| 代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? |
| 3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? |
| ―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? |
| 4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 |
| 5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? |
| 6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? |
| ―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) |
| 7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? |
| 8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 |
| ―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 |
| 9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 |
| 10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? |
| 11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? |
| 12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? |
| 13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? |
| 14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? |
| 15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 |
| 16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 |
| 17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 |
◎中村藩主◎
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
| 3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
| 4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
| 7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
| ―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
| 8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
| ―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
| 9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
| 10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
| 13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
(1287頃?-1337)
| <正室> | 相馬泉五郎胤顕女? |
| <後室> | 田村三河前司入道宗猷養女・藤原子女 |
| <幼名> | 松鶴丸 |
| <通称> | 孫五郎 |
| <父> | 相馬彦次郎師胤 |
| <母> | 不明 |
| <官位> | 無位 |
| <官職> | 無官 |
| <家督> | 永仁4(1296)年~建武4(1337)年 |
| <法号> | 興国寺殿実厳天叟 |
| <墓所> | 増尾山少林寺(柏市増尾3-6-1) |
●相馬重胤事歴●
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| 重胤花押 |
父は相馬彦次郎師胤。母は不明。通称は孫五郎。室は藤原氏(田村三河前司入道宗猷養女)。父・彦次郎師胤と同様に無位無官であり、左衛門尉や兵衛尉に任官する相馬一族の中でも庶家という扱いにあった。しかし、血縁者間での養子関係を通じた所領の集積に成功し、惣領家の胤氏系が罪科のために所領三分の一を没落とともに、奥州における胤村跡の事実上の惣領として大成した。
重胤は生涯の大半を所領に関する訴訟問題に費やし、東北へ移ったのちも南北朝の争いの中で、足利尊氏方に属して鎮守府将軍北畠顕家の軍勢と鎌倉郊外で合戦し、右大将家法華堂下で自刃する悲劇を迎える人物。奥州相馬氏の始祖として、相馬地方では今でも尊敬されている人物である。
相馬孫五郎重胤は祖母尼阿蓮や父彦次郎師胤が住んでいた下総国相馬郡増尾村(柏市増尾)で生まれ育ったと思われる。
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| 増尾妙見堂跡 |
正応2(1289)年2月20日、父・師胤から『譲状』をうけて師胤妻(女房)分と叔父の彦五郎胤門分を除いた「相馬御厨内益尾村、粟野薩摩、陸奥州行方郡内小高村、耳谷村、村上浜」を継承した(正応二年二月廿日「平某譲状」『相馬文書』)。正応2(1289)年時点で重胤は「松鶴丸」と称され、永仁4(1296)年8月24日の叔父胤門から重胤への「和字譲状」の発給から考えて、その生年は弘安10(1287)年頃と想定される。師胤から譲状を受けたとき、松鶴丸(重胤)はおそらく二、三歳であったと思われ、師胤は幼児に家督を譲らざるを得ないほどの重病にあったのだろう。
また、師胤は譲状に「胤門於無子息令死去者、松鶴可知行、…松鶴無子息令死去者、■■■彦五郎胤門可知行」と認めているように、幼児の死亡率も高かったであろう当時、松鶴丸(重胤)が無事に成長する保証はないことから、自らの後嗣として松鶴丸(孫五郎重胤)を定めるとともに、彼が早世した場合は末弟の彦五郎胤門が継承することを定めた。師胤の母尼阿蓮が亡くなったと思われる弘安8(1285)年当時、松鶴丸(重胤)は誕生前とみられ、師胤は当時十四、五歳だったと思われる弟・胤門を庇護したと思われ、自身に子が男子が生まれなかった場合には胤門に所領を譲る予定だったのかもしれない。師胤と胤門は「■■(しやけいひこ)二郎もろたねけいやくふかゝりし」という関係にあるように、義父子の関係にあった可能性がある。
彦五郎胤門については、父胤村が亡くなったと思われる文永9(1272)年までに誕生したと推測される(胤村死去時に後室が妊娠中であった可能性もあるが、その後の尼阿蓮の動きから考えにくいか)が、弘安8(1285)年時点で「乙鶴丸」と称されていることから元服前だったことがわかる。胤村卒去前年に誕生しているとすれば、母尼卒去の弘安8(1285)年で十五歳であり、元服適齢期上限に近い。それ以前の場合は元服適齢期を過ぎるので、胤門は文永8(1271)年頃の誕生と考えるのが妥当だろう。正応2(1289)年2月20日に「益尾村内八郎■在家新平四郎在家合弐宇」(正応二年二月廿日「平某譲状」『相馬文書』)を兄師胤から譲渡された際には「彦五郎胤門」と称しており元服済である。
+―相馬胤氏―――――相馬師胤
正室 |(次郎左衛門尉) (五郎左衛門尉)
∥ |
∥ +―相馬胤顕―――+―相馬胤盛―――泉胤康――→[子孫は岡田家、泉家(中村藩御一家)]
∥ |(五郎) |(小次郎) (五郎)
∥ | |
∥―――――+―相馬胤重 +―娘
∥ |(六郎左衛門尉) ∥
∥ | ∥
相馬胤村 +―相馬有胤 ∥
(五郎左衛門尉) (十郎) ∥
∥ ∥
∥―――――+―相馬師胤―――+―相馬重胤―+―相馬親胤――→[子孫は中村藩主]
∥ |(彦次郎) |(孫五郎) |(孫次郎)
尼阿蓮 | | |
+―相馬胤朝 +―娘 +―相馬光胤
|(孫九郎) ∥ (弥次郎)
| ∥
+―相馬胤実 ∥――――――大悲山朝胤――→[子孫は大悲山家(中村藩士大久家)]
|(孫四郎) ∥ (又五郎)
| ∥
+―相馬通胤―――――相馬行胤
|(与一) (孫次郎)
|
+―相馬胤門―――+=相馬重胤
(彦五郎) |(孫五郎)
|
+―彦犬
●相馬師胤の所領
| 正応2(1289)年2月20日 重胤へ譲った所領 |
弘安8(1285)年6月5日 「後家尼阿蓮譲状」 |
正応2(1289)年2月20日 「平師胤譲状」 |
|||
| 下総国 相馬御厨 |
薩摩村 (鎌ケ谷市佐津間) |
四郎入道在家■■ 又次郎在家合弐宇 (一期後は重胤) |
女房 | ||
| 上記以外 |
松鶴丸 (重胤) |
||||
| 粟野村 (鎌ケ谷市粟野) |
松鶴丸 (重胤) |
||||
| 増尾村 (柏市増尾) |
■■入道の田一町 (一期後は師胤) |
駒夜叉 | |||
| 源兵衛入道■■分 三郎が屋敷付の田 ともども三町 |
胤実 | ||||
| へ■■三郎が屋敷 同じき■■二町 |
乙鶴丸 (胤門) |
||||
| ■■入道の田一町以外 | 彦次郎師胤 | 八郎■在家■■■、 新平四郎在家合弐宇 |
舎弟彦五郎胤門 ※胤門於無子息令死去 松鶴可知行 |
||
| 上記以外 | 松鶴丸 (重胤) |
||||
| 陸奥国 行方郡 |
小高村 (南相馬市小高区小高) |
松鶴丸 (重胤) |
|||
| 耳谷村 (南相馬市小高区耳谷) |
松鶴丸 (重胤) |
||||
| 村上浜 (南相馬市小高区村上) |
松鶴丸 (重胤) |
||||
父・師胤は正応2(1289)年2月20日の「譲状」を作成したのち、時を置かずに亡くなったとみられる。没年齢は推測だが二十九歳から三十歳頃であろう。父・師胤の死に臨み、重胤はまだ二、三歳であったが元服して孫五郎重胤を称した。
そして、その五年後の永仁2(1294)年8月22日、未処分地でかつ保留分だった二百三十九町余が胤村跡に配分された(永仁二年八月廿二日『関東下知状』)。この「関東下知状」で配分されたのは「為祖父相馬五郎左衛門尉胤村未(処)分跡、去永仁二年■■日養父相馬彦五郎胤門預御配分畢」(元亨元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)とあるように、二十二年前に処分された残りである。そしてその「関東下知状」の内容から奥州遺領に関する配分であったことがうかがえる。
文永9(1272)年から永仁2(1294)年までの二十二年間、この広大な未処分「跡」を管理し御公事を負担していた人物は不明である。広大であることから、将軍家政所が奉行人を以て代官を派遣して支配していた可能性もあるが定かではない。
その配分の田数をみると、前妻の子であろう四人(胤氏・胤顕跡・胤重・有胤)で178町余、後妻(尼阿蓮)の子五人(師胤跡・胤朝・胤実・通胤・胤門)で61町余の配分である。このことから明らかに前妻子が優遇されていることが判明する。殊に十郎有胤は文永9(1272)年時点で彦次郎師胤と同じく元服しておらず、有胤と師胤は然程年齢は変わらないが、有胤の配分田数は師胤跡の二倍を超えているのである。
●永仁二年御配分系図より
| 名 | 通称(系譜より) | 田数(永仁2年当時) | 合計 | 母 | ||||
| 胤氏 | 次郎左衛門尉 | 六十二町+六町(赤沼) | 三段 | 三百歩 | 62町3段300歩(+赤沼6町) | 178町余 | 前妻 | |
| 胤顕(跡) | 五郎 | 四十四町+四町(赤沼) | 七段 | 二合 | 44町7段2合(+赤沼4町) | |||
| 胤重 | 六郎左衛門尉 | 三十二町 | 一段 | 五合 | 32町6段 | |||
| 有胤 | 十郎 | 二十八町 | 八段 | 九合 | 28町8段9合 | |||
| 師胤(跡) | 彦次郎 | 十三町 | 九段 | 八合 | 13町9段8合 | 61町余 | 後妻 (尼阿蓮) |
|
| 胤朝 | 孫九郎 | 十二町 | 九段 | 七合 | 12町9段7合 | |||
| 胤実 | 孫四郎 | 十二町 | 四段 | 六合 | 12町4段6合 | |||
| 胤通(通胤) | 余一 | 十二町 | 六合 | 12町6合 | ||||
| 胤門 | 彦五郎 | 九町 | 九段 | 一合 | 9町9段1合 | |||
| 合計 | 二百二十九町九段七合十二歩+十町(赤沼) | 229町9段7合12歩(+10町) | ||||||
その配分の田数は、『永仁二年御配分系図』で詳細に記されているが、永仁2(1294)年8月22日「関東下知状」で「平■■(師胤)跡」として処分されたのは、「陸■■澤、堤谷、小山田以上参箇■■(陸奥国行方郡目々澤、堤谷、小山田以上参箇所已上田数載配分状事)」であり、その田数は約14町に過ぎなかった。胤村「譲状」はまったく考慮されなかったことがわかる。
●相馬師胤→重胤の所領(『相馬文書』より)
| 国 | 村 | 「下知状」 文永9年 10月29日 (1272) |
「譲状」 弘安8年 6月5日 (1285) |
「譲状」 正応2年 2月20日 (1289) |
「下知状」 永仁2年 8月22日 (1294) |
「譲状」 永仁4年 8月24日 (1296) |
「申状」 元弘3年 12月 (1333) |
「譲状」 建武2年 11月20日 (1335) |
| 下総国 相馬郡 |
増尾村 | 尼 胤村後家 |
尼阿蓮 →師胤 |
師胤 →重胤 |
重胤 →親胤 |
|||
| 薩間村 | 平松若丸 (師胤) |
師胤 →重胤 |
重胤 →光胤 |
|||||
| 粟野村 | 平松若丸 (師胤) |
師胤 →重胤 |
重胤 →光胤 |
|||||
| 陸奥国 行方郡 |
盤崎村 | 尼 胤村後家 |
師胤 →重胤 ※濡損だが 盤の左上の 一部が見える |
重胤相伝 安堵願 (胤門後家領) |
重胤 →親胤 |
|||
| (釘野) 重胤 →光胤 |
||||||||
| 小高村 | 尼 胤村後家 |
尼阿蓮 →師胤 |
師胤 →重胤 |
重胤 →親胤 |
||||
| 耳谷村 | 平松若丸 (師胤) |
師胤 →重胤 |
重胤相伝 安堵願 |
重胤 →光胤 |
||||
| 村上浜 | ― | ― | 師胤 →重胤 |
重胤 →光胤 |
||||
| 兼又祖母親父之跡 預御配分者一円可知行 |
― | ― | 師胤 →重胤 |
|||||
| 陸奥国 行方郡 |
目々沢村 | 重胤(新規) | 重胤相伝 安堵願 |
重胤 →親胤 |
||||
| 堤谷村 | 重胤(新規) | 重胤相伝 安堵願 |
重胤 →親胤 |
|||||
| 小山田村 | 重胤(新規) | 重胤 →親胤 |
||||||
| 高村 (堰澤) |
胤門(新規) | 胤門 →重胤 |
重胤相伝 安堵願 |
重胤 →親胤 |
||||
| 鳩原村 | 重胤相伝 安堵願 (胤門後家領) |
重胤 →光胤 |
||||||
| 萩迫 | 胤門(新規) | |||||||
亡父・師胤の末弟、彦五郎胤門には、永仁2(1294)年8月22日「関東下知状」で「陸奥国高村并荻迫」が配分された(永仁二年八月廿二日『関東下知状』)。『永仁二年御配分系図』によれば約10町である。こののち胤門は重胤を「■■(しやけいひこ)二郎もろたねけいやくふかゝりしに■■(より)、ちやくしにたつる也」と、孫五郎重胤を嫡子と定め、二年後の永仁4(1296)年8月24日、胤門から重胤に「和字譲状」を以って高村を譲った(永仁四年八月廿四日「平胤門和字譲状」『相馬文書』)。亡父師胤と末弟・彦五郎胤門の関係は前述のとおり「契約深」い義父子関係にあったと思われ、この関係から重胤を養子としたのだろう。
胤門が松鶴丸に「和字」で譲状を作成しているところから、重胤は少年だったことがわかる。具体的には永仁4(1296)年8月時点で十歳前後と考えられる。胤門がこの譲状を発給した理由は深刻な体調悪化であろう(胤門自身も弘安8(1285)年時点で「乙鶴丸」という幼名であることと、父胤村卒去年から考えて永仁4(1296)年当時で二十五、六歳であろう)。そして「胤門死去之刻、譲与■■」(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)ののちの永仁4(1296)年秋、後述の伯父胤氏による高村の「押領」及び「苅取作稲」があるように、胤門は永仁4(1296)年8月の譲状発給直後に亡くなったことがわかる。
●永仁4(1296)年8月24日『平胤門和字譲状』(『相馬文書』)
| 被譲渡人 | 国郡 | 村郷 | 備考 | 伝由緒 |
| 孫五郎重胤 | 陸奥国 行方郡 |
高村 | 後家・女子・祖母分除く | |
| 堰澤山 | 永仁五年六月七日 『関東下知状』から堰澤 |
|||
| 後家 | 高村? | 後家一期ののちは重胤 | ||
| 女子(彦犬) | 高村 (詳細地不明) |
女子一期ののちは重胤 | ||
| 祖母(尼阿蓮か) ※尼阿蓮は仁安六年時点死去 |
高村 (新三郎が田在家) |
祖母一期ののちは重胤 |
胤門の死の直後、惣領家の「伯父同次郎左衛門尉胤氏」が重胤が胤門から譲渡された「高村堰澤」を押領して「苅取作稲」という狼藉に及んだ。これに「相馬彦五郎胤門養子孫五郎重胤代頼俊」が胤氏の狼藉を問注所に訴え出ている(永仁五年六月七日『関東下知状』:『相馬文書』)。胤門は生前に重胤のための訴訟代理人を選定していたのだろう(高村を狙う存在への対処歟)。これにより「相馬彦五郎胤門養子孫五郎重胤」は代理人頼俊をして提訴することができたのだろう。
問注所は重胤側の訴えに基づいて胤氏に「度々下召符」して出廷を促すが、胤氏は応じなかった。しかし拒み続けることはできず、ようやく「■■年四月二日請文(永仁五年四月二日請文)」を提出して「不相綺」と非分を認めた。これを受けた重胤側は「重訴状」して胤氏が「不相綺」と認めた以上は「可預裁許」と要望し、評定衆は「此上不及異儀」として、「高村堰沢」は「可令重胤領掌之状」と定め、関東下知状が下された(永仁五年六月七日「関東下知状」『相馬文書』)。この相論の後、胤氏は文書等から確認できなくなる。
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| 小高城より遠望 |
