千葉常胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

 

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千葉常胤 (1118-1201)

生没年 元永元(1118)年5月24日~建仁元(1201)年3月24日
下総権介平常重
平政幹女
秩父太郎大夫重弘中女(円寿院殿)
官位 正六位上
官職 下総権介
相馬郡司:久安2(1146)年4月就任
役職 下総国守護職?
荘官 千葉庄検非違所
相馬御厨下司職:久安2(1146)年8月10日寄進
        永暦元(1160)年夏頃解職
        永暦2(1161)年2月頃奉免
               3月中頃再寄進
               3月中頃寄進状破棄
所在 下総国千葉庄
法号 浄春院殿貞見、涼山円浄院
墓所 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か)

1,相馬御厨が強奪 2,平治の乱と相馬御厨
源義宗は佐竹義宗ではない
相馬御厨寄進の時系列
3,相馬御厨の範囲について 4,以仁王の乱と源頼朝の挙兵
5,「須以司馬為父」・千葉介常胤 6,富士川合戦 7,鎌倉への帰還と常陸国出陣 8,近江大乱と清盛の死
9,曾義仲の挙兵 10,平家都落ち 11,法住寺合戦 12,松殿基房の復権と法皇の幽居
13,義仲、平家との和睦をすすめる 14,木曾義仲の最期 15,平家追討使の進発 16,福原、一ノ谷の戦い
17,惣追捕使、土肥、梶原の派遣 18,頼朝の兼実摂政推挙 19,伊賀・伊勢平氏の乱 20,範頼、義経の追討使補任
21,九郎判官義経の四国攻め 22,壇ノ浦の戦い 23,壇ノ浦の戦いその後 24,宗盛と重衡の最期
25,頼朝追討の宣旨 26,行家、義経の都落ち 27,頼朝の怒りと圧力 28,洛中守護北条時政の入洛
29,兼実、望まぬ内覧に就く 30,摂政 藤原兼実の誕生 31,奥州藤原氏との戦い 32,奥州再征
33,頼朝の上洛 34,「前右大将家」政所始 35,大姫入内計画 36,後白河法皇崩御
37,征夷使大将軍源頼朝 38,富士野巻狩り事件 39,東大寺供養 40,兼実関白辞任
41,新帝即位 42,頼朝の死 43,正治元年二月騒動 44,十三人の家司・奉行人
45,常胤の死      

■コラム

藤原親正について (附 功徳院僧正快雅律師聖円
永福寺(三笠山永福寺)について
「鎌倉家」家政機関と執権および「得宗」家について
常陸入道念西とその周辺

 千葉氏五代。四代・千葉介常重の嫡男。母は平政幹娘。妻は秩父太郎大夫重弘娘。元永元(1118)年5月24日誕生(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。官位は正六位上。官途は下総権介、相馬郡司。荘官としては相馬御厨下司職、千葉庄検非違所。

千葉介常胤(千葉市立郷土博物館蔵)
千葉介常胤像(千葉市立郷土博物館蔵)

 常胤は千葉氏を地方豪族の地位から、御家人筆頭の地位にまで昇らしめた千葉家中興の祖ともいえる人物。下総国主・千葉宗家をはじめ、東北は相馬氏や亘理氏といった室町、戦国大名の遠祖であり、岩手県や宮城県などの東北地方に多い千葉家も彼の血を受け継ぐといわれている。常胤以降、千葉氏やその一族は諱に「胤」の一字を用いることが多くなる。

 源頼朝の挙兵が成功したのは、千葉介常胤上総権介広常といった両総平氏の協力が非常に大きい。頼朝は常胤をして「師父」と呼び、弟・範頼に宛てた手紙の中でも「およそ、常胤の大功においては、生涯さらに報謝を尽くすべからざる」ことを申し送っている。また、「千葉介、殊に軍にも高名し候ひけり。大事にせられ候ふべし」と但し書きがなされる(『吾妻鏡』)ほど、戦の上手としても頼朝の信任あつい人物であった。

1,相馬御厨が強奪される【参考文献】(1)(2)(3)(4)(5)(6)

 平安時代末期、相馬郡内の相馬御厨は権力闘争の渦に巻き込まれていた(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)

手賀沼
手下水海(手賀沼)

 千葉次郎大夫常兼が亡くなる(または出家等)と、長子の常重が惣領を継承。その後、天治元(1124)年6月、常重は叔父・相馬五郎常晴の養子となって「先祖相伝領地」であった相馬郡を継承した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鏑矢伊勢宮方記』:『千葉県史料』中世編))

 相馬郡は代々平忠常の子孫が国司から郡司職を宛がわれて継承してきた根本私領で、郡内の郷村は「地主職」として開発した地であった。そして天治元(1124)年10月、常重は国衙から「随即可令知行郡務之由」の国判を受けて「相馬郡司」となった(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。同時に地主職も継承したのだろう。

 その後、常重「為仰神威、定永地」という祈念のもと、大治5(1130)年6月11日、「相馬郡布施郷(布瀬郷)「貢進太神宮御領」した(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。この寄進時に「相馬郡布瀬郷証文等事」を都合五通注進している。常重によるこの寄進は三通目に記載のある「前大蔵卿」の死去に伴うものと思われる。

 一枚 布瀬郷内保村田畠在家海船等注文
 一枚 国司庁宣 布瀬墨埼為別符時、免除雑公事案
 一枚 前大蔵卿殿、布瀬墨崎御厨知時、下総守被仰下消息案、在并其返事等、
 二通 同大蔵殿仰書消息等

 三通目の「前大蔵卿殿」が「布瀬墨崎御厨」を「知時」とあることから、「前大蔵卿殿」は相馬五郎常晴(相馬郡を譲るために常重と養子関係となった)から「布瀬墨崎郷」の寄進を受けて領家となったと思われる。ただし、最終的に「布瀬墨崎御厨」が建立されているので、「前大蔵卿殿」から神宮へ再寄進(神宮は本家)されたのだろう。「前大蔵卿殿」について具体的な名前はないが、承保2(1075)年から大治5(1130)年までの大蔵卿は、以下の通り。

●歴代の大蔵卿(『公卿補任』)

大蔵卿の姓名 就任期間 大蔵卿辞後
藤原長房 承保2(1075)年6月~寛治6(1092)年9月7日 播磨権守兼大宰大弐
藤原通俊 寛治6(1092)年9月7日~寛治8(1094)年 治部卿
源道良 寛治8(1094)年~天永2(1111)年4月24日 死亡
大江匡房 天永2(1111)年7月29日~天永2(1111)年11月5日 死亡
藤原為房 天永3(1112)年正月26日~永久3(1115)年4月2日
(4月1日出家)
出家、翌日死亡
藤原長忠 永久3(1115)年8月13日~大治4(1129)年11月3日
(10月5日出家)
出家、まもなく死亡
源師隆 大治4(1129)年~長承3(1134)年  

 常重が証文を提出した大治5(1130)年6月当時の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。長忠は永久3(1115)年から大蔵卿であり、相馬常晴が「布瀬墨崎郷」を寄進した時期と矛盾はない。また、常重が証文を提出した半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞しており、常重の証文中に見える「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。長忠は辞任の約一月後の11月3日に薨じた。

 おそらく常重は、領家・藤原長忠の薨去を知り、散位源朝臣友定口入人として、大治5(1130)年6月11日、皇太神宮権禰宜荒木田神主延明(稲木大夫)をあらたな領家として布瀬(布施)郷の寄進を図ったのだろう。ただし、寄進についての『注進状』は「布瀬郷内保村」のみであって「墨埼郷」の注進はない。墨埼郷はこの再寄進時には対象にしなかったのだろう。

 寄進状と別添証文などの附嘱状は散位源友定を通じて口入神主・荒木田神主延明へと渡され、8月22日、延明から禰宜荒木田神主元親へ請文を提出。開発田数に任せて地利上分・土産物等の上納が示され、寄進が成立した。これにより常重とその子孫は「得分」として「加地子」を取る権利を得、12月、「領使権守藤原朝臣」「国司庁宣」によって「相馬郡司(常重)」の寄進(国免荘)は公式に認められた。

 寄進条件は、毎年「供祭料」として「地利上分(田:段別一斗五升、畠:段別五升)」と「土産物(雉佰鳥、鹽曳鮭佰尺)」を口入神主「権禰宜荒木田神主延明」と内宮の「一禰宜荒木田神主元親」に納めることであった。

■相馬御厨の寄進条件の貢納品

供祭料 地利上分 田:段別1斗5升
畠:段別5升
土産物   雉:100羽
塩曳鮭:100尾

■相馬郡布施郷=常重が寄進して成立した布施御厨:大治5(1130)年6月11日寄進

 1.限東…蚊虻境(茨城県取手市小文間)
 2.限南…志古多谷并手下水海(柏市篠籠田、手賀沼)
 3.限西…廻谷并東大路(千葉県野田市木野崎)
 4.限北…小阿高、衣河流(茨城県筑波郡伊奈町足高、小貝川)

■「布施御厨」の支配構造

【本家】      【領家】       【預所】    【下司・地主職】
一禰宜荒木田元親―――権禰宜荒木田延明―――散位源友定―――下総権介平常重
(皇太神宮)    (口入神主)     (口入人)

※荒木田元親には「供祭料」の半分が上納され、半分は荒木田延明が得る。
※常重は「加持子」を得る権利が設定。

 ところで、寄進状では「但至于田畠所当官物者、令進退当時領主給」としているように(大治五年六月十一日『正六位上行下総権介平朝臣経繁解申永奉附属所領地事』)、本来国衙に納めるべき得分以外の「田畠所当官物」を「当時領主」への給分と定めたことがわかる。この寄進時においては相馬御厨の「田畠所当官物」は「当時領主」の皇太神宮(実質的には一禰宜荒木田元親、権禰宜荒木田延明)の「進退」となり、「田畠所当官物」も「地利上分」に充当されたとみられる(村川幸三郎『古代末期の「村」と在地領主制』)。相馬御厨の「所当官物」を「地利上分」に含めることは、のち常胤が出した寄進状の記載でも明らかなように、国衙に認められていたものであった。

 なお、大治5(1130)年当時、「下総権守藤原朝臣」とあることから下総守は在国していないが、長承元(1132)年11月23日当時には下総に下向していた(『中右記』長承元年十一月廿三日条)。当時の下総国は摂関家の知行国であると考えられ、国司は摂関家の家人であろう。

 この国司の在任中、長承3(1134)年閏12月24日に左大臣が奏上した「当年荒奏」「当年不堪六通、副文下総国不堪五通、同減省一通」とある通り、下総国からの貢物未進が想定され、下総国司が請していることがわかる(『中右記』長承三年閏十二月廿四日条)。次の国司は下野国(待賢門院領か)から国替した藤原親通であった。彼は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取大神宮)によって重任(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)していることから、おそらく保延元(1135)年正月近辺の任官と思われるが、そのあたりの除書中には記載がなく、具体的な任官期日は不明である。

 保延元(1135)年中に下総国司となった藤原親通が解由の際に未進が発覚したのであろう。この未進分は、前年の長承3(1134)年9月頃に朝廷に報告された「不堪佃田」に起因するものであろうが、この「不堪佃田」に関する何らかの過失を在庁の下総権介であった常重の責としたのかもしれない。なお、長承3(1134)年3月7日には「下総介広賢」が豊後介から改められているが、彼も在京であるため、常重が事実上の国政を行っていたとみられる。

 この未進発覚により、保延2(1136)年7月15日「国司藤原朝臣親通」によって父・常重「有公田官物未進」の罪で拘束された(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。そして「旬月」ののち「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」を勘負したものの、さらに国司親通は11月13日、庁目代・散位紀季経に指示をして常重から「押書相馬立花両郷之新券恣責取署判」って、相馬郡を「妄企牢籠」したのだった(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。この「依官物屓累譲国司藤原親通」(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状』)「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)とあることから官物未納の代償であったことがわかる。ただし、その後も常重は郡司職并びに相馬御厨下司職はそのままであったのだろう。

 この事件から七年後の康治2(1143)年、源義朝は「就于件常時男常澄之浮言、自常重之手」から「責取圧状之文」るという事件を起こしている。義朝と組んだ上総権介常澄は、常重を養子として相馬郡を譲った「相馬五郎常晴」の実子で、常重への相馬郡継承に反発していたとみられる。源義朝はこの「常澄之浮言(当然、義朝と常澄の結託の結果であろう)を理由に相馬郡の領有について介入(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)したのである。

-親通流藤原氏系図-

 藤原師輔―+―兼家――+―道綱  +―伊周                 +―親頼―――+―親長      +―親長――――+―宣親
(関白)  |(関白) |(右大将)|(内大臣)               |(右馬助) |(皇嘉門院判官代)|(皇太后宮亮)|(日向守)
      |     |     |                    |      |         |       |
      |     +―道隆――+―隆家                 |      +―親能――――――+―親光    +―忠能
      |     |(関白)  (太宰権帥)              |       (散位)              (律師)
      |     |                          |
      |     +―道長――――頼通―――師実―――…        +―親方(源?)――――二条院内侍
      |      (関白)  (関白) (関白)           |(下総守)        |
      |                                |             ↓
      +―為光――――公信――――保家―――公基―――伊信―――親通――+―親盛―――+=====二条院内侍
       (太政大臣)(権中納言)(春宮亮)(周防守)(長門守)(下総守)|(下総大夫)|         ∥
                                       |      |         ∥
                                       |      |         ∥――――資盛
                                       |      |         ∥   (右少将)
                                       |      | +―平清盛―――重盛
                                       |      | |(太政大臣)(内大臣)
                                       |      | |
                                       |      | +―娘     +―快雅
                                       |      |   ∥     |(功徳院権僧正)
                                       |      |   ∥     |
                                       |      +―千田親雅――――+―聖円
                                       |      |(皇嘉門院判官代) (権律師)
                                       |      |
                                       |      +―盛光
                                       |      |(筑前権守)
                                       |      |
                                       |      +―盛保
                                       |      |(散位)
                                       |      |
                                       |      +―顕盛==日野邦俊――邦行―――種範―――俊基
                                       |      |    (彈正少弼)(大学頭)(治部卿)(少納言)
                                       |      |
                                       |      +―円玄
                                       |      |(法橋)
                                       |      |
                                       |      +―弁然
                                       |       
                                       |     
                                       +―承元―――+―承長
                                       |      |
                                       |      |
                                       +―円空   +―覚経
                                       | 
                                       |
                                       +―忠顕
                                        (阿闍梨)

 相馬御厨の範囲は、常重が大治5(1130)年に寄進した「布施郷」は南端が「志古多谷并手下水海」、源義朝が康治2(1143)年に常重から「責取」り、天養2(1145)年に寄進した地域の「管相馬郡」の「相伝領知」の南端は「蘭沾上大路」であった。そのほかの寄進状に見られる「小野上大路」「坂東大路」も同一の官道(大路)を指しているとみられ、「蘭沼」の南崖上(柏市布施)を東西に走り、古代には「於賦駅(我孫子市新木)」が置かれ、相馬郡衙へも通じていた官道(現在の国道356号と一部重なるか)を南端とする一帯であろう。

年月日 東端 南端 西端 北端 文書
前身 天治元(1124)年10月
~大治4(1129)年
不明 不明 不明 不明 布瀬墨埼御厨
『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』
1 大治5(1130)年
6月11日
蚊虻境 志子多谷并手下水海 廻谷并東大路 小阿高并衣河流 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』
2 天養2(1145)年
3月
須渡河江口 藺沽上大路 繞谷并目吹岑 阿太加并絹河 『源義朝寄進状写』
3 久安2(1146)年
8月10日
逆川口笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川常陸国境 『平朝臣常胤寄進状写』
4 永暦2(1161)年
正月日
常陸国堺 坂東大路 葛餝幸嶋両郡堺 絹河常陸国境 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』
5 永暦2(1161)年
2月27日
逆川口笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川常陸国境 『下総権介平常胤解案写』

源義朝の東国下向

 源義朝は、鳥羽院に仕える源為義と院近臣藤原忠清の女子を母として京都で生まれた。若くして東国に下向した理由は諸説あるが、為義が鳥羽院の信任を失って摂関家に近づくにあたり、院近臣の娘を母とする義朝を廃嫡し遠ざける意味があったという説が通説となっている。しかし、義朝は東国に下向して以降、秩父氏、両総平氏、大庭氏、波多野氏ら東国武士の再組織化を行いつつ京都へ戻っており(その後も関東と京都を往復していたのだろう)、義朝が関東へ下ったのはあきらかに為義による東国経営の一環であったと考えられる。

 義朝が関東へ下向した時期については定かではないが、前述の通り、弟の義賢が東宮體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となった保延5(1139)年8月17日よりも前であろう。遅くとも「永治二年(1142)」に「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)への「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)した時点では、すでに関東へ下っている。

 上記の高山御厨(飯能市高山)は「天承元(1131)年建立」の神宮領で、もともと為義が相伝した所領であろう。その後、「永治二年(1142)」に「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された。「代々国判」とあることから高山御厨は国免荘である。為義はおそらく亡父義家の譲りを受けた高山郷(御厨建立後は高山御厨)の権益を有し、義朝がこれを嫡子として継承したと思われ、のちに高山御厨が没官されたのは義朝が平治の乱で討たれたためだろう。高山御厨はおそらく義朝が下司となり、実質的には家人の「秩父権守(秩父重綱)」(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)の三男の三郎重遠が派遣されていたのだろう。没官された高山御厨は、その後、建久6(1190)年8月に「可早任宣旨并故左馬頭家御起請寄文代々国判等旨、如本奉免、被令知行所」として奉免されることとなる。これは同年6月まで在京し、故義朝の復権に尽力した義朝の子・源頼朝の強い働きかけによるものであろう。

 高山御厨は、のちに帯刀先生源義賢(義朝異母弟)が館を構えた上野国多胡館多野郡吉井町多胡)に直線で約7キロと近く、義賢は上洛した義朝に代わって、秩父氏との紐帯を強める意味で下向を指示されたとみられる。「上野国多胡」「八幡殿」がこの地の義家郎従とみられる「多胡四郎別当大夫高経」が後三年の役に従わなかったため、「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広っていて、為義が高山御厨を建立し、義朝を秩父権守重綱のもとへ遣わしたのも、義朝が下野守となり常京になるに及んで弟の義賢が多胡に派遣されたのも、為義による東国の地盤固めが最たる理由であろう。なお、後年、義賢遺児で信濃国木曾郡で平家政権への反旗を翻した木曾冠者義仲は一時多胡郡に立ち寄ったのも、故義賢の誼を通じての軍勢催促であり、治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原合戦の際には義仲方の「上野国住人高山党三百騎」が参戦し、城資職方の老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦している。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)

 義朝の嫡男、源太義平が生まれたのは、永治元(1141)年(『平治物語』より逆算)で、義朝十八歳の時であるが、母は「橋本遊女或朝長同母」(『尊卑分脈』)とある。義平がどこで誕生したのかは不明だが、「秩父権守重綱室妻(児玉党の有三別当経行女)(『兒玉党系図』)「号乳母御前」(『小代宗妙置文』)「号乳母御所、悪源太殿称御母人」(『兒玉党系図』)として慕っていることから、重綱とその妻に養育されて成長したことがわかる。おそらく武蔵国比企郡に誕生したのだろう。義朝は義平を嫡男として扱い、その後見を秩父権守重綱に託したこととなる。このことからも重綱と為義・義朝との間に深い主従関係が構築されていることがわかる。

 なお、義朝は武蔵国に常駐していたわけではなく、京都と東国諸国(相模国、上総国、安房国など)の家人の間を行き来していたと考えられ、相模国大庭御厨に乱入した天養元(1144)年中には上洛して院近臣藤原季範女子と通じ(翌年長女「右武衛室」誕生)、天養2(1145)年には摂津国江口宿にも通い(翌年次女「江口腹の御女」誕生)、季範女子とも通じている(翌年三男頼朝が誕生)。また、五男(四男?)範頼は「於遠州蒲生御厨出生」「母遠江国池田宿遊女」であり、義朝は京都と関東を往復していた証左であろう。

●源義朝等の動向

月日 義朝年齢 義朝の所在 義朝の動向 出典
保安4年
(1123)
  1歳 京都 源為義の嫡子として京都に誕生。  
天承元年
(1131)
正月29日以降 9歳 京都か 上野国緑野郡高山保?をおそらく父・
為義が神宮へ寄進して御厨を建立。
『神宮雑書』
天承元(1131)年~保延5(1138)年頃の間に、義朝は関東へ下る。
保延5年
(1139)
8月17日 16歳 武蔵国比企郡か 弟の源義賢、體仁親王(のち近衛天皇)の立坊に伴い、春宮坊帯刀先生となる。 『古今著聞集』より推定
保延6年
(1140)
  17歳 武蔵国比企郡か 源義賢が瀧口源備殺害に関与していたことが判明して、春宮坊帯刀先生を罷免される。 『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四
永治元年
(1141)
  18歳 武蔵国比企郡 嫡男の源義平が誕生。
母は橋本遊女。乳母は秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)。義平は重綱妻を「御母人」と呼ぶ。
『兒玉党系図』
永治2年
(1142)
4月28日以前 19歳 武蔵国比企郡 「故左馬頭家御起請寄文」に基づき、上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)に「被下奉免宣旨」された。 『神宮雑書』
康治2年
(1143)
  20歳 上総国一宮か 「前下野守源朝臣義朝存日、就于件常晴男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」と、上総権介常澄と組んで、下総国相馬御厨を千葉常重から圧し取る。 『櫟木文書』
  相模国鎌倉 この頃、義朝は相模国松田郷を中心とする一帯を抑える波多野義通妹と通じており、鎌倉へ本拠を移したとみられる。このとき、上総国から付けられたのが常澄の八男、介八郎広常であろう。広常は鎌倉北東部に館を構えている。 『天養記』
天養元年
(1144)
  21歳 相模国鎌倉 二男の源朝長が誕生。
母は波多野義通妹。「此殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀典膳大夫久経為子、仍父義通、就妹公之好、始候左典廐」という。朝長は波多野氏のもとで成長し「松田御亭故中宮大夫進旧宅」に住んだという。
『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条
9月上旬 相模国鎌倉 大庭御厨内の鵠沼郷(神奈川県平塚市鵠沼)は鎌倉郡内であると難癖をつけて領有を主張し、郎従清大夫安行らを鵠沼郷に差し向けて伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。 『天養記』
10月21日 相模国鎌倉 義朝は田所目代源頼清らと結託し、「上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じて再度大庭御厨に濫妨をはたらく。 『天養記』
10月22日 相模国鎌倉 御厨の境界を示す傍標を引き抜き、収穫の終わったばかりの稲を強奪し、下司職景宗の館に乱入して、家財を破壊して奪い取り、家人を殺害した。 『天養記』
  相模国鎌倉 御厨定使散位藤原重親、下司平景宗(大庭景宗)が荘園領主の神宮に急使を派遣して濫妨を訴えた。  
  尾張国か 院近臣藤原季範(熱田大宮司)の女子と通じる。  
天養2(1145)年 3月4日 22歳 尾張国か 朝廷より義朝らの濫妨停止の官宣旨が出される。 『天養記』
  尾張国か 神宮の怒りを恐れ、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」と、相馬御厨を神宮に寄進する。 『櫟木文書』
  京都 京都近辺に在住か(摂津国江口に通う範囲)  
  京都 長女の「右武衞室」が誕生。
母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母姉。
『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算
久安2年
(1146)
  23歳 京都 次女の「江口腹の御女」が誕生。
母は摂津国江口の遊女。
院近臣藤原季範女子と通じる。
『平治物語』より逆算
久安3年
(1147)
  24歳 京都 三男の源頼朝が誕生。
母は院近臣藤原季範女子。外祖父季範は在京とみられるが、頼朝自身の出生地は京都か尾張熱田かは記録がない。
 
久安4年
(1148)
  25歳 京都⇒関東⇒
京都か
五男(四男?)の源範頼が誕生か。
母は「遠江国池田宿遊女」。
「於遠州蒲生御厨出生」で、藤原範季に養育される。
 
久安5年
(1149)
  26歳
久安6年
(1150)
  27歳
仁平元年(1151)   28歳 京都 院近臣藤原季範女子と通じる。  
仁平2年(1152)   29歳 京都 四男(五男?)の源希義が誕生。
母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母弟。
『平治物語』より逆算
仁平3年(1153) 3月28日 30歳 京都 義朝、従五位下下野守に任官
叙任は「故善子内親王未給合爵」による4。
『兵範記』仁平三年三月廿八日条
夏頃 弟義賢、上野国多胡郡に居住。 『延慶本平家物語』第三本
同年中 義賢の子、義仲が上野国に誕生。  
同年中 九條院雑仕常盤と通じる。  
久寿元(1154)年   31歳 京都 六男の醍醐禅師全成が誕生。
母は「九條院雑仕常盤」。
『尊卑分脈』より逆算
久寿2年(1155) 8月16日 32歳 京都 源義賢、武蔵国比企郡大蔵館で、比企郡小代郷から攻め寄せた悪源太義平に討たれる。  
九條院雑仕常盤と通じる。  
保元元(1156)年   33歳 京都 七男の卿公義円が誕生。
母は「九條院雑仕常盤」。
『尊卑分脈』より逆算
12月29日 重任、下野守義朝、造日光山功 『兵範記』保元元年十二月廿九日条
保元2(1157)年 正月24日 34歳 京都 従五位上 平重盛 父清盛朝臣召進忠貞賞
     源義朝 召進盛憲賞
     右兵衛佐平頼盛
     使左衛門少尉平信兼
『兵範記』保元二年正月廿四日条
10月22日 正五位下 源義朝、北廓 『兵範記』保元二年十月廿二日条
保元3(1158)年   35歳 京都 九條院雑仕常盤と通じる。  
平治元(1159)年   36歳 京都 八男の源義経が誕生。
母は「九條院雑仕常盤」。
『尊卑分脈』より逆算

●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)

 有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
      |
      +―有道経行――女子     秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
       (有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
                  
               秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
               母秩父十郎平武綱女也
 
  下総権守    秩父平武者   武者太郎   蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
 行重      行弘      行俊     経重    経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、

 重綱の娘は武蔵国埼玉郡大田郷(行田市小針周辺)を本拠とする藤原秀郷の末裔、大田大夫行政の子・三郎行光に嫁ぎ、大田太郎行広大河戸行方を産んでいる(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。大田氏が本拠とする大田郷は、荒川を挟んで秩父氏の支配地と隣接しており、こうしたことから婚姻関係が成立したものとみられる。『尊卑分脈』では大田大夫行政」の弟大田四郎行光此義正説也、或行政子の子号大河戸 下総権守行方」の項に「母秩父太郎重綱女」とあるが、弟の行広の母は記されていない。なお『尊卑分脈』の小山氏周辺の系譜は人名や罫の攪乱が多い。

 小山四郎政光下河辺五郎行義も大田行光の子があるが、彼らの母は兄の行広と行方とは異なるのだろう。政光と行義はともに武蔵国を離れ、政光は下野国衙付近の小山郷に進出し、行義は下総国下河辺庄の庄司となっている。大田行政は兄弟子息らの名字地を見るに、上野国から武蔵国、下野国、常陸国にまで広がる強大な勢力を誇っていたことがわかる。のちに秩父平氏から別当が輩出されることとなる都幾川上流の名刹慈光寺別当に、古くは大田行政の弟・阿闍梨快実が別当職となっており、その勢力の大きさがうかがわれる。

●『秀郷流藤原氏諸家系図』と秩父氏系図

                    +―法橋厳耀         +―畠山重保
                    |(慈光寺別当)       |(六郎)
                    |              |
        秩父重綱―+―秩父重弘―+―畠山重能――――畠山重忠―+―円耀
       (秩父権守)|(太郎太夫) (畠山庄司)  (庄司次郎) (慈光寺別当)
             |
             +―女子   +―大田行広――――大田行朝―――大田行助
               ∥    |(太郎)    (大田権守) (七郎)
               ∥    |
               ∥――――+―大川戸行方―+―清久広行―――清久広綱――清久秀衡
               ∥     (下総守)  |(太郎)
               ∥            |
               ∥            +―大川戸秀行――大川戸秀綱――大川戸秀胤
               ∥            |(次郎)   (三郎兵衛) (孫三郎)
               ∥            |
               ∥            +―高柳秀行
               ∥            |(三郎)
               ∥            |
               ∥            +―大川戸行基
               ∥            |(四郎)
               ∥            |
               ∥            +―葛浜行平
               ∥             
 大田宗行―+―大田行政―――大田行光―――大田政光====吉見頼経
(下野大介)|(下野大介) (下野大介) (下野大掾)  (三郎) 
      |               ∥
      +―快実            ∥―――――+―小山朝政
       (慈光寺別当)        ∥     |(小四郎)
                      ∥     |
               八田宗綱―――女子    +―長沼宗政
              (武者所)  (寒河尼)  |(五郎)
                            |
                            +―小山朝光
                             (七郎)     

 重綱室の一人、横山次郎大夫経兼娘の従姉妹(近衛局、兵衛局)は常陸国八田郷の八田権守宗綱の室となるが、彼女は「八田権守妻、宇都宮左衛門尉朝綱之母也、右大将家御乳母也、近衛局兵衛局也(『小野氏系図』「続群書類従」第七輯上)とあるように、頼朝の乳母となっている。そしてその娘(のち寒河尼)も頼朝乳母となり、小山政光に嫁いで小山朝政、長沼宗政、結城朝光を産んでいる(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。のちに義朝が下野守となるに及び、秩父氏と重縁にあたる小山政光を何らかの所役に起用しているのかもしれない。比企郡司の女子(のちの比企尼)八田宗綱室(兵衛局)、小山政光室(のちの寒河尼)頼朝の乳母としたのも、秩父氏所縁の女性という事が大きな理由であろう。

 このほか、「武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女今日者尼、號摩摩、住国相摸早河庄」(『吾妻鏡』治承五年閏二月七日条)とあるように、相模国中村党の女性も頼朝の最初期乳母として召されていたことがわかる。なお、「故左典厩御乳母字摩摩局、自相摸国早河庄参上、相具淳酒献御前、年歯已九十二、難期且暮之間、拜謁之由申之幕下、故以憐愍給、是有功故也」(『吾妻鏡』建久三年二月五日条)とあるように、義朝自身の乳母も相模国中村党の女性であった。義朝は相模国山内庄の首藤刑部丞俊通の妻(のちの山内尼)も頼朝の乳母としており、為義、義朝の東国の拠点の中心は武蔵国と相模国にあったと推測される。

            【重綱養子】
            +―秩父行重――――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重
            |(平太)          (武者所)  (武者太郎)   (三郎)
            |                              ↑
            |【重綱養子】                        |
            +―秩父行高――――――――――小幡行頼           |
            |(平四郎)         (平太郎)           |
            |                              |
       兒玉経行―+―女子          +―宇都宮朝綱          |
      (別当大夫) (乳母御前)       |(三郎)            |
              ∥           |                |
              ∥   八田宗綱    +―八田知家           |
              ∥  (八田権守)   |(四郎)            |
              ∥   ∥       |                |
              ∥   ∥―――――――+―女子   +―小山朝政    |
              ∥   ∥        (寒河尼) |(小四郎)    |
              ∥   ∥         ∥    |         |
              ∥   ∥         ∥――――+―長沼宗政    |
              ∥   ∥         ∥    |(五郎)     |
              ∥   ∥         ∥    |         |
      +―小野成任――∥―――女子   +――――小山政光 +―結城朝光    |
      |(野三太夫) ∥  (近衛局) |   (下野大掾) (七郎)     |
      |       ∥        |                   |
      |       ∥ +―横山孝兼――――――女子   +―法橋厳耀    |     +―畠山重秀
      |       ∥ |(横山大夫)|    ∥    |(慈光寺別当)  |     |(小太郎)
      |       ∥ |      |    ∥    |         |     |
 横山資隆―+―横山経兼――∥―+―女子   |    ∥――――+―畠山重能  +―畠山重光  +―畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥   ∥    |    ∥     (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
              ∥   ∥    |    ∥      ∥     |       |
              ∥   ∥―――――――――秩父重弘   ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
              ∥   ∥    |   (太郎大夫)  ∥      (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
              ∥   ∥    |           ∥             |
              ∥   ∥    |  +―江戸重継―+―女子            +―円耀
              ∥   ∥    |  |(四郎)  |               |(慈光寺別当)
              ∥   ∥    |  |      |               |
              ∥   ∥    |  +―高山重遠 +―江戸重長          +―女子
              ∥   ∥    |  |(三郎)   (太郎)           | ∥
              ∥   ∥    |  |                      | ∥     
              ∥   ∥    |  +―女子   +―大田行広          | 島津忠久
              ∥   ∥    |  | ∥    |(太郎)           |(左兵衛尉)
              ∥   ∥    |  | ∥    |               |
              ∥   ∥    |  | ∥――――+―大河戸行方         +―女子
              ∥   ∥    |  | ∥     (下野権守)           ∥
              ∥   ∥    |  | ∥                      ∥
              ∥   ∥    +――|―藤原行光                   足利義純
              ∥   ∥       |(四郎)                   (上野介)
              ∥   ∥       |                      
       秩父武綱―+―秩 父 重 綱―――――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
      (十郎)  |(秩 父 権 守)     (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎)   |(小太郎)
            |       ∥                    |       | 
            +―女子    ∥                    +―妹     +―河越重員
              ∥―――――――――――+―秩父行重           ∥      (三郎)
              ∥     ∥     |(平太)            ∥
              ∥     ∥     |                ∥
       有道遠峯―+―兒玉経行――女子    +―秩父行高           ∥―――――+=小代俊平
      (有貫主) |(別当大夫)(乳母御前)  (平四郎)           ∥     |(二郎)
            |                              ∥     |
            +―兒玉弘行――――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平  +―小代弘家
             (有大夫)         (三郎大夫) (二郎大夫)  (右馬允)

●源氏の人々の乳母等

  乳母名 乳母夫 備考 出典
源為義 廷尉禅室御乳母 山内首藤資通入道
(仕八幡殿)
相模国   『吾妻鏡』
治承四年十一月廿六日条
源義朝 摩摩局
(故左典厩御乳母、年歯已九十二)
康和3(1101)年生まれ
中村党か 相模国 相摸国早河庄 『吾妻鏡』
建久三年二月五日
源義広 乳母某
(乳母子、多和山七太)
多和山某 不明 義賢同母弟 『吾妻鏡』
治承五年閏二月廿三日条
源義平 乳母御前
乳母御所
(有三別当経行の女子)
秩父権守重綱 武蔵国   『小代宗妙置文』
『兒玉党系図』
源頼朝 摩摩
(武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女)
中村宗平? 相模国 住国相摸早河庄 『吾妻鏡』
治承五年閏二月七日条
乳母某
(乳母妹の子が三善康信)
三善氏 京都   『吾妻鏡』
治承四年六月十九日条
乳母某
(久安5年、頼朝のために十四日間清水寺に参篭し、二寸銀正観音像を得る)
不明 不明   『吾妻鏡』
治承四年八月廿四日条
山内尼【武衞御乳母】
(山内瀧口三郎経俊の老母)
山内首藤俊通 相模国   『吾妻鏡』
治承四年十一月廿六日条
比企尼【武衞乳母】
(義員姨母、甥義員を猶子とする。武蔵国比企郡を請所として夫の掃部允を相具して下向している)
掃部允 武蔵国   『吾妻鏡』
寿永元年十月十七日条
兵衛局【右大将家御乳母】
(宇都宮左衛門尉朝綱之母)
八田権守宗綱 下野国   『小野氏系図』
寒河尼【武衛御乳女】
(故八田武者宗綱息女)
小山下野大掾政光 下野国   『吾妻鏡』
治承四年十月二日条
源義仲 乳母某 中三権守兼遠 上野国
または信濃国
または京都
  『吾妻鏡』
治承四年九月七日条

 永治2(1142)年の高山御厨寄進後、義朝は幼い嫡子義平を重綱に預け、上総国の上総権介常澄のもとへ移り「上総曹司源義朝」と称されている(『天養記』天養二年三月四日)。ただし、義朝はつねに武蔵国比企郡にいたというわけではなく、上総国埴生庄の権介常澄のもとや、相模国鎌倉郡などを積極的に動き回りながら、武蔵国、上総国、相模国、安房国の為義家人の間にネットワークを構築していたとみられる。義朝は常澄の同族である下総権介常重とも関わりを持ち、常重の嫡子常胤と秩父重綱孫娘(重弘女子)との婚姻を行わせた可能性もあろう。地縁も血縁も政治的活動も接点のみられない秩父と千葉の関係構築には何らかの触媒(この場合は為義の指示を受けた義朝)が関わった可能性も十分考えられる。

 ところが義朝は、康治2(1143)年に下総国相馬御厨について「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手」から「責取圧状之文」るという事件を起こしている(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』:『櫟木文書』)。相馬郡を領する千葉常重から、義朝が平常澄の「浮言」を利用して強引に譲状(圧状と認定された)を責取ったものであった。義朝の意図は不明確ながら、源家家人の血統を引きながら、為義・義朝に協力的ではない人々への強い制裁と考えられよう。この流れは翌天養元(1144)年に相模国の大庭御厨の御厨下司平景宗(大庭御厨を開発した義家郎従平景正の子孫または一族子孫)への制裁としても表れている。相模国鎌倉へ移った義朝は(このとき常澄の子、八郎広常が鎌倉に同道したと思われる)、大庭御厨の高座郡内字鵠沼郷を「鎌倉郡内」と称し、9月上旬、義朝と結託した国府の田所目代源頼清の下知のもと、義朝郎従清大夫安行、新藤太、庁官等が大庭御厨に乱入した。さらに10月21日にも「田所目代散位源朝臣頼清」や在庁官人および「義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」ら千余騎による狼藉が行われた(『天養記』天養二年三月四日)

 ただ、大庭御厨の濫妨がかなり悪質であったことから、神宮の激しい怒りを買っており、義朝は天養2(1145)年に「恐神威永可為太神宮御厨」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)と、相馬御厨の避状を神宮に提出することとなる。

 なお、義朝は東国家人の再編成の過程で神宮領への狼藉が発生せざるを得ない中、神宮を畏敬していた様子がうかがわれる。安房国丸御厨は「左典厩義朝令請廷尉禅門為義御譲給之時、又最初之地也」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)で、「而為被祈申武衛御昇進事、以御敷地去平治元年六月一日奉寄 伊勢太神宮給」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)というものであり、為義、義朝の神宮信仰心は、故義朝を敬愛する頼朝へと引き継がれ、頼朝は鶴岡八幡宮寺と並んで甘縄神明社を深く崇敬した。そして従者(源頼政または熱田大宮司家と関わりのある人物か)で側近の藤九郎盛長源家別邸の甘縄邸に置いてこれを管理させ、数度にわたって神明社を参詣しているのである。 

       平貞盛―――女    +―藤原隆時―――藤原清隆
      (信濃守)  ∥    |(因幡守)  (中納言)
             ∥    |
             ∥――――+―藤原範隆―――藤原資隆
             ∥     (甲斐守)  (上西門院蔵人)
             藤原清綱
            (左衛門佐)
             ∥――――+―藤原隆能
             ∥    |(主殿頭)
             ∥    |
後三条天皇――高階為行――女    +―藤原忠清―+―藤原惟忠――――――藤原惟清
      (信濃守)       |(淡路守) |(太皇太后宮大進)
                  |      |
                  |      +―藤原清兼――――+―藤原清長
                  |      |(太皇太后宮大進)|(太皇太后宮大進)
                  |      |         |
                  |      |         +―藤原康俊
                  |      |         |(待賢門院蔵人)
                  |      |         |
                  |      |         +―藤原惟清
                  |      |          (左大臣勾当)
                  |      |
                  |      +―藤原行俊――――――藤原清定
                  |      |(待賢門院蔵人)  (八条院蔵人)
                  |      |
                  |      +―女
                  |        ∥―――――――――源義朝
                  |        ∥        (下野守)
                  |        源為義
                  |       (検非違使)
                  |          
                  +―藤原隆重―+―藤原政重
                   (筑前守) |(白河院蔵人)
                         |
                         +―平忠重【刑部卿平忠盛為子改姓】
                         |(散位)
                         |
                         +―藤原清重――――――藤原在重
                         |(蔵人)      (上西門院判官代、下総守)
                         |
                         +―右衛門佐
                          (後白河院宮女)
                           ∥
                           藤原信西
                          (少納言入道)

下総権介について

 常重の「下総権介」が除目による本任か国司による任用かは不明だが、受領による任用は掾・目に限られていた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。ただし、祭祀や儀式、そして「辺境という特殊性を前提とする」場合等には、国司は「介」以下の任用国司を「推薦」することもできた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。この際には、国司が「誰かによる口入を経たうえで、年給の枠を持つ、より地位の高い有力者に推薦を依頼する必要」があったとされる(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。下総平氏が独占して代々「下総権介」に就いていた理由は、承平の乱や長元の乱といった大規模な騒乱のあった関東の治安の要として、当国に「一定の関係を持ち、地縁から現地において重要な役割を果たしうる存在として、歴代の受領から権介への就任を求められ続けた」(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)可能性が高いだろう。

 常重は拘禁当時「下総権介」であったが、拘禁によって罷免され、常重の弟・海上余一常衡が「下総権介」となったのだろう。なお、常重は康治2(1143)年までの存命は確認できるが、久安2(1146)年には子・常胤が常重に代わって「相馬郡司」に任じられ、「親父常重」の契状に基づいて「(常重子孫が継承する)御厨下司」になっていることから、常重は康治2(1143)年に亡くなったと推測される。

 常衡はその通称「余一」から千葉介常兼の十一男(千葉介常重の弟)とされているが、鎌倉期成立の『徳嶋本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』によれば、常衡(常平)はいずれも常重よりも輩行が前にあり、実際には常兼の長男であった可能性が高い。しかし、常兼の長男でありながら、祖父・千葉大夫常長の十一男にも擬されており(「実常兼子」の註)、何らかの事情によって祖父常長の養子とされ、下総権介に任じられていたのかもしれない。

『桓武平氏諸流系図』(中条家文書)

 千葉常永―+―千葉恒家
(千葉大夫)|
      |       
      +―千葉恒兼―――+―千葉常平
       (千葉次郎大夫)|(余一介)
               |
               +―千葉常重――千葉常胤
               |(大権介) (大千葉介
               |
               +―相馬常晴
                  恒兼為子実弟也

『徳嶋本千葉系図』

 千葉常長――+―千葉常兼――+―海上常衡
(千葉介)  |(千葉介)  |(与一介)
       |       |
       +―千葉常房  +―千葉常重――千葉常胤
       |(鴨根三郎)  (大椎介) (千葉介)
       |
       +=常衡
       |(与一平、実常兼子)
       |
       +―相馬常晴
        (上総介)

 常衡は海上郷の地理的条件の中、内海(香取海)を通じて隣り合う常陸大掾家と縁戚関係にあったと推測され、「常衡」やその子「常幹」の片諱にある「衡」「幹」がそれをうかがわせる。常衡自身も「余一平」とあるように兵衛尉に任官していた形跡があり、常衡の孫・常親「大夫=五位」と、東国の豪族が与えられる官位としては相当高いものであった(常胤は「正六位上」)。

■海上氏略系図

⇒平常兼―海上与一常衡―太郎常幹―小大夫常親―小大夫次郎常宗

 ◎海上与一常衡⇒「海上庄」を領した「下総権介」平氏の11男(与一)の常衡
 ◎海上太郎常幹⇒「下総権介」の「長男=太郎」である常幹
 ◎小大夫常親⇒「従五位下=大夫」である父・常幹の子の「従五位下=大夫」の常親
 ◎小大夫次郎常宗⇒「小大夫」の常親の「次男=次郎」の常宗

源義朝と相馬御厨

 康治2(1143)年、武蔵国から上総国に移った源義朝は「自常重之手」から相馬御厨について「責取圧状之文」った。実は康治2(1143)年正月27日の除目で「従五位下源親方」「前司親通進衛料物功」「下総守」となっている(『本朝世紀』康治二年正月廿七日条)。義朝が常重から相馬御厨に関する避状を圧し取ったのは、相馬御厨が国免であるが故の国司交代を狙った可能性があろう。

 親通の後継国司となった「源親方」は親通の子「従五位下下総守 親方」(『尊卑分脈』)と同一人物とされる(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)。親通は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取大神宮)」によって重任しており(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)、親通―親方という親子での継承だったことがわかる。親族で国司が継承される場合は姓を改めて記載される例があるという(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)

 康治2(1143)年以降、常重は姿を消し、代わって嫡子・常胤が現れる。義朝は相馬御厨を常重から「掠領」したが、常重が大治5(1130)年に布施郷を神宮へ寄進した際の口入神官・荒木田神官延明が「沙汰」したことで(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)、義朝は天養2(1145)年3月11日、「為募太神宮御威、限永代所寄進也」(天養二年三月十一日『源某寄進状』)「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)とある通り、神宮へ寄進することとなる。

烏森神社(鵠沼神明社)
鵠沼神明社(伊介神社)

 義朝が寄進した理由は「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由、被令進避文候畢者」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)とあることから、義朝が神宮の怒りを買っていた様子がうかがわれる。これは、前年の天養元(1144)年9月、「上総曹司源義朝」らが相模国大庭御厨で濫妨を働いたたためだろう。義朝はこの時点で「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」とあり、すでに上総にはおらず「鎌倉之楯」「伝得」して移り住んでいたことがわかる(「官宣旨案」『平安遺文』2544)。なお、後年頼朝が鎌倉入部して館が成った際、すでにその地に存在していた「上総介広常」の館から遷っており、鎌倉は義朝父・為義から「鎌倉之楯」を受け継ぎ、その移徒には鎌倉に屋敷があった常澄の後援があったのかもしれない。

 この義朝の大庭御厨への濫行で御厨内「伊介神社」の祝であった荒木田彦松が頭を割られて殺されており、相馬御厨領主で彦松と同族と思われる内宮禰宜荒木田一族は怒り、荒木田神主延明が義朝に何らかの「沙汰」をしたと思われる。義朝は朝廷の譴責の対象となっており、翌天養2(1145)年3月4日に御厨に対する濫妨停止を相模国司に出したことを知らせる宣旨が「伊勢大神宮司」へ出されている(天養二年三月四日『宣旨案』:『天養記』)

 この義朝の相馬御厨の寄進を知った(おそらく荒木田延明または明盛からの報告であろう)常胤は、父・常重が「弁済」として作成した相馬郷・立花郷の「新券」を取り戻すべく、久安2(1146)年に「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国庫に「進済」した。

保延2(1136)年
・常重未進の追徴分(貢納されず)
①准白布:726段2丈5尺5寸
久安2(1146)年
・常胤進済の貢納分
①上品八丈絹:30疋
②下品:70疋
③縫衣:12領
④砂金:32両
⑤藍摺布上品:30段
⑥中品:50段
⑦上馬:2疋
⑧鞍置駄:30疋

 これにより、久安2(1146)年4月、常胤は「国判」を以て正式に「相馬郡司職」に還任され、「可令知行郡務」とした。このとき「其中一紙先券之内、被拘留立花郷壱處許之故、所不被返与件新券也」(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))とあることから、常重が保延2(1136)年に国司藤原親通に「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)のうち、相馬郷の「新券」は返与されたことがわかる。

 なお、相馬郷と同じく親通に弁済された「立花郷壱處許」は国衙に留め置かれて「所不被返与件新券」とある通り返与されなかった。なお、「立花郷」はその後、親通流藤原氏から主君の摂関家藤原忠通へ寄進されたと思われ、「橘」庄が立荘されている。そして隣接する木内郷も荘園化していることから、親通流藤原氏は「橘木内庄」を摂関家に寄進したのだろう。この「橘木内庄」は忠通の子・権大納言兼房へ譲られたとみられ、文治2(1186)年3月12日当時、「二位大納言家」領として「貢未済庄々」に列記されている(『吾妻鏡』文治二年三月十二日条)

伊勢内宮
伊勢内宮

 常胤は相馬郷の返与に伴い「至于相馬地者、且被裁免畢」(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)されて「相馬郡司」に任じられたため、「親父常重」が内宮と交わした契約書に基づいて、返与された先券をもとに久安2(1146)年8月10日、「御厨下司正六位上平朝臣常胤」として内宮へ相馬郷を寄進する(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状写』)。なお、寄進時に於いてすでに「御厨下司」と称しているのは、「常重契状」「下司職者以経重子孫」(大治五年十二月『下総国司庁宣写』)などの一文が入っていたためと思われ、天養2(1145)年3月11日の源義朝の寄進を強烈に否定する意味があったのであろう。

 寄進については、4月の「進済」「相馬郡司」の補任から7月までの間に内宮との間で細かい取り決めが済んだとみられ、寄進日付で、加地子・下司職は常胤の子孫に相伝され、「預所職」「本宮御牒使清尚」の子孫に相承されるべきこと寄進条件が追加された正式な寄進状が作成された(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)。結果として、源義朝の寄進は事実上否定されたことになろう。

●12世紀の下総守

 久安7(1151)年正月、藤原信成下総守となる。彼は久寿2(1155)年2月25日、「下総、伊豆、佐渡 已上延任各二年」とあることから、四年の任期後に二年の延任が認められている。ただし、同じく春日祭に従った「諸大夫」の「院北面 下総守信成」(『兵範記』仁平四年正月三十日条)は、「下総前司」とされているが(『兵範記』仁平四年ニ月ニ日条)、その後も信成が在任していることが確認できることから、『兵範記』の誤記であろう。

 前任の下総守の親方と弟・親盛(故親通男、下総大夫)は仁平4(1154)年正月30日、春日祭上卿となった「左府家嫡中納言中将殿(藤原兼長)」に従う「散位」の「地下君達」として名が見えており(『兵範記』仁平四年正月三十日条)、氏長者の頼長の家人で嫡子・兼長に付されたと推測される。その後任は摂関家の家人ではなく、院の影響下にあった人物が就いていることから、下総国は摂関家から鳥羽院へ移ったのであろう。

任官・在任年 在任 人名 備考 出典
【除目】
大治2(1127)年
正月20日
大治2(1127)年~
大治5(1130)年
藤原茂明 大治5(1130)年、讃岐介に転じる 『中右記』
大治二年正月廿日条
【在任】
長承元(1132)年
11月23日
  (某) 当時、下総国に下向していた 『中右記』
長承元年十一月廿三日条
    (某) 長承3(1134)年閏12月24日、「下総国不堪」の奏上 『中右記』
長承三年閏十二月廿四日条
【除目?】
保延元(1135)年
正月?
保延元(1135)年~
康治元年(1142)年
藤原親通 下野国から名替?
※大治2(1127)年正月20日には下野守任中(『中右記』大治二年正月廿日条)
 
【在任】
保延2(1136)年
7月15日
藤原親通   官物未納のため常重拘束
【在任】
保延2(1136)年
11月13日
藤原親通   散位紀季経に指示をして
常重から新券を押し取る
【重任】
保延4(1138)年
11月6日
藤原親通 香取大神宮の造替の功で重任 「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」
【除目】
康治2(1143)年
正月27日
康治2(1143)年~
久安2(1146)年?
源親方 前司親通進衛料物功
従五位下
『本朝世紀』康治二年正月廿七日条
大江元重 下総介(史宿)
従五位下
【在任】
久安2(1146)年
4月
久安2(1146)年?~
久安6(1150)年?
藤原在重? 常胤を相馬郡司職に任じた  
【除目】
久安7(1151)年
正月
久安7(1151)年~
保元3(1158)年?
藤原信成 院北面。藤原信頼の同族で院近臣。 時期的に久寿二年に延任の下総守と同一人物。
仁平3(1153)年3月28日に院蔵人。仁平4(1154)年正月30日当時に下総前司とあるが、兵範記の誤記か。
その後、遠江守となっている。
『勘例』(『国司補任』)
『兵範記』仁平三年三月廿八日条
『兵範記』仁平四年ニ月ニ日条
【延任二年】
久寿2(1155)年
2月25日
藤原信成か 延任各二年 『兵範記』久寿二年二月廿五日条
【在任】
保元2(1157)年
10月22日
藤原信成 従五位上に昇叙 『私要抄』(『国司補任』)
【除目】
保元4(1159)年
正月29日
保元4(1159)年~
永暦2(1161)年?
源有通 大蔵卿源行宗の子で、のち大納言成通の養子となって藤姓に改める。 『極秘大間記』
【除目】?
永暦3(1162)年
正月?
  藤原高佐 仁安2(1167)年8月は「前下総守」
仁安3(1168)年6月は「前下総守」
以前は飛騨守。
『兵範記』仁安二年八月六日条
『兵範記』仁安三年六月廿日条
【除目】
仁安2(1167)年
2月21日
仁安2(1167)年~ 藤原実仲 仁安2(1167)年2月21日に父(伯父)公通が権大納言を辞す代わりに下総守となる。 『尊卑分脈』
『公卿補任』

2,保元・平治の乱と相馬御厨

 久寿3(1156)年に入ると鳥羽院は体調の不良が目立ち始め、改元して保元元(1156)年5月には食事も摂れないほど悪化する。摂食不良とその後の腹部の膨張(腹水貯留であろう)ならびに手足の浮腫から消化器系疾患か。5月中には死を覚悟していたとみられ、自分の死後、上皇(のちの崇徳院)や左大臣頼長らによる政権樹立を嫌い、有力武家貴族らに対して招集する院宣を発している。「去月朔以降、依院宣、下野守義朝幷義康等」が禁中の守護として宿営し、「出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆悉率随兵祇候于鳥羽殿」と、出雲守源光保、和泉守平盛兼ほか源平諸氏が鳥羽殿の警衛に参じた(『兵範記』保元元年七月十日条)。鳥羽院は「義朝、義康、頼政、季実、重成、惟繁、実俊、資経、信兼、光信」らを後白河天皇に付属させるべく遺詔を残していたというが(『保元物語』)、この院宣であろうか。

 7月2日、鳥羽院は鳥羽安楽寿院で崩御した(『兵範記』保元元年七月二日条)。五十四歳。その死からわずか三日後の7月5日には後白河天皇が蔵人雅頼を通じ、検非違使を動員して「京中武士」の動きを停止させた(『兵範記』保元元年七月五日条)。これは「蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家」という風聞が京中に流れたことによる。鳥羽院の崩御とともに後白河天皇は、鳥羽院の兄上皇および左大臣頼長勢力を鎮圧すべくさまざまな画策を実行に移していく。

 7月6日には、左衛門尉平基盛が東山法住寺辺で、左大臣頼長に祇候する大和源氏源親治を追捕した(『兵範記』保元元年七月六日条)

 さらに7月8日、後白河天皇は諸国司に対して「入道前太政大臣左大臣、催庄園軍兵之由、慥可令停止」を勅した(『兵範記』保元元年七月八日条)。そして「蔵人左衛門尉俊成義朝随兵等」に勅して頼長邸「東三條」邸を接収した。頼長は当時宇治にあって東三條邸を留守にしていたときを狙ったものであった。天皇側による圧力が強まっている様子がうかがえる

 こうした状況を知った上皇(崇徳院)は怒り、滞在していた鳥羽田中御所から夜陰に紛れて白河前斎院御所へと遷幸し(『兵範記』保元元年七月九日条)、翌10日には移った白河殿で軍勢を集め始める(『兵範記』保元元年七月十日条)。しかし、それに応じたのは上皇や左府頼長の家人など所縁の人物ばかりであった。

崇徳院・頼長に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)

上皇祇候 散位平家弘、大炊助平康弘、右衛門尉平盛弘、兵衛尉平時弘、判官代平時盛、蔵人平長盛、源為国
故院勘責
今当召出
前大夫尉源為義、前左衛門尉源頼賢、八郎源為知(為朝)、九郎冠者(為仲)
左府祇候 前馬助平忠正、散位源頼憲

後白河天皇に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)

下野守義朝、右衛門尉義康、安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁、常陸守頼盛、淡路守教盛、中務少輔重盛

 7月11日早朝、御所高松殿から「清盛朝臣、義朝、義康等」が六百余騎を率いて白河御所へ進軍した。平清盛は三百余騎を率いて二條大路から、源義朝は二百余騎を率いて大炊御門大路から、源義康は百余騎を率いて近衞大路からそれぞれ攻め上がったという。さらに前蔵人源頼盛が郎従数百人を揃え、源頼政、源重成、平信兼らが重ねて白河へと派兵された(『兵範記』保元元年七月十一日条)

保元の乱相関図(■:崇徳上皇方■:後白河天皇方

~天皇、上皇、親王ほか~

 藤原璋子
(待賢門院)
 ∥―――――――+―崇徳上皇――――――重仁親王
 ∥       |
 ∥       |
 鳥羽法皇(崩) +―後白河天皇―――――守仁親王
 ∥                  (二条天皇)
 ∥
 ∥―――――――+―近衞院(崩)
 藤原得子    |
(美福門院)   |          
         +=重仁親王
         | 1140.9養子
         |
         +=守仁親王(二条天皇)
            1150.12.13養子

~摂関家~

 藤原忠実―+―藤原忠通――藤原基実
(関白)  |(関白)
      |
      +―藤原頼長
       (左大臣)
 

~河内源氏~

 源義家―+―源義親――――源為義――+―源義朝
     |(出雲守)  (六条判官)|(下野守)
     |             |
     +―源義国――+―新田義重 +―源義賢
      (式部大夫)|(大炊介) |(帯刀先生)
            |      |
            +―足利義康 +―源義範
             (検非違使)|(三郎先生)
                   |
                   +―源頼賢
                   |(四郎左衛門尉)
                   |
                   +―源頼仲
                   |(五郎掃部助)
                   |
                   +―源為宗
                   |(加茂六郎)
                   |
                   +―源為成
                   |(七郎)
                   |
                   +―源為朝
                   |(八郎)
                   |
                   +―源為仲
                   |(九郎)
                   |
                   +―源義盛
                    (十郎)
 

~伊勢平氏~

 平正盛―+―平忠盛―+―平清盛
(讃岐守)|(刑部卿)|(安芸守)
     |     |
     |     +―平教盛
     |     |(蔵人)
     |     |
     |     +―平頼盛
     |      (常陸介)
     |
     +―平忠貞―+―平長盛――女――宇都宮頼綱
      (右馬助)|(新院蔵人)
           |
           +―平忠綱
           |(皇后宮侍長)
           |
           +―平正綱
           |(左大臣匂当)
           |
           +―平通正
            (平九郎)

 この合戦の様相は、日記の故記録では『兵範記』が唯一のものであるが、そこでは7月11日「彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢齋院御所幷院北殿也」とあり、平清盛を筆頭とする官軍が上皇及び左大臣頼長の軍勢を打ち破り、白河御所などが焼失したことを伝えている。午剋には清盛以下の大将軍はみな内裏へ帰参し、平清盛と源義朝はとくに朝餉間へと召され、上皇、左大臣頼長、源為義以下の人々は行方知れずとなったことを報告している。

 この白河御所での戦いについては、『保元物語』によるほかないが、多分に誇張表現や筆者による加筆があり、信憑性については甚だ疑問が多いため、参考程度となるが、この保元の乱では、「上総ニハ介乃八郎弘経、下総ニハ千葉介経胤」(『保元物語』)とあって、当時三十九歳の常胤は上総権介常澄の八男・介八郎広常や相模国鎌倉党の大庭景義・景親兄弟らとともに源義朝に随って後白河天皇方として崇徳上皇(後白河天皇の兄)方と戦ったとされている。

  介八郎広常の父・常澄は武蔵国秩父から移ってきた義朝を一年程度上総国内に住まわせており(為義の依頼か)、広常は義朝の郎従となって鎌倉にも館を構えたことから、当初より積極的に参戦したと思われる。一方、常胤は元来、千葉庄を通じて鳥羽院(八条院)に仕えた人物であり、後白河天皇方として参戦しているものの、義朝に応じたのではなく、故鳥羽院の遺詔により後白河天皇の勅を受けた諸国司の催促に応じたものであると考えられる。常胤は義朝との相馬御厨を巡る対立関係は解消されておらず、永暦2(1161)年4月1日の段階で相馬御厨は「雖然非彼朝臣所知之由、証文顕然候」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』:『櫟木文書』)と述べているように、常胤は広常とは立場が異なっていた。

保元の乱に義朝に随った人々(『保元平治物語』慶長本)

  鎌田次郎正清 後藤兵衛実基      
近江国 佐々木源三 八嶋冠者      
美濃国 平野大夫 吉野太郎      
尾張国 舅・熱田大宮司(家子・郎等)        
三河国 志多良 中条      
遠江国 横地 勝俣 井八郎    
駿河国 入江右馬允 高階十郎 息津四郎 神原五郎  
伊豆国 狩野宮藤四郎親光 狩野宮藤五郎親成      
相模国 大庭平太景吉 大庭三郎景親 山内須藤刑部丞俊通 瀧口俊綱 海老名源八季定
秦野二郎延景 荻野四郎忠義      
安房国 安西 金余 沼平太 丸太郎  
武蔵国 豊嶋四郎 中条新五 中条新六 成田太郎 箱田次郎
川上三郎 別府二郎 奈良三郎 玉井四郎 長井斉藤別当実盛
斎藤三郎実員        
(横山党)悪次 悪五      
(平山党)相原        
(児玉党)庄太郎 庄次郎      
(猪俣党)岡部六弥太        
(村山党)金子十郎家忠 山口十郎 仙波七郎    
(高家)河越 (高家)師岡 (高家)秩父武者    
上総国 介八郎弘経        
下総国 千葉介経胤        
下野国 瀬下太郎 物射五郎 岡本介 名波太郎  
上野国 八田四郎 足利太郎      
常陸国 中宮三郎 関二郎      
甲斐国 塩見五郎 塩見六郎      
信濃国 海野 望月 諏方 蒔葉
安藤 木曾中太 木曾弥中太 根井大矢太 根川神平
静妻小二郎 片切小八郎大夫 熊坂四郎    

 ここに挙げられた人々は、後述の平治の乱当時も義朝の「郎従」として名がみえる人々が多く見られるが、このうち「長井齋藤別当、片切小八郎大夫等」「于時各六條廷尉御家人」(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)とあるように、もともと六條判官為義の家人であった。その六條判官為義の家人であったはずの人々がいずれも義朝に従属していることからも、義朝の「廃嫡」という事実はなく(為義の東国経営の主体として武蔵国比企郡に下された義朝と、在京武官としての道を辿らせた義賢とでは、為義にとっての「活用」手段が全く異なっているため、そもそも同列に扱うべき単純なものではない)、義朝がすでに為義家人を被官化していた(すでに義朝が譲りを受けていた可能性)ことがうかがえる。

 「保元の乱」は結果として後白河天皇(官軍)の勝利に終わり、同日夕刻、合戦の勲功として、安芸守平清盛播磨守へ、右馬助源義朝右馬権頭へ、右衛門尉源義康左衛門尉兼検非違使へと任官することとなるが、義朝は同日、右馬権頭から一気に左馬頭へと昇み、十九年にわたって左馬頭を務めてきた藤原隆季「雖無所望」と、強制的に左京大夫へ転じることとなる(『公卿補任』保元三年)。『保元物語』によれば義朝が恩賞の不足を訴えたとされる(『保元物語』)

保元元(1156)年:褒章された人々(『兵範記』より)

日時  名前 褒賞 備考
7月11日 藤原忠通 氏長者 関白前太政大臣。
小僧都覚継 左府頼長より収公された所領 興福寺権別当。
平清盛 安芸守⇒播磨守 安芸守より転任。
源義朝 右馬助⇒右馬権頭⇒左馬頭 下野守兼任。同日、左馬頭隆季が左京大夫へ遷任される。
源義康 右衛門尉⇒左衛門尉 検非違使。蔵人。右衛門尉より陞任。
8月6日夕方、従五位下に昇叙。
7月16日 平頼盛 昇殿 常陸介。兄の清盛が申請。
平教盛 昇殿 淡路守。兄の清盛が申請。

 7月13日、上皇は実弟の仁和寺五宮(覚性法親王)のもとに出頭し、16日には為義が出家姿で義朝のもとへ出頭している。そして17日には諸国の国司に対して、前太政大臣忠実と左大臣頼長の所領を没官することを通達し、21日は流矢を受けて負傷死したと伝えられた頼長の遺骸が「般若山辺」で掘り起こされて実検された。

 7月23日、上皇(讃岐院。のち崇徳院)は讃岐国へ流され、7月28日から30日にかけて、上皇および左大臣頼長の主な戦力として加担した人々が処刑された。8月3日には頼長有縁の公卿の流罪が執行され、「保元の乱」は幕を閉じるが、皇位継承については様々な蟠りが残されたまま引き継がれ、再び内紛の様相が露呈し始める。

保元元(1156)年:罪に問われた人々(『兵範記』より)

名前 処罰 官職等 備考
藤原兼長 出雲国へ流罪 権中納言兼
右近衞大将
左府頼長次男。母は権中納言源師俊女。次男だが、母の家格が高いことから、嫡子とされた。
8月3日、山城国稲八間庄へ追放 (使:右衛門尉平維繁、左衛門府生安倍資良)。保元三年正月出雲国で薨去。二十一歳。
藤原師長 土佐国へ流罪 権中納言兼
左近衞中将
左府頼長長男。母は陸奥守源信雅女。母は兼長母同様、村上源氏出身だが、受領層であったため、長男であったが次男扱いとされた。
8月3日、山城国稲八間庄へ追放 (使:右衛門尉平維繁、左衛門府生安倍資良)。土佐に配流されるが許されて帰国したのち、皇后宮大夫、内大臣、右大将と昇進。後白河院のもと、摂関に成りうる立場であったが、政治的配慮により太政大臣とされ、摂関の道をあきらめさせられる。
藤原隆長 伊豆国へ流罪 右近衞中将 左府頼長三男。
8月3日、山城国稲八間庄へ追放(使:右衛門尉平維繁、左衛門府生安倍資良)。伊豆国へ配流されたのちの動向は不明。
範長 安房国へ流罪 大法師 左府頼長四男。
8月3日、山城国稲八間庄へ追放 (使:右衛門尉平維繁、左衛門府生安倍資良)。安房国へ配流されたのちの動向は不明。
尋範 所領没官 権大僧都 興福寺別当。藤原頼通の孫で関白忠通、左府頼長の大叔父。
千覚 所領没官 権律師 藤原盛実の子で、左府頼長の母方の叔父。13日に瀕死の頼長が頼り、14日、その房で頼長は薨じる。
信実 所領没官 大法師 興福寺上座。悪僧として知られ、興福寺へ大きな影響力を持っていた。
玄実 所領没官   信実の子。
清頼   蔵人大夫 7月13日、捕縛。左大臣家職事。
藤原教長 常陸国へ流罪 右京大夫 7月14日、広隆寺辺で出家し参上。左衛門尉季実が具す。
8月3日、被行流罪(使:左衛門尉平実俊)
親頼   治部丞 7月16日、捕縛。左大臣家侍所司。兵庫頭頼政が召し出す。
藤原忠実 所領没官   前太政大臣。
源成雅 越後国へ流罪 左近衞中将 8月3日、被行流罪(使:右衛門大志坂上兼成)。皇后宮亮信雅の子。
藤原成隆 阿波国へ流罪 皇后宮権亮
8月3日、被行流罪(使:右衛門少志中原業倫)。御二条院師通の庶子・少納言家隆の子。妹は待賢門院女房となり平忠盛に嫁ぎ、平教盛を産む。
藤原実清 土佐国へ流罪 前右馬権頭 8月3日、被行流罪(使:右衛門少志中原業倫)。大蔵卿公信の長男。 子・仁和寺の賢清権少僧都は『養和二年後七日御修法記』(『続群書類従』第二十五輯下に所収)を著している。
俊通 上総国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:右衛門志佐伯国忠)
藤原盛憲 佐渡国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:左衛門尉平実俊)。勧修寺流。二条院御世に赦免され帰京する。頼長の母方の従兄弟にあたり、子の勧修寺重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向し、関東管領上杉氏の氏祖となった。
平忠貞 7月28日六波羅辺で斬刑 前右馬権助 前名忠正。平正盛の子で清盛の叔父。
道行
(忠貞郎従)
7月28日六波羅辺で斬刑    
藤原憲親 下野国へ流罪 皇后宮権大進 8月3日、被行流罪(使:右衛門志佐伯国忠)。勧修寺流。上記藤原盛憲の弟にあたる。母は安芸守尹通の娘で信西入道の従姉妹である。
藤原経憲 隠岐国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:右衛門志清原能景)。下総守宗国の子。
源為義 7月28日船岡山辺で斬刑 前大夫尉 河内源氏。八幡太郎義家の孫とも子ともされる。院や摂関家に仕えるが、自身のみならず郎従らの乱行が目立ち、出世することができなかった。ただし、安房国丸御厨や、次男・義賢の「芳躅」である上野国多胡庄、鎌倉郡内など東国に荘園や私領が散在するほか、三浦氏や鎌田氏、波多野氏ら東国の武士たちとも深い関わりを有し、長男義朝を鎌倉の館も譲り渡している。保元の乱では乱の直前に頼長に徴発され、子息らを率いて参戦。戦後、流浪ののちに長男の義朝のもとに出頭し、その後斬刑に処された。
平家弘 7月30日大江山辺で斬刑 右衛門大夫 桓武平氏。検非違使正弘の子。
源頼憲   散位 多田源氏。久安3(1147)年6月9日夜、六位ながら昇殿を聴された初昇殿した「源頼憲前下野守明国孫、散位行国男」として名が見える(『本朝世紀』)。
量刑不明だが、「保元乱斬首」(『尊卑分脈』)。子の盛綱も「父同時被斬首」とある。
平康弘 7月30日大江山辺で斬刑 大炊助 桓武平氏。
平盛弘 7月30日大江山辺で斬刑 右衛門尉  
平時弘 7月30日大江山辺で斬刑 兵衛尉  
平国正      
平正弘 陸奥国へ流罪 散位。 桓武平氏。出羽守貞弘の子。源義家の孫で為義の従姉妹子にあたる。
8月3日、被行流罪(使:右衛門志佐伯国忠)。
平長盛 7月28日六波羅辺で斬刑 院蔵人  
源頼賢 7月28日船岡山辺で斬刑 前左衛門尉 六条判官為義の四男。兄義賢の養子で、久安3(1147)年12月21日「左兵衛少尉源頼方 督重通卿請奏」とあり、左兵衛少尉となる(『本朝世紀』)。久安4(1148)年4月10日の「賀茂斎親王禊」に際し、「御禊前駈」の一人として「(左兵衛)権少尉源頼賢」が見える(『本朝世紀』)。久安5(1149)年4月9日、左兵衛少尉から左衛門少尉に進む(『本朝世紀』)。しかし、久寿2(1155)年5月15日、春日社の訴えによって解官され(『台記』)、それ以降は散位であったようだ。
弟左兵衛尉頼仲ほか弟とともに斬刑に処される。
平忠綱 7月28日六波羅辺で斬刑   左大臣家匂当
平正綱 7月28日六波羅辺で斬刑    
平正方      
源為成 7月28日船岡山辺で斬刑   六条判官為義の七男。八幡七郎。
源為宗 7月28日船岡山辺で斬刑   六条判官為義の六男。六郎。
源為知     六条判官為義の八男。鎮西八郎。乱後は逃亡し、近江国坂田辺に隠棲していたが、8月26日、前兵衛尉源重貞に捕縛されるが、その後の動向は不明。『保元物語』では伊豆大島へ流されたとされるが、事実不祥。なお、源重貞は為知捕縛の功により、翌27日、右衛門尉に転任する。
源九郎冠者 7月28日船岡山辺で斬刑   六条判官為義の九男。九郎為仲。
平光弘 7月30日大江山辺で斬刑   平家弘の子。

 保元の乱の後、鳥羽院女御であった美福門院は、養子でもある後白河天皇の皇子・守仁親王の即位を願い、後白河天皇の乳父で碩学と謳われた藤原信西入道に働きかけた。これにより保元3(1158)年8月4日、仁和寺において信西と美福門院は後白河天皇から守仁親王への譲位を決定する。俗に「仏と仏との評定」(『兵範記』)と称されるものだが、関白・藤原忠通にも知らされないという異例のものだった(7)

 譲位された新天皇(二条天皇)は、美福門院を筆頭に藤原経宗(後白河院、忠実従弟)藤原惟方らに擁立され、実父・後白河院の院政を阻止せんと図った。これに対し、後白河院は寵臣・権中納言藤原信頼御厩別当に任じて抵抗を図った。

三条南殿址
三条南殿趾(元加賀守家通邸を白河院が購入)

 こうした天皇親政派と院政派の対立の中でも、朝廷内での権勢が高まる信西一門への反発が強まっていく。

 反信西派は平治元(1159)年12月9日深夜、藤原信頼が院近臣の源光保、源義朝らを主力とする軍勢を、信西入道がいる院御所三条殿に派遣して焼き討ちし、後白河院の玉体を内裏一本御書所へ移すという暴挙に出る『平治物語絵巻模本(三条殿焼討)』:東京国立博物館蔵。しかし、目的の信西入道はすでに逃亡しており、後を追った源光保が山城国田原で自害していた信西入道の首を切って都へ戻っている(7)

 なお『愚管抄』によれば、源義朝は「信西ガ子ニ是憲トテ…婿ニトラン」と信西に申し入れたが、信西は「我子ハ学生也、汝ガ婿ニアタハズト云」って断った。しかしその後、信西は「当時ノ妻ノキノ二位ガ腹ナルシゲノリヲ清盛ガ婿」に迎えたことで、義朝は信西に敵意を催し、これが義朝が信頼と結んで兵を挙げた一因とする。これにつき、是憲が学者筋であって義朝からの縁談が断られることは「わかりきって」おり、これを挙兵の原因とするのは考えられないと排除する説も存在する。しかしながら『愚管抄』が認められた当時、少なくともこのような解釈が存在したのは事実である。これを否定する傍証もないままに恣意的な解釈を行うことはあまりに危険である。『愚管抄』にみられる義朝の思惑がなかったと言い切ることは不可能である。

 こうして信頼は一時的に朝廷の権力を握ることに成功するが、信西亡き後、共通の敵を失った二條親政派と後白河院政派は再度対立。信西追捕の際、熊野へ外出中だった平清盛が親政派に推されて信頼打倒を模索した。これを受けて、12月25日夜、後白河院は内裏から仁和寺に脱出する。さらに翌26日には二條天皇も六波羅邸へ遷り奉ったのだった。摂津源氏の兵庫頭頼政及び美濃源氏の出雲前司光保、出羽判官光基は、信頼派の武士として合戦に加わっていたのではなく、あくまでも仕える二條天皇の行動如何で去就が変わるため、二條天皇が六波羅に迎え入れられた時点で、摂津源氏、美濃源氏一党は信頼勢から離脱することとなる。こうして、信頼への追討宣旨が出されるに到った(7)

平治の乱相関図(■:藤原信頼方■:後白河院方

■藤原家

→藤原道長――藤原頼通――藤原師実―+――藤原師通―――藤原忠実―――藤原忠通―――藤原基実
(関白)  (関白)  (関白)  | (関白)   (関白)   (関白)   (摂政)
                  |                       ∥――――――近衞基通
                  |                       ∥     (関白)
                  |         藤原基隆―――藤原忠隆 +―女
                  |        (修理大夫) (大蔵卿) |
                  |                ∥    |
                  |                ∥――――+―藤原信頼―――藤原信親
                  |                ∥     (右衛門督)  ∥
                  |                ∥             ∥
                  |+―藤原顕隆―――藤原顕頼―+―藤原公子        +―娘
                  ||(権中納言) (民部卿) |             |
                  ||             |             |
                  |+―女           +―藤原惟方   平清盛――+―娘
                  |  ∥            (参議)           ∥
                  |  ∥                           ∥
                  +――藤原経実―+―藤原経宗          藤原通憲―――藤原成憲
                    (大納言) |(左大臣)         (入道信西)  
                          |
                          +―藤原懿子
                           (女御)
                            ∥――――――二条天皇
                            ∥
                            後白河天皇

■諸源氏

       【摂津源氏】
→源満仲―+―源頼光――…+―…―――源頼政
(摂津守)|(内蔵頭)  |    (兵庫頭)
     |       |
     |       +―…―+―源光保【寝返る】
     |           |(出雲前司)
     |           |
     |           +―源光信――――源光基【寝返る】
     |            (検非違使) (出羽判官)
     |【河内源氏】
     +―源頼信――…+―…―+―源義朝――+―源義平
      (甲斐守)  |   |(下野守) |(悪源太)
             |   |      |
             |   +―源義盛  +―源朝長
             |    (十郎)  |(中宮大夫少進)
             |          |
             +―…―――源義信  +―源頼朝
                  (四郎)   (右兵衛権佐)

■伊勢平氏

→平忠盛―+―平清盛――――+―平重盛
(讃岐守)|(太宰大弐)  |(左兵衛佐)
     |        |
     +―平経盛    +―平基盛
     |(蔵人)     (大夫判官)
     |
     +―平教盛
     |(淡路守)
     |
     +―平頼盛
      (三河守)

平治の乱の上皇方の人々(『平治物語』)

※義平十七騎は青字

大将軍 悪右衛門督信頼    
信頼親族 新侍従信親(子息) 兵部権大輔基家(舎兄) 民部権少輔基通(舎兄)
尾張少将信俊(舎弟)    
堂上等 伏見源中納言師仲 越後中将成親 治部卿兼通
伊与前司信員 壱岐守貞知 但馬守有房
兵庫頭頼政 出雲前司光保 伊賀守光基(光保甥)
河内守季実 左衛門尉季盛(季実子)  
河内源氏 左馬頭義朝    
鎌倉悪源太義平(義朝嫡子) 中宮大夫進朝長(義朝次男) 右兵衛佐頼朝(義朝三男)
陸奥六郎義隆(義朝叔父) 新五十郎義盛(義朝弟)  
佐渡式部大夫重盛(義朝従子) 平賀四郎義信(義朝従子)  
義朝郎従   鎌田兵衛正清 後藤兵衛実基 佐々木源三秀義
  熱田大宮司太郎(義朝小姑)
家子・郎等を遣わす
   
三河国 重原兵衛父子    
相模国 波多野次郎義通 三浦荒次郎義澄 山内須藤刑部尉俊通
滝口俊綱(俊通子)    
武蔵国 長井斎藤別当実盛 岡部六弥大忠澄 猪俣小平六範綱
熊谷次郎直実 平山武者所季重 金子十郎家忠
足立右馬允遠元 上総介八郎広常  
常陸国 関次郎時貞    
上野国 大胡 大室 大類太郎
信濃国 片切小八郎大夫景重 木曾中太 木曾弥中太
常葉井 強戸次郎
甲斐国 井沢四郎信景    

 常胤は「平治の乱」には加わっておらず、常胤が義朝と主従関係にはなかった証左であろう。一方で介八郎広常は『平治物語』においては、義朝に呼応して上洛し、待賢門の戦いで義朝の長男・鎌倉悪源太義平に従って平重盛(平清盛の嫡男)を追い回したという「伝承」がある(『平治物語』)。なお、なぜか上総介八郎広常は武蔵国の郎従のくくりとなっている。この待賢門の合戦での駆け合いは内裏の構造上疑わしいという事実(谷口耕一「平治物語の虚構と物語―「待賢門の軍の事」の章段をめぐって―)があるとともに、義朝の郎従として『平治物語』の中で前述され、且つ名が判然とする人々をただ順番通りに列記して作られた感が否めない。あくまで軍記物における「伝」と捉えるべきであるが、義朝は若いころに広常の父・常澄のもと上総国にも住んでおり(為義の指示であろう)、広常が義朝に従うのは至極自然であったのだろう。また広常は義朝が(為義から)「称伝得字鎌倉之楯、令居住」(「官宣旨案」『平安遺文』2544)した鎌倉にも屋敷があり、早くから義朝の郎従として活動をしていたことがうかがえる。

 一方、常胤は為義や義朝に属していた常澄広常とは異なり、為義・義朝との主従関係はなく、却って相馬御厨を巡る義朝への感情はそのままであったろう。保元の乱のような中央政治を二分する「公的」な合戦ではない、いわば私戦の延長上に位置する「平治の乱」に加わる理由は存在しなかったのであろう。

 「平治の乱」は結局、二条天皇を擁する平清盛や、六波羅へ移徒せざるを得なかった大殿忠通・関白基実ら内裏勢力の勝利に終わり、敗れた藤原信頼は仁和寺に出頭し、罪状勘文もないままに河原で斬首。源義朝ら一党も竜華峠での山門僧との戦いで叔父・陸奥六郎義隆が討死。長男・源太義平は北陸へ別れ、次男・朝長も美濃国で死去。三男・頼朝も尾張国で平頼盛の被官・左兵衛少尉平宗清に捕縛されて京都へ移送され、義朝自身も尾張国内海(知多郡南知多町)で在郷の家人・長田庄司忠致によって殺害され、事実上、河内源氏義家流はここで壊滅することとなった。

平宗清

 桓武平氏。仁安3(1169)年7月4日、右衛門権少尉から左衛門権少尉に昇進。同日に主の平頼盛は右兵衛督を兼ねている(『兵範記』仁安三年七月四日条)

 義朝邸(六条堀川)または母方の藤原季範邸(六条坊門烏丸)にいたであろう頼朝実弟・希義(八歳)や、愛妾常葉とその子三人(今若、乙若、牛若)、陸奥義隆の嬰児(のちの毛利頼隆)らはいずれも捕われたものの、みな死罪に問われることはなかった。これは幼少であったことが大きい。藤原信頼の子・信親「彼卿死罪之時、依五歳幼稚無沙汰」とあり(『兵範記』嘉応二年五月十六日条)、首謀者として「死罪」となった人物の子であっても幼少を理由に沙汰を逃れていることがわかる。ただし、これはおそらく院の意思によって流刑の執行を延期されたものであって、嘉応2(1170)年5月16日、十六歳で伊豆国へと流罪とされた。

六条坊門
六条坊門烏丸(現五条烏丸交差点)

 一方で、義朝一党の遺児たちへの刑の執行は延期されず、まず永暦元(1160)年2月に陸奥六郎義隆の子・頼隆(配流時は生後百日余)が「仰常胤配下総国」されている(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)平治の乱では常胤は義朝に属しておらず、朝廷は常胤と義朝との間に主従関係はないと認識していたことがわかる。また、朝廷が常胤に下総国への配流を命じていることから、当時常胤は在京中であった可能性が高い。そうであれば、常胤は大番等のために上洛しており、内裏勢力として召集された可能性もあろう。

 そして、義朝三男・頼朝も、頼隆配流の翌3月11日、伊豆国へ流されることとなる。彼ら敗将の子らの助命に際して、『平治物語』によれば池禅尼や平重盛が平清盛への口添えをしたとされている。『吾妻鏡』においても「池禅尼恩徳」(『吾妻鏡』寿永三年四月六日条)とあり、また、重盛についても「平治逆乱之時、故小松内府、為源家被施芳言訖」(『吾妻鏡』建久五年五月十四日)とあることから、池禅尼や重盛が諫言を行ったことは事実であろう。清盛は当時は正四位下で参議でもなく、当然陣定にも列席していないが、平治の乱では二条天皇が六波羅邸へ行幸するなどその影響力は強かったことから、罪名宣下に於いてもその意思は考慮されたのだろう。

