千葉新介重胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?) 手白髮郎女(???-???)
欽明天皇(???-571) 石比賣命(???-???)
敏達天皇(???-585) 比呂比賣命(???-575)
押坂彦人大兄(???-???) 糠代比売王(???-664)
舒明天皇(593-641) 斉明天皇(594-661)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1583-1633)
千葉俊胤
(1588-1639)
千葉定胤
(1617-1649)
千葉知胤
(1622-1685)
千葉英胤
(1659-1730)
千葉紀胤
(1704-1770)
千葉宗胤
(????-1807)
千葉倚胤
(????-1841)
 
江戸期の千葉家
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千葉重胤 (1583-1633)

生没年 天正11(1583)年5月1日(『千葉伝考記』)~寛永10(1633)年6月16日
幼名 千鶴丸、亀王丸、亀若丸
父 千葉介邦胤
母 ひがし(新田岩松満治郎守純女子)
妻 ー
官位 ー
官職 ー
役職 ー
所在 下総国印旛郡佐倉
法名 仁性院殿光常真覚大禅定門
月光常心大禅定門(勝胤寺宝篋印塔銘):寛永十癸酉年六月十六日
墓所 日輪寺(位牌所。神田山日輪寺?)
海上山海隣寺(遺骨を埋葬)
親族 【姉】女子(千葉介直重室)
【弟】鏑木式部俊胤(千葉権之助俊胤)

 千葉氏二十六代。千葉介邦胤の嫡男で、母はひがし(新田岩松満治郎守純女子)。幼名は千鶴丸、亀王丸、亀若丸。法名は長胤。

 生年については、髙橋健一氏『芳桂院 ー戦国期東国の一女性とその周辺ー』に詳しい。『千葉大系図』には天正4(1576)年の誕生とあるが、『千学集抜粋』によれば、天正13(1585)年に父・邦胤が亡くなった際には十二歳の娘と三歳の御曹司がいたとある。逆算すると、邦胤長女が生まれたのは天正2(1574)年、御曹司が生まれたのは天正11(1583)年となる。これは新田岩松家の史料に「天正十八年小田原陳ノ時重胤纔ニ六歳」(『新田岩松之系図附録』)とあることからも裏付けられる。北条氏政娘の邦胤妻(芳桂院殿)については、天桂山隆祥寺(佐倉市山崎)の過去帳には天正8(1580)年5月30日に亡くなった(髙橋健一氏『芳桂院』ー戦国期東国の一女性とその周辺ー)とあり、本佐倉城下の勝胤寺に残る宝篋印塔にも「貞室隆祥大禅定尼」「于時天正八年庚辰黄梅晦日」が刻まれていることから、芳桂院死去は前記通りで間違いないだろう。つまり芳桂院殿は「御曹司」が生まれるより三年前に亡くなっていることになる。同じくこれは『千葉伝考記』に見える「千葉新介平邦胤は、始めは北條相模守氏政の婿たり、北條の息女は、一女子を産みて、早世し、其後、岩松治部大夫姉を娶る、此腹に男子あり、新介重胤といふ」(『千葉伝考記』)とも一致している。

