■相馬岡田氏の歴代
代数 | 名前 | 生没年 | 初名 | 通称・官途(名) | 号 | 父 | 母 | 妻 |
初代 | 相馬胤顕 | ????-1285 | 彦三郎、五郎 | 相馬胤村 | ? | 尼妙悟 | ||
2代 | 相馬胤盛 | ????-???? | 小次郎 | 相馬胤顕 | 尼妙悟? | 尼専照 | ||
3代 | 相馬胤康 | ????-1336 | 五郎 | 相馬胤盛 | 尼専照 | 相馬六郎胤平娘 | ||
4代 | 相馬胤家 | ????-???? | 乙鶴丸 | 小次郎、常陸介、兵衛尉 | 浄賢 | 相馬胤康 | ||
5代 | 相馬胤繁 | ????-1381? | 胤重 | 五郎、常陸五郎、宮内丞 | 相馬胤家 | |||
6代 | 相馬胤久 | ????-???? | 鶴若丸 | 小次郎、宮内大夫 | 相馬胤繁 | |||
7代 | 岡田胤行 | ????-???? | 豊鶴丸 | 左京亮 | 相馬胤久 | |||
8代 | 岡田盛胤 | ????-???? | 次郎三郎 | 岡田胤久? | ||||
? | 岡田信胤 | ????-???? | 伊予守 | 岡田胤行? | ||||
? | 岡田基胤 | ????-???? | 小次郎 | 岡田基胤? | ||||
9代 | 岡田義胤 | ????-???? | 安房守 | 岡田基胤? | ||||
10代 | 岡田茂胤 | ????-???? | 鶴若丸 | 治部太輔 | 岡田義胤? | |||
11代 | 岡田直胤 | 1560?-1591? | 鶴若丸 | 右兵衛太夫 | 岡田茂胤 | 草野直清娘 | ||
12代 | 岡田宣胤 | 1584-1626 | 鶴若丸 | 小次郎、出雲、八兵衛 | 桂月 | 岡田直胤 | 草野直清娘? | |
中村藩御一家筆頭岡田家 | ||||||||
初代 | 岡田重胤 | ????-1650 | 鶴若丸 | 源内、八兵衛 | 岡田宣胤 | 下浦修理娘 | ||
2代 | 岡田長胤 | 1634-1659 | 左門、監物 | 岡田長次 | 下浦修理娘 | |||
3代 | 岡田信胤 | 1654-1669 | 小次郎 | 岡田長胤 | 青田高治娘 | |||
4代 | 岡田伊胤 | 1656-1731 | 三之助 | 与左衛門、監物 | 中村俊世 | 青田高治娘 | 岡田長胤娘 | |
5代 | 岡田知胤 | ????-???? | 千五郎 | 宮内、監物、内記、靱負 | 岡田伊胤 | 岡田長胤娘 | 堀内辰胤娘 | |
6代 | 岡田春胤 | 1709-1755 | 専之助 | 監物 | 岡田知胤 | 堀内辰胤娘 | 堀内胤重娘 | |
7代 | 岡田徃胤 | 1728-???? | 専五郎 | 直衛、監物 | 岡田春胤 | 堀内胤重娘 | 太田清左衛門娘 | |
8代 | 岡田直胤 | ????-???? | 和多利 | 帯刀、監物、靱負 | 岡田春胤 | 太田清左衛門娘 | 堀内胤長娘 | |
9代 | 岡田半治郎 | ????-1774 | 半治郎 | 岡田直胤 | 堀内胤長娘 | 佐藤元重娘 | ||
10代 | 岡田恩胤 | 1766-1817 | 常五郎、将胤 | 監物 | 岡田徃胤 | 佐藤元重娘 | ||
11代 | 岡田清胤 | 1797-1828 | 帯刀 | 岡田徃胤 | 相馬祥胤娘 | |||
12代 | 岡田智胤 | ????-1853 | 純太郎 | 帯刀 | 岡田清胤 | 相馬仙胤娘 | ||
13代 | 岡田泰胤 | 1840-???? | 直五郎 | 監物 | 相馬益胤 | 御内証於藤 |
■相馬岡田氏当主
相馬岡田氏三代惣領。相馬小次郎胤盛の嫡子。母は某氏(専照尼)。妻は相馬六郎左衛門尉胤平娘(『西内氏系図』)。通称は五郎。
