陸奥国行方郡 高村 後家・女子・祖母分除く  
■■みさハやま
※■■のさハやま?(堰澤、山?)
  永仁五年六月七日
関東下知状』から堰澤
後家 高村? 後家一期ののちは重胤  
女子(彦犬) 高村(詳細地不明) 女子一期ののちは重胤  
祖母(尼阿蓮か)
※尼阿蓮は仁安六年時点死去
高村(新三郎が田在家) 祖母一期ののちは重胤  

 ところがこの直後、重胤の「伯父次郎左衛門尉胤氏」が重胤が胤門から譲られた「高村堰澤」を押領して稲を刈り取る狼藉を行った。重胤は被官とみられる「頼俊」を代官として、胤氏の狼藉を鎌倉に訴え出た(永仁五年六月七日『関東下知状』:『相馬家文書』)。ただし、重胤自身はいまだ幼童であるため、養父胤門が重胤の後見をしていたのかもしれない。

 鎌倉では重胤の訴えに基づいて胤氏を召すが、彼はなかなか応じなかった。しかし、胤氏も「度々下召符」を拒み続けることはできず、ようやく「■■年四月二日請文(永仁五年四月二日請文)」を提出することとなる。胤氏自身が鎌倉に出所したかは定かではないが、請文の提出であることから代官によるものであろう。その内容は「不相綺」とあり、押領は関わりのないと主張したものであった。一方、重胤は「重訴状」とあることから、胤氏の請文に対する反論を行ったとみられる。文章が欠損しているため詳細は不明だが、胤氏の「不相綺」は虚言であると主張して「可預裁許」と述べる。その結果、評定衆は「此上不及異儀」として、「高村堰沢」は「可令重胤領掌之状」と定め、執権及び連署による下知状が下された(永仁五年六月七日『関東下知状』)

小高城から小高郷を見てます
行方郡小高(南相馬市小高区)

 この相論の後、胤氏は文書等から確認できなくなる。そして、おそらく直後に養父の彦五郎胤門も亡くなったとみられ、「師胤々門死去之後」の永仁6(1298)年、父の次弟・孫四郎胤実が代官「忠■」を以って「■阿蓮遺領下総国相馬御厨内益尾村、陸奥国小高村盤崎村内釘野事」について鎌倉に知行権を主張して訴陳している。これに重胤は「陳状」と「弘安八年六月五日阿蓮譲状等」を提出して反論、これに胤実もまた「弘安八年六月五日阿蓮譲状等」を持参して争った。

 結局、二年後の正安2(1300)年4月23日、評定衆は「阿蓮譲状等■■書之由、令存知之間、止相論、互任彼状等可知行■■」と、尼阿蓮の文書はともに「■書(実書?)」であることが判明しているので、相論を止めて阿蓮譲状の通りに知行せよと命じた(正安二年四月廿三日「関東下知状」:『相馬家文書』)。なお、この孫四郎胤実は行方郡八兎村・大内村をめぐっても相馬小次郎胤盛(泉五郎胤顕の子)とも争っており、応長元(1311)年8月7日に『関東下知状』によってそれぞれに知行が安堵され、これ以上の違乱・訴訟は相互に罪科に問うとしている。

 重胤は養父・彦五郎胤門の実娘・彦犬、つまり義姉妹との間でも「高村」に関する相論が起こっている。胤門は永仁4(1296)年の『相馬胤門和字譲状』の譲状の中で「女子分(高村内。詳細地不明)を女子が亡くなった後は重胤が知行する事と定めているが、彦犬の父・胤門は弘安8(1285)年時点で「乙鶴丸」という幼名であり、その娘は嘉元元(1303)年時点ではまだ十代前半であったろう。そのような少女の彦犬がなぜ訴訟を起こしたかは不明である。結局、この相論は嘉元元(1303)年12月の『和與状』によって解決し、重胤への所領相続が正当なものと認められた。

 その後二十年ほどは、所領に関する相論は起こっていなかったが、元享元(1321)年10月に「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一(高村自高河北田在家三分壱)長崎三郎左衛門入道思元へ打ち渡されたことで、再び問題が起こった(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」:『相馬家文書』)。五郎左衛門尉師胤は永仁5(1297)年に重胤知行地であった行方郡高村の稲を刈り取る狼藉を働いた相馬次郎左衛門尉胤氏(重胤伯父)の子である。「相馬五郎左衛門尉師胤所領三分一」は「依罪科被収公」されたとあるが(元享元年「長崎思元代良信申状」:『相馬家文書』)、実際は師胤の罪科ではなく、「相馬一族闕所地置文案」(『相馬家文書』)「先代被闕所」とあることから、先代の次郎左衛門尉胤氏の罪科であった事がわかる。その没収された「一分跡」は「行方郡大田村土貢六十貫文」「吉名村土貢四十貫文長崎三郎左衛門入道拝領之」とある。

●「相馬一族闕所地置文案」(『相馬家文書』)

 相馬
  五郎左衛門尉   二郎左衛門尉   五郎左衛門尉
  胤村―――――+―胤氏――――――師胤 一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、
         |             又同郡吉名村土貢四十貫文、
         |             先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之
         |
         | 彦次郎      孫五郎    出羽権守
         +―師胤―――――――重胤―――――親胤   訴人
         |
         | 十郎
         +―有胤 子息等御敵也、彼跡等
         |    高平村五十貫文、稲村十五貫文
         |
         | 孫四郎      六郎
         +―胤実―――――――胤持 大内村十貫文、長田村五十貫文
         |
         +―女子 高城保内根﨑村三十貫文、鳩原村弐十五貫文
         |
         +―女子 牛越村三十貫文

 胤氏がいかなる罪科によって所領の三分の一を収公されたのかは記されていないが、「御成敗式目」の第三十一条「依無道理不蒙御裁許輩、為奉行人偏頗由訴申事」という条項があり、敗訴人が裁定に従わず奉行人を偏頗と訴えた場合は「可被収公所領三分一」と定められている。三分の一を収公する条項は他にないことから、胤氏はこの条項を適用されたと思われるが、胤氏が父・相馬胤村から継承された所領以外で相論となるようなものは考えにくく、重胤または一族間での相論で判決に不服を述べたのだろう。現在残っている胤氏についての裁判記録は永仁5(1297)年の行方郡高村の狼藉・知行に対する敗訴が知られるのみであるが、この判決への不服に対するものとも考えられよう。

 元享元(1321)年以前(おそらく前年の元応二年か)の12月17日、長崎思元が拝領して、元亨元(1322)年10月、両使の岩城二郎結城上野前司「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一」を長崎思元へ打渡した(元亨二年某月「長崎思元代良信申状」:『相馬家文書』)、重胤はその「三分一」のひとつに自分が地頭職である「陸奥国行方郡高村自高河北田在家三分壱」が含まれている、と主張して、鎌倉へ「然早被召決、被停止非分押領」を訴え出た(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」:『相馬家文書』)。なお、この使節遵行を行った「岩城二郎今者出家(岩城次郎入道願真か)」「結城上野前司(結城宗広)の両使はおそらく得宗の被官となっていた御家人(御内人的な御家人)で、内管領長崎高資の支族である長崎思元に肩入れしていた。とくに結城宗広は津軽田舎郡の河辺郷、桜庭郷ほか各地の得宗領地頭代となっており、御内人であった(「結城宗広知行得宗領注文」『伊勢結城文書』)

 重胤の訴えを受けた幕府は、元享2(1322)年閏5月4日、「長崎三郎左衛門入道」「早速可被参対之状」を遣わして陳弁するよう命じた(元亨二年閏五月四日「関東御教書」:『相馬家文書』)

 「高村」はもともと永仁2(1294)年8月22日に養父(叔父)の「相馬彦五郎胤門」が「祖父五郎左衛門尉胤村未処分跡」として継承した地であり、胤門の譲状に基づいて重胤が継承し、「胤門女子字彦犬」との相論では嘉元元(1303)年12月に「賜和与御下知」っており、「高村」は重胤知行地として間違いないものであった。