●『新田岩松之系図附録』

第十七代
新田治部太輔守純童名満次郎母ハ梁田中務少輔カ女老後破瓢斎ト号ス、元和三年二月九日行年八十五ニシテ逝去、法名大空院殿乾泰元亨大居士
…
始如意山普門寺ニ葬ル、后良田山長楽寺ニ改葬、其一男新田靱負清純母ハ簗田中務少輔カ女早世、二ハ女子下総国佐倉ノ城主千葉新介邦胤ノ妻ニシテ一男子同新介重胤ヲ生ム、父邦胤ノ死後天正十八年小田原陳ノ時重胤纔ニ六歳、邦胤ノ後室、
私云後室ノ父守純六代ノ先キ治部太輔満純、上杉入道禅秀ノ娘ヲ娶リ千葉介満胤ト相聟三家一味シテ応永ノ大乱ニ及び鎌倉ニ於テ各滅亡、其后満純公ノ一子二郎孤トナリ世良田長楽寺ニ隠レテ出家比叡山ニ登リ青蓮院殿ニ随身后、青蓮院御還俗義教将軍ト申奉ルノ日、同還俗初メ新田二郎長純后三河守家純ト称ス程無ク永享十二年鎌倉持氏御退治ノ時上杉兵部太輔房顕、新田三河守家純両将ニハ汝等ガ親ノ敵ナリト普光院殿ノ命ヲ蒙リ関東エ下リ結城戦場ノ武功有テ再ヒ家ヲ興シ賜フ以来千葉、上杉、新田ノ三家因ミ深ク代々重縁ヲ結ヒ来ルト云伝フ
是ヲ携ヘ三千ノ兵ヲ曳テ、彼城ノ後詰トシテ湯ノ山ニ籠ル
私云、重胤此時浪人后佐倉ノ城主土井大炊頭ニ養レ死ス、母ハ后 崇源院殿ニ仕ヘテ東ノ局ト称ス

 天正13(1585)年、父・邦胤が殺害されると、千葉家内はその惣領家相続について意見が分かれた。邦胤の遺児・千鶴丸は当時三歳の幼児であり、南北に敵を抱える中での相続は危険を伴った。さらに小田原北条家との対立することは現実的ではない中、家老の原豊前守胤長は北条家に千葉惣領家の後見、実質的な統合を打診したとみられる。しかし、これに強硬に反対したのが東部中枢の森山城主である原若狭守親幹であった。結局、北条氏が下総国に侵攻する姿勢を見せたことから親幹は屈服し、これまで通り千葉家と北条家を繋ぐ奏者の地位を保証された。そして、千葉惣領家は北条氏政の七男で邦胤前妻の弟・北條七郎直重が邦胤女子(直重姪)を娶り、千葉介直重として入嗣する。

 直重の妻となった千葉介邦胤の娘(千鶴丸の異母姉で直重実姪)は当時十二歳で、天正13(1585)年12月に完成した鹿島城(現在の佐倉城南隣)に入っており、三歳の千鶴丸もこの地にいた可能性があろう。元佐倉城には原豊前守胤長・原大蔵丞邦長父子が家老として宗家を支え、東総の中心拠点・森山城には、原若狭守親幹・原大炊助邦房が入って常陸国の常陸大掾氏や佐竹氏と対峙していた。

所領
戦国末期の下総国

 天正14(1586)年、小田原北条氏の当主・北条氏直の舅である徳川家康が上洛して関白・豊臣秀吉に臣下の礼を取り、さらに秀吉が発布した「関東惣無事令」を受け、北条氏は秀吉への礼のために上洛をちらつかせながら、支配下の大名との結束を固めるために諸豪族たちとの関係強化に努めた。これらは天正10(1582)年以来の北条家の基本方針の一環と見られるが、対千葉家についても天正13(1585)年の千葉介邦胤横死ののち、小田原北条氏の支援を期待する佐倉常駐の原豊前守胤長と、北条氏の支援に反発する森山城主・原若狭守親幹の両巨頭の激しい対立にともなう内紛に軍事介入して親幹を屈服させ、千葉介邦胤の娘と北条七郎直重(北条氏政の七男)の婚姻によって、直重を千葉介として継承させている。

 こうした中、秀吉から要請されていた天正16(1588)年4月の聚楽第行幸への列席を拒絶したことで、秀吉からの北条家に対する印象は劇的に悪化したものと思われる。これに秀吉は北条家当主氏直の舅である徳川家康に対して然るべき人物の出席を再度打診するよう命じられたとみられる。これに応じた家康は氏直に対して三ヶ条の起請文を送達した。この起請文はやや難解な部分があるが、第一条としては「家康が」秀吉の前で父子の事を悪様に言わないこと及び北条家分国を望まないことを起請する。ところが第二条と第三条は「北条家が」と主語が変わる。第二条は「北条家が」今月中に「兄弟衆」の誰かを上洛させて秀吉に御礼を申上げること(「御礼」とは「臣従の御礼」を取ることか)、第三条は出仕しなければ「家康娘」を戻すことを起請するものである。いずれも秀吉からの指示を明文化したものであるために、それによって一枚の起請文に主語が異なる起請になったのだろう。

