武蔵国留守所惣検校職
●秩父惣領家略系図●
比企掃部允
∥――――――――女子
郡司比企某――比企尼 ∥
∥―――――河越重房
∥ (太郎)
●平将恒――平武基――秩父武綱――秩父重綱―――秩父重隆―――秩父能隆―――+―河越重頼
(太郎) (太郎) (十郎) (留守所) (留守所) (葛貫別当) |(留守所)
|
+―娘
∥―――――小代弘家
小代行平
(????-????)
陸奥介平忠頼の子。母は平将門次女とされる。室は足立郡司判官代武芝娘とも(『氷川神社書上』)。通称は大蔵太郎(『千馬家系図』)、秩父六郎(『西角井系図』)、秩父三郎(『桓武平氏諸流系図』)。官途は武蔵権大掾(『千馬家系図』)。官途は武蔵権守(『尊卑分脈』、『桓武平氏諸流系図』)。
治安3(1023)年4月、武蔵国で武蔵介藤原真枝が勅命に反したため、党類を率いて武蔵国豊嶋郡で真枝一党を滅ぼし、恩賞として駿河国益頭郡・武蔵国豊嶋郡・上総国埴生郡・下総国葛西郡を賜ったとされる(『千葉大系図』)が、藤原真枝という人物については伝がないため不明。
(????-????)
武蔵権守平将恒の子。母は足立郡司判官代武芝娘(『氷川神社書上』)。号は秩父別当(『尊卑分脈』)。秩父別当大夫(『桓武平氏諸流系図』)、秩父大夫(『入来院系図』)、秩父別当大夫(『源威集』)。官途は武蔵国押領使(『入来院系図』)。「大夫」の号ならびに子息の平武綱が「秩父武者十郎」と号したとあることから、武基は上洛して武者所に出仕し、官途は五位を有したとみられる。また、長男と思われる荒大夫武家は上洛し、子孫は院北面および鎌倉家御家人として鎌倉に出仕。越後国瀬波郡本庄、色部周辺の地頭職を得て、のち越後本庄氏、色部氏として発展する。
祖父の平忠頼、父の平将恒は大里郡の荒川沿いを本拠としていたと思われるが、武基は荒川を遡って秩父地方へ移ったと思われる。武基の「武」字は秩父丹党貫主の通字であることから、武基は秩父丹党と姻戚関係にあったのではなかろうか。武基はのちに上洛して官途を得たと思われるが、帰国ののち、武基を「秩父別当」へ補する太政官符が武蔵国司に出されたのだろう。
当時の秩父には渡来系氏族が伝えた養蚕・被服の文化や鉱物の発掘技術などの文化が根付いていた。武蔵国西部の入間郡、高麗郡一帯には、飛鳥時代の天智天皇5(666)年冬に「百済男女二千余人、凡不択緇素」を三年「賜官食」って東国に移して以降(『日本書紀』天智天皇五年是冬条)、彼ら渡来系氏族による馬術、養蚕・被服技術、妙見信仰など様々な技術や文化が東国に齎されていったと考えられる。
渡来人が武蔵国へ置かれた公的記録は、天武天皇13(684)年5月14日の「百済僧尼及俗人、男女并廿三人、皆安置于武蔵国」(『日本書紀』天武天皇十三年五月十四日条)を初見とするが、持統天皇元(687)年3月22日には新羅人を下毛野国、4月10日には新羅僧尼と男女合わせて二十二人を武蔵国に移住させている(『日本書紀』持統天皇元年三月二十二日条、四月十日条)。その後も朝廷の施策に拠って幾度にわたり高麗人、百済人、新羅人が武蔵国、下野国などに移され、和銅4(711)年3月6日には上野国に集住郡「多胡郡」が置かれ、霊亀2(716)年5月16日に「駿河、甲斐、相摸、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人」が武蔵国の西部山岳地域に移されて「高麗郡」が置かれた(『続日本紀』霊亀二年五月十六日条)。さらに天平宝字2(758)年8月24日には新羅人の僧尼や男女を「武蔵国閑地」へ移して「新羅郡」を置いた。
■7~8世紀の東国移住の渡来人
天智天皇5(666)年 是冬 |
以百済男女二千余人居于東国、凡不択緇素、起癸亥年至于三歳並賜官食 | 『日本書紀』 |
天武天皇13(684)年 5月14日 |
化来百済僧尼及俗人、男女并廿三人、皆安置于武蔵国 | 『日本書紀』 |
持統天皇元(687)年 3月22日 |
以投化新羅人十四人、居于下毛野国、賦田受稟使安生業 | 『日本書紀』 |
持統天皇元(687)年 4月10日 |
筑紫大宰献投化新羅僧尼及百姓男女廿二人、居于武蔵国、賦田受稟使安生業 | 『日本書紀』 |
持統天皇3(689)年 4月8日 |
以投化新羅人居于下毛野 | 『日本書紀』 |
持統天皇4(690)年 2月25日 |
以歸化新羅韓奈末許満等十二人、居于武蔵国 | 『日本書紀』 |
持統天皇4(690)年 8月11日 |
以歸化新羅人等居于下毛野国 | 『日本書紀』 |
慶雲5(708)年 正月11日 |
武蔵国秩父郡献和銅 | 『続日本紀』 |
和銅4(711)年 3月6日 |
割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等六郷、別置多胡郡 | 『続日本紀』 |
霊亀2(716)年 5月16日 |
以駿河、甲斐、相摸、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉 | 『続日本紀』 |
天平5(733)年 6月2日 |
武蔵国埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人、依請為金姓 | 『続日本紀』 |
天平宝字2(758)年 8月24日 |
帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉 | 『続日本紀』 |
天平宝字4(760)年 4月28日 |
置帰化新羅一百卅一人、於武蔵国 | 『続日本紀』 |
天平宝字5(761)年 正月9日 |
令美濃武蔵二国少年、毎国廿人習新羅語、為征新羅也 | 『続日本紀』 |
宝亀8(777)年 8月15日 |
上野国群馬郡戸五十烟、美作国勝田郡五十烟、捨妙見寺 | 『続日本紀』 |
宝亀10(779)年 3月17日 |
従三位高麗朝臣福信、賜姓高倉朝臣 | 『続日本紀』 |
宝亀11(780)年 5月11日 |
武蔵国新羅郡人沙良真熊等二人、賜姓廣岡造 | 『続日本紀』 |
延暦8(789)年 10月17日 |
散位従三位高倉朝臣福信薨、福信武蔵国高麗郡人也、本姓背奈、其祖福徳属唐将李勣抜平壌城、来帰国家、居武蔵焉、福信即福徳之孫也、小年隨伯父背奈行文入都…神護元年授従三位、拝造宮卿兼歴武蔵近江守、宝亀十年上書言、臣自投聖化年歳已深、但雖新姓之栄、朝臣過分、而旧俗之号高麗未除、伏乞、改高麗以為高倉、詔許之、天鷹元年、遷弾正尹兼武蔵守、延暦四年上表乞身以散位帰第焉、薨時八十一 |
『続日本紀』 |
貞観12(870)年 9月15日 |
配置新羅人五人於武蔵国、至是、国司言、其中二人逃去、不知在所、仍太政官下符、左右京五畿七道諸国捜索 | 『日本三代実録』 |
貞観15(873)年 6月21日 |
武蔵国司言、新羅人金連、安長、清信等三人逃、不知在所、令京畿七道諸国捜捕金連等、貞観十二年自大宰府所遷配也 | 『日本三代実録』 |
武蔵国西部の渡来系氏族は、多胡郡、高麗郡、新羅郡など諸郡が成立する以前の七世紀後半にはすでに入間川を遡って秩父盆地に入部して活動していたとみられ、慶雲5(708)年正月11日、朝廷に「武蔵国秩父郡献和銅」(『続日本紀』和銅元年正月十一日条)とある和銅を採掘したのは、採掘技術を有した渡来系氏族、とりわけ道教を信奉し煉丹術に長じた氏族であろう。
秩父地域の鉄銅などの鉱物採掘技術を持った氏族が、擬制同族集団「丹」党(「丹」とは赤い鉱物を指す)に発展したと思われる。なお、丹党の系譜には遠祖の「宮内太郎家義」なる人物が「引導弘法大師令高野山、故追号丹生明神是也」(『武蔵七党系図』)とあり、弘法大師を高野山へ導いた人物として記されている。紀伊半島には古来より硫化水銀(辰砂=丹)の鉱脈が存在しており、これらの採掘技術を有した渡来系氏族が、道教とともに武蔵国へ移住したのであろう。系譜上で家義の子孫で「峯時」という人物が「丹貫主」「始関東居住」(『武蔵七党系図』)とみえる。「峯」は秩父の山々を表す印象を受けるが、関東に移った丹氏の氏族神話的な「貫主」とも感じられる。彼の子・峯房の子に「武経」という人物がみられるが、彼は「達朝庭領秩父郡」とあり、実質的な秩父丹氏の始祖であろう。なお、別の丹氏系譜(根岸冑山文庫『武蔵七党系図』)には峯房の子に「武綱 秩父十郎 住武州秩父」とあり、平姓秩父氏の系譜に見られる武基の子「武綱 秩父武者十郎」が組み込まれているが、同系図では武綱の子は「武経 秩父十郎」とあり、仮名は父と同じ「十郎」である。これは後世の相馬氏系譜でも「綱」「経」が混雑したことにより、架空の人物が形成されてしまった例があるように、「武綱」「武経」を混同したもので両者は同一人物であり、他系譜にも見えるように峯房の子の武経であろう。
武経の跡を継いだ丹党貫主(貫首)は武経子・武時であるが(『武蔵七党系図』)、その子・武平は「平大夫」を称しており、彼は平姓だった事がうかがえ(その子・経房は丹三冠者と称しており、武平の平姓は一代のみと考えらえる)、武基猶子(改姓を伴った)となっていたのかもしれない。
武基が補された秩父牧は「兒玉郡阿久原牧(児玉郡神川町~藤岡市鬼石周辺)」「秩父郡石田牧(秩父郡長瀞町)」(『政事要略』年中行事二十三)からなる勅旨牧であり、急流に囲まれた肥沃な土地に形成された官牧であった。承平3(933)年4月2日に設置され、初代の別当として「散位藤原惟條(山蔭中納言の孫)」が充てられている(『政事要略』年中行事二十三)。
太政官符武蔵国司
応以朱雀院秩父牧為勅旨牧、以八月十三日定入京期事
秩父郡石田牧一處
兒玉郡安久原牧一處
如御馬疋
右、左大臣宣、奉勅件牧宜為勅旨牧、散位藤原朝臣惟條、充其別当、毎年令労飼廿疋御馬、合期牽貢者、国宜承知、依宣行之、符到奉行
承平三年四月二日
藤原山蔭――藤原言行―――藤原惟條――+―藤原義時
(中納言) (左近衛少将)(上野介) |(主殿頭)
|
+―藤原作忠
|(大炊助)
|
+―千勧
(園城寺披鎮坊)
また、武蔵西部から上野国にかけて広がった妙見信仰は、根本は秩父地方に移住した鉱物採掘技術と神仙思想に基づく煉丹技術に長じた渡来人が齎した、道教由来の信仰であろう。
上野国は秩父と文化・生活圏が深く繋がっており、児玉郡内神流川流域の阿久原を経て麓に下り、烏川や利根川を通じて上野国中心域へと伝播したのであろう。宝亀8(777)年8月15日には「妙見寺(河内国の大寺)」に「上野国群馬郡」と「美作国勝田郡」から封戸が施入されているが、これは群馬郡も勝田郡もともに渡来系氏族の妙見信仰が根付いていたことが朝廷に把握されていたがゆえの措置であろう(妙見信仰が河内妙見寺から上野国などへ齎されたのではなく、もともと当地に存在していた妙見信仰に由来して封戸が施入された)。そして、河内国の妙見寺を封主として直接的な関わりを持った上野国群馬郡には、妙見を祀る七星山息災寺が建立され、妙見信仰の拠点となったのではなかろうか。
千葉氏へ伝わった妙見信仰は、常胤の妻となった秩父太郎大夫重弘の娘が齎した可能性も考えられるが、『千葉妙見大縁起絵巻』の平良文と平将門が共闘して平国香と戦ったという染谷川の戦いの伝承や、青木祐子氏の研究で詳述される西上野の「榛名山麓」に見られる千葉氏と将門に関わる伝承(青木祐子氏『榛名山東南麓の千葉氏伝承 : 寺社縁起を中心に』(学習院大学大学院日本語日本文学11 2015)、『上野府中の千葉氏伝承』(群馬歴史民俗第41号)2020、『船尾山柳沢寺と千葉氏伝承(ぐんま地域文化第54号)2020)、常胤子・相馬師常に始まる相馬氏に将門の末裔伝承が色濃く残されていることから、千葉氏の妙見信仰は秩父・上野からの直接的な伝播というよりも、千葉氏が鎌倉期に将門と妙見に纏わる伝承を取り入れたと考えるべきか。
千葉氏と妙見信仰の具体的な接点は、千葉大夫常長の三男・千葉三郎常房(鴨根三郎)の子孫である原太郎常泰の子・如圓が「妙見座主」とあるのを初見とする(『神代本千葉系図』)。なお、平忠常の子とされる「覚算大僧正」(『千学集抜粋』)が長保2(1000)年9月、千葉庄に北斗山金剛授寺(現千葉神社)を開いて妙見座主となったという伝があるが、当時の密教僧に「覚算」という大僧正位の僧侶がいた記録はなく、伝承に過ぎない。
妙見座主「如圓」の子も名は不明ながら「妙見座主」とある。世代で見ると当時の千葉惣領家は千葉介胤綱、千葉介時胤代となることから、千葉氏が妙見信仰を取り込んだのは鎌倉初期後半と見るべきだろう。福田豊彦氏らによる妙見説話の研究において、宝治合戦を契機として妙見信仰が取り入れられたとされているが(福田豊彦・服部幸造 『源平闘諍録 上・下』 講談社学術文庫2000)、千葉介常胤、上総介常秀、上総権介秀胤が地頭職を有していた薩摩国内および越中国新川郡松倉(魚津市松倉)の椎名氏周辺に妙見信仰が認められず(宝治合戦で越中椎名氏祖とされる良明(三浦氏からの養子という)が松倉へ逃れた伝承が残る)、宝治合戦後に東胤氏入道素暹が美濃国郡上へ隠棲した際(またはその子・六郎左衛門尉行氏)に、東氏が郡上へ粟飯原氏を以て妙見菩薩を奉じた伝があることから、福田豊彦氏らの説の通り、宝治合戦がひとつの契機になって可能性は非常に高いと考えられる。そして、後述の通り、当初より原氏と粟飯原氏が千葉氏の妙見信仰の中心氏族であったことがうかがえるのである。
永承6(1051)年3月、陸奥守源頼義は奥州安倍氏との戦いのために勅命により奥州へ出兵する(前九年の役)。そして6月、武蔵国府に逗留した頼義のもとに「奥入先陣譜代ノ勇士ヲ撰給ケルニ、秩父別当大夫武基子息、童形六歳桓武天皇九代、村岡五郎良文ニハ五代、其仁ニ当ノ間、七歳ニ為ニ用ンカ、俄ニ六月朔日ヲ元三ニ表而、円鏡ヲ見セ、七歳ト号シテ元服、秩父武綱是也、白旗ヲ給フ」(『源威集』第七十後冷泉院)とあり、頼義の奥州出兵に際して「譜代」の士として応召したとみられる。その際、頼義は武基が連れてきた六歳の子息を七歳と称して「武綱」と名乗らせて元服させ、白旗を給わったという。
