●陸奥国中村藩六万石●
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女(長松院殿) |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬敍胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬敍胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 不明 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 神戸氏 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 大貫氏(千代) |
■十一代藩主(相馬家二十七代)
(1796-1845)
<名前> | 吉次郎→安胤→益胤 |
<正室> | 高姫(松平大学頭頼慎娘) |
<父> | 相馬因幡守祥胤 |
<母> | 久美姫(松平遠江守忠告の娘:長壽夫人) |
<官位> | 従五位下 |
<官職> | 長門守 |
<就任> | 文化10(1813)年~天保6(1835)年 |
<法名> | 以徳院殿寛量昭潤大居士 |
<墓所> | 小高山同慶寺 |
●相馬益胤事歴●
十代藩主・相馬因幡守祥胤の子。母は松平遠江守忠告の娘・久美姫。異母兄に十代藩主・相馬豊前守樹胤がいる。
寛政8(1796)年正月10日、江戸屋敷において誕生した。御取揚は堀内覚左衛門博長。幼名は吉次郎と定められた。この年5月15日、中村城内的場に白猿が現れた。このため、藩公・樹胤は瑞詩の会を開いた。
翌寛政9(1797)年9月9日、弟の彭之助が誕生した。若き吉次郎を支えた相馬彭之助永胤である。
文化4(1807)年11月15日、十二歳で袴着の儀が執り行われた。さらに文化6(1809)年正月28日、吉次郎と彭之助の兄弟は元服式を行い、それぞれ吉次郎安胤、彭之助永胤と名を改めた。安胤は永胤のほか十歳年上の庶兄・尚之助仙胤とも仲がよかったようだ。
桜田藩邸(中村藩上屋敷)跡 |
文化9(1812)年6月22日、吉次郎安胤は「益胤」と名を改めた。そして翌文化10(1813)年5月23日、藩侯・樹胤は病身につき隠居の意思を幕府に示し、先例によって隠居・家督御礼の藩公に同伴登城のため、御一家・相馬将監胤武が江戸に登った。長男・相馬宮内著胤が病身であったことから、異母弟の益胤を養嗣子とした。6月26日、益胤・永胤兄弟は前髪を落とし、十八歳にして名実ともに成人となった。
11月15日、御隠居御家督御礼のため、隠居・樹胤と新藩公・益胤が江戸城に登城し、通例の如く御一家の岡田監物恩胤、泉左衛門胤陽、相馬将監胤武もともに従い、将軍・徳川家斉に拝謁した。そして、11月28日、隠居・樹胤は麻布中屋敷に移り、益胤が桜田上屋敷に入ることとなった。益胤代の家老が定められ、堀内大蔵胤久、泉左衛門胤陽、大越四郎兵衛尚光、小幡六右衛門高孝、幾世橋作左衛門房経がそれぞれ任じられている。
閏11月3日には、弟・彭之助永胤が仮養子と定められた。益胤は十八歳、永胤は十七歳である。閏11月15日、益胤は藩侯としてはじめて国許に帰ることとなり、永胤も同行した。この道中、永胤は「東彭之助永胤」と改名している。「東」は千葉介常胤の六男・東氏に由来しているのだが、中村藩主相馬家の庶子の中には江戸時代中期ごろから名字を「千葉」「東」とする人物が出てきている。
12月22日、益胤は岡田監物恩胤を理髪役、堀内大蔵胤久を加冠役として元服した。十八歳。
文化11(1814)年1月5日、益胤と庶兄の尚之助仙胤は簾壽夫人、月巣夫人に年始の挨拶を済ませた。両夫人は益胤、仙胤の祖父・相馬因幡守恕胤の側室で、月巣夫人は実の祖母である。
翌1月6日には、御一家の隠居が年頭の挨拶のため中村城に登城。泉右橘胤傳が銀杏を献上した。また、家中で七十歳以上の人物を城に招いて対面し、ねぎらっている。1月22日には、吉辰につき益胤と永胤の具足初が執り行われた。
岩本氏
(簾壽院)
∥
相馬恕胤 松平忠済――――娘
(因幡守) (伊賀守) ∥
∥ ∥
∥―――――――相馬祥胤 ∥――――相馬著胤
神戸氏 (因幡守) ∥ (宮内)
(月巣院) ∥ ∥―――相馬樹胤
∥於松殿 (内膳)
∥
∥―――+―相馬益胤――相馬充胤
松平忠告―――――久美姫 |(吉次郎) (吉次郎)
(遠江守) |
+―相馬永胤
(彭之助)
3月1日、御一家・泉左衛門胤陽は、射芸に熱心でその流儀の発展に尽くしたことにつき、恩賞が与えられた。相馬家では公子や御一家など上に位置する人物が率先して武芸や馬術などに励んでおり、4月5日、彭之助永胤に射芸御免許が渡された。4月21日、祖父の大殿・相馬祥胤から益胤、永胤に対して馬術の免許伝授の旨が披露され、4月22日、馬場万左衛門を介添として馬術免許伝授がなされた。
5月18日、例年の野馬追神事が執り行われた。本来は益胤が総大将として参陣する予定だったが、病気だったため名代として相馬将監胤武(益胤の義理の従兄)が出陣した。永胤は初陣を果たし、長蛇の旗印をはためかせて神事に加わったという。
5月22日、槍師範の嶋弥市右衛門より益胤、永胤へ槍術の伝授が行われた。9月22日、益胤、永胤は妙見社において護身法を請うた。しかし、益胤の調子はまだ戻っていなかったようで、その後もしばらくは病気療養が続いていたようだ。参勤交代も延期を願い出て許されている。そして10月27日、ようやく病の癒えた益胤は参勤交代のため江戸へ出立。11月7日に江戸桜田上屋敷に到着し、15日、登城して将軍・徳川家斉に謁見した。このとき益胤は弱冠十九歳、まだ若い藩主である。
同慶寺の祥胤公墓 |
