松沢国分氏

国分氏

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国分胤通(????-????)

 国分氏初代惣領。父は千葉介常胤。母は秩父重弘中娘。通称は五郎。官途は無位無官。

  国分胤通は「国分」を名字地とするように、下総国府付近の国分寺領を支配していた。文永年中(1264-75)年の『下総香取社あさめ殿遷宮用途注文』(『香取神宮文書』)に、「四面釘貫 四百五間」の所役「六十石」を請け負った国分寺本役也、仍地頭弥五郎時道女房とあるように、胤通の子弥五郎時通の女房が国分寺領の地頭職として「国分寺本役」を賦課されていたことからも明らかである。

■千葉介常胤の子たちの生没年

名前 生年 没年 没年齢
千葉介胤正 保延2(1136)年 建仁2(1202)年7月7日(『本土寺過去帳』) 67歳
相馬次郎師常 保延5(1139)年 元久2(1205)年11月15日(『吾妻鏡』) 67歳
武石三郎胤盛 ???? ???? ??歳
大須賀四郎胤信 ????
建保3(1215)年9月16日(『宝応寺過去帳』) ??歳
国分五郎胤通 ???? ???? ??歳
東六郎大夫胤頼 保元2(1157)年 建暦元(1211)年11月17日 55歳

 胤通自身は「千葉五郎」を主として名乗っており、国分寺領の地頭職を得たのちも主として千葉に居住していたと考えられる。これらは千葉介常胤の子や孫に共通している特徴で、千葉介常胤の存生中はその家父長権の影響下にあったためか、千葉名字を主とし、平家追討の勲功(治承4年10月23日の相模国府論功行賞以降)や上総介八郎広常殺害後の地頭職補任によるとみられる名字は副次的なものであったようだ。

■『吾妻鏡』治承四年十月廿三日条

着于相摸国府給、始被行勳功賞、北條殿、及信義、義定、常胤、義澄、広常、義盛、実平、盛長、宗遠、義実、親光、定綱、経高、盛綱、高綱、景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、実政、家秀、家義以下、或安堵本領、或令浴新恩、亦義澄為三浦介、行平如元可為下河邊庄司之由被仰云々、大庭三郎景親、遂以為降人、參此所、即被召預上総権介広常、長尾新五為宗召預岡崎四郎義実、同新六定景被召預義澄、河村三郎義秀被収公河村郷、被預景義、又瀧口三郎経俊召放山内庄、被召預実平、此外石橋合戦余党雖有數輩、及刑法之者、僅十之一歟云々

■胤通の称(『吾妻鏡』)

治承4(1180)年9月17日 五郎胤道 (頼朝、下総国府到着)千葉介常胤、相具子息太郎胤正、次郎師常號相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等、参会于下総国府、従軍及三百余騎也
※当時の千葉氏は東庄や大須賀保を領していないため、この記事元は鎌倉初中期の千葉家の記録か。
寿永3(1184)年2月5日 国分五郎胤道 源氏両将、到摂津国…大手大将軍者、蒲冠者範頼也、相從之輩…
千葉介常胤、相馬次郎師常、国分五郎胤道、東六郎胤頼
※この時期、相馬師常、国分胤通、東胤頼は千葉名字、長沼宗政は小山名字であり、後世史料を参考にした交名であろう。
文治3(1187)年11月5日 千葉四郎胤通 「五郎」の誤りか
文治5(1189)年8月12日 (千葉)五郎胤通 (奥州出陣)千葉介常胤、八田左衛門尉知家等、参会千葉太郎胤正、同次郎師常、同三郎胤盛、同四郎胤信、同五郎胤通、同六郎大夫胤頼、同小太郎成胤、同平次常秀、…相具于常胤知家、各渡逢隈湊参上云々
建久2(1191)年正月1日 千葉五郎胤道 (常胤埦飯)千葉介常胤、献埦飯、其儀殊刷是御昇進故
…御馬三 千葉五郎胤道
建久4(1193)年正月1日 胤道 (常胤埦飯)御参鶴岳八幡宮、還御之後有埦飯千葉介常胤沙汰
…持参御行騰千葉大夫胤頼、役沙金千葉介常胤、鷲羽次引進御馬五疋、常胤子息三人、孫子二人引之所謂、師常、胤信、胤道、胤秀等也
元久2(1205)年6月22日 国分五郎胤通 (二俣川合戦)四百人之壮士、被固御所之四面、次軍兵等進発、大手大将軍相州也、先陣葛西兵衛尉清重、後陣堺平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、相馬五郎義胤、東平太重胤也

 胤通の兄弟のうち、武石三郎胤盛千葉市花見川区武石町多部田四郎胤信千葉市若葉区多部田町はともに千葉庄内の所領が判明するが、兄の次郎師常、弟の六郎大夫胤頼は千葉庄内での所領は不明である。甥の小太郎成胤は軍記物の記述だが「加曾利冠者」(『源平闘諍録』)との記録も残る。成胤の弟・平次常秀は「境(堺)」を名字としているが、千葉庄内の「境千葉市中央区末広」などであれば可能性はあるが、名字地を上総国山辺北郡堺郷や武射北郡堺郷に求めると、治承4(1180)年9月頃には千葉庄内以外に支配地を持ったとは考えにくい千葉介常胤が、下総でもない他国に飛び地を有したとは到底考えにくい。さらに他に子息がありながら、まだ二十歳前後の孫に支配させることも通常考えられないだろう。もし、常秀が上記所領を支配したとすれば、平家追討後で13世紀初頭まで時代は下るだろう。

国府台
国府台

 頼朝が挙兵して上総に来たとき、老父・千葉介常胤は一族を挙げて頼朝を迎えに行こうとしたが、六男・千葉六郎大夫胤頼の進言によって、下総目代を討つべく、胤頼と嫡孫・千葉小太郎成胤を目代屋敷へ派遣した。当時の下総守は該当者が不明だが、平家方に属する人物であったことはわかる。目代追討直後に千田庄領家の藤原親正が千葉庄へ攻め入っている(親正は千葉氏攻めではなく、下総目代と連携して頼朝追捕のために西下総へ進軍したのだろう。当然その途次に蟠踞する千葉介常胤も親正から軍勢催促を受けていた可能性は高いだろう。しかし、この軍勢催促が結果的に親正の動きを丸裸にし、千葉氏による下総目代追捕と親正捕縛に繋がったのではなかろうか)ことから、親正と何らかの関わりのある人物が国司であったのだろう。目代屋敷はおそらく国府の近く(市川市堀之内など)にあったと思われ、治承4(1180)年9月13日、千葉勢は目代の館に火をかけ、逃れ出た目代を胤頼が討取った。

■『吾妻鏡』治承四年九月十三日条

今日、千葉介常胤、子息親類を相具して源家に参らんと欲す。ここに東六郎大夫、父に談じて云はく、当国の目代は平家の方人なり。我らが一族ことごとく境を出でて源家に参らば、定めて凶害をさしはさむべし。まづこれを誅すべきかと。常胤、早く行き向ひて追討すべきの旨下知を加ふ。よって胤頼ならびに甥小太郎成胤、郎党らを具してかの所を競ひ襲ふ。目代はもとより有勢の者なり。数十輩をして防戦せしむ。時に北風しきりに扇ぐの間、成胤家僕等を館の後ろに廻らし、火を放たしむ。家屋焼亡す。目代火難を遁れんがためにすでに防戦を忘る。この間に胤頼その首を得たり

 当時胤通が国衙の「国分寺役」を務め、屋敷も国府付近にあったのであれば、当然ながら胤通が目代館を追捕する先鋒となろう。ところが、実際に目代館を攻めたのは千葉庄から遠征してきた弟の六郎大夫胤頼と、甥の小太郎成胤であり、胤通はその名を見せることはなかった。つまり、当時の国府付近に胤通はいなかったと推定できる。