この「前九年の役」は、陸六郡を支配する俘囚長安倍頼良が兵を挙げ、陸奥守藤原登任が秋田城介平繁成とともに追討軍を送るも大敗したことを発端とする奥州の大乱である。登任は陸奥守を解任された上、都に召還された。代わって朝廷は摂関家侍衛の臣・源頼義を陸奥守に任じて奥州に派遣すると、頼良は歯向かわずに降伏。頼良は名前が頼義と「ヨリヨシ」という訓で繋がるのを畏れ多いとし、「頼時」に改めたほどで神妙であった。この出陣に際し、頼義は武基をはじめとする関東の武士を動員しており、下総の平常長、相模の平為通らも頼義に従って出陣していたという。
この戦いで、記録に残る頼義の主な郎従は下記の通り。
●前九年の役での源家の主な郎党(『陸奥話記』)
名前 | 略歴等 |
修理少進藤原景通 | 源頼義の「乳母子ニテ、兵衛尉藤原親孝ト云フ者」(『今昔物語集』)の甥にあたる(『尊卑分脈』)。「頼義朝臣郎等七騎其一」(『尊卑分脈』)。安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。頼義の馬が射られたとき、自分の馬を頼義に渡した。のち加賀介となり、加藤と号する。鎌倉家郎従加藤氏の祖。 |
大宅光任 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。遁れるとき、義家とともに敵兵数騎を射殺し、虎口を脱した。 |
清原貞広 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
藤原範季 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
藤原則明 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。義家の馬が射られたとき、敵の馬を奪い取って義家に渡した。 |
散位佐伯経範 | 相模国人。頼義の厚遇を受けた人物で、頼義に仕えて三十年、年齢も「耳順(六十歳)」となり、安倍勢に追い詰められた際には、ここが死に場所とばかりに敵陣に斬り込み戦死した。相模国の波多野氏の祖と思われる。 |
藤原景季 | 修理少進藤原景通の長子。年齢は二十余歳、言葉少ない寡黙な青年で、騎射に長じていた。安倍勢に追い詰められた際には敵陣に討ち入り捕らえられた。敵勢はその武勇を惜しんだがついに斬られた。 |
散位和気致輔 | 頼義の郎党。敵陣に討ち入り討死した。 |
和気為清 | 頼義の郎党。散位和気致輔の孫。敵陣に討ち入り討死した。 |
藤原茂頼 | 頼義の腹心。戦場を馳せ回っているうちに戦いは源氏方の敗戦となり、茂頼ははぐれてしまった。頼義がすでに戦没したものと思い込み、頼義の遺骸を得るためににわかに剃髪して、僧侶として戦場を走り回り、なんとか頼義と合流することに成功した。 |
散位平国妙 | 頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で外甥(姉妹の子)の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。 |
平真平 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 相模国の中村氏、土肥氏とも関係があるかもしれない。 |
菅原行基 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
源真清 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
刑部千富 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
大原信助 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原兼成 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
橘孝忠 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
源親季 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原朝臣時経 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
丸子宿禰弘政 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原光貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
佐伯元方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
平経貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
紀季武 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
安倍師方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
この中に武基の名は見ることはできないが、多くの「坂東精兵」が附き随っていることがわかる。「坂東」には下級武官出自で源氏の摂津時代からの一族郎従の末裔と思われる大宅氏、佐伯氏、和気氏、藤原氏、源氏、丸子氏のほか、国司層が土着したと思われる藤原氏、菅原氏、平氏、紀氏、安倍氏、橘氏、郡司層が出自と思われる刑部氏、大原氏など多様な出自の郎従がいたことがうかがえる。
頼時の降伏の後、奥州は一旦は平穏を保ったが、天喜2(1054)年、頼義の陣を何者かが襲い馬を強奪して去っていった事件が起こるが、頼義はその犯人を頼時嫡男・安倍貞任としたことから、怒った頼時・貞任を中心に安倍一族はふたたび兵を挙げた。天喜5(1057)年には頼時が討死するも、後継の貞任が前にも増して強硬に対抗したことから、戦いは長引くこととなる。これらの戦いの中、武基は姿を見せないが、その子・武綱は頼義に従軍して活躍したようで、永承12(1062)年、「実年十七」の武綱は「合戦度毎ニ先ヲカク略ヲ施シケル」(『源威集』第七十後冷泉院)という活躍を見せたという。
また、武基の弟・武常の子である「五郎常家」(『入来院系図』)も頼義の郎従として見え、天喜5(1057)年11月、安倍貞任らの籠る「河捶城」に降雪を無視して進軍した頼義が進退儘ならぬまま状況に陥り、安倍貞任の軍勢に大敗を喫した合戦(黄海合戦)で、安倍勢二百騎あまりが頼義らを追いつめる中、頼義に最後まで従った「腰滝口末方、後藤内範明、大生大夫光任、大新大夫光房、豊嶋平検杖恒家計也」の一人として名がみえる(『源威集』第七十後冷泉院)。同じ系統の原典の影響を受けたとみられる後年の『神明鏡』においても「将軍頼義、義家、腰滝口季方、後藤内範明、大生三大夫光房、豊島ノ平検仗恒家」(『神明鏡』第七十後冷泉院)と見えるが、いずれも常家は「検杖」とあることから、鎮守府将軍頼義の「傔仗」に任じられていたのだろう。応徳3(1086)年正月23日に「前陸奥守源頼俊」が讃岐国拝任の申状を奏上しているが、この中で「陸奥国住人平常家」ら三人はとくに綸旨を以て召し進められたことが述べられている(『御堂摂政別記裏文書』「平安遺文」4652)。
■『前陸奥守源頼俊申状』(『御堂摂政別記裏文書』「平安遺文」4652)
前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言
請特蒙天恩、任先朝綸旨、依以曾別嶋荒夷并閇伊七村山徒討随、拝任讃岐国闕状
右、頼俊去治暦三年任彼国守、著任之後、廻治略期興複、挟野心俗不憚朝憲、然而王威有限、即討随三方之大■■其間無国之費、注子細言上之日、被宣下、云旁勤知有勒辺鎮、事不可黙止者、捧件宣旨文参洛之処、清原貞衡申請拝任鎮守府将軍、為大将軍頼俊、于今不蒙朝■■公文之輩依勲功勧賞之例、古今是多、近則源頼義朝臣、越二階任伊予守、加之子息等及従類蒙恩賞之者廿人也、又参上之後、依綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国■■、散位惟房朝臣、条条之勤不恥先蹤者也、望請天恩、依□□勤節、被拝任彼国守闕状、弥守勤王之節、将令励後輩矣、頼俊誠恐謹言、
応徳三年正月廿三日
前陸奥守従五位上源朝臣頼俊
その後の武基の情報はなく、状況は不明である。
(1046?-????)
秩父別当平武基の十男とみられる。通称は秩父武者十郎。、秩父十郎(『桓武平氏諸流系図』)。母は不明。娘は有道経行(有三別当)室。兄には荒大夫武家(『桓武平氏諸流系図』)がおり、彼は上洛して五位の位を得ていたようで、子孫は北面武士として在京し、のちに越後国に越後秩父党を結成する。
永承6(1051)年3月、陸奥守源頼義は奥州安倍氏との戦いのために勅命により奥州へ出兵する(前九年の役)。そして6月、武蔵国府に逗留した頼義のもとに「奥入先陣譜代ノ勇士ヲ撰給ケルニ、秩父別当大夫武基子息、童形六歳桓武天皇九代、村岡五郎良文ニハ五代、其仁ニ当ノ間、七歳ニ為ニ用ンカ、俄ニ六月朔日ヲ元三ニ表而、円鏡ヲ見セ、七歳ト号シテ元服、秩父武綱是也、白旗ヲ給フ」(『源威集』第七十後冷泉院)とあり、頼義の奥州出兵に際して「譜代」の士として応召したとみられる。その際、頼義は武基が連れてきた六歳の子息を七歳と称して「武綱」と名乗らせて元服させ、白旗を給わったという。
その後、頼時が将軍頼義に降伏すると、奥州は一旦平穏を保つこととなるが、天喜2(1054)年、頼義の陣を何者かが襲い馬を強奪して去っていった事件が起こると、頼義はその犯人を頼時嫡男・安倍貞任としたために、頼時・貞任を中心に安倍一族がふたたび挙兵した。そして、天喜5(1057)年に頼時は討死するが、後継者の貞任が強硬に対抗したことから、戦いは長引くこととなる。この戦いで武綱は頼義に従軍して活躍したようで、永承12(1062)年に「実年十七」の武綱は、この年に終わった前九年の役での「合戦度毎ニ先ヲカク略ヲ施シケル」(『源威集』第七十後冷泉院)という活躍を見せたという。
応徳2(1085)年に再び起こった奥州清原氏の内紛から勃発した奥州大乱(後三年の役)では、武綱は陸奥守源義家に従軍して奥州へ向かったという。このときの謂れは、治承4(1180)年、武綱の子孫・畠山次郎重忠が頼朝のもとに参じた際に、「君が御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせたまひて武平、家平を追討せしむる之時、重忠が四代祖父秩父十郎武綱、初参して侍りければ、此の白旗を給ひて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候了」(『源平盛衰記』)と述べたと伝わる。ただし、この白旗については、武基にも将軍頼義に参じた際に同様の謂れ(『源威集』第七十後冷泉院)があることから、いずれかが仮託したものかもしれない。
これ以降の武綱の記録は見られない。その他では、武綱女婿の有三別当経行の兄「兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣」についての記録が遺されている(『小代宗妙置文』)。有三別当経行とともに兒玉党の祖となった人物である。
義家には「副将軍トシテ相並ビテ朝敵ヲ追討ノ次第絵図ニ書カ被キ、奥州征伐ノ後、有大夫弘行、同有三別当経行、武州兒玉郡ヲ屋敷トシテ居住セ令メ給フ、凡ソ兒玉ノ先祖代々君ノ奉為メニ忠勤吉例ノ事、諸家ノ記録ニ載セ被ル上、世以テ其隠レ無歟、又右衛門佐朝政、関東ノ御代官トシテ在京ノ時、蓮華王院ノ宝蔵御絵ヲ申出シテ拝見セ令メケルニ、奥州後三年ノ合戦ノ次第書カ被タル所ニ、東八箇国ノ人々ハ皆ナ以テ大庭ニ敷皮居烈レリ、八幡太郎義家ノ朝臣、大将軍ニテ屋形ニ御座ハシマスニ、兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣、副将軍ニテ同屋形ニ赤革ノ烏帽子懸シテ、八幡殿ノ御対座ニ書レ給ヒタルヲ、平兒玉倉賀野ノ八郎公行当座ニ有合テ拝見シタリキ」(『小代宗妙置文』)とあるように、兒玉党の遠祖の一人、有大夫弘行(おそらく弟の有三別当経行も従軍か)も義家に従って奥州へ下向しているようである。
なお、この絵画は承安4(1174)年3月17日に権右中弁藤原経房が後白河院の「御倉」から借り出して見た「義家朝臣為陸奥守之時、与彼国住人武衡、家衡等合戦絵」(『中右記』承安四年三月十七日条)と同じものであろう。この「武衡家衡等絵」は後白河院が「件事雖有伝言、委不記、又不書」という後三年合戦についての絵詞を、近臣静賢法印に命じて制作させたもので、「静賢法印、先年奉院宣始令書進也」というまだ完成まもないものであった。経房は静賢法印に絵画の貸与を願い出て「彼法印、借出御倉送之」という。現在この後白河院時代の絵詞は伝わらず、室町時代初期に制作されたものの半分程が国宝として遺されている。
なお、有大夫弘行も有三別当経行も後三年の役の「後」に兒玉郡に居住したとあることから、彼らは義家の郎従として京都から下向した武士であったのだろう。なお、有大夫弘行の子孫である小代宗妙(小代伊重)は弘行を「別当」と記しておらず、その弟・有三別当経行(武綱女婿)を「別当」としていることから、「兒玉郡阿久原牧」の別当に補されていたのは弟の経行であり、兒玉氏の系譜との相違がみられる。
●後三年の役で従軍の伝のある人々
名前 | 略歴等 | 出典 |
有大夫弘行 | 副将軍(蓮華王院宝蔵の御絵に描かれ、平賀朝雅に同道した倉賀野公行が確認) | 『小代宗妙置文』 |
有三別当経行 | 副将軍(蓮華王院宝蔵の御絵に描かれ、平賀朝雅に同道した倉賀野公行が確認) | 『小代宗妙置文』 |
横山野次大夫経兼 | 野三別当資隆の嫡子。「八幡殿奥州貞任給」に「承先陣」ったという | 『小野氏系図』 |
五郎道兼 | 経兼兄忠常(出家し小澤野小院)の子 | 『小野氏系図』 |
忠兼 | 経兼弟(野五郎) | 『小野氏系図』 |
■越後秩父氏(色部氏)
秩父武家(????-????)
