継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | 明徳3(1392)年~応永33(1426)年6月8日 |
父 | 千葉介満胤 |
母 | 不明 |
妻 | 上杉右衛門佐氏憲入道禅秀女 |
官位 | 正五位下? |
官職 | 修理大夫 |
役職 | 下総国守護職 |
所在 | 相模国鎌倉(または下総国千葉庄) |
法号 | 輝山常光・称名院兼哲往讃 |
墓所 | 千葉山海隣寺? |
千葉氏十四代。千葉介満胤の嫡子。明徳3(1392)年7月21日誕生したと伝わる。官途は修理大夫(応永廿四年十一月廿五日「龍興寺寺領安堵状」『諸家文書纂』)。ただし「修理大夫」は官位相当で四位の顕職で中央貴族や斯波足利家が任官する慣例を持つ官職であり、「修理権大夫」または『上杉本上杉系図』上杉氏憲(禅秀)女子の配者として見える「千葉修理亮兼胤」の通り、五位の修理亮である可能性もあろう(ただし書状の署名として修理大夫と記すかは不明)。
兼胤花押 |
鎌倉殿足利満兼を烏帽子親として「兼」字を給わったとみられる。応永16(1409)年7月22日、その足利満兼が亡くなり、わずか十二歳の幸王丸(同年、将軍義持を烏帽子親として持氏と名乗る)が関東公方を継ぐと、「新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、回文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討」った(『鎌倉大草紙』)とする。ただし、兼胤はこのとき十八歳と弱冠であることから、侍所所司だったことには疑問があり、父の満胤入道と考えられる。
なお、生田本『鎌倉大日記』には「新田■■殿」が「侍所于時千葉」を七里ガ浜において誅し奉ったとなるが、「奉誅」の対象「之」は明らかに「殿」付けのある「新田■■殿」であることから「依」の脱か。この件は様々に記述が残り、討たれた対象も「新田武蔵守」「新田相模守」「新田治部大輔」など異なる。
●応永16年7月22日の七里ガ浜
勝光院殿 応永十六年七月 新田武蔵守 同年月被誅殺 |
『本土寺大過去帳』廿二日上 |
七ゝ廿五ゝ夜、満兼御逝去刻、新田■■殿、侍所于時千葉、於七里浜奉誅之 | 生田本『鎌倉大日記』応永十六 |
七月二十二日、従四位左馬頭兼左兵衛佐満兼公逝去、于時三十三歳、… 同日、新田相模守ヲ於七里浜ニ侍所千葉介討之、 |
『喜連川判鑑』応永十六 |
新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、廻文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、 鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討之静ケル |
『鎌倉大草紙』 |
七月廿二日…満兼逝去刻、新田治部大輔、侍所千葉介、於七里浜奉之 | 彰考館本『鎌倉大日記』応永十六 |
-千葉介兼胤略系図-
千葉介氏胤 +―酉誉上人
∥ |《増上寺開山》
∥ |
∥――――+―千葉介満胤―――――千葉介兼胤――+―千葉介胤直
∥ (千葉介) (千葉介) |(上総下総守護職)
∥ ∥ |
新田義貞―――娘 ∥ +―千葉胤賢――→《武蔵千葉氏》
∥ (中務大輔)
上杉氏憲入道禅秀――娘
応永17(1410)年6月29日、鎌倉殿足利持氏の「御評定始」が行われた(『生田本鎌倉大日記』)。ところが、この御評定始は「未御童躰之間、不能御出」(『生田本鎌倉大日記』)とされた。すでに十三歳にして元服も済ませ、御評定始の予定も組まれていたにも拘わらず、評定に姿を見せることはなかったことは異例であろう。このことは関東管領上杉安房守入道長基(上杉憲定)から将軍義持に通告されている可能性があり、この近辺で長基入道と将軍義持は連絡を取っている。8月7日、「上杉安房入道長基」は「丹波国八田郷内本郷、同国漢部郷除原村事」の「領掌不可有相違」ことの義持袖判状を受けている(応永十九年八月七日「足利義持袖判御教書案」『上杉家文書』)。
そして8月15日、持氏は「依虚事子細、八ヽ十五ヽ若公管領宿所山内へ出御」(『鎌倉大日記』)という。原因は「満隆御陰謀雑説故歟」(『鎌倉大日記』)と見える。「満兼ノ御弟満高、御陰謀ノ企アリトテ、鎌倉中以外ニサハキケレハ、若君管領山ノ内ノ舘ヘ御出アリ、上杉安房守長基色々取持テ、満高陳謝アリテ、御無事ニ治リケリ」(『鎌倉大草紙』)というもので、公方持氏の叔父満隆の陰謀の企てによって、持氏が関東管領長基入道邸へ避難した騒動だったのである(『鎌倉大草紙』)。事前に将軍義持の指示を受けた長基入道が持氏へ告げた結果であった可能性があろう。
この騒動はかなり大きなものだったようで、8月24日に「沙弥(鎌倉の不穏な動きを知らされた人物と思われ、鑁阿寺に指示するほどの人物であることから、管領山内上杉憲定より知らせを受ける立場にあった人物であろう)」が鑁阿寺に「於鎌倉御用心御事候哉、不替時、任先規殊可被致御祈祷状、如件」(応永十七年八月廿四日「沙弥書下」『鑁阿寺文書』)の指示をしている。結果として、憲定入道が骨を折り、満隆が持氏に陳謝して騒動は収まったという。その後、持氏は「同九ヽ三ヽ御所へ還御座」(『鎌倉大日記』)した。
持氏の「御評定始」では持氏の出席が見送られ、その直後に満隆謀叛の企てが起こっているが、これは一連の出来事として考えてよいものであろう。満隆の兄の前公方満兼亡き後、幼少の持氏に評定始等の出席を行わせず、その地位から退ける企てが、この鎌倉騒乱ではなかろうか。満隆が陳謝していることから、将軍義持から何らかの厳命が下っていた可能性があろう。その後、満隆の存在はしばらくうかがえなくなる。
ところが、この騒動の二か月後の10月11日には、「沙弥(禅秀入道)」が「若宮別当大僧正御房」に「鶴岡八幡宮社領沽却所々」を申請のままに知行を安堵する奉書を発給している(応永十七年十月十一日「上杉禅秀奉書」『神田孝平氏旧蔵文書』)。満隆の「御陰謀」を収めた山内安房守入道長基はいまだ管領職にあり、「辞退」したのは翌応永18(1411)年「正ゝ十六ゝ」(『鎌倉大日記』)のことで、「禅秀 右衛門佐入道二ゝ九ゝ、管領職領掌、同廿始評定」(『鎌倉大日記』)が継承したのはさらに半月後の応永18(1411)年2月9日のことだった(管領就任後の禅秀の評定始は2月20日とされる(『喜連川判鑑』))。山内入道長基が管領を辞したのは「病に依」(『鎌倉管領九代記』)ともされるが、すでに応永17(1410)年10月の時点で病状は悪化していて、禅秀入道が前管領朝宗入道息として事実上管領職を代行していた可能性はなかろうか。
持氏は応永19(1412)年「三ゝ五ゝ御判始」(『鎌倉大日記』)を行い、関東管領の禅秀入道のもと、実質的な政務を執り始めたとみられる。同年11月19日、常陸国の「鹿嶋社御神領内小牧」の小牧十郎国泰の押領に関する相論について、鎌倉の評定で審議の様子を「鹿嶋社大禰宜殿(大中臣憲親)」が関東評定衆の一人と思われる「沙弥薀誉(佐々木基清入道)」に問い合わせる書状を鎌倉へ送った(応永十九年十一月廿六日「沙弥薀誉書状」『塙不二丸氏所蔵文書』)。この書状は11月24日に佐々木薀誉のもとに到来し、翌25日の「御評定」で「無為ニ令落居候」となり「近日之間、可御判出候之間、目出候」という鹿嶋大禰宜の訴えが認められ、近日奉書が下されるであろうことを薀誉が26日に書状に記して鹿嶋大禰宜のもとへ送達した。御評定については「自元御理訴御事候間、衆中、間領、上方御一同御落居之間、殊ニ目出候」といい、そもそも鹿嶋大禰宜に理のある訴えであり、御評定に出席者の満場一致での採決だったという。ここに見える「衆中」とは関東評定衆、「間領」とは禅秀入道、「上方」は持氏である。持氏はすでに「御評定始」は行っており、応永17(1410)年6月29日以降の評定には出席していたと考えることが妥当であろう(応永17年から後述の応永22年まで五年もの間、持氏が逼塞していたとは考えにくく、京都においても関東問注所や関東政所を通じて当然情勢は伝わっていたであろう。将軍義持が烏帽子子として気にかけていた持氏が逼塞していると義持が察すれば、義持から満隆へ何らかの譴責がくだるであろう)。そして、管領を禅秀入道に譲って引退していた安房入道長基は、応永19(1412)年「十二ゝ十八ゝ、長基頓滅」(『鎌倉大日記』)という。享年三十八。「大酒之後示疾、其夕不慮逝去」(『上杉系図大概』)ともある。
前管領の死からわずか九日後の12月27日、満隆は「新御堂小路殿」(『鎌倉大草紙』)、「新御堂殿」(『鎌倉大草紙』)、「號新御堂故満氏三男也」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)を称しているように、満隆が移った御所は「新御堂」のある「小路」(称してこの小路を新御堂小路と呼んだのだろう)にあった。おそらく以前から関わりを持っていたであろう現管領禅秀入道と結び、前管領長基の死を契機に、再度満隆は実権を握るべく動き始めたものとみられる。なお、『喜連川判鑑』では持氏が「新御堂御所御移徒」(『喜連川判鑑』)したとあるが、これは「十二月廿七日、満高、新御堂御所御移徒」(『鎌倉大日記』)を誤記したもので、持氏が御所を移転したわけではない。持氏が謀叛を企てた満隆の新御堂御所に転居することなど考えにくい上に、鎌倉殿でもない満隆が公方在所の御所名を冠することも不自然である。つまり、持氏は旧来の御所から転居していないのである。後日、上杉禅秀の乱で持氏が御所を遁れた際には、十二所を経由して岩戸山(岩殿山)、小坪、前浜、佐介国清寺というルートを取っている。つまり、持氏居住の御所はこれまで同様に浄妙寺付近の御所であったことがわかる。
「新御堂」については、公方御所から東に「かつて」、「大倉新御堂」と称された大慈寺があったが、大慈寺は鎌倉外港六浦への大道六浦道沿いにあり、現在の明石橋北側一帯が寺域であった。西側には当時から明王院が接し、門前には六浦路を挟んで滑川が流れ、周囲に小路は存在せず、御所を建てられる空閑地も存在しない。さらに大慈寺が「大倉新御堂」と呼ばれていたのは建保2(1214)年頃までであって、その後は義時建立の大倉薬師堂(現在の覚園寺)が「大倉新御堂」と呼ばれるようになっている。つまり、満隆の号「新御堂」と大慈寺はまったく関係ない。
「禅秀の乱」の際には、満隆は「西御門」の故基氏「保母清江夫人」(『空華日用工夫略集』一)の菩提所「保寿院」(『鎌倉大日記』)に移っていることから、満隆の「新御堂御所」は、西御門保寿院に近い場所であったと推測される。持氏と対立した犬懸入道禅秀が公方御所を経ずに満隆と密かに通じたであろうことを考えると、「新御堂小路」は永福寺前の薬師堂谷、覚園寺(大倉新御堂)から延びる小路で、満隆の館はここにあったと想定される。
そして、おそらくこの長基入道頓死のタイミングで、満隆は管領禅秀入道と画策して南奥州を統べていた弟・足利満貞を、その兄・足利満直へ交代させようと図ったのではなかろうか。満貞は氏満・満兼や山内長基入道らとの関わりが深かったため、その排除を画策したと考えられる。しかし、満貞は応永2(1395)年11月頃に田村庄司の反抗に際して下向して以来18年に亘り南奥州に関東の基盤を築いた人物であって、満貞の更迭は不可能と断念し、新たに鎌倉から満直を篠川へ送り込み、満貞を篠川の南の拠点・稲村(須賀川市稲御所館)へ引退させるに留めたとみられる。
その頃、千葉では応永20(1413)年8月28日、兼胤は直臣を引き連れて香取神宮に参詣した。
●応永20(1413)年8月28日「千葉介兼胤香取社参記録」(『香取大禰宜家文書』)
その三年後の応永23(1417)年2月26日には「新介殿兼胤」が、木内三郎左衛門・曽谷弾正・円城寺新兵衛を奉行として飯沼円福寺(銚子市)に参詣している(『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』)。ここにみえる「曽谷弾正」とは、八幡庄曽谷を本貫地とする在地豪族で、兼胤の祖父・千葉介氏胤の母親の実家でもある。
●応永23(1416)年2月26日『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』(『円福寺文書』)
兼胤は応永20(1413)年以前に管領上杉禅秀入道の娘を娶っており、応永20(1413)年には嫡子胤直が生まれている(生年は『本土寺過去帳』の没年齢より逆算)。応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」では、前管領の氏憲入道禅秀が鎌倉公方足利持氏の御所を攻めた際、舅の禅秀に加担し、父の千葉大介満胤とともに鎌倉米町表に陣取ったとされる(『鎌倉大草紙』)。持氏近習には海上筑後守憲胤やその子海上信濃守頼胤といった一族が見えるが、彼らとは敵対することとなった。
●上杉禅秀方についた千葉一族(『鎌倉大草紙』)
千葉大介満胤 | 千葉修理大夫兼胤 | 千葉陸奥守康胤 | 相馬(大炊助胤長?) | 大須賀(相馬左馬助憲康?) |
原(四郎胤高?) | 円城寺下野守(尚任の父か) | 臼井(?) |
この上杉禅秀の引き起こした騒乱の余波は、禅秀の乱が収束したのちも関東公方に暗い影を落とし、関東や京都を巻き込む騒乱となり、小田原北条氏が滅亡する百七十年以上のちまで続いていくことになる。
なお、もともと公方持氏と、関東管領禅秀入道との間に個人的な対立があったわけではなく、応永21(1414)年7月2日午刻には、持氏は禅秀入道とその子の病気平癒のため、奉行人の「沙弥道繁」に書状をしたため、「御管領并御曹司御違例之間、被致御祈祷之精誠、可有御進上、巻数同本符之由」を足利の鑁阿寺に依頼している程である(応永廿一年七月二日「沙弥道繁奉書」『鑁阿寺文書』)。
同年8月20日には、持氏は故前管領安房入道長基の子「佐竹左馬助(義憲、義人)」の所領であった「常陸国那珂東国井郷内佐竹左馬助跡」を鶴岡八幡宮に寄進している(応永廿一年八月廿日「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』)。これは佐竹義憲の下人が鶴岡八幡宮社頭で狼藉を働いたための「収公」で、鶴岡八幡宮の「為武蔵国津田郷内放生会料所不足分」として寄附されたものである。持氏は故安房入道に叔父満隆謀反の件で恩義を感じつつも、私情を挟まずに粛々と正否を諮っていた様子がうかがえる。
ただし、山内上杉家と犬懸上杉家は南北朝時代の能憲・朝房の「両管領」以来、代々関東管領を輩出する家として拮抗した勢力を持ったが、山内家の事実上の惣領家としての家格(上野国、伊豆国を事実上管国とし、同族は越後国の守護を継承、常陸国佐竹家と縁組)と比べると、犬懸上杉家は庶家で上総国を代々継承するに過ぎず、山内家とは歴然たる格差があった。これを二代朝宗が下野国の那須家、上野国の岩松新田家、甲斐国守護の武田家、そして関東においては別格の礼を有した下総守護の千葉介家と婚姻関係を結ぶことによる「連合体」として山内上杉家と比肩しようと図ったのだろう。さらに彼が縁組した氏族は、千葉介を除いてすべて関東進止国の外周に位置する氏族であり、京都・関東における存在感を示す意味合いもあったのではなかろうか。こうした山内上杉家と犬懸上杉家の勢力争いの中で、持氏は幼少時から接していた山内上杉家に親近感を抱いていたのは、後年の憲基入道の管領辞去騒動や薨去時の様子からも察せられる。
応永22(1415)年3月5日、持氏は御評定で「諸国ノ政事ヲ被聞召」、決裁意見を管領らに諮問する「御評定御意見始」の儀を行った(『喜連川判鑑』)。それまでは御評定の決裁に際しては意見を諮問せず決裁事項に御判を書き、管領禅秀入道を経て御教書を当事者に下していたのだろう。これ以降、持氏は評定では意見を表するようになったと思われる。このような中、4月25日の評定で異変が起こった。
『鎌倉大日記』では「四ゝ廿五ゝ 御評定時、禅秀、依扶持家人小幡背上意、自廿六日無出仕」(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)と見え、4月25日の御評定時に禅秀は「扶持家人小幡」が上意に背いたことにより、翌26日から出仕しなくなったとある。「小幡」が御評定時に上意に背いたのか、それ以前に背いたことを問題視されたのかは不明。その後「関東管領分」の列に「五ゝ二ゝ、禅秀職辞退、半ハ被召上歟」(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)とあるように5月2日に管領職を辞したことがわかる。なお「半ハ被召上歟」とあるように、持氏は出仕拒否を続ける禅秀を半ば強制的に辞職させたという噂があったこともうかがえる。
その後、5月2日の禅秀入道辞職と「憲基安房守」の管領職吹挙を京都へ伝え、5月8日にに「五ゝ十八ゝ領掌」とあるように京都が承認。その御教書が鎌倉へ到着後「同廿五ゝ始評定」となったが、「五ゝ廿五日 御評定始以後管領違例之間、八ゝ九ゝ出仕、同十ゝ恩賞御沙汰出仕了」(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)とあるように、5月25日の評定始については憲基入道は病のため欠席。実際に出仕したのは8月9日で、翌8月10日の恩賞沙汰が管領としての初仕事だったようだ。
ここからは細かい内情はわからないが、禅秀が関東管領を辞したのは、家人の「小幡」が持氏の怒りを買ったことに対し、禅秀が出仕を拒絶したことに原因があることはうかがえる。そして、この話を膨らませたのが、次の『鎌倉大草紙』の説話である。なお、『鎌倉大草紙』はあくまでも軍記物であり、物語性を強く打ち出し、史料上の史実とは異なる記述が多くみられることから、史料としての信憑性は高いものではない。
●『鎌倉大草紙』
このように、4月25日の評定時における事件により、禅秀は不出仕となり管領職を罷免された。こうした動きに反応したか「未年七月中、諸軍勢忍上鎌倉、廿日比殊参集了」(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)という。
ただし「自元無遠故間下向了、七ゝ廿九ゝ武州守護代足利惣所四郎左衛門 尾張守下向了、上野守代五郎左衛門尉同道了」(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)とあるように、理由なき鎌倉参集であったため人々は在所へと下向した。『鎌倉大草紙』では7月20日に鎌倉が彼らに帰国を命じたという(『鎌倉大草紙』)。また、7月29日には「武州守護代」の「尾張守(長尾尾張守忠政)」が足利へ下向し、その弟で上野守護代「五郎左衛門尉(長尾左衛門尉憲明)」が同道したという(生田本『鎌倉大日記』「生田美喜蔵氏所蔵」)。ただ、9月18日、持氏は「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「一族親類等令同心、可致忠節候、且此子細可相触在国之輩候也」という不穏な文書を送っている(『皆川文書』)。この頃には前管領禅秀入道は新御堂殿満隆と繋がり、持氏もそれを察していたのであろう。
12月19日、新御堂殿満隆は「安房国長狭郡龍興寺」を「可為祈願所」とし、祈祷を「可被致清誠」ことを命じている(応永廿二年十二月十九日「足利満隆御教書」『保坂氏所蔵文書』)。
●応永22(1415)年12月19日「足利満隆御教書」(『保坂潤治氏所蔵文書』)
安房龍興寺は二年後の応永24(1417)年11月25日、千葉介兼胤が「瑞泉寺殿(足利基氏)」の寄進状、「永安寺殿(足利氏満)」の祈願所の状の通り、知行地不明ながら知行地の証を与えている(ただし文の体裁、内容など疑問が多い文書である)が、ここから龍興寺は鎌倉足利家の祈願所として継承されていた寺院であったことがわかる。応永22(1415)年12月19日当時、すでに禅秀入道が管領職を辞して半年余り経過しており、禅秀入道はこの頃には満隆(及び持氏異母弟で満隆養子の持仲)と繋がりを有していたとみられ、満隆が鎌倉足利家代々の祈願所に祈祷を命じたのも、関東公方の継承を企図する意識の顕れなのであろう。
以下は『鎌倉大草紙』での禅秀の乱の顛末に『鎌倉大草紙』『看聞日記』の記述を追加したものである。
応永23(1416)年、鎌倉公方足利持氏と前管領上杉禅秀の不和が京都に伝わり、「動乱ノヨシ聞ケレ」た際、「義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉ヘ御下シ有テ上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル、持氏卿ノ伯父新御堂小路殿ヲモ頼ミ玉ケリ」(『鎌倉大草紙』)とあり、足利満隆が禅秀を招いて評定を行った際に、禅秀は、
「持氏公御政道悪シクシテ諸人背申事多シ、某諌メ申スト云ヘドモ、忠言逆耳御気色悪シクナリ、結句、御外戚ノ人々依申掠御不審ヲ罷蒙ルト云ヘドモ、誤ノナケレバ鰐ノ口ヲ遁候ヘキ、世ハハ唯為恩ニ仕ヘ、命ハ依義軽シト申候ヘハ、イカヤウニ不義ノ御政道積リ、果テハヤガテ謀反人アリ、世ヲクツガヘサン事チカク候カ、内々承ル子細モ候、他人ニ世ヲトラレサセ給ハン事ヲ、御当家ノ御歎キ申テモアマリアル御事ニテ候、サテ亦君ハ去ル応永十七年ノ秋、佐介入道大全カ讒言ニテアヤウキ御目ヲ御覧セシ御恨忘サセ給ハシ、今京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有不参、不日ニ思召立、鎌倉ヲ攻落シ、押テ御上洛アラハ天下ノ反復コソマノアタリニテ候」
と満隆に勧めたという。満隆もおおいに悦び、
「内々存子細アリトイヘトモ、身ニオヘテ更ニ望ナシ、甥ノ持仲猶子ニ定ツル間、是を取立給ハレ」
と、猶子の足利持仲(持氏の異母弟)を取り立てることを頼んで禅秀に同心したため、禅秀は初秋から病気と称して邸に引きこもり、謀反を計画したという。
禅秀入道の郎等は「国々ヨリ兵具ヲ俵ニ入、兵粮ノヤフニ見セテ人馬ニ負セ」て鎌倉に武具を集積し、人々に気取られることなく準備が進められた(『鎌倉大草紙』)。そして、「新御堂殿」の御内書に禅秀が副状を付けて回文を作成し、「京都ヨリノ仰ニテ持氏公并憲基ヲ可被追討」を諸大名に遣わしたという。その回文を見て、禅秀の娘婿である「千葉介兼胤、岩松治部大輔満純入道天用」を筆頭に、多くの諸士が加わったという(『鎌倉大草紙』)。また、陸奥国には「篠河殿(満隆兄弟の足利満直)」を通じて葦名盛久、白河結城、石河、南部、葛西、海道四郎など、こちらも多くの有力諸大名が禅秀に加担したという(『鎌倉大草紙』)。
満隆及び禅秀に加担した人々の名を見ると、いずれも京都将軍の直臣「京都御扶持之輩」と推定される人々であり、記載に誤記や誤謬の多い『鎌倉大草紙』の内容ではあるが、満隆や禅秀入道がその挙兵に際して、京都の意向であることを偽称していた可能性は大いに考えられる。
禅秀入道は関東管領となるより以前の応永9(1402)年5月、奥州伊達大膳大夫政宗入道の叛乱で鎌倉から大将軍として派遣されるなど、14世紀末から15世紀初頭には、関東を軽視する在関東京都被官人(「京都御扶持之輩」)が多数存在していることを目の当たりにしたと思われる。
犬懸上杉邸跡 |
上杉禅秀入道が積極的に「京都御扶持之輩」と関係を結んだのは、こうした体験から京都の威光を背景にしなければ関東の安定は期待できないことを身に染みて感じたためではなかろうか。そして、禅秀は経験が少なく実直に過ぎる持氏では、関東の安定は保てないと感じたのではなかろうか。禅秀の管領上表と満隆擁立は、こうした駆け引きの結果である可能性も考えられよう。
そして、すでに管領ではなく実質的な権力を手放している禅秀入道がこれだけの「京都御扶持之輩」を中心とする人々を糾合して挙兵することができたのは、この挙兵が京都の意向であると標榜したからに他ならないのではなかろうか。
●足利満隆・上杉禅秀入道方の人々(『鎌倉大草紙』他)
新御堂殿満隆 足利持仲 上杉禅秀入道 |
足利持氏の叔父 足利持氏の異母弟 前関東管領、上総国守護職 |
千葉介兼胤 岩松治部大輔満純入道天用 渋川左馬助 舞木太郎 大類氏、倉賀野氏、丹党の者、荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、甕尻氏 武田安芸入道信満 小笠原の一族 狩野介一類 曾我、中村、土肥、土屋各氏 名越一党、佐竹上総介、小田太郎治朝、府中大掾、行方、小栗 那須越後入道資之、宇都宮五左衛門佐 蘆名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西、海東四郡の者ども 木戸内匠助伯父甥、二階堂、佐々木一類 |
上杉禅秀婿。下総国 上杉禅秀婿。上野国 武蔵国丹党、児玉党 上杉禅秀舅。甲斐国 信濃国 伊豆国 相模国 常陸国 下野国 陸奥国(笹河殿ヲ頼) 関東 近習 |
坂本犬菊丸 ・常陸国信太庄内久野郷の地頭 |
応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
【禅秀家人】:下野国西御庄で捕縛 秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎 土橋又五郎、石井九郎(若党) |
応永24年閏5月9日「足利持氏御教書案」 (『松平基則氏所蔵文書』) |
二階堂右京亮 ・上総国千町庄大上郷の地頭 |
応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』) |
明石左近将監 ・武蔵国比企郡大豆戸郷の地頭 |
応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
皆吉伯耆守 ・上総国天羽郡内萩生作海郷 |
応永24年10月17日「上杉憲基施行状」 (『上杉文書』) |
混布嶋下総入道 ・下野国長沼庄内混布嶋郷 ・下野国長沼庄内泉郷半分 ・下野国長沼庄内青田郷半分 |
応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
応永23(1416)年10月2日夜、満隆と猶子持仲(持氏弟)が御所殿中から忍び出て、西御門の「宝寿院」(『鎌倉大草紙』)、「保寿院」(『鎌倉大日記』)で挙兵した。なお、京都へ実際に伝わった報告では「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)とあるので、満隆と上杉禅秀は鎌倉外から侵入した可能性がある。
鎌倉公方亭跡(駐車場付近一帯) |
禅秀挙兵の原因は、京都には「上杉金吾謀叛濫觴者、左兵衛督持氏母儀を令盗犯云々、依之可被討罰之由、有沙汰之間、上杉分国へ落下了、然而盗犯事、為虚名之間、雖被赦免、猶討罰事欝憤申、発謀叛」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)と伝わっているように、持氏母を禅秀入道が「盗犯」した噂により禅秀追討の沙汰が下され、禅秀は分国へ遁れたが、その噂は虚偽であったため持氏が「赦免」したものの、禅秀の鬱屈は晴れずに挙兵に及んだ、というものであった。両者の相克がこうした噂を生んだのだろう。
禅秀勢は犬懸上杉家郎党の屋部氏、岡谷氏の両人が手勢を引率し、夜に入って塔辻に下り、鎌倉の所々に堀を切り、鹿垣を結うなど防砦を築いた。
一方、禅秀は持氏を手籠めにするべく御所へ向かった。この挙兵は前触れなく起こっており、持氏はこのとき「折フシ御沈酔」で寝ていたという。鎌倉殿近習の木戸将監満範が御座近くに馳せ参じて満隆・禅秀らの反乱を伝えたが、持氏は、
「左ハアラジ、禅秀以テ外ニ違例ノヨシ聞食、今朝二男中務少輔持房、出仕致ケルカ、存命不定ノヨシニテ帰宅セシ」
と言い、瀕死の禅秀が兵を挙げるなど思いもよらないという返答であった。これに満範は、
「ソレハ謀反ノハカリ事ニ虚病仕候、唯今御所中ヘ敵乱入ラン、分内セハク防ニ馬ノカケ引不可叶、一間途御出アリ、佐介ヘ御入候ヘ」
鎌倉公方亭跡 |
と告げて、佐介の管領邸に移すべく持氏を馬に乗せて御所を脱出させた。すでに六浦路の西側「塔辻」には「敵篝ヲ焼テ警固」していたので、若宮大路を経由して佐介へ向かうことはできず、「岩戸ノ上ノ山路ヲ廻リ、十二所ニカゝリ、小坪ヲ打出、前浜」を馳せて佐介の管領上杉憲基のもとに遁れた(『鎌倉大草紙』)。持氏が御所から突然消えたので、「御供人々不存知間、或国清寺奉追人々者」(『鎌倉大日記』)といい、持氏馬廻衆ははじめ持氏の行方をつかむことができなかった様子があるが、その中に持氏を佐介に遁れさせた「木戸将監(木戸将監満範)」(『鎌倉大草紙』)も見えることから、木戸満範が彼ら馬廻衆を佐介に伴ったということかもしれない。なお、『鎌倉大草紙』は「国清寺」を「伊豆ノ名コヤノ国清寺」としており、持氏本陣となっていた佐介国清寺と混同している。
●足利持氏の脱出に御供した鎌倉殿近習(『鎌倉大草紙』):■千葉一族
一色兵部大輔 | 一色左馬助 | 一色左京亮 | 一色讃岐守 | 一色掃部助 |
一色左馬助 | 龍崎尾張守 | 龍崎伊勢守 | 早川左京亮 | 早川下総守 |
梶原兄弟 | 印東治郎左衛門尉 | 田中氏(新田一族) | 木戸将監満範 | 那波掃部助 |
島崎大炊助 | 海上筑後守 | 海上信濃守 | 梶原能登守 | 江戸遠江守 |
三浦備前守 | 高山信濃守 | 今川三河守 | 今川修理亮 | 板倉式部丞 |
香川修理亮 | 畠山伊豆守 | 筑波源八 | 筑波八郎 | 薬師寺 |
常法寺 | 佐野左馬助 | 二階堂 | 小瀧 | 宍戸大炊助 |
宍戸又四郎 | 小田宮内少輔 | 高瀧次郎 |
このとき、佐介の上杉憲基は「安房守憲基ハ夢ニモ是ヲ知ラス、酒宴シテヲハシケル」が、ここに上杉修理大夫(小山田流上杉定重か)が三十騎ばかりで馳せ参じ、
「禅秀入道、新御堂殿并持仲公ヲスゝメ申、御所ヲモ取リ籠奉リ、唯今是ヘモ発向スル處、カヤフニエフゝゝト渡ラセタマフソヤ」
と呼ぶが、憲基は少しも騒がず、
「何程ノコト有ヘキ、大将ノ満隆ハ先年雑説以ノ外ニテ、御大事ニ及ヒシヲ親ニテ候大全カ蒙恩、御命ヲ扶ケ給ヒ、何ノ間ニ我ニ向ヒ左ヤフノ悪事ヲ思ヒ立玉フハ天ノセメノカルヘカラス、又禅秀去応永九年ノ夏、奥州伊達大膳大夫退治ノ時、赤舘ノ戦ニ敗北シテ両国兵ニ見限ラレタリ、今更何カ彼ニシタカワンヤ」
と、その報告を信じようとしなかった。しかし、今度は上杉蔵人大夫憲長(庁鼻和流上杉憲長)が十四騎を率いて武装して馳せ参じ、
「敵味方ハ不知、何様前浜ニハ軍勢充満ス、打立タマへ」
と叫んだ。これには憲基も異変を感じ、急ぎ甲冑を著すると、「長尾出雲守、大石源左エ門、羽継修理大夫、舎弟彦四郎、安保豊後守、惟任助五郎、長井藤内左エ門、其外、木部、寺尾、白倉、加治、金子、金田ヲ初トシテ宗徒ノ兵七百余騎」を伴って出陣した。憲基は、
「御所ヘ馳参リ候ヤフ、イマタ恙ナク御座御供申、是ヘ入ヘシ、若又御所中ヲ敵取巻申サハ、西御門ニ火ヲカケ宝寿院ヘ推ヨセ、一戦タルヘキ」
を人々に申し合わせていたが、そのとき持氏が「宍戸六郎朝国」(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)ら味方の将兵ともども佐介に遁れてきたので、憲基はじめ人々は安堵した(『鎌倉大草紙』)。ここには、禅秀方のと縁戚にあった大掾満幹とは袂を分かった「常州鹿嶋一族」が「上方、佐介江御移」を聞きつけ(応永廿四年正月「烟田幹胤申着到」『烟田文書』)、「惣領属鹿嶋兵庫助憲幹手」に属して参陣している(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。その日付は闕だが、翌2月の軍忠状では「同三日」とあるので、「上方(持氏)」が佐介へ移ったのは10月3日の事となり、『鎌倉大草紙』の記述は誤りとなる。
●応永24(1417)年正月「烟田幹胤着到状」(『烟田文書』)
●応永24(1417)年3月「宍戸朝国着到状」(『安得虎子』)
鹿嶋一族や宍戸朝国、そのほか人々が佐介の持氏営所(後述の通り、管領亭ではなく佐介国清寺とみられる)の宿直警固を行っている。持氏にはさらに足利一族と所縁の深い伊豆山権現別当房密厳院の尊運僧都が加担している※。
※これは本寺の醍醐寺僧正隆源(三宝院満済師)との伊豆山密厳院を巡る継承問題(将軍義持の認可の矛盾により発生)を有利に進めたい尊運が、将軍の命を遵行する立場にある持氏(義持との関係は良好)に協力し、その対価を得ようとしたものであろう。しかし、翌応永24(1417)年7月1日、将軍義持は「伊豆山密厳院別当職事」は「所被補水本僧正隆源」とする御教書(執筆:伊勢因幡入道照心、伊勢貞長)が「左兵衛督殿(足利持氏)」へ下されており(応永廿四年七月一日「足利義持御教書」『三宝院文書』)、同日には管領「沙弥道歓(細川満元入道)」から「上椙安房守殿(憲基)」へ「就伊豆山密厳院事、御書候、早速申御沙汰候者、目出候」(応永廿四年七月一日「細川満元書状案」『三宝院文書』)が下されているように、持氏からの要望は認められなかった。これを受けて持氏は尊運僧都に沙汰を下したとみられるが、納得のいかない尊運僧都は9月、「早被退水、本僧正隆源非拠競望、任安堵御下文以下、代々手継相承旨、預御裁許全知行当院家職」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)を依頼している。
『鎌倉大草紙』によれば、持氏が佐介へ遁れた10月3日は「悪日」のため、満隆・禅秀は寄せず、持氏・憲基からも寄せることはなかった。翌10月4日未明より、管領憲基は佐介谷南面の「浜面法界門」には長尾出雲守をはじめとする安房国勢を差し向け、南東の「甘縄口小路」には憲基弟の佐竹左馬介(佐竹左馬助義憲)、「薬師堂南」には結城弾正(結城弾正少弼基光入道)、北東の「無量寺口」には上杉蔵人大夫憲長、北の「気生坂」には三浦、相模国の人々、その北「扇谷」には上杉弾正少弼氏定とその子(持朝、持定か)らをそれぞれ派遣した。この他「所々方々馳向陣取」った(『鎌倉大草紙』)。
一方、「新御堂殿(足利満隆)」も同4日「馬廻一千余騎(満隆近習と思われるが、持氏に供奉した二十七名を当時御所に詰めていた当番の近習であるとすると、公方持氏に仕える近習の実数はもう少し多かったと思われる。この満隆・禅秀の挙兵時に満隆に寝返った近習もあったであろうが、それでも満隆に近侍した武士が持氏近習より多いことは考えられないので、この一千余騎は近習の被官や陪臣層も含めても誇張であることは間違いなく、馬上の士は多くても百騎未満であろう)」を随えて、陣所とした西御門保寿院を出立し、若宮小路に布陣した。
この挙兵では『鎌倉大草紙』によれば、千葉大介満胤が「嫡子修理大夫兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下総守(下野守)を初八千余騎、米町表」に展開しており、千葉勢は小町大路筋の往来を固め、若宮大路下馬橋付近に睨みを利かせていたとする。千葉氏らは『鎌倉大草紙』では「京都ヨリノ仰ニテ持氏公并憲基ヲ可被追討」ことを主張した「新御堂殿ノ御内書ニ禅秀副状ニテ廻文」に応じたことが記されており、京命を信じて満隆、禅秀入道に加担した可能性は考えられる(『鎌倉大草紙』の信頼性は低いが)。ただし、鎌倉中の戦いの中で千葉一族の働きは『鎌倉大草紙』にはまったく見えず、様子見に終始した可能性がある。
満胤、兼胤の軍勢の実数も不明だが、170年余り後世の天正18(1590)年、小田原合戦当時の千葉介ら下総国の国人の兵力動員が合計七千あまり(『関東八州諸城覚書』)、禅秀の挙兵当時はさらに少ないであろう。さらに、満胤、兼胤は下総守護として鎌倉常駐だったことのほか、不自然ではない人数や催促の日数を考えると、このとき彼らが率いた兵力は平時から鎌倉の千葉屋敷に伺候していた家人のみで構成されていたと推測できよう。当然ながら平時は在倉にかかる負担を軽減するため、必要以上の人数は置かないと考えると、満胤・兼胤や麾下の下総衆が率いた人々は、多くても合計して千騎程度であろう。
禅秀与党の「佐竹上総介入道(佐竹与義入道)、嫡子刑部大輔、二男依上三郎、舎弟尾張守一類」ら手勢百五十騎は浜の大鳥居から極楽寺口に展開した(『鎌倉大草紙』)。
禅秀の手勢は「嫡子上杉中務大輔(憲顕)、舎弟修理亮(氏顕)郎等千坂駿河守、子息三郎、岡屋豊前守、嫡孫ゝ六、甥弥五郎、従弟式部大輔、塩谷入道、舎弟平次右エ門、蓮沼安芸守、石河介三郎、加藤将監、矢先小次郎、長尾信濃守、同帯刀左エ門、坂田弾正忠、小早川越前守、矢部伊予守、嫡子三郎、其外臼井、小櫃、大弐、沓俣、太田、秋元、神崎、曾我、中村ノ者」ら二千五百騎あまりが鳥居の前から東に向いて鉾矢形に陣を張った(『鎌倉大草紙』)。ここに見える「臼井」「神崎」はおそらく千葉一族の各氏であろう。
京都へ伝えられた禅秀の乱の合戦当初の報は、二日の挙兵により「左兵衛督持氏、無用意之上、諸大名敵方ヘ与力之間、不馳参、管領上杉房州子息、為御方、纔七百余騎、無勢之間、不及合戦引退、駿河国堺ヘ被落了、同四日、左兵衛督持氏館以下鎌倉中被焼払了」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)と京都へ伝えられている。これは禅秀挙兵と4日の合戦、7日の持氏の駿河国堺三嶋への落去がまとまった情報として伝えられたものであろう。なお4日の合戦では「去四日合戦、当方一色以下若干討死了」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)とあり、持氏血縁の一色某以下が討たれたことがわかる。
10月5日、持氏は9月中旬に軍勢催促を行った「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「下野国長沼庄右衛門佐入道跡」など四か所を知行として宛行っている(応永廿三年十月五日「足利持氏御下文」『長沼文書』)。禅秀を除く三名は、いずれも3日前の禅秀挙兵に加担したことが判明している中心的な近習なのだろう。
下野国長沼庄右衛門佐入道跡、同国大曾郷木戸駿河守跡、同国武田下條八郎跡、武蔵国小机保内長井次郎入道跡等事、所充行也者、早守先例、可致沙汰之状如件
応永廿三年十月五日 花押(足利持氏)
長沼淡路入道殿
ここから、下野国長沼庄内(真岡市長沼周辺)に禅秀の所領が食い込んでいたことがうかがえ、芳賀郡大曾(真岡市上大曾周辺)の木戸駿河守、芳賀郡堺郷(真岡市境)の武田下條八郎といった長沼庄に隣接する地域にも禅秀方の人々の所領があり、長沼淡路入道はこうした対立関係もあって当初より持氏に属したのだろう。
鎌倉化粧坂 |
軍記物『鎌倉大草紙』の記述によれば、満隆・禅秀の手勢は「十万騎(実際は多くとも二、三千騎ほどだろう)」にも膨れ上がり、10月6日、禅秀は岩松治部大輔満純・渋川左馬助らの手勢を葛原岡の要衝「六本松」に差し向けたという。実際に宍戸六郎朝国が六本松合戦で「頭骨」に負傷している(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)ように、冑が飛んでしまうような激烈な戦いが繰り広げられたのであろう。
六本松は葛原岡の西麓に位置し、化粧坂方面と東西から葛原岡を攻め、前浜と葛原岡を占拠し、持氏・憲基が立て籠もる佐助を南北で挟撃する戦略であろう。この葛原岡を守る御所方は、扇谷から出張した上杉弾正少弼氏定であったが、氏定は深手を負って退却。麾下の上田上野介、疋田右京進ら大将は討死を遂げた。宍戸一族では、宍戸左近将監朝雄も「舎兄兵庫助(宍戸兼朝)」とともに参陣して兵庫助は討死を遂げている(応永廿七年十月「宍戸朝雄申状写」『小宅雄次郎氏所蔵文書』室:1908)。
この六本松の戦勝の余勢を駆って、禅秀勢は化粧坂に攻め懸けて勝鬨を上げた。
一方、葛原岡口守将の氏定が大敗したため、持氏・憲基勢は化粧坂の守りに、持氏馬廻衆から梶原但馬守、海上筑後守(海上筑後守憲胤)、海上信濃守(海上信濃守頼胤)、椎津出羽守、園田四郎、飯田小次郎以下の三十騎あまりを派遣している。ここから、持氏の周辺には守護級の将官がいなかった様子がうかがえる。公方身辺を警衛する馬廻衆に雑兵までもが戦闘力として機能する軍勢との合戦は期待できず、当然ながら馬廻衆は惨敗し、梶原但馬守と椎津出羽守が討死、「飯田、海上、園田四郎」も負傷して、無量寺まで退却することとなる。葛原岡の南岸下は御所方の拠点である国清寺であり、この葛原岡を禅秀方に取られたことは、御所方にとって致命的であった。
足利満隆、禅秀入道の手勢は鎌倉中を席巻し、「岩松治部大夫、渋川左馬介カ手ノ兵、走散テ国清寺上杉憲顕カ建立ナリニ火ヲカクレハ、火煙吹掛味方ノ兵共ケムリニムセビ、弓ノ本末ヲ忘テ逃伏テ落行ケリ」という。この国清寺の合戦で、御所方の「江戸近江守、今川参河守、畠山伊豆守、其外宗徒ノ兵卅余人討死」(『鎌倉大草紙』)し、「佐介舘ニ火カゝリシカハ、人力防ニ不叶、持氏落サセ玉フ、安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
なお、持氏が遁れていた「佐介」の舘は、管領亭ではなく国清寺であった可能性が高い。常陸鹿嶋一族が「上方、佐介江御移之間、為外門之手、致昼夜宿直警固以降」(応永廿四年正月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)とあるが、これは持氏が移った佐介館の外門の警衛についていたことになる。それは「去年十月国清寺外門之御合戦」(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)に見える「外門」であり、常陸鹿嶋一族は「上方(持氏)」が移った「佐介」の「国清寺外門」で奮戦したのであろう。
国清寺の外門前での合戦が具体的に起こった日付は記されていないが、10月6日には佐介へ通じる「前浜合戦」が起こっており、国清寺外門前合戦も同日であろう。前浜合戦では「今度大乱刻、他門跡輩一人毛不令参陣處、尊運独召具内者共、馳参佐介陣、去年十月六日於浜合戦、侍四人令討死其外被疵輩、被切乗馬者、不可勝計」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)とあるように、伊豆山密厳院の尊運僧都が持氏方として自ら由比浜の戦場に出張して奮戦。供侍四名が討死を遂げている。
そして禅秀勢の攻勢に「六日、由比浜御合戦、及難儀」(『鎌倉大日記』)のため、佐介国清寺外門にまで攻め込まれた持氏勢だったが、この外門警衛を担当していた常陸鹿嶋一族が奮戦。国清寺外門を鹿嶋一族とともに警衛していた「飯田民部丞」はこの期に及んで禅秀方に寝返り、鹿嶋党の烟田幹胤は彼との戦いで乗馬を失っている。
しかし、結局国清寺は陥落し、持氏を警衛していた人々は「於彼寺討死畢、其外者令出家■■落行訖」(『鎌倉大日記』)し、「木戸将監満範ヲハシメトシテ、廿一人、高矢倉ニ上リ、一同ニ自害シテ失セニケリ」(『鎌倉大草紙』)と伝わる。ただ、この防戦の最中に、持氏はなんとか佐介から脱出することに成功し「自其夜駿州へ御発向」した(『鎌倉大日記』)。
●応永24(1417)年10月「烟田幹胤目安状」(『烟田文書』)
●応永24(1417)年2月16日「足利持氏感状」(『烟田文書』)
鎌倉を落ちた持氏は、「安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)と、6日夕刻には小田原に到着したという。この最中、葛岡原の合戦で重傷を負った扇谷上杉弾正少弼氏定は藤沢まで持氏に供奉するが、力尽きて「藤沢道場ニ入テ自害」した。四十三歳という(『鎌倉大草紙』)。
上杉頼成―――+―長尾藤成―+―上杉顕定====上杉氏定――+―上杉持定===上杉定頼
(永嘉門院蔵人)| |(伊予守) +―(弾正少弼)|(治部少輔) (三郎)
| | | |
| | | +―女子
| | | ∥
| | | 今川範政
| | | (上総介)
| | |
| +―小山田頼顕―+―上杉定重――――上杉定頼
| (宮内大輔) |(修理亮) (三郎)
| |
| +―女子
| (惣持院)
| ∥ 【上総守護】
| ∥―――――――上杉氏憲
| ∥ (右衛門佐)
| 【上総守護】
| 上杉朝宗
| (修理亮)
| 【武蔵守護代】
+―長尾藤明―――長尾藤景――――長尾氏春
(兵庫助) (兵庫助)
ところが、「爰ニ土肥、土屋ノモノ共、元来禅秀一味ナレハ、小田原宿ヘ押寄、風上ヨリ火ヲカケ、攻入ケレハ、御所ト憲基ヲハ落シ奉リ、兵部大輔憲元父子并今川残留テ討死シテ、夜ノ間ニ箱根山ニ入ラセ玉フ」(『鎌倉大草紙』)といい、西湘中村党の土肥氏、土屋氏が持氏一党の宿する小田原宿を急襲し、持氏と管領憲基を落とすため、同道する上杉兵部大輔憲元父子が奮戦して討死を遂げている。その間に持氏らは箱根山まで逃れ、「於箱根山夜明ル間、翌日七日午剋計、箱根ヘ御著」(『鎌倉大日記』)して「箱根別当証実御供」し、彼を案内者として証実の出身である「駿河国大森カ舘」へ向かった(『鎌倉大草紙』)。この「大森カ館」がどこか不明だが、箱根越えのルートである鮎沢川沿いの大森氏領(駿東郡小山町)か。しかし、大森氏も小勢であり、持氏らを支えることは不可能であった。さらに禅秀の舅である甲斐武田信満入道の勢力も程近く、結局「駿河今川上総守ヲ御頼可然チ評定有テ、駿河ノ瀬名ヘ御通りアル、今川上総介範政ハ氏定聟ニテ御所ヘモ常ニ通ラル故ナリ」(『鎌倉大草紙』)という。
そして10月7日「同日入夜、三嶋へ御著、自三嶋忍天、召具箱根別当、於瀬名へ御通事」(『鎌倉大日記』)と見え、三嶋宿から箱根山別当証実が「瀬名(駿河国府中)」に駐屯する今川上総介範政のもとへ使者として遣わされたのであろう。
京都にはじめてこの新御堂殿満隆と禅秀入道の起こした大乱が報告されたのは10月13日であった。
10月13日、この「前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)の将軍義持への注進は、ちょうど「室町殿、因幡堂御参籠」のため、因幡堂に「諸大名馳参、有御評定」った。ここで「駿河ハ京都御管領之間、先駿河ヘ可入申之由、守護今川金吾被仰、関東へ先御使可被下云々、相国寺南西堂可下向」といい、駿河守護の今川範政にその対応を命じるとともに、相国寺南西堂の和尚を避難中の持氏への使者として遣わすことを決定する(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)。
続けて、10月15日夕刻に「自関東重飛脚到来」(『看聞日記』応永廿三年十月十六日条)している。この内容は「管領并武衛ニ注進」されたが、「室町殿北野経所ニ御座之間、管領、武衛等馳参令披露、則還御、以外御仰天、周章」させる内容であった(『看聞日記』応永廿三年十月十六日条)。その内容は「上杉金吾以大勢、去七日責寄之間、兵衛督持氏并管領以下廿五人腹切之由」(『看聞日記』応永廿三年十月十六日条)というものであった。この内容は醍醐寺報恩院僧正隆源(伊豆山密厳院につき別当尊運僧都と論じた人物)の記録にも、弟子の満済座主が将軍義持へ宛てた書状の内容として「鎌倉殿被切御腹之由」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十七日条)とあり、やはり「御所様、凡御仰天」であった。
「左兵衛督者、室町殿烏帽子子、別而御扶持之間、御欝憤無極」と、烏帽子子持氏が自刃を遂げたという報告に対する将軍義持の怒りはすさまじく、「関東京都敵対申歟之間、天下大乱之基、驚入者也」という(『看聞日記』応永廿三年十月十六日条)。この飛脚は「自駿河守護方注進」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)であり、守護今川範政からの一報であった。満済も「鎌倉殿於伊豆已御自害、当管領上杉房州同自害、委細重可言上」という報告を受け、「御所様御仰天無申計」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)と記している。義持は「御祈事、旁可有御沙汰、仍方々可申遣由、被仰出了」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)といい、すぐに護持僧から東寺、醍醐寺までも総動員して各々「五大尊護摩」の修法を命じ、その他寺院にも祈祷を指示するほどのかなり大掛かりな関東鎮定と持氏らの延命を念じている。
10月18日、満済は室町殿に参じると「又自駿河守護方注進到来、以前御自害事荒説、御内者共仮御名自害、其間御落、今当国駿河大森ニ御座云々、鎌倉殿ヨリ注進又同前、先珍重云々、上杉房州自害事、未分明云々、大略自害云々、実説追可注進」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十八日条)と伝えられた。
これを受けた満済は翌10月19日、師の醍醐寺隆源僧正へ書状をしたため「関東事、尚々驚入候、但鎌倉殿御自害事、荒説之由、昨夕重又注進到来、先珍重候、今度御祈事、御所様為御息災候、不動護摩御始行、目出候」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十九日条)と、昨18日夕方に室町殿で聞いた注進で持氏の無事が確認されたことに安堵する様子を伝えた。この当時持氏がどこにいたのかを記す史料は存在せ、信頼性に疑問のある『喜連川判鑑』に「管領憲基、佐竹左馬助義憲等、僅七八人ニテ駿州ノ国司今川上総介ヲ御頼ミ、瀬名ノ奥、安楽寺ニ落付玉フ」(『喜連川判鑑』)と見えるが、実際は守護今川範政の書状によれば、管領の姿はないことが確認でき、駿河国に到来以前に「憲基、義憲ハ越後ヘ赴」(『喜連川判鑑』)いていることがわかる。持氏が駿河大森に着いた日は、京都に今川範政からの飛脚が届いた10月18日夕刻(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)から考えると、10月23日頃となろうか。
10月20日には伏見の貞成王のもとにも飛脚の内容が伝えられ、「関東事、左兵衛督、腹切事虚説也、管領者腹切了、於武衞者無殊事、京都被憑申之由有注進云々、近日巷間無窮也」(『看聞日記』応永廿三年十月廿日条)という。10月29日、伏見宮貞成王のもとに「自関東昨夕又注進」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)の「左兵衛督、駿河国へ没落、国中ニ被座云々、京都御合力併被憑申之由」の報告が到来している。
将軍義持はこの報告を受けて「諸大名被召御評定」するが、「面々閉口不申意見」という重苦しいものだった。これを見た義持叔父の「小河大納言入道(足利満詮入道)」は、おもむろに「武衞者、為御烏帽子々、爭可被見放申哉、且又敵方、鎌倉既一統之上者、京都へ企謀叛事、難測者歟、其為も可被扶持申之條、可然歟」と具申する(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)。この意見に将軍義持や諸大名も得心し、すぐに「駿河守護今河、越後守護上杉、可合力申」の決定を下し、「先越後国へ可被越之由」を持氏に伝えるよう命じた(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)。
なお、20日の注進にあった「管領者腹切了」も誤伝であり、「去四日合戦、当方一色以下若干討死了、管領腹切事者、無其儀、行方不知没落云々、敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)といい、管領憲基は行方知れず、敵方満隆が鎌倉を手中にした報告が為されている。なお、京都への注進は、戦時ということもあって多分に真実ではない部分も報告されており、伏見宮は「近日風聞説、無窮也、記録無益歟」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)と嘆く。しかし、京都の人々の関心の高さがうかがえる。
このような関東への対応に追われている最中、10月30日に今度は将軍義持の弟で、従二位権大納言の「新御所」足利義嗣が突然逐電するという事件が起こった。醍醐寺理性院の宗観僧正房が30日、隆源僧正へ「潜通」した内容によれば「此暁、新御所御逐電之間、諸大名馳参御所、京都騒動以外、但御在所栂尾之梅佃辺云々、仍富樫、大館両人率軍勢、向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也云々、山科新少将已入道令共奉云々、新御所法衣等、自元御用意衣著之、已御落飾云々、種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)という。10月30日の義嗣の突然の逐電と関東騒乱時期が重なったため、人々はこれを関連付けて巷説となっていたことがうかがえるが、その後、京都で義嗣と関東との繋がりが議されたことはなく、義嗣と持氏の間に繋がりはない。後年のことになるが、伊勢国司北畠満雅が兵を挙げた際にも持氏との協調が巷間で噂されたが、近畿の騒擾と関東とを結びつける傾向があった。
11月3日、幕府は「宇都宮方ヘ御内書、今日渡遣、白久入道夜中門出、明暁可罷立由加下知了」(『満濟准后日記』応永廿三年十一月三日条)と、下野国の宇都宮持綱に御内書を発給。白久入道を使者として派遣している。「白久入道」は「宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)と同一人物と思われ、宇都宮持綱の使者として京都に来ていたとみられる。その四日後の11月7日には持氏から「飛脚到来、御合力之勢、急可下賜之由被申」(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)の連絡をうけており、義持は援軍に関する協議を行ったのだろう。
その後、御内書を受けた宇都宮持綱が発した「宇都宮御返書」が12月15日に満済から義持に披露されている(『満濟准后日記』応永廿三年十二月十五日条)。その二日後の12月17日、義持は管領細川満元をして「宇都宮、結城両人方へ御教書送給」した。この時の使者は「善右衛門入道」が務めた(『満濟准后日記』応永廿三年十一月十七日条)。宇都宮氏も結城氏も伝統的に将軍家との直接的な主従関係を持つ「京都御扶持之輩(関東進止の国に在住し、鎌倉に伺候して所役を負う将軍直臣個人のことで、鎌倉殿との主従関係はない。なお、関東牽制のために改めて任じられたものなどではない)」であり、京都と直接的なやり取りは常態であったろう。
とくに宇都宮氏は、北関東における奥州や越後への要衝を押さえる氏族として京都も重要視していたと考えられる。なお、宇都宮持綱の「持」は持氏の片諱を給わったとされるが、持綱が宇都宮家を継承した応永14(1407)年末頃は前代足利満兼が健在であったこと(持氏が継承したのは三年後)から、持綱の「持」は持氏ではなく将軍義持の片諱を拝領したものである。
大掾重幹
(権守)
∥――――――真壁氏幹
+―宇都宮貞綱――宇都宮公綱―――女子 (六郎)
|(下野守) (左馬権頭)
| ∥ +―一色義貫
| ∥ |(修理大夫)
| ∥ |
| ∥ 一色満範―+―女子
| ∥ (右京大夫) ∥
| ∥ ∥――――――宇都宮持綱
| ∥ ∥ (右馬頭)
| ∥ ∥ ∥
+―宇都宮泰宗――∥―宇都宮時景―宇都宮泰藤――宇都宮氏家――武茂綱家 ∥――――――宇都宮氏綱
(常陸介) ∥(美作守) (左近将監) ∥
∥ ∥
∥ +―赤松義則―――赤松満祐 ∥
∥ |(左京大夫) (左京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 赤松則祐―+―女子 ∥
∥ (律師) ∥――――――細川満元 ∥
∥ ∥ (右京大夫) ∥
∥ +―細川頼元 ∥
∥ |(右京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 細川頼春―+―女子 ∥
∥ (右京大夫) ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥―――――――宇都宮氏綱 ∥――――――宇都宮満綱――女子
∥ (下野守) ∥ (下野守)
∥ ∥ ∥
千葉宗胤―――女子 ∥――――――宇都宮基綱
(大隅守) ∥ (下野守)
∥
足利高経――+―女子
(尾張守) |
|
+―斯波義将―――斯波義重―――斯波義淳
(右衛門督) (右衛門督) (左兵衛督)
19日にも満済は将軍義持と「御雑談数剋、関東ヘ御教書事伺申了、可令談合管領由被仰下、仍罷向彼亭」(『満濟准后日記』応永廿三年十一月十九日条)と、関東へ遣わす御教書について管領細川満元と相談するよう命じている。
その頃、鎌倉は「敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永廿三年十月廿九日条)し、「新御堂殿并持仲、鎌倉ニ御座マス、関東ノ公方ト仰レ玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
このような中、持氏を庇護していた駿河守護今川範政は京都に鎌倉大乱を注進した。これを受けた義持はただちに禅秀一党ならびに満隆、持仲父子の追討の御教書を発給している。
応永23(1416)年12月11日には「関東武衛(持氏)」から「室町殿御旗」(『看聞日記』応永廿三年十二月十一日条)を求める使者が室町殿に到来する。義持はこれを受けて早速御旗の製作を命じ、「御旗之文字、行豊之、代々佳例云々、令精進潔斎書之」と、佳例に則り、世尊寺流を伝える世尊寺行豊の文字を以て御旗の文字をしたためている。その後完成した御旗は「奉行長澤」を以て関東へ遣わされた(『看聞日記』応永廿三年十二月十一日条)。
おそらくこの御旗が駿河国へ下された際に、「不日ニ禅秀一類并新御堂殿、持仲公可追討ノヨシ御教書」が今川範政に下されたとみられ、12月に「上総介、関東ノ諸家中ヘ廻状ヲ送ラルゝ」(『鎌倉大草紙』)という。この「廻状」は関東の持氏方の主要な武家に送られたのち、彼らを仲介して禅秀方の武家に伝えられたようである。禅秀方に属する白河小峰館の結城七郎満朝には「応永廿四年正月七日到来、自宇津宮館」とあるように、宇都宮持綱を介して届けられている(応永廿三年十二月廿五日「今川範政書状写」『結城古文書写』)。
また、持氏は個別に京都と連絡を取りながら駿河今川勢を後盾として鎌倉奪還を目指しており、12月23日に「先度為退治右衛門佐入道禅秀、昨日廿三、已所進発也」(応永廿三年十二月廿四日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)と、駿河国を出立して鎌倉を目指した。おそらく、この駿河出立の一報が翌応永24(1417)年正月10日夕刻に醍醐寺の満済に届けられた「自宇都宮注進」とみられ、翌11日に「披露御喜悦」という(『満濟准后日記』応永廿四年正月十一日条)。
