| 継体天皇(???-527?) | |
| 欽明天皇(???-571) | |
| 敏達天皇(???-584?) | |
| 押坂彦人大兄(???-???) | |
| 舒明天皇(593-641) | |
| 天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
| 志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
| 光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
| 生没年 | 延文5(1360)年11月3日?~応永33(1426)年6月8日 |
| 父 | 千葉介満胤 |
| 母 | 不明 |
| 妻 | 上杉右衛門佐氏憲入道禅秀女 |
| 官位 | 正五位下? |
| 官職 | 修理大夫 |
| 役職 | 下総国守護職 |
| 所在 | 下総国千葉庄 |
| 法号 | 輝山常光・称名院兼哲往讃 |
| 墓所 | 千葉山海隣寺? |
千葉氏十四代。千葉介満胤の嫡子。明徳3(1392)年7月21日誕生したと伝わる。官途は修理大夫(応永廿四年十一月廿五日「龍興寺寺領安堵状」『諸家文書纂』)。ただし「修理大夫」は官位相当で四位の顕職で中央貴族や斯波足利家が任官する慣例を持つ官職であり、兼胤の任官は異例の抜擢とみられる。鎌倉公方足利満兼を烏帽子親として「兼」字を給わったのであろう。
| 兼胤花押 |
応永16(1409)年7月22日、鎌倉公方・足利満兼が亡くなり、十二歳の幸王丸(同年、将軍義持を烏帽子親として持氏と名乗る)が関東公方を継ぐと、「新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、回文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討」った(『鎌倉大草紙』)とする。ただし、兼胤はこのとき十八歳と弱冠であり、侍所の重職にあったことは疑問があり、父の満胤が就任していたのではなかろうか。なお、生田本『鎌倉大日記』を読むと「新田■■殿」が「侍所于時千葉」を七里ガ浜において誅し奉ったとなるが、「奉誅」の対象「之」は明らかに「殿」付けのある「新田■■殿」であろう。この件は様々に記述が残り、討たれた対象も「新田武蔵守」「新田相模守」「新田治部大輔」など異なる。
●応永16年7月22日の七里ガ浜
| 新田武蔵守 同年月被誅殺 | 『本土寺大過去帳』廿二日 |
| 七ゝ廿五ゝ夜、満兼御逝去刻、新田■■殿、侍所于時千葉、於七里浜奉誅之 | 生田本『鎌倉大日記』応永十六 |
| 七月二十二日、従四位左馬頭兼左兵衛佐満兼公逝去、于時三十三歳、… 同日、新田相模守ヲ於七里浜ニ侍所千葉介討之、 |
『喜連川判鑑』応永十六 |
| 新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、廻文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、 鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討之静ケル |
『鎌倉大草紙』 |
| 七月廿二日…満兼逝去刻、新田治部大輔、侍所千葉介、於七里浜奉之 | 彰考館本『鎌倉大日記』応永十六 |
-千葉介兼胤略系図-
千葉介氏胤 +―酉誉上人
∥ |《増上寺開山》
∥ |
∥――――+―千葉介満胤―――千葉介兼胤 +―千葉介胤直
∥ (千葉介) (千葉介) |(上総下総守護職)
∥ ∥ |
新田義貞―――娘 ∥――――+―千葉胤賢――→《武蔵千葉氏》
∥ (中務大輔)
上杉氏憲入道禅秀―――娘
応永17(1410)年6月29日、関東公方足利持氏の「御評定始」が行われた(『喜連川判鑑』)。ところが、この御評定始は「未御童躰ノ間、不能御出」(『喜連川判鑑』)とされた。すでに十三歳にして元服も済ませ、御評定始の予定も組まれていたにも拘わらず、評定に姿を見せることはなかったことは異例中の異例であろう。そして、この一月半後の8月15日、持氏は「依虚事子細、八ヽ十五ヽ若公管領宿所山内へ出御」(『鎌倉大日記』)という。原因は「満隆御陰謀雑説故歟」(『鎌倉大日記』)と見える。「満兼ノ御弟満高、御陰謀ノ企アリトテ、鎌倉中以外ニサハキケレハ、若君管領山ノ内ノ舘ヘ御出アリ、上杉安房守長基色々取持テ、満高陳謝アリテ、御無事ニ治リケリ」(『鎌倉大草紙』)というもので、公方持氏の叔父満隆の陰謀の企てによって、持氏が管領山内安房守入道長基(上杉憲定)邸へ避難した騒動だったである(『鎌倉大草紙』)。
この騒動はかなり大きなものだったようで、8月24日に「沙弥(鎌倉の不穏な動きを知らされた人物と思われ、鑁阿寺に指示するほどの人物であることから、管領山内上杉憲定より知らせを受ける立場にあった人物であろう)」が鑁阿寺に「於鎌倉御用心御事候哉、不替時、任先規殊可被致御祈祷状、如件」(応永十七年八月廿四日「沙弥書下」『鑁阿寺文書』)の指示をしている。結果として、憲定入道が骨を折り、満隆が持氏に陳謝して騒動は収まったという。持氏が御所に戻ったのは「同九ヽ三ヽ御所へ還御座」(『鎌倉大日記』)だった。
持氏の「御評定始」では持氏の出席が見送られ、その直後に満隆謀叛の企てが起こっているが、これは一連の出来事として考えてよいものであろう。満隆の兄の前公方満兼亡き後、幼少の持氏に評定始等の出席を行わせず、その地位から退ける企てが、この鎌倉騒乱ではなかろうか。ところが、持氏は機転を働かせて関東管領亭に走ったことで企ては失敗に終わったのであろう。その後、管領安房入道長元の説得を受け、持氏に「陳謝」したのち満隆の存在はしばらくうかがえなくなる。
ところが、この騒動の二か月後の10月11日には、「沙弥(禅秀入道)」が「若宮別当大僧正御房」に「鶴岡八幡宮社領沽却所々」を申請のままに知行を安堵する奉書を発給している(応永十七年十月十一日「上杉禅秀奉書」『神田孝平氏旧蔵文書』)。満隆の「御陰謀」を収めた山内安房守入道長基はいまだ管領職にあり、「辞退」したのは翌応永18(1411)年「正ゝ十六ゝ」(『鎌倉大日記』)のことで、「禅秀 右衛門佐入道二ゝ九ゝ、管領職領掌、同廿始評定」(『鎌倉大日記』)が継承したのはさらに半月後の応永18(1411)年2月9日のことだった(管領就任後の禅秀の評定始は2月20日とされる(『喜連川判鑑』))。入道長基が管領を辞したのは「病に依」(『鎌倉管領九代記』)ともされるが、すでに応永17(1410)年10月の時点で病状は悪化していて、禅秀入道が前管領朝宗入道息として事実上管領職を代行していた可能性はなかろうか。
応永19(1412)年「三ゝ五ゝ御判始」(『鎌倉大日記』)を行い、管領の禅秀入道のもと、実質的な政務を執り始めたとみられる。
同年11月19日、常陸国の「鹿嶋社御神領内小牧」の小牧十郎国泰の押領に関する相論について、鎌倉の評定で審議の様子を「鹿嶋社大禰宜殿(大中臣憲親)」が関東評定衆の一人と思われる「沙弥薀誉(佐々木基清入道)」に問い合わせる書状を鎌倉へ送った(応永十九年十一月廿六日「沙弥薀誉書状」『塙不二丸氏所蔵文書』)。この書状は11月24日に佐々木薀誉のもとに到来し、翌25日の「御評定」で「無為ニ令落居候」となり「近日之間、可御判出候之間、目出候」という鹿嶋大禰宜の訴えが認められ、近日奉書が下されるであろうことを薀誉が26日に書状に記して鹿嶋大禰宜のもとへ送達した。御評定については「自元御理訴御事候間、衆中、間領、上方御一同御落居之間、殊ニ目出候」といい、そもそも鹿嶋大禰宜に理のある訴えであり、御評定に出席者の満場一致での採決だったという。ここに見える「衆中」とは関東評定衆、「間領」とは禅秀入道、「上方」は持氏である。持氏はすでに「御評定始」は行っており、応永17(1410)年6月29日以降の評定には出席していたと考えることが妥当であろう(応永17年から後述の応永22年まで五年もの間、持氏が逼塞していたとは考えにくく、京都においても関東問注所や関東政所を通じて当然情勢は伝わっていたであろう。将軍義持が烏帽子子として気にかけていた持氏が逼塞していると義持が察すれば、義持から満隆へ何らかの譴責がくだるであろう)。そして、管領を禅秀入道に譲って引退していた安房入道長基は、応永19(1412)年「十二ゝ十八ゝ、長基頓滅」(『鎌倉大日記』)という。享年三十八。「大酒之後示疾、其夕不慮逝去」(『上杉系図大概』)ともある。
前管領の死から九日後の12月27日、持氏は「新御堂御所御移徒」(『喜連川判鑑』)とあるが、これは「十二月廿七日、満高、新御堂御所御移徒」(『鎌倉大日記』)を誤記したもので、持氏が御所を移転したわけではない。満隆は「新御堂小路殿」(『鎌倉大草紙』)、「新御堂殿」(『鎌倉大草紙』)、「號新御堂故満氏三男也」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)を称しているように、満隆が移った御所は「新御堂」のある「小路」(称してこの小路を新御堂小路と呼んだのだろう)にあった。これが新屋形であったのか従来からあったのかは定かではないが、このタイミングから、満隆は前管領の安房入道長基の監視下に置かれていた可能性があろう。
『喜連川判鑑』では、「新御堂御所御移徒」(『喜連川判鑑』)したのは持氏となっているが、そもそも十五歳ですでに従四位下左馬頭たる公方持氏が、謀叛を企てた「叔父満隆の新御堂御所」に転居することなど考えにくい上に、満隆が公方御所の名を号することも不自然である。つまり、持氏ははじめから転居していない、ということになろう。後日、上杉禅秀の乱で持氏が御所を遁れた際には、十二所を経由して岩戸山(岩殿山)、小坪、前浜、佐介国清寺というルートを取っている。つまり、持氏居住の御所は、これまで同様に浄妙寺付近の御所であったことがわかる。
「新御堂」については、公方御所から東に「かつて」、「大倉新御堂」と称された大慈寺があったが、大慈寺は鎌倉外港六浦への大道六浦道沿いにあり、現在の明石橋北側一帯が寺域であった。西側には当時から明王院が接し、門前には六浦路を挟んで滑川が流れ、周囲に小路は存在せず、御所を建てられる空閑地も存在しない。さらに大慈寺が「大倉新御堂」と呼ばれていたのは建保2(1214)年頃までであって、その後は義時建立の大倉薬師堂(現在の覚園寺)が「大倉新御堂」と呼ばれるようになっている。つまり、満隆の号「新御堂」と大慈寺はまったく関係ない。
「禅秀の乱」の際には、満隆は「西御門」の故基氏「保母清江夫人」(『空華日用工夫略集』一)の菩提所「保寿院」(『鎌倉大日記』)に移っていることから、満隆の「新御堂御所」は、西御門保寿院に近い場所であったと推測される。持氏と対立した犬懸入道禅秀が公方御所を経ずに満隆と密かに通じたであろうことを考えると、「新御堂小路」は永福寺前の薬師堂谷、覚園寺(大倉新御堂)から延びる小路で、満隆の館はここにあったと想定される。
その頃、千葉では応永20(1413)年8月28日、兼胤は直臣を引き連れて香取神宮に参詣した。そして、応永23(1417)年2月26日には「新介殿兼胤」が、木内三郎左衛門・曽谷弾正・円城寺新兵衛を奉行として飯沼円福寺(銚子市)に参詣している(『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』)。ここにみえる「曽谷弾正」とは、八幡庄曽谷を本貫地とする在地豪族で、兼胤の祖父・千葉介氏胤の母親の実家でもある。
●応永23(1416)年2月26日『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』(『円福寺文書』)
また、応永20(1413)年以前には、管領上杉禅秀入道の娘を娶っており、応永21(1414)年には嫡子胤直が生まれている(生年は『諸家系図纂』の没年齢より逆算)。応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」では、前管領の氏憲入道禅秀が鎌倉公方足利持氏の御所を攻めた際には、舅の禅秀に加担し、父の千葉大介満胤とともに鎌倉米町表に陣取った。持氏奉公衆には海上筑後守憲胤やその子海上信濃守頼胤といった一族が見えるが、彼らとは敵対する(『鎌倉大草紙』)。
●上杉禅秀方についた千葉一族(『鎌倉大草紙』)
| 千葉大介満胤 | 千葉修理大夫兼胤 | 千葉陸奥守康胤 | 相馬(大炊助胤長?) | 大須賀(相馬左馬助憲康?) |
| 原(四郎胤高?) | 円城寺下野守(尚任の父か) | 臼井(?) |
この上杉禅秀の引き起こした騒乱の余波は、禅秀の乱が収束したのちも関東公方に暗い影を落とし、関東や京都を巻き込む騒乱となり、小田原北条氏が滅亡する百七十年以上のちまで続いていくことになる。
なお、もともと公方持氏と、関東管領禅秀入道との間には対立があったわけではなく、応永21(1414)年7月2日午刻には、持氏は禅秀入道とその子の病気平癒のため、奉行人の「沙弥道繁」に書状をしたため、「御管領并御曹司御違例之間、被致御祈祷之精誠、可有御進上、巻数同本符之由」を足利の鑁阿寺に依頼している程である(応永廿一年七月二日「沙弥道繁奉書」『鑁阿寺文書』)。
