|千葉宗家|トップページへ|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|東氏歴代当主|下総東氏歴代当主|
海上(うなかみ)氏は千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を祖とする千葉一族である。平安時代から室町時代を通じて下総国海上庄を中心に繁栄し、東総地方の旗頭となった。
トップページ > 海上氏【3】
3.千葉介常胤流海上氏
海上八郎公胤(理慶)の嫡子。官途は筑後守。法名は芳桂(『鹿島大禰宜系図』)。鎌倉府奉公衆として足利持氏の御所に出仕した。
応永23(1416)年2月18日、「平憲胤」と「東左馬助胤家 宏照」が東庄玉子大明神(東大社)の玉体(神像)安置のための宝函と社殿の修理を行っている(『東大社文書』)。憲胤は「沙弥良悦」とともに「結縁衆惣大行事」としてこれらを取り仕切り、神職を差配した様子が伺える。一方、東胤家は「供僧一分阿闍梨源豪」とともに、僧侶や「当政所家吉」などを取り仕切り、「惣庄内郷々助成合力諸人等各々」と政治的な活動が伺える(『飯田家文書』)。
憲胤のころからで、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」で犬懸上杉氏憲入道禅秀が鎌倉公方・足利持氏の御所を攻めた際には、禅秀に味方して鎌倉米町表に陣取った千葉大介満胤らと袂を分かち、子の海上信濃守頼胤とともに公方持氏方についた(『鎌倉大草紙』)。
●上杉禅秀方についた千葉一族(『鎌倉大草紙』)
千葉大介満胤 | 千葉修理大夫兼胤 | 千葉陸奥守康胤 | 相馬(大炊助胤長?) | 大須賀(相馬左馬助憲康?) |
原(四郎胤高?) | 円城寺下野守(尚任の父か) | 臼井(?) |
応永22(1415)年4月25日、鎌倉府政所での御評定のとき、犬懸上杉家の家人で常陸国の越幡六郎が咎によって所領を没収された。このとき関東管領・上杉氏憲入道禅秀(犬懸上杉家の隠居)は「さしたる罪科にあらす」と、六郎を「不便(不憫)」として扶持を与えたことから、公方・足利持氏の怒りを買うことになる。しかし禅秀は「道の道たる事をいさめす、法外の御政道に随ひ奉りて、職にゐて何の益かあらん」と述懐し、5月2日、管領職を辞する旨を上表した。
化粧坂(鎌倉側) |
持氏はこれを受けると、「かやうの事、弥上意を奉令軽」と激怒し、禅秀の上表を容れて、5月18日、故山内上杉憲定入道大全の子・上杉安房守憲基を新たな関東管領に任じた。
このように持氏と禅秀の間には険悪な空気が流れはじめ、それにともない鎌倉中が騒動して、戦乱の臭いを嗅ぎつけた近国の兵が鎌倉に忍び集まってきたが、鎌倉府は7月20日、彼らに帰国を命じている。
ただ、9月18日、持氏は「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「一族親類等令同心、可致忠節候、且此子細可相触在国之輩候也」という不穏な文書を送っている(『皆川文書』)。持氏はすでに兵力の増強を図っていた様子がうかがえる。
『鎌倉大草紙』には、将軍義持の異母弟・権大納言義嗣と、上杉禅秀・足利持隆との繋がりが語られる。
この頃義嗣は京都で「御兄当公方ヲ可奉討ヨシ、ヒソカニ思召立事有テ、便宜ノ兵ヲ御催シテケル、其時分、佐々木六角御勘気ニテ守護職ヲメシ上ラレ閉門ニテ居タリケルヲ御頼ミアリケルニ、佐々木如何思案シケルニヤ、不応貴命、其事無程色ニアラハレ」たため、応永23(1416)年10月30日に将軍義持は義嗣を召し取り、林光院に押し込めたため、義嗣は出家して道純と号したという。
この義嗣が頼ったという六角満高(佐々木備中入道崇壽)が近江国守護職をはく奪されたのは、応永17(1410)年の一時期のみであり、復帰時期は不明ながら、応永20(1413)年12月までには守護に再任されている(応永二十年十二月廿七日「将軍家御教書」『地蔵院文書』)。それから一年半後には比叡山と対立して「守護六角流罪事、可有其沙汰由、被成御教書間、無為御帰座」(『満済准后日記』応永二十二年六月十三日条)という応永22(1415)年の事件(実際に配流された形跡はなく、比叡山衆徒の怒りを一時鎮めるためのフェイクか)があるが、これで満高入道の失脚はないため、もし義嗣が兵を挙げんと六角に諮ったとすれば、その時期は応永17(1410)年から三年以内に限定され、六角入道に協力を拒絶されて「無程」発覚して捕縛されたとすれば、この間のこととなる(『鎌倉大草紙』)。ところが、義嗣の遁世は応永23(1416)年10月30日であり、六角入道が近江守護に復帰して三年以上経過している。後年、義嗣の叛逆協力者の疑惑のある人物名にも見られず、六角入道は義嗣出家とは無関係であり、『鎌倉大草紙』の創作の可能性が高い。
義嗣の隠遁は、当初「依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退」と述べられ、義嗣の出家に「仰天」した将軍義持は、「管領、富樫大輔等為御使、可被帰宅之由雖被諷諫」するも「敢以無承引、被恨申條々述懐、凡出家本望之間、帰参不可叶之由」を述べたという(『看聞日記』応永廿三年十一月二日条)。迎えの使者については「富樫、大舘両人、率軍勢向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也」(『八幡宮愛染王法雑記』)ともある。このことから、遁世の理由はこの所領を巡る理由があったのであろう。
義嗣の意思が固いことを悟った義持は、義満鍾愛の新御所義嗣の与党の存在を警戒し、義嗣を利用する者が彼を担ぐことを防ぐべく、11月5日、高尾栂尾から「仁和寺興徳庵絶海和尚塔頭」に移し、「侍所一色被仰付守護申、若野心人有奪取事者、腹を切せ可申云々、仍帯甲冑、昼夜警固申」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と、侍所所司一色義範に、義嗣を奪取しようとする者は腹を切らせるよう指示している。
