●武蔵千葉氏とは…
武蔵千葉氏は室町時代中期の千葉氏の内乱によって派生した一族で、千葉介胤直の弟・千葉中務大輔胤賢(日了)を祖とする。胤賢入道は、兄・胤直入道常瑞と甥・千葉介胤宣が原越後守・馬加陸奥入道常義との戦いでは、兄とともに戦い、千田庄多古・志摩城にこもって戦った。しかし、胤直入道常瑞・千葉介胤宣らは相次いで自害。胤賢も城を脱出し、二人の子を逃れさせたのち自害した。
胤賢入道の遺児二人は上杉氏を頼って武蔵国へ逃れ、兄・実胤は荒川沿いの赤塚城(板橋区)に、弟・自胤は隅田川沿いの石浜城(台東区)に拠って下総千葉氏と対抗、武蔵千葉氏となった(実胤が石浜、自胤が赤塚という説もあるが、実際の活動地は逆であるため、上記の拠点となろう)。
―― | 初代 | 二代 | 三代 | 四代 | 五代 | 六代 |
千葉胤賢 (????-1455) |
千葉実胤 (1442?-????) |
千葉介自胤 (????-1493) |
千葉介守胤 (1475?-1556?) |
千葉胤利 (????-????) |
千葉胤宗 (????-1574) |
千葉直胤 (????-????) |
(????-1455)
生没年 | ????~亨徳4(1455)年9月7日 |
幼名 | 不明 |
仮名 | 次郎? |
父 | 千葉介兼胤 |
母 | 上杉氏憲入道禅秀女(『鎌倉大草紙』) |
妻 | 不明 |
官位 | 不明 |
官職 | 中務大輔 |
幕府役 | なし |
所在 | 下総国千葉郡 |
法号 | 了心月山 日了 |
墓所 | 不明 |
千葉介十五代・千葉介兼胤の次男。母は上杉右衛門佐氏憲入道禅秀女子(『鎌倉大草紙』)。官途は中務大輔。号は了心、日了。
胤賢がどのような活動をしていたのかは、あまり史料が残っていないため不明な部分が多いが、嘉吉2(1442)年に胤賢の動向が三点みられる。
嘉吉2(1442)年5月28日、「千葉次郎殿(胤賢)」が関東管領(代か)上杉清方から「地蔵院領上総国飫富庄之内、本納、加納、同国周西郡田中郷等」を「自京都被仰下候」に従って、「早々無相違様御成敗」するよう命じられている(嘉吉二年五月廿八日「上杉清方書状写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)。また同日、「武田右馬助(信長)」にも「相州三浦郡武、林以下」の「御成敗」を行うよう命じている。従来、これは管領清方より各守護に命じたものとされているが、そもそもこの文書は施行状ではない。「御成敗」が何を指すのかは具体的にはわからないが、前日27日に武蔵国・相模国に出された書状に見るように「押妨」に対する措置であろう。「千葉次郎」及び「武田右馬助」への書状には誰人に沙汰すべきこととも記されておらず、これは「千葉次郎」及び「武田右馬助」自身が地蔵院領を「押妨」しており、清方は管国ではない上総国・相模国(守護はともに扇谷持朝入道)の所領で且つ鎌倉殿直属の家格である両名に対しては、指示にとどまったと思われる。
●嘉吉2(1442)年5月28日「上杉清方書状写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)
●嘉吉2(1442)年5月28日「上杉清方書状写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)
