千葉介胤直

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉胤直 (1413-1455)

生没年 応永20(1413)年~亨徳4(1455)年8月15日
千葉介兼胤
上杉氏憲入道禅秀女
不明
官位 不明
官職 不明
役職 下総国守護職
上総国守護職
鎌倉侍所
所在 下総国千葉庄
鎌倉
法号 相應寺殿真西一閑臨慎阿弥陀仏
常瑞(入道号)
墓所 土橋東禅寺 
千葉大日寺
千葉相應寺

 千葉氏十五代。千葉介兼胤の嫡子。母は上杉氏憲入道禅秀女。応永26(1419)年8月21日誕生したと伝わる。ただし、『本土寺過去帳』によれば「第十二胤直四十三 享徳四年乙亥八月十五日」(『本土寺過去帳』「千葉介代々御先祖次第」)とあることから、逆算すると応永20(1413)年の生まれとなる。号は常瑞・日瑞

千葉介胤直花押
胤直花押

 永享2(1430)年6月に父が亡くなったため、十八歳で家督を継ぐ。胤直が守護職補任を受けた記録はないが、先例から下総守護補任の吹挙はなされたと思われる。永享4(1432)年の持氏による相模大山寺造営に際しての献馬では20歳にも拘わらず無官の「平胤直」と見える『大山寺造営奉加帳』。ただし、奉加帳の中では大山寺のある相模国の守護「散位持家」(御一家)よりも上位にあることから、外様の大名衆は鎌倉殿の被官よりも高い家格にあったと考えられる。

 胤直の代から、京都や関東との関わり方にいささか変化がみられるようになる。胤直の諱を見ると、満胤、兼胤二代のように鎌倉殿から片諱を拝領した形跡はない。父兼胤は死の前年の永享元(1429)年8月頃、結城基光入道、小山小四郎持政とともに、持氏との関係を内々に見直し「佐々川方へ内通申」(『満済准后日記』永享元年九月二日条)しているが、結城氏や小山氏はその後も片諱の拝領がみられるため、内通の発覚が原因ではないだろう。

 そして、胤直以降の千葉惣領家も鎌倉殿(古河公方家)からの片諱拝領はない。それについては『千学集抜粋』の中に、文明3(1471)年ごろ、千葉介孝胤古河公方足利成氏を自分の膝元である篠塚佐倉市小篠塚に庇護した際、成氏から遣わされた「本間殿」「御子一人御字を於請」うべきことを述べるが、孝胤代々妙見菩薩の宮前において元服いたすことなれば」と、成氏からの片諱拝領を婉曲に拒否したという。すると、本間はさらに、長男は無理ならば「第二の御子を」と言うと、孝胤「某の家は二男ハ嫡子に一字を申請うとして、こちらも断ったという(『千学集抜粋』)。あくまでも『千学集抜粋』の記録ではあるが、千葉家は長男は元服を妙見社にて行い、次男は嫡子からの一字(新字か「胤」字かは不明)拝領による決まりがあったとする。ただし、兼胤までの歴代当主の諱を見る限り、彼らはいずれも当時の権力者(得宗、足利将軍、鎌倉殿)からの一字拝領があることから、『千学集抜粋』に見るような妙見社前での儀式が執り行われるようになったのは、室町時代後期となろう。

都鄙対立と篠川殿満直の介入

 関東と奥州との関わりは、明徳2(1391)年7月頃に「陸奥出羽両国事、可致沙汰之由、所被仰下也」明徳三年正月十一日「足利氏満御教書」『結城小峰文書』とあるように奥羽二国が関東に移管されたことにはじまる。これにより、明徳3(1392)年から応永2(1395)年までの間に、鎌倉は篠川に奥州探題家の斯波刑部大輔満持を遣わしたが、伊達、葦名、田村庄司ら中奥州の国人層が関東支配に反発。応永2(1395)年9月に田村庄司が叛乱し、篠川城を攻められるも斯波満持の手により鎮定された。

 この直後、応永2(1395)年11月までの間に、鎌倉殿氏満の子(二男か)足利四郎満貞篠川に派遣されている。当時満貞は十代半ばであり、鎌倉の直接的な関わりのもとで奥州探題斯波満持が彼を補佐したのだろう。その経済基盤もまた、南奥州の白河結城氏、石川氏らから提供された御料所に頼る脆弱なものであった。軍事的な対応についても斯波満持や持詮ら奥州探題家上杉右衛門佐氏憲ら鎌倉からの直接派遣部隊によって解決が図られている。

 ところが、応永16(1409)年7月22日に鎌倉殿満兼が三十二歳で急死。満兼嫡男の幸王丸(持氏)が十三歳で継承するが、翌応永17(1410)年8月15日、持氏は「依虚事子細、八ヽ十五ヽ若公管領宿所山内へ出御」(『生田本鎌倉大日記』)という。原因は「満隆御陰謀雑説故歟」(『鎌倉大日記』)とあるように、持氏叔父の満隆による陰謀であり、騒動は管領憲定入道の骨折りで満隆が持氏に陳謝して収まり、持氏は「同九ヽ三ヽ御所へ還御座」(『鎌倉大日記』)した。

 しかし満隆の陰謀を収めた安房入道長基も病のために管領職を辞し、応永19(1412)年「十二ゝ十八ゝ、長基頓滅」(『鎌倉大日記』)した。すると、鳴りを潜めていた満隆が管領氏憲入道禅秀と組み、若い持氏を差し置いて、ふたたび鎌倉の政務に口を出し始める氏憲入道禅秀は奥州への介入も行ったとみられ、応永20(1413)年から22(1415)年ごろまでに、満隆は弟・満直を新たな奥州篠川殿として派遣したと思われる。満隆は自身が幼いころに奥州篠川へ下っていた兄の満貞との関係は希薄であったと思われ、満隆は自分とともに鎌倉で育った弟・満直を奥州に遣わして影響力を強めようとしたと考えられる。

 足利氏満―+―足利満兼―――――+―足利持氏
(左兵衛督)|(左兵衛督)    |(左兵衛督)
      |          |
      |          +―足利持仲
      |           (乙御前)
      |
      |【篠川殿・稲村殿】
      +―足利満貞
      |(四郎)
      |
      |【新御堂小路殿】
      +―足利満隆=======足利持仲
      |(新御堂小路殿)   (乙御前)
      |
      |【篠川殿】
      +―足利満直
       (左兵衛佐)

 こうして、篠川殿満貞は二十年あまり治めた篠川の地から、南の稲村須賀川市稲御所館へ移され、篠川には新たに足利満直が着任したのだろう。満貞が鎌倉へ戻されなかったのは、満貞が満隆の兄であり、且つその名声を危険視した可能性があろう。満隆はこれまで歴代鎌倉殿が祈願寺としていた安房国長狭郡龍興寺に、応永22(1415)年12月19日に祈願(応永廿二年十二月十九日「足利満隆書下」『保坂潤治氏所蔵文書』室1505)しており、みずから鎌倉殿に成り代わる野心があったと推測される。この満隆と管領氏憲入道を後ろ盾とした新たな篠川殿満直が鎌倉と連携していく体制を確立させようとしたのだろう。

 ところが、その赴任からわずか1、2年後の応永23(1416)年10月、鎌倉で満隆と管領禅秀入道が御所の鎌倉殿持氏を襲撃するも持氏は鎌倉を脱出して駿河へ逃れた。そして、満隆・禅秀入道は鎌倉殿への反逆を将軍義持から咎められ、義持の協力を得た持氏に討たれた(上杉禅秀の乱)。突然後ろ盾を失った満直は驚愕しただろう。しかし、満直が鎌倉を頼ることは不可能であり、持氏と「京都御扶持之輩」との軍事的な対立を利用して京都と繋がりを持つ選択をして、鎌倉殿の座を狙ったと思われる。

 その後も京都と鎌倉の間では、持氏と「京都御扶持之輩」との抗争が続き、大規模な「京都御扶持」の人々の「関東への叛乱」である常陸国小栗城が応永30(1424)年8月2日に陥落すると、その報告を受けた義持は、9月中旬までに「関東、此間或毎時任雅意、自是加扶持者共悉及沙汰候」ことを理由に「佐々河方急打越鎌倉、可致行沙汰候」した(応永卅年九月廿四日「足利義持御教書案写」『足利将軍御内書并奉書留』室2078)。これが義持が篠川満直を事実上新たな鎌倉殿として認めた初見となる。

 しかしその後、関東持氏方が一定の成果を果たしたためか謝罪したことで都鄙和睦となり、満直の鎌倉殿補任は立ち消えとなった。応永31(1424)年10月頃には稲村の満貞(前篠川殿)が鎌倉へ帰参しており、和睦のひとつの条件であった可能性もあろう。ところが、義持は応永35(1428)年正月18日に臀部の壊死性筋膜炎とみられる症状で薨去。室町殿の跡を継いだ実弟義宣(のちの将軍義教)も義持の重職の衆議政策を継承し、彼等の都鄙融和の政策を続け、正長元(1428)年頃には持氏が佐竹祐義ら「京都御扶持之輩」と再び戦いに及んでも京都から関東への強い対応は取られなかった。当時上方でも称光天皇の崩御(7月20日)や伊勢国司北畠満雅らの挙兵もあり、関東に目を向ける隙はなかったのだろう。

 ただ、関東の事も捨て置くことはできず、義宣は篠川満直に下野那須氏、常陸佐竹氏の御扶持を指示する御教書発給を計画した。関東進止国の両国へ篠川満直を介入させ、関東の牽制を図ろうと考えたと思われる。義宣は事実上、関東での京方旗頭となっていた篠川満直を重視せざるを得なかったのであろう。しかし、この策は三宝院満済をはじめとする融和派の反対に合い、実行に移すことができなかった。とくに満済は篠川満直の尊大にして傲慢な態度を嫌って手厳しく批判しており、とりわけ満済が強く反対した理由は、満直が信用の置けない人物と評したためであろう。

 当時、篠川満直は南奥州の二大勢力である白河結城氏朝と石川駿河守義光の対立について、白河結城氏に肩入れしていた。白河結城氏朝は彼が上杉禅秀入道の縁戚に当たる那須氏から入嗣した関係によるものとみられ、白川結城氏朝は故禅秀女婿の那須越後守資之と連携を深めている。

氏朝の父は「兵部少輔資朝」といい、通説では「資」字から那須氏出身とみられている。ところが、彼は那須氏の系譜にも見えず、その活動もまったく見えない人物である。資朝は「朝」字が見えるように小山氏や結城氏の出身とも想定可能である。また文書の中には、資朝が白河満朝に実子・氏朝を譲り「御親子」にした理由として「殊に今一族中、相背き申候之間、如此令申候」とあるように、資朝は一族の惣領的立場だが一族がみな背いていることを示している。応永10年当時、那須地方においては内紛は確認されず、比較的安定した時代であり、一族が資朝に背いた傍証も見えない。つまり、資朝が那須氏である確実な証拠はない。

●応永10(1403)年3月27日『兵部少輔資朝契状』(『史料編纂所所蔵白川文書』)

くそくにて候氏朝、御しんし尓なされ候間、資朝においても、諸事をまかせ可申候、ことに今一そく中、あいそむき申候之間、如此令申候、たうしや、鹿島大明神、八幡大ほさつも御照覧候へ、此間の所存入ハたいら此旨候由存候間、如此けいやくを令申候、仍如状件、恐々謹言

応永十年三月廿七日 兵部少輔資朝(花押)
謹上 白河殿 御宿所

 この白河結城氏と篠川満直の蠢動に、正長元(1428)年10月頃、関東進止国ではない越後国に対して軍勢催促をしてしまう。越後守護代長尾氏からの報告でこの事実を知った義宣は持氏に不審を抱き、京都の対関東の融和策を一転させてしまう

 永享元(1429)年8月頃、「自関東使者僧上洛」しており、持氏は京都に何らかの主張をしている(『満済准后日記』正長二年八月廿六日条)

 当時、持氏が京都に対して敵意を示した文書は一切存在せず、持氏が退治を試みた相手は、あくまでも管国関東・奥州の秩序を乱し続ける元凶・篠川殿と、白河氏朝、那須資之、佐竹祐義ら「京都御扶持(京都の支援を受けている)」を標榜して関東祗候の義務を果たさない人々であり、彼らは京都との関わりを強調し、京都を巻き込んでいたに過ぎない。篠川満直も、兄の満隆、前管領禅秀亡き後、彼等を追討した鎌倉を頼ることができずに京都を利用したに過ぎず、その権勢を利用して鎌倉殿の座を狙っていた人物であり、これらの企みを看破していたのが満済であった。

 一方、持氏の主張は一貫しており、3月5日に帰洛した使僧大安和尚の報告に「大安和尚、於御前無殊申旨、関東之儀、毎事無為」(『満済准后日記』正長二年三月五日条)とあるように、京都への敵意はなかった。義教が硬化した越後国守護代長尾邦景入道や国人へ持氏が御教書を発給していた事実も、敵対する白河結城氏への出兵協力を意図したものと思われ、京都への敵意ではない。ただし、管領山内上杉家の同族が守護職とはいえ管国外の越後へ介入したことは持氏の不用意であった。

 関東使者僧は10月下旬と思われるが、管領義淳を通じて将軍義教との対面を要請したものの将軍はこれを承引しなかった。そこで管領義淳は満済に「関東使節西堂御対面事、此間種々雖申、無御承引上者無力可下遣、就其條々申子細候哉、此門跡ヘ旁令同道、委細直令尋聞食、御披露可畏入(関東使節西堂との御対面につき、様々に申し入れたものの御承引ないので、もはや関東へ下向させようと思います。ただ、使者僧が申したい條々があるやもしれませんので、門跡が同道の上で直に委細をお尋ねいただき、その條々を室町殿にお伝え願いたい)(『満済准后日記』永享元年十月廿五日条)ことを伝えたが、満済も「如此及両度雖申候、予対面事旁無益(このようなことを二度聞いているが、私が対面することはまったく意味がない)と伝え、これを断っている。しかし、満済も独断で決定することには慎重であり、10月25日に室町殿へ参じて、使者僧と管領義淳とのやり取りの仔細を報告し、「令故障了、可為何様哉(管領の依頼は断りましたが、どうすればよいでしょう)と裁決を仰いでいる。これに義教は「不可有殊申事歟、爾者対面無益(とくに話すこともない。そうであれば対面も意味がなかろう)と答え、対面はなされなかった(『満済准后日記』永享元年十月廿五日条)

 そして、管領義淳は将軍義教から「可罷下由被仰下(関東へ戻るよう仰せ下された)ことを関東使西堂へ伝えるよう指示された(『満済准后日記』永享元年十一月廿一日条)。管領義淳がこの旨を西堂へ伝えたところ、「一途無御左右者難罷下、所詮此様可令注進間、平ニ在京事御免可畏入(結論がいただけないので帰国できないことを関東に注進させますので、どうか在京をお許しいただきたい)と訴えられ、困った管領義淳は満済に「可為何様哉」と相談している(『満済准后日記』永享元年十一月廿一日条)。また、西堂は関東管領安房守憲実宛ての管領書状も要請しており、これもまた「可遣候哉」と諮問している。

 なお、11月21日から27日まで将軍義教は石清水社頭に参篭し、管領義淳は、畠山満家入道、細川右京大夫持之とともに供奉しており、その直前に飯尾美作守に満済に諮問するよう指示したのだろう。

  内容 満済の返答
(一) 関東使節僧西堂、可罷下由被仰下間、其旨仰含處、一途無左右者難罷下、所詮此様可令注進間、平ニ在京事御免可畏入 此使節強在京事ハ無力次第歟、此由お可被達上聞歟
(二) 管領書状お関東阿房守方へ此使節所望申事候 御状事、可被遣関東房州條、若猶可有思案事歟

 そして、満済はこの管領からの相談に、「此使節強在京事ハ無力次第歟、此由お可被達上聞歟(使節が強いて在京することはやむを得ないでしょう。この件を室町殿にお伝えするべきでしょう)とし、管領御書の発給の要望については、「御状事、可被遣関東房州條、若猶可有思案事歟(管領御状を関東管領憲実へ遣わされる件については、もうすこし思案すべきでしょう)と返答を保留している。その結末は不明であるが、おそらく、管領から使僧西堂の将軍対面不可の件について、関東管領憲実に管領義淳から書状が送られ、京都の不穏な情勢が関東に伝わったのだろう。ここで持氏は上洛の使者を、通常の外交使である五山僧ではなく、関東行政職のトップである政所執事・二階堂信濃守盛秀とすることを決定するのであった。

 翌永享2(1430)年正月20日頃、管領義淳のもとに「自関東、使者二階堂信濃守、来月可京着旨(管領義淳宛てに、関東からの使者二階堂信濃守が来月京都に到着する予定との連絡)が伝えられ、正月20日、管領から満済に「自管領内々可達上聞由申送管領から内々上聞に達するよう言われました)られたが、満済は「雖爾粗忽披露斟酌之由、令返答(失礼ながら報告は辞退すると返答)し、義教へ「内々達上聞也(これらを内々室町殿にお伝えした)した(『満済准后日記』永享二年正月廿五日条)。ただし、結局はこの二階堂信濃守の上洛は認められ、日限も決定されたようで、2月13日、関東管領憲実は二階堂盛秀に書状を遣わしている(年不詳二月十三日「上杉憲実書状写」『静嘉堂本集古文書』)

●年不詳2月13日『上杉憲実書状写』(「静嘉堂本集古文書」シ)

御上洛之日限定候、目出候仍京都領事、自已前如被仰出、不可有相違之由 上意候之間、殊以大慶存候、次御自訴事、何様令下向可有御申之由候、恐々謹言

  二月十三日        安房守憲実(判)
 謹上 二階堂信濃守殿

 おそらく「仍京都領事、自已前如被仰出、不可有相違之由 上意候(関東における京都御料を返上する件は、以前から仰せられている通り間違いないという持氏の御意思)という件での議題を提示したと思われる。

 一方、その2月20日頃には「篠河申状」が京都に届けられ、24日以前に将軍義教が諸大名に内々に「篠河申状」への対応の相談を行った(『満済准后日記』永享二年四月廿四日条)。篠川満直申状の内容は「両三ヶ国御勢事、近日可令発向関東歟之由事」というもので、前年7月の自奥篠川殿、注進状と同様、京方三ヶ国(越後、信濃、駿河国)を以て鎌倉を攻めたい(正長2年は満済らにより拒否された)というものだった。管領斯波義淳は松田対馬守、飯尾加賀守の両奉行を通じ「畠山、右京大夫、山名、赤松、畠山大夫、細河讃岐入道、一色修理大夫七人方」へ篠川状の内容について意見聴取を行ったところ、悉く只今御勢仕事、不可然、京鎌倉無為之條、殊簡要存(『満済准后日記』永享二年四月廿四日条)との否定意見であった。満済は2月28日に上京すると御所に参じ「去廿四日両奉行来申入、就篠河被申入事、大名意見廿五日披露」を伝え、「所詮諸大名意見、粗忽ニ御勢仕事不可然由、一同申入」れている。これを受けた義教も「先只今御下知被閣之」として、前年に引き続き、篠川満直による鎌倉攻めの要望を却下した

 一方で、二階堂信濃守盛秀の上洛についても、延引されたようである。

篠川満直の「三ヶ条にもとづく罰状」の提案

 越後国における持氏の軍勢催促問題で一旦は冷え込んだ都鄙関係は、京都と鎌倉の有司同士の意思疎通により、再び融和路線へと転換された。そして、永享2(1430)年6月20日には満済のもとに「自関東興国寺長老方書状到来」した(『満済准后日記』永享二年六月廿日条)。持氏は建長寺明窓長老を通じて満済に「為使節二階堂信濃守、可令参洛、可加扶持」旨を依頼しており、満済は「返報則遣之」(『満済准后日記』永享二年六月廿日条)している。

 翌6月21日、満済は醍醐寺から出京して室町殿で義教に対面し、「来月(大将)御拝賀事、如康暦大略被治定了」ことを報告したのち、前日に到来した「興国寺長老明窓和尚状備上覧」した(『満済准后日記』永享二年六月廿一日条)。義教はこれを読むと「佐々川へ進人、関東、使節可令参洛云々、然者以無為之儀可有御対面條尤宜也」と述べたという。篠川へ人を遣わし、持氏が使節を参洛させる旨を伝えてきたので、使節との対面が和平のために最も望ましいことであると述べており、当初義教は関東使節との対面に積極的だったことがうかがえる。ただ、同時に「佐々川奥白川以下御扶持御合力不可依、此儀由内々可申遣」も付け加え、篠川や白河等の「御扶持、御合力」には些かも影響はないことも内々に申し遣わすよう指示。さらにこの対面のことは「且不可有上意候儀也、堅固自私可申入分由」とするよう指示した。対面は義教の意志ではなく、管領らの意志であるという、篠川満直との関係にも配慮するよう求めたのである。満済はこの意趣を細川右京大夫持之や石橋左衛門佐満博入道に「其旨堅申遣了」し、彼等から「可存知由京兆返事、石橋入道同前之儀也」の返答を受け取っている。また、義教は「自予方モ佐々(川)此次第具令申可下状之由承間、内々用意也」(『満済准后日記』永享二年六月廿一日条)と、満済からも篠川満直へこの件についての詳細な説明を下すよう指示した。

 6月29日、先日の義教の「内々時宜」により、管領斯波義淳及び右京大夫持之は「就関東使節参洛近々事、可有御対面歟由可被申旨、奥ノ佐々河へ以状申了」と、近々上洛予定の二階堂信濃守との対面についての篠川殿への意見聴取で、案文を室町殿の見参に入れた(『満済准后日記』永享二年六月廿九日条)。内容は、義教の「御対面事、自奥佐々河不被申者、堅可有御斟酌由、去年以来被仰定了(御対面の件は奥州篠川から(対面してもよいと)何も申してこなければ、固く遠慮する旨を去年以来仰せ定められている)(『満済准后日記』永享二年七月六日条)という心情を、管領以下の言葉として「自関東使者参洛時、可有御対面歟事(関東からの使者が参洛したとき、御対面を行うべきか意見を述べよ)(『満済准后日記』永享二年九月五日条)というもので「此使者僧、自右京大夫方今月一日已下遣了」(『満済准后日記』永享二年七月七日条)と、7月1日に細川持之が満済と管領義淳の書状を持った使僧を篠川へ発した。

 7月6日、満済のもとに「石橋左衛門佐入道為御使来」て、「自関東、使節二階堂信濃守近日参洛云々、仍御対面事、自奥佐々河不被申者、堅可有御斟酌由、去年以来被仰定了、此事管領以下内々申談、佐々河へ進使者、此御対面事、平ニ可被申入旨申之也、此使者僧、自右京大夫方一日已下遣了、予状并管領状、以此僧進佐々河了(関東からの使節二階堂信濃守が近日参洛するとのこと。よって御対面の件は奥州篠川より何も申してこなければ、固く遠慮する旨を去年以来仰せ定められている。このことは管領以下と内々に話し合い、篠川へ使者を送り、この御対面の事につき、なんとか意見を申し入れるべしと申した。この使僧は細川右京大夫方からすでに7月1日に篠川へ下向させており、私の手紙と管領状をこの使僧に持たせて篠川に送った)との報告があり、さらに「然自石橋方又可下遣使節也、管領状、自石橋方可下遣處、無左右自右京大夫方下條、何様子細哉、次管領状案文被御覧處、文章以外大様ニ思食也、愚身意見歟、所詮重委細状以石橋下向使者可下遣旨、申管領(石橋左衛門佐入道からもまた使者を遣わす。管領状は本来石橋方から遣わすべきところを、無造作にも細川右京大夫方から遣わしてしまった。いったいどんな理由があったのだ。次に管領状の案文を見たところ、文章がなんとも要点の定まらない不出来なものと感じた。これは満済の意見か。細かいことを記した書状を石橋方からの使者に再度持たせて遣わす旨を管領に伝えよ)(『満済准后日記』永享二年七月六日条)という。

 これを受けた満済は「此書状事、以右京大夫下遣僧、可進佐々河由、先日申入候歟之由存候き(この篠川状の件については、細川右京大夫が遣わす使僧に持たせて篠川へ送るよう、先日申し入れたかと存じますが)と反論し「管領書状文言、不及意見候、去晦日自管領使者飯尾美作持来間、一見條勿論候也、其時不備上覧條越度至由申了、則以慶円法眼申遣管領、重書状遣石橋左衛門佐入道方了、備上覧(管領書状の文言については、意見していません。6月30日に管領使者が持ってきた案文は当然一見しています。そのときには、室町殿に見せていない事は落度の至りと、慶円法師を管領邸に遣わして、再度石橋左衛門佐入道の使者に書状を持たせました)と述べた。

 ところが8月6日、満済のもとに細川持之から内々に「白河方(白河氏朝)注進」が届けられた。内容を見た満済は、早々に宝池院壇所にいる義教へその報告を行っている(『満済准后日記』永享二年八月六日条)。その内容とは「一色宮内大輔為大将、重可罷向那須城由有風聞、定可為大勢歟、於此時者、自京都無御合力之儀者、可及生涯」という、かなり切羽詰まったものだった。一色宮内大輔は持氏親族の一色宮内大輔直兼で、彼が率いる軍勢が「京都御扶持之輩」である那須太郎氏資の「那須城」へ向かっているという風聞だった。那須城にともに籠っている白河氏朝は、一色直兼の軍勢であれば「定可為大勢歟」と推測し、もし京都の合力がなければ自刃するほかないと京都側の合力を要請している。

 これを聞いた義教は、白河救援のために正長2(1429)年8月18日の三国合力の御教書に加えて、再度「三ヶ国越後、信濃、駿河可合力旨、重被仰付了」ている。その担当は「越後、信濃両国事、畠山方」「駿河国事并信州大文字一揆事、山名方」と定め、それぞれに申し伝え、彼らも「可申下由申了」と了承している(『満済准后日記』永享二年八月六日条)。ただし、これはあくまでも牽制であって実際に軍勢を当地に介入させるものではない。ただ、この那須氏攻めの一報は義教の関東への心証を害したと思われる。

 9月4日、「自右京大夫方下遣佐々川方使者僧参洛」(『満済准后日記』永享二年九月四日条)した。使僧は「京兆使有岡同道」して満済を訪れ、「自佐々川此門跡へ返報并右京大夫方へ返事等悉持来了」という。その内容は以下の通り(『満済准后日記』永享三年三月廿日条に大意が載る)

篠川殿の意見 大意
当御代、関東不儀以外候哉、已御料所足利庄お為始、京都御知行所々不残一所悉押領 当御代になって、持氏の不義は論外であろう。すでに御料所足利庄をはじめとして、京都の御知行は一所残らず押領している。
御代初、最前可被進使節處、于今無其儀 御代初に際しては、真っ先に使節を遣わして祝意を述べるべきなのに、持氏はいまだにそれがない。
那須、佐竹、白河以下京都御扶持者共、可加対治旨加下知、已合戦及度々了、 雖然此方堅固故ニ于今無為、是併又京都御扶持ノ儀ニ依テ奥者共、悉致無二忠節也、仍関東挿野心、京都ヘ可罷上結構雖在之、奥者共不及同心、剰及合戦間、自然遅引了、然東使近日参洛事ハ京都お出抜申さむ為の料簡也、若不事問東使ニ御対面事在ハ、於奥者共者、悉退屈仕、可失力、此條若偽申入ハトテ種々及告文状了 持氏は、那須、佐竹、白川以下の京都御扶持の者どもに対して、退治するよう下知し、すでに合戦があちこちで起こっている。 しかし、我らは堅固に守っているので、関東の情勢は変わらない、これは京都御扶持によって奥州の者どもが悉く無二の忠節を尽くしているからである。それによって持氏が野心を持って上洛を企てても、奥州の者どもが同心せず、さらには合戦して上洛を遅らせているのである。もし、このまま関東使節と御対面などすれば、奥州の者どもはみな戦う気力を失うだろう。このことは誓紙を以て偽りでないことを証明する。

 これらに基づき御対面事、不可然也、乍去、諸大名可有御対面由意見申入上ハ、縦御対面アリトモ、此次ニ関東事、堅可有御沙汰條、尤可目出、不然ハ御後悔事可在之條勿論」ことを「載誓言被申」というものであった(『満済准后日記』永享二年九月四日条)。ただ、篠川満直は、関東使者との対面は「不可然」だが、諸大名が御対面あるべしとの意見であれば御対面もやむを得ない。ただ、たとえ御対面あっても次は堅く拒絶すべきで、そうでなければ必ず後悔することになると述べている。

 満済は右京大夫使僧に、篠川状を右京大夫持之から上覧に供するよう伝え、満済宛てで届けられている満直返書も使僧に渡している。

 9月6日、満済のもとに「自右京大夫方使者有岡参」って述べるには、「先日自佐々川御返報等、昨日五日、懸御目」たという。篠川満直からの返報には、前記の関東使節との対面事案以外に、奥州懸田氏の反抗について述べられており、義教は「就其懸田事、可有御治罰歟由、佐々川ヘ御教書お被成遣、伊達、葦名、白川以下奥大名方へ悉可被成御教書、就其ハ自右京大夫方、懸田御対治事、先如此御教書おハ雖成遣候、懸田若御対治無左右難叶様候者、先可被閣候歟、両篇重可被申入旨可申下(懸田の件は、討つべきかどうかを篠川へ御教書を遣わして問い、伊達、葦名、白河らの奥州大名方へも悉く御教書を送るべきだ。この件は右京大夫からは、懸田対治の事は、まず御教書を遣わすが、懸田対治がもしうまく行かなければ、退治を中止するべきか。篠川は両案について返答するよう命じよ)ことを細川持之に「内々被仰下」たという。また、義教は「所詮、此等子細可為何様候哉、可尋申門跡意見由被仰出」と、満済の意見も求めるよう指示した(『満済准后日記』永享二年九月六日条)

 なお「懸田」は、正長2(1429)年以来鎌倉に「伊達、懸田其方可合力」(正長二年二月九日「足利持氏書状」『石川家文書』室2518)し(ただし伊達持宗の合力は誤伝)、「懸田、相馬忠節誠神妙候」(正長二年五月廿六日「足利持氏書状」『石川家文書』室2538)「常州并那須口等事、上杉三郎、一色宮内大輔可有発向候、仍其方事、令談合懸田播磨入道、可然様可致料簡候也」(正長二年?六月十一日「足利満家書状」『石川家文書』室:2546)とあるように、懸田播磨入道が関東方に合力したことがわかる。

 持之のこれらの知らせに満済は「於懸田御対治一段者、善悪之儀更不存知候、就中治罰御教書おハ乍被成遣候、自右京大夫方対治難事行候者、先被閣重可被申由可被申下條ハ、可有如何候歟、若得上意内々如此被申下候様ニ、佐々川以下輩、推量候者、只今御教書凌爾ニ可成歟、於御條ハ若猶可有御思案歟由(どちらが対立の発端を作ったのかもわからず、懸田を治罰すべき御教書を下しながら討伐が難儀な事態となった場合は討伐を中断する指示を出すとすれば、御教書の威信にも関わる問題となる)(『満済准后日記』永享二年九月六日条)を返答し、御教書を下すことに反対を示した。

 また「内々右京大夫方へ申遣分」として満済の真意を「有岡」に述べているが、懸田只今御治罰事ハ、旁卒爾覚候、奥事おハ毎時被任申佐々川、依彼御注進様御成敗ハ尤可宜事歟、関東ノ大敵ヲ置ナカラ、御敵之内ニテ不慮弓矢出来ハ、万一関東ノ得理ニヤモト覚候、此條ハ努力ゝゝ不可及披露由(懸田を今退治することは時期尚早と思う。奥州は篠川に任せている以上は、彼の注進を待つことがよいだろう。奥州に関東の大敵を置きながら、奥州京方の仲間割れが起これば関東を利するだけです。ただこの件は室町殿にはよくよく内密に)(『満済准后日記』永享二年九月六日条)と申し伝えている。

 9月10日、室町殿で連歌が行われるが、満済は集合時間よりも早く一人で参上し、義教と対面した。すると義教は「奥佐々河方へ重下使節、自関東使者参着ハ可有御対面歟、先度被尋遣處、佐々川御返事趣、於御対面、旁於奥并京都方御扶持者、雖難治至極、京都大名頻可有御対面之由、意見申入云々然者可有御対面歟、但於此次関東事厳密ニ可被仰付條可宜」という9月4日の篠川満直返報の内容を述べ、「就此返事、関東使者御対面事、佐々川心中未分明間、所詮サハゝゝト御対面有無被申様、管領、右京大夫予状等可下遣由承了」と、関東使者との対面について、「対面はまったく困難だが、諸大名が頻りに対面すべしと言うなら行うべきだ、という『曖昧な』返事ではなく、対面は可か不可か『明確な』意見を述べよ」という書状を管領義淳、右京大夫満之、満済から篠川へ遣わすよう指示している。

 これを受けた満済は、室町殿の意趣を「仍以慶円法眼申遣管領并右京大夫方也、可令存知旨共申入」(『満済准后日記』永享二年九月十日条)た。翌9月11日、右京大夫持之から有岡が満済を訪れ「佐々河方へ可進状案文賜之、為御一見」(『満済准后日記』永享二年九月十一日条)した。満済はこれを添削すると「少々相違處可直之由意見」し、翌12日、修正した書状案を「可備上覧由、右京大夫方了」(『満済准后日記』永享二年九月十二日条)し、右京大夫満之から「明後日十四日、可備上覧」(『満済准后日記』永享二年九月十二日条)との返事が届けられた。

 9月14日、篠川殿への書状案を室町殿に見せた右京大夫持之から「自右京大夫方使者有岡」が満済に派遣され、「佐々河へ御状案自此門跡、備上覧候處、少々被加入事候、白河、佐竹、那須両三人殊可有御扶持由、可被入此御案文云々、其外無殊事、珍重由被仰出(満済が作成した篠川への御状案を室町殿の上覧に備えたところ、白河、佐竹、那須の三名はとくに支援しているという一文を加えるよう指示をうけたが、その他は問題ないとの仰せを受けた)(『満済准后日記』永享二年九月十四日条)ことを報告した。満之は「加此詞、案文重可備上覧由」を告げたので、満済も「書遣了」した(『満済准后日記』永享二年九月十四日条)。その書状の主旨には義教の本音が端的に表れているが、「猶京都諸大名、定東使ニ御対面事可被申歟、天下無為儀お専被思食處、東使御対面儀無之ハ、天下無為儀不可在間、御政道相違也、御対面ニハ不可依事間、可為何様哉由(京都の諸大名は関東使節との御対面を行うよう言ってくるであろう。天下無為の儀を考えると、御対面がなければ天下無為は成し得ないこととなり、御政道と反する。では、御対面に反対する篠川殿としては、御対面に依らない天下無為の方法があるのか、その解決方法を述べよ)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)というものであった。