●『那智瀧宝印起請文』(『韮山町史』『鰐淵寺所蔵文書』)

 敬白 起請文
一 其方御父子之儀、於 殿下御前、悪様申なし、侫人之覚悟を構へ、御分国中毛頭不相望事
一 今月中、以兄弟衆、京都へ御礼可被申上事
一 出仕之儀、於無納得者、家康娘可返給事
(中略)
部類眷属神罰冥罰可罷蒙者也、仍起請文如件

 天正十六年
  五月廿一日   家康(花押)

   北条左京大夫殿
   北条相模守殿

 ここまで譲歩した秀吉に対し、北条家側も「兄弟衆」のひとり、美濃守氏規の上洛を決定。その上洛費用の予算立てを行い、支配下の諸将に分割賦課させている。こうした予算化に時間がかかったためか氏規の上洛は遅延しており、7月14日に家康から早々に上洛するよう催促状が届けられている。

●天正16(1588)年7月14日『徳川家康書状案写』(『韮山町史』『書上古文書』)

濃州上洛依遅延、重而其方差越候、一刻も早く被上候様可申事肝要候、此方逗留中上洛候へ者、仕合可然候間、其通能々可申、若於相延者、先可帰国候、委細日限待入候也

  七月十四日      花押(家康)
         朝比奈弥太郎とのへ

 これを請け、氏政は氏規を上洛の途に出立させ、その途次、浜松城に立ち寄った際に家康被官の榊原式部大輔康政が出迎えて合流し、連れ立って8月17日に上洛を果たし、8月22日に秀吉に謁見している。

 翌天正17(1589)年2月、板部岡江雪斎が代官として上洛、この際に、懸念となっていた真田領沼田について国境を明確にすることとして、「当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請一札進上候、依之被差遣津田隼人正、富田左近将監、沼田被渡下候」(『北條文書』:『韮山市史』)とあるように、「氏政、氏直上洛可仕約束あるに依て、津田隼人正、富田左近将監を下し、沼田を小田原へ渡し給る」(『北条記』)と決定された。ただし「沼田の中、那久留美は真田代々の墓所なれは真田に可給、其外は北条支配あるへき由被仰付所也」と、名胡桃は真田家の故地であるため真田安房守昌幸へ給う旨の例外規定も定められた(『北条記』)。北条氏へ渡される分に相当する「替地者、家康より真田ニ可相渡旨、被成御究」た(『北条文書』:『韮山市史』)。こうして、国境の儀も秀吉の譲歩によって決定され、12月上旬に約束された氏政の上洛を待つのみとなる。一方で、北条氏は天正17(1589)年4月、「書を重胤に送りて諭すに、軍事あらん事を以ってせらる」(『千葉伝考記』)とあるように、秀吉勢との間で軍事的衝突がある可能性を示唆したという。ただし、このときの千葉介は氏政の子・直重であるため、直重への文書となるか。

 この国境決定に伴って鉢形城の北条安房守氏邦が沼田領を領収し、被官猪俣能登守邦範が城代として入城した。ところが猪俣は「那久留美計手に不入事、思へは無念也とて、則なくるみの城を攻取、真田か衆を追出し、沼田一円に北條方へ知行す」という名胡桃攻め事件が起こったことで秀吉は激怒。秀吉と北条氏の決裂は決定的なものとなった。弁明の使として石巻右馬允康昌が上洛するが、秀吉は石巻を捕らえて押し込め、「明年小田原発向之由」を指示したという(『北条記』)。そして11月24日、秀吉は「北条左京大夫との」へ対し、「不可不加誅罰」を通告した(『北條文書』:『韮山市史』)。

