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橋浦
千葉一族。葛西清重の家老の家柄という。いつの頃からか帰農したようで、桃生郡橋浦村名主・甚助は千葉を称していた。その後、4代当主・太右衛門は宝暦飢饉で村民を救済して仙台藩主から名字帯刀を許された。7代目の甚左衛門は天保14年、仙台藩主より「縦三引両紋」(仙台藩主・伊達氏の家紋)のついた白壁の土蔵を拝領した。
橋間
千葉一族。木内氏の分流か。発祥地は不明。応永8(1401)年8月、木内胤行(四郎)木内胤信(七郎)、木内胤継(平次左衛門尉)、橋間胤保(左衛門次郎)の四名が、千葉氏の奏者として香取社録司代・慶海に対し祈祷に精を出すことを申し渡している。
橋本
上総千葉氏の祖・上総権介秀胤の子孫に橋本秀助が見える(『山門文書』)。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
|
+―澤田秀明
|(三郎)
|
+―文殊寺秀棟
(四郎)
長谷
武石一族。「はせ」とよみ、東一族の「長谷氏:ながい」氏とは別流。陸奥国名取郡長谷村を発祥とする。
亘理元胤(因幡守)の三男・胤重(美作守)は亘理家の別家となる。胤重には娘が一人いて、兄・宗元(右近大夫)の次男に嫁がせて重景(紀伊守)と名乗らせ、その嫡男・景重(修理亮)は亘理本家とともに涌谷にうつり、涌谷伊達氏(亘理氏)の重臣となった。
景重には子がおらず、中野大膳の二男を養嗣子として重長と名乗らせて亘理家を継がせ、重長は伊予と称した。重長の代に陸奥国名取郡長谷村に住したことから、長谷氏を称するようになる。重長ののちは嫡男・景親(左馬助)が継承。二男・景時(藤左衛門)は別家となる。景親の嫡子・重親(新三郎)は早世してしまったため、葛西重常(壱岐)の四男を養嗣子として重長(三郎左衛門)と名乗らせた。
亘理重景(紀伊守)の二男・盛景(又七郎)は宗家の亘理元宗(兵庫頭)から亘理の称号を賜って別家をたて、元亀2(1571)年5月、信夫郡浅川において25歳の若さで討死を遂げた。盛景に子はなく、叔父・村岡亘理胤信(右近)の二男・景長(善七郎)が継承したが、景長の兄・実信(彦右衛門)が早世したことから、景長は実家の村岡亘理家を継ぐこととなり、盛景の家は絶家となった。
もう一流、椎名氏一族の野手氏の出もある。小田氏の重臣・多賀谷氏に仕えた肘谷清胤(八郎左馬允)の次男・胤時(小四郎大炊助)が結城郡長谷村(場所不明)を領して長谷を称したといわれるが、下総国匝瑳郡野手村に隣接する長谷村(匝瑳市長谷)が発祥地か。
-亘理流長谷氏略系図-
+―胤信――+―実信――――→【村岡亘理家】
|(右近) |(彦右衛門)
| |
| +―景長
| (善七郎)
|
→亘理元胤―+―宗元―+―宗隆――――娘 +―亘理綱宗
(因幡守) |(右近)|(兵庫頭) (天窓慶普)|(彦四郎)
| | ∥ |
| +―重景 ∥――――+―亘理元宗―――亘理重宗―――伊達定宗―――→【涌谷伊達家】
| (紀伊守) ∥ (兵庫頭) (美濃守) (安芸)
| | 伊達稙宗
| | (左京大夫)
| ↓
+―胤重===重景――+―景重===長谷重長―+―景親―――+―重親
(美作守)(紀伊守)|(修理亮)(伊予) |(左馬助) |(新三郎)
| | |
+―亘理盛景=景長 +―景時 +=重長―――――元章―――――盛文――――+
(又七郎)(大炊介) (藤左衛門) (三郎左衛門)(三郎左衛門)(三郎左衛門)|
| +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤敬―――――常任
(三郎左衛門)(三郎左衛門)
支倉
千葉一族か。上総介平高望七代目の景常が天喜4(1056)年、伊勢守に任じられて伊勢国一志郡伊藤庄に館を構えたことから伊藤を称したという。しかし、景常は秀郷流藤原氏の一族で、平家方の侍大将である伊藤忠清(上総介)・景清(悪七兵衛)らと同じ一族かもしれない。
景常の孫・常隆は常陸介に任じられて常陸国へ赴き、次男・常久は承安元(1171)年に上洛して平清盛に仕え、治承3(1179)年、常陸国の目代となって常陸国に下向した。しかし、その翌年、源頼朝が挙兵したことで関東の情勢は激変し、常陸国が千葉介常胤らによって平定されると、雌伏した。文治元(1185)年、常陸国筑波郡中村郷地頭の中村氏に仕え、彼とともに奥州藤原氏との戦いに従軍して功をあげ、信夫郡梁川村・伊達郡梁川村・柴田郡支倉村に所領を与えられたという。その子・久成が支倉村に館をかまえて支倉と称する。
その後は伊達氏の宿老となり、代々伊達郡南方の大将になったが、天文14(1545)年に支倉常正が伊達稙宗に従って二本松の戦いに参戦したが、兄弟3人を失ってしまう。常正のあとは次男の時正がついで信夫郡山口村に館を移し、武者奉行に任じられ、大崎白石の戦いに参戦した。そのあとを甥の支倉常長が継ぐが、時正の晩年に紀伊守と常次が生まれたため、常長と常次にそれぞれ六百石を分与して分家させ、嫡男・紀伊守は大坂の陣に従軍している。
支倉常長像(仙台城址) |
支倉常長の父・常成は信夫郡山口村を領して山口を名乗るが、その子・常長は支倉宗家の時正にははじめ子がなく、養子として本家を継いだ。その後、時正に二人の子ができたために、時正の次男・常次とともに分家して六百石を受けた。常長は早くから政宗に信頼され、21歳で伝令将校に抜擢。他領地の情報収集に長けた武士だった。そんな常長がローマへの遣欧使節団長に抜擢されることになる。
慶長18(1613)年9月15日、キリスト教フランシスコ派神父のルイス・ソテロとともに牡鹿郡月ノ浦を出帆。船は五百トンの帆船「サン・ファン・バプチスタ」。太平洋を横断してノビスパン(メキシコ)を経由し、翌年の1月にスペインのマドリードに到着。国王フェリペ3世に謁見して洗礼をうけ、ドン・フェリポ・フランシスコと称した。
9月にローマに入り、教皇パウロ5世に謁見、ローマ市から市民権を与えられたが、政宗が望んでいた「奥州司教区」の創設と「日西通商条約」の締結は不成功に終わり、元和4(1618)年に帰途についた。帰途は喜望峰、インドなどを経由する航路であった。そしてフィリピンのマニラに至ったとき、江戸幕府がキリシタン禁制を出したことを知り、元和6(1620)年8月26日、単身仙台に帰国するが、キリシタン禁令により閉居を命じられ、その2年後の元和8(1622)年7月1日、不遇のまま52歳で亡くなった。寛永17(1640)年、常長の子・常頼と常道の兄弟はキリシタンとして処刑された。しかし常頼の子・常信は罪を許され、本領を安堵、子孫は仙台藩士として続いた。
