継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | 顕宗天皇元(485)年~丁未(527)年4月9日(『古事記』) ?~継体天皇28(534)年甲寅(『日本書紀』継体紀) ?~継体天皇25(531)年辛亥(『日本書紀』継体紀:取百済本記為文) |
父 | 汗斯王(『釈日本紀』「上宮記一云」) 彦主人王(『日本書紀』) |
母 | 布利比彌命(『釈日本紀』「上宮記一云」) 振媛(『古事記』『日本書紀』) |
妃 | 名若比売(三尾君等の祖) 目子郎女(尾張連等の祖・凡連の妹)⇒安閑天皇・宣化天皇の生母 手白髮命(意祁天皇の御子)⇒欽明天皇の生母 麻組郎女(息長真手王の女) 黒比売(坂田大俣王の女) 倭比売(三尾君加多夫の妹) 阿倍之波延比売 |
宮 | 伊波禮之玉穗宮(『古事記』) |
御陵 | 三嶋之藍御陵(『古事記』) |
父は汗斯王(『釈日本紀』「上宮記一云」)、彦主人王(『日本書紀』)。母は布利比彌命(『釈日本紀』「上宮記一云」)、振媛(『古事記』『日本書紀』)。御諱は乎富等大公王(『釈日本紀』「上宮記一云」)、袁本杼命(『古事記』)、男大迹天皇(『日本書紀』)、彦太尊(『日本書紀』)。
伝によれば「凡牟都和希王」の五世孫(『釈日本紀』「上宮記一云」)、「品太王五世孫」(『古事記』)、「誉田天皇五世孫」(『日本書紀』)と、応神天皇の五世孫という出自と伝わり、「近淡海国」(『古事記』)に降誕したという。
具体的には父の彦主人王(汗斯王)が「自近江国高嶋郡三尾之別業」にいたときに、美人と噂のあった「振媛」を「遣使聘于三国坂(中)井」して迎えて生まれたとされる(『日本書紀』)。この父・彦主人王(汗斯王)の伝は『古事記』には記載がなく、『日本書紀』は「上宮記一云」として伝わる『古事記』を遡る古記録『上宮記』(現在散逸)の「汗斯王坐弥乎国高嶋宮時、聞此布利比弥命甚美女、遣人召上自三国坂井縣、而娶所生、伊波礼宮治天下乎富等大公王也」という記述を引用したものであろう。母の「布利比彌命(振媛)」も「近淡海国」に土着していた「伊久牟尼利比古大王(伊久米伊理毘古伊佐知命:垂仁天皇)」の末裔と伝わる。
●『古事記』および『釈日本紀「上宮記一云」』より
其大國之淵――弟苅羽田刀辨
∥
∥―――――――――――――+―伊波都久和希―伊波智和希―…布利比彌命―乎富等大公王
∥ | (継体天皇)
∥ |
∥ +―布多遲能伊理毘賣命
∥ ∥
伊久牟尼利比古大王 ∥
(垂仁天皇) ∥
∥ ∥
∥――――大帶日子淤斯呂和氣命 ∥―――――――――――帶中津日子命
∥ (景行天皇) ∥ (仲哀天皇)
∥ ∥ ∥ ∥
旦波比古多多須美知宇斯王――氷羽州比賣命 ∥ ∥ ∥―――――――凡牟都和希王
∥ ∥ ∥ (応神天皇)
∥――――――――倭建命 息長宿禰王――息長帶比賣命 ∥
∥ ∥ (神功皇后) ∥―――――――+
∥ ∥ ∥ |
若建吉備津日子――名針間之伊那毘能大郎女 ∥――――息長田別王――咋俣長日子王――息長真若中比売 |
(吉備臣等の祖) ∥ (弟比彌麻和加) |
妻 |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―若野毛二俣王
∥
∥ 伊自牟良君――――――久留比彌命
∥ (牟義都國造) ∥
∥ ∥
∥――――――――――+―大郎子 ∥
∥ |(意富富等王) ∥――――――――――――――――――――――汗斯王
∥ | ∥ ∥ ∥
母母思已麻和加中比彌 | ∥――――――――――乎非王 ∥
(百師木伊呂弁) | ∥ ∥
| 中斯和命 ∥――――乎富等大公王
| ∥ (継体天皇)
+―踐坂大中比彌王 ∥
| ∥
| ∥
+―田宮中比彌 阿那爾比彌 +―布利比彌命
| 【余奴臣祖】 |(振媛)
| ∥ |
+―布遲波良已等布斯郎女 ∥―――――+―都奴牟斯君
∥ (三尾角折君?)