この時点で「禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」(『鎌倉大草紙』)とあるように、禅秀入道は千葉介兼胤以下の諸将三百騎余りを駿河国に向けて進発させていたのだろう。持氏らは久能山の東、駿河国入江庄(清水区入江)で彼らと対峙してこれを破ったという。
なお、入江庄合戦は「十二月廿八日駿河国入江庄合戦」(『異本塔寺長帳』)とあるも、『異本塔寺長帳』には続けて「同廿九日相州相模川合戦」(『異本塔寺長帳』)という時系列的に不可能な日付が記されていたり、満隆を「刑部少輔満座」と記したり、正月10日の雪之下合戦を「翌正月二日」と記すなど誤記が多く、期日には信頼性を欠いており、「十八」と「廿八」の転記ミスがあった可能性はある。入江庄の合戦は「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍」という結果に終わり、禅秀勢は「筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」ったという(『鎌倉大草紙』)。もし入江庄合戦が12月18日であれば、その後の進軍との矛盾は発生しない。
駿河を出立して三島に到来した持氏は、箱根を越えるにあたり、南北(水呑峠、足柄峠)の二手に分けて攻略することにしたのだろう。持氏の大手勢は北周りの足柄峠を経由しており、持氏勢の先陣「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守」が「足柄ノ陣ヲ攻落シ」た(『鎌倉大草紙』)。
その後、持氏は12月中には「河村城」(足柄上郡山北町山北)に入り、常陸国鹿嶋一族ほかの人々が「河村城ヘ馳参」じている(応永廿四年十二月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。「足柄ノ陣ヲ攻落」した戦いは河村城をめぐる合戦で12月26~27日辺りであろう。
足柄河村城を越えた今川勢の先陣は、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した(『鎌倉大草紙』)。また、三島に布陣していた水呑峠越えの今川勢も、12月25~26日あたりで箱根山中の「水呑(三島市川原ケ谷)」に布陣した禅秀勢を破ったのだろう。「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。大手の足柄越えの今川勢本隊と「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った(『鎌倉大草紙』)。
持氏・今川勢は国府津前川を渡って西へ進み、12月29日に「相州相模河合戦」(『異本塔寺長帳』)となった。持氏・今川勢は禅秀勢を破ったとみられ、相模川を渡り「懐島御陣(茅ヶ崎市円蔵)」、「藤沢(藤沢市藤沢)、飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)、瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)之御合戦」と相模国から武蔵国を転戦している。その経路を見ると、懐島から藤沢を進軍するも、鎌倉に直接攻め入らずに鎌倉上道をいったん北上している。これは上杉憲基との合流を図ったためであろう。
さて、佐介合戦ののち持氏と別れて叔父の上杉民部大輔房方入道(当時京都在住)の守護国・越後国へ遁れた関東管領上杉憲基、佐竹右馬助義憲は、応永23(1416)年12月には「北国」の兵を加えて南下を始め、その途路、守護国の上野国、下野、武蔵国の兵を糾合して兵力を拡大させた。想像ではあるが、そのルートは、越後国から千曲川沿いに信濃国を南下し、碓氷峠を経て上野国西部から鎌倉街道へ向かったとみられる。そして、12月18日及び22日に禅秀与党勢とぶつかっている(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』)。この合戦の詳細は不明だが、『鎌倉大草紙』では「禅秀の聟岩松治部大夫、本名也とて新田に成かへり、館林辺へ討て出、国中過半したかへける、由良、横瀬、長尾但馬守、持氏の御方として、十二月十八日、岩松と合戦す」とあり、続けて「同月の廿二日、猶岩松多勢にて押寄せける、横瀬、長尾勝ほこりたる折からなれは、頓面押寄、不残追散しけり」と見え、憲基は上野国に勢力拡大を目論む岩松満純入道を駆逐すべく、守護として上野国人の由良氏、横瀬氏、被官の長尾但馬守を派遣して戦ったのだろう。
また、『鎌倉大草紙』によれば、足利満隆は養子の乙御所持仲を「大将」とし、禅秀入道の子「中務大輔憲顕、其弟伊与守憲方」を武蔵国に派遣したという(『鎌倉大草紙』)。しかし、禅秀嫡子の憲顕(憲秋)は病で出陣せず(仮病であった可能性が高い。憲顕は当初から挙兵には積極的に加わっておらず、この直後、京都へ逃亡する)、弟の伊予守憲方が持仲を奉じて「大将軍」となり、12月21日、武蔵国小机(横浜市港北区小机)に布陣した(『鎌倉大草紙』)。「武蔵国小机保長井次郎入道跡等」(応永廿三年十月五日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)とあるように、この鎌倉街道(下道)に近接する要衝は、上杉禅秀入道与党の長井次郎入道の所領であり(公的には持氏によって収公され長沼淡路入道へ充行われているが、当時は施行されるゆとりはなかったであろう)、常陸国や六浦にも繋がる禅秀方の重要な拠点であったのだろう。
しかし、持仲や伊予守憲方の小机への出兵は、越後国からの管領勢南下、12月18日の北関東合戦への対応とすると、常陸国や下総国へ通じる下道に兵を進出させるのは疑問である。ただし、下道沿いに所領を有する江戸・豊嶋勢は持氏方として入間川御陣へ兵を進めており、こちらへの対応を行った可能性もあろう。
『鎌倉大草紙』では、この直後に「江戸、豊島、二階堂下総守并南一揆并宍戸備前守兵共」が「入間川辺」に集結しているという報を受けた伊予守憲方が入間川へ向かうが、12月23日、「其道ニ於テ、十二月廿三日、世谷原ニテ合戦」となり、伊予守憲方勢は打ち負けて鎌倉へ向けて潰走、御所方の江戸氏、豊島氏らが猛追。大敗した憲方と持仲は25日夜にようやく鎌倉に帰還したとある(『鎌倉大草紙』)。
ただし、実際には「豊島三郎左衛門尉範泰」の軍忠状に、12月25日夜に「於武州入間河、二階堂下総入道仁令同心、御敵伊与守追落畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)とあるように、伊予守憲方は25日までに入間川へ進軍しており、それまでの間に憲方が打ち負けた事実はない。そして、12月25日夜の入間川合戦で、憲方は二階堂下総入道、豊嶋範泰、江戸氏らに大敗したのである。つまり『鎌倉大草紙』が記すような12月23日の瀬谷原合戦は史料上みられず、憲方が敗れて鎌倉に逃げ戻った事実もない。
『鎌倉大草紙』では、応永24(1417)年正月2日、「南一揆并江戸、豊島」を追捕するために「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀、武州世谷原ニ陣ヲ取」り(『鎌倉大草紙』)、「武州世谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)」の合戦で彼らを打ち破って「江戸、豊島、打負テ引退ケリ」と記す。この「瀬谷原合戦」は豊島範泰の軍忠状に見える「其以降、今年応永廿四年正月五日、於瀬谷原戦仁散々太刀打仕、被乗馬切、家人数輩被疵畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)の事であろう。おそらく入間川合戦で伊予守憲方が惨敗して鎌倉に逃げ戻ったことに危機感を強めた満隆及び禅秀入道が、正月2日、自ら兵を率いて鎌倉を出立して鎌倉街道を北上し瀬谷原に布陣。正月5日、鎌倉街道を下ってきた江戸・豊嶋勢を瀬谷原で打ち破ったのであろう。
この「瀬谷原合戦」で大敗した持氏方の江戸・豊嶋勢は、正月8日、「為大将御迎」に「馳参久米河御陣江、令供奉」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)とあり、管領上杉憲基勢との合流を図って久米川宿まで戻ったとみられる。一方、勝利した満隆・禅秀入道勢は「上方の討手、小田原迄責下り、味方打負るよし聞けれは、敵はまけても悦ひ、味方は次第に力を落」とあるように、江戸・豊嶋勢に勝利してもまったく士気は上がらず、正月9日にはその大半が持氏方となったという(『鎌倉大草紙』『鎌倉大日記』)。
関東管領憲基の関東に入ってからの動きは、正月2日には「庁鼻和(深谷市国済寺)」に入っており、「別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久」が率いた「北白旗一揆」が「去二日馳参庁鼻和御陣」している。北白旗一揆は上杉勢に加わって「同四日村岡御陣、同五日高坂御陣、同六日入間河御陣、同八日久米河御陣、同九日関戸御陣、同十日飯田御陣、同十一日鎌倉江令供奉」(応永廿四年正月「別符尾張入道代内村勝久着到状」『西敬寺所蔵別府文書』)と鎌倉をめざして攻め下っている。
そして、この上杉憲基勢は正月9日には関戸(多摩市関戸)まで南下し、満隆・禅秀入道率いる軍勢を破っており、関戸の敗兵と飯田原の敗兵が瀬谷原に遁れたのだろう。「石河五郎(石川幹国)」が「去正月九日、於武州瀬谷原合戦」で宍戸備前守持朝のもとで奮戦している(応永廿四年正月「石川基国着到写」『市川氏文書』:「茨城県史料」)。
また、持氏方「大将一色宮内太輔殿(一色直兼)」に属して駿河から東征してきた烟田遠江守幹胤(常陸鹿嶋党)も「懐島御陣、同藤沢、■飯田原、同瀬谷原之御合戦仁先懸」し、おそらく「瀬谷原之御合戦」で「武者一騎切落、欲取頸処、御敵落重間、被押隔不分捕間、為証拠取越刀お、既大将一色宮内太輔殿御検知之所也」という軍功を挙げていることから(応永廿四年二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)、管領憲基勢と持氏勢はこの瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)で合流し持氏と上杉憲基は再会したのだろう。
●足利持氏の駿河出立以降の足取り(ピンクは合戦)
日にち | 足利持氏他 駿河国→鎌倉 |
上杉憲基(管領) 越後国→鎌倉 |
鎌倉大草紙の記述 |
応永23年(1416) | |||
12月13日 | 長沼淡路入道、持氏の御教書に応じる旨を返信 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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12月18日 | 駿河の持氏のもとに長沼淡路入道からの文書が到着 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
上杉憲基、合戦 ※岩松満純との合戦か (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
「禅秀の聟岩松治部大夫、本名也とて新田に成かへり、館林辺へ討て出、国中過半したかへける、由良、横瀬、長尾但馬守、持氏の御方として、十二月十八日、岩松と合戦す」 |
12月19日 | 持氏、長沼淡路入道に早々に馳せ参じるよう、僧侶を派遣して指示する (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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12月21日 | 禅秀方、伊予守憲方を大将軍(持仲に供奉)として小机辺に布陣 江戸、豊島、二階堂下総守らが入間川に集まっているため、入間川へ発向 |
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12月22日 | 上杉憲基、合戦 ※岩松満純との合戦か (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
「同月の廿二日、猶岩松多勢にて押寄せける、横瀬、長尾勝ほこりたる折からなれは、頓面押寄、不残追散しけり」 | |
12月23日 | 持氏、駿河を出立 (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
入間川へ向かう「其道」で瀬谷原合戦となり、「伊予守打負、鎌倉サシテ引返ス」。それを「江戸、豊島、勝ニノリ追カケ」た。 | |
12月24日 | 持氏、長沼淡路入道に馳せ参じるよう公的に命じる (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
||
12月25日 | 今川範政、禅秀方につく関東諸将へ回文作成 (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
夜、豊島範泰、入間川で二階堂下総入道と同心して、上杉伊予守憲方を破る (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
「伊予守モ持仲モ、漸同廿五日夜ニ入、鎌倉ヘ帰リ玉フ」 |
12月28日? | 駿河国入江庄合戦 (『異本塔寺長帳』) |
禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」という。ここに「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍、筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」った。 | |
12月29日 | 相州相模河合戦 (『異本塔寺長帳』) 持氏、佐竹彦四郎入道(白石義治)へ参向を命じる (「足利持氏御教書」『白石家古書』:室1558) |
今川勢の先陣は「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守、足柄ノ陣ヲ攻落シ」て、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した。 さらに、今川勢は「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った。 |
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12月中 | 持氏、河村城へ入る 烟田幹胤、参陣する (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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12月中 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、常陸国所々で戦う (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
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応永24年(1417) | |||
正月1日 | 持氏、禅秀方の岩松左馬助入道(満純)の所領上総国周東郡大谷村を鶴岡八幡宮へ寄進する (「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』:室1565) |
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正月某日? | 宇都宮持綱、今川範政からの回文届く (禅秀方白河満朝への仲介) |
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正月2日 | 別府勢、庁鼻和御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀」が「世谷原」に陣を取り、「南一揆并江戸、豊島ト合戦」し、「江戸、豊島打負テ引退」する | |
正月4日 | 別府勢、村岡御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月5日 | 別府勢、高坂御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、瀬谷原合戦で軍功 ※但し、敗戦とみられる。 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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正月6日 | 別府勢、入間河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月7日 | 白河満朝、宇都宮持綱からの今川回文届く (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
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正月8日 | 【上杉憲基と一揆勢合流】 別府勢、久米河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、大将憲基を迎えるため久米河に参陣 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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正月8日までの間 | 烟田幹胤、懐島御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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烟田幹胤、藤沢御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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烟田幹胤、飯田原御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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正月9日 (合流) |
一色直兼が持氏方の主将 烟田幹胤、瀬谷原合戦に先駆 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、瀬谷原合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、関戸御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して瀬谷原合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) 信田藤九郎、瀬谷原合戦で軍功 (「足利持氏御教書」『水府志料』十三:室1604) |
「九日、上杉安房守、北国勢、上野、下野、武蔵、相模ノ軍勢ヲ引率シ、相模川東ノ岸ニ押寄テ、川ヲ亘リ、責戦、上方勢、今川勢、勝ニ乗テ進戦、禅秀、敵ヲ前後ニ請テ、大ニ敗北シ、味方大方心替リシテ、敵ニ加ハリシカハ、持仲、満隆、禅秀、不叶、其夜、カマクラヘ没落ナサレ」た。 |
正月10日 | 烟田幹胤、雪下合戦に軍功 (「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、雪下合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、飯田御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して鎌倉雪下合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) |
「十日、禅秀ノ子息宝性院快尊法印ノ雪下御坊ニ籠リ、満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊豆守憲重、弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫介氏春ヲ初トシテ、悉自害シテ失ニケリ」と、禅秀らの自害を伝える。 ただし、「嫡子憲顕ハ如何シテノカレタリケン、此戦ヨリ前ニイタハルコトアリテカタハラニ引籠ヲハシケルカ、ヒソカニ京ヘ逃ノホラレ」ている。 この日、「今川勢、江戸、豊嶋両方ヨリ鎌倉ヘ乱入」した。 |
正月11日 | 別府勢、鎌倉に供奉参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月17日 | 持氏、「同十七日、鎌倉ヘ還御ナリ、浄智寺ニ入ラセ玉フ、其後、江戸、豊嶌ヲハシメ、忠節ノ人々、禅秀一類ノ没収ノ地ウィワケ玉フ、大森ニハ土肥、土屋カ跡ヲ玉マハリ、小田原ニ移リ、箱根別当ハ僧正ニ申ササル」 また、今川範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ、御所未出来サレハ、同三月廿四日、梶原美作守屋形ヘ入御成リ、卯月廿八日、大蔵ノ御所ヘ還御ナリ」という。 |
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正月20日 | 憲基、武蔵国多西郡土淵郷を立河駿河入道へ環補 (「上杉憲基施行状写」『立川氏文書』:室1570) |
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正月22日 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、鎌倉に参着 (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
瀬谷原合戦で潰走した鎌倉勢には、鎌倉諸口の守りも固める兵力もなかったのだろう。鎌倉になだれ込んだ御所方勢は、鶴岡八幡宮雪ノ下御坊に籠もる満隆・禅秀入道を捕らえるべく、雪ノ下で禅秀与党と激しい合戦に及んだ(雪ノ下合戦)。烟田幹胤も「至于鎌倉雪下御合戦、励無二之戦功、令供奉段他于異」(応永廿四年十二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)と述べるほどの戦いを見せた。長沼淡路入道が持氏麾下に遣わしていたとみられる一門長沼安芸守も飯田原合戦や雪ノ下合戦での軍功がみられる(応永廿六年六月三日「足利持氏御教書」『長沼文書』)。
鶴岡八幡宮 |
ただ、この雪ノ下合戦は御所方優勢だったものの、鎌倉方の抵抗も激しく、「上田叡仲叡信兄弟応永廿四鎌倉合戦打死」(『本土寺大過去帳』六日上)といった御所方の戦死者も見える。彼らは前年の六本松合戦で討死した扇谷上杉家被官「上田上野介」(『鎌倉大草紙』)と同族とすれば、扇谷上杉持定に従っていた人物であろう。
このほか、宍戸備前守持朝のもとで「石河五郎(石川幹国)」も奮戦している(応永廿四年正月「石川基国着到写」『市川氏文書』:「茨城県史料」)。これらの勲功により幹国は左近将監に吹挙されたと思われ、3月20日の「去正月九日、於武州瀬谷原合戦」を戦功を賞する持氏御教書では「石川左近将監」となっている。
この雪ノ下合戦の行われた正月10日には、管領上杉勢は飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)に布陣しており、おそらく持氏もこの管領陣中にあったのだろう。
余談になるが、「石河左近将監」の出身である常陸石川氏(常陸平氏)はかつては禅秀父の上総守護上杉朝宗(禅助)の被官であり、永和2(1376)年当時には「石河左近将監」曾祖父の「石河左近将監(石川満幹)」が上総国守護代として派遣されていた(永和二年十一月四日「上杉朝宗遵行状」『円覚寺文書』神:4770)。石川満幹は至徳2(1385)年2月29日においても「円覚寺山門方丈要脚上総国棟別銭壱疋」の施行を行うよう指示を受けており(至徳二年二月廿九日「上杉朝宗遵行状」『円覚寺文書』)、当時も在職であった。また、応永8(1402)年2月7日、石川満幹入道祐昌は宍戸持朝の祖父である宍戸基家入道希宗から「常陸国吉田郡平戸郷内嶋田村」の「合直銭参拾五貫五百文」の売却を受けている(応永八年二月七日「沙弥希宗売券写」『石川文書』)ように宍戸氏とも接点を有している。この「平戸郷并嶋田村内知行分」は応永25(1418)年3月8日、基家入道孫「任宍戸備前守持朝申請之旨」せて、満幹入道曽孫「石河左近将監殿(石川幹国)」に「領掌不可有相違」ことが持氏御教書により認められている(応永廿五年三月八日「足利持氏御教書写」『石川氏文書』:「茨城県史料」)。
石川満幹――石川俊幹――石川久幹――石川幹国
(左近将監)(五郎) (越前守) (左近将監)
禅秀入道等は鶴岡八幡宮周辺の「雪ノ下」に兵を集結させて抗戦する一方で、別当の大納言法印宝性院快尊(禅秀子息、久我前大将通宣猶子)の雪ノ下御坊に籠もり、「満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊予守憲方、其弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫助氏春を初めして、悉自害して失にけり」(『鎌倉大草紙』)という。ただし、別当快尊は同所自刃ではなく「於小袋坂同滅亡年廿五」(『鶴岡八幡宮社務職次第』)とあり、別当坊から山内方面へ遁れようと小袋坂を登ったところで討たれている。別当兼帯の「鑁阿寺、(樺崎)赤御堂、上総八幡」などへの避難を計画していた可能性もあろう。また「嫡子憲顕は如何にしてのかれたりけむ、此戦より前にいたわる事ありて、かたわらに引籠おわしけるか、ひそかに京へにけ上らるゝ」(『鎌倉大草紙』)という。「於雪下社務坊内御自害、討死侍五十七人也、御子男女四十二人」(『上杉本上杉系図』)と伝わる。自刃した武蔵守護代の「兵庫助氏春」はおそらく禅秀母(上杉修理亮定重妹)の遠縁にあたることから、禅秀に付き従っていたのだろう。このほか、「蘆名五郎盛仲、津久井太郎、杦本三郎以下」も自害したという(『異本塔寺長帳』)。
上杉頼成―――+―長尾藤成―+―上杉顕定====上杉氏定――+―上杉持定===上杉定頼
(永嘉門院蔵人)| |(伊予守) +―(弾正少弼)|(治部少輔) (三郎)
| | | |
| | | +―女子
| | | ∥
| | | 今川範政
| | | (上総介)
| | |
| +―小山田頼顕―+―上杉定重――――上杉定頼
| (宮内大輔) |(修理亮) (三郎)
| |
| +―女子
| (惣持院)
| ∥ 【上総守護】
| ∥―――――――上杉氏憲
| ∥ (右衛門佐)
| ∥
| 【上総守護】
| 上杉朝宗
| (修理亮)
| 【武蔵守護代】
+―長尾藤明―――長尾藤景――――長尾氏春
(兵庫助) (兵庫助)
この禅秀の乱は「鎌倉上杉右衛門佐入道禅秀謀叛合戦、自十六至正十、死者三千余人」(『武家年代記』)という鎌倉府設置以来の「大乱」となった。禅秀一党の自害を受けた持氏は、まず京都へ使者を飛ばしたとみられ、正月20日に「関東注進珍重■■申入了」(『満濟准后日記』応永廿四年正月廿日条)と、持氏からの報告を受けていることがわかる。
翌正月11日には「鶴岡八幡宮社頭事、厳密可致警固」を「当社神主(大伴時連)」に指示し、いきり立つ軍勢の狼藉を未然に防ぐための措置を取らせている(応永廿四年正月十一日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。さらに正月13日には禅秀与党の「凶徒退治祈祷事」を行うよう同じく神主大伴山城守に命じている(応永廿四年正月十三日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。血気盛んな二十歳の若公方持氏が、叔父満隆や前管領禅秀入道から受けた屈辱は強い怨恨となって、徹底した叛乱与党撃滅を進めていくことになる。
今川勢と江戸・豊嶋氏は東西から鎌倉に攻め入るが、禅秀勢はすでに壊走した跡であり、正月17日、持氏は鎌倉手前の山内の浄智寺へ居を定めた。鎌倉に入らなかったのは、残党への警戒とともに滞在する場所がなかった(御所は禅秀入道勢が持氏捕縛に動いて乱入した際に破壊されたのだろう)ためか。新たな御所は以前の浄妙寺付近ではなく、右大将家の大倉御所跡付近に梶原美作入道を奉行に造営されている。
応永24(1417)年2月9日、義持は「関東ヘ御使柏堂■■園寺前■■■御内書方■■■」(『満濟准后日記』応永廿四年二月九日条)と、相国寺の柏堂梵意を使者として派遣した。
2月11日には禅秀一党をも含めた「今度於関東自害輩為追善、自御所■■■■珍重々々、殊勝々々、予依仰丁聞」(『満濟准后日記』応永廿四年二月十一日条)という追善供養が義持の意向で執り行われることが決定し、満済は大いに賛成している。
そして二日後の2月11日、禅秀の乱鎮定から一か月後、将軍義持は御所において「今度於関東自害輩為追善」に「大施餓鬼千僧供在之」(応永廿四年二月十一日『満済准后日記』)を執り行った。昨晩からの雨は激しさを増し、雷鳴轟く中での追善法要となった。
管領上杉憲基もまた同年3月3日、禅秀与党の坂本犬菊丸から召し上げた「常陸国信太庄内久野郷」を円覚寺正続院に寄進している(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』神:5514)。これは越後国から鎌倉に至る道筋で憲基自身が加わった「自去年十月三日、同六日、同十二月十八日、同廿二日至于去正月五日、同九日、同十日」の各合戦での「御方并御敵等打死為菩提」に寄進するというものであった。信太庄の武士としては信田藤九郎が正月9日に「瀬谷原」の戦いに加わっており、宍戸備前守持朝の手に属し、石川幹国らとともに戦ったと思われる。この寄進は持氏の沙汰ではなく憲基個人によるものであり、敵味方を問わずにその菩提を弔うという姿勢であった。
●上杉禅秀方の収公所領
旧地頭 | 所領 | 新補 | 典拠 |
木戸駿河守 | 下野国長沼庄大曾郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
武田下條八郎 | 下野国長沼庄堺郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
坂本犬菊丸 | 常陸国信太庄内久野郷 | 寄進(円覚寺正続院) | 応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
上杉禅秀入道 | 常陸国北条郡宿郷 | 寄進(鶴岡八幡宮) | 応永24年閏5月2日「足利持氏寄進状」 (『鶴岡八幡宮文書』)神5522 |
二階堂右京亮 | 上総国千町庄大上郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5528 |
明石左近将監 | 武蔵国比企郡大豆戸郷 | 寄進(三島社) | 応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
皆吉伯耆守 | 上総国天羽郡内萩生作海郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年10月17日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5544 |
混布嶋下総入道 | 下野国長沼庄内混布嶋郷 下野国長沼庄内泉郷半分 下野国長沼庄内青田郷半分 |
長沼淡路入道 | 応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
このように、将軍義持や上杉憲基は一連の鎌倉合戦による死者の菩提を弔ったが、持氏は禅秀方についた人々を許さなかった。応永24(1417)年2月、彼らの追捕と関東の復光を願文として足柄郡の浄瑠璃山真福寺に収めている(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)。持氏は「苟持氏指麾同志之輩、欲誅無道之臣」し「早施逆徒滅亡之戦功」して、薬師如来からの「恵光鎮照、関東純熈」(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)を願った。持氏を動かす原動力は、常に「関東」の安寧を祈り、そのためには衆生の苦しみを生じさせる逆徒を討伐するという「強い信念」だったのである。
●応永24(1417)年2月「足利持氏願文案写」(『後鑑所収相州文書』神:5513)
持氏の禅秀与党追討戦は、持氏が願文を収めた応永24(1417)年2月にはすでに開始されており、各地に兵が派遣されている。
2月27日には、関東管領「前安房守」に対して、持氏が佐介で記した長沼淡路入道へ禅秀与党の所領を宛行う御下文(10月5日筆)に基づき、守護の「結城弾正少弼入道殿」に沙汰するよう指示しており、憲基は施行状を結城基光入道に下している(応永廿四年二月廿七日「上杉憲基施行状」『長沼文書』)。
下野国長沼庄内上杉右衛門佐入道跡、同国大曾郷木戸駿河守跡、同国武田下條八郎等事、
早任去年十月五日御下文之旨、可被沙汰付下地於長沼淡路入道代之状、依仰執達如件
応永廿四年二月廿七日 前安房守(花押)
結城弾正少弼入道殿
これに基づき、4月4日、基光入道は遵行状を守護代「水谷出羽入道殿(水谷聖棟入道)」へ遣わし、「長沼淡路入道代」へ下地を沙汰付けるよう命じた(応永廿四年四月四日「結城禅基遵行状」『文化庁所蔵皆川家文書』:室1611)。これを受けた「沙弥聖棟(水谷出羽入道)」が4月14日に長沼淡路入道代に打渡している(応永廿四年四月十四日「結城禅基遵行状」『文化庁所蔵皆川家文書』:室1613)。
下野国長沼庄内上杉右衛門佐入道跡并大曾郷、堺郷等事
早任去年十月五日御下文、去二月廿七日御施行之旨、可(被)沙汰付下地於長沼淡路入道代(之)状、如件
応永廿四年四月四日 禅貴(花押)
水谷出羽入道殿
3月15日頃、持氏は被官「野田(熱田大宮司家の一族野田満範か)」を使者として上洛させている。2月の御使派遣の返礼とみられる。野田は3月22日に「関東使節野田被召■桟敷、眉目々々」(『満濟准后日記』応永廿四年三月廿ニ日条)とあることから、将軍義持に謁したことがわかる。
このころ持氏は大倉の地に御所の再建を行っており、3月24日、持氏は滞在していた山内浄智寺から鎌倉に入り、「御所、評定傾廃ヲ修理」(『喜連川判鑑』)の奉行「梶原美作入道宿所」に居を移したのち(『鎌倉大日記』)、4月28日に大倉御所へ移徙した(この公方御所は大倉に営まれており、浄妙寺付近の歴代御所は破却されたのだろう)。
持氏の新御所移徙は京都へ報告(管領憲基を通じたもので、後述の管領職の上表も副えられたのだろう)されているが、京勢大将軍の今川範政も使者を遣わしたとみられ、将軍義持は閏5月7日、「今川上総介殿(今川範政)」に「関東事、早速落居目出度候」と、持氏の新御所移徙を賀するとともに、範政には「今度忠節異于他候」と関東鎮定の勲功を賞し「所充行富士下方」している(応永廿四年閏五月七日「足利義持御内書案写」『今川家古文書写』)。なお、範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ」(『鎌倉大草紙』)というが、傍証はない。
御所移徙の当日、憲基は関東管領職を上表しており(『鎌倉大日記』)、持氏の新御所移徙の報告を兼ねたものと思われる。憲基の管領職辞任の要望は重病のためと思われるが、持氏が無事に鎌倉に帰還し新御所へ移ったことで、名実ともに鎌倉殿に復帰したことへの安堵もあったのだろう。憲基は鎌倉を発って三島へ移っているが、三島大社へ平癒祈願のためか。憲基の管領上表と伊豆下向は5月4日には満済の耳にも入り「上椙房州、下向伊豆由注進、為管領上意」(『満済准后日記』応永廿四年五月四日条)と日記に記している。
憲基の三島下向は当然ながら持氏の許可を得たものであろうが、その後、持氏は憲基の鎌倉帰還を望み、幾たびも三島へ使者が飛んだようである。結局憲基は「ヤフゝゝニ被仰下ケレハ、五月廿四日、鎌倉ニ返参リ、六月晦日、又管領ニ成リ玉フコソ目出タケル」(『鎌倉大草紙』)と見える。史料価値の低い『鎌倉大草紙』の記述ながら『鎌倉大日記』にも憲基は「潤五ゝ廿四ゝ帰参、六ゝ晦ゝ管領職再任」(生田本『鎌倉大日記』)とあることから、同じ史料が用いられた可能性が高く、事実に即していると考えられよう。ただし、実際には5月24日ではなく閏5月24日に鎌倉に帰還したとみられ、『鎌倉大草紙』の信頼性の低さが露呈する。
憲基が鎌倉に帰還した翌日の閏5月25日、持氏は「安房前司殿(憲基)」に「上野伊豆両国闕所分事、任先例、領掌不可有相違」とする安堵状を発給している(応永廿四年閏五月廿五日「足利持氏所領安堵状(『上杉文書』神:5530)。山内上杉家の家職ともいえる上野守護、伊豆守護についても憲基の急な引退により混乱が生じたのだろうか。持氏は憲基の帰還直後に両国闕所の安堵を行った上、京都にその旨を報告したのだろう。これを受けた将軍義持は、7月4日付で憲基に「上野、伊豆両国闕所分事、上杉安房守憲基可令領掌」の袖判御教書を下した(応永廿四年七月四日「足利義持袖判御教書」『上杉家文書』)。関東管領職も関東帰還後の約一月後の6月末に京都から再任されたとみられる(生田本『鎌倉大日記』)。8月22日、持氏は憲基へ「被官輩知行分帯文書致訴訟所々除之事、任申請之旨、所充行也、此上者、就今度之過失、不可有他人競望」(応永廿四年八月廿二日「足利持氏御教書」『上杉家文書』)の御教書を遣わすなど、憲基に対して手厚い行賞を行っている。
そして9月22日、持氏は鶴岡八幡宮に「天下静謐祈祷」を命じ(応永廿四年九月廿二日「足利持氏御教書写」徳川林政史研究所蔵『古案』一四:室1675)、10月14日には三島社に「為天下安全、武運長久」を願い「武蔵国比企郡大豆戸郷明石左近将監跡」を寄進(応永廿四年十月十四日「足利持氏寄進状」『三島社文書』室:1678)した。静謐を望む持氏の気持ちが現れている。
また、11月25日には、千葉介兼胤が安房国の足利家祈願所の龍興寺(鴨川市大幡)に関東公方先考状に基づく知行証明の書下状を発給し(応永廿四年十一月廿五日「千葉介兼胤書下写」『諸家文書纂』)、同年12月24日に兼胤被官の「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」が奉行人として「安房国長狭郡柴原子郷上村皆蔵御社造営料田壱町」の知行の証を執達している(応永廿四年十二月廿四日「守護奉行人奉書」『諸家文書纂』)。なお、兼胤は『鎌倉大草紙』では禅秀方について降伏したとされているが、後述のように大いに疑問がある。
こうした中で、翌応永25(1418)年正月4日、関東管領上杉憲基が病死した(『喜連川判鑑』『浅羽本上杉系図』)。道号は無悔。法名は海印。二十七歳(三十七歳、三十四歳とも)。三島から帰還してわずか七か月、関東管領復帰から半年足らずという急なもので、以前より病状はかなり重篤だったのだろう。憲基の死を聞くと「持氏大になげき給ひ、自法華経を転読し南無幽霊頓証仏果と回向し給ふそ忝き、さこそ九泉の苔の下にても懇に是をうけて歓喜の眉をや拓きぬらんと近習の人々、随喜の泪を流されけり」(『鎌倉管領九代記』)と伝わる。
憲基の後継については、『鎌倉大草紙』では「応永廿六年十一月六日、上杉安房守憲基、病ニ依テ管領ヲ辞シ、子息次郎憲実当職ヲ承リ、安房守ニ任ス」(『鎌倉大草紙』)とあるが、これは根拠となるなんらかの原本(『喜連川判鑑』も参照したであろう)を『鎌倉大草紙』が誤記(または煩雑を避けるための創作)したものであろう。憲基の死後は「関東管領房州禅門去正月五日入寂、猶子上杉戸部禅門息十歳云々、仍管領之未分明候歟」(三月廿七日「足利義持御教書案」『醍醐寺文書ニ〇函』:室1714)とあるように、憲基養嗣子の憲実が幼少であったためか、その後一年程関東管領の補任はなく、関東管領に付随する武蔵国守護職も置かれなかった。
憲基が房方の子憲実を養嗣子としていたのは、至徳3(1386)年7月1日の上杉憲方入道道合から嫡子憲定入道長基への置文に見える「所帯所職事、所譲与也、若無子孫者、房方可知行之」(至徳三年七月一日「上杉憲方証状」『出羽上杉文書』南北4312)という文言によるものか。
常陸国 (佐竹氏) |
上野国 (岩松氏) |
甲斐国 (武田氏) |
下野国 (禅秀与党) |
上総国 (上総本一揆) |
武蔵国 (新田・岩松氏) (恩田氏) |
応永24(1417)年2月初旬、「石河左近将監(石川幹国)」ら常陸国内の地頭が鎌倉から常陸国へ派遣されており、2月7日に「常州稲木城(常陸太田市天神林町)」を攻めている(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)。「石河左近将監」は正月10日に宍戸備前守持朝のもと鎌倉雪ノ下を奮戦しており、それから一か月も経たないうちに常陸国に出征していることになる。なお、宍戸持朝は水戸の吉田社別当御房(吉田山薬王院)に、持氏が「臨時御祈祷御巻数一枝、入見参候訖」(応永廿四年二月十九日「足利持氏御教書案」『吉田薬王院文書』)ことを「鎌倉より御返事」(応永廿四年二月十九日「足利持氏御教書案」『吉田薬王院文書』)していることから、常陸国では彼らを指揮していない。
3月末ごろまでには、陸奥国岩城の「岩城飯野式部大輔入道光清」ら「岩城、岩崎」氏も「佐竹凶徒可令退治旨」の「御教書」が下されており(応永廿四年四月廿六日「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614)、岩城・岩崎の「両郡一族等」は4月10日に陸奥国を出立すると、15日に「依苽連参陣」し、瓜連城(那珂市瓜連)に籠る「長倉常陸介(佐竹義景)」を降伏させた。さらに「小野崎安芸」らとともに久慈川を北上して「与類山県三河入道城」(常陸大宮市山方)を攻め「廿四日、致抜骨責」て「家子家人数輩被疵候」している(応永廿四年四月廿六日「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614)。同24日には石川左近将監らが「四月廿四日、於常州稲木城、致戦功之条」(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)とあり、それぞれ連携した追討戦であったのだろう。
佐竹長義――佐竹義胤 海上胤泰―――+―海上師胤――――――海上公胤―――海上憲胤
(次郎) (常陸介)(孫六左衛門尉)|(筑後守) (八郎) (筑後守)
∥ |
∥ | 上杉氏憲―――女子
∥ | (禅秀入道) ∥――――――那須氏資
∥ | ∥ (大膳大夫)
∥ | +―那須資氏―――那須資之
∥ | |(刑部大輔) (越後守)
∥ | |
∥ | 那須資世―+―女子
∥ | (越後守) ∥
∥ | ∥――――――女子 結城光久
∥ | 江戸氏 (芳林) (七郎)
∥ | ∥ ∥
∥ | 河越氏 ∥――――――女子 ∥
∥ | ∥――――――佐竹義盛 (甚山妙香)+―女子
∥ | ∥ (左馬頭) ∥ |
∥ +―女子 小田知貞―――女子 ∥ ∥ |
∥ ∥ (四郎左衛門尉)∥――――――佐竹義宣 ∥――――+―佐竹義俊
∥ ∥ ∥ (左馬助) ∥ |(右京大夫)
∥ ∥ ∥ ∥ |
∥――――佐竹行義 ∥―――――――――佐竹義篤 +―上杉憲定―+―佐竹義人 +―上杉実定
∥ (左衛門尉) ∥ (左馬頭) |(安房守) |(左衛門尉)|(常陸介)
∥ ∥ ∥ ∥ | | |
∥ ∥ ∥ ∥――――――小場義躬 | +―上杉憲基 +―戸村義倭
∥ ∥ ∥ 浜名氏 (大炊助) | (安房守) (常陸介)
∥ ∥ ∥ 〔京方〕 |
岩崎氏―――女子 ∥――――――+―佐竹貞義 +―上杉房方―――上杉憲実―――上杉憲忠
∥ |(上総介) (民部大輔) (安房守) (右京亮)
∥ | ∥ ∥
二階堂頼綱――――――女子 | ∥ 上杉朝定―+=上杉顕定===上杉氏定―+―上杉持定 ∥
(下総守) | ∥ (弾正少弼)|(式部丞) (弾正少弼)|(修理大夫) ∥
| ∥ | | ∥
| ∥ | +―上杉持朝―+――――――――女子
| ∥ | |(修理大夫)|
| ∥ | | |
| ∥ +―上杉朝顕―――女子 +―女子 +―上杉顕房―+―上杉政真
| ∥ (中務大輔) ∥ ∥ |(修理大夫)|(修理大夫)
| ∥ ∥ ∥ | |
| ∥ ∥――――――今川範政 | +―女子
| ∥ ∥ (上総介) | ∥
| ∥ 今川泰範 | 千葉胤賢―――千葉実胤
| ∥ (民部大輔) |(中務大輔) (千葉介)
| ∥ |
| ∥ +―上杉定正
| ∥ |(修理大夫)
| ∥ |
| ∥―――――――――佐竹師義―――佐竹与義―+―佐竹義郷 +―三浦高救―――三浦義同
| 二階堂氏 (刑部大輔) (上総介) |(掃部助) (修理亮) (陸奥守)
| |
+―長倉義綱――――――長倉義利―――長倉義景 +―佐竹祐義
(三郎) (常陸介) (刑部大輔)
ところが、佐竹上総介入道(与義)の本貫である山入付近(常陸太田市国安町)では合戦が行われておらず、鎌倉にいたであろう与義入道自身をも攻めていないのである。実は与義入道が禅秀の乱に参戦していたと記すものは、信頼性が著しく低い『鎌倉大草紙』のみで、与義入道自身は禅秀入道の叛乱には直接関与していなかった可能性があろう。
なお、上杉家から惣領家に龍保丸(佐竹義憲のち義人)を入嗣させることに反対する立場を示し、「佐竹親叔老臣等入稲木城為備、且拠永倉城族之」(『色川本佐竹系図』)したことについては、傍証となる史料がなく、この伝は禅秀の乱の稲木城・長倉城攻めが仮託されたものである可能性がある。
ただ、与義入道はもともと京都と深い繋がりがあったことは確実で、彼の官途「上総介」は佐竹家惣領家が拝領していた官途であった。彼は佐竹庶家だったものの、父の刑部大輔師義は足利尊氏近侍であり、康永4(1345)年8月16日には「天龍寺造営功」(「光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』)として「刑部丞」に任官し(康永四年八月十七日任官除目)、8月29日の天龍寺落慶供養にも「佐竹刑部丞」(『結城文書』天龍寺供養日記:『大日本史料』所収)として随兵中に名が見える(天龍寺落慶供養参列者)。このように師義は京都将軍家と直接的な主従関係が成立しており、これは子の与義にも受け継がれた「家格」だったのではあるまいか。つまり、与義入道は「有京都御扶持」(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』)、「京都御扶持之輩」(『兼宣公記』応永卅年八月十七日条)となる家であって、佐竹惣領家とは別立の佐竹家(持氏には「庶子」と卑下されるが)だったのではなかろうか。
応永25(1418)年10月10日に将軍義持が持氏の書状に対する返書に「常陸守護佐竹上総〔以下闕〕」(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)とみえるように、佐竹与義入道は将軍義持に常陸守護の補任を求めていたとみられる。後述の通り、「関東進止」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)の国に関する守護吹挙権は鎌倉公方が有しており、将軍義持から持氏へ「御吹挙」が行われ、持氏が追認して吹挙状を京都に提出することではじめて将軍が守護補任の御内書を発給することができた。
将軍義持は佐竹与義入道の常陸守護要望と宇都宮持綱の上総守護職要望への持氏に対する吹挙要請を同時に進めているが、持綱の上総守護要望には「禅秀の乱」で禅秀方を牽制した功によってか、持氏は追認している。
一方、常陸守護職は応永14(1407)年9月、前守護義盛が亡くなったのち、惣領権を巡ってか禅秀縁者の佐竹与義入道と持氏派の佐竹義憲(前管領憲基弟)と対立していたことから、与義入道については補任吹挙の撤回を義持に求めたと思われる。しかし、義持はこれを拒否し(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)、一方で持氏も追認しないことから、与義入道の常陸守護問題は膠着状態となった。応永28(1421)年4月28日の時点でも「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候、無心元候、所詮早速被仰付候者、可為本意候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)とあるように、持氏は将軍義持からの佐竹与義入道を常陸守護に追認する「度々申入」を無視し続けていたのである。
京都からの守護補任の問題は、持氏が追い求めた関東安穏の理想のもと、京都重視の考えを持つ人物の公認守護は避けたい考えのもとで起こったのではなかろうか。
国 | 守護 | 守護要求 |
上野国 | 上杉憲基 | |
下野国 | 結城基光入道 | |
武蔵国 | 上杉憲基(関東管領) | |
常陸国 | 佐竹義憲 | 佐竹与義入道 |
相模国 | 一色持家 | |
伊豆国 | 上杉憲基 | |
下総国 | 千葉介兼胤 | |
上総国 | 闕 | 宇都宮持綱 |
安房国 | 闕 | |
甲斐国 | 武田信基入道 |
上杉氏が伝統的に守護となる上野国、伊豆国、関東管領付随の武蔵国など守護となる家が固定された国以外の、常陸国、下野国、上総国、安房国、相模国、甲斐国における守護は持氏と繋がる人物が吹挙されたとみられ、常陸国の佐竹右馬助義憲、下野国の結城弾正少弼入道、相模国の一色刑部少輔持家がそれぞれみられる。
上総国については伝統的守護だった犬懸上杉家が滅んだことをきっかけに御料国化を目論んだのか守護の吹挙をせず、上総本一揆などの叛乱に際しても一色氏や木戸氏ら側近を大将軍に任じて対処している。宇都宮持綱が守護職を要求したときに拒絶し続けたのは、持綱が京都との強い繋がりを持つ人物であったことが理由であろう(伝統的に宇都宮氏と京都はつながりが深かった)。また、安房国についても持氏代には一時を除いて守護が置かれた可能性は低く、こうした持氏の関東に対する考え方の特殊性が関東の「京都御扶持之者」との対立を深める要因であったのかもしれない。
常陸国には佐竹両家の守護補任問題のほかにも問題があり、稲木城合戦の翌年、応永25(1418)年5月初頭には、鎌倉において「桃井左馬権頭入道并小栗常陸孫次郎等」(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)の陰謀が発覚した。
小栗氏は義詮、基氏、満兼から代々片諱を給わる程の家だったようだが、持氏に対して何らかの強い不満があったのだろう。彼らが禅秀与党だった証拠は存在しないが、江戸期の史料『常陸誌料』によれば、小栗満重は禅秀の乱後に降伏したものの「足利持氏罰之、多削其地、満重怨之、意不自安」という憤怒のもとで「在鎌倉、遂与一色左馬権頭共復謀叛」したという(『常陸誌料』)。また、『源氏諸流系図』に見える桃井宣義は「引付頭人」とあることから、鎌倉の最重鎮が離反したことになる。
この「謀叛」は「上総本一揆」の挙兵と時期が重なっていることから、一色左近大夫将監の出征が5月9日から5月28日に延引された原因はこの「謀叛」だったのだろう。持氏の御教書では桃井左馬権頭入道が先に記されていることから、桃井宣義入道が小栗満重を取り込んだ陰謀であった可能性が高い。
●小栗系図(『続群書類従』)
小栗重政―+―小栗重貞―――小栗詮重――小栗氏重――小栗基重―+―小栗重弘――小栗重久―――小栗真重――――小栗重昌
(遠江守) | (遠江守) (常陸介) |(弾正忠) (吉阿弥陀仏)(三郎右衛門尉)(雅楽助)
| |
+―河澄重顕 +―小栗満重――小栗助重
|(又次郎) (常陸介) (常陸介)
|
+―厚科重秀
|(小三郎)
|
+―横嶋重家
|
|
+―大関重行―――大関重勝
|(文殊丸)
|
+―金尾屋重清――金尾谷重益
(彦王丸)
●桃井系図(『源氏諸流系図』史料編纂所所蔵本)
桃井義胤―+―桃井頼直―+=桃井直頼―+―桃井直常――+―桃井直和
(遠江守) |(播磨守) |(右馬頭) |(駿河守) |(刑部少輔)
| | | |
| | +―桃井直弘 +=桃井直弘
| | |(刑部大輔) (刑部大輔)
| | |
| | +―桃井直信――――桃井詮信
| | (修理大夫) (兵部少輔)
| |
| +―桃井頼明―――桃井直頼
| |(五郎)
| |
| +―桃井直経―――桃井宗景
|
|
+―桃井頼氏―+―如幻―――――桃井直頼
(三郎) | (右馬頭)
|
+―桃井胤氏―――桃井満氏――+―桃井尚義―――桃井義通――――桃井義任
(遠江守) (又二郎) |(弥二郎) (刑部大夫) (兵部少輔)
|
+―桃井氏義―――桃井宣義
(小三郎) (左馬権頭)
小栗満重は「而其計漸発覚、逃帰拠城」(『常陸誌料』)と、鎌倉で謀叛計画が発覚したため「常州小栗城」(筑西市小栗)へ逃亡したという。5月10日には「依陰謀露顕、令没落上」(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)とみえることから、この時点ですでに鎌倉から逃亡していたことがわかる。持氏は桃井及び小栗への対応として「長沼淡路入道殿」に「不日差遣勢、可加退治」を命じた(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)。6月13日には「宍戸弥五郎殿(一木満里)」が小栗城を攻めているように(応永廿五年六月廿日「足利持氏御教書写」『中河西村一木氏所蔵文書』神:5563)、周辺の地頭が合戦に加わっていることがわかる。その後、7月10日までに小栗満重は降伏し(七月十日「藤原定頼書状」『皆川文書』)、赦された。しかし、小栗満重の本貫小栗庄は収公されて満重に戻されなかったのだろう。満重や桃井宣義入道がその後鎌倉へ戻った様子もないうえ、応永30(1423)年7月7日当時、満重は「常陸介」に任官していることから、満重は桃井宣義入道とともに上洛していた可能性が高い(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』)。そして、三年後の応永28(1421)年9月末頃には桃井宣義入道とともに下野国へ拠り、10月9日に下野国佐貫庄で「桃井左馬権頭并小栗輩合戦」があり、持氏方の「佐野帯刀左衛門尉」が戦功を挙げている(応永廿八年十月十三日「足利持氏御教書写」『喜連川家文書』「御書案留書」上 室:1942)。合戦は桃井や小栗の敗北に終わったとみられ、その後両者は分かれて、桃井左馬権頭入道は上洛、小栗満重は雌伏しつつ旧領小栗庄の小栗城奪還を実行することになる(常陸国その後)。
禅秀自刃後、上杉禅秀の女婿である岩松満純入道へも追討の手を遣わすが、満純入道は鎌倉を脱出して所在が知れずしばらくはその探索が行われた。岩松満純入道は満隆・禅秀入道の与党だったようで、持氏及び京都から執拗に追討の対象とされている。
2月中には「岩松一類、白河辺排回之由、其聞、致了簡候」が判明し、3月1日、持氏は長沼淡路入道に岩松一党を「可討進候、於忠賞者、可有殊沙汰候」を告げる(応永廿四年三月一日「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596)。
また、この岩松所在判明の報告はおそらく関東管領憲基を通じて京都にも知らされており、3月27日、将軍義持は管領「沙弥(細川満元)」を通じて白河一族の「小峰七郎(結城朝親)」に「岩松治部大輔一類等、隠居在所事、尋究之、不日可加退治之由」(応永廿四年三月廿七日「細川満元奉書写」『白河結城家文書』室:1609)を命じている。その後「岩松一類」は白河から上野国へ戻ったのだろう。「五月二十九日、岩松治部大輔逆心ヲ起シ、禅秀与力ノ残党ト入間川ニ出張」(『喜連川判鑑』)し、安保信濃守宗繁が「相催一族等、最前馳向」っている(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。そしてこの蜂起は「舞木宮内允、馳向テ合戦シテ悉ク追散シ、天用ヲ生捕」(『鎌倉大草紙』)という形で鎮圧されたという。「舞木宮内允」は「去年、禅秀ニ与ミセシ事ヲ悔ミ、岩松討テ罪ヲ謝セン為メ、入間川ニ出向ヒ合戦」と見え、禅秀与党だった(『鎌倉大草紙』には禅秀与党として「舞木太郎」が見える)。
その後、岩松満純入道天用は鎌倉に連行され、閏5月13日、「於龍口誅」された(『喜連川判鑑』)。なお、岩松満純との合戦について、閏5月12日、持氏は「安保信濃守殿(安保宗繁)」の戦功を賞する御教書を下している(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。
新田岩松氏は満純の刑死後は、その父満国入道法泉が一旦領した(挙兵後に満国入道が満純を廃して悔い返した可能性)のち、応永26(1419)年2月27日、満国入道は孫の「土用安丸」へ「亡父法松得譲所々文書在之」の「上野国新田庄并国々本領等之事」ならびに「法泉一跡惣領職」を譲り渡した(応永廿六年二月廿七日「岩松法泉譲状写」『新田岩松文書』室:1797)。満国入道の子で土用松丸の実父である「能登守(岩松満春)」には、惣領の「土用松丸若輩」のため「お公方可被致代官」ことと定め、「縦親方流而就惣領職致異乱輩在者、為先此状可被致申沙汰候、仍兼日知行分其外計置所領等事、不可有煩」と命じている。反逆者となった満純の弟ではなく、その弟の子に継承させることで、満純から遠く且つ惣領として納得のできる親等の人物が選ばれた結果であろう。
岩松満純入道と同様、禅秀女婿である千葉介兼胤は、応永23(1416)年12月末の「入江山合戦」に禅秀方の大将の一人として参戦したとされるが(『鎌倉大草紙』)、持氏の駿河国出立及び箱根山への布陣の時期を考えると、入江山合戦が実際にあった可能性は低い(入江山合戦の軍功を示す他氏の軍忠状が残るが、文面に疑義があり偽文書の可能性が高い)。
そもそも禅秀の乱自体に千葉介一党が禅秀方として加わっていたことを示す文書はなく、関与がほのめかされるのは史料的価値の低い『鎌倉大草紙』のみである。兼胤は禅秀の乱後も罰せられることはなく、鎌倉の要職(おそらく侍所所司)にあり続け、安房国にも少なくとも寺社に関する権限を有していた。このことから、兼胤は禅秀方として参戦するも、米町辺りの陣所に留まり実際の戦いには加わらずに、早々に寝返った可能性が高いのではないかと考える。