支倉常長がローマ市から与えられた「ローマ市公民権証書」や政宗が教皇に宛てた書状は現存している。また、昭和20年7月の仙台大空襲によって焼失した政宗の廟所「瑞鳳殿」の再建のために政宗の石棺をあけたところ、中に横たわる政宗の遺骸のかたわらに、常長が欧州から持ち帰ったとおもわれる黄金のブローチや銀製の装飾品、メダイなどが発見された。これらは仙台市博物館に収められている。
-支倉氏略系図-
→伊藤景常―…常隆―――常久―支倉久成―久頼―定常―常勝―常朝―常時―時長―+―□□―常清
(常陸介)(壱岐守) |
|
+―=常清―重時―時顕―常顕―常正―+
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―時正―紀伊守=久常―――――+―宗常=敷常―直清―従清―定清=倫清―清定=清澄―清水
| (支倉常次次男)|(支倉源太左衛門子) (西山隆則子)
| |
| +―盛清
| (支倉常角養嗣子)
|
+―山口常成―常長――――――――――常頼―常信―常角=盛清―清風―清隆
| (仙台遣欧使節団長)
|
+―常顕―常正―時正―常次―常時―常雄―常従―常信―定刑―定可
幡谷
大須賀一族。大須賀氏の一族・田部多胤秀(次郎左衛門尉)の子・胤盛(民部)が大須賀保幡谷(千葉県成田市幡谷)を領して幡谷を称した。系図上では子になっているが、実際には田部多胤秀の子孫か。胤秀は大須賀氏初代・胤信の子であり、顕朝(次郎太郎)の子は『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には書かれていない。その後は千葉宗家の直臣として活躍した。
千葉介勝胤が江戸から招いた歌人・衲叟馴窓は佐倉を中心に歌道を広めたが、その衲叟馴窓が永正11(1514)年に編纂した私家集『雲玉和歌集』に、勝胤の家臣と思われる幡谷胤相(加賀守)・粟飯原信尊(民部少輔)・海保幸清(丹波守)・円城寺道頓などが名を連ねている。このほか、東常縁・太田資清・太田資長(太田道灌)ら千葉氏と敵対した人物の名も見ることができる。
―幡谷氏略系図―(『大須賀系図』)
→千葉介常胤-大須賀胤信-通信――――師氏――頼氏―――朝泰―――――顕朝――――田部多胤秀―――幡谷胤盛
(四郎) (左衛門尉)(三郎)(孫太郎)(左衛門次郎)(次郎太郎)(次郎左衛門尉)(民部)
花井
相馬一族。祖の花井門十郎は常陸国府中出身の人物で、谷中の日蓮宗寺院・瑞林寺(感応寺ともいわれる)の寺小姓となっていた。
慶長7(1602)年、慶長の役で徳川方、石田方いずれにもつかずに中立を決め込んだため改易処分とされた相馬家の再興願いをするため、相馬家嫡子・相馬蜜胤(のちの利胤)が瑞林寺に寄宿して旗本のつてを探した。このとき、住職・日瑞上人の協力もあり、赤沢常重、藤野宗右衛門、そして島田治兵衛が相馬家再興に尽力してくれたおかげで相馬家は中村六万石を認められ、大名家として再興することができた。
その後、当主の相馬義胤が江戸に出府し、徳川家康・秀忠の両君と面会。その帰途に瑞林寺に立ち寄り、世話になった日瑞上人に、寺小姓の花井門十郎と上人の甥・首藤嘉助を相馬へ引き取ることを申し出て了承を受け、蜜胤は花井門十郎を泉藤右衛門胤政に、首藤嘉助を岡田八兵衛宣胤にそれぞれ預けて、泉家、岡田家の一族とするべしと命じ、花井門十郎は「泉縫殿助」、須藤嘉助は「岡田蔵人」となり、子孫は代々中村藩の家老職となった。
花井門十郎こと泉縫殿助乗信は相馬家重臣の池田次郎左衛門直助の娘を娶り、重臣の列に連なった。乗信は慶安元(1648)年7月27日に亡くなった。法名は傑勝玄英。新沼村(相馬市新沼)にあった新沼山宝泉寺に葬られ、代々の菩提寺となった。
乗信の長男・縫殿助成信は相馬藩家老となり、次男は薊家に養嗣子に入り薊弥左衛門となる。三男は原家の養嗣子となって原権太夫を称した。長女は御一家・泉田掃部胤精の妻となる。
しかし成信の養子・左五兵衛が罪を犯して寛文13(1673)年8月13日、切腹を命じられると、連座制により、成信の長男・縫殿助は改易された。
その後、縫殿助の嫡子・泉嘉右衛門為信は許されて召し出され、家老に列し、御一家筆頭・岡田與左衛門伊胤の娘を娶った。娘は家老・門馬嘉左衛門景経の妻となっている。しかし、泉縫殿助家はこの為信の代で後嗣が絶えて断絶していまった。こののち、泉家が再興することはなかったが、泉縫殿助成信の三男・原権太夫の孫・七郎大夫信英が本氏の花井氏として祭祀を継承した。
花井七郎大夫信英は中村藩重臣となり、富田六郎右衛門実信の娘を娶るが、跡継ぎとなる男子がなく、松本彦左衛門敷重の次男・平蔵を養嗣子として貰い受け、花井六太夫信逸となった。その婿養子・花井六太夫信以(花井甚五左衛門義房三男)は花井氏と死別後、御一家・泉内蔵助胤寧の娘(田原橘左衛門為定継母)を妻とした。
信以の長男・花井七郎大夫信興は猪苗代貞之丞盛常の娘を娶り、藩内でも重臣として活躍した。長女は家老・門馬嘉右衛門孝経の妻となり、次男・原伝右衛門信賢は原伝右衛門信豊の婿養子となった。そして三男・花井助大夫は公族・相馬将監胤慈の養嗣子となり、相馬将監胤武となった。胤武の母が御一家・泉内蔵助胤寧の娘であったことで、御一家の急養子に定められたと思われる。四男・立野助太夫儀房は立野久左衛門定房の婿養子となる。
花井信興の嫡子・花井七郎大夫信因は岡田儀左衛門長意の娘と結婚し、嫡男・花井祐蔵信祥は天保8(1837)年正月、家督を相続。4月に花井助太夫と改名した。嘉永6(1853)年9月7日、在郷中頭に就任した。さらに万延元(1860)年6月15日、御使者・江戸屋敷御刀番となる。幕末の動乱期には外交などに携わった。
埴谷
千葉一族。発祥地は上総国武射郡埴谷村。
埴生
房総平氏の一族。平常将の次男・恒直(次郎)が埴生庄(千葉県印旛郡一帯)を領して埴生を称した。「恒直」の名は中世に薩摩へ移った平氏・指宿氏に伝わる系譜にのみ見られるが(『指宿文書』)、「恒直」は「承暦四年為兄常永被殺害」とあり、承暦4(1080)年に兄・平常長に討たれたという。
もし、常長と恒直の抗争が事実とすれば、常長は弟・恒直の埴生庄を巡って争ったのだろう。常長の子に「埴生九郎常門」が見えるが、恒直跡を領したものか。常門の跡は大竹常遠(太郎)、麻生久常(次郎)が、それぞれ埴生庄大竹郷(成田市大竹)、麻生郷(印旛郡栄町麻生)を領したようだ。