翌永仁6(1298)年、「師胤、々門死去之後」に重胤の叔父・孫四郎胤実が訴訟代理人「忠■」を以って「■阿蓮遺領下総国相馬御厨内益尾村、陸奥国小高村并盤崎村内釘野事」について、知行権を主張して鎌倉へ訴陳した。もともと、この土地は「重胤亡父彦次郎師胤、弟孫四郎■■■五郎胤門」の三名が「帯弘安八年六月五日阿蓮譲状(詳細)」ていた所領であった。互いに相手の譲状を偽書と認識していたようだが訴訟に発展することはなかった。それが胤門の死を契機に胤実が代理人を立てて始めて提訴に踏み切った。それに対して重胤側も「(訴)陳状」を提出して反論し、泥沼化したが、その後胤実、重胤双方が歩み寄り「於阿蓮譲状等■■(者実カ)書之由、令存知之間、止相論、互任彼状等可知行■■(之由カ)云々者」と鎌倉に報告したという。これにより評定衆は「早守彼状、向後無違乱、相互可致沙汰之状」を決定し、正安2(1300)年4月23日、将軍家両別当の北条貞時(執権)、北条宣時(連署)の名において「関東下知状」を下した(正安二年四月廿三日「関東下知状」『相馬文書』)。なお、この孫四郎胤実は隣接する行方郡八兎村・大内村をめぐって相馬小次郎胤盛(相馬五郎胤顕の子)とも争っていたが、応長元(1311)年7月27日以前に和与が成立し、8月7日の『関東下知状』によって結審している(応長元年八月七日「関東下知状」『相馬文書』)。
さらに、重胤は養父・彦五郎胤門の実娘・彦犬、つまり義妹との間で「高村」に関する相論を起こした。養父胤門は永仁4(1296)年の『相馬胤門和字譲状』の中で「女子分(彦犬に分配した高村内田畠)」は女子の死後は重胤が知行する事と定めたが、相論となっている高村の地は「胤門死去」後に「伯父同次郎左衛門尉胤氏押領」されたのち、前述のとおり重胤に帰する関東下知状によって結審してい(永仁五年六月七日「関東下知状」『相馬文書』)。この押領地の一部が彦犬の相続分であり、それが重胤に安堵されたことへの提訴であるのかもしれない。結局、この相論は嘉元元(1303)年12月の『和與状』によって解決し、重胤への所領相続が正当なものと認められた。
前述のとおり、彦犬の父・胤門(重胤養父)は文永8(1271)年頃の誕生で、娘の彦犬はその胤門が元服後に生まれたと想定すれば、弘安9(1286)年から胤門が死去する永仁4(1296)年までに生まれたと想定される。嘉元元(1303)年の重胤との相論時は十歳代半ばであったろう。重胤もまた弘安10(1287)年頃の誕生と想定されるため、彦犬と重胤はともに十六、七歳でまったく同年代となる。
元享元(1321)年10月、「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一(高村自高河北田在家三分壱)」が長崎三郎左衛門入道思元へ打ち渡されたことに関連して、関わりのないはずの重胤も問題に巻き込まれ、訴訟に発展した(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)。
相馬五郎左衛門尉師胤は、永仁5(1297)年に重胤が故胤門から相続した行方郡高村の稲を刈り取る狼藉を働いた相馬次郎左衛門尉胤氏(重胤伯父)の子であり、胤村流相馬氏の惣領家でもある。「相馬五郎左衛門尉師胤所領三分一」は「依罪科被収公」されているが(元享元年「長崎思元代良信申状」『相馬文書』)、これは「相馬一族闕所地置文案」(『相馬文書』)に「先代被闕所」とあるように、主家である鎌倉家(将軍家。実質的にはその家司北条氏による措置)によって闕所とされ、後述のように収公地の公田「行方郡大田村土貢六十貫文」「吉名村土貢四十貫文」は「長崎三郎左衛門入道拝領之」となった。
●「相馬一族闕所地置文案」(『相馬文書』)
相馬
五郎左衛門尉 二郎左衛門尉 五郎左衛門尉
胤村―――――+―胤氏――――――師胤 一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、
| 又同郡吉名村土貢四十貫文、
| 先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之
|
| 彦次郎 孫五郎 出羽権守
+―師胤―――――――重胤―――――親胤 訴人
|
| 十郎
+―有胤 子息等御敵也、彼跡等
| 高平村五十貫文、稲村十五貫文
|
| 孫四郎 六郎
+―胤実―――――――胤持 大内村十貫文、長田村五十貫文
|
+―女子 高城保内根﨑村三十貫文、鳩原村弐十五貫文
|
+―女子 牛越村三十貫文
相馬五郎左衛門尉師胤がいかなる罪科によって所領の三分の一を収公されたのかは記されていないが、「御成敗式目」の第三十一条に「依無道理不蒙御裁許輩、為奉行人偏頗由訴申事」という条項があり、敗訴人が裁定に従わず奉行人を偏頗と訴えた場合は「可被収公所領三分一」と定められている。このほか、弘安九年二月五日追加の式目では、悪党を匿った場合に「可被召所領三分一」と規定されている。三分の一を収公する条項は他にみえないことから、師胤はいずれかの条項を適用されたと思われるが、詳細は不明。
●「御成敗式目(第三十一条)」
●「御成敗式目(新編追加 弘安九年二月五日追加 第五百九十一条)」
こののち、この収公地は長崎思元入道が拝領し、当地代官に打ち渡されたが、その地について相馬重胤が異議を唱えて問注所へ訴えると、思元側がそれに激しく反論するという泥沼の訴訟となった。
●「相馬重胤申状案」(『相馬文書』)
両者の言い分は真っ向から対立しており、打渡の時期から該当村の名称、内容まで悉く異なるという異常なものであった。
●元亨元年訴訟分の該当地等
| 訴人 | 相馬孫五郎重胤→長崎三郎左衛門入道思元 | 長崎三郎左衛門入道思元→小高孫五郎重胤 |
| 相論該当地 | 行方郡高村(自高河北)田在家三分一 | 行方郡北田村 |
| 申状提出 | 元亨元(1321)年12月17日 ※賦奉行中原政有により引付送達 ・担当の引付頭人は赤橋守時 |
元亨2(1322)年 ※元亨2(1322)年閏5月4日の召状を受けて 申状提出) |
| 思元拝領日 | 不明 | 元応2(1320)年(?)12月17日 |
| 打渡を命じる 「御教書」 |
不明 | 元応2(1320)年(?)12月25日 奉行:塩飽新右近入道聖遠 両使:結城上野前司宗広、岩城次郎今者出家 |
| 主張する打渡月日 | 元亨元(1321)年10月 | 元亨元(1321)年10月の可能性もある |
| 騒擾 | 不明 | 元亨元(1321)年10月に重胤による押領 |
| 打渡当時の 重胤居住地 |
下総国相馬郡居住 | 「小高」孫五郎重胤とあるので、奥州小高か |
| 騒擾の内容 | 元亨元(1321)年10月、岩城二郎、結城上野前司による師胤領(太田村)の三分一の打渡が実行されたが、その際に関係のない重胤領の高村のうち太田川北岸(北田村)にある田在家三分の一も収公され打ち渡された。 打渡の時、重胤は当時下総国相馬郡に居住しており、岩城二郎・結城宗広は思元に引汲して、重胤が不在の高村(自高河北)田在家三分一を思元に付与した。 |
重胤が雅意に任せて、「北田村」に「以数多人勢押入」作物を刈り取り、民家を破壊した。重胤はただちに押領を止め、取った作物を糾返すべきである。 |
重胤の申状では、元亨元(1322)年10月、両使の岩城二郎と結城上野前司が「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一」を長崎思元へ打ち渡した(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)際に、「(岩城カ)等令引汲思元」し、重胤の知行である「陸奥国行方郡高村自高河北田在家」のうち「三分一分付思元」して打ち渡したことは「(希代之カ)所行也」と述べ、「然早被召決、被停止非分押領」を訴えている(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)。
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| 「高村自高河北」と「北田村」 |
この重胤申状は、元亨元(1322)年12月17日に正式に受理され、賦奉行壱岐前司中原政有が申状を引付頭人赤橋武蔵守守時へ引き渡している(元享元年十二月十七日「相馬重胤申状案」『相馬文書』)。この申状には重胤が譲られた下知状から案文が作成され、高村継承の証拠として副進されたようである。
なお、同申状で重胤は「今年元亨元十月打渡之刻」には「重胤以下総国相馬郡居住」であったとわざわざ述べているが、これは「記す必要」があったために記載しているのだろう。おそらく、後述の思元入道の陳状を想定し、元亨元(1321)年10月当時は小高村にいなかったと主張しておく必要があったためだろう。
この重胤の申状に対し、引付頭人「武蔵守(赤橋守時)」は元享2(1322)年閏5月4日、「相馬孫五郎重胤申、陸奥■■(国高)村田在家事」につき、被告の「長崎三郎左衛門入道」に対して「早速可被参対」の召状を遣わして陳弁を命じた(元亨二年閏五月四日「関東御教書」『相馬文書』)。この召状に応じた長崎思元入道は、代理人良信をして陳状を提出して論陣を張った。
長崎思元入道は、訴訟代理人の良信を通じて、逆に「小高孫五郎重胤」が元亨元(1321)年10月、「奥州行方郡内北田村等」に「任雅意」て「以数多人勢押入■■(押取カ)作毛、追捕民屋、致押妨狼藉」を行ったと主張。「■■(急速無御カ)炳誡者、遠所奸謀之狼藉不可断絶」とその抑留物の糺返と狼藉罪科を求めて重胤を訴えた(元亨二年某月「長崎思元代良信申状」『相馬文書』)。
両者の主張で食い違っているのは、係争地が、重胤は「行方郡高村自高河北田在家三分一」である一方で、長崎入道思元は「行方郡北田村」という点である。高村は現在の南相馬市原町区高であるが、現在も「高河(太田川)」によって分断されている。当時の「高村」も重胤の訴状から高川を挟んで二分されていたと推測される。
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| 太田村から高村方面を望む (中央の林は太田神社) |
相馬五郎左衛門尉師胤が罪科によって収公され、長崎思元が拝領したのは「一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、又同郡吉名村土貢四十貫文、先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之」(『相馬一族闕所地置文案』)とあるように「大田村(南相馬市原町区下太田付近)」と「吉名村(南相馬市小高区吉名)」であった。吉名村は高村から相当南に離れていることからこの相論からは除外される。太田村は高川(現在の太田川)北の高村(南相馬市原町区高)と接しており、高村北部が係争地であったことは間違いない。この「高村自高河北」は、同様に三分の一が収公された太田村と西接しており、他三方は大三賀村・院内村(相馬胤康領)、目々澤村(重胤領)に囲まれていることから、ほかに想定地はなく、重胤の言う「高村自高河北」と長崎思元の言う「北田村」は同じ場所を指していることがわかる。「薩摩 粟野」が二村でありながら一括りにされているのと同様に「北田 高村」も二村ながら高村に属している村と扱われる曖昧な呼称であったのだろう。岩城二郎と結城宗広の両使は、高村北岸=北田村として打ち渡したと推測される。
●『相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分』(『相馬文書』)
重胤の申状は、高村の相伝状況を証明する下知状案を副えることで、高村継承の正統性を前面に出して「高村自高河北」への打渡は無効と主張したのに対し、思元はひとことも「高村」とは述べず、師胤領である「北田村」の三分一を知行する正統性を、明確な日付、奉行名、諸下文を以て証明しようとし、さらに重胤の押領を批判し、押し取った稲を返還するよう糾弾する。
重胤の申状、思元の陳状から見えてくるこの事件の実態は、相馬五郎左衛門尉師胤の罪科による「所領三分一」は、元応2(1320)年12月17日に長崎思元が拝領した。その八日後の12月25日、打渡の御教書が御恩方奉行の塩飽新右近入道聖遠を通じて、使節遵行の両使に選ばれた結城上野前司宗広と岩城次郎のもとへ下された。両使の「岩城二郎今者出家(岩城次郎入道願真か)」は陸奥国岩城郡八立村(いわき市久之浜町波立)、「結城上野前司(結城宗広)」は陸奥国白河郡内(白河市金屋町)の在所にいたとみられ、いずれも得宗被官の御家人であった。内管領長崎高資の支族の長崎思元入道とは旧知であったろう。とくに結城宗広は津軽田舎郡の河辺郷、桜庭郷ほか各地の得宗領地頭代となっていた(「結城宗広知行得宗領注文」『伊勢結城文書』)。
打渡の下知状が下されたのち、しばらく打渡は実行されていないようであるが、厳冬期によるものか、代官の手配などによる問題か、その他何らかの理由による打渡の延期があったと想定される。実際に打渡が行われたのは元亨元(1321)年10月で、使節遵行され打ち渡しが実行されようとしたのだろう。
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| 小高城跡 |
長崎思元入道が「北田村」を拝領してから打渡までの期間は約10か月程あり、その間に鎌倉もしくは相馬郡増尾村に在所していた重胤は、思元に打ち渡される師胤跡の「北田村」であることを知り、知行する高村に含まれる「高村自高河北」と同意である北田村の打渡を阻止・妨害するべく、行方郡小高村に下向したのであろう。このことから、『奥相秘鑑』による重胤の奥州下向譚の下向時期元亨3(1323)年はあくまでも伝承と見るべきだろう。そして打渡が行われようとした矢先に、「小高孫五郎重胤」は「去年元亨元十月、以数多人勢押入、■■(押取カ)作毛、追捕民屋、致横押妨狼藉之條、(希代之)所行也」(元亨二年某月「長崎思元代良信申状」『相馬文書』)という狼藉を働いて妨害したのであろう。このときに重胤が刈り取った稲は、思元側が「(於抑留物者)任員数被糺返」事を求めている。
この一連の騒動は、師胤領収公後の闕所の取扱い方にも原因があった可能性が考えられる。当時の慣習としては同族の闕所地は同族に帰するというものがあったが、師胤跡についてはそれが履行されずに、得宗被官が拝領することとなった。これも重胤が不満を募らせた一因ではなかろうか。
●『吾妻鏡』建暦3(1213)年3月25日条
この相論の判決は伝わっていないが、建武2(1335)年11月25日の重胤の「しそく次郎(親胤)」への譲状の中で「たか」村が含まれていることや、「長崎三郎左衛門入道拝領之」の地は「行方郡大田村土貢六十貫文」「吉名村土貢四十貫文」(「相馬一族闕所地置文案」『相馬文書』)であることが記されていることから、結果として高村(および北田村)は重胤の所領として認められたと想像される。
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| 太田の相馬孫五郎重胤の碑 |
重胤が一族を率いて下総から奥州へ移ったのは『奥相秘鑑』によれば、元享3(1323)年4月21日のこととされ、下総国流山(流山市)から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神を行方郡太田村(南相馬市原町区中太田)に勧進し、太田村の三浦左近国清の館(現在の相馬太田神社)に入ったとされている(『奥相秘鑑』)。
重胤が奉じたとする三鳳輦の出立地「下総流山(葛飾郡)」は、重胤が知行した下総国相馬郡内の土地とは遠く離れており、伝承の域を出ない。「妙見」は当時すでに千葉一族が篤く崇敬しており、重胤の奥州下向時に奉戴した可能性は高い。「鷲宮」は将門信仰に基づいた関東からの勧請と思われるが、重胤代に移されたかどうかは疑問(相馬氏領内に将門を直接的に祀る神社は中村神社の国王神社のみ)。「塩釜」は陸奥国一宮「鹽竈神社」であることから高城保からの勧請だろう。
なお、『奥相秘鑑』で下向先とされる太田村は、当時相馬惣領家の相馬五郎左衛門尉師胤が三分の二(三分の一は罪科により収公され前述のように、長崎思元が拝領)を知行している土地であり、史実として重胤が当地に下向することは考えにくい。また、実際に重胤が「小高」に移住したのは、前述のとおり元亨元(1321)年10月以前と考えられることから、太田の地に入ったとされるのはおそらく伝承である。
『奥相秘鑑』は、下記のようにさまざまな箇所で誤記が目立つことも注意すべき点である。
| 「岡田小次郎胤盛」が重胤の下向に従ったとある。 | 胤盛は正和4(1315)年~元応2(1320)年の間で没しているため虚構となる。また、当時の岡田氏はまだ「岡田」を称していない。また、胤盛は重胤に従属する立場にはない。 |
| 「備中守」「伊予守」「豊前守」などを名乗る人物が従っている。 | 鎌倉期は御成敗式目にも定められている通り、自由任官はない。重胤は相馬家の庶流で無位無官の立場にある中で、御家人被官が受領となることは考えにくい。 |
| 「相馬孫次郎行胤」が鎌倉で北畠顕家の軍と戦って戦死した。 | 相馬行胤は北畠顕家が京都へ上洛した後を追撃する重胤とともに関東に下るが、重胤の命によって小高に返され、その後も活躍している。 |
| 室町中期の岡田氏・大悲山氏の養子縁組が混乱して記されている。 | 大悲山氏と岡田氏を取り違えている。 |
このように『奥相秘鑑』は重要な部分の誤記が目立ち、重胤の下向譚は時期や内容はあくまでも「伝承」として捉えるべきであろう。
●奥州下向に従ったとされる武士(総勢八十三騎)
岡田小次郎胤盛・泉五郎胤康・堀内掃部頭常清・伊奈五郎有村・木幡周防守範清・木幡蔵人盛兼・木幡紀伊守胤清・木幡三郎左衛門定清・木幡四郎左衛門兼清・須江備中守時胤・青田孫左衛門祐胤・茅原越中守・猿島豊前守・牛来玄蕃允・北氏・般若氏・遠藤氏・今野氏・薩間氏・筒戸氏・増尾氏・岡部氏・伏見氏・他六十騎
重胤が下向した具体的な年代については不明ながら、長崎思元入道との相論のあった元亨元(1321)年以前であるのは確実であろう。重胤の妻は陸奥国田村郡三春の田村三河前司入道宗猷の養女・藤原氏女であることから、重胤の奥州下向以降の婚姻とも思われる。当然鎌倉での婚姻も十分に考えられるため、重胤下向時期を想定する材料にはなりえないが、奥州田村郡に拠点を持つ田村氏から妻を娶っていることから、婚姻当時にはすでに奥州を本拠としていた、または意向を固めていたと見ることはできよう。
この重胤の妻と見られる女性は、元弘3(1333)年6月5日当時「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とあるように、田村郡七草木村の地頭職であったことがわかる(「田村宗猷女子藤原氏女代超円着到状」『相馬文書』)。
重胤と田村氏との間に生まれたとみられる嫡男・親胤の生年は未詳ながら、
| (1) | 元弘3(1333)年12月、重胤代として鎮守府に参じ、国司北畠顕家から所領安堵をうけた際には「孫次郎」と称しており、この時点で元服を済ませている。 |
