継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | 正応4(1291)年12月15日?~正平2(1351)年正月1日 |
父 | 千葉介胤宗 |
母 | 金沢越後守顕時娘 |
妻 | 曽谷教信入道日礼姪(法頂尼) |
官位 | 不明 |
官職 | 修理大夫 伊賀守? |
役職 | 下総国守護職 伊賀国守護職 遠江国守護職 |
所在 | 下総国千葉庄 |
法号 | 善珍浄徳院 |
墓所 | 千葉山海隣寺? |
千葉氏十二代。父は十一代・千葉介胤宗。母は金沢越後守顕時娘。正応4(1291)年12月15日生まれたと伝わる(『千葉大系図』)。正和元(1312)年3月、父・千葉介胤宗の死にともない家督を継いだ。おそらく元服時に得宗・北条貞時の片諱を受けて「貞胤」を称した。下総国・伊賀国・遠江国の三国の守護職を兼ねた当主。
貞胤花押 |
嘉暦2(1327)年、東大寺領伊賀国黒田庄が覚舜・清高・道願・仏念ら悪党の狼藉を受けた際、東大寺が関東に事の次第を伝えたことで、伊賀守護・千葉介貞胤に悪党追捕の命が下され、「平常茂(当国守護代常茂)」と「服部右衛門太郎入道持法」が悪党追捕のために黒田庄に入った(「東大寺文書」『鎌倉遺文』30067)。ところが、この両名は「若耽悪党之賄賂歟」(「東大寺文書」『鎌倉遺文』31088)とあるように、悪党と繋がっており、数度にわたって悪党逐電の虚偽報告をしている。常茂は平姓と「常」字を有していることから、おそらく千田庄の千田平氏、または国分氏であろうか。いずれにしても下総国から派遣された武士であったと推測される。
元徳3(1331)年4月29日、前権大納言定房が後醍醐天皇による得宗北条高時入道以下の北条一門追討計画を六波羅探題に密告し、正中元(1324)年に起こった後醍醐天皇の側近による反関東の企て「正中の変」以来、再び京都において関東への対立計画が発覚する。
元徳3(1331)年8月9日、後醍醐天皇は突如改元の詔を発し、元号を「元徳」から「元弘」へと改めた。この詔書は「大外記之注進関東之處、有詔書無改元記、仍関東不用新暦、用元徳暦」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)とあり、なぜか関東への詔書には改元の記載がなく、関東ではそのまま元徳を用いたという。勘文は文章博士在淳の「康安、天統、安永」、文章博士在成の「嘉慶、慶長、寧長」に「可然字無」ということで、元徳改元の際の勘文の一つ嘉暦4(1329)年8月の式部大輔在登の勘文が再度検討され、『芸文類聚』から採用された「元弘」が選ばれることとなった。
このような中、後醍醐天皇は前天台座主「大塔の二品法親王尊雲(のちの護良親王)ならびに天台座主「妙法院の法親王尊澄(のちの宗良親王)」両皇子の影響力のもと、延暦寺に働きかけ、水面下で密かに叡山行幸とともに反関東へと動き始めた。これに延暦寺も「御門の御軍にくはゝるべきよし奏し」たという(『増鏡』)。ところが、こうした動きはすでに「武家にもはやうもれ聞」えており、六波羅から関東へ軍勢派遣の要請が遣わされたとみられる。
8月21日には「東使三千余騎ニテ二階堂下野判官、長井遠江守上洛ス」(『神明鏡』)という。そして、六波羅探題は「さにこそあなれとようゐす、まづ九重をきびしくかため申べし」(『増鏡』)と、8月24日に内裏を固めるべく軍勢を催したのであった。
このとき後醍醐天皇は雑務日で記録所に臨席し「人のあらそひうれふる事どもををこなひくらさせ給ひて、人々もまかで君も本殿にしばしうちやすませ給」(『増鏡』)と、公卿らとともに訴訟を処理し終えて本殿へ戻って休んでいたが、密かに「今夜すてに武士ともきほひまいるへし」(『増鏡』)という報告があったことから、「内侍所、神璽、宝剣」のみを持って、深夜子刻に慌てて北の対から貧相な女車に乗って南都へ向けて密幸した。本来の計画では、六波羅を攻めると同時に天皇は延暦寺へ行幸することとなっており、前座主尊雲法親王、祇園妙法院に居住する現座主尊澄法親王は、「坂本(西坂本)」で叡山の僧兵を具して天皇の警衛を行うと定められていたが、俄に計画が変更となってしまった。知らせを受けた「中務の宮(中務卿宮尊良親王)」も馬に跨り父帝を追った。後醍醐天皇は九条までは御車で逃れたが、ここで車を降りて変装し馬上となって一路東大寺へと駆けた(『増鏡』)。同道の公卿は「万里小路中納言藤房、源中納言具行、四条中納言隆資」(『増鏡』)であったという。そのほか、「按察使公敏」(『続史愚抄』)、「六条中将」「近藤左衛門尉宗光、但馬左衛門尉重定等ヲ始トシテ、御供ノ官兵五百余騎」(『笠置寺縁起』)が供奉した。
翌25日子の刻、天皇已下は東大寺へ入り、26日暁に「和束(相良郡和束町)」の「鷲峯寺」へ移り、翌27日に「笠置寺へ御入」(『嘉元記』)して「以本堂為皇居」した(『大乗院日記目録』)。笠置寺への行幸には「其外東南院僧正聖尋、御先達タル間、東大寺ノ衆徒、警固シ奉」ったという(『笠置寺縁起』)。
天皇の延暦寺への密幸情報は神五左衛門尉(御内人諏訪氏だろう)によって六波羅へ伝えられ、六波羅探題は「所被申入実否、於西園寺家也」(『伊勢光明寺残篇』)と、春宮大夫公宗にその実否確認が依頼されている。その後、御所には「六波羅軍勢乱入禁裏、而依無御座空引退」(『続史愚抄』)という。
一方、延暦寺行幸計画自体も、側臣の花山院大納言師賢が天皇になりすまして実行されている。これは「抑今夜於無山門行幸者、僧徒等可失望」というためで、そのほか天皇逃亡の時間稼ぎであろう。師賢は「仮詭帝号登山」し「僧徒懇伝之致防御之備」(『続史愚抄』)であった。六波羅探題も北方の越後守仲時(使者は高橋孫五郎)、南方の左近将監時益(使者は糟屋孫八)から鎌倉に「主上御座山門之由、被聞食之旨」を遣わしており、六波羅は師賢の偽計に乗せられていたことがわかる。師賢の祖母は後醍醐天皇生母・談天門院忠子の姉妹であり、父方においても遠縁にあたることから、容姿に似ている部分があったのかもしれない。
北条時政―+―北条義時――――+―北条泰時―――北条時氏――――北条時頼―――――北条時宗―――北条貞時――北条高時
(遠江守) |(陸奥守) |(左京権大夫)(修理亮) (相模守) (相模守) (相模守) (相模守)
| |
| +―北条重時―――北条業時
| (陸奥守) (陸奥守)
| ∥ 【六波羅北方】
| ∥―――――――北条時兼―――――北条基時―――北条仲時
+―北条政村――――+――――――――女子 (尾張守) (相模守) (越後守)
(左京権大夫) |
|
+――――――――――――――――北条政長
(駿河守)
∥ 【六波羅南方】
大江広元―+―長井時広――+―――長井泰秀 ∥――――――――北条時敦―――北条時益
(陸奥守) |(左衛門尉) | (甲斐守) ∥ (越後守) (左近将監)
| | ∥ ∥
| | ∥――――――長井時秀――+―女子
| | ∥ (宮内権大輔)|
| | ∥ |
| 佐々木信綱―|―+―女子 +―長井宗秀―――――長井貞秀―――長井貞懐
|(近江守) | | (掃部頭) (中務少輔) (大蔵少輔)
| | |
| | +―佐々木泰綱――佐々木頼綱―――佐々木時信
| | |(壱岐守) (備中守) (三郎判官大夫)
| | |
| | +―佐々木氏信――佐々木満信―――佐々木宗氏――――佐々木高氏
| | (近江守) (佐渡守) (三郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
| |
| +―――長井泰重―――長井頼重――――長井貞重―――――長井高広
| (因幡守) (因幡守) (縫殿頭) (左近大夫)
|
+―海東忠成――――――海東忠茂―――海東広茂――――海東広房
(刑部少輔) (美濃守) (因幡守) (左近将監)
また、京都では8月25日、「万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資卿、別当右衛門督実世卿以上四人被召捕之」(『伊勢光明寺残篇』)となり、宣房卿は「因幡左衛門大夫将監」、公明卿は「波多野上野前司」、成資卿は「丹後前司」、実世卿は「筑後前司」への預かりとなっている。
8月27日、六波羅探題の命を受けた「佐々木大夫判官、海東備前左近大夫、波多野上野前司」が近江国の東坂本に、「長井左近大夫将監、加賀前司」が京都西坂本に、「常陸前司」が近江勢多にそれぞれ布陣し、比叡山を攻める準備を整えた(『伊勢光明寺残篇』)。
●比叡山攻めの布陣
東坂本(近江) | 佐々木大夫判官 | 海東備前左近大夫 |
波多野上野前司 |
西坂本(京都) | 長井左近大夫将監 | 加賀前司 | |
勢多(近江) | 常陸前司 |
また「両上皇并春宮、自持明院殿、御幸六波羅殿、臨幸御路武士供奉、以南方為御所」(『公卿補任』)という。「両上皇」とは後伏見上皇、花園上皇の兄弟上皇を指し、「春宮」は後伏見上皇の皇子・量仁親王のことである。翌28日の近江国東坂本での合戦では「源時信家僕并海道一類戦死」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)、「海東備前左近大夫将監、其後十七騎於東坂下致合戦、主従十三騎打死了、佐々木大夫判官、波多野上野前司、山徒之首二被取進之間、被懸于六条河原了」(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)とあるように、六波羅勢は佐々木時信の郎従や海東備前守自身の討死など苦戦した。
この日は「大納言(師賢)」も「大塔の前座主の宮(尊雲法親王)」も「うるハしきものゝふすがたにいてたゝせ給ふ」と武装しており、「大塔の前座主の宮」は「卯花をどしの鎧にくハがたのかぶとたてまつりて、大矢おひ」、「大納言」は「からの香染のうす物のかりぎぬにけちえんにあかきはらまきをすかして、さすかにまきゑのほそ太刀」を佩いたいでたち、一方、現座主の「妙法院の宮(尊澄法親王)」は「すすしの御衣のしたにもえぎの御腹巻とかやき給」っていた(『増鏡』)。ところが、叡山衆徒等の間に「御門かさぎにおはしますよし、ほどなく聞えぬれ」ば、両宮は笠置へと逃れ去り、師賢は京都へ忍び入ろうと試みるも断念し笠置山へと向かっている(『増鏡』)。しかし、その途次の山城国寺田郷で地頭代野辺若熊丸によって召し捕らえられ「進武家」(『公卿補任』)られ、六波羅へ引き渡されたとみられる。8月29日に出家(法名素貞)を遂げたとあることから(『公卿補任』)、この日の捕縛か。
8月29日、六波羅探題が派遣した両使(北:高橋孫五郎、南:糟屋孫八)が鎌倉に到着。「任承久例、可上洛之由被仰渡出」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)され、軍勢の編成がなされたと思われる。なお、このときの交名では「元弘元年八月」としているが、その後出された御教書では、「元徳三年九月」としている。その軍勢の編成は不明だが、承久の例に則ったとすれば東海道、東山道、北陸道の三手からの上洛であったか。承久の乱当時の大将軍だった家柄の人々の末裔はほぼ今回の出兵についても大将軍を務めていることがわかる。
●元弘元年八月「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』32136)
【元弘の変】大将軍 | 【承久の乱】(元弘時の祖) |
陸奥守(大仏貞直) 遠江国 | 【大将軍】北条相模守時房 |
武蔵右馬助(金澤貞冬) 伊勢国 | ・北条五郎実泰〔先鋒〕 |
遠江守(名越宗教入道) 尾張国 | 【大将軍】北条式部丞朝時 |
武武蔵左近大夫将監(金澤時顕) 美濃国 | ・北条五郎実泰〔先鋒〕 |
駿河左近大夫将監(伊具時邦) 讃岐国 | ・北条陸奥六郎有時〔先鋒〕 |
足利宮内大輔(足利高氏) 三河国 | 【大将軍】足利武蔵前司義氏 |
足利上総三郎(吉良貞家) | 【大将軍】足利武蔵前司義氏 |
千葉介(千葉介貞胤)一族并伊賀国 | 【大将軍】千葉介胤綱 |
長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国 | |
宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国 | ・宇都宮頼綱入道蓮生〔鎌倉留守〕 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 備前国 | 【大将軍】佐々木太郎信実 |
小笠原五郎(小笠原頼久) 阿波国 | |
越衆御手 信濃国 | |
小山大夫判官(小山高朝) 一族 | 【大将軍】小山左衛門尉朝長 (長村?) |
小田尾張権守(小田高知) 一族 | ・筑後入道〔鎌倉留守〕 |
結城七郎左衛門尉(結城朝高) 一族 | 【大将軍】結城七郎朝広 |
武田三郎(武田信武) 一族并甲斐国 | 【大将軍】武田五郎信光 |
小笠原信濃入道(小笠原宗長入道) 一族 | 【大将軍】小笠原次郎長清 |
伊東大和入道 一族 | |
宇佐美摂津前司 一族 | |
薩摩常陸前司 一族 | |
安保左衛門入道 一族 | |
渋谷遠江権守(澁谷重光) 一族 | |
河越参河入道(河越貞重入道) 一族 | |
三浦若狭判官(三浦時明) | 【大将軍】三浦駿河前司義村 |
高坂出羽権守 | |
佐々木隠岐前司(佐々木清高) 一族 | |
同備中前司(大原時重) | |
千葉太郎(千葉胤貞) | 【大将軍】千葉介胤綱 |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司 (京極貞氏?) | |
同佐渡大夫判官入道(京極高氏入道) |
9月5日には「鎌倉家御教書(関東御教書)」として「先帝(後醍醐天皇)」の叡山遷幸に対してこれを「可防申之旨已被下 院宣」により、延暦寺衆徒の対治のため「貞直、貞冬、高氏」の派遣を「西園寺家(西園寺権大納言公宗)」に申し入れるよう六波羅の南北両探題に指示がなされた(『伊勢光明寺残篇』)。この御教書では在京して守備する人々などの交名を示している。
●元徳三年九月五日被成御教書人々(断簡)
暫可在京の二十人 | 武蔵左近大夫将監(金澤時顕) | 遠江入道(名越宗教入道) |
江馬越前権守(江馬時見) | 遠江前司(名越貞家?) | |
千葉介(千葉介貞胤) | 小山判官(小山高朝) | |
河越三河入道(河越貞重入道) | 結城七郎左衛門尉(結城朝高) | |
長沼駿河権守(長沼秀行) | 佐々木隠岐前司(佐々木清高) | |
千葉大郎(千葉胤貞) | 佐々木近江前司(六角時信) | |
小田尾張権守(小田高知) | 佐々木備中前司(大原時重) | |
土岐伯耆入道(土岐頼貞入道) | 小笠原又五郎(彦五郎貞宗?) | |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) | 狩野介入道 | |
佐々木佐渡大夫判官入道(京極高氏入道) | 讃岐国守護代 駿河八郎 | |
不明 〔以下闕〕 |
嶋津上総入道(島津貞久入道) | 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) |
六波羅探題は9月1日、笠置山攻めの兵を派遣し、同日六波羅勢は宇治平等院に着到。翌2日、「笠置城責之七万五千騎」(『大乗院日記目録』「大日本史料」)という。
一方、すでに比叡山は陥落していたが関東にその知らせは届いておらず、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利前治部大輔高氏の四名が大将軍に任じられて9月5日から7日にかけて鎌倉を出立した。その総勢は公称二十万八千騎。得宗高時入道の御内御使として長崎四郎左衛門尉高貞が付属(目付的な従軍か)され、関東両使として秋田城介高景、二階堂出羽入道道蘊(この両名は践祚立坊の事のための使者)が同道した。ところが、大将軍のひとり、足利高氏の出陣前後の9月5日、高氏父「足利讃岐入道殿逝去」(『常楽記』では6日とあるが、諸書・系譜では9月5日)という事件が起こってしまう。後日、9月19日に近江国柏木宿に到着した大将軍は陸奥守貞直と右馬助貞冬の両名のみであることから、高氏の出立は父の服喪で数日間延引されたと考えられよう。高氏は9月27日には京都にいることから、約七日間の延引とすれば初七日の法要後の出陣であった可能性が高いだろう。
9月10日前後には「楠木兵衛正成」が「河内国にをのがたちのあたりをいかめしくしたゝめ」(『増鏡』)て挙兵した。城塞というよりは自舘西側の高台を城郭化(下赤坂城)し、柵や逆茂木を設けて防御した程度のものであろう。その挙兵の知らせはすぐに六波羅へ届けられたと思われ、河内国、和泉国など周辺国の御家人がその追討に動員されたとみられる。「和泉国御家人和田修理亮助家代子息助康」が六波羅へ申請した内容によれば、和田助家(大鳥郡和田郷(堺市南区美木多)の御家人。なお、楠木氏流和田家は和田郷南部(堺市南区和田)に勢力を持っていたか)は9月14日から10月20日にかけて「楠木城」において不惜身命の働きを見せ、9月20日以降に上洛した「大将軍武蔵馬助殿」の「御代官酒匂宮内左衛門尉」や「当国守護御代官」の成田又四郎入道、籾井彦五郎とともに戦ったという(『和田文書』「大日本史料」)。なお、「楠兵衛尉」はすでに元徳3(1331)年2月25日以前に、故世良親王(後醍醐天皇皇子)の遺領(臨川寺の前身寺院に寄進されていた)である「和泉国若松庄」を「押妨(楠木氏は河内から和泉、紀伊北部にかけての生駒山系山麓に広大な支配領域を持ち、熊野神官など熊野権現に所縁を持つ出自の一族とみられる。御内人出身とされる説も存在するが、河内楠木氏の一族の頒布の広さは、地頭職や代官として管理を任されていたとは到底考えられず、信仰による広がりであろう。熊野の人々との協力関係からも、樟信仰のある熊野権現を由緒とする一族とみて間違いないだろう。楠木宗家に近い和田氏は若松庄に隣接する大鳥郡和田を本貫としており、楠木正成は世良親王または前領家の昭慶門院被官で同地荘官を務めていたか。彼は対立相手から「押妨」「悪党」と呼称されている。)」しており(「故大宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録」『鎌倉遺文』31771『天龍寺文書』)、後醍醐天皇との結びつきが見られるのである。なお、楠木正成はこのとき「左兵衛尉」に任官していた武官でもあった。
9月18日戌刻、践祚および立坊に関する「東使秋田城介殿、二階堂出羽入道殿、京着自路次六波羅北方被参、即南方仁御入」した(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)。20日、土御門東洞院殿で践祚の儀が執り行われた。光厳天皇である。9月22日、後二条院の嫡孫にあたる康仁親王を東宮とした(『歴代皇紀』)。持明院統の光厳天皇の東宮を大覚寺統の康仁親王としており、事ここに及んでも関東は両統迭立の原則を守ろうとしていたことがわかる。光厳天皇践祚により後醍醐天皇は上皇となった。
践祚前日の9月19日には、大将軍「武蔵右馬助殿」が「江州柏木宿宇治仁着」という(『伊勢光明寺残篇』)。ただし、翌20日には「陸奥守殿御京着、武蔵右馬助殿、自柏木御発向宇治」(『伊勢光明寺残篇』)とあることから、19日に近江国柏木宿には陸奥守貞直と右馬助貞冬の両将軍が到着していたとみられる。両者は柏木宿で二手に分かれ、総大将の陸奥守貞直は直接入洛(山科経由での入洛であろう)して践祚および六波羅との折衝に当たり、右馬助貞冬は柏木宿から南下して勢多を経て宇治田原を経由し、笠置勢の牽制をしつつ宇治に入っている。そして9月25日に宇治を発って賀茂へ向かった(『伊勢光明寺残篇』)。また、河内国の楠木左兵衛尉正成らの挙兵に対して、「大将軍武蔵馬助殿」の「御代官酒匂宮内左衛門尉」や「右馬助殿家人宗像四郎」が参戦していることから、貞冬の代官・酒匂宮内左衛門尉率いる一手が宇治から河内国に派遣されたと考えられる。
9月26日、「陸奥守殿、長崎四郎左衛門尉殿」が笠置山へ向けて京都を進発した(『伊勢光明寺残篇』)。ただし、9月27日に「貞直、貞冬、高氏等、発向笠置城」(『元弘日記裏書』)ともあり、26日から27日にかけての進発であったのだろう。なお、足利高氏は進発直前の9月5日に父貞氏入道を喪い、その初七日を経ての進発であったと思われることから、高氏入洛(25日、26日あたりか)と同時に陸奥守貞直と長崎四郎左衛門尉が進発し、翌日に貞冬、高氏の進発となっていたのかもしれない。
9月28日には長崎四郎左衛門尉勢の「椙原一族、栖山一族、小宮山一族等」が先陣となって笠置山を攻め(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)、「放火城槨」し「奉追落先帝了」と、たちまち笠置山を攻め落としている。後醍醐上皇は「御歩行令出城給、於路次奉迎」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、後醍醐上皇は囚われの身となり、座主尊澄法親王や同道の「源中納言具行、宰相成輔、中納言藤房、大進季房」もともに連行された。なお、前座主宮尊雲法親王や中納言隆資は逃亡して行方をくらましている。
元弘元(1331)年10月3日、陸奥守貞直らは後醍醐上皇以下を六波羅南方へ入れて皇居とした(『伊勢光明寺残篇』)。また、同日には、右馬助貞冬の家人、宗像四郎が「楠城」に拠っていた先帝一宮尊良親王を「奉捕」っている(『伊勢光明寺残篇』)。こうして畿内における後醍醐上皇による騒擾は鎮定され、10月5日、新帝光厳のもとで初めての除目が行われた。そして翌10月6日、六波羅南方において剣璽が引き渡され、土御門東洞院御所へと遷された(『本朝皇胤紹運録』)。ところが「帝并中書王、妙法院宮等武士等都不奉見所知之間、有不審、被差遣可然之仁可奉見云々」(『光厳院御記裏書』)と、武士等は誰一人後醍醐上皇、中務卿尊良親王、座主宮尊澄法親王の顔を知らず、偽者である可能性も捨てきれなかったため、上皇らを見知る「然るべき仁」に面通しさせてその実否を確認するために、尊良親王、尊澄法親王と従兄弟にあたる二条為定と西園寺公宗のいずれかの招聘を議し、結果として公宗に依頼することとなった。
10月8日、上皇面通しの依頼を受けた権大納言公宗は夕刻に六波羅へ出向くと、「奉見先帝、併為天魔之所為可有寛宥之沙汰旨、可仰武家之由被仰之云々、可歎息事也」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。翌9日、捕縛された後醍醐上皇に同道した宮や諸卿、武士が御家人預けとなり、10日夕には公宗弟・中納言公重が武蔵右馬助貞冬の宿所(六波羅の一所であろう)を訪れて、中務卿尊良親王の面通しを行っている(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)。公重が尊良親王から「所陳多々」によれば、「子細兼日不知之、凡為天魔之所為、可有寛宥之儀旨、頻被陳之、不足言、嗟呼悲夫」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。上皇、一宮両者ともにこの擾乱は「天魔之所為」であると主張し、寛宥を願った。11日には兼運僧都(延暦寺執行)が六波羅を訪れて座主宮尊澄法親王の面通しを行い言葉を交わしたが、語るところは尊良親王と大略変わらず、頻りに涕泣という(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)。
●諸将ノ第ニ分拘(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)
捕縛 | 預 |
先帝 | 六波羅南方(北条時益) |
妙法院宮尊澄(天台座主) | 長井因幡左近大夫将監(長井高広) |
尹大納言入道師賢卿 | 遠江入道殿(名越宗教入道) |
源中納言具行卿 | 筑後前司(小田貞知) |
六条少将忠顕朝臣 | 佐々木佐渡判官入道(京極高氏入道) |
四条少将隆量朝臣 | 佐々木近江前司(京極貞氏?) |
左衛門大夫氏信(師賢卿諸大夫) | 海部但馬権守 |
近藤三郎兵衛尉宗光(万里小路中納言藤房卿侍) | 中条因幡三郎 |
対馬兵衛尉重定(具行卿侍) | 下野三郎 |
一宮 | 常陸前司(小田時知) |
東南院僧正坊 | 佐々木大夫判官時信(六角時信) |
万里小路中納言藤房卿 | 武蔵左近大夫将監(北条時顕) |
10月12日、後醍醐上皇の笠置臨幸に供奉して逐電していた前権大納言公敏が出家(法名宗肇)し、翌13日に二階堂出羽入道道蘊のもとに出頭。二階堂道蘊は六波羅へ事の次第を通達し、六波羅は公敏入道を「下野権守」への預けとした(『伊勢光明寺残篇』「大日本史料」)。彼は上皇の又従弟にあたり、終始上皇に近侍した人物であった。