同年8月20日には、持氏は故前管領安房入道長基の子「佐竹左馬助(義憲)」の所領であった「常陸国那珂東国井郷内佐竹左馬助跡」を鶴岡八幡宮に寄進している(応永廿一年八月廿日「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』)。これは佐竹義憲の下人が鶴岡八幡宮社頭で狼藉を働いたための「収公」で、鶴岡八幡宮の「為武蔵国津田郷内放生会料所不足分」として寄附されたものである。持氏は故安房入道に叔父満隆謀反の件で恩義を感じつつも、私情を挟まずに粛々と正否を諮っていた様子がうかがえる。
ところが、応永22(1415)年3月5日、持氏は御評定で「諸国ノ政事ヲ被聞召」、決裁意見を管領らに諮問する「御評定御意見始」の儀を行った(『喜連川判鑑』)。それまでは御評定の決裁に際しては意見を諮問せず決裁事項に御判を書き、管領禅秀入道が御教書として当事者に下していたのだろう。禅秀入道と持氏が決定的に対立する事件は、この「御意見始」の次の次の評定で起こったようである。
応永22(1415)年4月25日、「鎌倉政所」での御評定のとき、「犬懸ノ家人、常陸国住人越幡六郎」が科によって所領を没収された(『鎌倉大草紙』)。後年、管領の安房守憲実のもと常陸国真壁郡の鹿嶋神領の下地沙汰付の両使として遣わされている常陸国「小幡左近将監(泰国)」の同族であろう。このとき管領禅秀入道は「サシタル罪科ニアラス、不便」として「扶持」したことで、持氏は「以ノ外御気色ヲカフモリケル」という。越幡六郎が管領禅秀入道の家人であったことでその公私混同を詰ったのではなかろうか。ところが禅秀入道は「道ノミチタルコトヲイサメス、法外ノ御政道ニシタカヘ奉ルテ、職ニ居テ何ノ益アラン」と述懐し、5月2日、管領職を辞する旨を上表した(『鎌倉大草紙』)。
持氏はこれを請けると「カヤフノコト、弥上意ヲ奉令軽」と激怒し、禅秀の上表を容れて、5月18日、故憲定入道長基(大全)の子息、安房守憲基を新たな関東管領に任じた(『鎌倉大草紙』)。
このように持氏と禅秀の間には険悪な空気が流れはじめ、それにともない鎌倉中が騒動して、戦乱の臭いを嗅ぎつけた近国の兵が鎌倉に忍び集まってきたが、鎌倉府は7月20日、彼らに帰国を命じている(『鎌倉大草紙』)。ただ、9月18日、持氏は「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「一族親類等令同心、可致忠節候、且此子細可相触在国之輩候也」という不穏な文書を送っている(『皆川文書』)。この頃には前管領禅秀入道は新御堂殿満隆と繋がり、持氏もそれを察していたのであろう。
12月19日、新御堂殿満隆は「安房国長狭郡龍興寺」を「可為祈願所」とし、祈祷を「可被致清誠」ことを命じている(応永廿二年十二月十九日「足利満隆御教書」『保坂氏所蔵文書』)。
●応永22(1415)年12月19日「足利満隆御教書」(『保坂潤治氏所蔵文書』)
安房龍興寺は二年後の応永24(1417)年11月25日、守護千葉介兼胤が「瑞泉寺殿(足利基氏)」の寄進状、「永安寺殿(足利氏満)」の祈願所の状の通り、寺領の安堵を行っているが、ここから龍興寺は鎌倉足利家の祈願所として継承されていた寺院であったことがわかる。応永22(1415)年12月19日当時、すでに禅秀入道が管領職を辞して半年余り経過しており、禅秀入道はこの頃には満隆(及び持氏異母弟で満隆養子の持仲)と繋がりを有していたとみられ、満隆が鎌倉足利家代々の祈願所に祈祷を命じたのも、関東公方の継承を企図する意識の顕れなのであろう。
なお、禅秀の乱が収束したのち、千葉介兼胤が安堵した寺領安堵状の中に、本来あるべき満隆の「御祈願所之御判」は記されることはなかった。これは持氏が満隆の御教書を認めなかったためか。
●応永24(1417)年11月25日「千葉介兼胤寺領安堵状」(『諸家文書纂』)
●応永24(1417)年12月24日「奉行人奉書」(『諸家文書纂』)
以下は『鎌倉大草紙』での禅秀の乱の顛末に『禅秀記』『看聞日記』の記述を追加したものである。
応永23(1416)年、鎌倉公方足利持氏と前管領上杉禅秀の不和が京都に伝わり、「動乱ノヨシ聞ケレ」た際、「義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉ヘ御下シ有テ上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル、持氏卿ノ伯父新御堂小路殿ヲモ頼ミ玉ケリ」(『鎌倉大草紙』)とあり、足利満隆が禅秀を招いて評定を行った際に、禅秀は、
「持氏公御政道悪シクシテ諸人背申事多シ、某諌メ申スト云ヘドモ、忠言逆耳御気色悪シクナリ、結句、御外戚ノ人々依申掠御不審ヲ罷蒙ルト云ヘドモ、誤ノナケレバ鰐ノ口ヲ遁候ヘキ、世ハハ唯為恩ニ仕ヘ、命ハ依義軽シト申候ヘハ、イカヤウニ不義ノ御政道積リ、果テハヤガテ謀反人アリ、世ヲクツガヘサン事チカク候カ、内々承ル子細モ候、他人ニ世ヲトラレサセ給ハン事ヲ、御当家ノ御歎キ申テモアマリアル御事ニテ候、サテ亦君ハ去ル応永十七年ノ秋、佐介入道大全カ讒言ニテアヤウキ御目ヲ御覧セシ御恨忘サセ給ハシ、今京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有不参、不日ニ思召立、鎌倉ヲ攻落シ、押テ御上洛アラハ天下ノ反復コソマノアタリニテ候」
と満隆に勧めたという。満隆もおおいに悦び、
「内々存子細アリトイヘトモ、身ニオヘテ更ニ望ナシ、甥ノ持仲猶子ニ定ツル間、是を取立給ハレ」
と、猶子の足利持仲(持氏の異母弟)を取り立てることを頼んで禅秀に同心したため、禅秀は初秋から病気と称して邸に引きこもり、謀反を計画したという。
禅秀入道の郎等は「国々ヨリ兵具ヲ俵ニ入、兵粮ノヤフニ見セテ人馬ニ負セ」て鎌倉に武具を集積し、人々に気取られることなく準備が進められた(『鎌倉大草紙』)。そして、「新御堂殿」の御内書に禅秀が副状を付けて回文を作成し、「京都ヨリノ仰ニテ持氏公并憲基ヲ可被追討」を諸大名に遣わしたという。その回文を見て集まり来た人々は、禅秀の娘婿である「千葉介兼胤、岩松治部大輔満純入道天用」を筆頭に、多くの諸士が加担したという(『鎌倉大草紙』)。また、陸奥国には「篠河殿(満隆兄弟の足利満直)」を通じて葦名盛久、白河結城、石河、南部、葛西、海道四郎など、こちらも多くの有力諸大名が禅秀に加担した(『鎌倉大草紙』)。
●足利持隆・上杉禅秀入道に加担した人々(『鎌倉大草紙』他)
| 千葉介兼胤 岩松治部大輔満純入道天用 渋川左馬助 舞木太郎 大類氏、倉賀野氏、丹党の者、荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、甕尻氏 武田安芸入道信満 小笠原の一族 狩野介一類 曾我、中村、土肥、土屋各氏 名越一党、佐竹上総介、小田太郎治朝、府中大掾、行方、小栗 那須越後入道資之、宇都宮五左衛門佐 蘆名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西、海東四郡の者ども 木戸内匠助伯父甥、二階堂、佐々木一類 |
上杉禅秀婿 上杉禅秀婿 武蔵国丹党、児玉党 上杉禅秀舅。甲斐国より 信濃国より 伊豆国より 相模国より 常陸国より 下野国より 陸奥国より(笹河殿ヲ頼) 鎌倉在国衆 |
| 坂本犬菊丸 ・常陸国信太庄内久野郷の地頭 |
応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
| 【禅秀家人】:下野国西御庄で捕縛 秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎 土橋又五郎、石井九郎(若党) |
応永24年閏5月9日「足利持氏御教書案」 (『松平基則氏所蔵文書』) |
| 二階堂右京亮 ・上総国千町庄大上郷の地頭 |
応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』) |
| 明石左近将監 ・武蔵国比企郡大豆戸郷の地頭 |
応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
| 皆吉伯耆守 ・上総国天羽郡内萩生作海郷 |
応永24年10月17日「上杉憲基施行状」 (『上杉文書』) |
| 桃井左馬権頭入道(桃井宣義入道) 小栗常陸孫次郎(小栗満重) |
応永25年5月10日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
| 混布嶋下総入道 ・下野国長沼庄内混布嶋郷 ・下野国長沼庄内泉郷半分 ・下野国長沼庄内青田郷半分 |
応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
応永23(1416)年10月2日夜、満隆と猶子持仲(持氏弟)が御所殿中から忍び出て、西御門の「宝寿院」(『鎌倉大草紙』)、「保寿院」(『鎌倉大日記』)で挙兵した。なお、京都へ実際に伝わった報告では「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)とあるので、満隆と上杉禅秀は鎌倉外から侵入した可能性がある。
禅秀挙兵の原因は、京都に伝わった情報によれば、「上杉金吾謀叛濫觴者、左兵衛督持氏母儀を令盗犯云々、依之可被討罰之由、有沙汰之間、上杉分国へ落下了、然而盗犯事、為虚名之間、雖被赦免、猶討罰事欝憤申、発謀叛」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)というように、持氏母を禅秀入道が「盗犯」した噂により禅秀追討の沙汰が下され、禅秀は分国へ遁れたが、その噂は虚偽であったため持氏が「赦免」したものの、禅秀の鬱屈は晴れずに挙兵に及んだ、というものであった。真偽は不明だが、持氏は禅秀入道を信用していなかったことは確かであろう。
犬懸上杉家の郎党の屋部氏、岡谷氏の両人が手勢を引率して、夜に入って塔辻に下り、鎌倉の所々に堀を切り、鹿垣を結うなど防砦を築いた。
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| 犬懸上杉邸跡 |
一方、禅秀は持氏を捕らえるべく、御所へ向かった。この挙兵は前触れなく起こっており、持氏はこのとき「折フシ御沈酔」で寝ていたという。近習の木戸将監満範が御座近くに馳せ参じて持隆・禅秀らの反乱を伝えたが、持氏は、
「左ハアラジ、禅秀以テ外ニ違例ノヨシ聞食、今朝二男中務少輔持房、出仕致ケルカ、存命不定ノヨシニテ帰宅セシ」
と言い、瀕死の禅秀が兵を挙げるなど思いもよらないという返答であった。これに満範は、
「ソレハ謀反ノハカリ事ニ虚病仕候、唯今御所中ヘ敵乱入ラン、分内セハク防ニ馬ノカケ引不可叶、一間途御出アリ、佐介ヘ御入候ヘ」
と告げて、佐介の管領邸に移すべく持氏を馬に乗せて御所を脱出させた。すでに六浦路の西側「塔辻」には「敵篝ヲ焼テ警固」していたので、若宮大路を経由して佐介へ向かうことはできず、「岩戸ノ上ノ山路ヲ廻リ、十二所ニカゝリ、小坪ヲ打出、前浜」を馳せて佐介の管領上杉憲基のもとに遁れた(『鎌倉大草紙』)。持氏が御所から突然消えたので、「御供人々不存知間、或国清寺奉追人々者」(『鎌倉大日記』)といい、持氏馬廻衆ははじめ持氏の行方をつかむことができなかった様子があるが、その中に持氏を佐介に遁れさせた「木戸将監(木戸将監満範)」(『鎌倉大草紙』)も見えることから、木戸満範が彼ら馬廻衆を佐介に伴ったということかもしれない。なお、『鎌倉大草紙』は「国清寺」を「伊豆ノ名コヤノ国清寺」としており、持氏本陣となっていた佐介国清寺と混同している。
●足利持氏の脱出に御供した近習(『鎌倉大草紙』):■千葉一族
| 一色兵部大輔 | 一色左馬助 | 一色左京亮 | 一色讃岐守 | 一色掃部助 |
| 一色左馬助 | 龍崎尾張守 | 龍崎伊勢守 | 早川左京亮 | 早川下総守 |
| 梶原兄弟 | 印東治郎左衛門尉 | 田中氏(新田一族) | 木戸将監満範 | 那波掃部助 |
| 島崎大炊助 | 海上筑後守 | 海上信濃守 | 梶原能登守 | 江戸遠江守 |
| 三浦備前守 | 高山信濃守 | 今川三河守 | 今川修理亮 | 板倉式部丞 |
| 香川修理亮 | 畠山伊豆守 | 筑波源八 | 筑波八郎 | 薬師寺 |
| 常法寺 | 佐野左馬助 | 二階堂 | 小瀧 | 宍戸大炊助 |
| 宍戸又四郎 | 小田宮内少輔 | 高瀧次郎 |
このとき、佐介の上杉憲基は「安房守憲基ハ夢ニモ是ヲ知ラス、酒宴シテヲハシケル」が、ここに上杉修理大夫(小山田流上杉定重か)が三十騎ばかりで馳せ参じ、
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| 上杉禅秀の乱 関係地図 |
「禅秀入道、新御堂殿并持仲公ヲスゝメ申、御所ヲモ取リ籠奉リ、唯今是ヘモ発向スル處、カヤフニエフゝゝト渡ラセタマフソヤ」
と呼ぶが、憲基は少しも騒がず、
「何程ノコト有ヘキ、大将ノ満隆ハ先年雑説以ノ外ニテ、御大事ニ及ヒシヲ親ニテ候大全カ蒙恩、御命ヲ扶ケ給ヒ、何ノ間ニ我ニ向ヒ左ヤフノ悪事ヲ思ヒ立玉フハ天ノセメノカルヘカラス、又禅秀去応永九年ノ夏、奥州伊達大膳大夫退治ノ時、赤舘ノ戦ニ敗北シテ両国兵ニ見限ラレタリ、今更何カ彼ニシタカワンヤ」
と、その報告を信じようとしなかった。しかし、今度は上杉蔵人大夫憲長(庁鼻和流上杉憲長)が十四騎を率いて武装して馳せ参じ、
「敵味方ハ不知、何様前浜ニハ軍勢充満ス、打立タマへ」
と叫んだ。これには憲基も異変を感じ、急ぎ甲冑を著すると、「長尾出雲守、大石源左エ門、羽継修理大夫、舎弟彦四郎、安保豊後守、惟任助五郎、長井藤内左エ門、其外、木部、寺尾、白倉、加治、金子、金田ヲ初トシテ宗徒ノ兵七百余騎」を伴って出陣した。憲基は、