秩父別当平武基の長男。号は荒大夫武家(『桓武平氏諸流系図』)。具体的な事歴は不明。「荒」とは荒々しいという意味であるが、曾祖父の陸奥介平忠頼(『桓武平氏諸流系図』)、祖父の秩父三郎将恒(『桓武平氏諸流系図』)が居住していたと思われる武蔵国大里郡を流れる「荒河」に因んだ可能性があろう。
秩父重長(????-????)
荒大夫武家の長男。号は秩父平新大夫(『桓武平氏諸流系図』)。
秩父を称しているが、彼自身が新大夫とあるように在京武士であった可能性がある。子孫も北面武士となっており、秩父地方に私領は残していた可能性はあるが、事実上武蔵秩父氏とは別系の在京武士となったのだろう。
常葉惟長(????-????)
秩父平新大夫重長の子。号は常葉平内(『桓武平氏諸流系図』)。官途は内舎人。「常葉」がいずれの地かは不明。
上洛して内舎人となり、さらに鳥羽院北面に祗候した。
平光長(????-????)
常葉平内惟長の子。幼名は千代松丸(『古案記録草案』)。通称は三郎(『古案記録草案』)。官途は玄蕃允(『桓武平氏諸流系図』)。後白河院北面。
「越後国瀬波郡小泉庄加納色部(村上市)」(『古案記録草案』)の地頭職を得て、在名を以て色部を名字称号としたという(『古案記録草案』)。
平季長(????-????)
玄蕃允光長の長男。官途は修理少進(『吾妻鏡』『桓武平氏諸流系図』)。
後白河院北面に祗候するが、その後、頼朝郎従(御家人)として鎌倉に出仕している。弓の名人として知られていたようで、文治5(1189)年正月3日には例年の埦飯が行われたのち、良辰ということで急遽行われた御弓始に於いて、下河辺行平が召されて弓場へ進み出た際、頼朝が「堪能者一人可立逢」(『吾妻鏡』文治五年正月三日条)と人々に命じたが「修理進季長起座著香水干」して行平の後ろに蹲踞した。ところが行平はまったく進み立たなかった。行平は季長の腕を認めておらず、いまだ人なき体を演じたものであった。これをみた頼朝は、これも弓の名手であった榛谷四郎重朝を遣わしたところ、行平は衣文の組紐を解いて弓を取り直し、見事的を射抜いた。この恥辱に季長は我慢がならず、元の座に戻ることなく御所を退出している(『吾妻鏡』文治五年正月三日条)。
その後、季長がどのような処罰を受けたかは不明だが、季長は書画の道にも通じており、建久3(1192)年10月29日、「修理少進季長」が永福寺の扉と釈迦如来の後壁の書画を描き上げている(『吾妻鏡』建久三年十月廿九日条)。
平行長(????-????)
修理少進季長の長男。官途は左衛門尉。越後本庄氏祖。
越後国瀬波郡小泉庄の地頭として「小泉左衛門尉」と号した(『桓武平氏諸流系図』)。子の左衛門尉定長以降、越後国小泉庄本庄で繁栄し、本庄氏として伝えた。一方、季長の弟・為久の子孫は色部氏として発展した。
弟の左衛門尉宗長(号進)は、嘉禎4(1238)年2月17日の将軍頼経の上洛に随兵廿六番として供奉(『吾妻鏡』嘉禎四年二月十七日条)し、2月23日、将軍頼経の参内に「御車八葉」に「着直垂、令帯剣、候御車左右」に供奉した「修理進三郎宗長」として見える(『吾妻鏡』嘉禎四年二月廿三日条)。さらに、6月5日にも将軍頼経の春日社参に「修理進三郎宗長」が御輿の左右に徒で供奉している(『吾妻鏡』嘉禎四年六月五日条)。
建長4(1252)年7月23日の将軍宗尊親王の方違えの供奉に「進士三郎左衛門尉宗長」として見える(『吾妻鏡』建長四年七月廿三日条)。建長6(1254)年6月16日、「故武州禅室(泰時入道)」の十三回忌に及んで鎌倉で騒擾が起こった際には御所に駆け付けた一人として着到に名を連ねた(『吾妻鏡』建長六年六月十六日条)。その後も将軍に近い御家人として、文応元(1260)年11月27日、将軍宗尊親王の二所参詣の供奉に「進三郎左衛門尉宗長」(『吾妻鏡』文応元年十一月廿七日条)、弘長3(1263)年8月9日、将軍宗尊親王の上洛の供奉に「御中持」の奉行人の一人として「進三郎左衛門尉宗長」が予定され(『吾妻鏡』弘長三年八月九日条)、8月15日の鶴岡八幡宮寺の放生会に際し、将軍宗尊親王の供奉となった「進三郎左衛門尉宗長」(『吾妻鏡』弘長三年八月十五日条)として見える。なお、色部氏の由緒書である『古案記録草案』では、「進三郎 後 修理進」と記される(『古案記録草案』)。
従兄弟の本家、進三郎為長の子・右衛門尉公長は伯耆国布美庄を継承しているが、康永4(1345)年10月18日には「進三郎入道長覚」が嘉祥寺「領家職事」を押領している(『実相院及東寺菩提院文書二』康永四年十月十八日条:『大日本史料』第六編)が、彼は「号進」した左衛門尉宗長の末裔で、本家の色部秩父氏の代官として布美庄に入部していた可能性があろう。
平為久(????-????)
玄蕃允光長の次男(『桓武平氏諸流系図』)。修理少進季長の弟にあたる。
平為長(????-????)
平為久の嫡子(『桓武平氏諸流系図』)。号は進三郎(『古案記録草案』)。官途は修理進(『古案記録草案』)、鳥羽院北面祗候(『古案記録草案』)。法名は善阿(『古案記録草案』)。妻は「せんあか」。ただし、「鳥羽院之北面為伺候」(『古案記録草案』)は子孫の色部隆長が「後鳥羽院書誤無疑」(『古案記録草案』)とする。
置文を遺しており、為長が所領としていた「いろへうしやあふしまらのこと(色部、牛屋、粟島)」につき、「いろへあふしま」は「ちゃくしゑもんの志やうきんなか(左衛門尉公長)」、「うしや」は「志なんすけなか(資長)」に譲ることとしている。なお、「せんあか(為長妻か)」の生前は「いろへあふしま」はせんあかが知行し、その後は左衛門尉公長に給うべしとしている(『古案記録草案』)。
嘉禄3(1227)年4月7日に嫡子公長への譲状を発給して鎌倉家政所に提出し、二日後の4月9日に頼経袖判下文が下されていることから、為長入道善阿は鎌倉に居住していたことがわかる。ただ、為長法師は建長6(1254)年11月8日に譲状を発給していることから、最初の譲状から二十七年後もまだ生存していたことになる。
平公長(????-????)
平為長の嫡子(『桓武平氏諸流系図』、『古案記録草案』)。官位は従五位下(『古案記録草案』)。官途は内舎人(『古案記録草案』)、右衛門尉(『桓武平氏諸流系図』、『古案記録草案』)。法名は行忍(『古案記録草案』)。諱は「きんなが」と読む(『古案記録草案』)。
嘉禄3(1227)年4月7日に「為長法師」より譲状(江戸期にはすでに紛失)が下され、鎌倉家政所に提出され、二日後の4月9日に「内舎人平公長」へ政所下文が発給されている(『古案記録草案』、『鎌倉遺文』3604)。その下文によれば、公長が譲られたのは、
・伯耆国布美庄
・越後国小泉庄加納内色部、粟嶋
・讃岐国木徳庄
の四か所である。また、建長6(1254)年11月8日、「父為長法師法名善阿」からの譲状(勝長寿院三重御塔仏聖供養致沙汰之子細載之)に基づき、建長7(1255)年3月27日に政所下文が下されている(『古案記録草案』)。
長男に内舎人経長、次男に持長(『桓武平氏諸流系図』)という人物がいたようだが、彼らは早世したようである。その後、文永7(1270)年8月25日に公長入道行忍は「子息三郎平忠長為惣領相」「子息五郎左衛門尉平氏長」「子息七郎左衛門尉平長茂」への譲状を発給し、それぞれ12月14日に関東下知状(鎌倉家当主の家政文書)が下されるが、三男忠長が惣領と定められ、他の弟たちは「御公事共守惣領忠長之支配」とされた(『古案記録草案』)。
三郎平忠長 | 越後国小泉庄内色部条 |
五郎左衛門尉平氏長 |
越後国小泉庄牛屋条内作路以東(松沢新田等は除く) ・東限:大山 ・南限:石堤荒河流 ・西限:作路 ・北限:色部条堺 |
七郎左衛門尉平長茂 |
越後国小泉庄牛屋条内作路以西(上新保は除く) ・東限:作路 ・南限:石堤荒河流 ・西限:大山 ・北限:色部条堺 出雲国飯生庄 |
弥三郎清長 | 色部庄内か |
公長の死後、惣領忠長は異母兄の弥三郎清長と「越後国小泉庄加納色部、牛屋、讃岐国木徳庄、出雲国飯生庄地頭職等事」について相論が起こっている。清長はもともと公長嫡子であったが、継母の謀によって配分が洩れたと主張したが、公長は生前すでに清長を「不孝之仁」としており、弘安2年10月26日の関東下知状で「於今者停止清長之知行」と清長の知行は否定されることとなり、惣領三郎左衛門尉忠長のもと色部氏は越後国揚北衆の一角として、越後秩父氏の嫡家である本庄氏とともに勢力を奮い、室町期の越後守護職上杉氏に従属するも、強い独立性を保った。江戸時代には米沢藩上杉家の家老家となっている。
(????-????)
武者十郎武綱の長男。妻は横山次郎大夫経兼女(『小野氏系図』)、有三別当経行女(『兒玉党系図』)。通称は秩父権守(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)、秩父出羽権守(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)。武蔵国留守所惣検校職(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)。妻(兒玉経行女子)は源義朝の子「悪源太殿(義平)」の乳母となり「号乳母御前」している(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)。そして、悪源太義平は彼女を「御母人」(『兒玉党系図』)と称するほど懐いていた。
●横山党を中心とした閨閥
+―横山経兼――+―横山隆兼―――+―横山時重―――+―横山時広――+―横山時兼
|(次郎大夫) |(野大夫) |(横山権守) |(横山権守) |(右馬允)
| | | | |
| | +―女子 +―女子 +―女子
| | | ∥ | ∥ ∥
| | | 糟屋盛久 | 澁谷重国 ∥
| | |(糟屋権守) |(澁谷庄司) ∥
| | | | ∥
| | | +―女子 ∥
| | | ∥―――――――和田常盛
| | | ∥ (新左衛門尉)
| | | 和田義盛
| | | (左衛門尉)
| | +―女子
| | | ∥――――――――梶原景時
| | | ∥ (平三)
| | | 梶原景長
| | |(太郎)
| | |
| | +―女子
| | | ∥――――――+―河村秀高
| | | ∥ |(三郎)
| | | ∥ |
| | | 波多野遠義 +―河村四郎
| | |(波多野権守) (大友経家?)