一方で、義嗣とともに出家した「山科中将教高朝臣、山科中将嗣教朝臣」や「持光入道、遁世者一人」を「両富樫ニ被預置、可被糺問」している。この事件の結果として11月9日、「教高入道、持光入道以下四人、加賀国可被配流」が決定した。この評定の過程で、管領満元がやや怪しい動きを見せている。満元は「教高入道糺問事」につき、「若白状ニ諸大名四五人も有同心申人者、可被如何候哉、御討罰可為御大事、然者、糺問中々無益歟」(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)と糾問に反対しているのである。一方で、「畠山金吾(畠山満家)」の意見は「押小路殿野心之條、勿論之間、参て御腹を切らせ可申」と強硬なものであった。これに満元は「其も楚忽之儀、不可然」と反対し「意見區々未定」という。満元が糾問に反対した理由は、11月25日に「語阿(「遁世者一人」に相当するか)」の白状した結果に見える「武衛、管領、赤松等与力之由」とあるように、御一家筆頭の斯波義教を筆頭に、管領細川満元、赤松義則といった重職が義嗣擁立の企てに加わっていたことにあろう。さらに「諸大名事、中々不及沙汰」という事の大きさに、評定自体が機能不全に陥っている様子がうかがえる。しかし、義嗣は突如逐電して出家を遂げてしまう。伏見宮貞成親王は「凡遁世事、発心之由雖被構、真実野心之企、聊露顕歟之間、厳密被沙汰」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と予想しているが、この義嗣出家の騒動は将軍義持も知らない、突然起った事件であり、義嗣が何らかの企てをしていても「露顕」した結果ではないことになる。義嗣は前述の通りの所領問題の不満に加えて、自らが担がれることから遁れるべく出家した可能性があろう。
延暦寺や興福寺の堂衆も義嗣奪取を企てたようだが、「山門南都被相語、回文等自寺門入見参」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)とあるように「回文」が園城寺から義持のもとに提出されて発覚している。この「回文」は応永25(1418)年正月13日に「配所加賀国」で誅殺された「日野弁入道持光」が「押小路亜相禅門叛反事、持光書回文」(『看聞日記』応永廿五年正月十三日条)の回文のことか。
延暦寺や興福寺が義嗣奪取を図ったことで、義持は義嗣が居住する相国寺「臨光院、如楼舎拵之」たという(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ところがここも「亜相取出」のために「偸盗忍入、軒格子切破、番衆見付之間、盗人逃了」という油断ならないことが起こっている(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。これに義持は「弥厳密被守護、向後有如此之儀者、可殺害申之由、被下知」という厳命を下している(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。
応永25(1418)年正月24日、義嗣入道は将軍持氏が派遣した富樫満成に屋敷を攻められ、命を落とすことになる。その後も増えていく義嗣擁立を図った諸大名の名前に、事実上一人一人を処断することは不可能と察し、義嗣一人を処断することで政権全体の機能不全の解消及び、まだ幼少の嫡子・義量への後継者問題の解決を図ったのかもしれない。義嗣の死去後も義持は各種法要や施餓鬼などを行うなど供養を欠かさず、その遺児たちも寺院へ預け、妻室らへの処罰も行われなかった。
なお、義嗣が上杉禅秀と繋ぎをつけたという『鎌倉大草紙』の説話については、10月13日に京都へ届けられた「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(挙兵からすでに十一日を経ており、それ以前にも通達があった可能性は大きいが記録には残っていない)という風聞(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)が、10月30日の「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥云々、凡依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退云々、就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)という義嗣出奔事件と日時的に近く、また「鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)というように、義嗣逐電と関東騒乱が重なったため、人々は前触れなき義嗣遁世の理由を関東と関連付けて理解したことがうかがえる。
この関東との繋がりの噂は、義嗣捕縛から一か月半も経過した12月16日時点でも、京都で「押小路亜相叛逆之企露顕、関東謀叛、彼亜相所為」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)という風聞が立つほど根強いものであったが、これを最後に義嗣と関東との結びつきは語られていない。
義嗣が縁も所縁もない関東に繋ぎをつけても義嗣には何ら得るものはなく、『鎌倉大草紙』においても「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」と述べられているように、義嗣の「御下知」を「公方ノ御教書」にすり替える扱いにされている。義持御教書と義嗣下知状とではまったく様式が異なるため、すり替えるのであれば人々に供覧することはない。そうであれば偽造文書となり、この記述自体に具体的な意味はなくなる。軍記物を脚色するための挿入文である可能性が高いだろう。
実際には義嗣と禅秀は何ら繋がりはなく、『鎌倉大草紙』の物語性を高める意味で同時期にあった義嗣の出家と捕縛事件を採用して創作されたものであろう。
足利尊氏――+―足利義詮―――足利義満―――+―足利義持
(征夷大将軍)|(征夷大将軍)(征夷大将軍) |(征夷大将軍)
| |
| +―足利義嗣
| |(権大納言)
| |
| +―足利義教―――――足利義政
| (征夷大将軍) (征夷大将軍)
|
+―足利基氏―――足利氏満―――+―足利満兼―――+―足利持氏