 余談だが、池禅尼と北条時政の後室牧の方が縁戚であるという説(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置~池禅尼と頼朝と~」)が定説化しつつあり、この説を論拠のひとつとなって展開される論文等があるが、牧の方の父である「大舎人允宗親」が説のように「諸陵助宗親」と同一人物であるとすると、保延2(1136)年に諸陵助に任官した藤原宗親(池禅尼の兄弟)は、六十年後の建久6(1195)年に「武者所」だったことになり、頼朝に供奉して上洛していたことになる。初任二十歳としても建久6年では八十歳を超えた高齢であり、こうした高齢の人物を上洛の供奉とする例を寡聞にして知らない。こうしたことから考えて牧の方の父「大舎人允宗親」と、池禅尼兄弟の「諸陵助宗親」はまったくの別人であり、「宗親」を通じた池禅尼と牧の方に血縁関係はない牧氏と牧ノ方について)。

 頼朝は上西門院には皇后時代から皇后宮少進、転じて上西門院蔵人として仕え、さらに二条天皇蔵人に移るなど、天皇や上西門院にゆかりのある人物であった。また、母や伯母が上西門院や美福門院女房であり、上西門院や美福門院らが助命に働きかけたともされるが、頼朝が上西門院や蔵人として出仕した期間は非常に短く、女院が積極的に働きかけるほど親密な関係にあったとは考えにくい。『吾妻鏡』に述べる通り、上西門院や美福門院の要請というよりも、やはり池禅尼や平重盛の諫言が罪名勘考に関して大きく働いたのであろう。

 また、『平治物語』によれば「法性寺の大殿(藤原忠通)が信西入道の追捕を実行して院の怒りを買い「死罪」と決まっていた新大納言経宗、検非違使別当惟方の処分につき、「公卿の死罪いかゞあるべかるらむ、其上、国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者たえずと申せば、かたがたもて死罪一等をなだめて遠流にや処せられん」と発言し、諸卿も「尤大殿の仰然るべし」と同意したことで、経宗・惟方は遠流へと減刑されたとある(『平治物語』)この記述は軍記物の性格上、断定できるものではないが、保元の乱のように公的に死罪を言い渡された者が見えないことから、この大殿忠通の死罪忌諱の発言は事実に近いのではないだろうか。忠通の発言は死罪全体への警鐘であることから、頼朝以下の源氏遺児に対する量刑にも当然影響したであろう。その結果、永暦元(1160)年3月11日、平治の乱の罪科による遠流が執行され、経宗・惟方・師仲・頼朝と同母弟・希義(配流当時九歳)が京都を発した(『清獬眼抄』)

永暦元年三月十一日「配流公卿殿上人事」(『清獬眼抄』)

流人 官途 配流国 追使
藤原経宗 大納言 阿波国 章貞(左衛門志中原章貞)
源師仲 中納言 下野国 信隆(右衛門尉惟宗信隆)
藤原惟方 参議、検非違使別当 長門国 能景(左衛門志清原能景)
源頼朝 右兵衛権佐 伊豆国 友忠(左衛門府生三善友忠)
源希義 (頼朝舎弟) 土佐国 予(左衛門府生清原季光か)

 なお、頼朝の流刑地が伊豆となった理由は、遠流の国が選ばれただけであって、実弟の希義が土佐国へ流されたことと同様、偶然である。頼朝には二人の供人が付いたのみで、検非違使の左衛門府生三善友忠が護送した(『清獬眼抄』)。このうちの一人は、母方叔父の「祐範」が付けた「郎従」であるが、彼が安達氏の祖である藤九郎盛長の可能性もあろう安達氏について)。

■伊豆国の頼朝

 頼朝が流された永暦元(1160)年3月当時の伊豆守は平義範と推測される。義範は『尊卑分脈』に名は見えないが、『兵範記』から摂関家司・右大弁平範家の二男であることがわかる。一年半前の保元3(1158)年11月26日、安房守義範(十五歳)は、伊豆守藤原経房(十七歳)と相伝名替によって伊豆守に転じた(『兵範記』保元三年十一月廿六日条)

平義範

 『尊卑分脈』に記載はないが、従三位右大弁平範家の二男。母は正二位太宰権帥藤原清隆娘(義範元服時「今冠者等外祖父也」とある)。兄は七歳上の親範、弟は二歳下の行範、六歳下の棟範。天養元(1144)年生まれ。

 仁平2(1152)年8月7日夜、範家の勘解由小路万里小路亭で「蔵人弁二三両男加首服」が行われ、一門左衛門尉平信範もこれに加わっている(『兵範記』仁平二年八月七日条)。義範九歳、行範七歳。加冠は外祖父清隆が務めた。名字を撰したのは治部少輔藤原俊経(従兄)。蔵人に任じられた。

 藤原清隆―+―藤原隆能
(大宰権帥)|(主殿頭)
      |
      +―女
      | ∥――――――藤原重頼
      | ∥     (中宮権大進)
      | 藤原重方   ∥
      |(右中弁)   ∥
      |        ∥
      | 源頼政――+―二条院讃岐
      |(兵庫頭) |
      |      +―源仲綱
      |       (伊豆守)
      +―女
        ∥――――+―平親範――――平基親
        ∥    |(蔵人頭)  (左大弁)
        ∥    |
 平実親――+―平範家  +―平義範――――平範子
(参議)  |(右大弁) |(伊豆守)  (少将局)
      |      |        ∥
      |      |        ∥――――――惟明親王
      |      |        ∥     (三品)
      |      |        高倉天皇
      |      |       
      |      |       【平戸記著者】
      |      +―平行範――――平経高――――平経氏
      |      |(治部大輔) (蔵人頭)  (右衛門権佐)
      |      |
      |      +―平棟範――――平棟基――――平棟子
      |      |(右大弁)  (勘解由次官)(准三后)
      |      |               ∥
      |      +―女             ∥
      |        ∥――――――藤原定房   ∥――――――宗尊親王
      |        ∥     (安房守)   ∥
      |        ∥             ∥
      |        藤原経房          後嵯峨天皇
      |       (伊豆守)
      +―姉か
        ∥――――――藤原俊経
        藤原顕業  (左大弁)         
       (左大弁)

 仁平2(1152)年12月19日夕刻、「前女御基子未給」により、従五位下に叙爵(『兵範記』仁平二年十二月十九日条)。12月30日、安房守(『兵範記』仁平二年十二月卅日条)。九歳での任官であり、当時の安房国知行国主は父・平範家であろう。

 保元2(1157)年10月22日、従五位上に昇叙。これは「造内裏勤賞叙位并節会」による除目で「平義範、外進物所(『兵範記』保元二年十月廿二日条)とあるように、外進物所の造営を担当したことによる昇叙である。父の譲りではないため、十四歳で造営担当したという事であろう。

 保元3(1158)年11月26日、十五歳で安房守から伊豆守に相伝名替(『兵範記』保元三年十一月廿六日条)。仁安2(1167)年6月28日、二十四歳で後白河院皇女・休子内親王の初斎宮の際に勅別当後見となったことが知られる(『顕広王記』仁安二年六月廿八日裏書)。親族と思われる「同親家」も見える。

 仁安3(1168)年3月15日、二十五歳で臨時給として正五位下に叙される(『兵範記』仁安三年三月十五日)。9月18日、御禊行幸の供奉列に定められる(『兵範記』仁安三年九月十八日条)。治承3(1179)年4月11日時点で「故入道前宮内少輔義範」とあることから(『山槐記』治承三年四月十一日条)、若くして亡くなっていたことがわかる。そしてこの年、娘の掌侍平範子が高倉天皇皇子の惟明を産んでおり、安徳天皇皇嗣の有力候補であったが、典侍藤原殖子を母とする尊成親王(後鳥羽天皇)が皇嗣となった。

 藤原経房は仁平元(1151)年、十歳のときに伊豆国の知行国主であった父・藤原光房のもと伊豆守となった。しかし、経房が十三歳の久寿元(1154)年11月、父・光房が急死したため、伊豆国の知行国主は別の人物へと変わったとみられる。保元3(1158)年11月26日、経房は平義範と相伝名替して安房守となっているが、同じ年、経房は平範家娘との間に長男・定経を儲けており、当時の伊豆国の知行国主は平範家の可能性が高いだろう。

 藤原俊忠―+―藤原俊成――――藤原定家
(権中納言)|(皇太后宮大夫)(権中納言)
      |
      +―藤原忠成――――高倉局
      |(民部大輔)  (仕上西門院)
      |         ∥
      +―帥法印禅智   ∥―――――――常興寺僧正真性
      |(随以仁王)   ∥      (天台座主)
      |         ∥
      | 暲子内親王===以仁王
      |(八条院)   (高倉宮)
      |
      +―娘
        ∥―――――――藤原経房
        ∥      (伊豆守、上西門院判官代)
        藤原光房    ∥
       (権右中弁)   ∥
                ∥
        平範家―――――娘
       (非参議)

 伊豆守平義範の後任の伊豆守は、美福門院に仕える源頼政の子・源仲綱であった。仲綱の伊豆守就任時期は不明だが、仁安2(1167)年7月7日当時「伊豆守」であることから、応保4(1164)年の任官であろう。頼朝が伊豆に流された四年後のことである。

源仲綱

 摂津源氏源頼政の長男。久寿2(1155)年9月23日、立太子した美福門院養子・守仁親王(二条天皇)の東宮坊蔵人三﨟(『山槐記』久寿二年九月廿三日条、『兵範記』久寿二年九月廿三日条)。父・頼政同様に美福門院との繋がりが強かった。

 その後、伊豆守となるが、就任時期は不明。ただし、前任の平義範が保元3(1158)年11月26日の就任から四年の任期を全うしたとすると、仲綱は応保3(1163)年中の任官となるが、仁安2(1167)年7月7日、法勝寺で行われていた御八講結願の日、「伊豆守仲綱」が法会の列に加わり、同年12月30日、後白河院の近臣・隠岐守中原宗家と相伝名替によって隠岐守に転任(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)しており、仲綱の伊豆守就任は応保4(1164)年と考えられ、前任の平義範は一年の延任があったのかもしれない。仲綱は頼朝配流後四年目での就任ということになる。

 仁安3(1168)年9月18日、「従五位下源朝臣仲綱」が御禊行幸の供奉列に定められる(『兵範記』仁安三年九月十八日)

 仲綱は隠岐守ののち、再び伊豆守となる。この伊豆守任官は、伊豆国の知行国主となっていた兵庫頭源頼政の選任である。伊豆国は承安2(1172)年7月9日以前から「頼政朝臣知行国」(『玉葉』承安二年七月九日条)であり、仲綱が隠岐守として四年の任期を全うして伊豆守に転じたとすると、仲綱の伊豆守就任は承安2(1172)年の除目であると考えられ、頼政の伊豆国知行国主もその時期であろう。安元2(1176)年4月27日当時も仲綱が「伊豆守」であり(『吉記』安元二年四月廿七日条)、重任していることがわかる。

 仲綱は仁安2(1167)年12月30日、後白河院の近臣である隠岐守中原宗家相伝名替によって隠岐守に転任した(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。仲綱は頼朝配流後、四年にわたって伊豆守であり、頼朝が二条天皇蔵人であったこともあり、美福門院とその娘・八条院に仕えていた仲綱との間に交流があってもおかしくはなく、この時点で頼朝と仲綱父・兵庫頭源頼政が繋がりをもった可能性もあろう。頼政は自身に所縁のある一族の孤児を積極的に養子としており、謀叛の罪で討たれた実弟・源頼行の子である兼綱らはもちろん、近衞天皇(美福門院皇子)の東宮時代に帯刀先生だった源義賢(頼朝叔父)の遺児・源仲家(八条院蔵人)や同族・源国政も養子としている。頼朝も仲綱を通じて頼政の庇護のもとにあったと考えられる。

中原宗家

 後白河院近臣。従五位下隠岐守。仁安2(1167)年12月30日、伊豆守源仲綱と相伝名替によって隠岐守に転じた(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。仁安3(1168)年3月20日、皇太后宮(建春門院平滋子)大属となる(『兵範記』仁安三年三月廿日条)

 仲綱の伊豆守就任は承安2(1172)年の除目であると考えられ、以降治承4(1180)年まで伊豆守であった。安元元(1175)年9月に起こった「武衛御座豆州之時者、安元々年九月之比、祐親法師、欲奉誅武衛、九郎聞此事潜告申間、武衛逃走湯山給、不忘其功給之處有孝行之志如此」(『吾妻鏡』養和二年二月十五日条)という事件の際も仲綱が伊豆守であった時期であり、この伊東祐親入道による頼朝誅殺計画は、祐親入道の子・伊東九郎(頼朝乳母比企尼の女婿)によって頼朝に知らされ、頼朝は走湯山へ逃れたとされる。なお、当時の頼朝が居住していた配流地は伊東であり、その後に蛭嶋へ移ったとされる(坂井孝一『源頼朝の流人時代に関する考察』)

田方郡
蛭嶋周辺(狩野川)

 その後、治承4(1180)年まで頼政が伊豆国知行国主として続き、頼朝はその庇護のもとで、頼政の主・八条院の所領である下総国下河辺庄の庄司・下河辺氏や同族で乳母家の小山氏らとの接触、伊豆国の在庁官人の狩野氏をはじめとして、北条氏、天野氏、堀氏、仁田氏ら国人層との接触を重ねたと思われる。頼朝は頼政の係累を尊重する立場を取り、頼政の末子・源広綱「広綱、自幼稚住洛陽之歟、謂官位者又就最初御吹挙任之間、於一族為上臈」(『吾妻鏡』建久二年十一月二十七日条)とある通り、実弟範頼や義経、血縁の足利義氏を差し置いて門葉の上臈として遇されていた。また、頼政女婿の藤原重頼も鎌倉に招請されて、傍近くで処遇されている。

●平治の乱後の常胤

 平治の乱後、相馬御厨は謀叛人義朝の知行とみなされ「自国衙被没収」されてしまった(永暦二年四月一日『下総権介平某申状写』)。しかし、常胤は、相馬郷は源義朝と無関係であることを証文とともに国衙を通じて国司・源有通へ訴えたのだろう。これを受けて永暦元(1160)年秋、下総守源有通は常胤の訴えを認め、相馬御厨について「非彼朝臣所知之由、証文顕然候、如本可被奉免立券候之旨」と、奉免立券した。源有通は保元4(1159)年正月29日の除目で「従五位下源朝臣有通」として下総守に任じられている人物で(『極秘大間書』)小一条院敦明親王の曾孫である(『尊卑分脈』)。この後のことであるが、平治元(1159)年10月15日に出家辞官した前大納言藤原成通の猶子となり、藤原姓に改姓している。

 三条天皇――敦明親王――源基平――源行宗――+―源有通
      (小一条院)(侍従) (大蔵卿) |(下総守)
                       |
                       +=女
                  信縁――――(兵衛佐局)
                 (法勝寺執行) ∥―――――重仁親王
                         ∥
                         崇徳天皇

伊勢外宮
伊勢外宮

 ところが「如本可被奉免立券」し、在庁が地頭らに検注させたが、その「国吏裁定」が「無音」という状況が続いたことから、常胤は国衙に出向いて子細を訪ねた。しかし、なぜか審理が長引いて「国吏裁定」が滞っていたことが判明した。その滞った理由は、おそらく相馬御厨の庁判や公験を所有し、寄進を謀った前左兵衛少尉源義宗なる在京官吏の存在と見られる。

 常胤は因縁深い故親通の公験を所有する義宗の寄進に対抗するべく、「因之令訴申権門候」と中央の権力者を頼り、その結果「右大臣殿(藤原公能)」から計らい沙汰すべき旨の指示が「祭主殿」に出された(永暦二年四月一日『下総権介平某状』)。当時の伊勢祭主は、正月25日までは大中臣親章、その後は大中臣為仲、大中臣師親と相次いで変わっているが、右大臣公能が指示したのはおそらく大中臣為仲であろう。

■伊勢祭主(『祭主補任』:「神道大系」)

祭主名 最終官途 在任 備考
大中臣朝臣親章 従三位 保元2(1157)年8月13日~永暦2(1161)年正月25日(薨去 五十七歳)  
大中臣朝臣為仲 正四位下 永暦2(1161)年正月30日~同年9月19日停任 元待賢門院侍
大中臣朝臣師親 正四位上 永暦2(1161)年9月19日~永万元(1165)年5月4日停任  

 常胤は「八条院御領(当時は安楽寿院領か)(『吾妻鏡』文治二年三月十二日条)の千葉庄の荘官であり、暲子内親王に仕える身であった。当時、暲子内親王は二条天皇准母であり、皇后藤原多子(永暦元年正月廿六日入内)の実父は当時「一上」(『公卿補任』)右大臣公能であった。公能は多子入内の年、永暦元(1160)年8月11日、二の権大納言から重通、宗能の二名を超越して右大臣となっており、これは外戚は任大臣の慣例によるものとみられる。常胤が右大臣公能を頼ったのは、八条院庁を通じた依頼であった可能性があろう。

 なお、突如相馬御厨の寄進を行おうとした源義宗は、故源義朝の遠祖・鎮守府将軍源頼義の実弟の源頼清の子孫である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))

 源頼信―+―源頼義――源義家――源為義―――源義朝――――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(検非違使)(下野守)  (右兵衛権佐)
     |                      
     |                      +=源義宗
     |                      |(判官代)
     |                      |
     +―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代
                     |
                     +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

 源義宗は常胤が「権門」を頼って解決しようとしたことに、「此国者惣根本当宮御領也、仍雖権門勢家、敢以不致相論也」と反発し、「常澄常胤等之妨」と主張している(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)。この批判は永暦2(1161)年正月の段階のものであることから、常胤が「権門(藤原公能)」へ訴えたのは、奉免立券した永暦元(1160)年秋以降、10~12月であると思われる。なお、義宗の批判の対象になぜか「常澄」も含まれているが、常胤の寄進状の中に常澄が登場することはなく、さらに常澄の介入も見られないことから、義朝と関わった常澄と常胤を敵対勢力と考えて記載したのであろう。彼らを「大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等」と誹謗(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)、彼らに相馬御厨に介入する権利はないとするところからも察せられる。

 義宗が相馬御厨の知行の根拠と主張したのは、藤原親通の「二男親盛朝臣」から「而依匝瑳北條之由緒、以当御厨公験所譲給」ったことである(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)「匝瑳北條之由緒」がどのようなものかははっきりしないが、「匝瑳北条」に義宗が持っていた土地に関する何らかの権益を親盛へ渡した過去があり、その対価として相馬御厨の「公験」が譲られたのかもしれない。実際に親盛の子・藤原親雅(千田判官代)は、匝瑳北条の内山に館を構えていたとされ、親盛が匝瑳北条に権利を持っていたことが推測される。なお、親盛は『尊卑分脈』には「従五位下、散位、下総守」とあるが(『尊卑分脈』)、仁安2(1167)年8月18日に行われた摂政基房の「若君沐浴」で、「鳴弦」を行った六名「正遠、信方、懐成、延清、俊光、親盛已上三人六位、女院等判官代の一人が親盛となっている(『愚昧記』仁安二年八月十八日条)。当時の「女院」は「皇嘉門院(聖子)」「上西門院(統子内親王)」「高松院(姝子内親王)」「八條院(暲子内親王)」であるが、基房との直接的な血縁は姉の皇嘉門院のみであり、ここで指す「女院等」は皇嘉門院のことであろう。ただし、『尊卑分脈』に指す親盛には女院判官代の経歴はないため、両親盛が同一人物である確証はない。

 源義宗は河内源氏の一流・源頼清(源頼義弟)の子孫で、上野冠者宗信の子である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))。宗信の曽祖父(頼清の子)源家宗は関白師実・師通に仕え、承暦2(1078)年に上野介となって任国に赴任し、承暦4(1080)年5月6日、「上野介家宗、依公家召自任国罷上」(『水左記』承暦四年五月六日条)ことが、権大納言源俊房のもとに報告されている。その後、応徳元(1084)年4月11日までの在任が確認できる(『後二条師通記』応徳元年四月十一日条)。家宗の子・家俊は寛治8(1094)年12月6日の賀茂臨時祭において舞人となった「左兵衛尉源家俊」として名がみえる(『中右記』寛治八年十二月六日条)。義宗の義兄・源宗信「上野冠者」と称されていることから、義宗の系統は上野国に利権を有していた可能性があろう。そして、藤原親盛の父・藤原親通も、大治元(1126)年に上野権介に就いており、ともに在京の身であることから、義宗の父・源宗信と親盛の父・藤原親通の間に接点が生じた可能性があろう。そしてこれが「匝瑳北条之由緒」へと繋がっていったのかもしれない。

 また、義朝の嫡子、源太義平に討たれた帯刀先生義賢の母は「六条大夫重俊女」(『尊卑分脈』)とあるが、もし六条大夫重俊が義宗の養父・左衛門尉重俊と同一人物であったとすれば、為義の六条堀川邸と近隣の好みで交流を持ち、姻戚関係となっていた可能性もあろう。事実上、義甥の義賢を追討した義朝を「大謀叛人」と称し、常澄、常胤をその家人と誹謗したのも、義朝に対する敵愾心があったから、という可能性はないだろうか。

五十鈴川
内宮(皇太神宮)を流れる五十鈴川

 義宗は永暦2(1161)年正月、相馬郷寄進の解状を伊勢内外二宮へ送るが(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)、相馬御厨をそれまでの内宮一宮から内外二宮への寄進としている。さらに翌2月には供祭料についての請文を内外二宮に発給している。

 常胤は義宗の二宮寄進を知ると、これまでの内宮一宮への寄進から内外二宮へ義宗と同条件の寄進に切り替え、2月27日に寄進の決裁のための「解」を「二所太神宮庁」へ発した(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解写』)。そこには「代代国判次第調度文書公験等」が付されており、常胤も正式な「公験」を有していたことがわかる。

 神宮庁では義宗(永暦二年正月日寄進)、常胤(永暦二年二月廿七日寄進)を勘案し、結局常胤の寄進に対して「然則件相馬御厨、任申請旨、為二宮御領、可令備進供祭上分之状、与判如件」と「判」が捺され、その寄進が認められることとなった(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解写』)。常胤は4月1日にもこれまでの相馬御厨に関するいきさつを主張した「申状」を「稲木大夫(荒木田明盛)」へ提出し、祭主(大中臣為仲)からの尋ねがあれば申状の旨を説明してほしいと依頼しており(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)、これも寄進が認められる一因だったのかもしれない。

 しかし、なぜかその後神宮庁は態度を一転させ、義宗が正月に提出した寄進状に対して「判」を与え、「抑件御厨、依下総権介平常胤寄文、近日雖成与二宮庁判、如今寄文者、理致分明之上、不知子細之旨、常胤誓言状具也者、毀先判改与判如件」と、義宗の寄進状が「理致分明」である一方で、常胤の「誓言状(寄進後に何らかの文書を提出したか)」は「不知子細」であるとし、先に常胤へ与えた寄進状は破棄した(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状写』)。そして長寛元(1163)年、相馬御厨は「源義宗沙汰」として宣旨が下されることとなり(建久三年八月『伊勢太神宮神領注文』)、常胤は相馬御厨に関する権利を完全に失うこととなった。

 神宮庁が常胤の寄進状を破棄して義宗の寄進状に判を与えた時期は不明だが、この急な神宮庁の態度の変化は、常胤が口入を依頼した右大臣公能がこの年の8月11日に急死したことが関係しているのかもしれない。当時の義宗はおそらく二条天皇の中宮姝子内親王に出仕(のち義宗は高松院判官代となっている)していたと思われ、中宮権大夫実長らによる口入があったのかもしれない。

 しかし、頼朝の平家追捕と下総国が「関東御知行国」(『吾妻鏡』文治二年三月十二日条)となったことにより、常胤はふたたび相馬御厨に入部することになったと思われる。文治2(1186)年3月12日の時点で、相馬御厨は後白河院の「院御領」とされている(『吾妻鏡』文治二年三月十日条)ことから、相馬御厨は伊勢二宮領から後白河院領に転じた(寄進か)ことがわかる。

 文治5(1189)年8月20日、頼朝による奥州藤原氏との合戦時、頼朝が翌21日に「ほうてう、みうらの十郎、わたの太郎、さうまの二郎、おやまたたのもの、おくかたせんちしたるものとん、わたの三郎」が平泉へ必ず到着するよう命じた文書(文治五年八月廿日『源頼朝書状』)。に「さうまの二郎」が見えるが、彼は常胤の次男・相馬二郎師常とみられ、すでに師常が相馬御厨に入部していたことがわかる。

 建久3(1192)年8月5日、「下総国住人常胤」は政所下文の通り「仍相伝所領、又依軍賞充給所々等地頭職」を頼朝から認められており(『金沢文庫』:「鎌倉遺文」所収)、おそらくこの「相伝所領」の中には相馬郷ならびに立花郷が入っていたものと思われ、正式に相伝所領を取り戻したのだろう。

「源義宗」は「佐竹義宗」ではない
※源義宗を佐竹義宗ではないとした初見論文(8)(9)

 この相馬御厨の権利に関して、これまでは常胤と争った「源義宗」は常陸国の佐竹冠者昌義の子・佐竹義宗のこととされていたが、誤りであったことが証明されている(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))

 保延2(1136)年、下総守藤原親通が平常重から「官物負累」を理由に責め取った相馬御厨の証文および公験は、親通から次男・親盛へ譲り渡され、さらに「匝瑳北条之由緒」により源義宗へ譲り渡された。「匝瑳北条」とは匝瑳北条内山に屋敷を構えた親通流藤原氏のこととすれば親通流藤原氏と「源義宗」は親密な関係にあったことは推測できる。

 しかし、ここから「源義宗」を「佐竹義宗」と同定し、平家―親通流藤氏―佐竹義宗―佐竹氏というような図式を成立させるのは非常に困難である。そもそも、親通流藤氏と佐竹氏が結びついていた傍証はない上に、佐竹氏が本拠とした常陸北部と相馬郡とでは地縁的な関わりが無いこと、佐竹氏討伐後に頼朝が没収した佐竹氏領の中には常陸国北部以外のものは含まれていないこと、佐竹義宗自身は院の「判官代」ではなかったこと、活動の時期が「源義宗」の方が一世代前であることなど、「源義宗」を「佐竹義宗」とする条件は大変厳しい。

 「佐竹義宗」は承安4(1174)年3月14日当時、「■(佐)竹冠者昌義、同男雅楽助、大夫義宗」(『吉記』)と見え、父の「佐竹冠者昌義」とともに「蓮華王院領常陸国中郡庄下司経高濫行」を抑えるため、在庁らと協力すべきことが指示されており、父もまだ健全ないまだ青年の面影を感じる人物と思われる。なお「雅楽助」と「大夫義宗」が同一の人物かどうかは不明。ただ、佐竹義宗はこれ以前に在京して五位に叙爵していることがうかがえる。

 一方、布施郷を寄進した「左兵衛少尉正六位上源義宗」は、久安5(1149)年12月22日の小除目で「去頃於陣辺搦犯人之賞」(『本朝世紀』)として賞に預かった人物で、当時「女院侍長」(『本朝世紀』)であった。佐竹義宗が常陸で活躍するよりも二十五年も前のことである。つまり義宗は美福門院侍長として美福門院に出仕していた在京の武士であり(賊を逮捕したのも左兵衛陣の辺りだろう)、久寿2(1155)年3月23日の石清水臨時祭では舞人の一人として「兵衛尉源義宗」が見えている(『兵範記』久寿二年三月二十三日条)。その後、布施郷を伊勢二宮に寄進した永暦2(1161)年正月までの間に左兵衛少尉を辞官していたことがわかる。

 なお、『寛政重修諸家譜』の佐竹家譜に見える佐竹義宗の項目に「皇嘉門院侍長」とあるのは、『本朝世紀』の久安5(1149)年12月の源義宗の「女院侍長」とある記述を引いていると思われるが、当時の女院・美福門院を、二か月後に女院となった皇嘉門院と誤って「皇嘉門院侍長」とした可能性があろう。

 仁安2(1167)年6月15日、伊勢外宮禰宜・度会某(度会彦章)が「源判官代」に対し、相馬御厨について内宮権禰宜荒木田明盛と外宮禰宜度会彦章との相論(権禰宜荒木田は千葉氏からの相馬御厨寄進の際の口入神主の家柄で領家的存在であり、対して外宮の禰宜度会は義宗の代弁を行う存在であった。)が永万2(1166)年6月3日に決着し、荒木田明盛から度会彦章へ避文を渡し和與がなったことの報告をしている(ただし、権禰宜荒木田は彦章を信用しておらず、御厨に関する文書は荒木田が保管している)。義宗が内宮荒木田明盛の避文を欲していることの他、文章の内容から、この「源判官代」と「源義宗」は同一人物とみられる

 結論から言えば、禰宜度会から報告がなされた「源判官代」は、おそらく伊予守源頼信の子・源頼清の子孫である高松院判官代源義宗」と思われる(『尊卑分脈』)。義宗と義朝の関係は、義朝の叔母の甥孫となり又従兄弟には下総守藤原在重がいる。在重はおそらく千葉介常胤を相馬郡司に任じた人物であろう。

 源頼信―+―源頼義――源義家――源為義――――源義朝――――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(左衛門大尉)(下野守)  (右兵衛権佐)
     |                      
     |                       +=源義宗
     |                       |(判官代)
     |                       |
     +―源頼清――源家宗――源家俊――+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助) |(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代)
                      |
                      +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

 なお、源義宗は源頼清(源頼義弟)の子孫で、上野冠者宗信の子である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))。宗信の曽祖父(頼清の子)源家宗は関白師実・師通に仕え、承暦2(1078)年に上野介となって任国に赴任し、応徳元(1084)年4月11日までの在任が確認できる(『後二条師通記』応徳元年四月十一日条)

■相馬御厨の寄進事項時系列

大治5(1130)年6月11日

『下総権介平朝臣経繁寄進状』→相馬御厨(布瀬墨埼御厨)の成立

保延元(1135)年2月

常胤、18歳で「相馬御厨下司職」を継承。
相馬郡司は常重のままと思われる。

保延2(1136)年7月15日 藤原親通、相馬郡司常重の官物未進を責めて、常重を逮捕し、相馬郷・立花郷の新券を押し取る。
康治2(1143)年 源義朝、上総権介常澄の「浮言」を理由に、常重から相馬郷を責め取る(圧状)。
天養2(1145)年3月 源義朝、神威を恐れて(大庭御厨濫行か)相馬郷を伊勢二宮に寄進(ここでの避状=寄進状)。
久安2(1146)年4月常胤、国衙に税を納めて、正式に相馬郡司に任じられる(立花郷は返還されず)
        8月10日 『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』→常胤によるはじめての寄進。 常胤、伊勢皇太神宮(内宮)より御厨下司職に改めて任じられる
????常胤、このころ「下総権介」に任じられるか
保元元(1156)年7月「保元の乱」が起こる。 常胤、上総介八郎広常(上総権介常澄八男)とともに源義朝に随って参戦
平治元(1159)年12月「平治の乱」が起こる→源義朝、敗れて尾張にて殺害される。 常胤は参戦せず、広常は参戦。
永暦元(1160)年常胤、相馬御厨を「謀叛人義朝領」として国衙に没収される
       秋常胤、相馬御厨は千葉氏相伝の地であって義朝領ではなく、「神宮領」として国衙に奉免を求める。国司源有通もこれを認め、在庁に対して現地調査を命じる。
  常胤は前年秋の相馬御厨奉免の決済が降りないので、国衙に参上して問い合わせを行っている。しかし、早々に決が下りる様子がないため、権門に注進。右大臣より伊勢祭主に調査の指示が出る。
永暦2(1161)年1月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』→源義宗による突然の寄進。
      2月27日 『下総権介平常胤解案』→相馬御厨を内宮だけではなく、外宮にも寄進することを述べる。
      3月中『下総権介平常胤解案』の判以降→常胤の二宮への寄進状を認め、判が捺される。
      3月中『前左兵衛少尉源義宗寄進状』の判以降→先日の常胤へ与えた先券を破棄し、義宗の寄進状に判が捺される。
      4月1日(16日着) 『下総権介平申文案』→常胤、伊勢の稲木大夫に自分の正当性について口利きを依頼するが、実らず。
長寛元(1163)年 相馬御厨について「源義宗沙汰」の宣旨。
永万2(1166)年6月3日 常胤側の口入神主・荒木田明盛(内宮権禰宜)から、源義宗側の口入神主・度会彦章(外宮禰宜)へ避文が渡され、和與が成立。ただし、明盛は義宗を信用せず、御厨に関する書類一切は手元に保管。
仁安2(1167)年6月15日 度会彦章より「源判官代」に対し、相馬御厨について荒木田明盛との相論が決着した報告がなされる。

3,相馬御厨の範囲について

 相馬御厨は千葉介常胤の父・常重相馬郡布施郷(相馬郷と同意か)を伊勢内宮に寄進して成立した寄進地系の荘園である。相馬御厨(布瀬墨埼御厨を含め)は千葉介常重、源義朝、千葉介常胤、源義宗、千葉介常胤と、大治5(1130)年から永暦2(1161)年の三十年にわたって六回の寄進が行われている。ただし、常重は布施郷を寄進する以前、天治元(1124)年10月から大治4(1129)年までの間に、相馬郡内の「布瀬郷」「墨埼郷」の別符地の二郷を大蔵卿藤原長忠を領家として伊勢内宮に寄進しており、これが相馬御厨の前身となる「布瀬墨埼御厨」である。

 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』によれば、「経繁相伝之私領」である「相馬郡布施郷」を寄進する旨が記され、その「四至」として、東は蚊虻境、南は志子多谷・手下水海、西は廻谷・東大路、北は小阿高・衣川流が記されている。

  年月日 東端 南端 西端 北端 文書
前身 天治元(1124)年10月
~大治4(1129)年
不明 不明 不明 不明 布瀬墨埼御厨
『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』
1 大治5(1130)年
6月11日
蚊虻境 志子多谷并
手下水海
廻谷并
東大路
小阿高并
衣河流
『下総権介平朝臣経繁寄進状写』
2 天養2(1145)年
3月
須渡河江口 藺沽上大路 繞谷并
目吹岑
阿太加并
絹河
『源義朝寄進状写』
3 久安2(1146)年
8月10日
逆川口・
笠貫江
小野上大路 下川辺境并
木崎廻谷
衣川・
常陸国境
『平朝臣常胤寄進状写』
4 永暦2(1161)年
正月日
常陸国堺 坂東大路 葛餝・幸嶋
両郡堺
絹河・
常陸国境
『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』
5 永暦2(1161)年
2月27日
逆川口・
笠貫江
小野上大路 下川辺境并
木崎廻谷
衣川・
常陸国境
『下総権介平常胤解案写』

◆東端について

<1>蚊虻境 <2>須渡河江口 <3><5>逆川口・笠貫江 <4>常陸国堺

<1>「蚊虻境=蛟蛧境」については、現在の茨城県北相馬郡利根町立木周辺は古代、大蛇=蛟のように川筋が入り混じっていて、一帯は「蛟蛧(こうもう)」と呼ばれていた。延喜式内社として「蛟蛧神社」があり、現在でも台地上に二つの蛟蛧神社がある。とくに「奥ノ宮」と呼ばれる東の神社は台地の最東端に位置しており、平安期にはこのあたりまで「衣川(鬼怒川=小貝川)」が入り込み、常陸国境と接していた。

<2>「須渡河江口」については、現在の龍ヶ崎市須藤堀町周辺と思われ、「須渡河」の「江口」のことと推測される。「須渡河」は現在の河川には見えないが、おそらく現在の蛟蛧神社の眼前を流れていた小貝川の流れであったと思われる。「江口」は河口につながり、香取海(大きな意味での現在の利根川)に注ぎ込む地点であったと思われる。

<3><5>「逆川口」「笠貫江」については、「逆川」については不祥なものの、「笠貫江」に関しては、蛟蛧神社の南東に広がっていた「笠貫沼」がまだ小貝川の河口であったころの名称と思われる。「笠貫」は蛟蛧神社の「ミタライ=御手洗」「カサヌキト云フ」という話が『下総国旧事考』に記されていて、蛟蛧神社の面前が「笠貫」と呼ばれていたという。

<1><2><5>とおそらく<3>もいずれも蛟蛧神社の東側を流れる河川によって相馬御厨の境界が定められており、それらはすべて小貝川の河口付近に設定されていて、<4>「常陸国堺」に通じている。

◆南端について

<1>志子多谷并手下水海 <2>藺沽上大路 <3><5>小野上大路 <4>坂東大路

<1>「志子多谷并手下水海」については、「志子多谷」は現在の柏市篠籠田(しこだ)のことで、手賀沼へ流れ込む大堀川の南側にある。「手賀水海」は現在の手賀沼のことで、古代から中世にかけて千葉県北部に広がっていた広大な入江・香取海の一部を形成している。

<2>「藺沽上大路」の「藺沽」は「藺沼(いぬま)」のことで、菅生沼(水海道市菅生町)から利根川に注ぐ「飯沼川」周辺、現在の東海寺(布施弁天)北麓の水田地一帯、取手市・我孫子市・柏市あたりにあった大きな沼地(飯沼=幸嶋広江)と思われる。「大路」は官道を指しており、国府と国府を結ぶ重要な道路であった。相馬郡内には、常陸国府から下総国府へ至る大路が現在の柏市内あたりを通過していたと思われ、その大路を指していると思われる。

<3><5>「小野上大路」については、現在の茨城県取手市井野のあたりを通過していた大路のことと思われ、<2>「藺沽上大路」や<4>「坂東大路」と同じ意味と思われる。井野から水路を経て相馬郡衙=郡庁(我孫子市日秀)に入り、手賀沼をわたって柏市大島田(=大路又:おおじまた)から柏市内へ抜けていたのかもしれない。

◆西端について

<1>廻谷并東大路 <2>繞谷并目吹岑 <3><5>下川辺境并木崎廻谷 <4>葛餝・幸嶋両郡堺

<1><2>「廻谷并東大路」の「廻」は「メグリ」とよみ、境界線を表す。東大路の存在は不明だが、<2>に見られる「繞谷」の「繞」も「メグリ」と読み、同一の地域を指していると思われる。つまり、<1>の「東大路」が走っていたところと「目吹岑」がほぼ同じ地域にあったと思われる。「目吹岑」は現在の野田市目吹付近の「岑」のことと思われ、熊野神社・香取神社などがある丘一帯か。

<3><5>「下川辺境」は葛飾郡下河辺庄の境目である太日川(大井川=江戸川)、「木崎」は現在の野田市木野崎に相当すると思われ、目吹とは北接している。木野崎は平安時代にはまだ川が流れていたと思われ、南の瀬戸と北の目吹の間に谷を形成して、「廻谷」と呼ばれていたのかもしれない。

<4>「葛餝(葛飾)・幸嶋両郡堺」については、葛飾郡・猿島郡の境であるから、目吹の前を流れる利根川、さらには南に下って下河辺庄との境の太日川、東経139度54分付近が西の境界となっていたか。

◆北端について

<1>小阿高衣河流 <2>阿太加絹河 <3><5>衣川・常陸国境 <4>絹河・常陸国境

<1>「小阿高衣河流」と<2>「阿太加絹河」については、「小阿高」「阿太加」は現在の稲敷郡伊奈町足高と推測され、「衣河流」「絹河」は小貝川(=鬼怒川)のことであり、現在の伊奈町城中にある城中八幡神社が中世の陸地の東端であったと推測される。<3><5>「衣川・常陸国境」、<4>「絹河・常陸国境」についても、ほぼ同じく現在の牛久沼の南端を指していると思われる。

4,以仁王の乱(詳しくは⇒「最勝王宣」)

 千葉氏は常兼常重以来、代々「下総権介」に就いており、館は遠祖千葉大夫常長以来の千葉庄(千葉市千葉寺周辺)に存在していたと考えられるが、下総国衙付近(市川市国府台)にも進出し、官牧・国分寺領の支配をしていたと思われる。常胤の五男・五郎胤通は国分館に住し、国分五郎を称していた。

以仁王地図
紫線は以仁王の逃走ルート(推定)
青線は検非違使の追撃ルート(推定)

また、常胤の六男・六郎胤頼大番として上洛し瀧口に詰めたのち、上西門院蔵人だったと思われる遠藤左近将監持遠の推挙で上西門院統子内親王(鳥羽院の皇女)に仕えて「五位」を給され、「千葉六郎大夫」と称した。そして大番の任期が切れて帰国予定だった治承4(1180)年5月、以仁王(後白河院の皇子)源三位頼政入道と結んで挙兵以仁王の乱、以仁王に近侍した常胤の子園城寺律静房日胤が宇治の南、綺田の大寺・光明山寺の鳥居前で戦死したとされる(『玉葉』治承四年五月廿六日条)

 以仁王の乱が鎮定されたのち、六郎胤頼三浦次郎義澄とともに東国へ帰国を企てるも、両名は「依宇治懸合戦等事、為官兵被抑留之間」とある通り身柄を拘束された。胤頼の兄「律上房(日胤)」が乱の「張本」(『玉葉』治承四年五月十九日条)である以上、胤頼は当然嫌疑をかけられただろうが、三浦義澄が拘束された理由は不明。しかし、半月ほど拘留されたのち胤頼たちは釈放され、帰国の途についた。胤頼義澄が具体的に宇治合戦に関わった証左はないが、胤頼の周辺を見ると乱に関わった人物が散見され、胤頼義澄も関係していた可能性は高いだろう。

 東下した胤頼三浦義澄はまず伊豆国田方郡北条前右兵衛権佐源頼朝のもとを訪れた。ここで彼らは以仁王や頼政入道の挙兵や京都における平家政権の状態を告げたと思われる。以仁王の乱が勃発するまで伊豆国は源頼政入道が知行国主となっており、目代も頼政入道所縁の人物であったと考えられ、承安2(1172)年7月9日以前から続いていた「頼政朝臣知行国」(『玉葉』承安二年七月九日条)のもと、下総国八条院領の下河辺庄司である下河辺氏、その一族で乳母家の小山氏らとの接触など、頼政の関係者との接触はそれほど厳しいものではなかったのかもしれない。

 ところが、以仁王、源頼政入道の乱によって、伊豆国は収公され、平清盛の義弟・平時忠が知行国主となり、伊豆守は平時兼(時忠養子)、目代は当国流人だった平兼隆が起用された。兼隆は治承3(1179)年正月19日に父・平信兼の申請によって「解官右衛門尉平兼隆」(『山槐記』治承三年正月十九日条)とあるように、検非違使判官ならびに右衛門尉を解かれ、その後伊豆国へ遠流された稀有な人物で、在所は北条館に近い山木郷であった。兼隆は安元2(1176)年、平時忠が検非違使別当であった時期に「右衛門尉正六位上 平兼隆」と初見されることから、時忠のもとでおよそ半年あまり(時忠は辞官してしまう)検非違使であり、目代起用にはこうした過去の関係があったのかもしれない。

 胤頼義澄は頼朝との対面後、それぞれ郷里に帰り、頼朝は源頼政入道から遣わされた叔父・新宮十郎行家から「前伊豆守正五位下源朝臣(源仲綱)の名による「以仁王の令旨」を受け取った。ところが、この頼政入道挙兵により、清盛入道は「近曾為追討仲綱息素住関東云々、遣武士等大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、以仁王の乱の首謀者である前伊豆守仲綱(源頼政嫡子)の子息を追討するべく、被官の大庭三郎景親を関東に差し遣わした。清盛入道の地方武士追討の方針は「遣禅門私郎従等、其後可被遣追討使」(『玉葉』治承四年十一月十二日条)というもので、大庭景親の下向もこれに当たるものであろう。しかし、この「仲綱息」は「迯脱奥州方了(『玉葉』治承四年九月十一日条)とすでに奥州へ逃れ去っていた。

 ところが、この清盛入道の大庭三郎景親の関東下向の沙汰を漏れ聞いた在京の頼朝支援者(頼朝乳母甥)の散位三善康信が弟の康清を使者として頼朝に用心を重ねるよう諭した。6月19日に「参著于北條」した康清からこの報告を受けた頼朝は、康信の功に感謝した「大和判官代邦道右筆」での「被加御筆并御判」の「委細御書」を認めると康清に託した(『吾妻鏡』治承四年六月廿二日条)。康清が22日に北條を発して上洛の途に就くと、「入道源三品敗北之後、可被追討国々源氏之條」という「康信申状」は「不可被處浮言」として、「遮欲廻平氏追罰籌策」し、6月24日、側近の藤九郎盛長小中太光家を副えて「被招累代御家人等」て挙兵の協力を頼むこととした(『吾妻鏡』治承四年六月二十四日条)

   三善康光  +―三善康信
  (権少外記) |(中宮大夫属入道善信)
   ∥     |
   ∥―――――+―三善康清
 +―妹      (隼人佐入道善清)
 |
 |
 +―頼朝乳母

 右筆の「大和判官代邦道」は、藤九郎盛長が在京時に「因縁」のあった人物で、盛長の推挙で伊豆に下向し頼朝に伺候していた。その出自は北家魚名流の末裔であるとされる(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店1994)。 なお、邦道の四代前に見える友房は、嘉承3(1108)年正月24日の除目で「受領被任次第」として「大和守藤友房」とあるように大和守に任じられている(『中右記』嘉承三年正月廿四日条)。この除目について中御門宗忠は「管国肥前公文、儒者四位也、被成此国、誠以不便歟」と管轄外の受領となることへの同情を述べている。

 建久2(1191)年3月3日、翌日の「鎌倉大火災」を予言した人物として「広田次郎邦房」が見えるが、彼は「大和守維業男」「継家業者、雖有儒道之号」(『吾妻鏡』建久二年三月三日)という人物だった。「大和守維業」は邦道の叔父にあたり、邦房は邦道の従兄弟にあたる。「広田」越中国「弘田御厨」に由来しているとみられる。「弘田御厨二宮」は仁平3(1153)年までに建立された御厨で「給主散位故友業子息」とあり、おそらく友業が建立し、子である「大和守維業」が給主となってこれを管理したものだろう。「件御厨、去仁平年中建立、同三年被下奉免宣旨之後、度々 宣旨重畳也」(『神宮雑書』)という。

●大和判官代邦通の系譜(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店1994、『尊卑分脈』)

 藤原魚名―鷲取――――藤嗣――高房―――山蔭―――公利――――守義――為昭―則友―+―国成――+
(左大臣)(中務大輔)(参議)(越前守)(中納言)(但馬権守)(参議)       |     |   
                                          |     |
                                          +―国長  |
                                                |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―友房――盛友――友業―――+―友長――――邦道
 (大和守)   (大和進士)|      (大和判官代)
               |
               +―藤原維業
               |(六条院蔵人)
               |
               +―藤原盛国
                (諸陵頭)

 以下は史料的価値は低いが、『源平盛衰記』にみられる藤九郎盛長の「被招累代御家人等」の説話である。

 盛長はまず相模国の波多野右馬允義常のもとを訪れたという(『源平盛衰記』)。ところが義常は日和見的な態度を示す。

 次に義常の義兄にあたる懐島権守景義を訪れた。景義は弟の大庭三郎景親のもとを訪れて「和殿はいかゞ思」うかと問うと、景親は「源氏は重代の主にて御座ば、尤可参なれ共、一年囚に成て既に切らるべかりしを、平家に奉被宥、其恩如山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可奉忘なれば、平家へこそ」と答える。これに景義は「源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難知し、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世に出給はば我をも憑給へ」と、弟の豊田次郎景俊とともに頼朝方へ参ずることを決め、景親は末弟の俣野五郎景久とともに平家方についたという(『源平盛衰記』)。ただし、当時景親は在京のためこの話は史実ではない。

 次に盛長は山内首藤瀧口三郎経俊四郎の兄弟に触れるが、経俊は弟に「是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざいざ富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ」と嘲ったという(『源平盛衰記』)

 その後、三浦大介義明のもとを訪れると、義明は涙を流して「故左馬頭殿の御末は、果て給ひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座て、七十有余の義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべし」と喜び、一族を集めて「一味同心して兵衛佐殿へ参べし」と申し述べたという(『源平盛衰記』)

 その後、盛長は海を渡って下総国に至り、千葉介常胤と面会したという(『源平盛衰記』)。『吾妻鏡』ではこの説話は9月1日から9日までの間の話であって時期が異なるが、『吾妻鏡』6月24日条にもみられるように、挙兵に際して故義朝と所縁のある諸豪族には悉皆触れたと想像され、挙兵以前に頼朝と常胤は連絡を取っていた可能性が高いだろう。とくに常胤の六男・六郎大夫胤頼が頼朝の配流先にまで訪れていることからも、挙兵以前に頼朝と常胤は接触を持ったことが想像される。

 『源平盛衰記』によれば、盛長が訪問すると、常胤「此事上総介に申合て、是より御返事申べし」と、上総介八郎広常との相談の上返事すると即答を避けたという。ところが、盛長の帰途に鷹狩り帰りの常胤の嫡子・小太郎胤正と出会う。胤正は盛長を見て「如何に」と問うており、説話上ではすでに顔見知りであった様子がうかがえる。盛長の話しを聞いた胤正は盛長を伴って館に帰ると、常胤「恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。先度の御催促に参上の由御返事申されぬ、其上上総介に随たる非御身、彼が参らばまゐらん、不参は参らじと仰候べき歟、全不可依其下知、只急度可参由御返事申させ給ふべし」と常胤に迫ると、常胤「可参」と返答したという(『源平盛衰記』)。さらに広常のもとを訪れて触れた際には「生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にあり」と、広常は積極的な参加を約した(『源平盛衰記』)

 なお、この広常と常胤の招聘に関する説話は、後述の通り『吾妻鏡』とは真逆の設定となっているが、『源平盛衰記』は成立年代が遅く、さらに『平家物語』をベースに説話を増補した軍記物である以上、『吾妻鏡』より信を置くことは不可であろう。

 広常との逸話については、「上総介ノ八郎広経カ許ヘ行テ勢ツキニケル」(『愚管抄』巻五)とというものもあるが、実際には安房国で平家与党の長狭常伴の襲撃計画を知り、道を変更して下総国へ北上しているため、広常のもとに向かってはいない。『愚管抄』が記されたころにはすでに治承寿永の乱から数十年の時を経ている上に、もとより慈円は東国の出来事は伝聞を書き留めているに過ぎない。そのため頼朝挙兵時に「梶原平三景時、土肥次郎実平、舅ノ伊豆ノ北條四郎時政、是等ヲ具シテ東国ヲウチ従ヘントシケル」など、梶原景時が当初より頼朝に従属していたと誤解していたり(これはのちに梶原景時、土肥実平の両名が平家の追捕使として中国地方に派遣されたバイアスによる誤解だろう)、平家に伺候していた「畠山庄司、小山田別当」の子「庄司次郎ナド云者共ノ押寄テ戦ヒテ箱根ノ山ニ逐コメテケリ」と、実際には石橋の陣に参戦していない畠山庄司次郎重忠が押し寄せたと誤解していたりするなど、挙兵時の東国に関する情報は錯綜したまま慈円は理解しているのである。『愚管抄』の東国に関する情報、とくに、突然の東国騒乱に情報がひどく錯綜していた治承4年当時については、京都に情報源を持つ事柄に比べて信憑性は低いものと疑うべきである

 7月10日、盛長一行は伊豆の頼朝のもとに帰参し報告を行う(『吾妻鏡』治承四年七月十日条)。盛長らは相模国内の諸士を味方につけることに成功するも、波多野右馬允義常、山内首藤瀧口三郎経俊は応じなかったことが伝えられた。さらに、5月の源三位の乱で平家に動員された東国武者たちが続々と関東に帰還するという状況も発生する。

 8月、頼朝は挙兵の手始めとして、試みに平家被官である伊豆国目代「散位平兼隆」を討つべく計画を立て、右筆の大和判官代邦道を兼隆の屋敷へ送り込んだ。この大和判官代邦道は「邦道者洛陽放遊客也、有因縁盛長依挙申」(『吾妻鏡』治承四年八月四日条)とあるように、藤九郎盛長がまだ在京時に「因縁」があり、盛長の推挙で頼朝に伺候していた。邦道は治承4(1180)年6月22日の時点ではすでに頼朝の右筆として見えるが(『吾妻鏡』治承四年六月二十二日条)、いまだ兼隆に悟られていないことから、盛長の推挙後間もないのだろう。邦道が山木兼隆を訪れた際、兼隆は酒宴や郢曲を催して歓待し、数日にわたって逗留させていることから、兼隆と邦道は京都で顔見知りだったことがわかる。

 8月4日、邦道は頼朝のもとに戻り、写し取った山木周辺の絵図面を披露する、頼朝は北条時政を配所に招くと、襲撃の計画を立てた。そして、8月17日、三島社の祭礼にあわせて山木館を襲うことを決定し、工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉らをひとりひとり配所に招いて合戦について議し、「令議合戦間事給雖未口外、偏依恃汝被仰合」と一人ひとりに慇懃に声をかけたため、みな勇を励む決意を新たにしたという(『吾妻鏡』治承四年八月四日条)

 そして8月17日、挙兵の決行日に頼朝は藤九郎盛長を使者として三島社へ奉幣し、その後、盛長の僕童が配所の釜殿で兼隆の雑色男を生け捕った。この雑色男は配所の下女と婚姻していたことから、夜々配所に妻訪に現れていた人物であった。頼朝は普段はそのままにしていたが、今夜は挙兵のために諸士群集しており、兼隆に注進される恐れがあるため、召し取るよう命じている。そして、北条時政以下の諸士を山木館へ向けて進発させ、山木判官兼隆とその後見の堤権守信遠を討ち取ることに成功する(『吾妻鏡』治承四年八月十七日条)

 兼隆は前年の治承2(1178)年正月19日に解官され(『山槐記』治承二年正月十九日条)、配流はさらに後日であったことになる。おそらく伊豆へたどり着いたのは早くとも3月以降であろうと推測され、その後、目代として起用されるまで流人であった。『吾妻鏡』によれば配流後「漸歴年序之後、借平相国禅閤之権、輝威於郡郷、是本自依為平家一流氏族也」とあるが、流人ながら平氏一族だったことから権威を奮ったのだろう。しかし兼隆は父・信兼の望みとして配流されていることから、信兼一族の支援は考えられず、私兵を蓄える財もなかったであろう。また、目代となったのは知行国主が平時忠へ移った治承4(1180)年7月以降(以仁王の乱は5月26日に終結しており、その後の頼政党類の収公処理や除書等の作成、伊豆国への伝達を考えれば、最短でも一月程度は必要であろう)であることから、頼朝挙兵まで長くとも一か月程度しかない。「後見」の堤信遠については、後見が親類を主とすることから兼隆の親類でともに下向していたのだろう。

 そして8月19日、頼朝は「在当国蒲屋御厨」った「兼隆親戚史大夫知親」が日ごろから非法を行って民を苦しめていると称し、その権限を停止させた。これが「関東事施行之始」であったという(『吾妻鏡』治承四年八月十九日条)。中原知親が兼隆とどのような親戚関係にあったかは定かではないが、知親は「平知親」とも称され(『吉記』治承五年三月廿六日条)、藤原忠清のように平姓の呼称を持つほど近い親類であったのだろう。彼は治承5(1181)年3月26日、県召除目で検非違使となり、左衛門尉に就いている(『吉記』治承五年三月廿六日条)。4月16日の賀茂祭では検非違使の筆頭として加わっている。

5,頼朝挙兵と「須以司馬為父」・千葉介常胤

 頼朝の挙兵は「義重入道故義国子、以書状申大相国、義朝子領伊豆国、武田太郎領甲斐国」と、上野国の新田義重入道によって清盛入道へと伝えられて発覚している。義重入道は「義重在前右大将宗盛命相乖、彼家宗、坂東家人可追討之由仰下、仍所下向也者」と、宗盛の命によって追討のために上野国へ下向していた人物であった(『山槐記』治承四年九月七日条)

 治承4(1180)年9月5日、高倉院御所において頼朝挙兵に対する追討使派遣について評議が行われ、その結果、「維盛、忠度、知度等」を追討使とする官宣旨が下され(『玉葉』『山槐記』治承四年九月九日条)、22日に追討使下向が決定された。

■治承四年九月五日「源頼朝等追討官宣旨」(『山槐記』治承四年九月五日条)

 右弁官下 東海道諸国  
   応追討伊豆国流人源頼朝幷与力輩
 右 大納言藤原朝臣実定宣奉 勅頼朝忽相語凶徒凶党、欲慮掠当国隣国、叛逆之至既絶常篇、宣令右近衞権少将平維盛朝臣、薩摩守同忠度朝臣、参河守同知度等、追討彼頼朝及与力輩、兼又東海東山両道堪武勇者同令備追討、其中抜有殊功輩、加不次賞者、諸国宣承知依宣行之
   治承四年九月五日 左大史

 平氏政権は地方叛乱勢に対しては、追討使下向までの間に在地勢力にその鎮定を命じる向きがあり、今回も「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」(『山槐記』治承四年九月七日条)に頼朝追討が命じられることとなった。大庭三郎景親はもともと「近曾為追討仲綱息素住関東云々、遣武士等大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也(『玉葉』治承四年九月十一日条)といい、清盛入道が私的に遣わした人物であったが、「忽頼朝之逆乱出来」(『玉葉』治承四年九月十一日条)たため、頼朝追討に切り替えられたものだった。

 8月23日、「武衛相率北條殿父子、盛長、茂光、実平以下三百騎、陣于相摸国石橋山給、此間以件令旨、被付御旗横上」(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)と、頼朝は三百騎ほどを率い、以仁王(最勝王)の令旨を旗の上に掲げて相模国石橋山に布陣したという。これに対し、平氏方の「同国住人大庭三郎景親、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟屋権守盛久、海老名源三季貞、曾我太郎助信、瀧口三郎経俊、毛利太郎景行、長尾新五為宗、同新六定景、原宗三郎景房、同四郎義行熊谷次郎直実以下平家被官之輩、率三千余騎精兵、同在石橋辺、両陣之際隔一谷也」(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)で、さらに「伊東二郎祐親法師率三百余騎、宿于武衛陣之後山兮、欲奉襲之」という陣容であった。

 また、頼朝に通じて石橋山へ向かっていた「三浦輩者、依及晩天、宿丸子河辺、遣郎従等、焼失景親之党類家屋、其煙聳半天」と、大庭景親与党の家屋に放火した。かなりの人家を燃やしたと見え、「入夜甚雨如沃」という天候の中でも「其煙聳半天」というほどであったという。景親はこれを石橋辺から「遥見之、知三浦輩所為之由訖」と悟ったという。これに景親は「今日已雖臨黄昏可遂合戦、期明日者三浦衆馳加、定難喪敗歟」と主張し、「数千強兵、襲攻武衛之陣」した。この急襲を受けた頼朝勢は「而計源家従兵、雖難比彼大軍、皆依重旧好、只乞効死、然間、佐那田余一義忠武藤三郎及郎従豊三家康等殞命、景親弥乗勝、至暁天」という大敗を喫した。頼朝は「令逃于椙山之中給、于時疾風悩心、暴雨労身、景親奉追之、発矢石」という逃避行の最中、「景親士卒之中、飯田五郎家義、依奉通志於武衛、雖擬馳参、景親従軍列道路之間、不意在彼陣」だった飯田五郎家義がにわかに景親を裏切り「為奉遁武衛、引分我衆六騎、戦于景親」ったため、頼朝は「以此隙令入椙山給」うことができたという(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)

 翌8月24日、頼朝は「陣于椙山内堀口辺給」った(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)。大庭景親はなおも追跡の手を緩めず、頼朝は「令逃後峯給」った。この間、「加藤次景廉、大見平次実政」が踏みとどまって景親の追跡を防ぎ、これに「景廉父加藤五景員、実政兄大見平太政光」も加わり、さらに「加藤太光員、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景、同平内光家、堀藤次親家、同平四郎助政」も轡を並べて攻め戦い、景員以下の乗馬の多くは矢に当たって斃れた。頼朝も得意の弓箭を以て敵を防いだものの、「箭既窮」となり、加藤景廉が頼朝の乗馬の轡を引いてさらに深山へ入らんとする所を「景親群兵近来于四五段際」と追いすがったことから、「高綱、遠景、景廉等」が数反戻って防ぎ矢を射たという(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)。この間に彼らは頼朝とはぐれたようである。

 このとき「北條殿父子三人」もまた景親に追われ戦っていたが、「筋力漸疲兮、不能登峯嶺之間、不奉従武衛」と、頼朝らとは別行動を取っていた。ここに合流した「景員、光員、景廉、祐茂、親家、実政等、申可候御共之由」を北條時政に願い出たが、時政は「敢以不可然、早々可奉尋武衛之旨」を命じたという。「被命」とあるところから、やや北條史観を感じるものの、頼朝の舅かつ家子の長たる時政は頼朝代将の位置にあったであろうことから、事実に近いとみてよいだろう。時政の指示を受けた景員らは「各走攀登数町険阻」して頼朝を探し回ったところ、「武衛者、令立臥木之上給、実平候其傍」であったという。頼朝は「令待悦此輩之参着給」し、土肥次郎実平「各無為参參上、雖可喜之、令率人数給者、御隠居于此山、定難遂歟、於御一身者、縦渉旬月実平加計略、可奉隠」と伝えた。これに景員らは「申可候御共之由」を述べたため、頼朝も「有御許容之気」を示すが、実平は「今別離者、後大幸也、公私全命、廻計於外者、盍雪会稽之耻哉」と頼朝や景員らの主張を強く抑えて、少人数での行動とするよう述べたことから、彼らは「依之皆分散、悲涙遮眼、行歩失道」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)

 こののち、飯田五郎家義が頼朝を慕って参上し、頼朝が路頭に落とした「日来持給」の御念珠を探し求めて持参した。これに頼朝は「御感及再三」している(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)。このとき家義は御供を申し出るも、実平は頼朝を諫めたため、家義は泣く泣く退去した。また、北條時政と小四郎義時は「経筥根湯坂、欲赴甲斐国」を志し(ただし甲斐行きは中止)、別行動の時政長男の北條三郎宗時「自土肥山降桑原、経平井郷」のところ、早川の辺で「被圍于祐親法師軍兵、為小平井名主紀六久重、被射取訖」した。また、狩野介茂光は負傷して「依行歩不進退自殺」した(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)

 8月28日に同地を発した脚力からの報告によれば、「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」「相模国小早河」において頼朝の軍勢と合戦に及び、「伊豆国伊東入道(祐親入道)の親族とみられる「伊東五郎」ならびに「相模国大庭三郎(景親)に随っていた「甲斐国平井冠者」が討たれたこと、敵の「兵衛佐(頼朝)同心輩」として、「駿河国小泉庄次郎」「伊豆国北条次郎、兵衛佐舅」「同(伊豆国)薫藤介用光」「新田次郎」を討ち取り、「兵衛佐残少被討成、箱根山遁籠了」(『山槐記』治承四年九月七日条)ということであった。なお、北条次郎は頼朝の小舅・北条三郎宗時、薫藤介用光は工藤介茂光、新田次郎は仁田次郎(仁田四郎忠常の兄か)であろう。その兵力は「群賊纔五百騎許、官兵二千余騎」であったという(『玉葉』治承四年九月九日条)

 9月7日、戦いの結末が「義朝子慮掠伊豆、坂東国之輩追討之伐取舅男、於義朝子入筥根山」と報告されている(『山槐記』治承四年九月七日条)

 石橋山合戦ののち、頼朝に協力すべく伊豆へ向かっていた三浦義澄率いる三浦勢は、8月24日早朝、酒匂川の畔で「自去夜相待曉天、欲参向之處、合戦已敗北」の報を聞く。このため「慮外馳帰」こととなるが、その路次の「由井浦鎌倉市由比ガ浜「与畠山次郎重忠、数尅挑戦、多々良三郎重春并従石井五郎等殞命、又重忠郎従五十余輩梟首之間、重忠退去」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)

 この小坪合戦から三日後の8月26日早朝、秩父党の人々が攻め寄せるという風聞が三浦党の耳に入り、「一族悉以引篭于当所衣笠城」(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)という。まず大手に当たる「東木戸口」「次郎義澄、十郎義連」「西木戸」「和田太郎義盛、金田大夫頼次」「中陣」「長江太郎義景、大多和三郎義久等」がこれを固めた(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)

 秩父党襲来の知らせを受けてわずか数時間後の辰刻、「河越太郎重頼、中山次郎重実、江戸太郎重長、金子、村山輩已下数千騎攻来」った(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)。義澄等は河越勢から防戦するも、先日の由比合戦ですでに人々は疲労しており、新手の兵との戦いは厳しいものだったろう。さらに矢も射尽くして「臨半更捨城逃去」という。このとき三浦の人々は「欲相具義明」したが、義明は、

「吾為源家累代家人、幸逢于其貴種再興之秋也、盍喜之哉、所保已八旬有余也、計余算不幾、今投老命於武衛、欲募子孫之勲功、汝等急退去兮、可奉尋彼存亡、吾独残留于城郭、摸多軍之勢、令見重頼」

と同道を拒絶した。義澄らは「涕泣雖失度」が、義明の命に従いその場を去った(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)

三浦義明墓
伝三浦義明墓(材木座来迎寺)

 翌8月27日朝、小雨の降る中、河越重頼、江戸重長らが衣笠城に攻め入り、「辰尅、三浦介義明年八十九、為河越太郎重頼、江戸太郎重長等被討取、齢八旬余、依無人于扶持也」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)。なお『源平盛衰記』では七十九歳とする。この戦いに畠山重忠の姿はなく、由比・小坪合戦での疲労及び大きな被害により差し控えられたのだろう。合戦後、「景親率数千騎雖攻来于三浦、義澄等渡海之後也、仍帰去」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)

 8月26日夜、すでに小雨が舞っていたであろう夜、衣笠を脱出した義澄らは、安房国へ向かった。おそらく衣笠城の西側丘陵地を下り小田和湾から出航したのだろう。

 安房国への途次「北條殿、同四郎主、岡崎四郎義実、近藤七国平等、自土肥郷岩浦令乗船、又指房州解纜、而於海上並舟船、相逢于三浦之輩、互述心事伊欝」といい(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)、安房国へ向かう北條時政らの船と三浦義澄らが海上で合流している。石橋山合戦後、どのような伝手で頼朝が安房へ向かったことが伝えられたのかは定かではないが、そもそも三浦氏の故地の一つが安房国であり、三浦郡を落ちた三浦氏が向かうのは安房以外には想定されず、この合流自体は偶然かもしれない

 この北条・三浦の船が安房国に着いた日は不明だが、朝には小雨(『吾妻鏡』の衣笠合戦二日目の記録で「朝間小雨、申剋已後風雨殊甚」と具体的な時間まで記載されていることから、衣笠合戦に加わっていた秩父党の記録が用いられた可能性があろう)が降っており、目印となる星も見えない中(この日は雨でなければ三日月が見えた)は三浦半島東岸など夜の早いうちに三浦・北条は合流して、翌27日には房総半島に上陸したのであろう。

 一方、石橋山での大庭勢の探索を切り抜けた頼朝は、8月28日、「武衛、自土肥真名鶴崎乗船、赴安房国方」いた。舟などはすでに接収されていたと思われるが、土肥領主の土肥次郎実平は「仰土肥住人貞恒、粧小舟」(『吾妻鏡』治承四年八月廿八日条)て、頼朝の乗船としている。大庭勢は8月27日には「景親率数千騎雖攻来于三浦、義澄等渡海之後也、仍帰去」(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)とあるように、三浦半島に攻め寄せており、景親は26日中には兵をまとめて三浦へ進発していて、石橋山周辺にはすでに大庭勢はいなかったのかもしれない。

 8月29日、頼朝は土肥実平の仕立てた船で「安房国平北郡猟嶋(安房郡鋸南町猟島)」に着岸する(『吾妻鏡』治承四年八月廿九日条)。猟島からは三浦半島の東岸の岩壁や木まではっきり視認でき、先に安房国へ上陸していた人々は頼朝の姿を探して浦賀水道を行き来したのかもしれない。

 この頼朝の安房上陸の報が京都へ齎されたのは10月6日もしくは7日であった。10月7日、平時忠が高倉院御所で中山忠親に告げたところによれば「頼朝已虜領安房国頭弁知行国也之由、頭弁経房朝臣付我奏親院、注進脚力申詞者」と、時忠と経房(安房国知行国主)が高倉院に脚力の報告を奏上したという。忠親はその脚力の齎した報告書を披見すると「駿河国住人五百余騎発向伊豆国攻頼朝、頼朝党引籠筥根山、八月晦日頼朝等出筥根山乗船、夜半着安房国、九月一日分与諸郡於与力輩、追捕人家、奪取調物、此旨具所注進也」とあった(『山槐記』治承四年十月七日条)

 安房国に上陸した頼朝は、まず「御幼稚之当初、殊奉昵近者」であった安西三郎景益「令旨厳密之上者、相催在庁等可令参上、又於当国中京下之輩者、悉以可搦進之」と指示をし、三浦義澄の手引きで安房国最大の平氏党・長狭常伴を追討。9月1日、「上総介八郎広常」「千葉介常胤」に親書を送った。なお、頼朝は安房上陸後、乱暴狼藉を働いたようで、国府は京都の知行国主のもとへ使者を走らせている。

 安房国は左中弁藤原経房(蔵人頭)の知行国であった。経房はかつて皇后宮職においては皇后宮権大進として少進頼朝の上職、上西門院庁においては院司判官代となった経房に対し、蔵人に移った頼朝の上職であり、のち頼朝の武威が認められると親密な関係を築くこととなるが、少なくとも頼朝の安房国上陸当時は、安房国からの「分与諸郡於与力輩」「追捕人家、奪取調物」という報告に対し、頼朝へ対する強い脅威を感じて頼朝の振舞を院に奏上し、後日追討使維盛らを破った「頼朝」「武田」をして「逆徒」「東国逆徒」と呼び、敵意を表している。経房は11月8日には蔵人頭左中弁として「伊豆国流人源頼朝」ならびに「甲斐国住人源信義」への「追討間事宣旨」を認めて「左大将(藤原実定)」へ下しているように、経房は頼朝に対する私情は一切持っていない。記憶に残ってすらなかったのであろう。ただし実定はこの宣旨案を突き返しており(強硬な反平家)、やむなく太宰帥隆季(親平家)へ下している(『吉記』治承四年十一月八日条)

●上西門院院司以下(『山槐記』保元四年二月十九日条)

院司 別当 権中納言実定
(元皇后宮大夫)
右衛門督信頼
(元皇后宮権大夫)
刑部卿憲方朝臣
(元皇后宮亮)
右馬頭信隆朝臣
(元皇后宮職事)
左少将実守
(元権亮、五位)
判官代 安房守経房
(元皇后宮権大進)
       
主典代 検非違使安倍資良
(元皇后宮属)
左衛門府生安倍資成
(元皇后宮属)
左衛門府生安倍資弘
(元皇后宮属)
中原兼能  
殿上人 修理大夫資賢朝臣 大弐清盛朝臣 治部卿光隆朝臣 内蔵頭家明朝臣 右中将実国朝臣
右馬頭信隆朝臣 頭権左中弁俊憲朝臣 左中将成親朝臣 右中将実房朝臣 左中将成憲朝臣
左中将忠親朝臣 大宮権亮実経朝臣 左少将頼定朝臣 左少将家通朝臣 左衛門権佐頼憲
能登守基家 蔵人弁貞憲 中宮大進長方 中宮権亮実家 左兵衛佐脩憲
右少将信説 右少将実宗 但馬守有房 兵部少輔時忠  
蔵人 左兵衛尉頼朝
(元皇后宮少進)
藤原仲重      

 9月6日夜、上総介八郎広常へ遣わした和田義盛が帰参。その復命した内容によれば、広常は「談千葉介常胤之後、可參上之由」だったという。これは『源平盛衰記』が伝える説話とは真逆のものであるが、『源平盛衰記』は成立年代及び軍記物『平家物語』異本に過ぎない以上、史料的価値は『吾妻鏡』に及ばない。『吾妻鏡』が常胤を忖度して広常の上位に据える必要はないため、『吾妻鏡』の説話は事実と捉えてよいだろう。上総平氏は両総平氏が入部して歴史の浅い上総国の開発を推し進めたことで、すでに開発の手が進んで数代を経た下総国の同族たちよりもその勢力を大きく伸ばすことができたとみられ、広常の同族勢力(姻戚の臼井氏、大須賀氏ら下総平氏を含む)は千葉介常胤を凌ぐ勢力を持っていた。ただし、広常が族長権を以て常胤に指図した形跡はなく、両者は同族としての関わり以上のものはなかったのである。

頼朝の移動ルート
頼朝の挙兵から佐竹氏討伐までの日程(『吾妻鏡』)

 9月9日には藤九郎盛長が千葉より帰参して千葉介常胤の協力が得られたことを復命し、「当時御居所非指要害地又非御曩跡、速可令出相摸国鎌倉給」と、鎌倉を推薦したという(『吾妻鏡』治承四年九月九日条)

盛長、自千葉帰参申云、至常胤之門前、案内之處、不経幾程招請于客亭、常胤兼以在彼座、子息胤正胤頼等在座傍、常胤、具雖聞盛長之所述、暫不発言只如眠、而件両息同音云、

武衛興虎牙跡、鎮狼唳給、縡最初有其召、服応何及猶予儀哉、早可被献領状之奉者

常胤云、

心中領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也者

其後有盃酒次、

当時御居所非指要害地、又非御曩跡、速可令出相摸国鎌倉給、常胤相率門客等、為御迎可参向

之由申之

 なぜ常胤は頼朝に加担することを決めたのだろうか。

 常胤の本拠である千葉庄は「八条院庁分」であり、いわゆる八条院領であった。常胤は八条院暲子内親王に仕える立場にあり、八条院猶子である以仁王とも関係を持っていたであろう。常胤の子(庶長子であろう)の律静房日胤以仁王(八條院猶子)に侍り「以仁王の乱」の首謀者とされたことからも、常胤と八条院には密接な繋がりがあったことが予想される。当然、八条院に仕えた源三位頼政や伊豆守仲綱とも関わりがあったと思われ、頼朝との関係は八条院・頼政との関わりの中で生まれ、頼朝挙兵について加担を決めるポイントになったと考えられよう

 9月12日、常胤は子息親類を率いて上総国へ向かおうとするが、六男・胤頼がこれを制して、平氏方である目代を追捕することを主張した。

千葉介常胤相具子息親類、欲参于源家、爰東六郎大夫胤頼談父云、当国目代者平家方人也、吾等一族悉出境参源家、定可挿兇害、先可誅之歟云々。

 そのため、常胤は胤頼成胤(孫)に目代の追討を命じた。

 成胤胤頼は郎従を率いて下総目代の館(市川市国府台か)へと馳せ向かうが、「目代元自有勢者」とあるように「令数十許輩防戦」して、成胤胤頼は攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけて、成胤は郎党をひそかに館の裏手に回らせて火をつけた。突然の出火に目代館は混乱し、防戦を忘れて逃げ惑った目代を胤頼が討ちとったとある。

亥鼻城址
亥鼻城の土塁(室町期)

 この「当国目代」がいかなる人物かは不明だが、当時の下総守は平氏と強い繋がりを持っていた人物であったことがうかがえる。なお、「当国目代」「元自有勢者」であることから、以前から当地で勢力を広げていた人物であって、当時の下総守からの目代ではないと考えられる。治承3(1179)年2月当時には「前下総守藤原朝臣高佐」が見えるが(『山槐記』治承三年二月廿九日条)、彼は代々摂関家の氏家司の家柄であり、かつ平清盛入道と血縁的に近いとみられる伊勢守平貞正の女子を娶っている血縁者でもあった(『尊卑分脈』)。伊勢守貞正の系譜は定かではないが、治承2(1178)年8月初頭に卒したとみられ、8月2日、中宮平徳子の御産所(六波羅泉殿)への参入公卿に定められていた「右兵衛督頼盛、平宰相教盛」が「依軽服不参前伊勢守貞正事也」(『御産部類記』治承二年八月八日条)と喪に服している。

 また、高佐の兄・藤原清頼も久安3(1167)年6月9日、内大臣藤原頼長の推挙により、源頼憲(前下野守明国孫)とともに六位にも関わらず昇殿の栄に浴すなど(『本朝世紀』)、一族を挙げて摂関家に随従する立場であったが、のち太皇太后宮(平滋子)権大進として太皇太后宮亮平経盛(平清盛弟)の下にあって、平氏政権との関わりも深かった。

             源頼義
            (陸奥守)
             ∥―――――源義家――――源義親――――源為義―――――源義朝――――源頼朝
 平維時―+―平直方―――女    (陸奥守)  (対馬守)  (左衛門大尉) (播磨守)  (右兵衛権佐)
(上総介)|(上野介)
     |
     +―女
       ∥―――――藤原永業――藤原季永―――藤原清高―+―藤原清頼
       ∥    (遠江守) (大和守)  (上総介) |(上総介)
       ∥                       |   
       藤原永信                    +―藤原高佐
      (遠江守)                     (下総守)
                                 ∥―――――――藤原季佐
                          平貞正――――女      (宮内大輔)
                         (伊勢守)

●千田親正との戦い

嶋城
千田庄

 頼朝に呼応した常胤が下総目代を追捕した際、平氏血縁者の千田庄判官代藤原親政(親雅)が常胤追討のために兵を率いて攻め寄せ、常胤の孫・成胤がこれを返り討ちにしたという。

 この事件は『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったと記されている(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)

 この事件は『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤胤正のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を討ち取ったことになっている(『千学集抜粋』)

 また、『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤上総介八郎広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄へと退いたとされる(『源平闘諍録』)

 『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていることが共通点に挙げられる。しかしながら、『千学集抜粋』『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。

 『吾妻鏡』も全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、後世北条氏にとって頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。

 親雅は9月13日の成胤胤頼による下総目代追捕の翌日、14日に「聞目代被誅之由、率軍兵、欲襲常胤」と常胤の襲撃を企てたとされている。目代館はその性質上、国府近辺であると考えられることから、目代館から親雅の匝瑳郡内山館までは50~60km程度の距離と考えられ、無理なく同日中に到着するのはほぼ不可能であろう。つまり、襲撃の翌日に親雅が周辺氏族を動員して匝瑳郡を出立しても14日に西総に至ることは不可能であり、親雅はこれ以前に匝瑳郡を出立していたことが想定され、それは頼朝追討の命が下総国府を通じて発せられていたことが伺える。親雅は千葉氏を討つために千葉へ向かったわけではなく、頼朝の安房上陸の一報を受けて上総国府への官道大路の通る千葉庄へ向かっていたと考えられる。

 ところが、千葉介常胤が派遣した千葉小太郎成胤千葉六郎大夫胤頼が下総目代を襲撃して平家方目代を殺害。同時に国府も占拠したのだろう。取って返した千葉小太郎成胤が千葉庄付近で「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」していた親雅を攻めて合戦になったのだろう。藤原親政(親雅)が率いるのは粟飯原家常と子息の粟飯原権太元常粟飯原次郎顕常(『千学集抜粋』)千田庄司常益の子孫たちであった。千田勢は匝瑳郡内山館を発すると、武射郡の横路(山武郡横芝光町)を通って、白井の馬渡(佐倉市馬渡)を渡り、千葉庄へ入ったという(『源平闘諍録』)

 なお、千葉介常胤が9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族が上総国で面会したはずの頼朝に同道せず、別行動をして下総国府にいた不自然な記録が見える。

■『吾妻鏡』治承四年九月十七日条

不待広常参入、令向下総国給、千葉介常胤相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政、次献駄餉、武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰云々

 上総国で頼朝に対面しているとすれば、下総国府で初対面のような出迎えをする必要はなく、国府での参会で常胤「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を引き合わせるのも、常胤が頼朝に同道していたのであればすでに行われていたと考えるのが妥当であろう。

 つまり、常胤千葉一族は頼朝の下総行きに同道したのではなく、千葉小太郎成胤千葉六郎大夫胤頼を下総目代を追討して国府一帯から平氏の勢力を駆逐し、翌14日に「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親雅を小太郎成胤を遣わして打ち破って「生虜」とした上で、17日に頼朝を迎え入れたのだろう。

 戦場は千葉の結城浜とされるが、この戦いは千葉小太郎成胤を妙見菩薩に守られた特別な存在(平良文や平将門と共通する存在)とみる妙見説話と結びつけられた合戦譚となっている(『源平闘諍録』『千葉妙見大縁起絵巻』『千学集抜粋』)。『源平闘諍録』では寡勢の千葉小太郎成胤が親正勢に結城浜まで押された際に「僮ナル童」で具現した妙見菩薩が親正勢の矢を防ぎ、その間に「両国ノ介ノ軍兵共」が救援に駆けつけて親正を追い払ったという(『源平闘諍録』)。なお、この妙見説話は、後世、千葉介成胤の子・千葉介胤綱千葉介時胤代に妙見信仰が千葉氏に取り入れられ(胤綱・時胤と同世代または一世代前に、同族原氏出身の如圓妙見座主となり、その子も名は不明ながら妙見座主の人物がいる(『神代本千葉系図』))、成胤妙見菩薩の加護を受けた特別な者と見るために創作された逸話と考えられる。そしてこの頃、戦場となった結城浜を妙見神を迎え入れる前浜とする妙見宮が造営(金剛授寺尊光院)されたのではなかろうか。なお、関東の妙見信仰は多分に平将門との結びつきが見られ、千葉氏も将門との関わりを有する伝承(良文と将門の関係、平忠常の母が将門娘、相馬氏は将門子孫等)があることから、千葉氏における将門信仰と関東の妙見信仰の親和性により容易に取り入れられたのかもしれない。

 親雅は皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国千田庄に下向することは考えにくい。治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領に千田庄は含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)、皇嘉門院と千田庄には関わりはなく、親政もこの時点では女院司を辞していたと思われ、「千田判官代」は皇嘉門院判官代ではなく、荘園管理者としての判官代であると考えられる。当時の千田庄領主は不明だが、親雅の出身である親通流藤原氏は摂関家家人であり、千田庄はもともと摂政藤原基実を本所とし、親雅が領家だったと思われる。親雅は仁安元(1166)年7月27日の基実薨去後は、摂関家私領を継承した北政所・平盛子のもとで千田庄判官代として実地支配を行ったため、千田庄平氏の統率を行い得たと考えられる。親雅下向は、現実的には清盛が妹婿を下向させた具体的な東国管理の一端であったろうが、親政はあくまで摂関家家人の立場で千田庄を支配していたのである。

 親雅を捕らえた常胤は、9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、下総国府で親雅を頼朝の面前に引き据えている。

不待広常参入、令向下総国給、千葉介常胤相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政、次献駄餉、武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰云々

 なお、この時点で常胤が頼朝に同道していたのであれば、上記のように下総国府で初対面の居ずまいで出迎える必要はなく、さらにこのときに「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を頼朝に引き合わせるのも不自然である。すでに成人した人物であれば、常胤が頼朝に同道時にすでに面会は行われていたと考えるのが妥当であるためである(ただし、頼隆が目代攻めに加わっていたとすれば国府での対面が初対面となる)

 つまり、常胤ら千葉一族は、上総国に向かって頼朝と合流し、下総行きに同道したのではなく、13日に成胤六郎大夫胤頼を下総目代追討に差し向けて国府一帯から平氏勢力を駆逐する一方で、翌14日に「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親正を千葉庄内で打ち破り、「生虜」とした上で、17日に下総国府(市川市国府台)へ頼朝を迎え入れたと考えられる。

藤原親雅

 「親政」「親正」とも記される。『尊卑分脈』によれば、皇嘉門院判官代。号して智田判官代。阿波守。常重・常胤と橘庄および相馬御厨を巡って争った下総守藤原親通の孫で、平清盛の姉妹を妻とし、平資盛の叔父という平氏の重縁者であった。

 皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国千田庄に下向することは考えにくい。治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領に千田庄は含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)皇嘉門院と千田庄には関わりはなく、親政もこの時点では女院司を辞していたと思われ、「千田判官代」は皇嘉門院判官代ではなく、荘園管理者としての千田庄の判官代であろう。

 当時の千田庄の荘園領主は不明だが、親政の出身である親通流藤原氏は摂関家家人であり、摂関家を本所としていたと思われる。千田庄は祖父・下総守親通の頃に千田常益から寄進を受け、それが摂関家に寄進されていた可能性があろう。親盛は領家職を継承して千田平氏を従属下に千田庄一帯を支配し、その子親政は仁安元(1166)年7月27日の基実薨去後、摂関家私領を継承した北政所・平盛子(清盛娘)のもとで摂関家領判官代として実地支配を行ったため、千田平氏の統率を行い得たと考えられる。親政下向は、現実的には清盛が妹婿を下向させた具体的な東国管理の一端であったろうが、親政は公的には摂関家家人の立場で千田庄を支配していたのである。

 親政は親族が下総守を歴任しているが、いずれも二十年以上も前のことであり、父祖の直接的な恩恵を受けることはなかったであろうが、父・下総大夫親盛は「匝瑳北条」に何らかの権益を有しており、親政はそれを継承して匝瑳北条内山に屋敷を持っていた(『吾妻鏡』)。長男の快雅が生まれたのが仁安元(1166)年、次男・聖円はその後の誕生(ただし聖円は快雅の庶兄の可能性が高い)であるから、親政が下総国に下向したのは少なくとも仁安元(1166)年の摂政基通の死後と考えられ、北政所盛子(親政から見ると義姪)の代に下総に下向したとみられる。

 なお、親政は阿波守の経歴があったとされる(『尊卑分脈』)。阿波国は仁平元(1155)年までは摂関家知行国であったとみられるが、それ以降、治承3(1179)年まで後白河院御分国となっており、親政の阿波守受領は摂関家知行国当時、つまり康治2(1144)年以前となるが、この頃は親政の祖父や叔父が下総守に就いている時期であるため不可である。また、治承3(1179)年以降であるとすると、平宗親よりも後任となるが、このころ親政はすでに下総国にあり、これも時代的に合わない。仮に親政が阿波守に就いたとすれば、千葉氏との戦いに敗れて頼朝の面前に引き据えられた後、助命されて京都へ戻り、後年阿波守に任官したということになろうか。次男の慈円灌頂の弟子・聖円律師は「阿波阿闍梨」という号があり(『門葉記』建仁三年二月八日平等院修法)、この「阿波」は父・親雅の受領名によるところであろう。

 子息二人(快雅・聖円)はいずれも関白九条兼実実弟・慈円門下であり、快雅は九條家出身の将軍・頼経の護持僧として鎌倉に下るなど、摂関家と深く繋がっていたことがわかる。

●12世紀中ごろの阿波守

任期 名前 備考 出典
康治2(1144)年
正月30日
康治2(1144)年
~久安3(1147)年
藤原頼佐 1155年当時、前阿波守(『兵範記』) 『本朝世紀』
久安3(1147)年
正月28日
久安3(1147)年
~久安4(1148)年
藤原保綱 父は崇徳院近臣藤原実清。 『本朝世紀』
久安4(1148)年
正月28日
久安4(1148)年 中原頼盛   『本朝世紀』
久安4(1148)年
2月か?
久安4(1148)年?
~仁平元(1151)年
藤原保綱    
仁平元(1151)年
2月1日
藤原保綱 重任するが、7月14日解却。 『本朝世紀』
  仁平元(1151)年 不明    
仁平2(1152)年
正月28日
仁平2(1152)年
~久寿3(1156)年
藤原成頼 周防守から名替 『山槐記除目部類』
久寿3(1156)年
2月2日
久寿3(1156)年
~保元3(1158)年
藤原光方 左衛門督光頼の長男。叔父成頼の後任。
成頼は勘解由次官へ転ずる
『兵範記』
保元3(1158)年
8月1日
保元3(1158)年
~?
藤原惟定
(惟雅)
父・光方の後任として阿波権守から転ずる。
光方は勘解由次官へ転ずる
『山槐記』
『兵範記』
治承3(1179)年
11月17日
解官

~治承3(1179)年
藤原孝貞 平清盛入道によって解官 『兵範記』
治承3(1179)年
11月19日
治承3(1179)年
寿永4(1185)年?
平宗親   『兵範記』

 

功徳院僧正快雅(松田宣史『比叡山仏教説話研究 -序説-』三弥井書店、『吾妻鏡』、『門葉記』)

 千田判官代親雅の長男または次男。仁安元(1166)年誕生。律師、僧都、権僧正。卿阿闍梨勅撰歌人比叡山延暦寺功徳院主

 「快雅」の法名は師の慈円(道快)の一字父・親雅の一字を受けたものと考えられる。建久9(1198)年3月24日、聖蓮房阿闍梨恵尋より谷流の一派三昧流の血脈を受ける。天台座主慈円を師として研鑽を積み、慈円門下の碩学として成長。慈円の高弟として大懺法院の供僧となった(『門葉記』)

 建仁3(1203)年2月8日、平等院において師の前大僧正慈円を導師として、後鳥羽院の為の大熾盛光法が修されているが、助修として「聖円阿闍梨阿波」「快雅大徳」らが加わっている(『門葉記』)。「聖円阿闍梨」は快雅の弟であるが、快雅よりも伝法灌頂の時期が二年から三年ほど早いと予想され、僧位や修法の席次も常に上回っていることから、聖円は実際には快雅の兄の可能性が高い

 元久元(1204)年、阿闍梨宣旨を受けて以降、祈祷や五壇法など多くの修法に携わる。承元元(1207)年6月20日、押小路殿での院への七仏薬師修法に際し、慈円の伴僧の一人として「聖円権律師」「快雅灌頂阿闍梨」が見える。修法の中、後夜行法に際して参勤の公円法印が所労余気のため、快雅が後夜日中護摩勤仕する。系譜上で弟の聖円はすでに権律師となっており、快雅に先行している。

 承元2(1208)年3月25日、青蓮院本堂で「懺法院供僧」として慈円に従って「聖円阿闍梨」「快雅阿闍梨」らが大熾盛光法を修している(『華頂要略門主伝第三』『門葉記』)が、ここから聖円、快雅は慈円の自房である大懺法院供僧であったことがわかる。

 承元4(1210)年7月8日、青蓮院大熾盛光堂での大熾盛光法の修法に伴僧として「聖円律師」「快雅阿闍梨」が見られ(『門葉記』)、この時点でも快雅は任官していない。その後、建暦2(1212)年8月4日の慈円が導師を務めた大熾盛光法修法の伴僧として「快雅已講」が護摩壇手代を勤めており(『門葉記』)、已講となっていたことがわかる。さらに建保2(1214)年3月12日の後鳥羽院の賀陽院殿での御祈祷では已灌頂となっており、前年の建保元(1213)年に小灌頂阿闍梨を経て已灌頂となったと思われる。

 建保3(1215)年11月6日、青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に慈円の助修として聖円律師とともに快雅律師が見え(『門葉記』)、快雅は権律師となったことがわかる。また、これを最後に弟・聖円律師の名は見えなくなっており、この頃聖円は寂したのかもしれない。

 快雅はその後も慈円門下として師とともに多くの修法に参じ、その功を以て昇進を続けることとなる。建保5(1217)年6月14日より慈円の吉水本坊の御念誦堂で後鳥羽院の為に佛眼法が修され、伴僧として快雅律師が見える(『僧事伝僧都』)。その翌月7月15日から28日まで修された賀陽院殿での後鳥羽院瘧気のための御祈祷では「権少僧都」となっており(『五壇法日記』)、佛眼法修法での功による昇任であろう。その翌年建保6(1218)年9月20日には、一条室町殿下御所で中宮(のち東一条院)の御産祈祷の五壇法が修され、導師慈円のもと金剛夜叉明王に修法した。その功績により、9月27日宣下で「権少僧都快雅 任大僧都」(『門葉記』五壇法二)に陞る。ただ、まだ皇子誕生がなかったためか、10月1日には一条殿で中宮御産祈祷として、七仏薬師法を大阿闍梨権僧正良快の伴僧として修法し、10月10日、無事に皇子降誕につき結願。10月17日、御産祈祷を修法した僧侶に叙任が行われ、快雅は権少僧都から権大僧都へと昇任する(『五壇法日記』)

 寛喜2(1230)年正月20日の一条殿での中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷においては、「法印権大僧都」として見え、その後も中宮御産祈祷などの修法を行う。しかし、その後は摂関家、とくに慈円所縁の九条家や西園寺家との関わりを強め、九条道家と西園寺公経息女・藤原倫子の間に生まれ、鎌倉殿となっていた将軍頼経の招聘のもと、貞永元(1232)年11月29日には雪の永福寺で歌会に参加しており、さらにその後は京都へ戻って貞永3(1234)年12月4日には、一条殿で北政所(九条教実室・藤原嘉子[西園寺公経息女]か)の御産御祈祷を行っている。さらに貞永4(1235)年4月4日、六波羅殿で将軍頼経のための御祈祷を執り行った。暦仁2(1236)年正月28日には西園寺五大堂(増長心院)で「入道大相国公経」のための御祈が行われ、快雅もこれに加わった。

 嘉禎3(1237)年3月8日、故師の慈円に対して「賜諡号慈鎮和尚」の宣下があり、3月26日に廟所の無動寺本坊大乗院に勅使が参入。権僧正慈賢法印以下、快雅、貞雲、成源、聖増、隆承ら僧綱が南庭に東西に列した(『華頂要略門主伝第三』)

嶋城
比叡山西谷の法然堂(功徳院跡)

 そして延応元(1239)年8月28日には天台座主慈源の申請により、「勧賞以快雅法印被任権僧正了」と、ついに権僧正へと昇りつめた。

 なお、これ以降と思われるが、比叡山西谷功徳院(現在の法然堂)の洛中里坊(現在の功徳院知恩寺:百万遍)に住したことで、功徳院僧正と称された。

 仁治3(1242)年7月3日、天変地異の祈祷を九条道家入道の法性寺殿荘厳蔵院で五壇法を修法。寛元2(1244)年2月10日には「関東将軍大納言入道殿(頼経)の御祈祷」を行い、4月15日にも「関東大納言入道殿(頼経)」の御祈祷で中壇(不動明王)を修法した。そして、5月15日の五壇法では僧正快雅、東大寺道禅法印、園城寺猷尊法印、猷聖法印、定親法務が修法した(『五壇法四』)

 寛元3(1245)年12月24日には、頼経入道のために一字金輪護摩を修法するなど、頼経入道の護持僧的な立場にあったことがわかる。寛元4(1246)年、頼経入道の帰洛に同行したとみられ、翌宝治元(1247)年12月12日、八十三歳で入滅(松田宣史『比叡山仏教説話研究 -序説-』)。灌頂の弟子としては正二位実清(為公経公子)の弟、比叡山東南院の「公源法印資」となった良覚大僧正がみられる(『尊卑分脈』)

●『続古今和歌集』一首入選

前権大僧正快雅
うれしさハ袖につつみし珠そとも けふこそ聞きて身にあまりぬれ

●『五壇法日記』『門葉記』『比叡山仏教説話研究』より(快雅および聖円)

・建仁3(1203)年5月27日:法勝寺での八万四千塔供養で、師・慈円の讃衆(聖円阿闍梨、快雅大徳)(『門葉記』)
・建仁4(1204)年2月8日:平等院にて慈円助修として大熾盛光法を修す(聖円阿闍梨阿波、快雅大徳(『門葉記』)
・元久元(1204)年5月7日:吉水殿で如法経修法(聖円阿闍梨)(『門葉記』)
・元久2(1205)年2月21日:法勝寺で大熾盛光法を修法(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・元久2(1205)年8月15日:水無瀬殿での仏眼法修法の助修(聖円、快雅)(『門葉記』佛眼法二)
・元久2(1205)年11月22日:賀陽院殿で安鎮法修法の助修(阿闍梨聖円、阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・建永元(1206)年7月15日:青蓮院にて慈円伴僧として大熾盛光法を修す(聖円阿闍梨)(『門葉記』)
・建永2(1207)年2月20日:賀陽院殿で七仏薬師法の修法で伴僧の一人として列す(阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・建永2(1207)年3月22日:青蓮院大成就院で伴僧の一人として大熾盛光法を修す(快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元元(1207)年6月20日:押小路殿での七仏薬師修法に際し伴僧の一人として列す(聖円権律師、快雅灌頂阿闍梨)。修法の中、後夜行法に際して参勤の公円法印が所労余気のため、快雅が後夜日中護摩勤仕する。(『門葉記』)
・承元2(1208)年3月25日:青蓮院本堂で「懺法院供僧」として大熾盛光法を修す(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨(『華頂要略門主伝第三』『門葉記』))
・承元3(1209)年正月8日:青蓮院本堂で大熾盛光法を修法(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元4(1210)年正月22日:吉水懺法印熾盛光堂で鳥羽院のために普賢延命法修法の伴僧(律師聖円、阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・承元4(1210)年7月8日:青蓮院大熾盛光堂で大熾盛光法修法の伴僧(聖円律師、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元4(1210)年10月4日:彗星出現により大熾盛光堂で大熾盛光法修法(聖円律師、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元5(1211)年正月25日:水瀬殿蓮華樹院での仏眼法修法の助修を務める(快雅阿闍梨)(『門葉記』仏眼法一)
・建暦元(1211)年4月11日:大成就院での仏眼法修法の助修を勤める(快雅阿闍梨)(『門葉記』仏眼法一)
・建暦元(1211)年11月16日:五壇法修法で阿闍梨快雅(『門葉記』五壇法四)「功徳院卿僧正」の記
・建暦2(1212)年正月10日:青蓮院本堂での大熾盛光法臨時修法の助修(権律師聖円、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・建暦2(1212)年8月4日:熾盛光法修法が始められ、伴僧として護摩壇手代を務める(快雅已講)(『門葉記』)
・建暦3(1213)年7月16日:青蓮院大成就院における鳥羽院のための熾盛光法の修法に助修として加わり、護摩壇手代を務める(聖円律師、快雅灌頂)。役人として弟・聖円を筆頭に快雅も加えられている。(『門葉記』)
・建暦3(1213)年8月6日:高陽院殿での佛眼法修法で助修に快雅灌頂(『門葉記』佛眼法二)
・建保2(1214)年3月12日:後鳥羽院の賀陽院殿で御祈祷(已灌頂快雅 功徳院僧正)(『五壇法四』)
・建保2(1214)年5月8日:大成就院にて高倉院のために如法経修法(快雅灌頂阿闍梨)
・建保2(1214)年11月13日:大成就院で熾盛光法修法で助修として務める(聖円律師、快雅灌頂)(『門葉記』)。役人として弟・聖円を筆頭に快雅も加えられている。
・建保3(1215)年11月6日:青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に助修として加わる(聖円律師、快雅律師)(『門葉記』)
・建保4(1216)年6月12日:賀陽院殿で御祈祷(権律師快雅)(『五壇法日記』)
・建保4(1216)年10月20日:賀陽院殿で天変のために五壇法を修法(権律師快雅)(『五壇法日記』)
・建保4(1216)年11月3日:3月23日に火災で焼失し、再建された青蓮院本堂での大熾盛光法修法の助修(快雅律師)(『門葉記』)
・建保5(1217)年6月14日:吉水本坊御念誦堂で院の為に佛眼法修法、伴僧として快雅律師が見える(二十一日、僧事伝僧都)
・建保5(1217)年7月15~28日:賀陽院殿で院の瘧気のため御祈祷(権少僧都)(『五壇法日記』)
・建保5(1217)年8月5日:青蓮院本堂で院御悩(瘧気だろう)のため大熾盛光法を修法した際の助修(快雅権少僧都)
・建保6(1218)年2月7~15日:御所道場(仁和寺)で修法(権少僧都快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・建保6(1218)年9月20日:一条室町殿下御所で中宮(のち東一条院)御産祈祷、金剛夜叉明王に修法(権少僧都快雅)(『五壇法日記』)
⇒『門葉記』五壇法二においては、9月27日宣下で「権少僧都快雅 任大僧都」とみえる。
・建保6(1218)年10月1日:一条殿で中宮(のち東一条院)御産祈祷、七仏薬師法を大阿闍梨権僧正良快の伴僧として修法(快雅僧都)(『五壇法日記』)
・建保6(1218)年10月10日:皇子降誕につき結願。17日、修法の僧侶に叙任(権少僧都⇒権大僧都)(『五壇法日記』)
・建保6(1218)年11月21日:二条町口卿二位宿所で立坊御祈が行われ、仏眼法が修法(快雅僧都)(『門葉記』五壇法四)
・建保6(1218)年12月2日:最勝四天王院において慈円門下の道覚入道親王(後鳥羽院皇子・十五歳)へ伝法灌頂が行われ、その讃衆二十名の僧綱として「快雅権大僧都」が名を連ねる(『華頂要略門主伝第六』『伝法灌頂日記下』)
・建保7(1219)年正月22日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・承久元(1219)年正月22日:賀陽院殿で御祈祷(権大僧都)(『五壇法日記』)
・承久元(1219)年7月5~13日:賀陽院殿で院の夢想(金剛夜叉異常形像)によって御祈祷(権大僧都)(『五壇法日記』)
・承久2(1219)年2月6~1■日:水無瀬殿で御祈祷(権大僧都快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・承久2(1219)年9月18日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』、五壇法四)
・承久3(1220)年正月13~20日:賀陽院殿で御祈祷(権大僧都)。同勤の前大僧正真性は以仁王子(『五壇法日記』)
・安貞3(1229)年2月12日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛喜2(1230)年正月20日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷(法印権大僧都)(『五壇法日記』)
⇒『門葉記』五壇法二においては、「法印権大僧都快雅 以経承任律師」とある
・寛喜2(1230)年11月13日:本坊での天変御祈修で佛眼法を修法し助修(快雅阿闍梨)(『五壇法日記』)
・寛喜3(1231)年正月21日:五壇法修法で法印権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛喜3(1231)年2月6日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷で普賢延命法修法を天台座主良快大僧正の助修筆頭として護摩壇勤仕する(法印前権大僧都快雅)(『五壇法日記』)
・貞永元(1232)年8月14日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷(法印快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・貞永元(1232)年9月12日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷の七仏薬師法の修法で伴僧筆頭(快雅法印)(『五壇法日記』)
・貞永3(1234)年12月4日:一条殿で北政所の御産御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・貞永4(1235)年4月4日:六波羅殿で将軍頼経御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・暦仁2(1236)年正月26日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・暦仁2(1236)年正月28日:西園寺五大堂(増長心院)で入道大相国公経の御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・嘉禎3(1237)年12月4日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・嘉禎4(1238)年4月4日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・延応元(1239)年5月20日:九条道家入道の病気平癒の御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・延応元(1239)年8月28日:天台座主慈源の申請により「勧賞以快雅法印被任権僧正了」(『五壇法日記』)
・仁治3(1242)年7月3日:九条道家入道の法性寺殿荘厳蔵院での御祈祷(前権僧正)(『華頂要略門主伝第五』)
・寛元元(1243)年12月10日:五壇法修法で僧正快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛元2(1244)年2月10日:関東将軍大納言入道殿(頼経)の御祈祷(権僧正)(『五壇法日記』)
・寛元2(1244)年4月15日:関東大納言入道殿(頼経)の御祈祷で中壇(不動明王)を修法(僧正)(『五壇法日記』)
・寛元2(1244)年5月15日:五壇法を修す(僧正快雅、東大寺道禅法印、園城寺猷尊法印、猷聖法印、定親法務(『五壇法四』)

 

律師聖円

 千田判官代親雅の次男(実際は長男か)。阿波阿闍梨。天台座主・慈円灌頂の弟子。慈円の修法した法会等に加わり、兄弟の快雅とともに慈円の自房であった大懺法院の供僧となった。

 建仁3(1203)年2月8日、平等院において師の前大僧正慈円を導師として、後鳥羽院の為の大熾盛光法が修されて、助修として「阿波聖円阿闍梨」「快雅大徳」らが加わっている(『門葉記』)。快雅が阿闍梨灌頂を受けたのは翌元久元(1204)年であることや、修法の序列が聖円が常に上位にあることから、聖円が快雅の兄である可能性が高い。

 建仁3(1203)年5月27日、法勝寺における後鳥羽院の八万四千塔供養(五寸多宝塔、実数は十三万二千基)が行われた際、導師である「前座主大僧正慈円」の「讃衆三十人」の一人として、讃頭快智のもと加わっている(『門葉記』)

 建永元(1206)7月15日、青蓮院に新造された大熾盛光堂にて、導師慈円の伴僧として「聖円阿闍梨」が大熾盛光法を修す(『門葉記』)。なお、この修法に快雅は加わっていない。

 承元4(1210)年7月8日、青蓮院大熾盛光堂での大熾盛光法の修法に伴僧として「権律師聖円」「快雅阿闍梨」が、さらに同年10月4日には大熾盛光堂で彗星出現による祈祷で大熾盛光法が修法され、「聖円律師」「快雅阿闍梨」が見られ(『門葉記』)、この時点で権律師となっていた。

 建保3(1215)年11月6日、青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に、慈円の助修として快雅律師とともに聖円律師が見える(『門葉記』)が、これを最後に聖円の名は慈円修法から消えており、おそらくこの頃聖円は入寂したのだろう。

 千葉氏が下総国府を攻め落とした同日の9月13日、頼朝は三百余騎の軍勢を率いて安房国を出立し上総国へ向かった。このとき広常「而廣常聚軍士等之間、猶遅参」とあるように、軍勢を集め纏めるのに手間取ったという(『吾妻鏡』)。広常の本拠は国府付近ではなく上総国一宮(長生郡一宮町)であり、平氏を知行国主とする上総国での軍勢催促、さらに頼朝の要請からわずか数日という、いささか無理のある要請であったと言わざるを得ないだろう。

 安房国から上総国に入った頼朝勢三百余騎は上総国府を襲ったと思われる。かねて下総国府の陥落の報は上総国府にも届いていただろう。報を受けた上総国府の混乱は想像を絶するものであったろう。そして、「治承四年庚子九月」の「上総国」での戦いで、平氏方の高倉院武者所「平七武者重国」「源家」によって討たれた(『高山寺明恵上人行状』)。彼は「本姓者伊藤氏、養父の姓によて藤を改て平とす」と伊勢平氏の根本被官伊藤氏の出身者であり、国司・上総介忠清の同族であった。忠清は在京であることから、目代であったのかもしれない。

 頼朝が上総国府を攻めた記録はないが、頼朝の上総国滞在期間は四日に及ぶも、その間に上総国府が頼朝に対して対応した形跡はない。また頼朝は官道を進んだと考えられることから、その進行ルート上、国府に主敵が健在であることは許されない。必然的に頼朝は国府を占拠したとしか考えられないのである。そして、頼朝は国府を占領して四日間、広常の参着を待ったのだろう。ところが広常はそれでも参着しなかったことから、9月17日に至り、頼朝は上総国府を出立して下総国に入ったと思われる。この国府攻めは広常が行ったともされるが、広常が合流したのは後日、隅田河畔とされており、もし上総国府を攻め落としていたとすれば、この時点で頼朝勢と合流しない理由はないのである。つまり、上総国府を攻めたのは広常ではない

 下総国府では常胤が「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族が頼朝に面会。囚人の藤原親雅を引き据えたのち、駄餉が献じられたが、このとき「武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰」と告げたという。

不待広常参入、令向下総国給、千葉介常胤相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政、次献駄餉、武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰云々

 その後、常胤「陸奥六郎義隆男号毛利冠者頼隆を頼朝に引き合わせている。平治の乱当時、父・陸奥六郎義隆(八幡太郎義家の子)が源義朝に属して比叡山龍華越えで討死を遂げた際、まだ生後五十余日の乳児だった頼隆を朝廷は常胤に命じて下総国へと配流に処したが(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)、常胤はそれ以降二十年にわたって養育を続けていたのであった。

 そして9月19日、広常はようやく上総国周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の武士団二万余騎を引き連れて「参上隅田河辺」に参陣したという(『吾妻鏡』治承四年九月十九日条)。ただし、頼朝はいまだこの時点では隅田川はおろか太日川も渡っておらず、日時の誤謬か川名の誤りであろう。このとき、頼朝は広常の遅参を激しく叱責し、広常は面食らって遅参を詫びると同時に頼朝を頼むに足る大将とみとめたとされる(『吾妻鏡』治承四年九月十九日条)。なお、広常の軍勢には国衙のあった「市東」「市西」が含まれておらず、国衙周辺には目代勢力が置かれていて、上総平氏の勢力は及んでいなかったのであろう。

頼朝側の主な構成

国衙
関係者
平 広常…上総平氏。上総権介の八男。
千葉常胤…下総平氏。下総権介。「千葉介」を称する。
小山朝政…秀郷流藤原氏で上野大掾を代々つとめる在庁官人の家柄。
狩野茂光…南家藤原氏流。伊豆国在庁。「狩野介」を称する。
三浦義明…坂東平氏一族で相模国在庁。大庭氏と争う。頼朝の挙兵時から従う。「三浦大介」を称する。
河越重頼…武蔵国留守所惣検校職。後年、頼朝に疑われて誅されたのち、惣検校職は重忠に移る。
平 広幹…代々常陸大掾を勤める家。頼朝に降伏したのち重用された。のち八田知家と争い梟首された。
任官者 宇都宮朝綱…下野国宇都宮検校。八田権守宗綱の子息。左衛門権少尉。秩父党・稲毛重成の叔父。
工藤行政…頼朝の縁戚で鎌倉に招かれて永福寺辺に住み二階堂を称する。
武田有義…武田信義息。重盛に仕えて左兵衛尉に進むが、父に従ったため妻子の首を京の武田邸前に晒された。
千葉胤頼…千葉常胤息。上西門院に仕えて従五位下に叙される。子孫の東氏は代々歌人として著名。
新田義重…清和源氏。新田庄下司職。従五位下大炊助。はじめ頼朝に敵対していたため冷遇される。
足利義兼…八条院蔵人。頼朝近親で頼朝に合流。子孫は北條氏と重代の縁戚となり、尊氏を生む。
後藤基清…左兵衛尉。父仲清は摂政家随身。叔父義清は鳥羽院北面で、出家後は「西行」を称する。
足立遠元…右馬允。もと武者所。武蔵国足立郡の豪族で、頼朝とは挙兵以前からの知己。
天野遠景…内舎人。伊豆国田方郡の豪族で工藤氏同族。頼朝とは挙兵以前からの知己。
…等々多数
荘官 下河辺行平…源頼政郎党・下河辺庄司行義の子で、八条院領・下河辺庄の庄司をつとめた。
葛西清重…武蔵国葛西庄の荘官。所領が隣接する秩父党や千葉氏と関わりが深かった。
渋谷重国…武蔵国澁谷庄司。石橋山では頼朝に弓を引いたが、その後降伏して活躍。頼朝の信任を得る。
畠山重忠…弱冠十七歳で、惣領河越重頼らの援助を受けて三浦氏を攻める。その後頼朝に降伏。
江戸重長…武蔵国在庁。頼朝が挙兵したときは、武蔵国の棟梁と目されていた。
…等々
在庁官人 比企能員…阿波国出身。頼朝の乳母 ・比企尼の甥。
…等々
豪族 土肥実平、佐々木定綱
…等々
平氏家人 熊谷直実…武蔵熊谷郷の人。一谷で平敦盛を討った人物。伯父との所領問題で遁世し、法然門人となる。
武藤資頼…一貫して平氏被官として頼朝に敵対するが、捕縛されたのち御家人となった。少弐氏の祖。
北条時政…伊豆北条庄の豪族。長女(のち政子)は頼朝室。
梶原景時…かつて大庭景親のもとで頼朝と戦うが、のち降伏して重用される。知略と剛腕で知られた人物。
小山田有重…平家の家人として木曽義仲と戦う。その後、頼朝に帰参し、子息・稲毛重成らとともに活躍。
…等々
京出身 藤九郎盛長…頼朝の古い被官人でのち宿老。妻は比企尼娘ではない。また足立遠元とも血縁上の関係はない。
藤大和判官代邦通…藤九郎盛長と「因縁」の人物で、盛長の推挙により頼朝の側近となる。

 頼朝は下総国では「鷺沼御旅館」に逗留しており、下総国と武蔵国の境に留まっていたと思われる。なお、「鷺沼」は習志野市鷺沼という説があるが、国府から15kmも東に退く理由はなく不可である。また、葛飾区新宿字鷺沼ともされるが、鷺沼は太日川より東でなければならないため、ここも不可である。下総国府の麓周辺はかつて海退による沼沢地が広がっており、その名残として現在もじゅん菜池緑地が復原され残る。「鷺沼」はこうした国府に隣接した沼の一つであり、頼朝の「鷺沼御旅館」は沼を望む高台に設けられていた国府付属の建物であることが想定される。頼朝は17日の国府到着以降「大井隅田両河」を渡る10月2日までの半月間をこの鷺沼で過ごし、すでに兵を挙げていた甲斐源氏や武蔵秩父党との折衝、相模国の動向などを入念に調査していたと考えられる。

 また、10月1日には鷺沼御旅館に京都醍醐寺の僧であった異母弟・悪禅師全成(義経実兄。幼名今若)が訪れて頼朝と対面している。全成は以仁王(最勝王)の「最勝王宣」が頼朝に下されたことを京都で伝聞し、醍醐寺を密かに脱して修行者を装って鷺沼まで到来したことを告げ、頼朝は「泣令感其志給」ったという(『吾妻鏡』治承四年十月一日条)

 翌10月2日、頼朝一行は広常・常胤が調達した舟筏に乗って「大井隅田両河」を渡って武蔵国に入った。このとき頼朝が布陣した場所は「豊島御庄瀧ノ河(北区)」(『源平闘諍録』)とされるが、「豊島権守清元、葛西三郎清重等最前参上、又足立右馬允遠元、兼日依受命、為御迎参向」とあることから、豊島清元葛西清重の父子が頼朝の麾下に加わったのは、葛西清重が荘官を勤めていた「大井」と「隅田」の中州の肥沃地・下総国葛西庄以外にあり得ず、さらに同日、頼朝の乳母「故八田武者宗綱息女」(小山下野大掾政光の妻。のち寒河尼)が十四歳の末子を連れて「隅田宿(現在の台東区橋場周辺)に参向し、頼朝はそこで少年に「朝」字を与え、「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」と名乗らせたとあることから(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)、頼朝勢は下総国府から豊嶋郡衙(北区西ヶ原)へ向かう官道を通って隅田宿へ入り、その後は豊島清元の案内によって武蔵野台地の急崖を経て豊嶋郡衙へ進んだのだろう。豊嶋郡衙は下総国府と武蔵国府を繋ぐ中継地で、大井駅へ向かって南下する官道も走っている要衝であった。

→藤原宗円―――八田宗綱―+―宇都宮朝綱
(宇都宮座主)(権守)  |(左衛門尉)
             |
             +―八田知家―――八田朝重
             |(右衛門尉) (太郎)
             |
             +―寒河尼  +―小山朝政
              【頼朝乳母】|(下野大掾)
                ∥   |
                ∥―――+―長沼宗政
               小山政光 |(淡路守)
              (下野大掾)|
                    +―結城朝光
                     (左衛門尉)

 10月3日の頼朝の動向は伝わらないが、この日、頼朝は常胤へ上総国の伊北庄司常仲広常の甥)の追討を命じており、常胤は「子息郎従」に厳命を含んで上総国に遣わした(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)。このとき、頼朝一行が武蔵国府へと向かっていたとすれば、胤正らは相当な距離を戻ることとなるため、3日も豊嶋郡内に逗留していたと考えられる。実際に伊北庄へ派遣されたのはこれより以前で10月3日は常仲が討たれた日である可能性も考えられるが、この上総国への派兵には前日に参向した葛西清重も加わっており(『吾妻鏡』文治六年正月十三日条)、10月2日以前の派兵ではないことがわかる。つまり、胤正ら常胤の子息・郎党および葛西清重は10月3日に豊嶋郡から上総国伊北庄(いすみ市岬町一帯)へと遣わされたのである。彼らは百kmを超える道を進んで伊北庄に常仲らを誅した(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)

 なお、上総国伊北庄に展開した千葉胤正らの軍勢が、駿河国東部へ進んでいた頼朝と合流するには、三浦半島を経由したルートだとしても百キロ超えの軍旅となるため、胤正勢はもともと上総国への派遣が計画されていて、征西軍への再合流は考えられていなかったのだろう。

 常仲が追討の対象とされたのは「長狭常伴の外甥」であったためとされる(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)。常伴は頼朝を討とうとした平家与党であるが、広常の率いた手勢に「伊北」の人々は加わっており、事実であれば伊北常仲は叔父・広常の軍勢徴発に従わずに伊北庄に留まったと考えられる。これが長狭常伴の外甥という血縁関係もあって、頼朝が敵視したということだろう。常仲の父・伊南新介常景は弟の印東次郎常茂に殺害されたが、常景の版図を引き継いだのは常景・常茂の末弟とも言うべき八郎広常であった。そのため、常仲は広常に対して反発していたのかもしれない。

畠山重忠像
畠山重忠と三日月

 10月4日、「長井渡」の頼朝の陣に平家与党であった秩父党・畠山庄司次郎重忠が投降。さらに、河越太郎重頼江戸太郎重長が次々に頼朝勢に参加した。畠山重忠は祖・秩父武綱「後三年の役」で先陣をつとめて戦功を挙げた吉例があったため、以降、儀式や戦陣においては畠山重忠が先陣を、殿軍は千葉介常胤が務める慣わしとなった。

 武蔵国は当時、平知盛の知行国であり、武蔵国の武士団を纏め上げ「平家世ヲ知リテ久シクナリケレバ、東国ニモ郎等多カリケル中ニ、畠山荘司、小山田別当ト云フ者、兄弟ニテアリケリ」(『愚管抄』)と記されているように、畠山重忠の父・畠山庄司重能やその弟・小山田別当有重は東国の平家郎等として認識されていたことがわかる。また、頼朝挙兵当時も「重能、有重、折節在京」(『吾妻鏡』治承四年九月二十八日条)とあるように平家に仕えており、秩父党は本来であれば平家与党であって、頼朝に組する存在ではなかった。さらに頼朝の手勢にはわずか一月前に干戈を交えた三浦党が加わっており、頼朝が「存忠直者更不可貽憤之旨、兼以被仰含于三浦一党、彼等申無異心之趣」(『吾妻鏡』治承四年十月四日条)と釘を刺すほどであった。このような秩父党がなぜこぞって頼朝の陣に帰参することになったのか。理由は定かではないが、秩父党は積極的に「頼朝党」に加わったというよりも強大な兵力が俄かに武蔵国へ迫ったことで強い危機感に苛まれたのではなかろうか。

 9月28日、江戸太郎重長に使者を出して「依景親之催、遂石橋合戦、雖有其謂守令旨可奉相従、重能、有重、折節在京、於武蔵国、当時汝已為棟梁、専被恃思食之上者、催具便宜勇士等、可予参之由」を命じた(『吾妻鏡』治承四年九月廿八日条)。平安時代中期、秩父氏惣領が兼帯していた武蔵国の留守所惣検校職は、河越太郎重頼が任じられていたが、当時において秩父一族は一門としての紐帯はあったものの、族長権者が一族を取りまとめていたわけではない。これは両総平氏や三浦氏についても言えることではあるが、彼らが直接行い得たのは、家父長権による催促に限られていた。頼朝が江戸太郎重長へ言ったとされる「重能、有重折節在京、於武蔵国、当時汝已為棟梁」の「棟梁」とは「武蔵国」で中心的な者という意味であって、秩父党の族長という意味ではない

 しかし、重長は参向する気配を見せなかったようで、翌29日、頼朝は「試昨日雖被遣御書、猶追討可宜之趣、有沙汰、被遣中四郎惟重於葛西三郎清重之許、可見大井要害之由、偽而令誘引重長、可討進」を指示した(『吾妻鏡』治承四年九月廿九日条)。ただ、この謀略は中止されたようで、それは重長から何らかの返答があった可能性が高い。これは10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長の三名が揃って降伏し、しかもその降伏前に、頼朝が「重長等者、雖奉射源家、不被抽賞有勢之輩者、縡難成歟、存忠直者更不可貽憤」ことを「兼以被仰含于三浦一党、彼等申無異心之趣」(『吾妻鏡』治承四年十月四日条)していることからも明らかであろう。

 10月2日、下総国から武蔵国へ渡った頼朝勢は(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)、その二日後の10月4日、頼朝は「長井渡」で「畠山次郎重忠」及び「河越太郎重頼、江戸太郎重長」と参会し、その降伏を受け容れた(『吾妻鏡』治承四年十月四日条)。なお、畠山重忠らが集った「長井渡」が現在どこかは不明だが、少なくとも武蔵国府近辺ではない。平家与党である秩父党が蟠居する武蔵国の深入りはリスクが著しく高く、相模国へ急行する中で武蔵国府を経由するメリットは皆無だからである。

 頼朝一行は、武蔵国豊嶋郡衙から官道を南下して大井駅を経由し、荏原郡衙、橘樹郡衙、久良岐郡を経て相模国鎌倉郡へ入るルートをとったとするのが自然であろう。そうであれば「長井渡」は武蔵国東部の津戸となり、ここに秩父党の首脳らが参集したとすれば、橘樹郡内の石瀬川(多摩川)の津戸であろう。鎌倉への日程を考えると、おそらく10月4日は石瀬川を北に望む橘樹郡衙(川崎市高津区千年)に滞陣したのではなかろうか。

 その後、頼朝はさらに南下して、翌10月5日には相模国境に近い久良岐郡衙(横浜市南区弘明寺町)に駐屯したのだろう。この日、頼朝は江戸重長に「武蔵国諸雑事等、仰在庁官人幷諸郡司等、可令致沙汰之旨、所被仰付江戸太郎重長也」と、武蔵国内の政務について在庁官人及び郡司らに沙汰することを命じている(『吾妻鏡』治承四年十月五日条)

寿福寺
寿福寺

 そして翌10月6日、頼朝は畠山重忠を先陣、常胤を後陣として「着御于相模国」した。この「相模国」は相模国鎌倉郡へ入ったということと同時に、朝比奈方面から鎌倉内に入ったということであろう。朝比奈方面にはもともと上総権介広常の屋敷地があったと思われ、12月12日、頼朝が新造の御亭(鎌倉市雪ノ下)に移る際には「上総権介広常」の屋敷(鎌倉市十二所カ)から移っている。重忠を先陣としつつも、鎌倉の地理を熟知する広常の案内は重要であったろう。ただ、その日は「楚忽之間、未及営作沙汰、以民屋被定御宿館」とある通り、進軍があまりに急であったために、鎌倉の街中に頼朝が宿営できる場所を造っておらず、やむなく民家を陣所とした(『吾妻鏡』治承四年十月六日条)

 翌10月7日、頼朝は鎌倉北部から由比浜辺に建つ古社「鶴岡八幡宮」を遥拝したのち、「故左典厩義朝之亀谷御旧跡」(現在の寿福寺の地)を監臨して、ここに館を構えようとした。ところが狭小の上に、すでに岡崎平四郎義実が建てた義朝の菩提を弔う堂宇があったことから、結局この地をあきらめ、大倉の地に御所を建てることになる。

6,富士川合戦

 一方、東国における頼朝らの「叛乱」を鎮圧するべく、9月21日、東国追討使の「右少将維盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、武蔵守知度等」(『山槐記』治承四年九月九日条)が新都福原京を出立した。官宣旨では22日が出門日であったが、21日が「吉日」(庚午の大明日であろう)であったため「出門」の日とし、22日は摂津国小屋郷(伊丹市昆陽周辺)に宿陣。23日に入洛して、27、8日に故都(京都)を「首途」と決定している(『玉葉』治承四年九月廿三日条)。ところが、この計画を知らなかったと思われる権中納言藤原忠親は、入洛後、追討使が「其後于今所逗留也」と不審に思っている様子が窺える。

畠山重忠像
畠山重忠と三日月

 ただし、追討使の27日または28日の六波羅出立は、23日の入洛時点ですでに決定事項であったことが『玉葉』からわかり(『玉葉』治承四年九月廿三日条)、28日が正式な六波羅出立の日だったが、維盛の乳父・上総介忠清が「於此都忌十死一生日」と主張して出兵を渋り、これに対して、維盛は新都福原京を出立した22日が門出基準であり、六波羅は「於今者途中儀、於旧都可忌日次」と主張している。しかし、忠清は「六波羅者先祖旧宅也、争不被忌者」(『山槐記』治承四年九月廿九日条)として譲らなかったという。十死一生日はまさに28日「丁丑」に該当しており、これを不吉としたものだろう。ただ、吉凶が行動規範の根本であった当時にあっては、以前から28日が忌日である事は周知の事実であったことは間違いない。その日に六波羅を出立することは清盛入道も当然認識していたはずであり、忠清の主張は維盛を前線に送ることを厭う口実であった可能性もあろう。忠清は後白河院に近い小松家の宿老として、平時子・宗盛ら平家主流と距離を取っており、その後の忠清の行動を見ると、源氏勢力との和睦を見据えていた可能性がある。この忠清の維盛を押し止める態度は実は源三位の乱でも見られ、南都追捕を主張する維盛を抑えている。

 六波羅駐屯の期間が数日設けられたのは、越前国、近江国、美濃国など諸国からの軍勢催促のためである可能性が高いだろう。なお、結果として追討使の六波羅出陣は28日は避けられて、29日早朝となった。ただし、当初の28日計画から大きな齟齬があったわけではなく、維盛と忠清の相論によって出立が大幅に遅れたために、富士川合戦の敗退に繋がったという説は頷首しがたい。後述の富士川合戦における追討使の大敗は、行動の遅れから起こされたものではなく、駿河目代の失策及び、追討使自体の士気の低さが引き起こした必然的なものであった。

 一方、以仁王の「最勝王宣」を受けて挙兵した武田太郎信義・安田三郎義定ら甲斐源氏は、駿河・遠江国への進出を謀り、追討使を迎え撃つべく軍勢を南下させた(『吾妻鏡』治承四年十月十三日条)。この甲斐源氏の駿河進出を察した内大臣宗盛の家人「駿河守維時」(『山槐記』治承三年正月六日条)の目代「駿河目代遠茂」は、「当国目代橘遠茂、催遠江駿河両国之軍士、儲于興津之辺」(『吾妻鏡』治承四年十月一日条)とあるように、興津辺りに在陣していたようであるが、「長田入道」の謀計を以て、甲斐国を衝くべく富士野を廻って北上した(『吾妻鏡』治承四年十月十三日条)。長田入道は国府近辺の長田村を本貫とする在地武士であろう。

 駿河目代勢の甲斐侵攻を知った甲斐源氏勢は、目代勢を待ち構える作戦をとり、富士北麓の若彦道を越えて西回りに駿河国へと向かった。

 翌10月14日、駿河目代橘遠茂率いる三千余の軍勢は春田路を北上。鉢田の細い山道に布陣する甲斐源氏勢に遭遇し、武田信光と加藤次景廉の手勢に襲われて敗北。結果、目代は捕縛され、長田入道子息二人は梟首、主だった人々八十余が討死し駿河勢は壊走するという、追討使にとっては前哨戦に大敗を喫する不吉な一報を受けることとなる(『吾妻鏡』治承四年十月十四日条)。京都へは追討使が駿河国高橋宿に到着した10月16日以前に、「彼国目代、及有勢武勇之輩三千余騎、寄甲斐武田城之間、皆悉被伐取了、目代以下八十余人切頸懸路頭」(『玉葉』治承四年十一月五日条)と伝えられている。

 10月17日朝、武田信義は「年来雖有見参之志、于今未遂其思、幸為宣旨使、有御下向、雖須参上程遠隔一日云々、路峻、轍難参、又渡御可有煩、仍於浮嶋原、甲斐与駿河之間広野云々、相互行向、欲遂見参」という書状を使者二人に持たせて維盛の陣へと派遣した。駿河目代を討ち取るという反抗を見せた翌日であり、武田方の挑発行為に他ならないだろう。これに上総介忠清が激怒。「使者二人切頸了」という行動に出た(『玉葉』治承四年十一月五日条)。なお、『山槐記』では、10月19日に「頼朝党営于不志河送使、不知其状、維盛朝臣問所為於忠景、忠景曰、兵法不斬使者、然而此條私合戦之時事也、今為追討使、可及返答哉、先問彼方子細可斬者、維盛朝臣従此言令痛問、使者云、軍兵有数万、敢不可為敵対者、問此後斬首了」と、この使者は「頼朝党」が遣わしたものとしている。そして、維盛は使者の扱いを忠景(忠清)に問い、使者の口上を聞いたのち斬首したとされる(『山槐記』治承四年十一月六日条)

 追討使として下向した官兵はわずかに千余騎、これに加えて諸国から徴発された兵士で構成されていたが、諸国の兵士は「内心皆在頼朝、官兵互恐異心、暫逗留者欲圍塞後陣」と、戦う意欲はまったくなかったという。忠景(忠清)もこの状況を聞いて「無欲戦之心」という状況にあったとされる(『山槐記』治承四年十一月六日条)。平家が甲斐源氏の使者を斬った日付には『玉葉』と『山槐記』には数日の誤差がみられるが、その伝えられる内容は全く異なることから、それぞれ違う情報源からのものであろう。

 翌10月18日、追討使は富士川辺に進出して陣所を定め、19日に武田勢へ攻め懸るべく準備を行っていたところ、「官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了」という状態となり、「無力于拘留、所残之勢、僅不及一二千騎」と、五千余騎という大勢で出陣した追討使のうち、過半が逐電する体たらくであったという。対する「武田方四万余」とし、「忠清之謀略」を以て「依不可及敵対、竊以引退」したとする。維盛に退却の意思はなかったが、忠清が説得し、諸将もこれに同調したため、京都へ戻ったという(『玉葉』治承四年十一月五日条)。また、「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走、自焼宿之屋形中持雑具等、忠度知度不知此事、追退帰、忠景向伊勢国、京師維盛朝臣入京、着近州野路之時有五六十騎」(『山槐記』治承四年十一月六日条)という報告もあった。

 11月1日には上総介忠清が駿河国から発した書状が前右大将宗盛に届き、「頼朝党数万騎也、十一ヶ国已同志、官兵纔千騎也、不可敵対、暫去駿河国欲着遠江国府、可然之人々猶可被下向也、又以景清被任信濃守可為追討使歟者、駿河目代為頼子(頼朝カ)被伐了、或曰、目代一人存命」(『山槐記』治承四年十一月四日条)とあったという。

 駿河国富士川辺での追討使敗退の一報は10月28日に京都に届き、頭弁経房が中山忠親に「頼朝党進出駿河国富士河辺合戦、追討使官軍敗向伊勢国之由」を伝えている(『山槐記』治承四年十月廿八日条)。実際は甲斐源氏は「頼朝党」ではなく、以仁王の「最勝王宣」を奉じて蜂起した源氏の一つであり、京都でも「甲斐国住人源信義猥成雷同」とあるように、頼朝とは別に挙兵した勢力として把握されていたが、頼朝と同意した「頼朝党」として見られていたため、頼朝党が駿河富士川で追討使を破ったとの報告につながったものであろう。このことから、頼朝は勢力として過大評価されていたことがわかる。

 以上「富士川合戦」を『玉葉』『山槐記』『吉記』を総合的に考察すると、駿河国目代・橘遠茂が二、三千余騎で甲斐源氏追討のために甲斐国へと進軍したが、退路を断たれて大敗を喫した。その後、追討使維盛以下三千余騎が駿河国手越宿、高橋宿を経て富士川辺へ着陣するが、すでに官兵の士気は阻喪しており、このような中、甲斐源氏から使者二名が維盛のもとへ送られ、挑発する書状を渡した。これを読んだ上総介忠清は激怒し、使者二人を賊使として斬首する。ところが平家に従う官兵は恐怖し、次々と逃走する有様であった。こうした状況に上総介忠清はもはや戦う状況にないと判断。維盛に退陣を勧めた。維盛勢が退陣を命じたことで、甲斐源氏を恐れる官兵は我先に逃れようとして壊走が始まり、手越宿の仮宿も自焼し(間者による放火とも)、事情を知らない忠度、知度も維盛勢を追って近江へと退却したのであろう。

 頼朝はこのとき、富士川の東の大湿地帯に浮かぶ賀島(富士市加島町)まで出ていたとされ(『吾妻鏡』治承四年十月廿日条)飯田五郎家義と子息・飯田太郎が富士川を渡って平家勢を追撃し、「伊勢国住人伊藤武者次郎」と組打した飯田太郎が討死するも、家義が伊藤武者次郎を討ち取るという激戦が起こっていたという。また、上総介八郎広常の兄・印東次郎常義(『源平盛衰記』では先陣押領使)も加島に近接する鮫島で討死(『吾妻鏡』治承四年十月廿日条)しており、「為弟弘常被害」(『桓武平氏諸流系図』「中条家文書」)と見えることから、広常もこの合戦に加わっていた可能性が高い。

 維盛は11月7日、近江国勢多まで戻り、ここから西八條の祖父・清盛入道のもとに状況報告のため馬允満季を派遣した。これで仔細を知った清盛入道は「承追討使之日、奉命於君了、縦雖曝骸於敵軍、豈為耻哉、未聞承追討使之勇士、徒赴帰路事、若入京洛、誰人可合眼哉、不覚之耻貽家、尾籠之名留世歟、早自路可暗趾也、更不可入京」と激怒し、維盛はその怒りを恐れてか密かに入洛して検非違使忠綱邸に匿われたという。一方、知度は西八條邸に入ったという(『玉葉』治承四年十一月五日条)

7,鎌倉への帰還と常陸国出陣

 富士川から撤退した平家勢を追うため、10月21日に追撃して上洛すべしと諸士に命じたが、「常胤、義澄、広常等」「常陸国佐竹太郎義政幷同冠者秀義等、乍相率数百軍兵未帰伏、就中、秀義父四郎隆義、当時従平家在京、其外驕者猶多境内、然者先平東夷之後、可至関西」と説得。頼朝はこれを容れて黄瀬川へ戻って宿陣したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿一日条)

 そしてこの日、頼朝の旅館を訪ねてきた一人の若者がおり、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実がこれを怪しんで対面を拒んだ。そのとき、この騒ぎを聞いた頼朝は「思年齢之程、奥州九郎歟」と、早々に対面させるよう指示した。実平がこの若者を頼朝の面前へ連れてくると、果たして九郎義経であった。頼朝と義経は「互談往事、催懐旧之涙」したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿一日条)

 義経は往還の大宿とはいえ、黄瀬川宿という非常にピンポイントな場所に過たずたどり着いており、頼朝が黄瀬川にいることを把握していた可能性が高い。当時の相模国や駿河国は平家党が潜伏し、「頼朝党」も入り混じる混沌とした地であり、少人数での行動が危険が伴ったであろう。義経は奥州藤原氏から多くの手勢を付けられ、頼朝はこの奥州藤原氏からの軍勢を得たことで秀衡という後顧の憂いがなくなったとみたという説も存在するが、当時の奥州藤原氏は頼朝にとっては佐竹氏と血縁のある敵性勢力であったことは言うまでもなく、その軍勢が関東へ入ったとすればその報が入った時点で頼朝は軍勢を東へ転じるであろう。また、佐竹氏や新田氏ら平家と直接繋がる勢力がこれに応じる可能性も高いだろう。ところが、少なくとも『吾妻鏡』においては、頼朝はまったく動かず、その他の勢力も特段の動きを見せていない。つまり義経に奥州藤原氏から「多くの」軍勢が付けられていたことはあり得ないことを意味する

 黄瀬川宿は伊豆国府や三島、北条氏館に近接しており、義経は奥州からいったん相模国鎌倉、もしくは伊豆国北条を訪ねたのではあるまいか。また記載はないが、頼朝の陣所または三島や鎌倉など周辺域に義経実兄・醍醐悪禅師全成も駐屯していたと考えられ、北条氏や全成によって黄瀬川の陣所を知らされていたのかもしれない。

 この日、頼朝は三島社に参詣しているが、その際に伊豆国河原谷郷(三島市加茂川町)と長崎郷(伊豆の国市長崎)を寄進している。

伊豆国御園 河原谷 長崎
 可早奉免敷地三嶋大明神

 右 件御園者 為御祈祷安堵公平、所寄進如件

   治承四年十月廿一日
  源朝臣

 この寄進状は室町期にも残っており、応永25(1418)年8月3日、瀬下掃部助知行であった長崎郷を上杉憲実被官がこの「治承四年十月廿一日右大将家御寄進状」「建武二年十二月十一日長寿寺殿御判」に基づいて三島社の東大夫に沙汰付下地を守護代とみられる「大石遠江入道殿(大石信重入道)に指示している(応永廿五年八月三日「上杉憲実家奉行人連署奉書」『三島社文書』神:5574)

 10月23日、相模国府に到着した頼朝は、「北條殿及信義、義定、常胤、義澄、広常、義盛、実平、盛長、宗遠、義実、親光、定綱、経高、盛綱、高綱、景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、実政、家秀、家義以下、或安堵本領、或令浴新恩」したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿三日条)。また、大庭三郎景親、長尾新五為宗、長尾新六定景、河村三郎義秀、瀧口三郎経俊らが頼朝のもとに出頭した。なお、武田信義と安田三郎義定ら甲斐源氏は頼朝とはまったくの別勢力であり、彼らが実際に相模国府へ入ったかも不明だが、このことが頼朝の麾下に入ったことを意味するわけではなく、この時点においてはともに戦った源氏一族という立場であったろう。

 翌26日、頼朝は鎌倉への帰途、大庭景親らを片瀬川で処断した(『吾妻鏡』治承四年十月廿六日条)。なお、頼朝の「相模国小早河」大敗以降の動向として、9月11日、九条兼実のもとに「而其後上総国住人介八郎広常足利太郎故利綱子云々等余力、其外隣国有勢之者等、多以与力、還欲殺景親等了之由、去夜飛脚到来、事及大事」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、上総広常足利太郎(「故利綱子」とあるが、利綱=足利俊綱は生存しており、兼実が足利俊綱と足利義康を誤って認識していたとすれば、頼朝親族の足利義兼となろう。そのように考えれば、宇治川合戦で以仁王と干戈を交えた足利忠綱を、平家の任官問題で一旦は頼朝に随ったのち再び離反したと牽強付会する必要もない)、その他近隣の有力者が頼朝に協力して景親を討ち取った、という報告がなされている。

 片瀬川での景親梟首ののち、鎌倉へ帰還したかどうかははっきりしないが、翌27日には佐竹氏討伐のために常陸国へ向けて出立したという(『吾妻鏡』治承四年十月廿六日条)。『吾妻鏡』によれば、頼朝は常陸国へ進出し、11月4日には常陸国府で上総介八郎広常千葉介常胤・三浦介義澄・土肥次郎実平ら宿老を召集して軍議を行い、在京中で平家に伺候する惣領・佐竹四郎隆義の庶兄である「佐竹太郎義政(太郎忠義)を招いて謀殺するため、彼の縁者の広常に指示して、国府向こうの園部川大矢橋の中央に義政を誘い出し殺害させたという(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)。しかし、義政(忠義)は本当に寄手の誘引に素直に応じて、麾下の将士を橋辺に残してのこのこと敵中に一人進み出る(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)不可解極まる行動をしたのであろうか。可能性があるとすれば和平の対話のためであろうか。

 一方、太郎義政(忠義)の甥で「其従兵軼於義政」の惣領嫡子・佐竹冠者秀義は、在京の父隆義の事も考えると容易に頼朝に加担することはできないとして、久慈川の氾濫原を望む久慈郡佐竹郷常陸太田市磯部町から久慈川を遡上し、北西の堅牢な金砂城常陸太田市上宮河内町へと引き退いている(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)

 その後、頼朝は金砂城へ籠っていた佐竹冠者秀義を攻めるべく「所謂下河辺庄司行平、同四郎政義、土肥次郎実平、和田太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重以下輩」を派遣したが、金砂城は堅固この上なく「自城飛来矢石、多以中御方壮士、自御方所射之矢者、太難覃于山岳之上、又厳石塞路、人馬共失行歩、因茲軍士徒費心府、迷兵法、雖然不能退去、憖以挟箭相窺之間、日既入西月又出東」と、味方の損害が出るばかりで攻めあぐねた(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)

 この状況に困り果てた実平や宗遠は頼朝へ使者を遣わし「佐竹所搆之塞、非人力之可敗、其内所籠之兵者、又莫不以一当千、能可被廻賢慮者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と具体的な対応策を求めている。これを受けた頼朝は「及被召老軍等之意見」したところ、広常が「秀義叔父有佐竹蔵人、ゝゝ者智謀勝人欲心越世也、可被行賞之旨有恩約者、定加秀義滅亡之計歟者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と提案したことから、頼朝はこれを容れて広常を秀義叔父の佐竹蔵人のもとに遣わした。佐竹蔵人の陣所がいずこにあったのかは不明だが、佐竹蔵人は広常の来臨を喜び、歓待したという。広常はここで「近日東国之親疎、莫不奉帰往于武衛、而秀義主独為仇敵、太無所拠事也、雖骨肉客何令与彼不義哉、早参武衛討取秀義、可令領掌件遺跡者」(『吾妻鏡』治承四年十一月五日条)と説得すると、佐竹蔵人は頼朝への帰順を誓い、早速広常を伴って金砂城の後ろに回り込むと、鬨の声をあげて城内の佐竹秀義勢を威した。するとこの声に秀義と郎従等は不意を突かれて慌てふためき、広常は混乱に乗じて襲い掛かると秀義勢は算を乱して壊走。秀義は行方をくらました。 

 翌11月6日、広常は金砂城へ入るとこれを焼き払い、兵を分けて佐竹秀義の追跡を行ったが、すでに秀義は「奥州花園城」(北茨城市華川町花園)まで逃れ去った風聞があったことから、広常らは頼朝のもとに帰還し「合戦次第及秀義逐電、城郭放火等事」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)を報告した。とくに「軍兵之中、熊谷次郎直実、平山武者所季重、殊有勲功、於所々進先登更不顧身命、多獲凶徒首」と熊谷直実と平山季重の活躍を聞いた頼朝は、彼らは「其賞可抽傍輩之旨、直被仰下」(『吾妻鏡』治承四年十一月六日条)と指示した。また、この戦いの勝敗を決定づけた佐竹蔵人も参上しており「可候門下之由望申」したため、これを功績を以て許容した。そして、「今日志太三郎先生義広、十郎蔵人行家等、参国府、謁申」(『吾妻鏡』治承四年十一月七日条)とあるように、11月7日、頼朝は常陸国府(石岡市)で叔父の志太義広、十郎行家と対面している。志太三郎義広は当時、八条院領の常陸国信太庄(稲敷郡美浦村信太周辺)の荘官とみられ、おそらく弟の八条院蔵人十郎行家とともに行動をしていたのだろう。どういった話がなされたのかは不明だが、これは「最勝王宣旨(以仁王の令旨)」に応じて、義広、行家が主導し、甥の頼朝、義仲と連携した対平氏の組織づくりを模索したのではなかろうか。このとき義広・行家と頼朝との間に敵意はなかったであろうが、頼朝はこの提案を拒絶したのだろう。義広、行家はその後頼朝と袂を分かち、義広は源義仲(木曾義仲)との連携を選んでいる。これは義広が義仲の実叔父(義広は義仲実父義賢の同母弟)であったことが大きく影響しているのであろう。なお、義広はその後義仲との合流を模索して常陸国から下野国の東山道を進むことになるが、ここで起こった事件が治承5(1181)年閏2月23日の小山朝政一党と義広の「宮木野合戦」である。また、行家は義広とは別行程を経て義仲と合流することになるが、義仲はすでに八條院猶子だった故以仁王の遺児(のち北陸宮と称される)との繋がりを得ていて、義仲との関係を選んだ可能性がある。

 これら佐竹氏との戦いには、おそらく常陸平氏の協力があったのだろう。彼らはいずれも千葉介常胤と相当に濃い血縁者(多気義幹らは常胤娘の子とされるが、世代的にみて常重娘の子が妥当か)であり、千葉介常胤とも連携があった可能性があろう。那珂郡馬場(水戸市)の馬場小次郎資幹(多気太郎義幹弟)は頼朝の信任厚く、のち、かつて氏族が世襲していた常陸大掾に就任することになる。また、筑波山地の西側、多気・真壁・下妻一帯を主な支配領域としていた地理的関係上、隣接する小山・下河辺氏との結びつきが考えられる。さらに頼朝は翌治承5(1181)年3月には、鹿嶋郷を支配していた鹿嶋政幹を鹿嶋宮「惣追補使」(『吾妻鏡』治承五年三月十二日条)に補任しており、常陸平氏は頼朝勢に協力の姿勢を示していた可能性が高いだろう。

※『源平盛衰記』には富士川合戦時の平家方の押領使として常陸国の佐谷次郎義幹の名がみえ、多気義幹と同一人物という説が提唱されている(野口実氏「平氏政権下における坂東武士団」『坂東武士団の成立と発展』所収)が、常陸平氏惣領が累代の本拠である多気ではなく、佐谷を優先して名乗る理由も不可解であることや、そもそも軍記物という性格上厳密ではないが、輩行名の不一致から、佐谷次郎義幹は多気太郎義幹とは別人と考える。常陸平氏の中にも国府に近い土地を所領としていた一族は国府の影響力が及び、国衙方・平家党となる庶子もいた可能性はあろう。史上、文書や史書に名を見せる人物はその世に生きた人々のほんの一握り。幾度も見られるような人はさらにそのうちのごく僅かな人々である。こうした中でも諱が同じ、生きた地域が同じ、関わった人が共通するなど、偶然にも同じ「ような」姿で見える人々もいる。ただし、彼らが本当に同一人物であるかは厳密な考証が必要になるであろうし、矛盾が生じればそれは間違いなく別人であろう。矛盾が解決されれば同一人物である可能性はまた復活し、別の視点での考証が必要になる。人物だけではなく漢文の誤読による矛盾も然り。ところが、現状では矛盾が解決されないままに通説化され、それを無批判に受け入れた説が再生産されていることが間々見られる。「通説」とは「事実」ではなく、矛盾を解決する常に考証することこそ必要なのではないだろうか。

               佐竹義業         +―佐竹義政
              (進士判官代)       |(太郎)
               ∥            |
               ∥――――――佐竹昌義――+―佐竹義宗
               ∥     (相模三郎) |(三郎)
               ∥            |
 多気繁幹―+―吉田清幹―+―女子           +―佐竹隆義―――佐竹秀義
(太郎)  |(多気権守)|              |(四郎)   (太郎)
      |      |              |
      |      +―鹿嶋成幹―――鹿嶋政幹  +―佐竹義季
      |       (三郎)   (三郎)    (蔵人)
      |      
      +―多気致幹―+――――――――多気直幹
      |(多気権守)|       (平太)   
      |      ?        ∥
      |      +―――女子   ∥―――――+―多気義幹
      |          ∥    ∥     |(太郎)
      |          ∥    ∥     |
      |          ∥    ∥     +―馬場資幹
      |          ∥    ∥     |(小次郎)
      |          ∥    ∥     |
      |          ∥    ∥     +―下妻広幹
      |          ∥    ∥     |(四郎)
      |          ∥    ∥     |
      |          ∥    ∥     +―東条忠幹
      |          ∥    ∥     |(五郎)
      |          ∥    ∥     |
      |          ∥  +―女子    +―真壁長幹
      |          ∥  ?        (六郎)    
      +―石毛政幹―――女子∥  |
       (荒四郎)   ∥ ∥―?+―千葉介常胤―――千葉介胤正
               ∥―∥―?―(下総権介)  (千葉介)
               ∥ ∥
        千葉常兼―――千葉介常重    
       (千葉大夫) (下総権介)

 この頼朝と佐竹氏の合戦は12月3日頃に「上野常陸等之辺、乖頼朝之輩出来」(『玉葉』治承四年十二月三日条)という情報として兼実に届いている。

 上野国の「乖頼朝之輩」とは、頼朝挙兵の報を受けた前右大将宗盛の命によって上野国へ下向した新田大炊助義重入道上西がその一人であろう(『山槐記』治承四年九月七日条)。上野国に下った義重入道は、東国が様々な勢力が入り乱れて統一されていない現実を見て「以故陸奥守嫡孫」という血筋を以って自立を志したようである(『吾妻鏡』治承四年九月三十日条)。義重入道は頼朝からの書状を無視し、却って寺尾城(高崎市寺尾町)に拠って軍兵を集めた。ところが、頼朝は瞬く間に安房、上総、下総を皮切りに武蔵国の秩父党をもその麾下に組み込み、義重入道と対立関係にあった下野の足利俊綱が頼朝に下り、義重入道の周りは確実に埋められていた。ついに義重入道は頼朝の召しに応じて鎌倉の玄関口である山ノ内に参着するも入境は許されず、漸く12月22日、鎌倉へ参上して頼朝と面会した(『吾妻鏡』治承四年十二月廿二日条)。予て義重入道が兵を集めて上野国寺尾館に立て籠もったという風聞を受け、頼朝は藤九郎盛長を使者として義重入道に遣わし子細を尋ねたところ「心中更雖不存異儀、国土有闘戦之時、輙難出城之由、家人等依加諌、猶豫之處、今已預此命、大恐畏」と述べたため、藤九郎盛長は義重入道の言い分を「殊執申之」し、頼朝も義重入道を赦し、鎌倉召喚をしたものであった。

 11月8日、「被収公秀義領所常陸国奥七郡并太田、糟田、酒出等所々、被宛行軍士之勲功賞」と、常陸国奥七郡のほか太田、糟田、酒出等を勲功賞として常陸攻めの人々へ宛がわれた(『吾妻鏡』治承四年十一月八日条)。その後、鎌倉への帰還の途につき、路次にある小栗十郎重成「小栗御厨八田館筑西市八田に入御している。

 11月10日、頼朝は下総国葛西庄(葛飾区葛西)の葛西三郎清重邸に止宿している(『吾妻鏡』治承四年十一月十日条)。ここで清重へ武蔵国丸子庄が下された。ここで2日ほど逗留し、11月12日に武蔵国へ入った。ここで頼朝は萩野五郎俊重を斬罪に処した(『吾妻鏡』治承四年十一月十二日条)。これまで頼朝に従属して功績も挙げていたようだが、かつて石橋山合戦で大庭三郎景親に属して頼朝に弓引いた恨みがあったとみられ、「日者候御共雖似有其功、石橋合戦之時令同意景親、殊現無道之間、今不被糺先非者、依難懲後輩如此」(『吾妻鏡』治承四年十一月十二日条)という。

 そして11月17日、頼朝は鎌倉へ帰着。和田小太郎義盛を侍所別当に補した。これは「是去八月石橋合戦之後、令赴安房国給之時、御安否未定之處、義盛望申此職之間、有御許諾、仍今閣上首、被仰」(『吾妻鏡』治承四年十一月十七日条)ものであった。頼朝の家人・郎従を管理する秘書官的な職務である。「侍所」は頼朝に伺候する家人・郎従の着到や行動を管理する秘書官的な職務である。この逸話は『平家物語』の中でも見られるが、「上総守忠清カ平家ヨリ八ヶ国ノ侍ノ別当ヲ給」たことを侍別当を望む理由に出している。建仁3(1203)年には「遠州侍所」(『吾妻鏡』建仁三年九月四日条)、鎌倉末から建武期の千葉家には「千葉侍所」(「悟円書状」『金澤文庫文書』)など、有力武家には被官を管理する部門である侍所が設けられており、義盛が望んだのはこうした秘書官的立場であった。

 そして、12月12日、頼朝の鎌倉における新造の屋敷が落成し、それまで住んでいた上総介八郎広常の屋敷から移ることとなった。その供奉に千葉介常胤胤正胤頼が随っている。胤頼は常胤の六男にも関わらず、嫡子の胤正とともに栄誉に浴しており、ほかの兄たちと比べて優遇されていることがわかる。頼朝の挙兵を影から支えていたと思われることや、位階を得ていることなどがあるのだろう。新造の大倉邸には十八間の侍所が設けられ、北条時政以下の諸将が二列に並び、その数三百十一人であったという(『吾妻鏡』治承四年十二月十二日条)

■治承4(1180)年12月12日渡御(『吾妻鏡』)

先陣 和田小太郎義盛
駕左 加々美次郎長清
駕右 毛呂冠者季光
扈従 北条四郎時政 江間小四郎義時 足利冠者義兼 山名冠者義範 千葉介常胤
千葉太郎胤正 千葉六郎大夫胤頼 藤九郎盛長 土肥次郎実平 岡崎四郎義実
工藤庄司景光 宇佐見三郎助茂 土屋三郎宗遠 佐々木太郎定綱 佐々木三郎盛綱
後陣 畠山次郎重忠

 治承5(1181)年正月1日、頼朝は鶴岡若宮を参詣した。これを先例とし、鎌倉時代を通じて元旦をもって奉幣の日と定められる。この時は三浦介義澄畠山次郎重忠大庭平太景義が郎従を率いて辻を警護している。その後、頼朝は騎馬で到着し、神馬一疋を宇佐美三郎祐茂仁田四郎忠常が曳いて奉納し、法華経供養と説教を聞いた後、屋敷へ帰還した。参詣ののち、千葉介常胤が椀飯を献じている。その後、次第に大規模で形式が固まっていく元旦参詣だが、この時は大変おおらかな雰囲気が感じられる。

 2月1日には京都に頼朝の常陸攻めが届いている。それによれば「常陸国勇士等、乖頼朝了、仍欲伐之處、還散々被射散了、此由飛脚到来、今明被遣官兵者、自彼可攻之由申上」(『玉葉』治承五年二月二日条)という。「常陸国勇士等」とは佐竹氏とみられるが、彼らは「乖頼朝」いて凶賊頼朝を討たんとしたが、却って散々に打ち負かされたという。これについては「但実否難知歟」と記すが、翌々日2月3日には続報として「頼朝寄攻常陸国之間、始一両度雖被追帰、遂伐平了」(『玉葉』治承五年二月三日条)を得ている。当初の打ち破られた佐竹勢からの使者の申上(自彼国上洛之者説)は、今明の官兵派遣がされれば頼朝勢を討つとのものであったが、3日の続報は「常陸国」へ攻め寄せた頼朝に、佐竹勢は数度追い返されるなど不利な立場にあったが、ついに頼朝勢を討伐したというものであった。兼実のもとには「縦横之説、随聞及注之、但於事外之浮説者、不能注、遂可見虚実歟」といくつもの情報が届けられ、情報を取捨選択しながら虚実の判断を行っていた。佐竹氏は頼朝に敗れた際に「官兵」と協力して攻めることを申上しており、おそらく国府は機能し続けていたと考えられる。

 京都への報告の時期からして、この頼朝の二度目の常陸攻めは治承5(1181)年正月中のことであったことが推測できる。『吾妻鏡』では治承5(1181)年は正月24日以降の日記はなく、此の後の事であろうか。兼実はこの合戦の情報が実否か知り難いとしているが、「自彼国上洛之者説(常陸佐竹氏の使者であろう)」であることからこの戦闘は事実であろう。当時の常陸国司は、治承3(1179)年11月18日の除目で「常陸介平宗実」(『玉葉』治承三年十一月十八日条)とあり、平重盛の末子・十四歳の平宗実であった。知行国主は養父・左大臣藤原経宗であることから、目代も経宗の関係者であろう。経宗は平家と協調関係にありつつも後白河院に非常に近く(血統上も八歳違いの従兄である)、常陸国は院に近い体制が敷かれていたと思われる。朝廷にとって頼朝は「凶徒」「凶賊」であり、国衙が平家党佐竹氏と協調して「凶徒」頼朝と対峙することは当然のことであった。しかしながら、頼朝が後白河院を蔑ろにすることは考えにくく、常陸国府を占拠することはなかったのではあるまいか。

 4月20日には「或人」の下人が「自常陸国、有上洛」し、翌21日に「或人」が兼実に常陸国の状況を話している(『玉葉』治承五年四月廿一日条)。この「或人」は常陸国知行国主の左府経宗かもしれない。この下人は「四十余日、遂前途、廻北陸道入洛」(『玉葉』治承五年四月廿一日条)と、東海道を経由して上洛することが叶わず、常陸国から北陸道を経由する形で四十余日かけて入洛したという。彼が語るには、「秀衡已没之由無実也」と、「頼朝可娶秀衡娘之由、相互雖成約諾、未遂其事」と、「凡関東諸国、一人而無乖頼朝旨者、佐竹之一党三千余騎、引籠常陸国、依思其名、一矢可射之由令存」ということが語られ、「其外一切無異途」であるという。これは2月下旬から3月上旬頃の常陸国府の情報であり、秀衡の死を否定するなど信憑性は高いだろう。ということは、頼朝と秀衡女子との間で縁談が進められていることもまた事実だったのではなかろうか(当然『吾妻鏡』で記されない部分である)。そして佐竹氏は頼朝の鎌倉帰還後も抵抗を続けていた様子がうかがえる。

8,近江大乱と清盛の死

 その後、平清盛入道は威信をかけて造営した福原京を廃して、京への還都を決断。これをきっかけに平家政権と敵対する勢力への本格的な軍事行動を開始する。

 治承4(1180)年11月21日、「近江国又以属逆賊了、前幕下之郎従、下向伊勢国之間、於勢多及野地等之辺、昨今両日之間、十余人梟首了、其中有飛騨守景家彼家後見、優勢武勇者也、姪男、彼伐了云々、甲賀入道年来住彼国源氏之一族云々、幷山下兵衛尉同源氏云々等、為張本」とあり、前右大将宗盛の後見・飛騨守藤原景家の甥を含む郎従らが、所用で伊勢国へ赴く途次、瀬田付近で何者かに襲われて十余人が梟首されるという事件が起こった(『玉葉』治承四年十一月廿一日条)

 宗盛家人を討った犯人は、近江国甲賀郡に勢力を持つ「甲賀入道(義兼法師)」「山下兵衛尉(義経)」であった。甲賀入道は甲賀郡柏木御厨一帯(甲賀市水口町柏木)を、山下兵衛尉は山本郷(東近江市五個荘山本町)を支配する源氏の兄弟であり、その支配領域が京都から伊勢・伊賀へ通じる要衝であることから、彼らの反旗は平家にとって本拠の伊勢・伊賀との経路が遮断されることを意味し、ただちに行動に移したのであろう。「柏木入道法師兄弟在三井、為房覚弟子、同可召進之由、可仰長吏房覚者」(『吉記』治承四年十一月廿九日条)とある通り、甲賀入道と山下兵衛尉は園城寺長吏房覚の弟子であり、甲賀郡一帯は甲賀入道らの祖・新羅三郎義光以来、園城寺との関わりが非常に深かったことが知られる。

 平家方は12月1日、伊賀国の平家家人「平田入道(平家継)」が近江国へ進行して甲賀入道を城から追い落とし、翌2日、平家政権は近江国、伊賀国、伊勢国の反平家勢力を駆逐するべく追討使(近江国大将軍:知盛卿、伊賀国大将軍:少将資盛、伊勢国大将軍:伊勢守清綱)が派遣され、翌3日早朝には、近江国の叛乱勢力を追捕している(『玉葉』治承四年十二月三日条)

 しかし、延暦寺もこの近江国の叛乱に敏感に反応し、12月1日には「山大衆三方相分了」とあるように延暦寺も平家に属する者、座主七宮を擁して中立の立場を取る者、近江源氏を支える者の三勢力に分裂している。その後、平家方の攻勢によって「江州武士等併落了」となり、延暦寺の三分の二が平家方に属したが、残りの三分の一は「其残引籠城」と近江源氏勢を支えたという(『玉葉』治承四年十二月四日条)

 ところが、12月9日には甲賀入道と山下兵衛尉義経が「延暦寺衆徒之中、凶悪之堂衆三四百人許」とともに、「以園城寺為城、六波羅可入夜打、又所進向近江国之官軍等、塞其後、自東西可攻落之由、成結構」と反撃の様相を呈した(『玉葉』治承四年十二月九日条)。これにより、平家は「清房禅門息、淡路守」を園城寺へと派遣。12日夜、官兵は園城寺へと攻め込み、敗れた園城寺大衆は山下兵衛尉らと合流した(『玉葉』治承四年十二月十二日条)。そして翌13日、「知盛、資盛等」は「甲賀入道並山下兵衛尉義経等、徒党千余騎」の籠もる「馬淵城(近江八幡市馬淵町)(『山槐記』治承四年十二月十三日条)を攻落し、二百余人を梟首、四十余人を捕らえたという(『玉葉』治承四年十二月十五日条)。その落城後、「甲賀入道、山下兵衛尉」は近接の山下城へ逃れ、翌16日には官兵が「近江山下城」を攻撃している。山下城は急峻な山上に築かれており、官兵は攻めあぐね、23日「維盛朝臣為副将軍、下向近江国」という措置がとられている。そして翌24日には、山下城の甲賀入道らに「尾張美濃等武士、欲相加彼」という伝聞が京都へ齎される(『玉葉』治承四年十二月廿四日条)。なお、『吾妻鏡』によれば近江を逃れた「山本兵衛尉義経」は12月10日に鎌倉に参着し、土肥実平の案内で頼朝と面会したという記録もあるが(『吾妻鏡』治承四年十二月十日条)当時の山下義経は兄・柏木甲賀入道とともに平家と戦っており、この『吾妻鏡』の記述は本来異なる時期の記事が混入されたものであろう。

 また、平家政権は12月25日、「蔵人頭重衡朝臣」を大将軍とした南都の追討軍を派遣。25日夜は「宿宇治」(『山槐記』治承四年十二月廿五日条)、26日に「南都追討使、今日経廻宇縣」(『玉葉』治承四年十二月廿六日条)とあるように宇治に逗留した。これは「依雨雪」ためであった(『山槐記』治承四年十二月廿六日条)。27日には「自河内地方、被寄官兵之間、為大衆被射危、三十余人被射取了、其後被追帰了」(『玉葉』治承四年十二月廿七日条)とあるが、「南都追討使重衡朝臣宿狛、先陣阿波国住人民部大夫成良、軍兵向泉木津為一陣、与衆徒合戦、矢放一両、依日暮不戦」(『山槐記』治承四年十二月廿七日条)とあり、重衡の先陣として阿波民部成良の一軍が木津川を渡った泉木津で南都衆徒と合戦したことがわかる。

 そして28日夜、「重衡朝臣寄南都、其勢依莫大、忽不能合戦云々、狛川原之辺在家併焼払、或又欲焼光明山」(『玉葉』治承四年十二月廿八日条)と、奈良に攻め寄せた。これにより興福寺や東大寺以下の堂宇伽藍がほぼ焼失し、東大寺は大仏殿に引火して大仏の頭が溶け落ちる事態となり、九条兼実は「七大寺、悉灰燼之条、為世為民仏法王法滅尽了歟、凡非言語道之所及、非筆端之可記」と嘆いている(『玉葉』治承四年十二月廿九日条)

 このような中、治承5(1181)年正月14日、高倉院は二十一歳で崩じた(『玉葉』治承五年正月十四日条)。高倉院政はここに終わり、平家にとっては鬼門である一院後白河が復帰することで、後白河院はふたたび治天として君臨することとなる。

 平家政権側は一定の軍権を確保し、畿内を襲った飢饉の中での兵糧米の確保と近畿一帯を守衛するために「故院被仰置」いた「五畿内及近江伊賀伊勢丹波等国可被補武士、以禦遠国之凶徒之由」を実行するべく「件等国、総而可被置管領之司」(『玉葉』治承五年正月十六日条)を決し、宣旨を求めた。これにより「前大将平朝臣(宗盛)」に対して「為五畿内及伊賀伊勢近江丹波等総官之由」の宣旨が下され(『玉葉』治承五年正月十九日条)、畿内五か国および伊賀国・伊勢国・近江国・丹波国の権限を平宗盛が差配(畿内惣官)することとなった。「惣官(総管)」は「総而可被置管領之司」(『玉葉』治承五年正月十六日条)の略称であろう。近江国の甲賀入道らの執拗な叛乱、尾張国から美濃国を窺う「謀叛賊源義俊為義子、号十郎蔵人」の軍勢、駿河国、遠江国を抑える武田信義・安田義定、坂東に控える源頼朝勢など源氏の勢力が畿内を窺うまでに伸張していたことに平家政権が大きな危機意識を持ったことがわかる。

 2月8日、前越中守平朝臣盛俊を以て「丹波国諸庄薗総下司」とする宣旨が下った(『玉葉』治承五年二月八日条)。これは宗盛の五畿内等総官の宣旨に基づくもので、庄園からの兵糧米等の徴収権を盛俊が得たものだろう。

 翌2月9日、「関東反賊等及半、越来尾張国、以十郎蔵人義俊、為大将軍云々、其勢不知幾千万」という風聞が流れた(『玉葉』治承五年二月九日条)。実際に尾張国に侵攻した「十郎蔵人義俊(行家)」は頼朝が派遣した大将軍ではなかったが、京都では同一視されていたことがわかる。常陸国府で頼朝と対面した後、行家は独自の軍勢を募り、おそらく東山道を西へ侵攻したと思われる。

 こうした源氏諸勢力の伸張に対し、2月26日、「俄前将軍宗盛已下、一族武士、大略可下向来月六七日之比」という前将軍宗盛を大将とする追討使の派遣が決定され、さらに鎮西へ下向する予定であった蔵人頭重衡の下向も停止された。これは追討使に勇名高い重衡も加えられたことを意味するものであろう(『玉葉』治承五年二月廿六日条)。この事態に対応するべく、すでに美濃国には平家与党が派遣されていて、「尾張之賊徒等、少々越来美乃国、射散阿波民部重良之徒党、相互被疵之者有数、官軍方、有云池田太郎之者、捕件者、乍生持去了」とあるように、「十郎蔵人義俊」らとの戦いが起こっていた(『玉葉』治承五年二月廿九日条)

 ところが、閏2月1日、九州の賊徒討伐のために派遣されていた「筑後国司貞能」から「兵粮米已尽了、於今者無計略」という悲観的な文書が届いた(『玉葉』治承五年閏二月一日条)「在美乃追討使等、一切無粮料之間、可及餓死」(『玉葉』治承五年閏二月三日条)というように、東へ向った追討使もすでに兵糧がなく、官軍は東西ともに「天下飢饉」のために兵糧を失った状態で駐屯していた。こうした状況に宗盛は「為総攻、前幕下俄欲下向」と下向を決意するが、「依禅門之病、後了」と出兵は見送りとなってしまう(『玉葉』治承五年閏二月三日条)

 閏2月4日朝、清盛入道は円実法眼を通じて「愚僧早世之後、万事仰付宗盛了、毎時仰合、可被計行也」と、宗盛を後継者と定め、万事を宗盛と相談して計るよう後白河院に奏上している(『玉葉』治承五年閏二月五日条)。ところが、後白河院は「勅答不詳」と明確に返答せず、清盛入道は「爰禅門有含怨之色」と怒り、左少弁行隆を召して「天下事、偏前幕下之最也、不可有異論」と後白河院を恫喝するに至った(『玉葉』治承五年閏二月五日条)。そしてその日のうちに「禅門薨去」した(『玉葉』治承五年閏二月四日条)