一方、この醍醐寺地蔵院領への「自京都被仰下」沙汰は、この前日にも山内上杉家守護国である武蔵国と伊豆国に対しても発せられているが、こちらはいずれも山内上杉家が守護として解決可能な案件であることから、清方は執事「沙弥(長尾尾張守忠政入道)」をして武蔵守護代「長尾左衛門尉(長尾景仲)」及び伊豆守護代「寺尾四郎左衛門尉(寺尾憲明)」にその遵行を命じている。ただし、常であれば山内家奉行一人と山内家執事の連署となる連署奉書は、このときには鎌倉殿奉行人「前下野守(明石義行)」と執事「沙弥(長尾尾張守忠政入道)」の連署となっている。なぜ鎌倉殿奉行人が加わっているのかは定かではないが、清方は山内上杉家の家督(名代)となってはいるものの、正式な関東管領(事実上関東管領の職務は遂行)ではないためか。
その内容は「武蔵国小机保内鳥山郷」での「退大石左衛門尉押妨」(嘉吉二年五月廿七日「奉行人連署奉書写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)および「武蔵国春原庄内所々并領家分年貢等」の「遍照院代官令押妨」の停止(嘉吉二年五月廿七日「奉行人連署奉書写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)、「伊豆国宇加賀、下田等」の「被沙汰付下地於当院庄主」についてというものである。
●嘉吉2(1442)年5月27日「明石義行、長尾芳伝連署奉書写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)
●嘉吉2(1442)年5月27日「明石義行、長尾芳伝連署奉書写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)
●嘉吉2(1442)年5月27~28日の管領文書関係(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)
嘉吉2年 (1442) |
差出 | 宛人 | 宛人職 | 所領 | 案件 |
5月27日 | 前下野守 沙弥 |
長尾左衛門尉 | 武蔵守護代 | 武蔵国小机保内鳥山郷 | 退大石左衛門尉押妨 |
5月27日 | 前下野守 沙弥 |
長尾左衛門尉 | 武蔵守護代 | 武蔵国春原庄内所々并領家分年貢 | 遍照院代官令押妨の停止 |
5月27日 | 前下野守 沙弥 |
寺尾四郎左衛門尉 | 相模守護代 | 伊豆国宇加賀、下田等 | 速可被沙汰付下地於当院庄主由 |
5月28日 | 兵庫頭清方 | 武田右馬助 | 相州三浦郡武、林以下 | 早々無相違様御成敗候 | |
5月28日 | 兵庫頭清方 | 千葉次郎 | 上総国飫富庄之内、本納、加納 上総国周西郡田中郷 |
早々無相違様御成敗 |
このほか、兄の胤直と連名で嘉吉2(1442)年2月には上総国山辺郡の観音教寺(山武郡芝山町芝山)に宝塔造立を期し(落成年不明)、同年11月には印西庄の竜腹寺(印西市竜腹寺)に宝塔造立を開始している(落成は宝徳3年)。これらの宝塔寄進は前年の嘉吉元(1441)年6月24日に京都で討たれた将軍義教を悼むものか。観音教寺のある山辺郡は多古庄と隣接し、また、文安3(1446)年4月13日には、千葉介胤将が観音教寺の南東坂田の地にある「霊通寺」(山武郡横芝光町坂田740)に寺領紛失状を下しており(文安三年四月十三日「千葉介胤将紛失状」『神保誠家文書』「千葉県の歴史資料編 中世3下」)、胤直・胤賢らは、千田庄と栗山川(または湖沼)を通じて上総国北東部に勢力を持っており、惣領被官人の三谷氏や神保氏等が勢力を扶植していた可能性がある。亨徳4(1455)年8月、千田庄多古嶋合戦で兄・胤直と甥の千葉介胤宣が自刃するが、胤賢は南の「ヲツヽミ」へ遁れ、9月7日に同地で自刃している。この「小堤(オンヅミ)」は、上記の霊通寺と繋がる島状台地上に存在する城郭であり、胤賢は被官人のいる山辺庄目指して遁れた可能性もあろう。「渡邊治郎左衞門尉源續家(=廣豪:銅板刻字のための字か)」は棟札の記名配置から胤賢被官と思われる。竜腹寺宝塔の「彼塔勧進帳」は「千葉相応寺開山覚尊法印」が撰している。千葉相応寺は胤直入道が開基となっている寺院(現在は廃寺。北斗山金剛授寺東側にあった。開山が「覚尊」とあるように「覚」字があることから、金剛授寺僧と思われ、金剛授寺の塔頭寺院か)である。
