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【一】上総氏について |
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか |
【三】頼朝の挙兵と上総平氏 |
平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
(????~1183)
上総権介常澄の八男。通称は介八郎。千葉介常胤の又従兄弟にして義理の従兄弟。諱は「弘経」「弘常」とも。官途(在国司か)は上総権介。
父・上総権介常澄は「上総曹司」源義朝を若い頃から扶助(義朝の東国での根拠地は武蔵国比企郡を皮切りに上総国埴生郡、相模国鎌倉などにあり、これらを行き来していたと考えられる)していた関係から、広常も青年期から義朝に従っていたのだろう。後年、頼朝が鎌倉に移った際、治承4(1180)年10月から鎌倉大倉郷に新造していた御所へ移徒するにあたって「上総権介広常之宅」を出立地にしており(『吾妻鏡』治承四年十二月十二日条)、すでにこの時点で広常の屋敷が大倉郷近辺にあったことがわかる。義朝に近侍した際の屋敷は現在の鎌倉市十二所あたりであったと伝わっており、上総国へ繋がる古代の官道に面して置かれていたと考えられる。
久寿3(1156)年に入ると、治天鳥羽院は体調の不良が目立ち始め、改元して保元元(1156)年5月には食事も摂れないほど悪化する。摂食不良とその後の腹部の膨張(腹水貯留であろう)ならびに手足の浮腫から消化器系の悪性新生物か。
5月中には死を覚悟しており、自分の死後、上皇(のちの崇徳院)や左大臣頼長らによる政権樹立を嫌い、6月1日には有力武家貴族らに対して招集の院宣を発している。「去月朔以降、依院宣、下野守義朝幷義康等」が禁中守護として内裏に宿営し、「出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆悉率随兵祇候于鳥羽殿」と、出雲守源光保、和泉守平盛兼ほか源平諸氏が鳥羽殿の警衛に参じた(『兵範記』保元元年七月十日条)。『保元物語』では鳥羽院は「義朝、義康、頼政、季実、重成、惟繁、実俊、資経、信兼、光信」らを後白河天皇に付属させる遺詔を残していたというが(『保元物語』)、この院宣であろうか。
そして7月2日、鳥羽院は鳥羽殿の安楽寿院で崩御した(『兵範記』保元元年七月二日条)。五十四歳。その死からわずか三日後の7月5日には後白河天皇が蔵人雅頼を通じ、検非違使を動員して「京中武士」の動きを停止させた。これは「蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家」という風聞が京中に流れたことによる。鳥羽院の崩御とともに後白河天皇は、兄上皇(のち崇徳院)および左大臣頼長勢力を鎮圧すべくさまざまな画策を実行に移していく。
7月6日には、左衛門尉平基盛が東山法住寺辺で、左大臣頼長に祇候する大和源氏源親治を追捕(『兵範記』保元元年七月六日条)し、7月8日には後白河天皇が諸国司に対して「入道前太政大臣幷左大臣、催庄園軍兵之由」を勅した(『兵範記』保元元年七月八日条)。そして「蔵人左衛門尉俊成幷義朝随兵等」に勅して頼長邸「東三條」邸を接収する。頼長は当時宇治にあって東三條邸を留守にしていたときを狙ったものであった。天皇側による圧力が強まっている様子がうかがえる
こうした状況を知った上皇(崇徳院)は怒り、滞在していた鳥羽田中御所から夜陰に紛れて白河前斎院御所へと遷幸し(『兵範記』保元元年七月九日条)、翌10日には白河殿で軍勢を集め始める(『兵範記』保元元年七月十日条)。しかし、それに応じたのは上皇や左府頼長の家人など所縁の人物ばかりであった。
崇徳院・頼長に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)
上皇祇候 | 散位平家弘、大炊助平康弘、右衛門尉平盛弘、兵衛尉平時弘、判官代平時盛、蔵人平長盛、源為国 |
故院勘責 今当召出 |
前大夫尉源為義、前左衛門尉源頼賢、八郎源為知(為朝)、九郎冠者(為仲) |
左府祇候 | 前馬助平忠正、散位源頼憲 |
後白河天皇に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)
下野守義朝、右衛門尉義康、安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁、常陸守頼盛、淡路守教盛、中務少輔重盛 |
7月11日早朝、御所高松殿から「清盛朝臣、義朝、義康等」が六百余騎を率いて白河御所へ進軍した。平清盛は三百余騎を率いて二條大路から、源義朝は二百余騎を率いて大炊御門大路から、源義康は百余騎を率いて近衞大路からそれぞれ攻め上がったという。さらに前蔵人源頼盛が郎従数百人を揃え、源頼政、源重成、平信兼らが重ねて白河へと派兵された(『兵範記』保元元年七月十一日条)。
保元の乱相関図(■:崇徳上皇方、■:後白河天皇方)
~天皇、上皇、親王ほか~ 藤原璋子 |
~摂関家~ 藤原忠実―+―藤原忠通――藤原基実 |