 治承4(1180)年9月17日、頼朝は下総国府に入った。このとき、常胤は子息の太郎胤正次郎師常三郎胤盛四郎胤信五郎胤通六郎胤頼と、嫡孫・小太郎成胤を伴なって頼朝の前に参上している。

■治承4(1180)年9月17日条(『吾妻鏡』)

千葉介は子息太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等を相具して下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。常胤先づ囚人千田判官代親政を召覧せしめ、次に駄餉を献ず。武衛、常胤を座右に招かしめ給ひ、須らく司馬をもって父と為すべきの由仰せらる

 養和2(1182)年8月18日、頼朝嫡男・頼家の「七夜の儀」では、千葉介常胤が奉行として一切を執り行い、常胤妻の秩父重弘娘(胤通らの母)と「子息六人」が従った。このとき胤通は弓を持って参列、幕府の庭に兄弟六人で並んだ「容儀神妙」の躰に、「諸人又壮観」であったという。

■養和2(1182)年8月18日条(『吾妻鏡』)

七夜の儀、千葉介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具して侍の上に著く。父子白水水干を装ひ、胤正の母秩父太郎重弘女をもって御前の陪膳となす。又進物あり、嫡男胤正、次男師常御甲を舁ぐ。三男胤盛、四男胤信御馬鞍を置くを引く。五男胤道御弓箭持ち、六男胤頼御剣を役し、各庭上に列す。兄弟皆容儀神妙の壮士なり。武衛、殊にこれを感ぜしめ給ふ、諸人又壮観と為す

⇒千葉介常胤  +―胤正《千葉介》
   ∥    |
   ∥――――+―師常《相馬氏》
   ∥    |
秩父太郎重弘女 +―胤盛《武石氏》
        |
        +―胤信《大須賀氏》
        |
        +―胤通《国分氏》
        |
        +―胤頼《東氏》

 五郎胤通は、頼朝に随って平家との戦いに従軍。播磨国と摂津国に進軍してきた平家勢を迎え撃つべく、寿永3(1184)年2月5日に摂津国に到着した蒲冠者範頼の大手勢に加わっている(『吾妻鏡』寿永三年二月五日条)。このときに加わった千葉一族は、千葉介常胤、相馬次郎師常、国分五郎胤道、東六郎胤頼の四名である。

■摂津侵攻の追討使(『玉葉』寿永三年二月六日条)

大手軍
【大将】
蒲冠者範頼
●五万六千余騎
小山四郎朝政 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信 下河辺庄司行平 長沼五郎宗政 千葉介常胤
佐貫四郎広綱 畠山次郎重忠 稲毛三郎重成 榛谷四郎重朝 森五郎行重 梶原平三景時
梶原源太景季 梶原平次景高 相馬次郎師常 国分五郎胤通 東六郎胤頼 中條藤次家長
海老名太郎 小野寺太郎通綱 曾我太郎祐信 庄三郎忠家 庄五郎広方 塩谷五郎惟広
庄太郎家長 秩父武者四郎行綱 安保次郎実光 中村小三郎時経 河原太郎高直 河原次郎忠家
小代八郎行平 久下次郎重光        
搦手軍
【大将】
九郎義経
●二万余騎
遠江守義定 大内右衛門尉惟義 山名三郎義範 齋院次官親能 田代冠者信綱 大河戸太郎広行
土肥次郎実平 三浦十郎義連 糟屋藤太有季 平山武者所季重 平佐古太郎為重 熊谷次郎直実
熊谷小次郎直家 小河小次郎祐義 山田太郎重澄 原三郎清益 猪俣平六則綱  

 摂津国福原に陣所を構える平家勢を、東側生田森から進む大手の蒲冠者範頼勢、西側の一之谷から進む搦手の源九郎義経勢で攻め、その結果、平家勢は潰走。多くの一門公達を喪い、主上(安徳天皇)を奉じて四国へと移っていく。その後、源氏勢のうち範頼勢は鎌倉に帰還し、この中に千葉介常胤と子息三名(師常、胤通、胤頼)もいたとみられる。そして同年8月8日、平家追討のために鎌倉を発った蒲冠者範頼勢には、千葉一族としては千葉介常胤と平次常秀の二名のみが交名に載せており(『吾妻鏡』寿永三年八月八日条)五郎胤通はその後の平家との合戦には加わっていないと考えられる。なお、常秀が兵衛尉の官途を常胤から譲られ、九州の所領を継承したとみられる理由は、常胤とともに西海へ下向したのが常秀のみであり、千葉一族としては唯一平家との合戦での勲功を受け得る立場にあったためであろう(胤正以下の子息がどういった理由で平家追討に加わらなかったのかは不明)。

■元暦元(1184)年8月8日西海派兵の将士(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)

【大将軍】 三河守範頼          
【御家人】 北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 千葉介常胤 境平次常秀 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 長沼五郎宗政 結城七郎朝光
比企藤内所朝宗 比企藤四郎能員 阿曾沼四郎広綱 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤
大多和次郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景 大河戸太郎広行 大河戸三郎 中條藤次家長
工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景 小野寺太郎道綱 一品房昌寛 土左房昌俊

  文治4(1188)年3月15日には梶原景時の宿願であった大般若経供養が鶴岡山八幡宮寺で執り行われ、頼朝も列席した。なお、このとき、武田兵衛尉有義が路次の御剣役を命じられるも渋り、頼朝の激怒を受けて逐電する騒ぎがあった。頼朝に供奉した行列として、先陣随兵八人の一人に「千葉次郎師胤(千葉次郎師常の誤記)」、御後二十二人の一人に「千葉介」、後陣随兵八人には「千葉大夫胤頼」、路次随兵三十三人には「千葉五郎(胤通)」の名が見られる(『吾妻鏡』文治四年三月十五日条)

■文治4(1188)年3月15日の将士(『吾妻鏡』文治四年三月十五日条)

先陣随兵 小山兵衛尉朝政 葛西三郎清重 河内五郎義長 里見冠者義成
千葉次郎師胤
(千葉次郎師常)
秩父三郎重清
(長野三郎重清)
下河辺庄司行平 工藤左衛門尉祐経
  源頼朝      
御後:各布衣 参河守   信濃守 越後守 上総介
駿河守 伊豆守 豊後守 関瀬修理亮
村上判官代 安房判官代 藤判官代 新田蔵人
大舎人助     千葉介              三浦介 畠山次郎
足立右馬允              八田右衛門尉 藤九郎 比企四郎
梶原刑部丞 梶原兵衛尉    
後陣随兵 佐貫大夫広綱 千葉大夫胤頼 新田四郎忠常 大井次郎実春
小山田三郎重成 梶原源太左衛門尉景季 三浦十郎義連 三浦平六義村
路次随兵
各相具郎等三人
千葉五郎 加藤太 加藤藤次 小栗十郎
八田太郎 渋谷次郎 梶原平次 橘次
曽我小太郎 安房平太 二宮太郎 高田源次
深栖四郎 小野寺太郎 武藤次 熊谷小次郎
中條右馬允 野五郎 佐野太郎 吉河次郎
狩野五郎 工藤小次郎 小野平七 河匂三郎
広田次郎 成勝寺太郎 山口太郎 夜須七郎
高木大夫 大矢中七    

 建久元(1190)年11月7日の頼朝上洛には、胤通は先陣随兵及び後陣随兵には名が見えない。父の千葉介常胤は「子息親類等為随兵」と見えることから、この随兵に見えない常胤子息の次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、六郎大夫胤頼がどのような立場にあったのかは定かではないが、11月12日の頼朝石清水八幡宮供奉交名(『吾妻鏡』建久元年十一月十二日条)では後陣随兵に「千葉次郎師胤(師常)」が見えることから、次郎師常は随兵に見えずとも上洛の一行には加わっていたのだろう。五郎胤通らほかの兄弟の名は見えず、上洛していたか留守居だったかは不明である。

■建久元(1190)年11月7日入洛勢/千葉一族のみ(『吾妻鏡』建久元年十一月七日条)

