【か】
千葉氏の一族1 | 千葉氏・千葉六党 | 千葉氏の一族10 | 【き】~【け】 | 千葉氏の一族19 | 【ひ】【ふ】 |
千葉氏の一族2 | 【あ】 | 千葉氏の一族11 | 【こ】 | 千葉氏の一族20 | 【へ】【ほ】 |
千葉氏の一族3 | 【い】 Ⅰ | 千葉氏の一族12 | 【さ】【し】 | 千葉氏の一族21 | 【ま】【み】 |
千葉氏の一族4 | 【い】 Ⅱ | 千葉氏の一族13 | 【し】~【そ】 | 千葉氏の一族22 | 【む】~【も】 |
千葉氏の一族5 | 【い】 Ⅲ | 千葉氏の一族14 | 【た】 | 千葉氏の一族23 | 【や】~【わ】 |
千葉氏の一族6 | 【う】【え】 | 千葉氏の一族15 | 【ち】~【と】 | 千葉氏の掲示板 | BBSです~~ |
千葉氏の一族7 | 【お】 Ⅰ | 千葉氏の一族16 | 【な】 | 千葉氏のトップへ | トップページ~ |
千葉氏の一族8 | 【お】 Ⅱ | 千葉氏の一族17 | 【に】~【の】 | 千葉リンク~ | リンクページ~ |
千葉氏の一族9 | 【か】 | 千葉氏の一族18 | 【は】 | 千葉氏顕彰会 | 顕彰会のご紹介 |
【か】
風早
風早神社 |
東一族。東胤頼の四男・胤康(四郎)が下総国葛飾郡風早郷(松戸市本郷)に住んで風早を称した。東胤頼は風早庄の地頭職も持っていたことがわかる。
承久3(1221)年6月14日、承久の乱における宇治川の戦いで、「風早四郎」が敵一人を討ち取ったことが『吾妻鏡』に見ることができる。宇治川の戦いでは、風早四郎胤康のほか、彼の兄にあたる「木内次郎(胤朝)」や一族の「椎名弥次郎(胤朝)」が戦功を挙げたことが見える。
弘長元(1261)年から文永8(1271)年までの香取社殿造営負担の交名(『香取神宮文書』)に、風早郷地頭として七十貫を負担することが命じられた「左衛門尉康常」が見えるが、これは胤康の子・康常(太郎左衛門尉)のことで、風早氏当主となっていたことがわかる。康常は康元元(1256)年6月29日、弘長3(1263)年8月9日、8月15日と『吾妻鏡』に名を見ることができる。
『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編 古代中世1第二編)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、十二貫を負担している「木内下総前司」の名が見えるが、彼とともに担当すべきことが命じられた「風早入道」の名が見える。この風早入道はおそらく胤康であろう。
康常には子がおらず、弟・為康(次郎)が継いだ。そして為康の孫、貞泰・時秀・泰宗の3人を最後に記録からも消えてしまった。貞康・時秀という諱の「貞」「時」からみて、北条氏からの偏諱を受けている人物と思われ、北条家の被官=御内人となっていたか。顕康の「顕」も下総国埴生庄ゆかりの金沢北条顕時(越後守)、もしくは執権・北条貞顕(顕時子)に従い、偏諱されているかもしれない。
―風早氏略系図―
→千葉介常胤-東胤頼―+―木内胤朝 +―貞泰
|(下総前司) |(彦四郎)
| |
+―風早胤康――+―康常 +―時秀
(四郎左衛門)|(太郎左衛門尉) |
| |
+―為康――――――顕康――+―泰宗
(次郎) (孫四郎)
風見
大須賀一族。君島胤時の子、胤重(新右衛門尉)が下野国塩谷郡風見村(栃木県塩谷郡塩谷町風見)を領して風見を称した。
胤重は建武年中、宇都宮高綱に随い各地で戦っている(『宇都宮正統系図』:『栃木県史史料編中世四』)。また、胤重は別名として「高根澤」も称していたようであり(『益子系図』:『栃木県史史料編中世四』)、はるか南東の宇都宮城に近い塩谷郡高見沢村(栃木県塩谷郡高見沢町)も領していたと思われる。
―風見氏略系図―
→千葉介常胤-大須賀胤信―成毛範胤―――成胤――――君島胤時――風見胤重
(四郎) (太郎左衛門)(左衛門尉)(備中守) (新右衛門尉)
鹿島
鹿島山城(現・佐倉城址) |
千葉一族。鹿島氏はもともと常陸大掾家の一族で、常陸国に巨大な軍事力を持っていた。また一族は鹿島神宮の神官も兼務する神官でもあり、常陸大掾家は平安時代から千葉氏との関係も深かった。千葉介常胤の母は常陸大掾家の吉田幹義の娘である。その後も常陸国と隣接する領地を持つ東氏が鹿島権禰宜職を継ぐなど交流を深めている。
千葉宗家からも千葉介孝胤の子・幹胤が常陸大掾家の鹿島左衛門尉の養子となって本佐倉城の西の高台に城を築いて城主となったとされる。彼は兵法の名人ともされている。
また、千葉介勝胤の子・胤重(大与次)も鹿島左衛門尉のあとを継いで鹿島城に入ったともされる。幹胤も胤重もともに常陸国の鹿島左衛門尉の養子とされており、同一人物かもしれない。
千葉山海隣寺 |
千葉介親胤は本佐倉城の南に新たに城を築き、そこに大叔父にあたる胤重を遣わして城主とし、鹿島山城と呼ばれるようになったいう。親胤は千葉宗家と関わりの深い海隣寺をこの城の側に移し、鹿島山勝全寺を胤重のために建立して彼の菩提所とした。その後、千葉介邦胤が没すると、佐倉は邦胤の嫡子・千鶴丸(重胤)を推す原親幹(若狭守)と、邦胤の娘と北条氏政の七男・北条直重を娶わせて家督を継がせようとする原胤長(豊前守)らの間で抗争が起こり、北条氏直みずからが下総に出陣する事態にまで発展してしまった。しかし、隠居・北条氏政の懸命な説得によって親幹は天正13(1585)年11月下旬に降伏。11月22日、氏直は下総における北条氏の拠点として、鹿島城を改築して半月後の12月12日、鹿島城の普請が終了し、15日には邦胤娘と邦胤妻(芳林院)が入城した。
しかし、天正18(1590)年5月からの「小田原の戦い」のとき、徳川家康率いる軍勢に臼井城・佐倉城が相次いで落とされ、鹿島山城も陥落した。その後、家康が関東八ヶ国の領主として入部すると、佐倉は下総のみならず、常陸・武蔵からの要衝であることなどから、もっとも信頼できる一門・譜代を領主としておくこととなったが、鹿島城は廃城として荒廃していた。しかし、慶長15(1610)年、土井利勝が佐倉藩主として入部すると、利勝は鹿島城址がより江戸に近く、要害でもあることを主張して本拠地をこちらへ移し、佐倉惣奉行・矢作勝基(喜兵衛。前名:矢作国分胤基)に縄張りを命じ、6年の歳月を経て元和3(1617)年に佐倉城とり、佐倉藩11万石の居城となった。
