武蔵国留守所惣検校職
平良文 (????-????) |
平忠頼 (????-????) |
平将恒 (????-????) |
平武基 (????-????) |
秩父武綱 (????-????) |
秩父重綱 (????-????) |
秩父重弘 (????-????) |
畠山重能 (????-????) |
畠山重忠 (1164-1205) |
畠山重秀 (1183-1205) |
畠山重保 (1190-1205) |
重慶阿闍梨 (????-1213) |
●秩父一族周辺略系図●
【重綱養子】
+―秩父行重――――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
|
|【重綱養子】
+―秩父行高――――――――――小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
|
兒玉経行―+―女子 +―宇都宮朝綱
(別当大夫) (乳母御前) |(三郎)
∥ |
∥ 八田宗綱 +―八田知家
∥ (八田権守) |(四郎)
∥ ∥ |
∥ ∥ +―女子
∥ ∥ | ∥――――――稲毛重成
∥ ∥ | ∥ (三郎)
∥ ∥ | 小山田有重
∥ ∥ |(小山田別当)
∥ ∥ |
∥ ∥―――――――+―女子
∥ ∥ (寒河尼)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥――――――結城朝光
∥ ∥ ∥ (七郎)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ +―小山朝政
∥ ∥ ∥ |(小四郎)
∥ ∥ ∥ |
+―小野成任――∥―――女子 +――――小山政光―+―長沼宗政
|(野三太夫) ∥ (近衛局) | (下野大掾) (五郎)
| ∥ |
| ∥ +―横山孝兼――――――女子 +―法橋厳耀 +―畠山重秀
| ∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
| ∥ | | ∥ | |
横山資隆―+―横山経兼――∥―+―女子 | ∥――――+―畠山重能 +―畠山重光 +―畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥―――――――――秩父重弘 ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ | +―江戸重継―+―女子 +―円耀
∥ ∥ | |(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ | | | |
∥ ∥ | +―高山重遠 +―江戸重長 +―女子
∥ ∥ | |(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ | | | ∥
∥ ∥ | +―女子 +―大田行広 | 島津忠久
∥ ∥ | | ∥ |(太郎) |(左兵衛尉)
∥ ∥ | | ∥ | |
∥ ∥ | | ∥――――+―大河戸行方 +―女子
∥ ∥ | | ∥ (下野権守) ∥
∥ ∥ | | ∥ ∥
∥ ∥ +――|―藤原行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱―+―秩 父 重 綱―――――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
(十郎) |(秩 父 権 守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| ∥ | |
+―女子 ∥ +―妹 +―河越重員
∥―――――――――――+―秩父行重 ∥ (三郎)
∥ ∥ |(平太) ∥
∥ ∥ | ∥
有道遠峯―+―兒玉経行――女子 +―秩父行高 ∥―――――+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫)(乳母御前) (平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+―兒玉弘行――――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平 +―小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
(1164-1205)
畠山庄司重能の二男。幼名は氏王(『源平盛衰記』)。通称は畠山庄司次郎。母は江戸四郎重継女子(『児玉系図』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社)。妻は足立右衛門尉遠元の娘、北条四郎時政の娘(頼朝御台所妹)。兄は庄司太郎重光(『桓武平氏諸流系図』)、秩父武者太郎行俊の養子となった蓬莱三郎経重(左馬允)。
【重綱養子】
+―秩父行重―――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
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|【重綱養子】
+―秩父行高―――――――――小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
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兒玉経行―+―女子 +―宇都宮朝綱
(別当大夫) (乳母御前) |(三郎)
∥ |
∥ 八田宗綱 +―八田知家
∥ (八田権守) |(四郎)
∥ ∥ |
∥ ∥――――――+―女子 +―小山朝政
∥ ∥ (寒河尼) |(太郎)
∥ ∥ ∥ |
∥ ∥ ∥――――+―長沼宗政
∥ ∥ ∥ |(五郎)
∥ ∥ ∥ |
∥ +―女子 +―――小山政光 +―結城朝光
∥ |(近衛局) | (下野大掾) (七郎)
∥ | |
∥ +―横山孝兼―――――女子 +―法橋厳耀 +―畠山重秀
∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
∥ | | ∥ | |
横山資隆――横山経兼―――∥―+―女子 | ∥――――+―畠山重能 +―畠山重光 +―畠山重保
(野三別当)(次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥――――――――秩父重弘 ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ | +―江戸重継―+―女子 +―円耀
∥ ∥ | |(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ | | | |
∥ ∥ | +―高山重遠 +―江戸重長 +―女子
∥ ∥ | |(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ | | | ∥
∥ ∥ | +―女子 +―大田行広 | 島津忠久
∥ ∥ | | ∥ |(太郎) |(左兵衛尉)
∥ ∥ | | ∥ | |
∥ ∥ | | ∥――――+―大河戸行方 +―女子
∥ ∥ | | ∥ (下野権守) ∥
∥ ∥ | | ∥ ∥
∥ ∥ +―|―藤原行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱―+―秩父重綱―――――――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
(十郎) |(秩父権守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| | |
+―女子 +―妹 +―河越重員
∥――――――――――+―秩父行重 ∥ (三郎)
∥ |(平太) ∥
∥ | ∥
有道遠峯―+―兒玉経行 +―秩父行高 ∥―――――+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫) (平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+―兒玉弘行―――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平 +―小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
平家政権のもと、秩父党は武蔵国主・左中将平知盛の家人となっており、父・畠山庄司重能や叔父・小山田有重は上洛して大番を務めていた。そのため治承4(1180)年8月、源頼朝が伊豆で挙兵した際には、十七歳の重忠は平家方の武士として郎従とともに相模国へ下った。これは武蔵国目代(武藤頼平か?)からの指示か、相模国の平家の「守護人」である大庭三郎景親の要請かは不明。
畠山氏館址(深谷市畠山) |
挙兵後の頼朝は、伊豆半島の付根、相模国土肥郷(足柄下郡湯河原町土肥周辺域)の石橋山で、大庭三郎景親や伊東祐親入道ら平家方の軍勢に敗れて山中に逃亡。土肥郷を支配する土肥次郎実平(頼朝乳付の乳母摩摩がのち相模国早川に居住しており、頼朝乳母子か?)の案内のもと真鶴岬から安房国へ向けて出帆した。
このとき重忠は五百余騎を率いて相模国金江川(中郡大磯町高麗3丁目辺りか)に陣を取っていたという(『源平盛衰記』)。
一方、このとき三浦次郎義澄を筆頭に「十郎義連、大多和三郎義久、子息義成、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎義実、多々良三郎重春、同四郎明宗、筑井次郎義行以下、相率数輩精兵」いて「宿丸子(酒匂川)河辺」していた(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)。宿陣の理由は「丸子川の洪水に馬も人も叶ひ難しと聞て、其日も延引す」(『源平盛衰記』)とあるが、『吾妻鏡』とは一日のずれがある。
夕刻、三浦勢は「遣郎郎従、焼失景親之党類家屋」といい(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)、遠く「其煙聳半天」を眺めた大庭景親は、この攻撃が「三浦輩所為」と知り、人々を集めて「相議云、今日已雖臨黄昏可遂合戦期、明日者三浦衆馳加、定難喪敗歟」(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)と述べて、豪雨と漆黒の闇という中、大庭勢は頼朝の陣に襲い掛かった。頼朝も豪雨でしかも夜襲(合戦は日暮れとともに終了する習いであった)は想定していなかったのであろう。明け方まで続いた合戦で大敗を喫した頼朝は「椙山之中」へと逃げ込んだ(『吾妻鏡』治承四年八月廿三日条)。
さて、三浦勢は酒匂川の畔で「自去夜相待曉天、欲参向之處、合戦已敗北」の報を聞く。このため「慮外馳帰」こととなるが、その路次の「由井浦(鎌倉市由比ガ浜)」で「与畠山次郎重忠、数尅挑戦、多々良三郎重春并従石井五郎等殞命、又重忠郎従五十余輩梟首之間、重忠退去」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条)。
この合戦については軍記物『源平盛衰記』に次第が記される。物語であるため、あくまでも参考である。
■『源平盛衰記』にみる畠山重忠と三浦党との合戦
8月24日暁天の頃、酒匂川で石橋山での頼朝敗戦を聞いた三浦氏は、「佐殿の死生聞定ざらん間は、相構て身をたばへ」と、すぐさま夜のうちに陣払いして三浦への帰途に就いた。このとき、「畠山五百余騎にて、金江川に陣を取て待」と聞いた三浦義澄は、
「いかゞ有べき」
と人々に問うた。このとき、義澄の甥・和田小太郎義盛は、
「佐殿の左右をきかん程は、命を全して君の御大事に叶ふべし、去ば小磯が原を過て、波打際を忍とほらん」
と述べた。ところが、義澄の末弟・佐原十郎義連は、
「何条さる事か有べき、畠山は若武者なり、しかも五百余騎、思へば安平なり、我等が三百余騎にて蒐散して、馬共とりて乗てゆかん」
と主張したという。
この話を聞いていた義澄は、
「詮なき殿原のはかり様や、畠山は今日一日馬飼ひ、足休めて身をしたゝめたり、我等は此両三日、あなたこなた馳つる程に、馬も弱り主も疲れたり、人の強き馬とらんとて、我弱き馬とられて其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すな」
と、甲冑の音を響かせないようゆるゆると進んでいくが、このとき「波打際を忍とほらん」と主張したはずの和田義盛は我慢ができなくなり、
「いつの習ひの閑道ぞ、畠山は平家の方人なり、我等は源氏の方人なり、源氏勝ち給はば、畠山旗を上て参べし、平家勝ち給はば、三浦旗を上て参べし、爰を問はずは後に笑れしこと疑ひなし、人は浪打際をも打給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿」
と述べると、畠山勢に向けて大音声で、
「是は畠山の先陣か、かく云は三浦党に和田小太郎義盛と云者なり、石橋の軍に佐殿の御方へ参つるが、軍既に散じぬと聞けば、酒勾宿より帰なり、平家の方人して留んと思はば留よ」
と口上を述べて畠山勢の陣前を通り過ぎ、足早に「八松が原、稲村崎、腰越が浦、由井の浜」へと馳せた。
この和田義盛の口上を聞いた畠山重忠は、家子の本田次郎近常、半沢六郎成清に、
「三浦の輩にさせる意趣なし、去共、加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司、伯父の別当、平家に奉公して在京なり、矢一つ射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立て者共」
と下知し、半沢成清は、
「仰の旨透間なし、急げ殿原」
小坪坂遠景 |
と命じると、畠山勢五百余騎は三浦勢を追撃し、小坪坂(逗子市小坪)を登攀中の三浦勢に追いついた。ここで畠山重忠は進み出ると、
「重忠爰に馳来れり、いかに三浦の殿原は口には似ず敵に後をばみせ給ぞ、返合せよ」
と述べ、軍勢五百余騎で「由井浜、稲瀬河」に布陣した。
一方、三浦勢は小坪坂を登り切り、坂上から畠山勢に備えると、和田義盛は叔父の三浦義澄に、
「其には東地に懸りて、鐙摺に垣楯かきて待給へ、彼処は究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て戦はんに、敵弱らば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛も鐙摺に引籠て、一所にて軍せん」
と軍略を述べた。これに義澄も然るべしとして、自ら百騎を率いて鐙摺(逗子市桜山)へ引き、義盛は二百余騎を率いて小坪坂から坂を下って重忠陣へと向かった。
これをみた畠山重忠は、横山党の「弥太郎」という人物を使者として義盛のもとに遣わすと、
「日比三浦の人々に意趣なき上は是まで馳来べきにあらず、但し父の庄司、伯父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、而を各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信て通給ふ、重忠無音ならば、後勘其恐あり、又伯父親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也、御渡を可奉待歟、又可参申か」
と書状を以って義盛に問うた。これを受けた義盛は、「藤平実国」という人物を重忠使者「弥太郎」に副えて遣わすと、