●天正17(1589)年11月24日『豊臣秀吉印判状』(『北條文書』:『韮山町史』)

…(前略)…
然處、氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺言、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅罰、来歳必携節旄、令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也

 天正十七年十一月廿四日
           北条左京大夫とのへ

 この文書は「北条方へ如此以一書被仰遣候間、其方ヘモ写ニ加朱印被遣候、何方ヘモ可被為見候、北條此返事申上候ニ付而、其墨付可有進上候」(『武家事紀』)と、秀吉から「駿河大納言殿」を通じて小田原へ遣わすよう指示がなされている。家康からの私信も含めて送られた印判状で秀吉の激しい怒りを知った北條氏直は「御腹立之御書付、誠驚入候」と驚き、12月7日に弁明の使者を「富田左近将監殿」「津田隼人正殿」に遣わしたが、秀吉はもはや取り合わなかった。これと同日、氏直は「陣触虎印判状」を諸将に発給し、京勢の来襲に備えて準備を整えておくことを指示している。

●天正17(1589)年12月7日『陣触虎印判状』(『平岡文書』:『韮山町史』)

 一 関東表為仕置可為出勢間、可修支度候、去度以来労兵之儀、誠雖痛入候、可油断非時節候條、有勘弁人数之儀、厳密ニ可被調儀、可為専一候事
一 日限等重可申出事
一 年内日数無程候間、定可為越年候事
一 武具之奇麗、於此度者不可入候、畢竟陣を続候様ニ支度肝要之事
一 普請道具可被為持事
   已上
右、五ヶ条之趣有分別、可被入精候、仍如件

  十二月七日 □(虎朱印/禄壽應穩)
    清水太郎左衛門殿

 北条方では秀吉のあまりの激怒に困惑しつつも、来襲に備える手はずを整える一方で、どうにか東征軍の派兵を回避するために、同年12月9日、駿府城の家康に諸所弁明と取り成しを依頼した。それは当主氏直からの「御腹立之御書付、誠驚入候、可有御勘弁事、右之趣、御執成所仰候」(天正十七年十二月九日「北条氏直書状写」『武家事紀』)という歎願書のほか、大殿氏政からも「抑今度之様子、案外至極」として「可然様御執成専要候、何篇ニも氏直無表裏所、分明ニ可被仰立事、年来之筋目、此節ニ候、悉皆貴老可有御指引候」との書状が送達されている(天正十七年十二月九日「北条氏政書状写」『武家事紀』)。さらにこれに加えて、家康とは今川家の人質時代以来の幼馴染の北条氏規が「可然様御取成所仰候、可得御意候」(天正十七年十二月九日「北条氏規書状写」『古証文』)と依頼するなど、切実なものであった。ところが、当の家康はすでに秀吉の招請に応じて在京しており、嘆願書が家康のもとに届くことはなかったのである。

 一方、家康は小田原攻めが決定される以前に「大神君、密使を重胤に通じて宣はく」として、

今四海悉く秀吉の麾下に帰せり、顧ふに夫れ、重胤は北條の姻家たりと雖も、時運を察して家を全うするの計略なくんばあるべからず

と厳命したという(『千葉伝考記』)。ただ「重胤は幼年たるが故に、一族家臣等相寄りて相談せしむと雖も衆議一決せず」(『千葉伝考記』)という状態にあった。これはかつて邦胤が信長の使者に対して「事荒く返答なし給ふ事など思ひ出し、彼是と延引」していたためという(『千葉伝考記』)。

 このような中、天正17(1589)年12月5日、臼井城主の原式部太夫胤栄が三十九歳の若さで亡くなった(『本土寺過去帳』)。臼井城には原胤栄の嫡男・原吉丸がいたが、当時わずか三歳であったことから、千葉家宿老の原大炊助邦房が森山城から城代として管理することとなり、邦房の手勢が入ったと思われる。

●『北条家人数付』(『毛利家文書』)