| (2) | 建武3(1336)年5月当時、親胤の子・松鶴丸(胤頼)がすでに生まれており、当時親胤はすでに婚姻していた。 ※建武2(1335)年11月の重胤譲状を見ると、親胤には子がない書き方をなされており、胤頼は当時生まれていない可能性もあろう。 |
以上のことから、親胤は延慶3(1310)年ごろの誕生となろうか。重胤の動向については嘉元元(1303)年12月から元享元(1321)年10月まで不明であることから、その間に移り住んだと思われる。
余談だが、重胤と同時代の元応2(1320)年6月25日の『関東下知状』(『小野文書』:『我孫子市史』所収)には、出雲国大野庄内和田垣助宗守延名田畠についての相論で「相馬八郎次郎胤時」の名を見ることができる。この相馬胤時はいかなる人物か不明だが、相馬一族には間違いないだろう。大野庄は得宗領であることから、元弘津軽の乱にみられる「相馬入道子息法師丸」のように御内人として得宗領地頭代として派遣されていた相馬氏と考えられる。
鎌倉中期、後嵯峨上皇が子の後深草天皇に譲位するも、その皇嗣には弟宮・恒仁親王を定めて皇位を譲らせた(亀山天皇)。さらにその後、後嵯峨上皇は後深草上皇に皇子(熈仁親王:のちの伏見天皇)が生まれたにもかかわらず、亀山天皇の皇子(世仁親王:後宇多天皇)を皇儲と定めてしまう。そして、その後の皇嗣については関東の意向を聞いて決定すべきことを定めて崩御する。
この後嵯峨上皇の決定を受けて、やむなく関東はその後、後深草天皇の皇統(持明院統)と亀山天皇の皇統(大覚寺統)が交互に皇位に就くよう仲裁措置を執り行うこととなる(両統迭立)。そして、文保2(1318)年2月26日、大覚寺統の後宇多上皇の第二皇子・尊治親王が甥・邦良親王(後二条天皇皇子)が皇位に就くまでの中継ぎとして践祚した(後醍醐天皇)。ところが、後醍醐天皇は皇太子邦良親王に譲位せず、元亨4(1324)年9月10日、「天皇、陰図除北条氏、引日野資朝、日野俊基等数人、書策竊募諸国武士」(『大日本編年史』)ったが、この情報は六波羅奉行人の齋藤太郎左衛門尉利行が何らかの伝手を以て六波羅探題に報告。日野資朝らによる要請を請けて入京していた御家人「土岐伯耆十郎、多治見四郎二郎等」は、9月19日に討ち取られたという。六波羅勢は「土岐伯耆前司宿所唐笠辻子被押寄候」(元亨四年九月廿六「結城宗広書状」『藤島神社所蔵文書』)とあるように、京都唐笠辻子の土岐伯耆前司邸を攻めたようであるが、当人は帰国中であり、留守人一名が連行されたという。この「陰図」に対しては、六波羅が管轄する畿内御家人を召集しており「和泉国御家人和田修理亮助家」は9月22日に京都に到着している(元亨四年十月三日「和田助家着到状」『和田文書』)。
■元亨4(1324)年9月26日『結城宗広書状』(『藤島神社所蔵文書』)
■元亨4(1324)年11月1日『花園天皇御宸記』
■元亨4(1324)年10月3日「和田助家着到状」(『和田文書』)
10月1日、騒擾を起こした容疑で、日野資朝と日野俊基は六波羅探題によって「拘執」され、10月4日に「或説云、資朝卿有白状子細云々」(『後光明照院関白記』元亨四年十月一日条)し、「護送還鎌倉」させられるが、翌正中2(1325)年閏正月1日、京都に伝わった長崎円喜の言として「関東糾明日野資朝、俊基陰謀無実、因流資朝、逐僧祐雅」といい、日野資朝は佐渡国への配流となったものの、日野俊基は無実とされ帰洛となった(正中の変)。
この一連の計画に皇太子邦良親王側は激しく反発し、後醍醐天皇の譲位について関東に要請するも後醍醐天皇もまた関東に様々釈明して皇位を譲らないまま、正中3(1326)年3月20日、邦良親王が薨御する。その跡を受けた皇太子は、持明院統の後伏見院の皇子量仁親王(のちの光厳天皇)が関東の支持を得て7月24日に立太子した。これにより、皇子尊良親王を推していた後醍醐天皇は反発を強めることとなる。
そして元徳2(1330)年4月、再度の北条氏追討計画が発覚する。後醍醐天皇の乳父の従一位吉田定房による六波羅探題への密告であった。4月29日、六波羅から鎌倉へ一報が届くとただちに評定が開かれ、5月5日には長崎孫四郎左衛門尉泰光と南条次郎左衛門尉宗直の両名が首謀者とされた日野俊基らを追捕する使節として鎌倉を発向して上洛。俊基を捕縛して関東へ召し連れている。
元徳3(1331)年8月9日、後醍醐天皇は突如改元の詔を発し、元号を「元徳」から「元弘」へと改めた。この詔書は「大外記之注進関東之處、有詔書無改元記、仍関東不用新暦、用元徳暦」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)とあり、なぜか関東への詔書には改元の記載がなく、関東ではそのまま元徳を用いた。勘文は文章博士在淳の「康安、天統、安永」、文章博士在成の「嘉慶、慶長、寧長」に「可然字無」ということで、元徳改元の際の勘文の一つ嘉暦4(1329)年8月の式部大輔在登の勘文が再度検討され、『芸文類聚』から採用された「元弘」が選ばれることとなった。
このような中、後醍醐天皇は前天台座主「大塔の二品法親王尊雲(のちの護良親王)」ならびに天台座主「妙法院の法親王尊澄(のちの宗良親王)」両皇子の影響力のもと、延暦寺に働きかけ、水面下で密かに叡山行幸とともに反関東へと動き始めた。これに延暦寺も「御門の御軍にくはゝるべきよし奏し」たという(『増鏡』)。ところが、こうした動きはすでに「武家にもはやうもれ聞」えており、六波羅から関東へ軍勢派遣の要請が遣わされたとみられる。
8月21日には「東使三千余騎ニテ二階堂下野判官、長井遠江守上洛ス」(『神明鏡』)という。そして、六波羅探題は「さにこそあなれとようゐす、まづ九重をきびしくかため申べし」(『増鏡』)と、8月24日に内裏を固めるべく軍勢を催したのであった。
このとき後醍醐天皇は雑務日で記録所に臨席し「人のあらそひうれふる事どもををこなひくらさせ給ひて、人々もまかで君も本殿にしばしうちやすませ給」(『増鏡』)と、公卿らとともに訴訟を処理し終えて本殿へ戻って休んでいたが、密かに「今夜すてに武士ともきほひまいるへし」(『増鏡』)という報告があったことから、「内侍所、神璽、宝剣」のみを持って、深夜子刻に慌てて内裏(二条富小路内裏)の北の対から貧相な女車に乗って南都へ向けて密幸した。本来の計画では、六波羅を攻めると同時に天皇は延暦寺へ行幸することとなっており、前座主尊雲法親王、祇園妙法院に居住する現座主尊澄法親王は、「坂本(西坂本)」で叡山の僧兵を具して天皇の警衛を行うと定められていたが、俄に計画が変更となってしまった。知らせを受けた「中務の宮(中務卿宮尊良親王)」も馬に跨り父帝を追った。後醍醐天皇は九条までは御車で逃れたが、ここで車を降りて変装し馬上となって一路東大寺へと駆けた(『増鏡』)。同道の公卿は「万里小路中納言藤房、源中納言具行、四条中納言隆資」(『増鏡』)であったという。そのほか、「按察使公敏」(『続史愚抄』)、「六条中将」「近藤左衛門尉宗光、但馬左衛門尉重定等ヲ始トシテ、御供ノ官兵五百余騎」(『笠置寺縁起』)が供奉した。
翌25日子の刻、天皇已下は東大寺へ入り、26日暁に「和束(相良郡和束町)」の「鷲峯寺」へ移り、翌27日に「笠置寺へ御入」(『嘉元記』)して「以本堂為皇居」した(『大乗院日記目録』)。笠置寺(京都府相楽郡笠置町)への行幸には「其外東南院僧正聖尋、御先達タル間、東大寺ノ衆徒、警固シ奉」ったという(『笠置寺縁起』)。
天皇の延暦寺への密幸情報は神五左衛門尉(御内人諏訪氏だろう)によって六波羅へ伝えられ、六波羅探題は「所被申入実否、於西園寺家也」(『伊勢光明寺残篇』)と、春宮大夫公宗にその実否確認が依頼されている。その後、御所には「六波羅軍勢乱入禁裏、而依無御座空引退」(『続史愚抄』)という。
一方、延暦寺行幸計画自体も、側臣の花山院大納言師賢が天皇になりすまして実行されている。これは「抑今夜於無山門行幸者、僧徒等可失望」というためで、そのほか天皇逃亡の時間稼ぎであろう。師賢は「仮詭帝号登山」し「僧徒懇伝之致防御之備」(『続史愚抄』)であった。六波羅探題も北方の越後守仲時(使者は高橋孫五郎)、南方の左近将監時益(使者は糟屋孫八)から鎌倉に「主上御座山門之由、被聞食之旨」を遣わしており、六波羅は師賢の偽計に乗せられていたことがわかる。師賢の祖母は後醍醐天皇生母・談天門院忠子の姉妹であり、父方においても遠縁にあたることから、容姿に似ている部分があったのかもしれない。
北条時政―+―北条義時――――+―北条泰時―――北条時氏――――北条時頼―――――北条時宗―――北条貞時――北条高時
(遠江守) |(陸奥守) |(左京権大夫)(修理亮) (相模守) (相模守) (相模守) (相模守)
| |
| +―北条重時―――北条業時
| (陸奥守) (陸奥守)
| ∥ 【六波羅北方】
| ∥―――――――北条時兼―――――北条基時―――北条仲時
+―北条政村――――+――――――――女子 (尾張守) (相模守) (越後守)
(左京権大夫) |
|
+――――――――――――――――北条政長
(駿河守)
∥ 【六波羅南方】
大江広元―+―長井時広――+―――長井泰秀 ∥――――――――北条時敦―――北条時益
(陸奥守) |(左衛門尉) | (甲斐守) ∥ (越後守) (左近将監)
| | ∥ ∥
| | ∥――――――長井時秀――+―女子
| | ∥ (宮内権大輔)|
| | ∥ |
| 佐々木信綱―|―+―女子 +―長井宗秀―――――長井貞秀―――長井貞懐
|(近江守) | | (掃部頭) (中務少輔) (大蔵少輔)
| | |
| | +―佐々木泰綱――佐々木頼綱―――佐々木時信
| | |(壱岐守) (備中守) (三郎判官大夫)
| | |
| | +―佐々木氏信――佐々木満信―――佐々木宗氏――――佐々木高氏
| | (近江守) (佐渡守) (三郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
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| +―――長井泰重―――長井頼重――――長井貞重―――――長井高広
| (因幡守) (因幡守) (縫殿頭) (左近大夫)
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+―海東忠成――――――海東忠茂―――海東広茂――――海東広房
(刑部少輔) (美濃守) (因幡守) (左近将監)
また、京都では8月25日、「万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資卿、別当右衛門督実世卿以上四人被召捕之」(『伊勢光明寺残篇』)となり、宣房卿は「因幡左衛門大夫将監」、公明卿は「波多野上野前司」、成資卿は「丹後前司」、実世卿は「筑後前司」への預かりとなっている。
8月27日、六波羅の命を受けた「佐々木大夫判官、海東備前左近大夫、波多野上野前司」が近江国の東坂本に、「長井左近大夫将監、加賀前司」が京都西坂本に、「常陸前司」が近江勢多にそれぞれ布陣し、比叡山を攻める準備を整えた(『伊勢光明寺残篇』)。
●比叡山攻めの布陣
| 東坂本(近江) | 佐々木大夫判官 | 海東備前左近大夫 |
波多野上野前司 |
| 西坂本(京都) | 長井左近大夫将監 | 加賀前司 | |
| 勢多(近江) | 常陸前司 |
また「両上皇并春宮、自持明院殿、御幸六波羅殿、臨幸御路武士供奉、以南方為御所」(『公卿補任』)という。「両上皇」とは後伏見上皇、花園上皇の兄弟上皇を指し、「春宮」は後伏見上皇の皇子・量仁親王のことである。翌28日の近江国東坂本での合戦では「源時信家僕并海道一類戦死」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)、「海東備前左近大夫将監、其後十七騎於東坂下致合戦、主従十三騎打死了、佐々木大夫判官、波多野上野前司、山徒之首二被取進之間、被懸于六条河原了」(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)とあるように、六波羅勢は佐々木時信の郎従や海東備前守自身の討死など苦戦した。
この日は「大納言(師賢)」も「大塔の前座主の宮(尊雲法親王)」も「うるハしきものゝふすがたにいてたゝせ給ふ」と武装しており、「大塔の前座主の宮」は「卯花をどしの鎧にくハがたのかぶとたてまつりて、大矢おひ」、「大納言」は「からの香染のうす物のかりぎぬにけちえんにあかきはらまきをすかして、さすかにまきゑのほそ太刀」を佩いたいでたち、一方、現座主の「妙法院の宮(尊澄法親王)」は「すすしの御衣のしたにもえぎの御腹巻とかやき給」っていた(『増鏡』)。ところが、叡山衆徒等の間に「御門かさぎにおはしますよし、ほどなく聞えぬれ」ば、両宮は笠置へと逃れ去り、師賢は京都へ忍び入ろうと試みるも断念し笠置山へと向かっている(『増鏡』)。しかし、その途次の山城国寺田郷で地頭代野辺若熊丸によって召し捕らえられ「進武家」(『公卿補任』)られ、六波羅へ引き渡されたとみられる。8月29日に出家(法名素貞)を遂げたとあることから(『公卿補任』)、この日の捕縛か。
8月29日、六波羅探題が派遣した両使(北:高橋孫五郎、南:糟屋孫八)が鎌倉に到着。「任承久例、可上洛之由被仰渡出」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)され、軍勢の編成がなされたと思われる。なお、このときの交名では「元弘元年八月」としているが、その後出された御教書では、「元徳三年九月」としている。その軍勢の編成は不明だが、承久の例に則ったとすれば東海道、東山道、北陸道の三手からの上洛であったか。承久の乱当時の大将軍だった家柄の人々の末裔はほぼ今回の出兵についても大将軍を務めていることがわかる。
●元弘元年八月「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』32136)
| 【元弘の変】大将軍 | 【承久の乱】(元弘時の祖) |
| 陸奥守(大仏貞直) 遠江国 | 【大将軍】北条相模守時房 |
| 武蔵右馬助(金澤貞冬) 伊勢国 | ・北条五郎実泰〔先鋒〕 |
| 遠江守(名越宗教入道) 尾張国 | 【大将軍】北条式部丞朝時 |
| 武武蔵左近大夫将監(金澤時顕) 美濃国 | ・北条五郎実泰〔先鋒〕 |
| 駿河左近大夫将監(伊具時邦) 讃岐国 | ・北条陸奥六郎有時〔先鋒〕 |
| 足利宮内大輔(足利高氏) 三河国 | 【大将軍】足利武蔵前司義氏 |
| 足利上総三郎(吉良貞家) | 【大将軍】足利武蔵前司義氏 |
| 千葉介(千葉介貞胤)一族并伊賀国 | 【大将軍】千葉介胤綱 |
| 長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国 | |
| 宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国 | ・宇都宮頼綱入道蓮生〔鎌倉留守〕 |
| 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 備前国 | 【大将軍】佐々木太郎信実 |
| 小笠原五郎(小笠原頼久) 阿波国 | |
| 越衆御手 信濃国 | |
| 小山大夫判官(小山高朝) 一族 | 【大将軍】小山左衛門尉朝長 (長村?) |
| 小田尾張権守(小田高知) 一族 | ・筑後入道〔鎌倉留守〕 |
| 結城七郎左衛門尉(結城朝高) 一族 | 【大将軍】結城七郎朝広 |
| 武田三郎(武田信武) 一族并甲斐国 | 【大将軍】武田五郎信光 |
| 小笠原信濃入道(小笠原宗長入道) 一族 | 【大将軍】小笠原次郎長清 |
| 伊東大和入道 一族 | |
| 宇佐美摂津前司 一族 | |
| 薩摩常陸前司 一族 | |
| 安保左衛門入道 一族 | |
| 渋谷遠江権守(澁谷重光) 一族 | |
| 河越参河入道(河越貞重入道) 一族 | |
| 三浦若狭判官(三浦時明) | 【大将軍】三浦駿河前司義村 |
| 高坂出羽権守 | |
| 佐々木隠岐前司(佐々木清高) 一族 | |
| 同備中前司(大原時重) | |
| 千葉太郎(千葉胤貞) | 【大将軍】千葉介胤綱 |
| 勢多橋警護 | |
| 佐々木近江前司 (京極貞氏?) | |
| 同佐渡大夫判官入道(京極高氏入道) |
9月5日には「鎌倉家御教書(関東御教書)」として「先帝(後醍醐天皇)」の叡山遷幸に対してこれを「可防申之旨已被下 院宣」により、延暦寺衆徒の対治のため「貞直、貞冬、高氏」の派遣を「西園寺家(西園寺権大納言公宗)」に申し入れるよう六波羅の南北両探題に指示がなされた(『伊勢光明寺残篇』)。この御教書では在京して守備する人々などの交名を示している。
●元徳三年九月五日被成御教書人々(断簡)
| 暫可在京の二十人 | 武蔵左近大夫将監(金澤時顕) | 遠江入道(名越宗教入道) |
| 江馬越前権守(江馬時見) | 遠江前司(名越貞家?) | |
| 千葉介(千葉介貞胤) | 小山判官(小山高朝) | |
| 河越三河入道(河越貞重入道) | 結城七郎左衛門尉(結城朝高) | |
| 長沼駿河権守(長沼秀行) | 佐々木隠岐前司(佐々木清高) | |
| 千葉大郎(千葉胤貞) | 佐々木近江前司(六角時信) | |
| 小田尾張権守(小田高知) | 佐々木備中前司(大原時重) | |
| 土岐伯耆入道(土岐頼貞入道) | 小笠原又五郎(彦五郎貞宗?) | |
| 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) | 狩野介入道 | |
| 佐々木佐渡大夫判官入道(京極高氏入道) | 讃岐国守護代 駿河八郎 | |
| 不明 〔以下闕〕 |
嶋津上総入道(島津貞久入道) | 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) |
六波羅探題は9月1日、笠置山攻めの兵を派遣し、同日六波羅勢は宇治平等院に着到。翌2日、「笠置城責之七万五千騎」(『大乗院日記目録』「大日本史料」)という。
一方、すでに比叡山は陥落していたが関東にその知らせは届いておらず、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利前治部大輔高氏の四名が大将軍に任じられて9月5日から7日にかけて鎌倉を出立した。その総勢は公称二十万八千騎。得宗高時入道の御内御使として長崎四郎左衛門尉高貞が付属(目付的な従軍か)され、関東両使として秋田城介高景、二階堂出羽入道道蘊(この両名は践祚立坊の事のための使者)が同道した。ところが、大将軍のひとり、足利高氏の出陣前後の9月5日、高氏父「足利讃岐入道殿逝去」(『常楽記』では6日とあるが、諸書・系譜では9月5日)という事件が起こってしまう。後日、9月19日に近江国柏木宿に到着した大将軍は陸奥守貞直と右馬助貞冬の両名のみであることから、高氏の出立は父の服喪で数日間延引されたと考えられよう。高氏は9月27日には京都にいることから、約七日間の延引とすれば初七日の法要後の出陣であった可能性が高いだろう。なお、鎌倉出兵の期日については、『太平記』では9月20日となっており公称「二十万八千六百余騎」である(『太平記』)。このとき「侍」として「相馬右衛門次郎」が見えるが、該当者は不明。