「御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正き聟、和田殿は大介には孫にて御座す、但し不成中と申さんからに、母方の祖父に向て、弓引給はん事如何か侍るべき、又謀叛人に与する由事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮べき由、院宣を兵衛佐殿に被下間、三浦の一門、勅定の趣と云ひ、主君の催と云ひ、命に随ふ処なり、若敵対し給はば、後悔如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをや」
と返した。これを聞いた重忠の乳母子・半沢六郎成清が義盛の前に進んで、
由比ガ浜遠景 |
「三浦と秩父と申せば一体の事なり、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法なり、佐殿いまだ討れ給はずと承り、世に立ち給はば、畠山殿も本田、半沢、召具して、定て源氏へ被参べき、平氏世に立給はば、三浦殿も必御参あるべし、是非の落居を知ずして、私軍其詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべきか」
と述べた。これに義盛は、
「半沢がかく云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばず」
と告げると、義盛は軍勢を小坪に引き返した。ところが、このとき義盛が和平前に急ぎ馳せ参じるよう命じた弟・和田小次郎義茂が小坪に馳せ付けた。義茂は「いさゝか少用ありて、鎌倉に立寄」っていたが、和平前に遣わした使者が義茂に畠山重忠との戦いが起こったので急ぎ馳せ参じるよう伝えたため、「驚騒ぎて馬に打乗り、犬懸坂を馳越て、名越」まで馳せた。義茂の「少用」とは、亡父義宗の故地である鎌倉の杉本郷に関わる所用であろう。義茂が名越山から海を見ると、すでに「四五百騎が程打囲て見えけり」という状況だった。義茂は「片手矢はげて鞭」を打って馳せ参じるが、このとき義盛は小坪坂上から義茂に手招きをした。義盛は畠山重忠とは「軍和平したれば、畠山に不可向と云ふ心」を伝える意味で手招きをしたのだが、義茂は、
「かくとは争か知べきなれば、急と云ぞ」
と、急いで攻め懸かれという意味に捉えてしまった。
このとき畠山重忠は、すでに和平も整ったことで、みな馬から下り、稲瀬川に馬の脚を浸して休息をとっていたが、義茂の一手が攻め懸かってきたことを知り、
「和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からず」
と急ぎ馬に乗って、義茂に向かって攻め懸かった。このとき義茂は主従わずかに八騎であったが、畠山勢は六騎が討たれ、五騎が負傷する損害を被る。義茂はその後一息入れていると、小坪坂上の義盛が「四五十人手々に唐笠にて招ける」のが見えた。義盛は自分の手招きが原因とはつゆ知らず、「始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招け」と、義茂に引き上げる意味で目立つ唐笠を使って招いたのだった。ところが、先入観から義茂はこれを「弥深入して戦へ」という意味に捉えてしまった。義茂はさらに畠山勢に突撃をしかけてしまった。これを見た義盛は、
「今は叶はじ、小次郎うたすな、つゞけ者共」
と二百余騎を率いて小坪坂を下り、稲瀬川の手前に布陣し、矢戦を繰り広げた。義盛の傍に控える老将藤平実光は実戦十九度という歴戦の士であり、その手ほどきのままに三浦勢は畠山勢を狙い撃ちし、畠山勢は多くの損害を出すことになる。さらに、鐙摺に控えていた三浦義澄も、
「爰にて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共」
と兵を率いて小坪坂から攻め下った。ところが、小坪坂は狭く、二、三騎が同時に下ることが限界で延々と坂を下ってくる様を見た畠山重忠は、
「三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が一に成と覚えたり、大勢に取籠れなば、ゆゝしき大事、いざや落ちなん」
と、兵を引き上げた。三浦勢はこの畠山勢を追撃して散々に矢を射ち、義茂は畠山重忠の郎従で「武蔵国の住人綴党の大将に、太郎、五郎とて兄弟二人あり、共に大力なりけるが、太郎は八十人が力あり、東国無双の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ」という綴太郎ならびに、その弟・綴五郎と太郎の子・小太郎を立て続けに組打で討った。彼ら「綴党」は武蔵国都築郡の「綴喜党」の人と見られ、武蔵国南部の秩父党河崎・渋谷一族の支配領域の人と思われるが、畠山重忠の郎従として見えるのは、隣接する稲毛庄が畠山重忠従兄弟の三郎重成の名字地でもあることから、重忠祖父の秩父太郎大夫重弘代にはすでに何らかの権益を得ていた可能性もあろう。
▲由比ガ浜より三浦半島方面 |
結局、畠山勢は「小坪の軍に、綴太郎、五郎、同小太郎、河口次郎太夫、秋岡四郎等を始として、三十余人討れぬ、手負は五十余人」という被害を出した。三浦勢は「多々良太郎、同次郎、郎等二人、纔に四人ぞ討れける」という。
重忠は引き上げの際にも多くの郎従を討たれ、心安らかでない重忠は、図らずも同じ十七歳の義茂と組まんと前に出るが、畠山氏家子の本田次郎はその間に割って入り、重忠を抑えて
「命を捨るも由による、宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計、一問にこそ侍れ、就中三浦は上下皆一門なり、秀を大将としなし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千の兵にて、親死子死とも是を顧ず、乗越々々面を振ず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申は、党の駈武者一人死すれば、其親しき者共よき事に付とて、引つれひきつれ落れば、如何なる大事あり共、君の御命に替る者候はじ、成清、近恒ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍なり、只引返し給へ」
と重忠を叱り、引き返すよう諭した。ところが重忠の憤りは収まらず、
「小次郎に組で死なん」
とさらに義茂に寄せていった。ところが初陣の重忠に対して、義茂はすでに数度の合戦で戦いを弁えた人物であり、重忠が矢頃となるや、一矢をつがえて重忠の馬を射た。重忠の馬は斃れ、そばの半沢成清が重忠を抱えると、自らの乗馬に乗せて控えさせ、自らがその前に立って間を隔たった。
このとき三浦勢より「兄の小太郎義盛、佐原十郎義連、大党三郎、舞岡兵衛」ら都合十三騎が「次郎は骨を折ぬと覚ゆ、討すな者共」と太刀を抜いて馳せ来た。このとき、本田近常、半沢成清が両勢の間に割入り、
「以前に如申、大形も御一門、近は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座す、離れぬ御中なり、指たる意趣なし我執なし、私の合戦其詮なく覚ゆ、本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へ」
と、義盛に告げた。これに義盛は、
「郎等の降を乞は、主人の云にこそ、今は引け」
と兵を返して、三浦勢は三浦へ引き返し、畠山重忠も武蔵国へと帰還した。
のち、右大将家(頼朝)の侍の座を定める際に、「左座の一﨟は畠山、右座の一﨟は三浦、中座の一﨟は梶原」と定まったが、三浦(義村か)は、
「畠山は三浦の和田に向て降乞たりし者なり、左座無謂」
と意見したという。これに対し、重忠は、
「重忠全く不存知、弓矢取る身の命を惜み、敵に降乞事や有べき、若郎等共が中に云ふ事の有けるか、返々奇怪なり」
と反論して取り合わなかったという。
すでに満身創痍となっていた畠山勢も引き上げたが、重忠はこの小坪、由比ガ浜の合戦の怨みをはらすべく、武蔵国の河越太郎重頼へ「相具当国党々可来会之由」を「触遣」した。これは「是重頼於秩父家雖為次男流相継家督」のため(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)、秩父家惣領が継承する留守所の惣検校職(付帯権限の「机(=床几の略歟)催促」か)に基づき「依従彼党(当国党々)等」を率いて相模国へ来るよう依頼したものであった。ここから、畠山重忠と河越重頼の間は良好だった様子がうかがえ、二十五年前の「大蔵合戦」で悪源太義平に畠山庄司重能が加担して重頼の祖父・次郎大夫重隆が「為悪源太被誅畢」(『千葉上総系図』「続群書類従」)という唯一の系譜伝は創作とみてよいだろう。重隆はその後も生存し、孫の重頼が秩父家の家督を継承したとみられる。なお、重忠の依頼は四男流の江戸太郎重長(重忠叔父)にも伝えられ、重長も加わっている(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)。
小坪合戦から三日後の8月26日早朝、秩父党の人々が攻め寄せるという風聞が三浦党の耳に入り、「一族悉以引篭于当所衣笠城」(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)という。ただし、23日の小坪合戦後に畠山重忠が河越に知らせる時間及び河越から三浦までの距離(往復で約150km)、各所への軍勢催促の時間を考えると、三日後の26日に三浦半島の衣笠に到達することは不可能である。よって、すでに相模国に入り合戦を行った畠山重忠だけが『吾妻鏡』では記録されているが、実際は、大庭次郎景親の関東下向と時期を同じくして、武蔵国主平知盛より伊豆出兵(大庭への指示と同様、伊豆在住の頼政入道遺児の追捕が当初の目的か)の命を受けた河越太郎重頼がすでに国内に軍勢催促し、相模国へ向けて進んでおり、のちの鎌倉道沿いにある秩父一族の所領(橘樹郡稲毛庄や都築郡中山郷等)を前線基地として駐屯していたのかもしれない。例えば重頼勢に加わっていた「中山次郎重実」の名字地である武蔵国杵築郡中山郷から三浦郡衣笠まではわずかに30km余りとなり、畠山重忠が小坪から遁れ重頼が衣笠攻めを行うまで三日あれば十分に到達できる距離となる。
以下は『吾妻鏡』の記述ではあるが、戦いの様子が詳細かつ物語的な記述、さらには源家に対する忠孝が強調されていることから、後世『吾妻鏡』編纂時に三浦氏より提供された文書に基づく記述とみられる。そこには誇張も含まれていると考えられることから、大枠以外は参考としてみるべきであろう。
衣笠城遠景 |
三浦党は衣笠城の各所に陣を張った。まず大手に当たる「東木戸口」は「次郎義澄、十郎義連」、「西木戸」は「和田太郎義盛、金田大夫頼次」、「中陣」は「長江太郎義景、大多和三郎義久等」がこれを固めた(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)。主将は三浦氏の長老・三浦介義明である。
秩父党襲来の知らせを受けてわずか数時間後の辰刻、「河越太郎重頼、中山次郎重実、江戸太郎重長、金子、村山輩已下数千騎攻来」った(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)。河越勢が鎌倉方面から攻め来たのか、東の平坦地を進んできたのかは定かではないが、鎌倉方面は起伏が激しく小坪、鐙摺の要衝を含めた険峻な山地であることから、おそらく久良岐郡方面の平坦地を進んだのであろう。衣笠周辺の地形は、衣笠城を取り囲むように険峻な山地があり、東側に平作川の支流が削った舌状台地下の平地(低湿地帯)がみられる。この谷津のあたりが「大矢部」と呼ばれ、三浦氏の菩提寺清雲寺は大矢部台地の東端に位置する。右手の満昌寺の高台とは対をなして南北に衣笠城を塞ぐ木戸が「東木戸」か。三浦次郎義澄と佐原十郎義盛が「東木戸」を警衛しているが、大矢部を治める三浦次郎義澄と、隣接する佐原村の佐原十郎義連がこの「東木戸」を平時より警衛していたのかもしれない。「西木戸」は現在の衣笠駅方面から平作二丁目に入る谷津からの搦手を守る門であろうか。
義澄等は河越勢から防戦するも、先日の由比合戦ですでに人々は疲労しており、新手の兵との戦いは厳しいものだったろう。さらに矢も射尽くして「臨半更捨城逃去」という。このとき三浦の人々は「欲相具義明」したが、義明は、
「吾為源家累代家人、幸逢于其貴種再興之秋也、盍喜之哉、所保已八旬有余也、計余算不幾、今投老命於武衛、欲募子孫之勲功、汝等急退去兮、可奉尋彼存亡、吾独残留于城郭、摸多軍之勢、令見重頼」
と同道を拒絶した。義澄らは「涕泣雖失度」が、義明の命に従いその場を去った(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)。
伝三浦義明墓(材木座来迎寺) |
翌8月27日朝、小雨の降る中、河越重頼、江戸重長らが衣笠城に攻め入り、「辰尅、三浦介義明年八十九、為河越太郎重頼、江戸太郎重長等被討取、齢八旬余、依無人于扶持也」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)。なお『源平盛衰記』では七十九歳とする。この戦いに畠山重忠の姿はなく、由比・小坪合戦での疲労及び大きな被害により差し控えられたのだろう。合戦後、「景親率数千騎雖攻来于三浦、義澄等渡海之後也、仍帰去」という(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)。
なお、軍記物『源平盛衰記』では、衣笠合戦は8月29日とされ、「河越又太郎、江戸太郎、畠山庄司次郎等を大将軍」として三千余騎の武蔵国の豪族が参戦したという。難攻を極めたが、金子十郎家忠が金子党三百余騎を率いて一の木戸、二の木戸を打ち破り城内に突入した。この奮戦を感じた義明は敵ながら天晴れと家忠に酒を贈ったという。結局城は落ち、ひとり籠城して討死せんという義明の意思に反して義澄らは義明を無理やり城から連れ出したものの、輿を担いでいた郎従が逃げ出して義明は敵中に取り残されることとなり、さらに丸裸にされてしまった上、「哀しいかな、同じくは畠山に見合て斬らればや、継子孫なり」と外孫にあたる重忠の手で斬られることを望んだが、その願いも空しく江戸太郎重長によって討たれたという(『源平盛衰記』)。
8月26日夜、すでに小雨が舞っていたであろう夜、衣笠を脱出した義澄らは、安房国へ向かった。おそらく衣笠城の西側丘陵地を下り小田和湾から出航したのだろう。安房国への途次「北條殿、同四郎主、岡崎四郎義実、近藤七国平等、自土肥郷岩浦令乗船、又指房州解纜、而於海上並舟船、相逢于三浦之輩、互述心事伊欝」といい(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)、安房国へ向かう北條時政らの船と三浦義澄らが海上で合流している。石橋山合戦後、どのような伝手で頼朝が安房へ向かったことが伝えられたのかは定かではないが、そもそも三浦氏の故地の一つが安房国であり、三浦郡を落ちた三浦氏が向かうのは安房以外には想定されず、この合流自体は偶然かもしれない。この北条・三浦の船が安房国に着いた日は不明だが、朝には小雨(『吾妻鏡』の衣笠合戦二日目の記録で「朝間小雨、申剋已後風雨殊甚」と具体的な時間まで記載されていることから、衣笠合戦に加わっていた秩父党の記録が用いられた可能性があろう)が降っており、目印となる星も見えない中(この日は雨でなければ三日月が見えた)は三浦半島東岸など夜の早いうちに三浦・北条は合流して、翌27日には房総半島に上陸したのであろう。
一方、石橋山での大庭勢の探索を切り抜けた頼朝は、8月28日、「武衛、自土肥真名鶴崎乗船、赴安房国方」いた。舟などはすでに接収されていたと思われるが、土肥領主の土肥次郎実平は「仰土肥住人貞恒、粧小舟」(『吾妻鏡』治承四年八月廿八日条)て、頼朝の乗船としている。大庭勢は8月27日には「景親率数千騎雖攻来于三浦、義澄等渡海之後也、仍帰去」(『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条)とあるように、三浦半島に攻め寄せており、景親は26日中には兵をまとめて三浦へ進発していて、石橋山周辺にはすでに大庭勢はいなかったのかもしれない。