また同13日夕刻に「関東飛脚到来」し、翌14日朝方辰の刻に「世間物騒」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)という。これは「武士等騒動、圍時知宿所、欲及合戦而自六波羅加制止之間、先属静謐云々、衆口嗷々、不可記之」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)といい、在京武士が「六波羅頭人」の小田常陸前司時知の屋敷を取り囲み、合戦に及ばんとするところを、六波羅探題の制止によって不戦に終わった事件があった。「関東飛脚到来」により武士等が動いたことは確実であろうから、関東は小田時知に何らかの疑いをかけていたと考えられる。そして「時知宿所」を取り囲んだ「武士等」は六波羅支配下の武士ではなく関東から上洛した御家人とみられる。時知がどういった嫌疑をかけられたのか定かではないが、彼の子「出羽守知貞」は「実父大納言経継卿云々」(『尊卑分脈』)とあり、公卿との関わりがあったことがうかがえる。「大納言経継卿」は徳治2(1308)年5月15日、中務卿尊治親王(のちの後醍醐天皇)の太宰帥補任にともない、太宰権帥に補任されるなど後醍醐天皇に近く、後二条院の第二皇子・邦省親王は「経継卿養君」(『一代要記』)とあり、後醍醐上皇の出身皇統である大覚寺統に属する公卿であった。六波羅の引付頭人の小田時知は大覚寺統と深く関係していたと推測でき、関東が時知を疑った理由であると考えられる。
西園寺公経―+―洞院実雄―――――――――――+―洞院公守――+―洞院実泰―――洞院公敏
(太政大臣) |(左大臣) |(太政大臣) |(左大臣) (権大納言)
| | |
| | +―洞院実明―――洞院公蔭
| | (権大納言) (権大納言)
| | ∥
| | ∥―――――――洞院忠季
| | 北条久時―+―女子 (権大納言)
| | (相模守) |
| | +―北条守時
| | |(相模守)
| | |
| | +―女子
| | ∥―――――――足利義詮
| | ∥ (権大納言)
| | 足利尊氏
| | (権大納言)
| +―女子
| | ∥――――――三条実重――――三条公茂――――三条実忠
| | ∥ (太政大臣) (内大臣) (内大臣)
| | ∥
| | ∥ 惟康親王――――女子
| | ∥ (二品) ∥
| | ∥ ∥
| | 三条公親―――藤原房子 ∥―――――――守邦親王
| |(内大臣) (皇后宮御匣殿) ∥ (二品)
| | ∥ ∥
| | ∥―――――――久明親王
| | ∥ (式部卿)
| | ∥
| +――――――――――――――――――――――――藤原季子
| | ∥ (顕親門院)
| | ∥ ∥
| +―――――――――後深草天皇 ∥――――――花園天皇
| || (久仁) ∥ (富仁)
| || ∥―――――――――――――――伏見天皇
| || ∥ (熈仁)
| |+――――――――藤原愔子 ∥
| || (玄輝門院) ∥―――――――後伏見天皇
| || ∥ (胤仁)
| || +―五辻経氏――――藤原経子 ∥―――+―光厳天皇
| || |(参議) (准三后) ∥ |(量仁)
| || | ∥ |
| || +―女子 ∥ +―光明天皇
| || | ∥ ∥ (豊仁)
| || | ∥―――――――女子 ∥
| 花山院兼雅―+―花山院忠経―――――――――――花山院師継 | 恵一 ∥―――――――――――――花山院師賢
|(左大臣) |(右大臣) || (内大臣) |(僧叡智) ∥ ∥ (権大納言)
| | || ∥―――――――――――――――花山院師信 ∥
| | 大江広元―+―――毛利季光―――女子 | (内大臣) ∥
| |(陸奥守) |||(豊後守) | ∥
| | ||| | ∥
| | +―――長井時広―――長井泰重――――長井頼重――――長井貞重――――――――――長井高広
| | ||(蔵人) (因幡守) |(因幡守) (縫殿頭) ∥ (左近大夫)
| | || | ∥
| | || +―五辻宗親――+―五辻親氏 ∥
| | || |(参議) |(左兵衛督) ∥
| | || | | ∥
| +―五辻家経―――――五辻雅継―――五辻忠継――+―藤原忠子 | 二条為世女子 ∥ +―尊良親王
| (中納言) ||(非参議) (参議) (談天門院) |(大納言局) ∥ |(中務卿)
| || ∥ | ∥ ∥ |
| || ∥ | ∥―――――――――――+―尊澄法親王
| || ∥ | ∥ ∥ (妙法院)
+―西園寺実氏―+―藤原姞子 |+―藤原佶子 ∥―――――――後醍醐天皇 ∥
(太政大臣) |(今出河院 | (京極院) ∥ |(尊治) ∥
| ∥ | ∥ ∥ | ∥
| ∥ | ∥――――――――――――――後宇多天皇 +―藤原宗子 ∥
| ∥ | ∥ (世仁) (典侍) ∥
| ∥―――――+――亀山天皇 ∥ ∥―――――――――――+―邦良親王
| ∥ (恒仁) ∥ ∥ ∥ |(後醍醐東宮)
| ∥ ∥ ∥ ∥ |
| 後嵯峨天皇 ∥―――――――後二条天皇 ∥ +―邦省親王
|(邦仁) ∥ (邦治) ∥ (式部卿)
| ∥――――――――宗尊親王 堀川具守――――堀川基子 ∥
| ∥ (中務卿) (内大臣) (西華門院) ∥
| ∥ ∥ ∥
平棟基――+――平棟子 ∥――――――惟康親王――――女子 ∥
(木工頭) ||(准三后) ∥ (二品) ∥―――――――守邦親王 ∥
|| ∥ ∥ (二品) ∥
|| 近衛兼経―――――藤原宰子 久明親王 ∥
||(関白) (式部卿) ∥
|| ∥
|+―西園寺公相――――西園寺実兼――西園寺公衡―+―――――――――――――――――藤原寧子
| (太政大臣) (太政大臣) (太政大臣) | (広義門院)
| |
| +―西園寺実衡―――西園寺公重
| (内大臣) (権中納言)
| ∥
| ∥―――――――西園寺公宗
| ∥ (権大納言)
| 二条為世――+―女子
| (大納言) |(昭訓門春日局)
| |
| +―藤原為子
| |(後醍醐院女房)
| |
| +―二条為藤――――二条為明
| |(中納言) (右兵衛督)
| |
| +―二条為通――――二条為定
| |(左近衛中将) (権大納言)
| |
| +―女子
+―女子 (室町院女房)
∥ ∥―――――+―尊良親王
∥ ∥ |(中務卿)
∥ ∥ |
∥―――――――――吉田経頼―――吉田頼隆 後醍醐天皇 +―尊澄法親王
∥ (宮内卿) (参議) (尊治) (妙法院)
∥ ∥
吉田資経―+―吉田為経 ∥―――――――吉田経隆
(左大弁) |(左大弁) ∥ (宮内卿)
| ∥
+―坊城経俊――――――中御門経継――女子
(中納言) (権大納言)
小田時知の騒擾があった10月14日、「両六波羅殿并両使」が「北方」で「陸奥守殿、右馬助殿、長崎四郎■■■■」の「楠木城」攻めの旨について談合が行われ、「右馬助殿、長崎殿」は「領状」したが、「陸奥守殿」は所労のため領状の返答はしなかった(「伊勢光明寺残篇」)。翌15日には楠木城攻めの交名が示されており、その後、陸奥守貞直も領状したとみられる。
●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』32135)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(河越貞重入道) |
小山判官(小山高朝) | 佐々木近江入道(京極貞氏?) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(千葉胤貞) |
武田三郎(武田政義) | 小笠原彦五郎(小笠原貞宗) |
諏訪祝 | 高坂出羽権守 |
島津上総入道(島津貞久入道) | 長崎四郎左衛門尉(長崎高重) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道 |
加地左衛門入道 | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金澤貞冬) | 駿河八郎(讃岐国守護代) |
千葉介(千葉介貞胤) | 長沼駿河権守(長沼秀行) |
小田人々(小田高知一党か) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道 | 宇佐美摂津前司 |
薩摩常陸前司 | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(江馬時見入道) | 遠江前司(名越宗教入道) |
武田伊豆守(武田信武) | 三浦若狭判官(三浦時明) |
渋谷遠江権守(澁谷重光) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道 | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(足利高氏) | 結城七郎左衛門尉(結城朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
15日に四手に分かれて京都を出立した軍勢は「楠木城」に攻め寄せ、10月17日から20日にかけて楠木兵衛尉正成との合戦となっている(『和田文書』裏書)。なお、この「楠木城」は後年の「千岩屋」城とは別の城である(「熊谷直氏合戦手負注文」『熊谷家文書』)。そして10月21日、「楠落城」し、「楠兵衛尉落行」した(『元弘日記裏書』「大日本史料」)。また、11月2日には「赤坂城没落」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)とあり、「楠木城(下赤坂城)」とは川を挟んだ対岸の山に構築された「赤坂城(上赤坂城)」であろう。
楠木城及び赤坂城を攻め落とした関東勢は京都へ帰還。11月5日、「陸奥守貞直、明曉下向之由、西園寺大納言申定、仍被引御馬」(『光厳院御記裏書』「大日本史料」)と、翌6日早朝の貞直下向が西園寺公宗へ報告され、馬が下された。この日、鎌倉を「長井右馬助高冬、信濃入道々大、為使節上洛、為御所方輩沙汰」とあるように、後醍醐上皇方の人々への沙汰のための両使(長井右馬助高冬、信濃前司時連入道)が上洛の途についており、貞直らが鎮圧した騒擾の事後処理が行われることとなる。なお、「足利高氏、先日下向不給御馬、一同之上不申暇之故也」と、貞直に先行して鎌倉への帰途についている。そして、11月7日、「前坊第一宮康仁親王立坊」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、関東の意向(両統迭立の原則)に沿う形で前坊故邦良親王(大覚寺統の後二条天皇皇子)の一宮・康仁親王が光厳天皇(持明院統)の皇太子となった。
●邦良親王の東宮職ならびに春宮坊
東宮職 | 傅 | 学士 | |||||||||
源長通 (右大臣) | 藤原宗倫 | ||||||||||
春宮坊 | 大夫 | 権大夫 | 亮 | 権亮 | 大進 | 権大進 | 少進 | 権少進 | 大属 | 権大属 | 少属 |
源通顕 (大納言) |
藤原公重 (権中納言) |
藤原宗兼 (右大弁) |
藤原俊季 (右中将) | 藤原経重 | 藤原隆経 | 藤原資顕 | 藤原家俊 | 紀職直 | 安倍資■ | 安倍資勝 | |
中原職右 (主膳正) | |||||||||||
源康基 (主殿首) | |||||||||||
中原有景 (主馬首) |
11月25日夕刻、東使のひとり信濃前司入道道大が入京。翌26日に右馬助高冬が入洛(『光厳院御記』「大日本史料」)。西園寺公宗との間で「先帝、緇素」らへの事後処理が執行されることとなる。
12月15日、関東では「太守禅閤第一郎、七才、首服、名字邦時、御所被執行」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、御所守邦親王により元服の儀が執り行われ、「邦」字を給わり「邦時」と号した。
12月27日、「東使」の長井高冬、三善時連入道らは西園寺公宗ら光厳朝の公卿らとの間で決定した「先帝」以下への処置に関して奏上された(『光厳院御記』「大日本史料」)。
■「東使奏聞関東事書」処分案
人 | 配流先 |
先帝(後醍醐上皇) | 隠岐国(守護は佐々木清高) |
一宮(尊良親王) | 土佐国(守護は高時入道) |
妙法院宮(尊澄法親王) | 讃岐国(守護は伊具邦時) |
緇素罪名追可言上 |
元弘2(1332)年2月6日、「武家」が「慈厳僧正、光顕朝臣、忠守法師、重頼法師」が捕縛された(『光厳院御記』「大日本史料」)。慈厳は「天台座主輦車」であり、尊澄法親王の侍僧であったのだろう。先帝は「つゐに隠岐国へうつしたてまつるべし」として3月7日に隠岐国へ向かうために出京。「御供には内侍三位殿、大納言小宰相など、男には行房の中将忠顕少将ばかりつかまつる、をのかしゝ宮この名残ともいひつくしかたし、六原よりの御をくりの武士、さならでも名あるつはものども千葉介貞胤をはじめとして、おぼえことなるかぎり十人えらひたてまつる」(『増鏡』)と見え、千葉介貞胤が先帝配流の護送使であった。また「佐々木の佐渡判官入道」も「隠岐の御をくりもつかまつりしもの」であった(『増鏡』)。
後醍醐上皇に加担した公家衆はそれぞれ処罰されているが、原則的には公卿は流罪、一般堂上は流罪の上処刑という方針のもと、4月10日には姉小路実世が「依関東奏聞止出仕」、5月22日には参議平成輔が「於早河尻被誅了」(『常楽記』)、同月には万里小路藤房が「配流下総国」(『公卿補任』)、源具行は公卿ながら「五月日下向関東、六月十九日於近江国柏原斬首」(『公卿補任』)、6月2日には日野資朝が「於佐渡国配流斬首」(『公卿補任』)、6月3日には日野俊基が「武蔵国クスハラニテ被誅了」(『常楽記』)、6月25日には前参議藤原光顕が「配流出羽国」(『公卿補任』)という厳罰に処されている。また、按察使大納言公敏は「小山の判官秀朝とかやいふものぐして、下野の国へと聞ゆ」(『増鏡』)と、小山大夫判官高朝が下野国へ伴った。なお、万里小路藤房の下総配流は誤記で、実際は「花山院大納言師賢は千葉介貞胤うしろ見て下総へくだる」(『増鏡』)とあるように、叡山の偽帝となった花山院師賢が千葉介貞胤によって下総国へ連行されている。師賢が千葉介貞胤に付き添われて5月10日に京都を発った際、師賢は、
と詠んだ。君のいない故郷京都にはもはやなんら未練はないという決意の歌である。一方、師賢の北の方は「花山院入道右のおとゞ家定の御女」であるが、師賢との対面も許されないままの別離であり、「いみじう思ひなげきたまへるさま、あはれにかなしけれ」という有様で、
と詠んだ。
小御門神社 |
その後、師賢は香取郡大須賀保内(成田市名古屋)に幽閉の身となるが、この地は「千葉介一族大須賀」の所領であり、千葉介貞胤とともに上洛していたと思われる大須賀某が預かったとみられる。香取海の入江のほとりに大きな館が造営されたのであろう。その字名は「館内」として残る。しかし、師賢はこの地に入ったわずか四か月後の10月29日に病死する。享年三十二。心労が祟ったものであろう。「元徳四年十月、尹大納言入道、於千葉逝去」(『常楽記』)という。師賢は館の隣に埋葬され、塚が築かれた。この墓所は「公家塚」と呼ばれて現在に至っている。明治15(1882)年には塚前に師賢を祭神とする「小御門神社」が建てられた。
余談だが、花山院師賢の子孫は一貫して南朝方の大将として奮戦しており、師賢の次男・花山院左近衛中将信賢は正平13(1358)年に戦死した。その子・花山院左近衛中将師重は上野国吾妻郡青山郷に拠って北朝勢と戦い、信濃国で挙兵した尹良親王(宗良親王の子)に随って、応永3(1396)年の信濃国浪合の戦いで戦死した。師重の子孫は三河国へ逃れ、師重の五代孫・青山喜三郎忠世は松平家に仕えて天文4(1535)年、伊田野で戦死。その孫・青山播磨守忠成は天文20(1551)年、青山喜太夫忠門の嫡子として三河に生まれ、徳川家康の小姓となった。家康が江戸に居城を構えると、江戸町奉行に就任。慶長6(1601)年2月、宿縁の地・両総で1万5千石を与えられ、青山伯耆守忠俊は三代将軍・徳川家光の老職に就任した。
こうした先帝後醍醐の側近らの処断が行われる中、元弘2(1332)年4月3日、楠木正成率いる五百騎余りが赤坂城を急襲した。ここには紀伊国御家人湯浅孫六入道定仏が留守居として守衛していたが、敢え無く攻め落とされ「定仏打負降参」(『大乗院日記目録』)した。このとき「為楠木被取籠湯浅党交名」(『楠木合戦注文』)は正慶元/元弘2(1332)年12月にまとめられている。赤坂城は楠木勢によって奪還され、その後、関東勢が寄せる翌年2月まで楠木勢が拠ったとみられる。
6月6日、「自熊野山執進、大塔宮令旨、相憑当山旨云々」(『光厳院御記』「大日本史料」)とあるように、逃亡中の「大塔の尊雲法親王」(『増鏡』)が熊野山に対して令旨が発したという。こののち、前年の追討及び捜索で六波羅探題が捕縛に失敗した尊雲法親王や四条隆資らの動きが活発化していくこととなる。楠木正成も大塔宮尊雲法親王に意見具申ができる距離にいたことから、おそらく彼らは楠木正成が奪還した赤坂城近辺に居住していたと考えられる。
なお、6月8日の小除目では関東の推挙により、笠置寺攻めの大将軍であった「源高氏(足利高氏)」を「叙従五位上」とした(『光厳院御記』「大日本史料」)。
6月26日には、尊雲法親王がついに具体的な挙兵という形で顕在化し、京都に報ぜられた(『光厳院御記』「大日本史料」)。兵乱は「伊勢国有梟悪之輩、烏合之衆、追捕所々其勢甚多云々、仍武家差使者、令実検云々」(『光厳院御記』「大日本史料」)という。続けて28日の報告では「勢州凶徒、尚以興隆旨風聞、或云、合戦地頭等多被誅戮之後、引退云々」という。かなり大規模な兵乱で、地頭等が多く討死するという風聞が聞こえている(『光厳院御記』「大日本史料」)。六波羅はこの時点ではまだ乱の正確な規模や首謀者を把握していなかったようであるが、29日に京都へ帰還した検使の情報によれば、「不違風聞之説、凶徒合戦之間、在家多焼払、地頭両三人被打取、守護代家被焼了、其後凶徒等引退了云々、是熊野山帯大塔宮令旨、竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不少」(『光厳院御記』「大日本史料」)であったという。
8月27日には「大塔二品護良親王(実際は還俗していない)」が「左少将隆貞」に「附与御令旨」して高野山大衆に決起を促した(『高野春秋』「大日本史料」)。「隆貞」は大塔とともに笠置山から逐電した権中納言隆資の子で尊雲法親王の側近である。また、左少将隆貞は12月26日、「和泉国久米田寺住僧等」に祈祷等の忠勤を行う上は「於当寺并寺領者、可被停止官兵狼藉者」という「大塔宮二品親王令旨」を伝えている(『鎌倉遺文』31937)。「官兵之狼藉」はあちこちで発生しており、翌元弘3(1333)年正月5日には「左兵衛尉正成」が和泉久米田寺や河内観心寺ら和泉河内の大寺に触れている。また、大塔宮は紀伊粉河寺にも加勢を求め、粉河寺衆徒がこれに応じる返答をしたため、正月10日付で四条隆貞を使者として粉河寺に御感の令旨を下している(『粉河寺文書』)。このころの尊雲法親王は笠置寺、久保田寺、観心寺、粉河寺など、おもに大寺院衆徒の力を恃みにしていたとみられる。
関東では前年の合戦に参戦して軍功を挙げた人々へ没官領を宛がっており、正慶元/元弘2(1332)年12月1日、将軍家政所(別当相模守平朝臣:執権守時、右馬権頭平朝臣:連署茂時)は「島津上総介貞久法師法名道鑑」に対し、「妙法院宮御跡」の「周防国楊井庄領家職」を「勲功賞」として宛がっている(『薩藩旧記』)。こうした恩賞と同時に関東は河内国の反乱勃発に対する再征の軍勢催促を行っており、正慶元/元弘2(1332)年12月5日には得宗被官とみられる御家人「尾藤弾正左衛門尉」が「大塔宮并楠木兵衛尉正成事」について、関東からの命を受けて上洛しており(『鎌倉遺文』31911『紀伊隅田家文書』)、11月中旬には出征の子細が固まっていたことがわかる。六波羅探題はこの関東からの命を受けて、管国の御家人に対して「有可被仰之子細、不廻時刻、可被参洛」すべきことを命じている。
この頃関東においては諸国の御家人に対して「大塔宮并楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也」と、追討の軍勢を「去季雖発向、重可進発」ことを述べ、「殊以神妙、引率庶子親類、可抽軍忠之状」を命じている(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915『熊谷家文書』)。
■六波羅御教書(『鎌倉遺文』31911『紀伊隅田家文書』)
■関東御教書(「関東御教書」『鎌倉遺文』31915『熊谷家文書』)
■関東御教書(『鎌倉遺文』31933『和泉日根野文書』)
こうした畿内の不穏な状況に、関東御教書を受けたとみられる「紀伊国御家人」が翌年の正慶2/元弘3(1333)年正月5日、上洛の途上で通過する「河内国甲斐庄安満見」(『楠木合戦注文』)で楠木勢と遭遇し交戦。「井上入道、上入道、山井五郎以下五十余人」が楠木勢に討たれた。
正月14日には「河内守護代」の「俣野」や「和泉国守護(脱代歟)」、「田代、品河、成田以下地頭御家人」が追い落とされている。守護代俣野某が居住していた守護所は「丹南」にあり、俣野が地頭職であった地(丹下、池尻、花田)もその周辺にあることから、合戦は守護所を中心に行われ、正成は甲斐庄から河内国の平野部に進み、拠点を築いて駐屯したとみられる。
こうした河内国や和泉国での楠木勢の大規模な攻勢に、六波羅探題は翌15日、大塔宮および楠木正成が大規模な拠点を築いていた「千剣破城河内金剛山」(『続史愚抄』)に大軍を派遣し、根底の殲滅を試みた。一方、楠木正成は15日夜にも河内国御家人を攻めており「当器左衛門尉」「中田地頭」「橘上地頭代」が館を自焼して逃れるなど、河内国平野部に留まって周辺域を駆逐していたことがわかる。翌16日に「山城国問田林太郎兵衛尉実広」が「馳参御方」(「林実広軍忠状」『鎌倉遺文補遺編』)したのは、正成による調略または陶器、中田、橘上などが襲撃を受け、問田林村(富田林市)周辺の情勢が緊迫したためであろう。
六波羅探題は摂津からの防衛線及び、河内の「楠根」のごとく河川の入り組む平野部に展開する楠木勢への対応のため、「両六波羅殿代 一方竹井、一方有賀」を主将に、「縫殿将監、伊賀筑後守、一条東洞院(以下は大路小路の守護する在京御家人か)、五条東洞院、春日朱雀、四条大宮、四条堀河トカシ、姉小路西洞院、春日東洞院、同大宮水谷、中条、厳島神主、芥河、此外地頭御家人五十騎」が派遣され「天王寺構城郭」という(『楠木合戦注文』)。わずかに五十騎ばかりの派遣であり、戦闘部隊ではなく四天王寺の守りを強固にするための土木を含めた部隊ではなかろうか。摂津の要衝に建つ四天王寺は城塞としての役割も持ち、すでに六波羅から遣わされた御家人が駐屯していたと思われる。
正月19日朝には「大将軍四条少将隆貞」以下の「楠木一族、同舎弟七郎、石河判官代跡代百余人、判官代五郎、同松山并子息等、平野但馬前司子息四人四郎天王寺ニテ打死ス、平石、山城五郎、切判官代平家、春日地同、八田、村上、渡辺孫六、河野、湯浅党一人、其勢五百余騎其外雑兵知数」が四天王寺に押し寄せ、深夜子刻に至るまで十数時間にわたる激しい攻防の末に四天王寺は落ちた(『楠木合戦注文』)。
四天王寺は南北に連なる上町台地上にあることから、楠木勢が東から攻勢をかけることは考えにくく、南北いずれかから攻め寄せたと考えられる。寄手の交名から摂津国とは連携していない河内国南東部からの出征であろうとみられることから、おそらく天王寺南部域から攻め寄せ、合戦は阿倍野(阿倍野区阿倍野筋)あたりで行われたのだろう。楠木勢は四天王寺を攻め落としたのち、熊野街道を北進し台地直下の渡邊津を占拠。22日の夕方申刻に拠点の葛城方面へと引き返している。
四天王寺および渡邊津の陥落を受けた六波羅探題は、その奪還のために再征を決定。正月23日には勇猛で知られた「宇津宮五百余騎」が四天王寺に押し寄せた(『楠木合戦注文』)。宇都宮高綱はまず「楠木城」に討ち入るも、「宇津宮家子ニ左近蔵人舎弟右近蔵人并大井左衛門以下十二人」が生け捕られている。この「楠木城」は楠木正成が渡邊津を占拠した際に、台地北端の熊野街道沿い(現在の大阪城周辺か)に築いた砦であろう。おそらく宇都宮勢は淀川筋を船で進み、渡邊津に上陸すると、楠木勢を駆逐。そのまま熊野街道を登坂して「楠木城」を攻めたものの苦戦したとみられる。ただし、その後、宇都宮高綱は四天王寺に入っていることから、四天王寺は六波羅勢によって奪還されたとみられる(『楠木合戦注文』は主に楠木方の戦勝記録のみ記載されている)。六波羅探題はさらに「佐々木判官、伊賀常陸守」らを派遣した様子がみられ、六波羅勢は天王寺周辺から楠木勢を駆逐することに成功したのだろう。そして2月2日に「宇津宮」は帰洛し、「佐々木判官、伊賀常陸守」は天王寺に駐留した(『楠木合戦注文』)。
このような中、正月21日には播磨国で「則村入道円心、赤松」が兵を挙げている(『続史愚抄』)。播磨国摩耶山に接する「布引ノ城(神戸市中央区葺合町)」を拠点として挙兵したと思われる。則村入道の子・律師妙善房(則祐律師)は「天台山大塔宮の候人なり」(『赤松記』)という由緒が伝わる人であるが、大塔宮はこの挙兵を受けて播磨国佐用庄に祗候人「殿法印御坊」(「城頼連申状」『毛利家文書』四)を派遣し、2月26日に高田城を落とした。大塔宮は2月21日、播磨国の大寺・太山寺に「伊豆国在庁北条遠江前司時政之子孫東夷等」(「播磨大山寺文書」『鎌倉遺文』31996)を「為加成敗」のため、「早相催一門之輩、率軍勢、不廻時日、可令馳参戦場之由」の令旨を下すとともに、「今月廿五日寅一點、率軍勢、可令馳参当国赤松城、殊依時高名、於勧賞者、宜依好之由、重被仰下候也」と、2月25日早朝までに赤松円心のもとに馳せ参じて協力すべきことを命じており、太山寺衆徒も「殿法印御坊」の手に属して高田城を攻めたのだろう。大塔宮はこの功績に対して太山寺へ「丹波国和庄」(「播磨大山寺文書」『鎌倉遺文』32048)を寄進している。