●元弘元(1331)年9月20日征西御家人(『太平記』)
| 将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
| 赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
| 名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏 | ||
| 侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
| 侍 | 三浦介入道 | 武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
| 氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
| 梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
| 南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
| 宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉 | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
| 大内山城前司 | 長井治部少輔 | 長井備前太郎 | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
| 下総入道 | 山城左衛門大夫 | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
| 高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
9月10日前後には「楠木兵衛正成」が「河内国にをのがたちのあたりをいかめしくしたゝめ」(『増鏡』)て挙兵した。城塞というよりは自舘西側の高台を城郭化(下赤坂城)し、柵や逆茂木を設けて防御した程度のものであろう。その挙兵の知らせはすぐに六波羅へ届けられたと思われ、河内国、和泉国など周辺国の御家人がその追討に動員されたとみられる。「和泉国御家人和田修理亮助家代子息助康」が六波羅へ申請した内容によれば、和田助家(大鳥郡和田郷(堺市南区美木多)の御家人。なお、楠木氏流和田家は和田郷南部(堺市南区和田)に勢力を持っていたか)は9月14日から10月20日にかけて「楠木城」において不惜身命の働きを見せ、9月20日以降に上洛した「大将軍武蔵馬助殿」の「御代官酒匂宮内左衛門尉」や「当国守護御代官」の成田又四郎入道、籾井彦五郎とともに戦ったという(『和田文書』「大日本史料」)。なお、「楠兵衛尉」はすでに元徳3(1331)年2月25日以前に、故世良親王(後醍醐天皇皇子)の遺領(臨川寺の前身寺院に寄進されていた)である「和泉国若松庄」を「押妨(楠木氏は河内から和泉、紀伊北部にかけての生駒山系山麓に広大な支配領域を持ち、熊野神官など熊野権現に所縁を持つ出自の一族とみられる。御内人出身とされる説も存在するが、河内楠木氏の一族の頒布の広さは、地頭職や代官として管理を任されていたとは到底考えられず、信仰による広がりであろう。熊野の人々との協力関係からも、樟信仰のある熊野権現を由緒とする一族とみて間違いないだろう。楠木宗家に近い和田氏は若松庄に隣接する大鳥郡和田を本貫としており、楠木正成は世良親王または前領家の昭慶門院被官で同地荘官を務めていたか。彼は対立相手から「押妨」「悪党」と呼称されている。)」しており(「故大宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録」『鎌倉遺文』31771『天龍寺文書』)、後醍醐天皇との結びつきが見られるのである。なお、楠木正成はこのとき「兵衛尉」に任官していた武官でもあった。
9月18日戌刻、践祚および立坊に関する「東使秋田城介殿、二階堂出羽入道殿、京着自路次六波羅北方被参、即南方仁御入」した(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)。20日、土御門東洞院殿で践祚の儀が執り行われた。光厳天皇である。9月22日、後二条院の嫡孫にあたる康仁親王を東宮とした(『歴代皇紀』)。持明院統の光厳天皇の東宮を大覚寺統の康仁親王としており、事ここに及んでも関東は両統迭立の原則を守ろうとしていたことがわかる。光厳天皇践祚により後醍醐天皇は上皇となった。
践祚前日の9月19日には、大将軍「武蔵右馬助殿」が「江州柏木宿宇治仁着」という(『伊勢光明寺残篇』)。ただし、翌20日には「陸奥守殿御京着、武蔵右馬助殿、自柏木御発向宇治」(『伊勢光明寺残篇』)とあることから、19日に近江国柏木宿には陸奥守貞直と右馬助貞冬の両将軍が到着していたとみられる。両者は柏木宿で二手に分かれ、総大将の陸奥守貞直は直接入洛(山科経由での入洛であろう)して践祚および六波羅との折衝に当たり、右馬助貞冬は柏木宿から南下して勢多を経て宇治田原を経由し、笠置勢の牽制をしつつ宇治に入っている。そして9月25日に宇治を発って賀茂へ向かった(『伊勢光明寺残篇』)。また、河内国の楠木左兵衛尉正成らの挙兵に対して、「大将軍武蔵馬助殿」の「御代官酒匂宮内左衛門尉」や「右馬助殿家人宗像四郎」が参戦していることから、貞冬の代官・酒匂宮内左衛門尉率いる一手が宇治から河内国に派遣されたと考えられる。
9月26日、「陸奥守殿、長崎四郎左衛門尉殿」が笠置山へ向けて京都を進発した(『伊勢光明寺残篇』)。ただし、9月27日に「貞直、貞冬、高氏等、発向笠置城」(『元弘日記裏書』)ともあり、26日から27日にかけての進発であったのだろう。なお、足利高氏は進発直前の9月5日に父貞氏入道を喪い、その初七日を経ての進発であったと思われることから、高氏入洛(25日、26日あたりか)と同時に陸奥守貞直と長崎四郎左衛門尉が進発し、翌日に貞冬、高氏の進発となっていたのかもしれない。
9月28日には長崎四郎左衛門尉勢の「椙原一族、栖山一族、小宮山一族等」が先陣となって笠置山を攻め(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)、「放火城槨」し「奉追落先帝了」と、たちまち笠置山を攻め落としている。後醍醐上皇は「御歩行令出城給、於路次奉迎」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、後醍醐上皇は囚われの身となり、座主尊澄法親王や同道の「源中納言具行、宰相成輔、中納言藤房、大進季房」もともに連行された。なお、前座主宮尊雲法親王や中納言隆資は逃亡して行方をくらましている。
元弘元(1331)年10月3日、陸奥守貞直らは後醍醐上皇以下を六波羅南方へ入れて皇居とした(『伊勢光明寺残篇』)。また、同日には、右馬助貞冬の家人、宗像四郎が「楠城」に拠っていた先帝一宮尊良親王を「奉捕」っている(『伊勢光明寺残篇』)。こうして畿内における後醍醐上皇による騒擾は鎮定され、10月5日、新帝光厳のもとで初めての除目が行われた。そして翌10月6日、六波羅南方において剣璽が引き渡され、土御門東洞院御所へと遷された(『本朝皇胤紹運録』)。ところが「帝并中書王、妙法院宮等武士等都不奉見所知之間、有不審、被差遣可然之仁可奉見云々」(『光厳院御記裏書』)と、武士等は誰一人後醍醐上皇、中務卿尊良親王、座主宮尊澄法親王の顔を知らず、偽者である可能性も捨てきれなかったため、上皇らを見知る「然るべき仁」に面通しさせてその実否を確認するために、尊良親王、尊澄法親王と従兄弟にあたる二条為定と西園寺公宗のいずれかの招聘を議し、結果として公宗に依頼することとなった。
10月8日、上皇面通しの依頼を受けた権大納言公宗は夕刻に六波羅へ出向くと、「奉見先帝、併為天魔之所為可有寛宥之沙汰旨、可仰武家之由被仰之云々、可歎息事也」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。翌9日、捕縛された後醍醐上皇に同道した宮や諸卿、武士はそれぞれ御家人預けとなり、10日夕には公宗弟・中納言公重が武蔵右馬助貞冬の宿所(六波羅の一所であろう)を訪れて、中務卿尊良親王の面通しを行っている(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)。公重が尊良親王から「所陳多々」によれば、「子細兼日不知之、凡為天魔之所為、可有寛宥之儀旨、頻被陳之、不足言、嗟呼悲夫」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。上皇、一宮両者ともにこの擾乱は「天魔之所為」であると主張し、寛宥を願った。11日には兼運僧都(延暦寺執行)が六波羅を訪れて座主宮尊澄法親王の面通しを行い言葉を交わしたが、語るところは尊良親王と大略変わらず、頻りに涕泣という(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)。
●諸将ノ第ニ分拘(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)
| 捕縛 | 預 |
| 先帝 | 六波羅南方(北条時益) |
| 妙法院宮尊澄(天台座主) | 長井因幡左近大夫将監(長井高広) |
| 尹大納言入道師賢卿 | 遠江入道殿(名越宗教入道) |
| 源中納言具行卿 | 筑後前司(小田貞知) |
| 六条少将忠顕朝臣 | 佐々木佐渡判官入道(京極高氏入道) |
| 四条少将隆量朝臣 | 佐々木近江前司(京極貞氏?) |
| 左衛門大夫氏信(師賢卿諸大夫) | 海部但馬権守 |
| 近藤三郎兵衛尉宗光(万里小路中納言藤房卿侍) | 中条因幡三郎 |
| 対馬兵衛尉重定(具行卿侍) | 下野三郎 |
| 一宮 | 常陸前司(小田時知) |
| 東南院僧正坊 | 佐々木大夫判官時信(六角時信) |
| 万里小路中納言藤房卿 | 武蔵左近大夫将監(北条時顕) |
10月12日、後醍醐上皇の笠置臨幸に供奉して逐電していた前権大納言公敏が出家(法名宗肇)し、翌13日に二階堂出羽入道道蘊のもとに出頭。二階堂道蘊は六波羅へ事の次第を通達し、六波羅は公敏入道を「下野権守」への預けとした(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)。彼は上皇の又従弟にあたり、終始上皇に近侍した人物であった。
また同13日夕刻に「関東飛脚到来」し、翌14日朝方辰の刻に「世間物騒」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。これは「武士等騒動、圍時知宿所、欲及合戦而自六波羅加制止之間、先属静謐云々、衆口嗷々、不可記之」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)といい、在京武士が「六波羅頭人」の小田常陸前司時知の屋敷を取り囲み、合戦に及ばんとするところを、六波羅探題の制止によって不戦に終わった事件があった。「関東飛脚到来」により武士等が動いたことは確実であろうから、関東は小田時知に何らかの疑いをかけていたと考えられる。そして「時知宿所」を取り囲んだ「武士等」は六波羅支配下の武士ではなく関東から上洛した御家人とみられる。時知がどういった嫌疑をかけられたのか定かではないが、彼の子「出羽守知貞」は「実父大納言経継卿云々」(『尊卑分脈』)とあり、公卿との関わりがあったことがうかがえる。「大納言経継卿」は徳治2(1308)年5月15日、中務卿尊治親王(のちの後醍醐天皇)の太宰帥補任にともない、太宰権帥に補任されるなど後醍醐天皇に近く、後二条院の第二皇子・邦省親王は「経継卿養君」(『一代要記』)とあり、後醍醐上皇の出身皇統である大覚寺統に属する公卿であった。六波羅の引付頭人の小田時知は大覚寺統と深く関係していたと推測でき、関東が時知を疑った理由であると考えられる。
西園寺公経―+―洞院実雄―――――――――――+―洞院公守――+―洞院実泰―――洞院公敏
(太政大臣) |(左大臣) |(太政大臣) |(左大臣) (権大納言)
| | |
| | +―洞院実明―――洞院公蔭
| | (権大納言) (権大納言)
| | ∥
| | ∥―――――――洞院忠季
| | 北条久時―+―女子 (権大納言)
| | (相模守) |
| | +―北条守時
| | |(相模守)
| | |
| | +―女子
| | ∥―――――――足利義詮
| | ∥ (権大納言)
| | 足利尊氏
| | (権大納言)
| +―女子
| | ∥――――――三条実重――――三条公茂――――三条実忠
| | ∥ (太政大臣) (内大臣) (内大臣)
| | ∥
| | ∥ 惟康親王――――女子
| | ∥ (二品) ∥
| | ∥ ∥
| | 三条公親―――藤原房子 ∥―――――――守邦親王
| |(内大臣) (皇后宮御匣殿) ∥ (二品)
| | ∥ ∥
| | ∥―――――――久明親王
| | ∥ (式部卿)
| | ∥
| +――――――――――――――――――――――――藤原季子
| | ∥ (顕親門院)
| | ∥ ∥
| +―――――――――後深草天皇 ∥――――――花園天皇
| || (久仁) ∥ (富仁)
| || ∥―――――――――――――――伏見天皇
| || ∥ (熈仁)
| |+――――――――藤原愔子 ∥
| || (玄輝門院) ∥―――――――後伏見天皇
| || ∥ (胤仁)
| || +―五辻経氏――――藤原経子 ∥―――+―光厳天皇
| || |(参議) (准三后) ∥ |(量仁)
| || | ∥ |
| || +―女子 ∥ +―光明天皇
| || | ∥ ∥ (豊仁)
| || | ∥―――――――女子 ∥
| 花山院兼雅―+―花山院忠経―――――――――――花山院師継 | 恵一 ∥―――――――――――――花山院師賢
|(左大臣) |(右大臣) || (内大臣) |(僧叡智) ∥ ∥ (権大納言)
| | || ∥―――――――――――――――花山院師信 ∥
| | 大江広元―+―――毛利季光―――女子 | (内大臣) ∥
| |(陸奥守) |||(豊後守) | ∥
| | ||| | ∥
| | +―――長井時広―――長井泰重――――長井頼重――――長井貞重――――――――――長井高広
| | ||(蔵人) (因幡守) |(因幡守) (縫殿頭) ∥ (左近大夫)
| | || | ∥
| | || +―五辻宗親――+―五辻親氏 ∥
| | || |(参議) |(左兵衛督) ∥
| | || | | ∥
| +―五辻家経―――――五辻雅継―――五辻忠継――+―藤原忠子 | 二条為世女子 ∥ +―尊良親王
| (中納言) ||(非参議) (参議) (談天門院) |(大納言局) ∥ |(中務卿)
| || ∥ | ∥ ∥ |
| || ∥ | ∥―――――――――――+―尊澄法親王
| || ∥ | ∥ ∥ (妙法院)
+―西園寺実氏―+―藤原姞子 |+―藤原佶子 ∥―――――――後醍醐天皇 ∥
(太政大臣) |(今出河院 | (京極院) ∥ |(尊治) ∥
| ∥ | ∥ ∥ | ∥
| ∥ | ∥――――――――――――――後宇多天皇 +―藤原宗子 ∥
| ∥ | ∥ (世仁) (典侍) ∥
| ∥―――――+――亀山天皇 ∥ ∥―――――――――――+―邦良親王
| ∥ (恒仁) ∥ ∥ ∥ |(後醍醐東宮)
| ∥ ∥ ∥ ∥ |
| 後嵯峨天皇 ∥―――――――後二条天皇 ∥ +―邦省親王
|(邦仁) ∥ (邦治) ∥ (式部卿)
| ∥――――――――宗尊親王 堀川具守――――堀川基子 ∥
| ∥ (中務卿) (内大臣) (西華門院) ∥
| ∥ ∥ ∥
平棟基――+――平棟子 ∥――――――惟康親王――――女子 ∥
(木工頭) ||(准三后) ∥ (二品) ∥―――――――守邦親王 ∥
|| ∥ ∥ (二品) ∥
|| 近衛兼経―――――藤原宰子 久明親王 ∥
||(関白) (式部卿) ∥
|| ∥
|+―西園寺公相――――西園寺実兼――西園寺公衡―+―――――――――――――――――藤原寧子
| (太政大臣) (太政大臣) (太政大臣) | (広義門院)
| |
| +―西園寺実衡―――西園寺公重
| (内大臣) (権中納言)
| ∥
| ∥―――――――西園寺公宗
| ∥ (権大納言)
| 二条為世――+―女子
| (大納言) |(昭訓門春日局)
| |
| +―藤原為子
| |(後醍醐院女房)
| |
| +―二条為藤――――二条為明
| |(中納言) (右兵衛督)
| |
| +―二条為通――――二条為定
| |(左近衛中将) (権大納言)
| |
| +―女子
+―女子 (室町院女房)
∥ ∥―――――+―尊良親王
∥ ∥ |(中務卿)
∥ ∥ |
∥―――――――――吉田経頼―――吉田頼隆 後醍醐天皇 +―尊澄法親王
∥ (宮内卿) (参議) (尊治) (妙法院)
∥ ∥
吉田資経―+―吉田為経 ∥―――――――吉田経隆
(左大弁) |(左大弁) ∥ (宮内卿)
| ∥
+―坊城経俊――――――中御門経継――女子
(中納言) (権大納言)
小田時知の騒擾があった10月14日、「両六波羅殿并両使」が「北方」で「陸奥守殿、右馬助殿、長崎四郎■■■■」の「楠木城」攻めの旨について談合が行われ、「右馬助殿、長崎殿」は「領状」したが、「陸奥守殿」は所労のため領状の返答はしなかった(「伊勢光明寺残篇」)。翌15日には楠木城攻めの交名が示されており、その後、陸奥守貞直も領状したとみられる。
●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』32135)
| 楠木城 | |
| 一手東 自宇治至于大和道 | |
| 陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(河越貞重入道) |
| 小山判官(小山高朝) | 佐々木近江入道(京極貞氏?) |
| 佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(千葉胤貞) |
| 武田三郎(武田政義) | 小笠原彦五郎(小笠原貞宗) |
| 諏訪祝 | 高坂出羽権守 |
| 島津上総入道(島津貞久入道) | 長崎四郎左衛門尉(長崎高重) |
| 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道 |
| 加地左衛門入道 | 吉野執行 |
| 一手北 自八幡于佐良□路 | |
| 武蔵右馬助(金澤貞冬) | 駿河八郎(讃岐国守護代) |
| 千葉介(千葉介貞胤) | 長沼駿河権守(長沼秀行) |