文化13(1816)年、参勤交代で江戸から帰国した益胤であったが、この年に入ると実父・祥胤の体調が思わしくなくなった。4月1日にいったん小康状態を取り戻したものの直後に倒れ、その後は回復おぼつかず、歓喜寺での祈祷も空しく6月21日、危篤となった。祥胤は自らの命が永くないことを悟り、家老・小幡六右衛門、寺社奉行・熊川兵庫を枕辺に呼ぶと、墓所は同慶寺とし土葬にて埋葬することを遺言し、さらに桃源和尚から莒殿泰雲巨嶽大居士の法号を受けると安心したのか、二日後の6月23日酉の刻、亡くなった。五十三歳の若さだった。6月24日、中村城外大手先門を出棺した葬送の一行は城下の蒼龍寺へ向かい、ここで供養が執り行われたのち同慶寺に埋葬された。
9月11日、益胤は参勤交代のために、上使として相馬徳三郎(相馬将監胤武養嗣子、のち相馬主税胤綿養嗣子)を江戸に派遣した。9月15日、益胤出立につき、惣藩士はすべて登城を命じられた。おそらく益胤の留守の間に何かあったら、どのように対処したらよいのかなどの話し合いがもたれたことだろう。翌16日、益胤の乗った籠は中村を出立した。このとき弟の彭之助永胤も同道したと思われる。
9月23日、益胤一行は江戸に到着。しかし、長い籠旅のせいですっかり調子を落としていたが、10月1日には将軍・家斉に面会している。今回の参勤交代では、益胤の縁組も目的のひとつであったようだ。12月1日、相馬家は藩士・門馬圭助から御先手・水野小十郎を通じて老中・青山下野守忠裕に縁組願を提出した。相手は陸奥国守山藩主・松平大学頭頼慎の娘の高姫である。高姫ははじめ伊勢国久居藩主・藤堂佐渡守高兌と縁談が進んでいたが、破談となっていた。その後、相馬家との間で話はまとまり、12月5日、松植左京亮・小野小十郎を取次として御縁組願が幕府に提出され、12月21日、滞りなく婚姻の儀が執り行われた。守山藩主松平家と相馬家は縁戚であり、交流が続いていたと思われる。
徳川家康――+―徳川秀忠――――徳川家光―――…【将軍家】
(征夷大将軍)|(征夷大将軍) (征夷大将軍)
|
+―徳川頼房――+―徳川光圀―――…【水戸徳川家】
(権中納言) |(権中納言)
|
|【陸奥守山藩】
+―松平頼元―+―松平頼貞――松平頼寛――松平頼亮――松平頼慎――――――+―松平頼誠
(刑部大輔)|(大学頭) (若狭守) (大学頭) (大学頭) |(大学頭)
| |
+―多禰姫 +―高姫
∥―――――品姫 ∥
相馬昌胤 ∥―――――相馬徳胤――相馬恕胤――相馬祥胤――相馬益胤
(弾正少弼) ∥ (内膳) (因幡守) (因幡守) (吉次郎)
相馬敍胤
(図書頭)
このころ、相馬家の財政は非常に悪化していた。藩士の数が多かったことと凶作が続いたことなど、いくつかの要因が挙げられるが、財政破綻の危機に瀕していた。文化13(1816)年12月7日、益胤は、
「当年ヨリ向巳年迄重キ倹約相立、一万石位ノ分限ニ引詰家中宛介相減候…」
と、中村藩六万石を一万石の分限と同様まで切り詰める改革を断行した。12月25日には、倹約の厳法を発し、益胤自身も着物には綿のみを用いるなど、藩侯自ら生活を厳しく律した。
文化14(1817)年1月29日、兄・樹胤の妾腹の子である相馬金之助が疱瘡にかかり、養生も叶わず2月20日に亡くなった。また、桜田上屋敷でも彭之助永胤(益胤の実弟)が3月23日に疱瘡に倒れた。益胤はただちに上野寛永寺の上野大師と明顕山祐天寺に永胤の病魔退散の願掛けを行ったが、29日、ついに亡くなってしまった。享年二十一歳。益胤とはわずか一つ違いの兄弟であり、益胤の落胆はいかばかりだったろうか。4月2日、牛込の宝泉寺にて葬儀が執り行われ荼毘に付された。法名は仮に泰応院殿智歓星生居士と定められ、幕府に永胤の遠行が届けられた。法号は相馬中村の菩提寺・長松寺で改められ、節厳院殿懿徳悌賢大居士と定められた。
彭之助の亡くなった翌日には、祥胤、樹胤、益胤の三代の家老として、四十年にわたって相馬家を支え続けた御一家筆頭・岡田貢恩胤が亡くなった。四十七歳。跡を継いでいた弟の岡田帯刀清胤へ香典が届けられた。
4月14日、益胤は財政破綻に瀕した藩の内情につき、
「最早、年々不如意勝手差支、家中数年莫大之借上ノ段、悼入リ誠ニ歎ケ敷事無此上、寝食モ安ンゼズ候」
と嘆き、さらには、
「若シ其色見候ハバ、誰ニヨラズ無遠慮異見ヲ申聞候、遠慮深ク差控候様ニテハ可為不忠候」
と、この藩の窮乏を救う良い知恵があれば、誰であろうと構わないので意見を申し述べるよう命じている。こうして次々に有能な藩士が抜擢された。池田八右衛門直常、草野半右衛門正辰、久米泰重、今村吉右衛門秀興、紺野文太左衛門、佐藤孟信らがその代表格ともいうべき人物たちである。彼らを財政改革の担当者として勘定奉行、郡代頭などに就任させている。また、国の元は民である事を強調し、役人たちには村を丹精こめて育て、人の増加を図るよう命じた。
4月25日、益胤は義父の松平大学頭頼慎邸を訪問した。このときが益胤と頼慎の初対面であった。益胤二十二歳、頼慎四十八歳である。益胤は4月で江戸滞在の任期が切れることから、出立の前に妻の父・頼慎に挨拶を済ませておこうと思ったのだろう。5月4日、益胤は江戸を出立して国許へ向かい、12日に相馬中村城へ入った。
国許に帰った益胤だったが、しばらくののち江戸から訃報が届いた。6月18日、甥の相馬宮内著胤が急死した旨だった。著胤は前藩主・相馬豊前守樹胤の嫡子であり、本来ならば藩主となっていた人物である。しかし病身だったことから廃嫡され、江戸麻布中屋敷に実父・樹胤とともに住んでいたと思われる。6月22日酉上刻、牛込の宝泉寺へ出棺し葬られた。法名は放光院殿、さらに賢隆院殿と改められた後、観光院殿空外伝明大居士と定められた。
11月3日、財政改革として益胤は百石以上の藩士は五人扶持を、百石には二人扶持の割合で借上、百石以下もそれぞれ借上の措置がとられた。さらにさまざまな事について倹約を求め、形式ばった大仰な格式を改めた。藩主との年始歳暮の挨拶についても、略服を着用して一向に構わないことや、遠くに赴任している藩士や遠方に居住する在郷給人については寒暑の機嫌伺を停止するなど、無駄な出費をできる限り減らそうとしている。
11月18日、城内西館に非常時に備えて米を蓄える社倉を建てた。12月6日、泉田掃部胤周が社倉大奉行に任じられた。