 平家と政権を強力に牽引し、老獪な後白河院とも渡りあった実力者・平清盛の薨去は、その後、実権を取り戻すことになる後白河院の暗躍と源氏諸勢力の勢力伸張により、平家は瞬く間に凋落してゆくこととなる。

 閏2月6日、院において関東乱逆への対応についての詮議が行われたが、ここに出席した宗盛は、後白河院に「故入道所行等、雖有不叶愚意之事等、不能諌争、只守彼命、所罷過也、於今者、万事偏以院宣之趣、可存行候」と父清盛入道の意に逆らえなかったことを陳謝し、今後は後白河院の意に従う旨を公にした。これは清盛入道が死の直前に後白河院へ放った「天下事、偏前幕下之最也、不可有異論」という恫喝を全否定するものであった。その上で「先関東兵粮已尽、無力征伐、如故入道之沙汰者、西海北陸道等運上物、併点定、可宛彼粮米云々、此条又何様可候哉、若有可彼宥行之儀者、可被計仰下歟、又猶可被追討者、可存其旨、召公卿等於院、僉議之後、奉一決之趣、可進退也」と、故清盛入道の沙汰通りに西国や北陸道の運上物を兵糧米に宛てるかどうか、さらに和睦か追討かの「詮議」を院に委ね、その結果をもってどのようにするか決める旨を伝えたのである(『玉葉』治承五年閏二月六日条)。これを受けて7日早朝、院で詮議が行われた結果「大略、暫休征伐、先以院宣可被宥之儀候歟」(『玉葉』治承五年閏二月七日条)と、飢饉等による影響も鑑みて宥和が大勢を占め、院議定は院宣を以て追討を中断することとされた。

 院は詮議一決を受けて、側近の静賢法印を宗盛のもとに遣わし、宗盛邸門外で宗盛近臣・能円法師を通じて宗盛へ院議定の内容を伝達した。宗盛はすぐに返奏するが、そこには「猶於重衡者、来十日一定可下遣也」と記され、重衡を東国追討使として尾張国へ下向させることはすでに決定した事案だとして譲らず、さらに「然者、東国勇士等、乖頼朝、可随重衡之由、可載院宣者」と、院宣の文言に「頼朝に背いて重衡に従え」という一文を加えろという要求までしたのである(『玉葉』治承五年閏二月七日条)

 さすがの静賢法印も「若為此儀者、被遣院宣無益、只一向不可変征伐之儀事歟、素付令申給之状、已有群議、今被報奏之旨、依違了、何様可候哉」と抗議したところ、宗盛も「招頼盛、教盛等卿相議、重可令申」と、頼盛、教盛らを招いて相談の上、重ねて返答することを告げた(『玉葉』治承五年閏二月七日条)

 しかし、結局宗盛は折れず、閏2月9日、大納言隆季、中納言忠親ら院司によって作成された院庁下文には「東国勇士等、乖頼朝、可随重衡之由」が載せられたとみられ、この院庁下文を見た後白河院は自身の意向が無視され激怒したのだろう。院はこの内容を「不可然」としたが、再度意向は無視され、宗盛に院宣が下賜された。故清盛入道は「我子孫、雖一人生残者、可曝骸於頼朝之前」という遺言を残しており、宗盛は「然者、亡父之誡、不可不用、仍於此條者、雖為勅命、難申者也」と、頼朝との戦いにおいては、故清盛入道の遺言が後白河院の勅命に優先すると宣言している(『玉葉』養和元年八月一日条)

 宗盛は院議定の内容を無視して源氏勢力の追討を継続するが、これはあくまで「追討之間事、偏大将軍之最也」(『玉葉』治承五年八月六日条)「仍於此條者、雖為勅命、難申者也」(『玉葉』養和元年八月一日条)とある通り、軍事に関する事項に限っては宗盛の管轄であると認められていたことが窺える。宗盛が後白河院へ示した「僉議之後、奉一決之趣、可進退也」(『玉葉』治承五年閏二月六日条)は、あくまで院御所での院・公卿による議定を要請したもので、その報告を踏まえて軍権を掌握する宗盛が和睦か追討かの最終決断を行い、それに基づいた院宣を乞うというものであった。

 結局、重衡を大将軍とする追討使の派遣が決定され、閏2月10日早朝に「検非違使景高」が尾張国へ出立(『玉葉』治承五年閏二月十日条)、五日後の15日、「追討使蔵人頭正四位下平重衡朝臣」が一万三千余騎を率い、院宣を帯して京都を出立した(『玉葉』治承五年閏二月十五日条)。重衡に随ったのは、「左少将維盛朝臣、越前守通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、参河守知度、讃岐守左衛門尉盛綱號高橋、左兵衛尉盛久等」であった(『吾妻鏡』治承五年三月十日条)

 京都を出立した重衡は、宇治を経て、「十郎蔵人行家本名義俊」鎮撫のために尾張国へ進み、3月10日、墨俣川で五千余騎の「賊党等千余人被梟首、其後三百余人溺河水亡滅了」という戦果を挙げる(『玉葉』治承五年三月十三日条)

●墨俣合戦の戦果(『吉記』治承五年三月十三日条)

将軍 首級 討たれた源氏方大将軍
頭亮(蔵人頭重衡) 二百十三人(生捕八人) 和泉太郎重満(重衡方の左兵衛尉平盛久が討つ)
同弟高田太郎(盛久郎等が討つ)
越前守(越前守通盛) 六十七人  
権亮(前春宮権亮維盛) 七十四人  
薩摩守(薩摩守忠度) 二十一人 十郎蔵人息字二郎
参河守(三河守知度) 八人  
讃岐守(讃岐守高橋盛綱):重衡支配 七人 蔵人弟悪禅師(実際は甥の円済:義円)
以上 三百九十人(うち源氏方大将軍四人)  

 この合戦で「蔵人次郎為忠度被生虜、泉太郎、同弟次郎被討取于盛久」とあるように、行家の子息・蔵人次郎光家、泉太郎重光らが捕殺され(『吾妻鏡』治承五年三月十日条)、十郎蔵人行家は「被疵入河了」と、負傷して川に流されたことが記される。『吉記』によれば、泉太郎と弟次郎の兄弟は、重衡に属していた左兵衛尉平盛久の手によって討たれたことがうかがえる(『吉記』治承五年三月十三日条)。また、行家の陣中には、頼朝の義弟「僧義円號卿公」がいたとされ、この合戦で高橋盛綱に討たれたという(『吾妻鏡』治承五年三月十日条)。彼に相当するのが「蔵人弟悪禅師」であり、重衡支配の讃岐守高橋盛綱によって討たれたことがわかる(『吉記』治承五年三月十三日条)。なお、「蔵人弟」とある部分は実際は甥であるが、彼らの年齢はそれほど離れておらず、陣中では弟として遇されていたのかも知れない。また、光家については実際は生存しており、その後、義経とともに検非違使となっている。

 重衡らはさらに墨俣川を渡って行家残党を追撃し、数か月にわたり官軍を苦しめてきた尾張国の源氏勢力は壊滅した。そして重衡は3月25日夜半、京都へ無事帰還する(『玉葉』治承五年三月廿六日条)

 一方、院政を復活させた後白河院は、軍権は持たないものの、政治的な行動や人事を積極的に行い、一度は壊滅してしまった政治基盤の再構築を図り始める。まず行ったのは、故清盛入道がほぼ強奪の形で西八條の平頼盛邸に移していた安徳天皇の閑院御所(中京区押西洞院町)への行幸であった(『吉記』治承五年四月十日条)。八條御所は諸司の邸から遠く役人の遅延が頻発して大変評判が悪く、閑院への遷皇居は「天下上下皆以悦予、尤可謂善政歟」とも評された(『吉記』治承五年四月十日条)。これはまず主上を平家西八條邸から引き離し、王家所縁の閑院へ新造内裏に擬して遷幸することが目的であったと考えられる。

9,木曾義仲の挙兵

  関東では、墨俣合戦と同時期の治承5(1181)年3月27日、下総国の豪族・片岡次郎常春に謀叛の風説があり、頼朝は雑色を「彼領所下総国」に遣わして常春を召した所、常春は「称乱入領内、乃傷御使面縛」という狼藉を働いたという(『吾妻鏡』治承五年三月廿七日条)。頼朝は常春の所領を没収した上、早々に雑色を解き放し返すことを命じている。

 常春の謀叛の伝とは「片岡八郎常春同心佐竹太郎常春舅」というもので、頼朝に殺害された佐竹太郎(忠義)の女婿であったことを理由に謀叛したと記されたものであろう。常春が「被召放領所」は「下総国三崎庄、舟木、横根」であったが(『吾妻鏡』文治五年三月十日条)、三崎庄は治承4(1180)年5月11日、皇嘉門院から猶子の権中納言良通(九条兼実長男)へ伝領した「しもふさ みさき」(『皇嘉門院惣処分状』「平安遺文」3913)で、常春はおそらくその荘官であり、勅勘の流人で「凶賊」源頼朝に膝を屈する理由などなく、その「逆賊」の雑色が三崎庄に入れば、常春がこれを面縛するのは当然の成り行きであったろう。このように当時の頼朝は公的には流人であって、実際には彼に随わない権門庄園の荘官や地頭、国衙在庁などの諸勢力は関東各地に存在していたと考えられる

 さて、墨俣合戦で大敗を喫したのち、三河国に隠遁していた十郎蔵人行家は5月19日、「参河国御目代大中臣以通」を通じて、伊勢内外二宮に「密勒告文、相副幣物等」して平家追討の祈祷を依頼した。なお「参河国御目代」は三河守知度の目代ではなく、三河国に数多く存在した神宮領を管轄する「神目代」である。しかしこの行家の祈祷願も5月29日、内宮権神主から峻拒の返状が届けられている。このように、当時にあっては頼朝はもちろん、その他の源氏諸勢力はあくまで「逆賊」であって、その基盤は甚だ不安定であったことがわかる。実権威に担保されない集団である頼朝党は、わずかなきっかけで崩壊する危険性があったのである。これを防ぐため、頼朝は「至干東国者、諸国一同庄公皆可為御沙汰之旨 親王宣旨状明鏡也者」(『吾妻鏡』治承四年八月十九日条)とあるように、自身の東国支配の根拠を以仁王の「最勝王宣」に据え、その影響力を担保として勢力を維持したのであろう。

 6月13日から14日、「越後国勇士、城太郎助永弟助職、国人号白川御館云々、欲追討信濃国、依故禅門前幕下等命也」(『玉葉』治承五年七月一日条)と、宗盛の命を受けた越後平氏の城太郎助永・助職兄弟が「数万余騎」を率いて信濃源氏追討のために信濃国に攻め入った。彼らは蒲原郡白川庄(阿賀野市)から阿賀川上流の藍津(会津若松市)周辺を勢力下に収める強大な一族で、信濃川・千曲川流域に沿って信濃国に入ったと思われる。

 越後平氏勢は抵抗を受けることなく進軍するが、「疲嶮岨之軍旅等」となっていた。こうした状況の中で「信濃源氏等、分三手、キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田之党一手、俄作時攻襲之」ことから、千曲川北岸の横田河原(千曲市大字雨宮)で越後平氏勢は「不及射一矢、散々敗乱了」と大敗を喫し、城助職は甲冑を脱ぎ捨てて越後へ逃れ、多くの兵士が斃れた(『玉葉』治承五年七月一日、二日条)。なお、木曽義仲は約半年前に上野国西部から信濃国へ戻っており、佐久平から上田盆地あたりに駐屯していたと思われ、ここで佐久党、南部の甲斐武田党と連携したと考えられよう。なお、甲斐武田氏はこの頃は木曽義仲と連携して平家党と戦っていたことがうかがえ、ここからも治承5(1181)年当時の甲斐源氏は頼朝に従属する存在ではなかったことがわかる。

 ただ、越後へ逃れたとはいえ、城助職の勢力は「勢又強不減」(『玉葉』治承五年七月廿二日条)とある通り、いまだ強勢を保ち、信濃源氏等は越後国へ攻め入ることができずにいたという。しかし、この頃「越中、加賀等国人等、同意東国、漸及越前」と、北陸道の国人らが源氏に呼応したという風聞が京都に届いており(『玉葉』治承五年七月十七日条)、能登国では国司教経の目代の逃亡も伝えられている(『玉葉』治承五年七月廿四日条)。当時の木曽義仲が越後国を経ずに北陸方面へこれを受けて、越前守平通盛を大将軍とした追討使の派遣が決定することとなる(『玉葉』治承五年七月十八日条)

 このような中、頼朝は密かに後白河院へ奏状し、その中で「全無謀叛之心、偏為伐君之御敵也、而若猶不可被滅亡平家者、如古昔、源氏平氏相並、可召仕也、関東為源氏之進止、海西為平氏之任意、共於国宰者、自上可被補、只為鎮東西之乱、被仰付両氏天、蹔可有御試也、且両氏執守王化、誰恐君命哉、尤可御覧両人之翔也」と述べたという(『玉葉』治承五年八月一日条)。後白河院は内々に宗盛へ頼朝との和平案について伝えたが、宗盛は「此儀尤然可」と一応の賛意を述べながらも、故清盛入道が「我子孫、雖一人生残者、可曝骸於頼朝之前」という遺言を残していたことを述べて、「然者、亡父之誡、不可不用、仍於此條者、雖為勅命難申者也」と拒絶したのである(『玉葉』治承五年八月一日条)。宗盛は諸方の叛乱と飢饉の対応がとても厳しい状況にあり、和平案は大変魅力的なものであったと考えられる。宗盛自身は頼朝との個人的関係は皆無であることから怨恨は深いものではなかったろう。しかし、宗盛はこれを拒絶してしまう。後白河院という稀有の策士からの提言ということもあろうが、清盛入道生前からその言葉は勅命に勝ると考えていたことを考えると、故清盛入道の呪縛から脱しきれなかった宗盛の素直な善人性がうかがえるのである。

 このころの平家はすでに「前幕下、其勢逐日減少、諸国武士等、敢不参洛」という状況であり(『玉葉』治承五年八月一日条)「貞能、鎮西下向必定」という情報を聞いた九条兼実は「大略逃儲之料者」と予想している。

 宗盛は戦況打開のための策を練り上げて、後白河院に「関東賊徒猶未及追討、余勢強大之故也、以京都官兵、輙難攻落歟、仍以陸奥住人秀平可被任彼国史判之由」を奏上。すでに「件国素大略虜掠、然者拝任何事之有哉、如何」という理由によるものであった。さらに「越後国住人平助成、依宣旨向信濃国、依勢少軍敗者、全非過怠、志之所及、已不惜身命、忠節之至、頗可有恩賞歟」として、城助成(助職)を越後守に補するよう推薦している。

 このことにつき、院は頭弁経房を兼実に遣わしてその意見を求めている(『玉葉』治承五年八月六日条)が、兼実は「追討之間事、偏大将軍之最也、而前大将被申計之趣、不可及異議」と賛成するが、補任等に関する意見は宗盛に批判的であった。しかし、結局宗盛の意見が通り、8月14日夜の除目で、「陸奥守藤原秀平、越前守平親房、越後守平助職」が決定することとなる(『玉葉』『吉記』養和元年八月十五日条)

●治承五年八月十四日除目(『玉葉』『吉記』養和元年八月十五日条)

玉葉 吉記
陸奥守藤原秀平 陸奥国 守従五位下藤原朝臣秀衡
越前守平親房 越前国 守従五位下平朝臣親房
越後守平助職 越後国 守従五位下平朝臣助職

 秀衡の陸奥守任官は、背後から東国を攻めることを期待したものである。なお、追討使として北陸攻めが決定している越前守平通盛を平親房に改める人事は、兼実も「不得心」と不審を持っている。親房は「基親息、前近江守」(『吉記』養和元年八月十五日条)であるように、武力を持たない堂上平氏であり、混乱の続く国の人事としては他の二例とは異なっている。親房は後白河院近臣であることから、実は越前国の混乱に紛れて後白河院が平家から越前国を再度奪取した人事だったのだろう。兼実の「不得心」は真実を知った上での曖昧な批判と考えられる。

         藤原経清
        (亘権守)
         ∥
         ∥―――――藤原清衡―――藤原基衡―――藤原秀衡
         ∥    (陸奥押領使)(陸奥押領使)(陸奥守)
 安倍頼良――――女子
         ∥
         ∥―――――清原家衡
         ∥
 清原武則――+―清原武貞
(鎮守府将軍)|(太郎)
       |
       +―清原武衡――女子
        (将軍三郎) ∥――――――城助職
               ∥     (越後守)
               城資国
              (九郎)

 8月15日と翌16日にかけて、北陸道追討使として「但馬守経正朝臣」「中宮亮通盛朝臣」が京を進発し、通盛は越前国国府へと入府した。ところが、8月23日に加賀国から「賊徒乱入国中」し、大野坂北両郷を焼き払った(『吉記』養和元年九月一日条)。もはや北陸道は「北陸道賊徒熾盛、通盛朝臣、不能征伐、加賀以北越中国中、猶有不従命之族」(『玉葉』養和元年九月二日条)という状況になっていたが、9月6日、通盛は兵衛尉清家を大将軍とした一軍を加賀境まで派遣するが、清家に従っていた「当国住人新介実澄、前従儀師最明検非違使友実弟」らが寝返り、通盛の主だった郎従八十余人が討死を遂げて大敗を喫した。通盛は越前国府(越前市府中)にあったが、無勢で追加で出兵はできず「引退敦賀」いた(『吉記』養和元年九月十日条)。この敗報は兼実の元にも届いており、通盛が「津留賀城」まで退いたことが記される(『玉葉』養和元年九月十日条)。このとき通盛が戦ったのは、『吾妻鏡』によれば「木曽冠者為平家追討上洛、廻北陸道、而先陣根井太郎至越前国水津、与通盛朝臣従軍、已始合戦」(『吾妻鏡』養和元年九月四日条)とある通り、おそらく木曽義仲の軍勢であろう。勅命によって義仲を攻めんとしていた「越後守資永(助職)」は9月3日朝に急死しており(『吾妻鏡』養和元年九月三日条)、義仲の軍勢はすでに越後から加賀を経て越前方面まで展開していたことを物語る。

 通盛は若狭国に駐屯していた但馬守平経正に援兵を要請するも、経正は若狭国に留まって兵を差し向けなかったことで通盛が大敗を喫したと噂されて、散々な評判であった(『玉葉』養和元年九月十二日条)。平家政権は北陸への援軍派遣を計画するも、兵力不足などから延引を繰り返す始末であり、単独で戦い続けた通盛もついに支えきれずに敦賀を撤退。11月21日、帰京した(『吉記』養和元年十一月廿一日条)

 しかし、諸方への兵力分散や「東国、北陸、共以強大、官軍旺弱」(『玉葉』治承五年九月廿日条)という中で、平家政権は「四方之賊勢甚強大、官軍非可敵対歟、若然者、奉具至尊時、山已下、為宗之臣下等、定令西行歟」(『玉葉』養和元年九月十六日条)という悲観論に包まれ、「君臣引率、可赴海西之由、已被一定了」(『玉葉』養和元年九月十九日条)と、平家政権は天皇、院を奉じ、主だった公卿を伴って西へ逃れることを決定したのである。宗盛は、もはや平家が以前のような政権を維持することは困難であると判断したことの表れであった。ただ西行は「忽不可然、関東已攻来之時、可有其儀」と、東国勢が明確に京都に攻め寄せた際に実行することとし、さらに宗盛は「不可知天下之事之由、令起請了」(『玉葉』養和元年九月廿九日条)た。宗盛が政権自体の放棄をおそらく後白河院に起請文で奉じたのであろう。さらに宗盛は9月28日、大外記頼業のもとに使者を送り「天下事、於今者、武力不可叶、可廻何計略哉」と相談している(『玉葉』養和元年九月卅日条)。今更ではあるが、宗盛は追討使による頼朝党の壊滅は無理であり、別の方法による鎮撫を図っていたことがわかる。

 このような中、京都に「頼朝必定已企上洛」という報が届いた(『玉葉』治承五年十月廿七日条)。すでに10月21日には尾張国保野宿に到達しているといい、「竹園(以仁王)「上総国住人広常称介八郎が守護し、相模国に留め置いているという報告ももたらされた(『玉葉』治承五年十月廿七日条)。源三位の乱では以仁王や源仲綱の首級が確認できず、彼らの生存は京都では実しやかに伝えられており、宗盛も「故頼政法師郎等弥太郎盛兼」や以仁王の側近であった「前少納言宗綱入道」を捕らえて以仁王の所在を尋問するほどであった(『吉記』養和元年九月廿一日条)。盛兼は「於前按察(源資賢入道)侍家」で襲撃を受けて自害、「前少納言宗綱入道」も「資賢卿之許」で逮捕された。いずれも源資賢入道と関わっているが、彼は後白河院の最側近であり、「前少納言宗綱入道」は「資賢卿聟」という関係にあった。頼政入道と以仁王の乱の背景に後白河院の「関わり」があったことは明白であろう。なお、余談だが後白河院と以仁王との関わりは公然の秘であったようで、のちに九条兼実は延暦寺円融房において、後白河院に「余奉問両条之不審、…、一者、三條宮存否事」と直聞している。結局後白河院は以仁王の存否については知らなかったようで、「両事共不知真偽、但風聞之旨、共以不実歟」(『玉葉』寿永二年七月廿六日条)と応えている。頼朝は東国支配の根拠を最勝親王(以仁王)の「親王宣旨」に置いて勢力を拡大しており、平家政権は自ら追討した以仁王の「幻影」によって追い詰められる事態となっていたのであった。

 こうした平家政権の弱体化とは対照的に、法皇は「治承三年十一月政変」で故清盛入道に解官された院近臣の復権を謀っており、養和2(1182)年3月8日の除目で、藤原兼雅が権大納言へ、高階経泰が大蔵卿へそれぞれ還任し、「権大納言兼雅卿、権中納言実守卿、参議不被任、定能卿中将、光能卿右兵衛督、泰経朝臣大蔵卿等、皆以還任了、凡去治承三年解官人々、去冬今春除目、過半還補了歟」(『玉葉』養和二年三月八日条)と、院政体制の復活が着実に進められていた。宗盛はこの人事に困惑と怒りを覚えたとみられ、法皇に意見を奏上したようである。これに対して3月12日、法皇は近臣平親宗(宗盛には義叔父)を宗盛邸へ派遣したが、宗盛は親宗に会わず、人を介して「天下之乱、君之御政不当等、偏汝所為也」と親宗をなじり、故清盛入道が遺恨を伝えたときは院は直に報答したにも関わらず、宗盛に対しては「存尋常、万事如不存如不知、仍於事損面目、頗所恨申」と強く批判している(『玉葉』養和二年三月十二日条)。兼実は院使が宗盛邸に行った理由を「不知何事」と嘯いているが、治承三年解官の院近臣の巨魁を還任させた直後の批判であり、この除目に対する批判以外には考えられないだろう。

 ただし、右府兼実は院を積極的に推してはおらず、東国追討には否定も肯定もしない立場であった。寿永元(1182)年7月13日、宗盛から大嘗会の年における追討は憚りがあるかどうかの問い合わせについては、「被罷征伐、可謂正道、但若可及大事者、又非此限者」と返答をしている(『玉葉』寿永元年七月十三日条)。この大嘗会に合わせ、8月14日、朝廷は後白河院の第一皇女・前斎宮亮子内親王を二条天皇皇后藤原多子の例に倣って立后し、安徳天皇の准母となった。これは以前から生母の建礼門院徳子の推挙により准母となっていた藤原通子(近衞基通妹)を廃し、亮子内親王を准母と定めたもので、天皇と平家の関わりを断たせるものであった。さらに亮子内親王は以仁王の同母姉であり、またその皇后宮職は亮子内親王の肉親や院近臣で固められた後白河院の意向が反映された人選となっている。

皇后宮(亮子内親王)職

大夫  正二位 藤原実房 亮子内親王又従兄弟。
権大夫 正三位 藤原実守 亮子内親王又従兄弟。
正四位下 高階泰経 院近臣。
権亮 正五位下 藤原公衡 亮子内親王又従兄弟。
大進 正五位下 藤原親雅  
権大進 正五位下 藤原定経 院近臣。治承三年政変で解官。
権大進 従五位下 藤原長経  
少進 従五位下 藤原家実  
権少進 正六位上 藤原光茂  
大属 従五位下 大江景宗 院近臣。後白河院庁主典代。
少属 正六位上 中原元康  
権少属 正六位上 中原清重 院近臣。

 藤原公実―+―藤原季成―――藤原成子   +―亮子内親王
(権大納言)|(権大納言)  ∥      |(皇后宮)
      |        ∥      |
      +―藤原璋子   ∥――――――+―以仁王
      |(待賢門院)  ∥       (高倉宮)
      | ∥      ∥
      | ∥――――――後白河法皇
      | ∥      ∥
      | 鳥羽法皇   ∥――――――――二条院
      |        ∥        ∥
      +―藤原公子   ∥        ∥
      | ∥――――+―藤原懿子   +―藤原多子
      | ∥    |        |(大宮)
      | ∥    |        |
      | ∥    |        |【権大夫】
      | 藤原経実 +―藤原経宗   +―藤原実守
      |(大納言)  (左大臣)   |(権中納言) 
      |               |
      |               |【権亮】
      +―藤原実能―――藤原公能―――+―藤原公衡
      |(左大臣)  (右大臣)    (右近衞権少将)
      |
      |                【大夫】
      +―藤原実行―――藤原公教―――――藤原実房
       (太政大臣) (内大臣)    (左大臣)
                        ∥
 藤原師実―――藤原経実―――藤原経宗―――――女子
(関白)   (大納言)  (左大臣)
        ∥
      +―女子
      |
      |【大進】
 藤原親隆―+―藤原親雅
(参議)   (参議)

 ただ、院や朝廷にとっては平家のもつ軍事力のみが「賊」と対峙しうる唯一の軍事力であり、後白河院は院政という枠組みの中で、宗盛を政権の実務首班とし、各地で同時多発的に起こっている兵乱に対応する必要があると感じていたのではなかろうか。そのほか院は宗盛について、実務官を長く務めてきた経歴を評価していたと考えられ、寿永元(1181)年6月28日に摂政基通が辞して以降、闕となっていた内大臣に宗盛を当てることを決定する。内大臣は故清盛入道も任官した官であり、事実上の宗盛首班体制を確立させ、諸方に対応させることが目的であったのだろう。

 ところが、当時の宗盛は散位であり、院は8月23日、まず宗盛を権大納言へ還任させる臨時除目を行うことを内々に命じ(『玉葉』寿永元年八月廿三日条)、9月4日、「前大納言兼右大将平宗盛」を権大納言へ任じた(『玉葉』『吉記』寿永元年九月四日条)。この宗盛を内大臣とすることを前提とした人事について、9月27日、大外記頼業が九条兼実邸を訪れて「任大臣事、大略ハ彼人滅亡在近之由」(『玉葉』寿永元年九月廿七日条)と述べており、不吉なものという認識があったことがわかる。

 そして10月3日の除目で、権大納言末席の宗盛は「超越上臈五人」(『公卿補任』)とあるように、藤原実定、源定房、藤原実房、藤原実国、藤原宗家の五人の正権大納言を超えて「内大臣」(『玉葉』寿永元年十月三日条)に任じられることとなる。これに留まらず、翌寿永2(1182)年正月21日には従一位へ昇叙され、摂政基通、左大臣経宗、右大臣兼実と並ぶ地位となる。後白河院の強力な引合によるものと考えられるが、2月17日夕方、皇后宮亮子内親王の入内を滞りなく済ませたのち、2月21日に安徳天皇の法住寺殿行幸を行い、六日後の2月27日に内大臣を辞する上表を奉じている。辞した理由は不明である。

 こうした中、兼実は4月13日に「武者郎従等、苅取近畠之間狼藉」と日記に記す(『玉葉』寿永二年四月十三日条)。翌14日にも兼実には同様な報告があったが、実際はここ数日にわたって兼実の耳にはこうした乱暴狼藉が伝わっていたようで、「凡近日天下依此事、上下騒動、人馬雑物、随懸眼路横奪取」(『玉葉』寿永二年四月十三日条)とあり、兼実は宗盛に麾下の狼藉を制圧するよう訴えるも「雖訴前内大臣、不能成敗、雖有制止、更以不拘制法」という状況で、平家の兵士は宗盛の制止すらきかないほど無規律化していたのである。その最大の原因が西日本一帯を猖獗の巷に陥れていた大飢饉であった(『玉葉』寿永二年四月十四日条)。故清盛入道が沙汰していた西国・北陸道の運上物を兵糧米に宛てるという方策も、北陸道の死守に失敗した現状では兵糧米の確保もままならず、兵士等の狼藉を抑えることは叶わなかった。一方で「凶賊」への警戒のため、解兵することもできなかったのである。宗盛は進退窮まった状態にあったのである。この直後から宗盛は以前から出征の留保が続いていた諸所の「征討将軍等」を次々に発向させており、23日には「今日皆了」となった(『玉葉』寿永二年四月廿三日条)。畿内への「凶賊」侵入の阻止ならびに、京都での兵士の狼藉を防ぐための宗盛の緊急の策であったのだろう。追討使が出征したのちの25日、左大臣経宗からの令によって左中弁兼光が認めた「源頼朝同信義等」追討令が宗盛へ下されており(『玉葉』寿永二年四月廿五日条)、急遽練られたものであったことが伺われる。

 なお、軍記物『源平盛衰記』の記述ではあるが、寿永2(1183)年の「三月の比より、兵衛佐と木曾冠者と中悪き事出来れり」という。これは「甲斐源氏武田太郎信義が子に五郎信光が讒言」によるものであったという。信光が愛娘と木曽義仲の嫡子「清水冠者」との婚姻を希望したところ、義仲に「娘持給たらば被進よ、清水冠者に宮仕はせん、妻までの事は不思寄」と虚仮にされたことで遺恨を含み、頼朝に「木曾義仲、去々年越後の城太郎資永を打落てより以来、北陸道を打領じて、其勢雲霞の如し、今平家誅戮のために上洛の由披露あり、実には小松大臣の女子の十八に成給を、伯父宗盛養子にして木曾を聟にとらんと、忍々に文ども通ずと承る、角して平家と一に成て、当家を亡さんと云梟悪の企あり、不知召もや」と内々に告げたという(『源平盛衰記』)。頼朝は叔父行家が頼朝を見限って義仲のもとへ赴いたことを知っており、さらに義仲が平家と姻戚となれば由々しいことであるとして、頼朝みずから「上野と信濃との境なる臼井坂」に進発したという。これを聞いた義仲は、今井兼平、樋口兼光を呼んで「此事如何が有べき」と問うと、彼らは「今は別の子細侍まじ、富部太井に城構して支戦はんに、なじかは軍に負べき、はやはや兵を汰へ給へ」という。義仲は暫し思案し、「平家追討の大事を閣て、兵衛佐と軍するならば、一門の滅亡、他人の嘲哢最恥」(『源平盛衰記』)とし、越後国へ引退する。頼朝は鎌倉へ帰還するが、「天野藤内民部遠景、岡崎四郎義真」の両名に雑色の「安達新三郎清経」を越後国の義仲のもとに派遣して行家を放逐することを要求。できないのであれば「志水殿を是へ渡し給へ、父子之儀をなし奉るべし、両条之内一も承引なくんば、兵を指遣して誅し奉るべし」と通告したという。この結果、義仲は清水冠者を呼び「己をば兵衛佐の子にせんと宣へば遣す也、相構て悪れずして、一方の固め共なれ」と告げ、さらに岡崎義実と面会して饗応しつつ「十郎蔵人に意趣御座ましけん事は不存知、又呼越たる事もなし、打憑見え来給たれば、只自然の情を存る計に候、誠に平家追討の大事を閣て、何の遺恨ありてか謀叛の企あるべき、人の讒言に侍か、信用に及べからず、又清水冠者事は未東西不覚の者候、仰を蒙て進せねば所存を籠たるに似たり、召に随て是を進す、不便にこそ思召れめ、義仲角て候へば、一方の固めには憑思召べし」(『源平盛衰記』)と言い、清水冠者義高を岡崎義実、天野遠景の両使へと預け、両使は畏まってこれを鎌倉へ相具したという。義高の供には同い年の「宇野太郎行氏(海野太郎幸氏)」が付けられたという(『源平盛衰記』)

 4月26日、平家率いる「官軍攻入越前国」という(『玉葉』寿永二年五月一日条)。さらに5月3日には「官軍攻入加賀国合戦、両方多死傷之者」という激戦が行われた(『玉葉』寿永二年五月十二日条)。加賀国の合戦で大勝を収めた官軍は、5月11日には「官軍前鋒乗勝入越中国」(『玉葉』寿永二年五月十六日条)と、勝ちに乗じて越中国へとなだれ込んだ。ところが、ここで「木曾冠者義仲、十郎蔵人行家、及他源氏等迎戦、官軍敗績、過半死了」(『玉葉』寿永二年五月十六日条)という大敗を喫する。北陸での官軍の苦戦の報が重なるや、6月3日、院は追討の祈祷のために大神宮を含めた大社十社に奉幣使を派遣。「関東北陸」の「凶賊」追討を祈った(『吉記』寿永二年六月三日条)

 しかし、その祈りも空しく、翌6月4日明方、「北陸官軍、悉以敗績」の飛脚が到来する(『玉葉』寿永二年六月四日条)「官兵之妻子等、悲泣無極」であった。そして翌5日、兼実が「前飛騨守有安」から官軍敗走の子細を聞いている。それによれば「四万之勢、帯甲冑之武士、僅四五騎許、其外、過半死傷、其残皆悉棄物具、交山林、大略争其鋒甲兵等、併以被討伐了云々、盛俊、景家、忠経等、已上三人、彼家第一之勇士也、各小帷ニ前ヲ結テ、本鳥ヲ引クタシテ逃去、希有雖存命、不伴従僕一人」(『玉葉』寿永二年六月五日条)という、散々たるものであった。そして6月6日、連日の雨にぬかるみ、飢饉で死屍と死臭の溢れる初夏の熱気の中「敗軍等今日多入洛」し、京都は混沌とした世界が広がっていたであろう。宮中ではこの状況を打開するために議定が行われているが、もはや重ねての追討は不可能であるとし、院も宗盛も入洛を目指す「凶賊」を防ぐ現実的な術を失い、ただひたすら神仏にすがるほかなかったのである(『玉葉』寿永二年六月六日条)

 6月12日、朝廷は近江守護の兵士を徴発・派遣し、宗盛も主だった家人を派遣し、肥後守貞能も数万の兵を率いて近江国都賀へと付くが(『吉記』寿永二年六月十二日条)、翌13日には「源氏等已打入江州」と近江国に侵入してきた一団があったようで、筑後前司重貞は敗れて「単騎迯上」だったという(『吉記』寿永二年六月十三日条)。6月18日には「肥後守貞能」が残兵わずか千余騎で入洛し、「洛中之人頗失色」(『吉記』寿永二年六月十八日条)だったという。7月1日には「賊徒今日可入洛」という風聞が流れており、院は兼実のもとに右大弁親宗を派遣して、賊徒の京中乱入となった際の安徳天皇の法住寺殿行幸と剣璽および賢所の先例のない京外移転(法住寺殿は京外に存在する)について問い合わせている(『玉葉』寿永二年七月ニ日条)。また、兼実の伝聞ではあるが、「頼朝忽不可出、只木曾冠者、十郎等分手於四方、可寄之由」であったという。木曾義仲と十郎行家は頼朝の麾下にあると認識されていたことがわかる(『玉葉』寿永二年七月ニ日条)。また「日来入江州源氏ハ末々者」であり、「木曾冠者已入了」(『吉記』寿永二年六月廿九日条)という風聞があった。そして、木曾勢らは「待関東之勢、九十月比可入洛」(『玉葉』寿永二年七月三日条)と巷間で騒がれていたようである。

 そして7月14日には「源氏称十郎蔵人行家者、已入伊賀国」と、伊賀国へと侵攻し、「家継法師号平田入道貞能兄」と合戦に及び、「号三河冠者源氏」も大和国へと侵攻したという(『吉記』寿永二年七月十六日条)。さらに行家は宇陀郡に駐屯して吉野大衆らと結んだという(『玉葉』寿永二年七月廿二日条)。一方、薩摩守忠度は丹波追討使として丹波国へ百騎程度を率いて発向しているが(『吉記』寿永二年七月十六日条)、当然のことながら百騎ばかりでは寡少に過ぎ、戦いにならずに大江山に駐屯したという(『玉葉』寿永二年七月廿二日条)

 また、7月21日の猛暑の最中、三位中将資盛を大将軍とした追討使が宇治田原を経て近江へと発向した。追討軍には資盛舎弟の備中守師盛、筑前守定俊、肥後守貞能らが加わっている。公称は三千余騎であったようだが(『吉記』寿永二年七月廿一日条)、その勢は密かに見物した兼実の家僕が数えたところ、実数で千八十騎と少なく、兼実は追討は「有名無実之風聞、以之可察歟」と手厳しく感想を述べている(『玉葉』寿永二年七月廿一日条)。追討使の人々はいずれも小松家に属する人々であることから、資盛に付属する軍勢のみでの出兵であったのだろう。なお、この行列には「法皇密々有御見物」と、資盛を鍾愛する後白河院がその門出を見送っている(『吉記』寿永二年七月廿一日条)。実は後日資盛らの追討使は「資盛卿者、給宣旨人也、自院可被召遣、至于自余輩者、私遣了、直可召返之由、前内府被申」(『吉記』寿永二年七月廿四日条)とあり、宗盛が派遣した追討使ではなく、後白河院が派遣を命じたものであったことがわかる。故清盛入道ですら統御し得なかった一門の独立性向を子世代の宗盛が統制できるはずもなく、宗盛は一門を統率する力を失っていたのである。

 資盛らは伊賀から大和に進んだ十郎蔵人行家に備えるため、近江進軍を中止して宇治田原に駐屯した(『玉葉』寿永二年七月廿二日条)。院はこの夜、急ぎ法住寺殿へと移っているが、これは翌22日に安徳天皇を御所から迎え取るための臨幸であった(『玉葉』寿永二年七月廿一日条)。ところが翌22日、天皇の法住寺殿行幸が「復日」の理由から25日まで延引となる(『玉葉』寿永二年七月廿ニ日条)

比叡山遠景
近江国から見る比叡山

 この頃、近江国の武士等はすでに六波羅辺に現れていたという。さらに比叡山には武士等が登っていて、講堂前に集まっていたという。日頃は比叡山の僧房に留まっていた僧綱等は、東塔無動寺の慈円法印含めて、みな山を下り、天台座主明雲のみが比叡山に留まったという(『玉葉』寿永二年七月廿二日条)。木曾勢は近江から比叡山や龍華越、三井寺などを経由した入京ルートを利用していたのかもしれない。また、日ごろは平家に属していた多田源氏の惣領・多田蔵人大夫行綱も摂津・河内両国の人々を麾下とし(『玉葉』寿永二年七月廿二日条)、小掠池から淀川への河尻では、多田行綱の下知を受けた太田太郎頼助が鎮西からの兵糧米を強奪、舟や人家を破壊するといった狼藉を働いて平家に背いた(『吉記』寿永二年七月廿四日条)。もはや畿内における平家の威信は完全に失墜していたのである。「六波羅之辺、歎息之外無他事」であったという(『玉葉』寿永二年七月廿三日条)

 比叡山の近江武士らは延暦寺内に駐屯を続けており、23日早朝には座主明雲が比叡山から下山して参院。戦いになれば「天台仏法令破滅歟」として和平を院奏している(『吉記』寿永二年七月廿三日条)。一方、洛中では延暦寺に籠もる近江武士らが24日に京洛へ夜討ちをかけるという風聞が立ち、九条兼実は暴風雨と雷雨の中、九条邸から鴨川を渡り、東の法性寺へと避難をしている(『玉葉』寿永二年七月廿四日条)。平家の軍事力はすでに払底し、守護者のいない京都は前例のない混乱の極みにあったことがうかがえる。

10,平家都落ち

 寿永2(1183)年7月25日、「法皇御逐電」(『玉葉』寿永二年七月廿五日条)の一報が兼実のもとに届く。未明に「法皇出御法住寺殿、不知何方逐電令密幸給」(『吉記』寿永二年七月廿五日条)ったものだった。実は24日夜、後白河院は「若及火急者、何様可令存知御乎、臨期定令周章歟、可被申其子細」と、今後の危急の際の対応について書面で宗盛を問い質していた。これに対して宗盛は「無左右参入可候御所者、奉具法皇主上、無左右可逃退海西」と返答した(『吉記』寿永二年七月廿五日条)。これを聞いた後白河院は京洛からの退避を厭い、法住寺殿から逐電したのである。実は院は20日頃には宗盛と重衡らによる「奉具法皇、可赴海西」という密議を聞いた摂政基通から「女房故邦綱卿愛物、白川殿女房冷泉局」を通じて知らされており、22日の急な院の法住寺殿臨幸と翌日に予定されていた安徳天皇の院御所行幸は、これを警戒したものであったのだろう。

 院は北面等わずかな供回りとともに鞍馬路を経て比叡山横川へ入り、その後東塔の円融房に入ったという(『吉記』寿永二年七月廿五日条)。この「院密幸」は数時間後には宗盛に報告されているが、もはや宗盛は院を追うことをせず、ただちに左中将清経を閑院御所に遣わして「行幸早可成之由」を摂政基通へ告げている。公卿等は反対するが「不及是非、可為御車」と強要され、ついに安徳天皇は閑院御所を離れ(『吉記』寿永二年七月廿五日条)「六波羅ヘ行幸」(『愚管抄』)した。六波羅には在京の「一家ノ者ドモ集」まっていたが、宗盛は近江武士の山科経由での侵攻を抑えるため、「山科ガタメニ大納言頼盛」の派遣を指示したという(『愚管抄』)。頼盛入道は「ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル由、故入道殿ニ申テキ、遷都ノ比奏聞シ候キ、今ハ如此事ニハ不可供奉」(『愚管抄』)と再三固辞するが、宗盛はこれを聞かずに強請。やむなく頼盛入道は山科へ向ったという。その後、宗盛らは安徳天皇と神器を奉じて「鳥羽ノ方ヘ落テ船ニ乗リ四国ノ方ヘ向ヒケリ、六波羅ノ家ニ火カケテ焼ケレバ、京中ニ物ドリト名付タル者イデキテ、火ノ中ヘアラソヒ入テ物トリケリ」(『愚管抄』)とあるように、宗盛らは「六波羅、西八條等舎屋不残一所併化灰燼了、一時之間、煙炎満天」(『玉葉』寿永二年七月廿五日条)「六波羅已下家同時放火」(『百錬抄』)と、六波羅と西八條の平家邸街に放火して焼き尽くしたようである。

 なお、この離京に際し、宗盛は「頼盛ガ山科ニアルニモ告ザリケリ」(『愚管抄』)と、山科出兵を命じた頼盛入道を置き去りにしたという(『愚管抄』)。この知らせを聞いた頼盛入道は激怒し、「子ノ兵衛佐為盛ヲ使ニシテ鳥羽ニ追付テイカニ」と宗盛を詰問したという。しかし宗盛は「返事ヲダニモエセズ、心モウセテミエ」るほど動揺していたので、為盛は馳せ帰って頼盛入道に報告。いったんは宗盛一行の下へ向うも、鳥羽から北上して、院御所の法住寺殿へ入った(『愚管抄』)。また、院の覚えめでたい三位中将資盛も鳥羽から法住寺殿に入り、両者は比叡山の院に事の次第を報告する。院は頼盛入道には八条院のもとへ行くよう指示するが、資盛は「申入ル者モナクテ御返事ヲダニ聞カザリケレバ」、やむなく宗盛を追って西へ落ちて行った(『愚管抄』)。藤原経房は「就中件卿故入道相国之時、度々雖有不快事、今度殊造意不聞、只為一族許歟、尤可被寛宥」と頼盛入道を擁護しており、これに「人々皆一同」と理解を示している(『吉記』寿永二年七月廿八日条)

 宗盛は24日の後白河院の質問に対して事実を正直に返答していることから、京中が戦場になった際には、後白河院と安徳天皇、神器を戦場である京洛から西へ逃した上で、改めて「凶賊」と対峙する目的だったのだろう。当然、それは宗盛が法皇・天皇・朝廷の防衛を行う正統な軍事指揮権者だったためであり、あくまでも官軍として「凶賊」との戦いを継続する計画だったのである。ただし、京都はいまだ戦場ではなく「西海」への行幸は最悪の状況で採り得る案だったこともあり、摂政基通をはじめとする公卿たちとのしっかりとした話し合いや根回しはこれからだったのであろう。しかし、京洛への凶賊侵攻が現実味を帯びる中、院から今後「もしも火急の事態が起こった場合」の対応を問われ、場合によっては西遷案もあり得ることを伝えたのではないだろうか。なお、宗盛は返奏ののちも院の脱出を警戒していないところから、法皇が行幸を拒んで逐電するとは微塵も感じていなかったのだろう。ところが、宗盛の予想に反して返奏から数時間後には後白河院は法住寺殿から姿を消す。院の逐電を知って危機感を募らせた宗盛は、「院密幸」が発覚した辰刻から二、三時間後の巳刻には御所から安徳天皇と神器を遷して西海へ発向している。25日に「都落ち」を行うことになったことは、おそらく宗盛にとって計算外であったのではないだろうか。そのことは急遽知らせを受けた平家一門が右往左往する様からもうかがえるのである。そして院という最大の権威者を同道できなかった代償は大きく、平家と行動を共にするであろうとみられていた摂政基通すら屋敷を脱出して比叡山の院のもとへ逃れており、安徳天皇と宗盛に随った一門以外の公卿はほとんど存在しなかったのであった。

比叡山延暦寺
比叡山延暦寺

 平家一門の「都落ち」から一夜明けた7月26日、兼実は延暦寺円融房に御座す法皇への面会のため、比叡山の道を急いでいるが、その途路、山から降る権中納言源雅頼と偶然出くわし、輿を降りて談話しているが、雅頼は「神璽、宝剣、内侍所、賊臣悉奉盗取了、而無左右、可追討平氏之由、被仰下之条、甚不便、先可有剣璽安全之沙汰、仍奏聞此旨有勅許、以親宗、御教書遣多田蔵人大夫行綱之許了、此事猶荒沙汰也、仍内々可被仰遣女院、若時忠卿件卿伴賊之許之由、重以奏聞可然之由有仰」(『玉葉』寿永二年七月廿六日条)という。都落ち翌日にはすでに平家は「賊臣」呼ばわりされ、「可追討平氏之由、被仰下」ていた様子がうかがえるが、神器を平家が保有している状況下にあっては無策に追討を行うのは宜しくなく、雅頼はまず「剣璽安全」を考えるべきと「奏聞」して「勅許」を得、平親宗を使者に「御教書(院宣)」を多田蔵人大夫行綱に遣わして交渉を命じている。西へ下る平家がまず接触するのが多田行綱であることから、彼に白羽の矢が立ったのだろう。

 27日、兼実のもとに「前内大臣已下追討事」の形式について問い合わせがあり、天皇が連れ去られている現状では院宣での対応とすべきことを告げるとともに、早々に「義仲木曾、行家十郎等」に武士の狼藉を停止させた上で入京を急がせ、早いうちに院も仙洞御所へ還御すべきことが望ましいことを述べている(『玉葉』寿永二年七月廿七日条)

 この後、院は下山の日取を確かめるも、いずれも良い日がなく、結局、即日下山と決定され、近江武者の「錦部冠者義経男」や「恵光房阿闍梨珍慶山悪僧、着錦直垂腹巻等、為有識者豈可然哉、万人属目」を護衛として比叡山を下り、法住寺殿に程近い蓮華王院へ入った(『吉記』寿永二年七月廿七日条、『百錬抄』)。『愚管抄』では「廿六日ノツトメテ御下京」とあるが、おそらく慈円の記憶違いであろう。そして、院還御に伴い「近江ニ入タル武田先参リヌ、ツヅキテ又義仲ハ廿六日ニ入ニケリ」(『愚管抄』)となった。なお、このとき入京した源氏混成軍には「武田」が加わっていたことがわかる。「武田」は信濃国での城助職との戦い以来、木曾勢とともに平家と戦っていたと思われ、甲斐源氏は頼朝とは独立した別勢力であったことがここでもわかる。彼らは「六條堀川ナル八條院ノハハキ尼ガ家」に宿所を割り当てられたという(『愚管抄』)

 28日、「上皇、召公卿有議定、前内大臣已下奉具幼主、赴西海之間、神鏡、剣璽已下取畢、何様可有沙汰哉事」(『百錬抄』)が議され、その結果を受けたとみられるが、宗盛に随って西へ下った「時忠卿」へ「早可有還宮」の使者が遣わされている(『吉記』寿永二年七月廿八日条)宗盛は「七月行幸西海之時、自途中可還御之由、院宣到来、備中国下津井御解纜畢」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と述べており、これは『玉葉』に見える7月28日に時忠へ遣わした院使であると考えられる。当時の宗盛一行はすでに備中国まで下っていたが、この院宣を受けて、宗盛は備中国下津井の湊から還都を試みるも「依洛中不穏、不能不日立帰、愁被遂前途候」と考えて上洛を延期し、西へ向かった。

 法皇は時忠へ「還宮」の院宣を下したのち、「義仲行家等自南北義仲北、行家南(『玉葉』寿永二年七月廿八日条)を蓮華王院へ招くと、検非違使別当・藤原実家を通じて「可追討進前内大臣党類」(『吉記』寿永二年七月廿八日条、『百錬抄』)を命じている。義仲、行家両名は跪いてこれを承けたという。このとき兼実は彼らが「参入之間、彼両人相並、敢不前後、争権之意趣以之可知」と、両人が権勢を争う姿を看過していた。退出後、両名は「京中狼藉可停止」が命じられた(『玉葉』寿永二年七月廿八日条)

義仲、行家の風体(『吉記』寿永二年七月廿八日条)

人名 年齢 続柄 装束等
木曾冠者義仲 三十余 故義方(義賢)男 錦直垂、黒革威甲、石打箭、折烏帽子
十郎蔵人行家 四十余 故為義末子 紺直垂、黒糸威甲、宇須部箭、立烏帽子

 また、同7月28日、院は下遣御使於頼朝許、庁官康定下向(『百錬抄』)している。当然ながらこの使者が帯した書状も平家追討に大きく関わる内容と推測され、兼実が「或人」からの伝聞として、頼朝の返答「折紙三箇条」の中に今当伐君御敵之任、二日後に現物を実見して今討朝敵と記していることから、義仲・行家と同様に「可追討進前内大臣党類」を命じた院宣であった可能性が高いだろう。

 翌7月29日には、「上総介忠清、検非違使貞頼等出家、忠清在能盛許、貞頼在兼豪法印許」(『吉記』寿永二年七月廿九日条)にあるという風聞が伝わっている。そして夜には祇園から五条坊門以南が焼け、六波羅蜜寺も焼失。さらに故平正盛の常光院も燃亡してしまったという(『百錬抄』)

 翌7月30日には、「可被行賞事頼朝、行家、義仲、関東北陸庄園可被遣使事、京中狼藉可被制止事等」(『吉記』寿永二年七月卅日条、『百錬抄』)が定められた。吉田経房は議定に加わっていないため「委不聞之」であったが、当事者の右大臣兼実がその議定を克明に記している。

 翌7月30日早旦、院司高階泰経が兼実家司の源季長のもとに書を送り、「於院可被議定大事」のため、巳刻に参院すべきことが指示され(『玉葉』寿永二年七月卅日条)、兼実は午一點に蓮華王院(現在の三十三間堂)に参じた。列した公卿は左大臣経宗、大納言実房、権大納言忠親、権中納言長方で「堂南廊東面座」して着した。ここに院は頭左中弁兼光を通じて左大臣経宗に「條々事可計申者其事三ヶ條を命じた。その内容は、

  内容 議定の人々の意見
仰云、今度義兵、造意雖在頼朝、当時成功事、義仲、行家也、且欲行賞者、頼朝之鬱難測、欲待彼上洛、又両人愁賞之晩歟、両ヶ之間、叡慮難決、兼又三人勧賞可有等差歟、其間子細可計申者 人々「不可被待頼朝参洛期、加彼賞、三人同時可被行、頼朝賞、若背雅意者、随申請改易、有何難哉、於其等級者、且依勲功之優劣、且随本官之高下、可被計行歟、惣論之、第一頼朝、第二義仲、第三行家也」
仰云、京中狼藉、士卒巨万之所致也、各可滅其勢之由、可被仰下之處、不慮之難、非無所恐、為之如何、兼又縦雖非滅人数、無兵粮者、狼藉不可絶、其用途又如何、同可令計奏者 於今者余党之恐、定不及成群歟、被減士卒人数、可謂上計、兵粮事、頗有異議
忠親、長方「各賜一ヶ国、可充其用途」
兼実「勧賞任国之外、更賜国之條、如何」
忠親、長方「其用訖者、被任他人、有何難」
兼実「理可然、但彼等定含収公之恨歟、只没官地之中、択可然之所、可充給歟、不然又以一ヶ国可分賜両人歟、但此條頗為喧嘩之基歟、猶賜没官之所可宜」
経宗「両方之儀各可然、可在勅定、頗被同余議歟
仰曰、神社仏寺及甲乙所領、多在関東北陸、於今者各遣其使、可致沙汰之由、可被仰本所歟 一同「不可有異議、早可被仰者」

 というものであった。まず、平家の洛中放逐に関する行賞については、「賊臣」平家を追いやり院を救った「義兵」であるが、挙兵したきっかけを作った頼朝を重んじるべきか、実際に平家一門を追った義仲、行家を行賞すべきかで議場は紛糾する。いずれも一長一短があり、なかなか決しなかったが、結局は「第一頼朝、第二義仲、第三行家也」と決する(『玉葉』寿永二年七月卅日条)

人名 授与官途 備考
第一 頼朝 京官・任国・加給 左大臣経宗 「於京官者、参洛之時可任」
右大臣兼実 「不可然、同時可任」
権中納言長方「(兼実)同之」
第二 義仲 任国・敍爵 但以国之勝劣任之、尊卑可差別
大納言実房 「義仲従上、行家従下宜歟」
第三 行家 任国・敍爵

 第二議案は、京中の狼藉を停止させるための方策であった(『玉葉』寿永二年七月卅日条)。これについては、兵士の養いのために義仲・行家に彼らの任国とは別に各々に一国を一時的に供与する案が権大納言忠親、権中納言長方から出されている。これに対して兼実は義仲・行家に賜う国のほかに各一国を遣わすというのはいかがなものかと反対するが、忠親らはこの用が終われば解任して他の者を任ずればよいと述べる。この現実を見ない意見に兼実は、確かにそうではあるが、彼らは国を収公されたと恨むであろう。平家没官領を充てるか一ヶ国を両名に賜うか。ただこれは喧嘩のもとであろうからやはり没官領を充てるべきだろう、という案が議されている。

 第三議案は、平家が国司となるなど影響力が強かった関東や北陸から平家与党の勢力が減退したため、寺社を本所とする所領へ各々が使者を遣わして本来の沙汰をすべきことであった(『玉葉』寿永二年七月卅日条)。これは同年10月14日に下される宣旨(寿永二年十月十四日宣旨)と深く関係する議案となる。

 列する人々の申状を取り集めた頭弁兼光は、議奏のため御所へと戻っていった。その後、数刻後に蓮華王院に戻ってきた兼光から「各議奏之趣、皆以可然、早此定可被行者、於今者、各可有御退出者」と議奏の報告を受け、兼実以下の列議の公卿衆は退出した。なお「京中追捕物取」が行われて各地で合戦も起こったという。また、同30日、院宣によって義仲が京中守護の責任者とされ、諸氏の割り当てがなされている。

京中守護(『吉記』寿永二年七月三十日条)

守護 人物 氏族等
京中守護 義仲  
大内裏~替川(天神川) 源三位入道子息(大内頼兼か) 摂津源氏
一条大路より北
朱雀大路より西(梅宮まで)
高田四郎重家(高田三郎重宗か)
泉次郎重忠
尾張源氏
一条大路より北
東洞院大路より西(梅宮まで)
出羽判官光長 美濃源氏
一条大路より北
東洞院大路より東(会坂まで)
保田三郎義定(安田三郎義定) 甲斐源氏
五条大路より北
河原より東(近江境まで)
村上太郎信国 信濃源氏
七条大路より北、五条大路より南
河原より東(近江境まで)
葦敷太郎重隆 尾張源氏
七条大路より南
河原より東(大和境まで)
十郎蔵人行家 義仲叔父
四条大路より南、九条大路より北
朱雀大路より西(丹波境まで)
山本兵衛尉義経 近江源氏
二条大路より南、四条大路より北
朱雀大路より西(丹波境まで)
甲斐入道成覚 山本義経兄・柏木義兼入道
鳥羽四至内 仁科次郎盛家 信濃平氏
九重内
その他所々
義仲  

 8月2日には、隠退していた「入道関白(松殿基房)が院御所北対に参じ、摂政基通を停止して、自身の子「前中納言師家生年十二歳」を「可為摂簶之由注所望」した。摂政基通はもとより法皇の「御愛物」であり、当然ながら法皇はこの申し出を拒絶している(『玉葉』寿永二年八月二日条)

 ただ、入道関白からの申出を受けて、法皇は師家を拒否した対案として「存右府当任之由」を基房入道に告げたという(『玉葉』寿永三年二月十一日条)。基房入道は「摂簶若入右府之家者、永可留彼家、不可雪我恥、仍不可被改本人、且依此申状無動揺」と基通留任を承諾したという。基房と兼実は政治的には激しい対立関係にあったが、個人的には兄基房が弟基実へ有職故実を手ずから教え諭し、基実もその学識には敬意を以て接するという複雑な関係にあった。それだけに基実の能力を知り抜いていた基房が、愚鈍な甥・基通の摂政留任のほうがましであると思ったのは妥当であろう。

 8月17日には、兼実の世評の高さを警戒するあまり、入道関白基房は院参して「経東宮傅之人、不在摂簶」という(『玉葉』寿永二年八月十七日条)。さらに9月6日にも家司少将顕家を備前守行家のもとへ遣わし「先於摂簶職者、非家嫡者、雖及二男、未有及三男之例、而下官当仁之由、世間謳歌太不当也云々、又被奏院之旨同然」という。いずれも兼実は基房がこのようなことを言うのは「不信受」だが事実と聞いて「奇」とする。いずれも先例に最も明るいはずの基房が言うこととは思えない、という皮肉である。「凡天子之位、摂簶之運、全非人力之所及、結構之体、事似軽々加之」という前提のもと、「不及三男之由如何、貞信公、大入道殿、御堂、此三代之例棄置歟」と、忠平(四男)、兼家(三男)、道長(四男)の三代の例はどう説明するのかと批判している。また、法皇に対しても「法皇不弁黒白、源氏不知是非、只以一言之狂惑、欲惣之巨務、謀計之至、冥罰定速歟、可指弾」と痛烈に批判する(『玉葉』寿永二年九月六日条)。ただし、「乱世之執柄非所好」と、この乱世での摂政の任は好まざる所であるとしている。

 『玉葉』から兼実の本意は汲み取ることは大変難しいが、兼実自身が摂政の地位を欲していることは確かである。ただし、政治的な情勢がまったく見通せない中での執政は拒否する考えのようである。そこにおいて、外部からの余計な詮索や推測があると、現在の状況においては摂政就任は本意ではないので、否定的な反応を示すのであろう。安定した状況になることを望み、そこにおいて摂政に就任することが最大の目的であるから、安定した世情を阻害する人々に対しては徹底的な嫌悪感を示す。それは身分の上下にかかわらず、政治的に無能な治天・後白河法皇に対しても強烈に批判し、その君側で院の意向を示す近臣たちを「小人」として蔑むのである。

 基房入道はその後、頼朝に使者を送り「摂政可推挙之由」を指示しているが、頼朝は「答不能口入之由」として、政治介入を避けた(『玉葉』寿永三年二月十一日条)。頼朝は諸所の伝聞から兼実を推しており、京都の人事事情を熟知していたからこその対応であろう。子息を摂政とする企てを拒絶された基房入道は法皇に「然者、一所庄々、少々可分賜」と摂関家領からの分領を申し出たが、これも法皇は「摂政氏長者無改易者、何及所領之違乱哉」(『玉葉』寿永三年二月十一日条)として拒否するが、基房入道はこの院の言質を後々利用することになる。

 そして8月6日、天皇不在という危機的状況の中、院は「立王事」について「先可奉待主上還御哉、将又且雖無剣璽、可奉立新主哉」を占わせたところ、結果は半々であった。兼実は「先京華狼藉于今不止、是人主不御座令然也」、「被急征討之處、平氏等奉具主上、及三神、已赴海西、不立主有征伐、於議有妨」、そして剣璽なき「践祚」については、継体天皇の「即被移皇居、其後得剣璽即位」の例を挙げ、践祚後に剣璽を得て「即位」すれば問題はなく、新たな天皇を「践祚」させることを推した。「凡天子之位、一日不可曠、政務悉乱云々、于今遅々之条、万事違乱之源也、早速可有沙汰、不可有異議」と主張し、左大臣経宗もこれに同意する(『玉葉』寿永二年八月六日条)。そして、同日、平家一門は解官された。その数「解官二百余人」(『玉葉』寿永二年八月九日条)とされるが、「時忠卿不入其中、是被申可有還御之由之故也」と、時忠は解官の対象外とされている。去月28日に時忠に安徳天皇と神器の還御を指示していたためである。

 8月11日、義仲と行家に対する除目が行われたが、行家はこの除目内容を「是与義仲賞懸隔」だと「称非厚賞」「忿怒」して閉門辞退している(『玉葉』寿永二年八月十二日条。都は「上御沙汰違乱之上、源氏等悪行不止、天下忽欲滅亡」(『玉葉』寿永二年八月十日条)とあり、義仲とともに京中に入った人々による狼藉があとを絶たなかった様子がうかがえる。

寿永二年八月十一日除目(『玉葉』寿永二年八月十一日条)

人物 官位 京官 外官
源義仲 従五位下 左馬頭 越後守
源行家 従五位下   備後守(辞退)

 また、夜には時忠の返書が院に奏上されているが、「京中落居之後、可有還幸剣璽已下宝物等事、可被仰前内府歟」というゼロ回答であった。これは兼実も「事躰頗似有嘲弄之気」と怒りをにじませている(『玉葉』寿永二年八月十二日条)

 天皇の還御が見通せず、政務の停滞が顕著となる中、剣璽もないままに先例を勘考しながら、次の天皇の践祚を進めていた院は、その候補を「高倉院宮二人」に絞っていた。ひとりは「義範女腹五歳」、もう一人は「信隆卿女腹四歳」で、いずれも後白河院の孫にあたる。なお「義範」は摂関家家司平範家(『兵範記』著者)の次男で、娘・少将局範子が高倉院掌侍となり三宮(のち惟明親王)を生んでいた。ところが、ここに「以外大事出来了」という事態が起こる。義仲が大蔵卿高階泰経のもとを訪問し、「故三條宮御息宮在北陸、義兵之勲功在彼宮御力、仍於立王事者、不可有異議」と主張したのである(『玉葉』寿永二年八月十四日条)。泰経は「高倉院宮両人御坐、乍置其王胤、強被求孫王之条、神慮難測、此条猶不可然歟」と拒否するが、義仲は「於如此之大事者、源氏等雖不及執申、粗案事之理、法皇御隠居之刻、高倉院恐権臣、如無成敗、三條宮依至孝亡其身、争不思食忘其孝哉、猶此事難散其欝、但此上事在勅定」と主張し、泰経は兼実に「此事如何可計奏者」とすがっている。兼実は「於他朝議者、不顧事之許否、毎有諮詢述愚款、至王者之沙汰者、非人臣之最」として返答せず、御占を行うことを勧めつつも「只以叡念之所欲、可令存天運之令然之由御歟」(『玉葉』寿永二年八月十四日条)と述べている。

 8月16日、院御所で除目が行われ、義仲は伊予守に、行家は備前守に遷っている(『百錬抄』)

寿永二年八月十六日除目(『百錬抄』)

人物 官位 京官 外官
源義仲 従五位下(ママ) 左馬頭(ママ) 伊予守
源行家 従五位下(ママ)   備前守

 8月18日、雨の降り続く中、議定で弟宮(四宮)が次の天皇に立てられることとなった。はじめに三宮、四宮の高倉院両宮で御占が行われ、いずれの陰陽師も「以兄宮為吉」という結果となった。ところが、その後、「御愛物遊君今ハ号六條殿」女房丹波の夢で「弟宮四位信隆卿外孫也、有行幸、持松枝行之由見之」を聞いた院が「仍乖卜筮」て「立四宮」という、政治的な考えとはまったく異なる理由で四宮を立王することを決定してしまった(『玉葉』寿永二年八月十八日条)。院は松殿基房入道、摂政基通、左大臣経宗、右大臣兼実(病で不参)を召してその意見を聴くが、いずれも「北陸宮一切不可然」という結論であった。ただし、理由もなく北陸宮を拒否すれば「武士之所申不可不恐」であり、再度御占に委ね、「第一四宮、第二三宮、第三北陸宮」という結果となる(『玉葉』寿永二年八月十八日条)。当然ながら院の意向が最大限反映された結果であるが、とくに「第三始終不快」となり、院は義仲と親しい僧正俊堯を派遣して義仲へ伝達したのであった。

 結果を知らされた義仲は「先以北陸宮可被立第一之處、被立第三無謂、凡今度大功、彼北陸宮御力也、争黙止哉、猶申合郎従有私事歟」と「大忿怨申」したという(『玉葉』寿永二年八月十八日、十九日条)。義仲に対して批判的な兼実もこのときばかりは、立王に際する乱暴な決定方法については相当に怒りを感じていたようで、「小人之政、万事不一決」と強く批判している。

 同日、四宮の名字勘問が為され、式部大輔俊経卿の撰により「永仁」「尊成」の二案が奏上され、最終的には明主であった後三条院の「尊仁」村上天皇の「成明」のそれぞれの御諱をもつ「尊成」が採用されることとなった。そして翌8月20日、四宮尊成は四歳で「立皇」された。のち様々な方面に天賦の才を示した後鳥羽天皇である。新帝は院御所で御着袴を済ませたのち閑院御所に移り、蔵人頭には左中将隆房、左中弁兼光が就き、蔵人は左衛門権佐親雅、右衛門権佐定長、宮内少輔親経が就任した。いずれも先帝安徳代と同じ人物である。そのほか、六位蔵人には行家の子・源家光が末席に連なった(『玉葉』寿永二年八月廿日条)。なおこれはあくまで「践祚」であって「即位」ではない。即位には神器の継承が必須であり、それには平家が持ち去った神器の還御が求められたのであった。

 しかし、新天皇践祚があったものの、養和から続く激しい飢饉と戦乱の影響で世情の状況は悪化の一途をたどっており、西の平家や義仲、東の頼朝らによる諸道不通の状況により、庄公の運上物もまったく京都に届かない状況にあった。兼実はこれを「四方皆塞」(『玉葉』寿永二年九月三日条)と表現している。

『玉葉』寿永二年九月三日条

凡近日之天下、武士之外無一日存命計略、仍上下多逃去片山田舎等云々、四方皆塞四国及山陽道安芸以西、鎮西等平氏征討以前、不能通達、北陸山陰両道義仲押領、院分已下宰吏一切不能吏務、東山東海両道頼朝上洛以前、又不能進退云々畿内近辺之人領、併被苅取了、段歩不残、又京中片山及神社仏寺人屋在家悉以追捕、其外適所遂不慮之前途之庄(公)之運上物、不輸多少、不嫌貴賤、皆以奪取了、此難及市辺、昨日失売買之便云々、天何棄無罪之衆生哉、可悲々々

 こうした状況を、兼実は「如此之災難、出自法皇嗜慾之乱世与源氏奢逸之悪行」(『玉葉』寿永二年九月三日条)と、法皇の欲心と源氏の乱行が招いたものと断じた。そして院はこの国難を敢えて見ようとせず、「近日被始大造作云々、院中之上下、歎息之外無他事歟、誠仏法王法滅尽之秋也」と兼実は嘆く(『玉葉』寿永二年九月五日条)

 このような中、京都には「頼朝、去月廿七日出国、已上洛云々、但不信受、義仲偏可立合支度云々、天下今一重暴乱出来歟」と、頼朝上洛の風聞も入っており、不和と噂された義仲との合戦も予想される事態でもあった。ただ、頼朝上洛の風聞は、義仲の追捕を含めた期待を以て見られていた。実際に兼実は「義仲院御領已下併押領、日々陪増、凡緇素貴賎無不拭涙、所憑只頼朝之上洛云々、彼賢愚又暗以難知、只我朝滅亡、其時已至歟」と期待をこめつつも、頼朝が義仲と同類であれば国の滅亡は必至であると述べている(『玉葉』寿永二年九月五日条)

 義仲は故兄八條院蔵人仲家(源三位頼政猶子)とは異なり、上野国で生まれたのち在京経験はなく公家との折衝に未熟であり、政治的に翻弄されやすかったと思われる。故実の大家であった入道関白との連携はこうした点を補強するものではあったが、入道関白自身が法皇と激しい対立関係にあったことは、法皇との意思疎通を困難にする要因ともなった。また、義仲勢は諸勢力の混成軍であったことで指揮系統が定まらずに兵士の狼藉が頻発。義仲自身も放置し、民衆や公家らの信認をますます失うこととなる。北陸宮(以仁王子)を旗印に奉じるも有効に活かせぬまま祖父法皇の手に委ねてしまうなど、義仲の評判は崩壊していくことになる。

 頼朝の上洛については、9月2日に源中納言雅頼子・左少弁兼忠の乳母夫の齋院次官中原親能から齎された情報で「頼朝必定可上洛」であり、「十日余之比、必可上洛、先為頼朝之使、有申院事、親能可上洛也、万事次可申承」ということであった(『玉葉』寿永二年九月四日条)。齋院次官親能は「与頼朝甚深之知音」で当時頼朝のもとに逃れており、彼からの飛脚であることから頼朝の意思が働いた情報であったことがうかがえる。さらに観性法橋の報告では「頼朝今月三日出国、来月一日可入京、是必定之説也」という。ただ兼実は「猶不被信受事也」と疑いを解いてはいない。ただし、当時の頼朝は、正妻の北条氏(のちの平政子)が臨月を迎えて諸事慌ただしく、飢饉の中での大軍を率いた上洛など思いもよらない時期である。親能が雅頼へ発した上洛に言及した使者は、頼朝が義仲を牽制する目的で流した飛語ではなかろうか。

 なお、頼朝御台所の出産については、8月11日夜、御台所が産気づいたことから、頼朝は祈祷のために伊豆山権現、箱根権現ならびに近国宮社に奉幣使を立て、常胤の孫「千葉小太郎」は「下総香取社」への使者となっている(『吾妻鑑』寿永二年八月十一日条)。翌12日、「御台所男子御平産」と、嫡男頼家が誕生している(『吾妻鑑』寿永二年八月十二日条)。8月16日の「若君五夜之儀」は「上総介広常」が沙汰し、8月18日の「七夜之儀」は常胤の沙汰で執り行われ、妻・秩父重弘女が頼朝に陪膳した。常胤と六人の子息は白水干袴の装束で侍の上に着し、その後、嫡男・胤正と次男・師常が甲冑、三男・胤盛と四男・胤信が鞍置馬、五男・胤通が弓、そして六男・胤頼は剣を進物として捧げ、庭に居並んだ。「兄弟皆容儀神妙壮士」という姿を見た頼朝は「殊令感之給」い、侍に居並んだ「諸人又為壮観」と賞賛したという(『吾妻鑑』寿永二年八月十八日条)

『吾妻鏡』寿永元年八月十八日条

七夜儀、千葉介常胤沙汰之、常胤相具子息六人着侍上、父子裝白水干袴、以胤正母秩父大夫重弘女、為御前陪膳、又有進物、嫡男胤正、次男師常舁御甲、三男胤盛、四男胤信引御馬、置鞍、五男胤道持御弓箭、六男胤頼役御剣、各列庭上、兄弟皆容儀神妙壮士也、武衛殊令感之給、諸人又為壮観

 このころ平家は「余勢全不減、四国並淡路、安芸、周防、長門、幷鎮西諸国一同与力了」であり、さらに「貞能已下、鎮西武士菊池原田等、皆以同心、鎮西已立内裏随出来、可入関中云々、明年八月可京上之由結構云々、是等皆非浮説也」(『玉葉』寿永二年九月五日条)と伝わり、平家党はもともとの勢力圏である九州および西国に盤石の勢力を確保していた。東海道、近畿京洛、北陸道での平家の敗戦は、大飢饉による兵糧不足からの軍勢催促の停滞、士気の低下、軍規の乱れなどを発端としたものであって、平家の勢力は決して弱体化していなかった。院は義仲に平家追討を命じるべく、9月19日、院御所に義仲を召すと「天下不静、又平氏放逸、毎事不便也」と告げる。義仲は「可罷向ハ、明日早天可向」と請け、院は手ずから御剣を義仲に授け、20日、義仲は「左馬頭義仲、為追討平氏、下向西国」した(『百錬抄』)。しかしこの出立はあまりに急であり、「義仲今日俄逐電、不知行方、郎従大騒、院中又物騒」とその郎従も知らされないほどであった。実は院は行家も同道するよう再三伝えていたものの義仲は拒絶。この俄な出立は行家の同道を嫌ったためであった。

 なお、義仲の平家追討の目的の一つは、のちに義仲が帰洛した際に院へ伝えた「忽討平家事不可叶、平氏猶存者、西国之運上、又不可叶」(『玉葉』寿永二年閏十月十八日条)からもわかる通り、鎮西・西国を支配し運上物を掠取する平家から、運上物を回復させることだったことがわかる。

 寿永2(1183)年9月28日頃、平家が京都を脱出してわずか三日後の7月28日に関東へ下向した先日所遣頼朝許之院庁官(中原康定)」が帰洛した(『玉葉』寿永二年十月一日条)

 康定は頼朝から「三ヶ條事」の要望を記した折紙を預かり持ち帰っている(『玉葉』寿永二年十月二日条)。兼実は実見していないが「或人」から大まかな内容を聞き、日記に記している。兼実が「或人」と記す場合は、兼実がそれほど面識のない廷臣や院祗候の人(いずれも殿上人)のことと思われるが、直接その「或人」から「情報」を聞いた場合であろう。

●「或人」から兼実への伝聞

1 平家押領之神社仏寺領、慥如本可付本社本寺之由、可被下宣旨、平氏滅亡為仏神之加護之故也 平家が押領した寺社領を、本主へ返付することの宣旨を下すこと。平氏の滅亡は神仏の加護である。
2 院宮諸家領、同平氏多以慮掠云々、是又如本返給本主、可被休人怨 権門領も多く平氏に奪われており、これも本主へ返すこと。
3 帰降参来之武士等、各宥其罪、不可被行斬罪、其故何者、頼朝昔雖為勅勘之身、依全身命、今当伐君御敵之任、今又落参輩之中、自無如此之類哉、仍以身思之、雖為敵軍、於帰降之輩、寛宥罪科、可令存身命 降参する武士等は宥免して斬罪の処することのないように。理由は、自分が助命されたことで、朝敵を討つ任を得た。将来謀反の輩が出ないとも限らず、そのとき私のような輩が同じように朝敵を討つかもしれないからである。

 その二日後の10月4日夜、「大夫史隆職」が兼実を訪問し、「密々持来頼朝所進合戦注文并折紙等、院御使庁官所持参」という。隆職が密かに頼朝からの文書を院御所から持ち出して兼実に見せたのであろう。兼実はこれを読んで、10月2日に聞いた内容と差異がないことを確認しつつ、「然而為後代注置之」と、頼朝の折紙の内容をメモしている。ただ「合戦注文」については兼実は興味がなかったのか「合戦記、不遑具注」と写していない。

●頼朝所進の「折紙」

一 可被行勧賞於神社仏寺事
右、日本国者神国也、而頃年之間、謀臣之輩、不立神社之領、不顧仏寺之領、押領之間、遂依其咎、七月廿五日忽出洛城、散亡處所、守護王法之仏神、所加冥顕之罰給也、全非頼朝微力之所及、然者、可被行殊賞於神社仏寺候、近年仏聖灯油之用途已闕、如無先跡、寺領如元可付本所之由、早可被宣下候、

一 諸院宮博陸以下領、如元可被返付本所事
右、王侯卿相御領、平家一門押領数所、然間、領家忘其沙汰、不能堪忍、早降聖日之明詔、可払愁雲之余気、払災招福之計、何事如之哉、頼朝尚領彼領等者、人之歎相同平家歟、宜任道理有御沙汰者、

一 雖奸謀者、可被寛宥斬罪事
右、平家郎従落参之輩、縦雖有科怠、可被助身命、所以者何、頼朝蒙勅勘雖坐事、更全露命、今討朝敵、後代又無此事哉、忽不可被行斬罪、但随罪之軽重、可有御沙汰歟

以前三ヶ條事、一心所存如此、早以此趣可令計奏達給、仍注大概上啓如件、

 この記述は、几帳面な兼実が記したメモであり、頼朝の折紙をほぼそのまま記している可能性が高い。頼朝の主張は、大略寺社領の本主返付(平家の都落ちは神仏の罰で頼朝の力ではない)、諸院宮・卿相以下、平家一門に押領された所領の本主返付(押領による家政の困窮を解消)、降参する平家与党の助命(将来朝敵が生じたときに助命した者が朝敵を討つかもしれない可能性)というものである。また、7月28日の院宣には頼朝に対しても「今当伐君御敵之任」「今討朝敵」が記されていたことが判明する。

 続けて、10月6日には頼朝からの使者が大蔵卿泰経のもとを訪れ、「所欝申、義仲等可伐頼朝之由、結構事」の奏状が泰経を通じて院奏された。兼実は二日後の10月8日に報告を受けているが(『玉葉』寿永二年十月八日条)、中原康定のもたらした頼朝折紙と同様、具体的な内容を知らされなかった。翌10月9日、院近臣の静賢法印が兼実を訪れて「談世間事等」しているが、このとき頼朝の使者が「忽不可上洛」を述べたことを伝えている(『玉葉』寿永二年十月九日条)

 頼朝の上洛延引は、「秀平隆義等、可入替上洛之跡」と「率数万之勢入洛者、京中不可堪」の二つの理由があり、とくに東西飢饉と運上の途絶による消費都市京都が飢餓に見舞われている中、数万にも及ぶ軍勢が上洛した場合の惨状を鑑みてのことで、今は頼朝自ら上洛することは差し控えるべきとの判断を下したとみられる。この使者から頼朝の人物像を聞いたのか、静賢法印は頼朝の印象を「凡頼朝為躰、威勢厳粛、其性強烈、成敗分明、理非断決」と述べる(『玉葉』寿永二年十月九日条)

●『方丈記』より養和の飢饉の状況

また、養和のころとか、久しくなりて覚えず、
二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき、或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬をさむるぞめきはなし、これによりて、国々の民、或は地をすてて境を出で、或は家を忘れて山に住む、さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行わるれど、さらにそのしるしなし、
京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん、念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし、たまたま換ふるものは金を軽くし、粟を重くす、乞食道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり

 頼朝が今回京都に使者を遣わしたのは、この「忽不可上洛」とともに法皇へ「所鬱申」が主題であった。頼朝が述べる不満は静賢法印によって二点が兼実に報告されている。ひとつは「三郎先生義広上洛也本名義範こと、もう一点は「義仲等不逐平氏、乱朝家尤奇怪、而忽被行賞之條、太無謂」ということであった(『玉葉』寿永二年十月九日条)。これに対して兼実は「申状等、有其理歟」と一応納得する姿勢を示している。とくに二点目については、頼朝は親交のあった高尾神護寺の文覚上人を通じて義仲を勘発しており、「頼朝以文覚聖人、令勘発義仲等云々、是追討懈怠、並損京中之由云々、即付件聖人陳遣」(『玉葉』寿永二年九月廿五日条)と平家追討の懈怠と京中の混乱について責めたという。

 去る8月11日、義仲と行家は除目によってそれぞれ「従五位下」へ昇叙し、義仲は左馬頭兼越後守、行家は備後守に補任されていた(『玉葉』寿永二年八月十二日条。それにも拘わらず、勲功第一という頼朝はなおも流人で勅勘が解かれていない状況にあった。頼朝の「鬱」はこれに対する理不尽を述べたものだろう。頼朝の奏状を受けたわずか三日後の10月9日夜、法皇は「頼朝復本位之由」を指示する(『玉葉』寿永二年十月九日条)。こうして流人源頼朝は本位の従五位下へ復し、勅勘が解かれた。ただし、官職には任じられることはなく「前右兵衛権佐」のままであった。

 10月13日、兼実のもとに「大夫史隆職」が来訪し「談世上事等」したが(『玉葉』寿永二年十月十三日条)、このとき隆職は「先日為御使、向頼朝許、去比帰洛」した「院庁官々史生泰貞」「重為御使、可赴板東」ことを伝えている。これは、翌10月14日に下される「依頼朝申行」って定められた「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨」(『百錬抄』)を伝える使者であろう。それとともに、「与義仲可和平之由」(『玉葉』寿永二年閏十月十三日条)をも命じる使者とみられる。このとき、隆職も頼朝の印象を兼実に伝えているが、兼実は「不遑記」と素っ気なく記しており、頼朝の為人については興味を抱くレベルではなかったようだ。

 宣旨が下される前日の10月13日、兼実は家領ながら不通となっていた能登国若山庄「今遭善政、欲休愁憤」として当知行領掌についての解状を朝廷に提出している(寿永二年十月十九日「官宣旨」『宮内庁書陵部所蔵九条家文書』)

「若山庄」(端裏書)
左弁官下能登国
 応如元令右大臣家領掌当国内若山庄事

右、得彼家今月十三日解状偁、件御厨庄園等、或是有由緒知行之所、或又数台相伝之家領也、彼国郡司等皆存此旨、敢無牢籠、而去治承四年以降都鄙大乱、上下不通、今遭善政、欲休愁憤、望請、殊被下宣旨、将遣家使令知如元領掌之由者、権中納言藤原朝臣実宗宣、奉 勅依請者、宣承知、依宣行之

   寿永二年十月十九日            大史小槻宿祢(花押)
 中弁藤原朝臣(花押)

 この文書に見える「殊被下宣旨」が10月14日に「東海 東山 北陸 寿永二十」と見える東海道、東山道、北陸道の三道の寺社権門ら庄園の本家本所などに下された「御領重宣旨」に相当する(寿永78二年十月十九日「官宣旨」『宮内庁書陵部所蔵九条家文書』)。能登国若山庄はもちろん、三道に所在する九條家の庄園に対しても宣旨が下されており、宣旨には「端云、応令右大臣家如元領掌諸国所在御厨并庄園、位田、大番舎人、庁宣等名田事」が記されていた。九條家に下された宣旨は国別に十五通にのぼった。

東海道 尾張国内杜庄
下総国三崎庄
伊賀国(四か所)
伊勢国御厨・家領等(五か所)
武蔵国(四か所)
伊豆国(三か所)
遠江国尾奈御厨
常陸国(三か所)
三河国吉良庄
東山道 美濃国(二か所)
近江国位田・大番舎人・庁宣等
北陸道 越後国白川庄
若狭国(二か所)
能登国若山庄
加賀国(二か所)

 そして、10月14日、朝廷は頼朝が求める「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由」の宣旨を下した(『百錬抄』)。宣旨の文は遺されていなことから、全体像は掴めないものの、後日義仲が「東海、東山、北陸等之国々所被下之宣旨云、若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)ことに強烈な不満を述べているため、次の二つの内容が記されていたことは確実である。