 この内容の書状(管領状、右京大夫状、満済状の三通と思われる)は10月初旬には篠川に到着したと思われるが、満直が返報を記したのは2か月後の「永享二閏十(一)月八日」(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)であり、閏11月下旬に京都の「右京大夫管領両所」(『満済准后日記』永享二年閏十一月廿四日条)に届いているように、かなり時間がかかっている。到着日時は不明ながら、右京大夫持之と管領義淳が室町殿義教に「返報文書」を見せ、満済は閏11月24日に義教へ「自佐々河返報進之了」(『満済准后日記』永享二年閏十一月廿四日条)した。義教はこの時点で右京大夫持之、管領義淳が持参した文書をすでに見ており、いずれも同文であったため「定此状モ同前歟、仍不及被御覧」として一見もせず「則返賜候了」している。

 「永享二閏十(一)月八日」の篠川状の内容は「先度東使御対面難儀題目、載告文言雖申入、重被仰出上ハ兎モ角モ可為時宜、乍去、無一篇目御対面事、余々京都御為、奧以下諸侍存候はんする處、無勿体候へハ、向後那須、佐竹、白河以下京都御扶持者共、無左右為関東計不可退治由、関東ヨリ罰状お被召置、其お一面ニせラレ御対面可宜(先だって関東使節との御対面は難しい理由を誓書にて申し入れましたが、重ねての仰せの上は、兎も角も室町殿の御意のままに。ただし、何の条件も付けずに御対面することは、京都の御為に働く奥州以下の諸侍がいるなかでは問題であり、今後は那須、佐竹、白河以下の京都の支援を受けている者らに対し、鎌倉から追討は行わないという内容の熊野誓紙を持氏から出させてのちの御対面がよいでしょう)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)というものだった。

 この「御対面」を質に取って、関東の持氏の動きを封じる誓紙提出を促すことは、義教の目指す「天下無為」への考えと一致するものだった(ただし、罰状の提出が拒否された場合は和平が遠のく危険も孕むものでもあった)。篠川からの罰状の要求は、以下の三ヶ条から成っていたようである。

●罰状三ヶ条の要求内容(『満済准后日記』永享三年四月十一日、同月十三日条)

4月11日条 那須、佐竹、白河事、向後可被停止治罰之儀事
那須氏資、佐竹祐義、白河氏朝に対して、今後は追捕の兵を出さないこと
宇都宮藤鶴丸事、如元可被沙汰付事 宇都宮藤鶴丸に、宇都宮ほか所領を元のように返付すること
佐々河事、別而御扶持上者、可被得其意事 篠川満直は京都からとくに支援しているので、そのことを心得ること
4月13日条 那須、佐竹、白川向後不可有対治儀事
那須氏資、佐竹祐義、白河氏朝に対して、今後は追捕の兵を出さないこと
宇都宮藤鶴丸如元可被沙汰居事 宇都宮藤鶴丸に、宇都宮ほか所領を元のように返付すること
佐々川事、京都御扶持異他、可令存知給事 篠川満直は京都がとりわけ支援しているので、そのことを心得ること

 義教はこの篠川満直の提案が大変心に刺さったのだろう。合議制を重んじる義教に似合わず「乍卒爾被一決」し、満済にすら内緒で「閏十一月廿七日、以石橋左衞門佐入道状并使節、佐々河へ重被仰出趣、則被載御自筆御書了」と、石橋左衛門佐満弘入道に自筆の返書を篠川へ重ねて送るよう命じた(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)。その書状の内容は「如佐々河被申、白河、佐竹、那須、宇都宮藤鶴事等三ヶ條、自関東以罰状被申者、使節ニ可有御対面由已仰定了」と、持氏に三ヶ条(上記)についての誓書提出を命じるとともに「如此乍卒爾被一決上ハ、自関東罰状無之ハ、使節御対面事不可在由、為管領可召仰二階堂(誓書提出要請を軽率とは思うが独断で決定した以上は、罰状提出がなければ御対面はできない旨を、管領斯波義淳から上洛する二階堂信濃守へ伝える)こととした旨が記載されていた。誰にも諮らずに決定したのは「天下無為」を急ぎ実現したい義教が、この提案に強い望みをかけたためではなかろうか。

 閏11月27日に石橋左衛門佐入道を通じて満直に送られた室町殿義教の自筆状および石橋状は、おそらく12月半ばには奥州篠川へ到着しているとみられ、翌永享3(1431)年「同三正月廿九日石橋方ヘ状に認められた篠川満直状は、石橋左衛門佐入道へ宛てて送達された。京都到着日は記されていないが、篠川状が記された時期から考えると2月中旬であろう。満済の与り知らぬ義教独断の書状への返信であったため、満済はその内容を記述しておらず、内容は不詳だが、御対面の条件についての了承と思われる。

 12月29日、この日は法身院の満済のもとに来客が多く訪れている。「檀那院僧正」、「富樫介、浴場時分間不及対面」、「上杉中務少輔、同四郎来」、「武田刑部大輔入道来」、「土佐守護代横尾来」とあるように、年末の挨拶を兼ねた依頼であろう。とくに「上杉中務少輔」は上杉禅秀の子で京都四条高倉の上杉左馬助氏朝の養子となった上杉持房、「同四郎」は持房の子(「上杉系図」『続群書類従』)「武田刑部大輔入道」は持房の叔父に当たる甲斐守護武田信重入道であり、関東使節との御対面問題や篠川満直との繋がりがあったのかもしれない。翌永享3(1431)年正月7日に「武田刑部少輔来、太刀遣之」(『満済准后日記』永享三年正月七日条)、正月8日には「上杉中務大輔来、太刀一腰献之了」(『満済准后日記』永享三年正月八日条)とあり、武田信重入道と上杉持房は新年にも法身院に満済を訪れており、満済はそれぞれ太刀を遣わしている。

              【四条高倉上杉家】
      +―上杉朝房===上杉氏朝===上杉持房――+―上杉教房
      |(中務大輔) (左馬助)  (中務少輔) |(中務少輔)
      |                     |
      |      +―武田信重         +―上杉■■
      |      |(刑部大輔)        |(四郎)
      |      |              |
      |      +―武田信長         +―上杉憲秀
      |      |(右馬頭)          (刑部大輔)
      |      |
      | 武田信満―+―女子   +―上杉憲方  +―上杉政憲
      |(安芸守)   ∥    |(伊予守)  |(治部少輔) 
      |        ∥    |       |
      |        ∥――――+―上杉教朝――+―一色政熈
      |        ∥     (治部少輔)   (式部少輔)
      |        ∥
 上杉憲藤―+―上杉朝宗―+―上杉氏憲―+―上杉憲秋――+―上杉憲定
(中務大輔) (中務大輔)|(左衛門佐)|(宮内大輔) |(刑部大輔)
             |      |       |
             +―上杉氏朝 +―上杉持房  +―上杉憲久
              (左馬助) |(中務少輔)  (五郎)
                    |
                    +―上杉憲春
                    |(五郎)
                    |
                    +―実性院快尊
                     (大納言僧都)                               

 なお、この頃の関東では、永享2(1430)年11月2日に関白二条持基の長者宣が香取大宮司大中臣元房へ下され、造替役人の「千葉介」へ早々に造替を遂げるよう指示するよう命じている。この時点で、すでに鎌倉末期の造替から百年近い年月が経過している。

●永享2(1429)年11月2日『二条持基長者宣』(『香取神宮文書』室2641)

下総国香取社造替并神領事
右、当社造替数十年無沙汰云々、早可遂造畢功之旨、相触等役人千葉介方、可致其沙汰、同神領事、任先規全神事、為神主定職而、社家一円致成敗、可専天地長久御祈祷者 長者宣如此、悉之、以状

   永享二年十一月二日     右中弁(花押影)
    太宮司元房館

 その後、記録は残っていないが、香取大宮司から千葉介胤直に『長者宣』に基づき、造替の早期完了を指示する文書が出されたと思われる。

●香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮 遷宮期間
台風で破損し急造
(藤原親通)
―――――― 保延3(1137)年丁巳  
―――――― ―――――― 久寿2(1155)年乙亥 21年
葛西三郎清基 ―――――― 治承元(1177)年12月9日 21年
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑
11月5日
建久8(1197)年2月16日
※「依大風仮殿破損之間、俄有聖断、以中間十九年」(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)
19年
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子
6月7日
嘉禄3(1227)年丁亥12月
※本来は承久元(1219)年遷宮予定(21年)だったが、「同年鎌倉右大臣家、若宮御参詣時、被打給畢、同三年公家与関東御合戦之間、依大乱、自建久年至于嘉禄三年、卅一ヶ年、御遷宮不慮令延引者也」(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)
31年
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申
6月日
宝治3(1249)年己酉3月10日 21年
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉
12月17日
文永8(1271)年12月10日 21年
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰
4月12日
正応6(1293)年癸巳3月2日 21年
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
 大行事与雑掌清貞
 親父伊豆入道相論間、延引了
永仁6(1298)年戊戌
3月18日
元徳2(1330)年庚午6月24日
※正和3(1314)年2月18日仮殿上棟(正和五年二月「大禰宜実長訴状写」『香取神宮所蔵文書』)。ただし材木が揃わず、14本の柱のうち7本はまだ組まれてもおらず、桁梁も縄で代用という有様。
36年
千葉介貞胤・氏胤・満胤・兼胤・胤直
(造営次第にはない)
元弘3(1333)年? 康永4(1345)年3月『造営所役注文』が定められる。
観応元(1350)年庚寅の遷宮予定も遷宮できず(貞治五年『香取文書』断簡)
延文2(1357)年10月24日時点で仮殿上棟以降進展なし(氏胤は大禰宜長房に神官と中村入道を、仮殿所役を懈怠する大戸・神崎地頭のもとへ遣わして譴責するよう指示)。
貞治4(1365)年9月13日、氏胤死去でまた暗雲。
前回の遷宮から75年経過した応永12(1405)年11月25日時点でまだ造作は終わっていない。
さらに永享2(1429)年11月2日時点でも終わっておらず、実に百年レベルの遅滞となっている。

管領斯波義淳の抵抗

 永享3(1431)年2月29日、「越後国紙屋庄実相院門跡領事、可被進佐々河、於実相院者近所ニ替地可有御計之由被仰出」ているが(『満済准后日記』永享三年二月廿九日条)、これは正月29日記の篠川状への義教の対応である可能性があろう。満済は義教から実相院にこの件について沙汰するよう指示されている。越後国は京都管掌国であることから、篠川満直は支配面からも完全に関東とは切り離されていることがわかり、紙屋庄は満直の要求であったと思われる。かつて宇都宮氏が関東を避けて越後ルートで使者を京都に送っていたことからも想定されるように、満直もまた当然越後ルートで使者を上洛させていたと思われ、その経由地である紙屋庄に所領を設定することで、中継地としての機能を図ったのかもしれない。

 そして3月8日、「自駿河守護方注進」として「関東使節二階堂信濃守、去月廿六日見付マテ上着由」(『満済准后日記』永享三年三月八日条)が「一色左京大夫」から室町殿義教に注進され、満済は「先珍重」と答えている。おそらく二階堂信濃守は2月20日頃に鎌倉を出立して2月22日頃には駿府に到着し、2月26日に駿河守護今川範政の送使とともに遠江国府(磐田市見付)に到着したのだろう。遠江守護は管領斯波義淳であり、ここで彼の代官に引き継がれたと思われる。3月12日、「関東使節二階堂信乃守、今日可京着由風聞」(『満済准后日記』永享三年三月十二日条)が満済の耳に入っているが、実際はその二日後、3月14日に「関東使節、今日申初、京着」している(『満済准后日記』永享三年三月十四日条)

 しかし、3月17日、管領斯波義淳の使者として飯尾美作守が醍醐寺三宝院に満済を訪れ関東使節、未及対面候、自阿房守方書状等、昨日以赤松播磨守備上覧候處、来廿日以此門跡委細可被仰、其以後管領彼使節ニ可有対面由、被仰出候、所詮早々公方様モ御対面ニ可申入という。これに満済は「東使参洛先以珍重、就其被仰出旨候者、何様得御意可申入」と飯尾に話すと、御所近習の赤松播磨守満政に「来廿日可出京之由」を伝えた(『満済准后日記』永享三年三月十七日条)

 翌3月18日には「自関東興国寺長老明宗和尚方状到来」した。使者は「琳首座」(『満済准后日記』永享三年三月十八日条)。しかし、この日満済は「持病」のため琳首座との対面は行っていない。建長寺の明窓宗鑑長老の申状は「今度関東使節参洛、最前ニ門跡ヘ可被申案内候、毎事可預御扶持者可畏入、年来檀那聞執申入」とある。満済はこれに「使節参洛先以珍重、相応御用事ハ何様不可有等閑之儀、於公儀者難叶、内々事ハ可承」と、内々に支援すること返答をしている。

 3月20日昼前、満済は先日17日の管領からの知らせの通り、室町殿を訪れ義教と対面している(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)。義教は「今度関東使節二階堂信濃守参洛事ニ付テ、管領ヘ可被仰事、為門跡内々可召仰(今度の関東使節二階堂信濃守盛秀の参洛につき、管領へ伝える事を内々に満済に伝えておく)と述べ、まず「就東使参洛御対面事、去年及三ヶ度、被申談奥ノ佐々河方旨在之」として、篠川満直の意見を伝え、篠川満直の返答が、対面が可なのか不可なのか断言しないことについて「佐々川心中未分明間、所詮サハゝゝト御対面有無被申様」を問い質す書状を篠川へ送ったことを述べ、その後、篠川からは前述のように、御対面には三ヶ条に関する熊野誓紙を提出させた上で御対面すべきとの返事が届いたことを語った。これは(1)持氏の武力行使を停止させることができる(2)関東使節との対面ができる、という「天下無為」を推進するための条件が揃っており、義教はこの案を早速採用し、ここでこれまで満済にも話していなかった石橋左衛門佐満弘入道を経由(公務の奥州申次である細川右京大夫は関わっていない私的なもの)して、篠川へ持氏からの罰条提出を対面条件とする旨を伝えたことを白状する。

 義教は永享二年閏十(一)月八日と、義教独断で篠川へ送達した書状の返信同三正月廿九日石橋方ヘ状の篠川状二通を満済に渡すと、「管領以下畠山左衛門督入道、山名右衞門督入道、細川右京大夫、赤松左京大夫入道等、此仰旨并佐々河状可見云々、此等子細、自管領此四人大名方ヘハ可申遣由被仰出了(管領以下、畠山満家入道、山名時熈入道、細川持之、赤松満祐入道らに対面には罰状提出を条件とする旨ならびに、その根拠となった篠川状を見せるように。この子細は、管領からこの四人に申し遣わすよう仰せられた)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)ことが指示された。これを受け、満済は「仍管領内者甲斐、二宮越中入道両人召寄、此仰趣申了」した(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)

 その晩頭、「自管領以甲斐、二宮、飯尾美作三人」が満済を訪問し、管領義淳の意見を伝えている。その内容は「被仰出趣委細被仰下候、今度関東使節、偏以無為廉御祝着御使候、然ニ罰状等事、可被仰條旁不可然、御対面以後何様題目可被仰條宜存候(今回の関東使節は和平のための御使で、対面は罰状提出を条件とするなど以ての外、罰状を求めるのであれば対面以後に仰せられればよい)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)という、罰条提出に強烈に反対するものだった。管領義淳はこれに先立ち「隨而内々関東時宜趣、使節内者お両人召寄」て意見を聞いており、罰状の事柄について問うと「那須御退治事、先京都ヘ聞ヘ候分大ニ相違候」ということがわかった。

 管領義淳に招かれた二階堂被官人二名が語るところによれば、那須合戦の真相は「那須五郞お総領ニ可被成儀ニテ御沙汰分曾ナキ事候、那須五郞庶子分澤村ト申知行分お総領太郞押領間、自鎌倉殿及度々御成敗處、太郞不応御下知間、彼在所ヲ五郞ニ為被沙汰居被仰付了、雖然猶不事行間、可被治罰處、那須事為京都内々扶持事候間、不可然由、上杉阿房守一向支申間、于今無其儀候(鎌倉殿持氏が「那須五郎(澤村五郎資重)」を那須家の惣領と定めた事実はありません。資重の「庶子分澤村」を惣領の太郎氏資(資重甥)が「押領」していたため、持氏が氏資にたびたび資重へ澤村返付を命じるも氏資が応じなかったため、今度は氏資在所を五郎資重へ宛行いましたが、氏資はこれにも応じませんでした。そのため、持氏は氏資追討軍を派遣しようとしましたが、管領上杉憲実が「那須は京都から内々扶持を受けており、追討は然るべからず」と差し止めたため、現在でも出征の事実はありません)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)という。

 二階堂被官人の言うことが正しければ、昨永享2(1430)年8月6日に満済に届けられた白河結城氏朝の「一色宮内大輔為大将、重可罷向那須城由有風聞、定可為大勢歟、於此時者、自京都無御合力之儀者、可及生涯」(『満済准后日記』永享二年八月六日条)の主張は虚言になるが、結城氏朝自身も「有風聞」と確定を避けており、事実に基づかない情報だが緊急性を要する風聞が入ったため、京都に送達した可能性がある。

 二階堂被官人は続けて「已京都御無音時サヘ如此、関東ハ京都お被憚申斟酌事候、今ハ已都鄙無為ノ儀ヲ深思食被進使節事候間、不可限此一事、向後ハ可為京都御成敗候哉、此那須事ナト可被仰出事、更不存寄候間、於関東不及伺時宜候、仍是非ヲ不弁候由申入候、如此申間、只今被仰出趣雖申付候、無為御返事申候ヘシトモ不存候、然者只今可被仰出事尤無益ニ存、以此趣可披露申條畏存(持氏は常に室町殿を憚り、遠慮の心を持ち、「都鄙無為」のことを深く思われて我ら使節を派遣しているのであるから、これに限らず今後は京都のお指図によって沙汰することは当然です。この那須の一件などまったく身に覚えもなく持氏の考えを聞くまでもない。また、罰状提出を持氏が許諾するはずもなく、今回の仰せは全く無益であるとお伝えください)(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)と管領義淳に依頼している。二階堂自身ではなく、被官人二名が関東使節の意志を決裁しており、彼らは二階堂盛秀から全権委任されて管領亭を訪れたとみられる。

 管領義淳が満済に伝えた「今度関東使節、偏以無為廉御祝着御使候、然ニ罰状等事、可被仰條旁不可然」(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)という主張は、二階堂被官人の話を聞いて強く納得した結果であろう。

 「那須五郎(澤村五郎資重)は常陸守護佐竹家と縁戚関係にある那須家の有力庶家で、上杉禅秀の外孫にあたる「総領太郞(太郎氏資)とは激しい対立関係にあった。もともと氏資の父・越後守資之と五郎資重が対立し、資重が居地の澤村を追われたことが根底にあり、「総領太郞押領」は父資之が資重から奪った澤村をそのまま惣領家が保有していたことを示すのだろう。資重は「応永二十一■移烏山」(「那須系図」『那須隆氏蔵系図』)とみえ、烏山(『那須記』に見える稲積城のことか)を拠点としたのだろう。その後の上杉禅秀の乱で越後守資之が舅の禅秀に加担して鎌倉殿持氏と敵対した際には資重は持氏方となり、禅秀追討後、持氏は「那須五郞お総領ニ可被成」としていたようである。しかし、資之は関東出仕の義務を有しながら、京都との非公認の疑似主従関係(京都御扶持之輩)を構築し、同様の立場にある宇都宮氏、結城白河氏、常陸佐竹氏庶家らとともに鎌倉と対立した。

              宇都宮等綱――宇都宮明綱
             (藤鶴丸)  (下野守)
                     ∥
 上杉禅秀―――女子           ∥
(右衛門佐入道)∥―――――那須氏資―+―女子
        ∥    (太郎)  |
        ∥          |
 那須資氏―+―那須資之       +―那須明資
(刑部大輔)|(越後守)        (大膳大夫)
      |
      +―那須資重――那須資持―――那須資実
       (澤村五郎)(越後守)  (伊予守)
        ∥
 佐竹義盛―+―女子
(左馬助) |
      |
      +=佐竹義憲
      |(左馬助)
      |
      +―女子
        ∥
 上杉憲定―+―佐竹義憲
(安房守) |(左馬助)
      |
      +―上杉憲基==上杉憲実―――上杉憲忠
       (安房守) (安房守)  (安房守)

 この管領の意見を受けた満済は「委細承趣尤可令披露候處、為公方被仰出旨ハ以外厳密又種々御思案候歟、然ヲ事浅ク可被申入條、時宜難計存候、所詮面々諸大名方ヘ能々被加御談合、明日ハ公方様御徳日候、明後日廿二日、可被申入(承った内容は室町殿に披露すべきだが、室町殿もこの罰状提出の件については細かく様々に御思案された結果と思います。それを深く考えずに「罰状提出はまかりならん」と室町殿に申し入れたところで、受け入れ難いでしょう。そうであれば、室町殿が仰せられるように諸大名とよくよく相談されて結論を出されるように。明日は室町殿は忌日であるから、明後日の22日に申入れるべきでしょう)ことを伝え、甲斐ら管領使者三名も「此儀尤宜存」と述べて退出した(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)

 その後、管領義淳から意見具申を受けた(満済に使者を送るのと同時に畠山、山名、赤松らに使者を遣わして、罰状提出と御対面について相談していたのだろう)山名右衞門督入道は、被官人の「山口遠江守」を満済に派遣し「関東使節参洛事ニ付テ、自管領被申旨候間、意見申様」として自らの意見を述べた(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)。山名は「先為管領私儀、今度御使節ハ何篇ニテ候哉、御代ノ御礼ニハ以外遅々候、委細可承由被申候テ、就彼使節申状、被仰出事ナトヲモ可被仰付歟之由申候了、内々為得御意申」といい、なぜか罰状提出に関しての意見は述べなかった。

 翌3月21日早朝、管領義淳は「飯尾美作一人」を満済に派遣し「以昨日趣、明旦令披露、何トモゝゝ上意無相違、早々御対面様御計可畏入(昨日の結果を明日早朝に披露したいのですが、どうか早々に御対面となるようお計らいいただきたい)(『満済准后日記』永享三年三月廿一日条)ことを伝えた。これに満済は「昨日くれゝゝ如申、以此分申入事ハ旁難儀候、乍去、諸大名一同儀ニテ只此趣披露候ヘノ儀ニテ候者、重慥承可披露由申了(昨日、くれぐれも申したことですが、この申入れは相当に難儀です。ただ、諸大名一同が御対面すべしという同意見を披露してくださいというのであれば、室町殿に披露いたしましょう)と答えている。「罰状提出を関東使節に要求する有無」に対する返答もなかったので、その返事を待つ意味もあったと思われる。

 翌3月22日、管領義淳より「甲斐、二宮、飯尾美作三人」が満済に遣わされ「就関東使節御対面事、面々方へ内々為私意見お尋申」した結果を伝えた。

●諸大名の関東使節との御対面についての意見(『満済准后日記』永享三年三月廿二日条)

諸大名 意見 賛成

反対
略訳
畠山
(畠山左衛門督満家入道)
今度御使以外遅引事等、管領内々被申使節、御所様ハ早々御対面可然 賛成 御所様は早々に御対面がよい。
武衞
(斯波左兵衛佐義淳)
今度御使節ハ何篇ニテ候哉、御代ノ御礼ニハ以外遅々候
(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)
 
山名
(山名右衛門督時熈入道)
今度使節参洛ハ先何篇何事候哉由、管領被相尋、随使節返答様、追被仰出趣ヲモ可被仰歟  
右京大夫
(細川右京大夫持之)
加思案、追可申入  
赤松左京大夫入道
(赤松左京大夫満祐入道)
可為畠山意見 賛成 畠山満家と同意見
畠山入道
(畠山修理大夫満慶入道)
関東不儀ヲハ被閣、万事先早々御対面可目出候、鹿苑院殿御代、小目ニテ見及申候シモ、関東事ヲハ万事ヲ被閣様候シ、只今モ可為同前歟 賛成 関東の不義はひとまず目をつぶり、早々に御対面することがよい。義満御代は関東の事は万事差し置かれるようご指示があった。今回もそれと同じではないか。

 というように「面々意見、大略一同候、以此趣御対面候様ニ早々可致披露」と満済に依頼した(『満済准后日記』永享三年三月廿二日条)。しかし、満済は「尤可披露處、一昨日被仰出上意趣未達候様ニ覚候、簡要ハ関東罰状事、可被仰彼使節事不可然者、其子細おシカゝゝト可被申入條、可宜候、只凡儀計ニテハ一向上意ヲ不申達様可被思食間、披露難治候、其上面々意見モ不同候歟、今一度重被加談、今夕明旦間、可被申入(披露したい所ながら、一昨日仰せられた上意の趣旨ではないと考える。大事なことは関東罰状の事であり、使節に罰状提出を仰せられることが、都鄙無為にとってよいことではない理由をきちんと言上することである。曖昧な説明では上意を覆すことはできないので、披露はできない。質問の主旨が変わると面々の意見も変わる可能性があるので、今一度彼等と談合し、今夕か明日の早朝までに返答をお願いしたい)と返答した。管領義淳は諸大名へ「御対面」の有無に対する諮問のみ行っており、実際の問題点でその前提となる「罰状の提出」の有無については諮問していなかったのである。満済は義淳のピントのずれた諮問につい「只凡儀計ニテハ一向上意ヲ不申達様可被思食」と言ってしまっている。

 翌3月23日、管領から昨日同様に「甲斐、二宮、飯尾美作三人」が満済を訪れ、関東使節との対面について、今一度諸大名と談じたところ、畠山満家入道から「今度仰出趣、已被仰定佐々河殿候間、誠上意尤候、雖然、此一段事ハ面々以連署事子細具可申佐々河殿候、定可有何異儀哉、所詮於関東御使ハ先以無為儀早々御対面珍重(室町殿の意思は、すでに篠川殿に申されている通りだが、御対面のことは我々の連署状を篠川殿に伝えれば異議は出まい。とにかく条件は付けずに早々に関東使節との御対面を行うのがよい)(『満済准后日記』永享三年三月廿三日条)との意見だった。管領義淳としても「此儀尤同心仕候」と賛意を示し、「以此旨可有御披露者、重面々意見ヲモ取調重可申入」という。

 ただ、満済が管領義淳に求めているのは、「御対面の有無」に対する意見ではなく、関東に「罰状を要求するかどうかの意見」であって、管領や畠山左衛門督入道の「先以無為儀早々御対面」という結論は求めていないのである。満済も罰状提出には批判的な考えではあるが、罰状提出をしないで御対面を願うのであれば、なぜ「先以無為儀」が良策なのか、その理由を欲しているのである。「義教に罰状要求はまったく無益であると納得させるための理由」がなければ説得しがたいと考え、それを談合してもらいたいと述べているのであった。しかし、管領や畠山入道はそれには答えずに、早々に御対面を望む事のみの返答で、管領義淳と畠山満家入道の「先以無為儀早々御対面」の考えを室町殿に披露してくれれば、山名らにも意見も聴取するという要請もしている。

 この管領義淳の言葉に、満済は「此間儀ハ更々無一途候間、此儀ハ先被仰出趣聊分別申様先可披露申、乍去面々意見一同儀候哉、重可承候、次ニハ関東罰状事、不被申付東使、難儀何事候哉由、定可有御尋候、此條何様可申入候哉、此間承分都鄙無為御使ニ参洛處、関東罰状等事、無左右可申出條難儀、且京都御為旁不可然由事雖尤候、上意趣ハ此條モ御覚悟事候、已ニ東使御対面有度事ハ天下無為ヲ被思食間、御心中無是非事由、以八幡大菩薩被仰出間、於此廉者何度雖被申不可入御耳由覚候、此外ニ何ト申タル儀候テ不可然廉候哉、左様一カトヲモ重可被申入候、次ニハ縦雖以前旨趣候、諸大名一同ニ被申入儀候者先可令披露、両篇重被申談具可承(この間の件はまったく結論が出ず、この事はまず罰状提出という課題にやや問題があるということをご報告するようにとのことだったが、諸大名みな同意見なのかもう一度確認したい。また、関東に罰状提出を求めるのが難しい件について、なぜ難しいのか必ず質問があろう。これにどう返答すればいいのか。この間承った 『彼等は都鄙無為の御使として参洛した。それに罰状を要求することなどできようか。また、京都のためにもまったく無益な事である』 という考えは、まったく正しい。しかし、室町殿のお考えはそれらも理解した上でのことだ。天下無為のために御対面を行いたく思召されており、御心中は御対面はしかたがないと八幡大菩薩に誓っている。従って、この件については何度申されても御耳に入れるわけにはいかないと思っている。このほかに何と言って罰状要求はよろしくないと報告すればいいのか。これらを管領に再度申入れよ。さらに諸大名が同意見であればまず意見を披露するが、これらについてもう一度談合して詳細な報告を承る)ことを管領使者に伝えている(『満済准后日記』永享三年三月廿三日条)

 その晩、ふたたび三人の管領使者が満済を訪れ、談合の結果を伝えた。人々の意見は以下の通りだが、やはりその返答には満済がもっとも欲する「罰状要求の有無」に関する返答が含まれていなかった

●管領諮問(東使との御対面)に対する諸大名の意見提示(『満済准后日記』永享三年三月廿三日条)

諸大名 意見 賛成

反対
略訳
畠山
(畠山左衛門督満家入道)
今度仰出趣、已被仰定佐々河殿候間、誠上意尤候、雖然、此一段事ハ面々以連署事子細具可申佐々河殿候、定可有何異儀哉、所詮於関東御使ハ先以無為儀早々御対面珍重 賛成 室町殿の趣旨は、すでに篠川殿に申されている通りだが、御対面のことは我々の連署状を篠川殿に伝えれば異議は出まい。とにかく条件は付けずに早々に関東使節との御対面を行うのがよい。
武衞
(斯波左兵衛佐義淳)
此儀尤同心仕候 賛成 畠山満家と同意見
山名
(山名右衛門督時熈入道)
佐々河とのへ面々被申入事、尤可然、可同心申 賛成 篠川殿に面々が申入れることが妥当だろう。畠山左衛門督、管領の意見に同心する。
右京大夫
(細川右京大夫持之)
佐々河殿へ被仰出事、毎度取ツキ申入候、又自佐々河被申入事モ同前候間、此間儀、委細乍存知、此御意見ニ可同心申條、旁難儀至極候、東使早々ニ御対面事ハ旁珍重存候 賛成 篠川殿へ仰せられた件は、毎回取次をしているので、送状・篠川状の内容も詳細を知っているが、篠川殿に連署状を送る件については同心致しかねる。ただし、関東使節との御対面は賛同する。
畠山大夫
(畠山修理大夫満慶入道)
与左衛門督同前候 賛成 畠山満家と同意見
赤松左京大夫入道
(赤松左京大夫満祐入道)
同前 賛成 畠山満家と同意見

 満済はこれらの返答を受けると「此條ハ落居意得了」と述べ、「関東使節との御対面の有無」については結論したと宣言する。さすがに三度同じ件での回答はうんざりしたのかもしれない。そして改めて満済が主要項目として義淳に問い続けた「関東罰状事、可被仰東使事ハ何様ニ面々被申哉、此一ヶ條簡要題目候、如何(関東から罰状を要求することを東使に伝える件につき、面々はどう申されるか。この一条が最も大事であろう)ことを管領使者三名に質問した。これに対し「甲斐、二宮等申」ことには、「於此儀者、面々御方へ未被尋申候(この件については、管領から面々へまだ尋ねておりません)と、諸大名には関東罰状の件はいまだ諮問していないと白状したのである。彼らはその理由として「其故ハ面々御意見、若一同ニ被仰付東使候ヘトノ儀ニテ候トモ、管領儀ハ難被申付心中候、仍先以此分可有御披露候哉(方々が関東使節への罰状提出の要求に賛同したとしても、管領はそれを関東使節に命じ難いとの考えであり、そのためまずは御対面の有無について室町殿に披露してほしいという気持ちではないか)(『満済准后日記』永享三年三月廿三日条)との義淳の心を推察したとする意見を述べた。

 これを聞いた満済は、何をいまさらと思ったのだろう。「今度被仰出題目ハ詮要此一ヶ条候、然ヲ不及是非申状者、定可違上意候歟、且又愚身不申達様可被思食候、其時ハ定以別人面々方ヘ御尋時ニ此條ハ未承間、不及申是非由被申入候者、一向又管領無沙汰ニ可成候哉、旁不可然様候、所詮此條早々ニ被申談面々、一同意見趣可承(室町殿の諮問は 『罰状を東使に要求するか』 の一条である。それにも拘わらずこれを諮っていなかったというのは上意に背く行為ではないか。また、室町殿が満済からこの件に関して上申がないと思われれば、別人をもって諸大名にお尋ねになるだろう。そのとき「罰状提出要求」に関する件は諸大名は初耳であり、彼等が了承と結論付けて申入れがあったとき、管領はその沙汰を行わないのか。それは大変よろしくない。そうであれば、この件に関して早々に諸大名と談合し、彼らの意見を集約すべきだろう)と告げると、管領使者も満済の怒りに慄いたのだろう。「明旦面々ニモ申談、重可申入(明日早朝に諸大名に相談し、再度申し入れます)と述べて退出した(『満済准后日記』永享三年三月廿三日条)。その後、「細川右京兆」が満済を訪問しているが、その内容は不明。おそらく、管領からの「関東罰状事」の諮問を受けて、事の重大性を感じて満済に相談に来た可能性が高いだろう。

 翌3月24日には「山名禅門」が満済を訪れて「意見申入旨具申」ている。彼も事の重大性を感じての訪問とみられる。山名時熈入道は「所詮今度被仰出関東罰状事ハ、先可被仰付東使條尤宜存、随彼申状重又意見ヲモ可申入歟、次佐々河へ面々以連署可申入事ハ一向可任時宜(今度の関東罰状の提出という仰せは、まず関東使節にお命じになることでよいと存ずる。それを受けた二階堂の意見もまた申し入れるべきか。篠川への諸大名連署による御対面の通達は室町殿の御意のままに)(『満済准后日記』永享三年三月廿四日条)との返答であった。山名入道はもともと篠川殿を拒絶しておらず、罰状提出要求には賛成の意見を示し、管領斯波義淳の懸念が現実となってしまった。

