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【ち】
千田《多古千葉氏》
千葉一族。千葉介常重の二男・胤幹が香取郡千田庄を領して千田を称したというが、彼の存在は『千葉大系図』にのみ見られる名であり実在に疑問がある。
時代は下って、小城千葉氏の2代目・千葉胤貞が千田を称し、その弟・胤泰の子の高胤(小太郎)と胤継(常陸介)が千田を称した。胤泰の孫にあたる胤鎮と胤紹兄弟は肥前国で勢力を争って肥前における千葉氏の勢力を著しく衰えさせているが、胤貞の子・胤継(弥次郎)の子・胤氏(三郎)は下総国千田庄に住んで千田氏を名乗った。
一方、下総千葉介の家からは、千葉介貞胤(小城千葉胤貞の従弟)の子・胤矩(刑部大輔)と胤春(右京大夫)が千田を称し、貞胤の弟・胤久は千田家の養嗣子になっているが、どの千田家に入ったものかはわからない。千葉介利胤の子・千田胤羽(右京進)は兄の千葉介親胤が北条氏の手によって暗殺されたときに京都に出奔した。その後、宗家の千葉介胤富や一族たちが帰参を促したために佐倉に戻る。その後、子供がないまま病死した。千田氏は千葉氏の有力な一族で、千葉氏の中で嫡出でない者が千田を名乗ることが多かった。
暦応年間(1338-1342)に千田重親(中務少輔)が奥州の葛西氏のもとに下向し、陸奥国桃生郡太田城(桃生町)に住んでいる。この後、室町から戦国期に北上川流域に勢力を拡大した。
-千田氏略系図-
千葉介宗胤―胤貞―――胤継―――胤氏―+―義胤
(大隅守)(大隅守) |
+―胤清―道胤
|
+―胤満―胤安―胤幸―胤仲―胤範―胤親―胤嗣
千馬
東一族。美濃東氏の流れを組んでいると伝わる。「せんば」「ちば」と読む。
東頼数の子孫・東胤綱(左京亮)は将軍家に仕え、大和国穴太に供奉。その子・輝綱(備中守)は足利義輝より「輝」字の偏諱を受けているが、松永弾正久秀の反乱によって将軍・義輝が討たれると京都を脱出し、丹波国の赤井家を頼ったという。そしてその子・輝胤(四郎左衛門尉)ははじめて「千馬」を名乗り、織田信長に仕えたという。その後は不明。
千馬光綱(内蔵助)は仙石秀久(権兵衛尉)の二男・忠政(兵部大輔:信濃国小諸五万石)の家臣で、大坂冬の陣に出陣。黒門口攻めで討死をとげた。光綱・輝綱ともに「綱」という一字が用いられており、両者には何らかの関係があるのかもしれないが、具体的には不明。
光綱が仕えた忠政には仙石秀範(豊前守)という兄があったが、彼は「関ヶ原の戦い」で西軍に属したことから、父・秀久によって廃嫡され大坂にのぼる。そして大坂冬の陣で「仙石宗也」と称し、冬の陣後は丹波国へ逃れた。
一族・千馬喜兵衛は越前福井藩主・松平忠直(越前少将)に仕え、妻は本多忠勝(中務大輔)の家臣・芝田伊右衛門の娘。しかし、松平忠直は乱行を理由に改易となり、喜兵衛の子・三郎兵衛は播磨赤穂藩主・浅野長友(内匠頭)へ仕えた。
仙石忠政に仕えていた千馬光綱(内蔵助)の嫡子・求之助は摂津高槻藩主・永井直清(日向守)に仕え、筑間三右衛門の娘を娶った。二男・光忠(三郎兵衛)を播磨赤穂藩の千馬三郎兵衛と養子縁組させ、光忠は赤穂藩馬廻に就任、百石取りの中級家臣として迎えられた。このとき、父・求之助は永井家を辞して赤穂へ来ており、光忠に養われていた。
光忠は義と情に厚い人物として知られる一方、剛直であり、些細なことで元禄10(1697)年、閉門の憂き目を見る。禄高も百石から三十石取りに減封され、『赤穂藩分限帳』には禄高千石の組頭・岡本木工助の組士として記されている。元禄14(1701)年3月、藩に辞表を出し、家族を連れて赤穂を離れようとしたところ、藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家筆頭・吉良義央(上野介)へ江戸城中において刃傷に及んだ報が伝わったため、赤穂城内へ駈けもどり、長矩が即日切腹させられ赤穂藩改易のこと、吉良上野介にはお咎め無しだったことなどが続々伝わってくるにおよび、筆頭家老・大石良雄(内蔵助)の示した結束の連判状に参加。赤穂城が開城されると大坂へ下り、京都へ入った。兄・荊木貞右衛門は浪人となって大坂にあった。
光忠らが京都にあった元禄15(1702)年正月、江戸の急進派を宥めるために下っていた原元辰(惣右衛門)が京都へ戻ってきたが、原惣右衛門は一転して急進派に変わっており、光忠はじめ中村清右衛門、中田藤内、矢頭右衛門七などが京都に雌伏しているのを見て叱りつけ、同年4月12日、知り合いの吉良家の内情をよく知る浪人とともに江戸へくだり、その内情を探っている。この浪人はある旗本と懇意であり、ともに40日間江戸で情報を集めたのち、6月12日、江戸を経って京都へ戻っていった。
そして大石良雄(内蔵助)が起請文に血判を押した赤穂浪士たちに仇討ちの計画を打ち明けるや、9月7日、光忠は中田利平次、間十次郎、矢頭右衛門七ら面々と江戸に向かい、新麹町四丁目裏に借家を借り、名も「原三郎」と変えて吉良邸を偵察しつづけ、12月14日の吉良邸討ち入りの際は大石良雄嫡子・大石主税の手に属して吉良邸裏門へ廻り、吉良邸戸外で戦った。
討ち入りの後は伊予松山藩・松平隠岐守定直にお預け、松山藩中屋敷に留め置かれ、元禄16(1703)年2月4日、松山藩中屋敷において切腹となった。享年51歳。介錯人は松山藩士・波賀清太夫。戒名は刃道互劔信士。光忠の従弟・千馬五郎兵衛は松平紀伊守に仕えていた。
千馬光忠の嫡子・藤之丞は光忠切腹のとき僅かに2歳であり、母方の祖父・津川門兵衛(備前岡山藩士)のもとにあった。光忠も切腹直前の元禄16(1703)年正月に記した『親類書』には津川氏・藤之丞について記さなかったため、赤穂浪士の子どもたちに対しての処分である「遠島」も行われなかった。しかし一連の処分から半年後、藩主・池田吉政(伊予守)から老中・阿部正武(豊後守)へ届出が出されたので、津川氏・藤之丞は江戸北町奉行所へ出頭が命じられ、町奉行・保田宗易(越前守)から遠島の申し渡しがなされた。ただし、藤之丞が15歳になるまでは祖父・津川門兵衛へお預けという条文が附されている。