―鹿島氏略系図―(■:鹿島城に入った氏康娘・邦胤娘)
→千葉介孝胤―+―千葉介勝胤―+―千葉介昌胤―+―千葉介利胤――千葉介親胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
+―鹿島幹胤 | +―千葉介胤富――千葉介邦胤――千葉新介重胤
| (千葉介) (千葉介) (千葉千鶴丸)
| ∥
| ∥―――――娘
| 北条氏康――+―芳林院 ∥
| (相模守) | ∥
| +―北条氏政――千葉直重
| (相模守) (千葉介)
|
+―鹿島胤重――――胤豊――――――胤清
(大与次) (太郎)
上代
東一族。木内胤朝(下総前司)の三男・胤忠(三郎)が香取郡上代郷(香取郡東庄町窪野谷)を領して上代を称した。「上代」の語源は古代の「神代」であり、「かじろ」と読む。上代郷内の和田城主(香取郡東庄町東和田字登城)。
永禄8(1565)年、里見義堯は府馬城主・府馬時持を口説いて味方とし、下総国制覇の野望を明確にした。結城合戦の時に、三浦半島へと逃れてきた里見義実は、安房へと船で渡り、安西氏を降してたちまち安房を統一した。それから里見氏は鎌倉への執拗な執念を見せる。これは源頼朝の故事に則っているのだろうが、鎌倉への道の途中には下総国があって、千葉一族がこれを妨害していた。このために千葉氏と里見氏は度々戦うことになる。
さて、府馬時常を味方に引入れた里見義堯は、和田城主であった上代胤正(掃部助)と米之井城主・木内信重(右馬助)にも帰属を要求した。しかし、彼らはこの要求を蹴って城に籠ったために、義堯は嫡男・義弘と家老・正木時忠を差し向けた。胤正は上代勝乗(掃部助)・菅谷清次(市之進)・野崎重左衛門ら一族を率いて城外の台地上に布陣した。胤正の陣には、与三という老人とその女房・お杉という者があり、彼らは老齢ながら武勇に長けた人物で上代軍のなかで奮戦した。また、義弘に対して降伏するとの情報を流し、義弘が退却を始めると背後から襲いかかった。「何と卑怯な!」と怒った義弘は反撃を命じ、胤正は戦死した。また、与三とお杉も追いつめられてついに深田にはまって戦死した。現在、彼らが戦死したところは「爺田姥田」と呼ばれているという。しかし、胤正も勝乗も「掃部助」であり、同一人物ではなかろうか?
系図にみる胤忠の子・胤俊(左衛門大夫)は「等持院尊氏に仕う」とあるが、時代的にみて符合しない。同じ世代の相馬氏で見れば、胤村・師胤の時代にあたり、胤俊の生きた時代は1250年代であろう。尊氏の活躍した時代は1330年以降であり、80年ものギャップがある。また、胤泰(民部少輔)は系図によれば「繁氏時代」に活躍していたようだが、この「繁氏」とはいかなる人物なのか。「足利成氏」を指しているのであろうか。次の代・胤定(駿河守)の項には「長春院殿持氏時代」の活躍であり、これが足利持氏であれば、先代の胤泰の「繁氏=成氏?」の時代と胤定の「持氏」の時代が逆転してしまうことになり、おかしい。
―上代氏略系図―
→千葉介常胤-東胤頼―――木内胤朝――上代胤忠――胤俊―――――朝定―――胤繁――――胤助――――+
(六郎大夫)(下総前司)(三郎大夫)(左衛門大夫)(肥前守)(左衛門尉)(左衛門大夫)|
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤泰――――胤定―――図書助
(民部少輔)(駿河守)
柏木
千葉一族。千葉介胤正の八男・胤成が下総国印旛郡柏木村(千葉県印旛郡酒々井町柏木)を領して柏木を称した。
―柏木氏略系図―
→千葉介胤正-柏木胤成
(八郎)
加瀬
千葉一族。発祥地は不明。
原氏の一族・牛尾家庶流である牛尾主計の子・胤時(薩摩守)が加瀬を称した。胤時は、兄の牛尾胤仲(右近)に従って、天正元(1573)年、飯土井氏の居城・多古城を攻め落として占領、胤仲は居城の牛尾城を胤時に任せて多古城に移った。しかし、北条氏政の命に従わなかったため、親北条派の飯櫃城主・山室常隆ひきいる軍勢に多古城を囲まれ、牛尾城もおとされて胤時は民間に逃れた。江戸時代初期、海上郡猿田村(銚子市猿田町)に加瀬内蔵助の名が見える。
牛尾胤仲・加瀬胤時は、一説によれば千葉介昌胤の子・臼井四郎胤寿(のち千葉兵部少輔胤秀)の子ともされているが、不明。
―加瀬氏略系図―
→原胤親―+―胤房―――――胤隆―――+―胤清―――――――+―胤貞――――――胤栄
(孫次郎)|(越後守) (讃岐守) |(式部大夫) |(上総介) (式部大夫)
| | |
| +―範覚 +―牛尾胤直====胤仲――胤長
| |(妙見座主) (弥五郎) (右近)
| |
| +―娘
| ∥――――――――+―常覚
| 千葉介勝胤 |(妙見座主)
| |
| +―覚胤
| (妙見座主)
|
+―胤善―――――牛尾胤資―+―胤広―――――――――胤家――――+―胤重―――胤清===胤直
(新左衛門尉)(美濃守) |(尾張守) (隼人正) |(左衛門)(弥五郎)(弥五郎)
| |
| +―右衛門尉
| |
| |
| +―竹二郎
|
+―五郎右衛門――――――五郎右衛門―+―源七郎
| |
| +―胤道
| |(左京亮)
| |
| +―半七郎
| |
| +―出羽守
|
+―仁戸名三郎左衛門―+―大和守
| |
+――娘 +―牛尾主計――+―胤仲
| ∥ | |(右近)
| 高城和泉守 | |
|(小金城主?) | +―加瀬胤時
| | (薩摩守)
+――娘 |
∥ +―兵部少輔――――僧
府中石塚妻 (妙見座主範覚弟子)
片岡