~河内源氏~ 源義家―+―源義親――――源為義――+―源義朝 |
~伊勢平氏~ 平正盛―+―平忠盛―+―平清盛 |
この合戦の様相は、日記の故記録では『兵範記』が唯一のものであるが、そこでは7月11日「彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢齋院御所幷院北殿也」とあり、平清盛を筆頭とする官軍が上皇及び左大臣頼長の軍勢を打ち破り、白河御所などが焼失したことを伝えている。午剋には清盛以下の大将軍はみな内裏へ帰参し、平清盛と源義朝はとくに朝餉間へと召され、上皇、左大臣頼長、源為義以下の人々は行方知れずとなったことを報告している。
この白河御所での戦いについては、『保元物語』によるほかないが、多分に誇張表現や筆者による加筆があり、信憑性については甚だ疑問が多いため、参考程度となるが、この保元の乱では、「上総ニハ介乃八郎弘経、下総ニハ千葉介経胤」(『保元物語』)とあって、当時三十九歳の常胤は上総権介常澄の八男・介八郎広常や相模国鎌倉党の大庭景義・景親兄弟らとともに源義朝に随って後白河天皇方として崇徳上皇(後白河天皇の兄)方と戦ったとされている。広常は父・常澄(為義郎従)が義朝を庇護していたことから積極的に参戦したと思われるが、常胤や大庭兄弟など、義朝と敵対していた人々が積極的に組したかは疑問である。ここに見える人々は、義朝が関わりがあった人々のほかに、駿河国、武蔵国、甲斐国、信濃国など義朝との関係がみられない人々も含まれており、諸本によって人物も異なるなど、信憑性に欠ける。故鳥羽院が武家貴族らに召集を命じた院宣か、7月8日に後白河天皇が諸国司に勅した「入道前太政大臣幷左大臣、催庄園軍兵之由」(『兵範記』保元元年七月八日条)に応じたものだろう。
鎌田次郎正清 | 後藤兵衛実基 | ||||
近江国 | 佐々木源三 | 八嶋冠者 | |||
美濃国 | 平野大夫 | 吉野太郎 | |||
尾張国 | 舅・熱田大宮司(家子・郎等) | ||||
三河国 | 志多良 | 中条 | |||
遠江国 | 横地 | 勝俣 | 井八郎 | ||
駿河国 | 入江右馬允 | 高階十郎 | 息津四郎 | 神原五郎 | |
伊豆国 | 狩野宮藤四郎親光 | 狩野宮藤五郎親成 | |||
相模国 | 大庭平太景吉 | 大庭三郎景親 | 山内須藤刑部丞俊通 | 瀧口俊綱 | 海老名源八季定 |
秦野二郎延景 | 荻野四郎忠義 | ||||
安房国 | 安西 | 金余 | 沼平太 | 丸太郎 | |
武蔵国 | 豊嶋四郎 | 中条新五 | 中条新六 | 成田太郎 | 箱田次郎 |
川上三郎 | 別府二郎 | 奈良三郎 | 玉井四郎 | 長井齋藤別当実盛 | |
斎藤三郎実員 | |||||
(横山党)悪次 | 悪五 | ||||
(平山党)相原 | |||||
(児玉党)庄太郎 | 庄次郎 | ||||
(猪俣党)岡部六弥太 | |||||
(村山党)金子十郎家忠 | 山口十郎 | 仙波七郎 | |||
(高家)河越 | (高家)師岡 | (高家)秩父武者 | |||
上総国 | 介八郎弘経 | ||||
下総国 | 千葉介経胤 | ||||
下野国 | 瀬下太郎 | 物射五郎 | 岡本介 | 名波太郎 | |
上野国 | 八田四郎 | 足利太郎 | |||
常陸国 | 中宮三郎 | 関二郎 | |||
甲斐国 | 塩見五郎 | 塩見六郎 | |||
信濃国 | 海野 | 望月 | 諏方 | 蒔葉 | 原 |
安藤 | 木曾中太 | 木曾弥中太 | 根井大矢太 | 根川神平 | |
静妻小二郎 | 片桐小八郎大夫 | 熊坂四郎 |
続いて起こった平治元(1159)年12月の「平治の乱」の際では「上総介八郎弘常」は義朝に随って参戦しているが、常胤は参戦しなかった。
戦いでは大将軍右衛門督信頼が守る待賢門が平清盛の兵によって打ち破られた際、義朝は悪源太義平に待賢門内の敵を追い落とすよう命じ、義平は「承り候」と駆けたという。これに「鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多野次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井齋藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片切小八郎大夫」の十七騎が従い、平重盛を追い詰めたとされる(『平治物語』)。
しかし、この「平治の乱」では藤原信頼方が敗北し、源義朝は東国に逃れる途中、尾張国野間郷の郎従・長田庄司忠致(鎌田兵衛正家の女婿)によって討たれた。このとき広常は長井別当実盛などとともに義朝に命じられて別行動をとって東国に落ち、難を逃れている(『平治物語』)。
父・上総権介常澄は永暦2(1161)年正月以降に亡くなり、長寛年中(1163~1166)に、長兄の伊南新介常景が次兄の印東次郎常茂に殺害された(『中条家文書』:「桓武平氏諸流系図」)。この常茂は下総国印東庄のほか、上総国内にも長南(長生郡長南町)、武射南郷(山武市上横地周辺)、戸田(山武市戸田)に地主職や権利を有していたようで、長南太郎重常、印東別当頼常、南郷四郎師常、戸田七郎常政の子が見える(『神代本千葉系図』)。とくに長南郡は伊南新介常景・伊北庄司常仲父子の本拠である夷隅郡伊南庄・伊北庄(いすみ市周辺)に隣接しており、この地を巡る争いがあったのかもしれない。
