継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (1398-1456) |
馬加胤持 (1437-1456) |
岩橋輔胤 (1416-1492) |
千葉孝胤 (1443-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(1416-1492)
生没年 | 応永23(1416)年~延徳4(1492)年2月15日 |
父 | 馬場胤依(千葉介氏胤庶子・馬場八郎重胤子) 馬加陸奥守康胤入道 |
母 | 不明 |
妻 | 不明 |
官位 | なし |
官職 | なし |
役職 | なし |
所在 | 下総国印旛郡印東庄岩橋郷 |
法号 | 不明 |
墓所 | 千葉山海隣寺? |
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輔胤花押 |
岩橋千葉家当主。父は御一家馬場胤依。千葉介氏胤の曾孫に当たる(『千学集抜粋』)。
『千葉大系図』では、輔胤は千葉陸奥守康胤の庶長子とされ、幼名は万。先代・千葉胤持の庶兄とされている。庶子のため家督を継がず、印旛郡印東庄岩橋郷(酒々井町下岩橋)に移り住み、「岩橋殿」と尊称されたという。千葉胤持の死後、千葉宗家の居城を千葉から本佐倉城へうつして千葉介を継承。従五位下に任じられたとされている。また、『松羅舘本千葉系図』によれば、輔胤は「竹墅岩橋殿 按ニ兼胤弟養子、一本ニ介」とあり、兼胤の弟、つまり馬加康胤とは兄弟とある。
康正元(1455)年8月12日および15日の「多古嶋合戦」で千葉介惣領家は滅亡し、翌康正2(1456)年正月19日の「市川合戦」で千葉介兼胤末孫である千葉実胤・自胤が下総国から武蔵国へ撤退することで、下総国西部の上杉勢力は駆逐され、成氏は「両総州討平候了」(康正二年四月四日「足利成氏書状」『武家事紀』巻第三十四)と京都に報告するに至る。
輔胤の発給文書は康正2(1456)年10月25日(関東では享徳5年)、弘法寺(市川市真間4-9)へ発給された『平輔胤安堵状』一通のみであるが、この四か月ほど前に出されている原胤房の安堵状を含めた弘法寺領を包括的に安堵したものであるため、事実上の惣領家的な立場にあったと推測される。その地位は当然ながら京都が認める公的な「千葉介」ではないが、足利成氏による擬似的な補任があったとすれば、関東における千葉介的地位にあったのだろう。
●康正2/享徳5(1456)年6月14日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●康正2/享徳5(1456)年6月20日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●康正2/享徳5(1456)年10月25日『岩橋輔胤安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』『松羅舘本千葉系図』中心)
千葉介氏胤―+―千葉介満胤―――+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直―――千葉介胤宣
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
| | | +―千葉実胤
| | | |(七郎)
| | | |
| | | |【武蔵千葉氏】
| | +―千葉胤賢――+―千葉介自胤―――千葉介守胤
| | (中務大輔) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―馬加康胤――+―馬加胤持
| |(陸奥守) |
| | |
| | +―女 +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
| | |(千葉介) (千葉介)
| |【松羅舘本系図】 |
| +―岩橋輔胤――――千葉介孝胤――… +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤――――――馬場胤依――+―金山 +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津 +―成身院源意―――光雲院源秀――天生院源長
| |(菊間御坊)
| |
+―岩橋輔胤――+―椎崎胤次
(岩橋殿) (入道道甫)
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本佐倉城妙見社 |
岩橋輔胤の祖父・馬場八郎重胤は、印旛郡馬場村(成田市馬場)を領し、子孫は馬場の周辺各地に広まった。彼の代に「公津へ移らる」といい、「郎等円城寺弾正尚家、同刑部少輔政俊、片野美濃守胤定、御供申せし也」(『千学集抄』)と、惣領家以外にも円城寺氏が仕えていたことを物語る。
「金山殿」は馬場から約一キロ北の「金山村(成田市下金山・東金山)」、「公津殿」は馬場から南西八キロの「公津村(酒々井町公津の杜)」、そして「岩橋殿」こと岩橋輔胤は公津から三キロほど南の「岩橋村(酒々井町下岩橋、上岩橋)」を治めた。
馬場氏は香取海の印旛入江の東湖岸一帯に南北に勢力を伸ばし、のちに千葉惣領家の本拠となる本佐倉城も地続きで隣接していることから、もともとの支配領域であった可能性があろう。また、輔胤は千葉と繋がる街道上の寺崎城(佐倉市寺崎)に在城したとも伝えられており、これが事実であれば、千葉と印旛地方を繋ぐルートで上杉勢に対抗していたか。
なお後年、足利義氏から「養運斎」の斎名を与えられた人物は「千葉介一家光護院」とあるが、おそらく輔胤の末裔であろう。
この頃には「下総国には東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤と於所々合戦止隙なし」(『鎌倉大草紙』)と、東野州常縁(この当時は左近将監)と馬加陸奥入道・岩橋輔胤は所々で合戦を繰り返していたとされており、この頃には輔胤も成氏方として活動していたのだろう。
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関東諸城 |
成氏方に属する千葉陸奥入道、胤持を討ったとはいえ、常縁率いる下総の兵力は成氏方に比べると少なく、使命の一つであった千葉七郎実胤の千葉移徙もかなわず、下総国西部は古河方の岩橋輔胤、原越後守胤房により大方掌握されてしまっていた。そのため、上杉氏は康正3(1457)年4月、「上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城を取立」て、「太田備中入道は武州岩付城を取立」て、備中入道の子「同左衛門大夫は武州江戸の城を取立」てた(『鎌倉大草紙』)。とくに江戸城は下総国との最前線であり重要拠点となっていた。江戸城は武蔵野台地の最東端にある舌状台地上に築かれ、北部には大湿地帯(文京区後楽付近)が広がり、東側には平川の流れ、南側は日比谷入江が城下を洗っており、天然の要害であった。なお、約百五十年後、豊臣秀吉に命じられて徳川家康が関東へ入った際、この江戸城を改築し、江戸幕府の本拠地・千代田城となる。現在も、皇居の中には太田道灌(太田左衛門大夫)築城当時の堀「道灌堀」が残っている。
宝徳元(1449)年8月27日、足利成氏が京都から鎌倉に還御した(宝徳元年(カ)八月廿九「前但馬守定之書状」『鑁阿寺文書』)。ところが、すでに永享11(1439)年2月10日の足利持氏自刃以降、関東は関東管領上杉家によって事実上統治され、それが定着していた。ここに新たな上意権力者が介入する余地はほとんど残されておらず、成氏還御後に雌伏していた在鎌倉の旧公方近臣層が蠢動をはじめ、実権を握っていた上杉方との間で諍いが起こり始める。当時十七歳の関東管領憲忠や十六歳の鎌倉殿成氏はいまだ政治経験は乏しく、両者の関与する隙もなく対立は激化する。成氏は伊豆国狩野に隠遁していた前関東管領憲実入道に対立への助言を求めるも、上杉方の暴発により戦端が開かれることとなった。
関東管領憲忠は経験浅く、関東上杉家の有力氏族である扇谷上杉家の当主顕房もまだ十五歳程であり、事実上の上杉方指揮権者は憲忠の舅で顕房の実父に当たる扇谷上杉家の隠居持朝入道であった。宝徳2(1450)年4月、持朝入道は本拠の相模国糟屋庄に隠居したまま、山内家執事の長尾左衛門入道、扇谷家執事の太田備中入道に指示して公方亭襲撃を計画し、その風聞が流れた。当然、これは成氏を討つものではなく公方近臣の追滅が目的であるが、成氏は4月20日夜半に鎌倉を脱出し、江ノ島へ移座した(江ノ島合戦)。
翌21日には長尾・太田勢が腰越まで進出したため、鎌倉中の家柄で成氏に供奉していた小山小四郎持政の一隊が迎え撃って撃退。鎌倉に引き上げた長尾・太田勢は由比浜でも鎌倉中の家柄である千葉介胤将、小田讃岐守持家、宇都宮右馬頭等綱によって追討され、相模国の糟屋庄へと落ち延びていった。その後、成氏は鎌倉に還御し、関東管領憲忠や持朝入道を赦免するも彼らは出頭せず、成氏は京都にその旨を通達している。その後、憲忠は鎌倉へ戻って関東管領として政務を執り行うも、享徳2(1453)年3月の段階で成氏は関東管領憲忠の副状を付けずに京都との交信を行うなど、両者の交流には断絶の雰囲気が漂っており、成氏は管領細川勝元より「上杉右京亮以副状執次申候者可然候、無其儀候者、就諸篇雖被下 御書候、不可及御返事候」(享徳二年三月廿一日「細川勝元書状」『喜連川文書』)との通告を受けている。
そして、その翌年享徳3(1454)年12月27日、年末も押し迫ったこの日に「鎌倉殿、被誅管領上杉右京亮、於御所被出抜云々、故鎌倉殿之御敵之故者哉」(『康富記』享徳三年十二月廿七日条)とあるように、成氏は上杉憲忠を御所へ招いて殺害した。この関東管領殺害により、山内上杉家、扇谷上杉家は公然と成氏への反旗を翻すこととなる。
成氏はとくに関東管領山内家への敵意を強くしており、その領国である上野国と武蔵国を中心に攻めるべく、享徳4(1455)年正月、自ら鎌倉を出陣して、正月21日、22日の武蔵国府中付近の合戦で庁鼻和憲信入道、扇谷大夫三郎顕房(扇谷上杉家当主)を討ち取って上杉勢を潰走させる(分倍河原の戦い)。敗れた上杉勢は常陸国小栗城に逃れて立て籠もり、成氏はこれを追って結城へ進軍した。これと同時に上野国においても、近臣の新田岩松持国を主将とする新田一党を差配して、上野守護山内家との戦いを繰り広げた。
こうした関東の情勢に京都も対応せざるを得ず、享徳4(1455)年3月28日に「上椙ヽヽ故房州入道子関東発向」(『康富記』享徳四年三月卅日条)させた。彼は上杉憲実入道の次男・兵部少輔房顕(幼名龍春)で、成氏に殺害された関東管領憲忠の実弟である。彼を関東管領に任じ「総大将」(『康富記』享徳四年三月卅日条)として関東派遣が行われた。続けて、4月3日には「駿河守護今河ヽヽ、今日関東発向、関東御退治御旗被給之」といい(実際の下向は4月8日)、「御旗」を給わって京都から下向している(『康富記』享徳四年四月三日条)。彼の賜った「御旗」は「布御旗」となる。このほか「去月時分、為関東御退治、自武家御旗被下関東也、上椙、今河、桃井等賜之、下向也」(『康富記』享徳四年閏四月十五日条)とあるように、桃井某ほか五名(越後上杉房定ほか四名か)の大将が関東に攻め下った。
関東に下った上杉房顕・房定勢は、6月5日、上野国国府の南「三宮原」(北群馬郡吉岡町大久保)において成氏方の岩松勢を打ち破り、大手(南)の山内勢と搦手(山沿)の新田長純勢の二手に分かれて東へ進軍している。この当時、下野国天命(佐野市天明町)・只木山(足利市迫間町582)には、小栗城の落城後に移った上杉勢(武蔵国府の戦いに敗れた人々)が布陣しており、上野上杉勢の目標は、足利庄の掌握と天命・只木山の友軍との合流を図り、成氏の拠点である小山・古河へと進むものだったと推測される。上杉勢の進軍に、成氏は6月24日、天命(佐野市天明町)から「足利御陣」へ陣を移している(年月闕「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)。しかし、足利もまた進撃する上野上杉勢と、下野国天命(佐野市天明町)・只木山(足利市迫間町582)の上杉勢に挟撃される可能性があったとみられ、7月9日、成氏は「至小山御陣」(年月闕「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)った。
こうした情勢を成氏方退勢と見たか、下野国で宇都宮右馬頭等綱、下総国で千葉介胤直入道が挙兵したと思われる。ところが、成氏は驚くべき速さで態勢を立て直すと、瞬く間に下野国足利へ再進出し、上野国へ派兵。7月25日の「於上州合戦」では「悉御理運候(実際は敗退)」という(享徳四年八月八日「足利成氏書状写」『那須文書』)。この合戦は「七月廿五日穂積原」(『松陰私語』)の合戦とみられ、上州路においては搦手の戦いとなる。この時の戦いは、上杉方搦手は新田岩松長純勢など二千五百余騎、成氏方は「御同名岩松左京太夫殿、新田之面々、結城、小山、佐野、佐貫都合五千余騎也」(『松陰私語』)という。朝方の合戦では「当方打負」と、上杉方が押し込まれているが、「夕手之合戦打勝」って「其侭蹈仕場也」といい、敗れた成氏方は「足利ノ本陣ニ引返」した。この日の合戦では、上杉方の「当方一族新野出羽守、渋川能登守為始之、廿余人討死了」したという(『松陰私語』)。
ただ、こののちの戦いは、成氏方優勢で事が運んだようで、9月3日、成氏は「那須越後守(那須資持)」に「東上州合戦理運候、以後敵未武州上州群集之間、雪下殿致御供奉公、外様大略罷立候之間、両国事御心安候」と報告している(康正元年九月三日「足利成氏書状写」『那須文書』)。
下総国においても、前に挙兵した千葉介胤直入道に対し、成氏方に属した千葉惣領被官の原越後守胤房がこれを千葉に攻めて下総国千田庄へ追放。原勢に与した千葉御一家「千葉陸奥入道常義父子」が千田庄多古城に拠った千葉介胤宣を攻めて8月12日に自刃させ、8月15日には原胤房が千葉介胤直入道を嶋城に攻めて滅ぼした(多古嶋合戦)。下総国西部から中部にかけては成氏方に加担した千葉陸奥入道常義(康胤)や岩橋輔胤、原胤房らが優勢となった。
さらに、同年12月11日の「天命只木」における合戦で、成氏方は上杉房顕・房定を大敗させた。成氏は岩松持国からの「就天命只木御敵退散」の報告を受け、12月13日に「上杉兵部少輔以下被討漏候事、御無念至候」と残念を伝えている。この「天命只木」における大敗により、上杉方は古河を短期攻略する術が失われ、長期にわたって成氏方(古河公方)による利根川東対岸の実行支配を許す結果となった。そして成氏は、さらなる勢力の拡大を企図してか、おそらくこの頃、上総国に武田右馬助信長入道を派遣し、さらに安房国にも御一家里見某を送り込んで、東関東における実行支配権の確立を図ったと思われる。
翌康正2(1456)年正月7日、成氏は持国からの「上州時宜」に対し、「来十一日、御動座日限被相定候」(康正二年正月七日「足利成氏書状写」『正木文書』221)と、再度の上州出師を伝えている。また、同7日夜、赤堀時綱は「那波郡福嶋橋切落警固」し「御敵等数輩討捕」ったとあり(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)、赤堀時綱は足利から那波郡福嶋(那波郡玉村町福島)へ進み、利根川にかかる橋を切り落としたうえ、この周辺に布陣していた上杉方と戦ったと推定される。この「福嶋」は赤堀氏がおそらく兵粮料所として預置いている土地のひとつで、時綱の子とみられる「赤堀亀益丸」が「同国那波郡之内北玉村円覚寺領」として見える(「赤堀亀益丸所領注文」『赤堀文書』)。この頃、利根川から西が上杉勢力、東が古河方の勢力範囲として大まかに固定されることになったとみられる。
なお、成氏が正月11日に行うと持国に伝えた「御動座」は実現しておらず、その理由は不明ながら、正月21日までに行うことを持国に伝えている(康正二年正月廿日「足利成氏書状写」『正木文書』227)。なお、このとき成氏は正月19日に「於下総国市河致合戦悉理運之由」(市川合戦)ことも併せて報告している(康正二年正月廿日「足利成氏書状写」『正木文書』227)。この「市川合戦」は、多古嶋合戦で自刃(9月2日)した千葉中務少輔入道の子息二人(のちの千葉七郎実胤、千葉介自胤の兄弟)が、京都奉公衆の東左近将監常縁や八幡庄曾谷氏、そのほか上杉氏や守屋相馬氏などとともに市川城に挙兵したもので、これに成氏方の原越後守胤房、岩橋殿輔胤に加えて、古河からの「南図書助、簗田出羽守その外大勢指遣」が攻め立てた合戦である。この戦いに敗れた千葉七郎実胤、次郎自胤の兄弟は市川城を脱出して上杉勢を頼って武蔵国へと遁れたのち、上杉方の将として出陣をしているとみられる。
正月13日、成氏は持国に「新田庄内仁御敵方江令内通輩在之由聞召候、残党等徘徊由聞候間、尋捜可被致糺明候」ことを伝え、「鳥山式部大夫方」にも伝えているので「在談合厳密成敗候者可然候」ことを指示した(康正二年正月十三日「足利成氏書状写」『正木文書』222)。
正月16日、成氏は持国から「武州上州時宜具聞食候」し、「仍御調義事、努々無油断候」と指示した(康正二年正月十六日「足利成氏書状写」『正木文書』168)。この際に「何様不日可有御同座候」とあるのは、先日、新田庄内の内通者や残党の糾明を指示した鳥山式部大夫との同陣を示唆していると思われる。武蔵国から上杉勢が利根川を越えて上州へ攻め入る風聞があったようである。そして正月24日、赤堀時綱は下野国「殖木、赤石へ御敵出張」(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)に対応して上杉方と合戦しており、「殖木、赤石(伊勢崎市内)」に上杉勢が寄せてきていたことがわかる。ただし、これは利根川からの距離を考えると、武蔵国からの兵ではなく西上州に駐屯する上杉勢であろう。
正月25日、「武州御敵等可越河由」の注進が成氏に届いた。成氏は持国に鳥山式部大夫を陣所に招き、対応を協議した上で「重可有注進候」ことを命じている(康正二年正月廿五日「足利成氏書状写」『正木文書』161)。さらに正月27日、成氏は「如今其敵軍時宜、致守佐野(佐貫の誤)、太田両庄由顕然」とし、持国に「速古戸江被罷越可有調儀候」を命じるとともに「佐野、舞木、長荏、蓮沼江同被仰付候」ことを報告した(康正二年正月廿七日「足利成氏書状写」『正木文書』140)。成氏は上杉方が上野国佐貫庄(邑楽郡千代田町付近)と武蔵国太田庄に兵力を増強している様子から、彼等の態勢が整わないうちに叩くべく持国に早々に古戸渡(太田市古戸町)へ移る指示をしたのだろう。翌28日には、「急如元佐貫庄江可被寄陣候」と、具体的に佐貫庄の上杉勢を攻めるよう指示している(康正二年正月廿八日「足利成氏書状写」『正木文書』150)。
2月2日、成氏は持国に「鳥山式部大夫、就御用一両日御留候、其間事、其方江在陣無油断可有調儀候」ことを指示した(康正二年二月二日「足利成氏書状写」『正木文書』148)。当時、鳥山式部大夫は岩松持国の陣に宿陣していたが、この日、鳥山式部大夫は古河へ出張していた。本来は即日戻る予定であったが、成氏の御用のために帰ることができなくなり、成氏は早馬を派遣して即日持国にその旨を伝えている。
この頃、上野国における古河勢と上杉勢との戦いは各地で散発的に発生しており、2月26日には西上野の深津において「於深巣合戦(前橋市粕川町深津)」が起こっている。この合戦は越後上杉家被官の「長尾兵庫頭并沼田上野守」らが寄せており、この越後勢と戦った赤堀下野守時綱は弟の赤堀孫三郎とともに討死した(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)。
こうした上野国における長い抗争は、岩松持国ら古河勢の人々に大きな負担がかかっていた。古河方と上杉方との戦線は広く、成氏は天命・只木山の戦勝後に上野国に増援していた軍勢を他に振り分けたり本国へ戻したりしたと思われ、持国は前線部の対応に苦慮していたようである。ただ、相対的な軍事力が京方に比較して少ない中では、こうした対応はやむを得ない事ながら、成氏は3月9日、持国に「就其方時宜、粗雑説候由其聞候」と、持国が受け持つ上野国前線において「雑説」があることを指摘するとともに、「毎時無油断可有計略候」ことを改めて示して規律を引き締めている(康正二年三月九日「足利成氏書状写」『正木文書』233)。一方で、この上州の状況は解決しなければ瓦解しかねないことから、成氏は「其方無勢之由、可申上候間、明日十九日可被差遣一勢候」(康正二年三月十八日「足利成氏書状写」『正木文書』136)と約している。こうした戦いの中で成氏は鑁阿寺に何らかの祈願(戦勝祈願か)を行い、その巻数が岩松陣に届いたようである。持国はこれを成氏に注進することを鑁阿寺へ報告している(三月廿八日「岩松持国書状」『鑁阿寺文書』)。なお、この文書は長禄2(1458)年と比定されているが、享徳4(1455)年、康正2(1456)年、康正3(1457)年の可能性もある。
