鍋島常貞(1598-1666)
17代千葉氏当主・鍋島忠右衛門胤信の婿養子。通称は千葉左京(『葉隠』第六 七六八)、のち玄蕃允。実は鹿江忠兵衛茂次の次男。妻は鍋島忠右衛門胤信娘(心光妙観大禅定尼)、のち諫早石見守直孝娘・彦宮(鍋島勝茂養女:照見院覚珠紹恵)。号は宗碩。
鍋島胤信
(右馬助)
∥―――――娘
∥ ∥
覚誉本慶 ∥
∥
鹿江茂次――鍋島常貞
(忠兵衛) (玄蕃)
∥
∥
鍋島勝茂===娘
∥
∥
鍋島茂貞
(帯刀)
常貞は鍋島忠右衛門胤信の娘(心光妙観大禅定尼)を娶って千葉鍋島家へ養子に入り、常成・常治の男子二人を儲けるが、寛永8(1631)年8月23日、妻・千葉氏は亡くなった。
また、主君・鍋島勝茂より「鍋島」姓を賜って「鍋島玄蕃允」を称し、佐賀藩の憲法である『御壁書』以下、『公儀御法度』『御法度』『御定置条々』『可相改条々』『軍役』『御蔵入役』『軍陣役者之事』『万御法度』の法令にすべて署名、『他方え之連判』三家老(連判家老)のひとりとして初期佐賀藩政を支えた。連判三家老(鍋島伯耆正辰・鍋島主水武興・鍋島玄蕃常貞)はおもに藩内の訴訟を担当し、上使や飛脚の接待も行っていた。これは十日交代で担当していて、常貞は下旬の勤務であった。
寛永13(1636)年11月晦日、鍋島光茂、綱茂に忠誠を誓う血判起請文を三十一名連名で提出した。その五日後の12月5日、大馬廻八備の一家となっている。
●「鹿江茂左衛門外三十一名連署起請文」
鹿江茂左衛門 | 師岡彦右衛門 | 大木兵部丞 | 中野内匠助 | 関 将監 | 石井清左衛門 | 小川市左衛門 |
出雲監物 | 鍋島大膳亮 | 鍋島舎人助 | 石井左近允 | 鍋島織部佑 | 佐野右衛門 | 鍋島勝右衛門 |
鍋島玄蕃允 | 有田左馬助 | 成富十右衛門 | 鍋島帯刀 | 鍋島伝兵衛 | 鍋島右近允 | 鍋島伊織助 |
鍋島七左衛門 | 鍋島式部少輔 | 鍋島隼人佑 | 鍋島市佑 | 鍋島主水佑 | 神代采女佑 | 神代伯耆守 |
鍋島内蔵助 | 鍋島中務少輔 | 鍋島左京亮 | 諫早豊前守 | 多久美作守 |
■天草の乱
寛永14(1637)年10月、肥前国島原においてキリシタン一揆が勃発し、島原城を攻め立てた。これは島原城主・松倉長門守勝家の苛烈なキリシタン弾圧に反発したものとされている。一揆衆は幕府の命を受けた九州諸大名の軍勢が集まりだしたのを見て、12月1日、有馬家の旧居城だった要害・原城に立て籠もり、村々の米をはじめとして、口ノ津の松倉家の米蔵を破壊して五千石ものコメを奪い取った。12月5日、6日で原城は城壁や櫓、城門などが再建され、大将の四郎時貞をはじめ、男女あわせて三万七千人もの人々が城内に入った。
●「賊徒籠城人数并諸役之次第」
大将 | 益田四郎時貞 | ||||
伽衆 | 渡辺伝右衛門 | 赤星主膳 | 会津宗印 | 会津右京助 | 松竹勘右衛門 |
三宅次郎右衛門 | 久田七朗右衛門 | 打田杢之丞 | 馬場休意 | 毛利平右衛門 | |
安村休澤 | 蘆塚忠右衛門 | 林七郎左衛門 | |||
本丸 | 山田右衛門作 | 大浦四郎兵衛 | 上津浦大蔵忠次 (足軽大将) |
有馬亀之丞時家 (足軽大将) |
|
二ノ丸 | 有馬掃部助重正 (大将分) |
下津浦左衛門 (足軽大将) |
葛結蔵人正清 (足軽大将) |
千束善右衛門 | 加津佐助右衛門 |
加津佐三平 | 戸崎惣右衛門 | ||||
出丸 | 田崎刑部 | ||||
三ノ丸 | 堂島対馬次家 (大将分) |
会津左兵衛正則 | 北有馬久右衛門 | 大江源右衛門 | 布津吉蔵 |
大江口 | 大矢野三左衛門 | ||||
池尻口 | 蓑村右兵衛 | 木場作左衛門 | |||
田尻口 | 深江治左衛門 | ||||
松丸 (天草口) |
木戸但馬安正 (大将分) |