その後、千葉介成胤の弟・上総介常秀の子・時常(二郎)が埴生庄を称しており、千葉宗家の手に移ったと推測される。
時常ははじめ「上総介次郎」を称していたと思われ、嘉禎4(1238)年1月1日の北条時房による椀飯で三御馬を兄・上総権介秀胤とともに曳いている。時常の「時」はおそらく北条氏を烏帽子親として付けられた一字だろう。
兄の秀胤は、幼少の千葉介胤綱に代わって千葉氏の家政を取り仕切り、幕府内での権勢も次第に強まっていった。さらに上総に領地のある三浦義村の娘を正妻に迎え、三浦氏との繋がりを強めていった。秀胤は自身の領地を広げるという野心もあって、弟の時常の所領であった埴生庄(成田市)を横領してしまう。時常はこれに怒って秀胤と断交した。
こうした中で、執権・北条時頼は三浦氏・上総氏の勢力拡大を恐れ、前年にあった藤原頼経(先代の将軍)の計画した時頼追討の共謀者として、三浦泰村・上総秀胤らを「評定衆」から罷免した。三浦泰村はこれに怒り、ついに宝治元(1247)年6月5日、時頼との合戦に踏み切った。これを宝治合戦という。秀胤は泰村の妹婿という立場と時頼に対する恨みから三浦氏に加担したようだが、いち早くこれを察した時頼は、千葉一族の勢力を殺ぐいい機会として、千葉一族の東胤行(素暹)・大須賀胤氏を上総国一宮にあった秀胤の館に急行させてこれを討たせた。
このとき、秀胤と断交していたはずの埴生時常は、兄の危急を聞きつけて上総一ノ宮に急行し、群がる武士達を切り伏せて館内に入る。館の中では覚悟を決めた秀胤の一族がおり、時常は彼らとともに自決した。『吾妻鏡』にはこのことを「並死骸於一所、勇士之所美談也」と讃えている。ただ、秀胤の子・上総泰秀(五郎左衛門)は討手である東胤行の娘を妻に迎えており、生まれたばかりの男子が一人いた。胤行は時頼に懇願して、孫にあたるこの男の子のほか、時常の子1人、秀胤の幼い子・孫たち3人をたすけて庇護している。
埴生庄は秀胤・時常の死後、足利泰氏(宮内少輔)の所領となり、建長3(1251)年12月2日、泰氏はこの埴生庄にて三十六歳で密かに出家を遂げた。しかし、この出家は幕府の許可を得ないものであったため、12月7日、埴生庄は没収され、代わって金沢北条実時(掃部助)に与えられた。金沢北条氏と埴生庄の結びつきはこの時から始まり、下総に金沢称名寺の法灯が伝えられることとなる。
郡上篠脇城下の明建神社 |
東胤行の子・東行氏が美濃へ下る際に同行した宿老・埴生高師(太郎左衛門尉)がいた。高師は妙見菩薩に供奉して美濃に向かい、妙見社(現在の明建神社)を造営して代々神主となっている。
越後国奥山庄内の土地についての争論で「埴生下総三郎兵衛尉清胤女子平氏字松弥今者死去」が見える。彼女は「越後国塩澤村并塩谷村田五段畠山野以下得分物」が「和田彦四郎茂実」によって押領されていることを訴え、延慶3(1310)年9月12日の御下知によって知行が認められたが、彼女は嘉暦3(1328)年以前に亡くなり、夫である「海老名又太郎忠顕」ならびに「和田左衛門四郎茂長女子平氏字土用若」に「奥山庄内荒居、江波多以下村々」の打ち渡しを幕府に要求した。これに対して、嘉暦3(1328)年9月24日、幕府問注所の摂津道準は「尼生蓮茂長後家、今者死去跡」を除いた分を、両名に打ち渡す旨を、池駿河七郎大夫をして伝えた。
ここに見える「埴生下総三郎兵衛尉清胤」がいかなる人物かはわからないが、宝治元(1247)年に一ノ宮で自刃した埴生時常(次郎)には男子が一人いて、東胤行の嘆願によって助命されており、彼の子孫なのかもしれない。
-埴生氏略系図-
→千葉介成胤-上総介常秀―+―上総権介秀胤
|(上総権介)
|
+―埴生時常――――男子
(二郎)
◎嘉暦3(1328)年9月24日『鎌倉幕府奉行奉書』
(『越後三浦和田文書』:『海老名市史』2資料編中世所収)
◎元徳3(1331)年12月23日『関東下知状』
(『越後三浦和田文書』:『鎌倉遺文』所収)
◎上の書状の関係図
葛西新左衛門入道経蓮 富安三郎
∥ ∥
∥ ∥―――――――姉平氏
∥ ∥
∥―――――――――亡母平氏(尼生蓮) ×←母の遺領をめぐって論争
∥ ∥
∥ ∥―――――――妹平氏(土用若/尼法玄)
∥ ∥
佛心尼 和田左衛門四郎茂長――弥四郎広連―――彦四郎兵衛尉茂実
馬場
東一族と千葉一族の二流がある。東氏流では東盛胤(本庄盛胤)の五男・胤文(又四郎)が香取郡東庄馬場村を領して馬場を称した。諸系譜では胤文の孫・胤郷(又次郎)以降は書かれておらず、子孫は不明。
千葉流では、千葉介胤宗の末子・胤重(五郎)と千葉介氏胤の子・重胤(八郎)が馬場を称した。こちらの発祥地は印旛郡馬場村(成田市馬場)と思われる。馬場胤重(五郎)は南北朝の騒乱の際には、兄の千葉介貞胤に従って戦功を挙げたという。
馬場重胤(八郎)は印旛郡公津村(酒々井町公津)に、郎党の円城寺尚家(弾正)、円城寺政俊(刑部少輔)、片野胤定(美濃守)とともに移り住み、子孫は周辺各地に広まった(『千学集抜粋』)。孫の「金山殿」は馬場から約一キロ北の「金山村(成田市下金山・東金山)」、「公津殿」は馬場から南西八キロの「公津村」、「岩橋殿」こと岩橋輔胤は公津から三キロほど南の「岩橋村(酒々井町下岩橋、上岩橋)」に移り住んだと思われる。
岩橋輔胤は、千葉介胤直と馬加千葉陸奥入道常義の滅亡によって滅んだ千葉宗家を継承することになり、宗家の本拠地を自分の本領に程近い本佐倉城(岩橋より西三キロ)に移した。本佐倉は印旛沼の水運と防御に適しており、以降の千葉介の本拠地として発展していく。輔胤は寺崎城(佐倉市寺崎)に在城したとも伝えられている。
室町時代後期の馬場胤平は千葉介親胤が妙見遷宮式に親胤の馬を曳いているが、胤宗流か氏胤流かは不明。家紋は「丸に十五枚笹」・「十曜」。
-東氏流馬場氏略系図-
→千葉介常胤―東胤頼―重胤――――海上胤方-東盛胤-馬場胤文-胤門―――胤郷
(千葉介) (六郎)(左兵衛尉)(次郎) (七郎)(又四郎)(弥十郎)(又次郎)
-千葉氏流馬場氏略系図-
→千葉介胤宗―馬場胤重―胤忠―――胤有―――胤友――――胤森
(千葉介) (五郎) (又五郎)(又四郎)(下野前司)(又四郎)
●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』『松羅舘本千葉系図』中心)
千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――――胤宣