 その後、「自管領使者三人、甲斐、二宮、飯尾美作」が満済を訪れて、「就関東御罰状事、可被仰出二階堂信濃守歟事、面々左衛門督以下御意見一同ニ先可被仰出東使由、被申入候(関東からの三ヶ条に関する熊野誓紙提出の件を二階堂信濃守(か、関東か?)に指示すべしとの件は、畠山左衛門督以下の御意見として、一同 『東使へ罰状提出を指示するように』 との申し入れがあった)という談合結果を伝えている。しかし「雖然、管領所存、此事猶難仰付東使候、其子細先度連々申候了、可然様御披露珍重(ただ、管領の考え方としては、東使に罰状提出を命じ難く、その理由は先に述べた通りである。そのように室町殿へご報告いただきたい)(『満済准后日記』永享三年三月廿四日条)との管領義淳からの言葉を伝えている(満済が遺した文章では、罰状提出を命じ難い、という理由のみだが、「連々申」たとあるように別の理由も述べられていた可能性があろう)

 満済は「左衛門督以下大名五人意見如上意、先可被仰付東使條、無子細云々、随而又御所存尚難申尽云々、此條此間数度上意意趣申含了、大名五人ハ已被同心申了、御一身猶被申事、一途於被申入者無子細事候、以前同篇儀ハ遮而被仰出旨趣之間、愚身不申達様可被思食間、披露以外難治、且ハ上意凌爾様ニ可成候哉、所詮今一往此子細可被申歟(畠山左衛門督以下大名五人の意見は室町殿と同意見で、まず二階堂に罰状提出を命じることに問題はないというものであり、管領の御所存はなかなか理解しがたい。この件については先日来、数度確認している。大名五人はすでに同意しているが管領御一身のみがまだ賛同しない。ただ罰状提出を二階堂に命じればよいのだ。以前も室町殿は満済に罰状要求について仰せになっており、満済が指示をしていないとお思いになったら報告など不可能となろう。そればかりではなく上意を蔑ろにしたことにもなる。このことについて管領に申されるべし)(『満済准后日記』永享三年三月廿四日条)と管領使者に告げ、彼等も「仍尤由申」して退出した。

●管領諮問(罰状提出の要求)に対する諸大名の意見提示(『満済准后日記』永享三年三月廿四日条)

諸大名 意見 賛成

反対
略訳
畠山
(畠山左衛門督満家入道)
先可被仰出東使 賛成 罰状提出を命じるのが妥当。
武衞
(斯波左兵衛佐義淳)
管領儀ハ難被申付心中候
管領所存、此事猶難仰付東使候
大反対 罰状を命じ難く思っている。
東使に罰状要求は行い難い。
山名
(山名右衛門督時熈入道)
所詮今度被仰出関東罰状事ハ、先可被仰付東使條尤宜存、随彼申状重又意見ヲモ可申入歟、次佐々河へ面々以連署可申入事ハ一向可任時宜 賛成 今度の関東罰状の提出という仰せは、まず関東使節にお命じになる件でよいと存ずる。それを受けた二階堂の意見もまた申し入れるべきか。篠川への諸大名連署による御対面の通達は室町殿の御意のままに。
右京大夫
(細川右京大夫持之)
先可被仰出東使 賛成 罰状提出を命じるのが妥当。
畠山大夫
(畠山修理大夫満慶入道)
先可被仰出東使 賛成 罰状提出を命じるのが妥当。
赤松左京大夫入道
(赤松左京大夫満祐入道)
先可被仰出東使 賛成 罰状提出を命じるのが妥当。

 3月26日、管領義淳はなおも東使二階堂への罰状要求を渋っており、飯尾美作守を満済のもとに遣わすと、「今日ハ大赤口也、被仰出東使題目御返事可申入條、有憚、如何由」と尋ねた(『満済准后日記』永享三年三月廿六日条)。上申の引き延ばしを狙ったものであろう。満済もこれを察するが「大赤口御用否依事歟、所詮公事重事披露無相違條、不覚悟、内々可被伺時宜歟(大赤口が御用を取りやめる根拠となるか、公事や重要事項の披露に問題ないかどうかはわからない。内々に室町殿の意向を伺うように)と答えている。その後、満済は管領亭に使者を遣わして、結果を尋ねたところ「今日ハ可斟酌仕、且其由以大河内達上聞云々、仍明日ハ御徳日也、明後日廿八日、可申御返事(今日は大赤口なので遠慮すると大河内を以って室町殿にお伝えした。明日は御徳日なので、明後日に罰条要求に対する御返事をする)との返答であった。しかし、満済は光意法印を御所に遣して、内々に御所詰めの大河内に「就関東使節事、管領申入題目以口状披露、旁難治至極也、所詮召給飯尾肥前守、自管領注サせ、以彼明後日可披露由存可為如何哉(関東使節への罰状要求に関し、管領の意見を報告する。なかなか難しい。この上は飯尾肥前守を召して管領から意見を注進させ、明後日に管領から報告させるのはいかがか)ことを室町殿に伝えるよう指示。大河内が室町殿から意向を受けたところでは「仰趣則令披露處、此儀可然由被仰出候、只今飯尾肥前祗候間、明後日可参入由申付(そのとおりでよい。いま飯尾肥前が御所に祗候していたので、管領に明後日に御所へ参入するよう申し付けた)とのことであった(『満済准后日記』永享三年三月廿六日条)。満済は管領義淳のこれ以上の報告引き延ばしを阻止し、報告期限を28日と決定させたのであった。

 3月28日、公方奉行飯尾肥前守」が早朝から醍醐寺に参じ「自管領使者ヲ於此門跡待申」と言うので、満済は「則召寄管領申詞一紙、畠山、山名以下申詞一紙、已上二紙注之、以件申詞則令披露了(管領から召し寄せていた申状と、畠山らの申状をまとめて計二通の注進状を作成し、この二紙を以って室町殿に報告を依頼)した。彼が帰ったのちと思われるが、管領から「甲斐、二宮、飯尾美作」が満済を訪問し、義淳は「関東罰状事、可被仰付東使歟由、大名意見一同雖無子細、此條猶不可然存間、心中趣一端御披露可畏入(関東罰状の件について、諸大名は東使に罰状提出を命じることは問題ないと意見だが、私としては行うべきではないと考えるため、その考えをいったん室町殿に報告する)(『満済准后日記』永享三年三月廿八日条)との言葉を伝えている。

 その後、義教は「重仰趣、管領雖為申入事、被仰談佐々河已事必定間、今更難被改間、難儀被思食云々、只仰旨忿々可仰含東使(管領は罰条要求に反対する申入をしてきたが、篠川には罰条要求はすでに決定したことと言ってしまったので、いまさら変更し難く苦慮している。ただ急ぎ東使にその旨を申し含めるよう)と、「召寄甲斐以下三人仰付了」した。さらに義教は「重自管領以甲斐申様(管領から甲斐を通じて東使に罰状要求を命じるように)ことも付け加え、甲斐らは「仰旨畏承了」した。彼らは「尙々加思案両三日間、可申入御返事」と返答はしたが、満済は「罰状事、仰付東使事猶難儀云々、如何」(『満済准后日記』永享三年三月廿八日条)と思いを述べている。これまでの経緯を見て、管領が罰状要求を行うとは思えなかったためである。

 なぜ管領がここまで頑なに罰状要求に反対しているのかは不明だが、3月20日に東使使者と対面して説明を受けたのちは、罰状要求など「天下無為」のためにまったく無益という強い信念が芽生えたためである可能性が高い。その後の管領義淳は苦慮を重ね、罰状は罰状でも、関東下部組織に過ぎない篠川殿の「意見」をもとにした屈辱的な罰状ではなく、あくまでも関東が野心を抱かないという罰状が落し所であろうと考え、独断でこれをベースにした罰状提出を求めるよう動き始めていたのである(結局、その後四か月もの間、管領は義教の要求する篠川殿意をもとにした罰状を認めず、義教は管領発案の罰状で決着させることになる)。

諸大名、将軍と東使の対面を求める

 永享3(1431)年4月2日、管領は飯尾美作守を通じて満済に「関東御罰状事、可仰付二階堂條、雖加思案猶旁難治至極候、雖同篇候以此趣可有御披露條、可畏入(罰状要求に関し、二階堂に命じる件につき、三日間思案したもののやはり行い難く、同じ答えになるが報告をお願いしたい)(『満済准后日記』永享三年四月二日条)という。これに満済は「同篇儀、於披露者尤難儀候、乍去、同篇御返事披露難儀由令返答由ヲハ、何様可申入(同じ内容での報告はできない。ただし、考えが変わらないので御返事を報告することは難しいとの報告は申し入れる)(『満済准后日記』永享三年四月二日条)と返答している。

 翌4月3日、満済は経祐法眼を「遣使者ヲ管領」て昨日の「同篇御返事披露難儀由令返答」について記した「管領返事」を受けるため、「今夕出京候、御返事今夕可承哉」ことを問い合わせると、管領義淳は「明日可申入」との返事なので、満済は夕刻に醍醐寺を出立し晩頭に京都に到着した(『満済准后日記』永享三年四月三日条)

 翌4月4日早朝に「管領返事相待處、遅引」のため「遣人令催促」すると、「ヤカテ可申入(まもなく申し入れる)との返事が来るが、「申半、自管領大蔵卿寺主ヲ召申様、御返事猶思案シヲフせス候間、不申入、恐歎入候、今両三日間可申入」との返答が到来する(『満済准后日記』永享三年四月四日条)。そのため、満済は室町殿月次壇所に出仕し、「就仰付関東使節題目、大名六人意見趣、自管領被申次第、召飯尾肥前守、面々申詞一紙注之、則以参上申入候了(関東使節への罰状要求についての大名六人の意見を管領より申される内容につき、飯尾肥前守を召して大名らの意見を一紙に注し、室町殿へ報告)した。「面々意見、第三度儀、如被仰出可被申付関東使節云々、雖然管領所存又注一紙、其子細ハ関東御罰状事、可被仰付東使條、尚以不可然、何様先御対面有テ追此題目可被仰付(面々の意見は三度聴取し、室町殿の仰せの通り関東使節に罰状要求を行うのが妥当との結論でした。ただ、管領の所存は一紙に注しているように、『関東罰状の提出を東使に命じることはよろしくない。まずは御対面あってのち罰状を仰せ付けるべきである』)」との意見であった。義教は「両様被御覧後仰様、只関東罰状事、早々可被仰付云々、此罰状不到来者、是非不可有御対面(諸大名と管領の意見書を読んだ後に、『ただ関東罰状の件は、早急に仰せ付けられるように。この罰状が届かなければ御対面は行われない』)ことを「重被仰出」ており、満済は「此仰旨、召寄甲斐二宮飯尾美作、仰遣管領了」ている(『満済准后日記』永享三年四月四日条)。これを受けた管領義淳は甲斐を遣わし「先申入旨御披露畏入候、何様仰趣申付、重可申入」と返書を送った。

 翌4月5日早朝、管領は飯尾美作守を醍醐寺に遣わし、罰状提出は行うがその代案として「関東無御野心趣等、使節先以罰状可申入由可申付、以此趣御対面無為様申御沙汰、可為何様哉(関東使節に(義教が要求する三ヶ条ではない別の内容である)『関東には御野心はない』という罰状を提出させ、これを以て御対面を行うという手はどうでしょうか)と聞く。しかし満済は「此條、以外不可然由存也、於披露者不可叶(この方法はまったく話にならないと存ずる。報告もできない)と突き放している(『満済准后日記』永享三年四月五日条)

 4月7日、管領は再度飯尾肥前守を醍醐寺に遣わし「一昨日東使告文事申入候云々、若何様儀ニテモ御披露事ヤトテ申入了、所詮被仰出関東御罰状事、申付使節處、可申下條雖歎存候、已不可有御対面由被仰出候上者、何様可申下候、同者先懸御目以後不廻時日申下度由歟申入條如何、但大名宿老等、猶被加談合、一途候様可被申入候哉(一昨日に提案した東使の罰状の件は、もしこのような案でも御披露してもらえるかと申し入れたものです。関東御罰状の提出を関東使節に申しつけたところ、歎息していた。すでに御対面を行わない意向であればそのようにお命じなさるとよい。まず御対面あってのち罰状を要求されたいと申し入れるのはどうでしょう。ただし、大名宿老らになお談合を行って一つの案として申し入れるべきでしょうか)と提案し、飯尾肥前は京都へ戻っていった(『満済准后日記』永享三年四月七日条)

 4月10日早朝、満済は室町殿月次御連歌のために醍醐寺から京都法身院に入った。そこに「自管領使者飯尾美作来」て「被仰出旨可仰付東使候、但畠山、山名等就御対面事、令列参可申入趣談合仕事候、可有御披露ニテ候者、被仰出旨早々可仰付使節候、定又自畠山、山名両所委細被申入歟(罰状の件を二階堂に指示いたしますが、畠山、山名とも御対面に列参を申し入れる件で談合しており、この旨をご報告していただければ、罰状の件は早々に使節に命じます。おそらくは畠山、山名両名からも委細を申し入れるでしょう)と述べた。これに満済は「自畠山、山名両人方被申候者、隨其愚意追可申(畠山、山名両人から申入があれば、その意見に基づいて自分の意見も後程述べよう)と答えている(『満済准后日記』永享三年四月十日条)

 その後、管領からの連絡通り、畠山満家入道の使者「遊佐河内、齋藤因幡両人」と、山名時熈入道の使者「カキ屋一人」が法身院に参上した。彼らが申すには「自管領被申談様ハ、関東御罰状事、可仰付使節條、旁不可然間、于今無其儀候、乍去、上意厳密間、此上ハ可仰付東使候、但面々一同ニ参御所御対面、東使事平ニト可申入、被同心者仰趣ヲモ早々可仰付東使(管領の申された事は、「関東罰状を東使に命じる件については、まったくよろしくないため、今も行っていない。しかし、室町殿の上意は絶対であり、この上は、東使に罰状提出を命じるほかない。ただし、諸大名一同は御所で室町殿と対面し、『東使との御対面を平にお願いする』と申し入れよ。室町殿が同心されれば東使への罰状要請を速やかに行うつもりだ」)との管領義淳の言葉を伝えた。

 それに対して畠山・山名は「此條只今聊早ク存様候、先被仰出旨被仰付東使、其後儀ト存候、但落居面々、二三度モ以参上可歎申入由存候、且御意様承度(管領の仰ることは時期尚早でしょう。まずは罰状提出を東使に命じ、その後に対面と考えます。ただ、決まった人々が二度三度も御所に参じて歎願すべきと考えますが、御意を承りたい)という。

 これに満済は「只今自管領使節申状、大都同前、所詮於此御返事ハ為門跡難申候、且迷惑候、管領被申様前後候様ニ覚候(たった今、管領使者が申していたこともだいたい同じであった。ただ、この御返事を述べることはこの門跡からは申し難く、また自分の役割でもない。管領の申され様は行う順番が逆であると感じている)と述べたところ、畠山使者遊佐(遊佐河内守)も「入道申入趣モ如仰候、先被仰出旨被仰付東使、以後事ニテコソ候ヘ(主君の畠山満家入道の意見も同じでございます。まずは罰状提出を東使に命じられ、そのあとに御対面という順序であるべきだ)という。山名使者の垣屋某も「申状又同前」という。

 満済は「愚存、面々御意得様同前上ハ、只今不及巨細候、管領ヘ自両所畠山、山名、可被申様、此題目為門跡ハ難申是非、且ハ迷惑候、其故ハ、面々被申入題目ハ可執申入、上意趣ヲハ東使ニ被申付候ヘ、トハ更々難申事候旨可被仰歟(私の考えと畠山、山名両氏の御意が同じであれば、もはや細かいことはいいでしょう。このことは畠山、山名両氏から管領にお伝えなさい。この件についてこの門跡から是非を申し難い上に私の役割ではない。なぜならば、面々の案を採用するように管領に申し入れているのに、一方では室町殿の上意を東使に命じられよ、とは申し難いためだ、ということを管領へ伝えられよ)と答え、遊佐河内守や垣屋も「尤由申」て帰った(『満済准后日記』永享三年四月十日条)

 その後、満済は月次御連歌に参加すべく室町殿へ上ったが、義教が「先一身可参御前之」と伝えてきたため、御前に参じている。義教は「御窮屈未散間、今日御連歌ニハ不可有御出座」といい、気鬱であった様子がうかがえる。当時、義姉(義母)「大方殿」が病で臥せっていたことや、関東使節との御対面問題、九州の大乱など問題が山積していて、義教は寝ても覚めても休まる余地がまったくなかったのだろう。このような体調でも義教は関東使節の問題を気にしていて、満済に「関東罰状事、管領未申付東使哉、遲引以外無正体(関東罰状の件を管領はいまだに東使に命じていないのか。遅引があまりに異常だ)と管領の対応に強い不満を述べている。これに満済は「此事今日吉日間、可仰付東使旨、今朝以使者管領申入(その件については、今日は吉日であり、東使に命じる旨を、今朝管領からの使者が申し入れて参りました)ことを伝えると、義教は「宇都宮藤鶴事、重厳密被仰出(宇都宮藤鶴への旧領返付についても、再度厳密に対処するよう仰せられた)ている。その後、満済は月次連歌に出席し、摂政、聖護院門跡、実相院門跡、山名、赤松等が参じているが、やはり義教は不参であった(『満済准后日記』永享三年四月十日条)

 4月11日、管領使者として「二宮越中、飯尾美作」が法身院に満済を訪ね、「飯尾肥前守召之、自管領申詞、飯尾肥前注一紙、以之可令披露儀也」を伝えた(『満済准后日記』永享三年四月十一日条)。管領の意見は「其申詞ハ、関東御罰状事被仰出候趣、仰付二階堂信乃守處、今度ハ為都鄙無為御使参洛仕計候、雖然、被仰下事候間、早々可申入関東(義教は飯尾肥前守を召すと、(おそらく別に控えていた)管領の申し分を一紙に注させた。管領の意見は『関東御罰状の要求の上意の内容を二階堂信濃守に命じたところ、今回は京都と関東の和平の御使と参洛しただけです。ただし、罰状提出を命じられた上は、早急に申し入れます。』)というもので、義教は「以前被仰出、那須、佐竹、白川、宇都宮藤鶴等事、雖為一事罰状ニ漏ルヽ事在之、使節御対面是非不可叶旨、重堅ク可仰管領」(以前命じた通り、那須、佐竹、白河、宇都宮藤鶴の事につき、三ヶ条のうち一事でも罰状から漏れることがあれば、関東使節との御対面は叶わないということを、再度堅く管領に伝えよ)と述べたという(『満済准后日記』永享三年四月十一日条)。飯尾が御前から退出しても、義教は心配になったのか、さらに近習の赤松播磨守満政を使者として管領のもとに遣わすと「尙々一事モ罰状ニモルヽ事在ハ、重又可被仰下條不可然歟之間、只今厳密ニ可申付由可仰管領(くれぐれも、三ヶ条のうち一事でも罰状から漏れるようなことがあれば、再度同じことを命じることはよろしくないので、すぐに厳密に東使に命じよということを、管領に伝えよ)と述べている。さらに与阿弥を使者として「其後又以御書同篇儀、被仰出了」と、内容を文書にして遣わすほどの念の入れようで、管領も「御返事申入了」という。その上、ダメ押しのようにまた飯尾肥前守を召すと、わざわざ「仰條々載一紙、召寄管領使者二宮越中、飯尾美作、申付了」という。管領使者は満済にその條々の文書を見せており、満済は内容を記録している義教が篠川殿からの要望を聞いて決定した罰状に載せるべきとした三ヶ条。その後、管領は満済のもとに飯尾美作守を派遣し「條々畏被仰下、則可申付東使」との申状を遣わした。しかし、すでに夜陰となっており「今夜不及披露、自管領申入御返事、以赤松播磨可披露之由」を経祐法眼を使者として管領に遣わすとともに、赤松播磨守にも明後日まで返書はないことを伝えている。

 4月13日早朝、満済は室町殿に出仕し、飯尾肥前守を召し寄せて一昨日の罰状に載せるべき三ヶ条を一紙に注し、内容を「管領使者二宮越中入道、飯尾美作両(人)仰含」た上で、「以上三ヶ條載御罰状、早々可有御申由、可仰付東使二階堂由、以飯尾美作申入」たことを義教に報告した(『満済准后日記』永享三年四月十三日条)。その後、『関西准后日記』にしばらく東使問題は見られず、まったく動きが停滞した様子がうかがえる。こうした中、東使への罰状要求を管領に命じてから一月ほど経った5月12日、醍醐寺の満済に「畠山、山名両人方、各以両使」って「就関東使節、未及御対面、数日空在京、進物御馬以下小宿ニ置之條凌爾至、種々欲申入條尤不便、但此條ハ以前申旧事間非簡要、所詮始終天下之様何様ニ被思食哉、殊可有御遠慮御事第一也、両人大名内々宿老分トシテ候ナカラ、如此存寄題目心中ニ裹置條一向私ニ候也、此子細且申談、又ハ可達上聞、為御作善御寺住之間、如此申状狼藉至、雖無申計、天下重事不可過之事候ヘハ平ニ御出京可畏入為其先内々申上候(東使二階堂が未だ対面できずに空しく在京を続け、進物として関東から持参した馬なども宿所に置き続けている状態は、東使に対しあまりに失礼であり、様々に申し入れんと願っているのにままならないのも甚だ不憫なことです。ただこの件に関しては以前にも申したことで重要案件ではない。とにかく、室町殿は常に天下の情勢を如何思召されているのか。これらは深くご思慮あることが最も大事です。我らは大名は内々に宿老分ですが、まったくの私心でこのように考えています。これらを室町殿に申し上げてもらいたい。室町殿が御作善のために仁和寺に御出の時期に申し上げるのは大変心苦しいが、天下の重事を見過ごすわけにはいかないと考えたので、准后には平に御出京いただき、この旨を内々に室町殿へ申し上げていただきたい)と告げた(『満済准后日記』永享三年五月十二日条)。東使問題の停滞を見かねた畠山左衛門督入道と山名右衛門督入道が相談し、意を決して強諫を願い出たと考えられる。

 これを聞いた満済は、「出京事自面々承事候、天下重事候上ハ不可及思案、雖何時可出京候、就其被申入様大概何様候哉、使節若且存知推量分候者可申入(出京の事は了承しました。天下の重事である以上は考えるまでもない。いつでも出京しますが、使節の方々は各々の主君が大体どのような内容を申し上げようとしているのか、もしおおよそ存じているのあれば教えてほしい)と返答する(『満済准后日記』永享三年五月十二日条)

 これに「畠山両使遊佐河内守、齋藤因幡守、山名両使カキ屋(垣屋)、田キミ(田公=太田垣)」は、「雖不分明候、天下総別事、九州等モ号土(一)揆、大内已渡海、大友、菊池、少弐等、内々ハ土一揆同心風聞候歟、事六借様候、乍去、為公方両上使長老下向之間、定不日可落居歟、雖然又関東事、御中違治定候者、国々諸人ノ振舞モ、自然寄土一揆、左右無正躰振舞モ出来候テハ、旁可為難儀時節候、無為様御計可為珍重由(主の考えはわかりません。天下は現在総じて乱れています。九州でも土一揆と号して大内は鎮定のためにすでに九州へ渡海し、大友、菊池、少弐らは内々に土一揆と結んでいるという噂もあり、情勢は難しくもあります。しかしながら、公方が長老を上使として派遣しており、近いうちに解決されるでしょう。しかし、関東のことは御仲違が決着しなければ、人々の行動もまた土一揆と同様になり、思うままに暴乱する輩が出てしまえば大変な事態となりましょう。このような事態にならないようお考えいただくことが大切です)と述べた(『満済准后日記』永享三年五月十二日条)

 これに満済は「此被申様、天下万民安穏基、尤以甘心無極候、所詮度々被仰出趣、自管領被申付東使様未分明、御返事不申入候哉、然者此一途上意簡要事候歟、自両人被尋究管領、彼一左右相並可被申入條、次第儀尤宜存(申される事はまさに天下万民安穏の根本であり、素晴らしいことこの上ありません。結局は室町殿が度々仰せられている、管領から東使に罰状提出を命じる件がどうなっているのか、まだ報告がないことがすべての原因でしょう。そうであればただ上意を貫徹することこそ重要であり、畠山、山名の両人から管領に問い質し、彼の報告もともに室町殿に申し入れることが最適解であろう)と返答し、使者は帰って行った(『満済准后日記』永享三年五月十二日条)

 5月19日、満済のもとに管領から「甲斐、飯尾美作守」が到来し、「先度被仰出関東御罰状條数、重申付東使二階堂處、可申下條難儀由同篇申入間、計会」との報告があった(『満済准后日記』永享三年五月十九日条)。これを聞いた満済は、使者両人に対し「先度可申下由東使、領掌申入分ハ、向後関東不可有御野心之儀由告文事候哉、其ハ已申下候哉如何」と、疑念を以って尋ねている。これに両使は「申下候哉事、未分明」といい「重可相尋」と確認する旨を満済に伝えた。

 5月26日、管領義淳が満済を自ら訪問。「関東使節二階堂信乃守告文状被仰出関東罰状事、申下候由状持参、可備上覧(関東使節二階堂信濃守の誓紙ならびに室町殿上意に基づく誓紙の件で、二階堂に提出を命じたことを記した書状を持参したので、室町殿の上覧に供すように)ことを述べ(『満済准后日記』永享三年五月廿六日条)、礼物として「三千疋」が満済に献じられた。その後「二階堂同道僧璘首座来、聊相尋旨在之(鎌倉から二階堂に同道してきた円覚寺璘首座が来訪した。少し質問することがあった)している。翌5月27日に「自関東二階(堂)方以璘首座、昨日事付畏入(璘首座は昨日の事につき了承した)(『満済准后日記』永享三年五月廿七日条)という内容の書状が満済に届けられた。この状は12日に「今日懸御目了」したが、義教は「此状可預置門跡」し、満済は「預申宝池院」した(『満済准后日記』永享三年六月十二日条)

将軍義教、御対面を受け入れ、都鄙和睦が成立する

 永享3(1431)年6月9日、管領義淳から甲斐が満済に遣わされ「関東管領阿房守状進了、以便宜可被備上覧條、可畏入(関東管領憲実から書状が届けられたので、便宜を以て上覧に備えていただきたい)と依頼し、管領からも「関東使節、長々在京、未無御対面條、不便由歎申入状(関東使節は長々の在京にいまだ御対面がないのは気の毒であるとの申し入れる嘆願状)を満済に送っている。

 6月25日、法身院に「畠山、山名、畠山修理大夫三人同道」して訪れ、「関東使節御対面事、可申沙汰旨條々」を伝えている(『満済准后日記』永享三年六月廿五日条)。その申す旨は7月10日、満済から義教に「就関東事、畠山、山名以下連々関東使節御対面事、具申入」ている。これに対する義教の「御返事趣、無子細様也」と悪い印象ではなかったが、「但御対面有無、未無治定儀」と、対面についての返答はなかった(『満済准后日記』永享三年七月十日条)

 こうした中、7月13日に義教に届いた情報が「去月六月廿八日、於筑前糸郡、大内左京大夫入道腹切了」(『満済准后日記』永享三年七月十三日条)というものだった。大内左京大夫盛見入道は義教の信頼も厚い人物で、文武に秀でた人物だった。御料所筑前代官や豊後国守護職など北九州東部に勢力を広げ、筑前において大友持直や少弐満貞らと抗争しており、敗戦した結果であった。満済は義教から畠山満家入道への諮問を依頼され、畠山入道は「大内事、無申計候、九州事又重事不可過之哉、所詮加思案重可申入、自余大名ニモ可被仰談條可宜」(『満済准后日記』永享三年七月十三日条)と返答があったため、満済は翌7月14日に「管領、畠山、山名、右京大夫、赤松」の五人に諮問している(『満済准后日記』永享三年七月十四日条)。そして7月16日、各家から両使が室町殿奉行人の飯尾肥前守、飯尾大和守に遣わされてまとめられ、義教に報告されている(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)。なお、同14日夜には伏見の道欽入道親王(貞成親王)のもとにもこの一報が届けられ、親王は「不便々々」と嘆いている(『看聞日記』永享三年七月十四日条)

 満済はこの報告が行われたのちに室町殿へ赴いて義教と対面し、義教は「諸大名意見趣、神妙」と満足の体を示している。ここで満済は畳みかけるように「先度畠山、山名申入関東使節御対面事、重如此申入」て、「彼両人注進状一通備上覧」した上、「申入旨等猶以言再三申入」るという、義教に対して御対面の有無を強く迫ったのであった。この頃義教の周辺では義姉(義母)「大方殿」の病状悪化、三歳の娘(母は御台所宗子)の病気などの心配事があったが、そこに大内盛見入道の自刃という事件が重なり、義教は精神的に相当参っている状況にあったとみられる。満済はこれを御対面の確約をとる好機と見ていたのかもしれない。義教は畠山・山名の申入状を読むと「此上者無力次第也、一向御身上儀おハ被打捨、且被任面々可有御対面(もはや御対面もやむを得ない。私の思いはすべて捨て、諸大名の考え通り御対面を行おう)との諦観の返答であった(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)。これに満済は「珍重ゝゝ」と喜び、御所内の壇所から「畠山、山名両人方へ可進人」と聞くと、畠山満家被官の遊佐河内守、山名時熈被官の山口が出仕しており、子細を申し遣わすと「両人共以畏申、則可参」って遊佐河内守と山口はそれぞれ主を呼びに戻った(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)

 彼らが退出後、義教は壇所を訪れ、月次当番である宝池院僧正(義賢。義教従弟)と対談し、「大方殿御不例様等御物語」して還御している。義教の関心事はすでに関東使節との対面問題ではなく、義母の容態だった様子がうかがえる(心配というよりも「御大事」のときの蝕穢を気にしている様子がうかがえる)。その後、畠山満家入道が壇所を訪れ「種々畏申」したのち義教御前に参り、次に義教御前に参上していた山名時熈入道が壇所を訪問している(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)

              +―――――――――足利義持
              |        (勝定院殿)
              |         ∥――――――足利義量
              |         ∥     (長徳院殿)
              | 日野資康――+―藤原栄子
              |(権大納言) |(大方殿:慈受院)
              |       |
              |       +―日野重光―+――――――藤原重子
              |        (大納言) |     (観智院)
              |              |      ∥
        藤原慶子  |              +―藤原宗子 ∥――――+―足利義勝
       (北方殿)  |               (勝智院) ∥    |(慶雲院殿)
        ∥     |                ∥    ∥    |
        ∥―――――+――――――――――――――――足 利 義 教   +―足利義政
        ∥                     (普広院殿)      (慈照院殿)
 足利義詮―+―足利義満 
(宝筐院殿)|(鹿苑院殿)
      | ∥
      | ∥―――――――義承准后
      | ∥      (梶井門跡)
      | 藤原誠子
      | ∥
      | ∥―――――――持円大僧正
      | ∥      (地蔵院)
      | ∥
      +―足利満詮――+―義運大僧正
       (権大納言) |(実相院門跡)
              |
              +―義賢大僧正
               (宝池院)

 その後、義教が久阿弥を使者として満済に「関東使節二階堂信乃守状」「両通状可進」ている(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)

(一) 関東告文事、可申下由申入條 関東からの罰状提出を受諾するという報告書
(二) 関東無野心儀由、以告文申状 関東に京都と敵対する意志はありませんという罰状

 この二階堂状(一)に見える「関東告文」は、義教からの「三ヶ条を約する罰状」か、(二)に見える管領と申し合わせていた「『関東無野心儀』を約する罰状」かは確実には判断がつかない。ただ、後日に篠川へ送達した義教御教書は諸大名の要請によりやむなく対面した旨が見えることから、「三ヶ条を約する罰状」は取れないままに御対面になったことを伝えていると考えられ、(一)の「関東告文」は(二)の告文を意味すると考えられる

 満済は深夜亥刻に室町殿檀所を退出したが、その帰途に等持寺東小路で管領義淳と偶然会い、管領を連れだって法身院へ帰った。管領は畠山、山名らとともに「東使御対面事、申御沙汰畏入」として「今夜珍重由申進、御太刀也」した帰りであった。彼らはまだ献上品があったようだが「自余ハ東使御対面後可進」という(『満済准后日記』永享三年七月十六日条)

 7月17日早朝、「畠山、山名両人」が法身院を訪れ、「東使御対面御治定、尚々珍重、仍参礼云々、各二千疋随身」した(『満済准后日記』永享三年七月十七日条)

 そして7月19日、室町殿義教と「関東使節二階堂信濃守盛秀」の「御対面」となり(『満済准后日記』永享三年七月十九日条)、都鄙和睦が成立する。二階堂盛秀は管領義淳に付き添われて御前へ参じて御対面に及び、「自関東馬二疋一疋置鞍、金太刀、鎧一両進之」(『満済准后日記』永享三年七月十九日条)している。具体的には、「太刀一腰、鎧白糸、馬二疋河原毛、鴇毛置鞍」(永享三年八月廿二日「足利義教御教書案写」『貞助記』室:2678)であった。

 対面後、二階堂盛秀は法身院を訪問したが、満済は醍醐寺へ戻っていたため、留守居の大蔵卿法眼が対謁し、二階堂より「馬一疋栗毛、二千疋」が献じられた。また、満済のもとには「自畠山、山名両人方、各以書状、関東使節御対面珍重由」が伝えられている。

 翌7月20日早朝、「関東使節二階堂、醍醐へ来単物体たため満済が対面。「関東時宜等委細」を聞き取っている(『満済准后日記』永享三年七月廿日条)。午後に出京した満済は、義教に「昨日東使来旨等申入」れた。この対面時に「関東時宜」を伝えていると思われる。その後、義教は「諸大名、佐々河へ書状早々可進之状案文可被御覧」といい、将軍義教から諸大名に篠川満直へ関東使節との御対面の報告案文の提出を求めた。案文提出を命じられたのは、「大名可為八人由被仰出間、其趣各申遣了、管領、畠山、細川、山名、赤松、畠山修理大夫、一色左京大夫、細河讃岐守也」の八名であった。案文は7月22日に「被御覧」されており、義教は「少々相違事被仰出」たので満済が「文言書加」え、八人の大名に渡している(『満済准后日記』永享三年七月廿四日条)。そして7月24日夕刻、将軍義教は満済に「大名八人」に対し「進佐々河状、今日早々可調進之由」を指示し、満済は「面々方へ申遣」たのち、義教から「佐々河状御書案文、可書進」と指示があり、義教御教書案を献じた(『満済准后日記』永享三年七月廿日条)

●永享3(1430)年7月『足利義教御教書案』(『満済准后日記』永享三年七月廿四日条)