(鎌倉公方) (鎌倉公方) |(鎌倉公方) |(鎌倉公方)
| |
+―足利満隆===+―足利持仲
|(新御堂小路殿)
|
+―足利満直
|(笹川公方)
|
+―足利満貞
(稲村公方)
以下は『鎌倉大草紙』での禅秀の乱の顛末である。
鎌倉公方足利持氏と前管領上杉禅秀の不和が京都に伝わり、「動乱ノヨシ聞ケレ」た際、「義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉ヘ御下シ有テ上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル、持氏卿ノ伯父新御堂小路殿ヲモ頼ミ玉ケリ」(『鎌倉大草紙』)とあり、足利満隆が禅秀を招いて評定を行った際に、禅秀は、
「持氏公御政道悪シクシテ諸人背申事多シ、某諌メ申スト云ヘドモ、忠言逆耳御気色悪シクナリ、結句、御外戚ノ人々依申掠御不審ヲ罷蒙ルト云ヘドモ、誤ノナケレバ鰐ノ口ヲ遁候ヘキ、世ハハ唯為恩ニ仕ヘ、命ハ依義軽シト申候ヘハ、イカヤウニ不義ノ御政道積リ、果テハヤガテ謀反人アリ、世ヲクツガヘサン事チカク候カ、内々承ル子細モ候、他人ニ世ヲトラレサセ給ハン事ヲ、御当家ノ御歎キ申テモアマリアル御事ニテ候、サテ亦君ハ去ル応永十七年ノ秋、佐介入道大全カ讒言ニテアヤウキ御目ヲ御覧セシ御恨忘サセ給ハシ、今京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有不参、不日ニ思召立、鎌倉ヲ攻落シ、押テ御上洛アラハ天下ノ反復コソマノアタリニテ候」
と満隆に勧めたという。満隆もおおいに悦び、
「内々存子細アリトイヘトモ、身ニオヘテ更ニ望ナシ、甥ノ持仲猶子ニ定ツル間、是を取立給ハレ」
と、猶子の足利持仲(持氏の異母弟)を取り立てることを頼んで禅秀に同心したため、禅秀は初秋から病気と称して邸に引きこもり、謀反を計画したという。禅秀の郎党は国々から兵具を俵に入れて兵糧のように見せかけて人馬に背負わせて鎌倉に集められるなど、人々に知られることなく準備が進められた。そして、満隆の御内書に禅秀が添状を付けて廻文を作成し、「京都ヨリノ仰ニテ持氏公并憲基ヲ可被追討」を諸大名に遣わした。その廻文を見て集まり来た人々は、禅秀の娘婿である「千葉介兼胤、岩松治部大輔満純入道天用」を筆頭に、多くの諸士が加担したという(『鎌倉大草紙』)。また、陸奥国には「篠河殿(満隆兄弟の足利満直)」を通じて葦名盛久、白河結城、石河、南部、葛西、海道四郎など、こちらも多くの有力諸大名が禅秀に加担した(『鎌倉大草紙』)。
●足利持隆・上杉禅秀入道に加担した諸大名(『鎌倉大草紙』)
千葉介兼胤 岩松治部大輔満純入道天用 渋川左馬助 舞木太郎 大類氏、倉賀野氏、丹党の者、荏原氏、蓮沼氏、別府氏、玉井氏、瀬山氏、甕尻氏 武田安芸入道信満 小笠原の一族 狩野介一類 曾我、中村、土肥、土屋各氏 名越一党、佐竹上総介、小田太郎治朝、府中大掾、行方、小栗 那須越後入道資之、宇都宮左衛門佐 蘆名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西、海東四郡の者ども 木戸内匠助伯父甥、二階堂、佐々木一類 |
上杉禅秀婿 上杉禅秀婿 武蔵国児玉党 上杉禅秀舅。甲斐国より 信濃国より 伊豆国より 相模国より 常陸国より 下野国より 陸奥国より 鎌倉在国衆 |
10月2日夜、満隆と猶子持仲(持氏弟)が御所殿中から忍び出て、西御門の「宝寿院」に入り、挙兵した(『鎌倉大草紙』)。なお、京都へ実際に伝わった報告では「鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)とあるので、満隆と上杉禅秀は鎌倉外から侵入した可能性がある。
犬懸上杉家の郎党の屋部氏、岡谷氏の両人が手勢を引率して、夜に入って塔辻に下り、鎌倉の所々に堀を切り、鹿垣を結うなど防砦を築いた。
犬懸上杉邸跡 |
一方、禅秀は御所へ参上して持氏を捕らえる支度を整えていた。このとき持氏は御所でしたたかに酔って寝ていたが、近習の木戸将監満範が御座近くに馳せ参じて持隆・禅秀らの反乱を伝えた。しかし持氏は、
「さはあらじ、禅秀は以の外に違例の聞食、今朝一男中務出仕いたしけるが、存命不定の由にてこそ帰宅せし」
と言い、禅秀の反乱など思いもよらないというかのような返答であった。満範は、
「それは謀反の謀に虚病仕候、只今御所中へ敵乱入らん、分内狭く防ぐに馬の駆け引き不可叶、一間途御出あり、佐介へ御入候へ」
と、持氏を佐介の管領邸に移すべく、持氏を馬に乗せて御所を脱出させた。すでに塔辻には満隆・禅秀の手勢が篝火を炊いて警固していたため、岩戸の上の山道を通り、十二所から小坪に抜け、前浜を駆け走って佐介の上杉憲基邸に向かって遁れていった。
●足利持氏の脱出に御供した近習(『鎌倉大草紙』):■千葉一族(高瀧次郎は参考)
一色兵部大輔 | 一色左馬助 | 一色左京亮 | 一色讃岐守 | 一色掃部助 |
一色左馬助 | 龍崎尾張守 | 龍崎伊勢守 | 早川左京亮 | 早川下総守 |
梶原兄弟 | 印東治郎左衛門尉 | 田中氏(新田一族) | 木戸将監満範 | 那波掃部助 |
島崎大炊助 | 海上筑後守 | 海上信濃守 | 梶原能登守 | 江戸遠江守 |
三浦備前守 | 高山信濃守 | 今川三河守 | 今川修理亮 | 板倉式部丞 |
香川修理亮 | 畠山伊豆守 | 筑波源八 | 筑波八郎 | 薬師寺 |
常法寺 | 佐野左馬助 | 二階堂 | 小瀧 | 宍戸大炊助 |
宍戸又四郎 | 小田宮内少輔 | 高瀧次郎 |
このとき、佐助の上杉憲基は禅秀らの謀反を夢にも思わず酒宴を行っていたが、上杉修理太夫頼顕が三十騎ばかりで馳せ参じ、
上杉禅秀の乱 関係地図 |
「禅秀入道、新御堂殿并持仲公を勧め申し、御所をも取り込め奉り、只今是へも発向する所に、かやうに悠々とわたらせ給ふ」
と、その対応を諌めた。しかし憲基は、
「何程のことかあるべき、まず大将の満隆は先年雑説以のほかにて、御大事に及びしを親にて候大全が蒙恩御命を扶け給ひ、何の間に我等に向かひ左様の悪事思ひ立ち給はじ、天の責めの軽べからず、又禅秀は去る応永九年の夏、奥州伊達大膳大夫退治の時、赤舘の戦に敗北して両国の兵に見限られけり、いまさら何者が彼に随はんや」