「御所ヘ馳参リ候ヤフ、イマタ恙ナク御座御供申、是ヘ入ヘシ、若又御所中ヲ敵取巻申サハ、西御門ニ火ヲカケ宝寿院ヘ推ヨセ、一戦タルヘキ」
を人々に申し合わせていたが、そのとき持氏が「宍戸六郎朝国」(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)ら味方の将兵ともども佐介に遁れてきたので、憲基はじめ人々は安堵した(『鎌倉大草紙』)。ここには、禅秀方と縁戚にあった大掾満幹とは袂を分かった「常州鹿嶋一族」が「上方、佐介江御移」を聞きつけ(応永廿四年正月「烟田幹胤申着到」『烟田文書』)、「惣領属鹿嶋兵庫助憲幹手」に属して参陣している(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。その日付は闕だが、翌2月の軍忠状では「同三日」とあるので、「上方(持氏)」が佐介へ移ったのは10月3日の事となり、『鎌倉大草紙』の記述は誤りとなる。
●応永24(1417)年正月「烟田幹胤着到状」(『烟田文書』)
●応永24(1417)年3月「宍戸朝国着到状」(『安得虎子』)
鹿嶋一族や宍戸朝国、そのほか人々が佐介の持氏営所(後述の通り、管領亭ではなく佐介国清寺とみられる)の宿直警固を行っている。持氏にはさらに足利一族と所縁の深い伊豆山権現別当房密厳院の尊運僧都が加担している※。
※これは本寺の醍醐寺僧正隆源との伊豆山密厳院を巡る継承問題(将軍義持の認可の矛盾により発生)を有利に進めたい尊運が、将軍の命を遵行する立場にある持氏(義持との関係は良好)に協力し、その対価を得ようとしたものであろう。しかし、翌応永24(1417)年7月1日、将軍義持は「伊豆山密厳院別当職事」は「所被補水本僧正隆源」とする御教書(執筆:伊勢因幡入道照心、伊勢貞長)が「左兵衛督殿(足利持氏)」へ下されており(応永廿四年七月一日「足利義持御教書」『三宝院文書』)、同日には管領「沙弥道歓(細川満元入道)」から「上椙安房守殿(憲基)」へ「就伊豆山密厳院事、御書候、早速申御沙汰候者、目出候」(応永廿四年七月一日「細川満元書状案」『三宝院文書』)が下されているように、持氏からの要望は認められなかった。これを受けて持氏は尊運僧都に沙汰を下したとみられるが、納得のいかない尊運僧都は9月、「早被退水、本僧正隆源非拠競望、任安堵御下文以下、代々手継相承旨、預御裁許全知行当院家職」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)を依頼している。
持氏が佐介へ遁れた10月3日は「悪日」のため、満隆・禅秀は寄せず、持氏・憲基からも寄せることはなかった。翌10月4日未明より、管領憲基は佐介谷南面の「浜面法界門」には長尾出雲守をはじめとする安房国勢を差し向け、南東の「甘縄口小路」には憲基弟の佐竹左馬介(佐竹左馬助義憲)、「薬師堂南」には結城弾正(結城弾正少弼基光)、北東の「無量寺口」には上杉蔵人大夫憲長、北の「気生坂」には三浦、相模国の人々、その北「扇谷」には上杉弾正少弼氏定父子らをそれぞれ派遣した。この他「所々方々馳向陣取」った(『鎌倉大草紙』)。
一方、「新御堂殿(足利満隆)」も同4日「馬廻一千余騎(いわゆる鎌倉府の奉公衆に相当する満隆近習と思われるが、持氏に供奉した二十七名を当時御所に詰めていた当番の奉公衆であるとすると、公方持氏に仕える奉公衆の実数はもう少し多かったと思われる。この持隆・禅秀の挙兵時に満隆に寝返った奉公衆もあったであろうが、それでも満隆に近侍した武士が持氏奉公衆より多いことは考えられないので、この一千余騎は近習の被官や陪臣層も含めても誇張であることは間違いなく、馬上の士は多くても百騎未満であろう)」を随えて、陣所とした西御門保寿院を出立し、若宮小路に布陣した。また、千葉大介満胤が「嫡子修理大夫兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下総守(下野守)を初八千余騎、米町表」に展開しており、千葉勢は小町大路筋の往来を固め、若宮大路下馬橋付近に睨みを利かせていたとみられるが、その後一連の戦いの中で彼らの働きは皆無であり、様子見に終始した可能性がある。
満胤、兼胤の軍勢の実数も不明だが、170年余り後世の天正18(1590)年、小田原合戦当時の千葉介ら下総国の国人の兵力動員が合計七千(『関東八州諸城覚書』)あまり、禅秀の挙兵当時はさらに少ないであろう。さらに、満胤、兼胤らは鎌倉に滞在していたこと、挙兵前に持氏が怪しまない人数、挙兵からの日数を考えると、このとき彼らが率いた兵力は平時から鎌倉に駐屯していた家人のみで構成されていたと推測できよう。当然ながら平時は在倉にかかる負担を軽減するため、必要以上の人数は置かないと考えると、満胤・兼胤や麾下の下総衆が率いた人々は、多くても合計して千騎程度であろう。
禅秀与党の「佐竹上総介入道(佐竹与義入道)、嫡子刑部大輔、二男依上三郎、舎弟尾張守一類」ら手勢百五十騎は浜の大鳥居から極楽寺口に展開した。禅秀の手勢は「嫡子上杉中務大輔(憲顕)、舎弟修理亮(氏顕)郎等千坂駿河守、子息三郎、岡屋豊前守、嫡孫ゝ六、甥弥五郎、従弟式部大輔、塩谷入道、舎弟平次右エ門、蓮沼安芸守、石河介三郎、加藤将監、矢先小次郎、長尾信濃守、同帯刀左エ門、坂田弾正忠、小早川越前守、矢部伊予守、嫡子三郎、其外臼井、小櫃、大弐、沓俣、太田、秋元、神崎、曾我、中村ノ者」ら二千五百騎あまりが鳥居の前から東に向いて鉾矢形に陣を張った。ここに見える「臼井」「神崎」はおそらく千葉一族の各氏であろう。
京都へ伝えられた禅秀の乱の合戦当初の報は、二日の挙兵により「左兵衛督持氏、無用意之上、諸大名敵方ヘ与力之間、不馳参、管領上杉房州子息、為御方、纔七百余騎、無勢之間、不及合戦引退、駿河国堺ヘ被落了、同四日、左兵衛督持氏館以下鎌倉中被焼払了」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)と京都へ伝えられている。これは禅秀挙兵と4日の合戦、7日の持氏の駿河国堺三嶋への落去がまとまった情報として伝えられたものであろう。
10月5日、持氏は9月中旬に軍勢催促を行った「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「下野国長沼庄右衛門佐入道跡」など四か所を知行として宛行っている(応永廿三年十月五日「足利持氏宛行状」『長沼文書』)。
下野国長沼庄右衛門佐入道跡、同国大曾郷木戸駿河守跡、同国武田下條八郎跡、武蔵国小机保内長井次郎入道跡等事、所充行也者、早守先例、可致沙汰之状如件
応永廿三年十月五日 花押(足利持氏)
長沼淡路入道殿
ここから、下野国長沼庄内(真岡市長沼周辺)に禅秀の所領が食い込んでいたことがうかがえ、芳賀郡大曾(真岡市上大曾周辺)の木戸駿河守、芳賀郡堺郷(真岡市境)の武田下條八郎といった長沼庄に隣接する地域にも禅秀方の人々の所領があり、長沼淡路入道はこうした対立関係から持氏に属し、彼らと戦ったのだろう。長沼淡路入道の参陣は伝えられておらず、下野国長沼周辺で軍事活動を行っていたのではなかろうか。
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| 鎌倉化粧坂 |
満隆・禅秀の手勢は「十万騎(多くとも二、三千騎ほどだろう)」にも膨れ上がり、10月6日、禅秀は岩松治部大輔満純・渋川左馬助らの手勢を葛原岡の要衝「六本松」に差し向けた。化粧坂方面と東西から葛原岡を攻め、佐助を北から攻め下す戦略か。ここを守る御所方は、扇谷より出張した上杉弾正少弼氏定であったが、氏定は深手を負って退却。麾下の上田上野介、疋田右京進ら大将は討死を遂げた。宍戸六郎朝国もこの合戦で「頭骨」に負傷している(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)。冑が飛んでしまうような激烈な戦いが繰り広げられたのであろう。
この六本松の戦勝の余勢を駆って、禅秀勢は化粧坂に攻め懸けて勝鬨を上げた。
一方、葛原岡口守将の氏定が大敗したため、持氏・憲基勢は化粧坂の守りに、持氏馬廻衆から梶原但馬守、海上筑後守(海上筑後守憲胤)、海上信濃守(海上信濃守頼胤)、椎津出羽守、園田四郎、飯田小次郎以下の三十騎あまりを派遣している。ここから、持氏の周辺には守護級の将官がいなかった様子がうかがえる。公方身辺を警衛する馬廻衆に雑兵までもが戦闘力として機能する軍勢との合戦は期待できず、当然ながら馬廻衆は惨敗し、梶原但馬守と椎津出羽守が討死、「飯田、海上、園田四郎」も負傷して、無量寺まで退却することとなる。葛原岡の南岸下は御所方の拠点である国清寺であり、この葛原岡を禅秀方に取られたことは、御所方にとって致命的であった。
満隆、禅秀の手勢は鎌倉中を席巻し、「岩松治部大夫、渋川左馬介カ手ノ兵、走散テ国清寺上杉憲顕カ建立ナリニ火ヲカクレハ、火煙吹掛味方ノ兵共ケムリニムセビ、弓ノ本末ヲ忘テ逃伏テ落行ケリ」という。この国清寺の合戦で、御所方の「江戸近江守、今川参河守、畠山伊豆守、其外宗徒ノ兵卅余人討死」(『鎌倉大草紙』)し、「佐介舘ニ火カゝリシカハ、人力防ニ不叶、持氏落サセ玉フ、安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
なお、持氏が遁れていた「佐介」の舘は、管領亭ではなく国清寺であった可能性が高い。
常陸鹿嶋一族が「上方、佐介江御移之間、為外門之手、致昼夜宿直警固以降」(応永廿四年正月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)とあるが、これは持氏が移った佐介館の外門の警衛についていたことになる。それは「去年十月国清寺外門之御合戦」(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)に見える「外門」であり、常陸鹿嶋一族は「上方(持氏)」が移った「佐介」の「国清寺外門」で合戦したのであろう。『鎌倉大草紙』では国清寺の放火と佐介館の放火が扱われているが、持氏は国清寺に本陣を構え、安房守上杉憲基は佐介亭にいたとみるべきだろう。なお、国清寺外門を鹿嶋一族とともに警衛していた「飯田民部丞」が、この期に及んで禅秀方に寝返り、烟田幹胤は彼との合戦で烟田幹胤は乗馬を死なせている。
●応永24(1417)年10月「烟田幹胤目安状」(『烟田文書』)
そして、禅秀勢の攻勢に佐介国清寺を警衛していた人々は「於彼寺討死畢、其外者令出家■■落行訖」(『鎌倉大日記』)とあるように敗れ去り、「木戸将監満範ヲハシメトシテ、廿一人、高矢倉ニ上リ、一同ニ自害シテ失セニケリ」(『鎌倉大草紙』)といい、佐介から遁れた持氏は「六日、由比浜御合戦、及難儀」(『鎌倉大日記』)のため、鎌倉を脱出し「自其夜駿州へ御発向」した(『鎌倉大日記』)。
この10月6日の「前浜合戦」には佐介館以来従っていた常陸鹿嶋一族も奮戦している。そして、この前浜合戦では、「今度大乱刻、他門跡輩一人毛不令参陣處、尊運独召具内者共、馳参佐介陣、去年十月六日於浜合戦、侍四人令討死其外被疵輩、被切乗馬者、不可勝計」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)とある通り、伊豆山密厳院の尊運僧都は持氏に加担し、自ら由比浜の合戦に加わり、供侍四名が討死を遂げている。
●応永24(1417)年2月16日「足利持氏感状」(『烟田文書』)
また、六本松で重傷を負った上杉弾正少弼氏定は、藤沢まで持氏に供奉するも、力尽きて「藤沢道場ニ入テ自害」した。四十三歳という(『鎌倉大草紙』)。
鎌倉を落ちた持氏は、「安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)と、6日夕刻には小田原に到着したという。ところが、「爰ニ土肥、土屋ノモノ共、元来禅秀一味ナレハ、小田原宿ヘ押寄、風上ヨリ火ヲカケ、攻入ケレハ、御所ト憲基ヲハ落シ奉リ、兵部大輔憲元父子并今川残留テ討死シテ、夜ノ間ニ箱根山ニ入ラセ玉フ」(『鎌倉大草紙』)といい、西湘中村党の土肥氏、土屋氏が持氏一党の宿する小田原宿を急襲し、持氏と管領憲基を落とすため、同道する上杉兵部大輔憲元父子が奮戦して討死を遂げている。その間に持氏らは箱根山まで逃れ、「於箱根山夜明ル間、翌日七日午剋計、箱根ヘ御著」(『鎌倉大日記』)して「箱根別当証実御供」し、彼を案内者として証実の出身である「駿河国大森カ舘」へ向かった(『鎌倉大草紙』)。この「大森カ館」がどこか不明だが、箱根越えのルートである鮎沢川沿いの大森氏領(駿東郡小山町)か。しかし、大森氏も小勢であり、持氏らを支えることは不可能であった。さらに禅秀の舅である甲斐武田信満の勢力も程近く、結局「駿河今川上総守ヲ御頼可然チ評定有テ、駿河ノ瀬名ヘ御通りアル、今川上総介範政ハ氏定聟ニテ御所ヘモ常ニ通ラル故ナリ」(『鎌倉大草紙』)という。
そして七日の「同日入夜、三嶋へ御著、自三嶋忍天、召具箱根別当、於瀬名へ御通事」(『鎌倉大日記』)と見え、三嶋宿から箱根山別当証実が「瀬名(駿河国府中)」に駐屯する今川上総介範政のもとへ使者として遣わされたのであろう。そして、この頃に管領憲基は守護国の越後国へ向かったと思われる。
京都にはじめてこの関東の大乱が報告されたのは10月13日であった。