8月29日、頼朝は土肥実平の仕立てた船で「安房国平北郡猟嶋(安房郡鋸南町猟島)」に着岸する(『吾妻鏡』治承四年八月廿九日条)。猟島からは三浦半島の東岸の岩壁や木まではっきり視認でき、先に安房国へ上陸していた人々は頼朝の姿を探して浦賀水道を行き来したのかもしれない。ここで合流を果たした頼朝勢は、安房国の幼馴染である安西三郎景益以下の在庁官人を引き入れると、さらに上総介八郎広常、千葉介常胤ら上総国と下総国の有力在庁の協力を得て、9月17日、下総国府に入った(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)。
治承4(1180)年9月28日、頼朝は秩父党のひとり、江戸太郎重長に使者を出して「依景親之催、遂石橋合戦、雖有其謂守令旨可奉相従、重能、有重、折節在京、於武蔵国、当時汝已為棟梁、専被恃思食之上者、催具便宜勇士等、可予参之由」を命じた(『吾妻鏡』治承四年九月廿八日条)。しかし、重長は参向する気配を見せなかったようで、翌29日、頼朝は「試昨日雖被遣御書、猶追討可宜之趣、有沙汰、被遣中四郎惟重於葛西三郎清重之許、可見大井要害之由、偽而令誘引重長、可討進」を指示した(『吾妻鏡』治承四年九月廿九日条)。
ただ、この謀略は中止されたようで、それは重長から何らかの返答があったためである可能性が高い。これは10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長の三名が揃って頼朝のもとに帰参し、しかもその降伏前に、頼朝が「重長等者、雖奉射源家、不被抽賞有勢之輩者、縡難成歟、存忠直者更不可貽憤」ことを「兼以被仰含于三浦一党、彼等申無異心之趣」(『吾妻鏡』治承四年十月四日条)していることからも明らかである。
10月2日、下総国から船橋で武蔵国へ渡った頼朝は(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)、その二日後の10月4日、「長井渡」で「畠山次郎重忠」及び「河越太郎重頼、江戸太郎重長」と参会し、その降伏を受け容れた(『吾妻鏡』治承四年十月四日条)。なお、畠山重忠らが集った「長井渡」が現在どこかは不明だが、少なくとも武蔵国府近辺ではない。平家与党である秩父党が蟠居する武蔵国の深入りはリスクが著しく高く、相模国へ急行する中で武蔵国府を経由するメリットは皆無だからである。
頼朝一行は、武蔵国豊嶋郡衙から官道を南下して大井駅を経由し、荏原郡衙、橘樹郡衙、久良岐郡を経て相模国鎌倉郡へ入るルートをとったとするのが自然であろう。そうであれば「長井渡」は武蔵国東部の津戸となり、ここに秩父党の首脳らが参集したとすれば、橘樹郡内の石瀬川(多摩川)の津戸であろう。鎌倉への日程を考えると、おそらく10月4日は石瀬川を北に望む橘樹郡衙(川崎市高津区千年)に滞陣したのではなかろうか。
翌10月5日、頼朝は江戸重長に対し「武蔵国諸雑事等、仰在庁官人并諸郡司等、可令致沙汰」を命じた(『吾妻鏡』治承四年十月五日条)。
頼朝屋敷跡(御所跡) |
翌10月6日、頼朝勢は重忠を先陣、千葉介常胤を後陣として相模国に入り、さらに故地鎌倉に着くと、民家を仮の宿舎と定めた(『吾妻鏡』治承四年十月六日条)。
翌7日、頼朝は故父・源義朝の亀谷の旧跡(鎌倉市扇ヶ谷)を訪れ、そこに館を建てようとしたが、あまり広い平地ではなかった上に、岡崎義実(三浦介義明の弟)が義朝の菩提を弔うために建立した堂宇があったため断念し、場所をより東の大倉へ移して造営作業を開始した。そして12月12日、新邸が完成し、頼朝は鎌倉の東の端にあった上総権介広常の館から新邸に入った。重忠はその列の殿を務めている(『吾妻鏡』治承四年十月七日条)。
翌治承5(1181)年正月1日、頼朝は元旦を八幡宮奉幣の日と定めて若宮に参詣した際には、三浦義澄・畠山重忠・大庭景義が郎党を引き連れて、夜半から辻々の警護をしている(『吾妻鏡』治承五年正月一日条)。
養和2(1182)年正月3日、頼朝は「御行始」として、甘縄の藤九郎盛長の屋敷に向かったが、このとき佐々木四郎高綱が頼朝の駕の横にあり、重忠は足利上総介義兼・北条四郎時政・三浦義澄・和田小太郎義盛などとともに供奉をつとめた。4月5日には頼朝の江島詣に供奉。8月13日、頼家の出産を祝して、重忠をはじめとして、宇都宮左衛門尉朝綱、土屋次郎義清、和田小太郎義盛、梶原平三景時、梶原源太景季、横山権守時兼らが刀を献上している(『吾妻鏡』)。
寿永2(1183)年の『吾妻鏡』は闕となっており、関東の情報は京都の記録で確認できるのみであるが、当時においては木曾義仲の北陸からの侵攻を防ぐ情報がほとんどとなっており、関東の情勢は、4月25日に、左大臣経宗からの令によって左中弁兼光が認めた「源頼朝同信義等」追討令が宗盛へ下されたこと(『玉葉』寿永二年四月廿五日条)くらいである。ただ、木曾義仲については、兼実の伝聞として「頼朝忽不可出、只木曾冠者、十郎等分手於四方、可寄之由」とみえ(『玉葉』寿永二年七月ニ日条)、木曾義仲と十郎行家は頼朝が派遣した人物と認識されていたことがわかる。また「日来入江州源氏ハ末々者」であり、「木曾冠者已入了」(『吉記』寿永二年六月廿九日条)という風聞があった。そして、木曾勢らは「待関東之勢、九十月比可入洛」(『玉葉』寿永二年七月三日条)と巷間で騒がれていたようである。
その後、平家は後白河院を奉じて西国へ赴き、態勢の立て直しを図ろうとするが、7月25日に「法皇御逐電」(『玉葉』寿永二年七月廿五日条)の一報が兼実のもとに届く。未明に「法皇出御法住寺殿、不知何方逐電令密幸給」(『吉記』寿永二年七月廿五日条)ったものだった。院の逐電を知って危機感を募らせた宗盛は、「院密幸」が発覚した辰刻から二、三時間後の巳刻には御所から安徳天皇と神器を遷して西海へ発向している。院という最大の権威者を同道できなかった代償は大きく、平家と行動を共にするであろうとみられていた摂政基通すら屋敷を脱出して比叡山の院のもとへ逃れており、安徳天皇と宗盛に随った一門以外の公卿はほとんど存在しなかったのであった。
7月27日、兼実のもとに「前内大臣已下追討事」の形式について問い合わせがあり、天皇が連れ去られている現状では院宣での対応とすべきことを告げるとともに、早々に「義仲木曾、行家十郎等」に武士の狼藉を停止させた上で入京を急がせ、早いうちに院も仙洞御所へ還御すべきことが望ましいことを述べている(『玉葉』寿永二年七月廿七日条)。
7月30日、平家を京都から締め出したことに関する義仲以下の諸将への行賞が行われた。彼らは「賊臣」平家を追いやり、院を救った「義兵」と称され、行賞においては参戦していないがきっかけを作った頼朝を重んじるべきか、実際に平家一門を追った義仲、行家を行賞すべきかで議場は紛糾する。いずれも一長一短があり、なかなか決しなかったが、結局は「第一頼朝、第二義仲、第三行家也」と決する(『玉葉』寿永二年七月卅日条)。また、「関東北陸庄園可被遣使事、京中狼藉可被制止事等」が定められ、「京中追捕物取」が行われて各地で合戦が起こったという(『吉記』寿永二年七月卅日条)。また院宣によって吉中が京中守護の責任者とされ、諸氏の割り当てがなされている。
8月11日、義仲と行家に対する除目が行われたが、行家はこの除目内容を「是与義仲賞懸隔」だと「称非厚賞」と批判して閉門している(『玉葉』寿永二年八月十二日条)。都は「上御沙汰違乱之上、源氏等悪行不止、天下忽欲滅亡」(『玉葉』寿永二年八月十日条)とあり、義仲とともに京中に入った人々による狼藉があとを絶たなかった様子がうかがえる。
このような中、京都には「頼朝、去月廿七日出国、已上洛云々、但不信受、義仲偏可立合支度云々、天下今一重暴乱出来歟」と、頼朝上洛の風聞も入っており、不和と噂された義仲との合戦も予想される事態でもあった。ただ、頼朝上洛の風聞は、義仲の追捕を含めた期待を以て見られていた。実際に兼実は「義仲院御領已下併押領、日々陪増、凡緇素貴賎無不拭涙、所憑只頼朝之上洛云々、彼賢愚又暗以難知、只我朝滅亡、其時已至歟」と期待をこめつつも、頼朝が義仲と同類であれば国の滅亡は必至であると述べている(『玉葉』寿永二年九月五日条)。義仲勢は諸勢力の混成軍であったことで指揮系統が定まらずに兵士の狼藉が頻発。義仲自身も放置し、民衆や公家らの信認をますます失うこととなる。北陸宮(以仁王子)を旗印に奉じるも有効に活かせぬまま祖父法皇の手に委ねてしまうなど、義仲の評判は崩壊していくことになる。
そのころ京都の風聞では、頼朝は閏10月5日、五万の精兵を率い「相模国鎌倉城」を発って北陸、東山、東海、南海道から上洛を開始したものの、今は遠江国に留まっているという。これは「可討義仲等、為令沙汰事」(『玉葉』寿永二年閏十月廿五日条)であるが、「奥州秀平又率数万之勢、已出白川関云々、仍疑彼襲来、逗留中途、可伺形勢」のためだという(『玉葉』寿永二年閏十月廿二日条)。ところがその後、頼朝は鎌倉に帰還し、「其替」として弟の「九郎御曹司誰人哉可尋聞」に上洛を命じたという。その率いる軍勢は「五千騎勢」で、11月4日には「布和関」に到着したという。九郎御曹司は院庁へ「随御定可参洛、義仲行家等於相防者、任法可合戦、不然者過平事、不可有之由仰合」と奏上(『玉葉』寿永二年十一月四日条)。これを知った義仲は、八日の鎮西下向に加わらず「与頼朝軍兵可決雌雄」という(『玉葉』寿永二年十一月五日条)。
11月7日、「頼朝代官今日着江州」ということだったが、なんと「其勢僅五六百騎」という。これは「忽不存合戦之儀、只為供物於院之使」(『玉葉』寿永二年十一月七日条)とあり、この頼朝代官は合戦が目的ではなく、ただ院への供物を届けるための使者であったという。このときの頼朝代官は「次官親能広季子幷頼朝弟九郎」と判明する(『玉葉』寿永二年十一月七日条)。頼朝と京都を繋いでいた斎院次官親能(権中納言雅頼の家人)が代官の一人であることから、朝廷・院への使者の性格も帯びていたことがうかがえる。親能は九郎義経に「付」された(『玉葉』寿永三年正月廿八日条)とあることから、九郎義経が全体の指揮官であると考えられるが、親能は「万事為奉行之者」という位置付けであり、諸事に経験の浅い義経は親能に万事を諮ることを命じられていたと思われる。
当時の情報とは乖離する日時など、信憑性は低いが『源平盛衰記』には寿永2(1183)年11月1日に木曾左馬頭義仲の追討軍を派遣したといい、その交名が記される(『源平盛衰記』)。
●義仲追討の頼朝勢
大手 大将軍 |
蒲冠者範頼 | |||||
相従輩 | 武田太郎信義 | 加々見次郎遠光 | 一条次郎忠頼 | 小笠原次郎長清 | 伊沢五郎信光 | 板垣三郎兼信 |
逸見冠者義清 | ||||||
大手侍 | 稲毛三郎重成 | 榛谷四郎重朝 | 森五郎行重 | 千葉介常胤 | 千葉太郎胤正 | 相馬次郎師常 |
国分五郎胤通 | 金子十郎家忠 | 金子与一近範 | 源八広綱 | 渡柳弥五郎清忠 | 多々良五郎義春 | |
多々良六郎光義 | 別府太郎義行 | 長井太郎義兼 | 筒井四郎義行 | 葦名太郎清高 | 野与 | |
山口 | 山名 | 里見 | 大田 | 高山 | 仁科 | |
広瀬 | ||||||
搦手 大将軍 |
九郎冠者義経 | |||||
相従輩 | 安田三郎義定 | 大内太郎維義 | 田代冠者信綱 | |||
相従侍 | 佐々木四郎高綱 | 畠山次郎重忠 | 河越太郎重頼 | 河越小太郎重房 | 師岡兵衛重経 | 梶原平三景時 |
梶原源太景季 | 梶原平次景高 | 梶原三郎景家 | 曽我太郎祐信 | 土屋三郎宗遠 | 土肥次郎実平 | |
土肥弥太郎遠平 | 佐原十郎義連 | 和田小太郎義盛 | 勅使河原権三郎有直 | 庄三郎忠家 | 小代八郎行平 | |
猪俣金平六範綱 | 岡部六弥太忠澄 | 後藤兵衛真基 | 後藤新兵衛尉基清 | 鹿島六郎維明 | 片岡太郎経春 | |
片岡八郎為春 | ||||||
御曹司 手郎等 |
佐藤三郎継信 | 佐藤四郎忠信 | 伊勢三郎義盛 | 江田源三 | 熊井太郎 | |
大内太郎 |
以下は『源平盛衰記』の記事によるものである。
頼朝は出征に当たり御所の侍所に御家人を集めて評定を行った。京都に至るまでには越えなければならない近江国の勢田橋、宇治の宇治橋の二つの難所があり、この橋の橋板は木曾勢によってすでに外されていると見なければならず、だからといって川は激流、底も深くすべての馬が渡り切れる保障はない上に、川の中には逆茂木や綱が張られているはずであり、各人よい馬を用意して、宇治・勢多の難所を乗り切って高名を挙げるべしと議された。さっそく大名、小名、党、高家それぞれ名馬を用意して戦陣に臨んだ。重忠は並み居る御家人の中でも最も多い「秩父鹿毛」「大黒人」「妻高山葦毛」の三頭を曳いており(『源平盛衰記』)、馬の産地であった秩父地方に一定の勢力を確保していたことをうかがわせる。
●持参した名馬(『源平盛衰記』)
人物 | 馬名 |
上総介八郎広常 | 礒 |
千葉介常胤 | 薄桜 |
平山武者所季重 | 目糟馬 |
渋谷庄司重国 | 子師丸 |
畠山庄司次郎重忠 | 秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛 |
和田小太郎義盛 | 鴨の上毛、白浪 |
北条四郎時政 | 荒礒 |
熊谷二郎直実 | 権太栗毛 |
源九郎義経 | 薄墨、青海波 |
蒲冠者範頼 | 一霞、月輪 |
このとき、梶原源太景季は頼朝が秘蔵している馬三頭のうち「生喰」を所望した。
●頼朝秘蔵の名馬(『源平盛衰記』)
馬 | 産地 | 謂れ |
生喰 | 陸奥国七戸 | 黒栗毛、高八寸、五歳馬 |
磨墨 | 陸奥国三戸 | 黒毛。藤原秀衡子・本吉冠者高衡よりの献上品。 異名は町君。 |
若白毛 | ? | ? |
頼朝は、かつて大庭景親との石橋山の戦いで敗れて、土肥の杉山に隠れたとき、まだ敵方だった梶原景時の機転によって命を救われたこともあり、その嫡男・景季の願いも叶えたいとは思う一方、この生喰は、弟の蒲冠者範頼も所望したものの、この馬は頼朝がいざ出征する際の馬であるとして断った経緯もあり、景季には生喰に劣らない「磨墨」を下賜した。
この翌日、佐々木高綱が申し上げたいことがあると頼朝の御所を訪れた。頼朝は、高綱が近江に在国していたと聞いていたので、
「如何御辺は此の間は近江に在国と聞けば、志あらば軍兵上洛に付きて京へぞ上り給はんずらんと相存ずるに、いつ下向ぞ」(『源平盛衰記』)
と問うた。高綱は、
「その事に侍り、去年十月の頃より江州佐々木庄に居住の處に、かかる騒動と承れば、誠に近きに付て京へこそ打上るべきに、軍の習ひ、命を君に奉りて戦場に罷り出る事なれば、再び帰参すべしと存ずべきにあらず、今一度見参にも入れ御暇をも申さんが為、また、何処の討手に向へども、慥かの仰せをも蒙らん料に、正月五日の卯の刻に、佐々木の館を打ち出て、三箇日の程に鎌倉に下著し侍り、かつは下向せずして、自由の京上もその恐れありと存じ、旁らの所存によりて罷り下れり、志は加様に運び奉りたれども、一匹持ち侍りつる馬は馳せ損じぬ、親しき者といふ知音と申す人々も面々に打ち立つ間、誰に馬一匹をも尋ね乞ふべしとも覚へねば、如何仕り侍るべきと心労して、大名小名既に上りぬれども、今まではかくて候」(『源平盛衰記』)
と歎いた。頼朝も石橋山の戦いでの高綱の活躍を思い出し、その志も賞玩した上で、ついに
「相構て今度宇治川の先陣を勤て高名し給へ、必ず相計るべき也、頼朝が随分秘蔵の生喰、御辺に預け奉らん」(『源平盛衰記』)
と、秘蔵の生喰を高綱に与えた。感謝して退出しようとする高綱へ頼朝は声をかけ、
「この馬所望の人あまた有つる中に、舎弟蒲冠者も申き、殊に梶原源太直参して真っ平に申しつれどももしもの事あらば乗て出んずればとてたばざりき、その旨を存ざれよ」(『源平盛衰記』)