●寿永二年十月十四日「東海東山北陸等之国々所被下之宣旨」等の内容

(1) 東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知
(2) 若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討
(東海、東山道等庄土、有不服之輩者、触頼朝可致沙汰

 この宣旨は(1)が主文であることは明白なので、宣旨の「事書」部分に(2)は記されないと考えられる。つまり(2)はあくまでもその「執行のために付された条件」に過ぎず、これを以て頼朝が東国行政権を取得したと考えるのは誇大解釈であろう。

 しかし、頼朝にとっては(2)の条件が非常に重要な意味を持ったことは確実であり、頼朝は院との交渉によって、この付帯文を宣旨に入れることに成功した。これにより、義仲が勢力下においていた北陸道について「若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」ということであれば、例えば義仲の影響下にある北陸道の在庁や国人らが抵抗(抵抗せずとも抵抗したと称すれば済む)した場合は、頼朝が公的に「不随此宣旨之輩者」を追捕できるという意味を持ったのである。義仲がこれに嚙みついたのは当然であろう。

 なお、「沙汰」は「追討」のことであって、決して国衙行政に関する権限ではない。あくまでも庄園の本主返付の宣旨に背いた者を追捕する「だけ」の権限である。しかし、この権限は頼朝をして東海道、東山道、北陸道の諸国庄園に介入が「でき得る」公権となり、これを堂々と前面に押し出して、後日、九郎義経を大将軍とする使者が伊勢国へと派遣された。頼朝使、雖来伊勢国、非謀叛之儀、先日宣旨云、東海東山道等庄土、有不服之輩者、触頼朝可被沙汰云々仍為施行其宣旨、且為令仰知国中、所遣使者也(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)と見るように、義経の伊勢発向の目的の一つは「宣旨」の施行と周知であったことがわかる。伊勢国は東海道と畿内を結ぶ要衝鈴鹿山があり、義経はここで鈴鹿山付近に広く蟠踞する伊勢平氏の一族・前出羽守信兼を麾下に収めている。これも宣旨の(2)を根拠として協力を求めた結果の可能性があろう。

 この「十月十四日宣旨」に基づいて、東海東山北陸三道の諸国の国衙に対し、10月14日以降、官宣旨が下されており、前述のように兼実も10月19日に能登国若山庄の知行回復の官宣旨が下されている(九條家は10月13日に解を提出している)。なお、当時の能登国司は院近臣高階隆経であったが、彼は11月28日に下巻された。吉田経房はその理由は「不知是非、嗟嘆、悲哉々々」と記し(『吉記』寿永二年十一月廿八日条)「今度逢事人、皆射山近習之輩也」とあることから、後述の義仲による法住寺合戦後の法皇近臣への懲罰人事である。

 そして、10月14日頃に「与義仲可和平之由」(『玉葉』寿永二年閏十月十三日条)の院宣(カ?)、ならびに「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知」と、「東海、東山、北陸等之国々」「若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)の宣旨を伝える院使中原康定が再度関東へ下った

 なお、10月23日、兼実は「或人」から「義仲ニ可賜上野、信濃、不可虜掠北陸之由、被仰遣了、又頼朝之許ヘモ件両国可賜義仲、可和平之由被仰了」という話を聞く(『玉葉』寿永二年十月廿三日条)。これは「此事依或下臈之申状」「俊堯僧正一昨日参院御持仏堂時して「申此由法皇」したところ、法皇は「称善、即従奏上諫言、忽被降此綸旨了」というものだった。兼実はこれを聞いて「此條愚案一切不可叶、凡国家滅亡之結願、只在此事、可指弾々々々」と痛烈に批判している(『玉葉』寿永二年十月廿三日条)

 ただし、この風聞は当事者の誰にもメリットをもたらさず疑問が多い。下記の理由から、この件は結局事実に即したものではなく、さらにその後この話に基づく事象はなく、誤伝であった可能性が高いと考える。

「或下臈」が申状を出した目的 不明だが、可能性としては北陸道の回復と、義仲・頼朝との和睦により、東国及び北陸道からの運上物を京都へ届くようにするため。
ただし、10月14日の宣旨ですでに東海・東山・北陸三道への宣旨は発出されていることや、この宣旨に反対の者は頼朝が討つ旨を知らせており、わざわざ改めて「或下臈」の申状を受けて綸旨を出す必要はない。そのため、この「或下臈」の申状は、風聞の可能性が高いのではなかろうか。
院近臣たる俊堯僧正と繋がることができる「或下臈」とは誰か (一)源義仲方 俊堯は義仲昵懇の僧侶であり、義仲(下臈ではないが)またはその与党が持ち掛けた可能性も否定できないが、そもそもこの下臈案は、義仲が事実上支配している北陸道を放棄し上野国と信濃国を賜うよう求めるもので、義仲がこのような案を自ら提示することは考えにくい。
(ニ)源頼朝方 「朝廷」に東海道、東山道、北陸道の諸庄園などを本主へ戻すべき宣旨を下すよう求めており、東山道に属する上野国を義仲に渡す謂れはなく可能性は低い。さらに上野国を放棄してまで和睦を提案するメリットもない。
(三)平家方 宣旨に関してはまったく関わりがなく可能性はない
(四)院(朝廷) 三道の庄園国領の本主返還の宣旨を履行するためには、北陸道の回復は必須だが、東山道に属する上野国や信濃国を渡すこともまた、宣旨の履行には逆行するため、院や朝廷の意向とも合致しない。
地下人であろう「下臈」が高度な政治的機微を知り得ている理由 不明。

 この翌日の10月24日、兼実は院使中原康定が関東へ伝えた和平の綸旨について、「頼朝、先日付院使泰貞也、令申事等、各無許容、天下者君之令乱給ニコソ」と述べて「挙縁即塞其路、美乃以東欲虜掠」という伝聞を受けている。ただ、兼実は三ヶ条の折紙から頼朝の考えを確認しており、「但此條不知実説」と疑義を以て記している(『玉葉』寿永五年十月廿四日条)。実際に頼朝からの使者が届いていたのかは不明だが、この当時、中原康定は鎌倉にいたであろうことは確認できる。

 さらに、10月28日に兼実に届いた伝聞では、頼朝は去10月19日に鎌倉を出立し、11月1日頃に入京するという。兼実は「是一定説」とやや確信を持って受け止めているようである(『玉葉』寿永二年十月廿八日条)。兼実が強く信用している点から、雅頼卿の言であろうか。雅頼の家人・斎院次官中原親能が頼朝のもとにおり、その情報が伝えられていたとみられるためである。また、義仲も10月26日に備前国を出立して上洛の途に就いていて、11月4日か5日の入洛するという。平家との戦いの最中に帰還を企てるという不可解な情報に「与頼朝為決雌雄」ということが噂され、院以下の人々は戦々恐々としていた(『玉葉』寿永二年十月廿八日条)。ところが「頼朝難成上洛之間、其実不可然」と聞こえ、一方で「義仲今両三日之間可帰洛」であって、兼実は「洛中又可滅亡」と嘆いている(『玉葉』寿永二年閏十月六日条)

 こうした中、閏10月13日、大夫史隆職が兼実を訪れ、「談世間事」しているが、「院御使庁官泰貞、去比重向頼朝之許了、与義仲可和平之由也」と語っている。これは通説的には10月14日とは別の「閏十月」の宣旨を伝えるために、さらに中原康定が関東下向(十月十四日宣旨を伝えたのちに帰洛し、三度目の下向)したとされるが、隆職が語った「院御使庁官泰貞、去比重向頼朝之許了」は、文面上からも十月十四日宣旨で下向した際の話であることは明らかであり、閏十月の宣旨は存在しない

●『玉葉』寿永二年閏十月十三日条

十三日戊申 天晴 及晩大夫史隆職来、談世間事、(前略)…院御使庁官泰貞、去比重向頼朝之許了、仰趣無殊事、与義仲可和平之由也、抑、東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨、頼朝申請、仍被下宣旨之處、北陸道許、依恐義仲、不被成其宣旨、頼朝聞之者、定結鬱歟、太不便事也云々、此事未聞、驚思不少々々此事隆職不耐不審、問泰経之處、答云、頼朝ハ雖可恐在遠境、義仲当時在京、当罰有恐、仍雖不当被除北陸了之由令答云、天子之政、豈以如此哉、小人為近臣、天下之乱無可止之期歟、…(後略)

十三日戊申 天晴 晩に小槻隆職が亭に来て世上の話をした。(前略)「…院御使庁官の中原泰貞は去比に再度頼朝のもとに下向した(7/28関東下向⇒9/28以前帰洛⇒10/14再度関東下向)。院の仰せは特別なものではなく、義仲と和睦せよというものだった。さて、東海、東山、北陸の三道の庄薗と国領を本主が領知すべしと宣下されるよう、頼朝が申し請うたため、宣旨が下されたが北陸道だけは義仲の反発を恐れてその宣旨はならなかった。頼朝がこれを聞いたら間違いなく不満を示すであろうし、甚だけしからん事である」と語った。
このような事は聞いたことはなく非常に驚いた。小槻隆職はこのような事が本当にあり得るのか訝しく思い、院の近臣である大蔵卿泰経に問うたところ、泰経は「(この決定については)頼朝は恐るべき人物だが在所は遠く、反対に義仲は現在在京であり逆恨みされる恐れがある。このため不当とはわかっているが、北陸道は除いた」との返事だった。
天皇の政治はこのようなものか。いやそうではない。器量のない者が近臣となって天下の乱れを止めることができないためか。

 隆職の話によれば、頼朝の申請「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨」に基づいて10月14日に「仍被下宣旨」たが(『玉葉』寿永二年閏十月十三日条)、このとき「北陸道許、依恐義仲、不被成其宣旨」と、頼朝の要求していた荘園や国衙領の本所返付の宣旨が、義仲を恐れた法皇によって、急遽北陸道が対象外とされたという。隆職は「頼朝聞之者、定結欝歟、太不便事也」と怒りの言葉を発し(『玉葉』寿永二年閏十月十三日条)、兼実は「此事未聞、驚思不少」と初耳で驚きを禁じ得ず、隆職もこれを聞いたときはあまりのことに院近臣高階泰経に問うたところ「頼朝ハ雖可恐在遠境、義仲当時在京、当罰有恐、仍雖不当被除北陸了」という。これを聞いた兼実は「天子之政、豈以如此哉、小人為近臣、天下之乱無可止之期歟」と語っている。兼実の嘆息が聞こえるようである。

 ただし、兼実は10月19日に能登国若山庄に対する宣旨を下されていることから、この北陸道を除くという宣旨が「実際に出されたとすれば」少なくとも19日以降となる。しかし、閏10月13日まで兼実が噂レベルでも知り得ていないということは、北陸道の庄公への宣旨がしっかり下され遅滞はなかったということになろう。閏10月15日に急遽中国地方から帰洛した義仲の屋敷に、20日、院が静賢法印を遣わした際に、「奉怨君事二ヶ条」のひとつとして「東海東山北陸等之国々所被下之宣旨云、若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」(『玉葉』寿永二年閏十月十六日条)とあることからも、義仲のもとに下された宣旨にもしっかり「北陸道」が記されていて、それが削られた宣旨は伝えられていなかった=存在しなかったことがわかる。

●「寿永二年十月宣旨」の時系列

7月28日 「下遣御使於頼朝許、庁官康定下向」している。内容は推測だが以下の通り。
(1)同日に義仲・行家に下された平家追討令と同内容の可能性。
 ⇒10月の頼朝返書に今討朝敵(「或人」の意訳で今当伐君御敵之任)とある
(2)関東北陸庄園、京中狼藉可被止事が下命されている可能性。
 ⇒二日後の7月30日に頼朝・義仲・行家に命じられている。
『百錬抄』
『吉記』
7月30日 「頼朝、義仲、行家等勧賞并関東北陸庄園、京中狼藉可被止事也」 『百錬抄』
9月28日以前 院使中原康定が帰洛。関東から「合戦注文并折紙」を持ち帰り、院奏。
静賢法印、小槻隆職らは実見か。
『玉葉』
10月1日 兼実、中原康定の帰洛を伝え聞く。 『玉葉』
10月2日 「或人(源雅頼カ)」から頼朝折紙の内容(三ヶ条)を聞く。
・寺社領の本主返付の宣旨要求
・院宮諸家領の本主返付
・降参する武士の助命
※このほか、頼朝は「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨」を申し請うた。
『玉葉』
10月4日 兼実、小槻隆職が密々で持参した頼朝の「合戦注文并折紙」を実見しメモする。 『玉葉』
10月6日 頼朝の使者が高階泰経を訪れて法皇に二ヶ条を報告
・義仲等が頼朝討伐の用意をしていることへの不満
 ・信太義広の上洛
 ・義仲等が平家追討もしないのに行賞されるのはまったく道理に合わない
  ⇒義仲等は従五位下と国司に叙任。頼朝は勅勘の流人のまま。
・頼朝自身の上洛は延引する
 ・藤原秀衡、佐竹隆義が頼朝関東留守中に攻め入る噂
 ・数万の兵が入洛した場合、飢饉の京都は壊滅する
『玉葉』
10月8日 兼実、頼朝使者の上洛を聞く。 『玉葉』
10月9日 兼実、静賢法印から頼朝使者の申状を聞く。
夜除目で、頼朝、従五位下の復本位。
『玉葉』
10月13日 兼実、小槻隆職から「去比帰洛」した中原康定が、再度鎌倉へ下る計画であることを伝えられた。翌月閏10月13日の記事から、「与義仲可和平之由」を伝えることが主目的の使者である。
この他、翌日下される宣旨内容も伝えたとみられる。
『玉葉』
10月14日 朝廷、頼朝の申請に基づき
(1)「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨」に則った宣旨
   
が下され、三道諸国の寺社領や庄園へ個々に宣旨が記されていった。
(2)「東海、東山道等庄土、有不服之輩者、触頼朝可致沙汰」された。
   この「沙汰」とは「若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」と同義であることから、頼朝に不満分子を追討させることである。

※「北陸道許、依恐義仲、不被成其宣旨」ともされるが、事実ではない可能性が高い。
『百練鈔』
この頃 中原康定が関東へ下向したとみられる。目的は「仰趣無殊事、与義仲可和平之由」である。その「和平」についての内容は不明だが、10月9日除目の頼朝の復本位の除書が伝えられたか。  
10月21日 「下臈(義仲か)之申状」を義仲入魂の俊堯僧正が院に伝えたという。内容は、
 ・義仲へ上野国、信濃国を賜う代わりに北陸道の慮掠を禁じる
 ・頼朝には両国を義仲に賜い、和平する
というもの。院もこれを「善」としてすぐさま「綸旨」が下されたという。
ただし、前後の状況から、この風聞は事実ではない可能性が高い。
『玉葉』
10月23日 兼実、「或人」から21日の綸旨のことを伝えられ、「此條愚案一切不可叶、凡国家滅亡之結願、只在此事、可弾指々々」と激怒する。 『玉葉』
10月24日 兼実、院が示した頼朝・義仲との和平案に頼朝が「各無許容、天下者君之令乱給ニコソ」と述べたという伝聞が届く。また「挙縁即塞其路、美乃以東欲虜掠」とも伝わるが、兼実はこの情報には疑義を感じている。 『玉葉』
閏10月13日 兼実、小槻隆職から去る10月14日宣旨の成立過程を聞く。
・頼朝は「東海、東山、北陸三道之庄薗、国領如本可領知之由、可被宣下之旨」を申請し、院もこの意向に沿って東海道、東山道、北陸道の諸国の寺社領や庄園などに宣旨を出したが、その後、「北陸道許、依恐義仲、不被成其宣旨」されたという。兼実は「此事未聞、驚思不少々々」と驚愕している。隆職は、頼朝はまだ北陸道が除かれた理由を知らないが「頼朝、聞之者、定結鬱歟、太不便事也」と感想を述べている。
『玉葉』

 一方、このころ、西下していた義仲勢の一部が備前国に攻め入り、備前国及び備中国で蜂起した平家方の国人と合戦し、これを悉く討ち取った上、その跡を焼き払って備前国に退いたという(『玉葉』寿永二年十月十七日条)

 平家の軍勢は「頗洛中令属静謐之由依有風聞、去年十月、出御鎮西、漸還御之間」と、寿永2(1183)年10月に九州の御所を出御して上洛の途に就いたという(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)。ここに「閏十月一日、称帯 院宣、源義仲於備中国水嶋、相率千艘之軍兵、奉禦万乗之還御」と、木曾義仲が院宣を帯びていると称して備中国水島に攻め寄せ、安徳天皇の還御を妨害したという(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)。平家の主張は、そもそも西国都落ちは「全非驚賊徒之入洛、只依恐 法皇御登山也」とあるように、法皇の俄かな比叡山行幸(逃亡)により法皇の理解が得られないと判断し、西国行幸することになったとするが、実際は義仲からの天皇及び法皇、神器の死守と西国での形勢立て直しのためであろう。

 軍記物ではあるが『源平盛衰記』によれば、「水島合戦」は四国へ渡らんと柏島東岸に布陣する平家勢を、水島海峡を挟んで東の乙島から抑えにかかった義仲勢がぶつかった海戦である。この戦いで義仲は「矢田判官代義清、仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広」ら大将格の人々を失うという壊滅的な敗北を喫したという(『源平盛衰記』)。平家は「然而為官兵、皆令誅伐凶賊等畢」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、自ら官兵を称して「凶賊」義仲を追討したと主張する。平家は天皇及び神器を擁する正規の官軍として振舞っていた様子がうかがえる。水嶋合戦とほぼ同時期、義仲勢は倶利伽羅峠の合戦で降伏していた備前国人妹尾太郎兼康の離反に対応してこれを討ち滅ぼしたとする(『源平盛衰記』)。水嶋合戦は『玉葉』でも「前陣之官軍、多以被敗了」(『玉葉』寿永二年閏十月十四日条)のため義仲勢は播磨国から備中国へ移ったという風聞があった。

 その後、院は義仲に上洛せずに駐屯するよう指示。義仲はこれを了承するが、義仲は閏10月13日夕刻、軍勢を返して15日早朝に上洛すると突如院に報告し、「院中之男女、上下周章無極」と院以下は大慌てとなっている。「恰如交戦場」という情報が漏れたため、京中の人々も避難を始めて「一天騒動」という状況であった。兼実はこの情報を聞くのが遅れたため、家司である「範季院臣」に問うと「事已実也」であった。

 そして15日、義仲は入京を果たすが、「其勢甚少」という状況であった(『玉葉』寿永二年閏十月十五日条)。前線に残す必要のある兵士を差し引いたわずかな軍勢での帰京であるが、水島合戦での大敗によりかなりの兵士を失っていたと思われる。ただ、翌16日に参院した義仲は「平氏一旦雖乗勝、始終不可及不審、鎮西之輩、不可与力之由仰遣了、又山陰道武士等併在備中国、更不可及恐」と、平家勢は恐れるものではないとし、帰京した理由は「頼朝弟九郎不知実名、為大将軍、卒数万騎之軍兵、企上洛之由、所承及也、為防其事可忩上洛也、若事為一定者、可行向、為不実者非此限、今両三日之内、可承其左右」という(『玉葉』寿永二年閏十月十七日条)

 二条目が義仲帰京の直接的な原因となったことは確実であろう。ただ、藤原範季が兼実に告げた、義仲が「忽棄敗績之官軍、所迷上洛也」の真の理由は「義仲之所存、君偏庶幾頼朝、殆以彼欲殺義仲歟之由、成僻推歟」というものであった(『玉葉』寿永二年閏十月十八日条)。これでは「忽討平家事不可叶、平氏猶存者、西国之運上、又不可叶」であり、範季の個人的考えであるが「為令討平氏、且為協義仲之意趣、法皇起自叡慮、早可令赴西国御也、只先可有臨幸播磨国、然者南西国等之住人等、皆向風子来也、其時発鎮西等之勢、可誅伐平氏了、以後可有還御也、此外凡無他計」と、法皇の播磨行幸で義仲を支援し、平家追捕を行って還京する計を述べている。

 兼実も「其理可然歟」とその理念は理解するも「範季等之議、可謂小人之謀」であり、結局法皇は「偏被釣具義仲等、違乖頼朝之由、決定令存歟」と平家同様に義仲に利用されるだけで頼朝と敵対することになることを危惧。兼実は「此天下猶雖一日、頼朝有可執権之運歟之由、素所愚案也、然者偏被変彼頼朝之条、尤可有思慮歟」と、兼実は頼朝の器量を認め、天下の平穏に一縷の望みをかけていたことが伺える(『玉葉』寿永二年閏十月十八日条)。そして、「只先猶可討平氏之由、被仰義仲、以別使者、又頼朝之許、可被仰遣子細也」とし、法皇下向は「非王者之翔歟」(『玉葉』寿永二年閏十月十八日条)と批判している。

 また、義仲は院に対する不満を口にし、関東下向を計画していることが院の耳に入る。閏10月20日、院は義仲の屋敷に静賢法印を遣わして「其心不説之由聞食、仔細如何、不申身暇、俄可下向関東云々、此事等所驚思食也」と問い質した(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)。これに義仲は「奉怨君事二ヶ条」として、「被召上頼朝事、雖申不可然之由、無御承引、猶以被召遣了」ということ、もう一点は「東海東山北陸等之国々所被下之宣旨云、若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)という、いわゆる『寿永二年十月宣旨』の内容に対する不審を強く訴え、「此状為義仲生涯之遺恨也」と激しく批判している。義仲が水島合戦ののち、小勢で慌てて帰京した真の理由は、義仲が留守の間に頼朝と結んだ院が、頼朝代官を入京させようとした事実を把握したためであろう。「東海東山北陸等之国々所被下之宣旨云、若有不随此宣旨之輩者、随頼朝命可追討」については、兼実も「東海東山道等庄土、有不服之輩者、触頼朝可致沙汰」(『玉葉』寿永二年閏十月廿二日条)ことを聞いていることから、事実であろう。頼朝も10月14日の『寿永二年十月宣旨』を受けて、九郎義経を大将とした「頼朝使」を派遣しており、閏10月22日頃頼朝使、雖来伊勢国、非謀叛之儀、先日宣旨云、東海東山道等庄土、有不服之輩者、触頼朝可被沙汰云々、仍為施行其宣旨、且為令仰知国中、所遣使者也」(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)という

 また、義仲は東国下向の件について、「頼朝上洛者、相迎可射一矢之由素所申也、而已以差数万之精兵、令企上洛云々、仍為相防欲下向、更不可驚思食、抑、奉具君可臨戦場之由、議申之旨聞食、返々恐申、無極無実也」と申状に認めて奏上している(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)。義仲はこの申状では不安であったのか、静賢法印が帰ったあと使者を送り、「猶々関東御幸之条、殊恐申、早可承執奏之人云々、件事昨日行家以下一族源氏等会合義仲宅、議場之間、可奉具法皇之由、其議出来、而行家光長等一切不可然、若為此儀者、可違背之由、執論之間、不遂其事、以件子細、行家令密達天聴」と重ねて述べている(『玉葉』寿永二年閏十月廿日条)

 このころ、平家はすでに備前国に進み、美作より西はすべて平家党となっているという風聞があり、播磨へ迫る勢いだという(『玉葉』寿永二年閏十月廿一日条)。義仲が平家と繋がっているという噂もあったようである。義仲は平家に大敗し、院や貴族にも見放され、東には頼朝という強大な敵を控えるという孤立状態に陥っている中で、頼朝は東海・東山・北陸道の庄園・公領を返付する宣旨に基づき、これに異を唱える者を追討する権限を公認され、「仍為施行其宣旨、且為令仰知国中、所遣使者」(『玉葉』寿永二年閏十月廿一日条)という権限も付託されていた。すでに「頼朝使」は宣旨に基づいて東海道を上っており、伊勢国鈴鹿山で起こった戦乱が、宣旨に反発する人々と「頼朝使」との合戦であるとの風聞があるほどであった(『玉葉』寿永二年閏十月廿二日条)

 閏10月22日夜、義仲は自ら参院して、先日も同様の内容を静賢法印を通じて奏上しているが「奉取院、可引籠北陸之由風聞、以外無実、無極之恐」であり、これらは「所相伴之源氏等指行家已下」が勝手に執奏したことで返す返すも恐れ多いことであると主張。また、水島合戦での大敗によって「平氏当時無追討使、尤不便」であるとして、自分の実叔父「三郎先生義広」を追討使に任じることを要請、そして平氏の入洛を恐れて様々に右往左往するのを制止すべきであると奏上した。院は「可奉取院」については世間の風評に過ぎず沙汰に及ばずとし、義広の追討使任命についても許可しなかったが、この内々の理由は彼が「頼朝殊存意趣之者歟」だったためであった。遡ること九か月前の2月、義広は常陸国信太庄に居住していたとみられるが、何らかの理由で頼朝と対立し北関東で合戦に及ぶも敗れた。義広は義仲父・帯刀先生義賢の同母弟(『尊卑分脈』)であり、義仲にとっては実叔父に当たる。ただし義広は関東で頼朝に敗れたのちも義仲に合流することはなく、8月頃に自力で上洛している。もしも義広が敗戦後に義仲と行動をともにし、7月30日の京都守護拝命の時点ですでに同陣していたとすれば、守護地割当に当然義広も含まれているはずである。少なくとも義広上洛はその後で、頼朝がそれを知って院に不満を述べた9月中旬までの一月あまりの間のことである。

●推測系譜(『尊卑分脈』)

 源頼信―+―源頼義――源義家―――――――――――――――源為義――――源義朝―――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)             (検非違使) (下野守) (右兵衛権佐)
     |                        ∥
     |                        ∥    +―源義賢
     |                        ∥    |(帯刀先生)
     |                        ∥    |
     |                        ∥――――+―源義広
     |                      +―女子    (帯刀先生)
     |                      
     |                      |
     |                      +=源義宗
     |                      |(判官代)
     |                      |
     +―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信――――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者) (高松院判官代)
                     |
                     +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

 義広の追討使就任が不許可とされたことから、閏10月24日、義仲は再び「以義広可追討平氏之由、申請不許之条、未得其意、猶枉欲遣義広、兼又賜備後国於彼義広、以其勢可討平氏」と奏上。これに院は「全非不許之儀、件男聞食尩弱之由、仍不可叶之由思食、不被仰左右也、而猶可宜之由、於計申者、不可及異儀」と義広が弱いために任命できないが、もしそうではないというのであれば、任命を拒むものではないと返答している(『玉葉』寿永二年閏十月廿四日条)。そして11月1日、源行家が平家追討のため鎮西下向が決定。在京の石川判官代義兼は行家に従軍することとなり、閏10月28日に所領の河内国石川へ戻るために兼実へ暇乞いに訪れている(『玉葉』寿永二年閏十月廿七日条)。このころ「義仲与行家已以不和」であり、義仲が関東下向に際して行家に相供を命じるがこれを拒否。彼らは毎日のように口論するほど険悪となっていた。結局、11月1日は院の御衰日にあたったことから、11月8日に行家と義仲の鎮西下向が決定する。

 そのころ京都の風聞では、頼朝は閏10月5日、五万の精兵を率い「相模国鎌倉城」を発って北陸、東山、東海、南海道から上洛を開始したものの、今は遠江国に留まっているという。これは「可討義仲等、為令沙汰事」(『玉葉』寿永二年閏十月廿五日条)であるが、「奥州秀平又率数万之勢、已出白川関云々、仍疑彼襲来、逗留中途、可伺形勢」のためだという(『玉葉』寿永二年閏十月廿二日条)。ところがその後、頼朝は平頼盛入道の鎌倉下向に際して鎌倉に帰還し、「其替」として弟の「九郎御曹司誰人哉可尋聞に上洛を命じたという。その率いる軍勢は「五千騎勢」で、11月4日には「布和関」に到着したという。九郎御曹司は院庁へ「随御定可参洛、義仲行家等於相防者、任法可合戦、不然者過平事、不可有之由仰合」と奏上(『玉葉』寿永二年十一月四日条)。これを知った義仲は、八日の鎮西下向に加わらず「与頼朝軍兵可決雌雄」という(『玉葉』寿永二年十一月五日条)

 この頃には頼盛と子息は鎌倉に到着し、頼朝は御所で郎従五十人ばかりを随えて対面した(『玉葉』寿永二年十一月六日条)。また頼朝の義弟である一条能保は、頼朝邸から一町ばかりの所にあった「悪禅師家」に宿したという。悪禅師は頼朝の異母弟で九郎義経の実兄、醍醐悪禅師全成である。また、頼盛は相模国府に戻って宿所としたという。これは「目代」を後見としていたためである。なお、寿永3(1184)年3月28日、「頼盛卿後見侍清業」が上洛し、兼実を摂政とするよう「余事又奏法皇」(『玉葉』寿永三年四月一日条)じたことが見え、頼盛卿を後見した「目代」は「頼盛卿後見侍清業」に該当するか。彼は源中納言雅頼とも連絡を取っており、4月7日、兼実邸を訪れた雅頼卿が「頼盛卿後見史大夫清業」からの言葉を伝えている。彼は「史大夫」であり、かつて弁官を務めた経歴をもつことがわかる。『官吏補任』によれば保元3(1158)年に六位史であった中原清業で、どのような経緯で相模国目代となり、頼盛との関わりを持ったのかは不明。

 11月7日、「頼朝代官今日着江州」ということだったが、なんと「其勢僅五六百騎」という。これは「忽不存合戦之儀、只為供物於院之使」(『玉葉』寿永二年十一月七日条)とあり、この頼朝代官は合戦が目的ではなく、ただ院への供物を届けるための使者であったという。このときの頼朝代官は「次官親能広季子、幷頼朝弟九郎」と判明する(『玉葉』寿永二年十一月七日条)。頼朝と京都を繋いでいた斎院次官親能(権中納言雅頼の家人)が代官の一人であることから、朝廷・院への使者の性格も帯びていたことがうかがえる。親能は九郎義経に「付」された(『玉葉』寿永三年正月廿八日条)とあることから、九郎義経が全体の指揮官であると考えられるが、親能は「万事為奉行之者」という位置付けであり、諸事に経験の浅い義経は親能に万事を諮ることを命じられていたと思われる。また、義仲とともに上洛した保田遠江守義定の任国・遠江国を問題なく通過していることから、保田義定はすでに義仲から離れていたのであろう。

 翌11月8日、「備前守源行家」が平家追討のため西へ向った。義仲と決別した出陣であった。兼実が見物者から聞いたところによれば「其勢二百七十余騎」(『玉葉』寿永二年十一月八日条)であるという。兼実は「太為少如何」と疑問を呈しているが、これが行家自身の配下および郎従であったのだろう。義仲の援兵がなかったのは当然であるが、義仲勢の一翼を担っていた行家の軍勢はこの程度であり、もはや義仲勢自体が寡少であったことを意味するのであろう。

 行家勢はそのまま西へ下り、一気に備前国まで進んだ。行家は国守として出京直後から備前国に軍勢催促を命じたとみられ、国検非違使所別当の惟資国武者(国衙の武士であろう)が行家に同調している。この動きに対し、三位中将重衡を大将軍とした三百余騎が「備前国東川(吉井川)」まで進軍。備前国府(岡山市国府市場)の検非違使別当惟資らが攻め懸かったものの敗北。行家の軍勢も加わっていたとみられ「武蔵国住人■四郎介并子息被打取了」と武蔵国の「■四郎介」という人物が討たれている。検非違使別当惟資は国府へと退き、北部の山中へと入った後、「西川(旭川)」から千騎ばかりを率いて再び平家勢に襲いかかったが敗れる。日暮れとなり、国人らは明暁攻め寄せんと言う所を、惟資は「即時令寄」と、三度攻め寄せたため、平家勢は敗走。「平氏方五十四人被打取、源氏方国人雑人廿人許被打了」であった(『吉記』寿永二年十一月廿八日条)

 11月10日、院は澄憲法印を近江に駐屯する「頼朝使」の源九郎冠者のもとに遣わし、さらに義仲にも「頼朝使入京、不可欝存之由」を伝えている。義仲は「不悦之色」を見せながらもやむなくこれを了承。さらに「於無勢者強不可相防之由」も伝えている(『玉葉』寿永二年十一月十日条)。院は義仲をすでに見限っており、義仲の排除のために、宿直に義仲一人召さない、義仲が嫌う頼朝の代官入京に対して文句を言わさないなど、只管に彼を孤立させ徹底的に追い詰めていったのである。義仲はすでに疑心暗鬼の塊になっており、「義仲因可被征伐之由、殊用心欝念之余、如此承及之由、令申院」(『玉葉』寿永二年十一月七日条)という状況であった。

11,法住寺合戦

 寿永2(1183)年11月16日、法皇は「可臨幸南殿、御用心之体、万倍於日来」(『玉葉』寿永二年十一月十六日条)という。義仲に対する警戒であった。さらに「今夕所々堀堭溝釘抜、別段之沙汰」と法住寺殿の周囲に堀をめぐらし、木戸を立ち上げて防衛体制の強化をはかった(『玉葉』寿永二年十一月十六日条)。義仲謀叛の風聞に対する防衛措置であるが、さらに翌17日には「院中武士群集、京中騒動」という状況となった。義仲が「可襲院御所之由、風聞院中」であったためである。一方で義仲邸には「自院可被討義仲之由伝聞彼家」という、まったく逆の情報が寄せられており、兼実は「両方以偽詐有告言之者歟、依如此浮説、彼是堤騒、敢不可」と、両者に偽りの話を流布する人物がいて、両者ともにその詐説に踊らされていると推測している(『玉葉』寿永二年十一月十七日条)。そして「義仲忽無可奉危国家之理、只君構城集兵、彼驚衆之心之條、専至愚之政、是出自小人之計歟」と、義仲が自発的に謀叛を起こすことはなく、これらの騒ぎは院近臣が引き起こしたものだと痛烈に批判している。

 そして11月17日、院は「御愛物」の摂政基通を法住寺殿に招いて遊興にふける中、権中納言長方卿を召すと、義仲への侮辱とも取れる内容と平家追討を命じる院宣を下すことを命じ(『玉葉』寿永二年十一月十七日条)、長方卿は「悲泣而退出」する有様であった。

 院庁ではこの下命に基づき院宣を作成。院宣は「謀叛之条、雖諍申告言之人、称其実者、不及遁申歟、若事為無実者、速任勅命、赴西国可討平氏、縦又乖院宣、雖可防頼朝之使、不申宣旨、一身早可向也、乍在洛中、動奉驚聖聡、令騒諸人、太不当也、猶不向西方、逗留中夏者、風聞之説、可被處実也、能思量可進退」(『玉葉』寿永二年十一月十七日条)という内容であった。

 義仲は以前より謀叛の風聞は事実ではないと使者や自身の参院など三度にわたって奏上し続けており、不実であったと思われるが、院は遊興のままにこのような内容の院宣を下すことを命じたのである。兼実は使者を遣わして「物騒之仔細委可被告示」と院に告げるが、返答はおおよそ義仲謀叛の風聞内容と同様であった。院は謀叛の風聞については一旦は風聞に過ぎないため沙汰に及ばないとしていたにも拘らず、一転してその罪状を問うのである。すでに追い詰められている義仲に対する侮辱ともとれる内容である。

 義仲謀叛を疑う者は「明暁可被攻義仲歟」という。しかし兼実は「不能左右、義仲其勢雖不幾、其衆太為勇云々、京中之征伐、古来不聞、若不慮之恐者、後悔如何、小人等近習之間、遂至于此大事、君之不見士之所致也、日本国之有無、一時可決歟、無犯過之身、只奉仕仏神耳」(『玉葉』寿永二年十一月十七日条)と、院近臣の愚かさがこの危機を招いていると口を極めて批判する。そして、その根本的な原因は院の「不見士」、つまり近臣の資質を判断できない、つまり政治に関する直接的な関心のなさであるとしている。結局、法皇の無能ぶりが近臣の増長を招いていると批判しているのである。養和2(1182)年3月12日、前内府宗盛が叔父の院近臣・平親宗を「天下之乱、君之御政不当等、偏汝所為也」(『玉葉』養和二年三月十二日条)と激しく罵倒しているように、院近臣が政務壟断し、「近習卿相等和讒歟云々、所謂朝方、親信、親宗也、小人近君、国家憂、誠哉此事」(『玉葉』寿永三年正月廿七日条)と捉えられていたのである。

 翌11月18日、兼実は法皇の召しに応じて法住寺殿に参院し、前日17日の院から義仲へ下された院宣内容が報告される(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)。義仲はこの院宣に対し「先可奉立合君之由、一切不存知、因茲度々書進起請了、今被尋下之条、生涯之慶也、於下向西国、頼朝代官引率数万之勢、可入京者、一矢可射之由素所申也、彼不可被入者、早可下向西国」と報奏したという(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)義仲の素願は平家追討とともに頼朝代官との合戦である。院自ら「縦又乖院宣、雖可防頼朝之使、不申宣旨、一身早可向也」頼朝代官との戦いを認めているのである。もちろん暗に否定的な言い分ではあるが、義仲はこれを逆手に取り「今被尋下之条、生涯之慶也」と暗に院を嘲弄するのである。院宣に載せられている以上、宣旨も必要なく頼朝代官との戦いは認められたことになる。

 一方、院は泰経を通じ、兼実に「頼朝代官」の扱いと新帝の法住寺殿行幸を諮るが、兼実は「義仲忽無可奉危国家之理、只君構城集兵、被驚衆之心之条、専至愚之政也、是出自小人之計歟」(『玉葉』寿永二年十一月十七日条)という気持ちがあり、「先院中御用心之条、頗過法、是何故哉、偏被敵対義仲也、太以見苦、非王者之行、若有犯過者、只任其軽重、可被加刑罰」と批判する(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)。法住寺殿の周囲を堀で囲み、木戸を設けて城塞化する理由は何なのか。下臈の義仲と直接争うつもりなのか。甚だしく見苦しく「王者之行」とは到底言えない。もし罪を犯しているのであれば、その軽重に応じた罰を与えればよいのだと訴えるのである。そして、義仲を敵視し、院を城塞化する提案をした「小人」すなわち院近臣らを強く批判したのである。

 さらに、「如被仰下者、申状已穏便歟、然者先被遣可然之御使、且被尋間浮言之次第、且被勘発所行之不当、若指申告言之輩者、任法可被行刑罰、先罷当時敵対之儀、尤宜歟」(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)と、義仲の言い分を聞けば穏便なことしか言っていないではないか。院はまず義仲謀叛の浮言の出所をしっかりと調べ上げ、このようなことを「申告言之輩」を問い詰めて刑罰を行い、義仲との敵対を止めることが優先されることではないかと訴える。兼実の言う「申告言之輩」とはすなわち院近臣を指すとみられる。

 そして「義仲若伏理有和顔者、何不赴征伐哉、縦雖可有罪科、出境之後有其沙汰者、不可有当時之怖畏歟、洛中咫尺之間、被敵対君之条、当時後代、朝之恥辱、国之瑕瑾、何事過之哉、若又猶不肯受勅命者、彼時任法可有科断歟、如今之沙汰者、王化如無、甚以見苦歟」(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)と、院が正しく義仲と和解して義仲もその理に伏せば、義仲は勇んで平家討伐へ赴くだろう。しかし、もし罪科があったとしても、京都から出征後にその罪を問うべきだとする。これは洛中での混乱を防ぐための措置である。洛中で院が下臈の義仲と戦うことは前代未聞の「朝之恥辱、国之瑕瑾、何事過之哉」ということになる。さらに勅命に背くというのであれば、そのときには法に照らして処罰すればよい。とにかく兼実は「如今之沙汰者、王化如無、甚以見苦歟」(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)と、泰経の面前で院の対応の稚拙さを口を極めて諫めるのであった。まさに兼実でなければ為しえない強い諌奏であり、ここでも泰経を含めた「小人為近臣」による「天下之乱無可止之期歟(『玉葉』寿永二年閏十月十三日条)を暗に強く批判したのである。

 法皇はその後、院御所に天皇の行幸を仰ぎ、御所とするのが望ましいかどうかを問うている。兼実は「忽不可然歟」と行幸を否とするが、天皇は閑院御所から法住寺殿へと密かに行幸してしまう(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)。誰が行幸を主導したのか不明で「院不知食」で「不図之外有行幸」という。法皇主導の行幸であることは明白であるが、兼実もそれは言い得ない。院御所に行幸させてしまうという既成事実を作ったのち、法皇は兼実に白々しく「不図之外有行幸、以此亭可皇居歟、将又猶以閑院可為皇居歟、可計申」と定長をして問うのである(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)。当然兼実は反発して「行幸之条太奇、仍只殿上已下事、可在閑院歟」と院御所は相応しくないと答えた。定長も「左大臣被申旨同前」という。その後、この事に対する問い合わせがあろうかと院中に控えていたが、とくに無いようなので、兼実は泰経に退出の意を伝えて九条邸へ帰還している。その後、大外記頼業が九条邸を訪れて談話し、「摂政自今夜被参宿御所云々、仁和寺宮、八条宮、鳥羽法印等、皆自日来被候院中」(『玉葉』寿永二年十一月十八日条)という。このときの摂政基通の御所泊は「御愛物」という理由ではなく、天皇および摂政を院御所に置くことで、義仲を牽制したものであろう。

 兼実は、義仲挙兵があり得ないことであるという判断のもと、行幸は不必要であると考えていたと思われるが、院はおそらく院近臣から得た独自の情報から義仲謀叛の企ては事実と察し、事は喫緊であるとの判断だったのだろう。それに基づいて、急遽法住寺殿を城砦化し、急ぎ天皇、摂政、親王、天台座主らを法住寺殿へ招集、在京武士の催促を行ったと思われる。在京武士では「多田蔵人大夫行綱已下済々焉相従、義仲輩大略参入歟」(『吉記』寿永二年十一月十八日条)とあるように、義仲麾下の人々も大方が法皇方となり、多田行綱と同役の「伯耆守光長」も応じた。また、天台座主明雲を召したのは、延暦寺の僧綱僧兵の参入を期待したものであり、園城寺長吏の円恵法親王の参院により、園城寺僧兵もここに加わっていたのだろう。また、武士らは法住寺殿各所を警固、逆茂木の設置など臨戦態勢を整えている。蔵人頭経房はこれを「非言語之所及也、但偏是天魔之結構也」(『吉記』寿永二年十一月十八日条)と嘆いている。

 一方で、義仲入洛以降、仁和寺宮や八条宮などとともに法住寺殿で生活していた「高倉宮号北陸宮「女房一両奉具之、去夜令逐電給」うという事変も起こっていた。北陸宮は他の宮とは異なり、以仁王の子という政治的に特別な人物であり、もっとも利用される可能性が高いことから、法皇は万が一に備えて他所へ遷した可能性が高いだろう。その後、北陸宮が義仲と合流することはなく、頼朝のもとへ逃れている。

 そして翌11月19日早朝、兼実のもとに義仲挙兵の報が伝えられた。早朝の「義仲已欲襲法皇宮」という一報に、兼実は「不信受之間、蹔無音」(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)とショックを受けている。兼実が家司藤原基輔を法住寺殿に遣わして仔細を確認させたところ、基輔は昼頃に帰宅して「已参上之由、雖有其聞、未無其実、凡院中之勢甚為少、見者有興違之色」であったが、その後、左少弁光長の報によれば「義仲之軍兵、已分三手、必定寄之風聞」があるという。兼実はなおも「不信用」であったが、「事已実」であった(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)。確たる証拠もないままに義仲挙兵は有り得ないと信じていた兼実の衝撃は大きかったであろう。まさに法皇の予想が的中した形であった。

 兼実は九条邸が「大路之頭」であったことから戦乱に巻き込まれかねないと、子息の良通邸へと避難する(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)。その途路「黒煙見天」えたが、「是焼払河原之在家」であるという。法住寺殿の西には川沿いに在家が並んでおり、戦闘に巻き込まれたとみられる。また「作時両度」と、合戦の鬨の声も聞えていた(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)。また、経房は午の刻、勘解由小路邸から南方に火焔が上がっているのを見る。「奇見之處、院御所辺」(『吉記』寿永二年十一月十九日条)であった。驚いた経房は馬を駆って「再三雖進入、依為戦場、敢以不通、雖馳意馬、不能参入」であった。

 法住寺殿の戦いは、「義仲軍破入所々」「御所四面皆悉放火、其煙偏充満御所中、万人迷惑」(『吉記』寿永二年十一月十九日条)と御所の門や塀は義仲勢に次々に破られて放火されたという。「我勢落ナンズ、落ヌサキニトヤ思ヒケン」(『愚管抄』)という危機感もあったように、多くの麾下源氏が院方へ味方する中、義仲勢は根本被官の「山田、樋口、楯、根井ト云四人ノ郎従」が中心となった軍勢であったようである(『愚管抄』)。また、「三郎先生ト云源氏」こと三郎先生義広も「義仲ニ心ヲアハセテ最勝光院ノ方ヲカタメタリケル」と、御所南部の最勝光院を固めていたことがわかる(『愚管抄』)

 法皇は輿に乗って東へと逃れ、参院の公卿ら十余人は馬や徒歩で四方へ逃げ奔った。女房等も多くは裸形という有様で、防戦に及んだ「伯耆守光長、同子廷尉光経」以外の武士たちも逃げ去ったという(『吉記』寿永二年十一月十九日条)。義仲は法皇を逃すまじと追跡し、「清隆卿堂」のあたりで法皇の輿に追いついた。義仲はここで「脱甲冑参会」すると「有申旨、於新御所辺駕御車、于時公卿修理大夫親信卿、殿上人四五輩在御供、渡御摂政五条亭」(『吉記』寿永二年十一月十九日条)として、院を摂政基通邸へと遷した。すると、花山院大納言兼雅以下十七名の公卿と、頭弁兼光以下の殿上人が五条亭に参入している。

 法住寺殿での合戦は武士だけではなく、兼実と親しい大外記清原頼業の二男・主水正「近業」も討たれている(『玉葉』寿永二年十一月廿二日条、『清原氏系図』)。彼は「後白川院上北面」(『清原氏系図』)で治承元(1177)年正月より「直講」に任じられており(『外記補任』)、この日も院に出仕していたのだろう。しかし義仲の攻撃により「中流矢死去卅二(『玉葉』寿永二年十一月廿二日条、『清原氏系図』)という。また、そのほか、「越前守信行、前近江守高階重章」も「被斬首了」(『皇帝紀抄第七』)といい、さらに、「山ノ座主明雲、寺ノ親王八條宮円慧法親王ト云院ノ御子コレ二人ハウタレ給ヌ」(『愚管抄』)とある通り、延暦寺の長・天台座主明雲と、園城寺の長・八条宮円恵法親王が犠牲となっている。明雲は馬に乗って弟子僧少々とともに蓮華王院の西側の築地を南へ向けて逃れたが、南端(八条坊門小路の延長線上の鴨川東)で田井に落ち、討たれた。なお、このとき同道していた弟子僧の院宮(のちの梶井宮承仁法親王)は「十五六ニテ有ケルガ、カシコク、ワレハ宮ナリト名ノラレ」たので、慌てた武士等は宮を武士の小屋に奉じて唐櫃に据えたという(『愚管抄』)。明雲の首は持ち去られ、西洞院川で発見され、顕真が持ち帰ったという。「八條円恵法親王」は山科の「崋山寺辺被伐取了」(『玉葉』寿永二年十一月廿二日条)とされ、東山を越えて園城寺へ向かっていたのだろう。兼実は「未聞貴種高僧遭如此之難、為仏法為希代之瑕瑾、可悲」と嘆いている。

 兼実はこの法住寺殿の合戦を「夢歟非夢歟、魂魄退散、万事不覚、凡漢家本朝天下之乱逆、雖有其数、未有如今度之乱」と嘆くとともに、「義仲者是天下之誡、不徳之君使也、其身滅亡、又以忽然歟、愗生見如此之事、只可恥宿業者歟、可悲」と、ここでも法皇を強く非難する(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)。法皇はいわば被害者であるが、その根本的原因をつくったのは法皇自身およびその近臣である。まったくもって自業自得、もはや兼実は院をまったく信用していない様子がうかがえる。「法皇暗文簿、不知先例」(『玉葉』元暦二年正月廿日条)と記すなど、兼実は法皇の資質についても言及している。

 一方で「官軍悉敗績」して「奉取法皇了」という結果に、法皇に虐げられ鬱屈していた「義仲士卒等、歓喜無限」と溜飲を下ろしたのであった(『玉葉』寿永二年十一月十九日条)。藤原経房はこの状況を「院御方令逃落給之由有風聞、嗚咽之外更他事不覚」(『吉記』寿永二年十一月十九日条)と嘆き悲しむ。

 法皇御所を攻める叛逆行為を働いたにもかかわらず、義仲は謀叛人として咎められていない。もはや義仲を謀叛人だと糾弾できる公卿は兼実を含めて存在しなかったのだろう。義仲は夜に入って「入道関白(松殿基房入道)」を「五条亭(摂政基通邸であろう)」に招き(『玉葉』寿永二年十一月廿日条)、翌21日には「義仲内々示云、世間事申合松殿、毎事可致沙汰」という指示を出しており、義仲挙兵から松殿復権までわずかに2日という手際の良さから、義仲と松殿基房入道は以前から繋がっていたことがわかる。新院御所の亭主で院の「御愛物」であった摂政基通は合戦以前に宇治へ逃亡しており、摂政亭に基通は不在であった。

 義仲は入京後、平家と後白河院によって失脚し隠棲していた松殿基房を頼り、基房も宿敵平家を京中から追い出した義仲を通じて復権を目指すべく暗躍したのだろう。義仲にとっても平家の息のかかった摂政基通は疎ましい存在であったであろうから、義仲と基房は共通した利害関係を持っていたのである。

12,松殿基房入道の復権と法皇の幽居

 寿永2(1183)年11月21日夕刻、宇治へ逃がれていた摂政基通が帰還するが「前駈六人、共七八人、済々威光」(『玉葉』寿永二年十一月廿一日条)という派手なものであった。これを知った兼実は「忍テ可被入京歟」と苦言を呈している。なぜ基通がこのような振舞をしたのかは不明だが、摂政・氏長者の威光を主張したものであろうか。

 ところが夜になり、「停摂政前内大臣、以権大納言藤原朝臣師家可為摂政藤氏長者」と、基通の摂政停止、入道関白基房の子・権大納言師家(十二歳)の任内大臣・摂政就任が行われ、同時に藤氏長者も基通から師家へと「相譲」られた(『玉葉』寿永二年十一月廿二日条)。これは「自非参議任大臣幷摂籙事今度始之」(『山槐記』寿永二年十一月廿一日条)という先例なき任大臣であった。藤氏長者の「譲」によって「一ノ所ノ家領文書ハ、松殿皆スベテサタセラルベキ」とされ、「近衞基道殿ハ、ホロホロトナリヌル」(『愚管抄』)状態であった。殿下渡領および摂関家領と伝来の文書は、藤氏長者師家の父・松殿基房入道の沙汰とし、前摂政基通はこれらを強制的に接収された。基通は「ホロホロ」と打ち萎れて院に相談したのだろう。院は義仲に「賀陽院方ノ領ト云ハ、近衞殿ノテテノ中基実殿、賀陽院ノ御子ニナリテ伝ヘ給ヘル方ナレバ、ソレバカリヲバ近衞殿ニユルサルベシヤ」(『愚管抄』)と告げるも、義仲はこれを受け入れなかった。そして、義仲は法住寺殿で敵対した相伴源氏「伯耆守光長已下首百余」(『吉記』寿永二年十一月廿一日条)を五条河原に曝した。

 11月28日、新摂政師家の下文で義仲は八十余箇所の所領を賜る。実際は入道関白基房の沙汰によるものであるが、兼実はこれを「狂乱之世也」と嘆いている(『玉葉』寿永二年十一月廿八日条)。そして翌29日夜、院方に属した人々に対する解官処分が行われることとなる。まさに清盛入道が後白河院に対して起こしたクーデター「治承三年十一月政変」を彷彿とさせる「寿永二年十一月政変」の報復人事であった。

●寿永二年十一月政変の解官等者(『吉記』寿永二年十一月廿八日条)

人名 官途 続柄 備考・後任
藤原朝方 中納言    
藤原基家 参議、右京大夫    
藤原実清 太宰大弐    
高階泰経 大蔵卿    
平親宗 参議、右大弁    
源雅賢 右近衞中将、播磨守    
源資時 右馬頭    
源康綱 肥前守    
源光遠 伊豆守    
藤原章綱 兵庫頭    
平親家 越中守    
藤原朝経 出雲守    
平知親 壱岐守    
高階隆経 能登守    
源政家 若狭守    
源資定 備中守    
平知康 左衛門尉    
中原知親 左衛門尉   頼朝挙兵時の伊豆目代(山木兼隆親類)
藤原信盛 左衛門尉    
橘貞康 左衛門尉    
源清忠 左衛門尉    
清原信貞 左衛門尉    
藤原資定 左衛門尉    
藤原信景 左衛門尉    
卜部康仲 左衛門尉    
源季国 右衛門尉    
藤原友実 右衛門尉    
安倍資成 右衛門尉    
藤原時成 左兵衛尉    
藤原定経 左兵衛尉    
藤原実久 左兵衛尉    
平重貞 左兵衛尉    
藤原家兼 左兵衛尉    
大江基兼 右兵衛尉    
平盛茂 右兵衛尉    
藤原基重 右兵衛尉    
藤原重能 左馬允    
藤原道貞 左馬允    
藤原基景 左馬允    
藤原遠明 左馬允    
中原親仲 左馬允    
中原親盛 左馬允    
平盛久 左馬允    
解職
紀頼兼 官掌    
被止出仕
藤原兼雅 権大納言(無解官)    

 一方、備前守行家は11月9日の備前国府付近での戦いで敗れて以降、播磨国まで追い落とされていた。11月28日の合戦で「行家郎従百余人死去、或被生虜」という大敗を喫し、行家に属していた「■■■号木良先生参河■■■平氏也、国平男」という人物が京都へ帰還し、藤原経房に次第を報告している(『吉記』寿永二年十二月七日条)。また、『玉葉』では一日遅い11月29日に合戦が行われ、行家は「忽以敗績、家子多以被伐取了」であったと記されている。そして平家勢は「忽企上洛」という(『玉葉』寿永二年十二月二日条)

 この「号木良先生参河■■■平氏也、国平男」なる人物は、その後に具体的な活躍は見られないが、彼は常陸介平維衡の子、右衛門尉貞衡の子孫とみられる(『桓武平氏諸流系図』)。貞衡の五男・度津五郎貞国三河国宝飯郡渡津庄(豊川市小坂井町)に入り、その孫の五郎行衡幡豆郡吉良庄(幡豆郡吉良町)に入り「吉良五郎」を称している。その子・右衛門大夫良衡は五位の右衛門尉となるなど在京武官となっていたことがうかがえ、世代から見て「木良先生」とはこの「良衡右衛門大夫」と同世代となる(正確な系譜は不明である)。なお、右衛門尉貞衡の長男・安津三郎貞清は伊勢国安野津(津市)を本拠とし、その子・鷲尾次郎清綱は備前守忠盛の有力家子として活躍をしている。そして、その孫の鷲尾三郎家綱「住三川国吉良庄」といい、平家滅亡後に吉良庄の同族を頼ったものか。建久6(1195)年3月10日の頼朝東大寺参詣の供奉人交名に随兵として「吉良五郎」が見えるが、足利家諸氏はまだ吉良庄に入っていないので、彼はこの三河平氏の人物と考えられ、行家の麾下を離れたのちは御家人に列したと思われる。

●三河平氏系図(『桓武平氏諸流系図』)

 平維衡――平貞衡――+―平貞清―――平清綱―――平維綱――+―平顕綱
(常陸介)(右衛門尉)|(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)|(鷲尾次郎)
           |                  |
           +―平貞仲              +―平家綱 住三川国吉良庄
           |(陽明門院侍長)           (鷲尾三郎)
           |
           +―平貞国―――平遠衡―――平行衡――――平良衡
            (度津五郎)      (吉良五郎) (右衛門大夫)

●三河平氏系図(『尊卑分脈』)

 平維衡――平正度―――平貞衡―――――+―平貞清――+―平家衡 住伊勢国     +―平顕綱――――平顕清
(常陸介)(帯刀先生)(安濃津左衛門尉)|(中宮侍長)|(鷲尾太郎)        |
                    |      |              |
                    |      +―平清綱―――平維綱――――+―平良平――+―平良基
                    |       (鷲尾次郎)(鷲尾右衛門尉)|(桑名九郎)|(桑名孫太郎)
                    |                     |      |
                    +―平貞国―――――平遠衡         +―女子   +―平桓平
                     (陽明門院侍長)(住三川国吉良)       ∥     (摂津守)
                                            ∥
                                            ∥――――――平家清
                                            ∥
                                            平宗清
                                           (柘植弥平二左衛門尉)

13,義仲、平家との和睦をすすめる

 播磨国室泊(たつの市御津町)に駐屯していた平家勢に、義仲は「平氏之許、乞和親」という非常手段をとった(『玉葉』寿永二年十二月二日条)。また、法住寺合戦で義仲と対立した多田蔵人大夫行綱は、摂津国多田庄の「引篭城内、不可従義仲命」(『玉葉』寿永二年十二月二日条)という態度を示し、同類とみられていた行家の救援に向うことはなかった。義仲はすでに平家と対峙する力はなく、平家もこれを見越して義仲が乞うた和親についても「平氏不承引」という態度をとった(『玉葉』寿永二年十二月五日条)

 当時、「頼朝代官九郎齋院次官親能等」は伊勢国におり、去る11月21日、「院北面之下臈二人公友也」が伊勢国へ下って、九郎らに義仲乱逆の次第を告げている。九郎義経らはただちに鎌倉に使者を送り、使者が戻ったのちにその命に従って入京する旨を伝えた(『玉葉』寿永二年十二月一日条)。代官九郎義経等の軍勢はわずかに五百騎であったが、「其外伊勢国人等多相従云々、又和泉守信兼同以合力」と、伊勢国の国人らならびに和泉守平信兼(頼朝が討った伊豆目代兼隆の父)らも義経に合力した。信兼は伊勢平氏庶流だが平家家人ではなく、保元の乱(1156)時に朝廷に勅定により参会した武士として「下野守義朝、右衛門尉義康、候于陣頭、此外安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁」(『兵範記』保元元年七月十日条)が見えるとおり、独立した在京の代表的な武士だったのである。義経に合力したのも平家家人ではなく、義仲の院御所攻めに反発してのものであろう。

 12月1日、義仲は院御厩別当となり、朝廷のみならず院の牛馬をも管理する権限を得ることとなる。院御厩案主は「八嶋冠者」とあり(木村真美子氏『中世の院御厩司について』―西園寺家所蔵「御厩次第」を手がかりに―:「学習院大学史料館紀要」10)、尾張源氏の一流・佐渡式部大夫重成の子・八嶋二郎時清か(『尊卑分脈』)。同族の葦敷太郎重隆、高田四郎重家、泉次郎重忠も義仲の有力同盟者として名を連ねる。

 12月3日、義仲は院に「頼朝代官日来在伊勢国、遣郎従等追落了、其中為宗之者一人、乍生搦取了」と、頼朝代官を追捕したことと「院中警固、近日陪於日来、至女車マテ、加検知」と、警固のために女車まで検知することを奏上し、院の動きを牽制した(『玉葉』寿永二年十二月四日条)。さらに義仲のもと洛中守護を行っていた挙兵以来の同盟者と言える佐渡守源重隆、右馬助源信国(村上信国)や、右衛門尉源有綱らが相次いで解官されているが(『吉記』寿永二年十二月四日条)、法住寺合戦時に多田行綱や源光長と同様に院方となって義仲と対立した可能性が高いだろう。とくに右衛門尉有綱は源三位頼政入道の嫡子・伊豆守仲綱の子で挙兵以前より頼朝と交流を持っていた人物とみられ、「為征土佐国住人家綱、俊遠等、被差遣伊豆右衛門尉有綱、於彼国有綱、以夜須七郎行家、為国中仕承、今暁首途、件家綱等、依誅土左冠者科如此」(『吾妻鏡』寿永元年十一月廿日条)とあるように、寿永元(1182)年11月20日に頼朝の命により土佐国へ向けて鎌倉を出立している。

●寿永二年十一月政変の解官等者(『吉記』寿永二年十一月廿八日条)

人名 官途 続柄 備考
源重隆 佐渡守 尾張源氏 八島佐渡守重隆
源信国 右馬助 信濃源氏 村上太郎信国
藤原助頼 左衛門尉 利仁流藤氏 越前国人・右衛門大夫宗景の子。義仲に協力した稲津新介実澄の従兄弟。
源経国 左衛門尉 摂津源氏 源頼政入道の叔父・山縣三郎国直の曾孫
平盛家 左衛門尉 伊勢平氏  
源有綱 右衛門尉 摂津源氏 源頼政入道の子・伊豆守仲綱の一子。のち、源義経の家人となる。
源義任 左兵衛尉 河内源氏? 源義佐か。
平康盛 右兵衛尉 伊勢平氏? 「故伊豆右衛門尉家人前右兵衛尉平康盛也」(『吾妻鏡』建久二年十一月十四日条)

 義仲は後白河院を平家のように政権から締め出して幽閉するようなことはせず、入道関白基房と結んで、その子・師家を藤氏長者・内大臣、摂政に祭り上げ、院の権威を利用して事実上の政権運営者となる道を選んでいる。五条亭を院御所として公卿等の参院も許していたが、その参院の人物調査は女車も含めて徹底的に行われた。また左馬頭、院御厩別当として朝廷及び院の公的な行事や軍事実務権も掌握。12月3日、入道関白によって義仲は「領八十六箇所」が与えられ(『玉葉』寿永二年十二月三日条)、12月5日に院庁下文で「平家領義仲可相領之由」(『玉葉』寿永二年十二月五日条)が仰せ下された。もとより後白河院の本心ではなかろうが、事実上、院や朝廷の守護を行う公的な立場を手に入れている。

 しかし、西からは平家、東からは頼朝代官の手勢が近づいており、叔父の行家や盟友であった源氏諸勢力も多くが義仲から離れてしまった今、義仲には叔父の美濃守義広の軍勢と家子しか残されていなかった。義仲にはすでに実戦力はほとんどなく、実態は張り子の虎だったのである。それだけに義仲は「与平氏和平事、義仲内々雖骨張」と、平家との「和平」に一縷の望みをかけていたのであった。しかし、弱みを見せたくない義仲は表向き「外相示不受之由」していたのであった。

 このような中、平家方が京に迫ったことで義仲は、「来十日、義仲奉具法皇、可向八幡辺、自彼為討平氏、可赴西国」(『玉葉』寿永二年十二月七日条)と、院を奉じて平家を討つことを宣言。「当時御所五条殿」に怪異があったため、法皇は「欲有遷御八条院」と、八条院への遷御を望んだが、義仲はこれを拒んで「為討西国可罷向也、而法皇御在京、非無不審、山門騒動之由風聞、仍奉具法皇欲下向」という提案をしていた。占いでも「不快」との結果であったが、左大臣経宗は「御占事不可及沙汰、義仲所申可然、早可有御幸」と義仲の案に賛成する(『玉葉』寿永二年十二月九日条)。彼らは当初の考え通り、院の影響力を以て戦乱の早期解決を望んでいたのであろう。そして、義仲は「忽八幡御幸之儀」を行おうとするが、兼実が「賢名之士」と認める藤原長方卿が使者を通じ「穢中八幡御幸如何、縦雖無御参社、猶神慮有恐、太以不可然」と義仲を説得。義仲もこれを受け入れ「因茲忽然而延引、穢以降可給候御幸之由定仰了」と行幸延期と決定する。

 この当時、義仲は盛んに平家との和親を進めており、俄かに平家追討の軍を起こすとは思えず、さらに追討できる軍事力もなかった。法皇の八幡御幸については「縦雖有御幸、法皇之外他人不可参、不可有行幸、入道関白已下諸卿留洛中、万事可致沙汰、為不損亡京都、申行御幸之由、義仲令称」と、義仲は八幡御幸には法皇のみが行き、天皇はもちろん松殿基房入道以下の諸卿もすべて京都に留まることを指示している。これは平家が和睦の条件として法皇の身柄を要求したことに他ならないのではなかろうか。そして敵対不能な義仲は当然呑まざるを得ず、八幡御幸へと繋がったものであろう。

 そして12月10日、「可追討頼朝之由、改宣旨被成下院庁下文」と、義仲は頼朝追討の院庁下文を下されている。夜には入道関白の沙汰により臨時除目が行われているが、この際みずから左馬頭を辞任している(『吉記』寿永二年十二月十日条)。この左馬頭辞任も不自然であることから、代々平家が担ってきた左馬頭の辞任も平家の要求のひとつであった可能性が高いだろう。

●寿永二年十二月十日臨時除目(『吉記』寿永二年十二月十日条)

人名 官途 続柄 備考
藤原俊経 参議(兼)   勘解由長官、式部太輔、備後権守(『公卿補任』)
藤原隆房 参議   元蔵人頭、左近衞中将
藤原兼光 参議   元蔵人頭、左中弁、右大弁
藤原光雅 左中弁   元右中弁
藤原行隆 右中弁   元権右中弁
藤原光長 権右中弁   元左少弁
源兼忠 左少弁   元右少弁
平基親 右少弁   還任
藤原泰能 式部少輔    
藤原範遠 兵部少丞    
惟宗友成 少内記    
源義経 若狭守   山本義経。元伊賀守。
藤原済基 丹波守 藤原済綱子、義仲猶子 義仲為猶子申補、可知行云々
藤原忠良 右近衞権中将   元右兵衛督、無望推被任、及彼御辺成不審歟
藤原隆房 右兵衛督    
源通資 蔵人頭    
藤原光雅 蔵人頭    
辞退
源義仲 左馬頭    
僧事
俊堯 天台座主   権僧正
本来は昌雲を第一、全玄が第二であったが、
義仲との仲で補任されたとする

 これ以降、義仲は平家追討を止め、頼朝追討へと完全に軸足を移すこととなる。そして12月13日、「与義仲和平事一定」となり、「平氏入洛来廿日云々、或又明春」(『玉葉』寿永二年十二月十三日条)という風聞があった。そして12月15日、左大弁経房のもとに「鎮守府将軍秀衡」宛の「早左馬頭源義仲相共率陸奥出羽両国軍兵、可追討前兵衛佐頼朝」(『吉記』寿永二年十二月十五日条)という院庁下文案が寄せられ、経房はこれに加判して返却している。この院庁下文も後白河院が直接指示をしたとは考えられず、松殿基房入道と義仲による院庁への強要であろう。これは12月10日の義仲への「可追討頼朝之由」の院庁下文と対を成しており、義仲は奥州の秀衡にも院庁下文を通じて頼朝追討について同調を命じ、頼朝との対決に突き進んだのであろう。義仲と平家の和睦は「平氏入洛来廿二五八日之間必然也、門々戸々営々、或説与義仲和親、或不然」(『吉記』寿永二年十二月十五日条)と、諸説入り乱れる状況にあり、12月24日に兼実邸を訪れた大外記頼業は、義仲と平家の和平が成立し「西海主君入御者、当今如何、若六条院之躰歟」と不安を述べている。

 12月29日、小槻大夫史隆職が兼実を訪ねて「平氏義仲和平、一定之由、以忠清法師説聞了云々、今日和奏云々、左大臣参陣、有不堪定」と、平家家人の「忠清法師」から聞いたという報告があった(『吉記』寿永二年十二月廿九日条)義仲は平家との和平を成立させたのは確実で、一尺の鏡面を鋳造して八幡に奉納し、起請文を奉じたという(『玉葉』寿永三年正月九日条)

 ところが、翌寿永3(1184)年正月4日、兼実は「頼朝今日出門、決定可入洛」との風聞を耳にする。例の如く「虚言歟」と信じていないが(『玉葉』寿永三年正月四日条)、翌5日、前源中納言雅頼が兼実邸を訪れ「頼朝之軍兵在墨俣、今月中可入洛之由」(『玉葉』寿永三年正月五日条)を聞く。雅頼の家人である齋院次官親能は頼朝代官として近江・伊勢におり、その情報には一定の信憑性があったとみられる。さらに翌6日には「坂東武士已越墨俣入美乃了」という情報が齎され、「義仲大懐怖畏」という(『玉葉』寿永三年正月六日条)

 義仲の軍勢はその数を著しく減らし、すでに大軍を迎え撃つことは不可能であった。ともに京洛の地を守衛した諸源氏勢力の支持を失って離散・仲違いし、また平家によって討ち果たされていたためである。義仲は頼朝との戦いに勝ち目はないことを悟り、正月11日明方に「奉具法皇、決定可向北陸、公卿多可相具」(『玉葉』寿永三年正月十日条)こととしたのであった。ところが、直前になって北陸下向を停止している(『玉葉』寿永三年正月十一日条)。これは、義仲のもとにいた平家の使者の指示によるものであった。平家側は「依再三之起請、存和平義之處、猶奉具法皇、可向北陸之由聞之、已為謀叛之儀、然者同意之儀可用意」と義仲に通告していたのである。和平の条件のひとつが法皇の身柄引渡しであったと考えられることから、義仲の行動を平家方が強く非難したのであろう。これを受けた義仲は、北陸下向のために院中守護として配置していた兵士らを「第一之郎従字楯」を遣わして召し返した(『玉葉』寿永三年正月十二日条)。平家の脅迫に抗えなかったためであろう。

 正月13日、本来はこの日に平家は入洛の予定であったが、義仲による院の北陸奉具の風聞、和平成立後の丹波国での敵対行為、十郎蔵人行家の摂津国渡邊での敵対行為の三か条を挙げて、義仲および院を牽制している(『玉葉』寿永三年正月十三日条)。一方で、義仲は近江に駐屯する頼朝勢への対応にも苦慮しており、義仲自身の出陣も「有無之間変々七八度、遂以不下向」と見送られる有様であった。義仲はこれを「是所遣近江之郎従以飛脚」からの情報として「九郎之勢僅千余騎云々、敢不可敵対義仲之勢」であり、併せて院へも「仍忽不可有御下向云々、因之下向延引」という苦しい言い訳をしているが、頼朝勢の実情を熟知している義仲は、もはや身動きがとれない状況となっていたのであった。

 一方、このころ鎌倉においても波乱が起こっていた。頼朝は「介八郎ヲ梶原景時シテウタセ」たのである(『愚管抄』)。時期は一説に「而寿永元十二廿二父子共為鎌倉大将被誅了」(『中条家文書』)とあることから、年は誤謬として寿永2(1183)年12月22日と思われる。この日、上総介八郎広常は梶原景時と「双六」を打っていたが、景時は「サリゲナシニテ盤ヲコヘテ、ヤガテ頸ヲカイキ」ったという。「東国ノ勢人」で「功アル者」であった広常を討った理由は、事実かは不明だが、建久元(1190)年12月に頼朝が法皇に面会した際に、広常を討った理由を、広常が「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサン」(『愚管抄』)と発言したことを朝廷に対する「謀反心ノ者ニテ候」(『愚管抄』)と捉え、「カカル者ヲ郎従ニモチテ候ハバ、頼朝マデ冥加候ハジト思ヒテ、ウシナイ候」と申し上げたという。

 広常の殺害は翌寿永3(1184)年正月1日に「去冬依広常事、営中穢気之故也」とあることから、おそらく営中で起こった事件と考えられ、侍所であろう。嫡男・小権介能常も誅され、兄弟一族は捕らえられて所領を没収された。頼朝はこの広常殺害により穢れがあることから、鶴岡八幡宮への参詣を見送り、藤判官代邦通を奉幣の御使としている(『吾妻鏡』寿永三年正月一日条)

 正月8日、上総国一ノ宮の神主・兼重から「故介広常存日之時有宿願、奉納甲一領於当宮宝殿」ことを聞いた頼朝は「定有子細事歟、被下御使、可召覧之」と言って、藤判官邦通と一品房昌寛を玉前神社へと派遣。広常奉納の甲冑を引き取るに当たり、「彼奉納甲者、已為神宝、無左右難給出之故、以両物取替一領之条、神慮不可有其崇歟」と、代わりの「御甲二領」を納めた。頼朝は広常の「宿願」を「定有子細事」と表現しており、以前より謀叛の風聞があったのかもしれない。

 正月17日、邦通・昌寛・兼重は広常奉納の甲冑(小桜皮縅)を相具して鎌倉に帰還。幕府に運ばれた鎧櫃は、さっそく頼朝の手によって開けられ、鎧の高紐に結び付けられていた願文を繙く。ところが、その願文は「奉祈武衛御運之願書」であった。

●『上総権介平朝臣広常願文』(『吾妻鏡』)

 敬白 
  上総国一宮宝前
  立申所願事
   一 三箇年中、可寄進神田二十町事
   一 三箇年中、可致如式造営事
   一 三箇年中、可射万度流鏑馬事
  右志者、為前兵衛佐殿下心中祈願成就東国泰平也、如此願望、令一々円満者、
  弥可奉崇神威光者也、仍立願如右
 
   治承六年七月日 上総権介平朝臣廣常

 頼朝はこれを読み、広常は「不存謀曲之條、已以露顕之間、被加誅罰事、雖及御後悔」んだものの、殺害してしまった以上は「於今無益、須被廻没後之追福」こととした。そして、広常に縁座して囚人とされていた広常弟・天羽庄司直胤、相馬九郎常清らは「優亡者之忠」て、ただちに厚免。頼朝は2月14日、「上総国御家人等」「多以私領本宅如元可令領掌」ことの御下文を下したという。

 ただし、寿永3(1184)年に広常は無実であったことが発覚していたにもかかわらず、前述のように建久元(1190)年12月、頼朝は法皇に広常を討った理由を謀叛の疑いのためと話している。これは法皇からの問いに誤って殺害したとは言えず、このような発言になった可能性もあるが、実際は法皇も広常が誤殺された真実を重々知りながら敢えて頼朝に広常殺害の理由を問うたのだろう。そして、頼朝はその意図を瞬時に理解し、却って朝廷を重んじる機転を聞かせた返答をしたのであろう。そしてこの掛け合いの様子を聞いた慈円も、為政者同士の静かな鍔迫り合いを察して「コマカニ申サバ、サルコトハヒガ事モアレバ、コレニテタリヌベシ、コノ奏聞ノヤウ誠ナラバ、返々マコトニ朝家ノタカラナリケル者カナ」(『愚管抄』)と含みを持った感想を記したと思われる。

14,木曾義仲の最期

 義仲は寿永3(1184)年正月14日に「奉具法皇、可向近江国云々、事已一定也」(『玉葉』寿永三年正月十四日条)と、法皇を奉じて近江への出陣を決断したが、前日の15日に法皇は「御赤痢」を理由に「義仲独可向云々、或云、不可向」と峻拒した(『玉葉』寿永三年正月十五日条)。そしてこの日、義仲は「可為征東大将軍之由、被下宣旨了」とあるように「征東大将軍」の宣旨を下された。頼朝追討の院庁下文、奥州秀衡への頼朝追討の院庁下文と合わせて、征東大将軍に任じる宣旨が下されたことで、義仲は頼朝を追討する大義名分を得たこととなった(『玉葉』寿永三年正月十五日条)

 一方で翌16日、「義仲所遣近江国之郎従等、併以帰洛、敵勢及数万、敢不可及敵対之故」(『玉葉』寿永三年正月十六日条)と、近江に派遣されていた義仲郎従が戦わずして京都へ戻ってきた。その理由は、頼朝勢が大軍であり、もはや敵対できないということであった。「敵勢及数万」は近江国に隠れて展開していた蒲冠者範頼率いる軍勢とみられる。

 義仲はすでに平家の要求を呑んでその帰京を推進する、平家にとっての「捨て駒」となっていたのであろう。しかも平家の敵対勢力の追討も指示されていたと思われ、寡兵にもかかわらず「分遣軍兵於行家許可追伐」(『玉葉』寿永三年正月十六日条)とあるように、摂津渡邊で平家と交戦した十郎行家を討つ軍勢を派遣せざるを得なかったのはその表れであろう。

 義仲は樋口次郎兼光を和泉国へ派遣することとなるが、もともと行家は義仲と対立関係ではあったが、直接交戦しておらず、行家追討は義仲にとって喫緊の問題ではなかった。それにもかかわらず、寡兵を分けてまで追討していることは、平家による示唆以外には考えにくく、かつ平家は義仲を軍事的に支援しておらず、平家は義仲の弱みをうまく利用して、還都ならびに法皇奪取、行家追捕ならびに頼朝追討、そして義仲の自滅という、みずからの力を使わずして多方面での成果を得る策に出ていたと考えられる。「凡義仲日来無支度、毎年越度且相待平氏之間、如此被打了、其勢無幾、勝劣可然事云々、是偏蒙天責也」(『歴代皇紀』)とあることからも、無勢の義仲の足元を見た平家が、義仲の和平案を受け入れる代償として、平家を京都へ招き入れることを指示していたと考えられよう。正月16日、「今日奉具法皇、義仲可向勢多」という風聞があったが、取り消されて、義仲郎従は「如元警固、院中可祇候」(『玉葉』寿永三年正月十六日条)ということとなっている。これも平家による圧力の結果であろう。この日、頼朝勢が少々勢多まで到着したという報告が入っている。

 正月19日、「義広三郎先生」を大将軍とした「武士等多向西方」といい、これは行家追討の軍勢または宇治田原方面への防衛兵であろうと推測されている(『玉葉』寿永三年正月十九日条)。また、頼朝勢は勢多方面に展開しているものの、まだ橋を渡って石山方面に進出はしていないという(『玉葉』寿永三年正月廿日条)。ところが、石山方面へ進むべく控えていた軍勢は蒲冠者範頼の隠れた本隊であって、実戦を主目的としない「頼朝代官」の九郎義経・斎院次官親能の五百余騎は、勢田から京への玄関口である田原口を経由して宇治へ進軍していた。

 一方、義仲は宇治を固めるべく「大将軍美乃守義広」をして「自昨日在宇治」に展開しており、正月20日、「九郎頼朝舎弟、於宇治合戦等」した。この合戦で義経勢は「三郎先生義広為義子也、無程被打落事、即九郎先陣懸入京中於六条川原(『歴代皇紀』)と、義広勢を打ち破り、その勢いのまま大和大路を経て六条川原から京都へとなだれ込んだ。「即東軍等追来、自大和大路入京於九条川原辺者、一切無狼藉最冥加也、不廻踵到六条末了」(『玉葉』寿永三年正月十九日条)とあり、義経勢は鴨川の東側を南北に走る大和大路を北上して、六条大橋から京都に入ったとみられる。

 義仲は「独身在京之間、遭此殃」い、急遽参院して法皇に御幸を求め、御輿を寄せて乗せ奉ろうとしたところ、「敵軍已襲来」と、五条御所に義経勢が襲来。もはや法皇を具しての逃亡は無理であると判断。突然の襲来に率いる兵はわずかに三、四十騎あまり。一矢を射ることもできずに逃げ落ちたという(『玉葉』寿永三年正月廿日条)。また、「始義仲聞之、郎等楯行綱雖向戦、無程被打落了」ともあり、側近の楯六郎親忠とともに六条川原へ迎え撃つも敗北した可能性もある(『歴代皇紀』)

義仲墓
義仲寺境内の義仲墓

 その後、義仲はいったんは丹波国へ逃れんと西の長坂方へ進んだが、思い直して勢多あたりの軍勢と合流しようと東山を越えて近江国へ至った。「義仲向大津手字今井方、雖落加今井、九郎手猶自京追責、終義仲幷今井打取斬首了、大津方東国手蒲冠者、甲斐武田一族也」(『歴代皇紀』)とあり、義仲は近江国大津にいた今井次郎兼平の軍勢との合流を図ったようである。そして、大津のあたりに展開していた頼朝代官・蒲冠者範頼と甲斐武田一族との合戦の末、「阿波津野辺」で合戦となり、討ち取られた(『玉葉』寿永三年正月廿日条)。享年三十一。

 また、義仲近臣・根井小弥太行親(楯六郎親忠父)も「義仲為宗郎等根井行親等於京被打了」(『歴代皇紀』)とあるように、京中で討たれたという。樋口次郎兼光は義仲の命を受けて備前守行家追討のために和泉国へ派遣され、行家勢を打ち破って行家を負傷させたうえ、その郎従を多く討ち取っていたが、おそらく宇治田原手の義広壊走の報を受けたのだろう。「二月十日」に京都へ戻り、七條朱雀辺で九郎義経勢と合戦して敗北。鞍馬山へと逃れるが、捕縛された。

 義仲郎従の「信乃高梨」も清水寺で捕われて首を落とされ、正月26日、検非違使義経の沙汰で「義仲幷高梨、根井、今井頸四」が大路渡され、兼光は生きたままで曳かれたという(『歴代皇紀』)。なお、兼光が入京した「二月十日」では時系列的に有り得ず、義経勢が入京した「二十日(廿日)」の誤記である。「後日樋口被切首事」(『歴代皇紀』)とあり、2月2日に斬首されて梟首された(『吾妻鏡』寿永三年二月二日条)樋口兼光は捕縛ののちは渋谷庄司重国に預けられていたが、「武蔵国兒玉輩」と親昵であり、兒玉等の人々は「彼等勲功之賞」の代わりに兼光の助命を九郎義経に嘆願。これを感じた義経も兼光助命を院奏しているが、兼光の罪科は軽からずとして許されず、処刑されるに至った。重国郎従の「平太」が処置を命じられたが、斬り損じるという不始末を犯す。見かねた重国次男・渋谷次郎高重は片手負傷の身ながら、兼光の首を片手切りに打ち落とした(『吾妻鏡』寿永三年二月二日条)

 入京した「東軍一番手」は「九郎軍兵加千波羅平三」であり、義経に付けられていた梶原平三景時である。その後、五条御所のあたりに軍兵が集まり、「法皇及祇候之輩、免虎口」との安堵とともに、「不焼一家、不損一人、独身被梟首了、天之罰逆賊、宣哉」(『玉葉』寿永三年正月廿日条)と兼実は喜びを爆発させる。義仲入京から半年、法住寺合戦で院から実権を奪取してから六十日ということに、兼実は平治の乱を思い起こしていた。

15,平家追討使の進発

 義仲が討たれたことにより、義仲と組んで復権を果たした「入道関白」は一気にその権勢を失うこととなる。「入道関白」は右少将顕家を二度にわたって法皇のもとに遣わし「上書」するが、法皇は「無答」であった。義仲と結んだことの弁解書であろうが、都合よく利用された法皇の怒りは大きかったのであろう。またこのとき「新摂政(師家)」も顕家の車に同乗して参院していたが「被追帰了」という(『玉葉』寿永三年正月廿日条)

 翌21日、兼実を「諫人」は「新摂政不可安堵、下官可出馬」(『玉葉』寿永三年正月廿一日条)という。基通の任摂政を許すべきではなく、兼実が摂政の任に就くべきであると。このときの「諌人」とは前中納言雅頼である。兼実邸を訪れた雅頼卿は、頼朝代官として入洛した「齋院次官親能前明法博士広季子」との話を語っている。親能は主君である前中納言雅頼卿の邸宅を訪問、寄宿するが、このとき「若可被直天下者、右大臣殿可知食世也、無異議」と述べたという。雅頼は「此条可及上奏歟如何」と問うが、親能は「若有尋者可申此旨之由所存也」と答えた。しかし、「無尋者可黙止歟」と聞くと「可進申之由ハ不承」という(『玉葉』寿永三年二月一日条)。兼実はなんとも頼りない親能を「不覚人」と記すが、頼朝が兼実を推していることははっきりし、また雅頼も摂政として名乗りを挙げるよう勧めたのであった。ただ、兼実はこれを喜ぶ様子はない。兼実は「末世之作法進退、有恐天下不棄国之条、雖似有憑政道之治乱、偏可在君之最、我君治天下之間、乱亡不可止、不肖之者、不当委任之仁、恐必有後悔歟、加之、微臣於社稷不惜身命之条、仏天可有知見、然則若有世之運者、天下可棄士、無運者又所不欲一旦之浮栄也」という思いを吐露する。