また、大塔宮は九州にまで令旨を遣わしており、2月7日には「原田大夫種直」へ「高時法師一族凶徒等」について「早追討英時、師頼以下之輩」を命じている(『三原文書』)。これは2月3日、隠岐国から密かに「島津上総入道館」へ遣わされた「日向国守護職事、任先例、可令致沙汰者」の綸旨(『薩藩旧記』)などと同様、この頃から水面下で動きはじめていた反鎌倉の布石のひとつであろう。
一方、正月29日、京都に「出羽守入道道蘊二階堂」が入洛(『続史愚抄』)し、続けて「弾正少輔弼治時、陸奥守右馬権助高直、遠江入道宗教法師、彼等其外一族大将軍トテ関東ニサルヘキ侍多分指上」が上洛(『保暦間記』)した。すでに大和国の御家人は大塔宮の籠る大和国吉野に向かっており、正月30日には大和国高市郡松山村(高取町松山)で「大和国茉山合戦」が起こっている。
京都に到着した関東勢は、河内、大和、紀伊の三手に分かれて河内南東部へ出征し、正慶2/元弘3(1333)年2月22日には「大将軍阿蘇遠江左近大夫将監殿、長崎四郎左衛門尉、既楠木之城被害之由披露」と、「楠木之城」を制圧したことを六波羅探題に伝えている(『楠木合戦注文』)。この合戦では、本間氏、須山氏、猪俣党、結城白河出雲前司らの活躍が伝えられている。このときに陥落したのは千早・金剛山への入口を押さえる赤坂城のひとつ(千早川北岸の下赤坂城)と思われ、寄手は河内道を進んだ弾正少輔弼治時の大手軍とみられる。この赤坂城合戦は2月2日から「十三ケ日之間、被責」たとあり(『大乗院日記目録』)、2月15日に「大手本城」を守衛していた「平野将監入道既三十余人参降人畢、此内八人者逐電、或生捕、或及自害被所、又以被落之由」であったのだろう。この「平野将監入道」は四天王寺合戦で正成とともに戦った平野但馬前司の一族であろう。城中にいたという風聞のあった楠木正成舎弟の七郎正季も行方知れずとなった。なお、平野麾下の降参は「平野入道以下三百八十二人」(『大乗院日記目録』)であったという。また、赤坂城陥落とほぼ同時に六波羅から大和の大寺に対する援兵要請が関東に遣わされたと思われ、2月30日、「東大寺衆徒」に対し、「大塔宮并楠木兵衛尉正成」らの「対治凶徒」を指示する『関東御教書』が下されている(「前田氏所蔵文書」)。
このころ、大和道を進む陸奥守右馬権助高直の搦手勢(奈良路)は金剛山の東側(高市郡方面)から「楠木爪城金剛山千早押寄」ており(『楠木合戦注文』)、2月27日には「斎藤新兵衛入道子息兵衛五郎」が「佐介越前守殿御手」に属して攻めたが、「自上山以石礫数ヶ所被打」という石礫による打撲を負い、家子若党も数人が負傷したり討死したという(『楠木合戦注文』)。しかし、関東勢の攻勢は凄まじく、楠木正成が各所に構えた砦はほぼ制圧され、三、四か所を残すのみとなっていた。
また、2月13日には松山を越えて吉野方面へと進んでいた大和国御家人の「大和国高間大弐行秀、同舎弟輔房快全等」(「能登妙厳寺文書」『鎌倉遺文』32230)は「石黒坂合戦」を経て、閏2月1日には吉野山に至り、「捨身命防戦之間、所従両輩被打畢」という激戦の末に吉野山は陥落した。吉野山にいた大塔宮は高野山へと逃れたとされ、「二階堂出羽入道道蘊」が軍勢を率いて「乱入満山、卜本陣於大塔、尋求護良王子」(『高野春秋』)したが、護良親王は大塔の天井の梁間に隠されてついに発見に至らなかったという。
赤坂城を落とした河内道の阿蘇弾正少輔弼隊は千早川を渡り、より堅固な南岸赤坂城(上赤坂城)に迫ったのだろう。熊谷小四郎直経は「為誅伐大塔宮并楠木兵衛尉正成、可馳参之由」に応じて、一族の「平次直氏、六郎直朝、五郎四郎直員等」を相具して、2月25日から28日の戦いにおいて「大手木戸口」に戦い、真っ先に楯や土石を以て堀を埋めたという(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)。2月26日には「俣野彦太郎并藤澤四郎太郎若党十余人」が合戦し、28日には寄手大手軍は「手負死人其既一千八百余人」(『楠木合戦注文』)を数えた。苦戦しつつも、大手勢は赤坂城を攻め落とすと、千早川を遡上して千早城西側に進んだとみられる。そして閏2月5日には熊谷小四郎直経は「馳向千葉城、於大手堀鰭相戦、構矢倉、致終夜之忠勤」(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)と、千早城大手掘あたりで合戦し、さらに陣中には矢倉を築いて警衛を行ったという(「熊谷直経合着到状案」『安芸熊谷家文書』)。大手勢はその後も攻勢をかけ、閏2月26日朝には熊谷直経は「茅岩屋城大手ノ北ノ堀ノナカヨリ、ヘイノキワエせメアカリ、先ヲカケ、新野一族相共ニ、合戦ノ忠ヲイタシ候」(「熊谷直経合戦手負注文」『安芸熊谷家文書』)とあり、千早城の城内にも侵入しつつ合戦を繰り返していたとみられる。そして3月5日には「六波羅勢与橘正成戦大敗」(『続史愚抄』「道平公記」)とあり、六波羅勢は千早及び金剛山の戦いで大敗を喫したとみられる。
一方で六波羅探題自身は「伊予国、播磨国之悪党蜂起」に「近日被仰付国守護人可加追罰之由」を命じるなど諸所に対応せざるを得ない状況にあり、摂津国でも閏2月15日に「摂津小平野兵庫嶋合戦」、閏2月23日には「尼崎合戦」、閏2月24日には「坂部村合戦」、閏2月28日、3月1日、3月7日の播磨国で赤松円心入道との「摩耶山」「摩耶城」での合戦で敗北。3月10日に六波羅探題は再び播磨国へ兵を出し、3月12日に摂津国勝尾寺に「播磨国謀叛人赤松孫次郎入道等追討事」を命じているが(『勝尾寺文書』)。ふたたび六波羅勢の敗北に終わった(『大乗院日記目録』)。
こうした中で、閏2月24日に「前左少将忠顕供奉」して「先帝竊出御隠岐御所国分寺、即召小舩」(『続史愚抄』)して「主上出御隠岐国」(『元弘日記裏書』「大日本史料」)と、先帝後醍醐が隠岐国から脱出。海流に乗って「着御出雲」(『続史愚抄』)した。「伯耆国稲津浦」(『増鏡』『鎌倉年代記裏書』)に着いたとも。上陸後は「謫處幸伯州大山寺」(『皇代略記』)に入った。先帝の脱出を知った「隠岐判官(佐々木清高)」が追うも、「伯耆国名和又太郎源年長兄弟、依御憑奉入舩上山寺、奉守護之」(『大乗院日記目録』)といい、「この国になはの又太郎ながとしといひしあやしき民」が「舟上寺」に迎えて「ここのへの宮になずら」えて支えた(『増鏡』)。閏2月27日に隠岐判官清高が船上山を攻め寄せるも撃退している。また、「出雲守護塩冶判官高貞、富士名判官義綱以下」の守護佐々木一族も船上山へと馳せ参じているが、これはこれまでの楠木一党や河内、和泉、大和の在地武士や寺社、一部の地頭層による叛乱とは一線を画し、関東裁定の否定及び国守護の離反という、関東の威光が一気に地に落ちる大事件であった。先帝の隠岐脱出の報や風聞も影響したとみられるが、すでに九州、西国の反旗は燎原の火のように広がっていた。
播磨国・摂津国の敗戦、千早・金剛山の長滞陣、先帝の隠岐島脱出などに強い危機感を抱いた六波羅は、3月8日に「構釘貫于京師、可鑿大堀旨被定」ている(『続史愚抄』「道平公記」)。そして、3月12日、「赤松入道京都七条マテ打入トイヘトモ被追返畢」(『博多日記』)といい、「隅田、高橋在京武士相副、今在家、作道、西八条辺差向ケル、桂河前」に布陣して赤松勢に備えた。ここに赤松円心入道の子・律師則祐が進んで六波羅勢と対峙(『神明鏡』)。律師則祐は渡河して小勢ながら六波羅勢を駆け破ったが、12日夜に河野九郎左衛門(対馬守通有の九男・通治)、陶山次郎を大将とする六波羅勢に敗れて退いた(『神明鏡』)。
また、七条辺まで攻め上っていた赤松勢と太山寺衆徒は(『博多日記』)、翌13日の「京都合戦」で「打死大夫房大将実名源真、肥後実名有慶、同日手負民部実名重舜、兵部実名了源、少輔実名円範、丹後実名心善」(『大山寺文書』)とあるように、損害を出して六波羅勢を破ることはできなかった。一方で「伯耆国よりも軍をさしのぼせらる」(『神皇正統記』)とあるように、伯耆国から勢力を拡げつつあった先帝後醍醐のもとからも京都へ軍勢が差し向けられており、「三月十三日、勲功ノ輩ニ除目行ハレ少将殿ハ頭中将ニ成給フ、京都ヘ御発向有ヘキ評定アリテ、頭中将殿ニ長年弟村上判官高重、同信濃法眼源盛両大将ニテ一族相具シ京都ノ討手ニ差向ラルヘシト評定有、同十七日舩上山ヲ立テ、人々丹波路ヲ経、京都ヘ発向セラル」(『伯耆巻』)とあるように、千種忠顕を主将とし、名和高重ら名和一族を伴っての出立であったという。また、「但馬宮(後醍醐天皇四宮・静尊法親王)」も千種忠顕と行動を共にしていることから、千種忠顕は但馬宮を奉じた軍勢であったと考えられる。この頃から赤松円心入道と千種忠顕が同調して京都を窺い、但馬宮を預かっていた但馬守護「太田三郎左衛門尉」(『太平記』)も千種忠顕に降って「丹波篠村」に参会した。
一方、六波羅探題は赤松勢を追い返したとはいえ、洛中にまで敵の侵入を許したことに危機感を強め、万が一を考えて「帝ハ六波羅ノ北殿ニ御入」(『博多日記』)と、光厳天皇を六波羅探題北殿に遷した。なお「京中さハかしくなりて上皇も新主も六波羅にうつり給ふ」(『神皇正統記』)、「後伏見院諱胤仁、正慶二年三月十二日、奉伴主上両院、幸六波羅」(『皇代略記』)とあるように、後伏見上皇、花園上皇も同じく六波羅探題に遷っている。供奉の公卿は「日野大納言資名、同中納言資明卿、二人、堀川大納言具親已下、上達部三、四人」(『続史愚抄』)であった。なお、京都から敗走した赤松円心入道は、一旦は拠点の「布引ノ城」へ籠るが、その後「八幡」に陣して京都を窺っている(『博多日記』)。こうした緊迫する上方の状況を打開するために、六波羅探題は関東に追加兵力の上洛を要請したのだろう。千早・金剛山を攻める軍勢も手いっぱいであり、そこからの援兵は見込めない状況であったからである。
また、3月11日には千早・金剛山寄手の「新田小太郎義貞、自大唐宮綸旨給之下向下野国」(『大乗院日記目録』)という。大塔宮の「綸旨」とある時点で当時の記録とは言い難いが、当時の新田氏は足利氏の指揮下にある「足利一門」(田中大喜『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』)であり、帰国は足利家当主・足利高氏の密命であったのかもしれない。「新田一族」は千早・金剛山攻めが行われる直前には「大番衆」として在京しており(『楠木合戦注文』)、新田義貞も大番衆の一人であったろう。「新田一族」は「大和道」の「大将軍陸奥右馬助殿」の手に属して金剛山を攻めていたとみられ、新田義貞が関東に帰還したことが事実とすれば、鎌倉在の宗家足利高氏と「先代追討」の相談を行った可能性が高いだろう。
この頃、千早攻めを行う「和泉国御家人和田修理亮助家」のもとに4月3日付の大塔宮令旨が届けられる。大塔宮はおそらく金剛山に籠っていたと思われるが、寄手の一人である和田助家へ「追討関東之凶徒、可励報国之忠節」を命じる令旨を届けているのは、内通発覚による混乱も視野に入れたものかもしれないが、和田氏が和泉国御家人であり、楠木正成とも面識があったためかもしれない(『和田文書』)。助家は「治病更発」のために「子息助康」に郎従数名を付けて密かに千早陣中を抜けさせて赤松円心勢と合流させており、助康は4月8日に桂川西岸久我畷の「於赤井河原戦場致合忠」(『和田文書』)している。これは桂川西岸の高台(西岡)を抑えていた赤松入道勢と、奪還せんとする六波羅勢との攻防が続いていたことを意味し、久我畷付近の戦いはおそらく4月3日にも行われている(「村上太郎左衛門所蔵文書」『萩藩閥閲録』132)。なお、父の和田助家はこの後も千早攻めに従軍し、4月14日には子息の中次助秀が「茅葉屋城」の合戦で負傷(『和田文書』)している。
また、4月8日には、千種忠顕は京都を窺い、但馬国通過の途路に最前に馳せ参じた「但馬国少佐郷一方地頭伊達孫三郎入道々西」「兄弟三人道西、宗幸、宗重等」らをはじめとする軍勢を率いて「押寄二条大宮焼払丹後前司之役所」い、さらに伊達道西兄弟は「打入敵陣中、数刻合戦、舎弟宗幸被射左肩、家人和田次郎、中間十郎太郎打死畢」(『伊達文書』)という奮戦を見せるも敗北し、「四月八日六波羅合戦有テ御方打負給」(『伯耆巻』)ったという。この敗戦を受けて「但馬宮自峯堂御出于男山」(「林実広軍忠状」『鎌倉遺文補遺編』)とあり、「峯堂(西京区山田桜谷町)」にいた「但馬宮(静尊法親王)」は「男山(石清水八幡宮寺)」へ移っている。また、千種中将と同道していた「坊門侍従家(雅忠)」は軍勢を率いて「西岡警固御向」い、「粟生山観音寺(長岡京市粟生清水谷)」に城郭を構えて「打塞大江山」いだ。芝山の街道を封鎖し丹波方面から寄せる六波羅勢を遮断するためとみられる。
一方、六波羅及び二条大宮での「大将頭中将、侍大将村上判官高重、信濃法眼源盛等、八幡ヘ引退ク」の敗戦の一報は4月11日に船上山へ奏上されたといい(『伯耆巻』)、先帝後醍醐は翌12日「行幸有ヘキノ由、勅定有」(『伯耆巻』)ったが、名和長利が諫奏して思い止めさせたという。
そして3月27日、「関東大勢重而上洛、大将足利高氏兄弟、吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川等卅二人大名、次日名越高家同為大将上洛」(『大乗院日記目録』)という。これは六波羅探題から関東への救援要請を受けたものとみられ、関東も追加派兵は想定外で、急遽定められた大将軍は足利高氏と名越高家の二名であった。彼らの上洛日時は不明だが、鎌倉出立時期を考えると4月10日頃だろう。なお、派兵の大将がわずか二名で「気早ノ若武者」の高家を起用せざるを得なかったのは関東の人材不足が原因であるともされているが、この派兵はあくまでも京都を窺う桂川西岸域の叛乱軍からの京都防衛と地域奪還を主目的とするものであって、千早・金剛山攻めの援兵ではない。すでに京都から笠置攻めで動員された東国御家人は帰国する人々もあり、鎌倉守衛の兵も残しつつ、足利高氏・名越高家という名門血統の両大将を派遣することで、士気の鼓舞も狙ったのであろう。
※足利高氏は元弘2(1332)年の笠置攻めの大将軍として上洛した際に後醍醐先帝から綸旨を賜っていた可能性が高いだろう。これもまた綸旨発覚による追討軍の混乱も想定したものであったろうが、足利高氏は笠置攻め後には御所に参内して挨拶することもなく早々に関東へ帰還してしまっていることからも、北条「一門」とは一線を画していたことがうかがえる。そして、畿内の楠木正成らの蜂起により多くの御家人が上洛したことで、鎌倉は相当手薄な状況にあったと推測される。足利高氏はこうした状況下で後醍醐上皇の綸旨を奉じて鎌倉の占拠を計画したと思われるが、京都の情勢の把握を優先したと思われる。当時在京の大番衆には「足利蔵人二郎跡」「山名伊豆入道跡」「寺尾入道跡」「新田一族」「里見一族」ら足利庶家が多くあり、高氏は鎌倉にいながら畿内の情勢を知り得たのだろう。そして、先帝の隠岐脱出及び摂津筋の陥落も知った高氏は、3月に入り金剛山攻めの搦手軍に加わっていた新田寺尾の惣領家・新田小太郎義貞を関東に呼び戻すと、上野の一門と連携しつつ鎌倉の占拠を企てたのではなかろうか。ところが、高氏は急遽、京都へ追加派兵の大将軍とされてしまったため、計画の変更を余儀なくされる。しかし、畿内の状況を実見することで最適のタイミングを図ることができた高氏は、関東在の新田岩松経家と新田義貞に決起の日付を伝えた上で、ほぼ東西同時に挙兵する計画を起こしたのだろう。
+―北条朝直―――北条宣時――――北条宗宣―――北条維貞―――北条貞宗
|(遠江守) (遠江守) (陸奥守) (修理大夫) (陸奥守)
|
+―女子 +―北条時宗―――北条貞時―――北条高時
| ∥ |(相模守) (相模守) (相模守)
| ∥ |
| 千葉介頼胤 北条時頼――+―北条宗頼―――女子
|(千葉介) (相模守) (修理亮) ∥
| ∥――――+―北条守時
+―北条時房―+―北条時盛―――女子 ∥ |(相模守)
|(武蔵守) (越後守) ∥ ∥ |
| ∥―――――――北条義宗―――北条久時 +―平登子
| 平基親――――女子 ∥ (駿河守) (武蔵守) ∥
|(兵部卿) ∥――――――北条長時 足利高氏
| ∥ (武蔵守) (治部大輔)
| ∥
北条時政―+―北条義時 +―北条重時―+―北条業時――――北条時兼―――北条基時―――北条仲時
(遠江守) (陸奥守) |(陸奥守) |(陸奥守) (尾張守) (左馬助) (越後守)
∥ | |
∥――――+―北条朝時 +―女子
∥ (遠江守) ∥―――――――北条時家―――北条高家
比企朝宗―――女子 ∥ ∥ (兵庫頭) (尾張守)
(藤内) ∥――――――北条公時
∥ (尾張守)
大友能直―――女子
(左近将監)
畿内はすでに大塔宮・楠木正成や赤松入道だけではなく、丹波方面から但馬宮静尊法親王を奉じて京都を窺う「頭中将殿(千種中将忠顕)」による在京御家人の切り崩しが加速的に進んでおり、4月1日には千早大手攻めの熊谷小四郎直経に大塔宮から「伊豆国在庁時政子孫高時法師」の「被加征伐」(「大塔宮令旨」『安芸熊谷家文書』)を命じる令旨が下されるとともに、4月中には「可令退治四ヶ国凶徒之旨、被下 綸旨」(「熊谷直経代同直久軍忠状」『安芸熊谷家文書』)が下されている。なお、令旨の当日である4月1日には直経は「於大手西山中尾登先、抽忠節、被疵者也」(「熊谷直経合戦手負注文」『安芸熊谷家文書』)とあるように千早城の山中まで侵入して戦っているが、その直後、熊谷一族は千早陣から撤退して洛南の赤松入道勢と合流したとみられる。
こうした中で4月16日、足利高氏は入洛(『太平記』)。翌17日には早速に「海老名六郎季行ヲ潜ニ伯耆船上ヘ進ラセラレテ、関東ヘ不義、唯天誅ヲ招ク時ヲ得テ候ヘハ、高氏モ御方ニ参奉公ノ忠勤ヲ致シ涯分ニ恩化ヲ仰キ奉ルヘシ」と奏上。先帝後醍醐も叡感を以て「早ク諸国ノ官軍ヲ催シ、不日ニ朝敵ヲ追伐スヘキ」(『太平記』)という綸旨が下されることとなったとされる。
これと同日の4月17日には千種忠顕を通じて陸奥国白河郡の「結城参川前司殿(結城親朝)」へ「前相模守平高時法師」の追討を命じる綸旨を下している(「結城文書」『鎌倉遺文』32094)など、この頃、大塔宮は「高時法師」の誅伐を命じる令旨を頻出している。備後国で強大な影響力を持つ山内首藤三郎通継一族も離反し、5月2日には山崎の赤松勢と合流している(「首藤通継申状」『山内首藤文書』)。
4月21日、六波羅勢は芝山と善峰川を挟む高台の大原野(西京区大原野上里南ノ町周辺)に布陣したが、但馬宮・千種勢の問田林太郎兵衛らが攻め落とした。大原野の陥落により六波羅勢が北部から西岡へ攻め入ることが困難になった。さらに、この頃には千早・金剛山戦線も崩壊し、関東勢は奈良や関東へ落ちていったとみられる。千早・金剛山攻めの失敗は、長滞陣による士気の低下に加え、大塔宮からの令旨や先帝の綸旨などによる切り崩しが奏功したものと思われ、「武行者、為長崎三郎左衛門入道思元聟、属同四郎左衛門尉高貞、発向茅屋城致合戦、去四月落下関東之刻、同五月十日於三河国矢作宿、仁木、細河、武田十郎已下被留畢」(「南部時長等申状」『陸奥南部文書』「南北朝遺文」25)とあるように、長崎思元入道聟の南部三郎次郎武行は長崎四郎左衛門尉高貞の下で千早攻めを行うも、4月下旬には戦線を離脱し関東へ「落下」の途次、5月10日に三河国矢作宿で足利方に捕らえられていることからもうかがえる。こうした千早・金剛山での敗亡はますます関東からの離反を招き、もはや六波羅探題は京都以南の維持が困難になっていたとみられる。これらの状況打開を少しでも打開するべく、桂川西岸から山崎一帯の制圧を至上命題として、名越高家、足利高氏が桂川西岸攻めに出立したとみられる。「西岡」には赤松入道円心、対岸の男山には但馬宮静尊法親王、千種中将忠顕、赤松則祐律師らが布陣していたが、大手の名越尾張前司は久我畷付近に駐屯する六波羅勢と合流して西岡を攻め、搦手の足利高氏は丹波街道を南下して大原野から西岡を目指す手はずであったのだろう。
ところが4月27日に「名越尾張前司発向」したものの、久我畷での赤松勢との戦いの中、「菱河」で早々に討死を遂げてしまった(『鎌倉年代記裏書』「大日本史料」)。赤松勢の一員として参戦していた問田林実広は、この戦いで「討留名越尾張前司一族、取進頸」(「林実広軍忠状」『鎌倉遺文補遺編』)という。実名は不明だが、名越高家に従軍していた名越名字の人物を討ったのだろう。また、赤松入道円心の妹を母とする佐用兵庫介範家も「鎌倉ノ軍大将討名越尾張守高家大ニ在戦功」(「佐用頼景系」『播磨国諸家系図』)という。
一方で、搦手大将軍の足利高氏は、在京中の4月22日には「先代追討ノ御内書」を関東在の「兵部大輔経家并新田義貞」に送り、彼等を「両大将」として関東を討つ指示をしている(田中大喜『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』:『正木文書』)。これは新たな先帝の綸旨が到来し、畿内の情勢も実見したことで、以前からの鎌倉占拠計画を実行に移したのであろう。この両新田への密書と同時に、鎌倉にも新田氏を含む足利一門の鎌倉引き上げが伝えられたと思われる。そして高氏は援兵として「細川阿波守、舎弟源蔵人、掃部介兄弟三人」を関東に派遣したという(『梅松論』)。
名越高家が久我畷の戦いで討死を遂げた4月27日、足利高氏は西岡攻めの搦手軍として丹波路へ進んでいたが、南下することなくそのまま西行して大江山を越え丹波国篠村(亀岡市篠町)に入った。高氏はここに数日滞陣し、「結城上野入道殿(結城宗広入道)」(「結城文書」)、「小笠原殿(小笠原貞宗)」(『笠系大成附録』)、「周防五郎三郎との(島津忠兼)」(『島津家文書』)、「野介高太郎殿」(『前田氏所蔵文書』)、「嶋津上総入道との(島津貞久)」(『薩藩日記』)、「大友近江入道殿(大友貞宗)」(『大友文書』)、「阿蘇前太宮司殿(阿蘇惟直)」(『阿蘇家譜』)など各地の有力御家人に「自伯耆国蒙 勅命候之旨参候、合力之旨本意候」と、関東を見限ることへの協力を求める文書を発給している。遠方の島津貞久入道に宛てた「書状」はわずか幅が7センチメートル余りの布地に数通認められており、密使に託したものであったと考えられる。そして4月29日、篠村八幡宮(亀岡市篠町篠)に「随 勅命所挙義兵也、然間占丹州之篠村宿、立白旗」(『丹波篠村八幡宮文書』『鎌倉遺文』32120)と誓い、挙兵したのであった。そして5月2日、高氏は先帝後醍醐に対し、「綸旨重令拝見候」と二度目の綸旨(一度目は前年上洛時か)を拝見したことを述べ、「任 勅命、先日拝領状之請文、弥可抽軍忠候」と報告している(「足利高氏請文」『伊勢光明寺残篇』『鎌倉遺文』32127)。
一方、同日には「千寿王丸、竹王丸、鎌倉没落」(『大乗院日記目録』)とあるように、高氏の嫡子千寿王と、庶長子「竹王丸(実際は竹若丸)」が密かに鎌倉から遁れている。鎌倉脱出後の千寿王丸は北上して新田経家・新田義貞と合流に成功するが、西へ向かった竹若丸は「長崎勘解由左衛門沙汰」によって駿河国「浮島原」で捕らえられて討たれた(『大乗院日記目録』)。竹若丸は「母加子六郎女」(『諸家系図纂』)で、「尊氏謀反之時、伊豆国走湯山頼中坊同心、忍上洛」のときに「駿河国江尻原自害」という(『諸家系図纂』)。竹若丸が頼ったのは、足利宮内少輔泰氏の子・加古六郎基氏の末子で「密厳院別当」の「加古法印 覚遍」(『尊卑分脈』)であった。竹若丸の叔父にあたる。覚遍は「元弘三壬八―討死」とあるが、これは「元弘三五八―討死」の誤りであろう。5月2日に鎌倉を脱出した竹若丸は伊豆山で覚遍法印と合流して西へ向かったものの、高時入道が遣わした両使の長崎勘解由左衛門入道・諏訪木工左衛門入道の両名に探索され、5月8日に浮島原で討たれたということになる。つまり、足利一門が鎌倉から消えたことで鎌倉は急遽所縁の場所を捜索し、密厳院由緒の竹若丸は早々に追捕されたと思われる。しかし、赤橋北条家所縁の千寿王丸は逃亡先を想定し得ずに取り逃がしている。おそらく鎌倉在の新田氏とともに上野国へと逃れたのであろう。なお、長崎等は駿河国高橋で六波羅からの早馬と出会い、名越高家の討死と足利高氏の叛旗を知らされたという(『太平記』)。
駿河国にはのちに「竹若御料御菩提所、駿河国宝樹院」(『諸家文書纂』)が建立され、高氏から寺領が寄進されている。なお、伊豆山密厳院は頼朝の師僧阿闍梨覚渕が開いて以来、鎌倉殿の信仰篤い寺院であったが、足利泰氏の子の覚玄法印、覚海法印、曽孫頼潤法印(別当記載なし)が別当となるなど、鎌倉期初中期には足利家が別当を輩出する寺院となっていた。竹若の叔父・別当覚編法印もその跡を受けており、密厳院は「是則前別当覚遍法印御一家、并竹若御料人等持寺殿御息、の御遺跡として殊に興隆を致し、彼御菩提を訪申へきよし、慇懃の仰を承て」(『醍醐寺文書』3696)とあることから、高氏は竹若丸を別当覚遍に付し、いずれ密厳院の別当に据える予定だったとみられる。