12月16日、先代の相馬樹胤の御内証・芳尾が兼次郎を出産した。諱は博胤、長じて秋田藩一門の佐竹東家に養嗣子に入り、佐竹山城義矩(義祚)を名乗った人物。義矩は画人としても知られている文化人でもある。
文化15(1818)年12月22日、益胤は朝五ツ時(午前八時頃)、旗本の天野左近とともに遠乗りに出かけた。この天野左近富敷は相馬伊織齋胤の子で、益胤には十八歳年上の従兄である。天野富敷はかつて御一家・泉家の養嗣子だった時期もあり、旗本・天野家に入ったのちも相馬家とは交流を続けていた。
●天野左近系譜
青山大膳亮幸秀娘
∥―――――+―相馬信胤
∥ |(式部)
∥ |
相馬恕胤 +―相馬齋胤――――天野富敷
(因幡守) (伊織) (左近)
∥
∥―――――――相馬祥胤
神戸氏 (因幡守)
∥――――――相馬益胤
松平忠告―――――久美姫 (吉次郎)
(遠江守)
文政2(1819)年3月19日夕方七ツ半(午後五時頃)、正室・松平高姫は江戸桜田藩邸にて男子を出産した。嫡男出産の報告を受けた益胤は、翌20日、使者を守山藩邸の義父・松平大学頭頼慎のもとへ派遣して男子出産を報告した。そして、嫡男誕生からわずか九日後の3月28日、参勤交代で国許へもどるため江戸を発った。まだ名前も決まっていない嫡男を江戸に残し、益胤にしてみれば後ろ髪を惹かれる思いだっただろう。嫡男には3月25日、麻布藩邸の大殿・樹胤から「秀丸」の名が贈られた。のちの名君・相馬充胤である。4月5日、益胤は中村城に到着した。
4月11日、秀丸は御部屋に入り、4月24日、屋敷内の稲荷神社へ初参拝を行った。その後、参勤交代で江戸から中村に戻った益胤は6月22日、兄で北町御殿に住んでいた尚之助仙胤に秀丸を面会させた。仙胤にも今年で数え四歳になる壽之助という男の子があり、話が弾んだことだろう。帰国したのち、まず仙胤へ秀丸を会わせたことは、仲が良かったことのほかに相馬仙胤家を御一家、家老重臣と並ぶ相馬家の要と考えていたように思われる。
7月12日、秀丸は歓喜寺の撰によって「充」字が選ばれ、「充胤」の名乗りが与えられた。そして7月20日には、尚之助仙胤も「縫殿」と通称を改めた。そして、7月21日、益胤は相馬縫殿仙胤とともに松川湾に遊びに出かけ、投網を楽しんだ。益胤と仙胤の仲の良さがうかがえる。7月22日、益胤は妙見社に秀丸が「充胤」と名乗りを与えられたことを報告し、同時に仙胤嫡子・壽之助も「胤富」と改められた。
8月7日、家老・郡代頭として池田八右衛門が任じられた。
9月3日、益胤は藩内の巡回のため、縫殿仙胤とともに新沼(相馬市新沼)に出立した。さらに9月6日、縫殿とともに長松寺を訪れて講釈を受けた。さらに城内長友の馬場にて乗馬を楽しんだ。この頃から頻繁に益胤と仙胤は領内巡検や遠乗りなどを行っている。9月28日にも益胤は仙胤と連れ立って遠乗りに出かけ、翌日には仙胤とともに田代左京邸を訪れて蕎麦を食したという。10月18日には、仙胤とともに向山まで遠乗りに出かけた。
蒼龍寺跡(平成11年移転) |
ところが、文政3(1820)年2月16日、仙胤は海道からの遠乗りから北町御殿に戻ったところ急病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。享年三十五歳。仙胤は亡くなる直前に、法名は長松寺の雪堂和尚に依頼する旨を遺言しており、恭孝院殿英山雄義大居士と定められた。翌17日、蒼龍寺の光明庵桃源を導師として葬儀が行われ、蒼龍寺に埋葬された。益胤は数年の間に、もっとも信頼できる兄弟を二人まで喪ってしまった。
3月21日、益胤は堀内大蔵胤久の嫡子・胖に初めて謁見。「胤」字を与えて「胤寧」を名乗らせた。胤寧は文政10(1827)年10月、仙胤の遺娘・於俊を娶っている。
4月16日、益胤嫡子・秀丸は豊丸と改め、11月15日には髪置きの儀が行われた。
12月2日、高姫は長女を出産した。相馬将監胤武が取揚げ、名は愈姫と定められた。
洞雲寺墓所(旧長松寺墓所) |
文政6(1823)年3月4日、高姫は次男を出産した。名は寛次郎。相馬家では庶子に「千葉」「東」など千葉氏所縁の名字を与える伝統があったことから、寛次郎は「千葉」を名字とすることとなり、千葉寛次郎を称した。続けて5月3日には御内証・於知恵が男子を出産した。名は勇三郎。名字は「東」とされ、東勇三郎を称することとなった。しかし勇三郎は9月8日に疱瘡によって幼い命を散らし、長松寺に埋葬された。法名は円光掌珠童子。
文政7(1824)年6月7日、御内証・於知恵はまた男子を出産した。名は邦之助とされ、「千葉」を与えられて千葉邦之助を称した。しかし生まれてわずか7日、6月14日に邦之助は亡くなった。法名は栴林幼苗禅童子。
6月19日、益胤は先祖・相馬孫五郎重胤の御下向五百年に際して、遠藤但馬守胤統(近江国三上藩主)が同祖の家柄ゆえに追善の和歌を頼んだ。胤統は千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼の血を引く歌人大名の家柄であり、東胤頼の実兄が相馬家の祖・相馬次郎師常である。数百年の歴史を互いに認識して交流を持っていたことがうかがえる事例であろう。
文政8(1825)年7月27日、御内証が三男・千葉亀三郎を生んだ。
9月18日には、益胤は千葉寛次郎と甥・相馬大三郎真胤(樹胤次男)の丈夫届を幕府に提出した。寛次郎五歳、大三郎二歳と公表したが、寛次郎は数え三歳、大三郎は当歳か。年を水増しして提示するのは、十七歳未満の大名には養子を認めない幕府の方針があったためで、大名や旗本の当主が十七歳未満で亡くなると、末期養子は認められずに御家断絶となる。年齢を水増すことで絶家の危険を回避する方策を採っていたと思われる。
文政10(1827)年、人口の増加のために家老・久米泰重は、馬場村に庵を構えていた「闡」という浄土真宗僧侶に移民の勧誘を依頼。移民は次々に増え、泰重は私財を投じて邸内に移民者用の長屋を建設した。しかし、泰重の財産も底をついてしまい、泰重は、今後は藩内の商人たちからの融資によって政策を引き続き行うよう益胤に提言し認められた。