その後、岩松勢は利根川を渡って武蔵国へ侵攻した。これはこの年に庁鼻和右馬助房憲が深谷城を築城しており、上杉方の前線基地が築かれつつあったことから、「成氏之を聞きて、敵に足を留めさせじ」(『鎌倉大草紙』)と上州勢の「鳥山右京亮、高因幡守を先懸にて、二百余騎の勢を差遣」わしたもので、9月17日、深谷城に近接する岡部原(深谷市岡部)において「火出つる程に戦」い(『鎌倉大草紙』)、「上杉方には井草左衛門尉、久下、秋本を始として、残り少なに討ちなされ、悉敗軍」したという(『鎌倉大草紙』)。しかし、古河方も「勝軍はしたりけれ共、一方の大将鳥山深手負ひ死ければ、東陣へ引返す」(『鎌倉大草紙』)といい、持国とともに上州新田党を率いた「新田鳥山式部大輔殿岡部原ニテ打死」(『本土寺過去帳』十七日上段)している。また、岩松持国の次男「次郎殿被負御手、乗馬被切」、さらに「其外親類被官、或被疵或討死」しており(康正二年九月十九日「足利成氏書状写」『正木文書』147)、持国は近臣野田持忠に「合戦悉御理運之由」の「御注進」を送っているが、その後岩松勢が深谷付近で活動していない事からも、岩松勢の武蔵撤退は事実とみられる。
上野国古河方の要である新田党は、岩松持国を筆頭に、鳥山式部大夫、桃井左京亮の三名が「三大将」と称されて活動していたが、桃井左京亮は前年の享徳4(1455)年5月の戦勝以降見られず、この岡部合戦で鳥山式部大夫が討死したことで、上野新田党は岩松持国がひとりで支える事となった。
これ以降は小競り合いはあるものの、上野国と武蔵国における上杉方と古河方の合戦は利根川を挟んで膠着状態となり、その後、激しい合戦の記録はみられなくなる。一方で、古河方の伸長に対し、京都は新たな「新鎌倉殿」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)の選定を開始し、関東に新しい旗頭を置いて「成氏」を「討伐」することを図った。
その選定は、康正3(1457)年3月中までに「関東主君御事、京都御連枝御中御定候」(康正三年(カ)四月四日「伊勢貞親奉書」『石川文書』)と、新たな鎌倉殿を「京都御連枝」中から決定する旨(この時点では、御連枝中から選ばれるというのみで、具体的な人物は決まっていない)が「白川修理大夫(白河直朝)」に伝えられている。その鎌倉殿の候補は、かつて成氏(永寿王丸)とともに鎌倉殿への就任が検討された「御連枝小松谷殿…御俗名義制」(『刑部卿賀茂在盛卿記』長禄二年四月十九日條)と、嵯峨香厳院主の九山清久(義政異母兄、母は朝日氏)の二名とみられる。
当時、京都から関東へ派遣されていた追討使は東左近将監常縁のみであるが、彼は一奉公衆に過ぎず、千葉氏の内紛を鎮める目的で下向したに過ぎず、成氏と対峙し得る大将軍ではなかった。成氏への直接的な対応は同格の鎌倉殿の下向が必須だったのだろう。そのため京都は「常縁を召上せられ」(『鎌倉大草紙』)ている。このような状況となってしまったことを嘆いて、常縁は歌を詠んでいる。
そして、3月中に「新鎌倉殿」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)を「関東主君御事、御連枝香厳院殿御定候」(康正三年七月十三日「細川勝元書状」『石川文書』)とあるように、将軍義政の異母兄・香厳院主九山清久に決定し、「近々可有御下向候」こととした。この「新鎌倉殿」の治定とともに、6月23日、御一家・渋川左衛門佐義鏡を「探題」に任じ、「武蔵国へ被指下」(『鎌倉大草紙』)ことと決定した。渋川義鏡が新鎌倉殿(香厳院主九山清久)の「探題」となったのは、
(一)九山清久が院主である嵯峨香厳院が、義鏡曾祖父?(右兵衛佐義行)の叔母・源幸子(足利義詮正室)の菩提所である。
※今回の下向には、九山清久の外戚筋にあたる朝日氏が奉行人として同道するなど、上位者は政知に近い人々が選ばれている。
(二)斯波家の一門という高い家格で、上杉家との交渉を対等に行うことが期待できる。
(三)将軍家の兄弟に渋川氏を附して関東に下向させるのは、元弘3(1333)年12月14日の直義と義季の先例がある。
というものがあった可能性があろう。『鎌倉大草紙』では、渋川義鏡は「公方の近親にて代々九州探題の家なれば、諸家も重き事に思ひける上、祖父左衛門佐義行は久鋪武蔵の国司にてあり、其時より足立郡に蕨と云所を取立、居城にして今に至るまで此所を知行」していたことから、彼を探題に選任したという。渋川氏の祖・足利次郎義顕(兼氏)は足利太郎家氏(斯波家祖)の同母弟で、その妻女も姉妹同士(北条為時女子)という斯波家の兄弟筋であり、斯波庶家の吉良氏・石橋氏と並ぶ権威を持っていた。
+―斯波義種―――斯波満種―――斯波持種―――斯波義敏
|(修理大夫) (左衛門佐) (修理大夫) (左兵衛督)
|
| +―斯波義淳―――斯波義豊
| |(左兵衛督) (治部大輔)
足利泰氏 北条時継――女子 | |
(宮内少輔)(式部丞) ∥―――――北条宗氏 +―足利高経――+―斯波義将 +―斯波義重―+―斯波義郷―――斯波義健==斯波義敏==斯波義廉
∥ ∥ (尾張守) |(修理大夫) (右衛門督)|(左衛門督) (治部大輔) (治部大輔)(左兵衛督)(左兵衛佐)
∥――+――足利家氏 ∥ ∥ | ∥ |
∥ | (尾張守) ∥ ∥――――+―斯波家兼 ∥――――+――――――――女子
名越朝時――女子 | ∥―――――足利宗家 ∥ (左京権大夫) ∥ ∥
(越後守) | ∥ (尾張守) ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ 吉良満貞――――女子 ∥――――――渋川義俊――渋川義鏡――斯波義廉
| ∥ ∥ (上総三郎) ∥ (左近将監)(右兵衛佐)(左兵衛佐)
| ∥ ∥ ∥
北条為時――――――+―女子 長井時秀――女子 高師直―――――女子 ∥
(六郎) || (宮内権大輔) (武蔵守) ∥――――――渋川義行―――渋川満頼
|| ∥ (左衛門佐) (右兵衛佐)
|+―女子 +―渋川直頼
| ∥ |(中務大輔)
| ∥―――――渋川義春 北条朝房―――女子 |
| ∥ (二郎三郎)(備前守) ∥―――――+―源幸子
| ∥ ∥ ∥ ∥
+――足利義顕 ∥―――――渋川貞頼―+―渋川義季 ∥
(二郎) ∥ (兵部大輔)|(刑部権大輔) ∥
∥ | ∥
北条時広――女子 |+―足利尊氏―+―足利義詮―――足利義満―+―足利義持―――足利義量
(越前守) ||(権大納言)|(権大納言) (太政大臣)|(内大臣) (参議)
|| | |
|| | +―足利義教―+―足利義勝
|| | (左大臣) |(左近衛中将)
|| | |
|| | +―足利政知
|| | |(左馬頭)
|| | |
|| | +―足利義政
|| | |(右近衛大将)
|| | |
|| | +―足利義視
|| | (権大納言)
|| |
|+―足利直義 +―足利基氏―――足利氏満―――足利満兼―――足利持氏―――足利成氏
| (左兵衛督)=(左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督)
| ∥
| ∥――――――如意王
| ∥
+――女子
(本光院殿)
渋川義鏡はまず「御下知の通、武州、上州の兵共に申し聞かせ、成氏を退治して上杉を管領として関東を治むべき」の御教書を「板倉大和守先立て」て下向させたところ、「上杉方の兵共各馳せ集まり、渋川殿へ参会して京公方の御下知を承」ったという(『鎌倉大草紙』)。
朝日某―――女子 【小松谷殿】
∥―――――足利義制
∥ (左馬頭)
∥
足利義教
(左大臣) 【鎌倉殿】
∥ ∥―――足利政知(九山清久)
∥ ∥ (左馬頭)
∥ ∥
∥ 女子
∥(朝日氏)
∥
∥ 【征夷大将軍】
∥―――――足利義政
∥ (右近衛大将)
日野重光――藤原重子
(大納言) (北方)
この「探題」がいかなる職かは不明だが、鎌倉期『沙汰未練書』においては「探題者関東者両所、京都者六波羅殿云也」とあるように、「両所(武蔵相模両国之国司御名也=執権、連署)」の両名を指しており、義鏡の任じられた「探題」も、政知関知の管国等の諸政・裁判等を奉行人を介して「当奉行或清書奉行書上時」に「両御判被成其手、頭人封御下知裏」する役割を担った「執権者、政務御代官也」と同義であろう。すでに事実上鎌倉から独立した地方機関となっている関東管領職とは別に、鎌倉殿を総括する本来の執権職を指す言葉と思われる。ただし、こうした職は執権・連署が「両所」として本来二名が任じられるものであり、もう一名存在があったとすれば、政知の執事的な存在として政知下向に同行した上杉治部少輔教朝(上杉禅秀子)であろう。
足利政知―+→渋川義鏡――→板倉頼資
(主君様) |(探題) (渋川家執事)
| | |
| | +――――→奉行人【朝日教忠、布施為基等】:京都奉行人のままの出向
| | |
| +→上杉教朝
| (探題?)
|
+――――→上杉房顕――→長尾昌賢
(関東管領) (山内家執事)
|
+―――+→上杉房定――→長尾重景
|(越後守護職)(越後山内家執事)
|
+→上杉持朝――→太田道清
(相模守護職)(扇谷家執事)
長禄元(1457)年12月19日、将軍義政は香厳院主九山清久を還俗させて「カマクラ殿、左馬頭付ヲコナワル、御名字政知」と改めさせるとともに、「左馬頭」に補任した(『山科家礼記』)。なお、政知は「公方様」とは称されず「豆州様」「主君様」と公称されている。これは成氏が「公方様」と公称されているように、成氏の称として関東に定着しており、容易に変更周知し難い事情があったのであろう。
12月24日、政知は京都を出立し「カマクラ殿御下向、今日ハ三井寺マテ候也」(『山科家礼記』)と、逢坂関を越えて園城寺へ入った。このとき「新鎌倉殿、三井寺辺被下向、御共渋河」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)といい、「探題」渋川義鏡が政知に同行していたことがわかる。ただ、この関東下向は実現されることなく政知は京都へ戻っており、実際の関東下向は翌年となる。なぜこの下向が中止されたのかは定かではないが、当時京都では渋川家の本宗である斯波左兵衛佐義敏と老臣甲斐常治入道の確執が大きな問題となっており、斯波家の紛争には「吉良、石橋、渋川」の三家が対応していることから、この内訌が関係している可能性もある。また、渋川義鏡が探題に任じられたのも、「于時関右之強敵未亡、相公俾武衞征之、雖以台命出師先陣」(『碧山日録』長禄三年五月十一日条)と斯波義敏の関東下向が前提になっていたのかもしれない。
この頃、新たな鎌倉殿が決定した風聞は関東にも流れていたのだろう。成氏は長禄2(1458)年閏正月11日、「小山下野守殿」に対してこの上なく慇懃な契状を示している(長禄二年閏正月十一日「足利成氏契状写」『小山家文書』)。単に小山持政の勲功を賞したものかもしれないが、京都から下向するであろう新鎌倉殿への危機感があった可能性もあろう。
●長禄2(1458)年閏正月11日「足利成氏契状」(『小山文書』)
また、この頃には各所で度々合戦が起こっていたようで、閏正月17日、成氏は岩松持国に参陣(古河か)を命じている(長禄二年閏正月十七日「足利成氏書状写」『正木文書』158)。それについて「親類被官中一人も不相残、催具出陣者可然候」と強硬な出陣催促となっているが、「定就連々陣労可及兎角異儀候哉」と、度々の出陣要請に持国が不満を持っているであろうことは察しているが、「今度罷立励各戦功者、依忠節浅深可有恩賞候」と伝えている。持国としては新田岩松家は代々鎌倉殿近臣であることに加えて、鎌倉殿と上野国守護山内上杉氏との対立もあり、これまで多くの犠牲を強いて長年の連戦に応じたものの、合戦しているのは上野国内部であって恩賞となる地もまた極めて不安定であり、働きに見合った恩賞が見込めないことにあったのではなかろうか。
結局持国はこの成氏の軍勢催促に応じず、閏正月24日、成氏は「今月廿六御親類様御内面々致御共、可有御取陣之由」の御書を下した(現存せず)。成氏近臣の二階堂左衛門尉成行もまた副状を遣わしており(長禄二年閏正月廿四日「二階堂成行副状」『正木文書』256)、「不可有片時も御延引候、廿六日必御参陣尤候」と強く命じている。持国はおそらくこの要請にも応じず、所領についての「就条々御申事」を二階堂成行に送っている。成氏はこれを受けて「仍上意之段、御代官ニ令申候」し、「御本領続目 御判申出令置之候」と対応をしている(長禄二年二月二日「足利成氏書状写」『正木文書』255)。
こうした成氏と持国との間隙を察したのか、この頃京都は持国への調略を開始する。
長禄2(1458)年3月27日、京都の将軍義政から「岩松右京大夫(岩松持国)」へ直接御内書が遣わされた(長禄二年三月廿七日「将軍義政御内書」『正木文書』)。古河方の上野国の要である岩松持国が寝返れば、北関東の国の情勢は一変し、成氏を追い落とすことも現実的となる。この将軍御内書には奉行人「近江前司教忠」の副状(長禄二年三月廿七日「朝日教忠副状」『正木文書』)、探題渋川「義鏡」の副状(長禄二年三月廿七日「渋川義鏡副状」『正木文書』)が付されているが、彼らは関東へ下る新鎌倉殿政知に付される予定の人々であった。これと同内容の書状が持国の子「岩松次郎」「岩松三郎(岩松成兼)」にも送達されている。なお、奉行人の朝日近江前司教忠は、政知の生母・朝日氏の親族とみられ、近江国浅井郡朝日郷(長浜市湖北町山本)を本貫とする藤姓奉公衆である。
●長禄2(1458)年3月27日「将軍義政御内書」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
●長禄2(1458)年3月27日「朝日教忠副状」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
●長禄2(1458)年3月27日「渋川義鏡副状」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
この頃京都では政知下向の日次が議論されていた。4月7日、「渋川雑掌伊香方」より刑部卿賀茂在盛に「御門出吉日、関東 主君御征伐之門出也」が問い合わされた(『在盛卿記』長禄二年四月七日条)。在盛はさっそく占卜したところ「今月廿日丁丑 時辰 吉方戌亥、廿六日癸未下吉、時卯辰吉方東」と出たため、「御出行日」を伊勢守貞親に報告している。その後、再度貞親から諮問されたか、在盛卿は4月19日には「今月廿六日癸未、廿八日乙酉」を案として報告している(『在盛卿記』長禄二年四月十九日条)。4月28日に将軍義政が「白河修理大夫殿」へ下した御内書(長禄二年四月廿八日『白川文書』神:6259)には、「已典厩下向之上者、早速令進発」と見えることから、新鎌倉殿政知の出京は占卜の結果通り4月28日と推定できる。ただし、出京21日後の5月20日時点で上野国で在陣中の横瀬国繁(岩松長純被官)が「主君様近々に御下之事候間」(長禄二年五月廿日「横瀬国繁書状案」『正木文書』)と、まだ関東下着の知らせが届いていない様子も見えるが、その主である岩松長純は同日に「関東 御主君御下向之上者」と見えることから、これ以前に伊豆に入っていたと考えるのが妥当だろう。この五日前の5月15日、岩松持国が3月27日付の『将軍家御教書』への返書として、「弥可抽忠心候、以此旨可預御披露候」の請文(長禄二年五月十五日「岩松持国請文」『正木文書』271)を送っている。
●長禄2(1458)年5月15日「岩松持国請文写」(『正木文書』271)
その宛所は3月27日に御内書の副状をしたためた探題渋川義鏡または政知付帯の豆州奉行人朝日教忠ら(京都奉行人のままで豆州に出向している)と考えられるため、政知一行は出京から十日前後の5月上旬には伊豆に到着していたと考えられる。その在所は「伊州国清寺(伊豆の国市奈古谷1240-1)」(『碧山日録』寛正元年五月七日条)であろう。
なお、政知とともに新鎌倉殿の候補だったと思われる「御連枝小松谷殿」は、「自科料」って「御左遷」となり「隠岐国」へ配所されている。具体的な罪状は不明だが、政知(香厳院主九山清久)が新たな鎌倉殿に選ばれたのは、小松谷殿義制の何らかの科があったためか。5月7日「小松谷殿」は配流まで「侍所京極於路次奉向之、京極宿所為御所」とし、在盛卿は配流の日次について「今月十三日己亥 時卯申、十四日庚子 時辰」(『在盛卿記』長禄二年五月七日条)と報告している。
5月20日、持国の従兄弟に当る岩松治部大輔長純(のち家純)は、持国に対して「関東 御主君御下向之上者、此刻被参御方者、取可申候」と、鎌倉殿政知が関東へ下向した上は、この機会を以て御方に参じるのであれば自分が取り次ぐことを告げるとともに(長禄二年五月廿日「岩松長純書状」『正木文書』258)、家宰の横瀬雅楽助国繁も「澁澤(渋沢入道)」を使者として持国家宰の伊丹伯耆守に書状を送り、交渉をしている(長禄二年五月廿日「横瀬国繁書状案」『正木文書』195)。横瀬国繁は伊丹伯耆守との交渉の中で「於此上不逢首尾事にてハ、我々両人之末代可為比興候」と、この交渉がまとまらなければ、我ら両人は末代まで汚名を残すとのべており、彼らが持国帰参に関する条件面も含めた交渉の実務担当だったことが推測される。
●長禄2(1458)年5月20日「岩松長純書状」(『正木文書』258)
●長禄2(1458)年5月20日「横瀬国繁書状案」(『正木文書』195)
得川頼有――――女子 新田義貞――新田義宗―?―岩松満純
(四郎太郎) ∥ (左中将) (武蔵守) (治部大輔)
∥ ↓
相馬義胤―土用御前 ∥―――――+―岩松政経――+―岩松経家――岩松泰家――岩松満国 +=岩松満純
(五郎) ∥ ∥ |(下野太郎) |(兵部大輔) (治部大輔)|(治部大輔)
∥ ∥ | | ↓ | ∥―――――――岩松家純
∥―――+―岩松経兼 +―とよ御前 +―世良田義政 ↓ | ∥ (治部大輔)
∥ |(遠江五郎) | |(伊予守) ↓ | 上杉禅秀女子
∥ | | | ↓ |
足利義純――岩松時兼 +―とち御前 +―あくり御前 +―岩松頼宥 ↓ +―岩松満長====岩松持国
(太郎) (遠江守) (尼真如) |(岩松禅師) ↓ |(伊予守) (右京亮)
∥ | ↓ | ↑
∥ +―岩松直国========岩松満国―+―岩松満春――――岩松持国
∥ (治部少輔) (治部大輔) (能登守) (右京亮)
∥ ↓
∥―――――――土用王御前===岩松直国
∥ (尼妙蓮) (土用王)
藤原某
5月25日、賀茂在盛卿が「渋川殿雑掌、自侍者註進之」こととして「御旗拝受日」の諮問を受け、「今月廿七日癸丑 宿申 時卯、六月八日甲子 時卯」と報告している(『在盛卿記』長禄二年五月廿五日条)。おそらく「御旗」は5月27日か6月8日に下され、関東へ下向したのだろう。
そして、5月中か6月上旬には持国帰参の交渉がまとまり、持国は京方に参じる旨の「京都被進御請」を、探題渋川義鏡に送達した(長禄二年六月十七日「渋川義鏡書状写」『正木文書』118)。ところが「京都被進御請由」とのことだが「但御請此方へハ不到来候、如何候哉」という。実はこの請書未着は少し前に発覚しており、義鏡は持国に「先度此段申候」ており、今回、持国は「御使、不慮之子細(ただし詳細は不明)」があったことを報告してきたため、義鏡は6月17日に「無是非候、仍重而令申候」と、もう一度請書を送るよう指示している。翌6月18日には奉行人「近江前司教忠」からも同様の意趣の書状が持国に遣わされている(長禄二年六月十八日「朝日教忠書状写」『正木文書』124)。
そして6月22日、「沙弥道真」は建長寺西来庵の「御門中之尊宿様」から「当庵領」について連署状を以て何らかの依頼(軍勢の狼藉を禁ずる禁制を要望する旨であろう)を受けた(長禄二年六月廿二日「太田道清書状」『西来庵文書』)。ただ、相模国の守護職は変わらず扇谷上杉家だが、新たに伊豆に赴任してきた左馬頭政知がその上意決定権者の座に就いたことにより、相模国内の土地に関する安堵や訴訟などは、今後は「何様豆州江令申、依御返事、可及御左右候」ことを伝えている(六月廿二日「太田道真書状」『西来庵文書』)。おそらく道真からこの旨が報告されたことで、8月、政知の関東探題(執権と同意)である渋川義鏡の被官人板倉頼資によって西来庵に禁制が下されている(長禄二年八月「板倉頼資禁制」『西来庵文書』)。
●長禄2(1458)年8月「板倉頼資禁制」(『西来庵文書』)