| | |
| | +―女子
| | ∥――――――+―畠山重能――――畠山重忠
| | ∥ |(畠山庄司) (庄司次郎)
| +―女子 ∥ |
| ∥――――――――秩父重弘 +―小山田有重―――稲毛重成
| ∥ (太郎大夫) |(小山田別当) (三郎)
| 秩父武綱―+―秩父重綱 |
| | (秩父権守) +―女子
| | ∥ ∥―――――+―千葉介胤正
| +―女子 ∥ ∥ |(太郎)
| ∥ ∥ 千葉介常胤 |
| ∥ ∥ (千葉介) +―相馬師常
| ∥ ∥ |(次郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―武石胤盛
| ∥ ∥ |(三郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―大須賀胤信
| ∥ ∥ |(四郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―国分胤盛
| ∥ ∥ |(五郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―東胤頼
| ∥ ∥ (六郎大夫)
| ∥ ∥
| ∥ ∥―――?―秩父重隆―――――葛貫能隆――+―河越重頼
| +―有道経行――女子 (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎)
| |(有三別当)(乳母御所) |
| | +―妹
| | ∥
| +―有道弘行――入西資行――小代遠広―――――――――――――小代行平
| (有大夫) (三郎大夫)(二郎大夫) (右馬允)
|
+―小野成任――+―小野成綱―――+―小野義成
(野三大夫) |(野三刑部丞) |(左衛門尉)
| |
| +―小野盛綱
| |(五郎左衛門尉)
| |
| +―中條兼綱
| (義勝房)
|
+―法橋成尋―――+―中條家長 +―女子:苅田式部殿母
|(城南寺修行) |(出羽守) |(荏柄尼西妙)
| | |
| +―苅田義季―――+―霊山尼
| (三郎左衛門尉) (奥州禅門祖母)
|
+―女子【源頼朝乳母】
(兵衛局)
∥――――――+―宇都宮朝綱
∥ |(左衛門尉)
∥ |
八田宗綱 +―八田知家
(八田権守) |(四郎)
|
|【源頼朝乳母】
+―女子 +―小山朝政
(寒河尼) |(小四郎)
∥ |
∥――――――+―長沼宗政
小山政光 |(五郎)
(下野大掾) |
+―結城朝光
(七郎)
秩父平氏は勅旨牧の秩父牧の別当として「兒玉郡阿久原牧(児玉郡神川町~藤岡市鬼石周辺)」から山麓の児玉郡、「秩父郡石田牧(秩父郡長瀞町)」から秩父在住当時から被官化していた丹党を大里郡や比企郡に展開し、武蔵国北西部から上野国国境付近まで勢力を拡大していった。そして「奥州征伐ノ後、有大夫弘行、同有三別当経行、武州兒玉郡ヲ屋敷トシテ居住セ令メ給フ」という有道姓の源義家郎従(京都下りで児玉郡に土着)のうち、「有三別当経行」が重綱の姉妹と婚姻関係となり、さらに重綱自身も経行の娘と婚姻するという重縁を結ぶ。なお、「有三別当経行」の兄である「兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣」は、後三年の役で大将軍義家のもと「副将軍ニテ同屋形ニ赤革ノ烏帽子懸シテ、八幡殿ノ御対座ニ書レ給ヒタル」(『小代宗妙置文』)という絵画が、少なくとも建仁3(1203)年から元久2(1205)年までは「蓮華王院ノ宝蔵」に残されており、武蔵守朝雅に従って上洛していた弘行の末裔である小代伊重(小代宗妙)が実見している。伊重の述懐には記されていないが、おそらく有道経行も義家郎従として後三年の役に加わっていた可能性が高いだろう(伊重は小代氏の祖である弘行の事のみ述べた可能性があろう)。
こうした環境の中で重綱は国衙において「留守所惣検校職」に補され(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)、「付当職四ヶ条有掌事」を執行した(『吾妻鏡』寛喜三年四月二日条)。重綱が補された留守所惣検校職はこれ以降、重綱の子孫が代々独占的に継承する家職と化していく。そして、この惣検校職の「本職四ケ條」(『吾妻鏡』寛喜三年四月廿日条)は、重綱子孫の河越三郎重員が「付当職四ヶ条有掌事、近来悉廃訖、仍任例可執行之由」を武蔵守泰時に「愁申」たことから、寛喜3(1231)年4月2日、泰時は岩原源八経直を「被尋下留守所」して留守所惣検校職の謂れと執行状況を問い合わせている(『吾妻鏡』寛喜三年四月二日条)。
その結果、4月14日に「自秩父権守重綱之時至于畠山次郎重忠、奉行来之条、符号于重員申状之由」と「在庁散位日奉実直、同弘持、物部宗光等」が勘状を認め、15日には「留守代帰寂」が副状を付して経直に託したものが20日に鎌倉に到着。泰時はこれらに基づいて「仍無相違可致沙汰之由」を指示(『吾妻鏡』寛喜三年四月廿日条)し、翌貞永元(1232)年12月23日に「武蔵国惣検校職并国検之時事書等、国中文書加判及机催促加判等事、(任)父重員讓状、河越三郎重資如先例可致沙汰」の国司泰時「庁宣」が下された(『吾妻鏡』貞永元年十二月廿三日条)。
この留守所惣検校職の職務は、武蔵国司の留守に諸政を見る留守所の一職種であるが、その具体的な「本職四ヶ条」の職務内容は不明。しかし、「武蔵国、毎郡置検非違使一人、以凶猾成党群盜満山也」(『日本三代実録』貞観三年十一月十六日条)という武蔵国における強力な「検校」(おそらく武蔵国特有の各郡の検非違所を監督・統率し、検断権を含む職掌)を行使できる役職であったと思われる。そのほか、惣検校職とともに河越重員から重資への譲られた「国検時事書等国中文書之加判及机催促加判等之事」については、本来は惣検校職とは関わりのない留守所の役務とみられるが、慣例的に惣検校職に付帯されるものであったと推測される。
■惣検校職(警察・司法・監察):国内についての「検校」(監督・追捕・裁判・断罪=各郡検非違所の統括か)を持つ「職」であろう。
「本職四ヶ条」を具体的に明らかにする術はないが、四ヶ条は「検校」すなわち治安維持のための監督に関するもの(警察・司法・監察)であったと推測できる。重員が重資に譲った付帯三ヶ条(下記)はいずれも租税や検地など内政に関わるもの(租税・行政)及び、国内への軍勢催促に関するもの(軍事)であるためである。
四ヶ条は、盗賊追捕および訴訟・裁判、検非違所や押領使(または追捕使)の管理・統率、追捕に関する国解作成(在京国司に付するか)、寺社の管理監督などであろうか。
■付帯の三職(租税、行政、軍事)
(1)国検時の事書(租税):徴税のために国内の土地検注を行った際の書類作成
(2)国中文書への加判(行政):国務に関する文書への加判
(3)机催促への加判(軍事):「机」とは「木几」すなわち「牀几」の合字と思われることから、軍勢催促状への加判であろうか。国衙行政の文書と思われるため、国衙付随の地方郡司らに対する軍勢催促状か。
重綱は交通の要衝である男衾郡菅谷を本拠としていたとみられ、館から2.5キロメートルほど北の比企郡嵐山町の平澤寺(かつては浄土庭園を持つ大寺)より発掘された経筒には、「久安四(1148)年歳時戊辰二月廿九日」の年紀ならびに「當国大主散位平朝臣茲縄」の名が刻まれているが(水口由紀子「平沢寺跡出土経筒の銘文について」)、この「当国大主」の「平茲縄」が重綱とみられる。
重綱は男衾郡、比企郡を中心に大きな勢力を持ち、嫡男・太郎大夫重弘は男衾郡畠山郷(大里郡川本町畠山)を治め、三男の三郎重遠は上野国高山御厨(藤岡市本郷)で「高山」を称している。この高山御厨は、天仁元(1108)年の浅間山噴火により荒廃した地に、後年、源為義が権益を有して開発を行った地であろう。隣接する「上野国多胡」は「八幡殿」がこの地の義家郎従とみられる「多胡四郎別当大夫高経」が後三年の役に従わなかったため、「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広がり、為義は父の義家から上野国多胡郡、高山郷の譲りを受けたのだろう。高山御厨は「天承元(1131)年建立」の神宮領であり、隣接する上野国新田庄の開発を行い、保元2(1157)年3月8日に「左衛門督家(藤原忠雅)政所」から「上野国新田御庄官等補任下司職」(保元二年三月八日「左衛門督家政所下文案写」『正木文書』)された源義重よりも早い段階での開発が進められていたことがわかる。なお、この新田庄となる地も、義家から三男義国(為義兄)へ譲られた地である。
為義は、父義家が武蔵国児玉郡に残した郎従で「副将軍」(『小代宗妙置文』)の有大夫広行、有三別当経行をして高山郷の開発を進め、御厨を建立したのだろう。広行、経行を祖とする兒玉党は武蔵国児玉郡から上野国南部にまで勢力を広げており、主家の為義が相伝した武蔵北部から上野南部の所領を中心に勢力を拡大したものか。高山御厨は有三別当経行の女婿・秩父権守重綱のもとに下向させた嫡子源義朝の「永治二年(1142)」の「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)されている。国免庄のため、武蔵守保説の国判を得て神宮に寄進され、重綱の三男・三郎重遠が入ったのだろう。
一方で、重綱は荒川・入間川の水系に沿って開拓を行うべく、二男の次郎太夫重隆を鳩山丘陵を越えた葛貫牧から入間川畔に広がる河越の地へ送り、さらに四男・重継は秩父から流れ下る荒川の河口付近、江戸郷(中央区)へと派遣、弟・基家は相模国境の地である荏原郡河崎郷(神奈川県川崎市)を開発し、河崎氏の祖となった。このように、重綱は水系を利用して武蔵国南部にまでその勢力を広げている。
重綱もまた有道大夫経行・有道有三別当弘行(兒玉党祖)や、小野次郎大夫経兼(横山党祖)などと同様、義家家人であり、当時は六条判官為義の家人だったと思われ、為義嫡子・義朝が関東に下向した際には、その義朝の嫡子源太義平を養育している。義朝が関東に下向した時期は、遅くとも「源氏ノ大将軍左馬頭殿ノ御嫡子、鎌倉ノ右大将ノ御料ノ御兄悪源太殿」(『小代宗妙置文』)が誕生した永治元(1141)年(『平治物語』から逆算)の前年、保延6(1140)年となる。義朝十八歳の頃である。ただし、弟の義賢が東宮體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となったのが保延5(1139)年8月17日のことであることから、義朝の関東下向はそれ以前のことである。
源義朝は、鳥羽院に仕える源為義と白河院近臣の藤原忠清女子を母として保安4(1123)年に京都で生まれた。若くして東国に下向した理由は諸説あるが、為義が鳥羽院の信任を失って摂関家に近づくにあたり、院近臣の娘を母とする義朝を廃嫡し遠ざける意味があったという説が通説となっている。
しかし、義朝誕生時にはすでに祖父藤原忠清は亡くなって五年程経過し、忠清弟の隆重は白河院蔵人となったのち、堀河天皇の蔵人となり式部丞を経る(『中右記』嘉保二年八月十二日条)。忠清の一族はいずれも白河院蔵人を経るも故忠清ほど白河院に重用されたわけではなく、院近臣としては忠清の兄・隆時の系統が担っており、隆時流藤原氏と義朝子孫が交流を持った形跡もない。
義朝が関東に下向した頃にはすでに忠清没後二十年程度経過している。このような中で義朝の下向を院との関係を避けるためとするのは当たらない。さらに、義朝は東国に下向して以降、秩父氏、両総平氏、大庭氏、波多野氏ら東国武士の再組織化を行いつつ京都へ戻っており(「故左典厩、都鄙上下向之毎度、令止宿此所給」(『吾妻鏡』建久元年十月廿九日条)とあるように、その後も関東と京都を往復していた)、義朝が下野守となって常京となった直後に次弟の義賢が武蔵秩父党と所縁の深い上野国多胡に派遣されたのも、あきらかに為義による東国経営の一環である。
軍記物『保元物語』の伝では「長井斉藤別当実盛」「片切小八郎大夫」らが義朝の麾下に属したとあるが(『保元物語』)。『吾妻鏡』には「長井齋藤別当、片切小八郎大夫等」は「于時各六條廷尉御家人」(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)とある。これに従えば、彼らはもともと六條判官為義の家人で、保元合戦時までには義朝の家人となっていたことになる。この他、「片切太郎為安、自信濃国、被召出之殊令憐愍給、是父小八郎大夫者、平治逆乱之時、為故左典厩御共之間、片切郷者、為平氏被收公、已廿余年空手、仍今日如元、可領掌之由、被仰」(『吾妻鏡』元暦元年六月廿三日条)といい、『吾妻鏡』が採用したとみられる編纂資料の出所が異なる(前述は橘氏、後述は片切氏)と考えられることから、片切小八郎大夫(及び斎藤別当)は為義から義朝の家人に移った可能性が高い。このほか「高家ニハ河越、師岡、秩父武者」とあるように、武蔵秩父党も義朝方にあったとされる(『保元物語』)。彼ら六條判官為義の家人とみられた人々がいずれも義朝に属していることからも、義朝の「廃嫡」という事実はなく、それどころか義朝はすでに為義家人を譲りによって家人化していた可能性が高いだろう。
義朝が関東へ下向した時期は明確ではないが、前述の通り、弟の義賢が東宮體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となった保延5(1139)年8月17日よりも前であろう。遅くとも「永治二年(1142)」に「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)への「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)した時点では、すでに関東へ下っている。この高山御厨(飯能市高山)は「天承元(1131)年建立」の神宮領で、もともと為義が相伝した所領(高山郷?)であろう。その後、「永治二年(1142)」に「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された。「代々国判」とあることから高山御厨は国免荘であった。為義はおそらく亡父義家の譲りを受けた高山郷の権益を有し、義朝がこれを嫡子として継承したとみられ、のちに高山御厨が没官されたのは義朝が平治の乱で討たれたためだろう。高山御厨は義朝が下司となり、実質的には家人の「秩父権守」(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)を称した秩父重綱の三男の三郎重遠が派遣されていたのだろう。没官された高山御厨は、その後、建久6(1190)年8月に「可早任宣旨并故左馬頭家御起請寄文代々国判等旨、如本奉免、被令知行所」として奉免されることとなる。これは同年6月まで在京し、故義朝の復権に尽力した義朝の子・源頼朝の強い働きかけによるものであろう。
高山御厨に隣接し、源義賢が館を構えた「上野国多胡」には、源家郎従「多胡四郎別当大夫高経」がいたが、彼は後三年の役に従わなかったため、「八幡殿」が「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広っていて、為義が高山御厨を建立したのもその遺領であろう。なお、後年、義賢遺児で信濃国木曾郡で平家政権への反旗を翻した木曾冠者義仲は一時多胡郡に立ち寄ったのも、故義賢の誼を通じての軍勢催促であり、『源平盛衰記』によれば治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原合戦の際には義仲方の「上野国住人高山党三百騎」が参戦し、城資職方の老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦している。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)。
