相馬氏惣領 相馬義胤

相馬氏
代数 名前 生没年 父親 母親 備考
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘 相馬家の祖
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常 畠山重忠討伐軍に加わる
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤  
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱 胤綱死後、継母に義絶される
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏 濫訴の罪で所領三分の一を収公
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳) 幕府に惣領職を主張するも認められず
 7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤 奥州相馬氏の祖
 8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘 足利尊氏に従って活躍
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘 南朝の北畠顕信と戦う
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼  
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤  
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘  
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤 標葉郡領主の標葉清隆と争う
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤 標葉郡を手に入れる
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘 伊達晴宗と領地を争う
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘 伊達政宗と激戦を繰り広げる

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■十七代惣領家■

相馬<strong>義胤</strong> 相馬氏十六代 (1548-1635)

<正室> 伊達稙宗末娘
<後室> 長江紀伊守盛景娘:深谷御前・おきたの方(月潭秋公大禅定尼)。元和4(1618)年、江戸で遠去。五十五歳。
<側室> 斎藤左衛門重隆娘(高公大姉)。正保元(1644)年9月4日、中村城内田子屋にて卒。六十八歳。
<幼名> 不明
<通称> 孫次郎
<父> 相馬弾正大弼盛胤
<母> 掛田伊達義宗の娘
<官位> 従五位下
<官職> 長門守
<法号> 蒼霄院殿外天雲公大居士
<墓所> 小高山同慶寺(相馬郡小高町)

●相馬義胤事歴●

<strong>義胤</strong>花押
相馬義胤花押

 父は相馬弾正大弼盛胤。母は掛田義宗娘。幼名は不明。通称は孫次郎。妻は伊達稙宗末娘。後室は長江紀伊守盛景娘(深谷御前)。官途は長門守。「義胤」の「義」は水戸城主・佐竹常陸介義重からの偏諱

 天文17(1548)年、相馬盛胤と掛田義宗娘の間に生まれた。父・盛胤の母は伊達稙宗の娘であり、義胤は伊達稙宗の曾孫となる。また正妻は祖母の妹。また、義胤の母方の祖父・掛田義宗も伊達一族であり、義胤は伊達氏の濃い血を受け継いでいる。しかし、義胤の生涯は伊達氏との戦いに費やされたといっても過言ではない。

 義胤が誕生した天文17年という年は織田信長斉藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が結婚した年であり、越後では守護代・長尾晴景が家督を弟・景虎に譲った年でもある。長尾景虎はその後、上杉家から上杉の名跡と関東管領職を譲られて(将軍に公認されていない)「上杉謙信」を称した。  

☆相馬義胤と伊達家との血縁系図☆(赤字は相馬氏、青字は伊達氏、緑色は掛田伊達氏) 

              相馬高胤――相馬盛胤―――相馬顕胤
             (治部少輔)(大膳大夫) (讃岐守) 
                           ∥―――――――――――――相馬盛胤
 伊達持宗――伊達成宗―+―伊達尚宗――伊達稙宗―+―娘            (弾正大弼)
(大膳大夫)(大膳大夫)|(大膳大夫)(左京大夫)|               ∥
            |            +―伊達晴宗――――伊達輝宗  ∥―――――相馬義胤
            |            |(左京大夫)  (左京大夫) ∥    (長門守)
            |            |               ∥
            |            +―娘             ∥
            |              ∥―――――+―掛田義宗――娘
            +―掛田義宗――掛田元宗―――掛田俊宗  |(兵庫頭)
             (兵庫頭) (兵庫頭)  (中務大輔) |
                                 +―藤田晴近
                                  (七郎) 

■初陣■ 

 永禄6(1563)年7月、十六歳の義胤は初陣を迎えた。初陣は重臣の草野直清(中村城主)・青田顕治(黒木城主)の謀反追討で、草野直清は伊達輝宗に通じて坂本城の舟山豊前・大谷地掃部を引き入れ、磯部城に攻め寄せた。  

 しかし、磯部城代は相馬家きっての勇将・佐藤伊勢守好信であり、伊達軍の猛攻によく耐え、急を聞いて小高から駆けつけてきた盛胤義胤の本隊と合流して、伊達勢をおおいに打ち破った。この戦いで伊達勢は舟山豊前・大谷地掃部の両将、さらに草野直清も戦死青田顕治は中村城に逃れたものの、盛胤の開城勧告に従って三春城に逃れていった。戦後、盛胤は舟山豊前の遺骸を中村城南東の馬場野に運ばせて塚をつくり手厚く葬った。 

■家督相続■ 

 天正6(1578)年、三十一歳で家督を相続し、相馬家十六代当主となった。 

 しかし、家督を継いだ早々、黒木中務宗俊(黒木城主)・堀内四郎宗和兄弟がひそかに伊達家に内通。天正8(1580)年8月18日、黒木宗俊が父の藤田晴近(馬場野城主)に計画を漏らし、怒った晴近が宗俊を討とうとしたものの逃げられ、実の息子である宗俊宗和の謀反の陰謀を早馬で小高城の義胤に知らせた。  

 義胤はこの報告を受けると兵を集めて、隠居の父・盛胤にも出陣を求めると同時に黒木城へ攻め寄せた。この急襲に黒木城はあっさりと陥落。建昌寺の住職が陣中に駆けつけて宗俊宗和二人の助命を嘆願したため、義胤は彼らの父・晴近の忠義に免じてこれを受け容れ、兄弟は相馬領を追放された。こののち兄弟は伊達家を頼っており、青田信濃の叛乱など、先代・盛胤の代から伊達氏による相馬氏家中への内部工作が行われていたことがわかる。 

☆相馬氏と黒木・堀内の関係図☆ 

  西胤信――――娘
         ∥――――相馬顕胤―――相馬盛胤――相馬義胤
  相馬高胤――相馬盛胤 (讃岐守)  (弾正大弼)(長門守)
 (治部少輔)(大膳大夫)
         ∥
         ∥――+―堀内近胤―+―堀内俊胤
         ∥  |(次郎大夫)|(右兵衛)
  葦名盛舜―――娘  |      |
            |      +=堀内宗和
            |      |(四郎)
            |      |
            |      +―娘   +―黒木宗俊
            |        ∥   |(中務丞)
            | 掛田俊宗   ∥   |
            |(中務大輔)  ∥―――+―堀内宗和
            |  ∥     ∥    (四郎)
            |  ∥――――藤田晴近
            |  ∥    (七郎)
            | 伊達稙宗娘 
            |
            +―黒木胤乗===黒木宗俊
             (三郎)   (中務丞) 

■佐藤宮内の裏切り■ 

 天正9(1581)年4月、伊達氏は相馬氏に攻め取られていた旧領の小斎・金山・丸森を奪還しようと坂本に出陣してきた。義胤もこれを聞いて菅谷に陣を張り、激戦となった(小深田合戦)。戦いは相馬勢の勝利に終わり、伊達勢は座流川を渡って矢野目城へと引き揚げていった。 

 しかし、この戦いの最中、最前線基地・小斎城主佐藤宮内為信謀反を起こして伊達氏に降伏した。以前から為信の謀意を密かに察していた義胤は、4月9日に為信の見張りとして金沢美濃守以下、三十騎を援軍の名目で小斎城に入れていたが、為信は謀反と同時に彼らをことごとく斬殺。4月13日には伊達勢を城に引き入れてしまった。伊達輝宗はさらに丸森城と金山城の奪還を実行に移し、軍勢を二手に分けて出陣した。

 これに対して相馬勢は、丸森城には堀内播磨守胤政とその父で名将の名が高い泉田胤清雪斎を入れ、金山城には佐藤一門の佐藤将監を入れて堅く守らせたので、さすがの輝宗も容易に攻め落せず、小高城から盛胤が出陣してきたことを知ると、ふたたび矢野目城へ退却した。おそらく、同年4月26日の書状と思われる義胤葦名盛隆宛ての書状(新編会津風土記所収)が残されているが、盛隆からしばらく音沙汰がないことを心配し、伊達勢が「当北境(伊具郡・宇多郡国境のことか)」へ攻め寄せてきているので、盛隆も御油断なき事を伝えている。  

■伊達政宗の初陣■ 

 佐藤為信が伊達家に寝返った翌月の5月上旬、輝宗はふたたび宇多郡に軍を進めた。このとき、輝宗は嫡男・藤次郎政宗を連れてきており、これが政宗の初陣であった。このとき政宗十五歳。義胤が初陣した年齢とほぼ同じであった。しかし、政宗の初陣は片倉景綱・遠藤基信・留守政景ら重臣たちにかこまれた形ばかりのものであり、目立った活躍はなかった。  

 7月13日、義胤は伊達勢の相馬攻めの拠点となっている矢野目城を攻め取るため出陣。輝宗も政宗を連れて城外に陣を張り、義胤は座流川をはさんで陣を敷いた。この日の夜、輝宗は亘理重宗や留守政景らに命じてひそかに川を渡らせて相馬陣中に奇襲をかけたため、義胤はみずから殿軍を指揮して伊達勢を防ぎながら退却。伊達勢も矢野目城へ引き揚げ、結局、義胤は矢野目城を奪うことはできなかった。