千葉一族。平常兼は常陸大掾氏の一族・海道忠衡の娘をめとり、千葉介常重・海上常衡を産んでいる。常重は常胤の父である。一方、常衡は下総国海上郡を領して海上を称した。そして常陸大掾氏の通字の一つ「衡」を名乗に加えた。その子・海上常幹も大掾氏の通字の一つ「幹」を称した。このように海上氏は、より一層常陸国との関係を深めていった。また、常陸国では大掾氏と佐竹氏が同盟していて、これに下総の海上氏が加わっていた。
+―千葉介常重―千葉介常胤 |
海上常幹の子・片岡常春(次郎)は下総藤原氏と親密な関係を持ち、常陸源氏・佐竹氏とも縁組みをしていた。常春は佐竹義政(太郎)の娘婿であり(佐竹太郎常春舅)、義政は頼朝に敵対して陸奥国に逃げた佐竹秀義(佐竹冠者)の伯父にあたる人物である。治承4(1180)年11月6日、常春の親族にあたる佐竹秀義が頼朝の軍勢に追われ、陸奥国花園城へと逃れると、おそらく常春もやむなく頼朝に降ったと思われる。
佐竹氏を堅牢な居城・金砂城から追うことができたのは、佐竹氏の内情に詳しかった上総権介広常の策略であったようで、広常は秀義の叔父にあたる佐竹義季(蔵人)が「智謀勝人、浴心越世也、可被行賞之旨有恩約者、定加秀義滅亡之計歟者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)として、広常は義季と対面。ついに彼を懐柔し、頼朝側に寝返らせることに成功した。広常は義季の案内によって金砂城の背面から攻撃して、佐竹氏を城から追ったのである。広常は「先為度彼輩之存案以、縁者遣上総権介広常被案内之處、太郎義政者申即可參之由」(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)とあるように、「佐竹太郎義政」とは「縁者」であったことがわかる。
片岡常春は頼朝に降った後も反抗的なそぶりを見せていたようで、常春が「佐竹太郎(秀義)」と同心して謀反を企てているという風聞が立ち、頼朝は下総国に問責の雑色を遣わしたところ、「乱入領内」として雑色に乱暴をはたらいた上、捕縛してしまった。これに怒った頼朝は常春は謀反と使者面縛の罪科重畳として、治承5(1181)年3月27日、常春の所領である下総国三崎庄(舟木郷・横根郷も含む)は没収、雑色の解放を命じた(『吾妻鏡』治承五年三月二十七日条)。三崎庄はしばらく幕府が管轄していたようで、四年後の文治元(1185)年10月28日、三崎庄・舟木郷・横根郷は千葉介常胤へ与えられた(『吾妻鏡』文治元年十月二十八日条)。
その後、文治3(1187)年9月19日、常春は千葉介常胤によって居城の佐貫城を襲われ、一族とともに自害して滅んだとされているが、『吾妻鏡』ではその二年後に常春の生存が確認される。常胤に与えられた常春の旧領は、いったん常春への返還が認められたものの、何らかの懈怠があったと見え、文治5(1189)年3月10日、その返付の沙汰は撤回された。その後の常春の動向は不明である。
―片岡氏略系図―
→平常兼―――海上常衡―――常幹―――片岡常春
(与一介) (介太郎)(太郎)
片野
千葉一族。千葉介氏胤の三男・馬場重胤(八郎)の郎党として片野胤定(美濃守)が見え、彼が印旛郡公津村に移る際に円城寺尚家(弾正)、円城寺政俊(刑部少輔)とともに供をしたという(『千学集抜粋』)。
馬場重胤の郎党だった片野美濃守胤定と同一人物かは不明だが、千葉介氏胤の孫に当たる千葉介胤直の時代、彼の直臣だった片野胤定(美濃守)は亨徳3(1454)年元旦の夢に、神前にぬかずいていると12、3歳の子供が鎧を着て剣を持って胤定の前に現れた。その子供は「神前に吹きちらされて胤直のすけもはしらもかなはざりけり」という歌を詠じたという。その姿が不思議であったので胤定は「あなたはどなたですか」と尋ねると「神風の長閑なりける時にこそ 高間が原のすゑず久しき」といって消え失せた。その夢は妙見神から胤定に宛てた胤直滅亡の予告であったといわれる。結局、胤直は円城寺氏と原氏の権力争いに巻き込まれ、原胤房(越後守)・馬加陸奥康胤入道常義によって滅ぼされることになる。
勝又
千葉一族。千葉介昌胤の子・臼井四郎胤寿(のち千葉兵部少輔胤秀)の子・正胤が勝又土佐守を称した。
―勝又氏略系図―
→千葉介昌胤-胤秀――――勝又正胤-胤治-胤円-胤氏-胤光-胤憲-胤智-胤義-胤貞-胤清-胤政
(兵部少輔)(土佐守)
金沢
相馬一族。大治年中(1126-1131)に陸奥国標葉郡立野邑に館を持つ「金沢石見守平光之」がみえる。その末裔・金沢将監が元亨3(1324)年の相馬重胤の奥州下向した際に相馬家に仕え、代々重臣に列する。館は中郷高平館。
相馬隆胤以下、相馬家一族重臣たちが応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峰寺無量光院に銭を寄進した際、「金沢胤良」が五百文を寄進した。相馬高胤の時代の金沢胤良(石見守)は標葉氏との戦いで討死。その子・胤之(相模守)も相馬盛胤の部将として活躍したが、同じく戦死する。その子・胤重(右馬助)とその子の主水・大学は大永5(1525)年、相馬顕胤に従って岩城重隆との戦いに参戦し、岩城領内に攻め入ったものの、金剛川にて囲まれて父子三人が討死している。顕胤は金沢氏の断絶を憂い、胤重の弟・存入を還俗させて金沢氏の名跡をつがせ、胤清(石見守)を名乗らせた。胤清は武勇の将として知られ、天文中(1532-1555)の古小高帯刀俊胤の謀反の際には先陣をつとめて小高郷の俊胤の館に乱入した。しかし、小高館の中には逃げ道も人影もなく、もはや逃げたあとかと捜索を続けていたが、物陰に隠れていた俊胤がすっと胤清の前に現れて彼に斬りかかり、油断していた胤清は斬殺された。俊胤も胤清の郎党に殺されているが、胤清の嫡男・胤昌(孫三郎)はまだ幼少だったため、顕胤は江井美濃守を金沢氏の家督とし、彼は「金沢美濃守」を称した。
天正9(1581)年、相馬家当主・相馬義胤は、小斎館主・佐藤為信(宮内)が不穏な動きをしていることを察して、金沢美濃守らを加番として派遣し、佐藤宮内の動向を見守らせていたが、宮内はとつぜん謀反を起こして伊達輝宗に通じ、美濃守らに襲いかかった。加番の士たちは城内で応戦したものの、無勢であったため、美濃守以下、加番衆全員が戦死した。