5月7日、足利高氏は京都に発向して六波羅を攻めた。高氏は丹波国から京都へ入っていることから六条坊門小路から入京したと思われ、東進して六波羅探題北方へ向かったのだろう。一方、桂川西岸の赤松・千種勢は、「鳥羽造道」(「源頼連申状案」『毛利家文書』)、「東寺造道」(「雅楽助源頼連申状案」『毛利家文書』)、「竹田河原、高倉縄手」(「僧清源申状」『毛利家文書』)を北上していることから、壬生大路から高倉小路にかけて東西幅広く入京し、六波羅南方へ迫ったのだろう。六波羅勢は鴨川を防衛線として徹底抗戦しており、寄手も問田林実広が「於六波羅西河原、終日終夜抽軍忠」(「林実広軍忠状」『鎌倉遺文補遺編』)と鴨川の河原で奮戦していることがわかる。南側の寄手は鴨川の防衛線を突破すると六波羅館の「六波羅南角箭倉之際」(「雅楽助源頼連申状案」『毛利家文書』)、「六波羅未申角箭倉之際」(「僧清源申状」『毛利家文書』)で戦っているが、「南角箭倉之際」は六波羅館の隅櫓の一つとみられ、ここから散々に矢箭を降らせたのだろう。
しかし、六波羅はすでに寡兵であったところに、本来加勢だった足利高氏が敵勢として攻め寄せ、さらに西国の御家人がこぞって離反する中で支え切れるはずもなく、7日の夕刻、「為女官沙汰、内侍所奉入権大納言公宗卿北山第」と女官に神鏡を持たせて北山の西園寺家別邸に遷した(『皇年代略記』)。そして「元弘三年五月八日、仲時時益奉具新主両主没落関東」(『皇年代略記』)と、探題北方の越後守仲時、南方の左近将監時益は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を奉じて関東へ向けて出京した(『元弘日記裏書』)。寡勢の中で縦横に緻密に手を配り、幾度にもわたり敵勢の侵入を防いだ名探題も万事これまでと決断した結果である。
そして探題南方の左近将監時益は「於関山伏誅」(『元弘日記裏書』)または「江州四宮川原」(『尊卑分脈』)で討死を遂げた。北方の越後守仲時はここを切り抜け、南方の祗候人も同道して近江国坂田郡の山間まで落ち延びたが、ここで敵勢に囲まれ「仲時西山ニ取上テ合戦スと云ヘドモ不叶シテ腹ヲ切畢」(『保暦間記』)と仲時は番場宿西側の高台に登って合戦するも衆寡敵せず、仲時以下四百三十二名は「番場宿米山麓一向堂前」で討死、自害を遂げた(『近江国番場宿蓮華寺過去帳』)。そして「於江州馬場宿辺、三皇令留給、是守護輩自殺之故也」と、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇の三皇は守護する人々が壊滅したことで進退窮まり、そのまま近江国に留まることとなる。また、三皇に供奉した日野権大納言資名、坊門権中納言俊実らも同地で出家を遂げている(『公卿補任』)。
この逃避行では越後守仲時のもと、北条庶流の櫻田、苅田氏を筆頭に北条家有力被官の高橋氏、隅田氏、安東氏、陶山氏、糟屋氏ら六波羅祗候の武士が戦い、あるいは自害して散っている。自刃を遂げた人々のうちには、隠岐国で先帝後醍醐の警衛をした隠岐守護・佐々木清高、関東評定衆の二階堂忠貞入道、笠置攻めの大将軍のひとり河越参河前司、六波羅評定衆の三善康世ら重鎮の御家人も見える。
●『近江国番場宿蓮華寺過去帳』より(188名)
越後守仲時 (六波羅北方) |
櫻田治部大輔入道浄心 (北条貞国入道) |
苅田彦三郎師時 (北条師時) | 高橋参河守時英 | 高橋孫四郎業時 |
高橋又四郎範時 | 高橋五郎盛時 | 高橋孫四郎左衛門元時 | 隅田左衛門尉時親 | 隅田孫五郎清親 |
隅田藤内左衛門尉八村 | 隅田与一真親 | 隅田四郎光親 | 隅田五郎重親 | 隅田新左衛門尉信近 |
隅田孫七国村 | 隅田又五郎能近 | 隅田藤三国近 | 隅田三郎祐近 | 安東太郎左衛門尉祥兼 |
安東左衛門太郎則兼 | 安東左衛門三郎則満 | 安東三郎基兼 | 中布利五郎左衛門尉綱能 | 石見彦三郎吉国 |
武田下条十郎光高 | 関屋八郎為好 | 関屋十郎為経 | 黒田新左衛門尉俊保 | 竹井太郎盛充 |
竹井掃部左衛門尉貞昭 | 斎藤十郎兵衛尉基親 | 勘解由三郎兵衛尉長兼 | 皆吉左京亮旃信 | 小屋木七郎知秀 |
加藤七郎斯決 | 塩屋右馬允渲恒 | 内海八郎善宣 | 海上八郎教詣 | 岡田平六兵衛尉遠秀 |
岩切三郎左衛門尉有益 | 窪平右衛門入道陵玄 | (計42名) | ||
一向堂大庭討死 | ||||
窪新右衛門尉宣高 | 窪四郎宣政 | 木工助入道祐善 | 分次郎法真 | 吉井彦三郎忠連 |
吉井四郎忠信 | 壱岐孫七郎貞住 | 窪次郎宣次 | (計8名) | |
南方内人々 | ||||
糟屋弥次郎入道明翁 | 糟屋弥三郎入道道教 | 糟屋彦三郎入道倫芳 | 糟屋六郎渲次 | 糟屋五郎易隆 |
糟屋次郎重俊 | 糟屋三郎能隆 | 糟屋又次郎重安 | 糟屋新左衛門経春 | 糟屋左衛門次郎伴興 |
糟屋七郎三郎伴範 | 糟屋藤三郎家泰 | 大井次郎伴光 | 櫛橋次郎左衛門尉義守 | 南和五郎家盛 |
南和又五郎貞経 | 原宗左近将監入道憐戒 | 原宗彦七定行 | 原宗十郎次郎俊茂 | 豊島平五重経 |
豊島七郎家倍 | 豊島平右馬三郎為住 | 豊島五郎貞秋 | 土肥三郎則実 | 土肥五郎元実 |
御器所安東七郎経倫 | 平塚弥四郎為稔 | 西郡十郎国演 | 怒借屋彦三郎保弘 | (計29名) |
一向堂仏前自害 | ||||
穐次次郎兵衛尉則光 (秋月種道?) | 半田彦三郎稔弘 | 華房六郎兵衛入道全幸 | 毎田三郎則弘 | 宮崎三郎恒則 |
中間平五郎 | 宮崎太郎次郎恒利 | 宮崎上総三郎恒遠 | 山木八郎入道玄桓 | 山木十郎入道源徳 |
山木彦三郎繁盛 | 山木小五郎為盛 | 山木彦五郎為泰 | 山木孫十郎繁教 | 足立源五長秋 |
足立参河又六則利 | 足立弥六則愰 | 黒田次郎左衛門尉憲満 | 広田五郎左衛門尉経英 | 佐々木隠岐前司清高 |
佐々木次郎右衛門尉泰高 | 佐々木三郎兵衛尉高秀 | 佐々木永寿丸 | 片山十郎次郎入道祐珪 | 片山弥次郎祥明 |
伊祐三郎家高 | 伊祐治部丞義高 | 伊祐孫八郎高通 | 治田八郎良決 | 走井三郎家景 |
中野井次兼尚 | 木村四郎正高 | 二階堂伊勢入道行照 | 石井中務忠光 | 石井孫次郎忠泰 |
石井四郎程国 | 海老名四郎忠景 | 海老名与三忠元 | 石川九郎道幹 | 石川亦次郎通近 |
新藤六郎元弘 | 片依小八郎忠光 |
豊後民部大輔三善康世 (六波羅評定衆) | 三善三郎入道善照 | 三善彦太郎康顕 |
三善孫太郎康明 | 武田与次光方 | 兒島介三郎顕氏 | 兒島助太郎氏明 | 真木野藤左衛門尉朝安 |
池守藤内兵衛尉行直 | 池守左衛門五郎行重 | 池守左衛門七郎行俊 | 池守新右衛門尉顕重 | 池守左衛門太郎顕行 |
牧野藤左衛門尉忠秋 | 問注所信濃少輔外記清近 | 問注所阿子光丸 | 問注所彦太郎良近 | 斎藤宮内丞教親 |
斎藤阿千丸 | 筑前民部大輔伴弘 | 筑前七郎左衛門尉家景 | 田村中務入道明鑑 | 田村彦五郎資信 |
田村兵衛次郎親信 | 真上彦三郎持直 | 真上又三郎信直 | 陶山次郎清直 | 陶山備中守清房 |
陶山与次清泰 | 陶山小四郎敏信 | 陶山四郎入道祥宗 | 陶山九郎元良 | 陶山四郎盛宣 |
陶山三郎敏忠 | 陶山与三清弘 | 陶山彦九郎清忠 | 陶山七郎直清 | 陶山彦三郎俊景 |
陶山又四郎敏実 | 陶山紀七敏直 | 陶山新藤五入道正通 | 陶山又三郎真次 | 陶山肥後房海範 |
陶山新三郎祥近 | 陶山新次郎良房 | 陶山小五郎真倫 | 小宮山孫太郎吉愰 | 小宮山小三郎師光 |
高見孫三郎近好 | 小宮山六郎次郎規真 | 菅野源五助光 (小宮山規真若党) | 塩谷弥三郎家弘 | 荘左衛門四郎俊光 |
藤田六郎種法 | 藤田七郎頼宣 | 新藤彦四郎能忠 | 金子十郎左衛門尉伴弘 | 真壁三郎秀忠 |
江馬彦次郎常久 | 長崎与三種長 | 近部七郎種次 | 能登彦次郎為祐 | 川越参河入道乗誓 |
木戸三郎家保 (川越参河若党) | 新野四郎朝繁 | 甘糟三郎左衛門尉清経 | 甘糟七郎知清 | (計109名) |
5月8日、頭中将忠顕は「伯州詔」を奉じ、権大納言公宗の北山第に遷されていた内侍所を禁中へ移し奉った(『皇年代記』)。
一方、関東においても「尊氏のすえの一ぞくなる新田小四郎義貞といふもの、今の高氏の子四になりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさをおしてけり」(『増鏡』)とあるように、高氏の「先代追討ノ御内書」を受けた「兵部大輔経家并新田義貞」(『正木文書』)が高氏嫡子の千寿王丸を擁して挙兵した。なお、「紀五」こと紀五左衛門尉政綱は、挙兵前に岩松下野五郎経家へ「内状」を遣わしており(応永廿二年十月十五日「岩松満親文書注文写」『正木文書』)、この内状は鎌倉を脱出する千寿王が経家を頼る旨の書状かもしれない。
●応永22(1415)年10月15日「岩松満親文書注文写」(『正木文書』)
●千葉=北条周辺系図
千葉介常胤―+―相馬師常―――相馬義胤――――相馬胤綱
|(次郎) (五郎) (左衛門尉)
| ∥―――――――相馬胤村
| ∥ (左衛門尉)
| 天野遠景―――天野政景 +―娘
|(左衛門尉) (和泉守) |(相馬尼) +―北条貞将
| ∥ | |(武蔵守)
| ∥―――――+―娘 |
| ∥ ∥―――――――北条実時―――北条顕時――+―北条貞顕―+―北条貞冬
| 三浦介義澄――娘 ∥ (越後守) (越後守) |(武蔵守) (右馬助)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―女子
| ∥ ∥ (釈迦堂殿)
| ∥ ∥ ∥――――――足利高義
| ∥ ∥ ∥ (左馬頭)
| ∥ ∥ 足利貞氏
| ∥ ∥ (讃岐守)
| ∥ ∥
| ∥ ∥―――――――女子
| +―北条義時――――北条実泰 +―千田泰胤―+―女子 ∥
| |(陸奥守) (五郎) |(五郎) | ∥――――――千葉介貞胤
| | | | ∥ (千葉介)
| +―北条時房――――――――――――女子 +―女子 ∥
| (左京権大夫) | ∥ ∥ ∥
| | ∥ ∥―――――――千葉介胤宗
| | ∥ ∥ (千葉介)
| | ∥――――――千葉介頼胤
| | ∥ (千葉介)
+―千葉介胤正――千葉介成胤―+―千葉介胤綱―+―千葉介時胤
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) (千葉介)
|
+―娘(北条時頼の後室・千田尼)
生品神社 |
正慶2(1333)年5月8日、新田太郎義貞が上野国新田庄の生品神社で鎌倉打倒の兵を挙げた。この挙兵には高氏嫡子の千寿王丸が擁立されたとされており(『増鏡』)、最近の研究では新田氏は鎌倉前期の新田政義の自由出家による没落で舅足利家の庇護を受けて以降、足利家一門とされたとの説がある(田中大喜『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』)。
当時の足利家当主・前治部大輔高氏は摂津・丹波との国境である桂川西岸地域から山崎方面を奪還する六波羅探題の援兵として上洛中であったが、4月22日、在関東の「(岩松)兵部大輔経家并新田義貞」に「先代追討ノ御内書」を送り、彼等を「両大将」として討幕の挙兵を指示しており(応永三十三年七月「岩松伊予守満長代成次書状」『正木文書』)、新田経家と新田義貞の挙兵はこの御内書のもと行われたとみられる。「上野国ニ高氏一族新田義貞ト云者アリ、早鎌倉ヘ発向ス、尊氏カ息男アリ、共合戦ヲ可致由ヲ尊氏催促ス、則義貞彼命ヲ受ヲ、武蔵上野相模等ヲ催シテ鎌倉ヘ馳上」(『保暦間記』)ったという。足利家は宗家のほか、尾張守家(斯波家)、上総介家(吉良家)、渋川家ら独立した一門がいたが、新田家も彼らと同様に足利一門として包摂される御家人であったのだろう。なお、新田一門は彼らよりも遠縁にあたり、足利を称する一門より独立性は高かったとみられる。
『太平記』によれば5月9日に鎌倉では軍評定が行われ、翌10日にまず「金澤武蔵守貞将、五万余騎ヲ差副テ下河辺ヘ下」した。この金澤勢は「上総下総ノ勢ヲ附テ、敵ノ後攻ヲセヨトナリ」(『太平記』)の搦手であった。そして、鎌倉道を下ってくる新田勢を食い止める大手には「桜田治部大輔貞国ヲ大将ニテ、長崎二郎高重、同孫四郎左衛門尉、加治二郎左衛門入道」に「武蔵上野両国ノ勢六万余騎ヲ相副」(『太平記』)て入間川へと派遣したという。ただし、桜田治部大輔貞国は近江国番場で北方仲時とともに自刃しており、ここに出陣した桜田某は貞国ではない。
▲新田義貞の鎌倉攻め(鎌倉をクリック) |
新田勢は5月11日、入間川で川を挟んで桜田勢と対峙し、小手指原で桜田治部大輔貞国(実際は貞国ではない)、長崎四郎高重、長崎孫四郎左衛門尉率いる鎌倉勢と合戦に及び、鎌倉勢は敗北して防衛線を久米川まで下げる。翌12日の久米川の戦いでも鎌倉勢はわずかに敗れ、さらに分倍河原まで撤退した(『太平記』)。なお、足利高氏の嫡子・千寿王は義貞の庇護のもと新田庄世良田宿に匿われており、少なくとも12日までは世良田宿にあり、「新田三河弥次郎満義世良田」もその麾下にあった(「鹿島利氏申状写」『南北朝遺文 関東編』1356)。『太平記』では9日に武蔵国へ入った時点で千寿王が新田勢に加わったことが記されているが、事実ではない。
久米川の敗報を受けた北条高時入道は、5月14日、「高時ノ弟左近大夫将監入道恵性ヲ大将トシテ武蔵国ニ発向ス、同日山口ノ庄ノ山野陣ヲ取」ったといい、その派遣された諸将は「舎弟四郎左近大夫入道恵性ヲ大将軍トシテ、塩田陸奥守入道、安保左衛門入道、城越後守、長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明」(『太平記』)と伝わる。
翌15日に「分配関戸河原ニテ終日戦ケルニ、命ヲ殞シ創ヲ被ル者幾千万ト云数ヲ知ス、中ニモ親衛禅門ノ宗徒ノ者共安保左衛門入道道潭、粟田横溝八郎最前ニ討死ヲシケル間、鎌倉勢悉ク引退ク処ニ、即大勢攻上ル間、鎌倉中ノ騒キ只今敵ノ乱入タランモ角ヤチ覚シ」(『梅松論』)という。ただし、分倍河原の戦いでは左近大夫将監入道は桜田貞国と合流し、その勢いのままに新田勢を打ち破り、堀金(狭山市堀兼)まで追い落としたとされる(『太平記』)。このとき新田勢の上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)の御家人「飽間斉藤三郎藤原盛貞 生年廿六」「同孫七家行 廿三」が「討死」を遂げている(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)。
分倍河原の戦いで手痛い反撃を食った新田勢だったが、5月15日夕刻、義貞のもとに三浦一族・大多和平六左衛門義勝が松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷ら相模武士六千騎を率いて着陣。これに喜んだ義貞は、彼らを先陣として翌16日明け方に分倍河原まで進軍。鎌倉勢に襲いかかり追い落としたという(『太平記』)。
●『太平記』にみる鎌倉攻め三手(『太平記』の記述だが、信憑性はない)
極楽寺切通 | 大館二郎宗氏、江田三郎行義 |
巨福呂坂 | 堀口三郎貞満、大嶋讃岐守守之 |
大将 | 新田義貞、脇屋義助(堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達) |
千葉介貞胤の動向は、『太平記』においては「上総下総ノ勢」が武蔵守貞将に従って下河辺庄へと進んだ旨が記されており、史実性にかなり疑問の多い『太平記』の記述ではあるが、千葉介貞胤も従兄弟の貞将の軍勢に加わっていた可能性はある。
しかしその後、「搦手ノ大将ニテ下河辺ヘ被向タリシ金沢武蔵守貞将ハ、小山判官、千葉介ニ打負テ下道ヨリ鎌倉へ引返シ給ケレバ、思ノ外ナル珍事哉ト人皆周章シケル」(『太平記』)とあり、千葉介貞胤はその途上で小山判官高朝とともに寝返り、貞将を襲ったのではあるまいか。なお、『梅松論』では「下ノ道ノ大将ハ武蔵守貞将向フ処ニ下総国ヨリ千葉介貞胤、義貞ニ同心ノ儀有テ攻上ル間、武蔵ノ鶴見ノ辺ニ於テ相戦ケルガ、コレモ打負テ引退」(『梅松論』)とあり、戦った場所は武蔵国鶴見であるという。
千葉介貞胤と小山高朝が歩調を合わせて新田勢に呼応したのは、おそらく高氏からの御内書とともに両者の相談があったためであろう。もともと貞胤と高朝はともに先帝後醍醐の配流の護送を行ったり(『太平記』)、同時期に在京するなど接点も多く、交流もあったと思われる。高氏は4月27日から29日にかけて丹波国篠村で「自伯耆国、所蒙 勅命也」として諸大名に対して「令合力給候」ことを指示(「足利高氏軍勢催促状案」:『鎌倉遺文』)しており、当然貞胤や高朝にも催促状が出されていたのだろう。高氏の鎌倉占拠の計画は前述の通り、鎌倉に居住していた時点で練られていた(占拠の根拠は上洛時の先帝綸旨であろう)と思われ、3月の新田義貞の千早・金剛山からの帰国は高氏が呼び戻したものではなかろうか。ところが直後に高氏は六波羅の援兵として上洛することとなり、計画が一時とん挫したと思われる。その計画を再び動かしたものが、4月22日の御内書であったのだろう。鶴見で金澤勢を破った千葉・小山勢は、そのまま六浦道から鎌倉東側の朝比奈からの突入が考えられるが、千葉・小山勢が鎌倉で戦った記録はなく、鶴見以降の貞胤・高朝の動向は不明である。
また、楠木城攻めの大将軍の一人として上洛し、万里小路藤房を預かった常陸国の小田尾張権守高知も関東離反の姿勢を示したと思われ、彼の預かる新治郡の藤房卿配流屋敷には4月19日、「常陸国御家人」の「■■小四郎久幹、■■又四郎幹国」が馳せ参じている(『税所文書』)。
この頃、新田勢追捕の大手大将軍の北条四郎入道、搦手大将軍の武蔵守貞将の大敗に加え、六波羅探題の陥落も鎌倉に達しており、こうした急激な状勢の変化に鎌倉は周章した。このような中でも得宗高時入道は寡兵ながらも諸所に一門を手配し、執権の相模守守時(足利高氏義兄)には洲崎(鎌倉市大船)の敵を防ぐことを命じ、守時は5月18日に「此陣ノ軍剛シテ、一日一夜ノ其間ニ六十五度マデ切合タリ」(『太平記』)という奮戦をみせた。義弟足利高氏らが六波羅を落とし、足利一門の新田勢が鎌倉を攻めるという事態に深い憂慮と責任を感じていたのではなかろうか。この戦いは双方に多数の死者を出し、新田勢でもこの日「飽間孫三郎宗長 卅五」が「村岡(藤沢市村岡)」で討死したことが知られる(「武蔵府中・相模村岡合戦討死者供養板碑銘」『鎌倉遺文』32175)。しかし、寡勢の守時勢は次第に打ち斃され、「五月十八日、赤橋相州自害了」(『大乗院日記目録』)とあるように守時は「帷幕ノ中ニ物具脱捨、腹十文字ニ切給ヒテ、北枕ニソ伏給」った(『太平記』)。そして守時に従っていた得宗被官の南条左衛門高直も「大将既ニ御自害アル上ハ、士卒誰為ニ命ヲ惜ヘキ、イテサラハ御供申サン」と、九十余名もこれに殉じた(『太平記』)。その後、洲崎を破った新田勢は山ノ内まで軍を進めた(『太平記』)。
新田勢が実際に三軍に分かれたかどうかは不明ながら、「搦手大将軍新田兵部大輔(当時は新田下野五郎経家)」は5月19日に巨福呂坂口近辺にあった長勝寺(現在の材木座長勝寺との関係は不明)の前で合戦しており、さらに20日から22日にかけて巨福呂坂で合戦があったことがわかる(『群馬県史 資料編中世2』資料569)。実際の鎌倉攻めは、高氏の命を受けた「兵部大輔経家并新田義貞」の「両大将」が大手大将軍の新田義貞、搦手大将軍の新田下野五郎(兵部大輔経家)が大きく二手に分かれて鎌倉を攻めたのであろう。洲崎で執権北条守時と直接戦ったのは、その後巨福呂坂に攻め入っている新田岩松経家であったと思われる。そして、この鎌倉攻めのときには足利千寿王(高氏嫡男)が世良田から迎えられており、千寿王に従軍していた「新田三河弥次郎(世良田満義)」が21日に鎌倉市中で戦っている。ここは大手新田義貞の管轄であることから、千寿王は新田義貞の陣中にいたとみられる。
●実際の鎌倉攻め(軍忠状より抜粋)で従軍したことが判明する人々
方面 | 大将軍 | 資料でみられる従軍御家人(●は大将軍) |
大手大将軍 ・極楽寺坂 ・大仏坂 |
足利千寿王 | |
新田太郎義貞 | ●新田孫次郎盛成(5/19~21極楽寺坂大将軍:妙本寺系図) ●新田蔵人七郎氏義 ・三木俊連(5/21霊山攻) ・三木行俊(5/21霊山攻) ・三木貞俊(5/21霊山攻) ●新田大館宗氏(5/18稲村崎、浜鳥居討死) ●新田大館孫次郎幸氏(5/21浜鳥居脇駆入) ・大塚五郎次郎員成(5/21浜鳥居参戦、6/1二階堂御所着到) ・大塚三郎成光(5/21浜鳥居討死) 大多和太郎遠明(5/21浜鳥居合戦) 海老名藤四郎頼親(5/21浜鳥居合戦) 飽間三郎盛貞(5/15府中討死) 結城上野入道道忠(5/18~22合戦) ・ 田嶋与七左衛門尉広堯(同上) ・ 片見彦三郎祐義(同上) 市村王石丸代後藤弥四郎信明(5/15分倍河原参戦、5/18前浜一向堂前参戦) 塙大和守政茂(5/16入間川着到、5/19極楽寺坂参戦) 徳宿彦太郎幹宗(5/19極楽寺坂参戦) 宍戸安芸四郎知時(5/19極楽寺坂参戦) ●新田遠江又五郎経政 ・熊谷平四郎直春(5/16参戦、5/20霊山寺下討死) ・ 吉江三位律師奝実 ・ 齊藤卿房良俊 石川七郎義光(5/17瀬谷参陣、5/18稲村崎参戦、5/21前浜合戦) 藤田左近五郎(5/18稲村崎参戦) 藤田又四郎(5/18稲村崎参戦) 岡部又四郎(5/21前浜合戦) 藤田十郎三郎(5/21前浜合戦) ●武田孫五郎信高(霊山大将軍) ・南部五郎二郎時長(5/20霊山参戦、5/22高時館合戦) ・南部行長(5/20霊山参戦) ・中村三郎二郎常光(5/20霊山討死) ・南部六郎政長(5/15~22鎌倉合戦参戦) ●新田三河弥次郎満義(5/20霊山参戦) ・鹿島尾張権守利氏(5/12世良田千寿王陣着到) 天野周防七郎左衛門尉経顕(5/18片瀬原着到、稲村崎、稲瀬川、前浜参戦 5/22葛西谷合戦参戦) ・天野三郎経政(5/18片瀬原着到、稲村崎、稲瀬川、前浜参戦 5/22葛西谷合戦参戦) 新田矢嶋次郎(5/22葛西谷合戦参戦) 山上七郎五郎(5/22葛西谷合戦参戦) |
|
搦手大将軍 ・巨福呂坂 ・化粧坂 |
新田下野五郎(岩松経家) | 飽間孫三郎宗長(5/18村岡討死) ●岡部三郎(侍大将) ・布施五郎資平(5/19長勝寺前合戦、5/20~22小袋坂合戦) |
新田義貞率いる大手勢は洲崎合戦と同日の18日には極楽寺坂方面へ集結し、「新田殿前代合戦之最初、聖福寺江被取陣事」(「正続院領相模国山内庄秋庭郷内信濃村事」『鎌倉円覚寺文書』)とあるように、北条時頼入道建立と言われる聖福寺に陣を取ったという。そして大手勢に加わっていた「天野周防七郎左衛門尉経顕」「子息三郎経政」は「最前馳参于片瀬原」し、「懸破稲村崎之陣迫于稲瀬河并前浜鳥居脇致合戦」で若党の犬居左衛門五郎茂宗、小河彦七安重、中間孫五郎藤次らが討死を遂げている(「天野経顕軍忠状写」『群馬県史 資料編6中世2』番号583)。
天野遠景――天野政景―+―天野景経――天野遠時―――――天野経顕―――――――天野経政
(藤内) (和泉守) |(安芸守) (周防守) (周防七郎左衛門尉) (三郎)
|
+―女子
(相馬尼)
∥―――――相馬胤村―――――相馬師胤―――――――相馬重胤
∥ (孫五郎左衛門尉)(彦次郎) (孫五郎)
相馬師常――相馬義胤―――相馬胤綱
(次郎) (五郎) (小次郎左衛門尉)
また「陸奥国石川七郎源義光」も17日に「相模国世野原(横浜市瀬谷区)」に馳せ参じ、翌18日には「稲村崎致散々合戦」して右膝を射られている(『石川文書』)。常陸国鹿島郡の御家人「塙大和守平政茂」は5月16日に「武蔵国入間河御陣馳参」じ、19日の「極楽寺坂於合戦先手馳向、家人丸場次郎忠邦、怨敵三騎討捕、同山本四郎義長討死之事、徳宿彦太郎幹宗、宍戸安芸四郎同時合戦」(『塙文書』)であった。そして千早・金剛山を攻めるべく上洛していた「武蔵国小四郎直経(熊谷直経)」の留守であったと思われる子・平四郎直春は、5月16日に新田勢に馳せ参じ、20日には「新田遠江又五郎経政御手、就致軍忠、於鎌倉霊山寺之下討死畢」と討死を遂げている(『閥閲録』)。
前述のように天野周防七郎左衛門尉経顕の軍勢が「懸破稲村崎之陣」り、海岸線を伝って「前浜鳥居脇」まで侵入しており、新田勢は5月18日に「稲村崎ヲ経テ前浜ノ在家ヲ焼払フ煙見ヘケレハ、鎌倉中ノ周章フタメキケル有様タトヘテ云ン方ソナキ」状況であった(『梅松論』)。二年後の建武2(1335)年11月6日、足利尊氏は「天野安芸七郎殿」に「鎌倉中入口内稲村崎警固事、一族相共可致厳密之沙汰」を命じているように、天野氏は稲村崎周辺の地理に明るい氏族であったとみられ、近辺に屋敷があった可能性があろう、なお、稲村崎は「鎌倉中入口」であって、『太平記』に見られるような奇襲路ではない。
しかし、北条方も「高時ノ家人諏訪長崎以下ノ輩、身命ヲ捨テ防戦ケル程ニ、当日ノ浜ノ手ノ大将大館、稲瀬河ニ於テ討捕、其ノ手引退テ霊山ノ頂ニ陣ヲ取」ったといい(『梅松論』)、新田勢大将軍の一人、大館次郎宗氏が「得川弥四郎光秀」(『尊卑分脈』)によって討たれている。
+―北条有時――+―――――――――――――――――――女子
|(駿河守) | ∥―――――+―堀口貞義―――堀口貞満
| | ∥ |(美濃守) (美濃守)
| +―女子 ∥ ?