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
| | +―胤賢―――――千葉介自胤―――千葉介守胤
| | (中務大輔) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―馬加康胤―+―胤持
| |(陸奥守) |
| | |
| | +―女 +―千葉介勝胤―――千葉介昌胤
| | |(千葉介) (千葉介)
| |【松羅舘本系図】 |
| +―岩橋輔胤―――千葉介孝胤――… +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤―――胤依―――+―金山殿 +―千葉介孝胤―+―少納言殿――――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津殿 +―成身院源道―+―光言院源秀―?―養運斎
| |(菊間御坊) |
| | |
+―岩橋輔胤―+―椎崎胤次 +―天生院源長
(岩橋殿) (入道道甫)
-旗本馬場氏略系図-
→馬場胤継――胤好――――胤永====胤忠――――――――――――胤保――――胤重
(藤左衛門)(藤左衛門)(藤左衛門)(藤左衛門・石丸輝道の三男)(藤左衛門)(信太郎)
浜野
千葉一族。宗家の領内、千葉郡浜野村発祥。
千葉一族。千葉宗家の筆頭家老。戦国時代末期には宗家を陰から良きに悪きに支えた。原氏は大きく分けて以下のように3つの流れがある。
(1)原常余 | 鴨根常房(三郎)の弟で養子。小城千葉氏の家老である岩部氏・仁戸田氏は彼の子孫。 |
(2)原光氏 | 千葉介氏胤の次男で初名は満氏(二郎)。子・常光は「原二郎」として原氏を再興した。子孫は甲斐国に移った。 |
(3)原胤高 | 千葉介満胤の子といわれ、子孫は千葉氏筆頭家老となる。 |
→(1)(2)(3)いずれも一族が「甲斐国」に移住している。(1)原胤勝(承久年中?)(2)原胤重(15c中?)(3)原虎胤(1517年)
●原氏の歴史●
(1)平安時代末期、千葉三郎常房(鴨根三郎)の弟・常余(四郎)を祖とする。諸国に広まっていった流れは、この流れが多いようだ。常途は下総国香取郡原郷(多古町染井)に住んで原四郎と称した。子孫は原郷の周辺に移り住んで、円城寺・岩部・仁戸田・牛尾・飯篠・原口・江里口・峯・晴気・粟飯原・大原・次浦・江指・千田・岩沢・鞍持・佐野らの諸氏が生まれた。
承久3(1221)年5月に起こった「承久の乱」の後、一族・原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。その子・胤重は松枝合戦で戦死。甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。しかし、武田勝頼が滅ぶと帰農した。
(2)千葉介氏胤の次男・光氏(二郎)は、関東公方・足利氏満(1359-98)から偏諱を受けて満氏と名乗ったが、のち光氏と改名、子・常光は「原二郎」と称した。その子孫・胤重(二郎左衛門)は甲斐国に移住している。
(3)千葉介満胤の四男・胤高(孫次郎)は、原氏の名跡を継承(原胤惟養女を妻としたとされる)して原を称し、彼の子孫は千葉宗家被官として栄えていくことになる。
子孫・原胤房(越後守)は鎌倉府侍所所司・千葉介胤直の側近として鎌倉にあり、公方屋敷にも出仕して鎌倉公方とも昵懇にあった。しかし、胤直は上杉氏(幕府方)と成氏との争いの中で、康正元(1455)年、胤房の諫言も聞くことなく上杉氏に加担。胤房は成氏と結んで千葉庄に帰っていた主君・胤直に軍を向ける。千葉館にいた胤直一族は成すすべなく千葉を脱出し、被官の多くが本領を持つ千田庄へと逃れた。しかし、胤房は胤直の叔父・馬加陸奥守入道と結んで千田庄多古城ならびに島城を攻めて、主家である千葉宗家を滅ぼした。
同年中、足利義政は成氏の追討のため、下総国東庄に所縁の奉公衆・東常縁に御教書を与えて下向させ、上総国浜野に所領を持つ奉公衆・浜春利(式部少輔)を副将とした。彼らは下総国に入ると、大須賀左馬、国分五郎ら千葉六党の国人衆に召集をかけ、馬加城に攻め寄せた。馬加陸奥入道・原胤房らは防戦したが敗れ、胤房は千葉方面に逃れる。胤房はその後も東常縁との戦いを続けるが、連敗を重ねたようだ。そしていつしか胤房は名を見せなくなる。
その後、原胤隆(宮内少輔、宮内太輔)が千葉庄小弓城主として活躍を見せ、おそらく胤隆の子孫が原氏の嫡流となり、小弓城主となった。
永正14(1517)年、上総国真里谷城主の武田三河守入道恕鑑が小弓城を攻め取り、武蔵国高柳に在館していた空然(足利政氏の次男で鎌倉鶴岡八幡宮寺若宮別当)を迎えて空然は還俗し、足利義明(右兵衛督)を名乗った。この戦いに城主・原二郎は敗れ、一族の原友胤(能登守)は子を連れて甲斐の武田信虎を頼った。そしてその子は信虎から偏諱を受けて元服し「虎胤」と称した。のちの「原美濃守虎胤」である。
こうして小弓城は足利義明の居城となり、「小弓上様(小弓御所)」と称される。一方で領内を荒らされた千葉介勝胤は、相模国小田原の北条氏綱に義明追討を要請した。しかし、氏綱は「時を待って行動しましょう」といって積極的に応じなかったため、仕方なく義明と和睦しているが、義明には傲慢な性格が現れ、天文3(1534)年、彼を後見してくれていた武田恕鑑に切腹を命じ、恕鑑は怒り心頭に達して憤死した。さらに彼の死後、嫡男・武田信隆と次男・武田信応が家督をめぐって争い始めた。信隆は義明のやり方に無念で仕方がなく、北条氏綱と結んで義明を討つべく助けを求めた。一方で異母弟・信応は義明に取り入って信隆追討の兵を挙げた。
天文7(1538)年10月、義明は武田信応・里見義堯と結んで、古河公方・足利晴氏の足元である関宿攻略のために下総国府台に進出。一方で、古河公方方の北条氏綱が国府台に攻め入り、激戦の中で足利義明は討死。小弓城は当時の原家当主・原胤清のもとに戻った。この戦いを「第一次国府台の戦い」という。
原氏はその後も千葉宗家の家宰として宗家の舵取りを行い、室町時代末期に臼井城に本拠を移して半独立。宗家の執権は庶流の原親幹(若狭守)・原胤長(豊前守)がつとめるようになっていた。そして臼井原氏最後の当主・原胤信(吉丸)は天正18(1590)年、小田原合戦の余波を受けて臼井城を開城し、徳川家康の側近となった。
●国府台の戦い関係図●
北条氏綱方 | 関係 | 足利義明方 |
足利晴氏(古河公方) | 叔父甥 | 足利義明(小弓公方) |
北条氏綱(小田原城主) | 敵 | 里見義堯(稲村城主) |