■伊達家との和睦■

 天正10(1582)年3月18日、輝宗は金山城を取り返すため再び出陣。叔父の亘理元安斎(亘理兵庫元宗)を金山城攻めの大将に任じて派遣した。元安斎は金山城を取り囲んだが、金山城主・佐藤将監の強烈な反撃にあって退却した。この戦いののち、政宗・義胤両者にゆかりの深い三春城主・田村清顕が調停に乗り出し、一門の田村月斎義胤のもとに遣わされて伊達家に金山・丸森の二城を返して和睦するよう勧めたが、義胤はこれを拒絶した。しかし清顕はこの後も両家の和睦のために奔走し、天正11(1583)年正月、ついに清顕自らが小高城に赴いて和睦を迫ったため、義胤もこれを受け入れる。

☆伊達家・相馬家・田村家の関係図☆

 伊達稙宗―+―伊達晴宗―――伊達輝宗――伊達政宗 
(左京大夫)|(左京大夫) (左京大夫)(左京大夫)
      |              ∥ 
      +――娘           ∥――――伊達忠宗【仙台藩初代藩主】
      |  ∥―――――田村清顕  ∥   (陸奥守)
      | 田村隆顕  (右京大夫) ∥
      |(右京大夫)   ∥――――愛姫
      |      +――娘
      +――娘   |
         ∥―――+―相馬盛胤――相馬義胤―相馬利胤【中村藩初代藩主】
       相馬顕胤   (弾正大弼)(長門守)(大膳亮)
      (讃岐守)

■伊達政宗の家督相続~輝宗の死■

 天正12(1584)年10月、伊達輝宗は十八歳の政宗に家督をゆずって隠居した。この若い伊達家当主はわずか二十四歳にして奥州南部を手中に収め、「独眼龍」の異名を持つ名将に育っていく。政宗が家督を継ぐと、義胤は先の和睦の約定通り丸森・金山の両城を伊達家へ返還し、和睦が成立する。

 翌天正13(1585)閏8月、政宗はたびたび反抗する大内定綱・片平親綱の兄弟をかばう会津黒川城主・葦名義広を討つとして米沢城を出陣した。葦名氏は天正12(1584)年、当主・葦名盛隆(二階堂家からの養子)が家老の松本太郎・栗原下総によって殺害され、常陸国の佐竹義重の子・義広が家督として迎えられていたが、葦名一門の猪苗代盛国が義広と対立。葦名家の勢力は次第に衰えていった。しかし葦名氏は伊達氏と並ぶ鎌倉以来の名門であり、その地盤は強固でたやすく討つことはできず、8月15日、猪苗代盛国の子・猪苗代盛胤と合戦すると会津を引き上げた。しかし、政宗は米沢へ帰陣すると見せかけ、小浜城の大内定綱へ矛先を変えた。

 小浜城主・大内定綱と二本松城主・畠山義継は、小浜城の出城・小手森城に在城して伊達勢に備えていたが、伊達勢だけではなく政宗の舅・田村清顕の軍勢も小浜城へ攻め寄せていることを知るや、畠山義継はあわてて二本松城へ帰城してしまった。大内定綱も小浜城を固める必要に迫られ、小手森城には城代として大内長門らを任じて小浜城へ戻った。

 そして8月24日、伊達勢の伊達成実・原田宗時の猛攻によって小手森城はあっけなく落城し、城兵は降伏。28日、城は伊達勢に引き渡された。

 9月25日、小浜城ののど元である岩角城が伊達勢の片倉景綱・伊達成実・白石宗実・桜田元親の軍勢に攻め落とされると、定綱は密かに小浜城から脱出し、葦名勢とともに二本松城へ逃れ、さらに不安を感じて会津へ逃亡した。そして26日、主のいない小浜城は落城。二本松城の畠山義継も観念して、八丁目城の伊達実元(政宗の大叔父)のもとに出頭し、政宗への取りなしを頼んだ。

 実元は義継の必死の訴えを聞いて、政宗に義継一党の帰参を訴えたが聞き入れられった。そのため義継は政宗の父で宮ノ森城の輝宗にすがりついて許しを請うた。輝宗は義継の降伏を説きに、政宗のもとを訪れ、義継らを許すように説得した。さすがの政宗も父の説得には逆らえず、義継の降伏を認めた。しかし、その条件は、二本松領の大部分は伊達家へ収公し、義継の嫡男・畠山国王丸を人質として差し出すことであった。この条件を呑んだ義継は10月8日、重臣の高森内膳・大槻中務・鹿子田和泉らとともに、お礼言上のため輝宗に面会し、夜半まで宴会が行なわれた。

 酒宴が終わり、輝宗が見送りに出ると、義継は「御取持深く過分の処に某を生害あるべき由、承て候」と発し、突然抜刀して輝宗を抱え上げ、城外へ連行した。あわてた伊達成実は、小瀬川に狩に出ていた政宗に急を告げ、片倉景綱・留守政景らとともに義継を追跡したが、輝宗が人質にとられていたことから手が出せず、二本松領の境である阿武隈川まで来てしまった。輝宗が二本松領に拉致されれば人質に利用されるため、伊達家としてはこの境で奪還しなければならない。ここに急を聞いた政宗が駆けつけた。このとき、義継の小脇に抱えられていた輝宗は政宗を認めると、「自分ともども義継を撃つべし」と命じたという。これを聞いた義継は、もはやこれまでと輝宗を刺し殺し、重臣等とともに伊達勢に斬り込み、討死を遂げた。この変を「粟之巣の変事」という。

■人取橋の戦い■

 政宗は討ち取った義継の遺体を城下で磔にかけて見せしめとしたが、この行為が奥州の諸大名を敵に回すこととなる。

 天正13(1585)10月15日、輝宗の初七日を済ませた政宗は、弔い合戦とばかりに一万五千の大軍を率いて二本松城へ攻め寄せた。しかし、すでに義継の嫡男・国王丸の救援のため、常陸国の佐竹義重が盟主となって反伊達連合が形成されつつあった。小高城の義胤にも畠山家への救援要請の使者が訪れているが、義胤は政宗とは和睦状態にあり、出兵したという記録はない。

◎反伊達連合に属した諸将

名前 簡 単 な 説 明 政宗との関係
畠山国王丸 陸奥二本松城主。畠山義継の子。義継は政宗妻・愛姫の従兄にあたる。  
佐竹義重 常陸水戸城主。文武両道の名将。連合軍の盟主となる。相馬義胤の烏帽子親。 叔父(叔母夫)
葦名義広 陸奥黒川城主。佐竹義重の子で輝宗の妹を母とする。 従兄弟(叔母が母)
岩城常隆 陸奥磐城平城主。伊達輝宗の弟・岩城親隆と佐竹義重の娘の子。 従兄弟 (父の弟)
石川昭光 陸奥晴山城主。伊達輝宗の弟。石川晴光の養子となった。佐竹義重の婿。 叔父 (父の弟)
二階堂盛義 陸奥須賀川城主。伊達輝宗の従兄弟で葦名盛隆の父。 又叔父
白河義親 陸奥白河城主。南朝の名将・結城宗広を祖とする。  

 佐竹義重は安積郡にあった伊達氏領を攻略し、10月16日、奥州街道と会津街道の交わる前田沢城に三万の軍勢で陣を張った。これを聞いた政宗は、二本松城周辺に白石宗実らを残し、八千人を率いて岩角城、本宮城へと進み、連合軍と対峙した。

武将名 行動 兵力 後記
伊達政宗
留守政景
原田宗時
茂庭左月斎
片倉景綱
亘理元安斎
亘理重宗
岩角城→本宮城→観音堂山 4,000名 仙台初代藩主となる。「独眼龍」とよばれた名将。
政宗の叔父で、一門の筆頭。政宗の名代。
伊達家累世の家臣で武断派で知られたが、朝鮮の役で対馬にて客死。
伊達家累世の家臣。人取橋の戦いでは政宗の危機を救うために戦死。73歳。
政宗の片腕的な存在で、智謀あふれた武将。子孫は江戸時代に仙台藩領白石城代。
政宗の大叔父で、外戚の亘理家を継ぐ。主に相馬氏との折衝を担当する。
元安斎の子。相馬盛胤の女婿。相馬氏との戦いで、駒ヶ嶺・新地城を攻略する。
伊達成実 瀬戸川館 1,000名 政宗の従弟。武勇の将で政宗の片腕的存在。徳川家光にも召し出される。
泉田重光 先鋒   伊達晴宗以来の世臣。政景とならぶ伊達家の重鎮。
国分盛重
天童頼澄
杉田城→政宗に合流
杉田城
  政宗の叔父で、藤姓国分氏の家督を継承する。政宗の名代を勤める。
奥州斯波氏の一族。
白石宗実 玉井城→最前線に出て戦う 500名 伊達氏の古い一族。成実と並んで伊達軍の主戦力。
高倉近江
富塚信綱
桑折宗長
伊東重信
高倉城 1,000名  
瀬上景康
中島求宗
浜田景隆
桜田元親
本宮城 500名 政宗が豊臣秀次に連座されようとしたとき、秀吉に訴えでてその疑いを解いた。


政宗の長子・秀宗が宇和島藩主として赴くと、従って家老となる。

 戦いは阿武隈川の支流・瀬戸川にかかる人取橋周辺で起こり、俗に「人取橋の戦い」といわれている。この戦いは熾烈を極め、政宗八千に対し、連合軍は三万。佐竹義重は主力の一万人を率いて政宗の本陣に攻め寄せ、人取橋周辺で激戦となった。

 政宗の本陣は四千名で固められていたが、勇猛で鳴る佐竹勢の突撃の前に崩れ、政宗は鬼庭左月斎の自殺的な突撃の間に本宮城まで退いた。茂庭勢は佐竹勢を食い止めたが、甲冑もつけず、綿帽子をかぶっただけの軽装であり、六十騎の家臣とともに戦死した。享年七十三。