 評定衆からの出頭命令を受けた長崎思元は、代官良信を通じて、逆に「小高孫五郎重胤」が元亨元(1321)年10月、「奥州行方郡内北田村等」に「任雅意」て「以数多人勢押入■■作毛、追捕民屋、致押妨狼藉」を行ったと主張。「不炳誡者、遠所奸謀之狼藉不可断絶」とその抑留物の糺返と狼藉罪科を求めて重胤を訴えた(元亨二年某月「長崎思元代良信申状」:『相馬家文書』)。この両者の主張は以下の通りである。

●元亨元年訴訟分の該当地等

訴人 相馬孫五郎重胤 長崎三郎左衛門入道思元
該当地 行方郡高村(自高河北)田在家三分一 行方郡北田村
言上 元亨元(1321)年12月17日
(即日引付奉行⇒引付頭人へ回された)
元亨2(1322)年
元亨元年十月に
起こったこと
岩城二郎、結城上野前司による打渡が行われた 重胤が雅意に任せて、大人数で押入り作物を刈り取った
思元拝領日   元応2(1320)年12月17日?
御教書作成日   元応2(1320)年12月17日?
主張する打渡月日 元亨元年10月某日 元亨元(1321)年10月某日?
内容 打渡の時、重胤は当時相馬郡に居住しており、岩城二郎・結城宗広は思元に引汲して、重胤が不在の高村(自高河北)田在家三分一を思元に付与した。 収公された師胤所領三分一を12月17日拝領。12月25日に御下文の旨に従って打ち渡す旨の御教書(塩飽新左近入道聖遠が引付奉行)が作られ、奉行として結城宗広と岩城次郎が打渡しを行った。ところが、去年元亨元(1321)年10月、重胤が我意のままに狼藉した。

 ここで両者が食い違っているのは、重胤が押領されたと主張した地が「行方郡高村自高河北田在家三分一」である一方で、長崎入道思元が狼藉を受けたとされた地は「行方郡北田村」であるという点である。

太田郷
太田村から高村方面を望む

 高村は現在の南相馬市原町区高に相当するが、地名から推測すると高村の中心地は太田川の南(磐城太田駅の南)と推測される。現在とは川の流れの大きく変わっていると思われるが「高河」とは現在の太田川に相当すると考えられることから、「高村」の川向こうが長崎思元が主張する「北田村」だったのだろう。しかし、重胤は「高村」は高河(太田川)の北まで村域であって、該当所は北田村ではないと主張した。

 「北田村」という村の存在は確認できないが、尼阿蓮がおそらく「盤崎 小高」の二村と「北田 高村」を替えることを希望していた様子も見え(『相馬胤村配分状案』(『相馬家文書』))、「盤崎 小高」同様、「北田 高村」も隣接した村であったと推測される。境界の曖昧な部分での論争であったのだろう。長崎思元の肩を持つ結城宗広と岩城次郎入道が「高村」に含まれる田在家をも「師胤■■(所領三分一カ)」として押さえたため、これを知った重胤が、高村内と主張する「自高河北」の田畑に狼藉を働いたということであろう。

小高城
小高城跡

 元亨2(1322)年、「長崎三郎左衛門尉思元代良信」が提出した申状(元亨二年某月「長崎思元代良信申状」:『相馬家文書』)を受けて、同年7月4日、幕府は「小高孫五郎殿(重胤)」「陸奥国行方郡北田村事」についての陳弁のための出頭を命じた(元亨二年七月四日『関東御教書』)。重胤は元亨元(1321)年当時、「下総国相馬郡」にいたと主張しているが、長崎思元は重胤と小高の繋がりを知っている点を考慮すると、この時には重胤は行方郡小高郷に屋敷を構えていたと考えるほうが自然であろう。

 この相論の判決は伝わっていないが、建武2(1335)年11月25日の重胤の「しそく次郎(親胤)」への譲状の中で「たか」村が含まれていることから、高村自体は重胤の所領として認知されたことがわかる。

 そして、貞和2(1346)年正月ごろに成立したとみられる『相馬一族闕所地置文案』の師胤の項では、「一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、又同郡吉名村土貢四十貫文、先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之」とあることから、「先代(胤氏)」が罪科によって闕所とされ、三分の一である「一分跡」として「長崎三郎左衛門入道」が拝領したのは、「大田村六十貫文」「吉名村四十貫文」であったことがわかる。「北田村」同様に「大田村」も「高村」と川を挟んで北接した村であることから、もともと誤解の中での論争であったのかもしれない。

太田館
太田の相馬孫五郎重胤の碑

 重胤が一族を率いて下総から奥州へ移ったのは『奥相秘鑑』によれば、元享3(1323)年4月21日のこととされ、下総国流山(千葉県流山市)から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神を行方郡大田村(南相馬市原町区中太田)に勧進し、大田村の三浦左近国清の館(現在の太田妙見社)に入ったとされている(『奥相秘鑑』)

 なお、『奥相秘鑑』で下向先とされる大田村は、当時、相馬惣領家の相馬五郎左衛門尉師胤が三分の二を知行している所領であり、史実としては重胤が当地に下向することは考えにくい

 また、実際に重胤が「小高」に居を構えたのは元亨元(1321)年以前と考えられることから、太田の地に入ったとされるのはおそらく史実ではなく伝承である。

 『奥相秘鑑』は、下記のようにさまざまな箇所で誤記が目立つことも注意すべき点である。

「岡田小次郎胤盛」が重胤の下向に従ったとある。 胤盛は正和4(1315)年~元応2(1320)年の間で没しているため下向に従うことはできない。また、当時の岡田氏はまだ「岡田」を称していない。逆に言えば正和四年~元応二年の間に重胤が下向したと考えることもできる。
「備中守」「伊予守」「豊前守」などを名乗る人物が従っている。 鎌倉時代に官途名を自由に名乗ることはない。
「相馬孫次郎行胤」が鎌倉で北畠顕家の軍と戦って戦死した。 相馬行胤は北畠顕家が京都へ上洛した後を追撃する重胤とともに関東に下るが、重胤の命によって小高に返され、その後も活躍している。
室町中期の岡田氏・大悲山氏の養子縁組が混乱して記されている。 大悲山氏と岡田氏を取り違えている。

 このように重要な部分の誤記が目立つため、『奥相秘鑑』には信憑性に疑問が大きいが、伝承として行方郡へ下総ゆかりの人々も多く移住した様子が伝わっていたことがわかる。

●奥州下向に従ったとされる武士(総勢八十三騎)

岡田小次郎胤盛・泉五郎胤康・堀内掃部頭常清・伊奈五郎有村・木幡周防守範清・木幡蔵人盛兼・木幡紀伊守胤清・木幡三郎左衛門定清・木幡四郎左衛門兼清・須江備中守時胤・青田孫左衛門祐胤・茅原越中守・猿島豊前守・牛来玄蕃允・北氏・般若氏・遠藤氏・今野氏・薩間氏・筒戸氏・増尾氏・岡部氏・伏見氏・他六十騎

 重胤が下向した元亨元(1321)年以前の具体的な年代については不明ながら、重胤の妻は陸奥国田村郡三春の田村三河前司入道宗猷の養女・藤原氏女であることから、重胤の奥州下向以降の婚姻とも思われる。当然鎌倉での婚姻も十分に考えられるため、重胤下向時期を想定する材料にはなりえないが、奥州田村郡に拠点を持つ田村氏から妻を娶っていることから、婚姻当時にはすでに奥州を本拠としていた、または意向を固めていたと見ることはできよう。

 この重胤の妻と見られる女性は、元弘3(1333)年6月5日当時「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とあるように、田村郡七草木村の地頭職であったことがわかる(「田村宗猷女子藤原氏女代超円着到状」『相馬家文書』)

 重胤と田村氏との間に生まれたとみられる嫡男・親胤の生年は未詳ながら、

(1) 元弘3(1333)年12月、重胤代として鎮守府に参じ、国司北畠顕家から所領安堵をうけた際には「孫次郎」と称しており、この時点で元服を済ませている。
(2) 建武3(1336)年5月当時、親胤の子・松鶴丸(胤頼)がすでに生まれており、当時親胤はすでに婚姻していた。
※建武2(1335)年11月の重胤譲状を見ると、親胤には子がない書き方をなされており、胤頼は当時生まれていない可能性もあろう。