と注意を与えている。高綱も宇治川の先陣は必ず自分が果たすことを約束して、さっそく鎌倉を発して京都へ馳せ向かった。
寿永3(1184)年正月10日ごろ、生喰の馬舎人六人と十七騎の郎従を伴って駿河国浮島原(沼津市原)を西に進んでいた。生喰は延々と続いていく相模湾沿いの平野を歩んでいたため、うずうずしたのか身震いして鐘衝のような嘶きをあげた。その声ははるかに二里も離れた田子の浦(富士市)にまで届いた。
鎌倉軍は折からの雪解け水で増水していた富士川を渡れずに滞陣しており、田子の浦には畠山重忠が宿陣していた。重忠は生喰の嘶きを聞き、
「是はいかに、生喰が鳴音のするは誰人の給て将に来るやらん」(『源平盛衰記』)
とふと言った。しかし榛澤六郎成清は、
「是程の大勢の中に、数千匹の逸物ども多く侍り、いずれの馬にてか侍るらん、大様の御事と覚へ候、その上、生喰生は蒲、梶原殿など申されけれども御免なしと承る、さては誰人か給ふべき」(『源平盛衰記』)
と言うと、そばの人々もその通りであると鼻で笑った。しかし重忠は譲らず、
「一度も聞き損ずまじ、人にたびたはずは知らず、一定生喰が音也、只今思ひ合せよ」(『源平盛衰記』)
と言っていると、東のほうから舎人六人を引き連れた佐々木高綱のまたがる生喰が現れた。人々は改めて重忠を、神に通じたるやらんと賞賛したという(『源平盛衰記』)。梶原景季が自慢していた磨墨も生喰と並ぶと見劣りがしたという。景季は高綱が生喰を給わったことを悔しがり、
「時に取て日の敵也、高綱さる剛者なれば、左右無くよもせられじ、互ひに引っ組んで落ち重なり、腰の刀にて刺し違へ、恥ある侍二人失ひ、鎌倉殿に大損とらせ奉らん」(『源平盛衰記』)
と、高綱のもとに馳せ寄った。景季は高綱に馬を並べると、
「あの御馬は上より給ひてか」(『源平盛衰記』)
と問いただした。高綱は
「あの景気を見るに、馬の立ち様、人を待つ様、直事とは覚えず、生喰ゆゑに一定高綱に組まんとの思意趣あるらん、鎌倉殿の意せよとはこの事にこそ」
と密かに思い、真偽取り混ぜて、
「これは君の御大事也、後の御勘当は左右もあれ、盗みて乗らんと思ひて、御厩小平に心を入れ盗み出して、夜に紛れ酒匂の宿まで遣はして、この暁に引かせたり、只今にや御使走りて、不思議也と云ふ御気色にや預らんと閑心なし、もし御勘当もあらん時は、然るべき様に見参に入れ給へ」(『源平盛衰記』)
と語ると、景季も相好を崩し、
「この定ならば景季も盗むべかりけり、正直にては能き馬は儲くまじかりけり」(『源平盛衰記』)
と納得し、二人は連れ立って上洛の途についたという。
宇治橋 |
正月20日、蒲冠者範頼、源九郎義経の鎌倉勢大将軍の兄弟が勢多と宇治の二手に別れて京都に攻め寄せた。重忠は搦手大将軍の義経に従って宇治方面から攻撃をしかけた。
宇治川の急流にかかる宇治橋の橋板はすでに外され、その流れの中には逆茂木が置かれ、綱が張られていた。その逆茂木や綱は常陸国の鹿嶋与一という水練の達者によって除かれていたが、その急流にいまだ渡る者はなかった。その評定の席で重忠が進み出て、
「事新し、この河は近江の湖の末、今始めて出来たる川にあらず、春立日影の習ひにて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消ゑて、水のかさは増すとも、水の減る事有べからず、足利又太郎忠綱も、高倉宮の御謀叛の御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿の御前にてさしも評定の有しはこれぞかし、始めて驚くべき事にあらず、兼ての馬用意その事也、重忠渡して見参に入れん」 (『源平盛衰記』)
と、馬を馳せようとしたところ、平等院の小松崎から梶原源太景季と佐々木四郎高綱の若武者二騎が馳せ参じた。梶原は磨墨、佐々木は生喰を駆りたて宇治川を目指して駆けたが、梶原の方が先を走っていた。
宇治川合戦跡地より宇治川を望む |
これに佐々木は、
「如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければかく申す、殿の馬の腹帯は以外に窕て見物かな、この川は大事の渡し也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給ふな」 (『源平盛衰記』)
と叫んだため、梶原はさもあらんと馬を留めて弓を咥え、馬腹帯をいったん解いて引き締め直した。しかし、その間に佐々木は名馬生喰を駆って、あっという間に梶原を追い抜いてしまった。梶原はたばかられたかと追うが、すでに佐々木は川に飛び入り、河中の綱も断ち切って対岸一番乗りを果たしてしまった。続けて梶原も対岸に上がったが、こちらも負けず一番乗りを宣言。鎌倉への注進もいずれもが一番乗りを主張している。宇治川の対岸にはもちろん木曾勢がひしめいており、彼らだけでは乗り切れるものではなかった。しかし、佐々木、梶原両将の先駈を見ていた鎌倉勢は勢いづき、秩父党、足利党、三浦党、鎌倉党ら党や高家の諸将も次々に宇治川に飛び込んだ。
重忠は青地錦直垂、赤威鎧といういでたちに「鬼栗毛」という馬に巴摺の貝鞍を置いて、糸総鞦を懸けて乗っていた。その手勢は五百騎という大勢で、宇治川に飛び込んだ。しかし、川は深く激流で、郎党たちは次々に流されていく。重忠は馬に負担の軽い乗り方を叫びつつ叱咤した。そこに、木曾勢の将の一人、根井小弥太行親が放った矢が重忠の乗馬・鬼栗毛に突き立った。鬼栗毛は「天狗の駒」とも称された名馬だったが負傷したため、重忠は馬から下り、馬の足を自分の肩に懸けて泳ぎ渡ったという。この泳ぎ渡っているとき、武者が溺れかかって「然べくば助給へ」と重忠に哀願してきた。重忠は彼を持ち上げると岸のほうへ放り投げた。彼は、「只今歩にて宇治川を渡りたる先陣は、武蔵の国の住人、大串次郎」(『源平盛衰記』)と名乗りを上げた。しかし、大串次郎重親は明らかに重忠により救われたことがわかっているので、敵味方を問わず非難があがった。このため彼は「一陣は畠山、二陣は大串」と言いなおしている。重忠はほかにも塩冶小三郎維広という武士が流されそうになっているのも救って岸に放り投げた。
その後、岸に上がった重忠は、木曾勢からの矢が散々に降り注ぐ中を突進したが、木曾勢のなかから義仲の従弟、長瀬判官代義員という武者が馳せ出てきた。彼こそがこの宇治の木曾勢総大将と見た重忠は、「秩父がかう平」という三尺九寸の太刀を抜いて歩み寄ったが、義員は何を思ったか引き退いてしまった。重忠が呼びかけても出てくることなく、そのまま都へと逃げ帰ってしまった。
法性寺跡遠景 |
木曾勢は京都の七条、八条の河原ならびに法性寺柳原に宿陣しており、義仲は、
「合戦、今日を限りとす、身をも顧み命をも惜まん人々はここにて落つべし、戦場に臨みて逃げ走りて東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみにあらず、永代に恥を貽さん事、口惜かるべし」(『源平盛衰記』)
とその覚悟を述べている。
重忠は五百騎を率いて木曾勢めがけて突撃したが、義仲率いる木曾勢は精神的にも強く、その真っ只中を突破されて続く河越小太郎重房陣も壊走。佐々木四郎高綱勢二百騎、梶原平三景時勢三百騎、渋谷庄司重国二百騎らの陣は次々に打ち破られた。
京都に入った義経は、まず六条殿に馳せ参じて後白河法皇を警衛した。このとき義経を含めて参内したのは六騎あり、御所の門前で下馬し、後白河法皇の御叡により御所の中門の外、御車宿前に立ち並んだ。このとき法皇は中門の羅門から叡覧、陪従の出羽守貞長に、かの六名について年齢、名前、住国を聞こし召された。
●参内した六騎(『源平盛衰記』)
生国 | 装束 | 生年 | 伝 | |
源九郎義経 | 赤地錦直垂 萌黄唐綾紅糸威鎧 鍬形甲 金作太刀 |
二十五歳 | 今度の大将軍 | |
畠山次郎重忠 | 武蔵国住人 | 青地錦直垂 赤威鎧 備前作平太刀 |
二十一歳 | 秩父末流畠山庄司重能の長男 |
渋谷右馬允重助 | 相模国住人 | 菊閉直垂 緋威鎧 |
四十一歳 | 渋谷三郎重国の長男 |
河越小太郎重房 | 相模国住人 (実際は武蔵国) |
蝶丸直垂 紫下濃小冑 |
十六歳 | 河越太郎重頼の子息。 ※河越太郎重頼とする説もある。重目結の直垂に射向の袖に赤地錦鎧、黒糸縅冑、大切符の征矢 |
梶原源太景季 | 相模国住人 | 大文三宛書たる直垂 黒糸威冑 |
二十三歳 | 梶原平三景時の子息 |
佐々木四郎高綱 | 近江国住人 | 三目結直垂 小桜黄返たる冑の裾金物 |
二十五歳 | 佐々木源三秀義の四男 宇治川の先陣 |
このとき重忠も参内の栄誉に預かっている。ほかに親族の渋谷右馬允重助、河越小太郎重房の名も見える。
重忠はその直後、木曾を討ちもらしたのは覚束ないことであると、ふたたび三条河原の西端まで出陣した。このとき義仲はわずか十三騎にて三条白河を東へ逃れているところだったが、重忠はその左右に本田近常、榛澤成清を置いて義仲に、
「東へ向けて落ち給ふは大将と見るは僻事か、武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司次郎重忠なり、返し合はせ給へや」(『源平盛衰記』)
と呼びかけると、義仲は振り向いて重忠を射よと下知して弓合わせが行なわれたが、重忠率いる手勢は大勢、対して義仲はわずか十三騎。重忠勢の矢は義仲勢の頭上に降り注ぎ、ついに打ち破られて三条小河まで追い落とされた。勝ちに乗じた重忠はその後を追って散々に攻め懸けた。すると、木曾勢の中から萌黄縅の鎧を着た葦毛馬にまたがる武者が走り出て重忠と馳せあった。重忠は自他ともに認める剛力の武士であったが、攻め立てられて河原に引き上げた。
帰陣後、この突然の剛勇の武士の登場に納得のできなかった重忠は、榛澤成清を召すと、
「如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合ひたれども、これ程軍立の険しき事に合はず、木曾の内には今井、樋口、楯、根井これらこそ四天王と聞しに、これは今井、樋口にもなし、さて何なる者やらん」(『源平盛衰記』)
と問うた。成清はさすがに老練の武士である。
「あれは木曾の御乳母に、中三権頭が娘、巴と云ふ女なり、強弓の手練れ荒馬乗の上手、乳母子ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず、今井、樋口と兄弟にて怖しき者にて候」(『源平盛衰記』)
と説明した。重忠はさもあらんと納得したものの、重忠ともあろう者が女武者に追い立てられたという噂が流れるのも甲斐なきことであり、今日は巴御前を虜にせんと巴御前を敵陣の中を探し回り、ついに発見。馬を寄せて鎧の袖をつかんで組もうとしたが、その袖を引きちぎって遁れてしまい、重忠もさすがに感心してしまい
「これは女にはあらず、鬼神の振舞にこそ」
と賞賛している。
石山道前に建つ石山寺 |
義仲は京都を落ちると、叔父・美濃守義広らが守る近江国勢多(大津市瀬田)へ向かった。勢多は琵琶湖から宇治へ向かう要衝の地であり、蒲冠者範頼率いる鎌倉大手軍三万余騎が木曾勢と勢多川をはさんで対峙した。川にかかる勢多橋はすでに引橋となって渡ることは得策ではないとして、重忠の従兄弟である稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝らは南に下り、田上の貢御瀬(大津市稲津あたりか)を渡って、石山寺の前の道を北上して、今井四郎兼平五百余騎と合戦に及んだ。
兼平は義仲は京都から北陸へ遁れると見ていて、北へ向かったが、その途中、粟津浜(大津市馬場)で落ちてきた義仲と合流。北陸へ遁れて再起を図るべく、勢多から逃れてくる落武者を取りまとめて五百余騎となり、武装を外して軽くしていたところ、武石三郎胤盛、猪俣小平六範綱ら七百余騎が攻め寄せた。さらに甲斐源氏の一党、千葉介常胤の三千余騎、蒲冠者範頼の七千余騎と渡り合うも、衆寡敵せず、ついに相模国三浦党の石田小太郎為久の手によって討たれた。義仲三十一歳の若さであった。巴御前は信濃国に遁れていたが、その後、鎌倉に召し出されている。一説に巴は和田小太郎義盛に嫁いで朝夷奈三郎義秀を生んだとされているが、これは伝承である。
寿永3(1184)年2月5日、摂津国福原の周辺に陣を構えていた平家の軍勢を討つため、範頼・義経軍は摂津国に参集した。重忠は鎌倉勢の搦手大将軍・源義経の軍勢に加わり、福原の北方の山越えを敢行。平家が陣を構えていた一ノ谷へ駆け下ったという。このとき重忠は愛馬「三日月」を背負って駆け降りたという(『平家物語』)。この平家の陣中にはかつての主君である新中納言平知盛、武蔵守平知章がいた。
●鎌倉軍●(■:秩父一族、■:秩父氏養子系、■:千葉一族)
◎大手軍
大将・源範頼 | |||||
小山小四郎朝政 | 武田太郎信義 | 加賀美次郎遠光 | 加賀美小次郎長清 | 武田兵衛尉有義 | 板垣三郎兼信 |
下河辺庄司行平 | 長沼三郎宗政 | 結城七郎朝光 | 佐貫四郎広綱 | 小野寺太郎通綱 | 稲毛三郎重成 |
榛谷四郎重朝 | 森五郎行重 | 江戸四郎重春 | 梶原平三景時 | 梶原源太景季 | 梶原平次景高 |
千葉介常胤 | 相馬次郎師常 | 国分五郎胤通 | 東六郎胤頼 | 中条藤次家長 | 海老名太郎季貞 |
曾我太郎祐信 | 中村太郎時経 | 安保次郎実光 | 中村小三郎時経 | 河原太郎高直 | 河原次郎盛直 |
小大八郎行平 | 久下次郎重光 | 藤田三郎大夫行泰 | 秩父武者四郎行綱 | 大河戸太郎広行 | 庄司三郎忠家 |
庄四郎高家 | 庄司五郎広方 | 塩谷五郎惟広 | 庄太郎家長 |
◎搦手軍
大将・源義経 | |||||
安田遠江守義定 | 大内右衛門尉惟義 | 村上判官代康国 | 山名三郎義範 | 斎院次官中原親能 | 田代冠者信綱 |
大河戸太郎広行 | 土肥次郎実平 | 三浦介義澄 | 三浦平六義村 | 三浦十郎義連 | 畠山次郎重忠 |
長野三郎重清 | 和田小太郎義盛 | 和田次郎義茂 | 和田三郎宗実 | 佐々木四郎高綱 | 佐々木五郎義清 |
天野次郎直経 | 多々羅五郎義春 | 多々羅太郎光義 | 別府小太郎清重 | 金子十郎家忠 | 金子与一近範 |
金子源八広綱 | 岡部六弥太忠澄 | 渡柳弥五郎清忠 | 糟谷藤太有季 | 平山武者所季重 | 平佐古太郎為重 |
熊谷次郎直実 | 熊谷小太郎直家 | 小河小次郎祐義 | 山田太郎重澄 | 原三郎清益 | 猪俣小平六則綱 |
片岡太郎常春 | 伊勢三郎義盛 | 佐藤三郎忠信 | 佐藤四郎継信 | 武蔵坊弁慶 |
●平家軍
内大臣平宗盛 | ||||
新中納言平知盛 | 本三位中将平重衡 | 薩摩守平忠度 | 修理大夫平経盛 | 中納言平教盛 |
三位中将平資盛 | 備中守平師盛 | 少将平有盛 | 尾張守平清定 | 淡路守平清房 |
丹後侍従平忠房 | 皇后宮亮平経正 | 若狭守平経俊 | 大夫平敦盛 | 武蔵守平知章 |
平越前三位通盛 | 蔵人大夫平業盛 | 能登守平教経 | 左馬助平行盛 | 越中前司平盛俊 |
越中次郎兵衛平盛嗣 | 三郎左衛門尉平景綱 | 上総介藤原忠光 | 悪七兵衛尉藤原景清 | 伊賀平内左衛門平家長 |
伊賀平内兵衛平清家 |
そして、文治元(1185)年3月、範頼・義経率いる鎌倉軍勢は長門国壇ノ浦の海戦で平家を滅ぼして、頼朝の勢力は全国に及ぶようになる。
しかしその後、頼朝に敵対する叔父の前備前守行家の扱いをめぐって、洛中守護の源義経と頼朝の間で諍いが起こり、義経は頼朝追討の宣旨を後白河法皇に要求し、宣旨が下された。しかし、義経のもとに兵は集まらず、義経と前備前守行家は京都を逃れて九州を目指すが、摂津国からの出帆後、嵐に巻き込まれて渡海に失敗。義経は大和国吉野に逃れた。
