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泉妙見社 |
相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った。奥州相馬氏の一門筆頭として重んじられ、「副大将」を許された家柄。藩政期は相馬中村藩の藩士ではなく、藩侯家に准じる「御一家」の筆頭として重んじられた。
胤顕は弘安8(1285)年、病が篤くなったため、子息の「胤盛・とよわか・おとわか」ならびに「後家(妙悟尼)」に所領配分し、その直後に病死した。相馬胤盛(小次郎)は元応2(1320)年までに没し、嫡男・相馬胤康(五郎)と次男・長胤(六郎)が遺領を継ぐ。元亨3(1323)年4月、相馬左衛門尉胤村の庶子だが「当腹嫡子」であった相馬重胤が奥州に下向したとき、「岡田小次郎胤盛」「泉五郎胤康」が彼に従っていたとされる(『奥相秘鑑』)。ただし、元応2(1320)年の時点で、胤盛の妻が「後家恵照尼」と称し、その子・胤康がすでに「惣領職」であることなどから、胤盛はすでに没していたことがわかる。
胤康は奥州に下ったのちも重胤を支え、足利尊氏に属した相馬重胤とともに奥州探題・斯波家長に従軍して鎌倉に下向。建武3(1336)年4月16日、京都から奥州へ戻る北畠顕家の精鋭と鎌倉の西、藤沢近辺で合戦し、片瀬川で戦死した。重胤は片瀬川からは逃れたものの、頼朝の法華堂にこもって自刃した。斯波家長はなんとか鎌倉を脱出して足利義詮の軍勢と合流して鎌倉を奪還し、建武4(1337)年8月18日、片瀬川の敗戦と相馬・岡田討死を鎌倉奉行所に届け出ている。
胤康は戦死の5年前の元徳3(1331)年、嫡男・相馬胤家(小次郎)に所領を譲り渡し、胤家(=乙鶴丸)を惣領とすることをその譲状に明記した。そして建武4(1337)年、父が戦死して名実ともに惣領となった胤家は、旧所領の返還を幕府に求め出るが失敗している。その後も奥州相馬氏惣領家に仕えて数々の軍功をたて、歴代の奥州探題からたびたび感状を受けた。また、南朝の陸奥国司・北畠顕信からの勧誘もことごとく退けて、足利方=北朝に忠誠を誓い続けている。貞治2(1363)年、胤家は嫡男・相馬胤重(五郎)に所領を譲り、翌年、胤家は「宮内大輔」に叙された。これまでの功績が認められたのだろう。
胤康から十三代のちの岡田宣胤(八兵衛)は、慶長16年に中村城内の北西の曲輪に館を構えたために岡田村の館は廃された。岡田氏の城内館跡には千葉一門の守護神である妙見菩薩を祀った祠が残る。子孫は相馬中村藩の御一家筆頭として藩侯家を支えた。
慶長年間には岡田又左衛門が家老職に就いている。文禄年間に内城山に館を構えた岡田胤房(七郎兵衛)がいる。胤房は岡田胤通(丹波)の二男・胤方(美作)の長男。天正年間に中村城外に館を持っていた岡田胤清(豊後)がおり、子孫は儀左衛門を称した。
元和3(1617)年当時の百石以上の岡田氏が『相馬藩世紀』に記載がある。
岡田兵庫胤景 | 1,199石 |
岡田左門長次 | 445石 |
岡田吉十郎胤知 | 200石 |
岡田半左衛門長泰 | 144石 |
岡田主鈴清重 | 104石 |
岡田又左衛門胤忠 | 103石 |
岡田靱負胤元 | 100石 |
戊辰戦争の4月9日、岡田泰胤(監物)が隊長として出陣、7月2日には岡田長康(富助)が副将として出征している。監物泰胤は藩主・相馬益胤の末子で、岡田監物家に養子に入っている。
■首藤岡田家
相馬利胤の命によって、岡田氏の「親戚」とされた岡田家がある。
慶長7(1602)年5月、相馬利胤は慶長の役の際に中立的な立場をとった罰として収公された旧領を取り戻すべく、江戸に出府するに至ったが、このとき谷中の日蓮宗瑞林寺(現在の瑞輪寺ではないだろう)を旅宿とした。そして10月、無事に旧領が安堵されると、瑞林寺の住持・日瑞上人との契約により、上人の甥・首藤嘉助と児姓・花井門十郎の両名を貰い受けて奥州へ連れ帰った。
首藤嘉助、花井門十郎の両名は親類がないため、利胤は首藤嘉助と岡田八兵衛宣胤、花井門十郎と泉藤右衛門胤政をそれぞれ「親戚」とし、首藤嘉助に岡田姓、花井門十郎に泉姓を名乗らせて、それぞれに百石を与えた。
首藤嘉助改め岡田成吉(蔵人主)は利胤、大膳亮義胤の二代にわたって重臣として仕えるが、承応年中(1652-55)の「玉野論山」の際に目付として過失があり、采地を没収される。その浪人中、熊を討ちとめて郷人より藩庁に報告があり、その功績により赦されて二百石が下されたという。
明暦4(1658)年正月、藩侯・相馬勝胤より苅屋戸村のうちに二百五十石の判物を賜った。そして貞享元(1684)年6月23日、九十五歳という長寿で亡くなった。相馬家に仕えて八十二年、名実ともに家中の最長老であった。法名は実相院法玄日在。小野村笹川に葬られた。