関東使節対面事、大名共頻申旨候間、無力去十九日令対謁候き、其子細先度且申了、仍義淳、道端入道以下以書状申入事候哉、委曲期返報候也

   七月ゝゝ(日付予定)     ゝゝ(義教の署名予定)
    右兵衛佐殿

 篠川満直の意見は、一度目の諮問では御対面への有無を問われたので、御対面は「不可然」だが、諸大名が言うのであれば御対面を行うのがよい。ただし次は固く断るべきだと述べた。しかし、義教が「対面すべきかしないべきか、はっきりした答えを出せ」と二度目の諮問を行ったので、満直は「御対面は諸大名の意見があるなら行えばよい。ただし、条件を付けるべきで、それは京都からの「三ヶ条」の要求を守る旨の罰状提出を前提としてはどうか」という「提案」だった。篠川満直は対面の条件を「強請」しておらず、二度目の諮問でも義教の諮問があったために「三ヶ条」を提案したのである。この案を良いものとして「採用」したのはあくまでも義教自身であった。ただ、満直としては、この二度目の諮問は思いがけぬ幸事と思ったのではなかろうか。鎌倉の動きを封じる罰状提出を提案できる機会となったためである。この具体的な三ヶ条は採用されるであろう前提で提案したと考えられ、その目的の主眼は、持氏が自らの支援基盤である白河、那須、佐竹ら「京都御扶持之輩」の攻撃を停止させることにあった(当然、これまでの経緯から、持氏が罰状を出しても守らないことは百も承知であったろう。守られずとも鎌倉は公敵となり、故義持代と同様に、自らを鎌倉殿とする御教書発給の可能性を狙い得る策謀であったと思われる)

 しかし、管領義淳の強い抵抗に遭い、諸大名の意見はまとまったものの管領義淳の意見に阻まれて、義教はこの「三ヶ条」に関する罰状要求を取り下げざるを得なかった。しかし、幼少から僧侶として育った義教は生真面目であり、一度約束したことを反故にすることに強い抵抗感を持っていたのだろう。篠川満直への事実上の謝罪文となるこの義教書状では、「関東使節対面事、大名共頻申旨候間、無力去十九日、令対謁候(関東使節との対面は、大名たちが頻りに行えと言うので、やむなく去十九日に対面した)(『満済准后日記』永享三年七月廿四日条)と、対面の理由は「大名の意見」であり、自らの意思ではない点を強調している。ただ、この対面の理由である「大名の意見」は、満直が対面の条件として認めていた「諸大名可有御対面由意見申入上ハ、縦御対面アリトモ」(『満済准后日記』永享二年九月四日条)という部分でもあり、義教と東使の対面自体を満直は反論できない立場にあった。御対面に至った経緯は義教御教書には記されていないが、「仍義淳、道端入道以下以書状申入事候」とあるように、管領義淳と畠山満家入道ら八名の大名から別途の書状が付けられる旨が記されており、こちらに詳細が記されたのだろう(ただし、管領を除く七名は「罰状提出後の御対面」に賛成であり、篠川状にどのように記されたのかは不明)。翌7月25日、昨日八人の大名に指示した上記「佐々河状案」八通が満済のもとに揃い、室町殿へ送られている(『満済准后日記』永享三年七月廿五日条)。その後、奥州申次の細川右京大夫から篠川へ送達されたと思われるが、その記事はない。ただ後日に「七月下遣状」(『満済准后日記』永享三年十月七日条)と見えることから、満済から室町殿へ八通の大名状を送達された直後に奥州篠川へ遣わされたのだろう。

 永享3(1431)年8月7日、「関東使節二階堂信乃守盛秀、被召御所、御盃以下御剣等被下之」という(『満済准后日記』永享三年八月七日条)。義教は条件を付けずに東使を御所に招待し、盃を取らせ御剣を下すなど「天下無為儀お専被思食」す義教が「東使御対面儀」により「天下無為儀」を果たせたという強い気持ちがあったのではなかろうか。この対面は「管領、畠山両人計参申」ており、私的なものだった様子がうかがえる。

 8月11日、満済は室町殿へ参上して義教と対面するが、義教は「二ヶ條、被仰畠山事在之(二つ、畠山満家入道に仰せられたことがある)という(『満済准后日記』永享三年八月十一日条)。ひとつは九州の件で、もうひとつが持氏への贈物のことであった。贈物は対面時にもたらされた持氏からの進上品に対する答礼であり、「関東へ可被遣色々、御剣一腰、御鎧一両、盆、香合、食籠、以上五種可然歟(持氏へ遣わす品々は、御剣一腰、御鎧一両、盆、香合、食籠の五種でよいか)を諮問したという。満済には「可為此分歟、又此外今一両種可被相副條可宜歟、両様不残所存可申(以上の件でよいか、さてまたこのほかにもう一種類追加したほうがよいか、思うところを残さず申すように)という(『満済准后日記』永享三年八月十一日条)。満済は月次壇所(今回は地蔵院持円が担当)に「召寄遊佐」せて九州のことや関東贈物の件を問い合わせると、遊佐河内守は「此事不可及申入道、委細存知仕間申入也(この件は主に申し入れるまでもありません。委細を存じていますので申し上げます)という。その中で、関東贈物の件については、「今一両種可被副條ハ猶可宜、以申入候五種、更以不可有御不足儀(もう一種追加することが望ましいでしょう。現状五種類ということですが、御不足があってはなりません)と述べている。ただ、「此儀、先存知分申上候、但罷帰猶可相尋畠山歟(この件はまず私が知っていることを申し上げました。帰って畠山に今一度確認しましょうか)と述べたため、満済は「先可披露(まずはその意見を室町殿に報告しよう)と述べたところ、遊佐河内守は「此分御意得云々、仍不及畠山也(いま私が語った分はすでに室町殿に報告済みです。それなので畠山に聞く必要はない、と初めに申したのです)というように、遊佐河内守はすでに畠山入道の所存を義教に伝えていたことがわかる(『満済准后日記』永享三年八月十一日条)

 結局、関東へは一品「段子三端」が追加され、8月22日、計六種類の返礼品が送られることとなる(永享三年八月廿二日「足利義教御教書案写」『貞助記』室:2678)これを以て、公的に都鄙の和平が成立した

●永享3(1431)年8月22『足利義教御教書案』(『貞助記』)

太刀一腰、鎧白糸、馬二疋河原毛、鴇毛、置鞍給候、悦入候、太刀一振金糸、鎧一領浅黄糸、香合一、段子三端、食籠一、盆三枚進状如件

 永享三ノ事也八月廿二日        御諱御判
  右兵衛督殿

 10月7日、山名時熈入道から満済へ「佐々河ヨリ御返事到来云々、就関東施設御対面事、諸大名去七月下遣状返報歟」(『満済准后日記』永享三年十月七日条)の知らせが届いている。ただ、この返報に対して満済が義教と対談した記録はなく、関東使節の対面により、篠川満直の返報に書かれていることは満済に諮るほどの重要性は持たなかったのだろう。

 この頃、下総国では12月24日、千葉介直胤が明徳5(1394)年6月29日の『千葉介満胤判物』に任せて、真間山弘法寺別当・弁法印御房に対して、「真間弘法寺職地西屋敷、長門屋敷、上畠、山野等」を安堵する安堵状を発給している永享3(1431)年12月24日『千葉介胤直安堵状』

●永享3(1431)年12月24日『千葉介胤直安堵状』

下総国八幡庄真間弘法寺職地西屋敷、長門屋敷、上畠、山野等事
右、於于仏殿者、去三月依自上不慮御所望、雖被申進上、於于職地、所帯者、
去任明徳五年六月廿九日満胤判形之旨、至于子々孫々、不可有相違候、
殊余人雖令出帯、敢不可有許容也、仍永代為可本妙寺支配之状如件、

  永享八年五月九日     胤直(花押)
 当寺別当弁法印御房

義教の駿河下向計画

 永享4(1432)年正月7日、満済のもとに「二本松畠山修理大夫ト号、武田刑部少輔入道、赤松弥五郎以下来、各太刀賜之了」(『満済准后日記』永享四年正月七日条)という。奥州二本松の畠山修理大夫持重がどういった経緯で上洛していたのかは定かではないが、彼らは新年の表敬参賀に訪れたと思われる。武田刑部少輔入道はおそらく甲斐国から遁れていた武田信重入道と思われる。

 そして正月10日、「当年壇所始」として壇所に義教が渡御し、満済は「初度渡御祝着々々」と祝いの言葉を述べる。そして「来三月中、御参宮(伊勢参宮。2月23日に伊勢国司北畠侍従が「御参宮来月十四日御治定」で用意のために満済に暇乞いをしている)の件を話し、次に「富士御覧度之由、内々畠山、山名等意見可相尋之由(富士山を見たいが、内々畠山入道と山名入道に意見を尋ねよ)と指示した(『満済准后日記』永享四年正月十日条)。満済はこれについて意見を述べておらず、問題視はしていない。

 「都鄙和睦」の成立とともに義教の頭をよぎったのは、おそらく嘉慶2(1388)年9月16日の「准后前左大臣義満下向東国、観富士」(「続史愚抄」嘉慶二年九月十六日条『異長者補任』)の故例であろう。ただし、将軍直々に東国境界国である駿河国まで下向するということは、関東を刺激することになりかねないが、諸大名や満済を含めてその懸念はうかがえない。義教はこの件について秋の予定としているように急いではおらず、尊敬する亡父義満の故例により「天下無為」を象徴したいというのが、この駿河下向計画の本質であったのだろう。都鄙和睦が成って二か月後の永享3(1431)年9月15日、義教は「大和守(飯尾貞連)、沙弥」を通じて「今川上総介殿」に「富士浅間神社造替事」の進行が遅れていることを袖判にて「且不怖神慮、且不顧民煩之条、甚不可然」と𠮟責しており(永享三年九月十五日「奉行人連署奉書写」『御前落居奉書』室:2681)、富士参詣の計画立案の中で、富士を御神体とする浅間神社に、停滞している造替を早期に行うよう督促したのかもしれない。

 その後、山名時熈入道(使者は被官山口遠江守)が満済に「富士御下向事、山名意見」として「今時節、尤可然目出候由」を伝え、参内後に再度壇所へ戻った義教にこの旨を報告している(『満済准后日記』永享四年正月十日条)。山名時熈入道は、御対面により「都鄙和睦」が成り「天下無為」となった「今時節」こそ、駿河国への下向は「尤可然」という言葉となったのだろう。この件は満済も問題視しておらず「都鄙楽観論」が強かったことがうかがえる。

 翌永享4(1432)年正月11日早朝、義教は壇所を訪れて満済と対談。「富士御下向事、畠山意見趣」として「尤珍重」という、これまた楽観論の返事が伝えられた(『満済准后日記』永享四年正月十日条)

山名時熈入道 今時節、尤可然、目出候 今の時期がもっともよいと思います。
畠山満家入道 雖何時候、可有何子細候哉、尤珍重々々、内々門跡様、春ハ富士霞ニ不見候歟、然者自然御逗留被送日数事モヤト存候、又国々用意、来月中計ニハ定可計会歟、来秋尤可然存 何時であろうとも、何の問題もなく大変良いことと思います。内々に門跡様に伝えておきますが、春は「富士霞」がかかり富士が見えない事があります。そのため長期にわたる滞在になりかねません。また国々の用意もありますので、来月中などは無理と存じます。来る秋などがもっともよいと思います。

 満済はこのことを義教に詳細に伝えたところ、「可被延引、来秋」とあっさり秋への延引を受け容れている(『満済准后日記』永享四年正月十日条)。この将軍の意向は「則畠山、山名両人方へ申遣」ているが、義教が駿河下向をとくに急いでいないことは明白であり、駿河下向は私事からの発想であって関東への牽制という通説も成り立たない

 永享4(1432)年2月中旬頃、関東管領上杉憲実は「使者羽田」に書状を持たせて鎌倉を出立させた。「使者羽田」は4月21日に「三宝院御門跡領武蔵国高田郷」につき、飯尾加賀守為行が奉書を遣わした「判門田壱岐入道殿」のことである(永享四年四月廿一日「飯尾為行奉書案断簡」『醍醐寺文書之十三函』:室2703)「上杉安房守雑掌」(『満済准后日記』永享四年三月十一日条)「羽田入道上杉雑掌也(『満済准后日記』永享六年十一月三日条)と見え、憲実は彼を使者として上洛させ、そのまま在京代官として置く予定なのだろう。

 この旨を京都から憲実執事「長尾々張入道殿」に伝達した「沙弥性真」は、応永24(1417)年8月11日に「水本僧正(報恩院隆源)」が「伊豆山密厳院事」について申し立てた事につき、上杉憲基執事の長尾定忠へ取り次いだ「沙弥性真」(応永廿四年八月十一日「沙弥性真副状案」『醍醐寺文書一七函』)と同一人物である。なお、応永24年の副状案の端裏書に「ハね田 そへ状の案」とメモされており、一見「沙弥性真」と判門田壱岐入道は同一人物とも思えるが、永享4(1432)年4月21日に「沙弥性真」が憲実執事「長尾々張入道殿」に宛てた文書では、詳細については「御代官」が伝えるので省略する旨が記されている(永享四年四月廿一日「沙弥性真書状案」『醍醐寺文書一三函』:室2704)。もし、「沙弥性真」が代官判門田壱岐入道と同一人物だとすると、判門田壱岐入道以外に彼より上位の「御代官」が存在していたことになるが、後述のように憲実が越後国紙屋荘代官職を欲し、篠川殿満直(紙屋庄代官職)と直接やり取りしたという噂に関し、義教は都鄙平穏を一番に考える憲実が「代官トシテ羽田参洛事也」なのに公方に諮ることもせず、直接満直に直接話を通すわけがないと述べている通り、京都雑掌(代官)は判門田一人と考えられる。つまり、「沙弥性真」と判門田壱岐入道は別人であると考えられる。応永24(1417)年の端書「ハね田 そへ状の案」は、判門田壱岐守が沙弥性真を使者として派遣したためのメモか。

 憲実使者の羽田壱岐入道は、2月23日頃に近江国守山宿に到着し、管領義淳に「先守山ニ罷着、自其案内ヲ申入」ている(『満済准后日記』永享四年二月廿三日条)。2月24日、管領は甲斐左京亮を満済に遣して「可参洛仕之由可申歟云々、但可依時宜」と問い合わせ(『満済准后日記』永享四年二月廿四日条)、満済は「此子細、今日吉日也、早々可被達上聞條可然、参洛日次事、被任上意歟」と返答している。その後の結果は記されていないが、すぐに義教に伝えられて上洛の日程が決定され、2月26日には守山宿に連絡されたとみられる。2月27日には「鎌倉管領上杉安房守使者羽田壱岐入道参洛」「公方様御目」っており(『満済准后日記』永享四年二月廿八日条)、即座に上洛と御対面が許されたことがわかる。先日の篠川満直への御教書はあくまでも表向きの理由を述べただけであり、義教の本心は「天下無為儀お専被思食」(『満済准后日記』永享三年三月廿日条)だったのである 

 翌2月28日、羽田壱岐入道は満済に「今日房州状等持参」「紬十、馬一疋栗毛」を献じ、「羽田分」として「馬一疋、千疋」を献じている。

 翌2月29日早朝、満済は京都へ入り室町殿で義教と対面し、昨28日に羽田壱岐入道が満済に渡した「上杉安房守状」(『満済准后日記』永享四年二月廿九日条)を見せている。上杉憲実の書状の内容は以下の通り。

(一) 京都領事、自已前如被仰出、不可有相違之由 上意候之 関東が預かる京都御料返上の件で、以前から仰せられているように、返上を間違いなく進めるようにとの鎌倉殿の上意です。 年不詳二月十三日
「上杉憲実書状写」
(『静嘉堂本集古文書』)
関東京方所領共悉可渡進、早々御代官下向候様可被仰付 関東の京方所領についてはすべてお戻します。早々に御代官を下向させるようご命令ください。 『満済准后日記』
永享四年三月十一日条
(二) 関東五山長老、器用西堂等雖被挙申度、時宜難計間、先令啓候 関東五山の長老はその器たる西堂を吹挙しようと存じますが、室町殿の御意思がわかりませんので、まずはこの旨を御披露ください 『満済准后日記』
永享四年三月十一日条

 3月11日、管領義淳は飯尾美作守を醍醐寺の満済のもとへ遣わし「今度参洛仕上杉安房守使節羽田申入候」「両条」である「関東京方所領共悉可渡進、早々御代官下向候様可被仰付」ならびに「関東五山長老、器用西堂等雖被挙申度、時宜難計間、先令啓候」について、「早々被達上聞者可畏入」と願っている(『満済准后日記』永享四年二月廿九日条)。これに加えて、管領義淳自身の「当職上表事、去年以来連々申入、被懸御意者畏入」の合計三か条を伝えたが、満済は「両三日聊御風気事」で対面できず、「宗清僧都」に対応させている。

●管領義淳からの依頼(『満済准后日記』永享三年三月廿四日条)

依頼元 斯波義淳からの用件 宗清僧都からの返事
(一) 関東管領憲実 関東京方所領共悉可渡進、早々御代官下向候様可被仰付 ・以一色左京大夫可被申條尤可宜候
・東両條事、以一色左京大夫可被申旨
(二) 関東五山長老、器用西堂等雖被挙申度、時宜難計間、先令啓候
(三) 管領義淳 当職上表事、去年以来連々申入、被懸御意者畏入 当職上表事、去年以来御申難儀之由、数度被申了、於今又同前候

 宗清僧都は満済からの指示とみられるが、「上杉安房守雑掌申両條京方所領悉可渡事、関東五山長老吹挙事、事」「以一色左京大夫可被申條尤可宜候」と答えている(管領上表はそもそも「難儀」としているのでこれについての返答はない)。

 3月17日、満済は「関東ヨリ今度申、京方御領如元悉可渡申、早々可被下御代官」という件について、畠山満家入道、山名時熈入道の両人と打ち合わせ、「如此申上者、可被下御代官歟、就其京都奉行人ヲ被定、安房守雑掌羽田入道折紙ヲ被召下、各可下代官由可被仰歟、如何(関東からの申し出につき、御代官を下すべきか、または京都奉行人を定めて憲実雑掌の判門田壱岐入道に折紙を下すか、所領を持つ各々が代官を下すようお命じいただくか、如何か)と問うと、畠山、山名両人も「此仰尤珍重」と賛同したため、この件を義教に申した(『満済准后日記』永享四年三月十七日条)

 翌18日、満済は室町殿に参じて義教と対面し、「上杉七郎(上杉憲実兄・七郎頼方)」の事「今度関東上杉安房守、頻申入」がある件について、義教は「御免事、不可有子細旨被可仰遣(七郎赦免の件は、間違いなく行う旨を憲実に遣わすように)と指示したが、「長尾上野入道、若猶申所存事在之者、只今安房守方へ御返事可相違間、先内々被仰出也、所詮七郎事、可有御免、無異儀可存其旨由、可仰遣長尾上野方(七郎と敵対した越後守護代・長尾上野入道がもし未だに何か異儀があるのであれば、今の憲実への返事と相違してしまうので、まず内々にこの件を長尾に『上杉七郎は赦免するので、異儀ない旨を確認せよ』と申し遣わせ)ことを、大内家の家督問題などとあわせた「三ヶ條」として畠山満家入道へ伝達するよう満済に指示している(『満済准后日記』永享四年三月十八日条)。これは応永末年、越後国前守護の憲実兄・上杉七郎頼方と守護代長尾上野介邦景入道の対立から軍事衝突に発展し、敗れた頼方が越後守護職を罷免された件で、憲実がその赦免を願い出たのだろう。長尾邦景入道と憲実との関係は良好であり、邦景入道も義教からの強い要請もあって、これに異儀を唱えることはなかったと考えられる。

 そして、3月29日の月次連歌の前に満済は室町殿に早出して義教と対面。「去十八日、被仰出畠山三ヶ條返事申入」ている。そのうち上杉七郎頼方の赦免については、「上杉七郎事、長尾右京亮、高野参詣仕候、罷帰候者、相尋重可申入」(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)といい、在京の上野入道の子・右京亮実景が高野山参詣で留守だったため、意志の確認ができなかったことから、帰洛後に確認するとの報告であった。

 さらにこの日、満済が畠山満家入道へ追加で確認するよう指示されたこととして、越後国紙屋庄についての案件があった。越後国紙屋庄は、前年永享3(1431)年2月29日に越後国紙屋庄実相院門跡領事、可被進佐々河、於実相院者近所ニ替地可有御計之由被仰出(『満済准后日記』永享三年二月廿九日条)て、「被進佐々河了」の地であった(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)。ところが「此代官職事、上杉安房守関東管領執心事、今度初被知食了(紙屋庄の代官職を関東管領憲実が大変欲している件は、室町殿は今回初耳である)というように、紙屋庄代官職を上杉憲実が欲しているという噂に義教が不審を抱いたのであった。

 義教が満済に述べたことは「然者、去年実相院計トシテ改代官申付別人時、不申子細哉、仍為公方モ実相院へ被遣替地於丹後国、此庄紙屋事、被遣佐々河了、此時節安房守兎角地下ヲ執心之由、越後守護代長尾上野入道、去年以来申間、一向以緩怠之儀、上野入道申入由御意得處、今度安房守代官羽田罷上、内々属遊佐申旨之由、只今被聞食之間、此間長尾上野入道懈怠儀モ不在之由御不審被散了、次上杉安房守此代官職事、直ニ佐々河方へ申入云々、此條安房守沙汰トモ不被思食事也、是程此在所執心之儀在之者、ナトヤ幸ニ代官トシテ羽田参洛事也、以此者公方ヘモ不申哉、御不審又此事也、凡安房守都鄙事一大事ト存スル者也、就此庄事又都鄙間事ヨモ無正体様ニハ存申候ハシト思食處、越後守護代上野入道如申状者、此庄事故又京鎌倉事、如何と存間、浅猿候ト云々、此條更不被得御意事也、サレハトテ安房守是程ノ所存ハ候ハシト思食也、所詮安房守已執心之由申状無子細者、先此庄佐々河代官可沙汰居事ヲハ可相延歟、重就安房守申状可被加御思案云々、且此等趣召寄羽田、遊佐具可申聞(紙屋庄代官職の件について、憲実が欲しているというのであれば、なぜ去年実相院から代官を改める際になにも言ってこなかったのか。どこからも意見はなかったのでこちらも実相院へ丹波国内に替地を与えて、紙屋庄は篠川満直へ遣わしたのだ。実はこの頃、憲実は紙屋庄の地下代官を望む旨を越後守護代長尾上野入道に去年以来申していたが、長尾入道が「自分が取り次がずにまったく怠けていた」ことを報告し、今度は憲実代官判門田壱岐入道が上洛して、内々に畠山家職の遊佐河内守に憲実が紙屋庄代官職を希望している旨を話し、その内容を聞き、なるほど長尾上野入道の懈怠のことは知らなかったと納得した。次に、上杉憲実がこの代官職について直に篠川へ申し入れたことも長尾入道の申し入れにあったが、私は憲実が篠川へ直接このことを申し入れたとは思っていない。憲実がこれほど紙屋庄代官職を欲しているのであれば、ちょうど代官として判門田壱岐入道が上洛しているのに、どうして彼を通じてこちらへ申さないことがあろうか。憲実であれば当然そうするだろうし、篠川へ直接話をすることはなかろう。この話が疑わしいのはまさにここなのだ。そもそも憲実は京都と鎌倉との関係を第一に考える人物である。私事の紙屋庄代官職ごとき事のために都鄙の関係を危うくすることなどありえない。長尾上野入道のこの件についての申し入れは信用ならず、呆れるばかりだ。憲実は篠川と直接話したという件はまったく信用していないが、憲実がこれほどまでに紙屋庄代官職を欲しているのは知らなかった。憲実の執心する紙屋庄代官職について差支えがなければ、まず篠川満直への代官職認可を延引すべきか。また、憲実の申状についてもう一度思案しよう。こちらでも憲実の希望について代官判門田を召して遊佐河内守を通じて詳しく聞くように)(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)とのことであった。

 畠山は室町殿上意につき「召寄羽田委細以遊佐申」すと、判門田壱岐入道は「此仰旨、殊忝畏入候(憲実を信頼しての仰せ、本当に有難く畏れ入ります)と礼を述べ、「遊佐の状」を所望した。畠山満家入道は満済に「可遣哉」と問うと、満済は「不及伺申入事也、以口上申條々載状所望處ニ不可及故障事歟、定安房守方へ下遣、為令一見歟、殊宜様覚也(おっしゃる事は伺うまでもありません。室町殿の言葉を、口上で伝える所を條々にした書状を所望しているだけであり、なんら問題ないでしょう。おそらく憲実のもとへ下して内容を一見させたいのでしょう。大変宜しいと思います)(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)と答えた。

 もう一点、駿河国の守護職「今川上総守」の「相続仁體事」での問題も発生している。先年、今川上野介範政が病に倒れた際、相続人として「末子千代秋丸」と定めたが、その事は義教は「内々被聞食及」んでいる(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)。ところが、千代秋丸は「此者事母関東上杉治部少輔姉妹」であり、義教は「幸ニ嫡子以下兄弟数輩在之、閣此等堅固幼少七八歳者ニ可申付條、併別心様ニ可罷成歟、不可然由先度以山名状上意趣具申下了(幸いなことに範政嫡子以下、兄弟数名がいるが、彼等成人者を差し置いて、わずか七、八歳の幼児に家督を申し付けるというのは、なにか疾しい心でもあるのではないか。この相続は認めない旨を先ごろ山名時熈入道の状に詳細に記した)という。

 この返事は3月28日に満済のもとに「自山名方同今河方申、山名使者山口、今河使者三浦安芸云々来申旨、同今河罰状等、此門跡へ状持参(山名方から山口遠江守、今川方から三浦安芸守がそれぞれ満済を訪れ、「今河罰状」と満済への書状を持参)している(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)。その内容は「嫡子事、如伴可申付處、此者事以外無正體、始終奉公且以不可叶条見限了、内者共又同前儀候、仍去年所労以外時節、内者共寄合せメテハ幼少間、未来器用モヤト存間、千代秋ニト申了、已所労本複仕上者、相続仁體先何トモ不被定下者可畏入云々、且非緩怠別心儀、以罰状申入候也(嫡子彦五郎にともに来るよう申付けましたが、この者は精神状態がよくありません。常にご奉公することは不可能であると見限っております。被官共もまた同様に思っております。そのため、昨年私の病が重篤となった際、被官共を集めて、『千代秋丸は幼少で将来は家督にふさわしくなるだろう』と、家督を千代秋とする旨を決定しました。ただ、私の病が本復した上は相続人の件はまず誰とも定め下されないようお願いします。また、千代秋丸を家督に定めんとしたことは、決して緩怠別心ではない旨、罰状を提出いたします)というものだった。

 満済は、室町殿に参じて義教にこの件を報告したところ、再度「誠於嫡子事者、器用トモ又非器用トモ為上ハ難仰出事也、随逐父非器用之由見限上ハ勿論歟、末子千代秋丸七歳云々此器用又御不審也、七八歳小者事、只今器非器難定様思食也、是モ未来若器用モヤノ分ニテコソ可申付旨ヲハ申ラメト思食也、然者、大事国相続仁體、於不見定者又難申付歟、然者、就母方有縁関東隣国之間、此者ニ申付儀ト諸人上下可意得條ハ御案内也、然者今河事此小者母ユヘ歟、関東一体雑説之間、及種々沙汰了、且又山名執申入キ、如此處ニ只今此小生ヲ執別相続ノ仁體ト定條、旁心中非無御不審也(本当に嫡子の事については、器とも非器とも結論を言い難い。父範政が彼をその器にないと見限ったのであれば仕方がなかろう。末子の千代秋丸はわずか七歳という。彼が器たるかは疑問だ。七、八歳のこどもの事を今の段階で器たるか否かを判断できまい。これも将来、器用であれば家督を申し付けるべきだと申してはどうか。駿河国という重要な国を相続する人物の器量が不明であれば国を任せられないだろう。そうであれば、駿河が母方有縁の関東と隣国だから範政が千代秋丸を家督に据えようとしているのだと、人々がみなそう思うのも当然だろう。そうであれば、今川家はこの幼児の母が関東有縁のため、関東と一味同心しているとの噂があるので、いろいろ判断している。また、山名時熈入道が申すには「この私をとくに相続人に定めた」と言うが、本当かどうか不審がないわけではない。)という(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)今川家から駿河守護職の返上も視野に入れているという、相当強い恫喝となっている。

 今川範国―+―今川範氏――今川泰範
(上総介) |(上総介) (上総介) 
      |       ∥            【嫡男】
      |       ∥――――――今川範政―+―今川範忠
      |       ∥     (上総介) |(彦五郎)
      |       ∥      ∥    |    
      | 上杉朝興――女子     ∥    |【二男】
      |(中務大輔)        ∥    +―今川弥五郎
      |              ∥    |
      |              ∥    |
      |              ∥    +―女子
      |              ∥      ∥
      |              ∥      ?
      |              ∥      ∥
      |              ∥      一色教親
      |              ∥     (五郎)
      |              ∥     
      |              ∥――――――今川千代秋丸
      |              ∥
      |       上杉氏定―+―女子
      |      (弾正少弼)|
      |            +―上杉持定
      |            |(治部少輔)
      |            |
      |            +―上杉持朝
      |             (修理大夫)
      |             
      +―今川貞世―+―今川貞臣 
      |(伊予守) |(伊予守) 
      |      |
      |      +―各和貞継
      |      |(伊予守)
      |      |
      |      +―今川言世
      |      |(右馬助)
      |      |
      |      +―尾崎貞兼
      |       (右京亮)
      |      
      +―今川仲秋―+―今川貞秋 
       (左衛門佐)|(遠江守、右衛門佐)
             |
             +―今川氏秋
             |(右馬助)
             |
             +―今川直秋
             |(大蔵大夫)
             |
             +―今川国秋              

 続けて「一色左京大夫子息五郎事」でも「今河上総、縁ニ可罷成之由、去年以来申間、不可有子細由被仰出キ、此時ノ申状モ、以前関東所縁事ユヘ及雑説了、雖然、委細以聞食披儀、于今畏存間、弥無二御心安者ト被思食様可致奉公條本意間、一色左京大夫所縁事申入云々、然者已関東有縁小者ニ国事可申付條又関東ヘ■無二者ト申哉、所詮旁今河尚々不被■御意也、於千代秋丸事者、是非不可叶■自余兄弟内シカト申付趣お重可申入由、能々山名可申付(一色持信の子息・五郎教親のことでも、今川範政が彼と縁組したいと去年から申入ていた件で、私はとくに問題ないと言ったが、この時に出された申状も「私は関東所縁ということで様々な雑説があります。しかし、委細をお聞き届けいただき、より一層室町殿が頼りになる者だと思われるよう奉公することこそ本意であるため、室町殿近臣の一色持信との縁組を申し入れたのです」とあった。そうであれば、すでに関東有縁の幼児に駿河国守護職を申し付けてほしいとの事はいっそう関東への忠節を誓うということか。そうであれば今川家に駿河は任せられない。千代秋丸の家督相続は認めないので、他の兄弟から選ぶようにしかと申し付けよと再度申し入れるよう、山名時熈へよくよく申付けよ)との仰せだった(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)

 これを受けた満済は「此仰旨、召寄山口申付」たが、すでに「今日及夜陰間、明旦可参」と指示。翌4月1日早朝、山名時熈被官の山口遠江守が満済のもとを訪れ、「此事山口ニ召仰」し、山口も「上意條々尤候、早々可申下」ことを伝えている(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)。なおこの件は駿河国へ送達されており、4月25日に満済のもとに今川範政から両使「三浦安芸守、クシマ(福島)が遣わされ「自今河上総介方状到来、一跡相続仁體、器用事申入也」ている。もともと範政は「嫡子」を器量なしとしており、「嫡子」に家督を譲るつもりはなかったため、「嫡子」以外の人物を家督に付けるつもりだったのだろう。こうしたことで6月下旬、「駿河守護今河上総介嫡子彦五郎遁世」し、その知らせが6月29日に義教のもとに到来した(『満済准后日記』永享四年六月廿九日条)。事実上の範政による「嫡子彦五郎」の廃嫡であろう(その後、彦五郎は出家したのち駿河を出て上洛し、義教の庇護下に入る)。しかし、永享5(1433)年3月15日、「今河総州駿河守護、娚子彦五郎事、器用不便由、今河遠江入道申旨内々達上聞了」と、一門の今川遠江入道(範政父泰範の従弟・貞秋)が満済に「娚子彦五郎(他と揃えて「嫡子彦五郎」の意か。これまで数回にわたり「嫡子彦五郎」と記されている語句が、ここのみ「娚子彦五郎」となっているからといって、字面通り「甥」の意とするのは不自然)は器用の仁であり、廃嫡はよろしくない旨を訴えており、満済はこれを内々に義教へ伝えている。

 義教の駿河下向は、範政が「先年」倒れて関東由緒の「千代秋丸」を相続人と定めたことを「内々被聞食及」(『満済准后日記』永享四年三月廿九日条)んだことが発端なのではなかろうか。

 一方、4月21日、上洛中の関東管領使者・判門田壱岐入道は帰国することとなったと思われ、満済から慶円法眼が遣わされて「関東管領上杉安房守方へ返事遣之盆堆紅、輪、金襴赤地一端、白太刀一腰」が下されている。また判門田自身にも「羽田方へ三重太刀」が遣わされた(『満済准后日記』永享四年四月廿一日条)。また、同4月21日、将軍義教から何らかの指示(文書が前闕で判断できず)が関東奉行人の飯尾加賀守為行を通じて「判門田壱岐入道殿」に下されているが(永享四年四月廿一日「飯尾為行奉書案断簡」『醍醐寺文書一三函』室:2703)、これは「京方御領如元悉可渡申」という関東の依頼に基づいて「三宝院御門跡領武蔵国高田郷事横浜市港北区高田町について返付するよう命じた文書と考えられる。高田郷は元来「右大臣家法華堂領」であるが、醍醐寺がこれを管掌しており、今回沙汰の対象になったとみられる。

●永享4(1432)年4月21日「飯尾為行奉書案断簡」(『醍醐寺文書一三函』室:2703)

(前闕)
執達如件、

 永享四
   四月廿一日     為行在判
   判門田壱岐入道殿

 当時の醍醐寺管領の所領は以下の通り。このうち、関東の所領は、武蔵国橘樹郡高田郷(鎌倉二位家右大臣家両法華堂領)、上総国梅佐古村の二か所であるが、上総国梅佐古についての返付に関しては指示がなされていない。