武田信隆(恕鑑嫡子) | 異母兄弟 | 武田信応(恕鑑次男) |
千葉介勝胤(佐倉城主) |
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●千葉氏と原・高城氏の関係図(但し高城氏が原氏の庶流かは明らかでない)
★千葉介満胤の補佐人(『千葉大系図』)
族臣 | 粟飯原弾正左衛門(詮胤) 大庭次郎 相馬上野二郎(胤高?) 大須賀左馬助(憲宗) |
国分三河入道 東二郎左衛門入道 木内七郎兵衛入道 国分六郎兵衛入道 国分与一 | |
国分越前五郎(時常) 神崎左衛門五郎 那知左近蔵人入道 | |
家臣 | 原民部少輔 円城寺式部丞(常忠) 円城寺駿河守(常□?) 鏑木十郎(胤繁?) 円城寺大膳 |
多田平四郎 中村式部丞(胤幹) 深志中務丞 湯浅 鏑木備中 木内丹波 | |
内山中務丞 行方平四郎 麻生淡路守 島崎大炊助 龍崎尾張守 高城越前守 | |
側近 | 椎名権太郎 高木隼人 牛尾右近 湯浅小次郎 海上与一 三谷帯刀 |
近侍 | 小見川刑部少輔 成東兵部少輔 豊島伝三郎 馬場左兵衛尉 大須賀左衛門尉 国分小三郎 府馬監物 |
押田掃部 麻生弾正 山室主殿 土屋大炊助 |
原胤貞(式部大輔)が千葉介勝胤から相馬郡手賀村(柏市手賀)に六百貫文を給わったことから始まるとされるが、実際はもう少し古い時代に分かれた原一族と推測される。
天正18(1590)年、徳川軍によって手賀城は陥落したと思われ、城主・原久胤の弟・原胤次が板倉勝重の推挙によって慶長18(1613)年、江戸町奉行・島田正利の組与力に就任。子孫は代々南町奉行与力として幕末まで続いた。
●小城原氏
原泰継(三郎)の孫・原胤秀(孫三郎)が建武年中、千葉胤貞(大隅守)の小城郡下向に随い、その曾孫・原胤藤(又三郎)、原胤光、原孫四郎は康安2(1362)年と思われる「筑前片岡合戦」で討死を遂げた。胤藤の子・原胤貞(出雲守)は応永6(1399)年3月20日「肥前国神埼郡倉戸城」で討死した。子孫はおそらく千葉家家臣として続いている。
●旗本原氏
旗本となった原重胤(原虎胤の四男)は武田氏滅亡後に家康に召し抱えられ、その子・重久は家康の孫・徳川忠長に仕えて代官となった。しかし、忠長が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、連座して子の重国とともに追放された。その後、寛永13(1636)年12月10日赦免されて大番に列し、寛永15(1638)年12月1日、二百俵を賜って旗本に列した。
―旗本原氏系図―
→原虎胤――重胤――――重久―――+―重国――――+―親詮====親貞―――+―石野正辰
(美濃守)(三左衛門)(勘右衛門)|(勘右衛門) |(勘右衛門)(三郎兵衛)|(万三郎)
| | |
+―娘 +―杉原近長 +―虎之助
|(大津勝重妻)|(甚三郎) |
| | |
+―娘 +―親定 +=親活――――――――――――+
(外山正吉妻) (三郎兵衛) |(勘右衛門・美濃部茂常次男) |
| ∥ |
+―娘 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―娘 +―親明
|(石野正長妻)|(市左衛門)
| |
+―親要――――+―石野正為
|(三郎兵衛) |(伝兵衛)
| |
+―娘 +―胤亮―――胤保
(大岡直紀妻)|(弥五郎)(篤吉郎)
|
+―娘
|(岡孝健妻)
|
+―娘
|(松崎孝意妻)
|
+―親徳
(永三郎)
八王子同心の中に原氏の名が見える。原胤歳は武田信玄に仕えた部将で、その子・胤従は信玄の目付役鎗支配で、武田氏の滅亡後に家康に仕えた。胤従は家康の関東入府に伴なって、武蔵と甲斐の中継地である八王子を任された千人同心頭十二家のうちの1家として八王子に赴任した。
胤従は千人同心「葵組」の元締めであり、胤従は家康の麾下として奥州平定戦、文禄慶長の役にも参加。その子・胤虎は関ヶ原の戦いで秀忠軍に加わって上田城攻めなどに活躍した。屋敷は八王子追分町に七千坪の広大なものであったが、10代・原胤敦の時代の寛政11(1799)年12月12日、火災で焼け落ちた。胤敦は翌年早々に配下を率いて蝦夷地へ渡って警備と開拓に従事、文化5(1808)年に八王子に帰郷した。胤敦・胤広・胤禄の3代は幕府の地誌編纂事業に携わる。初代・原胤歳は身延山久遠寺に埋葬され、2代・胤従以降は、胤従が開基となった上野原宿本立寺に埋葬された。
―八王子同心原氏―(→原胤歳は武田信玄に仕えて、川中島の戦いに信玄から槍を賜って活躍した)
→原胤歳――胤従――――胤虎―――+―正胤――――――――+=勝正―――+=正弥
(大隅守)(半左衛門)(半左衛門)|(半左衛門) |(半左衛門)|
| | ∥ |
| +―娘 +―直正――――正芳――――正喜====正峰―――+
| | (半左衛門)(半左衛門)(半左衛門)(半左衛門)|
| | |
+―胤定―――榊原宣久 | +―――――――――――――――――――――――――――――+
|(伊兵衛)(小左衛門)| |
| | +―胤敦
| | |(半左衛門)
| | |
| | +―胤広――――胤禄――――胤龍――――胤列
| | (半左衛門)(半左衛門)(半左衛門)(半左衛門)
| |
| +―三田将守
| |(善次郎)
| |
| +―浦野重一
| |(惣兵衛)
| |
| +―娘
| (秋山十郎右衛門利政妻)
|
+―親胤――――長右衛門――長右衛門―+―小平次 +=八弥
(半左衛門) | |
| |
+―胤氏―――+―娘
(長右衛門) (飯高貞邑室)
●小弓原氏の庶流(小西原氏・弥富原氏)
小西原氏は小弓原氏の一族で、小西城主をつとめた。
初見は原胤継(肥前守。入道行朝)である。胤継は宝徳3(1451)年に宗家の原胤房と私闘を起こしたのち小弓城に拠った。胤継が文明13(1481)年に亡くなったのち、子・肥前守(法名行源)が継ぐ。その子・光信(能登守)は国府台の合戦では宗家の原胤貞に従って活躍したと思われる。その子・能登守(法名日源)は元亀元(1570)年に里見氏と戦って戦死した。
―小西原氏系図―
→原胤高―壱岐守―胤継―――肥前守―能登守―能登守―肥前守
(四郎) (肥前守)(行源)(光信)(日源)(遊源)