10月13日、この「前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)の将軍義持への注進は、ちょうど「室町殿、因幡堂御参籠」のため、因幡堂に「諸大名馳参、有御評定」った。ここで「駿河ハ京都御管領之間、先駿河ヘ可入申之由、守護今川金吾被仰、関東へ先御使可被下云々、相国寺南西堂可下向」といい、駿河守護の今川範政にその対応を命じるとともに、相国寺南西堂の和尚を避難中の持氏への使者として遣わすことを決定する(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)。
続けて、10月15日夕刻に「自関東重飛脚到来」(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)している。この内容は「管領并武衛ニ注進」されたが、「室町殿北野経所ニ御座之間、管領、武衛等馳参令披露、則還御、以外御仰天、周章」させる内容であった(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)。その内容は「上杉金吾以大勢、去七日責寄之間、兵衛督持氏并管領以下廿五人腹切之由」(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)というものであった。この内容は醍醐寺の隆源僧正(伊豆山密厳院につき別当尊運僧都と論じた人物)の記録にも、醍醐寺座主満済が将軍義持へ宛てた書状の内容として「鎌倉殿被切御腹之由」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十七日条)とあり、やはり「御所様、凡御仰天」であった。
「左兵衛督者、室町殿烏帽子子、別而御扶持之間、御欝憤無極」と、烏帽子子持氏が自刃を遂げたという報告に対する将軍義持の怒りはすさまじく、「関東京都敵対申歟之間、天下大乱之基、驚入者也」という(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)。この飛脚は「自駿河守護方注進」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)であり、守護今川範泰からの一方であった。満濟も「鎌倉殿於伊豆已御自害、当管領上杉房州同自害、委細重可言上」という報告を受け、「御所様御仰天無申計」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)と記している。義持は「御祈事、旁可有御沙汰、仍方々可申遣由、被仰出了」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)といい、すぐに護持僧から東寺、醍醐寺までも総動員して各々「五大尊護摩」の修法を命じ、その他寺院にも祈祷を指示するほどのかなり大掛かりな関東鎮定と持氏らの延命を念じている。
10月19日、醍醐寺座主満済から隆源僧正へ宛てた文書では、「関東事、尚々驚入候、但鎌倉殿御自害事、荒説之由、昨夕重又注進到来、先珍重候、今度御祈事、御所様為御息災候、不動護摩御始行、目出候」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十九日条)と、昨18日夕方に届けられた注進で持氏の無事が確認されたことに安堵する様子がうかがえる。持氏がどこにいたのかを記す一次史料は存在しないが、「瀬名ノ奥、安楽寺ニ落付玉フ」(『喜連川判鑑』)と見える。
10月20日には伏見の貞成王のもとにも飛脚の内容が伝えられ、「関東事、左兵衛督、腹切事虚説也、管領者腹切了、於武衞者無殊事、京都被憑申之由有注進云々、近日巷間無窮也」(『看聞日記』応永二十三年十月廿日条)という。
10月29日、伏見宮貞成王のもとに「自関東昨夕又注進」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)が伝えられた。それによれば「左兵衛督、駿河国へ没落、国中ニ被座云々、京都御合力併被憑申之由」の飛脚であったという。おそらく「駿河国司今川上総介範政、京都へ注進申」(『鎌倉大草紙』)た書状であろう。
将軍義持は「諸大名被召御評定」するが「面々閉口不申意見」と、誰も意見を出すことができなかった。これを見ていた義持叔父の「小河大納言入道(足利満詮入道)」がおもむろに口を開くと、「武衞者、為御烏帽子々、爭可被見放申哉、且又敵方、鎌倉既一統之上者、京都へ企謀叛事、難測者歟、其為も可被扶持申之條、可然歟」と具申する(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)。これを聞いた将軍義持や諸大名も得心し、すぐに「駿河守護今河、越後守護上杉、可合力申」の決定を下し、「先越後国へ可被越之由」を持氏に伝えるよう命じた。
なお、20日の注進にあった「管領者腹切了」も誤伝であり、「去四日合戦、当方一色以下若干討死了、管領腹切事者、無其儀、行方不知没落云々、敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)といい、管領憲基は行方知れず、敵方満隆が鎌倉を手中にした報告が為されている。なお、京都への注進は、戦時ということもあって多分に真実ではない部分も報告されており、伏見宮は「近日風聞説、無窮也、記録無益歟」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)と嘆く。しかし、京都の人々の関心の高さがうかがえる。
このような関東への対応に追われている最中、10月30日に今度は将軍義持の弟で、従二位権大納言という高位の「新御所」足利義嗣が突然逐電するという事件が起こった。醍醐寺理性院の宗観僧正房が30日、隆源僧正へ「潜通」した内容によれば「此暁、新御所御逐電之間、諸大名馳参御所、京都騒動以外、但御在所栂尾之梅佃辺云々、仍富樫、大館両人率軍勢、向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也云々、山科新少将已入道令共奉云々、新御所法衣等、自元御用意衣著之、已御落飾云々、種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)という。10月30日の義嗣の突然の逐電と関東騒乱時期が重なったため、人々はこれを関連付けて巷説となっていたことがうかがえるが、その後、京都で義嗣と関東との繋がりが議されたことはなく、実際には彼らに繋がりはない。
11月3日、幕府は「宇都方ヘ御内書、今日渡遣、白久入道夜中門出、明暁可罷立由加下知了」(『満濟准后日記』応永廿三年十一月三日条)と、下野国の宇都宮持綱に持氏への協力を命じる御内書を発給。白久入道を使者として派遣している。この使者は11月15日には京都に帰還しており、「宇都宮御返書」が満済から義持に披露されている(『満濟准后日記』応永廿三年十一月十五日条)。すでに11月7日に持氏から「飛脚到来、御合力之勢、急可下賜之由被申」(『看聞日記』応永二十三年十一月九日条)の連絡をうけており、宇都宮持綱からの返書を受けた義持は、11月17日、管領細川満元をして「宇都宮、結城両人方へ御教書送給」した。この時の使者は「善右衛門入道」が務めた(『満濟准后日記』応永廿三年十一月十七日条)。19日にも満済は将軍義持と「御雑談数剋、関東ヘ御教書事伺申了、可令談合管領由被仰下、仍罷向彼亭」『満濟准后日記』応永廿三年十一月十九日条)と、関東へ遣わす御教書について管領細川満元と相談するよう命じている。
また、上野国では故公方足利氏満が「御一族ノ好身」として庇護した「新田一族ニ里見、烏山、世良田、額田、大島、大館、堀口、桃井ノ人々」が、禅秀らによる公方持氏追放に怒り、「古新田左少将義宗朝臣ノ子、出家シテ兵部卿トテ坂中(太田市東金井町)」に隠棲していた僧形を還俗させて本名の「新田六郎」とし、彼を旗頭に挙兵。館林辺へ進出して「国中過半シタカヘケル」といい、さらに11月18日には「由良、横瀬、長尾但馬守」らが持氏に加担して岩松治部大輔満純入道の所領に攻め込み、岩松方の金井新左衛門が討死を遂げた(『鎌倉大草紙』)。しかし、11月23日、岩松勢は大軍をもって反撃に出、横瀬、長尾但馬守は打ち散らされている。
その頃、鎌倉は「敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)し、「新御堂殿并持仲、鎌倉ニ御座マス、関東ノ公方ト仰レ玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
このような中、持氏を庇護していた今川範政は、京都に鎌倉の大乱を注進し、幕府はただちに禅秀一党ならびに満隆、持仲父子の追討の御教書を発給。応永23(1416)年12月11日、「関東武衛(持氏)」が「室町殿御旗」(『看聞日記』応永二十三年十二月十一日条)を求める使者が室町殿に到来する。義持はこれを受けて早速御旗の製作を命じ、「御旗之文字、行豊之、代々佳例云々、令精進潔斎書之」と、佳例に則り、世尊寺流を伝える世尊寺行豊の文字を以て御旗の文字をしたためている。そして完成した御旗は「奉行長澤」を以て関東へ遣わしている(『看聞日記』応永二十三年十二月十一日条)。
おそらくこの御旗が駿河国へ下された際に、「不日ニ禅秀一類并新御堂殿、持仲公可追討ノヨシ御教書」が今川範政に下されたとみられ、12月に「上総介、関東ノ諸家中ヘ廻状ヲ送ラルゝ」(『鎌倉大草紙』)という。この「廻状」は関東の持氏方の主要武家に送られたのち、彼らを仲介して禅秀方の武家に伝えられたようである。禅秀方の白河結城満朝には「応永廿四年正月七日到来、自宇津宮館」とあるように、宇都宮持綱を介して届けられている(応永廿三年十二月廿五日「今川範政書状写」『結城古文書写』)。
『鎌倉大草紙』には見えないが、持氏はこのように個別に将軍義持と連絡を取りつつ、さらに持氏救援を命じられていた駿河国今川勢を後盾として鎌倉奪還を強力に目指しており、12月23日に「先度為退治右衛門佐入道禅秀、昨日廿三、已所進発也」(応永廿三年十二月廿四日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)と、駿河国を出立して鎌倉を目指し、12月には相模国河村城(足柄上郡山北町山北)に入った。ここに常陸国鹿嶋一族ほかの人々が「河村城ヘ馳参」じている(応永廿四年十二月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。
これに「禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。ここに「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍、筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」った(『鎌倉大草紙』)。「入江ノ庄」については、駿河国入江庄(清水区入江)では駿府に近すぎることや、禅秀勢が敗戦後に「水呑」に退いていることを勘考すれば、狩野川入江付近(沼津市大手町付近?)か。
一方、越後国へと遁れていた関東管領上杉憲基は、応永23(1416)年12月には越後国の兵力を率いて関東へ向けて南下を始め、その途路、上野、下野、武蔵国の兵を糾合し、勢力を拡大させている。厳冬の峠越えを敢行する強行陣であったろう。そして、12月18日に禅秀方勢力と初めて激突した(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』)。この合戦の詳細はまったく不明。
『鎌倉大草紙』では、鎌倉の新御堂殿満隆が養子の乙御所持仲を「大将」に任じ、禅秀入道の子「中務大輔憲顕、其弟伊与守憲方」を武蔵国に派遣した(『鎌倉大草紙』)。しかし、禅秀嫡子の憲顕(憲秋)が病のため出陣せず(仮病であった可能性が高い。憲顕は将軍義持との繋がりを有し、当初より挙兵には積極的に加わっておらず、この直後、京都へ逃亡する)、弟の伊予守憲方が「大将軍」となり、持仲を奉じて、12月21日、武蔵国小机(横浜市港北区小机)に布陣した(『鎌倉大草紙』)。「武蔵国小机保長井次郎入道跡等」(応永廿三年十月五日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)とあるように、この鎌倉街道(下道)に近接する要衝は、上杉禅秀入道与党の長井次郎入道の所領であり(公的には持氏によって収公されて長沼淡路入道へ充行われているが、当時は施行されるゆとりはなかったであろう)、常陸国や六浦にも繋がる禅秀方の拠点であったのだろう。
しかし、持仲や伊予守憲方の小机への出兵は、越後国から南下、12月18日に北関東で合戦となった管領上杉憲基への対応とすると、常陸国や下総国へ通じる下道に進出した理由が不可解である。ここは「江戸、豊島」の拠点へ向かう道筋であり、おそらく彼らの動向と関係するものと察せられる。『鎌倉大草紙』では伊予守憲方らが小机進出の直後、「江戸、豊島、二階堂下総守并南一揆并宍戸備前守兵共」が「入間川辺」に集結しているという報を受けたために、小机から入間川方面へ向かうが、「其道ニ於テ、十二月廿三日、世谷原ニテ合戦」となり、伊予守憲方勢は打ち負けて鎌倉へ向けて潰走し、御所方の江戸氏、豊島氏らが猛追。大敗した憲方と持仲は25日夜にようやく鎌倉に帰還したという(『鎌倉大草紙』)。