| 小田人々(小田高知一党か) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
| 伊東大和入道 | 宇佐美摂津前司 |
| 薩摩常陸前司 | □野二郎左衛門尉 |
| 湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
| 一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
| 江馬越前入道(江馬時見入道) | 遠江前司(名越宗教入道) |
| 武田伊豆守(武田信武) | 三浦若狭判官(三浦時明) |
| 渋谷遠江権守(澁谷重光) | 狩野彦七左衛門尉 |
| 狩野介入道 | 信濃国軍勢 |
| 一手 伊賀路 | |
| 足利治部大夫(足利高氏) | 結城七郎左衛門尉(結城朝高) |
| 加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
| 勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
| 尾張軍勢 | |
| 同十五日 | |
| 佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
| 同十六日 | |
| 中村弥二郎 自関東帰参 | |
15日に四手に分かれて京都を出立した軍勢は「楠木城」に攻め寄せ、10月17日から20日にかけて楠木兵衛尉正成との合戦となっている(『和田文書』裏書)。なお、この「楠木城」は後年の「千岩屋」城とは別の城である(「熊谷直氏合戦手負注文」『熊谷家文書』)。そして10月21日、「楠落城」し、「楠兵衛尉落行」した(『元弘日記裏書』「大日本史料」)。また、11月2日には「赤坂城没落」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)とあり、「楠木城(下赤坂城)」とは川を挟んだ対岸の山に構築された「赤坂城(上赤坂城)」であろう。
楠木城及び赤坂城を攻め落とした関東勢は京都へ帰還。11月5日、「陸奥守貞直、明曉下向之由、西園寺大納言申定、仍被引御馬」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)と、翌6日早朝の貞直下向が西園寺公宗へ報告され、馬が下された。この日、鎌倉を「長井右馬助高冬、信濃入道々大、為使節上洛、為御所方輩沙汰」とあるように、後醍醐上皇方の人々への沙汰のための両使(長井右馬助高冬、信濃前司時連入道)が上洛の途についており、貞直らが鎮圧した騒擾の事後処理が行われることとなる。なお、「足利高氏、先日下向不給御馬、一同之上不申暇之故也」と、貞直に先行して鎌倉への帰途についている。そして、11月7日、「前坊第一宮康仁親王立坊」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、関東の意向(両統迭立の原則)に沿う形で前坊故邦良親王(大覚寺統の後二条天皇皇子)の一宮・康仁親王が光厳天皇(持明院統)の皇太子となった。
●康仁親王の東宮職ならびに春宮坊(『花園天皇宸記』元弘元年十一月八日条)
| 東宮職 | 人名 | 春宮坊 | 人名 | |
| 傅 | 源長通(右大臣) | 大夫 | 源通顕(大納言) | |
| 学士 | 藤原宗倫 | 権大夫 | 藤原公重(権中納言) | |
| 亮 | 藤原宗兼(右大弁) | |||
| 権亮 | 藤原俊季(右中将) | |||
| 大進 | 藤原経重 | |||
| 権大進 | 藤原隆経 | |||
| 少進 | 藤原資顕 | |||
| 権少進 | 藤原家俊 | |||
| 大属 | 紀職直 | |||
| 権大属 | 安倍資憲 | |||
| 少属 | 安倍資勝 | |||
| 中原職右(主膳正) | ||||
| 源康基(主殿首) | ||||
| 中原有景(主馬首) |
11月25日夕刻、東使のひとり信濃前司入道道大が入京。翌26日に右馬助高冬が入洛(『光厳院御記』「大日本史料」)。西園寺公宗との間で「先帝、緇素」らへの事後処理が話し合われた。
12月15日、関東では「太守禅閤第一郎、七才、首服、名字邦時、御所被執行」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、御所守邦親王により元服の儀が執り行われ、「邦」字を給わり「邦時」と号した。
12月27日、「東使」の長井高冬、三善時連入道らは西園寺公宗ら光厳朝の公卿らとの間で決定した「先帝」以下への処置に関して奏上された(『光厳院御記』「大日本史料」)。この「東使奏聞関東事書」には「先帝并宮々配所、先帝隠岐、一宮土佐、妙法院宮讃岐、緇素罪名追可言上、余党之有無事、世上謳謌、定無其隠歟、可奏聞、又相尋公敏、具行等卿云々、又先帝御遠行之間、若可有御落飾歟、内々公宗卿可尋申云々」とあり、後醍醐先帝以下の罪名報告を行うこととした。
■「東使奏聞関東事書」処分案
| 人 | 配流先 |
| 先帝(後醍醐上皇) | 隠岐国(守護は佐々木清高) |
| 一宮(尊良親王) | 土佐国(守護は高時入道) |
| 妙法院宮(尊澄法親王) | 讃岐国(守護は伊具邦時) |
| 緇素罪名追可言上 |
元弘2(1332)年2月6日、「武家」が「慈厳僧正、光顕朝臣、忠守法師、重頼法師」が捕縛された(『光厳院御記』「大日本史料」)。慈厳は「天台座主輦車」であり、尊澄法親王の侍僧であったのだろう。先帝は「つゐに隠岐国へうつしたてまつるべし」として3月7日に隠岐国へ向かうために出京。「御供には内侍三位殿、大納言小宰相など、男には行房の中将忠顕少将ばかりつかまつる、をのかしゝ宮この名残ともいひつくしかたし、六原よりの御をくりの武士、さならでも名あるつはものども千葉介貞胤をはじめとして、おぼえことなるかぎり十人えらひたてまつる」(『増鏡』)と見え、千葉介貞胤が先帝配流の護送使であった。また「佐々木の佐渡判官入道」も「隠岐の御をくりもつかまつりしもの」であった(『増鏡』)。
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| 日野俊基宝篋印塔(鎌倉葛原岡) |
後醍醐上皇に加担した公家衆はそれぞれ処罰されているが、原則的には公卿は流罪、一般堂上は流罪の上処刑という方針のもと、4月10日には姉小路実世が「依関東奏聞止出仕」、5月22日には参議平成輔が「於早河尻被誅了」(『常楽記』)、同月には万里小路藤房が「配流下総国」(『公卿補任』)、源具行は公卿ながら「五月日下向関東、六月十九日於近江国柏原斬首」(『公卿補任』)、6月2日には日野資朝が「於佐渡国配流斬首」(『公卿補任』)、6月3日には日野俊基が「武蔵国クスハラニテ被誅了」(『常楽記』)、6月25日には前参議藤原光顕が「配流出羽国」(『公卿補任』)という厳罰に処されている。また、按察使大納言公敏は「小山の判官秀朝とかやいふものぐして、下野の国へと聞ゆ」(『増鏡』)と、小山大夫判官高朝が下野国へ伴った。なお、万里小路藤房の下総配流は誤記で、実際は「花山院大納言師賢は千葉介貞胤うしろ見て下総へくだる」(『増鏡』)とあるように、叡山の偽帝となった花山院師賢が千葉介貞胤によって下総国へ連行されている。師賢が千葉介貞胤に付き添われて5月10日に京都を発った際、師賢は、
と詠んだ。君のいない故郷京都にはもはやなんら未練はないという決意の歌である。一方、師賢の北の方は「花山院入道右のおとゞ家定の御女」であるが、師賢との対面も許されないままの別離であり、「いみじう思ひなげきたまへるさま、あはれにかなしけれ」という有様で、
と詠んだ。
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| 小御門神社 |
その後、師賢は香取郡大須賀保内(成田市名古屋)に幽閉の身となるが、この地は「千葉介一族大須賀」の所領であり、千葉介貞胤とともに上洛していたと思われる大須賀某が預かったとみられる。香取海の入江のほとりに大きな館が造営されたのであろう。その字名は「館内」として残る。しかし、師賢はこの地に入ったわずか四か月後の10月29日に病死する。享年三十二。心労が祟ったものであろう。「元徳四年十月、尹大納言入道、於千葉逝去」(『常楽記』)という。師賢は館の隣に埋葬され、塚が築かれた。この墓所は「公家塚」と呼ばれて現在に至っている。明治15(1882)年には塚前に師賢を祭神とする「小御門神社」が建てられた。
こうした先帝後醍醐の側近らの処断が行われる中、元弘2(1332)年4月3日、楠木正成率いる五百騎余りが赤坂城を急襲した。ここには紀伊国御家人の湯浅孫六入道定仏が留守居として守衛していたが、敢え無く攻め落とされ「定仏打負降参」(『大乗院日記目録』)した。このとき「為楠木被取籠湯浅党交名」(『楠木合戦注文』)は正慶元/元弘2(1332)年12月にまとめられている。赤坂城は楠木勢によって奪還され、その後、関東勢が寄せる翌年2月まで楠木勢が拠ったとみられる。
6月6日、「自熊野山執進、大塔宮令旨、相憑当山旨云々」(『光厳院御記』「大日本史料」)とあるように、逃亡中の「大塔の尊雲法親王」(『増鏡』)が熊野山に対して令旨が発したという。こののち、前年の追討及び捜索で六波羅探題が捕縛に失敗した尊雲法親王や四条隆資らの動きが活発化していくこととなる。楠木正成も大塔宮尊雲法親王に意見具申ができる距離にいたことから、おそらく彼らは楠木正成が奪還した赤坂城近辺に居住していたと考えられる。
なお、6月8日の小除目では関東の推挙により、笠置寺攻めの大将軍であった「源高氏(足利高氏)」を「叙従五位上」とした(『光厳院御記』「大日本史料」)。
6月26日には、尊雲法親王がついに具体的な挙兵という形で顕在化し、京都に報ぜられた(『光厳院御記』「大日本史料」)。兵乱は「伊勢国有梟悪之輩、烏合之衆、追捕所々其勢甚多云々、仍武家差使者、令実検云々」(『光厳院御記』「大日本史料」)という。続けて28日の報告では「勢州凶徒、尚以興隆旨風聞、或云、合戦地頭等多被誅戮之後、引退云々」という。かなり大規模な兵乱で、地頭等が多く討死するという風聞が聞こえている(『光厳院御記』「大日本史料」)。六波羅はこの時点ではまだ乱の正確な規模や首謀者を把握していなかったようであるが、29日に京都へ帰還した検使の情報によれば、「不違風聞之説、凶徒合戦之間、在家多焼払、地頭両三人被打取、守護代家被焼了、其後凶徒等引退了云々、是熊野山帯大塔宮令旨、竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不少」(『光厳院御記』「大日本史料」)であったという。
8月27日には「大塔二品護良親王(実際は還俗していない)」が「左少将隆貞」に「附与御令旨」して高野山大衆に決起を促した(『高野春秋』「大日本史料」)。「隆貞」は大塔とともに笠置山から逐電した権中納言隆資の子で尊雲法親王の側近である。また、左少将隆貞は12月26日、「和泉国久米田寺住僧等」に祈祷等の忠勤を行う上は「於当寺并寺領者、可被停止官兵狼藉者」という「大塔宮二品親王令旨」を伝えている(『鎌倉遺文』31937)。「官兵之狼藉」はあちこちで発生しており、翌元弘3(1333)年正月5日には「左兵衛尉正成」が和泉久米田寺や河内観心寺ら和泉5河内の大寺に触れている。また、大塔宮は紀伊粉河寺にも加勢を求め、粉河寺衆徒がこれに応じる返答をしたため、正月10日付で四条隆貞を使者として粉河寺に御感の令旨を下している(『粉河寺文書』)。このころの尊雲法親王は笠置寺、久保田寺、観心寺、粉河寺など、おもに大寺院衆徒の力を恃みにしていたとみられる。
なお、大塔宮護良親王は「伊豆国在庁時政子孫高時法師」を敵としているように、承久の乱と同様、公卿家の鎌倉将軍家を敵視しているわけではなく、その家司として家政・裁判一式を取り仕切る北条惣領家を討とうとしているのである。
■元弘3(1333)年4月1日「護良親王令旨」(『熊谷家文書』)
そして、関東においては諸国の御家人に対して「大塔宮并楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也」(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915)とあるように、追討の軍勢を「去季雖発向、重可進発」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)した。この軍勢は有力御家人を筆頭として百三十二名、公称三十万七千五百余騎とされ、9月20日に鎌倉を発した。
●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)
| 大将軍 陸奥守(大仏貞直) 遠江国 遠江守(名越宗教) 尾張国 駿河左近大夫将監(北条時邦) 讃岐国 足利上総三郎(吉良満義) 長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国 佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 備前国 越衆御手 信濃国 小田尾張権守 一族 武田三郎(武田政義) 一族并甲斐国 伊東大和入道 一族 薩摩常陸前司 一族 渋谷遠江権守 一族 三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明) 佐々木隠岐前司 一族 千葉太郎(千葉胤貞) 勢多橋警護 佐々木近江前司(佐々木貞清) |
武蔵右馬助(金沢貞冬) 伊勢国 武蔵左近大夫将監(金沢時顕) 美濃国 足利宮内大輔(吉良貞経) 三河国 千葉介(千葉介貞胤) 一族并伊賀国 宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国 小笠原五郎 阿波国 小山大夫判官(小山秀朝) 一族 結城七郎左衛門尉 一族 小笠原信濃入道 一族 宇佐美摂津前司 一族 安保左衛門入道 一族 河越参河入道(河越貞重) 一族 高坂出羽権守 同備中前司 同佐渡大夫判官入道(佐々木高氏) |
その後、鎌倉から得宗被官の御家人・尾藤弾正左衛門尉が上洛し(「六波羅御教書案」『鎌倉遺文』31911)、鎌倉両探題(両執権)及び六波羅両探題は、西国の御家人に対して「殊以神妙、引率庶子親類、可抽軍忠之状」という命じている(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915『熊谷家文書』)。
■正慶元(1332)年12月5日「六波羅御教書」(『鎌倉遺文』31911『紀伊隅田家文書』)
■正慶元(1332)年12月9日「関東御教書」(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915『熊谷家文書』)
■正慶元(1332)年12月25日「関東御教書」(『鎌倉遺文』31933『和泉日根野文書』)
また同時に関東では前年の合戦に参戦して軍功を挙げた人々へ没官領を宛がっており、正慶元(1332)年12月1日、将軍家政所(別当:相模守守時、右馬権頭茂時)は「島津上総介貞久法師法名道鑑」に対し、「妙法院宮御跡」の「周防国楊井庄領家職」を「勲功賞」として宛がっている(『薩藩旧記』)。
このときに関東勢が攻め落としたのは千早・金剛山を押さえる下赤坂城と思われ、寄手は河内道を進んだ弾正少輔弼治時の大手軍とみられる。この赤坂城合戦は2月2日から「十三ケ日之間、被責」たとあり(『大乗院日記目録』)、2月15日に「大手本城」を守衛していた「平野将監入道既三十余人参降人畢、此内八人者逐電、或生捕、或及自害被所、又以被落之由」であったのだろう。この「平野将監入道」は四天王寺合戦で正成とともに戦った平野但馬前司の一族であろう。城中にいたという風聞のあった楠木正成舎弟の七郎正季も行方知れずとなった。なお、平野麾下の降参は「平野入道以下三百八十二人」(『大乗院日記目録』)であったという。
赤坂城を落とした阿蘇弾正少輔弼勢は千早川を渡り、より堅固な南岸赤坂城(上赤坂城)に迫った。熊谷小四郎直経は「為誅伐大塔宮并楠木兵衛尉正成、可馳参之由」に応じて、一族の「平次直氏、六郎直朝、五郎四郎直員等」を相具して、2月25日から28日の戦いにおいて「大手木戸口」に戦い、真っ先に楯や土石を以て堀を埋めたという(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)。2月26日には「俣野彦太郎并藤澤四郎太郎若党十余人」が合戦し、28日には寄手大手軍は「手負死人其既一千八百余人」(『楠木合戦注文』)を数えた。その後、大手勢は苦戦しつつも赤坂城を攻め落とすと、千早川を遡上して千早城西側に進んだとみられる。また、赤坂城陥落とほぼ同時に六波羅から大和の大寺に対する援兵要請が関東に遣わされたと思われ、2月30日、「東大寺衆徒」に対し、「大塔宮并楠木兵衛尉正成」らの「対治凶徒」を指示する『関東御教書』が下されている(「前田氏所蔵文書」)。そして閏2月5日には熊谷小四郎直経は「馳向千葉城、於大手堀鰭相戦、構矢倉、致終夜之忠勤」(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)と、千早城大手掘あたりで合戦し、さらに陣中には矢倉を築いて警衛を行ったという(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)。
ただ、千早城や金剛山は要害であり、容易に攻略することはできず膠着状態となっている。六波羅は天皇へは「金剛山事、近日可有左右」と奏上していたが、その後一向に攻略した旨が伝えられないことに、閏2月24日、花園天皇は「金剛山事、近日可有左右之由、武家雖令申、其後又無音、不審無極候、西国悪党等又同時蜂起之条、驚思給候」と不満を漏らされている(元弘三年閏二月廿四日「花園天皇自筆消息」『鎌倉遺文』32021)。
関東の大手勢はその後も攻勢をかけ、閏2月26日朝には熊谷直経は「茅岩屋城大手ノ北ノ堀ノナカヨリ、ヘイノキワエセメアカリ、先ヲカケ、新野一族相共ニ、合戦ノ忠ヲイタシ候」(「熊谷直経合戦手負注文」『安芸熊谷家文書』)とあり、千早城の城内にも侵入しつつ合戦を繰り返していたとみられる。しかし、3月5日には「六波羅勢与橘正成戦大敗」(『続史愚抄』「道平公記」)とあり、六波羅勢は千早及び金剛山の戦いで大敗を喫して兵を引いた。
同じころ、大和道を進む陸奥守右馬権助高直の搦手勢(奈良路)は金剛山の東側(高市郡方面)から「楠木爪城金剛山千早押寄」ており(『楠木合戦注文』)、2月27日には「斎藤新兵衛入道子息兵衛五郎」が「佐介越前守殿御手」に属して攻めたが、「自上山以石礫数ヶ所被打」という石礫による打撲を負い、家子若党も数人が負傷したり討死したという(『楠木合戦注文』)。しかし、関東勢の攻勢は凄まじく、楠木正成が金剛山各所に構えた砦はほぼ制圧され、三、四か所を残すのみとなっていた。
