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【一】上総氏について |
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか |
【三】頼朝の挙兵と上総平氏 |
平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
(????~????)
千葉太夫常長の五男。通称は五郎。官位は不明。官職は上総権介。はじめ下総国相馬郡に住んだため「相馬五郎」を称したと思われる。
常晴が相馬郡に居住したのは、父・千葉太夫常長が相伝私領・相馬郡に派遣されたことにはじまるか。「自国人平常晴今常澄父也」(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』:『鏑矢伊勢宮方記』)とあり、常晴は下総国の住人であったことがわかる。兄弟の白井次郎常親・大須賀八郎大夫常継もそれぞれ下総国香取郡に派遣されており、常晴は相馬郡内の諸権利を「相承」したと思われる。
実は『桓武平氏諸流系図』において、常晴は「恒兼為子、実弟也」との側註があり、常晴は兄・次郎大夫常兼の養子となって相馬郡を譲られたのだろう。これが常兼の子・常重を「養子」として相馬郡を譲り渡す契機となったと考えられる。
●『桓武平氏諸流系図』(中条家文書)
千葉常永―+―恒家
(千葉大夫)|
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+―恒兼―――――+―常平
(千葉次郎大夫)|(余一介)
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+―常重――――常胤
|(大権介) (大千葉介)
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+―常晴
恒兼為子実弟也
常晴は父・常長から相馬郡を相続した直後、相馬郡内の土地を「別符」の地として国府に申請し、「国役不輸之地」として認められた。ただし、これは相馬郡全体ではなく、大治5(1130)年に常重が布施郷を伊勢内宮へ寄進した際に提出された別添証文『注進 相馬郡布瀬郷証文等事』に見える、「国司庁宣」で「別符」として認められた「布瀬、墨埼」の両郷(柏市布施~我孫子市我孫子周辺か)のことで、「免除雑公事」とされていた。また「前大蔵卿殿布瀬墨崎御厨知時、下総守被仰下消息案、在并其返事等」とあることから、常晴は「布瀬、墨崎郷」を伊勢内宮へ寄進して「布瀬墨埼御厨」を成立させ、領家には「前大蔵卿殿」が就いたものとみられる。「前大蔵卿殿」については具体的な名前はないが、承保2(1075)年から大治5(1130)年までの大蔵卿は下表の通りであり、常重が証文を提出した大治5(1130)年6月の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。藤原長忠は常重が証文を提出した半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞して出家しており「前大蔵卿」となった。彼はそのひと月ほどのちに亡くなっているが、常重の証文中に見える「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。なお、この長忠の娘は参議・藤原忠能に嫁ぎ、藤原長成を生んだ。常盤御前の夫になる人物である。。
●歴代の大蔵卿(『公卿補任』)
大蔵卿の姓名 | 就任期間 | 大蔵卿辞後 |
藤原長房 | 承保2(1075)年6月 ~寛治6(1092)年9月7日 |
播磨権守兼大宰大弐 |
藤原通俊 | 寛治6(1092)年9月7日 ~寛治8(1094)年 |
治部卿 |
源道良 | 寛治8(1094)年 ~天永2(1111)年4月24日 |
死亡 |
大江匡房 | 天永2(1111)年7月29日 ~天永2(1111)年11月5日 |
死亡 |
藤原為房 | 天永3(1112)年正月26日 ~永久3(1115)年4月2日(4月1日出家) |
出家、翌日死亡 |
藤原長忠 | 永久3(1115)年8月13日 ~大治4(1129)年11月3日(10月5日出家) |
出家、まもなく死亡 |
源師隆 | 大治4(1129)年 ~長承3(1134)年 |
藤原道長―+―藤原頼通――藤原師実――藤原師通――藤原忠実――+―藤原忠通
(太政大臣)|(太政大臣)(太政大臣)(内大臣) (太政大臣) |(太政大臣)
| |
| +―藤原頼長
| (左大臣)
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+―藤原頼宗――藤原能長――藤原長忠――娘
|(右大臣) (内大臣) (大蔵卿) ∥―――――――藤原長成
| ∥ (大蔵卿)
| 藤原忠能 ∥―――――藤原能成
| (参議) ∥ (修理権大輔)
| 常盤
| ∥―――――源義経
| ∥ (伊予守)
| 源義朝
| (下野守)
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+―藤原長家――藤原忠家――藤原俊忠――藤原俊成――――藤原定家
(権大納言)(権大納言)(権中納言)(皇太后宮大夫)(権中納言)
その後、常晴は甥(系譜上義弟)の常重を養子とした。その時期は「令進退(領)掌之時、立常重於養子」とあることから、常晴が相馬郡内の土地を「別符」の地として国府に申請したのち、「国役不輸之地」として認められたころに養子に迎えたとみられる。そして、天治元(1124)年6月、常晴は常重に「譲与彼郡(相馬郡)」を譲った。理由は記されていないが、常晴が常重の父・常兼(常晴兄)の養子になっていたためかもしれない。
相馬郡を譲ったのちの常晴の所在ははっきりしないが、源義宗が「自国人平常晴今常澄父也」(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』:『鏑矢伊勢宮方記』)と記述していることから下総国内にいた可能性が高いだろう。実子・常澄が下総国印東庄の「地主」であったことから、常晴は印東庄の開発・寄進を行い、庄内に居住していたのかもしれない。
そのほか、常晴は上総国夷隅郡を本拠としていた兄・鴨根三郎常房の所領を継承したとみられる。常房はもともと千葉庄内にあって「千葉三郎常房」を称していたが、祖・平忠常とゆかりの地・上総国夷隅郡へ移っていた。しかし、子息たちは下総国香取郡南東部~匝瑳郡西部(香取郡多古町周辺)を本拠としていることから、ここにも常房の私領があったのだろう。常晴は下総国印東庄を本拠としつつ、下総国木内郷一帯および匝瑳南条、上総国夷隅郡から埴生庄にかけて所領を有したとみられる。
常晴はその後「上総権介」となったとされるが、常晴と上総国との関連を示す資料は「上総在国分」(『中条家文書』「桓武平氏諸流系図」)とある系譜のみであり、それ以外には見当たらない。
没年不明。康治2(1143)年にはすでに実子・平常澄が活躍をしていることから、これ以前に没したと思われる。