 以上のことから、親胤は延慶3(1310)年ごろの誕生となろうか。重胤の動向については嘉元元(1303)年12月から元享元(1321)年10月まで不明であることから、その間に移り住んだことが想定される。重胤が奥州へ下向した際の従者として筆頭にあげられているのが「岡田小次郎胤盛」であるが、彼は正和4(1315)年8月7日から元応2(1320)年3月8日の間で没した人物である。もし胤盛が重胤の下向に従っていたとすると、まさにこの四年半の間に下向が行われたことが想定できる。  

 重胤の奥州移住は伯父の惣領・胤氏や義妹の彦犬との行方郡高村をめぐる騒動に原因があると思われ、祖父胤村の奥州の未処分所領をめぐる不確定要素がまだ尾を引いていたことを意味しよう。

 余談だが、重胤と同時代の元応2(1320)年6月25日の『関東下知状』(『小野文書』:『我孫子市史』所収)には、出雲国大野庄内和田垣助宗守延名田畠についての相論で「相馬八郎次郎胤時」の名を見ることができる。この相馬胤時はいかなる人物か不明だが、相馬一族には間違いないだろう。大野庄は得宗領であることから、元弘津軽の乱にみられる「相馬入道子息法師丸」のように御内人として得宗領地頭代として派遣されていた相馬氏と考えられる。

■鎌倉後期の中央政局の混乱

 鎌倉時代中期、後嵯峨上皇が子の後深草天皇に皇位を譲るも、その皇嗣には弟宮・恒仁親王を定めて皇位を譲らせた(亀山天皇)。さらにその後、後嵯峨上皇は後深草上皇に皇子(熈仁親王:伏見天皇)が生まれたにもかかわらず、亀山天皇の皇子(世仁親王:後宇多天皇)を皇儲と定めてしまう。そして、その後の皇嗣については鎌倉幕府の意向を聞いて決定すべきことを定めて崩御する。

 幕府はその後、後深草天皇の皇統(持明院統)亀山天皇の皇統(大覚寺統)が交互に皇位に就くよう取りはからうこととなる(両統迭立)。そして、文保2(1318)年2月26日、大覚寺統の後宇多上皇の第二皇子・尊治親王が甥・邦良親王(後二条天皇皇子)が皇位に就くまでの中継ぎとして践祚した(後醍醐天皇)。この中継ぎとしての措置に反発し、皇太子邦良親王にも皇位を譲らなかった天皇は正中元(1324)年に倒幕をもくろむこととなるが、まもなく発覚し、首謀者とされた公家・日野資朝らが処分される(正中の変)。この計画に邦良親王らは反発して後醍醐天皇の譲位について幕府に要請するも後醍醐天皇は皇位を譲らず、正中3(1326)年3月20日、事態が解決しないままに皇太子邦良親王が薨御。7月24日、幕府の支持を得て持明院統の量仁親王(後伏見上皇皇子。のちの光厳天皇)が皇太子に立てられ、後醍醐天皇はますます反発を強めることとなる。

 そして元弘元(1331)年4月、後醍醐天皇による再度の倒幕計画が発覚する。これは後醍醐天皇の乳父であり最側近であった従一位吉田定房による六波羅探題への密告がきっかけであった。4月29日、六波羅探題から鎌倉へ一報が届くとただちに評定が開かれ、5月5日には長崎孫四郎左衛門尉泰光と南条次郎左衛門尉宗直の両名が、首謀者とされた公家・日野俊基らを追捕する使節として鎌倉を発向した。

 身の危険を感じた後醍醐天皇は、8月20日、内裏(二条富小路内裏)を脱出して、24日、京都南部の笠置山(京都府相楽郡笠置町)にある笠置寺へ入った。六波羅探題はただちに三千あまりの兵を笠置山へ派遣して対応をする。そして9月2日、天皇脱出の一報を受けた幕府は、承久の乱の先例通り、兵を差し向けることを決定。わずか数日後には軍勢を整えて発向させている。

 このような中、9月11日に河内国の御内人出身とされる楠木兵衛尉正成が御所方を称して、赤坂山に砦を構え、一族や近隣の者たち五百騎を集めて立て籠もった。さらに13日には備後国の桜山四郎茲俊入道が一族七百騎で挙兵。備後一宮の吉備津彦宮を城砦として立て籠もった。六波羅にはこれを放っておけばのちのち面倒なことになりかねないとして、援軍を催促する使者がたびたび馳せ参じた。

 このため、六波羅北方・北条越後守仲時は幕府軍増援の使者を鎌倉に派遣し、これを受けた得宗の相模守高時入道崇演は、六十三名の一門、御家人からなる軍勢を整えて、9月20日に公称「二十万八千六百余騎」の大軍が鎌倉を出立した(『太平記』)。このとき「侍」として「相馬右衛門次郎」が見えるが、該当者は不明。

●元弘元(1331)年9月20日征西御家人(『太平記』)

将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江守 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張守 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔 長井備前太郎 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

 また、同日に京都に着いた幕府両使の秋田城介高景、二階堂出羽入道道蘊の奉を受けて、後醍醐天皇が廃され、皇太子の量仁親王(光厳天皇)が践祚した。その後見には父院の後伏見上皇が就き、幕府と親密な持明院統による院政が始まった。

 六波羅勢と御所方の笠置山の戦いは、鎌倉の本隊の到着を待つことなく、9月28日に笠置山は陥落し、9月30日には山野を彷徨っていた後醍醐上皇一行が迎えられ、上皇の持っていた「三種の神器」が光厳天皇へ引き渡されることとなった。

 笠置山の陥落と後醍醐上皇の捕縛によって畿内の不穏な勢力は力を喪い、幕府軍は後醍醐天皇に味方した御内人・楠木兵衛尉正成と彼が擁した護良親王の立て籠もる赤坂城攻めに向かった。

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

 
     楠木城
   一手東 自宇治至于大和道

  陸奥守(大仏貞直)
  小山判官(小山秀朝)
  佐々木備中前司     
  武田三郎(武田政義)
  諏訪祝         
  島津上総入道(島津貞久)
  大和弥六左衛門尉    
  加地左衛門入道(加地安綱)
  
 
 
 
 
  河越参河入道(河越貞重)
  佐々木近江入道
  千葉太郎(千葉胤貞)
  小笠原彦五郎
  高坂出羽権守
  長崎四郎左衛門尉(長崎高重)
  安保左衛門入道
  吉野執行
   一手北 自八幡于佐良□路

  武蔵右馬助(金沢貞冬)
  千葉介(千葉介貞胤)     
  小田人々        
  伊東大和入道      
  薩摩常陸前司      
  湯浅人々
 

 
  駿河八郎(北条時邦?)
  長沼駿河権守(長沼秀行)
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀)
  宇佐美摂津前司
  □野二郎左衛門尉
  和泉国軍勢
 
   一手南西 自山崎至天王寺大路

  江馬越前入道(江馬時見か?)
  武田伊豆守
  渋谷遠江権守
  狩野介入道

 
  遠江前司(名越貞家)
  三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明)
  狩野彦七左衛門尉
  信濃国軍勢
 
   一手 伊賀路

  足利治部大夫(足利高氏)
  加藤丹後入道
  勝間田彦太郎入道
  尾張軍勢
 

  結城七郎左衛門尉
  加藤左衛門尉
  美濃軍勢
 
 
   同十五日
 
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参

   同十六日
 
  中村弥二郎 自関東帰参
 

 

 幕府軍は寡兵で守る楠木正成に苦戦するも10月21日、赤坂城を攻め落として楠木勢を追い落とした。元弘2(1332)年正月21日には備後で挙兵していた桜山茲俊入道が自刃。幕府は後醍醐上皇勢力を軍事力で屈服させるという、まさに承久の乱以来の幕府の底力を示した形となった。

 12月27日、幕府は後醍醐上皇の隠岐国配流を奏請して聴され、元弘2(1332)年3月7日、千葉介貞胤小山五郎左衛門尉秀朝佐々木佐渡判官高氏入道道誉の三名が後醍醐上皇を警護する形で隠岐国の配所に向けて都を出立した。そして6月3日、上皇側近の日野俊基朝臣鎌倉葛原岡にて斬首された。