 一方、葦名義広は一万人を率いて、前戦に踊り出た白石宗実勢五百名、伊達成実勢一千名と激戦を繰り広げた。成実はこの十倍の敵勢に斬り込んで奮戦したものの敗れ、本宮城まで退却した。こうして初日の戦いは日暮れとともに終わり、伊達勢は本宮城に追い込まれてしまった。

 しかし、この日の夜、佐竹一族の佐竹義政が下僕に殺される事件が発生し、佐竹家の本国・常陸国では江戸重通が挙兵。さらに安房の里見義頼が常陸へと向かっているという注進が義重のもとにもたらされたため、義重は兵をまとめて常陸に帰らざるを得ず、盟主の撤退により反伊達連合軍はそれぞれ兵をまとめて引き上げていった。こうして命拾いをした政宗は、10月18日に岩角城へ移り、さらに小浜城へ移って連合軍の再征に備え、翌天正14(1586)年6月、二本松城へ向けて進軍した。

 義胤は当時、政宗との和睦を重んじており、当時相馬家との交渉役だった亘理元安斎(元宗)が相馬家へ二本松攻めについて通達したことを受けて、叔父の相馬守謙斎(胤乗)を政宗のもとに送り、「御太義難紙上尽次第候」と労意を表した上で、「如及先報候、自今以後者、相応之義、無御隔意候者、尚以可為本懐候」と政宗との和睦を今後も重視していることを伝えている(『伊達政宗文書』)。そして7月16日、政宗は二本松城を攻め落とし、畠山氏を滅ぼした。

■三春合戦■

 ところが、この和親に水をさす出来事が勃発する。天正14(1586)年11月18日、三春城主・田村右京大夫清顕が跡継ぎを残さぬまま急逝し、田村一門の田村月斎頼顕橋本刑部少輔顕徳は亡主の一人娘・愛姫の夫である伊達政宗に三春を託そうとし、大越紀伊守顕光は清顕の妻の実家・相馬家を推して激しく対立することとなった。大越顕光が相馬家を推したのは、おそらく「田村ノ一家大越紀伊ハ相馬殿義胤ノ従兄弟」(『貞山公治家記録』)という血縁関係があったためと推察される。

      +―伊達晴宗―――伊達輝宗―――伊達政宗
      |(左京大夫) (左京大夫) (左京大夫)
      |               ∥
      | 田村隆顕          ∥
      |(安芸守)          ∥
      | ∥――――――田村清顕   ∥
      | ∥     (大膳大夫)  ∥
      +―娘      ∥      ∥
      |        ∥――――――娘
      |        ∥     (愛姫)      
 伊達稙宗―+―娘    +―娘
(左京大夫)| ∥    |(田村後室)
      | ∥    |
      | ∥――――+――――――――相馬盛胤
      | ∥            (弾正大弼)
      | ∥             ∥
      | 相馬顕胤          ∥―――――――相馬義胤
      |(讃岐守)          ∥      (長門守)
      |               ∥
      +―娘             ∥
        ∥――――――掛田義宗―+―娘     
        掛田俊宗  (兵庫頭) |       +―大越顕光
       (中務大輔)       |       |(紀伊守)
                    +―娘     |
                      ∥―――――+―娘
                      ∥       ∥
                      ∥       ∥
               大越常光―――大越利顕    ∥
              (右近太夫) (摂津守)    ∥
                              ∥
                      田村頼顕――――田村顕貞
                     (月斎)    (宮内大夫)

 天正16(1588)年閏5月12日、義胤は軍勢を率いて三春に侵入する(『伊達政宗書状』)。相馬方の記録によれば、三春城に入った義胤は親伊達派の田村月斎らによって銃撃を受け、岡田摂津守江井河内胤治入道大甕与五右衛門泉田甲斐らが戦死。義胤は事態を察し、すぐさま整然と兵をまとめるや城内を駆け抜けて船引まで退却したという。このとき、親相馬派の大越顕光義胤のもとを訪れ、銃撃の張本人である田村月斎・橋本刑部らの屋敷を占領して妻子を人質とするよう進言した。しかし義胤「男のいない屋敷に押し入って女子供を人質とするなど、武士の行いではない」と退け、大越顕光を伴って小高に引き揚げたとある。しかし、実際は大越顕光は大越城に留まっている。

 義胤の三春侵攻は、おそらく清顕亡き後、家中を取り仕切った清顕後室(義胤叔母)や大越顕光ら相馬派家臣が義胤と謀ったものだったと思われる。しかし、義胤は「梅雪斎、月斎」ら田村勢の手痛い反撃に合い、「悉討取」られる事態となった。のちに相馬派に属すこととなる「田村一門惣頭」の梅雪斎は、突然の領国侵犯に対抗したということだろう。この三春侵攻を受けた政宗は「扨々田相間、前々一味骨肉之処、此度義胤無道之刷、絶言句候」と、義胤が自らと骨肉の田村家に無道な侵略を行ったと吹聴している(『伊達政宗書状』)。この三春領相続の問題が義胤と政宗との間を引き裂くこととなったのだろう。

☆田村家略系図☆(赤字は田村家当主、青字は伊達派、緑色は相馬派)

 田村持顕―+―直顕――盛顕――+―義顕――+―隆顕―――――――――+―清顕――――愛姫
(大膳亮) |(二郎)(左衛門)|(左衛門)|(左衛門)       |(右京大夫)  ∥――――忠宗―田村宗良
      |         |     |            |       伊達政宗
      |         |     |            |      (中納言)
      |         |     |            |
      |         +―義長  +●顕基―――+―清通  +―氏顕――――宗顕====宗良【一関藩主】
      |         |     |(梅雪斎) |(右馬助)|(孫九郎) (孫七郎)
      |         |     |      |     |
      |         |     |      +―女   +―娘
      |         |     |        ∥     ∥―――――畠山義継――国王丸
      |         |     |        ∥     畠山義国
      |         |     |        ∥
      |         |     +―憲顕―――+―清康――+―顕貞
      |         |      (孫右衛門)|(右衛門)|
      |         |            |     |
      |         +●顕頼――――顕康   +―顕俊  +―顕久
      |          (月斎)  (宮内大輔) (彦七郎)
      |
      +―橋本重顕―重時―……―顕徳
       (刑部少輔)     (刑部少輔)

 義胤の三春侵攻の翌閏5月13日には、政宗はすでに宮森城に駐屯しており、義胤の行動は政宗の把握するところであった様子がわかる。16日には相馬方の石川弾正が守る小手森城を政宗自ら攻め落し、相馬勢四百人余りが討死した(『伊達政宗書状』)。「五百余人令撫切」にしたとも(『伊達政宗書状』)。三春で打ち破られた義胤は船引に駐屯していたが、「田之面々、各無二此方皆奉公ニ而候条、義胤相可被打返路次、一筋無之候間、相馬之義、此表ニ而隙可明由存候」(『伊達政宗書状』)と、田村勢が船引から相馬への道を塞ぎ、義胤が孤立した危機的状況に陥っていたことがうかがえる。

 こうした状況の中、17日に相馬派の田村一門・大蔵城主の田村彦七郎顕俊が政宗の猛攻の前に降伏し、石沢に布陣していた相馬勢を攻める先陣とされた。田村勢は石沢近辺の家や作物を焼き払い、政宗率いる本隊が相馬勢と対峙した。

 18日、伊達勢と田村勢の包囲を受けていた石沢の相馬勢は、折からの大雷雨を利用して「にけ」、月山城や百目木城の親相馬派勢も義胤に従って城から引き揚げており、空き城となった百目木城へ政宗が入城した。遁れた相馬勢は船引城の義胤と合流したものと思われる。

 19日朝、孤立無援となった義胤を攻めるべく、政宗は諸勢を率いて船引城に打ち寄せ、相馬衆を執り籠める軍議を行っていたところ、「相馬殿いんしゅ、かくとうさきにて御申、あかはたかのていにて、てつほう、しょとうくとりすてられ御にけ候よし」が注進された(『伊達天正日記』)。義胤以下五百余騎は院主や学頭ら僧侶を先頭に、鉄砲や諸道具、馬までを打ち捨てて囲みを突破し、深山へ駆け入った。この相馬家による三春領侵攻は、義胤自身も「切腹タルヘキ」ほどの危機の中、各地で討たれた相馬勢は「誠々不知其数候」という大敗北であった。

 田村宮内大夫顕康(田村月斎の子)は、相馬勢の一翼である泉藤右衛門胤政率いる「相馬いつミ衆」を追い下し、胤政も「あかはたかて御申候、家内こと々々くうたせ御申、くそく八十五両、てつほう三十丁あまり、そのほかしよとうくかきりなくとらせられ御由候、いつミ殿きそくなとたちまて、宮内大夫殿御めしにて御ちんやへ御越候、おもての者馬上七きうたせられ首七ツとらせられ候、そのほかしよとうくきりすて、いけとりかきり御さなきよし」という状態での撤退であった。

 この三春の戦いで、義胤は「御ちう代の御かい」を陣中に取り捨てて退いており、田村顕康が戦利品として21日に政宗に進上。伊達家の法螺貝とともに「相馬殿かい」の吹き比べが行われている。