 しかし、法皇の意向によって「前摂政可還補之由」という。兼実は前摂政基通が「法皇之愛物也」であり、還補は「尤可然、弥下官不能出詞」と強く反発したのであった(『玉葉』寿永三年正月廿一日条)。一方で法皇は「入道関白」に対しては大きな嫌悪感があり、かつて子息の権中納言師家を摂政に据えんと画策したこと、法皇が摂関家領分与を否定する勅言を逆手にとって、師家が摂政・氏長者となった際には基通に僅かな荘園すら譲ることなく独占したこと、そして平家追討に際して西国行幸をしきりに勧めたことなど、数々の恨事を「難忘」(『玉葉』寿永三年二月十一日条)と言って基房入道を排除している。

 正月22日、法皇は今後のことについて兼実に問うた。まず神器を保持する平家追討について。兼実は神器の安全が謀れるならば追討すべきであるが、頼朝にも諮るべきだという。義仲の首については大路を渡すべきであるとし、頼朝の賞については頼朝の望むもの、頼朝の上洛はすぐに行うべきであるとした。また御所についてはこの旧五条摂政亭から至急移るべきで、八条院御所の他はないと述べている(『玉葉』寿永三年正月廿二日条)。なお、頼朝へは前日21日に使者を派遣しており、2月20日に京都に帰参した使者によれば、「頼朝申云、勧賞事只在上御計、過分事一切非所欲」という(『玉葉』寿永三年三月廿日条)

 平家が指嗾した義仲が、頼朝勢によって追討されてしまったことで、平家の無条件の還都計画は水泡に帰した。法皇は平家追討を行う意向を示し、兼実邸には観性法橋と藤原範季両名が院使として訪れ「平氏猶可被追討之由被仰下了」ことを伝えた(『玉葉』寿永三年正月廿三日条)。兼実は拙速な平家追討は神器の安全にも関わることであるとして反対の立場を取っていたが、大外記頼業の注進によれば、平家追討の宣旨はすでに前日の22日に下されていたのだった。

16,福原、一ノ谷の戦い

 寿永3(1184)年正月26日、範頼・義経が率いる追討使は出門し、29日の出京に備えていたが、前日28日に突如「九郎之従類」が「大夫史隆職」邸を追捕して乱暴を働き、隆職が兼実に助けを求めるという事件が起こった(『玉葉』寿永三年正月廿九日条)。なんら身に覚えのない隆職は義経に使者を送って「縦其身雖有罪科、可停止当時狼藉」と怒りを込めて要求。さらに書面を齋院次官親能(頼朝代官)の主君・前中納言源雅頼に送り、雅頼邸に寄宿している親能へ状況説明を求めた。

 義経はすぐに「此事、平氏上書札於京都、被搦取件使者、各持報札云々、其中有之、史大夫之者可召進之由、為左衛門尉時成奉行、自院被仰下、仍相尋之間、罷向大夫史之宅、次第不敵、於狼藉者早可止」と、院北面の藤左衛門尉時成から齎された院宣を誤解していたと弁明。狼藉の停止を約束した。また、これは義経の独断で行ったことで親能はまったく知らされていなかったようで、雅頼からの返事にも「親能申一切不知之由」とのことであった。雅頼は嫡子・左少弁兼忠(親能が乳父を務めていた)の舅である「宰相中将(藤原定能)」にも問い合わせ、返事はやはり「全不知食事」であった(『玉葉』寿永三年正月廿九日条)。法皇からの突然の命であったとはいえ、「史大夫」と「大夫史」を間違えるという、熟れない義経の粗忽さが表れている。それ以上に万事を諮るべき親能にも相談しないままに行われた狼藉であることは、その後の義経の行動にもあるように、直情独断的な性格が垣間見えるのである。

 翌正月29日、蒲冠者範頼と九郎義経は出京。大手の「加羽冠者」(蒲冠者範頼)は浜地から福原を目指し、「九郎」(九郎義経)は搦手として丹波国を経由して福原へ向かう二手からの進軍計画であった。なお、「東国九郎、加羽、保田等」が「丹波路、摂津路」の二路に分かれて進軍した(『歴代皇紀』)とあり、実際には範頼、義経に加えて「保田(安田義定)」が独立した勢力として加わっていたことがうかがえる。『吾妻鏡』では安田義定は義経のもと搦手の一人とされており、義経・義定勢が丹波経由の軍勢であったとみられる。

 2月1日の報によれば、「向西国追討使等、暫不遂前途、猶逗留大江山辺云々、平氏其勢非尩弱、鎮西少々付了云々、下向之武士、殊不好合戦」(『玉葉』寿永三年二月二日条)とあり、この軍勢は丹波へ向かう義経勢であろう。

 なお、平家と安徳天皇は法皇の院宣に従って、正月26日には「解纜遷幸摂州、奏聞事由、為随 院宣行幸近境」と、摂津国福原へ行幸しているが、2月4日に「亡父入道相国之遠忌、為修仏事」を執り行わんとするも、不穏な状況下に「不能下船」であり、福原の南の「輪田海辺」に滞在していたという(『吾妻鏡』寿永三年二月四日条)

 一方、2月3日には備前守行家が法皇の召しによって入洛した(『玉葉』寿永三年二月三日条)。行家は「其勢僅七八十騎」という状況で、行家は平家だけではなく、その意を受けた義仲家子・樋口兼光にも大敗しており、すでに限界であったのだろう。当時の法皇は八条院を御所として八条院と同居しており、八条院蔵人の肩書であった行家は八条院に泣きつき、法皇から頼朝へ行家赦免の使者が送られたのであろう。これにより頼朝も勘気を免じたという。

 2月5日、蒲冠者範頼、九郎義経の両勢がそれぞれ摂津国に着陣(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)。京都へ発せられた飛脚は翌2月6日に入洛しており、「平氏引退一谷、赴伊南野云々、但其勢二万騎云々、官軍僅二三千騎云々、仍可被加勢之由申上」という(『玉葉』寿永三年二月六日条)。このとき常胤は蒲冠者範頼の大手勢として加わり、相馬次郎師常・国分五郎胤通・東六郎大夫胤頼を同伴している(『玉葉』寿永三年二月六日条)

●摂津侵攻の追討使

大手軍
【大将】
蒲冠者範頼

●五万六千余騎
小山四郎朝政 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信 下河辺庄司行平 長沼五郎宗政 千葉介常胤
佐貫四郎広綱 畠山次郎重忠 稲毛三郎重成 榛谷四郎重朝 森五郎行重 梶原平三景時
梶原源太景季 梶原平次景高 相馬次郎師常 国分五郎胤通 東六郎胤頼 中條藤次家長
海老名太郎 小野寺太郎通綱 曾我太郎祐信 庄三郎忠家 庄五郎広方 塩谷五郎惟広
庄太郎家長 秩父武者四郎行綱 安保次郎実光 中村小三郎時経 河原太郎高直 河原次郎忠家
小代八郎行平 久下次郎重光        
搦手軍
【大将】
九郎義経

●二万余騎
遠江守義定 大内右衛門尉惟義 山名三郎義範 齋院次官親能 田代冠者信綱 大河戸太郎広行
土肥次郎実平 三浦十郎義連 糟屋藤太有季 平山武者所季重 平佐古太郎為重 熊谷次郎直実
熊谷小次郎直家 小河小次郎祐義 山田太郎重澄 原三郎清益 猪俣平六則綱  

 平家は「同三年正二月比、平家悉発西国、軍勢福原以南群居播磨室幷一谷辺」と、すでに正月中に旧都福原周辺に陣所を築いて、福原周辺の守備を固めていたのである。西側の要衝一ノ谷には「為其城重々堀池等」という堅固な陣を構築し、その勢は公称「六万騎」という(『歴代皇紀』)

 こうした状況の中で2月6日に宗盛のもとに届けられた「修理権大夫送書状」によれば、「依可有和平之儀、来八日出京、為御使可下向、奉勅答不帰参之以前、不可有狼藉之由、被仰関東武士等畢、又以此旨、早可令仰含官軍等者」といい、「和平之儀」について、来る8日出京の院使が安徳天皇の勅答を賜って帰京するまでは、戦闘行為を行わないことを関東武士等に順守させるので、平家においても守るよう要請したのである(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)

 当時の源平の兵力は、権中納言雅頼から兼実への戦況報告の中でも「平氏奉具主上着福原畢、九国未付、四国紀伊国等勢数万云々、来十三日一定可入洛云々、官軍等分手之間、一方僅不過一二千騎云々、天下大事、大略分明」(『玉葉』寿永三年二月四日条)とある通り、追討使の源氏勢が平家勢の十分の一程度のでしかないという悲観的な内容であった。実数は不明だが、平家勢はいまだ九州の兵力が加わっていない状況にあっても追討使より圧倒的な優位に立っていたことは間違いなく、また瀬戸内の制海権も掌握していた中で、追討使が正面から攻撃することは現実的ではなかったであろう。法皇は平家追討使を派遣させた直後に、理由もなく「和平之儀」を持ち出すことは考えにくく、この院宣は法皇による明らかな偽計であろう。

 一方、院宣に応じた宗盛は、「相守此仰、官軍等本自無合戦志之上、不及存知、相待院使下向」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、約定を守り、8日出京という「和平之儀」の院使を待っていたという。ただし、ただ手を拱いていたわけではなく、源氏勢が二手に分かれたことを聞いた平家は、「新三位中将資盛卿、小松少将有盛朝臣、備中守師盛、平内兵衛尉清家、恵美次郎盛方」らを「当国三草山(加東市上三草)」に送り、西から一ノ谷へ向かう九郎義経勢に備えている。義経勢は三草山の東側に布陣して平家勢と対峙し、その距離はおよそ三里程度であった(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)

●三草山の平家勢

新三位中将資盛卿
●七千余騎
小松少将有盛朝臣 備中守師盛 平内兵衛尉清家 恵美次郎盛方

 その他、平家の人々が福原周辺にどのように在陣していたのかは具体的には不明ながら、「浜地」を福原に向かっていた大手の範頼勢に備えたと思われるのが「本三位中将重衡」「通盛卿、忠度朝臣、経俊」(『吾妻鏡』寿永三年二月十五日条)、西の一ノ谷から山手方面を抑えていたのは「新中納言知盛卿」(『源平盛衰録』)「経正、師盛、教経」「敦盛、知章、業盛、盛俊」(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)であったろう。

 宗盛は院使「修理権大夫」「不可有狼藉之由」をあくまで守り、「官軍等本自無合戦志」という状況にあったという(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)。ところが、三草山東側に布陣していた義経は「如信綱、実平加評定」と、田代冠者信綱・土肥次郎実平と評定を行うと、2月6日早暁に「襲三品羽林」ってこれを潰走させた(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)

 三草山を破った義経勢は南下して、2月7日未明、一ノ谷の後山(鵯越)まで進んだ。このとき「武蔵国住人熊谷次郎直実、平山武者所季重等」が別動し、早朝に一ノ谷陣の海側から源氏の先陣と高名して攻め寄せたという。これを聞いた平家方の「飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛尉盛次、上総五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景清等」が二十三騎で木戸口から繰り出して合戦となった(『吾妻鏡』寿永三年二月七日条)

 『歴代皇紀』によれば7日卯剋、まだ夜も明けぬ早朝、源氏勢は「自後山偸入放火」(『歴代皇紀』)したという。『玉葉』においては、参議定能に宛てられた義経と範頼からの合戦子細の報告で「自辰刻至巳刻、猶不及一時、無程被責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手」(『玉葉』寿永三年二月八日条)とあり、多田蔵人大夫行綱が先陣となって山手の平家勢を追い落としたとみられる。搦手は「九郎」「保田」に加えて多田勢の三手に分かれて攻めかかったのだろう。このとき福原へ攻め寄せたのは「東国九郎、加羽、保田等」(『歴代皇紀』)とあるように、「保田」こと安田遠江守義定が九郎義経、蒲冠者範頼と並ぶ源氏の大将のひとりとして認識されており、それは『吾妻鏡』においても義定が範頼、義経とともに大将軍の扱いとして単独で記録されていることからも推測できる。

 この攻撃により「大略籠城中之者不残一人」(『玉葉』寿永三年二月八日条)と、一ノ谷の要害は陥落。さらに「但素乗船之人々四五十艘許在島辺云々、而依不可廻得、放火焼死了、疑内府等歟」(『玉葉』寿永三年二月八日条)と、もともと陸陣だけではなく海上の兵船四五十艘ばかりにも人々は乗船し、「島辺」に停泊していたが、一ノ谷の火の手が見えても彼らは「而依不可廻得」と救援に向かうことなく「放火焼死了」という(『玉葉』寿永三年二月八日条)

 また、東側から福原をうかがう大手の蒲冠者範頼勢も攻め寄せ、源平入り乱れての激戦となり、本三位中将重衡は明石浦で「景時、家国」に捕らわれた(『吾妻鏡』寿永三年二月七日条)。また、長く北陸で義仲と戦い続けた越前三位通盛は湊川辺で「源三俊綱」に討ち取られた。なお、俊綱は「近江国住人、佐々木三郎成綱参上、子息俊綱、一谷合戦之時、討取越前三位通盛(『吾妻鏡』寿永三年二月廿七日条)とあるように、近江佐々木一族であることがわかる。そのほか「薩摩守忠度朝臣、若狭守経俊、武蔵守知章、大夫敦盛、業盛、越中前司盛俊、以上七人」が範頼・義経勢に討ち取られたと報告され、それぞれ「通盛卿、忠度朝臣、経俊」は「蒲冠者討取之」、「経正、師盛、教経」は「遠江守義定討取之」、「敦盛、知章、業盛、盛俊」は「義経討取之」という結果であったという(『吾妻鏡』寿永三年二月七日条)。なお、教経については「被渡之首中、於教経者一定現存」(『玉葉』寿永三年三月十九日条)と、能登守教経は別首であったとする。

 そして、戦いは巳時には「平家散々落了、大将軍十人平家族也、交名有利参位中将重衡生取、打取之前帝幷女房等前内大臣等中納言教盛、知盛、参議経盛等乗船逃了、凡所打取上下千三百余人」という源氏勢力の勝利に終わった(『歴代皇紀』)。その戦いは、翌2月8日に参議定能宛の義経報告にも「自辰刻至巳刻、猶不及一時」(『玉葉』寿永三年二月八日条)とある通り、一刻にも満たないほどの短期決戦で終わったことがわかる。なお、福原近辺での合戦の官軍勝報は2月8日未明に兼実家司・式部権少輔範季のもとに「平氏皆悉伐取了」(『玉葉』寿永三年二月八日条)という梶原平三景時からの飛脚が初報である(『玉葉』寿永三年二月八日条)。範季は大手大将軍の蒲冠者範頼の育ての父であり、範頼は軍監である景時を通じて範季に伝えたのであろう。続いて、参議定能からの義経・範頼の報告で合戦子細が伝わっている。義経付属の中原親能が定能女婿・源兼忠の乳母夫であったため、その筋からの通達であろう。また報告では神器の安否は不明だという。

 兵力や兵船数において追討使の数倍の勢力を有した平家勢が、わずか一刻の合戦で壊滅するという通常考えられない。これはやはり、宗盛が院宣を順守して敵対行為を停止していた中、「同七日、関東武士等襲来于 叡船之汀」(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)であったが、「依 院宣有限、官軍等不能進出」と、なおも院宣を守って敵対せずに引き退いたものの「彼武士等乗勝襲懸、忽以合戦、多令誅戮上下官軍畢」(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)として、法皇に対し「此條何様候事哉、子細尤不審」と強く批判しているように、法皇の裏切り行為が大きな原因なのだろう。ただし、法皇の愚劣な考えを知り尽くしているであろう宗盛が対応を怠り、攻め寄せる「凶賊」に対し対応できなかった事実は指揮官としては失策である。

 2月9日、捕虜となった「三位中将重衡」が入京し、「土肥二郎実平頼朝郎従為宗者也」の預けとなった。また同時に討ち取られた平家方の人々の首級も齎されたと思われ、法皇はこの首級の扱いについて翌2月10日、「平氏首等、不可被渡旨思食」す院宣を下す(『玉葉』寿永三年二月十日条)。「九郎義経、加羽範頼等」はこの院宣に「被渡義仲首、不被渡平氏首之条、太無其謂、何故被渡平氏哉」と噛み付いたため、法皇は兼実の意見を問うた。

 兼実は「論其罪科、与義仲不齋、又為帝外戚等、其身或昇卿相、或為近臣、雖被遂誅伐、被渡首之条、可謂不義」と拒絶し、さらに「神璽宝剣猶在残之賊手、無為帰来之条第一之大事也、若被渡此首者、彼賊等弥令励怨心歟、仍旁不可被渡其首、将軍等只一旦申所存歟、被仰子細之上、何強執申哉、頼朝定不承申此旨歟、此上左右可在勅定者」と意見を述べた。これに左大臣経宗や内大臣忠親らも同調し「各申不可被渡之由」で一決(『玉葉』寿永三年二月十日条)。ただし、平家首級の大路渡については、諸卿の反対意見をよそに法皇は範頼や義経の抗議に強ちに抵抗しても仕方がないとして「仍仰可渡之由了」(『玉葉』寿永三年二月十一日条)となる。

 また、三位中将重衡が神器を取り戻すべく、郎従を前内府宗盛のもとに遣わす提案をしている(『玉葉』寿永三年二月十一日条)。多くの一門将士が討たれたのち、平家の生き残る道を模索する重衡の苦悩の表れかもしれない。朝廷はこの提案を容れて、2月15日、重衡郎従の「左衛門尉重国」を使者として派遣している。そして、重衡は尋問の中で「下官可知天下之由、平氏議定之間令申」ということを述べる。これについて、兼実は平家との音信を疑われて覆問され「其条一切不然、只依為傍若無人、当其仁」と弁明している。

 2月13日、範頼や義経の強請に折れた法皇が許した「平氏首其数十」の大路渡が行われた(『玉葉』寿永三年二月十三日条、『歴代皇紀』)。ただし、法皇は「公卿頭不可被渡」は許さず、範頼・義経等は不満を述べたという。しかし「通盛卿首同被渡了」と、寿永2(1183)年2月21日に従三位となった平通盛卿の首が渡されており、兼実が強く非難している。おそらく義経以下の東国武士の鬱屈を減じるための法皇の指示であろう。

 2月16日、雅頼卿が兼実邸を訪れ、「頼朝四月可上洛」ことを伝えた。これは齋院次官親能からの報告と思われるが、当の親能は「為院御使、下向東国」という。法皇は「頼朝若不上洛者、可有臨幸東国之由」を告げたのだという。兼実は「此事殆物狂、凡不能左右(『玉葉』寿永三年二月十六日条)と呆れ果てた様子がうかがえる。

 そのころ、福原近郊での戦いに敗れた平家は四国へ渡り「平氏帰住讃岐八島」であった。また「其勢三千騎許」であるという。そして「維盛卿、三十艘許相率指南海去了」(『玉葉』寿永三年二月十六日条)と、小松家の平維盛卿はすでに戦列を離脱したという。

17,惣追捕使、土肥、梶原の派遣

 寿永3(1184)年2月18日、頼朝は鎌倉から京都へ「洛陽警固以下事」の決定の使者を送っている(『吾妻鏡』寿永三年二月十八日条)。実質義経への指示であろう。そのほか「播磨、美作、備前、備中、備後、已上五ケ国、景時、実平等遣専使、可令守護之由」と、中国地方の五か国は実平と景時の両名を「近国惣追補使」と定め(『吾妻鏡』元暦二年四月廿六日条)、彼らが「専使(眼代であろう)」を遣わして守護することを命じた。ただしこの五か国は頼朝の管国とされたわけではなく、あくまでも平家との関りが深い瀬戸内五か国の守護及び「公田庄園」の保障がその任務である。頼朝は2月19日の宣旨で「諸国七道」における「神社仏寺幷院宮諸司及人領」への狼藉を取り締まることが認められ、「五畿内諸国七道」の国司に対して、治承以降平家が行い、義仲が権柄を握っても改められなかった悪しき慣例の「公田庄園兵糧米」を停止するよう宣旨が下された。ただし、これは国内支配権を確立したものではない。

 こののち、兼実邸を訪れた左大弁経房は「諸国兵糧之責幷武士押取他人領事、可停止之由被下宣旨」ことを兼実に伝えているが(『玉葉』寿永三年二月廿二日条)、兼実は数度に渡って宣旨が下されながらも一向に狼藉がなくならないことに「更以不可叶事歟、有法不行、不如無法」(『玉葉』寿永三年二月廿二日条)と嘆いている。これらの宣旨を帯びた勅使は3月9日、鎌倉に到着し(『吾妻鏡』寿永三年三月九日条)、武士による「諸国庄園」の押領を停止し、頼朝にその取り締まりを命じている。頼朝が西国諸国に対する権限を得たのは、文治元年に上洛した「頼朝代官北条丸(北条時政)」が要求した「件北条丸以下郎従等、相分賜五畿山陰山陽南海西海諸国、不論庄公、可宛催兵糧段別五升、非啻兵糧之催、惣以可知行田地」(『玉葉』文治元年十一月廿八日条)というのちのことである。

 2月25日、「朝務事、武衛注御所存、條々被遣泰経朝臣之許」とある通り(『吾妻鏡』寿永三年二月廿五日条)、頼朝の使者が高階泰経のもとを訪れ、「朝務事」についての要望をしている。このことは兼実も伝え聞いており、泰経到着の二日後、2月27日に「又以折紙計申朝務」(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)と記している。

一 朝務等事
右、守先規、殊可被施徳政候、但諸国受領等尤可有計御沙汰候歟、東国北国両道国々、追討謀叛之間如無土民、自今春浪人等帰往旧里、可令安堵候、然者来秋之比、被任国司、被行吏務可宜候

一 平家追討事
右、畿内近国、号源氏平氏携弓箭之輩幷住人等、任義経之下知可引率之由、可被仰下候、海路雖不輙、殊可急追討之由、所仰義経也、於勲功賞者其後頼朝可計申上候

一 諸社事
我朝者神国也、往古神領無相違、其外今度始又各可被新加歟、就中、去比鹿嶋大明神御上洛之由、風聞出来之後賊徒追討、神戮不空者歟、兼又若有諸破壊顛倒事者、隨功程、可被召付處、功作之後可被御裁許候、恒例神事、守式目、無懈怠可令勤行由、殊可有尋御沙汰候

一 仏寺間事
諸寺諸山御領、如旧恒例之勤不可退転、如近年者、僧家皆好武勇、忘仏法之間、行徳不聞、無用樞候、尤可被禁制候、兼又於濫行不信僧者、不可被用公請候、於自今以後者為頼朝之沙汰、至僧家武具者任法奪取、可与給於追討朝敵官兵之由、所存思給也

 頼朝は朝廷の選任事項である国司任命にも言及し、寺社仏寺への介入も示唆するなど、兼実はこの条々について「人以不可為可」と批判しながらも、頼朝の天も恐れぬ要求に対し、「頼朝若有賢哲之性者、天下之滅亡弥増歟」と頼朝が賢哲の器であれば、政治的に暗愚な法皇を操り、朝務を恣に動かすことも可能であることを述べる(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)。平家追討に対しては、「畿内近国、号源氏平氏携弓箭之輩幷住人等」は、追討使である義経の下知に随い、急ぎ追討を行うべきことを要求し、さらに「於勲功賞者其後頼朝可計申上候」と、平家追討に対する行賞は頼朝を介して行うことを明言した。

 ところが、頼朝の四か条の要求が朝廷に届いた四日後の2月29日、「九郎為追討平氏、来月一日可向西国之由有議、而忽延引」(『玉葉』寿永三年二月廿九日条)ということとなる。延引の理由は定かではないが、日時的には頼朝の2月18日に鎌倉を発した「洛陽警固以下事」の使者が上洛する頃合いであった。四か条の「朝務等事」には「洛陽警固以下事」は含まれていないため、高階泰経に披露された「朝務等事」と「洛陽警固以下事」は別物であり、「朝務等事」の使者が発せられたのちに「洛陽警固以下事」の使者が後追いで送られたのであろう。こののち、約一年に亘って義経は京都警衛を主任務としていることから、頼朝の命による所役の変更とみられる。

 なお、同日の2月29日、重衡の遣わした郎従重国が屋島の前内府宗盛からの返書を京都へ齎した。宗盛からの返事には「畏承了、於三ケ宝物幷主上女院八条院殿者、如仰可令入洛、於宗盛ハ不能参入、賜讃岐国可安堵、御共等ハ清宗ヲ可令上洛」(『玉葉』寿永三年二月廿九日、卅日条)とあったとされ、和親を申し述べたという。この和平案が成れば朝廷は神器と安徳天皇を取り戻し、女院(建礼門院)と八条院殿(二位尼)の還京が実現することとなり、兵乱鎮定が実現味を帯びることとなる。

 ただし、『吾妻鏡』で宗盛が齎した返事は、2月21日に重国の書状を請け取り、2月23日に書面を認めたことを記し、「主上国母可有還御之由、又以承候畢」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、法皇からの要請を理解した旨を記した。ただ、宗盛は福原での敗戦について、法皇の卑怯な「奇謀」に対して大きな不満を抱いており、法皇が「若為緩官軍之心、忽以被廻奇謀歟、倩思次第、迷惑恐歎、未散朦霧候也」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と非難し、合戦により「還御亦以延引、毎赴還路武士等奉禦之、此條無術事候也、非難澁還御之儀、差遣武士於西海依被禦、于今遅引、全非公家之懈怠候也」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、法皇は天皇の還御を求めながら、その都度武士を派遣して妨害するという行為で、結局その還御が遅引しており、これはまったく安徳天皇の懈怠ではないとした。さらに「其後又称 院宣、源氏等下向西海、度々企合戦、此條已依賊徒之襲来、為存上下之身命、一旦相禦候計也、全非公家之発心、敢無其隠也」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、たびたびの源氏との合戦は、天皇を脅かす「賊徒」の襲来を防いだに過ぎず、合戦はまったく天皇が企てたものではないと強く主張した。そして、「云平家、云源氏、無相互之意趣、平治信頼卿反逆之時、依 院宣追討之間、義朝朝臣依為其縁坐、有自然事、是非私宿意、不及沙汰事也、於 宣旨院宣者非此限、不然之外、凡無相互之宿意、然者、頼朝与平氏合戦之條、一切不思寄事也、公家仙洞和親之儀候者、平氏源氏又弥可有何意趣哉、只可令垂賢察給也」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と、そもそも平氏と源氏にことさら宿意はなく、天皇と法皇の和親が成れば、いよいよ平氏と源氏には何ら意趣はないこととなり、「和平儀可候者、天下安穏、国土静謐、諸人快楽、上下歓娯、就中合戦之間、両方相互殞命之者、不知幾千万、被疵之輩、難記楚筆、罪業之至、無物于取喩、尤可被行善政、被施攘災、此條、定相叶神慮仏意歟」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と和平を推進すべきことを伝え、法皇は「早停合戦之儀、可守攘災之誠候也、云和平、云還御、両條早蒙分明之 院宣、可存知候也、以此等之趣、可然之樣、可令披露給、仍以執啓如件」(『吾妻鏡』寿永三年二月廿日条)と要請したという。

 『吾妻鏡』においては、『玉葉』が記すような、宗盛が和平を積極的に受け入れつつ「賜讃岐国可安堵、御共等ハ清宗ヲ可令上洛」ということは記されていないが、穏便に批判を展開している。『吾妻鏡』の内容は、敵対勢力である源氏側から記されたものであるにもかかわらず、平家の正統性を述べていることから、大略このような内容であったと考えられよう。讃岐国を与えるというものは、法皇が提示しようとした条件なのかもしれない。『吾妻鏡』と『玉葉』に共通する「所詮源平相並可被召仕之由」については、兼実は「此條頼朝不可承諾歟、然者難治事也」と嘆いている。おそらくその後、頼朝へ使者が遣わされ、結果としてこの和平案は実行されることはなかった。兼実の予想通り、頼朝が反発したのであろう。そして平家方も態度を硬化したとみられ、元暦元(1184)年7月6日に左大弁経房が中山忠親に報告したことによれば、九州へ遣わした「院召使」を平家が「被着印於面」する恥辱を与え、さらに同道したと思われる「鎌蔵雑色十余人」については斬首したという(『山槐記』元暦元年七月六日条)

 一方、『源平盛衰記』では、宗盛は「通盛已下当家数輩、於摂津国一谷已被誅畢、何重衡一人可悦寛宥之院宣、抑我君者、受故高倉院之御譲、御在位既四箇年、雖無其御恙、東夷結党責上、北狄成群乱入之間、且任幼帝母后之御歎尤深、且依外戚外舅之愚志不浅、固辞北闕之花台、遷幸西海之薮屋、但再於無旧都之還御者、三種神器争可被放玉体哉」と正統性を主張。法皇に対しては「就中亡父太政大臣、保元平治両度合戦之時、重勅威、軽愚命、是偏奉為君非為身」と批判し、頼朝についても「父左馬頭義朝謀叛之時、頻可誅罰之由、雖被仰下于故入道大相国、慈悲之余所申宥流罪也、爰頼朝已忘昔之高恩、今不顧芳志、忽以流人之身、濫列凶徒之類、愚意之至思慮之讐也、尤招神兵天罰速、期廃跡沈滅者歟」と忘恩の徒と糾弾「但君不思召忘亡父数度之奉公者、早可有御幸于西国歟、于時臣等奉院宣、忽出蓬屋之新館、再帰花亭之旧都」と、法皇の西国行幸を要請し、その後、安徳天皇を奉じて屋島から還都することを述べている。『源平盛衰記』は宗盛の強硬ぶりが際立っているが、『玉葉』が伝える内容と勘案すると『吾妻鏡』の記述が実際に近く、『源平盛衰記』は宗盛ら平家側の心情を代弁した表記なのではなかろうか。

 3月2日、重衡の身柄は土肥次郎実平から梶原平三景時へ移され、京都の宿所へ置かれ(『源平盛衰記』)、3月5日には検非違使義経の手によって「主馬入道盛国父子五人」が捕縛されている(『源平盛衰記』)。そして、3月7日、「板垣三郎兼信、土肥次郎両人」がふたたび西国の抑えのために京都を出立している(『源平盛衰記』)

 3月10日、重衡は「頼朝所申請」により鎌倉へ下向することになる(『玉葉』寿永三年三月十日条)。重衡には「梶原平三景時相具之、是武衛依令申請給也」(『吾妻鏡』寿永三年三月十日条)であった。一行は3月27日に伊豆国府へ到着。当時、頼朝は伊豆国北条にいて国府とは指呼の距離であり、景時に北条へ相具して参るよう命じた(『吾妻鏡』寿永三年三月廿七日条)

 翌28日に北条館で重衡と面会した頼朝は、

「且為奉慰君御憤、且為雪父尸骸之耻、試企石橋合戦以降、令対治平氏之逆乱如指掌、仍及面拝不屑眉目也、此上者謁槐門之事、亦無所疑歟者」

と述べた。頼朝の挙兵は法皇幽閉の御憤を鎮めるとともに、父義朝の恥を雪ぐものであり、平家逆乱を鎮圧することで重衡卿と面会できたのはこの上ない名誉であり、そのうち宗盛卿とも面会できることは疑いないことでしょうと語ると、重衡は、

「源平為天下警衛之處、頃年之間当家独守朝廷之、許昇進者八十余輩、思其繁栄者二十余年也、而今運命之依縮、為囚人参入上者不能左右、携弓馬之者為敵被虜、強非耻辱、早可被處斬罪」

と滔々と述べた(『吾妻鏡』寿永三年三月廿八日条)。その堂々とした受け答えに「聞者莫不感」だったという。その後、狩野介宗茂へ預けられることとなるが、頼朝はちょうど十歳年下の重衡をいたく尊重し、鎌倉に移されたのちは、その無聊を慰めるために謡や今様、管弦などが催されている。なお、『源平盛衰記』では面会の地は鎌倉の御所となっている。

18,頼朝の兼実摂政推挙

 寿永3(1184)年3月16日、兼実邸を大外記清原頼業が訪れる(『玉葉』寿永三年三月十六日条)。兼実は頼業と日頃のことについて話しているが、頼業は子息の近業が法住寺殿で流れ矢に当たって死去しており、とりわけ法皇に対する不信感を持っていたと思われる。頼業は「先年通憲法師」が語った法皇の人物評を兼実に話しているが、通憲入道信西の後白河天皇評は「当今謂法皇也、和漢之間少比類之暗主也、謀叛之臣在傍、一切無覚悟之御心、人雖奉悟之、猶以不覚、如此之愚昧、古今未見未聞者也、但其徳有二、若叡心有欲果遂事者、敢不拘人之制法、必遂之此条於賢主為大失、今暗愚之余、以之為徳、次自所聞食置事、殊無御忘却、年月雖遷不忘心底給、此両事為徳」(『玉葉』寿永三年三月十六日条)というものであった。法皇の乳母夫でありもっとも側近くで雅仁天皇(後白河院)を見ていた「通憲法師(信西入道)」は、その資質を「和漢の間でも前例のない暗愚」と言い切ったという。まさに兼実の見立てと同一のものであった。

 3月23日、権右中弁光長が兼実邸を訪問し、前明法博士中原広季から「頼朝奏条々事於院、其中下官可為摂政藤氏長者之由令挙了之由、広元之許広季之男也所告送也」という。広季は兼実家司であるが、彼の養子・中原広元は、義兄・齋院次官親能とともに鎌倉にあり、広元が認めた書状が19日に高階泰経のもとに届けられて奏院されたという。父・広季にもこれを知らせる書状が届けられたのだろう。21日、法皇より返事が頼朝へ向けて発せられ、兼実は「忩可申左右之由被仰云々、大略此事被仰不可然者歟」という内容であろうと推測している。

 藤原光能――――中原親能
(参議)    (斎院次官)
         ↓
 中原広季――+=中原親能
(前明法博士)|(斎院次官)
       |
       +=中原広元
        (安芸権介)
         ↑
 大江維光――――中原広元
(式部大輔)  (安芸権介)

 頼朝の院奏について兼実は「凡此事次第、可謂難堪叡念也、所参無疑下官之懇望也、縦雖有此疑、已無其実、強不可為告、不事而成就者、以之可為験之處、法皇遏絶之御心已切、引級摂政之条、已有御贔屓、此上頼朝不可及執申、然者遂以可黙止歟」と、兼実自身が望んだものでもないのに疑われることは迷惑至極で、頼朝からの推挙は停止すべきだとこの上ない不快感を示し、「而当時洛中之貴賤上下、道俗男女、下官可有吉慶事之由、謳哥、殆過法云々、此事已嗚呼也、又尾籠也、取諸身無冥顕之過怠、何因氏明神幷本尊三宝、可令顕尾籠之名於後代哉、冥鑑之處、只奉仰仏神者也、中心此事乱世間、弥以不庶幾者也」と、世間は兼実が摂政になることを信じているようだが、まったく以て「嗚呼」「尾籠」と続けて言うほど否定し、いよいよ願うものではないと悲壮感までうかがえる(『玉葉』寿永三年三月廿三日条)

 3月28日には「頼盛卿後見侍清業」が上洛し「余事又奏法皇」(『玉葉』寿永三年四月一日条)という。鎌倉または相模国府に居住している平頼盛入道からの使者であるが、これは頼朝の意見を具申したものである。4月7日、兼実邸を訪れた雅頼卿が「頼盛卿後見史大夫清業」が語ったこととして「下官事、頼朝推挙存堅事」と話している(『玉葉』寿永三年四月七日条)。また、3月19日に奏院された頼朝の兼実推挙状については「奏聞之日、於八幡頼朝奉祝云々、宝前能致祈念之後、仰広元令書」という(『玉葉』寿永三年四月七日条)。頼朝は兼実を摂政とするべく、鶴岡八幡宮に参籠して祈念したのち、広元に奏状を書かせたという。これについても兼実は反応しておらず、打ち棄てているが、兼実としてはまったく意に染まぬ事柄であったろう。

 3月28日、朝廷は頼朝の奏上通り、頼朝を「正四位下」に叙した。そして翌29日には、入道関白と摂政基通がそれぞれ鎌倉の頼朝のもとに使者を送っている(『玉葉』寿永三年三月廿九日条)。贈り物または陳状を添えたものであったという。摂政基通も入道関白もそれぞれ頼朝にみずからの支援を行うよう依頼した可能性が非常に高いだろう。すでに世間では兼実が首班となるのではないかという風聞があったため、両者が慌てて行動に出たとみられる。また、頼朝は義仲解官後不在となっていた院の「御厩司」に義経を推しており、4月27日、義経が院御厩司に補任されている(木村真美子氏『中世の院御厩司について:西園寺家所蔵「御厩司次第」を手がかりに』『吾妻鏡』文治五年閏四月三十日条)。その補佐として案主に後藤右兵衛尉基清を任じている。後藤基清は頼朝義弟・藤原能保の家人でもあり、能保が後見として期待されていた可能性があろう。

 4月14日、改元されて元暦元年となり、夜に法皇は八条院御所から白川金剛勝院に修造した御所(押小路御所)へと遷っている(『玉葉』元暦元年四月十四日条)。改元のことは昨年から議されていたが、天皇即位(践祚は行われたが神器がないため即位がいまだできていない)以前ということで延引されていたが、世の中の騒乱が鎮まらないことから、即位以前に行われることとなったのであるが、兼実は「愚意猶未甘心」と不満を述べる。

 4月24日、大夫史隆職が兼実邸を訪れて「語密々事等」ことには、「頼朝令申下官事、有深意趣等、欲申其事、七ヶ日参籠八幡宮頼朝祈所奉祝云之後、於宝前書折紙令進上云々、偏依思天下事令申」(『玉葉』元暦元年三月廿四日条)という。兼実は頼朝からの支援を快く思ってはおらず、これに関しても自分の意思を示すことはなかった。しかし、摂政への嘱望は心の中に燃えており、たびたび夢見や吉祥を気にして日記に書き留めている。そして4月28日、頼業から「荒聖人聞覚、公朝等、一昨日夕入洛、今日、件聖人参院云々、以件聖人、余事猶申院」(『玉葉』元暦元年四月廿八日条)ということを聞いている。神護寺の文覚が参院して兼実を摂政とするよう法皇に直談判したのである。寿永2(1183)年9月25日に文覚は頼朝から義仲を勘発するよう指示を受けていることから、この文覚の参院と強訴は頼朝の意思を反映したものと考えられよう。兼実は文覚の訴えにつき「実是神明之加護歟、将又不祥之根元歟、未弁是非、不如固辞遁也」と困惑しつつも、拒否感は薄い。「去三月廿八日暁、季広夢想云、下官着束帯立家南庭、而問、日輪自東飛来、余以袖奉受之了云々、今暁、女房見吉夢、又資博見最吉夢、大職冠御加護之由也(『玉葉』元暦元年四月廿八日条)と自らの立身を示唆するような吉瑞を挙げており、摂政への望みは非常に大きいものがあったのは確実である。ただ、それは後年、実際に摂政就任時のときに見るように、兼実でなければ成し得ない状況に法皇から乞われての登壇を期待したものである。現摂政基通や法皇との関わりを含めたタイミングもあり、頼朝からの推挙で就任することは断固拒否する姿勢は変わっていないだろう。それは「摂政之辺人、讒余事於頼朝、因之先日奏聞之大事、黙止了」という一報を受けた事に対し、兼実は「余聞如此事可悲」として「推挙専非所好、讒言何可痛哉、只家之前途、国之重事、懸田夫野臾之詞之條、悲而有余者歟」という、「田夫野臾(頼朝)之詞」は迷惑千万と述べている(『玉葉』元暦元年十一月二日条)

19,伊賀・伊勢平氏の乱

 元暦元(1184)年6月16日、「平氏党類、追散在備後国之官兵」という情報が京都に伝わった(『玉葉』元暦元年六月十六日条)。備後国を守っていたのは「土肥二郎実平頼朝郎従息男早川太郎」であったが、この早川太郎遠平が大敗を喫したため、「在播磨国之梶原平三景時同郎従、超備後国了」と、梶原景時が救援に駆けつけたという。なお、3月末に重衡を伊豆国北条へ護送した梶原景時が6月上旬には最前線の播磨国にいるということは、景時は重衡護送後、日を経ず上洛し、播磨国へ急行したことになる。

 土肥勢を破った平家勢は備後国から東へと進み、播磨国室泊たつの市御津町室津)まで進出、周辺を焼き払った(『玉葉』元暦元年六月十六日条)。平家軍を率いていた人物の名は伝わらないが、三備に顕在していた平家党の国人であろうか。この官軍敗報を受けた朝廷は、事態の悪化に「被催遣京都武士等」という沙汰を発出する。兼実はこうした相も変らぬ状況に「凡追討之間、沙汰太如泥、大将軍在遠境、公家事無人于沙汰、只天狗奉行万事之此也、無沙汰無祈祷、以何可期安全哉、可悲」と悲嘆を込めて述べている(『玉葉』元暦元年六月十六日条)。さらに伝え聞くところによれば、「平氏其勢強云々、京勢僅不及五千騎」という状況であるという(『玉葉』元暦元年六月十八日条)。頼朝は8月に上洛するという風聞だが(『玉葉』元暦元年六月廿一日条)「平氏之勢太強、源氏武士等気色損了、大略如平氏落之時、決定大事出来歟」という(『玉葉』元暦元年六月廿三日条)。これまで頼朝が追討使発遣の奏上をせず、郎従の梶原・土肥を「近国惣追捕使」として派遣し、美作・播磨・三備の五か国の警衛と庄公領の管理のみ行わせている状況に、朝廷は不安と不信感を募らせていたことが伺える。

 頼朝としても本来であれば鎌倉から追加の軍勢を差し向けて対処すべきところであるが、奥州や北関東にはいまだ不穏な動きがある上に兵糧の問題もあり、軽々に兵を動かすことはできなかったのだろう。また、前線で戦う梶原・土肥の両名はあくまでも山陽五か国の治安維持、庄公領の狼藉防止が本務の惣追捕使であり、本格的に平家追討を担う軍勢ではなかったと思われる。このように、当時の頼朝もまた末期の義仲同様、兵力と兵糧コストの問題に陥っていたのである。ただ、このままの状況も捨て置けず、京都の情勢も鑑みて、頼朝は義経を「追討使」として西国へ派遣することを決定。京都に使者を遣わし、7月3日に義経の「可遣西海事」を法皇に奏上したのであった(『吾妻鏡』元暦元年七月三日条)

 ところが義経の追討使任命から数日後、「伊賀伊勢国人等謀叛了」(『玉葉』元暦元年七月八日条)という風聞が京都に広まった。

 伊賀国は「大内冠者源氏、知行」であり、大内冠者惟義は伊賀国各所に郎従を派遣して統治していたが、7月7日夕刻、「家継法師平家郎従、号平田入道是也」が大将軍となって兵を挙げ「大内郎従等悉伐取了」という(『玉葉』元暦元年七月八日条)。これに呼応して伊勢国でも「信兼和泉守」が鈴鹿山を切り塞いだという。なお、『吾妻鏡』では7月5日に鎌倉に惟義の飛脚が届き「去七日於伊賀国、為平家一族被襲之間、所相恃之家人多以被誅戮」(『玉葉』元暦元年七月五日条)と報告したというが、これは伊賀平氏挙兵前であり、明らかな時期誤謬である。また、報告を受けた頼朝が「伊賀国合戦之間事、被経其沙汰」したのは7月18日であるが、7月5日に報告から沙汰まで十日以上を経ていることも不審である。これらから、大内惟義の飛脚が鎌倉に到着したのはおそらく7月15日であり、『吾妻鏡』の7月5日の記事は「十」が抜け落ちている可能性が高いだろう。

 この伊賀平氏挙兵には、伊藤忠清法師や富田進士家資ら伊勢国に拠点を置いていた旧平家家人も加わっているが、彼らはいずれも維盛、資盛ら小松家所縁の人々であって宗盛ら「主流の平家」とは縁遠く、宗盛等と彼らが連携していた様子も見られない「伊賀伊勢平家郎等反」(『山槐記』元暦元年七月八日条)とも見えるが、彼らは「主流の平家」のために挙兵をしたわけではなく、伊賀国内に派遣された大内惟義の家人との対立から暴発したと考えるほうが妥当であろう。

 頼朝は7月18日、大内惟義ならびに「加藤五景員入道父子、及瀧口三郎経俊等」に伊賀伊勢平氏の追捕を命じた(『吾妻鏡』元暦元年七月十八日条)。大内惟義、山内経俊はそれぞれ伊賀国、伊勢国の「守護(国惣追捕使)」であるが、頼朝が叛乱の追捕を発令した時点で、すでに挙兵後十日が経過し、さらに飛脚が大内らのもとに戻るまで数日かかる中、大内・山内が頼朝の命を待ってから軍事行動を起こすことは非現実的である。彼らは謀反人追捕の権限(後の守護の権限の一つに繋がるか)は与えられており、頼朝はその追認を行ったという事であろう(『吾妻鏡』元暦元年七月十八日条)。また、頼朝はこの畿内の大規模な兵乱を受けて、予定していた義経の検非違使補任を急いだと思われ、後述のように8月7日に「九郎可任官」(『玉葉』元暦元年八月七日条)にこぎつけている。これにより義経は京洛取り締まりの公的な権限を得たこととなる。

 伊賀平氏に呼応して「鈴鹿山」こと東海道の鈴鹿関を遮断した「信兼和泉守」は「関出羽守信兼相具姪伊藤次」(『吾妻鏡』治承五年正月廿一日条)とあるように、伊勢平氏根本被官である伊藤氏と縁戚関係にあり、伊藤忠清法師との縁により挙兵した可能性があろう。かつて信兼は義経上洛に際して伊勢国から義経とともに木曽義仲と戦うなど、平家政権とは距離を置いた在京武官家であり「楊梅南、朱雀西」(『吾妻鏡』文治二年七月廿七日条)に屋敷地を有しながらも、国司在任期間にも拘らず、本貫の伊勢国に居住することが多かったようである。

 伊賀・伊勢平氏は挙兵後、近江国へ進出するが、7月19日に「与官兵合戦、官軍得理、賊徒退散、為宗者伐取了」という(『玉葉』元暦元年七月廿日条)。この戦いには「官兵源氏郎等(『山槐記』元暦元年七月十九日条)とあるが、義経の麾下は京都常駐が可能な人数に過ぎないことを考えると、大内・山内の軍勢であろう。彼らは伊賀・伊勢平氏と「近江国大原庄」(『山槐記』元暦元年七月十九日条)でも合戦しており、「平田入道貞能兄」らは近江国東部にまで進出したことがうかがわれる。その後、官軍は伊賀平氏勢を破り、7月21日、「謀叛大将軍平田入道家継法師」は梟首されるも、「忠清法師、家資等籠山了」という。この戦いでは「官軍之内、大佐々木冠者不知名」が討たれ、「官兵之死者及数百」という苦戦であった(『玉葉』元暦元年七月廿一日条)。『吾妻鏡』でも「佐々木源三秀能相具五郎義清、合戦之處、秀能為平家被討取畢」とあり(『吾妻鏡』元暦元年八月二日条)、秀義はすでに近江国に居住しており、末子の五郎義清とともに動いていたことがうかがえる。

 『吾妻鏡』においては「討亡者九十余人、其内張本四人、富田進士家助、前兵衛尉家能、家清入道、平田太郎家継入道等也、前出羽守信兼子息等并忠清法師等者逃亡于山中畢」とあり、伊勢・伊賀平氏の四人が討たれ、伊勢平氏の信兼子息らと忠清法師が山中へ逃れたとする。ただし、『玉葉』においては「家資」は逃れ、信兼については触れられていない。

 8月2日、鎌倉に伊賀・伊勢平氏の鎮圧が完了した旨が報告され(『吾妻鏡』元暦元年八月二日条)、翌8月3日、義経に「今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結構歟、而彼輩遁圍之中、不知行方云々、定隠遁京中歟、早尋捜之、不廻踵可令誅戮之趣」(『吾妻鏡』元暦元年八月三日条)ことを伝える安達進三郎を派遣した。

 そして、平家所縁の人々による兵乱を受けた頼朝は、平家追討を急ぐ方針に転換し、8月6日、御所に「招請参河守、足利蔵人、武田兵衛尉給、又常胤已下為宗御家人等依召参入」(『吾妻鏡』元暦元年八月六日条)し、西国出兵の陣容を整える命を下し、西海出陣の餞別として終日の酒宴を開いて、各々に馬を一匹ずつ下賜。とくに大将軍となる範頼には秘蔵の馬を授け、さらに甲冑一両を下している。そして8月8日、範頼以下三十名の御家人は鎌倉を出立し、一路四国を目指すこととなる。なお、頼朝は京都の義経へも範頼とともに追討使として西国下向を指示したと思われる。

●元暦元年八月八日西海派兵の将士(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)

【総大将】 三河守範頼          
【御家人】 北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 千葉介常胤 境平次常秀 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 長沼五郎宗政 結城七郎朝光
比企藤内所朝宗 比企藤四郎能員 阿曾沼四郎広綱 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤
大多和次郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景 大河戸太郎広行 大河戸三郎 中條藤次家長
工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景 小野寺太郎道綱 一品房昌寛 土左房昌俊

 このころ、京都では頼朝上洛の風聞があり、「木瀬川伊豆与駿河之間」に滞陣中と伝わっていた(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)。京都への飛脚によれば「已所上洛仕也、但ひきはりても不上洛候也、先参河守範頼蒲冠者是也、令相具数多之勢、所令参洛也、雖一日不可逗留京都、直可向四国之由所仰含也」(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)とあり、まず三河守範頼が派遣されるが、滞京することなく四国へ向かう旨を伝えている。京都へ伝わった風聞は8月8日に鎌倉を出立した範頼のことであろう。なお、頼朝が範頼に命じていたのは『玉葉』によれば四国の平家中枢への攻撃であったことがわかる。

 8月7日には在京の「九郎可任官」(『玉葉』元暦元年八月七日条)の除目が行われ、義経は左衛門少尉、検非違使として洛中を公的に取り締まる権限を得る。なお『吾妻鏡』によれば、義経の左衛門少尉任官報告の使者は8月17日に鎌倉に到着し(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)、任官について「去六日任左衛門少尉、蒙使宣旨、是雖非所望之限、依難被默止度々勲功、為自然朝恩之由被仰下之間、不能固辞」(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)と、院からの強い要望により固辞できなかったと釈明したという。頼朝はこれに「武衛御気色」と怒りを露わにし、頼朝が「起自御意被挙申」した「範頼義信等朝臣受領事」について「於此主事者、内々有儀、無左右不被聴之處、遮令所望歟」だったという。そして、義経の「被背御意事、不限今度歟」という態度から、「依之可為平家追討使事、暫有御猶予」(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)という。ただし、義経の主任務は「洛陽警固以下事」(『吾妻鏡』寿永三年二月十八日条)を代官として勤めることであり、当然頼朝が定めたものである。義経の任官はすでに頼朝からの推挙を得ていたものと考えられる。もし義経が「被背御意事、不限今度歟」であれば、範頼や惟義と交代させればよいだけで、何ら不都合はない。義経が6月5日の除目で国司に洩れたのは、頼朝が推挙を予定していた検非違使が国司を兼ねない例のためであろう。

 また、『大夫尉義経畏申記』(『群書類従』巻百八)によれば、元暦2(1184)年正月1日に「新大夫判官義経朝臣」が左右の看督長を招いた埦飯に際して「大井次郎実春為因幡御目代勤仕之」という記述があることから、これは因幡守中原広元の目代として大井実春が埦飯の沙汰を行ったことがうかがわれ、この埦飯は頼朝の指示であった可能性が高い(菱沼一憲氏『源義経の合戦と戦略―その伝説と実像―』角川選書)。義経はその後「御共衛府」「左衛門尉藤時成、左衛門尉藤康言、土屋兵衛左兵衛尉平義行、師岡兵衛左兵衛尉平重保、源八兵衛左兵衛尉藤弘綱、渋谷馬允左馬允重資、予(清原某)無官」のほか「武士百騎許」を従えて参院。装束や車を賜った(『清獬眼抄』)

 さて、義経の検非違使補任からわずか三日後の8月10日夜、義経は「有示子細事」して「召寄出羽守信兼男三人」を自邸に招いた。この三人は兼時、信衡、兼衡(『尊卑分脈』)であるが、六条堀川邸または六条室町邸に招請したのだろう。結局、三名は義経邸で「件三人或自殺、或被切殺」(『山槐記』元暦元年八月十日条)という。『吾妻鏡』では「於宿廬誅戮之」(『吾妻鏡』元暦元年八月廿六日条)とある。これは8月3日、頼朝が雑色・安逹新三郎を「源九郎主許」へ派遣し「今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結搆歟、而彼輩遁圍之中、不知行方云々、定隠遁京中歟、早尋捜之、不廻踵可令誅戮之趣」(『吾妻鏡』元暦元年八月三日条)を命じたためと解せるが、義経が三人を召し寄せることができた、つまりそもそも居住地を知っていたことになる。そして、彼らは招請に素直に応じていることから、義経とはつながりを保っていた可能性が高い。こうしたことから、彼らが直接父に同調して叛乱に加担した可能性は低いだろう。ましてや結構して乱の首謀者となったことなど考えにくい。彼らは信兼に連座したものであろう。

 信兼子息が討たれた翌日の8月11日、信兼も解官され(『吾妻鏡』元暦元年八月廿六日条)、翌12日、義経は「為伐出羽守信兼」に伊勢国に発向している(『山槐記』元暦元年八月十二日条)。ただし、義経麾下の兵は在京に耐えうる最低限の人数であり、官兵および検非違使らから編成された追捕の軍勢であったろう。山内経俊の軍勢も加わった可能性があり、8月26日の時点で「故出羽守信兼」(『山槐記』元暦元年八月廿六日条)とあることから、信兼は討たれたことがわかる。この戦いは7月の伊賀平氏の乱の延長線上であるが、この追捕を命じた主体は忠清法師ら平家旧家人を極度に恐れる法皇である可能性が高く、頼朝の関与は考えにくい。なお、翌元暦2(1185)年6月15日、頼朝は「故出羽守平信兼党類領」であった「伊勢国波出御厨」の地頭職に「左兵衛尉惟宗忠久」を補している(『島津家文書』)

 そのころ平家は讃岐国屋島に本拠を定めつつ、8月中には鎮西にもその地盤を固めつつあり、その持つ船は七百艘にも及んでいるという(『山槐記』元暦元年九月廿四日条)。一方、土肥実平・梶原景時の両名は、6月には播磨国まで平家の侵攻を許していたが、7月中には近国惣追捕使の任国西限の備後国あたりまでは押し戻していたようである。ただ、「鎮西多与平氏了、於安芸国与官軍早川云々、六ヶ度合戦、毎度平氏得理」(『玉葉』元暦元年八月一日条)と、安芸国での戦いでは、実平嫡子・早川太郎遠平が六度にわたって敗北するという知らせが京都に届いている。さらに、長門国の平教盛らの軍勢によって「長門国之源氏葦敷、被追落了」といい、「平氏五六百艘着淡路」という不確実ながら風聞が寄せられている(『玉葉』元暦元年九月十三日条)

20,範頼、義経の追討使補任

 元暦元(1184)年8月26日、義経は「賜平氏追討使官符」った(『吾妻鏡』文治五年閏四月卅日条)。これは前述の通り、範頼と義経の両将を追討使とした本格的な西国出兵構想であろったろう。なお、義経の追討使官符下賜のタイミングは範頼上洛に合わせたものとみられ、翌27日に三河守範頼が入洛している(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)。範頼も二日後の8月29日に追討使の官符が下されており(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)、福原攻めの際と同様、二手から四国屋島を攻めるものであったと考えられる。

 翌9月1日、範頼は京都を出立した(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)。範頼は鎌倉出立の際に頼朝から「一日不可逗留京都、直可向四国之由」(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)を命じられており、非常に速やかな発向になったと思われる。ただ、このとき西国へ出向したのは範頼一人であり、義経は京都にとどまっている。さらに、範頼は当初の四国ではなく山陽道を西に進んでいるのである。これは、8月27日から29日の間に頼朝の使者が京都に到着し、範頼と義経に追討計画の変更を伝えたのではなかろうか。その大きな要因は、伊賀伊勢平氏の挙兵であろう。この兵乱の勃発を受けた頼朝は義経・範頼のいずれかを畿内警衛として留め置く必要に迫られたと思われる。ただ、範頼はもともと追討使としての軍勢が編成されて上洛しており、そのまま追討使として出立したのだろう。義経はすでに上方の情勢にも慣れていたことから留められたと思われる。そして、義経発向の延引により四国屋島を攻める手はずも変更され、範頼勢は惣追捕使土肥・梶原の救援と源氏に心寄せる九州国人を招いて屋島を攻める戦略に改められたと思われる。

 土肥・梶原の惣追捕使両名は、安芸国などでの敗戦はあったものの、9月には周防国にまで兵を進めており、追討使範頼の軍勢もとくに抵抗に遭うこともなく周防国へ至っている。しかし、連戦の中で荒廃したり、彦島の平知盛に徴発されたりしたことにより、範頼は兵糧米の補給に苦しみ、いちじるしい兵糧不足に陥ってしまうこととなった。兵舟も知盛が押収していたため彦島を攻めることもできず、範頼勢は長門国での長滞陣を余儀なくされる。こうした状況はますます士気の低下を招き、御家人の宗たる「和田太郎兄弟、大多和二郎、工藤一臈以下侍数輩、推而欲帰参」るほどの状況に陥っていた。極限の状態に追い込まれた範頼は11月14日、物資輸送を鎌倉の頼朝に求めることとなる(『吾妻鏡』元暦元年十一月十四日条)。これ以前から頼朝のもとには範頼から兵糧ならびに兵船支援の要請があり、頼朝は「日来有沙汰、用意船可送兵粮米之旨、所被仰付東国也、以其趣、欲被仰遣西海」(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)と、伊豆国に東国各地から集めた兵船を繋留していた。また、この頃、頼朝から義経に四国出兵を命じる使者が遣わされた可能性が高く、翌元暦2(1185)年正月8日の義経の出兵奏上はその意向を受けたものであろう。

 元暦2(1185)年正月6日、鎌倉から範頼への御書を持った雑色が出立した。この書状には、九州国人の反発を買う行動の禁止、九州急派の自粛、天皇・二位尼の無事な奪還(当時の公卿衆や院が最も拘った神器について触れられない不審がある)が認められ、とくに天皇の救出と宗盛の生捕を指示していることから、頼朝が範頼に命じていることは、九州攻めではなく明らかに四国屋島御所を攻めることであったことがわかる。なお、この書状の九番目に「千葉介ことに軍にも高名し候けり、大事にせられ候べし」(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)と、とくに千葉介常胤に対する扱いを加えている。おそらくこの雑色は2月初旬頃に範頼のもとへ到着したのであろう。

1,九州諸勢は簡単には従わないので、くれぐれもくれぐれも憎まれることはしないこと
2,所望の馬については、平家勢に奪われたとあれば聞き苦しいので遣わさないこと
3,内藤六の周防国での乱暴はもってのほかであり、国の者の心を傷つけることはしないこと
4,天皇ならびに二位殿、女房らをすこしも傷つけることなくお迎えすること
5,内府は極めて臆病であり、自害などなされないであろうから、生捕って京都へ具すこと
6,九州の者たちに屋島を攻めさせ、坂東兵は急がず沙汰すること
7,平家勢が弱くなったと人々が言っているからといって、決して侮らぬこと
8,くれぐれもみかどの御事については、事なく沙汰するよう
9,千葉介常胤は戦にかけても高名の者であるから、大事にするように

 また、別に認められた書状には、東国で徴発した兵船は2月10日には発向する予定の旨を伝え、九州の諸国人らを味方にしたらば「当時は搆へて搆へて、国の者をすかしてよき樣にはからはせ給へ、筑紫の者にて、四国をは責させ給へく候」と指示し、彼らを以って四国を攻めるよう命じたのであった。ここでも頼朝が範頼に命じていたのはあくまでも四国攻めであったことがうかがえる。一方で、頼朝は九州国人らに宛てて「御下文一通」を発給し、院宣及び三河守範頼の下知に随うよう命じた(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)

 下 鎮西九国住人等
  可早為鎌倉殿御家人且安堵本所且隨参河守下知同心合力追討朝敵平家事

 右仰彼国々之輩、可追討朝敵之由 院宣先畢、仍鎌倉殿御代官両人上洛之處、参河守向九国、以九郎判官所被遣四国也、爰平家縦雖在四国、雖着九国、各且守 院宣旨、且隨参河守下知、令同心合力、可追討件賊徒也者、九国官兵宜承知、不日全勲功之賞矣、以下

    元暦元年正月日     
  前右兵衛佐源朝臣

 この「御下文」の年次は元暦元年であるが編纂作業での誤記であろう。そのほか内容にも不審があるため、編纂時に書き改めた可能性がある。

 この下文は「参河守向九国、以九郎判官所被遣四国也」とあるため、義経に対する四国出兵の指示を発したのちに認められたものである。下文にある「参河守向九国」はあくまでも範頼が九州の管領であることを九州国人へ伝える意図であり、頼朝の本心は2月13日に鎌倉に到着した「伊澤五郎(石和五郎信光)」からの書状の返答に記す「依無粮退長門之條、只今不相向敵者有何事哉、攻九国事当時不可然歟、先渡四国、与平家可遂合戦」(『吾妻鏡』元暦二年二月十三日条)とある通りであろう。ただ、九州を攻めることを禁じていたわけではなく、「令談于土肥二郎、梶原平三、可召九国勢、就之若見帰伏之形勢者、可入九州、不然者与鎮西不可好合戦、直渡四国可攻平家者」(『吾妻鏡』元暦二年二月十四日条)、土肥・梶原と相談の上、九州国人が靡くようであれば九州にわたり、もし靡かないようであれば九州は攻めずに四国を攻めるよう指示したのであった。

 ただし、石和信光や範頼の使者が鎌倉へ到着した2月中旬頃には、範頼はすでに北九州を制圧しており、さらに頼朝の返書が範頼のもとに届いたのは、すでに壇ノ浦の戦いが終わり、平家が滅んだ後であろう。つまり範頼が認識していた頼朝からの指示は『吾妻鏡』によれば、あくまで四国攻めだけであるはずだが、実際には範頼は九州へ渡海している。範頼が頼朝の命を違えて九州に渡ることは考えにくく、義経に四国渡海を指示したとみられる元暦元(1184)年12月末頃には、範頼にも「可召九国勢、就之若見帰伏之形勢者、可入九州、不然者与鎮西不可好合戦、直渡四国可攻平家者」(『吾妻鏡』元暦二年二月十四日条)と同様の内容が伝えられていたと考えられ、「爰参州入九国之間、可管領九州之事、廷尉入四国之間、又可支配其国々事之旨、兼日被定處」(『吾妻鏡』元暦二年五月五日条)とあることから、範頼は九州に入ったらば九州を管領し、義経は四国に入ったらば四国の国々を支配することが定められていたという。

 さて、長門国赤間が関まで進出して「新中納言知盛相具九国官兵、固門司関、以彦嶋定営、相待追討使」(『吾妻鏡』元暦二年二月十六日条)を牽制しつつも、兵糧の欠乏と士気の低下に悩まされていた範頼は、陣中で「志在源家之由、兼以風聞」があった豊後国の臼杵惟隆・緒方惟栄の兄弟に対して「召船於彼兄弟、渡豊後国、可責入博多津之旨」(『吾妻鏡』元暦二年正月十二日条)という戦略を決定し、正月12日、長門国からいったん周防国(防府市国衙か)へと戻った。「粮尽之間、又引退周防国訖」(『吾妻鏡』元暦二年二月十三日条)とされるが、豊後国臼杵・緒方の兵船融通を前提にした帰国であった。

 ただ、長門国での兵糧米の確保は不可能な状況にあったのは間違いなく、周防国おろか安芸国までの撤退も計画されていたという(『吾妻鏡』元暦二年二月十三日条)

 その直後、豊後国臼杵・緒方が召しに応じて八十二艘の兵船を献上。さらに周防国人の「宇佐那木上七遠隆」からは兵糧米の提供があった。なお、「伊澤五郎」が頼朝に苦境を訴える飛脚を飛ばしたのはちょうどこの時期であった。「東国之輩、頗有退屈之意、多恋本国、如和田小太郎義盛、猶潜擬帰参鎌倉、何况於其外族矣」という状況にあり(『吾妻鏡』元暦二年正月十二日条)、範頼は「軍士等漸有変意不一揆」と統制が取れないほど混乱した様子を伊豆の頼朝のもとへ報告している(『吾妻鏡』元暦二年二月十四日条)

 その後、「和田太郎兄弟、大多和二郎、工藤一臈以下侍数輩、推而欲帰参之間、抂抑留之、相伴渡海畢」(『吾妻鏡』元暦二年三月九日条)とあるとおり、範頼は和田義盛以下の人々を無理やり押し留め、正月26日、九州へ相伴させることになるが、この報告を受けた頼朝は範頼と御家人らに「仍今度不遂合戦、令帰洛者有何眉目哉、遣粮之程令堪忍可相待之、平家之出故郷在旅泊、猶励軍旅之儲、况為追討使、盍抽勇敢思乎」(『吾妻鏡』元暦二年正月十二日条)と叱咤している。なお、千葉介常胤も老体をおして孫の境平次常秀とともに渡海している(『吾妻鏡』元暦二年正月廿六日条)

●範頼渡海軍従軍諸士(『吾妻鏡』元暦二年正月廿六日条)

北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 小山兵衛尉朝政 長沼五郎宗政
結城七郎朝光 武田兵衛尉有義 齋院次官中原親能 千葉介常胤 境平次常秀
下河辺庄司行平 下河辺四郎政能 阿曽沼四郎広綱 三浦介義澄
(周防駐屯)
三浦平太義村
(周防駐屯か)
八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 渋谷庄司重国 渋谷二郎高重
比企藤内所朝宗比企藤四郎能員 和田小太郎義盛和田三郎宗実 和田四郎義胤
大多和三郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景大河戸太郎廣行 大河戸三郎
中条藤次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内所遠景
一品房昌寛 土佐房昌俊 小野寺太郎道綱    

 範頼は渡海に際し、周防国の留守を任すべき人物について、「周防国者、西隣宰府、東近洛陽、自此所通子細於京都与関東、可廻計略之由、有武衛兼日之命、然者、留有勢精兵、欲令守当国、可差誰人哉」(『吾妻鏡』元暦二年正月廿六日条)と諸将に問うと、常胤が進み出て、「義澄為精兵、亦多勢者也、早可被仰」と三浦介義澄を推したのである。これを受けて、範頼は義澄に周防国守護を指示したが、義澄は「懸意於先登之處、徒留此地者、以何立功哉」と強く辞退した。これに範頼は「撰勇敢被留置之由」を述べて再三に渡って命じたため、義澄も折れて周防国に留まることを了承した(『吾妻鏡』元暦二年正月廿六日条)

 周防国での範頼の所在地はおそらく周防国府(防府市国衙)であろうから、臼杵・緒方の提供した兵船は国衙外港の船所(防府市国衙五丁目)に繋留されたと考えられよう。ここから出帆した範頼らは、向島や田島などの浮かぶ湾を南下し、豊後国府の外港(大分市坂ノ市)に上陸したのではなかろうか。国東半島の北側には平家と関係の深い宇佐神宮があることから上陸は忌避することが予想され、別府から日出、宇佐方面へ向かい、京都郡内を経て遠賀川を遡上したと思われる。

 上陸から数日後の2月1日、「北条小四郎、下河辺庄司、澁谷庄司、品河三郎等」を先登に遠賀川河口の葦屋浦に進出した範頼勢は、鎮西平家方の重鎮であった「太宰少弐種直、子息賀摩兵衛尉等」と合戦に及び、渋谷重国勢は原田種直・賀摩種国勢を散々に射倒し、下河辺庄司行平は種直の弟・美気三郎敦種を射殺している(『吾妻鏡』元暦二年二月一日条)範頼勢は豊後国北東部から豊前国北東部一帯を制圧することで、豊前国彦島の知盛は周防国の三浦介義澄との間に挟まれる形となり、積極的な身動きが取れない状況に陥った

 平重盛====女子
(内大臣)   ∥
        ∥
 原田種雄―+―原田種直――賀摩種国
(大宰大監)|(大宰少弐)(兵衛尉)
      |
      +―美気敦種
       (三郎)

21,九郎判官義経の四国攻め

 京都警衛の必要性から、義経の西国下向に踏み切れない頼朝は、元暦元(1184)年9月19日、文武に通じた側近・橘次公業を「為一方先陣」として屋島のある讃岐国へ派遣し、5月に交名を提出した「各令帰伏搆運志於源家之輩」に「可隨公業下知之由」を命じている(『吾妻鏡』元暦元年九月十九日条)。橘公業は京都に伺候していた藤大夫資光以下の讃岐国人を率いて讃岐国へ赴いており、義経に頼朝からの四国攻めに関する何らかの通達を伝えているのは確実であろう。元暦元年中、四国を攻めることができない追討使の両名に代わり、讃岐国内で平家を牽制していたのは彼らであった。

●源氏御方奉参京都候御家人交名(『吾妻鏡』元暦元年九月十九日条)

藤大夫資光 新大夫資重(資光子) 新大夫能資(資光子) 藤次郎大夫重次 六郎長資(重次舎弟)
藤新大夫光高 野三郎大夫高包 橘大夫盛資 三野首領盛資 仲行事貞房
三野九郎有忠 三野首領太郎(盛資子か) 次郎(盛資子か) 大麻藤太家人  

・讃州藤家系図(『吾妻鏡』より推測)

 藤原某―+―藤原資光―+―藤原資重
     |(藤大夫) |(新大夫)
     |      |
     |      +―藤原能資
     |       (新大夫)
     |
     +―藤原重次
     |(次郎大夫)
     |
     +―藤原長資
      (六郎)

・讃州藤家系図(『史料叢書』南海通記)

      藤原家成       +―藤原親高
     (中納言)       |(周防守)
      ∥          |
      ∥―――――藤原資高―+―藤原有高  +―藤原資幸
      ∥    (羽床庄司)|(藤太夫)  |(藤太夫)
      ∥          |       |
 綾貞宣――女子         +―藤原重高  +―藤原信資
(綾大領)            |(藤太夫)  |(次郎左衛門)
                 |       |
                 +―藤原資光――+―藤原資村
                  (藤太夫)   (左近将監)

 橘公業はもともと父・右馬允橘公長や兄・橘太公忠とともに「左兵衛督知盛卿家人」であったが、治承4(1180)年12月19日、父や兄とともに鎌倉に帰参したとされ(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)、頼朝の信任を得て側近となった人物である。

         惟宗忠康
        (右衛門尉)
         ∥――――――島津忠久
 比企掃部允   ∥     (左衛門尉)
 ∥―――――+―丹後局
 比企尼   |(御台所女房)
       | ※藤九郎盛長妻・丹後内侍とは別人である。
       |
       | 伊東祐清
       |(九郎)
       | ∥
       +―三女
       | ∥
       | 平賀義信―――平賀朝雅
       |(武蔵守)  (右衛門佐)
       | 
       +―河越尼
         ∥
         ∥――――+―河越重房
       +―河越重頼 |(小太郎)
       | (太郎) |
       |      +―女子
       |        ∥
       +―師岡重経   ∥
        (三郎)    ∥
                ∥
              +―源義経
              |(左衛門少尉)
              |
         源義朝  +―円成(義円)
        (左馬頭) |(卿公)
         ∥    |
         ∥――――+―全成
         ∥     (醍醐悪禅師)
         常盤
        (九条院雑仕)
         ∥――――――藤原能成
         ∥     (侍従)
         藤原長成
        (大蔵卿)

 元暦元(1184)年8月26日に「賜平氏追討使官符」っていた義経であったが(『吾妻鏡』文治五年閏四月卅日条)、京都を含めた畿内の不安定な状況によって発向が延引されていた。

 このころ義経は頼朝の命を受けて、伊賀伊勢平氏の乱の収束活動を行っているが、9月9日、頼朝は義経へ「出羽前司信兼入道已下、平氏家人等京都之地」について義経の沙汰とする旨の御書を遣わしている。京内における平家没官領の管理を義経に一元化して、武士らが勝手に没官領の沙汰をすることを禁じ、その扱いは法皇の御定とすると伝えている(『吾妻鏡』元暦元年九月九日条)。ただし、このうち「信兼領」については「義経沙汰」と別扱いしており、これは義経が直接管轄すべきものとしている。法皇御定の地とはいえ、実質的に義経へ宛がわれた恩賞とみるべきか。

 そのわずか五日後の9月14日には、鎌倉から義経の妻女となる「河越太郎重頼息女」が上洛の途に就いた(『吾妻鏡』元暦元年九月十四日条)。これはもともと頼朝と義経の間での「約定」のためであったが、頼朝が信認する比企尼所縁の女子を義経に縁づけることで、より義経との紐帯を固めようとする頼朝の考えが強かったことがうかがわれる。

 頼朝が範頼やほかの門葉ではなく義経を京都代官として起用し続けたのも、彼の警衛能力や公家衆との折衝能力を認めていたことに他ならないだろう。当時、義経の身辺には朝廷に伝手のある中原親能も中原広元も不在であり、義経は院近臣や後藤基清など公卿と関係のある在京御家人が義経の活動を支え、義経も直に公家衆と交わりながら、その政治的な役割を磨いていたと思われる。俗説のような政治的能力の欠如は認められず、混沌とする畿内、近国の国領・庄園など所領の管理・監督、狼藉の鎮定及び治安維持、朝廷や法皇との際どい折衝、平家への対応など多岐にわたる諸役を一手にこなす手腕を発揮していたのである。さらに頼朝は義経の叙爵を推しており、9月18日の大除目で義経は従五位下となる(『山槐記』元暦元年九月十八日条)。さらに10月15日には院の内昇殿が聴され(『吾妻鏡』元暦元年九月廿四日条)、義経は法皇とのスムーズな折衝が可能となった。

●元暦元年九月十八日大除目(『山槐記』元暦元年九月十八日条)

人名 官位 官位
(現)
備考
任官
藤原朝方 権中納言(還任) 正二位 院近臣
藤原定能 権中納言
参議
左近衞権中将
正三位  
藤原経房 中納言
参議
左大弁
従三位  
藤原基家 参議 正三位  
平親宗 参議 正三位 院近臣
藤原兼光 左大弁 従三位  
藤原光雅 右大弁 正四位下  
源兼忠 権右中弁 正四位下 入道前権中納言正二位源雅頼卿二男。
母は正二位行中納言藤原家成女。
乳母夫は斎院次官親能。
平基親 左少弁 正五位下 院近臣。入道参議正三位行民部陽親範卿の子。
母は若狭守従五位下高階泰重女。
藤原定長 右少弁
蔵人左衛門権佐
正五位下 故権右中弁兼中宮亮光房五男。
母は故丹後頭藤原為忠女(官女)。
藤原範光 式部権少輔 正五位下  
平範経 宮内少輔    
藤原宗綱 大膳大夫    
高階経仲 右馬頭 従四位上 院近臣。
大蔵卿高階泰経長男。
母は故三位従五位下藤原行広女。
藤原実明 美濃守
右近衞少将
正四位下  
藤原範季 備前守 従四位上 院近臣。
故従四位下行式部少輔能兼三男。
母は散位従五位下高階為賢女。
三河守範頼の養父。
中原広元 因幡守 従五位上 のちの大江広元
叙位
平為盛   従四位下 平頼盛入道の子
藤原朝仲   正五位下 右大臣兼実甥
源義経   従五位下 左衛門少尉、検非違使
藤原家通 検非違使別当
右衛門督
従二位  

 後日、義経追捕が行われた際、頼朝が「今度同意行家義経之侍臣并北面輩事」として「侍従良成、少内記信康伊与守右筆、右馬権頭業忠、兵庫頭章綱、大夫判官知康、信盛、左衛門尉信実、時成等」(『吾妻鏡』文治元年十二月六日条)の懲罰を求め、「同意行家義経等欲乱天下之凶臣也」として「参議親宗、大蔵卿泰経、右大臣光雅、刑部卿頼経、右馬頭経仲、右馬権頭業忠、左大史隆職、左衛門少尉知康、信盛、信実、時成、兵庫頭章綱」(『吾妻鏡』文治元年十二月六日条)の解官を要求しているように、義経は院近臣を通じて法皇との間に強いパイプを構築していた様子がうかがえる。なお、「侍従良成」は「故長成朝臣男」であるが、母は九条院雑仕常盤であり、義経の異父弟にあたる。

 10月6日、鎌倉において「新造公文所吉書始」が執り行われ、別当に「安芸介中原広元」が就き、長年京都に祗候した経験を持つ「斎院次官中原親能、主計允藤原行政、足立右馬允藤内遠元、甲斐四郎大中臣秋家、藤判官代邦通等」が寄人となった。

■公文所吉書始(『吾妻鏡』元暦元年十月六日条)

別当 安芸介中原広元
寄人 斎院次官中原親能
主計允藤原行政
足立右馬允藤内遠元
甲斐四郎大中臣秋家
藤判官代邦通

 判官代邦通が吉書を書き広元が頼朝に披露している。その後、「千葉介」が垸飯を行ったというが(『吾妻鏡』元暦元年十月六日条)「千葉介」常胤は範頼に随って中国地方を転戦しており、この「千葉介」は常胤子息・千葉太郎胤正であろう。また、広元は義経の叙爵と同日の9月18日、因幡守となっているが、前官職の安芸介と記されていることから、除書がまだ鎌倉に着いていなかったということか。

 元暦2(1185)年正月8日、大蔵卿泰経は院中で会った権中納言経房に「廷尉義経可向四国之由」(『吉記』元暦二年正月八日条)を語っている。すでに義経からこの旨が法皇には奏上されていたが、法皇が難色を示していたようである。これに義経は「而自身可候洛中、只可差遣郎従歟」ということを「申被人(法皇や一部の院近臣であろう)」もあるが、これは「忠清法師在京之由風聞、定挿凶心歟」のためであろうという予測を述べている。忠清法師は伊賀伊勢平氏の乱に加担しており、法皇は忠清法師への強い危機感を持っていたことを物語る。義経の平家追討延引はこの忠清法師ら平家残党を恐れる法皇が頼朝に働きかけた結果の可能性もあろう

 しかし、西国の参河守範頼の軍勢は「二三月兵糧尽了」という状況が京都にも伝わっており、義経は「範頼若引帰者、管国武士等猶属平家、弥及大事歟」と強く主張した(『吉記』元暦二年正月八日条)。経房はこの義経の意見を聞き「義経申状、尤有其謂、大将軍不下向、差遣郎従等之間、雖有諸国費、無追討之実歟、範頼下向之後、及此沙汰歟、然者今春義経発向尤可決雌雄歟」と義経の下向案を推した(『吉記』元暦二年正月八日条)。たとえ義経が下向したとしても、「猶於可然之輩者、差分可令祇候京都之由、尤可被仰合也」と、京都にも守衛の武士は残されることも述べている。ただ、法皇が恐れる件の忠清法師は、経房にとっては「於忠清法師事者、不及沙汰歟、但可搦進其身之由、尤可被宣下歟」(『吉記』元暦二年正月八日条)とあるようにもはや脅威ではなく、捕らえて進上する旨の宣旨を下しておけばよいという程度の認識であった。結局、経房の推挙もあったか、義経の西国下向は認められ、正月10日に「大夫判官義経、発向西国」(『吉記』元暦二年正月十日条)と、平家討伐のために京を出立した。

 義経は淀川の河口、摂津国渡邊へと移り、その後ひと月あまりこの地に駐屯した。この不自然な滞陣の理由は不明だが、当時「平家者結陣於両所、前内府以讃岐国屋嶋為城郭、新中納言知盛相具九国官兵、固門司関、以彦嶋定営、相待追討使」(『吾妻鏡』元暦二年二月十六日条)という状況の中、瀬戸内への玄関口である渡邊津で、四国を攻めるための軍勢催促が行われていたのであろう。義経にはもともと兵粮問題から、在京に耐えうる人数しか配されていなかったことは確実であり、追討使拝命後は「畿内近国、号源氏平氏携弓箭之輩幷住人等、任義経之下知可引率之由、可被仰下候」(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)とあるように、畿内・近国の国人を中心に兵力を整えていたと考えられる。そのような中で、範頼は豊後国人らの協力を得られる確証を得て長門国で豊後渡海を議定し、正月26日に渡海、2月1日に豊前国葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)での戦いに勝利し、彦島(下関市彦島)の南対岸に進んだとみられる。権中納言知盛の九州渡海を防ぎ、上洛に必要な兵力の補充を阻害したのである。

 一方、範頼から九州渡海の報を受けた義経は、単独で讃岐国屋島の御所を攻めることとなったが、2月16日、法皇は大蔵卿泰経を義経が滞陣する「渡邊」へ派遣し、院宣を以て「為制止義経発向」を命じた(『玉葉』元暦二年二月十六日条)。それは「是京中依無武士為御用心」という法皇の不安から出たものであったが、義経は「敢不承引」であった(『玉葉』元暦二年二月十六日条)。範頼が北九州で知盛を抑えることで、四国へ進む可能性がなくなった以上、義経の出陣が必須となったためであろう。泰経は「泰経雖不知兵法、推量之所覃、為大将軍者、未必競一陣歟、先可被遣次将哉」と説得するが、義経は「殊有存念、於一陣欲棄命」と告げたという(『吾妻鏡』元暦二年二月十六日条)。兼実は法皇が公卿たる泰経にこのようなくだらない使者をさせることを強く批判している(『玉葉』元暦二年二月十六日条)

 頼朝は2月5日に「典膳大夫中原久経、近藤七国平、為使節上洛」(『吾妻鏡』元暦二年二月五日条)させているが、これは義経・範頼両将の西国出兵の完了を受けたものであろう。久経・国平両名は「是追討平氏之間、寄事於兵粮、散在武士於畿内近国所々致狼藉之由」の報告があるため、「仍雖不被相待平家滅亡、且為被停止彼狼唳、所被差遣」た使節であった。彼らは「先相鎮中国近辺之十一ケ国、次可至九国四国」という任務を請け負っており、この「中国近辺之十一ケ国」は「不被相待平家滅亡」とあることから、平家が管領していた梶原・土肥が惣追捕使を務める五か国を含む山陽地方であろう。そのほか「為鎮畿内近国狼唳」(『吾妻鏡』元暦二年三月四日条)ともあり、畿内の武士による狼藉を鎮めることも彼らの任務であった。