成吉の長男・盛良(七兵衛)は波多野九兵衛の養嗣子となって波田七兵衛を名乗り、百五十石取の藩士として相馬大膳亮義胤の三春御在番にも従う側臣であったが、三十五歳の若さで亡くなる。法名は高顕院浄心日通。法王山仏立寺に葬られた。盛良には子がなく、藩の重臣・本山安政(権右衛門)の次男が養子に入って、波田安重(甚五兵衛)を名乗る。安重はその後、湯澤平左衛門と名を改め、湯澤家の祖となる。
本家である岡田家は成吉が養孫・湯澤安重の娘を養女とし、木幡貞清(嘉左衛門)の次男を婿養子に迎えて継嗣とし、岡田成信(半右衛門)を名乗らせた。成信は藩の重臣として活躍し、寺社奉行、江戸藩邸留守居などを歴任して元禄15(1702)年7月15日、江戸にて亡くなった。法名は窓月院耀心日照。
その子・岡田成豊(半左衛門)が跡を継ぎ、中頭、御使番、物頭を歴任。宝暦2(1752)年3月28日に亡くなった。法号は円光院宗儀日常。成豊にははじめ子がなく、門馬経清(薗右衛門)の娘を養女として、藤田徳宗(宇右衛門)の子・喜七を婿養子とし、岡田成陽(半右衛門)を名乗らせる。しかし、その後に実子・岡田成章(登)が生まれたため、成陽の養嗣子とし、跡を継がせる。
成章の孫・岡田成昌(登)は、文化12(1815)年6月20日、御留守居本役への昇進を機に、「岡田」姓を本来の「首藤」姓に戻し、「首藤猪助」と名を改めた。以降幕末まで首藤家として中村藩の藩政に深く関わっていく。
◎岡田氏歴代◎→相馬氏の一門筆頭である相馬岡田氏の歴代惣領
―相馬岡田氏系譜―
泉胤顕―+
(五郎) |
|
+――――+
|
+―岡田胤盛―+―胤康――+―胤家―――胤繁――+―胤久――+―胤行――――信胤―――基胤 +―宣胤
|(小次郎) |(五郎) |(小次郎)(左京亮)|(小次郎)|(左京亮) (伊予) (小次郎) |(八兵衛)
| | | | | |
+―岡田胤兼 | +―孫鶴丸 +―娘 +―盛胤――――直胤―?―義胤――+―茂胤――――+―直胤――――+―長次
|(孫六) | | |(亀鶴) (二郎三郎) (安房守)|(治部太輔) |(右兵衛大夫)|(左門)
| | | | | | |
+―岡田宗胤 | +―僧侶 +―娘 +―娘 +―娘 +―娘
|(孫七) | |(こくろ) |(泉田胤雲妻)|(金沢胤昌娘) (泉胤政妻)
| | | | |
+―岡田胤俊 +―成胤――――福寿丸 | +―娘 +―胤景――――+―草野胤清
|(十郎) |(四郎) | |(上野氏妻) |(兵庫助) |(主膳)
| | | | | |
+―岡田兼胤 +―胤治――――竹鶴丸 | | +―清胤 +―娘
|(与次) |(七郎) | | |(右衛門大夫) (熊川長春妻)
| | | | |
+―岡田胤元 +―長胤――――義胤―――胤頼 | | +―娘
(与三) (六郎) (孫鶴丸) | | (山口志摩妻)
| |
| +―胤連――――+―胤信――――+―胤政
| |(将監) |(摂津守) |(与惣右衛門)
| | | |
| | | +―立谷胤久
| | | (越前)
| | |
| | +―胤兼――――――清重
| | (右馬助) (伝左衛門)
| |
| +―立野永房――――豊房
| |(土佐) (太郎左衛門)
| |
| +―深野保平――――肥後―――――四郎右衛門
| (大学)
|
+―胤次―――大甕胤忠―+―胤盛――胤通―+―胤俊――胤勝――+―胤季
(二郎) (佐渡) |(丹波)(丹波)|(丹波)(左馬允)|(藤八郎)
| | |
| | +=新里胤清―+―長泰
| | (豊後) |(半右衛門)
| | |
| +―胤方――胤房 +―貞胤
| (美作)(七郎兵衛) (靱負)
|
+―胤長――右近―+―右京
(玄蕃) |
|
+―与五右衛門―――与五右衛門
―中村藩岡田氏略系図―<堀内氏の系譜はこちら>
中村貞俊 田中宗也娘 +―村田共世===敷之助
(太郎左衛門) ∥ |(与市右衛門)
∥ ∥ |
∥――――俊世 ∥――――+―娘
杉政氏―――娘 (与左衛門)∥ |(村田重左衛門師世妻) +―堀内胤信
(新右衛門) ∥ ∥ | |(玄蕃) +―恩胤
∥――――岡田伊胤 +―娘 太田清左衛門――娘 | |(監物)
青田高治―娘 (監物) |(藤岡道仙循性妻) ∥―+―直胤 |
(孫左衛門) ∥ | ∥ (監物) +―娘
∥ +―村田敷之助 +―――――――春胤 |(木幡春左衛門妻)
∥ | (監物) |
∥ | ∥―――征胤――――+―娘
∥――――+―三千代 | 堀内胤重――娘 (監物) |(中田玄俊妻)
岡田直胤――+―宣胤――+―重胤===長胤 +―娘 |(早世) |(重兵衛) |
(右兵衛大夫)|(八兵衛)|(八兵衛)(監物)| | | +―智胤==
=泰胤
| | ∥ | +―――――――知胤 +―娘 |(帯刀) (監物)