美濃守のあとは金沢胤清の嫡男・胤昌(備中守)が継ぐが、彼は父に劣らない勇猛な武将として成長し、天正年間には盛胤・義胤らに従って伊達政宗との戦いに度々勲功をあげ、83貫750文を得る。しかし、相馬家は関ケ原の戦いに中立を決め込んで参戦しなかったことから改易処分となるが、当主・相馬利胤の必死の工作によって慶長7(1602)年、中村6万石が安堵される。しかしながら減封であったため、家臣たちも知行地が減らされることとなり、胤昌も400石となり、屋敷も中村城下に移した。
胤昌の嫡男・重之(平三郎)は200石を給され、次男・玄之(彦太夫)は150石、三男・昌雄(忠兵衛)は胤昌の隠居領分50石を給された。重之は早世してしまったため、玄之の子・仲之(甚右衛門)が200石に加増されて家督を継いだ。その子・定之(宗左衛門)は禄を没収されてしまうが、その子・光之(儀右衛門)が新田を開発した功績で100石を給され、幕末の覚右衛門にいたった。
胤昌の三男・昌雄(忠兵衛)は二代藩主・相馬大膳亮義胤の側近として仕えていたが、義胤が亡くなると追い腹を切って殉死した。法名は松屋禎庵大禅定門。同慶寺の義胤の御霊屋脇に埋葬され、石碑が建立された。昌雄には子がなかったためいったん断絶するが、三代藩主・相馬忠胤の代に、富沢権右衛門の次男が金沢忠兵衛を再興し、昌嗣(忠兵衛)を称した。子孫は65石取りの藩士として、代々忠兵衛を称し幕末まで続いている。
―金沢氏略系図―
→金沢光之…胤良―――胤之――+―胤重――+―主水
(石見守)(石見守)(相模守)|(右馬助)|
| |
| +―大学 +―重之
| |(平三郎)
| |
+―胤清――+=美濃守 +―玄之―――仲之――――定之――――光之【100石】
(石見守)|(江井家より) |(彦太夫)(甚右衛門)(宗左衛門)(儀右衛門)
| |
+―胤昌―――――+―昌雄===昌嗣…→【65石】
(孫三郎) (忠兵衛)(忠兵衛)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
金沢覚右衛門 | 大身 | 100石 | 北町 |
金沢忠兵衛 | 小身 | 65石 | 鷹部屋町 |
金場
相馬一族。鎌倉時代後期(元亨年中か)に相馬重胤が奥州へ下った際、文間胤家(五郎)の子・文間胤直(五郎)がこれに従い、行方郡片草村金場に知行地を与えられた。この金場氏が文間(のち門馬)氏の嫡流である。
胤直から4代目・胤久(五郎左衛門)は行方郡萱浜村(南相馬市原町区萱浜)に住んで「萱浜」を称し、相馬高胤の老臣となった。文安2(1445)年2月、牛越城主・牛越定綱(上総介)が兵を挙げたため、高胤はこれを攻めた。しかし、牛越城の守りは堅く容易に攻め落とせないことを悟った高胤は、胤久・青田清弘(豊田三郎左衛門)と相談して、胤久・清弘を偽って牛越城へ降伏させることに成功。こうして胤久らは定綱を暗殺して城を奪い取った。高胤はその功績に「文間豊田両家永世断絶すべからざること」という証印が与えられた。
その子と思われる文間経康(加賀守)が知行地の「金場」を称した。応仁2(1468)年3月21日、相馬隆胤(前讃岐守)はじめ相馬一族が高野山金剛峯寺無量光院(相馬氏の高野山における宿坊)に寄附をしている中に「金場加賀守経康 五百文」「同内方百文妙栄」の名を見ることができる。
からその6代目・門馬貞経(上総介)まで金場を称した。これ以降は「門馬」を称して、金場門馬氏は「門馬嘉右衛門」家として幕末にいたる。
―金場氏略系図―
→相馬胤村―+―相馬胤氏――――文間胤家――胤直――胤住―――――胤経―<2代>―萱浜胤久―――金場経康―――+
|(二郎左衛門尉)(五郎) (五郎)(二郎兵衛尉) (五郎左衛門)(加賀守) |
| ∥ |
+―相馬師胤――――重胤――→奥州相馬氏 妙栄 |
(彦次郎) (五郎) |
+――――――<5代>――――――――――――+
|
+―貞経――+―兼経
|(上総介)|(嘉右衛門)
| |
+―平次右衛門 +―紀伊守 +―胤清<法名道夢>―→仙台へ出奔
| (勘兵衛)
| ∥
渡邊泰綱―+―栃窪胤久――――胤光――――娘
(蔵人) (右衛門) (蔵人)
金原
千葉一族。鴨根常房の孫・常義(常能)が千田庄金原郷(匝瑳市金原)を領し、金原を称した。読みは「かなばら」だが、「きんばら」とも。
常義の子・金原盛常(五郎、金原庄司)の嫡子・金原清胤(次郎)の子・明円(治部)は真言宗系の宗教施設だった安久山堂(のちに円静寺となる)の別当職となった。なお、『日蓮宗大辞典』によれば日蓮の壇越「金原法橋」は「金原左衛門尉胤長の父」、つまり安久山明円のこととしているが、明円は真言宗の僧侶であり、安久山堂が日蓮宗に改宗したのは、系譜で明円の孫にあたる民部阿闍梨覺瑜の代で、覺瑜が浄行院日祐に帰依したことにはじまるため、誤りである。
一方、肥前小城千葉氏の重臣となった金原氏がいた。元寇の際の矢創がもとで建治元(1275)年8月16日に亡くなった千葉介頼胤に代わって、異国警固番役として小城郡へ下った千葉新介宗胤に随従して九州へ下った「供奉衆」である。
「平田、原、薗城寺、中村、鎰山、白井、岡崎、船岡、山崎、矢作、岩部、相原、平山、篠原、結篠、山口、福島、樋口、仁戸田、金原、小出、此外ニモ供奉衆有之」(『正東山古文書』)
彼らの中には下総国千田庄を発祥とする千葉一族が多く見られ、千葉介の「被官」であったことがわかる。その後、金原氏は代々小城千葉氏家臣として続き、室町時代後期の小城千葉氏当主・千葉介胤連の家臣にも金原氏が見える。
天文10(1541)年、千葉介胤連は義甥(妻の実甥)にあたる鍋島彦法師丸を養子に迎えた。しかし、天文20(1551)年、胤連に実子・胤信が生まれて三年が過ぎた頃、当時十七歳で「千葉左衛門太夫胤安」を名乗って継嗣とされていた胤安(彦法師丸)は、養父・胤連には実子が生まれすでに三歳となったことで、養母(胤連妻で実叔母)や龍造寺隆信、鍋島清房を通じて自分を鍋島家へ戻すよう働きかけた。しかし、胤安を可愛がり気に入っていた胤連はこれを許さなかったことから、祖母の水江太母にも説得してもらうことで、ようやく胤連もこれを認めた(『歴代鎮西志』)。
