千葉一族 【お】の1

千葉一族一覧

【お】の1

0千葉氏の一族1 千葉氏・千葉六党 0千葉氏の一族10 【き】~【け】 0千葉氏の一族19 【ひ】【ふ】
0千葉氏の一族2 【あ】 0千葉氏の一族11 【こ】 0千葉氏の一族20 【へ】【ほ】
0千葉氏の一族3 【い】 Ⅰ 0千葉氏の一族12 【さ】【し】 0千葉氏の一族21 【ま】【み】
0千葉氏の一族4 【い】 Ⅱ 0千葉氏の一族13 【し】~【そ】 0千葉氏の一族22 【む】~【も】
0千葉氏の一族5 【い】 Ⅲ 0千葉氏の一族14 【た】 0千葉氏の一族23 【や】~【わ】
0千葉氏の一族6 【う】【え】 0千葉氏の一族15 【ち】~【と】 0千葉氏の掲示板 BBSです~~
0千葉氏の一族7 【お】 Ⅰ 0千葉氏の一族16 【な】 0千葉氏のトップへ トップページ~
0千葉氏の一族8 【お】 Ⅱ 0千葉氏の一族17 【に】~【の】 0千葉リンク~ リンクページ~
0千葉氏の一族9 【か】 0千葉氏の一族18 【は】 0千葉氏顕彰会 顕彰会のご紹介

 

トップページ千葉一族 > 千葉一族【お】の1


【お】

大井

 相馬一族。岡田氏の庶流で、陸奥国行方郡小高郷大井村(南相馬市小高区大井)を領して大井を称した。

 嘉吉年間に大井胤縁(常陸)がみえ、文正年中(1466~1467)、相馬隆胤の代には一族郎従として大井胤信(上総介)の名がみえる(『相馬家譜』)。胤信は胤縁の嫡男で、応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峯寺無量光院(前年に相馬家の宿坊となる)に「大井前上総守胤信殿」として、一貫文を寄進している。同時に「同御台」が三百文を寄進、「右馬助殿」(胤重)が三百文、その「同内方」が百文、「同二郎」が三百文を寄進した(『奥相秘鑑』)

 相馬顕胤の館持の重臣のなかに、大井胤重(太郎左衛門)の名が見える。文禄年中の分限帳には中郷に107貫文を知行した。しかし、胤重の子・太郎左衛門は故あって浪人となった。相馬義胤は名門大井家の名跡が絶えることを惜しんで太郎左衛門の子を探し出させて小姓とし、胤元(一学)と名乗らせて200石を与えて大井家を継がせた。しかし胤元は慶安年中江戸から中村に下る途中、四倉において病死してしまった。その弟、庄兵衛・弥惣次が知行を分割して後を継ぎ、子孫は小身となる。

―大井氏略系図―

→大井胤縁―胤信―+―胤重―――胤元――――胤重―――太郎左衛門―+―胤元――――春生
(常陸) (上総)|(右馬助)(民部大輔)(太郎左衛門)     |(一学)
         |                       |
         +―二郎                    +―庄兵衛―+―重勝―――新助
                                 |     |(半次) (治右衛門)
                                 |     |
                                 +―弥惣次 +―山中美久

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
大井彦十郎 小身 20石 新下向町
大井兵馬 小身 10石 原釜通
大井太郎左衛門 小身 10石 砂子田北町
大井玄寿 小身 扶持方 砂子田北町

◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
大井巳之介 給人 14石 行方郡中郷太田村
大井五郎左衛門 給人 10石 行方郡中郷谷川原村
大井兵右衛門 給人 14石 行方郡小高郷鳩原村
大井辰之助 給人 8石 北標葉郡権現堂村

大内

 相馬一族。相馬泉氏の傍流とされ、行方郡大内村南相馬市鹿島区大内に住んで大内を称した。初代の大内胤玄(三郎)は大内南館を構えて、彼の子孫は代々この地にあった。

 胤玄の子・大内胤正(丹波守)は武勇の将で、その子・大内胤信(越前守)は相馬顕胤盛胤に仕えて戦功があった。その子・大内信顕(治兵衛)は義胤に仕えて戦功を挙げたが、元和3(1617)年、訴訟に加わり浪人した。その子・大内次八も父とともに流浪し、末永藤右衛門と称した。のち、武蔵国で亡くなった(『衆臣家譜』)