義朝の嫡男、源太義平が生まれたのは、永治元(1141)年(『平治物語』より逆算)で、義朝十八歳の時であるが、母は「橋本遊女或朝長同母」(『尊卑分脈』)とある(母が三浦義明女子であるという説もあるが、義平と三浦氏の接点は皆無であり協力関係があった痕跡すらない。義平が武蔵国を離れた傍証もなく、「鎌倉悪源太」という「鎌倉」の接頭辞は軍記物以外確認できない。「三浦庄司平吉次、男同吉明」が義朝に従属していたことは間違いないが、義平との関わりはないだろう)。義平がどこで誕生したのかは不明だが、秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)は「号乳母御前」(『小代宗妙置文』)と称され、「悪源太殿称御母人」(『兒玉党系図』)として慕っていることから、重綱とその妻に養育されて成長したことがわかる。義平はおそらく武蔵国男衾郡に誕生したのだろう。義朝は義平を嫡男として扱い、その後見を秩父権守重綱に託したこととなる。このことからも重綱と為義・義朝との間に深い主従関係が構築されていることがわかる。
なお、義朝は武蔵国に常駐していたわけではなく、京都と東国諸国(相模国、上総国、安房国など)の家人の間を行き来していたと考えられ、相模国大庭御厨に乱入した天養元(1144)年中には上洛して院近臣藤原季範女子と通じ(翌年長女「右武衛室」誕生)、天養2(1145)年には摂津国江口宿にも通い(翌年次女「江口腹の御女」誕生)、季範女子とも通じている(翌年三男頼朝が誕生)。また、五男(四男?)範頼は「於遠州蒲生御厨出生」で「母遠江国池田宿遊女」であることや「於青波賀駅、被召出長者大炊息女等有纏頭、故左典厩、都鄙上下向之毎度、令止宿此所給之間、大炊者為御寵物也」(『吾妻鏡』建久元年十月廿九日条)の記述も義朝が京都と関東を往復していた証左である。
●源義朝等の動向
年 | 月日 | 義朝年齢 | 義朝の所在 | 義朝の動向 | 出典 |
保安4年 (1123) |
1歳 | 京都 | 源為義の嫡子として京都に誕生。 | ||
天承元年 (1131) |
正月29日以降 | 9歳 | 京都か |
上野国緑野郡高山保?をおそらく父・ 為義が神宮へ寄進して御厨を建立。 |
『神宮雑書』 |
天承元(1131)年~保延5(1138)年頃の間に、義朝は関東へ下る。 | |||||
保延5年 (1139) |
8月17日 | 16歳 | 武蔵国男衾郡か | 弟の源義賢、體仁親王(のち近衛天皇)の立坊に伴い、春宮坊帯刀先生となる。 | 『古今著聞集』より推定 |
保延6年 (1140) |
17歳 | 武蔵国男衾郡か | 源義賢が瀧口源備殺害に関与していたことが判明して、春宮坊帯刀先生を罷免される。 | 『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四 | |
永治元年 (1141) |
18歳 | 武蔵国男衾郡 |
嫡男の源義平が誕生。 母は橋本遊女。乳母は秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)。義平は重綱妻を「御母人」と呼ぶ。 |
『兒玉党系図』 | |
永治2年 (1142) |
4月28日以前 | 19歳 | 武蔵国男衾郡 | 「故左馬頭家御起請寄文」に基づき、上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)に「被下奉免宣旨」された。 | 『神宮雑書』 |
康治2年 (1143) |
20歳 | 上総国一宮か | 「前下野守源朝臣義朝存日、就于件常晴男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」と、上総権介常澄と組んで、下総国相馬御厨を千葉常重から圧し取る。 | 『櫟木文書』 | |
相模国鎌倉 | この頃、義朝は相模国松田郷を中心とする一帯を抑える波多野義通妹と通じており、鎌倉へ本拠を移したとみられる。このとき、上総国から付けられたのが常澄の八男、介八郎広常であろう。広常は鎌倉北東部に館を構えている。 | 『天養記』 | |||
天養元年 (1144) |
21歳 | 相模国鎌倉 | 二男の源朝長が誕生。 母は波多野義通妹。「此殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀典膳大夫久経為子、仍父義通、就妹公之好、始候左典廐」という。朝長は波多野氏のもとで成長し「松田御亭故中宮大夫進旧宅」に住んだという。 |
『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条 | |
9月上旬 | 相模国鎌倉 | 大庭御厨内の鵠沼郷(神奈川県平塚市鵠沼)は鎌倉郡内であると難癖をつけて領有を主張し、郎従清大夫安行らを鵠沼郷に差し向けて伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。 | 『天養記』 | ||
10月21日 | 相模国鎌倉 | 義朝は田所目代源頼清らと結託し、「上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じて再度大庭御厨に濫妨をはたらく。 | 『天養記』 | ||
10月22日 | 相模国鎌倉 | 御厨の境界を示す傍標を引き抜き、収穫の終わったばかりの稲を強奪し、下司職景宗の館に乱入して、家財を破壊して奪い取り、家人を殺害した。 | 『天養記』 | ||
相模国鎌倉 | 御厨定使散位藤原重親、下司平景宗(大庭景宗)が荘園領主の神宮に急使を派遣して濫妨を訴えた。 | ||||
京都か | 院近臣藤原季範(熱田大宮司)の女子と通じる。 | ||||
天養2(1145)年 | 3月4日 | 22歳 | 京都か | 朝廷より義朝らの濫妨停止の官宣旨が出される。 | 『天養記』 |
京都か | 神宮の怒りを恐れ、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」と、相馬御厨を神宮に寄進する。 | 『櫟木文書』 | |||
京都 | 京都近辺に在住か(摂津国江口に通う範囲) | ||||
京都 | 長女の「右武衞室」が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母姉。 |
『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算 | |||
久安2年 (1146) |
23歳 | 京都 | 次女の「江口腹の御女」が誕生。 母は摂津国江口の遊女。 院近臣藤原季範女子と通じる。 |
『平治物語』より逆算 | |
久安3年 (1147) |
24歳 | 京都 | 三男の源頼朝が誕生。 母は院近臣藤原季範女子。外祖父季範は在京とみられるが、頼朝自身の出生地は京都か尾張熱田かは記録がない。 |
||
久安4年 (1148) |
25歳 | 京都⇒関東⇒ 京都か |
五男(四男?)の源範頼が誕生か。 母は「遠江国池田宿遊女」。 「於遠州蒲生御厨出生」で、藤原範季に養育される。 |
||
久安5年 (1149) |
26歳 | ||||
久安6年 (1150) |
27歳 | ||||
仁平元年(1151) | 28歳 | 京都 | 院近臣藤原季範女子と通じる。 | ||
仁平2年(1152) | 29歳 | 京都 | 四男(五男?)の源希義が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母弟。 |
『平治物語』より逆算 | |
仁平3年(1153) | 3月28日 | 30歳 | 京都 | 義朝、従五位下下野守に任官 叙任は「故善子内親王未給合爵」による。 |
『兵範記』仁平三年三月廿八日条 |
夏頃 | 弟義賢、上野国多胡郡に居住。 | 『延慶本平家物語』第三本 | |||
同年中 | 義賢の子、義仲が上野国に誕生。 | ||||
同年中 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||||
久寿元(1154)年 | 31歳 | 京都 | 六男の醍醐禅師全成が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 | |
久寿2年(1155) | 8月16日 | 32歳 | 京都 | 源義賢、秩父重隆、武蔵国男衾郡で、比企郡小代郷から攻め寄せた悪源太義平に討たれる。 | |
九條院雑仕常盤と通じる。 | |||||
保元元(1156)年 | 33歳 | 京都 | 七男の卿公義円が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 | |
12月29日 | 重任、下野守義朝、造日光山功 | 『兵範記』保元元年十二月廿九日条 | |||
保元2(1157)年 | 正月24日 | 34歳 | 京都 | 従五位上 平重盛 父清盛朝臣召進忠貞賞 源義朝 召進盛憲賞 右兵衛佐平頼盛 使左衛門少尉平信兼 |
『兵範記』保元二年正月廿四日条 |
10月22日 | 正五位下 源義朝、北廓(内裏造営の功によるもの) | 『兵範記』保元二年十月廿二日条 | |||
保元3(1158)年 | 35歳 | 京都 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||
平治元(1159)年 | 36歳 | 京都 | 八男の源義経が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 |
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
重綱の娘は武蔵国埼玉郡大田郷(行田市小針周辺)の大田大夫行政の子・三郎行光に嫁ぎ、大田太郎行広と大河戸行方を産んでいる(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。『尊卑分脈』では「大田大夫行政」の弟「大田四郎行光此義正説也、或行政子」の子「号大河戸 下総権守行方」の項に「母秩父太郎重綱女」とあるが、弟の行広の母は記されていない。なお、『尊卑分脈』の小山氏周辺の系譜は人名や罫の攪乱が多い。秩父重綱の孫にあたる大河戸行方の本貫・武蔵国大川戸郷は、「武蔵国崎西足立両郡内大河土御厨者、右件地元相伝家領也、而平家虜領天下之比所押領也」(『吾妻鏡』寿永三年正月三日条)とあるように、源家相伝の私領で、源氏の家人であった秩父権守重綱と大田三郎行光という武蔵国の二大勢力がその経営に加わっていたと考えられる。
小山四郎政光と下河辺五郎行義も大田行光の子があるが、彼らの母は兄の行広と行方とは異なるのだろう。政光と行義はともに武蔵国を離れ、政光は下野国衙付近の小山郷に進出し、行義は下総国下河辺庄の庄司となっている。大田氏の領有する埼玉郡大田郷は荒川を挟んで秩父氏の支配地と隣接しており、こうした関係から婚姻関係が成立したものとみられる。また、大田大夫行政の弟・阿闍梨快実は都幾川の上流にある大寺・慈光寺の二十世別当(『慈光寺略誌』)となっているが、武蔵国の秀郷流藤氏と秩父氏は縁戚関係を通じて強い関係を持っており、大田氏が下野国方面に進出するに及び、縁戚関係の秩父氏から慈光寺別当が輩出されるようになる。
●『秀郷流藤原氏諸家系図』と秩父氏系図
秩父重綱―+―秩父重弘―+―畠山重能――――畠山重忠―+―畠山重保
(秩父権守)|(太郎太夫)|(畠山庄司) (庄司次郎)|(六郎)
| | |
| +―法橋厳耀 +―阿闍梨重慶
| (慈光寺別当) |(慈光寺別当?)
| |
| +―円燿
| (慈光寺別当)
|
+―秩父重隆―+―葛貫能隆――――河越重頼
|(次郎太夫)|(葛貫別当) (太郎)
| |
| +―厳実
| (慈光寺別当)
|
+―女子 +―大田行広――――大田行朝―――大田行助
∥ |(太郎) (大田権守) (七郎)
∥ |
∥――――+―大川戸行方―+―清久広行―――清久広綱――清久秀衡
∥ (下総守) |(太郎)
∥ |
∥ +―大川戸秀行――大川戸秀綱――大川戸秀胤
∥ |(次郎) (三郎兵衛) (孫三郎)
∥ |
∥ +―高柳秀行
∥ |(三郎)
∥ |
∥ +―大川戸行基
∥ |(四郎)
∥ |
∥ +―葛浜行平
∥
大田宗行―+―大田行政―――大田行光―――大田政光====吉見頼経
(下野大介)|(下野大介) (下野大介) (下野大掾) (三郎)
| ∥
+―快実 ∥―――――+―小山朝政
(慈光寺別当) ∥ |(小四郎)
∥ |
八田宗綱―――女子 +―長沼宗政
(武者所) (寒河尼) |(五郎)
|
+―小山朝光
(七郎)
重綱室の一人、横山次郎大夫経兼娘の従姉妹・兵衛局(「近衛局」ともあるが、兵と近の混同であろう)は下野国の八田権守宗綱の室となるが、彼女は「八田権守妻、宇都宮左衛門尉朝綱之母也、右大将家御乳母也、近衛局兵衛局也」(『小野氏系図』「続群書類従」第七輯上)とあるように、頼朝の乳母となっている。そしてその娘(のち寒河尼)も頼朝乳母となり、小山政光に嫁いで小山朝政、長沼宗政、結城朝光を産んでいる(「永仁二年注進結城系図」(同系図では宇都宮左衛門尉朝綱女となっているが、結城朝光母も「母同」のため、彼ら三名は同母兄弟である)、『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。のちに義朝が下野守となるに及び、秩父氏と重縁にあたる小山政光を何らかの所役に起用しているのかもしれない。比企郡司の女子(比企尼)や八田権守宗綱室(兵衛局)、小山政光室(寒河尼)を頼朝の乳母としたのも、秩父氏所縁の女性という事になろうから、将軍頼義・陸奥守義家以来、六条源氏と武蔵国秩父氏との紐帯は非常に大きなものであったと推測される。
このほか、「武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女今日者尼、號摩摩、住国相摸早河庄」(『吾妻鏡』治承五年閏二月七日条)とあるように、相模国中村党の女性も頼朝の最初期乳母として召されていたことがわかる。なお、「故左典厩御乳母字摩摩局、自相摸国早河庄参上、相具淳酒献御前、年歯已九十二、難期且暮之間、拜謁之由申之幕下、故以憐愍給、是有功故也」(『吾妻鏡』建久三年二月五日条)とあるように、義朝自身の乳母も相模国中村党の女性であった。義朝は相模国山内庄の首藤刑部丞俊通の妻(のちの山内尼)も頼朝の乳母としており、為義、義朝の東国の拠点の中心は武蔵国と相模国にあったと推測される。
【重綱養子】
+―秩父行重――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重【畠山重忠実兄】
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
|
|【重綱養子】
+―秩父行高――――――――小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
|
兒玉経行―+―女子 +―宇都宮朝綱
(別当大夫) (乳母御前) |(弥三郎)
∥ |
∥ 八田宗綱 +―八田知家
∥ (八田権守) |(武者所)
∥ ∥ |
∥ ∥――――――――――――+―女子 +―小山朝政
∥ ∥ (寒河尼) |(太郎)
∥ ∥ ∥ |