ただ、新介常景亡きあと、印東次郎常茂が惣領となった形跡はなく、嘉応2(1170)年以降に「伊藤右衛門尉忠清被配流、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し」(『源平盛衰記』)と、上総国へ流罪となった平家郎従・右衛門少尉藤原忠清を広常が歓待したことが伝わっており、これが事実であればこの時期にはすでに広常が上総平氏の惣領的立場(あくまでも上総平氏の惣領であって「両総平氏族長」という存在ではない。のち頼朝に応じた広常が率いたとされる人々は兄の伊南新介常景、印東次郎常茂の子孫が多くを占め、上総国一宮付近を所領としていた広常が在近隣の近親および下総国臼井庄の外甥らを統率したことで、強大な勢力を持ったと考えられる)にあって、上総国内に大きな力を有していた様子が見られる。なお、常茂は上総国での活動は見られないまま平家政権のもと上洛していたようで(『吾妻鏡』)、広常との間に交流はうかがえない。
広常の世話になったとされる藤原忠清は、厚免されて上洛したのちは広常に受けた恩を忘れ、上総国の「所職」を奪おうとして広常を讒訴したという(『源平盛衰記』)。広常は子の平能常を上洛させて子細を述べさせたが、平家政権はこれに満足せずに広常自身を召還したため、広常は遺恨を含んだという(『源平盛衰記』)。また、ほぼ同様の内容だが、「上総介八郎広常、平家の御勘当にて、その子息山城権守能常、京に召し籠められ候つるが、この程逃げ下りて用心して候とうけたまはる」という逸話もある(『延慶本平家物語』)。あくまでも軍記物による伝承に過ぎないものの、説話として伝わっている。
治承3(1179)年11月17日、御白河法皇幽閉を行った公家を処分した「治承三年政変」で上総介藤原為保が解官となったことを受け、翌18日の臨時除目で前述の藤原忠清が「上総介」に補される。ただ、上総介となった忠清自身は上総には赴任せず「目代」を置いていたことが知られ、目代が国司職を行使している。そして、この頃には広常は上総国内に勢力を広げていたようで、「治承三年政変」で伯耆守を解官された平時家(清盛の甥)が上総国へ流罪に処された際には、広常は時家を愛でて女婿とした。なお、平時家は平家の一門ではあるが、関わりは断絶しており、頼朝が鎌倉に拠点を定めるとその側近として活動する。また、時家は実際には流罪ではなく、「時実弟全無配流之儀、只故平禅門私所遣」(『玉葉』文治二年正月廿四日条)であったという。
平常澄―――――平広常――+―平能常
(上総権介) (上総権介)|(小権介)
|
+―娘
∥
平時信―――+―平時忠――+―平時家
(兵部権大輔)|(権大納言)|(伯耆守)
| |
| +―平時実
| |(左中将)
| |
| +―女子
| ∥
| ∥
| 源義経
| (伊予守)
+―平時子
(二位ノ尼)
∥――――平徳子
平忠盛―――――平清盛 (建礼門院)
(刑部卿) (太政大臣) ∥―――――安徳天皇
高倉天皇
治承4(1180)年8月4日、源頼朝は伊豆目代の山木判官平兼隆を討ち、平家に反旗を翻した。しかし8月23日、かつての郎従である大庭三郎景親率いる平家方の軍勢に相模国石橋山中で敗れ、箱根山中を逃げまわった後、8月28日に土肥次郎実平の勢力下にあった真鶴岬から房総半島へ舟で逃れた(『吾妻鏡』治承四年八月廿八日条)。頼朝に加担した湘南の中村党、三浦半島の三浦党は相模湾の海流に詳しかったと思われ、頼朝も相模国沿岸部を通り、武蔵秩父党に敗れて落ちる三浦党と合流して三浦半島先端部を経て房総に向かったと推測される(『平家物語』)。
8月29日、安房国平北郡猟嶋(安房郡鋸南町竜島)へ辿り着き、先について待っていた北条時政以下の出迎えを受けた。ここで頼朝がまず頼りにしたのが広常であった。
9月1日、頼朝は「可有渡御于上総介広常許之被仰合」と告げ、北条時政以下も「各申可然之由」だったといい、異存は誰にもなかったとする。そしてこの日、頼朝が幼いころから「殊奉昵近者」だった安房の豪族・安西三郎景益へ「相催在庁等、可令參上」との書状を遣わし、さらに「当国中京下輩」は悉く召し捕えるべしと命じた(『吾妻鏡』治承四年九月一日条)。
9月3日、頼朝一行は安房国平北郡を発し、広常の館へ向かった。途次夜になったため、路次の民家に止宿したが、このとき平家方の長狭六郎常伴が頼朝を討つために手勢を進めていた。しかし、安房国の地理に詳しい三浦次郎義澄は常伴の動きを察知しており、逆に常伴を襲って敗走させた(『吾妻鏡』治承四年九月三日条)。
9月4日、安西景益が一族と在庁を率いて頼朝のもとに参上した。このとき景益は「無左右有入御于広常之許條、不可然」と、広常のもとへ向かうのはよろしくないと告げたという(『吾妻鏡』治承四年九月四日条)。ただし、これは広常が危険な人物であるということではなく、「如長挟六郎之謀者、猶満衢歟」とあるように、平家に加担する長挟常伴のような人物が巷間にいるので、小勢で動くのは危険だという意味である。