 大内家の家督は胤正の弟・大内胤通(山城守)が継ぎ、その子・大内胤房(上野)は天正4(1576)年に討死を遂げるが、その子・大内胤長(下野守)は宗家の大内胤信(越前守)から「二ツ緋丸旗」を受け継いだ。これは、胤信が永禄8(1565)年に伊達家に属する小斎城を攻め取った際、坂元城代・後藤三河の旗印だった「紅旗」を分捕ったことに所縁の旗で、その後も大内家の旗紋として代々継承されていった。胤長は天正17(1589)年7月18日、坂元の役で伊達家の一門・亘理勢と戦って奮戦し、壮絶な討死を遂げた。

 胤長の嫡子・大内長隆(蔵人)は南鳩原村一貫九百五文を与えられ、弟の大内長清(讃岐)、大内長武(宗右衛門)は別家を立てる。

 幕末の当主・大内長孟(孫右衛門)は御一家・泉内蔵助胤富の舎弟で、天保10(1839)年8月、養父・大内長清(勘左衛門)の隠居にともなって家督を相続した。

 大内胤通(山城守)の次男・大内監物は、藩公一門で大内家の本宗家でもある泉家に仕えていたが、その子・大内長房(孫右衛門)は泉胤衡の代に泉家を辞して浪人。子孫は中村藩直参となり、幕末まで少禄ながら続いた。

―大内氏略系図―

→相馬義胤―泉胤基―【四代】―胤家――信胤――胤元―+―大内胤玄――――胤正―――胤信――――信顕
(五郎) (六郎)         (山城守)   |(三郎)    (丹波守)(越前守) (治兵衛)
                          |
                          +―大内胤通――+―胤房―――胤長――+―長隆――長成
                           (山城守)  |(上野介)(下野守)|(蔵人)(権之丞)
                                  |          |
                                  |          +―長清
                                  |          |(讃岐)
                                  |          |
                                  |          +―長武
                                  |           (宗右衛門)
                                  |
                                  +―監物―――+―長房
                                  |      |(孫右衛門)
                                  |      |
                                  +―貞房   +―監物
                                   (長左衛門)

◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
大内孫右衛門 小身 15石 新馬場
大内専助 小身 10石 柏葉町
大内了助 小身 10石 柏葉町

◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
大内辰右衛門 給人 23石 宇多郡宇多郷中村
大内文六 給人 14石 宇多郡宇多郷塚部村
大内平左衛門 給人 6石 行方郡中郷中太田村
大内覚右衛門 給人 11石 行方郡中郷牛来村
大内専右衛門 給人 5石 行方郡中郷高村
大内覚右衛門 給人 10石 行方郡中郷鶴谷村
大内市兵衛 給人 4石 行方郡中郷矢川原村
大内善兵衛 給人 9石 行方郡小高郷小高村

大浦

 椎名一族。長岡行胤(五郎)の弟・胤基(弥四郎)が匝瑳郡大浦村(匝瑳市大浦)を領して大浦を称し、胤基の甥・長岡胤直(六郎)の孫・又太郎が大浦を継承したか。

―大浦氏略系図―

→千葉介常重-椎名胤光-時胤―+―長岡行胤――胤直――六郎太郎――大浦又太郎
      (五郎) (四郎)|(五郎)  (六郎)
               |
               +―大浦胤基
               |(弥四郎)
               |
               +―井戸野胤家
                (四郎)

大木

 相馬一族。下総国相馬郡大木村(守谷市大木)を名字地とする。

 室町時代の末期には相馬治胤(左近太夫)の一族として大木城の大木胤清(駿河守)の名を見ることができる。治胤は一族を重要拠点に派遣して守らせており、守谷城のすぐ北の要害・筒戸城には筒戸胤房(小三郎)・筒戸胤文(小四郎)を、南の高井城には弟の高井胤永(小次郎)を、北方の菅生城には菅生胤貞(越前守)を、ほかに岩堀弘助(主馬首)といった人物たちを派遣していたと思われる(『相馬当家系図』)