先陣随兵 五十九番 千葉新介 氏家太郎 千葉平次
後陣随兵 十九番 沼田太郎 志村三郎 臼井六郎
廿四番 浅羽五郎 臼井余一 天羽次郎
卅五番 高橋太郎 印東四郎 須田小大夫
卅八番 庁南太郎 藤九郎 成田七郎
後陣   千葉介 【以子息親類等為随兵】

 その後、しばらく胤通の名は見えないが、建久6(1195)年2月14日、頼朝が東大寺供養のため鎌倉から上洛の途に就く。「御台所男女御息等同以進発給」(『吾妻鏡』建久六年二月十四日条)とあり、御台所および頼家、大姫も同伴している。そして半月ほどの旅程を経て、3月4日夕刻、頼朝一行は六波羅亭に入御した(『吾妻鏡』建久六年三月四日条)

 3月9日、頼朝は石清水八幡宮ならびに左女牛若宮(六条若宮)の臨時祭に御参。頼家と御台所が同道し、随兵の先陣六騎のうちに兄の千葉新介胤正と、一族の葛西兵衛尉清重が並んで供奉している。頼朝は同日夜jはこのまま石清水八幡宮へ宿泊している(『吾妻鏡』建久六年三月九日条)

■建久6(1195)年3月9日石清水八幡宮寺供奉の家子郎従(『吾妻鏡』建久六年三月九日条)

先陣六騎 畠山二郎重忠 稲毛三郎重成  
千葉新介胤正 葛西兵衛尉清重  
小山左衛門尉朝政 北條五郎時連  
御乗車(網代車) 前右大将源頼朝    
檜網代車 若公(一幡、万寿)    
八葉車 御台所    
乗出車
(相具衛府二人)
左馬頭隆保 越後守頼房  
後騎 源蔵人大夫頼兼 上総介義兼 豊後守季光
後陣六騎 下河辺庄司行平 佐々木左衛門尉定綱  
結城七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季  
三浦介義澄 和田左衛門尉義盛  

 そして3月10日、頼朝の東大寺供奉には、千葉新介胤正、千葉二郎師常、千葉四郎胤信、千葉五郎胤通、千葉六郎大夫胤頼の兄弟(武石三郎胤盛は供奉しておらず、すでに亡くなっていた可能性)、孫の境平次常秀、そのほか臼井氏、印東氏、天羽氏ら一族が加わっている。

■建久6(1195)年東大寺供奉人交名/千葉一族のみ(『吾妻鏡』建久六年三月十日条)

車前随兵 臼井六郎(臼井有常) 印東四郎(印東師常) 天羽次郎(天羽直胤)
千葉二郎(千葉師常) 千葉六郎大夫(千葉胤頼) 境平二兵衛尉(境常秀)
御随兵 筑井八郎 臼井与一(臼井景常) 戸崎右馬允
千葉四郎(千葉胤信) 千葉五郎(千葉胤通) 梶原平次左衛門尉
後陣 千葉新介(千葉胤正)    

 元久2(1205)年6月22日、権力を一手に握りたい北条時政は、武蔵国の有力御家人・畠山次郎重忠を討つ計画を実行に移し、鎌倉に謀反人が出たと称して武蔵在国だった重忠のもとに遣いを送る一方で、鎌倉にいた重忠の嫡子・六郎重保には謀反人追討のために兵を出すよう命じた。重保は謀反人が誰かということを聞かされる前に、郎従三騎を率いて由比浜を駆けて行ったが、ここで北条時政の命を受けた三浦兵衛尉義村の軍勢に取り囲まれて討ち取られた。さらに時政は嫡子・北条小四郎義時に命じて重忠追討の軍勢を集めさせ、胤通は兄四郎胤信や甥とともに大手勢の後陣とされた。

 畠山重忠は少ない郎党を率いて鎌倉へ向かっていたが、途中で北条義時の軍勢と遭遇。自分が謀反人に祭り上げられていた事など思いも寄らなかった重忠であったが、正々堂々と北条義時軍と渡り合い、ついに親友の愛甲季隆の強弓によって射殺された。実は追討軍大将である北条義時自身も重忠とは親友であり、重忠の清廉潔白さを知っていた人物であり、重忠の死を知り涙を流した。義時は重忠を討った後、鎌倉へ戻ると怒りをもって父・時政の屋敷に上がり、結局、この一件が原因で北条義時・北条政子によって時政は鎌倉を追放され、伊豆北条に幽閉されることになる。

●畠山重忠追討軍(『吾妻鏡』に記された人物のみ)

大手大将軍 相模守義時  
関戸大将軍 式部丞時房 和田左衛門尉義盛    
先陣 葛西兵衛尉清重  
中軍か 足利三郎義氏 小山左衛門尉朝政 三浦兵衛尉義村 三浦九郎胤義
長沼五郎宗政 結城七郎朝光 宇都宮弥三郎頼綱 筑後左衛門尉知重
安達藤九郎右衛門尉景盛 中条藤右衛門尉家長 中条苅田平右衛門尉義季 狩野介入道
宇佐美右衛門尉祐茂 波多野小次郎忠綱 松田次郎有経 土屋弥三郎宗光
河越次郎重時 河越三郎重員 江戸太郎忠重 渋河武者所
小野寺太郎秀通 下河辺庄司行平 薗田七郎 大井兵衛次郎実春
品川三郎清実 春日部 潮田 鹿島
行方 小栗 兒玉党 横山党
金子党 村山党    
後陣 境平次兵衛尉常秀 大須賀四郎胤信 国分五郎胤通 相馬五郎義胤
東平太重胤      

●重忠追討軍に参加した千葉一族系譜

千葉介常胤―+―千葉胤正―――境常秀
      |(太郎)   (平次兵衛尉)
      |
      +―相馬師常―――相馬義胤
      |(二郎)   (五郎)
      |
      +―大須賀胤信
      |(四郎)
      |
      +―国分胤通
      |(五郎)
      |
      +―東胤頼――――東重胤
       (六郎)   (平太)

 胤通香取神領大戸庄周辺の地頭職に任じられ(鎌倉家政所からの補任か、父常胤からの譲りかは不明)、あらたに大戸庄内に相根郷付近に館を構えたと思われる。国分寺領については嫡子の弥五郎時通に譲ったのちのことか。

 胤通は当地の地頭として権力をふるい、地頭職の職権から逸脱することも度々であったようで、建永2(1207)年、香取社神主(大中臣国房ら)が、胤通の濫妨十か条を本家の「関白前左大臣家(近衞家実)政所」に訴え、10月にそれに対する『関白家政所下文』(建永二年十月「関白全左大臣家政所下文写」『旧大禰宜家文書』)が下された。

(1) 往古より神領である相根郷(香取市大根)を「地頭堀内」と号して、香取神宮からの検注使の入郷を妨害。官物(年貢)である下苧麥地子を自らのもとに留めおいた事

⇒前神主・大中臣周房のとき、地頭(胤通)は香取社をあなどって相根郷のみならず、神領内3分の2を押領、周房がこれを訴え出たが、その「御裁許」は遅れに遅れ、また神主職も国房へと替わり、いまだに地頭(胤通)による押領が続いていたため、国房は子細を領主・近衛家の政所へ言上したところ、関白家政所下文に鎌倉下文が副えられた。これをもって地頭・胤通に申付けたが、胤通はなおも承引しなかったため、国房は重ねて鎌倉に訴え、幕府から御使いが下って胤通が留め置いていた官物は香取神宮へ戻され、押領した土地も返還された。  広房は去年6月に神主職に就き、12月に相根郷に検注に入ったが、またも胤通は相根郷は「地頭堀内」であると号してこの検注を妨害し、官物を押し獲った。前神主・国房の時に政所下文・鎌倉家御遣をもって彼の押領は停止されたのに何を称しての例か。無道の至り、言語道断のことである。
(2) 神官らに圧力をかけて逃亡させ、その領していた田畠在家を押領、官物を押し取った事