 22日には、亘理兵庫頭元宗が宇多庄の相馬領・原釜近辺まで侵入し、郷村に放火、相馬兵三十余人を討ち取った(『伊達政宗書状』)。この書状の中で、政宗は三春領内の対相馬戦は、「仍此表之儀、号大越一城相残候」と伝えており、相馬家に加担している大越紀伊守顕光の居城・大越城のみという状況になっていたことがわかる。しかも大越城はすでに「自万方取詰候間、二構迄相敗、実城計候、定一両日中、可為自落候哉」という状態にあったことがうかがえる。

 しかし、三春領は完全に政宗の手に握られることとなり、政宗は清顕の甥にあたる孫七郎を田村家の「名代」とした。

 三春領での相馬家大敗とあわせて、伊達家は宇多郡への侵攻を活発化させる。これに対し相馬家も宇多郡・田村郡への侵攻を開始する。これは義胤と盛胤の連携による侵攻と思われ、天正16(1588)年6月、隠居の相馬弾正大弼盛胤が居城の宇多郡中村城を発し、伊達領の伊具郡金山城に攻め寄せた。しかし、城将・中島宗求の用兵に敗れ、十五人の将が討たれ、盛胤自身の「めし馬まてのりすてられ候」という大敗を喫する(『伊達天正日記』)。一方、同じく6月12日、義胤がふたたび田村領へ向けて進軍していることが政宗の耳に届いており、義胤は19日、「うつし」に攻め入った。これに百目木城を守っていた鬼庭石見守綱元・田村宮内大夫顕康らが応戦し、翌20日、義胤は敗退した(『伊達天正日記』『貞山公治家記録』)。しかし、義胤は田村郡への侵攻を諦めず、田村郡常葉村周辺に軍勢を展開し、鬼庭綱元らと交戦をつづけている。

 7月4日、義胤はふたたび「南うつし」へ兵を進める。ここで田村宮内大夫顕康が義胤と対陣し、義胤の「ふたん物」が討ち取られる接戦が繰り広げられている。しかし、5月の田村郡における大敗が尾を引いているのか、相馬勢は「誠義胤無人数故歟、常葉、宇津志度々利ハル(『伊達政宗書状』)と、寡兵での戦闘を繰り返していた様子がうかがえる。

 義胤の三春領への侵攻は三度失敗に終わったようで、政宗は三春領の仕置きを万全にする指示を下している(『伊達政宗文書』)

 このような中、田村仕置きのために宮森城に入っていた政宗のもとに8月4日、「梅雪斎、田村右衛門太輔両人、先立義胤江逼塞之義候きや、不計被引除候」という事態が伝わり、政宗は翌5日、三春へ急遽移り、親伊達派の巨頭・田村月斎に万端命じている。田村梅雪斎顕基は清顕の叔父、右衛門太夫清康は梅雪斎の甥で、5月に政宗に降伏した田村彦七郎顕俊の兄にあたる。

■伊達政宗と相馬義胤の抗争■

(1)駒ヶ嶺・新地の陥落

 天正17(1589)年、伊達政宗は、亘理元安斎の嫡子・亘理重宗を主将とした軍勢を相馬領駒ヶ嶺城に差し向けた。これを知った義胤は父・盛胤に出陣を仰ぎ、盛胤は駒ヶ嶺城へ向かった。

 駒ヶ嶺城主・藤崎久長(治部丞)は相馬岡田氏の流れをくむ相馬一族で、家臣の村松薩摩・大浦雅楽らを指揮して必死に防戦したが城は陥落。久長は盛胤の陣へ逃れた。また、同じく新地城も伊達勢に取り囲まれており、内通者によって落城した。新地城主・泉田甲斐は城を落ちて盛胤と合流したが、城将・杉目三河は逃れきれずに囲まれ、伊達勢に突撃して戦死を遂げた。

 こうして相馬氏は小斎・丸森・金山・駒ヶ峰・新地など宇多郡の拠点のほとんどを伊達氏に奪い取られてしまう。

☆藤崎・杉目家関係図☆

 岡田義胤―+―茂胤―→【一門筆頭岡田氏嫡流】
(安房守) |(治部大輔)
      |
      +―立野永房―+―立野豊房―――藤崎久長【駒ヶ峰城代】
       (土佐守) |(太郎左衛門)(治部丞)
             |
             +―杉目右京進――杉目三河【新地城将】

 同年7月、義胤は新地城の奪還を目指して城を囲んだ。義胤の出陣を聞いた坂元城主・亘理元安斎は相馬勢をくい止めるため出陣し、相馬勢と激突した。しかし、相馬勢の勢いに押された亘理勢は壊走し、元安斎は坂元城へ退却した。このとき義胤は自らが先陣となって亘理勢に突撃していたが、陣中で義胤の姿を見た元安斎は手勢を率いて義胤を取り囲んだ。義胤はなんとか敵陣を切り開いて逃れたが、義胤を守るために踏みとどまった宿老・青田常清(右衛門尉)は戦死した。

相馬中村城
中村城大手先門

 この戦いののち、政宗は中村城の隠居・盛胤に降伏勧告の使者を送った。政宗はすでに葦名領を平定し、会津黒川城を本拠としていた。また、政宗と敵対していた結城義親(白河城主)も天正17(1589)年7月に降伏。10月には二階堂氏も須賀川城を落とされて滅亡。11月には石川昭光・岩城常隆も降伏し、すでに田村氏の三春領も併合していた政宗は、仙道七郡の領主となっていた。政宗に対抗していたのは相馬氏だけであり、政宗にとっては目の上のこぶだった。

 政宗は相馬家の主だった家臣に密使を送り、家中から崩壊させようと企てたが、草野城代・岡田兵庫助胤景が政宗の密使を捕らえて斬首。政宗に応じて謀反を起こした宇多郡山上村の庄司監物・庄司右近・荒九郎兵衛らは誅殺された。

 しかし、政宗の宇多郡侵攻は執拗で、盛胤と顔見知りの侍大将・保原伊勢を中村に派遣して降伏を勧めた。盛胤は伊勢と面会ののち、小高城の義胤のもとへ赴いて重臣を集めると、伊達家に服するか否かの軍議を開いた。

 盛胤は、「もはや奥州の覇権は政宗に握られており、常胤以来の家を失うことは人主としてあるまじきことである。この際、いっとき政宗の意に従うことも、家を絶やすことに比べればたいしたことではないと思うが、どうか」

義胤はじめ家臣に問うた。しかし、相馬家の家臣たちはいずれも口をつぐんで発言をしないため、義胤は、

「いまさら政宗の下知に従って汚名を残すより、潔く討ち死にいたすべし。我と同じ考えの者があれば百名でも政宗と戦って討死せん」

と降伏拒否を宣言したため、家臣たちもみな感涙に咽び、盛胤も

義胤がそのような考えであれば異論はない。存分になされるよう。我も義胤の下知に従って中村城で討死いたす」

と言って中村城へと戻った。  

 義胤は小高城に小高郷の諸士を残し、

「明朝、我と命運をともにする者は妙見社にて御神水を飲む。異議あるものは来るに及ばず。恨みには思わぬ」

として、翌早朝、妙見社に赴いた義胤は熊野牛王の起請文を焼いて灰とし、大鉢に注いだ御神水にもみこむと、義胤以下足軽にいたるまでこれを回し飲んで誓約した。その数、実に四百八十名と伝わる。

 しかし、天正18(1590)年、関白・豊臣秀吉が小田原北条氏追討のため出兵。奥州の諸大名にも出兵の命が下り、政宗はもちろん、政宗と一触即発だった義胤のもとにもただちに小田原へ兵を出すよう厳命が届いた。

(2)小田原の陣

 天正18(1590)年3月1日、秀吉は北条氏が「惣無事令」に反して真田昌幸の所領・上野国名胡桃城を攻略した罪により、小田原追討の軍を起こした。秀吉の総兵力は実に二十万人。義胤は2月に小田原出陣の命令を受けたが、遅参して5月に小田原に着陣。石田三成の周旋によって許された。 

 一方、政宗は4月6日、小田原へ向うため準備を整えていたが、前日の4月5日、母の保春院によって毒を盛られたという。置毒の事実は不明ながらこのとき弟・小次郎が斬られており、小次郎の謀反が背景にあった可能性はある。結果として政宗の出立は遅れ、越後から信濃・甲斐を通って小田原へ出るという遠回りのルートで、6月5日、ようやく箱根に至った。ここで政宗は秀吉に謁見を願い出たものの、戦いの大勢はすでに決し、遅参を咎められた政宗は謁見もかなわず箱根の底倉に謹慎を命じられた。

 政宗は総髪にして謹慎の意を表していたが、ここに浅野弾正少弼長吉(のちの浅野長政)が詰問の使者として訪れた。実は、政宗が箱根にたどり着く間に伊達家と相馬家の間で「十二所潼生淵の合戦」が勃発していた。私戦を禁止する「惣無事令」に反した行為につき詰問されたが、政宗は、「自分が田村家から三春領(田村旧領)を譲られたのにもかかわらず、義胤が三春領に介入していたため、このような始末になりました」と答えたためこの件は不問とされ、6月9日、謁見を許された政宗は鎧の上に白の陣羽織をまとった「死装束」のいでたちで秀吉を訪れたという。

 政宗の謁見所は小田原城を眼下に望む箱根山中・笠懸山に築かれた石垣山城の普請場で、徳川家康・前田利家などの重鎮が詰めていた。政宗は遅参の罪を許されたものの、旧葦名領である会津・岩瀬・安積諸郡を没収された。このときの政宗の本拠地は会津黒川城であり、政宗は本拠を追われることとなった。しかし、二本松・塩松・田村郡は安堵され、6月14日、政宗は黒川城引渡しのために会津へ帰還している。