大倉

 国分一族。香取郡大倉(香取市大倉字代田)に住んだ大倉定胤(治部・二条大夫)がいる。定胤は国分寿歓の子だが、寿歓は別称を三河入道といい、国分胤詮の事という。のち、大倉砦は名将・栗林義長によって攻め落とされた。

―大倉氏略系図―

→国分寿歓―――――大倉定胤――胤親―――胤利
(三河入道胤詮?)(治部)  (弾正忠)(孫次郎)

大椎

 上総一族。「おおじ」と読む。上総介常晴の五男・維常が上総国大椎(千葉市緑区大椎町)に住んで大椎を称した。

 なお、千葉介常重がこの地に移り住んで「大椎介」を称し、のちに千葉庄に移ったとの伝承があるが、この「大椎介」は「大権介」の誤記である可能性が高く、敬称として子孫が系譜に記載した「大」と官途「下総権介」が合わされたものであろう。同じく常重の子・千葉介常胤は「大千葉介」との記載が為されている。

 現在残る大椎城は室町期の城址であり、古代・中世まで溯る遺構は発見されていない。

大須賀《大須賀氏のページ》

 大須賀一族。千葉介常胤の四男・多部田胤信(四郎)がのちに下総国香取郡大須賀保(香取市・成田市東北部)の保司となり、大須賀を称した。胤信はおそらく助崎(成田市助崎)に館を構え、周辺に庶子を配して一族は繁栄した。のち、惣領家は松子城(香取市松子)へ移っていったという。また、胤信が預所となった陸奥国好島庄(福島県いわき市)に移り住んだ一族がおり、この子孫は大須賀保の大須賀氏との関係を保ちつつ、当地の豪族・岩城氏の揮下に取り込まれていった。

 また、三河国に繁栄した大須賀氏は、甲斐国井上庄から移住してきたとも、下野国君島村から移ってきたともいわれているが、この一族からは徳川家康の忠臣として知られる大須賀康高(五郎左衛門尉)が著名。

太田

 椎名一族。椎名胤光の子孫・胤貞(又五郎)が「太田」または「米倉」を称したとされる。しかしその子は「荒野」「井戸野」を称しており、太田の名跡は絶えたか。井戸野は椿海の河口付近の半島にあり、荒野は香取海の河口付近にあって、廻船商人がめぐっていたと考えられる。

-太田氏略系図-

→千葉介常重-椎名胤光-椎名時胤-長岡行胤-太田胤貞―+―荒野泰胤
      (五郎) (四郎) (五郎) (又五郎) |(孫五郎)
                           |
                           +―井戸野景胤
                            (孫六郎)

大滝

 千葉一族。戦国末期に千葉宗家の居城・佐倉城の城代となった家柄・成東千葉氏の一族。

 千葉介勝胤の八男・成東胤定(八郎)の子・勝定(将胤)が小田原で戦死したのち、その子・房胤が徳川家の旗本として仕官するために活動してきたが、幕臣・青山忠俊たちの斡旋もむなしく、房胤の急病のために認められなかった。これに絶望した房胤は承応2(1653)年5月23日に自刃してしまう。

 成東氏は房胤の子・胤秀(孫七郎)が継ぎ、その子・胤友(代兵衛)が大多喜(?)に住んで大滝を称した。

-大滝氏略系図-

→千葉介勝胤-成東胤定――勝定―――――房胤―――胤秀―――大滝胤友
      (兵部少輔)(兵庫=将胤)(権七郎)(孫七郎)(代兵衛)

大竹

 大須賀一族。大須賀時通(四郎)の子孫・知勝が大戸庄飯島郷(香取市飯島)に住んで飯島を称した。『大須賀系図』では時通の4代の孫となっているが、実際のところは不明。飯島知勝は大須賀家の家臣となり、助崎城に在番した。