これに先立ち、4月時点で相模国内の円覚寺塔頭黄梅院領に関しても政知方での沙汰が行われており(長禄二年四月十日「足利政知奉行人連署禁制」『黄梅院文書』)、相模国内の所領等に関する上位決定権者は豆州御所となっている様子がうかがえる。
岩松持国と伊豆国清寺の政知との交渉については、探題義鏡と岩松治部大輔長純が専任で取り扱っており、7月11日に持国へ遣わされた義鏡の書状に「御心底趣、自礼部委細承候」とあるように、義鏡は長純から持国の意向を詳細に伝えられていることがわかる(長禄二年七月十八日「渋川義鏡書状写」『正木文書』175)。
8月13日、岩松家純は岩松持国からの「如注文承候所之事」を「豆州様江進候」したところ、「封畏給候、目出候」ことを持国に報告している(長禄二年八月十三日「岩松家純書状写」『正木文書』)。なお、裏を封じたのは、8月22日の岩松家純の書状にある「武衞被封畏候」と同様に渋川義鏡であろう。この「注文」は現在知行または成氏方として守護上杉家に没収された所領などを書き付けたものとみられ、知行の安堵ならびに返付を願ったものと考えられる。
8月17日には早々に御方となるよう管領上杉房顕の書状(現存せず)ならびにその家宰長尾昌賢の副状(長禄二年八月十七日「長尾昌賢書状」『正木文書』)が認められ、持国へ遣わされた。
●長禄2(1458)年8月17日「長尾昌賢書状」(『正木文書』)
8月22日には、岩松家純より注進の中で、京都に収公され管領房顕(号大光)に宛行われた新田庄内の地ならびに討死した世良田某の跡、鶴生田慶雲寺領を返付する事、そのほかの地は予て相談し決定された条件によって宛行うとする。これらの所領の拝領について京都方による譲歩は終わったので、持国には「不可有無沙汰候」と釘を差し、且つ「既一味仁申談候上者、不可有余儀候」ことを要求する(長禄二年八月廿二日「岩松家純書状」『正木文書』)。
●長禄2(1458)年8月22日「岩松家純書状」(『正木文書』)
これを受け、9月8日までに持国から御方につく旨の返事が家純のもとに到来している。これに家純は「随而其方之時宜、無御心元候」と述べている。持国は京方に寝返ることで「為御無勢、不慮之題目出来」という不安が強かったようで、家純はこうした持国の心配を察して「雖然此方之事者、可有御心安候」と心配することはないと述べている(長禄二年九月八日「岩松家純書状」『正木文書』)。この文書に付けられた文書とみられる書状は二通あり、一通は家純家宰の横瀬国繁から持国被官(伊丹ら重臣であろう)に対して「御無勢として立、及御合戦候ハん事も是又大事候、其方之時宜ニより候て、先御とりのけ候ハん事も可然候、又此方より合力被申事も可有之候、其茂其時之可従様體事、何様聞上候、早々可被仰時宜候」(長禄二年九月八日「横瀬国繁副状」『正木文書』)こと、ならびに持国の一族や家中に「相替篇目可有之候、無御油断そこもとニて御調法肝要候、いつれの篇ニもあまされぬやうニ候へく候」ことを伝えたものである。
もう一通は、横瀬国繁から伊丹修理介へ「此方事者走廻候、御心安可被思食候」ことと「猶々佐野、小山などへは御注進候而、時宜をも云、御覧動をも御存知肝要候」、ならびに「此方信州御勢之大将事、京都よりも仰出され候、豆州よりも同前候、今日御使参著候」ことを伝えている(長禄二年九月八日「横瀬国繁書状」『正木文書』)。これは岩松家純が信濃国の軍勢を率いる大将軍に任じられたという情報は、上野国へ信州の加勢がある旨を伝えることで、持国方の不安や変心を留めるいとがあったと思われる。実際に7月29日、「小笠原遠江守(小笠原光康)」に対して「属新田治部大輔計、可被抽戦功之由、所被仰下也」(長禄二年七月廿九日「管領奉書」『小笠原文書』)という管領奉書が下されており、事実であった(ただし、小笠原家の内訌により関東下向はならなかった)。
●長禄2(1458)年7月29日「管領奉書」(『小笠原文書』)
その後、岩松持国は9月中旬、改めて京方として活動することを約し、9月24日、伊豆の政知が「就成氏対治事、被参御方之条誠以神妙」と御教書を遣わし(長禄三年九月廿四日「足利政知御教書案」『正木文書』)、渋川義鏡(長禄三年九月廿四日「渋川義鏡副状案」『正木文書』)の副状も付されて、岩松持国へ送達された。これらの御教書ならびに副状は、持国の次男「新田宮内少輔」と三男「新田三郎(岩松成兼)」にも送達されている。
●長禄2(1458)年9月24日「足利政知御教書案」(『正木文書』)
●長禄2(1458)年9月24日「渋川義鏡副状」(『正木文書』)
そして9月26日、持国の「書状并闕所」について政知に披露された旨が奉行人布施為基より持国に報告され、「速被致御忠孝候者、可然存候」ことが命じられた(長禄二年九月廿六日「布施為基書状」『正木文書』)。
こうして上野国の成氏方の柱石だった岩松持国は京方へと寝返り、上野国における成氏勢は衰退した。ただし、持国は心底より京方に寝返ったわけではなかったようで、成氏と深く繋がっていた三男の三郎成兼が早々に成氏方へ戻っている。これは持国が岩松京兆家の存続を図り、成兼のみは成氏方へ残す計画によるものではなかろうか。岩松成兼は翌長禄3(1459)年正月末頃までには成氏方へ戻っていたとみられ、渋川義鏡は2月4日、持国に宛てて「抑御子息三郎殿進退事、自礼部承驚入候、雖然弥御忠儀可為肝要事」(長禄三年二月四日「渋川義鏡書状」『正木文書』)と伝えている。
4月には「于時関右之強敵未亡、相公俾武衞征之、雖以台命出師先陣江之小野駅」(『碧山日録』長禄三年五月十一日条)と斯波惣領家の斯波義敏に関東出兵が命じられており、守護国の越前国を経由して北陸道から関東を目指すべく近江国小野宿(大津市小野)に宿陣しているが、義敏はこのまま敵対する越前守護代の甲斐常治入道一党との戦いに突入して「打負」(『大乗院寺社雑事記』)たことで、将軍義政から関東下向の主命に従わず勝手な行動を取り、大敗によって軍勢を失ったことの怒りを買い、これがきっかけとなって義敏の失脚と渋川義鏡子息(義廉)の斯波惣領家相続が決定することになる。
長禄3(1459)年11月当時、「豆州主君」は伊豆国田方郡の山内上杉家由緒の国清寺、「公方様(成氏)ニハ未下野御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)、「上椙(上杉房顕)」は「本陣五十子(本庄市東五十子)」、「同大夫方(扇谷持朝入道)」は「河越」、「(渋部カ)川方(義鏡弟の伊予守詮俊か。12月28日、浅草で病死)」は「浅草」、「鎌倉」には「駿河国人(今川範忠)被座者」という状況にあり、上杉勢と成氏勢が武蔵国北東部及び上野国で交戦していた。とくに「五十子陣」はその後十八年間にわたって上杉方の本陣として機能し続ける。
とくに10月14日、15日の上州「羽継原」および「海老瀬口」の合戦は、「五十子陣之事、管領上杉、天子之御旗依申請旗本也、当方者京都公方之御旗本也、桃井讃岐守、上杉、上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上椙扇谷、武上相の衆、上杉庁鼻和、都合七千余騎、五十子近辺榛沢、小波瀬、阿波瀬、牧西、堀田、瀧瀬、手斗河原ニ取陣、戴星負月、手斗河原日々打出々々相動、雖然隔大河間、その動不輙、京都方、関東方終日見合々々入馬、勝劣未定之大陣也、天帝修羅之戦モ角哉覧与想像計リ也」(『松陰私語』第二)と見える激戦であった。
●長禄3(1459)年10月~合戦当時の上杉方(『松陰私語』『足利家御内書案』)
氏名 | 功績 | 続柄 |
上杉兵部少輔房顕 | 「武州上州度々合戦」で被官数輩の負傷・討死 |
上杉憲実の次男で関東管領。 関東派兵の大将軍。「太田佐貫等合戦」に際して、諸将の軍功について、将軍へ「方々遣感書」を依頼する。 |
桃井讃岐守 | ||
上杉民部大輔房定 | 「上州所々合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 上杉清方の次男で越後守護職。関東派兵の次将。 |
(四條)上杉中務少輔教房 | 「武州太田庄」での合戦で討死 |
上杉禅秀弟・持定の子。 禅秀の甥。 |
(四條)上杉三郎政藤 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 上杉教房の子 |
上杉右馬頭 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 不詳 |
上杉宮内大輔 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 不詳 |
上杉修理亮 | 「上州羽継原合戦」で「被官人日山左京亮被疵」 | 不詳 |
(八條)上杉中務大輔持定 | ||
扇谷上杉修理大夫持朝入道 | ||
上杉庁鼻和 | ||
新田左京大夫持国 | 10月「於羽継原、被捨身命合戦」を賞される | 岩松家純麾下 |
新田宮内少輔 | 10月15日「上州佐貫荘羽継原合戦」での戦功を賞される | 岩松家純麾下 |
毛利宮内少輔 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
色部弥三郎昌長 | 10月「上州羽継原合戦」で親類・被官数輩の負傷・討死 | 越後国人。房定麾下 |
本荘三河守時長 | 10月「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 越後国人。房定麾下 |
長尾信濃守 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
飯沼弾正左衛門尉 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
石河遠江入道 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
飯沼孫右衛門尉 | 10月15日「上州海老瀬合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
野澤弥六 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
和田弾正左衛門尉 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
三儲帯刀左衛門尉 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
池田太郎四郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
吉澤小太郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
中山左衛門三郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
渡辺孫次郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
大石九郎 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | |
浅羽大炊助 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | |
神保伊豆太郎 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | 上杉房顕麾下 |
黒田民部丞入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息「紀五郎」「藤増」討死 | 佐竹義定麾下 |
簗備中入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息討死 | 佐竹義定麾下 |
長沼修理亮 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息討死 | 佐竹義定麾下 |
結城宮内少輔 | 11月「於常州信太庄合戦」で父の討死 | 佐竹義定麾下 |
結城刑部少輔 | 11月「於常州信太庄合戦」で父の討死 | 佐竹義定麾下 |
尻高新三郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で父の討死 | |
後閑弥六 | 10月14日「武州太田庄合戦」 10月15日「朝合戦、海老瀬口」 「夕合戦、羽継原」で父の討死 | |
大類五郎左衛門尉 | 10月15日「羽継原合戦」で父の討死 | |
伊南山城太郎 | 10月15日「羽継原合戦」で父の討死 | |
行方幸松 | 10月15日「羽継原合戦」で父肥前入道が討死 | |
長尾肥前守 | 10月「於常州海老瀬口并羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
長尾尾張守 | 10月14日「武州太田庄合下合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
長尾新五郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
芳賀忠兵衛尉 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
二階堂小瀧四郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官渡辺主計助負傷 | |
高浦加賀守 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
豊島弥三郎 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
長南主計助 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
江戸但馬入道 | 実定(佐竹実定)より注進 | 佐竹実定麾下 |
結城七郎 | 「参御方可致忠節」が房顕より京都に注進 | 上杉房顕麾下 |
小田讃岐守 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息「治部少輔」「上総介」負傷 被官「波賀彦三郎」等討死 実定(佐竹実定)より注進 「隠居事」は「太不可然」とする。 | 佐竹実定麾下 |
真壁入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で「兵部大輔入道父子三人」討死 実定(佐竹実定)より注進 | 佐竹実定麾下 |
長尾四郎右衛門尉 | 「武州上州度々合戦」で自身の負傷、被官数輩の負傷・討死 | |
二階堂須賀河藤壽 | 10月「於上州佐貫庄羽継原合戦」で親類被官数輩の負傷・討死 | 上杉房顕麾下 |
小山常陸介 | 10月「於上州佐貫庄羽継原合戦」で親類被官数輩の負傷・討死 | 上杉房顕麾下 |
常陸大掾 | 「於常州凶徒出張」時に「馳向所々致合戦得勝利」 | |
白川修理大夫 | 「就関東進発事、内々申子細」 | |
二階堂駿河守 | 「馳参御方、可抽戦功」 | 上杉教朝麾下 |
長禄3(1459)年10月~合戦当時の成氏方(『高文書』)
氏名 | 功績 | 続柄 |
高三郎 | 10月15日「於佐貫庄羽継原合戦」で戦功 | 根本被官の高氏 |
飯塚勘解由左衛門尉 | 10月17日「羽継原合戦之時、被疵之條神妙」 |
この合戦は「教房討死」(『足利家御内書案』)するなど、上杉方の敗北に終わり、管領兵部少輔房顕は「五十子陣」へと退却を余儀なくされている。なお、この合戦に岩松持国が子息の宮内少輔とともに京方として加わっており「捨身命、及合戦」んだことに、11月24日、「豆州様」政知直々に御判御教書が下されている(長禄三年十一月廿四日「足利政知御判御教書」『正木文書』「韮山町史」第三巻)。これに探題の渋川義鏡(長禄三年十一月廿四日「渋川義鏡副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)と、奉行人「近江前司教忠」(長禄三年十一月廿四日「朝日教忠副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)も副状を発給している。
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伝堀越御所跡 |
この合戦直後、「主君様々年内中、山ヲ可有御越由、其聞在之」と、政知が箱根を越えるという風聞が鎌倉に流れている(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)。
ところが、翌長禄4(1460)年正月時点で「鎌倉ニハ駿河ノ面々被座候處ニ、正月皆々被下者也、狩野方ノ被官人計少々被相残者也、介方者在国也」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)とあるように、駿河今川勢は鎌倉から撤退し、狩野介被官人が少々残留しているのみだったことがわかる。おそらく五十子陣による上杉方の敗北で、相模国や伊豆国などの情勢も一気に不安定化したとみられる。こうした状況により政知の鎌倉入りは中止されたのだろう。2月の時点で「京都ノ主君者、未豆州ニ御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)といい、鎌倉への下向は不可能になっていたとみられる。この件に関してか、渋川義鏡被官人の「板倉(板倉頼次)」が4月中旬に伊豆国を発って4月26日に上洛している。さらに5月7日には「大相国之弟前香厳院主、以命還俗、為征東将軍、攻朝敵於関東、其師次伊州国清寺、敵放火々寺、士卒驚走、将軍徙陣於它云」(『碧山日録』寛正元年五月七日条)とあるように、御座所の奈古谷国清寺まで成氏方が放火したため、政知以下は陣所を他所へ移したという。移した場所は狩野川の東、守山の南西から高台の北東にかけて境内地とした円成寺である。京都は「豆州円成寺」と交流を持っているが(『親元記』寛正六年正月四日条、四月廿四日条)、政知の円成寺への移座は京都からの指示があったのかもしれない。なお「円成寺御状」(『親元記』寛正六年正月六日条)とも見えることから、政知をして「円成寺」とた場合も考えられる。
5月に入り、上洛していた「板倉」が「参豆州、去月廿六日上洛之由」を豆州様政知に報告。同月、「昌賢(長尾左衛門景仲入道)」もまた「豆州参」じたという(『香蔵院珍祐記録』長禄四年五月「韮山町史」第三巻)。この長尾の来訪は5月7日の敵勢襲来により焼失した御所で、山内上杉家に由緒の「奈古谷国請寺造営之」の件についてか。
8月、「使下自豆州、可有御越山之由、在其聞、但御延引」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年八月「韮山町史」第三巻)との風聞がふたたび鎌倉に立っている。この風聞は京都にも届いており、8月22日、将軍義政は「就関東時宜、可被越箱根山之旨、其聞候、事実者、不可然候」と「此條先度申下」しており、鎌倉下向の企ては「一向可為不忠候」と強く批判している。この御教書は「豆州様」左馬頭政知のみならず、「右兵衛佐殿(渋川義鏡)」にも遣わされ、政知の鎌倉下向は厳禁としている(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)。
●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)
●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)
その後も上杉方の敗戦が続いていたようで、政知は閏9月中旬に京都に「朝日」を上洛させて関東の情勢を報告している。それによれば、「関東事以外云々、京都御方悉以打負了」という状況で、成氏勢の勢いが相当大きくなっていることを示していた。
●長禄4(1460)年閏9月27日『大乗院寺社雑事記』(「韮山町史」第三巻)
こうした状況の中、寛正2(1461)年5月初頭に「右京大夫持国父子」が「対成氏内通之儀、令露顕」した。内通があったとすれば、成氏方の攻勢が勢いを増したことや成氏方からの調略があったことがおもな要因であろう(ただし、実際に内通をしていたのかも定かではない)。そして、この件は持国の潜在的仇敵である「新田治部大輔(岩松家純)」が「致沙汰」した。おそらく持国・右京亮父子を陣所に招いて殺害したのだろう。岩松家純は持国父子殺害の一件を関東管領「上杉兵部少輔(上杉房顕)」に報告し、房顕から京都へ注進されている(寛正二年五月十四日「足利義将感状写」『将軍家御内書案』)。