所職 庄園等
三宝院 尾張国 安食庄
潮部南郷
国衙
鳴海庄
得重保
丹後国 朝来村
鹿野庄寺辺田
近江国 船木庄
田河庄河毛郷
越前国 河北庄
丹波国 曾地村
三河国 国衙
山城国 山科地頭職
小野庄
久世郷
久多庄
美濃国 帷庄
牛洞郷
若狭国 名田庄須恵野村
肥前国 佐嘉庄
宝池院 筑後国 高良庄
尾張国 枳豆志
金剛輪院 伊勢国 渡会郡棚橋大神宮法楽寺、末寺等寺領
遍智院 越中国 石黒庄太海郷
石黒庄院林郷
阿波国 金丸庄
伊勢国 南黒田
安養院 筑前国 楠橋庄、寺辺屋敷等
菩提寺 律院 山城国 宇治郡左馬寮、寺辺田
鳥羽金剛心院    
大智院曼荼羅寺
(小野万荼羅寺之事)
  方々所職
醍醐寺座主 伊勢国 曽祢庄
越前国 牛原四ケ郷(丁、井野部、牛原、庄林)
近江国 柏原庄(供僧中)
大野木庄
河内国 五ケ庄
山城国 笠取庄
肥前国 山鹿庄
伝法院座主 寺領(在別)
左女牛若宮別当職 土佐国 吾川郡大生郷
吾川郡仲村郷
尾張国 日置庄
筑前国 若宮庄武恒、犬丸方
摂津国 山田庄
桑津庄
大和国 田殿庄
美濃国 安八郡森部郷
源氏・千種両町
篠村八幡宮別当 丹波国 篠村庄
佐伯庄地頭方
佐々岐
河口
黒岡
光久
葛野新郷
上総国 梅佐古
三条坊門八幡宮別当職 山城国 多賀
高島
摂津国 時友
越中国 御眼庄吉河
高倉天神別当職 近江国 愛智郡香庄
仏名院 摂津国 鞍庄、敷地
清閑寺法華堂別当職
清閑寺大勝院    
清閑寺南池院    
鎌倉二位家右大臣家両法華堂別当職 讃岐国 長尾庄
造田庄
武蔵国 橘樹郡高田郷
(醍醐寺三宝院領か) 但馬国 朝倉庄、福元方
(醍醐寺三宝院領か) 山城国 日尾寺、善縁寺

 同21日、「沙弥性真」は憲実執事「長尾々張入道殿」に宛てて、早々に同地を「彼御雑掌」へ打渡すよう指示する飯尾為行折紙案を送って、これを憲実に報告するよう依頼しているが、詳細については「御代官」が伝えるので省略する旨が記されている(永享四年四月廿一日「沙弥性真書状案」『醍醐寺文書一三函』:室2704)。なお、通説では「沙弥性真」は判門田壱岐入道と同一人物とされるが、当時の憲実の京都雑掌(御代官)は判門田壱岐入道のみと考えられることから、両者は別人である

●永享4(1432)年4月21日「沙弥性真書状案」(『醍醐寺文書一三函』室:2704)

三宝院門跡領武蔵国高田郷事、早速可被沙汰付被御雑掌之由、飯尾加賀守被仰出候、仍折紙如此候委細之旨御代官可被申候間、省略仕候、以此旨可有御披露候、恐々謹言

   卯月廿一日     沙弥性真在判
 謹上 長尾々張入道殿

 その後、憲実から武蔵守護代へ打渡が指示されたと思われるが、この打渡は例の如く沙汰が行われないままに延引されており、三宝院雑掌により鎌倉に直接訴えがあったため、おそらく12月15日、鎌倉殿持氏から管領(武蔵守護)上杉憲実へ沙汰が下り(御教書は現存せず)、同15日、憲実から再度守護代「前石見守(大石憲重)にその沙汰が指示された(永享四年十二月十五日「上杉憲実奉書案」『醍醐寺文書一三函』室2743)。大石憲重入道には数日後に奉書が届き、12月18日、「前石見守(大石憲重)は代官「鎌田助次郎殿、村田平三郎殿」を両使として現地へ派遣し、「任去十五日御遵行之旨」せて三宝院雑掌に「沙汰付下地」けるよう命じている(永享四年十二月十八日「大石憲重遵行状案」『醍醐寺文書一三函』室2744)。そして12月23日、「沙汰(付)下地於三宝院雑掌候訖、仍渡状如件」(永享四年十二月廿三日「大石憲重打渡状案」『醍醐寺文書一三函』室2749)と、ようやく高田郷の打渡が完了した。持氏が京都に約束した「京方御領如元悉可渡申」という件も、この一ヶ所の打渡をみてもなかなか進展しない事実がうかがわれる。

 義教は、関東とは対立無き中庸を保ちたい考えだった様子がうかがえる。関東との対立発生を避けるためにも京都と関東が管轄する地を峻別し、互いにその干渉を徹底的に避けるよう動いていたのだろう。かつて持氏が京都管掌の越後国に軍勢催促を行った際に、融和姿勢の義教の態度が一気に硬化したのもこうした考えが背景にあると考えられる。

 関東政策において義教がもっとも頭を痛めた問題は、故義満以来、京都が支援し続ける必要がある負の遺産「京都御扶持之輩」や篠川殿満直の存在だったろう。義教は、鎌倉殿持氏が「関東安穏」を理念とし、それに反する「京都御扶持之輩」を排除するために戦っていることは理解していただろう。しかし、義教としても「京都扶持之輩」の支援は京都の威信にかけて行わざるを得ないことで、そこには関東と京都の間に妥協点はなかった。義教は「天下無為」の「御政道」を理想に掲げながらも、それを達成するためには「天下無為」を否定しなければならなかったのである。義教は故義満、故義持が遺した「負の遺産」のために、矛盾を抱えながら非常に難しい関東政策を行っていたのである

 鎌倉殿持氏は、政所執事二階堂盛秀をはじめ、関東管領からの使者を送るなど、京都とは対話と融和の姿勢を崩さなかったが、関東政策においては「関東御扶持之輩」の追捕を徹底的に行い、この点は妥協しなかった。京都(笹川満直の提案)からの「三ヶ条」に関する罰状要求を峻拒したのも、関東平穏の理想を阻む存在を野放しにはしないという持氏からの強いメッセージであったろう。そして、関東管領の使者が上洛している最中でもその姿勢は変わらず、永享4(1432)年3月頃の「於常州石上城合戦」「小野崎越前三郎殿(小野崎通房)が「致分捕」たことに、3月20日、持氏は「尤以神妙、向後弥可抽戦功」と賞している(永享四年三月廿日「足利持氏御教書」『阿保文書』室:2700)。また、同日「中忠」なる人物もまた持氏の御感を得たことを「目出度候」と文書を送っている。「中忠」が如何なる人物かは不明だが、鎌倉在住で通房とも親しい人物と考えられる。なお、この「石上城合戦」は石神城那珂郡東海村石神内宿での佐竹祐義入道方との戦いとみられるが、石神村は小野崎通房の知行地と考えられることから、佐竹祐義勢の攻撃であると思われる。

 4月28日には、足利持氏以下、上杉憲実、武田信長、千葉介胤直ら九人が相模国大住郡の大山寺伽藍造営つき、馬を奉納している(永享四年二月廿八日「大山寺造営奉加帳」『相州文書 大山寺八大坊所蔵文書』室:2706)。当時の胤直は20歳だが、叙位された経験もなく無官でもあった。鎌倉は管国守護職のみならず諸役人としての国人も常在しており、当然彼ら以外にも大山寺への奉加にふさわしい家格の人物がいたにも拘わらず、彼ら九人が選ばれた理由は定かではない。奉加の面々を見ると、関東管領憲実が筆頭にあり、四番目の一色持家、直兼は鎌倉殿御一家、後列三名はいずれも鎌倉奉行人という位置づけだが、家格としてはいずれも鎌倉殿被官人であり、守護家の武田信長、千葉介胤直よりも家格は下となるのであろう(次代の古河公方成氏の時代では千葉介の家格は別格だった)。

●永享4(1432)年4月28日『大山寺造営奉加帳』(『相州文書』「大山寺八大坊所蔵文書」)

相模国大山寺造営奉加帳
 
   従三位源朝臣(花押:持氏)
奉加馬一疋    前安房守憲実(花押:上杉憲実)
奉加馬一疋    右馬助信長(花押:武田信長)
奉加馬一疋    平 胤直(花押:千葉介胤直)
奉加馬一疋    散位持家(花押:一色持家)
奉加馬一疋    散位直兼(花押:一色直兼)
奉加馬一疋    前上野介理兼(花押:山名?理兼)
奉加馬一疋    前備中守満康(花押:町野満康)
奉加馬一疋    前能登守憲景(花押:梶原憲景)

 永享四年卯月廿八日
       勧進沙門■■扶

 6月14日、管領義淳の「子息民部大輔他界」と伏見に伝わった(『看聞日記』永享四年六月十四日条)。「民部大輔」は応永32(1425)年11月20日に「武家管領畠山右衛門佐入道満家三男加首服、又左兵衛佐義淳號勘解由小路也、入道殿御一族也、加首服、名字義豊云々、是禅門令相計給也、義字、当時諸人輙不付之也」(『薩戒記』応永卅二年十一月廿日条)「管領息次男并兵衛佐息、今日元服、参御所、兵衛佐息ハ入夜参」(『兼宣記』応永卅二年十一月廿日条)と、当時の管領畠山満家入道の次男または三男とともに元服した「義豊」に相当する(実際は民部大輔ではなく治部大輔)。伏見貞成入道親王は義豊を「器用之人」(『看聞日記』永享四年六月十四日条)とが認識している。父の管領義敦は将軍義教相手に妥協しない駆け引きを繰り広げる人物であり(彼を訴えを額面通りに薄弱と評する論もあるが、当然不可である)、その薫陶を受けて成長したのだろう。なお、義豊と同日に元服した畠山満家入道「次男」または「三男」については、系譜上満家次男は持永、三男は持富であるが、いずれとも義持入道から「持」字を下されており、どちらに該当するかは不明。

●斯波武衛系図

               +―尼秀清澄心
               |(本光院三世)
               |
 足利高経―+―斯波義将―――+―尼秀晃明仲        +―尼秀雄仙方
(修理大夫)|(治部大輔)   (本光院四世)       |(景愛寺前住)
      | ∥                     |
      | ∥――――――――斯波義重――――斯波義淳―+―斯波義豊
      | ∥       (治部大輔)  (治部大輔) (治部大輔)
      | ∥        ∥            
      | ∥        ∥―――――+―斯波義郷―――斯波義健
      | ∥        ∥     |(治部大輔) (治部大輔)
      | ∥        ∥     |
      | ∥ 甲斐教光―+―女子    +―斯波持有
      | ∥      |(家女房)   (左衛門佐)
      | ∥      |
      | 吉良満貞女  +―甲斐常治
      |         (美濃守)
      |
      +―斯波義種―――――斯波満種――――斯波持種―――斯波義孝
       (伊予守)    (左衛門佐)  (修理大夫) (民部少輔)

●畠山系図

 畠山基国―+―畠山満家――+―畠山持国―――畠山義就
(右衛門督)|(右衛門督) |(左衛門督) (右衛門佐)
      |       |
      |       +―畠山持永
      |       |(左馬助)
      |       |
      |       +―畠山持富―+―畠山政久
      |        (尾張守) |(弥三郎)
      |              |
      |              +―畠山政長
      |               (左衛門督)
      |【能登守護】
      +―畠山満慶――+―畠山義忠―――畠山義有
       (修理大夫) |(修理大夫) (阿波守)
              |
              +―畠山持幸
               (右馬助)

義教の駿河下向

 永享4(1432)年7月20日、今川範政から三浦安芸守が満済に遣わされ、「自今河上総介、今度富士御覧ノ為下向、於分国駿河、御昼ノ休御宿事、任鹿苑院殿御下向例、律院可用意之條如何(今川上総介より、室町殿の今度の富士御覧の御下向に際し、駿河国における御昼の休憩所の事につき、故鹿苑院が下向された例と同じく、律院を用意致そうかと思いますが、如何か)と問い合わせがあった(『満済准后日記』永享四年七月廿日条)

 このような中で7月25日、義教は「内大臣」に移り(『尊卑分脈』)、8月27日に「将軍大臣御直衣始」を行い(『満済准后日記』永享四年八月廿七日条)、翌8月28日に「左大臣」に転任する(『尊卑分脈』)。翌29日、満済は義教から招請を受けて室町殿へ参向して対面し、義教から「就富士御下向事、関東安房守内々申入状返事被仰付赤松播磨守、其案文一見了、文言少々申意見了(富士御下向の事について、関東の上杉安房守から内々の申入状があり、その返事を赤松播磨守に命じたとして、満済にその案文を渡し、満済は一見して文言について少々意見を述べ)ている(『満済准后日記』永享四年八月廿九日条)

 翌8月30日、将軍は満済が詰める月次壇所を訪れて様々に話をしている。義教は「自関東上杉安房守方重注進、今度富士御下向ニ就テ、関東雑説以外、仍鎌倉殿怖畏間、為身用心万一雖五騎十騎候、近所者臨期馳参候者、一向無正体儀可出来歟、後々雑説又不可断候、当年事ハ、平ニ被相延候者、尤以珍重可畏入云々、安房守状、畠山并赤松播磨守方両所ヘ遣也、此状今夕備上覧(関東の上杉憲実から再度注進が到来した。言うところは『今度の富士御下向について、関東では様々に噂されて大変な混乱が起こっています。鎌倉殿持氏も恐れて万一の身の用心のために身辺に五騎、十騎の護衛を配している状態です。近隣の者が鎌倉の危機と感じて馳せ参じた場合はもはや収拾がつかなくなり、風聞だとも言えなくなります。今年はどうか御下向を延期頂ければありがたい限りです』と言ってきている。この安房守状は畠山満家入道と赤松播磨守満政のもとに遣わされていて、夕方に持ってきたものだ。)(『満済准后日記』永享四年八月卅日条)という。憲実は、8月中旬に鎌倉から二通の御下向延引を願う書状を送っていたことがわかる。

 9月2日、「抑室町殿、明日東国へ下向可被富士御覧云々、管領遠江分国之間、為用意一両日以前下向、此事管領前管領畠山被仰談之処、枝葉ノ御事と諫申、仍御詠一首、両人ニ被遣(室町殿は明三日に富士御覧のために東国へ下向とのことで、管領は遠江国守護であることから、受入用意のために今日明日に遠州下向を管領と前管領畠山満家入道に仰せになったが、管領と畠山入道は、憲実からの書状を読んで東国下向は延引されるべきと考えており、一両日以前の下向など枝葉の事ですと諫めた。すると室町殿は一首を詠んで、管領義淳と前管領満家入道に示した)(『看聞日記』永享四年九月二日条)。その一首は以下の通り。

中空になすなよふしのゆふけむり たつ名にかへておもふこころを
(1)もっと昇れ富士の夕煙よ。その「富士の煙」で立ち昇る我が思いを示せ
(2)中途半端であってはならない。立つ噂のために下向計画を止めるつもりはない

 これを聞いた人々はその意趣に「感嘆」した。和歌に深く理解を示す義教の真骨頂だが、これには駿河下向に反対していた管領義淳も畠山満家入道も含め、義教の信念が「是程被思食上ハと申て令治定(室町殿のお考えがそこまで深いのであれば仕方がない、と述べて決定)し、富士御覧の駿河下向は治定された。しかし、二度にわたる関東管領上杉憲実からの愁訴も考慮され、「但関東ニ有物言、此時下向、種々有沙汰云々、仍諸大名御前評定、延否未定(関東管領憲実から意見が出されており、(和睦が成ったばかりで都鄙が安定していない)この時期の下向を聞いた関東では、いろいろ憶測が取沙汰されているという。そのため、下向の時期について畠山左衛門督入道ら定例の諸大名が呼ばれ、室町殿も出席して評定が行われたが、延引の可否は決定できなかった)(『看聞日記』永享四年九月二日条)という。その内容は「関東有物言、御下向不可然之由、畠山申留、然而■赤松等申勧御下向云々、関東存野心可有恐怖事歟、数日之儀枝葉事也(関東から御下向につき意見が来ているが、やはりこの時期の御下向はよろしくないと畠山満家入道が述べた。ただ、赤松満祐入道らは御下向を勧めた。関東に野心があるから恐れているのではないか。数日出立を延引するくらいは大したことではない)(『看聞日記』永享四年九月十日条)とあるように、有司らの意見もまた割れていたことがわかる。ただし、議論は時期を決めない無期延引(畠山満家入道や関東上杉憲実からの歎状)ではなく、数日の延引での妥協案を探るものであり、畠山・上杉の無期延期論ははじめから除外されていたのである。すでにホスト役の駿河守護今川範政も駿河に下向し、留守居などの手配や供奉の人選なども済ませているこの巨大プロジェクトを事実上中止にすることは、将軍権威の事からも不可能であったろう

 その後、月次壇所の満済のもとに評定に参加した「畠山、細河、山名、赤松、細河讃岐等同道来」で、「富士御下向定日等、可相尋在方卿之由」を告げている(『満済准后日記』永享四年九月二日条)。これは本来は評定で決定すべきであったことだが一決できなかったので、陰陽師賀茂在方卿に下向日等について尋ねるよう満済に依頼したものだった。

 下向日については陰陽師賀茂在方に事前に満済を通じて相談しており、結局、当初の計画通り9月3日を下向の初日と決定するが、この日は夜に「将軍富士御下向御門出、渡御畠山亭、一夜御座也、御旅装束御体云々、供奉者ハ悉上下体如常云々、此事内々御尋事在之(義教将軍は富士御下向の門出の儀を行い、畠山亭に渡御して一夜逗留した。将軍は旅装束、供奉の人々は普段着という。出立の儀は内々に在方卿にお尋ねになったものだ)という(『満済准后日記』永享四年九月三日条)。つまり、9月3日はあくまでも予定通りに「門出」するが、実際の離京は様々考慮して、数日の延引と決定したのである。この延引は間違いなく関東管領上杉憲実の歎願を受け容れた京都側の譲歩であろう。なお、実際に9月10日の離京が決定されたのは、満済が義教から直接進発日を聞いた9月8日であろう。

 翌9月4日、義教は畠山亭から御所に入り(帰還ではなく旅程の経由地の一つという扱い)「将軍渡御壇所、御加持申了」(『満済准后日記』永享四年九月四日条)、9月8日、満済は「明後日御進発之由申了」し、義教から「禁裏事、常ニ可聞申入旨」と、留守中の「禁裏仙洞御番衆」は「三條前右府以下被定置了」ことを伝えられ、満済に留守の仔細を伝えている。

 9月8日、義教は伏見貞成入道親王に松茸などを贈っているが、その際に関東下向について「明後日、富士御下向必定云々、諸大名先陣下向」(『看聞日記』永享四年九月八日条)と伝えている。翌9月9日にも義教は伏見貞成に松茸などを贈り、幼少の後花園天皇へも進呈を依頼している。このときに「明日富士下向御物忌最中、送賜之条、快然之至、今日殊祝着無極」と見え、義教は9月4日の室町殿入御から10日までは「御物忌」として外出を控えていた様子がうかがえる。

 そして9月10日、「将軍富士御下向、辰初歟御進発」(『満済准后日記』永享四年九月十日条)「室町殿、早旦東国下向」(『看聞日記』永享四年九月十日条)した。「折しも秋の雨日来ふりつゞきて、はれまもみえ侍らざりしが、御立の暁よりいつしか空のけしきすみわたり、のどやかなりしぞかつゝゝ有がたくおぼえ侍る」(『覧富士記』)というように、前日までは長雨が続いていたが、10日明方には晴れ間が広がったようである。『満済准后日記』によれば9月の京都は6日、7日、9日が雨と記録されている。

 義教に供奉した武家は「武家諸大名大略参」り、武家以外では「御共、飛鳥井中納言、藤宰相入道、三条宰相中将、永豊朝臣、常光院等」(『看聞日記』永享四年九月十日条)とみえる。なお、ここに見える「諸大名」は管領義淳、畠山満家入道、細川持之、山名時熈入道(山名入道蘭真)、赤松満祐入道、細川持常ら武家有司を指し、不特定多数の諸国武士・大名を指しているわけではない。この「諸大名大略参」から多くの大名が追討軍のように軍勢を率いたという認識は誤りである。この下向には相伴衆、奉行衆ら義教近臣(山名中務太輔熈貴、細川左馬頭持賢、一色左京大夫持信、細川下野守持春らの名が見える)、外様では美濃守護・土岐大膳大夫持頼も加わっている。また、この「諸大名」のうち「赤松為侍所之間、御留守京都警固申」(『満済准后日記』永享四年九月四日条)とあり、赤松満祐入道は駿河下向には加わっていない。また、検非違使別当広橋中納言兼郷も供奉予定だったが、実子で故日野秀光の家督を相続していた「小童八歳」が「万死一生」の重病に陥ったため、京都に留まることとなった(なお11日「広橋子息死去云々、大理悲歎不便々々」という。『看聞日記』永享四年九月十一日条)。

 駿河下向の道程は、室町殿を出て蹴上から山科へ抜け、近江路を関ケ原方面へと進むルートであった。満済は休息地と思われる「篠宮河原山科区四ノ宮垣ノ内町周辺へ見送りに出たが、「只将軍御出以後也、供奉人等少々見物了(ただ、将軍はすでに出立したあとで、供奉人等の列を少し見物した)とあり、見送りには失敗している。鎌倉方の史料でも「九月十日、公方為富士高覧、自京都下向」(『鎌倉大日記』永享元年条)と見える。

 供奉した飛鳥井中納言雅世や常光院堯孝はその途路で旅心を歌に詠んでおり、義教もまた多くの歌を懐紙に記していたようである(還御後に同道の奉行等が取りまとめたか『左大臣義教公富士御覧記』が成立し、今回の下向の世話役となった駿河守護今川範政へ秘書として下されている)。その旅程は以下の通り。また、この道程は逐一同道の有司や大名など京都へ伝えていたとみられ、山名時熈入道や土岐持頼の知らせが京都へ届けられている。

●凡例
飛…『富士紀行』(飛鳥井雅世)
堯…『覧富士記』(常光院堯孝)
義…『左大臣義教公富士御覧記』(奉行の随従手記か?)
富…『富士御覧日記』(奉行の随従手記を元に駿河部分のみ抄出され、宗長から今川家へ書状とともに渡されたか)

日付 場所 現在地 作者
9月10日晴 逢坂関 大津市横木1-2
(中山道)
(今曉まかり立侍りしに、相坂の関をこえ侍とて)
思ひたつ心もうれしたひ衣 きみか恵にあふさかのせき

(今曉より雨はれて空も心よくみえ侍りしかば)
秋の雨の遥々思ふふしのねは けさよりやかて空もへたてし
(逢坂越侍とて関の明神のあたりにて)
君か代にあふやうれしき相坂のせきに関守神のこゝろも
(逢坂にて関送りの人に聞こえさせ給ふとて)
今君が道ある御代に逢坂の関送りする雲の上人
帰り来てまた逢坂と思ふにぞ人遣りならぬ旅もするかな
(眺望) 大津市逢坂一丁目付近か (あけぼのゝ雲まより三上山ほのみえ侍る、ふじのね思ひやられて)
思ひ立ふしのね遠きおもかけは近く三上の山の端の空
草津 草津市草津一丁目付近 (草津と申所にて)
枕にはむすはてすきつ旅ころも草つの里の草の袂を
(草津の宿にて)
近江路や秋の草つはなのみして花咲のへそいつくともなき
野洲川 守山市焔魔堂町付近 (やす川にて)
我君の御代にあふみちけふもはや渡る心ややす河の水
(やす河のあたりに御よそほひを見奉らむとて、そこらつどひゐたり)
をのつから民の心もやす河になみゐて君の光をそまつ
守山 守山市内 (守山のほとり田のもはるかにみわたされて)
しつのめか田面のいねをもる山の梢も今そ色付にける
鏡山 近江八幡市武佐町の道中 (かゞみやまをみて)
老の坂はこえかゝるかゝみ山今さらなにか立よりてみむ
むさ
(宿)
近江八幡市武佐町 (今日の御とまりはむさの淑とかやなり 都より十三里
9月11日
老曾杜 近江八幡市安土町東老蘇1615 (いまた夜ふかきに、老曾杜はこゝのあたりと申侍りしかば)
明けやらぬおいその杜の薄紅葉いまは夜ふかき色かとそ思ふ
(いとよく晴れて、武佐の宿を立たせ給ふ)
旅衣今宵寒さを身にしめて賤が伏屋を思ひこそやれ
山の前 近江八幡市安土町石寺 (山のまへとかや申所にて)
しつのめか通ふいへゐも稀なるや麓の山のまへのたなはし
(つぎの日夜ふかく、山のまへと申所すぎ侍るとて)
月もかな秋霧ふかきあし曳の山のまへのゝしのゝめの道
四十九院 犬上郡豊郷町四十九院 (四十九院の宿を)
四十余りこゝのあたりの里の名は大和ことはにいかゝ残さん
犬上 犬上郡甲良町尼子 (犬上と申里にて)
をのつからとかめぬ里の犬上やとこの山風おさまれる世に
(犬上と申あたりにて、いさや河はいづくにてかとたづねはべれども、さだかにこたふる人もなし、里のゆくてに山川のすゑかすかに見えたる所あり、是ならむかしとをしはかりて)
いさといふなになかれたる川音やとへといはねの水の白波
小野 彦根市小野町 (小野の宿にて)
吹にけりわけ行袖の露霜もみにしむ秋のをのゝ山かせ
二本杉 彦根市鳥居本町付近 (二本杉と申所にて)
ふたもとの杉とて又もあふみちにふる河のへを思ひ出らし
すりはり峠 彦根市山中町 (すりはり峠をかずもしらずこえ侍る人のたゞ人かたにいそぐも山みちつゞらおりにて、行ちがふやうにぞ見え侍し)
心せよ行かふ旅のもろ人もそてすりはりの山のかけちそ
不破の関 不破郡関ケ原町 (不破のせきは苔むして、板びさしもしるしばかりみえ侍りければ)
板ひさし久しき名をは猶みせて関の戸さゝぬふはの中山
(不破の関すぎ侍しに、もるとしもなきせきのとぼそ、苔のみふかくて中々みどころ有)
戸さしをは幾世忘れて斯く計苔のみとつるふはの関やそ
(美濃国に着かせ給ひ、不破の関屋を訪ねさせ給ふけるに、この旅の御為にとて、古き関屋を改め、白々と造り立てたるをご覧じて、都にて思し召したるとは相違しければ、こはいかにと問はせらるるに、国主より御道のもてなしに、かくの如くと申すを聞こし召し、上意殊の外悪しかりけるが、されど御歌出できて、ことに仰せ下されける)
葺き替へて月こそ漏らぬ板廂とく住み荒らせ不破の関守
たる井 不破郡垂井町 (たる井と申所につき侍て)
里人もくみてしらすやけふ爰にたるゐの水の深き恵みを
(たる井の宿ちかくなりて)
むかしみし影をしるへに又やわれ思ふたるゐの水を結はむ
(おなじ御とまりにて むさより十四里)
みの山や松は一木のかけにしも旅ねかさなる千代の秋かな
(垂井宿)
(宿)
不破郡垂井町 (暮れて、垂井の宿に留まらせ給ふける、垂井を結ばせ給ふに、いと清かりければ)
濁りなき御代の例しに汲みて知る垂井の水の清く清さを
9月12日晴 あひ川 不破郡垂井町 (夜をこめて、あひ川と申所過侍しに)
末とをき世にあひ河の岩浪のちとせを越る音のさやけさ
あをのが原 大垣市青野町 (夜をこめて、あをのが原と申所を過るとて)
草のはの青野か原もみえわかて夜ふかく分る露そ寒けき
(青野が原とかやにしかのねかすかにきこゆ)
鹿そ鳴青野か原のあをつゝらくもしられぬ妻をうらみて
(夜をこめて立たせ給ひ、青野ヶ原にて鹿の鳴くを聞こし召されて)
鹿の鳴く青野ヶ原の青葛苦しくもあるか妻を恋ふとて
赤坂 大垣市赤坂町 (赤坂と申所にて、いまだ夜も明侍らず、友なひ侍る人々も跡におくれ侍をしばしまち侍しほどに)
行つれぬ友さえ跡に残るよをしはしやこゝにあかさかの里
(赤坂の宿にて)
おりに逢あきの梢のあか坂に袖ふりはへていそく旅人
    (道すがらともなひ侍る人のもみぢしたるつたをいかゞみるとてをくり侍りしに)
かつみても袖にそあまるまたこえぬうつの山路の露の行ゑは
    (いづくにて侍しやらむ、霧わたれるひまゝゝよりいなばほのかにみえて、秋の空さへえむなるに鴈つれてとぶ)
秋寒く田のものいなは鴈そ啼霧の朝けの空もほのかに
くゐせ川
(追分)
大垣市赤坂新町
(美濃路へ入る)
くゐせ川わたるとて)
夕されは霧たとゝゝし河の名のくゐせもとめて舟や繋かん
笠縫つゝみ 大垣市河間町の堤防 (かさぬひつゝみといふ所にて)
手にもてる笠縫つゝみ行つれてこととひかはすけふの旅人
長橋 大垣市小野三丁目 (なか橋と申所を過侍るに、あたりの田のもゝ遠く見わたされて)
秋深き田面に続くなか橋はほなみをかけて渡すとそみる
(ながはしときこゆるは、げにぞはるゞるとみわたされたるにや)
数ならぬみのゝ長橋なからへて渡るも嬉しかゝるたよりに
中川 大垣市東町一丁目 (中川と申所にて)
都より流れ出ける末なれや今はた渡る中川のみつ
結の町屋 安八郡安八町西結付近 むすぶのまちやとかや申所にて)
朝露の結ふのさとのたひ衣わくる草葉も色かはるらし
むすぶの町屋と申所にて)
露霜のむすふの町や夜をこめて立あき人も袖や寒けき
結の町屋を過ぎさせ給ふとて、人多く立ちて見奉れば)
昔誰道の枝折りの跡止めて結の町屋人の住みけん
すのまた川 大垣市墨俣町墨俣 (すのまた川は興おほかる處のさまなりけり、河のおもていとひろくて、海づらなどのこゝちし侍り、舟ばしはるかにつゞきて、行人征馬ひまもなし、あるは木々のもとたちゆへびて、庭のをもむきおぼゆるかたもあり、御舟からめていてかざりうかべたり、又かたはらに鵜飼舟などもみえ侍り、一とせ北山殿に行幸のとき、御池に鵜ぶねをおろされ、かつら人をめして、気色ばかりつかふまつらせられ侍し事さへに、夢のように思ひ出され侍る、それよりほかにかけても見及侍らぬわざになむ)
嶋つとりつかふうきすのまたみねはしらぬ手縄に心ひく也
おもひ出る昔も遠きわたり哉その面かけのうかふ小舟に
をよひ河 羽島郡笠松町北及辺りを南北に流れていた川。木曽川と合流か。 (尾張国をよひ河にて)
わか君のめくみや遠くをよひ川ゆたかにすめる水の音かな
おり津
(宿)
稲沢市下津町東国府 (おり津の御とまり、たるゐより十里
※尾張国府の地で、宿場。本日の宿所)
(今宵は下津に留まらせ給ふ、里の名の下津といふに思し召しあはせられて)
この里に宿り求めて来しよりも下津といひし名にも背かず
9月13日晴 おりつ 稲沢市下津町東国府 (尾張国おりつと申所を夜ふかくたち侍るとて)
夢路をも急ききにける旅なれや月に仮ねの夜をおりつまて
かいづ あま市中萱津 (かいづなど過て)
熱田 名古屋市熱田区神宮一丁目 (あつたの宮を過侍るほどにかの社頭の鳥井の前にて)
神垣も光そふらしうこきなきよもきか嶋に君を待えて
(熱田のみやの神前にまうでて、御道すがらの御祈など申侍き、むかし日本武尊東夷征伐のため、このさかひにをもむきたまひし時、よぎり道し、伊勢太神宮にして大和姫命にまかり申したまひしに、命のさづけたまひし霊剣も此神殿にとゞまらせおはしますとかや、いとやむごとなき神明、鎮護国家のちかひもたのもしくおぼえ侍りて)
なをまもれめくみのあつたの宮柱立ことやすき旅のゆきゝを
蓬莱の嶋
※かつて鳴海潟に突き出ていた熱田神宮の杜を指す。
名古屋市熱田区神宮一丁目 (蓬莱の嶋をみて)
君かため老せぬ薬ありといへはけふや蓬か嶋めくりせん
なるみ潟 名古屋市熱田区神宮名古屋市緑区鳴海町一帯に広がっていた広大な干潟 (なるみがたのほとり海づらにつゞきて野あり、これぞうへ野なるらむとおぼえ侍て)
あさ日さすなるいの上野塩こえて露さへ共に干潟とそなる
(又おもひつゞけ侍ける)
道の為我思ふことのなるみ潟願ひみちくるしほせともかな
(なるみがたにて)
忘れしな浦かせさむくなるみかた遠き塩ひの秋のけしきは
(鳴海の浦にて、波風の音を聞かせられて)
波の音も荒く鳴海の浜久木風にしほるる旅の衣手
星崎 名古屋市南区本星崎町
※こののち、東海道から歌枕の二村山を通る道へ移った
(星崎と申所にて、今日は名月なり、空も心よく晴て、月もなをえ侍ぬとみえしかば)
ほし崎や熱田の方の空はれて月もけさよりなこそしらるれ
(夜寒の里) 名古屋市熱田区夜寒町
※夜寒の里は熱田神宮北隣ですでに通過しているが、雅世、堯孝ともに具体的な場所は往復ともにわからなかったようだ。
夜さむの里と申も此国と聞侍しかば
よしさらは宿りとらしと旅衣よさむの里をよきてこそゆけ
夜寒の里はこの国ぞかしとおもひ出侍て
うき身にはいつもよ寒の里なれて今更秋の旅ねともなし
二村山 豊明市沓掛町皿池上
二村山の薄紅葉をご覧ぜられて)
染め残す半ば紅葉の唐錦名にし負ひたる二村の山
さかひ川 刈谷市今川町阿野前 (さかひ川をみて)
それときくしるしはかりか堺川ほそき流れは名に流れても
八橋 知立市八橋町 (参河国八橋にて)
八橋のくもてに渡るひまもなし君かためにといそくたひ人
(三河国八はしにいたり侍て、はるゞるきぬるとながめ侍し往躅もおもひ出されて、そゞろに過がてにぞおぼえ侍し)
聞わたるくもてゆきかし八橋をけふはみかはす旅にきにけり
八橋の宿にて)
富士見んと思ひ三河の八橋をかねて心にかけ渡るかな
    今夜は十三夜なり、名におふ月のひかりさやかなるにも、富士のねさこそといそがれて)
ふしのねに侍みむかけそ急かるゝ今宵な高き月をめてしも
    (けふすぎつるほし崎など思ひ出らる)
月影のわか住かたもはるゝよにほしさき遠くおもひ出つゝ
矢矧の里近く   (矢矧の里近く成て、道のかたはらにまゆみのもみぢたるを見侍て)
道のへのまゆみのかた枝紅葉して爰や矢矧の里とみゆらむ
我君の治れる代はあつさ弓ひかハやはきのさとにきにけり
矢矧
(宿)
岡崎市矢作町宝珠庵 (今夜の良辰月もことにくもりなく晴て、名をあらはし侍ぬること、千載之一遇、万秋之芳躅、めでたくおぼえ侍ければ)
君か代はなをなかつきの月の名も所からにそ光りさしそふ
(おなじく此處にて三条相公羽林、続歌十三首を講じ侍しに題をさぐり侍て)
  名所山月
雲もきえ霧もはれ行秋のよになのみ二むらの山のはの月
  名所里月
秋ふかき夜半のころもの里人は月にめてゝも月や寒けき
  名所浦月
さそなけに今宵の空の清みかたみぬ俤も波の上の月
  名所潟月
過きつる跡になるみの塩ひかた心をさそふ夜半の月かな
  夜月忍恋
やとさしな涙の露もよるこそとおきゐて思ふ袖の月かけ
(やはぎの宿御とまり、おりつより十二里、三條相公羽林のやどにまうでて、飛鳥井黄門など題をさぐりて歌よみ侍しに)
  名所野月
あはつのゝ露わけ初てあつまちやいく草枕月になれ剣
  名所関月
忘れしよ苔ふかかりし軒端にも月やみるらんふはの関守
  名所橋月
恋わたる昔をかけて八橋にはるゝゝきてもみつる月かな
  寄月祝言
いく秋か我君か代も長月やなにふる月の霜をかさねん
(暮れて、矢作の馬屋に留まらせ給ふ)
治まれる世にも矢作の里の名は我が身の上に引きてみよとや