景益は、まず広常らに頼朝のもとへ参上を命じることを進言。頼朝はいったん安西景益の屋敷へ移り、和田小太郎義盛を広常へ、藤九郎盛長を千葉介常胤のもとへ遣わした(『吾妻鏡』治承四年九月四日条)。安西景益の屋敷がどこにあったかはわからないが、在庁官人を率いて参じているので国府(南房総市府中)の近辺か。
9月5日、和田義盛は広常のもとに到着したと思われ、そこで話が交わされたのだろう。広常がこのときどこにいたか定かではないが、頼朝が広常のもとへ移動する際に長狭常伴に襲撃されているところを見ると、頼朝は平北郡から外房の長狭郡(鴨川市)を通って一宮(長生郡一宮町)の広常のもとに向かうルートを計画していたと考えられる。和田義盛が広常のもとへ遣わされたのも、広常の遠戚であったという関係の他に、長狭郡は和田義盛の父・杉本太郎義宗の私領があった地で、地理に明るかったということも理由だろう。
翌6日夜、義盛は頼朝のもとに戻って復命した内容によれば、広常は「談千葉介常胤之後、可參上之由」だったという。9月9日には藤九郎盛長が千葉より帰参して千葉介常胤の協力が得られたことを復命し、「当時御居所非指要害地又非御曩跡、速可令出相摸国鎌倉給」と、鎌倉を推薦したという(『吾妻鏡』)。
9月13日、頼朝は三百余騎の軍勢を率いて安房国を出立し上総国へ向かった。同日、千葉介常胤も子の六郎大夫胤頼と孫の小太郎成胤に平氏方の下総目代を襲わせてその首を取った。目代屋敷は国府付近(市川市国府台)と思われるが、千葉勢による目代攻撃を聞いた平氏方の千田判官代藤原親雅は匝瑳郡から千葉へ出兵(軍勢催促の時期を考えると、頼朝挙兵の一報は早々に親雅へ届いており、頼朝追討のためにすでに軍勢を動かしていたと考えられる)するが、翌14日の戦いで小太郎成胤に生け捕られている(『吾妻鏡』寿永四年九月十四日条)。
9月13日、安房国から上総国に入った頼朝勢三百余騎は上総国府を襲ったとみられる。同日、下総国府は千葉氏の手勢によって落とされており、これは頼朝と広常、常胤が同日挙兵を約定した結果ではなかろうか。国府の混乱は想像を絶するものであったと思われる。これが明恵上人が伝える「治承四年庚子九月」の「上総国」での戦いで、平氏方の高倉院武者所「平七武者重国」が「源家」によって討たれた(『高山寺明恵上人行状』)。彼は「本姓者伊藤氏、養父の姓によて藤を改て平とす」と、伊勢平氏の根本被官伊藤氏の出身者であり、国司・上総介忠清の同族であった。忠清は在京であることから、目代的な人物であったのかもしれない。
■:千葉氏 ■:上総氏 |
頼朝が上総国府を攻めた具体的な記録はないが、頼朝の上総国滞在期間は四日にも及んでおり、その間に上総国府が健在であれば何らかの対応があっただろう。また頼朝は下総国府へ向かっている進行ルート上、江戸湾沿いの官道を進んだと考えられるため、上総国府に敵勢が健在であることは許されない。必然的に頼朝は国府を占拠したとしか考えられないのである。そして、頼朝は国府を占領して数日間(記録では四日)、広常の参着を待ったのだろう。しかし、広常は「而廣常聚軍士等之間、猶遅参」とあるように、軍勢を集め纏めるのに手間取ったという(『吾妻鏡』)。広常の本拠は国府付近ではなく山地を挟んだ上総国一宮(長生郡一宮町)であり、数日での軍勢催促及び参陣という無理のある要請であったと言わざるを得ないだろう。
結局9月17日に至り、頼朝は広常の参着を待たずに上総国を出立して下総国に入ったようである。すでに下総国は平氏党の大半が千葉介常胤によって討たれており、頼朝はその日のうちに下総国府に到着し、ここで千葉介常胤、子息の太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、六郎大夫胤頼、嫡孫の小太郎成胤等と対面している。
その二日後の9月19日、広常は隅田川の頼朝の陣に参向したと伝わる。広常の率いる軍勢は「当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の約二万騎だったという(『吾妻鏡』)。広常の軍勢には、本来真っ先に挙げられるべき国衙付近の「市東」「市西」が含まれておらず、国衙には上総介藤原忠清の派遣した目代の勢力があって、上総平氏は国衙を掌握していなかったと思われる。頼朝が広常を頼ろうとした際に、安西屋敷から一宮方面へ向かったのも、広常が一宮に居住していたことを物語る。
これだけ大規模な武士勢力を構築して参陣した広常だったが、頼朝は広常の遅参を怒り、許容の様子がなかったという。その後、広常は詫びを入れてようやく許しを得て従軍したと伝える(『吾妻鏡』)。ただし、この「怒り」が事実であれば、頼朝は広常の「遅参」を怒ったのではなく、上総国で約定の期日を超えて広常を待ったにも拘わらず来訪がなく、結果として無為に上総国に足止めされた事を咎めたのではあるまいか。進軍の遅れは敵に猶予を与え、味方の敗亡に直結することから、頼朝は激怒したのかもしれない。