 しかし、畿内にくすぶる反幕府の思想は静かに広まっており、8月には播磨国佐用庄赤松次郎入道円心が兵を挙げ、西国からの道を塞いだ。

 こうした報告が関東に報ぜられると得宗・高時入道は西征の再派兵を決し、先例通り北条一族はもとより千葉介貞胤宇都宮三河守貞宗ら有力御家人を筆頭として百三十二名、公称三十万七千五百余騎という大軍が編成されて9月20日に鎌倉を発した。

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

 
     大将軍
 
  陸奥守(大仏貞直) 遠江国
  遠江守(名越宗教) 尾張国
  駿河左近大夫将監(北条時邦) 讃岐国
  足利上総三郎(吉良満義)
  長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 備前国
  越衆御手 信濃国
  小田尾張権守 一族
  武田三郎(武田政義) 一族并甲斐国
  伊東大和入道 一族
  薩摩常陸前司 一族
  渋谷遠江権守 一族
  三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明)
  佐々木隠岐前司 一族
  千葉太郎(千葉胤貞)
 
    勢多橋警護
 
  佐々木近江前司(佐々木貞清)
 
 
 
 
  武蔵右馬助(金沢貞冬) 伊勢国
  武蔵左近大夫将監(金沢時顕) 美濃国
  足利宮内大輔(吉良貞経) 三河国
  千葉介(千葉介貞胤)  一族并伊賀国
  宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国
  小笠原五郎 阿波国
  小山大夫判官(小山秀朝) 一族
  結城七郎左衛門尉 一族
  小笠原信濃入道 一族
  宇佐美摂津前司 一族
  安保左衛門入道 一族
  河越参河入道(河越貞重) 一族
  高坂出羽権守
  同備中前司
 
 
 
 
  同佐渡大夫判官入道(佐々木高氏)
 

 しかし、元弘2(1332)年12月には「大塔宮并楠木兵衛尉正成」が再び兵を挙げ、鎌倉から尾藤弾正左衛門尉が上洛し(「六波羅御教書案」『鎌倉遺文』31911)、追加の軍勢が鎌倉から発向した(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915)。翌元弘3(1333)年正月には河内国甲斐荘で湯浅党が楠木正成に破られ、さらに正月19日には六波羅探題の軍勢が天王寺で大塔宮護良親王を奉じた四条左近衛少将隆貞に大敗を喫する事態も起こる。一方、幕府勢も2月には吉野山に挙兵した大塔宮を鎮圧し、2月27日には楠木勢の籠もる赤坂城を攻め落とし城将・平野将監入道を降伏させている。しかし幕府はその後醍醐上皇側の攻勢に焦りを感じていたのか、「東大寺衆徒」に対してまで「早成一揆之思、令対治兇徒者」を指示している(「関東御教書」『鎌倉遺文』32003)

●『楠木合戦注文』

河内道(大手) 大将軍 遠江弾正少弼治時
軍奉行 長崎四郎左衛門尉高貞
大和路 大将軍 陸奥右馬助
軍奉行 工藤次郎右衛門尉高景
大番衆 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡
飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡
沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎
神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族
武二郎太郎跡
紀伊手 大将軍 名越遠江入道
軍奉行 安東藤内左衛門入道円光
大番衆 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族
足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡
和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡
嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族
小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡
瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡

 こうした幕府による赤坂城鎮圧は成功するも、楠木勢は千早(千岩屋)城に立て籠って抵抗した。幕府勢は閏2月5日までに千早城に攻め寄せるが(「熊谷直氏合戦手負注文」『鎌倉遺文』32044)、千早城は要害で容易に落とすことはできなかった。このような中で播磨国佐用庄の「赤松孫次郎入道」が反幕府を掲げて挙兵し、六波羅探題が追討を命じている(「前常陸介時朝施行状」『鎌倉遺文』32052)。花園天皇はこれら一連の出来事に「金剛山事、近日可有左右之由、武家雖令申、其後又無音、不審無極候、西国悪党等又同時蜂起之条、驚思給候」と幕府に対して不満を述べられている(「花園天皇自筆消息」『鎌倉遺文』32021)

 これら西国の反乱は、閏2月25日に後醍醐上皇が隠岐国を脱出して、伯耆国の土豪・名和又太郎長年に庇護されるという想定外の事態によってますます勢いづくこととなる。閏2月26日には大塔宮は「清水寺衆徒」に対して「征伐六波羅之時、当寺〃僧同心被加征伐候」と六波羅探題を討つことが可能と判断していたことがわかる。3月12日には大塔宮の令旨によって挙兵した「播磨国大山寺衆徒」が京都で六波羅勢と合戦(「播磨大山衆徒軍忠状」『鎌倉遺文』32148)。4月3日には洛南の東寺や竹田で上皇方の「出雲国大野庄内加治屋三郎次郎日置政高(三崎三郎次郎日置政高)」が幕府方と合戦している(「日置政高軍忠状」『鎌倉遺文』32087)

 これに対して幕府は3月27日、名越越後守高家足利治部大輔高氏を大将軍とした七千余騎を追加派兵し、高氏は4月16日に、高家は4月19日にそれぞれ入京した(『神明鏡』)。ところが、大将軍の一人、足利高氏はすでに幕府を見限っており、入洛翌日の4月17日には密かに伯耆国船上山の後醍醐上皇のもとに使者を遣わして味方に参ずる旨を伝えたという(『神明鏡』)

■鎌倉幕府の滅亡

 高氏は4月22日、「先代追討ノ御内書」を関東在の一族である「(岩松)兵部大輔経家幷新田義貞」に送り、挙兵を指示した(『正木文書』)。岩松経家と新田義貞はこの命を奉じて挙兵を計画し、新田義貞は越後の新田一族をも結集させて挙兵に備えたと思われる。また、高氏はこれと時を置かずに鎌倉大蔵谷の足利屋敷に使者を送って庶子・竹若丸と嫡子・千寿王の脱出を指示したとみられ、竹若丸は伯父の走湯山密巌院別当・良遍のもとにあり、千寿王は5月12日までには新田庄世良田郷に移っている。おそらく千寿王は高氏の命を受けた新田義貞が世良田に庇護しと推測される。

 4月25日、高氏は「自伯耆国、所蒙 勅命也」として「嶋津上総入道殿(嶋津貞久)」へ「令合力給候」ことを指示したのを皮切りに、26日には小笠原信濃入道、27日には結城宗広入道、ら、29日には大友左近将監入道(大友貞宗)、阿蘇前大宮司らに対して挙兵への協力を依頼している(「足利高氏軍勢催促状案」『鎌倉遺文』32103、32104、32109~32114、32119、32121、32122、32138、32150)。これらのほか、大小の御家人などへ軍勢催促状を発給したと思われる。

 4月27日、名越高家と足利高氏の両将は、中国地方へ向けて出陣するが、大手軍の大将軍である名越高家が久我繩手の戦いで赤松円心入道の軍勢に討たれるという事件も起こり動揺が広がる中、足利高氏は伯耆国への軍路の途次、所領の丹波国篠村で反幕府の兵を挙げた。高氏はその後、踵を返して京都へ進軍。5月7日、赤松孫次郎入道円心や千種左中将忠顕の軍勢とともに六波羅探題に攻め寄せた

 無勢の探題・北条左近将監時益北条越後守仲時はやむなく六波羅に火を放ち、花園天皇以下皇族を奉じて鎌倉へ落ち行くことを決定するが、時益は六波羅邸を出た直後に矢に当たって敢無く討死。仲時も近江国番場まで遁れ行くも近江佐々木一党に行く手を遮られ、伊吹山の近く番場の一向堂前で合戦となり、四百三十余人が討死・自害して果てた。このとき仲時二十八歳。探題の手足として活躍した高橋三河守時英や隅田左衛門尉時親をはじめ、後醍醐上皇の監視をしていた佐々木隠岐前司清高、関東から使者として下っていた二階堂伊勢入道行照らもともに自害している(「近江番場宿蓮華寺過去帳」『鎌倉遺文』32137)