| | ∥――+――娘 | (監物) |(泉田掃部胤重妻) |
| +―木幡貞清―娘 | ∥ | ∥ | +=直胤
| |(嘉左衛門) | 泉乗信 | ∥―――+―娘 (監物)
| | |(八兵衛) | 堀内辰胤――娘 |(服部伴左衛門妻) ∥
| +―娘 | |(玄蕃) | ∥――――半治郎
| ∥ +―小次郎 | +―堀内胤長――――――――――――――娘
| 新館胤治 +―娘 (兵衛)
| (彦左衛門) |(熊川兵庫長貞妻)
| |
+―長次 +―長胤 +―娘
|(左門) |(監物) |(泉甚右衛門為信妻)
| ∥ | |
| ∥――――+―娘 +―娘
|下浦修理娘 (熊川左衛門長定妻) (原新右衛門長清妻)
|
+―娘
∥
∥――――――胤衡
泉胤政 (内蔵助)
(藤右衛門)
◎相馬長門守義胤の時代の岡田氏
名前 | 生没年 | |
岡田八兵衛宣胤 | 1584-1626 | 岡田本宗家。 |
岡田兵庫助胤景 | 1565-1620 | 岡田八兵衛宣胤の叔父。草野城代。伊達家との戦いに明け暮れた。 |
岡田左馬允胤勝 | ????-???? | 大甕岡田氏。天正4(1576)年、伊達政宗との戦いで討死。 |
岡田豊後胤清 | ????-???? | 新里岡田氏。大甕岡田胤勝の嫡男。 |
岡田半左衛門長泰 | ????-???? | 新里岡田氏。新里岡田胤清の嫡男で、子孫は岡田儀左衛門家。 |
岡田靱負貞胤 | ????-???? | 新里岡田氏。半左衛門長泰の弟。 |
岡田小五郎 | ????-1576 | |
岡田摂津胤信 | ????-1588 | 父は権現堂城主・岡田将監胤連。天正16(1588)年、三春城で討死。 |
岡田与三右衛門胤政 | ????-???? | 岡田摂津胤信の嫡子。慶長5年、領内通過の伊達政宗をもてなす。 |
岡田十右衛門胤久 | ????-???? | 岡田摂津胤信の次男。永禄中に立谷村を知行して立谷を称する。 |
岡田右馬助胤兼 | ????-???? | 岡田将監胤連の次男。子孫は岡田丹下家。 |
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
岡田監物 | 一門 | 1,332石 | 館岩田 |
岡田惣兵衛 | 大身 | 150石 | 西御檀小路 |
岡田丹下 | 大身 | 150石 | 新馬場 |
岡田儀左衛門 | 大身 | 150石 | 桜馬場 |
岡田久太夫 | 小身 | 20石 | 北町 |
岡田孫六 | 小身 | 10石 | 上向町 |
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
岡田市左衛門 | 給人 | 18石 | 行方郡中郷太田村 |
岡田利左衛門 | 給人 | 4石 | 行方郡中郷矢川原村 |
岡田五兵衛 | 給人 | 5石 | 北標葉郡請戸村 |
岡田茂平次 | 給人 | 5石 | 南標葉郡羽鳥村 |
岡田庄右衛門 | 給人 | 5石 | 北標葉郡宮迫村 |
岡田市右衛門 | 給人 | 7石 | 北標葉郡大川原村 |
岡見
相馬一族と伝わる。常陸国河内郡岡見村(牛久市岡見町)を発祥とする。同地には小田氏の流れをくんでいる岡見氏があるが、こちらは藤原道兼流八田知家の末裔である。
相馬流岡見氏は相馬胤氏(次郎左衛門尉)の子・師房(彦四郎)を祖とする。胤氏は左衛門尉に任官しており、相馬惣領家であったと思われる。しかし、弟(義弟か)の相馬彦次郎師胤や甥の相馬孫五郎重胤との所領争いや、嫡男・相馬五郎左衛門尉師胤の所領の一部没収もあって、胤氏の系統は次第に力を失い、系譜にも記されなくなる。
なお、相馬彦次郎師胤と相馬五郎左衛門尉師胤は叔父・甥の間柄であってまったくの別人であるが、この二名を同一人物として誤った解釈をしている系譜もある。かわって、無位無官の相馬孫五郎重胤が奥州に移って頭角を現し、子孫は陸奥国行方郡など海道沿いに勢力をひろげ、江戸時代は相馬中村藩主となる。
●『相馬一族闕所地置文案』
相馬
五郎左衛門尉 二郎左衛門尉 五郎左衛門尉
胤村―――――+―胤氏―――――――師胤 一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、
| 又同郡吉名村土貢四十貫文、
| 先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之
|
| 彦次郎 孫五郎 出羽権守
+―師胤―――――――重胤―――――親胤 訴人
|
| 十郎
+―有胤 子息等御敵也、彼跡等
| 高平村五十貫文、稲村十五貫文
|
| 孫四郎 六郎
+―胤実―――――――胤持 大内村十貫文、長田村五十貫文
|
+―女子 高城保内根﨑村三十貫文、鳩原村弐十五貫文