なお、鎌倉時代末期に作成された軍記物『源平闘諍録』にはこの逸話はなく、9月4日、頼朝は五千余騎という大軍を率いて上総から下総へ向かったとあり、そこで「上総権介広常」が頼朝の御前で跪き、先陣を願い出たとする(『源平闘諍録』)。その「可相随輩」として、「臼井四郎成常、同五郎久常、相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常、同四郎師常、伊北庄司常仲、同次郎常明、大夫太郎常信、同小大夫時常、佐是四郎禅師等」が挙げられている。そこに見られる人物名は、そのほとんどが上総権介常澄の子孫であり、広常は上総平氏の惣領的立場にあった様子が垣間見える。
広常をして「両総平氏の族長権者」ともされるが、常澄の子孫以外で広常に「可相随輩」とされた人物は、大須賀常信・時常、臼井成常・久常のみ(『源平闘諍録』)であることや、平家に加担した一族もいる様子から、広常を「両総平氏の族長権者」とするのは困難である。そもそも上総平氏が千葉一党はもちろん東総平氏を統率した形跡はなく、両総平氏の族長権者という「地位」の存在自体が成立し難い。
なお、臼井成常らの父・臼井太郎常忠は、建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、広常の甥・天羽次郎直常とともに年賀の馬を曳いている(『吾妻鏡』)ことや、広常の甥として「臼井十郎(常忠の子・十郎常俊か)」の名が見える(『吾妻鏡』)ことから、臼井氏は上総平氏の同族として扱われていたことがわかる。
平常長――+―平常兼――+―千葉常重 +―臼井成常
(下総権介)|(下総権介)|(下総権介) |(四郎)
| | |
| +―臼井常安―――臼井常忠―+―臼井久常
| (六郎) (太郎) |(五郎)
| |
| +―臼井常俊
| (十郎)
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+―大須賀常継――大須賀常信――大須賀時常
|(八郎太夫) (太郎) (小太夫)
|
| +=千葉常重―――千葉常胤―――相馬師常
| |(下総権介) (下総権介) (二郎)
| |
| +―戸気長実 +―伊北常仲――+―伊北常信
| |(五郎) |(伊北庄司 |(太郎)
| | | |
+―相馬常晴―+―平常澄――+―伊南常景―+―伊北常明 +―伊北時常
|(伊南新介) (次郎)) (小大夫)
|
+―印東常茂―+―長南重常――+―長南久常
|(印東介) |(太郎) |(次郎)
| | |
+―木内常範 +―印東頼常 +―多名気常泰
|(太郎?) |(印東別当) |(三郎)
| | |
+―佐是圓阿 +―南郷師常 +―米満親常
|(四郎禅師)|(四郎) (七郎)
| |
+―大椎惟常 +―戸田常政
|(五郎) (七郎)
|
+―埴生常益
|(六郎)
|
+―匝瑳常成―――匝瑳助常
|(三郎) (次郎)
|
+―平広常――――平能常(常顕)
|(八郎) (小権介)
|
+―相馬常清―――相馬貞常
|(九郎) (上総介?)
|
+―天羽秀常―――天羽直常
|(天羽庄司) (次郎)
|
+―金田頼常
(権太夫)
10月2日、頼朝は広常と千葉介常胤が架けた船橋で大井川(太日川、現在の江戸川)、隅田川を渡り、武蔵国に入った。ここで豊島権守清元・葛西三郎清重父子、足立右馬允遠元が頼朝の陣に参じ、頼朝の乳母「故八田武者宗綱息女」(小山下野大掾政光の妻。のち寒河尼)が末子を伴って参陣。頼朝は自らが烏帽子親となってこの政光末子を元服させ、「小山七郎宗朝(のち結城朝光)」と名乗らせた。
10月3日、頼朝は千葉介常胤に、上総国の伊北庄司常仲(広常の兄・平常景の子)追討の厳命を与えた。これは常仲が安房国で頼朝追捕を画策した長狭六郎常伴の「外甥」であったためとされる(『吾妻鏡』治承四年十月三日条)。広常は伊北庄の諸勢を率いていたとされており、常仲もこれに加わったとする伝(『源平闘諍録』)もあるが、常仲は10月当時伊北庄にいたことはおそらく事実であろうから、途中で戦列を離れたか、はじめから加わらなかったかのどちらかであろうが、追捕を広常ではなく常胤に厳命していることから、遺恨のある長狭六郎常伴の「外甥」を討つという口実を設けた広常に対する示威の一つであった可能性があろう。上総国には常胤の嫡男・太郎胤正らが派遣され、同道した葛西清重とともに大いに戦功を挙げたようであるが、常仲がこの戦いで討たれたかははっきりしない。
●伊北氏系図
+―長狭常伴
|(六郎)
|
+―娘
∥―――+―伊北常仲
∥ |(伊北庄司)
∥ |
伊南常景 +―伊北常明――伊北胤明――伊北時胤
(伊南新介) (次郎) (太郎) (又太郎)
10月6日、頼朝は鎌倉に入り、さらに西に進んで駿河国の富士川岸に陣を張った。一方、京都から大軍を引き連れて下って来たのは若い公達・近衛権少将平維盛。このとき、兄の印東常茂は先陣押領使として加わっていたという(『源平闘諍録』)。このとき、駿河国はすでにその大半が甲斐源氏・武田信義の一党によって平定されており、頼朝は地理に詳しい信義に先陣を依頼した。