| ∥ ∥ +―一井貞政―――一井政家
| ∥ ∥ (民部権大夫)(左近将監)
+―名越朝時――+―名越時幸 ∥
|(遠江守) |(遠江修理亮) ∥
| | ∥
| | 新田義房――――新田政義――――――堀口家貞
| |(上西門院蔵人)(小太郎) (孫次郎)
| | ∥
| | ∥ +―新田政氏――――新田基氏―――新田朝氏―――新田義貞
| | ∥ |(又太郎) (小太郎) (小太郎) (小太郎)
| | ∥ |
| | ∥―――――――+―大館家氏――――大館宗氏―+―大館幸氏
| | ∥ (又次郎) (又次郎) |(孫二郎)
| | ∥ |
| | 足利義氏――+―女子 +―大館氏明
| |(左馬頭) | (左馬助)
| | ∥ |
| | ∥ +―足利長氏――――+―足利満氏――――吉良貞義―――吉良満義
| | ∥ |(上総介) |(上総介) (上総介) (左京大夫)
| | ∥ | |
| | ∥ +―大僧正最信 +―今川国氏――――今川基氏―――今川国範
| | ∥ |(勝長寿院別当) (四郎) (太郎) (五郎)
| | ∥ |
| | ∥ | +―四条隆量
| | ∥ | |(左近衛少将)
| | ∥ +―女子 |
| | ∥ ∥―――――――――四条隆顕――+―四条隆資―+―四条隆重
| | ∥ ∥ (左近衛中将)|(大納言) (左近衛少将)
| | ∥ ∥ |
| | ∥ 四条隆親 +―女子
| | ∥ (大納言) ∥――――――吉田宗房
| | ∥ ∥ (右大臣)
| +―――――――――女子 吉田定房
| ∥ ∥ (内大臣)
| ∥ ∥――――――+――足利家氏
| ∥ ∥ | (尾張守)
| ∥ ∥ | ∥―――――――足利宗家
| ∥ ∥ | ∥ (左近将監)
| ∥ ∥ |+―女子 ∥――――――足利宗氏
| ∥ ∥ || ∥ (尾張守)
+―北条重時――――――――――――――北条時継――――――――――――女子 ∥――――+―足利高経
|(陸奥守) ∥ ∥(式部大夫)|| ∥ |(尾張守)
| ∥ ∥ || ∥ |
| ∥ ∥ || 長井時秀―――女子 +―足利家兼
| ∥ ∥ || (宮内権大輔) (左京権大夫)
| ∥ +―――北条為時――+―女子
| ∥ | ∥(遠江守) | ∥―――――――渋川義春
| ∥ | ∥ | ∥ (次郎三郎)
| ∥―――――――足利泰氏 +――足利義顕 ∥――――――渋川貞頼―――渋川義季
| ∥ |(宮内少輔) (二郎) ∥ (兵部大輔) (刑部権大輔)
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | ∥ 北条時村――――北条時広――――女子 +―足利高氏
| ∥ | ∥(五郎) (越前守) |(治部大輔)
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥―――――――――足利頼氏――――足利家時―――足利貞氏―+―足利高国
北条義時―+―北条泰時――+―女子 +―女子 (治部大輔) (伊予守) (讃岐守) (兵部大輔)
(陸奥守) (左京権大夫)| |
| |
+―北条時氏――+―北条時頼――――――北条時宗――――北条貞時―――北条高時
(修理亮) (相模守) (相模守) (相模守) (相模守)
新田勢は数度にわたって鎌倉市中に攻め入り、21日には大規模な戦闘が行われた。なお、鎌倉内でも新田勢に呼応した反乱が起こっていたと思われ、去る4月2日に「抑相催一族已下軍勢、可令誅罰伊豆国在庁高時法師等凶徒由事」の(大塔宮)令旨を受けた得宗地頭代「沙弥道忠(白河結城宗広入道)」は白河在住の「愚息親朝、親光」、在鎌倉の「舎弟祐義、広堯等」、そしておそらく京都にいたと思われる「熱田伯耆七郎(「親類伯耆又七朝保」の父か)」に令旨を伝えるとともに、4月17日に「陸奥出羽両国軍勢可令征伐前相模守平高時法師以下凶徒」の先帝綸旨を「折節幸在鎌倉仕候」を受けて挙兵の心を固め、時勢を窺いながら鎌倉を見限り、5月18日の新田勢の鎌倉侵入に呼応し「先於鎌倉、相率道忠舎弟片見彦三郎祐義、同子息二人、田島与七左衛門尉広堯、同子息一人并家人」(「白河証古文書」『楓軒文書纂文書』)を率いて鎌倉内で兵を挙げたとみられる。こうした在鎌倉で鎌倉を離反した御家人はおそらく白河結城氏に限ったものではなかったであろう。また、鎌倉で将軍守邦親王に仕えていたとみられる従三位阿野実廉は「元弘三年三月、已 臨幸伯州船上山之由、風聞之間、雖欲馳参、山河多重、塞関楯稠、不達本意、蟄居関東之処、五月十四日、故高時法師等差遣討手於実廉、囲私宅、希有而遁万死之陣、交山林、送数日之刻、同十八日、義貞朝臣責入于鎌倉、致逆徒討罰之間、馳加彼手、至廿二日首尾五ケ日之間、於処々致軍忠畢」(「実廉申状」『南北朝遺文』602)とあり、5月14日に自邸を取り囲まれたため山林に逃れ、18日に鎌倉に入った新田勢に加わって戦ったという。
材木座より稲村ガ崎を望む |
新田勢本隊は稲村崎を通って比較的自由に鎌倉に出入りしながら鎌倉勢と合戦し、北側では下野五郎経家が指揮を採る搦手軍が巨福呂坂周辺から鎌倉への突入を試みていた。そして「同十八日ヨリ廿二日ニ至マテ、山内、小袋坂、極楽寺ノ切通以下鎌倉中ノ口々、合戦ノ鬨ノ声、矢叫ビ人馬ノ足音暫シモ止ム時無シ」(『梅松論』)という諸所での合戦が行われた。
5月22日には鎌倉市中での戦いが広く行われるようになったようで、「相摸入道殿ノ屋形近ク火懸リケレバ、相摸入道殿千余騎ニテ葛西谷ニ引籠リ給ケレバ、諸大将ノ兵共ハ東勝寺ニ充満タリ、是ハ父祖代々ノ墳墓ノ地ナレバ爰ニテ兵共ニ防矢射サセテ心閑カニ自害セン也」(『太平記』)という。また、南部五郎次郎時長は「廿二日、於高時禅門館生捕海道弥三郎、取高時一族伊具土佐孫七頸畢」(「南部時長等申状」『陸奥南部文書』)と、高時入道が去った館に攻め入り、留守居の海道弥三郎や伊具土佐孫七を討った。「葛西谷之合戦」では、天然の堀の滑川とそれを見下ろす高台の東勝寺からの防戦など、激しい攻防があったと思われる。このほか、この鎌倉合戦が突然始まったものであるため「石見国益田荘宇地村地頭尼是阿相伝文書等、為沙汰、被預置大内豊前権守長弘関東代官因幡法橋定盛之處、元弘三年五月廿三日動乱之時、定盛於鎌倉死去之間、彼手継文書以下、六波羅下知等悉令紛失之由」(建武二年七月十七日益田兼世申状『益田家什書』)とあるように、大内長弘の「関東代官」が討死を遂げたため相伝文書が紛失したこともあった。
極楽寺坂を固めていた「長崎三郎左衛門入道思元、子息勘解由左衛門為基二人」は、小町方面に鬨の声を聞き、遠目に「鎌倉殿ノ御屋形ニ火懸リヌ見へ」たため、預けられた兵はそのまま極楽寺坂に置き、私兵を六百騎ばかりを率いて小町の御所へ馬を走らせたという(『太平記』)。これを見た新田義貞は彼らを取り込め、激しい抵抗を受けながらも討ち取った。
化粧坂口から巨福呂坂へ転戦した武蔵守貞将は、全身七か所を負傷しながらも東勝寺の得宗・高時入道のもとへ帰参した。高時は「軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける」と、彼に感謝の言葉を述べるとともに、今や滅亡した六波羅南北両探題ならびに相模守とする旨の下文を与えたという(『太平記』)。貞将はこれを拝受し、「多年ノ所望、氏族ノ規摸トスル職ナレハ、今ハ冥途ノ思出ニモナレカシ」と述べ、御教書に「棄我百年命報公一日恩」と認めると、鎧の継ぎ目に御教書を差し込み、ふたたび鎌倉市街に馳せ戻り戻って来ることはなかった(『太平記』)。
このほか、化粧坂で新田岩松勢と交戦していた元執権・前相模守基時入道信忍(普恩寺入道。探題北方仲時の父)も自刃。塩田陸奥守国時入道道祐・北条民部大輔俊時父子、塩飽新左近入道聖遠、安東左衛門入道聖秀など名だたる大将も鎌倉の諸所で自刃して果てた。
一方、高時の弟・左近大夫将監泰家入道は、被官の諏訪入道直性の一族・諏訪三郎盛高に、兄・高時入道の二男・亀寿丸を託して信濃国へ遁れさせ、みずからは陸奥国へと姿を消した。得宗高時入道にも恐れられた内管領・長崎円喜入道の孫である長崎左衛門尉高重は三十二人も斬り払う奮戦ののち東勝寺へ帰参した。高重は高時にいましばらく自刃を思いとどまるよう述べると、再び新田勢に近づき、大将義貞の暗殺を企てるも、義貞被官・由良新左衛門に見破られて失敗。数十倍する敵勢相手に斬り廻り、新田勢の同士討ちを誘うと、その隙をついて東勝寺へ退却した。残った高重麾下の武士はわずかに八騎。みずからも二十三筋もの矢を体中に立てて高時入道の御前に侍ると、祖父の円喜入道が待ち受けて「何トテ今マテ遅ツルソ、今ハ是マテカ」と問うと、高重は「若大将義貞ニ寄セ合バ、組テ勝負ヲセハヤト候テ、二十余度マテ懸入候ヘ共、遂ニ不近付得」と義貞暗殺の失敗を述べ、「上ノ御事何カト御心元ナクテ帰参テ候」と報告した。そして「早々御自害候へ、高重先ヲ仕テ手本ニ見セ進セ候ハン」と、舎弟の長崎新右衛門に酌を取らせて三度傾てのち、摂津刑部太夫入道道準の前に盃を置くと、「思指申ソ、是ヲ肴ニシ給へ」と言うや自刃を遂げた。
これを受けた摂津刑部大夫入道も「アハレ肴ヤ何ナル下戸ナリ共此ヲノマヌ者非ジ」と、置かれた杯を半分ほど飲むや、諏訪入道直性の前に盃を置いて自刃した。諏訪入道直性も心静かに盃を三度傾け、高時入道の前に盃を置くと「若者共随分芸ヲ尽シテ被振舞候ニ年老ナレハトテ争カ候ヘキ、今ヨリ後ハ皆是ヲ送肴ニ仕ヘシ」と述べて腹を十文字に掻き切ると、その刀を高時入道の前に置いて果てた。
長崎円喜入道はまだ若い高時入道の事を心配して腹を切らずにいたが、孫の新右衛門がその前に畏まり「父祖ノ名ヲ呈スヲ以テ子孫ノ孝行トスル事ニテ候ナレハ、仏神三宝モ定テ御免コソ候ハンスラン」と述べると、円喜入道を刺殺して自らも自刃。新右衛門の義を見た高時入道も自裁した。享年二十九。時を置かず、城入道(安達時顕入道)をはじめとして「金澤太夫入道崇顕、佐介近江前司宗直、甘名宇駿河守宗顕、子息駿河左近太夫将監時顕、小町中務太輔朝実、常葉駿河守範貞、名越土佐前司時元、摂津形部大輔入道、伊具越前々司宗有、城加賀前司師顕、秋田城介師時、城越前守有時、南部右馬頭茂時、陸奥右馬助家時、相摸右馬助高基、武蔵左近大夫将監時名、陸奥左近将監時英、桜田治部太輔貞国、江馬遠江守公篤、阿曾弾正少弼治時、苅田式部大夫篤時、遠江兵庫助顕勝、備前左近大夫将監政雄、坂上遠江守貞朝、陸奥式部太輔高朝、城介高景、同式部大夫顕高、同美濃守高茂、秋田城介入道延明、明石長門介入道忍阿、長崎三郎左衛門入道思元、隅田次郎左衛門、摂津宮内大輔高親、同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田、赤橋、常葉、佐介ノ人々四十六人、総シテ其門葉タル人二百八十三人」らが同所で自刃し、轟炎に包まれた東勝寺の中で鎌倉北条家は滅亡した。境内や門前の兵士らもこれに続き、総数は八百七十余人を数えたという。ただし、この中にはすでに近江番場で自刃している桜田貞国や、当時南都に駐屯していた阿曾弾正少輔弼治時など、実際には鎌倉にいない人物も含まれており、史実とは異なる。
北条氏の菩提寺・東勝寺の跡地 |
東勝寺の跡地は「東勝寺遺跡」として、昭和50(1975)年に調査が行われ、北条氏の紋「三鱗」のある瓦、焼けた陶磁器の破片が発見されている。そして、平成9(1997)年1月、国指定史跡をめざしてふたたび発掘調査が進められ、同年6月、高熱に焼かれた土などとともに巨大な建物跡が発見された。この建物には柱が四十本用いられ、東西が8.4メートル、南北が14.7メートル、総床面積が120平方メートルにも及ぶ大きな建築物で、北条一門が自刃を遂げた東勝寺の本堂と考えられている。
なお、鎌倉北条氏は「鎌倉」時代を通じて鎌倉の「主」であったわけではない。北条家はあくまでも鎌倉家という鄙公卿(親王)の家司筆頭(後見)を務め、侍所や評定衆を統べた一族であって、もとは御家人ではなく鎌倉家の家子(血縁者)であった。その官途は親王家家司の例に洩れず四位または五位に留まり、摂関家家司に及ばない。彼等がその権勢を奮い得たのは、強大な武力と広大な土地の支配権限を持つ公卿鎌倉家の家政機関を通じて、鎌倉家家人である「御家人」を統制していたためである。その北条氏の中でも同宗を統率し得る宗家当主を「得宗」と呼んだ(「得宗」は北條宗家を指す。祖宗を専一で祀る家という意か)。
●鎌倉家執権北条氏の官途
得宗 | 名前 | 最終官位 | 最終官途 |
― | 北条義時 | 従四位下 | 陸奥守 |
― | 北条泰時 | 正四位下 | 左京権大夫 |
― | 北条経時 | 正五位下 | 武蔵守 |
― | 北条時頼 | 正五位下 | 相模守 |
北条長時 | 従五位上 | 武蔵守 | |
北条政村 | 正四位下 | 左京権大夫 | |
● | 北条時宗 | 正五位下 | 相模守 |
● | 北条貞時 | 従四位上 | 相模守 |
北条師時 | 従四位下 | 左京権大夫 | |
北条宗宣 | 従四位下 | 陸奥守 | |
北条煕時 | 正五位下 | 相模守 | |
北条基時 | 正五位下 | 相模守 | |
● | 北条高時 | 従四位下 | 修理権大夫 |
北条貞顕 | 従四位上 | 修理権大夫 | |
北条守時 | 従四位上 | 相模守 |
北条一門が滅んだ鎌倉は、三堂山(三笠山)永福寺の別当房「二階堂御所山上陣屋」(「大塚員成軍忠状案」『鎌倉遺文』七三)に滞在していた足利千寿王丸の統制下に入り、その一門大将であった新田小太郎義貞は、5月28日に密告を受けて「故相模入道ノ嫡子相模太郎邦時」を相模川に捕らえて鎌倉に連行し「翌日ノ暁、潜ニ首ヲ刎奉ル」(『太平記』)という。
この頃、高氏が「関東追討の為に」京都から派遣した「細川阿波守、舎弟源蔵人、掃部介兄弟三人」は「関東はや滅亡」の一報を受けたが、そのまま鎌倉に下向。「若君を補佐し奉」ったが、「鎌倉中連日空騒ぎ」する事態が発生。「世上穏かならざる間、和氏、頼春、師氏兄弟三人、義貞の宿所に向て、事の子細を問尋て、勝負を決せんとせられけるに依て、義貞野心を存せさるよし、起請文を以陳し申され」たという(『梅松論』)。あくまでも軍記物『梅松論』の記述ではあるが、新田義貞に起因する何らかの騒擾があり、細川兄弟による尋問があったことがうかがえる。なお、前述の通り、新田惣領家は足利家に従属していたものの、経済的にも豊かな独立御家人であり、同じく一門御家人の足利尾張家(斯波家)や荒川家、足利三河守家(吉良家)らよりも遠縁にあたることから、より独立性の高い一族だったと考えられる。
6月3日、千寿王丸付の紀五左衛門尉政綱が、先代御内人系御家人の「曾我左衛門太郎入道」に対し、「曾我人々相共」に「常葉」の警固を命じる御教書を下している(「齋藤文書」『鎌倉遺文』32232)。この曾我左衛門太郎入道は陸奥国津軽平賀郡の大平賀村一帯を領する津軽曾我氏で、子息の「乙房丸(曾我太郎光高)」は10月10日に鎌倉の千寿王御所(二階堂永福寺の南東部高台か)の警衛を命じられているが、その後、北畠顕家に従って陸奥国津軽郡の敵対する同族と激戦を繰り広げる。
京都御所 |
正慶2(1333)年5月17日、後醍醐天皇は伯耆国船上山で「止正慶年号、為元弘三年、又去五月詔去々年已来任官已下、勅裁悉停廃」(『皇年代略記』)という詔を発する。
この詔は後醍醐天皇自身は退位しておらず、光厳天皇は実際には即位すらしていないとして、光厳天皇在位中の改元、すべての任官、勅裁を否定したのである。六波羅探題の崩壊により、後ろ盾を失った持明院統の三上皇はこの詔に従う他なかったであろう。この伯耆国からの詔は現朝廷を震撼させ、関白冬教、太政大臣兼季、左大臣基嗣は免職、前左府道平は左大臣、氏長者に戻され、前右大臣経忠は右大臣とされた(このときは就任を拒絶している)。これら上卿、公卿、公家らの「官途巻き戻し」は朝政の停滞を招く重大事であったが、裾野の広い地下已下における同様の措置は更なる混乱を招いたと思われる。翌5月18日、後醍醐天皇は船上山を下り、名和一族が供奉して京都へ還幸の途についた(『伯耆巻』)。
一方、京都では六波羅追捕後、足利高氏がどのように京都の安定を図ったかは定かではないが、5月24日、「前治部大輔高氏」は「吉見殿(円忠)」に対して「伊勢国凶徒対治事」についてしたためた「事書一通」を送達し「守此旨、可令致沙汰給候」(「伊勢光明寺残篇」『鎌倉遺文』32221)と指示している。円忠は5月30日に施行案を認め、高氏からの書状を「今月廿四日御教書案文」と称し、6月3日を期して諸地頭等に「小河」へ馳せ参じることを指示するとともに、「於緩怠之儀者、関東同心之由、可令注申」と返答している。なお、律師円忠の子の大納言阿闍梨頼澄が武蔵国慈光寺別当に就いており、円忠は再び武蔵国比企郡へと戻ったのかもしれない。
源義朝―+―源頼朝 +―吉見為頼―+―吉見義春―――+―吉見義世―――吉見尊頼
(左馬頭)|(右近衛大将) |(二郎) |(太郎) |(孫太郎) (中務大輔)
| | | |
| | | +―吉見義成
| | | (大夫将監)
| | |
| | +―吉見頼宗―――――吉見頼隆―――吉見氏頼
| | |(彦三郎) (三河守) (三河守)
| | |
| | +―頼源―――――――円忠―――――頼澄
| | (二位律師) (二位律師) (慈光寺別当)
| |
+―源範頼 +―範円――――――+―尊範―――+―貞助
(三河守)|(順大寺阿闍梨) |(若宮別当)|(若宮別当)
∥ | | |
∥―――+ +―吉見頼氏 +―頼譽
藤九郎盛長―女子 | (掃部允) (慈光寺別当)
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+―源昭――――――+―源範―――――頼源
(慈光寺別当) |(二位律師) (二位阿闍梨)
|
+―毘迦羅
(建長被誅)
5月28日、高氏は六波羅官吏系長井氏の「長井出羽弾正蔵人殿(長井貞頼)」へ「知行分所領事」について「於濫妨狼藉之輩者、為處罪科、可註申交名之状如件」(『閥閲録』)と命じ、6月4日には「海老名五郎左衛門尉殿(海老名経則)」にも同様の下知状を下しており、高氏は彼らに対して狼藉人の交名提出を命じていることがわかる。また、同日には土佐国御家人の「長宗我部新左衛門殿(長宗我部信能)」と「甲斐孫四郎入道(香宗我部秀頼入道)」を両使とし、足利家祈願所でもある「走湯山密厳院」領「土佐国介良荘」への濫妨狼藉の鎮定と犯人交名を注進するよう命じている(「土佐国蠧簡集」『鎌倉遺文』32237)。高氏は当時、従五位上という武家中最高位にあり、鎌倉においても北条氏、安達氏、長崎氏に次ぐ経済規模を持つとともに北条氏との血縁関係からその名声は高く、彼らに従属、被官化した御家人は多かったと思われる。そして高氏は彼らに知行分所領内の混乱の早期終息を命じたのであろう。
大江広元―+―源親広――+―大江佐房―――――大江泰広
(陸奥守) |(左近将監)|(太郎) (又太郎)
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| +―重祐法眼
| (若宮別当)
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|【関東評定衆】【関東評定衆】 【関東評定衆】 【関東評定衆】 【関東評定衆】
+―長井時広―+―長井泰秀―――――長井時秀――――+―長井宗秀―――+―長井貞秀――+―長井貞懐
|(左衛門尉)|(甲斐守) (宮内権大輔) |(掃部頭) |(中務少輔) |(大蔵少輔)
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| | | | +―長井広秀
| | | | |(大膳大夫)
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| | | | +―長井高冬
| | | | (右馬助)
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| | | +―長井時千――――長井時春
| | | (宮内権大輔) (治部権少輔)
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| | |【関東評定衆】
| | +―長井貞広―――――長井広泰
| | (左近将監) (甲斐守)
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| |【六波羅評定衆】 【六波羅評定衆】 【六波羅評定衆】
| +―長井泰重―――+―長井頼重――――+―長井貞重―――――長井高広
| |(因幡守) |(因幡守) |(縫殿頭) (左近将監)
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| | | |【六波羅評定衆】
| | +―長井茂重 +―長井貞頼
| | (修理亮) |(左衛門尉)
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| | +―運雅律師
| | (若宮別当)
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| | 【六波羅評定衆】
| +―長井泰元―――――長井泰茂――――+―長井頼茂
| (修理亮) (出羽守) |(出羽守)
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| +―長井頼秀
| |(左近将監)
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| +―長井貞頼
| (出羽守)
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| 【関東評定衆】
+―那波宗元―――那波政茂―――――那波頼広――――――那波宗広―――――那波教元
|(掃部助) (刑部権少輔) (左近将監) (上総介) (四郎)
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|【関東評定衆】 【六波羅評定衆】
+―毛利季光―――毛利経光―――――毛利時親――――――毛利貞親―――――毛利親茂
|(左近将監) (左近将監) (左近将監) (陸奥守)
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+―海東忠成―――海東忠茂―――――海東広茂――――――海東広房
(刑部少輔) (美濃守) (因幡守) (左近将監)
元弘3(1333)年12月29日、尊氏は袖判の下文で「安保新兵衛殿(安保光泰)」に対して、「信濃国小泉庄内室賀郷地頭職事」を「勲功之賞」として補している(元弘三年十二月廿九日「足利尊氏袖判下文」『安保文書』)。これは、安保氏庶家である光泰が鎌倉陥落後にいち早く尊氏の被官化し、尊氏が元弘3(1333)年6月から11月までの間で得た「小泉庄」(『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」)内の室賀郷を私的に与えたものである。当時、元弘三年「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)により、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」(『官宣旨案』)。こととされているが、「被官」に対しての規定はない(当然ながら御家人の被官にまでいちいち綸旨が下されない)。
●元弘三年十二月廿九日「足利尊氏袖判下文」(『安保文書』)
また、建武2(1335)年7月20日、同じく袖判で「葦谷六郎義顕」に対して「勲功賞」として「越後国上田庄」内の秋丸村が宛がわれているが、これも安保新兵衛尉光泰と同様に被官への知行宛行である。秋丸村は元弘3(1333)年6月から11月までの間で得た「上田庄」(『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」)内の土地であり、葦谷義顕は足利家の根本御領である三河国「額田郡」の葦谷村(額田郡幸田町芦谷)を本貫とする人物であろう。一説にはこれら袖判下文を建武の新政の中での独立志向と結びつけて考える向きもあるが、これらは単なる被官への宛行であって、それほど大きな意味を持つものではない。
●建武二年七月廿日「足利尊氏袖判下文」(『思文閣古書資料目録』)
一方、同日には尊氏の一族「上椙兵庫蔵人殿(上杉憲房)」(『上杉文書』)、「上椙五郎殿(上杉重能)」(『上杉文書』)、「富樫介殿(富樫高家)」(元弘三年十二月廿九日「足利尊氏御教書写」『大阪四天王寺所蔵如意宝珠御修法日記裏文書』:『鎌倉遺文』32809)、に対して尊氏知行国(後年、護良親王を足利氏に委ねる際の口上が伊豆国配流であり、伊豆守は親族の上杉重能が務めていた)の伊豆国内に知行を安堵している。彼らに対しては袖判下文を用いていないが、彼らは建武政権に仕える武士であり、御家人でありながら特定の御家人の「御内」となることは鎌倉以来の通例であることから、こうした立場の人々であろう。富樫介高家は田方郡多留郷(三島市多呂)に知行を安堵されているが、宛行ではなく伊豆国内の富樫介領の追認ともとれるが、おそらくこれも「勲功之賞」であろう。
●元弘三年十二月廿九日「足利尊氏御教書写」(『大阪四天王寺所蔵如意宝珠御修法日記裏文書』)
●元弘三年十二月廿九日「足利尊氏御教書写」(『上杉家文書』)
●元弘三年十二月廿九日「足利尊氏御教書写」(『上杉家文書』)
そして、後醍醐天皇還御前からいち早く設置されたのが、六波羅追討に功績のあった人々や参向する人々の着到を管理する「奉行所」であったとみられ、おそらく5月半ばには置かれたであろう。当初は六波羅を攻めた足利高氏と「左中将(千種忠顕)」が奉行人を務めたとみられ、場所も高氏が居住していたと思われる三条坊門第に隣接(三条坊門通を挟む)する「於しこうち、まてのこうち、三條はうもんの中ほと、まてのこうち、おもてむね門」(『薩藩旧記』「山田文書」)する広大な一角に設置されており、旧御家人らの着到を受けて承了判を捺している。天皇還御後は「蔵人式部少輔/左衛門権佐(岡崎範国)」「左少弁/蔵人右中弁(中御門宣明)」「右兵衛督長光(葉室長光)」「左少弁/右衛門権佐(高倉光守)」らも奉行人になっている。奉行所には5月25日に早くも「和泉国御家人日根野下総左衛門入道道悟」が「京都御合戦」でのに参上した着到を提出(『日根野文書』)。さらに5月27日に「美濃国御家人郡上郡鷲見藤三郎忠泰」が着到を提出(「美濃鷲見家譜」『鎌倉遺文』32227)。同日には「土佐国須留田式部大夫入道心了」も「令馳参上候、奉付于当御手、可致軍忠候」について進上している(『香宗我部文書』)。
一方、5月16日まで「二品親王令旨」であった大塔宮発給文書は、5月21日には「将軍家」御教書や「将軍家」令旨となっており、この間に大塔宮法親王が「将軍」を自称し(『金剛寺文書』)、以降、大塔宮は「将軍家」「将軍宮令旨」として振る舞った。これは守邦親王後の征夷大将軍継承を自称ながら印象づけるものか、京都における「奉行所」設置と武家の高氏への警戒と焦りの表れか。
●元弘3(1333)年5月21日『大塔宮令旨』(『金子氏文書』)
●元弘3(1333)年5月21日『将軍家御教書』(『金剛寺文書』)
また、九州では3月14日に肥前国彼杵郡で「江串三郎入道」が「弥次刑部房明慶并甥円林房并了本房等」を率いて挙兵。その際「先帝ノ一宮御坐アリ、人々可参ノ由」を謳って近隣の氏族に着到を呼びかけている(『博多日記』)。「先帝ノ一宮」とは後醍醐天皇皇子の一品尊良親王であるが、笠置合戦後に捕らわれ、土佐国へ流されていた。ところが、「自去年冬比彼宮ヲハ了本カ千綿ノヲクノ木庭ニ隠置タテマツル」(『博多日記』)といい、前年の元弘2(1332)年冬には土佐国を脱して九州へ渡り、肥前国彼杵郡に逗留していたことがわかる。しかしこの尊良親王の挙兵は失敗。江串三郎入道は逐電するも弥次刑部房らは捕らえられ、博多の鎮西探題に送られて処刑されている(『博多日記』)。
その後、尊良親王は「太宰府原山」に移って陣所とし、「宮野四郎入道教心」(『上妻文書』)、「荒木六郎入道女子代孫太郎(荒木資定か)」(『近藤文書』)、「中村孫四郎入道栄永」(『中村文書』)、「肥後国相良弥三郎頼広」(『相良文書』)、「相良六郎三郎入道蓮道(相良長氏)」、子息の「三郎次郎朝氏、同九郎祐長」(『相良文書』)らが宿直勤仕などのために馳せ参じている。