寛正2(1461)年9月2日、京都では「武衞家之事、又渋川息十五六之躰被仰付、既被移屋形」(『大乗院寺社雑事記』寛正二年九月二日条)している。この「渋川」とは関東探題渋川義鏡のことで、義鏡の子が斯波惣領家(武衞家)を相続(のちの治部少輔義廉)し、「元息松王丸ハ被成僧分」となったという。当時松王丸は五歳であった。これにより越前守護代も「甲斐八郎二郎被召上、朝倉弾正可罷上分及沙汰」と変更になった(『大乗院寺社雑事記』寛正二年九月二日条)。なお、五歳の松王丸はおそらく祖父の斯波修理大夫持種のもとに預けられたとみられる。
また、同年10月までの間に、政知側近(渋川義鏡と同格か)だった上杉治部少輔教朝が「疫死」(『上杉長尾系図』)した。その年月は不明である。これについては傍証はないものの江戸期の『鎌倉管領九代記』には「此比京田舍まで疫癘おこなはれ、家々惱ミ臥、死する者数を知らず、尸骸道路に充重なり、触穢に成て神社の扉ハ閉ふさかれり、伊予守教朝、此疫に取結ひ、身心を惱悶し、大熱狂乱し、みづから刀をぬきて腹をかき切て死したりけり、政知大に歎きたへとも其甲斐なし、政知には御子息茶々丸殿とて、後にハ成就院殿と申して、父子の御威勢近国にかゞやきけり」(『鎌倉管領九代記』)とあり、病気を苦に自害したという。
10月23日、将軍義政は「左馬頭(足利政知)」へ「政憲令下向候」したので「諸篇被加諷諫候」ように指示した。上杉四郎政憲はさきに病死した上杉教朝の子である。上杉政憲は将軍義政の側臣であったのか、義政は「右京佐(右兵衛佐義鏡)」にも「上椙四郎令下向」したので「毎事加諷諫扶助」を指示し、同23日には「上椙兵部少輔(管領上杉房顕)」「上椙民部大輔(越後上杉房定)」「上椙修理大夫入道(扇谷上杉持朝入道)」に対して「政憲令下向候、諸事無等閑、扶助候」ことを指示している(『将軍家御内書案』)。
成氏方の勢力拡大は京方にとっては危機であり、将軍義政は家督を継いだばかりの「今川治部大輔(今川義忠)」に「豆州時宜、事外無人数之間、早速被打越、被致忠節者、可為本意候也」という書状を送達して、伊豆国への援助を要請している(寛正二年十二月十九日「将軍家御内書案」『御内書案』)。なお、この文書に御判が置かれたのは翌寛正3(1462)年2月10日のため、義忠へこの旨が伝わったのはそれ以降となる。
寛正3(1462)年2月頃、上杉修理大夫持朝入道(道朝)の「雑説子細」が京都へ伝わっている(長禄三年三月六日「将軍家御内書案」『足利家御内書案』)。その原因は不明だが、義政は左馬頭政知に対して、持朝入道は代々忠節を貫いてきた者であること、とくに故義教がわけて援助しており、絶対に疎略にすべきではなく、よくよく意思疎通し、持朝入道が所管する領分については相違なきよう下知すべきことを命じていることから、「雑説」の原因は、政知が持朝入道の所管する領分に手を出したことである可能性が高い。その結果、持朝入道が政知に対して強い不満を表明し、政知はこれを「雑説」と称して京都に報告したのだろう。
●寛正3(1462)年3月6日「将軍家御内書案」(『足利家御内書案』)
しかし、将軍義政は持朝入道の不満の原因が政知による御料所設定にあると理解し、政知に訴えのあった地については返付するよう御内書を送達したのだろう。政知の御料所は基本的に相模国(扇谷家守護国)と伊豆国(山内家守護国)から設定されたとみられ、実際に後述のように、政知が持朝入道が管国相模国の人々へ兵粮料所として預けた土地を没収していた事実が発覚し、しかも、三年経っても返付されないものもあった。このほか、両国内の寺社領も前述の通り政知が管轄し、「正脉院領伊豆国安久郷、浄智寺領加納郷」については政知の円成寺御所(いわゆる堀越御所)の奉行人「布施民部大夫」が「押領」したという訴えを起こされていた。この「押領」は「就御陣押領之事」であるように(寛正二年八月十日『蔭涼軒日録』)、兵粮料所として設定したものであることがわかる。政知は軍事力を上杉氏や今川氏を恃む形になっており、自前の軍勢はほぼ皆無であった。同時に御料所や兵粮料所の設定もされていなかったとみられ、現地においてこうした軋轢を生む結果になったのだろう。結局、「正脉院領伊豆国安久郷」については、将軍義政が正脉院からの訴えを受けた結果、渋川義鏡による御奉書により「布施民部丞」が正脉院へ「去渡」した(寛正三年三月十四日『蔭涼軒日録』)。しかし、
同時期の3月中旬頃、「三浦介との(三浦介時高)」が「隠遁」した(寛正三年三月廿九日『将軍家御内書案』)。相模国の有力氏族で、扇谷上杉持朝入道の子(三浦高救)を養子に迎えるなど扇谷上杉家と関係が深い三浦介時高が隠遁したのもまた兵粮料所に関する問題かもしれない。この件に関しては、3月29日に将軍義政から三浦介時高へ帰参を命じる御内書が届けられている。
●寛正3(1462)年3月29日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)
そして、今度は4月初旬頃に千葉七郎実胤が隠遁した。彼もまた扇谷上杉持朝入道の孫娘を正室とする扇谷上杉家の縁者であり、兵粮料所による問題が根底にあった。実胤とともに弟の千葉介自胤もまた「連年在陣困窮」しており、この旨が京都へ注進され(注進の主体は政知ではなく、おそらく上杉持朝か)、将軍義政は4月23日付で「左馬頭(政知)」に「千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年父以下数輩討死候畢、連年在陣窮困之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意」と、千葉介の代々の忠節は他とは異なる上に、先年には父(実際は伯父)らが成氏方によって討たれて以降、連年在陣して「困窮」していると聞くので、早々になんらかの措置を取るよう命じている(寛正三年四月廿三日『将軍家御内書案』)。
●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)
一方で、将軍義政は「千葉介殿(自胤)」には別に「舎兄七郎隠遁」を心配し、「困窮推察」しているのでなんとかするとの書状を送達し、隠遁してしまった「千葉七郎との」へも「帰参」するよう指示している。
●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)
●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書案』(『続群書類従』所収)
これら将軍義政からの御内書を受けた政知は、兵粮料所について「探題」渋川義鏡へ相談したのだろう。義鏡は政知に「千葉兄弟進退」を「武衞頻被執申」して千葉兄弟の困窮を訴えた。彼らに「鹿王院両武州赤塚郷」を兵粮料所として与えるよう進言したのも彼であろう(寛正三年十一月廿三日「足利政知奉行人連署奉書」『鹿王院文書』)。政知は後述の通り、自身の由緒から乗り気ではなかったようだが、これを承認して管領房顕(武蔵国守護)へその旨指示が出され、隠遁した七郎実胤に宛行われたのだろう。
●寛正3(1462)年11月23日「足利政知奉行人連署奉書写」(『鹿王院文書』)
赤塚郷はもともとは足利直義の知行地で、直義から直義正室本光院殿(渋川貞頼女子)へと譲与された土地だった。渋川氏にとっては由緒地で、渋川氏が直頼代に獲得した「武蔵国蕨郷上下(蕨市)」とは荒川を挟んで南接していた。
●観応3(1352)年6月29日「渋川直頼譲状」(『賀上家文書』「加能史料」所収)
赤塚郷はその後、本光院殿の姪(義鏡玄祖父直頼の妹)の源幸子(如春、香厳院殿)に譲られ、康暦元(1379)年6月25日、彼女が夫義詮の菩提を弔うため、嵯峨宝幢寺開山の春屋妙葩へ寄進(康暦元年六月廿五日「香厳院殿寄進状案」『鹿王院文書』)し、その開山堂鹿王院の所領となったものである。
●康暦元(1379)年6月25日「香厳院殿寄進状案」(『鹿王院文書』「和光市史」史料編1所収)
源幸子(香厳院殿)は明徳3(1392)年6月25日に薨じ、夫の義詮の菩提所・宝筐院にほど近い嵯峨小倉山麓に葬られ、香火所として香厳院が開創されている。
●『常楽記』明徳3(1392)年6月25日条(『常楽記』)
この香厳院主として入院していたのが鎌倉殿政知であり、政知は香厳院殿に対する特別な感情があったとみられ、香厳院殿が鹿王院に寄進した赤塚郷について「為異于他寺領之間、自最初、可被宛行兵粮料所之段、雖更無謂被思食」(寛正三年十一月廿三日「足利政知奉行人連署奉書」『鹿王院文書』)という気持ちを抱いていた。
義鏡は「赤塚郷」を千葉七郎実胤の兵粮料所とすることで、豆州政知と扇谷上杉家の関係強化を図ろうと考えた可能性があろう。
【大野斯波家】
+―斯波義種―――斯波満種――――斯波持種――――+―斯波義敏――――斯波義寛
|(修理大夫) (左衛門佐) (修理大夫) |(左兵衛督) (左兵衛督)
| |
| +―斯波義孝
| (民部少輔)
|
足利宗氏―――足利高経――+―斯波義将―+―斯波義教――――斯波義郷――――――斯波義健====斯波義敏
(尾張守) (尾張守) (右衛門督)|(左兵衛佐) (治部大輔) (治部大輔) (左兵衛督)
|
+―女子 【九州探題】 【関東探題】
∥―――――――渋川義俊――――+―渋川義鏡――+―斯波義廉
∥ (左近将監) |(右兵衛佐) |(左兵衛佐)
∥ | |
∥ +―渋川氏重 | +=渋川義堯
∥ |(丹後守) | (左衛門佐)
∥ | |
∥ +―渋川氏治 +―渋川俊詮――――渋川義種
∥ |(讃岐守) (伊予守) (中務少輔)
∥ |
∥ +―比丘尼教安
∥ |(嵯峨妙厳院長老)
∥ |
∥ +―渋川満家
∥ |(又次郎)
∥ |
∥ +―渋川満教
∥ |(九郎)
∥ |
∥ +―禅教
∥ |
∥ |
∥ +―比丘尼真興
∥ |(嵯峨妙厳院長老)
∥ |
∥ +―教安
∥ |(嵯峨妙厳院長老)
高師直――――女子 ∥ |
(武蔵守) ∥―――――――渋川義行―+―渋川満頼――+―渋川義繁
∥ (右兵衛佐)|(右兵衛佐) (次郎)
∥ |
∥ |【関東在国】
∥ +―渋川義長――――渋川義佐――――――渋川義堯――――渋川義基
∥ |(三郎) (左衛門佐) (左衛門)
∥ |
∥ | 【九州探題】
北条朝房―――娘 +―渋川直頼 +―渋川満行――+―渋川満直――――+―渋川教直――+―渋川政実
(備前守) ∥ |(式部大輔) (弥三郎) |(武蔵守) |(右衛門佐) |(相模守)
∥ | | | |
∥――――+―源幸子 +―渋川頼隆 +―曾隆 +―渋川万寿丸
渋川貞頼―+―渋川義季 (香厳院殿) (三郎) |(喝食) |
(兵部大輔)|(刑部大輔) ∥ | |
| ∥ +―小法師丸 +―渋川尹繁
+―源頼子 ∥ | |(右兵衛佐)
(本光院殿) ∥ | |
∥ ∥ +―比丘尼宣信 +―渋川和是
∥ ∥ (次郎)
∥ ∥
足利貞氏―+―足利直義=====足利基氏――足利氏満―――足利満兼――――足利持氏――――――足利成氏
(讃岐守) |(左兵衛督)+――(左兵衛督)(左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督)
| | ∥
+―足利尊氏 | ∥
(左兵衛督)| ∥
∥ | ∥ 【香厳院初代】
∥――――+―足利義詮――――柏庭清祖
∥ (権大納言) (嘉陰軒)
∥ ∥
∥ ∥ 摂津能秀――春日局
∥ ∥(掃部頭) ∥ 【香厳院三、五代】
∥ ∥ ∥――――――足利義嗣――――修山清謹
∥ ∥ ∥ (権大納言)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ 【香厳院二代】
+―平登子 ∥―――――――足利義満―――友山周師
| ∥ (太政大臣) (法性寺座主)
| ∥ ∥
北条久時―+―北条守時 紀良子 ∥――――+―足利義持――――足利義量
(陸奥守) (相模守) (洪恩院殿) ∥ |(内大臣) (参議)
∥ |
藤原慶子 | 藤原重子 +―足利義勝
(勝鬘院殿)|(勝智院殿) |(左近衛中将)
| ∥ |
| ∥ | 女子
| ∥ |(御末人茶阿) 【香厳院六代】
| ∥ | ∥――――――――――同山等賢
| ∥ | ∥
| ∥―――――+―足利義政
| ∥ (左大臣)
| ∥ ∥――――――――――足利義尚
| ∥ ∥ (右近衛大将)
+―足利義教 +―藤原富子
(左大臣) |(妙善院殿)
∥ ∥ |
∥ ∥ +―藤原良子
∥ ∥ (妙音院殿)
∥ ∥ ∥――――――――――足利義稙
∥ ∥ ∥ (権大納言)
∥ ∥―――――足利義視
∥ ∥ (権大納言)
∥ 小宰相局
∥
∥ 【香厳院四代/九山清久】
∥――――――足利政知――――――――足利茶々丸
∥ (左馬頭)
斎藤朝日氏 ∥
∥ 【香厳院七代/旭山清晃】
∥―――――――――+―足利義澄
∥ |(左近衛中将)
∥ |
武者小路隆光―女子 +―足利潤童子
(権大納言) (円満院)
こうして「鹿王院領武州赤塚郷」は寛正3(1462)年5月頃に七郎実胤の兵粮料所として設定され、これにより実胤は隠遁から復帰したとみられる。なお、当初赤塚郷に弟・千葉介自胤が関わった形跡はない。
しかし、11月に入ると、鹿王院は将軍義政に兵粮料所の解除を願ったようである。将軍義政の内意を受けた左馬頭政知は「為異于他寺領之間、自最初、可被宛行兵粮料所之段、雖更無謂被思食」と、鹿王院は義満所願の寺院であり、自分はもともと赤塚郷を兵粮料所にすることは乗り気ではなかったと述べ、武蔵守護代「長尾四郎右衛門尉殿」に対して「自京都、可被返付院家之旨、御下知」があったため、「可被沙汰付下地於彼雑掌」ことを命じている。この事により七郎実胤は兵粮料所を失うこととなるため、「至于千葉七郎者、可被下替地」を確実に相当地で埋め合わせるよう指示している(寛正三年十一月廿三日「足利政知奉行人奉書」『鹿王院文書』)。隠遁から復帰した七郎実胤を再度隠遁させることは、将軍義政に対しても顔向けができないため、とくに強調したのであろう。
ただ、その後赤塚郷が鹿王院雑掌へ返付された形跡はなく、政知は寛正4(1463)年2月27日、「千葉七郎」に再度赤塚郷の鹿王院雑掌への返付を催促している(寛正四年二月廿七日「足利政知奉行人連署奉書」『鹿王院文書』)。この件は武蔵守護代長尾景信(自胤岳父)が受けており、管領山内房顕が管轄していることがわかる。しかし、その後も赤塚郷が鹿王院雑掌に返付されることはなく、管領房顕、景信、実胤は、政知が求める赤塚郷の鹿王院雑掌への返付を無視し続けたと思われる。
●寛正4(1463)年2月27日「足利政知奉行人連署奉書案」(『鹿王院文書』)
なお、七郎実胤及び千葉介自胤の記録はこの頃とくにみられないが、やはり五十子陣の一将として活動していたのだろう。
この頃、政知は国清寺の御所を焼き討ちされて、西の狩野川辺の円成寺に御座所を移している時期であったが、こうした中、円成寺の左馬頭政知は今川氏不在となった鎌倉に入ろうと「可被越箱根山」を企てたが、将軍義政はその中止を命じた。ところが政知はまたもこの計画を企てたことから、8月22日に将軍義政は「無左右粗忽之企、一向可為不忠候」と強く中止を命じる御内書を発した。また、探題たる渋川義鏡に対しても叱責する御内書を下している(『御内書案御内書引付』)。
●寛正4(1463)年8月22日「将軍御内書案」(『御内書案御内書引付』)
●寛正4(1463)年8月22日カ「将軍御内書案」(『御内書案御内書引付』)
なお、こののち渋川義鏡は姿が見えなくなっている。一説には失脚したともされるが、実際は斯波惣領家中の騒擾に伴い、京都へ戻った可能性が高いだろう。
斯波惣領家は、長禄3(1459)年に武衞家当主の斯波右兵衛佐義敏と被官甲斐常治入道らとの争いが激化しており、関東下向の命を無視して越前国で被官人と合戦し敗北した義敏が追放される事件があった。その跡は義敏の子息松王丸(のち左兵衛督義寛)が継承するが、後述の通り、寛正2(1461)年9月2日には「武衞家之事、又渋川息十五六之躰被仰付、既被移屋形」(『大乗院寺社雑事記』寛正二年九月二日条)とあるように、松王丸が廃されて斯波家支流の渋川義鏡子・義廉が武衞家を継いだ。この時点で義廉父・義鏡は「関東主君」足利政知に探題として付され関東在陣中だったが、在京の義廉はすでに十五、六歳であったことに加え、前当主義敏は中国地方へ逐電中。松王丸(五歳)も相国寺喝食となることが決定しており、寛正2(1461)年の義廉相続時には義鏡が関東から下向する必要もなかったのだろう。義鏡が上洛した気配はない。
ところが寛正4(1463)年11月、「高倉殿百ケ日ニ、此間失面目輩共数輩被免除」(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月廿五日条)に伴い、11月19日に「武衞御免云々、伊勢守申沙汰也」(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月十九日条)と、義政生母高倉殿の百ケ日に伴い、勘気を受けている人々の赦免が決定し、伊勢守貞親の口添えもあって武衞義敏もこの対象となった。これには義敏と激しく対立していた甲斐・朝倉の両氏は「甲斐、朝倉之成生涯」(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月十九日条)と強く抵抗したが、11月25日に義敏は免許された(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月廿五日条)。
こうした事態の急変に、武衞家の現当主である義廉の父・渋川義鏡は、寛正4(1463)年末から翌寛正5(1464)年初頭には義廉の支援のために京都へ帰還したのではなかろうか。ただし、朝倉や甲斐の抵抗が奏功したか、この時点で義敏帰京は認められずに周防国に留まっており、二年後の寛正6(1465)年12月30日(『斎藤親基日記』寛正六年十二月卅日条)まで将軍義政との対面は許されていない。
義鏡のその後は伝わらないが、応仁元(1467)年4月3日、「従五位下源義堯、応仁元四三、同日左衛門佐」(『歴名土代』)と、義鏡の養嗣子・渋川義堯が敍爵し左衛門佐に補されていることから、義鏡はこの頃卒去した可能性がある。また、義廉は応仁元(1467)年5月1日に「管領礼部義廉、任左兵衛佐」ぜられており(『親元日記』応仁元年五月一日条)、左兵衛佐だった斯波義敏は官職を辞していたとみられる。
また、寛正4(1463)年8月26日、成氏勢力と戦いつづけた山内上杉家家宰・長尾左衛門景仲入道昌賢(俊叟入道)が鎌倉において病死する。京都にもこの一報が届けられ、10月5日付で「上杉兵部少輔」と「長尾四郎左衛門尉」へ慶弔の御内書が遣わされた。これを受けたものか、将軍義政は11月7日付で今川治部少輔義忠に左馬頭政知の支援を早急に行うよう命じている(寛正四年十一月七日「将軍家御内書案」『御内書案』)。
●寛正4(1463)年11月7日「将軍家御内書案」(『御内書案』)
寛正5(1464)年10月、関東管領房顕は再度管領職の上表をした。寛正4(1463)年末に続いて二度目の上表である。この報告を受けた将軍義政は、10月16日「大不可然、所詮如元可輔佐之旨、可令申合給」よう、「左馬頭殿」へ申し伝えている(『足利将軍家御内書案』)。これにより、房顕はふたたび上表を撤回したと思われる。
寛正6(1465)年5月末頃か、五十子陣では「今度自五十子勢、仕御敵数輩令降参候、目出候」(『親元日記』寛正六年十月十二日条)とあるように、成氏方から上杉方へ投降する人々がいたようである。このため、6月には伊豆円成寺の左馬頭政知は、犬懸上杉政憲に「仍政憲事、此刻可令出陣之由、豆州様被仰出」(『親元日記』寛正六年十月十二日条)という。犬懸上杉政憲は前述の通り、寛正2(1461)年に関東に下向した人物で、政知側近(探題か)となった人物である。6月19日、左馬頭政知から関東出兵の命を受けた上杉政憲は「越筥根山、相州扣馬ヲ、近日武州江可進御旗候」(『親元日記』寛正六年十月十二日条)している。政憲はその旨、担当の申次の奉行人・太田五郎左衛門尉貞興に注進している(『親元日記』寛正六年十月十二日条)。
●寛正6(1465)年10月12日「上杉四郎注進」(『親元日記』寛正六年十月十二日条)
8月20日、京都では「関東長尾新五郎先度雖被任出雲守、依辞申候如此、但馬守子也、雑掌僧性齋、布施善十郎」が同道して政所執事代を務める蜷川親元邸を訪問した(『親元日記』寛正六年八月廿日条)。彼らは「鎌倉殿御書并布施民部大輔書状」を持参しており、その内容は「野州足利庄今ハ御敵蹈云々御代官職事」について、長尾新五郎景人が「云由緒之地、云度々忠節望申事也、仍御吹挙如此」と、足利庄代官職の吹挙を願ったものであった。この当時、「今ハ御敵蹈」とあるように足利庄は成氏方によって支配されていることがわかり、上野国東部と下野国西部で上杉勢と古河方のせめぎ合いとなっていたのだろう。後述の通り、足利庄は文正元年12月までには上杉方に渡っている(文正元年十二月「長尾景人禁制」『鑁阿寺文書』)。