伊久牟尼利比古大王―伊波都久和希―伊波智和希―伊波己里和氣―麻和加介―阿加波智君―乎波智君
(垂仁天皇)
「天皇既崩、無可知日續之王」と小長谷若雀命(武烈天皇)が後嗣を定めぬままに崩じたため、袁本杼命(乎富等大公王)が「近淡海国」から小長谷若雀命の姉にあたる「手白髮命」を娶り大王を継承したという(『古事記』)。
年は不明だが、乎富等大公王はまず「若比賣」を娶った(『古事記』)。彼女は「三尾君等祖」とあることから三尾君の娘であろう。『日本書紀』においては「三尾角折君妹、曰稚子媛」とみえるが(『日本書紀』)、これは古来伝わっていた「乎波智君、娶余奴臣祖、名阿那爾比彌、生兒都奴牟斯君、妹布利比彌命也」という一節を誤って記載した可能性があろう。
三尾氏は『日本書紀』によれば、垂仁天皇と「山背大國不遲之女」との間に生まれた「磐衝別命」を「是三尾君之始祖也」(『日本書紀』)とする一族で、代々近江国西岸の高島・三尾地方一帯を支配した。また、景行天皇は妃の一人に「三尾氏磐城別之妹、水歯郎媛(景行天皇の姪)」を娶り「五百野皇女」を儲けている(『日本書紀』)。
このように、三尾君は河内国の王権とも関わりを持った有力豪族であったことがわかる。そして、乎富等大公王が生まれ育ったのは、この三尾君の支配下にあった「三尾之別業」であり、母「布利比彌命」の出身氏族もまた「伊波都久和希(磐衝別命)」の子「伊波智和希(三尾氏磐城別)」の子孫である三尾君だったことがわかる(『釈日本紀』「上宮記一云」)。
●乎富等大公王(継体天皇)のキサキ(『古事記』)
名 | 出自 | 子 |
若比賣 | 三尾君等祖 | 大郎子 出雲郎女 |
目子郎女 | 尾張連等之祖、凡連之妹 | 廣國押建金日命(安閑天皇) 建小廣國押楯命(宣化天皇) |
手白髮命(大后) | 意祁天皇之御子 | 天國押波流岐廣庭命(欽明天皇) |
麻組郎女 | 息長真手王之女 | 佐佐宜郎女 |
黒比賣 | 坂田大俣王之女 | 神前郎女 田郎女 白坂活日子郎女 野郎女(長目比賣) |
倭比賣 | 三尾君加多夫之妹 | 大郎女 丸高王 耳上王 赤比賣郎女 |
阿倍之波延比賣 | 阿倍氏か | 若屋郎女 都夫良郎女 阿豆王 |
丁亥歳(507年)正月12日、乎富等大公王(継体天皇)は「樟葉宮」に行き至った。「樟葉」は琵琶湖から河内へ流れる木津川と大和地方から河内へ向かう瀬田川の合流地点に広がる沃野であり、川には「久須婆之度」(『古事記』)とあるような渡しがあった交通の要衝であった。すでに衰退していた河内王権の勢力範囲にも王は積極的に進出したと思われ、百済や半島の使者を留め置く河内の「難波館」を王が利用した様子がうかがえる(『日本書紀』)。
癸丑歳(509)2月、王は「久羅麻致支彌」を百済に派遣した(『日本書紀』「百濟本記云」)。これは当時、百済が長年にわたる高句麗や新羅との戦いで疲弊し、多数の民衆が任那にあった「日本縣邑」に逃れていたため、移住して「三四世」になる者までも「括出」て「遷百済附貫」ために派遣されたものだったようだ。
このような中、辛卯歳(511年)10月に王は「山背筒城(京田辺市多々羅都谷)」に宮を移した(『日本書紀』)。「山背筒城」は王の近親一族である息長氏の勢力範囲に含まれているとみられることから、木津川を下ったツツキにも進出したようである。
さて、百済による任那の日本縣邑に対する要望はさらに続いており、壬辰歳(512年)12月、任那の「上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四縣」を請い、「哆唎国守穂積臣押山」がこれを奏上した。これら四県は「近連百済、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別、今賜百済合為同国、固存之策無以過此、然縦賜合国、後世猶危、況為異場幾年能守」とし、大伴大連金村がこれに同意して奏上。物部大連麁鹿火が勅使として難波館に逗留中の「百済客」に遣わされることとなった。