上津浦三郎兵衛種清 (足軽大将) |
芝田六郎兵衛次重 (足軽大将) |
||
見次勢 | 大矢野杢右衛門 | 山善左衛門 | |||
軍奉行 | 有江監物貞次入道休意 | 天草玄礼 | 池田清左衛門光時 | 布津村代右衛門 | 松崎半之允 |
使番 | 口ノ津次郎兵衛家時 | 千々岩伝右衛門正時 | 有江市助光家 | 会津刑部定重 | 芝田六蔵 |
夜廻番頭 | 志岐丹後守安吉 | 栖本右京助之時 | |||
普請奉行 | 浜田三吉正為 | 藤次小左衛門 | |||
鉄砲大将 | 柳瀬茂右衛門 | 鹿子木左馬助 | 時枝隼人助 | ||
旗頭 | 高田権八 | 楠浦孫兵衛 | |||
惣奉行 | 蜷川左京助 | 森宗意軒 |
鍋島家も出陣を命じられ、藩公・鍋島信濃守勝茂は子の鍋島甲斐守直澄を名代として惣勢三万四千余を派遣した。鍋島玄蕃常貞は二陣の馬廻八備の一部隊として出陣している。配置は先手・鍋島伝兵衛茂教の真後ろ、有田左馬助紀(左備)、鍋島帯刀茂貞(右備)の斜め後に布陣し、副将・神代伯耆守常親嫡子の神代采女正常利(十九歳)の補佐として同陣していた。
●「当家御軍配」
配置 | 人数 | 大将 | ||
小手先 | 180人 | 福地三左衛門 | 福地六郎右衛門 | |
大手先 | 2,600人 | 鍋島安芸守 | ||
3,000人 | 鍋島淡路守 | 鍋島主水佑 | 鍋島隼人佐 | |
鍋島平八 | 鍋島市佑 | 鍋島伊織 | ||
二陣 | 2,300人 | 多久美作守 | ||
1,000人(馬廻八備) | 鍋島帯刀 | |||
800人(馬廻八備) | 鍋島玄蕃 | |||
800人(馬廻八備) | 有田左馬助 | |||
1,000人(馬廻八備) | 副島五左衛門 (組頭:出雲監物) |
|||
600人(馬廻八備) | 石井左近 | |||
1,300人(馬廻八備) | 鍋島長助 | |||
650人(馬廻八備) | 鍋島伝兵衛 | |||
650人(馬廻八備) | 小川玄碩 (組頭:小川市左衛門) |
|||
副将 | 1300人 | 神代伯耆守 | 神代采女正 | |
御旗奉行 | 村上源大夫 | 三上新助 | ||
長柄槍奉行 | 成富仁右衛門 | 小島右馬允 | ||
鉄砲五十挺(手明20人) | 大木兵部少輔 | |||
鉄砲五十挺 | 大木弥右衛門 | |||
鉄砲五十挺(手明20人) | 中野又右衛門 | |||
鉄砲五十挺 | 中野内匠 | |||
弓五十五張 | 石尾又兵衛 | |||
手明侍 | 鹿江茂右衛門 | |||
御名代 | 1,822人 | 鍋島甲斐守直澄 | ||
後陣 | 230人 | 多久長門入道浄祐 | ||
搦手千々岩口 | ||||
先手 | 2,700人 | 諫早豊前守 | ||
二陣 | 2,200人 | 鍋島若狭守 | 鍋島左京亮 | |
500人 | 田中源右衛門入道安心 (鍋島刑部大輔名代) |
|||
三陣 | 350人 | 鍋島山城守 | ||
1,000人 | 成富十右衛門 | |||
四陣 | 5,000人 | 鍋島紀伊守 | 鍋島式部少輔 | |
中手千本木押さえ | ||||
800人 | 鍋島中務少輔 | |||
500人 | 鍋島右近允 | |||
海上船大将 | 1,000人 | 関将監 | ||
船奉行 | 500人 | 西五大夫 | ||
小荷駄奉行 | 人足1,300余人 | 服部市郎兵衛 | 石井治部左衛門 | 池野三郎右衛門 |
12月10日、幕府上使・板倉内膳正重昌と副使・石谷十蔵貞清は諸勢へ原城下に進軍を命じ、まず鍋島勢へ原城に鉄砲を射かけるよう下知した。この命を受け、鍋島甲斐守直澄はさっそく鍋島淡路守・鍋島主水助・鍋島安芸守・鍋島七左衛門・福地三左衛門・福地六郎右衛門に一斉射撃を指示した。その後、鍋島安芸守・鍋島淡路守・多久美作守・鍋島中務・鍋島右近らが城際に押し寄せたが、城側からの反撃を受けて多くの負傷者を出して退いた。