胤連は鍋島家へ胤安を送り出す際、小城郡美奈岐八十町に十二名の家臣(鍵尼・野辺田・金原・小出・仁戸田・堀江・平田・巨勢・井出・田中・浜野・陣内)を付随させた(ただし、一説には野辺田、巨瀬、井出、堀江の四家は記載されないこともある)。なお、鍋島家重臣・江里口家も千葉氏の家人から鍋島家に仕えた家だが、江里口河内守常併が千葉家に仕え、その子・藤七兵衛信常が鍋島豊前守信房の家臣となり、のち直茂の直参に移されたものであり、最古参の十二家には含まれない。
●千葉介胤連より千葉胤安(鍋島直茂)へ附けられた家臣
・鑰尼孫右衛門(式部少輔)
・野辺田善兵衛(右馬亮)…子に閑室元佶(足利学校庠主)
・金原孫兵衛(主膳)
・平田治部左衛門(用右衛門)
・巨瀬七郎左衛門(忠左衛門)
・井出源右衛門(権右衛門、杢兵衛)
・田中六右衛門(右馬助)
・浜野源次兵衛(兵部左衛門)
・陣内市左衛門(蔵人)
・仁戸田藤次兵衛(平馬助)
・堀江清右衛門(太郎兵衛)
・小出進士允(隼人)
―金原氏略系図―
→平常長―常房――常益――金原常義――盛常―+―清胤―+―重胤―――+―胤益―――――宗胤――――義胤
(三郎)(庄司)(金原庄司)(庄司)|(次郎)|(小次郎) |(五郎) (五郎) (五郎)
| | |
+―盛親 | +―胤光―――+―胤義
|(次郎)| |(弥二郎) |(彦次郎)
| | | |
+―良憲 | | +―僧
(舜忍)| | (少輔)
| |
| +―胤朝―――+―資胤
| (七郎) |(平四郎)
| |
| +―義胤
| (八郎)
|
+―明円―――+―常瑜―――――覚瑜 +―十郎
(安久山堂)|(大夫僧都) (民部阿闍梨) |
| |
+―胤長―――+―胤春―+―有胤―――――亀王丸―+―又七
(左衛門尉)|(三郎)|(又三郎)
| |
+―胤親 +―胤義―――+―胤弘――――胤満
|(六郎)|(七郎次郎)|(伊賀守) (伊賀守)
| | |
+―胤盛 | +―日範 +―徳王丸
(七郎)| |(修善院)|
| | |
| +―胤世――+―日元
| (掃部助) (中将公)
|
+―千代松丸―+―日従
|
|
+―七郎
金田
上総一族。上総権介広常の弟・頼次が上総国長柄郡金田郷勝見(木更津市金田)に住んで金田と称した。
頼次は三浦半島の大豪族で、千葉氏と同じく平良文を先祖に持つ三浦家の老当主・三浦大介義明の娘婿だった関係から、兄の広常とは行動を別にして三浦軍の一員となっていた。治承4(1181)年、平家によって三浦氏の居城・衣笠城が攻められると、三浦勢に参加している。しかし敗れたため、義兄の三浦義澄とともに頼朝軍に合流し、以降も頼朝にしたがって平家討伐に功をあげた。
しかし、兄の広常が謀叛の疑いで暗殺されると、頼次も連座して千葉介常胤に預けられることになった。だが、広常の疑いが晴れると、頼朝は広常誅殺の罪滅ぼしのためか、頼次らを釈放して御家人として復帰させた。その子・康常は二代将軍・頼家に仕え、本領を安堵された。
しかし、その子・成常はおそらく千葉介宗家の千葉介成胤の偏諱を受けていると思われ、この時には上総党であった金田氏は千葉介の支配下に入っていたのだろう。だがその後、北条時頼に対する前将軍・頼嗣の謀叛(?)に加担した上総介秀胤の一族として所領を没収されて、千葉宗家にお預けとなった。その子・胤泰は叔父の白井胤定(九郎)の養子となって、下総国鏑木郷を領して鏑木をなのった。そしてその後、上総国蕪木郷に移住して蕪木と改称している。
その後は千葉宗家の重臣となり、嫡流の信吉(左衛門大夫)は千葉氏の重臣として上総国勝見城を守り、里見氏と争った。信吉には二人の子があり、嫡男・正信(左衛門大夫)も上総国勝見城主として千葉宗家に仕えて功績があり、娘が千葉介昌胤の正室となっている。その嫡男・邦頼はおそらく千葉介邦胤からの偏諱をうけており、「小田原合戦」では重胤にしたがって小田原城に入り、その後は行方をくらましたとされるが、正信と邦頼の活躍時期はおよそ80年ほど開きがあることから、正信の孫世代の人物と思われる。
一方、信吉の次男・正興(弥三郎)は大永年中(1521-1528)に勝見城を去って相模国愛甲郡金田郷に移住、さらに三河国幡豆郡一色村に移って、領主・松平信忠(徳川家康の曾祖父)に仕えた。その子・正頼(与三左衛門)は松平清康に、その子・正房(与三左衛門)は松平広忠に仕えたが、天文16(1547)年、広忠の嫡男・竹千代(家康)が、織田信秀(信長の父)にさらわれた。竹千代はもともと今川義元のもとへの人質であったが、戸田彈正少弼の裏切りによって道中で信秀に拉致されてしまった。これを聞いた正房は憤慨し、三河に連れ戻そうと図ったが、織田方に察知されて殺された。
◆旗本金田氏◆
名前 | 生没年 | 父 | 事歴 |
金田惣八郎正祐 | 1525-1546 | 金田与三左衛門正房 | 松平広忠に仕え、天文15(1546)年9月6日の三河上野の戦いで戦死。法名は照観。 |
金田惣八郎祐勝 | 1548-1611 | 金田与三左衛門正房 | 松平広忠・徳川家康に仕え、慶長7(1611)年11月5日に63歳で没した。法名は玄勝。 |
金田惣八郎正勝 | 1566-1615 | 金田惣八郎祐勝 | 徳川家康に仕え、大番から組頭へ、さらに大坂の陣では伏見城番をつとめた。元和元(1615)年12月14日、50歳で没した。法名は宗源。 |
金田惣三郎正末 | ????-1634 | 金田惣八郎正勝 | 徳川秀忠に仕える。証の無いことを訴え出たために勘気を蒙って家禄を没収され、寛永11(1634)年4月29日、さきの訴えは奉行人らの妨げで罪を蒙ったとして鷹狩中の家光に直訴し、家光もこれをみとめて糾明したが、正末の訴えは偽りとされ、再犯は軽からずとして斬首された。 |
―旗本金田氏-
→金田正房―+―宗房―+―良房――――+―房能――――――+―房輝――――――+―房森――――+=正英――――+=正寅