と、その報告を信じようとはしなかった。しかし、そこに上杉蔵人大夫憲長が十四騎で武装して馳せ参じ、門をたたいて、
「敵味方は知らず、何様前浜には軍勢充満す、打ち立て給へ」
と叫んだ。これにさすがの憲基も異変を感じ、急ぎ鎧を運ばせて武装し、長尾出雲守、大石源左衛門尉、羽継修理大夫・羽継彦四郎兄弟、安保豊後守、惟助五郎、長井藤内左衛門、その外には木戸、寺尾、白倉、加治、金子、金内ら七百騎あまりを伴って出陣した。憲基は、
「御所へ馳せ参り、上様未だ恙なく御座は御供申、これへ奉り入べし、もしまた御所中を敵取り巻き申さば、西の御門より火をかけ宝寿院へ推寄せ、一戦たるべし」
と申し合わせていたが、そのとき持氏が命からがら遁れてきたので、憲基はじめ人々は安堵した。翌10月3日は悪日のため、満隆・禅秀から攻め寄せることはなかったが、翌10月4日には未明より憲基は長尾出雲守を浜面法会門をはじめとする安房国勢を差し向け、甘縄口小路には佐竹左馬助を、薬師堂南には結城弾正を、無量寺口には上杉蔵人大夫憲長を、化粧坂には三浦相模の手勢を、扇ガ谷には上杉弾正少弼氏定父子らをそれぞれ派遣した。
一方、足利満隆も宝寿院を発って馬廻一千騎を随えて若宮小路に陣を張り、千葉大介満胤は千葉介兼胤、馬加陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下野守ら八千余騎もの大軍を米町表に展開した。佐竹上総入道の手勢百五十騎は、浜の大鳥居から極楽寺口に展開した。
禅秀の手勢は、嫡子の上杉中務大輔憲顕、弟の上杉修理亮氏顕、千坂駿河守、塩谷入道、蓮沼安芸守、長尾信濃守、坂田弾正忠、小早川越前守、矢部伊予守、臼井、太田、秋元、神崎、曾我、中村氏ら二千五百騎あまりが鳥居の前から東に向いて陣を張った。ここに見える「臼井」「神崎」はおそらく千葉一族の各氏であろう。
鎌倉化粧坂 |
満隆・禅秀の手勢は十万騎(おそらく数千騎ほどだろう)にも膨れ上がり、10月6日、禅秀は岩松満純・渋川左馬助らの手勢を六本松に差し向けた。ここを守るは御所方の扇ガ谷上杉弾正少弼氏定であったが、戦いは禅秀方の勝利に終わり、氏定は重傷を負って退却、上田上野介、疋田右京進ら大将は討死を遂げた。この余勢を駆って禅秀勢は化粧坂に攻め懸けて勝鬨を上げた。
氏定が大敗を喫したため、持氏・憲基勢は化粧坂の守りのために、持氏の馬廻衆の梶原但馬守、海上筑後守(海上筑後守憲胤)、海上信濃守(海上信濃守頼胤)、椎津出羽守、園田四郎、飯田小次郎以下の三十騎あまりが化粧坂に登って防戦したが、梶原但馬守と椎津出羽守が討死、「飯田、海上、園田四郎」も負傷して無量寺まで退却した。
満隆、禅秀の手勢は鎌倉中を席巻し、御所方の江戸近江守、今川三河守、畠山伊豆守ら主だった大将が討死を遂げ、さらに佐介の上杉憲基邸にも火の手が襲い掛かり、もはや消火もままならず持氏は憲基に守られながら極楽寺口から鎌倉を脱出し、小田原、箱根を経て駿河守護職・今川上総介範政のもとに逃れた。六本松で重傷をおった上杉氏定は藤沢まで供したものの、力尽きて自害した。
一方、鎌倉市街で合戦をしていた木戸満範ら持氏の馬廻衆の将は、持氏の行方をつかむことができず、国清寺(佐助にあった寺院)に持氏が入ったとの報告を信じて国清寺に馳せ集まった。国清寺には管領・上杉憲基が入っていたが、御所方の諸将が国清寺に集まっている報告を聞いた禅秀方は持氏が国清寺にいると思い、10月10日、狩野介らが大軍で攻め寄せた。しかし、これを防ぐ御所方はわずかに百名ほどであり、衆寡敵せず憲基は夜陰にまぎれて寺を脱出し、越後国に逃れ去った。また、木戸満範ら二十一人の将は高矢倉に登って一斉に自害した。
応永23(1416)年上杉禅秀は鎌倉殿持氏を鎌倉から追放し、「鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)というように、義嗣逐電と関東騒乱が重なったため、人々はこれを関連付けて理解したことがうかがえるが、実際には関係のないものだったと推測される。
持氏が鎌倉を落ちると、満隆と持仲は鎌倉の主と宣言し、公方と称された。しかし近国にはいまだに持氏の味方として持隆の召しに応じなかった諸将があり、持隆は持仲を大将に任じ、上杉中務大輔憲顕(禅秀子)、上杉伊予守憲方(禅秀弟)とともに武蔵国に派遣した。しかし、憲顕は病のために鎌倉にとどまることとなり、憲方を大将軍として11月20日、武蔵国小机まで出陣させた。一方、持氏方の江戸氏、豊島氏、二階堂氏、宍戸氏なども入間川辺に集結して布陣した。
禅秀方の上杉憲方は持仲とともに入間川へ向かったが、23日、途中の世谷原で合戦となり、憲方は打ち負けて鎌倉へ引き返した。これに御所方の江戸氏、豊島氏らは猛追したため、25日になってようやく鎌倉に入ることができた。
また、上野国では先代公方・足利氏満が困窮していた新田一族の里見、烏山、世良田、額田、大島、大館、堀口、桃井氏を同族の誼としてわずかながら一所懸命の地を与えて庇護した。それ以来、上野新田党は鎌倉公方の恩を重んじるようになり、満隆・禅秀による持氏追い落としに対して、故新田左少将義宗(新田義貞子)の遺児で坂中(群馬県太田市強戸町)に蟄居中の新田六郎を奉じて挙兵。館林方面へ打ち出でて、その大半を切り随え、由良、横瀬、長尾但馬守らをして、12月18日、岩松満純の所領に攻め込ませた。岩松満純は鎌倉で戦っているため留守であり、留守の金井新左衛門が防戦するが討死を遂げた。しかし22日、岩松勢は大軍をもって反撃に出、横瀬、長尾但馬守は打ち散らされた。
このような中、持氏を庇護していた今川範政は、京都に鎌倉の大乱を注進し、幕府はただちに禅秀一党ならびに満隆、持仲父子の追討の御教書を発給。範政は12月25日、関東の諸大名に対して、禅秀追討の回状を発した。
こうして禅秀は、千葉介兼胤、小山、佐竹、長瀬、三浦、葦名の手勢三百騎を足柄山向こうの入江庄の北山麓に展開させたが、持氏も今川勢を先頭に入江山の西に陣取って対峙した。今川勢は夜討ちを仕掛け、禅秀勢は敗走。箱根水呑に陣を取った。一方、今川勢は伊豆国三島に陣を取り、葛山、荒川治部大輔、大森式部大輔、瀬名陸奥守を先陣として足柄山を越えて、曾我、中村の禅秀方の砦を攻め落とし、小田原に着陣した。その後の禅秀勢は各地で雪崩をうつように敗れ続け、応永24(1417)年正月9日には味方の大半が心変わりして御所方となってしまった。