(3)十二所潼生淵の大敗

 遡ること1か月、天正18(1590)年5月14日、伊達勢の亘理重宗(坂元城主)、黒木宗俊(駒ヶ峰城主)、佐藤藤右衛門(小斎城主)が中村城へ攻め寄せた。このとき、政宗・義胤の両将ともに小田原へ向かっており、政宗が5月9日に黒川城を発つ際に中村攻めを指示していたものか。

潼生淵
潼生淵周辺の地図

 中村城を守っていたのは義胤の弟・相馬兵部大輔隆胤で、剛勇無双の猛将として知られていた。隆胤は伊達勢が押し寄せると、わずかな手勢を率いて石上村に迎え討った。

 隆胤が石上村で黒木宗俊勢と争っていたとき、黒木城代・門馬上総介貞経が援軍に駆けつけ、隆胤勢と合流して黒木宗俊勢を防いでいたが、貞経が伊達勢の矢田但馬に狙撃されて落馬したことから戦況が一変。貞経は水谷孫右衛門によって救出されたが亡くなった。門馬貞経は鎌倉時代、相馬重胤とともに奥州へ下った文間胤直の嫡流で、貞経の死後、弟・紀伊守が後見人となって幼い嫡子・嘉右衛門兼経を支えた。

 隆胤も自ら大なぎなたを振るって奮戦したが、馬が深田に足を入れてしまい、身動きが取れなくなったところを討ち取られた。このとき、彼を救おうとした佐藤万七、泉藤六郎、荒藤八郎、佐藤文七郎、佐藤孫兵衛らも討死を遂げた。

 この戦いのとき、隠居・相馬盛胤は隆胤とともに中村城にあり、合戦では殿軍を率いていた。しかし、門馬貞経と次男・隆胤討死の報を受けると、戦いに敗れたことを察して全軍に退却を命じた。このとき盛胤にしたがっていた者はわずか十騎に過ぎず、盛胤はじめ諸将の馬もあらかた射られており、木幡因幡・門馬修理・木幡与惣右衛門・半杭亦右衛門・門馬次右衛門・桑折小右衛門・大浦雅楽助の七将が伊達勢を防いでいる間に盛胤は中村城へ逃れた。この戦いを「十二所潼生淵の戦い」という。

 もはや相馬氏には、大きく成長した政宗の勢力に対抗する力はなかった。しかし、時代は戦国時代から秀吉による厭武政治に移り、すでに戦いによって領地を広げることは「惣無事令」によって禁じられており、政宗と義胤の兵を交える戦いはこれを最後に行われることはなかった。

 この合戦は「惣無事令」に反した事件だったが、義胤、政宗ともに不問にされたという。

■朝鮮出兵■

◆奥州仕置◆

 天正18(1590)年7月5日、小田原北条氏は秀吉に降伏。7月11日、隠居の北条氏政と弟・北条陸奥守氏照、重臣の松田尾張守憲秀、大道寺駿河守政繁は切腹を命じられ、当主・北条左京大夫氏直は高野山へ追放となった。こうして小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、7月17日、奥州の仕置のために小田原を発ち、7月26日に下野国宇都宮城へ入った。

 秀吉は小田原合戦に際し、奥州の諸大名にも小田原参陣の厳命を下していたが、従わなかった者たちが数多くあった。秀吉は彼らに対して峻烈な態度で臨み、宇都宮城において大崎義隆、葛西晴信石川昭光、和賀忠親、稗貫広忠、結城義親、田村宗顕をはじめとする不参陣の名門大名を一挙に改易することを決定した。

 その後、8月9日に秀吉は会津黒川城に入城し、奥州諸大名の仕置を実行に移すとともに、甥の三好秀次浅野長吉らを奉行として検地を行った。こうして秀吉は奥州から九州までをまとめあげ、室町中期より続いた乱世を終らせた。

◆文禄の役◆

 9月1日、秀吉は京都に凱旋した。宿敵・政宗も会津領を喪った上に「惣無事令」を奉じた立場にあっては、相馬領を窺う可能性は低く、義胤は帰国することなく秀吉に供奉して入京した。そして、北野千本(京都市上京区千本)に屋敷地を与えられ、妻子を京都に置くよう命じられた。また、在京分として近江国蒲生郡大森村に五百石を拝領した。

 翌天正19(1591)年、義胤は帰国を許され、小高城に帰城した。しかし、早くも同年中、秀吉から朝鮮出兵のため上洛が命じられた。朝鮮への渡海は翌天正20(1592)年2月、3月の頃と定められており、義胤はただちに軍勢を催促した。しかし正月、義胤は急病に倒れ、豊臣政権の五奉行に宛てて参陣供奉に間に合わない旨を伝えた。義胤は上洛以来、五奉行の一人・石田三成と昵懇であったためか、供奉延期の願いは許され、秀吉は3月26日、諸軍勢を率いて京都を発ち、朝鮮出兵の拠点として建てられた巨城・肥前国名護屋城へ向かった

 3月、ようやく病が癒えた義胤は、一門筆頭の岡田右衛門大夫清胤を先陣として小高城を出陣。4月に京都に到着した。しかし、岡田清胤は道中の病によって京都で死去。清胤を喪った義胤は、岡田勢を直轄軍に加えて京を出立、4月22日に名護屋城へ到着し秀吉に謁見した。秀吉は義胤が病をおして奥州から遥々参陣したことに忠義神妙であるとして賞賛され、手ずから帷子・陣羽織がねぎらいの品として与えられた。さらに名護屋城北西部島津屋敷隣地に屋敷地を賜った。その後、義胤は家臣・原近江を五奉行の増田長盛・石田三成のもとに派遣して、朝鮮の情勢を問い合わせている。

 しかし義胤は朝鮮に渡海することなく、文禄3(1594)年8月14日、秀吉が帰京するに当たり供奉。8月25日に大坂に着船し、京都北野千本の相馬屋敷に入った。その後、しばらく在京し、慶長元(1596)年、帰国が許され小高城へ帰還した。

 文禄の役では伊達勢がとくに目をひいた。その陣容は命じられた兵員数の二倍の三千人に及ぶ大軍団で、先頭は「竹に雀」の紋を染め抜いた大纒、さらに紺地に金箔の日の丸の幟が三十本続き、足軽は八寸の鍔を持つ三尺の金のとんがり帽子をかぶり、鎧は漆黒地に金丸、太刀は銀の柄巻に朱色のだんびら鞘の装い、さらに馬上の将たちも鎧は漆黒、太刀は金のだんびら鞘、毛皮の馬鎧を用いるという奇抜な軍団だった。とくに原田宗時は、黒豹の馬鎧に一間半の長さの木刀を肩から懸けており、これら異様できらびやかないでたちは「伊達者」の語源となったという。

◆文禄の検地◆

 文禄2(1593)年9月、義胤が肥前に赴いている間に相馬領内において検地が行われた。これを「文禄検地」という。「文禄検地」は宇多郡・行方郡・標葉郡の相馬氏領全域で行われ、代官は飯塚胤安ら九名が担当した。結果、五千五十三貫三百四十文、家臣は三百三十八名であることが確認された。

◎検地奉行◎

・飯塚胤安(但馬守入道幻夢斎)・品川房清(下野守)・熊 重清(越後守)・木幡信泰(出雲守)・木幡隆清(駿河守)・
・木幡久清(五郎右衛門)・佐藤信定(源右衛門)・木幡秀清(九郎兵衛尉)・水谷胤満(伊予守)

◎検地結果◎

所領 石高 給人数 高禄者
小高郷 1,230貫644文 129人 門馬伊予守《92貫280文》
北郷 398貫749文 46人 田中忠次郎郷胤《135貫110文》
中郷 1,325貫707文 71人 岡田兵衛大夫直胤(?)《265貫860文》
泉藤右衛門胤政《301貫78文》
大井太郎左衛門胤重《107貫95文》
金沢主水正胤昌《83貫790文》
飯塚右兵衛尉《81貫270文》
標葉郡 896貫654文 42人 泉田掃部《275貫530文》
岡田武衛門《80貫760文》
熊川勘解由介《80貫550文》
宇多郡南方 903貫567文 23人 相馬盛胤入道《471貫540文》
宇多郡北方 298貫621文 27人 相馬胤乗入道《131貫830文》
 =5,053貫340文 =338名   

■秀吉の死と関が原の戦い■

小高城
小高城(小高妙見社)と妙見橋

 慶長3(1598)年8月18日、秀吉は京都伏見城にて六十二歳の生涯を閉じた。

 このとき義胤は、居城を小高城から牛越城(原町区牛越)へ移している作業中で、秀吉薨去の報告を受けた義胤は直ちに上京し、備前菊一文字の太刀を形見として拝領した。その後しばらく京都に逗留した義胤は、翌慶長4(1599)年8月、帰国した。

 翌慶長5(1600)年6月16日、五大老筆頭・徳川家康は陸奥国会津の領主・上杉景勝(五大老)を秀頼に対する謀反の疑いありとして、豊臣秀頼の命を奉じて大坂城を出陣した。この隙を突いて、近江佐和山城にいた石田三成が、五大老の一人・毛利輝元を擁して、徳川家康追討の兵を挙げた。

 相馬義胤と石田三成は十年来の入魂であり、義胤は嫡男・虎王丸の烏帽子親を三成に依頼し、虎王丸は三成から「三」字を偏諱され、相馬孫次郎三胤と称していた。これほどの間柄であったため、石田三成の挙兵が伝わったときも、これまた三成と昵懇の佐竹右京大夫義宣岩城忠次郎貞隆らとともに中立の立場をとって、徳川家康率いる征討軍に参加することはなかった。