ただし、実際には「豊島三郎左衛門尉範泰」が軍忠状に記しているように、12月25日夜に「於武州入間河、二階堂下総入道仁令同心、御敵伊与守追落畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)と、伊予守憲方は25日までに入間川まで兵を繰り出しており、25日夜の合戦で二階堂下総入道、豊嶋範泰、江戸氏らとの入間川の戦いで敗れているのである。つまり、『鎌倉大草紙』が記す、憲方が23日に瀬谷原で敗れて鎌倉に逃げ戻ったというのは明らかな誤りである。
伊予守憲方が小机から入間川へ至る道程にある「瀬谷原」へ進んで起こったという「世谷原ニテ合戦」は、翌応永24(1417)年正月5日、正月9日に瀬谷原での合戦が『鎌倉大草紙』の編纂段階でここに入れられたのではなかろうか。軍記物『鎌倉大草紙』として煩雑になることを避けるべく、物語上で一連の合戦はすべて憲方が行ったものとして意図的に再構成された可能性があろう。そのため、史料として考えると、矛盾が解消できないことになっているのではなかろうか。
『鎌倉大草紙』では、この合戦直後、応永24(1417)年正月2日に「南一揆并江戸、豊島」を追捕するために「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀、武州世谷原ニ陣ヲ取」り(『鎌倉大草紙』)、「武州世谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)」の合戦で彼らを打ち破り、「江戸、豊島、打負テ引退ケリ」とする。これは、豊島範泰の軍忠状にも記されず、実際に戦いが行われたのは、豊島範泰の軍忠状に見える「其以降、今年応永廿四年正月五日、於瀬谷原戦仁散々太刀打仕、被乗馬切、家人数輩被疵畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)の事であろう。おそらく正月5日の瀬谷原合戦は、危機感を強めた満隆及び禅秀入道が自ら兵を率いて鎌倉街道を北上し、攻め下ってきた江戸・豊嶋勢を打ち破ったのであろう。この合戦では江戸・豊嶋勢は大敗を喫したとみられ、鎌倉街道をかなり追捕されたと思われる。結局、江戸・豊嶋勢は越後国から下向してくる関東管領上杉憲基の軍勢と合流するため、久米川宿へと向かうことになる。ただ、満隆・禅秀入道は江戸氏、豊島氏らを打ち破ったものの、「上方の討手、小田原迄責下り、味方打負るよし聞けれは、敵はまけても悦ひ、味方は次第に力を落」と、禅秀勢は勝利してもまったく士気が上がらず、正月9日にはその大半が御所方となったという(『鎌倉大草紙』『禅秀記』)。
そして正月8日、江戸・豊嶋勢は、越後から下向してきた「為大将御迎」、大将の関東管領憲基の「馳参久米河御陣江、令供奉」という(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)。
その関東管領憲基は12月下旬には越後国を出立しており、正月2日には「庁鼻和(深谷市国済寺)」に入っている。正月2日には「別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久」が率いた「北白旗一揆」が「去二日馳参庁鼻和御陣」し、その後は、上杉憲基に従って「同四日村岡御陣、同五日高坂御陣、同六日入間河御陣、同八日久米河御陣、同九日関戸御陣、同十日飯田御陣、同十一日鎌倉江令供奉」(応永廿四年正月「別符尾張入道代内村勝久着到状」『西敬寺所蔵別府文書』)と攻め下っている。
上杉憲基勢は、正月9日には関戸(多摩市関戸)まで進駐し、江戸・豊嶋勢を追ってきていた満隆・禅秀勢と戦ったのだろう。上杉勢は諸国の兵を糾合した多勢であり、満隆・禅秀率いる鎌倉勢は敗れた。退却する鎌倉勢を追って、上杉勢はさらに南下する。実は正月9日には、西からの持氏・今川勢が瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)で鎌倉勢(満隆・禅秀率いる軍勢とは別であろう)と合戦しており、前日(と思われる)に飯田原で敗れた鎌倉勢と関戸合戦で敗れた満隆・禅秀入道の兵が合流し、瀬谷原に展開したのだろう。そして鎌倉勢は、この瀬谷原合戦でも敗れ、飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)へと南走した。
翌正月10日、上杉勢は飯田原に着陣し、合戦となっている。
応永23(1416)年12月23日、駿河国を出立して鎌倉を目指した今川勢・持氏勢は、箱根を南北(水呑峠、足柄峠)の二手に分けて攻略することになったと思われる。
持氏は大手となる足柄峠越えの今川勢に加わり、その先陣「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守」が「足柄ノ陣ヲ攻落シ」た(『鎌倉大草紙』)。持氏は12月中には足柄の「河村城」に入っているが(応永廿四年十二月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)、「足柄ノ陣ヲ攻落」した戦いが、持氏が河村城に入城前か後かは不明。その後、今川勢の先陣は、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した(『鎌倉大草紙』)。
また、三島に布陣していた水呑峠越えの今川勢は、箱根山中の「水呑(三島市川原ケ谷)」に布陣した禅秀勢を破ったのだろう。「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。大手の足柄越えの今川勢本隊と「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った(『鎌倉大草紙』)。
その後、持氏・今川勢は「懐島御陣(茅ヶ崎市円蔵)」、「藤沢(藤沢市藤沢)、飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)、瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)之御合戦」と相模国から武蔵国を転戦する。その経路を見ると、懐島から藤沢を進軍するも、鎌倉に攻め入ることはせずに鎌倉上道を北上している。正月8日頃に飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)で鎌倉勢を打ち破った持氏・今川勢は、「去正月九日、於武州瀬谷原合戦」(応永廿四年三月廿日「足利持氏御教書写」『彰考館所蔵 石川氏文書』)している。正月9日には、関東管領上杉憲基率いる北国勢が、関戸(多摩市関戸)で満隆・禅秀入道率いる軍勢を破っており、その敗兵と飯田原の敗兵が瀬谷原に遁れていたのだろう。
常陸鹿嶋一族の烟田遠江守幹胤はこの合戦で「武者一騎切落、欲取頸処、御敵落重間、被押隔不分捕間、為証拠取越刀お、既大将一色宮内太輔殿御検知之所也」という軍功を挙げ、鎌倉奪還後に関東管領上杉憲基がこれを承了している(応永廿四年十二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)。持氏方の「大将一色宮内太輔殿(一色直兼)」は、持氏の血縁者(生母一色氏の親類)とみられる。同様に常陸大掾一族の石川左近将監幹国や信太藤九郎も瀬谷原合戦で軍功を挙げている(応永廿四年三月廿日「足利持氏御教書写」『彰考館所蔵 石川氏文書』、同日「足利持氏御教書写」『水府志料』十三)。
この9日の瀬谷原の陣で、持氏と上杉憲基は対面したのだろう。翌10日の「飯田原」の合戦は、瀬谷原合戦と同じく、満隆・禅秀入道率いる鎌倉勢と瀬谷原敗兵(1月8日飯田原の敗兵)の軍勢とみられ、すでに士気ははなかったのだろう。持氏勢は飯田原で満隆・禅秀入道勢を退けると、一気に鎌倉へと攻め下ったとみられる。
●足利持氏の駿河出立以降の足取り(ピンクは合戦)
| 日にち | 足利持氏他 駿河国→鎌倉 |
上杉憲基(管領) 越後国→鎌倉 |
鎌倉大草紙の記述 |
| 応永23年(1416) | |||
| 12月13日 | 長沼淡路入道、持氏の御教書に応じる旨を返信 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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| 12月18日 | 駿河の持氏のもとに長沼淡路入道からの文書が到着 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
上杉憲基、合戦(場所不明) (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
|
| 12月19日 | 持氏、長沼淡路入道に早々に馳せ参じるよう、僧侶を派遣して指示する (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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| 12月21日 | 禅秀方、伊予守憲方を大将軍(持仲に供奉)として小机辺に布陣 江戸、豊島、二階堂下総守らが入間川に集まっているため、入間川へ発向 |
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| 12月22日 | 上杉憲基、合戦(場所不明) (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
||
| 12月23日 | 持氏、駿河を出立 (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
入間川へ向かう「其道」で瀬谷原合戦となり、「伊予守打負、鎌倉サシテ引返ス」。それを「江戸、豊島、勝ニノリ追カケ」た。 | |
| 12月24日 | 持氏、長沼淡路入道に馳せ参じるよう公的に命じる (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
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| 12月25日 | 今川範政、禅秀方につく関東諸将へ回文作成 (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
夜、豊島範泰、入間川で二階堂下総入道と同心して、上杉伊予守憲方を破る (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
「伊予守モ持仲モ、漸同廿五日夜ニ入、鎌倉ヘ帰リ玉フ」 |
| 12月29日 | 持氏、佐竹彦四郎入道(白石義治)へ参向を命じる (「足利持氏御教書」『白石家古書』:室1558) |
||
| 12月中 | 持氏、河村城へ入る 烟田幹胤、参陣する (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」という。ここに「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍、筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」った。 今川勢の先陣は「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守、足柄ノ陣ヲ攻落シ」て、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した。 さらに、今川勢は「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った。 |
|
| 12月中 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、常陸国所々で戦う (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
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| 応永24年(1417) | |||
| 正月1日 | 持氏、禅秀方の岩松左馬助入道(満純)の所領上総国周東郡大谷村を鶴岡八幡宮へ寄進する (「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』:室1565) |
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| 正月某日? | 宇都宮持綱、今川範政からの回文届く (禅秀方白河満朝への仲介) |
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| 正月2日 | 別府勢、庁鼻和御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀」が「世谷原」に陣を取り、「南一揆并江戸、豊島ト合戦」し、「江戸、豊島打負テ引退」する | |