 高氏挙兵の報が鎌倉へ到達する直前の5月2日夜半、千寿王が足利屋敷から姿を消したことが発覚し、騒ぎとなった。得宗高時入道はただちに御内人・長崎勘解由左衛門入道と諏訪木工左衛門入道の両名を上洛させて状況の確認を指示する。両名は馬を飛ばして上洛の途につくが、途中の駿河国高橋で六波羅探題の早馬と出会い、名越高家の討死と足利高氏の叛旗を知らされることとなる(『太平記』)

 そして5月8日、新田義貞は上野国新田庄生品神社(太田市新田市野井町)で挙兵し、翌9日には武蔵国に入った。

 新田義貞の挙兵を受けた幕府は、金沢武蔵守貞将に五万余騎を副えて下総国下河辺庄へ、武蔵国入間川には桜田治部大輔貞国を大将とし、長崎二郎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道らの大将に六万余騎をつけて派遣した(『太平記』)。ところが、5月10日頃にはすでに千葉介貞胤小山判官秀朝ら有数の御家人でさえも反幕府の旗幟を鮮明にしており、新田勢を討つべく下河辺庄へ向かっていた金沢武蔵守貞将と武蔵国鶴見で合戦に及んでいる(『太平記』『梅松論』)

 新田勢は5月11日、入間川を渡って小手指原で桜田貞国・長崎高重率いる幕府勢と合戦に及び、これを撃退する。幕府勢は防衛線を久米川まで下げるが、翌12日の久米川の戦いで幕府勢は大敗を喫し、幕府勢はさらに分倍河原まで撤退する(『太平記』)。なお、足利高氏の嫡子・千寿王は義貞の庇護のもと新田庄世良田宿に匿われており、少なくとも12日まではこの世良田宿にあり、義貞の一族「新田三河弥次郎満義世良田」もその麾下にあった(「鹿島利氏申状写」『南北朝遺文 関東編』1356)。なお、『太平記』では9日に武蔵国へ入った時点で千寿王が新田勢に加わったことが記されているが、誤りであることがわかる。

 久米川の敗報を受けた北条高時入道は、剛毅な弟・左近将監泰家入道恵性を大将軍に任じ、塩田陸奥守国時入道道祐、安保左衛門入道道堪、城越後守、長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明に出陣を命じた。そして5月15日深夜、幕府軍は分倍河原に着陣し、桜田貞国らの軍勢と合流。勢いを盛り返した幕府勢は新田勢を打ち破り、堀金(狭山市堀兼)まで追い落とした(『太平記』)。このとき新田勢の上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)の御家人「飽間齋藤三郎藤原盛貞 生年廿六」「同孫七家行 廿三」が討死を遂げている(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)

 分倍河原の戦いで手痛い反撃を食った新田勢だったが、5月15日夕刻、義貞のもとに三浦一族・大多和平六左衛門義勝が松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷ら相模武士六千騎を率いて着陣。これに喜んだ義貞は、彼らを先陣として翌16日明け方に分倍河原まで進軍。大勝に酔っていた幕府勢に襲いかかり追い落とした。

 義貞は関戸で軍勢の着到を待つと、ここで手勢を三手に分けたという(『太平記』)

●『太平記』にみる鎌倉攻め三手(『太平記』)

極楽寺切通 大館二郎宗氏、江田三郎行義
巨福呂坂 堀口三郎貞満、大嶋讚岐守守之
大将 新田義貞、脇屋義助(堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達)

 こうしたと急激な流れに対し、得宗高時入道は、執権・北条相模守守時(高氏義兄)に巨福呂坂口(鎌倉西北の切通し)の警衛を命じる。守時は巨福呂坂から山ノ内を通過し、さらに洲崎(鎌倉市大船)まで進んで、5月18日、攻め寄せる新田勢と激戦を繰り広げた。この戦いは双方に多数の死者を出したとみられ、新田勢でもこの日「飽間孫三郎宗長 卅五」が「村岡(藤沢市村岡)」で討死したことが知られる(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)。この合戦で執権北条守時は自刃し、幕府勢は壊走。新田勢は山ノ内まで進軍した(『太平記』)

 新田勢が実際に三軍に分かれたかどうかは不明ながら、「搦手大将軍新田兵部大輔(当時は新田下野五郎経家)が5月19日に巨福呂坂口近辺にあったと思われる長勝寺(現在の材木座長勝寺との関係は不明)の前で合戦しており、さらに20日から22日にかけては巨福呂坂で合戦が行われたことがわかる(『群馬県史 資料編中世2』資料569)。おそらく実際の鎌倉攻めは、4月22日に高氏が発給した「先代追討ノ御内書」を受けた「(岩松)兵部大輔経家幷新田義貞」の二人が「両大将」となって行われ、大手大将軍が新田義貞、搦手大将軍が新田下野五郎(兵部大輔経家)となって、大きく二手に分かれて鎌倉を攻めたと推測できよう。洲崎で執権北条守時と直接戦ったのは、この新田経家(岩松経家)であったと思われる。そして、この鎌倉攻めのときには足利千寿王(高氏嫡男)が世良田から迎えられており、千寿王に従軍していた「新田三河弥次郎(世良田満義)」が21日に鎌倉市中で戦っている。ここは新田義貞の管轄であることから、千寿王は新田義貞の陣中にあったと推測される。

●実際の鎌倉攻め(軍忠状より抜粋)で従軍したことが判明する人々

方面 大将軍 資料でみられる従軍御家人(●は大将軍)

大手大将軍
・極楽寺坂
・大仏坂
足利千寿王
新田太郎義貞
●新田蔵人七郎氏義
【新田氏義】三木俊連(5/21霊山攻)
【新田氏義】三木行俊(5/21霊山攻)
【新田氏義】三木貞俊(5/21霊山攻)
●新田大館宗氏(5/18稲村崎、浜鳥居討死)
●新田大館孫次郎幸氏(5/21浜鳥居脇駆入)
【大館幸氏】大塚五郎次郎員成(5/21浜鳥居参戦、6/1二階堂御所着到)
【大館幸氏】大塚三郎成光(5/21浜鳥居討死)
大多和太郎遠明(5/21浜鳥居合戦)
海老名藤四郎頼親(5/21浜鳥居合戦)
飽間三郎盛貞(5/15府中討死)
結城上野入道道忠(5/18~22合戦)
田嶋与七左衛門尉広堯(同上)
片見彦三郎祐義(同上)
市村王石丸代後藤弥四郎信明(5/15分倍河原参戦、5/18前浜一向堂前参戦)
塙大和守政茂(5/16入間川着到、5/19極楽寺坂参戦)
徳宿彦太郎幹宗(5/19極楽寺坂参戦)
宍戸安芸四郎知時(5/19極楽寺坂参戦)
●新田遠江又五郎経政
【新田経政】熊谷平四郎直春(5/16参戦、5/20霊山寺下討死)
吉江三位律師奝実
齊藤卿房良俊
石川七郎義光(5/17瀬谷参陣、5/18稲村崎参戦、5/21前浜合戦)
藤田左近五郎(5/18稲村崎参戦)
藤田又四郎(5/18稲村崎参戦)
岡部又四郎(5/21前浜合戦)
藤田十郎三郎(5/21前浜合戦)
●武田孫五郎信高(霊山大将軍)
【武田孫五郎】南部五郎二郎時長(5/20霊山参戦、5/22高時館合戦)
【武田孫五郎】南部行長(5/20霊山参戦)
【武田孫五郎】中村三郎二郎常光(5/20霊山討死)
【武田孫五郎】南部六郎政長(5/15~22鎌倉合戦参戦)
●新田三河弥次郎満義(5/20霊山参戦)
【新田満義】鹿島尾張権守利氏(5/12世良田千寿王陣着到)
天野周防七郎左衛門尉経顕(5/18片瀬原着到、稲村崎、稲瀬川、前浜参戦
             5/22葛西谷合行さ)
新田矢嶋次郎(5/22葛西谷合戦参戦)
山上七郎五郎(5/22葛西谷合戦参戦)
搦手大将軍
・巨福呂坂
・化粧坂
新田下野五郎(岩松経家) 飽間孫三郎宗長(5/18村岡討死)
●岡部三郎(侍大将)
【岡部三郎】布施五郎資平(5/19長勝寺前合戦、5/20~22小袋坂合戦)