∥ ∥ ∥―――――+―長沼宗政
∥ ∥ ∥ |(五郎)
∥ ∥ ∥ |
+―小野成任――∥―――女子 +――大田行政―――小山政光 +―結城朝光
|(野三太夫) ∥ (兵衛局) | (大田大夫) (下野大掾) (七郎)
| ∥ |
| ∥ +―横山孝兼――――女子 +―法橋厳耀 +―畠山重秀
| ∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
| ∥ | | ∥ | |
横山資隆―+―横山経兼――∥―+―女子 | ∥――――+―畠山重能 +―畠山重光 +―畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥―――――――秩父重弘 ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ |+―江戸重継―+―女子 +―円耀
∥ ∥ ||(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ || | |
∥ ∥ |+―高山重遠 +―江戸重長 +―女子
∥ ∥ ||(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ || | ∥
∥ ∥ |+―女子 | 島津忠久
∥ ∥ || ∥ |(左兵衛尉)
∥ ∥ || ∥ |
∥ ∥ || ∥――――――大河戸行方 +―女子
∥ ∥ || ∥ (下総権守) ∥
∥ ∥ || ∥ ∥
∥ ∥ +|―大田行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱―+―秩 父 重 綱―――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
(十郎) |(秩 父 権 守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| ∥ | |
+―女子 ∥ +―妹 +―河越重員
∥―――――――――+―秩父行重 ∥ (三郎)
∥ ∥ |(平太) ∥
∥ ∥ | ∥
有道遠峯―+―兒玉経行――女子 +―秩父行高 ∥―――――+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫)(乳母御前)(平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+―兒玉弘行――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平 +―小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
●源氏の人々の乳母等
乳母名 | 乳母夫 | 国 | 備考 | 出典 | |
源為義 | 廷尉禅室御乳母 | 山内首藤資通入道 (仕八幡殿) |
相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
|
源義朝 | 摩摩局 (故左典厩御乳母、年歯已九十二) 康和3(1101)年生まれ |
中村党か | 相模国 | 相摸国早河庄 | 『吾妻鏡』 建久三年二月五日 |
源義広 | 乳母某 (乳母子、多和山七太) |
多和山某 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月廿三日条 |
|
源義平 | 乳母御前、乳母御所 (有三別当経行の女子) |
秩父権守重綱 | 武蔵国 | 『小代宗妙置文』 | |
源頼朝 | 摩摩 (武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女) |
中村宗平? | 相模国 | 住国相摸早河庄 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月七日条 |
乳母某 (乳母妹の子が三善康信) |
三善氏 | 京都 | 『吾妻鏡』 治承四年六月十九日条 |
||
乳母某 (久安5年、頼朝のために十四日間清水寺に参篭し、二寸銀正観音像を得る) |
不明 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承四年八月廿四日条 |
||
山内尼【武衞御乳母】 (山内瀧口三郎経俊の老母) |
山内首藤俊通 | 相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
||
比企尼【武衞乳母】 (義員姨母。武蔵国比企郡を請所として夫の掃部允を相具して下向している) |
掃部允 | 武蔵国 | 『吾妻鏡』 寿永元年十月十七日条 |
||
兵衛局【右大将家御乳母】 (宇都宮左衛門尉朝綱之母) |
八田権守宗綱 | 下野国 | 『小野氏系図』 | ||
寒河尼【武衛御乳女】 (故八田武者宗綱息女) 保延4(1138)年~安貞2(1228)年2月4日 |
小山下野大掾政光 | 武蔵国 または下野国 |
『吾妻鏡』 治承四年十月二日条 |
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安西三郎景益(幼少時に昵近の人) | 安房国 | 御幼稚之当初、殊奉昵近者 | 『吾妻鏡』 治承四年九月一日条 |
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源義仲 | 乳母某 | 中三権守兼遠 | 上野国 または信濃国 または京都 |
『吾妻鏡』 治承四年九月七日条 |
永治2(1142)年の高山御厨寄進後、義朝は幼い嫡子義平を重綱に預け、上総国の上総権介常澄のもとへ移り「上総曹司源義朝」と称されている(『天養記』天養二年三月四日)。ただし、義朝はつねに武蔵国男衾郡にいたというわけではなく、上総国埴生庄の権介常澄のもとや、相模国鎌倉郡などを積極的に動き回りながら、武蔵国、上総国、相模国、安房国の為義家人の間にネットワークを構築していたとみられる。義朝は常澄の同族である下総権介常重とも関わりを持ち、常重の嫡子常胤と秩父重綱孫娘(重弘女子)との婚姻を行わせた可能性もあろう。地縁も血縁も政治的活動も接点のみられない秩父と千葉の関係構築には何らかの触媒(この場合は為義の指示を受けた義朝)が関わった可能性も十分考えられる。
ところが義朝は、康治2(1143)年に下総国相馬御厨について「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手」から「責取圧状之文」るという事件を起こしている(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』:『櫟木文書』)。相馬郡を領する千葉常重から、義朝が平常澄の「浮言」を利用して強引に譲状(圧状と認定された)を責取ったものであった。義朝の意図は不明確ながら、源家家人の血統を引きながら、為義・義朝に協力的ではない人々への強い制裁と考えられよう。この流れは翌天養元(1144)年に相模国の大庭御厨の御厨下司平景宗(大庭御厨を開発した義家郎従平景正の子孫または一族子孫)への制裁としても表れている。相模国鎌倉へ移った義朝は(このとき平常澄の子、八郎広常が鎌倉に同道したと思われる)、大庭御厨の高座郡内字鵠沼郷を「鎌倉郡内」と称し、9月上旬、義朝と結託した国府の田所目代源頼清の下知のもと、義朝郎従清大夫安行、新藤太、庁官等が大庭御厨に乱入した。さらに10月21日にも「田所目代散位源朝臣頼清」や在庁官人および「義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」ら千余騎による狼藉が行われた(『天養記』天養二年三月四日)。
ただ、義朝の大庭御厨への濫妨がかなり悪質であったことから、神宮の激しい怒りを買っており、義朝は天養2(1145)年に「恐神威永可為太神宮御厨」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)と、相馬御厨の「避状」を神宮に提出することとなる。なお、義朝は東国家人の再編成の過程で神宮領への狼藉が発生せざるを得ない中、神宮を畏敬していた様子がうかがわれる。安房国丸御厨は「左典厩義朝令請廷尉禅門為義御譲給之時、又最初之地也」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)で、「而為被祈申武衛御昇進事、以御敷地去平治元年六月一日奉寄 伊勢太神宮給」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)というものであり、為義、義朝の神宮信仰心は、故義朝を敬愛する頼朝へと引き継がれ、頼朝は鶴岡八幡宮寺と並んで甘縄神明社を深く崇敬した。そして従者(源頼政または熱田大宮司家と関わりのある人物か)で側近の藤九郎盛長を源家別邸の甘縄邸に置いてこれを管理させ、数度にわたって神明社を参詣しているのである。
平貞盛―――女 +―藤原隆時―――藤原清隆
(信濃守) ∥ |(因幡守) (中納言)
∥ |
∥――――+―藤原範隆―――藤原資隆
∥ (甲斐守) (上西門院蔵人)
具平親王―――藤原頼成――藤原清綱
(因幡守) (左衛門佐)
∥――――+―藤原隆能
∥ |(主殿頭)
∥ |
後三条天皇――高階為行――女 +―藤原忠清―+―藤原惟忠――――――藤原惟清
(信濃守) |(淡路守) |(太皇太后宮大進)
| |
| +―藤原清兼――――+―藤原清長
| |(太皇太后宮大進)|(太皇太后宮大進)
| | |
| | +―藤原康俊
| | |(待賢門院蔵人)
| | |
| | +―藤原惟清
| | (左大臣勾当)
| |
| +―藤原行俊――――――藤原清定
| |(待賢門院蔵人) (八条院蔵人)
| |
| +―女
| ∥―――――――――源義朝
| ∥ (下野守)
| 源為義
| (検非違使)
|
+―藤原隆重―+―藤原政重
(筑前守) |(白河院蔵人)
|
+―平忠重【刑部卿平忠盛為子改姓】
|(散位)
|
+―藤原清重――――――藤原在重
|(蔵人) (上西門院判官代、下総守)
|
+―右衛門佐
(後白河院宮女)
∥
藤原信西
(少納言入道)
●義朝祖父の藤原忠清●
祖父の藤原忠清は寛治2(1088)年11月26日、「修理亮」在任中に堀河天皇の「侍中(蔵人)」に「所雑色源有家」とともに補された(『中右記』寛治二年十一月廿六日条)。永長2(1097)年正月30日の除目で「出雲守従五位下藤原朝臣忠清兼」(『中右記』永長二年正月卅日条)とあり、従五位下に叙され出雲守に補任されている。なお同日、八幡太郎義家嫡男の源義親の舅となる高階基実が「肥後守従五位下高階朝臣基実」、のちの源三位頼政の父・源仲正が「下総権守従五位下源朝臣仲正」、のちに千葉介常胤と相馬御厨をめぐって争う判官代源義宗の祖父・源家俊が「近江権守従五位下源朝臣家俊」とある。続けて翌月の閏正月3日には源家俊は「能登権守」、源仲正は「肥前権守」に補任される(『中右記』永長二年正月卅日条)。
嘉承2(1107)年4月17日当時、忠清は「少進淡路守忠清」(『永昌記』嘉承二年四月十七日条)と見え、春宮少進として皇太子宗仁親王(のちの鳥羽天皇)の家司だった。その後は白河院の信任を得てその側近として活動し、永久4(1116)年正月21日当時、「院蔵人一臈忠清入道」(『殿暦』永久四年正月廿一日条)とあるように、白河院側近の筆頭という極めて強い関係を持っていた。しかし、この頃すでに入道しているように体調は芳しくなかったようで、「永久卅八」(『尊卑分脈』)とあるように、永久6(1118)年までの間に三十八歳で亡くなったようだ。
その跡は長男惟忠が継承したと思われるが、彼の院近臣としての活動はうかがえず、白河院皇女で太皇太后宮令子内親王の家司(太皇太后宮大進)となっている(『尊卑分脈』)。次男清兼は保安2(1121)年正月24日当時「院蔵人」であり、同日に堀河天皇の「被補蔵人」されている(『除目部類記』)。おそらく惟忠も院蔵人を経て堀河天皇の蔵人(『尊卑分脈』に「蔵」とあり)に補されていたのだろう。令子内親王は「長(承)三年三月十九日、改皇后為太皇太(后宮)」(『一代要記』)とあることから、惟忠は長承3(1134)年3月19日以降の大宮家司となる。清兼はその跡を襲い「太皇太后宮大進」(『尊卑分脈』)に補されたと思われ、その任の最中である康治2(1143)年4月8日、「自被宮退出之間、於路頭被刃傷所破其頭血出之、清兼成恐怖帰参被宮、近日如此事連々」(『本朝世紀』)という事件に遭遇している。
源俊房――――源師時――――源師行
(左大臣) (権中納言) (大蔵卿)
∥――――――――源有房
∥ (左中将)
藤原忠清―+―藤原惟忠 ∥ ∥
(因幡守) |(大宮大進 ∥ ∥
| ∥ ∥
+―藤原清兼―――女子 ∥
|(大宮大進) ∥
| ∥
+―女子 ∥
| ∥――――――源義朝 ∥
| ∥ (下野守) ∥
| 源為義 ∥
|(左衛門大尉) ∥
| ∥
+―藤原隆重―+―藤原政重 ∥
(筑前守) |(白河院蔵人) ∥
∥ | ∥
∥ +―平忠重 ∥
∥ |(刑部卿忠盛猶子) ∥
∥ | ∥
∥ +―右衛門佐 ∥
∥ (後白河院女房) ∥
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥ 藤原通憲―――――女子
∥ (入道信西)
∥
∥――――――藤原清重―――――藤原在重
+―女子 (蔵人) (下総守)
|
| +=源義宗
| |(高松院判官代)
| |
源家宗――+―源家俊――+―源重俊――――+―源宗信
(上野介) (左馬助) |(左衛門尉) (上野冠者)
|
+―源俊宗――――――源義宗〔為重俊子〕
(????-????)
秩父権守平重綱の次男。通称は次郎大夫。武蔵国留守所惣検校職。
若い頃にはおそらく父・出羽権守平重綱から鳩山丘陵を越えた南側、葛貫牧(毛呂山町)から河越方面にかけての一帯に派遣され、秩父平氏の勢力拡大の一翼を担ったと思われる。
武蔵大蔵館跡 |
しかし、兄の太郎大夫重弘が早世し、その子・重能が幼少だったなどの理由で、重隆が秩父平氏惣領になったと考えられる。重隆も大番役を務めて権門に仕え「大夫(五位)」に叙されていたのだろう。
重綱の跡を受け、次郎重隆は南の入間郡から男衾郡菅谷館(嵐山町菅谷)へ帰還し、武蔵守より留守所惣検校職に補された。比企郡嵐山町の平澤寺より発掘された経筒から、久安4(1148)年にはまだ父の重綱が存命であり、彼が「当国大主」と主張していることから、いまだ重綱が留守所惣検校職にあったと思われる。その後、重隆がこれを継承したと思われるが、そのきっかけは、おそらく久安6(1150)年7月28日の武蔵守交代ではなかろうか。新任の武蔵守は藤原信頼であり、重隆は信頼から留守所惣検校職に補されたと考えられる。