宝永6(1709)年正月、将軍・綱吉が没したために大赦が行われ、藤之丞は赦免された。そして成長の後は岡山藩士となる。
―千馬家略系図―
千葉介常胤―東胤頼―――…―益之―――常縁―――頼数――――元胤――――――胤綱――+―綱長
(六郎大夫) (下野守)(下野守)(左近将監)(四郎左衛門尉)(左京亮)|(左近将監)
|
+―輝綱
(備中守)
∥――――千馬輝胤
篠倉氏 (四郎左衛門尉)
―千馬光忠略系図―
福尾与次兵衛
∥
∥―――――――娘
娘 ∥ 刈部弥次郎娘
∥ ∥
千馬喜兵衛 ∥ ∥
∥――――――三郎兵衛==+―光忠【赤穂浪士】
∥ |(三郎兵衛)
芝田伊右衛門娘 | ∥―――――――藤之丞
| ∥
筑間三右衛門 | 津川門兵衛娘
∥―――――――娘 |
∥ ∥――――+―荊木貞右衛門―+―源之丞
娘 ∥ (光忠の兄) |
∥ |
千馬光綱 ∥ +―岩之助
(内蔵助) ∥
∥――――+―求之助
∥ |
娘 +―■■――――――千馬新五兵衛
上総一族。上総権介常澄の四男・印東常茂の子・重常(太郎)が上総国長柄郡庁南庄(千葉県長生郡長南町)を領し、長南(庁南)を称した。
常茂は頼朝の挙兵の際には平家に属し、押領使として平維盛の軍勢に随って相模国富士川まで進撃するが、維盛は甲斐源氏・武田信義らの奇襲に敗れて壊走した。押領使であった常茂も追いすがる源氏の兵を防ぎながら退却したが、捕らえられて殺された。
正和5(1316)年11月20日、将軍・守邦親王の命を奉じ、執権・北条高時(左馬権頭)、連署・金沢貞顕(武蔵守)が重常の末裔と思われる長南常行(孫四郎)の所領を鶴岡八幡宮に寄進している。常行が何らかの罪を犯したためであろうか。常行については、通称の「孫四郎」から見て、重常の孫・長南常村(四郎)の孫にあたる人物かもしれない。
長南氏については、全国の長南氏を研究されている「全国長南会」をご参照のこと。
●将軍守邦親王寄進状(『鎌倉市史 史料編一』所収)
―庁南氏略系図―
→上総権介常澄-印東常茂-長南重常―久常―+―常益――――胤盛
(上総権介) (次郎) (太郎) (次郎)|(次郎太郎)(太郎)
|
+―盛常――+―常義
|(小次郎)|(太郎)
| |
| +―時常
| (次郎)
|
+―常村――+―秀村
|(四郎) |(太郎)
| |
| +―秀時
| (次郎)
|
+―常季――+―秀常
(五郎) |(太郎)
|
+―義門
(次郎)
【つ】
塚原
国分一族。本来は常陸大掾家の一族。剣聖として有名な塚原卜伝は千葉氏流国分氏の子孫で、父は常陸国鹿島祠官・卜部覚賢の次男。塚原安幹(土佐守)の養子に入って塚原家を継承した。卜伝は飯篠長威斎や上泉伊勢守に剣術を学び、新当流を創始する。彼には北畠具教(伊勢国司)、足利義輝(将軍)、松岡兵庫、細川幽斎、師岡一羽、斎藤伝鬼坊、佐野了伯(天徳寺)、佐野天徳寺了伯ら有名な剣客が門弟にいたことで知られる。
―塚原氏略系図―
→国分直頼-吉川呼常-卜部覚賢-塚原高幹―+―秀幹
(五郎) (加賀守)(左京) (塚原卜伝)|(彦四郎)
|
+―彦五郎
|
|
+―彦六
次浦
千葉一族。平常長の子・常盛(八郎)が次浦を称した。
―次浦氏略系図―
→平常長-次浦常盛-右馬允-原常光-常村―――――+―常清
(八郎) (三郎)(弥三郎兵衛尉)|(七郎)
|
+―良有―+―治部
|(伊予)|
| +―三郎
|
+―良弁――常弁
(大弐)(大進)
筒戸
筒戸城址 |
相馬一族。下総国相馬郡筒戸村(つくばみらい市筒戸)を名字地とする。相馬胤徳(小次郎・徳誕)の二男・胤満(摂津守)が筒戸を称しており、このころに筒戸城が築かれたか。ただし、筒戸城は永禄2(1559)年の築城ともされている。
室町時代の末期には相馬治胤(左近太夫)の一族として筒戸胤房(小三郎)・筒戸胤文(小四郎)の名前が見られる。彼らは胤満の子孫か?相馬治胤(左近大夫)は一族を各地に派遣して要害を築かせていたようで、高井城を守っていたと思われる治胤の弟・高井胤永(小次郎)、菅生城を守っていたと思われる菅生胤貞(越前守)らがあった(『相馬当家系図』)。
筒戸城は守谷城の北部にある要害で、南の高井城と並ぶ相馬氏の守りの要であったと推測される。筒戸城内には平将門と関わりの深いとされる禅福寺があり、寺の紋は相馬氏ゆかりの九曜を用いている。
城の南には千葉一族が信仰していた妙見神と八幡神を合祀している「妙見八幡神社」がある。現在、妙見八幡神社の鳥居は破壊され、鎮守の杜もすべて伐採されて境内は駐車場と化しており、砂地の中にぽつんと建っている社が物悲しい状況にある。
堤
上総千葉氏の祖・上総権介秀胤の子孫に堤秀朝(次郎)が見える(『山門文書』)。上総権介秀胤は薩摩国内に多くの所領を有しており、その旧領にあったのかもしれない。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
|
+―澤田秀明
|(三郎)
|
+―文殊寺秀棟
(四郎)
堤谷
相馬一族。名字地は陸奥国行方郡堤谷村(福島県南相馬市原町区堤谷)。
祖は不明ながら、相馬氏の一族郎従として文正年中(1466~1467)、相馬隆胤の代に堤谷胤秋(若狭守)の名を見ることができる(『相馬家譜』)。応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峰寺の無量光院に相馬惣領・相馬隆胤(前讃岐守)ら一族郎従が寄進をしているが、その中で「堤谷若狭殿」は布五十疋を寄進し、妻は百文が寄進されている。
角田