| 正月4日 | 別府勢、村岡御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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| 正月5日 | 別府勢、高坂御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、瀬谷原合戦で軍功 ※但し、敗戦とみられる。 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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| 正月6日 | 別府勢、入間河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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| 正月7日 | 白河満朝、宇都宮持綱からの今川回文届く (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
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| 正月8日 | 【上杉憲基と一揆勢合流】 別府勢、久米河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、大将憲基を迎えるため久米河に参陣 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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| 12月~正月8日の間 | 烟田幹胤、懐島御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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| 烟田幹胤、藤沢御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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| 烟田幹胤、飯田原御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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| 正月9日 (合流) |
一色直兼が持氏方の主将 烟田幹胤、瀬谷原合戦に先駆 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、瀬谷原合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、関戸御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して瀬谷原合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) 信田藤九郎、瀬谷原合戦で軍功 (「足利持氏御教書」『水府志料』十三:室1604) |
「九日、上杉安房守、北国勢、上野、下野、武蔵、相模ノ軍勢ヲ引率シ、相模川東ノ岸ニ押寄テ、川ヲ亘リ、責戦、上方勢、今川勢、勝ニ乗テ進戦、禅秀、敵ヲ前後ニ請テ、大ニ敗北シ、味方大方心替リシテ、敵ニ加ハリシカハ、持仲、満隆、禅秀、不叶、其夜、カマクラヘ没落ナサレ」た。 |
| 正月10日 | 烟田幹胤、雪下合戦に軍功 (「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、雪下合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、飯田御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して鎌倉雪下合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) |
「十日、禅秀ノ子息宝性院快尊法印ノ雪下御坊ニ籠リ、満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊豆守憲重、弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫介氏春ヲ初トシテ、悉自害シテ失ニケリ」と、禅秀らの自害を伝える。 ただし、「嫡子憲顕ハ如何シテノカレタリケン、此戦ヨリ前ニイタハルコトアリテカタハラニ引籠ヲハシケルカ、ヒソカニ京ヘ逃ノホラレ」ている。 この日、「今川勢、江戸、豊嶋両方ヨリ鎌倉ヘ乱入」した。 |
| 正月11日 | 別府勢、鎌倉に供奉参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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| 正月17日 | 持氏、「同十七日、鎌倉ヘ還御ナリ、浄智寺ニ入ラセ玉フ、其後、江戸、豊嶌ヲハシメ、忠節ノ人々、禅秀一類ノ没収ノ地ウィワケ玉フ、大森ニハ土肥、土屋カ跡ヲ玉マハリ、小田原ニ移リ、箱根別当ハ僧正ニ申ササル」 また、今川範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ、御所未出来サレハ、同三月廿四日、梶原美作守屋形ヘ入御成リ、卯月廿八日、大蔵ノ御所ヘ還御ナリ」という。 |
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| 正月20日 | 憲基、武蔵国多西郡土淵郷を立河駿河入道へ環補 (「上杉憲基施行状写」『立川氏文書』:室1570) |
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| 正月22日 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、鎌倉に参着 (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
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持氏・管領勢の追撃になす術ない満隆、禅秀入道は、正月10日、飯田原から鎌倉に落居。鎌倉諸口の守りも固める兵力もなかったのだろう。鶴岡八幡宮周辺の「雪ノ下」に兵を集結させて抗戦する一方で、若宮別当の宝性院快尊(禅秀子息)の雪ノ下御坊に籠もり、「満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊予守憲方、其弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫助氏春を初めして、悉自害して失にけり」(『禅秀記』)という。ただし「嫡子憲顕は如何にしてのかれたりけむ、此戦より前にいたわる事ありて、かたわらに引籠おわしけるか、ひそかに京へにけ上らるゝ」(『禅秀記』)という。
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| 鶴岡八幡宮 |
鎌倉になだれ込んだ持氏・管領勢は、鶴岡八幡宮雪ノ下御坊に籠もる満隆・禅秀入道を捕らえるべく、雪ノ下で禅秀与党と激しい合戦に及んだ(雪ノ下合戦)。持氏に付き随っていた烟田幹胤は「至于鎌倉雪下御合戦、励無二之戦功、令供奉段他于異」(応永廿四年十二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)と述べるほどの戦いを見せた。長沼淡路入道が持氏旗本に遣わしていたとみられる長沼安芸守も飯田原合戦やこの雪ノ下合戦での軍功がみられる(応永廿六年六月三日「足利持氏御教書」『長沼文書』)。
この禅秀の乱は「鎌倉上杉右衛門佐入道禅秀謀叛合戦、自十六至正十、死者三千余人」(『武家年代記』)という鎌倉府設置以来の大乱となった。
禅秀一党の自害を受けた持氏は、早くも翌11日には「鶴岡八幡宮社頭事、厳密可致警固」を「当社神主(大伴時連)」に指示し、いきり立つ軍勢の狼藉を未然に防ぐための措置を取らせている(応永廿四年正月十一日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。さらに正月13日には禅秀与党の「凶徒退治祈祷事」を行うよう同じく神主大伴山城守に命じている(応永廿四年正月十三日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。血気盛んな二十歳の若公方持氏が、叔父満隆や前管領禅秀入道から受けた屈辱は強い怨恨となって、徹底した叛乱与党撃滅を進めていくことになる。
今川勢と江戸・豊嶋氏は東西から鎌倉に攻め入るが、禅秀勢はすでに壊走した跡であり、応永24(1417)年正月17日、持氏は鎌倉に入り、浄智寺へ居を定めた。御所に入らなかったのは、おそらく禅秀入道勢が持氏捕縛に動いて乱入した際に破壊されたためだろう。
応永24(1417)年正月3日、関東から「奉行長澤以御旗関東下著」が帰京した。「長澤ニ重代太刀、足利庄内千貫之地、引物ニ賜」(『看聞日記』応永二十三年十二月三日条)というが、尊敬語が用いられておらず、彼に引物を与えたのは鎌倉公方持氏か。
持氏は禅秀の乱で禅秀方についた人々を許さなかった。応永24(1417)年2月、彼らの追捕と関東の復光を願文として認め、足柄郡の浄瑠璃山真福寺に収めている(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)。
●応永24年2月「足利持氏願文案写」(『後鑑所収相州文書』神:5513)
一方、管領上杉憲基は3月3日、禅秀方の坂本犬菊丸から召し上げた「常陸国信太庄内久野郷」を円覚寺正続院に寄進している(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』神:5514)。これは越後国から鎌倉に至る道筋で憲基自身が加わった「自去年十月三日、同六日、同十二月十八日、同廿二日至于去正月五日、同九日、同十日」の各合戦での「御方并御敵等打死為菩提」に寄進するというものであった。坂本犬菊丸は憲基被官で禅秀方についたか。信太庄の武士としては信田藤九郎が正月9日に「瀬谷原」の戦いに加わっており、宍戸備前守持朝の手に属し、石川左近将監幹国らとともに戦ったと思われる。この寄進は持氏の沙汰ではなく憲基個人によるものであり、敵味方を問わずにその菩提を弔うという姿勢から、いまだ禅秀の乱は終わらず「苟持氏指麾同志之輩、欲誅無道之臣」「早施逆徒滅亡之戦功、恵光鎮照、関東純熈」(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)という、禅秀与党に対する強い怨恨を持つ持氏との温度差が感じられる。
なお、どういった理由かは定かではないが、千葉大介満胤、新介兼胤ら千葉一族は禅秀与党の巨魁として、終始禅秀方として活動していたにも拘わらず、追討されることはなかった。千葉一族の禅秀の乱における関わりは、挙兵当時の米町警衛と足柄山出兵が知られるが、その後の動向は不明となっている。
持氏の禅秀与党追討戦は、持氏が願文を収めた2月には開始されている。まず、常陸国禅秀方の巨頭である佐竹与義入道の一類へ、おそらく宍戸備前守持朝を大将軍とする討伐が行われたと思われる。正月10日に鎌倉雪ノ下を奮戦した宍戸持朝や「石河左近将監」は、それから一か月も経たない2月7日にはすでに「常州稲木城(常陸太田市天神林町)」を攻めている(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)。
さらに、陸奥国岩城の「岩城飯野式部大輔入道光清」ら「岩城、岩崎」氏も「佐竹凶徒可令退治旨」の御教書が下されており(応永廿四年四月廿六日「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614)、岩城・岩崎の「両郡一族等」は、4月10日に陸奥国を出立すると、15日に「依苽連参陣」し、瓜連城(那珂市瓜連)に籠る「長倉常陸介(佐竹義景)」を降伏させた。彼らはその後、与義入道与党の「山県三河入道城」にも攻めかけて4月24日に落としているが、同24日、石川幹国らも稲木城を攻め落としたとみられる(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)。
また、もう一人の巨頭である岩松満純入道へも追討の手を遣わすが、満純入道は鎌倉を脱出して所在が知れずしばらくはその探索が行われたのだろう。そして2月中には「岩松一類、白河辺排回之由、其聞、致了簡候」が判明し、3月1日、持氏は長沼淡路入道に岩松一党を「可討進候、於忠賞者、可有殊沙汰候」を告げる(応永廿四年三月一日「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596)。また、この岩松所在判明の報告はおそらく関東管領憲基を通じて京都にも知らされており、3月27日、将軍義持は管領「沙弥(細川満元)」を通じて白河一族の「小峰七郎(結城朝親)」に「岩松治部大輔一類等、隠居在所事、尋究之、不日可加退治之由」(応永廿四年三月廿七日「細川満元奉書写」『白河結城家文書』室:1609)を命じている。その後「岩松一類」は白河から上野国へ戻ったのだろう。「五月二十九日、岩松治部大輔逆心ヲ起シ、禅秀与力ノ残党ト入間川ニ出張」(『喜連川判鑑』)し、安保信濃守宗繁が「相催一族等、最前馳向」っている(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。そしてこの蜂起は「舞木宮内允、馳向テ合戦シテ悉ク追散シ、天用ヲ生捕」(『鎌倉大草紙』)という形で鎮圧された。「舞木宮内允」は「去年、禅秀ニ与ミセシ事ヲ悔ミ、岩松討テ罪ヲ謝セン為メ、入間川ニ出向ヒ合戦」と見え、禅秀与党だった(『鎌倉大草紙』には禅秀与党として「舞木太郎」が見える)。その後、岩松満純入道天用は鎌倉に連行され、閏5月13日、「於龍口誅」された(『喜連川判鑑』)。なお、岩松満純との合戦について、閏5月12日、持氏は「安保信濃守殿(安保宗繁)」の戦功を賞する御教書を下している(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。