 新田義貞の大手勢は洲崎合戦と同じく18日には極楽寺坂方面へと集結し、稲村ガ崎で合戦している(「天野経顕軍忠状写」『群馬県史 資料編6中世2』番号583)。新田勢は稲村ガ崎に配置されていた幕府勢を「懸破稲村崎之陣」り、そのまま海岸を伝って「前浜鳥居脇」まで侵入して合戦し、寄手大将の一人、大館宗氏が討死している。新田勢は数度にわたって鎌倉市中に攻め入っていたと思われ、21日には大規模な戦闘が行われた。

 新田勢は稲村ガ崎を通して比較的自由に鎌倉に出入りしながら幕府勢と合戦し、北側では新田経家が指揮を取る搦手軍が巨福呂坂周辺から鎌倉への突入を試みていたのであろう。そして、翌22日には「葛西谷之合戦」で追い詰められた得宗高時入道以下、北条一門や御内人ら八百余にのぼる人々が菩提寺の東勝寺に籠もって抵抗するも敵わず、自害して果てた。高時入道崇鑑は享年二十九。

 この鎌倉の戦いでは、かつて重胤と行方郡高村をめぐって相論した長崎三郎左衛門入道思元が子息・長崎勘解由左衛門尉為基とともに極楽寺坂で刀を奮ったという。その後、新田義貞本隊と戦って戦死を遂げたという(『太平記』)

●長崎氏 略系図●

 平資盛―関盛国―国房―?―盛綱―――+―平頼綱――――+―宗綱       +―高綱―――+―高貞――――――高重
(左少将)        (左衛門尉)|(左衛門尉)  |(平左衛門尉)   |(円喜入道)|(四郎左衛門尉)(次郎)
                   |        |          |      |
                   |        +―飯沼資宗     +―高頼   +―高資――――――高直
                   |         (判官)      |(兵衛尉)  (新左衛門尉) (新左衛門尉)
                   |                   |
                   +―光盛―――――+―光綱―――――――+―真弓盛親―――盛勝
                    (次郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)   (織部正)  (織部正)
                            |
                            +―高泰―――――――――泰光
                            |(勘解由左衛門尉)  (四郎左衛門尉)
                            |
                            +―高光―――――――――為基
                            |(三郎左衛門入道思元)(勘解由左衛門尉)
                            |
                            +―師家
                             (九郎左衛門尉)

■重胤、行方郡奉行となる

 鎌倉幕府が滅亡すると、6月、後醍醐天皇は京都に戻り、大塔宮護良親王を征夷大将軍に任じた。倒幕の功労者である足利治部大輔高氏を警戒した措置ともされているが、このころはすでに皇子が征夷大将軍となることが先例となっており、特別なことではなかった。

 7月には、北条氏与党の武士の所領を安堵する旨の綸旨を発給。重胤もこの恩恵にあずかっており(元弘3年7月17日『後醍醐天皇綸旨』)、10月に義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家「陸奥国司・鎮守府将軍」として多賀城に入ると、12月、重胤は嫡子・相馬孫次郎親胤を代理としてに多賀城に派遣して所領安堵の「国宣」をもとめ、12月22日、『陸奥国宣』が出されて所領安堵された(『相馬重胤代親胤申状』)

 このころ、陸奥国府では式評定衆・引付・政所執事・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行・侍所といった小幕府的な政府が作られ、「式評定衆」には8人のうち、白河上野前司宗広入道・白河三河前司親朝・二階堂信濃守行朝入道行珍・二階堂山城左衛門大夫顕行・伊達左近蔵人行朝の5人までが奥州の有力者で占められている。北畠陸奥守顕家らは奥州の武士たちを統率する上で、彼らに偏諱を行っていたとも思われ、結城親朝・相馬親胤北畠親房から、二階堂顕行北畠顕家からそれぞれ偏諱を受けていると推測される。

●陸奥将軍府職制●

名前 説明
義良親王 後醍醐天皇の皇子。のちの後村上天皇。下向時六歳。
国司 北畠顕家 従三位・陸奥守・鎮守府将軍。北畠親房卿の嫡男で、下向時十六歳。
式評定衆 冷泉源少将家房
式部少輔英房
内蔵権頭入道元覚
結城上野入道
信濃入道行珍
三河前司親朝
山城左衛門大夫顕行
伊達左近蔵人行朝
近衛少将。北畠親房の又従兄弟。
式部少輔。
内蔵権頭。
結城宗広。元御内人。滅亡後は朝廷に服す。伊勢で没する。
二階堂行朝。元幕府吏寮。のち室町幕府最初の政所執事。
結城親朝。結城宗広の嫡男。のち北畠氏と対立し、足利方に下る。
二階堂顕行。元幕府吏寮。二階堂行朝の嫡男。
伊達行朝。南朝の忠臣として活躍。
引付衆一番 信濃入道
長井左衛門大夫貞宗
近江二郎左衛門入道
安威左衛門入道
五大院兵衛太郎
安威弥太郎
椙原七郎入道
二階堂行朝。元幕府吏寮。
長井貞宗。 元幕府吏寮。
 
元御内人。
五大院兵衛入道玄照。 元御内人。
元御内人。
元幕府吏寮。
引付衆二番 三河前司
常陸前司
伊賀左衛門二郎
薩摩掃部大夫入道
肥前法橋入道
丹後四郎
豊前孫五郎
結城親朝。

元御内人。
 
 
 
 
引付衆三番 山城左衛門大夫
伊達左近蔵人
武石次郎左衛門尉
安威左衛門尉
下山修理亮
飯尾二郎
斎藤五郎
二階堂顕行。
伊達行朝。
 
元御内人。
 
元幕府吏寮。
元幕府吏寮。
政所執事 山城左衛門大夫 二階堂顕行。
評定奉行 信濃入道 二階堂行朝。
寺社奉行 安威左衛門入道
薩摩掃部大夫入道
元御内人
 
安堵奉行 肥前法橋
飯尾左衛門二郎
 
 
侍所 薩摩刑部左衛門入道 子息・五郎左衛門尉親宗が勤める。

 建武2(1335)年6月3日、重胤は行方郡奉行職を拝任し、同日「陸奥国伊具・亘理・宇多・行方郡、金原保」の検断職武石上総権介胤顕とともに任命された(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬家文書』)

■奥州検断職(奥州南部)

地区:( )内は想像の検断任郡 検断 出典
(伊具郡、亘理郡)、宇多郡、行方郡
(金原保)
⇒同日、行方郡の奉行を拝命している。
相馬孫五郎重胤 建武二年六月三日「陸奥国宣」
(『相馬家文書』)
伊具郡、亘理郡、(宇多郡、行方郡)
金原保
武石上総権介胤顕 建武二年六月三日「陸奥国宣」
(『相馬家文書』)
岩城郡 岩城弾正左衛門尉隆胤
※『飯野八幡文書』元亨四年文書の
岩崎弾正左衛門尉隆衡と同一人物か
建武元年三月廿八日「沙弥某遵行状」
白河郡、高野郡、岩瀬郡、安積郡
石河庄、田村庄
依上保、小野保
結城参河前司親朝 建武二年十月廿六日「陸奥国宣」
(『白河結城文書』)

 こうして武石氏とともに陸奥国海道四郡の検断権を握った重胤は、同年7月3日、さっそく従弟の相馬孫次郎行胤に対して出された行方郡大悲山村安堵についての『陸奥国宣』に従い、『相馬重胤打渡状』を28日に発給している。行胤は重胤の従弟というだけではなく、行胤の嫡子・相馬五郎朝胤重胤娘が結婚している関係から、大悲山相馬氏に対する重胤の信頼ぶりは群を抜いていた。

●相馬重胤周辺系図

・相馬胤村―――+―師胤―――重胤――+―親胤――――松鶴丸(胤頼)
(五郎左衛門尉)|(彦次郎)(孫五郎)|(孫次郎)   
        |          |        
        |          +―光胤====松鶴丸(胤頼)
        |          |(弥次郎)
        |          |
        |          +―娘
        |            ∥―(?)―松鶴丸(胤頼)
        +―通胤―――行胤――+―大久朝胤
         (与一) (孫次郎)|(五郎)
                   |
                   +―鶴夜叉===松鶴丸(胤頼)