(与左衛門)|(靱負)|(靱負) |(八左衛門) |(市郎兵衛) |(小太郎) |(小太郎) |(仁十郎)
| | | | | | ∥ |
| +―娘 +―師勝 +―房明 +―房歳 +―娘 +―鏑木忠次郎
| (中根正成妻)|(勘解由) |(美濃安養寺住持)|(小次郎) |(金田正英妻)|
| | | | | |
| +―房宅 +―房清――正英 | +―娘 +―正美
| |(猪左衛門) |(八弥)(小太郎)| |(織田信守妻)|(市郎兵衛)
| | | | | |
| +―娘 +―娘 | +―娘 +―娘
| |(松平図書康久妻)|(岡野成恒妻) | |(金田正弥妻) (町野幸充妻)
| | | | |
| +―娘 +―娘 | +―娘
| (坂部利之妻) (織田信輝妻) | (金田正弥後妻)
| |
| +―娘―――――――正寅
| |(織田信常妻) (仁十郎)
| |
+―正祐===祐勝―――正勝――+―正末 +―房長===房定――――房牛==房増
|(惣八郎)(惣八郎)(惣八郎)|(惣三郎・断絶) (小兵衛)(庄右衛門)(左門)(助八郎)
| |
+―祐勝 +―正延――――吉時―――正茂―――――正房―――+―正武――――+=正友
(惣八郎) |(忠左衛門)(平兵衛)(八郎右衛門)(市郎兵衛)|(忠左衛門) |(友之丞)
| | |
+―娘 +―娘 +―正友 +―井上長公
|(金田正盛妻) |(遠藤綱行妻) |(友之丞) |(角左衛門)
| | | |
+―娘 +=正則 +―娘 +―娘
|(石原与右衛門妻) |(惣左衛門) (都築景林妻) (森半十郎妻)
| |
+―正辰―――+―正親――――+―正存――――……<金田惣八郎家>
|(惣八郎) |(惣八郎) (惣八郎)
| |
+―娘 +―正勝――――+―正通―――――…<金田近江守家>
|(森重利妻) (与三左衛門)|(与三左衛門)
| |
+―娘 +―正則
|(川田玄蕃妻) (惣左衛門)
|
+―娘
|(榊原政晴妻)
|
+―正成―――――正長――――――忠眞―――――…<金田弥左衛門家>
(源兵衛) (源兵衛) (弥左衛門)
鏑木
千葉一族。「かぶらぎ」と読む。鏑木氏は千葉氏の一族の中でもかなり古い一族で、千葉宗家のなかでももっとも重用された家柄。原氏・円城寺氏・木内氏とならんで「千葉四天王」とよばれた。
千葉介胤正の八男・白井胤時(八郎)の子・白井胤定(九郎)が下総国鏑木郷(旭市鏑木)を領して鏑木を称した。胤定の父・胤時は『明月記』によれば、文暦2(1235)年6月、小笠原某の妻であった女性(所縁之入道次女)の父が、彼女を強いて「千葉八郎」に嫁がせたことが記載されている。
白井胤時(八郎)は千葉介頼胤が幼少で家督を継いだとき、一門の代表者として上総権介秀胤とともに幕府に出仕していた。その後、高齢のためか千葉宗家の代役を甥の千葉泰胤(次郎)に譲ったようである。
嘉禎3(1237)年4月19日、鎌倉の大倉新御堂上棟式に際し、将軍・頼経は夜まで続けられた足利義氏(左馬頭)邸での酒宴から御所へ帰還するにあたり、隨兵十騎の中に「千葉八郎」の名が見える。嘉禎4(1238)年6月5日、将軍家春日社御参に隨兵一番として、三浦光村(河内守)、梶原景俊(右衛門尉)と並んで「千葉八郎胤時」の名が見える。その二年後の仁治元(1240)年8月2日、将軍・頼継の二所詣の先陣隨兵十二騎の一騎に「千葉八郎」が見える。
寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突如御出する際に、供奉する御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていたのを、この日、月の上旬・中旬・下旬で当番制とした。その中旬の担当に「千葉八郎」が見える。さらに寛元4(1246)年8月15日の放生会の後陣の隨兵として「千葉八郎胤時」の名が見える。
宝治元(1247)年5月14日、前日に亡くなった将軍・頼嗣御台所(北条修理亮時氏娘)の葬送の儀が執り行われ、前執権・北条経時(武蔵守)の左々目谷墳丘墓の傍らに埋葬された。この葬儀に列した人物として「千葉八郎」が見える。
胤時は上総権介秀胤の謀叛嫌疑に連座して、所領の白井庄を没収されていたが、その子・胤定(九郎)は千葉宗家の庇護のもとで鏑木郷を領することができた。胤定は一族の荒見泰朝(弥四郎)とともに浄土宗の有力壇越として知られ、浄土宗三祖・良忠を庇護した。胤定は建長5(1253)年ごろ、下総国を布教中の良忠に帰依し、鏑木郷に光明寺を建立。みずからは在阿弥陀仏と号した。そして建長6(1254)年8月、良忠は『選択伝弘決疑鈔』五巻を著し、胤定へ与えている。さらに正嘉元年2月には『決答授手印疑問鈔』二巻を著して胤定に与えた。
胤定の養子となった胤泰(実は上総氏流・金田盛常の子)が鏑木孫八郎を称している。その5代目の孫・公永(駿河守)は始祖・白井胤時の遺領をふたたび返還されるよう千葉宗家に願い出、これが認められて白井庄は公永に渡され、白井氏に復した。この白井氏は、公永の妹の子・幹成(三郎。真壁義成の子)が継承することとなり、公永の嫡男・胤元(十郎)は鏑木氏の家督となる。
胤元の嫡子・鏑木胤義(長門守)は、千葉介利胤の側近として仕え、利胤亡きあとは千葉介親胤が幼少だったために、その後見職を務めて軍勢を支配し、親胤亡きあとは、千葉介胤富に従属していたようだ。年月不詳10月21日、おそらく台風で破壊された香取社の神殿の造営について「治房」「実隆(大禰宜)」が鏑木長門守(胤義)へ宛てて発給された『大禰宜実隆等連署書状』が残る。
鏑木胤義(長門守)の子・鏑木胤定(信濃守)は享禄年中(1528~1531)に高巌山長泉寺(旭市鏑木)に建立したとされる。長泉寺は鏑木氏の菩提所であり、系譜が伝わっている(『鏑木長泉系図』)。その子・鏑木胤家(長門守)は天正18(1590)年7月、豊臣勢の来襲に対して鏑木城を開城した。