⇒胤通は、神官らを責めて逃亡させ、神慮を顧みず神官を雑役に従事させるといった非法を行う上、絹・牛・馬などは一つのこらず責め取り、他国へ追い、神事が勤められず、その自由勝手な所行はかつて見たことがない。これに加えて、神官が篭居しているときは、「逃亡の跡」と号して地頭分であると主張し、田畠在家を押領、私物とした。これでは、たとえ子孫があって所領を安堵したとしても、神役を勤めがたい。
(3) 大神田・上分田が地頭(胤通)によって押領されているため、神事に用いる御供が不備である事

⇒大神田・上分田から取れる米は、年中90余回行われる神事に用いるものである。この押領のためにすでに供物の懈怠がおこっている。神事には本来3石3斗の米が必要であるにのに、今はわずかに78斗しか調達できなず、すでに有名無実となっている。
(4) 神主の衣食のための「渡田」の押領の事

⇒代々神主が耕作する「渡田」は、神主の衣食ニ事のための田であるのに、地頭の郎従が押領してこれを耕作。神主の命には一切随わず、これも極みなき行いである。
(5) 御宝殿の四面の大竹林から竹を切り取った事

⇒御宝殿の四面八町は往古からの大竹林であり、庶民がいうには香取大明神は竹一本一本に名をつけ、日に夜にこれを眺められていたといわれ、よって神林は斧の持ち込みは禁じていた。しかるに、地頭は件の大竹をほしいままに切り取ってを持ち去り、残るはわずかに10分の1となってしまった。まったく深慮を恐れぬ振る舞いである。
(6) 神主に背いて、自由に任せて神官などの座籍を定めた事

⇒神官職については、大明神以来神主の沙汰であり、重代相伝に尋ね、その器量によって選んでいる。しかし、地頭は就任料として賄賂を取り、重代の例を顧みることをせず、座籍の高下をもまったく知らず、ほしいままに補任しており、新任の輩は神慮に背くによって滅び、前任の輩はより高位を懇望して神宮に出仕をしないため、神事参勤の神官もない。
(7) 地頭による大神宮寺仏聖燈油修理料田の押領により、勤められない事

⇒大神宮寺仏聖燈油修理料田は代々の地頭は敢えて妨げを致さなかったが、当地頭は「便田」あるいは「能田」と号してほしいままに押し入って耕作し、まったく弁えることがないため、有限修理・修正・月次講演・ニ季彼岸の勤めなく、無道の至りである。
(8) 新寺観音堂の仏聖燈油修理料田の押領の事

⇒観音堂は広房の曽祖父・大中臣真平が建立したもので、それ以来代々の地頭は妨げを行わなかったが、当地頭は去々年より新寺の料田を押取したため、修正・毎月十八日の勤め・ニ季彼岸などの勤めがみな遅延している。
(9) 神宮寺・柴崎両浦田畠の押領

⇒神宮寺・柴崎の両浦は神領である。前神主の時、由縁があって両浦を地頭に預けていたが、当地頭はこの先例を称して両浦を押領し、荷揚げの米を返さず、神主の指示にも随わず、もってのほかの濫妨である。
(10) 御燈油田の田俣村を押領の事

⇒田俣村(場所不明)は往古よりの神領で、前神主・大中臣友房は田俣村を御燈油田として近衛家政所に申し立て、殿下政所下文を賜った。しかし当地頭は当村を押領したことにより、御燈油役を勤めることができない。

 香取神主の訴えは上記の内容であるが、承元3(1209)年3月17日発出の『鎌倉家政所下知状写』(承元三年三月十九日「鎌倉家政所下知状写」『旧大禰宜家文書』)によれば、

号国行事、任自由令切取件竹之条地頭胤通之所行甚以非穏便、随則於国行事者、可為神主広房沙汰之由、国司庁宣明白也、而胤通不承引之余令切取之条、可令停止之旨、同所被也下殿下政所下文也

とあり、地頭胤通「国行事」と称して勝手に香取社宝殿四方八町の大竹林から竹を切り取っていることは甚だ穏便でない所行であるとし、国行事は神主・大中臣広房の沙汰であることは「国司庁宣」によってすでに明白であると幕府からもその濫妨を停止するよう命じられた。国行事には「国司庁宣」にも記されているように、国司から指示され、下総一ノ宮である香取社の神行事に関する権限を有していたと思われる。このように胤通の神領に対する押領・濫妨行為は、幕府の権威を後ろ盾とした地頭の特徴であろうと思われ、「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれた情景が浮かんでくる。

 惣領は孫である時通へ継承されたようで、嫡子・国分二郎常通へ家督が譲られたものの、常通が早くに亡くなってしまったため、いったん胤通が家督を受け戻したのち、時通へ譲られたのかもしれない。

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国分時通(????-????)

 国分氏惣領二代。父は国分小次郎常通(国分五郎胤通嫡子)。母は不明。通称は弥五郎。官途は無位無官。「時」はおそらく北条泰時からの偏諱と思われる。

 具体的な活動は見られないが、「胤通跡惣領」とあることや、文永年中(1264-75)年の『下総香取社あさめ殿遷宮用途注文』(『香取神宮文書』)に、「四面釘貫四百五間」の所役「六十石」を請け負った「国分寺本役也、仍地頭弥五郎時道女房と見えることから、時通は国分氏の本貫である国分寺領を支配していたことが推測される。しかし、このときまでに時通は卒しており、妻が国分寺領の地頭職を務めていたことがわかる。

●『千葉大系図』

⇒国分胤通―+―常通―――――+―常朝
(五郎)  |(二郎左衛門尉)|(小次郎入道)
      |        |
      |        +―■■
      |        |(国分弥五郎)
      |        |
      |        +―女
      |         (国分尼、胤通継惣領)
      |
      +―大戸親胤―――――時通
       (四郎太夫)   (国分寺本主)

●『千葉氏系図』(『香取田所家文書』)

 国分五郎    同二郎  同小二郎入道  
⇒胤通―――+―常通―+――常朝
      |    |
      |    | 国分尼
      | 親胤 +――女子
      |   時通 胤通跡惣領
      | 

●『神代本千葉系図』

⇒国分胤通―+―常通―――――+―時通
(五郎)  |(小次郎)   |
      |        |
      +―近胤     +―常朝
       (四郎大夫)   (小太郎)

 ところで、時通の出自には系譜上疑義が見られる。

 まず『千葉大系図』をみると、時通は大戸四郎太夫親胤の子で「国分寺本主」とされる。また、常通の子に実名不明の「弥五郎」が記されている。そして、国分尼「胤通継惣領」とされる。つまり、時通が常通の養子となり、国分尼を妻として惣領職を継承したという形に取れる。また、千葉氏系譜の古体を保つとされる『神代本千葉系図』においては、常通の子として通称無しの「時通」が見られる。おそらく千葉氏の原系譜は罫線の引きが『香取田所家文書』『千葉氏系図』のようにあいまいで時通は通称が付記されていなかったのだろう。

 そして、時通を親胤の脇に記し「胤通跡惣領」とする『香取田所家文書』『千葉氏系図』は、最も新しい人物が鎌倉時代後期の人物である事から、小城千葉氏に伝えられた『神代本千葉系図』のもととなった原系譜と同様、古系図の一つと思われる。『千葉氏系図』はこれらの文書を継ぎ接ぎした上に誤記を重ねている。

 国分氏は、相馬家・武石家・大須賀家・東家とならぶ有力庶子だが、彼らの名は『吾妻鏡』に頻繁に現われるのに対して、国分氏は国分五郎胤通国分二郎胤重、国分彦五郎しか見えない。胤通の死後、その勢力を減退させてしまったことが大きな原因か。

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国分重常(????-????)