9月11日、「成氏様」は「武州太田庄御出張」(『足利将軍家御内書案』)し、上杉民部大輔房定ら上杉勢が迎え撃って激しい合戦となった。上杉方は「敵軍程近、御難儀此時」というものだったようだ。この合戦は上杉房定が家人「秋庭」を京都に派遣している。
これに応じたものか、将軍義政は「今川治部大輔殿」「武田五郎殿」に対して「成氏既武州太田口出張之間、早速可発向」を命じた。ところが、彼らの動きは鈍かったようで、12月8日、改めて「度々被仰之處、于今遅々、如何躰子細哉」と咎め、急ぎ出立するよう指示している(『足利将軍家御内書案』)。
●寛正6(1465)年年12月8日「将軍家御内書」(『足利将軍家御内書案』)
その後、上杉勢は寛正7(1466)年正月に五十子へ進出した成氏方と対峙するが(『喜連川判鑑』)、対陣中の2月12日、関東管領房顕が五十子陣中に病死(『旅宿問答』)した。法名は大光院殿清岳道純。享年三十二。
上杉房顕亡きあと、しばらく山内家家督が決定されず、宙に浮いた状態となっていた。これは京都から故房顕の従兄・民部大輔房定に宛てて「御息中一人」を山内家継嗣とするよう、京都の管領畠山政長および前管領細川勝元から家宰長尾左衛門尉景信を通じて打診があったが、房定がこれを固辞していたためであった。
●文正元年(1466)年10月2日「畠山政長書状写」(『報恩寺年譜』:『群馬県史』所収)
●文正元年(1466)年10月2日「細川勝元書状写」(『報恩寺年譜』:『群馬県史』所収)
板挟みとなった長尾景信は、「戸部者当方ヘ別而御知音」で、さらに「俊叟存、爰元故ニ奉憑与申上」という新田岩松家純に「可預御意見」ことを要請。これを請けた家純は「戸部へ被仰届」た。しかし「戸部(民部大輔房定)」は「曾以不可候」と頑として受けなかったという(『松陰私語』)。
景信はさらに「当方へ御吹挙之事、頻催促被申」たため、家純は「兼日俊叟入道申成子細可然存スル也、於此義者、従来不可申止」と「或者使者、或者書札、又者直談」により、「当方与越後陣暫之間、此間着而巳、色々樣々ニ被仰遣」と、房定説得の使者が幾度も新田岩松陣と上杉民部大輔陣を往復したという(『松陰私語』)。この度重なる説得に房定もついに折れ、「其後、戸部不時御越、連々申子細不申請者、此儘此幕下ニ可送年月与御狂言故、果而戸部御領掌」と、房定は自ら家純の陣所を訪問し、このまま上意を請けないと言い続けても状況は何も変わらず不条理であろうからとして、子の龍若丸を「大光院殿御名代」とすることを領掌した(『松陰私語』)。こうして龍若丸は山内家を継承し、のちに元服して上杉四郎顕定と称した。まだ十三歳の若当主であった。
ただ、景信はこの相続問題に関して、山内家中に相談する以前に岩松家純に依頼して決着していたことに「内々不致庶幾、傍輩等十八人有之」ったという(『松陰私語』)。しかし「雖然、景信不廻首、無二無三申沙汰ス」とあるように景信は有無を言わさず相続を強行した。そして景信の死後、「山内家務之事、寺尾入道、海野佐渡守相談、長尾々張守ニ申成」とあるように、当主顕定は家宰職を景信の子・四郎景春ではなく叔父の孫六忠景(のち尾張守)へ補任してしまう。これを恨んだ景春が顕定に背いて大乱を起こすことになるが、「因玆景春述懐、於武上相之中之景春同道、被官之者共、対尾張守含爵墳者二三千余、於国家蜂起充満ス」とあるように、忠景に反発して景春に従った山内家被官が「二三千余」にも及んだのは、この相続の一件の遺恨が関与しているのではないかと、松陰和尚は予想している(『松陰私語』)。
●『松陰私語』五
上杉憲方―+―上杉房方―+―高倉朝方―――上杉房朝===上杉房定
(安房守) |(安房守) |(民部大輔) (民部大輔) (相模守)
| |
| +―山浦頼方
| |(七郎)
| |
| +―上杉憲実―+―上杉憲忠
| |(安房守) |(右京亮)
| | |
| +―上杉重方 +―上杉房顕===上杉顕定
| |(三郎) |(兵部少輔) (四郎)
| | |
| | +=佐竹実定
| | |(左京大夫)
| | |
| | +―周清―――――上杉憲房―――上杉憲政
| | (五郎) (五郎)
| |
| +―上杉清方―+―上杉房定―+―上杉定昌
| (兵庫頭) |(相模守) |(民部大輔)
| | |
| +―上条房実 +―上杉顕定
| (淡路守) (四郎)
|
+―上杉憲定―+―上杉憲基===上杉憲実
(安房守) |(安房守) (安房守)
|
+―佐竹義人―+―佐竹義俊
(右京大夫)|(右京大夫)
|
+―佐竹実定
(左京大夫)
文正元(1466)年12月には、長尾景人が足利庄鑁阿寺に禁制を掲げていることから、このときまでに足利庄は足利庄代官の長尾景人が支配していたことがわかるが、軍勢の駐屯が続いていることから、上州・野州における前線は相当な緊張状態の中にあったと推測される。
なお、同時期に京都では、大名ほか諸職、将軍家をも巻き込んだかなり規模の大きな騒擾が起こっていた。事の発端は将軍義政の将軍職就任時にまで遡るほど根深いもので、管領家の斯波家及び畠山家の内訌、将軍義政と養子義視(血統上は弟)周辺の将軍職をめぐる思惑、細川勝元入道と山名持豊入道の共働と対立、それぞれを推す人々の考えなどが同時期に複雑に交じり合ったものが一時に噴出したものだった。
この乱の一因でもある斯波義敏と家宰甲斐氏の内訌は以前より続いていたが、これは庶家大野斯波家から武衞家を継いだ義敏を軽んじる家宰甲斐常治入道以下家人との確執であった。甲斐常治入道は自身の妹が政所執事の伊勢守貞親の妾であり、嫡子貞宗も生まれているという中央との強いつながりもあって、斯波家内に大きな権勢をふるっていたのである。
斯波義敏
康正2(1456)年5月28日に「今日、武衛辺以外物騒、此間与家人等有不快事」(『師郷記』康正二年五月廿八日条)という騒擾が起こるが、これは斯波義敏と甲斐ら家人間の「有不快事」の注進を受けた義政が、斯波庶家の「吉良、石橋、渋川三人」に斯波家の「家人之内三人可被加治罰」を命じたという風聞による騒擾だった。斯波義敏と甲斐入道との大きな確執はこれ以降も、
(一)長禄元(1457)年正月1日に「義敏没落、親父修理大夫同」(『大乗院寺社雑事記』)、
(二)長禄2(1458)年早々の義敏の東山出奔
(三)長禄2(1458)年2月29日の「今日東山武衞出仕、与甲斐入道和睦」(『在盛記』長禄二年二月廿九日条)
など頻発しており、ついには「武衛将軍某与家臣甲斐子、前年以私相忤、既而有隙相訟相公、々々俾大吏、決之、皆帰其理於斐子」(『碧山日録』長禄三年六月廿六日条)ことから、
(四)長禄3(1459)年正月1日の「武衞出奔、保守東山之東光精舎」
(五)長禄3(1459)年5月26日に義政の説得を受けて「武衞自東山帰其第」(『碧山日録』長禄三年六月廿六日条)
など、散見される。
こうした中で、長禄3(1459)年4月には「于時関右之強敵未亡、相公俾武衞征之、雖以台命出師先陣江之小野駅」(『碧山日録』長禄三年五月十一日条)と、斯波義敏が関東出兵を命じられた。
これを請けた義敏は出京後、近江国小野宿(大津市小野)に宿陣しているように、当初より琵琶湖西岸を北上しており、守護国の越前国を経由して信濃国から関東を目指すルートを取ったとみられる。以下は推測であるが、この関東下向に伴い、当然ながら義敏は在京中に越前国に軍勢催促を行ったであろう。ところが越前国守護代は義敏と激しく対立する甲斐常治入道(当時在京)であり、甲斐氏と繋がる越前国人層は軍勢催促に応じなかった可能性があろう。4月20日には守護義敏の被官「堀江石見」が甲斐氏の敦賀城を攻めて「打負」ているように(『大乗院寺社雑事記』)、越前国ではすでに守護勢力と守護代勢力による戦いが勃発していた。
義敏は「武衞使部伍之卒、自江攻越、其兵以数万之、其勢不可当也」と、陸海から甲斐氏の城を攻め立てたが、折り悪く「時大風俄起」って舟は転覆。これを見た城中の士卒は城を出て寄手に攻め懸かり、「武衞之軍士、死者八百余人也、其師大潰」した。この越前国の戦いの報告を受けた将軍義政は「予命小臣以関右之征、何其外朝敵、而内家讐哉、其無頼也、可夷滅小臣之族」(『碧山日録』長禄三年五月十一日条)と、勝手な行動を取った守護義敏方の追討を命じるほど激怒し、5月13日には「為 上意、能登越中勢共被立」、5月14日には「越前事、為甲斐御合力、近江勢以下悉罷立」と、甲斐勢に近国諸士が加わり、「屋形生涯珍事也」と斯波義敏の危機が伝わっている(『大乗院寺社雑事記』長禄三年五月十四日条)。
甲斐方からの反撃を受けた守護方は5月23日「堀江石見以下自焼シテ落了」しており、5月25日には「能登、越中、加賀ノ勢共乱入河口庄、甲斐方為合力」と、守護代方には能登・越中・加賀の勢が加わっている。5月27日、「甲斐八郎三郎(甲斐敏光)」が越前国に入国した。
ところが、甲斐勢と守護方の争いはその後も続いており、7月23日には守護方の堀江石見が軍勢を整えて河口庄に「罷出、長崎ニ陣ヲ取テ十郷之年貢共催促」している。そして8月12日夜には「甲斐入道常治」が入滅し(『大乗院寺社雑事記』長禄三年八月十二日条)、越前守護代は堀江石見と合戦中の「甲斐八郎子(甲斐敏光子の千喜久丸)」が補されている。そして5月11日の合戦で守護方は「堀江石見兄弟父子五人、朝倉豊後守父子、同新蔵人、同遠江入道子掃部、平泉寺大性院、豊原寺成舜坊」らが討死を遂げた(『大乗院寺社雑事記』)。
その後、義敏は「背 上意、走中国」(『鎌倉大日記』)し、「没落九州、憑大内蟄居」(『年代記残編』)した。このことは「美濃入道常治、伊勢守貞親因和親好同心議定、伺上意追退家督、是故下紫九憑大内新介」(『文正記』)とも見え、甲斐美濃入道が妹婿の伊勢守貞親を通じて将軍義政に義敏の勘当を願ったという。その具体的な没落時期は不明ながら、寛正元(1460)年に李氏朝鮮へ「寛正元年庚辰、遣使来朝、書称左武衛源義敏」(『東海諸国記』「山城州」)と見えるように、この頃には大内教弘の庇護下に入っていた様子がうかがえ、その庇護下から朝鮮に使者を遣わしていたことがわかる。義敏は勘気を被っているため、この遣使は私的なものである。
●「山城州」(『東海諸国記』)
また、義敏没落に伴い、「然間、甲斐、浅倉乞取、渋河之子息、為武衞踵続」(『年代記残編』)と、甲斐・朝倉両氏が渋川義鏡の子義廉を斯波惣領家に迎えている。『応仁記』によれば、義敏は「無程家老共ト不和ニ成リ、甲斐、朝倉、織田ノ三人トモニ新座ノ主ノ譜代ノ家長ニ対し、加様ニワカマゝ有ヘキ事ナラス、是ニテハ武衞ノ家督三職ノ座ニ居ヘカラスト評定シテ伊勢守貞親ニ頼テ訴フ、貞親ノ妾ハ甲斐カ妹ナリケレハ、内縁ヲ以テ頻リニ申シケル間、不移時日歴上聞、即義敏ヲ令勘道、渋川治部少輔義廉ヲ取立テ、任斯波右兵衛督居三職座ケリ」(『応仁記』)と見える。
ただし、長禄3(1459)年12月の「勝定院殿御仏事」で浄財を収めた人物として、12月18日に「武衞松王殿百貫文、竹王丸十貫文」(『蔭涼軒日録』長禄三年十二月十八日条)が見えることから、義敏のあとは義廉ではなく義敏の「元息松王丸」が家督を継承していたことがわかる。ここに見える「松王殿(斯波義寛)」と「竹王丸(斯波義孝)」は三歳差の甥・叔父である。
【大野斯波家】
+―斯波義種―――斯波満種―――斯波持種―+―斯波義敏――――斯波義寛【松王】
|(修理大夫) (左衛門佐) (修理大夫)|(左兵衛督) (左兵衛督)
| |
| +―斯波義孝【竹王】
| (民部少輔)
|
足利宗氏―――足利高経――+―斯波義将―+―斯波義教―――斯波義郷―――斯波義健====斯波義敏
(尾張守) (尾張守) (右衛門督)|(左兵衛佐) (治部大輔) (治部大輔) (左兵衛督)
|
+―女子 【九州探題】 【関東探題】
∥――――――渋川義俊―――渋川義鏡――+―斯波義廉
∥ (左近将監) (右兵衛佐) |(左兵衛佐)
∥ |
渋川義行―――渋川満頼 +=渋川義堯
(右兵衛佐) (右兵衛佐) (左衛門佐)
ところが、寛正2(1461)年9月2日には「武衞家之事、又渋川息十五六之躰被仰付、既被移屋形」(『大乗院寺社雑事記』寛正二年九月二日条)とあるように、関東在陣中の渋川義鏡の子息(義廉)が急遽斯波惣領家を継いで勘解由小路邸に移り、「元息松王丸ハ被成僧分」となったという。当時松王丸は五歳であった。なお、五歳の松王丸はおそらく祖父の斯波修理大夫持種のもとに預けられたとみられる。
この代替わりにより「甲斐八郎二郎被召上、朝倉弾正可罷上分及沙汰」(『大乗院寺社雑事記』寛正二年九月二日条)と京都へ呼び戻され、10月16日、「武衞参賀室町殿云々、甲斐朝倉上洛ハ為此也」(『大乗院寺社雑事記』寛正二年十月十六日条)という。翌10月17日には「自公方越中越前両所ニ領所七ヶ所分朝倉ニ給之了、越前守護代事、可被仰合由、御内書同給之」といい、朝倉弾正左衛門尉孝景が越前守護代に任じられている。
寛正4(1463)年6月9日、「依高倉殿御不例、致参也」(『蔭涼軒日録』寛正四年六月九日条)と、義政生母の大方殿が病に臥せったことで相国寺の季瓊真蘂がこれを見舞っている。その後は「大上様御祈祷」が続けられるも容態は芳しくなく、7月12日夜には将軍義政が「御成于高倉御所」(『蔭涼軒日録』寛正四年七月十二日条)して母を見舞っている。8月6日には「高倉御所御不例之急」と重篤となっており、8月8日「高倉殿今曉御逝去」した(『蔭涼軒日録』寛正四年八月八日条)。享年は「五十三」(『山礼記』)。「御院号」は「勝智院」と決定される(『蔭涼軒日録』寛正四年八月八日条)。8月11日に「勝智院殿従一位万山大禅定尼、諱性寿」は等持院において荼毘に付された。
11月13日、将軍義政は、管領細川勝元に「兵衛佐殿赦免之事并松王丸殿進退之事」を伊勢守貞親に問い合わせるよう命じた(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月十三日条)。貞親は「彼被官人互闘死、于今無已、甚不可也、有入洛則可為騒劇之基也、御免許之義尤宜哉、然則於国先赦免、尤然乎」という。意味が分かりづらいが、赦免は義敏の在国で行うのがよいという。この赦免は「高倉殿百ケ日ニ、此間失面目輩共数輩被免除」(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月廿五日条)に伴うもので「武衞兵庫頭(ママ)義敏」も対象となった。また、「松王丸進退」については、11月16日に「松王殿、被成喝食之日、以来十九日択之」(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月十六日条)と相国寺入寺日が設定され、その前日の11月18日、松王丸を預かっていたとみられる祖父持種が「管領細河殿、以状被申修理大夫殿出仕以後為黒衣可隠居之事、被望申、仍披露之、即免許之由、被仰出也、以此命伝于管領也」(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月十八日条)と隠居を許されている。
翌11月19日、「松王殿、今日巳刻、為喝食可截髪也、某刻截髪為喝食著衣也、今日散髪脱冠也」(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月十九日条)と予定通り相国寺の喝食となり、同日「武衞御免云々、伊勢守申沙汰也、甲斐朝倉之可成生涯」(『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月十九日条)と、義敏も赦免されるが、敵対していた甲斐・朝倉氏はその復帰にかなり強く難色を示したことからか、義敏は赦免されるも二年後の寛正6(1465)年12月まで帰京は認められなかった。
翌11月20日に松王丸は将軍義政に拝謁(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月廿条)。11月24日に「松王殿、為喝、曰宗成」と「宗成」の号を受けている(『蔭涼軒日録』寛正四年十一月廿四条)。このとき宗成喝食は七歳だが、将軍義政は12月20日に「美濃国中河、三河国近江荘(碧海荘)」を「助成之所領」として与えている(『蔭涼軒日録』寛正四年十二月廿日条)。これらは「修理大夫殿知行美濃国中河」(『蔭涼軒日録』寛正五年十一月十四日条)とあることから、祖父の修理大夫持種入道の所領とみられる。
寛正5(1464)年11月20日、東山の門跡寺院浄土寺の准三后義尋が還俗した(『門跡伝』浄土寺)。義尋は永享11(1439)年閏正月18日に「御袋小宰相殿、御産所細川下野殿」(『御産所日記』)として誕生した将軍義政の末弟である。義尋このとき二十六歳。将軍義政の養嗣子となるための還俗であった。この時点でその御名字はまだ定められておらず、父義教の還俗時と同様に呼称は義尋は「准三后義尋」だったと思われる。
医師某――――苗子
(姓不詳) (北小路殿)
∥――――――+―日野勝光
∥ |(権大納言)
∥ |
裏松重光―+―裏松義資―――裏松重政 +―藤原富子
(権大納言)|(権大納言) (右少弁) |(北向殿)
| | ∥
+―藤原重子 +―足利義勝 | ∥
(勝智院殿)|(左近衛中将) | ∥――――――――足利義尚
∥ | | ∥
∥――――+――――――――――足利義政
∥ |(左大臣)
∥ |
足利義教 +―藤原良子
(左大臣) ∥――――――――足利義材
∥∥∥ ∥
∥∥∥ [浄土寺門跡]
∥∥∥―――――――――――――義尋【足利義視】
∥∥小宰相局 (僧都)
∥∥
∥∥ [鎌倉殿]
∥∥――――――――――――――足利政知
∥斎藤朝日氏 (左馬頭)
∥
∥ [聖護院門跡]
∥―――――――――――――――義観
遠州某――――家女房 (権僧正)
義政は「公方四十ニ及ハセ玉トモ、若君御座ナキ」事を嘆き、「御連枝浄土寺殿新門主ヲ還俗マシマシ御代ヲ渡シ可被申定」たため、義尋に白羽の矢を立てたというのである(『長禄寛正記』)。
当初義尋は「再三辞退申サセ玉ヒ、理髪事夢々有マシキ由、御返事有」(『応仁記』)ったが、義政は「若今ヨリ後ニ若君出来ラセ給ハゝ、襁褓ノ中ヨリ法体ニ成シ可申、御家督事改易アルヘカラス、尚以無偽處ハ、大小ノ冥道神祇ノ照鑑ニマカスト被書ヲ遣サレシ」(『応仁記』)て「再御問答有」ったため、「浄土寺殿、此ホトニ御契約有ル上ハ何ノ相違カアルヘキ」(『応仁記』)として、「終ニ御還俗可有」と治定したという(『長禄寛正記』)。これほどまでに将軍義政が家督を譲りたかったのは「将軍ヲ相続シ、今ヨリ御隠居有、恣ニ老楽ノ栄花ヲ可開ト思食立」ったためという(『応仁記』)。
ただし実際はこの七か月前の4月17日に、義政異母弟の一人「聖護院新門主(義観僧正)」が「逝去」(『蔭涼軒日録』寛正五年四月十七日条)していたことが大きな引き金になっている可能性がある。
聖護院僧正義観は永享11(1439)年閏正月17日に「御産所赤松播磨」で誕生(『御産所日記』)した義尋の一日兄である。義観逝去当時、男子がいなかった義政は、義観の逝去を受けて現実的に継嗣の選定を行う必要に迫られた可能性が高いだろう。義政の存世のきょうだいは左馬頭政知と浄土寺准后義尋の二人、同腹の妹が一人のみであったが、左馬頭政知は「関東主君様」として伊豆に下向中で、関東上杉氏を中心に古河「公方様」足利成氏と「五十子陣」を境に激しい戦いをしており、京都へ召還できる状況ではなかった。同腹の妹二十八歳の「南御所様」(『親元日記』寛正六年三月一日条)はこの頃には病に臥せって子もなかった。叔父は三宝院義賢、梶井義承、地蔵院持円、そして義尋の師である浄土寺義弁が在世だが、叔父が甥の継嗣となった先例はない。よって東山浄土寺の准后義尋が継嗣と定められたのは自然の成り行きであったろう。この養嗣子治定と同じくして義政は実子降誕のために妊活も強化したとみられることも、継嗣問題が切迫したものだったことをうかがわせる。そして「若今ヨリ後ニ若君出来ラセ給ハゝ、襁褓ノ中ヨリ法体ニ成シ可申、御家督事改易アルヘカラス」というような義政の説得も事実とは考えにくく、義尚が誕生しても出家させず、義視は苦情も言わず義政との関係も悪化することなく淡々と継嗣としての務めを果たしているのである。
11月25日に「浄土寺殿義尋新門主」は浄土寺を出て「御一宿于先職」(勝元は9月9日に職上表)し、翌11月26日に「移于三條殿」(『蔭涼軒日録』寛正五年十一月廿五日条)する。その夜、義尋は前夜一宿の「御礼、細川右京大夫殿被献御太刀」(『蔭涼軒日録』寛正五年十一月廿五日条)している。