記名を見ると、胤直・胤賢兄弟は嘉吉2(1442)年2月までは出家していない。さらに同年5月28日に「千葉次郎殿(胤賢)」へ宛てられた「上杉清方書状写」(『東寺観智院金剛蔵文書』:黒田基樹「上杉憲実文書集」)を見てもまだ俗人であることから、胤直・胤賢が同時に出家しているのであれば、嘉吉2(1442)年6月以降11月までの間に出家したことがわかる。
●嘉吉2(1442)年2月「観音教寺造営宝塔一基棟札」(『千葉県史料』金石文篇一)
●嘉吉2(1442)年11月「竜腹寺造営宝塔一基棟札」(『千葉県史料』金石文篇一)
上総国守護職は、文安5(1448)年11月までに上杉持朝入道から兄の胤直入道へと改替されている。管領細川勝元は胤直入道に対し、覚園寺領の上総国小蓋村(加えて八坂村もある)を泉涌寺雑掌へ沙汰するよう命じられている。
●文安5(1448)年11月12日「管領細川勝元奉書写」(『覚園寺文書』神:6069)
おなじく勝元は、その翌日に「上杉修理大夫殿(上杉持朝入道)」へ同じく覚園寺領の「相模国毛利庄内妻田、荻野両郷」を泉涌寺雑掌へ沙汰することを命じている。相模国は上杉修理大夫が引き続き守護職であったことがわかる。
●文安5(1448)年11月13日「管領細川勝元奉書写」(『覚園寺文書』神:6070)
このほか、泉涌寺雑掌が求めていたものは「下野国金剛教王寺、同寺領等」で、これに関しては、覚園寺とは関わりがないので管領奉書は残されていない。これら一連の泉涌寺からの要望は、「将軍家御教書」として関東管領上杉憲忠へと伝えられている。
●文安5(1448)年11月21日「将軍家御教書」(『覚園寺文書』神:6071)
その後の胤賢入道の動向はしばらくうかがえないが、鎌倉に在して胤直入道とともに侍所の諸役をになったとも(『鎌倉大草紙』)。
亨徳3(1454)年12月27日夜、鎌倉殿足利成氏が突如、関東管領・上杉憲忠を鎌倉西御門館に呼び出して殺害する事件が起こった。『鎌倉大草紙』によると、成氏は結城成朝(中務大輔)、武田信長(右馬助)、里見義実(民部少輔)、印東式部少輔ら三百騎で憲忠を討ったという。「亨徳の乱」の始まりである。
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胤直・胤賢が籠った志摩城 |
そして亨徳4(1455)年3月20日、千葉惣領家の「近親」である原越後守胤房が突如「千葉へ押寄」せ、胤直入道らは「俄の事にて防戦難叶して千葉の城を没落」したという(『鎌倉大草紙』)。この胤房挙兵の理由は、「千葉介父子兄弟、上杉と一味して御所を背」いたためとされ、「原はひそかに成氏より加勢を乞」うてこの挙に出たという(『鎌倉大草紙』)。『千学集抜粋』にはこの挙兵の言及はないが、「十九世胤直の千葉を退散せしは康正元年乙亥三月二十日の事也」(『千学集抜粋』)との記載があり、日時は符合する。
『千学集抜粋』は妙見縁起と史実を重ねた説話で構成されており、必ずしも史実ではないが、「胤直御代に、原越後守胤房家風と円城寺下野守直重家風と口論して訴へしに、胤直その時下野が非道を道理、越後が道理を非道と別けさせられしより一乱始まる也、胤直仰せらるには、下野は多勢、越後は無勢なる故に、下野を引き給ふ也」との説話が掲載されている。「千葉家、原与園城寺合戦、園城寺武州没落」(『鎌倉大日記』)と記す史料もあり、胤房の千葉襲撃は原氏と円城寺氏の対立の構図が大きな要因を占めていた可能性もうかがえる。