なお『鎌倉大草紙』に拠れば、兼胤は故禅秀入道の義父である武田安芸入道明庵(武田信満。『鎌倉大草紙』によれば「信満」だが、軍記物『鎌倉大草紙』の信頼性の低さの他、「満」が将軍義満偏諱を受けたものと思われること、武田氏由緒の古刹一蓮寺に伝わる『一蓮寺過去帳』や『穴山家系図』には「満信」とあることから、満信が本来の名乗りかもしれない)を頼ったとされ、甲斐国へ遁れたことを示唆する。そして、甲斐国に攻め入った鎌倉勢にあっさりと降伏したという。
+―穴山満春
|(修理大夫)
|
+―武田信基===武田伊豆千代
|(信濃守)
|
+―武田信満―+―武田信重―――――――武田信守
(安芸守) |(刑部少輔) (刑部少輔)
|
+―武田信長―――――――武田伊豆千代
|(右馬助)
|
+―女子
∥
上杉朝宗―――上杉氏憲【禅秀】―+―上杉憲顕
(中務大輔) (右衛門佐) |(中務大輔)
|
+―上杉憲方
|(伊豆守)
|
| 岩松満純
|(治部大輔)
| ∥
+―女子
|
| 那須資之
|(越後守)
| ∥――――――那須氏資
+―女子 (大膳大夫)
|
+―女子
∥
千葉介満胤――――――千葉介兼胤
(千葉介) (修理大夫)
なお、疑問の多い文書であるが、武田信満入道が「応永廿四年六月六日」(『鎌倉大草紙』)に自刃した五か月後の応永24(1417)年11月25日には、関東公方祈願所の安房国龍興寺に対して、「瑞泉寺殿(足利基氏)」の寄進状、「永安寺殿(足利氏満)」の祈願所の状の通り寺領を証したとする文書が残されている。
まず、この文書には本来書出に記されるべき「知行」地に関する事書が記されず、文書としては不完全なものである。また、基氏及び氏満の寄進状等も現存せず寄進地は不明。編纂時に落とした可能性もある。
●応永24(1417)年11月25日「千葉介兼胤書下写」(『諸家文書纂』十一)
最も問題なのは、この文書は執達状ではなく「修理大夫」が安房国に主体的立場で寺領の保証を行っている点である。兼胤が安房守護であれば管国寺院の寺領を保証することは可能だが、兼胤が安房守護だった傍証はない。さらに龍興寺が足利家祈願寺であることからして、その寺領を証するにあたり、持氏を経由せずに単独で書下を発給することは不合理である。そのことはこの『諸家文書纂』の編者も不自然に感じたとみられ、「修理大夫」の花押の照合のために、文書脇に足利満隆の花押(模写:下表B)が付されている。不完全な文書の体裁も含めて、疑問のある文書ではある。
『諸家文書纂』 A「修理大夫」 1417年 |
『諸家文書纂』 B「満隆」 1417年 |
『中山法華経寺文書』 「修理大夫(兼胤)」 1422年 |
『保坂氏所蔵文書』 「満隆」 1415年 |
『相州文書』 「沙弥」 長尾藤景? 1401年 |
『海蔵寺文書』 足利持氏花押 1419年 |
ただし、そもそも安房国が持氏代には守護不設置で、鎌倉が直接支配する体制であったとすれば、「侍所千葉介」(『鎌倉年中行事』)という鎌倉の枢要が守護に「准じた」権限を帯して安房国を受け持っていた可能性もあろう。そして、この書下から一月後には龍興寺に「安房国長狭郡柴原子郷上村皆蔵御社造営料田壱町事」について知行を認める奉行人奉書がみられる。
●応永24(1417)年12月24日「奉行人奉書」(『諸家文書纂』十一)
ここに見える「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」のうち「左衛門尉胤継」については、花押から応永8(1402)年8月(応永28年?)時点の千葉氏奏者の一人「木内平次左衛門尉胤継」(応永八年八月日「千葉氏奏者」『香取旧録司代文書』33)と同一人物である。彼は応永20(1413)年8月28日に兼胤が香取社に参詣した際に兼胤被官人として見える「木内平次左衛門尉」と同一人物とみられ、千葉介の代官だったと想定される。兼胤が安房守護に「准じた」管理権限を有したとすれば、この龍興寺の知行を保証した主体は兼胤となろう。なお、この「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」は、応永26(1419)年3月27日にも「安房国長狭郡上村大山寺中道坊跡譲状」についても承認を与えており(応永廿六年二月一日「大山寺澄慶譲状」『安田家文書』)、応永26年当時も兼胤が安房国の監督権限を有していた可能性が高い。
このほか、兼胤は京都柳営から下総守護職を解任されていなかったようで、応永25(1418)年11月当時、下総国の「聖禅寺(匝瑳市大寺)」へ「下総国北条庄大寺郷内飯盛塚、笠懸屋敷一円当時敷地云々并田畠下名別紙在之」を「可被致祈祷之精誠」ことを条件に「任河戸弾正胤久申請之旨」て寄進を認めている(応永廿五年十一月二十八日「千葉兼胤寄進状」『龍尾寺文書』室:1782)。河戸胤久は千葉郷川戸村(千葉市中央区川戸町)を名字地とする千葉惣領家被官であろう。
●応永25(1418)年11月28日「千葉介兼胤寄進状」(『龍尾寺文書』)
『鎌倉大草紙』の記述ではあるが、甲斐国西郡の領主で「如何ニモシテ武田ヲ絶シテ甲州一円ニ守護セハヤ」と考えて持氏に「忠勤ヲ尽シ」た「逸見中務丞有直」が、今度の禅秀の乱で「武田安芸守入道明庵ハ禅秀ノ小舅ナリ、千葉修理大夫兼胤ハ聟ナリ、両人共ニ持氏ヲ背ケル」ことに、逸見有直は「能キ時分ナリ」と思い、縁者の持氏寵臣「二階堂三河守」を通じて「色々甲斐ノ事望申」したという(『鎌倉大草紙』)。有直はおそらく逸見又五郎義直の末裔と思われ、有直の父と思われる「逸見中務大輔」は明徳2(1390)年以前に「下野国薬師寺庄半分、除福田、平塚両郷、逸見中務大輔寄進地也」とあるように、下野国薬師寺庄の自領を鎌倉名越の別願寺に寄進している(明徳二年九月八日「足利氏満寄進状」『別願寺文書』南北4537)。その後出家した「逸見中務大輔入道」は、応永27(1420)年2月頃に別願寺門前の田畠を「勝光院殿(満兼)御菩提」のために別願寺に寄進する旨を持氏に申請し、持氏を通じて別願寺に寄進されている(応永廿七年二月十九日「足利持氏寄進状」『別願寺文書』)。このように、逸見氏は持氏祖父の氏満の代にはすでに関わりを有していた可能性が高く、以来近習としての顔も持つ甲斐国有力者だったのだろう。なお、応永23(1416)年12月1日に「逸見」氏(作阿弥陀仏)が死亡しており(『一蓮寺過去帳』)、禅秀の乱から二か月後には甲斐国で武田信満入道勢と持氏与党の逸見氏による戦闘があった可能性がある。
信満入道自身は禅秀の乱に加わってはいないようであるが、持氏は「鎌倉ヨリ御勢向ラレ、大将ニハ上杉淡路守憲家ナリ」を派遣して討伐を図ったという。このとき「千葉ハ早々降参」したとあり、兼胤は趨勢を鑑みて早々と降伏したとする(『鎌倉大草紙』)。一方、信満入道は降伏せずに「ツルノ郡ヘ馳出」て対陣するも、「多勢ニ無勢不叶、終ニ打負、信満ハ甲州都留郡木賊山ニテ自害シテ失ス、法名明庵常光、于時応永廿四年六月六日ノ事ナリ」(『鎌倉大草紙』)とする。『鎌倉大草紙』の記述ではあるが、具体的に記されていることから、何らかの史料に基づいたものであろう。ただし、その没月日は『妙法寺記』や『高野山武田家過去帳』、諸系譜によれば「応永廿四年二月六日」とあることから、これもまた『鎌倉大草紙』の誤記である(『一蓮寺過去帳』の信満没月日は「十二月六日」だが、この時点で合戦は終決している事ならびに応永24年中に次の守護「竹田」が入部していることから、十は衍字であろう)。武田家由緒の古刹『一蓮寺過去帳』に、「彌 藝州信満長松寺殿明庵 応永廿四年十二月六日」の次に「由 修理大夫満春號穴山 応永廿四年五月二十五日」とあり(『一蓮寺過去帳』)、信満入道自刃後、穴山郷に所在していた弟の修理大夫満春が甲府一蓮寺の願主になった様子もうかがえる(武田惣領家を継承していたかは不明だが、彼は庶流穴山家の当主であり、惣領ではないだろう)。
信満入道は鎌倉には「禅秀事ニ恐レ不参候」という状況にあったという(『鎌倉大草紙』)。ただし、信満入道は禅秀の乱直後に討たれていることから、前述の鎌倉不参の時期があったとすれば、禅秀の乱以前からすでに鎌倉不参が常態だったことになる。つまり『鎌倉大草紙』の記述が創作でなかった場合は、禅秀の乱当時、信満入道はすでに甲斐守護ではなかったのではなかろうか。持氏が下総「守護」である千葉介兼胤の降伏を認め、信満入道は討ち果たしたのは、鎌倉公方は管国内の守護職を処断する権限は持っていなかったためであろう。
武田信満入道自刃ののちは、軍記物ながら『鎌倉大草紙』によれば、持氏は「甲斐国ハ逸見ニ給リ打入ケリ、然トイヘトモ京都公方ヨリ御引移ハナシ、鎌倉ドノヨリノ御意計リナリ」(『鎌倉大草紙』)とみえるように、持氏独断で近習の「逸見中務丞有直」を甲斐国に入部させたとする。一方で、将軍義持は「陸奥守花峯入道ノ末子、武田信濃守信元ハ禅秀一味ノ儀ハナケレトモ、恐ヲナシ出家シテ高野山ニ登リ、昊山ト改名シテ閑居」(『鎌倉大草紙』)した「信濃守信元ヲ召出シ」て(『鎌倉大草紙』)、甲斐守護に任じたという。この信元は「満春(穴山修理大夫。春信とも)」(『武田系図』)と同一視される。なお、「成就院殿(信重)ト申、今ノ甲斐ノ武田ノ先祖也、舎弟悪八郎(信長)ヲハ右馬助ト申、入道シテノ名ヲハ妙申ト申シ、道號春克ト申、勝福寺殿ノ事也、某道存カ祖父也」という道存(信満入道子の武田信長孫)が後年『一本武田系図』に記した裏書によれば、「武田信重三郎、信長ノ為に伯父」である「穴山ニ武田信濃守信基ト申仁」が「惣領職仰付ラル」(『一本武田系図裏書』)とみえる。
信基の伝では「安芸守生害ノ時、他人ナラヌ事ナレハ高野ヘ上リ給フ」、「信濃守信基入道、既ニ高野ニ候上ハ、カレヲ国ヘカヘサレヘキト、鎌倉ヘ仰セラレ」ているが(『一本武田系図裏書』)、この信濃守信基入道(信濃守信元)と修理大夫満春の伝がともに「穴山」に由緒を持ち、禅秀の乱後に高野山に登るという軌を一にしており、どちらかの事項を仮託または混同している可能性を考慮すべきか(満春の「満」は氏満または満兼の偏諱の可能性が高く、それを「信基(信元)」と改める可能性は考えにくいか)。なお、修理大夫満春は前述の『一蓮寺過去帳』にあるように、穴山武田家当主であって惣領家及び守護職を継承した形跡はなく、木賊山合戦の約四か月後の応永24(1417)年5月25日に卒しており(『一蓮寺過去帳』)、家督相続に関わることはなかったと思われる。
甲斐守護については、応永24(1417)年2月以降、「信濃守信基入道、既ニ高野ニ候上ハ、カレヲ国ヘカヘサレヘキト、鎌倉ヘ仰セラレ、逸見中務アリ、ナヲイマタ世上ニ有シ時也、京ト鎌倉ハ魚ト水トノ如ク仰合ラルゝ事也、京ハ親方ノ御事ナレハ、遠キ御申候而ハ王命迄違ヒ申間、京都ノ仰ニ任セ信濃守信基ヲ召出ラレ、父ノ陸奥守信春、信成ノ跡ニ定メラレ、惣領職仰付ラル、甲斐国ヲ召カヘサレテ、信濃守信基ニ被仰付ラルゝ也、逸見ニ下サルゝヲ召返ス也」(『一本武田系図裏書』)と見えることから、信満入道自刃ののち数か月後には、信基の守護職が決定され、将軍義持は信基入道を惣領職とし、鎌倉の持氏には甲斐新守護として彼の入部を打診したという。これを受けた持氏もとくに反論もせず応じ、非公認で配した逸見中務を免じたという。
そして、応永24(1417)年6月8日時点では、信基入道は「甲斐当守護」であったとみられる(『満済准后日記』応永廿四年六月八日条)。また同日条に「先守護子息■■■」と見えるが、これは甲斐国に在国の悪八郎信長であろう(兄の三郎信重は当時、高野山へ登っている)。文章が摩滅していることから文意は定かではないが、その後の信基入道と信長の関係を見ると、敵対関係の報告がなされたわけではないと思われ、この十日ほど前に卒去した信基兄弟の穴山修理大夫満春とのことの報告があった可能性もあろう。信基も「穴山」を称したとされることから、もともと兄満春の養嗣子であった可能性があり、武田穴山氏領である「甲州南部、下山辺」に居住していたのかもしれない。
こうして、信基入道の甲斐入部が決定し、「竹田■■■守護自去年以来入部處」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)とあるように、応永24(1417)年中に一度は甲斐国に入部している。しかし、信濃守信基が入部したのち、応永25(1418)年初頭には「甲斐国事、地下一族蜂起」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)とあるように、「地下一族」が甲斐国に挙兵して信基を追い出したとみられる。この「地下一族」はおそらく持氏に非公認の守護を罷免された逸見中務丞有直の一党ではなかろうか。
その後、続けて「駿■■■■■■悉遁上」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)と見えることから、おそらく信基は拠点の南部(南巨摩郡南部町)・下山(南巨摩郡身延町下山)辺にいたところを、西郡から富士川沿いに攻め込んだ逸見氏に追い出され、信基は駿河国へ遁れたのだろう。そして、京都将軍家の命を受けた駿河国の今川勢が「地下一族」の追討を行い、彼らは「悉遁上」ったのだろう。
こうして信基は一度は甲斐国に復帰したものの、2月15日には「国■■■■■■京都穴■■■御合力■両国勢発向」という報告が京都に届いている(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)ことから、信基は翌応永25(1418)年2月初旬までに、再び逸見一族によって追放され、今度は甥の「小笠原右馬助殿(小笠原政康)」を頼って信濃国へ逃れたのだろう。この小笠原政康が満済に報告した文書が、2月15日の一報(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)であろう。
武田信基は小笠原政康率いる信濃勢と、某国(駿河国か)の「両国勢」でとともに再度甲斐国に進み、2月17、18日頃には甲斐国に入ったとみられる。この報告は京都に届けられ、将軍義持は2月21日に政康に対して信基の甲斐入国(二月廿一日「足利義持御内書」『小笠原文書』)への働きを褒し、甲斐国で信基と合力して「可励忠節」ことを命じている。
10月28日、将軍義持は武田信基の甲斐入国につき、小笠原政康に「此間辛労察思召給候、誠以神妙」と褒するとともに、改めて「武田、甲州南部、下山辺可打越候、自然事可加扶持也」ことを命じている(応永廿五年十月廿八日「足利義持御内書」『東京大学史料編纂所所蔵小笠原文書』室:1774)。信基入道がまず穴山家領の南部(南巨摩郡南部町)や下山(南巨摩郡身延町下山)を目指したのは当然であろう。この南部・下山を抑えるには、逸見氏が拠点を置く西郡を通過する必要があり、逸見氏の妨害を防いで入部を急がせるため、将軍義持は小笠原政康の合力を命じたものであろう。
ところが、信基が甲斐国に入っても、甲州はなかなか安定せず、翌応永26(1419)年3月14日にも「小笠原右馬助殿」に「武田陸奥守合力事」が命じられている(応永廿六年三月十四日「足利義持御内書」『小笠原文書』室:1802)。「武田陸奥守」はおそらく信基のことであろう。甲斐国に入部したことを賞しての任官吹挙があったのかもしれない。以降は後述。
上杉氏憲
(禅秀入道)
∥
+-女子
|
|
武田信春―+―武田信満―+―武田信重
(陸奥守) |(安芸守) |(刑部大輔)
| |
| +―武田信長=伊豆千代
| (右馬助) |
| ↓
+―武田信基===武田伊豆千代
|(陸奥守か)
|
+―下條信継
|(伊豆守)
|
+―女子 +―小笠原長秀
∥ |(信濃守)
∥ |
∥――――+―小笠原政康
小笠原長基 (右馬助)
(信濃守)
上杉禅秀―――女子 |
禅秀の乱後、「下野国西御庄」に「右衛門佐入道禅秀家人等秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎、土橋又五郎、石井九郎若党」がいたが、応永24(1417)年5月27日、下野守護の「結城弾正少弼入道殿(結城基光入道禅貴)」がこれを捕縛して鎌倉に進上している(応永廿四年閏五月九日「足利持氏御教書案写」『松平基則氏所蔵文書』)。
「西御庄」は「西御庄内富田郷(栃木市大平町富田)、同庄下皆河郷等(大平町下皆川)」(応永廿四年七月廿四日「某書下」『松平基則氏所蔵文書』室:1657)、「西御庄西水代(栃木市大平町西水代)」(応永三年十月十八日「大般若経奥書」『日光山輪王寺文書』)など永野川西岸域一帯に南北に広がり西は佐野庄に接する摂家領で、同年7月24日、「小山庄内木本郷并西御庄内富田郷、同庄下皆河郷等」(応永廿四年七月廿四日「某書下」『松平基則氏所蔵文書』室:1657)が「左馬助殿(小山満泰)」の知行と定められている。
応永27(1420)年正月26日、「下野国家中合戦」(応永廿七年潤正月十一日「足利持氏御教書」『喜連川家文書』室:1865)があり、「佐野帯刀左衛門尉殿」や「鹿島越前守殿」が戦功を賞されている。また、7月20日には「小山左馬助殿(小山満泰)」が「右衛門佐入道禅秀子共以下残党」の追捕を命じられている(『山川光国氏所蔵』)。
応永25(1418)年4月下旬には、上総国の「上総国狼藉張本人」(応永廿五年四月廿六日「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561)、及び武蔵国での「新田并岩松与類可出張」(応永廿五年四月廿八日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562)、といった上杉禅秀与党の挙兵が相次いでいるが、かつての元弘3(1333)年5月7日の尊氏六波羅攻めと翌8日の新田義貞・岩松経家の挙兵、先代北条氏の建武元(1334)年の同時期蜂起、正平7(1352)年閏2月15日の南朝方一斉蜂起などと同様、互いに期日を決めた「多方面同日挙兵」であると考えられる。
これらの挙兵に対し、持氏は上総国には「来月九日、所差遣一色左近大夫将監也」を決定し、「白石彦四郎入道殿」に一色左近将監に属すことを命じている(応永廿五年四月廿六日「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561)。一方、武蔵国には「差遣治部少輔持定」とし、入間川合戦などで活躍した豊島氏・江戸氏らの「武州南一揆」に出兵を命じている(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)。上総国と武蔵国はいずれも当時は守護闕国(上総国は前守護禅秀自害による闕、武蔵国は関東管領憲基の正月四日死去による闕)であり、両国における禅秀与党の兵乱はこの隙をついたものか。持定は禅秀の従弟にあたり、禅秀与党の叛乱拡大を防ぐことを意図していた可能性があろう。これは武蔵国に禅秀・持定の従兄弟、上杉三郎定頼を関わらせたことも同様の意図があるのかもしれない。
犬懸上杉家が三代に渡って守護を継承してきた上総国は守護闕所国となったことで、関東の直接支配を強く考えていた持氏がこの機会を逃さず、後任となる守護を吹挙せず直接支配を行う体制を整えようとしたとみられる。とくに上総国は遠祖義兼が国司(上総介)となったのを皮切りに、数代にわたり守護を輩出した足利家にとっては鎌倉以来別格の国であることから、守護設置を忌避した可能性があろう。前述の通り、安房国に関しても明確な安房守護は見えず、不設置の可能性が高いことから、同様に不設置とすることを考えた可能性があろう。
持氏は応永24(1417)年2月に瑠璃光山真福寺に納めた願文に見えるように、関東に仇なす賊徒を滅ぼし「恵光鎮照、関東純熈」という、薬師如来の恩恵による「関東」の衆生救済という強い意志を持っていた。持氏の心は関東進止国(相模、武蔵、伊豆、甲斐、安房、上総、下総、常陸、上野、下野国に加えて陸奥国、出羽国)については、持氏が在鎌倉の守護を通じて強力に支配し安定した地方政権の確立にあったのだろう。
ところが、禅秀一党の滅亡に伴い、「宇都宮(持綱)」が応永24(1417)年5月以来、上総守護職を望み、将軍義持に働きかけたのである。北関東においては持綱は那須資重(禅秀女婿の資之の弟)とともに将軍家の意向を受けて禅秀方と戦うなど、京都の命を忠実に履行する立場に徹した。禅秀の乱鎮定後も積極的に京都との連絡を取り続けた持綱は、5月初旬に軍功に関するとみられる書状を遣わした。時期的にみて5月に「下野国西御庄」で発生した「右衛門佐入道禅秀家人等秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎、土橋又五郎、石井九郎若党」らとの合戦に基づくものか。5月9日、将軍義持はこれに答えて「宇都宮へ御書、今日被■鎧一両糸白、御太刀一腰、彼使者ニ渡遣了」(『満済准后日記』応永廿四年五月九日条)している。そして5月下旬、三宝院満済のもとに宇都宮持綱、那須資重からそれぞれ「御吹挙」の書状が届けられた。
5月28日、満済は御所に「宇都宮、那須状」を持参して将軍義持に披露した。これにつき、義持は「可有子細由被仰出」と述べている(『満済准后日記』応永廿四年五月廿八日条)。
こうした動きを持氏はいまだ知らず、上総国は禅秀滅亡以降、鎌倉府が直接支配を行った。上杉憲基入道が鎌倉に帰還した当日の閏5月24日、持氏は「上総国千町庄大上郷二階堂右京亮跡」を生母「大御所」の「御れう所」とするよう、御付の女房「あのゝ御局」へ所進状を遣わしている(応永廿四年閏五月廿四日「足利持氏料所所進状」『上杉文書』神:5528)。それにつき、同日「上総権介殿」に「可沙汰付下地於御代官」よう命じる御教書を発給している(応永廿四年閏五月廿四日「足利持氏御教書」『上杉文書』神:5529)。この「上総権介殿」が如何なる人物かは定かではないが、持氏が守護の代わりに設定した上総国代官か。このほか10月17日にも「大御所御料所」として「上総国天羽郡内萩生作海郷皆吉伯耆守跡」を設定し、管領憲基が佐々木隠岐守と大坪孫三郎を両使として預人に打渡すよう指示している(応永廿四年十月十七日「上杉憲基施行状」『上杉文書』神:5545)。
こうした中で、宇都宮持綱は執拗に上総守護職を将軍義持に求め、応永24(1417)年8月3日、「自宇都宮戒浄上洛■■■■■戒浄私■■■」と、使僧「戒浄」を醍醐寺座主満済のもとへ送っている。「戒浄」はおそらく都賀郡七石(下都賀郡壬生町七ツ石)の熊野御師「坂東下野国七石戒浄坊」(応永廿二年十一月十八日「弁阿闍梨重讃売券」『米良文書』)であろう。戒浄と宇都宮氏との関係も宇都宮一族ともに熊野六角堂の檀那職を務めているなど(ただし応永22年に勝達房に売渡されている)、その関わりも深かった。宇都宮持綱が再度上総守護職について満済に吹挙を求めたものであろう。その後、将軍義持は満済から宇都宮状を披露されたと思われ、柳営で3日から7日の間で評定が開かれた結果、宇都宮持綱を上総国守護職として持氏に「御吹挙」することを決定したとみられる。
8月7日、将軍義持は満済に「宇都宮状」のことにつき「上総国御吹挙治定由被仰下」ている(『満済准后日記』応永廿四年八月七日条)。ただし、あくまでも「守護補任を決定」したのではなく、補任について「持氏の意向を聞くことを決定」したというものである。将軍義持は持氏に宇都宮持綱の上総守護職を「御吹挙」し、宇都宮持綱にもそのことを報告したのだろう。9月下旬、持綱は御礼贈物を満済を通じて将軍義持に遣わした。満済はこれを受け取ると、10月4日に「自宇都宮御馬二疋、鳥目万疋進之、若君御方へ御馬一疋、太刀一振進之」を三條坊門殿に届けた(『満済准后日記』応永廿四年十月四日条)。
ところが10月17日、満済のもとに再度持綱から書状が齎されたため、満済は三條坊門第に持参して義持と対面し「自宇都宮注進状、上総国御吹挙處■■■及異儀由事、懸■■■了、重可有御下知由、御返事■■■■」ことを披露した。漫滅して判読できない部分は「鎌倉殿」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)など持氏を表す文言であろう。もともと上総国に守護を置くつもりのない持氏は当然これを拒絶し、持綱に異議を通告したのだろう。そして、持綱は再度満済に泣きつき、将軍義持は宇都宮持綱に持氏へ「重可有御下知」ことを約する返事をしているが、明確に「補任する」とは伝えてはいない。
満済は義持に「■■鎌倉■西■上洛事■■■■申」ことを話しており、持氏からの使僧「■西■」が上洛することを伝えている。彼は持綱への上総守護「御吹挙」の件について、持氏の意見を伝えるための使者とみられる(『満済准后日記』応永廿四年十月十七日条)。その後上洛した「■西■」は持氏の主張を伝えたのだろう。その後使僧は鎌倉へ戻り、翌応永25(1418)年2月21日、将軍義持は「関東御使頌西堂既進発」(『満済准后日記』応永廿五年二月廿一日条)した。義持の御教書には上総守護のことのみならず、「■■条、目■■条、上総国守護并甲斐国事、御料所中之事、■■■■■方へ内々以状、此由申遣了」といういくつかの項目が示されていたようである。
頌西堂から将軍の御内書を受けた持氏は、建長寺住持「日峯和尚(日峯法朝)」を「鎌倉使節」として上洛させ、持氏側からの言い分を述べさせることとした。鎌倉最高位の高僧を派遣することで、持氏の真剣な意思を伝える意図があったのかもしれない。「日峯和尚」は3月10日に満済を訪れているが(『満済准后日記』応永廿五年三月十日条)、日峯の上洛は「甲斐国、上総国等事」を述べることが理由と記している。日峯は「禅秀乱時、僧日峯推之赴京都、為法師因勝定院」(『両上杉系図』)とあるように、故武田信満入道を母に持つ禅秀入道の子(「幼少時為常陸大掾養子」)を伴って上洛した可能性があり、この子は義持開基の相国寺塔頭勝定院(義持師の絶海中津を開山とする)の法師にされたという。のちに将軍義教の命によって還俗して「上杉教朝」を称し、関東攻め及び結城氏朝の乱で京都方の大将軍として奮戦することとなる。また日峯和尚はその後「応永中年、由建長遷亀山」とあるように、建長寺から天龍寺へ遷っている。
日峯和尚が上洛した翌日の3月11日、満済は「宇都宮状」を御所に持参して将軍義持の「懸御目」た(『満済准后日記』応永廿五年三月十一日条)。この書状も上総守護の問題について語られたものであろう。当然このとき日峯和尚の上洛も伝えられたと考えられる。宇都宮持綱からの書状は5月25日にも届けられており、これもまた満済が義持に披露している(『満済准后日記応永廿五年五月廿五日条』)。
この上総国をめぐる京都将軍家、宇都宮持綱との問題が発生していた頃、当の上総国で兵乱が勃発した。兵乱の首謀者は前守護禅秀入道の遺臣等で、4月下旬から5月初頭頃、上総国府付近で挙兵したものだった。討伐の大将は持氏近習で親族の「一色左近大夫将監」が任じられた。
一色範氏―+―一色直氏――一色氏兼―+―一色満直――――一色頼直
(次郎) |(宮内少輔)(宮内少輔)|(宮内少輔) (修理亮)
| |
| +―一色長兼――?―一色時家
| |(左京大夫) (刑部少輔)
| |
| +―一色直兼
| (宮内太輔)
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+―一色範光――一色詮範―――一色満範――+―一色持範―――一色政照―――一色政具―――一色晴具―――一色藤長
|(修理大夫)(左京大夫) (修理大夫) |(式部少輔) (式部少輔) (式部少輔) (式部少輔) (式部少輔)
| |
+―一色範房――一色詮光―――一色満貞 +―一色義貫―――一色義直
(右馬頭) (兵部少輔) |(修理大夫) (修理大夫)
|
+―一色持信―――一色教親
(兵部少輔) (左京大夫)
出兵に先立ち、5月6日、持氏は管轄下にある「円覚寺領上総国畔蒜庄内亀山郷」につき禁制を発出した(応永廿五年五月六日「足利持氏袖判禁制」『円覚寺文書』神:5564)。出陣は一旦は5月9日と定められたが「上総本一揆御敵、以一色左近将監為大将、御旗五月廿八日立鎌倉、則敵退散」(『喜連川判鑑』)とあるように、5月28日まで延引された。おそらく小栗満重の謀叛発覚が出陣時期とほぼ重なったことで、その対応に追われたのであろう。
こうして、一色左近将監率いる鎌倉勢が「為上総国凶徒等御対治、大将御発向」し、禅秀遺臣が展開していた上総国府に至近の飯香岡八幡(市原市八幡)に着陣したのは6月(初旬歟)だった。常陸国からも鹿嶋党が鎌倉勢として参陣しており、「惣領鹿島出羽守憲幹」のもと「常陸鹿島烟田遠江守幹胤」や「亀谷田左近将監胤幹」らが属して「馳参最前八幡御陣」じた(応永廿五年六月日「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737、「亀谷田胤幹軍忠状写」室:1738)。鹿嶋氏自体が上総国に所領を有していたのかは定かではないが、烟田氏は養老川沿いの「上総国佐是郡矢田郷(市原市矢田、下矢田、池和田周辺)」(延元元年六月廿日「沙弥信崇譲状」『烟田文書』)内に所領を有しており、こうしたことで催促を受けたとみられる。
鎌倉勢は「八幡御陣」から養老川を攻め上り、烟田党は「於在々所々令致宿直警固」しながら南東部の「平三城(市原市平蔵)」を攻め落とした。禅秀遺臣らは「没落」して逃げ散ったとみられる。
烟田幹胤は「鳥栖村、富田村等」について禅秀の乱の功績によって安堵を求めていたものの、二年が経過しても「不成案堵思」い、さらに軍功を重ねるべく「上総国御敵仁等悉令対治候畢、然之間可浴御恩賞砌也、所詮募彼忠節」によって「二ケ村如元仁預還補御証判」を重ねて要求している(応永廿五年八月十九日「烟田幹胤重申状」『烟田文書』室:1758)。この二村は鹿嶋社人からの社領に関する訴えにより収公された土地で小鶴修理亮、梶原但馬守季景に下されたが、その後、対応に誤りがなかったことが認められて、応永22(1415)年12月27日に「満頼(一色式部大輔満頼)」から管領憲基(代官の長尾殿宛)へ還補の依頼が発せられても(応永廿二年十二月廿七日「一色満頼方書札」『烟田文書』)、両名の抵抗により返されなかった所領であった(正長三年七月「烟田幹時訴状」『烟田文書』)。
持氏は、この上総国の禅秀与党の追捕に兵を送ることと並行して、前年12月1日に行われた「室町殿若公、今日被加首服、加冠父公于時内大臣」(『看聞日記』応永廿四年十二月一日条)という将軍義持の嫡子足利義量の「御元服御礼ノ為」に「関東使節宍戸」を上洛させている(『満済准后日記』応永廿五年六月十三日条)。「宍戸」は6月13日に京都に到着し、「即日延見、待遇優崇、度越等夷」(『東海璚華集』三敍)とあるように、即日義持と対面が叶っている。彼は相国寺の惟肖得巌と詩文で親交のあった宍戸遠江守基家入道希宗とみられる。禅秀の乱で持氏与党の大将の一人となった宍戸備前守持朝の祖父に当たる。
完戸朝家―+―完戸基家――――完戸家秀―――宍戸持朝
(安芸守) |(遠江守) (安芸守) (備前守)
|
+―宍戸家里――+―宍戸兼朝
|(彦四郎) |(兵庫助)
| |
| +―宍戸朝雄
| (左近将監)
|
+―宍戸基里――――宍戸満里
(弥四郎入道) (弥五郎)
そして、上総国の兵乱が鎮定されて二か月程のちの9月初旬、持氏は宇都宮持綱の上総守護職を追認した。補任の流れが不明瞭ながら、持氏はまず宇都宮持綱に上総守護職について認める旨を通達したと思われる。当時の持綱の所在は不明だが、守護ではないことから禅秀の乱時と同様、宇都宮だろう。
持氏からの通達を受けた持綱は、満済を宛書とした書状(宇都宮注進)を送達し、9月15日に書状を受け取った満済は即日三條坊門第へ参り、「自宇都宮方、上総国守護職事、無相違自鎌倉補任由、畏申、則披露、御所様御悦喜、但今日不及披露」という。持綱からの書状も持参したとみられるが、この日は口頭のみで伝えたようだ(『満済准后日記』応永廿五年九月十五日条)。それでも義持は大変喜んでいる様子がうかがえ、関東における大きな懸念の一つが消えた事への安堵感が感じられる。そして翌16日、満済は「宇都宮注進」を持参して「宇都宮注進之趣、今日披露、御悦喜、蝕御祈祷宗観僧正、少現歟」された(『満済准后日記』応永廿五年九月十六日条)。もとより安穏を求める意識の強い義持は、関東との対立は求めておらず、何事もなく収まったことで喜びを示したのだろう。あとは持氏から送達される吹挙状を受けて持氏が補任するのみであった。
9月下旬、持氏は「関東使節僧花宗和尚」を上洛させ、「三ヶ条」を将軍義持に要請した。これらも満済を通じての要請であったと考えられ、後日、使僧花宗和尚は満済を訪問している。
(1)宇都宮持綱を上総守護とする吹挙の承認を求める
(2)「上椙房州跡(上杉憲基跡)」の中分の件
(3)「常陸守護佐竹上総(佐竹与義入道)」に関する件(守護吹挙を行わない旨か)
義持は10月10日、これらについて返答している。
(1)宇都宮持綱の上総守護吹挙を「無相違御領掌」→〇
(2)「上椙房州跡(上杉憲基跡)」の中分の件は「難儀可有御免」→×
(3)「常陸守護佐竹上総(佐竹与義入道)」に関する件(守護吹挙を行わない旨か)は「難儀可有御免」→×
すでに両者が確認済みの「宇都宮上総国守護職事」については「無相違御領掌」されたが(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)、「上椙房州跡中分事」と「常陸守護佐竹上総[以下判読不能だが、佐竹上総介(与義入道)の常陸守護を吹挙しない旨の事求めたものか。持氏は応永28年の時点で持氏に「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候」と言っており、持氏が守護職補任の吹挙を拒んでいた様子がうかがえる]」の「両條」は「難儀可有御免」として花宗和尚に伝え、持氏へ託した。ただ、返答には「但」書があった(内容は不明)。
花宗和尚は返書を受けると、10月12日に満済のもとへ「明日下向之間、為假請来臨」し、結果を報告している(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)。翌10月13日、満済は「絵幅十帖等、遣花宗和尚方」(『満済准后日記』応永廿五年十月十三日条)して餞とした。
宇都宮持綱の上総守護補任状と管領副状は、義持が結論を述べた10月10日以降に作成され、宇都宮へ送達されたと思われる。ただし、持綱の上総守護としての活動がみられるのは現存史料では約一年後であり、10月29日時点では以前として鎌倉府がその権限を履行し、「去年十二月十一日還補下文」した「進士九郎左衛門尉(進士重行)」の「上総国加津社内三佐古東西村地頭職」(袖ヶ浦市三ケ作)につき、村上民部丞、由比左衛門入道を両使として下地の沙汰付を行っている(応永廿五年十月廿九日「足利持氏御教書」『小川文書』室:1775)。
そして後述二度目の「上総本一揆」が鎮圧されたのちの翌応永26(1419)年12月15日、持氏は「宇都宮右馬頭殿(宇都宮持綱)」に「進士九郎左衛門尉重行」の「上総国加津社内三佐古村東西事」に関し、「不日莅彼所、縦雖固支、不可許容、可沙汰付下地於重行」ことを命じている(応永廿六年十二月十五日「足利持氏御教書」『京都大学所蔵古文書集』室:1858)。
宇都宮持綱が上総守護となって間もない応永26(1419)年正月初頭、「上総本一揆、重令蜂起」した(『鎌倉大日記』)。「重令蜂起」とあるので前年5月に蜂起した禅秀遺臣と同じ主体との認識であったことがうかがえる。大規模な叛乱の鎮圧は管国守護が独断で行うことは認められておらず、鎌倉から派遣される大将軍によって行われるものであったとみられる。
持氏は「為木戸内匠助大将、正月十九日立鎌倉」(『鎌倉大日記』)とあるように、今回の大将も近習から選任され、正月19日に木戸内匠助範懐が鎌倉を出立した。出立の日時は「同月十八日鎌倉ヲ立」(『喜連川判鑑』)とも。足利家根本被官である木戸(きべ:戸は部の略字)氏は上杉氏と縁戚関係を持ち、関東近習の最有力者でもあった。この「木戸内匠助」は『鎌倉大草紙』においては、禅秀方に与した近習の中に「木戸内匠助伯父甥」として見えている人物と同一と思われる。誤謬の多い『鎌倉大草紙』ながら、これが真であるとすると、持氏は禅秀与党だった人物を追討の大将軍としたことになる。全面的な合戦ではなく、上総本一揆勢の降伏を狙ったものかもしれない。このときの上総本一揆大将は犬懸上杉家被官・埴谷小太郎重氏である(『喜連川判鑑』)。
埴谷氏は上総国武射郡埴谷郷(山武市埴谷)を名字地とする一族で、「ハンヤ」と読み(『本土寺大過去帳』)、日蓮宗に深く帰依した。秩父平氏「榛谷」氏と混同されるが別流である。
埴谷郷には「上総国埴谷妙宣寺トテ埴谷日継ノ大檀那トシテ建立サセ給ケル寺」(『伝燈抄』)があるが、この妙宣寺は康安元(1361)年7月5日、中山三世の日祐が「康安元年太歳辛丑七月五日 埴谷左近将監御堂」に曼荼羅本尊(『妙宣寺蔵』)を下して建立された寺院である。その末裔が後述の鍋冠日親上人である。ここから、南北朝期の半ばにはすでに埴谷左近将監が地頭としてこの地を治めていたことがわかる。
埴谷左近将監の子孫とみられる「埴谷備前入道」は、関東管領「中務少輔入道(上杉朝宗入道禅助)」のもと、管領兼国の武蔵国守護代として派遣されていた(国人領主との私的関係を排除するためか守護代は当国出身者を避ける傾向にあった)。彼が武蔵守護代として応永11(1404)年9月15日、「下総国大慈恩寺雑掌」が申し立てた「六十六基内当国卒塔婆料所武蔵国六郷保内大森、永富両所、永安寺殿代御寄附」(応永十一年九月十五日「足利満鐘御教書」『大慈恩寺文書』室:924)が「江戸蒲田入道以下輩致押領狼藉」につき、足利満兼は関東管領「中務少輔入道(上杉朝宗入道禅助)」へ「不日退彼狼藉人等、寺家全知行之様、可加扶持之由、可令下知守護代」を命じた。これを受けた禅助は即日守護代の「埴谷備前入道」に施行を命じる書状をしたためた(応永十一年九月十五日「上杉禅助施行状」『大慈恩寺文書』室:925)。この施行状は御教書案とともに守護所の埴谷備前入道へ送達され、9月23日に江戸蒲田入道らに押領地を大慈恩寺雑掌へ打ち渡すよう命じた(応永十一年九月廿三日「埴谷法義打渡状」『大慈恩寺文書』室:927)。
また、足利家の菩提寺である「足利鑁阿寺供僧等」が、鎌倉の「雪下社務僧正」に貸していた「比企郡内戸守郷高坂左京亮跡(比企郡川島町戸守)」につき、前年に返付を受けたものの、このうち「勝高田」は「号買得」したとして、鶴岡社務から遣わされていた「慈光房代」が居座っているとして鎌倉に訴え出た際には、応永12(1405)年2月12日、鎌倉府は「左衛門尉」「沙弥」の奉行人二名をして「埴谷備前入道」に当該地を鑁阿寺雑掌へ打ち渡すよう命じた(応永十二年二月十二日「鎌倉府奉行人連署奉書」『鑁阿寺文書』室:955)。ところが八幡宮側は譲らずに居座ったようで、7月10日、鎌倉府は再度「加賀守(明石利行)」「沙弥」をして、八幡宮側の狼藉は不当として「寺家雑掌」に召し返すよう命じている(応永十二年二月十二日「鎌倉府奉行人連署奉書」『鑁阿寺文書』室:955)。
「埴谷備前入道」は禅助の子・関東管領氏憲入道禅秀のもとでも武蔵国守護代を務めており、応永19(1412)年7月5日、禅秀から、持氏の御教書の通り「武蔵国高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進地事」について、「可打渡下地於蓮花定院代官」ことを命じられている(応永十九年七月五日「上杉禅秀施行状写」『鶴岡等覚相承両院蔵文書』)。
上杉禅秀の乱から七か月後の応永24(1417)年8月に中山法華本妙寺貫主の権大僧都日英が「千代寿竜法師」へ譲与した「御経、御本尊、聖教、堂職、田畠、弟子檀那」のひとつに「祐師三枚御本尊康安左近将監御堂妙宣寺常住也」(応永廿四年八月「日英譲状」『法宣寺文書』)として見える。なお、日英は「千代寿竜法師、虎菊丸両人」へ「所々導師職末寺等」諸所の管理を命じているが、「千代寿竜法師」はのちの妙宣寺住持の法宣房日国(『本土寺過去帳』廿六日上「文明七十月中山」)、虎菊丸は中山法宣院主となる日親(のちに信仰を貫き、将軍義教から熱く焼けた鍋を被らされ「鍋冠上人」とも称された傑僧)で両者は兄弟、日英は叔父である。
文明2(1470)年5月13日、日親が豊後国から「埴谷平次左衛門尉」へしたためた返書によれば、埴谷平次左衛門尉の「亡父妙義之御事者、日親住山之古、遂父子之契約、偏後世菩提之事を憑度由承候之間、事新仰にて候由候つれとも、別而御所望之由、御定候之程に、其上者、兎角無申事候て、堅固ニ約諚申候つる」(『埴谷抄』)とあるように、日親は「山(比叡山ではなくこの場合は中山法華本妙寺か)」で修行中に、埴谷「妙義」の依頼を受けて父子の契約を交わしていたことがわかる。
【朝宗被官】 【氏憲被官】
埴谷左近将監―…―埴谷備前入道―+―埴谷左近将監―+―日国【千代寿竜法師】
|(日継) |(妙宣寺三世)
| |
+―日英 +―日親【虎菊丸】
(中山五世) (中山法宣院)
↓
…埴谷妙義―――+=日親
|
|
+―埴谷平次左衛門尉
【氏憲被官】
…埴谷重氏
(小太郎)
禅秀の乱から五十年以上のちに「埴谷平次左衛門尉」が埴谷郷(と思われる)に居住しているように、禅秀の乱後も埴谷氏は断絶しておらず、山内上杉氏の被官となった系統も存在した。埴谷平次左衛門尉の頃から百年余りのちの永禄3(1560)年ごろの山内上杉家被官としては、岩付衆として「埴谷図書助 一用」とある。「一用」の紋は不明だが、一文字か。
この二度目の上総合戦にも前回同様に鹿嶋一党が参戦しており、2月11日に「鹿嶋烟田遠江守殿(烟田幹胤)」は木戸内匠助範懐の陣に馳せ参じた。鹿嶋勢は「其以来数日矢戦」し、「三月三日、上総国坂水城攻合戦」の際には「最前上切岸」って、「家人小高根左衛門四郎」が負傷したことを「大将検知了」という(応永廿六年四月廿五日「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810)。この「大将」は「被疵之由、木戸内匠助範懐所注申也、尤以神妙」(応永廿六年五月八日「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586)とあることから、木戸範懐であったことがわかる。なお、上総本一揆勢が立て籠もった「坂水城(いすみ市新田か)」(「坂水城」を「坂本城」の誤りとする恣意的な説もみられるが、「水」「本」は筆の流れからも間違える余地のない異字であり慎むべきであろう)は、平三城から養老川を南東へ下り、さらに夷隅川を下り峠を越えた先にある要害である。これについては「二月三月雖攻坂水城、不落居降参」(『鎌倉大日記』)とあるが、日時は誤記である。この籠城戦は二か月に及び「五月六日、本一揆ノ大将、埴谷小太郎重氏降参ス、木戸相伴テ鎌倉ヘ帰ル、埴谷ヲハ由比ノ浜ニテ誅セラル」(『喜連川判鑑』)とあるように、資源不足に陥ったとみられる本一揆方の大将埴谷重氏が木戸懐範のもとに降伏した。
その降伏時期は、烟田幹胤が4月25日に大将木戸懐範に軍功を報告している(応永廿六年四月廿五日「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810)ことから、4月25日以前に戦闘は終結していたことがわかる。さらに、5月8日には持氏が木戸懐範の注進を受けて烟田幹胤を褒じている(応永廿六年五月八日「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586)ことから、この時点で木戸懐範はすでに鎌倉に帰還し注進状を持氏に奉じていることになり、本一揆方の降伏が5月6日では時間的に無理である。『喜連川判鑑』に見る「五月六日」の一文は、埴谷重氏が降伏して鎌倉に連行され処刑された日を表わしている可能性が高いだろう。
なお「上総国本一揆御退治事、被仰出候」ことは武蔵国に「差遣」(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)されて駐屯中の「治部少輔持定」にも、鎌倉から奉行人の「奉書」で伝えられており、正月30日時点ですでに持定から武蔵国の地頭等に「平均相触訖」していた(応永廿六年正月卅日「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793)。その一人の「垣岡源左衛門尉殿」には「於府中付着到、国之境を可堅固之旨、美濃守方へ申遣候」ことを伝えているが、垣岡氏は持定被官の太田一族とみられることから「美濃守」は太田氏(資房?)か。持定は垣岡源左衛門に「諸事有談合、可然之様可被相計候、尚々能候様面々可有談合候」と告げており(応永廿六年正月卅日「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793)、武蔵国内の禅秀与党の挙兵及び他国与党との連携を警戒していた様子がうかがえる。なお、持定は御教書の通りあくまでも武蔵国内の警戒を強化したのであって、上総国へ兵を出してはいない。
また、上総新守護の宇都宮持綱や、隣国下総守護千葉介兼胤も加わった様子はない。征討の大将も一色左近大夫将監や木戸内匠助といった持氏側臣が務めており、京都との繋がりが強い守護職を起用せずに鎌倉直轄の体制での追討を目したものとみられる。
応永25(1418)年4月下旬、武蔵国に「新田并岩松与類可出張」(応永廿五年四月廿八日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562)している。挙兵時期が上総国の上総本一揆と同時期であることから、連携されていた可能性があろう。
この新田・岩松勢の武蔵国侵入に対して、持氏は「差遣治部少輔持定」している。持定はこのとき十七歳という若者だったが、父の弾正少弼氏定とともに禅秀勢と鎌倉化粧坂に戦い、父氏定は負傷して藤沢に自害しているという経緯があり、持氏は持定を側近くで重用したのだろう。持定の武蔵派遣に伴い、入間川合戦などで活躍した豊島氏・江戸氏らの「武州南一揆」に出兵を命じている(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)。
ところが、応永26(1419)年5月21日に持定は十八歳の若さで卒去する(『上杉系図』)。その死によるものか、7月までに「恩田美作守、同肥前守等」とみられる人々が陰謀を企てたことが発覚している。ただし「(陰謀之)族、可打出之由、(所有其聞)也、静謐之程、於符内以巡番、可致警固」(応永廿六年七月廿四日「足利持氏御教書写」『三島明神社文書』)と、持氏は「武州南一揆中」に「於符内、以巡番可致警固」を命じている。
「恩田美作守、同肥前守」は武蔵国都築郡恩田郷(横浜市青葉区恩田町)の地頭とみられるが、彼らは「兵庫助憲国并禅秀同意之段露顕」したため、持氏は彼らを鎌倉に召喚して「欲致糾明」しようとしたが、「没落之由所令注進」があった(応永廿六年八月十五日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5594)。彼らは「相語悪党等、出張彼在所」と狼藉を図る様子がうかがえ、持氏は豊嶋氏や江戸氏ら南一揆に守護代(長尾尾張守忠政)に同心して退治するよう命じている(応永廿六年八月十七日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5595)。この騒動はその後「静謐」したが、持氏は再び「武州南一揆中」に「於符内、以巡番可致警固」を命じている(応永廿六年八月廿四日「足利持氏御教書写」『阿伎留神社所蔵三島神社文書』室:1842)。そして、9月10日には恩田勢が再び兵を挙げたことから、南一揆勢に追捕を命じた(応永廿六年九月十日「足利持氏御教書写」『阿伎留神社所蔵三島神社文書』室:1848)。
その後、恩田氏がどうなったのかは伝わっていないが、結局恩田郷に戻ることはないまま禅秀与党に合流して没落したのだろう。
●禅秀の乱後の情勢
応永24年(1417) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月10日 | 石川幹国、宍戸持朝に従って鎌倉雪ノ下を奮闘 | 雪ノ下合戦で禅秀一統自刃 | ||||||
2月初旬 | 石川幹国、鎌倉から常陸国へ (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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2月6日 | 武田信満、木賊山で自刃 (『妙法寺記』) |
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2月7日 | 石川幹国、稲木城攻め (「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536) |
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2月中 | 岩松満純入道、白河辺に遁れている事が判明 (「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596) |
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3月1日 | 持氏、長沼淡路入道に岩松一類の追討を命じる (「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596) |
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3月24日 | 持氏、御所造作奉行梶原美作邸に遷る (『鎌倉大日記』) |
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3月27日 | 将軍義持、白河小峰朝親に岩松一類の追捕を命じる (「細川満元奉書写」『白河結城文書』室:1609) |
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3月末頃 | 岩城・岩崎氏に「佐竹凶徒」追討の御教書が出される | |||||||
4月10日 | 岩城・岩崎氏、陸奥国から常陸国へ進発 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月15日 | 岩城・岩崎氏、瓜連城攻め、長倉常陸介降伏 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月20日頃 | 岩城・岩崎氏、山方城攻め (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月24日 | 岩城・岩崎氏、山方城攻め 〔攻め落とす?〕 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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石川幹国、稲木城攻め (「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536) |
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4月28日 | 持氏、大倉新邸に遷る (『鎌倉大日記』) |
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上杉憲基、関東管領辞任の意向と三島引退 (『鎌倉大日記』) |
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5月9日 | 将軍義持、宇都宮持綱に書状を遣わす (『満済准后日記』) |
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5月下旬 | 宇都宮持綱が上総守護の御吹挙を義持に依頼する (『満済准后日記』) |
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5月27日 | 結城禅基、禅秀与党を西御荘で捕縛して鎌倉へ送致 (「足利持氏御教書案写」『松平基則氏所蔵文書』) |
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5月28日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に披露 (『満済准后日記』) |
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5月29日 | 岩松満純、入間川へ出張 (『喜連川判鑑』) |
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5月中 | 持氏、安保宗繁に岩松勢への対応を命じる (「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525) |
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閏5月7日 | 将軍義持、今川範政へ持氏移徙を賀す (「足利義持御内書案写」『今川家古文書写』) |
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閏5月12日 | 持氏、安保宗繁を賞する (「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525) |
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閏5月13日 | 岩松満純、龍ノ口で誅殺 (『喜連川判鑑』) |
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閏5月24日 | 持氏、生母御料所として上総国千町庄大上郷を宛行う (「足利持氏料所所進状」『上杉文書』神:5528) |
上杉憲基、鎌倉帰還 (生田本『鎌倉大日記』) |
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閏5月25日 | 持氏、上杉憲基に上野、伊豆両国の闕所地を安堵 (「足利持氏所領安堵状(『上杉文書』神:5530) |
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6月30日 | 上杉憲基、管領再任 (生田本『鎌倉大日記』) |
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7月4日 | 将軍義持、上杉憲基に上野、伊豆両国の闕所地を安堵する御教書を下す (「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』) |
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8月3日 | 満済が宇都宮使僧の戒浄の言葉を将軍義持に伝える (「弁阿闍梨重讃売券」『米良文書』) |
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8月7日 | 将軍義持、「上総国御吹挙治定由被仰下」する (『満済准后日記』) |
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8月22日 | 持氏、上杉憲基に被官所領を宛がう (「足利持氏御教書」『上杉家文書』) |
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10月10日頃 | 持氏、京都に使僧の「頌西堂」を京都へ派遣 | |||||||
10月17日 | 持氏、生母御料所として上総国天羽郡内萩生作海郷を宛行う (「上杉憲基施行状」『上杉文書』神:5545)) |
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満済、将軍義持に宇都宮持綱からの注進状(持氏が持宇都宮持綱の上総守護の吹挙を拒絶した旨)を披露 (『満済准后日記』) |
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12月1日 | 足利義量元服 (『看聞日記』) |
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今年中 | 入部した守護武田満春が「地下一族蜂起」により甲斐を追い出される | |||||||
応永25年(1418) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月4日 (公称5日か) |
上杉憲基病死 (『喜連川判鑑』) 「足利義持御教書案」 ※『醍醐寺文書ニ〇函』:室1714では正月5日「房州禅門去正月五日入寂」 |
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2月10日頃 | 武田満春、小笠原政康とともに甲斐再入部 (「足利義持御内書」『小笠原文書』) |
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2月15日 | 武田満春の入部が京都へ報告 (『満済准后日記』) |
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2月21日 | 京都から持氏使僧「頌西堂」が帰途。 上総守護と甲斐国、御料所の件についての義持書状を帯する (『満済准后日記』) |
義持、小笠原政康に満春の甲斐入部を褒する (『満済准后日記』) |
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2月下旬 | 持氏、義持からの御内書を受け取る | |||||||
3月初旬 | 持氏、使僧「日峯和尚」を京都へ遣わし義持御内書への返事を持たせる (『満済准后日記』) |
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3月10日 | 満済、持氏使僧の日峯和尚から「甲斐国、上総国等事」についての返事を義持へ伝える (『満済准后日記』) |
満済、持氏使僧の日峯和尚から「甲斐国、上総国等事」についての返事を義持へ伝える (『満済准后日記』) |
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3月11日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に伝える (『満済准后日記』) |