仁平3(1153)年3月28日、石清水八幡宮臨時祭に伴う除目で、源義朝は「下野守」に任官し、同時に従五位下に叙されている(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。この叙爵は「故善子内親王未給合爵」とあるように、白河院皇女の故善子内親王の未給合爵であった。善子内親王は長承元(1133)年12月1日に「前斎宮無品善子内親王薨給、年五十六、是白河院之女、三條内大臣之外孫、道子女御女也、今年道子善子母子共薨給、共准后也」(『中右記』長承元年十二月一日条)とあるように、内親王薨去から実に二十年も経たものであった。内親王に残っていた故人未給分を清算する未給合爵だろうが、義朝への叙爵は二十年も前の未給分を引っ張り出して行われたものとなる。義朝を故義家所縁の「下野守」へ任官させるにあたっては、叙爵が必要となるが、そのために義朝との所縁がわずかにみられる故院宮善子内親王家の未給分を充てることにしたのだろう。善子内親王が親王宣下を受けた承暦3(1079)年4月28日に定められた善子内親王家職の「侍者」に見える「中宮少進藤隆時」(『為房卿記』承暦三年四月二十八日条)は義朝の大伯父に当たり、中宮賢子家司と善子内親王家侍者を務めた人物である。義朝の下野守補任の根拠となった「故善子内親王未給合爵」は、故隆時の勲功が反映されたものであったのだろう。ただし、隆時は義朝祖父の忠清とは兄弟であるが母を異にする異母兄弟であり、式部官は相当無理をしてその未給分を充てたのだろう。善子内親王の薨去時、義朝はまだ十一歳であり、直接的な接点はなかったと思われる。
この藤原隆時は、寛治2(1088)年正月19日に「従五位上」に昇叙されているが、当時の肩書は「院判官代」であり(『中右記』寛治二年正月十九日条)、白河院司だった。寛治4(1090)年正月16日には、白河院の熊野行幸に「上皇扈従熊野人々」の「殿上人十一人」にも「因幡守隆時」として選ばれている(『中右記』寛治四年正月十六日条)。寛治6(1092)年5月21日時点では「但馬守隆時」(『後二条師通記』寛治六年五月廿一日条)とあり、但馬守に移っていたことがわかる。寛治7(1093)年正月3日時点では「従四位上藤隆時院別当」とあり、白河院庁別当となっていた。康和4(1102)年正月23日の除目で「近江隆時」(『殿暦』康和四年正月廿三日条)とみえ、近江守に転じている。康和5(1103)年11月1日の除目で、「因幡守時範与近江守隆時相博」(『中右記』康和五年十一月朔日条)しており、因幡守に再任している。嘉承2(1107)年12月30日、斎宮を退下した善子内親王が「夜半許前斎宮令入洛給、渡御于故隆時朝臣中御門富小路宅也」(『中右記』嘉承二年十二月卅日条)とあり、この時点で隆時はすでに故人となっていて、善子内親王はかつて家職を務めた隆時の邸宅に逗留することとなったとみられる。なお、この「帰京之事沙汰上卿」は本来は源中納言基綱だったが、基綱の姉が急死したために中御門宗忠が務めている。宗忠の屋敷は「彼御所与蓬門近隣也」という(『中右記』嘉承三年十二月三日条)。
●善子内親王略歴
年 | 月日 | 年齢 | 出来事 | 出典 |
承保4年 (1077) |
9月23日 | 1 | 民間のみならず宮廷においても疱瘡が猖獗を極める中で誕生。 「今日准后女御道子、有御産気之由風聞、或人云、申時許已平安降誕云々、但不知男女…令人問申女御御産事、被示給云、所承為皇女之由也者」 |
『水左記』 承保四年九月廿三日条 |
承暦3年 (1079) |
4月28日 | 3 | 「今夜又以女二宮善子為親王由被宣下云々、宮則春宮大夫能長卿外孫也」 【家司】 ・式部大輔藤原実綱朝臣 ・伊予守藤原定綱朝臣 ・讃岐守藤原顕綱朝臣 ・散位源清長朝臣 ・丹波守顕季朝臣 【御監】 ・右兵衛尉源成綱 【侍者】 ・大膳亮高階経教 ・中宮少進藤原隆時(義朝伯父) 【蔵人】 ・高階敦遠 ・源有元 【職事】 ・右近衛中将家忠 |
『為房卿記』 承暦三年四月二十八日条 |
永保元年 (1081) |
11月28日 | 5 | 内裏麗景殿で御着袴。 【着座】 ・主上(父:白河天皇) ・春宮大夫(正二位権大納言実季 47歳) ・左大将(正二位権大納言師通 20歳) ・治部卿(正二位中納言経季 72歳) ・左大弁(従三位参議実政 63歳) ・新宰相中将(正四位下参議公実 29歳) 「此日、今上第三親王名善子、女御道子腹、着袴云々、夜前女御相被入内」(水) 「今日、内府女御之姫宮御着袴也」(帥) 「第二皇女五歳、内大臣外孫、母道子女御、有御着袴」(為) |
『水左記』 『帥記』 永保元年十一月二十八日条 『為房卿記』 永保元年十一月二十九日条 |
応徳3年 (1086) |
11月26日 | 10 | 父白河天皇が、善子の異母弟・善仁親王に譲位 善仁親王即位(堀河天皇) |
『扶桑略記』 応徳三年十一月廿六日条 |
寛治元年 (1087) |
2月11日 | 11 | 代替わりにより「今夜斎宮卜定」される。 「善子内親王」の御所は「三條烏丸加賀守家道朝臣宅」であった。 |
『中右記』 寛治元年二月十一日条 |
2月20日 | 「卜定之由、奉幣伊勢」 | 『中右記』 寛治元年二月廿日条 |
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3月4日 | 「斎宮渡御鳥羽殿」 | 『中右記』 寛治元年三月四日条 |
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3月9日 | 「終日雨下、入夜斎宮還御」 | 『中右記』 寛治元年三月九条 |
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6月20日 | 「午剋許、右大臣之六條亭焼亡、斎宮俄還御六條内裏」 | 『中右記』 寛治元年六月廿日条 |
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6月29日 | 「斎宮、遷御右大臣久我水閣」 | 『中右記』 寛治元年六月廿九日条 |
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7月3日 | 善子内親王、斎宮となって初めて父院と鳥羽殿で対面する。 「斎宮、初為対面院、遷御鳥羽殿」 |
『中右記』 寛治元年七月三日条 |
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7月13日 | 善子内親王、父院とともに帰洛する。 「院、斎宮、令帰洛御」 |
『中右記』 寛治元年七月十三日条 |
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7月19日 | 善子内親王、父院の御所へ遷御する。 「斎宮、自六條内裏遷御院御所、前駈歩行、依近近也」 |
『中右記』 寛治元年七月十九日条 |
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9月21日 | 「斎宮、御禊也」 【前駈】 ・参議大蔵卿 ・左近衛中将、右近衛中将 ・左近将監、右近将監 ・左兵衛佐、右兵衛佐 ・左兵衛尉、右兵衛尉 ・左衛門尉、右衛門尉 ・右馬允 ・宮勅別当女房車五両、童女一両、内侍無出車、雑色二人、所衆四人 |
『中右記』 寛治元年九月廿一日条 |
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10月27日 | 「院、斎宮、姫宮、遷御鳥羽殿」 | 『中右記』 寛治元年十月廿七日条 |
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10月30日 | 「院、斎宮、姫宮還御、有臨時祭定」 | 『中右記』 寛治元年十月丗日条 |
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寛治2年(1088) | 正月2日 | 12 | 「於院、斎宮御方有臨時客、先有拝礼、有御遊、民部卿被執拍子」 | 『中右記』 寛治二年正月二日条 |
正月13日 | 「今夜院、斎宮、殿北政所、御法勝寺」 | 『中右記』 寛治二年正月十三日条 |
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正月19日 | 主上、院の大炊殿行幸の際に勧賞あり。善子職事に昇叙。 「正四位下 藤隆宗斎宮職事、源顕仲同」 ・藤原隆宗:道隆流。平忠盛後室池禅尼の祖父。 ・源顕仲:村上源氏。源顕房子。 「従五位上 藤隆時院判官代」 |
『中右記』 寛治二年正月十九日条 |
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3月5日 | 「上皇、斎宮、遷御鳥羽殿新御所人々衣冠」 | 『中右記』 寛治二年三月五日条 |
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5月9日 | 「院御鳥羽殿、斎宮同御」 | 『中右記』 寛治二年五月九日条 |
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9月13日 | 「終日甚雨、斎宮御禊入野宮給前駈大中納言各一人、参議二人、四位四人、五位四人、殿上地下相共也」 | 『中右記』 寛治二年九月十三日条 |
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寛治3年 (1089) |
9月15日 | 13 | 「有斎宮群行、予勤仕西河、前駈源大納言師、治部卿俊、両宰相中将基忠、保実、四位四人政長、顕仲、宗信、予(宗忠)…、上卿治部卿、弁基綱、有行幸大極殿、長奉送使皇后宮権大夫公実、弁基綱、寮頭敦憲、勅別当周防守敦基朝臣、東河前駈不記置、今夜行幸無音楽」 | 『中右記』 寛治三年九月十五日条 |
9月20日 | 「斎宮参着」 | 『中右記』 寛治三年九月十廿日条 |
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11月13日 | 「今夕斎宮相嘗云々、去一日依日蝕延引也」 | 『中右記』 寛治三年十一月十三日条 |
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康和元年 (1101) |
10月20日 | 23 | 「被定行善子内親王伊勢斎王、禛子内親王、准三宮勅書事」 | 『本朝世紀』 |
康和2年 (1102) |
11月9日 | 24 | 母の「前女御藤原朝臣道子」が「九條堂丈六阿弥陀像」を奉納し、諸経を納める。 当時の前女御家別当は道子の兄弟「侍従従四位上藤原朝臣宗信」が務めている。 | 『江都督納言願文集』 |
嘉承2年 (1107) |
7月21日 | 31 | 堀河天皇崩御によって退下 | |
12月15日 | 「前斎宮帰京事」については、上卿新源中納言基綱卿、左中弁長忠朝臣(善子内親王の叔父)が務めることが決定。 | 『中右記』 嘉承二年十二月十五日条 |
||
12月22日 | 上卿の基綱が「一日俄姉喪、被辞申之替」で中御門宗忠が「今夜斎宮帰京上京可勤仕由」を命じられる。 | 『中右記』 嘉承二年十二月二十二日条 |
||
12月30日 | 「夜半許、前斎宮令入洛給、渡御于故隆時朝臣中御門富小路第也、依院仰、右衛門督宗、被奉私車云々網代、此間帰京之事、予為上卿、左中弁長忠為行事」 | 『中右記』 嘉承二年十二月卅日条 |
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嘉承3年 (1108) |
正月3日 | 32 | 故隆時亭が「前斎宮御所中御門亭」とされていた。 | 『中右記』 嘉承三年正月三日条 |
天治2年 (1125) |
正月26日 当時 |
47 | 「従三位行大蔵卿藤原朝臣長忠」は「無品善子内親王家」の「別当」現任 | 『除目抄物』 |
長承元年 (1133) |
12月1日 | 55 | 「前斎宮無品善子内親王薨給、年五十六、是白河院之女、三条内大臣之祖と孫、道子女御女也、今年道子善子母子共薨給也、共准后也」 | 『中右記』 長承元年十二月一日条 |
義朝の任国司は義家流源氏としては、対馬守義親以来という大抜擢であった。ただし任国司の結果、義朝が東国と京都を往来することは叶わなくなったため、義朝に代わる人材の派遣が必要となった。在地には義朝嫡子・源太義平がいたものの、為義にとっては他人である。そのため、為義は次男の散位義賢(前帯刀先生)を上野国の私領多胡郡へ下向させ、秩父次郎大夫重隆(父重綱、兄太郎大夫重弘はすでに卒去か)との協調関係のもとで東国の家人支配を築かせんと図ったのだろう。義朝の下野守任官から二、三か月のち、「彼義賢、去る仁平三年夏の頃より、上野国多胡郡に居住したりけるが」(『延慶本平家物語』第三本)とあるように、上野国多胡郡(多野郡吉井町多胡)に下向させたものとみられる。
義賢は上野国多胡郡(多野郡吉井町多胡)へ下向すると、秩父重隆の「養君」(『延慶本平家物語』)となって支援を受ける一方、高山秩父党や多胡周辺の平兒玉党(秩父重綱養子系)を召し出し、さらに碓氷峠を上って信濃国東部の滋野一族とも関係を築くといった勢力拡大策を進めたとみられる。この勢力拡大は、多胡・高山地方と接する上野国八幡庄、新田庄を勢力圏とする新田義重(義賢とは従兄弟)との軋轢を生んだのではなかろうか。
その後、義賢は秩父次郎大夫重隆の菅谷館からわずか八百メートル南東の大蔵の高台(比企郡嵐山町大蔵)に移った。かつての重綱と義朝の関係と同様の印象であろうか。この義賢の武蔵入部に反発したのが、当時「小代ノ岡(東松山市正代)」に「御屋形(現在は正代御霊神社)」(『小代宗妙置文』)を構えていた源太義平であった。義平は重綱の妻(乳母御所)を「称御母人」とするほど慕っており、さらに館のある「小代」の領主は乳母御所の出身家である有道氏(小代二郎大夫遠広か)であること、そして遠広の子・小代右馬允行平は重隆の孫娘を娶っていることなど、小代氏と重隆流秩父氏の関係を考えると、乳母御所の実子が重隆である可能性は高く、義平との関係は良好であったろう。
こうした中で、義賢の急な菅谷入部に危機感を感じたのではなかろうか。義平は久寿2(1155)年8月16日、「前帯刀長源義賢与兄子源義平於武蔵国合戦」(『百錬抄』)し、義賢の殺害に至った。一説には、「悪源太殿、上野国大蔵の館にて多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ」(『源平盛衰記』)とあるように、義平は重隆の甥・畠山重能を伴って率いて大蔵に攻め寄せたという。あくまでも軍記物『源平盛衰記』の伝えるところではあるが、これが源義仲の信濃脱出譚に繋がっていく。
源太義平の室は新田義重の娘であり、大蔵合戦は義平と新田義重が組んだ結果であるのかもしれない。余談だが「悪源太義平女」と甲斐源氏石和五郎信光との間に生まれた小五郎信政は「新田大炊助義重上西養子」(『諸家系図纂』)とあり、曾祖父の義重の養子になったことがわかる。
源頼義―+―源義光―――源義清――――逸見清光――武田信義――石和信光
(伊予守)|(刑部少輔)(三郎) (源太) (武田太郎)(五郎)
| ∥
+―源義家―+―源義国――――新田義重――女子 ∥―――――武田信政
(陸奥守)|(式部丞) (内舎人) ∥―――――女子 (若狭守)
| ∥
+―源為義――+―源義朝―――源義平
(陸奥判官)|(下野守) (源太)
|
+―源義賢
(前帯刀先生)
秩父重隆はこのとき居館の菅谷館にいたと思われるが、「為悪源太被誅畢」(『千葉上総系図』「続群書類従」)という系譜伝がみられる。ただし、この合戦ののち、
(1)勝者側の畠山庄司重能が留守所惣検校職についた記録はない。
(2)重隆の孫・河越太郎重頼が惣検校職をつつがなく継承している。
(3)国衙が義平を追捕せず、朝廷からも官符が出されていない。
(4)重能の子・畠山重忠と重隆の孫・河越重頼の間に協力関係がみられる。
