代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■初代当主■
(1143-1205)
<正室> | 不明 |
<通称> | 千葉次郎→相馬次郎(千葉次郎も併称) |
<名前> | 師胤(『吾妻鏡』数箇所)・胤常(『浅羽本系図』)・胤師(『内閣文庫系図』) |
<義父> | 相馬中務大輔師国←平将門の子孫というが実在は疑わしい。 |
<父> | 千葉介常胤 |
<母> | 秩父重弘中娘(円壽院善通理體大禅浄尼) |
<官位> | ―――― |
<官職> | 無官 |
<領主> | 相馬御厨地頭職 |
<法号> | 常心 |
●相馬師常事歴●
千葉介常胤の次男。通称は次郎。母は秩父重弘中娘。「師常」の読みは「もろつね」「かつつね」「のりつね」「みつつね」など。官位・官職は不明だが、弟・武石三郎胤盛、多部田四郎胤信、国分五郎胤通はいずれも任官しておらず、師常も任官することはなかったと思われる。
■師常の活動
師常は、千葉介常胤の子の中で「胤」字を名乗っていない唯一の人物である。そのため師常には「師胤」(『吾妻鏡』数箇所)、「胤常」(『浅羽本系図』)、「胤師(『内閣文庫系図』)」などといった前名があったともされているが、いずれも確たる裏付のあるものではない。他の兄弟たちの名が「胤正、胤盛、胤信、胤通、胤頼」と「胤」字がいずれも諱の前字であることから、『吾妻鏡』の「師胤」は単なる誤記と思われる。『浅羽本系図』に見える「胤常」についても父・「常胤」の諱を逆転させただけであるのでこれも誤伝か。仮にもし師常に前名があったとすれば「胤師(たねのり・たねかず・たねみつ?)」が妥当か。相馬郡は両総平氏にとっては先祖伝来の地のひとつであり、師常が常胤以来の「胤」ではなく「常」を名乗ったのは、父祖伝来の相馬郡を領したという理由によるものか。
寿永元(1182)年8月18日、頼朝の嫡男・頼家の御七夜の儀に際して、父の千葉介常胤がその奉行をつとめ、師常は母(秩父氏)や兄弟とともに沙汰している。頼朝は白水干を着て御所の庭に列した千葉六兄弟を見て「殊にこれを感ぜしめ給」い、諸人も「壮観」と賞した(『吾妻鏡』寿永元年八月十八日条)。
○御七夜之儀
・千葉介常胤 …奉行
・胤正之母 …秩父大夫重弘の娘で畠山重忠の叔母。北条政子の陪膳をつとめる。胤正以下6人兄弟の母親。
・千葉太郎胤正 …千葉介常胤の嫡男。千葉宗家の祖。弟・師常とともに鎧をかつぐ。
・千葉次郎師常 …千葉介常胤の次男。相馬一族の祖。
・武石三郎胤盛 …千葉介常胤の三男。武石一族の祖。弟・胤信とともに鞍付馬を曳く。
・多部田四郎胤信 …千葉介常胤の四男。大須賀氏の祖。
・国分五郎胤通 …千葉介常胤の五男。国分一族の祖。弓を持つ。のちに香取神宮と所領争いを繰り広げる。
・千葉六郎大夫胤頼…千葉介常胤の六男。東一族の祖。剣を奉じる。
木曽義仲、平家一門との戦いでは、頼朝の弟・蒲冠者源範頼の大手軍に従軍し、寿永3(1184)年2月5日、父・千葉介常胤や弟・国分五郎胤通、東六郎太夫胤頼とともに摂津国に着陣している。その後、7日の一ノ谷の戦いにも参加していると思われる(『吾妻鏡』)。
●鎌倉方大手(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)
大手大将軍 | 蒲冠者範頼 | |
相従輩 | 小山小四郎朝政 | 武田兵衛尉有義 |
板垣三郎兼信 | 下川辺庄司行平 | |
長沼五郎宗政 | 千葉介常胤 | |
佐貫四郎成綱 | 畠山次郎重忠 | |
稲毛三郎重成 | 稲毛四郎重朝 | |
稲毛五郎行重 | 梶原平三景時 | |
梶原源太景季 | 梶原平次景高 | |
相馬次郎師常 | 国分五郎胤道 | |
東六郎胤頼 | 中條藤次家長 | |
海老名太郎 | 小野寺太郎通綱 | |
曽我太郎祐信 | 庄司三郎忠家同 | |
庄司五郎広方 | 塩谷五郎惟広 | |