 彼らは「今両人雖非指大名」と頼朝も認識している通り大身ではなく、義経の代理ではない。彼等には義経の「職務の一部」である狼藉防止の任務が与えられたとみられるが、何事も「悉以経奏聞、可随 院宣」を指示しており、ただ院宣に随うという「此一事之外、不可交私之沙汰之由」をきつく申し付けられているのである。なお、この使節が上洛したのは時期的に2月15日前後と考えられることから、法皇は彼らを心許なく思い、頼りとなる義経を呼び戻そうと試みた可能性があろう。なお、義経がいたのは『延慶本平家物語』などでは「大物の浦」であるが、実際には『玉葉』『吾妻鏡』に見える通り摂津国「渡邊」(『玉葉』元暦二年二月十六日条)である。

 法皇使の高階泰経が到来した2月16日(『吾妻鏡』では前日15日より宿泊)、義経は渡邊津を「十六日解纜」(『玉葉』元暦二年二月廿七日条、三月四日条)した。『玉葉』の記述は、義経からの「申上状」を受けた小槻隆職が兼実に注送したものであるため、信憑性は高い。『吾妻鏡』でも16日に「関東軍兵為追討平氏赴讃岐国、廷尉義経為先陣、今日酉尅解纜」(『吾妻鏡』元暦二年二月十六日条)とあり、朝廷に伝えられた出航日は2月16日だったことがわかる。『吾妻鏡』には船の数は記されていないが、軍記物『平家物語』(延慶本)の記述では集結した船は「百五十艘」とある(『延慶本平家物語』)

 『玉葉』では義経申上状の記述から、予定通り2月16日に「十六日解纜」(『玉葉』元暦二年二月廿七日条、三月四日条)し、翌17日には「十七日着阿波国」(『玉葉』元暦二年三月四日条)となっていて、しかも「無為著阿波国了」(『玉葉』元暦二年二月廿七日条)とあるように、何ら問題なく阿波国に到着したという。ところが『吾妻鏡』では、16日夜に暴風に見舞われ、破損する兵船が続出(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)し、暴風を恐れた「士卒船等一艘而不解纜」という状況が起こっていたという。ここで義経は「朝敵追討使暫時逗留、可有其恐、不可顧風波之難」(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)と将士を鼓舞したが、士卒らの多くは危険回避のために渡海を拒絶したため、義経は明けて17日深夜丑刻(午前1時~3時頃)に同調する人々とともに「先出舟五艘」に分乗して出航し、数時間後の「卯尅着阿波国椿浦」という(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)。義経が朝廷に伝える上では、とにかく無事に阿波国についたことは間違いなく、過程は省かれた可能性も十分にある。

 なお、史料的価値は疑問の軍記物『延慶本平家物語』では「俄かに又南風激しく吹きて、船七八十艘、渚に吹き上げられ、散々に打ち破れたり」(『延慶本平家物語』)とあり、『源平盛衰記』『平家物語』ではこのとき義経と景時が激しく口論したと記される。「凡和田小太郎義盛与梶原平三景時者、侍別当所司也、仍被発遣舎弟両将於西海之時、軍士等事為令奉行、被付義盛於参州、被付景時於廷尉(『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日条)とあるように梶原景時は義経に付属していた代官であったことは間違いないだろう。ただ、この頃景時は「淡路国広田庄者、先日被寄附広田社之處、梶原平三景時為追討平氏、当時在彼国之間、郎従等乱入彼庄、妨乃貢歟」(『吾妻鏡』元暦元年十月廿七日条)とあるように、かなり早い段階から屋島を牽制するように淡路国に駐屯していた様子も見られ、実際に口論があったかは不明である。

 『吾妻鏡』の記述では、17日早朝に「阿波国椿浦」に到着し、百五十騎が上陸したという(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)。「椿浦」は阿南市椿町浜阿南市椿泊町阿南市椿町那波江阿南市椿町楠ケ浦など、阿南市椿泊町のある半島上の泊の何れかであろう(桂浦説は、あくまでも『吾妻鏡』での記述だが「路次」であるため、ここではないだろう)。

 義経に付随して渡海した際の交名は伝わっていないが、義経には「渡部党源五馬允」(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)も随っており、水運に長けた摂津渡邊党の協力があったのだろう。このほか、軍記物『延慶本平家物語』では「百五十艘の船の内、只五艘出だして走らかす、残りの船は皆留まりにけり、一番判官の船、二番畠山、三番土肥次郎、四番伊勢三郎、五番佐々木四郎已上五艘ぞ出だしたりけり」(『延慶本平家物語』)とあり、畠山次郎重忠、土肥次郎実平、伊勢三郎義盛、佐々木四郎高綱を主たる御家人とする「畠山を初めとして、一人当千の棟との者共六十余人、判官に付きにけり」という(『延慶本平家物語』)。ただ、この『延慶本平家物語』の記述は軍記物の特性上、信は置けない。このほか「田代冠者信綱、金子十郎家忠、同余一近則」(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条)「後藤兵衛尉実基、同養子後藤新兵衛尉基清等」(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条)がいたという。

 義経に従って阿波国に上陸したのは「則率百五十余騎上陸」(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)とあるが、「百五十騎」を五艘で渡るには単純計算で一艘に五十人の将士と乗馬を乗せる必要があり、不可能である(平安期の大陸への渡航で用いられたような外洋船であっても漕手などを除けば一艘十数名と推測:(榎本渉「日宋・日元貿易船の乗員規模」『国立歴史民俗博物館研究報告』2021年3月)より考察)。もし百五十騎の上陸が事実であるとすれば、阿波へ渡る船は外洋船より小規模な兵船であったと考えれば、三十~四十艘規模の船団が必要となり、嵐で渡海ができなかったという説話には疑問符がつくことになる。

 彼らが「上陸」した阿波国「椿浦」は阿波国中部の椿泊半島近辺と思われるが、義経は阿波国板西郡の「当国住人近藤七親家」を召して屋島までの道案内としたとある(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)。坂西郡は吉野川流域という椿浦からは相当北に位置する地域であり、近藤親家にはあらかじめ到着する地点を指示しておく必要がある。暴風による漂着という不確定事項ではこの説話は成立困難となる(あらかじめ近藤親家が渡邊津の義経陣にいれば別である)。

 義経は「赴讃岐国」(『吾妻鏡』元暦二年二月十六日条)とあるが、これは目的地としての讃岐国を指すか。『吾妻鏡』によれば、義経率いる百五十騎は椿浦から勝浦郡「桂浦徳島市勝占町」へ進出し、桂浦を望む中山に城塞を築いていた平家方の「桜庭介良遠」を攻めて追い落とした(『吾妻鏡』元暦二年二月十八日条)。桂浦は現在は海から数キロ離れているが、当時は羽ノ浦、立江、田浦から続く浜辺を形成していたのであろう。「桜庭介良遠」は「散位成良弟」であるが、「散位成良」は阿波国有力在庁で平重衡の麾下として宇治や美濃など各地を転戦した「阿波民部大夫成良(田口成良)である。

 義経は桜庭介良遠を追い落としたあと、桂浦から北上して吉野川に進出。西へ転じて「阿波国与讃岐之境中山」へと進んでいる。おそらくこの頃、橘次公業ら讃岐国に先陣として派遣されていた御家人と合流しているのだろう。その後、夜間に山を越えた義経勢は、19日未明に「屋嶋内裏之向浦高松市新田町まで進み、「牟礼、高松民家」を焼き払ったという(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条)。『吾妻鏡』の記述からは、屋島の海峡を挟んだ南部と東部に侵攻したということになる。

 ただし、椿浦から屋島までの道のりは陸行で約百二十キロメートルあり、途中の戦闘および登山を伴う陸行ではほぼ不可能な旅程である。『玉葉』では大夫史隆職からの注送で義経からの申状の内容が記されているが、こちらでは「去月十六日解纜、十七日着阿波国、十八日寄屋島、追落凶党了」(『玉葉』元暦二年三月四日条)とあり『吾妻鏡』の内容とは一日のずれが生じている(なお、前述の通り、『吾妻鏡』元暦二月十六日条の渡辺津出航の記述は義経が朝廷に送った申状に則った記載がなされ、その出典は『玉葉』をベースにしているとみられるが、翌二月十七日条ではまだ渡辺津から出航していないという前日と矛盾した状態が記載されていて、別の出典から齎されているとみられる。その後の『吾妻鏡』における義経の行動も16日の『玉葉』とは異なる出典から採用されており、義経の申状とは1日のずれが生じている)。『玉葉』は義経の「申状」の内容を機械的に記録しているものであるから『吾妻鏡』よりも信憑性が高いであろう。また、陸路で進軍したとすれば船は椿浦へ置くことになるが、屋島はその名の通り島であり、船を使わずに攻め入ることは不可能である。屋島周辺の船舶は当然接収されていたと考えられることから、義経は自前の船を持ったまま屋島に着陣していることになる。つまり、時間の点からも船の点からも、義経勢は阿波国椿浦から羽ノ浦、立江、田浦の海岸線を船で北上し、屋島へ向かったというのが現実的であろう。

 なお、屋島侵攻を受けた宗盛は安徳天皇を奉じて海へ逃れ、義経は彼らを追って「田代冠者信綱、金子十郎家忠、同余一近則。伊勢三郎能盛等」を率いて汀を馳せ向かい、平家の兵船に矢を射かけ、平家側からも矢が放たれている。この間に別働の「佐藤三郎兵衛尉継信、同四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉実基、同養子後藤新兵衛尉基清等」が空き家となった屋島内裏へ侵入するが、「越中二郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛尉忠光」は兵船から降りて屋島御所の宮門前に陣しており、佐藤継信を討ちとっている(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条)

 その後、別働隊は内裏と前内府宗盛の屋敷などを焼き払っており(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条)、平盛嗣、藤原忠光は退いたと思われる。戦後、義経は腹心・佐藤三郎継信の亡骸を僧侶に託して千株松の根元に埋葬し、法皇から給わった名馬・大夫黒を回向のため僧侶に給わったという(『吾妻鏡』元暦二年二月十九日条))。この屋島の戦いは京都に報告され、3月4日に大夫史隆職から兼実のもとに「寄屋島、追落凶党了」(『玉葉』元暦二年三月四日条)の報告がなされている。

 屋島から東へ逃れた平家勢は「讃岐国志度道場志度寺に籠り、2月21日、義経率いる八十騎がこれを攻め、平家は再び海へと逃れて西へ向かった。この合戦で「平氏家人田内左衛門尉」が義経に帰服した(『吾妻鏡』元暦二年二月廿一日条)。田内左衛門尉(田口左衛門尉教良)は前述の阿波民部大夫成良の子であるが、父や叔父が平家党として合戦している最中になぜ寝返ったのかは不明である。そのほか、伊予国人・河野四郎通信も三十艘の兵船を率いて義経勢に参戦。京都では「熊野別当湛増」も源氏へ属して渡海したという風聞が流れた(『吾妻鏡』元暦二年二月廿一日条)。実際に3月9日に鎌倉に届けられた範頼の書状でも「熊野別当湛増、依廷尉引汲、承追討使、去比渡讃岐国」ったといい(『吾妻鏡』元暦二年三月九日条)、義経の調略によって熊野別当が源氏側となったことが報告されている。なお、その際、湛増が義経の引汲によって「追討使」を拝命した風聞に不満を感じていることを述べている。この使者は3月10日に鎌倉に届くが、頼朝は湛増が渡海した風聞は「無其実」であると返答している。

               湛快――――+―湛増
              (熊野別当) |(熊野別当)
                     |
                     | 平忠度
                     |(薩摩守)
                     | ∥
               行範    +―女子
              (熊野別当)   ∥――――女子
               ∥       ∥
               ∥―――――――行快
               ∥      (僧都)
        源為義――+―鳥居禅尼
       (六条判官)|
        ∥    |
        ∥    +―源行家―――――源光家
        ∥     (備前守)   (左衛門少尉)
        ∥
        ∥――――――源義朝―――――源頼朝
 藤原忠清―――女子    (左馬頭)   (前右兵衛権佐)
(淡路守)       

 また「自関東所被差遣之御家人等、皆悉可被憐愍、就中千葉介常胤、不顧老骨堪忍旅泊之條、殊神妙、抜傍輩可被賞翫者歟、凡於常胤大功者、生涯更不可尽報謝之由」(『吾妻鏡』元暦二年三月九日条)と、頼朝は、とくに常胤について言及している。

1,熊野別当湛増が渡海した事実はないこと
2,関東の御家人たちはみな憐愍して用いること 
3,特に千葉介常胤は、老体を惜しまずに戦いの旅に出ている。彼の大功は生涯、報謝を尽くすべからざること

 そして、志度合戦の翌2月22日、屋島の磯に「梶原平三景時以下東士、以百四十余艘」が到着した(『吾妻鏡』元暦二年二月廿二日条)。景時は当時、淡路国に在陣していたと思われ、屋島から立ちのぼる黒煙などを見て、急ぎ馳せ参じたものではなかろうか。義経が2月19日に鎌倉へ遣わした飛脚は屋島合戦の前に陣を離れていたが、「而於播磨国顧後之處、屋嶋方黒煙聳天、合戦已畢、内裏以下焼亡無其疑」(『吾妻鏡』元暦二年三月八日条)と頼朝に報告しており、播磨国からも望める黒煙であった。

 3月12日、頼朝は範頼が依頼していた兵船の補給として、伊豆国鯉名・妻郎津に繋留した兵船三十二艘に兵粮を乗せ、筑後権守藤原俊兼を奉行として西海に派遣する命を下した(『吾妻鏡』元暦二年三月十二日条)。もともと2月10日に解纜の予定であったが、ひと月あまりの遅延となっている。兵糧米の不足があった可能性があろう。3月14日には鬼窪小四郎行親を使者として、九州の範頼へ「是追討可廻遠慮事、賢所并宝物等無為可奉返入事等」との書状を遣わしている。三種神器の京都奉還は後鳥羽天皇の即位を行うにあたり必須であり、頼朝は安徳天皇の身柄よりも神器の無事な回収を優先していたのである。それは在京の貴族も同様であった。また神器の奉還は法皇からも強く要請されていたと思われ、すでに3月8日には義経、翌9日には範頼からの使者が鎌倉に到着し、頼朝は西国の戦況を把握していたと考えられることから、平家を追い詰め、神器を取り返すのも時間の問題であることを感じていたのだろう(『吾妻鏡』元暦二年三月十四日条)

 さて、志度寺の敗戦により、西へ向かった前内府宗盛ら平家一門は、まず「在讃岐国シハク庄」に拠った(『玉葉』元暦二年三月十六日条)。塩飽諸島のいずれかの島に拠点を構えんとしたのであろう。ところがここにも義経勢が攻め懸り、平家勢は「不及合戦引退、著安芸厳島了」で、その勢は「僅百艘許」であったという(『玉葉』元暦二年三月十六日条)。そのほか「平氏或在備前小島、或在伊予五々島」と瀬戸内の島嶼に拠っているが、ここに平家方として「鎮西勢三百艘相加」という伝聞が京都に届いた。兼実はこれらの報に「但実否難知、近日異説非一」と慎重な姿勢を示している(『玉葉』元暦二年三月十七日条)

22,壇ノ浦の戦い

 頼朝は「四国事者、義経奉之、九州事者、範頼奉之」(『吾妻鏡』元暦二年三月九日条)と指示しているように、義経は四国追討を任とし、範頼は九州追討が所役となったと思われる。ただし、飢饉による兵糧不足や厭戦気分の蔓延があったことから、平家追捕は持久戦になる可能性も高く、範頼と義経は担当地域に応じた活動は命じられていたものの、具体的な戦略は遼遠の地ということもあって彼らに委任され、その状況報告は逐一鎌倉へ送られる形だったのであろう。ただし、範頼と義経の両将は、神器と主上・国母奪還という共通目的を持ち、範頼は大宰府など平家の九州の拠点を掌握しながら彦島(下関市彦島)の南岸まで進出し、平家勢の九州渡海を阻止する一方、彦島の権中納言知盛と合流して九州への渡海を図るであろう前内府宗盛らを周防国の三浦介義澄が抑える戦略を取ったのだろう。範頼の九州封鎖は平家勢の行先を奪う目的があったと考えられる。

 一方、屋島の平家党の追捕に成功した義経は、瀬戸内に逃れた宗盛らの追捕を敢行することとなる。宗盛らは安徳天皇を奉じて九州での態勢挽回のため西へ向かっており、まずは彦島に布陣して九州の平家与党を組織していた権中納言知盛との合流を図ったのである。宗盛勢を追捕するには、累代の平家与党が多く存在する瀬戸内を経て攻め上ることになり、義経勢は宗盛勢を「讃岐国シハク庄」から「安芸厳島」へ追ったものの、すでに権中納言知盛が張っていた警戒線が芸予海峡を塞ぐように「伊予五々島愛媛県興居島(『玉葉』元暦二年三月十七日条)「周防国大島周防大島町にも「件島、平氏知盛卿謀反之時、構城郭所居住也、其間住人字屋代源三、小田三郎等令同意、始終令結構彼城畢」(『前右大将家政所下文』「鎌倉遺文」594)されていたのである。

 こうした中、義経勢には伊予西部の氏族を支配下に置く(『関東下知状』「鎌倉遺文」1570)河野四郎通信の船団三十艘が加わっていたものの、寡兵に変わりはなく、平家勢が潜む瀬戸内を進むことは容易ではなかったはずである。義経は、宗盛が拠った芸州厳島へ向かわずに芸予海峡の島嶼をくぐり抜けると、周防国府防府市国衙)傍の「大津嶋周南市大字大津島へ上陸した(『吾妻鏡』元暦二年三月廿二日条)。これは宗盛勢の動向を窺うとともに周防国留守居の三浦介義澄との連携を図ったものであろう。

 3月21日、義経は周防国で「聚乗船廻計」(『吾妻鏡』元暦二年三月廿二日条)し、「為攻平氏、欲発向壇浦」の予定であったが、この日は「甚雨」であり「延引」された(『吾妻鏡』元暦二年三月廿一日条)。義経は大津島に在陣していたと思われるが、周防国衙在庁で「依為当国舟船奉行」の船所五郎正利が、義経に「数十艘」の船を献じたという(『吾妻鏡』元暦二年三月廿一日条)。これが義経の要請があったものかは不明だが、義経勢には圧倒的に船が足らなかったのだろう。厳島の宗盛との戦いを避けて周防国に拠ったのも、兵船補給や補修の意図があったと思われる。周防船所からの兵船供与はこの上ないものであったろう。義経は正利の協力に対し「与書於正利、可為鎌倉殿御家人之由」(『吾妻鏡』元暦二年三月廿一日条)を証する文書を発給したという。そして翌3月22日、義経は「促数十艘兵船、差壇浦解纜」した(『吾妻鏡』元暦二年三月廿二日条)

 この出帆に先立ち、周防国留守居の三浦介義澄が、義経の「自昨日聚乗船廻計」を聞いた周防国府防府市国衙)から大津島へ参会し、義経と対面している。義経出帆が程近いことを察したものであろう。ここで義経は義澄に「汝已見門司関者也、今可謂案内者、然者可先登者」(『吾妻鏡』元暦二年三月廿二日条)と命じている。これを受けた義澄は「進到于壇浦奥津邊去平家陣卅余町也に船を進めたという。ただ、義澄は範頼に付属された人物で、範頼の命によって周防国の留守居を任された身であり、義経が義澄に出兵を命じることは明確な越権行為となろう。こうした行為が、頼朝の怒りを買う一因になっているのかもしれない。

 なお、義経に付けられた代官の梶原平三景時は、去る2月22日に屋島の磯に「百四十艘」の船を率いて到着しているが(『吾妻鏡』元暦二年二月廿二日条)、義経が大津島を出帆した際には「数十艘」の船であったとされることから、義経は梶原景時とは合流していないことになる。また、屋島合戦以降、船を大量に徴発する時間的な余裕はないことから、義経麾下の船は、渡邊津を出帆した船および、河野通信の三十艘、周防船所提供の数十艘を加えた百艘に満たない兵船が義経が率いたすべてであったと思われる。ここに義澄が用いた兵船(これも周防国船所の船であろう)を加えても、さほど多くない数であったろう。

 その頃、陣容を整えた安徳帝を奉じる平家勢が厳島から彦島方面へと向かっていったと思われる。この航行の様子は、大津嶋からも望めたであろう(対岸の姫島から大津嶋を望むことができる)。そして、彦島からも権中納言知盛自ら率いる軍勢が「赤間関」を経て「田之浦」沖に進み、安徳帝一行を海上で迎えて合流を果たしたと思われる。本来は陸上の御所にあるべき安徳天皇や女官も乗船して戦陣に身を置いていることを考えると、宗盛や知盛はすでに葦屋合戦で壊滅した北九州からの上陸を諦め、南下して九州への上陸を企図したのではなかろうか。ここに3月24日、義澄を「先登」とした義経勢が進出し、「壇浦奥津邊」でぶつかったのだろう。「壇ノ浦の戦い」である。

 なお、「壇浦奥津邊」は、少なくとも田之浦(北九州市門司区田野浦)沖よりも東の長府沖であると考えられ、現在の下関市壇ノ浦町から北東方向一帯が「壇浦」と称されていたと思われる。

 ところで、屋島を追われた安徳天皇や宗盛以下の平家勢は合戦までの間、どこにいたのだろうか。長門国彦島に上陸したという説もあるが、彦島上陸を証明する資料はない。『玉葉』からの足取りでは、宗盛は「厳島」へ到着したとの報告が兼実に届いているほか、「備前小島玉野市周辺「伊予五々島愛媛県興居島に分散していた様子がうかがえる(『玉葉』元暦二年三月十七日条)。厳島へ上陸した安徳帝以下の平家勢は、即座に厳島や周防大島などからの援兵により兵力を回復したと思われる。

 義経勢と衝突した平家方は、まず葦屋合戦後に知盛陣に遁れたと思われる「山峨兵藤次秀遠」と、肥前国「松浦党」が大将軍となって合戦がはじまった。義経は範頼との連携を図るための具体的な戦略を立てる前に知盛麾下の軍勢と遭遇しており、義経は自勢と三浦介義澄勢で平家勢と戦うこととなっている。範頼勢が海戦に参戦しなかったのは、範頼が牽制役に徹したのではなく、戦いの発生過程にあったとみられる。

 義経の兵力は大津島を出帆する際に「数十艘」とあることから、義澄が率いた船を加えてもそれほど大兵力ではなかったと思われる。また宗盛率いる屋島平家勢は「僅百艘許」(『玉葉』元暦二年三月十六日条)で、彦島に籠っていた知盛勢も、山鹿・松浦党の残兵を加えたとしても、それほど大きな兵力を有し得なかったであろうから、義経が頼朝へ報告した「浮八百四十余艘兵船、平氏又艚向五百余艘合戦」(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)という陣容での合戦は考えにくいであろう。

 合戦は義経勢が平家勢を次第に押してゆき、「及午剋、平氏終敗傾」という結末を迎えた。このとき、故清盛入道正室の「二品禅尼(平時子)」は神器のひとつ「宝剣」を持ち、「按察使局」は先帝安徳天皇を抱き、壇ノ浦に入水した(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)。安徳天皇生母・建礼門院平徳子も入水したが、義経麾下の渡邊源五允によって救出され、安徳天皇を抱いて入水した按察局も引き上げられている。しかし、八歳の先帝安徳天皇(兼実は一時的に「西海王」と呼んでいる)と宝剣はついに浮かび上がってくることはなかった。七歳の「若宮今上兄」も平家とともに行動していたが救出されている。のちの守貞親王(後堀河天皇実父、後高倉院)である。平家方の宗たる人々では、「前中納言教盛、号門脇」「前参議経盛」「新三位中将資盛、前少将有盛朝臣等」が入水死、「前内府宗盛、右衛門督清宗等」は入水するも義経腹心の伊勢三郎能盛によって生け捕られた(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)。御座船に乱入して賢所を開けんとする東国武士に対しては、これを守衛していた「平大納言時忠が強く制止している(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)。兵士らは「于時両眼忽暗、而神心惘然」となって逃げたというが、事実であれば時忠卿に目の前のものが神器であると告げられ、突然の事態に兵士らが慄き慌てたということかもしれない。時忠は平家一門とはいえ、清盛妻二位尼の弟という血縁関係となり、血統としてはまったく別流の桓武平氏である。その鎮西行への同行は、平家との関係というよりも先帝安徳天皇の大伯父、乳父という立場での行動であったろう。

●長門国平家与源氏合戦(『醍醐雑事記』)

生取 内大臣宗盛 三十九歳 故清盛入道の三男。
右衛門督清宗 十五歳 前内府宗盛の長男。
大納言時忠 五十六歳 兵部権大輔時信の長男。故清盛入道の義弟。
讃岐中将時実 三十五歳 大納言時忠卿の長男。
内蔵頭(平信基)   院近臣。兵部卿信範の長男。
二位僧都全真   院近臣藤原親隆の子で、時忠卿の母方の甥。
伯母にあたる八条殿時子の猶子。
法性寺執行能円   近臣藤原顕憲の子で、時忠卿の異父弟。
阿波民部大夫成良   阿波国の在庁で、壇浦合戦で源氏方に寝返った伝もあるが、
『醍醐雑事記』『吾妻鏡』いずれにも生捕の人数にあり、 彼の寝返りの伝は疑わしい。
藤内左衛門信康   平家家人。
女院 三十一歳 建礼門院。御諱は徳子。
若宮 七歳 故高倉院第二皇子。平知盛室治部卿局を乳母とする。
のち守貞親王となり、皇子は後堀河天皇となる。
降人 源大夫判官季貞   平家家人。検非違使。
摂津判官盛澄   平家家人。検非違使。
自害 中納言教盛 五十八歳 故忠盛卿の三男。門脇殿。母方は摂関家庶流という貴種。
こうした血統ゆえか、嫡子通盛は平家庶流中で唯一の公卿となる。
中納言知盛 三十四歳 故清盛入道四男。
能登守教経 二十六歳 門脇中納言教盛の子。一ノ谷の合戦で討死したともされるが、
壇之浦合戦での活躍もみられ、真相不明。
殺人 左馬頭行盛   故清盛入道次男・基盛の子。播磨守という受領の上臈を経て、左馬頭へと昇る。ただし、行盛は従五位上、そしてのちに伊予守となった義経は従五位下であったように、この時点で伊予国や播磨国といった「四位上臈」任国の格は失われていたことがわかる。
小松少将有盛   故小松内府重盛の子。『吾妻鏡』では入水したとある(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)。
備中吉備津宮神主    
権藤内貞綱    
権藤内貞綱舎弟    
菊池二郎    
刎頸者八百五十人    
不知行方人 先帝   安徳天皇。
八条院   二位尼平時子。
修理大夫経盛 六十二歳 故忠盛卿の次男。母は源信雅女。母方は名門村上源氏であるが、庶家の受領層であったため、摂関家庶家を外戚とする教盛や、当腹嫡子の頼盛といった異母弟より一段下に置かれていた。そのためか異母兄清盛や平家一門との関係よりも、姻戚関係にあった藤原師長や院司として仕えた太皇太后宮、その実家である閑院家の藤原実定らとの結びつきが強かった。壇之浦合戦では「前參議経盛出戦場、至陸地出家、立還又沈波底」(『吾妻鏡』元暦二年三月廿四日条)とあるように、いったん上陸して出家したのちに戻り、入水したという。
内侍所御坐    
進正御坐    
宝剣不見    
女院    
二宮    

23,壇ノ浦の戦いその後

 壇ノ浦の戦いから四日後の元暦2(1185)年3月27日、京都の兼実のもとに「平氏於長門国被伐了、九郎之功」(『玉葉』元暦二年三月廿七日条)という「伝聞」が届いた。ただ、兼実は例の如く「実否未聞、可尋之」とさらなる情報を待つ姿勢を示す。

 翌3月28日、兼実は経房の弟、右少弁定長を通じて、この伝聞の出所が「佐佐木三郎ト申武士説」であることを知る。彼は義経勢に加わっている佐々木三郎盛綱であるが、兼実はなおも「義経未進飛脚、不審尚残」として慎重な姿勢を崩していない(『玉葉』元暦二年三月廿八日条)

 翌3月29日、権中納言定能が兼実邸を訪問し「語平氏之間事、如昨日定長語」(『玉葉』元暦二年三月廿九日条)という。

 そして4月3日夜、「追討大将軍義経」からの飛脚が届いた旨が報告された(『玉葉』元暦二年四月四日条)。飛脚に副えられた札によれば、「去三月廿四日午刻、於長門国団合戦、於海上合戦云々、自午正至哺時、云伐取之者、云生取之輩、不士知其数、此中前内大臣、右衛門督清宗内府子也、平大納言時忠、全真僧都等為生慮云々、又宝物等御座之由、同所申上也、但旧主御事不分明」という。法皇は平時は兼実を敬遠しているが、兼実ほど故実に通じた現役公卿はなく、今回も「事何様可被行哉」と兼実に諮問している(『玉葉』元暦二年四月四日条)。翌4月4日にも義経の使者「源兵衛尉弘綱」が入京し、「註傷死生虜之交名、奉 仙洞」という(『吾妻鏡』元暦二年四月四日条)。おそらく鎌倉へ下した交名と同じ内容であったと思われるが、前述の『醍醐雑事記』の内容とは若干の相違を見る。

●『註傷死生虜之交名』(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)

 一 先帝没海底御

 一 入海人々
   二位尼上
   門脇中納言教盛      新中納言知盛      平宰相経盛先出家歟
   新三位中将資盛      小松少将有盛      左馬頭行盛

 一 若宮幷建礼門院無為奉取之

 一 生虜人々
   前内大臣         平大納言時忠      右衛門督清宗
   前内藏頭信基被疵      左中将時実同上     兵部少輔尹明
   内府子息六歳童形字副将丸
   
   此外
   美濃前司則清        民部大夫成良       源大夫判官季貞
   摂津判官盛澄        飛騨左衛門尉経景     後藤内左衛門尉信康
   右馬允家村

   女房
   師典侍先帝御乳母  大納言典侍重衡卿妻  師局二品妹  按察局奉抱先帝雖入水存命
  
   僧
   僧都公真  律師忠快  法眼能円  法眼行明熊野別当

 そして4月4日早旦、兼実は「於長門国誅伐平氏等了」を聞き、午後を回って未刻、「為大蔵卿泰経奉行、義経伐平家了由言上」につき、法皇より兼実に「有可被仰合事、可参入之由、被仰下之」という指示が届く。兼実は持病の腰痛の灸治に事寄せて参院を渋り「相労今両三日之間、可参之由」(『玉葉』元暦二年四月四日条)の返答をしている。法皇に対する不信による事実上の参院拒否であった。しかし、事は重大であり、頭弁光雅が院使として九条邸に遣わされ、義経からの報告の詳細が説明された。

 翌4月5日、法皇は院北面「大夫尉信盛」を勅使として長門国へ派遣し、その大功を称賛するとともに、「宝物等無為可奉入之由」を義経に命じたのであった(『吾妻鏡』元暦二年四月五日条)

 また、4月11日には鎌倉にも義経の使者が到着している。このとき、鎌倉では故源義朝の遺骨を祀る御願寺南御堂(勝長寿院)の立柱の儀が執り行われており、頼朝もそこに臨んでいた。ここに義経からの「申平氏討滅之由、廷尉進一巻記」が届けられ、「藤判官代」が頼朝の御前で読み上げた(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)。ただ、頼朝や義経が法皇から厳命されていたであろう神器については「内侍所神璽雖御坐、宝剣紛失」であり、二位尼とともに赤間関沖に入水した宝剣は海中に没し、義経は「愚慮之所覃奉捜求之」という報告に留まった。

 その後、頼朝は書簡を手に取ると「向鶴岳方令坐給、不能被発御詞」(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)であったという。柱立上棟の儀が終了すると、急ぎ御所へ帰営。義経からの使者を召すと、合戦の状況をつぶさに訪ねたという(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)。そして、頼朝は迅速な戦後処理を行うべく営中にて群議を行い、「参州暫住九州、没官領以下事可令尋沙汰之」と「廷尉相具生虜等可上洛之由」を定め、雑色の時澤・里長らを九州へと派遣した(『吾妻鏡』元暦二年四月十二日条)

 この報告を受けた頼朝は、義経の功を評価して「予州事」とある通り、御分国の一つ伊予国の国司に推挙した。具体的な日にちは分かっていないが、「去四月之比、内々被付泰経朝臣畢」とある通り、四月中であったことは確かである。また、義経からの報告には法皇の内示によるとみられる任官者(頼朝の推挙なき自由任官)の報告があったと考えられ、頼朝は4月15日、「関東御家人、不蒙内挙、無巧兮多以拝任衛府所司等官」につき、「不云先官当職、於任官輩者、永停城外之思、在京可令勤仕陣役」として、東国に戻ろうとする者は本領を没収し、斬罪とする旨を通達したという(『吾妻鏡』元暦二年四月十五日条)

 下 東国侍内任官輩中
  可令停止下向本国各在京勤仕陣直公役事

   副下 公名注文一通

 右任官之習、或以上日之労賜御給、或以私物償朝家之御大事、各浴 朝恩事也、而東国輩、徒抑留庄園年貢、掠取国衙進官物、不募成功自由拝任、官途之陵遲已在斯、偏令停止任官者、無成功之便者歟、不云先官当職於任官輩者、永停城外之思、在京可令勤仕陣役、已厠朝烈、何令篭居哉、若違令下向墨俣以東者、且各改召本領、且又可令申行斬罪之状如件

   元暦二年四月十五日

 東国住人任官輩事

 その後、4月21日に鎌倉に届いた梶原使者から義経の「而彼不義等雖令露顕」したという。その「不義」は「伊予守」補任を白紙とする程のものであったようだが、「今更不能被申止之、偏被任勅定」であるという(後述のように奏上の撤回は可能であったろう)。これが事実であるとすれば義経への伊予守任官の推薦は、義経の使者到着の4月11日から「不義」露顕の21日までの間となろう。なお、4月14日に「大蔵卿泰経朝臣使者参着関東、追討無為、偏依兵法之巧也、 叡感少彙之由可申之趣、所被 院宣也」(『吾妻鏡』元暦二年四月十四日条)とあることから、頼朝が義経の伊予守任官の推薦を託したのはこの使者と考えられ、同時に翌15日に内挙を経ない自由任官の警告を発したと考えられる。

 これらは「自由拝任」者への強い警告であるが、自由拝任自体の罪科はもちろんだが、そもそも任官とは「或以上日之労賜御給、或以私物償朝家之御大事、各浴 朝恩事也」である習いの中で、「徒抑留庄園年貢、掠取国衙進官物、不募成功、自由拝任、官途之陵遲已在斯、偏令停止任官者、無成功之便者歟」という、頼朝が寿永二年十月宣旨で下されて以降も法皇から要求されながら、当の「東国之輩」「徒抑留庄園年貢、掠取国衙進官物」ことを犯し、成功も行わず勝手に拝任し、官途がすでに意味をなくしている状況だが、ここで任官者の官職を停止させれば成功の意味もなくしてしまうと述べる。一向に解決できない庄園国衙領の保障に対する問題と同時に、官途の秩序に対する強い思いが感じられる

 この問題は、具体的には「内藤六が周防のとを以志をさまたけ候、以外事也」(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)というものや、「淡路国広田庄者、先日被寄附広田社之處、梶原平三景時為追討平氏、当時在彼国之間、郎従等乱入彼庄、妨乃貢歟」(『吾妻鏡』元暦元年十月廿七日条)「武勇之輩耀私威、於諸庄園致濫行歟、依之去年春之比、宜従停止之由、被下綸旨訖、而関東以実平、景時、被差定近国惣追補使之處、於彼両人者雖存廉直、所捕置之眼代等各有猥所行之由、漸懐人之訴」(『吾妻鏡』元暦二年四月廿六日条)という、御家人自身による狼藉、眼代による濫行が訴えられており、こうした濫行狼藉を行った当の御家人が、成功もせず勝手な任官を求める状況に怒った頼朝が、彼らの狼藉を禁じる一方で、武士の統率と国家秩序の維持のための自由拝任の禁止を再度通達したものであろう。

 頼朝は以前にも「朝務等」以下四か条の要求を行っているが、その際にも任官は頼朝の推挙によって行うものとしており、平家の脅威が去った今、綱紀粛正が図られたということとみられる。師岡右兵衛尉重経のような相当以前に任官している人々も対象となる「不云先官当職於任官輩者」の東帰禁止という難題も、絶対的権威たる朝廷から軽々しく官職を求めることの戒め、また拝任したのであれば覚悟を以て京洛以外のことは一切捨て、命がけで務めよ(自身がその任に相応しい者か弁えよ)という、あくまでも頼朝の強烈な意志を御家人らに知らしめるためのジェスチャーであり、こき下ろされた任官御家人らの中で実際に罰せられた者はいない(ただし、実際に御家人の列から脱した人などに対しては解官要求をしている)。

 なお、義経の左衛門少尉・検非違使補任もこの自由拝任の認識と混同する傾向があるが、義経の任官に頼朝の推挙があったのは確実で、この自由拝任に対する御家人への下文と、後日の義経への譴責にはなんら関係はない。

●件名字載一紙面々被注加(『吾妻鏡』元暦元年四月廿六日条)

人名 実名 続柄 任官(初出) 内容
兵衛尉義廉 不詳 不詳 不詳 鎌倉殿ハ悪主也、木曽ハ吉主也ト申シテ、始父相具親昵等、令参木曽殿ト申テ、鎌倉殿祗候セバ、終ニハ落人ト、被處ナントテ候シハ、何令忘却歟希有悪兵衛尉哉
兵衛尉忠信 佐藤四郎兵衛尉忠信 佐藤庄司四男 元暦二(1185)年
2月19日
秀衡之郎等、令拜任衛府事、自徃昔未有、計涯分、被坐ヨカシ、其氣ニテヤラン、是ハイタチニヲヅル
兵衛尉重経 師岡兵衛尉重経 河越重頼弟
義経義兄
寿永元(1182)年
8月12日
御勘当ハ、粗被免ニキ、然者可令帰府本領之處、今ハ本領ニハ、不被付申之
渋谷馬允 渋谷右馬允重助 渋谷庄司重国子 不詳 父在国也、而付平家令経廻之間、木曽以大勢攻入之時付木曽留、又判官殿御入京之時又前参、度々合戦ニ心ハ甲ニテ有ハ、免前々御勘当可被召仕之處、衛府シテ被斬頚ズルハ、イカニ能用意ニ語于加治テ、頚玉ニ厚ク頚ニ可巻金也
小河馬允 不詳 不詳 不詳 少々御勘当免テ、可有御糸惜之由思食之處、色樣不吉、何料任官ヤラン
兵衛尉基清 後藤新兵衛尉基清 後藤兵衛尉実基養子
※一条能保家人
元暦元(1184)年
6月1日
目ハ鼠ノ眼ニテ、只可候之處、任官希有也
※院厩案主(元暦元年)
・木村真美子氏『中世の院御厩司について:西園寺家所蔵「御厩司次第」を手がかりに』
馬允有経 不詳 不詳 不詳 少々奴、木曽殿有御勘当之處、少々令免給タラバ、只可候ニ五位ノ補馬允、未曾有事也
刑部丞友景 梶原刑部丞朝景 梶原平三景時弟 元暦2(1185)年
4月15日
音樣シワカレテ、後鬢サマテ刑部ガラナシ
同男兵衛尉景貞 梶原兵衛尉景貞 梶原刑部丞朝景 元暦2(1185)年
4月15日
合戰之時心甲ニテ有由聞食、仍可有御糸惜之由思食之處、任官希有也
兵衛尉景高 梶原兵衛尉景高 梶原平三景時二男 元暦2(1185)年
4月15日
悪気色シテ、本自白者ト御覧セシニ、任官誠ニ見苦シ
馬允時経 中村右馬允時経 中村貫主時重子 元暦2(1185)年
4月15日
大虚言計ヲ能トシテ、エシラヌ官好シテ、揖斐庄云不知アハレ水駅ノ人哉、悪馬細工シテ有カシ
兵衛尉季綱 不詳 不詳 元暦2(1185)年
4月15日
御勘当、スコシ免シテ有ヘキ處、無由任官哉
馬允能忠 本間右馬允義忠 海老名源八季貞子 元暦2(1185)年
4月15日
御勘当、スコシ免シテ有ヘキ處、無由任官哉
豊田兵衛尉 豊田兵衛尉義幹 石毛三郎政幹子 元暦2(1185)年
4月15日
色ハ白ラカニシテ、顏ハ不覚気ナルモノ、只可候ニ、任官希有也、父ハ於下総度々有召ニ不参シテ、東国平ラレテ後参ル、不覚歟
兵衛尉政綱 関政綱 関太郎五郎政家子 元暦2(1185)年
4月15日
 
兵衛尉忠綱 足利忠綱 足利俊綱子 元暦2(1185)年
4月15日
本領少々可返給之處、任官シテ、今ハ不可相叶、嗚呼人哉
馬允有長 不詳 不詳 元暦2(1185)年
4月15日
 
右衛門尉季重 平山右衛門尉季重   元暦2(1185)年
4月15日
久日源三郎、顔ハフワヽトシテ、希有之任官哉
左衛門尉景季 梶原源太左衛門尉景季 梶原平三景時長男 元暦2(1185)年
4月15日
 
縫殿助 不詳 不詳 元暦2(1185)年
4月15日
 
宮内丞舒国 不詳 不詳 元暦2(1185)年
4月15日
於大井渡、声樣誠臆病気ニテ、任官見苦事歟
刑部丞経俊 首藤山内刑部丞経俊   元暦2(1185)年
4月15日
官好無其要用事歟、アワレ無益事哉
右衛門尉友家 八田右衛門尉知家   元暦2(1185)年
4月15日
件両人下向鎮西之時、於京令拝任事、如駘馬之道草喰、同以不可下向之状如件
※治承五年閏二月廿三日以降、右衛門尉任官まで「武者所」。八田四郎武者。
兵衛尉朝政 小山兵衛尉朝政   元暦2(1185)年
正月26日
件両人下向鎮西之時、於京令拝任事、如駘馬之道草喰、同以不可下向之状如件
※元暦元年九月二日、小山小四郎朝政、下向西海可属参州之由被仰云々、又彼官途事所望申左右兵衛尉也
此外輩       其數雖令拝任、文武官之間、何官何職分明不知食及之故、委不被載注文、雖此外、永可令停止城外之思歟矣

24,宗盛と重衡の最期

 元暦2(1185)年4月14日、鎌倉に「波多野四郎経家号大友」が帰参し、頼朝は「則召御前、令問西海合戦間之事給」っている(『吾妻鏡』元暦二年四月十四日条)。義経からの壇ノ浦合戦の一報が鎌倉に届いたのが4月11日であることを考えると、経家は壇ノ浦合戦の直後に帰東の途についたと考えられる。頼朝が参戦者から直接報告を受けたのはこれが初めと思われる。

 4月19日、「神鏡等已着御渡邊之由」が義経の飛脚から院庁に齎された。これを受けた法皇は、兼実に神鏡等の「御入洛之日、可被択日次」ことを諮問している。また、建礼門院と前内府宗盛の取り扱いについても内々に問い合わせており、建礼門院は「古来、女房之罪科不聞事也」として片山里へ置くことが望ましいと答えている。「前内府事」については義経の問い合わせとして、まず「相具可入京歟、将又可留置河陽之辺歟」という事、さらに「死生之間事、可被仰合頼朝歟、私申遣了、飛脚未到、進退惟谷者、此上如何可計申」と問うた。兼実は宗盛が追討の対象であって梟首相当ではあるが、「為生慮参上、其上可賜死之由難被仰、我朝不行死罪之故也」を主張し、「今度無左右可被處遠流也、而其国可有用意」が妥当とした(『玉葉』元暦二年四月廿一日条)

 4月21日、鎌倉に梶原景時が九州から発遣した使者(梶原の親類)が到着し、合戦次第と「廷尉不義事」を訴えた(『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日条)。梶原使者によれば、義経の戦場での様子は「仍討滅平家之後、判官殿形勢殆超過日来之儀、士率之所存、皆如踏薄氷、敢無真実和順之志、就中、景時為御所近士、憖伺知厳命趣之間、毎見彼非據、可違関東御気色歟之由諌申之處、諷詞還為身之仇、動招刑者也、合戦無為之今、祗候無所據、早蒙御免、欲帰参」という(『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日条)。そして「廷尉者、挿自専之慮、曾不守御旨、偏任雅意、致自由之張行之間、人々成恨、不限景時」と報告した(『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日条)

 4月24日夜、神鏡と神璽が入洛。羅城門から朱雀大路、東大路を経て待賢門より宮中東門に入御する(『吾妻鏡』元暦二年四月廿四日条)。なお「宝剣」は「投海海底訖」(『吉記』元暦二年五月六日条)であった。

 4月26日には「前内府并時忠卿以下」が車駕で入洛。土肥二郎実平と伊勢三郎能盛が前内府宗盛の乗る八葉車を前後から守護し、その他武士等が周りを囲繞した(『玉葉』元暦二年四月廿六日条)。土肥実平は頼朝代官、伊勢義盛は義経代官の立場であろう。「盛澄、季貞以下生慮并帰降之輩」は、騎馬でそれに付き従った(『玉葉』元暦二年四月廿六日条)宗盛、時忠、清宗卿らは義経の六条室町邸に留め置かれ、「来月四日相具義経可赴頼朝之許」という(『玉葉』元暦二年四月廿六日条)。鎌倉下向の日付も5月4日と決定(実際は三日遅れの5月7日)していることから、頼朝雑色の時澤・里長は入京して義経を迎え、生慮の鎌倉移送を指示したものと想定される。

 なお、頼朝が範頼に「参州暫住九州、没官領以下事、可令尋沙汰之」の指示を伝え、義経に「廷尉相具生虜等可上洛之由」を伝える使者(頼朝雑色の時澤、里長)が鎌倉を発して九州へ向かったのは4月12日である(『吾妻鏡』元暦二年四月十二日条)。義経はこの指示を待たずに神器や捕虜を擁して上洛の途に就いているが、このとき範頼も上洛せずに九州に駐屯していて、実質的に12日の関東指示と同じ行動がとられていることから、すでに戦後に関する頼朝の指示は両将軍に伝えられていたと考えるのが妥当だろう。

 この日、法皇が頭弁光雅を兼実邸に派遣し、頼朝の賞について問い合わせている。その功績が著しいことから「越階之恩」の対象として「正三位」に叙すべきであるが、これは清盛の先例によって不快、「従三位」であった場合は源三位頼政入道の「雖無指功叙之、不可必庶幾歟」であり、「従二位」も理由は不明だが「可有其難哉」という。ところが兼実は「正三位清盛之例、従三位頼政之例、頼朝共以不可嫌申事歟」と、いずれにしても頼朝がこれらを嫌うとは思えないと指摘するが、「雖然若有其疑者、被叙二位有何難哉、勲功之超先代、和漢無比類之故也」と答えている。ただし、内心は「太為過分、只被叙三位、可被相加官也」という気持ちであった。結局27日、頼朝は「被宣下頼朝賞、叙従二位」された(『玉葉』元暦二年四月廿八日)

 4月29日、頼朝は義経付属の田代冠者信綱へ「所詮於向後者、存忠於関東之輩者不可随廷尉之由、内々可相触」を伝えた(『吾妻鏡』元暦二年四月廿九日条)。これは、4月21日に鎌倉に入った梶原景時使者の伝える事に加えて、帰東御家人から得たであろう情報を総合的に判断し、義経は大きな越権行為を行っていたと断定したためであろう。

 御家人等の情報をまとめると、義経は、「所相従之東士事、雖為小過不及免之、又不申子細於武衛、只任雅意、多加私勘発之由有其聞、縡已為諸人愁」というものや、「今度廷尉遂壇浦合戦之後、九国事悉以奪沙汰之」(『吾妻鏡』元暦二年五月五日条)という「爰参州入九国之間、可管領九州之事、廷尉入四国之間、又可支配其国々事之旨、兼日被定處」(『吾妻鏡』元暦二年五月五日条)に背いた越権行為があった。義経が範頼管轄の九州で沙汰を行ったとみられるのは、後に義経が後白河院より「九国之地頭」に補されていること(『玉葉』文治元年十二月廿七日条)「豊後武士等」が義経勢に加わっていた事実(『玉葉』文治元年十一月八日条)、のち義経が「鎮西」への下向を企てたことから、事実と考えられる。こうしたことに頼朝は「非御許容之限、還為御忿怒之基」であったという(『吾妻鏡』元暦二年五月七日条)

 5月4日、梶原使者が鎌倉から鎮西へ帰還するにあたり、頼朝は義経を「勘発」したので御家人等は従うべからずとの書状を持たせている『吾妻鏡』元暦二年五月四日条)。おそらく頼朝は4月21日の梶原景時の報告をもとに調査を加え、4月下旬に義経を「勘発」する使者を京都に発遣したのだろう。5月初頭にこの使者の報告を受けた義経は、すぐさま「不義」を詫び、異心を抱かない旨の「起請文」を持たせた郎従の亀井六郎重清を鎌倉へ下しており、起請文は5月7日に頼朝のもとに届けられた。しかし、頼朝は「科又難被宥、仍廷尉蒙御気色先畢」という様子だったという(『吾妻鏡』元暦二年五月七日条)

 結局、頼朝の怒りは収まることなく、6月13日に義経の「偏為一身大功之由廷尉自称」による罰として「所被分宛于廷尉之平家没官領二十四ケ所、悉以被改之」ている(『吾妻鏡』元暦二年六月十三日条)。義経は「不義」に対して異心を持たないことを誓う「起請文」を行っていることから、義経は「不義」に心当たりがあったことになり、梶原やそのほかの御家人らが伝えたであろう戦陣での行為はおおむね事実であったのだろう。

 ただし、義経の戦陣での数々の行為は、決して頼朝に対する異心ではなく、想定以上の強行軍を行うなど独断傾向のあった義経の性質によるものであろうし、頼朝もその部分は理解はしていたであろう。結局、頼朝は義経を「勘発」と鎌倉下向時の面会拒否、没官領没収のみという穏便な措置で済ませている。その後、頼朝は義経の伊予守の推任の停止及び解官を要請することもなく、検非違使・左衛門少尉・院御厩司の留任も認めていることを考えると、頼朝は義経を京都警衛の担当者としてその後も継続させる意図があったことは明確であろう

 5月7日早朝、「前内府申請関東間事」(『吉記』元暦二年五月六日条)を受けて、「左馬頭能保、大夫尉義経等」「前内大臣父子并郎従十余人」を鎌倉へ下すために離京した(『玉葉』元暦二年五月七日条)。「前内府」は「張藍摺輿」に乗り、「前右衛門督清宗」は騎馬で扈従している(『吉記』元暦二年五月七日条)。また、義経下向の数日後の5月13日には「忠清法師」が「姉小路河原辺被梟首了」という(『吉記』元暦二年五月十四日条)。忠清法師は「伊勢国鈴香山」で捕縛されており(『吉記』元暦二年五月十四日条)、先に討死を遂げていた平信兼と同様、鈴鹿山近辺に本拠を定めていたことがうかがえる。ただし、『吾妻鏡』では5月10日に「志摩国麻生浦」で加藤太光員郎従が「平氏家人上総介忠清法師」を捕縛したという(『吾妻鏡』元暦二年五月十日条)

 そして5月15日夜、義経は相模国酒匂宿に到着した(『吾妻鏡』元暦二年五月十日条)。一条能保も同道したが、旅程は若干能保がゆっくりとなり、鎌倉参着は5月17日となっている。なお、義経は事前に酒匂宿に着す旨を鎌倉に伝えていたため、頼朝からは使者として北条時政が「武者所宗親、工藤小次郎行光等」を相具して前内府宗盛等を迎え取るため参じている。また、小山七郎朝光が義経に対する使者として派遣され、義経に「無左右不可参鎌倉、暫逗留其辺、可随召之由」を伝えたという。前述の「不義」に対する罰の一つである。

日程
元暦二年
(1185)
義経
在所
使者等 出来事 出典
3月24日 長門国   「団合戦」により平氏一統は敗北する。  
3月30日辺 ●「源廷尉使」→京都へ
◎「源兵衛尉弘綱」→京都へ
▲「西海飛脚」→鎌倉へ
義経が京都(「源廷尉使」と「源兵衛尉弘綱」)及び関東への使者(「西海飛脚」)を発する。このほか同じ情報を持った使者は複数いたと思われる。 推測
この頃 義経→長門出立 範頼は上洛せず九州に駐屯し、義経は上洛するという、4/12の関東指示と同じ行動がとられており、これはすでに指示があったものと推測できる。 推定
4月3日夜 上洛中 ●「源廷尉使」→京都着
※合戦から9日
夜、「平家悉以討滅之由」を伝える「源廷尉使」が京都に馳せ入った。  
4月4日 ◎「源兵衛尉弘綱」→京都着
※合戦から10日
義経の使者、「源兵衛尉弘綱」が入京し、平家の「傷死生虜之交名」を後白河院に奉じる。  
4月5日 ★院使「大夫尉信盛」→長門 法皇勅使「大夫尉信盛」が長門へ派遣され、義経の大功を褒めるとともに「宝物等」を無事に入洛させるよう命じる。  
4月11日 ▲「西海飛脚」→鎌倉着
※合戦から17日
「西海飛脚」が鎌倉に到着し、「申平氏討滅之由、廷尉進一巻記」が藤判官代により頼朝面前で読まれた。
※合戦から17日後であり、4月3日または4日に入京した義経使者と同時に長門を発った使者とみられる
『吾妻鏡』
元暦2年4月11日条
4月12日 ■「雑色時澤、里長等」→九州 頼朝は、追討使二名について事後処理を命じるため、「雑色時澤、里長等」を「鎮西」に派遣する。
(1)「参州暫住九州、没官領以下事可令尋沙汰之」
  →参河守範頼には九州駐屯の上、没官領以下の沙汰
(2)「廷尉相具生虜等可上洛之由」
  →義経には捕虜を伴い上洛
『吾妻鏡』
元暦2年4月12日条
4月14日 大友経家→鎌倉着 「波多野四郎経家号大友」が鎌倉に帰参し、頼朝は「則召御前、令問西海合戦間之事給」っている。とくに義経に対する情報はない。 『吾妻鏡』
元暦2年4月14日条
この辺り ★院使「大夫尉信盛」 「宝物等(所謂神器か)」入洛を義経に伝達。 推定
4月19日 摂津渡邊付近か 義経使者→京都着 義経は「神鏡等已着御渡邊之由」を院庁に伝達。また、生慮らを「相具可入京歟、将又可留置河陽之辺歟」も問い合わせており、後白河院はこれを兼実に諮っている。 『玉葉』
元暦2年4月19日条
この辺り ■「雑色時澤、里長等」→京都着 4月12日鎌倉出立し、この辺りで入洛し留まったのだろう。 推定
4月21日 梶原景時の使者→鎌倉着
※合戦から27日
「梶原平三景時飛脚」(景時親類)が鎮西から鎌倉に到着し、頼朝に書状を献上。
①「合戦次第」、②「廷尉不義事」
『吾妻鏡』
元暦2年4月21日条
この頃 義経詰問の使者→鎌倉発 梶原景時の報告を受け、義経に対する詰問の使者を上洛させる。 推定
4月24日 京都 義経入洛 「賢所神璽令着今津辺御」し、頭中将通資が御迎として参向。夜、入洛して待賢門、東門を経て宮中朝所に渡御。
この間、「大夫判官義経、着鎧供奉、候官東門、看督長着布衣、取松明在前」という。
『吾妻鏡』
元暦2年4月24日条
4月25日   神鏡と神璽が入洛。(実際は前日夜中)
※頼朝雑色時澤らが義経に内府宗盛等を伴って鎌倉への下向日を伝えたとみられる。
『玉葉』
元暦2年4月25日条
4月26日 土肥二郎実平→京都着
伊勢三郎能盛→京都着
※合戦から32日
「前内府并時忠卿以下」が入洛。
土肥実平と伊勢義盛が前後を固めているが、実平は頼朝代官、義盛は追討使義経代官であろう
『玉葉』
元暦2年4月26日条
この頃 義経詰問の使者→京都着 頼朝からの詰問の使者が入洛し、義経に伝達する。 推定
4月29日   頼朝は義経付属の御家人、田代冠者信綱へ「所詮於向後者、存忠於関東之輩者不可随廷尉之由」を内々に伝える使者を京都に発する。 『吾妻鏡』
元暦2年4月29日条
この頃 亀井重清→京都出立 先日の詰問に対する弁明の使者として鎌倉へむけて出立 推定
5月4日   義経が宗盛等を伴って鎌倉下向予定(7日に延引) 『玉葉』
元暦2年4月26日条
梶原景時使者→鎌倉出立 梶原景時の使者の帰国に際し、京都の御家人は義経に従うべからずとの書状を持たせる。 『吾妻鏡』
元暦2年5月4日条
5月5日 小山朝光→鎌倉着 小山七郎朝光が鎌倉に帰参する。 『吾妻鏡』
元暦2年5月5日条
5月7日 義経、一條保能→京都出立 内府宗盛等を伴って鎌倉へ下向 『玉葉』
元暦2年5月7日条
亀井重清→鎌倉着 「源廷尉使者号亀井六郎自京都参着、不存異心之由、所被獻起請文」を提出するも、頼朝の怒りは解けず。 『吾妻鏡』
元暦2年5月7日条
5月15日 相模国
酒匂宿
義経、酒匂宿に到着 北條時政が内府宗盛らの身柄を引き取る。 『吾妻鏡』
元暦2年5月10日条

 5月16日に北条時政らに護衛されて鎌倉に入った前内府宗盛は頼朝邸へ招かれ、西対が居所として提供された(『吾妻鏡』元暦二年五月十六日条)。そして、その後半月にわたって鎌倉に留め置かれたのち、6月7日、西侍で御簾越しに頼朝と対面。頼朝は「於御一族雖不存指宿意、依奉 勅定、発追討使之處、輙奉招引辺土、且雖恐思給、尤欲備弓馬眉目者」と比企四郎能員を介して言葉をかけたという(『吾妻鏡』元暦二年六月七日条)。翌6月9日、鎌倉を出立し上洛の途に就いた宗盛等は、酒匂宿に駐屯する義経に迎え取られた。宗盛には「橘馬允、浅羽庄司、宇佐美平次已下壮士等」が副えられていた(『吾妻鏡』元暦二年六月九日条)。また、伊豆国狩野に軟禁されていた三位中将重衡もともに上洛の途に就いた

 なお、このとき義経は「令参向関東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由、思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空帰洛、其恨已深於古恨」(『吾妻鏡』元暦二年六月九日条)であったという。しかし、義経は出京前に起請文を提出しており、頼朝の怒りを知っていることは明白であることから、当然「具預芳問、又被賞大功」があろうわけがないことはわかっていたはずである。この一連の記述は状況に合わず、後世の挿入話と考えられるが、義経には少なからず「剩不遂拝謁而空帰洛、其恨已深於古恨」という気持ちはあったであろう。頼朝が猶子義経と、妹婿藤原能保をともに下向させているのは、義経に対する頼朝の労いの意味が込められており、本来であれば義経に対する「征平氏間事具預芳問、又被賞大功」のためであることは明白であろう。ところが、この義経下向を命じる使者が京都へ届くとほぼ同時期に梶原報告があったのである。実際に頼朝が御家人に義経への不従を内々に決定したのは4月29日であり、5月4日出立予定(7日に延引)の義経・能保の諸所の計画を変える事が使者の到着時期を考えても困難だったために、計画通り決行されたと思われる。

 5月20日、京都では九名の僧俗の流刑が執行されている(『玉葉』元暦二年五月廿一日条)

平時忠卿 能登国 時忠卿依神鏡事、可被宥否事(『吉記』元暦二年五月六日条)
平信基 備後国 時忠の一族。前内蔵頭。
平時実 周防国 前大納言平時忠の嫡子。
藤原尹明 出雲国  
前大僧都良弘 阿波国  
前僧都全真 安芸国  
前律師忠快 伊豆国 門脇中納言教盛の子で、天台座主慈円の門人。
法眼能円 備中国 法性寺執行。二位尼の義弟にあたる。
娘の在子が後鳥羽院の後宮に入り、為仁親王を生む。のちの土御門天皇である。
熊野別当行命 不明  

 酒匂宿からの上洛に際し、義経は頼朝から「前内府并其息清宗、三位中将重衡等、義経相具所参洛也、而乍生入洛無骨、於近江辺可梟首其首、可渡使庁哉、将可棄置哉、可随院宣之由」「頼朝卿令申旨」を言い含められており、義経は上洛時に院庁に問い合わせ、判断に迷った法皇は高階泰経を通じて兼実に諮問している(『玉葉』元暦二年五月廿二日条)。これに対して兼実は「此事左右只可在勅定者」と突き放している。結局、宗盛父子は梟首の上で検非違使へ首渡、重衡は「遣南都」という院宣が出されたようであるが、窮余にあった法皇は「此事難計申之由令申、太以無本意、自今以後如此事、不可被仰合歟」と兼実の対応に不満を述べている(『玉葉』元暦二年五月廿三日条)。この院宣を受けた義経は、近江国で宗盛・清宗を斬首した。『吾妻鏡』によれば場所は近江国篠原宿、『愚管抄』では「セタノ辺」であった。義経は「橘馬允公長」に命じて宗盛を斬り、清宗は「堀弥太郎景光」が梟した(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日条)。橘右馬允公長は宗盛実弟・知盛の旧家人であり、宗盛からの要請または義経の温情があったのかもしれない。「前内大臣宗盛首」「前右衛門督清宗首」(『吉記』元暦二年六月廿二日条)は22日晩に六条川原で検非違使庁へと渡され、法皇がこれを御見物になったという(『玉葉』元暦二年五月廿三日条)

 一方、「遣南都」という指示のあった重衡は、6月21日入洛し(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日条)、翌22日に「蔵人大夫頼兼、右衛門尉有綱等」(『吉記』元暦二年六月廿二日条)によって南都まで護送されることとなる。彼らは源三位頼政入道の養子と孫であり、かつて以仁王の乱で南都へ逃れようとして討たれた源三位入道に肖って選ばれたのかもしれない。南都はかつて重衡が主将として攻め入った際に、兵火によって諸堂を焼失させ、東大寺の大仏の首が溶け落ちる事件が発生し、南都の僧たちの恨みを一身に買っていたためであった。その過程は『愚管抄』に述べられているが、

大津ヨリ醍醐通リ、ヒツ川へイデヽ、宇治橋渡リテ奈良ヘユキケルニ、重衡ハ邦綱ガヲトムスメニ大納言スケトテ高倉院ニ侯シガ、安徳天皇ノ御メノトナリシニ聟トリタルガ、ア子ノ大夫三位ガ日野ト醍醐トノアハイニ家ツクリテ有リシニ、アイグシテ居タリケル、コノ本ノ妻ノモトニ便路ヲヨロコビテヲリテ、只今死ナンズル身ニテ、ナクナク小袖キカヘナドシテスギケルヲバ、頼兼モユルシテキセサセケリ、大方積悪ノサカリハ是ヲニクメドモ、又カヽル時ニノゾミテハ、キク人カナシミノ涙ニオボユル事也

と、大津から醍醐を経て日野方面へと進んだとみられる。このとき重衡は、壇ノ浦の戦いで入水したものの救出され、醍醐と日野の間に隠棲していた妻女・大納言典侍(藤原輔子)との別れを許され、そこで泣く泣く輔子は重衡の小袖を替えたという(『愚管抄』)。また、『醍醐寺雑事記』によれば、

三位中将重衡一谷合戦之時被生取、其後重衡将下坂東、去廿二日宗盛等将上之、自山科通醍醐将下東大寺、於奈良坂刎首了 内大臣頸切手橘馬允公長、重衡頸切手伊豆右衛門尉 中将妻御前者、五条大納言邦綱女也、借故行迎寺主住房、此月来所被住也、為相逢中将自西辻還而被入、彼房見物之者、哀歎之

とあり、大納言典侍は行迎寺(醍醐寺の塔頭か)の故寺主の住房を借りて住んでおり、重衡が立ち寄ったことが記される(『醍醐寺雑事記』十)

 その後、重衡は木津川を奈良側へ渡ったほとり、「泉木津辺」で処断され、首は「奈良坂」に懸けられ(『玉葉』元暦二年五月廿三日条)。重衡を斬ったのは故頼政入道孫の伊豆右衛門尉有綱であった(『醍醐寺雑事記』十)重衡はかつて以仁王追捕に際して、実戦に加わってはいないものの右少将維盛とともに主将を務めており、切手に選ばれたのもこうした経緯があったのかもしれない。

 6月30日には除目が行われ、頼盛入道には「院分国」の「備前播磨」が与えられるが、義経には何ら行賞が行われず、兼実は「九郎無賞如何、定有深由緒歟、凡夫不覚得之」と疑義を呈している(『玉葉』元暦二年六月丗日条)。頼朝は6月13日、「所被分宛于廷尉之平家没官領二十四箇所、悉以被改之、因幡前司広元、筑後権守俊兼等奉行之」と、中原広元と藤原俊兼の両名を奉行として義経に宛がった平家没官領二十四か所を没収する沙汰を行っている。これは頼朝が、「偏為一身大功之由廷尉自称、剰今度及帰洛之期、於関東成怨之輩者可属義経之旨吐詞」という義経の発言を聞き、「縦雖令違背予、爭不憚後聞乎、所存之企太奇怪」と激怒したためであるという(『吾妻鏡』元暦二年六月十三日条)。6月30日に義経への行賞が行われなかったのは、こうした経緯があったためか。

 このような中、8月4日、頼朝は「前備前守行家」が「当時半面西国、以関東之親昵、於在々所々、譴責人民、加之挿謀反之志、縡既発覚」により、近江在住の佐々木太郎定綱「相具近国御家人等」追討を命じる書状を送ったという(『吾妻鏡』文治元年八月四日条)。行家が頼朝に反旗を翻した理由は「其故者、可誅其身之趣、鎌倉二位卿所命、達行家後聞之間、以何過怠可誅無罪叔父哉之由、依含欝陶也」のためであった(『吾妻鏡』文治元年十月十三日条)。当時の行家は近江国にあったか。ただし、京都周辺での兵乱は記されておらず、具体的に佐々木定綱が動いたかどうかは不明。ただし、定綱は9月10日当時には「左衛門尉」に任官しており(『吾妻鏡』文治元年九月十日条)、行家追捕の公的担保として左衛門尉に推任されていたのかもしれない。

名前 受領 備考
源義範 伊豆守 山名義範
源惟義 相模守 大内惟義
源義兼 上総介 足利義兼
源遠光 信濃守 加賀美遠光
源義資 越後守 保田義資
源義経 伊予守 源義経

そして、8月16日には「依頼朝申」の除目が行われ「受領六ケ国、皆源氏」であった。「是当時関東御分国」であるが、この中でもとくに目を引いたのは「義経任伊予守、兼帯大夫尉」で、兼実は受領と検非違使の兼帯が前代未聞のことであり「未曾有」と驚愕している(『玉葉』文治元年八月十六日条)。この除目の内容については頼朝は「至今度予州事者、去四月之比、内々被付泰経朝臣畢、而彼不義等雖令露顕、今更不能被申止之、偏被任 勅定」であったという(『吾妻鏡』文治元年八月廿九日条)。なお、伊予守は播磨守と並ぶ「四位上臈任之」という最上格の受領であるが、当時においては、平行盛(従五位上当時の任)の播磨守、木曽義仲(従五位下当時の任)の伊予守というように、すでに「四位上臈任之」という先例は廃れていたことは明白である。頼朝が関東御分国の中でもとくに「伊予守」を推挙したのは、義経が四国平定の大功者であったのと同時に、他の受領源氏の人々とは異なり、伊予守頼義直系たる栄誉を授けた可能性があろう。

 しかし、法皇を畏敬しつつも自らが必要と思う事については、たとえ叡慮に背く事でも要求し、兼実をして「頼朝乖法皇叡慮之事太多」(『玉葉』文治元年十月十三日条)と言わしめる頼朝が、義経任官を「今更不能被申止之」(『吾妻鏡』文治元年八月廿九日条)ことなど考えられない。義経が伊予国の国務を遂行しようとしている(『玉葉』文治元年十月十七日条)ことから、これは『吾妻鏡』の創作または頼朝の言い訳であろう。また、前述のように頼朝は義経を伊予守に推しながら検非違使も留任させており、義経後の京都守護が急場凌ぎの場当たり的な人事であったことからも、義経の京都守護を続投させることを強く示唆したと考えるのが自然であろう。

当時の受領源氏 受領 備考  
源広綱 駿河守 源広綱 【摂津源氏】源頼政の末子
源範頼 参河守 源範頼 【河内源氏】源義朝の子
源義定 遠江守 保田義定 【甲斐源氏】逸見義清の子
源義信 武蔵守 平賀義信 【甲斐源氏】平賀盛義の子
源義範 伊豆守 山名義範 【上野源氏】新田義重の子
源惟義 相模守 大内惟義 【甲斐源氏】平賀義信の子
源義兼 上総介 足利義兼 【下野源氏】足利義康の子
源遠光 信濃守 加賀美遠光 【甲斐源氏】逸見義清の子
源義資 越後守 保田義資 【甲斐源氏】保田義定の子
源義経 伊予守 源義経 【河内源氏】源義朝の子

 この除目はあくまでも「依頼朝申」で行われたものであり、兼実も義経の検非違使兼帯に法皇の介入を記しておらず、法皇の叡慮が働いたものではないだろう。義経の「伊予守」補任は功績に対する行賞であり、他の受領源氏の末席に連なったこととなる。また元暦元年以来の「院御厩司」(木村真美子氏『中世の院御厩司について:西園寺家所蔵「御厩司次第」を手がかりに』)も留任していると思われ、院厩の支配も依然として義経が支配していた。

 ただ、頼朝は「於関東成怨之輩者、可属義経之旨吐詞」という義経を警戒する意識が生じていたことは間違いなく、9月2日、頼朝の使者として「梶原源太左衛門尉景季、義勝房成尋等」が鎌倉を発ち、12日に入洛している。これは表向きは「南御堂供養導師御布施堂荘厳具大略已調置京都為奉行」であるが、その実は「平家縁座之輩未赴配所事」の沙汰を早く行うことと、義経の様子を窺うための使者であった。『玉葉』によれば、前述のように、5月20日に「僧俗九人」の流罪が執行された(『玉葉』文治元年五月廿一日条)ことが記されているが、時忠、時実父子の配流は停止されていた。頼朝は「予州、為件亜相聟、依思其好抑留之」と、時忠配流の抑留は義経が時忠の女婿となったためと疑っている。

 この頼朝の意向を受けたことにより、義経は9月23日に「前大納言時忠卿、下向配所能登国」を執行する(『玉葉』文治元年九月廿三日条)。頼朝代官とはいえ、公的には一検非違使に過ぎない義経には配流可否の権限はないと考えられ、その意思決定は法皇にあったであろう。ただし、義経は法皇と繋がりが深く、時忠が義経の縁者となったことから配流が延引された可能性は高い。そのほか、時忠は平家とともに西海へ逃れたとはいえ賢所を守り切った功績を認められており、法皇はこの点を考慮したのかもしれない。

 頼朝は景季等に「御使」として義経邸を訪問し、「尋窺備前々司行家之在所、可誅戮其身之由相触」た上で、義経の様子を窺うよう命じている「引級備前々司行家、擬背関東之由、風聞之間如斯」とあるように、行家が頼朝に反旗を翻していることはすでに7月には露顕しており、8月4日には佐々木定綱にその追捕を指示している。六年後の建久2(1191)年当時の佐々木定綱は「近江国総追捕使」(『玉葉』建久二年四月二日条)であり、おそらくこの頃も国内の謀叛人追捕を行い得る近江国惣追捕使だったのだろう。ただ、行家追捕は実際には行われなかったようで、洛中守護の義経に在所の探索及び誅殺を命じており、義経への踏み絵的な指示であったのだろう。

 景季等は上洛し六条油小路の旅宿に入ったのち、頼朝の使者として上洛した旨を伝えるため、六条堀川の「参向伊予守」した(『吾妻鏡』文治元年十月六日条)。しかsこの日義経は「称違例無対面」であり、景季等は「仍此密事以使不能伝、帰旅宿六條油小路」であったという。この様子では翌日も対面は叶わないと感じたのだろう。翌々日に景季等は六条堀川邸を再度訪問した。このときの義経は、脇足に体を預け憔悴しきり灸治の跡も見られたという。景季等は「而試逹行家追討事」たところ、義経は「所労更不偽、義経之所思者、縦雖為如強竊之犯人、直欲糺行之、况於行家事哉、彼非他家、同為六孫王之余苗掌弓馬、難准直也人、遣家人等之許、輙難降伏之、然者早加療治、平愈之後可廻計之趣、可披露之由(病はまったく偽りではない。義経は、たとえ強竊犯であろうと直に理非を裁断しようと思っている。ましてや行家は他人ではなく同じく六孫王の末孫だ。他人と同様に裁断し難く、家人らを遣わして降伏させることもまた難しい。私自身が早く病を治し、平癒後に何らかの沙汰を行うことを二品にお伝えしてほしい)を述べたという。おそらく義経はこの頃には「行家已反頼朝了」に対して幾度となく「加制止」えていたと思われるが、「可誅其身之趣、鎌倉二位卿所命」を耳にした行家が「以何過怠、可誅無罪叔父哉」と激怒しており(『吾妻鏡』元暦二年十月十三日条)、受け入れられなかったとみられる。こうした中で義経は頼朝からも行家誅戮の命を受け、板挟みになっていたとみられる。景季が感じた義経の「其躰誠以憔悴」の様子は、行家の説得に難航していた姿だろう。

25,頼朝追討の宣旨

 文治元(1185)年9月26日、九州で治安維持と「種直、隆直、種遠、秀遠(原田種直、山鹿秀遠、菊池隆直、板井種遠)の平家没官領の処理に当たっていた「蒲冠者範頼」が入洛している(『玉葉』元暦二年九月廿六日条)。もともと範頼は、頼朝から「八月中可参洛之由」を命じられていたが、「依風波之難遅留」し「今月相搆可入洛」と鎌倉へ使者を送っている(『吾妻鏡』文治元年九月廿一日条)。範頼はその後鎌倉へ帰還するが、その郎従たちは京都に残されている。これは行家への対応であろう。範頼下向の具体的な日は不明だが、勝長寿院供養の導師である七十六歳の公顕僧正を伴う下向であり、二十日程度と考えられる。彼らの鎌倉下着は10月22日であることから、出京は10月初旬であろう。

 範頼よりも数日はやい9月末に京都を発したとみられる梶原源太左衛門尉景季は、10月6日に鎌倉に帰着し、御所に参じて頼朝に京都での情勢を伝えている(『吾妻鏡』文治元年十月六日条)。義経と初日には会えず翌々日に会えたこと、病のため憔悴していること、灸治をしていたこと、病が癒えた後に行家に沙汰することなどを伝えるよう要請された旨が伝えられた。これに頼朝は「同意行家之間、搆虚病之條已以露顕」と言ったといい、傍らの梶原平三景時は「初日参之時、不遂面拝隔一両日之後有見参、以之案事情、一日不食一夜不眠者、其身必悴、灸者又雖何ケ所一瞬之程可加之、况於歴日数乎、然者一両日中被相搆如然之事歟、有同心用意分不可及御疑貽」と加えたという。兼実が「若依傍輩之讒口、暗加私刑者、尤不便事歟」(『玉葉』文治元年十月十四日条)と、頼朝が側近の讒言を信じて大功ある義経に密かに私刑を加えていることを批判していることからも、景時らによる讒言があったことは事実であったのだろう。

 景季や範頼が離京した数日後の10月11日、義経は「行家已反頼朝了、雖加制止不可叶、為之如何者」と院奏している(『玉葉』文治元年十月十七日条)。景季から伝えられた頼朝の命もあって、行家の叛心を必死に制止するが、行家の怒りを抑えることはできず、如何ともしがたく法皇に縋る様子がうかがえる。

 義経の院奏に対して法皇は「相構可加制止者」と、行家の暴走を何とか食い止めるよう命じている(『玉葉』文治元年十月十七日条)。これを受けて、義経はふたたび行家を説得したが、行家の憤怒は止まるところを知らず「行家謀叛雖加制止、敢不承引」であり、義経の説得は失敗に終わる(『玉葉』文治元年十月十七日条)。ところが、その後「仍義経同意了」とあるように義経は行家に同調した(『玉葉』文治元年十月十七日条)。『吾妻鏡』では「而義経亦退平氏凶悪、令属世於静謐、是盍大功乎、然而二品曾不存其酬、適所計宛之所領等悉以改変、剩可誅滅之由有結搆之聞、為遁其難已同意行家」と非難する(『吾妻鏡』文治元年十月十三日条)

 義経と行家が同調したとの情報を得た兼実家司源季長は、13日早朝に九条邸を訪れ「義経行家同心反鎌倉、日来有内議、昨今已露顕」(『玉葉』文治元年十月十三日条)を伝えている。これは「義経之辺、郎従之説」であり、巷説だが浮言ではないという。行家と義経の同心疑惑は「昨今已露顕」(『玉葉』文治元年十月十三日条)とあるように、以前から噂になっていたことがわかる。両者は「日来有内議」という噂が立つほど密に連絡を取り合っていた可能性は高い。この深い接触は行家説得のためであったのかもしれないが、義経は後述の三か条の通り「頼朝失義経之勲功、還有遏絶之気、義経中心結怨」(『玉葉』文治元年十月十三日条)という感情があったのは確かで、さらに「鎌倉之辺、郎従親族等、為頼朝失生涯、結宿意之輩、漸以数積、彼等内々令通義経行家等之許」というように、頼朝によって郎従や親族を粛清された宿意を持つ御家人らも義経・行家のもとに参じ(『玉葉』文治元年十月十三日条)、さらに「頼朝乖法皇叡慮之事太多」(『玉葉』文治元年十月十三日条)という状況にあった。義経は世の形勢を考えた末、法皇に「竊奏」した。そして、この義経の密奏に法皇は「頗有許容」であったという。季長はこれにより「仍忽及此大事」と言い、「或云、秀衡又与力」とも伝えている。ただし、これらはいずれも季長が風聞を伝え聞きで報告しているため、兼実は「於子細者雖実説不定」としつつも、「於蜂起者已露顕也」と記した(『玉葉』文治元年十月十三日条)。なお、義経行家同心が院奏されたのは、「十三日、又申云、行家謀叛雖加制止、敢不承引、仍義経同意了」(『玉葉』文治元年十月十七日条)ということから、10月13日のこととされるが、家司源季長が兼実邸を訪れて同心の一報を伝えたのは13日早旦であり、義経の「竊奏」は12日のことであることがわかる。

 義経が「義経行家同心反鎌倉」した理由は、次の(一)(二)(三)の三点であった。

(一)義経は「奉身命於君」て頼朝の代官として大功を挙げ「殊可賞玩之由令存」た結果、「適所浴恩之伊予国」したが、伊予国は地頭によって国務不履行な状況であったとの主張である。山名義範や平賀惟義ら義経以外の国司補任者五名は、其外五ケ国事者、任人面々直懇望申之間、且募勲功之賞、且為添二品眉目、殊所及厳密御沙汰也云々、各可令知行国務之由(『吾妻鏡』文治元年八月廿九日条)とあるように、国務を知行すべきことが命じられているが、義経は最初から国務知行を認められていなかったと考えられよう。国務は義経目代ではなく、知行国主たる頼朝の代官によって公庄の地頭の支配がなされていた可能性が高いだろう。

(二)「没官所々廿余ヶ所、先日頼朝分賜、而今度勲功之後、皆悉取返、宛給郎従等了、於今者、生涯全以不可執思」については、『吾妻鏡』においても6月13日、「平家没官領二十四箇所、悉以被改之」られて、因幡前司中原広元らが奉行となって収公されたとある(『吾妻鏡』元暦二年六月十三日条)。なお「二十四箇所」は「廿余ヶ所」の誤記と考えれば、これも『吾妻鏡』編纂時に『玉葉』を底本として採られた資料と考えられよう。これは、義経が宗盛等を連れて帰京した際に「於関東成怨之輩者可属義経之旨吐詞」たことを頼朝が咎めた結果とすることから、遠因は壇ノ浦合戦時やそれ以降に義経が行った「不義」にあるものであろう。前述の通り義経は戦陣における「不義」を認めており、当然の措置であったと思われる。なお、常胤は平家没官領の地頭職を賜るが、薩摩国においては、島津庄寄郡内祁答院・甑島没官領地頭、高城郡没官領地頭、入来院内没官領地頭、東郷別府没官領地頭などが与えられている。

 ただ、上記二点以上に、義経反旗の直接的かつ決定的な原因は、最後に記された、(三)義経を誅殺する刺客が派遣された確報であろう

 頼朝は9月12日に入洛した梶原景季、義勝房成尋を通じて「尋窺備前々司行家之在所、可誅戮其身之由相触」(『吾妻鏡』文治元年九月十二日条)を義経に伝えているが、義経は前述の通り「縦雖為如強竊之犯人、直欲糺行之、况於行家事哉、彼非他家、同為六孫王之余苗掌弓馬、難准直也人、遣家人等之許、輙難降伏之、然者早加療治、平愈之後可廻計」(『玉葉』文治元年十月十四日条)と返答し、これが10月6日に頼朝に復命され(『吾妻鏡』文治元年十月六日条)、捨て置けぬ案件として「可誅伊予守義経之事、日来被凝群議」した。そして10月9日、義経を討つことを自ら申し出た土佐房昌俊を京都に発した(『吾妻鏡』文治元年十月九日条)

 昌俊は「三上弥六家季昌俊弟、錦織三郎、門真太郎、藍澤二郎」ら八十三騎で出立。京都まで九日の行程で進むことが指示されたという(『吾妻鏡』文治元年十月九日条)。昌俊は老母の事を頼朝に託していることから、すでに死を覚悟した決意であったことがうかがえる。なぜなら、10月12日時点で義経が「遣郎等、可誅義経之由、慥得其告」(『玉葉』文治元年十月十三日条)とある通り、義経に通告されていたものであったためである。つまり、この義経追捕は決して奇襲ではなく、逆に義経への「行家之在所、可誅戮其身」を決意させるための最後通告であったと考えられるのである。頼朝はぎりぎりまで義経を討つことをためらっていた様子がうかがえる。ところが、義経はこれを明確な敵意と取った。11日までは行家の説得に努めていた義経が、翌12日には行家と同心した上「雖欲遁不可叶、仍向墨俣辺射一箭、一決死生之由所存也」と敵対を鮮明にした核心的理由は、11日または12日に受け取った軍勢派遣の確報だったのである。

 しかし、12日における義経と行家の同心及び頼朝への敵対は、あくまで私的な対立であり、義経は「行家謀叛雖加制止、敢不承引、仍義経同意了、其故者、奉身命於君、成大功及再三、皆是頼朝代官也、殊可賞玩之由令存之處、適所浴恩之伊予国、皆補地頭不能国務、又没官所々廿余ヶ所、先日頼朝分賜、而今度勲功之後、皆悉取返、宛給郎従等了、於今者、生涯全以不可執思、何況遣郎等、可誅義経之由、慥得其告、雖欲遁不可叶、仍向墨俣辺射一箭、一決死生之由所存也(行家の謀叛を留めようとしましたが、まったく承引がなかったため、(頼朝に意趣を含む)義経も同意いたしました。その意趣とは、身命を法皇に捧げ大功を再三立てましたが、これはみな身が頼朝代官として果たしたものです。これにより頼朝がとりわけ賞玩の由聞き及び、伊予国の国司に適されました。ところが伊予国にはみな地頭が補され国務を行うことができなかった上、平家没官領として頼朝より賜った二十余箇所は、今回の勲功ののち没収されて、頼朝麾下の郎従に充行われました。もはや生涯に全く執心はなくなりました。さらに頼朝は義経を討つための郎従等を遣わしたという確かな報告を受けました。もはや逃げることもかないますまい。よって墨俣辺に馳せ向かいせめて一矢を報い、死生を決せんという所存です。)(『玉葉』文治元年十月十七日条)と法皇に「竊奏」したに過ぎず、私戦として義経と行家が墨俣へ下向して鎌倉勢と決戦することを奏上していただけだったのである。この義経の「竊奏」を法皇は「頗有許容」とした(『玉葉』文治元年十月十三日条)。「頼朝乖法皇叡慮之事太多」(『玉葉』文治元年十月十三日条)ということも「頗有許容」の理由のひとつであろう。