鶴岡八幡宮 |
このような状況ではもはやなす術もなく、満隆、持仲、禅秀は鎌倉に戻ると、翌10日、禅秀の子息で鶴岡八幡宮寺若宮別当である宝性院快尊の雪ノ下御坊に籠もり、満隆、持仲、禅秀をはじめとして、禅秀の子・伊予守憲方、憲春、宝性院快尊らが自害して果てた。
今川勢は鎌倉に攻め入るが、禅秀勢はすでに壊走した跡であり、正月17日、持氏は鎌倉に還御し、御所のそば浄智寺に入った。そして戦功ある者には禅秀一党の収公地を与えるなどの行賞を行っている。4月28日、大蔵に御所が再建され、持氏は帰館して鎌倉公方の座に再び座ることができた。
一方、岩松満純入道は上野国岩松郷に戻って挙兵したが、鎌倉から派遣された舞木宮内丞によってたちまち鎮圧され、生け捕りのまま鎌倉に連行され、5月13日、滝口の刑場において斬首された。
兼胤も禅秀党の首領の一人として、持氏を御所に襲い、足柄山では今川勢と戦うなど、終始禅秀方の対象として活動していた。しかし、禅秀の敗北をいち早く察して早々に降伏したため、罪に問われることはなかったようである。禅秀の乱に随った背景には、彼が禅秀の婿だったことのほかに、挙兵の回状が幕府の御教書を奉じたという満隆、禅秀の謀略があったためであり、その部分も考慮されたのかもしれない。
応永33(1426)年8月22日、香取郡の大慈恩寺について鎌倉奉行人「前備中守満康(町野満康)」の奉書が認められて「海上筑後守」「国分三河守」へ送られた。応永28(1421)年1月7日に起こった大慈恩寺の「回禄(火災)」のために、大慈恩寺に伝わっていた大須賀胤氏入道信蓮以来の寄進状や寺領安堵状など一切が焼失してしまったことにつき、改めて実際に大慈恩寺がこれらの文書の通りの土地を支配しているか、年貢高や安堵状などの有無を調べて起請文に認めて提出すべきことが命じられた。
これ以降、海上筑後守の名は文書から見えなくなる。没年不明。
海上筑後守憲胤の子か。官途は信濃守。「胤栄」との説もあるが疑問。『鎌倉年中行事』によれば、「御所奉行人」八人のうちの一人に「海上信濃守」と記載があることから、彼は鎌倉府奉行人だったことがわかる。
●『鎌倉年中行事』御所奉行人数八人(『鎌倉年中行事』)
佐々木近江守 | 海上信濃守 | 梶原美作守 | 宍戸 |
二階堂信濃守 | 寺岡但馬守 | 本間遠江守 | 海老名 |
応永23(1416)年12月12日、「上杉禅秀の乱」で海上筑後守・海上信濃守は足利持氏方に味方して敗れた(『鎌倉大草紙』)。この「海上筑後守・同信濃守」はおそらく海上筑後守憲胤・海上信濃守頼胤と思われ、化粧坂に登って禅秀方と交戦。持氏の側近である梶原但馬守・椎津出羽守が討死をとげ、海上氏は負傷して無量寺に退却したという。
永享8(1436)年5月26日、「前信濃守頼胤」は鶴岡八幡宮に「下野国佐野庄内富地郷半分」を武運長久、寿命長延、子孫繁栄、そしておそらく病身だった頼胤の「除病延命」を願い寄進した(『前信濃守頼胤寄進状』)。また、「佐野荘之内」の「藤郷」を「うなかみ寄進」とあるほか(『鶴岡八幡宮神領事』:『鎌倉御所奉行・奉公人に関する考察』湯山学氏)、のちに海上氏の旧領で鎌倉公方・足利成氏が近臣・印東下野守に勲功として与えられた「下野国天命」も佐野庄内であることなどから、海上氏は佐野庄内にいくつか所領を得ていたことがうかがえる。
その後、健康を取り戻したのか、頼胤は「結城合戦」に幕府側として加わった伝があり、嘉吉元(1441)年4月12日、「海上信濃守」が「結城合戦」に参陣していることが『房総里見誌』の中に見える。ただし『房総里見誌』は軍記物を下地に作成された江戸記の書物であるため、信憑性には疑問がある。
この結城合戦は、足利持氏の遺児・足利春王丸と安王丸を擁した下総結城城主・結城中務大夫氏朝が幕府勢と戦った戦いである。永享11(1439)年2月、幕府と対立していた当時の鎌倉公方・足利持氏は、上杉氏や幕府勢に敗れて鎌倉二階堂の永安寺にて自害した。その後、持氏の二人の遺児・春王丸と安王丸の兄弟は、持氏与党だった下総結城城主・結城中務大夫氏朝を頼って結城城に逃れ、これに各地の持氏党が呼応して起こった合戦である。
約一年間、幕府勢を防ぎ続けてた結城氏朝・持朝であったが、嘉吉元(1441)年4月16日、ついに結城城は陥落し、氏朝らは討たれた。このとき頼胤らは春王丸、安王丸を「陸奥の方へ落とせばや」と画策するも、春王丸・安王丸は寄手に捕らえられて、上洛の途次、美濃国垂井で処刑された(『千葉実記』)。
この戦いで持氏一党は粛清されるが、持氏の遺児のひとり永寿王丸は信濃国へと逃れており、のちに新たな鎌倉公方として鎌倉へ下り、将軍・足利義成(のち義政)の一字を与えられて「足利成氏」と名乗っている。彼も父・持氏から受け継いだ幕府への敵愾心は強く、父・持氏の助命嘆願をしたが幕府に拒絶され、やむなく持氏追討を行った関東管領の山内上杉憲実とその一族を敵視し、享徳3(1454)年、憲実の子で関東管領を継いでいた上杉右京亮憲忠を御所で殺害した。この殺害によって関東全域に上杉氏対古河公方成氏という構図の「享徳の大乱」が勃発し、以降二十年にわたって関東一帯を騒擾の巷へと巻き込んでいくこととなる。
某年9月17日、成氏は「海上信濃入道跡」の下野国天命を近臣・印東下野守に与えている(『足利成氏書状』:「古河市史」所収)。この文書の発給時期は不明だが、かつて結城合戦において敵対した海上氏の領所は収められたのだろう。
頼胤がいつ亡くなったのかは不明だが、文安3(1446)年、円福寺に奉納された銅筒の銘に「大旦那海上殿」として「平胤栄」「胤義」「隆近」「胤春」「龍女」とあり、彼らが頼胤の子だとすると、このころには亡くなっていたのだろう。「胤義」については、応永23(1416)年4月18日に、頼胤の父・海上筑後守憲胤が東大社神殿を新築した際にともに加わった「東左馬助胤家」の婿養子「東左馬助胤義(『続群書類従』によれば原氏より入婿)」のことか。海上筑後守家と東氏(のちの鹿島社禰宜家の東氏)との関わりは、大永6(1526)年の「常燈寺棟札」にある「海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」を見ても親密であったことがうかがえる。「胤春」については不明。