胤康の名が初めて現れるのは正和4(1315)年8月7日『尼妙悟譲状』で、祖母の尼妙悟より「なめかたのこをりのうちやつうさき(行方郡八兎)」を譲られた。
岡田館(南相馬市小高区) |
伝承によれば、胤康は元亨3(1323)年4月、父・相馬小次郎胤盛とともに叔母夫・相馬孫五郎重胤の奥州下向に同行し、胤顕以来の所領であった行方郡岡田村(南相馬市小高区岡田)の館(岡田館)に入ったとするが、父・胤盛は元応2(1320)年3月8日時点ですでに亡くなっていることから、この伝が正しいとすれば相馬氏の北遷は元応元年以前ということになろうか。
岡田氏が館を構えたのは、小高城から南に約1.5キロの地点にある高台で、現在は岡田氏が祀った「初発神社(妙見神社)」が建立されている。明治39(1906)年、岡田五郎(岡田監物泰胤)が先祖伝来の槍を奉納した。
元応2(1320)年3月8日、胤康の母・尼恵照は、「五郎たねやす」に「しもつさのくにみなミさうまのうちいつミのむら、ならひにむつのくになめかたのこをりをかたのむら(下総国南相馬郡泉村、陸奥国行方郡岡田村)」を「そうりやうしき(惣領職)」として永代知行すること、また「いゝとゑかりくら(飯土江狩倉)」は「六郎なかたね」および「つる(乙鶴丸)」の分を除いて知行すべしとする譲状を発給した。さらに、この譲状に従わぬ者があれば「ふけうのしん(不孝の仁)」として、その所領は「そうりやう、しむたいりやうすへし(惣領、進退知行すべし)」と、胤康にその処置を任せた。この譲状は幕府にも提出され、元亨元(1321)年12月15日、執権・北条相模守高時と連署・北条前武蔵守貞顕が譲状に裏書きしてこれを証した(『尼専照譲状』)。
譲る人物 | 譲られる人物 | 国郡 | 村 |
尼専照 | 相馬五郎胤康 | 下総国南相馬郡 |
泉村 |
陸奥国行方郡 | 岡田村 | ||
飯土江狩倉(※長胤、鶴分を除く) | |||
相馬六郎長胤 | 陸奥国行方郡 | 飯土江狩倉※ | |
相馬鶴 (孫の乙鶴丸) |
陸奥国行方郡 | 飯土江狩倉※ |
元徳3(1331)年9月26日、胤康は嫡男・乙鶴丸(胤家)に相馬郡泉村(金山・上柳戸・船戸)、行方郡岡田・八兎・飯土江狩倉の譲状を発給した(『相馬胤康譲状』)。この譲状に「ちゃくしつるをそうりやうとして(嫡子、鶴を惣領として)」とあるようにに乙鶴丸を「惣領」とすることを明記した。また、胤家の妹や弟たちにも所領を譲ったが、「女子分・女房分」については「つるかはからいとしてもたすへし、一こよりのちハつるかもつへし(鶴が計らいとして持たすべし、一期より後は鶴が持つべし)」というように乙鶴丸の権限で与えられ、彼女たちの跡は乙鶴丸が相続すべき由が書かれている。
譲る人物 | 譲られる人物 | 内容 |
相馬胤康 | 相馬乙鶴丸(長男) | 下総国相馬郡:泉村内(金山・上柳戸・船戸) 陸奥国行方郡:岡田村・八兎・飯土江狩倉一所(庶子分は除く) |
相馬孫鶴(次男) | 下総国相馬郡:泉村内(六郎入道が田八反小、栗原孫太郎が田四反三百歩を除く) 陸奥国行方郡:岡田村内(五郎兵衛入道が田九反三合、太郎かく内田二町を除く) |
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僧一房(三男) | 陸奥国行方郡:岡田村内(斎藤内田八反、うきめんの田二反、合一町を除く) | |
女子分 | 下総国相馬郡:泉村内(つし内田四反半を除く) 陸奥国行方郡:岡田村内(平三太郎内半分田一町四反を除く) |
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女房の分 | 下総国相馬郡:泉村内(貉内田五反小、岡田に平三太郎うち半分田一町四反を除く) |