―大竹氏略系図―

→大須賀胤信-時通――――――通政――――――胤勝――――――胤知―――飯島知勝――知頼―――知信――知行―――知資――+
(四郎)  (四郎左衛門尉)(四郎左衛門尉)(四郎左衛門尉)(弥四郎)(左近将監)(源太夫)(蔵人)(和泉守)(和泉守)|
                                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―知春―――――知茂―――――政知―――知貞―――知員――知吉―――知定―――――知房――――知時―――知久―――――+
 (次郎左衛門)(源六左衛門)(源五郎)(甲斐守)(式部)(安芸守)(太郎左衛門)(三郎太夫)(丹後守)(左衛門尉)  |
                                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―知明―――知直―――知且―――知義――――知経――知正―――娘
 (出雲守)(内匠介)(隼人正)(新左衛門)(帯刀)(帯刀)  ∥
                                ∥
                               大竹胤光(市右衛門知定)
                              (源次郎)

大谷

 千葉一族。文明3(1471)年、宍倉胤治(但馬守)が上総国山辺郡埴谷郷に城を構えて住み、その子・胤之が山辺郡木原郷に城を移して土着。天正18(1592)年、宍倉胤宣が小田原落城後に旧領地に名主として入り、元和年間(1615-24)に山辺郡木原郷字古宿に二町余の田地を分与して分家した。

大塚

 千葉一族。千葉介常胤の末裔と伝わる。千葉県松戸市小金の本土寺に伝わる『本土寺過去帳』には、天正20(1592)年壬辰6月に大塚藤右衛門の名が見える。

大戸《国分氏のページ》

 国分一族。千葉介常胤の五男、国分胤通の四男・親胤が八幡庄大戸邑六ヶ村を領して大戸を称した。

―大戸氏略系図―

→千葉介常胤―国分胤通―大戸親胤―時通
      (五郎) (四郎) (国分寺本主)

大戸川《国分氏のページ》

 国分一族。千葉介常胤の五男、国分胤通の六男・常義(大戸矢作六郎)の子・胤義が大戸川を称した。

大貫

 千葉一族。千葉介常胤の庶流・三輪胤時の後裔が下総国香取郡大貫邑に住んで大貫を称した。陸奥国にも葛西氏家臣の大貫氏が見える。また、旗本にもこの氏がいた。家紋は「三つ巴」・「輪違」・「三輪違」・「三輪」

-旗本大貫氏-

→大貫勝喜―+―勝利――――勝孚===勝方
(次右衛門)|(喜左衛門)(興太郎)(重八郎)
      |
      +―光政――――光豊―――+―光朋
       (次右衛門)(次右衛門)|(貞吉)
                   |
                   +―勝方
                    (重八郎)

大原

 千葉一族。下総国香取郡千田郷大原村(香取郡多古町喜多大原)を発祥とする原氏の庶流。

-大原氏略系図-

→平常長―――原常宗――常継――清常―――+―大原常光――+―重綱―――――+―政常――――+―常明―――永常
(下総権介)(四郎) (十郎)(五郎大夫)|(三郎兵衛尉)|(三郎左衛門尉)|(三郎兵衛尉)|(彦三郎)(三郎)
                     |       |        |       |
                     +―佐野胤清  +―妙義     |       +―常賢――――――常貞
                     |(次郎)            |        (三郎左衛門尉)(三郎兵衛)
                     |                |
                     +―大原常近           +―頼重――――+―三郎
                      (五郎)             (与一)   |
                                              |
                                              +―四郎
                                              |
                                              |
                                              +―六郎

大平

 武石一族。発祥地は亘理郡大平村(亘理郡山元町大平)。子孫は江戸時代、伊達安芸家の重臣となる。

―大平氏略系図―

→千葉介常胤―武石盛胤…長谷胤安―坂本胤之―十文字胤則―牛袋胤祐―大平胤貞
           (次郎) (四郎) (五郎)  (長門守)(八郎)

大甕

 相馬一族。「おおみか」と読む。岡田氏のおもな庶流の共通の祖で、発祥地は宇多郡中郷大甕邑。現在、大甕には田中山慈眼院観音寺があり、岡田氏の香華院として観音像を奉納している。大甕氏は相馬岡田氏の庶流だが、奥州相馬氏の祖・相馬重胤が奥州へ下った際に土着の豪族(か?)として、「大甕播磨」の名を見ることができる。重胤下向時に従った人物の信憑性は不明だが、大甕という豪族は比較的おおきな力を有していたのかもしれない。

 相馬流大甕氏は、岡田胤之(宮内太輔)の次男・胤次(次郎)が宇多郡中郷大甕村に住んで大甕を称する。この「岡田宮内太輔胤之」が誰なのかは不明だが、「宮内」という官職名から岡田惣領家の人物か。時代的には「岡田左京亮胤行」の世代ごろであるため、「胤之」=「胤行」か?