…
         相州
一 千葉介   さくらの城   三千騎
一 原大炊介  臼井城     弐千騎
…

 天正18(1590)年3月、「氏政、頻に質を請ふ、是故に止むを得ずして母堂岩松氏女を、小田原の城に納れ」(『千葉伝考記』)たとあるように、千葉氏方は先の「神君の命を肯じ奉らず」に「一家族を率して小田原に到りて、湯本口に屯す、其兵八千」(『千葉伝考記』)という。このほか「天正十八年小田原陳ノ時重胤纔ニ六歳、邦胤ノ後室、是ヲ携ヘ三千ノ兵ヲ曳テ、彼城ノ後詰トシテ湯ノ山ニ籠ル」(『新田岩松之系図附録』)とも見え、重胤生母が六歳の重胤を伴い三千の兵を率いて小田原城の後詰湯ノ山に入ったともされる。なお、「千葉殿氏直弟也」は「湯本口」ではなく、その北隣の要衝「水ノ尾口」を守衛して宇喜多勢と対峙(『小田原陣仕寄陣取図』「毛利家文書」)しており、重胤を擁する一族家臣勢と千葉介直重の佐倉勢は警衛場所が異なっていた(南北に別指揮系統)可能性がある。

小田原城
小田原城

 このころ、秀吉が率いる小田原攻めのための関東仕置軍が京都を出立。秀吉自身は3月1日に離京して東海道を下り、4月5日に箱根湯本の早雲寺に本陣を構えた。そして小田原城とは早川を挟んだ向かいの笠懸山の山上に城を築き、小田原城を望む形で対峙した。秀吉勢は公称総勢二十万。その軍勢の規模は小田原側の想像をはるかに超えており、小田原沿岸部にも九鬼や加藤氏の水軍が陣を構えて制海権も掌握されてしまう。

 千葉重胤のもとには「其兵八千、重胤幼年たる故、一族たる押田与一郎吉正、押田庄吉胤友、原能登守胤次、原平四郎胤秋等、兵士を指揮せり」(『千葉伝考記』)と伝わる。さらに、「此時先づ邦胤の舎兄千葉刑部少輔清胤といふ者あり、故ありて千葉の家督を継がず、隠居して御房上と人称しけるが、重胤若年にして伯父の事なれば、此湯本口へ出で指事ありけるが、五月十三日討死せり、號南叟清薫大居士」(『千葉伝考記』)という。邦胤兄としての千葉清胤の実在は定かではないが、子孫とする家は一色氏を称している。明

 こうしたなかで、秀吉は北条氏政に降伏勧告を突きつけるが、北条側はこれを拒否して徹底抗戦の構えを見せたため、秀吉は長期戦に備えて付近の住民に笠懸山の城内に店を出すことを許し、諸将たちにも京都から妻子を連れてくることを許可し、自身も愛妾・淀の方を呼びよせた。

 こうした長期戦に備える一方で、豊臣勢は関東各地に点在する北条方の諸城を次々に攻略。4月23日には北条水軍の拠点である伊豆下田城が陥落。同年5月22日、上野国の北条方の要衝・館林城が陥ち、ついで武蔵国の要衝河越城、松山城、岩槻城が次々に落城。千葉氏の居城・佐倉城も5月2日ごろに開城したと伝わり、徳川家の内藤弥次右衛門家長が接収している。佐倉城より西にある臼井城もそれ以前に降伏していたと想定される。5月には小弓に「御在番」として「一橋兵助殿(市橋長勝)」が入っており、すでに接収が終わっている。小弓原氏の重臣らは菩提寺・大巖寺住持の安誉虎角(家康と旧知)と戦後の原氏の取り扱いについて協議し、5月19日に安誉虎角から徳川家年寄・酒井忠次へ書状が遣わされている。このことからも、佐倉城と臼井城は5月上旬までには開城していたことがわかる。佐倉城の落城により、千葉介常胤以来四百年、二十五代にわたって房総の大名として君臨した千葉氏は、その拠点を失って滅亡した。