 同じく7月、関東では北条時行(最後の得宗・北条高時の遺児)が信濃国諏訪で挙兵し、足利直義(尊氏弟)が守る鎌倉を攻め落とすという事件が起こった。この叛乱を「中先代の乱」という。このとき直義は、後醍醐天皇の勘気を受けて鎌倉に移された大塔宮護良親王を預かっており、鎌倉陥落の際に宮を暗殺して鎌倉を脱出した。

 一方、鎌倉危うしの一報を得た足利尊氏(後醍醐天皇の御諱”尊治”の一字を賜って、高氏を尊氏に改名)は、鎌倉を落とした中先代軍追討のために「直義朝臣、無勢にして禦き戦ふべき智略なきに依て、海道に引退よし其聞え有る上ハ、暇を賜り合力を加ふべき旨」を奏聞するが、勅許が下りることはなかった(『梅松論』)。尊氏は「所詮私にあらず。天下の御為」と称して、8月2日に独断で在京武士に呼びかけて鎌倉へ向かった。

 8月7日に三河国八橋に至り、矢作の足利家領で三河足利党や鎌倉から落ち延びてきた直義らと合流を果たした。そして8月9日、遠江国橋本においてはじめての中先代軍との合戦となり、千田太郎胤貞安保丹後権守光泰の両名が先駆けて高名を挙げる。8月12日には小夜中山で合戦、8月14日には駿河国府で中先代軍大将・尾張次郎(名越尾張守高家の子か)を打ち破り、塩田陸奥八郎(塩田陸奥守国時の子か)らを生け捕った。そして17日の箱根合戦、18日の相模川合戦、19日の辻堂片瀬原合戦で中先代軍を追捕し、鎌倉奪還に成功する(『梅松論』、「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」:『神奈川県史』史料編中世』)。なお17日の筥根合戦は、水飲、葦河上、大平下、湯本地蔵堂で合戦が行われたが、この合戦に重胤の嫡子・孫次郎親胤が加わっていた可能性がある。

 当時すでに相馬氏被官であったことが確実な須江氏の系譜に、須江時胤と子の八郎近春木幡彦助久胤の父子三人が「建武二年乙亥於箱根水飲坂合戦」で勲功をあげ、「吉良左京太夫」から賞されたという記録が残されている。この記述が事実であれば、須江氏は相馬氏の被官として重胤または親胤とともに加わったと推測されるが、重胤は当時奥州小高にあったことから、親胤が足利尊氏の鎌倉下向軍に従軍していたのだろう。

 須江一八郎胤春の子・須江文八郎春村「母相馬胤村妹」とあることから、これも事実であれば須江氏は相馬氏とは比較的血縁の近い被官層であったことになるが、胤村の姉妹として実在が確実なのは、足助尼二女子(摂津大隅前司妻)、三女子(島津下野入道後家)の三名のみであり(「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」『島津家文書』)、これは須江氏の系譜上の伝であろう。 

 春村の子が、筥根合戦で功績を挙げた須江備中時胤である。時胤は斯波家長とともに鎌倉に上った重胤に従い、京都から奥州へ帰還する途次の北畠顕家の軍勢と戦い、鎌倉法華堂下で討死を遂げたという(『衆臣家譜』須江氏)

         +―相馬胤村―――――相馬師胤―――相馬重胤―+―相馬親胤
         |(孫五郎左衛門尉)(孫次郎)  (孫五郎) |(孫次郎)
         |                      |
         |                      +―相馬光胤
         ? 須江胤春                  (弥次郎)
 相馬尼     |(一八郎)
(天野氏)    | ∥――――――――須江春村―――須江時胤―+―須江近春
 ∥―――――――+―妹       (文八郎)  (備中守) |(八郎)
 相馬胤綱                           |
(小次郎左衛門尉)                       +―木幡久胤
                                 (彦助) 

●『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』

宿 合戦中先代勢足利勢高名
8/2野路(近江国栗太郡)    
8/3四十九院(近江国犬上郡)    
8/4垂井(美濃国不破郡)    
8/5垂井(美濃国不破郡)    
8/6下津(尾張国中島郡)    
8/7八橋(三河国碧海郡)    
8/8渡津(三河国宝飯郡)    
8/9橋本(遠江国敷智郡)  千田太郎胤貞
安保丹後権守光泰
8/10池田(遠江国豊田郡)    
8/11懸河(遠江国佐野郡)    
8/12小夜中山(遠江国佐野郡) ・備前新式部大夫入道
(佐竹上総入道に討たれる)
・宇都宮能登入道
(天野氏に討たれる)
今川式部大夫入道(省誉:頼基)
佐々木佐渡判官入道(道誉:高氏)
宇都宮三河権守(時綱)
宇都宮遠江前司(貞泰)
宇都宮兵庫助
長井治部少輔(時春)
佐竹上総入道(道源:貞義)
天野一族
8/13藤枝(駿河国志太郡)    
8/14駿河国府(駿河国府)
⇒興津宿
・尾張次郎(自害)
・塩田陸奥八郎(生捕)
・諏訪次郎(生捕)
上杉蔵人修理亮(重頼)
細川阿波守(和氏)
高尾張権守(師兼)
大高伊予権守(重成)
高豊前権守(師久)
8/15蒲原(駿河国庵原郡)    
8/16伊豆国府(伊豆国田方郡)   
8/17筥根(相模国足柄下郡)
⇒小田原上山野宿
三浦若狭判官(時明) 長井左衛門蔵人
佐々木佐渡判官入道
大須賀左衛門尉
大類五郎左衛門尉
片山兵庫
8/18相模川
⇒十間酒屋上野宿
  【主だった味方討死】
今川式部大夫入道
小笠原七郎父子
小笠原彦次郎父子
佐々木壱岐五郎左衛門尉
二階堂伯耆五郎左衛門尉(行脩)
二階堂七郎(行登)
松本小次郎氏貞
8/19辻堂片瀬原⇒鎌倉下着 【降人】
千葉二郎左衛門尉
大須賀四郎左衛門尉
海上筑後前司(師胤)
天野三河権守(貞村)
伊東六郎左衛門尉
丸六郎
奥五郎
諏訪三河権守頼重法師
【主だった味方討死】
三浦蘆名判官入道道円(盛員)
三浦蘆名六郎左衛門尉(高盛)
土岐隠岐五郎(貞頼)
土岐兵庫頭(伯耆頼貞入道存孝孫)
味原三郎
【手負人】
佐々木備中前司父子
大高伊予権守
味原出雲権守 ほか

 天皇は尊氏の功績を認め、帰洛を命じる勅使を送るが、尊氏はこれを無視する。さらに独断で「奥州総大将」として若き十五歳の一門・尾張弥三郎家長(斯波家長)を奥州に派遣して陸奥国府に対抗させた。そして10月、朝廷は勅命を無視した尊氏を「逆賊」とし、新田左衛門佐義貞を総大将とする尊氏討伐軍が鎌倉へ派遣された。しかし、尊氏は箱根竹之下において朝廷軍にいた佐々木道誉塩谷高貞ら佐々木一族を内応させて朝廷軍を壊滅させ、その勢いのまま尊氏は京都へ攻め上った。この足利勢に重胤嫡子・相馬孫次郎親胤が従っている。

 重胤自身もこの直後、武石上総権介胤顕とともに奥州惣大将・斯波家長亘理郡川名村に出迎えて朝廷に反旗を翻した。どのような経緯で重胤が朝廷を見限り足利勢に加担することになったのかは不明である。このころ奥州では鎮守府将軍・北畠陸奥守顕家と奥州総大将・斯波家長が激しく対立していたが、北畠顕家は12月末、勅命を受けて帰洛することとなり、結城上野前司宗広入道・伊達左近蔵人行朝らを率いて多賀鎮守府を出陣した。