庄太郎家長 | 秩父武者四郎行綱 | |
安保次郎実光 | 中村小三郎時経 | |
河原太郎高直 | 河原次郎忠家 | |
小代八郎行平 | 久下次郎重光 |
戦後、いったん鎌倉へ帰還した範頼だったが、8月6日に足利蔵人義兼、武田兵衛尉有義とともに頼朝に招かれ、さらに「常胤已下」おもだった御家人が召し出された。ここで平家追討のために西海へ出立が命じられ、終日酒宴が行われ、常胤も馬を一疋拝領している(『吾妻鏡』元暦元年八月六日条)。ところが常胤とともに従軍したのは孫の境平次常秀であり、胤正や師常以下の子息たちはここに列していない。のちに常秀が薩摩国に所領を得ることとなるのは、彼が祖父の常胤とともに九州を転戦した結果であるのかもしれない。
●西海出陣(『吾妻鏡』元暦元年八月六日条)
大将軍 | 三河守範頼 | |
扈従輩 | 北条小四郎 | 足利蔵人義兼 |
武田兵衛尉有義 | 千葉介常胤 | |
境平次常秀 | 三浦介義澄 | |
三浦平太義村 | 八田四郎武者朝家 | |
八田太郎朝重 | 葛西三郎清重 | |
長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 | |
比企藤内所朝宗 | 比企藤四郎能員 | |
阿曽沼四郎広綱 | 和田太郎義盛 | |
和田三郎宗実 | 和田四郎義胤 | |
大多和次郎義成 | 安西三郎景益 | |
安西太郎明景 | 大河戸太郎広行 | |
大河戸三郎 | 中条藤次家長 | |
工藤一臈祐経 | 工藤三郎祐茂 | |
天野籐内遠景 | 小野寺太郎道綱 | |
一品房昌寛 | 土左房昌俊 |
元暦2(1185)年3月24日、長門国壇ノ浦での平家一門との海上戦(壇ノ浦の戦い)で平家一門が滅びると、千葉一族は鎌倉へ帰還し、文治元(1185)年10月24日の勝長寿院供養の際に、導師公顕への布施を印東四郎(印東師常)とともに曳いた。ほかの兄弟一族については以下の通り。
●勝長寿院供養の千葉一族(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)
千葉太郎胤正 | (先陣)随兵十四人。 |
千葉介常胤 | 御後五位六位三十二人。導師公顕への引き出物(一御馬)を曳く |
六郎大夫胤頼(東六郎太夫胤頼) | 御後五位六位三十二人。 |
千葉平次常秀 | (後陣)随兵十六人。 |
千葉四郎(大須賀四郎胤信) | 随兵六十人(弓馬の達者)、勝長寿院門外の東方に居並ぶ。 |
天羽次郎 | 随兵六十人(弓馬の達者)、勝長寿院門外の東方に居並ぶ。 |
臼井六郎 | 随兵六十人(弓馬の達者)、勝長寿院門外の東方に居並ぶ。 |
千葉二郎師常(相馬次郎師常) | 導師公顕への引き出物(九御馬)を曳く。 |
印東四郎 | 導師公顕への引き出物(九御馬)を曳く。 |
文治5(1189)年6月9日、鶴岡八幡宮の御塔供養が終わったのち、寄進の馬のうち、「四御馬黒」を曳いた人物として「千葉次郎師胤 同四郎胤信」の名が見える。しかし『吾妻鏡』古写本のひとつ『吉川本吾妻鏡』によれば、「千葉次郎師常、同四郎胤信」とある。おそらくこの「師胤」は誤記と思われる。
文治5(1189)年7月17日、奥州藤原氏の藤原泰衡一族との戦いの軍議が催され、奥州へ向けては三手にて発向することが決定する。父・千葉介常胤は八田右衛門尉知家とともに海道大将軍となっているが、彼等は「各相具一族等并常陛下総国両国勇士等」を率いており、師常もおそらく父・師常の手に属して東北へ攻めのぼったとみられる。
地域 | 追討使(大将軍) | 引率 | ルート |
東海道 | 千葉介常胤 八田右衛門尉知家 |
各相具一族等 常陛・下総国両国の勇士等を引率 |
宇大行方⇒岩城岩崎⇒遇隅河湊⇒8/12国府で頼朝と合流 |
北陸道 | 比企藤四郎能員 宇佐美平次実政 |
上野国高山・小林・大胡・佐貫の住人を引率 | 7/18鎌倉(下道)⇒越後国⇒出羽国念種関⇒9/4志波郡陣岡蜂社で頼朝と合流 |