また、大和国の御家人は正月下旬には大塔宮の籠る大和国吉野に向かっており、正月30日には大和国高市郡松山村(高取町松山)で「大和国茉山合戦」が起こっている。さらに2月13日には「茉山(松山)」を越えて進軍していた「大和国高間大弐行秀、同舎弟輔房快全等」(「能登妙厳寺文書」『鎌倉遺文』32230)は「石黒坂合戦」を経て、閏2月1日には吉野山に至り、「捨身命防戦之間、所従両輩被打畢」という激戦の末に吉野山を攻め落とした。吉野山の大塔宮は高野山へ逃れ、「二階堂出羽入道道蘊」が高野山に「乱入満山、卜本陣於大塔、尋求護良王子」(『高野春秋』)したが、護良親王は大塔の天井の梁間に隠されており、ついに発見に至らなかった。
畿内が混乱の極みにあった正慶2/元弘3(1333)年閏2月24日、「前左少将忠顕供奉」して「先帝竊出御隠岐御所国分寺、即召小舩」(『続史愚抄』)して「主上出御隠岐国」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、先帝後醍醐が隠岐国から脱出。海流に乗って「着御出雲」(『続史愚抄』)した。「伯耆国稲津浦」(『増鏡』『鎌倉年代記裏書』)に着いたとも。上陸後は「謫處幸伯州大山寺」(『皇代略記』)に入った。先帝の脱出を知った「隠岐判官(佐々木清高)」が追うも、「伯耆国名和又太郎源年長兄弟、依御憑奉入舩上山寺、奉守護之」(『大乗院日記目録』)といい、「この国になはの又太郎ながとしといひしあやしき民」が「舟上寺」に迎えて「ここのへの宮になずら」えて支えた(『増鏡』)。閏2月27日に隠岐判官清高が船上山を攻め寄せるも撃退している。また、「出雲守護塩冶判官高貞、富士名判官義綱以下」の守護佐々木一族も船上山へと馳せ参じているが、これはこれまでの楠木一党や河内、和泉、大和の在地武士や寺社、一部の地頭層による叛乱とは一線を画し、関東裁定の否定及び国守護の離反という、関東の威光が一気に地に落ちる大事件であった。先帝の隠岐脱出の報や風聞も影響したとみられるが、すでに九州、西国の反旗は燎原の火のように広がっていた。後醍醐上皇は隠岐国を脱出して、伯耆国の土豪・名和又太郎長年に庇護された。閏2月26日には大塔宮は「清水寺衆徒」に対して「征伐六波羅之時、当寺〃僧同心被加征伐候」とあるように、六波羅を討つ計画を立てていたことがわかる。
一方で六波羅探題自身は「伊予国、播磨国之悪党蜂起」に「近日被仰付国守護人可加追罰之由」を命じるなど諸所に対応せざるを得ない状況にあり、摂津国でも閏2月15日に「摂津小平野兵庫嶋合戦」、閏2月23日には「尼崎合戦」、閏2月24日には「坂部村合戦」、閏2月28日、3月1日、3月7日の播磨国で赤松円心入道との「摩耶山」「摩耶城」での合戦で敗北。3月10日に六波羅探題は再び播磨国へ兵を出し、3月12日に摂津国勝尾寺に「播磨国謀叛人赤松孫次郎入道等追討事」を命じているが(「前常陸介時朝施行状」『鎌倉遺文』32052)。ふたたび六波羅勢の敗北に終わった(『大乗院日記目録』)。
■正慶2(1333)年3月10日「前常陸介時朝施行状」(『鎌倉遺文』32052)
3月12日には大塔宮の令旨によって挙兵した「播磨国大山寺衆徒」が京都で六波羅勢と合戦(「播磨大山衆徒軍忠状」『鎌倉遺文』32148)。4月3日には洛南の東寺や竹田で上皇方の「出雲国大野庄内加治屋三郎次郎日置政高(三崎三郎次郎日置政高)」が関東方と合戦している(「日置政高軍忠状」『鎌倉遺文』32087)。
これに対して関東は3月27日、名越越後守高家、足利治部大輔高氏を大将軍とした七千余騎を追加派兵し、高氏は4月16日に、高家は4月19日にそれぞれ入京した(『神明鏡』)。ところが、大将軍の一人、足利高氏はすでに関東を見限っており、入洛翌日の4月17日には密かに伯耆国船上山の後醍醐上皇のもとに使者を遣わして味方に参ずる旨を伝えたという(『神明鏡』)。
足利高氏は4月22日、「先代追討ノ御内書」を関東在の一族「(岩松)兵部大輔経家并新田義貞」に送り、挙兵を指示した(応永卅三年七月「岩松満長代成次申状」『正木文書』)。岩松経家と新田義貞はこの高氏の命を奉じて挙兵を計画し、新田義貞は越後新田一族をも結集させて挙兵に備えたと思われる。また、高氏は同時に鎌倉大蔵谷の足利屋敷に密使を送って庶子・竹若丸と嫡子・千寿王の脱出を指示したとみられ、竹若丸は伯父の走湯山密巌院別当良遍のもとへ遁れ、千寿王は5月12日までには新田庄世良田郷に移っている。おそらく千寿王は高氏の命を受けた新田義貞が世良田に庇護したものと推測される。
■応永33(1426)年7月「岩松満長代成次申状」(『正木文書』)
4月25日、高氏は「自伯耆国、所蒙 勅命也」として「嶋津上総入道殿(嶋津貞久)」へ「令合力給候」ことを指示したのを皮切りに、26日には小笠原信濃入道、27日には結城宗広入道、ら、29日には大友左近将監入道(大友貞宗)、阿蘇前大宮司らに対して挙兵への協力を依頼している(「足利高氏軍勢催促状案」『鎌倉遺文』32103、32104、32109~32114、32119、32121、32122、32138、32150)。これらのほか、大小の御家人などへ軍勢催促状を発給したと思われる。
4月27日、名越高家と足利高氏の両将は、中国地方へ向けて出陣するが、大手軍の大将軍である名越高家が久我繩手の戦いで赤松円心入道の軍勢に討たれるという事件も起こり動揺が広がる中、足利高氏は伯耆国への軍路の途次、所領の丹波国篠村で反関東の兵を挙げた。高氏はその後、踵を返して京都へ進軍。5月7日、赤松孫次郎入道円心や千種左中将忠顕の軍勢とともに六波羅探題に攻め寄せた。
無勢の両探題・北条左近将監時益と北条越後守仲時はやむなく六波羅政庁(北:東山区轆轤町、南:東山区多門町カ)に火を放ち、花園天皇以下皇族を奉じて鎌倉へ落ち行くことを決定するが、時益は六波羅邸を出た直後に矢に当たって斃れた。仲時も近江国番場(米原市番場)まで遁れ行くも近江佐々木一党に行く手を遮られ、伊吹山の近く番場の一向堂前で四百三十余人が討死・自害して果てた。仲時二十八歳。探題を補佐した高橋三河守時英や隅田左衛門尉時親をはじめ、後醍醐上皇の隠岐脱出を許した佐々木隠岐前司清高、関東から使者として下っていた二階堂伊勢入道行照らも自害している(「近江番場宿蓮華寺過去帳」『鎌倉遺文』32137)。
高氏挙兵の報が鎌倉へ到達する直前の5月2日夜半、千寿王が足利屋敷から姿を消したことが発覚し、騒ぎとなった。得宗高時入道はただちに御内人・長崎勘解由左衛門入道と諏訪木工左衛門入道の両名を上洛させて状況の確認を指示する。両名は馬を飛ばして上洛の途につくが、途中の駿河国高橋で六波羅探題の早馬と出会い、名越高家の討死と足利高氏の叛旗を知らされることとなる(『太平記』)。
そして5月8日、足利高氏の書状を請けた新田小太郎義貞は上野国新田庄生品神社(太田市新田市野井町)で挙兵し、翌9日には武蔵国に入った。
新田義貞の挙兵を受けた鎌倉は、金沢武蔵守貞将に五万余騎を副えて下総国下河辺庄へ、武蔵国入間川には桜田治部大輔貞国を大将とし、長崎二郎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道らの大将に六万余騎をつけて派遣した(『太平記』)。ところが、5月10日頃にはすでに千葉介貞胤、小山判官秀朝ら有力御家人さえも反北条氏の旗幟を鮮明にしており、新田勢を討つべく下河辺庄へ向かっていた金沢貞将と武蔵国鶴見で合戦に及んでいる(『太平記』『梅松論』)。
新田勢は5月11日、入間川を渡って小手指原で桜田貞国・長崎高重率いる関東勢と合戦に及び、これを撃退する。関東勢は防衛線を久米川まで下げるが、翌12日の久米川の戦いで関東勢は大敗を喫し、関東勢はさらに分倍河原まで撤退する(『太平記』)。なお、足利高氏の嫡子・千寿王は義貞の庇護のもと新田庄世良田宿に匿われており、少なくとも5月12日までは世良田宿に宿陣し「新田三河弥次郎満義世良田」がその麾下にあった(「鹿島利氏申状写」『南北朝遺文 関東編』1356)。なお、『太平記』では9日に武蔵国へ入った時点で千寿王が新田勢に加わったことが記されているが、『太平記』の創作である。
久米川の敗報を受けた北条高時入道は、剛毅な弟・左近将監泰家入道恵性を大将軍に任じ、塩田陸奥守国時入道道祐、安保左衛門入道道堪、城越後守、長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明に出陣を命じた。そして5月15日深夜、関東軍は分倍河原に着陣し、桜田貞国らの軍勢と合流。勢いを盛り返した関東勢は新田勢を打ち破り、堀金(狭山市堀兼)まで追い落とした(『太平記』)。このとき新田勢の上野国碓氷郡飽間郷(安中市中秋間)の御家人「飽間齋藤三郎藤原盛貞 生年廿六」「同孫七家行 廿三」が討死を遂げている(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)。
分倍河原の戦いで手痛い反撃を食った新田勢だったが、5月15日夕刻、義貞のもとに三浦一族・大多和平六左衛門義勝が松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷ら相模武士六千騎を率いて着陣。これに喜んだ義貞は、彼らを先陣として翌16日明け方に分倍河原まで進軍。大勝に酔っていた関東勢に襲いかかり追い落とした。
義貞は関戸で軍勢の着到を待つと、ここで手勢を三手に分けたという(『太平記』)。
●『太平記』にみる鎌倉攻め三手(『太平記』)
| 極楽寺切通 | 大館二郎宗氏、江田三郎行義 |
| 巨福呂坂 | 堀口三郎貞満、大嶋讚岐守守之 |
| 大将 | 新田義貞、脇屋義助(堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達) |
こうした急激な攻勢に対して得宗高時入道は将軍家家司別当(執権)北条相模守守時に巨福呂坂口(鎌倉西北の切通し)の警衛を命じる。守時は巨福呂坂から山ノ内を通過し、柏尾川が形成した洲崎(鎌倉市寺脇)に布陣。鎌倉道を進んでくる新田勢と5月18日にぶつかった。この戦いは鎌倉道沿いの柏尾川周辺で広範囲が戦場化したとみられ、新田勢もこの日「飽間孫三郎宗長 卅五」が「村岡(藤沢市村岡東)」で討死したことが知られる(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)。この合戦で主将の執権北条守時が自刃し、関東勢は壊走。新田勢は山ノ内まで進軍した(『太平記』)。
ただし、鎌倉攻めは『太平記』が記すように新田勢は三軍に分かれかのではなく、実際の鎌倉攻めは、4月22日に高氏が発給した「先代追討ノ御内書」を受けた「(岩松)兵部大輔経家幷新田義貞」の二人が「両大将」となって行われ、大手大将軍が足利千寿王を奉じる新田義貞、搦手大将軍は「搦手大将軍新田兵部大輔(当時は新田下野五郎経家)」の大きく二手に分かれて鎌倉を攻めたと推測できよう。搦手の新田兵部大輔経家の軍勢は、5月19日に巨福呂坂口近辺にあったと思われる長勝寺(現在の材木座長勝寺との関係は不明)の前で合戦しており、さらに20日から22日にかけては巨福呂坂で合戦が行われたことがわかる(『群馬県史 資料編中世2』資料569)。おそらく洲崎で執権北条守時と直接戦ったのは、この新田経家(岩松経家)であったと思われる。そして、この鎌倉攻めのときには新田義貞の陣中にあった足利千寿王(高氏嫡男)に従軍していた「新田三河弥次郎(世良田満義)」が21日に鎌倉市中で戦っている。
●実際の鎌倉攻め(軍忠状より抜粋)で従軍したことが判明する人々
| 方面 | 大将軍 | 資料でみられる従軍御家人(●は大将軍) |
| 大手大将軍 ・極楽寺坂 ・大仏坂 |
足利千寿王 新田太郎義貞 |
●新田蔵人七郎氏義 【新田氏義】三木俊連(5/21霊山攻) 【新田氏義】三木行俊(5/21霊山攻) 【新田氏義】三木貞俊(5/21霊山攻) ●新田大館宗氏(5/18稲村崎、浜鳥居討死) ●新田大館孫次郎幸氏(5/21浜鳥居脇駆入) 【大館幸氏】大塚五郎次郎員成(5/21浜鳥居参戦、6/1二階堂御所着到) 【大館幸氏】大塚三郎成光(5/21浜鳥居討死) 大多和太郎遠明(5/21浜鳥居合戦) 海老名藤四郎頼親(5/21浜鳥居合戦) 飽間三郎盛貞(5/15府中討死) 結城上野入道道忠(5/18~22合戦) 田嶋与七左衛門尉広堯(同上) 片見彦三郎祐義(同上) 市村王石丸代後藤弥四郎信明(5/15分倍河原参戦、5/18前浜一向堂前参戦) 塙大和守政茂(5/16入間川着到、5/19極楽寺坂参戦) 徳宿彦太郎幹宗(5/19極楽寺坂参戦) 宍戸安芸四郎知時(5/19極楽寺坂参戦) ●新田遠江又五郎経政 【新田経政】熊谷平四郎直春(5/16参戦、5/20霊山寺下討死) 吉江三位律師奝実 齊藤卿房良俊 石川七郎義光(5/17瀬谷参陣、5/18稲村崎参戦、5/21前浜合戦) 藤田左近五郎(5/18稲村崎参戦) 藤田又四郎(5/18稲村崎参戦) 岡部又四郎(5/21前浜合戦) 藤田十郎三郎(5/21前浜合戦) ●武田孫五郎信高(霊山大将軍) 【武田孫五郎】南部五郎二郎時長(5/20霊山参戦、5/22高時館合戦) 【武田孫五郎】南部行長(5/20霊山参戦) 【武田孫五郎】中村三郎二郎常光(5/20霊山討死) 【武田孫五郎】南部六郎政長(5/15~22鎌倉合戦参戦) ●新田三河弥次郎満義(5/20霊山参戦) 【新田満義】鹿島尾張権守利氏(5/12世良田千寿王陣着到) 天野周防七郎左衛門尉経顕(5/18片瀬原着到、稲村崎、稲瀬川、前浜参戦 5/22葛西谷合行) 新田矢嶋次郎(5/22葛西谷合戦参戦) 山上七郎五郎(5/22葛西谷合戦参戦) |
| 搦手大将軍 ・巨福呂坂 ・化粧坂 |
新田下野五郎(岩松経家) | 飽間孫三郎宗長(5/18村岡討死) ●岡部三郎(侍大将) 【岡部三郎】布施五郎資平(5/19長勝寺前合戦、5/20~22小袋坂合戦) |
新田義貞の大手勢は洲崎合戦と同じく5月18日には極楽寺坂方面へと集結し、稲村ガ崎で合戦している(「天野経顕軍忠状写」『群馬県史 資料編6中世2』番号583)。新田勢は稲村ガ崎に配置されていた北条勢を「懸破稲村崎之陣」り、そのまま海岸を伝って「前浜鳥居脇」まで侵入して合戦したが、北条勢の激しい反撃を受けて新田勢の大将軍・大館宗氏が討死した。その後、新田勢は数度にわたって鎌倉市中に攻め入っていたと思われ、21日にも大規模な戦闘が行われている。
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| 東勝寺跡 |
新田勢は稲村ガ崎を通して比較的自由に鎌倉に出入りしながら関東勢と合戦し、北側では新田経家が指揮を取る搦手軍が巨福呂坂周辺から鎌倉への突入を試みていたのであろう。
そして、5月22日、「葛西谷之合戦」で追い詰められた得宗高時入道以下、北条一門や御内人ら八百余にのぼる人々が菩提寺の東勝寺に籠もって抵抗するも敵わず、自害して果てた。高時入道崇鑑は享年二十九。
この鎌倉の戦いでは、重胤と行方郡高村(高川北岸の北田村)をめぐって相論した長崎三郎左衛門入道思元が子息・長崎勘解由左衛門尉為基とともに極楽寺坂で奮戦したのち、新田勢に討たれたという(『太平記』)。
●長崎氏略系図●
平資盛―関盛国―国房―?―盛綱―――+―平頼綱――――+―宗綱 +―高綱―――+―高貞――――――高重
(左少将) (左衛門尉)|(左衛門尉) |(平左衛門尉) |(円喜入道)|(四郎左衛門尉)(次郎)
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| +―飯沼資宗 +―高頼 +―高資――――――高直
| (判官) |(兵衛尉) (新左衛門尉) (新左衛門尉)
| |
+―光盛―――――+―光綱―――――――+―真弓盛親―――盛勝
(次郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉) (織部正) (織部正)
|
+―高泰―――――――――泰光
|(勘解由左衛門尉) (四郎左衛門尉)
|
+―高光―――――――――為基
|(三郎左衛門入道思元)(勘解由左衛門尉)
|
+―師家
(九郎左衛門尉)
鎌倉が陥落して鎌倉親王家の家司北条一族は滅亡。鎌倉将軍家当主である守邦親王は出家して征夷大将軍を辞し、鎌倉将軍家は絶家となった。しかし、このことは単に関東の一公卿家が絶家になったというわけではなかった。この鎌倉将軍家の絶家は、鎌倉親王家が担ってきた全国の地頭職の任免、守護の任免を行っていた主体の消滅、彼らが生活・生存していく上での様々な法的根拠が失われたことを意味していた。さらに将軍家家司の両執権(両探題)、六波羅の南北方(両探題)、長門探題、九州探題が有した探題権もすべて無に帰したことで、訴訟も停滞して裁決されていない案件は宙に浮いた状態になったであろう。
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| 御所 |
正慶2(1333)年5月17日、後醍醐天皇は伯耆国船上山で「止正慶年号、為元弘三年、又去五月詔去々年已来任官已下、勅裁悉停廃」(『皇年代略記』)という詔を発する。おそらく5月7日の六波羅政庁の陥落の報を受けたことで、いよいよ還御の機が熟したとの強気な行動であろう。
この詔では、以前より後醍醐天皇自身は退位などしておらず、実は光厳天皇は即位していない偽帝だとして、光厳天皇在位中の改元、すべての任官、勅裁を否定したのである。六波羅の崩壊により、実質的な後ろ盾を失った持明院統の三上皇はこの詔に従う他なかった。この伯耆国からの詔は現朝廷を震撼させ、関白冬教、太政大臣兼季、左大臣基嗣は罷免された。そして、前左府道平は左大臣、氏長者に戻され、前右府経忠も右大臣とされた(ただし、経忠はこのときは就任を拒絶している)。これら上卿、公卿、公家らの「官途巻き戻し」は朝政の停滞を招く重大事であったが、裾野の広い地下已下における「官途巻き戻し」は更なる混乱を招いたと思われる。翌5月18日、後醍醐天皇は船上山を下り、名和一族が供奉して京都へ還幸の途についた(『伯耆巻』)。
一方、京都では六波羅追捕後、足利高氏がどのように京都の安定を図ったかは定かではないが、5月24日、「前治部大輔高氏」は「吉見殿(円忠)」に対して「伊勢国凶徒対治事」についてしたためた「事書一通」を送達し「守此旨、可令致沙汰給候」(「伊勢光明寺残篇」『鎌倉遺文』32221)と指示している。円忠は5月30日に施行案を認め、高氏からの書状を「今月廿四日御教書案文」と称し、6月3日を期して諸地頭等に「小河」へ馳せ参じることを指示するとともに、「於緩怠之儀者、関東同心之由、可令注申」と返答している。なお、律師円忠の子の大納言阿闍梨頼澄が武蔵国慈光寺別当に就いており、円忠は再び武蔵国比企郡へと戻ったのかもしれない。
源義朝―+―源頼朝 +―吉見為頼―+―吉見義春―――+―吉見義世―――吉見尊頼
(左馬頭)|(右近衛大将) |(二郎) |(太郎) |(孫太郎) (中務大輔)
| | | |
| | | +―吉見義成
| | | (大夫将監)
| | |
| | +―吉見頼宗―――――吉見頼隆―――吉見氏頼
| | |(彦三郎) (三河守) (三河守)
| | |
| | +―頼源―――――――円忠―――――頼澄