 国分氏惣領三代(大戸国分氏三代)。父は国分小次郎常朝。母は不明。通称は太郎

 二代惣領で大叔父・国分弥五郎時通の跡を継いで国分氏三代惣領となったとみられる。

 重常は初代惣領・国分五郎胤通から香取郡大戸庄の多くを継承した国分二郎常通を祖とする大戸国分氏の系統で、寛元元(1243)年の『香取社造営役注文写』(『香取神宮文書』)に見える香取社造営の所役で「大戸庄 国分小次郎跡」とあるように(『香取神宮文書』)、おそらく弟・孫次郎朝胤とともに父・「国分小次郎跡」を務めたと思われる。また「国分尼」と呼ばれる叔母がいたが、いかなる人物かは不明。

 『千葉大系図』によれば、仁治2(1241)年、千葉亀若丸(千葉介頼胤)が三歳で家督を継いだとき、国分又太郎胤長ら千葉一族とともに後見人を勤めたとされるが、不明。

 正嘉2(1258)年3月1日、将軍家の二所詣の行列後陣随兵十二人の一人に「国分五郎跡 国分彦五郎」が見える。「国分五郎」の諸役跡を「国分彦五郎」が差配していることから、もしこの「国分五郎」が胤通のことであれば、国分彦五郎は惣領的立場にあった人物と考えられるが、同時代の「国分彦五郎」は、国分胤通の子・国分小五郎有通の孫である国分彦五郎朝通のみであることから、国分小五郎有通跡か。

●『香取文書』内千葉系図断簡

 国分五郎   同二郎      同小二郎入道    同太郎
⇒胤通―――+―常通――――+――常朝―――――+―重常
      |       |         |
      | 同四郎   |         | 松沢同孫次郎  同孫四郎
      |   大夫  | 国分尼     | 朝胤      朝俊
      | 親胤    +――女子     +――+
      |   時通 胤通跡惣領         |      同弥次郎
      |                    |      光胤
      | 同小五郎 桜田同太郎         |
      | 有通―+―信胤            |      同孫五郎
      |    |               |      泰朝
      |    | 同二郎           |
      |    +―有氏            |      同孫六
      |     桜田同孫五郎         +――――――胤継

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国分胤重(????-????)

 国分氏惣領四代(大戸国分氏四代)。父は国分太郎重常。通称は余五郎。法名は蓮性

 胤重の具体的な活動を文書等で見ることはできないが、「余五郎胤重」については、嘉暦2(1327)年12月16日『関東下知状』に記されている「余五郎胤重法師法名蓮性が該当する。

 胤重は元亨4(1324)年正月29日に東六郎盛義から田一町を購入し、同年安堵を受けている。このころ盛義は罪科によって所領の三分の一を収公されており、それに関わるものだろう。

 胤重の子として、彦五郎胤連頼覚が見え、胤連の子に五郎胤雄が見えるが(『徳嶋本千葉系図』)、その後は不明。

 『千葉大系図』では、通称が「二郎左衛門尉」となっているが、これは『吾妻鏡』の建長3(1251)年正月22日の将軍・宗尊親王の二所参詣に際して、後陣の隨兵に見える国分二郎胤重『千葉大系図』の編纂者が、同じ「胤重」という諱を持っていた「余五郎胤重」と間違えて系譜に記載したものであり、『吾妻鏡』に見える「国分二郎胤重」と「国分余五郎胤重」は全くの別人である。『神代本千葉系図』『松羅館本千葉系図』『徳嶋本千葉系図』では、重常の子・胤重の仮名は「二郎」ではなく「余五郎」である。

●二所詣供奉隨兵(『吾妻鏡』建長三年正月二十日条)

先行 葛西七郎時重 野本二郎行時 佐貫七郎広経 江戸八郎 佐野八郎清綱
山上彌四郎秀盛 肥前太郎資光 佐貫次郎太郎泰経 豊嶋平六経泰 山田四郎通重
千葉七郎次郎行胤 東四郎義行      
御輿 藤原頼嗣
輿側 三村新左衛門尉時親 肥後四郎兵衛尉行定 式部八郎兵衛尉 内藤豊後三郎 武藤二郎兵衛尉頼泰
藤倉三郎盛義 梶原右衛門三郎景氏 小野澤二郎時仲 渋谷二郎太郎武重 山城次郎兵衛尉信忠
平右近太郎 土屋新三郎光時 摂津新左衛門尉 兼仗太郎 平井八郎清頼
御後 尾張少将 中御門少将 武蔵守 相模右近大夫将監 陸奥掃部助
相模式部大夫 北条六郎 越後五郎 遠江六郎 武藤四郎
相模八郎 相模三郎太郎 足利三郎 新田三河前司 内蔵権頭
遠山前大蔵少輔 大隅前司 内藤肥後前司 伊賀前司 伊勢前司
上野弥四郎右衛門尉 上野三郎兵衛尉 大曾禰次郎左衛門尉 遠江二郎左衛門尉 梶原右衛門尉
和泉五郎左衛門尉 出雲五郎右衛門尉 波多野小次郎 信濃四郎左衛門尉 筑前次郎左衛門尉
武藤左衛門尉 和泉次郎左衛門尉 出羽三郎 出羽四郎左衛門尉 山内藤内左衛門尉
隠岐三郎左衛門尉 阿曽沼小次郎 紀伊次郎右衛門尉 鎌田次郎兵衛尉 近江大夫判官
後陣隨兵 阿曽沼四郎次綱 木村六郎秀親 清久彌次郎秀胤 高柳四郎三郎行忠 国分二郎胤重
椎名六郎胤継 小栗弥次郎朝重 善右衛門次郎康有 真壁小次郎 麻生太郎親幹
長江七郎景朝 足立左衛門三郎元氏      

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国分胤連(????-????)

 国分氏惣領五代(大戸国分氏五代)。父は国分余五郎胤重。通称は彦五郎

 胤連の跡は五郎胤雄が継いだとみられるが、具体的活動は不明。

○千葉一族の活躍時期上記表の人物は色文字

千葉介常重―+―千葉介常胤―+―千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤――千葉介頼胤
      |       |       | (1155-1218) (1218-1241) (1239-1275)
      |       |       |
      |       |       +―千葉常秀―――千葉秀胤―――千葉時秀
      |       |       |(平次)   (上総権介) (式部大夫)
      |       |       |        1247年自刃  1247年自刃
      |       |       |
      |       |       +―千葉師胤―――千葉行胤
      |       |        (七郎)   (七郎二郎)
      |       |                ⇒1251年
      |       |
      |       +―国分胤通――+―国分常通―――国分常朝―――国分重常―――国分胤重
      |       |(五郎)   |(二郎)   (小次郎)  (小次郎太郎)(余五郎)
      |       |       |                      ⇒1327年
      |       |       +―国分時通
      |       |       |(弥五郎)
      |       |       |
      |       |       +―国分常義―+―国分常氏
      |       |        (六郎)  |(六郎二郎)
      |       |              | ⇒1251年所領没収
      |       |              |
      |       |              +―国分胤実―――国分胤長―――国分泰胤―――国分胤氏
      |       |               (六郎太郎) (又太郎)  (彦次郎)  (遠江守)
      |       |                                     ⇒1364年既出家
      |       |                
      |       +―東胤頼―――+―東重胤――+―東胤行
      |        (六郎)   |(平太)  |(中務)
      |               |      | ⇒1218年、1247年
      |               |      |
      |               |      +―東義行――――東盛義
      |               |      |(四郎)   (六郎)
      |               |      | ⇒1251年   ⇒1303年、1329年
      |               |      | 
      |               |      +―海上胤方―――海上胤景
      |               |       (二郎)   (孫次郎)
      |               |        ⇒1252年   ⇒1263年
      |               |
      |               +―木内胤朝―――木内胤時―――小見胤直
      |                (二郎)   (四郎)   (弥四郎)
      |       
      +―椎名胤光――――野手胤茂――――松山胤平―――松山胤澄―――松山胤村―――松山胤継
       (六郎)    (太郎)    (三郎)   (小次郎)  (小次郎太郎)(又太郎)

-松澤国分氏-

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国分朝胤(????-????)