上総一族。「すだ」と読むとされるが不明。「つのだ」「かくた」かもしれない。上総権介常澄の孫・相馬貞常の子・親常が角田を称した。名字地は上総国墨田保(千葉県茂原市墨田周辺)とされるが、相馬郡に近い地域の下総国印旛郡角田村(千葉県印旛郡本埜村角田)とも考えられる、こちらであれば「つのだ」となる。
角田親常ははじめ上総介広常に仕えていたが、広常が暗殺されて所領を没収されると千葉氏に従った。親常の父・相馬貞常(太郎)は千葉介胤正の娘を妻としており、親常は千葉介胤正の外孫ということになる。上総氏滅亡後、名を上総氏の通字「常」を「胤」字に改めて「胤親」とした。胤親は承久の乱の時、上皇方に荷担した三浦九郎判官胤義の郎党を討ち取った。
文明年中(1469~1489)初頭の諸大名の家紋集である『見聞諸家紋』によると、「角田或人曰與上総介同紋云々」として、黒地に白抜き九曜紋が掲載されている。鬼窪氏(野与党の一族か)とも同紋とされる。ところで、この当時、上総介を称した家は今川家だが、当主・今川義忠がこの当時、上総介であったか治部大輔であったか不明。
鎌倉時代初期、奥州に千葉氏の一族が下向している。その名はさまざま伝わっているが、千葉胤親・泰胤・胤正らの名を見ることができる。下の系図で見ると、胤親の舅には胤正がおり、胤親の子には泰胤がいる。奥州千葉氏の祖・千葉胤親は右兵衛佐を称している。また、奥州千葉氏のもうひとつの流れ、千葉泰胤は越前守を称した。
永仁2(1294)年2月、場所は不明だが、三反を「角田与一妻女跡」、二反を「同尼公跡」が知行しているとの文書が伝わっている(『某所田畠注文』:「称名寺文書」)。金沢称名寺に関する所領と思われ、武蔵国国衙領に関する田畠注文の可能性が高いという(『北区史』)。「角田与一」は角田信胤(又太郎)の子息・角田行信(与一)と思われ、その「妻女」と「尼公(行信の母?)」もすでに亡くなって、遺領が誰に継承されたかは不明。
―角田氏略系図―
鶴牧
千葉一族。鶴巻・弦巻・鶴蒔・釣巻・鶴毛・弦牧・鶴慎とも。いずれも「つるまき」と読む。白井宗幹(治部少輔)の子・信幹(茂右衛門)が白井庄鶴牧村(印西市鶴巻)に住んで鶴牧を称したか。
茂右衛門については、享保11(1726)年10月に千葉介の末裔・千葉権之助(千葉権之助英胤か?)が千葉氏再興を願って提出した文書に、
とあり、鶴牧信幹(茂右衛門)の娘「高覚院様」は江戸時代には地位の高い女性になっていたことがうかがえる(⇒千葉俊胤)。なお、「瑞春院」とは5代将軍・徳川綱吉の側室・お伝の方。お伝の方の母親は徳川家綱の生母・お楽の方の従妹にあたり、法名は「高覚院殿」である。のち、大奥にて実権を握ったため、綱吉の正妻・鷹司信子と対立した。
◆千葉氏・白井氏・鶴巻氏略系図◆
+―新田守純
|(満二郎)
|
+―ひがし(東)
∥
∥――――――千葉新介重胤
∥ (法名:長胤)
+――――――千葉介邦胤
| (千葉介)
| ∥
+―娘 ∥――――――鏑木俊胤
∥ ∥ (千葉権介)
∥―――+―娘
∥ |
白井宗幹 +―娘
(治部少輔) ∥――――+―白井伊信―――信胤―伊胤―秀胤―像胤―之胤―久胤―錫胤――…
白井胤幹 |【水戸藩大老】
(備後守) |
+―白井幹時―+―良―――――+―白井伊忠――実忠―平三郎――…
|(志摩守) |(淀殿侍女) |【高松藩家老】
| | |
| +―春:芳春院 +―白井勝久――□□―絵島
| (徳川家康妾) (旗本) (大奥老女)
|
+―鶴牧信幹―――高覚院様――――陽春院様
(茂右衛門)
【て】
寺内
相馬一族。泉氏の庶流・泉胤吉(次郎)が行方郡寺内村に住んで寺内胤吉を称した。その子孫は寺内村を離れ、寺内村は富田隆実(備前守)が継承した。寺内氏の子孫は、江戸時代には75石を知行し、本家・泉内蔵助家の家臣となり、その跡を継いだ従弟の三左衛門は、行方郡北郷横手村に11石を給された。
―寺内氏略系図―
→泉胤吉(次郎)―…―刑部―+―三左衛門――三左衛門
| (泉内蔵助家臣)
|
+―庄助――――三左衛門―――…
寺尾
千葉一族。千葉介胤正の子・業遠が寺尾を称したという。名字地は上総国天羽郡寺尾郷(千葉県富津市寺尾)か。
『吾妻鏡』によれば、建久2(1191)年正月1日、御所において千葉介常胤の椀飯が献じられ、五番目に馬を曳いた人物に「寺尾大夫業遠」の名が見える。「大夫」と見えるため、五位の位を有していたと考えられる。
業遠の名が見られるのは『千葉大系図』だけであるため、実際に胤正の子なのかは不明。しかも、五位という位を持っており、名字地と思われる寺尾郷も千葉から遥かに離れた地にあることから、千葉氏系ではなく上総氏系統の人物であるかもしれない。
―寺尾氏略系図―
→千葉介胤正―寺尾業遠
(寺尾大夫)
寺島
千葉一族。発祥地は葛飾郡寺島村(東京都江東区東向島)。
寺西
千葉一族。千葉氏の末流・寺西秀之(石見守)の子・秀則(治兵衛督)が織田信長、前田利家に仕え、二男・之政(清左衛門)が織田秀雄に仕えたのち、天正19(1591)年、浅野長政に見出されて1500石をもって仕えた。子孫は安芸広島藩士として続いている。
信之(織部)は清左衛門・将監とも称し、2800石を領した。その子・直之(角丞)は1500石に、その子・秀信(権六)は1300石を知行している。正安(与三兵衛)は600石、その子・忠左衛門は900石に加増されたものの、正共(佐助)は500石に減知、秀方(源六)は550石に加増された。
(Special Thanks:筈衛様)
―寺西氏略系図―
→寺西秀之―+―秀則――――→前田家家臣
(石見守) |(治兵衛督)
|
+―之政―――+―利之――+―重之――――権右衛門――権右衛門
(清左衛門)|(将監) |(権右衛門)
| |
| +―信之――――直之――――信秀
| (織部) (角允) (権六)
|
+―正安――――正■――――正共――――秀方