 7月5日、小田原城開城にともない、重胤らは小田原を退去して浪々の身として十数年を過ごしたようである。その間は下総国の旧臣の扶助を得て生活をしていたのかもしれない。その後、重胤の母・岩松氏が将軍家御台所の於江与の方(崇源院)に仕え、「東の局」と号した。

●「千葉後室東殿の事」(『千葉伝考記』)

千葉邦胤の後室は千葉家も絶え岩松家も衰微に付き、両家の願として台徳公の大御台様へ御奉公に出てらる、御年寄に東西南北の四女あり、是に於て東の方になり東殿と號し、一年余り相勤むるの所に、大御台様、寛永三丙寅年九月十五日、ご逝去遊ばさるゝに付きて、東の方浪人し、御扶持方を給はり、且つ江戸長谷川町に町屋敷ありて此處に居住せられける、其子新介重胤は佐倉出奔の後、浪々して往くべき方もなくして此所に来り、母と一所に居し入道して直に重胤と名付く、其頃新介諱を長胤といふは非なり、重胤と號す、長胤は鏑木権太郎諱なり

●「岩松家」(『寛政重修諸家譜』)

+─清純
|   太郎 靱負
|   某年三月九日下総国佐倉にをいて千葉新介邦胤かために害せらる
|
+─女子
|   千葉邦胤に嫁しのち崇源院殿につかへ東の局と称す
|
(以下略)

●新田岩松氏系図 

 岩松尚純──岩松昌純===岩松氏純──岩松守純───+─岩松清純…千葉介邦胤に佐倉城内で討たれる。
(治部大輔)(治部少輔) (治部大輔)(治部大輔)  |(靫負)
                           |
                           +─女子【東の局】
                           |(千葉介邦胤室)
                           |
                           +─岩松豐純────────…【旗本・岩松兵庫家】
                           |(治部少輔)
                           |
                           +─脇屋純俊
                           |(主税介)
                           |
                           +─脇屋宗度
                           |(相馬長門守義胤の家臣)
                           |
                           +─脇屋重政────────…【旗本・岩松一太郎家】 
                            (庄左衛門)

 重胤も母の縁で召されることとなり、常陸国宍戸郡内に二百石を与えられたが、この地が殊のほかに荒地であり資金もないため難儀である旨を、おそらく母の口から御台所に訴えたのだろう。御台所は替地を賜る代わりにまず拝領地を返上すべきと本多佐渡守正信・土井大炊頭利勝の両老職をもって重胤に伝えた。重胤もこれに応じて拝領地を返上するが、直後に御台所(崇源院殿)が亡くなってしまったことから、宍戸の替地の話も立ち消えとなり、重胤の千葉家再興の願いは断たれてしまう。

●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』

私先祖千葉之介下総佐倉居城仕候、天正八年太閤小田原攻伐時、高曽祖長胤幼名重胤俊胤共ニ氏直江加勢仕候、小田原没落之砌り、長胤俊胤儀  権現様以御憐愍亡命之儀被為遊御救候、此時佐倉之居城者内藤弥右衛門江相渡、浪々之身に罷成候ニ付、長胤母ひがしと申者、新田岩松満治郎御姉ニ御座候、則 大徳院様江被為召出御奉公仕候、就夫従 崇源院様長胤も御憐愍被為遊遂、御上聞ニ常陸国於宍戸郡二百石長胤ニ被下置候処、殊之外ノ荒地ニ而無足ニ御座候故ニ難儀仕候段、奉願上候処ニ、 崇源院様本多佐渡守殿、土井大炊頭殿を以長胤方江御内意被為仰付候者、右之替地達御上聞ニ可被下置候間右之拝領地、先差上置候様ニ遂御内意候ニ付、則右拝領地差上置申候、然処 崇源院様御逝去被為遊且又 台徳院様御他界被為遊候尤ひがし儀
 台徳院様 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候
 大融院様
曽祖父権之助俊胤儀者、長胤弟ニ御座候処ニ 権現様、御憐愍ヲ 万千代様作倉城江御入部被為遊候砌り被召出御奉公仕候処ニ、慶長九年 万千代様於水戸ニ御逝去被為遊候故、俊胤浪人仕候、然処兄長胤相果候、則実子無御座候ニ付養子ニ罷成、千葉権之助与改申候処、後右之替地之儀松平伊豆守殿ニ相談御訴訟申候処、俊胤子祖父平助正胤儀病身ニ御座候故、御公辺難勤御座候間奉願上候儀相延罷在候、正胤子私親権之助儀相続上野御救帳、又は大久保加賀守殿、稲葉丹波守殿ニ御願申上候并増上寺御救帳ニ相訴奉願上候、殊増上寺開山酉譽上人ハ、私先祖千葉之介氏胤之八男ニ御座候、此筋目ニ付代々方丈江出入仕来り候依之御救帳ニ別而御願被下候