しかしながら、増え続ける移民を収容する家も手狭になってきたことから、城下の一角・中村向町に浄土真宗寺院・八幡山正西寺が建立された。定法により新たに寺を建てることは禁止されていたため「会談通所」と号し、浄土真宗僧侶の旅館という建前での建立だった。ここが移民たちの拠点、菩提寺となっていった。
文政11(1828)年2月26日、大三郎に旗本・水谷織部への養子の話があがり、今日、大三郎は江戸に向けて出立した。続いて3月28日、益胤も中村を出立して江戸へ向かい、4月4日に江戸藩邸に到着した。留守居役ほか近江屋喜六ら相馬家出入りの商人たちも到着に際して控えていた。
4月11日、土産として老中・水野出羽守忠成(駿河国沼津藩主)に駒焼きの水差、猪口、角皿などを進上した。4月18日、水野忠成に大三郎の水上家への養子願書を提出した。翌19日には益胤が参勤の礼のために登城して将軍・徳川家斉に謁見している。
大三郎の養子願いは認められるという前提のもとで、4月27日、大三郎は水上家重臣・多田半十郎の迎えを受けて水上家に引き移った。28日には、水上家へ大三郎の荷物が届けられるなど、着々と縁組は進んでいたが、6月2日にいたって、老中・水野忠成の承認が得られず、先日提出された養子願届が相馬家へ差し戻された。不審に思った相馬家がただちに、藩士・猪苗代貞之丞を以って水野へ問い合わせたものの翌3日、「申さず旨達し」た。
相馬家は音に聞く賄賂老中・水野忠成が相手であり、おそらく献上品が少ないために大三郎の縁組は認められないのだろうと考えたのだろう。6月8日、水野家公用人・五十川左司馬を通じて金二千疋(御肴代)、木綿縮一反をあらたに暑中見舞いとして献上した。しかし、これらの献上品の効果もなく、大三郎の養子縁組はついに「相済み申さずに付き」と認められることはなかった。
6月12日に書面ではなく水野家の家臣から口頭で伝えられるなど、至って不親切な対応の中で、大三郎の養子縁組は破談とされてしまった。水野忠成は賄賂政治を横行させた利権老中であることから、相馬家からの献金などが少額だったことへの報復だったのかもしれない。
一方で、6月18日には樹胤の次男・内膳展胤が七千石の旗本・室賀家との養子縁組の話が公表された。しかしながら、この縁組について室賀家より「御縁組不同意」との知らせが届いたことから、7月11日、室賀家へ再談の飛脚が走っている。また、水野忠成へに相馬家より内慮伺いの手紙が送られた。
相馬内膳および相馬大三郎が丈夫届けを出したにもかかわらず、養子として認められなかったのはなぜなのかを、忠成へ詰問したものだった。これに対し、忠成は7月17日、相馬家留守居を屋敷に呼び出して、
との書面を手渡した。つまり、水野忠成は内膳、大三郎は病身であり、養家の嫡子としてはふさわしくないために認めなかったという主張をしている。
洞雲寺(旧長松寺。草野正辰墓所) |
相馬家では、水上家への養子については大三郎に代わり、益胤の次男・兼治郎博胤とすることとした。水上織部はじめ水上家中はこれまでこのような例はなかったとはいえ、婿養子として、すでに引き移りまで済んだ大三郎を情愛の面、世間体からも離しがたく、7月22日、「仮令一応二応御断而も是非御貰可成御模様」と訴えてきた。
相馬家方としてもこちらの理由での破談のため、義理の上からも悩んだ様子がうかがえるが、翌22日、江戸家老・草野半右衛門正辰は麻布の大殿・樹胤が兼治郎を水上家の養子とすることを希望していることを益胤に言上。益胤もこの意を汲み、兼治郎を水上家養子として願い出ることと決定した。実際に願いが届出されたのは翌文政12(1829)年5月のことである。
7月15日、町奉行与力・原善左衛門(南町奉行所与力・原善左衛門胤輝)が益胤に招待されていたが、この日、益胤は病で臥せってしまい会うことができなかったため、郡代・勘定奉行の岩田逸平が八丁堀の原邸に遣わされてこの旨を謝罪し、羽織と料理、引き出物として金一枚が贈られた。原家は相馬家同様に千葉一族で、臼井原氏の庶流である。下総国相馬郡手賀村(千葉県柏市手賀)の旧領主で、徳川家の関東入部ののち、抜擢されて町奉行所与力として配属された家柄であり、おそらくそういった伝を知った益胤が、同族として彼を招待したと思われる。相馬家は「千葉」氏の末裔を強く意識していた様子がうかがえる。
相馬祥胤―+―相馬樹胤―+―相馬展胤⇒室賀兵庫正発
(因幡守) |(豊前守) |(内膳)
| |
| +―相馬真胤⇒根来采女盛実
| |(大三郎)
| |
| +―相馬博胤⇒水上家養子
| (兼治郎) のち佐竹中務義矩
|
+―相馬仙胤―――相馬胤富⇒小栗下総守政寧
|(縫殿) (富之助)
|
+―相馬益胤―+―相馬充胤
(長門守) |(大膳亮)
|
+―相馬卓胤⇒佐竹山城義典
|
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+―相馬清三郎⇒佐竹右京大夫義就
8月28日、内膳展胤と大三郎真胤は、それぞれ改名して内膳は「壽之助」、大三郎は「内膳」とされた。その後も壽之助展胤の養子交渉は続けられ、翌文政12(1829)年12月2日、壽之助の室賀主馬正儀への養子願が幕府に提出され、年があけた天保元(1830)年3月晦日、正式に認可され、閏3月3日、室賀家へ引き移った。このとき、支度金として千二百両、持参金として五百両が持たされている。養家としてもこの支度金や持参金が大切な収入源となっていたようである。3月15日には水上家へ兼治郎博胤が引き移っている。
また8月28日、益胤嫡子・豊丸が十歳になっても藩邸の奥で女中とともに過ごすことはためにならないと、御付人の総入れ替えを断行。8月30日からは女中と引き離しての教育を行うこととした。これは家老・草野半右衛門正辰の意見によるものと思われる。草野は江戸後期の中村藩の家老で、今に至るまで尊敬され続けている名臣である。草野は、豊丸が藩邸の奥深くに過保護に育てられているのを見て、