その後、前備前守行家は摂津国で北条平六時定に討たれるも、義経は行方をくらました。頼朝は後白河法皇に怒りをぶつけて頼朝追討宣旨を撤回させ、義経捕縛を理由に、各地に反別五升の兵粮米や地頭職設置を認めさせている。義経は吉野山から奈良を経て鞍馬山、比叡山へ移り、比叡山の懇意の悪僧とともに奥州平泉へと逃れていったが、頼朝は頼経の捕縛については後手後手に廻っており、ついにその行方をつかむことはできなかった。
鶴岡八幡宮 |
一方、義経妾の静は吉野山中で捕らえられ、鎌倉に護送されている。4月、鎌倉に軟禁されていた静が頼朝の命により鶴岡八幡宮寺の回廊で舞を舞った際、重忠は銅拍子をつとめている。かつて平知盛に仕えていた頃に上洛して都の文物を身につけていったのだろう。
ところが11月、秩父家惣領であった河越太郎重頼が義経の舅ということで誅殺される。彼の所領はその大部分を母親が相続することとなったが、重頼が帯していた「武蔵国留守所惣検校職」は重忠が補されていることから、この時点で重忠が秩父家を「相継家督」したと考えられる。
文治3(1187)年9月27日、伊勢神宮領の伊勢国沼田御厨にあった重忠の代官・真正が狼藉をはたらいたと、伊勢神宮の神官が訴え出た。重忠は代官の所行の子細を知らなかったと謝罪したが、所領四か所は収公され、重忠の身柄は従兄にあたる千葉新介胤正に預けられた。このとき重忠は、寝食を絶って身の潔白を主張。この様子を見ていた胤正は不憫でならず頼朝に陳情したため、頼朝も心を動かされて重忠を許すこととした。胤正は早速館に帰ると、重忠を伴ってふたたび幕府に参上。重忠は営中にいた里見冠者義成に、
「恩に浴するの時は、まづ目代の器量を求むべし。その仁なくんば、その地を請くべからず。重忠清潔を存ずること、甚だ傍人に越ゆるの由、自慢の意を挿むのところ、真正男が不義によって恥辱に逢い了んぬ」
と話している。
菅谷館址遠景 |
その後、重忠は鎌倉をあとにして、本拠の武蔵国菅谷館に下向していった。この菅谷館は秩父家惣領が入居したいわば役宅と見られしかし、この直後の11月15日、梶原景時は
「畠山次郎重忠、重科を犯さざるのところ、召し禁めらるるの條、大功を棄捐せらるるに似たりと称し、武蔵国菅谷の館に引き籠り、反逆を起こさんと欲するの由、風聞す。しかるに折節、一族尽く以て在国し、ことすでに符号す。いかでか賢慮を廻らされざらんや」
と頼朝に讒言した。
これを聞いた頼朝もいささか不安を感じたと見え、小山左衛門尉朝政・下河辺庄司行平・結城七郎朝光・三浦介義澄・和田小太郎義盛らを召して、重忠追討の是非を問うたが、結城朝光は、
「重忠は、天性廉直をうけ、もっとも道理を弁え、敢へて謀計を存ぜざる者なり。しかれば、今度の御気色、代官所犯の由によって、雌伏せしめ了んぬ。その上殊に神宮の照鑑を畏怖するの間、さらに怨恨を存ぜざるか。謀叛の條、定めて僻事たらんか。専使を遣はされて、その意を聞こしめさるべし」
と重忠の清廉な人柄を熱心に訴えたため、頼朝は重忠の親友・下河辺行平を使者として武蔵菅谷の畠山邸に派遣することとした。そして17日、行平は菅谷館に着き、このことを重忠に告げると、
「何の恨みに依って多年の勲功を擲ち、忽ち反逆の凶徒と為すべきや、且は重忠の所存に於いては左右に能はず、二品の御腹心、今更御疑いなからんか、偏に讒者等の口状に就きて恩喚有りと称し、相度誅せんが為、貴殿を差し遣わさるるなり、末代に至り今この事を聞き、業果を恥づべし」
と、重忠は腰刀を抜くや自殺を図った。行平はあわててその手を押さえると、
「貴殿は訴偽を知らざるの由自称す、行平また誠心在口の條、いささか貴殿に異なるべきや、誅すべきはまた怖るべきに非ざるの間、偽たるべからざるなり、貴殿は将軍の後胤なり、行平は四代将軍の裔孫なり、態と露顕せしめ挑戦に及ぶの條、その興有るべし、時儀適々朋友を撰び行平を使節と為す、これ異儀無く、具し参らしめんが為の御計なり」
と重忠を説得し、重忠もようやく心を鎮めると、酒席を設けて行平と談笑しながら盃を交わした。その後、行平と重忠は連れ立って鎌倉へ赴いた。行平の発言にある「貴殿は将軍の後胤なり、行平は四代将軍の裔孫なり」の「将軍」は鎮守府将軍良文のことであるが、「四代将軍」とは鎮守府将軍藤原秀郷のことと思われる。「四代」は秀郷が家祖左大臣魚名より四代目であるためか。
11月21日、行平とともに鎌倉に出頭した重忠は梶原景時と面会して、謀叛の心は毛頭無いことを訴えたが、景時は「起請文」の提出をさらに求めた。これに重忠は、
「重忠が如き勇士は、武威を募り、人庶の財宝等を奪取し、世渡の計とするの由、もし虚名に及ばば、もっとも恥辱たるべし、謀叛を企てんと欲するの由、風聞するはかへって眉目と云ひつべし、ただし源家の当世を以て武将の主に仰ぐの後、さらに弐なし、しかるに今このわざはひに逢うや、運の縮まるところなり、且は重忠、もとより心と言と異なるべからざるの間、起請を進じ難し、詞を疑ひて起請を用ゐ給ふの條は奸者に対する時の儀なり、重忠に於いて偽を存ぜざるの事は、兼ねて知ろしめすところなり、速にこの趣を披露すべし」
と、起請文の提出を拒否した。景時がこのことを頼朝に言上すると、頼朝はとくに返事をしなかった。その後、重忠と行平を御所に召すと、いつもと変わらない様子で「世上の雑事等」を談じ合った。とくに重忠の謀叛疑惑や起請文の提出拒否については話題に上らなかったという。頼朝の重忠に対する謝罪の気持ちやその清廉な心に応えたものであろう。しばらくのち、堀藤次親家を遣いとして、行平へ御剣を下賜した。
この騒動のもとになった伊勢国沼田御厨は重忠から収公されたのち、吉見次郎頼綱に宛がわれたが、頼綱の代官も民を追い出すなど狼藉をはたらいたことから、御厨の民衆たちが鎌倉に訴え出ていた。文治5(1189)年7月10日、頼綱の地頭職が停止されている。
その後、頼朝は奥州藤原氏との戦いのために、軍勢を三手に分けて東北に向けて発向させた。東海道大将軍は千葉介常胤、八田前右衛門尉知家の両将、北陸道大将軍は比企藤四郎能員、宇佐美平次実政の両将、頼朝は大手軍を率いて奥州へ向かうことと定め、留守は大夫属三善善信入道を主将に、その弟の隼人佐三善康清ほか大和判官代藤原邦通、佐々木次郎経高、大庭平太景能、義勝房成尋已下の人々に命じている(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)。
大将軍 | 相具 | 経路 | |
東海道大将軍 | 千葉介常胤 八田右衛門尉知家 |
一族等 常陸下総国両国勇士等 |
行方⇒岩城⇒岩崎⇒渡遇隈河湊 |
北陸道大将軍 | 比企藤四郎能員 宇佐美平次実政 |
上野国高山、小林、大胡、佐貫等住人 | 越後国⇒出羽国念種関 |
大手 | 源頼朝 | 武蔵、上野両国内党者等者、 従于加藤次景廉、葛西三郎清重等 |
中路可有御下向 |
7月18日、頼朝は伊豆山の専光房を鎌倉に召して奥州追討の祈祷を依頼。出立して二十日後、御所の後山に梵宇を草創せよと命じた(『吾妻鏡』文治五年七月十八日条)。専光房みずからが柱だけでよいのでこれを立てて仮の梵宇と為し、持仏の正観音像を安置することとし、実際に堂を建立するのは後日の指示とすることを伝えている。そして、追討軍の第一陣として北陸道大将軍の比企藤四郎能員が鎌倉を出陣した。
翌19日、頼朝率いる大手軍が鎌倉を発った(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)。重忠は先例によって先陣を務め、弟・長野三郎重清、郎従の大串小次郎重親、本田次郎近常、榛澤六郎成清、柏原太郎らを率いて鎌倉を出立した。このとき、梶原平三景時は囚人であった城四郎長茂の起用を勧めている。かつて平家政権のなか、信濃国で挙兵した木曾次郎義仲の鎮定を期待されて治承5(1181)年8月14日に越後守に任じられ(当時の諱は助職)、越後国から木曾義仲を追捕するべく信濃国に攻め入ったものの横田河原の戦いで敗走。平家の没落と同時に解官されたとみられ、8月10日には木曾義仲が「左馬頭兼越後守」に任じられている(寿永三年正月廿日条)。彼は無双の勇士とされ、頼朝も彼の起用を認めている。これを聞いた長茂は喜び、頼朝から旗の貸与が示されるも、以前の旗を用いることを願い出た。これは旗を見た旧郎従等が集まってくるであろうという意図であった(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)。
○大手勢(鎌倉出御勢一千騎)
先陣 | 畠山次郎重忠 | 長野三郎重清 | 大串小次郎 | 本田次郎(近経) | 榛澤六郎(成清) | 柏原太郎 |
御駕 | 源頼朝 | |||||
御供輩 | 武蔵守義信 | 遠江守義定 | 参河守範頼 | 信濃守遠光 | 相摸守惟義 | 駿河守広綱 |
上総介義兼 | 伊豆守義範 | 越後守義資 | 豊後守季光 | |||
北條四郎 | 北條小四郎 | 北條五郎 | 式部大夫親能 | 新田蔵人義兼 | 浅利冠者遠義 | |
武田兵衛尉有義 | 石和五郎信光 | 加々美次郎長清 | 加々美太郎長綱 | 三浦介義澄 | 三浦平六義村 | |
佐原十郎義連 | 和田太郎義盛 | 和田三郎宗実 | 岡崎四郎義実 | 岡崎先次郎惟平 | 土屋次郎義清 | |
小山兵衛尉朝政 | 小山五郎宗政 | 小山七郎朝光 | 下河辺庄司行平 | 吉見次郎頼綱 | 南部次郎光行 | |
平賀三郎朝信 | 小山田三郎重成 | 小山田四郎重朝 | 藤九郎盛長 | 足立右馬允遠元 | 土肥次郎実平 | |
土肥弥太郎遠平 | 梶原平三景時 | 梶原源太左衛門尉景季 | 梶原平次兵衛尉景高 | 梶原三郎景茂 | 梶原刑部丞朝景 | |
梶原兵衛尉定景 | 波多野五郎義景 | 波多野余三実方 | 阿曽沼次郎広綱 | 小野寺太郎道綱 | 中山四郎重政 | |
中山五郎為重 | 渋谷次郎高重 | 渋谷四郎時国 | 大友左近将監能直 | 河野四郎通信 | 豊嶋権守清光 | |
葛西三郎清重 | 葛西十郎 | 江戸太郎重長 | 江戸次郎親重 | 江戸四郎重通 | 江戸七郎重宗 | |
山内三郎経俊 | 大井二郎実春 | 宇都宮左衛門尉朝綱 | 宇都宮次郎業綱 | 八田右衛門尉知家 | 八田太郎知重 | |
主計允行政 | 民部丞盛時 | 豊田兵衛尉義幹 | 大河戸太郎広行 | 佐貫四郎広綱 | 佐貫五郎 | |
佐貫六郎広義 | 佐野太郎基綱 | 工藤庄司景光 | 工藤次郎行光 | 工藤三郎助光 | 狩野五郎親光 | |
常陸次郎為重 | 常陸三郎資綱 | 加藤太光員 | 加藤藤次景廉 | 佐々木三郎盛綱 | 佐々木五郎義清 | |
曽我太郎助信 | 橘次公業 | 宇佐美三郎祐茂 | 二宮太郎朝忠 | 天野右馬允保高 | 天野六郎則景 | |
伊東三郎 | 伊東四郎成親 | 工藤左衛門祐経 | 新田四郎忠常 | 新田六郎忠時 | 熊谷小次郎直家 | |
堀藤太 | 堀藤次親家 | 伊澤左近将監家景 | 江右近次郎 | 岡辺小次郎忠綱 | 吉香小次郎 | |
中野小太郎助光 | 中野五郎能成 | 渋河五郎兼保 | 春日小次郎貞親 | 藤澤次郎清近 | 飯富源太宗季 | |
大見平次家秀 | 沼田太郎 | 糟屋藤太有季 | 本間右馬允義忠 | 海老名四郎義季 | 所六郎朝光 | |
横山権守時広 | 三尾谷十郎 | 平山左衛門尉季重 | 師岡兵衛尉重経 | 野三刑部丞成綱 | 中條藤次家長 | |
岡辺六野太忠澄 | 小越右馬允有弘 | 庄三郎忠家 | 四方田三郎弘長 | 浅見太郎実高 | 浅羽五郎行長 | |
小代八郎行平 | 勅使河原三郎有直 | 成田七郎助綱 | 高鼻和太郎 | 塩屋太郎家光 | 阿保次郎実光 | |
宮六傔仗国平 | 河勾三郎政成 | 河勾七郎政頼 | 中四郎惟重 | 一品房昌寛 | 常陸房昌明 | |
尾藤太知平 | 金子小太郎高範 |
7月25日、頼朝は下野国古多橋駅に到着。一宮の宇津宮に奉幣して祈願している(『吾妻鏡』文治五年七月廿五日条)。その後、宿所では小山下野大掾政光入道が駄餉を献じている。このとき、頼朝の御前にいた紺直垂の武士に目が留まった政光入道は、頼朝に「何者哉」と問うた。頼朝は「彼者、本朝無双勇士、熊谷小次郎直家也」と紹介すると、政光入道は「何事無双号候哉」と再び問う。頼朝は「平氏追討之間、於一谷已下戦場、父子相並欲棄命、及度々之故也」と答えると、政光入道は破顔して「為君棄命之條、勇士之所志也、爭限直家哉、但如此輩者依無右顧眄之郎従、直励勲功揚其号歟、如政光者、只遣郎従等抽忠許也、所詮於今度者自遂合戦、可蒙無双之御旨」と子息の朝政、宗政、朝光ならびに猶子の宇都宮頼綱に下知した。頼朝はこのことに非常に興に入っている。
翌26日には、かつて頼朝と激しく交戦した佐竹氏の惣領「佐竹四郎(佐竹冠者秀義か)」が常陸国から参じている(『吾妻鏡』文治五年七月廿六日条)。このとき佐竹四郎が持参した旗が「無文白旗」で、頼朝の旗と同じであったため、頼朝はこれを咎め、同じ旗を用いるべからずと命じた。かつての遺恨があったことも咎め立てした理由の一つとみられるが、頼朝は佐竹四郎に「御扇出月」を下し、佐竹四郎はこれを白旗に括り付けたという。以降、佐竹氏はこれを自家の定紋として用いることとなる。
27日に奥州との国境である下野国新渡戸駅で着到注進を行ったのち、29日、白河関を越えて陸奥国へと入った(『吾妻鏡』文治五年七月廿九日条)。さらに進軍して8月7日、伊達郡阿津賀志山辺の国見駅まで進んだ。泰衡は「泰衡日来聞二品発向給事、於阿津賀志山、築城壁固要害、国見宿与彼山之中間俄搆口五丈堀、堰入逢隈河流柵」(『吾妻鏡』文治五年八月七日条)とあるように、阿津賀志山に城塞を築き、国見宿と山との間に幅五丈の堀割と土塁を構築し、堀には阿武隈川の水を流入させていた(『吾妻鏡』文治五年八月七日条)。ただし、阿武隈川から阿津賀志山頂まで南北に築かれた防塁は三キロを超える長大なものであり、数年をかけて築かれたと推測される。おそらく秀衡が統治していた頃からすでに築かれていた防塁があり、泰衡が手を加えたものではなかろうか。頼朝があらかじめ八十名の工兵を手配していることから、この防塁は頼朝の周知するところであったと思われる。また、阿津賀志山の麓を北行する奥大道は防塁を貫通しており、この開口部には木戸が設けられ、平時から関所のような役割を担っていたのではなかろうか。泰衡が防塁を構築したとすれば、阿津賀志山より北方の狭隘地、貝田や越河にみられる石塁か。
阿津賀志山要害を守るのは、泰衡の義兄にして義父にあたる西木戸太郎国衡(信寿太郎殿)と金剛別当秀綱、下須房太郎秀方已下の部隊であった。金剛別当は苅田郡の金剛蔵王権現の別当であろうか。泰衡自身は国分原の鞭楯(仙台市宮城野区安養寺二丁目付近か)に布陣し、名取川と広瀬川の急流には大綱を引いて渡河の妨害を図っている。名取川と広瀬川の大綱と泰衡自身の国分原付近への布陣は、国府防衛を目的としたものである。さらに平泉の玄関口にあたる栗原、三迫、黒岩口、一野のあたりには若九郎大夫、余平六らを大将軍とした部隊を配置し、出羽国には田河太郎行文、秋田三郎致文の両名を遣わしたという。ただし、もともと田河行文は出羽国田河郡、秋田致文は秋田郡の支配層であったと考えられ、奥州藤原氏の支配領域の広さがうかがわれる。
8月7日夜、頼朝は主だった郎従に対し、翌8日曉方に阿津賀志山へ進むことを伝達。戦陣の畠山次郎重忠が率いてきた八十名の土木部隊によって堀が密かに埋められ、これを知った頼朝寝所伺候の小山七郎朝光は先陣を狙って寝所を出て、兄・小山左衛門尉朝政の郎従を拝借して阿津賀志山へと向かっている。ただ朝光がこのとき合戦に臨んだかは不明。