建武元(1334)年8月1日、北畠陸奥守顕家によって相馬郡手賀村・藤心村(千葉県柏市手賀、藤心)の知行が認められた。この二所は遠祖・相馬五郎義胤が娘(土用御前)へ与えた所領であったが、その後、土用御前が新田岩松氏に嫁ぐこととなり、手賀村、藤心村は新田岩松氏に伝領されていた。
翌建武2(1335)年3月25日、陸奥国黒川郡新田村を新たに賜った(建武二年三月廿五日『陸奥国宣』)。相馬惣領家の相馬孫五郎重胤も諸所の安堵を受けており、相馬一族は後醍醐天皇の建武新政府に服していた。
しかし、建武2(1335)年7月、北条時行(最後の得宗・北条高時の遺児)が信濃国諏訪で挙兵して、足利直義(尊氏弟)が守る鎌倉を攻め落とすという事件が起こった。この叛乱を「中先代の乱」という。この乱をきっかけに「建武の新政」がほころびを見せ始める。
鎌倉危うしの報を受けた足利尊氏(高氏改め)は、中先代軍追討のための鎌倉下向を要求したものの後醍醐天皇は許可しなかった。勅許が降りないことに痺れを切らした尊氏は、独断で在京の武士をまとめ、鎌倉へ攻め下った。途中、三河国の足利家領で吉良・今川氏らの手勢を加え、さらに鎌倉から逃れてきた直義勢をも加え、8月、鎌倉を攻め落とした。
後醍醐天皇は、勅許を得ずに出兵したものの乱を鎮定した尊氏の功績を誉め、ただちに京都へ戻るように勅使を遣わすが、尊氏はこれを無視。独断で一族の猛将・斯波家長を「奥州総大将」として奥州に派遣し、陸奥国府(北畠陸奥守顕家)に対抗させた。こうした行動に対し10月、朝廷は尊氏を「逆賊」と定め、新田左近衛中将義貞を総大将に勅任し、尊氏追討軍を鎌倉へ派遣した。
東海道を攻め下る新田勢に対し、足利勢は劣勢に立たされたが、鎌倉を目前にした箱根竹之下の戦いにおいて、足利勢は新田勢を瓦解させた。そして、尊氏はそのまま京都に攻め上ることとなるが、この足利勢に相馬重胤の嫡子・孫次郎親胤が従っている。重胤自身もこの直後、奥州探題・斯波家長を亘理郡川名村に出迎え、新政府に反旗を翻した。
奥州では北畠陸奥守顕家と奥州探題・斯波家長の対立が激しくなっていたが、北畠顕家は勅命によって上洛(京都に攻め上る尊氏を追撃させるため)することとなり、結城上野前司宗広入道・伊達左近蔵人行朝らを率いて奥州多賀鎮守府を出陣した。顕家上洛の報を受けた斯波家長は追撃軍を集め、相馬家にも招集がかかった。そのため、重胤は自分の討死を考えたか、出陣直前の11月20日に3人の子に譲状を発給した。
一方、胤康の弟・七郎胤治も重胤と同日11月20日、養子の「わらへ」に「しもつさのくにみなミさうまのいつミのむらうちせい太郎まこ太郎かたさいけ、みつのくになめかたのこをりをかたのむらのうちいや二郎入たうかたさいけ、すんちうかたさいけ(下総国南相馬郡泉村内処々、陸奥国行方郡岡田村処々)」を譲り渡す譲状を発給した。また、胤康も12月20日、子の胤家に「陸奥国行方郡院内(庶子分除く)・八兎・飯土江山、高城保波多谷、黒川郡新田村」を譲りわたした(『相馬胤康譲状』)。
譲る人物 | 譲られる人物 | 国 | 郡 | 村 |
相馬胤康 | 相馬小次郎胤家 | 陸奥国 |
行方郡 | 院内村(庶子分除く) |
八兎村 | ||||
飯土江山 | ||||
高城保 | 波多谷村 | |||
黒川郡 | 新田村村 | |||
相馬胤治 | 養子の童 | 下総国 |
相馬郡 | 泉村 ・せい太郎田在家 ・孫太郎田在家 |
陸奥国 | 行方郡 | 岡田村 ・弥二郎入道田在家 ・すんちう田在家 |