|
+―女子 牛越村三十貫文
相馬五郎左衛門尉師胤の弟・師房(彦四郎)が相馬郡に隣接する常陸国河内郡岡見村(牛久市岡見町)に移り住んで岡見を称し、子孫は岡見氏となった。師房は足利尊氏に仕え、兄の五郎左衛門尉師胤とともに北畠顕家の軍勢と戦い、軍功を示したという。その嫡男・師長(彦三郎)には嫡男がおらず、娘に小田高知(上野介)の二男・知宗(源五郎)を養嗣子に迎え、知宗は岡見邦知(右京太夫)を称する。
師長(彦三郎)の弟・岡見師保(彦四郎)はのち左衛門尉に任官し、四郎左衛門尉を称する。建武2(1335)年12月、足利尊氏の軍勢に従い、奥州相馬重胤の嫡男・相馬親胤(孫次郎)とともに箱根合戦で新田義貞と戦っている。彼は九十余歳まで生きたという。
師保(彦四郎)の子・岡見重氏(彦五郎)は四郎左衛門尉を称する。祖父や父と同様に足利尊氏に仕え、のち斯波氏に属した。おそらく越前守護の斯波高経(修理大夫)に属したと思われる。彼の長女は氏家十郎通誠の妻となっているが、彼は「越中国ノ住人」「足利尾張守高経ノ与力」である「氏家中務丞重国」の一族であるのかもしれない。
重氏(彦五郎)の嫡男・岡見師泰(彦三郎)は大和守に任じられ、文和3(1354)年、将軍・足利義詮の名代として伊勢神宮を参詣したのち、和泉守に任じられている。法号は泰庵。貞治2(1363)年2月18日に亡くなった。師泰には子がおらず、大叔父の岡見師継(彦四郎)の子・師清(彦四郎・兵庫)は将軍の足利義持・義量に仕え、応仁3(1469)年10月3日に亡くなった。
その曾孫・久師(兵庫頭)は織田信長に仕えており、岡見氏は室町時代中期、斯波氏に従って越前から尾張へ移り、織田氏に属したと思われる。久師は浅井政次(六之丞)の娘を娶っているが、この浅井政次は尾張浅井氏か近江浅井氏の一族かは不明。ただし、岡見氏の系譜の中で、久師の嫡男・師高(彦三郎)の項目には唯一「母浅井六之丞政次娘」と母親のことが記されていて、秀吉に仕えていることから、近江浅井氏の一族かもしれない。天正10(1582)年6月2日未明、久師は京都の本能寺において明智光秀の軍勢と戦い、信長ともども討死を遂げた。
師高(彦三郎)は豊臣秀吉に仕え、天正18(1590)年の小田原合戦で戦功を挙げ、五百石を賜る。秀吉が亡くなったのちは、福島正則(左衛門太夫)に属した。
―岡見氏略系図―
→千葉介常胤―相馬師常―義胤―――――胤綱――――――胤村――――――胤氏―――――+
(千葉介) (次郎) (五郎兵衛尉)(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉)(次郎左衛門尉)|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―師胤
|(五郎左衛門尉)
|
+―岡見師房――――+―師長――+―娘
(彦四郎左衛門尉)|(彦三郎)|(小田邦知妻)
| |
| +=邦知――――小田邦久――岡見治頼――頼久――――+
| (右京大夫)(右京大夫)(左京) (右衛門大夫)|
| |
| +―――――――――――――――――――――――――+
| |
| +―治邦―――+=頼勝
| (左衛門佐)|(越前守)
| |
| +―娘
| (芳賀氏妻)
|
+―師保――――――重氏―――――+―娘
|(四郎左衛門尉)(四郎左衛門尉)|(氏家通誠妻)
| |
+―師望 +―師泰===師清 +―師高
|(彦三郎) (和泉守)(彦四郎) |(彦三郎)
| |
+―師継―――師清―――清常―――常久――――――久師――+―娘
(彦四郎)(彦四郎)(彦三郎)(四郎左衛門尉)(兵庫頭) (八幡林吉蔵)
岡本
大須賀一族。発祥地は下野国河内郡岡本村(栃木県宇都宮市河内町大字下岡本)。
君島成胤(左衛門尉)の子・富高(信濃守)が岡本を称した。富高は南北朝時代、宇都宮家の一族・益子英政(出雲守)の娘を妻としたためか、平姓を改め藤原姓としている。または藤原姓岡本氏の養子となったものか。
富高は南朝方の芳賀禅師の陣に参陣し、6月17日、足利基氏の配下・新田岩松持国の郎党・金井新左衛門と一騎打ちして組討ちになり、刺し違えて戦死した。
―岡本氏略系図―
→千葉介常胤―大須賀胤信―成毛範胤――――君島成胤―――+―胤時―――…→[君島氏]
(千葉介) (左衛門尉)(八郎左衛門尉)(左衛門尉) |(備中守)
|
+―岡本富高
(信濃守)
∥
京極為家―――二条為氏 ∥
(中納言) (大納言) ∥
∥ ∥
宇都宮頼綱=+―娘 ∥
(弥三郎) | ∥
| ∥
益子宗朝――+――娘 ∥
(左兵衛督) | (春林院殿西玄) ∥
| ∥――――――――英政 ∥
+==政綱 (出雲守) ∥
宇都宮頼綱 +―(宮内大夫) ∥――――娘
(弥三郎) | ∥
∥ | ∥
∥―――+―泰綱―――景綱―――娘