「君、君を愛し給わば、必ず艱難の地において之を養育したまふべし。古より人君幼にして深宮におり、婦人の手に長となるもの、往々暗愚にして、かつて下民の艱苦を知らず、奢侈に流れ、放肆に陥り、ついに国家の衰廃を招くこと珍しからず。今国家の衰弱、百姓の艱難は、君の明に知りたまふ所なり。幼君として艱苦に長じ、賢明ならしめば、父君の善政を地に堕さず、一藩を憐れみ、百姓を撫育し、国家再興の政、成就すべし。もし愛になじみ、婦人の手に停せしめ給はば、庸君にして艱苦を厭ひ、臣下の言を用いず、稼穡の艱難は何者なるかを弁へたまはざるに至らん。然らば君一世の丹精をもって、国事を憂労したまふとも、一時に廃し永く再生の道を断たん。誠に君の不幸のみにあらずして、一国上下の大患なり。それ生まれながら賢聖なるは億万中といへども得がたし。たとい性質賢なりといへども艱難を経ざる時は、その美質顕はれずして、仁恕の心薄し、いわんやその次をや。これ古人切磋琢磨の功を重んずる所以なり。臣幼君をして、上忠孝を尽くし、下百姓を恵み給ふの賢君ならしめんことを希ふのみ、君それ之を慮れ」
と、益胤に強い調子で提案した。益胤はこれを受けて、
「汝の言、誠に国家を憂ひ、我が父子を愛すの忠言というべし。故に養育のこと、一にこれを汝に任せん」
と、半右衛門を豊丸の教育係に任じた。これを受けて半右衛門は朽ちた古小屋を修理して豊丸を住まわせ、実直の士・神戸光貞を推薦して豊丸の守役とした。仁義忠孝を中心に教育し、朝は日の出前から文学の履修と武道の稽古、綿製の着物を着させた。食事も粗末なもので、庶民が味わっている艱難と君主としての資質を豊丸の体に刻みつける教育を施した。現代では批判されそうなスパルタ教育は、長じてからの名君・相馬充胤をつくる素地となっていた。
この正辰の強諫とそれに従って嫡子を貧しい境遇で育てることを決めた益胤を二宮尊徳は
「それ諫を容れ、愛を割くは人情の難しとする所なり。しかるに益胤君、断然として諫に随ひ愛子を艱難の地に養はしむ。また、諌言は人臣の難する所なり。正辰精忠屢々侃諤の言を進め、両君をして善政を行はしむ。君臣もとよりこの如くにして、国家再復せざるものはあらず。今我が仕法の彼邦に流行すること、実に一朝一夕のゆえにあらず」
と評した。代々の借金に加えて天保の飢饉などによる領国の衰退の中で、君臣一体となって一人の餓死者も出さなかったことは、二宮尊徳の教えによる報国仕法はもちろんの事ながら、君臣領民一体となった信頼関係も大きく関係していたことがうかがえる。
11月25日、御内証の於知恵が今暁男子を出産、名は千葉為五郎と定められた。また、養妹の於千代(樹胤娘)と旗本・井上左太夫との縁組願が認められ、12月22日、於千代は滞りなく井上家に嫁いだ。
文政12(1829)年1月18日、豊丸の稽古始として、軍学は教育長の草野半右衛門、弓術は石川助左衛門、太刀は生駒七郎右衛門、鉄砲術は鈴木此面、鑓術は田村造酒、馬術は馬場彦市がそれぞれ担当することとなった。
12月18日、御一家として藩政を担ってきた堀内玄蕃胤久が三十七歳の若さで病死した。益胤は彼の病中、歓喜寺で祈祷していたが、ついに亡くなった。玄蕃の数年来の勲功を賞し、葬儀には藩侯代参が出席し香典を奉った。
天保元(1830)年に入ると、兼治郎の水上家婿養子入り、壽之助の室賀家婿養子入りが執り行われ、5月13日には富次郎、大三郎の丈夫届が幕府に提出された。大三郎はその後「采女」と改めている。
10月7日、采女真胤は旗本・根来家への婿養子の縁談が済み、12月18日、根来出雲守斯馨の娘と挙式して根来家に移った。采女(大三郎)が先年、老中・水野忠成の異見によって水上家と破談した理由は「虚弱」が公的な理由だったのだが、今回は許可がおりている。
天保2(1831)年11月27日、相馬富之助胤富(益胤兄・仙胤嫡子)と本所に屋敷を持つ六百石の旗本・小栗右膳政長との養子縁組が整った。翌天保3(1832)年4月9日、幕府に富之助婿養子願が提出された。この願いは認められ、9月15日、富之助は「小栗政寧」を称した。そして10月、小栗家へ移った。政寧が小栗家に移るにあたって持参したものは、わずかに一つの行李のみだったという。二宮尊徳の報国仕法と質素倹約を徹底した藩政は藩公子も例外ではなかった。実はこの行李も家老・草野半右衛門が私財を投じて用意したものだった。半右衛門は政寧に、
「財政窮迫、何ら用意も整い難きは深く慙愧に堪へざれども、今贐(はなむけ)として六万石に余る一言を呈すべし。終身服膺して必ず忘れ給ふな。六万石に余る一言とは他にあらず、今日小栗家を襲がれたる、この時の艱難を忘るることなかれ。また、他日幕府に出仕せらるるあらば、その出仕の時の事を忘るることなかれ。この二か条をよく守りて実行せらるる時は、ついに六万石に優る身分とならるるも疑いなし」
という言葉を贈った。政寧はこの草野半右衛門の言葉を胸に刻み続けていたようで、幕府の信任も厚く、京都東町奉行、勘定奉行と有能なエリート官僚の道を歩いていく。幕末の京都を混乱に陥れた過激派・真木和泉や平野國臣を処断したのも彼である。明治維新ののち、政寧は草野に対して感謝の意を人に語り続けたという(小栗政寧事歴)。
閏11月22日、豊丸は吉次郎充胤と改名。これ以降、藩内では吉次郎を「若様」と呼ぶことと定められた。閏11月25日には、豊丸改名のことを老中・松平和泉守乗寛へ登城前に届け出を済ませている。
3月22日、充胤は元服を遂げた。家老として石川助左衛門、須藤猪助、佐藤勘兵衛が就任している。
相馬益胤公墓所 | 相馬益胤公室(高姫?)墓 |
天保5(1834)年5月22日、御一家・相馬主税胤真は武備懸御兵器惣引受に任じられた。中村藩の武備一手を管理する役職と思われる。10月には、主税の嫡子・敏之助(相馬靱負胤就)と益胤の六女・於壽の縁組が整っている。
天保6(1835)年3月5日、益胤の隠居願いならびに充胤の家督願いを幕府に提出した。益胤このとき四十歳。充胤は十七歳だった。3月6日、益胤名代の尼崎藩主・松平遠江守忠栄(益胤の従兄弟・松平忠誨子)と大膳亮充胤が登城して老中に対面。3月7日、隠居ならびに家督願いは相違なく認められた。
隠居後十年ののち、弘化2(1845)年6月11日、麻布中屋敷において亡くなった。享年五十歳。6月26日亥刻過ぎ、益胤の遺骸は江戸を出棺。7月7日、小高洞雲寺に到着。翌8日、公葬が執り行われ、9日夜、同慶寺に着棺。21日、同慶寺の東畑において葬儀が執り行われた。諡は以徳院殿寛量昭潤大居士。