| | (二位律師) (二位律師) (慈光寺別当)
| |
+―源範頼 +―範円――――――+―尊範―――+―貞助
(三河守)|(順大寺阿闍梨) |(若宮別当)|(若宮別当)
∥ | | |
∥―――+ +―吉見頼氏 +―頼譽
藤九郎盛長―女子 | (掃部允) (慈光寺別当)
|
+―源昭――――――+―源範―――――頼源
(慈光寺別当) |(二位律師) (二位阿闍梨)
|
+―毘迦羅
(建長被誅)
5月28日、高氏は六波羅官吏長井氏の「長井出羽弾正蔵人殿(長井貞頼)」へ「知行分所領事」について「於濫妨狼藉之輩者、為處罪科、可註申交名之状如件」(『閥閲録』)と命じ、6月4日には「海老名五郎左衛門尉殿(海老名経則)」にも同様の下知状を下しており、高氏は彼らに対して狼藉人の交名提出を命じていることがわかる。また、同日には土佐国御家人の「長宗我部新左衛門殿(長宗我部信能)」と「甲斐孫四郎入道(香宗我部秀頼入道)」を両使とし、足利家祈願所でもある「走湯山密厳院」領「土佐国介良荘」への濫妨狼藉の鎮定と犯人交名を注進するよう命じている(「土佐国蠧簡集」『鎌倉遺文』32237)。高氏は当時、従五位上という旧御家人中最高位にあり、鎌倉においても北条氏、安達氏、長崎氏に次ぐ経済規模を持つとともに北条氏との血縁関係から名声も高く、北条家の滅亡後は足利家に従属、被官化した旧御家人は多かったと思われる。そして高氏は彼らに知行分所領内の混乱の早期終息を命じたのであろう。
旧御家人層は、急転直下の関東滅亡による地頭職等の諸権利の喪失不安や、諸訴訟裁断の停滞、そして「官途巻き戻し」という想定をはるかに超える事態に陥り、その救済を名声高い足利家に求めようとしたの頷けよう。
大江広元―+―源親広――+―大江佐房―――――大江泰広
(陸奥守) |(左近将監)|(太郎) (又太郎)
| |
| +―重祐法眼
| (若宮別当)
|
|【関東評定衆】【関東評定衆】 【関東評定衆】 【関東評定衆】 【関東評定衆】
+―長井時広―+―長井泰秀―――――長井時秀――――+―長井宗秀―――+―長井貞秀――+―長井貞懐
|(左衛門尉)|(甲斐守) (宮内権大輔) |(掃部頭) |(中務少輔) |(大蔵少輔)
| | | | |
| | | | +―長井広秀
| | | | |(大膳大夫)
| | | | |
| | | | +―長井高冬
| | | | (右馬助)
| | | |
| | | +―長井時千――――長井時春
| | | (宮内権大輔) (治部権少輔)
| | |
| | |【関東評定衆】
| | +―長井貞広―――――長井広泰
| | (左近将監) (甲斐守)
| |
| |【六波羅評定衆】 【六波羅評定衆】 【六波羅評定衆】
| +―長井泰重―――+―長井頼重――――+―長井貞重―――――長井高広
| |(因幡守) |(因幡守) |(縫殿頭) (左近将監)
| | | |
| | | |【六波羅評定衆】
| | +―長井茂重 +―長井貞頼
| | (修理亮) |(左衛門尉)
| | |
| | +―運雅律師
| | (若宮別当)
| |
| | 【六波羅評定衆】
| +―長井泰元―――――長井泰茂――――+―長井頼茂
| (修理亮) (出羽守) |(出羽守)
| |
| +―長井頼秀
| |(左近将監)
| |
| +―長井貞頼
| (出羽守)
|
| 【関東評定衆】
+―那波宗元―――那波政茂―――――那波頼広――――――那波宗広―――――那波教元
|(掃部助) (刑部権少輔) (左近将監) (上総介) (四郎)
|
|【関東評定衆】 【六波羅評定衆】
+―毛利季光―――毛利経光―――――毛利時親――――――毛利貞親―――――毛利親茂
|(左近将監) (左近将監) (左近将監) (陸奥守)
|
+―海東忠成―――海東忠茂―――――海東広茂――――――海東広房
(刑部少輔) (美濃守) (因幡守) (左近将監)
元弘3(1333)年12月29日、尊氏は袖判の下文で「安保新兵衛殿(安保光泰)」に対して、「信濃国小泉庄内室賀郷地頭職事」を「勲功之賞」として補している(元弘三年十二月廿九日「足利尊氏袖判下文」『安保文書』)。これは、安保氏庶家である光泰が鎌倉陥落後に一早く尊氏の被官化し、尊氏が元弘3(1333)年6月から11月までの間で得た「小泉庄」(『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」)内の室賀郷を私的に与えたものである。当時、元弘三年「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)により、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」(『官宣旨案』)。こととされているが、「被官」に対しての規定はない(当然ながら御家人の被官にまでいちいち綸旨が下されない)。
●元弘3(1333)年12月29日「足利尊氏袖判下文」(『安保文書』)
また、建武2(1335)年7月20日、同じく袖判で「葦谷六郎義顕」に対して「勲功賞」として「越後国上田庄」内の秋丸村が宛がわれているが、これも安保新兵衛尉光泰と同様に被官への知行宛行である。秋丸村は元弘3(1333)年6月から11月までの間で得た「上田庄」(『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」)内の土地であり、葦谷義顕は足利家の根本御領である三河国「額田郡」の葦谷村(額田郡幸田町芦谷)を本貫とする人物であろう。一説にはこれら袖判下文を建武の新政の中での独立志向と結びつけて考える向きもあるが、これらは単なる被官への宛行であって、それほど大きな意味を持つものではない。
●建武二年七月廿日「足利尊氏袖判下文」(『思文閣古書資料目録』)
一方、同日には尊氏の一族「上椙兵庫蔵人殿(上杉憲房)」(『上杉文書』)、「上椙五郎殿(上杉重能)」(『上杉文書』)、「富樫介殿(富樫高家)」(元弘三年十二月廿九日「足利尊氏御教書写」『大阪四天王寺所蔵如意宝珠御修法日記裏文書』:『鎌倉遺文』32809)、に対して尊氏知行国(後年、護良親王を足利氏に委ねる際の口上が伊豆国配流であり、伊豆守は親族の上杉重能が務めていた)の伊豆国内に知行を安堵している。彼らに対しては袖判下文を用いていないが、彼らは建武政権に仕える武士であり、御家人でありながら特定の御家人の「御内」となることは鎌倉以来の通例であることから、こうした立場の人々であろう。富樫介高家は田方郡多留郷(三島市多呂)に知行を安堵されているが、宛行ではなく伊豆国内の富樫介領の追認ともとれるが、おそらくこれも「勲功之賞」であろう。
●元弘3(1333)年12月29日「足利尊氏御教書写」(『大阪四天王寺所蔵如意宝珠御修法日記裏文書』)
●元弘3(1333)年12月29日「足利尊氏御教書写」(『上杉家文書』)
●元弘3(1333)年12月29日「足利尊氏御教書写」(『上杉家文書』)
そして、後醍醐天皇還御前からいち早く設置されたのが、六波羅追討に功績のあった人々や参向する人々の着到を管理する「奉行所」で、おそらく5月半ばには置かれたとみられる。
当初は足利高氏と「左中将(千種忠顕)」の両名が奉行人を務めたとみられ、場所も高氏が居住していた三条坊門第に隣接(三条坊門通を挟む)する「於しこうち、まてのこうち、三條はうもんの中ほと、まてのこうち、おもてむね門」(『薩藩旧記』「山田文書」)する広大な一角に設置されており、旧御家人らの着到を受けて承了判を捺している。なお、天皇還御後は「蔵人式部少輔/左衛門権佐(岡崎範国)」「左少弁/蔵人右中弁(中御門宣明)」「右兵衛督長光(葉室長光)」「左少弁/右衛門権佐(高倉光守)」らも奉行人になっている。奉行所には5月25日に早くも「和泉国御家人日根野下総左衛門入道道悟」が「京都御合戦」に参じ着到を提出(『日根野文書』)。さらに5月27日に「美濃国御家人郡上郡鷲見藤三郎忠泰」が着到を提出(「美濃鷲見家譜」『鎌倉遺文』32227)。同日には「土佐国須留田式部大夫入道心了」も「令馳参上候、奉付于当御手、可致軍忠候」について進上している(『香宗我部文書』)。
一方、5月16日まで「二品親王令旨」であった大塔宮発給文書は、5月21日には「将軍家」御教書や「将軍家」令旨となっており、この間に大塔宮法親王が「将軍」を自称し(『金剛寺文書』)、以降、大塔宮は「将軍家」「将軍宮令旨」として振る舞った。これは守邦親王後の征夷大将軍継承を自称ながら印象づけるものか。
●元弘3(1333)年5月21日『大塔宮令旨』(『金子氏文書』)
●元弘3(1333)年5月21日『将軍家御教書』(『金剛寺文書』)
そして、各地で戦後処理が行われる中、後醍醐天皇の車駕と軍勢は播磨国揖西郡千本宿を出立して揖東郡箸崎宿に逗留。5月27日、書写山に登った(『書写山行幸記』)。天皇に供奉したのは「関白殿近衛南殿、別当殿洞院殿、五辻宰相殿、従三位行助、宮中将、山科中将、甲斐少将、一条中将行房、勘解由次官光守」ら公卿衆ほか官人や北面、ほか多くの人々であった。5月30日、車駕は兵庫に到着し、福巌寺に入御した(『太平記』)。また、5月28日には近江国に逗留を余儀なくされていた後伏見、花園院ならびに光厳上皇が京都へ還幸する(『皇代略記』)。
6月2日、後醍醐天皇の車駕は兵庫を出立すると「楠多門兵衛正成」(『太平記』)が一勢を率いて行幸の一行に参向。「摂津国西の宮といふ所」(『神皇正統記』)に遷った。そして6月4日、後醍醐天皇は東寺に行幸し「為御影堂御所」とした(『大乗院日記目録』)。翌6月5日に「如元入御二条富小路皇居、自立登極、但不及重祚礼、元号復元弘、元年九月已後任官叙位皆停廃之由被仰之、礼成門院如故為中宮、廃皇太子康仁」(『尊卑分脈』)と、入洛してもとの如く二条富小路邸を皇居と定め、改めて自身の退位と重祚を否定し、元号を元弘に復すとともに、光厳天皇在位中の叙位任官を停廃、皇太子康仁(甥の邦良親王の子)を廃し、礼成門院を中宮に定め、足利高氏には「聴内昇殿」した(『公卿補任』)。
高氏はこの頃に奉行所に届いた大友、武藤、島津氏からの「鎮西合戦之次第(鎮西三守護がすでに置判した着到状、軍忠状などの恩賞に関する書状がまとめて送られてきたのだろう)」を奉行人として奏聞。6月10日に「鎮西合戦之次第委細承候畢、早速静謐之条為悦候、且注進状之趣経 奏聞候了」(足利高氏書状『大友文書』「鎌倉遺文」32259、『島津家文書』「鎌倉遺文」32260)という書状を「大友近江入道殿」「嶋津上総入道殿」に遣わしている。おそらく武藤筑後入道妙恵にも同内容文書が送られたのだろう。その後、13日には「召人并降人等事、云預人云警固、可被致計沙汰之状」と「大友入道殿」に下知しており(「足利高氏施行状」『大友文書』「鎌倉遺文」32266)、高氏は鎮西の恩賞処理の仲介とともに、捕縛、降伏人等の処置を下達する立場でもあり、これは九州において先代一族らが引き起こした反乱においても、高氏(尊氏)が施行状を発給するなど、一貫したものだった。これは鎮西武家の統率及び叛乱の鎮定を行い得る人物が、足利高氏以外に存在しなかったためであろう。
そして、6月12日の除目で足利高氏は従四位下左兵衛督、弟の兵部大輔忠義(のち直義)は左馬頭に任じられた(『公卿補任』)。
●元弘3(1333)年6月12日除目
| 右大臣(還任) | 従一位 | 久我長通 |
| 内大臣(還任) | 正二位 | 洞院公賢 |
| 権中納言 | 従二位(昇叙) | 二条良基 |
| 参議(任) | 正三位 | 坊門清忠 |
| 弾正尹(任) | 従三位 | [晶灬]王 |
| 弾正大弼(任) | 正四位上 | 北畠顕家 |
| 侍従(任) | 正四位下 | 三条公忠 |
| 左中弁(任) | 従四位上 | 中御門経季 |
| 左兵衛督 | 従四位下(昇叙) | 足利高氏 |
| 左近衛中将(任) | 従四位下 | 久我通相 |
| 散位 | 従四位下(昇叙) | 中御門為治 |
| 左近衛少将(任) | 正五位下 | 洞院実夏 |
| 右衛門佐(任) | 正五位下 | 坊門信行 |
| 左馬頭(任) | 従五位下 | 足利忠義 |
一方、大和近辺で活動していた「大塔の法親王」の戦いは続いており、6月2日には千早・金剛山から撤退した関東勢が「楯籠」っていた南都興福寺に「大和国高間大弐行秀、同舎弟輔房快全」をはじめとする反関東の人々が押し寄せている(『妙巌寺文書』)。この寄手の大将は大塔宮近臣「中院中将定平」、搦手として「楠兵衛正成」が副えて遣わされたという(『太平記』)。一ノ木戸口、般若寺を固めていたのは「宇都宮、紀清両党七百余騎」であったが綸旨を受けて投降。戦いも旧関東勢の敗亡に終わり、6月5日には「依将軍家令旨」として「右中将(中院良定)」から「楯籠興福寺凶徒等、令参降人之間、既属静謐之上者、学侶並衆徒以下、悉可被還住寺院本坊之旨」が伝えられている(「小松文書」『鎌倉遺文』32239)。
尊雲法親王は6月13日に「みやこに入給」うたが、法親王は5、6月頃から「御ぐしおほして、江もいはすきよらなるおとこになり給」うとあるように、事実上還俗していた。なお、父帝は親王を「すみやかに将軍の宣旨をかうふり給」(『増鏡』)ったとあるが、「宮ハ司シ給キ、二品兵部卿護良親王ト申ス、征夷将軍ニナラヌ事ヲ鬱憤シテ、トカク思計給」(『保暦間記』)とあり、「将軍家」を自称する護良親王への将軍職補任はすぐには行われなかった可能性が残る。大塔宮は在京して旧御家人の代理人として多くの武士等と関わりを強めていた足利高氏を危険視していたとされ、「高氏兵権ヲ取テハ、昔ノ頼朝ニ替ヘカラス、此次ニ誅罰セラルヘシ」と父帝に申したというが、「帝サシモノ軍忠ノ仁ナリ」(『保暦間記』)として取り上げなかった。それでも大塔宮は「種々ノ謀ヲ廻シテ、高氏ヲ討ン」とし「其比畿内西国ノ武士、楠ナント申者ハ、皆彼宮ノ御方ナリケレハ、便宜アラハ、高氏ヲ討ント」したが、「東国ノ武士多ハ高氏方ナリケル上ニ、譜代ノ武勇ナレハ、輙モ討レス、将軍ニサヘ成サルヘシ」(『保暦間記』)という。
6月13日、大塔宮護良親王を征夷大将軍に補任した。ただし、護良親王(将軍宮)家が地頭職補任の御教書や御下文を発給した形跡はなく、護良親王の征夷大将軍職は鎌倉将軍家の職掌を引き継いだものではなく、具体的な職掌を持たない名目職と考えられる。そして、これまで将軍家家司や家政機関が行ってきた地頭職の安堵任免権、守護任免権、探題権、管理・監督権は朝廷直轄の組織として再編されたのである(建武の新政)。
なお、高氏を「去五日賜将軍宣旨、或作六月一日賜歟」(『続史愚抄』「後醍醐院後紀」元弘三年五月)、「元弘三五六為鎮守府将軍」(『武家年代記』)とするものもあるが、5月24日時点の高氏は「前治部大輔高氏」であり、高氏が「将軍(鎮守府将軍)」となったのは、早くとも5月末以降である。そして鎮守府将軍は北畠顕家奏上文(『建武年間記』)によれば「自置件職以降、以従五位上階為被相当」とあり、これは6月2日の後醍醐天皇還御当時の高氏の官位(従五位上)に合致していることを考えると、高氏の鎮守府将軍補任は6月12日の従四位下任官以前であり、6月5日の内昇殿勅許と同時に補任されたと考えるのが妥当であろう。ただし、「而多為当国刺史兼之、或為隣州牧宰任之」(『建武年間記』)とある通り、鎮守府将軍は本来陸奥守や出羽守との兼任が通例であったにも拘わらず、高氏が陸奥守や出羽守へ補任されなかったことを考えると、すでに後醍醐天皇の強力な国衙構築構想(皇帝宗族を諸侯王として地方に封じた中華的支配:とくに後漢初期を模倣していたか)が動き始めており、陸奥守の候補者(北畠顕家が当初から内定していたかは不明)は別にいたと考えられよう。
そして6月15日、朝廷は一連の動乱の平定を宣言し、所領は綸旨を以て証とするとした(元弘三年六月十五日『後醍醐天皇宣旨案』)。
●『後醍醐天皇宣旨案』(「河内金剛寺文書」『鎌倉遺文』32272)
また、16日にも同様の宣旨が下されていたようである。
●『陸奥守顕家袖判御教書』(「結城神社所蔵文書」)
ただ、これらの宣旨は、逆に言えば綸旨なき者はたとえこれまで正当に伝領していたとしても、いつ所領を没収されても反論できないばかりか、召し捕られる可能性すらあることを意味した。この「六月十五日宣旨」「六月十六日宣旨」が下されると、当然のことながら旧御家人は綸旨を求めて大挙して上洛を企てることが想定された。
彼ら旧御家人は上洛すると三条坊門の奉行所に着到状(及び軍忠状)を持ち込んで安堵綸旨を求めたが、その上洛途次は各地で混乱が生じ、「徒妨農業之条、還背撫民之義」があった。朝廷はこの事態を受けて、わずか一月後の7月25日と26日に「六月十五日宣旨」「六月十六日宣旨」を事実上撤回する「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)を出して、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」こととする宣旨を「五幾七道諸国」に下すこととなる(『官宣旨案』)。不用意な御家人の上洛を停止するとともに、未熟な庁務の混乱を避ける必要があったのだろう。
新田義貞は元弘3(1333)年10月に「上野国公田郷一分地頭伊達孫三郎入道道西」が所領安堵を求めたことへの12月5日付上野国宣(『伊達家文書』)、同じく元弘3(1333)年10月に「越後国小泉荘内加納色部惣領地頭色部三郎長倫」の所領安堵の求めに対する12月14日の越後国宣(『色部文書』)を発している。この国宣は同年「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)を受けて、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」(『官宣旨案』)こととする旨に従ったものである。重胤もこの恩恵にあずかっており(元弘三年七月十七日『後醍醐天皇綸旨』)、のちに10月に義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家が「陸奥国司・鎮守府将軍」として多賀城に入ると、12月、重胤は嫡子・相馬孫次郎親胤を代理としてに多賀城に派遣して所領安堵の「国宣」をもとめ、12月22日、『陸奥国宣』が出されて所領安堵された(『相馬重胤代親胤申状』)。
このころ、陸奥国府には陸奥国司北畠顕家が入部し鎮守府将軍を兼任した。関東に置かれた成良親王家(執権:左馬頭直義)と同様に義良親王家の家司(執権別当)は陸奥守顕家であろう。家政機関として政所が設置されており、執事には二階堂山城左衛門大夫顕行が就いていた。国府には顕家は探題職を兼ねたとみられ、式評定衆・引付・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行を統率したと思われる。
「式評定衆」には8人のうち、白河上野前司宗広入道・白河三河前司親朝・二階堂信濃守行朝入道行珍・二階堂山城左衛門大夫顕行・伊達左近蔵人行朝の5人までが奥州の有力者で占められている。北畠陸奥守顕家らは奥州の武士たちを統率する上で、彼らに偏諱を行っていたとも思われ、結城親朝・相馬親胤は北畠親房から、二階堂顕行は北畠顕家からそれぞれ偏諱を受けていると推測される。