 岡田胤次(次郎)の子・胤忠(佐渡)は応仁2(1468)年3月21日、紀州高野山無量光院へ1貫500文を寄進している。相馬氏は応仁元(1467)年、当主・相馬隆胤(讃岐守)が紀州高野山無量光院を高野山詣でをした際などの相馬氏の宿坊と定め、先祖の追善供養もこの寺で行うよう定めた。これから相馬氏は無量光院に対して寄進を行うようになるが、大甕胤忠もこれに従った。元亀3(1572)年9月14日、「中村平八郎」「中村平三郎」「熊清七郎」「大甕又市郎」が高野山無量光院を訪れたことが記されている。

 胤忠の子・胤盛(丹波守)は戦死を遂げ、子・胤通(丹波守)も天文年中に討死を遂げた。その孫・胤勝(左馬允)は天正年中の戦いで討死しているが、その子・胤末(藤八郎)も父に先立って天正中に戦死しており、胤勝の養子・胤清(豊後守)が名跡を継承した。大甕氏の館は大甕村内にあって「明神館」と称され、高さ7丈、東西24間、南北42間の長方形で、周囲は田を天然の堀としていた。

 大甕胤清ははじめ「新里猪之丞」を称した武功の士で、中郷信田沢村に5貫750文を領していた(文禄清丈冊)。その子・長泰(半左衛門)が慶長の所替えによって中村桜馬場に屋敷を与えられて145石の知行となり、嫡流子孫は「岡田儀左衛門」を称して幕末に至る。

 大甕胤忠の次男・胤長(玄蕃)も大甕村に館を持ち、その子・右近は村内梨木下に高さ8丈、東西32間、南北22間の館を構えた。その子・右京は17貫200文を知行したが後継ぎがないまま没し、弟・与五右衛門が名跡を次いだ。しかし、天正16(1588)年閏5月16日、主君・相馬義胤(長門守)が三春城を訪れた際、反相馬氏である三春田村一族の田村頼顕(月斎)・橋本顕徳(刑部少輔)らによって狙撃され、義胤のそばにいた与五右衛門ら重臣が討死をした。その八世の子孫・長左衛門は明和3(1766)年12月に故あって断絶した。

 与五左衛門の弟・弥左衛門は采地として100石を知行し、その子・弥左衛門はさらに50石を加増され150石を知行して幕末の当主・岡田惣兵衛に至る。明治元(1868)年7月29日、官軍との戦いに小隊長・大甕信義(弥左衛門)が活躍し、首級をひとつとった。

 岡田胤盛(丹波守)の次男・胤方(美作守)は中郷信田沢村内城山に館を構え、その子・胤房(七郎兵衛)は4貫文を領す(文禄清丈冊)。胤房の館の近くに大甕胤清が住んでいた。子孫は故あって相馬家を去って伊達家に仕え、新地にあった。

◎大甕七館・七騎【居住者は天文年中】

館名 居住者 発祥ほか
明神館 岡田胤通(丹波守) 相馬一族・岡田氏の庶流。子孫は中村藩大身・岡田儀左衛門家。
萱山館 佐藤好信(伊勢守) もと岩城氏の臣で、天文9年に相馬顕胤に仕える。子孫は中村藩家老・佐藤勘兵衛家。
鶴蒔館 荒川頼重(太郎左衛門) もと岩城氏の臣で、天文9年に相馬顕胤に仕える。子孫は中村藩給人。
藤ヶ迫館 渡部七郎兵衛 相馬氏の旧臣?子孫は中村藩給人として江井村に移る。
梨木下館 大甕右近 相馬一族・岡田氏の庶流。上記岡田丹波と同族で、子孫は中村藩大身・岡田弥左衛門家。
梨木下館 武石讃岐 亘理氏の一族で、天文中に父が没したため顕胤に引き取られた。子孫は給人武山家。
戸屋下館 江井胤治(河内守) 相馬一族。