夜、板倉重昌は攻口の確認を行い、鍋島勢は出丸、松山、大江浜に布陣となり、常貞以下の馬廻八備は出丸攻めに向かい、本陣の甲斐守直澄の備えとなった。
出丸 | 四備 | 鍋島安芸守 | 鍋島淡路守 | 鍋島隼人 | 鍋島市佑 | |
先手大将カ | 多久美作守 | |||||
先手 | 鍋島中務 | 鍋島右近 | 神代伯耆守 | 鍋島采女正 | ||
本陣 | 鍋島甲斐守 | |||||
(八備) | 鍋島帯刀 | 鍋島玄蕃 | 有田左馬助 | 副島五左衛門 | 石井左近 | |
鍋島長助 | 鍋島伝兵衛 | 小川玄碩 | ||||
松山 | 陣将 | 鍋島山城守 | 成富十右衛門 | 諫早豊前守 | 鍋島若狭守 | |
大江浜 | 後陣 | 鍋島紀伊守 | ||||
海上 | 関将監 | 西五大夫 | 田澤助左衛門 |
12月12日、原城からの間断のない射撃によって鍋島勢に負傷者が続出した。このため、陣前に柵を構えて土塁を築き上げ、さらに竹の束で防塁を構築した。
12月14日、幕使の林丹波守・牧野伝蔵・松平甚三郎が天草の陣から「食物ノタメニ牛ヲ殺ス間敷」ことが鍋島勢の先手大将の多久美作守茂辰に伝達された。多久美作守は各物頭へ同触を伝達し、馬廻八備へも伝えられた。これに対して、各組の責任者が「落度無之様ニ念を入、可申付候」との返事をしている。鍋島玄蕃組からは岩部忠兵衛が代表となっている。岩部氏は鎌倉時代に千葉氏が小城へ下った際に随った根本被官と思われ、下総国香取郡岩部村(千葉県香取市岩部)を発祥とする千葉一族である。
12月31日、上使・板倉重昌は元日の攻城を決定。諸将にその通達を発した。これに応じた鍋島勢は、城攻諸組備を定め、神代采女・鍋島玄蕃・鍋島帯刀の三組を先手とした。そして、翌寛永15(1638)年元日、総攻撃が行われた。しかし、幕府軍の士気ははかばかしくなく、上使・板倉重昌みずから突撃を敢行。城からは盛んに鉄砲が射掛けられ、重昌はあえなく戦死を遂げた。
正月4日、新上使・松平伊豆守信綱、戸田左門氏鉄が島原陣へ到着。2月18日、両使の下知によって幕府軍は原城近くに押し寄せて取囲み、鍋島勢は出丸に対して攻撃を行った。常貞ら馬廻衆中六名は先手となって寄せた。こうして城は陥落。天草四郎時貞以下、一揆の衆は壊滅した。この島原の乱で鍋島常貞組の戦死者は七人、負傷者は二十三人にもおよんだ。
■島原の乱後
乱後、常貞は藩主・鍋島勝茂養女(照見院覚珠紹恵)を娶った。彼女は諫早石見守直孝の娘で名は彦宮。もともと、八備の一人であった太田鍋島帯刀茂貞の後妻だったが、茂貞は島原合戦で「自誓必死」ったため離婚することとなった。茂貞は前年寛永14(1637)年6月12日に嬉野与右衛門長清娘・鶴を十七歳で亡くしており、その後、藩侯・勝茂の命で養女の諫早氏彦鶴を妻に迎えたと思われるが、12月には茂貞は必死の覚悟で出陣しており、離縁はわずか数か月で後家にすることを避ける措置であったのだろう。茂貞はその覚悟通り二十六歳で討死を遂げた。常貞に嫁いだ彦宮は三根郡千栗郷市原村に物成五十石を拝領している。
島原の乱後に「諸与御改正」があり、鍋島玄蕃允組と鍋島織部允組が「諸組へ散」と、諸岡彦右衛門茂之の組に編入となり、正保3(1646)年10月に改めて諸岡組を玄蕃が引き継ぐこととなる(『大組次第』)。
慶安2(1649)年9月20日の『鍋島玄蕃允組着到』によれば489名の武士(うち馬上物頭5名)を率いていることが記されている。また、藩主直属の馬廻の大組(馬廻八備内)を組織する八名(出雲監物・鍋島帯刀茂貞・鍋島伝兵衛尉茂教・有田勘解由紀・関将監清長・鍋島玄蕃允常貞・小川市左衛門利清・鍋島大膳正之)の一人であった。