鏑木胤家の孫・鏑木親胤(内匠助)は香取郡鏑木村に帰農し、代々村に住んだ。どうやら医学を家道としておられた家のようで、子孫の鏑木敬胤(源右衛門)の子・鏑木胤永(鏑木尚安)は延享4(1744)年9月に鏑木村に誕生した。彼は医学を修め、天明年間にはじめて佐倉藩主・堀田正順に藩医として召し出された。寛政2(1790)年、十人扶持を給され、享和3(1803)年2月には江戸藩邸詰となった。文化2(1805)年9月、十八人扶持を給されて国元佐倉詰となり、文化8(1811)年閏2月に亡くなった。号は瑞翁、鏑城。佐倉城下の久栄山妙隆寺に葬られた。
胤永尚安を継いだのは、佐倉藩士・斉藤仙太郎是雄の弟、齋藤己之助で、寛政5(1793)年11月に胤永尚安の娘を娶って婿養子となって鏑木胤禄を名乗り、文化8(1811)年4月に胤永尚安の家督をついで良安と号し、藩医となった。天保7(1836)年10月7日、医学局都講に就任。天保12(1841)年4月には医学局教授に任じられた。嘉永2(1849)年10月に亡くなった。
その跡を継いだ鏑木胤景仙安は享和3(1803)年佐倉にて誕生。儒学を石橋竹州に、書を市川米庵に学び、天保7(1836)年10月7日、父が医学局都講になったのと同時に、医学局読頭に就任している。天保9(1838)年には藩命により、江戸に出て箕作阮甫について蘭学を学んだ。佐倉藩は蘭学による西洋医学の取り入れに積極的であり、仙安は藩医として修める義務があった。しかし、江戸での学問だけでは不十分であると、藩は長崎遊学を命じられた。そして約一年の勉学を終えて天保13(1842)年12月15日、佐倉に戻った。翌12月16日、医学局都講を仰せ付けられ、蘭学を学ぶ者は学校に出て仙安について学ぶ触れが出された。号は鰲山、昭海(『佐倉市史』)。
千葉介邦胤の次男・粟飯原俊胤は兄・千葉介重胤のあとを継いで千葉宗家の家督を相続し、子の胤正・正胤がともに鏑木を称した。胤正は浅草鳥越神社の神主となり、正胤はおなじく浅草第六天神の神主家として江戸時代、代々続いた。
千葉介昌胤の子・臼井四郎胤寿(のち兵部少輔胤秀)の子・胤次は下総古河に住み、弟で養子となっていた権太郎長胤は古河で兇刃に倒れた。胤次の跡は弟・胤幹(新右衛門)の子・胤利が継ぎ、寛文2(1662)年に15歳で亡くなるとその庶兄・胤房が継いだ。胤房も寛文5(1668)年に24歳で亡くなり、彼らの父・胤幹(新右衛門・号は露身)が鏑木家を相続した。胤幹は江戸へ出て神田に住み、その子・氏胤(平内)は元千葉氏の客将だった押田三左衛門直勝に寄食し、彼とともに館林藩に仕えた。
延宝8(1680)年5月、館林藩主・徳川綱吉が将軍となって江戸城西ノ丸に入ると、氏胤は綱吉に従って江戸城にはいって旗本に列し、150俵を賜る。綱吉没後は小普請組に配属され、町奉行与力となった。元禄年中に60余才で没し、養嗣子・成胤(十左衛門)が跡を継ぐ。氏胤の実父は星野覚左衛門安休といった。氏胤にも子はなく、神尾七郎左衛門の子・教胤(三五郎)を養嗣子に迎えた。しかし、教胤も子宝に恵まれず、天野甚左衛門宗閑の子・近胤(次郎吉)を養嗣子として鏑木家を継がせた。近胤にも子がおらず、大河内正明(源八郎)の子・盛胤を養子として延享2(1745)年に家督を相続した。しかし宝暦3(1753)年に鏑木家を出奔して断絶となった。
―旗本鏑木家略系図―(鏑木氏系譜)
→千葉介昌胤-臼井胤寿-鏑木胤次=長胤==胤利=胤房===胤幹――――氏胤==成胤====教胤===近胤===盛胤
(四郎) (権太郎) (十大夫)(新右衛門)(平内)(十左衛門)(三五郎)(次郎吉)(断絶)
●某年10月21日『大禰宜実隆等連署書状』
蕪木
千葉一族。「かぶらぎ」と読む。千葉介胤正の八男・白井胤時(八郎)の子・胤定(九郎)が鏑木を称した。胤定の養嗣子・鏑木胤泰(孫八郎・金田盛常の子)の次男・常泰が上総国蕪木郷(山武市松尾町蕪木)に知行を賜って蕪木を称した。蕪木常正(孫三郎)の子・常信は、祖・鏑木胤泰が金田氏の出身であることから、金田に復した。
―蕪木氏略系図―
→千葉介胤正―白井胤時―胤定==鏑木胤泰―蕪木常泰(泰年)-常時-常頼-常成-常治―――常久―――常正―――常信
(八郎) (九郎)(孫八郎) (孫八郎) (孫八郎)(孫八郎)(孫三郎)(金田刑部)
鳴矢木
千葉一族。「かぶらぎ」と読む。千葉介胤正の八男・胤時の子・胤定が鏑木を称しているが、おそらく彼の庶流が鳴矢木を称したのだろう。
鴨打
千葉一族。本姓は源(嵯峨源氏)。肥前松浦党の一族である。肥前千葉氏の西千葉胤繁の娘が小城郡芦刈村の鴨打胤宗(筑前守)に嫁いだ。
上松浦郡の鴨打輝が、肥前で大きな力を有していた肥前千葉氏の麾下となり、小城郡芦刈村に所領を与えられた。輝の子・胤宗(筑前守)は肥前千葉氏(千葉介胤繁か)より「胤」の偏諱を与えられ、さらに胤繁の娘を正室に迎えるなど、千葉氏の有力一門として活躍をするようになる。
しかし、天文14(1545)年2月27日、主君である千葉介胤連が少弐氏によって小城郡を追われて杵島郡に逃れたのち、筑前国で少弐氏に対して挙兵した龍造寺家兼に呼応。胤連もこれに同調して兵を挙げて奮戦した。
胤宗の嫡男・胤忠(陸奥守)は、家兼の孫・龍造寺胤信(隆信)に仕え、少弐冬尚・千葉胤頼・江上武種らが籠る勢福寺城の合戦でも活躍し、少弐冬尚らを自刃に追い込んだ。永禄6(1563)年3月の有馬晴純との戦いでは、龍造寺隆信・千葉介胤連の所領を侵攻するべく、杵島郡まで攻め寄せた際、千葉胤連は龍造寺隆信と連絡をとり、配下の胤忠をはじめ、徳島胤時(甲斐守)・持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠まで出陣した。
胤忠はその後も、大友氏との合戦など、主要な合戦に参加して武名をあげた。子孫は佐賀藩士となる。
―鴨内氏略系図―
→嵯峨天皇―源融――源昇―源仕―――源宛――――渡辺綱―…―鴨打輝―――鴨打胤宗
(左大臣) (武蔵守)(武蔵権介)(源次) (筑前守)
∥
∥――――――鴨打胤忠
∥ (陸奥守)
千葉介胤繁―+―娘
|
+―娘