 松澤国分氏惣領。父は国分二郎常通。母は不明。通称は孫次郎。官途は不明。

 諸系図には朝胤は「松澤」を称していることが記されており、大戸庄の南・松沢庄(香取郡干潟町)へ移っていったと考えられ、子孫は「松澤惣領」となった。国分氏は大戸庄矢作村を本拠地とした国分氏の流れもあるが、こちらは「矢作惣領」と記されていることから、国分氏は鎌倉時代初期に大きく二つの流れに分裂していたと思われる。朝胤の子孫は松沢関戸賦馬(府馬)などを称した。

 朝胤自信も「賦馬」を称していたともされ、朝胤が大戸庄から松沢庄に移った際、賦馬郷(香取郡山田町府馬)に屋敷を持ったのだろう。その嫡流が賦馬(府馬)氏になったと考えられる。

 朝胤は母のために鎌倉の寿福寺から蔵叟朗誉を招いて、彼を開山として大洞山光福寺(佐原市瑞穂)を建立した。この寺には後醍醐天皇の綸旨が伝わっている(鈴木佐『千葉日報』平成11年1月20日「千葉氏探訪」)

○国分氏の系譜■:松澤惣領■:矢作惣領

 国分胤通―+―国分時通                 +―国分胤連――――国分胤雄
(五郎)  |(弥五郎)                 |(彦五郎)   (五郎)
      |                      |
      +―国分常通――――国分常朝――+―国分重常―+―国分胤重――+―頼覚
      |(二郎)    (小次郎)  |(太郎)   (与五郎)  |
      |               |              |
      +―国分近通          |              +―道光――――三位――――――長元
      |(四郎大夫)         |               (小五郎)         (式部)
      |               |
      |               |              +―国分胤時
      |               |              |(弥五郎)
      |               |              |
      |               +―国分朝胤―+―国分朝俊――+―関戸朝綱――――朝貞―――――賢鑑
      |                (孫次郎) |(孫四郎)  |(五郎左衛門尉)(左京亮入道)
      |                      |       |
      |                      |       +―国分余五
      |                      |
      |                      +―国分光胤――――国分胤秀
      |                      |(弥次郎)   (又五郎)
      |                      |
      |                      +―国分胤盛
      |                      |(孫五郎)
      |                      |
      |                      +―国分泰朝
      |                      |(弥五郎)
      |                      |
      |                      +―国分胤継――――国分胤員
      |                       (六郎)    (小五郎)
      |
      +―国分有通――+―国分信胤
      |(五郎)   |(太郎)
      |       |
      |       +―国分有氏
      |       |(次郎)
      |       |
      |       +―国分師康――――国分朝通
      |        (孫五郎)   (彦五郎)
      |
      +―矢作常義――+―国分胤真――+―国分胤長―――国分泰胤――――国分胤氏
       (六郎)   |(六郎太郎) |(又六郎)  (彦次郎)   (遠江守)
              |       |
              +―国分乗常  +―国分幹胤
              |(弥五郎)   (弥六郎)
              |
              +―国分常氏
              |(六郎次郎)
              |
              +―国分行常―――+―国分七郎
               (六郎五郎)  |
                       |
                       +―国分大覚

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国分朝俊(????-????)

 松澤国分氏二代惣領。父は国分孫次郎朝胤。通称は孫四郎。官途は不明。朝俊の具体的な活動は不明。

 嘉暦2(1327)年12月16日の『関東下知状』(『金沢文庫文書』)のなかに、朝俊の弟・国分弥五郎泰朝の名が見える。彼が「永代沽却」した「当郷内」がどの土地かは不明だが、元徳2(1330)年閏6月24日の元徳2(1330)年閏6月24日『関東下知状』によれば、一番引付頭人・北条茂時(右馬権頭)から千葉介貞胤へ宛てられた『関東御教書』では、盛義の所領のうち「東庄上代郷」の事についての注進があり、そこに「国分孫五郎泰朝分湖」の事が記載されている。また、嘉暦2(1327)年12月16日『関東下知状』の文章の中ほどにある「雖被許容、於三分壱者、為盛義■■■■分付于寺家」という言葉から、東六郎盛義の知行地で、罪によって三分の一を収公され、金沢称名寺領とされた「上代郷」のことであろうと思われる。

「盛義沽券二通内文保■■■■」のなかの「文保」とは、おそらく文保2(1318)年、富部近江権守を引付奉行人とした盛義の所領収公のことと推測され、以降、東盛義は元応元(1319)年、正中元(1324)年と三度にわたって所領没収の憂き目を見ている。

 東庄上代郷は松沢庄と隣接しており、嘉暦2(1327)年12月16日『関東下知状』の文面によれば国分弥五郎泰朝国分余五郎胤重入道は東庄上代郷内に知行地があったと推測することができる。

 国分常通――――国分常朝―+―国分重常――――胤重――――胤連――――――胤雄
(二郎)    (小次郎) |(小次郎太郎) (余五郎) (彦五郎)   (五郎)
              |             
              |             +―胤時
              |             |(弥五郎)
              |             |
              +―松澤朝胤――+―朝俊――+―関戸朝綱――――朝貞―――――賢鑑
               (孫次郎)  |(孫四郎)|(五郎左衛門尉)(左京亮入道)
                      |     |
                      |     +―余五
                      |
                      +―光胤――――胤秀
                      |(弥次郎) (又五郎)
                      |
                      +―胤盛
                      |(孫五郎)
                      |
                      +―泰朝
                      |(弥五郎)
                      |
                      +―胤継――――胤員
                       (六郎)  (小五郎)

 元応2(1320)年3月28日、幕府の役人・伊豫守某が香取神主「大中臣實秋」からの訴えに基づいた文書を「千葉新左衛門尉(千葉新左衛門尉胤高)」へ伝えた元応2(1320)年3月28日『伊豫守某奉書』があるが、この中で某年の祭神物を納入しなかった人物として「国分彦五郎」などが記されている。この「国分彦五郎」は、余五郎胤重入道蓮性の子・胤連(彦五郎、法名宗常)かもしれない。

●国分彦五郎略系譜

⇒国分胤通―――+―常通――――――常朝―――――重常――――+―胤重――――+―胤連―――――胤雄
(五郎左衛門尉)|(二郎左衛門尉)(小次郎)  (小次郎太郎)|(余五郎)  |(彦五郎)  (五郎)
        |                      |       |       
        |                      |       +―頼寛    
        |                      |        (大進房浄一)
        |                      |
        |                      +―道光――――+―理法
        |                       (出家)   |       
        |                              |
        +―有通――――――村田師泰―――朝通――――――盛村    +―事法
        |(小五郎)   (孫五郎)  (彦五郎)   (小五郎)
        |
        +―常義――――+―胤実―――――胤長――――――泰胤――――――胤氏
         (六郎)   |(六郎太郎) (又太郎)   (彦次郎)   (彦六郎)
                |
                +―山辺常氏…建長3(1251)年、将軍・頼経に荷担して所領を没収される
                |(六郎次郎左衛門尉)
                |
                +―胤義―――――定胤――――――長胤
                |(平太)   (平太六郎)  (又六郎)
                |
                +―行常―――――行泰――――――■■――――――亀王丸―――竹王丸
                 (六郎)   (五郎七郎)  (七郎五郎)  (彦五郎
                         ⇒常泰カ?