翌8日、金剛別当秀綱が阿津賀志山前に布陣した(『吾妻鏡』文治五年八月八日条)。頼朝勢は早朝卯刻、試みに「畠山次郎重忠、小山七郎朝光、加藤次景廉、工藤小次郎行光、同三郎祐光等」を派遣して箭合を行わせている。秀綱等は防戦するが、巳刻には退いて大木戸付近まで馳せ帰り、大将軍藤原国衡に戦況を報告。国衡は「泰衡郎従信夫佐藤庄司、又号湯庄司、是継信忠信等父也、相具叔父河辺太郎高経、伊賀良目七郎高重等」を「石那坂之上(福島市飯坂町湯野坂ノ上)」に遣わして、「堀湟懸入逢隈河水於其中、引柵、張石弓、相待討手」った(『吾妻鏡』文治五年八月八日条)。その眼前を流れる阿武隈川(摺上川)内に柵を引いて頼朝勢を待ち受けた。一方、頼朝勢からは「常陸入道念西子息常陸冠者為宗、同次郎為重、同三郎資綱、同四郎為家等」が秣の中に甲冑を隠して伊達郡沢原辺(摺上川周辺の肥沃地か)まで進み、佐藤庄司らが布陣する「石那坂之上」に迫り、合戦に及んだ。佐藤庄司はこれに激しく応戦し、寄手の為重、資綱、為家が負傷する激戦となった。常陸冠者為宗は奮戦し、佐藤庄司已下十八人の首を挙げ(ただし、佐藤庄司は十月二日に名取郡司、熊野別当とともに赦免されており、討死していないと思われる)、後日、為宗らはこれらの首級を奥大道沿いの経ケ丘(国見町大字大木戸経ケ岡)に梟首している(『吾妻鏡』文治五年八月八日条)。
9日夜、頼朝は翌10日早朝に阿津賀志山を越えて合戦すべきことを決定した(『吾妻鏡』文治五年八月九日条)。ところが、深夜のうちに「三浦平六義村、葛西三郎清重、工藤小次郎行光、同三郎祐光、狩野五郎親光、藤澤次郎清近、河村千鶴丸年十三才、以上七騎」が先陣と定められていた畠山次郎重忠の陣を越して抜け駆けした(『吾妻鏡』文治五年八月九日条)。この抜け駆けを察知した重忠郎従の榛沢六郎成清が重忠に「今度合戦奉先陣、抜群眉目也、而見傍輩所、爭難温座歟、早可塞彼前途、不然者訴申事由、停止濫吹、可被越此山云々」と訴えている。これに重忠は「其事不可然、従以他人之力雖退敵、已奉先陣之上者、重忠之不向以前合戦者、皆可為重忠一身之勲功、且欲進先登之輩事、妨申之條非武略本意、且独似願抽賞、只作惘然、神妙之儀也」と言って、動くことはなかった。
抜け駆けした七騎は、終夜阿津賀志山を登って木戸口(奥大道の木戸前の曲輪的な部分であろう)にたどり着くと、各々名乗りを上げた。すると泰衡郎従で「六郡第一強力者」である伴藤八やそのほか屈強な武士が馳せ寄せて、工藤小次郎行光と狩野五郎親光が先頭を切って突入し、行光と伴藤八は互いに轡を並べて組み合い、行光はその首を挙げているが、狩野親光は討死した。親光は頼朝の挙兵時から従う最古参の御家人であった(『吾妻鏡』文治五年八月九日条)。行光は伴藤八の首級を馬鞍に括り付けたのち、さらに木戸に向けて馳せ進むと、武士二名が組討をしている現場に遭遇する。行光が名を尋ねると「藤澤次郎清近欲取敵」という。これを聞いた行光は早速清親に加担して敵の首を取った。その後、休息の後、清親は行光に感謝し、すぐさま行光息男を清親の娘婿とする約定を交わした。また、葛西三郎清重と河村千鶴丸も奮戦して敵を討ち、中宮大夫進親能猶子・左近将監能直は初陣ながら、親能から補佐を依頼された宮六兼仗国平のもと、国衡近臣の佐藤三郎秀員と戦い、討ち取っている。
+―斎藤実盛
|(長井別当)
|
+―女子
∥―――――宮道国平
∥ (宮六兼仗)
宮道某
8月10日未明、予定通りに「重忠、朝政、朝光、義盛、行平、成広、義澄、義連、景廉、清重等」が木戸口に攻め寄せた。しかし、国衡麾下の将士も堅く防いで容易に陥落するとは思われなかった。実は頼朝は前夜のうちに「小山七郎朝光并宇都宮左衛門尉朝綱郎従紀権守、波賀次郎大夫已下七人、以安藤次為山案内者、面々負甲疋馬、密々出御旅館、自伊逹郡藤田宿向会津之方」に派遣しており、「越于土湯之嵩、鳥取越等、樊登于大木戸上国衡後陣之山」と、藤田宿から峯沿いに阿津賀志山の北側に回り込み、阿津賀志山中腹、防塁の大木戸内側に布陣する国衡本陣を望む高台に攀じ登ると、鬨の声を上げて矢を射かけた。この小山朝光勢の奇襲に国衡勢は「搦手襲来」と大混乱を来たし、国衡勢は「無益于搆塞」と逃亡していった。しかし、この中で「金剛別当子息下須房太郎秀方年十三」は黒駮馬に跨って踏み止まり、攻め寄せる関東勢を防いでいた。ここに工藤行光が駆け付けて秀方に馬を並ばせんとしたとき、行光の郎従藤五が割って入り、秀方と組討した。このとき藤五は秀方の顔を見て、子供と知る。姓名を問うが何も語らなかった。しかし、この場に一人留まるほどであれば何らかの謂れのある人物なのだろうとして討ち取っているが、その剛力は幼少に似合わぬものであったという(『吾妻鏡』文治五年八月十日条)。また、その父親の金剛別当秀綱は小山朝光に討たれている。そして早朝卯刻、頼朝はすでに戦乱の終わった阿津賀志山の堅陣を越え、奥大道を北上する。
国衡は高楯黒という名馬を駆って北方へ逐電し「芝田郡大高宮辺(柴田郡大河原町金ケ瀬新開)」からさらに「大関山(柴田郡川崎町大字今宿大森辺)」を越して出羽国へ向かおうとしていたが、和田小太郎義盛が大高宮辺を疾走する国衡を発見。「可返合」と呼びかけた。すると国衡は名乗って馬を廻らすと、互いに弓手に向き合い、国衡は「十四束箭」の巨大矢を手挟んだが、義盛は素早く「十三束箭」の矢を国衡に射掛けた。矢は国衡の射向けの袖を射通して腕に突き刺さり、国衡は痛みに耐えかねて馬を退いた。義盛は二の矢を構えて狙ったが、距離が開いてしまった。ここに走り来た畠山重忠の一軍が義盛を追い抜き、重忠の客将・大串小次郎が国衡に迫った。これに驚いた国衡は誤って馬を深田(大河原町金ケ瀬馬取前)に入れてしまい、身動き儘ならない中、義盛の矢で負傷していたことも重なって首を取られた(『吾妻鏡』文治五年八月十日条)。
8月12日、頼朝は船迫駅家(柴田郡柴田町船岡中央か)を経て、夕刻には多賀城国府へ到着した。泰衡は多賀城国府へと通じる国分原の鞭楯(仙台市宮城野区安養寺二丁目付近か)に布陣していたが、ここに阿津賀志山からの敗残兵がたどり着いて敗報を受けると、泰衡は驚いて退却しており、とくに抵抗もなく入部したのあろう。その後、「海道大将軍千葉介常胤、八田右衛門尉知家等参会、千葉太郎胤正、同次郎師常、同三郎胤盛、同四郎胤信、同五郎胤通、同六郎大夫胤頼、同小太郎成胤、同平次常秀、八田太郎朝重、多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎等」が阿武隈川の湊を渡って国府へと参上した(『吾妻鏡』文治五年八月十二日条)。
8月13日、北陸道軍として日本海側から奥州へ進んでいた比企藤四郎能員、宇佐美平次実政は出羽国に討ち入り、泰衡が派遣していた「田河太郎行文、秋田三郎致文等」と戦い、梟首したという。『吾妻鏡』編纂時に当日の出来事として記録されたものであろう。
8月14日、逐電した泰衡が国衙北部の「玉造郡」にいるという風聞が届いた。しかし、もう一報で「国府中山上物見岡取陣」もあることから、頼朝は思慮の末に玉造郡へと進軍。国府を出立して黒河を経由して玉造郡へと向かった。一方で、国府中山上の物見岡にも「小山兵衛尉朝政、同五郎宗政、同七郎朝光、下河辺庄司行平等」を派遣して取り囲んだところ、泰衡は事実そこに陣していたが、すでに逐電し、幕と四、五十人ほどの泰衡郎従が守衛しているのみであり、朝政らは難なく攻め落とした。その後、朝政は「吾等者経大道、於先路可参会歟」と諮ると、行政は「玉造郡合戦者可為継子歟、早追可参彼所者」と、頼朝との合流を提案。朝政もこれを受け入れ、行平とともに玉造郡へと向かった(『吾妻鏡』文治五年八月十四日条)。この合戦には藤九郎盛長のもとにあった囚人・筑前房良心(刑部卿忠盛孫・筑前守時房の子)が従軍しており、その軍功によって厚免されている。
8月20日、頼朝は黒河郡(富谷市から大和町、大衡村)を経て玉造郡の「多加波々城」を取り囲んでいる(『吾妻鏡』文治五年八月廿日条)。「多加波々城」の現在地は不明だが、その後の頼朝のルートが葛岡郡を経て津久毛橋へと進んでいることから、江合川の氾濫原が眼下に広がる要害の地、のちの岩出山城(大崎市岩出山城山)の可能性もあろう。泰衡はここに在城していたが、頼朝が取り囲んだ際にはすでに城をあとにしており、頼朝は城を落とすと、泰衡を追って「葛岡郡(葛岡要害付近か)」を経由し、暴風雨の中「松山道」を通って三迫川に懸る「津久毛橋(栗原市金成大原木井戸端辺りか)」を渡った。この暴風雨は時期からして台風であろう。なお、ここで梶原平次景高が一首詠んでいる。
陸奥乃勢ハ御方ニ津久毛橋渡して懸ン泰衡頚
陸奥国の人々を従えて泰衡の首を取り、大路渡して獄に懸けるとの意気込みを津久毛橋を渡ることに掛けた歌であり、頼朝はこれを祝い言と感心したという(『吾妻鏡』文治五年八月廿一日条)。
平泉の毛越寺跡の池 |
このころ泰衡は「自宅(伽羅御所か)」門前を通過して平泉を後にして出羽国へ向かっており、平泉の屋敷には郎従を遣わして火を放ち、「杏梁桂柱之搆、失三代之旧跡、麗金昆玉之貯、為一時之新灰」(『吾妻鏡』文治五年八月廿一日条)と、平泉の荘厳な屋敷は忽ち灰燼に帰した。ただし、泰衡が燃やしたのは自らの屋敷にとどまったとみられるが、すでに平泉の住人たちは逃散しており、翌22日申刻、頼朝が平泉に入った際には「家者又化烟、数町之縁辺、寂寞而無人、累跡之郭内弥滅而有地、只颯々秋風雖送入幕之響、蕭々夜雨不聞打窓之聲」(『吾妻鏡』文治五年八月廿二日条)と、ただ無人のまちが広がっていた様子がうかがえる。
なお、伽羅御所の南西の一角に倉がひとつ焼け残っており、頼朝は葛西三郎清重と小栗十郎重成を遣わして検分させたところ、「沈紫檀以下唐木厨子数脚在之、其内所納者、牛玉、犀角、象牙笛、水牛角、紺瑠璃等、笏、金沓、玉幡、金花鬘以玉飾之、蜀江錦直垂、不縫帷、金造鶴、銀造猫、瑠璃灯炉、南廷百各盛金器等也、其外錦繍綾羅、愚筆不可計記者歟」というほどの宝物が残されていた。頼朝は清重に「象牙笛、不縫帷」を与え、「可庄厳氏寺之由」を述べた重成にも望みの「玉幡、金花鬘」を授けた(『吾妻鏡』文治五年八月廿二日条)。
平泉高舘より衣川を望む |
8月23日、頼朝は「八月八日同十日両日遂合戦、昨日廿二日、令着平泉候訖、而泰衡逃入深山之由、其聞候之間、重欲追継候也」という消息をしたためると、雑色時沢に託して京都の右兵衛督能保へ遣わした(『吾妻鏡』文治五年八月廿三日条)。そして25日、泰衡の行方をつかめないことから、さらに北方を追奔すべきことを御家人らに通達している(『吾妻鏡』文治五年八月廿五日条)。また、柳之御所に隣接する衣河館にはいまだ前民部少輔基成とその子息三人が残っており、頼朝は千葉六郎大夫胤頼に彼らを召し出すよう指示した。さっそく胤頼は衣河館に赴き、彼らを生け捕ろうとするが、基成らは抵抗することもなく降伏したことから、胤頼は彼らを伴って頼朝のもとに戻っている(『吾妻鏡』文治五年八月廿五日条)。
8月26日、泰衡の使者が頼朝の宿所(加羅御所跡)に一通の書状を投げ入れて逐電した。その書状の表書きには「進上鎌倉殿侍所 泰衡敬白」と記されていたという。その書状には、
という内容が記されており、土肥次郎実平は「試捨置御返報於比内辺、潜付勇士一両於其所、為取御書、有窺来者之時、搦取可被問泰衡在所」と進言するが、頼朝はすでに奥羽南部をその手中に収めている中で、そのような消極的な手段をとる必要はなく「不及其儀、可置書於比内郡之由、泰衡言上之上者、軍士等各可捜求彼郡内」と、泰衡が比内郡に返書を置くよう依頼している上は、兵士を比内郡に派遣して捜索すればよいと命じた(『吾妻鏡』文治五年八月廿六日条)。
9月2日、頼朝は平泉を出立し、岩井郡厨川辺(盛岡市天昌寺町一帯か)へ向けて北上川に沿って北上した。めざす厨川柵は、遠祖の将軍頼義が前九年合戦で安倍貞任らを討った場所で、佳例を引いて厨川に至ればきっと泰衡の首を得ることができるであろう、との願掛けであったという(『吾妻鏡』文治五年九月二日条)。厨川柵は北上川と雫石川の合流点に設けられた堅城でかつての陸奥安倍氏の館(盛岡市安倍館町)があったという。9月4日、頼朝一行は志波郡に到着し、「陣岡蜂社(紫波郡紫波町宮手字陣ヶ岡)」に陣所を定めた(『吾妻鏡』文治五年九月四日条)。「陣岡蜂社」はかつて将軍頼義と義家が布陣した陣所で、義家が厨川合戦で勝利の一因となった蜂を祀った神社であり、頼朝はこの佳例を尊んだと思われる。北陸道を攻め上った比企藤四郎と宇佐美平次の軍勢も合流して、岡には白旗が多くたなびいたという。また、頼朝の進軍を聞いて樋爪館(紫波郡紫波町南日詰箱清水)から逃れた「俊衡法師(樋爪入道蓮阿)」を三浦介義澄と弟・十郎義連、子の平六義村に追わせている(『吾妻鏡』文治五年九月四日条)。
ところが9月6日、比内郡贄柵(大館市二井田贄ノ里)の柵主で奥州藤原氏の「数代郎従河田次郎」が泰衡の首級を持参して陣岡蜂社の頼朝の陣所へ現れた(『吾妻鏡』文治五年九月六日条)。泰衡は平泉を出たのち、陸奥国「糠部郡」を経て「夷狄嶋」への逃亡を図っており、道筋にある比内郡贄柵の河田次郎のもとに逗留する予定で、その途次にあらかじめ頼朝に「若垂慈恵有御返報者、可被落置于比内郡辺」と私信を送ったものと思われる。
しかし、9月3日、泰衡一行が贄柵へたどり着くと、河田次郎は泰衡を取り囲んで殺害。河田次郎はその首を頼朝に献じるべく馬を走らせたという(『吾妻鏡』文治五年九月三日条)。泰衡の首は和田小太郎義盛と畠山次郎重忠両名による実検が行われ、囚人赤田次郎に確認させたところ、本人に間違いないということで、首は義盛に預けられた。一方、泰衡の首級を持参した河田次郎には「汝之所為、一旦雖似有功、獲泰衡之條、自元在掌中之上者、非可借他武略、而忘譜第恩梟主人首、科已招八虐之間、依難抽賞、為令懲後輩、所賜身暇也者」と告げて、小山朝光へ預け、処断している(『吾妻鏡』文治五年九月六日条)。頼朝の脳裏には、平治の乱の際、父・義朝が、尾張国内海庄の郎従・長田庄司忠致を頼って殺害された記憶がよぎっていたのではなかろうか。
その後、泰衡の首級は、前九年合戦の貞任の先例に倣い、横山小権守時広に首の請け取りを命じ、時広の子・太郎時兼が梶原景時から請けると、郎従の七太広綱が長さ八寸の鉄釘で泰衡首級を柱に打ち付けた。貞任の先例では時広曽祖父・横山野大夫経兼が将軍頼義から貞任の首を請け取り、その郎従惟仲(七太広綱の祖)が柱に打ち付けたという(『吾妻鏡』文治五年九月六日条)。
9月8日、帥卿経房への消息を工藤主計允行政に書かせ、雑色安達新三郎を飛脚として京都へ遣わした(『吾妻鏡』文治五年九月八日条)。この消息は10月10日に入洛。その日の夜、右馬頭能保が兼実に「頼朝卿申遣云、去九月三日誅泰衡了云々」(『玉葉』文治五年十月十日条)を伝えている。兼実は「天下之慶也」と評すも、非常に素っ気なく追記されるのみである。神事や造営、主上や二宮元服、女宮親王宣下の件、そして最も気にかけていた娘の入内であろう。朝廷や自身にとっての重大事が重なるときの戦闘行為及び穢事を兼実は厭い、大変不本意な気持ちなのだろう。10月17日午刻、長らく天王寺詣を行ってきた法皇が入洛して六条御所に還御(『玉葉』文治五年十月十七日条)。翌18日、院使の頭中将成経が兼実を訪ねて「頼朝賞之間事也、申子細了」(『玉葉』文治五年十月十八日条)という。
9月9日夜には右兵衛督能保の使者が陣岡の頼朝陣所に到着し、7月19日の泰衡追討の宣旨及び追討容認の院宣を届けた(『玉葉』文治五年九月九日条)。頼朝の奥州追討が公的に認められたこととなる。また、翌10日、頼朝は源忠已講、心蓮大法師、快能等の平泉の寺院の住侶らを陣岡に集めて寺領安堵等を行うと、七日間在陣した陣岡を後にして厨川柵へ移った(『吾妻鏡』文治五年九月十一日条)。すると15日、樋爪館から逃れていた奥州藤原一門の「樋爪太郎俊衡入道并弟五郎季衡」が厨川に出頭してきた。俊衡は「太田冠者師衡、次郎兼衡、同河北冠者忠衡」の三人の子息、季衡も子息「新田冠者経衡」を伴っていた。歳六十を超え「頭亦剃繁霜、誠老羸之容貌」の俊衡入道を見た頼朝は憐れみを感じ、八田知家へ彼らを預けている。知家は彼らを陣所へ伴うが、俊衡入道はただひたすらに法華経を読誦のほか一言も発せず、仏法を深く崇敬する知家はこの姿に深い感慨を覚えている(『吾妻鏡』文治五年九月十五日条)。翌日、知家は頼朝の陣所に参じると、俊衡入道の法華経転経について言上した(『吾妻鏡』文治五年九月十六日条)。頼朝は日ごろより法華経への信心が篤く、俊衡等については罪に問わず、樋爪の本所を安堵することを下知したが、これは法華経の「我等亦欲擁護読誦受持法華経者」(『妙法蓮華経陀羅尼品 第二十六』)という「十羅刹」の御照覧によるものであると言い含めている(『吾妻鏡』文治五年九月十六日条)。さらに18日には秀衡四男・本吉冠者高衡と泰衡後見の熊野別当が降伏。頼朝は京都の帥卿経房へ彼ら降人の交名を遣わした。なお、この交名とみられる「能保卿示送云、奥州事併召取了、不漏一人云々、送注文一紙、実天之令然也、非言語之所及」(『玉葉』文治五年十月廿日条)が兼実に示されたのは10月20日のことで、一か月余り兼実へ報告がなされていなかったことになる。法皇還御からわずか二日後であり、奥州追討に関して否定的な兼実へ直接送られることは憚られたのか。翌10月21日には定長が院使として兼実邸を訪問し「奥州之間事」を諮問している(『玉葉』文治五年十月廿一日条)。