 12日夜、兼実邸に法性寺座主慈円法印(兼実実弟)門弟の「慶俊律師」が訪れ、慈円が法性寺座主の辞退を院奏したものの許されなかった旨の報告をしているが、彼は「行家子」であった。彼は「今旦向江州了」と13日早朝に近江国へ出立しているが、法皇謁見時に「其勢非幾」であったため甲冑が下賜されたという。この慶俊律師の近江行きは、義経・行家の墨俣下向計画の一部であった可能性が高いだろう。兼実はこのことを「凡事之次第如夢如幻」と惘然としていることから、法皇の行動に驚きを隠せなかったと思われる。この慶俊律師が法皇から甲冑を賜ったことは、兼実が直接聞いているので事実である。しかし、17日の時点では法皇は義経から墨俣で決戦する旨を聞いた際に「殊驚思食、猶可制止行家者」であったといい、とても「頗有許容」とは言い難いのである。義経らの計画の重大さに気づいた法皇が考えを変えた可能性も考えられる。

 そして、義経の「竊奏」後、しばらくは「其後無音」という状況だったが、17日早朝、院使として大蔵卿泰経が九条邸を訪れた。兼実は触穢のため家司季長が門前で院宣を受けたが、それによれば義経は「去夜重申云、猶同意行家了、子細先途言上、於今者、可追討頼朝之由、欲賜宣旨、若無勅許者、給身暇可向鎮西云々、見其気色、主上法皇已下、臣下上官、皆悉相率可下向之趣也」とあるように、義経は16日夜に激怒して院奏し、「子細先途言上(前述の三か条)」によって頼朝追討の宣旨を下されるよう奏上。これが認められなければ「給身暇可向鎮西」と告げている。なお、この「給身暇」は京都から九州へ立ち退くことであり、『吾妻鏡』では「勅許者両人共欲自殺」(『吾妻鏡』文治元年十月十三日条)と誤訳されている。義経との抗争について『玉葉』からの引用と思われる部分が多く見られるが、この誤訳からも『玉葉』の記述が多く引用され、『吾妻鏡』史観で記述し直されていることがわかる

 法皇の諮問を受けた兼実は、頼朝の「追討宣旨」について、

「罪犯八虐、為敵於国家之者、蒙此宣旨者也」とした上で、「頼朝若有重科者、可被下宣旨、何及異議、若又無指罪科者、可被追討之由、更以難量申、但平家及義仲之時、雖不起自叡念、暗被下此宣旨了、天下乱逆、即在如此之漸、然而為避当時之難、可被追彼等例哉否之条、宜在聖断、敢非臣下之最歟者(頼朝に重科があるならば追討宣下すればよい。もし然したる罪もなければ追討するのは量り難い。ただし、平家や義仲のときは、たとえ法皇の考えから出たものではないにしろ、暗に頼朝追討の宣旨を下している。天下乱逆はつまりこのことにあるのだ。ただ今目の前の難を避けるためにその「天下乱逆」の例を行うのか否かは、ただただ法皇の聖断にあって、臣下が決定すべきことではない)

とそっけない返事をしている。人々はこの頼朝追討の宣旨について「皆可然ト申ケル」と賛同する中で、ひとり「九條兼実右府一人」のみが「追討宣旨ナド申事ハ依其罪科候事也、頼朝罪過ナニ事ニテ候歟、イマダ其罪ヲシラズ候ヘバ、トカクハカライ申ガタキ由」を主張したという(『愚管抄』)

 これに対して院使泰経は、

「頼朝過怠全不候、追討之条又不思食寄(法皇は頼朝には全く科はなく、当然ながら追討の事もまったくお考えにない)

ことを伝えた上で、

「然而義経等結構之趣、可謂勿論、仍只可給件宣旨之由、内々有天気、為御存知、竊所申也、而如今令申御者、已追討猶予之趣也、外聞之処、似引級頼朝且者、去年聊有申旨、為報彼芳言、抑留此追討歟之由、若君有御疑殆者、尤無由事也、随又彼両度不意之宣旨、頼朝更不為怨、今度又可同歟、仍宣下之条、旁何難之有哉、猶分明可令申切給歟(義経らが兵を集めていることは疑いない。よって院は宣旨を下す意向を内々にお持ちだ。それをお知らせするべく密かに申し入れているが、今お聞きしたことは法皇の御意向とは反対の、頼朝追討を猶予すべきとのお考えであり、この返事を法皇が聞かれ、あなたを摂政に推す頼朝に報いるために追討を遅らせようとしているのだと御疑いを持たれたら、それこそ詮無きことである。頼朝は過去にも追討宣旨を受けたがいずれも怨みを持っていないという。今回もきっと同じで、追討宣下には何の問題もないだろう。もっと明確に言い切るべきだ)

と重ねて迫ったのである。

 この言い様に、兼実は怒りを含んで、

「朝家大事、可依私阿容之由、於御疑殆者、更不及申左右、凡者被尋問事、愚慮之所及全不憚時議、是存忠之故也、而無罪之者、可被追討之由、争令言上哉、為遁当時之害、可被宣下哉否之条者、只可在勅定事也、若於有一決者、更非申止之議、抑、以前両度宣旨、頼朝不結怨、今度可同之条、頗不可似彼例歟(朝廷国家の大事についての発言を、兼実自身の利益のためのものと疑われては、もはや何も申し上げられない。無罪の者を追討せよということをどうして言上できようか。今一時の害から逃れるために追討の宣旨を下すというのであれば、もはや何をかいわんや、勅定のままにする他ないではないか。すでに一決しているのであればこれを申し止める儀にもあらず。平家や義仲が頼朝に下した追討宣旨では頼朝は怨みを抱かなかったというが、今度のことは両度宣旨とはまったく異なるものであろう)

と断じた上で、

「凡此時愚意之所及、先被誘仰義経等、可被問子細於頼朝也、義経已有度々之勲功、且依為汝代官偏憑思食之処、聞可有濫刑之由、恐申旨如此之条、罪科何事哉、若依傍輩之讒口、暗加私刑者、尤不便事歟、又其罪無疑、必可行科断者、召下其身可致其沙汰也、乍置京都差上武士可誅之由風聞、狼藉之条已似忘朝章、若又義経等聞謬説令驚申歟、早聞食子細、可有成敗之由、可被仰遣也、而猶乖勅命企濫吹之時、処違勅可被下追討宣旨歟、不定罪科宣下之条、若奈後悔何(まず法皇は義経らを諭されつつ、頼朝には『義経は数々の勲功を挙げた上、汝の代官であるから義経を偏に頼みにしてきたのに、義経は汝から濫りに刑に処されんことを聞いて恐れているのだ。そもそも義経に何の罪科があるのか。もし汝が義経の傍輩の讒口を信じて密かに私刑を加えんとしているのであれば以ての外だ。義経の罪科が疑いなく刑を加えるのであれば、義経の身を鎌倉へ召し下したうえで沙汰せよ。武士を上洛させて義経誅殺を謀る風聞があるが、まったく朝廷を蔑ろにする狼藉に他ならない。汝は義経の謬説を聞いて誤解をしているのではないか』と頼朝に子細を問わしめ、処置を行う由を仰せ遣わすべきである。それでもなお勅命に背き、義経を討とうと企てるのであれば、そのとき違勅の罪で追討宣旨を下すべきである。罪科が定まらない中で頼朝の追討宣旨を下されれば、後悔しても仕方のないことになろう。)

と述べた。

 このとき、兼実が法皇の言葉として頼朝に伝えるべきだとした言葉は、この当時の兼実の本心を代弁したものと考えられ、明らかに頼朝を非難し、義経を擁護する心情にあったことがわかる。もし確たる罪があれば鎌倉に召し下すべき、という仮定は、そんなことはないだろうが、という否定的な意味合いを含んでいるのだろう。頼朝の措置によって心中不満を抱えていた義経が行家と同調し「竊奏」して安穏の世を乱す結果となったことを、兼実は激怒しており、この比の頼朝に対する心情は「平氏誅罰之後、頼朝在世之間、忽可及大乱之由、万人不存事歟、苛酷之法殆過秦皇帝歟、仍親疎含怨之所致也」(『玉葉』文治元年十月十四日条)というもので、義経・行家の頼朝に対する反抗は、「世人之謂以、今度天下之結願歟」(『玉葉』文治元年十月十四日条)であったという。

 しかし、兼実は重ねて、

「但此議於今者難叶歟、去十一日、始達天聴之剋、被仰義経、暫抑狼藉、可被達子細於関東カリケル事歟、濫行風聞之後者、縦被仰遣、定無承引歟、誠是難治次第也、今私被示之旨、偏引級頼朝抑留追討之由也、此条返々有恐、於不思得事者、小事猶難申切、況大事哉、是全非申止、只申理之所当許也者(しかし、もはや遅いのかもしれない。これは去る11日に義経がはじめて法皇に行家の事について訴えた時点で、義経の狼藉を抑えた上で、頼朝にも子細を達すべきことであったろう。義経等の濫行の噂が広まった後では、たとえ義経等に行動を慎むよう仰せ遣わした所で承引しないであろう。もはや収拾し難いことである。そして、今私に『頼朝に贔屓して追討を抑留しているのだろう』という事を示されたが、このように考えられるのは残念でならない。思い得ないことはたとえ小事でも言い切ることは難しい。ましてや大事においては猶更であろう。しかし、何も申し上げないのではない。道理のある所は申し上げる)

と語った。その後、泰経は兼実の言葉を承って九条邸を退出し、法皇へ復命に戻った。

 泰経退出後、兼実はひとり物思いに耽る。

「余聞此事神心惘然、天下之滅亡、結句在此時歟、頼朝失義経之勲功、殆及害命之条、事若実者、義経起逆心之条、一旦可然、頼朝之心操、以之可察事歟、但又義経於頼朝偏父子之義也、忽申下追討宣旨、欲誅滅頼朝之条、大逆罪也、自他共失道理、天魔豈不得便乎、不能左右(頼朝追討の宣旨を下すということを聞いて非常に驚いた。天下の滅亡はまさにこのときにあるかと。頼朝が義経の勲功を無いものとした上にその命を奪おうとすることが事実であれば、義経の頼朝に対する逆心はやむなき仕儀である。頼朝の考えはこの事を以て察するべきか。ただし、義経は頼朝とは父子の義を結んでおり、義経が頼朝追討の宣旨を奏上して、義父たる頼朝を誅滅を図ることは大逆罪である。道理を失うこととなり、戦乱を呼び覚ますことになろう。もはやどうすることもできない)と。

 泰経から復命を受けた法皇は、左大臣経宗内大臣実定に参院を命じ、頼朝追討についての諮問を行っている(『玉葉』文治元年十月十九日条)。はじめに参院した実定は、法皇の諮問に対して一存で決め難く左大臣の意見を求めた。その後参院した左大臣経宗は、「凡不可及意議、早々可下宣旨也」と主張した。その理由としては「当時在京武士、只義経一人也、被乖彼申状、若大事出来之時、誰人可敵対哉、然者、任申請可有沙汰也、更不可及議定(いま在京の武士はただ義経一人である。彼の申状に反対したことで謀反が起こった場合、誰が義経を抑え込むことができようか。もはや追討の宣旨を下す他なく、これ以上議定に及ばず)というものであった。態度を明確にしない内府実定も結局同意することとなり、同席していた経房卿は「聞此事頗傾奇」と批判している。

 左府、内府の同意が得られたことで、10月18日、義経の要望通り「被下頼朝追討宣旨」(『玉葉』文治元年十月十八日条)が、翌19日早朝に上卿を左大臣経宗とし、右大弁光雅が認めてが発布されることとなった(『玉葉』文治元年十月十九日条)

 文治元年十月十八日 宣旨
 従二位源頼朝卿偏耀武威已忽諸 朝憲宜前備前守源朝臣行家左衛門少尉同朝臣義経等追討彼卿
   蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅奉

 義経が私的な敵対行為から、頼朝を朝敵として討つ公戦を目論むほど態度を硬化させた背景は、土佐房昌俊以下八十騎余りの入洛であろう。八十三騎もの軍勢が入洛すれば付随する郎従も含めれば数百人の軍勢となる。当然、義経はこの入洛を察知したであろう。『吾妻鏡』では17日に「土左房昌俊、先日依含関東厳命、相具水尾谷十郎已下六十余騎軍士、襲伊予大夫判官義経六條室町亭」とある(『吾妻鏡』文治元年十月十七日条)。『吾妻鏡』によれば当時不可解なことに「于時予州方壮士等、逍遥西河辺」といい、六条室町亭には家人が少なかったという。

 ところが、襲撃を受けた義経は、佐藤四郎兵衛尉忠信らを率いて自ら昌俊勢に当たり、形勢危うきところを、駆けつけた行家勢とともに前後から昌俊勢を押しつぶしたという。義経は事前に行家と図って昌俊の誘殺を目論んだのかもしれない。

 結果として頼朝による義経殺害は失敗に終わり、昌俊は逃亡して義経の家人がこれを追撃。昌俊らは鞍馬山の奥の方へと逃れたが「土佐房昌俊伴党三人、自鞍馬山奥、予州家人等求獲之」えられ、26日「於六條河原梟首」された(『吾妻鏡』文治元年十月廿六日条)。義経は襲撃を受けたのち参院している(『吾妻鏡』文治元年十月十七日条)。『玉葉』では、

「亥剋、人走来告云、北方有作時之音、余聞之、事已実也、未知何事、然間人又告云、武士打囲法皇宮云々、神心失度、奉念三宝之外無他、堅閉門戸待動静之間、襲院御所之条已僻事也、頼朝郎従之中、小玉党武蔵国住人卅騎許、以中人之告、寄攻義経家、院御所近辺也、殆欲乗勝之間、行家聞此事馳向、追散件小玉党了云々(午後十時ごろ、慌ただしく人が駆けつけてきて、北の方で鬨の声が上がったという。自分もこれを聞き、事実である。何事が起ったのか判らぬまま、また人が駆けつけてきて言うには、武士等が法皇の御所を取り囲んだという。まさに法住寺合戦の再来か。心落ち着かず、三宝に祈るほかなかった。堅く門を閉じて動静を窺っていると、どうやら院御所の襲撃は誤伝で、頼朝郎従の児玉党三十騎ばかりが院御所近くの六条室町にある義経邸を襲撃したものだった。児玉党は義経勢をほとんど制圧せんとするとき、十郎行家の軍勢が馳せ参じ、児玉党を追い散らしたという)(『玉葉』文治元年十月十七日条)

と伝えている。この合戦は、『愚管抄』においては「頼朝郎従ノ中ニ、土佐房ト云フ法師アリケリ、左右ナク九郎義経ガモトヘ夜打ニ入ニケリ、九郎ヲキアイテヒシヒシトタタカイテ、ソノ害ヲノガレ」たとする(『愚管抄』)。『百練抄』では「今夜子刻許、義経宅六条堀川、軍兵等自四方攻寄之、有夜打之企、義経忽合戦、襲来之勇士皆悉逃散了、此間院中騒動、四面門等被閉了、義経進使云、奇怪之輩追散了、不可驚思食者、件張本者于土佐房」とある。合戦が亥剋以前に起こっていたことは兼実が実聞しており、『百練抄』の「子刻」は誤りだが、戦闘の終了が子刻であったのかもしれない。なお『愚管抄』ではこの事件を「文治元年十一月三日、頼朝可追討宣旨給リニケリ」ののちのこととするが、『玉葉』においても10月の事件としていることから、慈円の記憶違いである。

 以上から、土佐房昌俊らは頼朝が私的に遣わした義経追討使であって「暗殺」を狙ったわけではなかったことがわかるのである。そして、昌俊らは午後十時頃、六条室町邸(現在の東本願寺北縁)に攻めかかり、義経らはこれを防戦し、さらに追撃に転じた。六条室町邸から九条邸(九条跨線橋西側)まで直線千五百メートルの距離にもかかわらず、鬨の声が聞こえるほどの規模の合戦が行われたことがわかる。結果として、この夜戦により、義経は頼朝と完全に決別するに至った。

 ところが、追討の宣旨が下されたものの、義経・行家が奏上していた法皇の鎮西行幸はことごとく拒否され、義経等はこれを撤回する(『玉葉』文治元年十月廿一日条)。さらに「始推雖申下可追討頼朝之宣旨、事不起自叡慮之由、普以風聞」というように、この追討宣旨が法皇の意思から出たものではないと伝わったことから、在京武士等は行家・義経に加担することなく「近江武士等、不与義経等、引退奥方」(『玉葉』文治元年十月廿二日、廿三日条)という状況であった。「還以義経等處謀反之者、加之、引率法皇已下可然之臣下等、可向鎮西之由、披露之間、弥乖人望、其勢逐日減少、敢無与力之者」(『玉葉』文治元年十一月三日条)とある。義経はあくまでも頼朝代官であり、在京御家人らがその行いを頼朝に対する反逆と認識したであろうことは容易に想像できる。御家人らは当然ながら義経との深い紐帯はなかったであろう。もはや義経や行家に敢えて加担する武士などあるわけがなかったのである。

 このころ鎌倉では9月3日、「故左典厩御遺骨副正清首奉葬南御堂之地」している。六条源氏の菩提所として建立されていた勝長寿院の落慶供養前の埋葬である。勝長寿院は幕府南側の川を挟んだ谷津に、北向きに造営された南北に長い広大な寺院で、後述の通りおそらく興福寺系の法相宗寺院であったと考えられる。落慶法要には源氏とゆかりの深い園城寺の本覚院僧正公顕を導師に招いていた。11月14日、前中納言源雅頼が九条邸を訪問し、頼朝の使者「相模国住人其名有久」から伝えられたことを兼実に伝えているが(『玉葉』文治元年十一月十四日条)、それによれば「京事、十月廿三日聞候、範頼并公顕僧正、廿二日下著、然而範頼成憚直不申、粗披露傍輩云々、廿四日堂供養、…、自廿四日有上洛沙汰、有久廿七日出国、次官親能、今四ケ日之後可出国云々、頼朝一定可京上之由風聞、已超足柄関之由、於路頭所承也、非如先々決定可上洛之由、下知郎従等」という。

 10月22日、範頼と公顕僧正は鎌倉へ下着。24日には「堂供養、卯時事始、申剋終、願主浄衣云々、布施物之長櫃百八十合、導師馬卅疋十疋置鞍、讃衆廿口、各三疋一疋置鞍」滞りなく勝長寿院供養が挙行された。この供養に際して、常胤は頼朝の「御後五位六位」の一人として、五位の六男・六郎太夫胤頼とともに従っている。また、御後に供奉する「前対馬守親光」は、「対馬守親光者武衛御外戚也」(『吾妻鏡』元暦二年三月十三日条)とある通り、系譜上では頼朝との関係は定かではないが、頼朝の外戚に当たる人物であった。この親光の姉妹は「権中納言平教盛室」となり「従三位通盛母」となった人物で、通盛と頼朝は何らかの血縁関係にあったことがうかがえる。

●文治元年勝長寿院供養に供奉した千葉一族(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)

随兵(先陣) 畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 榛谷四郎重朝
葛西三郎清重 八田太郎朝重 加藤次景廉 藤九郎盛長 大井兵三次郎実春
山名小太郎重国 武田五郎信光 北條小四郎義時 小山兵衛尉朝政  
持御剣 小山五郎宗政        
着御鎧 佐々木四郎左衛門尉高綱        
懸御調度 愛甲三郎季隆        
御後
五位六位
〔布衣下括〕
源蔵人大夫頼兼 武蔵守義信 参河守範頼 遠江守義定 駿河守広綱
伊豆守義範 相摸守惟義 越後守義資
〔御沓〕
上総介義兼 前対馬守親光
上野介範信 前宮内大輔重頼 皇后宮亮仲頼 大和守重弘 因幡守広元
村上右馬助経業 橘右馬助以広 関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重
藤判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉介常胤
千葉六郎大夫胤頼 宇津宮左衛門尉朝綱
〔御沓手長〕
八田右衛門尉知家 梶原刑部丞朝景 牧武者所宗親
後藤兵衛尉基清 足立右馬允遠元      
随兵 下河辺庄司行平 稲毛三郎重成 小山七郎朝光 三浦十郎義連 長江太郎義景
天野藤内遠景 澁谷庄司重国 糟谷藤太有季 佐々木太郎左衛門尉定綱 小栗十郎重成
波多野小次郎忠綱 広澤三郎実高 千葉平次常秀 梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時
加々美二郎長清        
随兵六十人:被清撰弓馬逹者皆供奉最末、御堂上後各候門外東西
東方 足利七郎太郎 佐貫六郎 大河戸太郎 皆河四郎 千葉四郎
三浦平六 和田三郎 和田五郎 長江太郎 多々良四郎
沼田太郎 曾我小太郎 宇治蔵人三郎 江戸七郎 中山五郎
山田太郎 天野平内 工藤小次郎 新田四郎 佐野又太郎
宇佐美平三 吉河二郎 岡部小次郎 岡村太郎 大見平三
臼井六郎 中禅寺平太 常陸平四郎 所六郎 飯冨源太
西方 豊島権守 丸太郎 堀藤太 武藤小次郎 比企藤次
天羽次郎 都筑平太 熊谷小次郎 那古谷橘次 多胡宗太
莱七郎 中村右馬允 金子十郎 春日三郎 小室太郎
河匂七郎 阿保五郎 四方田三郎 苔田太郎 横山野三
西太郎 小河小二郎 戸崎右馬允 河原三郎 仙波二郎
中村五郎 原二郎 猪股平六 甘糟野次 勅使河原三郎

 その後、導師公顕への布施として馬三十疋が納められるが、そのうち十疋はセレモニー的に御家人が引いた。その際、千葉介常胤足立右馬允遠元と組んで一之御馬を納め、九之御馬は千葉二郎師常が一族の印東四郎と組んで納めている。

●文治元年勝長寿院供養の馬牽(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)

一之御馬 千葉介常胤、足立右馬允遠元
二之御馬 八田右衛門尉知家、比企藤四郎能員
三之御馬 土肥次郎実平、工藤一臈祐経
四之御馬 岡崎四郎義実、梶原平次景高
五之御馬 浅沼四郎広綱、足立十郎太郎親成
六之御馬 狩野介宗茂、中條藤次家長
七之御馬 工藤庄司景光、宇佐美三郎祐茂
八之御馬 安西三郎景益、曽我太郎祐信
九之御馬 千葉二郎師常印東四郎(師常)
十之御馬 佐々木三郎盛綱、二宮小太郎

 勝長寿院より御所に帰還すると、頼朝は侍所の監督人である和田義盛・梶原景時両名を召して、明日の上洛進発について軍士の着到を指示する。これは伊予守義経と備前守行家を追討するための軍勢催促であり、これに応じた群参の御家人は「常胤已下」主だったものは二千九十六人であった。このうち上洛に付き従うものは、小山朝政、結城朝光ら五十八人とされた。

 翌25日早朝には、「差領状勇士等、被発遣京都」とおそらく先遣の御家人(先陣の土肥次郎実平か)が鎌倉を出立しており、彼等には「入洛最前可誅行家義経、敢莫斟酌、若又両人不住洛中者、暫可奉待御上洛者」と指示を行っている(『吾妻鏡』文治元年十月廿九日条)。明確に行家と義経を誅殺すべきことを命じている。そして29日、「予州・備州等」の叛逆を追討すべく、軍勢を京都へ向けて進発する。その先陣は土肥次郎実平、後陣は千葉介常胤が務め、おそらく東海道を進む陣容であったとみられる。そのほか、東山道、北陸道の二道からも進発しており、三道からの大規模な上洛軍であった。

26,行家、義経の都落ち

 文治元(1185)年10月25日、ふたたび院使として泰経が九条邸を訪れ、

「遣使於頼朝之許、可被披陳子細歟、而隠而遣之者、義経等之伝聞有恐、仍只仰聞件両将、且暫被止当時之狼藉、被遣顕露之御使、其次含密語、被加披陳之詞如何、可計奏者(使者を頼朝のもとに密かに遣わして追討宣旨の子細を弁明したいが、義経等に洩れる恐れがある。そのため両名には頼朝に狼藉を停止させる使者を遣わす旨を伝えるが、実際には追討宣旨の子細の密語の使者を遣わそうと考えるが、如何か)

との院宣を伝えている。兼実はこれを聞いたとき、追討宣旨の宣下によって近国武士等を催したものの思惑が外れて加担する武士が集まらず、慌てた人々が法皇に奏上した結果このような院宣が下されたのだろうと推測している(『玉葉』文治元年十月廿五日条)。兼実は虫のいい事をいうと思ったのだろう。

「事已発覚、被下追討宣旨畢、其上更被仰遣和平之儀、頼朝豈可受勅語哉、暗可有推察歟、但於其条者、縦不承引、推而可遣歟、頼朝之忿怒、雖遣使、雖不遣使、更不可有差別之故也、而在京之武士等被仰合之時、各欝申者如何、若可有此儀、不被下追討宣旨之以前者、頗叶物議歟、先日被尋問之時、内々存申之趣已是也、而不事問、被下宣旨之後、更此儀出来、首尾似不相応歟、惣非愚意之所及者(追討宣旨を下しているのに和平の使者も遣わすという理解できない勅語に頼朝が応じるはずもないことは分かり切っている。頼朝の忿怒は使者を遣わす遣わさないに拘らず、変わらない。義経等に迎合して私の意見に反対した人々が今更何を言うのか。この儀は追討宣旨以前に行うべきものであり、先日尋ねられた時に申し上げたことはまさにこの事だ。結局、私の言葉を思わずに宣下してこの体たらく。今更諮問されても首尾相応せざるところであり、もはや愚意の及ぶところではない)

と突き放した。これに泰経は「左大臣申云、早可被遣、尤上計也」を伝えて早々に帰参した(『玉葉』文治元年十月廿五日条)

 ただ、このとき泰経が密かに語ったこととして、

「法皇只不可知食天下也、我君治天下、保元以後、乱逆連々、自今以後又不可絶、仍只為全玉体、枉可有此儀者(法皇は天下を治めるべきではない。法皇が天下を治めてから、保元の乱以降、乱が収まらずこの先も同様だろう。よって、法皇の玉体を守らんがため、枉げて法皇を政務から遠ざけたい)

という。院近臣の重鎮であり、もっとも近くで法皇を見てきた泰経のただただ実感であろう。

 この泰経の「密語」は陳状を送ることの可否についてではなく、「法皇只不可知食天下」ことを「仍只為全玉体、枉可有此儀」というものである。法皇の一貫した行動は、生来の政治に対する無関心と自らの保身に汲々とするものであった。泰経はこうした法皇の側近としてその意を汲み、表に立って行動してきた人物である。法皇の無能ぶりにほとほと疲れていたのだろう。法皇の支離滅裂な言葉を陳状として頼朝に送らなくてはならない者として、また今後の法皇の身の上を案じる者として、もはや法皇と権勢を引き離す必要を感じていたと思われる。

 しかし、法皇の近臣に対する先入観を強く持っていた兼実は、泰経の計画に対し、

「君不知食天下者、誰人可行哉(では法皇以外に、誰が天下を治めるのか)

と問うた。これに泰経は、

「只臣下可議奏也(臣下が議奏して行う)

という。しかし、すでに院政が開かれて百年、上皇という存在なくして政治が動く世の中ではなかったこともまた事実である。兼実は法皇を頂点に置き、主上を奉じて摂簶と公卿がこれを輔弼する政権体制(御堂道長の摂関政治体制)の維持を理想としていた。法皇という絶対者なくしてこの混乱した世をまとめることは不可能と考えていたのである。法皇の能力云々ではなく、法皇の存在そのものが必要だったのである。そのため、兼実は、

「此事都不可叶、只以法皇御力、可被直天下也(それは不可能だ。法皇の御力のみが天下を正しい方向に導くことができるのだ)

と泰経の考えを真っ向から否定した。兼実と泰経の間には、根本的な理解の相違があることがわかる。兼実とは別の視点を持つ泰経は、

「極難有其恐、於被直之条者、一切不可叶、可被直得、はやく直て、天下安穏にてこそは人はてましか(そのようなことはまず有り得ない。法皇の御力で世の中が改善されるということは絶対にない。それで世の中の混乱が収まるのであれば、とうに天下安穏になっていよう)

と強烈に反論しているのである(『玉葉』文治元年十月廿五日条)。ただし、泰経は兼実とは相容れない意見のへだたりがあるが、泰経もまた戦乱のない安穏な世、安定した社会を目指す「方向性」だけは同じであり、院近臣でありながら法皇政治の終焉を強く願っていたのである。

 このころ義経はすでに法皇らを伴って鎮西に下向する意向を放棄していたが、巷説ではいまだその風説が収まっていなかった。法皇はなお不安であり、泰経を義経のもとに遣わして誓状を取っている(『玉葉』文治元年十月廿九日条)

 義経等は11月1日早朝に九州へ下向することを決定する。この下向を待ち構える形で、「摂州武士太田太郎已下、構城郭、九郎十郎等、若赴西海者、可射之由結構」という(『玉葉』文治元年十月卅日条)。この太田太郎は、かつて多田蔵人行綱の麾下として平家の兵糧米を強奪するなど対峙している(『玉葉』寿永二年七月廿四日条)。義経は郎従の紀伊権守兼資に西国へ下るための船を用意させるべく、摂津国へと下したが、兼資はこの太田太郎頼助らによって討ち取られたという。これにより、義経等は鎮西ではなく北陸へ向かうという風聞が伝えられた(『玉葉』文治元年十月卅日条)。『吾妻鏡』では義経は「大夫判官友実」に乗船の手配を命じたとあり(『吾妻鏡』文治元年十一月二日条)、人物名が異なる。なお、友実は手配の途路、「庄四郎元与州家人、当時不相従」と出会い、庄から「今出行何事哉」と問われたという。友実は庄に問われるままに義経から船の調達の指示を受けていることを告げている。庄はすでに義経から離れているが、「庄偽示合如元可属与州之趣」を告げると、友実は庄を伴って義経のもとに戻るが、庄は義経に討たれたという。友実は船の手配を行わずに帰還したことになるが、その後ふたたび手配に動いたかどうかは不明。なお「件庄、実者越前国斎藤一族也、垂髪而候、仁和寺宮首服時属平家、其後向背相従木曾、々々被追討之比、為予州家人」という経歴の人物であった(『吾妻鏡』文治元年十一月二日条)

 こうした「依路次狼藉」によって11月1日の義経下向は3日早朝に延引されているが(『玉葉』文治元年十一月一日条)、鎮西下向に際して「聊有申請旨」を奏上している。それは次の二つの項目の弁明及び要求であった。

(一) 可奉動君之由、達天聴、依有其恐、書進起請先畢、其上不可有疑之由存之處、院中祗候之輩、猶致発向之用意云々、此事都不可候事也、郎従等雖遂先途、猶臨幸可宜之由雖令申、於義経内心者、更不可乖叡慮、敢以不可有御不審抑
(二) 山陽西海等庄公、共為義経之沙汰、調庸租税年貢雑物等、慥可沙汰進上之由、欲被仰下、兼又、豊後武士等、被召院、義経行家等殊可扶持之由、欲仰下

 法皇はこの両条について仰せ下すべきか否かを、右少弁定長を院使として九条邸に遣わし兼実に諮問した(『玉葉』文治元年十一月一日条)。これに兼実は、

「可追討頼朝之由、被下宣旨之上、如此細々事、更不可及議定、於今者、只任申請有其沙汰、早速可被出洛陽歟(頼朝追討の宣旨という大事を行った上は、義経等の細々した要求などまったく議定に及ぶような内容ではない。ただ申請に任せて沙汰し、早々に出京させるべきである)

と答えている。これを受けて法皇は早速院宣を作らせ、夜に入って義経に院宣を下した(『玉葉』文治元年十一月二日条)。この院宣には義経が要求した「山陽西海等庄公、共為義経之沙汰、調庸租税年貢雑物等、慥可沙汰進上之由、欲被仰下」について「以義経補九国之地頭、以行家被補四国之地頭」(『玉葉』文治元年十二月廿七日条)という丸呑みのものであった。そして「九国之地頭」にともない、義経または範頼が同伴したとみられる「豊後武士等」を院に招いて義経・行家麾下とすべきことを認めさせている。

 11月3日朝方、「前備前守源行家、伊予守左衛門尉大夫尉也従五位下同義経為殿上侍臣」は、各々法皇に出京のことを告げて、二百騎あまりを率い鎮西へ向けて京を出立した(『吾妻鏡』『玉葉』文治元年十一月三日条)。なお、『吾妻鏡』では「為遁鎌倉譴責、零落鎮西、最後雖可参拝、行粧異躰之間、已以首途」(『吾妻鏡』文治元年十一月三日条)という、義経は頼朝からの譴責を避けるために九州へ赴く旨を述べたといい、しかも甲冑に身を包んでいるため法皇には会うことなく出立したことを告げたという。『玉葉』では義経は頼朝との対立姿勢を鮮明とし、さらに四国と九州を統べる院宣を帯しての下向であり、『吾妻鏡』とはまるで異なる。兼実は当日に義経の要求についての諮問を受けており、『玉葉』に述べていることは事実である。つまり、『吾妻鏡』のこの部分は鎌倉史観で歪曲されていることがわかる。

●義経行家随行の人々(『吾妻鏡』文治元年十一月三日条)

前中将時実 平大納言時忠卿長男。義経義兄。
侍従良成、義経同母弟、一條大蔵卿長成男 藤原長成卿子。母は常葉。義経義弟。
伊豆右衛門尉有綱 伊豆守仲綱子。義経女婿とあるが不明。
堀弥太郎景光 義経郎従。
佐藤四郎兵衛尉忠信 義経郎従。
伊勢三郎能盛 義経郎従。
片岡八郎弘経 義経郎従。
弁慶法師 義経郎従。

 兼実は、「是則無指過怠、為頼朝欲被誅伐、為免彼害所下向也、始推雖申下可討頼朝之宣旨、事不起自叡慮之由、普以風聞之間、近国武士不従将帥之下知、還以義経等處謀反之者、加之、引率法皇已下可然之臣下等、可向鎮西之由、披露之間、弥乖人望、其勢逐日減少、敢無与力之者、仍於京都難支関東之武士、是以下向云々、院中已下諸家、京中悉以安穏、義経等之所行、実以可謂義士歟、洛中之尊卑無不随喜、若如以前風聞者、王侯卿相一人而不可全身、然則人別争有失生涯之果報哉、因茲無此濫吹歟、可悦」(『吾妻鏡』文治元年十一月三日条)と、京都での戦闘を避けるとともに略奪を伴わなかった義経の整然とした退京を「義士」と称賛している。一連の頼朝追討の宣旨に関する問題につき、兼実は公的な立場においては、頼朝追討の正当性を暗に疑問を呈する一方で、私情では「頼朝失義経之勲功、殆及害命之条、事若実者、義経起逆心之条、一旦可然」とあるように、理解を示していたのである。

 京都を出立した義経・行家勢は予定通り、摂津国からの船出を敢行しており、船の集まっていた長洲御厨の神崎川河口へ向かったとみられる。先日、義経が船集めのために摂津国に紀伊権守兼資を遣わしていたが、太田太郎頼助によって討たれていた。このときに集められた船かは不明だが、神崎川河口の大物浦周辺には多田蔵人行綱の家人・太田太郎頼助が布陣していたのだろう。義経は京都を出立したその日のうちに「河尻辺(尼崎市付近か)」まで進み、太田太郎の手勢を踏み潰している(『玉葉』文治元年十一月四日条)。なお『吾妻鏡』では、まるで反対に「摂津国源氏多田蔵人大夫行綱、豊嶋冠者等遮前途、聊発矢石、予州懸敗之間、不能挑戦、然而与州勢多以零落、所残不幾」と、多田勢の勝利と記す(『吾妻鏡』文治元年十一月五日条)

 その後「大物辺」に宿して出帆の時期を窺ったとみられる。ところが、義経等の出京を受けて「京中所残留之武士等、少々為追義経等下向」と、在京御家人らが私的に義経追捕のために彼らを追跡し(『玉葉』文治元年十一月三日条)、さらに翌日にも「今日又武士等追行義経」と追跡の武士が摂津へ向かっている(『玉葉』文治元年十一月四日条)。彼らは義経等が宿陣した「大物辺」の「寄宿近辺在家」して義経・行家を遠巻きに窺っている。この追跡を主導したのは「手島冠者範季朝臣息範資等、為大将軍云々、件範資雖生儒家、其性受勇士、加之、蒲冠者範頼、親昵之間、催具在京之範頼之郎従等、行向」(『玉葉』文治元年十一月八日条)とあるように、在京の蒲冠者範頼従者を率いた手島冠者藤原範資(兼実家司の藤原範季の子)であった。範資は「其息範資、追戦九郎党類之間事、愚父一切不知之由、立誓言争申之」(『玉葉』文治元年十一月十日条)とあるように、父・範季に無断で義兄・範頼の郎従を率いて出兵したことがわかる。

        藤原範季―+=源範頼
       (木工頭) |(参河守)
        ∥    |
        ∥    +―藤原範資
        ∥     (八条院蔵人)
        ∥
        ∥――――+―藤原範茂
        ∥    |(甲斐守)
        ∥    |
 平教盛――――平能子  +―藤原重子
(中納言)  (従三位)  (修明門院)
               ∥――――――順徳院
               ∥
               後鳥羽院

 11月5日、「関東発遣御家人等入洛、二品忿怒之趣、先申左府経宗(『吾妻鏡』文治元年十一月五日条)と、御家人らが入洛したという。ただし、『玉葉』ではとくに記述はなく、大規模な入洛ではなかったとみられる(『玉葉』では11月13日「関東武士、多以入洛」とあり、「入洛武士等之気色大有恐」とある)。一方で、これ以前に伊予守義経・前備前守行家は京都から逃れており、その報告を受けた頼朝は11月8日、上洛を取りやめて黄瀬川宿から鎌倉へ戻っている(『吾妻鏡』文治元年十一月八日条)

 11月5日夜、義経、行家等の軍勢は河尻から出帆することとなるが、この日は「自夜半大風吹来」という荒天で、本来であれば出帆するような状況にはない。もちろん強風に乗って早々に西へ向かうことを想定していたのかもしれないが、おそらくは近辺に追い迫る在京武士の攻撃を恐れた結果であろう。彼らとは「未合戦之間」とある通り、合戦には及んでいないが、夜半の荒天時に出帆する理由としては自然であろう。結果としてこの出帆は失敗し、「九郎等所乗之船、併損亡、一艘而無全、船過半入海、其中、義経行家等、乗小船一艘、指和泉浦逃去了」という(『玉葉』文治元年十一月八日条)「相従予州之輩纔四人、所謂伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵房弁慶妾女字静一人也」であったといい、「天王寺辺」に宿したという(『吾妻鏡』文治元年十一月六日条)。また、11月6日には「近江美濃源氏武士為討義経下向西国畢」(『百練抄』文治元年十一月六日条)と、近江源氏、美濃源氏が義経追討に加わったという。

 義経遭難の風聞は11月7日夜には兼実のもとに届いており、速報という事で「雖不詳、解纜不安穏歟、事若実者、仁義之感報已空、雖似遺恨為天下大慶也、彼等若籠鎮西者、為追討之武士等、巡路之国弥可滅亡、関東諸国又依此乱不可通其路、仍中夏之貴賤、可無活計之術、而不遂前途滅亡、豈非国家之至要哉、義経成大功、雖無其詮、於武勇与仁義者、貽後代之佳名者歟、可歎美可歎美」と、頼朝の卑怯な仕打ちと非情さを非難し、結果として起こったこの義経の身の上に対する同情心が垣間見える。義経に対しては不憫ながらも、国家として考えれば義経等の滅亡は大慶であり、もし彼らが鎮西に籠ったとすれば、追討の武士等によって通路の国々は狼藉を受けてますます疲弊してしまうだろう。義経の挙げた大功は詮無くなってしまうが、その武勇と仁義は後代までの佳名として残るであろうと餞の言葉を送っている。兼実個人としては義経への深い同情を示し、頼朝に対しては「頼朝在世之間、忽可及大乱之由、万人不存事歟、苛酷之法殆過秦皇帝歟、仍親疎含怨之所致也」(『玉葉』文治元年十月十四日条)という嫌悪の念を持つが、国家全体としては義経の滅亡を大慶としてとらえていることがわかる。義経の存在は「凡五濁悪世、闘諍堅固之世、如此之乱逆継踵而不絶歟」の元凶であったのだ(『玉葉』文治元年十一月七日条)

 義経や行家らは和泉国へと船で向かうも、摂津国大物あたりに吹き戻された人々もおり、行家の嫡子・大夫尉家光も「於家光者梟首了」とある通り殺害された。さらに「豊後武士等之中、或為降人来範資之許、又乍生被捕取了」とあり(『玉葉』文治元年十一月八日条)、義経の中核をなす豊後武士らも藤原範資らに下ったことがわかる。また、同道していた前少将平時実(平時忠嫡子で義経義兄弟)も生け捕られている(『玉葉』文治二年正月十七日条)

 そして11月7日、「義経被解却見任、伊与守検非違使」という措置が取られることとなる(『吾妻鏡』文治元年十一月七日条)。なお、同日条には「右府兼実頗被扶持関東之旨、風聞之間、二品欣悦給」とあるが、当時の兼実は頼朝を秦の始皇帝に準えて嫌悪しており、兼実が頼朝を快く思っているというこの記述は後年の『吾妻鏡』の創作である。

 11月11日、前中納言雅頼卿が九条邸を訪問し、「示合三位中将改名之間事」った(『玉葉』文治元年十一月十一日条)。三位中将とは兼実の嫡子「中将名良経」のことである。「九郎名義経也、良与義其訓惟同、義経須改名也、而敢以不改、然間忽類刑人滅亡、於今者中将之改名不可及異議歟、仍内々問其字於長光法印之處、択申云、良輔、経通云々、輔字九条殿御名、経通雖為公卿之名、無彼子孫、当時非可憚、被用有何事哉」(『玉葉』文治元年十一月十一日条)と雅頼に問うた。これに雅頼は「経通為勝、被用宜歟」と答えている。なお11月17日、大外記頼業が兼実のもとを訪れて「中将名可改哉否之由」を問い「雖不改何事哉、若改者、可用良輔、於経通者公卿名、猶可被避」(『玉葉』文治元年十一月十七日条)と、もし改名するとすれば「良輔」とすることを申し述べているが、実際には義経の名が「義行」と改められたため、三位中将良経の名が「良輔」に改められることはなかった。

 11月12日夜、兼実のもとに蔵人頭藤原光長が参じて「被下諸国、御教書」の「義経行家等可奉召之由、被下院宣」のことを伝えている(『玉葉』文治元年十一月十二日条)。この院宣を奉じたのが大宰権帥経房であることから、実弟の光長に伝えられたものであろう。

 被院宣尓、源義経同行家、巧反逆、赴西海之間、去六日於大物浜忽逢逆風云々、漂没之由、雖有風聞、亡命之条、非無狐疑、早仰有勢武勇之輩、尋捜山林川沢之間、不日可令召進其身、当国之中、至于国領者、任此状令遵行、於庄園者、触本所致沙汰事、是厳密也、曾勿懈緩者、院宣如此、悉之、謹状
  十一月十二日     大宰権帥経房
   和泉守殿

 兼実はこの院宣の内容について諮問されておらず、法皇は兼実の反発を予想して独断で行ったのだろう。内容を聞いた兼実は「件両将昨日ハ蒙可討頼朝之宣旨、今日ハ又預此宣旨、世間之転変、朝務之軽忽、以之可察、可指弾可指弾」(『玉葉』文治元年十一月十二日条)と呆れ果てた様子を記録している。そして、この日「三条宮息、年来被座北陸之宮生年十九、雖加元服、未有名字」といい、これは「頼朝之沙汰」であったという(『玉葉』文治元年十一月十四日条)。そして翌11月13日からは「関東武士、多以入洛」という(『玉葉』文治元年十一月十三日条)。この武士らは「入洛武士等之気色大有恐」であり、「大略天下大可乱、法皇御辺事、極以不吉」を予感させるものであった(『玉葉』文治元年十一月十四日条)

27,頼朝の怒りと圧力

 文治元(1185)年11月12日、鎌倉では河越重頼が所領を収公された(『吾妻鏡』文治元年十一月十二日条)。重頼の娘が義経の正室という「義経縁者」だったためである。重頼の所領のうち「伊勢国五ヶ郷」については大井兵三次郎実春がこれを給わっている。ただし、そのほかの所領は「重頼老母」の預かりとされた。また、重頼の女婿である下河辺四郎政義も同じく義経相聟ということで所領没収の憂き目をみている。

 11月14日、中原有安が女房冷泉殿から聞いた言葉を兼実に伝えている。それによれば、11月3日に女房冷泉殿が参院した際、法皇が眼前で、

「今日可参向摂政第、可申之様ハ、世間事、於今者、雖帝王雖執柄、更不可遁恥辱、今度之怖畏、倩案次第、偏朕之運報之尽也、何況、頼朝忿怒之由有其聞、摂政之辺事不受之由、自元風聞、右府辺事、殊為賢相之由令庶幾云々、去年比、再三有申旨、然而依朕之抑留、不遂其意、今度定重有申事歟、於今者、非朕之力所及、仍未聞其事以前、遮目避職、右府令沙汰天下事尤穏便歟、但自是之使トテハ不可申、只伺気色可告也(今日、摂政邸に参向して『もはや今となっては帝王といえども摂政といえども恥辱を逃れることはできない。今の世間の混乱を見て考えるに、偏に朕の運は尽きたという事だ。その上頼朝が忿怒の様相と聞く。(無能な)摂政も頼朝は受け入れがたいという。それに対して頼朝は右府兼実が殊に賢相であるから去年から再三にわたって摂政にと希っている。しかし、朕がこれを認めなかったことで頼朝の意見は通ることはなかった。今回のことで必ず再度の申請があろう。もはや朕の力が及ぶところではないから、その申請を聞くよりも前に目を瞑って摂政を退き、兼実に摂政を任せることがもっとも穏便ではなかろうか。ただし、この事は使者を以て申すものではなかろうから、朕自ら摂政邸に参じて基通の気色を伺いながら告げるべきであろう』)

と述べたという(『吾妻鏡』文治元年十一月十四日条)。その後有安は院使として摂政基通邸に馳せ参じ、法皇の語った言葉を伝えたが、基通は、

「其気色甚不請、殆被處御使之過怠、一切無御返報、只参上可承候許被示、事体依不足言、彼日不帰参、翌日四日也参上、奏此旨、其後無沙汰云々(摂政は法皇の要請を受け入れる様子はなく、(法皇がそんなことを仰せになるわけがあるまい)有安の過怠ではないかとまで言い、法皇へのご返報もないが、参院する旨は示した。摂政の様相は予想通りで急ぎ復命するほどのことでもなく、翌4日に奏上したが、その後摂政から何の沙汰もない)

という様子だったという(『玉葉』文治元年十一月十四日条)

 兼実はこの報告を受けて、

「若実者、法皇仰尤可謂有理致歟、凡如此事、只天運之令然也、但乱代執朝之柄事、太不甘心、法皇与当時摂政、尤相似タル君臣也、疎遠不得心之愚翁、太以不足其器、又不叶時議歟(もしこの話が事実であるとすれば、法皇の仰せは理に適ったものだが、このようなことは天運によるものだ。ただ混乱の世に執柄となることは御免被りたい。法皇と基通は似た者同士の君臣だ。法皇と疎遠の私ではその心を得ることはできず、当代の摂政に相応しくない。時宜にも叶うものではない)(『吾妻鏡』文治元年十一月十四日条)

と感想を述べている。

 さらに11月18日にも中原有安の報告があり、同僚の舞人近久(左大臣経宗、内大臣実定の近習で能の名手)から聞いたこととして、「大蔵卿泰経語可然之人々、入道関白可執行天下之由結構云々、禅門相国并資賢入道同心」(『玉葉』文治元年十一月十八日条)という情報が兼実に届いた。高階泰経は入道関白基房を摂政に登壇させることを企て、禅門相国忠雅、源資賢入道らの協力を取り付けたという。これを聞いた摂政基通は大いに歎息して女房を通じて奏院し、

「天下事不可知食之由、人々結構、敢不可有御承引候、只如本可有御沙汰也(法皇に天下を治めることを拒否せんとする人々が結託しているが、これを御承引されないように。ただこれまで通り御沙汰あるべし)

と述べたという。しかし、法皇は摂政の奏文に対して、

「可遁世事之條、更非依人之勧、朕自所案也、云世之運、云身之運、更以不可執著、於今者、一向思往生之大事、之不懸最殃之条、深々所庶幾也、朕雖不知天下執柄之運、全不可依其事(遁世せんとすることは決して人の要請によるものではなく、自分自身の考えによるものだ。世の中や自分自身の運にもはや執着はない。今や一向に往生を思い、災いを避けることを只管に希うのみだ。朕は摂政の運を知る由もないが、朕の遁世に影響されないよう)

と返答している(『玉葉』文治元年十一月廿三日条)。また、法皇は内々にも勅諚を基通に下しているが、

「摂政不熟政事之由、人口難塞歟、摂簶之初、殊親昵右府云々、彼間殊違失事不聞歟、近年頗疎遠歟、尤不便、猶示合万事、可有沙汰ものを(摂政は政事に無能であるという噂を消すことは難しい。摂政就任のころは右府と昵懇にしていたことで大きな失態もなかったが、今や疎遠と聞く。まったく以て宜しくないことだ。(政事の失態をこれ以上曝す前に)全てを相談し沙汰すべきものであるのに)

と記されていた(『玉葉』文治元年十一月廿三日条)

 法皇が基通への摂政辞任を強く求めた背景としては、兼実の議奏の旨が悉く当たったということに加えて、「頼朝追討之宣下」について、法皇の諮問に今後の状況の把握をすることもできずに「此沙汰之間、摂政被申之旨、不足言」という「非管轄之器量之由、御覧取畢」だったことによるという(『玉葉』文治元年十一月廿三日条)。法皇から見ても摂政基通は無能そのものだったのである。しかし、この無能さはもちろん生来の愚鈍さもさることながら、政道の何たるかを学び取る前に父基実を喪い、政略の前に実務官である中納言や大納言を経験することなく、突如摂簶の座に祀り上げられてしまった基通の生い立ちにも問題があったのだろう。

 また、11月14日、前中納言源雅頼が九条邸を訪問した際に、頼朝の使者「相模国住人其名有久」から伝えられたことを兼実に伝えているが(『玉葉』文治元年十一月十四日条)、「有久」は相模国糟屋の御家人で、頼朝実甥・一条高能(頼朝妹婿一条能保の嫡子)の義兄にあたる糟屋有久であろう。それによれば「京事、十月廿三日聞候、範頼公顕僧正、廿二日下著、然而範頼成憚直不申、粗披露傍輩云々、廿四日堂供養、…、自廿四日有上洛沙汰、有久廿七日出国、次官親能、今四ケ日之後可出国云々、頼朝一定可京上之由風聞、已超足柄関之由、於路頭所承也、非如先々決定可上洛之由、下知郎従等(『玉葉』文治元年十一月十四日条)という。勝長寿院の御堂供養導師・公顕僧正は当時七十六歳であり、道中は通常よりゆっくり進んだと思われる。10月22日に範頼とともに鎌倉へ下着したことを逆算すると、範頼らが京都を出たのは9月末から10月1、2日頃と思われることから、義経・行家による頼朝追討の宣旨が下されるだいぶ以前に離京していることになる。途中で頼朝追討の宣旨が下された報告を受けていたとみられるが、範頼が頼朝に報告したことは寿永二年に平清経が法住寺殿から持ち出した法皇御剣「吠丸、鵜丸」のひとつ「仙洞重宝御剣鵜丸」を「於鎮西尋取」して法皇に進上したことのみ報告されている。なお、吠丸(義朝献上物)はすでに検非違使大江公朝によって探し出されており(『吾妻鏡』文治元年十月十九日条)、二腰の名刀はともに法皇御所へと戻されている。

 一方で「範頼成憚直不申、粗披露傍輩」、追討の宣旨の事を頼朝に直に伝えることは憚り、大体の内容を「傍輩(中原広元らであろう)」に伝えるに止めている(『玉葉』文治元年十一月十四日条)。23日にこの「傍輩」から頼朝追討宣旨のことを伝え聞いた頼朝は、とくに動揺することもなく、翌24日には勝長寿院供養を行っている(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)

28,洛中守護北条時政の入洛

 勝長寿院供養ののち、頼朝は侍所へ御家人らの「上洛沙汰」を指示し、御家人らはその沙汰に随って上洛の準備を行い、数日の間に鎌倉を出立したのであろう。糟屋有久は10月27日に鎌倉を出立し(『玉葉』文治元年十一月十四日条)、斎院次官親能は有久出立の四日後に出立したという。

 播磨国や淡路国などの惣追捕使である梶原平三景時の「代官下向播磨国、追出小目代男、倉々ニ付封了」という。播磨国は「院分国」であり、頼朝の牽制として受け止められたようである(『玉葉』文治元年十月廿七日条)。さらに頼朝自身の上洛も決定しており、11月18日には兼実に「頼朝卿決定出国、当時就駿河国、自彼国先立、上洛之武士説云々、其後、於参河遠江辺、一両日可逗留云々、計入洛之行程、可及今月廿五六日という(『玉葉』文治元年十一月十八日条)

 そして11月19日には、「今度被支配国々精兵之中尤為専一」「土肥次郎実平、相具一族等、自関東上洛」した(『吾妻鏡』文治元年十一月十九日条)。実平は平家との戦いでは梶原平三景時とともに中国地方の近国惣追捕使として瀬戸内一帯での戦いを主導した重鎮であり、北条四郎時政の入洛の先陣と考えられる。

 その五日後の11月24日、「頼朝宣下之間事、頗有忿怒之気之由、上洛武士所申也」という中で、「頼朝妻父、北条四郎時政」が千騎を率いて入洛する(『玉葉』文治元年十一月廿四日条)

 時政は近畿周辺の武士の統率権を与えられていた。これは、かつて義経が「畿内近国、号源氏平氏携弓箭之輩住人等、任義経之下知可引率之由、可被仰下候」(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)とあるのと同様の権限を与えられていたとみられ、時政は義経に代わる洛中代官としての上洛であることがわかる。実平はその後「西海」へ下っており、惣追捕使当時と同様に瀬戸内一帯の没官領を拝領し、地頭職を有したと思われる。実平は時政が洛中守護を行っていた当時は安芸国に駐屯していたとみられ、以仁王の侍でその逃亡を助けた右兵衛尉長谷部信連が安芸守から「安芸国検非違所庄公」を給わっていて、頼朝は実平に信連の庇護を命じている(『吾妻鏡』文治二年四月四日条)。嫡子「土肥弥太郎(遠平)」「備後国太田庄」の地頭となっており(『吾妻鏡』文治二年七月廿四日条)、法皇の御願により「為被宥平家怨霊」の大塔が建立され、その供料所として太田庄が寄進された際に土肥遠平の同地地頭職を停止している。

 11月25日夜、頼朝から泰経のもとに追討院宣の陳状に対する返書が院御書に届けられた。ところが泰経はおそらく居留守をつかったとみられる。使者は泰経に頼朝の書状を届けたい旨を「相尋」たが、「当時不祗候之由、人々答之」という。人々とあることから、この使者は院中の人々何人かに問うていることがわかる。結局、居留守を察したのだろう。使者は激怒し、書状を文箱ごと中門廊へ投げつけて院御所から退出した(『玉葉』文治元年十一月廿六日条)。右少弁定長がこの文箱を拾って披見し院奏されることとなる。法皇はこの「頼朝卿申状」を兼実に送り、泰経の処置について諮問をしている。兼実が頼朝書札を披見するに、表書きには「大蔵卿殿御返事」とあり、その下に署名はなかった。その内容は、

行家義経謀叛事、為天魔之所為之由被仰下、甚無謂事候、天魔者、為仏法成妨、於人倫致煩者也、頼朝降伏数多之朝敵、奉任世務、於君之忠、何忽変反逆、非指叡慮之被下院宣哉、云行家云義経、不召取之間、諸国衰弊、人民滅亡歟、日本国第一之大天狗ハ更非他者候歟、仍言上如件

というものであった。しかし兼実は法皇からの諮問に対し「偏可在叡慮者」といつもの如く判断を避けて返奏している。なお、頼朝書状に見られる「日本国第一之大天狗」は法皇を指すというのが一般的であるが、

(一)頼朝は追討宣旨の伝奏公卿であった泰経に対する私信として書簡を送っていること
(二)泰経は頼朝に対して「殊結意趣」とされていて「此事尤不便事歟」と評されていること
(三)頼朝は法皇を治天として尊奉し、法皇をして安穏の世の柱とする理想だったこと
(四)治天に対する表現として「更非他者候歟」という無礼な書様を行うとは考えづらいこと

以上から、この書簡に見える「日本国第一之大天狗」とは、院近臣として追討宣旨の実質的責任者となり、さらに陳状も書いた泰経を指していることは明白であろう。ただし、批判の対象に法皇も含まれていることは間違いないだろう。「抑大蔵卿殿、刑部卿殿北面人々事者、可處霜刑之族不思知者也、後毒之眷也、然者就顕就冥、深依恐 叡慮、令申其旨許也、此条ハ自君之御心不発候事にて候ヘハ」(『吾妻鏡』文治二年四月一日条)と、頼朝追討宣旨の黒幕は大蔵卿泰経と刑部卿頼経の両近臣であると断罪し、法皇については「此条ハ自君之御心不発候事」と不問としているのである。当然ながら頼朝は、この追討宣旨を許した人物が、義経に怯えた法皇であることは百も承知である。しかし、今後も法皇の「存在」に重きを置く頼朝が、法皇を責めることは不可能である。院近臣を罷免してその怒りを表現したものであろう。このことは、3月16日に頼朝が発した書状にもみられ、「可被處刑輩事欝存候、子細者先度次第令申候畢、其許否者所詮可随御計候、不起自御意、近習者御勘気可候之由者、不能欝申候、其恐候之故也、但 君者雖為不知食候事、已称御定、令下 宣旨候之條、無謂所行候歟、以此旨可令披露給候」(『吾妻鏡』文治二年三月十六日条)と、法皇を直接的ではないが暗に批判する姿が見えるのである。

 11月28日、「頼朝代官北条丸、今夜謁経房云々、定示重事等歟」という(『玉葉』文治元年十一月廿八日条)。その内容は「件北条丸以下郎従等、相分賜五畿山陰山陽南海西海諸国、不論庄公可宛催兵糧段別五升、非啻兵糧之催、惣以可知行田地」であるという。この要求に兼実は「凡非言語之所及」と激怒する(『玉葉』文治元年十一月廿八日条)。北条時政のことを、先述で「北条四郎時政」としていたものが、この日の記述では「北条丸」と蔑称となっているのは、気持ちによって言い方が変化する兼実の性格がそのまま反映したものであろう。同様の記述は「若宮別当丸頼朝近臣日来在京」(『玉葉』文治元年十一月九日条)という部分にも見られ、怒りのない記述では「若宮別当玄雲頼朝之専一之者、所奉祝彼本国之八幡今宮別当也、仍有此号」(『玉葉』文治元年十一月十八日条)とある。

 頼朝の要求は、畿内から九州にかけての諸国荘園公領を問わない「段別五升」の兵糧米徴収権であった。これは寿永3(1184)年2月19日に頼朝によって停止され宣旨が下された、かつて平家や義仲が設定していた悪評高い「公田庄園兵粮米」の復活に他ならなかった。しかも「兵糧米之催」だけではなく「惣以可知行田地」とあるように、すべての田地の知行権、つまり「地頭」を置くことをも要求したものであった。兼実が言語道断と激怒するのも止むを得ない内容であった。

 一方、この頃、逃亡中の義経は大和国多武峰に隠遁しており、「十字坊」が匿っていたが、多武峰はさほど広くない上に住侶も少なく、長く隠し通せることが難しいとして、11月29日、義経に「自是欲奉送遠津河辺、彼所者人馬不通之深山也者」と、人馬も通らないほど山深い十津川へ落ち延びることを勧めたという(『吾妻鏡』文治元年十一月廿九日条)。義経もこれに「大欣悦」といい、十字坊は「道徳、行徳、拾悟、拾禅、楽円、文妙、文実等」八名の悪僧に護衛させて送り出したという。ただし十津川はあまりに遠方であり、その後の義経の動向をみるとおそらく十津川には行っていないと思われる。

 11月30日、まさに法皇から見ても摂政基通は無能そのものだったのである。しかし、この無能さはもちろん生来の愚鈍さもさることながら、政道の何たるかを学び取る前に父基実を喪い、政略の前に実務官である中納言や大納言を経験することなく、突如摂簶の座に祀り上げられてしまった基通の生い立ちにも問題があったのだろう。当時、「当時頼朝在駿河国」(『玉葉』文治元年十一月卅日条)という、当時駿河国黄瀬川に在陣していた頼朝(頼朝は上洛を止めたため8日に黄瀬川宿を離れている)の様子が伝えられているが、頼朝は追討宣旨について「泰経卿殊結意趣、又射山不可知食天下事之様令存」(『玉葉』文治元年十一月卅日条)とあるように、泰経卿が追討宣旨を主導し、表向きは法皇は天下を治めていないという認識であるという。そして12月8日、「或人云、泰経親宗等之所領、自頼朝之許可注送之由、仰遣北条之許云々、両人損亡決定歟」という(『玉葉』文治元年十二月八日条)

 そして12月17日、左大臣経宗の下知のもと、高階泰経ら五名が解官された(『玉葉』文治元年十二月十八日条)

高階泰経 大蔵卿兼備後権守  
高階経仲  右馬頭 高階泰経嫡子
藤原能成 侍従 故大蔵卿長成嫡子、義経異母弟。12月3日早旦、保田(保田義定)子男を具して鎌倉へ下向した
高階隆経 越前守  
中原信康 少内記 義経に従軍した官僚

 さらに12月23日には「明日、左相府上表」という情報が兼実に入る(『玉葉』文治元年十二月廿三日条)。兼実は左府経宗を無能にもかかわらず、長年在任して辞職しない厚顔無恥な人物と感じていたが、急に辞職を表明したことに若干の驚きを示している。兼実は「若依追討宣旨事、頼朝成怨之由風聞之間、恐而被辞歟、事甚似周章、猶過此時可被辞遁歟」と、経宗が義経を恐れるあまり追討を推して追討宣旨の上卿にまでなっていたことを、今になって慌てて辞職を申し出たのではないかと推測している。しかもその辞職ももはや遅すぎると嘲笑の気配を以て認めている。しかし、経宗も追討宣旨を下したことを決して後悔はしていなかった。実は経宗は12月、頼朝に使者を送っていて、この際頼朝は「被下官符於予州等事、依左府計議之由風聞之旨、頗以不快」という(『吾妻鏡』文治二年正月十七日条)。経宗が法皇の「内々有天気」の追討宣下に賛同し、宣旨の上卿を務めたことは事実であり、頼朝から疑いを抱かれるのも当然であった。しかし、経宗は「不被宣下者、行家義経於洛中企謀反歟、給官苻赴西海之故、君臣共安全、是何被處不義哉」と強く頼朝に抗議し、頼朝も「二品承披由被諾申」であったという。

 そして12月26日、頼朝雑色鶴二郎が入洛し(『吾妻鏡』文治二年正月七日条)、北条時政のもとに参じたと思われる。その後、権右中弁光長へ届けられた頼朝書状(12月6日付。宛名は光長だが「以此旨可令洩申右大臣殿給之状」とあり、事実上兼実へ宛てた書状)は、翌27日午の刻、光長が九条邸に持参している。兼実はその衝撃的な内容に驚き「如夢如幻、依為珍事、為後鑑続加之」として詳細に書き残している。内容は

  言上
  事由
右言上日来之次第候者、定子細事長候歟、但平家奉背君、傍奉結遺恨、偏企濫吹候、世以無隠候、今始不能言上候、而頼朝為伊豆国流人、雖不蒙指御定、忽廻籌策、可追討御敵之由、令結構候之間、御運令然之上、勲功不空、始終令討平候て、伏敵於誅奉世於君、日来之本意相叶、公私依悦思給候、先不待平家追討之左右、為停近国十一ケ国武士之狼藉、差上二人使者久経国平候て、猶私下知依有恐、一々賜院宣可成敗之由仰含候了、仍彼国狼藉、大略令沙汰鎮候之後、依別仰、重又件使者男、被下遣鎮西四国候、己賜 院宣令進発候了、如此之間、種直、隆直、種遠、秀遠之所領者、依為没官之所、任先例可置沙汰人職之由、雖令存候、且先乍申事由、尚輙于今不成敗候、何況自余之所、不及成敗候、如近国沙汰任 院宣可鎮旁狼藉之由、兼令存知候之処、不審之次第出来候て、以義経補九国之地頭、以行家被補四国之地頭候之条、前後之間、事与心相違、彼輩各相憑其柄、巧非分之謀、令下向候之刻、雖無指寄攻之敵、天譴難遁、乗船解纜之時、入海浮浪、郎従眷属、即時令滅亡候之条、誠非人力之所及、已是神明之御計也、彼両人、其身未出来、晦跡逐電、旁分手令尋求候之間、国々荘々門々戸々山々寺々、定狼藉之事等候歟、召取候之後、何不相鎮候哉、但於今者、諸国荘園平均可尋沙汰地頭職候也、其故者、是全非思身之利潤候、土民或含梟悪之意、値遇謀反之輩候、或就脇々之武士、寄事於左右、動現奇怪候、不致其用意候者、向後定無四度計候歟、然者雖伊予国候、不論荘公、可成敗地頭之輩候也、但其後、先例有限正税已下国役、本家雑事、若致対捍若致懈怠候者、殊加誡、無其妨、任法可被致沙汰候也、兼可令御心得此旨給候、兼又当時可被仰下候事、愚意之所及、乍恐注折紙、謹以進上之、一通院奏料、令付帥中納言卿候了、今度天下之草創也、尤可被究行淵源候、殊可令申沙汰給候、天之所令奉与也、全不可及御案候、以此旨可令洩申右大臣殿給之状、謹言上如件

  文治元年十二月六日   頼朝(在判)
 謹上 右中弁殿

というものであった。院宣に基づいて関東武士等の狼藉を鎮撫する代官・中原久経と近藤国平を「鎮西四国」に進発しているにも拘わらず、「以義経補九国之地頭、以行家被補四国之地頭(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)とする宣旨の矛盾を非難する一方で、義経・行家両名の捕縛のために諸国荘園に地頭を配置することを宣言する。これは頼朝の利潤のためではなく、彼らが朝廷に反感を持つ国人や武士らと手を組んで反抗することを防ぐためとする。そしてこれは兼実知行国として推挙している伊予国でも庄園公領を論ぜず、同様に地頭による執行とする。ただし、地頭が公領の正税などの国役や庄園の本家雑事の遂行に背いたり懈怠があった場合には、地頭には譴責を加え執行させる旨も伝えている。

 そして最後に「今度天下之草創也、尤可被究行淵源候、殊可令申沙汰給也、天之所令奉与也、全不可及御案候」と締め、兼実の登壇を前提に「天下之草創」として、混乱した世の立て直しと道理に基づいた政治を行うことを願ったのであった。頼朝の真意は、後述のようにその半年後に兼実に理解されることとなるが、この時点ではまだ知る由もなく、頼朝が書状とともに送った折紙状で示した「同意謀反人行家義経之輩、先可被解官追却交名」と推任、知行国、議奏公卿の指定は、兼実が以前から恐れていた「頼朝若有賢哲之性者、天下之滅亡弥増歟」(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)が現実のものとなったと感じられたことだろう。ただただ嫌悪感を示すのみであった。

●『玉葉』文治元年十二月廿七日条

一 議奏公卿
 右大臣可被下内覧宣旨 内大臣
 権大納言実房卿 宗家卿
      忠親卿
 権中納言実家卿 通親卿
     経房卿
 参議雅長卿   兼光卿
  已上卿相朝務之間、先始自神祇、次至于諸道、依彼議奏可被計行之

一 摂簶事
 可被下内覧宣旨於右大臣也、但於氏長者々、本人不可有相違云々

一 蔵人頭
 光長朝臣  兼忠朝臣 
  二人相並可被補歟、光雅朝臣被下追討宣旨了、天下草創之時、不吉之職事也、早可被停廃之

一 院御厩別当
 朝方卿、本奉行之職也、可被還補歟

一  大蔵卿
 宗頼朝臣、可被任之

一 弁官事
 親経可被採用歟

一 右馬頭
 侍従公佐可任之

一 左大史
 日向守広房失任国、可被任之、隆職成追討宣旨、天下草創之時、禁忌可候者也、仍可被停廃

一 国々事
 伊予 右大臣 
 越前 内大臣
 石見 宗家卿
 越中 光隆卿
 美作 実家卿
 因幡 通親卿
 近江 雅長卿
 和泉 光長朝臣
 陸奥 兼忠朝臣
 豊後
  頼朝欲申給、其故者、云国司云国人、同意行家義経謀反、仍為令尋沙汰其党類、欲令知行国務也

一 闕官事
  撰定器量可被採用之

一 解官事
 参議親宗   大蔵卿泰経
 右大弁光雅  刑部卿頼経
 右馬頭経仲  左馬権頭業忠
 左大史隆職
 左衛門尉知康 信盛
 信実     時成
 兵庫頭章綱
  同意行家義経、欲乱天下之狂臣也、早解官見任、可被追却之、兼又此外、行家義経家人、追従勧誘之客、相尋浅深於官位輩者、一々可被解官停廃之

 十二月六日      頼朝

 兼実はこの頼朝の折紙の内容を「旁以不可然」としたうえで、経房卿を屋敷に招き、夜に訪問した経房に頼朝消息文と折紙を託して院に進上。その上で内覧に関して「申固辞之子細」を記した書状を付した。兼実は、

「自頼朝卿許注遣旨如此、須待仰下之處、近日武士奏請事、不論是非有施行、仍若無左右被宣下者、後悔無益、仍忌憚遮以所言上也、以不肖之身、当重任乗仁、雖似可悦、不当非一、先此事、依何事其沙汰出来哉、由緒不審、如申状者、天下之草創也、可究尽政道之淵源云々、已是可鎮乱致治歟、而内覧両人之条、偏禍乱之源也、敢非静謐之計、延喜仁平之例、古今寡少之非據也、醍醐帝者、雖我朝無双之聖代、以菅丞相事為失、是則其権分二之故也、鳥羽法皇者、末代之賢主也、而依寵賞凶悪之臣宇治左大臣是也、顕万代之失、保元以後、天下乱逆、論其源非因仁平之両権哉、上古中古、治世之代、其乱猶如此、末代末世、乱逆之今、其禍又不可疑、欲致治似求乱、譬猶加薪求焔消、攪水期流清、是一、帝王政者、兼鑑将来塞其乱待其治者也、当時天下之緇素、以延喜仁平之例、偏處不吉、殆及忌憚、世忌其例、人断其望之處、此時若貽其例者、後代為例、継踵不絶歟、亡国之基、無過於斯、争以人君之政萌乱亡之源哉、是二、成人御時、以可覧天子之文書、先触委任之臣、謂之内覧、幼主之儀、摂政就南面、代君摂天子之政、仍摂政之時、別置内覧之臣者、以可覧摂政之文書、先可触内覧之人、以之謂之摂政、与内覧殆似、有君臣之礼、加之、叙位除目官奏等、於摂政之直盧所行也、其外有内覧臣者、相分又於彼直盧可行歟、旁以無其謂、仍古来未有比例、縦雖無例、有叶時議事者、隨宜立法、是聖代之流例也、於此事者、依無理又無例、縁底忘当時後代之禍乱、可被行古今無例之新儀哉、是三、縦雖有三ケ之非據、若致万機之懇望者、以為一人枉法之謂、可有此議歟、而乱世之執権、愚心全不欲者也、然則、為世為君為身、此事惣無所據、固辞之趣如此如之由、須被仰遣関東也(頼朝卿の消息はかくの如しである。すべては叡慮が下されるのを待つところであるが、ここ最近はすっかり武士の奏請があれば議論もすることなく宣旨を下す傾向にある。後悔しても無益なこととなるので忌憚なく言上するが、不肖の身を以て内覧という重任となることは悦ぶべきことのようだが、実際は不当なことが一つではない。まず、なぜこのような沙汰が出てきたのか全く不明なことだ。頼朝の申状に見る如く『天下之草創也、可究尽政道之淵源云々』ということは、乱を鎮めて治を致すべきだろう。それなのに内覧を二人置くのは禍乱を招くもとでわざわざ静謐を乱す行いである。醍醐天皇の菅公は権力を二分した例だ。鳥羽法皇の宇治左府の例もあり、保元以降の天下乱逆は偏に両権を置いたことによる失策は疑う余地もない。治を致さんと欲して乱を招くが如しだ。二点目は帝王の政治は乱を防いで治を待ち将来の鑑となることである。今のような天下の状況を将来に遺すことはまったくよろしくない。亡国の基であり乱亡の源である。三点目は、主上成人の時は主上の文書をまず委任の臣が拝する。これを内覧という。幼主の時は摂政として政治を行う。摂政の時に別に内覧を置いた場合は、摂政が見るべき文書をまず内覧が見ることになり、摂政と内覧はほとんど変わらないこととなる。また、叙位除目などは摂政が直盧に於いて執り行うものだが、摂政のほかに内覧を置いたときは摂政と同じ直盧で見るのか。古来より例はないが、例はなくとも時議に叶うものであれば新たに立法することは延喜天暦からの流れであるが、理なく例なくとも後代の禍乱を忘れても、今回のことは新儀として行うのか。この三つの非據があるというのに懇望するとすれば、これはただ一人のために法を枉げることに他ならない。乱世の執権などまったく欲してもいない。世のため、法皇のため、そして自分のためを考えても、まったく根拠のない人事である。固辞する理由はこういったものであり、すべて頼朝に伝えてほしい)

と述べた(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)

 つまり、武士を恐れて唯々諾々とその要求を呑むようになった慣習を非難し、自身の内覧については、その推挙の理由の不明瞭さと、同列の権威を二つ置くことによる朝政の混乱の危惧を挙げ、さらには乱世での執権など御免被るという明確な拒否を伝奏するよう要請したのである。

 これに対して経房は、

「頼朝卿所申、抽賞刑罰其事已多、必悉不可叶叡慮、然而偏任彼奏請、併可被行云々、而至于此大事、被仰返子細者、定乖彼意趣歟、此條何様可被仰遣乎、勅定之趣、定如此歟、仍乍恐為存知所驚申也(頼朝卿は抽賞刑罰に慣れており、必ずしもすべてを奏上して叡慮に沿う必要もないだろう。この上は頼朝の奏請に任せた人事を行うべきだ。もはや子細を仰せ返せば必ず頼朝の考えに背くことになろう。法皇のお考えも定めてその通りだろう)

という(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)

 しかし兼実は、

「此事奉為上、全以不可及御煩、其故者、宥刑抑賞者、可乖奏請之旨趣、尤可有御猶予、至此事者、可蒙恩之者、自致辞遁、具述子細、於被仰遣其趣者、敢不可為君御抑留、若有権臣之欝者、其恐可在愚臣者也、只枉可被仰遣之由、可被奏聞者(このことについて法皇は全くご心配に及ばない。頼朝奏請の趣旨に反すると心配するが、恩を受ける私自身がこれを辞退しているのだ。もし頼朝が不満を述べるのであれば私に対してであろう。この人事については枉げて奏聞するように)

というと、経房は反論できず帰参していった(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)

 この中で経房は、法皇はすでに定長を摂政邸に派遣し、早く宣旨を下されるべきの院宣を遣わしており、この話は法皇よりもまず摂政に伝えるべきだと忠告しており、兼実は、経房の退出後、ただちに家司光長を摂政宅に派遣して、

「頼朝申送旨、経院奏了、若有被宣下事者、暫令待重院宣給哉、暗非可有御抑留、院宣之儀、只申達子細之間、片時可被相待、於宣下之後者、無由于奏聞之故也(頼朝人事案の宣下については次の院宣までしばし待つように)

と申し入れている。摂政宅から帰宅した光長は、続けて経房とともに参院して兼実の希望をつぶさに法皇に奏聞したが、法皇は、

「先例之有無不可及議、自関東恣行任官解官等、言上之条有先例事歟、此上事、万事不可及沙汰、只任彼申旨可被宣下也(もはや先例が云々という議論は意味をなさない。そもそも関東から恣に任官解官を行うこと自体、先例などないだろう。もはやすべて終わったのだ。ただ頼朝の申す旨に任せて宣下せよ)

という(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)。もはや法皇からは万事を放棄した気配すらうかがわれる。

 その後、兼実は法皇からの「於院雖承、不被許御辞退之由」の返答を聞いたが、そのままでいることもできず、自ら摂政邸に赴いたが、対面することも叶わなかった。すると、先ほど法皇から摂政に遣わされた定長が二度目の院使として摂政邸に参上している。続けて光長が院使として摂政邸に遣わされ、兼実の申し分の子細を基通に述べた。このとき基通が述べた返事は、

「此事已御定切了、此上於中、雖片時雖抑、只可有還迹也云々、今日次第如此云々(頼朝申状について法皇はすでに決定された。この上はもはや抑え難くただ随うのみだ)

というものだった。そのほか、定長が密かに告げた摂政の様子として、

「摂政披見折紙状云、此事如状不限内覧一事歟、於氏長者々、不可有相違之由已載之、爰知相違事決定在之歟、仍此事奉行宣下、猶以有恐、只自院直仰上卿、可被宣下歟云々(摂政、頼朝の折紙状を披見して、これはただ内覧のみの事ではなく氏長者の一事もあろう。頼朝申状に相違なき旨は記されているが、氏長者については例外であるとの宣下が欲しいので、法皇直々に上卿に仰せて宣旨を下されたい)

というものだった。この基通の不審に対して法皇は、

「如状云、二人内覧トコソ見タレ、不可及不審云々(申状の通りで二人内覧のみに言及しているから、不審に及ばず)

と返答した(『玉葉』寿永三年二月廿七日条)

 兼実は翌12月28日に法皇に面会すべく久方ぶりに参院する(『玉葉』寿永三年十二月廿七日条)。あらかじめ定能卿に参院の旨を伝えており、定能を通じて法皇に閲する予定であったが、あろうことか定能は遅参(と称して)して不在であった。親信卿が参院したため、彼を通じて法皇に面会の許可を得ようとするが、法皇は「隠而不出来」と居留守を使う有様であった。執拗に法皇への面会を求める兼実は「法皇愛妾号丹後、近日朝務、偏在彼唇吻」に要請するが、これも断られてしまう。ここまで法皇への対面が叶わないのは「疑有法皇之制止歟」と、さすがの純粋一徹な兼実も疑いをもっている。帰邸後に訪れた院使は「自頼朝之許所申事、一事無違乱可令致沙汰者」といい、兼実の申状はまったく無視する有様であった。その後もはっきりした勅答も得られないまま、逆鱗の気配さえも伝えられている。

 夜に入って、蔵人少輔親経が院使として兼実邸を訪れ、院宣を伝えた。その院宣は、「任官解官等事、仰摂政之處、申不可下知之由、汝慥可奉行」という。摂政基通が頼朝申状に基づく人事宣旨の執行を拒否したため、兼実に代執行を命じたものだった。基通の不執行は明らかに法皇の指図によるものであり、内覧を拒否する兼実自身に自ら内覧の任官を下知させる法皇の企てに他ならない。当然、兼実は抵抗し、

「微臣奉行之条、未得其心、若為上卿可参陣歟、然者、上表之後、未返預其表、前官之者不能奉行公事、又依執政之儀可加下知歟、於件條者、今旦参入述所思致固辞、不承分明之仰退出、未被下件宣旨以前、雑事奉行如何、縦雖被下宣旨、不見吉書以前、先例如此事不執行者也、今仰旁以無其理、若是伝言之誤歟、慥可返奏此趣者(私に宣旨を奉行せよとの条、いまだ納得していない。上卿として参陣すべしというのであれば、昨年に提出した右大臣の辞表が未だ戻されておらず、前右大臣の身で公事は行えない。それとも宣旨に見るような執政としての資格で下知すべきというのか。この件については今朝参院して固辞する旨を申し述べたが、対面叶わず退出しており不分明のままである。宣旨がないままに宣旨内容に基づいて奉行せよというのは道理に合わない。たとえ宣旨が下されたとしても、内覧就任の吉書前に執行はできない。法皇の仰せはまったく理に叶っておらず、もしや院使が伝言を間違えたのではないか。この旨を伝奏せよ)

と返答している。もはや有無を言わさぬ理攻めで法皇の要請を拒否するのであった。

 しかし、もはや法皇は「任官解官事等」について、頼朝案を呑むこと以外に考えていなかった。翌29日には兼実の申状はほぼ無視され、法皇から人事の諮問が行われたのである。

 このように、頼朝は流人として東国に移って以来、一度も上洛することなく理想の「安穏」の世を築くための「天下之草創」を妨げる人々、とりわけ法皇周辺の院近臣や「一切不被知万機」(『玉葉』文治二年七月三日条)という摂政基通や無能な公卿・官僚を排除し、兼実をはじめとする有能な人々を抜擢する人事案を朝廷に呑ませたのである。

29,兼実、望まぬ内覧に就く

 文治元(1185)年11月30日、鎌倉から「大蔵卿泰経、刑部卿頼経等、同意行家義経者也、早可被處遠流、一人伊豆、一人安房云々、可付経房之由、仰光長了」という書状が兼実のもとに届けられた。兼実はこれを光長に託して帥卿経房へ付し、経房が法皇の言葉として「任申請早可有沙汰」を返札した。そしてこの状を関東に遣わすよう光長に命じたという(『玉葉』文治元年十一月卅日条)

 兼実の抵抗もむなしく、12月28日深更、兼実への「内覧」は「被宣下」され、翌29日朝には、史頼清、大外記頼業が九条邸に「持来内覧宣旨」(『玉葉』文治元年十二月廿九日条)。ただし兼実は「聊有所思之故」を以て、この内覧宣旨を「各不披見、後自是告仰之日、可持来」と告げて受け取らなかった。この「聊有所思」とは、「明春撰日可見吉書、彼時為又有所思之故、今日所不召見也」ということだった。

 兼実はそもそも右大臣の上表が返付されないままに内覧宣旨が行われることに強く反発してきていたが、内覧の宣旨文には兼実を「本官(右大臣)」としていた。これは宣旨文を作成したときがすでに深夜であったため、頼清と頼業の相談によって記入されたものであったが、「此程沙汰、全不可為後難之由、上卿已下議定」であるという。しかし、議定にほぼ不参の兼実は議定の詳細を知らず、「余不知此事、暗被載本官了、更不能申是非、事頗雖不穏、又不及私之進退事歟」と、とくに問題視しない議定の内容に反発している