弥富原氏は文明年間(1469-87)に原景広が臼井庄弥富郷を領して祖となった。景広は文明2(1470)年3月、臼井庄弥富郷に日蓮宗勝興山長福寺を建て、文明11(1479)年、臼井城に攻めてきた太田道灌の軍に突撃して戦功をあげている。景広の嫡男・孫九郎は永正14(1517)年5月に足利義明との戦いで戦死した。次男の弾正忠はそれより2年前の永正12(1515)年に没している。四男・胤行は天文7(1538)年の国府台の戦いで宗家・原胤清にしたがって出陣したものと思われ、『千葉大系図』によると「天文六年出張国府臺有軍功」とある。
胤行は天文19(1550)年の千葉妙見社遷宮の儀式の際には、惣領家の原胤清の献上する神馬を曳きたてており、胤清の子・胤貞の神馬は、(1)の小西原氏の原胤次(隼人佐)が曳いている。
―弥富原氏系図―
→原高胤―信濃守―左衛門尉―景広―――――――胤行――――――若狭守――――親幹―――――――邦房
(四郎)(道儀)(朗珍) (左衛門尉・朗真)(九郎左衛門尉)(本佐倉原氏)(大炊亮・若狭守)(大炊亮)
いつごろ原宗家から分流したかは不明。大野村(市川市大野)を本拠としており、「豊前守」を称した人物が系譜に多いことから、本作倉原氏となんらかの関係があったのかもしれない。主に下総・武蔵の国境付近で討死している人物が多いことから、下総千葉氏と上杉氏との戦いのなかで戦死したと考えられる。
―大野原氏想像系図―
原胤親―+―原胤房《1389-1479》
(孫次郎)|(越後守・昇岳)
|
+―孫二郎光胤《1466》―――胤宗《1502》――胤清―――胤吉===胤家
(豊前守・荘覚) (内匠助・蓮寿)(豊後守)(豊前守)(豊前守)
いつごろ原宗家から分流したかは不明。ただし、森山原氏と並んで戦国末期の千葉宗家筆頭家老をつとめた。原宗家である臼井原氏はすでに千葉宗家の家老という立場ではなく、千葉宗家とは密接な関係を保ちながらも独立した北条氏臼井衆の筆頭に位置していた。千葉宗家の家政を取り仕切ったのははやくから千葉宗家の直臣として仕えていた原氏の庶流(本作倉原氏・森山原氏)であったと考えられる。
戦国末期の当主・原胤安は千葉宗家存続のためには北条氏の力を頼る他ないと考えていたようで、強硬に北条氏の介入に反対する原親幹(森山原氏)と対立した。親幹の態度はかなり強硬だったようで、胤安は北条氏直に下総出兵の要請までしている。結果的に原親幹は説得に応じて降伏。千葉宗家は北条氏に乗っ取られることとなった。
―本作倉原氏想像系図―
□□□ 妙行尼《1593》
∥―――――――□□□《1526》 松室妙椿《1585》 ∥―――――――――邦長
法照尼《1505》 (豊前守) ∥―――――――――――胤長 (大蔵丞)
∥――――――――□□□――胤安《1550妙見神事》 (大蔵丞・豊前守)
妙孝尼《1545寄進》 (大蔵丞)
弥富原氏の一族とされる原氏。本作倉原氏と並んで戦国時代末期の千葉宗家筆頭家老。原親幹は千葉介親胤より偏諱を受けていて、その重用ぶりがうかがえる。北の佐竹氏・大掾氏との備えとして、海上氏の居城・森山城(千葉介胤富が海上氏家督として入っていた)城将としてこれを守る。北条氏が千葉介邦胤亡きあと、千葉宗家乗っ取りを画策するとこれに強行に反発。親北条氏の本作倉原氏と激しく対立した。
しかし、北条氏が親幹の能力を高く評価していたためか、北条氏は粘り強く親幹を説得。ついに親幹は出家して北条氏の支配下に入った。その後も親幹は北総の要と考えられており、隠居は許されずに森山城将・海上氏の後見を命じられた。
―弥富原氏系図―
→原高胤―信濃守―左衛門尉―景広―――――――胤行――――――若狭守――――親幹―――――――邦房
(四郎)(道儀)(朗珍) (左衛門尉・朗真)(九郎左衛門尉) (大炊亮・若狭守)(大炊亮)
●各地の原氏
(1)「関ヶ原の戦い」で西軍に属して所領を没収された原勝胤(美濃太田山三万石)がみえる。はじめは織田信長に仕えて、柴田勝家に従い北陸地方を転戦する。美濃土岐氏の一族とされる。
(2)幕末の土佐藩兵学師範に原茂胤がいた。茂胤は藩祖・山内一豊が定めた北条流軍学を学び、弓隊が無用の長物だと唱える乾退助(のちの板垣退助)がすすめた鉄砲導入に強硬に反対した。
●相馬氏家臣の原氏(1)
奥州相馬氏の家臣に原氏が見える。原常途の子孫といわれる。相馬重胤が奥州に下った際に従って行方郡小高郷に住む。相馬高胤の時代、原胤安(大蔵少輔)が大井邑に移った。その子・原胤盛(玄蕃)とその子・胤寿(次郎右衛門)が宇多郡藤崎邑に移住し、その後、駒ヶ嶺堡主に任じられた。
胤盛の次男・原胤直(左近・伊卜)の墓は小高郷入迫に残る。その子・胤政(三郎衛門)は分限帳では6貫40文を知行したという。その子・庸吉(新右衛門)は慶長の相馬家中村移封に際して中村に移り、200石を領した。しかし、その後にゆえあって50石に減封され幕末にいたる。嫡流の原伝右衛門は200石、庶流の原茂右衛門は20石、原三郎右衛門は8石。
●相馬氏家臣の原氏(2)
原胤寿(次郎右衛門・如雪)は宇多郡藤崎邑に移り、子は藤崎摂津と称した。摂津は子・久長(治部)とともに相馬盛胤に仕え、要衝・駒ヶ嶺塁主に抜擢される。しかし、伊達政宗が攻め寄せてきたため迎え撃ったが、ついに陥落。摂津・久長父子は盛胤のもとに逃れ、坂元の戦いで戦死した。
胤寿の次男は原三河を称し、大井邑に館を構えて14貫550文を領した。その子・近江は慶長7(1602)年の中村藩成立と同時に中村城下に移り、子・助兵衛は127石を給され、六代目の八左衛門は元文年中(1736-1741)に所領を没収されて滅んだ。
―相馬原氏系図―
→原常長―常房―常余―…―胤安――――胤盛―+―胤寿――――+―藤崎摂津―――久長
(大蔵大輔)(玄蕃)|(次郎右衛門)| (治部)
| |
| +―杉目三河―――近江―――助兵衛
|
+―胤直――――――胤政―――――庸吉
(左近) (三郎右衛門)(新右衛門)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
原 伝右衛門 | 大身 | 200石 | 桜馬場 |
原 新右衛門 | 小身 | 50石 | 原釜通中町 |
原 茂右衛門 | 小身 | 20石 | 成田村 |
原 三郎右衛門 | 小身 | 8石 | 清水通町 |
●原氏の権勢