●義良親王家職制
| 職 | 名前 | 説明 |
| 宮 | 義良親王 | 後醍醐天皇の皇子。のちの後村上天皇。下向時六歳。 |
| (家司別当カ) | 北畠顕家 | 従三位・陸奥守・鎮守府将軍。北畠親房卿の嫡男で、下向時十六歳。 |
| 式評定衆 | 冷泉源少将家房
式部少輔英房 内蔵権頭入道元覚 結城上野入道 信濃入道行珍 三河前司親朝 山城左衛門大夫顕行 伊達左近蔵人行朝 | 近衛少将。北畠親房の又従兄弟。 式部少輔。 内蔵権頭。 結城宗広。元御内人。滅亡後は朝廷に服す。伊勢で没する。 二階堂行朝。元関東吏寮。のち室町関東最初の政所執事。 結城親朝。結城宗広の嫡男。のち北畠氏と対立し、足利方に下る。 二階堂顕行。元関東吏寮。二階堂行朝の嫡男。 伊達行朝。南朝の忠臣として活躍。 |
| 引付衆一番 | 信濃入道
長井左衛門大夫貞宗 近江二郎左衛門入道 安威左衛門入道 五大院兵衛太郎 安威弥太郎 椙原七郎入道 | 二階堂行朝。元関東吏寮。 長井貞宗。 元関東吏寮。 元御内人。 五大院兵衛入道玄照。 元御内人。 元御内人。 元関東吏寮。 |
| 引付衆二番 | 三河前司
常陸前司 伊賀左衛門二郎 薩摩掃部大夫入道 肥前法橋入道 丹後四郎 豊前孫五郎 |
結城親朝。 元御内人。 |
| 引付衆三番 | 山城左衛門大夫
伊達左近蔵人 武石次郎左衛門尉 安威左衛門尉 下山修理亮 飯尾二郎 斎藤五郎 | 二階堂顕行。 伊達行朝。 元御内人。 元関東吏寮。 元関東吏寮。 |
| 政所執事 | 山城左衛門大夫 | 二階堂顕行。 |
| 評定奉行 | 信濃入道 | 二階堂行朝。 |
| 寺社奉行 | 安威左衛門入道
薩摩掃部大夫入道 | 元御内人 |
| 安堵奉行 | 肥前法橋
飯尾左衛門二郎 | |
| 侍所 | 薩摩刑部左衛門入道 | 子息・五郎左衛門尉親宗が勤める。 |
建武2(1335)年6月3日、重胤は行方郡奉行職を拝任し、同日「陸奥国伊具・亘理・宇多・行方郡、金原保」の検断職を武石上総権介胤顕とともに任命された(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬文書』)。
■奥州検断職(奥州南部)
| 地区:( )内は想像の検断任郡 | 検断職 | 出典 |
| (伊具郡、亘理郡)、宇多郡、行方郡 (金原保) ⇒同日、行方郡の奉行を拝命している。 |
相馬孫五郎重胤 | 建武二年六月三日「陸奥国宣」 (『相馬文書』) |
| 伊具郡、亘理郡、(宇多郡、行方郡) 金原保 |
武石上総権介胤顕 | 建武二年六月三日「陸奥国宣」 (『相馬文書』) |
| 岩城郡 | 岩城弾正左衛門尉隆胤 ※『飯野八幡文書』元亨四年文書の 岩崎弾正左衛門尉隆衡と同一人物か |
建武元年三月廿八日「沙弥某遵行状」 |
| 白河郡、高野郡、岩瀬郡、安積郡 石河庄、田村庄 依上保、小野保 |
結城参河前司親朝 | 建武二年十月廿六日「陸奥国宣」 (『白河結城文書』) |
こうして武石氏とともに陸奥国海道四郡の検断権を握った重胤は、同年7月3日、さっそく従弟の相馬孫次郎行胤に対して出された行方郡大悲山村安堵についての『陸奥国宣』に従い、『相馬重胤打渡状』を28日に発給している。行胤は重胤の従弟というだけではなく、行胤の嫡子・相馬五郎朝胤と重胤娘が結婚している関係から、大悲山相馬氏に対する重胤の信頼ぶりは群を抜いていた。
●相馬重胤周辺系図
・相馬胤村―――+―師胤―――重胤――+―親胤――――松鶴丸(胤頼)
(五郎左衛門尉)|(彦次郎)(孫五郎)|(孫次郎)
| |
| +―光胤====松鶴丸(胤頼)
| |(弥次郎)
| |
| +―娘
| ∥―(?)―松鶴丸(胤頼)
+―通胤―――行胤――+―大久朝胤
(与一) (孫次郎)|(五郎)
|
+―鶴夜叉===松鶴丸(胤頼)
同じく7月、関東では北条時行(最後の得宗・北条高時の遺児)が信濃国諏訪で挙兵し、足利直義(尊氏弟)が守る鎌倉を攻め落とすという事件が起こった。この叛乱を「中先代の乱」という。このとき直義は、後醍醐天皇の勘気を受けて鎌倉に移された大塔宮護良親王を預かっており、鎌倉陥落の際に宮を暗殺して鎌倉を脱出した。
一方、鎌倉危うしの一報を得た足利尊氏(後醍醐天皇の御諱”尊治”の一字を賜って、高氏を尊氏に改名)は、鎌倉を落とした中先代軍追討のために「直義朝臣、無勢にして禦き戦ふべき智略なきに依て、海道に引退よし其聞え有る上ハ、暇を賜り合力を加ふべき旨」を奏聞するが、勅許が下りることはなかった(『梅松論』)。尊氏は「所詮私にあらず、天下の御為」と称して、8月2日に独断で在京武士に呼びかけて鎌倉へ向かった。
8月7日に三河国八橋に至り、矢作の足利家領で三河足利党や鎌倉から落ち延びてきた直義らと合流を果たした。そして8月9日、遠江国橋本においてはじめての中先代軍との合戦となり、千田太郎胤貞・安保丹後権守光泰の両名が先駆けて高名を挙げる。8月12日には小夜中山で合戦、8月14日には駿河国府で中先代軍大将・尾張次郎(名越尾張守高家の子か)を打ち破り、塩田陸奥八郎(塩田陸奥守国時の子か)らを生け捕った。そして17日の箱根合戦、18日の相模川合戦、19日の辻堂片瀬原合戦で中先代軍を追捕し、鎌倉奪還に成功する(『梅松論』、「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」:『神奈川県史』史料編中世』)。なお17日の筥根合戦は、水飲、葦河上、大平下、湯本地蔵堂で合戦が行われたが、この合戦に重胤の嫡子・孫次郎親胤が加わっていた可能性がある。
当時すでに相馬氏被官であったことが確実な須江氏の系譜に、須江時胤と子の八郎近春・木幡彦助久胤の父子三人が「建武二年乙亥於箱根水飲坂合戦」で勲功をあげ、「吉良左京太夫」から賞されたという記録が残されている。この記述が事実であれば、須江氏は相馬氏の被官として重胤または親胤とともに加わったと推測されるが、重胤は当時奥州小高にあったことから、親胤が足利尊氏の鎌倉下向軍に従軍していたのだろう。
須江一八郎胤春の子・須江文八郎春村は「母相馬胤村妹」とあることから、これも事実であれば須江氏は相馬氏とは比較的血縁の近い被官層であったことになるが、胤村の姉妹として実在が確実なのは、足助尼、二女子(摂津大隅前司妻)、三女子(島津下野入道後家)の三名のみであり(「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」『島津家文書』)、これは須江氏の系譜上の伝であろう。
春村の子が、筥根合戦で功績を挙げた須江備中時胤である。時胤は斯波家長とともに鎌倉に上った重胤に従い、京都から奥州へ帰還する途次の北畠顕家の軍勢と戦い、鎌倉法華堂下で討死を遂げたという(『衆臣家譜』須江氏)。
+―相馬胤村―――――相馬師胤―――相馬重胤―+―相馬親胤
|(孫五郎左衛門尉)(孫次郎) (孫五郎) |(孫次郎)
| |
| +―相馬光胤
? 須江胤春 (弥次郎)
相馬尼 |(一八郎)
(天野氏) | ∥――――――――須江春村―――須江時胤―+―須江近春
∥―――――――+―妹 (文八郎) (備中守) |(八郎)
相馬胤綱 |
(小次郎左衛門尉) +―木幡久胤
(彦助)
●『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』
| 日 | 宿 | 合戦 | 中先代勢 | 足利勢高名 |
| 8/2 | 野路(近江国栗太郡) | |||
| 8/3 | 四十九院(近江国犬上郡) | |||
| 8/4 | 垂井(美濃国不破郡) | |||
| 8/5 | 垂井(美濃国不破郡) | |||
| 8/6 | 下津(尾張国中島郡) | |||
| 8/7 | 八橋(三河国碧海郡) | |||
| 8/8 | 渡津(三河国宝飯郡) | |||
| 8/9 | 橋本(遠江国敷智郡) | ● | 千田太郎胤貞 安保丹後権守光泰 | |
| 8/10 | 池田(遠江国豊田郡) | |||
| 8/11 | 懸河(遠江国佐野郡) | |||
| 8/12 | 小夜中山(遠江国佐野郡) | ● |
・備前新式部大夫入道 (佐竹上総入道に討たれる) ・宇都宮能登入道 (天野氏に討たれる) | 今川式部大夫入道(省誉:頼基) 佐々木佐渡判官入道(道誉:高氏) 宇都宮三河権守(時綱) 宇都宮遠江前司(貞泰) 宇都宮兵庫助 長井治部少輔(時春) 佐竹上総入道(道源:貞義) 天野一族 |
| 8/13 | 藤枝(駿河国志太郡) | |||
| 8/14 | 駿河国府(駿河国府) ⇒興津宿 | ● | ・尾張次郎(自害) ・塩田陸奥八郎(生捕) ・諏訪次郎(生捕) | 上杉蔵人修理亮(重頼) 細川阿波守(和氏) 高尾張権守(師兼) 大高伊予権守(重成) 高豊前権守(師久) |
| 8/15 | 蒲原(駿河国庵原郡) | |||
| 8/16 | 伊豆国府(伊豆国田方郡) | |||
| 8/17 | 筥根(相模国足柄下郡) ⇒小田原上山野宿 | ● | 三浦若狭判官(時明) |
長井左衛門蔵人 佐々木佐渡判官入道 大須賀左衛門尉 大類五郎左衛門尉 片山兵庫 |
| 8/18 | 相模川 ⇒十間酒屋上野宿 | ● |
【主だった味方討死】 今川式部大夫入道 小笠原七郎父子 小笠原彦次郎父子 佐々木壱岐五郎左衛門尉 二階堂伯耆五郎左衛門尉(行脩) 二階堂七郎(行登) 松本小次郎氏貞 | |
| 8/19 | 辻堂片瀬原⇒鎌倉下着 | ● |
【降人】 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉 海上筑後前司(師胤) 天野三河権守(貞村) 伊東六郎左衛門尉 丸六郎 奥五郎 諏訪三河権守頼重法師 | 【主だった味方討死】 三浦蘆名判官入道道円(盛員) 三浦蘆名六郎左衛門尉(高盛) 土岐隠岐五郎(貞頼) 土岐兵庫頭(伯耆頼貞入道存孝孫) 味原三郎 【手負人】 佐々木備中前司父子 大高伊予権守 味原出雲権守 ほか |
天皇は尊氏の功績を認め、帰洛を命じる勅使を送るが、尊氏はこれを無視する。さらに独断で「奥州総大将」として若き十五歳の一門・尾張弥三郎家長(斯波家長)を奥州に派遣して陸奥国府に対抗させた。そして10月、朝廷は勅命を無視した尊氏を「逆賊」とし、新田左衛門佐義貞を総大将とする尊氏討伐軍が鎌倉へ派遣された。しかし、尊氏は箱根竹之下において朝廷軍にいた佐々木道誉・塩谷高貞ら佐々木一族を内応させて朝廷軍を壊滅させ、その勢いのまま尊氏は京都へ攻め上った。この足利勢に重胤嫡子・相馬孫次郎親胤が従っている。
重胤自身もこの直後、武石上総権介胤顕とともに奥州惣大将・斯波家長を亘理郡川名村に出迎えて朝廷に反旗を翻した。どのような経緯で重胤が朝廷を見限り足利勢に加担することになったのかは不明である。このころ奥州では鎮守府将軍・北畠陸奥守顕家と奥州総大将・斯波家長が激しく対立していたが、北畠顕家は12月末、勅命を受けて帰洛することとなり、結城上野前司宗広入道・伊達左近蔵人行朝らを率いて多賀鎮守府を出陣した。
顕家上洛の報を受けた斯波家長は、北畠顕家追撃の軍勢を集めたが、重胤は万が一の討死を考え、出陣の直前の11月20日、「次郎」「松犬」「大悲山五郎殿女房」の三人の子に譲状を発給した(「相馬重胤譲状」:『相馬文書』)。さらに一族の相馬五郎胤康・相馬七郎胤治の兄弟へも譲状を遺した(『相馬胤康譲状』・『相馬胤治譲状』)。もし足利方が不利と伝わってきても決して朝廷方につくことはせず、弓箭の名を重代に遺すように命じており、強い反朝廷の意志が感じられる。
●建武2(1335)年11月20日『相馬重胤譲状』の処分内容
| 人物 | 所領 | 詳細 | 除外分拝領 |
| 次郎(相馬親胤) | 陸奥国行方郡小高村
高村 目々沢村 堤谷村 小山田村 堰沢村 盤﨑村 下総国相馬郡増尾村 | 九郎左衛門尉の給分の田在家一軒(除外)
矢河原の後家尼の田在家一軒(除外) 彦三郎入道の居内の田在家一軒 (除外) たかの蔵人の後家尼の田在家一軒(除外) もんまの孫四郎の居内の田在家 (除外) さうきやう房か田在家(除外) ―――――――――――――――― とう三郎の田在家一軒(除外) ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― 釘野の田在家(除外) かくまさわの伊予房が屋敷田在家一軒(除外) 彦四郎の給分の田在家一軒 (除外) いやけんし入道か田在家一軒(除外) | →大悲山五郎殿女房
→弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →※ |
| 松犬(相馬光胤) | 陸奥国行方郡耳谷村
村上浜 盤﨑村釘野内 高村 小高村 鳩原村 下総国相馬郡粟野村 薩間村 | ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― かくまさわの伊予房の屋敷田在家一軒 孫四郎の給分関根の屋敷田在家一軒 矢河原十郎後家尼の田在家一軒 彦三郎入道の居内の田在家一軒 ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― 山ふしうちの田在家一軒(除外) | →※ |
| 大悲山五郎殿女房 | 陸奥国行方郡小高村 | 九郎左衛門給分田在家一軒 |
※…相馬(岡田)胤家が、嫡子・五郎胤重に宛てた『貞治2(1363)年8月18日・相馬胤家譲状』のうちに
・下総国薩間村内やまふし内の田在家一軒
・下総国増尾村のいやけし入道の田在家一宇
合わせて二宇が手継證文とともに譲り渡されたとある。同日付の譲状は合計四つ(下図参照)。
●『相馬胤家譲状』の処分内容
| 譲状 | 所領 | 譲状の性質 |
| 『相馬胤家譲状』 一 | 陸奥国行方郡岡田村
八兎村 矢河原村 上鶴谷村 院内村 飯土江狩倉 高城保波多谷村 下総国相馬郡泉村 薩間村やまふし内の田在家一軒 増尾村いやけし入道の田在家一宇 | 譲渡の所領すべて |
| 『相馬胤家譲状』 二 | 陸奥国行方郡岡田村
八兎村 矢河原村 上鶴谷村 院内村 飯土江狩倉 高城保波多谷村 下総国相馬郡泉村上柳戸 金山 船戸 | 岡田相馬氏伝来分 |
| 『相馬胤家譲状』 三 | 下総国相馬郡薩間村やまふし内の田在家一軒
増尾村いやけし入道の田在家一宇 | 相馬惣領家伝来分 |
| 『相馬胤家譲状』 四 | 陸奥国行方郡院内村上下田在家 | 新給知行分 |
譲状一…譲る知行地すべて
譲状二…一の所領のうち、岡田相馬氏に代々伝えられてきた所領
譲状三…一の所領のうち、もともとは相馬本宗家の所領だったところ
譲状四…建武4(1337)年頃に安堵された「院内村三分一」について記されており、新給知行地。
これらは知行ルートの違いがあり、そのルートごと、手継證文ごとにまとめられて作られた譲状だったのだろう。「薩摩村」の「やまふし内の田在家」、「増尾村」の「いやけし入道田在家」については、重胤から親胤への譲状で除かれているため、建武2(1335)年11月の時点ですでに相馬胤家(岡田氏祖)に譲られていた所領とみられる。重胤がなぜあえて遠縁(従兄弟の孫)の相馬胤家へ二か所の所領を譲ったのかは不明である。
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| 増尾山少林寺(重胤墓所) |
重胤は次男・相馬弥次郎光胤・相馬五郎胤康(岡田祖)・相馬孫次郎行胤(大悲山祖)らを率い、奥州総大将・斯波家長に従って北畠顕家を追捕すべく鎌倉へ向かった。そして、顕家が鎌倉を発つとたちまち鎌倉を占領し、彼の再下向に備えた。
しかし、ここで重胤は小高城の留守として次男・光胤ら相馬一族に小高へ帰るよう指示し、この際に相馬孫次郎行胤に渡された『相馬重胤定書』写しが遺されている(「相馬重胤定書」『相馬文書』)。
建武3(1336)年正月13日、北畠顕家は比叡山麓坂本において新田義貞・楠木正成・千葉介貞胤らと合流し、16日、足利方が占領していた京都に攻め入り、足利勢を駆逐する。尊氏は摂津から播磨へ逃れ、さらに九州へと落ちていった。しかし、逃れながらも中国・四国地方には赤松円心・細川定禅ら、足利方の諸将を配置して再上洛に備えるという周到振りだった、九州へ向かったのは義弟・赤橋英時(九州探題)の勢力下であった九州御家人層を味方につける目的であった可能性もあるか。
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| 増尾山少林寺 |
京都を平定した北畠顕家は3月、義良親王を奉じてふたたび奥州に下向し、その途次、4月16日に鎌倉郊外の片瀬川において、斯波家長勢と激戦を繰り広げた。この戦いで斯波家長に属して戦った相馬勢だったが、相馬泉胤康や文間胤往らが討死を遂げている。重胤はからくも鎌倉まで逃れたが、北畠勢が鎌倉に乱入するに及び、「法花堂下自害」を遂げた。この「法花堂」は右大将家法華堂のことで、頼朝墓所と思われる。正確な没年齢は不詳だが、前述のように譲状発給時の状況を考慮すると五十歳程であろう。重胤の墓と伝えられる墓塔が柏市増尾の増尾山少林寺に遺されている。
相馬重胤の妻は三春庄の「田村三河前司宗猷」の娘(養女)で、重胤と結婚したのは重胤の奥州下向後と思われる。重胤の奥州下向は、嫡男・親胤(孫次郎)の活躍時期を考えると、重胤と彦犬(胤門娘)の相論の和與状が発給された嘉元元(1303)年12月から数年間あたりとも思われる。元弘3(1333)年7月17日の『後醍醐天皇綸旨』の別紙には、
とある。これは「別紙」であるため、当時のものかどうかは不明ながら、藤原氏女=重胤妻の母は夫の死後、田村入道宗猷に嫁したとされ、藤原氏女の実父は「伊達・信夫・安達郡」に所領を持っていた藤原氏を称する人物、つまり伊達氏と思われる。この重胤の妻と見られる女性は、元弘3(1333)年6月5日当時「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」とあるように、田村郡七草木村の地頭職であったことがわかる(「田村宗猷女子藤原氏女代超円着到状」『相馬文書』)。
相馬師胤
(彦次郎)
∥
∥―――――――相馬重胤 +―相馬親胤
∥ (孫五郎) |(孫次郎)
女子 ∥ |
∥―――――+―相馬光胤
伊達氏か――+―女子 (弥次郎)
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(?)
+―伊達高景
|(与一)
|
+―伊達光義
(与三)
建武3(1336)年3月3日の『相馬光胤着到状』には北畠顕家に備えるために小高城籠城に参じた相馬一族が記され、その中に「伊達与一高景」「伊達与三光義」の二名の伊達氏が記されている。彼らと光胤の母は親戚の可能性もあり、同じく「新田左馬亮経政」は、相馬義胤の娘・土用御前が「陸奥国行方郡千倉庄」を持参して嫁いだ「新田岩松時兼」の子孫であろう。観応2(1351)年11月26日に吉良貞家が発給した文書に「陸奥国行方郡千倉庄内闕所分 新田左馬助当知行分除之」(観応二年十一月廿廿六日「吉良貞家奉書」)とある。