(今宵は名月なれば、夜更くるまで起き居させ給ひて)
長月の十日余りの三河路に射るや矢作の川波の月
9月14日晴 矢矧 岡崎市矢作町宝珠庵 (つとめて此御とまりを立侍とて)
のとかなるやはきの里は日の光出入まての名にそ有ける
豊川 岡崎市大平町瓦屋前
※乙川(大屋川)を豊川と想像した可能性がある。ただ、義教はこの川を「大屋川」と認識していることから(『左大臣義教公富士御覧記』)、このとき堯孝は義教の傍にいなかったと推測される。
(こゝの御とまりを立侍しに川あり、これや豊川と申わたりならむとおぼえて
かり枕いまいく夜有て十よ川やあさたつ浪の末をいそかむ
大屋川を渡らせ給ふとて)
我ならぬ誰が濡れ衣をおふや川干すとしもなき瀬々の岩波
宇治川のさと 岡崎市藤川町 (宇治川のさとゝ申所にて)
誰か住みやこのたつみしかはあらてこは東路のうち川の里
(衣の里) 豊田市挙母町
※雅世は拳母の具体的な場所は知らないが、この辺りだろうと詠んだ歌。
(衣の里ときゝ侍しも、此あたりやらむと覚えて
賤のめかうつや衣の里のなを吹秋かせのつてにしらせよ
山中 岡崎市舞木町山中町 (山中と申所あり、折ふし鹿のこゑほのかにきこえければ)
おぼつかなこの山中になく鹿のたつきもしらぬ聲の聞ゆる
(山中の宿にて御ひるまのほどにぎはゝしさもかぎりなし)
旅ころもたつきなしとも思はれす民もにきはふ山中のさと
(宮路山の山中の里にて)
旅人の行く春秋の花紅葉さそな宮路の山中の里
関口 豊川市長沢町木ノ田 (此つゞきに関口と申所あり)
道ひろく治まれる世の関口はさすとしもなく守としもなし
(関口といふ所を過ぎて赤坂の宿に着かせ給ふ。宿のうちに人多く見奉れば)
関口も今日赤坂の里にこそ戸さゝぬ君か御代そ知らるれ
(花ぞの山) 豊田市花園町観音山
※花園山の場所はわからないがこのあたりと聞いていた雅世が詠んだ歌。
花ぞの山はいづくにてか侍らむとおぼえて
旅衣いさ袖ふれん秋の草の花その山の道をたつねて
(引馬野) 浜松市中区元城町
※引馬野は遠江国にあることは聞いていたが、場所は不明として詠んだ歌。
(引馬野も此国ぞかし、いづくならむと分明ならねど
たひ人ののるより外もひく馬のゝ野への秋萩花やみたれむ
今八幡 豊川市八幡町宮前 (いづくの程にて侍しやらん、社壇あり、人にとひ侍ば八幡宮と申、鳥井の前にて今度の御旅のめでたさ、御神慮も殊に掲焉におぼえ侍て)
いはし水君が旅行すゑも猶まもらむとてや跡をたれけん
(今八幡と申鳥井の程にて)
君まもる契しあれは今やはたいまゝてこゝに跡やたれけむ
    (国々所々の御路次、兼日用意のほどもみえて、いづくもさはる所なく、御路つくらせ侍りけるとみえしかば)
民やすく道ひろき世のことはりも猶末遠くあらはれにけり
(高師山) 豊橋市大岩町火打坂
※堯孝が高師山の場所が不明ながら、このあたりと思って読んだ歌。
高師山と申も此あたりにてやとみえて)
富士のねに及はぬ名のみたかし山高しとみるも麓なるらし
今橋
(宿)
豊橋市今橋町 (いまはしの御とまりにて、やはぎより八里、あかず明行月をみて)
夜とゝもに月すみ渡る今橋や明過るまて立そやすらふ
(申の下がりに今橋の馬屋に留まらせ給ふ)
9月15日晴 今橋 豊橋市今橋町 (いとよく晴れたり。夜をこめて立たせ給ふ、豊川の橋にて)
今橋の架かれる御代に会ふことを忘れす渡れ豊川
大岩山 豊橋市雲谷町ナベ山下7の大岩山普門寺 (大いは山とかやのふもとを過侍に、ふりたる寺みえ侍り、本尊は普門示現の大士にておはしますよし申侍しかば、しばし法施などたてまつりし次)
君か代は数もしられるさゝれ石のみる大岩の山となるまて
(大岩山普門寺の観音を額づかせ給ひて)
動きなき大岩山に君か代をなそらへ守れ南無や観音
高師山 湖西市新所岡崎梅田の崇山(すやま)か。「崇」は「たかし」と訓ず。 (高師山を越えさせ給ふとて、鹿の音を聞かせ給ひて)
霧晴るゝ方に梢や高師山鹿の音送る峰の松風
(二むら山) 豊明市沓掛町皿池上
※二村山は順路としては鳴海干潟の次に位置し、義教もその順で記す(『左大臣義教公富士御覧記』)。おそらく堯孝がまとめた際に誤ったものと思われる。
(二むら山越侍るとて)
けふこゆる二むら山のむらもみちまた色うすし帰るさにみむ
二子塚 湖西市神座247の神座古墳群(嵩山麓)か (又今日二子づかと申所にての御詠とて、同下され侍し次に)
富士をみる此ことの葉に顕れて名に立ちのほる二子つかかな
(二子づかと申侍し所にて富士を御覧じそめられたるよし仰せられて)
たくひなきふしをみ初る道の名を二子塚とはいかていはまし

(これについで又申入侍し)
契りあれやけふの行手の二子坂爰よりふしを相みそめぬる
(この国の守より富士の見え初むる所に印のためとて二つの塚
を築かれたりければ、これより富士をご覧ぜられて)
類なき富士を見初むる道の名を二子塚とはいかて言はまし
(とあそばされて人々に賜はる)
  御返し 飛鳥井雅世卿
富士を見るこの言の葉にあらわれて名に立ち上る二子塚かな

  御返し 常光院堯孝法印
契りあれや今日の行く手の二子塚ここより富士をあひ見初 めぬる

  御返し 山名中務太輔熈貴
富士見ては高しと思ひし高師山今はふもとの二子塚なり

  御返し 細川左馬頭持賢
高師山高しと思ふ二子塚富士に比べて君そ名付くる
塩見坂 湖西市白須賀 (遠江国塩見坂にて御読を下され侍しに)
しほ見坂さか行君にひかれてそさらに名高きふしを眺むる
(今日なむ遠江国塩見坂に至りおはします、彼景趣なをざりにつゞけやらむことのはもなし、まことに直下とみおろせばといひふるしたるおもかげうかびて、雲のなみ煙の浪、そこはかとなき海のほとり、松ばらはるゞゝとつづきたるすさき、かずもしられずこぎつらねたる小舟、いとみどころおほかり、雲水茫々たるをちかたに、富士のねまがひなくあらはれ侍り、これにて御筆をそめられ侍し御詠二首)
今そはやねかひみちぬる塩見坂心ひかれしふしをなかめて
立かへり幾年なみか忍はまししほみ坂にてふしをみし世を

(かたじけなく御和を奉るべきよし仰ごと侍しかば)
ことのはもけにそ及はぬ塩見坂きゝしに越るふしの高根は
君そなほ萬代とをくおほゆへき富士のよそめのけふの面影
(塩見坂より富士をご覧ぜられて御詠)
今そはや願ひ満ちぬる塩見坂心ひかれし富士を眺めて

(また御詠を各々に賜はる)
  御返し 三條実雅卿
時しあれは君に引かれて今日そ今日富士の願ひもみつ塩見坂

  御返し 山名入道蘭真
たとり来て遠とほつあふみ江に富士を今日見つるに満つる塩見坂かな

  御返し 飛鳥井雅世卿
塩見坂栄ゆく君に引かれてそさらに名高き富士を眺むる

  御返し 常光院堯孝
言の葉もけにそ及はぬ塩見坂聞きしに越ゆる富士の高嶺は

(また御詠ありて下さる)
立ち返りいく年並みか忍はまし塩見坂にて富士を見し世を

(御和いたすべき由、仰せごとあれば、また)
君そなほ萬代遠く覚ゆべき富士のよそ目の今日の面影
白菅の湊 湖西市白須賀 (白菅の湊にて御詠)
高師山ふもとにありと白菅の湊に呼ばふ船人の声
(衣のさと) 豊田市挙母町
※順番の誤謬。「衣」は三河国でり堯孝が誤ることはない。また雅世とまったく同じ認識であるため、堯孝は雅世と同道していたとみられ、本来はこの順ではなく宇治川宿の次。
(衣のさと此あたりにぞ侍らむ)
名にたてるたひの衣の里ならは露わけきつる袖やかさねん
橋もと
(宿)
湖西市新居町浜名 (橋もとの御とまり、今橋より五里、ちかくなり侍り、濱名のはしも此あたりにこそと申をきゝて)
暮わたる濱なのはしは霧こめて猶すゑとをし秋の河なみ
(御泊まりは橋本の宿なり、こゝに浮かれ女多かりければ)
浜名川かけて思ひし橋本の里の浮かれ女浮き名漏らすな
9月16日晴 橋もと 湖西市新居町浜名 (橋もとの御とまりを夜をこめて侍しかば、濱名橋をうちわたして)
忘めやはまなのはしもほのゝゝと 明けわたる夜のすゑの川浪
濱名河夜みつしほの跡なれやなきさにみゆる海士の小舟は
(はしもとを立て、引馬の宿にもなりぬ、ひくま野は三河国とこそおもひならはし侍るに、遠江に侍るはいかなることにか、あしたの程野を分侍しに、虫のねいとしげし)
あかなくにわけこそきつれ虫の音の袖を引馬の野への朝露
(橋本の宿を発たせ給ひ、浜松の馬屋にて思し召し続けらる)
四海波静かに吹ける風の音も枝を鳴らさぬ浜松の里
    (時雨けしきばかり過侍しかば)
旅衣しほれたにせぬしくれ哉もみちをいそくけしき計りに
さき坂山 磐田市富里周辺 (さき坂山と申所にて)
遠くみるふしの高ねもしら鳥のさき坂山をけふこそこえぬる
(鷺坂山にて)
打はふき飛や立けむ白鳥のさき坂山をやすくこえぬる
遠江の国府
(宿)
磐田市見付1244付近 (遠江の国府に馬宿りし給ひて、遠く来たらせ給ふことを思し召して)
富士見むと都をよそに振り捨てて遠江の国府に来にけり
9月17日雨 府中
(遠江)
磐田市見付1244付近 (此国の府中を立侍るほどに、かけ川と申所にてあめふり侍しかば)
たひ衣そでになみたをかけ川やぬれていとはぬけふの雨かな
(遠江府、橋もとより六里、をたちて、雨いたくふり侍しに、懸川と申所にて)
うちわたす浪さへ袖にかけ川やいとゝぬれそふ秋のむら雲
菊川
※本来は「さやの中山」の次
島田市菊川604辺りか
※菊川は東海道の小夜の中山麓を流れる川であるため、本来は小夜の中山の次となり、飛鳥井雅世の順序違いであろう。
(菊かわと申所にて)
汲てしる君か八千代も末とをき名にきく河の花の下水
さやの中山 掛川市佐夜鹿324付近の山道 さやの中山を越侍とて)
なをさりにこゆへきものか我君のめくみも高きさやの中山
さやの中山にて出され侍し御詠)
名にしおへは昼越てたに富士もみす秋雨くらきさよの中山

(おなじく奉りし御和)
秋の雨もはるゝ計のことのはをふしのねよりも高くこそみれ

(おなじところにて)
天雲のよそに隔てゝふしのねはさやにもみえすやさの中山
(遠江の国府を立たせ給ふ、掛川の宿より雨降り出でて、小夜の中山を過ぎさせ給ふに、かきたれて小止みせねば御詠を賜はる)
名にし負へば昼越えてたに富士も見す秋雨暗き小夜の中山

  御返し (『覧富士記』より堯孝と推測)
秋の雨も晴るるばかりの言の葉を富士の嶺よりも高くこそ見れ
こままがはら 島田市金谷坂町 (こままがはらとかや申所にて御詠を拝見し奉りて)
たくひなくあすみよとてや秋の雨にけふ先ふしの掻曇るらん
(駒ヶ原といふ所にて、なほ雨晴れねば、聖徳太子の召されし黒駒が原を発つべしと秀句あそばされて、御詠を賜はる)
大君の召されし甲斐の黒駒が原を発つへし富士の雨空

  御返し 三條実雅卿
厩戸の乗りける甲斐の黒駒の面影にたつ富士の雨の日

  御返し 飛鳥井雅世卿
類なく明日見よとてや秋の雨今日待つ富士のかき曇るらん
藤枝鬼巌寺
(宿)
※故義満の富士御覧の際に宿所としており、義教もそれに准じたとみられる。
藤枝市藤枝3-16-14 (かくて駿河国藤枝と申所に御つきあり)
(藤枝の御とまり、みつけの府より十一里)
(申の時ばかりに藤枝の宿、鬼巌寺といふ寺にとどまらせ給ふ)
春はなを花の白木綿かけてまし秋は締め引く縄の藤枝
(駿河国藤枝鬼巌寺に御下着、雨すこし時雨)
9月18日晴 藤枝 藤枝市藤枝3-16-14 (十八日のあした、此所をまかり立侍)
(夜深く藤枝の御泊まりを発たせ給ひ、岡辺といふ所にて)
一もとの杉の印を標にて分くや岡辺の蔦の下道
(暁方より晴て、月はあり明にて、いそぎ御立)
岡部の里 藤枝市岡部町岡部 (岡部の里を過て)
宇津の山 静岡市駿河区宇津ノ谷 (やがて宇津山にわけ入侍る程、所の名も其興有ておぼえ侍り、曩祖雅経卿ふみわけし昔は夢か宇津の山跡ともみえぬつたの下道と詠侍し事までおもひ出られ侍て)
昔たにむかしといひしうつの山越てそしのふつたの下みち
さと過て又こそかゝれうつの山をかへのまくすつたの下道
宇津の山こえ侍れば、雨の名残いとつゆけかりしに)
うつの山しくれも露もほしやらて袂にかゝるつたのした道
宇津の山に蔦の紅葉をご覧ぜられて)
都にもさぞな思はん旅衣蔦の紅葉に色や変はると
丸子の里 静岡市駿河区丸子7付近 (丸子の里にて)
蹴上けては蔦の袴のうらみなし丸子にかかる宇津の山越え
手越が崎 静岡市駿河区手越原付近 (この国の守護今川上総介範政、御向かひに出でらる、御輿よりて来させ給ふ、上総介御手を引き奉らる、手越が崎といふ所にて)
道しある御代に行き来を駿河なる握り手越が先そ知らるる
藁科川の渡り 静岡市葵区牧ヶ谷 (藁科川の渡りより、木枯らしの森をご覧ぜられて)
唐錦形見に残せ木枯らしの森の名にしは由やおはすと
(この渡り民皆出でて物し奉るとて立ち騒ぎけるを、警護の武士ども制しければ、さな言ひそと仰せられて、多く鯵どもを下されて)
とばかりに恵み駿河の安倍の市立ち騒くなよ国つ民人
駿河府
(宿)
静岡市葵区駿府城公園付近 (斯て此国の国府につき侍り、富士もことにさだかに見え侍しかば)
富士のねの山とし高き齢をも君まちえてや今ちきるらむ

(此国の守護上総介範政に御詠を被下侍し次に)
此宿にかゝること葉の玉しあれはふしのみ雪も光そふらし
(ゆきゝゝて、けふぞ駿河府、藤枝より五里、にも至り侍りぬる、千里始足下高山起微塵ためし思ひしられ侍り、この国の守護今川上総介範政、御旅のおまし、かざり、ゐたち、けいめいし侍るうちにも、雪のつもれらむすがたを上覧にそなへ侍らばやとねんじわたりけるに、昨日の雨彼山の雪なりけり、今日しも白妙につもれるけしき、富士権現もきみの御光をまちおはしましけるとみえて、あやしくたうとくぞおぼえ侍る、山また山をかさねて、たなびきわたれる雲より上にかゞやきみえたる遠望たぐひなくこそ)
白雲のかさなる山も麓にてまかはぬふしの空にさやけさ
わか君の高き恵みにたとへてそ猶あふきみるふしのしは山

(これにてあまたあそばされ侍し御詠のうち)
見すは爭て思ひ知へき言のはもおよはぬふしと豫て聞しを

(この御和)
言の葉を仰かさねて富士のねの雪もや君か千代をつむらし

(夜もすがら、月にかの山を御らむじあかして)
月雪の一かたならぬなかめゆへふしにみしかき秋のよは哉

(おぼろげに御和など奉るべき御詠にし侍らねど、また仰ごとのいともかしこくて)
富士のねや月と雪とのめうつりもあかす珍し君かことのは
安倍の市を府中といふ、ここに今川上総介範政、この旅の御ためにとて造られし、富士見の御所に迎へ奉る、道すがら賤機山をご覧ぜられしに、紅葉今盛りなれば)
折りかかる紅葉の錦賤機の山の秋風心して吹け
(同十八日府中、先小野縄手にして御輿たてられ御覧じて、前後左右とよみあひ、御跡はいまだ藤枝、五里のほど何とはなくつたへゝゝ山も河もひゞきわたりけるとなん、御着府、すなはち富士御覧の亭へすぐに御あがりありて)
みすはいかに思しるへき言の葉も及はぬふしと予て聞しも

  御返し 従四位源範政
君かみむけふのためにや昔よりつもりはそめし不二の白雪
9月19日晴 国府
(駿河)
静岡市葵区駿府城公園付近 (翌朝の御詠)
朝明のふしの根おろし身にしむも忘れはてつゝなかめける哉
あさ日影さすより富士のたかねなる雪も一しほ色増るかな

 御和
雲はらふふしのねおろし吹やたゝ秋の朝けのみにはしむとも
なをさりのけしきならすよ朝日影雪に移ろふふしの高ねは
(猶此所、又御詠を数首拝見し奉りて)
ふしのねの月と雪とに明す夜や君かことはの花をそへけむ
忘れめやくもらぬ秋の朝日影雪ににほへるふしのなかめを
朝明のふしのねおろし身にしめて思ふ心もたくひやはある

(富士の高根に雪のかゝり侍るが、綿ぼうしに似侍るよし、御詠にあそばされ侍りかば)
雲やそれ雪をいたゝく富士のねもともに老せぬ綿ほうし哉

(又御詠を被下侍しほどに)
都よりはるゝゝ来てもふし川や行としなみは猶そかさねむ

(あさざむなるほどにて御わたぼうしをせられ侍しに、おりしも富士の根にくも一むらかゝりて、さながらぼうしのやうに見えけるを、御わたぼうしにおほしめしなずらへて)
我ならすけさはするかのふしのねに綿帽子ともなれる雪哉

 御和
富士のねにかゝれる雲も我君の千世を戴く綿ほうしかも

 又御詠
いつくとも忘れやはするふし河の浪にもあらぬけさの眺は
嬉しさも身にそあまれる富士のねを雲の衣の外になかめて

 同御和
富士川の浪もいく世かかけまくもかしこき影を仰き渡らむ
ふしのねや心にこめむつゝみえぬ雲のま袖はかきり有とも

(此山の由来たづねきこしめしけるに、そのかみ壬子年とかやに出現の由、守護注申侍しに、ことしの干支相応、奇特におぼしめされて)
かゝる身も神はひくかと白雲のふしのたかねを猶や仰かむ
敷嶋の道はしらねと富士のねの眺にをよふことのはそなき

 御和
君かへむやをよろつ代の坂まてもふしのね高き神そしる覧
富士のねの雪さへ道の光にていやましゝゝに積るとそみる

(ひねもすになかめくらさせおはしまして)
こと出は月になるまて夕日影なをこそ残れふしのたかねは

(たゞいまのおもかげをつかふまつるべきよし仰ごと侍しに)
白妙の高根はかりはさかたにて日影のこれる山のはもなし
(十九日のあした御詠)
朝日かけさすよりふしの高ねなる雪もひとしほ色まさる哉

 御かへし  範政
紅の雪をたかねにあらはして富士よりいつる朝日かけ哉

 又御詠
月雪の一かたならぬ眺ゆへふしにみしかき秋の夜半かな

 御かへし  範政
月雪も光をそへてふしのねのうこきなき世の程をみせつゝ
9月20日晴 国府
(駿河)
静岡市葵区駿府城公園付近 (同廿日御詠)
朝あけのふしのね颪身にしむも忘れはてつゝ眺めける哉
堯孝の記録では前日19日朝の御詠である。また「おなじあした」に綿帽子の地の文があるが、綿帽子の説話は19日早朝の出来事であることは飛鳥井雅世も記しており、この項目を「廿日」の事とするのは『御覧日記』の制作時のミスである。

 御かへし  範政
吹さゆる秋の嵐にいそかれて空よりふらす富士のしら雪

 実雅三條殿
我君のくもらぬ御代に出る日の光に匂ふふしのしらゆき

おなじあした御わたぼうしまいらせらるべきよしありて、やがて御ひたひにうちをかせ給て)
我ならす今朝は駿河のふしのねの綿帽子ともなれる雪かな

 嬾真居士山名金吾
雲やこれ雪を戴くふしのねはともに老せぬわたほうし哉

 雅世朝臣飛鳥井殿
富士のねも雪そ戴く萬代によろつにつまん綿ほうしかな
白妙の高ねはかりはさだかにて日かけ残れるやまのはもなし
二首目は堯孝が義教に今の富士を詠むように言われた際に詠んだもので、飛鳥井雅世の歌ではなく、『御覧日記』制作時のミスである。

 堯孝常光院
跡たれて君まもるてふ神も今名高き富士をともに仰かむ

 持信一色左京大夫
君かなをあふけは高き影とてやいとゝ見はやすふしの白雲

 持春細川下野守
富士のねも雲こそをよへ我君の高き御影そ猶たくひなき

 熈貴山名中務大輔
露のまもめかれし物をふしのねの雲の行きにみゆるしら雪

(同日に御詠)
こと山は月になるまて夕日影なをこそ残れふしのたかねに

 御返し  範政
ゆふへたに猶うあをよはぬ入やらてそむる日影のふしの白雪

 又御詠
いつ行と忘れやはする富士河の波にもあらぬ今朝の眺めは

 御かへし  範政
富士河の深き恵みの君か代に生れあひぬることのうれしき
清見寺 静岡市清水区興津清見寺町418-1 (清見寺へ渡御に供奉して於彼寺御詠を拝見し奉りて)
けふかゝること葉の玉を清みかた松によせくるみほの浦波
吹風も猶おさまりてたゝぬ日はけふとそみゆる田子の浦
(清見寺、府中より四里、にてあそばしをかれ御詠)
関のとはさゝぬ御代にも清みかた心そとまるみほの松原

(御舟にめされ、海人のかづきするなど御覧ぜられて還御なり侍き、仁行如春威行如秋なる御よそほしさみたてまつる貴賎、御道すがらさりもあへ侍らず、入江の宿、たかあしなはてなど過て、広き野やま、こゝやかの草薙の神剣、霊端をあらはし侍りし、あたりならむといとかしこくぞおぼえ侍る、此所に草薙の御社九万八千の御社などと申て、むかし神々進発の御陣の跡に社あまたおはしますと云々、海道よりは見えず、清見寺にておもひつゞけ侍し三首の中)
清見かた関もる波もいとまあれやほみの松原風たゞぬ世に

(袖しの浦は出雲国とこそきゝ侍しに此うらはに同名侍ありけり、于時白雲重畳、彼山不及瞻望)
雪深くおほふ袖しの浦人よいつくにふしをみるめからまし

(御舟よそひ侍し程)
漕出てみほのおきつの松の千世都のつとに君そつゝまん
(清見が関御覧)
せきのとはさゝぬ御代にも清みかた心そとまる三保の松原

 御返し  範政
吹風もおさまる御代はきよみかた戸さしをしらぬ浪の関守

 雅世
こきいてゝ三保のおきつの松の千代都とつとに君そ包まん

 嬾真居士
けふかゝることはの玉を清見潟松にそよするみほの浦なみ
実際は飛鳥井雅世の歌で『御覧日記』制作時のミス。

 又御詠
富士のねににる山もかな都にてたくへてたにも人にかたらむ

 御かへし
仰きみる君にひかれてふしの根もいとゝ名高き山と成らむ

 雅世
わすれめやくもらぬ秋の朝日かけ雪ににほへるふしの詠は
府中 静岡市葵区駿府城公園付近 (やがて府中に還御あり)
(御前にして一折御連歌御発句)
いく秋のやとのひかりそふしの雪

 御脇  範政
霧をもよはぬ松のことの葉

 御第三
有明の月をあふくや朝ほらけ
※義教と範政の連歌の一部を掲載か。以下は連歌とは関係のない、別の御詠であろう。時期も同時かどうかは不明。

 又御詠
なかめやる時こそ時をわかねともふしのみ雪は初め也けり

 御かへし  熈貴
御心にかなふ時代のなかめ哉袖にもふれるふしの白雪

 又御詠
敷島の道はしらねと富士のねの詠にをよふことのはそなき
19日に義教が富士の由来を今川範政に問うた際の御詠。

 御返し
敷島の道ある御代のかしこさに言葉の玉の数そかさなる

(熈貴のかたへ御詠)
我為はあたらなかけのふしの雪都のつとになすかうれしき
時ありてみはやす君か御代なれやふしの高根も猶重ねつゝ

 御返し  熈貴
今ははや君そみはやす時しらぬ山とはふしの昔なりけり
みてたにも心およはぬ不二のねを都のつとにいかゝ語らむ
9月21日晴 府中
(出立)
静岡市葵区駿府城公園付近 (廿一日早旦に又持参)
富士のねは名高き山と言のはに君のこしてそ幾千代もへん
(あした駿河府にて御詠)
旅衣たちそかねぬる雲たにもかゝらぬ富士の名残おしさに

(此外御詠かずゝゝ侍りき、いまだ拝見ゆるされざるをばかさね申出し、萬代の佳代に仰ぎたてまつるべし、同府還御のとき申入侍し)
末とをく君かへりみよふしのねの年月かけて高き契りを
(又御詠を下され侍しかば)
数々のことはの花をみやこ人ふしより高く猶やあふかむ
(かくて此所をまかり立侍しほどに、私の宿に一首よみをき侍る)
雪に暮し月にあかして富士のねの面影さらぬ宿やしのはむ
手ごし河原 静岡市駿河区手越原付近 手ごし河原にて)
たひ人のてこし河原をのる駒も足なみはやしいそく朝立
宇津の山 静岡市駿河区宇津ノ谷 (今日又宇津の山をこえ侍るとて)
立かへりうつの山ちのつたひきて夕露分るたひ衣かな
宇津の山にて感夢のこと思ひ出侍りて)
うつの山うつゝに越てみしふしに見しよの夢そ思ひ合する

   範政
すなほなる君にまかせて日本をこゝろやすくや神もみる覧

(と申侍しとき、同じく詠進申べきよし仰ごとにて)
神もしれ天津日本あきらかに照らす恵もすなほなる世そ
9月22日晴 藤枝 藤枝市藤枝3-16-14 (藤枝の御とまりにて)
春ならは花そ匂はむ秋とてやうらは色つくふち枝の里
せと山 藤枝市内瀬戸 (せと山と申所にて)
うらかるゝお花の浪にかへる也しほちは遠きせとの山風
かまづか 島田市湯日 (かまづかと申あたりにて)
駒とめよ草かるをのこ手もたゆく鎌塚も此わたりとて
さ夜の中山 掛川市佐夜鹿324付近の山道 さ夜の中山にて富士のねほのかに見え侍しに、歌よませられしとき、御詠)
富士のねも面かけはかりほのゝゝと雪より白むさよの中山

(詠進のうた)
それをみる面影うすし富士のねの雪かあらぬかさよの中山
今のうら
※遠江国府と南隣する淡水湖(汽水湖か)。
磐田市今之浦一帯 (遠江府ちかく成て今のうらと申入海あり、湖水也)
残る日もいり海ちかくみえてけりこの夕暮のいまのうら
(池田宿)
(宿)
磐田市池田 (池田宿すぎ侍とて)
9月23日晴 (池田宿) 磐田市池田 (池田宿すぎ侍とて)
ゆたかなる池田の里の民まてもすみよき御代に逢や嬉しき
うへ松 浜松市東区植松町 (空霧わたりて、鴈の鳴侍るを聞て、うへ松と申所にて)
行末のちとせをかけて君か為けにうへ松の里とこそみれ
(うへ松のはらとかやにて)
千代ふへきたねをは君に譲らなむけふ分過るうへ松のはら
ひくま野 浜松市中区元城町 ひくま野と申所も此あたりときゝ侍て)
恵ある君にひかれてひくまのや旅としもなき旅のみち哉
せうらの松
※街道筋に生えていた樹齢八百年(飛鳥時代)という松の古木
  (又みちのかたはらにふるき松あり、木だちの拈比類なく、其興ある松也、人に問侍れば、八百年ばかりの星霜をも送侍るらむ、名をばせうらが松と申侍しかば)
翁さひうへけるのへの松か枝はさていく秋の霜をへぬらん
(せうらが松とて、いとふりたる木のねざしなど見どころあり、かげに立やすらひて)
たか世にか植ておきなの松かねにけふ顕るゝ君のちとせは
(いなさほそ江) 浜松市北区の浜名湖北東部の細江湖 (うらゝゝ過侍るに、いなさほそ江いづくならむとおぼえて)
いつかたかいなさほそ江のあま衣浦を隔てゝ定かにもなし
はまなの橋 湖西市新居町浜名870 はまなの橋もやうゝゝちかく成しかば)
けふは又めにかけてのみいそくかな濱名の橋の遠き渡りを
9月24日雨 橋下 湖西市新居町浜名 (橋下の御とまりを立侍しに、雨ふり出侍しかば)
旅人のみのゝうは毛もしらすけの湊やいつく雨はふりきぬ
塩見坂 湖西市白須賀 (雨ふり侍りしに、塩見坂こえければ、いづかたもくもりて、松原一むらぞ興をのこし侍る)
松原の一村しくれすきやらてふしのねたくもくもる今日哉
(還御、遠江塩見坂にて御詠)
いまそはや願みちぬるしほみさか心ひかれしふしを眺めて
嬉しさも身にあまるかなふしのねを雲の衣の外になかめて

 御かへし  範政
折をえてみつの山風ふくからに雲のころもは立もおよはす

(塩見坂にして御発句)
あきさむしふしのねもみつ塩見さか

(御詠)
秋寒きふしのねおろしみにしみて思ふ心もたくひやはある

 御かへし  雅世
富士の根の雪と月とに明す夜や君かことはの花をしむけむ

      堯孝
雲払ふふしのね颪ふけやたゝ秋の朝けの身にはしむとも
ふしのねの月と雪とのめうつりにあかす珍し君かことのは

     嬾真居士
ふしのねは名高き山のあかすみるこのことのはや類なか覧 
いまばし 豊橋市今橋町 (いまばしと申所にて)
君かためわたす今橋今よりはいく萬代をかけてみゆらん
矢はぎ
(宿)
岡崎市矢作町宝珠庵 (矢はぎのとまりちかくなりて)
梓弓かへるさ近くなりにけりおなしやはきの宿をとふまて
(やはぎに御着のほど夜に入侍しかば)
あきらけき御代の光にひくれるは暗きやはきの里も辿らす
9月25日晴? さかひ河 刈谷市今川町阿野前 (参河と尾張とのさかひ河をわたるとて)
今日はまた千代萬代のさかひ川二つの国のわたりのみかは
なるみのほとり 名古屋市熱田区神宮名古屋市緑区鳴海町一帯に広がっていた広大な干潟 (此御とまりを立侍て、なるみのほとりを過侍とて)
【歌闕】
(なるみにて)
祈ることなるみの浦に御祓せむちかきあつたの神を仰きて