◎相馬益胤代の中村藩重臣◎
年代 | 藩主 | 重臣 |
文政6(1823)年 | 相馬長門守益胤 相馬豊丸(嫡子) |
【一 門】岡田帯刀・堀内大蔵・泉 主殿・泉田掃部・相馬将監・相馬主税 【家 老】西 市左衛門・幾世橋作左衛門・池田八右衛門 【若年寄】神戸五兵衛 |
天保4(1833)年 | 相馬長門守益胤 相馬吉次郎充胤 |
【一 門】岡田帯刀・堀内大蔵・泉 主殿・泉田掃部・相馬将監・相馬主税 【家 老】西 市左衛門・幾世橋作左衛門・池田八右衛門 【若年寄】神戸 仲 |
■幕末の相馬・佐竹家略系図■
池田千恵子
∥―――――――+―佐竹義堯【出羽久保田藩主】
∥ |(右京大夫)
∥ |
⇒相馬益胤 +―佐竹義諶【出羽岩崎藩主】
(長門守) (壱岐守)
∥
∥―――――――――相馬充胤【陸奥中村藩主】
松平大学頭頼慎娘 (大膳大夫)
佐竹義典 (1823-1840)
父は相馬長門守益胤。母は松平大学頭頼慎の娘・高姫。幼名は千葉寛次郎(『相馬藩政史』)、寛三郎(『秋藩紀年』)。諱は卓胤。通称は山城。
徳川家康――+―徳川秀忠――――徳川家光―――…【将軍家】
(征夷大将軍)|(征夷大将軍) (征夷大将軍)
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+―徳川頼房――+―徳川光圀―――…【水戸徳川家】
(権中納言) |(権中納言)
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|【陸奥守山藩】
+―松平頼元―+―松平頼貞――松平頼寛――松平頼亮――松平頼慎――――――+―松平頼誠 +―相馬充胤
(刑部大輔)|(大学頭) (若狭守) (大学頭) (大学頭) |(大学頭) |(大膳大夫)
| | |
+―多禰姫 +―高姫 |
∥―――――品姫 ∥――――+―佐竹義典
相馬昌胤 ∥―――――相馬徳胤――相馬恕胤――相馬祥胤――相馬益胤 (山城)
(弾正少弼) ∥ (内膳) (因幡守) (因幡守) (吉次郎)
相馬敍胤
(図書頭)
文政6(1823)年3月4日、益胤の二男として江戸に誕生。3月10日、「寛次郎」の名乗りを与えられた。相馬家は庶子に「千葉」「東」など千葉氏所縁の名字を与える伝統があり、寛次郎は「千葉」を名字と定められた。文政8(1825)年3月22日、髪置の儀が執り行われた。6月24日、疱瘡に罹患したものの7月8日には快復した。
文政10(1827)年10月29日、寛次郎と弟・大三郎は江戸を出立し、11月9日、中村に初入部した。その後、寛次郎と亀三郎の兄弟は江戸に戻り、実母(亀三郎は義母)の高姫と対面している。後のこととなるが、寛次郎、亀三郎の両者は久保田藩佐竹家の養子となり、とくに亀三郎は最後の久保田藩主として戊辰戦争を乗り切った名君・佐竹義堯(侯爵)となる。
天保9(1838)年10月24日、寛次郎卓胤は出羽久保田藩の一門四家筆頭の佐竹東家「故中務(佐竹義致)」の養嗣子と定められ、翌25日、寛次郎は中村城三ノ丸を出立。11月6日、「相馬大膳亮様御実弟寛三郎」は久保田に到着した(『秋藩紀年』)。なお、寛次郎は佐竹家の資料に拠れば「寛三郎」となっている。相馬家の資料では一貫して「寛次郎」であり「寛三郎」へ改名した記録はないが、養家では「寛三郎」とされており、佐竹家へ赴くにあたって改名されたのかもしれない。
久保田へ移り、藩一門筆頭たる東家を継いだ寛三郎だったが、帰着してまもなく病に倒れてしまった。12月12日、藩公・佐竹義厚は家老・宇都宮四郎孟綱を「朦中御尋」に遣わしているが、その後も体調は思わしくなかったようだ。
天保10(1839)年2月、寛三郎は「佐竹山城義典」(字は子惇)を名乗るが、5月15日、義典はわずか十七歳の若さで病死してしまった。5月21日、仮葬が営まれ、翌22日に久保田城下の菩提寺・白馬寺にて本葬が営まれた。法名は泰心院殿。24日、久保田からの使者・飯嶋佐助によって義典の死が中村に伝えられると、実兄・相馬大膳亮充胤は哀悼の意を表し、翌26日には、早くも長松寺で義典の法要営んだ。
ちなみに彼の死後、叔父の兼治郎博胤(実父は相馬豊前守樹胤)が佐竹東家の養嗣子となって8月19日、佐竹兼之助義祚(佐竹中務義矩)として秋田へ引き移り、卓越した政治手腕で佐竹本藩を支えたが、藩内で強大な権限を持ったことから乗っ取りを疑われて謹慎を命じられ閉居させられた。
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小栗政寧(1816-1899)
父は相馬縫殿仙胤(相馬祥胤三男)。母は御内証の某氏。妻は某氏豊子。幼名は壽之助、尚之助、小栗右膳。諱は胤富、政寧、のち尚三(直三)と改める。官位は従五位下。官途は下総守。明治時代には徳川慶喜家筆頭家扶。
文化13(1816)年2月29日、相馬中村城下北町御殿において、藩侯相馬祥胤三男・相馬尚之助仙胤の子として誕生。4月2日、壽之助の名が与えられ、文政2(1819)年7月22日、「胤」字を受けて「胤富」の名が与えられた。その後、仮名を尚之助(ナヲノスケ)と改める。
天保元(1830)年11月18日、尚之助は江戸へ出立した。これは旗本・小栗家との縁組のための出府と思われる。
天保2(1831)年11月27日、尚之助と本所石原に屋敷を持つ六百石の旗本・小栗右膳政長との養子縁組が整った。翌天保3(1832)年4月9日、幕府に尚之助婿養子願が提出された。この願いは認められ、9月15日、尚之助は「小栗政寧」を称し、10月に小栗家へ移った。
政寧が小栗家に移るにあたって持参したものは、わずかに行李一つのみだったという。二宮尊徳の報国仕法と質素倹約を徹底した藩政は藩公子も例外ではなかった。実はこの行李も家老・草野半右衛門が私財を投じて用意したものだった。半右衛門は政寧に、