北条時政―――娘 (下野守)(下野守)
(遠江守)
押田
千葉一族。その遠祖は八幡太郎源義家の六男・源義隆(六郎)。義隆は義家の子の中ではもっとも長生きし、源氏の長老として崇められていた。平治の乱(1159年)のときには、高齢の身に鎧を着込んで源義朝(頼朝の父)に従って戦ったが、義朝はあえなく敗戦し、義隆も近江から美濃へと落ちていく途中、落ち武者狩りの集団との戦闘の中で、首筋に矢をうけて死んだ。
義隆が亡くなった当時、子・頼隆は生後五十日足らずであり、乳母に連れられて千葉介常胤を頼ったため常胤のもとで成人し、治承4(1180)年に千葉介常胤とともに下総国府において頼朝と対面する(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)。頼隆は常胤の傍らにひざまずいて頼朝の言葉を待った。常胤は「これなるは陸奥六郎義隆殿の遺児、森冠者頼隆と申す者でございます」と紹介する。頼朝は「あの陸奥殿の子息か。我もそなたもともに源氏の胤子じゃ。ともに平家を倒し先祖の願望を達そうぞ」と、頼隆を常胤の上座に座らせた。
こののち頼隆は毛利冠者と呼ばれ、従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元(1181)年6月19日、頼朝が三浦に納涼のために出かけたときには護衛として同行した。また、建久元(1190)年10月9日の院参のときには後陣の随兵として付き従った。
頼隆の長男・頼胤(若槻太郎)と弟・頼定、子・頼広は下総の千葉氏の庇護を受け、頼胤は下総守に任じられた。子孫も千葉氏の側近としての地位にあったようだ。一方、頼胤の弟・頼定は伊豆守を称して御家人の列に列し、森氏の祖となった。建長8(1256)年1月1日の御所における椀飯において見える「若槻伊豆前司」が頼定である。康元2(1257)年1月13日、酉の刻に「若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定」は七十九歳で亡くなっている。頼定の子孫は織田信長に仕えた森蘭丸が有名。
こののち、匝瑳郡八日市場城主として押田氏が知られるようになる。天文16(1547)年6月に押田伊勢入道が見えるが、匝瑳地方に押田氏が入ってきたのは、匝瑳氏の最後の当主(?)で福岡城主の匝瑳忠胤(八郎)が亡くなったあとか。応永20(1413)年には押田常重(治郎左衛門)の名のある寺領寄進状があり、応永期にはこの地方に押田氏がいたことがわかる。
明応4(1495)年2月28日、「上総国山辺郡於十文字村ニ角田頼存ヨリ相伝」した『古今集註』に奥書を記した「押日(押田)源六忠慶」がいた(井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』明治書院)。
応永年間以降、千葉介胤直に仕えた押田某、千葉介胤将に仕えた押田将監、千葉介孝胤に仕えた押田掃部助、千葉介勝胤に仕えた押田兵部少輔などの名が見える。押田輔吉(近江守)は岩橋輔胤入道常輝に仕え、彼の偏諱をうけて「輔吉」を名乗ったか。彼は輔胤の娘を妻に迎えて一門扱いとされ、九曜紋の使用を許されている。さらにその子・教友(近江守)は岩橋輔胤入道常輝の外孫にあたり、孝胤・勝胤・昌胤の3代に仕えた。教友の妹は、千葉介勝胤の家老・鏑木胤永(白井備中守)に嫁いだという。教友は天文4(1535)年に亡くなり、野手円長寺(匝瑳市野手)に葬られた。その子・吉持は勝胤・昌胤の2代に仕え、父に先立って天文元(1532)年10月13日に武蔵国において北条氏康の軍と戦って戦死している。
吉持の子・昌定(近江守)は祖父の跡を継いで千葉介胤・利胤・親胤・胤富の4代に仕えた。おそらく、昌定は千葉介昌胤から「昌」の偏諱を受けていると思われる。天文7(1538)年10月の国府台の戦いでは千葉介昌胤に従い軍功を挙げ、天文16(1547)年7月6日の佐竹義昭との戦いでも奮戦している。永禄9(1566)年に亡くなり、野手円長寺(匝瑳市野手)に葬られた。天文25(1556)年の宮本熊野神社の棟札に「大檀那押田近江守常定」とみえるが、昌定のことか。
その子・胤定(下野守)は八日市場城主・横須賀城主であったようだ。千葉介胤富・良胤・邦胤・重胤に仕え、天正17(1589)年の北条氏直の常陸戦線に参加した。その翌年の小田原の戦いでは、千葉介重胤に従って小田原湯本口の守備についた。小田原落城後、胤定は領地のあった野手村に蟄居したが、元和3(1617)年2月17日に亡くなった。これ以前、急速に勢力を増してきていた、上総坂田城主(山武郡横芝光町坂田)の井田胤徳との結びつきを深め、胤徳の娘を嫡男・吉正(与一郎)に迎えている。これは、匝瑳郡内における押田氏の勢力保持のための政略的な意図が見える。吉正は子・豊勝(三次郎)とともに徳川家に召し出され、大坂両陣に参戦した。吉正は大番頭となり500石を賜る。豊勝は秀忠の小姓となり下総国海上郡内に400石を給した。