 石田三成の挙兵を聞いた家康は下野国小山から軍勢を返し、9月15日、美濃国大垣城外、関が原において石田三成率いる軍勢をわずか半日で壊滅させた(関が原の戦い)。そして9月21日、近江国で捕らえられた三成は、10月1日、京都三条河原で斬首され、近畿における騒乱は一応の終結を見た。

 しかし、東北地方では上杉勢と結城秀康(家康次男)を大将とする留守部隊の戦いは続いており、10月、徳川方に属する伊達政宗の軍勢二万と上杉勢六千が、福島城近く松川にて戦い、伊達勢は敗れて白石城へ退くという波乱があった。

 このような中、相馬家家老・水谷胤重(式部丞)は、これ以上徳川家に協力せずに中立を保つことは相馬家存亡に関わるとして、慶長6(1601)年正月20日、領内に住む無宿人を集め、伊達勢とともに上杉領・月夜畑城二本松市戸沢字月夜畑)に夜襲をかけた。しかし、月夜畑城兵はこれを見事に防ぎ、相馬勢百五十名、伊達勢二百五十名もの死者を出した。この合戦を「月夜畑の戦い」という。

■相馬家改易■

 これら「慶長の役」では、相馬家は中立の立場をとって、ほとんど戦うことはなかった。また、義胤が三成と入魂だったことも家康は知っていたのだろう。戦後、家康からは何ら音沙汰がなかった。このような中、10月16日に義胤の父・弾正大弼盛胤が七十三歳で亡くなった。籌山勝公大居士

 相変わらず音沙汰がないままに年が明けて半年ほど経った慶長7(1602)年5月11日、野馬追神事が執り行われ、翌12日、牛越城下の苅谷沢で野馬掛神事が行われている最中、常陸国水戸城の佐竹義宣より飛簡が到着した。

 佐竹義宣は石田三成と結託していたことが顕かとなったため、

(1)佐竹家八十万石は没収のうえ、出羽国秋田砥沢二十万五千石へ転封の事
(2)岩城貞隆・相馬義胤の両名は佐竹家一門であるから領地召し上げの事
(3)岩城家・相馬家は佐竹家とともに秋田へ移るべき事

 以上の命が下ったことを伝えるものだった。義宣からは、相馬家分の領地についての沙汰は下っていないが、ともに秋田へ参られるのなら一万石を配分する旨が記されていた。

 この日は野馬追神事のために諸士が牛越城に登城しており、家臣一同にこの沙汰が伝えられた。この知らせに諸臣は驚愕し途方に暮れた。

 義胤はしばらく思案し、

「家の破滅、時至ると見えたり。この儀沙汰に及ばず、秋田へ移るの他異儀なし。如何あるべきか」

と諸臣に問うが、いずれも観念したかのように同じ意見であった。そのとき、義胤の嫡男・孫次郎三胤が義胤の前に進み出て、

「自分は尊慮のほかに存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮なし。自ら江戸へ出府し、両大君の御忿を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すに於いては本望、さなくば家を滅するが罪科を受くべし」

と自ら江戸へ出て家康・秀忠の怒りを鎮め、もし所領が与えられなくても実質的な天下人である徳川家の旗本として残ることは、代々の将軍家に扈従してきた相馬家として本望であり、佐竹家の家臣となるならば家が滅んだほうがましであると発言した。

 義胤もこの意見をもっともであるとし、義宣へは丁重な断りの手紙を出すと、入魂の三春城代・蒲生源左衛門郷成(会津領主・蒲生飛騨守秀行の家老)に、三春領内への相馬家一党の仮住まいを頼み、蒲生秀行も了承し、6月2日、義胤以下主だった五十四名は徳川家より遣わされた受城使の水谷伊勢守勝俊・大田原備前守晴清・皆川山城守広照・岡本宮内少輔義保・福原安芸守資保らに城を引き渡し、三春領大倉へ移った。

■相馬蜜胤の活躍と相馬家復興■

 大膳亮三胤は、三成ゆかりの「三胤」を憚って「蜜胤」と改名。相馬領を明け渡した6月2日、蜜胤は、家老の門馬修理進経親をはじめとする十四人の家臣とともに江戸へ出立した。途中、標葉郡熊川村で休憩しているときに、父の代に改易された鈴木金兵衛・志賀久内の両名が蜜胤の宿所を訪れ、

「御家退転の時節なれば、御勘気免許においては、如何様にも軽きご奉公を務め、主君のご難儀を見届け、旧恩を報じ奉るべし」

と訴えて同行を求めたのを許し、十六名で江戸へ向かった。さらに道中で泉藤右衛門成政蜜胤に面会した。泉成政(のち泉胤政)はかつて相馬家一門として重きを成していたが、慶長2(1597)年、牛越城普請の際に義胤と対立して出奔した人物である。その後、米沢の上杉景勝に仕えていたが、相馬家改易の報告が届くと、相馬家復興のために上杉景勝に暇を願い出た。そして米沢から相馬に戻る道中で蜜胤に出会ったようだ。成政は蜜胤面会後、直ぐに三春の大倉に赴いた。また、一説には蜜胤に同道して江戸に行ったとも。以降、泉家はふたたび相馬家の御一家として重きを成す。

◎相馬利胤にしたがって江戸へ向かった家臣

門馬修理進経親 家老。のち甚右衛門。
門馬治右衛門 家老。門馬修理進の弟。
堀内半右衛門胤長 一門。堀内播磨胤政の嫡男。
原近江 伊達家と戦って討死した杉目三河の嫡男。
杉七左衛門  
岡田半左衛門  
原庄左衛門 のち堀越庄左衛門。
半杭吉兵衛 のち判野吉兵衛。
門馬吉右衛門  
門馬長助  
鈴木金兵衛 父代に改易されるが、熊川村で馳せ参じた。
志賀久内 父代に改易されるが、熊川村で馳せ参じた。
矢内 小人。
関根長左衛門 馬医者。
祖栄 坊主。
叙真 坊主。

 蜜胤一行は標葉郡から岩城郡を経て下野国へ入った。このとき、下総国結城で徳川家老臣・本多佐渡守正信が鷹狩を行っていることを知った蜜胤は、口才弁舌に長じていた門馬修理進経親に訴状を託すと本多佐渡のもとに遣わした。経親は結城野で正信一行に出会うと、正信の馬前に出頭して訴状を奉げた。正信は委細を聞くと、自分から直接言上するのは筋が通らないと思ったか、

「江戸に至りて旗本衆をもって言上せらるべし。汝が姓名は」

と問うたため、経親は通称の「修理進」を憚り、とっさに「門馬甚右衛門」と答え、経親はこれ以降、「門馬甚右衛門」を名乗った。こうして訴状を正信へ渡すことに成功した門馬経親は蜜胤行追いつき、ともに江戸に入った。

 『奥相秘鑑』によれば、蜜胤は江戸へ到着すると日蓮宗瑞林寺を宿所とし、正信に言われた通り知る辺の旗本を探しはじめた。また、瑞林寺住持日瑞上人も協力し、上人と昵懇の旗本・藤野宗右衛門を瑞林寺に招いた。さっそく訪れた藤野宗右衛門は蜜胤に面会して「今御譜代衆ニ無之哉」と問うが、まだ家督相続していない蜜胤に徳川家中の知己などあろうはずもなく「通達ノ方無之」と返答した。

 このとき、傍らにいた門馬吉右衛門は突然何事かを思い立ち、三春大倉に蟄居していた義胤のもとへの下向を求め、吉右衛門はそのままはるか奥州三春へ急行。義胤に事の次第を申し上げたが、義胤にも特段、知り合いの旗本衆はなかった。ここで吉右衛門は「嶋田治兵衛」の名を挙げたという。

 むかし、天正19(1591)年の夏、京都伏見城で豊臣秀次の関白補任の式典が執り行われた際、義胤も秀次に供奉して伏見城内にあり、門馬吉右衛門は義胤の従者として白洲にあった。義胤も白洲で式典を見守ると思い、あらかじめ円座を持参していたが、諸大名は殿中に上げられ、従者が白洲に控えることとなった。時は真夏の盛り、白洲は灼熱の太陽で熱く焼かれ、諸大名の従者たちは苦しんでいた。このとき、義胤は殿中縁側に座っていたが、すぐ下で熱さに苦しんでいた侍に気づいて、持っていた円座を貸し与えた。この武士は「辱く存じ奉る」と礼を言い、「自分家康家来、嶋田治兵衛」と名乗った。

 吉右衛門は、「この人、今御執事に次いでの有司と承る。御書を遣され然るべし」義胤に言上した。義胤「その覚えあり。さりながら秀次公関白補任は天正十九年の事、今年すでに二十余年におよび、その後音信もなく、如何か」と心配な面持ちであったので、吉右衛門はさらに義胤を説得、治兵衛宛の書状を持って江戸へ馳せ戻ったという。

 蜜胤はこの義胤の書状を藤野宗右衛門に託し、宗右衛門から嶋田治兵衛に渡された。治兵衛も義胤のことを覚えており「疎意あるべからず」と、瑞林寺で蜜胤と対面。蜜胤から話を聞いた治兵衛は、蜜胤の訴状を受け取ると、本多正信に提出した。