海上家当主。父は海上芳桂(憲胤)。官途名は筑後守? 法名は芳翁(『続群書類従所収』)、性宗(『千学集抜粋』)。父母ともに不明だが『鹿島大禰宜系図』(『続群書類従所収』)によれば憲胤の跡を継いだ人物として「筑後守 法名芳翁、七十人力、祖父憲胤跡相続、芳桂子」とあり、海上信濃守頼胤の子で、祖父の憲胤の跡を継いだ人物とも思われるが、詳細は不明。本庄伊賀守胤定は彼の子か?(『千学集抜粋』)
文安3(1446)年、円福寺に奉納された銅筒の銘に「大旦那海上殿」として「平胤栄」「胤義」「隆近」「胤春」「龍女」とある。「胤栄」はおそらく海上胤栄と思われるが系譜上での位置づけは伝わらない。「胤春」についても不明だが、「胤義」については、応永23(1416)年4月18日に祖父・海上筑後守憲胤が東大社神殿を新築した際にともに加わっていた「東左馬助胤家」の婿養子「東左馬助胤義」のことか(『鹿島大禰宜系図』)。海上筑後守家と東氏(のちの鹿島社禰宜家の東氏)との関わりは、大永6(1526)年の「常燈寺棟札」にある「海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」を見ても親密であったことがうかがえる。
海上家当主。父母ともに不明。官途は備中守。法名は桃陰(『鹿島大禰宜系図』)。下総国飯沼城主。『鹿島大禰宜系図』(『続群書類従所収』)によれば「芳翁一男、備中守」とあり、文安3(1446)年に海上山円福寺に銅筒を奉納した「海上殿平胤栄」の子? 鎌倉西御門に屋敷があったとも伝えられており、家老として榎戸太郎左衛門、木内刑部胤宗がいたという(『大武鑑』)。西御門屋敷はすでに廃寺となってしまったが太平寺という千葉氏ゆかりの尼寺に接し、八雲神社が鎮座するという(阿部明『中島城主海上筑後守胤秀公に纏わる系譜』)。
酒井根合戦首塚 |
文明11(1479)年正月18日、武蔵国の上杉家家宰・太田道灌は、古河公方・足利成氏と結んで上杉家と戦っていた下総最大の敵対勢力・千葉介孝胤を追討するべく、孝胤と対立する武蔵石浜城主・千葉介自胤(武蔵千葉氏)と弟・太田図書助資忠を下総国に攻め込ませた。太田勢は迎え撃った千葉介孝胤の軍勢を相馬郡境根(柏市酒井根)で破り、原氏・木内氏といった千葉家臣を多数討ち取った。
千葉介孝胤は本拠地・本佐倉城(印旛郡酒々井町)の前衛である臼井城(佐倉市臼井田)まで逃れたが、千葉介自胤・太田資忠の軍勢が臼井城を包囲し、長期戦となった。しかし、この臼井城は堅城のうえに名将として知られた臼井俊胤が守っていてなかなか落とせず、道灌は弟・資忠を臼井城攻めの大将とし、自胤には上総国真理谷・長南を攻めさせ、7月5日、上総武田氏を降伏させた。その後、自胤はさらに下総国飯沼まで攻めのぼり、城主・海上師胤を降伏させたという(『千葉伝考記』『鎌倉大草紙』)。
|
しかし、この伝承は時間的に無理であることのほか、『鎌倉大草紙』の作者が参考にしたであろう『太田道灌状』の記述には、自胤が上総武田氏・海上備中守を「降伏させた」とは一言も述べられていない。かえって自胤は臼井城下に長滞陣していて、寄手の中から帰国してしまう者が出始め、自胤は彼らに陣へ戻るよう説得したものの失敗し、大将の太田資忠をはじめ、多数の戦死者を出して、自胤は武蔵へ帰国することになったと記されている。
臼井城址 |
こののち、敗退したはずの千葉介自胤のもとに「海上備中守」「武田上総介(信隆か)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服した。海上備中守がなぜ自胤に通じたかは不明。武田参河入道は子息・式部丞(信嗣?)を国元に残してみずからは自胤とともに武蔵国へと赴いた。『鎌倉大草紙』の作者はこの部分の記述を誤解して記述したものだろう。武蔵石浜へ移った武田三河守信興入道は金龍山浅草寺を再建(『後土御門天皇綸旨』)し、その後ふたたび上総長南城に戻った。
時期は不明だが、「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され弟の胤貞(正翁)が跡を継いだという(『鹿島大禰宜系図』)。師胤の没年は不明。
海上筑後守芳翁(海上殿胤栄のことか?)の次男。法名は正翁。弟に又六(引摂寺主僧・憲通律師)という男子がいた。妹(寶壽院住尼僧)は「小見河江」とあることから、小見川粟飯原氏に嫁いだと思われる(『鹿島大禰宜系図』)。
越中国の曹洞宗寺院・光厳寺の住持だった東海宗洋和尚は、「壬子春」すなわち明応元(1492)年の春に「平胤貞公高館」に数日逗留したことが『光厳東海和尚録』(『富山県史』史料編中世所収)に記載されている。
●『光厳東海和尚録』(『富山県史』史料編中世所収)
ここで「海上再敲平氏家」とあることから、東海和尚は胤貞の屋敷に何度か訪れていた様子が伺える。
また、長享2(1488)年5月には、上野国新田郡の金山城主だった横瀬信濃守国繁が六十四歳で亡くなったことに対して、哀悼の文を作っている。横瀬国繁は太田道灌とも交流を持った歌人で、飯尾宗祇や猪苗代兼載が編纂した『新撰菟玖波集』にも連歌が載せられている人物であり、東海和尚は国繁と文化的な交流をしていたのだろう。
その四年後、明応元(1492)年には下総国の海上胤貞の屋敷を訪れ、さらに「丙辰夏孟之上澣」つまり、胤貞の屋敷を訪れた四年後の明応5(1496)年4月上旬には常陸国の「源持知(茂木筑後守持知)」の館を訪ねている。また年代は不明だが、武蔵国忍城主だった故・成田顕泰(宗成居士)との交流もうかがえる。成田顕泰はのちに越中国に移り、越中神保氏の出身である東海和尚が住持を務める光厳寺の開基となった(『光厳東海和尚録』)。
海上筑後守芳翁(海上殿胤栄のことか?)の四男。官途名は前和泉守。姉に寶壽院住尼僧、兄に師胤、胤貞、憲通律師がいた(『鹿島大禰宜系図』)。
明応9(1500)年6月28日、三崎庄堀内枝岡野台村(銚子市岡野台)の堀内妙見社の再興を行った人物として「大檀那前和泉守助秀」が見える。
「父子三人米井ヲイテ打死」とあり、子の孝秀、忠秀とともに米野井で討死したと思われる。