(与三兵衛)(忠左衛門)(佐助) (源六)
【と】
東(東氏のページ)
千葉一族。「とう」と読む。下総国海上郡東庄(香取郡東庄町)を発祥地とする。東庄(立花郷)は相馬郡と並んで、千葉氏が平安時代末期ごろから治めていた所領のひとつ。
千葉介常胤の六男・胤頼(六郎大夫)は平安時代末期、上洛して遠藤持遠(左近将監)の知己となり、上西門院に仕えた。当時、上西門院は反平家の拠点であり、歌道も盛んであった。胤頼の子孫は勅撰歌人を数多く輩出しており、彼の歌はあまり残されていないが、胤頼自身も歌を詠んだのであろう。
胤頼は源頼朝が挙兵するよりも前から彼と交流を持っており、常胤が頼朝の挙兵に味方した理由のひとつは、胤頼が説得したこともあるとされる。鎌倉幕府の成立ののち、胤頼は父・常胤から東庄を譲られ、椿海(江戸時代に干拓)を望む高台にある桜井に館を構えたとされる。
その後、引退した胤頼は上洛し、宇都宮頼綱入道や塩谷朝業入道らとともに法然上人の弟子に連なっていて、『法然上人絵巻』には「千葉六郎大夫入道法阿」として名を残す。頼綱や朝業はともに歌人として有名であり、胤頼も彼らとともに歌の交流を持っていたのかもしれない。胤頼の孫・胤行(入道素暹)は、藤原定家の子・二条為家(権大納言)の娘を正妻としているとされるが、その二条為家の妻は、宇都宮頼綱入道の娘である。
●東氏・二条家略系譜
阿仏尼
∥―――――――冷泉為相―+―為秀
∥ (権中納言)|(権中納言)
∥ |
∥ +―娘
∥ (久明親王母)
∥
∥ +―泰行
∥ |(図書助)
∥ |
∥ 東胤行―――+―行氏
∥ (左衛門尉) |(次郎左衛門尉)
∥ ∥ |
二条為家 +―娘 +―義行
(権大納言) | |(四郎)
∥ ? |
∥―――――+ +―娘―――――――男児一人
宇都宮頼綱娘 | |(上総泰秀妻)
(左衛門尉) | |
| +―胤行女
| |(『新続古今和歌集』)
| |
| +―娘
| |(三浦某妻)
| |
| +―氏村
| (下野守)
|
+―為氏―――――為世
|(権大納言) (権大納言)
|
+―京極為教―――為兼
(左兵衛督) (権大納言)
東氏は胤行(入道素暹)のころ、承久の乱の戦功によって美濃国郡上郡山田庄を与えられたといわれ、以降、子孫は下総国東庄と美濃国郡上郡の二流に分かれることとなり、下総国東庄の東氏はその後、歴史の中に埋没していくこととなる。
一方、美濃国郡上郡に発展した東氏は、歌道をもって名を知られるようになり、室町将軍家の奉公衆に名を見せるようになった。その中で著名な人物が、東常縁(下野守)であるが、彼は下総国でおこった千葉宗家の内訌に幕府の大将として下向して、これを収めた。また、歌人としての才能も豊かで、二条家に伝わっていた『古今和歌集』の解釈の奥底を、才能のある人物に託す「古今伝授」をはじめた人物としても知られる。飯尾宗祇も彼の弟子であり、常縁から古今伝授を受けた。関東では太田道灌と交流を持ち、弟・正宗龍統(建仁寺二百十七世住持)も江戸城に下り、道灌のために城内の静勝軒に詩序を寄題した。
常縁の孫・常慶(下野守)は、娘を重臣の遠藤盛数(六郎左衛門尉)に嫁がせ、のちに盛数は東氏を郡上郡から追放して東氏に代わった。盛数の子・遠藤慶隆(左馬助)は織田信長に仕え、続いて豊臣秀吉、徳川家康と時代を読んで主を代えて、美濃郡上藩二万七千石の礎を築いた。
子孫は歌道を伝える大名として続き、明治時代、遠藤胤城(但馬守)は「東」に復姓し、子爵に叙せられた。
東氏の末裔は江戸時代、美濃苗木藩(藩主は遠山氏)、常陸水戸藩にあるが、薩摩国鹿児島藩の藩領である日向国諸県郡都城(宮崎県都城市)にもこの東氏の流れをくむと思われる東氏がある。薩摩藩都城領蔵方役の東胤正(太左衛門)は天保8(1837)年に都城に生まれ、長じて蔵方役となる。明治8(1875)年、宮崎県十四等出仕として県の官吏となるが、明治10(1877)年、西郷隆盛の起こした西南戦争に都城隊を編成して参加し、8月24日、城山に討死した。
田路
千葉一族。「とうじ」と読む。但馬国朝来郡田路を発祥地とする。朝来郡田路は古くは「田道」とも書き、「たじ」とも読んだ。
室町時代には播磨国守護・赤松氏の麾下にあり、文明17(1485)年4月2日、守護・赤松政則(左京大夫)から3月28日の陰木合戦で粉骨の活躍し、疵を被った田路孫太郎に感状が出されている(『赤松政則感状』)。さらに、明応8(1499)年には赤松政秀入道性喜から、来栖中山城の攻城に対する感状が出された(『赤松政秀入道性喜感状』)。
天文7(1538)年、田路右馬允が敵陣に攻め入って切り崩したことを宇野政頼(播磨守護代)から尼子晴久(出雲大名)へ注進があり、晴久は9月27日、田路右馬允へ感状を発給した(『尼子晴久感状』)。
永禄2(1559)年10月7日、田路城の南・生野(兵庫県朝来郡生野町)での合戦で活躍をし、そのことに対して太田垣朝延が田路四郎五郎へ感状を発給している(『太田垣朝延感状』)。ただし、太田垣家は山名家の重臣であることから、このころ田路氏は山名家に仕えていたと思われる。太田垣家は但馬国竹田城主をつとめていた国人領主で、田路城北部の竹田(朝来郡竹田)に在城していたか。さらに、竹田と田路の間の物部城には、やはり山名家の重臣・賀陽氏が詰めていた。
室町時代後期、田路城主・田路胤直(大和守)は山名氏政(山名祐豊の子)の家老として出仕し、丹波国赤井城主・萩野悪右衛門(赤井直正)が乱入して来た際にも、主だったもの数人を討ち取り、山名家より感状を賜った。その後、萩野悪右衛門は丹波国夜久郷に出城を築いたため、胤直・勘四郎父子は田路城より出張してこれを乗っ取った。しかし、天正7(1579)年、田路城が攻め落とされて自刃。大和守は菩提寺である祥雲寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