大手 | 二品(源頼朝) | 先陣:畠山重忠 武蔵・上野両国内の党者等は、加藤次景廉・葛西三郎清重が引率 |
7/19鎌倉(中路)⇒7/25下野国古多橋駅(宇都宮)⇒7/28新渡戸駅⇒7/29白河関⇒8/7阿津賀志山辺の国見駅⇒8/10阿津賀志山合戦勝利⇒8/11船迫宿⇒8/12晩景多賀国府(千葉介常胤・八田知家合流)⇒8/20玉造郡⇒8/22平泉館⇒9/2岩井郡厨河辺⇒9/3藤原泰衡が郎従河田次郎に討たれる⇒9/4志波郡陣岡蜂社(比企能員・宇佐美実政合流)⇒9/19厨河柵出立⇒9/20論功行賞⇒9/28平泉出立⇒10/1多賀国府⇒10/19宇都宮⇒10/24鎌倉着 |
御留守 | 三善大夫屬入道善信 三善隼人佐康清 藤判官代邦通 佐々木次郎経高 大庭平太景義 義勝房成尋 ら |
常胤・知家の海道軍がいつ出立したのかは不明だが、7月18日には北陸道追討使が鎌倉を発っていることから、常胤らも同日の出立であろう。また海道筋での行軍がどのようなものだったのかは記録はないが、頼朝率いる大手軍と連携して戦った様子はなく、単独での行軍であったとみられる。頼朝からの指示では、「宇大行方(常陸国信太郡、行方郡か)」を経て、陸奥国「岩城岩崎」両郡を通過し、阿武隈川から川筋を国府へ向かうルートであった。7月26日、宇都宮にいた頼朝のもとに「佐竹四郎(佐竹秀義)」が常陸国から駆けつけているが、佐竹秀義はかつて頼朝と敵対し、いまだ参向していなかった。海道軍は佐竹氏の本拠である金砂城(常陸太田市)の近隣を通過する道筋であり、佐竹氏もこの行軍を察しての行動であったのだろう。
8月12日晩景、頼朝は多賀城に到着するのと同時に「海道大将軍千葉介常胤、八田左衛門尉知家」が「千葉太郎胤正、同次郎師常、同三郎胤盛、同四郎胤信、同五郎胤通、同六郎大夫胤頼、同小太郎成胤、同平次常秀、八田太郎朝重、多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎等」を率いて逢隈湊を渡って国府に参上した。
8月14日、頼朝率いる鎌倉勢は藤原泰衡を追って多賀城を出立。黒河を経て玉造郡へ向かった。そして8月20日、泰衡が籠もる多加波々城を包囲するが、泰衡はすでに城から逐電しており、守備の郎従らは降伏した。そのまま鎌倉勢は葛岡郡を経て平泉へと向かった。このとき頼朝は「戌尅、被遣御書於先陣軍士等中所謂三浦十郎、和田太郎、小山小四郎、畠山次郎、和田三郎、至于武蔵国党々者、面々取此御書、令拜見之」(『吾妻鏡』文治五年八月二日条)とあるが、「御書」は「ほうてう、みうらの十郎、わたの太郎、さうまの二郎、おやまたのもの、おくかたせんちしたるものとん、わたの三郎」が21日には平泉へ必ず到着するよう命じた文書として伝わっている(薩藩旧記雑録『源頼朝書状案』)。『吾妻鏡』の中には師常についての記載はないが、頼朝の書状には「さうまの二郎」との記述が見られ、師常は父・千葉介常胤から頼朝の指揮下へと移り、さらにその先陣を任されたことがわかる。
翌8月21日、藤原泰衡は平泉の舘を自ら焼き落として逐電。頼朝は翌22日に平泉へ入ったが、「主者已逐電、家者又化烟、数町之縁辺寂寞而無人、累跡之郭内弥滅而有地、只颯々秋風雖入幕之響、簫々夜雨不聞打窓之声」というかつての栄華の面影もない状態となっていた。そして9月6日、泰衡の首が頼朝の陣所に運び込まれ、一連の合戦は収束を迎える。
9月20日、頼朝は平泉において行賞を行うが、とくに常胤の軍功を賞して「千葉介、最拜領之凡毎施恩、以常胤可爲為功之由、蒙兼日之約者」とまず常胤に恩賞を与えた。その内容は伝わっていないが、同日畠山重忠が陸奥国葛岡郡の地頭職を得ていることから、常胤も陸奥国の地頭職を得たものと思われる。後世千葉氏が奥州に繁栄するきっかけとなる行賞であったのだろう。相馬氏(次男・師常子孫)は陸奥国行方郡内、武石氏(三男・胤盛子孫)は陸奥国宇多郡内、東氏(六男・胤頼子孫)は陸奥国某所に地頭職を得ているが、これらが常胤からの譲りであったのかはわからない。ただし、大須賀氏(四男・胤信子孫)は常胤から陸奥国岩城郡内の地頭職を継承しているため、ほかの兄弟も同様だった可能性が高いだろう。伝承であるが、師常はこの合戦で頼朝から「八幡大菩薩」と書かれた白旗を賜ったとされ、相馬野馬追いではその伝承に基づく旗がたなびく。