ただ、史実においては、原胤房が千葉を襲撃したという3月20日時点では、京都も関東に対して具体的な動きを示しておらず、当然ながら胤直入道の去就もまだ定まっていない。成氏は胤直入道に「自関東連々雖相催」(享徳四年閏四月八日「将軍家御内書」『佛日庵文書』神:6204)と、さかんに参向の御教書を送っていた時期と思われる。胤直入道が京都に対して鎌倉方への「不令同心之旨」を京都に表明し、京都将軍家が胤直入道の姿勢を賞して太刀を送ったのが閏4月8日であることからも、4月下旬までは胤直入道は鎌倉または千葉にいたと推測されよう。
一方で、胤直入道と弟胤賢入道の母は上杉禅秀女子であることを考えれば、京都との繋がりも想定されるところで、胤直入道がすでに方針を家宰である原胤房や円城寺下野守には伝えていた可能性もあろう。そのため、「原はひそかに成氏より加勢を乞」うて(『鎌倉大草紙』)、3月20日に攻めた可能性も想定はできる。しかし、3月20日に千葉を追われているのであれば、京都からの閏4月8日の御内書にその旨が全く記されていないのは不自然であり、やはり、享徳4(1455)年3月20日の原胤房による千葉攻めは史実ではないと考えざるを得ないだろう。
●享徳4(1455)年閏4月8日「将軍家御内書」(『佛日庵文書』神:6204)
ただし、原胤房が胤直入道を千葉に襲撃したのは、おそらく事実であろう。なぜなら、胤直入道が千葉を離れて8月までに千田庄に移っている事実は、千葉を離れる合理的理由がなければならないためである。胤直入道がなぜ上杉氏を頼って武蔵国や鎌倉へ遁れず、千田庄へ遁れたのかの理由は不明だが、下総国から他国への敗亡は千葉介として到底許されるものではなかったのかもしれない。また、千田庄は家宰円城寺氏の拠点の地であることや、常陸国からの上杉家援兵を期待できる地ということで、当方へ逃れたのかもしれない。
千田庄では、千葉介胤宣が多古城へ、胤直入道・胤賢入道は志摩城へ入って籠城している。籠城の最中、円城寺氏が上杉氏へ援軍要請を行っており、上杉氏は常陸国信太庄山内衆に、「円成寺」に援軍を出すよう命じている。これに応じたと思われる「常陸大掾殿妙充」「同子息」らが千田庄へと向かった。
籠城戦のなか、馬加城(花見川区幕張)から宗家一族の馬加陸奥守入道常義・胤持父子が原氏の要請に応じて駆けつけたため、原胤房は馬加勢を多古城攻めに向かわせ、自身は志摩城攻めを続けた。原胤房らは開城勧告をたびたび発していたが、籠城方はこれを拒否して籠城を続けた。
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小堤。北東5.7キロ先に志摩城がある |
しかし8月12日、多古城では兵糧が不足して士気が下がり、ついに千葉介胤宣は自刃して城兵は降伏。14日夜には志摩城も陥落して、胤直入道は多古城内の本覚山妙光寺にて自害して果てた。
一方、胤賢入道は南の小堤城に遁れており、9月7日、小堤で自刃した。法名は了心月山。または日了。
千田庄から南へ遁れたのは、前述の通り胤賢入道が拠点を持っていたと思われる上総国山辺郡へ逃避するためか。、胤賢自身も「千葉次郎」としたが、上総国に活路を求めた可能性もあろう。
胤賢入道には七郎実胤・次郎自胤の二人の子がおり、おそらくまだ十代前半の少年と思われるが、八幡庄曾谷氏ら惣領被官に匿われており、真間山弘法寺(市川城)に挙兵している。ただ、市川城も攻め落とされて、「千葉兄弟」は上杉氏を頼って武蔵国へ逃れ、武蔵千葉氏となった。