といった状況証拠を考慮すると、秩父重隆は実際にはこの大蔵合戦で討たれず、生存していた可能性が高いだろう。乱が起こった際の武蔵守は右兵衛佐信頼(『公卿補任』)であるが、その留守所を預かる留守所惣検校重隆を討つことは、すなわち叛乱となろう。ところが、朝廷及び国衙が動いた形跡はなく、法に厳しい左府頼長がかつての被官・義賢の死を悼むのみで批判を加えていないことが国衙機構に関わりのない戦闘行為であったことを物語る。つまり、重隆殺害はなかったのであろう。義朝が信頼と組んで義平の行動を黙認したという説があるが、そもそも国衙機構と関わりもなく、かつての相模国での愛甲内記の抗争のように多くの人々が動いたわけでもない抗争で、さらに無官の地下人に過ぎない義平・義賢(義賢は本官を持たず、義朝の叙爵時期も考えると叙爵していないだろう)の地方闘濫に朝廷や国衙が動くことは当然ない。
ただし、義賢が討たれたことを知った在京の義賢義弟・前左衛門尉頼賢は「義賢与頼賢、成父子之約、而義賢為義朝子見殺」により「頼賢為報其仇」のため、東国へ向けて「去月(9月)逃信濃国」している。義平の父・下野守義朝(頼賢異母兄)は在京であったが、頼賢が義朝と対立したかは定かではない。しかし頼賢が東国に下向するに及び信濃国で「遂侵凌院御荘、故使義朝討之」(『台記』久寿二年十月十三日条)とあるように、後白河院の逆鱗に触れて義朝が追討使を命じられ、「下野守源義朝、承 院宣、為討前左衛門尉源頼賢、下向信濃国」(『台記』久寿二年十月十三日条)という。この院領がどこかは不明だが、信濃国内で東山道沿いであろう。
結局、頼賢はその後も生存していることから、追討は免じられ、頼賢は京都に帰還したのだろう。
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源義賢(????-1155)
源義賢は六條判官源為義の次男で、源義朝の異母弟にあたる。母は六条大夫重俊娘。
義賢はもともと父・源為義のもと京都で生まれ育った人物であり、保延5(1139)年8月17日、東宮となった體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となる。兄・源義朝は保安4(1123)年の生まれで当時十七歳であることから、義賢はさらに年少で任官したこととなる。この年には義朝はすでに関東へ下っていたとみられ、次弟の義賢がこれに充てられたのだろう。
なお、體仁親王の東宮傅は内大臣藤原頼長で、義賢がその後主君として仕えることとなる人物だが、家政機関の春宮坊との関係はなく、この時点で両者に関わりがあったわけではないだろう。しかし、当時の為義は、本人の過失や郎従の濫行などにより院の信頼を失っており、摂関家に急速に近づいている。そのために院近臣だった故藤原忠清の娘を母とする義朝を「廃嫡」して東国に移し、義賢を嫡男としたとする説もみられる。しかし、義朝は東国に下向して、秩父氏を中心に下総・上総平氏、相模鎌倉氏や中村党ら東国武士等の再組織化を図り、それに伴う私領強奪、寄進などを行い、数年で京都へ戻っており(義朝の子の誕生年を考えると、京都と関東を往復していることがわかり、これも為義からの指示を受けた東国家人層の組織化の一旦であろう)、義朝が関東へ下ったのはあきらかに為義による東国経営の一環であったと考えられる。
こうした中で、帯刀先生に任じられた翌年の保延6(1140)年には、義賢は「瀧口源備、宮道惟則いさかひ起して備ころされにけり、帯刀先生源義賢、惟則をからめて後に義賢犯人と心をあわせたるよし、さた出来て、義賢帯刀の長をとられにけり」(『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四)とあり、義賢が瀧口武者の源備殺害に関与していたことが判明し、わずか一年足らずで春宮坊帯刀先生を罷免された。
三年後の康治2(1143)年6月30日、父・為義が内府頼長の家人となる(『台記』康治二年六月三十日条)に及び、義賢も頼長家人になったとみられる。同年中には、能登国能登庄の預所・法成寺法橋信慶(信慶が開発領主から寄進されたのち頼長に寄進したのだろう)が罪を犯したため「預源義賢了」となっている(『台記』康治二年十一月廿五日条)。ところが、これもまた久安3(1147)年6月4日に預所職を罷免され、秦公春(義賢と同じく頼長家人)に替えられてしまう。これは義賢が「不済新物也年貢」だったことが原因であり、おそらく義賢はこれにより頼長と「不快」となっている(『台記』久安四年正月五日条)。
翌久安4(1148)年正月5日までの義賢在京は確認できるものの、その後は姿がふっつりと途絶える。この頃に周防守藤原宗季(左少将隆宗弟)の娘を娶って、嫡子・仲家(義賢死後に源三位頼政入道の猶子となり、八条院蔵人となる。以仁王の乱で戦死)を儲けている。
源義家 +―源義重
(陸奥守) |(新田氏祖)
∥ |
∥――――――源義国――+―源義康
藤原実綱―+―藤粗有綱――――娘 (加賀介) (足利氏祖)
(文章博士)|(文章博士)
| 平忠盛 +―平家盛
| (播磨守) |(右馬頭)
| ∥ |
| ∥――――+―平頼盛
+―藤原有信――――娘 ∥ (権大納言)
(右中弁) ∥――――――藤原宗子
∥ (池禅尼)
藤原良基―+―藤原隆宗――+―藤原宗兼
(太宰大弐)|(左近衛少将)|(少納言)
| |
| +―藤原宗子
| (崇徳院乳母)
| ∥――――――藤原家成
| ∥ (中納言)
| 藤原家保
| (参議)
|
+―藤原宗季――+―娘
(周防守) | ∥――――――源仲家
| ∥ (八条院蔵人)
| 源義賢
|(帯刀先生)
|
+―女子
∥――――――藤原高業
藤原清高 (肥後権守)
(上総介)
そして「彼義賢、去る仁平三年夏の頃より、上野国多胡郡に居住したりけるが」(『延慶本平家物語』第三本)と見えるように、仁平3(1153)年夏ごろ、上野国多胡郡(多野郡吉井町多胡)に下向したのだろう。おそらくこれも為義の指示を受けたもので、秩父平氏及び兒玉党との連携維持及び信濃国への東山道に奥平丘陵地を挟んで東西に接する要衝を抑えるためであったろう。義賢が上野国へ下向するきっかけは、その五か月ほど前の仁平3(1153)年3月28日、兄の源義朝が「下野守」に任官(同時叙爵)したことであろう(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。これは義親流源氏としては対馬守義親以来の国司という抜擢であった。
義賢は多胡郡を中心に、高山三郎重遠を祖とする秩父高山一党や上野多胡郡周辺に進出した兒玉党(倉賀野氏、小幡氏、新屋氏、片山氏等)を支配下に収めていたと思われるが、倉賀野氏ら上野兒玉党はいずれも秩父重綱養子となった平太行重、平四郎行高の子であった。これらのことから、おそらく多胡郡にあった当時から重隆と義賢は結びついていたと考えられよう。また、「木曾専一者、樋口次郎兼光」(『吾妻鏡』寿永三年正月廿一日条)は「此兼光者、与武蔵国兒玉之輩為親昵之間、彼等募勲功之賞、可賜兼光命之旨、申請之處、源九郎主雖被奏聞事由、依罪科不軽、遂以無有免許」(『吾妻鏡』寿永三年二月二日条)とあるように、武蔵児玉党と昵懇の間柄で、児玉党の人々は兼光の助命のために自らの勲功を以って宛てると申し出るほど「親昵」の関係にあったことがわかる。義賢が京都から上野国に下向した際に、京官吏家出身と思われる中原三郎兼遠(義賢郎従か)も義賢に随従して上野国に住し、児玉党と好誼を深め、その嫡男兼光(まだ少年であったろう)も児玉党の若者と交流していたと考えられる。さらに義仲の郎従を見る限り、信濃国東部の小県郡の望月氏、海野氏、禰津氏ら滋野氏をも勢力下に収めていたと思われる。信濃国へと繋がる東山道は多胡郡の北の奥平丘陵の向こう側にある八幡庄内を通過していたが、多胡郡はこの迂回する東山道を東西に接する地でもあった。一方で、東山道が通る八幡庄を支配していたのは、娘を「小代ノ岡(東松山市正代)」に居住する源太義平に嫁がせていた内舎人義重(新田義重)であり、勢力圏も近接する義賢と義重は、互いに対立関係にあったと推測できる。
重隆は仁平3(1153)年夏ごろに多胡郡に下った義賢を「養君」として迎え、のちには義賢をみずからの居館・男衾郡菅谷館とわずか数百メートルの高台に位置する男衾郡大蔵(比企郡嵐山町大蔵)に屋形を造営して住まわせたのだろう。ところが、二年後の久寿2(1155)年8月16日、「於関東、前帯刀先生源義賢」(『一代要記』)と甥の「鎌倉悪源太義平」(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)が合戦し、「義賢被斬了」(『一代要記』)という。そして8月27日に主君の左大臣頼長のもとに「或人、源義賢、為其兄下野守義朝之子、於武蔵国見殺」(『台記』久寿二年八月廿七日条)という一報が届けられている。「近日風聞云、去十六日、前帯刀長源義賢与兄子源義平於武蔵国合戦」とも伝えられている(『百錬抄』)。
義賢が討たれた際には、「于時義仲為三歳嬰児也」(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)と、まだ赤子の義仲(義賢庶子・駒王)がおり、「乳母夫中三権守兼遠懐之、遁于信濃国木曾、令養育之」とあるように、義賢と京都から同道してきた中原権守兼遠(義仲乳母夫)に抱かれて信濃国木曾郡へ遁れている(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)。なお、駒王が木曽へ落ち延びていく謂れについては、軍記物ながら『源平盛衰記』に記されているが、その史実性は低いか。『源平盛衰記』によれば、戦いの後、義平は上京することになったため、重能に義賢の二歳の遺児・駒王について、
大蔵館跡 |
「駒王をも尋出して必害すべし、生残りては後悪るべし」
と、殺害を命じている。重能はこれを了承するが、二歳の幼児を手にかけることは不憫でならず、知己の斎藤別当実盛が武蔵国へ戻ったことを聞いた重能は、匿っていた駒王丸とその母を実盛に預けた。実盛はこのまま関東に置くことは危険だと思い立ち、信濃国木曾郡の中三権守兼遠へ預けた(『源平盛衰記』)というものである。
そもそも、中三権守兼遠は義仲乳母夫であることから、義賢とともに京都から上野国へ来訪し、そこで生まれた義仲の傍にいたことは間違いない。兼遠の長男・樋口次郎兼光も、後年、上野国児玉党の人々と「親昵」の間柄にあったことがわかり、その関係は幼少期に兼遠とともに上野国に来ていたことに由来するのであろう。『吾妻鏡』においても「乳母夫中三権守兼遠懐之、遁于信濃国木曾」と明確に記載されており、上野国から信濃国木曾郡へ義仲を連れて行ったのは、中原権守兼遠一族であったのだろう。そこに重能や長井齋藤別当実盛の介在があったのかは定かではない。なお齋藤実盛と木曾義仲の逸話については『源平盛衰記』『平家物語』にもみられるが、『吾妻鏡』には伝わっていない。
義賢の嫡男・仲家は在京だったが、「義賢討れて後、孤子也けるを是をも三位入道の養ひたりける」(『源平盛衰記』)とあるように、義賢死後に摂津源氏の源頼政が猶子としており、彼はのちに八条院蔵人となっている。そして、治承4(1180)年5月に以仁王・源頼政が平清盛入道と宗盛の父子を討つために挙兵(以仁王の乱)した際には、頼政入道に従って出陣し、宇治平等院の戦いで嫡子・蔵人太郎仲光とともに討死にした。なお、この戦いでは千葉介常胤の子・園城寺の律静房日胤も戦死している。
なお、義賢が上野国へ下向する五か月ほど前の仁平3(1153)年3月28日、兄の源義朝は「下野守」に任官し、同時に従五位下に叙されている(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。これは義親流源氏としては、対馬守義親以来の受領という大抜擢であった。
保元元(1156)年7月の「保元の乱」の際には父為義と「年比コノ父ノ中ヨカラズ、子細ドモ事長シ」(『愚管抄』巻四)とみえ、なにやら説明すると長い理由があるが、長いこと関係は良くなかったという。義朝が関東で引き起こした事件や、為義が秩父党との紐帯として遣わした義賢が義朝嫡子義平によって殺害された事件などにも原因がある可能性もあろう。さらに「為義ハ新院ニマイリテ申ケルヤウハ、ムゲニ無勢ニ候、郎従ハ皆義朝ニツキ候テ内裏ニ候」(『愚管抄』巻四)とあり、義朝の郎従らへの人望や影響力は為義を凌いでいたことがうかがえる。
(????-????)
秩父次郎大夫重隆の嫡男。通称は葛貫別当。「義隆」とも(『小代文書』)。娘は兒玉党の一流である小代小太郎弘家の正室。
能隆は「葛貫(入間郡毛呂山町葛貫)」にあった官牧・葛貫牧の別当職にあったと思われる。能隆は惣領重綱の子ではあるが、惣検校職を帯していた形跡は見られない。
久寿2(1155)年8月の大蔵合戦の際にどこにいたのかは定かではないが、子の河越太郎重頼が武蔵国惣検校職を継承していることや、畠山庄司重能が惣検校職に就いていないことを考えると、久寿2(1155)年の大蔵合戦時には能隆はすでに亡くなっていた可能性があろう。惣検校職は重隆亡き後、まだ十代半ばの孫・河越重頼が補されたと考えるのが自然である。
小代行平―+=小代俊平
(八郎行蓮)|(小次郎生蓮)
|
+―小代弘家 母葛貫別当平義隆女河越太郎重頼妹也…
(小太郎)
○兒玉党発祥の秩父氏○
秩父行重(????-????)
通称は平太。武蔵七党・兒玉党の兒玉別当大夫行経の子。妹が秩父権守平重綱の妻となっていた関係から、弟・平四郎行高とともに重綱の養子となり、秩父氏を称した。時代的に見て行重の妹は重綱の後妻であったろう。この兒玉行経娘は「悪源太殿称御乳母人」とあり、重弘の子・重能が秩父惣領・重隆に反発して義平と結んだ背景には、義祖母が悪源太義平の乳母であった関係があったのかもしれない。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
●兒玉党と秩父党系譜
有道遠峯―+―兒玉弘行―+―兒玉家行―――兒玉家弘――――+―庄弘高
(有貫主) |(有大夫) |(武蔵権守) (庄大夫) |(庄権守)
| | |
| | +―庄忠家
| | |(三郎)
| | |
| | +―庄高家
| | |(刑部丞)
| | |
| | +―庄弘方
| | (五郎)
| |
| +―入西資行―+―浅羽行業
| (三郎大夫)|(小太夫)
| |
| +―小代遠広――――+―小代経遠
| (次郎大夫) |(小太郎)
| |
| +―小代高遠
| |(三郎)
| |
| +―小代遠平―――吉田俊平
| |(七郎) (小二郎)
| |
| +――――――――小代行平―――+―小代弘家
| (右馬允) |(太郎)
| ∥ |
| +―秩父重隆――――――葛貫能隆 +―妹 +―小代俊平
| |(次郎大夫) (葛貫別当)|(河越尼御前) (次郎)
| | ∥ |
| | ∥――――+―河越重頼
| | ∥ (太郎)
| | 某氏 ∥――――――――河越重房
| | (老母) ∥ (小太郎)
| | ∥
| | 比企尼――+―次女
| | |(後家尼)
| | |
| | +―長女
| | ∥
| | 源義信――――――源惟義
| | (武蔵守) (相模守)
| |
| 秩父重綱―+―秩父重弘――――――畠山重能―――畠山重忠
| (秩父権守) (太郎大夫) (畠山庄司) (庄司次郎)
| ∥
| ∥
| +―娘〔悪源太殿称御母人〕
| |(乳母御前)
| |
+―兒玉経行―+―兒玉保義―――寺島行遠――――――山名親行
(別当大夫)|(兒玉) (五郎大夫) (大夫四郎)
|
|【秩父重綱養子】
+―秩父行重―――秩父行弘――――――秩父行俊
|(平太) (平武者) (武者太郎)
|
|【秩父重綱養子】
+―秩父行高―――小幡行頼
(平四郎) (平太郎)
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