12月2日、「名字、益長卿撰進」(『柳営御伝』)て、「浄土寺准后義弁御弟子義尋僧都還俗、御名字義視、号今出川殿」(『大乗院寺社雑事記』寛正五年十二月二日条)となり、同日「左馬頭」「従五位下」に補任された(『柳営御伝』)。その際の義視は「今出川殿、始ノ御参賀有是、又美々敷御祝儀也」(『長禄寛正記』)という。なお、この一月半ほど前の10月16日当時の左馬頭は伊豆の政知であることから(『足利家御内書案』)、政知は義視の左馬頭補任と同時に「左兵衛督」へ補任されたと考えられる。翌寛正6(1465)年正月5日の除目で「従五位下源義視」は「叙従四位下越階」(『公卿補任』寛正六年)した。
正月16日、「備州盛定家」で「会題梅契多春当座百首」が行われたが(『親元日記』寛正六年正月十六日条)、この「備州盛定」は伊勢氏族でのちの伊勢新九郎入道こと小田原の伊勢早雲庵の父・備中守盛定(のち備前守貞藤と名替)である。2月25日、「細雨、今出河殿様、御判始、御弓始、御乗馬始此両條御師範小笠原備前守長清」(『親元日記』寛正六年二月廿五日条)を行った。このときの師範は「小笠原備前守長清」とあるがのちの政清であろう。この政清の女子が、伊勢備前守盛定の子・新九郎盛時に嫁ぐ。
【信濃小笠原家】 【深志小笠原家】
小笠原宗長―+―小笠原貞宗――小笠原政長――小笠原長基―+―小笠原長秀―――小笠原持長―――小笠原清宗―+―小笠原長朝
(信濃守) |(信濃守) (遠江守) (信濃守) |(修理大夫) (大膳大夫) (信濃守) |(民部大輔)
| | |
| | +―小笠原光政
| | (中務少輔)
| |
| | 【鈴岡小笠原家】
| +―小笠原政康―+―小笠原宗康―――小笠原政秀
| (大膳大夫) |(大膳大夫) (右京大夫)
| |
| +―小笠原朝康
| |(治部少輔)
| |
| +―小笠原長宗
| |(左馬助)
| |
| |【松尾小笠原家】 【早雲庵】
| +―小笠原光康―――小笠原家長 伊勢盛定―――伊勢盛時
| (遠江守) (左衛門佐) (備前守) (新九郎)
|【京都小笠原家】 ∥
+―小笠原貞長――小笠原長高――小笠原氏長―――小笠原満長―+―小笠原持長―+―小笠原持清―+―小笠原政清――女子
(彦次郎) (美濃守) (備前守) (備前守) |(備前守) |(備前守) |(備前守)
| | |
+―小笠原政広 +―小笠原元長 +―小笠原元清
(刑部大輔) (播磨守) (刑部少輔)
2月の時点で北向殿富子はすでに懐妊の兆候を悟っていたと考えられ、そのことは義政にも伝えられていた思われる。3月3日、義政は伊勢守貞親邸へ「御成」して定例の晦日「御風呂」を召しているが(『親元日記』寛正六年三月三日条)、この際に公子傅育の家職を伝える貞親にその旨を伝えている可能性があろう。当時富子が懐妊を自覚していたと考えられる事件が、3月29日の「赤松伊豆女宮内卿局若公誕生」(『大乗院寺社雑事記』寛正六年三月廿九日条)である。このとき宮内卿の産んだ「若公」は義政の男子であることは疑いようもない事実であるが、なぜか奉公衆「進士美乃守子」とされて認知されなかった。この仕儀を尋尊大僧正は「仍無一定之儀、以外事也、訴人御台御方」と御台所富子を非難している(『大乗院寺社雑事記』寛正六年三月廿九日条)。
御台所富子は、すでに義政継嗣として義視が治定していること、そして自らの腹に子が宿っている可能性が高いことから、もし恙なく男子が誕生した場合には、将軍義視の後継とする必要があり、外戚に有力奉公衆たる赤松氏が控える将軍長子を認めるわけにはいかなかったのであろう。その後もこのとき生まれた若公について触れられることはないので、進士美濃守の子として成長した可能性があろう。なお 生母の宮内卿局は、康正元(1455)年8月に「卜部局、任宮内卿赤松伊豆刑部大輔姉妹」(『斎藤基恒日記』康正元年八月条)した義政愛妾の一人である。この八年前の長禄2(1458)年閏正月27日夜にも「姫君御誕生、寅之時也、御袋ハ赤松伊豆息女、御産所者山名兵部少輔所也」(『御産所日記』)と、義政の女を産んでいる。
なお、この二十三年前の永享6(1435)年7月26日に義教の子(御連枝小松谷殿義永=左馬頭義制)を産んだ(『在盛卿記』長禄二年四月十九日條)「母宮内卿赤松永良則綱女、赤松一族女」(『看聞日記』永享六年七月廿六日条)という赤松氏出身の女性がいるが、「宮内卿」という称号は赤松氏出身の「殿中伺候女中」(『斎藤基恒日記』康正元年八月条)に与えられたものか。
赤松則村―+―赤松範資―+―赤松光範―+=赤松義則――――赤松満祐
(円心) |(信濃守) |(治部大輔)|(左京大夫) (左京大夫)
| | |
| | +―赤松満弘――――赤松教弘
| | |(美作守) (治部少輔)
| | |
| | +―赤松範次――――赤松範久―――赤松元久―――赤松政資―――赤松義村
| | (左衛門尉) (伊豆守) (又次郎) (刑部少輔) (次郎)
| | ↓
| +―永良則綱―――宮内卿 ↓
| (民部少輔) ∥ ↓
| ∥―――――――足利義制【義永】 ↓
| ∥ (左馬頭) ↓
| 足利義教 ↓
| (左大臣) ↓
| ∥―――――+―足利義勝 ↓
| ∥ |(左近衛中将) ↓
| 裏松重光―+―藤原重子 | ↓
| (権大納言)|(勝智院殿) | ↓
| | | ↓
| +―裏松義資――――裏松重政―――藤原富子 ↓
| (権大納言) |(左少弁) (御台所) ↓
| | ∥――――――足利義尚 ↓
| | ∥ ↓
| | ∥ ↓
| +――――――――足利義政 +―女子 ↓
| (左大臣) | ↓
| ∥ | ↓
| ∥――――+―若君 ↓
| ∥ ↓
| +―宮内卿局 ↓
| | ↓
| | ↓
+―赤松貞範―+―赤松顕則―――赤松満貞――――赤松貞村―+―赤松教貞―――赤松範行 ↓
|(美作守) |(出羽守) (出羽守) (伊豆守) |(刑部少輔) (兵部少輔) ↓
| | | ↓
| | +―赤松持貞 +―赤松貞祐 ↓
| | |(越後守) (刑部少輔) ↓
| | | ↓
| +―赤松頼則―+―赤松満則 ↓
| (伊豆守) (伊豆守) ↓
| ↓
+―則祐―――+―赤松義則―+―赤松満祐――――赤松教康 ↓
|(権律師) |(左京大夫)|(左京大夫) (彦二郎) ↓
| | | ↓
+―赤松氏則 | +―赤松祐尚――――赤松則尚 ↓
|(弾正少弼)| |(常陸介) (彦五郎) ↓
| | | ↓
+―赤松氏康 | +―赤松則友――――赤松友如 ↓
(五郎) | |(兵部少輔) (左衛門尉) ↓
| | ↓
| +―赤松六郎 +=赤松義村
| | |(兵部少輔)
| | | ∥
| +―赤松義雅――――性存―――――赤松政則――――――――+―女子
| |(伊予守) (左京大夫)
| |
| +―真操
| |(龍門寺)
| |
| +―赤松則繁――――赤松繁広
| |(左馬助)
| |
| +―女子
| ∥―――――――細川満元―+―細川持元
| ∥ (右京大夫)|(右京大夫)
| ∥ |
| 細川頼春―――細川頼元 +―細川持之―――細川勝元
|(右京大夫) (右京大夫) (右京大夫) (右京大夫)
|
+―大河内満則――小河内満政―+―大河内教政
|(播磨守) (左京大夫) |(三郎)
| |
+―赤松時則 +―大河内満直
|(三河守) (二郎)
|
+―賀陽友則
|(五郎)
|
+―赤松持則―――赤松持祐――+―赤松祐利――+―赤松則実
|(上野介) (右馬助) |(兵庫頭) |(左衛門尉)
| | |
| +―赤松祐定 +―赤松政利
| (式部少輔) (孫三郎)
|
+―有馬義祐―――有馬持家――――有馬元家――――有馬則秀―――有馬澄則
(出羽守) (兵部少輔) (上総介) (出羽守) (刑部少輔)
5月13日、室町殿で歌会が開催され、義視も参加。「御一献女中御儀」している(『親元日記』寛正六年五月十三日条)。「女中御儀」は日野勝光妹(御台所富子妹)と義視との婚約のことであろう。その後、6月3日にも「就御一献、今出川殿、上御所へ御出、能在、観世」(『親元日記』寛正六年六月三日条)、6月12日にも「今出川殿有御参而、殿中御宴遊盛而、及深更、想余酔御困惰之謂乎」(『蔭涼軒日録』寛正六年六月十二日条)と義政との交流を深めている。そして、将軍職への心構えとして、義視は6月29日から「大学談義始清三品常忠」(『親元日記』寛正六年六月廿九日条)が開始され、7月2日にも「今出川殿大学談義常忠」(『親元日記』寛正六年七月二日条)し、7月4日に「今出川殿御談義終」(『親元日記』寛正六年七月四日条)と、三回にわたって講義がなされた。
7月20日、義政の「若君様誕生、子刻、亥歟、御袋茶阿」(『親元日記』寛正六年七月廿日条)した。御産所は「小串次郎右衛門尉政行、冷泉京極南東家」であった。この若君は3月29日に誕生した「赤松伊豆女宮内卿局若公誕生」(『大乗院寺社雑事記』寛正六年三月廿九日条)とは異なり認知され、様々に諸行事も行われた。赤松氏腹と異なった理由は、この若君の母親が「御袋御末人、二階堂被官三富親類」とあるように御末であったためか。この若君は生誕一か月後の8月22日に「若君様自御産處烏丸殿江御移卯刻」(『親元日記』寛正六年八月廿二日条)と烏丸邸へ移され、のち香厳院主の同山等賢となる。
7月26日には「日野妹、今日参今出川殿」(『大乗院寺社雑事記』寛正六年七月廿六日条)と、権大納言勝光の妹(藤原良子)が義視の正妻として今出川殿に入った。御台所富子の実妹に当たる。
日野時光――裏松資康―+―裏松重光―+―裏松義資―――裏松重政―+―日野勝光
(権大納言)(権大納言)|(権大納言)|(権大納言) (右少弁) |(権大納言)
| | |
| +―藤原重子 +―藤原富子
| (勝智院殿) |(妙善院殿)
| ∥ | ∥――――――足利義尚
| ∥ | ∥ (右近衛大将)
| ∥―――――――――――――足利義政
| ∥ |(内大臣)
| ∥ |
| 足利義教 +―藤原良子
| (内大臣) (妙音院殿)
| ∥ ∥――――――足利義稙
| ∥ ∥ (権大納言)
| ∥―――――――――――――足利義視
| ∥ (権大納言)
| 小宰相局
|
+―烏丸豊光―――烏丸資任―――烏丸益光
(権中納言) (准大臣) (権中納言)
8月21日、「九州探題右衛門佐殿教直より、太刀金千疋、先度御子息三郎殿御受領事、申御沙汰御礼」とみえ、十七歳の渋川政実の叙爵についての御礼がなされている(『親元日記』寛文六年八月廿一日条)。渋川教直は渋川義鏡の又従兄弟にあたり、祖父の右兵衛佐満頼以来、肥前国養父郡綾部村(三養基郡みやき町原古賀)に拠点を置いて南朝勢と戦いを続けた。
9月3日に「大内左京大夫入道教弘、与州於五々嶋病死河野合力、陣中也」と、伊予国興居島(松山市興居島内)で病死した。細川右京大夫勝元と河野伊予守通春との戦いに、河野勢への援軍として出兵した矢先のことであった。義敏はこの陣中にいたとみられ、その病死を受けて「大内介ト離別ノコト」により左兵衛佐義敏はこの状況をまず伊勢守貞親に伝えたのだろう。義政は「先畿内辺ニ徘徊シテ、時分ヲ待テ歎キ可被申旨、ヒソカニ被仰下」たという(『長寛寛正記』)。『応仁記』によれば貞親は将軍義政に「彼西堂(蔭涼軒主の季瓊真蘂)トトモニ、義敏赦免ノ事シキリニ被申」たという。これに、「貞親ノ子息兵庫頭貞宗」は父貞親に「義敏身之上ノ事、専ラ御取持之事、不可然存候、一大事可出来、然バ終ニ天下ノ騒動ト存候、無勿体」と義敏の赦免申請に対して強烈に反対の姿勢を示した。しかし貞親は「承引ナク」、兵庫頭貞宗は「結局ハ貞親ヨリ勘道」されたという(『応仁記』)。
10月2日、義敏は相国寺の季瓊真蘂に「兵衛佐殿、依大内大膳大夫錯乱而、可離絶之事被歎申、仍伊勢守共評之、可致披露之由」(『蔭涼軒日録』寛正六年十月二日条)という依頼を届けた。大内教弘の死からすでにひと月程を経過して京都に訴えが送られているのは、義政の「時分ヲ待テ歎キ可被申旨」を守ったものか。この訴えは伊勢守貞親へ送られ、貞親からこの旨を受けた義政は「可有離絶之旨、被仰出、仍召彼雑掌告之、即告于伊勢守也」(『蔭涼軒日録』寛正六年十月二日条)と、義敏帰国を許可した。そして10月23日、「依兵衛佐殿被召上而、被下御内書也」(『蔭涼軒日録』寛正六年十月廿三日条)と義敏帰国の御内書が下された。
11月3日、「上様御産所江御宿所初御出酉時云々、御産所細川刑部少輔殿亭、一條堀川西頬也和泉両守護申沙汰也」(『親元日記』寛文六年十一月三日条)とあり、この日までに細川刑部少輔常有邸内に御産所が竣工しており、御台所富子が初めて宿泊したことがわかる。この宿泊は仮のもので翌11月4日に「上様還御、御物奉行同前」(『親元日記』寛文六年十一月四日条)と屋敷に戻っている。
11月21日、「御所ノ寝殿」(『長寛寛正記』)で「今出川殿御元服」(『蔭涼軒日録』寛正六年十一月廿一日条)が執り行われた。同日「禁色宣下」(『足利家官位記』)もなされ、今出川殿義視は名実ともに将軍継嗣としての体裁が整った。ただし、理髪を担当する伏見殿の「冷泉前右兵衛佐殿」が「異体過法之間、難参勤之旨被申之、然者今朝既可闕御事候」(『親元日記』寛文六年十一月廿一日条)と、急病のために執り行えず、理髪のみは翌11月22日に「冷泉前右兵衛佐殿、今出河殿御髪に参勤」(『親元日記』寛文六年十一月廿二日条)している。
そして翌11月23日午刻、「若上様若君様、於泉州大守所而御誕生」(『蔭涼軒日録』寛正六年十一月廿三日条)した。のちの七代将軍義尚である。
11月25日、「今出川殿御元服御礼」のため室町殿に御参。「参議兼左中将」(『足利家官位記』)に補任され、その後、義視は室町殿で「被着御装飾」して「而公方様御同車」して「而御参内」した(『蔭涼軒日録』寛正六年十一月廿五日条)。12月17日、「任権大納言、同日叙従三位越階」(『足利家官位記』)した。
12月27日、「兵衛佐殿、自九州着岸于兵庫云々、有注進也、蓋被召而上洛也」(『蔭涼軒日録』寛正六年十二月廿七日条)と、上洛途次の義敏は兵庫津に到着したという注進が京都へ届いた。そして翌12月29日、「兵衛佐殿被召上、仍午後上洛、緇白挟路、観之如市」(『蔭涼軒日録』寛正六年十二月廿九日条)と、義敏の上洛は京雀の噂になっていたようで、僧俗観る者が路次にあふれ、市の如き状況となっていたという。
翌12月30日、「左兵衛佐義敏、同修理大夫入道義敏之親父也、御免御礼有御対面」(『齋藤親基日記』寛正六年十二月卅日条)と、左兵衛佐義敏・修理大夫入道の父子は将軍義政と対面を果たす。この日、義敏は御所へ出仕し、「兵衛佐殿上洛出仕、可被懸御目之事」を「伊勢守可伺之由申之」したため、伊勢守貞親は義政の「鹿苑 普広御焼香」の際にこのことを訴えた(『蔭涼軒日録』寛正六年十二月晦日条)。これを請けた義政は「仍御領承、即告伊勢守」げた。次いで貞親は対面は「御焼香還御之次、可有御対面歟之由」を義政に問い、義政も「御領承」した。義敏と父の修理大夫持種入道は義政が相国寺から還御するまで室町殿で待機し、還御後に「被懸于御目」た。この際、義敏は「一万疋、御太刀、御馬献之」じ、父修理大夫入道は「御太刀、御馬、献之」じている。その後、「於一條修理大夫殿宿所而同居昆弟相会、或歓喜或世界、又皆感是、尤山野寵光也」(『蔭涼軒日録』寛正六年十二月晦日条)と、義敏は弟の竹王(のちの義孝)と再会した。義敏父子は室町殿から退出後、帰還に骨を折ってくれた季瓊真蘂のもとを訪れ、「被参謝来父子共懇々耽謝、怡隋感涙也」(『蔭涼軒日録』寛正六年十二月晦日条)という。翌寛正7(1466)年正月10日、義敏は相国寺蔭涼軒に季瓊真蘂を訪ね、「折并樽持参之、外有一之奇物、曰築前国博多以名酒、而称錬緯ネリヌキ也、古来聞其名、今嘗此新味奇哉」(『蔭涼軒日録』寛正七年正月十日条)と、博多から取り寄せた「練緯(二月十九日条には「練貫」)」という名酒を樽で献じている。
ところがこうした中で、文正元(1466)年7月16日、「兵衛佐殿被官人、往々自治部大輔殿号牢人被誅伐」(『蔭涼軒日録』文正元年七月十六日条)があり、右兵衛佐義敏の被官人某が治部大輔義廉から常々牢人と称され、ついに討たれた事件があった。義敏は伊勢守貞親にこの件を訴え、将軍義政もまた「至被召出而牢人之義、無謂乎之由」を述べて、義廉への不快感をあらわにしている。この件について義政は「重与伊勢守可評之由」を指示して糾明させている。伊勢貞親らの評定の結果、7月23日に「今日被退武衞治部大輔、給惣領職於兵衛佐義敏畢」(『大乗院寺社雑事記』文正元年七月廿三日条)と、義廉は武衞家の惣領職を引退させられ、兵衛佐義敏が惣領職に再任されている。一方で「武衞方儀、兵衛佐義敏御免出仕」に対し、翌24日には「然而、当武衞治部大輔事、細川右京大夫勝元、山名入道宗全加扶持之間、一天大儀歟」と、その評定に不満を持った細川勝元や山名宗全入道らは、惣領を追われた治部大輔義廉の支援に回った。山名宗全入道は「宗全ノ為ニハ聟也、親類也、旁以弓矢ニ及共合力有ヘキ」と御所との合戦も辞さない覚悟を決め「分国ヨリ軍勢ヲ催サレ、義廉ハ尾張国守護代織田兵庫助ハ舎弟与十郎ニ猛勢ヲ差副上洛ス、越前遠江勢モ悉ク召上ケル、京都者甲斐、朝倉、由宇、二宮ヲ始トシテ被官共悉召ノホセケレハ、多勢共申計ナレ」という。
しかし、7月29日には義廉に対して「武衞下屋形、如上意打渡兵衛佐」という将軍義政の命が下っており、武衞家惣領職の交代を粛々と命じたのであった。さらに8月3日に至って将軍義政は「就于山名殿与治部大輔殿婚姻之義、可絶交之由」(『蔭涼軒日録』文正元年八月三日条)を命じているが、これらは拒絶されたのだろう。
8月4日には、南都興福寺に「前殿下御下向」(『大乗院寺社雑事記』文正元年八月四日条)と、前関白一条教房が弟の大乗院尋尊を頼って避難してきた。「京都物騒故也」といい、「畠山政長、山名、細川、斯波、京極、六角以下諸大名、分国軍勢召上、京中珍事」という。「去月事也、近日破可出来」と述べており、7月中の武衛家の惣領職をめぐる政争が、その後に起こる応仁の大乱の引き金になったのである。
ところが、関東では足利庄周辺での騒擾が起こっていたのと同時期の文正元(1466)年12月25日、将軍義政によって京都を追放されていた「畠山右衛門佐殿(畠山義就)、上洛了」(『東寺見聞雑記』文正元年十二月廿五日条)した。『応仁記』によれば、これは山名持豊入道がその赦免を義政御台へ訴えていたもので、御台は「義就ガ事、既ニ赦免ト被仰出ケル」(『応仁記』)と持豊入道を通じて熊野に在陣中の義就に伝えたため、「一騎当千ノ士卒五千余騎ニテ千本ノ地蔵院ニ着陣」したという(『応仁記』)。この上洛がその後十年にもわたって京都を崩壊の巷に巻き込んだ「応仁の乱」の始まりである。
実際は畠山義就は当初「右衛門佐、陣取千本尺迦堂」であり、のち「千本地蔵院」に陣所を移したとみられる(『大乗院寺社雑事記』文正元年十二月廿六日条)。義就と敵対関係にある管領「畠山政長」は「屋形之四方ニ矢倉上之」し、「赤松次郎法師(赤松政則)」は「六角以下閉籠」った。彼らに「与力」するのは「京極、細川云々、公方同御合力」で、「為兵粮料、京中酒屋土蔵役銭申懸之、以使者責立」(『大乗院寺社雑事記』文正元年十二月廿六日条)という。一方、畠山義就に味方するのは「山名、武衞以下」で、彼らも「同京中、兵粮米等可相懸之旨、及其沙汰云々、可滅洛中一時」と、両者から京中に兵粮米の催促がかかったことから、京中には一時期米がなくなったという(『大乗院寺社雑事記』文正元年十二月廿六日条)。その後、「畠山右衛門佐義就」は「借用山名金吾禅門之亭」(『斎藤親基日記』文正二年正月五日条)している。
こうした状況に将軍義政も考えを改めたか、翌文正2(1467)年正月5日、将軍義政は畠山義就が仮住まいしている山名持豊入道の屋敷に「被申御成」(『斎藤親基日記』寛正五年正月五日条)して、義就と対面している。義政は義就を赦免したことで、正月11日、対立する管領畠山政長についても管領職を解いて「治部大輔義廉、任管領」(『斎藤親基日記』文正二年正月十一日条)し、即日「出仕始、同日御評定始」が行われた。
正月15日、山名持豊入道は埦飯を務めた(『応仁記』)。ところが、持豊入道は「事畢テモ退出ナク、一味同心昵近付大名ドモヲ招集テ、先今出川殿ヘ参上シ、急ギ室町ノ御所ヘ御成アレ」と今出川殿義視を花ノ御所に参じるよう促すと、16日明方、「山名金吾、率畠山右衛門佐、屯兵於相府之前後、請攻畠山尾張守之第」(『和漢合符』文正二年正月十六日条)と、山名持豊入道が畠山義就を伴い、「花ノ御所」を包囲して畠山政長邸を攻める許可を求めた(御所巻)。この御所巻に加わった者三十四名が『応仁記』に記されている(ただし『応仁記』は史書ではないため、参考に留める)。
●文正2(1467)年正月16日御所巻(『応仁記』)
大将 | 山名持豊入道宗全 | 畠山右衛門佐義就 | |||