自性院の伝行基菩薩作の大日如来 |
天正期になると、織田信長の軍勢が中国地方に進んできた。中国地方の織田家総大将は羽柴秀吉(筑前守)で、秀吉の弟・秀長は竹田城に拠った。天正8(1580)年のものとされる『羽柴秀吉書状』によれば、秀吉は田路五郎左衛門と安積将監にそれぞれ十人の人夫の派遣を命じていた。これはあくまで信長の代官としての秀吉の命に従ったものであると推測されるが、天正10(1582)年10月7日に増田長盛(仁右衛門)から発給されている『増田長盛書状』では、この直前に田路四郎次郎から増田長盛へ宛てて、みずからの所領に関する書状が出されていたようで、増田は知行は安堵されるから、イノシシの肉や狸の肉のような手土産を持って早々に秀吉へ御目見えしなさいと忠告している。
田路四郎次郎は、この直後、おそらく二日後の10月9日、秀吉のもとを訪れて「宍粟郡河東五郎左衛門尉分五百石」の知行を加えた所領を知行すべしとする書状を受けた(『秀吉充行状』)。秀吉から知行地を受けたこと、つまり秀吉の家臣になったことがわかる。田路氏の御子孫が田路城のある朝来町の奥谷山正法寺自性院という真言宗寺院におられる。
朝来郡礒部庄(兵庫県朝来郡山東町)には、承久の乱の功績として、東氏の一族・木内胤朝(下総前司)が地頭職に就いており、千葉一族と朝来郡の縁の深さがうかがえる。
前期の田路胤直(大和守)の子・勘四郎(のち市助)は一旦攻め落とされた田路城を取り戻したのか、田路城主に復帰し、織田信長の軍勢が侵入してきた際には田路城に籠城してこれを迎え撃ち、山名氏政より感状を賜る。その後、因幡国鳥取城の戦いに参戦し、山名家家老の太田垣輝信より感状を賜った。
しかし天正8(1580)年、山名氏政が出石城を攻め落とされて滅ぶと、城を落ちて播磨国竜野城主・赤松広道(左兵衛督)のもとに逃れた。広道は別名「斎村政広」といい、秀吉に降服ののちは但馬国竹田城主となった。左兵衛督は関が原の戦いで、鳥取城下を焼き払ってしまい、家康によって切腹を命じられた。このため、斎村家の家臣たちは四散し、市助も牢人となった。その後、丹波亀山城主・岡部長盛(内膳正)に牢人分として召抱えられ、鉄砲三十丁を預かった。さらに長盛の子・岡部宣勝(美濃守)にも仕えた。市助の子・五兵衛はすでに亡くなっており、元和2(1616)年に生まれた五兵衛の子・助之進は市助に養育され、市助が亡くなったのち、岡部家を辞した。
承応元(1652)年、助之進は岡山藩池田家に二百石の知行取として召抱えられ、池田主税組に配属される。明暦2(1656)年3月27日、江戸御留守居御番として江戸へ上り、江戸屋敷留守居を勤めた。その翌年4月8日、岡山城下へ戻り、寛文7(1667)年正月20日より、藩校に勤めた(『岡山藩家中諸士家譜五音寄』一)。
また、助之進の同族・田路権之丞も岡山藩に仕え、寛文8(1668)年10月3日、御弓組となり、杉山五左衛門組に配属されている。禄は切米五十俵七人扶持。
江戸幕末、但馬国城崎郡栗山村出身の尊皇攘夷志士に千葉郁太郎徳胤があった。彼の父親は田路鼎斎という人物で、郁太郎自身も「田路玄桂」という号を有していた。ただし、田路鼎斎の父は小森正造という医師あり、鼎斎は婿養子であることから、田路家に養子に入って家号を冒したのかもしれない。また、鼎斎の兄・田中河内介綏猷といい、尊攘公卿・中山忠能の諸大夫を勤めていた。
千葉郁太郎は幼いころから京都にいた田中河内介を頼り、その指示によって明治維新を奔走した。そんなころ、鹿児島藩国父・島津久光は過激な尊皇攘夷論を打ち砕くために、京都寺田屋に集まった薩摩藩士を討つよう命じた。郁太郎はこの池田屋での密談に加わっていた咎で、池田屋に捕縛に向かった薩摩藩士によって捕らえられ、日向細島において文久2(1862)年5月8日、18歳の若さで殺害された。
(Special Thanks:田路美奈様)
―田路氏略系図(田路家所蔵系図)―
国分平三郎――娘
∥――――――通胤
∥ (太郎左衛門尉)
→千葉介胤宗―+―千葉介貞胤 +―義胤
(千葉介) |(千葉介) |(刑部太郎)
| |
+―胤良――――忠胤――國胤 +―垣屋貞胤――+―益胤――継久
(千葉新介) (刑部少輔) |(次郎) |(平太)(小平太)
∥ | |
∥―――――政胤――+―娘 +―益綱――継胤 +―将胤
垣屋兵庫介―+―娘 (刑部丞)|(小林彦三妻)| (隠岐守) |(平蔵)
| | | | |
| ↓ | +―娘 +―経胤―――+―志邦秀胤
+―弾正少弼==政胤 | (斎藤良安妻) |(修理亮) (兵庫介)
(刑部丞)| |
+―廣胤―――――豊胤―+―娘 +―――+―娘
|(三郎兵衛尉)(三郎)|(滑良平左衛門妻)|(山名致豊妻)
| | |
+―満子 +―重胤――――――+―家胤――――頼胤
| (左衛門尉) |(次郎兵衛)(次郎丞)
| |
+―娘 +―寛胤――――諸胤――+
|(小野田藤四郎妻) (下総権介)(大和守)|
| |
+―胤覚 |
|(心源寺住僧) |
| |
|【山名豊久養子】 |
+―山名久胤――+―久経――――久長 |
(五郎) |(五郎) (七郎五郎) |
| |
+―久行 |
|(新左衛門尉) |
| |
+―娘 |
(秋間権太夫) |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―田路胤■ +―胤房―――――弥三右衛門――弥三兵衛==新右衛門
|(五郎左衛門尉) |(長右衛門) (三郎兵衛)
| |
+―胤和――――――田路胤清――胤久――――胤秀―――+―胤寿
(介右衛門尉) (介右衛門)(市左衛門)(新右衛門)|(新四郎)
|
+―胤富 +―厳續
|(弾正) |(新右衛門)
| |
+―胤重 +―新右衛門―――新右衛門―+―平兵衛
|(錠介) |(三郎兵衛)