ところが、物部大連麁鹿火の妻は「為海表之蕃屏、其来尚矣、抑有由焉、縦削賜他違本区域、綿世之刺、詎離於口」であるとしてこれに反対。大連麁鹿火はこれを「教示合理」だが「恐背天勅」として悩んだ。その妻は「称疾莫宣」と諌め、大連麁鹿火は勅使を辞した。これにより、新たに勅使を難波館に立てて百済国へ「依表賜任那四縣」った(『日本書紀』)。
ところが、このことを後で聞いた「大兄皇子」は、驚き慌ててこの宣勅を撤回しようと「日鷹吉士」を「百済客」のもとへ遣わした。しかし、百済の使者は「父天皇図計便宜勅賜既畢、子皇子豈違帝勅妄改而令、必是虚也」と取り合わず、百済国へと帰国した。これは「大伴大連」と「哆唎国守穂積臣押山」が百済国から「賂」を受けていたためにこのような事態になったのだとの流言もあったという(『日本書紀』)。
さらに翌年の癸巳歳(513)6月、百済から姐彌文貴将軍、洲利即爾将軍が遣わされ、「委意斯移麻岐彌」もともに帰国し、五経博士段楊爾が同行して渡来した(『日本書紀』「百濟本記云」)。「委意斯移麻岐彌」は百済国と結託していたと噂のあった「哆唎国守穂積臣押山」に相当するという(『日本書紀』「百濟本記云」)。姐彌文貴と洲利即爾の両将軍は「伴跛国略奪臣国己汶之地」の「還本属」を奏上した。
その後、11月になって、「朝庭」に姐彌文貴将軍(百済国)、汶得至(新羅国)、辛已奚・賁巴委佐(安羅国)、既殿奚・竹汶至(伴跛国)を召して、「己汶、帯沙」を百済国に賜った。これは伴跛国が奪った己汶の地を巡る紛争関係国の在国使者を集めて告げたのだろう。これに対し、既殿奚・竹汶至から「己汶」が百済に渡されたことの報告を受けた伴跛国は、戢支を使者として珍宝を献上し、己汶の地を再度乞うが、王はこれを許さなかった(『日本書紀』「百濟本記云」他)。
伴跛国はこれに反発したか、翌甲午歳(514)3月、城を「子呑、帯沙」に築き、「烽候邸閣」を置いて日本に備えた(『日本書紀』)。さらに伴跛国は兵を集めると新羅国へ侵攻して散々に暴虐を働いたという(『日本書紀』)。
翌乙未歳(515)2月4日、長く百済国の使者として在国していた姐彌文貴将軍等が帰国を奏請したため、天皇は「物部連闕名」を使者として副えて帰国を許した(『日本書紀』「百濟本記云」他)。『百済本記』によれば「物部連闕名」は「物部至至連(物部連父根カ)」とされている。この帰国は伴跛国と対立した百済国と新羅国が協議した末のものであったのだろう。姐彌文貴将軍等と物部至至連は「沙都嶋(巨済島)」へと渡るが、ここで「物部連」は「率舟師五百」いて「帯沙江」へ直詣したが、一方の文貴将軍は「自新羅去」ってしまった(『日本書紀』)。両名は「沙都嶋(巨済島)」までは同道したが、ここで文貴将軍は東の新羅へ向かい、途中で帰国したということか。ただし、物部至至連が「帯沙江」に布陣したのは二か月後の4月であり、その間に何らかの動きがあったと見られる。このあたりの記述は「百済本記」からの引用とみられることから、転載時に詳細な記述は省かれたのだろう。
物部至至連は「沙都嶋(巨済島)」から、おそらく西隣の海南島へ渡り、4月、海南島のすぐ北、伴跛国が城を築いて抵抗する「帯沙」を攻めるべく「帯沙江」の河口付近に布陣したが、布陣して六日後、伴跛軍に敗れて「汶慕羅」という島に逃れたという(『日本書紀』)。癸巳歳(513)6月、「帯沙」は伴跛から百済国に返付するよう指示が出されているが、伴跛による実力占拠が続き、継体天皇16(522)年の百済国による占拠まで伴跛によって支配された。
翌丙申歳(516)5月、百済国は「木刕不麻甲背」を遣わして、物部連等を己汶に迎え、ともに百済へ入った。「己汶」は百済国に割譲された任那の日本縣邑のひとつで、帯沙江の中流域にあり、物部連らは敗戦後に帯沙江を溯って百済へ向かったと思われる。物部連等は9月まで百済国都・熊津(久麻那利)に滞在したのち、百済の使者「州利即次(洲利即爾)将軍」とともに日本へ戻った。王都熊津はもともと「任那国下哆唎縣之別邑」であったが、高句麗による漢城陥落後、遷都したものである。任那地方は日本による支配地域が点在しており下哆唎は日本縣邑のひとつであったが、壬辰歳(512年)に百済へ正式に割譲されている。
百済使の州利即次(洲利即爾)は「己汶」の地を百済国に賜ったことを謝するとともに、癸巳歳(513)6月に引率して来日した「五経博士段楊爾」を「五経博士漢高安茂」に代えることを請い、許された。