11月17日朝、武田信義は一計を案じ、維盛の陣所に使者を送って、維盛の陣に参陣したいが、遠路のためままならず、「浮嶋原」にてお会いしたいとしたが、維盛に従っていた上総介忠清はこれを偽計と見破って使者を斬り捨てた。
翌18日、武田勢は富士川に陣所を移し、19日明け方に平氏陣へ攻め寄せた。このとき平氏勢四千騎は休息していたため、奇襲に狼狽して退いたという(『玉葉』)。『吾妻鏡』では武田勢の奇襲の際、富士川で休んでいた数万羽の水鳥がその気配に驚いて飛び立ち、羽音に狼狽した平家軍は戦う前に潰走したとする(『吾妻鏡』)。このとき、広常の兄「印東次郎常義」は駿河国鮫島で追いすがる源氏の兵によって討ち取られた(『吾妻鏡』)。なお「義」「茂」の行書体は酷似しており「印東次郎常義」は「印東次郎常茂」と見られる。「為弟弘常被害」(『中条家文書』「桓武平氏諸流系図」)という伝があることから、実際に常茂を討ったのは広常の手勢であろう。
富士川の戦いが勝利に終わると、頼朝はそのまま西上して京都に攻め入ろうとしたが、広常・千葉介常胤・三浦介義澄が、
「常陸国佐竹太郎義政并同冠者秀義等、乍相率数百輩、未武衛帰伏、就中秀義父四郎隆義、当時従平家在京、其外驕者猶多境内、然者先平東夷之後、可至関西」
と説得し、広常・常胤主導で佐竹氏討伐が実行されることとなる。
10月23日、頼朝は相模国府に到着。ここではじめての論功行賞が行われたが、一方で平家に加担した大庭三郎景親、長尾新五郎為家、長尾新六定景、河村三郎義秀、滝口首藤山内三郎経俊らが降伏して捕縛され、大将格の大庭景親は広常に預けられることとなった。そして10月26日、片瀬川の河原で景親は斬首された。
10月27日、頼朝は常陸国に佐竹冠者秀義追討の軍勢を発した。そして11月4日、常陸国府(石岡市府中)に着陣。広常、常胤、義澄、実平ら宿老らと佐竹氏討伐の謀を巡らした。そして、「縁者」である広常を太田の佐竹館へ遣わしたところ、秀義の伯父で佐竹家当主の佐竹太郎義政は「即可參」と頼朝の陣に参上することを申し出た。しかし、甥の佐竹冠者秀義、その父・佐竹四郎隆義は要害の金砂城(常陸太田市上宮河内町)へ引き退いて抵抗。一方、義政は広常の誘引で国府へ向かう途中の大矢橋で広常の手によって殺害された。その手際は「太速」だったという。
ところが、佐竹隆義・佐竹秀義の籠る金砂城はとても人力で攻め落とすことはできない要害であり、佐竹氏の抱える兵も非常に頑強であるとの土肥実平、土屋宗遠の意見があり、頼朝は宿老らに意見を聞いたところ、広常は、
「秀義叔父有佐竹藏人、蔵人者智謀勝人、欲心越世也、可被行忠賞之旨恩約者、定加秀義滅亡之計者歟」
として、頼朝はその策を良として採用し、広常はみずから佐竹蔵人義季のもとを訪れた。義季は広常を迎えると非常に喜んで対面した。広常は、
「近日東国之親踈莫不奉帰往于武衛、而秀義主、独為仇敵、太無所拠事也、雖骨肉客何令与彼不義哉、早参武衛、討取秀義、可令領掌件遺跡者」
と、義季に頼朝に帰順して秀義を討ち、佐竹領を継ぐべしと唆すと、義季はすぐさま帰順し、広常を伴って金砂城の裏手に導いた。ここで広常と郎従らは鬨の声を挙げた。すると、金砂城内では思いもよらないところからの鬨の声に驚愕し、秀義らは周章狼狽した。この隙を狙い、広常は手勢とともに金砂城へ攻め入り、城を乗っ取った。秀義らは金砂城を逃亡し、親類である陸奥国の藤原氏のもと、花園城へ逃れていった。
11月6日、広常は金砂城に入城すると、城壁を焼き払い廃城とした。そして、秀義の行方を捜すため、軍勢を分け各地に遣わしたが、結局捕えることはできず、陸奥国花園城へ逃れたという風聞のみが知らされた。
なお、佐竹家と広常がどのような縁者だったかは不明だが、広常は義政(忠義と同一人物か)とは顔見知りであったことや、佐竹蔵人義季の性格を熟知していたことなどから、広常(上総平氏惣領家)は、両者に共通の縁戚である奥州藤原氏と縁戚関係にあったのかもしれない。
藤原清衡―+―藤原基衡――――藤原秀衡―――藤原泰衡
|
+――娘
| ∥
+―――――――――――+ ∥
| ∥――――+―佐竹義政
| 源義光―――佐竹義業 ∥ |(太郎)
|(新羅三郎)(左衛門尉) ∥ |
| ∥――――――佐竹昌義 +―佐竹隆義―――佐竹秀義
| 平清幹―――娘 (佐竹冠者)|(四郎) (佐竹冠者)
|(吉田次郎) |
| +―佐竹義宗
| |(大夫)
| |
| +―佐竹義季
| (蔵人)
| ∥
+―――――――――――――――――――――娘
11月7日、広常ら佐竹氏追討の諸氏は頼朝の営所に帰陣し、佐竹氏との戦いや秀義の逃亡と金砂城破却を報告している。この佐竹氏追討に際し、先頭を切って突撃した熊谷次郎直実と平山武者所季重に恩賞が与えられた。そして、佐竹宗家から寝返った佐竹蔵人義季については御家人に取り立て、頼朝には叔父の志太三郎先生義広・新宮十郎蔵人行家が頼朝に謁している。その後、頼朝は小栗御厨八田(筑西市八田)の小栗十郎重成の館に立ち寄ったのち、帰国の途に就いた。
なお「治承年中」に上洛していた鹿島宮神官・大中臣実景の留守中に「根本数代之社■■豊野、赤見、神野屋敷」(鹿島市神野周辺か)を、鹿島神官の「袈裟子物忌」と「上総権介広常朝臣」が語らってかすめ取るという事件が起こっている(『摂政近衛兼経家政所下文』:「常陸鹿島神宮文書」)。