そして、5月25日、綸旨や尊良親王令旨に応じた「島津上総入道(道鑑)」「大友近江入道(具簡)」(『薩藩旧記』)、「筑後前司入道妙恵」(『上妻文書』)ら鎮西の三守護が「島津式部孫五郎宗久法師(法名道慶)」「同子息諸三郎忠能」「同舎弟亀三郎丸」「渋谷九郎平典重」「武藤筑後孫次郎」「対馬左近将監」「三原左衛門太郎入道仏見」「三原九郎種昭」「三原五郎入道覚種」「宮野四郎入道教心」「揖宿郡司彦次郎入道」「安富御房」「松浦相知小二郎入道蓮賀」「子息孫太郎秀」「宗像六郎三郎氏勝」「子息土都丸」「龍造寺左衛門次郎入道善智」「草野孫次郎入道円真」「光岡弥藤三郎入道道円」「平井孫七朝通」「深堀弥五郎政綱」「深堀平五郎入道明願」「深堀平六」「深堀弥次郎時継」「武雄大宮司諸久女代小太郎幸門」(『大日本史料』第六編之一)ら九州の御家人を催促して博多の鎮西探題を襲い、探題の「武蔵修理亮英時」を討ち、九州における関東の覇府は消滅した。「其後ハ探題職ナシ、貞久下向ニ付て於九州者、大友、少弐、島津殿、奉行頭として、国々可有談合之由被仰下、去ニ依テ、博多ニ松口ト申所ニ屋形作有て、松口殿ト申」(『山田聖栄自記』)とあり、大友、少弐、島津の三家は九州における奉行頭となり、おそらく博多にそれぞれ屋形を造営して鎮西御家人の着到を請け、軍忠状を発給した。
各地でこうした戦後処理が行われる中、後醍醐天皇の車駕と軍勢は播磨国揖西郡千本宿を出立して揖東郡箸崎宿に逗留。5月27日、書写山に登った(『書写山行幸記』)。天皇に供奉したのは「関白殿近衛南殿、別当殿洞院殿、五辻宰相殿、従三位行助、宮中将、山科中将、甲斐少将、一条中将行房、勘解由次官光守」ら公卿衆ほか官人や北面、ほか多くの人々であった。5月30日、車駕は兵庫に到着し、福巌寺に入御した(『太平記』)。また、5月28日には近江国に逗留を余儀なくされていた後伏見、花園院ならびに光厳上皇が京都へ還幸する(『皇代略記』)。
6月2日、後醍醐天皇の車駕は兵庫を出立すると「楠多門兵衛正成」(『太平記』)が一勢を率いて行幸の一行に参向。「摂津国西の宮といふ所」(『神皇正統記』)に遷った。そして6月4日、後醍醐天皇は東寺に行幸し「為御影堂御所」とした(『大乗院日記目録』)。翌5日に「如元入御二条富小路皇居、自立登極、但不及重祚礼、元号復元弘、元年九月已後任官叙位皆停廃之由被仰之、礼成門院如故為中宮、廃皇太子康仁」(『尊卑分脈』)と、入洛してもとの如く二条富小路邸を皇居と定め、改めて退位と重祚を否定し、元号を元弘に服すとともに、光厳天皇在位中の叙位任官を停廃、皇太子康仁(甥の邦良親王の子)を廃し、礼成門院を中宮に定め、足利高氏には「聴内昇殿」した(『公卿補任』)。
高氏はこの頃に奉行所に届いた大友、武藤、島津氏からの「鎮西合戦之次第(鎮西三守護がすでに置判した着到状、軍忠状などの恩賞に関する書状がまとめて送られてきたのだろう)」を奉行人として奏聞。6月10日に「鎮西合戦之次第委細承候畢、早速静謐之条為悦候、且注進状之趣経 奏聞候了」(足利高氏書状『大友文書』「鎌倉遺文」32259、『島津家文書』「鎌倉遺文」32260)という書状を「大友近江入道殿」「嶋津上総入道殿」に遣わしている。おそらく武藤筑後入道妙恵にも同内容文書が送られたのだろう。その後、13日には「召人并降人等事、云預人云警固、可被致計沙汰之状」と「大友入道殿」に下知しており(「足利高氏施行状」『大友文書』「鎌倉遺文」32266)、高氏は鎮西の恩賞処理の仲介とともに、捕縛、降伏人等の処置を下達する立場でもあり、これは九州において先代一族らが引き起こした反乱においても、高氏(尊氏)が施行状を発給するなど、一貫したものだった。これは鎮西武家の統率及び叛乱の鎮定を行い得る人物が、足利高氏以外に存在しなかったためであろう。
そして、6月12日の除目で足利高氏は従四位下左兵衛督、弟の兵部大輔忠義(のち直義)は左馬頭に任じられた(『公卿補任』)。
●元弘3(1333)年6月12日除目
右大臣(還任) | 従一位 | 久我長通 |
内大臣(還任) | 正二位 | 洞院公賢 |
権中納言 | 従二位(昇叙) | 二条良基 |
参議(任) | 正三位 | 坊門清忠 |
弾正尹(任) | 従三位 | [晶灬]王 |
弾正大弼(任) | 正四位上 | 北畠顕家 |
侍従(任) | 正四位下 | 三条公忠 |
左中弁(任) | 従四位上 | 中御門経季 |
左兵衛督 | 従四位下(昇叙) | 足利高氏 |
左近衛中将(任) | 従四位下 | 久我通相 |
散位 | 従四位下(昇叙) | 中御門為治 |
左近衛少将(任) | 正五位下 | 洞院実夏 |
右衛門佐(任) | 正五位下 | 坊門信行 |
左馬頭(任) | 従五位下 | 足利忠義 |
一方、大和近辺で活動していた「大塔の法親王」の戦いは続いており、6月2日には千早・金剛山から撤退した関東勢が「楯籠」っていた南都興福寺に「大和国高間大弐行秀、同舎弟輔房快全」をはじめとする反関東の人々が押し寄せている(『妙巌寺文書』)。この寄手の大将は大塔宮近臣「中院中将定平」、搦手として「楠兵衛正成」が副えて遣わされたという(『太平記』)。一ノ木戸口、般若寺を固めていたのは「宇都宮、紀清両党七百余騎」であったが綸旨を受けて投降。戦いも旧関東勢の敗亡に終わり、6月5日には「依将軍家令旨」として「右中将(中院良定)」から「楯籠興福寺凶徒等、令参降人之間、既属静謐之上者、学侶並衆徒以下、悉可被還住寺院本坊之旨」が伝えられている(「小松文書」『鎌倉遺文』32239)。
尊雲法親王は6月13日に「みやこに入給」うたが、法親王は5、6月頃から「御ぐしおほして、江もいはすきよらなるおとこになり給」うとあるように、事実上還俗していた。なお、父帝は親王を「すみやかに将軍の宣旨をかうふり給」(『増鏡』)ったとあるが、「宮ハ司シ給キ、二品兵部卿護良親王ト申ス、征夷将軍ニナラヌ事ヲ鬱憤シテ、トカク思計給」(『保暦間記』)とあり、「将軍家」を自称する護良親王への将軍職補任はすぐには行われなかった可能性が残る。大塔宮は、在京して武家代理人として多くの武士等と関わりを強めていた足利高氏を当初より危険視していたと思われ、「高氏兵権ヲ取テハ、昔ノ頼朝ニ替ヘカラス、此次ニ誅罰セラルヘシ」と父帝に申していたが、「帝サシモノ軍忠ノ仁ナリ」(『保暦間記』)として取り上げなかった。それでも大塔宮は「種々ノ謀ヲ廻シテ、高氏ヲ討ン」とし「其比畿内西国ノ武士、楠ナント申者ハ、皆彼宮ノ御方ナリケレハ、便宜アラハ、高氏ヲ討ント」したが、「東国ノ武士多ハ高氏方ナリケル上ニ、譜代ノ武勇ナレハ、輙モ討レス、将軍ニサヘ成サルヘシ」(『保暦間記』)という。
なお、高氏を「去五日賜将軍宣旨、或作六月一日賜歟」(『続史愚抄』「後醍醐院後紀」元弘三年五月)、「元弘三五六為鎮守府将軍」(『武家年代記』)とするものもあるが、5月24日時点の高氏は「前治部大輔高氏」であり、高氏が「将軍(鎮守府将軍)」となったのは、早くとも5月末以降である。そして鎮守府将軍は北畠顕家奏上文(『建武年間記』)によれば「自置件職以降、以従五位上階為被相当」とあり、これは6月2日の後醍醐天皇還御当時の高氏の官位(従五位上)に合致していることを考えると、高氏の鎮守府将軍補任は6月12日の従四位下任官以前であり、6月5日の内昇殿勅許と同時に補任されたと考えるのが妥当であろう。ただし、「而多為当国刺史兼之、或為隣州牧宰任之」(『建武年間記』)とある通り、鎮守府将軍は本来陸奥守や出羽守との兼任が通例であったにも拘わらず、高氏が陸奥守や出羽守へ補任されなかったことを考えると、すでに後醍醐天皇の強力な国衙構築構想(皇帝宗族を諸侯王として地方に封じた中華的支配:とくに後漢初期を模倣していたか)が動き始めており、陸奥守の候補者(北畠顕家が当初から内定していたかは不明)は別にいたと考えられよう。
そして6月15日、朝廷は一連の動乱の平定を宣言し、所領は綸旨を以て証とするとした(元弘三年六月十五日『後醍醐天皇宣旨案』)。
●『後醍醐天皇宣旨案』(「河内金剛寺文書」『鎌倉遺文』32272)
元弘参年六月十五日 宣旨、近日凶悪輩寄縡於兵革濫妨、民庶多愁、爰軍旅已平、
聖化普及、自今以後、不帯 綸旨者、莫致自由之妨、若有違犯法令族者、国司及守護人等、
不待 勅断、召捕其身、宜経 奏聞、
蔵人右衛門権佐藤原光守奉
また、16日にも同様の宣旨が下されていたようである。
●『陸奥守顕家袖判御教書』(「結城神社所蔵文書」)
一、所々濫妨事、閣是非、先可沙汰居本知行之仁、有違犯輩者、永可断訴訟事、
一、不帯綸旨、致自由妨輩事、
去六月十六日被下宣旨了、近日或帯宮之令旨、或称国司守護被官、或又地下沙汰人以下、任雅意、有濫妨事、如此輩任(以下闕)
ただ、これらの宣旨は、逆に言えば綸旨なき者はたとえこれまで正当に伝領していたとしても、いつ所領を没収されても反論できないばかりか、召し捕られる可能性すらあることを意味した。この「六月十五日宣旨」「六月十六日宣旨」が下されると、当然のことながら旧御家人は綸旨を求めて大挙して上洛を企てることが想定された。
彼ら旧御家人は上洛すると三条坊門の奉行所に着到状(及び軍忠状)を持ち込んで安堵綸旨を求めたが、その上洛途次は各地で混乱が生じ、「徒妨農業之条、還背撫民之義」があった。朝廷はこの事態を受けて、わずか一月後の7月25日と26日に「六月十五日宣旨」「六月十六日宣旨」を事実上撤回する「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)を出して、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」こととする宣旨を「五幾七道諸国」に下すこととなる(『官宣旨案』)。不用意な御家人の上洛を停止するとともに、まだ未熟な庁務の混乱を避ける必要があったのだろう。
新田義貞は元弘3(1333)年10月に「上野国公田郷一分地頭伊達孫三郎入道道西」が所領安堵を求めたことへの12月5日付上野国宣(『伊達家文書』)、同じく元弘3(1333)年10月に「越後国小泉荘内加納色部惣領地頭色部三郎長倫」の所領安堵の求めに対する12月14日の越後国宣(『色部文書』)を発している。この国宣は同年「七月廿五日」「七月廿六日」の官宣旨(「一同之法」(『建武年間記』)と称された)を受けて、諸国御家人の「当時知行之地」は「国宜承知、依宣行之」(『官宣旨案』)こととする旨に従ったものである。
なお、鎌倉の新田小太郎義貞も岩松下野五郎経家も「六月十五日宣旨」「六月十六日宣旨」を受けて鎌倉から上洛の途に就いたのだろう。新田義貞は6月14日までは鎌倉で軍忠状に承了判を捺しており(「市村王石丸代後藤信明軍忠状」『史料編纂所所蔵文書』:『鎌倉遺文』32268)、上洛は綸旨がこれ以降となる。彼らがいつ頃京都に着いたのかは定かではないが、岩松経家は7月19日に「高時法師一族以下朝敵之輩知行之地、悉没官」(『建武年間記』)した没官領と飛騨国守護職に任じられた際にすでに「兵部大輔」に任官しており(「後醍醐天皇綸旨」『鎌倉遺文』32371)、7月初旬には上洛していたことが窺える。前任の兵部大輔は足利直義(6月12日に左馬頭へ転じ「去大輔」)であり、後任は経家が任じられていることから、高氏・直義と経家との間には密接な関わりがあったと推測される(直義の鎌倉下向時にも同道している)。
また、当然ながら新田義貞も同時期に任官していたと考えられるが、その具体的な官途は不明(系譜上には「上野介兼播磨守、正四位上、左馬助、左兵衛督、左近衛中将」(『鑁阿寺蔵新田足利両家系図』)とあるが、正四位上、左馬助、左兵衛督の任官がいつかは不明である。元弘3(1333)年6月12日には足利直義が左馬頭に補任されており、左馬助任官であれば直義属官ということになる。なお、当時の直義は正五位下であることから義貞が四位となることはなく、義貞の初任は従五位上を上限とするものであったと考えられるが、それでも執権北条氏とほぼ同等にして無位からの叙爵は相当な優遇である。誤記創作の多い『太平記』の記述であるが、義貞は元弘3(1333)年8月5日「新田左馬助義貞」(『太平記』)ともある。建武2(1334)年11月2日当時(ただし鎌倉での情報)「新田右衛門佐義貞」であり(「足利直義軍勢催促写」『南北朝遺文』325)、その後「左中将」に転じるが、尊氏の鎌倉駐屯以降の急度補任であろう。官位は『太平記』においては「従四位上」が見えるが公文書での確認はできない。ただし『職原抄』によれば「中将」は「相当従四位下」であることから、義貞の官途は従四位下もしくは従四位上であろう。三位尊氏とは天地の開きがあるものの、直義(従四位下左馬頭)とは同格となっている。なお、左兵衛督は建武2(1335)年11月26日の尊氏解任と同時に西園寺公重が右兵衛督から転じているため、新田義貞の左兵衛督任官はない)。また、前述の通り義貞は12月には越後国、上野国の国司となって国宣を発給しているが、10月の申状に対する国宣までの期間から考えて11月半ば頃の補任か。なお、「上野国ハ尊氏分国也」(『保暦間記』)とあり、知行国主は惣領家の尊氏で、義貞は国主尊氏の推挙を得て上野介となっているとみられる。
また、「所務濫妨」や「領家地頭所務相論」「本領安堵」「諸国ゝ司守護注進」など「先代引付の沙汰」と同様の沙汰を行う「雑訴決断所」を設置し、担当卿相を頭人に任じた(『梅松論』)。所領決裁という職掌上、実務は弁局が強く関与している。その設置時期は不明ながら「六月十五日宣旨」及び「七月廿五日宣旨」以降、所領に関する訴訟の増加に備えるために置かれたと考えられるが、雑訴決断所牒の初見である10月9日の尾張国安食西荘の狼藉に関する牒(「雑訴決断所牒」『三宝院文書』)よりも前に提訴されたことを考えれば、少なくとも9月には開所されていたことがわかる(建武元年12月22日に「左近将監(大友貞載)から「板部六郎殿」へ発給された御教書によれば、肥前国西島郷内弥吉名田地等事について、「任今年十月六日決断所御下知状之旨」(『光浄寺文書』)とあることから、現物は遺されていないものの10月6日時点で「決断所御下知状」が発給されており、10月初頭には決断所は活発に動いていたことがわかる)。所務のうち本領安堵の案件については「当所并記録所可任訴人之心」とあるように、これまでも所領関係の訴訟を引き受けていた「記録所」と新設の「雑訴決断所」のどちらかに訴状を提出するかは訴人に任されていたようである。ただし、「大議にをいてハ記録所にをいて裁許」(『梅松論』)であった。そして、記録所、雑訴決断所、恩賞方を兼務する官吏出身者も見られ、実務に長けた人々が積極的に登用されたと見られる。
●雑訴決断所寄人
元弘3年 | 下判 | 上判 | 牒 | 文書 |
10月9日 | 大外記中原朝臣 |
右中弁藤原朝臣 (中御門宣明) | 尾張国衙 | 『三宝院文書』 |
11月4日 | 右衛門大尉坂上大宿禰 | 左中弁藤原朝臣 | 肥後国衙 | 『阿蘇文書』 |
11月5日 | 大外記中原朝臣 |
右少弁藤原朝臣 (甘露寺藤長) | 尾張国衙 | 『三宝院文書』 |
12月7日 | 少判事中原朝臣 |
右中弁藤原朝臣 (中御門宣明) | 駿河国衙 | 『集古文書』 |
12月24日 | 明法博士中原朝臣 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 出雲国衙 | 『前田家所蔵文書』 |
建武元年 | 下判 | 上判 | 牒 | 文書 |
2月26日 | 左大史小槻宿禰 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 越前国衙 | 『円覚寺文書』 |
3月14日 | 雅楽允藤原 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 常陸国衙 | 『鹿島大禰宜文書』 |
3月24日 | 左大史小槻宿禰 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 越前国守護 | 『円覚寺文書』 |
3月20日 | 西市正中原朝臣 (中原章有) |
右中弁藤原朝臣 (中御門宣明) | 筑前国衙 | 『宗像文書』 |
3月27日 | 左大史小槻宿禰 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 若狭国衙 | 『東寺百合文書』 |
4月7日 | 明法博士中原朝臣 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 安芸国衙 | 『建武年間記』 |
5月12日 | 明法博士中原朝臣 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 周防国衙 | 『閥閲録』 |
5月13日 | 主税頭中原朝臣 (中原師右) |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 出雲国衙 | 『三刀屋文書』 |
5月18日 | 左衛門権少尉中原朝臣 |
左少弁藤原朝臣 (高倉光守) | 出雲国衙 | 『千家文書』 |
5月18日 | 前丹波守大江朝臣 明法博士右衛門大尉中原朝臣 酒守中原朝臣 右少史安倍朝臣 |
正二位藤原朝臣 右中弁平朝臣 | 播磨国衙 | 『吉川什書』 |
5月24日 | 少判事中原朝臣 | 左中弁藤原朝臣 | 徳宿彦太郎幹宗所 | 『烟田文書』 |
6月3日 | 少判事中原朝臣 | 左中弁藤原朝臣 | 澁谷鬼増丸カ | 『薩藩旧記』 |
6月10日 | 大外記中原朝臣 (中原師利) | 左中弁藤原朝臣 | 熊谷小四郎直経 | 『閥閲録』 |
6月16日 | 左大史小槻宿禰 (壬生匡遠) |
右少弁藤原朝臣 (甘露寺藤長) | 信濃国守護所 | 『市河文書』 |
6月16日 | 【下判】左少史高橋朝臣 (高橋俊春) |
【裏判】太宰大弐経顕 (坊城経顕) 【上判】左少弁藤原朝臣 (高倉光守) 【執筆奉行】姉小路大夫判官明成 | 禰寝院孫次郎清成所 | 『禰寝氏世録正統系図』 |
7月9日 | 右大史安倍朝臣 (安倍成定) |
右中弁藤原朝臣 (藤原正経) | 伯耆守長年 | 『京都博覧会社所蔵文書』 |
7月11日 | 左衛門権少尉 (楠木正成) 前常陸介藤原朝臣 (小田時知) 左中弁藤原朝臣 (中御門宣明) |
従一位源朝臣 (久我長通) 参議右大弁藤原朝臣 (坊門清忠) | 尾張国衙 | 『相州文書』 |
8月10日 | 左衛門少尉橘朝臣 (楠木正成) 図書頭藤原朝臣 (伊賀兼光) 大外記清原真人 (五条頼元) 左中弁藤原朝臣 (中御門宣明) 宮内卿藤原朝臣 (中御門経季) |
従一位藤原 (今出川兼季) 中納言兼右衛門督藤原朝臣 (万里小路藤房) 正三位源朝臣 (源国資) | 和泉国衙 | 『師茂記』 |
8月11日 | 左大史小槻宿禰 (小槻冬直) 前加賀守三善朝臣 (町野信宗) 左中弁藤原朝 (中御門宣明) |
従一位源朝臣 (久我長通) 権中納言左衛門督藤原朝臣 (洞院実世) 参議右大弁藤原朝臣 (坊門清忠) | 駿河国守護所 | 『白河文書』 |
8月27日 | 越中権守藤原朝臣 (藤原成藤) 主計助兼右衛門大尉甲斐権守坂上大宿禰 (坂上則成) 右中弁藤原朝臣 (藤原正経) |
従一位藤原朝臣 (吉田宣房) 太宰大弐藤原朝臣 (坊城経顕) 従三位平朝臣 (平範高) 参議兼右兵衛督藤原朝臣 (葉室長光) | 丹波国 | 『仁和寺文書』 |
8月28日 | 右大史安倍朝臣 (安倍成定) 散位大江朝臣 (長井貞重) 右衛門少尉中原朝臣 (中原章顕) 右中弁藤原朝臣 (藤原正経) |
正二位藤原朝臣 (葉室長隆) 正二位藤原朝臣 (三条実任) 従三位平朝臣 (平宗経) 式部権大輔藤原朝臣 (藤原行氏) | 播磨国広峯社 | 『広峯神社文書』 |
8月29日 | 右大史安倍朝臣 (安倍成定) 散位大江朝臣 (長井貞重) 左衛門少尉中原朝臣 (中原章顕) 右中弁藤原朝臣 (藤原正経) |
正二位藤原朝臣 (葉室長隆) 正二位藤原朝臣 (三条実任) 従三位平朝臣 (平宗経) 式部権大輔藤原朝臣 (藤原行氏) | 長門国松嶽寺 | 『長防風土記』 |
8月29日 | 左衛門権少尉中原朝臣 (中原職政) 前筑前守藤原朝臣 (小田貞知) 左衛門権佐兼少納言侍従伊賀守藤原朝臣 (岡崎範国) 左少弁藤原朝臣 (高倉光守) |
中納言兼侍従藤原朝臣 (三条公明) 従二位藤原朝臣 (四条隆資) 正三位藤原朝臣 (藤原光継) | 肥前安富次郎 | 『深江文書』 |
●建武元年八月:雑訴決断所寄人(『雑訴決断所結番交名』)
建武二年三月十七日:記録所下寄人(『建武年間記』)
建武元年五月十八日:恩賞方番文(『建武年間記』)
番 | 地域 | 担当日 | 雑訴決断所寄人 |
記録所下寄人 (◎は筆頭) | 恩賞方 |
窪所 (問注所) |
一番 | 五畿内 |
1・2日 5日(庭中) 11~13日 22日 25日 |
今出川前右大臣(今出川兼季) 頭宮内卿経季(中御門経季) 前源宰相国資(源国資) ――――――――――――――――― 大外記頼元(五条頼元) 正親町大夫判官章有(中原章有) 佐渡大夫判官秀清(中原秀清) 三條少外記清原康基(清原康基) 宇都宮兵部少輔(宇都宮公綱) 土佐守兼光(伊賀兼光) 富部大舎人頭(富部信連) 河内大夫判官正成(楠木正成) 飯尾彦六左衛門入道覚民 三宮孫四郎入道道守 |
二番 一番 一番 三番 四番 |
一番(東海、東山) 四番(南海、西海) 二番(北陸) 一番(東海、東山) 三番(畿、山陽、山陰) |
● ● |
二番 | 東海道 |
1日(庭中) 2・3日 12・13日 16日 22・23日 |
久我前右大臣(久我長通) 洞院左衛門督実世 右大弁宰相(坊門清忠) ――――――――――――――――― 左中弁宣明朝臣(中御門宣明) 蔵人民部大輔定親(藤原定親) 官長者四位大夫冬直(小槻冬直) 弼大外記師利(中原師利)【奉行】 四条坊門太夫判官章世(中原章世) 是円房道昭(中原氏) 常陸前司時知(小田時知)【奉行】 上杉兵庫入道道勲(上杉道勲) 町野加賀前司信宗(町野信宗) 庄左衛門尉藤原長家(庄長家) 布施彦三郎入道道乗(布施道乗) |
(弟実夏◎一番) ◎三番 一番 四番 二番 |
|
|
三番 | 東山道 |
3・4日 8日(庭中) 13・14日 23~25日 |
洞院内大臣公賢(洞院公賢) 堀河大納言具親(堀河具親) 中御門前中納言冬定(中御門冬定) 右大弁宰相実治(九条実治) 頭中将宗兼(藤原宗兼) ――――――――――――――――― 壬生大夫史匡遠(壬生匡遠) 冷泉太夫判官章興(中原章興) 藤原宗成 長井左近大夫将監高広(長井高広) 佐々木佐渡入道如覚(佐々木如覚) 高参河権守師直(高師直) 齋藤四郎左衛門尉藤原基夏(齋藤基夏) 諏訪大進房円忠 |
三番 |
三番(畿、山陽、山陰) |
● |
四番 | 北陸道 |
4・5日 6日(庭中) 14~16日 24・25日 |
吉田儀同三司定房(吉田定房) 前藤中納言実任(三条実任) 日野前宰相資明(日野資明) ――――――――――――――――― 甘露寺右少将藤長(甘露寺藤長) 蔵人判官藤原清藤(藤原清藤) 暦博士言春(小槻言春) 三條主税頭大外記師右(中原師右) 大宮大夫判官章方(中原章方) 中原外記重尚(中原重尚) 二階堂出羽入道道蘊(二階堂道蘊) 佐々木信濃判官高貞(佐々木高貞) 飯尾左衛門大夫貞兼(飯尾貞兼) 海老名五郎左衛門尉藤原経則(海老名経則) 飯河播磨房光瑜 |
◎五番 五番 |
一番(東海、東山) 二番(北陸) |
|
五番 | 山陰道 |
6・7日 15日(庭中) 22、27日 |
万里小路一位宣房(万里小路宣房) 坊城大弐経顕(坊城経顕) 前宮内卿(平範高) 葉室新宰相長光(葉室長光) ――――――――――――――――――― 右中弁正経(藤原正経) 新大外記師治(中原師治) 博士大夫判官則成(坂上則成) 勢多大夫判官章兼(中原章兼) 真恵(二番・是円房道昭舎弟・中原氏) 道要 越中権守成藤 伯耆守長年(名和長年) 雅楽左近将監藤原信重 雑賀隼人佐入道西阿 |
◎一番 一番 二番 五番 |
三番(畿、山陽、山陰) |
|
六番 | 山陽道 |
7・8日 9日(庭中) 17・18日 26~28日 |
葉室前大納言長隆(葉室長隆) 押小路大蔵卿(平惟継) 六条平宰相(平宗経) ――――――――――――――――――― 式部権大輔在登(実は日野行氏) 勢多章香(中原章香) 前大史安倍成定(安倍成定) 信濃入道道大(太田時連入道道大) 大田加賀大夫判官親光(結城親光) 津戸出羽権守入道道元 宇波太郎大江貞重 門真玄蕃左衛門入道寂意 |
四番 |
二番(北陸) |
● ● |
七番 | 南海道 |
9・10日 11日(庭中) 19・20日 28日 |
九条民部卿光経(九条光経) 中御門前宰相経宣(中御門経宣) 吉田前宰相資房(吉田資房) ――――――――――――――――――― 光守(高倉光守) 大判事明清(姉小路明清) 泰尚 権大外記隼人正藤原康綱(藤原康綱) 佐々木備中大夫判官時信(佐々木時信) 長井丹波前司宗衡(長井宗衡) 行円 対馬民部大夫行重(後藤行重) 三須雅楽倫篤 国年 |
◎四番 五番 |
二番(北陸) |
|
八番 | 西海道 |
10・11日 19日(庭中) 20・21日 29日 |
侍従中納言公明(三條公明) 四条前中納言隆資(四条隆資) 堀河前宰相光継(堀河光継) ――――――――――――――――――― 蔵人右衛門佐範国(岡崎範国) 近衛大夫判官職政(中原職政) 高倉大夫判官章緒(中原章緒) 左大史高階俊春(高階俊春) 小田筑後前司貞知(小田貞知) 佐々木佐渡大夫判官道譽(佐々木道譽) 明石民部大夫行連(明石行連) 飯尾兵部右衛門尉頼連(飯尾頼連) 疋田妙玄 |
三番 |
四番(南海、西海) 四番(南海、西海) 二番(北陸) |
|
朝廷は上記の雑訴決断所のほかに「窪所(問注所)」も設置し「土佐守兼光、大田大夫判官親光、富部大舎人頭、参河守師直等を衆中として、御出有て聞召」(『梅松論』)したという。事務的な能力を持つ武家官僚を登用しており、「御出有て聞召」とある通り後醍醐天皇も臨席したことがわかる。これは天皇が記録所に臨席して「人のあらそひうれふる事どもををこなひくらさせ給ひて、人々もまかで君も本殿にしばしうちやすませ給」(『増鏡』)という姿と重なり、天皇自身が積極的に訴訟沙汰を聴き、実態把握に努めていたことをうかがわせる。
●建武三年二月窪所番(『建武年間記』、「建武二年正月二十八日御産御祈祷目録」)
番方 | 番衆(赤字は武者所兼帯、青字は雑訴決断所兼帯) | |||
一番 |
道光 (雅楽将監入道道光カ) |
義高 (名和義高) |
広栄 (金持広栄) |
平保平 (小早川頼平カ) |
二番 | 重如 (石見大夫判官入道重知カ) |
正季 (楠木正季) | 大江貞重 (宇波貞重) | |
三番 | 光貞 (隼人正光貞) | 信連 (富部信連) | 藤原重朝 | |
四番 | 菊夜叉丸 | 康政 | 源知義 |
さらに「むかしのことく武者所をゝかる、新田の人々を以、頭人にして諸家の輩を詰番せらる」(『梅松論』)とあり、武者所を復活させたことがわかる。発足当時の武者所の具体的な結番は遺されていないが、当初より新田一門が抜擢されていたのだろう(伝わっているのは延元元(1336)年4月当時のもの)。武者所は本来は院御所の警衛を担うが、この武者所は光厳上皇ら持明院統上皇の御所警衛ではなく御所警衛を主たる任務とし、「一夜日無懈怠可令勤仕」(『梅松論』)とあるように一昼夜御所に詰めて不寝番を務めたと考えられる。
●延元元(1336)年四月武者所結番(『建武年間記』)
番方 | 番衆(赤字は窪所:問注所兼帯)、◎が頭人とみられる。 |
一番 (子・午) |
◎新田越後守義顕、新田大蔵大輔貞政、熱田摂津守昌能、長井因幡守貞泰、南部甲斐守時長、 大友式部大夫直世、長井掃部助貞匡、長沼判官秀行、小山五郎左衛門尉政秀、 楠木帯刀正景(楠木帯刀正季)、三浦弥三郎長泰 |
二番 (丑・未) |
◎新田左馬権頭貞義、宇都宮右馬権頭泰藤、小笠原周防権守頼清、仁科左近大夫盛宗、 高梨左近大夫義繁、讃岐権守親藤、三浦安芸二郎左衛門尉時継、小早川民部丞頼平、 三浦孫兵衛尉氏明、長江八郎左衛門尉政秀、三尾寺十郎左衛門尉時勝 |
三番 (寅・申) |
◎新田兵部少輔行義、長井前治部少輔頼秀、千葉上総介胤重、狩野介貞長、伯耆大夫判官義高、 土岐参河権守国行、豊後権守光顕、狩野遠江権守明光、瀧瀬下野権守宗光、和泉民部丞行持、 町野加賀三郎信栄 |
四番 (卯・酉) |
◎長井大膳権大夫広秀、長井因幡左近大夫将監高広、富部大舎人頭信連、足立安芸前司遠宣、 町野民部大夫信顕、島津修理亮貞佐、小串下総権守秀信、梶原尾張権守景直、山田蔵人重光、 広沢安芸弾正左衛門尉高実、庄四郎左衛門尉宗家 |
五番 (辰・戌) |
◎新田式部大夫義治、河内大夫判官正成、隼人正光貞、駿河権守時綱、三河守成藤、 中条因幡左近将監貞茂、沼浜左衛門蔵人広譽、橘正遠、高田六郎左衛門尉知方、布志部二郎光清、 熊谷二郎兵衛尉直宗 |