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4月中旬 | 「上総国狼藉張本人」の挙兵 (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) |
「新田并岩松与類可出張」 (「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562) |
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4月26日 | 持氏、白石彦四郎入道に上総出兵を命じる (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) |
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4月29日 | 武州南一揆に出兵を命じる (「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563) |
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5月初頭 | 桃井宣義と小栗満重の陰謀が発覚 (「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566) |
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5月初旬 | 小栗満重、小栗城へ没落 (『常陸誌料』) |
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5月6日 | 持氏、「上総国畔蒜庄内亀山郷」に禁制 (「足利持氏袖判禁制」『円覚寺文書』神:5564) |
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5月9日 | 一色左近将監、上総国へ向かう予定 (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) ※5月28日に延期 (『喜連川判鑑』) |
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5月10日 | 長沼淡路入道に小栗城攻めを命じる (「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566) |
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5月25日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に披露する (『満済准后日記』) |
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5月28日 | 一色左近将監、上総国へ出立 (『喜連川判鑑』) |
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6月初旬 | 一色左近将監、上総八幡に着陣 |
持氏、将軍嫡子義量の元服祝として、宍戸基家入道を上洛させる |
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常陸鹿島氏上総八幡に合流 (「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737) |
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6月初~中旬? | 一色勢、上総平三城を攻め落とす (「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737) |
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6月13日 | 宍戸満里に小栗城攻めを命じる (「足利持氏御教書写」『一木氏所蔵文書』神:5563) |
宍戸基家入道、入洛して「即日延見、待遇博達」という義持と面会 (『満済准后日記』、『東海璚華集』三敍) |
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7月10日迄 | 小栗満重、降伏 (「藤原定頼書状」『皆川文書』) |
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9月初旬 | 持氏、将軍義持が「御吹挙」した宇都宮持綱の上総守護職を追認 | 持氏、上総守護追認を将軍・宇都宮持綱に伝達か | ||||||
9月15日 | 満済、宇都宮持綱からの持氏が上総守護を追認した件の文書について義持に伝達 (『満済准后日記』) |
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9月16日 | 満済、宇都宮持綱からの持氏による上総守護追認の件について義持に披露 (『満済准后日記』) |
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9月下旬 | 持氏、使僧花宗和尚を上洛させ、三カ条について認可を求める ・宇都宮持綱の上総守護 ・故憲基跡の中分 ・常陸守護佐竹上総の補任不許か |
持氏、使僧花宗和尚を上洛させ、三カ条について認可を求める ・宇都宮持綱の上総守護 ・故憲基跡の中分 ・常陸守護佐竹上総の補任不許か |
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10月10日 | 義持、持氏からの三カ条に返事 ・宇都宮持綱上総守護補任 ・故憲基跡の中分は認めず ・常陸守護佐竹上総の補任不許は認めずか (『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条) |
義持、持氏からの三カ条に返事 ・宇都宮持綱上総守護補任 ・故憲基跡の中分は認めず ・常陸守護佐竹上総の補任不許は認めずか (『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条) |
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10月28日 | 将軍義持、小笠原政康に武田満春への合力を命じる (「足利義持御内書」『東京大学史料編纂所所蔵小笠原文書』室:1774) |
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10月29日 | 持氏、進士重行に三佐古東西村の下地を沙汰付け (「足利持氏御教書」『小川文書』室:1775) |
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応永26年(1419) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月初頭 | 「上総本一揆、重令蜂起」 (『鎌倉大日記』) |
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正月19日 | 木戸懐範、上総攻めの大将となり鎌倉を出立 (『鎌倉大日記』) |
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正月30日以前 | 上杉持定、武蔵国内の地頭に国境を固める旨を伝達 (「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793) |
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2月11日 | 常陸鹿島氏、木戸勢に参加 (「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810) |
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3月3日 | 坂水城の合戦 | |||||||
3月14日 | 将軍義持、小笠原政康に「武田陸奥守」への合力を命じる (「足利義持御内書」『小笠原文書』室:1802) |
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4月25日以前 | 坂水城の「本一揆ノ大将、埴谷小太郎重氏」が降参 (『喜連川判鑑』) |
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4月25日 | 烟田幹胤、坂水攻城の軍忠状をしたためる (「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810) |
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5月6日以前 | 木戸懐範、埴谷重氏を鎌倉に連行 (『喜連川判鑑』) |
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5月6日 | 埴谷重氏、由比浜で処刑 (『喜連川判鑑』) |
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5月8日 | 持氏、木戸懐範からの注進により烟田幹胤を褒す (「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586) |
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5月21日 | 上杉持定、卒去 享年十八 (『上杉系図』) |
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12月15日 | 持氏、守護宇都宮持綱に進士重行に三佐古東西村の下地を沙汰付けを命じる (「足利持氏御教書」『京都大学所蔵古文書集』室:1858) |
応永26(1419)年に入り、禅秀与党の騒乱がやや落ち着いてくると、持氏は各所に天下安全の祈祷を命じている。右大将家法華堂には政所執事(持氏は当時四位であって政所設置の資格を得ていない。鎌倉の政所は京都「将軍家」政所の一機関の名目で置かれていたものか)の二階堂信濃守盛秀を通じて「三ケ日御祈祷」を願い(応永廿五年七月十二日「鎌倉府政所執事奉書」『法華堂文書』神:5590)、上野国長楽寺(応永廿六年七月十七日「足利持氏御教書」『長楽寺文書』神:5591)や鶴岡八幡宮には「天下安全祈祷」(応永廿六年七月十九日「足利持氏御教書」『鶴岡八幡宮文書』神:5592)を命じている。
また、憲基死去後、関東管領が置かれない中で、鎌倉が管轄する関東及び奥州の料所の遵行や打渡がうまく機能せず、今川範政は「出羽国竹嶋庄、安房国群房庄」は「雖被成環補判、未及遵行」ことを歎き、また「相模国出縄郷、常陸国下妻庄内安敷郷」は「半分被渡残」という状況を将軍義持に訴えた。これを受けて義持は10月20日、持氏に「厳密被沙汰付、被代候之者、可為本意」と注意している(応永廿五年十月廿日「足利義持御教書案写」『今川家古文章写』神:5579)。なお、故憲基の養嗣子で家督を継承した「上杉四郎憲実」は、応永26(1419)年8月28日、将軍義持から山内上杉家職の「伊豆、上野両国守護職事」を補任された(応永廿六年八月廿八日「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』室:1843)。
上総国は上総本一揆の兵乱鎮定から一年半も後になって、ようやく守護宇都宮持綱の動きが見えており、応永27(1420)年12月20日、宇都宮持綱が守護代「芳賀右兵衛尉殿」に、醍醐寺地蔵院雑掌からの「上総国飫富社別当職并本納、加納両郷等事」について「去廿四年十二月廿七日 御判之旨」の通り、「恵命法印代官」を退けるよう命じている(応永廿七年十二月廿日「宇都宮持綱遵行状」『尊経閣文庫所蔵文書』室:1917)。
この翌日の応永27(1420)年12月21日、持氏は浄光明寺雑掌が訴えていた浄光明寺(及び末寺)領につき、「任官符宣并京都御成敗、同以前御免状之旨、所被免除也」(応永廿七年十二月廿一日「足利持氏御教書」『浄光明寺文書』室:1919)ことを認め、「為断守護代并検断方綺」った上で、「厳密所有其沙汰」を浄光明寺に約束する。また、「上杉三郎殿」に対し、鎌倉浄光明寺雑掌からの「上総国北山野辺郡内堺郷并鹿見塚、湯井郷、玉泉院末寺粟于郷内真珠寺、同寺領等事」について、「山野辺代官背先例、号惣検断、放入使者於当所、充仰種々課役、致譴責、土民等及牢籠云々、所行之企太難遁其咎、所詮為断向後彼違乱、厳密所有其沙汰也、不日可被註進実否」を命じている(応永廿七年十二月廿一日「足利持氏御教書」『浄光明寺文書』室:1920)。
寺 | 国 | 郡 | 寺領 | 村 |
浄光明寺 | 上総国 | 北山辺郡 | 堺郷 | |
鹿見塚 | ||||
湯井郷 | ||||
真珠寺(玉泉寺末寺) ※上総国北山辺郡粟宇郷内 |
粟宇郷内 | |||
相模国 | 余綾郡 | 北金目郷 | ||
波多野庄 | 平沢村 | |||
大槻村 | ||||
浄業寺 | 大住郡 | 白根庄 | ||
矢田岡郷 | ||||
四宮庄 | 長沼村 | |||
今里村 | ||||
武蔵国 | 男衾郡 | 和田郷 | ||
伊豆国 | 田方郡 | 三津庄 | (四か村) |
これらは、一見上総国への上総守護と鎌倉殿の権限の重なりのように見えるが、この浄光明寺長老宛に出された御教書は、上総国に限らず相模国、武蔵国、伊豆国の浄光明寺領について記されていて、「守護代」とは上総国と断定されているわけではなく、この四か国の「為断守護代并検断方綺」であった。上総国においては「上杉三郎」が上総国内の浄光明寺領及び北山辺郡の真珠寺に介入する鎌倉「山野辺代官(号惣検断)」への対処を命じられており、宇都宮守護代はこの訴訟事には関与していなかったのだろう。
上杉三郎は上総国のみならず、安房国、相模国の寺社領にも対処しており、彼は上総国や安房国などの守護(持氏の吹挙及び京都の補任を受けた正式なもの)などではなく、あくまでも関東進止国内の寺社領訴訟の担当奉行的な立場にあり、定頼の動きは守護とはまったく関係のないものであったと考えられる。
上杉頼成―――+―長尾藤成―+―上杉顕定====上杉氏定――+―上杉持定===上杉定頼
(永嘉門院蔵人)| |(伊予守) +―(弾正少弼)|(治部少輔) (三郎)
| | | |
| | | +―女子
| | | ∥
| | | 今川範政
| | | (上総介)
| | |
| +―小山田頼顕―+―上杉定重――――上杉定頼
| (宮内大輔) |(修理亮) (三郎)
| |
| +―女子
| (惣持院)
| ∥ 【上総守護】
| ∥―――――――上杉氏憲
| ∥ (右衛門佐)
| ∥
| 【上総守護】
| 上杉朝宗
| (修理亮)
| 【武蔵守護代】
+―長尾藤明―――長尾藤景――――長尾氏春
(兵庫助) (兵庫助)
こうした中、持氏は応永27(1420)年に「従三位」の末席に「源持氏左兵衛督」として見える(『公卿補任』応永廿七年)。具体的な日にちは記されていないが、応永27年は12月5日に除目があったため、おそらく持氏もこの日の叙位任官であろう。従三位基氏以来、鎌倉足利家で公卿となった人物は持氏以外に存在せず(将軍義政の庶兄の堀越公方政知は除く)、将軍義持は当時十四歳の嫡子義量を差し置き、猶子持氏を公卿に推挙したことになる。このとき持氏二十三歳であった。規範を守り法に則り理想的な安寧の世を築き上げるという将軍義持の政治姿勢は、父義満のような強引な引給を否定し、我が世子とはいえ幼弱の義量の昇叙を吹挙せず、敍爵(正五位下)から六年間据え置いて、十八歳になって従四位下に吹挙している。
名前 | 誕生 | 元服 | 五位 | 四位 | 三位 |
足利義量 (義持嫡子) |
応永14(1407)年 7月24日 |
応永24(1418)年 12月1日 12歳 |
【元服同日】 応永24(1418)年 12月1日 ・正五位下 ・右近衛中将 12歳 |
応永31(1424)年 正月12日 ・従四位下 18歳 10月13日 ・参議(兼右中将) 応永32(1425)年 正月12日 ・正四位下 19歳 2月27日(薨) 19歳 |
― |
足利持氏 (義持猶子) |
応永5(1398)年 ※『大乗院日記目録』 より逆算 |
応永17(1410)年 12月23日 13歳 |
【元服同日】 応永17(1410)年 12月23日 ・正五位(下か) ・左馬頭 13歳 |
不明 | 応永27(1420)年 12月5日か ・従三位 ・左兵衛督 23歳 |
足利義嗣 (義持弟) |
応永元(1394)年 | 応永15(1408)年 4月25日 15歳 |
応永15(1408)年 3月4日 ・従五位下 3月24日 ・正五位下(越階) ・左馬頭 15歳 |
応永15(1408)年 3月28日 ・従四位下 3月29日 ・左近衛中将 15歳 |
【元服同日】 応永15(1408)年 4月25日 ・従三位 ・参議 15歳 |
二条持基 【参考】 |
明徳元(1390)年 | 応永16(1409)年 12月20日 20歳 |
【元服同日】 応永16(1409)年 12月20日 ・正五位下 12月29日 ・左近衛少将 20歳 |
応永17(1410)年 正月5日 ・従四位下 ・左近衛中将? 4月26日 ・正四位下 (基教⇒持基) 21歳 |
応永17(1410)年 8月5日 ・従三位 ・権中納言 21歳 |
九条満教 【参考】 |
明徳4(1393)年 | 応永11(1404)年 12月15日 12歳 |
【元服同日】 応永11(1404)年 12月15日 ・正五位下 12月25日 ・侍従 12歳 |
応永12(1405)年 正月6日 ・従四位下 3月17日 ・左近衛少将 12月10日 ・右近衛中将 13歳 |
応永14(1407)年 正月6日 ・従三位(越階) 3月24日 ・権中納言 15歳 |
持氏は応永28(1421)年正月、近習の木戸駿河守氏範を「今度使節上洛ハ、去々年鎌倉殿左兵衛督持氏従三位後昇進御礼并去年十月御所様御違例御本復目出、両條聞也」のために上洛させた(『喜連川判鑑』『花営三代記』)。木戸氏範は2月26日に「関東使節木戸駿河守、両御所之懸御目、管領有引道、昭心申次也」(『花営三代記』)とあり、将軍義持と世子義量と対面を果たしている。さらに「於御所、内裏仙洞上臈御参有之、御一献、伊勢守沙汰也」(『花営三代記』)と、政所執事伊勢守貞経の沙汰において三條坊門第に御所や仙洞の上臈衆が招かれて氏範への饗応が行われている。持氏から義持への引出物として「就昇進事、太刀一腰金、馬三疋青鴇毛、糟毛、駁」が進上されている(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)。
この使者となった「木戸駿河守(木戸氏範)」は同族の木戸内匠助範懐らとともに満隆・禅秀方に加担した木戸氏庶流の近習で、持氏が御所から佐助へ逃れた応永23(1416)年10月5日に下野国「大曾郷」を収公された「木戸駿河守」と同一人物であろう(応永廿三年十月五日「足利持氏御下文」『長沼文書』)。その後、禅秀の乱後に木戸範懐らとともに赦されたのだろう。
3月4日にも「関東使節木戸駿河守、御所東向被召、有一献、御相伴両人、管領畠山左衛門督入道、衾二、盃一、自上被下木戸」(『花営三代記』)とあり、三條坊門第の東小御所に召されて饗応を受けている。そして約二か月にわたって在京した氏範は4月末に帰国することとなり、4月28日に将軍義持より持氏への御教書が渡されている。まず、昇進の進物に対する返礼として「太刀一振鮫綵、金襴一端分一枚」が渡された。そして、関東との間に残る強い懸念である下記の二項についての注文が伝えられている。
■将軍義持から持氏に出された注文事(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)
【一】 | 甲州事、申付武田三郎入道之間、悉属無為候処、被下両使之由、其聞候、 事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候 |
【二】 | 常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候、無心元候、 所詮早速被仰付候者、可為本意候 |
この子細については、氏範に口頭で伝えている。
5月初旬頃には木戸氏範は鎌倉へ帰還したと思われ、御所において将軍義持御教書とその言葉を持氏に伝えたのだろう。将軍義持の懸念の一つ、「甲州事、申付武田三郎入道之間、悉属無為候処、被下両使之由、其聞候、事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候」は、故武田信満入道の子で、高野山に逃れていた武田三郎信重入道が守護として入部させようとするも持氏が認知せず、鎌倉から両使を遣わしている現状について、早々に召し返すよう依頼したものである。
応永25(1420)~26(1421)年当時、甲斐国には守護の陸奥守信基がいて、持氏の後ろ盾で甲斐国に入部して権勢を振るった逸見中務丞有直も、将軍義持の要請を受けた鎌倉殿持氏の対応により旧領西郡を抑える程度となっていた。ただし、逸見氏の勢力はまったく減退したわけではなく、応永27(1422)年2月当時、鎌倉殿近習「逸見中務大輔入道」(有直の父世代となる)は、「勝光院殿(足利満兼)御菩提」のために「名越別願寺」の「門前畠等」を寄進することを持氏に依頼している(応永廿七年二月十九日「足利持氏寄進状」『別願寺文書』)ように、逸見氏自体は持氏側近として存在し、有直も持氏与党として甲斐国西郡に蟠踞していたとみられる。その後、持氏が将軍義教から攻められた際には逸見氏も追討対象となり、永享11(1439)年正月27日に「逸見」「同二郎」(『一蓮寺過去帳』)が討死を遂げた。この報告は閏正月13日に「関東逸見伏誅」(『薩戒記』永享十一年閏正月十三日条)として報告され、「逸見伏誅」を受けた幕府の人々は「人々参賀」(『薩戒記』永享十一年閏正月十三日条)、「諸老為関東事参賀」(『蔭涼軒日録』永享十一年閏正月十四日条)というほど悦んでおり、逸見氏(逸見有直か)は持氏に直属する近習(将軍被官の鎌倉伺候人ではなく鎌倉殿被官)の巨頭として認識されていた様子がうかがえる。さらに2月10日に鎌倉永安寺で自刃した際には「逸見甲斐」もまた永安寺で死去している(『一蓮寺過去帳』)。その後の逸見一族は古河公方家(のち小弓公方家を経て喜連川家)の宿臣として命脈を繋ぐこととなる。
武田信基には当時男子がおらず、「右馬助信長ハ甥ノ事也、器用ト申出頭ト申、是ヲ連々名代ニ心懸ラレ候ヘトモ、父ノ安芸守、京鎌倉ニソムカレ候間、タチマチナレハ互ニシンシヤク有、扨又他人ニイカテカ可譲トテ、右馬助信長ノ子息ニ伊豆千代トテ土屋ノ娘ノ腹ノ子有リ、是ヲ猶子トシテ文書重代ノテツキ悉ク渡サレ候、是偏ニ右馬助殿ニ世ヲ任セ給フ迄也」といい(『一本武田系図裏書』)、信基入道は甥の右馬助信長の子、伊豆千代を猶子として文書を譲ったという。この『裏書』の筆者が信長の孫道存であることから、「文書重代ノテツキ」を継承し得る状況にあったか疑問であり、信長に恣意的な事を記している可能性が高いが、守護信基は甥の八郎信長と協調関係にあったことは間違いなさそうである。
その守護たる信基入道であったが、おそらく応永26(1421)年前後には亡くなったと思われ、守護補任のない武田伊豆千代を当主(実父八郎信長が後見)とする甲斐国の政体が敷かれたのだろう。彼らの甲斐における活動拠点ははっきりしないが、故信基の跡を受けていることから、信基と同様に甲南穴山領ではなかろうか。京都からみると彼らは武田家当主ではなく「穴山」氏だったのだろう。
軍記物ながら『鎌倉大草紙』には「信元ノ家来跡部駿河同上野ト申テ甲州ノ守護代預リ一類アマタアリテ何事モ信元ノ旨ヲ背テ横行シケリ、信元一期ノ後、伊豆ノ千代丸ニ跡部ソムキケル」(『鎌倉大草紙』)と見え、信基生前より守護代跡部氏が専横し、後継者の伊豆千代に対しても背反したとする。具体的にこれを証する文書は存在しないが、八郎信長孫の道存が記した中に「跡部駿河守トテ甲斐国ノ守護代ヲアツカリ、身類縁者数多有モノテニ出頭ノ者也、彼人右馬助信長ニ深ク恨ヲ結フ事アリ、然間謀叛ヲ企ツ」(『一本武田系図裏書』)と見えるように、信元の跡を事実上継承した八郎信長と守護代跡部駿河守は激しく対立した様子がうかがえる(ただし両名ともに鎌倉与党ではなく、京都扶持方であるため内部抗争となる)。
なお、跡部氏は信濃国佐久郡跡部郷(佐久市跡部)を名字地とする小笠原氏支流ではあるが、「身類縁者数多有モノ」(『一本武田系図裏書』)とあることから、かなり以前に甲斐国に入部していた氏族とみられる。小笠原政康から付けられたという説もあるが、現実的ではない。やや後年になるが政康末裔の小笠原秀政の家人にも跡部氏は見られず(『小笠原秀政分限帳』)、守護代跡部氏と小笠原政康との関連は考えにくい。
こうした混乱極まる甲斐国は、応永28(1421)年4月までに「武田三郎入道(信重入道)」はすでに甲斐守護であった(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)。しかし、持氏は本来守護の職務であることを「被下両使」て直に裁許し、遵行せしめていた。将軍義持が問題にしたのはこのことで、「被下両使之由、其聞候、 事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)と、これが事実であれば問題なので、両使の召還を行われることを望むとしている。
しかしながら、持氏としては、一向に京都から関東に出仕しようとしない武田信重入道への不審や、故信基入道後に蟠踞する武田八郎信長と守護代跡部駿河守の抗争による甲斐国内の混乱など、管国甲斐国へ介入を行う必要性を感じていたことは想像に難くない。甲斐国への両使派遣は守護不任に伴う政務の停滞を防ぐためにはやむを得ない措置であったろう。将軍義持への従三位昇進御礼の使者派遣を行うなど、持氏としては京都と対立する意思は全くなかったのである。
ところが、武田信長は持氏の意向を受けて甲斐にいたわけではなく、持氏が管国甲斐の直接支配を行うに当たり、信長との間で対立があったのだろう。応永28(1421)年9月、「吉見伊予守、甲州発向」(『鎌倉大日記』)、「甲州武田右馬助信長反逆ノ聞エアリ因玆吉見伊予守ヲ指向ラル、信長出合ヒ対談シテ野心無之旨陳ス、吉見鎌倉二帰ル」(『喜連川判鑑』)とあるように、持氏は信長追討使として吉見伊予守を派遣している。このとき八郎信長は抵抗することなく降伏したことから、吉見伊予守は鎌倉に帰還した。
なお、これとほぼ時を同じくする応永28(1421)年10月9日、下野国佐貫庄で「桃井左馬権頭并小栗輩合戦」があった。下野国の地頭等が彼らの追討を命じられたとみられる。これに応じたひとり佐野帯刀左衛門尉は10月13日、持氏から戦功を賞されている(応永廿八年十月十三日「足利持氏御教書写」『喜連川家文書』「御書案留書」上 室:1942)。
常陸国に関しては、将軍義持は常陸国守護に「佐竹上総入道(与義)」を望んでいる。当時にあっては常陸守護は宗家の佐竹左馬助義憲が守護であった。これは「於常陸国ハ佐竹左馬助ニ為関東相計了、仍又故御所、当御代安堵御判在之、然ヲ佐竹刑部大輔ニ国事可仰付旨連々被仰下了」(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十一日条)と見えるように、佐竹義憲は鹿苑院殿義満、当将軍義持から守護職を安堵されていることがわかる。
佐竹義憲は応永24(1417)年3月10日に下されたと思われる「安保信濃守(安保宗繁)」に「常陸国下妻庄内小嶋郷事」を「還補」する持氏の御下文につき、関東管領「前安房守」の施行状(応永廿四年三月十日「上杉憲基施行状」『安保文書』室:1599)に基づいて、3月23日に「藤原」「兵庫助」をして、「小貫対馬入道殿」「人見雅楽助殿」へ遵行状を下している(応永廿四年三月廿三日「守護遵行状」『安保文書』)。典型的な守護の遵行である。
応永28(1421)年4月28日当時、「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候、無心元候、所詮早速被仰付候者、可為本意候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)と見えるように、持氏は将軍義持や幕閣が望んでいる「佐竹上総入道」を常陸守護とすることへの追認を頑なに拒絶している。
甲斐武田氏も常陸佐竹氏もともに将軍家直属の被官人(京都御扶持之者)とみられるが、武田信重入道は持氏との間に深い繋がりもなければ遺恨もみられず、守護職を拒む理由はない一方、与義入道は持氏が強烈な遺恨を持つ故禅秀入道の女婿であるとともに、佐竹惣領家の左馬助義憲(義人)と嫡庶の違いはあれど同格だったことが峻拒の理由と思われる。義憲は持氏が信頼した故管領憲基の弟であり、持氏としては義憲を仇敵縁者の与義入道を追認する意思はなかったのだろう。
ただ、与義入道自身が持氏に対して直接挑発的なことを行った傍証はない(禅秀の乱でも信頼性に問題の多い『鎌倉大草紙』以外に参戦したことが記されるものはない)。持氏幼少時、応永14(1412)年から翌応永15(1413)年にかけて起こったとされている、上杉家から佐竹惣領家への義憲入嗣に対する稲木・長倉城への籠城事件も、傍証となる周辺氏族の動向や文書、京都及び鎌倉側の史料は皆無であることから、禅秀の乱時の稲木・長倉城籠城戦が混同されたものではなかろうか。そもそも応永14年当時に与義の籠城事件があったとしても、幼い持氏には全く関わりのないことで、これが遺恨となる理由はない。
こうした常陸国守護を巡る問題は、持氏の個人的な感情とは別に、惣領義憲と庶家与義入道の対立として表面化しており、持氏は応永28(1421)年5月初旬頃に受領した将軍義持からの「雖度々申候、未無其儀候、無心元候、所詮早速被仰付候者、可為本意候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)という意思も無視できず、6月25日、「二階堂信濃守殿(二階堂盛秀)」に「佐竹左馬助与庶子等確執事、早完戸備前守相共令下向常州、任仰含之旨、相触面々、属無為之様、可申沙汰」(応永廿八年六月廿五日「足利持氏御教書写」『喜連川文書』(「御書案留書」上)室:1929)を命じている。義持側近でも最上位に位置する二階堂盛秀と常陸国の宍戸持朝(持氏側近として奮迅するが、彼も「京都御扶持之輩」の一人であろう)を両使としており、持氏は義憲と与義入道の対立を解消させ、後年義持に提案することになる「意向に少しでも沿う解決策」を考えていた可能性があろう。
ところが、常陸在国の佐竹与義入道の子息、刑部大輔祐義らは、この持氏の提案をおそらく拒絶した上、「(与義入道の)子息并一族以下御敵等、館籠常州額田城」したとみられる(応永卅年三月「烟田幹胤軍忠状案」『烟田文書』室:2027、2028)。彼らの挙兵は「去々年応永廿八同廿九十一月以来」(応永卅年三月「烟田幹胤軍忠状案」『内閣文庫所蔵烟田文書』)と明記されているように、応永28(1421)年中の事と思われることから、おそらく持氏が両使(二階堂盛秀、宍戸持朝)を遣わしたのちに「館籠常州額田城」したとみられる。持氏はこの額田城攻めに佐竹左馬助義憲を大将として派遣し、烟田幹胤らが従軍している(応永卅年三月「烟田幹胤軍忠状案」『内閣文庫所蔵烟田文書』)。
応永29(1422)年6月には、下野国佐貫庄合戦(前年の応永28年10月9日)に敗れて逐電していた「小栗常陸孫次郎」が旧領小栗城を占拠して挙兵したため、持氏は「上杉三郎(上杉定頼)」を大将として「小栗発向」(『喜連川判鑑』)し、周辺氏族にも派兵の命を下している。『喜連川判鑑』では「八月、小栗満重所領ノ事ニ付テ鎌倉殿ニ恨ヲ含ミ逆心ヲ起ス」とあるように応永29(1422)年8月の挙兵とされているが、小栗合戦は6月初めにはすでに起こっている。この小栗城攻めは常陸の地頭に限らず、下野、武蔵の人々も動員対象であり、6月13日には下総結城氏の一門に包摂されていた「小山左馬助(小山満泰)」も催促され、大将「上杉三郎」と合流して戦功を挙げよと命じられている(応永廿九年六月十三日「足利持氏御教書」『山川光国氏所蔵文書』室:1983)。
小山秀政――小山氏政―+―小山義政―――小山若犬丸【断絶】
(下野守) (左衛門佐)|(下野守)
|
+―女子 +―結城満広 +―結城氏朝
∥ |(中務大輔)|(中務大輔)
∥ | |
∥――――+―小山泰朝―+―小山満泰
結城朝祐――結城直光―――結城基光 (下野守) (左馬助)
(左衛門尉)(中務大輔) (弾正少弼)
常陸国で小栗合戦が発生すると、京都では6月29日、「今日、上椙屋敷ヘ室町殿入御、々引出物三千貫、金鯉、同俎箸、銀御盃等進之、一献廿七献之間、毎献ニ御引出物進之、翌日又越後布車一両、干飯一両進云々、御共申大名共鎧一両、馬一疋引之、上杉初而入申間、如此振舞」(『看聞日記』応永廿九年六月廿九日条)と見える。義持がなぜこの時初めて京都の「越後守護上杉亭」(朝方は「高倉左馬助」(「上椙両家及庶流伝」『系図綜覧二』)、「在京時號高倉殿」(「上杉系図大概」)、「號高倉」(「上杉系図」『諸家系図纂』)と見えることから、高倉に屋敷があったとみられる)を訪れることになったのか、子細は記されていない。しかし、当時の越後守護職は関東管領憲実の兄に当たる上杉民部大輔朝方であることから、憲実から小栗城の騒乱の情勢を受けた朝方が、自らの保身のためか憲実の要請を受けて京都方の怒りを和らげるためかは不明だが、義持ならびに共衆を屋敷に招いて二日に渡る大歓待を行い、領国越後から取り寄せていた大量の引出物を献上し、共衆にはそれぞれ鎧一両、馬一匹を配ったのである。朝方はこの三か月半後の応永29(1422)年10月14日に「於高倉」(「上杉系図」『諸家系図纂』)亡くなるが死因は不明。
常陸国における「京都御扶持之輩」の反抗は、持氏が応永24年に薬師如来に誓った「苟持氏指麾同志之輩、欲誅無道之臣」し「早施逆徒滅亡之戦功」することで「恵光鎮照、関東純熈」(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)という「関東」に今生きる人々の現生利益(関東の安定的な統治であろう)を再確認させたのだろう。応永29(1422)年9月、「檀那大御所源持氏、高滝近江守氏重」の銘で「上総国天羽郡造網神社」に改めて「現世安民所也」を祈願し、「衆人信威、怨敵皆悉失滅、子孫繁昌所也」を祈った(「応永廿九年九月吉日造網神社棟札銘」『富津市三柱神社蔵』室:2001)。額田城(那珂市額田南郷)の佐竹祐義らの籠城については、何らかの形で一旦は収束していた可能性があるが、この頃、再度不穏な動きを見せたのかもしれない。額田城の籠城を「依佐竹上総入道常元隠謀」(応永卅年三月「烟田幹胤軍忠状案」『烟田文書』室:2027、2028)と断じて与義入道の誅殺を手始めに、常陸国で反抗する「京都御扶持之輩」を大規模な軍事作戦で悉く殲滅することを決意したのかもしれない。
応永29(1422)年閏10月3日、持氏は「佐竹上総入道御不審、為大将上杉淡路守発向、上総入道於比企谷法華堂自害」(『鎌倉大日記』)とあるように、「佐竹上総入道」を鎌倉の館(鎌倉市大町3丁目)に攻めた。これは「佐竹上総入道不事問被誅罰」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)と京都では受け止められているように、持氏の前触れなき襲撃とみられる。館を急襲された与義入道は為す術なく、館の裏山を登って反対側にある比企谷法華堂(妙本寺)へ遁れたと思われるが、悟って自刃した。享年不祥。なお、その合戦の日は『鎌倉大草紙』では「十月三日」、『喜連川判鑑』では「閏十月十三日」となっている。与義入道に従った十二名の名も真偽はともかく伝承されている(『比企谷本行院日観上人記』)。
■与義入道以下十三人(『比企谷本行院日観上人記』)
佐竹常源(与義入道) | 佐竹弥三郎 | 佐竹弥四郎 | 佐竹治部少輔 | 佐竹常陸三郎 |
額田三郎五郎 | 松本五郎二郎 | 根津新左衛門尉 | 関七郎次郎 | 進藤三郎左衛門尉 |
大足駿河次郎 | 海上与一郎 | 粟飯原三郎四郎 |
与義入道誅殺の報告は、持氏が円覚寺正続院主の学海皈才を遣わして伝えたものと思われる(ただし義持との対面はなされなかった)。義持が満済に「佐竹上総入道、為関東沙汰被誅也云々、言語道断、粗忽沙汰歟由」(『満済准后日記』応永二十九年十一月二日条)を伝えたのが11月2日であることから、学海皈才が鎌倉を発したのは与義入道殺害から半月程度のちの閏10月下旬であろう。
与義入道を討った持氏は、常陸国に駐屯中の佐竹左馬助義憲に「佐竹上総入道常元之子共以下庶子等、館籠常州額田城」(応永卅年三月「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2029)の攻撃を命じたとみられ、11月には義憲を大将とする常陸勢(鹿島党の烟田遠江守幹胤や行方党の鳥名木国義等)が額田城を攻め立てた。この額田城合戦は、翌応永30(1423)年3月21日まで続いている(応永卅年三月「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2029)。
額田城での佐竹祐義と佐竹義憲の交戦が続く中、応永30(1423)年正月19日には小栗城でも合戦があり、鎌倉方の「小山左馬助(小山満泰)」は「於小栗城討執凶徒数輩之、家人或被疵、或討死之条、所感思召也」と賞されている(応永卅年正月廿二日「足利持氏御教書」『山川光国氏所蔵文書』室:2017)。
将軍義持はこうした常陸国での被官と鎌倉殿方の騒乱を注視しつつも、軍事的な措置はこの段階では行うことはなかった。「佐竹上総入道不事問被誅罰」があっても、「雖然于今御堪忍」という態度を貫いていたのである(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。一方で、「真壁安芸守秀幹」が申請していた「常陸国真壁郡内御庄郷々本木、安部田、大曽祢、伊々田、北小幡、南小幡、大国玉、竹来等事」について2月16日に袖判御教書で安堵(応永卅年二月十六日「足利義持袖判御教書」『真壁文書』:『真壁町史 史料編1』24)しているように、伝統的な在関東の「京都御扶持之輩」への所領の保証を行い、持氏からの介入に備えている。
2月15日には「常州坂戸合戦」があり、「宍戸弥五郎(宍戸満里)」が持氏方として奮戦している(応永卅年三月八日「足利持氏御教書写」『水府志料』二 室:2021)。「坂戸(桜川市西飯岡)」は「京都御料所とも成、関東御支配候へ共、当庄之事ハ内裏御料所と申、于今無相違候間、京都へ一注進申候ハてハ、代官之身と而、不可有渡申事之由、堅申候」(年不詳十二月一日「沙弥通積書状」『塙不二丸氏所蔵文書』「茨城県史料中世Ⅰ:九六」)という、京都由緒の「諸国御料所」のひとつ「中郡庄」に含まれる地であり、この坂戸合戦には小栗城攻めの大将「上杉三郎定頼」の麾下に属する宍戸弥五郎が奮闘していることから、持氏勢が戦った相手は小栗満重勢とみられ、小栗庄東隣の御料所内に展開していた様子がうかがえる。
2月末頃には、持氏は「武州南一揆中」に「致国警固」を指示するなど(応永卅年三月十二日「足利持氏カ御教書写」『阿伎留神社所蔵三島明神文書』)、常陸のみならず武蔵国においても警戒を強めている。
こうした中、京都では3月9日に「御方御所様将軍宣下事、可為来十八日由」が内々に決定された(『満済准后日記』応永卅年三月九日条)。この日、「御所様、渡御越後守護上杉亭、御代初申入分也」とみえるが、ここに見える「御所様」は通常であれば将軍義持であるが、「御方御所(義量)」の将軍宣下の日取りの記事に続けて記されていることや「御代初申入分」とあることから、この「御所様」は義量の事で、本来は義量の将軍補任後に御代初としての来訪が申請されていたが、何らかの事情(常陸国の佐竹義憲と佐竹祐義の合戦、小栗合戦など上杉家と関わりの深い合戦を嫌ったためか)で補任前の渡御になったものではなかろうか。このときの「越後守護上杉」は、故前守護朝方の子幸龍丸(のち民部大輔房朝)は当時三歳であり、守護に補任されることは考えにくい。しかし「御所様」訪問時に「越後守護上杉」が在京だったことは確実であることから、幸龍丸を後見する上杉家の人物が守護であったと考えられる。当該人物は記載されていないが、翌応永31(1424)年12月26日、「上杉失面目、今日没落、前上杉子息四歳為宗領之間、為取立管領奪取云々、依之有騒動前管領細川ハ上杉贔屓、当管領畠山ハ前上杉合力、両方確執云々、委細不能記」(『看聞日記』応永卅一年十二月廿六日条)とあることから、前守護朝方の最近親者でかつ朝方嫡子を任され得る人物であることから、該当者は朝方弟の七郎頼方のみとなる(弟の関東管領憲実はまだ十代後半、その弟の清方、重方はさらに幼少であることを考えれば、憲実兄の頼方以外に該当者はいない)。前管領細川満元入道は越後守護「上杉」を推し、管領畠山満家入道は「前上杉(上杉朝方)」と結んで細川満元入道及び「上杉」と対立関係にあったことがわかる。現管領の畠山満家入道は「上杉」のもとにいた「前上杉子息四歳」が越後上杉家の「宗領(惣領)」であることから、彼を取り立てるために奪い取った。この強引なやり方に「上杉(頼方)」は面目を失い、京都を脱出している。
さて、額田城をめぐる佐竹祐義と佐竹義憲の合戦は、応永30(1423)年3月21日に収束した(応永卅年三月「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2029)。額田城の陥落か和平かは不明。
それから1、2か月ほど経った5月中旬、持氏は評定で小栗攻めに親征する意思を示したのだろう。額田城の合戦が一旦終了したことで、持氏は派兵から一年近く経っても落とせない小栗城に、自ら陣頭指揮を執ることを決意したのだろう。評定の結果、持氏出立の時期は「五月廿五日八日間」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)と定められたようである。これに対し、関東管領憲実は諫めて押し留めようとしたのだろう。しかし当時十四歳程度であった憲実が決意の二十六歳を抑止することは叶わず、憲実は帰邸後に武蔵守護代の長尾尾張守忠政を召すと、畠山修理大夫満慶入道の被官人で足利庄代官の神保出雲守慶久に持氏の出陣計画を伝えるよう指示したとみられる。長尾忠政は早速「内々可被注進申旨、長尾尾張守書状お神保方へ遣之」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)し、これを足利庄で受けた神保慶久は「其状案文ヲ相副え注進」て京都の主、畠山修理大夫入道へ使者を遣わしたのであった。畠山修理大夫入道は6月4日までに神保使者から注進状を受け取ると、御所に「畠山修理大夫、自足利庄代官神保方注進トテ持参」した。
長尾忠政状案と慶久注進状の内容は「五月廿五日八日間、必為常陸小栗以下悪党退治、武蔵辺マテ可有御進発」というもので、持氏自身が親征するというこれまでとは次元を超えた対応が必要になる由々しき事態であった。
新田義兼―+―新田義房
(大炊助) |(蔵人)
|
+―女子 +―岩松時兼――岩松経兼――岩松政経―+―岩松直国
足利義兼 ∥ |(蔵人太郎)(五郎) (下野太郎)|(治部少輔)
(上総介) ∥ | |
∥ ∥―――+―田中時朝 +―岩松経家
∥――――――足利義純 (次郎) (兵部権大輔)
∥ (遠江守) 【関東執事】
遊女 ∥―――――畠山泰国――畠山時国――畠山貞国―――畠山家国――+―畠山国清
∥ (上総介) (阿波守) (兵部丞) (尾張守) |(左近将監)
∥ | 【管領】 【管領】
北条時政―――女子 +―畠山義深――畠山基国――+―畠山満家――畠山持国
(遠江守) ∥ (尾張守) (右衛門権佐)|(尾張守) (尾張守)
∥ |
∥―――――畠山重保 +―畠山満慶
畠山重忠 (六郎) (修理大夫)
(次郎)
さらに同じ頃、宇都宮持綱からも持氏親征の計画が京都に届けられたとみられる。当時、持綱が上総国守護だったかは不明だが、当時の持綱の活動は宇都宮近辺で見られることから、すでに上総守護は解替(または辞職)され、鎌倉から宇都宮へ戻っていた可能性が高い。その上で、持氏から小栗出兵の催促を受けていたのではなかろうか。持綱はこれについて京都に使者を遣わし、慣例通り持氏の下知に従うべきかを問い合わせたとみられる。その持綱使者が京都についたのは、後に義持入道が持綱に緊急的に返事を送った対応から考えて、6月4日から5日早朝であろう。
6月5日、義持入道(4月25日出家)は、相国寺雲頂院の「太清和尚卅三回遠忌」に列席したのち御所に戻ると、申次の赤松越後守持貞を満済のもとへ遣わし「可被仰子細在之、可参申入旨」を伝えた(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)。これを受けて御所に参じた満済は、以下のような関東の情勢について説明を受けている。
応永30年6月5日の義持入道から満済への報告事 | 具体的な内容 |
関東之儀、毎時物騒歟、剰武蔵国ヘ可有進発由、其聞有也 | 持氏親征の計画と期日についての情報(上杉憲実⇒長尾忠政⇒神保慶久⇒畠山満慶⇒義持)があったことの報告。 |
随而去年以来関東使者正続院々主学海和尚及当年未無御対面、今日已被帰国了 | 円覚寺正続院主の学海は去年から持氏使者として上洛し(佐竹与義入道を討った弁明の使者か)、対面の条件などが詰められていたと思われるが、持氏親征の情報により、御破算となり帰国させた。 |
宇都宮不可隨関東成敗由可被下御内書、相副予状、急可下遣之由 | 宇都宮持綱から、持氏の小栗親征で持氏下知に従うべきかどうかの問い合わせの返事を、持氏御内書とともに満済の副状をつけて急ぎ持綱へ下すべしという内容。 |
宇都宮持綱からの問い合わせについては、「不可随関東成敗由」とし、義持入道の御内書に加えて満済の副状も付けるという厳重な扱いの上「急可下遣」という緊急措置が取られた。これは持氏が親征すると設定した5月25日から8日間(5月26日~6月4日)がすでに過ぎてしまっていることが挙げられるか。
この急派された義持使者が宇都宮へ到着したのは6月中旬であろう。持綱は義持御内書と満済副状を受けると、「宇都宮、依京都御左右可進退由申入之也」(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)という返書をしたため、さらに関東の情勢を子細に記して「宇都宮使者僧白久但馬入道息云々名字永訴」を京都へ遣わした(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)。ここに尊氏以来「京都御扶持之輩」である大名宇都宮家は、関東の下知に従うべからずという御内書に従い、将軍の命を奉じる旨を明確にしたのである。よって、持氏には小栗攻めの要請に応じない旨を返答したのであろう。こうして持綱と持氏は敵対関係となった(宇都宮家の系譜によれば、下記の通り三家や四職の家との血縁がみられるが、宇都宮氏の系譜は遠祖宗円の出自や伝承も含めて歴代当主を相当誇張して記録している上に、存在が認められない「千葉介宗胤」「大掾行方重幹」「真壁六郎氏幹」が記されていることから考えて、宇都宮氏の系譜に記される事項の信頼性は低いと言わざるを得ない。ただし、宇都宮氏の思想が京都に重きを置いていた様子がうかがえる)。
また、同日には「依鎌倉殿、去年佐竹上総入道、京都異他御扶持處、不事向遣大勢、被切腹了、其後重畳関東御振舞不儀」という理由で、「常陸国守護職佐竹刑部大輔佐義ニ被宛行御判被出之、甲斐国竹田守護職拝領、御判同前」とあるように、「此両国先々関東進止」の常陸国守護と甲斐国守護を持氏の追認を得ないまま補任の御教書を下した(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)。
大掾重幹
(行方権守)
∥――――――真壁氏幹
+―宇都宮貞綱――宇都宮公綱―――女子 (六郎)
|(下野守) (左馬権頭)
| ∥ +―一色義貫
| ∥ |(修理大夫)
| ∥ |
| ∥ 一色満範―+―女子
| ∥ (右京大夫) ∥
| ∥ ∥――――――宇都宮持綱
| ∥ ∥ (右馬頭)
| ∥ ∥ ∥
+―宇都宮泰宗――∥―宇都宮時景―宇都宮泰藤――宇都宮氏家――武茂綱家 ∥――――――宇都宮等綱
(常陸介) ∥(美作守) (左近将監) ∥
∥ ∥
∥ +―赤松義則―――赤松満祐 ∥
∥ |(左京大夫) (左京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 赤松則祐―+―女子 ∥
∥ (律師) ∥――――――細川満元 ∥
∥ ∥ (右京大夫) ∥
∥ +―細川頼元 ∥
∥ |(右京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 細川頼春―+―女子 ∥
∥ (右京大夫) ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥―――――――宇都宮氏綱 ∥――――――宇都宮満綱――女子
∥ (下野守) ∥ (下野守)
∥ ∥ ∥
千葉介宗胤――女子 ∥――――――宇都宮基綱
∥ (下野守)
足利高経――+―女子
(尾張守) |
|
+―斯波義将―――斯波義重―――斯波義淳
(右衛門督) (右衛門督) (左兵衛督)
なお、宇都宮出立時には白久永訴は父の「宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)とともに、越後国を経由して上洛する途に就いている。その上洛ルートは推測だが、宇都宮氏が支配(長沼淡路入道との相論地)する南会津南山三依郷(日光市上三依)を通って南会津南山の川筋を遡りながら魚沼郡へ抜ける道であったと思われる。その途次には宇都宮氏と対立関係にあった長沼淡路入道の所領があり、この手前で二人は分かれて進発した可能性がある。そして「■月、宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道、京都江為使懸南山内伊北罷上之間、搦捕討之」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)とあるように、父の白久但馬入道は伊北(南会津郡只見町)で長沼勢に捕縛され殺害された。なお、白久入道が殺害された月ははっきりしないが、北国街道を目指すルートや応永30年11月以前の事であることを考えると、この時の事件と推測できる。
一方、「宇都宮使者僧白久但馬入道息云々名字永訴」は北国経由で無事に醍醐まで到達し、7月4日朝、「宇都宮注進状」を満済のもとに持参した。即日満済は将軍に宇都宮状を届け、義持入道は「折節使者御悦喜」と感じている(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)、宇都宮持綱への書状が間に合ったことや、持綱の対応に歓喜している様子がうかがえる。
但馬入道息僧永訴が述べたところによると、「去月十一日、国お立テ廿余日北国ヲ経テ参着云々、鎌倉殿、未武蔵二御座」と見え(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)、6月11日の段階で持氏は「未ダ武蔵に御座サズト」あるように、武蔵国に御座していなかったことがわかる。宇都宮持綱や那須氏らの動向が不明で、予定の調整が難航した可能性があろう。軍勢を動かした微証がみられるのは、6月25日に「大蔵稲荷社領所々」へ出した「軍勢甲乙人等不可致濫妨狼藉」を命じた禁制が初見である(応永卅年六月廿五日「足利持氏袖判禁制写」『鶴岡神主家伝文書』室:2044)。持氏はこの稲荷社に6月17日、「凶徒退治祈祷事、近日殊可致精誠」を指示している(応永卅年六月十七日「足利持氏御教書」『鶴岡八幡宮文書』室:2043)。これらのことから鎌倉から兵士が出陣したのは6月下旬以降となろう。持氏の鎌倉出立に際しては「陰陽頭撰吉日進時、五日モ十日モ前ニ御陣奉行之右筆罷立、其国之守護代令同道寺家ニテモ誘申、御陣奉行ハ其侭待可申」(『鎌倉年中行事』)という先例が用いられたのだろう。6月20日頃には「管領為大将御発向」(応永卅年十一月廿八日「鳥名木国義軍忠状封書裏書」『鳥名木文書』室:2069)して古河(古河市)に在陣していることから、管領上杉憲実の出陣が持氏の出陣の時期と誤解されていた可能性があろう。持氏がいつ鎌倉を出立したのか具体的な日付は不明であるが、陰陽頭によって吉日が選ばれ、持氏は甲冑を著し弓を手挟み征矢を帯する具足姿で鎌倉を出立したとみられる(『鎌倉年中行事』「公方様御発向事管領為始宿」)。出征ルートは御所から小袋坂を経て鎌倉を出境し、山内を経由して「鼬河」(横浜市栄区笠間)で「御晝之休、有御酒三献御湯漬参」(『鎌倉年中行事』「公方様御発向事管領為始宿」)したと思われる。昼憩の際に武装を解いて「御小具ニ」なり、その後北上して「武蔵之府中高安寺へ御着陣之時、又御具足ヲ召」して再び具足姿となっている(『鎌倉年中行事』「公方様御発向事管領為始宿」)。持氏がその後国府から出征したかは定かではない。
さて、京都に「宇都宮注進状」が届いた翌日の7月5日早朝、満済は義持入道に召されて室町邸に参上した。満済は当時義持入道から頻繁に召されていることから、室町邸に隣接する醍醐寺の洛中別坊法身院門跡に居住していたと思われる。満済が召されたのは「就関東事」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)であり、前日の「宇都宮注進状」によってもたらされた様々な情報から、管領以下との評定に出席と助言を求めたものとみられる。満済は「畠山修理大夫入道令同道罷向管領亭」とあるように、室町邸から神保慶久の主・畠山修理大夫満慶入道とともに管領畠山左衛門督入道道端(満慶の兄満家)の屋敷を訪れている。
管領亭には「諸大名等悉召集、仰趣申聞」とみえるように、主要な在京大名が召し集められており、満済は召集の趣旨(関東の問題)の伝達と、「面々意見通可参申入由」を差配するよう指示されている(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。満済はあくまでも一介の僧侶であることから「為不相応」と認識しているが、義持入道の仰せにより参じている。
応永30年7月5日管領畠山満家入道亭に召集された人 |
三宝院満済 |
畠山修理大夫入道(畠山満慶) |
細川右京大夫(細川満元) |
武衞(斯波義淳) |
山名(山名時熙) |
赤松(赤松義則) |
一色(一色義貫) |
今川駿河守護(今川範政) |
【依所労不参】大内入道(大内満世) |
管領亭に招集された人々に対して、義持の仰せが開陳され、諸大名の意見が求められた。
宇都宮持綱がもたらした常陸国の情報は、持氏が「上総入道息共并京都様御扶持大掾、真壁以下者共悉為令退治」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)に、みずから出陣するということであった。また、持綱書状では持氏が鎌倉を進発して武蔵国へと向かったのは5月28日であるという。『鎌倉大日記』にも「小栗孫五郎平満重企野心、聞持氏、五月廿八日鎌倉御動座野州結城」(『鎌倉大草紙』)とみえるが、前述の通り、使僧白久永訴が宇都宮を出立した6月11日時点で持氏はまだ武蔵国には来ていないと述べている。5月28日当時、「武蔵国白旗一揆 別符尾帳太郎幸忠」もまた持氏の命に応じて「小栗常陸孫次郎満重御退治」に「太田庄罷着」いているが(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)、その後「大将結城仁御在陣」を聞いて6月8日に「彼御陣江馳参」じているように(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)、結城在陣の「大将」上杉三郎定頼に参じていることからも、この時点での持氏の武蔵動座は確認できない。
このときの義持の「仰趣」は、「今度関東振舞以外事共也」ということに集約されているが、以下のようにこのきっかけの要因については、義持自身も反省する点があったことを述べている。
これまでも持氏は小栗城攻めに上杉三郎勢を派遣し、常陸国のみならず近隣氏族にも軍勢催促をかけるなど、大規模な軍事行動を行っていたが、義持は快く思わないものの事実上静観していた。小栗の騒乱は、関東御奉公を行うべき小栗満重が桃井宣義入道の「隠謀」に加わったことが最大の発生原因であり、持氏の軍事行動はその後も一貫して「関東の治安や政務を乱す人々」の追捕のみなのである(その治安を乱す人々が関東在住の京都直臣が多かったことで京都との軋轢となった)。持氏は義持が常陸国守護に推していた佐竹与義入道を応永29(1422)年閏10月3日に「不事問被誅罰」したが、義持はこれも含めて「雖然于今御堪忍」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)と、強く咎め立てをしなかった。将軍義持はこの自身の甘い対応が「結句、上総入道息共并京都様御扶持大掾、真壁以下者共悉為令退治、五月廿八日鎌倉殿已進発武州」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)という結果を招いたことを反省している。
常陸大掾氏系図
佐竹与義
(上総介)
∥
+―女子
|
上杉氏憲――+―女子
(禅秀入道) ∥
∥
平高幹―――――平詮幹―――+―平満幹
(常陸大掾) (常陸大掾) |(常陸大掾)
|
+―平秀幹―――平頼幹
(常陸大掾)
真壁氏系図
真壁顕幹――+―真壁秀幹――+―真壁慶幹
(沙弥聖賢) |(安芸守) |(次郎)
| |
| +―真壁氏幹
| (修理亮)
|
+―真壁景幹――――真壁朝幹――真壁尚幹――真壁治幹
|(二郎?) (安芸守) (安芸守) (安芸守)
|
+―真壁泰幹
(右京亮)
ただ、義持は小栗城が攻められながらも、なおも「自京都様ハ御中違之儀、無左右不被仰出」という信念を貫き、関東との対立を避けるべく「猶今日長老蘭室和尚ヲ被下関東事、子細可被尋究由」ことを決めたが、「能々御思案處、於今ハ可為無益歟」と思い直していることを人々に伝え、評定の場において「此條々可為何様哉、宜被申意見」ことを指示した(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。その思い直している理由と諸大名の返事は下記の通り。