瑞春院様御母公高覚院様御父靍牧茂右衛門様千葉一族ニ而御座候間、元禄十一年御系図私方ニ而為遊御調瑞春院ニ差上置申候、右願上候通リ、被為下置候宍戸百石差上候以来浪々之内、替地奉願上候尤、 権現様以御憐愍ヲ私先祖亡命之儀被為遊被下置候ニ付、私共迄其末相続遂候得共、永々浪々之身故唯今ハ至極私世今日難立仕合ニ罷成、家名断絶仕数十年来御祈訟此節空ク仕、民家ニ罷成候儀、残念至極ニ奉存候ニ付、此度乍恐以願書御慈悲奉願上候者、右宍戸拝領地指上候御儀ニ御座候得者、少々分ニ而者被召出家名相立候様ニ乍恐御慈悲奉願上候 以上

    享保十一年未十月十一日          千葉権之助

 重胤の母・東の局も御台所の逝去を機に老女を引退し、江戸長谷川町(中央区日本橋堀留町)に拝領した屋敷に住んで禄を給わり、重胤とともに暮らしたという。一方で千葉家中の原家、酒井家、高城家、鏑木家らは徳川家直臣や大名家への仕官に成功している。

 重胤はどこへも仕官することなく、寛永10(1633)年6月16日、江戸で亡くなった。享年五十八。法名は仁性院殿光常真覚大禅定門。遺骸は江戸の海善寺で荼毘に伏され、位牌は日輪寺(神田山日輪寺か。千代田区大手町の将門首塚周辺にあった将門由緒の寺院。明暦の大火後に西浅草に移転した)に納められた。遺骨は老臣・古川左兵衛が下総国佐倉に移設された海上山海隣寺に納めたという。また、本佐倉城下の印旛沼を望む浜宿にある勝胤寺には「月光常心大禅定門」の宝篋印塔があり、その銘に「寛永十癸酉年六月十六日」とあることから、重胤の供養塔とみられる。

千葉重胤(千鶴丸)の相続問題

 北条氏政の七男・千葉七郎直重の家督相続は、千葉氏内での大きな内紛に発展し、北条氏当主・隠居が乗り出すほどの大事となっていた。北条氏にとって秀吉との関係悪化の中で下総衆の取り込みは必須条件であり、北条氏は千葉介邦胤の死にともなって千葉宗家の乗っ取りを考えたのだろう。下図は天正13(1585)年の千葉氏の家督相続にともなう一連の出来事を時系列にまとめたものである。

天正13年 出来事
5月3日 千葉介邦胤、29歳で死亡。
8月27日 氏政、原親幹に真意を糺す。
9月8日 氏直、原胤長に下総出兵を示唆。
11月10日 氏直、下総に出陣。
11月16日 氏邦・小幡縫殿助、松戸に着陣か。
11月下旬 親幹、山角紀伊守に帰順する書状を送る。
11月22日 北条氏、佐倉城南に鹿島城の築城着工。
11月25日 氏政、親幹(若狭入道殿)に宛て書状。
11月28日 氏直、中山法華経寺に寺領安堵状。
12月3日 鹿島城、普請成就。
12月10日 氏直、小幡兵衛尉に佐倉普請の終了の書状。
12月12日 鹿島城の普請、すべて終了。
12月15日 鹿島に邦胤娘・邦胤妻(新田氏)入城。