豊勝の長男・直勝(三左衛門)は累進して用人となり、美濃・上野国内で1500石を加増され、海上郡の采地は常陸国茨城郡に移された。さらに綱吉の子・徳松の傅役となって江戸城西ノ丸に移り、上総国夷隅郡に300石を加増されて、すべてで2200石を知行する大身旗本となった。そして直勝の4代の孫・敏勝(藤二郎)は十代将軍・徳川家治に仕えたが39歳で没し、その子・勝長(長次郎)が跡を継いだ。そしてその妹は大奥の侍女として勤めていたが、十一代将軍・徳川家斉に見そめられて敏次郎(のちの家慶)を産んで「於楽御方」と称され、老女の上座を仰せ付けられた。文化7(1810)年5月20日に亡くなると東叡山寛永寺に葬られ、文政11(1828)年2月1日、「従三位」の宣下がくだされ、天保13(1842)年5月13日、「従二位」を追贈された。
教友と同じ時期に孝胤に仕えたという押田掃部助とはいかなる人物か? また吉持と同時期の押田兵部少輔とは? それから、吉持の子・昌定は天文16(1547)年7月6日の佐竹義昭との戦いで軍功を挙げているが、その一月前の6月に匝瑳郡内の福善寺に寺領を収めたという押田伊勢入道とは? 押田氏にはいろいろと謎が残っている。
―押田氏略系図―
⇒源義家――+―義親――――為義―――――義朝――――頼朝
(八幡太郎)|(出雲守) (六条判官) (左馬頭) (征夷大将軍)
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+―義隆――――頼隆―――+―頼胤――――押田頼広――+―胤義――――+―義成―――光義
(陸奥六郎)(毛利冠者)|(若槻太郎)(太郎) |(孫太郎) |(又太郎)(蔵人)
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| | +―輔義―――輔忠
| | (三郎) (又太郎)
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| +―重胤――――――胤光 +―長可
| |(二郎) (弥太郎) |(武蔵守)
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| +―若槻頼輔――――頼繁――…《若槻氏・若月氏》 +―長定
| (太郎左衛門尉)(蔵人) |(乱丸)
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+―頼定――定氏―頼氏―光氏―氏清―頼俊―頼師―頼長―頼継―可光―可房―可秀―可行―可成―――+―忠政
(伊豆守) (三左衛門) (美作守)
―千葉・押田・井田・山室・和田氏略系図―
山室隆尚――忠隆―――常隆――+―氏勝―――勝信 +―胤富
(肥前守) (伊勢守)(飛騨守)|(越中守)(治部少輔)|(伊賀守)
| |
+―娘 和田胤信―+―娘
∥ (左衛門尉) ∥―――輝胤
∥ ∥ (権左衛門尉)
井田刑部―胤俊―――+―友胤――――――――+―胤徳
(刑部大輔)|(因幡守) |(因幡守)
| |
+―氏胤 +―胤信
|(美濃守) |(治右衛門)
| |
+―志摩守 +―僧侶
| |
+―千方民部妻 +―娘
∥
岩橋輔胤――娘 +―教友―――吉持―――+―昌定―――――――胤定 ∥
∥ |(近江守)(近江守) |(近江守) (下野守)∥――――+
∥ | | ∥――吉正 |
∥―――+―娘 +―海上五郎大夫――――娘 (与一郎) |
∥ ∥ |(海上丹後守養子) |
押田頼忠――又次郎――掃部――常吉――+―輔吉 鏑木胤永 | |
(次郎太郎) (伊勢守)|(近江守)(備中守) +―平山左京亮妻 |
| | |
+―将監―――蔵人 +―東金左衛門尉妻 |
| |
+―千葉中務少輔(胤盛?)妻 |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―豊勝――+―頼意――――為則
(三次郎)|(五郎大夫)(三次郎)
|
+―直勝――――正勝――+―勝与―――+―嶺勝―――――勝融 +―勝長
(三左衛門)(与五郎)|(藤右衛門)|(藤右衛門) (藤右衛門) |(長次郎)
| | |
+―住勝 +―勝久===+―敏勝―――――――――+―お楽の方
|(忠次郎) (吉次郎) |(藤二郎) ∥
| | ∥―――徳川家慶
+―栄勝―――――勝輝―――+―季勝 ∥ (12代将軍)
(藤左衛門) (三左衛門) (伝左衛門) ∥
∥
徳川家康―+―紀伊頼宣―光貞――――吉宗―――+―田安宗武―+―治察====斉匡 ∥