―大甕氏略系図―

→岡田胤之――胤次――大甕胤忠―+―胤盛―――胤通――+―胤俊―――胤勝―――+―胤末
(宮内太輔)(次郎)(佐渡守) |(丹波守)(丹波守)|(丹波守)(左馬允) |(藤八郎)
                |          |           |
                |          +―胤方―――胤房   +=胤清――長泰――→岡田儀左衛門家[150石]
                |           (美作守)(七郎兵衛) (豊後)(半左衛門)
                |                      
                +―胤長―――右近―+―右京         
                 (玄蕃)     |             
                          |
                          +―与五右衛門―+―与五左衛門――[7世]――長左衛門
                          |       |
                          |       |
                          +―与二郎   +―弥左衛門―――弥左衛門――→岡田弥左衛門家[150石]

大宮

 大須賀一族。君島胤時の子・胤景(兵部少輔)が下野国塩谷郡大宮郷(栃木県塩谷郡塩谷町大宮)に住んだことから大宮を称した。

 胤景は観応2(1351)年12月20日、上野国那和郡の戦いにおいて、宇都宮公綱のもと兄の君島綱胤(備中守)、風見胤重(新右衛門尉)、叔父の岡本富高(信濃守)らとともに足利尊氏勢の一員となり、足利直義入道の麾下・桃井直常(播磨守)との戦いで討死を遂げた。

 その後、大宮氏の具体的な系譜は不明となるが、天正年中の宇都宮家中を書き上げた文書中に「大宮久衛門」が見える(『川上吉弥家文書』)。久衛門の馬印は「白地黒いかり猪」であった。

 この流れから江戸時代、筑前福岡藩の御用所吟味役御馬廻などをつとめた大宮家が出る。福岡藩大宮家は安永年中(1772~1781)の分限帳に「大宮六郎左衛門」「大宮武左衛門」が記されている(『福岡藩分限帳集成』)。武左衛門は「定府」で江戸の福岡藩邸につめて以降、福岡の国元に行くことなく定府の藩士のまま幕末を迎える。

 文化年中(1804~1818)の分限帳には「定府」の「大宮平三郎」が、文化14(1817)年の分限帳では「定府」の馬廻組「大宮耕介」、さらに安政年中(1854~1860)の分限帳に「定府」の御馬廻「大宮幸助」、慶応分限帳では「定府」馬廻組「大宮司」、「定府」として御城代組「大宮賢蔵」「大宮環」が見えている(『福岡藩分限帳集成』)。安永3(1856)年には江戸「奥頭取」「大宮主」が藩侯・松平斉溥(黒田長溥)より、長崎新台場につき佐賀藩一手の構築について苦慮する書状を受けている(『黒田長溥公伝』)

 慶応2(1866)年5月21日、大宮賢蔵(大宮延胤)は江戸藩邸から太宰府延寿院へ、「大田原様(旗本・大田原帯刀か)」から依頼を受けた「御厨子入御神像開眼料共二百疋分御一体」についての願いと、江戸溜池中屋敷の天満宮「御本社御蔵大損」について、再建資金を「町人共江寄進夫々相頼」んで再建なったため、「世話人共江御返し挨拶」に道真公「御画像差出度」思っているので、「御隠居様江も宜御取成被下、御聞済ニ相成候得ハ」急ぎ送っていただき、もし御隠居の「御聞済無御座候得ハ」、代わりに「御守を一万枚程」送ってもらいたいとの願いを書状にて送っている(『延寿王院御用日記』)。また、大宮賢蔵は第二次長州征伐のため、江戸から京都の福岡藩邸に上っている。

 幕末・明治期になると「千葉」へ復姓、御馬廻組「千葉延胤」、城代組「千葉雅也」、三ノ銃士「千葉一胤」といった(旧)藩士を見ることができる。

名前 石高 役職 分限帳
大宮六郎左衛門 百五十石     『安永分限帳』
大宮武左衛門 百二十石   定府 『安永分限帳』
大宮耕介 百十石 馬廻組 定府 『文化十四年分限帳』
大宮平三郎 百二十石   定府 『文化分限帳』
大宮幸助 百十石 馬廻組 定府 『安政分限帳』
大宮 司 百二十石 馬廻組 定府 『慶応分限帳』
大宮賢蔵 七石三人扶持 御城代組 定府 『慶応分限帳』
大宮 環 七石三人扶持 御城代組 定府 『慶応分限帳』
千葉平延胤 (大宮賢蔵) 百四十石 馬廻組    
千葉英之介平一胤 七石四人扶持 三ノ銃士    
千葉雅也 七石三人扶持 城代組    