| |
+―胤安―――+―男子
(新右衛門)
●文明17(1485)年4月2日『赤松政則感状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●明応8(1499)年8月21日『赤松政秀入道性喜感状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●天文7(1538)年9月27日『尼子晴久感状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●永禄2(1559)年11月18日『太田垣朝延感状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●天正8(1580)年カ?5月13日『羽柴秀吉書状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●天正10(1582)年10月7日『増田長盛書状』(『田路文書』:田路家所蔵)
●天正10(1582)年10月9日『羽柴秀吉領知状』(『田路文書』:田路家所蔵)
百槻
相馬一族。「とうづき」と読む。文間胤朝(四郎次郎)の6代目・胤正(右兵衛)が宇多郡百槻村に住んで「百槻」を称した。百槻胤正は立谷宇多郡栃窪城の城代を勤めている。しかし永禄6(1563)年、宇多郡中村塁主・草野直清(式部)が黒木城代・青田胤治(左衛門尉)らとともに伊達輝宗に通じた際、胤正もこれに荷担したことから城を追われて浪人となった。
その後、許されて相馬家に戻ると、相馬家のために奮戦して天正年中には伊達家との戦いに大きな功績を度々たて、百槻村に知行を取り戻した。江戸時代には嫡流は門馬十郎左衛門家、庶流は門馬徳右衛門家・弥惣右衛門家・六兵衛家・亘家と、それぞれ大身藩士となった。
遠江
千葉一族。平常長の十男・行長の四男・常光が遠江を称した。
東金
千葉一族か?
東郷
武石一族。亘理氏の庶流で行方郡に移った。
その子孫・東郷胤充(治部)は相馬氏に仕えた重臣で、執政・木幡胤清(尾張)の娘聟となった。しかし、黒木正房・中村義房の反乱に荷担したため、相馬顕胤に攻められた。このとき、顕胤は胤清と相談して、胤充を胤清の滝迫城に「今幸に対面の時を得ば速に来るべし、共に談ずべきことあり」と誘い出し、ここに伏せてある顕胤の兵に討ち取る手はずとした。これにかかった胤充は郎従七十人を率いて滝迫を訪れ、たちまち顕胤兵に取り囲まれた。
謀られたことを察した胤充は郎従が防いでいる間に滝迫城を逃れて山中に逃げ込んだ。しかし、顕胤の追跡は執拗であったため、逃れられないと悟った胤充は行方郡浮田(鹿島町浮田)で自刃を遂げた。現在、胤充が自刃した山は「東郷山」と呼ばれている。
鴇根
上総一族。「とおがね」と読む。上総国山辺郡鴇根(千葉県東金市)を発祥地とする。
遠山方
千葉一族。千葉介胤正の七男・師胤(七郎)は下総国遠山方御厨(成田市北部~神崎町)の御厨司となって遠山方を称し、後、神崎を称する。
その子・行胤(七郎次郎)は幕府に出仕し、建長3(1251)年1月20日、将軍家の二所詣に際し、先陣の隨兵に「千葉七郎次郎行胤」の名が見える。
―遠山方氏略系図―
→千葉介胤正―遠山方師胤―行胤
(七郎) (七郎次郎)
時田
上総一族。上総権介常澄の末子・為常(与一太郎)が時田を称したという。ただし、為常が「与一太郎」を称したとするならば、為常の父は「与一」を通称としていた人物と思われるが、上総権介常澄が与一を称していたという記録はない。
―時田氏略系図―(『神代本千葉系図』)
→上総介常澄―為常―――+―長常――胤長――――重胤
(上総権介)(与一太郎)|(平内)(平内太郎)(又太郎)
|
+―秀常
(八郎)
鴇田
千葉一族。「ときた」とよむ。岩橋輔胤の子・胤之が下総国鴇田郷を領して鴇田を称したという。のち、児玉党との合戦で戦死したとされるが、実在は不明。
―鴇田氏略系図―
→岩橋輔胤―鴇田胤之
徳嶋
千葉一族。千葉介胤鎮の子・胤氏(三郎)の子・義胤(治部大輔)が徳嶋を称した。この三郎胤氏は千葉胤貞(千田大隅守)の孫・胤氏(多古庄千田氏の祖)とは別人で、甥の千葉介教胤とともに藤津の陣所に加わり、教胤が戦いの中で船が転覆して溺死した翌日、胤氏は無事に文明元(1469)年6月18日に陣所にもどった。
義胤は小城郡平吉郷芦刈に城を構えて住み、明応3(1494)年3月4日、千葉介胤資より知行が安堵された。法号は道胤。その子・徳嶋胤秀(左馬助)は明応7(1498)年4月3日に亡くなった。法名は道秀。そしてその子・徳嶋盛秀(治部大輔)は初名を孫八郎といい、文武に優れた武士として知られていた。正妻に龍造寺豊後守家純娘(玉室妙金大姉)を迎えるなどその勢力は大きくなっていった。天正7(1579)年7月15日、亡くなった。
永禄5(1562)年、滅亡した少弐氏を復興しようと、大友宗麟が有馬晴純と謀って少弐政興を擁立した。有馬晴純は出家して仙岩と称していたが、依然として有馬家の実権を握り、名将としての名も高く、千葉氏・龍造寺氏を倒して肥前制覇を狙っていた。
永禄6(1563)年3月、有馬晴純は兵を動かして杵島郡まで攻め寄せた。千葉胤連は龍造寺隆信に連絡をとり、鴨打胤忠(陸奥守)・徳島胤時(甲斐守)・持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠に出陣した。隆信も鍋島信房・信生(=直茂。千葉胤連の養子だった)らに命じて小城郡高田に出陣している。隆信は、部将・馬渡俊光と謀って、有馬一族・島原弥七郎を柳津留の入江に誘いこんだ。ここに伏せていた鴨打胤忠・徳島胤時・持永盛秀の軍勢が東から、そして馬渡俊光の一族・野田右馬允が西から攻め寄せて島原の軍勢を挟み撃ちにして撃退した。