●明応9(1500)年6月28日『堀内妙見造営棟札』(『澤井家文書』:海上町史史料篇 所収)
海上和泉守助秀の長男。通称は不明。弟に海上忠秀がいた(『鹿島大禰宜系図』)。通称は藤七郎か?(『堀内妙見造営棟札』) 彼は海上氏の家督を継ぐ前に父・助秀、弟の忠秀とともに米野井城の戦いで討死した。
海上孝秀の子。官途名は筑後守。
父の孝秀、祖父・海上和泉守助秀らが米野井城で討死したため、祖父・助秀の海上家家督を直に相続した(『鹿島大禰宜系図』)。大永3(1523)年1月14日、「筑後守持秀」が飯沼山圓福寺に寄進した(『筑後守持秀文書』)。
大永5(1525)年10月には「宮内新四郎」の元服についての文書を発給している「宗秀」という人物があるが(『猿田神社史料集』)、「宗秀(1525)」=「蔵人佑■秀(1526)」=「海上蔵人尉宗秀(1541)」か。宗秀の系譜上での位置づけは不明だが、持秀の一族か。
大永6(1526)年11月8日の『常燈寺棟札』の中に、「大檀那前筑後守持秀」「蔵人佑■秀」という名が見える。また、11月20日の常燈寺の棟札にも「大檀那海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」との名がある。
天文4(1535)年1月13日、「筑後守持秀」は圓福寺別当の弘恵僧都へ宛てて、寺領の境や諸公事などにつき「前代之掟」を守ることを指示している(『筑後守持秀文書』)。
天文10(1541)年2月1日の三崎庄海上堀内妙見の再興に際しての棟札に、大檀那として「前筑後守持秀」が見え、「奥方子息二男」と「家臣四人」が馬を奉納している(『筑後守持秀棟札』)。続いて3月21日に奉納した棟札にも「平藤七郎秀親」「次男八郎」「大檀那前筑後守持秀」「東常陸守勝察(勝繁か)」「海上蔵人尉宗秀」「海上大炊頭信秀」と見える(『筑後守持秀棟札』)。
「平藤七郎秀親」「次男八郎」は、2月1日棟札の「子息二男」に相当する人物か。系譜では持秀には「持繁」という子がいる(『鹿島大禰宜系図』)が、彼らのどちらかに当たるのかもしれない。「平藤七郎」については、この棟札の四十年ほど前の明応9(1500)年6月28日に、海上助秀が妙見社に奉納した棟札にも「平藤七」が見えるが(『堀内妙見造営棟札』)、世代的には一、二世代の開きがあると思われる。一方、弘治4(1558)年6月17日、常陸国鹿島の根本寺に寺領を寄進した「海上藤七郎治繁」という人物がいるが(『根本寺文書』)、海上藤七郎秀親との関係は不明。
東勝繁は大永6(1526)年の常燈寺の棟札にも持秀とともに名を見せる人物であるが、勝繁の父・東六郎胤重が飯田城(小見川町岡飯田)を出奔したのち、持秀の大叔父に当たる引摂寺憲通律師が東氏の系図を預かり、胤重出奔から十四年後、勝繁が成長すると東氏の系譜を彼に相続した経緯がある。海上家と東家は深い繋がりを持ち続けていた。宗秀、信秀の系譜上の位置づけは不明。
天文11(1542)年3月7日、圓福寺へ寄進した土地の細かい坪書を圓福寺へしたためている(『持秀寄進状』)。こののち持秀の名は文書から見えなくなる。
●大永3(1523)年1月14日『筑後守持秀文書』(『円福寺文書』)
●天文4(1535)年1月13日『筑後守持秀文書』(『円福寺文書』)
●天文10(1541)年2月1日『前筑後守持秀棟札』(『澤井家文書』:『猿田神社史料集』)
●天文10(1541)年3月21日『前筑後守持秀棟札』(『下総旧事考』:『猿田神社史料集』)
●天文11(1542)年3月7日『持秀寄進状』(『円福寺文書』)
海上筑後守持秀の子。官途名は筑後守。内室は妙孝禅尼。中島城主。
天正12(1584)年3月5日に亡くなったとされる(『向後家位牌銘』)。
一方、弘治4(1558)年6月17日、「海上藤七郎治繁」が常陸国の根本寺に対して土地を寄進しているが、この治繁がいかなる人物かは不明。
海上筑後守胤秀の長男。通称は重朗。官途名は筑後守。
元亀3(1572)年、正恒は三方ガ原の戦いに武田方として参戦した。しかし、天正元(1573)年3月、武田勝頼が天目山の戦いに自刃して果てると下総国に帰国したという(『小長谷家文書』)。
永禄中と思われる5月17日、「海上中務少輔」「石毛大和守」の両名へ宛てて、長尾景虎が上田庄塩沢に出陣したものの、越後国に不穏の動きのために引き返して行ったことを伝えてる書状が発給されている(『原文書』)。さらに永禄8(1565)年5月1日の同文書にも「海上中務少輔」の名をうかがうことができる。この「中務少輔」が正恒のことなのか、「蔵人胤保」のことなのかは不明。
天正6(1578)年7月14日に亡くなった。法名は浄照院常光。
海上筑後守胤秀の子(養嗣子か?)。幼名は千葉能化丸か。通称は蔵人、山城守。中島海上氏最後の当主。
千葉介胤富は、かつて「海上九郎」を称して海上氏を継ぎ、森山城主として東総の守りについていた。しかし、弘治3(1557)年8月7日、にわかに弟の千葉新介親胤が暗殺されたことから、急遽、千葉家の家督を継ぐこととなった。おそらくこのとき、海上氏の家督として を望む旨を古河公方・足利義氏に伝えており、某年8月22日、胤富からの願いに対して足利義氏から「千葉能化丸殿」へ宛てた書状が遣わされた(『足利義氏書状』)。足利義氏が古河公方であった期間は弘治元(1555)年~天正10(1582)年であり、この間の発給文書となるが、おそらく胤富が千葉宗家を継いだことにより、海上氏の家督を定める必要があったと思われる。
天正7(1579)年正月9日、千葉介邦胤より「山城守」の受領名を与えられた(『千葉介邦胤官途状』)。
年月未詳4日、大須賀孫次郎(と思われる)が千葉介邦胤に勘気を蒙っていたことに対して、「大右馬助殿(大須賀右馬助殿)」へ宛てて、「屋形様が孫次郎に腹を立てておられたのは、やむをえないと思われ、そのことに付き、原若狭守・海保丹波守へも断ってあるので、こうなってしまったからには、互いによく御談合され、屋形様の御意に背かぬよう、ひとえにお願い申し上げる」という文書を発給している(『海上胤保書状』)。ここに見える「孫次郎」は、天正15(1587)年12月28日に北条氏政より大須賀尾張守へ発給した文書に見える「御息孫二郎殿」と同一人物か?