慶安3(1650)年12月5日、鍋島丹後守勝茂に対して忠誠を誓う血判起請文を、鍋島若狭守茂綱ほか二十七名で提出した。
●「鍋島若狭守外二十七名連署起請文」
山本甚右衛門尉 | 中野杢兵衛尉 | 鹿江大膳亮 | 中野又右衛門尉 | 大木兵部丞 | 中野数馬佑 | 鍋島舎人助 |
鍋島勝右衛門尉 | 鍋島伝兵衛尉 | 鍋島玄蕃允 | 有田左馬助 | 鍋島右馬允 | 成富左兵衛尉 | 鍋島監物 |
鍋島縫殿助 | 鍋島七左衛門尉 | 鍋島市正 | 鍋島中務少輔 | 鍋島主水佑 | 鍋島内蔵助 | 神代伯耆守 |
諫早石見守 | 多久出雲守 | 鍋島左京亮 | 諫早豊前守 | 多久美作守 | 鍋島若狭守 |
承応2(1653)年6月19日、藩公・勝茂は、家中が華美ならざる旨の法度を出しているにもかかわらず、一向に改まらないことにつき、家老職たる鍋島山城守直弘、鍋島若狭守茂綱、多久美作守茂辰、鍋島内蔵助正辰、鍋島玄蕃允常貞が「緩不念ノ義故」として、いっそうの綱紀粛正を命じた。
承応3(1654)年8月13日、常貞の主だった家臣たちは、鍋島勝茂・光茂、直能に対して忠誠を誓うこと、万一常貞および八左衛門常成(常貞嫡子)が本藩に対して背くことがあった場合などは異見を唱えることなどを誓う血判起請文を鍋島式部少輔、中野数馬助へ宛てて提出した。
●「鍋島玄蕃允常貞家臣等連署起請文」より
結篠作兵衛尉 | 結篠百助 | 柳嶋右衛門佐 | 岩部久右衛門尉 | 岩部清太輔 | 岩部吉左衛門 |
鮎河利左衛門尉 | 鮎河金兵衛尉 | 鮎河角左衛門尉 | 鮎河市太夫 | 松本八郎右衛門尉 | 浅岡与一兵衛尉 |
藤田五郎左衛門尉 | 藤田忠兵衛尉 | 松村又兵衛尉 | 長才右衛門尉 | 河波八郎兵衛尉 | 大井与左衛門尉 |
大井南四郎 | 久間源左衛門尉 |
結篠氏、岩部氏は小城千葉家祖・千田大隈守胤貞の本貫地である下総国香取郡千田庄内にある飯篠村(多古町飯笹)、岩部村(香取市岩部)が発祥地の氏族である。「結篠作兵衛尉」は常貞の娘婿で義弟でもある「飯篠作兵衛仲(鍋島胤信養子・飯篠作兵衛胤仲)」と同一人物だろう。また、岩部久右衛門尉らは「天草の乱」に従軍していた岩部忠兵衛の近親か。
嬉野九郎左衛門――娘 +―――――――虎
∥ ∥ | (永保院)
鍋島茂成―+―娘 ∥ | ∥
(六左衛門)| ∥――――+―鍋島明実 ∥
| ∥ (伝兵衛) ∥ 諫早茂眞―娘
+―鍋島茂教―――――鍋島教澄 ∥ ∥(豊前) ∥
|(伝兵衛) (伝兵衛) ∥ ∥ ∥――――――千葉常以
| ∥ ∥ ∥ ∥ (頼母)
+―娘 ∥――――――――――――鍋島教令 ↓
∥ ∥ (伝兵衛) ↓
千葉介胤連――鍋島胤信―――+=鍋島常貞 +―娘 ∥ ↓
(千葉介) (右馬佐) |(玄蕃允) | ∥――――――千葉常春===千葉常以
| ∥ | ∥ (八左衛門) (頼母)
| ∥ | ∥
| ∥――――+―千葉常成――千葉常輝
+―娘 |(太郎助) (頼母)
| |
| +―鍋島常治――鍋島常範
| |(玄蕃) (玄蕃)
| |
| +―娘
| ∥
+========飯篠胤仲
(作兵衛)
明暦元(1655)年6月7日、常貞が留守居組・師岡彦右衛門組を引き継いだことから、常貞の大組は相浦源左衛門政乗が継承することになった。常貞が留守居組を組織したのは、大組頭・関将監清長の跡をついでいた関大和茂範(鍋島勝茂十一男)が、この年、神代鍋島家の家督を継ぐことになったため、関家の大組は廃止され、代って留守居組・鍋島六左衛門種世組が大組として編成されたため、留守居組・大組を兼ねていた常貞が留守居組として編成されたものであった(『大組次第』)。
鍋島勝茂は明暦3(1657)年3月18日、重篤な状態に陥ったことから、遺書を鍋島甲斐守直澄(蓮池)、鍋島和泉守直朝(小城)、鍋島加賀守直能(鹿島)、鍋島山城守直弘ら一門に加え、鍋島能登、鍋島刑部、多久長門、諫早豊前、鍋島内匠、鍋島玄蕃、鍋島中務、鍋島志摩ら家老衆へも下し、3月24日、七十八歳で逝去した。