吉良 | 吉良左京大夫義勝 | ||||
斯波 | 斯波治部大輔義廉 (5月1日、任左兵衛佐) |
||||
畠山 | 畠山左衛門佐義統 | 畠山宮内大輔教国 | 畠山左馬助政栄 | 畠山右馬頭政純 | 畠山中務少輔政光 |
畠山播磨守教光 | |||||
山名 | 山名弾正少弼政豊 ※山名入道嫡孫 |
山名兵部大輔政清 | 山名相模守教之 | 山名七郎豊久 | 山名摂津守永椿 |
山名五郎左馬助豊光 | 山名五郎宗幸 | 宮田民部少輔教実 | 山名宮内少輔豊之 | 山名上総七郎政之 | |
一色 | 一色左京太夫義直 | 一色兵部少輔義遠 | 一色五郎政氏 | 一色左馬助政兼 | 一色治部少輔政熈 |
一色民部少輔 | 一色吉原蔵人 | 一色山下刑部大輔貫益 | 一色山下民部少輔教長 | ||
赤松 |
赤松千代寿丸 ※赤松伊豆守子息 | ||||
その他 | 仁木右馬助教将 | 土岐美濃守成頼 | 佐々木六角亀寿丸 | 佐々木山内宮内大輔政綱 | 富樫幸千代丸 |
富樫又次郎家延 |
山名入道等は御所に入ると、畠山義就は赦免の上は旧館の万里小路館へ移ることの許可と、細川勝元が畠山政長を支援して「戮力及違乱候條、且ハ背上意、且ハ叛逆ノ根本何事カ是ニシカン」として、将軍義政より上使を勝元に遣わして「政長合力ヲ令停止、世上ノサワギヲ被静可然」ことを要求した。義政はこれは認めずに上使を勝元に遣わしたが、勝元は「曾テ承伏イタサズ、御返事ヲハ自此可言上」(『応仁記』)として使者を帰した。その後、勝元は花ノ御所へ軍勢を率いて参じ、御所方がこれと対陣した。
●文正2(1467)年正月16日細川勝元方(『応仁記』、『大乗院寺社雑事記』)
大将 | 細川右京大夫勝元 | 武田治部少輔国信 | 武田大膳大夫信賢 | 成身院法印(順宣) | |
吉良 | 吉良右兵衛佐義直 | 吉良上総介義富 | |||
細川 | 細川六郎勝之 ※細川教春子 |
細川讃岐守成之 | 細川兵部大輔勝久 | 細川右馬頭入道道賢 | 細川中務少輔政国 |
細川民部少輔教春 | 細川淡路守成春 | 細川阿波守勝信 | 細川刑部少輔勝吉 | ||
赤松 |
赤松次郎法師 (5月26日元服、號次郎政則) | 赤松貞祐 | 赤松道祖松丸 | ||
山名 | 山名弾正忠是豊 ※持豊入道舎弟 |
||||
京極 | 佐々木京極入道正観 | 佐々木京極中務少輔勝秀 | 佐々木京極四郎政信 | ||
仁木兵部少輔成長 | 仁木土橋四郎政永 | 土岐世保五郎政康 | 関豊前守盛元 | 富樫鶴童丸 |
この状況に、山名持豊入道宗全は将軍義政と今出川殿義視を守護しながら、「政長、勝元等御退治ナクバ、天下朴ナルマジ」と頻りに説得するが、義政は「御領掌ノ上意ハ更ニナシ」(『応仁記』)とし、勝元方にも「此時合力アラバ御敵ニフセラルベシ」と伊勢備中守、飯尾下総守を遣わして、これ以上の騒擾を留めようと試みている。
ところが畠山義就は「独身ニシテ勝負決セン事、累年ノ本望ナリ、手勢計ニテ明日政長宿所春日万里小路ヘ押寄、可決勝負、剛臆ノ程、御見物候ヘ」と政長を攻めることを公言し、勝元もまた御内書を「猶御受不被申」と拒絶した。これに今出川殿義視が「細川民部少輔教春ヲ被召テ勝元ヘ政長ト可有義絶」と再三に渡って勝元を説得したことで、ようやく勝元は「不可有合力」との御内書を請けた。しかし勝元は納得しておらず、「敵ハ諸家一味シテ室町殿ニ候ナレバ、如何ニ上意タリトモ密々加勢アルベシ」と政長に伝えており、形勢的に不利な万里小路邸を捨て、「上御霊ヘ打上テ藪ヲ小楯ニトリ戦バ、一端抱ヘ候ヒナン、若及難儀候トモ、京兆ノ矢倉ノ前ニテ、サリトモ無下ニ討死サセテ御覧ゼラレ候ハンヤ」(『応仁記』)として、正月18日早朝、「畠山政弘(政長)、屋形自放火、率人勢上御霊陣取之」(『大乗院寺社雑事記』文正二年正月十九日条)した。畠山政長の名分は「公方ニ義就、山名入道宗全、一色等閉籠故也」というもので、「京極入道等今出川ニ罷上陣取、政弘為合力也、細川勝元一党、悉以為政弘合力相集」った。これに「主上、上皇為御同車密幸左相府室町亭、則被下源政長追罰院宣、仍義就発向御霊社」(『公卿補任』)という。院宣が出されているということは、将軍義政からその旨が仙洞御所に伝えられていたことを意味するため、義政は義就方として動いていたことがわかる。ただし、これは山名宗全入道が御所巻をした上、一党が御所に居座って強請したためであろう。この「御霊合戦」は「終日合戦、及秉燭、件政長敗北」して政長は京都から落ちた。しかし、将軍義政は「尾張守政長事、可致扶持之旨、所々被成御内書」し、「為御使親基持向之」って「右京兆御使伊勢備中守貞藤、飯尾下総守為数、京極并赤松二郎政則于時右京兆亭群居」が「皆対面」している(『齋藤親基日記』文正二年正月十八日條)。ここから見て、当時の義政は山名宗全入道を嫌悪し、非公認ながら勝元・政長を推していたことがわかる。
こうして正月20日、畠山両家の「騒劇落居」について「大名御礼」が行われ、管領義廉、右衛門佐義就が太刀や馬を義政に献上するが、当然ながら右京兆勝元、京極入道ら政長与党は出仕することはなかった(『齋藤親基日記』文正二年正月廿日条)。翌正月21日、花ノ御所から「主上、上皇還幸御車、密儀」し、正月27日夕刻、「右京兆勝元始出仕、御対面」(『齋藤親基日記』文正二年正月廿七日条)した。この一連の兵革により改元されることとなり、3月5日、「改元応仁、菅中納言勘進之」(『齋藤親基日記』応仁元年三月六日条)した。
応仁元(1467)年4月3日には「従五位下源義堯、応仁元四三、同日左衛門佐」(『歴名土代』)と、義鏡の養嗣子・渋川義堯が敍爵及び左衛門佐に補されていることから、おそらく義鏡は寛正4~応仁元年までに上洛して実子の管領斯波治部大輔義廉のもとにあり、応仁元(1467)年4月までに卒去した、または隠居したと考えられる。義廉は応仁元(1467)年5月1日に「管領礼部義廉、任左兵衛佐」ぜられており(『親基日記』応仁元年五月一日条)、これまで左兵衛佐に就いていた斯波義敏は官職を辞していたとみられる。
5月6日、これらの騒乱を鎮めるべく、「今出川殿ハ天事ノ事、無為ニヲサマルベキ事ヲ思召テ、勝元ノ方ヘ御成有テ、又金吾ヘ御成アリ」(『応仁別記』)と、今出川殿義視は細川勝元の陣所と山名宗全入道の陣所を訪問して和睦するよう促している。これにより「何モ忝ノ由、被申、両所ノ間ナル柵ハアケテ被置」が、「イク程ナクテ、又サシツメラル」と、京中の細川方の陣と山名方の陣の間には防柵が築かれていたことがわかり、そこには扉がつけられていて、今出川殿義視が陣営を回った際にはしばらく開け放たれていたようだが、再度閉じられてしまった。
5月17日、京都は「京都事、事外物騒」となり、「山名入道、畠山右衛門佐、斯波治部大輔、土岐、一色五人同心」し、「一色在所室町殿四足前各会合」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年五月十七日条)した。一方で「畠山少弼、細川右京大夫、京極入道以下、自余之大名近習者」が同心した。さらに山名入道宗全の守護国「播磨国」に「赤松次郎法師手者乱入、打取国畢」し、「赤松方細川右京大夫合力」している。その「次郎法師、細川屋形之近所ニ召置之」と、細川勝元はその赤松次郎法師(のち赤松政則)を庇護しており、興福寺の尋尊は「可成一天大乱歟」と記す。
赤松方の播磨侵攻に山名宗全入道の対応は不明ながら、「山名弾正宗全末子、宮上野守没落之由其聞」があり、彼らは「赤松与同意故歟」という。さらに越前国では「斯波兵衛佐方打入由注進、管領斯波治部大輔迷惑」と、細川方の斯波義敏方の軍勢が越前国に攻め入り、山名方の管領斯波義廉勢が対応している。伊勢国では「一宮与与安論之」と一色氏と土岐世保氏の対峙があった。このほか、尾張国、遠江国には「義敏ノ牢人共打入」り、若狭国には「武田信賢下向シテ、一色衆ノ斎庄今富之両庄ニ有シヲ追出」たという(『応仁記』)。このように「東西南北静謐之国無之、珍事々々」という世となっており、「依之内裏、仙洞、室町殿御門固近日事外厳密也」と、内裏も仙洞御所も花御所も門の守りを固くしていた(『大乗院寺社雑事記』応仁元年五月廿一日条)。
5月25日、「天下大乱」(『齋藤親基日記』応仁元年五月廿五日条)、「自五月廿五日、大乱始」(『如是院年代記』)と、山名方と細川方の間ではじめて直接的な合戦が起こり、これ以降、洛中洛外で西軍の山名方と将軍義政や今出川大納言義視が推す東軍の細川方の間で激しい戦いが繰り広げられることとなる。
応仁元(1467)年5月下旬、山名宗全入道は山名邸(上京区山名町799)において「勢ノ多少ヲ知ント、着到ヲコソ付」けた(『応仁記』)。ただし、山名家の家格は斯波家や畠山家、細川家に比べると格下であることから、名目上の総大将は「西方惣大将畠山衛門佐」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月十三日条)となったのだろう。
●応仁元(1467)年5月西軍着到(『応仁記』)
氏名 | 守護国 | 勢 |
山名持豊入道宗全 | 但馬国、播磨国、備後国、諸国被官 | 三万余 |
山名相模守(山名相模守教之) | 伯耆国、備前国 | 五千余騎 |
山名(山名七郎豊氏) | 因幡国 | 三千余騎 |
山名修理大夫(山名兵部少輔政清か) | 美作国 | 三千余騎 |
武衛義廉(斯波義廉) | 越前国、尾張国、遠江国 | 一万余騎 |
畠山右衛門佐義就【西方惣大将】 | 大和国、河内国、熊野衆 | 七千余騎 |
畠山修理大夫義純 | 能登国 | 三千余騎 |
一色左京大夫義直 | 丹後国、伊勢国、土佐国 | 五千余騎 |
土岐左京大夫成頼 | 美濃国 | 八千余騎 |
六角四郎高頼 | 近江国 | 五千余騎 |
大内新介政弘 | 周防国、長門国、豊前国、筑前国、安芸国、石見国 | 二万騎 |
河野 | 伊予国 | 二千余騎 |
此外 | 諸国合力 | 一万余騎 |
合計十一万六千余騎 |
一方、細川勝元は「武田、讃州」(『大乗院寺社雑事記』)を花の御所(上京区裏築地町)の四足門前の一色左京大夫義直邸(上京区瓢箪図子町)に派遣して「一色屋形焼亡」(『大乗院寺社雑事記』)の上、義直を放逐すると、「兼テ内談セシ如ク、公方ヲ可致警固トテ、翌日ニ遂出仕、御旗竿ヲ申下シテ、四足ノ御門ニ御旗ヲサシ挙テ、誠ニ用心キビシク人之出入ゾ止」め、御所の警護を厳重に固めた。その後、「一門、他家人々召集、評定シテ勢賦」し、花ノ御所(上京区裏築地町)の西側、小川(上京区中小川町周辺)を前線としてそれぞれの配置を定めた(『応仁記』)。
●応仁元(1467)年5月日東軍勢賦(『応仁記』)
氏名 | 配置 | 勢 |
薬師寺与一兄弟 | 大手口北 | 摂州衆相副、大和衆ヲ加勢ニ加エ、太田垣ガ前ヘ被向 |
香川、安富 | 大手ノ南ノ実相院 |
讃州衆相副 長塩、奈良、秋庭ノ人々、武田衆モ指向テ、舟橋ヨリ上可責也 |
細川下野守 内藤備前守(丹波守護) 赤松伊豆守貞村 |
舟橋ヨリ下 | |
三宅、吹田、茨木、芥川等ノ諸侍 | 百々ノ透 | 能成寺ヲ南ヘ平賀ガ所ヲ責ラルゝ也 |
京極六郎、武衛義敏ノ衆 | 十王堂ヲ下リニ花開院、塩屋ガ宿所ヘ被向 | |
細川右馬入道 | 中筋花ノ坊ノ透 | 土佐衆ヲ付、寺ノ内ヨリ典厩ノ笠懸ノ馬場ヲ経テ、相国寺ノ延寿堂ヲ南ヘ打て出で、花坊ト集好院を焼落セ |
そして応仁元(1467)年5月25日夜、物騒な世情の中、今出川義視は「世既に破侍しかば、則室町殿ヘ参」った。その数時間後の26日未明寅の刻、細川邸(上京区木挽町)の大手軍を率いる薬師寺与一元長勢が鬨の声を揚げるとともに、「諸方一同ニ切入」った。これに山名方も「垣屋越前守、嫡子二郎左衛門、同越中守、子息孫左衛門、二男平右衛門、同駿河守、同平三、田原、持ノ瀬、山名一家ニハ摂津守、伊豆守、左馬允、金澤、大坂、宮田等一万五千人、実相院、正実坊ヘ馳向」い、小川(現在の小川通)の西畔、実相院(上京区中小川町)と東畔の正実坊(上京区中小川町)に陣取る細川勢の「香西、安富、武田」と合戦となった(『応仁記』)。そのさらに南の「太鼓堂前」は山名方の一色勢、山名邸近接の舟橋口(上京区芝薬師町)は「美作修理大夫、同因幡守護并佐々木高頼」がこれを警衛していたが、大手で合戦が始まったことから、「太田垣ガ方ヘ加勢トシテ彼一族、同田公肥後入道宗理、同美作守、同能登守、三番衆等」が馳せ向かったが、太田垣勢は大敗。細川勢より火箭を浴びて搆も焼き払われ、「芝ノ薬師」(上京区大北小路東町)まで退いたため、宗全入道は備後勢を加勢に差し向けた。また、舟橋の北東の花ノ坊(上京区射場町)には「義就の大和衆、熊野衆」を派遣し、「大宮口」には「山名入道ノ嫡子伊予守教豊ト土岐成頼ニ、二番衆ノ佐々木一族」を置いて固めた(『応仁記』)。
しかし、この日の合戦は山名方の惨敗に終わり、「南ノ水落ノ寺、花ノ坊、集好院、花開院モ忽灰爈」となった。一方、山名方の武衞義廉が大将となって「廬山寺の南、一條大宮ハ細川備中守ガ館」(上京区鏡石町)に攻め入るが、すでに館の中で応戦の準備を整えていた「細川讃岐守、同名淡路、和泉ノ両守護、爰ヲ先途ト防戦」した。ここに山名方は「山名相模守ガ同名布施左衛門佐」を加勢として遣わすが、これを聞いた細川方の「京極大膳大夫持清」が「細川備中守(備中守護勝久)」邸へ「還橋」(上京区主計町)を西に馳せ向かった。無勢の細川勝久邸では「城中モ戦疲」ていたが、この京極勢の援来を見て「讃岐守、淡路守、和泉ガ衆」は備中邸を引き払い、「雲ノ寺、細川淡路守ガ館」(上京区竪神明町)へ遁れ、「暫物ノ具脱テ、梅酸ノ渇ヲ休」んだ。
来援の京極勢は細川備中邸を攻める斯波義廉勢に襲い掛かるが、「武衞ノ内、朝倉弾正左衛門、馬ヨリ飛デ下リ、自ラ敵五六人切伏ケレバ、甲斐、織田、瓜生、鹿野等モ敵卅七人討取テ追立」てたので、「京極勢一タマリモタマラズ引退」して、一條戻橋を東へ雪崩を打って遁れ、細川讃岐守邸へ立て籠った。この退却時に多くの京極勢が河畔や橋から堀川へ転落し、「川ハ平地ト埋レケリ」という惨状となった。緒戦の太田垣勢大敗の報を受けていた山名宗全入道は「負軍ニ朦気」であったが、この武衞勢の朝倉弾正左衛門の働きに「山名入道大ニ感悦シ、着替ノ具足ト馬太刀ヲ被出」たという。
この日の合戦では「窪寺悉皆、百万反、香堂、誓願寺之奥堂、小御堂、冷泉中納言宅此外、村雲橋之北ト西トハ悉以焼亡了」(『大乗院寺社雑事記』)という。翌5月27日にも合戦は続き、山名宗全邸にほど近い舟橋の東前「旧光院、花坊」に山名勢が陣取っていたが、ここを細川勢が攻めて「責破了」り、「則彼両方焼払了」(『大乗院寺社雑事記』)と、伽藍は焼失した。以降、毎日所々で合戦となり、「北ハ船岡山、南ハ至二條辺、日夜焼亡也、実相院門跡、洞院家、皆以成陣了、家門儀、如今者不可有正体候」と、花の御所西部一帯が焼け野原となった様子がうかがえる。この中には、乱の当事者である「細川方一族和泉守護、淡路守護、備中守護、山名方一族美作守護、岩見守護、各屋形焼亡」している(『大乗院寺社雑事記』)。
6月4日、南都には「諸国近日京着、大内二千艘ニテ上洛云々、同山名方八ケ国勢共、丹波責上」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月四日條)という風聞が伝わっており、総勢二万一千余騎の増援が見込まれたため、大内勢と山名勢が合流する前に山名勢を叩く必要があった。そのため、将軍義政、今出川殿義視、若君を奉じる細川右京大夫勝元は、畠山義就及び山名宗全追討のため、同6月4日、「御幡」の制作について先例通り世尊寺行秀に書(おそらく八幡大菩薩の文字とみられる)を指示、御旗奉行としては「小笠原」が任じられた(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月六日條)。この日の一條大宮の合戦では、「細川備中守(兵部大輔勝久)」が武衞義廉勢と激しく合戦しているが、ここに赤松次郎政則が細川勝久の援軍として参戦したことから、武衞勢の甲斐、朝倉、瓜生らは「廬山寺ノ西迄」退却した。
6月6日には戦火はやや南にまで広がり、「勘解由小路西洞院、油小路四丁」(上京区近衛町)あたりまでが「焼払畢」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月七日條)という。
そして6月8日には「大将今出川大納言殿、御鎧初」が行われた(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月六日條)。「則可被責山名也」といい、細川勝元は、今出川義視を惣大将とし、室町殿の御旗を掲げて、謀叛人山名宗全入道を追討するという構図を作り上げたのだった。そして同日、「一條大宮、猪熊ノ間ニテ山名相模守ヒカヘタリケルニ、赤松次郎政則懸合テ数刻合戦」があり、山名相模守教之の一門山名常陸守や片山備前守ら名の知れた人物が赤松勢に討たれた。この戦いでは「相模守一族、若党廿八人討死」(『応仁記』)したという。彼らの首級は「頸共今出川殿御実検」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日條)している。
そして御所においても「可為大責」の態勢を整えたところ、「自敵陣就讃州申入子細在之」のため「仍且延引」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月八日條)された。果たして山名方から通じてきたのは「武衞、六角、土岐両三人」で、「引退テ、面々屋形ニ引籠」ったという(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月八日條)。ただし、翌6月9日の条では、このとき「向人ニ参申之由、以讃州申入之」たのは「土岐、六角、戸賀世三人」とあるように、斯波義廉ではなく「戸賀世(富樫家延か?)」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日條)とされている。室町殿はこの降参の申入については「御返事神妙也」とするが、「但、至近日居敵陣上者、対山名畠山、而所及涯分可合戦、依合戦之様、可有御対面」と、山名、畠山との合戦の具合によって対面を許すと条件を付けたという(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日條)。
6月11日には奉行人「飯尾左衛門大夫為数父子」が「於御所東門、被討之畢」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月十三日條)という。これは為数が「山名方引汲故」だったためで、有能な奉行人為数ですら処罰されるということに、大乗院尋尊も「近日上意厳密、可恐々々」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月十三日條)と恐怖を抱いている。そしてこれは「一向今出川殿御成敗也」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月十三日條)といい、御所方の惣大将今出川義視の指示によるものだったと伝わっているが、「飯尾下総守為数被殺害、於室町殿北御門辺有此事、自細川右京大夫沙汰也、依敵内通」(『宗賢卿記』応仁元年六月十二日条)ともあるように、細川勝元の沙汰であったとの風聞もあったよでうである。
6月8日に降伏してきた「武衞、六角、土岐両三人」については、室町殿義政は義廉については「武衞ハ雖令降参、不令入御所中、朝倉之頭取之テ可令降参之旨」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月十三日條)を命じたが、当然行い得ず、義廉は御所に不出仕のまま「仍引籠屋形畢」という。構もそのまま斯波家の軍勢が警衛していた。土岐成頼は「以讃州可降参之由、内々計略也、其上美乃守護代斎藤、公方奉公者也、可参御方旨令申、此故美乃衆不取弓矢、二條内野ニ取陣」といい、被官の守護代齋藤氏は奉公衆であることから将軍義政の命を受けていたことから、戦闘に加わらずに二條の古内裏跡に布陣したまま動かなかった。
この頃には山名方に応じる「西国大内介、大友、伊与高野大舟六百艘ハカリニテ罷上、可付境之由、取極」(『経學私要鈔』応仁元年六月九日条)ており、西国の大内介政弘を主将とする六百艘余りが堺へ向けて進んでいることが噂されている。詳細は6月25日に「定清五師」が興福寺大乗院に来訪して門跡経覚に伝えているが、それによれば大内勢は「周防、長門、筑前、筑後、安芸、豊前、石見、伊与、以上八ヶ国」(『経學私要鈔』応仁元年七月三日条)である。
応仁元(1467)年7月3日「六月廿五日注進」(『経覚私要鈔』)
大内方上洛衆 | 陸衆 | 豊田殿 (豊田大和入道カ) |
杉修理殿 | 杉七郎殿 | 其外石見衆 | |