このため、有馬方につくか龍造寺方に味方するか迷っていた豪族たちは、つぎつぎに龍造寺氏に味方し、有馬氏はついに東肥前攻略をあきらめて島原にひきあげた。隆信は有馬氏に荷担した武士たちを討ち、杵島郡須古高城主・平井経治を攻めたが、これは失敗に終わり、中村にひきあげた。その後、千葉胤連は龍造寺氏の客将とされて小城郡高田城に配し、徳島氏らは龍造寺氏の部将となった。
天正4(1576)年、隆信は鍋島信房・信生兄弟らをはじめ、犬塚鎮家、徳島信盛(左馬助)、横岳家実を率いて有馬氏の東肥前の前線基地・藤津郡横造城を攻めおとした。横造城は鍋島信房(鍋島直茂の兄)を城主とし、徳島信盛も藤津郡松丘城主となった。さきの戦いで島原弥七郎を追い払う功績をあげた徳島胤時(入道道可)は鴨打胤忠とともに小城郡芦刈城の城将をつとめ、250町を領していた。龍造寺氏における徳島氏の扱いは「譜代相伝之家人」とされ、鍋島・納富・小川・福地・江副・安住・百武・西村・副島・馬渡・土肥・成松・内田・小林・鴨打・野田・高岸・石井各氏と並ぶ家柄だという。
龍造寺氏が鍋島氏にとって替わられると、徳島氏も鍋島氏に仕えることになった。朝鮮出兵のときには鍋島直茂は鍋島茂里(平五郎)と成富茂安(兵庫助)に派遣軍全権を任せているが、成富茂安の指揮下に徳島四郎右衛門の名が見える。四郎右衛門は龍造寺政家の御側定詰番となった。
明治時代、江藤新平率いる佐賀士族の反乱では、旧藩の公族や藩士が反乱に加わっているが、隊副司令に徳島篤胤、小隊指揮に徳島胤昌がいた。
-徳嶋氏略系図-
竜造寺家兼―+―家純――+―周家―――――竜造寺隆信
(山城守) |(豊後守)|(六郎次郎) (山城守)
| |
| +――娘
| ∥―――+―鍋島直茂
| 鍋島清房 |(加賀守)
| (駿河守) |
| +―鍋島信房
| (豊前守) 【神代鍋島家】
| ∥――――――茂昌
| +―娘 (三郎兵衛)
+―家門―――――娘 |
|(和泉守) ∥ |
| ∥―――+―信安―――――家親
+―娘 ∥ (左衛門大夫)(長右衛門)
∥ ∥
∥――――+―胤順
→千葉胤貞-胤継-胤氏――徳嶋義胤―…―盛秀 |(土佐守)
|
+―信忠====信安
|(甲斐守) (左衛門大夫)
|
+―信盛
(左馬助)
戸田
上総一族。上総権介広常の兄・印東常茂の子・常政(七郎)が上総国戸田(山武市戸田)に住んで戸田を称した。
-戸田氏略系図-
→上総介常澄-印東常茂-戸田常政
(次郎) (七郎)
戸張
相馬一族。相馬氏初代の相馬師常の八男・行常(八郎)は葛飾郡戸張郷を領して戸張(柏市戸張)を称した。現在、柏市戸張(国道16号線の柏トンネルの付近)に戸張氏の居館であったとされる戸張城址が残る。
他にも、相馬胤綱(次郎左衛門尉)の子・忠胤や、相馬胤氏(次郎左衛門尉)の子・胤重(三郎)が戸張を称したという。家紋は「蔦」「繋駒」。蔦紋は「先祖母方之紋」であったという(『平姓戸張先祖書』:「埼玉叢書第四」)。幕紋は「九曜」「月星」「源氏車」。
松戸市平賀の本土寺の過去帳『本土寺過去帳』の三日の項に「前崎落城打死太田六郎殿十一月 同戸張彦次郎殿討死」とある。
戸張忠胤の子孫・戸張胤房(九右衛門)は北条氏に仕えており、武蔵国二郷半領吉川村(埼玉県吉川市)に所領を持っていた。しかし、北条氏滅亡後は没落していた。
家康が関東に入部後、吉川に鷹狩のため来訪した際、胤房の嫡男・胤久(山三郎)が吉川八幡神社(吉川市八子新田)のそばで平伏していると、家康の目に留まって、その先祖の謂れを聞いた。そこで、父・胤房が北条氏に仕えて没落した旨をつぶさに言上すると、家康は胤房宅を休息所とすることを決め、胤房も家康に謁見することができた。このとき、家康は胤房に扇子(十間骨金地模様桜ニ小鳥柳ニ燕)と短冊(残黄地金雲形模様松竹)を手渡している。
この短冊と扇子は吉川村に住んだ胤房の三男・戸張胤永(三郎)に相伝され、子孫の戸張清兵衛に伝えられた。
胤房の嫡子・胤久(山三郎)はそのまま家康に召し出されて江戸に供奉し、松平正綱(右衛門大夫)のもと小十人組として出仕し、切米二百俵を給され、四年間勤仕した。家康が亡くなった際には久能山への埋葬に供奉し、次いで日光山への改葬にも供奉している。
胤久は家康の近侍で駿河に詰めており、家康亡きあとは江戸の将軍・徳川秀忠より召し出され、駿河衆のために与えられた神田山跡地の屋敷を給わった。この駿河衆が集住したところが、現在の駿河台(千代田区神田駿河台)である。このころ、岡部内膳正長盛の家臣・秋山善右衛門の娘を娶ったか。その後、牧野内匠頭信成組士となり、寛永6(1629)年8月6日、二十六歳の若さで亡くなった。法名は心月院道蓮。菩提寺の吉川村延命寺に埋葬された。
胤久が急病に倒れたため、急養子として弟の戸張全森(源五右衛門)が定められ家督を継いだ。その後、胤久の実子・伯胤(喜太夫)が誕生したが、彼は次男としての扱いであったため、長じて将軍・家光の代に新規召出として切米二百俵を給された(『平姓戸張先祖書』:「埼玉叢書第四」)。子孫は現在の三郷市から松戸市にかけて繁栄している。
―戸張氏略系図―
→千葉介常胤-相馬師常―+―義胤―――胤綱―+―胤村―――――――相馬胤氏―――――戸張胤重
(小次郎) |(五郎) (次郎)|(孫五郎左衛門尉)(二郎左衛門尉) (三郎)
| |
+―戸張行常 +―戸張忠胤――……―+
(八郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤政――――胤房―――+―胤久――――伯胤――――+―方胤
(筑前守) (九右衛門)|(山三郎) (喜太夫) |(武右衛門)
| |
+―胤永 +―郡胤
|(八郎兵衛) |(九郎兵衛)
| |
+―全森――+―胤森
+―胤順====胤親=========胤尚
(山三郎)|(八兵衛) (武右衛門)(隼人・佐野政甫4男)(阿倍政房の3男)
|