思い直しの理由 | 管領以下諸大名の御返事(一同申) | |
(1) | 同篇御返事可被申歟、已ニ及進発嗷々沙汰上ハ不可及被尋子細候歟由被思食 | 上意趣畏被仰下、蘭室和尚可被下事、如上意於今ハ更不可有其詮、無益事也 |
(2) | 京都御扶持者共事、於今ハ更不可有御捨、可被加御扶持者也 | 関東ニ京方申入者共方々ヘ被成御教書、堅可被加御扶持條、殊可然 |
満済は管領以下の返事を持って義持のもとへ帰参し、この旨を申し入れると、ほぼ義持の御本意と同じであった。しかし、「蘭室和尚下向事ハ面々二兼御尋事也、然ハ其時無益由、何ト不被申哉、只今ノ意見モ若猶相残事もやと御不審千万也、重猶可相尋」との不満を伝えるよう満済に指示し、再度管領邸の評定に諮ったが、一同の答申は同じであった(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。このためこれ以上の申し入れは不要として、満済は管領亭を退出しており、御所に報告したとみられる。
同7月5日中に、義持は管領亭評定の答申に基づいて蘭室妙薫和尚の関東下向を中止し、京都御扶持者への援助を決定。7月10日に伏見の貞成王のもとに大光明寺(相国寺門前町)に住む弟の松崖洪蔭(天竜寺蔵主)がもたらしたと思われる話では、「室町殿与関東有不快之、於今被敵対申云々、仍大名七頭勘解由小路武衞一色以下可進発之由有沙汰、天下大乱就惣別驚入者也」(『看聞日記』応永卅年七月十日条)とあるように、軍勢の派遣も決定されたと報告されている。
また義持は、持氏の追認を得ずに「結城上野介光秀、下野国守護職可被仰付」(『満済准后日記』応永卅年七月十日条)たり、甲斐国守護職(6月5日に常陸守護佐竹祐義とともに持氏追認のないまま守護補任)の「刑部大輔光増(武田信重入道)」については「武田伊豆守、武田彦六、武田右馬助、武田兵庫助、武田修理亮、武田治部少輔、武田左馬助、武田兵部少輔、武田修理亮入道」の武田一族に支援を命じている(応永卅年七月五日「昔御内書符案」『大館記』室:2048)。この時点で関東進止国における京都直任(持氏の追認を得ない守護補任)の守護は、常陸国(佐竹祐義)、甲斐国(武田信重入道)、下野国(結城光秀)の三名を数えた。なお結城光秀については出自等不明であるが、白河結城氏にみられる官途「上野介」を称していることから、白河結城氏の人物か。
武田信武―+―武田信成――+―武田信春―+―武田信満―+―武田信重
(陸奥守) |(刑部大輔) |(陸奥守) |(安芸守) |(刑部大輔)
| | | |
| +―布施満春 | +―武田信長
| (彦六) | |(右馬助)
| | |
| | +―武田信康
| | |(兵庫助)
| | |
| | +―今井信景
| | |(左馬助)
| | |
| | +―巨勢村信賢
| | |(宮内大輔)
| | |
| | +―倉科信広
| | |(治部少輔)
| | |
| +―吉田成春 +―山宮信安
| |(刑部大輔) (民部少輔)
| |
| +―穴山満春===武田伊豆千代
| |(修理大夫)
| |
| +―下条信継
| (伊豆守)
|
+―武田氏信――――武田信在―――武田信守
|(伊豆守) (伊豆守) (伊豆守)
|
+―武田公信――――武田武明―――武田満信
(薩摩守) (兵部少輔) (兵庫頭)
管領邸における評定結果に基づき、「宇都宮、結城上野介方へ御内書、今日御出間、則使者僧ニ渡遣、及晩陰間今日門出計也、来八日可下向由申付」ている(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。義持は宇都宮持綱への返書と結城上野介光秀を下野守護に補任する御内書を認めると、使者僧に託し、7月8日に出京するよう指示した。
また、管領亭評定ののち、具体的な関東への対応策が室町殿で評定されたようである。おそらく7月7日に開かれたものであろう(『看聞日記』では5日の評定の情報が11日に伏見に届けられているので、7日の評定の情報が13日に届けられたのだろう。管領奉書が出されたのが7日であることからも想定できる)。この評定では「有京都御扶持」の「佐竹刑部大輔、常陸大掾、小栗常陸介、真壁安芸守等」を追討のために「関東様御発向」という忌々しき事態を受け、7月7日、管領「沙弥(畠山満家入道道端)」は、信濃国や関東の地頭らに佐竹や小栗らに「早為彼等合力、相催随遂与力人等」し、持氏を「可令誅罰」ことを命じる奉書を下した(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』室:2050、2051)。そして、京都からは「細川刑部少輔并小笠原右馬助」ら「甲斐、信乃、駿河討手共」(『花営三代記』応永卅一年二月五日条)が派遣されている。ただし、13日に伏見の貞成王のもとに伝わった話では「関東討手下向事、室町殿諸大名集有評定、一同難儀之由申、仍未定」(『看聞日記』応永卅年七月十三日条)とあり、諸大名(管領以下の首脳部であろう)は関東下向に乗り気ではなかった様子がうかがえるが、結局「京都御扶持之輩」を扶助するために、同日に関東出兵が決定され、前述の通り管領奉書が出されている。
この頃の関東の情勢は、結城城の上杉三郎定頼のもとに軍勢が集まりつつあり、6月8日に結城城に入った武蔵国白旗一揆の別符尾張太郎幸忠は、小栗城を攻めるべく6月17日に「伊佐御陣」に加わり、6月24日に小栗城に「近陣」して「当日於敵陣取、終日箭軍」し、翌6月25日には「致合戦」し「東戸張二重焼破、自身疵右肩」し、その後は「日々矢軍無退転」(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)という。また、三河国池鯉鮒神社神主の永見孫次郎家貞の次男・永見与一郎輔貞は「応永三十年癸卯五月廿八日、総州結城合戦之節、属一色左近将監」(「永見氏家譜」『知立神社古文書』)と見える。一色左近将監は上総本一揆平定時の大将一色左近将監と同一人物と思われ、この系譜の伝が事実であれば(「永見氏家譜」の付記は御教書等の抄の可能性が高い)、一色氏所縁の三河国から関東一色氏のもとに下向していたことになる。
また、6月20日に常陸国の「鹿島烟田遠江守幹胤」が「常州小栗孫次郎年来館籠、隠謀露顕」のため、「古河御陣馳参」じている(応永卅年八月日「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』室:2070)。この6日後の6月26日には「行方鳥名木右馬助国義」もまた古河陣に参陣している(応永卅年八月日「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2069)。この古河陣には関東管領の上杉七郎憲実が「為大将御発向」しており、彼は結城城の上杉三郎定頼と連携していたのだろう。
6月25日には「小栗城へ結城、小山以下大勢寄懸、終日相戦、寄手八十余人於当座被打、手負不知其員、城衆ハ只一人被打」(『満済准后日記』応永卅年七月十二日条)とあり、小栗城に結城中務大輔氏朝と小山左馬助満泰の兄弟が攻め寄せている。ただし、小貝川と城下の施設群に取り囲まれた堅城小栗城を攻めあぐねたようで八十人が討死を遂げ、負傷者は数知れないほどの敗戦となっている。これに対して小栗城兵の被害は一人の討死であったという。「宇都宮持綱、桃井下野守、佐々木隠岐入道与力シ、結城ノ城ニ籠ル、岩松治部大輔カ残党モ与ス」(『喜連川判鑑』)とあり、宇都宮持綱以下の人々が小栗城(「結城ノ城」とあるが、後述の通り結城城は寄手の拠点であり、小栗城の誤記だろう)に籠って激しく抵抗した様子がうかがえる。
これら一連の戦いは、小栗城に籠城していた京方の一人、常陸大掾満幹が7月1日付の注進状で京都に伝えている。この満幹使者は7月12日、御所に到着し、「常陸大丞注進、今月一日々付到来云々、案文加一見了」(『満済准后日記』応永卅年七月十二日条)と、当時醍醐寺にいた満済には写しが届けられている。
大掾満幹が小栗城で注進状を認めた7月1日、古河の管領憲実が「小栗御進発」した際(応永卅年八月日「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2069)、烟田幹胤は「結城江御屋形御共申」した。7月5日には「伊佐江御共申」し、7月8日に「小栗江御迫候」したという具体的な日程がみえるため(応永卅年八月日「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』室:2070)、憲実は小栗城へ向かう前にまず結城城で上杉定頼と合流したのち、伊佐城(筑西市中舘)に進み、小栗城をうかがったことがわかる。小栗城では烟田幹胤や鳥名木国義ら常陸平氏勢が「日々矢戦」している。
その頃京都では、7月13日早朝に醍醐寺に義持からの使者が到来し満済は出京した。このとき義持は等持寺に渡御しており、還御後に御所に招かれて「下野国等委細猶被仰旨在之、宝篋印タラニ可書進由承候了、及晩帰寺」(『満済准后日記』応永卅年七月十三日条)とあり、下野国や常陸国での騒擾について満済に言うべきことがあった様子がうかがえる。また、宝筐院陀羅尼経の書進も命じられ、晩にようやく醍醐寺へと帰還している。
7月18日、義持入道は満済に「自今日関東御祈六字護摩別而沙汰之」を命じ(『満済准后日記』応永卅年七月十三日条)、関東調伏の祈祷を行わせている。とくに「人形作法等別而沙汰之了」と見え、持氏自身を調伏の対象としていたと推測される。義持は関東の騒乱鎮定に真剣であり、7月22日には自ら石清水八幡宮へ籠り、29日までの七日間の修法を行っている。義持入道がここまでの行動をしているのは、「聞関東事、已有合戦」(『看聞日記』応永卅年七月廿三日条)という状況を踏まえたものであろう。8月初旬、「関東討手大将進発治定也」し、8月8日に伏見の貞成王に報告された(『看聞日記』応永卅年八月八日条)。貞成王に伝えたのは貞成王近侍の世尊寺行豊(貞成王又従弟)と思われ、この日、義持入道は「行豊朝臣御旗銘事、被仰飯尾善左衛門尉為御使、旗二流持参可染筆之由、被仰云々、已厳重事歟」(『看聞日記』応永卅年八月八日条)と、世尊寺流を伝える行豊を以て旗の文字を書かせるべく伏見の飯尾善左衛門尉を遣わしている。飯尾善左衛門尉は旗を「持参」とあるが、これは誤伝で、翌8月9日、行豊は「御旗銘為書出京」している(『看聞日記』応永卅年八月九日条)。
8月9日、京都において「御旗銘書事、加持事、大将軍賜事三ケ条、陰陽師勘進、今日吉日」といい、今日が吉日ということで「行豊朝臣染筆、二流二引両ノ上ニ南無八幡大菩薩ト云々、八字鳩ノ姿ニ出」(『看聞日記』応永卅年八月十一日条)という(この記事は『看聞日記』の8月11日条だが、行豊の伏見帰還後に記されたものと思われることから、旗に銘記したのは御内書が出された8月9日の事である可能性が高いだろう)。なお、「今度関東治罰御旗、悉相嚴僧正加持申云々、可謂不吉歟」(『満済准后日記』応永卅年九月四日条)と見えることから、旗の加持は檀那院僧正相嚴が務めたことがわかる(ただし、9月4日時点で小栗城陥落は判明していたことから「不吉歟」と評されている)。
行豊は旗字を書き終えて御所の義持入道のもとに持参すると「被下恩賞之由被仰云々、已三ケ度書之先例、必有恩賞」たという。その後、義持入道に召された「御旗奉行一色ヽヽ」が「直垂大口、先例着小具足、今度其儀、乗替二騎召具、鎧唐櫃舁、於御所可着歟」して参上し「御旗一流被下請取退出」した。行豊は「其儀式有作法」との感想を述べている。その後「討手大将軍、今川駿河守、桃井ヽヽ両人被下御旗」という(『看聞日記』応永卅年八月十一日条)。ただし、義持の御内書では、旗が下されたのは「桃井左馬権頭入道、上杉五郎」(「足利義持御内書案写」『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:2059)とあり、「国差下旗於桃井左馬権頭入道、上杉五郎両人候、上杉五郎、伊豆国可打越候」(応永卅年八月十八日「足利義持御内緒案写」室:2061)とあることから、「今川駿河守(駿河守護の誤か)」が賜ったという旗は禅秀子息「上杉五郎(憲顕)」に授けられたということになろう。上杉五郎憲顕は駿河守護今川範政(在京)の扶持を受けて下向したものか。
同8月9日、上野国の「岩松能登守」「世良田兵部少輔」は桃井左馬権頭入道と上杉五郎に従うことが命じられていることから(「足利義持御内書案写」『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:2059)、桃井左馬権頭入道は中山道をら東下したと考えられる。出立日時は不明ながら、義持入道は小栗城陥落の報が届くとほぼ同時に東下を急がせたのではなかろうか。8月2日の小栗陥落の報告は8月18日までに京都に届いており、その8月18日、義持は常陸国の「佐竹刑部大輔殿(佐竹祐義)」に「小栗退散事、無是非候」と慰労するとともに「但依之不可有退屈、弥堅固蹈、国差下旗於桃井左馬権頭入道、上杉五郎両人候」ことを伝えている(応永卅年八月十八日「足利義持御内緒案写」室:2061)。なお、満済が小栗城陥落の報告を受けたのは8月20日で、「聞、関東事、今月二日夜討有合戦、佐竹、小栗、桃井京方打負、小栗桃井討死、佐竹ハ切腹云々、但没落両説未定也、京方軍勢若干被討、此由注進到来、以外御驚」(『看聞日記』応永卅年八月廿日条)と記す。小栗満重と桃井下野守(桃井左馬権頭入道と混同されるがまったくの別人である)の討死は事実だが、佐竹祐義の切腹は誤伝であった。
この頃持氏は「佐竹刑部少輔為対治、自鎌倉里見ヲ常陸国ニ支向」ており(『満済准后日記』応永卅二年七月五日条)、この「里見」は持氏被官で佐竹祐義入道や白河など南奥州との戦いに大将として活躍する「里見刑部少輔」(里見家兼か)であろう。のち、安房国に里見氏が展開するが、彼らはこの里見刑部少輔など鎌倉公方被官層を出自とする一族であろう。
里見家兼―…―+―里見義通―――里見義豊
(刑部少輔) |(民部大輔)
|
+―里見実堯―――里見義堯
義持入道は佐竹祐義に8月18日付で「信州勢共差遣上野国候」(応永卅年八月十八日「足利義持御内緒案写」室:2061)ことを知らせていることから、桃井左馬権頭入道は17日または18日に京都を出立しているのだろう。ただし、「就関東対治事、雖差遣近国之軍勢、於京都発向者未定也」(十月廿三日「足利義持御内書案写」『阿蘇文書』)とあることから、京都で軍勢催促が行われることはなかった。こうしたことから、京都に逃げていた桃井左馬権頭入道が自部隊を組織できたとは考えにくく(桃井左馬権頭入道「若党豊田修理亮」が小栗城で長沼淡路入道家人に討たれているように、桃井の側近も関東に残されていた)、桃井は19日に「当国軍勢者、自臼井到下可発向上州旨、刑部并惣一揆中悉被仰候了」(応永卅年八月十九日「管領畠山道端書状」室:2064)とあるように、在京の信濃守護細川持泰や「惣一揆」とともに中山道を経由して東下したのだろう。
なお、桃井左馬権頭入道及び信州勢はおそらく11月ごろには上野国には到達していたと思われ、「但実説不審」ながら、上野国で「桃井以下退治進発之時、刀禰河東国第一大河也、武将欲渡之時、大河洪水忽旱落了、大勢無子細渡了、合戦得勝云々、如此奇瑞不思議等風聞」(『看聞日記』応永卅年十二月二日条)と、持氏勢と桃井勢が利根川で合戦したことが伝わっている。これは「関東事神保上洛」した記事と並んで記されていることから、足利庄代官神保慶久から齎された情報の可能性が高いため、誇張はあるにせよ合戦があったのは事実であろう。
小栗城は応永30(1423)年8月2日に陥落しているが、城は6月下旬にはすでに包囲されており、小栗勢は寄手の結城・小山勢などを撃退するなど善戦するものの救援はなく、城内は消耗戦となっていたのだろう。寄手の白旗一揆別符幸忠は城東に布陣し、6月25日には負傷しながらも城東外郭の張出郭とみられる「東戸張二重焼破」り占拠した(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)。城の東の要を自陣に組み込んだ別符幸忠は、8月2日夜の総攻撃ではこの「東戸張」を足掛かりに城内に攻め入り、「散々致太刀打分捕仕、敵城於焼落」ている(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)。
鳥名木国義は「八月二日、城責時」には「属土岐美作守手(土岐美作守憲秀)」して「打破南面壁、最前切入、致散々合戦」したという(応永卅年八月日「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2069)。鳥名木国義は伊佐方面から攻め寄せており、土岐憲秀の軍勢に属して南側から攻め寄せたものとみられる。
烟田幹胤は「八月二日以御意」て「鹿島、行方、東條同心仁向真城」し、真壁安芸守秀幹の居城である真壁城を攻め落としている(応永卅年八月日「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』室:2070)。この合戦には「宍戸弥五郎殿(宍戸満里)」も加わっており、9月13日に持氏から「常州真壁城責之時、致忠節之条、尤以神妙」と褒章されている(応永卅年九月十三日「足利持氏御教書写」『水府志料二』室:2075)。
小栗城には小栗常陸介満重をはじめ、宇都宮右馬頭持綱、常陸大掾満幹らが立て籠もっていたが、「八月二日御責彼城、没落満重并宇都宮持綱同意落行畢」(『鎌倉大日記』)と、落城時には小栗満重と宇都宮持綱は同意して落ちていったとみられ、その落行き先は宇都宮からさらに北方の那須方面であったと推測される。これは宇都宮には「宇都宮弾正少弼」「宇都宮少弼四郎」ら持氏与党の宇都宮一族が存在した事や、持氏と対立関係にあった那須越後守資之入道(弟の五郎資重は佐竹左馬助義憲と義兄弟で関東方であった)」らとの連携を図った可能性があろう。しかし、持氏与党の陸奥国白河の小峰三河守朝親は8月以前の段階で那須に展開しており、持氏に持綱への対応を問い合わせている。報告を受けた持氏は「那波上総介(大江宗元)」を小峰朝親へ遣わし「随而就宇都宮事、暫可在陣那須之由被仰付候」ことを命じている(応永卅年八月十八日「足利持氏書状」『結城小峰文書』室:2062)。そして宇都宮持綱は宇都宮と那須の間、「塩谷幸賀郷(矢板市幸岡)」で一族の「鹽谷駿河守(塩谷教綱)討取之」という最期を遂げる。『宇都宮正統系図』によれば「満綱依無実子、猶子為婿家督相続、依之塩谷一族、為遺恨」により「八月九日於塩谷幸賀郷猟狩ノ砌自害、二十八歳」とあり、持綱が宇都宮支族武茂氏から養嗣子に入ったため塩谷一族との間に遺恨が生じていたという背景が記されている(8月2日に小栗城を逃れた持綱が、8月9日に塩谷教綱と狩猟することは考えにくく、「猟狩ノ砌」という付文は信憑性に欠ける)。
このほか、南会津周辺を押さえる持氏与党の長沼淡路守義秀入道は、小栗城合戦で被官「矢田貝兵庫助」が「桃井左馬権頭入道若党豊田修理亮討之、有御実見」し、さらに「持綱御対治後」には「彼仁家人等、懸南山内立岩落行之間、越路備中守、岡本蔵人、大山田甲斐守、矢板修理亮討之」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川文書』室:2093)しているように、義秀領南山内立岩(南会津郡南会津町小立岩)にいた持綱被官四名を討ち取っている。彼らは持綱領(長沼淡路入道との係争地)だった南会津南山三依郷(日光市上三依)よりも越後国寄りにいたことから、上洛を企てていた可能性が高いだろう。「下野国三依郷」については、某年9月9日に「被■■長沼淡路入道候之處、宇都宮右馬頭持綱致押領候」(某年九月九日「足利持氏書状」『皆川文書』)とあるように、持綱が押領していたとされる地である。
また、小栗方の「桃井下野守、佐々木入道被誅、同月八日討之」とあり(『鎌倉大日記』)、8月8日には桃井宣義同族の桃井下野守と佐々木隠岐入道が討ち取られたという。その後、持氏は「上方同十六日、自結城還御武州府中」し、武蔵国府中に一年余り在陣している。
こうした小栗城陥落、宇都宮持綱、大掾満幹ら京方諸将壊滅の報告は、8月18日までには京都に齎されているが、この注進に義持入道も焦りを感じずにはいられなかったのだろう。小栗城攻めに出陣した関東管領憲実の兄の越後守護「上杉(頼方)」は、関東との関わりはないにも拘らず矛先が向けられており、9月11日夜、「有空騒動、諸大名手物共馳集、上杉身上云々、然而無殊事、夜々物騒如此」(『看聞日記』応永卅年九月十一日条)と「上杉身上」の事で諸大名の配下が京都に馳せ参じていることで、夜ごと空騒動が発生していたようである。そして9月18日には「室町殿自今日清水参籠、諸大名皆参、上杉一人京都ニ被残置云々、上杉可被討之由風聞、夜々物騒」(『看聞日記』応永卅年九月十八日条)とあるように、義持入道が清水寺参籠を行うに際し、諸大名(守護であろう)がみな供奉する中、越後守護上杉のみ沙汰がなく、それは彼を討つためであるという風聞が流れた。これに「細川前管領、赤松等上杉可合力之由申云々、仍無左右不被討歟」(『看聞日記』応永卅年九月十八日条)と、細川満元や赤松満祐らが上杉頼方を擁護したため何事もなく収まったという。しかし、それでも義持入道の疑いは晴れなかったのか上杉追討の風聞はやまず、思い悩んだ頼方は「上杉可被討事風聞、仍欲切腹之處」(『看聞日記』応永卅年九月廿五日条)まで追い詰められたが、細川や赤松らが必死の弁明を行ったのだろう。「室町殿清水へ上杉被召御免之由、被仰云々、仍夜々物騒静謐」(『看聞日記』応永卅年九月廿五日条)という。
そして義持は9月24日までに、京都から奥州の篠川満直に使者(大慶西堂か)を下し「関東、此間或毎事任雅意、自是加扶持者共悉及沙汰候間、佐々河方急打越鎌倉、可致執沙汰候由申遣候」(応永卅年九月廿四日「足利義持御教書案写」『足利将軍御内書并奉書留』)ことを命じている。篠川満直を事実上の鎌倉公方に補した御教書であろう。
●応永30(1423)年9月24日「足利義持御教書案写」(『足利将軍御内書并奉書留』)
そして、奥州探題「左京大夫殿(斯波持詮)」らにも篠川満直に「有合力、可被致忠節」(応永卅年九月廿四日「足利義持御教書案写」『足利将軍御内書并奉書留』)が指示されている。さらに、九州に展開していた「左近大夫将監殿(渋川義俊)」にも「就関東対治事」(応永卅年十月廿三日「足利義持御内書案写」『阿蘇文書』)につき、「早鎮西之輩令用意、重而可相待左右」ことが指示され、関東下向に備えて待つよう指示が出されている。持氏の小栗城攻めは地方戦ながら、その影響は全国に及んだのである。
応永30(1423)年11月16日、祐誉僧都が伏見の貞成王に「鎌倉事、蜂起以外之間、可被下御勢云々、上杉笠符銘事、行豊朝臣ニ所望、太刀土喰等送其礼」事を伝えている(『看聞日記』応永卅年十一月十六日条)。この「上杉」はすでに旗を賜って伊豆へ向かった上杉五郎憲顕ではなく、越後守護上杉七郎頼方であろう。彼は関東への出陣を命じられ、自身の笠印に世尊寺行豊筆の銘を依頼したものと思われる。
ところが、持氏は11月には和睦を懇望する使者を京都に発している。持氏が小栗、桃井、佐竹らを追捕した強権発動の目的は、あくまでも「鎌倉に敵対した京都被官人の追討」であり、その目的が一定基準で達成されたため、一気に京都との和睦に動いたのではなかろうか。または、9月に奥州篠川の足利満直へ遣わされた鎌倉下向を命じる御内書の旨が持氏に伝わり、急ぎ和睦に傾いた可能性もあろう。いずれにしろ、持氏は京都との深刻な対立は望んでいなかったのである。
11月25日頃、「建長寺長老并足利代官神保ヽヽ為使節上洛」した(『看聞日記』応永卅年十一月廿八日条)。建長寺長老(勝西堂=照西堂)と足利庄代官の神保出雲守慶久がその使者であることから、持氏は自らの使者のみならず、管領畠山満家入道の兄畠山満慶入道の被官を副え、全面的な和睦を欲したのであろう。この情報は11月28日に伏見の貞成王のもとに届けられている。彼らの上洛は「是叛逆之企可蒙御免之由、被歎申」のためであるという(『看聞日記』応永卅年十一月廿八日条)。なお、この神保慶久の俄かな上洛は「無正體罷上、違上意候、則又突鼻仕候」(『満済准后日記』応永卅一年七月廿三日条)という、京都の許可を得ていないものであり、神保は足利庄代官を罷免されることとなる。ところが彼の罷免により足利代官は半年以上にわたって闕所となり、翌7月には管領満家入道に早々に代官を下すよう命が下ったものの、ふさわしき者がおらず困り果てた満家入道が管領職辞表を奉ずるまでの騒ぎとなっている(管領上表は義持が却下し、満済が満家入道を説得して事を納めている)。
満済はこの翌日の11月29日、醍醐寺で義持から上洛するよう触れを受けた。「内々御物語、子細等在之」と推測しているが、「自関東懇望使節、勝西堂上洛由」についての相談であろう(『満済准后日記』応永卅年十一月廿九日条)。この結果、「関東事、神保上洛、依懇望大略可属無為」(『看聞日記』応永卅年十二月二日条)といい、義持入道もこの謝罪を受け入れる観測であった。義持入道もまた関東との対立は望んでいなかったのであろう。
応永31(1424)年正月、奥州安積郡の篠川御所満直に遣わされた慶西堂の供僧から細川満元のもとに西堂の書状が届き、正月24日、細川満元は「楢入道」を満済のもとに遣わして「旧冬内々被仰出、奥ノ佐々河殿へ被遣御内書、御使僧大慶西堂方ヨリ所召具僧、先上洛、仍自慶西堂方書状お以申通并西堂書状等令披覧、此等趣可達上聞條可為本望」(『満済准后日記』応永卅一年正月廿四日条)と仲介を依頼している。満済はその慶西堂の書状を披見すると、「佐々河殿関東へ進発事、先御領掌候也、則公方様へ御内書御請可被申入處、一陣おも被召、其後自陣中請文ハ可被進上候、乍居御請申條、為其恐故也、此旨且為得御意申入也」とあった。
ただ、満済は「慶西堂状先返進之也」と細川方に書状を返却、「可有上覧由被仰出候者、重可申」ことを伝えた。すでに都鄙和議の話が進んでいる中で、篠川御所の鎌倉侵攻は時宜に合わなかったこともこの対応に繋がっているのだろう。結局、篠川公方の関東進行は立ち消えとなった。
その後、持氏は「罰文(起請文)」を京都へ送り、2月3日、「自関東誓文状進上、鹿苑院々主披露」(『満済准后日記』応永卅一年二月三日条)された。罰文を相国寺鹿苑院の厳仲周噩院主に送達した理由は不明ながら、故相国義満入道(鹿苑院)にも誓うという表れか。2月5日時点で「已重捧誓文」(『満済准后日記』応永卅一年二月五日条)とあることから、これ以前にも「誓文」が捧げられていたとみられる。「先日告文々章、聊雖不如上意」であるが、義持入道は「已重捧誓文、被懇望申上ハ、御和睦不可有子細旨、管領、右京大夫両人被召御前、内々被仰出」れたとあるように(『満済准后日記』応永卅一年二月五日条)、管領畠山満家入道と細川右京大夫満元両名が義持の御前に召されて、内々に和睦の件を告げた。彼らは「両人珍重由申入」と喜びを表し、その後、「諸大名以下御太刀進上之」という。満済も「予、祗候御前、仰様等委細承之」り(『満済准后日記』応永卅一年二月五日条)、「無為之儀天下大慶、万民歓娯不可過之歟、撫民御善政多幸々々」という所存を記している。満済が法身院に帰坊後、管領畠山入道の被官「遊佐」が管領使者として参じ「関東無為珍重、参賀遅々間、且言上」と報告がなされている。さらに細川右京大夫満元からも被官「楢入道」が遣わされ、同様の報告があった(『満済准后日記』応永卅一年二月五日条)。そして、「鎌倉左兵衛督持氏与京都勝定院殿、御和睦落去畢、管領以下御太刀進上也、甲斐、信乃、駿河討手共被召返云々并方々江御内書被下也」(『花営三代記』応永卅一年二月五日条)といい、義持入道は甲斐、信濃、駿河の追討軍の召し返しを命じたのであった。
また、同日満済は義持へ「宇都宮少弼四郎方、音信由披露申入」ている(『満済准后日記』応永卅一年二月五日条)。翌2月6日、満済は義持から伊勢伊勢守を以て召され、御所に参じた。すると「宇都宮少弼四郎方」の書状は満済だけではなく「伊勢因幡入道、伊勢守両人方へも音信書状等在之」と政所執事らにも届けられていて、義持は「有御思案、重可被仰出旨、御返事由被仰」た(『満済准后日記』応永卅一年二月六日条)。この「宇都宮少弼四郎」の実名や出自は不明ながら、某年9月9日に持氏が「下野国三依郷事、被■■長沼淡路入道候之處、宇都宮右馬頭持綱致押領候、忠節異他之仁候、早速可渡付候」(某年九月九日「足利持氏書状」『皆川文書』)ことを命じた「宇都宮弾正少弼殿」の子息と思われる。この文書は応永30(1423)年8月9日の持綱自刃後、持氏が与党長沼淡路入道との係争地であった三依郷を長沼の主張通りに沙汰付したものであろう。宇都宮弾正少弼は惣領の宇都宮持綱とは行動を異にする持氏与党だったことがわかる。
宇都宮貞綱―+―宇都宮公綱―――宇都宮氏綱―――宇都宮基綱―――宇都宮満綱――――女子
(下野守) |(左馬権頭) (伊予守) (下野守) ∥―――――――宇都宮等綱
| ∥ (下野守)
| ∥
| 宇都宮持綱
| (右馬頭)
| 【想像】
+―宇都宮公貞―+―?―――――――?―――――――宇都宮弾正少弼――宇都宮少弼四郎
(弾正少弼) |
|
+―女子
2月7日、義持は鹿苑院に渡御し、「於彼院関東使節僧勝西堂ニ御対面」した(『満済准后日記』応永卅一年二月七日条)。2月16日、「関東使節西堂、先日京門跡へ為礼参」した。ところが「寺住間不及対面、而明朝下向由聞及間、遣経祐法橋於彼宿所ニ盆絵一対送遣之了」という(『満済准后日記』応永卅一年二月十六日条)。本来であれば満済は前日の15日に涅槃会結縁のために出京の予定であったが、「依胸所労不及出京」であり、代理に「理性院、釈迦院両僧正」「宗海僧正」が京都へ向かった。勝西堂(照西堂)は帰国の前に満済に礼をすべく醍醐寺京門跡の法身院を訪問したが、満済は上記のため不在で対面は叶わなかった。満済は法身院から翌17日に勝西堂(照西堂)が鎌倉への帰途に就くことの注進を受けたのだろう。急ぎ経祐法橋を洛中の勝西堂(照西堂)宿所へ遣わし、「盆絵一対」を渡している(『満済准后日記』応永卅一年二月十六日条)。そして、予定通り2月17日、雨の降る中であったが「関東使節勝西堂下向」(『満済准后日記』応永卅一年二月十七日条)し、3月3日に鎌倉に「自京下向」(『鎌倉大日記』)している。
3月3日、「宇都宮藤鶴丸賢使者僧」が参洛した(『満済准后日記』応永卅一年三月三日条)。宇都宮藤鶴丸は故持綱の子息でのちの宇都宮等綱であるが、このとき何を申し入れたのかは不明。当時は陸奥国篠川へ遁れていた。
3月14日には、「於右京大夫亭、赤松左馬助、安藤ヲ殺害、左馬助逐電」という事件があった(『満済准后日記』応永卅一年三月十四日条)。義持は「左馬助二可切腹由雖被立御使、逐電」という(『満済准后日記』応永卅一年三月十四日条)。事件は細川満元亭での酒宴で、将軍義量近習(小番衆)の安東某が酔い潰れていたところを、赤松満祐の弟である左馬助則繁が斬りつけて殺害。庭先から逐電し、怒った義持が切腹を命じるもすでに逃げており、供をしていた赤松家代官の「裏壁(浦上?)」の子息が代わりに自刃するという悲劇となっている。
鎌倉では義持への返書が認められ、5月10日に照西堂が再び上洛の途につき(『鎌倉大日記』)、5月30日、「関東使節芳照西堂」が参洛し、「今度御和睦、畏入御料」を奉じた(『満済准后日記』応永卅一年五月晦日条)。
6月3日、義持入道は室町殿で「関東使節西堂御対面」した(『満済准后日記』応永卅一年六月三日条)。6月8日、愛染護摩結願のため出京し室町殿に参じた満済は、関東使節の芳照西堂について義持入道に述べている。
芳照西堂は満済に「自関東使者照西堂方、以使者僧紬皮等送賜之、云今日明日間可参申」という。満済は「委細返事了」が、義持入道に「此西堂対面事、聊存旨在間、可為何様哉由」を尋ねると、「可有対面旨」を受けた(『満済准后日記』応永卅一年六月八日条)。満済としては多量の贈物を届けようとする使者に会うことを聊か不審に思い、対応を義持に委ねたとみられる。これに義持は対面すべきだと返答しており、関東との和睦を進めたい義持の考えが感じられる。これを受け、翌6月9日、満済は「関東西堂来臨、法身院対面」し(『満済准后日記』応永卅一年六月九日条)、翌6月10日、醍醐寺へと戻った。
8月17日、満済は管領満家入道より懸案の足利庄代官について告げられたことを義持に話すべく、南禅寺から還御した時分に室町殿を訪れ、「足利庄代官、神保新衛門可下遣由、管領申旨令披露」した。すると義持は「神保名字猶不可然候歟、自余者可下由被仰出」た(『満済准后日記』応永卅一年八月十七日条)。神保出雲守が無断でしかも持氏使者と同道で上洛した事実から神保氏の代官を認めず、他氏の者を下すべしとの返答であり、「仍召寄遊佐此由仰付了」という(『満済准后日記』応永卅一年八月十七日条)。
8月22日、「関東使節芳照西堂」は離京(『満済准后日記』応永卅一年八月廿二日条)し、「九月重下向」(『喜連川判鑑』)とあるように、9月上旬には鎌倉に到着したと思われる。『喜連川判鑑』によれば「九月八日」とあるが、この史料は「関東史観」によって記されていることから史料自体の信頼性は低い。
都鄙和睦が成ったことで、10月初旬、持氏は武蔵府中から鎌倉に帰陣する旨の使者を京都に遣わしており、この使者は10月14日に室町殿を訪れたようである。使者は『満済准后日記』には記されていないが、「都鄙御和睦ノ事相調ヒ、照西堂上洛、江戸遠江守ヲ使節トシテ京都将軍ヘ拝礼ノ義、被勤」(『喜連川判鑑』)という。同14日、義持入道は参籠中の因幡堂に満済を呼び出すと「関東自陣今日鎌倉へ可有御帰被申、神妙由被仰」た(『満済准后日記』応永卅一年十月十四日条)。満済はこれを聞き「尤珍重々々」と感想を述べている。そして、持氏は残務処理を行ったか、約一月後の「十一月十四日入鎌倉」(『鎌倉大日記』)った。
応永31(1424)年11月20日、「奥州稲村殿御上、御座泰安寺」(『鎌倉大日記』)とあるように。奥州稲村から持氏の叔父・足利満貞が鎌倉に帰参した。満貞が恣意的に稲村から帰参することは考えにくく、都鄙和睦に伴う条件の一つだった可能性が高い。
この前年応永30(1423)年9月下旬、京都は篠川足利満直を「関東、此間或毎事任雅意、自是加扶持者共悉及沙汰候間、佐々河方急打越鎌倉、可致執沙汰候由申遣候」(応永卅年九月廿四日「足利義持御教書案写」『足利将軍御内書并奉書留』)とし、一旦は持氏を討って鎌倉の政務を執る(鎌倉殿)ことを認めており、その構想は断念されてはいても、篠川満直が奥州南部を統べる者との認識は強く意識されたと考えられ、稲村の満貞は排除されたと考えられる。
持氏は鎌倉に帰参した満貞を自ら泰安寺に訪問して対面し、「同廿四日、上方出御、牛目貫被進」れ、さらに「廿七日、重而御鎧通、御腰物」を進上している(『鎌倉大日記』)。
応永32(1425)年正月11日、義持は「関東辺荒説、旧冬以来又風聞在之、仍為彼御用心旁可祈念由、別而被仰出了」といい、満済以下五名で祈祷を行っているが、とくに関東での動きは見られず、風聞であったのだろう。しかし、こうした中で将軍宰相中将義量の体調が悪化する。
2月3日、義持入道は赤松越後守を醍醐寺の満済に派遣し、将軍義量が正月19日から「以外御窮屈」(『満済准后日記』応永卅二年二月三日条)ことを伝える一方、「大略平臥體也」という楽観的な見通しを告げている。そして「御邪気又興盛、旁以珍事也、仍自来十日、於彼御方御祈一壇可勤仕」し、「少々御祈祷」を申しつけた。満済はこれを聞き「此御窮屈驚入存候」として、2月10日より不動小法を修法する旨を返事している(『満済准后日記』応永卅二年二月三日条)。そして2月10日夕刻より満済による「将軍御方御祈不動小法勤仕」された(『満済准后日記』応永卅二年二月十日条)。
2月17日には「将軍御方、自今暁、聊御少減」し「珍重由、三位医師来申、珍重」という。翌18日早朝に不動小法が結願し満済は退出。翌18日からは定助大僧正を中心に最大の修法「五壇法」が開始された(『満済准后日記』応永卅二年二月十日条)。25日に五壇法が結願し、続けて如意寺准后満意による不動延命准大法が開始されるも、翌26日、満済は「将軍御方御不例、御大事由」を三位医師から伝え聞くことになる(『満済准后日記』応永卅二年二月廿六日条)。そして翌2月27日申半刻、「将軍御方御他界、御年十九」した(『満済准后日記』応永卅二年二月廿七日条)。満済は「天下重事、諸人只失色計也」と記す。遺骸は「今日明日依悪日、御所中ニ被置申へき由」を賀茂在方卿へ伝えている。この大事は夕刻の事であったが、当日中に伏見の貞成王にも噂として入っており「抑聞、将軍他界之由風聞、実説不審」(『看聞日記』応永卅二年二月廿七日条)と記す。伏見に確報が届いたのは翌28日で、「将軍他界実事也、昨夕云々、為天下驚歎、両三年内損、此間興盛種々被尽祈療、然而無其験被堕命、当年十九歳也、尤可惜々々、室町殿於于今無一子、将軍人躰忽闕如、天下惣別驚入者也」(『看聞日記』応永卅二年二月廿八日条)と述べている。「御台母儀、不堪悲歎存命不定」と、義量母(日野大納言資康女子、藤原栄子)の悲歎も伝える。貞成王は「旣二宮御事、将軍連続天下又大乱風聞旁呈凶事了」という2月16日の「二宮御頓死」(『満済准后日記』応永卅二年二月十六日条)に続く将軍死去という凶事の連続に大乱の予兆を感じ、実際に「正月中種々怖異風聞巷説」を伝えている。
満済の助言通り二日間、御所に安置された義量の遺骸は、2月29日「将軍御方、於仁和寺等持院、御荼毘在之」された(『満済准后日記』応永卅二年二月廿九日条)。号は長徳院、道号は鞏山、法名は道基と定められた。この一報はただちに鎌倉へ伝えられており、3月9日には奉行の「前備中守満康」から鹿島大禰宜憲親へ宛てられた文書に「依京都 御方御所御事、無伺事時分候、追可申出候、次重御申子細、即達 上聞候、上意之趣、委細申御代官候間、令省略候」(三月九日「町野満康書状」『塙不二丸氏所蔵文書』)とみえる。
3月3日、義持からの召しにより満済は室町殿へ参向。「関東へ御使并奥篠河御方へ御書等事、可被仰談細河右京大夫入道由」の指示を受け、細川満元入道の屋敷へと向かった(『満済准后日記』応永卅二年三月三日条)。しかし、おそらく留守だったのだろう。
翌3月4日、「右京大夫入道」が法身院に満済を訪ねた。満元入道は「自篠河旧冬以来御状等随身」し「以便宜可備上覧由」を願ったため、満済はこれを収めて、夕方に室町殿に持参し、義持入道に披露している(『満済准后日記』応永卅二年三月四日条)。その後、関東へは「玉泉寺長老」の「文成和尚」が御使として派遣された。この使者は将軍義量薨去を伝える正使であろう。篠川満直には御書が遣わされたと思われるが、正使派遣の持氏と御書の使者のみの篠川満直は格の違いがあったことがわかる。
なお、義持は持氏に対しては、義量薨去の報告だけではなく、以前からの懸案であった常陸国と甲斐国の守護補任問題の解決の要請を行ったとみられる。「文成和尚」は持氏にこれを伝えて返書を受け取ったとみられ、5月19日に帰洛している。文成和尚は直接御所へ赴かずに醍醐寺の満済を訪ねている。満済は「関東へ御使文成和尚帰洛、仍来臨、於金院対面」し(『満済准后日記』応永卅二年五月十九日条)、事の次第を聞いて翌5月20日に「為申入、今日出京」したが(『満済准后日記』応永卅二年五月廿日条)、義持入道はおそらく故義量の法要で仁和寺に渡御していたため、満済は法身院に逗留した。そして21日朝に室町殿へ赴いて「関東使節参洛由披露申入了」している(『満済准后日記』応永卅二年五月廿一日条)。その後、この文成和尚や関東との話は『満済准后日記』には記載されていないが、柳営首脳層で返事がまとめられ、二度目の関東下向があったとみられる(5月19日に帰洛して翌20日に帰洛の報告が為されているのに、その二か月後の閏6月5日に帰洛の報告が再度為されることは不自然である)。
応永32(1425)年 3月4日以降 |
玉泉寺長老文成和尚、関東下向のため京都出立【初度の下向】 (予想される議題) ・将軍義量の薨去伝達 ・常陸国、甲斐国の守護問題解決の要請 |
5月19日 | 文成和尚、帰洛 醍醐寺の満済と対面する |
5月20日 | 満済、醍醐寺から上洛して義持入道に面会を企図するも留守のため、法身院に居宿 |
5月21日 | 満済、義持入道と面会し、関東から文成和尚帰洛を伝達 (予想される議題) ・持氏から守護についての返答 |
(予想) 5月下旬頃 |
(予想) 文成和尚、再度常・甲守護問題について持氏に対処を要請する使者として鎌倉下向【二度目の下向】 |
閏6月5日 | 文成和尚、帰洛 持氏からの返答と要望を義持に伝える ※持氏からの使僧・明窓(明宗)和尚が同道して上洛しているか |
閏6月11日 | 義持、満済に持氏からの常甲守護の返答について、細川満元と談合するよう指示 |
閏6月11日、満済は義持入道から御所に召されたところ、「就佐竹刑部大輔并竹田入道事等ニ、細河右京大夫入道ニ可談合由」を命じられ(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十一日条)、細川満元入道邸を訪問し、満元入道から子細の説明を受けた。それによれば「今度文成和尚関東へ為御使下向、去五日帰洛、自鎌倉殿此両人事、種々被歎申」という。このとき、持氏は文成和尚へ二つの譲歩案と要請を伝えている。
持氏は京都との対立は望まず、崇敬する薬師如来への願文からみて、治安を乱す敵を討伐することで関東を戦乱なき世を実現し、戦乱を終結させることで民衆が安楽な生活を送ることを望んでいたのであろう。そのため、持氏は鎌倉に対して反抗的な佐竹祐義と武田信重入道については「関東不義條々」(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十一日条)があるが、受け容れられる範囲で私情を捨て、大きな譲歩をしたのであろう。
持氏の要望 | 要約 | |
(1) |
・於常陸国ハ佐竹左馬助ニ為関東相計了、仍故御所、当御代安堵御判在之、然ヲ佐竹刑部大輔ニ国事可仰付旨、連々被仰下了、於刑部大輔事ハ、対関東不義條々在之、 ・雖然、為京都如此被仰下上者、於半国ハ刑部大輔可知行、於半国左馬助可知行、 ・此上ハ両佐竹令和睦、在鎌倉候様ニ可被仰付條、自何可畏入 |
・常陸国は佐竹義憲に守護を任じ、故御所、当御代から補任の御判を受けています。それにも拘わらず京都は度々祐義を守護に推すようお命じになります。祐義は「関東(持氏個人ではなく、関東統治組織としての鎌倉地方政府)」に対して不義の条々があります。 ・ただ、京都からこのように仰せられる上は、常陸半国は祐義、もう半国を義憲を守護となします。 ・この上は、両佐竹氏を和睦させ、両者ともに鎌倉伺候するよう仰せつけください。 |
(2) | ・於竹田入道事ハ、罪科雖為同前、国事御口入間、申付了 ・而ヲ近年在京第一不得意事也、其故ハ、関東進止国ヲ知行シナカラ在京奉公時ハ関東分国一国被召放義ニ相当ル也、外聞実儀失面目者也 ・然者、竹田入道事、不日令在国、一族親類間委一人可在鎌倉旨、堅可被仰付由也、 |
・武田信重入道は、佐竹祐義同様に「関東」に対する不義の罪科がありますが、守護職に関してはすでに京都から補任されているので、守護職を申し付けました。 ・しかし、彼が近年在京を続けることは納得できません。なぜなら、関東進止国である甲斐国の守護でありながら在京奉公しているということは、関東分国を一つ取り上げられたことと同意だからです。外聞も面目を失います。 ・そのため、信重入道に関しましては、近日中に甲斐在国をお命じいただき、一族親類から一名を鎌倉に滞在させる旨を堅く仰せ付けください。 ※信重入道は亡父信満が禅秀入道の乱と関わりを持ったため、鎌倉滞在は心情的にも難しいであろうから、信重本人の鎌倉滞在は譲歩したものか。 |
これを聞いた義持も「誠此御訴訟通、其謂在様ニ被思食事也」と持氏の主張にいたく共感し(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十一日条)、満済に「京鎌倉已御和睦上ハ、此分早速ニ自右京大夫入道方両人二可申付」ことを指示した。満済はこの上意を満元入道に伝えると、佐竹については「於佐竹事ハ則可申下候」と、とくに問題なく履行できるとしたが、武田については「於竹田事ハ在国事是非不可叶由條々歎申入旨候」と、信重入道は、甲斐守護補任時より甲斐への下向を峻拒しておりなかなか難儀という観測であった。その理由は「甲斐国事、被仰付間、守護職無子細事候、万一在国仕候者、国事更ニ不可叶、辺見穴山等打出、乱国ニ罷成間、不可有正体候、其時ハ可為生涯間、誠ニ可在国由上意必定候者、於京都進退存定、何様ニモ可罷成」というもので、もし信重自信が甲斐に下向すれば、国内で覇権を持つ国人逸見氏(持氏被官)や弟・信長一党(穴山領主)による抵抗により乱国となって収拾もつかなくなろう。そうなれば自分は自刃する以外になく、もし強いて甲斐下向をお命じになるのであれば京都で守護を辞したい、という頑ななものであった。ただ満元は「雖然、上意旨召仰、重可申入」と述べて、もう一度信重入道を召して上意であるからと説得を試みるとし、満済は「此由又立帰、申入了」(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十一日条)ている。
翌閏6月12日、満元入道が法身院寄宿中と見られる満済を訪問する(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十二日条)。満元入道は満済との会談後に信重入道を屋敷に召したものの「竹田事、昨日如申入、昨夕召寄種々雖申、同篇由歎申」という。満元入道はもはや「此上ハ何様ニ雖申、在国事ハ不可叶候歟」と匙を投げるが、「雖然上意下ニテ如此申入候、其恐間、先畏入由可申入旨、右京大夫指南分ニ由」と、このことは義持の上意で申し入れているのでそれを拒絶することはまずい。まずは受領したとした上で満元が預かるということとし、満済は「此旨何様可申入」ことを返答して御所に参じ「此由申入」た(『満済准后日記』応永卅二年閏六月十二日条)。
応永32(1425)年7月5日、満済は御所に召され義持と対面する(『満済准后日記』応永卅二年七月五日条)。「佐竹刑部少輔并左馬助和睦事、自鎌倉殿如被申可有御下知處ニ、佐竹刑部少輔為対治、自鎌倉里見ヲ常陸国ニ支向、去年以来被置之、所詮此里見候被召返ハ、佐竹両人和睦事可有御下知旨、以鹿苑院書状、関東明窓和尚方へ可申遣旨被仰」とあり、義持は佐竹祐義と義憲のことにつき、鎌倉殿の申される通り下知するつもりだったところ、鎌倉から祐義追捕のために去年から常陸国に里見が遣わされていると述べている。
つまりこれ以前に、義持は常陸国に祐義追討のために「里見」が派遣されていた情報を得ていたことがわかる。おそらく、取次の前管領満元がまず佐竹祐義と左馬助義憲へ内々の書状が届けられその意を問うていたのだろう。ここで、祐義は持氏が先年来常陸国に滞陣させている「里見」の撤兵を要請したとみられる。これを受けて満元入道は義持に復命し、満済に伝えられたのだろう。義持は、持氏が「里見」を撤退させれば、持氏が要望する両佐竹和睦の下知状を発給する旨を、鹿苑院主厳仲の「鹿苑院書状」として持氏使僧の明窓和尚(閏6月5日に文和和尚とともに同道して上洛したか)へ遣わすよう指示した。満済はその「書状案文等可申談」という指示を受けて「仍随仰、鹿苑院へ罷向、彼状案文加一見了」ている。「里見刑部少輔(里見刑部少輔家兼)」は「応永卅二年為佐竹刑部大輔御退治、為里見刑部少輔大将進発」(永享十一年四月「真壁朝幹代皆河綱宗目安写」『真壁家文書』)とあるように、佐竹祐義攻めの大将であり、この軍勢に真壁一族の「次郎(真壁次郎慶幹)」が降伏している。
翌7月6日、義持は鹿苑院に渡御し、満済もまた参じた。「関東へ昨日鹿苑院書状案、今日備上覧處無相違、如此可書遣旨可申由被仰出、仍院主厳仲和尚ニ此旨申了」(『満済准后日記』応永卅二年七月六日条)とあり、満済の校正を入れた院主厳仲和尚の「鹿苑院書状案」は義持から了承をもらい、満済は院主厳仲和尚に明窓(明宗)和尚へ書状を遣わすよう指示した。こうして、常陸国守護の件は持氏の対応があれば成立する運びとなった。一方で、甲斐国に関してはとくに記載はないが、信重入道の甲斐下向への強い拒絶から事が運んでおらず、持氏に何らかの対応を指示したのかもしれない。明窓(明宗)和尚が関東へ下向した記事はないが、伴僧が鹿苑院書状と「御幡」を鎌倉へ齎した可能性があろう。
8月16日、持氏は「上杉淡路守給御幡、武田為退治発向」(『鎌倉大日記』)している。「御幡」は京都より託された軍旗であろうことから、持氏は京都の命を受けて甲斐国穴山領を拠点とする武田右馬助信長一党を追討したと考えられよう。これは武田信重入道を甲斐国に入部させるための下地作りだったのである。
この頃京都では、8月23日、義持入道は清和院に管領畠山満家入道を召し出し、細川満元入道を通じて武田信重入道を早々に下国させよと指示したとみられる。翌8月24日には満済が清和院に召し出され、「付甲斐守護竹田刑部大輔下国事、細河右京大夫方へ被仰談旨在之、昨日以管領雖被仰上意旨、未達様ニ被思食也、罷向具相談可申入」ことの指示を受ける(『満済准后日記』応永卅二年八月廿四日条)。甲斐国で武田信長が降伏した時期はまったく不明だが、義持入道が参籠中の清和院に連日俄かな呼び出しをかけ甲斐国について指示を出していることを考えると、持氏から信長降伏の報告が届いたことで、信重入道の甲斐下向の履行を急がせた可能性が高いのではなかろうか。それも履行されない可能性を考え、満済を派遣して念を押すほどの徹底ぶりであった。
その後、京都と明窓和尚の交渉事は『満済准后日記』には記されていないが、明窓和尚は9月初頭には離京して関東へ到着していたと思われる。その後、10月初頭には明窓和尚は再度鎌倉を発って上洛の途に就いている。その議題は甲斐国武田氏と常陸国佐竹氏に関わることであろう。10月9日夕刻より義持入道は因幡堂に参籠しているが、その最中の10月14日に「明宗和尚、自関東上洛、今日於因幡堂御対面」(『満済准后日記』応永卅二年十月十四日条)している(明窓和尚はこれ以前に上洛しているとみられる)。ただ、この対面について満済への指示はなく、二日後の10月16日、義持の因幡堂参籠は終了し、東福寺に渡御したのち御所へ還御している(『満済准后日記』応永卅二年十月十六日条)。
なお、11月下旬には「建長寺長老」が持氏使者として上洛したという風聞があり、11月30日に伏見の貞成王のもとに「関東武将御使建長寺長老上洛、條々被申、其一室町殿無御息之間、為御猶子令上洛、可致奉公之由被申、此事難儀之間、長老無御対面」(『看聞日記』応永卅二年十一月卅日条)という報告がなされている。ただし、この風聞は下記の通り疑問が多く、事実誤認の可能性が高い。
(1) 『満済准后日記』には持氏正使格となる「建長寺長老」の上洛は一切触れられていない
(2) 10月中旬には持氏使僧として、すでに明窓(明宗)和尚が上洛し、その後も京都の交渉窓口は宗窓一人である
(3) 明窓(明宗)を建長寺長老と取り違えているとしても、明窓は義持と因幡堂で対面しており、「長老無御対面」とはならない
(4) 11月30日には満済と管領が「関東事等雑談、只天下無為、御所様御運長久念願外無他念」と相語り「殊勝々々」と述べている
持氏が義持猶子となって上洛を望むことは想定できないことではない。ただ、烏帽子子とはいえ、ほんの数か月前までは都鄙対立の当人が対立相手の猶子になることを望むのは、周囲も鑑みれば飛躍に過ぎて「現実的」ではない。また仮に『看聞日記』が伝えるように「室町殿無御息之間、為御猶子令上洛、可致奉公之由被申、此事難儀」が事実であったとしても、その「難儀」の理由は、義持が義量死後に「於八幡宮神前被取之處ニ、不可被奉籠由之御鬮ヲ被召了、其夜ノ御夢ニ男子ヲ御出生有由ヲ被御覧間、于今ニ深ク此御夢ヲ御憑有ヲ、御猶子等事モ不被定キ」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)が強く働いているとみられる。
12月3日には管領満家入道が「就関東事、管領聊申旨在之」して義持に意見を披露したところ、義持からは「如管領意見可」という返答であった(『満済准后日記』応永卅二年十二月三日条)。満済はこれを「珍重々々」と評するが、管領満家入道の具申は「甲斐国等事」で、満済には「則関東使節明宗和尚ニ可仰含旨、等持院長老ニ可申付旨」が指示されたため、満済は等持院へ向かい「委細申」ている。また、この子細については、管領被官「遊佐河内守」を召し出し「管領方へ申遣」ている(『満済准后日記』応永卅二年十二月三日条)。
この時点でも、いまだ武田信重入道は甲斐国に下向しておらず、常陸佐竹氏の問題もまだ解決していなかった様子がうかがえる。12月5日早旦、義持に召されていた満済は上して等持寺に入った(『満済准后日記』応永卅二年十二月五日条)。その後、義持が出先の寿徳院から還御すると満済も室町殿に移り、管領満家入道も交えて「関東事ニ就申入子細在之」を「数刻」にわたって協議している。その後、管領は退出するが満済には留まるよう指示があり、「條々仰旨在之、甲斐佐竹等事也」の相談を受けたのちに退出している。武田信重入道は「甲斐先守護竹田刑部大輔入道、両三年以来四国辺隠居」(『満済准后日記』応永卅五年九月廿二日条)とあるように、応永33(1426)年中には京都をも離れて四国へ隠居しており、信重入道は持氏が武田信長を降伏させてもなお甲斐国へ下向を拒んで離京したとみられる。
結局、応永32(1425)年の甲斐国追討は徹底したものではなく、甲斐国に信長一統勢力は温存されたことが信重入道の甲斐国下向を拒んだ大きな要因か。結局、「武田右馬助依出張、一色刑部少輔為大将、六月廿六日向御幡」(『鎌倉大日記』)という、応永33(1426)年の持氏による第二次甲州征討につながる。「武田右馬助依出張」とあるが、信長が敢えて挙兵して自滅の道を歩む理由はなく、京都の命を奉じた持氏が相模国守護の一色刑部少輔持家に「御幡(前年上杉淡路守授与の御旗と同じものか)」を授けて甲斐国に派遣したものであろう(応永卅三年八月十一日「足利持氏御教書」『江戸文書』室:2300、応永卅三年八月「久下修理亮入道代軍忠状」『松平義行所蔵文書』室:2308)。進発の前日25日、一色持家は鶴岡相承院に「仍今度甲州進発、凶徒退治之御祈念無御等閑候者、公私目出候」(六月廿五日「一色持家書状」『相承院文書』室2287)ことを依頼している。
持氏は甲斐国攻めに際して軍勢催促を行っているが、その主力は管領憲実被官の武蔵国人だったようである。「藤波藤太郎憲有」は「為武田八郎信長御退治」に、6月26日に一色持家陣「馳参座間(座間市)」じ、30日には一色勢とともに「青山御陣(相模原市緑区青山)」、7月2日に「鶴河(上野原市鶴川)」、7月8日に「小西(大月市猿橋町小篠カ)」、7月15日に「大槻御陣(大月市)」に従軍した(応永卅三年九月「善波憲有軍忠状」『諸州古文書24』室:2316)。「大槻御陣」以降、大将一色持家が陣所を移した様子はないため、寄手の最終本陣は大月だったと思われる。
白旗一揆の久下修理亮入道は子息の久下信濃守憲兼が代理として7月19日に出陣し、「馳集武州二宮(あきる野市二宮)」、7月26日に二宮を出立すると「馳参甲州鶴郡大槻御陣」して以降は本陣付として宿直警固を行った(応永卅三年八月「久下修理亮入道代子息憲兼軍忠状写」『松平義行所蔵文書』室:2308)。このほか「武州一揆八月一日着陣」とあるように、武州一揆の人々は8月1日に大槻御陣に着到したと思われる(『鎌倉大日記』)。
また、一色持家は7月26日、「大槻御陣」の南「甲州田原陣(都留市田原)」(応永卅三年八月十一日「足利持氏御教書」『江戸文書』室2300)を固めていた「江戸大炊助(江戸憲重)」に対し「長々御在陣御辛労奉察候、殊其口事肝要之処、就面々御座、一方御心安事候哉、御忠節之至候」(七月廿六日「一色持家書状」『江戸文書』室2297)と感謝の念を述べている。持家は江戸憲重の軍忠を鎌倉に送達しており、8月11日、持氏より「刑部少輔持家、所注申也」に基づく御教書が下された(応永卅三年八月十一日「足利持氏御教書」『江戸文書』)。
鎌倉を出立しておよそひと月経つものの、いまだ武田信長を平定するに至っていなかったが、鎌倉勢と武田勢の合戦の伝承は残されておらず、信長は「八月廿五日降参」(『鎌倉大日記』、応永卅三年九月「善波憲有軍忠状」『諸州古文書24』室:2316)とあるように、8月25日に降伏して戦いは終結している。その3日後「廿八日、鎌倉ヘ上ルト」(『妙法寺記』応永卅三年条)あり、事実とすれば武田信長は鎌倉在住を命じられたことになる。
この甲州陣ののち、関東は静謐となり紛争の騒ぎは伝わっていない。また、甲斐国は以前の如く関東進止国としてその成敗が認められており、応永34(1427)年6月2日には、義持から「左兵衛督殿(持氏)」へ「相国寺領甲州八幡庄事、故御所被成内書、今度又申候之処、未事行不可然候」(応永卅四年六月二日「足利義持御内書案」『大舘記』所収 室:2364)につき、寺家雑掌に厳密に渡付することを持氏被官の「上総介殿(那波宗元)」を通じて指示している。つまりこの時、那波宗元が上洛しており、関東との意思の疎通があった様子がうかがわれる。
なお、この頃兼胤の動きはほとんど見られないが、香取郡大慈恩寺(成田市吉岡)の寺領の焼失書類に関して、守護として対応をしている。応永28(1421)年正月7日、大慈恩寺は火災によって炎上し、伝来の書類も焼失してしまった。これにつき、大慈恩寺は当地の地頭で累代の檀那である大須賀氏に紛失についての証状発給を依頼した。これにつき、「大須賀次郎左衛門尉朝信」は応永33(1426)年4月10日に「胤氏法名信蓮御寄進并代々寄附等文書依紛失、子細為後証、致判形者也」につき「全無相違者也、是以限未来際、為守本願置文之旨、加判形者也、仍為後証状如件」(応永卅三年四月十日「大須賀朝信証状」『大慈恩寺文書』室:2279、2280)を発給。坪付についても別紙で作成し、大慈恩寺と守護兼胤に渡したものと思われる。これにつき、7月17日、兼胤は「雖可有糺明紛失之有無、大須賀次郎左衛門尉朝信証状分明上者、任当知行之旨、寺務不可有相違」と大慈恩寺長老に下している(応永三十三年七月十七日「千葉兼胤書下」『大慈恩寺文書』室:2292)。その後、大慈恩寺雑掌から鎌倉へこの旨の報告があったのだろう。鎌倉はこの件について、奉行人の「前備中守(町野満康)」を通じて、下総国守護代と思われる「国分参河守殿」「海上筑後守殿」の両名に「且云当知行実否、云土貢分限、云可支申仁有無、紛失実否、載起請之詞、可被注申」を命じた(応永卅三年八月廿二日「町野満康奉書」『大慈恩寺文書』室:2304、2305)。
●大慈恩寺領(応永卅三年八月廿二日「町野満康奉書」『大慈恩寺文書』室:2304、2305)
領所 | 反数 | 由緒 |