海上衆 | 大内殿 (大内政弘) |
山名小弼殿 (大内武治?) |
スヱトノ (陶弘房) |
杉右京亮殿 | 内頭駿河殿 | |
宮内殿 | 杉九郎次郎殿 | 安富左衛門大夫殿 (安富行房) |
江口兵庫助殿 | 見尾七郎殿 | ||
其外安芸九州衆悉上洛 | 伊予河野殿 | 長門衆 | ||||
海賊衆先陣 | ノウヘ (野上) |
クラハシ (倉橋) |
クレ (呉) |
ケコヤ (警固屋) |
7月18、19日頃、室町殿に「大内勢、可着岸堺南庄由」(応仁元年七月廿日「細川持久入道書状」『和田文書』)の風聞が届いている。この報を受けた将軍義政は7月20日、「可相支旨」を和泉国守護職「常繁(細川持久入道)」に命じた。これを請けた細川持久入道は、被官の齋藤藤右衛門尉を堺へ遣すとともに、在地国人の和田備前守にも「打越彼在所、要害等事、相共申談」ずることを指示している(応仁元年七月廿日「細川持久入道書状」『和田文書』)。
7月19日には興福寺にも「大内介先陣者付播磨室」の報が届いているが、こちらは大内勢は室津(たつの市御津町室津)に逗留しているというもので、同じ頃に京都へ届いた情報よりも古いものであったようだ。ただ、その勢は「兵舟五百艘計」(『経學私要鈔』応仁元年七月三日条)という。6月当初の情報では「大内二千艘ニテ上洛」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月四日條)という風聞であり、より実数に近いもに集約されつつあったことがうかがえる。翌日7月20日に興福寺に届いた報告では「大内周防助政弘着兵庫、山名入道合力者」といい、堺ではなく兵庫津(神戸市兵庫区)に着いたとあり、実際には兵庫津であったとみられる(大内家にとって堺は不吉な地であり、避けたものか)。
7月23日には細川方が山名教之の「相模守宿所」を焼き払い(『後法興院政家記』応仁元年七月廿四日条)、翌7月24日には「大内、河野ガ勢ノ上洛ナキ中ニ、武衞ノ構ヲ責不落バ、下京ヘノ通路容易カルベカラズ」と、山名方に加勢のため上洛途上の大内・河野本隊二万余が山名勢と合流する前に斯波勢が京中要路に構える陣所を責め潰しておかなければ洛南へ至る事が難儀として、「急ギ武衞ノ構ヲ責ヨヤ」と「細川右馬頭、同下野守、武田大膳大夫、香川、安富」らが攻め寄せた(『応仁記』)。しかし「甲斐、朝倉以下名将トモ在」ったために「武衛辺有大合戦」(『後法興院政家記』応仁元年七月廿四日条)すれども攻め落とせず、7月25日の合戦では御所方では「細川衆能勢源左衛門尉頼弘、同子息弥五郎」「赤松ガ名代加賀ノ守護代間島河内守」らが討死、斯波勢は「甲斐左京亮ヲ始トシテ究竟ノ兵数輩打死」した(『応仁記』)。おそらくこの合戦によるものとみられるが「晩景、京辺有大焼」(『後法興院政家記』応仁元年七月廿五日条)という。この「武衞辺合戦」は24~26日の三日間続いて夜戦であった。
8月3日、「大内立兵庫上洛」(『大乗院寺社雑事記』応仁元年八月三日條)った。大内勢は同日「摂津国本庄山(神戸市東灘区本山町北畑)」で細川方と合戦し、8月5日には「越清水(西宮市越水)」で合戦している。この合戦は播磨赤松政則方及び摂津守護細川氏との戦いであろう。
そして8月29日、大内勢はついに「帝都」に到着(応仁元年十月十日「大内政弘感状」『萩藩閥閲録』三浦又右衛門)した。大内介政弘率いる大軍の入洛に「山名方ニハ大ニ悦ンデ、龍ノ水得タルゴトクキヲ」って「下京ノ細川方ヲ追払」った。そして、山名方は「武衞ノ構ヲ根城ニシテ、細川陣ノ東ノ面ヘ攻上テ、内裏ヲ警固シ、相国寺ヲ陣ニ取、御霊口ヲ塞デ敵ノ通路ヲ留ント支度」した(『応仁記』)。
応仁元(1467)年8月18日には、細川勝元は「敵方一味ノ族有テ、密々ニ案内ヲ通ジ、籌策ヲ廻ス」という情報を入手しため、急ぎ将軍義政に報告した。大内政弘の率いる大軍が8月3日に播磨国を出立して京都へ向かう中で、御所内にも動揺が走っていた様子がうかがえる。
将軍義政は「三條大納言公春卿、吉良右兵衛佐義信両人ヲ以被仰下」て「今度殿中ニ野心ノ族有之ヨシ、抑其人誰ゾヤ、姓名ヲ記シテ言上スベシ、上意トシテ被追出ベシ、サナクシテ頻ニ清花ノ賓客トモ不謂、上臈トモ不謂、軍兵共乗物ヲ開見狼藉仕條、不謂次第ナリ」と勝元に命じた。その後、23日まで調査が行われ、その結果、奉公衆「五番衆ノ中十二人」が摘発され、将軍義政にその姓名が進上された。
応仁元(1467)年8月23日に摘発された「野心之輩」(『応仁記』)
氏名 | |||||
一色式部少輔 | 佐々木大原判官 | 上野刑部少輔 | 宮下野守 | 結城下野守 | 伊勢備中守 |
荒尾民部少輔 | 三上三郎 | 齋藤新兵衛 | 宮若狭守 | 齋藤藤五郎 | 同朋専阿弥 |
この頃義政は山名方とも連絡を取っており、大内勢の入洛が近づく中、勝元にのみ肩入れするのではなく山名宗全の言い分も聞き、早々に擾乱を鎮める気持ちもあったのだろう。ただ、当時の記録としては、「此間、公方近習者令同心、門ヲ立隔、細川方者共ヲ追出、細川方近習与合戦之間、山名方者共属公方、御所中江入之間、細川与合戦為之云々、此間ハ細川、御所ヲ奉取籠、四足番屋ニ少所ヲ作副、即致祗候了、如此罷成之間、細川右京大夫勝元進退如何可罷成哉、不便」(『経學私要鈔』応仁元年八月廿三日条)といい、奉公衆が御所の門を閉鎖して御所内の細川家近習を御所から追い出そうとして奉公衆と細川勝元近習が争い、そこに山名方が奉公衆に加担して御所に入ったため、ここでも細川勢と山名勢が合戦となったという。そして細川勢は御所を取り囲みつつ、四足門の番屋に小屋を副えて伺候する形となり、管領勝元の進退が不明瞭となっているという。
この騒動によるものか、義政は今出川殿義視へ「御一所御参可有」、「細川勝元屋形へ御成アレ」(『応仁記』)と指示したため、義視は8月20日に今出川殿から細川邸へ向かった。噂では「禁裏、仙洞并室町殿、細川屋形ヘ入申」(『経學私要鈔』応仁元年八月廿五日条)とのことだったが、その後「室町殿、細川屋形ヘ入御事者、無其儀、不可有動座」といい、また「禁裏、室町殿ヘ入御」「仙洞之儀未聞」「式部卿親王者伏見へ入御」(『経學私要鈔』応仁元年八月廿五日条)との風聞が聞こえている。義視は主上、仙洞や将軍義政とともに細川邸へ移ることになっていたとみられるが、義視はその途次で細川方の「京極大膳大夫ガ被官多賀豊後守」に遮られている。不審に思った義視は「以一色伊予守、種村入道、御尋有」ったが、多賀高忠は「御所様ノ御事、山名ヲ御贔屓アレバ、此御所ニト被申」と言うばかりであり、やむなく義視は今出川殿へと戻ったという(『応仁記』)。
細川持之――――――細川勝元
(右京大夫) (右京大夫)
∥
京極高氏――京極高秀―+―京極高詮―+―京極高光―+―女子
(佐渡守) (佐渡守) |(治部少輔)|(治部大輔)|
| | |
| | +―京極持清
| | (大膳大夫)
| |
| +―京極高数―――多賀高忠
| (加賀守) (豊後守)
|
+―尼子高久―――尼子持久
(左衛門尉) (上野介)
8月22日、義視は一色伊予守を室町殿へ遣わして「依相支申、御延引由」を義政に弁明した。これに義政は「更ニ無等閑思食ノ間、唯其御所ニ可有御座」との返事をしている。ただ、これに義視は「トカクアシカリナン」と身の危険を感じ、翌8月23日、義政に無断で「御所ヲ御出」(『応仁記』)した。この際義視は、「いまの時節、不祇候の事、難不本意、御ためを存によつて身を隠し侍也、聊の緩怠にあらず、在所は重て申入べし」(『義視卿記』)という書状を室町殿へ届けたという。その後、「先北畠中納言教親ノ陣所中山殿ヘ御出」(『応仁記』)した。
北畠親房―+―北畠顕家
(大納言) |(権中納言)
|
+―春日顕信 +―木造顕俊――+―北畠俊通
|(准大臣) | |
| | |
| | +―北畠俊康 +―北畠持康―――北畠教親―――北畠政宗―――木造俊茂
| | (権大納言) |(権大納言) (権中納言) (左近衛中将)(左近衛中将)
| | ↓ |
+―北畠顕能―+―北畠顕泰――+=北畠俊康――+―康玄
(権大納言) (権大納言) |(権大納言) (功徳院)
|
+―北畠満雅――――北畠教具―――北畠政郷―――北畠材親―――北畠晴具
|(左近衛中将) (権大納言) (右近衛中将)(権大納言) (参議)
|
+―北畠顕雅――――女子
(非参議) ∥
∥
赤松満祐――――赤松教康
(大膳大夫)
義視と対面した二位中納言教親入道は義視を救済すべく一計を案じ、義視を同道して坂本へ向かうことにした。北畠教親卿は武者小路から一條富小路に進むと、富小路の釘貫門は山名方の「富樫鶴童丸ガ衆」が警衛しており、烏帽子直垂姿の北畠卿は「是ハ三條内府病気ニテ東山ニ御座スルヲ今出川殿ニ御尋アルベキコト有テ被参ナリ、明玉ヘ」と開門を要求した。これに富樫衆は不審に思い「鎰ナシ」として開けなかったたため、北畠卿は予て用意していた合鍵を使って門を開けると、そのまま通り抜けて京極を南下して近衛大路を東に鴨川を渡り、坂本へ参着した。なお、この坂本は比叡山西側の西坂本ではなく、近江国の東坂本であったようだ。供は六百人余りで「坂本石川次郎所」へ入御し、ここで「東都ノ依騒劇、御台所坂本ヘ御忍有テ御暇乞ノ御対面、御一献」しており、義視は坂本へ避難してきた御台所良子(北向殿富子妹)と対面している。
応仁元(1467)年8月23日の義視坂本行の御供衆(『応仁記』)
氏名 | |||||
一色伊予守 | 畠山式部少輔 | 北畠中納言 (北畠教親) |
心性院 (教親弟) |
高倉兵衛尉 | 同朋西阿弥 |
種村 | 播磨守入道 | 一色九郎 | 一色三郎 | 矢島 | 那須 |
なお、「応仁中、今出川権大納言義視、退去于坂本之時、諸士各払髻、此時宮内少輔縁数、属義視、於彼地払髻」(『遠藤家譜』)と見え、東下野守常縁の子・宮内少輔縁数が義視に属し、坂本退去の際に法体となったという。
その後、「前関白殿説」として「憑伊勢守護被落、北畠中納言教親卿御共云々、若伊勢国司所へ可有下着用歟云雑説」(『経學私要鈔』応仁元年八月廿六日条)とあるように、今出川殿義視は伊勢の国司館へ向かったことが判明しているが、その行程は8月24日の「ひんがしも漸々しらむなど、みな々々申せしかば、あけがたより湖水の舟にのりはべり」て坂本を出立(『義視卿記』)して「江州山田ノ浦ニ御着」(『応仁記』)した。その後は「中山(蒲生郡日野町中山)」、「田上(大津市中野)」を経て「黒津(大津市黒津)」へ通った。経路を見ると湖畔ではなく東の山道を経て伊勢へ向かっていることから、発見されることを恐れての行動だったと考えられる。この際「北畠殿ノ被官海津ガ兄福寿寺参上シテ、山中ノ春日ノ社ノ拝殿ニテ御一献」したという。「山中ノ春日ノ社」とは近江と伊勢を結ぶ東海道の「山中」(甲賀市土山町猪鼻)と思われるが、なぜか再び道を西にとって伊賀国に入り、伊賀国菩提寺(伊賀市荒木)に宿泊している。この際、嵐が吹き荒れたため義視は寝つけず、菩提寺の僧口證に歌を遣わした(『義視卿記』)。
その後、「うちつヾき雨はれやらで、わたりなどもなかりしかば、心ならず四五日逗留」(『義視卿記』)し、8月29日に伊賀国を出立。「伊勢国小倭(津市白山町上ノ村)」の常光寺に十日ほど逗留。9月3日、国司北畠教具の使節が常光寺を訪問し、9月6日には長谷寺を参詣中の国司教具が常光寺に参着。「頓テ御所ヲ立可申」ことを教具に指示した(『応仁記』)。9月10日、義視の一行は小倭を出立し、「同国平尾」に下着した。
8月23日夜、義政は十二名の山名方内応者に対して「此上ハ暫ク殿中ヲ罷イデ、勝元ガ欝憤ヲヤメ、諸人ノ憂ニ代ルベシ、然バ神妙ニ可被思召」との書付を見せて自重を促している。これに対して彼らは「慎デ任御下知、殿中ヲマカリ出ベキ由」を返答した。その後、彼らのもとに遣わされた三條大納言公春卿、吉良右兵衛佐義信の両名に対して、十二人は「山名方ヲ贔屓イタス事、我等共ニ不限、殿中ノ面々一同ニ君ノ山名方御贔屓故ニ奉公衆皆以敵方ノ得利事ヲ聞含咲、味方勝軍ヲ聞テハ愁候、誰々共ニ如此、然ルニトリ分テ我等計被選出、惣ノ箭代立事不運ノ至リ、不及是非候、急ギ四足ヘ馳出テ、勝元ガ前ニテ切腹テ、山名ニ組セシ志ヲ遂ン」と述べたという。彼らは義政と同じく山名方に心を寄せていた様子がうかがえ、その考えは殿中の人々も共有していたという。この言を使者の三条・吉良は義政へ言上。彼らが麾下を従えて「死狂」で花の御所に乱入すれば「御所モ安穏ニハ御坐アリマジ」と門を厳重に固めることとなる。
この頃、山名方が内裏に攻め入って天皇を取り奉ろうと謀ったため、「細川下野守兄弟」が御所に御迎に上がり、「三種神器ヲ先立テ」天皇・上皇以下は花の御所へ行幸したが、花の御所はちょうど十二人の内応者が義政の上意を受けて御所退出の最中であり、行幸の列は惣門前に停止した。十二人の奉公衆は「御殿ニ火ヲ掛テ、四足ヘ走リ出、右京大夫ト太刀打シテ死ナン」としており、三條公春卿、吉良義信は彼らの暴発を防ぐべく「旁ハ当時譜代ノ侍トテ鎌倉ヨリ大御所ノ御供衆ナリ、然レバ忝モ上意ハ全ク思召捨ラレズシテ、先一端御所中ヲ出、大夫ガ欝憤ヲ散ジ、以後ニ漸々ニ機ヲクツロゲ、可被召返御料簡ヲ我等ニ対シ竊ニ仰合サレケルヲタシカニ承候」と、管領勝元の欝憤が散じたのちまた召返す所存であることを告げるとともに、「然ルニ背上意、忽ニ殿中ヲ汚ントハ如何ナル事ニテ候ゾヤ、其身没ノミニ非ズ、先祖累代ノ忠ヲ失事口惜次第也、且ハ不忠ノ罪科ニ処せセラル、天下ニ不留此身バ如何セン」と「詞ヲ尽シテ宣」したことで、彼らも「実モヤ思ヒケン、則屈服申テ退出」した。
しかし、勝元の被官等は「此人々ヲ討取ン」として「一條、室町、烏丸」へ我先にと走り去ったという。これを聞いた十二人衆は、飯尾下総守の指示のもと「鹿苑院ノ長老ノ花ノ御所へ被通ルゝ小門有ケルヲ開、相国寺ヘ馳入」って難を遁れるが、斎藤藤五郎は「常々言通セシ女房ノ局ヘ立ヨリテ暇乞」をしたため、他の人々が御所小門から東接する相国寺へ入ったことを知らず、暇乞いののち今出川へと出て、伊勢守貞親邸の南を東へ曲がったところで、「武者小路烏丸ニ待居タル勢ニトリコメラレテ被討」れたという(『応仁記』)。ただし、「於路次多々須河原以右京大夫手被打留之廿余人落行云々、三四人闘死在之斎藤越中カ弟已下」(『宗賢卿記』応仁元年八月廿四日條)とみえ、斎藤越中守の弟・斎藤藤五郎ほか数名も討たれたようである。その後、「飯尾下総守ヲバ殿中ニテ暗打ニ細川衆打ケル事ハ、十二人ト一味シ手引シテ落タル故也ト沙汰シケル」というが、この飯尾下総守に該当する人物は不明である。
8月25日には山名方の畠山播磨守教元が、27日には細川方の細川安房守持久、30日には京極大膳大夫持清入道が自邸に火を放って周辺域を焼き払った(『宗賢卿記』)。その後も戦闘は続き、9月1日には「三宝院、転法輪三條前左府、菅大納言益長、同顕長朝臣、泰仲朝臣五辻、山科中納言持俊、大外記師有朝臣文庫炎上等炎上」(『宗賢卿記』応仁元年九月一日条)、「実相院、三宝院等焼失」、9月3日には「東北院炎上、禁裏御近辺、今日諸所炎上、今度火事或放火、或敵方沙汰也」(『宗賢卿記』応仁元年九月一日条)と、山名方による放火が相次ぎ、権大納言政家は「言語道断次第也、細川方迷惑之躰」(『後法興院政家記』応仁元年九月一日条)と感想を記す。この9月1日の御所周辺の兵火は「三宝院門跡等十六町焼了、言語道断事也云々、又実相院門跡モ焼云々、今度者京中無所残歟」(『経學私要鈔』応仁元年九月五日条)と、無残なまでに周辺一帯は焼け野原となった様子がうかがえる。
こうした状況を受けたものか、この戦闘の翌9月2日、義政は「左府御辞退、不及御表沙汰」(『宗賢卿記』応仁元年九月二日条)と、左大臣を辞した。
花の御所付近では、三宝院(法身院を指すのだろう)を守る「武田大膳大夫ガ舎弟安芸守基綱」が「内裏ノ御警固」も兼ねていたが、ここに「左衛門佐義就、能登ノ修理大夫、大内介、土岐、六角、一色」が大勢で押しよせ、「東陣ノ一ノ木戸」と目された「三宝院」を攻めた。武田基綱(武田元綱)は手勢二千人ばかりで三宝院から十数回にわたって寄手に斬り入りこれを防いだが、多勢に無勢であり、ついに三宝院は焼け落ちて逐電。京極持清勢が警衛していた近隣の浄花院も陥落した。
9月17日、御所方より情勢不利の報が「摂州、播州ヘ飛脚」で飛ばされ、細川家被官の秋庭備中守元明が赤松衆の浦上美作守則宗を語らい、三千余りで上洛。東寺から大宮(下京区上五条町)を経て五条の細川讃岐守成之と合流を目指すが、細川成之は彼らから知らせを受けておらず、怪しんで合流を拒絶。秋庭・浦上勢は山名勢に防がれて、五条から六條河原(下京区中柳町)へ移り、山間(東山区清閑寺山ノ内町)を越え、山科を迂回して南禅寺の裏手、岩倉山(左京区粟田口大日山町)に布陣して、多くの篝火を焚いた。
9月18日、山名方は岩倉山城を攻め落とすべく早朝から大内勢を中心に南禅寺から攻め登った。ところが、大内勢をはじめ、山名衆、畠山衆、武衞衆ら寄手は散々に射られて潰走。この余波で南禅寺花頂院や青蓮院門跡、元応院、このほか岡崎周辺は灰燼に帰した(『応仁記』)。その後、秋庭・浦上勢は岩倉山を降りて船岡山へ移動。ここで赤松次郎政則と合流した。
9月1日、細川方の「花坊」の陣所での合戦、9月18日「東山」、10月4日「北小路室町等」で大内勢が戦闘に加わっている。
文明3(1471)年3月、小山・結城・千葉などの武蔵・下総の古河方が箱根を越えて伊豆を攻めるべく、伊豆国三島へ向けて軍を進めた。このとき三島を攻めたのは輔胤の子・千葉介孝胤の手勢と考えられるが、政知は三島に軍を進めて成氏勢を防いだ。この頃、輔胤はこの文明3(1471)年頃には出家して築常と号したとされ、公津城(酒々井町公津の杜)に隠居したという。
三島においては、今川家の援軍が来るよりもく政知勢と成氏勢が合戦となり、政知勢は打ち破られたが、山内上杉家の家臣・矢野安芸入道の軍と合流したことで勢いを盛り返し、ついに成氏勢は退却。さらに山内上杉顕定は宇佐美藤三郎孝忠に五千餘騎を授けて道中に伏せさせていたため、退却する小山・結城・千葉新介孝胤の軍勢は散々に叩かれ潰走した。
翌4月、関東管領上杉四郎顕定は、家宰の長尾四郎左衛門尉景信(自胤岳父)を古河へ派遣した。これに成氏を支え続けた小山下野守持政が恭順。さらに小田太郎成治、佐野愛寿らも京都の命に従って長尾勢に合流して、古河方が支配する足利庄に攻め入り、4月15日には足利庄赤見城を攻略。続けて樺崎城も攻め落とし、成氏近臣の「南式部大輔父子」を討ち取っている(『豊嶋勘解由左衛門尉宛感状』:豊島宮城文書)。長尾勢は5月には古河城を攻め、奉公衆の沼田、高、三浦などを討ち取り、6月24日には古河を攻め落とした。これに成氏は唯一の頼みである千葉介孝胤を頼った。成氏を受け入れた孝胤が成氏一党をどこで遇したか遷したかは、本佐倉や千田庄内御所台(香取郡多古町御所台)などの説があるが、分明4(1472)年に古河へ移るとき「千葉より成氏公御発向」(『鎌倉大草紙』)とあることから、千葉氏はこのころまだ佐倉ではなく千葉を本拠としていた可能性もある。
千葉氏の庇護下にあった成氏は、7月21日付で「千葉介無二補佐申之際、先以御心安候」という書状を茂木式部大夫のもとへ送っており、千葉介孝胤からは手厚い保護を受けていたことがうかがえる。そして翌文明4(1472)年2月、結城氏広(下総結城城主)・那須資持(下野烏山城主)らの助力を受けて古河城を回復することに成功した。
延徳4(1492)年2月15日卒去。享年七十七(『本土寺過去帳』)。法名は千宝院殿輔台浄光阿弥陀仏。
●「千葉介代々御先祖次第」(『本土寺過去帳』)
本佐倉城は輔胤が住んでいた岩橋郷の南隣にあって印旛沼と接し、香取海の水便が非常によい土地であった。城郭は東西南北、それぞれ1.5kmの広さがある巨大な城塞で、城の中枢を囲むように天然の外郭があり、細い通路には堀を切って通行を妨害しており、非常に防御力の高い城。また、城郭内には城下町が形成され、交通の便がよいこともあって経済的にも非常に発展していったと考えられる。また、ここを中心に佐倉歌壇とも呼ばれる東国には珍しい和歌の文化が花開いていくこととなる。
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本佐倉城の中核 |
★輔胤の家臣
家老
原 円城寺 木内 鏑木 湯浅
側近
中村権太夫 大場伝十郎 村上金太夫
馬廻
林雅楽丞 土肥彦太夫 海保左京進 八木五郎左衛門尉 中川玄蕃允 真形寺大膳
侍大将
山田次郎左衛門尉 岡野怱左衛門尉 藤崎新右衛門尉 青柳源五左衛門尉 根本十郎左衛門尉 岩瀬蔵人 六崎八郎左衛門尉
旗奉行
一色左門 和田兵庫助
御使番
神崎弥三左衛門尉 高木六郎左衛門尉 土屋金左衛門尉 池田修理亮 佐藤庄左衛門尉 桜井六郎左衛門尉 多賀左兵衛尉
近習頭
大川清左衛門尉 大木伝左衛門尉
大目付
青山宮内少輔 石川兵部少輔