+―胤貞==
====胤幸―――――――――――胤興―――――益之
(源五郎) (八郎右衛門・戸張某の子)(八郎右衛門)(貞吉)
富田
相馬一族。相馬岡田氏庶流と伝わるが、実は海道平氏の一族で標葉氏・岩城氏と同族とされる。中村藩大身の家柄。
学者の富田嘉隆(斉藤嘉隆)は40石取りの相馬藩士で、学識が深かった。その子ふたりもそろって神童と呼ばれた秀才だった。嫡男・完高(庄八郎)は地誌・歴史に造詣が深く、藩主より地誌と家臣の系譜を作るよう命じられ、地誌『奥相誌』と系譜『相馬衆臣系譜』二百余巻を編纂した。
次男・高慶(久助)は文化11(1814)年に中村で生まれた。号は弘道任斎。150石取りの大身藩士。幼い頃から学芸に秀で、武芸も免許皆伝の腕前を持つ。藩主・相馬益胤に召し出され、若くしてその側近となり、相馬充胤が継ぐとその側近となる。しかし、天保8(1837)年からおこった「天保の大飢饉」に直面したため、江戸に登って昌平坂の教授・依田誠廬(林大学頭信篤鳳岡の弟子)に入門して学んだが、得るものがなかった。
天保11(1831)年、高慶は小田原大久保領の下野国芳賀郡物井村を復興させた二宮金次郎(二宮尊徳)の噂を聞きつけ、さっそく面会を求めたが、「儒学の人は江戸の学者に学ぶべきで、私のような土臭い人物は会うに値しない」と拒絶されてしまう。
しかし、高慶はあきらめず、近くの農家に間借りして二宮農政をつぶさに観察し、その教えにもよく参加した。これに感じた二宮は天保12(1832)年に高慶を弟子とした。その後一年間、高慶は二宮に就いて農政を修めて相馬中村に帰った。
高慶は中村に帰ると、執政の池田胤直(図書。郡代頭)・草野正辰に二宮流の農政改革をすぐ行うように勧め、藩主・充胤にも改革を藩政として行うよう訴えた。こうして中村藩の政治全体がうごきはじめた。翌年、充胤は二宮を招いて藩政を任せようとしたが、彼はこれを断る。そのため、充胤は江戸家老の草野正辰に書状をもたせて藩の荒廃を訴えさせ、さらに池田胤直を江戸に派遣して、池田胤直・草野正辰は二宮に面会して改革の行い方などをつぶさに聞いて、直ちに国元に命じて過去の藩税収の資料を集めさせた。
弘化元(1844)年、寛文5(1665)年から弘化元(1844)年までの納税帳を完成させて、二宮に提出して改革の方向を尋ねた。二宮もこの資料をみて驚嘆し、その1年のちに分析結果の『為政土台帳』を草野らに伝えた。
弘化2(1845)年、充胤の熱意に折れた二宮は相馬中村を訪れ、富田高慶を奉行として藩政改革に乗り出した。こうして荒れた村々は村民が中心となって立ち直り、道路の修復や備蓄米が蓄えられ、裕福な村へと変わっていった。そして藩政改革の波は中村藩全域に及び、ついに藩は天保の大飢饉以来の危機から立ち直ることができた。その後、二宮は相馬を去ったが、藩内では「尊徳翁」として尊敬され、胸像が中村城内(相馬市中村)に残されている。
-富田氏略系図-
⇒海道種頼――中村朝高――頼高―――胤守―――高親――義高――――+
(大膳大夫)(大和守) (大和守)(大和守)(内記)(左衛門尉) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―中村胤孝――胤高―――+―秀隆――――隆光 +―清隆―――富田勝隆――清隆――――<6代>――知隆
(大和守) (右兵衛尉)|(左馬助) (肥前守) |(内蔵丞)(金兵衛) (新左衛門) (覚治)
| |
+―胤朝――――胤高―――+―富田主次
|(右兵衛尉)(右兵衛尉)|(監物)
| |
| +―富田高次―斎藤高清――賀隆―光隆―忠隆――――庸隆――――高道――+
| (庄八) (伊左衛門) (伊左衛門)(専右衛門)(勘十郎)|
| |
| +――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| |
| +―嘉隆――+―完高――+―高行
| (三太夫)|(庄八郎)|(粂之助)
| | |
| +―高慶 +―海道隆陸
| (久助) |
| +―斎藤高教
|
+―隆宗====村田隆光
(土佐守) (肥前守)
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
富田五右衛門 | 大身 | 400石 | 西山大門通 |
富田久助 | 大身 | 150石 | 新下向町 |
富田彦太夫 | 大身 | 100石 | 袋町 |
富田重之丞 | 大身 | 100石 | 北町 |
富田又左衛門 | 大身 | 100石 | 清水町 |
富田郷右衛門 | 小身 | 69石 | 上向町 |
富下
椎名一族。椎名胤光(六郎)の子・福岡胤業(八郎)の子孫・八郎が匝瑳郡南条庄富下(匝瑳郡横芝光町富下)に住んで富下を称した。
-富下氏略系図-
→椎名胤光-福岡胤業-岩室資胤-彦六郎-富下八郎
(六郎) (八郎) (五郎)
友部
千葉一族。平常兼の子・臼井常安の孫の宗常が香取郡友部(佐倉市内か)を領して友部を称した。
-友部氏略系図-
→平常兼-臼井常康-常忠――友部宗胤-秀常-則常
(六郎) (三郎)(次郎)
豊田
千葉一族。その祖は相馬重胤の奥州下向に従った重臣・青田祐胤。
上総千葉氏の祖・上総権介秀胤の子・式部丞時秀の子に豊田五郎秀重が見える(『山門文書』)。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
|
+―澤田秀明
|(三郎)
|
+―文殊寺秀棟
(四郎)
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
豊田半右衛門 | 給人 | 7石 | 宇多郡宇多郷初野村 |
豊田庄左衛門 | 給人 | 5石 | 宇多郡郡北郷岡和田村 |
豊田庄左衛門 | 給人 | 20石 | 行方郡中郷堤谷村 |