原氏は16世紀はじめにはその実力は千葉介宗家をしのいで、下総国最高の実力者となっていた。16世紀初頭の原氏の当主は原胤隆(宮内少輔)だった。永正6(1509)年、原胤隆は連歌師として名高かった柴屋軒宗長を小弓城に招いて盛大な連歌の会を開くなど、歌人としての才能もあったようだ。また、胤隆の三男・範覚が十三歳で北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉市中央区「千葉神社」にあった別当寺)の妙見座主に就任している。本来、妙見座主には千葉介の子が就任するしきたりとなっていたが、胤隆の子が就任するほど原氏の力は強かったようだ。そして範覚が四十三歳で亡くなると、千葉介勝胤の子・常覚(安寿丸)が座主に就任するが、彼は原胤隆の娘を母としており、結局原氏の影響力が残る形になったと推測される。妙見信仰は千葉一族の共通の重大事項であり、その頂点に原氏の子弟が就任していることをみても、原氏の権勢の強さがうかがわれる。
★原氏の系図★
―原氏系図(1)―
→平常長―鴨根常晴―原常余―常継――――常朝―法常―胤季―胤和―胤位―胤家―胤定―胤惟
(三郎) (四郎)(十郎大夫)(平次)
―前期原四郎家系図(1)―
―原氏系図(2)―
→千葉介氏胤―原光氏―常光――常繁――――清常――――胤重―――――重綱――――政常――――常尊―――――貞常
(次郎)(二郎)(二郎大夫)(五郎大夫)(二郎左衛門)(三郎兵衛)(三郎大夫)(三郎左衛門)(新左衛門)
―原氏系図(3)―
―浪合原氏系図(4)―
→原胤勝――胤重―――胤直――胤房―胤続―胤春―胤行―胤吉―+―浪合胤光―胤秋―――胤定――――胤末(胤成養嗣子)
(与四郎)(与四郎)(与四郎) |
+―胤成===胤末―+―彦兵衛
|
+―与一右衛門
―甲斐原氏系図(5)―(→原昌胤は武田信玄24将の一人)
→原昌俊――昌胤――+―昌栄
(加賀守)(隼人佐)|(隼人佐)
|
|【旗本原氏】
+―貞胤[=胤親(隼人佐・監物)]―一永――――政久―――政辰―――政胤
(隼人佐) (忠左衛門)(新六郎)(彦六郎)(新六郎)
―原氏系図(6)―
→原昌俊――昌胤………昌術――――昌克――昌綏
(加賀守)(隼人佐)(水戸藩医)(玄与)(水戸藩士)
●原氏の家臣●
・臼井原氏…原・高城・酒井・斎藤・菊間・加藤・秋山・岸谷・津・大熊・佐久間・豊嶋・金親・天生院
・手賀原氏…粟飯原・大山・染谷・湯浅・深山
原口
千葉一族。平常長の子・千葉常房(鴨根三郎)の子孫で、原常継(十郎)の孫・原忠綱(又七郎)の五代の孫・原秀胤(対馬守)が文明元(1469)年12月に肥前に下向して原口を号した。子孫は江里口氏と原口氏に分かれるが、原口氏は原口胤清(三郎)の七代の孫・原口平二兵衛以降の系は不詳である。
晴気
千葉一族。小城千葉氏の流れをくむ家で、はじめ千葉鍋嶋家家臣、のち佐賀藩士となる。家紋は月星、十一曜。正しくは「晴氣」。知行地は三根郡などに四十五石。
千葉介胤連の子・鍋島右馬佐胤信には三人の娘と男子が一人おり、男子は馬場清兵衛茂周の養子となり、馬場帯刀を称したが早世した。長女は永田利右衛門に嫁ぎ、二女は本告作左衛門に嫁いでおり、胤信は三女に鹿江忠兵衛茂次の子を嫁がせて養嗣子とし、鍋島千葉家初代・鍋島玄蕃允常貞となった。
一方、鍋島千葉家の名跡を継いだ常貞とは別に、長女(永田利右衛門妻)の子(胤信には外孫)を養子に迎え、千葉作兵衛胤仲を名乗らせた。胤仲は叔父で義兄の鍋島常貞の家臣となり、「千葉」姓を憚ったのか、鎌倉期の千葉氏西遷に随った「飯篠」氏の名跡を継いで「飯篠作兵衛尉」を称している。
●「鍋島玄蕃允常貞家臣等連署起請文」より
結篠作兵衛尉 | 結篠百助 | 柳嶋右衛門佐 | 岩部久右衛門尉 | 岩部清太輔 | 岩部吉左衛門 |
鮎河利左衛門尉 | 鮎河金兵衛尉 | 鮎河角左衛門尉 | 鮎河市太夫 | 松本八郎右衛門尉 | 浅岡与一兵衛尉 |
藤田五郎左衛門尉 | 藤田忠兵衛尉 | 松村又兵衛尉 | 長才右衛門尉 | 河波八郎兵衛尉 | 大井与左衛門尉 |
大井南四郎 | 久間源左衛門尉 |
飯篠胤仲は義兄・鍋島常貞の娘を娶り、三男三女を儲けた。胤仲の長男・常豊は石井忠右衛門の聟養子となり、石井仁右衛門を称した。正徳元(1711)年9月25日に亡くなった。二男・義弁は江戸の徳川家菩提寺である東叡山寛永寺の塔頭・一乗院の住職にまで昇った。胤仲の長女は関平兵衛の妻、二女は犬塚三兵衛の妻、三女は三谷八左衛門の妻となった。
胤仲の三男・胤之が石井武右衛門を称し、その後、飯篠胤之と改めて飯篠家の家督を継ぐ。妻は石井権之丞の妹。はじめ二十石を賜り、その後も微増を重ねて享保6(1721)年に神埼郡六丁牟田に所領を給わり、八十石取りとなった。しかし、翌享保7(1722)年、江戸において人を傷つけ、家籍を没せられた。
飯篠胤之には三男三女があり、長女は白石鍋島家の家臣・牧要人(牧右衛門允)の妻となり、長男・郡右衛門胤陳は本来は飯篠家の家督を継ぐ者であったが、享保7(1722)年に父・胤之が刃傷沙汰を起こしたことから飯篠家は絶家とされてしまった。そのため胤陳は、元文元(1736)年、五代藩主・鍋島信濃守宗茂の命を受け、石井新右衛門の養子となって石井新右衛門家の名跡を継いだ。妻は石井七郎左衛門常長娘。二男・作兵衛胤春も藩公・宗茂の命で「飯篠」を「晴気」と改めた。二女は広渡雪之進の妻となり、三男・常意(常政)は石井六右衛門忠之の養嗣子となった。
なお、飯篠家は武右衛門胤之で絶家とされたが、胤之の長男・石井郡右衛門胤陳の次男・野口利平次胤稠(野口三左衛門養子)が胤之家の再興を許されて石井利平次胤清と改めて家督を継いだ。
晴気作兵衛胤春は飯篠から藩公・宗茂の命を受けて改姓し、初代晴気家当主となる。妻は志波喜左衛門慎之娘。「晴気」は千葉家の先祖伝来の地である小城郡晴気村の由緒によるものか。長男・平八は早世し、長女も早世。二女は伊東杢兵衛の妻、三女は蓮池藩士・原口三郎左衛門隆朗の妻となった。
胤春の二男・晴気胤丘ははじめ軍蔵を称し、のち作兵衛。妻は松永新右衛門忠英娘。
晴気胤丘の長女は石井数馬尚方の妻、二女(始)は石田利兵衛為武の妻となり、長男・晴気軍蔵が家督を継ぎ、晴気作兵衛と改める。三女は手明鑓・今泉新兵衛妻。なお、藩公・鍋嶋斉直の命によって、石井数馬尚方の養女となった龍女(藤堂家家来・高井九郎右衛門娘)は佐賀城奥向に上がり、「唐橋」を称し、その後「薗岡」となった。さらに藩公の側室となって「於増」と称し、保九郎、鍋島丹波守直永、豊姫の母となった。
晴気作兵衛には跡継ぎの男子がなく、深堀新左衛門正方の子を三女の婿養子に迎えて晴気善作演胤として家督を譲った。長女は所伝不明、二女は足軽の嘉村庄助の妻となった。その後、作兵衛に実子の作一郎が生まれ、善作演胤の養子として家督を継いだ。
昭和期の軍人で小城出身の晴氣慶胤陸軍大佐はこの晴氣家の流れだろう。