●元応2(1320)年3月28日『伊予守某奉書』

 香取神主實秋申■■元年祭神物事、重申状如此、千葉弥次郎国分彦五郎多田又四郎
 同弥九郎女子、不応召符之間、先度雖仰下、無音云々、不日加催促、可被申左右之状、
 依仰執達如件、
 
   元応二年三月廿八日     伊豫守(花押)
 
     千葉新左衛門尉殿
 

嘉暦2(1327)年12月16日『関東下知状』(『鎌倉遺文』:『金沢文庫』所収)

 …
 弥五郎泰朝当郷内永代沽却田八段、■■■■
 段野湖事、任盛義元亨四年六月■■■■
 両通沽券正中二年十月二日被成下知■■■
 余五郎胤重法師法名蓮性、買地田壱町■■■■
 盛義元亨四年正月廿九日沽券同年■■■■
 安堵云々者、以前四人所進安堵御下文、御下文■■■■
 後状之間、雖被許容、於三分壱者、為盛義■■■■
 分付于寺家、次山鹿二郎時家子息昌■■■■
 買得田、在家事、盛義沽券二通内文保■■■■
 段沽却之間、正中三年五月■日被成下知■■■■
 後、子細同前者、依鎌倉殿仰、下知如件、

   嘉暦二年十二月十六日
 
            相模守(赤橋相模守守時)

●元徳2(1330)年閏6月24日『関東御教書』(『金沢文庫文書』)

 金澤称名寺雑掌光信申、東六郎盛義所領三分一内下総国東庄上代郷田畠在家以下條々

 一 村田尼願性知行分事

 一 木内土用寿丸分事
  注進状披露畢、願性分者、寺家買得之由雖称之、不実之由令申之上、■帯盛義罪科以後
  証状等之間、守先御下知等、不日可被分付也
 
 一 隠田増田事
  就注進状請文其沙汰了、尼妙如分者、相分之旨、雖載注進状未渡云々国分孫五郎泰朝
  湖事
、以春長新田前谷、為被湖替請取之旨、同雖載之、雑掌所論申也、且武蔵松寿丸
  息津九郎左衛門入道圓心秋元四郎左衛門入道後家性善■雖申子細、先日所進之目六分明
  也、而以同篇注進之條、為訴人披露之上、甚以無其謂、任先度被仰下之旨、可沙汰付、
  又豊田孫太郎後家木内孫九郎事、縦雖不出対、同可被分付、次千代若分同前矣、
 
 以前條々、重莅被所、早速遂其節、可被申左右、使節若令緩怠者、可有罪科之状、
 依仰執達如件、
 
   元徳二年閏六月廿四日     右馬権頭(花押)
 
    千葉介殿
 

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国分胤時(????-????)

 松澤国分氏三代惣領。父は国分孫四郎朝俊。通称は孫五郎。官途は不明。

 祖父・孫次郎朝胤と同様に、胤時も賦馬」を称していたとされ、賦馬郷(香取市府馬字茶畑)に屋敷を持っていたと考えられる。正中2(1325)年、胤時府馬の愛宕神社改修に名を見せており、鎌倉末期の松澤国分氏の惣領であったことがわかる。

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国分時常(????-????)

 松澤国分氏惣領。通称は越前五郎。官途は不明。時常は府馬氏の当主であるが、胤時とどのような関係にあるかは不明。通称の「越前五郎」は「国分越前」の五男を意味していると考えられ、父は「国分越前」という人物だろう。

 応安7(1374)年8月9日、鎌倉府は千葉介満胤の香取神領押領に関して、千葉一族の有力者(一族一揆)十二名に宛てて、早く一族を催してこれを退けるよう命じている『鎌倉府執事奉書』。この中には国分一族が四名(国分三河入道、国分六郎兵衛入道、国分越前五郎、国分与一)の名を見ることができるが、このうち「国分越前五郎」府馬時常であろうと考えられる。

応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、
 早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、
   応安七年八月九日     沙弥(在判)

    木内七郎兵衛入道殿

※大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、国分六郎兵衛入道、
 国分越前五郎
、国分与一、東次郎左衛門尉、木内七郎左衛門入道、野崎左衛門五郎、
 那智左衛門蔵人入道に同文書

 国分孫五郎胤時は正中2(1325)年に愛宕神社の改修をし、その50年後の応安7(1375)年に国分時常が一族一揆に荷担しているところをみると、時常は胤時の孫世代にあたる。しかし、胤時の孫は「頼忠」のみで、時常はその四代後裔として記載されている。

『千葉大系図』

⇒朝俊――+―胤時――――――胤平――――+―頼忠―――胤頼――満頼―――直頼――+―将頼
(孫四郎)|(弥五郎)   (童名鶴金丸)|(下野守)(五郎)(上野介)(五郎) |(四郎)
     |               ?                   |
     |               +―賦馬時常              +―賦馬時常
     |                (越前五郎)              (越前五郎)
     |
     +―朝綱――――――朝貞――――――賢鑑   
      (五郎左衛門尉)(左京亮入道)       

『松羅館本千葉系図』

⇒朝俊――+―弥五郎―――――鶴金丸
(孫四郎)|
     +―朝綱
      (弥五郎)

 頼忠以降の松澤国分氏は、それまで諱に代々用いられてきた「常」「胤」「朝」という字が見られず、「頼」が用いられるようになっており、胤平までの国分氏とは一線を画しているように見える。頼忠の孫「直頼」、その子「将頼」はそれぞれ千葉介胤直千葉新介胤将の偏諱を受けているであろうことが推測され、国分直頼・将頼のあとが見られないのは、千葉介胤直千葉介胤宣(胤将の弟)が馬加康胤によって討たれたことに関係していると考えられる。

 「下野守頼忠」は、「頼」という字を用いる国分氏から養子に入ったのかもしれない。「頼」を通字とする国分氏は、村田国分氏の村田孫五郎師泰の子孫にある。正中2(1325)年、大戸庄興徳院(大栄町堀籠)への寄進状には「妙心」「平氏女」「平胤朝」「平胤頼」「平師胤」「平胤近」の六人が名を連ねているが、彼らは村田国分氏の面々と考えられ、同じく正中2(1325)年、松沢国分氏の「国分胤時」が愛宕社改修を行っており、同時代の人物とわかる。

⇒国分胤通―+―国分常通――――国分常朝―――松澤朝胤―――――朝俊―――胤時―――胤平―忠―――胤――満―――直――将
(五郎)  |(二郎)    (小次郎)  (孫次郎)    (孫四郎)(弥五郎)   (下野守)(五郎)(上野介)(五郎)(四郎)
      |
      +―有通――――――村田師泰―+―胤幹     +―胤朝
       (小五郎)   (孫五郎) |(六郎・妙心?)|(孫五郎)
                     |  ∥     |
                     |  ∥―――――+―胤
                     |  ∥     |(孫六郎)
                     | 平氏女    |
                     |        +―乙若丸[=平師胤]
                     |        |
                     |        +―千代若丸[=平胤近]
                     |
                     +―泰―――――+―
                      (七郎)    |(十郎)
                              |
                              +―胤
                               (孫七郎)

 ここで時常に話を戻すと、国分越前五郎時常『千葉大系図』によれば、国分五郎直頼の子という事になっているが、時常は応安7(1375)年8月9日の『鎌倉府執事奉書』に記載があり、時代的に大きな矛盾がある。直頼あたりから千葉介の偏諱を受けていると考えられることから、もし『千葉大系図』の通りであるとすると、時常は嘉吉年間頃(1440頃)の人物ということとなり、七十年以上も活躍時期がずれていることになる。

●松沢・千葉介関係図=満胤後見人、■=想像)

[同世代の千葉介]                          [1291-1351][1337-1365][1360-1426]
 千葉介成胤――胤綱―――――時胤――――頼胤―――胤宗――――――貞胤―――氏胤―――満胤―――兼胤――――胤――――胤