 邦胤には十二歳になる娘と三歳の千鶴丸(重胤)の子があり、親北条派である原豊前守胤長・原大蔵丞邦長・海保丹波守らは、この乱世で現実的ではない幼児千鶴丸の相続ではなく、邦胤娘に七郎直重(氏政七男)を迎えて家督を継がせようとした。しかし、これは事実上北条氏による千葉家の併合であり、鎌倉以来下総国主として続いた千葉家の血筋を絶やすことになる。これに反発したのが森山城の原若狭守親幹・原大炊助邦房父子であった。

 原若狭守親幹は、佐倉宿老の原豊前守胤長とともに千葉介胤富の代から家老職を務め、森山城将としておもに香取海沿いから東総方面の軍政を担当していた人物である。天正3(1582)年、香取郡の国分兵部大輔が香取郡木内庄内に乱入したときには、親幹は瞬く間に木内庄を制圧して国分勢を追い払い、その功績によって木内庄小見川郷内に所領を給わっている。天正12(1584)年には、千葉介邦胤とともに東庄の東大社に大般若経を納めるなど、東総の千葉家旗頭を務めていた実力者であった。

 親幹は千葉介邦胤亡きあとも、北条氏の介入に反抗。天正13(1585)年8月27日には、北条氏政みずから親書を親幹に送って恭順を求め、さらに森山城将「海上孫四郎」の補佐を命じる一方で、親幹の真意を糺すと同時に「自分と親幹とは久しい知り合いの間柄ながら、一向に見限っている体は少なからず疑心を抱いているが、これまでも柔和に対応してきたので、今回もそのようにする。正直に返答されるよう、もはや過去にはとらわれない」と、なんとしても親幹を懐柔しようとする心がうかがえる書状を送っている。しかし、親幹はこれにも従わなかった様子で、当主・北条氏直は下総出陣を決定。9月8日には、佐倉の原豊前守胤長に対して、自分が出陣する以前に兵が必要であれば、一手も二手も送る用意があるので知らせるようにとの書状を送っている。

佐倉城遠景
本佐倉城の主郭部分

 11月10日、氏直直々に下総へ出陣。11月16日には叔父の北条氏邦の先鋒・小幡縫殿助が下総国松戸郷に入った。このころ、下総各所の下総衆たち(臼井原氏・高城氏・井田氏ら)には北条氏重臣の名で掟書が発給され、11月28日には中山法華経寺に氏直の名で寺領安堵状が発給されている。その後、氏直は本佐倉城に入城した。

 この時、親幹がどこにいたかを記載している書状は遺されていないが、天正13(1585)年(と思われる)正月19日、千葉介邦胤が亡くなる直前の書状には、森山城の「原大炊助・安藤備中守・石毛金右衛門」にあてた朱印状が遺されており、森山城には親幹の嫡男・原大炊助邦房があったことが確認でき、親幹も森山城にあったのかも知れない。

 親幹は氏直が佐倉城に入る前後に恭順したと思われ、佐倉領を担当している北条氏の重臣・山角紀伊守定勝に帰順の意を示した文書を送り、定勝はこれを氏政へ送って、11月25日、氏政は「懇意先以喜悦候」と歓迎する書状を親幹に宛てて送った。その中には「原豊前(胤長)」と協力することが指示され、氏直への取り成しもなされた。この書状の宛名は「原若狭入道殿」となっていることから、恭順にともなって出家したことが察せられる。こうして氏直が出陣するほどの下総最大の内紛は収束し、千葉家は北条家に吸収されてしまい、北条七郎直重が家督を継承して、下総国主たる千葉介家は事実上滅亡した。


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