円通寺の鍋島常貞・彦宮墓(左側) |
万治2(1659)年4月11日、佐賀藩老臣として守るべき条項を遵守する旨の血判起請文を老臣二十六名が連署して提出したが、その中に「鍋島宗石」と並んで「鍋島玄蕃」があることから、万治2年の時点で常貞は家督を次男・常治に譲っていたことがうかがえる。なお、長男の千葉太郎助常成は不調法により廃嫡されて別家を立て、兄系だが惣領家ではなくなった。ただ、常成の子孫は、惣領家となった弟系をしのぎ、幕末には大組頭にまで上っている。
寛文6(1666)年5月23日、六十九歳で亡くなった。法名は高岩宗石。妻の彦宮(鍋島勝茂養女)は貞享5(1688)年2月18日に亡くなり、常貞と同じ宝塔に葬られた。
◎鍋島玄蕃常貞の知行高変遷
年代 | 知行高(石) | 物成(石) |
寛永5(1628)年 | 1,560 | 780 |
寛永19(1642)年 | 1,640 | 820 |
明暦2(1656)年 | 3,000 | 1,200 |
◎寛永14(1637)年当時の佐賀藩上級家臣組織(石高)
【馬廻】
⇒鍋島勝茂―――+―鍋島若狭守茂綱(21,600)―+――+―鍋島安芸守茂賢(6,000)
(藩主) | | |
+―多久美作守茂辰(21,600)―+ +―鍋島淡路守茂宗(5,288)
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+―諫早豊前守茂真(26,200)―+ +―成富十右衛門長利(2,040)
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+―神代伯耆守常親( 7,150)―+ +―関将監清長(1,200)
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+―鍋島縫殿助茂泰( 3,779) +―鍋島織部佑政通(818)
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+―鍋島式部少輔貞村( 3,347) +―鍋島舎人助茂利(1,000)
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+―諸岡彦右衛門茂之(1,000)
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+―石井清左衛門茂利
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+―鍋島大膳亮正之(1,000)
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+―石井左近允(1,198)
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+―小川市左衛門尉利清(1,000)
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+―出雲監物貞恒(1,000)
|
+―鍋島玄蕃允常貞(1,640)
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+―有田左馬助孝純(1,750)
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+―鍋島伝兵衛尉茂教(1,426)
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+―鍋島帯刀茂貞(2,500)