19日、厨川柵から平泉に向けて出立し、翌20日に平泉で「奥州羽州等事、吉書始之後、糺勇士等勲功、各被行賞訖」(『吾妻鏡』文治五年九月廿日条)された。その恩賞の御下文は「而千葉介最前拝領之、凡毎施恩以常胤可為初之由、蒙兼日之約者」(『吾妻鏡』文治五年九月廿日条)と、約定通り千葉介常胤から下された。21日に胆沢鎮守府(奥州市水沢佐倉河渋田)に到着し、翌22日に「陸奥国御家人事、葛西三郎清重可奉行之、参仕之輩者属清重可啓子細之旨」(『吾妻鏡』文治五年九月廿二日条)を命じた。
平泉毛越寺 |
23日、頼朝は平泉に入り、伽羅御所の北西斜向かいにあった無量光院を参詣、翌24日には葛西三郎清重に平泉郡内の検非違使所を管領すべきことを命じた。葛西三郎清重は今回の奥州合戦での勲功が殊に群を抜いていたため、この要職を任されたという。また、地頭職も「伊澤、磐井、牡鹿等郡已下拝領数ケ所」という。ただし、「是於当郡(岩井郡)者、行光依可拝領、別以被仰下之間、及此儀云々」(『吾妻鏡』文治五年九月十二日条)とある通り、工藤小次郎行光も岩井郡を拝領したことになっており、清重はこれら郡全体を支配した地頭ではないのだろう。
10月1日、多賀国府に入部。翌2日、囚人の「佐藤庄司、名取郡司、熊野別当」が厚免を蒙って、本所へと帰還した。佐藤庄司はかつて阿津賀志山の戦いで討死して梟首されたとされるが、赦免されたとされており、討死または赦された記録のいずれかが誤伝なのだろう(『吾妻鏡』文治五年十月一日条)。10月19日、頼朝は下野国宇都宮に逗留して報賽のため奉幣し、荘園を寄進した。また樋爪入道一族を宇都宮の職掌に任じたという(『吾妻鏡』文治五年十月十九日条)。ただし、後日彼ら一族のうち高衡、師衡、経衡、隆衡の四名は相模国、景衡は伊豆国、兼衡は駿河国へと流罪となり、俊衡弟の季衡は在下野国のまま下野国配流と決定されている(『吾妻鏡』文治五年十月一日条)。そして10月24日申刻、頼朝は鎌倉に帰還。実に三か月にわたる遠征であった。その後、諸所に亘る戦後処理を行い、奥州を守る葛西三郎清重に対して沙汰をしている。
永福寺跡 |
建久元(1190)年、頼朝の上洛に際して先陣として出陣。後白河法皇の院への参内にも供奉している。また、建久2(1191)年7月、鎌倉永福寺の庭池の大石を一人でかつぎ上げて運び入れるなど剛力が知られている。
正治2(1200)年正月2日、御所の侍に出御した頼家は、居並ぶ御家人を前にして、波多野三郎盛通に側近・勝木七郎則宗の捕縛を命じた。則宗は謀反人梶原景時の与党であるとしての捕縛であった。則宗も御家人として座に列しており、進み出た盛通が則宗を背後から抱えあげたが、則宗は相撲を得意とする剛腕の士であり、右腕を振りほどくととっさに腰刀を抜き、盛通を刺そうとした。このとき、その傍らにいた重忠が左手で「取加則宗之拳、於刀腕不放之、其腕早折畢」という。重忠は右手を刀ごと逆捩にしてそのままへし折ったとみられる(『吾妻鏡』正治二年正月二日条)。則宗もこの突然の出来事に「魂惘然」となり生け捕られ、侍所司の和田小太郎義盛へ預けられた。その後、義盛は御厩侍で則宗を尋問するが、則宗は「景時可管領鎮西之由有可賜 宣旨事、早可来会于京都之旨、可触遣九州之一族云々、契約之趣不等閑之間、送状於九国輩畢、但不知其実之由申之」と、景時から九州を管領べき宣旨を賜ったので、筑前国勝木庄を本領とする則宗にも一族に触れを出して京都へ来るよう指示があったために、景時の九州管領が事実かどうか確認する前に九州の一族に書状を送ったと述べた(『吾妻鏡』正治二年正月二日条)。
なお、2月6日に「則宗罪名并盛通賞事」についての沙汰が行われ、中原広元や三善善信入道らがこれを奉行したが、このときに波多野盛通に恩賞の沙汰があった際、真壁紀内が、則宗を捕らえたのは重忠だと憤って訴え出た。このため中原広元らは重忠と真壁を石御壺に召してその事実を糺したところ、重忠は「不知其事、盛通一人所為之由承及許也」としらばくれた(『吾妻鏡』正治二年二月六日条)。その後重忠と真壁紀内はともに帰るが、その際に侍で重忠は真壁に対して、
「如此讒言尤無益事也、携弓箭之習、以無横心為本意、然而客為懸意於勲功之賞、成阿党於盛通者、直生虜則宗之由、可被申之歟、何差申重忠哉、且盛通為譜第勇士、敢不可惜重忠之力、已申黷譜第武名之條、不当至極也」
と叱り、真壁紀内は「頗赧面」して言葉を発し得なかったという。これを聞く人々はみな感嘆したという(『吾妻鏡』正治二年二月六日条)。
その後、侍所に「小山左衛門尉、和田左衛門尉、畠山次郎已下輩群集」して雑談をしていたが、渋谷次郎が「景時引近辺橋、暫可相支之處、無左右逐電、於途中逢誅戮、違兼日自称」と景時の行動の不審さを述べたことに対し、重忠は、
「縡起楚忽、不可有鑿樋引橋之計難治歟」
と述べている(『吾妻鏡』正治二年二月六日条)。これを聞いた安藤右馬大夫右宗が、
「畠山殿者只大名許也、引橋搆城郭事不被存知歟、壊懸近隣小屋於橋上、放火焼落、不可有子細」
と述べた。これに対する重忠の反論はなく、雑談の一コマだったのだろう。また、小山左衛門尉朝政は、
「弟五郎宗政者、年来当家武勇、独在宗政之由自讃、而怖今度景時之威権、不加判形於訴状、墜其名條可耻之、向後莫発言」
と、弟の長沼五郎宗政が景時の権威を恐れて日ごろの「小山家の高名は一人宗政によるものだ」という高言に似合わず景時弾劾に連署しなかったことを指摘し、今後はこのような発言をしないようにと釘を刺され、宗政は返答することができなかったという(『吾妻鏡』正治二年二月六日条)。
建仁3(1203)年9月2日、頼家の妾・若狭局(比企左衛門尉能員娘)が御所を訪れて、北条時政一党の追討を懇願した。
若狭局は頼家の長男・一幡の母親で、8月27日、頼家が重病で危篤の中、執権職事の地位を利用して北条時政が主導となり、全国にある鎌倉家管轄の地頭職を二分し、関西三十八か国を千幡(のちの実朝)に、関東二十八か国を一幡の管轄とする旨を頼家の命として発していた。比企家と北条家の関係は亀裂があったが、この事件により決定的な対立となる。病床の頼家は自分の知らない間にこのような命が出されていたことに驚き怒り、若狭局の懇願に任せて比企能員を御所へ召して、時政一党の追討を命じたのである。
比企館跡(妙本寺)の比企一族墓 |
比企能員が急遽御所に呼ばれたことを聞いた尼御台所は、頼家の隣室に密かに控え、頼家と能員の密議を聞くと、ただちに仕える女房を北条邸に走らせたが、時政は仏事のために名越邸へ向かっており、尼御台所は大まかな内容を手紙にしたため、侍女に持たせて名越へ走らせたという。侍女は御所を発し、時政の一行に走り追いつくと時政に尼御台所の書状を奉げた。こうして時政は頼家と比企能員の陰謀を知り、ただちに能員を仏事に事寄せて名越邸に呼び出すと、天野遠景入道蓮景・仁田四郎忠常をして討ち果たした。
能員討たれるの報を聞いた能員の童僕は、あわてて比企家に戻り、おそらく能員嫡子・比企弥四郎時員にこの報告をしたのだろう。報告を聞いた比企家は、一幡を擁し館に立て籠った。これに対して未の三刻(午後三時)、尼御台所は鎌倉にあった御家人に比企家追討の命を発した。追討に加わったのは重忠をはじめ、北条義時、三浦義村、和田義盛ら、鎌倉に伺候していた二十一名の有力御家人である。
●『吾妻鏡』 建仁3(1203)年9月2日条
―比企家追討軍―
江間四郎義時 | 江間太郎頼時 | 平賀武蔵守朝雅 | 小山左衛門尉朝政 | 長沼五郎宗政 |
結城七郎朝光 | 畠山次郎重忠 | 榛谷四郎重朝 | 三浦平六兵衛尉義村 | 和田左衛門尉義盛 |
和田兵衛尉常盛 | 和田小四郎景長 | 土肥先次郎惟光 | 後藤左衛門尉信康 | 所右衛門尉朝光 |
尾藤次郎知景 | 工藤小次郎行光 | 金窪太郎行親 | 加藤次郎景廉 | 加藤太郎景朝 |
仁田四郎忠常 |
―比企家籠館軍―
比企三郎 | 比企四郎時員 | 比企五郎 |
河原田次郎(能員猶子) | 笠原十郎左衛門尉親景(能員婿) | 中山五郎為重(能員婿) |
糟谷藤太兵衛尉有季(能員婿) | 比企余一兵衛 |
比企家の抵抗は激しく、加藤景廉、尾藤知景、和田景長は負傷。郎党も傷を被って軍勢を引き上げている。
比企氏館跡(妙本寺) |
重忠は加藤、尾藤、和田勢に代わって重忠が一気に比企館を攻めて笠原親景勢を破り、親景は比企邸に駆け込んで火をつけ、河原田次郎、中山為重らは一幡の御前まで退いたのち自刃して果てた。火焔は比企邸を押しつつみ、一幡は母に連れられて裏門より脱出するも、その後発見され、殺害されたという。
女姿となって逃れ出ていた能員の子・比企余一兵衛は加藤景廉の郎党に捕らえられて殺害され、夜になって能員の舅・渋川刑部丞兼忠も誅され、北条家と肩を並べた大御家人・比企一族は一日にして歴史から姿を消した。
将軍頼家ならびに比企能員と北條時政との戦いは、その後の政局を大きく変革させていくことになるが、この戦いの根底には、比企能員が鎌倉家当主たる源頼家の舅として、政所の裁務評定に加わる十三名の宿老として権勢を持ったことへの危機感と、潜在的な武蔵国という隣国の恐怖心があったのではなかろうか。
建仁3(1203)年当時、武蔵国の国司は武蔵守朝雅で、彼は時政と後室牧ノ方との間に生まれた女子の婿であった。そして、その武蔵国の国司が留守の際に政務を見た武蔵国留守所の惣検校職が畠山重忠である。国衙支配的な関係から見れば重忠は朝雅の直属官であり、恒常的に朝雅が在鎌倉時などは重忠が留守所として政務を行っていた。
ところが当時の武蔵守は、平賀義信、大内惟義、平賀朝雅と平賀家が三代に亘って世襲する「家職」と化しており、彼らは武蔵国衙及び御家人へ強い影響力を持っていた可能性がある。こうした状況に百年以上に亘って「武蔵国留守所」の「留守検校職」を一族で世襲し(『吾妻鏡』による)、武蔵国においては「棟梁」と目されてきた秩父党は不満を蓄積したであろう。
平賀朝雅は武蔵国御家人たる比企氏とも当然関わりがあったと考えられるが、比企氏追討の筆頭(『吾妻鏡』の性質上、北條家は除く)として平賀朝雅が据えられているのは、門葉としての家格と武蔵守としての地位であり、北條氏に加担したのは彼が時政女婿であったためであろう。同様に畠山次郎重忠の名も追討軍に見えるが、彼も時政女婿として加わったのであろう。
北條時政は理由は不明ながら、武蔵国の御家人に対してある恐怖心を抱いていた様子がうかがえ、以前より武蔵秩父党の有力者である畠山次郎重忠、稲毛三郎重成にそれぞれ娘を嫁がせてまで、二重の縁戚関係を維持している(とくに畠山重忠は有力御家人の足立遠元女子を妻に迎えているにも拘らず女子を送り込んでいる)。時政がもっとも恐れたのは、鎌倉に近い地域にまで広範囲に広がる秩父党(とくに武蔵国惣検校職を帯した出羽権守重綱の子孫)の世襲的武力であろう。時政は初期鎌倉家の軟弱な基盤の中で、いわば身を削る懐柔によって武蔵国を抑えようと図ったのだろう。朝雅へ女子を嫁がせたのも、頼朝猶子としての朝雅を見たのではなく、武蔵守として国衙権限を抑え、朝雅を通じて秩父党やその麾下にあった武蔵国御家人の動向を監視するという意味合いもあったのではなかろうか。
建仁3(1203)年10月3日、「武蔵守朝雅」は「為京都警固」に上洛することとなり、「為伴党可令在京之旨、被廻御書」(『吾妻鏡』建仁三年十月三日条)という。武蔵守のまま京都周辺に起こり始めた不穏な情勢(伊賀伊勢両国の平家残党の動きや、比企氏滅亡及び将軍頼家の引退などの混乱)に備えるための上洛であったとみられる。朝雅は頼朝猶子という門葉でも格が高く、かつての義経(頼朝猶子)と同様の位置づけを持たせた、軍事・外交を行う行政担当官であったのだろう。
朝雅の留守に伴い、畠山重忠が武蔵国留守所として常の如く国衙政務を見たと思われるが、10月27日、鎌倉家政所は実朝の命として「武蔵国諸家之輩、対遠州、不可存弐之旨、殊被仰含之」ことを侍別当の左衛門尉義盛をして行わせている(『吾妻鏡』建仁三年十月廿七日条)。この武蔵国の御家人への訓戒は、直前の9月2日に時政が討った比企判官能員との関わりがあろう。
比企能員は武蔵国比企郡の御家人であり、前将軍頼家の舅でもあった。武蔵国には比企能員との関わりがあった御家人が多数いたことは推測される。さらに、畠山重忠が本拠とした男衾郡菅谷は秩父党の故地であり、比企氏は隣接する比企郡司としてかつて留守所を統括している秩父氏に国政的に属する存在であった。つまり、畠山重忠は比企能員にとっては潜在的主筋となる。両者の間には血縁関係は見られないものの、親しい関係にはあったのではなかろうか。畠山重忠は時政女婿として追討に加わるも本意ではなかったのだろう。これは「就中雖候于金吾将軍御方、能員合戦之時、参御方抽其忠、是併重御父子礼之故也」(『吾妻鏡』元久二年六月廿一日条)と見えるように、重忠は右衛門督頼家に伺候する頼家や比企能員に近い御家人であったが、とくに「父子之礼」を重んじて時政方について比企を攻めたとあることからも想定される。
朝雅は元久元(1240)年4月21日に京都から飛脚を送った時点では「武蔵守朝雅」と記されているが(『吾妻鏡』元久元年四月廿一日条)、元久元(1204)年11月20日時点では「武蔵前司」とあり(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)、この日までに武蔵守を辞しており(同日条の性質から見て『吾妻鏡』編纂時に他氏から提供された史料ではなく、営中に記録されたものを参照しているとみられ、朝雅はこの時点で武蔵守を辞しているのだろう)、畠山重忠との関わりはなくなっている。
元久元(1204)年10月14日、将軍・実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、北条時政と牧ノ方の子・北条政範(左馬権助)をはじめとして、結城朝広(七郎)・千葉常秀(平次兵衛尉)・畠山重保(六郎)・筑後朝尚(六郎)・和田朝盛(三郎)・土肥惟光(先次郎)・葛西清宣(十郎)・佐原景連(太郎)・多々良明宗(四郎)・長江義景(太郎)・宇佐美祐能(三郎)・佐々木小三郎・南條平次・安西四郎が上洛の途についた(彼らは実朝近習であるが嫡子とは限らない)。ここに異母弟の六郎重保が加わっている。なお、牧の方は時政の後妻として権勢を振るった女性である(牧の方の出自について)。『吾妻鏡』では御台所迎えの武士は十五名だが、『明月記』においては「来迎武士廿人」(『明月記』元久元年十二月十日条)とある。
千葉介常胤 +―千葉介成胤
(千葉介) | (千葉介)
∥ |
∥――――――千葉介胤正―+―千葉常秀
秩父重弘―+―女 (千葉介) (平次兵衛尉)
(秩父庄司)|
|
+―畠山重能―――畠山重忠
(畠山庄司) (次郎)
∥―――――――畠山重保
∥ (六郎)
北条時政―――女
∥
∥ 平賀朝雅
∥ (武蔵守)
∥ ∥
∥――+―女
牧ノ方 |
+―北条政範
(左馬権助)