●上杉禅秀方の収公所領
| 旧地頭 | 所領 | 新補 | 典拠 |
| 上杉禅秀入道 | 下野国長沼庄大曾郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
| 上杉禅秀入道 | 下野国長沼庄堺郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
| 坂本犬菊丸 | 常陸国信太庄内久野郷 | 寄進(円覚寺正続院) | 応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
| 上杉禅秀入道 | 常陸国北条郡宿郷 | 寄進(鶴岡八幡宮) | 応永24年閏5月2日「足利持氏寄進状」 (『鶴岡八幡宮文書』)神5522 |
| 二階堂右京亮 | 上総国千町庄大上郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5528 |
| 明石左近将監 | 武蔵国比企郡大豆戸郷 | 寄進(三島社) | 応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
| 皆吉伯耆守 | 上総国天羽郡内萩生作海郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年10月17日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5544 |
| 混布嶋下総入道 | 下野国長沼庄内混布嶋郷 下野国長沼庄内泉郷半分 下野国長沼庄内青田郷半分 |
長沼淡路入道 | 応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
その頃鎌倉では、3月24日、持氏が浄智寺から「御所、評定傾廃ヲ修理」(『喜連川判鑑』)の奉行「梶原美作入道宿所」に居を移し(『鎌倉大日記』)、4月28日、大蔵に御所が再建されると移徙した。持氏の新御所移徙は京都へ報告されているが、憲基からの使者と同時に、おそらく京勢の大将軍であった今川範政からも使者が遣わされたのだろう。将軍義持は閏5月7日、「今川上総介殿(今川範政)」に「関東事、早速落居目出度候」と、持氏の新御所への移徙を賀するとともに、範政の「今度忠節異于他候」と関東鎮定の勲功を賞し「所充行富士下方」している(応永廿四年閏五月七日「足利義持御内書案写」『今川家古文書写』)。なお、範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ」(『鎌倉大草紙』)というが、傍証はない。
また、移徙の当日、憲基が関東管領職を辞した(『鎌倉大日記』)。憲基の管領職辞任は重病のためであろうが、持氏が無事に新御所へ移り、名実ともに鎌倉殿に復帰したことへの安堵から自ら身を引いたのだろう。憲基は辞職と同時に三島へ下向して京都にも注進しており、六日後の5月4日には三宝院満済に伝わり「上椙房州、下向伊豆由注進、為管領上意」(『満済准后日記』応永廿四年五月四日条)と日記に記している。憲基入道の体調は相当悪化しており、三島に下ったのは三島大社への平癒祈願であろうか。
しかし、持氏は憲基の管領への復帰を望み、持氏のもとから幾たびも憲基のもとへ使者が飛んだようである、結局憲基は「ヤフゝゝニ被仰下ケレハ、五月廿四日、鎌倉ニ返参リ、六月晦日、又管領ニ成リ玉フコソ目出タケル」(『鎌倉大草紙』)とあり、持氏の説得に応じて関東管領職に復している。ただし、『鎌倉大日記』によれば、憲基は「潤五ゝ廿四ゝ帰参、六ゝ晦ゝ管領職再任」(生田本『鎌倉大日記』)とあることから、5月24日ではなく閏5月24日に鎌倉に帰還したのだろう。7月4日には将軍義持から憲基に「上野、伊豆両国闕所分事、上杉安房守憲基可令領掌」(応永廿四年七月四日「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』)の御教書が下されており、持氏から将軍義持へ御教書発給の要請があったのかもしれない。さらに持氏は8月22日には憲基へ「被官輩知行分帯文書致訴訟所々除之事、任申請之旨、所充行也、此上者、就今度之過失、不可有他人競望」(応永廿四年八月廿二日「足利持氏御教書」『上杉家文書』)という文書を遣わしている。
応永24(1417)年11月25日には、持氏は安房国の足利家祈願所の龍興寺(鴨川市大幡)に寺領安堵状を発給し(応永廿四年十一月廿五日「龍興寺寺領安堵状」『諸家文書纂』)、同年12月24日には鎌倉府奉行人とみられる「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」を通じて「安房国長狭郡柴原子郷上村皆蔵御社造営料田壱町」の知行安堵を発給している(応永廿四年十二月廿四日「龍興寺寺領安堵状」『諸家文書纂』)。
このような中、翌応永25(1418)年正月4日、関東管領上杉憲基が病死した(『喜連川判鑑』『浅羽本上杉系図』)。道号は無悔。法名は海印。二十七歳(三十七歳、三十四歳とも)。「持氏大になげき給ひ、自法華経を転読し南無幽霊頓証仏果と回向し給ふそ忝き、さこそ九泉の苔の下にても懇に是をうけて歓喜の眉をや拓きぬらんと近習の人々、随喜の泪を流されけり」(『鎌倉管領九代記』)と伝わる。
兼胤はその後、鎌倉府の将として上総国で禅秀の残党が起こした「上総本一揆」を鎮圧している。
永享2(1430)年6月10日急病に倒れ、6月17日に39歳の若さで亡くなった(『本土寺過去帳』)。法名は輝山常光、称名院兼哲往讃、眼阿弥陀仏。家中は「愁歎無其限」だったという。
●応永20(1413)年8月28日『千葉介兼胤香取社参記録』
香取御社参事、 兼胤御参詣、応永二十年庚巳八月廿八日
| 一 御神馬一疋、栗毛印雀 | 神主請取申 |
| 一 御神楽銭十結 | 大禰宜請取申 |
| 一 返田大明神五結 | 六司代御代官参五結 |
| 一 大般若御布施十結 | 供僧中 |
| 一 御幣役 | 円城寺隼人佐「御代官役」 |
| 一 社頭御剣役 | 木内平次左衛門尉 |
| 一 御敷皮役 | 木内平三郎 |
| 一 笠懸 | |
| 一 御引出物事 | |
| 一 御太刀一振 海梅花 目貫牡丹 | 役人円城寺隼人佐 |
| 一 御小袖一重 朽葉 | 役人円城寺五郎兵衛督 |
| 一 御馬一疋 月毛印雀 | 「多古」 役人円城寺兵衛次郎 |
| 一 御遷宮時、満胤為御代官下総守殿御社参事、 | |
| 一 御幣 社人直取渡之、依御遷宮也、 | |
| 一 御神楽銭十結 | 大禰宜請取之 |
| 一 大般若御布施銭十結 | 供僧中 |
| 一 返田大明神五結 | 六司代御代官 |
| 一 御剣役 社頭 | 木内七郎左衛門尉 |
| 一 御敷皮役 | 木内四郎 |
| 一 御引出物事 | |
| 一 御太刀一振 鮫 目貫菊 | 役人円城寺五郎兵衛督 |
| 一 御小袖一重 朽葉 | 役人円城寺次郎兵衛 |
| 一 御馬一疋 鴇毛印雀 | 役人円城寺四郎兵衛 |
●応永34(1427)年11月1日『千葉介兼胤下写』
『鎌倉大草紙』には、将軍義持の異母弟・権大納言義嗣が、兄将軍義持との対立のため、伊勢北畠満雅、六角満高入道、関東上杉禅秀・足利持隆と繋がり、謀叛を企てた結果、捕らえられて殺害されたと述べられる。千葉介兼胤との接点は「禅秀の乱」となるが、結論から言えば、義嗣が自ら謀叛を企て、北畠満雅や六角入道との連携を行ったり、禅秀の乱への介入を行ったりした事実は認められず、現実には義嗣自身が義持とは対立関係にあって積極的に謀叛を企てた形跡は見られない。結果として義持は義嗣の殺害に至ってしまうが、それは必ずしも義持の本心ではなく、周囲の環境によるやむを得ない側面であった可能性が高い。ここでは『鎌倉大草紙』にみられる義嗣関係の虚実を紹介する。
| (1)北畠少将満雅との関わり |
| (2)六角備中入道との関わり |
| (3)上杉禅秀入道との関わり |
| ■史書から見た足利義嗣遁世以降の顛末 |
『鎌倉大草紙』では、応永22(1415)年の条に「去ルニ依テ、去年伊勢ノ国司動乱セシ時、近習ノ輩、義嗣卿ヲスゝメ申テ、ヒソカニ御謀ヲ思召立ケル、然共勢州程ナクシツマリケレハ、力ナク此事思召止ケル」(『鎌倉大草紙』)と記す。
この北畠満雅の挙兵について『鎌倉大草紙』では時期は記されていないものの、江戸期の『南方紀伝』では「秋九月、伊勢国司北畠満雅、就御即位事而謀反、関左馬助属焉」(『南方紀伝』)と見えることから、応永21(1414)年9月を想定していると思われる。
ところが、応永21(1414)年9月には将軍義持自らの伊勢参宮が計画され、実際に9月18日に「公方様御参宮、公卿両人豊光卿、教興卿、殿上人三輩教豊、雅光、資雅供奉」(『満濟准后日記』応永廿一年九月)とあるように、伊勢に出立していることから、当時の伊勢国では戦乱は起こっていなかったことが確実である。さらに9月24日には「公方様、自伊勢還御、々路次間毎事無為云々、珍重々々」(『満濟准后日記』応永廿一年九月)と、路次は平穏であったことがわかる。さらに、応永21(1414)年に伊勢国で何らかの紛争が起こり、『南方紀伝』や『勢州軍記』が伝えるような軍勢が派遣されたことは、当時の世相を敏感に記す『看聞日記』や『満濟准后日記』にもまったく記されていない。
つまり、応永21(1414)年の北畠満雅の叛乱は『鎌倉大草紙』の虚構であり、その伝を『南方紀伝』や『勢州軍記』など江戸期の軍記物が採用したものであろう。北畠満雅と足利義嗣の繋がりは『鎌倉大草紙』にのみ記されているものであり、その後も巷間でも語られることはなく、義嗣と北畠満雅との繋がりを示す説話は、義嗣が謀叛の企てで処断された物語上の要素として創作されたものであろう。
『鎌倉大草紙』では、応永23(1416)年10月30日、義嗣は「御兄当公方ヲ可奉討ヨシ、ヒソカニ思召立事有テ、便宜ノ兵ヲ御催シテケル、其時分、佐々木六角御勘気ニテ守護職ヲメシ上ラレ閉門ニテ居タリケルヲ御頼ミアリケルニ、佐々木如何思案シケルニヤ、不応貴命、其事無程色ニアラハレ」たため、「公方ヨリ義嗣卿ヲ召トリ奉ル、林光院ヘ押籠申シ、キビシク守護ヲ居置ケル、義嗣卿御出家有テ法名道純ト申」という。
ただし、ここにすでに『看聞日記』や『八幡宮愛染王法雑記』ら当時の史料とは異なる記述が二か所見えている。つまり記事全文が史料とは異なっていることになる。
(一)義嗣は自ら京を出奔して高雄に隠遁したのであって、捕縛の事実はない
義持は義嗣を捕縛して出家させたのではなく、突如出奔して行方不明となった報告に「仰天」し、方々捜索して、ようやく栂尾にいることを突き止めている。ところがこのとき義嗣はすでに自ら髻を切り落としており(ただし、誰もが恐れて義嗣の剃髪をする者はなかった)、俗世との因縁を断つ強い決意があった様子が見える。義持はそんな義嗣に「帰宅」の説得を行っており、二度目の使者には管領細川満元が派遣されるほど、強く帰還を促しており、捕縛の事実はない。
(二)佐々木六角満高入道はこの頃には近江守護であって閉門していない
『鎌倉大草紙』に見られるような、六角満高(佐々木備中入道崇壽)が近江国守護職をはく奪されたのは、応永17(1410)年の一時期のみであり、復帰時期は不明ながら、応永20(1413)年12月までには守護に再任されている(応永二十年十二月廿七日「将軍家御教書」『地蔵院文書』)。それから一年半後には比叡山と対立して「守護六角流罪事、可有其沙汰由、被成御教書間、無為御帰座」(『満済准后日記』応永二十二年六月十三日条)という応永22(1415)年の事件(実際に配流された形跡はなく、比叡山衆徒の怒りを一時鎮めるためのフェイクか)があるが、これで満高入道が失脚した事実はないため、もし義嗣が六角に諮り「無程」して叛逆が発覚し、捕縛された(『鎌倉大草紙』)とすれば、応永17(1410)年から三年以内に限定されることになる。
ところが、実際の義嗣の遁世は応永23(1416)年10月30日早朝であり、六角入道が近江守護に復帰して三年以上経過している。六角入道は後年の義嗣の叛逆協力者の疑惑のある人物名にも見られない(その頃には死去しているが)ことからも、六角入道は義嗣出家とは無関係であり、『鎌倉大草紙』の創作の可能性が非常に高い。
六角入道が義嗣に協力を要請された人物に設定された理由は定かではないが、満高入道が卒去したのは義嗣遁世23日前の10月7日であって、義嗣遁世との関係を示しやすかったことや、義嗣と持氏両者と縁戚関係にあったことが理由かもしれない。
藤原慶子 +―足利義持
(典侍) |(内大臣)
∥ |
∥――――+―足利義教
∥ (内大臣)
∥
∥ 春日局
∥ ∥
善法寺通清―――紀良子 ∥ ∥――――足利義嗣
(石清水八幡宮)(二位) ∥ ∥ (権大納言)
∥ ∥ ∥
∥―――――――足利義満―――女子