∥――――――諫早直孝
∥ (石見守)
龍造寺鑑兼―――龍造寺家晴
(左衛門佐) (兵庫助)
鴨根
千葉一族。平常長の三男・平常房(三郎)が鴨根郷(いすみ市鴨根)に住んで鴨根を称した。彼には跡を継ぐ男子がなかったのか、弟の原常宗(四郎)、岩部常益(五郎)を養子としている。
―鴨根氏略系図―
→平常長――+―鴨根常房―+=常宗
(下総権介)|(三郎) |(四郎)
| |
+―原常宗 +=常益
|(四郎) (五郎)
|
+―岩部常益
(五郎)
萱浜
相馬一族。相馬氏の一門・門馬氏の嫡流で、相馬高胤に仕えた門馬胤久(嘉右衛門)が、行方郡萱浜村(南相馬市原町区萱浜)に住んで萱浜を称した。ただ、胤久自身も門馬を称しており、子孫は門馬嘉右衛門を称して幕末にいたる。
胤久は、文安2(1445)年2月に起こった牛越上総介定綱の謀反に際し、青田清弘とともに定綱を討った人物として知られる。もともと定綱は近隣に武名の聞こえた剛勇の武士であり、彼を討伐に出た相馬高胤も定綱の兵に押されて退却するほどであった。ここで、高胤に従って参陣していた胤久は青田清弘(豊田三郎左衛門)ととも一計を案じ、定綱の陣に偽って降伏して彼の油断を突いて定綱の首をあげた。こうして牛越氏は滅亡した。高胤は彼ら両名の功績を賞し、「青田・門馬の両家は永世断絶すべからざること」の証印を与えている。
唐崎
千葉一族。椎名氏の一族・野手氏から出ていて、小田氏の重臣・多賀谷氏の旗下に入っていた野手盛胤(十郎右馬允)の長男・胤平(太郎大膳)が文明7(1469)年1月に下総国結城郡唐崎郷(茨城県下妻市唐崎)に所領を与えられ、唐崎を称した。
川上
上総一族。上総権介常澄の十男・重勝が常陸国川上村に住して川上を称した。
もう一流、東氏の流れをくむ川上家がある。田部氏の嫡流。東胤頼(六郎大夫)の次男・木内胤朝の子・田部胤長(五郎)の5代の孫・田部胤光(大和守)が元亨年中(1321-1324)に居城を田部から香取郡川上村(香取市川上)に移して川上を称した。その子孫・胤時(左門)は天正18(1590)年、小田原落城とともに廃虚となった川上城跡に隆星院を建てて開基となる。また、胤光の子・胤房(図書)の次男・胤雄(与七郎)も川上を称した。
―川上氏(1)略系図―
→上総権介常澄-川上重勝
(十郎)
―川上氏(2)略系図―
→千葉介常胤-東胤頼-木内胤朝――田部胤長-胤辰――――胤清―――胤家―――胤秀―――川上胤光-胤房―――胤継―――胤広――+
(六郎)(下総前司)(五郎) (五郎六郎)(平十郎)(彦次郎)(平三郎)(新九郎)(新五郎)(新太郎)(助九郎)|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤貴―――胤盛―――胤明―――胤尚―――胤元―――胤綱―――胤時―――胤宗―――胤昌―――胤利
(助五郎)(伝十郎)(長九郎)(権十郎)(権三郎)(権九郎)(弥七郎)(弥七郎)(弥一郎)(弥七郎)
河内
千葉一族。但馬守常親が千葉介重胤に仕えた。その子・知親は小田原落城に際して浪人し、慶長17(1613)年、徳川家康に召し抱えられて300俵の旗本となる。その後は甲府代官職という大役に抜擢、その子・胤盛は家康の子・秀忠に仕えて大坂冬夏両陣に供奉した。家紋は「丸に陽剣梅鉢」・「根笹」。
―旗本河内氏―
→河内常親-知親―+―胤盛――+―胤平――+―胤勝―――胤清―――胤治――+=胤純====胤庸――――+―娘
(但馬守)(右近)|(与兵衛)|(弥四郎)|(権三郎)(弥四郎)(虎之助)|(与兵衛) (舎人) |(木村種方妻)
| | | | |
+―平大夫 | +―半右衛門 +―娘 +―娘
| | (内藤忠剋妻) |(野辺正善妻)
| | |
| +―十左衛門 +―常直
| | |(満五郎)
| | |
| +―娘 +―祚胤
| (吉田政時妻) |(右近)
| |
| +=胤禄―――胤保
| (勇三郎)(与八郎)
|
+―久次―――+―久重―――+―久豊―――+―久周=====久勝―――+=常道――娘
|(長左衛門)|(新右衛門)|(新左衛門)|(新五左衛門)(新左衛門)|(左京)(河内久定妻)
| | | | |
| | +―又右エ門 +―久勝 +=久定
| | |(天野家) |(新左衛門) (猪三郎)
| | | |
| | +―杉原守全 +―娘
| | |(伝五右衛門)(辻芳房妻)
| | |
| | +―杉原守孝
| | (孫十郎)
| |
| +―常政―――――常秀―――+―常記===常季――…<河内佐太郎家>
| |(左太郎) (久五郎) |(半兵衛)(監物)
| | |
| +―常昭――――胤純 +―河野通英―河内常道
| (五郎大夫)(隼人) |(主馬) (左京)
| |
| +―寺尾直寛
| |(平右衛門)
| |
| +―常誠
| |(隼人)
| |
| +―娘
| |(河内常云妻)
| |
| +―娘
| (加治忠次妻)
|
+―吉久―――行安――――清行===常誠――常職――…<河内八兵衛家>
|(八兵衛)(源五兵衛)(伝七郎)(隼人)(隼人)
|
+―胤正――――常乗――+―常云
(伝右衛門)(弥兵衛)|(伝兵衛)
|
+―常起―――――常範―――常敷
(五郎右衛門)(吉五郎)(金八)
河村
千葉一族と伝わるが、際は藤原秀郷流の河村氏か。下総国相馬郡の豪族で、室町時代の永正年中(1504~20)に、利根川を望む相馬郡芝原(千葉県我孫子市中峠)の高台に芝原城(中峠城)を築き、居城とした。
天文10(1541)年には河村勝融(出羽守)が芝原城におり、曹洞宗法岩院の開基となる。その子・修理亮は永禄7(1564)年の国府台の合戦に出陣して戦死。その子・山城守は永禄4(1561)年、小文間の合戦で雁金山に勇名を馳せたが、天正元(1573)年、根戸村(柏市根戸)に攻め寄せた北条氏照の軍勢と合戦し討死を遂げたという。その子・出羽守は天正18(1590)年、小田原城に入城した。高城氏とともに入城したか?
―河村氏略系図―
→河村勝融――修理亮――山城守――出羽守
(出羽守)