実景は、京都での用事が済んで帰国しようとしたが、「天下騒乱騒動出来、東八州為源家之御沙汰、所々謀反蜂起、世間不鎮之程」のため帰国が叶わず、やむなく京都に残っていたが、その後帰国した実景は私領が奪われていることを知り、「物忌知行非分依令掠望之、任相伝道理」て「本領主実景」に返付することを幕府に訴えた。すると幕府からは「故大将殿」は「今者、京都御沙汰所、武家不可相交、任先例、可蒙本所御計」と実景へ伝達があった。このため実景は再度上洛すべく計画していたところ、「如元可領知之由」の政所下文(摂政家政所下文)が下されて実景の訴えは認められ、仁治元(1240)年12月の実景死去に伴い子・信景が「可領掌彼豊野、赤見、神野村屋敷」ことになった。広常が鹿島社物忌と結託して神野村などを押領したのは、香取海を通じて常陸国をはじめ関東中心地への勢力基盤の拡大を狙った広常の考えであろう。
治承4(1180)年12月4日、上総国の阿闍梨定兼が鎌倉に召され、鶴岡八幡宮寺供僧職に 補された。阿闍梨定兼は安元元(1175)年4月20日に上総国に流された流人だったが、阿闍梨という高僧であり「治法」の聞こえが高かった。この頃の鎌倉にはまだ知識がおらず、定兼を召し出すこととし、広常に命じて阿闍梨を鎌倉に招いた。
12月12日、頼朝は新造の御亭(鎌倉市雪ノ下)に移ることとなり、「上総権介広常」の屋敷(鎌倉市十二所カ)から新邸へ入った。このときの広常の屋敷は、かつて鎌倉の義朝に仕えていた頃からの屋敷と思われる。
治承5(1181)年2月1日、足利三郎義兼が北条時政の娘・時子と結婚した。また同日、広常の娘が加賀美小次郎長清に嫁いでいる。
平時信――――平時忠――――平時家
(兵部権大輔)(権大納言) (伯耆守)
∥
平常澄――――平広常――+―娘
(上総権介) (上総権介)|
+―娘
∥
逸見清光―――加賀美遠光――加賀美長清
(黒源太) (次郎) (次郎)
6月19日、頼朝は三浦半島に逍遥の旅に出たが、「上総権介広常者、依兼日仰、参会于佐賀岡浜、郎従五十余人悉下馬、各平伏沙上」と、広常は三浦半島の佐賀岡の浜(三浦郡葉山町一色)に郎従五十名を率いて参集した。「依兼日仰」とあることから、このとき広常は上総国に帰国しており、逍遥に合わせて船で三浦半島に渡ってきたのだろう。頼朝一行を佐賀岡浜で出迎えたとき、広常の郎従は下馬して砂上に平伏したのに対し、広常は「安轡而敬屈」のみだったという。これを見た三浦十郎義連は、広常へ「示可下馬之由」したが、広常は、
「公私共三代之間、未成其礼者」
と答えている。「三代」とは常晴、常澄、広常へ至る上総権介三代と思われるが、上総国に強大な力を有した上総平氏の勢力を物語っている。また、広常の父・常澄は「上総曹司源義朝」を庇護していたと思われることから、その子・頼朝に対しては、旗頭として敬うことはしても卑屈なほどへりくだる必要はないとの思いがあったのかもしれない。
このあと、頼朝は三浦義明の旧亭を回り、三浦義澄が催した酒宴に花が咲いた。ここで頼朝は、三浦義明の弟・岡崎四郎義実に水干を与えたが、このとき広常は、
「此美服者、如広常可拝領者也、被賞義実様老者之條存外云々」
と言いはなち、頼朝の面前で義実と殴り合いに及びそうになった。頼朝は「敢不被発御詞」だったが、広常は頼朝の不興を買ったのだろう。しかし頼朝は彼を罰することはなかった。
頼朝の挙兵時の意思は決して東国に武家政権をつくることにあったのではないだろう。ただ、以仁王と源頼政入道に連なる「前伊豆守正五位下源朝臣仲綱」が宣した王の令旨「応早追討清盛法師并従類叛逆輩事」を大義名分とした平氏追討が大きな目的であったはずである。頼朝は平氏の軍勢にいったんは敗れて房総に命を永らえるという事態を招くも、広常や千葉介常胤、武蔵秩父氏らの利権をめぐる混沌とした争いを纏め上げ、急激にその勢力が拡大した。だが、ここに及んでも頼朝の意思は京都にあった。平家の大軍を打ち破ったのち京都へ突き進もうとする頼朝を押し留め、佐竹氏討伐に向けさせたのが広常、常胤、三浦義澄ら東国有力武士団だった。
一方、頼朝もこうした有力武士団の思惑を理解して利用し、平氏追討はもちろんのことながら、自分を頂点とする体制を築きはじめる。しかし、頼朝と彼ら武士団との考え方の相違点は、頼朝はあくまで「朝廷の権威」を重視していたのに対し、有力豪族の中でもとくに広常は朝廷重視の考え方に反対の立場をとるようになっていたようである。広常は事あるごとに、
「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」
と発言したという(『愚管抄』)。
ただ、頼朝は広常から不遜な振る舞いをされたとはいえ、表向きには広常を批難することはなかった。そればかりか、寿永元(1182)年8月16日、嫡男・頼家の五夜の儀の奉行を広常に命じるほどであった。彼の武威にあやかったものかもしれない。