(爰彼に侍し海士の家居をみて)
鳴海潟しほひにあさる蟹の子のさだめぬ宿か爰もかしこも
ふるわたり 名古屋市中区古渡町 (ふるわたりと申所にて)
都人袖をつらねてふる渡り古き世はちぬかけやとゝめし
おりつ
(宿)
稲沢市下津町東国府 (おりつの御とまりにて)
暮にけりのるてふ駒を引とめて今やおりつの宿をたつねん
9月26日晴     (御道すがらの御まうけ、治世安楽の恩沢、かぎりなくぞ見え侍る)
山につみ野にもみちぬる恵み哉遠きあつまの道もすからに
うし野
黒田
一宮市牛野通
一宮市木曽川町黒田
(うし野を過て、黒田ちかくなり侍しに、あしはらおほくみゆ)
をのか毛の黒田もちかく成にけり分る牛野につゝくあし原
すのまた 大垣市墨俣町墨俣 (濃州すのまたと申所にて)
をのつから名になかれすの又類あらしとみゆる浪の上哉
(すのまたにて)
河舟のさすや日影ものとかにて立としもなき秋のさゝなみ
なが橋 大垣市小野三丁目 (なが橋と申所にて)
立ちかへる此長はしも長月やすゑになるまて日数へにけり
9月27日晴 たる井 不破郡垂井町 (たる井の御とまりをつとめて立侍しに山田の面にうねほしたるをみて)
朝日さす山田のをしねかりつみて夜をく露を先やほす覧
黒地川 不破郡関ケ原町山中 (くろち川と申所にて瀧のおちたるをみて)
立よりてみれは名のみそ黒地川くろきすぢなき瀧の糸哉
かしは原 米原市柏原 (かしは原と申所にて)
秋さむみ下葉いろつくかしは原露のみもろく風渡る也
うぐいすがはな 米原市醒井440
鶯ヶ端
うぐいすがはなと申所にて、羇旅のうちに抄秋已闌小春漸近づきぬる風光に嘯侍て)
里の名に聞鶯のはなかつら秋はすくなし春かけてなけ
さめが井 米原市醒井 (さめが井と申所にて)
君か代は流れも遠しさめか井のみつわくむ共尽しとそ思ふ
(さめが井の水をむすびて、一切智清浄無二無別とぞ観じ侍し)
くみてこそうき世の夢もさめか井のみつから清き心しらるれ
かどの 米原市三吉 (かどのと申所にて)
百草の花のかとのゝあきの露あかぬ袂にうつしてそこし
(山道か) 彦根市中山町
摺針峠辺りか
(の山のこずゑ色づきわたれるをみて)
色ならぬたひの心も染てけり分る野山の秋の梢に
をの 彦根市小野町 (をのと申所にて紅葉を見侍て)
たひ衣もみちのぬさもとりあへす都のにしき又やかさねん
あつさの関
※本来は「かしは原」の次
米原市梓河内 (あつさの関にて)
もろ人も此せきの名の梓弓手にふれぬ代はのとか成らし
武者
(宿)
近江八幡市武佐町 (武者の宿につき侍て)
わか君の御代をおさむる武者のなを聞里もしつか也けり
(むさの御とまりにてみせられ侍し御詠二首)
若枝たにまた染出ぬみの秋のおいその杜の陰そひさしき
ふり出て時雨も露も猶そめよくれなゐうすきよものもみちを
9月28日晴 老その杜 近江八幡市安土町東老蘇1615 (この御とまりにて御詠を被下侍しに)
若枝のみそふへき千世の秋かけて何か老その杜の紅葉は
(二のうち、老その杜の御詠を和し申入侍し)
名にたかき老その杜の松のかけやかてさしそへ千代の若枝
かゞみ山 近江八幡市武佐町の道中 (かゞみ山をみやりて)
たれも今君をかゝみと仰みる世にあふみちの山もかしこし
御所   (御所に還御のとき)
分きつる東路よりもはるけきはかへる都の千世の行すゑ

 歌枕を求めて中山道や東海道といった主要街道だけではなく脇往還や山路も選びながらの旅路で、義教は輿に揺られながら、駿河まで9日をかけるゆっくりしたペースだった。9月13日に宿泊した矢作宿では、「くもりなく晴て、名をあらはし侍ぬること、千載之一遇、万秋之芳躅、めでたくおぼえ」た十三夜の月のもと、三條中将実雅の宿所で続歌が披講された。その場で渡された題に沿って駿河までの歌枕と月を盛り込んだ歌を即興で詠むというもので「十三首」が詠まれた。そのうち、飛鳥井雅世が詠んだ五首(名所山月、名所里月、名所浦月、名所潟、夜月忍恋)と常光院堯孝が詠んだ四首(名所野月、名所関月、名所橋月、寄月祝言)が伝わる。

 「同十七日、到駿河国鬼岩寺、国主範政奉迎」(『鎌倉大日記』永享元年条)したとあるが、翌18日に「この国の守護今川上総介範政、御向かひに出でらる、御輿よりて来させ給ふ、上総介御手を引き奉らる、手越が崎といふ所にて」(『左大臣義教公富士御覧記』)と義教側近の手記を基にしたとみられる紀行文にあることから、範政が出迎えた場所は、安倍川の左岸、手越が崎の往還となる。これは範政は駿河と遠江の国境付近、かつて鹿苑院義満の駿河下向の際に宿所とした鬼岩寺に義教を出迎えたのち、公式の出迎えの場所として、歌枕の「手越」を設定し、ここで「上総介御手を引き奉らる」という演出をしたと思われる。

 そして、9月26日、供奉している美濃守護・土岐大膳大夫持頼から満済へ届けられた書状によれば「十八日申刻、御下着駿河国、路次毎事無為珍重、関東雑説勿論云々、雖然不可有殊儀條又勿論(九月十八日申刻、室町殿は駿河国に御着されました。路次は変わりなくめでたいばかりです。関東の様々な噂も当然聞こえてくるものの、とくに変わったことも当然ありません)(『満済准后日記』永享四年九月廿六日条)という。駿府に入った義教は、「同十八日登高亭御覧有御歌会」(『鎌倉大日記』永享元年条)とあるように、富士がよく眺められる場所に範政が義教逗留のために拵えた館へと移動する。そして「廿日、渡御清見寺様其沙汰、両三日ハ駿河ニ御逗留風聞」(『満済准后日記』永享四年九月廿六日条)という。

 その後、同26日に山名時熈入道「遠江府ヨリ」送った書状も満済に届いている(『満済准后日記』永享四年九月廿六日条)。満済はその詳細を記しておらず内容は不明だが、土岐持頼の書状と大差ない内容だったのかもしれない。

 9月28日、将軍還御の予定のため、満済は「晨朝鐘時分」に出京し、辰末刻に室町殿へ参ずると、すでに「二條太相国、九條前関白、一條摂政、近衞右府、大炊御門内府、三條前右府、久我前内府、洞院入道内府以下」が参じていた。僧侶では護持僧のほか「南都両門一乗院、大乗院等」が参じ、将軍の帰還を待っていた。そして「将軍午初刻、還御云々、御路次之間、上下毎事無為、天気快晴珍重之由、自方々申賜了(将軍、午初刻、還御とのこと。路次ではみな問題もなく、天気も快晴続きですばらしかったですと、人々が報告してきた)(『満済准后日記』永享四年九月廿八日条)。ただ、還御した将軍義教は「聊御風気」で、参じた人々とは「無御対面」となり、その旨は家司の「永豊朝臣」を通じて人々に伝達され、「仍面々退出」した。ただ「予并聖護院准后計、可有御対面由被仰」として、諸卿退出後、高倉永豊はまず聖護院満意准后を呼び、次に満済を呼んで対面している。満意准后は行っていた准大法の修法結願により対面したもので公的な内容であった。ところが、満済とは「富士御雑談在之」というフランクな対面となったようで、疲れて還御の直後に諸卿からの(意味のない)堅苦しい挨拶は御免蒙るということだったのかもしれない。

 二條兼基―+―二條道平――二條良基―+―二條師嗣
(関白)  |(関白)  (関白)  |(関白)
      |            |
      |            +―満意
      |             (聖護院准后)
      |
      +―今小路良冬―今小路基冬――満済
       (権大納言)(権大納言) (三宝院准后)

 義教は「去十七日雨ニ依テ、十八日申初刻御着駿河府處、富士雪当年初云々、富士體、兼思食ニハ超過、且奇特無申計云々、富士出現事甲子歳云々、当年又子年也、自然相応御祝着云々、実不思儀々々、御路間御詠等何様被書聚追可被見(十七日は雨だったので、(今川範政が出迎えた鬼岩寺(藤枝市藤枝三丁目)で一泊し)、十八日の申初刻に駿府に到着した。富士は今年初めての冠雪だったとのこと。富士は想像していた姿より素晴らしく、霊験も言葉にできなかった。富士の出現は甲子歳であるというが、今年もまた子年であり、なんともめでたく、実に理解を超えることばありであった。途路で詠んだ歌は集めていずれ見てもらう予定だと満済に述べているように(『満済准后日記』永享四年九月廿六日条)、かつて思い描いていた想像をはるかに超える霊峰富士の霊験と雰囲気などを熱っぽく、子供のように興奮しながら満済に報告している。

 なお、この駿河下向は、義教に対する根強い先入観から、関東を牽制する意図があるとされているが、そのような考えは、当時の京都側の史料からは一切述べられていない。そもそも義教自ら譲歩してまで実現させた「御政道」の根本「天下無為」の必要条件「都鄙の和平」を、義教自ら破壊する事は到底考え難い。俗に「是ハ持氏公モ公方御下向ノ時分、御参会アラバ、尋常の喧嘩ニモナシ、内々御退治アルベキ御底意アリテ御下向ト、後ニ事ノ次デ人モ知ケル、サレド持氏公御風気ニテ其時分参会ナシ、只御名代二上杉房州憲実ヲ参ラセラレタリ」(「今川家譜」『続群書類従』)との記述が引用され、通説化されているが、憲実が駿河へ来た傍証は全く存在せず、帰京後もそのような事実は確認されない。「系譜」という本来もっとも慎重に扱うべき史料の添書にも拘わらず深く通説とされたのは、義教が「強権」「独裁」であるという根拠のないバイアスと、京都と関東は常に対立関係にあったというこれもまた根拠のないバイアスが、根深く植え付けられているためである。

 同道した人々の紀行日記を見ても、東国の歌枕を巡るために細い脇往還も選ばれている上、その途路に禁制は一切出されておらず、宿場の夜の静謐からも、軍勢の帯同はないことがわかる。前述のように諸大名(有司)や奉行衆や近臣の同行、外様では土岐大膳大夫の供奉が見られるため、彼らの最低限の護衛は付き従っているが、総勢でも百名程度であろう。

 帰洛後の義教は関東に関する話題をまったくしておらず、満済のもとにも関東からの文書等があった旨も記録がない。同じく『看聞日記』にも関東に関する風聞すらしばらく記されることはなくなり、代わって大内氏の内紛騒動への対応および、深刻になりつつあった駿河国今川家の家督を巡る内紛への対応が主となっていく。

今川家の内紛

 永享5(1433)年4月14日早朝に法身院に入った満済が、急ぎ清和院(前日より義教が参籠中)へ向かおうとした際、「山名禅門」が来訪し「伊賀守護職事上意趣畏入」と礼物を持参するとともに、「駿河国錯乱事等條々申致在之」の報告をしている。満済が急いでいる様子だったのを察したのか、山名時熈入道は「簡要、今河上総守二男弥五郎、父上総守当時病床及鶴林式之處、父ヲ人質ニ取、任雅意譲与状ヲサせ、舎弟千代秋丸方者ヲハ大略打之了、言語道断次第也、仍狩野富士大宮司両人方ヘ、今度国次第、具被尋聞食、可有御成敗條、尤可然由申入也(要点のみですが、今川範政次男の弥五郎が、父範政が病床で重篤な状況の中で、範政から思うままに譲状を取った上、舎弟の千代秋丸を推す人々の多くを討ったとのこと。言語道断のことであり、そのため、室町殿に狩野介と富士大宮司の両名に、駿河国の状況を詳細にお尋ねなされ、対応されることが最善ですと申し入れました)という(『満済准后日記』永享五年四月十四日条)

 その後、巳半刻頃に清和院に参じた満済は「就駿河国事、山名申入旨申」たが、義教はこれ以前に同様の件で「此事弥五郎申旨、自管領申入也」という。ただ「只今山名申入旨トハ相違也」といい、今川弥五郎の申状は「千代秋丸方者共、父ヲ押ノケ可任雅意所行露顕之間、致其沙汰了」というものだったという。そのため義教は千代秋丸側の横暴を止める為か「於今者一迹事、可申付弥五郎、早々御判可申沙汰旨、以状令申管領也」という措置をすでにとっていたようである(『満済准后日記』永享五年四月十四日条)。このほか「矢部、阿佐伊奈者共十余人、以告文連署弥五郎事執申入也(矢部、朝比奈ら十人ばかりが告文に連署して、弥五郎を家督にとの申し入れがあった)ことも満済に告げており、これも弥五郎を是とする判断材料のひとつだったとみられる。ところが、満済から山名方の申入を聞き、義教はその判断が妥当か判断がつかなくなり、「然ニ不被任父譲、引違御沙汰有テ、万一国錯乱せハ一向御成敗ノ相違ニ可成歟之間、可為何様哉云々、仍先可被仰付弥五郎由思食云々、此旨且可仰談畠山(しかし、父範政の譲の旨に反する沙汰を下し、万一国の乱れともなれば、すべて京都の過ちとなろう。どのように対処すればよいか。まずは弥五郎に範政一跡を継がせようと考えるが、この旨を畠山満家入道と相談するように)と指示した。ただ、これを受けた畠山満家入道の意見は「駿河国事、国様能々被尋聞食、可有御沙汰歟」(『満済准后日記』永享五年四月十四日条)という無難な返答に留まっている。

 実はこの駿河今川家の家督問題と同時に、安芸小早川持平・熙平兄弟の家督相続問題が議題とされており、これについて義教は「此子細管領、畠山、山名三人意見可申入」と有司三人に指示しているが、駿河の件に関しては「駿河事畠山計ニ被尋仰了」のは、義教が「管領ハ弥五郎事内々取申、山名ハ千代秋事申間、不及御尋歟」(『満済准后日記』永享五年四月十四日条)と、管領細川持之と山名時熈入道がそれぞれに肩入れしている疑いが原因と推察している。このころから細川家と山名家の微妙な関係がうかがえ、持之の子・勝元と時熈入道の子・持豊が決定的対立をする三十四年後の「応仁の乱」の萌芽がうかがえる。

 4月23日、室町殿に参じた満済は、義教から「自駿河国注進」を渡され「於御前一見了」した(『満済准后日記』永享五年四月廿三日条)。それは今川家被官庵原某からの書状で「上総守末子千代秋丸、為関東上杉所縁之間、自彼辺可致合力風聞在之由申入也(上総介末子の千代秋丸が関東上杉氏の所縁のため、上杉氏から合力するという噂があるため申し入れました)というものだった。しかし、義教は「此注進、不足御信用由被仰(この注進は信用に足らぬ)ており、満済もこれに「同心申入了」した(『満済准后日記』永享五年四月廿三日条)。これら一連の対応からも、義教は感情に流されずに客観的に物事を見るバランス感覚に優れた人物であることがわかる。こうした情報から義教は、範政の彦五郎廃嫡という私事が原因となる家中分裂を収めるためにはどうしたらよいのか、総合的に思案していたのだろう。

 4月27日、室町殿に参じた満済は、義教から「駿河国ヨリ富士大宮司注進状并葛山状等」を渡され「一見了」した(『満済准后日記』永享五年四月廿七日条)。それによれば「国今度不慮物騒事申入了、随而富士進退等事、可任上意旨、載罰状申入也」という。富士大宮司はその後の動きから、狩野介、葛山、三浦、進藤、矢部、朝比奈、庵原といった弥五郎を推挙していたグループに属していたことがわかる。

 しかし、4月28日、義教は弥五郎にも千代秋にも範政一跡を認めず、義教が預かっていた範政嫡子彦五郎へ相続承認を行う決定を下す。満済は「今河上総介一跡事駿河国、可被仰付嫡子彦五郎由大略御治定、其旨為門跡可申遣今河遠江入道方之由、今朝被仰之間遣状了(今川範政の一跡は、嫡子の彦五郎範忠に命じよとのことでおおよそ決定した。このことを門跡から今川遠江貞秋入道へ申し遣わすよう今朝仰せられたので、遣わした)した(『満済准后日記』永享五年四月廿八日条)「今河下野守方ヨリ下遣也」とあるように、今川下野守に今川遠江入道への書状を託し、さらに「彦五郎使者同相副罷下」とあるように、彦五郎使者に副えて下されている(『満済准后日記』永享五年四月廿八日条)。彦五郎範忠は父範政に廃嫡され「彦五郎事、去年以来在京、御膝下ニ祗候仕、歎申入間、別不便ニ被思食」され(『満済准后日記』永享五年五月晦日条)、駿河国では家督と守護職継承を確定的としており、京都に使者を遣わして承認を求めていたことがわかる。また、満済書状を仲介した「今河下野守」がどのような出自かは定かではないが、その後も「遠江入道―下野守」のルートは機能しており、下野守はおそらく貞秋の子息(中務大輔持貞か)と推測される。義教の奉公衆「今川下野入道」(「永享以来御番帳」『群書類従』二十九輯)が見え、将軍近侍となっていたことがわかる。下野守の子息「尊藤丸」はこの二十日ほど前の4月7日、十七歳で醍醐寺で得度している(『満済准后日記』永享五年四月七日条)

 ところが5月9日、早朝に室町殿へ出仕した満済は、義教から「自駿河国、今度下向上使妙淳西堂注進以下」を渡され、一見した(『満済准后日記』永享五年五月九日条)。義教は事前に「為用意内々被下遣御判、依国時宜粗忽ニ不可渡遣今河二男弥五郎之由被仰付處、今月三日既渡遣之由(妙淳和尚を上使として相続のための御教書を内々に駿河へ遣わしていたが、国情を見て考えなく弥五郎へ遣わさぬよう言い含めていたが、5月3日にすでに渡してしまったとのことだ)という。この報告を受けた義教は「以外御腹立也」と激怒したものの、すぐに冷静になり「但、国弓矢若火急子細在之歟(両派の戦いにはなにか緊急の理由があるか)と使者に確認したが、「曾無其儀、自関東弥五郎舎弟千秋丸扶持之由、雑説分計注進申也(その理由はありません。関東が千代秋丸を支援しているという根拠のない噂ばかりが注進されてきます)という(『満済准后日記』永享五年五月九日条)

 5月19日、満済が参じたところ、義教は「自駿河国注進状等、今度上使淳西堂罷上、国人内者等申詞大略載告文詞申入了、弥五郎今河二男方へ国御判、去三日渡之了、此事楚忽之儀云々、但西堂御判随身上者、渡條又存内歟、奉行二人飯尾肥前守、同大和守両人、自駿河書状告文等於御前読進之、昨日悉備上覧云々、今日重読進令聞予御用(駿河国より注進状等によれば、今度上使淳西堂が上洛の途につき、彦五郎を相続人とする旨について、駿河国人や今河被官らの意見を大略告文に載せたという。弥五郎へ御教書を渡してしまったことは軽率だが、西堂が御教書を帯同して下向した以上は渡すことも考えの内か。奉行の飯尾肥前守、大和守両人に注進状と告文を読ませたが、今日は准后にも聞かせよう)と言い(『満済准后日記』永享五年五月十九日条)、満済に内容を伝えたようである。さらに「今河詠歌三首進之、一首今度上使御判等祝着事、一首述懐、一首没後儀歟、不分明」とあるように、この注進状には駿府で重病の床にあった範政からの和歌が三首付されていた。一首は上使から弥五郎への一跡承認の御教書を受けた安堵と感謝の歌(相続人が廃嫡した彦五郎へ変わったことは伏せられていたのだろう)、一首はこれまでの義教との交流を懐かしんだ歌であろう。そしてもう一首は満済は理解できなかったのか「不分明」としているが、自分の死後についての書置きの一首とみられる。その後、「今河遠江入道可召上之由被仰出間、申付下野守了」と今川遠江入道を駿河から上洛させるべく、今川下野守に指示している(『満済准后日記』永享五年五月十九日条)

 そして、5月28日に「今河遠江入道参洛」した(『満済准后日記』永享五年五月廿八日条)。二日後の5月30日、満済は室町殿に参じると、今川貞秋入道の申状として「駿河国人等并総州内者所存事、於門跡委細可尋聞(駿河国人や範政被官人の考えは、門跡から詳細を尋ねられよ)」とのことだったので、飯尾肥前守、飯尾大和守、松田対馬守の三奉行が参じ、満済からこの件について聞書した。しかし、飯尾肥前守は「雖然、猶遠江入道載状可申入状可宜」と主張したため、遠江入道にも自筆状の提出を要請している(『満済准后日記』永享五年五月晦日条)

 満済はこの件については、「條々不分明間、不能委記、大概也」としつつ、

総州一跡事、付嫡子、可被仰付彦五郎處、国人内者所存何様事、此條連々遠江入道先度被仰出以来、相尋国人内者處、国人狩野、富士、興津以下三人ハ及両三度既捧請文、可被仰付彦五郎條畏入之由申上了、内者事矢部、浅井那者共大略ハ同前ニ申入歟、何モ可為上意由申段ハ勿論也 範政一跡のことは、嫡子につき彦五郎に仰せつけられたが、国人や被官の考えはどうか。 この事に関しては貞秋入道が以前に命じられて以来、国人や被官らに尋ねており、国人の狩野介、富士大宮司、興津の三名は三度にわたって起請文を提出しており、彦五郎の相続の件はお受けするとの回答だ。被官人の矢部、朝比奈らも大略は受け容れ、いずれも上意であれば反論はないとのこと。
今一ヶ條、只今忘却間不及注也 もう一ヶ条は失念したので、注記しない。

この申詞の内容を奉行三人から「管領、畠山、武衞、山名、赤松五人」に意見聴取したところ、以下の通りであった。ただし、満済はあくまでも「大概」であるとし、詳細は記していない。

管領 先父譲与事被仰付、其後国御判可被下條宜存 まず、父範政からの家督譲与を命じられ、そののち守護職の御教書を下されることがよい。
畠山 以前既弥五郎ニ被下御判、不幾又可被仰付彦五郎條可為何様哉、乍去国人内者所存無子細之由、然者可仰付彦五郎事可為上意 以前すでに弥五郎へ守護職補任の御教書を下されているのに、時を置かず彦五郎へまたそれを遣わされるのはどういうことか。しかしながら、国人や被官に反対の意見はないとのことであれば、彦五郎に仰せ付けるのは上意のままに
武衞 可被仰付彦五郎事可為上意、国時儀不存知仕 彦五郎に守護を仰せ付けるのは上意のままに。ただ駿河国内の情勢はわからない
山名 可被仰付彦五郎條尤可然存 彦五郎に守護職を仰せ付けるのは、大変よいと存ずる
赤松 可被仰付彦五郎條、順儀御成敗歟、但弥五郎御判拝領之間、国時宜可為何様哉 彦五郎に守護職を仰せ付けるのはよきご判断と思う。ただし、弥五郎はこれ以前に御教書を拝領しているため、それを受けたのちの国情はどうなのだろうか

 この今川家督と守護職の件について、義教は三奉行を再度「管領、畠山、赤松三人」に派遣して意見を求めている。なお、斯波義淳と山名時熈入道は「今二人ハ無殊儀故也(返答に具体性がなく参考にならないので、もう一度聞いたところで同じだろうという義教の気持ちのためである)であるため問い合わせをしていない。

 問い合わせの内容は、「先度被成弥五郎御判お事ハ、国物騒又ハ総州所労危急之由註進申間、不及是非御沙汰、先任総州申請旨、弥五郎ニ国事被仰付了、但其御判粗忽ニ不可渡弥五郎由、上使淳西堂ニ堅被仰付了、猶御不審間、上使下向以後、以管領奉書此御判無左右不可渡之由、被仰遣處、已五月三日御判渡遣間、於此條ハ無力次第、非御本意也、管要ハ国儀如意見被思食間、狩野以下所存趣御尋處、大略ハ可為上意由申、剰彦五郎事、庶幾心中云々、然者可有何子細哉、彦五郎事、去年以来在京、御膝下ニ祗候仕歎申入間、別不便ニ被思食(以前に弥五郎へ守護職補任の御教書が下された件については、駿河国内が二派に分かれて騒擾が起こっていたこと、さらに範政の病が重篤である報告が入っていたことから、やむなく沙汰したもので、取り急ぎ範政の請いの通りに弥五郎へ守護職を仰せ付けたものである。ただ、その御教書については軽々しく弥五郎に渡すことのないようにと上使の淳西堂へ固く指示したが、なお気がかりだったので、上使下向後に管領奉書の形で、再度淳西堂へ考えなしに弥五郎へ渡さないようにと遣わしたが、すでに五月三日に御教書を渡してしまっており、この件についてはどうしようもなく、まったく自分の考えではない。駿河守護職の件は国人や今川被官の意見に従おうと思っており、狩野介らの考えを尋ねたところ、だいたいは上意の通りとのことであった。そればかりか彦五郎のを守護に強く願うという考えという。そうであれば何ら問題はなかろう、彦五郎は去年以来在京し、自分に祗候して度々この事について訴えており、彦五郎を不憫に感じていた)という(『満済准后日記』永享五年五月晦日条)「管領、畠山、赤松三人」の答えが「三人意見、誠此分候者、可有何子細哉、可被仰付」との事であったが、「畠山意見ハ猶同前也、但可為上意」という(『満済准后日記』永享五年五月晦日条)

 翌6月1日、満済は早朝に室町殿へ参じ「今朝御尋三人大名、御返答注上了」(『満済准后日記』永享五年六月一日条)が伝えられた。なお、畠山満家入道については満済から「猶事子細可相尋由」を指示されたため、満済は齋藤因幡守を召し寄せると、義教の言を伝えた。

「先度被下弥五郎御判事ハ、国弓矢事以外注進之間、若此御判遅々せハ千代方者共得利事モヤト思食事、次ニハ上総入道所労危急之由注進之間、旁先不及是非被下御判於弥五郎了、於今者云国儀云総州所労取延、旁任理運可被仰付彦五郎處、御意見分弥五郎ニ被下御判事、御膝下ニ祗候者共先一旦被下御判之由令存知了、遠国者共ハ不可存知仕之間、不幾又可被下彦五郎事可為何様哉云々、此儀尤ニ被思食也、乍去不存知者無窮申状ハ不可限此一事間、不足御承引事歟、簡要ハ面々如此之由意得マテコソト思食也、次国時宜如何之由申事、是又自最前御覚悟事間、此間連々御尋處、国人狩野以下者共ハ既捧請文、雖為何仁可任上意之由申、殊更彦五郎事剰意寄様ニ申入也、其外内者共事、雖不被御覧分明請文、大略ハ彦五郎同心儀、簡要ハ可為上意云々、此上ハ可有何子細哉、乍去、猶先上使長老お被下遣、可被仰付彦五郎之由以御書可被仰遣、上総入道并弥五郎、其後一左右被聞食、可被仰付彦五郎之由、被思食也、就此不残心底猶可申意見(先に弥五郎へ下された御教書は、駿河国で合戦となったというとんでもない注進があったので、もし守護補任の御教書発給が遅くなれば関東由緒の千代秋丸方が有利になる懸念があったための措置である。また、上総介範政入道の病が重篤であるという注進があったこともあり、やむなく弥五郎へ御教書発給を行った次第である。しかし、現状は駿河国内の情勢も範政入道の病も落ち着きを見せたため、道理の通り範政嫡子の彦五郎を守護職に補任せんとしたところ、諸大名の意見として『弥五郎に守護職補任の御教書を下された件については、京都伺候の者であれば、まず仮に下したことを知っていますが、遠き駿河の者どもは知る由もなく、時を置かずに彦五郎に御教書が下されたのはいかなることかと思うでしょう』という。このことは誠にもっともだ。しかし、知らないがために申し立てるという事例は、なにもこのことに限るまい。認めない理由になろうか。要は面々がこの認識となればよいのだと思っている。次に国情はどうなのかという申出についてだが、これは当初より想定したことであり、先般これについて駿河国に問い続けているが、国人の狩野介以下の者たちはすでに請文を提出している。いずれも上意に随う旨を申しているが、彦五郎が守護職となる事についてはとくに賛成するという。今川被官人たちについては請文を見ずとも、彦五郎に随う件は上意が必要とあるだろう。この上何ら問題があろうや。ただし、まず上使の長老を駿河に遣わし、彦五郎を駿河守護とする旨の御教書を遣わし、上総入道と弥五郎にはその後、事態を耳にし、彦五郎に守護職を申しつける旨を伝えようと思う。このことについて、思うことを残さず意見するように)との言葉だった。

 その後、畠山満家入道亭から斎藤因幡守、大方入道が帰参し、畠山入道からの返答を伝えた。畠山入道は「重被仰下旨畏承候、所詮只今如被仰下、先被下上使事次第、具被仰下上総入道、追可被仰付彦五郎條、尤宜存云々、此御返事ハ第二度事也、此以前ハ駿河国事、関東堺大事国ニテ候、今河遠江入道申状計ニテ御成敗ハ可有如何哉、且遠江入道、駿河国時宜慥ニハ不覚悟申入歟之由存様候、能々可被聞食合(重ねての仰せ畏入ります。今回の仰せについては、まず上使を下されて上総入道に詳しくご説明されたのち、彦五郎に守護職を補任されることが最も良いかと思います。この御返事は二度目です。前回は『駿河国は関東との境という大事な国であり、今川貞秋入道の申状のみで決定するのはいかがなものか。また貞秋入道は駿河国の情勢については把握できていないとの申入があった』との事を聞いております。よくよく多方面からの意見をお聞きになされよ)との事であった。

 満済はこの畠山入道の返事を義教に伝えたところ、「如上注重、又可被下上使事等(畠山の注進及び上使下向を行う等)ことを仰せられた。なお、満済は「依事繁、落居儀計注置了、五月晦日、六月一日、先以奉行三人再三御談合歟(注進の内容が多かったため、決定したことのみを注した。五月晦日、六月一日に室町度は奉行三名と再三談合されたか)(『満済准后日記』永享五年六月一日条)という。

 6月3日早朝、満済は出京して室町殿へ参じた。義教から「御文章不分明」ながら、「大略被仰付彦五郎、其旨可令存知之由」として、「駿河国へ御内書両通、一通総州方へ御自筆、一通弥五郎奉行書之歟」を示された。また、「国人、内者以下十三人方へ被成遣御教書、子細同前」も手配され、「両上使」として「星巌和尚、周洪西堂両人」「今日両使則進発了、路次煩等、一向為公方被仰付」という(『満済准后日記』永享五年六月三日条)

 なお、満済は夕刻には醍醐寺へ帰ったが、「今川彦五郎、今夕懸御目、久国太刀進上之」の知らせが届いている。なお、義教は5月30日には駿河守護の件について彦五郎範忠へ内定を伝えていたとみられ、彦五郎範忠は「自去一日髪お被裹也、今度国退出時出家」とあるように、父範政入道から廃嫡され駿河出国の際に剃髪していたが、通告直後の6月1日からふたたび蓄髪を始めて裹頭していたことがわかる。

 6月6日、満済は早朝に出京して室町殿へ参じたところ、義教は「自関東就武田右馬助没落、駿河事以御状被申入事在之」と告げ、鎌倉殿持氏からの「関東状」を満済に見せている(『満済准后日記』永享五年五月六日条)。そこには「武田右馬助没落甲斐国、徘徊駿河辺云々、被加誅伐様被仰付可畏入」などと記されていた。「上杉安房守状同前」でもあり、これらについて義教は「就此事諸大名意見御尋」ると、「管領以下大略同前申入也、其身誅罰事不可然歟、只駿河国中ニ不被置様可被仰付」との意見であったという。満済も「此儀尤宜之由同心申入了」と返答し、義教も有司と満済の同意を得て「此儀御治定歟、可然関東へ可有御返事」「先武田右馬助駿河居住不可然由、以管領状可申遣由被仰付歟」ことを確認した(『満済准后日記』永享五年六月六日条)

 6月8日、「小早川二郎左衛門」「被官者真田周防入道」を同道して満済を訪問している(『満済准后日記』永享五年六月八日条)。何事かは不明だが「頻申間、令対謁了」と、対面を執拗に迫っていた様子がうかがえる。この「真田周防入道」は小早川始祖土肥実平の姉妹の子・真田与一義忠由緒の人物か。

 中村宗平―+―土肥実平―――小早川遠平
(中村庄司)|(次郎)   (弥太郎)
      |
      +―女子
        ∥―――――+―土屋義清
        ∥     |(兵衛尉)
        ∥     |
 三浦義継―+―岡崎義実 +―佐奈田義忠
(三浦庄司)|(四郎)   (与一)
      |
      +―三浦義明―――三浦義澄
       (三浦大介) (次郎)

 同日、「今河右衛門佐入道、今夕下向」のため、満済に挨拶に訪れ、満済は「馬、太刀遣之」している。この「今河右衛門佐入道」は5月28日に一連の今川家家督相続問題に関して上洛した「今川遠江入道(貞秋)」とみられ、6月1日を最後に名が見えなくなる「今川遠江入道」は、帰洛までの三日間のうちに父右衛門佐仲秋と同じ「右衛門佐」の称を許されたのだろう貞秋の父・今川右衛門佐仲秋は三宝院領である「尾張国々衙并西野」について「今河右衛門佐殿遵行」(「尾張国々衙領等支証目録」『三宝院文書』)を出している通り、尾張国守護であった。仲秋の一族が尾張国内に所領を有するきっかけになったとすれば、「尾張那古屋今河下野所領(『満済准后日記』永享五年七月七日条)とあるように、尾張国那古屋に所を有する今川下野守は故右衛門佐仲秋の血縁と思われる。今川貞秋入道と今川下野守の関係は、前述の通り4月28日に「今河上総介一跡事駿河国を彦五郎範忠と内定した際に、満済が「今川下野守」を通じて「今河遠江入道」に範忠への書状を送達しているのは、彼らが親類であったためであろう。

 6月21日、満済のもとに赤松播磨守満政が使者として参じた。内容は「駿河事、今河右衛門佐入道注進趣珍重被思食、随而明後日廿一日(ママ)、可出京」(『満済准后日記』永享五年六月廿一日条)とのことであった。

 6月22日、満済に「駿州下向上使星岩和尚、周浩西堂、今晩参洛之由、自路次音信」があったため、満済は「明旦於京都可入見参之由返答了」(『満済准后日記』永享五年六月廿二日条)した。そして翌23日早旦、満済は出京して上使の星岩和尚、周浩西堂と対謁した(『満済准后日記』永享五年六月廿三日条)。上使は「今河弥五郎御請并国人内者以下各載告文詞捧請文了」し、「毎事、如上意落居」した上、「既為彦五郎迎内者十余人参洛」といい、「則召寄飯尾肥前、同大和守、松田対馬守、上使申詞、具録之披露」した。満済は「予先参室町殿、上使申詞大概申入了」した。そして「今河彦五郎ニ駿河国守護職并官途民部大輔等事被仰付管領了、御使飯尾肥前守也」という。こうして正式に今川彦五郎範忠は、駿河国守護職に任じられ、民部大輔に補任された。これに伴い「相尋吉日、早々可令下国之由被仰付了」ことが指示され「国御判、同以吉日可被下云々、如然事等、内々依仰申付飯尾肥前守了」された。また、「此外、就三浦、新藤等事、以管領奉書、狩野介、富士大宮司三浦、進藤等ニ、於国私弓矢不可取出之由堅被仰付也」ことが指示された(『満済准后日記』永享五年六月廿三日条)三浦、進藤、狩野介、富士大宮司らは彦五郎の守護就任を認める請文を出してはいるが、おそらく元来弥五郎を推していたため、彦五郎の守護職就任を快く思っておらず、蠢動が京都まで伝わっていたとみられる。義教はその叛乱を事前に封じるべく御教書を下していたと考えられる。