「財政窮迫、何ら用意も整い難きは深く慙愧に堪へざれども、今贐(はなむけ)として六万石に余る一言を呈すべし。終身服膺して必ず忘れ給ふな。六万石に余る一言とは他にあらず、今日小栗家を襲がれたる、この時の艱難を忘るることなかれ。また、他日幕府に出仕せらるるあらば、その出仕の時の事を忘るることなかれ。この二か条をよく守りて実行せらるる時は、ついに六万石に優る身分とならるるも疑いなし」
という言葉を贈った。政寧はこの草野半右衛門の言葉を胸に刻み続けていたようで、幕府の信任も厚く、有能なエリート官僚の道を歩いていく。
天保13(1842)年に御小姓組となり、嘉永元(1848)年に進物番に就いた。安政2(1855)年6月6日、養父・右膳政長の死に伴って家を継ぎ、文久元(1861)年4月24日、徒歩頭、翌文久2(1862)年5月18日に禁裏附となり、元治元(1864)年2月15日に京都東町奉行となる。幕末の京都を混乱に陥れた過激派・真木和泉や平野國臣を処断したのも彼である。
慶応元(1865)年10月16日、経理の才を買われてか勘定奉行(勝手方)に抜擢され、さらに翌慶応2(1866)年7月2日には関東郡代を兼ねた。明治4(1868)年正月28日、御役御免となり勤仕並寄合となる。
明治維新ののち、政寧は草野に対して感謝の意を人に語り続けたという(小栗政寧事歴)。明治に入ると、名を尚之助と改め、さらに尚三と改名。徳川宗家を継いだ徳川家達(田安徳川亀之助)に従って静岡へ下って、明治2(1869)年には静岡藩郡奉行兼勘定頭として出仕、さらに静岡藩少参事(会計掛)となった。会計掛となったのは、彼が財務に明るく勘定奉行も歴任していたためと思われる。当時住んでいたところは草深町の「田代跡」。その後、紺屋町三十七に移った。
明治5(1872)年に辞官して、駿府城の北東にあった有渡郡上足洗村(静岡市葵区上足洗)へ住んだ。このとき五十七歳。辞官後の10月13日、尚三は慶喜邸で慶喜と面会して以降、しばしば慶喜を訪ねている。
慶喜紺屋町邸跡(現・料亭浮月楼) |
明治6(1873)年正月1日には長男・鋼太郎政良を伴って慶喜邸を訪問し、年賀の挨拶をしている。翌明治7(1874)年元日にも同様に鋼太郎を伴って訪問している。この鋼太郎政良は明治10(1877)年10月30日に慶喜家の「雇」となっている。また、静岡県官吏でもあり、明治12(1879)年4月には御用掛准等外として出仕し、地誌国史編輯の会計掛を勤めている。
明治8(1875)年元日は、鋼太郎ひとりが新年のあいさつに慶喜邸を訪れており、尚三は2月1日に訪れてマガモを献上した。11月28日には、慶喜長女の鏡子、三女の鉄子の祝賀のため、鋼太郎が御肴を献じた。
小梳神社 |
明治9(1876)年元日、尚三は政良とともに慶喜に新年の賀を奉じ、4月15日には慶喜から猟の獲物(鴨か)を賜った。11月15日、慶喜は慶喜四男・厚のお祝い(三歳)と四女筆子の宮参りのため、尚三らが供して少将井社(小梳神社)に参詣している。
明治10(1877)年10月30日、鋼太郎政良が慶喜家の「雇」となり、一層慶喜家との関係が深まる。
明治11(1878)年正月12日、鋼太郎は「舶来玉」六函を慶喜に献上。3月29日、鋼太郎は象牙の将棋駒を献じた。4月13日、尚三らは慶喜から鴨を賜る。
徳川家達邸跡(西草深公園) |
明治13(1880)年7月4日、尚三は慶喜の長女・鏡子が東京へ出立するのに供して倉沢まで送り、ここから静岡へ戻った。こうした慶喜との関係は雇いの関係ではなく、私的な関係だったと思われ、慶喜との交流の深さがうかがわれる。
しかし、その後尚三の生活は一変する。明治14(1881)年5月20日、慶喜の信頼厚い家令・梅沢孫太郎が急な病に倒れ、亡くなってしまった。梅沢は幕末より慶喜の側近くに仕えた信任厚い人物だったが、明治に入ると、徳川宗家を継いだ徳川家達(田安徳川亀之助)に従って静岡へ下り、明治3(1870)年3月ごろには駿府宮ヶ崎町に居住した徳川宗家の家令として見える。
●宮ヶ崎御住居(徳川家達)の家令
大久保一翁 (大久保越中守忠寛) |
亀井勇也 (亀井勇也茲福) |
酒井録四郎 (酒井録四郎忠恕) |
溝口八十郎 (溝口伊勢守勝如) |
梅沢孫太郎 (梅沢孫太郎守義) |
室賀竹堂 (室賀伊予守正容) |
梅沢孫太郎は水戸藩士の家柄で、文化14(1817)年生まれ。水戸藩公子だった徳川慶喜が一橋家を継いだ際に一橋家御用人雇として従い、慶応2(1866)年7月に将軍・徳川家茂が大坂城で亡くなるに伴って、8月20日に徳川宗家を継承した慶喜より抜擢され、9月17日、京都において幕臣に召し出され、禄高百俵、両番格奥詰、目付に就任する。12月2日には布衣を許され、慶応4(1868)年3月3日には、大目付・御留守格という大抜擢を受けるなど、慶喜の絶大な信頼を得た人物であった。明治期になると、徳川宗家の家令となる一方で慶喜家附家令として慶喜家の家政を任された(『旗本人名事典』)。
【水戸藩士】
国友吉兵衛―――国友吉兵衛―――梅沢守義
(孫太郎)
↓
【水戸藩士】 【慶喜家家令】
梅沢孫太郎―――梅沢孫太郎===梅沢守義―+―梅沢守信
(孫太郎) |(鉄三郎)
|
|【慶喜家家従】
+―梅沢覚
なお、同役の室賀竹堂は相馬豊前守樹胤の孫で、尚三の従甥にあたる。梅沢孫太郎は宗家の家令であるとともに、駿府紺屋町に居住していた徳川慶喜家の家令でもあり、宗家からの出向と思われる。その後十年にわたって慶喜家の家令を勤めてきた。
於暖
∥――――――室賀正発―――室賀正容
∥ (美作守) (室賀竹堂)
∥
相馬祥胤 +―相馬樹胤 +―相馬充胤―――相馬誠胤
(因幡守) |(豊前守) |(大膳亮) (因幡守)
∥ | |
∥ |【中村藩主】|
∥――――+―相馬益胤―+―岡田泰胤
松平忠告――娘 |(長門守) (五郎)
(遠江守) |
+―相馬仙胤―――小栗政寧
(縫殿) (小栗尚三)
∥――――――小栗政良
∥ (鋼太郎)
某氏豊子