寿永2(1183)年10月14日、朝廷は頼朝に対して「東海・東山諸国に関する行政権」を委任する宣旨を発した(『百練抄』)。いわゆる「寿永二年十月宣旨」(十月十四日の宣旨とあるのは『百錬抄』の記述であるが、宣旨は『玉葉』の記述から実際は閏十月十四日であり、『百錬抄』では「閏」が脱落したもので、「寿永二年閏十月宣旨」とすべきものである)である。これによって、頼朝は東海道、東山道の属する諸国、王臣家の荘園、寺社領などからの官物、年貢の納入管理を委任され、一定の支配権を得ることとなる。
この宣旨が出された二か月後の12月、広常は梶原景時と双六をしていた最中、ふいに刀を抜いた景時によって刺殺され、その首級は頼朝に献じられた(『愚管抄』)。嫡男・小権介能常も誅され、兄弟一族は捕らえられて所領を没収された。その日付は「而寿永元十二廿二父子共為鎌倉大将被誅了」(『中条家文書』)とある。広常暗殺の年(寿永2年)の『吾妻鏡』は伝えられていないが、翌寿永3(1184)年正月1日条では「去冬、広常が事によって営中穢気の故」のため、頼朝は恒例の鶴岡八幡宮参詣を見送っている。
広常暗殺に動いた動機は、東国における行政権が確立したことが挙げられるが、その他の大きな理由は、やはり「何条朝家の事をのみ見苦しく思うぞ」という広常の考え方だったと思われる。頼朝は、広常を「功有る者にて候いしかど、誰かは引き働かさんのと申して、謀叛心の者にて候しかば、かかる者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじ」として殺害したとする(『愚管抄』)。その後、広常の麾下にあった上総平氏の一党は、千葉介常胤の支配下に置かれることとなった。このころから上総平氏一族のなかでも「常」字から「胤」字を用いる人物が増えていくのは、千葉氏の影響力が想定される。そして、千葉氏は両総に影響力を持つ大大名として発展を遂げていく。
寿永3(1184)年正月8日、上総国一ノ宮(玉前社)の神主・兼重から「故介広常存日の時、宿願ありて甲一領を当宮の宝殿に納め奉る」ということを聞いた頼朝は、「定めて子細あることか」として、側近の大和判官代藤原邦通、一品房昌寛を派遣して、すでに神宝とされていた広常の鎧に代わる鎧二領を奉納させ、広常奉納の鎧を引き取らせた。日頃の広常の態度から、広常の「宿願」を謀反と結びつけていたのかもしれない。
正月17日、邦通・昌寛・兼重は広常奉納の鎧(小桜皮縅鎧)を相具して鎌倉に到着した。頼朝の御所に運ばれた鎧櫃は、さっそく頼朝の手によって開けられ、鎧の高紐に結び付けられていた願文を発見する。頼朝はこの願文を披くが、その願文には謀反を思わせる文面ではなかったばかりか、「武衛の御運を祈り奉るところの願書」であった。
頼朝はこれを読んで広常の殺害について「後悔に及」んだが、もはや取り返しはつかず、ただ広常の「須被廻没後之追福」を行うことしかできなかった。そして、囚人としていた広常の弟・天羽庄司直胤、相馬九郎常清らは、広常の忠節を賞してただちに厚免した。そして、頼朝は2月14日、「上総国御家人等」に「多以私領本宅如元可令領掌」ことの御下文を下した。
3月13日、尾張国の原大夫高春が鎌倉に召し出された。高春は「故上総介広常外甥也、又為薩摩守忠度外舅」であったという(『吾妻鏡』寿永三年三月十三日条)。平氏の縁戚であったが、広常の外甥という血縁を頼り、治承4(1180)年、頼朝のもとに馳せ参じて以来、忠孝に励んだ。しかし、広常が謀叛の疑いで殺害されたことで、血縁にある自分にも類が及ぶことを恐れて蓄電してしまった。ところが、広常の無罪が判明し、一族も名誉を回復したことで、その中でもとくに功績のあった高春は「本知行所領」を元の如く領掌することを申し含めた(『吾妻鏡』寿永三年三月十三日条)。尾張国の豪族である原氏が広常とどこで接点を持ったがは不明ながら、『良峯氏系図』によれば、高春の父・原大夫高成は「従五位下」「上総守」であり、常澄は高成に娘を嫁がせて血縁関係となったのだろう。
+―畠山重能―――畠山重忠
|(畠山庄司) (次郎)
|
秩父重弘――+―娘
∥――――――胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼
∥
●平常長――+―平常兼―――千葉常重―――千葉常胤
(上総権介)|(下総権介)(下総権介) (下総権介)
|
+―平常晴―――平常澄――+―平広常―――+―平能常
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) |(小権介)
| |
| +―――――――女
| ∥
| ∥
| 平時信―――+―平時忠―――平時家
|(兵部権大輔)|(権大納言)(右近衛権少将)
| |
| +―――――――平時子
| (二位尼)
| ∥
| ∥
| 平忠盛―――平清盛
| (刑部卿) (太政大臣)
| ∥
| ∥―――+―平忠度
| ∥ |(薩摩守)
| 原高成 ∥ |
|(上総介) ∥ |【鶴岡八幡宮寺宝蔵坊主】
| ∥―――――+―女 +―義慶
| ∥ | (武蔵阿闍梨)
| ∥ |
+―女 +―原高春
(大夫)
広常の願文が納められた玉前神社の南西、東漸寺谷とよばれる谷地に建立された真言宗寺院・東漸寺には開基の広常の位牌が祀られている。法名は東漸寺殿佛肝悟心大居士。