―大宮氏略系図―

→千葉介常胤-大須賀胤信-成毛範胤――――成胤――――君島胤時―大宮胤景
      (四郎)  (八郎左衛門尉)(左衛門尉)(備中守)(兵部少輔)

大村

 千葉一族。臼井氏の庶流とおもわれ、臼井氏中興の祖といわれる臼井興胤(左近将監・行胤)の子孫・高胤が大村を称した。文亀4(1504)年2月27日、舟橋大神宮にあてて出された寄進状の署名「胤縁」という人物は、臼井庄・印西庄において一部であるにせよ何らかの支配権を持っている人物であることがうかがわれる。この「胤縁」が臼井氏庶流の大村胤縁(常顕)である可能性もある。

●文亀4(1504)年2月27日の胤縁供物寄進状

  舟橋天照大神宮供物之事

  供物之事臼井印西於両庄不可有相違候、為末代祈願一筆如件

 文亀四年
  二月廿七日    胤縁(花押)

  舟橋
   神主富殿

―大村氏略系図―

→臼井興胤――胤清――胤顕――胤盛―大村高胤――胤廉――胤光――胤慶――胤縁――胤度
(左近将監)(念清)(密伝)(月鏡)     (恭暖)(宗岳)(和岳)(常顕)(常舛・蔵人大夫)

大森

 千葉一族。千葉介胤宗の子・胤度は大森越後守の婿養子となって家を継いだとある。胤度は兄の千葉介貞胤に従って各地を転戦し、功名を挙げたとされ、彼のあとは甥の胤方が継いだ。

―大森氏略系図―

→千葉介胤宗―+―大森胤度===胤方
       |(右京亮)  (右京大夫)
       |         ↑
       +―千葉介貞胤――大森胤方
        (千葉介)  (右京大夫)

大山

 千葉一族。戦国末期、原氏の家臣として活躍した。その一流は原氏に従って、手賀城(柏市手賀)におもむき、原家五人衆の一家に列した。家紋は「九曜」。

大和田

 千葉一族。下総国猿島郡大和田郷(古河市三和町大和田)、または常陸国久慈郡大和田郷(茨城県日立市大和田町)を発祥とする。

 伝承によれば、佐竹義重が常陸国額田郡に出陣した際に、大和田家胤(伊賀守)が出仕したという。家胤は葛原親王の二十八代の末裔と伝わる。家胤ははじめ馬飼料として二百石を給わる程度だったが、のちに願い出て佐竹家家臣となった。

 その子・重胤から連綿と続き、大和田玄胤は垂加神道を浅見安正(保科正之の兄弟子)から学び、子孫に伝えられた。玄胤の孫・祚胤は家禄百石の大番士伍長であった。祚胤は佐竹家の秋田転封に従い、大和田家は秋田で幕末に至った。

 また、大和田祚胤の四男が備中松山藩の平田家を継いだ平田篤胤。篤胤の次兄・正胤は渡邊家を継いだ。次弟・胤秀は手賀主水を称した。長兄の雅胤が二十九歳で亡くなると、末弟の実胤が大和田家を継いだ。

―大和田氏略系図―

→葛原親王…大和田家胤-重胤-政胤-朝胤-昌胤-玄胤-依胤―+―保胤=祚胤―+―雅胤===実胤
      (伊賀守)                   |       |(忠兵衛)(正右衛門)
                              |       |
                              +―祚胤    +―渡邊正胤 =文子
                                      |(但馬)
                                      |
                                      +―胤行
                                      |(正吉)
                                      |
                                      +―実胤
                                      |(正右衛門)
                                      |
                                      +―平田篤胤
                                      |(半兵衛)
                                      |
                                      +―政子
                                      |
                                      |
                                      +―手賀胤秀
                                      |(主水)
                                      |
                                      +―文子

 

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

Copyright©1997-2013ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。