一向は11月3日に京都に到着したが、政範は「自路次病悩」しており(『吾妻鏡』元久元年十一月十三日条)、上洛早々の11月5日に「遂及大事」んだ(『吾妻鏡』元久元年十一月十三日条)。享年十六。翌6日には「東山辺」に葬られた(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)。在京中には「二人死去馬助、兵衛尉」と政範ともう一名が死去しているが名は伝わらない。ただし事件性はないとみられ、「其替親能入道子」と、当時在京の中原親能の子が追加されたが「今一人猶欠」であった(『明月記』元久元年十二月十日条)。11月13日、政範の死が鎌倉にもたらされ、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。
政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀右衛門権佐朝雅邸で、政範一行の上洛祝いの酒宴が行われた(『吾妻鏡』元久元年十一月四日条)。関東使の接待も守護の役目であったことがわかる。ところが、この宴席で重忠の二男・六郎重保と朝雅が喧嘩になった。朋輩たちがなだめたため事なきを得たが、対立は解消することはなかった。原因は不明ながら、「右衛門權佐朝政、於畠山次郎有遺恨之間」(『吾妻鏡』元久二年六月廿三日条)とあることから、以前より朝雅と重保の父・重忠には深刻な対立があったことがうかがえ、恒常的な国司と留守所の対立関係があったところに、重保へ何らかの発言(すでに国司ではない武蔵国内の政務に関することや、小御所合戦に関係する対立ではなかろうか)によって重保が激高したものか。
この朝雅と重保の論争がきっかけになったのかは不明であるが、『吾妻鏡』では朝雅は「彼一族巧反逆之由、頻依讒申于牧御方」(『吾妻鏡』元久二年六月廿三日条)といい、朝雅は時政ではなく妻女の母牧の方に頻りに讒言したという。北條氏史観で描かれる『吾妻鏡』の中で朝雅は「讒」という表現を用いられていることから、のちの北條家の中でも、朝雅の行為は評価されていなかったことがうかがわれる。
朝雅後任の武蔵守は不明だが、元久2(1205)年2月21日、時政が「武蔵国土袋郷乃貢者、所被募永福寺住侶等供料也」と下知状を下していることから(『吾妻鏡』元久二年二月廿一日条)、武蔵国に介入していることがわかる。ただし、これは国主である鎌倉家の家司(別当)として行ったものと思われ、国衙行政とは異なる。
元久2(1205)年4月11日、北条時政は日ごろは武蔵国橘樹郡稲毛郷に隠棲していた娘婿の稲毛三郎重成入道を武蔵国から鎌倉に招聘した。「鎌倉中不静、近国之輩群参、被整兵具之由、有其聞、又稲毛三郎重成入道、日来者蟄居武蔵国、近曾依遠州招請、引従類参上、人恠之旁有説等」(『吾妻鏡』元久二年四月十一日条)といい、近頃鎌倉に不穏な動きがあり、近国の御家人が兵を率いて群参したという。こうした中で北条時政女婿で隠居していた稲毛重成入道が従類を率いて参上したことに、人々は怪しんだという。しかし、この噂は5月3日には「世上物騒頗静謐、群参御家人依仰大半及帰国」といい(『吾妻鏡』元久二年五月三日条)、のちの畠山合戦とは関わりのないものであった可能性が高い。稲毛重成入道も後世『吾妻鏡』編纂時に畠山合戦の前振りとして敢えて追記された可能性があろう。
6月20日、鶴岡八幡宮の臨時祭が通例通り執り行われ、その夕刻「畠山六郎重保、自武蔵国参着、是稲毛三郎重成入道招寄之」という(『吾妻鏡』元久二年六月廿日条)。4月の「鎌倉中不静、近国之輩群参、被整兵具」で畠山重忠が鎌倉へ下らなかった理由は不明だが、6月上旬頃には稲毛重成入道からの使者が「小衾郡菅屋舘」(『吾妻鏡』元久二年六月廿二日条)につき、何らかの理由をつけて重忠を鎌倉へ招請した。これは「牧御方、請朝雅去年為畠山六郎被悪口之讒訴、被欝陶之間、可誅重忠父子之由、内々有計議」(『吾妻鏡』元久二年六月廿二日条)による畠山重忠一族の族滅を謀ったものであるが、重成入道がこの謀議に加わっていたかは定かではない。
翌6月21日、時政は子の相模守義時と式部丞時房を呼ぶと、畠山重忠を討つ計画をはじめて明かした。しかし義時、時房は、
「重忠治承四年以来、専忠直間、右大将軍依鑑其志給、可奉護後胤之旨、被遣慇懃御詞者也、就中、雖候于金吾将軍御方、能員合戦之時、参御方抽其忠、是併重御父子礼之故也重忠者遠州聟也、而今、以何憤可企叛逆哉、若被棄度々勲功、被加楚忽誅戮者、定可及後悔、糺犯否之真偽之後、有其沙汰、不可停滯歟」(『吾妻鏡』元久二年六月廿一日条)
と述べて、この牧の方が時政に謀ったという策謀に反対し、真偽を見極めたのちに沙汰すべきであると訴えた。これに時政は一言も詞を発することなく座を立って退出した。しかし、すでに重忠追討の計画は動き出しており、時政に中止する意図などなかった。一方で牧ノ方は大岡備前守時親(牧三郎宗親と同人であろう)を義時のもとに派遣して、
「重忠謀叛事已発覚、仍為君為世、漏申事由於遠州之處、今貴殿被申之趣、偏相代重忠、欲被宥彼奸曲、是存継母阿党、為被處吾於讒者歟」(『吾妻鏡』元久二年六月廿一日条)
と恨み言を述べたという。義時はこの杜撰な策謀と愚かさに呆れ、
「此上者可在賢慮」
と言い捨てるのみであった。ここにはもしこの策謀を実行した結果を能々考えるべしという意味が含まれているように感じられる。
この項は多分に義時の情誼が強く描かれ、時政と牧の方の軽薄さが際立っているが、牧の方はともかく、時政までも牧の方に操られる存在としての描写となっており、それどほまでに切迫した状況があったとすれば、ここから「事件」後の記述も、おおむね事実に即して記されていると考えてよいだろう。
一方、6月19日に「武蔵国小衾郡菅谷館」を出立した重忠は、鎌倉へ向か為鎌倉道を南下した。このときの重忠は「相従于戦場之者僅百余輩」と見えることから、重成入道が重忠に伝えた鎌倉招請の理由は軍事的なものではないことがわかる。
伝・畠山重保供養塔 |
6月22日早朝寅刻、「鎌倉中驚遽、軍兵競走于由比浜之辺」(『吾妻鏡』元久二年六月廿二日条)という。これは「可被誅謀叛之輩云々」とあるが、この「云々」は後詞省略ではなく伝聞を記した引用の意味と解されることから、その後の畠山合戦譚は『吾妻鏡』編纂時に一連の資料から採用されたものであると考えられる。畠山重忠や子の重秀、本田や半沢ら家子らの具体的な言動、生年記載などがその後の軍記物と似た雰囲気を持っていること、安達藤九郎右衛門尉景盛がわずか主従七騎で奮戦し、重忠との好誼を語っている様子から、『吾妻鏡』が参考にした資料は、後世安達氏が家伝に盛り込んだ合戦譚と推測される。
鎌倉の御家人たちに「謀叛の輩を誅せらるべし」という幕命が下り、御家人たちは武装して由比ガ浜辺へ馬を走らせて行った。畠山邸にもこの命が届けられたため、父・重忠の留守を守っていた畠山六郎重保も取るものも取り合えず、わずかに郎従三人を率いて由比ガ浜へ走った。しかしここで待っていたのは、重保追討の命を受けていた三浦平六兵衛尉義村の手勢であった。重保はここで計られたと察したが、多勢に無勢、義村の家子・佐久間太郎家盛が重保主従を取り囲んだ。重保は奮戦するもあえなく討たれてしまった。時政は、秩父氏と三浦氏の潜在的な遺恨に目をつけ、三浦氏にその追捕を命じたのだろう。
続けて、鎌倉へ向っている重忠を追討すべしとの命が北条義時に下り、鎌倉の御家人を率いて鎌倉を出立した。先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺平次兵衛尉常秀・大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤という布陣である。葛西清重は頼朝の信頼が厚かった人物で秩父党の支族であることから、重忠に代わって先陣とされたか。後陣は千葉一族に任される慣わしがあったことから、境平次以下が任されたのだろう。また、この追討軍には河越氏、江戸氏も名を連ねている。
○畠山重忠追討軍
大将軍 | 北条相模守義時(大手) | 北条式部丞時房、和田左衛門尉義盛(関戸) | ||
先 陣 | 葛西兵衛尉清重 | |||
諸 将 | 足利三郎義氏 | 小山左衛門尉朝政 | 三浦兵衛尉義村 | 三浦九郎胤義 |
長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 | 宇都宮弥三郎頼綱 | 八田筑後左衛門尉知重 | |
安達藤九郎右衛門尉景盛 | 中条藤右衛門尉家長 | 中条苅田平右衛門尉義季 | 狩野介入道 | |
宇佐美右衛門尉祐茂 | 波多野小次郎忠綱 | 松田次郎有経 | 土屋弥三郎宗光 | |
河越次郎重時 | 河越三郎重員 | 江戸太郎忠重 | 渋川武者所 | |
小野寺太郎秀通 | 下河辺庄司行平 | 薗田七郎 | 大井兵衛次郎実春 | |
品川三郎清実 | 春日部 | 潮田 | 鹿島 | |
小栗 | 行方 | 兒玉 | 横山 | |
金子 | 村山党 | |||
後 陣 | 境平次兵衛尉常秀 | 大須賀四郎胤信 | 国分五郎胤通 | 相馬五郎義胤 |
東平太重胤 |
午の刻、鎌倉勢は武蔵国二俣川(横浜市旭区鶴ヶ峰本町)に着陣。弟の長野三郎重清は信濃国へ、畠山六郎重宗は陸奥国に行っていたため軍勢に加わっておらず、軽装の旅路であった。従う者は次男の畠山小次郎重秀と本田次郎近常、榛澤六郎成清の二将以下百三十六騎で、鶴ヶ峰の麓の駅に着陣した。重忠はここで大軍が前方に立ちはだかっていることに気がつき、不審に思ったことだろう。しかし、報告で重保が今朝鎌倉で誅殺されたこと、前面の大軍が自分たちを追討するために出張ってきた鎌倉勢であることを知る。近常と成清は、
二俣川古戦場 |
「聞く如きは、討手幾千万騎を知らず、吾衆更に件の威勢に敵し難し、早く本所に退き帰り、討手を相待ち合戦を遂ぐべし」
と主張した。しかし重忠は、
「その儀然るべからず、家を忘れ親を忘るは将軍の本意なり、随ひて重保誅せらるの後は本所を願ふこと能わず、去る正治の比、景時一宮館を辞し、途中に於いて誅に伏す、暫時の命を惜しむに似たり、かつ又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり、賢察を恥ずべきか、尤も後車の誡めを存ずべし」
と、もはや覚悟を決めていた。
二俣川古戦場(六ツ塚) |
しばらくののち、鎌倉勢は高名の重忠を討って誉れを後代に伝えるべく、各々先陣を駆けた。安達藤九郎右衛門尉景盛もそのうちの一人だが、彼は重忠とは弓馬を通じて親しい友人であり、日ごろの旧交を感じて、自ら先頭を進んで突撃してきた。重忠もその意を感じ、
「この金吾は弓馬放遊の旧友なり、万人を抜んでて一陣に趣く、何ぞこれを感ぜざらんや」
と、重秀に対して安達勢に攻めこむよう下知した。一方、安達景盛勢は野田与一、加治次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与籐次等の主従七騎での先陣であったが、重秀との合戦で加治次郎らの家子および多くの郎従が討たれている。
重忠麾下六騎の塚(六ツ塚) |
無勢の重忠勢であったが、さすがに歴戦の勇士であった。その鋒撃は多勢の鎌倉勢を物ともせずに防いでいた。おそらく重忠は鶴ヶ峰の高台に布陣して防いでいたのだろう。数十倍の兵力を持つ鎌倉勢と約四時間に渡る合戦を繰り広げたが、午後五時頃、これも弓馬の親友・愛甲三郎季隆の放った矢が重忠に命中。重忠は四十二歳の生涯を閉じた。季隆はすぐさま重忠に走り寄った。そのとき、おそらく重忠はまだ息があったと思われるが、自分を射た人物が親友の季隆であった事を知ったとすれば彼にとっては幸せだったのかもしれない。
畠山重忠首塚 |
重忠の首は季隆によって義時のもとに運ばれたが、その首を見た義時はこの亡き友人との思い出に涙にくれた。また、次男の小次郎重秀も二十三歳の若さで自刃を遂げた。
6月23日午後二時、義時は鎌倉に帰参した。時政はさっそく義時に戦場の様子を聞いてきたが、義時は、
「重忠弟、親類、大略以て他所に在り、戦場に相従うの者、僅かに百余輩なり、然れば謀反を企つる事すでに虚誕たり、若しくは讒訴に依って誅戮に逢うか、太だ以て不便なり、斬首を陣頭に持ち来る、これを見て年来合眼の昵みを忘れず、悲涙禁じ難し」
と、讒言者の平賀朝雅と牧の方を非難し、追討を実行させた父・時政にも軽蔑の視線を送ったことだろう。時政も何も言うことができなかった。
この重忠追討の報は北条時政からの急使が6月27日に京都に届けており、藤原定家は「関東有兵乱、庄司次郎某被誅了云々、時政以脚力申之」(『明月記』元久二年六月廿七日条)と認めている。
『吾妻鏡』によれば、義時は重忠謀叛の偽罪をでっち上げ、讒言した者を許さなかったとされ、鎌倉の停滞にも繋がる事件は、非常に峻烈な断罪となった。
義時は時政との対面ののち幕府を辞し、その足で三浦義村邸を訪れたと思われる。重忠追討の原因をつくった一人・稲毛三郎重成入道を討ち取るよう義村に下知したと推測され、義村は午後六時過ぎ、経師谷に呼び出した重成の弟・榛谷四郎重朝およびその子・太郎重季、次郎秀重を謀殺。また、稲毛重成入道は義村が派遣した大河戸三郎によって討ち取られた。重成の子・小沢次郎重政は宇佐美与一祐村に討たれている。
7月8日、重忠与党の所領が収公され、勲功の賞に宛てられた。幼少の将軍に代わって尼御台の裁量で行なわれているが、相馬五郎義胤はこの騒乱の恩賞として陸奥国高城保地頭職を受けており、もともとは重忠の所領だったのかもしれない。義時と尼御台は御家人らに対しては、重忠追討が幕命であった以上、勲功のあった者へは恩賞を発給せざるを得なかったのだろう。
閏7月19日、時政邸にいた将軍・実朝の殺害計画があることが発覚。尼御台は長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、天野六郎政景を時政邸に遣わし、有無を言わさず将軍・実朝を保護して義時邸に移した。さらに時政が集めていた武士も義時邸の将軍家守護のためとして引き取り、時政はもはや手も足も出ない状況に追い詰められた。
この日の午前二時ごろ、時政はにわかに剃髪した。六十八歳。義時や尼御台の激しい非難があったものと推測される。その翌日、時政入道は鎌倉を追放され伊豆北条郡へ移っていった。さらに義時は大江広元入道覚阿、安達右衛門尉景盛を屋敷に呼んで評定を行い、京都守護職・平賀朝雅の誅殺を評決。ただちに朝雅追討の使者を京都に発した。朝雅は重忠の事をたびたび讒言していた張本人である。さらに彼自身頼朝の猶子であり、実朝を殺害したのち将軍につくという陰謀も発覚しており、そうした罪状も誅殺に値するとされたのだろう。
閏7月25日夜、朝雅追討の下知状を持った使者が入京。在京の御家人に朝雅追討を命じた。翌26日、朝雅は仙洞御所に伺候していたが、囲碁を打っていた際に小舎人童が走り来て別室に朝雅を招くと、鎌倉から朝雅追討の命が下されたことを知らされた。朝雅は驚くことなくふたたび囲碁の会に戻り、囲碁を打ち終わったのちに、後鳥羽上皇に「関東より誅罰の専使を差し上さる、遁避するに處無し、早く身の暇を給」わんことを上奏して御所を退出。急ぎ六角東洞院の宿所へ馳せ戻ったが、鎌倉の命を受けた五条判官有範、後藤左衛門尉基清、安達源三左衛門尉親長、佐々木左衛門尉広綱、佐々木弥太郎高重ら在京の御家人が六角東洞院に攻め寄せてきた。朝雅はしばらく防戦していたが逃亡。金持六郎広親、佐々木三郎兵衛尉盛綱らが後を追い続け、山内刑部大夫経俊の六男・山内持寿丸(のち山内六郎通基)に射殺された。8月5日、牧の方の親族、大岡備前守時親も出家を遂げた。
北条時政―+―北条義時――北条泰時―+―北条時氏 |
時政らを追放したのち、尼御台政子、北条義時主導の政治体制が築かれていくが、義時嫡流の得宗家が専制政治を行なうのはまだのちのこと。
承元4(1210)年5月14日、「故畠山次郎重忠後家」の所領については、そのまま安堵されることが認められているが、この「後家」については北条義時の妹に当たる女性か。彼女はのちに足利義兼の庶子・足利義純に再嫁し、畠山氏の名跡を再興している。義純の子孫は「畠山」を称し、室町幕府の三管領の一家として繁栄。江戸時代には高家に列せられた。
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