⇒+―常通―――常朝―――――松沢朝胤――朝俊―――胤時――――――胤平―+―忠―――胤―――満――――――+―
 |(小次郎)(小次郎太郎)(孫次郎) (孫四郎)(孫五郎)       |(下野守)(五郎) (上野介) (五郎) |(四郎)
 |                                   ?                     |
 |                  【1325年】          +―賦馬時常===============⇒+―賦馬時常
 +―有通―――師泰―――――胤幹――――胤朝               (越前五郎)                (越前五郎)
 |(小五郎)(孫五郎)  (六郎)  (孫五郎)
 |
 +―常義―+―胤実―――――――――――胤長―――泰胤――――+―胤氏―――胤詮
  (六郎)|(六郎太郎)       (又六郎)(彦次郎)  |(遠江守)(三河守)
      |              ∥          |
      |              ∥   【1363】 +―胤任
      |              ∥――――大戸河胤村 |(小六郎)
      |              ∥   (彦次郎)  |
      +―胤義―――――定胤――――女          +―氏胤
       (平太)   (平太六郎)             (与一)

 正中2(1325)年に愛宕神社の改修をした国分胤時の孫世代である応安7(1375)年に「国分越前五郎」が見えるということは、越前五郎時常の父は胤平に相当するか。時常のその後は不明。

 時常の孫とされる府馬左衛門尉時持は千葉介に反発して里見氏と結んでおり、永禄8(1565)年9月18日、正木時忠(里見家家老)とともに木内右馬助胤章を米野井城(香取市米野井)に攻めて討ち取ったとされる。しかし、越前五郎時常が千葉介満胤の幼少時の後見人であったとするならば、両者には約二百年の開きがあるため、永禄8(1565)年にその孫が生きているとは考えにくく、時持は時常の子孫ということになろう。

 「府馬右衛門尉」という人物が、永禄8年以降の2月16日の『千葉介胤富黒印状』に載っているが、永禄8(1565)年9月に正木時忠と結んだという府馬左衛門尉時持との関係は不明。府馬右衛門尉は「三谷弥次郎」とともに八十内藤六郎の寄騎として加わっており、下総と上総の国境付近を領していた三谷氏と何らかの関係があったと推測できる。『千葉介胤富黒印状』の主だった将七名はいずれも東総の豪族で、その寄騎はいずれも千葉介の直臣の名字が多く、府馬右衛門尉も千葉介胤富の直臣であったと考えられる。

某年2月26日『千葉介胤富黒印状』(『原文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 
   初番衆
こはた
  原大炊助代
こはた
  八十内藤六郎 府馬右衛門尉
三や弥次郎(三谷弥次郎)
こはた
   石毛新五郎 かふら木はやと(鏑木隼人)
あハの四郎兵衛(粟野四郎兵衛)
こはた
   野平掃部允 同甚五郎(野平甚五郎)
藤代ぬいの太郎(藤代縫殿太郎)
かいほうけん三郎(海保源三郎)
こはた
   上代与七郎代 いほり清九郎(庵?清九郎)
したら太郎五郎(設楽太郎五郎)
こはた
   押田権四郎代 山なし孫八郎(山無孫八郎)
宮内右京亮
久方二郎ゑもん(久方二郎右衛門)
同ひやうこ助(押田兵庫助)
こはた
   みの房代 いほり小七郎(庵?小七郎)
おかの■郎(岡野■郎)


 右此七騎、きたる廿五日に、いつものことく半途まて罷立、廿六日ニ当地へうちつき申へく候、をのをの代くわんの事、能々申付へく候、もし見くるしき代くわんニ候者、これにて、御手もとより、仰付られへく候、さやうに候者、いよいよ造作いたすへく候、みの房代官にハ、ゆハせ十郎さへもんをたて申へく候、かならすかならす、かのものをあひたて申へく候、こん四郎代官之事ハ、もとより御存なされ候、与七郎代官之事、よくよくしらへさせられへき分ニ候間、たしかに申付へく候、仍如件、
 
   大和守にさしそひ候て、
   円城寺又二郎しらへ申へく候、
 
 (鶴丸黒印) 二月十六日
             奉之
 
   石毛大和入道殿

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-村田国分氏-

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国分有通(????-????)

 村田国分氏初代当主。父は国分五郎左衛門尉胤通。通称は小五郎。官途は不明。

村田国分氏
村田国分氏の所領

 父・胤通から香取郡大戸庄村田村(香取郡大栄町村田)を譲られ、その地を中心とした地域を支配したと考えられる。系譜には「横山桜田祖」とあることから、香取郡大須賀保横山村(香取郡大栄町横山)・桜田村(香取郡大栄町桜田)をも領していたと考えられる。

 正中2(1325)年、興徳院(大栄町堀籠)への寄進状には「妙心」「平氏女」「平胤朝」「平胤頼」「平師胤」「平胤近」の六人が名を連ねている。『千葉大系図』には、国分小五郎有通の曾孫に「胤朝(孫五郎)」「胤頼(孫六郎)」「乙若丸」「千代若丸」の四人が記され、興徳院寄進状にみえる「平胤朝」「平胤頼」は彼らと思われる。

 ただ、「平師胤」「平胤近」については系譜上に記載がなく不明だが、系譜上の「乙若丸」「千代若丸」に相当するのかもしれない。「平氏女」は胤朝・胤頼らよりも前に書かれていることから、姉、もしくは胤朝ら兄弟の母で、「妙心」の妻であったかもしれない。

 こののちの村田流国分氏の流れは伝わっておらず、妙心らの興徳院寄進から40年ほど過ぎた貞治2(1363)年11月18日、興徳院へ「大戸河孫四郎(平胤村)」「平衛門五郎(平貞義)」の両人が「村田郷内堀籠村内国分五郎衛門尉跡」を寄進しており、大戸川国分氏は「国分五郎衛門の知行地を継承していたと考えられる。この「国分五郎衛門尉」が誰なのか不明だが、「五郎」を通称のなかに用いる傾向にあった村田国分氏のこと、もしくは「国分五郎左衛門尉胤通」のことかもしれない。

 国分小五郎有通「横山桜田祖」と系譜にあるが、横山・桜田村も大須賀川を挟んで大須賀氏の所領に隣接しており、特に横山村は谷津一つを隔てた山向こうには大須賀氏の本拠地・松子城があって、助崎城から移ってきた大須賀氏の影響を受けていたと思われる。

 応永33(1426)年8月の『寺領注進状案』(『大慈恩寺文書』)の中に、「下総国大須賀保内大慈恩寺当知行領」として「横山村内」とあり、横山村内には大須賀氏が関わる土地があったことがうかがえる。

●村田国分氏略系図(胤幹の項は想像)

⇒国分胤通―――有通――――+―村田信胤  +―朝通―――――+―盛村
(五郎)   (小五郎)  |(五郎太郎) |(彦五郎)   |(小五郎)
              |       |        |
              +―村田師泰――+        +―小六郎
               (孫五郎)  |        |
                      |        +―又五郎
                      |        |
                      |        +―宗通
                      |         (彦六郎)
                      |      
                      +―胤幹     +―胤朝
                      |(六郎・妙心?)|(孫五郎)
                      |  ∥     |
                      |  ∥―――――+―胤頼
                      |  ∥     |(孫六郎)
                      | 平氏女    |
                      |        +―乙若丸[=平師胤
                      |        |
                      |        +―千代若丸[=平胤近
                      |
                      +―頼泰―――――+―胤通
                       (七郎)    |(十郎)
                               |
                               +―胤頼
                                (孫七郎)

 建武3(1336)年、興徳院(大栄町堀籠)に堀籠村内の土地を寄進した「平朝胤」があり、彼は国分孫次郎朝胤という説があるが、時代的に異なっており別人と考えられる。

●大戸河国分氏略系図(一部想像)

⇒国分胤通――常義―――+―胤実―――――胤長――――――国分泰胤―――――――胤氏
(五郎)  (六郎)  |(六郎太郎) (又太郎入道) (彦次郎・矢作惣領) (遠江守)
            |
            +―山辺常氏
            |(矢作六郎次郎左衛門尉)
            |                          [就外戚所領]
            +―大戸河胤義――定胤――――――長胤―――――――――大戸河胤村―――+―幹胤
             (平太)   (平太六郎)  (又六郎・法号了性) (彦次郎・春秋) |(太郎)
                                                |
                                                +―胤幹――御房丸

        

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