相馬館に祀られた天王社 |
9月22日、葛西三郎清重は「陸奥国御家人事」を「可奉行」ことが命じられ、「参仕之輩者属清重、可啓子細之旨、被仰下」れた。さらに9月24日には「平泉郡内、検非違使所事、可管領之旨」との御下文を賜り、「於郡内諸人停止濫行、可糺断罪科之由」と、奥州御家人の沙汰など検断権を与えられた上、「伊澤、磐井、牡鹿等郡已下、数箇所」を拝領している。なお、のちの奥州千葉氏は、千葉氏が与えられた奥州各地の地頭職の代官など下っていった一族が葛西氏に与えられた御家人統率権のもとで、葛西氏の被官化した可能性があろう。
ところがその直後、泰衡の遺臣・大河兼任が「予州幷木曽左典厩子息及秀衡入道男等」を称し、反乱を起こした。12月初旬頃のことと思われるが、鎌倉に第一報が入ったのは12月22日夜のことであった。頼朝は事は急を要するとして、深雪の期ではあるが「小諸太郎光兼、佐々木三郎盛綱已下越後信濃等国御家人」に書を送って出兵の準備をさせ。さらに「工藤小次郎行光、由利中八維平、宮六兼仗国平等」を葛西清重のもとに派遣し、防戦の準備をさせた。
翌文治6(1190)年正月6日、葛西清重は大河兼任と合戦するが。味方では奥州藤原氏との戦いで北陸道大将軍をつとめた宇佐美平次実政をはじめ、大見平次家秀、石岡三郎友景らが討死するという戦況であった。
8日、頼朝は奥州再派兵の軍を編成し、千葉介常胤はふたたび海道大将軍に任じられた。しかし常胤はすでに七十三歳と高齢であり、頼朝は厳寒の東北路の行軍は難しいと判断したのだろう。正月13日、常胤に代わって嫡子「千葉新介胤正」が海東大将軍に任じられて鎌倉を進発した。
●大河兼任追討使(『吾妻鏡』)
地域 | 追討使(大将軍) |
海道 | 千葉新介胤正 |
山道(北陸道?) | 比企藤四郎能員 |
大手? | 上総介義兼 |
胤正はこのとき、頼朝に「葛西三郎清重者殊勇士也、先年上総国合戦之時、相共遂合戦、今度又欲可相具之由被仰含」と願い出ている。頼朝もこれを良とし、「当時在奥州」った清重へ「可相伴于胤正之旨、被下御書」ている。さらにこのほか、「古庄左近将監能直、宮六兼仗国平以下」の奥州に所領がある御家人の発行を命じている。師常が当時父の譲りで奥州に所領を得ていたのかは定かではないが、本来父・常胤が大将軍として出陣する予定だったことを鑑みると、そのまま兄・胤正のもと従軍した可能性が高いだろう。
平泉高舘より衣川を望む |
2月11日、鎌倉勢は大河兼任が拠点とする平泉を馳せ過ぎ、泉田で敵勢の確認を行った(『吾妻鏡』文治元年二月十日条)。そして足利上総前司義兼、小山五郎宗政、小山七郎朝光、葛西三郎清重、葛西四郎有元、小野寺太郎通綱、中條法橋成尋、中條藤次家長らが栗原郡一迫に止宿。翌12日に千葉新介胤正勢が加わって大河勢と合戦。敗れた兼任は逃亡を重ね、3月10日、錦の脛巾、黄金作りの太刀を履く落武者を怪しんだ樵夫等数十名に取り囲まれ、斧で撃ち殺された。その後、樵夫等は首を持って千葉新介胤正のもとへ参じて事の次第を報告した(『吾妻鏡』文治元年三月十日条)。師常の活躍は大河兼任の乱ではうかがい知ることはできないが、一迫合戦で兄・胤正のもと合戦を遂げたと思われる。
その後、師常の主だった活躍はみられないが、建久2(1191)年正月1日、父・常胤が沙汰する埦飯が行われ、常胤の子息・一族たちによる進物では、師常は「御行騰、沓」を献じている。
●建久二年正月一日献埦飯(『吾妻鏡』)
御劒 | 御弓箭 | 御行騰、沓 | 砂金 | 鷲羽(納櫃) | 御馬 |