六番 (巳・亥) |
◎武田大膳大夫信貞、伯耆守長年、河内左近大夫知行、宇佐美摂津前司貞祐、武藤備中権守資時、 大見能登守家致、金持大和権守広栄、山田肥前権守俊資、春日部瀧口左衛門尉重行、 本間孫四郎左衛門尉忠秀 |
なお、延元元(1336)年当時の武者所四番頭人とみられる「長井大膳権大夫広秀」は、かつて「長井大膳権大夫大江広秀建武元補」(「関東将軍家政所執事次第」『関東開闢皇代并年代記』)、「上野親王庁務」(『武家年代記』)とあるように、成良親王に随って鎌倉へ下向して親王家政所執事を務め、中先代の乱の際に親王家上洛に供奉して京都へ戻ったとみられる人物。一門の長井因幡左近大夫将監高広(旧関東評定衆、雑訴決断所三番寄人)とともに武者所に所属した。尊氏・直義の「謀反」後も新政府に登用されたが、広秀はあくまでも上野親王家司の立場であったためであろう。ただ、広秀も高広も尊氏とは好を通じており、その後は後醍醐朝に反旗を翻して足利家に随っている。このほか、美濃国郡上郡の東氏村も「耽美和歌之道、辱後醍醐皇帝寵命、於武者所、献歌章、而名聞四方矣」との記録が残り(『故左金吾兼野州太守平公墳記』「俗群書類従巻百九十二」)、武者所に属していた時期があった。その時期に詠まれた歌が『続千載和歌集』に納められている。
当時、関東や奥州は北条家や血縁、御内人ら先代と深く関わる人々の旧領が存在していたが、とくに奥州は常陸国境の海道筋から糠部郡にかけて御内人系御家人の知行地が林立しており、鎌倉から逃れた人々が多数雌伏し、不穏な状況下にあった。これら陸奥国から関東に及ぶ先代支配の色濃く残った地域を鎮撫するためには、強力な地方機関の構築が必須であった。これに後醍醐天皇が持った構想が、前述のように皇子を地方「諸侯王」に封じ、有力諸侯を「相」とする中華的支配構想ではなかろうか。とくに後漢草創の光武帝を意識したものであったと考えられ、関東を新の王莽に擬し、その討伐を経て漢朝を復したことを象徴したものか、元弘4(1334)年正月29日、改元に際して光武帝の初元号「建武」を採用したのだろう。なお、読みは「けんむ」とも「けんぶ」(建武二年十月十六日「きゃうい譲状」『相模文書』)とも称されていた。のち建武を改元するにあたり、堀川具親が高倉光守(光吉)に語った話に「今度改元不審、建武不吉何事哉、凶徒雖乱入京都、忽令敗北了、後漢光武時有此号、其間両三年有兵革、然至卅一年不改号歟」(『中院一品記』)とあり、建武新政府は後漢及び光武帝を意識したものであったと推測できる。
『改元部類』
儒卿 | 改元号案(最終案は赤) |
山井前民部卿藤範 | 建武、咸定、延弘 |
高辻式部大輔長員 | 興国、垂拱、淳化、天祐、中興 |
坊城前左大弁三位在登 | 建武、元聖、武功 |
式部権大輔行氏 | 元吉、元貞、大中 |
文章博士在淳 | 大武、元龍、建聖 |
まず奥羽の不穏な動きへの対応として、皇子の派遣と強力な権限を持たせた陸奥守の補任が急がれた。そこで白羽の矢が立ったのが、弾正尹[晶灬]王のもと弾正大弼を務めた三位中将顕家(北畠顕家)であったのだろう。顕家このとき十六歳。その後の顕家の活躍を見る限り、顕家は俊英にして果断であり、後醍醐天皇からも嘱望されていたのだろう。元弘3(1333)年8月5日の臨時除目で顕家は従三位に叙され陸奥守となる。鎮守府将軍「源尊氏」もまた従三位に昇叙し、武蔵守となった上、御諱「尊治」の一字を賜って「高氏」を「尊氏」と改めた(弟の左馬頭忠義も10月10日までに「直義」と改めており、尊氏と同時に名を改めた可能性があろう)。尊氏の従三位昇叙は、実朝将軍以来の武家公卿の誕生となり、この強烈な印象は、その後の尊氏の旧御家人層に対する大きなカリスマ性の一端となったことは間違いないだろう。
8月15日には前年の正慶元(1332)年6月25日に「配流出羽国」(『公卿補任』)された経験のある参議藤原光顕が「出羽守」と「為秋田城務之由宣下」された。参議顕家の陸奥守と鎮守府将軍尊氏の武蔵守同日補任、出羽守光顕(秋田城介)がその十日後に補されているのは、不穏な動きを見せる東北及び関東の鎮撫を強く意識した人事であろう。
●村上源氏略系
源通親―+―堀川通具―――堀川具実―――堀川基具―――堀川具守―――堀川具俊―――堀川具親
(内大臣)|(大納言) (内大臣) (太政大臣) (内大臣) (権中納言) (内大臣)
|
+―久我通光―+―久我通忠―――久我通基―――久我通雄―――久我長通―――久我通相
|(太政大臣)|(大納言) (内大臣) (太政大臣) (太政大臣) (太政大臣)
| |
| +―六条通有―――六条有房―――六条有忠―+―六条有光
| (右少将) (内大臣) (権中納言)|(右中将)
| |
| +―千種忠顕
| (左中将)
|
+―土御門定通――土御門顕定――土御門定実――土御門雅房――土御門雅長――土御門顕実
|(内大臣) (権大納言) (太政大臣) (大納言) (権大納言) (権大納言)
|
+―中院通方―+―中院通成―――中院通頼―――中院通重―――中院通顕―――中院通冬
(大納言) |(内大臣) (大納言) (内大臣) (内大臣) (大納言)
|
+―北畠雅家―+―北畠師親―――北畠師重―+―北畠親房―――北畠顕家
(権大納言)|(権大納言) (権大納言)|(大納言) (陸奥守)
| |
| +―冷泉持房―――冷泉持定
| (参議) (左少将)
|
+―北畠師行―+―北畠雅行―――北畠家房
(右中将) |(右中将) (右衛門尉)
|
+―北畠具行
(権中納言)
なお、顕家の東北下向は大塔宮護良親王の思惑があったともされ、「東国ノ武士、多ハ出羽陸奥ヲ領シテ其力モアリ、是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所可奉下トテ、国司ニハ彼ノ親王ニ親ク奉成ケルニヤ、土御門ノ入道大納言親房、息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル、誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル、彼両国ハ日本半国ナンド申ス国ナレバ、如此計給ケルモ謂レアリ」(『保暦間記』)とされ、本来関東に属していた奥羽御家人を大塔宮血縁者(母は「民部卿三位」「従三位資子」(『古本帝王系図』))である北畠家の指揮下に入れる工作をし、その結果、鎌倉を押さえる足利一党の勢力を削いだという。
ただし、北畠親房は大塔宮の異父兄「帥の御子(世良親王)」の「御めのと」であり、世良親王が「をもくなやませ給ひて、あへなくうしなひ」すると「かしらおろしぬ」(『増鏡』)と出家を遂げるなど、実際は北畠親房と大塔宮との親密な関係は見られない(楠木正成が世良親王家領の荘官を務めていた形跡があり、北畠親房と楠木正成の間には古くから関係があった可能性はあろう)。さらに、親房本人が記している『神皇正統記』に於いても「先あつまの奥をしつめらるへし」という後醍醐天皇の指示が記され、さらに顕家が奥州下向に抵抗している様子がわざわざ記されており、顕家のみならず父の親房入道も奥州下向には反対の立場にあったことがうかがえる。当然、大塔宮との結託は考えにくく、奥州下向及び皇子帯同は、後醍醐天皇の構想に基づくものと考えられる。
●元弘3(1333)年8月5日、15日除目
8月5日 | 治部卿(兼弾正尹) | 従三位 | [晶灬]王 |
8月5日 | 陸奥守(兼弾正大弼) | 従三位(昇叙) | 北畠顕家 |
8月5日 | 武蔵守(兼左兵衛督) | 従三位(昇叙) | 足利尊氏(改高氏) |
8月5日 | 内蔵頭(兼左中将) | 正四位下(昇叙) | 千種忠顕 |
8月5日 | 左近衛中将 | 正四位下(昇叙) | 一条実材 |
8月5日 | 右近衛少将(還任) | 従四位下 | 園基隆 |
8月5日 | 右衛門佐 | 従四位下(昇叙) | 坊門信行 |
8月5日 | 左近衛少将(兼少納言) | 正五位下 | 洞院実夏 |
8月5日 | 越前守(任。兼少納言) | 正五位下 | 中御門宗重 |
8月15日 | 出羽守(兼秋田城介) | 正四位下 | 葉室光顕 |
8月15日 | 右近衛少将 | 正四位下 | 一条実益 |
8月15日 | 権大納言 | 正二位 | 西園寺公宗 |
7月19日には「高時法師一族以下朝敵之輩知行之地、悉没官」(『建武年間記』)した没官領と飛騨国守護職が勲功賞として「兵部大輔殿(新田岩松経家)」に下されている(「後醍醐天皇綸旨」『山良文書』)。また、「足利殿(高氏)」ならびに弟の「左馬頭(忠義)」にも没官領が下されている(『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」)。高氏兄弟に対する下賜の日時は記されていないが、忠義を「左馬頭殿」と記していることから、直義が左馬頭となった6月12日以降、相模守に遷った11月8日の間となる。おそらくこれは鎌倉攻めの行賞と思われることから、新田義貞も同様に没官領を賜ったであろう。
●元弘三年頃の没官領下賜(足利高氏、足利直義、岩松経家)
旧領主 | 所領 | 充行 | 下賜年月 | 文書 |
北条泰家 | 陸奥国外濱 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 陸奥国糠部郡 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 陸奥国泉荒田 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
(安達?)顕業 | 出羽国会津 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
北条泰家 | 常陸国田中庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大方禅尼 | 常陸国北郡 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏維貞 | 常陸国那珂東 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 武蔵国足立郡 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 武蔵国久良(岐)郡 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 武蔵国赤塚 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
安達時顕 | 武蔵国麻生郷 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 相模国糟屋庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 相模国田村郷 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 相模国治須郷 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 相模国絃間郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 相模国懐嶋 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 伊豆国仁科 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 伊豆国宇久須郷 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 伊豆奈古谷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 駿河国泉庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 駿河国大岡庄 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏貞直 | 駿河国佐野庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 甲斐国安村別符 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
北条泰家 | 信濃国小泉庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 越後国上田庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 佐渡国六斗郷 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 佐渡国羽持郡 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 佐渡国吉岡 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 遠江国池田庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 遠江国渋俣郷 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
北条泰家 | 遠江国蒲御厨 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏維貞 | 遠江国谷和郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏維貞 | 遠江国宇狩郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏維貞 | 遠江国下西郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
名越高家 | 遠江国大池庄 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏貞直 | 三河国重原庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条守時 | 三河国小山辺庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条守時 | 三河国二宮庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 尾張国玉江庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 近江国岸下御厨 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大方禅尼 | 近江国池田庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 近江国広瀬庄 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 伊勢国柳御厨 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏維貞 | 伊勢国笠間庄 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏貞直 | 播磨国垂水郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏維貞 | 播磨国福居庄 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏貞直 | 備後国高野 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
大仏貞直 | 備後国城山 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 土佐国下中津山 | 兵部大輔殿 |
元弘3(1333)年 7月19日 | 『山良文書』「後醍醐天皇綸旨」 |
大仏維貞 | 伊予国久米良郷 | 左馬頭殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 筑前国(某所) | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 豊前国門司関 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 肥前国健軍社 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条泰家 | 日向国(国)富庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
北条守時 | 日向国島津庄 | 足利殿 |
元弘3(1333)年 6~7月中旬 | 『比志島文書』「足利殿左馬頭殿所領目録」 |
これら恩賞を取り扱ったのは、後年の「恩賞方」に相当する部局と思われるが、元弘3(1333)年当時は独立組織ではなく、戦後の勲功処理を行っていた奉行所が担当していたとみられる(高氏も奉行人の一人であった)。しかし、翌建武元年にかけての恩賞沙汰に関する多々の混乱から、記録所や雑訴決断所と強い連携を持たせた独立部局「恩賞方」が創設されたのだろう。その創設時期は不明だが、建武元(1334)年5月18日には恩賞方四番が定められており、この時かもしれない。恩賞方の一番にみられる中院中将良定や、四番頭人四条中納言隆資の子・隆資は護良親王側近であることから、恩賞方には護良親王の意向が一部反映されたのではなかろうか。一方で足利尊氏に近しい人物は選ばれていないのである。
●建武元年五月十八日恩賞方結番(『建武年間記』)
番方 | |||||
一番:東海・東山 (子・辰・申) |
吉田一位 (定房卿) |
経季朝臣 (頭宮内卿) |
良定朝臣 (中院中将) |
兼光 (土佐守) |
親光 (大田判官) |
二番:北陸 (丑・巳・酉) | 民部卿 (光経卿) |
藤長 (蔵人右少弁) | 職政 (兵衛大夫判官) |
秀清 (佐渡大夫判官) | |
三番:畿内・山陽・山陰 (寅・午・戌) | 別当 (藤房卿) |
宗兼朝臣 (頭中将) |
長年 (伯耆守) | 正成 (河内大夫判官) | |
四番:南海・西海 (卯・未・亥) |
四条中納言 (隆資卿) |
範国 (左衛門権佐) |
頼元 (五條大外記) | 清原康基 (六位史) |
所領安堵の「天下一統の掟を以、安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯をめさるゝ輩、恨を含時分、公家に口すさみあり、尊氏なしといふ詞を好ミつかひける」(『梅松論』)と伝えられる「尊氏なし」とは、所領安堵及び論功に関して、尊氏と親しい人々が不公平な措置を受けたと疑っていることを示唆するものかもしれない。
その後、護良親王は「新田右金吾義貞、正成、長年、潜にゑいりょを請て打立事度々に及」(『梅松論』)とあるように、尊氏を討つために新田義貞、楠木正成、名和長年らを語らい、尊氏と合戦を企てる風聞すら起こった。なかでも建武元(1334)年6月7日には「兵部卿親王、大将として将軍の御所に押寄らるへき風聞しける程に、武将の御勢御所の四面を警固し奉り、余の軍勢ハ二条大路充満しける程に、事の体大義に及によつて、当日無為になりけれとも、将軍よりいきとほり申されけれハ、全くゑいりょにはあらす、護良親王の御張行の趣なり」(『梅松論』)であったという。武家官僚両トップの楠木正成・名和長年は、当初より尊氏排除が混乱助長に繋がることを危惧してか護良親王の要請には非協力的であったとみられ(後年、尊氏が新田義貞の対立から謀叛人とされたのち、楠木正成は「義貞を誅伐せられて尊氏卿をめしかへされて君臣和睦候へかし、御使におひては正成仕らん」(『梅松論』)とあり、名和長年は護良親王の捕縛を行っている)、その後、大きな対立事件は記録されていない。しかし、この両者無風の状況を経て後述の護良親王捕縛が起こることになる。
元弘3(1333)年9月10日、陸奥守顕家の弾正大弼が停められ、正四位下頭中将忠顕(千種忠顕)が弾正大弼に転じ、従三位に叙された(『公卿補任』)。10月10日には陸奥守顕家が正三位、尊氏弟・左馬頭直義が正五位下に叙された(『公卿補任』)。この頃には直義が鎌倉へ派遣されることが定まっていたとみられ、直義の正五位下への昇叙は親王家別当の体裁を整えたものであろう。すでに奥羽の地からは叛乱の兆しの報告も届けられていたとみられ、厳冬の奥州下向が強行されたのはこの風聞が大きな理由であろう。
●元弘3(1333)年10月10日除目
権中納言(還任) | 正二位 | 葉室長隆 |
陸奥守 | 正三位(昇叙) | 北畠顕家 |
前参議 | 正三位(昇叙) | 中院親光 |
左近衛少将(兼少納言) | 従四位下(昇叙) | 洞院実夏 |
左馬頭 | 正五位下(昇叙) | 足利直義 |
そして10月20日、「先あつまの奥をしつめらるへしとて、参議左近中将源顕家卿を陸奥の守になして遣はさる」(『神皇正統記』)と、まず陸奥守顕家が陸奥国府多賀城へ向けて京都を出立した。顕家の管国は「東の陸奥出羽のかためにておもむかせたまふ」(『神皇正統記』)とあるように出羽国に及ぶものであった。このとき、顕家は御年六歳の七宮(のち憲良親王・義良親王⇒後村上天皇)を奉じている。
実は顕家は予てより我が家は「代代和漢の稽古をわさとして朝廷につかへ、政務にましはる道をのみこそまなひ侍れ、吏途の方にもならはす、武勇の芸にもたつさはらぬ事なれは」(『神皇正統記』)と陸奥国下向を断っていたが、後醍醐天皇は「公家すてに一統しぬ、文武の道ふたつなるへからす、むかしは皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそ、おほくは軍の大将にもさゝれしか、今より武をかねて藩屏たるへし」(『神皇正統記』)と諭したうえで天皇自ら旗の銘を記し与えた。
奥州国司下向に続き、関東の要地・鎌倉の警衛も早急に行われるべきことであり、11月8日には左馬頭直義を相模守に任じた上(『尊卑分脈』では遷任とあるがその後も左馬頭を号しており、左馬頭は現任であったか)、四品成良親王を奉じて関東下向への準備を整えた。同日の除目では正四位下出羽守光顕(秋田城介)が従三位へ昇叙し(辞参議)、三位中将忠顕が参議となった(『公卿補任』)。
奥州下向の途次、七宮及び顕家一行は鎌倉に逗留して千寿王丸や細川和氏ら足利家の人々と対面し、東国における不穏な動きに対する談合が行われたと思われる。このとき、鎌倉駐屯の武士のうち奥州所縁の人々や政務に明るい人々は顕家に供奉して奥州下向の途についたとみられ、政所執事二階堂氏や陸奥引付衆などを務めた武家官僚、そのほか結城宗広入道一党などの奥州武士はこのとき鎌倉から供奉した人々であろう。この供奉人の一人が10月10日に鎌倉西部「常葉」の警衛を命じられていた「曾我乙房丸」であるが、彼は陸奥国津軽郡に挙兵した「津軽平賀郡大光寺(平川市大光寺町)」の旧御内人系御家人曾我氏の一族であり、父の曾我左衛門太郎入道光称に代わって奥州下向に供奉したと思われる。その後の関東及び奥州の関係は中尊寺衆徒の訴状が両府に届けられるなど、奥州と関東は協働体制であり、敵対関係にはなかったのである。当然ながら、尊氏の「幕府構想(そもそも「幕府」などという政治体制は存在しない)」などまったく存在しない。
元弘3(1333)年11月29日、国府多賀城に参着した陸奥守顕家は、糠部郡や津軽郡、出羽国など奥羽各地で起こっていた叛乱を目の当たりにし、「津軽平賀郡大光寺(平川市大光寺町)」に拠って兵を挙げていた先代方の曾我氏には、鎌倉から同道した「津軽平賀郡内岩楯、大平賀、沼楯村々并奥州名取郡四郎丸郷内若四郎名等」を重代相伝知行する「曾我太郎光高(乙房丸)」を派遣して対処し、光高は12月11日に大光寺城で奮戦している(「曾我光高申状案」『南部文書』:『鎌倉遺文』32856)。
また、糠部郡の叛乱については南部又次郎師行、戸貫出羽前司、河村又二郎入道らに追捕が命じられ、12月18日、顕家は奉行人「前河内守朝重」を通じて「結城参河前司親朝」に「糠部郡」にあった「右馬権頭茂時跡」の「九戸」を給して「令領知彼戸於貢馬以下者、無懈怠可致沙汰」を命じている(「陸奥守顕家袖判御教書」『結城神社所蔵文書』)。恩賞というよりも軍事面を早急に整える実務的な諸役の一種とみられる。そのほか、正月20日に和知次郎重秀(結城一族)が「依合戦之忠」って陸奥国金原保内羽尾村の地頭代を賜っており(『結城古文書写』)、陸奥国海東筋に結城宗広入道の手勢が展開した可能性があろう(かつて宗広入道は関東の命を受け、長崎思元領として行方郡内の相馬重胤領の一部の打渡を行い、後日重胤が訴えている)。
さらに顕家は奥羽の先代没官領を七宮の家政機関(所謂「陸奥将軍府」と称される組織であるが、陸奥将軍府という呼称は存在しない)に付したのだろう。この家政機関は七宮の親王宣下を見越した親王庁の前段措置とみられ、別当は陸奥守顕家か。令は「政所執事」で鎌倉から同道した山城左衛門大夫顕行であろう。信濃入道行珍も二階堂一族で政所執事顕行の岳父である。彼も「評定奉行」に就いて引付頭人の筆頭(一番引付頭人)を兼ね、別当顕家に付属したのだろう。「式評定衆」のうち結城上野入道、参河前司、伊達左近蔵人は評定衆寄人で引付頭人であり、七宮の家司であろう。なお「式評定衆」の冷泉少将家房(顕家従兄弟で、後年、顕家に従って一族の中将持房や春日顕国らとともに上洛し、顕家戦死後の奥州軍を率いて石清水八幡の男山に籠って奮戦する)、式部少輔英房、内蔵権頭入道元覚は陸奥守顕家の家司とみられ、式評定衆には加わるが七宮家の家政機関には加わっていない。なお、引付衆や評定衆などの存在から、これらの家政機関は明らかに先代鎌倉を模したもので、現実的な武家統治機構として採用されたものであろう。
●七宮家政機関(「建武年間記」『鎌倉遺文』32865)
官職 | 家政機関 | 名前 | 説明 |
(皇子) | 七宮(義良親王) | 後醍醐天皇の第七皇子。のちの後村上天皇。下向時六歳。 建武元(1334)年5月23日親王宣下。 | |
参議 陸奥守 | 別当? | 北畠顕家 | 従三位陸奥守(のち兼鎮守府将軍)。北畠親房卿の嫡男で、下向時十六歳。 |
近衛少将 式部少輔 内蔵権頭 左衛門尉 左近将監 | 式評定衆 | 冷泉源少将家房
式部少輔英房 内蔵権頭入道元覚 結城上野入道 信濃入道行珍 三河前司親朝 山城左衛門大夫顕行 伊達左近蔵人行朝 | 北畠親房の縁戚。 宮内卿藤原基長の孫か。 結城宗広。元御内人。千寿王・新田の鎌倉攻めで綸旨に随って朝廷に服す。 二階堂行朝。のち足利家政所執事。妻は叔父景綱の娘。 結城親朝。結城宗広の嫡男。父宗広の死後、足利方に下る。 二階堂顕行。元吏寮。二階堂信濃入道行珍女婿。 伊達行朝。 |
左衛門尉 左衛門尉 | 引付衆 一番 | 信濃入道
長井左衛門大夫貞宗 近江二郎左衛門入道 安威左衛門入道 五大院兵衛太郎 安威弥太郎 椙原七郎入道 | 二階堂行朝。 長井貞宗。元吏寮。 摂津国人。安威資脩入道性威。 五大院兵衛入道玄照。元御内人。 摂津国人。 元吏寮。 |
引付衆 二番 | 三河前司
常陸前司 伊賀左衛門二郎 薩摩掃部大夫入道 肥前法橋入道 丹後四郎 豊前孫五郎 |
結城親朝。子の七郎顕朝は北畠顕家を烏帽子親としているのだろう。 佐竹泰義か。建武二年五月廿七日没(『常楽記』)。 元御内人。伊賀貞長。 信濃国人。 二階堂政衡。旧関東廂番。中先代の乱後に奥州へ逃れたとみられる。 | |
左衛門尉 左近将監 左衛門尉 左衛門尉 | 引付衆 三番 | 山城左衛門大夫
伊達左近蔵人 武石次郎左衛門尉 安威左衛門尉 下山修理亮 飯尾二郎 斎藤五郎 | 二階堂顕行。 伊達行朝。 武石胤顕。のち上総権介。 摂津国人。 元吏寮。 元吏寮。 |
左衛門尉 | 政所執事 (家令?) | 山城左衛門大夫 | 【引付三番頭人】二階堂顕行。 |
評定奉行 | 信濃入道 | 【引付一番頭人】二階堂行朝。 | |
寺社奉行 | 安威左衛門入道
薩摩掃部大夫入道 | 【引付三番】摂津国人。安威資脩入道性威。 【引付二番】信濃国人。 | |
安堵奉行 | 肥前法橋
飯尾左衛門二郎 | 【引付二番】 【引付三番】 | |