伊能郷内 | 1町3段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
奈土郷内 | 2町5段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
津富良郷内 | 2町1段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
西雲富村内 | 2町2段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
臼栗村内 | 2町3段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
物木村内 | 5段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
久士崎村内 | 5段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
古山村内 | 1町4段 |
大須賀胤信寄進 大椎代 |
横山村内 | 1町 |
大須賀胤信寄進 大椎代 |
青木村内 | 2段 | |
滑河村内 | 3段 | |
水懸村内 | 5段 | |
一坪田村内 | 1町2段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
猿山村内 | 2段 | |
前林村内 | 1町 | |
柴村内 | 1町6段 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
大室村内 | 5段 | |
矢田山村内 | 2段 | 大須賀胤信寄進 |
中野村内 | 6段 | |
雨尾村内 | 2段 | |
助崎村内 | 1町 | |
遠山方内 | 4段 | |
南城内 | 2町 | |
上畠内 | 1町3段 | |
柴田村内 | 1町7段 | |
上村内 | 5段 | |
上総国大椎郷内 | 山野等 |
大須賀胤信寄進 新寄進 |
合計 | 28町4段 |
これにつき、8月に国分参河守、海上筑後守は大慈恩寺領に関する注進状を認め、相違なきことを鎌倉に注進した(応永卅三年八月廿二日「大慈恩寺寺領注進状案写」『大慈恩寺文書』室:2309、2310)。その後、鎌倉は大慈恩寺長老を鎌倉に招いて事情を尋ねたとみられ、9月27日、長老の帰途に煩いないよう持氏は奉行の「前筑前守行実」を通じて関所等の通過を認める過書を遣わしている(応永卅三年九月廿七日「明石行実過所」『大慈恩寺文書』室:2315)。
このほか、応永34(1427)年11月1日、香取社領「香取今吉名内田地」を「中平神虎房丸以下仁等押領」した件につき、兼胤は虎房丸を召し出すも彼は「不帯一紙証文」であり、当然ながら香取社の知行と断じる書下を香取社御物忌に下している(応永卅四年十一月一日「千葉兼胤書下写」『香取大禰宜家文書』室:2392)。
●応永34(1427)年11月1日『千葉介兼胤下写』
関東の騒擾が落ち着きを見せ、関東と京都との連絡も繋がりを持って行われているようであるが、応永33(1426)年10月の前管領細川満元入道の死去以降、義持入道の周囲も大きな変化を迎えていた。
前管領細川満元入道は8月中には腫瘍による体調悪化が進んでいたとみられ、義持は満済に「一万体薬師御造立」を指示していたようである。この薬師像造営事業は9月17日に初めて造立したのを皮切りに「今月廿日比可出来之由」が「仏師大蔵法眼」から満済に報告され、10月14日に義持入道へ伝えられている(『満済准后日記』応永卅三年十月十四日条)。
義持は10月8日朝に「御所様渡御京兆入道亭、腫物躰被御覧」と見舞いに訪れている。満元入道は「彼入道内者安富入道」が処方した「自去五日ヌキ薬お入」ていたが、満元入道は「毎度施効験奇特薬由」として今回に限らず体調が悪いときはこの薬を飲んでいたようである。「ヌキ薬(抜薬)」がいかなる効能のものかは定かではないが「毒気を抜く」または排膿効果のある薬だったのかもしれない。ただし、義持入道の主治医である「医師三位(三位法眼坂胤能)」(米澤洋子『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』京都橘大学大学院博士論文2020)は「此薬事不審也」と述べている(『満済准后日記』応永卅三年十月八日条)。満済は「凡京兆入道事、天下重人也、御政道等事一方ノ意見者間、御所様旁御仰天歟」(『満済准后日記』応永卅三年十月八日条)と評するとともに、義持入道の歎きを伝えている。
その後、10月14日に医師三位より「細河右京大夫入道腫物以外、大略可及難儀」ことを伝えられた義持入道は、「今一度令成可彼御覧可参申入旨」を満済に指示して細川亭へ御出した(『満済准后日記』応永卅三年十月十四日条)。満元は「心神等不相替、事体ハ以外也」という体調ながら「起逢対面」し、「不幾御所様入御」して満元と対面すると、義持は「薬相違等不可然由」と述べ、満元入道も「後悔由申入了」という。義持入道はその後もしばらく細川邸に滞在しており、満元入道と最後の語らいをしたのだろう。そして、細川亭を退去して御所に還御すると、満元嫡子の右馬助持元に「当右馬助身可被下案堵由」を命じた。
その二日後の10月16日申初、「京兆入道死去」した(『満済准后日記』応永卅三年十月十六日条)。「端座入滅」という気概を見せた最期だった。いまだ四十九歳の若さであり、満済は「不便々々」と歎き、その人柄を「平生一義神妙仁也」と評した。満元死去の報告を受けた義持入道は「御所様以外御周章」という憔悴ぶりで、「為御焼香入御彼亭、仍御所中三十日穢也、公家并諸門跡、此穢中不可参御所由、広橋儀同丞相相触了」している。しかし、明年正月に「山門礼拝講、御頭御沙汰」のために比叡山より異議が出たため、「仍俄御略、荼毘ニモ不可有御出」となってしまっている。
さらに、応永34(1427)年9月21日には「赤松入道死去云々、春秋七十歳也」(『満済准后日記』応永卅四年九月廿一日条)と見え、故満元入道とともに京都の重鎮であった赤松左京大夫義則入道もまたこの世を去った。満済も27日に「赤松入道事、今日以使者慶円法眼、左京大夫方へ訪遣了」という弔問の使者を赤松満祐のもとに遣わしている(『満済准后日記』応永卅四年九月廿七日条)。
●赤松系図
赤松則村―+―赤松範資―+―赤松光範―+=赤松義則――――赤松満祐
(円心) |(信濃守) |(治部大輔)|(左京大夫) (左京大夫)
| | |
| | +―赤松満弘――――赤松教弘
| | |(美作守) (治部少輔)
| | |
| | +―赤松範次――――赤松範久―――赤松元久―――赤松政資―――赤松義村
| | (左衛門尉) (伊豆守) (又次郎) (刑部少輔) (次郎)
| | ↓
| +―永良則綱―――宮内卿 ↓
| (民部少輔) ∥ ↓
| ∥―――――――足利義制【義永】 ↓
| ∥ (左馬頭) ↓
| 足利義教 ↓
| (征夷大将軍) ↓
| ↓
+―赤松貞範―+―赤松顕則―――赤松満貞――――赤松貞村―――赤松教貞 ↓
|(美作守) |(出羽守) (出羽守) (伊豆守) (刑部少輔) ↓
| | ↓
| | +―赤松持貞 ↓
| | |(越後守) ↓
| | | ↓
| +―赤松頼則―+―赤松満則 ↓
| (伊豆守) (伊豆守) ↓
| ↓
+―則祐―――+―赤松義則―+―赤松満祐――――赤松教康 ↓
|(権律師) |(左京大夫)|(左京大夫) (彦二郎) ↓
| | | ↓
+―赤松氏則 | +―赤松祐尚――――赤松則尚 ↓
|(弾正少弼)| |(常陸介) (彦五郎) ↓
| | | ↓
+―赤松氏康 | +―赤松則友――――赤松友如 ↓
(五郎) | |(兵部少輔) (左衛門尉) ↓
| | ↓
| +―赤松六郎 +=赤松義村
| | |(兵部少輔)
| | | ∥
| +―赤松義雅――――性存―――――赤松政則――――――――+―女子
| |(伊予守) (左京大夫)
| |
| +―真操
| |(龍門寺)
| |
| +―赤松則繁――――赤松繁広
| |(左馬助)
| |
| +―女子
| ∥―――――――細川満元―+―細川持元
| ∥ (右京大夫)|(右京大夫)
| ∥ |
| 細川頼春―――細川頼元 +―細川持之―――細川勝元
|(右京大夫) (右京大夫) (右京大夫) (右京大夫)
|
+―大河内満則――小河内満政―+―大河内教政
|(播磨守) (左京大夫) |(三郎)
| |
+―赤松時則 +―大河内満直
|(三河守) (二郎)
|
+―賀陽友則
|(五郎)
|
+―赤松持則―――赤松持祐――+―赤松祐利――+―赤松則実
|(上野介) (右馬助) |(兵庫頭) |(左衛門尉)
| | |
| +―赤松祐定 +―赤松政利
| (式部少輔) (孫三郎)
|
+―有馬義祐―――有馬持家――――有馬元家――――有馬則秀―――有馬澄則
(出羽守) (兵部少輔) (上総介) (出羽守) (刑部少輔)
ところが、この赤松家の故地である播磨国につき、10月25日と思われるが、義持入道は突如として「播磨国事為御料国、暫可被仰付赤松越後守、可去進」ことを南禅寺長老を使者として、亡父中陰で東山龍徳寺(赤松寺)に隠棲中の左京大夫満祐のもとへ遣わしたのである(『満済准后日記』応永卅四年十月廿六日条)。満祐に対して含む所があったのかは不明だが、播磨国を御料国として重用する側近の赤松越後守持貞へ預け置く措置は、追々は赤松持貞を播磨守護として立身させるという気持ちがあったのかもしれない(満祐については大国である備前国、美作国の二国をそのまま継承させる予定だったとみられ、赤松惣領家の立場を変えるつもりはなかったのだろう。ただし、京に近い大国三か国を満祐一人に継承させることは地政学的にも望ましくなく、義則入道の死去を契機にこの措置に出たと思われる)。
この下命に赤松満祐は「御返事之様、種々ニ歎申入云々、代々致忠節奉公拝領国也、平ニ被閣可畏入」と返事をするも、義持入道はなおも「重以同篇被仰出、御返事又同前」という強硬な遇いであった。満祐は「第三時畏入之由申入」るも、その返答は記されていない。そして「夜中亥刻計」に満祐は龍徳寺を退出して帰亭すると「如形一献等祝着儀沙汰」を行ったのち、26日「今曉、赤松左京大夫下国、宿所自焼」して「自其丹波路ニ没落」した。この報告を参籠中の清和院で受けた義持入道は激怒し、細川右馬助持元にその追捕を命じる。このとき満済のもとに「寅刻初計ニ自細河右馬助方、以使者河西大井入道申様、只今赤松左京大夫、下国仕候、仍路次ヲ塞候ヘキ由、被仰出候間、不取敢、只今馳下候、為得御意申入也」と持元使者の来訪があった(『満済准后日記』応永卅四年十月廿六日条)。「此使者、時彼下国事モ令存知了、天下重事珍事々々、消肝計也」といい、河西入道の話によれば「酉初歟計、宿所自焼、家内財宝悉雑人ヲ入、任所存可取由加下知云々、仍種々重宝等蔵マテ打破取之云々、其後火ヲカクト」というものだった。満済は「以外心静ニ令沙汰歟」と赤松満祐の胆力に感じている。
10月27日、満済は清和院の義持入道のもとに参じると、満祐について「短慮至由」を述べるとともに「今二ヶ国備前、美作被残之了、以後二ヶ国致奉公堪忍スヘキ處、短慮無正体由」(『満済准后日記』応永卅四年十月廿七日条)と語り、この満祐の暴挙に対して「備前国ヲハ赤松美作守、美作ヲハ同伊豆守ニ可被宛行由」を述べるが、これら一連の義持入道の措置について、満済は「以外粗忽御成敗歟」と心証を記す。また、満祐追討については「山名一色等、為退治可被向之由、同被仰キ」と話したという。ただ、義持使者として満済と顔を合わせる機会が非常に多い赤松持貞が播磨国を拝領したことについては「播磨国拝領珍重由、以教源法橋、赤松越後守方ヘ賀遣之了」(『満済准后日記』応永卅四年十月廿七日条)と、率直に拝賀の使者を送っている。数日後にこれが大きな事件となる事等知る由もなかった。
10月28日、義持入道は清和院から出て常在光院に渡御したのち御所に還御。ここで「山名一色打手ニ可罷立由被仰出」と、山名右衛門佐時熈入道、一色修理大夫義貫の両名に出陣を命じ、在京が義務の守護である彼らに「各御暇ヲ被下」た。その出陣の日取りについては「日次近日不宜、来月四日両人ハ可罷立」と定められ、「赤松伊豆守、同美作守両人ハ今日罷立」と、美作守満弘と伊豆守貞村は即日の下向が定められた(『満済准后日記』応永卅四年十月廿八日条)。
ところが、赤松満祐への措置は罪科なき故地収公であり、満済ですら「以外粗忽御成敗歟」(『満済准后日記』応永卅四年十月廿七日条)と批判するほど極端なものであった。当然ながら進軍する諸大名の士気も上がらず、伝統的に官軍先鋒を務める細川家もまた厭戦感漂う状態だったと思われる。とくに持元の故父満元と赤松満祐は従兄弟の間柄であり、持元はなかなか攻めようとしなかった。戦いの進捗が遅いことにしびれを切らした義持入道は、11月1日、飯尾肥前守、飯尾加賀守の奉行両人を使者として「細河典厩陣へ罷向」わせ「早々ニ可致合戦」と催促している(『満済准后日記』応永卅四年十一月朔日条)。
+―赤松義則―――赤松満祐
|(左京大夫) (左京大夫)
|
赤松則祐―+―女子
(律師) ∥――――――細川満元―――――細川持元
∥ (右京大夫) (右京大夫)
細川頼春―――細川頼元
(右京大夫) (右京大夫)
また、京都においても無益な合戦を避けるべく、管領畠山満家入道や満済准后らが中心となって赤松満祐の赦免に向けて動き始めた。「管領内々依有申子細也」により、11月3日早朝、満済は醍醐寺から出京して御所に参じて義持入道と対面した(『満済准后日記』応永卅四年十一月三日条)。満済は管領畠山入道の言葉を義持入道に申し入れた。このとき満済は「赤松左京大夫、以書状管領へ進退事歎申子細在之」を受け、義憤も加わった畠山満家入道の相当に強い諫申を伝えたのである。
管領申入の委細 | 義持の答え | |
(1) | 仍無為之儀三ヶ国中一ヶ国おハ播州被残置、可有御免條、旁以可宜旨也 | 左京大夫事ハ、只今とナリ可有御免條、大ニ非御本意間、難被閣 |
(2) |
御陣立事、凌爾至也、楚忽之儀返々無勿体 (其外今一、二ヶ條在之) |
御陣立事ハ、誠不可有楚忽之儀 |
子細は、赤松惣領家が代々守護を務める三ヶ国(播磨国、備前国、美作国)のうち、播磨国は満祐に残した上で宥免すべきこと、派兵もあまりに適当で軽率に過ぎる(その他、さらに何条か諫言があったようだが、それは略されている)という強烈な批判だった。義持入道もこの強諫には面食らったのだろうか。その返事は、赤松を今更許すことはできず追討の停止は本意ではなくやめることはできないこと、出兵もまったく軽率には当たらないと述べるに留まり、半ば意地になっている様子も感じられる。満済はこの内容を管領畠山入道に伝達するが、畠山入道は「無力」と肩を落としている(『満済准后日記』応永卅四年十一月三日条)。
翌11月4日には予定通り「今日山名右衛門佐入道常熈、為赤松退治重発向」しており(『満済准后日記』応永卅四年十一月四日条)、義持入道は「先分国但馬ヘ罷下、勢ヲ相随テ自浅五群可責入」ことを指示している。ただし、追討両大将の一人「一色左京大夫」については「同罷立處、去夜俄被止之」といい、前日夜に急遽出陣が取りやめられた。
11月6日、満済は醍醐寺へ帰る予定であったが、「自細河典厩陣使者、飯尾備中入道上洛、今夜可来由内々申入間、罷留了」(『満済准后日記』応永卅四年十一月六日条)と、細川持元の使者、飯尾備中入道が今夜上洛して満済に内々に申し述べたい事があるとの連絡があり、京都に留まった。その夜、飯尾備中入道が満済を訪ねて「典厩書状」を渡すが、書状には「御旗可申出由、細河讃岐守方へ申入也、内々可得其意、次ニ播州事以外猛勢、已及大儀候、自方々同時ニ可被責條可宜、当方以外無勢、四国勢未一人モ不上洛間、相待彼等、自海上陸地同時ニ可責入支度也、而ヲ合戦遅々由、連日御切諫、不便次第也、以便宜時可申入」(『満済准后日記』応永卅四年十一月六日条)という切実とした依頼が記されていた。懈怠なく故国の召し上げを宣言され士気旺盛な赤松勢に対して、細川勢は在京被官のみの無勢な上に急な催促に対応できない四国勢も到来せず、士気阻喪の中で早く合戦を遂げよという連日の折檻の使者の到来に参っている様子がうかがえる。
こうした混乱の中、11月10日、満済のもとに「自管領可申談子細在之、可有御出京」という使者が到来する(『満済准后日記』応永卅四年十一月十日条)。体調がよくなかった満済は「明後日可出京由申遣了」と伝え使者を返すが、これはこの日に義持入道が管領畠山入道の弟・修理大夫入道亭を訪問し、還御の時に起こったある事件について話すためとみられる。この事件は翌11日申初刻に教源法橋が醍醐寺の満済に語っているが(『満済准后日記』応永卅四年十一月十一日条)、深夜に教源法橋のもと(法身院内か)に「自赤松越後守方申子細在之」として赤松越後守持貞の使者「波多野某(持貞重臣)」が訪れて(『満済准后日記』応永卅四年十一月十二日条)、「昨日御所様畠山修理大夫入道亭へ入御、還御時、於路次越後守進上悪事庭中」があり、持貞が義持入道の怒りを買ったため、深く交流していた満済に「仍及生涯事也、急罷出可加芳言」を願い出たというものだった。これについて、満済の体調はまだ快復しておらず、「明日可罷出由」を返事しているが、赤松満祐追討に加えてこの事件に「希代事也」と嘆息している。
その詳細は、「去十日、自匠作禅門亭還御時、於御所門前、遁世者一人持参書状、自高橋殿御文候トテ進之間、畠山七郎取之備上覧云々、其後此遁世者不知方々、所詮此状ノ中ニ越後守行儀三ヶ条共以女事云々、訴申入間、昨日以賀阿弥條々被尋下之間、以告文可申入之由申入候了、其後ニ又仰下様、悉以分明慥事共也、今更告文中々無益由被仰下、已宿所ヲ可罷出由被仰間、生涯此事也、平ニ扶置様ニ可申沙汰云々、只今モ已可被切腹之由風聞、片時モ早々ニ可参申」(『満済准后日記』応永卅四年十一月十二日条)という切迫したものだった。ここにみえる「高橋殿」は故鹿苑院殿義満に才覚を愛された妻妾であるが、彼女から義持に届けられた文書には「越後守行儀」について「三ヶ条共女事」が記されていた。具体的な内容は不明ながら、持貞が高橋殿の女中に手を出した詳細が記されていたのだろう。義持入道はただちに「彼女中ヘ已被相尋被究明」し、持貞も自身で「所詮今度三ヶ條、悉以雖実犯」(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)と認めているように、すべてが事実であったことから弁解の余地はなく、11月11日、義持入道は賀阿弥を持貞亭に派遣して問い質し、持貞は誓詞を以て赦免を求めたが、義持入道は明白な事実について今更誓詞を出す意味はないと突き放し、早々に屋敷を出て自害せよと命じたのであった。もはや自力での対処は不可能と感じた持貞は、日頃関わりの深い満済に対処を哀願したのであった。
翌11月12日早朝に入京した満済は、御所に入り義持入道と対面。ここで持貞について「條々不便次第、且虚実間モ又不分明歟、雖何篇先被究明、追可有御沙汰條、尤可宜旨種々申入」ている(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。これに対し義持入道は「何モ々々分明事也、更非陳申限、彼女中ヘ已被相尋被究明候了、此上ハ越後守空起請還而為其身モ不便歟、所詮此事不可相綺由」と述べ、まったく取り付く島はなかった。その事はすでに治定したことで論ずるに足らずとばかりに、義持入道は次の「越後国事」の話題へ移っている。
翌11月13日朝にも、満済は御所を訪れて「越後守事、種々ニ歎申入」た(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。満済は「所詮今度三ヶ條、悉以雖実犯、先田舎ヘ被追下、一命ヲハ可被扶由、返々申入」たが、義持入道は「已生涯不可有御対面由、以神御誓約也、御身ニ如何テ御誓文ノ御罰ヲハアテ申ヘキヲヤ、此上ハ速ニ進退サハ々々ト可沙汰」と述べ、義持は持貞とは「生涯不可有御対面(この生涯は生害の意ではないが、文意全体としては自害を前提にした表現であろう)」ことを神契しており、満済の意見によって持貞の一命を助けることで満済に神罰が下ってしまう迷惑をかけたくないと語った。ここまで言われた満済は「於此仰者、愚身更難申遣候、自昨日可切腹由頻ニ雖申入、平ニト申于今抑留仕了、返々不便」と半ば言い捨てる形で御所を退出した(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。
満済は帰院後、「八幡前社務融清法印并教源法橋等」を赤松持貞亭に遣わし、義持入道の大体の申條とともに満済の意見として「先高野辺へ罷下、暫隠居仕、連々ニ可歎申入」ことを再三にわたって述べた。持貞もこの提案を受け容れて内々に高野山へ向かう手はずを整え、満済は「高野事ハ智荘厳院方ヘ可申遣旨内々申了」と高野山側にも智荘厳院を受け容れ先とし根回しを行う旨を伝えた(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。そして、夜半「戌半計歟」に満済はさらに教源法橋を持貞亭に派遣すると、持貞は「委細懇ニ計賜候條、生々芳恩此事也、僧時衆間ニ可罷成歟、可任意見」という。そのため、満済はさらに教源法橋を遣わして「於其間ハ雖何候可被任所存歟、只暫可為堪忍由也、且此等子細管領ニモ相談了、彼意見又同前由」を伝えた。管領畠山満家入道もまた持貞に同情し、持貞の内々の出家遁世の策に理解を示していたことがわかる。このような満済による持貞亭への使者の往復は「如此往反間及亥半計歟了」とあるように、わずか数時間の間に幾度も使者が往復して、持貞の高野山坊への密かな隠棲が決定したのであった。
ところが「其後教源法橋馳帰申様」ったところによると、教源法橋がまだ持貞亭に滞在中と思われ最中、「只今已賀阿弥御書ヲ持テ罷向、急々可仕腹由被仰出候、此上ハ無是非次第候」という(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。「賀阿弥ニ相副テ長老三人被遣之、為善智識歟」といい、使僧の時衆賀阿弥陀仏に副えて、禅宗長老三名も派遣されており、引導を渡す役であろう。なかなか腹を切らない持貞に、義持入道が有無を言わさず切腹させるために派遣したことがわかる。ここに及んで赤松持貞も覚悟を固め「不幾切腹了、内者波多野、稲田、首藤二人、青津、河島以下十人計歟、同時ニ切腹云々、稲田ハ最結句ニ一身自害、自身家ニ火ヲ懸ト」といい、11月13日深夜、持貞と被官の波多野、稲田、首藤姓二名、青津、河島氏ら十名程度が持貞亭で切腹を遂げた。このうち稲田某はすべてを見届けたのち館に火を放って自刃している(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)。理不尽な罪名に対する憤死であろう。このことを「事様諸人褒美」しており、持貞に同情的な人々によって「京中猥雑無申限」という状況となり、「管領以下諸大名勢、ヒタ甲ニテ御所辺ヘ馳集、此軍勢共カ罷出」と御所周辺を警衛する騒ぎとなった。また、持貞と交流の深かった寺社は「誦経鐘トテ六角堂、因幡堂、祇陀林、誓願寺等ノ方々、金ヲツキタルヲトナイ一向早鐘也、振動無申計、何様子細哉、併天魔所行浅猿、旁押悲涙了」(『満済准后日記』応永卅四年十一月十三日条)と、持貞一統の供養と称して六角堂や因幡堂などの梵鐘を衝き、京中が鐘音で満ち満ちたという。これには満済もいかなる子細や天魔の所業かと驚くも、持貞への悲涙を隠さなかった。
この事件の発端は、義持入道による赤松家惣領義則入道死去をきっかけとした赤松氏の勢力削減の画策であろう。また近習の赤松庶家の取立てを図ろうとした意図もあったのであろう。赤松家の故地播磨国は収公されて重用していた近習の赤松持貞へ預かりとされ、守護赤松満祐は京屋敷を焼いて帰国するが、その追捕中にタイミングよく高橋殿が持貞の不貞を遁世者(この直後行方知れず)を通じて義持入道に告げることになる。不貞不義を嫌う義持入道は持貞や関係者に事実を質した結果、事実と判明したため、持貞に即座に自刃を命じたのである。
この持貞自刃事件の背景は様々に考えられる。事件の関係者と疑惑として考えられるのは、下記の通り。
関係者 | 疑惑 | 実否 | |
(1) | 足利義持 |
(近習の赤松持貞を取り立てるために)播磨国を惣領満祐から取り上げ、御料所に定める旨を満祐に通達。これが満祐挙兵のきっかけとなった。 自らの行為が原因で起こった戦いを収めるきっかけを失い、持貞に不貞の罪を着せて強硬に処断することで、戦いの収束を図った? |
義持入道は、持貞処断後も播磨攻めを継続し、須磨陣の細川持元に早々に攻めるよう督促をしていることから、持貞を利用して収束を図ったという事実は否定される。 |
(2) | 赤松満祐 |
播磨国の収公を突きつけられ、再三の歎願も空しく拒絶され、冷静にな覚悟のもと屋敷を燃やして義持への強烈な不満を表明し都を去った。 しかし、追討の最中にも管領満家入道との連絡は取り続けており、持貞失脚のために持貞の女性問題を演出した可能性? |
満祐と持貞の直接的な関係は不明だが、持貞は播磨国内にも相当な勢力を有していたが、両者の関係性は悪いものではなく、友好関係にあった印象がうかがえる(応永卅四年十一月十八日「武田信賢書状」)。 持貞自刃から約十一日後の11月25日には、満祐の起請文を持った使者浦上三郎左衛門が上洛し、管領がその場で取りなして義持も満祐を宥免するという処理の速さから、すでに段取りは組まれていたのではなかろうか。 |
(3) |
畠山満家と 畠山満慶 |
義持入道の理不尽な行為から端を発した播磨合戦であるが、義持入道は体面上、正当な理由なくみずからが起した戦いをやめることは不可能であった。そのため、管領満家入道が持貞(大きな権勢を有していた)の排除を兼ねて、義持入道の振り上げた拳の落し所を作り出すため、弟の修理大夫入道への御成というタイミングで、謎の「遁世者」を仕立てて満慶子息の七郎に謎の書状(高橋殿の持貞糾弾文と判明)を渡し、七郎から確実に義持入道へ渡されるよう図った? |
義持入道の体面保持を図るために持貞を利用した、ということは、義持入道が播磨攻めを止めたい心境にあることが前提となるが、それは前述の通り否定されるので、この仮説は成り立たない。 管領畠山入道は当初より播磨攻めを痛烈に批判し、義持入道にも派兵は聊爾の至りにして粗忽と直言(満済に依頼)するほどの怒りを示しており、満祐とも連絡を取り合うなど、一貫して満祐を擁護している。一方で持貞との関わりは見えないが、満家の意見は満祐へ少なくとも播磨一国は下されて兵を引くことにあり、播磨を預けられた持貞を失脚させるために動く可能性は十分あろう。 |
「高橋殿」の持貞不貞の密告は、播磨国を預けられる予定の持貞のみをターゲットとしていることから考えて、播磨国の所属を巡る問題が背景にあったのであろう。そう考えると、赤松満祐の存在が深く関与している可能性が高いのではなかろうか。もともと左京大夫満祐と越後守持貞の関係は傍から見れば決して悪いものではなく、満祐の播磨下向と時を同じくして「赤松方越後殿被官之一族達多被下候」(応永卅四年十一月十八日「信賢書状」『東大寺文書』)とあるように、持貞は惣領赤松満祐方として見られていた。そして、播磨攻めについても「将又越後殿被切腹候へとも、今月十五日ニ御旗下候て、赤松殿を可被責にて候」(応永卅四年十一月十八日「信賢書状」『東大寺文書』)とあるように、持貞は満祐方として切腹させられたと受け取られていて、彼の切腹にも拘らず応永34(1427)年11月15日に御旗が下され、播磨攻めが敢行されたという認識だったようだ。
満祐と友好関係にあった管領畠山満家入道は、この理不尽な合戦を収束させるべく播磨一国は先例通り満祐に残し置くべく持貞排除を計画し、持貞不倫相手の高橋殿女中について、管理者たる高橋殿に話を通し、その不貞疑惑を義持入道の御見に入れることで、義持入道が持貞の播磨国預かりの撤回を期待した計画だったのではなかろうか。その「越後守行儀」について「三ヶ条共女事」が記された書状が渡されたのが、管領満家入道の弟・修理大夫満慶入道亭への御成からの帰途、御所門前であり、突然現れた「遁世者(しかも直後に姿を消す)」が「自高橋殿御文」を「畠山七郎(修理大夫満慶の子・七郎持幸)」に手渡し、確実に義持入道の手に届くよう図られていることから見て、この出来事は管領畠山満家入道と修理大夫入道満慶兄弟を中心に練られた策謀であった可能性があろう。
畠山基国―+―畠山満家――+―畠山持国―――畠山義就
(右衛門督)|(右衛門督) |(左衛門督) (右衛門佐)
| |
| +―畠山持永
| |(左馬助)
| |
| +―畠山持富―+―畠山政久
| (尾張守) |(弥三郎)
| |
| +―畠山政長
| (左衛門督)
|【能登守護】
+―畠山満慶――+―畠山義忠―――畠山義有
(修理大夫) |(修理大夫) (阿波守)
|
+―畠山持幸
(右馬助)
彼等はこの無意味な戦いの収束には、少なくとも満祐へ播磨国守護職の継承が認められる必要があるとみていたのだろう(「無為之儀三ヶ国中一ヶ国おハ播州被残置、可有御免條、旁以可宜旨也」)。そのためには、播磨国を預け置かれる立場の持貞には失脚してもらう必要があった。しかし、持貞は諸所の奉行、とくに寺社問題を無難に熟す能吏であり、義持入道の信頼も厚く、彼を失脚させるのは至難の業であった。そこで満家入道等は、義持の信頼を裏切る行為を暴露する策謀を選んだのではなかろうか。そこで利用されたのが持貞の女性問題だったのだろう。ところが事態は満家の想定を大きく超え、義持入道は激昂して持貞に即座に切腹を命じた。ただ、女性問題は事実である以上持貞も否定できず、やむなく深い交流のあった満済に泣きついた。持貞の不貞行為はおそらく両者の合意のもとであり、死を賜る重罪とは言えない。満済は持貞を救うために幾度も義持入道への直談判を繰り返す一方で、持貞を高野山辺へ脱出させる手はずをも整える。これには満家入道も賛意を示しており、持貞の救済に動いたと考えられる。しかし、この策は間に合わず、義持入道は使者を遣わして持貞以下の切腹を強行してしまうことになる。
応永34(1427)年11月14日、「今日為播州凶徒御退治御幡被下之」とあり、先日細川持元が申し出た御旗について、御使者の飯尾加賀守が「自御所一色亭へ持向」い、「自細川典厩方、明日可請取」るよう命じた(『満済准后日記』応永卅四年十一月十四日条)。そして翌15日に御旗は下された(応永卅四年十一月十八日「信賢書状」『東大寺文書』)。義持入道はいまだ播磨国を攻める意図を明確に示し、北からは山名時熈入道の軍勢、須磨には細川持元勢が千騎余りで播磨国をうかがう状況にあった。
こうした中で、満祐は管領満家入道と連絡を取り合っており、おそらく持貞自刃の事件なども伝えられていたのだろう。その自刃から十一日後の11月25日に「今日、赤松左京大夫歎申條々以起請文両使参洛、浦上三郎左衛門上京」した(『満済准后日記』応永卅四年十一月廿五日条)。その直後には「管領種々ニ執申入間、御免」とあっさり満祐は赦免されることになる。あまりに短期間かつ評定もない赦免を見ると、満祐の起請文提出に関してはすでに義持入道の耳に入っていたのではなかろうか。これにより「仍細川右馬助相伴赤松、可罷上由被仰出」(『満済准后日記』応永卅四年十一月廿五日条)という。この際、持元には「須磨陣ハ未ハツスヘカラサル由」を命じており、もし赤松方に何か怪しい動きがあれば即座に動く体制を保たせたまま、持元に満祐を同道させている。
12月3日には満済のもとにも「自細河典厩陣使者来、飯尾備中入道也」といい、「赤松左京大夫御免也、令同道可罷上由、被仰出」(『満済准后日記』応永卅四年十二月三日条)という報告がなされた。そして12月17日、満済は召しに応じて義持入道と対面する。この日「細川右典厩、同今曉上洛」し、赤松満祐も同道であった。満済は「赤松左京大夫、今曉已京着、珍重由」を述べると、義持入道も「罷上様誠神妙」と応えるとともに、満済に「就其赤松、今度書進上告文、未被御覧、管領ニ在之、罷向可一見」ことを依頼した(『満済准后日記』応永卅四年十二月十七日条)。その後、満済は北野天満宮に満祐告文を持参。これを受けて、義持入道は、播磨攻めのために「未在国在陣中」の「山名右衛門佐入道方」へ「今度赤松御免次第、具可被仰」ことを相国寺勝定院主の持西堂に命じ、翌18日に派遣している(『満済准后日記』応永卅四年十二月十七日条)。
そして、12月18日、満祐は管領満家入道に付き添われて義持入道と対面を果たした。同じく「細河右馬助、同今日御対面云々、珍重々々」と、満済は播磨攻めの収束に祝意を表した(『満済准后日記』応永卅四年十二月十八日条)。21日には義持入道は「細川右京大夫亭(12月18~21日の間に持元は右京大夫に補任されている)」へ渡御し、持元に播磨攻めの働きを賞し「被謝仰」という(『満済准后日記』応永卅四年十二月廿一日条)。12月25日午剋には山名方へ遣わされた持西堂が帰洛し、そのまま法身院に満済を訪ね結果を報告した(『満済准后日記』応永卅四年十二月廿五日条)。「山名、昨日国お罷立、明日廿六日可上洛」するという。これで、摂津方面の細川勢、但馬方面の山名勢がすべて引き上げたこととなり、播磨攻めはここに完全収束を迎える。
明けて応永35(1428)年正月1日、義持入道は例年通り参内、院参を果たし(『建内記』応永卅五年正月一日条)、「三条八幡ヘ御社参」(『満済准后日記』応永卅五年正月一日条)した。翌正月2日も例年通り「面々召出如形祝着之儀」が行われて管領亭へ渡御(『満済准后日記』応永卅五年正月二日条)。4日も管領亭に渡御(『満済准后日記』応永卅五年正月四日条)、6日には相国寺鹿苑院に渡御(『満済准后日記』応永卅五年正月六日条)、7日には「今日室町殿埦飯、赤松左京大夫満祐勤仕、如例年」(『建内記』応永卅五年正月七日条)とあり、播磨攻めが終わった直後ながら、赤松満祐の埦飯を受けるなど例年通りの正月行事が執り行われている。ただ、正月1日から「今曉狼、猶如朔日吠了、日出以後モ於瀧谷辺吠云々、若不快事歟、或者云傷寒故也云々、若明日可雪降歟」と、満済は何とない不安を抱いている。
ところが赤松満祐から埦飯を受けた7日より、義持入道は臀部の腫物がひどくなり床に伏した(『満済准后日記』応永卅五年正月七日条)。満祐に対して疑いがかかっていないのは、義持入道発熱の理由がはっきりしていたからであろう。義持入道の発熱については「室町殿御座下御雑熱出来云々、今日於御風爐カキヤフラルヽ間、御傷在之云々、但非殊事」のためであった(『満済准后日記』応永卅五年正月七日条)。今日入った風呂で臀部の「御雑熱(出来物)」を掻き破って傷ができたためとの判断で、とくに重篤なものではないと考えられていた。
正月9日、「医師三位(三位法眼胤能)」が満済に義持の容態を伝えたところによれば、「自夜前御所様聊御風気、又御雑熱モ又御傷興盛云々、但両條更無苦見安平事共云々、珍重々々」(『満済准后日記』応永卅五年正月九日条)とあり、腫れも傷もひどいが、とくに進行している様子は見えないとの診断だった。
ところが、翌正月10日には「室町殿参賀為毎年之儀、而延引、御雑熱之間難御対面」(『建内記』応永卅五年正月十日条)、「今日ハ僧俗室町殿ヘ参賀日也、雖爾依御雑熱御安座難叶間、被延引了」(『満済准后日記』応永卅五年正月十日条)といい、出来物の傷が悪化して座るのも困難となっていたため、これ以降の儀式はすべて延期となった。翌正月11日は義持入道が満済を法身院に訪ねる予定であったが、義持入道は賀阿弥を遣わして「今日渡御事無力被延引」とする。その体調は「御評定御出事モ被引御手可有御出御用意也、御評定終テハ先御所御立、次管領以下罷出事也、雖爾先御立事自然御顛倒モ有ラハ年始之儀可為不吉間、以新儀管領以下先令退出、其後人ニモ被扶御立有ヘキ由被仰程事也」(『満済准后日記』応永卅五年正月十一日条)といい、賀阿弥も「御傷以外也、是程トハ門跡ニモ不可有存知」と述べるなど、かなり状況は悪化していた。
翌正月12日は恒例では「毎年武衞亭ヘ渡御日也」(『満済准后日記』応永卅五年正月十二日条)だが、これもまた延引となる。翌正月13日朝、満済は義持入道と加持祈祷についての申し合わせのため室町殿を訪問するが、義持入道は臀部炎症のため座位は叶わず横になっての対面であった。
正月16日、満済は義持入道からの「先急々可参申御前」(『満済准后日記』応永卅五年正月十六日条)という催促で急ぎ御所に参じると、義持入道は「以外御窮屈、頗消肝計也」という程に憔悴していた。この中で義持入道は「大略被思食定也、四十三ニテ御薨逝モ無不足被思食也、乍去又御祈事ハ難閣事歟、一向可宜様ニ相計、御祈方可申付、御所様ハ一向御工夫計ニテ可有御座」と述べる。すでに定命を悟り個として修禅に徹する様子がうかがえる。
翌正月17日、法身院に「管領、武衞、細河右京大夫、山名右衛門佐、畠山修理大夫等」が訪れ、満済と「條々談合」した(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。
内容 | |
(1) | 御遺跡相続御仁體事、雖誰人被定置、各可成案堵思事 |
(2) | 御治療方事 |
(3) | 御祈祷方事 |
彼等のもっとも重要な関心事は(1)の相続人を誰にするのかの一点であった((2)(3)は重要なものではないだろう)。彼等は義持入道は「所詮、今御様大略無其御憑」であって、その「御相続御仁體事、可為簡要」と述べ、満済も「何様伺使宜可申入」ことを述べると彼等は帰っていったが、その後しばらくして管領畠山満家入道が法身院に戻り、満済に「只今等持院、等持寺長老ニ参会處、御相続事、両長老遮而被相尋間、此門跡ヘ面々列参シテ申入候キ、雖爾只今御参候テ、若御機嫌可宜候者申入由、具可被申入旨申了、定可被達上聞歟、雖何篇被仰出旨可申御左右」ことを述べると「其旨意得由返答了」との報告をして退出した。この後、管領は山名右衛門佐入道とともに御所に参じて、継嗣のことについて義持入道と対談したようである。
御所から退出した管領と山名入道は満済を訪問し、「只今、一ケ條御相続御仁體事、申入」たところ、義持入道から「為上ハ不可被定也、管領以下面々寄合可相計」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)と言われたことを報告した。管領と山名入道は満済に「所詮、此御返事之上ハ重難申入、天下重事不可過之也、枉而重可申入」と泣きついたため、満済も「令領掌」として御所に赴くと、「近習以下被召集御前、御酒お被下」ていたので、近習の「細河讃岐守(細川持常)」に取次を依頼。事の内容を察した持常が御前へ参じ、「此門跡様、ちと可被申入事候」と近習達に申し聞かせて「御前者共各罷出」させた。
人払いが済むと、満済は御所の間に案内され、義持入道の御前へ参じた。ここで「管領以下面々一同ニ被申入、御相続御仁體事、以前以等持院、等持寺申入處、分明ニ無被仰旨間、各計会、只此一事候、早々可被仰出由」と、かなり強い口調で継嗣の決定を要求したのである。ところが、義持入道は「縦御実子雖有御座、不可被仰定御心中也、況無其儀、只兎モ角モ面々相計可然様可定置」と答えた。満済は記録に残さなかったが、義持入道はこの他に「継嗣御人体之處、依無其器不及被仰置、且縦雖被仰置、面々不用申者不可有正体之由」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)を述べたという。つまり、義持入道が継嗣を指名しなかったのは、まず第一に器量を持った人物がいない(これは亡き実子・義量も指していよう)こと、そしてもし言い置いたとしても執事ほかが反故にすれば詮無き事と諦観していたためだったのだろう。
満済は義持入道の答えは予想していたとみえ、「仰通ヲハ何様可申聞候、乍去何度モ此面々ハ可歎申入心中候」と、くぎを刺すとともに「仍只可隨仰、但於他人之御猶子者不可用申」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)と、義持と血縁関係のない猶子は継嗣候補からは外す(これには関東様持氏も含まれよう)ことを述べ、その上で解決策として用意していた「幸ニ御連枝御座候ヘハ、其内就御器用可被仰出候、其又けにヽヽ不可叶時宜候者、御兄弟四人御名字ヲ於八幡神前御鬮ヲメサレ可被定歟」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)と、八幡神前での神鬮による八幡神慮に基づいて継嗣の決定をしてはどうかと提案したのである。「御兄弟四人」とは、義持同母弟の「青蓮院准后義円前大僧正、天台座主」と、異母弟の「大覚寺大■■義昭、東寺長者也、相国寺僧■隆蔵主、梶井僧正義承」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)の四名である。
長快法印―――加賀局
(実相院) ∥―――――――――――尊満
∥ (香厳院)
∥
安芸法眼――――――藤原慶子 +―足利義持
(三宝院坊官) ∥ (勝鬘院殿) |(内大臣)
∥ ∥ |
∥ ∥――――――+―義円准后
∥ ∥ (天台座主・青蓮院門跡)
足利義詮―――足利義満
(権大納言) (太政大臣)
∥ ∥∥――――――――義承准后
∥ ∥∥ (梶井門跡)
∥ ∥女子
∥ ∥
∥ ∥―――――――――虎山永隆
∥ ∥ (相国寺蔵主)
∥ 女子
∥
∥―――――――――――義昭准后
女子 (東寺長者・大覚寺門跡)
管領らの第一の懸念である継嗣未決定事案を最優先で解決させるには、まず継嗣指名を拒む義持入道が、どういうものならば受け容れやすいのかを考える必要があった。義持は兄弟は「無其器不及」者ばかりで責任持って指名できないことや、たとえ指名しても「面々不用申者不可有正体」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)という懸念を持っていることは常々満済に伝えていたであろう。満済は、それであれば人為的に決めるのではなく「神慮」に基づく解決がもっとも合理的かつ明快と判断したのだろう。満済の「御鬮」による継嗣決定案は、
(1)信仰心が強くこれまでも決断に神慮を伺ってきた義持入道にとって受け容れやすい (決定権者が拒絶する事の心理的解決)
(2)「神慮」とすれば、後日何者かが相続に関して不平不満を述べることはできない (決まった継嗣に対する後日の担保)
(3)神鬮はすぐにでも製作ができ早急な継嗣決定が可能 (時間の短縮)
という、残された時間が少ない義持入道にとって様々な懸念も払拭できる、この緊急事態において最善の策であった。この案に義持入道も「然ハ御鬮タルヘキ由」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)、「可被任神慮」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)を認めたのである。ただし、義持入道は「但存命中ハ此御鬮事、不可叶也」と、生存中に御籤を行うことを禁じた(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。その理由は、故将軍義量の死後、継嗣が生まれるかどうかの御籤を石清水八幡宮神前で引いたところ、子孫はできるとの鬮を引いた上、その日に「男子ヲ御出生有」との夢を見たため、「于今ニ深ク此御夢ヲ御憑有テ、御猶子等事モ不被定キ」ためであった(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。
満済は一度間を下がり、管領以下に御鬮での継嗣決定と、御鬮を引く時期について詳しく説明した。この解決策に管領以下諸大名は「各畏申了」し、対応を相談している。鬮をひくタイミングについては「御没後ニハ於神前無左右此鬮可難取、早速ニ御定雖為何篇可宜間、所詮今日十七日、先密々ニ此鬮ヲ給テ開事ヲハ御没後ニ可沙汰」と、没後に引いたのでは遅きに過ぎるため、密々に今日中に鬮を引いて、没後に公表すればよいと決定した(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。そして、その肝心の御鬮を書くのは「面々予ニ申」ている。満済は「再三雖辞退、頻ニ申」ので、やむなく鬮に継嗣候補四名の名を書いて「以続飯ヲ堅封之上、其上ニ山名右衛門佐入道、書封了」した(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。当然ながら管領等が見守る中で記された上、山名時熈入道の手で封印されており、すべてに同じ人物の名を記した神鬮が作成された可能性はない。
この御鬮は「入筥畠山入道于時管領也、細川右馬助等持参」し、「石清水八幡宮於神前御棚上畠山入道執之、両度取之、青蓮院也」という。さらに「令他人取之處、青蓮院也」といい、「三ケ度同前」であったという(『建内記』応永卅五年正月十七日条)。なお、八幡宮社前まで行ったのは「管領一人八幡へハ令参詣可給之由定了」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)ともあり「仍管領戌終ニ参詣、於神前御鬮ヲ給テ亥終ニ罷帰」ったという。
管領が帰京した「于時深更」には義持入道は「已無御分別之儀、惘然之御式也」(『建内記』応永卅五年正月十七日条)という。容態は「酉半許歟ニ已御悪名出来」であり、主治医の医師三位は満済のもとに知らせに来ている。驚いた満済はただちに御所へ上り、義持入道の御前に来るとすでに「以外御体、中々無申限」であった。長老三、四人も祗候しており、「其以来ハ一向御言語不通、人ヲモ不被御覧知御体也」といい、「諸人咽悲涙計也」であった。義持入道危篤の風聞はすでに京中に洩れており、「京中猥雑無申計、公家武家僧俗群参、以外事也」という状況にあった。満済も修法による公験はもはや効果はないとして「御修法初夜時ヨリ一向略之、於壇所密々ニ祈念計也」し、「壇所雑具并本尊仏具等、悉夜中ニ返渡本坊」と、夜中のうちに室町御所内に設けられた壇所を撤去して法身院へ戻している。
義持入道の容態は「今夜ハ終宵同御体」のままであったが、翌正月18日「巳半計歟、御事切了」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)という。義持入道は「於常御所薨逝」(『満済准后日記』応永卅五年正月廿日条)し、その後の沐浴などは、おそらく長老らの指示のもとで「禅僧」が一手に執り行い、拭き清められた遺骸は常御所の床に安置され、「諸人其時拝見之、各々申焼香了、各退出」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)と焼香が行われた。
その後、「管領以下諸大名、各一所ニ参会シテ、昨日於神前ニ所取御鬮開之了」の儀を執り行った(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。前日に管領ほか首脳部のみで執り行われた神前鬮引は、すでに結果は判明しているが、義持入道の公命として没後の開示となった。管領畠山満家入道は鬮の封印を開け「青蓮院殿タルヘキ由御鬮也」ことを披露し、「諸人珍重由一同ニ申之」た(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。
■足利義持の死因について
記録に残る上、初めて義持の不調が記されたのは、正月7日の「室町殿御座下御雑熱出来云々、今日於御風爐カキヤフラルヽ間、御傷在之云々、但非殊事」のためであった(『満済准后日記』応永卅五年正月七日条)。
●義持病態の時系列
日にち | 内容 | 出典 |
正月7日 | 今日室町殿埦飯、赤松左京大夫満祐勤仕、如例年 | 『建内記』 |
室町殿御座下御雑熱出来云々、今日於御風爐カキヤフラルヽ間、御傷在之云々、但非殊事 | 『満済日記』 | |
御雑熱自七日成痛 | 『建内記』 | |
正月9日 | 自夜前御所様聊御風気、又御雑熱モ又御傷興盛云々、但両條更無苦見安平事共 | 『満済日記』 |
正月10日 | 室町殿参賀為毎年之儀、而延引、御雑熱之間難御対面 | 『建内記』 |
十日比、三位房允能法師拝見、為馬蹄之由申 | 『建内記』 | |
正月11日 |
支えられて評定出席し、評定の最後まで見届ける。 通例では御所退出後に管領以下が退出するが、先に退出して顛倒すれば年始の評定が不吉となるので、管領以下を先に退出させたあとに、御所が支えられて退出する臨時進行となる。 |
『満済日記』 |
法身院に満済を訪問する予定だったが「今日渡御事無力被延引」となる。 | 『満済日記』 | |
正月12日 | 通例では「毎年武衞亭ヘ渡御日也」だが、延引となる。 | 『満済准后日記』 |
容態は「以外御窮屈、頗消肝計也」で、「大略被思食定也、四十三ニテ御薨逝モ無不足被思食也、乍去又御祈事ハ難閣事歟、一向可宜様ニ相計、御祈方可申付、御所様ハ一向御工夫計ニテ可有御座」と、もはや定命を意識し、禅の修法を行うのみとなる。 | 『満済日記』 | |
正月15日 | 近習の時衆「久阿弥拝見之處、為疽已腐入之由、不可及治療之由」という。 | 『建内記』 |
正月17日 |
「近習以下被召集御前、御酒お被下」る中、満済の来訪で人払いし、継嗣について満済と相談。八幡神前での籤により継嗣を決定することを定める。 その後、「酉半許歟ニ已御悪名出来」ことが満済に伝えられ、満済は御所に参上する。管領は籤を神前に引くため「管領戌終ニ参詣、於神前御鬮ヲ給テ亥終ニ罷帰」った頃「于時深更」には義持入道は「已無御分別之儀、惘然之御式也」であった。 |
『建内記』 |
正月18日 | 巳半計歟、御事切了 | 『満済准后日記』 |
大樹内大臣殿薨逝御之由、勧修寺前中納言経興告示之、于時辰一點也 | 『建内記』 |
正月7日時点で義持の臀部に何か腫物があったが、とくに問題になるものではなかったのだろう。しかし、義持は風呂で腫物を掻き破るほど掻いたという。当日から痛みを訴えるようになり、腫物に掻創ができてからわずか11日後には亡くなるという急性増悪であった。
破傷風菌による感染症であれば潜伏期間を考えると掻創直後に症状が出ることは考えにくく、破傷風菌の感染症ではない。また、敗血症との説もあるが、心身の惘弱はみられるものの死の直前まで継嗣に対する自身の考えを保ち、近習と別れの杯を交わすなど意識障害も起こらず「一向御工夫計ニテ可有御座」という信念も持っていた。浮腫の伝も患部以外の急性炎症反応の伝もなく敗血症の可能性も低い。ここまで急激な全身症状の進行、数日での患部壊死と腐敗、座れないほどの強い痛みを考えると、壊死性筋膜炎の可能性が高いだろう。
応永35(1428)年正月18日巳半刻(午前十時頃)、足利義持入道は四十三歳の生涯を閉じる(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。前述の通り、正月7日に負った掻創からの細菌感染による壊死性筋膜炎であろう。
義持入道の意思を受け、薨去後に管領畠山満家入道は継嗣について「青蓮院殿タルヘキ由御鬮」を披露(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)。これに「諸人珍重由、一同ニ申之」した。この継嗣の件については、管領らとの間で「此御クシ事、今日可申入彼門跡歟如何由評議」があり、満済は「仰在方卿撰吉日、今明間可日申歟」と述べると「其儀可宜由面々之」として早速「召在方卿、撰吉日處ニ、明日十九日、最上吉日也」という。よって「明旦、管領以下参彼門跡、先可奉入裏松亭由定申、各退出了」(『満済准后日記』応永卅五年正月十七日条)と、まず有司の人々が裏松義資亭に集まって評議することが定められた。また、義持入道の追号については、長老らが話し合い「勝定院」とした。相国寺内に義持が開基としてひらいた塔頭で、義持の菩提所となった。
翌正月19日早旦、「管領以下大名悉参彼門跡」し、神鬮の結果など「此子細申」と「種々ニ御辞退」という(『満済准后日記』応永卅五年正月十九日条)。これは禅譲の三辞の故事と思われ、暗黙の裡に行われたもので管領らも「雖爾面々ニ強申所存條」して「御領掌」となった。その後、「大名等令供奉々入裏松了」(『満済准后日記』応永卅五年正月十九日条)と、故義持裏松中納言義資亭に入御となった。
日野時光―+―日野資康――+―日野重光――――+―日野資方
(権大納言)|(権大納言) |(大納言) |(右少弁)
| | |
| +―日野持光 +―裏松義資―――裏松政光―+―日野勝光
| |(右衛門権佐) |(左大弁) (右少弁) |(左大臣)
| | | |
| | +―万松軒澄安 +―――――――藤原冨子
| | |(仙厳和尚) | (妙善院)
| | | | ∥
| +―日野義藤 +―大僧正俊円 +―藤原良子 ∥
| |(左衛門佐) |(法隆寺別当) (妙音院) ∥
| | | ∥ ∥
| | +―僧正重覚 ∥ ∥
| | |(興福寺西南院) ∥ ∥
| | | ∥ ∥
| | +―僧正隆実 ∥ ∥
| | |(東大寺) ∥ ∥
| | | ∥ ∥
| | +―僧正重慶 ∥ ∥
| | |(法性寺座主) ∥ ∥
| | | ∥ ∥
| +―藤原康子 +―僧正重尋 ∥ ∥
| |(北山院) |(興福寺東北院) ∥ ∥
| | ∥ | ∥ ∥
| | ∥ 藤原慶子 +―藤原宗子 ∥ ∥
| | ∥(勝鬘院) |(観智院) ∥ ∥
| | ∥ ∥ | ∥ ∥ ∥
| | ∥ ∥―――+―――足利義教――――――――――足利義視 ∥
| | 足利義満 | |(左大臣) (権大納言) ∥
| |(太政大臣) | | ∥ ∥
| | ∥ | | ∥――――――+―足利義勝 ∥
+―――――――――藤原業子 | +―藤原重子 |(左近衛中将) ∥
| |(定心院) | (勝智院) | ∥
| | | +――――――――――――足利義政
| | | (左大臣)
| | +―――足利義持
| | (内大臣)
| | ∥――――――――足利義量
| | ∥ (右近衛中将)
| +―――――――――――藤原栄子
| | (慈受院)
| |
| +―烏丸豊光――――――烏丸資任
| (権中納言) (准大臣)
|
| 後円融天皇
| ∥
| ∥―――――――――称光天皇
| ∥
+―日野資数====藤原資子
|(権大納言) (光範門院)
| ↑
+―日野資国――――藤原資子
(准大臣) (光範門院)
正月22日、管領以下の大名衆が裏松亭に群集し、今後のことについて話し合いが行われ、とくに喫緊の課題として、新たな継嗣と決まり義円の呼称を決定している。これは23日に行われる「御荼毘ニ付テ施主ノ御名字ヲ可被載事在之、如何」として、「御名字事一ヶ條也、御俗名ハ御髪ヲ被裹後ニ可在之、只今ハ何様ニ可申哉」(『満済准后日記』応永卅五年正月廿三日条)というものがあり、管領らは21日に満済に依頼して、かつて室町殿に出仕していた「広橋儀同并少納言入道浄宗」に意見を請うた。その結果、「准三宮義円、此間御法名可然由同様ニ申之了」という。満済は「此事不審」と考えて、夕刻にこれも室町殿祗候だった「万里小路大納言時房卿」にも同様に質問すると、広橋准大臣兼宣らと同様の返事であったことから、呼称は「准三宮義円」と一定する。
正月23日未刻、等持院院主を奉行として義持は荼毘に付され、弟の大覚寺門跡義昭、梶井門跡義承、三宝院門跡満済ら門跡ほか管領以下の武家が参列。「一事無障碍、珍重」(『満済准后日記』応永卅五年正月廿三日条)と無為のうちに終わった。収骨は二日後の正月25日、醍醐寺宝池院准后義賢(義持、義円従兄弟)がこれを務めた。
足利義詮 +―足利義満――+―足利義持
(権大納言) |(太政大臣) |(内大臣)
∥ | |
∥ | +―青蓮院義円
∥ | (足利義教)
∥ |
∥―――――+―足利満詮――+―実相院義運
紀良子 (左兵衛督) |(大僧正)
|
+―宝池院義賢
|(大僧正)
|
+―浄土寺持弁
|(大僧正)
|
+―持円
(大僧正)
義円は義持薨去後、継嗣となってから延ばし始めた髪の毛が二か月経って生え揃う頃から、「改元事」と、義円の「御名字事」「御官位事」(『建内記』応永卅五年三月断簡)が議されはじめた。官位について広橋右大弁宰相宣光より問われた関白二条持基は、鹿苑院殿以来、御昇進については摂家同等となっているが、摂家は正五位下中将または従五位下侍従以外にはない。ただし、彼はすでに准后であり参議や納言では釣り合わない。そうであれば「彼家之佳例被経次第之昇進之條可然」であろうとの返答であった。また、御名字については、3月6日の事と思われるが、二條関白持基より「可撰進候、随御定可 奏聞候」という指示のもと、万里小路時房・勧修寺経興・広橋宣光ならびに武家方が談合して御名字案を出し、二條関白は「有御談合之子細、面々不残所存可申意見之由」を伝えている(『建内記』応永卅五年三月断簡)。
義豊 | 反音の「[豸牛]」が満済説で「此獣卑シク穢ハシキヲ好」といい、初案で却下 |
義綱 | 反音の「卬」は「我」とも「高」とも同じで釈儀珍重ながら、源義家の弟に義綱がおり、「石階(石橋歟)」の先祖とも。斟酌により 初案で却下 |
義尚 | 反音の「[車卬]」字は「凶事之由」を広橋宣光が申し、翌日に万里小路時房が調べた結果がおそらくその通りであったのだろう。よって 初案で却下 |
義益 | 欠 |
義秀 | 欠 |
義材 | 欠 |
結果として「義豊」「義綱」「義尚」三案は却下となるが、「義益、義秀」はなお案に残った。さらに決定が闕文中にあるため詳細不明ながら「義宣」が追加されている。この御名字の事につき、管領満家入道は今日、満済を通じて御名字案を義円に披露するとして、万里小路時房、広橋宣光、勧修寺経興に早々に裏松邸に向かうよう指示した。裏松邸についた時房らはもとより伺候している満済から閑所へ招かれ、「此三義益、義宣、義秀」について相談し、義円は披露に際して三案のうち「何可然哉、定可申意見之由、可被仰下歟」と予測し「其時申モ又今申モ同事歟、承存可得其意之由示之」ことを語っている。おそらくその後、時房らは清原良賢入道常宗にも相談しているが、「義秀」はおそらく足利系譜に見えるとの意見があったのだろう。これに時房は「系図義季ナリ」としたが、この字体の相似はふさわしくないとなったのだろう。「義秀」も除外された。また「義宣」も「無難之条又勿論」ながら、「於義宣者■■…[同訓カ]…」と同訓の名があり斟酌すべきとして、良賢入道は「義益可然」とした。この報告のため、時房らは満済を「三条坊門万里小路御所」の壇所に訪れるが、満済は風呂に入っており、待っていたところ、広橋宣光と勧修寺経興が義円に召され、次に時房も召されて、おそらく御名字ほかについての意見を聞かれたと思われる。その結果は不明だが、御名字案「義益」は義円の腑に落ちなかったものとみられ、結局、再考が指示されたようである。その後、満済は3月9日に新たな案を示すため、再考を期し、管領満家入道邸に時房らが集まって議論が始まった「上字者義字代々御用之間、不能左右、下字或一流已被用同訓也、或御一族先祖等同名也、又摂関大臣等名字同訓有憚、仍下一字難得」との歎きも聞こえてくる。そこで出されたのが、以下の名字案であった。