(初代将軍)|(大納言)(権大納言)(8代将軍)|(右衛門督)| ∥
| | | ∥
| | +―松平定信―+―真田幸貫 ∥
| | (越中守) |(信濃守) ∥
| | | ∥
| | +―定永――板倉勝静 ∥
| | ∥
| +―一橋宗尹―――済治――+――――――――――徳川家斉
| | (11代将軍)
| |
| +―田安斉匡―+―斉荘
| |
| +―松平慶永
| +―綱候――頼豊――宗尭 |(松平春嶽)
| | |
| +―頼重―+―綱条 +―慶頼――――家達
| |
+―水戸頼房―+―光圀===綱条――吉孚==宗尭―――宗翰――――治保―――+―治紀――+―斉脩 +―慶篤
(中納言) (中納言) | | |
| +―斉昭――+―徳川慶喜
| (15代将軍)
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+―尾張義和――義建――+―慶勝
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+―茂徳
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+―松平容保
|(会津藩主)
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+―松平定敬
(桑名藩主)
小高
相馬一族。相馬師胤の子・相馬孫五郎重胤が陸奥国小高郷(福島県南相馬市小高区)に住んで「小高」とよばれていたようで、鎌倉時代末期、長崎思元(執権北条家の家臣)と相馬重胤の所領争いについての文書、元亨2(1322)年の『長崎思元代良信申状』(『相馬文書』)に「■■小高孫五郎重胤、任傍例被行苅田狼藉■■■任員数被糺返、奥州行方郡内北田村等之事」とあり、さらに同年7月4日の『関東御教書』(『相馬文書』)の宛名は「小高孫五郎殿」とある。
しかしこれ以前に、標葉氏(常陸大掾家、岩城氏らと同族)の一族である小高氏(相馬氏の代官?)が小高郷にあったが、相馬氏が小高郷に移ると、小高を「古小高」「小々高」にあらためた。
小竹
上総一族。臼井一族で印旛郡臼井庄小竹(佐倉市小篠?)を領して小竹を称した。
小田部
椎名一族。福岡胤業(八郎)の子・胤忠が匝瑳郡小田部邑を領して小田部(柴崎)を称した。
系譜に見られる「中務大輔胤賢」は康正元(1455)年8月に戦死した千葉介兼胤の次男(母は上杉禅秀の娘)・千葉中務大輔胤賢と混同している可能性もある。ただし、小田部氏は胤賢とは何らかの接点を持っていた可能性があり、秋田藩士小田部家に伝わる家伝では、「千葉介氏胤ノ嫡子大介満胤ノ次男胤直、小田部ヲ襲テ将胤ニ至ル、宣胤ノ父也ト云」とあり、胤賢の兄・千葉大介胤直について触れられている。
子孫は佐竹氏に仕え、永正4(1507)年3月28日、小田部政胤(式部丞)が金砂山における軍忠で、佐竹義舜より東野内、十郎内より采地を給わった。その孫・小田部重胤(式部丞)は天正18(1590)年の小田原戦役において討死を遂げている。享年二十二。政胤の次男・小田部胤家(美作守)の系も続き、佐竹家に仕えている。
また、どの系統に属するかは不明ながら小田部里胤(弾正、五郎左衛門)は、元亀2(1571)年7月3日、義昭の命を受け、白河氏へ寝返った和田昭為(安房守)の子、和田為綱(兵部大輔)、和田彦十郎、和田為藤(善九郎)の三名を誅殺するが、善九郎との戦闘で疵を蒙った。この功績により、7月13日、「小田部氏遺跡」を義昭から賜書され、家宝として受け継がれた。
里胤は慶長7(1602)年、佐竹義宣の秋田移封の際には途中から従い、横手に住んで采地を与えられた。そして慶長19(1614)年11月26日、大坂冬の陣で佐竹隊に属して出陣し、今福の戦いで討死を遂げた。道号は傑岑、法号は道英。
―小田部氏略系図『千葉大系図』―
→椎名胤光-福岡胤業―+―小田部胤忠――胤広―+―胤賢
(六郎) (八郎) |(柴崎胤忠) |(中務大輔)
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+―岩室資胤 +―胤光-胤長-胤成-胤見-胤法-胤次-胤盛
(台資胤)
―小田部氏略系図『徳嶋本千葉系図』―
→椎名胤光―福岡胤成―+―泉川頼胤
(五郎) (八郎) |(次郎)
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+―福岡胤泰 +―弥八郎
|(四郎) |
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+―岩室資胤 +―九郎
|(五郎) |
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+―芝崎胤忠――+―十郎
(八郎か?)