重胤は次男の相馬弥次郎光胤、相馬五郎胤康、相馬孫次郎行胤(大悲山祖)らを率い、奥州総奉行・斯波家長に従って鎌倉へ上り、顕家が鎌倉を発つとたちまち鎌倉を攻め落とし彼の再下向にそなえた。しかし、重胤は留守にしている所領が標葉氏ら宮方に攻められることを恐れ、2月18日に遺言ともいえる譲状を次男・光胤に与えて奥州に戻らせ、在国の一族を率いて足利方を貫いて所領を守るよう言い渡した。それに応えた光胤は3か月後の5月24日、小高城で壮烈な戦死を遂げることになるが、それは後のこと。
建武3(1336)年正月13日、北畠顕家は比叡山麓坂本において新田義貞・楠木正成・千葉介貞胤らと合流し、16日、足利方が占領していた京都に攻め入った。戦いは足利方の惨敗に終わり、尊氏は摂津から播磨へ逃れ、九州へ落ちていった。
京都を平定した北畠顕家は3月、ふたたび奥州下向を命じられ、義良親王を奉じて東へ向かった。そして鎌倉を攻め落とすべく大軍を差し向け、4月16日、鎌倉西郊外の片瀬川において、斯波家長勢と北畠顕家勢は激戦となった。この戦いで胤康は若党の飯土江彦十郎義泰とともに討死を遂げた。没年齢不明。重胤はからくも鎌倉まで逃れたが、北畠勢が鎌倉に乱入するに及び、逃れられないことを悟って、頼朝の墓所の側、法華堂に籠もり自刃した。
5月3日、左衛門尉為盛という人物が、鎌倉奉行所に相馬重胤・岡田胤康討死を伝え、斯波家長も建武4(1337)年8月18日、相馬重胤・岡田胤康討死と功績を鎌倉奉行所に届け出た(『左衛門尉為盛軍忠状写』)。
●胤康の兄弟●
小高城(小高神社) |
通称は六郎、小六郎。胤康の弟。
元応2(1320)年3月8日、胤盛跡の所領を譲られた。翌元弘3(1333)年6月11日には軍勢催促に応じ『着到状』を提出している(『相馬長胤着到状』)。この半月前の5月22日、新田義貞によって鎌倉は落とされ、義貞と足利千寿王によって鎌倉の一時統治が行われていた。
長胤は惣領である兄・胤康に従っていたと思われ、建武3(1336)年3月13日、宇多庄で宮方に応じて挙兵した黒木入道・福嶋氏・美豆五郎入道らを惣領代・相馬光胤とともに出陣して平らげ、3月23日に小高に攻め寄せた広橋経泰ら宮方の軍勢を迎え討って翌日壊滅させた。さらに、3月27日には標葉庄の標葉一族との戦いに出陣し、負傷したものの、弟・七郎胤治とともに彼ら一党を捕らえている(『相馬長胤軍忠状』)。
しかし、足利尊氏を京都に破って奥州に帰還してきた北畠顕家が5月に小高城を囲んで攻め立てた。長胤は宗家・相馬重胤の次男で惣領代の弥次郎光胤に従って守ったが、衆寡敵せず、5月24日に小高城は落城。長胤はじめ相馬一族数名が戦死を遂げた。長胤の家臣・田中八郎三郎もこのとき戦死している。
長胤には子息・孫鶴丸がおり、孫鶴丸ほか彼の従兄弟三人はそれぞれの父の戦死後に斯波家長へ所領安堵を申し出た(『斯波家長挙状案』)。ただし、現在まで伝わっているのは、従兄弟の「竹鶴丸」「福寿丸」の『申状案』だけで、孫鶴丸の申状は残されていない。その後孫鶴丸がどのように成長したかも不明である。
通称は七郎。建武3(1336)年3月27日の標葉一族との戦いでは、兄の長胤とともに出陣して奮戦し、馬は射られたものの、標葉一党を捕らえる軍功をあげた(『相馬長胤軍忠状』)。この戦いで若党・又三郎も馬を射られた。
同年5月24日、小高城で北畠顕家と戦って戦死した。所領は下総国相馬郡泉村に一か所、陸奥国行方郡岡田村に一か所あり、建武2(1335)年11月20日、養子の幼児・竹鶴丸に所領を譲渡した(『相馬胤治譲状』)。竹鶴丸ほか彼の従兄弟三人は父の戦死後に斯波家長に所領安堵を申し出た(『相馬竹鶴丸申状』・『斯波家長挙状案』)。
通称は四郎。建武3(1336)年5月24日、兄の長胤・胤治とともに小高城で北畠顕家と戦って戦死した。子に福寿丸があり、建武4(1337)年5月2日、福寿丸と従兄弟ふたりは父の戦死後に斯波家長に所領安堵を申し出た(『相馬福寿丸申状案』・『斯波家長挙状案』)。