∥ (太政大臣) ∥
∥ ∥
足利家時――足利貞氏――――足利尊氏 +―足利義詮 佐々木満高 ∥
(伊予守) (讃岐守) (権大納言) |(権大納言) (近江守) ∥
∥ | ∥――――――佐々木満綱
∥ | ∥ (大膳大夫)
∥―――――+―足利基氏 +―女子
北条義宗――北条久時 +―平登子 (左兵衛督) |
(駿河守) (武蔵守) |(二位) ∥ |
∥ | ∥―――――+―足利氏満―+―足利満兼―+―足利持氏
∥―――――+―北条守時 ∥ (左兵衛督)|(左兵衛督)|(左兵衛督)
∥ (相模守) ∥ | |
∥ ∥ +―足利満直 +―足利持仲
北条宗頼――女子 畠山家国――+―女子 |(篠川御所) (殿御方)
(七郎) (武蔵守) (治部大輔) |(尼清渓) |
| +―足利満隆
+―畠山国清 |(新御堂御所)
(修理大夫) |
+―足利満貞
(稲村御所)
『鎌倉大草紙』では、「関東モ鎌倉殿、管領、仲悪シクナリ、動乱ノヨシ聞ケレハ、義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉へ御下リ有テ、上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル…今、京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有」(『鎌倉大草紙』)と記述されるように、義嗣と関東との繋がりも語られている。
上杉禅秀の謀叛については、応永23(1416)年10月13日に「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(挙兵からすでに十一日を経ており、それ以前にも通達があった可能性は高いが、記録には残っていない)という風聞(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)が京都における初見となる。
その情報到達から半月後の10月30日に起こった「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥云々、凡依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退云々、就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)という義嗣出奔事件と禅秀の乱発覚の日時は近く、また「鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)というように、義嗣逐電と関東騒乱が重なったため、人々は前触れなき義嗣遁世の理由を関東と関連付けて理解したことがうかがえ、それが巷間の認識であったと思われる。つまり、『鎌倉大草紙』の説話は、この実際にあった噂を取り入れたものだった可能性があろう。
この関東との繋がりの噂は、義嗣捕縛から一か月半も経過した12月16日時点でも、京都で「押小路亜相叛逆之企露顕、関東謀叛、彼亜相所為」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)という風聞が立つほど根強いものであったが、これを最後に義嗣と関東との結びつきは語られていない。
義嗣が所縁もない関東に繋ぎをつけても何ら得るものはなく、『鎌倉大草紙』においても「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」と述べられているように、義嗣の「御下知」を「公方ノ御教書」にすり替える扱いにされている。御教書と下知状とではまったく様式が異なるため、すり替えるのであればすぐにそれがわかるので人々に供覧することはないだろう。人々に供覧するのであれば偽造の文書となるため、義嗣下知状を御教書にすり替える必要もない。つまり、この「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」の記述は具体的な意味はなく、軍記物を盛り上げるための要素である可能性が高いだろう。
以上のことから、義嗣と北畠満雅の乱、上杉禅秀の乱は何ら繋がりはなく、『鎌倉大草紙』の物語性を高める意味で同時期にあった義嗣の出家と捕縛事件を採用して創作されたものであろう。
足利尊氏――+―足利義詮―――足利義満―――+―足利義持
(征夷大将軍)|(征夷大将軍)(征夷大将軍) |(征夷大将軍)
| |
| +―足利義嗣
| |(権大納言)
| |
| +―足利義教―――――足利義政
| (征夷大将軍) (征夷大将軍)
|
+―足利基氏―――足利氏満―――+―足利満兼―――+―足利持氏
(鎌倉公方) (鎌倉公方) |(鎌倉公方) |(鎌倉公方)
| |
+―足利満隆===+―足利持仲
|(新御堂小路殿)
|
+―足利満直
|(笹川公方)
|
+―足利満貞
(稲村公方)
応永23(1416)年10月30日の義嗣の出奔は、人々に動揺を与えた。10月19日には隠遁は「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、30日早朝に発覚した突然のもので、義持も「仰天」するなど、何ら前触れのないものであった様子がうかがえる。つまり、義嗣自身の叛逆や関東の叛乱との繋がりもなかったと考えられる。義嗣は行先も伝えぬままに逐電しており、義持はその影響の大きさ(かつて足利尊氏と権勢を二分していた弟・足利直義が突如京都を逐電し、南朝に通じた先例もあった)からか、義持は追手を方々に遣わしてその行先を尋ねている。その後、義嗣は高雄栂尾に入り、すでに自ら髻を切り落としていることが判明している。
遁世の理由を尋ねられた当初、義嗣は「依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退」と述べるように、所領問題がその原因であった(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)。ただし、その逐電の不自然さからか、逐電当日の騒ぎの中で巷間では「就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)、「種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、逐電は義嗣の「野心之企」が原因とみなされ、暗に「関東事」との関係も噂されていたようである。
しかしながら、将軍義持はこの巷間説に構わず、二日後の11月2日、高雄に「管領、富樫大輔等為御使、可被帰宅之由雖被諷諫」するも、義嗣は「敢以無承引、被恨申條々述懐、凡出家本望之間、帰参不可叶之由」を述べた(『看聞日記』応永廿三年十一月二日条)。迎えの使者については「富樫、大舘両人、率軍勢向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)ともある。
これらのことから、義嗣遁世の理由は将軍義持にも身に覚えのある義嗣の所領を巡る理由がまずあったのであろう。しかし、のちの断罪に至るように、理由はそれだけではなかろう。義嗣は故大相国義満の寵愛の子であり、本来仏門に入るべき身でありながら出家することなく、兄将軍義持のもとで「新御所」と称され、正三位を経て従二位権大納言という顕官にまで至っている。当然ながら義持の認可を得ており、さらに義持が義嗣邸を訪問したり、義持と義嗣が揃って院参、参内することもしばしばあったように、両者の関係は決して悪いものではなかった様子が垣間見える。
ところが、義嗣の影響力は政権内に於いてあまりに大きく、義嗣を担ごうとする与党も後年の調査から、幕府上層部にまで浸透していた様子がうかがえる。将軍義持の嫡子は当時わずか十歳の義量であり、才幹高く諸芸に秀でる義嗣を擁立せんとする人々は多くいたと想像される。この遁世を伏見宮貞成は「凡遁世事、発心之由雖被構、真実野心之企、聊露顕歟之間、厳密被沙汰」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と予想しているが、義嗣出奔は将軍義持も知らない突発的な事件であり、何ら「露顕」した結果によるものではない。義嗣は前述の所領問題の不満に加えて、「自らが担がれる」ことから遁れるべく出家した可能性があろう。
義嗣の出家遁世の意思が固いことを悟った義持は、義嗣を担ぐ勢力による奪取を警戒し、11月5日、義嗣の身を高尾から「仁和寺興徳庵絶海和尚塔頭」に移し、「侍所一色被仰付守護申、若野心人有奪取事者、腹を切せ可申云々、仍帯甲冑、昼夜警固申」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と、侍所頭人一色義範をその守護に命じるとともに、もし野心を企む者が義嗣を奪おうとする事態が生じれば、やむなく義嗣に腹をお切らせ申せと命じている。これに恐れをなした義範は、武装して昼夜を問わず厳重に警固している。そして、11月9日には「押小路大納言已落髪也、臨光院可被移住」と、仁和寺興徳庵で剃髪を終えた義嗣は、自らが開基となっている相国寺林光院に移された(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)。
一方で義持は、義嗣とともに出家した「山科中将教高朝臣、山科中将嗣教朝臣」や「持光入道、遁世者一人」を「両富樫ニ被預置、可被糺問」している。この事件の結果として11月9日、「教高入道、持光入道以下四人、加賀国可被配流」が決定している。彼らはいずれも義嗣を擁して叛逆を企てたという罪状である。この評定の過程で、管領満元がやや怪しい動きを見せている。満元は「教高入道糺問事」につき、「若白状ニ諸大名四五人も有同心申人者、可被如何候哉、御討罰可為御大事、然者、糺問中々無益歟」(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)と糾問に反対しているのである。一方で「畠山金吾(畠山満家)」は「押小路殿野心之條、勿論之間、参て御腹を切らせ可申」と強硬なものであった。これに満元は「其も楚忽之儀、不可然」と反対し「意見區々未定」という。満元が糾問に反対した理由は、11月25日に「語阿(「遁世者一人」に相当するか)」の白状した結果に見える「武衛、管領、赤松等与力之由」」(『看聞日記』応永廿三年十一月廿五日条)とあるように、御一家筆頭の斯波義教を筆頭に、管領細川満元、赤松義則といった幕府重職が、実は義嗣擁立の企てに加わっていたことにあろう。さらに「諸大名事、中々不及沙汰」という事の大きさに、評定自体が機能不全に陥っていた様子がうかがえる。
ところがその後、「押小路亜相禅門謀叛事、持光書回文」(『看聞日記』応永廿五年正月十三日条)とあるように、義嗣の名において「日野弁入道持光」の認めた「叛逆」を企てる回文が延暦寺や東大寺、興福寺、園城寺に遣わされていたことが発覚する。これは「山門南都被相語、回文等自寺門入見参」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)とあるように、「回文」が園城寺から義持に提出され、「押小路亜相叛逆之企露顕」したのである。義嗣自身と所縁深い日野持光入道の回文であるが、義嗣自身が参画したかどうかは不明である。発覚後の義持の義嗣への対応からも、義嗣の奪取を警戒することに重点が置かれ、義嗣自身への処罰は行われていないことから、義持自身は、あくまでも義嗣を担ぐ勢力への警戒を強めていたと考えられる。
義嗣擁立の報告を受けた義持は、義嗣が居住する相国寺「臨光院、如楼舎拵之」たという(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ところがここも「亜相取出」のために「偸盗忍入、軒格子切破、番衆見付之間、盗人逃了」という油断ならないことが起こっている(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。これに義持は「弥厳密被守護、向後有如此之儀者、可殺害申之由、被下知」とあるように、義嗣を一層厳密に守護せられること、そして今後またこのような事があれば、義嗣を殺害されるべしと厳命している(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ここからも、義嗣の身を守護することを一義とし、殺害は彼の身が「奪取」されるに及んだときとしている。義持は、義嗣を擁立せんと図る勢力があること、義嗣の遁世はそこからの逃避であることを認識したうえでの対応ではなかろうか。
そして、応永25(1418)年正月24日、義嗣入道は将義持が派遣した富樫兵部大輔満成に屋敷を攻められ、命を落とすことになる。その後も増えていく義嗣擁立を図った諸大名の名前に、事実上一人一人を処断することは不可能と察し、義嗣一人を処断することで政権全体の機能不全の解消及び、まだ幼少の嫡子・義量への後継者問題の解決を図ったのかもしれない。義嗣の死去後も義持は各種法要や施餓鬼などを行うなど供養を欠かさず、その遺児たちも寺院へ預け、妻室らへの処罰も行われなかった。
★千葉介兼胤の重臣★(『千葉大系図』他)
●家老
木内左京亮 鏑木大蔵少輔 湯浅対馬守
●族臣
馬加陸奥守(康胤) 大須賀左馬助(憲康) 国分三河守(忠胤) 粟飯原但馬入道(入道常善) 相馬大炊助(胤長) 円城寺下野守 原四郎(胤高)
●側近
幡谷刑部少輔 麻生左馬助 岩井弾正 石毛権太夫 木村織部 押田源五左衛門尉 平山 八木 土屋