+=鍋島直茂―――鍋島勝茂―――――鍋島忠直―――鍋島光茂―――――鍋島宗茂――――鍋島治茂―――――――――――鍋島斉直
|(加賀守) (信濃守) (肥前守) (丹後守) (飛騨守) (肥前守) (肥前守)
| ∥
千葉介胤連―+―鍋島胤信―+―長女 ∥
(右馬佐) | ∥――――――――飯篠胤仲 +―石井常豊 +―娘 +―娘 ∥
| 永田利右衛門 (作兵衛) |(二右衛門) |(牧要人妻) |(伊東杢兵衛妻) ∥
| ∥ | | | ∥
+―次女 ∥―――+―娘 +―石井胤陳 +―娘 ∥
| ∥ ∥ |(関平兵衛妻) |(郡左衛門) |(原口隆朗妻) ∥
| 本告作左衛門 ∥ | | | ∥
| ∥ +―義弁 +―晴気胤春――+―晴気胤丘―+―三女 ∥
+―馬場帯刀 ∥ |(一乗院住職) |(作兵衛) (作兵衛) |(今泉新兵衛妻) ∥
|(馬場清兵衛茂周) ∥ | | | ∥
| ∥ +―石井胤之―――+―娘 +―晴気作兵衛 ∥
+=鍋島常貞 +―娘 |(武右衛門) |(広渡雪之進妻) | ∥ +―保九郎
|(玄蕃丞) | | | | ∥ |
| ∥―――――――+ +―娘 +―石井常政 +―始 ∥ |【鹿島藩主】
| ∥ | |(犬塚三兵衛妻)|(六右衛門) |(石田為武妻) ∥ +―鍋島直永
| ∥ | | | | ∥ |(丹波守)
+―三女 | +―娘 +―石井胤清 +―長女 ∥ |
| | (三谷八左衛門妻)(利平次) ∥ ∥――+―豊姫
| | ∥ ∥
+=千葉胤仲 | 石井尚方――+=龍女
(作兵衛) | (数馬) |
| |
| +=石井胤忠
| (権平)
| ∥――――石井胤義
+―千葉常成――千葉常輝――千葉常春==千葉常以……千葉胤明―――千葉胤佐―+―妹 (常次郎)
|(太郎介) (頼母) (八左衛門)(頼母) (三郎右衛門)(八左衛門)|
| |
+―鍋島常治……千葉忠右衛門家 +―千葉胤清―千葉胤脩
(玄蕃) (内匠) (頼母)
林
椎名一族。椎名氏の祖・椎名胤光(六郎)の子・松山胤平(三郎)は、八日市場郷松山に松山神社を建立したときに、自身の事を「其之地之豪族林資朝之孫、上総介良兼之門葉」と言っていることから、松山胤平は林資朝の娘の子であろうと思われる。
林家はその後、椎名一族・野手氏の家老となり、戦国中期の林資平(左平大)は野手氏の一族となっていた。野手城主・野手義長が天文4(1535)年3月18日に押田修理亮に滅ぼされると(野手合戦)、資平の子孫である林左太夫(全仲)と林弥右衛門らは義長の三男・義通とともに小田氏を頼っている。また、林弥右衛門の兄・弥左衛門は野手に残ったという。
―林氏略系図―
→林資朝…資平――友全――+―弥太夫―+―弥左衛門(常陸に行く)
(左平)(長門掾)| |
| +―弥右衛門(下総に残る)
|
+―全仲――――全幹
(左太夫) (伊賀掾)
飯崎
相馬一族。「はんざき」と読む。遠祖は藤原北家と伝わり、相馬氏の功臣・木幡氏の一族。発祥地は行方郡飯崎村(南相馬市小高区飯崎)。盤崎村については、鎌倉後期に相馬師胤(彦次郎)が自らが惣領であると主張するために作成したと思われる『相馬胤村配分状』の中に、小高村とともに「闕所(領主不在地)」として記載されているのが初見。こののち、小高・盤崎村は文永9(1272)年10月29日『関東下知状』によって師胤の母・尼阿蓮に知行が認められた。
相馬師胤の嫡子・相馬重胤に従って奥州へ下った木幡範清(周防守)の弟・政清(伊予守)を飯崎氏の祖とする。政清の子・胤清(紀伊守)は相馬氏より「胤」字を賜って一家に列した。その後、木幡氏は室町時代まで代々相馬氏の筆頭家老・執事をつとめた家柄となった。そして、胤清の子孫・胤秀(紀伊守)は相馬隆胤の代に小高郷中島に所領を与えられ、氏を木幡から飯崎へと改めた。
文安2(1445)年2月、牛越塁主(南相馬市原町区牛越)・牛越定綱が突如、相馬隆胤に謀反を起こした。隆胤はみずから追討の軍勢を率いて牛越城に向かったが、中島塁主の胤秀(紀伊守)が定綱と通じたため、隆胤は逆に攻めたてられる形となってしまった。この危機を救ったのが文間胤久(萱浜嘉右衛門尉)と青田清弘(豊田三郎左衛門尉)の二将で、彼らは偽って牛越城に降伏して定綱を斬殺。相馬勢は牛越城に乱入して攻め落とした。胤秀は降伏して許された。
応仁2(1468)年3月21日、隆胤以下一族重臣たちが高野山金剛峰寺無量光院に銭を寄進した際、「飯崎胤秀」が五十疋を、「修理進」が百文を寄進している。
胤秀以降、繁安(但馬守)、安元(紀伊守)、清安(右兵衛佐)と三代にわたって武功の臣として名を馳せる。清安は永禄年中に起こった青田顕治(信濃守)・左衛門父子、草野胤清(式部)、飯崎盛清(主水正。飯崎本家で木幡家の惣領)が伊達家に通じた際には、相馬盛胤に従って、彼らを宇多郡に追討した。清安の郎党・高橋文右衛門は立谷村での戦いで、伊達家の武将・大谷地掃部を討つ大功をあげている。
清安の子・安吉(四郎左衛門)は81貫275文を領したが、慶長7(1602)年に家中減知にともなって北郷に44石1斗を知行。その後、元和年中(1615-24)に出家して高野山に登り、後継ぎもなかったため飯崎氏嫡流は断絶する。
清安には左近将監・但馬守・八郎の三人の弟がおり、それぞれ武勇で知られていたが、左近にも但馬にも子がなく、末弟・安定(八郎)が飯崎氏をついだ。このとき飯崎氏はすでに半農半士の身分であり、幕末の当主・飯崎文五郎は宇多郡小高郷川房村に11石を給されていた。
―飯崎氏略系図―
→木幡義清-<4代>―+―範清 +―清安――――安吉
(周防守) |(周防守) |(右兵衛佐)(四郎左衛門)
| |
+―政清―――胤清――<5代>―飯崎胤秀-繁安―――安元――+―左近将監
(伊予守)(紀伊守) (紀伊守)(但馬守)(紀伊守)|
+―但馬守
|
+―安定
(八郎)
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
飯崎作右衛門 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷牛越村 |
飯崎文五郎 | 給人 | 11石 | 行方郡小高郷川房村 |
※給人…もともとは相馬中村藩の禄を食む者。ただし、府下給人(28石以上)と在郷給人(27石以下)で分かれる。
※府下給人…中村城下に移された28石以上の禄を持つ藩士。「御家中」と称された。
※在郷給人…在郷のまま地方を治めさせた27石以下の禄を持つ藩士。「給人」と称された。