千葉介常胤 | 新介胤正 | 二郎師常 | 三郎胤盛 | 六郎大夫胤頼 | 一、千葉四郎胤信、平次兵衛尉常秀 二、臼井太郎常忠、天羽次郎直常 三、千葉五郎胤道 、(不明) 四、寺尾大夫業遠 、(不明) 五、(不明) |
建久4(1193)年11月27日、永福寺薬師堂供養で師常は後陣随兵の一人として「相馬次郎師常」見える(『吾妻鏡』建久四年十一月廿七日条)。また翌建久5(1194)年8月8日の相模国日向山の薬師如来霊場への参詣供奉の後陣随兵の一人として「相馬次郎師常」が見える。
建久6(1195)年2月14日の頼朝の上洛に従って鎌倉を出立。3月12日の頼朝の東大寺供養の供奉に随兵として従った(『吾妻鏡』建久六年三月十二日条)。
●東大寺供養供奉の千葉一族(『吾妻鏡』)
随兵 (前) |
30列 | 臼井六郎(有常) | 印東四郎(師常) | 天羽次郎(直常) |
31列 | 千葉次郎(師常) | 千葉六郎大夫(胤頼) | 境平次兵衛尉(常秀) | |
随兵 (後) |
29列 | 筑井八郎 | 臼井与一(景常) | 戸崎右馬允 |
41列 | 千葉四郎(胤信) | 千葉五郎(胤通) | 梶原平次左衛門尉 | |
後陣 | 2列 | 千葉新介(胤正)<具郎従数百騎> |
この供奉に六人兄弟のうち武石三郎胤盛のみ入っていないが、おそらく彼はすでに出家して嫡子・次郎胤重が家督を継承していたとみられ、5月20日の頼朝の天王寺参詣の先陣随兵として「千葉次郎師常」とともに「千葉三郎次郎(胤重)」がみられる。
建久10(1199)年の建久10(1199)年3月24日『相馬御厨上分送状写』には、相馬御厨の「地主」として「平」という人物が見えており(建久十年三月廿四日『相馬御厨上分送状写』)、このころの相馬御厨の地主職は師常と推測される。
元久2(1205)年正月1日の新年の儀で、「相馬五郎(義胤)」が見えており、これ以前に師常は相馬五郎義胤に家督を譲ったと思われ、出家した後は法然上人の弟子となった。出家時期は不明だが、建仁元(1201)年3月24日、父・千葉介常胤が没していることから、これがきっかけであったのかもしれない。
巽荒神 |
そして義胤初見から十一か月後の11月15日、師常は鎌倉屋敷で端座念仏しながら亡くなった。六十七歳と伝わる(『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条)。このとき、鎌倉の民衆たちは念仏行者の彼の亡骸を一目拝もうと相馬邸に集まってきた。
相馬邸は今小路の千葉介邸の北、現在の巽荒神前あたりにあったと伝わり、屋敷内には下総国相馬郡から牛頭天王を勧請したという。現在、鎌倉扇谷の壽福寺隣にある「相馬天王社」がその後身とされる。
鎌倉扇谷の伝相馬師常墓 |
師常の墓と伝わるヤグラが旧相馬屋敷の北、数百メートルにある浄光明寺の崖を挟んだ反対側の崖下にある。浄光明寺のすぐ裏手だが、道は通っていないので寺から行く事はできない。
このヤグラは中世からすでにその存在が知られていたもので、師常が自邸内に祀っていた牛頭天王が室町期にはこの窟内にあったことから、師常の墓とされたようである。ヤグラの中には中世の宝篋印塔、奥壁には封鎖されたままの龕があり、中世の遺構がそのまま封印されて残されている稀有な史跡である。
相馬師常を祀る中村神社 |
明治12(1879)年、奥州中村藩の居城・中村城の本丸跡に、師常を祀る「相馬神社」が建立された。毎年7月23日から行われる相馬野馬追大祭では、総大将を務める相馬中村藩主家・相馬家が率いる宇多勢はここに参拝し、大祭に臨む。
◎『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条
「相馬次郎師常卒年六十七、令端坐合掌、更不動揺、決定徃生、敢無其疑、是念仏行者也、称結縁、緇素挙集拜之」
●建久10(1199)年3月24日『相馬御厨上分送状写』(『鏑矢伊勢方記』:『我孫子市史』所収)