 顕家上洛の報を受けた斯波家長は、北畠顕家追撃の軍勢を集めたが、重胤は万が一の討死を考え、出陣の直前の11月20日、「次郎」「松犬」「大悲山五郎殿女房」の三人の子に譲状を発給した(「相馬重胤譲状」:『相馬家文書』)。さらに一族の相馬五郎胤康・相馬七郎胤治の兄弟へも譲状を遺した(『相馬胤康譲状』・『相馬胤治譲状』)。もし足利方が不利と伝わってきても決して朝廷方につくことはせず、弓箭の名を重代に遺すように命じており、強い反朝廷の意志が感じられる。

●建武2(1335)年11月20日『相馬重胤譲状』の処分内容

人物 所領 詳細 除外分拝領
次郎(相馬親胤) 陸奥国行方郡小高村


      高村


      目々沢村
      堤谷村
      小山田村
      堰沢村
      盤﨑村

下総国相馬郡増尾村
九郎左衛門尉の給分の田在家一軒(除外)
矢河原の後家尼の田在家一軒(除外)
彦三郎入道の居内の田在家一軒 (除外)
たかの蔵人の後家尼の田在家一軒(除外)
もんまの孫四郎の居内の田在家 (除外)
さうきやう房か田在家(除外)
――――――――――――――――
とう三郎の田在家一軒(除外)
――――――――――――――――
――――――――――――――――
釘野の田在家(除外)
かくまさわの伊予房が屋敷田在家一軒(除外)
彦四郎の給分の田在家一軒 (除外)
いやけんし入道か田在家一軒(除外)
→大悲山五郎殿女房
→弟・相馬光胤
→弟・相馬光胤

→弟・相馬光胤





→弟・相馬光胤
→弟・相馬光胤

→※
松犬(相馬光胤) 陸奥国行方郡耳谷村
      村上浜
    盤﨑村釘野内
      高村
      小高村

      鳩原村
下総国相馬郡粟野村
      薩間村
――――――――――――――――
――――――――――――――――
かくまさわの伊予房の屋敷田在家一軒
孫四郎の給分関根の屋敷田在家一軒
矢河原十郎後家尼の田在家一軒
彦三郎入道の居内の田在家一軒
――――――――――――――――
――――――――――――――――
山ふしうちの田在家一軒(除外)








→※
大悲山五郎殿女房 陸奥国行方郡小高村 九郎左衛門給分田在家一軒

※…相馬(岡田)胤家が、嫡子・五郎胤重に宛てた『貞治2(1363)年8月18日・相馬胤家譲状』のうちに
  ・下総国薩間村内やまふし内の田在家一軒
  ・下総国増尾村のいやけし入道の田在家一宇
 合わせて二宇が手継證文とともに譲り渡されたとある。同日付の譲状は合計四つ(下図参照)。

●『相馬胤家譲状』の処分内容

譲状 所領 譲状の性質
『相馬胤家譲状』陸奥国行方郡岡田村
      八兎村
      矢河原村
      上鶴谷村
      院内村
      飯土江狩倉
   高城保波多谷村
下総国相馬郡泉村
      薩間村やまふし内の田在家一軒
      増尾村いやけし入道の田在家一宇
譲渡の所領すべて
『相馬胤家譲状』陸奥国行方郡岡田村
      八兎村
      矢河原村
      上鶴谷村
      院内村
      飯土江狩倉
   高城保波多谷村
下総国相馬郡泉村上柳戸
        金山
        船戸
岡田相馬氏伝来分
『相馬胤家譲状』下総国相馬郡薩間村やまふし内の田在家一軒
      増尾村いやけし入道の田在家一宇
相馬惣領家伝来分
『相馬胤家譲状』陸奥国行方郡院内村上下田在家 新給知行分

譲状一…譲る知行地すべて
譲状二…一の所領のうち、岡田相馬氏に代々伝えられてきた所領
譲状三…一の所領のうち、もともとは相馬本宗家の所領だったところ
譲状四…建武4(1337)年頃に安堵された「院内村三分一」について記されており、新給知行地。

 これらは知行ルートの違いがあり、そのルートごと、手継證文ごとにまとめられて作られた譲状だったのだろう。「薩摩村」の「やまふし内の田在家」、「増尾村」の「いやけし入道田在家」については、重胤から親胤への譲状で除かれているため、建武2(1335)年11月の時点ですでに相馬胤家(岡田氏祖)に譲られていた所領とみられる。重胤がなぜあえて遠縁(従兄弟の孫)の相馬胤家へ二か所の所領を譲ったのかは不明である。

■相馬重胤討死

少林寺
増尾少林寺(重胤墓所)

 重胤は次男・相馬弥次郎光胤相馬五郎胤康(岡田祖)・相馬孫次郎行胤(大悲山祖)らを率い、奥州総大将・斯波家長に従って北畠顕家を追捕すべく鎌倉へ向かった。そして、顕家が鎌倉を発つとたちまち鎌倉を占領し、彼の再下向に備えた。

 しかし、ここで重胤は小高城の留守として次男・光胤ら相馬一族に小高へ帰るよう指示し、この際に相馬孫次郎行胤に渡された『相馬重胤定書』写しが遺されている(「相馬重胤定書」『相馬家文書』)

 建武3(1336)年正月13日、北畠顕家は比叡山麓坂本において新田義貞・楠木正成・千葉介貞胤らと合流し、16日、足利方が占領していた京都に攻め入り、足利勢を駆逐する。尊氏は摂津から播磨へ逃れ、さらに九州へと落ちていった。しかし、逃れながらも中国・四国地方には赤松円心・細川定禅ら、足利方の諸将を配置して再上洛に備えるという周到振りだった、九州へ向かったのは義弟・赤橋英時(九州探題)の勢力下であった九州御家人層を味方につける目的であった可能性もあるか。

 京都を平定した北畠顕家は3月、義良親王を奉じてふたたび奥州に下向し、その途次、4月16日に鎌倉郊外の片瀬川において、斯波家長勢と激戦を繰り広げた。この戦いで斯波家長に属して戦った相馬勢だったが、相馬泉胤康文間胤往らが討死を遂げている。重胤はからくも鎌倉まで逃れたが、北畠勢が鎌倉に乱入するに及び、逃れられないことを悟り、「法花堂下自害」を遂げた。この「法花堂」は右大将家法華堂のことで、(頼朝墓所)と思われる。没年齢不詳。重胤の墓と伝えられる遺跡が千葉県柏市増尾の少林寺に遺されている。

■相馬重胤の奥州下向と結婚、親胤・光胤のこと

 重胤の妻は三春庄の「田村三河前司宗猷」の娘(養女)で、重胤と結婚したのは重胤の奥州下向後と思われる。重胤の奥州下向は、嫡男・親胤(孫次郎)の活躍時期を考えると、重胤と彦犬(胤門娘)の相論の和與状が発給された嘉元元(1303)年12月から数年間あたりとも思われる。元弘3(1333)年7月17日の『後醍醐天皇綸旨』の別紙には、

「相馬孫五郎重胤妻、奥州三春前領主田村参河前司入道宗猷女子実藤原氏女父姓名未考知、父没後母嫁宗猷、故実父領知伊達、信夫、安達郡之内、于重胤賜之 綸旨如左」

とある。これは「別紙」であるため、当時のものかどうかは不明ながら、藤原氏女=重胤妻の母は夫の死後、田村入道宗猷に嫁したとされ、藤原氏女の実父は「伊達・信夫・安達郡」に所領を持っていた藤原氏を称する人物、つまり伊達氏の事と思われる。

 この重胤の妻と見られる女性は、元弘3(1333)年6月5日当時「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とあるように、田村郡七草木村の地頭職であったことがわかる(「田村宗猷女子藤原氏女代超円着到状」『相馬家文書』)

 建武3(1336)年3月3日の『相馬光胤着到状』には北畠顕家に備えるために小高城籠城に参じた相馬一族が記され、その中に「伊達与一高景」「伊達与三光義」の二名の伊達氏が記されている。彼らと光胤の母は親戚の可能性もあり、同じく「新田左馬亮経政」は、相馬義胤の娘・土用御前「陸奥国行方郡千倉庄」を持参して嫁いだ「新田岩松時兼」の子孫であろう。観応2(1351)年11月26日に吉良貞家が発給した文書に「陸奥国行方郡千倉庄内闕所分 新田左馬助当知行分除之」とある(観応二年十一月廿廿六日「吉良貞家奉書」)


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