義雅 | 「雅」は足利家内に「義政」があり、さらに北条義時の子・重時の子にも義政がいる。よって二條関白に不可とされるが、右大弁宣光は同名之字替は「義光、義満」の例があり、武家においては問題ない。また、「義時之流非可憚、其故者、雖有良持不被憚義持」と主張する。ただ時房は「勝定院御例、強不可模之由、若彼内心在之哉、仍可注進他字」と推測している。「良持」については「国トキ香」の「本名良望也、若此事ヲ右大弁存知歟、如何」と、平国香(トキカと読むか)の本名を根拠としているかと推測している。 |
義英 | 清原常宗入道は「不申是非」という。 |
義順 | 「義規」に変更される。 |
さらに訂正がくわえられ、
義貴 | 二條関白に「義雅」案を拒絶され、「父入道(広橋兼宣)」と相談すると言って一旦家に帰り、義雅に替えて出した案。二條関白も「無子細歟」とするが、「義孝雖字替是伊尹男也」と述べ、義孝兄弟はその後不遇となっていることに「一代猶雖任之不快歟」とし「今被用義貴之条、不可然歟」とこの案も相応しからずとする。宣光も「此事尤有憚、不存知事也」として、「早可撰進各別之字也」と再度退出。さらに新案を記して参じた。 |
が入るもこれも不吉とされ、義貴をさらに替字して「義寛」が案として出された。
義寛 | 「義雅」⇒「義貴」⇒「義寛」と替字された。訓は「トヲ」。 |
しかし、「寛」は大内義弘に通じるため、結局、以下の「両案」を勘申することとした。なぜ「宣」が新規に加えられたのかは不明。
義規 | もと「義順」で勘申されたが、こちらに変更された。訓は「ノリ」。ただし「チカ」とも訓じ、その場合は「康和義親」が朝敵として追捕されており「尤可被避事」であり、不可とされたか。 |
義宣 | 「宣」の字釈は「布、明、徧、通」という縁起の良い字である。「尽」という釈もあるが「ツクル」という意味ではなく、「天子居上衆言以一言被究極」の意味で「宣旨ニテ決断スル儀」であるという。 |
という経緯を辿り、最終的には、万里小路時房、勧修寺前中納言経興、広橋右大弁宰相宣光が同道して清原少納言良賢入道常宗のもとに意見を確認し、その後、管領や満済、万里小路時房、勧修寺経興らで、最終的に「義宣無難之条又勿論」と決定する(『建内記』応永卅五年三月断簡)。叙爵等については「鹿苑院殿御佳例、先可有御叙爵哉、彼御例、正五位下左馬頭等後日也、今度之儀、御叙爵同日御拝任左馬頭尤可然候哉、且同日御叙爵■■■■■、等持院殿御例■■■■■」と、叙爵と左馬頭拝任を同日に行うことが決定する。
3月11日、義円は従五位下に叙され同日左馬頭に任じられた(『公卿補任』)。翌3月12日に裏松亭寝殿において「被裹御髪役人畠山尾張守」のもとで「被裹御髪」の儀が執り行われ、関白藤原持基は「御名字持参之、被染宸筆」し、ここに義円は還俗名「義宣」となる。なお、左馬頭の除書には「左馬頭源 義-」と「宣」字は憚って記されずに「宣ノ字ー如此引之、不書宣字、是奉憚之故、近年如此」という。ただ、清原良賢入道は「不可然之由、常宗所相談也」と、この書様に異議を述べる(『建内記』応永卅五年三月断簡)。
4月5日には関白二条持基が「当御所様御一級事、御四品尤可宜歟」と仙洞御所に内々に申し入れ、「今度越階従五位下ヨリ被叙四位也、此分無相違者」と決定する。ただし、先に申入れの「征夷将軍宣下事」は「御着冠以前ハ可為御童形准拠歟」で「先例モ未見及間、御着冠以後可宜旨」とされ、満済はじめ様々に意見が出されるものの、結局は義宣の元服以降での宣下が適当と決定される(『満済准后日記』応永卅五年四月五日条)。
その後、4月11日に「御判始」「御乗馬始」「御評定」の三吉事が行われ(『満済准后日記』応永卅五年四月十一日条)、4月14日「御沙汰始并御的始」を行い、官途も「御一級従五位下ヨリ不被歴正下、直被叙四品」(『満済准后日記』応永卅五年四月十四日条)とあるように、正五位下を経ずに従四位下に叙せらる。
また、4月27日には改元陣が開かれ、今回の改元は武家方・二條関白持基と後小松院との間でその題目について矛盾なきよう相当に議論が詰められた改元作業となったが、三十五年も続いた「応永」元号が改められ「正長」が新元号として勘進せられ、関白持基の意見を経て、「子細又武家ヘ申入」られ、29日に室町殿義宣が「被加御判」せられた(『満済准后日記』応永卅五年四月廿九日条)。その題目は「依重臣薨逝被行」というものとなった。
また、5月20日には日野裏松中納言義資の采地「近江国日野牧」の代官職として、義資叔父の烏丸二位中納言豊光入道を再任した。奉行人奉書によると、応永20(1413)年9月16日の故義持の御教書に基づいて沙汰されている。なお、通説では義宣は私怨により日野義資から所領を没収したということになっているが、実際は全く異なる。
●正長元(1428)年5月20日『奉行人奉書』(「将軍代々文書」『史料編纂所写真帳』)
●『建内記』正長元(1428)年5月23日条(『建内記』「菊亭本第四巻」)
●『建内記』正長元(1428)年5月28日条(『建内記』「菊亭本第四巻」)
●『兼宣記』正長元(1428)年5月28日条
これらを鑑みるに、時系列的には『建内記』の記述としては前後するが、義宣は日野中納言義資の所領である三河国和田庄を没収して和田某へ宛て給わった(『建内記』正長元年五月廿八日条)。続いて、義資が直務の知行である近江国日野牧について、正長元(1428)年5月20日に応永20(1413)年9月16日の義持御教書を根拠に、叔父豊光入道を日野庄の代官職に任じた(『建内記』正長元年五月廿三日条)。
日野庄は、義資の亡父大納言重光のとき守護請となった庄園で、義資が重光から継承したものだった。当時院執権だった重光は応永20(1413)年3月16日に四十四歳で薨じており、同年5月16日に重光舎弟の権中納言豊光が故重光に代わり院執権となった(『公卿補任』)。重光嫡子の義資は当時十七歳の若年で官途もまた無官の正五位下に過ぎず、豊光が代理的な立場になったと思われる。本領である日野庄についても同年9月16日の義持の御教書で「藤中納言入道(烏丸豊光入道)」が庄「代官職」を拝領している(義資の知行は変わらないが、叔父豊光が直務代官職として差配することになったとみられる)。ただ、この代官職は年月不明ながら豊光が義持の勘気を受けて解職され、義資の直務に変わった。しかし、義持が薨じ義宣へ代替わりすると、豊光入道は困窮を訴え応永20(1413)年9月16日の御教書を根拠に日野庄代官職への再任を願ったのである。義宣はこれを容れ、正長元(1428)年5月20日、奉行人奉書を発給した。そしてその翌21日に「被成御教書管領奉書歟了」している。これは御教書に代わり「管領奉書」が発給された意であろう。当時の義宣は判形も定まっておらず、袖判御教書は後日とし、取り急ぎ管領奉書で代用したとみられる。三河国和田庄や日野庄直務の取消の決定に対して義資は出家遁世を企てたのである。これに義資の叔母に当たる大方殿(故義持の正妻・慈受院)が乗り出して、説得して押し留めた。そして大方殿はこれらの措置につき、一連の事情を「始終可滅一流之御意」ではないかと相当強い調子で問い質したようである。
大方殿の強い質疑に対し、義宣は以下の返答をしている。
始終可滅一流之御意 | 始終非可滅一流之御意、於門跡有不忠事、仍門跡領者被召放了、但於干今無御遺恨、仍御出京已後、毎事被仰付、数日御坐彼亭等者也 | まったく日野家を断絶させようとする意図などありません。義資が私に対する不忠の事があったため、日野家が知行する青蓮院領については没収しました。ただし、もはやその不忠に対する遺恨はありません。その証拠に継嗣となったのちは義資に諸事を指示し、数日間、彼の屋敷に厄介になりました。 |
日野牧事 | 先度入道豊光卿知行之由申之、仍被宛行了、非始終可滅亡之儀也 | 以前に入道豊光卿が日野庄代官職を希望したために宛行ったものです。まったく日野家を潰そうなどというものではありません。 |
和田庄事 | 致知行、万疋可沙汰遺和田許之由、先御代有仰之處、年貢無沙汰、仍庭中之間可被付也、是又依道理之故也、非違御意之儀 | 義持将軍の御代に、義資に対して和田庄を知行し、(奉公衆)和田親平に一万疋を遣わす(京都への年貢であろうか)よう命じられましたが、行われませんでした。そのため訴訟となり、判決により和田親平へ宛行うこととなりました。これもまた裁判の結果であって、我が意に背いたという理由ではありません。 |
後年、義宣(義教)に嫡子(千也茶丸:義勝)が誕生した際、その母・藤原重子が義資の妹だったことから、義資のもとに多くの僧俗が祝いに訪れた。当然、彼らの意図は将軍家と重縁のある義資への諂媚であり、義資の意思に拘わらず訪問されたとみられ、義教はこの裏松亭訪問客を悉く処断することとなる。義教は父義満の規範を重んじる傾向が強いが、義満同様に権勢に媚び諂う者へ鉄槌を下した処分ということになろう。通説では義資への遺恨をその理由として挙げているが、実際には義教は当の義資へは何ら処分を下しておらず、義資は当件には関わっていないのである。義教と義資が対立していたというバイアスが働いたままの通説なのである。
そして、その後、義資は深夜寝ているところを盗賊に襲われて殺害される。これもまた当時の噂で義教が関わっているとされ、激怒した義教がその噂を広めた張本人の公卿を捕らえて遠島にするという騒ぎとなっている。当時からこのような噂はあったが、義教は義資を暗殺するまでもなく処断することは可能である。義教の激怒はこのような噂のネタにされた事への叛気であろう。
この頃、関東では再び鎌倉殿持氏が不穏な動きを見せていた。応永35(1428)年2月下旬頃には鎌倉に反抗的だった白河結城氏との間で戦闘が勃発し、持氏は応永32(1425)年6月以来「佐竹刑部少輔為対治、自鎌倉里見ヲ常陸国ニ支向」(『満済准后日記』応永卅二年七月五日条)られていた里見刑部少輔家兼を大将として、依上城(久慈郡大子町塙)を攻めた。この攻城報告は3月5日頃には鎌倉に到着しており、持氏は3月6日に「今度於依上城致忠節之由、里見刑部少輔所得申也、尤以て神妙、弥励戦功者、可有抽賞之状」を「溝井六郎殿」に認めている(応永卅五年三月六日「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂』室:2428)。依上保はかつて持氏が白河結城氏朝に安堵した佐竹依上氏旧領だが、持氏はっこの依上保からの白河結城氏勢力の殲滅を図ったのだろう。持氏の積極的な動きが見られるようになるのは義持入道の薨去後まもなくであることから、義持の死と関係があることは間違いないだろう。
これら持氏挙兵の一報は、閏3月10日前後に京都の細川右京大夫持元のもとに到来した関東管領「上杉安房守殿」からの書状とみられ、持元は「御書謹以拝見仕候、抑此事誠驚存候、仰之趣則到 上聞候」(応永卅五年閏三月十二日「細川持元書状案」『足利将軍御内書并奉書留』室:2436)と管領憲実に返書を送っている。
持氏は依上城攻めの大将軍・里見刑部少輔を佐竹祐義入道追討のために派遣しており、5月上旬頃には常元入道の居城(山入城?)を攻め落としたとみられる。「里見刑部少輔」は常陸国の反鎌倉勢掃討を一手に担っていたのであろう。佐竹祐義入道を攻めた理由は、故義持入道との間の約定で常陸国を二分して佐竹左馬助義憲と佐竹刑部大輔祐義を守護としたものの、祐義入道が鎌倉常府(守護の責務)を拒絶し、在国していたことが想定される。
祐義入道は城没落後、申次の細川持元へその旨を報告したと思われる。持元は室町殿義宣に取次ぎ、祐義入道からの希望も義宣に伝えている。これに義宣からは「仍不相替可有御扶持之由、被仰出候」と述べ、京都からの支援を今後も変わらず行うことを約し、5月21日、細川持元は祐義入道へ「此御事誠無是非次第候、心中可有御察候、兼又承候趣、到上聞候了」と慰めつつ将軍義宣の返答を副えたと思われる(正長元年五月廿一日「細川持元カ書状案」『足利将軍御内書并奉書留』室:2443)。
常陸国での戦闘はその後も継続しており、8月上旬ごろには「里見刑部少輔」が「佐竹上総入道常元子共以下御退治」のため那珂川沿いの「野口(常陸大宮市野口)」に進んで合戦している。これらの合戦には、鎌倉方として「行方鳥名木右馬助国義」が「大将、野口江御進発之刻、令土岐修理亮同道、最善馳参」じ、度々の矢戦や宿直警固を行っている(正長元年八月廿七日「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2467)。
また、8月中旬の合戦では鎌倉方の「佐竹因幡入道殿(大山義俊入道)」が祐義入道方の「高久右馬助入道、檜沢助次郎等」を討ち取り、その勲功を「里見刑部少輔」が鎌倉に注進している(正長元年八月十八日「足利持氏御教書写」『秋田藩家蔵文書』七 室:2463)。高久(東茨城郡城里町高久)も檜沢(常陸大宮市上檜沢、下檜沢)も野口に至近であることから、この野口周辺域は祐義入道の支配領域であったと考えられる。この野口からわずか1kmほど西には、祐義方の要害長倉城(常陸大宮市長倉)があることから、里見刑部少輔の攻撃目標はこの長倉城で、ここに祐義入道が逃げ籠り、周辺で祐義与党の人々が抵抗していたのかもしれない。
このような常陸国での兵乱の中、5月初めに鎌倉殿持氏は自ら上洛することを計画し、管領憲実に押し留められる騒ぎがあった(『建内記』正長元年五月廿五日条)。5月上旬、この事について篠川執事「高南民部少輔殿」から細川右京大夫へ注進があったとみられ、細川持元は「御書謹以拝見仕候、抑此御事誠驚入存候、仰之趣則披露仕之処、自私得其意可申入之由仰出」(正長元年五月九日「細川持元カ書状案」『足利将軍御内書并奉書留』室:2441)と返信している。
●『建内記』正長元(1428)年5月25日条(『建内記』「菊亭本第四巻」)
篠川の宇都宮藤鶴丸からの注進によれば、持氏が上洛を企てたため、管領憲実が諫めたが承引せず、憲実が一計を案じ「上野国から『新田』が鎌倉に討ち入るという注進が度々入っている」と持氏に報告し、これに仰天した持氏は上洛を中止したという(『建内記』正長元年五月廿五日条)。しかし、上洛計画自体は諦めていなかったため、その後も憲実が切々と持氏に上洛の不可を説き、ようやく上洛をあきらめさせたという。その代わりに「来月一日(6月1日)」に御使僧を京都へ進発させることとしたという。
この「宇津宮辺注進」から見る限り、持氏の上洛企図内容は「…終納諫言之故歟、無為也、仍来月一日為御使僧可上洛」とあるように、僧侶の派遣でも対応可能な内容であり、持氏は謀叛や兵革などというものを企てたのではなく、室町殿義宣との会談などを突発的に計画したものであろう。代替わりに伴い関東や奥州で蠢動する「京都御扶持之輩」についての歎願の可能性もあろう。しかし、それは中央への根回しもないものであり、さらに「京都御扶持之輩」とも戦闘を継続していて京都の心証も悪く、このような中で持氏自身が上洛することは、ひどく穏当性を欠くものであったろう。憲実はこのことを懇切に説得したのだろう。
なお、この御使僧の上洛については「御元服以後御使可被召進、遅引之間、先可被進僧」とあり、本来義宣元服後に遣わす考えであったが、元服が遅引されているので、まず僧侶を上洛させたいということであった。この使僧は先に「勝定院殿御訪」のために上洛した人物とあり、「故勝定院殿為御訪先度被進御使條」(『満済准后日記』正長元年九月廿九日条)と同じ僧だろう。この使僧はもともとの役務に加えて持氏の意見もまた携えて行ったのだろう。
6月3日、満済のもとに「上杉中務少輔来、就自訴事申子細等在之、大館方ヘ使者事也」(『満済准后日記』応永卅五年六月三日条)という。「上杉中務少輔」は幼少より禅秀弟の七條上杉左馬助氏朝の養嗣子として京都に育った禅秀一子上杉中務少輔持兼(応永卅二年十二月廿六日「足利義持御教書」『萩藩譜録 河野六郎通古』)である。持氏の上洛の風聞について反応を示したのかもしれない。
このような中で7月11日、義宣は管領を通じて満済に関白持基と相談してもらいたい條々(主題は「内裏様御悩事」と「新帝御事」)を伝えているが、その中には南朝皇族の小倉宮(「嵯峨小倉」に隠棲)が「小倉宮逐電、御落着在所未承定也、就治定重可申入」ること、「近日、就之荒説等在之、雖難足御信用又可有御用心歟事等」(『満済准后日記』正長元年七月十一日条)があった。
当代の称光天皇が「内裏様御悩以外御大事」(『満済准后日記』正長元年七月十三日条)という状況にあり、伏見宮貞成入道親王の子彦仁王を秘かに次帝と考える室町殿義宣としては、小倉宮出奔は穏やかではなく、正確な情報を欲したのだろう。翌7月12日、満済は質問の條々を述べる一方で、小倉宮の件については義宣は管領より詳細を聞いていたようで、満済に「小倉宮没落之様、所詮自関東依申子細伊勢国司令同心、則彼国司在所ヘ入御云々、去六日丑刻計、自嵯峨小倉御出云々、就之種巷説在之、京都大名内少々同心申輩在之由、彼宮奉公中院息號万里小路云々、彼男父中院方ヘ遣書状ニ具書載之云々、彼書状於父中院去七日管領方ヘ持参」と聞かされる。小倉宮の出奔が関東持氏の主導により、伊勢国司北畠中将満雅が同心した結果、伊勢に匿われたといい、在京守護にも同心者がいるというものであった。実しやかな巷説ではあるが、その情報源が小倉宮に仕える「万里小路」から父「中院」への書状であり、満済は「中院事、去年以来父子不快義絶云々、此故歟如何、旁不足信用、不審々々」(『満済准后日記』正長元年七月十二日条)と、その情報の信憑性に疑問を抱いている。
なお、この伊勢国司叛乱の巷説については、『鎌倉大草紙』に見る応永21(1414)年の称光天皇即位に伴う北畠満雅叛乱記事と、理由、内容が軌を一にするものである。応永21(1414)年の叛乱は後述の通り「秋九月」とされるが、この月には将軍義持自身が伊勢参詣のために伊勢へ下向して無為に帰京しており、何ら叛乱の兆しもなかったと考えられる。『鎌倉大草紙』の応永21年の記事はこの正長元年の満雅叛乱の仮託であろう。
【伏見宮】
正親町三条公貫―+―正親町三条実仲――三条実治――――――――――――――――――――藤原治子 +―治仁王
(権大納言) |(民部卿) (権中納言) (陽照院) |
| ∥ |【伏見宮】
| ∥――――+―貞成親王
| ∥ (後崇光院)
| ∥ ∥
| ∥ ∥――――+―後花園天皇
| +―庭田経有――――――――+―源幸子 |(彦仁王)
| |(右近衛少将) ∥ |(敷政門院)|
| | ∥ | |【伏見宮】
| 庭田経資―――――庭田茂賢――――――庭田重資―+―源資子 ∥ | +―貞常親王
|(権中納言) (左近衛中将) (権大納言) (杉殿) ∥ | ∥
| ∥ ∥ +―庭田重有―+―源盈子
| ∥ ∥ (権大納言)|
| ∥ 【伏見宮】 |
+―正親町三条実躬――正親町三条公秀―+―藤原秀子 ∥――――――栄仁親王 +―庭田長賢
(権大納言) (内大臣) |(陽禄門院) ∥ (権大納言)
| ∥ ∥
| ∥――――+―崇光天皇
| ∥ |
| ∥ |
| 光厳天皇 +―後光厳天皇
| ∥―――――――――――――後円融天皇=後花園天皇
| ∥ ∥
| 紀通清――+―紀仲子 ∥―――――称光天皇
|(検校) |(崇賢門院) ∥
| | ∥
| | 日野時光―+―日野資国―――藤原資子
| |(権大納言)|(准大臣) (光範門院)
| | |
| | +―日野資康―+―藤原重光――藤原重子
| | |(権大納言)|(大納言) (勝智院)
| | | | ∥
| +―紀良子 +―藤原業子 +―藤原栄子 ∥
| (洪恩院) (定心院) (慈受院) ∥
| ∥ ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ +―足利義持 ∥
| ∥ ∥ |(内大臣) ∥
| ∥ ∥ | ∥
| ∥――――――足利義満―+―――――――足利義教
| 足利尊氏―――足利義詮 (太政大臣) (左大臣)
|(権大納言) (権大納言)
|
+―正親町三条実継――正親町三条公豊―――+―正親町三条実豊
(内大臣) (内大臣) |(権大納言)
|
+―女子
∥―――――京極持清
∥ (大膳大夫)
京極高氏―+―京極高秀―――京極高詮―――京極高光
(佐渡守) |(治部少輔) (治部少輔) (治部大輔)
|
+―女子
∥――――+―赤松義則―――赤松満祐
∥ |(兵部少輔) (左京大夫)
∥ |
赤松則祐 +―女子
(律師) ∥――――――細川満元
∥ (左京大夫)
細川頼春―+―細川頼元
(讃岐守) |(左京大夫)
|
+―細川詮春―――細川義之
|(讃岐守) (讃岐守)
|
+―細川満之―+―細川持常
(阿波守) |(讃岐守)
|
+―細川満久
(讃岐守)
義宣自身も、常陸国から南奥州における持氏の兵乱の情報は入っているものの、具体的な対応策は取ることはできていない。いまだ畿内の動静が鎮まらない状況にあって、重病の天皇の継嗣や践祚の問題、伊勢国司の叛乱鎮定が喫緊の課題であったのだろう。
義宣は小倉宮が称光天皇危篤に伴う「御位競望」(『椿葉記』)による出奔によるであることは察しており、宮出奔の当日夜中、満済を通じて「世尊寺宮内卿行豊朝臣」を「ふしみ殿」へ急ぎ遣わすと、貞成入道親王に「宮御方、明日京へなし申されよ、まづ東山若王子へ入申されて警固申さるべきなり、あか松左京大夫入道警固おほせつけらる、御服などは勧修寺におほせ付らる、御迎には管領参べし」(『椿葉記』)と、貞成入道親王の王子彦仁王を急ぎ上洛させるよう指示した。義宣の心は彦仁王を称光天皇の皇嗣とすることで決していたとみられる。貞成入道親王もこれを聞くと「宮中上下のひしめき夢うつつともおぼえず、めでたさも申もなをざりなるここち」したという。「にはかの御いでたちかたのごとくとりまかなひて、御むかへ」を待っていると、7月13日夕刻、予定通り「くはんれいの手のものども四五百人」が伏見殿に迎えに参り、彦仁王は「しゅつぎよ」し、「御こしにて内々若王子へ渡御」した(『椿葉記』)。
7月16日、醍醐寺から出京した満済が室町殿を訪ねると、「小倉宮、勢州国司在所多気ニ御渡必定由、自方々注進之由」が語られた(『満済准后日記』正長元年七月十六日条)。伊勢国司北畠家は北畠親房卿以来、南朝の重鎮であり、足利方に下った後も南朝方の拠所となっており、小倉宮の御渡もこうした意志のもと行われたのだろう。こうした中で、東山若王子に数日逗留していた彦仁王は、7月17日夜に「仙洞」(『椿葉記』)へ院渡御が行われた(『満済准后日記』正長元年七月十七日条)。「室町殿より御車番頭ひしひしまいらせらる、綾小路前宰相、庭田三位、御車の後にまいる、長資朝臣、隆富朝臣供奉す、管領父子まいる」という態勢で、御車の前後には「数百人警固」した。夜中にも拘わらず「道すがら見物の人もおほく」おり、貞成入道親王は「月はことさらすみわたりて、御ゆく末の嘉瑞も空にあらはれ侍る、めでたさもおもひよるきはならねば、おがみたてまつる人もほめののしり申」(『椿葉記』)と記す。その後、彦仁王は仙洞御所に入御し、後小松院の御猶子として調整が行われた。
一方で、7月19日、満済は室町殿で義宣から「勢州守護職事、聊被仰談子細在之」として「管領与奪土岐刑部少輔前守護也、條可宜旨也、此子細、以密々儀申遣管領了」と告げられる(『満済准后日記』正長元年七月十九日条)。伊勢国司の叛乱は皇位の不安定化や旧南朝勢力を刺激する可能性も考えられ、重事であった。義宣は伊勢守護職満家(管領)の弟・畠山修理大夫満慶入道と細川讃岐入道の両名を管領亭に遣わし、伊勢守護職を管領満家入道から前守護土岐持頼へ改代したいという義宣の考えを伝えて了解を求めたのである。
義宣は、伊勢守護の交代は「管領勢、雖一人只今可被分遣之條不可然」という理由のみで他意はないとするが、管領満家入道は「已可被向弓矢事間、就難儀与奪他人様ニ天下者共可令存知條、於身難儀也、平ニ今時分被閣者可畏入」と留任を求めたが、義宣は重ねて「申旨雖尤、以前如被仰出、管領勢ニ於テ付御心安可被置御膝下也、仍一騎モ不可被散、以別儀可与奪」と、管領の意見はもっともだが、管領勢は京都安定のため在京が望ましく一騎たりとも失ってはならないと説得する。ここまで言われた管領満家入道は「此仰上者、不及是非也、可罷随仰」と了承した。義宣もこれに「領掌之條、御本意此事也、為彼国替地、山城国并御料所河内国橘島事、可知行」と、伊勢国の替えとして山城守護職と御料所の河内国橘島を与えた。その後、土岐持頼も御所に召されて「伊勢国事、被返下之旨」が伝えられた(『満済准后日記』正長元年七月十九日条)。
また「自伊勢安養院僧正方注進到来了」として、「小倉宮、自去十日、国司在所多気ノ奥、興津ト申所ニ御座」という情報が伝わった。国司北畠少将満雅の拠点は壮大な庭園を持つ多気館(津市美杉町上多気)であるが、小倉宮はさらに西側の要害奥津(津市美杉町奥津)にかくまわれた。伊勢攻めに際しては、宇陀郡を経由して吉野へ入るルートを想定していたと思われる。
その後、「伊勢新守護土岐刑部少輔持頼」を御所に召すと、「御太刀并御腰物、御具足三両、御馬三疋、被下」て、「今日昼立ニ先の濃州小島マテ罷下、来廿五日可国入」を指示。また、満済は持頼から「関左馬助方」に書状を遣わしてほしいと頻りに頼まれたため、義宣に相談。義宣も「可遣」との返答だったため、関左馬助へ書状を遣わしている(『満済准后日記』正長元年七月廿日条)。関左馬助は伊勢の有力氏族で北畠満雅との連携が懸念されており、持頼は北から伊勢国に入るルート上に蟠踞する関左馬助の懐柔が重要であると考えていた様子がうかがえる。
そして同7月20日、危篤の天皇が崩御する。御年二十八歳。諡号は称光院。義宣は仏事や沙汰など諸所に自ら指示するなど、室町殿としての存在感を発揮している。「践祚の事、今はひしひしと」定まり(『椿葉記』)、現内裏は触穢であるため、「三條前右府公光公の亭を點しめされて新内裏」(『椿葉記』)とし「俄に修理せられて殿舎などつくりそへらるる」(『椿葉記』)という。そして7月29日、彦仁王は新内裏へ渡御し、「院の御猶子の儀にて践祚」した。後花園天皇である。父の貞成入道親王も子息彦仁王の践祚に「御歳十歳にならせまします、めでたさも世の不思議なれば、天下の口遊にてぞ侍、大かたはむかしも皇統の絶たるのち両三代をへても、又皇統をつがせ給ためしのみこそあれば、おなじくは我一流の絶たる跡をおこさせ給はば、いかに猶めでたさも色そはまし、さりながらそれはともかくもあれ、つたなき隠士の家より出させ給て、かたじけなくも天日嗣を受させ給事、天照太神、正八幡大菩の神慮とは申ながら、ふしぎなる御果報にて渡らせ給へば、これもわたくしの幸運眉目にてあらずや」(『椿葉記』)と感慨深く語っている。
8月3日夕方、満済は義宣に召された。とくに用事はなく雑談相手としての召しだったが、ここで満済は「伊勢新守護土岐刑部少輔申入旨等申入」た(『満済准后日記』正長元年八月三日条)。それによれば「関東上洛必定之由、国司辺沙汰之云々、随而国司近日可打出国中之由用意」とのことであった。ただし、当時の関東では持氏は常陸国「佐竹上総入道常元子共以下御退治」など、常陸国や下野国及び南奥州における反鎌倉の人々との抗争(持氏は、関東進止国内で鎌倉に敵意を持つ人々と抗争していたのであって、直接的に京都を敵視していたわけではない)を行っており、上洛を意図する文書も伝わっておらず、西国へ派兵する意図も見られない。これらは前御所薨去や天皇崩御、畿内の叛乱など重事が立て続けに起こる中、疑心暗鬼と恐怖心に駆られる人々が、関東で「京都御扶持之者」を攻めている持氏と叛乱の原因を一方的に結びつけた心理である可能性が高い。ただ、この報告を受けて、8月11日、義宣は「美濃国々人以下在国守護家人、悉令用意、可致伊勢守護合力之由、可仰付美濃守護之由、可申管領由被仰出」れた。これを受け「齋藤因幡守管領内者也」に仰せ含めて管領満家入道へ伝達させた。
また満済は「奥殿佐々河殿へ就佐竹御扶持可被下御書歟事、被仰合」たが、篠川殿満直は「未自彼御方不被申音信間、先御略可宜」であるとして御内書を送らないことが適当とする一方で、佐竹祐義入道も「佐竹方ヘ同可被遣御書歟事、同前云々、但佐竹方ヘ御書事、重被仰出間、可為時宜」と、同前ながら義宣は祐義入道には御書を送るよう重ねて指示をしていることから、送るべしと答えている(『満済准后日記』正長元年八月十一日条)。
なお、8月23日「下遣関東使者僧継充」(『満済准后日記』正長元年十月廿日条)されているが、この使者は佐竹祐義入道への使者とは異なり、持氏に祐義入道との問題解決を依頼する使僧の可能性が高いだろう。義宣は関東の扱いは故義持入道の路線を引き継ぎ、持氏との対立を避ける方向だった。
正長元(1428)年9月18日深夜子刻、京都でかなり大きな地震があった(『満済准后日記』正長元年九月十九日条)。満済はすぐさま陰陽師から地震についての意見を聞くべく、使者を賀茂在方卿へ遣わしたところ、地震は「金翅鳥動」で「兵革以下不快云々、占文在之」という。さらに深夜丑刻過ぎに空が晴れたため、安倍有盛卿に天文から地震の意味を尋ねると「其夜宿畢宿候、天王動吉動云々、但九月動兵革文在之」という。そしてもう一人、安倍有富にも尋ねると「其夜宿觜宿也、天王動吉動、但九月動九十日之内兵革」という。満済はこれらから、今回の地震は「天王動」であると結論付ける。おそらく満済はこの勘申を義宣に伝えたのだろう。空けて9月19日に義宣は御所に満済、管領畠山入道を招くと「関東事面々ニ可相談旨」を管領畠山入道に指示し、9月21日に評定を開く旨を申し入れた(『満済准后日記』正長元年九月十九日条)。ただ、都合がつかなかったのか、22日に管領から諸大名に意見を尋ねるにとどまったようだ。
9月22日、管領畠山入道は「両使遊佐、齋藤」を「諸大名(首脳部)」に遣わし、「関東事」について意見を聞いた。意見に預かったのは「武衞、右京大夫、山名、一色、細河讃岐入道、畠山修理大夫入道、赤松左京大夫入道、今河上総守、以上八人」(『満済准后日記』正長元年九月廿二日条)である。管領と侍所を所帯する家(京極家は8月15日に持高が侍所を退いたためか含まれていない)並びに関東の押さえである駿河守護今川範政が当事者と考えられていたことがわかる。
●管領意見の條々(『満済准后日記』正長元年九月廿二日条)
1 | 今河上総守駿河守護、為用意可下駿河候歟事 |
2 |
関東諸大名以下白旗一揆中等、如先々可被成御教書歟事 但、被用捨可被成御教書歟事 |
3 | 上杉禅秀息、可被下遣奥州辺歟事 |
4 |
甲斐先守護竹田刑部大輔入道、両三年以来四国辺隠居云々、 被召上如元可被下遣甲斐国辺歟事 |
5 | 伊勢国司北畠少将、急可被退治歟事 |
6 | 宇多郡事、就器用可被仰付其仁体可計申事 |
諸大名の返答がいかなるものだったかは記されてはいないが、取り急ぎ関東に使者を遣わすことになったとみられる。
9月27日、満済は醍醐寺から上京すると御所へ参じ、「関東へ御使両使、祖室和尚、等懋西堂事被治定了」(『満済准后日記』正長元年九月廿七日条)と決定される。9月29日、義宣は相国寺崇壽院に御出し、ここに満済や「諸大名(首脳部の事で「管領、右京大夫、畠山匠作、山名、赤松、細河讃岐、一色等」)」が仏殿御桟敷に参じて、「関東へ両使僧、今日於崇壽院御対面」し、「可被仰遣様、面々ニ御談合」が行われた。義宣や人々は「当御代依御無音、都鄙雑説在之、旁不宜歟、毎事無為可為御本意之由計也」(『満済准后日記』正長元年九月廿九日条)といい、義持代には行われていた関東との通信が義宣代には途絶え、それによって様々な風聞が生まれることは好ましくなく、関東とつねに穏便な関係にあることが義宣の本意であるとしている。
通説では義宣と関東持氏は当初より激しく対立していたとされるが、当初の義宣は人々への対応に配慮し、関東との争いも望まない人物であったことがうかがえる。使者の名目は「故勝定院殿為御訪先度被進御使條、御悦喜子細等同被仰遣者也」(『満済准后日記』正長元年九月廿九日条)と、義持入道薨去の弔問使に対する答礼使で「此條可然由、面々一同儀」という。こうして「今日両長老可進発」となった。ただし、今日は門出で、来る10月2日に下向すべきことと定められた。
そして10月2日、予定通り「関東使者両長老今日進発」する(『満済准后日記』正長元年十月二日条)。また、同日義宣は「奥篠河殿并伊達、葦名、白河、懸田、河俣、塩松石橋殿也、以上六人被遣御内書、伊勢守書之了、佐々河殿御書計ハ御自筆也、御文章等大都計申了」と、鎌倉とは対立関係にある篠川殿足利満直に自筆の御内書をしたため、伊達持宗、葦名盛政、白河氏朝、懸田播磨入道、河俣飛騨守、石橋棟義の六名宛ての御内書(伊勢伊勢守が書)も作成して送達した。彼らへの使者は関東使者「祖室和尚、等懋西堂」とは別人とみられるが、両使僧の関東下向と途中まで同道している可能性もあろう。
「祖室和尚、等懋西堂」の両使僧は10月10日前後に鎌倉に到着したと思われる。両使僧は鎌倉で持氏と対面する一方で、8月23日に京都を発した御使僧継充(鎌倉滞在中)とも対面したのだろう。継充は両使僧と入れ替わるように、持氏使僧「明窓和尚」とともに上洛の途に就き、10月20日、室町殿に参じた。継充は「自藤鶴方返事」を披露し、明窓和尚は持氏の「返答具申」した(『満済准后日記』正長元年十月廿日条)。「藤鶴」は先に持氏と対立して下野国に自刃した宇都宮持綱の嫡子・宇都宮藤鶴丸(のち等綱)で、この時には篠川周辺に居住し、篠川殿満直に属していた。藤鶴丸はこのとき九歳であり、藤鶴が認めた書状ではなく周囲の重職が記したのであろう。
ところが、明窓和尚が持氏の「返答具申」した10月20日には、関東の情勢が以前とはまったく変わっていた。
10月15日、醍醐寺へ帰ろうとする満済のもとに「自管領重事申旨在之、自越後国守護代長尾上野入道方注進在之、被成御教書、其趣参御方致忠節」(『満済准后日記』正長元年十月十五日条)という極めて重大な情報がもたらされた。
関東進止国ではない越後国の国人や守護代の長尾上野介邦景入道に対して持氏が「参御方致忠節」の御教書を発給するという明らかな越権行為が見られたのである。持氏は白河結城氏や那須氏との対立があり、国境を接する越後国の長尾入道や越後国人を味方につけたい意図だった可能性もあるが、管国外の氏族に「御方について忠節を尽くすべ」しという御教書を発給することは、満済も「陰謀企已必定歟」と記しているように、謀反を企てたと思われても致し方ないことであった。満済は「此事明旦早々可有御披露云々、仍令逗留了」と、この情報を翌朝に義宣へ披露するため醍醐寺への帰寺を留めた。
そして16日早旦、満済は「越後国注進状等」を持参して御所を訪れ、義宣に「長尾上野入道状ニ申入題目、越後国人中へ可被成御教書事」(『満済准后日記』正長元年十月十六日条)を披露した上で「信濃守護小笠原早々可被下事」を申し入れた。
これを聞いた義宣は「両條尤可宜云々、則被仰管領」し、さらに「今河上総守下国事、此間連々御談合旨在之、所詮早々可被下遣條可宜由、管領重申入」た結果、信濃守護小笠原政康入道と駿河守護今川範政の下向が決定される。また、去る4、5月頃から「自仙洞、関東へ征夷将軍院宣被成遣之由」(『満済准后日記』正長元年十月十六日条)が風聞として流布されているが、満済は「以外重事不及信用事歟」と信用できる風説ではないとする。ただ、「雖然熱田大宮司野田、当参奉公者也、於親者関東奉公也、此大宮司内者吉川ト云者、方々令料簡、此院宣事申出之由、自蜷川中務方、伊勢守方へ去月比申了」といい、9月頃に熱田大宮司野田貞範(『大宮司家譜』)の被官人「吉川某」が様々考えた末にこの院宣の件を蜷川中務や伊勢守貞経に告発した事例があり、これを聞いた大宮司貞範が慌てて伊勢守亭に出頭し「召使候吉川、就都鄙雑説不儀事共候間、打進由代官方へ申付處、於其身ハ逐電了、内者一人打之候、可然様可披露」と、「吉川」を京都と関東に対する不義で討とうとするも逐電してしまった旨を報告した。「大宮司内者吉川」とは貞範が「幼弱ノ比ヨリ一族ニ吉賀和美作入道建照、同左衛門尉季泰等、管領として張行」(『大宮司家譜』)と見える有力一族とみられる。ただし大宮司貞範の「親」は「関東奉公」とあるが、系譜上彼の父親は大宮司範重(『大宮司家譜』)で、彼が関東で奉公していた記録はない。「親」とは親族であるとすると、当時関東には一族の野田満範が持氏近習としてあり、彼を指すか。
10月21日、「信乃守護小笠原」が法身院の満済に「近日可下国」を述べに訪れ、満済は「二千疋随身、馬太刀」を遣わし(『満済准后日記』正長元年十月廿一日条)、翌10月22日、「今河上総守」も満済を訪れて「明日駿河国へ罷下」ことを伝え、満済は「千疋随身、馬一疋、太刀」を遣わしている(『満済准后日記』正長元年十月廿二日条)。今川範政は分国内の「他人知行在所」五か所の「預所」を所望して認められている。おそらく軍費としての料所としての預かりであろう。
10月23日、義宣は九州在陣中の「大内左京大夫入道との(大内盛見入道道雄)」に対し「御自筆御書被下之」をしたためると、在京の大内代官「内藤」へ渡し遣わした(『満済准后日記』正長元年十月廿三日条)。その内容は、「関東隠謀、大略令露顕候歟、然者、随一左右、不日馳参、致忠節候者、本意候」(正長元年十月廿三日「足利義宣御内書案」『蜷川家文書』室:2478)というもので、越後守護代長尾上野入道が齎した持氏の御教書は「関東隠謀」と認識され、義宣が一気に硬化し、対関東の融和策を一転させるきっかけとなった。
続けて「佐々河殿へ御書、細河右京兆方へ遣之了」と、10月2日の御内書に続けて再度御内書を発給し、奥申次の右京大夫持元から篠川殿へと送達された。また、「甲斐武田刑部大輔入道、駿河国ニ両所被下之、佐野郷、澤田郷也」と、甲斐守護へ戻すことを検討している武田信重入道に駿河国佐野郷(裾野市佐野)、澤田郷(沼津市沢田)の二か所を宛行う御教書を下した(『満済准后日記』正長元年十月廿三日条)。ただし、このうち佐野郷に関しては当時は関東伺候の「大森知行」であったが、義宣は満済に武田入道が「可自体申入旨申」してきたことと「葛山以支証本領由歟申入」ており、葛山に下すべきかを満済に諮問している。満済は武田入道から「此在所事、已御教書拝領之間、無左右辞退申入事ハ不可在歟、乍去在所不思之間、可如何仕哉」と内々に相談を受けていることを述べた上で、「於武田者被計下替地、於此在所者可被下葛山歟」ことを答申した(『満済准后日記』正長元年十月廿三日条)。
10月25日には、「奥伊達、蘆名、白河、石橋、懸田、岩城、岩崎、標葉、楢葉、相馬、此等方へ御教書被成之、以上十二通、今日遣右京兆方也、使者安富」と、これもまた10月2日の御内書に続けて細川持元を通じて御教書を下した。さらに宛先は以前の伊達以下六名に加えて、海道筋の国人にも広げており、駿河国、信濃国、甲斐国、越後国、奥州から関東を包囲する形で京方勢を配したことになる。その後、12月2日までに「伊達兵部少輔殿(伊達持宗)」から京都に請文が届いており、義宣は「依佐々河方有関東発向之儀者、不廻時日令出陣、随彼成敗」(正長元年十二月二日「足利義宣御内書写」『大舘記所収 昔御内書符案』室:2482)よう命じている。
12月中旬には、白河弾正少弼氏朝が白河庄に東隣する鎌倉方の石川駿河守義光を「以私了簡」で討っているが、もともと篠川殿満貞のもとで協力関係にあった白河結城氏朝と石川義光は、応永31(1424)年11月に前篠川殿満貞(稲村殿)が鎌倉へ帰参して以降、白河氏朝が京都と深く繋がる新篠川殿満直に従属して石川氏領を窺うようになり、対立関係を深めたのだろう。篠川殿満直が蟠踞する中、石川氏は南奥州における鎌倉方の最後の楔であった。
●石川氏と白河氏の抗争
元号 | 月日 | 差出 | 宛先 | 内容 | 出典 |
正長元年 (1428) |
12月17日 |
満直 (篠川満直) |
白河弾正少弼殿 (白河氏朝) |
鎌倉与党の石川駿河守義光を「以私了簡」で討ったことを賞し、義光跡(除く石川庄野沢村、野吹)と義光与党の一族所帯を恩賞として与える |
「足利満直書下」 『白河結城文書』 室:2486 |
12月18日 |
満家 (稲村満家) 満直⇒満家 改名している |
石川駿河孫三郎 (石川持光) |
白河氏朝に討たれた石川義光の子(孫?)「駿河孫三郎」に、義光討死について「無是非候、心中被察思召候、仍早々一途可有御沙汰、親類以下可堪忍」と持氏の意思を伝える |
「足利満家書状」 『石川家文書』 室:2487 |
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12月19日 |
持氏 (足利持氏) |
石川駿河孫三郎 (石川持光) |
白河氏朝に討たれた石川義光の子(孫?)「駿河孫三郎」に、義光討死について「無是非次第候、一途可加成敗候、一族中令談合、可致堪忍候」と伝える |
「足利持氏書状」 『石川家文書』 室:2488 |
|
12月29日 |
持氏 (足利持氏) |
石川駿河孫三郎 (石川持光) |
石川義光の遺跡と惣領職を石川持光に安堵 |
「足利持氏御教書」 『石川家文書』 室:2493 |
|
持氏 (足利持氏) |
石川駿河孫三郎 (石川持光) |
石川持光に勲功の賞を宛行う(場所不明) |
「足利持氏御教書」 『石川家文書』 室:2494 |
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正長2年 (1429) |
正月29日 |
持氏 (足利持氏) |
石川中務少輔 (石川持光) |
持光からの「條々注進」についての合力申請に対して御教書を下したことを通告。太刀を遣わした。詳細は使者僧「周蔵主」から申すと伝える |
「足利持氏書状」 『石川家文書』 室:2510 |
持氏 (足利持氏) |
石川一族中 | 持氏が、石川一族に「属惣領中務少輔手可抽戦功」を命じる |
「足利持氏御教書」 『石川家文書』 室:2512、2513 |
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2月1日 |
花押 (篠川満直) |
石河掃部助 | 「中津河陣」について石川左近将監を遣わすよう度々命じているが実行されておらず、改めて白河氏朝のもと出陣を指示 |
「足利満直書状」 『板橋文書』 室:2514 |
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石川中務少輔 (石川持光) |
足利持氏 | 伊達持宗、懸田播磨入道が自分に合力する旨を伝えてきた旨の注進状をしたためる | 伝わらず | ||
2月5日 |
満家 (稲村満家) |
石川駿河孫三郎 (石川持光) |
持光からの「注進之趣」を持氏が聞召したことを報告。方々へ御教書を送っていることを述べ、仙道の者についても持氏御沙汰があり、忠節を尽くすよう指示し、太刀一腰を送る |
「足利満家書状」 『石川家文書』 室:2515 |
|
散位貞行 ※満家被官か |
石川孫三郎 (石川持光) |
満家側近の「散位貞行」からの書状。條々あるが、満家書状と同内容。仙道の者についても持氏御沙汰があり、「可御心安候哉」と述べる。また、「御同心御一族」や「将監殿、宮内少輔殿、中務四郎殿等御親類方」へ、追って「自関東之御感」が下されることを通達 |
「某貞行書状」 『石川家文書』 室:2516 |
||
花押 (稲村満家) |
東海道五郡輩中 | 満家が「仙道辺之事、可有御同心候、可致用意候」を命じ、「石川駿河孫三郎」に合力するよう指示 |
「足利満家書状」 『石川家書』 室:2517 |
||
2月8日 |
石川中務少輔 (石川持光) |
足利持氏 | 2月1日に記した注進状が鎌倉に到来 | 伝わらず | |
2月9日 |
花押 (足利持氏) |
石川中務少輔 (石川持光) |
持氏、周蔵主を石川持光に遣わし、「伊達、懸田其方可合力之由」について、まずは目出度いとし、忠節輩は恩賞を与える旨を伝えるよう指示した |
「足利持氏書状」 『石川家文書』 室:2518 |
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2月21日 |
花押 (足利持氏) |
石河中務少輔 (石川持光) |
持氏、周蔵主を石川持光に遣わし、先日の話はどうなったか、早々に行うよう指示するとともに「可談合懸田候」ことを命じた |
「足利持氏書状」 『石川家文書』 室:2520 |
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4月9日 |
花押 (篠川満直) |
石河左近将監 | 「石河庄之北須釜村事」について、忠賞として知行安堵する。また、「同庄内錀出目」については、左近将監兄の信濃守より譲与 |
「足利満直書状」 『仙台結城文書』 室:2530 |
|
5月26日 |
持氏 (足利持氏) |
石河中務少輔 (石川持光) |
持氏、周蔵主を石川持光に遣わし、宇多合戦について聞いた旨、白河口に「里見刑部少輔」を派遣した旨を伝える。また、ここに及んでいまだ四郡内で出陣していない人々については、早々に催促するよう指示。さらに「懸田、相馬忠節誠神妙候」と評す。 |
「足利持氏書状」 『石川家文書』 室:2538 |
翌正長2(1429)年正月24日、義教は申次細川持元から塩松石橋満博を経て、篠川殿執事「高南民部少輔殿」へ「旧冬自 御所様御書以下被進」の御内書(10月2日発給)や御教書(10月23日発給)へ対する篠川殿の返書がいまだ到来していないことについて「御返事早々申沙汰候者、目出候」と不満を述べるとともに、鎌倉・稲村満家方の要害「白岩要害事」を篠川方が占拠したことは「殊目出候」と評した(正長二年正月廿四日「細川持元書状」『御内書并奉書留』室:2509)。このことにつき、細川持元は「巨細之旨」は塩松館の「石橋(石橋満博)」方から申し入れるとしており、持元は場合によっては在地の御一家石橋家庶流・塩松石橋氏(のち永享2年閏11月27日に御一家「石橋左衛門佐入道」が佐々河へ書状を遣わしているように、石橋氏は本支流とも申次細川持之と連携があったか)との連携のもとで奥州と繋がりを有していたのかもしれない。
篠川執事「高南民部少輔殿」への持元奉書は、2月上旬には篠川陣へ着いたと思われるが、この書状を受けた篠川満直は慌てて注進状をしたためて京都へ送達したとみられる。2月21日、細川持元は「自奥佐々河書状等数通持来」(『満済准后日記』正長二年二月廿一日条)て法身院の満済を訪問しており、21日以前には京都についていることがわかる。持元から「奥佐々河書状」を受け取った満済は御所に参じて「則備上覧了」しているが、この篠川殿満直の書状は「伊達、葦名、白河、海道五郡者共請文也」(『満済准后日記』正長二年二月廿一日条)であるように、笹川殿満直のもとに届けられた伊達・葦名・白河・海道五郡の人々の請文も付されていた。満直は京都へ送達文書を送った時点で彼らの請文をすべて入手していたことがわかり、京都への返書を怠っていたことがわかる。性格的なものもあると思われるが、満直は京都政権との交渉も自らが「鎌倉殿」となるための手段に過ぎず、軽んじていた心底がうかがえる。
11月28日、義宣は持氏からの「越後国人中へ可被成御教書」を京都に送った「長尾上野入道(長尾邦景入道)」について「無二心中候之由、連々聞及候、尤神妙候」として、太刀一腰を遣わすよう管領「左衛門督入道殿(畠山満家入道)」へ御内書を下し(正長元年十一月廿八日「足利義宣御内書」『上杉家文書』室:2480)、これを請けた畠山左衛門督入道は御内書と太刀に自らの「為身上御感、宛愚身被下御自筆之御書之間、進之候」の書状を副えて、長尾邦景入道へ送達した(正長元年十一月廿八日「畠山満家入道書状」『上杉家文書』室:2481)。
正長元(1428)年後半当時、鎌倉殿持氏は常陸国から南奥州にかけての「鎌倉に従わない『京都御扶持之者』」と戦っていた。持氏は京都との対立は望んでいないものの、故義持入道の御代から蠢動し、関東奉公の義務を怠る彼らを追捕することは、関東進止国の秩序を保ち支配権を明確にする上で必要なことであった。しかし、故義持入道の御代から持氏の軍事行動は警戒され、様々な風聞をもたらした。
正長2(1429)年正月8日、満済のもとには「細川右京兆」「山名右衛門佐禅門」「万里小路大納言」「勧修寺中納言」「山名上総守」「二階堂山城」「上杉中務少輔」らが挨拶に参じ、当時院参のため不在だった満済は留守居より太刀などを献じている(『満済准后日記』正長二年正月八日条)。中でも甲斐前守護の「武田中務大輔入道」は「練貫一重、香合一、杉原等持参」して挨拶に訪れている。前年10月の所領問題につき骨折りしてもらった礼を兼ねての事か。
2月13日、「公方様御元服事、今日吉日之間、條々為管領披露定」し、日次について3月9日と治定する(『満済准后日記』正長二年二月十三日条)。加冠は先例であれば管領が務めるが、管領畠山満家入道は法体であるため、子息の尾張守持国が務めることが定められた。
2月15日、関東への御使「長老大安和尚」へ「南禅寺僧芸書記」が御書を届けている(『満済准后日記』正長二年二月十五日条)。この関東使者はおそらく義宣元服についての通達ならびに、越後国への御内書送達についての詰問か。2月23日、満済が越後在国中の「上杉十郎(上杉清方)」へ「長尾上野入道申請」の御教書(長尾邦景入道は「於国可致忠節由事」と告げており、持氏の越後国人への介入に対応する京方の旗頭として清方を公的に定めたい意図か)を遣わすかどうか義宣に訪ね「早々可成遣候」との返事を受けると、満済を訪問した遊佐勘解由左衛門に管領へその旨を伝達させている(『満済准后日記』正長二年二月廿三日条)。
2月25日には、加冠役の畠山尾張守(持国)を、故鹿苑院元服時に加冠を務めた「細川武蔵守(細川頼之)」が従四位下だった先例に則り「任従四位下」ことを奏請。2月27日には義宣元服に伴う「御名字可被改歟事、旧冬御有増ニ付テ、御字兼テ可被撰置之旨申段摂政也、仍少々撰給了」と、摂政二條持基から改名字の候補を選ぶよう指示があり(『満済准后日記』正長二年二月廿七日条)、翌28日には摂政二条持基から上皇へ申入された「室町殿御元服候者、件日モ則三ヶ條、征夷将軍、参議、左中将、同日可被宣下」につき、上皇から「時宜」の旨が万里小路大納言時房より義宣に伝えられた(『満済准后日記』正長二年二月廿八日条)。そして、3月2日には「室町殿様御昇進三ヶ條征夷将軍、参議、左中将宣下事、来十五日ニ被治定了、珍重」(『満済准后日記』正長二年三月二日条)と、3月15日に将軍宣下等が行われることが決定した。
3月4日、大舘上総介の使者が満済へ「明日、関東へ御使長老大和尚上洛之間、可有御対面、可令出京」ことが指示され(『満済准后日記』正長二年三月四日条)、翌3月5日早旦、満済は醍醐を出て御所に参じた。その後、関東から帰洛した大安和尚は義宣の御前に召され「自関東申入旨」を述べるが、「大安和尚、於御前無殊申旨、関東之儀、毎事無為」(『満済准后日記』正長二年三月五日条)という。また、元服に際し御諱「義宣」を改める事も進められ、この日「御名字事、尊之字、義之字両三可被計申、以万里小路大納言可被進之由御沙汰之旨、准后以消息申摂政」た(『建内記』正長二年三月五日条)。その後、摂政二條持基から「義繁」「義教」「尊国」の三案が提示された(『満済准后日記』正長二年三月五日条、『建内記』正長二年三月五日条)。
同3月5日、義宣の加冠役の畠山尾張守持国(管領代官)は、2月13日の治定の通り従四位下に叙された(『満済准后日記』正長二年三月九日条)。細川頼之の先例によるものである。3月8日には義宣に「禁色宣下」のことが決定され、9日早朝に「可令 宣下給」とされた(『建内記』正長二年三月八日条)。
そして3月9日の元服当日、万里小路時房は御名字の案として先日の三案に加えて「義勝」「義種」の二案を折紙に記して室町殿へ参じた(『建内記』正長二年三月九日条)。その後、それを含め、満済と談合した摂政持基が最終案を持って室町殿に参じ、字釈と反音に基づき字撰を行った。
義繁 | 反音元 | 最有力候補 |
義教 | 反音楽 | 最有力候補 |
尊國 | 反音無音 | 「任御嘉例、以義字置上、其下一字相選」ではなく、却下か |
義勝 | 不明 | |
義種 | 不明 | |
義郷 | 不明 | |
義夏 | 反音迓 | 不明 |
尊繁 | 「任御嘉例、以義字置上、其下一字相選」ではなく、却下か | |
尊種 | 反音種 | 「任御嘉例、以義字置上、其下一字相選」ではなく、却下か |
尊定 |
反音無形事不注之、常儀注之 然而無形之訓読カタチナシ、 無益之故也、 是摂政臨時故実也 |
「任御嘉例、以義字置上、其下一字相選」ではなく、却下か |
時房は義宣と面会し、御名字の件で摂政持基と相談した際の報告を行った。まず、「任御嘉例、以義字置上、其下一字相選」ということを前提に、先祖や丞相名字等は不用、さらに反字が良くないもの、字釈に憚りがあるものを除いていくと、かつて「義宣」を撰んだ時と同様に「可然之字無希者也」という結果になり、先日の注進にあった「教」字は「猶可然之由存」ということで「重載之」。清原良賢入道とも談合を行った旨を述べた。義宣が「其趣御尋」したため、時房はこれについて詳細に「教字」の字釈や反字の「楽」の縁起のよさを説明し、「三宝院、同可然之由、被申之由申了」と満済もこれに賛意を示していることを述べた。これに対し、義宣は「義繁者如何」と問うた。時房は「繁字事、珍重之由先度被申了、繁昌之繁、多也、滋也、反字元、元ハ善之長也、尤可然」と返答する。義宣は「義繁与義教、両字何可然哉、可申意見」と清原良賢入道へ伝えよと命じたため、時房は清原良賢入道のもとへ赴き、この旨を問うたところ「繁、教共以珍重■■■、珍敷字ハ一儀不能左右、繁字ハ字ヲ以被求歟、教字ハ為上之御名字相応候歟、尋常ニ存者也」といい、時房は室町亭に戻り、義宣にこの旨を伝えた(『建内記』正長二年三月九日条)。これに義宣は「猶追可有御談合人々也」と告げている。
そして、同日夜中の亥刻、「室町殿様御元服」の儀が執り行われた。加冠の畠山持国を応安元(1368)年4月15日の「左馬頭殿義満御元服」(『花営三代記』)当時の管領細川武蔵守頼之と同じ従四位下に揃えている事や、諸役に堂上を交えず武家管領一門で固めている事、「任応安御吉例」(『将軍家元服記』宮内庁書陵部)、「御元服当日御加持事、任応安元年御例」(『満済准后日記』正長二年三月九日条)など、父義満の佳例を踏襲した可能性が高い。元服の主要所役四名は、理髪と打乱役は管領の従兄弟、泔杯は管領の弟という続柄で選ばれたと考えられる。
●正長二年三月九日足利義宣元服(『将軍家元服記』宮内庁書陵部)
加冠 | 畠山尾張守持国(3月5日敍従四位下) | 管領代官 |
理髪 | 畠山阿波守義慶(のち能登守義忠) | 管領代官の従兄弟 |
打乱役 | 畠山治部大輔持幸(修理大夫七郎) | 管領代官の従兄弟 |
泔杯 | 畠山左馬助持永 | 管領代官の弟、小侍所別当 |
奉行 |
摂津掃部頭満親 齋藤加賀守基貞 松田八郎左衛門尉秀藤 |
【管領】 【管領代】
畠山基国―+―畠山満家――+―畠山持国――+―畠山義就
(右衛門督)|(右衛門督) |(左衛門督) |(左衛門督)
| | |
| | +―畠山義英
| | (右衛門佐)
| |
| +―畠山持富――――畠山政長
| |(左馬頭) (尾張守)
| |
| +―畠山持永
| (左馬助)
|
+―畠山満慶――+―畠山義忠――+―畠山義有
(修理大夫) |(能登守) |(治部少輔)
| |
+―畠山持幸 +―畠山政国
(治部大輔) (能登守)
●応安元年四月十五日足利義満元服(『花営三代記』)
加冠 | 細川武蔵守頼之(従四位下。当日任武蔵守) | 管領 |
理髪 | 細川兵部大輔業氏 | 管領の従兄弟 |
打乱箱 |
細川右馬助頼基(のち右京大夫頼元) 細川兵部少輔氏春 |
管領の弟 管領の従兄弟 |
泔杯 | 細川右馬助頼基(のち右京大夫頼元) | 管領の弟 |
奉行 |
摂津掃部頭能宣 松田左衛門尉貞秀 齋藤太郎兵衛尉利員 |
細川俊氏―+―細川公頼―+―細川和氏―+―細川清氏
(八郎) |(八郎太郎)|(阿波守) |(相模守)
| | |
| | +―細川業氏
| | (兵部大輔)
| |
| | 山名氏清 +―宮田時清
| | (陸奥守) |(左馬助)
| | ∥ |
| | ∥――――+―北満氏
| | ∥ (民部少輔)
| |+―藤原保脩――女子
| ||(左中将)
| ||
| |+―藤原保世――女子
| | (侍従) ∥
| | 【管領】
| +―細川頼春―+―細川頼之===細川頼元―――細川満元―+―細川持元
| |(刑部大輔)|(武蔵守) (右京大夫) (右京大夫)|(右京大夫)
| | | |
| | | +―細川持之
| | | |(右京大夫)
| | | |
| | | +―細川持賢
| | | (右馬頭)
| | |
| | +―細川頼有―――細川頼長―――細川持有―――細川教春
| | |(刑部大輔) (刑部大輔) (刑部少輔) (刑部大輔)
| | |
| | +―細川詮春―+=細川満之―+―細川持常===細川久之
| | |(左近将監)|(阿波守) |(讃岐守) (讃岐守)
| | | | |
| | | | +―細川頼重
| | | | |(下総守)
| | | | |
| | | | +―細川満久
| | | | (讃岐守)
| | | |
| | +―細川頼元 +―細川義之===細川満久―――細川久之
| | (右京大夫) (讃岐守) (讃岐守) (讃岐守)
| |
| +―細川師氏―――細川氏春―――細川満春
| (掃部助) (掃部助) (右馬助)
|
+―細川頼貞―+―細川顕氏―――細川繁氏===細川業氏
(八郎四郎)|(陸奥守) (伊予守) (兵部大輔)
|
+―細川定禅
(律師)
3月14日、義宣の御名字案につき、万里小路時房亭において時房及び勧修寺中納言経成、広橋中納言親光(のち兼郷)が評議し、ようやく「室町殿御改名事、今日治定了」(『満済准后日記』正長二年三月十四日条)した。結果「宣」字を「敏(繁)」と改めることとなり、万里小路時房が結果を室町殿に持参している。ところが、翌3月15日朝、義宣は「去夜被定御名字敏ノ字事、能々被加御思案處、猶教字勝タル様被思食也、若宸筆未被申出者可為此字旨、早々ニ摂政方ヘ可申」と「敏(繁)」を「教」に変更したい旨を満済に急ぎ依頼してきたため、満済は経祐法眼を摂政宅へ向かわせた(『満済准后日記』正長二年三月十五日条)。本日辰刻に予定されている「征夷大将軍、宰相、左中将、以上三ヶ條宣下」に新しい名が記されるためであった。
満済は室町殿で「奉待摂政」の時房にも消息を送り「御名字事、繁字雖有御治定、摂政未被奏者、猶以教字可有御治定之旨、只今有被仰之旨、早く可得其意」という。驚いた時房はただちに書状を認めて摂政宅へ走ったが「已参院也」という。すぐに参院した時房だったが「然而未及奏聞、以教被治定之由得其意可奏」と、なんとか教字への変更が間に合った(『建内記』正長二年三月十五日条)。また満済の使者、経祐法眼もほぼ時房と同時刻に摂政宅に到着しているが、やはりすでに参院しており、改めて仙洞祗候所へ遣わしたところ、宸筆は幸いにして「未出」であった。こうして間一髪のところで「義敏(繁)」は「義教」と彼の希望通り記されたという(『満済准后日記』正長二年三月十四日条)。おそらくその事で、本来辰刻に下される予定であった宣旨は午末刻まで宣下が遅れたと思われる。