●蜜胤訴状

 年来御領国之近所ニ罷有候得共、終ニ御悃意ニ茂不順候事、
 其通ニ仕打過申候、治部少輔ニ者、太閤様之御取付頼入候ニ付キ
 日来入魂申候、其筋目雖有之彼方江茂属シ不申候、
 於向後御悃意被成下候者、御譜代同意ニ御奉公可申上候、
 此旨宜ク御披露所仰候

     七月

 預御芳恩候者、抽忠誠後々御代無二心可及御奉公之旨、
 御神文一通添被差出之

 また、『利胤御譜』によれば蜜胤谷中瑞林寺を宿坊とし、旗本の「藤野宗右衛門殿、小笠原丹斎老」の両名を通じて、「其上時ノ御出頭嶋田治兵衛殿後弾正利政ト号」を頼って、本多正信に訴状が届けられたとある。小笠原丹斎は武者修行中の昔、義胤に四百五十石の客分として召され、赤沢伊豆守を称して武功を挙げた人物であった。

 この訴状と御神文の二通は、本多正信から家康・秀忠のもとへ届けられた。正信は、

「三成に親懇の趣意、謀反一身の志にも聞こへず、太閤への執付、三成計ひ謝し難く、入魂せしも理なり。相馬父子は勇気強勢と承る。淳朴直道をお察し、免許を蒙るにおいては、身命を軽んじ、忠義を励べし」

と家康・秀忠に相馬家の許しを請い、家康・秀忠も相馬家の旧領三郡(行方郡・宇多郡・標葉郡)の再興を許可したという。

 なお、この再興は伊達政宗の口添えがあったと『藩翰譜』(新井白石著)に記載されているが、これはまったくのでたらめである。実際には政宗は相馬家再興に大反対で、この措置にも納得しておらず、重臣の茂庭石見綱元へ宛てた書状の中に、

「相馬之事、是一のきとくなる仕合にて、もとのよしたねニ返し被下候」

とあり、さらに、

「子細もなく御知行を相馬あたりにて此度不被下、けつく相馬などに御かへし被成候は、ゆくすへすへ何かと御ようじんと見へ候」

とある(『相馬郷土』相馬郷土研究会)。政宗は慶長の役の褒賞として相馬領が下されるものと思っていた節が見え隠れし、さらにのちのち家康は相馬家を使って伊達領侵犯も画策しているのかもしれないと疑っている。

 その後、本多正信から家康・秀忠の台命として、

「訴状の趣、私曲なく明白に言上するは神妙奇特なり。これによりて、旧領三郡は前の如く領知すべし」

と、所領安堵の旨が伝えられた。そして10月上旬、義胤は江戸に出頭して蜜胤とともに家康・秀忠に面会、御礼言上を果たし、奥方(長江氏おきたの方)も人質として大倉から呼び寄せ江戸に住まわせることとなった。こうして相馬家再興を果たした義胤蜜胤は、旧領地三郡に下向。牛越城に在番していた水谷勝俊、太田原晴清から引渡しを受けた。この下向の際、義胤らは瑞林寺の寺小姓・花井門十郎と、日瑞上人の甥・須藤嘉助を相馬へ引き取ることを申し出て、花井門十郎を泉藤右衛門成政に、須藤嘉助を岡田八兵衛宣胤に預けて、それぞれ苗字を与えて一族にすべしと指示。花井門十郎は「泉縫殿助」、須藤嘉助は「岡田蔵人」を称し、中村藩家老の家柄となった。

 さて、義胤らが帰国すると、旧領民たちは祭りを催して喜びを爆発させた。また、この再興の功はひとえに門馬甚右衛門経親が本多正信と談判した功績によるものであるとし、彼に百五十石の加増(都合七百八十二石)がなされ、嶋田治兵衛を探し当てた門馬吉右衛門には五十石の加増(都合百十四石)が、その他の士にも加増がされ、熊川で一向に加わった鈴木金兵衛・志賀久内にも、五十石の新知が宛がわれた。一方、相馬家改易に際して相馬を離れた譜代の家臣も呼び戻されたが、彼らのうち旧知五百石から三百石の者は百石に減知された。

旧相馬中村藩邸
桜田屋敷跡(現農水省)

 蜜胤は程なく江戸に上ることとなり、11月には江戸城南側の桜田門前にあった旗本・犬塚平右衛門の屋敷を借りて住むこととなった。おそらく義胤の奥方も桜田屋敷に住んだのだろう。また、相馬家再興に尽力した旗本・藤野宗右衛門島田治兵衛蜜胤と昵懇な間柄になったという。

 一方、相馬家同様改易処分となった岩城貞隆(能化丸)は義胤の婿にあたり、この時十九歳。実兄の佐竹義宣とともに秋田へ下って金沢城(横手市金沢)にいたが、相馬家再興を聞いたのだろうか、岩城家再興のため、家臣四十二名とともに江戸浅草を宿所として、天海大僧正を通じて岩城家再興を願い出た。こうして岩城家も三成方に属してはいなかったと認められ、元和2(1616)年に再興が許された。しかし岩城家は相馬家のような旧領安堵ではなく、見知らぬ信濃国川中島にわずか一万石とされた。元和9(1623)年には出羽国由利郡亀田二万石へ転封となり、幕末まで続いた。義弟・岩城政隆の子孫は仙台藩一門・岩谷堂伊達家として続いている。

義胤の隠居■

 11月、桜田犬塚邸にいた蜜胤は秀忠に召され、岡田大和守元次次女(土屋民部少輔忠直の異父妹)との婚姻が土井大炊頭利勝を通じて伝えられた。蜜胤が秀忠の御前を退出後、利勝は「上意ヲ自分失念不申達」として、「大和守娘ハ蜜胤妻ニ不相応ニ可存哉、土屋民部少輔妹也、秀忠公御主ニ御成可被遊上意之旨」と告げた。岡田元次娘は秀忠の養女(のち長松院殿)として蜜胤に嫁ぐこととなった。

 そして12月、結納が交わされ婚礼式が行なわれた。蜜胤は慶長6(1601)年5月15日に正妻・江戸崎御前(葦名盛重娘)が小高城において十七歳と死別して以来、悲しんで妻を持たなかったが、これに際し、蜜胤土井利勝に願い出て「利」の一字を貰い受け、「利胤」と改名した。

 義胤の隠居時期については「御隠居ノ年月ハ不知」とあって伝わらないが、おそらく、相馬領安堵と徳川家との縁続きを境に義胤は隠居し、利胤へ家督を譲ったのではなかろうか。

◎相馬・徳川家関係図◎

      西郷局
       ∥――――――徳川秀忠===長松院殿
       ∥     (征夷大将軍)(岡田元次娘)
      徳川家康            ∥―――――相馬義胤
     (征夷大将軍)         相馬利胤  (大膳大夫)
       ∥            (大膳大夫)
       ∥ 伊達政宗―五郎八
       ∥(陸奥守)  ∥
       ∥       ∥
       ∥――――――松平忠輝          西郷延員
       ∥     (高田少将)        (若狭守)  
       ∥                     ∥
       ∥                   +=娘
      於茶阿方=+――長松院殿         |
           |   ∥―――――相馬義胤――+=相馬忠胤
      岡田元次 |  相馬利胤  (大膳亮)   (長門守)
     (大和守) | (大膳大夫)           ↑
       ∥   |                  |
       ∥―――+――竹右衛門            |
     +―娘            【上総久留里藩主】 |
     | ∥――――――土屋忠直―+―土屋利直――――相馬忠胤
     | ∥     (民部少輔)|(民部少輔)  (長門守)
     | ∥           |
     |土屋昌恒         |【常陸土浦藩主】
 岡部長敬|(宗蔵)         +―土屋数直
(丹波守)|              (但馬守)
  ∥――+―神尾元勝―――娘
 神尾氏  (備前守)  (相馬大膳亮義胤養女)

 慶長8(1603)年、牛越城は「御改易凶瑞ノ城」として、もとの通り小高城に居城が移された。を移した。そして、利胤の奥方(秀忠養女)は小高下向となり、追って義胤奥方も江戸を発って下向した。人質として江戸にあった両奥方が領国に下ることに伴い、義胤の次男で十一歳の相馬左近及胤が江戸へ上ることとなり、のち、将軍・秀忠の小姓として召し出された。義胤の奥方は慶長11(1606)年に再び江戸に出府した。 

 慶長16(1611)年7月、相馬家は本拠地を小高城から宇多郡宇多郷中村へ移すこととして、中村城の修築普請を始め、12月2日、利胤は中村へ移った。これが中村藩の本城となる中村城である。城内に設けた妙見曲輪には小高妙見を勧請して北斗山妙見寺(現在の中村妙見神社)を建立。城は「馬陵城」とも呼ばれ、城下に家臣を移していった。しかし、隠居の義胤は中村へは行かず、慶長17(1612)年4月、小高城から標葉郡泉田村に移り、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石を給された。また、義胤が帰依していた僧・長哲が住持を務めていた中村の龍蔵院は、義胤の希望の通り、泉田村へ遷された。 

■大坂の陣■

 慶長19(1614)年10月、徳川家と豊臣家の間に戦端が開かれた。「大坂冬の陣」と呼ばれる戦いである。将軍・秀忠の要請を受けて、利胤及胤が大坂に出陣。11月には下総佐倉城主・酒井左衛門尉家次に属して大坂城を囲んだが、12月に講和が成立したため、利胤及胤は中村へ帰城した。  