さらに百済国は「灼莫古将軍、日本斯那奴阿比多」に「高麗使安定等」を副えて来朝し「結好」んだ。高句麗は前年に百済と交戦していたが、敗れて撤退している。その後、百済と高句麗との間に修好についての協議が行われ、高句麗から日本にも百済使とともに使者が遣わされたものだろう。「日本斯那奴阿比多」はおそらく日本人ではあるが百済王朝に仕えていた人物と思われ、子孫または同族と思われる「斯那奴次酒」は八品官の施徳として欽明天皇五(544)年2月に任那への使者となっている。
戊戌歳(518)3月9日、乎富等大公王は桂川西岸の「弟国(向日市一帯)」にも拠点を広げた(『日本書紀』)。樟葉(枚方市楠葉丘)から山背筒城(京田辺市多々羅都谷)、弟国へと頻繁に居住地を移動させているが、ちょうどこの頃に「弟国」に造営された前方後円墳「物集女車塚古墳」(向日市物集女町南条)は、乎富等大公王を迎えた一族のものと指摘されている。
具体的な年月は不明だが、「此之御世」に「竺紫君石井(筑紫君磐井)」が背き、天皇は筑紫国へ「物部荒甲之大連、大伴之金村連」の両名を遣わして乱を鎮圧する(『古事記』)。この「磐井の乱」については『古事記』に具体的記述はないが、『日本書紀』では「大将軍物部大連麁鹿火」が「筑紫御井郡」で磐井と交戦して「遂斬磐井」ったという(『日本書紀』)。
一方、『釈日本紀』に引かれた『筑後国風土記(逸文)』によれば(筑紫君磐井)として「当雄大迹天皇之世」に「筑紫君磐井」が「豪強暴虐、不偃皇風」となり、「俄而官軍動発、欲襲之間」たところ、磐井は「知勢不勝、独自遁于豊前国上膳縣、終于南山峻嶺之曲」と、豊前国上膳縣に逃げ、さらに南山峻嶺の曲で行方をくらませたとする(『釈日本紀』「筑後国風土記逸文」)。「官軍」は「追尋失蹤」するも発見できず、その腹いせか「士怒未泄、撃折石人之手、打墮石馬之頭」という濫妨を行った。八女市など磐井君らの勢力範囲には石造りの人型や馬型が墳丘等に並べられる風習があり、とくに「官軍」は「上妻縣々南二里」にあった「筑紫君磐井之墳墓(生前に造られた前方後円墳:岩戸山古墳か)」の石人、石馬を破壊したとみられ、岩戸山古墳からは破壊された石人、石馬が発掘されている。
丙午歳(526)9月13日、「磐余玉穂」に遷都したと伝わる(『日本書紀』)。『古事記』では「伊波禮之玉穗宮」とされる(『古事記』)。
丁未歳(527)4月9日、四十三歳で崩御(『古事記』)。御陵は「三嶋之藍御陵」と定められたとされる(『古事記』)。「三嶋之藍御陵」は「太田茶臼山古墳」に治定されているが、この古墳は出土品から五世紀中ごろの造営とみられることから、その至近にある今城塚古墳(高槻市郡家新町)が真陵と推定されている。
なお、崩御の年については『日本書紀』においては、辛亥歳(531)12月5日に崩御とある(『日本書紀』)。ただし、『日本書紀』には、「或本云、天皇廿八年歳次甲寅崩、而此云、廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記爲文、其文云、大歳辛亥三月、師進至于安羅營乞、是月、高麗弑其王安、又聞、日本天皇及太子皇子倶崩薨、由此而、辛亥之歳當廿五年矣、後勘校者知之也」との註があるように、乎富等大公王の崩年は奈良時代においてもすでに諸説あって、著者が決定することができずに後年に解を投げている。
●乎富等大公王(継体天皇)の崩御年
『古事記』 | 丁未歳(527)4月9日、 | 四十三歳 | |
『日本書紀』(「或本」より所収) | 甲寅歳(534)2月 | 『或本』については不明。 | |
『日本書紀』(「百濟本記」より所収) | 辛亥歳(531)12月7日 | 時年八十二 | 「日本天皇及太子皇子倶崩薨」より 『古事記』の「丁未」は歳ではなく日とした |
その死から四年後の「太歳辛亥(531年)」、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」したという伝が百済国に伝わっている(『日本書紀』「取百済本記為文」)。おそらく跡を継いだ廣國押建金日命(安閑天皇)、建小廣國押楯命(宣化天皇)が伝えたものであろう。