梅沢の急死を受けて、6月9日、溝口勝如が勝海舟と会談。後任人事について相談している。その結果を受けて、6月11日に尚三が新たに家扶に任命された。また梅沢孫太郎の三男・梅沢覚が二等家従に、成田藤次郎が三等家従、さらに旧幕臣・新村猛雄(慶喜の側室・新村信や『広辞苑』編者・新村出の養父)が家扶格(後日、正式に家扶となる)として出仕し、両者は明治時代の慶喜家について日記『家扶日記』を遺した。
こののち、尚三は献身的に慶喜家の家政を切り盛りする。養子に旧慶喜家家従・千田実の三男、倉三郎を迎えており、明治15(1882)年7月23日に慶喜へ鶏卵を一箱持参し、8月30日には京都の菓子折りを持参した。なお、千田実は慶喜家家従の千田要の子である。千田要は、一橋家附の幕臣・千田儀三郎の孫で、父は一橋家小普請・千田源三郎。千田家の本国は近江国。禄高は百俵。天保6(1835)年に小日向茗荷台(文京区小日向四丁目)に誕生した。一橋徳川慶喜に仕える小姓となり、慶応2(1866)年8月22日、大坂において一橋家附御小姓から公儀御小姓に取り立てられ、10月には慶喜に従い京都にあるときに四百俵となる。12月には布衣を許された。明治となり、慶喜家の家従として取り立てられ、三代にわたり慶喜家に仕えた(『旗本人名事典』)。
【一橋家附】 【一橋家小普請】 【慶喜家家従】【慶喜家家従】
千田儀三郎――千田源三郎――――千田要――――千田実―――+―千田耕作
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+―小栗倉三郎
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+―とせ
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岡田泰胤――――岡田省胤
明治16(1883)年11月10日、尚三は三島で宗家家扶・上倉信勝(旧幕臣・広敷番頭)と対面した。どういった話が交わされたかはわからないが、天璋院(徳川家定正室)が体調を崩していた可能性もある。11月13日、東京の徳川宗家邸で天璋院は中風に倒れ、その報告を受けて11月17日、尚三は慶喜と面会して天璋院について話している。そして11月20日、天璋院は薨去。翌21日午後8時、慶喜のもとに天璋院薨去の電報が届いた。慶喜にとっては命の恩人、徳川家にとっては家名存続の恩人という人物の訃報だった。22日、旧幕臣で県官吏の原胤綏らが慶喜邸を訪問して御悔を述べた。
明治17(1884)年4月28日、天璋院の御遺物が関係者に配られることとなり、慶喜家の用人筆頭である尚三にも贈られている。
明治18(1885)年5月14日午前11時、尚三の妻・豊子が病死。後を追うように8月7日午前10時、長男・鋼太郎政良も急死するという不幸が重なる。しかし、尚三はそれらについての感慨も記すことなく、勤務を続ける。
小栗尚三墓碑 |
明治22(1889)年4月30日、慶喜は塩原温泉に湯治に出かけるため、尚三と平石波三郎を供に電車で出立。宗家の家達が品川まで馬車で出迎えに来ており、慶喜一行は家達一行とともに小梅邸にて昼食を摂り、途中で慶喜弟の水戸家当主・徳川昭武も人力車で加わった。
七十を超える高齢での激務を続けてきた尚三だったが、こののちやや体調を崩したため、公務からやや離れることとなった。しかし、勝海舟との交流は続けていたようで、海舟は明治29(1896)年2月、交流を持っている人物のうち、七十歳以上の高齢者を日記に認めており、そのうちの一人に「小栗直三 八十二」とある(『勝海舟日記』)。
明治32(1899)年8月17日、八十四歳で亡くなった。法名は要徳院殿尚孝日淳居士。静岡の常住山感応寺に葬られた。
●小栗下総守政寧事歴(『旗本人名事典』ほか)
父 | 相馬縫殿仙胤 | |
養父 | 小栗右膳政長(御先手鉄砲頭) | |
名 | 壽之助胤富→尚之助胤富→右膳政寧→尚三(直三) | |
官途 | 長門守→下総守 | |
禄高 | 580石 | |
屋敷 | 本所石原(墨田区本所一丁目10番地) | |
事歴 | 文化13(1816)年2月29日 | 相馬縫殿仙胤の長男として誕生(公儀提出は文化15(1818)年生まれか) |
文政2(1819)年7月22日 | 壽之助胤富と改名 | |
文政11(1828)年8月28日 |
従兄の相馬内膳展胤(前藩侯・相馬樹胤次男)が「壽之助」、相馬大三郎真胤が「内膳」と改名するに伴い、「壽之助」胤富は「富之助」と改めたか。 なお、「壽之助展胤」は幕府御旗本・室賀家の養子となり、天保元(1830)年閏3月3日引き移っている(室賀美作守正発)。正発の実父は「相馬縫殿」とされているが、これは「壽之助」胤富と「壽之助」展胤の混同と推測される。これは相馬家側の確信的な理由で届出をしたか、幕府側の誤認によるものかは不明。 相馬家では庶子の通称の取り換えはこれ以降も行われており、佐竹家に養子に入った相馬直五郎(東直五郎)の佐竹家側の誤認があった(相馬益胤の庶子・岡田泰胤と熊川長顕は両者が東直五郎を称した)。→東直五郎について |
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天保2(1831)年11月27日 | 小栗右膳政長と養子縁組 | |
天保3(1832)年4月9日 | 婿養子願が提出 | |
9月15日 | 小栗政寧を称する | |
天保13(1842)年 | 御小姓組士 | |
嘉永元(1848)年 | 進物番 | |
安政2(1855)年6月6日 | 養父・小栗政長卒。その後、家督を相続。 | |
文久元(1861)年4月24日 | 小姓組・進物番より徒歩頭 | |
文久2(1862)年5月18日 | 禁裏附 | |
元治元(1864)年2月15日 | 京都東町奉行 | |
慶応元(1865)年10月16日 | 勘定奉行勝手方 | |
慶応2(1866)年7月2日 | 関東郡代兼帯 | |
慶応4(1868)年1月28日 | 御役御免、勤仕並寄合 | |
明治2(1869)年 | 静岡藩郡奉行兼勘定頭、会計掛権少参事 | |
明治14(1881)年6月11日 | 徳川慶喜家家扶 | |
明治32(1899)年8月17日 | 卒去 |