 相馬義胤―+―利胤―――――…【中村藩主】
(長門守) |(大膳大夫)
      |
      +―慶雲院殿
      |(岩城貞隆妻)
      |
      +―及胤―――――…【相馬将監家】
      |(左近)
      |
      +―直胤
       (越中)

 慶長20(1615)年3月、大坂城では淀殿はじめ秀頼の側近がふたたび強硬な姿勢を見せたため、2度目の大坂出兵が決定(大坂夏の陣)。利胤は中村の留守居に泉藤右衛門胤政を任じると中村を出立。4月10日、秀忠に供奉して上洛の途についた。 

 しかし、駿府城に宿陣中、利胤は急病に倒れてしまった。秀忠はこの報を受けると、相馬勢指揮のため、泉田村に隠居していた義胤に出陣するよう命を下した。しかし、義胤は隠居の身で勝手方不如意で出立できず、秋田の佐竹義宣へ佐藤丹波を遣わして金の融通を頼んだ。このときすでに義宣は大坂表に出陣しており、留守居の老臣から黄金百枚を借り受けると、子の相馬左近及胤相馬越中直胤を具して泉田村を発し、駅を馳せ次いで5月9日にようやく近江国草津宿へ到着した。 

 しかし、義胤が近江に到着するより二日前の5月7日、大坂城は落城し、8日に豊臣秀頼、淀殿らが自害していた。草津でこの報に接した義胤は、すぐに京都醍醐に移ると、佐竹義宣を通じて遠路遅参した旨を土井利勝に伝えた。 

 こののち、病が癒えて上洛した利胤は、義胤及胤直胤とともに二条城に入り、家康・秀忠に謁見したが、遅参の罪はとがめられることもなく、帰国が許された。 

■利胤の死と義胤の復帰■ 

 相馬家最大の危機を救った初代藩主・利胤は、中村城の拡張と整備をし、城下の宇多川の流れを変えて城下町を形成、中村藩の基盤を完成させた名君となった。しかし、相馬家は鎌倉以来の村落領主制を遺したままで藩を形成していたことから、藩への収入が少なく、財政は大変苦しいものとなっていた。そのため、慶長16(1611)年末、小高城から利胤が中村城へ、義胤が泉田村へ移るに及び、それぞれ配分された家臣のほかは、「在郷給人」として相馬家領の宇多・行方・標葉郡に所領を与えて住まわせ、各郷に担当老中を置いて組支配し、給人には城番等の諸役を免除した。 

●三郡組支配老中 

宇多郷 門馬甚右衛門経親 
北郷 木幡因幡経清
中郷 岡田八兵衛宣胤
小高郷 富田備前隆実
標葉郷 堀内十兵衛胤泰
御隠居附支配 中村監物主次(富田監物)

 しかし、これでも財政はなかなか好転せず、慶長18(1613)年から元和3(1617)年までの五年間、家臣から役金を徴収することとした。  

(1)大坂の陣の際には、知行高二十石につき金一分、百石につきに二両二分を二度徴収。
(2)中村城の普請や破損修復は毎年。
(3)二度の参勤につき、駄賃として十石につき一貫文、百石につき二十貫文を二度徴収。
(4)知行高百石につき金三両一分が定役として徴収。追って二分追加。 

 この上納金に対し生計が成り立たなくなった家臣たちは、上納免除をたびたび訴えたが認められず、元和3(1617)年2月、耐え切れなくなった五百八十三人にも及ぶ家臣が暇乞いの連判状を藩庁に提出して相馬を去ったり、三郡に土着したりしていった。 

 こうした混乱の中、元和4(1618)年正月14日に義胤三男・越中直胤が江戸で亡くなった。享年十九。法名は心岩宗徹大居士。遺骨は義胤のもとに届けられ、泉田村の金田山龍蔵院に葬られ、杉を墓標とした。 

 さらに8月11日には、子のあとを追うように義胤の後室・深谷御前おきた御方が亡くなった。享年五十五。法名は月潭秋公大禅定尼。遺骨は江戸から思い出の深い小高に移され、土器迫の谷にあった千相院跡に葬られた。その後、菩提のために行方郡深野村原町区深野)に秋月山千相院が再建立された。

 寛永2(1625)年2月、利胤は江戸で胃腸の不調を訴え、6月、帰国が許されて中村に戻った。しかし、病状は好転せず、9月10日、中村城において亡くなった。享年四十五。法名は二照院殿日璨杲公大居士小高山同慶寺に埋葬され、五輪塔が建てられた。

 利胤が亡くなったことを聞いた将軍家光は、利胤の子でまだわずか六歳の虎之助では藩政覚束なしとして、祖父・義胤がしっかり守り育て後見するよう命じ、寛永3(1626)年6月24日、義胤は家光の上意を奉じて泉田村の隠居所から中村城に入った。その後、義胤は江戸へ参勤し、秀忠・家光両君に謁見した。

 8月には秀忠・家光の両君が上洛することとなり、相馬家も利胤以来の通例で供奉すべき家柄ながら、当主・虎之助は幼少であり、義胤も七十九歳という老齢であったため、供奉に及ばないとの上意が下され、江戸に残った。

 8月18日、京において大御所秀忠太政大臣に任じられ、9月6日には天皇の二条城行幸があり、10月3日、義胤老齢ながら「諸太夫」に叙せられた。

 寛永4(1627)年6月、義胤は暇をもらって中村に下向した。このとき将軍家より帷子と反物を拝領している。

 寛永6(1629)年5月、十歳の虎之助は元服することとなり、義胤は自分の名乗り「義胤」を虎之助へ譲り渡した虎之助は五月生まれなので、おそらく誕生日の元服だったのではなかろうか。長門守義胤の「義」字は、佐竹常陸介義重より偏諱を受けたものであったため、虎之助に譲るに及び、義重の子・右京大夫義宣へ通達の上、虎之助へ譲渡された。

 そして5月28日、虎之助の将軍家初謁見が行われることとなり、義胤虎之助泉藤右衛門胤政泉内蔵助胤衡立野一郎右衛門胤重の三家老を伴って江戸城にのぼり、大御所・徳川秀忠と将軍・家光に謁見を果たした。こうして虎之助は無事に相馬家を継承。二代藩主となる。

 6月、義胤は中村下向に際し、家光に謁見。帷子と反物を下された。

 寛永9(1632)年正月24日、大御所・秀忠が江戸城において病死した。享年五十五。法号は台徳院殿。遺物として白銀五百枚が義胤に下された。

 寛永10(1633)年3月18日、虎之助の具足初が行なわれ、義胤は孫の具足の上帯を手ずから締め、勝光の刀と銘不知の脇差を進呈。虎之助は祖父へ康光の脇差を進上した。そして12月21日、虎之助内藤伊賀守忠重息女との結納が整い、義胤は孫の結婚まで見届けることができた。さらに、5月9日には、孫娘(虎之助の姉・おせん)も肥前唐津城主・寺澤兵庫頭堅高と結納を交わした。

●相馬義胤            寺澤堅高
(長門守)           (兵庫頭)
  ∥               ∥
  ∥―――――相馬利胤   +―於千
  ∥    (大膳大夫)  |(岩松院)
 深谷御前    ∥     |
         ∥―――――+―相馬義胤
 徳川秀忠――+=養女     (大膳亮)
(太政大臣) |(長松院)     ∥
       |          ∥
       +―徳川家光    内藤忠重娘
       |(内大臣)
       |
       +―源和子
        (東福門院)
         ∥――――――明正天皇
        後水尾天皇

 6月24日、義胤は江戸桜田屋敷において、相馬家累代相伝の黒地日ノ丸の小旗義胤自ら仕立て直して虎之助へ相伝した。そして7月23日、義胤は江戸を発って中村に帰国した。その後、また江戸へ出府するなど、義胤虎之助の家督相続以来、虎之助の後見として老体に鞭打って江戸と中村の往復を繰り返した。

<strong>義胤</strong>墓所
同慶寺の相馬義胤墓所

 寛永12(1635)年7月4日、義胤虎之助を伴って将軍・家光に謁見し、帰国の暇乞いの挨拶に赴き、家光から帷子などの贈物を受ける。そして7月7日、義胤は江戸を出立。これが義胤にとっての最後の中村下向となった。8月上旬、虎之助が江戸を出立し、8月中旬には中村に到着したと思われる。

 義胤はこの頃にはすでに不調を感じていたのだろう。9月6日、虎之助富田監物主次を遣わし、数々の品を相伝。11月には予断を許さない病状に陥った。そして、11月15日、義胤は城下士に総登城を命じると、みずからも孫の藩公・虎之助義胤に付き添われて広間に出座し、集まっていた家臣を前に訓戒といたわりの言葉を与え、若年の虎之助をみなで守り立て、何事にも評議を重ねて藩政を行うべきことを告げると、今生の別れと寝所に下がると、翌16日、八十八年の波乱の生涯を閉じた。法名は蒼霄院殿外天雲公大居士。小高山同慶寺住持・骨厳長哲上人を導師として葬儀が営まれ、同寺に葬られた。同慶寺の参道脇に寺を護るように五輪塔が建てられている。

※瑞林寺…「谷中瑞林寺」と伝わる。現在の谷中慈雲山瑞輪寺のことと推測される(江戸期の地図では瑞林寺とある)が、慶安2(1649)年に神田から現在地に移されたもので、当時は神田にあって谷中にはない。『奥相秘鑑』は享保16(1731)年成立、『御年譜』も享保20(1735)年頃の成立であり、瑞林寺がそのころすでに谷中にあったため、谷中瑞林寺としたものか。


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