天正15(1587)年12月12日『北条氏政書状写』や天正15(1587)年12月28日『北条氏政書状』によれば、森山衆は豊臣勢から攻撃に備えて、氏政の命を受けて小田原への参陣を命じられ、その際に森山表の兵力が損なわれるため、老練の原若狭守親幹に命じて海上山城守とよく相談して守備するように命じている。
天正17(1589)年(己丑)8月24日、北条氏政から原若狭守親幹に宛てた『北条氏政書状』によると、木が必要な際は小田原まで許可を取るよう命じ、さらに徴収した年貢米についても、使用の際には小田原へ許可を取り、印判の書状を用いるよう命じている。
天正18(1590)年の小田原合戦では小田原城に森山衆を率いて入城した「海上山城守」が見えることから(『大須賀家系図』)、海上山城守は小田原の役で活躍したのかもしれない。しかし、本拠地であった森山城は徳川勢によって落城。その後の山城守の動向は不明。一説によれば胤保は天正16(1588)年3月5日に亡くなったともいわれている(『飯田家蔵過去帳』)。
海上家の居城であった中島城は昭和51年ごろから土砂採掘によって破壊が始まり、平成2年には大手門跡の土塁や枡形虎口の跡も破壊されてしまっている。
●某年9月23日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
◆◇◆◇書き下し文◇◆◇◆
舟曳かせ申べき衆●某年9月23日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
●某年10月2日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
●天正3年(?)7月17日『千葉介胤富判物』(『原文書』:『千葉県史料』)
●天正7(1579)年正月9日『千葉介邦胤官途状』(都立中央図書館蔵『下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集』)
●天正15(1587)年12月12日『北条氏政書状写』(『下総旧事八』)
●天正15(1587)年12月28日『北条氏政書状』(『原文書』千葉市立郷土博物館所蔵)
●天正17(1589)年8月24日『北条氏政書状』(『原文書』千葉市立郷土博物館所蔵)
海上筑後守胤秀の養子。父は千葉介邦胤。母は北条氏政娘。通称は加曾利権介。
千葉の東隣、加曾利郷に育ち、加曾利権介と称したという。その後、石毛加賀守助朝の二男・石毛東兵衛常行を連れて海上郡三崎庄吉野里(旭市倉橋)へ移り、石毛常行は胤衡によく忠節を尽くしたという。
胤衡の嫡子(実は養子)の石毛工馬胤人は元和5(1619)年正月に亡くなってしまったため、二男の神左衛門胤兼が継いだ。三男・左金吾信胤はのちに出家して吉野山宝寿院の中興開山となり覚性阿闍梨となった。覚性阿闍梨は延宝3(1675)年に亡くなった。
胤衡の子孫は倉橋村(旭市倉橋)に住み、倉橋千葉家として現在に至っている。
◆弘治年以来の海上氏関係◆
年代 | 名前 | 内容 | 書状 |
天文15(1546)年1月24日 | 千葉介昌胤 | 千葉介昌胤死去。千葉介利胤・千葉介胤富・海上胤盛らの父。 | 『本土寺過去帳』 |
弘治3(1557)年8月7日 | 千葉介親胤 | 千葉介親胤死去。海上胤富(山城守)が千葉介を継承したか。 | 『本土寺過去帳』 |
永禄3(1560)年4月6日 | 海上筑後守胤秀 | 海上筑後守胤秀死去。 | 『石毛家蔵過去帳』 |
永禄8(1565)年初夏1日 | 海上中務少輔 | 『原文書』 | |
永禄年中12月23日 | 海上蔵人丞 | 海上藤太郎、海上宮内大輔の名が見える。 | 『原文書』 |
永禄年中9月23日 | 海上蔵人 | 船の徴発を命じる。船については厳しい審査がなされた。 | |
天正7(1579)年正月9日 | 海上山城守 | 千葉介邦胤が海上某に山城守の官途状を与える。 | 『千葉介邦胤官途状』 |
年月不詳4日 | 胤保 | 大須賀右馬助へ宛てて、主君の怒りを買っている「孫次郎(粟飯原か?)」の取成しを依頼する。 | 『大須賀文書』 |
? | 千葉能代丸 | 千葉能代丸が胤富によって海上氏の家督となった。 | 『興野文書』 |
天正13(1585)年8月27日 | 海上孫四郎 | 北条氏政が、「海上孫四郎」が「若輩」のため苦労しているとして原親幹に補佐を指示。 | 『原文書』 |
天正13(1585)年12月28日 | 海上山城守 | 原親幹に、来年正月10日までに森山城へ移って海上山城と協力することを命じる。 | 『原文書』 |
天正15年(1587)12月12日 | 海上山城守 | 森山番衆に対し、厳重に守備をするよう命じる。 | 『下総旧事』 |
天正16(1588)年3月5日 | ――――― | 『海上家所蔵位牌』 | |
〃 | 海上蔵人胤保 | 海上胤保死去 | 『石毛家蔵過去帳』 |
天正17(1589)年8月14日 | 海上孫四郎 | 海上孫四郎死去。 | 『銚子市浄国寺碑銘』 |
〃 | 海上孫四郎 | 海上孫四郎死去。 | 『海上家所蔵位牌』 |
天正17(1589)年8月24日 | 海上山城守 | 今後は木、穀留を用いる際は小田原へ許可を取る事を命じる。 | 『原文書』 |
文禄5(1596)年6月 | 海上弥四郎 | 海上弥四郎死去。 | 『石毛家蔵過去帳』 |
→千葉介常胤-東胤頼―重胤――+―海上胤方―+―阿玉胤景―+―海上教胤
(六郎)(兵衛尉)|(次郎) |(左衛門尉)|(太郎左衛門尉)
| | |
+―海上胤久 | +―海上左衛門尉次郎 +―娘
|(七郎) | | |(佐竹義篤妻)
| | | |
| | +―海上胤泰――――――+―師胤―――公胤――憲胤―――頼胤
| | (六郎左衛門尉) (筑後守)(六郎)(筑後守)(信濃守)
| |
| +―兼胤――――胤見―――治胤――胤豊
| (五郎九郎)(孫六郎)(六郎)(兵庫介)
|
+―海上胤有――長胤
(五郎) (四郎)
―旗本海上氏略系図―
→海上胤保==良胤============胤房――――――胤貞――――通胤
(弥三兵衛)(弥兵衛・長谷川安茂の次男)(富永胤親の子)(弥左衛門)(久米之助)
●海上氏の家臣● |
・飯沼海上氏…木内・榎戸・海上・飯沼・森戸・笹本・石出・今泉・本庄・辺田・高上・松本・船木・馬場 |