尾垂
椎名一族。椎名胤高(六郎)の子・胤方(次郎)が匝瑳郡南条庄幡間郷尾垂(山武郡横芝光町尾垂)を領して尾垂を称した。尾垂は南条庄の最東端に位置し、熊野神領であった。一方、南条庄西側は金沢称名寺領(横浜市金沢)で、文永9(1272)年、領家代として領家館にいた円恵と地頭・松山胤村(小次郎太郎)が新田検注のことで相論を起こした。
このとき、胤方の子・尾垂胤員(弥次郎)が松山胤村と合力して鎌倉に訴え、勝訴することができた。椎名氏側は、こののちも領家の新田検注を拒否する姿勢を示した。このような検注停止の慣行は実地にいない荘園領主の権力を著しく低下させ、地頭職をもつ在地領主層の権力を強化する要因となった。
―尾垂氏略系図―
→千葉常重-椎名胤光-胤高――尾垂胤方―+―胤員
(五郎) (六郎)(次郎) |(弥次郎)
|
+―盛胤
|(六郎)
|
+―光胤
|(七郎)
|
+―八郎
|
+―師胤――胤長
|(九郎)(孫九郎)
|
+―惟胤
(十郎)
小谷
相馬一族。相馬氏の世臣で、相馬治部少輔高胤の代(応仁期)に小谷七郎胤兼が見える。
小名
上総一族。印旛郡臼井庄小名村(四街道市小名)を領した臼井一族。
小見
千葉氏流・東氏流の2つの流れがあった。千葉介常胤の弟・胤隆(六郎)が香取郡小見(小海)郷(香取市小見)を領して小見(小海)を称した(『桓武平氏諸流系図』『徳嶋家系図』『神代本千葉系図』)。「胤澄」とあるのは「胤隆」の誤記であろう。
また、胤隆の甥にあたる東胤頼(六郎太夫)の子・木内胤朝(下総前司)の四男・下総胤時(四郎)が小見郷を領して小見と称した。ただし、胤時は「下総」を氏名として主に用いていたようである。【下総氏の項目へ】
胤時の父・木内胤朝は承久の乱で幕府軍の一員として上洛、承久3(1221)年6月14日、宇治川の戦いで大功があり、戦後、但馬国磯部庄と淡路国由良庄の地頭職を授かった(貞応2(1223)年4月某日『淡路国大田文』)。その後、但馬国磯部庄はどうなったかはわからないが、由良庄については木内氏が代々地頭職を継承しており、元応元(1319)年12月26日の『淡路国由良庄地頭代沙彌円性等連署和與状』によれば、「淡路国由良庄雑掌大和民部大夫入道善阿」と「地頭木内下総四郎左衛門入道道源代道政、円性」が年貢や地頭得分などについて揉めていたことがわかる。
元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』)によれば、尼妙観が買い取った東盛義旧領の「下総国東庄上代郷内田拾貳町、在家拾貳宇」についての書状に、乾元2(1303)年6月26日に御使の名として「下総四郎左衛門尉胤直、米倉孫太郎光常」の名が見える。胤直は元応元(1319)年12月26日の「木内四郎左衛門入道道源」と同一人物であろう(『淡路国由良庄地頭代沙彌円性等連署和與状』『千葉大系図』)。また、米倉光常(孫太郎)は、匝瑳郡南条米倉村(匝瑳市米倉字城之内)発祥の椎名一族米倉氏か。
建武4(1337)年正月1日、「市河刑部大夫助房代小見彦六経胤」は、越前国「金崎城(敦賀城)」に立て籠る「為新田義貞誅伐」に出陣した大将軍「高越後守殿(越後権守師泰)」の麾下、「村上河内守信貞(信濃国惣大将)」に従属して正月18日、2月12日の合戦で戦功を挙げ、3月2日から夜終合戦、3月6日の金崎城の「大手責入城内、及至極合戦」し、大将軍師泰に軍忠状を提出している(建武四年三月「小見経胤軍忠状」『市河文書』)。市河助房は高井郡中野郷西条、志久見郷内の地頭職であり、小見経胤も高井郡近辺の御家人であったろう。
―小見氏略系図―
→千葉介常重―+―千葉介常胤-東胤頼―――木内胤朝――小見胤時―胤直―胤宗―胤盛
|(千葉介) (六郎大夫)(下総前司)(四郎) (四郎)
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+―椎名胤光
|(五郎)
|
+―小見胤隆―義季
(六郎) (小大夫)