 6月27日、「理覚院法印仲順」「住心院僧正」とともに満済を訪れ、「今河彦五郎、駿河国守護職并一家総領以下御判拝領、任民部大輔云々、旁面目至千万歟、未重服日数内不懸御目間、今日門出、明後日廿九日、可下国云々、御鎧一両、御馬二疋、御剣一腰同拝領云々、御鎧等事内々兼申入了、今河下野守同御鎧一両拝領云々、同申入了(今川彦五郎が駿河国守護職と今川惣領家の御教書の拝領と民部大輔への補任したとのこと、方々に面目この上なきことか。範忠は亡父範政入道の重服中であり、室町殿に御目に懸からず、本日駿河下向のために今川亭を門出し、明後日二十九日に離京との事。御鎧一両、御馬二頭、御剣一腰を拝領しました、御鎧等については内々に予てより申し入れていたもので、今川下野守も同じく鎧を一両拝領しました。これも同じく顕実申し入れたものです)といい、満済は「珍重々々」と記述する(『満済准后日記』永享五年六月廿七日)。なぜ聖護院の「理覚院法印仲順」と「住心院僧正(実意)」が今川彦五郎の守護補任と任官(この日の除目か)を満済に報告したのかは不明。聖護院と今川家に何らかの関係があったのかもしれない

 そして6月29日、今川下野守が満済を訪問して「今河民部大輔、今日下国」こと、並びに「今河下野守同道下国之由申来了」と、範忠に同道して駿河へ下ることを伝えている(『満済准后日記』永享五年六月廿九日条)。前述の通り、今川下野守はおそらく尾張国に由緒を持つ今川右衛門佐貞秋入道の子息で、遠州今川了俊系の堀越氏、瀬名氏、各和氏らと並ぶ今川一門の有力者とみられる。その出立後、日時は未定ながら、駿河入国日について賀茂在方卿より勘申せられ、7月11日の入国が決定され急遽「入国駿河、日次可為来十一日由、在方卿勘文遣之計也」を持って、「力者福一が今川範忠一行の後を追っている(『満済准后日記』永享五年七月七日条)

 7月4日、満済のもとに「星岩和尚、周浩西堂来臨」「各少折紙随身」した。今川家関係の御礼とみられる(『満済准后日記』永享五年七月七日条)。また、その後、山門使節の「円明(円明坊兼宗)」が来て「鹿苑院領ト山門領ト堺相論事ニ付テ及喧嘩」となったことに際して義教から呼び出しを受け「仍自公方御切諫之由歎申也」と、相当強い注意を受けたようであった。もともと円明坊兼宗は青蓮院門徒で、近江馬借をもまとめる大きな権勢を有していた。おそらく青蓮院門跡時代の義教(義円)とも接触はあったのだろう。室町殿に参じた満済は「今河弥五郎参洛了、進退事歎申云々、今度参洛以下振舞旁神妙ニ被思食也、暫可堪忍仕、可被加御扶持旨可申付之由、可仰遣管領由被仰出了(今河弥五郎が参洛した。身の振り方について哀願があったという。室町殿から『今回の弥五郎の参洛については実に神妙と思う。暫くは我慢せよ。支援する』旨を管領に伝えるよう仰せを受けた)という(『満済准后日記』永享五年七月四日条)

 詳細な義教の言葉は「就今河弥五郎参洛事被仰出旨、今度参洛以下進退旁神妙被思食也、簡要ハ一御左右之間、令在京可待申仰、不可有御等閑」というもので、満済は「可申付弥五郎旨、可仰遣管領由被仰出」たため、奉行の安富筑後守にその旨を伝えたところ、安富は「此仰旨可申含弥五郎、定可畏申入歟」と述べた(『満済准后日記』永享五年七月四日条)

 7月7月、満済に「今河民部大輔方へ下遣力者福一、今夕罷上了」の知らせが届く(『満済准后日記』永享五年七月七日条)。先日、範忠一行の駿河入国日についての勘文を持って発遣された福一は「尾張那古屋今河下野所領、ニテ追着」いたとのことであった(『満済准后日記』永享五年七月七日条)。京都から那古屋までは中世の往還を行くとおよそ150kmとなるが、今川範忠一行の速度は駿河入国(大井川渡河)までおよそ300kmの往還を13日かけて進んでいることから、23km/日程のゆっくりしたペースだった。仮に福一が二日遅れで追いかけたとすると、福一の速度は50km/日程度となり、十分に追いつける計算となる。

 7月14日、満済のもとに先日駿河から帰還した「星岩和尚、周浩西堂来臨」し、今河治部少輔入道申事在之」ことを伝えている。内容は「非殊事、就今河民部大輔国時宜以下可致忠節旨、管領奉書等拝領可畏入」というものであった(『満済准后日記』永享五年七月十四日条)。なお「今河治部少輔入道」がいかなる人物かは不明だが、駿河国在住の今川一族の有力者である。おそらく範忠父・範政の又従弟にあたる治部少輔貞相(『今川系図』)と推定される。

 今川国氏―+―今川基氏――今川範国―+―今川範氏――――今川範泰―――――今川範政―――今川範忠
(四郎)  |(太郎)  (五郎入道)|(上総介)   (上総介)    (上総介)  (民部大輔)
      |            |
      |            +―今川貞世――――今川貞臣―――――今川貞相
      |            |(伊予入道了俊)(伊予守)    (治部少輔)
      |            |
      |            +―今川仲秋――――今川貞秋―――?―今川下野守
      |             (左衛門佐)  (左衛門佐入道)
      |
      +―今川俊氏――新野俊国―――………………?……………―――――今川新野某
       (三郎)  (弾正少弼)

 7月17日、満済のもとに「山徒最勝」が来訪し、このところ不穏な動きをする比叡山につき、山門徒が無動寺谷の「客人神輿」「奉振上根本中堂」っていて「山上、坂本猥雑以外」という報告がなされた(『満済准后日記』永享五年七月十七日条)。なお、この比叡山の騒擾は「凡使節中内々ハ令存知歟風聞」と述べており、山門使節の円明坊兼宗らが関係しているのではないかという風聞があった。その後義教に対面した満済は、義教から「神輿御動座事」について話があり、「使節中一向結構様思食歟」との認識であった。また、今河治部少輔入道、同心駿河守護民部大輔可致忠節之由、管領奉書拝領仕度由、以星岩和尚々申入間、其由披露處、可仰付飯尾肥前守云々、今河新野申状又同前、同披露處、不可有子細云々、同申付飯尾肥前了、新野事、自星岩和尚以等持寺僧伯蔵主被申了、仍令披露也(今川貞相入道が、駿河守護範忠とともに忠節致すようにという管領奉書を拝領したい旨を星岩和尚に伝えており、和尚からその旨申し入れがあったため、室町殿に申し上げたところ、飯尾肥前守に仰せ付けるようにとのことだった。また同じく今川新野某もまた同様の申状を提出しており、これも披露したところ、問題なく同様に飯尾肥前へ申付けるようにとの事だった。新野某の申状は星岩和尚から等持寺僧伯蔵主を通じて受けたもので、室町殿に披露)した。

 その後、飯尾肥前守が満済を訪れ、「今河方御教書事」につき「内々可被仰之由、只今御所様被仰出、何事哉」と困惑して尋ねている。義教は事の詳細を語らずに、今川へ御教書を出すように肥前守に指示したのだろう。しかし、肥前守はその御教書に書くべき内容がわからず、満済に泣きついたのである。この時の義教は比叡山への対応を思案しており、さして重要ではない今川方への対応は等閑にならざるを得なかったのだろう。満済は飯尾肥前守に「今河治部少輔入道、同新野両人方へ御教書事歟之由」を教えている(『満済准后日記』永享五年七月十七日条)

 7月18日には「比叡嶽笧、今夜焼之」という(『満済准后日記』永享五年七月十八日条)。比叡山山頂での騒擾による失火か。前日17日夜も「京中物騒」という騒ぎがあり、これも山門関係の騒擾であろう。

 7月19日、満済のもとに「自今河右衛門佐注進在之」った。民部大輔範忠とともに下向した今川右衛門佐貞秋入道からの注進である。それによれば「民部大輔去十一日入国無為、就其、三浦、進藤、狩野、興津、富士以下同心及合戦、雖然民部大輔手者打勝」といい、在方卿勘文の通り、去る7月11日に範忠一行は無事に大井川を渡り、駿河国に入国した。ところがこの際におそらく今川千代秋丸の徒党とみられる「三浦、進藤、狩野、興津、富士以下」の国人衆が範忠一行に襲いかかり、範忠被官により撃退されたという(『満済准后日記』永享五年七月十九日条)

 翌7月20日には続報として詳細な「自今河民部大輔方注進到来」した(『満済准后日記』永享五年七月十九日条)。満済はこれを持参して出京し、義教と対面している。それによれば「去十一日入国儀、先無為祝着」だが、「就三浦、進藤等、狩野、富士、興津令同心寄懸間、岡部、朝比奈、矢部以下者共馳向、終日合戦、寄手数十人打取退散了、其後狩野介寄来、於府中今河右衛門佐入道手者共寄合追散了、右衛門佐内者寺島但馬入道、中田両人打死、手負数十人(三浦、進藤等が狩野介、富士、興津と同心して攻め寄せたため、我が方の岡部、朝比奈、矢部以下が馳せ向かって終日合戦となりました。その結果、寄手数十人を討ち取り、敵は退散しました、ところがその後、狩野介が攻め寄せたため、駿河府中で合戦となり、今川貞秋入道の被官が追い散らしました。この戦いでは貞秋入道の被官寺島但馬入道と中田某の両名が討死し、負傷者は数十名です)とあり、義教に「此由内々申入了」した。この知らせから、戦いは岡部氏が合流後に起こったと思われ、宇津谷から丸子、佐渡あたりの隘路での出来事か。なお国人らの襲撃も大勢ではなく百人前後と思われる。その撃退後、府中ヘ入ったのち、敵方の大将である狩野介一党が攻め寄せたのだろう。しかし、府中には老練の今川貞秋入道が警衛しており、その奮戦によって撃退された。義教は満済からの報告以前に「自管領申間且被聞食」といい、満済は「民部大輔内者并右衛門佐入道内者、各今度合戦高名、神妙御感之由、自管領可申下之由、為門跡可申管領方」と指示を受け、管領のもとに「以親秀法橋則申遣了」している(『満済准后日記』永享五年七月十九日条)

 実は満済が室町殿を訪ねて義教と対面した際の最初の議題は「山訴事被仰出」であった。前述の通り、当時の義教の最大の悩みはかつて自らが天台座主として頂点にあった比叡山の騒擾であり、今川家に関してはすでに差配の終わったことで、義教にとっては「ついで」の扱いでしかなかった。義教は「今度神輿御動座儀、円明以下使節悉同心、剰張本由慥聞食也、一向別心之儀歟」と、今回の神輿動座が、武家政権の比叡山統率の要たる山門使節の円明坊兼宗が中心となって行われたとの確証を得て、叛心を抱いていると怒りを抱いている様子がうかがえる。ただ、もはや「於神輿入洛者無力次第、且ハ時刻歟」と、神輿の入洛阻止は困難との冷静な見方を示し、「鹿苑院殿御代応安年中、山門神輿入洛三ケ度也、内裏、仙洞以下警固事、内々御定」を下している(『満済准后日記』永享五年七月十九日条)

 7月23日、満済のもとに「自管領書状到来、今日晩頭、山門事書到来間、写進、明日早々御出京可宜」との知らせが届いた。管領書状からうかがえる山門使節からの條目は「事書条目非殊題目也、献秀號光寿院云々、奸曲條々、赤松播磨守、飯尾肥前守猛悪無道次第等書載之了」というもので、要求は「於赤松播磨守被遠流、於飯尾肥前ハ渡賜衆徒手、可被其沙汰由申也」という高圧的なものだった(『満済准后日記』永享五年七月廿三日条)

 7月24日朝辰終、醍醐寺に「宝池院書状到来」した。それによれば「夜前京中物騒以外也、仍以親秀法橋被啓御所様案内處、非殊事云々、於河原辺時聲ヲ二三ケ度揚云々、依之洛中猥雑、馬借等所業歟(23日夜前、京中は非常に物騒がしかった。そのため親秀法橋を室町殿へ遣わしてこのことをお話ししたところ、問題ないとのことだった。河原辺で鬨の声が二、三度揚がったが洛中の猥雑はこれによるもので、山門使節が使嗾する近江馬借の所行か)(『満済准后日記』永享五年七月廿四日条)というものであった。

 その後、未初に満済は出京したところ、管領持之が訪れ「山訴事、先無為御成敗尤可然存、於張本山徒等者追可有御沙汰條、殊可輙也、神輿入洛旁大儀存、可然様一向御申お憑存」と依頼があり、満済は「何様可申旨領掌了」した(『満済准后日記』永享五年七月廿四日条)。続けて「山名禅門」が来訪「山訴無為御成敗珍重之由申」した。そして山名物語次夜前以奉行被仰出、馬借等可乱入洛中之由風聞也、河原ニ伏せ野伏ヲ置可沙汰云々、只今夜中亥初歟事也、下辺者共可遅々歟、雖為小勢可遣置由御返事申了、子末丑初刻計歟、少々遣人處、於大原辻馬借三百人計罷出處、此方者五六十人歟、金ツメニ行逢了、暫ハ両方子マリ逢タル計也、暫アテ、自此方何者ソ敵歟ト尋處ニ、何事ニ御方ニテハ候ヘキトテ矢ヲ同時ニ放間、此方ヨリモ散々射払間、二三人ハ当座ニ射伏了、其後又後ニ馬借一手寄来間、其モ悉射払了、此方ニハ手負一人モ無之(夜前、室町殿より奉行が参り、馬借等が洛中に乱入するという風聞があるので、山名の勢を今夜のうちに河原に伏せておくようにとの指示がありました。下辺の者共が集まるのには時間がかかりますと述べると、小勢でも遣わすようにとの御返事がありました。子終から丑初ほどに少々遣わすと、大原辻の辺りで馬借三百人ほどが現れました。こちらは五、六十名ばかりでした。双方ともに行き逢うのみでしたが、しばらくしてこちらから『何者だ、敵か』と尋ねたところ、『どうして味方であろうや』と言って矢を放ってきたので、こちらからも散々に矢を射かけたところ、二、三人をその場で射伏せました。その後、また背後に馬借が一手押し寄せたため、こちらへの矢を射払い退散させました。こちらには手負は一人もいません)という戦いの様子を伝えている。

 その後、満済は「申終歟、参室町殿、内々時宜参了」と室町殿を訪問。「去夜猥雑、無心元存旨等申了」した。「就其、管領只今来申」すには、管領持之は義教に「山訴事、先無為御成敗尤珍重、於張本人者、追堅可有御沙汰條、殊可然存由申入了」と述べたという。義教は山訴状を満済に「今度事書如此トテ被取出」たため、満済はこれを「一見了」している。義教は満済がこれを読んでいる最中に「此條目内、少々ハ可有御載許之由」の気持ちがあり、「仍此子細、申遣管領了」したことを話している(『満済准后日記』永享五年七月廿四日条)

 翌7月25日、満済は「参室町殿、御対面」し、「就山訴事、管領内々申入無為御成敗事、今度條目十二ヶ條内三ヶ條、正長元年神訴時、御載許御教書不幾被召返云々、此條於山門理訴者、雖為只今重可被加御下知、次愛智庄日神供料所也、而號御料所被仰付守護人事歎入云々、此儀又宜事也、早々可被退守護人也、次山門領無謂被宛行公家武家甲乙人云々、此事誠真実山門領、若如然事在之者不可然歟、在所ヲ注申ハ可有御成敗也、以上三ヶ條事、可有御載許、其外事ハ雖何様儀出来、就是非不可有御許容旨可仰管領」という。

 7月26日、「今夜自将軍御書在之、就駿河事、今河播磨守可被下遣彼国、然当守護今河民部大輔間、若不快儀在之歟、如何云々、御返事、不快儀於内心者不存知候、縦雖其儀候、被仰付事定不可有緩怠歟、可被下遣之條尤可然存云々、遠江、三河両国勢駿河合力事、被仰出條簡要由申入了、此御書自三條宰相中将方伝賜了」

 7月27日、「自将軍御書如夜、前伝賜了、仰題目、甲斐国跡部、伊豆狩野等令合力富士大宮司ヲ、可発向守護在所風聞在之、然者京鎌倉雑説因縁旁不可然歟、此事内々自管領私可申遣上杉安房守方之條可為何様哉云々、御返答、以管領私儀此事能々可申遣上杉安房守方之條、尤宜存旨申入了」

 7月28日、「駿河へ僧お下遣、其後国時宜毎事無心元間、慥為聞其説也」

 閏7月1日、「自駿河今河右衛門佐入道使者西堂一人参洛、今河民部大輔同前申也」

 閏7月3日、「山訴條目内両三ヶ條可有御載許之由雖被仰出、今度山門悪行超過、先々儀公方ヲ奉調伏事、慥又被聞食了、旁存外至極ニ思食間、雖為一事不可有御許容也、次江州辺土一揆事、可蜂起由頻為山門興行云々、次方々通路等可相止企等悪行非一事、仍江州守護可被下遣歟之由思食云々、管領御返事、公方調伏申事以外次第也、次江州守護可被下遣事、可被仰談諸大名歟云々、重又仰出諸大名御談合事、先可有御思案也、江州守護下国事ハ先不可被仰也、内者共ハ悉可下遣旨可仰付云々、為国警固由云々、委細此門跡出京時猶可被仰出旨被仰下也、早々近日御出京自何可目出云々」

 閏7月5日早朝、満済が出京すると、管領細川持之、畠山満家入道、斯波義淳、一色義貫、赤松満祐入道の五人が法身院を訪れ、「就山訴事申入子細等、以前内々可有御裁許之由三ヶ條、先被仰遣山門、随彼等申様又可有御料簡歟、簡要先無為御成敗第一珍重、於張本人者追可有御沙汰之條、殊可輙、於有神輿入洛者、天下重事大義不可如之歟、無勿体存云々」

「申初参申了」て「諸大名来申旨山訴事ニ條々申入了、然者面々如申先三ヶ條事可有御裁許旨、為管領可下知山門、随彼等申様重可有御料簡云々」
「次駿河国々人狩野介、富士大宮司、興津、已上三人可召上旨可仰管領云々、此事等内々自駿河守護申子細在之、依之如此被仰出也」

満済は「召寄管領山訴内三ヶ條御裁許事、可被申遣山門事」などを伝えた。
「赤松又来、且御裁許珍重々々、畠山、武衞、一色以使者畏申也」

 閏7月9日、「自管領以安富筑後守申、先日御裁許三ヶ條令申山門之處、重如此以事書申入云々、則案写賜之也、予返答、以重事書先被聞調諸大名意見、追可被申入之條可宜歟云々」

 閏7月10日、「及夜陰自管領音信、就山訴諸大名意見大略調了、今日御出京可畏入云々、但戌終到来間、明日可出京旨申遣了」

 閏7月11日、「巳終出京之由申遣管領處、管領則来臨、諸大名意見申詞各注紙面進之了、面々申詞大略同前、先無為御成敗、於張本人者追可有御沙汰條尤可宜云々、畠山、赤松両人ハ山訴人数赤松播磨守、飯尾肥前守、光聚院山法師、事御罪科次第書載了、自余ハ不然也、以諸大名申詞予披露之處、光聚院并播磨守、飯尾肥前守等流罪等事不得其意由再三被仰了、所詮張本人追可有御沙汰條、可輙由面々申也、此條猶御不審、山徒使節自今以後参洛不可在之歟、於在坂本者如何輙可有御沙汰條可輙由面々申也」

「今河民部大輔并右衛門佐方へ返状、今日悉書与使者了」

 永享10(1438)年、鎌倉公方・足利持氏が嫡子・義久の元服式を執り行ったが、このとき「慣例」であった将軍家からの偏諱を拒んだため、持氏は幕府寄りの関東管領・上杉憲実と対立。ついに憲実は領国の下野国に引きこもってしまった。この行動に怒った持氏は、憲実を謀反人として討伐するべく諸大名に出陣を命じたが、これを聞いた胤直は驚いて上杉修理大夫持朝とともに御所へ出向いて持氏を諌めた。しかし持氏は彼らの説得にも耳を貸すことはなかった。 

…あくる永享六月、公方の若君天王殿御元服有べしとて御祝儀の用意善尽し美尽せり、管領申されけるハ、代々公方の御元服ハ皆京都へ御使ありて一字を御申あり、先規に任せ御一字御申あるべし、節に莅て御使御難儀ならば、某が弟上杉三郎重方幸ひ用意の馬なんども候罷登るべきよし申されけれども、此條かつて御承引なくして彼御祝儀に付きて国々より名字を指て御勢を召る、直兼、憲直等も御免許を蒙り罷帰る。 
又何者の申出たりけん、御祝儀の時、憲実出仕の時、殿中に於て誅せらるべきよし聞へれば、憲実虚病して出仕を止め舎弟重方代官とて出仕し給ふ。  管領是を漏聞給ひ弥君を恨ミ奉る、公方も是を聞召、房州無実の説を信じ予を恨る事短慮の至なり…只憲実をなだめさせ給ひて、世上無為になさるべきよし再三諫言を以申けれども御許容なく、其後上杉修理大夫持朝、千葉介胤直一味同心して、色々管領和融の義世上無為のよしを訴訟申けれども御領掌なく、放生会を限として十六日に武州一揆を初として奉公、外様の軍勢山の内へ押寄すべきよし聞へければ、憲実大きに驚き、…

 御所を退出した胤直は、鎌倉を出奔して下総へ戻り、軍勢を集めて憲実に通じた。 

 また、憲実の要請を受けた幕府からも駿河守護職・今川氏を中核とする大軍が派遣され、箱根を越えて鎌倉へ迫っていた。11月1日、三浦介時高を大将とした二階堂上杉持朝の幕府方軍勢が鎌倉大蔵の公方御所に攻め入り、簗田河内守助良簗田出羽守ら公方の重臣たちが討死を遂げた。 

 7日、憲実の重臣・長尾尾張守忠政入道が、敵対する上杉憲直・一色直兼らを武蔵国金沢に攻めて自刃させ、11日、持氏はついに捕らえられて鎌倉の永安寺に幽閉された。この警護には幕命により、上杉持朝大石源左衛門尉憲儀、そして千葉介胤直があたることとなった。

持氏供養塔
鎌倉の伝足利持氏供養塔

 争ったとはいえ持氏は上杉憲実や千葉介胤直にとっては主筋である。憲実は持氏の助命のために再三にわたって京都に遣いを送った。しかし、持氏を生かしておけば後日の禍となるという幕府の方針は変わらず、やむなく憲実は永安寺を守っていた持朝・胤直らに持氏の殺害を命じ、永享11(1439)年2月10日、持朝・胤直らは永安寺を囲んで持氏・満直(持氏叔父)に自害を迫った。

 しかし、これを聞きつけた持氏近習の木戸伊豆入道冷泉民部少輔小笠原山城守平子因幡守印東伊豆守武田因幡守加島駿河守曾我越中守設楽遠江守沼田丹後守木内伊勢守神崎周防守中村壱岐守らは上杉・千葉勢に斬りこんで散々に暴れ、討死を遂げた。そしてその騒乱の間に持氏・満直は刺し違えて果てた。持氏享年四十二。京都の幕府に抵抗しつづけた鎌倉公方・足利持氏の壮絶な最期であった。『将軍家御内書』はおそらく、この永享の乱後に将軍家(普広院様=足利義教)から千葉介へ宛てられたものと考えられる。

 持氏近習の一人・神崎周防守は、下総国香取郡神崎庄の千葉一族・神崎左衛門五郎秀尚の子で、鎌倉府に仕えていた神崎周防守満秀と推測される。一方、満秀の兄・神崎上総介忠尚は千葉宗家に仕えており、永徳元(1381)年の「小山義政の乱」、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」において千葉介満胤に従軍して活躍した。その他、印東・木内氏も千葉一族と推測される。

 さて、持氏の自刃によりいったん落ち着いたかに見えた関東の情勢は、翌年正月、常陸国で一色伊予守が挙兵した。おそらく持氏近習のひとりと思われるが、2月21日、将軍足利義教は「千葉介(胤直)」「三浦介(時高)」「一色伊予守以下野心之輩」を糾明するよう命じた。そして3月、持氏の遺児である春王丸安王丸の二人が常陸国で挙兵したことから、ふたたび不穏な空気に包まれることとなる。春王・安王兄弟は、管領上杉家とは犬猿の仲である結城中務大輔氏朝結城右馬頭持朝父子を頼って下総国結城(栃木県結城市)のもとを訪れた。氏朝らははじめ挙兵に反対していたが、説得に折れて挙兵した。これを「結城氏朝の乱」または「永享の乱」という。

 この乱の鎮圧のため、幕府はふたたび軍勢を派遣。9月27日、上杉持朝上杉清方の両将が結城城に着陣した。胤直も上総・下総の軍勢を率いて参陣し、結城城の南を固めた。幕府は大軍をもって攻めかけるが、要害堅固な結城城は落ちず、さらに結城氏朝の巧みな用兵術によって、逆に寄手の損害が目立ち始めた。このため、持朝・重方らは力攻めを中止して、城内の調略をはじめた。こうして城内には抗争がはじまり、結城城はついに陥落。氏朝・持朝はじめ、一族郎党すべて自刃を遂げ、春王・安王丸は逃亡のさなか、寄せ手の小笠原政康によって捕らえられ、京都に送られる途路の美濃国垂井で斬首された。

 この結城合戦に際して、胤直は相馬御厨の領主である伊勢外宮に対して祈祷させており、そのことに対して礼を述べる書状が伝わっている(『千葉介胤直書状写』)。 

 胤直はこの戦いの直後に出家して「常瑞」と号し、嘉吉元(1441)年には嫡男・胤将(逆算して9歳)に家督を譲っていることから、永享の乱と公方遺児の殺害を儚んでの出家かもしれない。しかし、胤直は依然として「千葉大介」と呼ばれているようで、大御所的な地位にあって千葉宗家の実権を握っていたと思われる。

多古城周辺の地図
多古城と志摩城の位置

 宝徳元(1449)年、胤直ら関東の大名たちは、持氏の末子・永寿王丸を新たな公方として認めてくれるよう幕府に訴え、永寿王を鎌倉に迎えた。そして「慣例」にのっとり、8代将軍・足利義成(のちに義政と改名)の偏諱を賜って「成氏」を名乗らせている。

 しかし、この成氏も上杉憲忠(関東管領)と反目して抗争をはじめ、ついには憲忠(山ノ内上杉家)の家宰・長尾景仲上杉顕房(扇ガ谷上杉家)の家宰・太田資清(太田道灌の父)が鎌倉に攻め込んで成氏を討ち取ろうとする事件まで起こった。長尾・太田の鎌倉攻めをいち早く察した成氏は江ノ島へ逃れ、成氏から知らせを受けた千葉介胤将(胤直嫡子)は、同じく駆けつけた小田氏・宇都宮氏らとともに長尾・太田勢を由比ガ浜に防いで退け、成氏は一命を救われた。こののち、憲忠の叔父にあたる上杉重方が調停に乗り出して成氏・憲忠は和解した。

 しかし、亨徳3(1454)年12月、成氏は上杉憲忠を鎌倉において暗殺してしまっため、幕府は成氏を謀反人として諸大名に追討を命じ、胤直もこの命に従って成氏追討の兵を集めた(亨徳の乱の始まり)

 成氏と上杉勢の戦いは、亨徳4(1455)年正月の武蔵国嶋河原・分倍河原の戦いで成氏方の勝利に終わり、上杉方は常陸国小栗城へ退き、籠城を余儀なくされた。こうして成氏方が有利に進めていく中で、千葉でも異変が起こった。 

 千葉庄千葉館に一族で重臣でもある原越後守胤房が突如として軍勢を率いて攻め寄せた。原氏は宗家の重臣である円城寺氏と領地をめぐる争いなど、事々に対立をしていたようで、そのことがこの挙兵に関係していたのかもしれない。この千葉合戦がどれほどの規模で、どれほどの期間行われたのかは不明だが、『本土寺過去帳』の二日上段には「曾谷浄忠 二月 千葉合戦打死」とあり、千葉宗家の直臣であると考えられる曽谷浄忠が、原氏との合戦で討死したとするならば、二月二日の時点ではすでに合戦が行われていたこととなり、おそらくは正月末ごろから始まったのではないかと思われる。 

嶋城
千葉介胤直らが籠った嶋城

 この当時、千葉氏は亥鼻城に居住していたわけではなく、都川のほとり、現在の千葉地裁の周辺に館を営んでいたと考えられている。亥鼻城がいつ頃から機能していたかは諸説あるが、三月頃まで合戦を続けているようなので、亥鼻の台地上に拠ったのかもしれない。しかし、結局は胤直らは千葉から逃れ、香取郡千田庄内の多古城・志摩城へ逃れた。ここは円城寺氏や胤直に近い武士たちの所領があったと思われ、彼らを頼って落ち延び、上杉氏の援軍を待って籠城をしたのだろう。

 しかし閏4月、小栗城が古河勢によって落城し、上杉方の敗色が濃くなる中で、上杉氏の援軍を頼ることもできなくなった。ただ、上杉氏は千葉氏への援軍を常陸国信太庄の山内衆に命じており、これに応じたと思われる「常陸大掾殿妙充」「同子息」が千田庄の戦いで戦死を遂げている。

 こうした上杉氏からの援軍も成氏勢によって滅ぼされ、8月12日には志摩城もついに落城。胤直の嫡子・千葉介胤宣(「五郎殿十三歳」「法名妙宣」)常陸大掾親子円城寺下野妙城(下野守尚任)、壱岐守妙臺日向守妙向狩野日向朗典らが討死を遂げ、大野小五郎とともに妙光寺に逃れていた胤直も、15日に自刃して果てた。法名は相應寺殿真西一閑臨慎阿弥陀仏

多古土橋の東禅寺
土橋東禅寺跡

 遺骸は土橋東禅寺(多古町寺作)に葬られたといわれ、現在も東禅寺墓所には、胤直とその眷属の墓とされる墓石が残されている。しかし、『鎌倉大草紙』によれば、胤房は胤直らの遺骨を「千葉の大日寺」に送って葬ったとされている。旧妙見寺(千葉神社)と旧来迎寺地(道場北)の間は、かつて「相應寺」という地名があり、そこには相應寺という寺院がかつてあって寺院が何らかの理由によって消滅したのちも二つの塚が残っていたと伝えられている(相應寺の位置)。

 胤直の弟・千葉中務大輔胤賢入道は兄・胤直が自刃したのちも志摩城(地図)の南にある小堤城(地図)に籠って馬加・原勢を防いでいたが、9月7日、遂に自刃して落城した。胤直・胤宣の死によって、常胤以来の千葉介嫡流は断絶することになる。一書では胤直は「勇あって情けなし」との評価をされ、康胤は国内の豪族たちの支援を受けて挙兵したともいわれている。一方、自害した胤賢の子孫は武蔵千葉氏となり、下総千葉介と対立していくこととなる。

●某年9月11日『将軍家御内書』

 御成敗御文字事、中山殿へ尋申之處、未及見以密儀可尋申摂家哉之旨承之、仍伊勢守方へ相談之處、既ニ思召被聞食云々、同類歟或公家方々へ被進之御書等ならは、御文字不可書載之乎、家人等方へハ御字可書載之旨、被申之間書之訖、
 
 普広院様御自筆永享十一、此案文飯尾肥前守為種書上之
 代々御内書之趣、誠戦功厳重也、今度忠節又不相替先例候、感悦無他候也、

    九月十一日
      千葉介殿

●永享12(1440)年10月25日『千葉介胤直安堵状』(『檪木文書』:『市川市史』所収)

 下総国真間根本寺別当職事、任代々判形之旨、住持不可有相違、若有違乱館

●永享12(1440)年11月27日『千葉介胤直書状写』(『檪木文書』:『市川市史』所収)

 千葉殿御状案文

 永享十二年十二月廿二日参着為当陣祈祷祓一合給候、目出候、
 次相馬郡内神役事、一途落居已後可申付候、恐々謹言 
 
   永享十二年庚申歳十一月廿七日   平胤直(御判)
 
  謹上 外宮禰宜殿

★千葉介胤直の家臣★

家老

原 円城寺 鏑木 木内

側近

板倉 山梨 澤井 土屋 小池 神保 岩井 高田 多田 池内 粟飯原

家臣

押田 海保 木村 石原 大友 山内 飯田 八木

★千葉介胤直とともに戦って没した人物★

千葉介宣胤(胤宣)  五郎殿十三歳 享徳四乙亥八月
千葉介宣胤 法名 妙宣
『本土寺過去帳』十二日
千葉介胤直 千葉介胤直 相応寺浄瑞号日瑞
 享徳四乙亥八月大野小五郎御供申人妙光ニテ御腹被召
『本土寺過去帳』十五日
千葉中書(賢胤) 享徳四乙亥九月ヲツヽミニテ腹被切
千葉中書了心 改名奉号日了
『本土寺過去帳』七日
+―円城寺下野妙城

+―壱岐守妙臺

+―日向守妙向
享徳四乙亥八月 其外多古嶋城ニテ打死諸人成仏得道 『本土寺過去帳』十二日
狩野日向朗典 享徳四八月
狩野日向朗典 於嶋打死
『本土寺過去帳』十二日
池田胤相    
常陸大掾殿妙充・同子息 常陸大掾殿妙充
同子息
『本土寺過去帳』十二日
大野小五郎 千葉介胤直 相応寺浄瑞号日瑞 享徳四乙亥八月
大野小五郎御供申人妙光ニテ御腹被召
『本土寺過去帳』十二日
円城寺因幡守    
木内左衛門尉    
高田胤行 嶋城の北にある高田村(香取郡多古町高田)の土豪か?
もしくは肥前国小城郡甕調郷高田(三日月町高田)発祥で、
千葉氏の千田移住にともなって下総にきた一族かも。
 
下野日仙 下野日仙 九月 九州人タコニテ被害 『本土寺過去帳』十四日上段

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