そして3月29日夜の除目入眼により「室町殿様大納言御転任、三品同宣下」(『満済准后日記』正長二年三月廿九日条)された。これにより参議と左近衛中将を辞す。こうして位階においてようやく鎌倉殿左兵衛督持氏を超越する。
関東と奥州との関わりは、明徳2(1391)年7月頃に「陸奥出羽両国事、可致沙汰之由、所被仰下也」(明徳三年正月十一日「足利氏満御教書」『結城小峰文書』)とあるように奥羽二国が関東に移管されたことにはじまる。これにより、明徳3(1392)年から応永2(1395)年までの間に、鎌倉は岩瀬郡篠川(郡山市安積町笹川)に拠点を定め、当初は鎌倉から派遣された奥州探題家の斯波刑部大輔満持が篠川に駐屯したが、伊達、葦名、田村庄司ら中奥州の国人層が関東支配に反発。応永2(1395)年9月に起こった田村庄司の叛乱は斯波満持の手により鎮定された。
この直後、鎌倉殿氏満は四男・足利四郎満貞(当時十代前半)を篠川(郡山市安積町笹川)に派遣した。しかし、彼はまだ十代前半の少年であることから、実務を期待されていたわけではなく、あくまでも鎌倉の指示のもと、奥州探題斯波満持らが支える象徴的な立場であったと推測され、その経済的基盤もまた南奥州の白河結城氏、石川氏らから提供された御料所に頼る脆弱なものであった。軍事的な対応についても斯波満持や持詮ら奥州探題家、上杉右衛門佐氏憲のような鎌倉からの派遣部隊によって解決が図られた。
その後、応永19(1412)年の前管領憲定入道の死去と時を同じくして、幼少の鎌倉殿持氏をよそに、その叔父・足利満隆が管領氏憲入道禅秀とともに関東政務を執り行うようになる。このとき、奥州の統治についても満隆による恣意的な変更が行われたとみられ、父の故氏満が篠川に派遣した弟の満貞を否定し、みずからの息がかかっていたであろうもう一人の弟・満直を新たな篠川殿として派遣したとみられる。これに伴い、満貞は更迭されて、篠川から南の稲村(須賀川市稲御所館)へ移され、満直が新たな篠川殿として、満隆や禅秀入道の指示のもと、奥州南部に対しての統治を進めていく。
ところが、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」で満隆・禅秀入道がともに滅んだため、篠川の満直は存在根拠を失った。満隆・禅秀入道を討った鎌倉殿持氏を頼ることは不可能であり(鎌倉殿親任は満貞のみである)、京都との関係を強めるほかなかったのだろう。その後「篠川殿」として京都との関係を築きつつ、鎌倉殿と対立した白河結城氏を取り込みながら南奥州に影響力を広げた満直は、故義持将軍からの新鎌倉殿補任を約した御教書を楯に関東殿の地位を強く要望し、その方針を引き継いだ将軍義教が正長2(1429)年9月8日にこれを認め、軍事行動を止めない鎌倉殿持氏を牽制するため、篠川殿満直を使嗾して奥州諸豪を動かしたのであった。
正長2(1429)年4月19日、駿河在国の「今河上総守駿河国守護」から満済に音信が届いた(『満済准后日記』正長二年四月十九日条)。おそらく関東の動静が述べられていたと思われるが、満済はとくに反応もなく、翌4月20日の将軍義教の法身院門跡渡御に際しても、語られたことは記されていない(『満済准后日記』正長二年三月廿日条)。義教は正式に将軍となったことで、実兄故義持の家督を継承し、その遺物も受け継いだ。4月21日、義教は「故勝定院殿御遺物、唐物等」を仙洞に献上し、4月26日には、篠川殿満直や奥州伊達持宗らにも「自奥御書等事、右京兆申次」(『満済准后日記』正長二年六月三日条)を通じ、厳栖院僧を御使として「故勝定院殿御遺物」を分け与えている(『満済准后日記』正長二年四月廿六日条)。この申次細川持元の書状は、満直執事の「高南民部少輔」へ宛てられたが、義教の御内書は「御元服以降未被仰候」という理由で副えられず、義教は持元に「先自私可申入」と指示したことが述べられている(正長二年四月廿六日「細川持元書状案」『足利将軍御内書并奉書留』室:2531)。
義教は篠川殿満直及び南奥諸大名を鎌倉への牽制のために繋ぎ止めるべくこの措置を行ったと思われるが、7月24日の満直注進状に対する態度を見ると、満済ほか在京の「諸大名(管領以下の中枢人物達)」のほとんどは満直を信用していない様子がうかがえる。
●「故勝定院殿御遺物」の分配
月日 | 宛先( )内は奉書留 | 『満済准后日記』 | 「細川持元書状案」(『御内書并奉書留』) |
4月19日 | 仙洞 | 唐物等 | |
4月26日 | 奥佐々川御方(高南民部少輔殿) |
御太刀 御刀 金襴三段 香合 盆 |
御太刀一腰義成 御刀一腰吉光 金襴三反 香合一口紅 盆一枚堆紅 |
伊達(伊達兵部少輔殿) 葦名(葦名伊与守殿) 白川(白河入道殿) 塩松(石橋治部大輔殿) |
御太刀 | 御太刀一腰 |
この頃、奥州合戦は白河結城氏領内の高野郡宇多庄(東白川郡)でも行われており、持氏与党の「石川中務少輔殿(石川中務丞殿)」は、正長2(1429)年5月7日に「於宇多庄合戦」し、「親類土佐守以下手者等其数討死」(正長二年五月廿六日「足利満家書状」『石川家文書』室:2539)したという。宇多庄には白河結城氏の軍勢が展開しており、持氏は「周蔵主」を使者として「白河口事者、差向里見刑部少輔候」ことを伝えるとともに、「如此時分、四郡仁等未出陣之条、如何様次第候哉、早速馳向候様、可致催促候」と、未だ出陣に応じない人々へ催促するよう指示している(正長二年五月廿六日「足利持氏書状」『石川家文書』室:2538)。また、「懸田、相馬忠節誠神妙候」ことも伝えており、懸田播磨入道と相馬讃岐守胤弘が鎌倉方に属して宇多庄合戦で白河結城勢と合戦している様子が見える。
5月30日、醍醐寺の満済のもとに「自細川右京大夫方以使者、自奥篠河殿就那須事御注進」(『満済准后日記』正長二年五月晦日条)があった。すでに「今日先可令披露候」であり、「定可被申談歟、早々可有御出京」と依頼を受け、満済は「得其意旨返答」するが、当時満済は「聊持病更発事候」であり「二、三日間可出京」と述べている。しかし、翌6月1日、「自細河右京兆以書状申入様、就那須事御談合御急事候、明日御出京可目出」(『満済准后日記』正長二年六月一日条)と、持元はこれは緊急のことであり、翌6月2日の出京を促したのであった。これを受けて満済は翌2日午初に出京し法身院門跡に入ったとみられる。そこに「細川右京大夫来臨」しており、ここで、篠川満直が申次の細川持元へ伝えた持氏方・那須資之による白河攻めへの対応が話し合われたと思われる。これを受けた将軍義教は翌6月3日、政所執事の伊勢守貞経に「奥佐々河方へ御内書并国人伊達、葦名以下十三人歟方へ同御内書被遣之」(『満済准后日記』正長二年六月三日条)した。その子細は「自関東就那須事、白河可被対治之由、已現行了、爾者為京都此等面々方へ被成御内書可合力旨可被仰下」というものであった。御内書は申次の細川持元が担当して送達することとなり、使者は細川満元菩提所の「岩栖院僧」と決定する(『満済准后日記』正長二年九月二日条)。
このとき那須口には「那須口ヘハ宮内大輔(一色直兼)」(正長二年?六月十一日「足利持氏書状」『石川家文書』室:2545)、白河口は「白河口事者、差向里見刑部少輔候」(正長二年五月廿六日「足利持氏書状」『石川家文書』室:2538)、「佐竹ヘハ上杉三郎(上杉定頼)」(正長二年?六月十一日「足利持氏書状」『石川家文書』室:2545)が「可発向上」といい、6月11日、「石川中務少輔(石川持光)」に「周首座」を使者として遣わし「懸田方態以飛脚申候、神妙候」と賞し、急ぎ出兵を指示している。また、その二日後の6月13日には、鎌倉永安寺を在所としていた稲村御所足利満家(旧満貞)も、持光に「常州并那須口等事、上杉三郎、一色宮内大輔可有発向候、仍其方事、令談合懸田播磨入道、可然様可致料簡候也」(正長二年?六月十一日「足利満家書状」『石川家文書』室:2546)と、懸田播磨入道と話し合って行動する旨を伝えている。
なお、細川からの使者「岩栖院僧」はその後、伊達政宗、葦名満盛、白河氏朝ら十三名のもとを回って彼等の請文を集め、最後に「彼僧、数日奥塩松治部大輔處ニ逗留」し、8月29日に「上洛了」している(『満済准后日記』正長二年九月二日条)。
7月11日早旦、満済が出京して御所に参じると、義教は「越後、信濃両国、為白河合力可致用意旨、可被成御教書之由、被仰管領了」という(『満済准后日記』正長二年七月十一日条)。しかし、管領畠山満家入道は「此事、已京都鎌倉御中違因縁也、仍以外大儀候歟、以前面々ニ雖被仰談候、猶重可被成御教書、一段諸大名意見おモ御尋有テ、随其儀可被成御教書候歟」と義教を説得。これを聞いた義教は考えを改めて「爾者、可為此分」(『満済准后日記』正長二年七月十一日条)を指示した。おそらくその後、談合が行われたが、結局御教書は発せられたと推測される。
またこの日、満済は御所で「細川右京大夫、去七日夜半風気、流布風」ことを聞いた。この報は昨10日に「医師三位」から義教に伝えられたものであった。満済はおどらく義教から伝え聞いたものか。満済は使者を細川亭に派遣すると、持元は「風気散々式」という状態であり満済はひどく驚いたようである。心配した満済は「医師三位」を御所に召し寄せて持元の容態を尋ねている。それによれば「瘴風(感染性熱病)」という。ただ、「熱気以外候、雖爾脈體無子細間、大事等出来ハ不可在」と「如法々々口軽ニ申」たので、満済も「心安珍重」と答えている(『満済准后日記』正長二年七月十一日条)。ところが、7月13日には細川持元家人の飯尾備中入道が満済を訪れ、持元の「風気體以外散々體候也、為公方様忝祈祷事被仰出之間、此御門跡へ可申入旨申入也、可然様可被仰出」という。満済もこの申し出を受け、人々に力を込めて祈祷を行うよう指示するが、持元はこの時すでに「自今朝言語不明」であったという(『満済准后日記』正長二年七月十三日条)。そして翌7月14日夕申刻、細川持元は「終他界生年卅一歳也」(『満済准后日記』正長二年七月十四日条)した。満済は酉刻、経祐法眼から持元の訃報を聞き「天下重人也、旁周章驚歎、只愁涙千万行計也」と悲嘆に暮れている。持元には子がなく「遺跡事、舎弟中務少輔(細川持之)相続存命中安堵御判等拝領」(『満済准后日記』正長二年七月十四日条)している。故持元は篠川満直をはじめとする奥州・関東の申次であり、義教は「佐々川殿、定此事令聞給可被落力歟」ことを懸念し、「自中務少輔方急以飛脚不相替京都様事、可申沙汰旨可申入條、可宜旨」と語り、篠川へ「久世入道」を遣わした。
7月23日か24日、細川中務少輔持之のもとに篠川満直からの注進状が届けられた。時期的に7月14日出京の久世入道が持参した細川持元逝去の報告に対する返書であろう。7月24日、満済は「自細川中務少輔方、可備上覧之由」の依頼を受け「自奥篠川殿、注進状」を義教の上覧に入れたが、満直の主張は以下の通り。
自関東白河弾正少弼入道為対治向大勢間、已合戦及度々了、此全一向関東京都へ向申野心ノ故也、白河対治以後ハ篠河ヲモ可被治罰用意勿論也、篠河ハ偏ニ京方ヲ被申入間、篠河以下奥輩ヲ退治シテ京都ヘモ可責上結構云々、爾者身上大事、又京都御大事也、早々可有御合力之由事也 |
鎌倉勢は白河氏朝入道追討のため大軍を派遣しており、すでに合戦も度々行われている。これは持氏の京都に対する野心に他ならない。白河氏朝追捕後は当然篠川をも攻めるつもりである。篠川は偏に京方であり、持氏は篠川以下、奥州国人を退治して京都へ攻め上がる腹積もりである。そうなれば、我が身の大事であるとともに、京都にとっても御大事である。早々に御合力ありたい。 |
篠川殿満直の主張は、これは以前に白河氏朝入道から京都に送られた注進とほぼ同様のことだったようである(『満済准后日記』正長二年七月廿四日条)。白河氏朝入道の注進に対しては、すでに今月上旬(実際は11日以降か)には「越後信州両国為彼合力、可罷立可致其用意旨」の御教書を越信の両国に下しているが、今回の篠川満直注進状については、どのように対処すればよいか、飯尾肥前守と飯尾加賀守を両使として「管領以下武衞、山名、一色、細川讃岐入道、畠山入道」に伝えると、以下の通り、山名右衛門佐入道以外は出兵に反対の立場を示した。とくに満済の満直への不信感はかなり大きいものであった。
諸大名 | 意見 | 賛成 / 反対 |
略訳 |
管領 (畠山右衛門督満家入道) |
是非意見難申入、兎モ角モ可為上意 | ― | すべて上意のままに |
武衞 (斯波左兵衛佐義淳) |
此御合力事、越州信州并駿河国等勢国堺ヘ進発事、不可然 | 反対 | 越後、信濃、駿河国勢が国境に進発することはよろしくない |
山名 (山名右衛門佐時熈入道) |
篠河殿事、去年関東雑説以来無二被憑思食了、又可致忠節由度々自篠河モ被申入了、而ニ只今彼大事ヲ無御合力ハ永代奥者共京都ヲ仰憑存事不可在之歟、然者後々御大事出来勿論、又諸国諸侍モ上意ヲ無力可存申入間、自彼方如被申請越後信濃両国者共ヲハ上野堺ヘ被出陣、駿河勢ヲハ筥根口ヘ可被指寄條、可有何子細哉 | 賛成 | 篠川殿は去年の関東の風聞以来、京都方を表明している中で、彼の危機に合力しなければ奥州諸大名は誰も京都を信用しなくなり、のちのち大事になろう。篠川殿が請うように越後信濃勢を上野国堺まで出陣させ、駿河勢を筥根口まで差し寄せるべきだ |
一色 (一色修理大夫義貫) |
先此等三ヶ国御勢進発事ヲハ被延引、以前已雖成御教書、重猶三ヶ国中ヘ厳密被成御教書、可令発向用意ヲ能々被致、今一左右ニ随テ何方ヘモ御勢仕可在歟 | 反対 | まず越後、信濃、駿河勢の進発は延引させ、もう一度御教書を三ヶ国に発して発向の準備をさせ、報告の状況に応じてどこへでも兵を動かせるようにしておくべきだ |
細川讃岐入道 (細川讃岐守満久入道) |
|||
畠山入道 (畠山修理大夫満慶入道) |
此御合力事、是非共以不可然 | 大反対 | 満直への御合力はまったくよろしくない |
赤松左京大夫入道 (赤松左京大夫満祐入道) |
大略同前、但御勢仕事雖只今候、可被仰付條可有何子細候哉 | 反対 | 大体は一色、細川讃岐と同様。 |
三宝院満済 | 内々申入様、所詮篠河御注進趣聊不得其意事共少々見候歟 (1)京都様御動座候者、我モ出陣仕ヘキ由、被申入事逆ナル被申様候歟、先篠河殿出陣有テ合戦及難儀時コソ京都様御動座候ヘトモ、可被申候ヘ (2)時節可然間、早々可有御合力云々、此申詞又不審千万候、時節可然トハ自此方関東ヲ対治ノ時コソ時節ノ可然沙汰ハ可在候ヘ、是ハ自関東白河ヲ被対治已合戦度々ニ及由上ハ、時節沙汰ハ不可在候歟、就此申詞廻思慮處、篠川元来関東望候間、偏其心中候ト覚候也、爾者此條又楚忽申様ト覚候也 (3)去月白河方ヨリ注進ニハ篠川殿已御出陣云々、只今ハ又未出陣云々、何様相違不審等多候ヘハ、自彼方使節ニ別而被副御使、奥事共ヲモ能々被聞定、就其御勢仕ヲモ重可有御談合歟、此意見分時宜御同心ニテモ候者、管領以下ニモ内々可迎合 |
大反対 | 篠川満直の申入れは聊か腑に落ちないことが見える。 (1)将軍の御動座があれば満直も出陣するという申条は逆だろう。まず満直が出陣し、合戦して難儀となったときに、はじめて将軍が動座するものだ ※6月の白河注進状では、満直はすでに出陣していることになっているが? (2)頃合いがよいので早々に御合力あるべしとはまったく無礼な物言いである。頃合いのよい時期とは京都が関東退治を行う時がそのときである。関東が白河を攻めすでに合戦が行われている現状は「頃合い」ではない。満済が考えるに、このことは常々満直が関東公方の座を望む心底から出たものと思われ、軽率である (3)6月に来た白河氏朝からの注進状では、篠川はすでに出陣したというが、今回の篠川状を読むと、いまだ出陣していないことになる。白河状と相違する点が多く、満直使に京御使を副えて奥州の状況をよく確認すべきで、その結果派兵などを含めて談合すべきであろう |
この結果を受け、義教は会議の内容を反映した御教書の作成を指示し、7月26日朝、満済は室町殿に参じて御書奉行の飯尾大和守が持参した「奥輩并篠河殿ヘ御内書被遣之」の案文添削を行った。すると「加一見少々相違事令意見了」であったため、「書改之、明旦可持参之由」と、いったん案文を持ち帰った(『満済准后日記』正長二年七月廿六日条)。そして夕刻、再度御所へ参じた満済は、「駿川勢筥根口へ発向事、先不可有楚忽之儀旨可被仰歟之旨、申談管領、其子細為申入参申也」と、駿河勢の箱根口出兵につき軽率な動きを禁じる御教書を下す旨につき管領満家入道と相談し(『満済准后日記』正長二年七月廿六日条)、訂正後の御内書案文を飯尾大和守へ戻したとみられる。
そして翌7月27日朝、飯尾大和守は法身院に満済を訪ね、「奥へ御内書案」の再校正を依頼(『満済准后日記』正長二年七月廿七日条)。満済は「加一見處、文章無相違之間、宜由申了」と述べ「明旦、可令披露由」を伝えた(『満済准后日記』正長二年七月廿七日条)。
翌7月28日、満済は奥申次を継承した細川中務少輔持之より「以久世入道并有岡等、篠川殿へ自私細川御返事案、可令一見由、申賜之間一見了」と、御内書に副える御返事案の内容を確認。「無相違間其旨申遣了」という(『満済准后日記』正長二年七月廿八日条)。
ところが翌7月29日朝、「奥篠河へ御内書、以前御案文猶不叶時宜歟、今朝又自奉行飯尾大和守方、為一見送賜了」(『満済准后日記』正長二年七月廿九日条)と、義教から篠川満直宛ての「御内書案」の文意について再度の問い合わせがあった。そのため満済は「愚意之趣、具令申了」し、経祐法眼を御所に遣わした(『満済准后日記』正長二年七月廿九日条)。その後、再び飯尾大和守が義教の御使として法身院に来訪。「篠河殿ヘ御内書案、以前愚存旨申入處、猶仰旨在之」といい、満済は「雖爾、此内書ニ於那須舘合戦云々、此文言可被除宜存旨、重申入了」という。御内書自体の記録はないため内容は不明だが、義教は御内書に「那須舘合戦」を盛り込みたい考えであったが、満済は入れるべきではないと重ねて申し入れ、最初の「以前御案文猶不叶時宜」もこの部分に対するものだったとみられる。満済は篠川満直を信用しておらず、彼が「管轄外」の下野那須合戦に介入を企てたことにも強く不満を抱いたのだろう。そして8月1日、「自公方篠河方へ御書事ニ付テ奉行両人飯尾加賀守、飯尾大和守来、愚意之趣申入了、仍御内書案於此認之」と、御内書案の最終的な確認として飯尾加賀守、飯尾大和守の両奉行人が遣わされたため、満済は三度自らの意見を伝えてようやく御内書案が完成し、篠河の満直のもとへ送付された。この御内書は8月10日以前に満直のもとに届き、8月10日に満直は注進状を作成している(『満済准后日記』正長二年九月二日条)。
8月4日巳刻、義教は「就室町殿幕下御昇進」とあるように右近衛大将に任じられ、その例は「至徳例、被行任大臣節会」われた(『満済准后日記』正長二年八月四日条)。8月18日、満済は参賀し大館上総入道を申次として義教に対面したが、この際、「便宜聊雖憚覚」たが(慶賀の面会とは異なるため)、「自奥佐々河右兵衛佐注進事申出了、今日可被御覧之由被仰間、令披露」た。満直の注進状によれば、「白河弾正少弼氏朝、為那須合力、則那須舘黒羽城ニ罷籠云々、仍此時節自京都御合力可畏入云々、此事先々及数度注進之了」と主張しており、「其子細ハ、自関東白河可被退治之由、已事治定了、為京都無御扶持者、可及生涯」という先日の「自佐々河モ又白川モ注進申」と同じもので。これにより先日すでに「越後、信濃、駿河辺事、可致其用意之旨、被仰付、已及両度被成御教書了」していた(『満済准后日記』正長二年八月十八日条)。ただし、先日の御教書には、満済が「那須舘合戦云々、此文言可被除宜存旨、重申入」(『満済准后日記』正長二年七月廿九日条)て、白河氏朝が那須へ介入したことへの支援・救済は御内書から除かれている。なお、ここで初めて「佐々河右兵衛佐」とあることから、義教の右大将昇進に伴い満直には「右兵衛佐」が吹挙されたのだろう。
ところが義教は「那須舘合戦」への支援にまだこだわっており、満済は「今度ハ聊篇目相替歟、白川已為合力楯籠那須城」ことを再度述べて、奥州の篠川満直や白河氏朝が京都の許可も得ず、勝手に那須に介入して危機に陥って支援を求めていることを批判した。満済の満直に対する不信感は相当なものであったのだろう。満済は「然者非我大事、人ノ大事ヲ請取テ京都御合力事申入條如何」と、京都と関係のないことに介入することはいかがなものか、と述べるが、義教は「雖然、又厳密ニ此三ヶ国越後、信州、駿河可致合力旨、被成御教書之由」を言い出し、三ヶ国により厳密に合力(ただし具体的な行動は記されていない)するよう「則管領方ヘ申遣也」という(『満済准后日記』正長二年八月十八日条)。
この頃、「自関東使者僧上洛」しており、持氏は京都に何らかの主張をしている(『満済准后日記』正長二年八月廿六日条)。当時、持氏が京都に対して敵意を示した文書は一切存在せず、持氏が退治を試みた相手は、あくまでも管国関東・奥州の秩序を乱し続ける元凶・篠川殿と、白河氏朝、那須資之、佐竹祐義ら「京都御扶持(京都の支援を受けている)」を標榜して関東祗候の義務を果たさない人々であり、彼らは京都との関わりを強調し、京都を巻き込んでいたに過ぎない。篠川満直も、兄の満隆、前管領禅秀亡き後、彼等を追討した鎌倉を頼ることができずに京都を利用したに過ぎず、その権勢を利用して鎌倉殿の座を狙っていた人物であり、これらの企みを看破していたのが満済であった。
一方、持氏の主張は一貫しており、3月5日に帰洛した使僧大安和尚の報告に「大安和尚、於御前無殊申旨、関東之儀、毎事無為」(『満済准后日記』正長二年三月五日条)とあるように、京都への敵意はなかった。義教が硬化した越後国守護代長尾邦景入道や国人へ持氏が御教書を発給していた事実も、敵対する白河結城氏への出兵協力を意図したものと思われ、京都への敵意ではない(ただし、管領山内上杉家の同族が守護職とはいえ管国外の越後へ介入したことは持氏の不用意であった)。
しかし、こうした持氏の考えとは裏腹に、持氏与党と目されていた結城基光入道、千葉介兼胤、小山小四郎持政の三人が、内々に篠川殿満直へ京都御成敗に随う旨の請文を提出し、将軍家御内書を依頼したのだった。
正長2(1429)年8月29日夕刻、細川持之から「自奥注進」が義教に届けられ、披露された(内容は下表)。これを聞いた義教は「事次第、先祝着之由被仰出」(『満済准后日記』正長二年八月廿九日条)と評価し、9月2日、「此御注進状等、此門跡ヘ令持参、早々可入見参之由被仰出」、使者として「石橋左衛門佐入道」が醍醐寺の満済を訪れた。そして義教からは今日早々に御出京あるよう要請され、「誠此御注進之趣、旁以珍重候」と喜びを伝えるとともに、「急々可参申入旨」を述べた(『満済准后日記』正長二年九月二日条)。
おそらく石橋との面談後、満済はすぐに京都へ出立したと思われ、巳刻には御所に参じ義教に謁している。ここで「一昨日、自細川中務少輔方進之、自佐々川御注進并奥国人伊達、葦名、白川以下十余人請文等」を見せられている(『満済准后日記』正長二年九月二日条)。
まず、『佐々川御注進』は「佐々川以山臥御注進、八月十日歟日付注進、一昨日晦日京着了」し、将軍義教から命じられた石橋左衛門佐入道が朝方に醍醐寺へ持参したもの(注進状は御所と新申次の細川中務少輔持之にも届けられている)。『奥国人』の請文は「去六月歟、自細川故右京大夫方、依仰岩栖院僧ヲ下遣了、彼僧数日奥塩松治部大輔處ニ逗留、一昨日晦日上洛了、仍悉請文也」(『満済准后日記』正長二年九月二日条)であった。このとき使僧の「岩栖院僧(岩栖院・厳栖院は細川満元の菩提寺)」が滞在した「塩松治部大輔(石橋治部大輔満博)」の居館・塩松館(二本松市長折四本松)は、おそらく細川持元が満直以外の奥州国人と連絡を取り合う際に持元使者が滞在する場所で、ここから伊達氏、葦名氏ら各国人へ個々に使者が遣わされたと推測される(時間的な節約にもなる)。
満直が『佐々川御注進』で京都に申し入れた内容は以下の二か条であった。篠川満直の野心が見える強烈な注進状であった。
申入 | 略訳 | |
(1) | 関東政務御内書事、故勝定院殿御代以大慶和尚拝領了、当御代此御書重可拝領事 | 関東政務を任せる旨(新たな鎌倉殿を意味する)の御内書を、故義持様代に大慶和尚の手から拝領したので、当代からも同様の御教書を拝領したい |
(2) | 関東大名、結城入道、千葉介、小山等、佐々川方へ内通申子細在之、武蔵上野両一揆、同前也、此等方ヘ就関東対治、属佐々川手可致忠節之由、御内書可拝領 | 関東大名の結城基光入道、千葉介兼胤、小山持政等や武蔵や上野の白旗一揆も我が方に内通している。彼らを関東退治の際には篠川方に付属させる御内書を拝領したい |
この篠川注進状につき、将軍義教より管領斯波義淳、畠山満家入道、山名左衛門佐入道、畠山修理大夫入道、細川讃岐守入道、一色左京大夫、赤松左京大夫入道の意見を聞くよう指示された満済は、飯尾大和守、飯尾加賀守の両奉行にその旨を伝えている。その後、諸大名の意見を将軍義教へ伝えたが、彼らの意見は以下の通り(『満済准后日記』正長二年九月三日条)で、全面的な反対は三名、全面的な賛成は二名であった。また、篠川満直への関東政務委任について見れば、七人中五人が否定的な見解であった。
人名 | 申入 | 賛成 / 反対 |
略訳 |
管領 (斯波左兵衛佐義淳) |
関東政務御書并千葉、結城以下御内書共以大儀候歟、猶可有御思案 | 反対 | 関東政務の御教書と千葉介兼胤らへの御内書は面倒なことになりかねず、今しばらく思案すべきだ |
先管領 (畠山右衛門督満家入道) |
両條共以不可然存 | 反対 | 関東政務の御教書も千葉介兼胤以下の大名への御内書も下してはならない |
修理大夫 (畠山修理大夫満慶入道) |
同前 | 反対 | 同前 |
山名 (山名右衛門佐時熈入道) |
関東政務御内書并千葉以下御書事、自佐々川委細被申入趣、其謂歟、可被進條可宜 | 賛成 | 関東政務の御教書も千葉介兼胤以下の大名への御内書は、篠川満直の申入に基づき行うことが望ましい |
赤松 (赤松左京大夫満祐入道) |
同前 | 賛成 | 同前 |
一色修理大夫 (一色修理大夫義貫) |
於政務御内書ハ旁可有御思案歟、方々御教書事ハ可被成遣之條、可有何子細候哉 | 反対 賛成 |
関東政務の御教書は今一度思案が必要である。 千葉介兼胤以下の大名へ御内書を遣わすことは問題ない |
細川讃岐入道 (細川讃岐守満久入道) |
於政務御内書ハ不可然歟、方々御教書事ハ除関東退治文言可被成遣歟 | 反対 賛成 |
関東政務の御教書は下すべきではない。 千葉介兼胤以下の大名へは「関東退治」の文言を削除して御内書を遣わすべきだ |
なお、将軍義教の上意は「山名、赤松申状御同心也」(『満済准后日記』正長二年九月三日条)であった。ただし、義教は「管領并先管領意見簡要處、両人不可然由申條、可為何様哉」と、管領斯波義淳や前管領畠山満家入道の意見は大変重く、彼らの「御教書も御内書も不可」とする意見に困惑し、満済に「猶此子細為門跡両人方ヘ心中可尋決」ことを指示した。その後、満済は管領亭に「慶円法眼」を遣わして重ねて義教の意向を伝えているが、管領義淳は「政務御内書、御教書両條猶不可然由存、能々可有御思案」と、両條について改めて反対の意思表示をしている。
また、この意見聴取が行われた9月3日朝、「自関東以僧梵倉蔵主」が「申入旨在之」として上洛した(『満済准后日記』正長二年九月三日条)。その子細は「当御代為御礼可進使節處、大儀之間、于今不事行、年中先雖長老達早々可進也、京都御料所、去年以来無沙汰事等、其時同前可申付」というものであった。実は、義教が将軍に就任して以来、持氏は「大儀(繁忙の意か)」を理由に「御礼(慶賀の意)」の使節を遣わしておらず、取り急ぎ年中に使僧「梵倉蔵主」を遣わしたと述べている。
そして管領以下の諸大名は評定し、持氏への返事について「御談合」して対応を検討した。まず、前管領満家入道は「此書状、愚身方へ状候也、已当職辞申上ハ難披露者也、就当職可被申入歟之由返事可宜」と、持氏書状は自分に宛てられたものだが、すでに自分は管領を辞しており将軍に披露する資格はなく、現管領義淳に依頼すべしとの返事が妥当であると述べた(『満済准后日記』正長二年九月三日条)。同調する人々がいる中、満済は「此意見尤候、此分ニテ彼使者早々可被下遣歟旨」を伝え「関東使者僧倉蔵主」へ返書が下された。
9月4日には翌日行われる改元定につき、元号案が勘申され「宝暦(ホウリャク)」「永享」「元喜」の三案が選出された。仙洞の叡慮では「宝暦」を勧めるが「可被任武家御意見」とし、結局9月5日、「永享」に定められた。
9月8日、先日の篠川注進状に基づき、「佐々河御方ヘ御書并結城、千葉、小山三人方ヘ被遣御内書了」と、篠川満直への関東政務に関する御教書と、結城基光入道、千葉介兼胤、小山小四郎持政の三名への御内書が遣わされた。その子細は「自佐々川此三人事ハ、別而可仰京都御成敗之由申入、既佐々川方ヘ及請文了、仍可被遣御内書之由、自彼方依被申請也」というもので、結城・千葉・小山の三人はとくに京都の指示に従う旨(「内通」)をすでに篠川満直に申入れて請文を提出しており、これに応じた形になった。なお義教は「此事管領并畠山以下ニ被仰談之處、管領并畠山意見ハ無益之由申入了、雖然就余意見被成遣了」(『満済准后日記』永享元年九月八日条)といい、管領斯波義淳と前管領満家入道の意見は採用されなかったことがわかる。
関東使者僧は10月下旬と思われるが、管領義淳を通じて将軍義教との対面を要請したものの将軍はこれを承引しなかった。そこで管領義淳は満済に「関東使節西堂御対面事、此間種々雖申、無御承引上者無力可下遣、就其條々申子細候哉、此門跡ヘ旁令同道、委細直令尋聞食、御披露可畏入(関東使節西堂との御対面につき、様々に申し入れたものの御承引ないので、もはや関東へ下向させようと思います。ただ、使者僧が申したい條々があるやもしれませんので、門跡が同道の上で直に委細をお尋ねいただき、その條々を室町殿にお伝え願いたい)」(『満済准后日記』永享元年十月廿五日条)ことを伝えたが、満済も「如此及両度雖申候、予対面事旁無益(このようなことを二度聞いているが、私が対面することはまったく意味がない)」と伝え、これを断っている。しかし、満済も独断で決定することには慎重であり、10月25日に室町殿へ参じて、使者僧と管領義淳とのやり取りの仔細を報告し、「令故障了、可為何様哉(管領の依頼は断りましたが、どうすればよいでしょう)」と裁決を仰いでいる。これに義教は「不可有殊申事歟、爾者対面無益(とくに話すこともない。そうであれば対面も意味がなかろう)」と答え、対面はなされなかった(『満済准后日記』永享元年十月廿五日条)。
また同日、満済は「宇都宮藤鶴方」からの注進状のほか、「御内書、御教書申入方々名字一紙注進」を義教の上覧に備えたところ、義教は御教書を下す旨を述べた(『満済准后日記』永享元年十月廿五日条)。宇都宮藤鶴(等綱)は故持綱の嫡子で当時の所在地は不明ながら、「宇都宮藤鶴丸、属御手可致忠節之由申候、別而被加御扶持候者、本意之状如件」(永享元年十月廿六日「足利義教御内書案」『昔御内書符案』室:2566)とあり、篠川近辺に遁れていた可能性があろう。
10月27日、管領斯波義淳が満済を御所の壇所に訪れ、「関東使節可令対面之由、猶頻申之也」(『満済准后日記』永享元年十月廿七日条)ことを訴えている。ただ、その後も関東使僧との対面はなされないまま置かれている。その11日後の11月8日、「佐々河へ御使僧彭蔵主、明旦可下向之旨申入了、重被遣御内書之由被仰、御書案文事、依仰書進之也、御自筆御書也」といい、篠川殿への使僧「周彭蔵主」が夕刻に御所を訪れ、明9日朝に出立する旨を申し入れ、義教も御内書を遣わすにつき満済が仰せによってその案文を作成して提出。自筆で御内書をしたためた(『満済准后日記』永享元年十一月八日条)。翌9日朝、御所に参じた満済は、義教に「佐々河へ條々申詞等承旨」を周彭蔵主に具に伝えたことを報告した。
(一) | 以前御注進之趣、委細被聞食披候了、仍御悦喜候事 | 以前に送られた御注進につき、委細将軍家が聞し召され、御悦喜されている事 |
(二) | 関東為御退治雖可被成治罰候、就以前被仰出儀、先無其儀候事 | 関東は御退治し治罰されるべきではあるが、以前の仰せの通り、今の時点で追討する計画はない |
(三) | 佐竹刑部大輔入道事、御扶持御悦喜候、弥被加御扶持候者、可有御悦喜事 | 佐竹刑部大輔入道のことは、篠川殿の支援があり喜ばしい。さらなる支援を期待する |
(四) | 自関東万一重而使節被進之時可有御対面候哉否事 | もし関東から京都へ重ねて使節が来た際には、義教が御対面するか否か(実は現在、関東使節某西堂が京都に来ていて対面を求めているが、そのことは隠していて、関東使節には鎌倉への帰東を求めている) |
(五) | 石川駿川方へ以前被成下御内書候事、為京都御計無此儀ハ毎度自佐々川就御注進名字被成御内書之間、此事以外御不審候 | 石川駿河守方へ以前御内書を下された事、本来は京都から指示がない場合には、その都度篠川殿より京都に名字を注進し、京都が御内書を下すものであるが、勝手に御内書の発給を行ったことは不届きである |
将軍義教は(四)について、現在使者が来ている状況を隠して、篠川殿満直に「万が一関東の使者が来た場合は、将軍が対面すべきか」と問うているのは、重要な決定事項を主要な人物の合議で決定する義教の方針の一端であろうか。管領義淳は将軍義教から「可罷下由被仰下(関東へ戻るよう仰せ下された)」ことを関東使西堂へ伝えるよう指示された(『満済准后日記』永享元年十一月廿一日条)。管領義淳がこの旨を西堂へ伝えたところ、「一途無御左右者難罷下、所詮此様可令注進間、平ニ在京事御免可畏入(結論がいただけないので帰国できないことを関東に注進させますので、どうか在京をお許しいただきたい)」と訴えられ、困った管領義淳は11月21日、「自管領以使者飯尾美作守」を満済に遣わし、「可為何様哉」と相談している(『満済准后日記』永享元年十一月廿一日条)。また、西堂は関東管領安房守憲実宛ての管領書状も要請しており、これもまた「可遣候哉」と諮問している。
なお、11月21日から27日まで将軍義教は石清水社頭に参篭し、管領義淳は、畠山満家入道、細川右京大夫持之とともに供奉しており、その直前に飯尾美作守に満済に諮問するよう指示したのだろう。
内容 | 満済の返答 | |
(一) | 関東使節僧西堂、可罷下由被仰下間、其旨仰含處、一途無左右者難罷下、所詮此様可令注進間、平ニ在京事御免可畏入 | 此使節強在京事ハ無力次第歟、此由お可被達上聞歟 |
(二) | 管領書状お関東阿房守方へ此使節所望申事候 | 御状事、可被遣関東房州條、若猶可有思案事歟 |
そして、満済はこの管領からの相談に、「此使節強在京事ハ無力次第歟、此由お可被達上聞歟(使節が強いて在京することはやむを得ないでしょう。この件を室町殿にお伝えするべきでしょう)」とし、管領御書の発給の要望については、「御状事、可被遣関東房州條、若猶可有思案事歟(管領御状を関東管領憲実へ遣わされる件については、もうすこし思案すべきでしょう)」と返答を保留している。その結末は不明である。
永享元(1429)年8月頃、兼胤は結城基光入道、小山小四郎持政とともに、持氏との関係を内々に見直し「佐々川方へ内通申」(『満済准后日記』永享元年九月二日条)し、篠川殿満直に「別而可仰京都御成敗之由申入、既佐々川方ヘ及請文」していた(『満済准后日記』永享元年九月八日条)。この三名が満直に請文を送った理由はわからない。ただ兼胤周辺はその後もとくに波風は立っておらず、その後の経過も不明。兼胤は侍所の所司であった可能性が高く在鎌倉であったと考えると、結城入道や小山持政も鎌倉に在住し、談合して揃って請文を篠川殿へ送ったのだろう。こうした中、12月13日には「大掾父子打ルル也」(『妙法寺記』永享元年條)との記録があり、かつて小栗満重の乱で小栗城に立て籠もった一人・常陸大掾満幹が討たれたのだろう。
永享2(1430)年正月20日、満済のもとに「自関東使者二階堂信濃守、来月可京着旨、去(来)廿日歟」が届き、管領斯波義淳へ「自管領内々可達上聞由申送」った(『満済准后日記』永享二年正月廿日条)。
一方、2月20日頃には「篠河申状」が京都に届けられ、24日以前に将軍義教が諸大名に内々に「篠河申状」への対応の相談を行った(『満済准后日記』永享二年四月廿四日条)。篠川満直の申状は「両三ヶ国御勢事、近日可令発向関東歟之由事」という内容で、前年7月の「自奥篠川殿、注進状」と同様、京方三ヶ国(越後、信濃、駿河国)を以て鎌倉を攻めたい(正長2年は満済らにより拒否された)というものだった。管領斯波義淳から松田対馬守、飯尾加賀守の両奉行を通じ「畠山、右京大夫、山名、赤松、畠山大夫、細河讃岐入道、一色修理大夫七人方」へ意見聴取を行ったところ、悉く「只今御勢仕事、不可然、京鎌倉無為之條、殊簡要存」(『満済准后日記』永享二年四月廿四日条)との否定意見であった。満済は28日に上京すると御所に参じ「去廿四日両奉行来申入、就篠河被申入事、大名意見廿五日披露」を伝え、「所詮諸大名意見、粗忽ニ御勢仕事不可然由、一同申入」れている。これを受けた義教も「先只今御下知被閣之」として、前年に引き続き、篠川満直による鎌倉攻めの要望を却下した。
また、京都では永享元(1429)年12月21日、南朝皇胤小倉宮を擁立して兵を挙げていた伊勢国司北畠少将満雅は安濃郡で討死を遂げ、首級は「其首、宮こへのぼりて四塚に懸らる」(『椿葉記』)とみえ、京南端の四塚(南区四ツ塚町)に晒されたことがわかる。この結果、満雅の弟・北畠顕雅は降参について「歎申入」し(『満済准后日記』永享二年四月二日条)、小倉宮もまた帰京を求めていたため、永享2(1430)年4月2日、将軍義教は管領以下に條々の談合を指示した。伊勢関連については「小倉宮、参洛可為近日由、頻自彼方懇望」の案件については「面々相談、早々参洛尤可宜歟之旨、先別而被仰談畠山也」として「召遊佐仰付」た。また「伊勢国司御免事、去年以来歎申入也、可為何様哉、且面々意見可被尋聞食如何」と指示した(『満済准后日記』永享二年四月二日条)。畠山満家入道はすでに前年8月に管領職を辞して斯波左兵衛佐義淳が就いていたが(相当強い辞意を強引に説得して管領としている)、義教は老練な満家入道を信頼し、やる気のない管領ではなく満家入道に意見の具申を行ったとみられる。これに対し畠山満家入道は「小倉宮御入洛事、早々尤宜存候」と述べるとともに、「御料所定間ハ諸大名為国役可致其沙汰由、旧冬申入了、如然可被仰付管領歟、御出立用脚万疋等事、以此支配内可被進也、此等儀、公方様ハ不被知食、管領相計進様儀尤可宜」と、この件については管領斯波義淳が万事差配すべきと意見した。結果、小倉宮は「またさがへ帰り入せ給」った(『椿葉記』)。
また「伊勢国司御免事」についても「自管領面々畠山、右京大夫、山名意見相尋取調可申入旨被仰間、召飯尾美作守申遣管領了」と答えている(『満済准后日記』永享二年四月二日条)。その結果、伊勢国司の赦免は受け容れられ、4月26日、「伊勢国司號北畠少将顕雅御免、御対面、赤松入道同道」であった。赤松満祐入道の同道は「此事予執申了、依赤松入道申也」とあるように満祐入道から満済に申入れがあり、満済から義教に執進して実現したものである。顕雅は義教に「三万疋、太刀、馬進上」している(『満済准后日記』永享二年四月廿六日条)。
4月27日、「伊勢国司顕雅」が法身院に満済を訪ね「五千疋」を献じた。御対面の口入に対する御礼とみられる。満済は返礼として「盆香合、太刀一腰」を遣わしている(『満済准后日記』永享二年四月廿七日条)。6月9日、「伊勢国司知行分」として相国寺領「壱志、飯高両郡安堵」が与えられた件に付き、替地として「長野」が付された。
6月10日、鎌倉では兼胤は急病に倒れ、6月17日に39歳の若さで亡くなった(『本土寺過去帳』)。法名は輝山常光、称名院兼哲往讃、眼阿弥陀仏。家中は「愁歎無其限」だったという。
『鎌倉大草紙』には、将軍義持の異母弟・権大納言義嗣が、兄将軍義持との対立のため、伊勢北畠満雅、六角満高入道、関東上杉禅秀・足利満隆と繋がり、謀叛を企てた結果、捕らえられて殺害されたと述べられる。千葉介兼胤との接点は「禅秀の乱」となるが、結論から言えば、義嗣が自ら謀叛を企て、北畠満雅や六角入道との連携を行ったり、禅秀の乱への介入を行ったりした事実は認められず、現実には義嗣自身が義持とは対立関係にあって積極的に謀叛を企てた形跡は見られない。結果として義持は義嗣の殺害に至ってしまうが、それは必ずしも義持の本心ではなく、周囲の環境によるやむを得ない側面であった可能性が高い。ここでは『鎌倉大草紙』にみられる義嗣関係の虚実を紹介する。
(1)北畠少将満雅との関わり |
(2)六角備中入道との関わり |
(3)上杉禅秀入道との関わり |
■史書から見た足利義嗣遁世以降の顛末 |
『鎌倉大草紙』では、応永22(1415)年の条に「去ルニ依テ、去年伊勢ノ国司動乱セシ時、近習ノ輩、義嗣卿ヲスゝメ申テ、ヒソカニ御謀ヲ思召立ケル、然共勢州程ナクシツマリケレハ、力ナク此事思召止ケル」(『鎌倉大草紙』)と記す。
この北畠満雅の挙兵について『鎌倉大草紙』では時期は記されていないものの、江戸期の『南方紀伝』では「秋九月、伊勢国司北畠満雅、就御即位事而謀反、関左馬助属焉」(『南方紀伝』)と見えることから、応永21(1414)年9月を想定していると思われる。
ところが、応永21(1414)年9月には将軍義持自らの伊勢参宮が計画され、実際に9月18日に「公方様御参宮、公卿両人豊光卿、教興卿、殿上人三輩教豊、雅光、資雅供奉」(『満濟准后日記』応永廿一年九月十八日条)とあるように、伊勢に出立していることから、当時の伊勢国では戦乱は起こっていなかったことが確実である。さらに9月24日には「公方様、自伊勢還御、々路次間毎事無為云々、珍重々々」(『満濟准后日記』応永廿一年九月廿四日条)と、路次は平穏であったことがわかる。さらに、応永21(1414)年に伊勢国で何らかの紛争が起こり、『南方紀伝』や『勢州軍記』が伝えるような軍勢が派遣されたことは、当時の世相を敏感に記す『看聞日記』や『満濟准后日記』にもまったく記されていない。
つまり、応永21(1414)年の北畠満雅の叛乱は『鎌倉大草紙』の虚構であり、その伝を『南方紀伝』や『勢州軍記』など江戸期の軍記物が採用したものであろう。北畠満雅と足利義嗣の繋がりは『鎌倉大草紙』にのみ記されているものであり、その後も巷間でも語られることはなく、義嗣と北畠満雅との繋がりを示す説話は、義嗣が謀叛の企てで処断された物語上の要素として創作されたものであろう。
『鎌倉大草紙』では、応永23(1416)年10月30日、義嗣は「御兄当公方ヲ可奉討ヨシ、ヒソカニ思召立事有テ、便宜ノ兵ヲ御催シテケル、其時分、佐々木六角御勘気ニテ守護職ヲメシ上ラレ閉門ニテ居タリケルヲ御頼ミアリケルニ、佐々木如何思案シケルニヤ、不応貴命、其事無程色ニアラハレ」たため、「公方ヨリ義嗣卿ヲ召トリ奉ル、林光院ヘ押籠申シ、キビシク守護ヲ居置ケル、義嗣卿御出家有テ法名道純ト申」という。
ただし、ここにすでに『看聞日記』や『八幡宮愛染王法雑記』ら当時の史料とは異なる記述が二か所見えている。つまり記事全文が史料とは異なっていることになる。
(一)義嗣は自ら京を出奔して高雄に隠遁したのであって、捕縛の事実はない
義持は義嗣を捕縛して出家させたのではなく、突如出奔して行方不明となった報告に「仰天」し、方々捜索して、ようやく栂尾にいることを突き止めている。ところがこのとき義嗣はすでに自ら髻を切り落としており(ただし、誰もが恐れて義嗣の剃髪をする者はなかった)、俗世との因縁を断つ強い決意があった様子が見える。義持はそんな義嗣に「帰宅」の説得を行っており、二度目の使者には管領細川満元が派遣されるほど、強く帰還を促しており、捕縛の事実はない。
(二)佐々木六角満高入道はこの頃には近江守護であって閉門していない
『鎌倉大草紙』に見られるような、六角満高(佐々木備中入道崇壽)が近江国守護職をはく奪されたのは、応永17(1410)年の一時期のみであり、復帰時期は不明ながら、応永20(1413)年12月までには守護に再任されている(応永二十年十二月廿七日「将軍家御教書」『地蔵院文書』)。それから一年半後には比叡山と対立して「守護六角流罪事、可有其沙汰由、被成御教書間、無為御帰座」(『満済准后日記』応永二十二年六月十三日条)という応永22(1415)年の事件(実際に配流された形跡はなく、比叡山衆徒の怒りを一時鎮めるためのフェイクか)があるが、これで満高入道が失脚した事実はないため、もし義嗣が六角に諮り「無程」して叛逆が発覚し、捕縛された(『鎌倉大草紙』)とすれば、応永17(1410)年から三年以内に限定されることになる。
ところが、実際の義嗣の遁世は応永23(1416)年10月30日早朝であり、六角入道が近江守護に復帰して三年以上経過している。六角入道は後年の義嗣の叛逆協力者の疑惑のある人物名にも見られない(その頃には死去しているが)ことからも、六角入道は義嗣出家とは無関係であり、『鎌倉大草紙』の創作の可能性が非常に高い。
六角入道が義嗣に協力を要請された人物に設定された理由は定かではないが、満高入道が卒去したのは義嗣遁世23日前の10月7日であって、義嗣遁世との関係を示しやすかったことや、義嗣と持氏両者と縁戚関係にあったことが理由かもしれない。
藤原慶子 +―足利義持
(典侍) |(内大臣)
∥ |
∥――――+―足利義教
∥ (内大臣)
∥
∥ 春日局
∥ ∥
善法寺通清―――紀良子 ∥ ∥――――足利義嗣
(石清水八幡宮)(二位) ∥ ∥ (権大納言)
∥ ∥ ∥
∥―――――――足利義満―――女子
∥ (太政大臣) ∥
∥ ∥
足利家時――足利貞氏――――足利尊氏 +―足利義詮 佐々木満高 ∥
(伊予守) (讃岐守) (権大納言) |(権大納言) (近江守) ∥
∥ | ∥――――――佐々木満綱
∥ | ∥ (大膳大夫)
∥―――――+―足利基氏 +―女子
北条義宗――北条久時 +―平登子 (左兵衛督) |
(駿河守) (武蔵守) |(二位) ∥ |
∥ | ∥―――――+―足利氏満―+―足利満兼――+―足利持氏
∥―――――+―北条守時 ∥ (左兵衛督)|(左兵衛督) |(左兵衛督)
∥ (相模守) ∥ | |
∥ ∥ +―足利満隆 +―足利持仲
北条宗頼――女子 畠山家国――+―女子 |(新御堂御所) (乙殿御方)
(七郎) (武蔵守) (治部大輔) |(尼清渓) |
| +―足利満貞
+―畠山国清 |(稲村御所)
(修理大夫) |
+―足利満直
(篠川御所)
『鎌倉大草紙』では、「関東モ鎌倉殿、管領、仲悪シクナリ、動乱ノヨシ聞ケレハ、義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉へ御下リ有テ、上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル…今、京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有」(『鎌倉大草紙』)と記述されるように、義嗣と関東との繋がりも語られている。
上杉禅秀の謀叛については、応永23(1416)年10月13日に「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(挙兵からすでに十一日を経ており、それ以前にも通達があった可能性は高いが、記録には残っていない)という風聞(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)が京都における初見となる。
その情報到達から半月後の10月30日に起こった「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥云々、凡依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退云々、就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)という義嗣出奔事件と禅秀の乱発覚の日時は近く、また「鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)というように、義嗣逐電と関東騒乱が重なったため、人々は前触れなき義嗣遁世の理由を関東と関連付けて理解したことがうかがえ、それが巷間の認識であったと思われる。つまり、『鎌倉大草紙』の説話は、この実際にあった噂を取り入れたものだった可能性があろう。
この関東との繋がりの噂は、義嗣捕縛から一か月半も経過した12月16日時点でも、京都で「押小路亜相叛逆之企露顕、関東謀叛、彼亜相所為」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)という風聞が立つほど根強いものであったが、これを最後に義嗣と関東との結びつきは語られていない。
義嗣が所縁もない関東に繋ぎをつけても何ら得るものはなく、『鎌倉大草紙』においても「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」と述べられているように、義嗣の「御下知」を「公方ノ御教書」にすり替える扱いにされている。御教書と下知状とではまったく様式が異なるため、すり替えるのであればすぐにそれがわかるので人々に供覧することはないだろう。人々に供覧するのであれば偽造の文書となるため、義嗣下知状を御教書にすり替える必要もない。つまり、この「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」の記述は具体的な意味はなく、軍記物を盛り上げるための要素である可能性が高いだろう。
以上のことから、義嗣と北畠満雅の乱、上杉禅秀の乱は何ら繋がりはなく、『鎌倉大草紙』の物語性を高める意味で同時期にあった義嗣の出家と捕縛事件を採用して創作されたものであろう。
足利尊氏――+―足利義詮―――足利義満―――+―足利義持
(征夷大将軍)|(征夷大将軍)(征夷大将軍) |(征夷大将軍)
| |
| +―足利義嗣
| |(権大納言)
| |
| +―足利義教―――――足利義政
| (征夷大将軍) (征夷大将軍)
|
+―足利基氏―――足利氏満―――+―足利満兼―――+―足利持氏
(鎌倉公方) (鎌倉公方) |(鎌倉公方) |(鎌倉公方)
| |
+―足利満隆===+―足利持仲
|(新御堂小路殿)
|
+―足利満貞
|(稲村公方)
|
+―足利満直
(篠川公方)
応永23(1416)年10月30日の義嗣の出奔は、人々に動揺を与えた。10月19日には隠遁は「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、30日早朝に発覚した突然のもので、義持も「仰天」するなど、何ら前触れのないものであった様子がうかがえる。つまり、義嗣自身の叛逆や関東の叛乱との繋がりもなかったと考えられる。義嗣は行先も伝えぬままに逐電しており、義持はその影響の大きさ(かつて足利尊氏と権勢を二分していた弟・足利直義が突如京都を逐電し、南朝に通じた先例もあった)からか、義持は追手を方々に遣わしてその行先を尋ねている。その後、義嗣は高雄栂尾に入り、すでに自ら髻を切り落としていることが判明している。
遁世の理由を尋ねられた当初、義嗣は「依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退」と述べるように、所領問題がその原因であった(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)。ただし、その逐電の不自然さからか、逐電当日の騒ぎの中で巷間では「就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)、「種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、逐電は義嗣の「野心之企」が原因とみなされ、暗に「関東事」との関係も噂されていたようである。
しかしながら、将軍義持はこの巷間説に構わず、二日後の11月2日、高雄に「管領、富樫大輔等為御使、可被帰宅之由雖被諷諫」するも、義嗣は「敢以無承引、被恨申條々述懐、凡出家本望之間、帰参不可叶之由」を述べた(『看聞日記』応永廿三年十一月二日条)。迎えの使者については「富樫、大舘両人、率軍勢向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)ともある。
これらのことから、義嗣遁世の理由は将軍義持にも身に覚えのある義嗣の所領を巡る理由がまずあったのであろう。しかし、のちの断罪に至るように、理由はそれだけではなかろう。義嗣は故大相国義満の寵愛の子であり、本来仏門に入るべき身でありながら出家することなく、兄将軍義持のもとで「新御所」と称され、正三位を経て従二位権大納言という顕官にまで至っている。当然ながら義持の認可を得ており、さらに義持が義嗣邸を訪問したり、義持と義嗣が揃って院参、参内することもしばしばあったように、両者の関係は決して悪いものではなかった様子が垣間見える。
ところが、義嗣の影響力は政権内に於いてあまりに大きく、義嗣を担ごうとする与党も後年の調査から、幕府上層部にまで浸透していた様子がうかがえる。将軍義持の嫡子は当時わずか十歳の義量であり、才幹高く諸芸に秀でる義嗣を擁立せんとする人々は多くいたと想像される。この遁世を伏見宮貞成は「凡遁世事、発心之由雖被構、真実野心之企、聊露顕歟之間、厳密被沙汰」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と予想しているが、義嗣出奔は将軍義持も知らない突発的な事件であり、何ら「露顕」した結果によるものではない。義嗣は前述の所領問題の不満に加えて、「自らが担がれる」ことから遁れるべく出家した可能性があろう。
義嗣の出家遁世の意思が固いことを悟った義持は、義嗣を担ぐ勢力による奪取を警戒し、11月5日、義嗣の身を高尾から「仁和寺興徳庵絶海和尚塔頭」に移し、「侍所一色被仰付守護申、若野心人有奪取事者、腹を切せ可申云々、仍帯甲冑、昼夜警固申」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と、侍所頭人一色義範をその守護に命じるとともに、もし野心を企む者が義嗣を奪おうとする事態が生じれば、やむなく義嗣に腹をお切らせ申せと命じている。これに恐れをなした義範は、武装して昼夜を問わず厳重に警固している。そして、11月9日には「押小路大納言已落髪也、臨光院可被移住」と、仁和寺興徳庵で剃髪を終えた義嗣は、自らが開基となっている相国寺林光院に移された(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)。
一方で義持は、義嗣とともに出家した「山科中将教高朝臣、山科中将嗣教朝臣」や「持光入道、遁世者一人」を「両富樫ニ被預置、可被糺問」している。この事件の結果として11月9日、「教高入道、持光入道以下四人、加賀国可被配流」が決定している。彼らはいずれも義嗣を擁して叛逆を企てたという罪状である。この評定の過程で、管領満元がやや怪しい動きを見せている。満元は「教高入道糺問事」につき、「若白状ニ諸大名四五人も有同心申人者、可被如何候哉、御討罰可為御大事、然者、糺問中々無益歟」(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)と糾問に反対しているのである。一方で「畠山金吾(畠山満家)」は「押小路殿野心之條、勿論之間、参て御腹を切らせ可申」と強硬なものであった。これに満元は「其も楚忽之儀、不可然」と反対し「意見區々未定」という。満元が糾問に反対した理由は、11月25日に「語阿(「遁世者一人」に相当するか)」の白状した結果に見える「武衛、管領、赤松等与力之由」」(『看聞日記』応永廿三年十一月廿五日条)とあるように、御一家筆頭の斯波義教を筆頭に、管領細川満元、赤松義則といった幕府重職が、実は義嗣擁立の企てに加わっていたことにあろう。さらに「諸大名事、中々不及沙汰」という事の大きさに、評定自体が機能不全に陥っていた様子がうかがえる。
ところがその後、「押小路亜相禅門謀叛事、持光書回文」(『看聞日記』応永廿五年正月十三日条)とあるように、義嗣の名において「日野弁入道持光」の認めた「叛逆」を企てる回文が延暦寺や東大寺、興福寺、園城寺に遣わされていたことが発覚する。これは「山門南都被相語、回文等自寺門入見参」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)とあるように、「回文」が園城寺から義持に提出され、「押小路亜相叛逆之企露顕」したのである。義嗣自身と所縁深い日野持光入道の回文であるが、義嗣自身が参画したかどうかは不明である。発覚後の義持の義嗣への対応からも、義嗣の奪取を警戒することに重点が置かれ、義嗣自身への処罰は行われていないことから、義持自身は、あくまでも義嗣を担ぐ勢力への警戒を強めていたと考えられる。
義嗣擁立の報告を受けた義持は、義嗣が居住する相国寺「臨光院、如楼舎拵之」たという(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ところがここも「亜相取出」のために「偸盗忍入、軒格子切破、番衆見付之間、盗人逃了」という油断ならないことが起こっている(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。これに義持は「弥厳密被守護、向後有如此之儀者、可殺害申之由、被下知」とあるように、義嗣を一層厳密に守護せられること、そして今後またこのような事があれば、義嗣を殺害されるべしと厳命している(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ここからも、義嗣の身を守護することを一義とし、殺害は彼の身が「奪取」されるに及んだときとしている。義持は、義嗣を擁立せんと図る勢力があること、義嗣の遁世はそこからの逃避であることを認識したうえでの対応ではなかろうか。
そして、応永25(1418)年正月24日、義嗣入道は将義持が派遣した富樫兵部大輔満成に屋敷を攻められ、命を落とすことになる。その後も増えていく義嗣擁立を図った諸大名の名前に、事実上一人一人を処断することは不可能と察し、義嗣一人を処断することで政権全体の機能不全の解消及び、まだ幼少の嫡子・義量への後継者問題の解決を図ったのかもしれない。義嗣の死去後も義持は各種法要や施餓鬼などを行うなど供養を欠かさず、その遺児たちも寺院へ預け、妻室らへの処罰も行われなかった。
★千葉介兼胤の重臣★(『千葉大系図』他)
●家老
木内左京亮 鏑木大蔵少輔 湯浅対馬守
●族臣
馬加陸奥守(康胤) 大須賀左馬助(憲康) 国分三河守(忠胤) 粟飯原但馬入道(入道常善) 相馬大炊助(胤長) 円城寺下野守 原四郎(胤高)
●側近
幡谷刑部少輔 麻生左馬助 岩井弾正 石毛権太夫 木村織部 押田源五左衛門尉 平山 八木 土屋