侍所 | 薩摩刑部左衛門入道 | 【引付二番】信濃国人。子息の(有坂)薩摩五郎左衛門尉親宗が勤める。 親宗母は伴野氏。 |
糠部郡で先代加担の旧御内人・工藤氏らの叛起は具体的には伝わらないものの、津軽騒乱で平賀郡持頼城に拠った人々の中に糠部郡の旧御内人が加わっていることから、津軽へ逃れて前中務大輔時如や前城介高景らと合流したのであろう。
元弘3(1333)年12月11日(「曾我光高申状案」『南部文書』:『鎌倉遺文』32856)、翌元弘4(1334)年正月1日と8日に曾我光高が大光寺城を攻めており(「曾我光高申状案」『南部文書』:『鎌倉遺文』32830)、津軽における戦いは顕家の奥州着任直後から起こっていたことがわかる。なお、この戦乱の最中、光高が留守にしていた本拠大平賀村に同族「曾我余二経光」が侵入して「散々濫妨」を行い、光高は3月19日、国衙に「被差国御使、被糺返損物銭貨已下財宝等」ならびに「光高所領津軽平賀郡内大平賀村被追出経光、全所領事」を申請している(「曾我光高申状案」『南部文書』)。
ただし、経光は大光寺曾我氏に呼応した訳ではなく、もともと私的な押領の企てであったとみられ、光高は経光の追捕ではなく、損亡弁済と所領からの追放を希望している。そもそも大平賀村曾我氏は鎌倉に出仕(光高の父・左衛門太郎入道光称は鎌倉駐屯のままであったとみられる)しており、経光はその代官的立場にあった人物ではなかろうか。しかし、下向した若い光高と在地の余二経光との間で決定的な対立が生じた結果、経光が大平賀村に狼藉をはたらいた可能性があろう。その後、経光は大光寺曾我氏と通じて石川楯に立て籠って抵抗したとみられる。なお、光高は鎌倉の父・左衛門太郎入道光称にも経光の濫妨を伝えていたのだろう。5月15日、「沙弥光称」は「奥州津軽平賀郡内大平賀、岩楯并なとりのこほり四郎丸於たかせの村内小若四郎名等事」を「子息曾我乙房丸に段歩をのこさす代々御下文をあいそへて、譲渡ところなきなり」(『齋藤文書』)とする譲状を発給する。ただ、彼の譲状は「正慶三年五月十五日」とあり、元弘元号のみならず建武元号をも無視した正慶元号を継続して使用しており、旧御内人たる光称入道の矜持か。
この頃顕家は「朝敵余党人等、小鹿嶋并秋田城今湊楯築所々、可乱入津軽中之由、有其聞」への対応を行い、「国中給主御家人令集会、大阿尓郷一口、之為防戦、令相待凶徒」の指示をした(「曾我光高申状案」『南部文書』:『鎌倉遺文』32856)。「大阿尓郷(南津軽郡大鰐町)」は津軽地方へ通じる唯一の要衝であり、曾我光高知行地の隣接地である。顕家は「大阿尓郷」を封鎖することによって出羽からの侵入を防ぐ狙いであったと考えられる。なお、大光寺城曾我氏は「朝敵余党人等、小鹿嶋并秋田城今湊楯」に呼応したものと考えられるが、「津軽凶徒時如、高景已下」(『元弘日記裏書』)とあるように、叛乱の首将は「時如、高景」両名とみられ、津軽への侵入を試みていた様子がうかがえる。「時如」は「中務権大輔時如」(「三浦貞宗法師代頼円申状案」『色部文書』)、「高景」は前城介高景に比定され(『太平記』の東勝寺自害の人々に「城介高量(ママ)」がみられるが、記述自体の信憑性が低いため参考不可)、鎌倉滅亡後、それぞれ根本所領のある越後国(名越氏)、出羽国(城氏)へ逃れたのち、出羽国小鹿嶋(男鹿市。当時の男鹿半島は島だったとみられる)と対岸の秋田城(秋田市)で連携して津軽地方平賀郡の旧御内人と連携して挙兵したとみられる。なお、名越時如は千葉介貞胤の義叔父(貞胤母が時如室と姉妹)である。
足立遠元―――女子 +―北条朝直――――北条朝房―――北条政房―――――北条朝房――――――――――女子
(左衛門尉) ∥ |(遠江守) (式部大夫) (太郎) ∥ +―渋川義季
∥ | ∥ |(刑部大輔)
∥――――+―北条時村――――北条時広――――――――――――――――――――女子 ∥ |
∥ (五郎) (越前守) ∥ ∥――――+―女子
∥ ∥ ∥ ∥
∥ +―北条時章――北条篤時――北条秀時――北条時如 ∥ ∥ ∥
∥ |(式部大夫)(遠江守) (美濃守) (中務権大輔)∥ ∥ ∥
∥ | ∥ ∥ ∥
∥ | +―――女子 ∥―――――渋川貞頼 足利直義
∥ | | ∥ ∥ (兵部大輔) (相模守)
∥ | | ∥――――――渋川義春
∥ | | ∥ (次郎三郎)
∥ +―北条朝時――+――――――――女子 | +―足利義顕
∥ |(遠江守) ∥ | |(二郎)
∥ | ∥ | |
∥ | 足利義氏 ∥―――――――+―足利家氏
∥ | (上総介) ∥ | (尾張守)
∥ | ∥ ∥ | ∥
∥ | ∥――――――足利泰氏 | ∥――――足利宗家
∥ | ∥ (宮内少輔) | ∥ (尾張守)
∥ | ∥ | ∥ ∥
北条時政―+―北条時房 | +―女子 +―北条為時――+―――女子 ∥―――――――足利宗氏
(遠江守) |(武蔵守) | | |(遠江守) ∥ (尾張守)
| | | | ∥ ∥
+―北条義時―+―北条泰時――+―北条時氏―+―北条時頼――北条時宗―――――――北条貞時――――――北条高時――北条時行
(陸奥守) |(左京権大夫) (修理亮) (相模守) (相模守) ∥(相模守) ∥ (相模守) (相模二郎)
| ∥ ∥
+―北条重時――――北条時継――――――――――――――――――女子 ∥―――足利高経
|(陸奥守) (式部大夫) ∥ (尾張守)
| ∥
| 上杉頼重――――――女子 ∥
| (承安門院蔵人) ∥――――足利尊氏 ∥
| ∥ (左兵衛督) ∥
| ∥ ∥
| 足利貞氏 ∥
| (讃岐守) ∥
| ∥ ∥
| ∥――――足利高義 ∥
| ∥ (左馬頭) ∥
+―北条実泰――――北条実時 +―女子 ∥
|(五郎) (越後守) | ∥
| ∥ | 北条時如 ∥
| ∥ |(中務権大輔) ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ +―女子 ∥
| ∥ | ∥
| ∥ | 千葉介胤宗 ∥
| ∥ |(千葉介) ∥
| ∥ | ∥――――千葉介貞胤 ∥
| ∥ | ∥ (千葉介) ∥
| ∥ +―女子 ∥
| ∥ | ∥
| ∥ | ∥
| ∥―――――+―北条顕時―――+―北条貞顕 ∥
| ∥ |(越後守) (修理権大夫) ∥
| ∥ | ∥
| ∥ +―北条実政―――――北条政顕―+―規矩高政 ∥
| ∥ |(上総介) (上総介) |(掃部助) ∥
| ∥ | | ∥
+―北条政村――+―女子 +―女子 +―絲田貞義 ∥
(左京権大夫)| ∥ |(左近将監) ∥
| ∥ | ∥
+―女子 ∥ +―女子 ∥
∥ ∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ ∥
∥――安達宗顕―――――――――――――――――安達時顕―――――安達高景
∥ (秋田城介)∥ (秋田城介) ∥ (秋田城介)
∥ ∥ ∥
安達義景――+―安達顕盛 ∥――――――――長井貞秀――――――――――+―長井広秀
(秋田城介) |(左衛門尉) ∥ (中務少輔) ∥|(大膳大夫)
| ∥ ∥|
+―女子 ∥ ∥+―長井高冬
∥ ∥ ∥ (右馬助)
∥―――――+―長井宗秀 ∥
∥ |(掃部頭) ∥
∥ | ∥
長井時秀 +―――――――――――――――――――――――女子
(宮内権大輔)
3月16日、顕家は「朝敵与党人等、多以落下当国」につき、「警固路次、於有其疑之輩者、可召捕其身」を命じる国宣を発している(『会津四家合考』)。これは、3月9日に鎌倉に攻め入るも「鎌倉大将渋河刑部大輔義季」に撃退された「本間、澁谷一族」(『将軍執権次第』)ら旧御家人が奥州へ逃亡したことを指しているとみられる。
こうした中で、4月13日、京都から同道したとみられる「多田杢助貞綱」を糠部郡へ遣わして、糠部郡で謀叛に加担した「一戸新給人横溝孫次、三戸新給人工藤三郎、八戸給主工藤孫四郎、同孫次郎」「三戸新給人岩崎大炊六郎入道」ら「津軽凶徒与同候」の闕所地(一戸、八戸、三戸)の警固について「南部又次郎殿、戸貫出羽前司殿、河村又二郎入道殿、両三人」を預ける使節と定め、貞綱に「使節等相共可尋沙汰之由、被仰含候」ことを伝えるとともに、「急令会合、令静謐部内之様、可被計沙汰者」を命じる国宣を下した(『南部文書』)。この国宣は4月29日に南部又次郎師行(戸貫出羽前司、河村又二郎入道にも同文が遣わされたであろう)のもとに届き、糠部郡内に入っていたと思われる「多田杢助貞綱」にも同日届けられ、翌30日、貞綱は国宣の履行について「南部又次郎殿(戸貫出羽前司、河村又二郎入道にも伝えられたであろう)」に伝えている(『南部文書』)。貞綱はその後「令下向津軽候」(『南部文書』)ことが命じられており、津軽平賀郡内の騒乱への援兵として遣わされたのだろう。そのころ、すでに大光寺楯は陥落しており、攻め落とした曾我光高は曾我余二経光が籠る石川楯(弘前市石川大仏下)へ向かった。
また、この頃行方郡千倉庄内でも「新田兵部大輔経家代寂心申、行方郡千倉荘事、同本阿弥陀仏、其身者称在府、以代官構城郭、及合戦企」という事件が起こっており、千倉庄に派遣されていた新田岩松経家の代官寂心が、岩松本阿弥陀仏が陸奥国衙に出仕しながら千倉庄内の代官を指図して城を構えて叛乱したと訴えた(『会津四家合考』)。もとは岩松一族内の所領をめぐる対立が発端と思われるが、顕家は寂心の訴えを認め、3月19日に本阿弥陀仏の代官を「可治罰之由」の国宣を下し、行方郡の「検断岩城弾正左衛門尉隆胤」にその施行を命じた。これを受け、隆胤は3月28日頃に行方郡内の地頭等に千倉庄へ「急速被相催庶子、可被莅彼所候、不可有緩怠之儀候」ことを指示している(『会津四家合考』)。その後、本阿弥陀仏とその代官がいかなる措置を取られたのかは定かではない。
4月に入ると、曾我光高は曾我経光が籠る「石川楯」への攻撃をはじめ、5月21日の合戦で攻め落としたとみられる(「曾我光高合戦注文」『南部文書』)。6月初旬頃、光高は国府へ合戦注文を報告。6月12日、顕家は光高に「石川楯無為責落候、目出候」と賞するも「持寄城静謐無御心元候」と述べている。平賀郡西部に位置する要害・持寄城には、出羽国に挙兵した「津軽凶徒時如、高景已下」(『元弘日記裏書』)の旧関東勢が結集(糠部郡、行方郡、津軽平賀郡で呼応して敗れた人々も逃れ集まっていたとみられる)していたのだろう。また、顕家は津軽への援兵として「中條ニハ早可向之由」を命じたことを曾我光高に伝えている(『南部文書』)。「中條」なる人物は不明ながら、のちに顕家から「糠部郡一戸」を付された「中條出羽前司時長」(『南部文書』)か。さらに顕家は持寄城の戦況に対して「為津軽凶徒追罰、不迴時日令発向、抽軍忠」(『会津四家合考』)の国宣を発するとともに、8月2日、奉行人大蔵権少輔清高を通じて南部師行に「津軽御下向路次、糠部郡内宿々御雑事用意事、御宿次并人数以下注文一通遣之、早相談工藤右衛門入道、可致厳密沙汰者」(『南部文書』)の国宣を発した。顕家は憲良親王(七宮は「建武元年五月廿三立親王」した。「後改義良」し、後年、後村上天皇となる)を奉じ糠部郡を経由した津軽下向を計画している。
その四日後の8月6日、顕家は国府駐屯の「陸奥国岩城郡好島荘西方御家人伊賀式部次郎光俊」の「代官小河又次郎時長、相伴総領伊賀三郎盛光」を津軽へ派遣した(『飯野八幡宮文書』)。憲良親王・顕家の先陣的な措置であろう。彼らは8月21日には持寄城に到着しているが、眼前に岩木川の川俣と湿地帯を控えた要害持寄城は容易に攻め難く、実に約半年に亘る攻城の末、11月19日に陥落させた(『飯野八幡宮文書』)。「建武元年十一月、津軽凶徒時如、高景已下、束手乞降」(『元弘日記裏書』)とみえるが、その後、12月14日に南部師行が国衙に報告した「降人等交名注進案」(『南部文書』)に「時如、高景」の名はない。そしてその後の時如、高景の消息も不明である。なお、憲良親王・顕家が国府から実際に出陣した記録はない。
●建武元(1334)年十二月十四日『津軽降人等交名注進案』(『南部文書』)
降人 | 預人 | 備考 |
工藤孫二郎義継 | 安藤又太郎 | 元八戸給主。工藤左近二郎子息 |
工藤孫三郎祐継 | 安藤又太郎 | 工藤左近二郎子息 |
矢部五郎 | 安藤又太郎 | 工藤若党 |
弥彦平三郎 | 安藤又太郎 | 工藤若党 |
四方田彦三郎 | 安藤又太郎 | 工藤若党 |
高橋三郎右衛門入道光心 | 安藤又太郎 | |
長尾孫七景継 | 安藤又太郎 | |
長尾平三入道 | 安藤又太郎 | |
萩原七郎 | 安藤又太郎 | |
山梨子弥六入道 | 安藤又太郎 | |
気多孫太郎頼親 | 安藤又太郎 | |
気多三郎重親 | 安藤又太郎 | 気多頼親子息 |
新開又二郎 | 安藤又太郎 | |
乙辺地小三郎光季 | 安藤又太郎 | |
秦五郎四郎是季 | 安藤又太郎 | |
野辺左衛門五郎 | 安藤又太郎 | 11月23日死去 |
野内弥九郎光兼 | 安藤又太郎 | |
恵藤弥五郎 | 安藤又太郎 | 死去 |
曾我卿房光円 | 小河弥次郎入道 | |
内河三郎二郎 | 瀧瀬彦二郎入道 | |
内河又三郎右真 | 瀧瀬彦二郎入道 | |
工藤治部右衛門二郎貞景 | 安保弥五郎入道 | 死去 |
工藤孫次郎経光 | 安藤五郎二郎 | 工藤貞景弟 |
気多二郎太郎員親 | 大沼又五郎 | |
小国弥三郎泰経 | 結城七郎左衛門尉(結城朝高) | |
工藤左衛門次郎義村 | 和賀右衛門五郎 | 旧一戸給主、工藤四郎左衛門入道子息 |
吉良弥三郎貞郷 | 都築彦四郎入道 | 足利一門の吉良氏か |
工藤六郎入道道光 | 中務右衛門尉 | |
工藤三郎次郎経資 | 中務右衛門尉 | |
金平別当宗祐 | 武石上総介代 | 持寄城近隣の金平村(弘前市兼平)にあった大寺別当か |
弟子智道 | 武石上総介代 | 金平別当宗祐の弟子僧 |
曾我左衛門太郎重経 | 浅利六郎四郎 | 12月1日死去 |
曾我彦三郎 | 浅利六郎四郎 | |
曾我太郎兵衛入道道性 | 弾正左衛門尉(岩城隆胤) | |
曾我兵衛太郎 | 弾正左衛門尉(岩城隆胤) | 曾我太郎兵衛入道子息 |
殖松(植松?)彦二郎助吉 | 倉光孫三郎 | |
相馬入道子息法師丸 | 毘沙門堂式部阿闍梨 | 千葉氏流相馬氏か |
小河六郎三郎 | 小河二郎 | |
笠原彦四郎宗清 | 二宮治部左衛門太郎 | |
笠原四郎長清 | 二宮治部左衛門太郎 | |
工藤四郎二郎 | 中村弥三郎入道 | |
村上孫三郎政基 | 安藤孫二郎 | |
村上八郎入道真元 | 安藤孫二郎 | |
朝坂掃部助入道理顕 | 安藤孫二郎 | |
内紀(内記?)七郎入道妙覚 | 安藤孫二郎 | |
道正房 | 安藤孫二郎 | |
工藤又三郎 | 工藤六郎 | |
有富八郎宗広 | 11月23日死去 | |
小出左衛門尉 | 11月21日死去 | |
小出太郎 | 高下供住置之 | |
小松中務入道 | 高下供住置之 | |
曾我孫二郎貞光 | 多田貞綱 | |
曾我与三 | 多田貞綱 |
建武元(1334)年11月19日の津軽持寄城攻略の報は、国衙へ奉じられるとともに京都へも報じられたとみられ、12月17日の除目で陸奥守顕家は「叙従二位勲功賞」された(『公卿補任』)。
●建武元年十二月十七日除目(『公卿補任』)
左大臣 | 従一位 | 内覧 兼兵部卿(任) | 藤原道平 |
右大臣(任) | 従一位 | 氏長者 兼治部卿(任) | 藤原冬教 |
前右大臣 | 従一位 | 刑部卿(任) | 源長通 |
内大臣 | 従一位 | 兼民部卿(任) | 藤原定房 |
前内大臣 | 正二位 | 式部卿(任) | 藤原公賢 |
権大納言 | 正二位 | 兼宮内卿(任) | 藤原実忠 |
中納言 | 正二位 | 兼大判事(任) 大蔵卿(任) | 藤原公明 |
権中納言 | 正三位 | 左衛門督 春宮権大夫 兼大学頭(任) | 藤原実世 |
参議 | 正三位 | 左大弁 造東大寺長官 兼中務大輔(任) | 藤原実治 |
参議 | 正三位⇒従二位(昇叙) |
右近衛中将 陸奥守 | 源顕家 |
参議(還任) | 正三位 | 太宰大弐 | 藤原経顕 |
建武2(1335)年3月23日、陸奥守顕家は「南部又次郎師行」に「津軽中事為有尋沙汰」を指示し、津軽地方の人々に「応催促相催郡内輩、可致忠節」ことを命じた(「陸奥国宣」『南部文書』)。検断権は見られず、
6月3日、顕家は「相馬孫五郎殿(相馬重胤)」に対し、「武石上総権介胤顕」とともに「伊具、曰理、宇多、行方等郡、金原保検断事」を命じている(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬家文書』)。また、相馬孫五郎重胤は同日の『陸奥国宣』で「行方郡事、可令奉行、條々載事書被遣之」とあるように行方郡を奉行すべきことが命じられている(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬家文書』)。
■奥州検断職(奥州南部)
地区:( )内は想像の検断任郡 | 検断 | 出典 |
陸奥国郡々 | 白河上野前司入道(結城宗広入道) | 元弘三年十月五日「陸奥国宣」 (『白河結城文書』) |
(伊具郡、亘理郡)、宇多郡、行方郡 (金原保) ⇒同日、行方郡の奉行を拝命している。 |
相馬孫五郎重胤 | 建武二年六月三日「陸奥国宣」 (『相馬家文書』) |
伊具郡、亘理郡、(宇多郡、行方郡) 金原保 |
武石上総権介胤顕 | 建武二年六月三日「陸奥国宣」 (『相馬家文書』) |
岩城郡 | 岩城弾正左衛門尉隆胤 ※『飯野八幡文書』元亨四年文書の 岩崎弾正左衛門尉隆衡と同一人物か |
建武元年三月廿八日「沙弥某遵行状」 |
白河郡、高野郡、岩瀬郡、安積郡 石河庄、田村庄 依上保、小野保 |
結城参河前司親朝 | 建武二年十月廿六日「陸奥国宣」 (『白河結城文書』) |
こうして武石氏とともに陸奥国海道四郡の検断権を握った重胤は、同年7月3日、さっそく従弟の相馬孫次郎行胤に対して出された行方郡大悲山村安堵についての『陸奥国宣』に従い、『相馬重胤打渡状』を28日に発給している。行胤は重胤の従弟というだけではなく、行胤の嫡子・相馬五郎朝胤と重胤娘が結婚している関係から、大悲山相馬氏に対する重胤の信頼ぶりは群を抜いている。
●相馬重胤周辺系図
・相馬胤村―――+―師胤―――重胤――+―親胤――――松鶴丸(胤頼)
(五郎左衛門尉)|(彦次郎)(孫五郎)|(孫次郎)
| |
| +―光胤====松鶴丸(胤頼)
| |(弥次郎)
| |
| +―娘
| ∥―(?)―松鶴丸(胤頼)
+―通胤―――行胤――+―大久朝胤
(与一) (孫次郎)|(五郎)
|
+―鶴夜叉===松鶴丸(胤頼)
時は戻って、元弘3(1333)年11月の陸奥守顕家の奥州下向に続き、12月14日に「成良親王并左馬頭直義、下向鎌倉」(『鎌倉年代記裏書』)した。成良親王はこのとき八歳。鎌倉下向を前に11月20日に親王宣下を受けている(『鎌倉将軍次第』)。
鎌倉は尊氏の妻子および細川和氏、頼春らを筆頭とする足利一族が臨時統治している状態に過ぎず、手薄な状況にあった(さらに奥州加勢の人々が抜けている)。鎌倉は百五十年に渡って鄙住公卿の鎌倉家(鎌倉宮)が本拠を置き、多くの御家人が屋敷を構えた覇府にして武家の「吉土」(『建武式目』)である。この地を先代勢力に奪還されれば武家の動揺は否めない。奥羽及び鎌倉への皇子及び国司の派遣(このほか北陸、九州への派遣も検討されていたのではなかろうか)は後醍醐天皇の帰洛以前から計画されていたと考えられ、鎌倉へは足利尊氏の実弟・直義が派遣されることとなった。直義が選ばれたのは政治的な理由ではなく、鎌倉を統治していたのが千寿王丸であり、少なくとも千寿王丸よりも目上かつ足利一党の人々を統率できる必要があったためであろう。
成良親王及び直義ら一行は、12月28日に「宮御下向関東、左馬頭、山城入道以下御共、二階堂小路以山城美作入道屋鋪為御所」(『将軍執権次第』)といい、千寿王丸の御所である「二階堂御所山上陣屋」(「大塚員成軍忠状案」『鎌倉遺文』七三)に近接する「山城美作入道(故二階堂貞衡入道)」屋敷が親王御所と定められた。その管国は「関東八ヶ国為守護」(『保暦間記』)で、成良親王家は「直義左馬頭、尊氏弟」が親王家別当(家政機関としての政所も統べた)ならびに「執権」(『将軍執権次第』)、「政所執事三河入道行諲」(『将軍執権次第』)、次いで「三河入道行諲元弘三以後、俗名時綱」(『関東将軍家政所執事次第』)が親王家令を務めたのだろう。また、直義は義弟の渋川刑部大輔義季(渋川足利家は兄家の足利尾張守家と同様に得宗家に次ぐ名門名越家の血を引き、足利尾張守家とともに足利別家の御家人であった)、兵部大輔の直義後任・岩松兵部大輔経家を同行していたとみられ、彼らは鎌倉において御所を警衛する「関東廂番(朝廷における武者所と同様)」の頭人となっている。
なお、一般に「鎌倉将軍府には陸奥将軍府とは異なり、然したる政務機関は置かれなかった」とされるが、実際には先代及び陸奥国衙同様の政庁が設置されていた。これらは『建武年間記』などでは明確な記録として残らないものの「政所(成良親王家政所)」も置かれ、政所執事には二階堂氏が就いている(「関東将軍家政所執事次第」『関東開闢皇代并年代記』)。また鎌倉に祗候する武士の統率や御所出仕の監督などを司る「侍所」も置かれており、建武2年12月8日当時、「侍所三浦因幡守」が見え(建武四年八月日「野本鶴寿丸軍忠状」『熊谷家文書』)、さらに中先代の乱では「為与党人退治、侍所御代官被向候」と、侍所の代官がその追討に動いている(『三浦文書』)。さらに建武2(1335)年正月7日時点で侍所の下部組織「小侍所」が設置され(『御的日記』)、別当は「渋河殿(渋川義季)」であったとみられる。また、直義が「執権(評定衆筆頭)」として親王家を補佐している以上、家政決定機関である「評定衆」が存在していたと考えられ、「三河入道行諲元弘三以後、俗名時綱」(「関東将軍家政所執事次第」『関東開闢皇代并年代記』)は「引付頭、御所奉行」(『武家年代記』)を務めており、引付衆も存在していた。そのほか元弘4(1334)年2月5日に「上杉左近蔵人殿」が「大御厩事」を命じられているが(元弘四年二月五日「足利直義御教書」『上杉家文書』)、これもかつて「葛西谷口、河俣」に新造されていた「大御厩」(『吾妻鏡』建長三年二月廿日条)を継承したものであろう(建久2(1191)年6月17日に「三浦介」が建造の奉行を命じられたもの。場所は不明だが幕府内か)。このように当時の鎌倉には先代鎌倉親王家と同様の家政機関が置かれていたことがわかる。また、建武元(1334)年8月に平泉中尊寺が歴代の諸堂修造の経緯と「京都鎌倉兵乱祈誓、今年津軽合戦御祈祷忠勤」を述べて、修造資金の要請を依頼する申状が陸奥国衙および「鎌倉御奉行所」(『中尊寺経蔵文書』)の両方へ届けられていることから、鎌倉と陸奥国衙が強い連携のもとにあったことが想定される(この申状に対する鎌倉からの返事は現存しない。陸奥国衙では顕家が9月6日に国宣を下して中尊寺領への狼藉に対する掣肘を加えているが、堂舎修造の資金についての記載はない)。
翌元弘4(1334)年正月5日、尊氏は従三位から正三位に昇叙する(『公卿補任』)。従三位となったのが前年8月5日であり、尊氏に対してかなり積極的な昇叙が行われたことになる。位階上は陸奥守顕家の二席下であったが、鎮守府将軍たる尊氏は陸奥国と鎌倉を繋ぎ、内奏する役割を担っていたのであろう(尊氏は少なくとも関東、九州、中国、四国、畿内の武家に対する監理を行っている)。尊氏は主上後醍醐天皇と対立関係にはなく(ただし、将軍宮護良親王とは対立関係にあった)、相当に信任を得ていたことがわかる。従三位が極官であれば、かつての源三位頼政のような形ばかりのものとも言えるが、その後短時間でさらに正三位へ昇叙された背景には、昇叙が上辺だけのものではなく尊氏自身は事実上閑院家当主に准じた家格として遇された結果であろう。これに伴い、嫡子の義詮(千寿王)も閑院家嫡子に准じ、建武2(1335)年4月7日には、足利尊氏嫡子の義詮(千寿王)がわずか六歳で叙爵している(『公卿補任』)。また、家業としては「笙」が選ばれ、建武元(1334)年7月20日に「御笙始」(『足利家官位記』)が行われている。これらから、尊氏は他の武家とは隔絶した次元の武家公卿(ただし摂家に準じた旧鎌倉家とは家格差がある)として存在したのである。それは元来御家人中最上の名家に加え、実朝将軍以来の武家公卿という強烈なカリスマ性に基づく武家の統率(これは鎌倉御家人との紐帯を持たない護良親王には不可能なことであった)、陸奥守と鎮守府将軍の積極的な連携が期待された結果であろう。ただし、こうした尊氏の特殊な役割と地位は京都常駐を以って成し得るものであり、弟の直義が鎌倉へ下向したのもこうした理由によるものであろう。
●元弘4(1333)年正月5日、7日、13日除目
正月 | 名 | 官職 | 官位 |
5日 | 恒明親王 | 式部卿親王 | 二品⇒一品(昇叙) |
13日 | 成良親王 | 上野太守(補任) | 無品⇒四品(叙品) |
13日 | 葉室長隆 | 中納言⇒権大納言 | 正二位 |
13日 | 洞院公泰 | 権中納言(還任) | 正二位 |
5日 | 一条経通 | 権大納言、左近衛大将 | 従二位⇒正二位(昇叙) |
5日 | 九条道教 | 権大納言、右近衛大将 | 従二位⇒正二位(昇叙) |
5日 | 御子左為定 | 権中納言 | 従二位⇒正二位(昇叙) |
7日 | 土御門親賢 | 前権中納言 | 従二位⇒正二位(昇叙) |
5日 | 四条隆資 | 権中納言 | 正三位⇒従二位(昇叙) |
5日 | 徳大寺公清 | 権中納言 | 正三位⇒従二位(昇叙) |
5日 | 二条良忠 | 非参議、右近衛少将 | 正三位⇒従二位(昇叙) |
13日 | 坊門清忠 | 参議、右大弁、興福寺長官、信濃権守(補任) | 正三位 |
13日 | 今出川実尹 | 参議、左近衛中将、中宮権大夫、備前権守(補任) | 正三位 |
13日 | 高倉経康 | 非参議、右京大夫、河内権守(補任) | 正三位 |
13日 | 九条隆朝 | 非参議、侍従、近江権守(補任) | 正三位 |
5日 | 勧修寺経顕 | 前参議 | 従三位⇒正三位(昇叙) |
5日 | 資継王 | 非参議、神祇伯 | 従三位⇒正三位(昇叙) |
5日 | 足利尊氏 | 非参議、左兵衛督、鎮守府将軍、武蔵守 | 従三位⇒正三位(昇叙) |
5日 | 油小路隆蔭 | 非参議 | 従三位⇒正三位(昇叙) |
13日 | 日野行氏 | 非参議、式部権大輔、丹波権守 | 従三位 |
正月13日、除目により「無品成良親王在鎌倉、叙四品、任上野太守」(『読史愚抄』)となり、23日には成良親王や陸奥七宮(のちの義良親王)の実兄・恒良親王(十三歳)が皇太子と定められ、東宮職と春宮坊が定められた。
●元弘4(1334)年正月23日恒良親王東宮職、春宮坊
東宮職 | 傅 | 従一位 | 左大臣 | 二条道平 |
学士 | 従四位下 | 藤原言範 | ||
学士 | 従五位上 | 式部少輔 | 唐橋高嗣 | |
春宮坊 | 大夫 | 従二位 | 権大納言 | 鷹司師平 |
権大夫 | 正三位 | 権中納言 | 洞院実世 | |
亮 | 従四位下 | 右中弁 | 中御門宣明 | |
大進 | 正五位下 | 蔵人 | 甘露寺藤長 | |
権少進 | 従五位下 | 柳原教光 |
鎌倉に四品親王家の除書が届けられると、「長井大膳権大夫大江広秀建武元補」(「関東将軍家政所執事次第」『関東開闢皇代并年代記』)、「上野親王庁務」(『武家年代記』)とあるように、長井広秀が親王家政所執事に補された。なお、長井広秀の前代執事である「三河入道行諲元弘三以後、俗名時綱」(「関東将軍家政所執事次第」『関東開闢皇代并年代記』)は「引付頭、御所奉行」(『武家年代記』)を務めている。
●上野親王(成良親王)庁
家司 | 政所 | 家政機関 | 名前 | 官位 | 官職 | 典拠 |
別当 | 別当か | 執権 | 足利直義 | 正五位下 | 相模守 左馬頭 |
『将軍執権次第』 |
令? | 執事 | 長井広秀 | 大膳権大夫 | 「関東将軍家政所執事次第」(『関東開闢皇代并年代記』) | ||
前執事 | 引付頭 御所奉行 |
二階堂行諲 (三河入道) | 『武家年代記』 | |||
侍所所司? (両侍所) |
三浦貞連 | 因幡守 |
建武二年十月三日「三浦和田四郎兵衛尉茂実着到状」(『三浦文書』) 建武四年八月日「野本鶴寿丸軍忠状」(『熊谷家文書』) 『梅松論』 | |||
佐々木仲親 | 備中頭 | 『梅松論』 | ||||
小侍所別当 | 渋川義季 | 刑部大輔 | 『御的日記』建武二年正月七日条 | |||
大御厩別当 | 上杉頼成 | 左近将監 蔵人 |
元弘四年二月五日「足利直義御教書」(『上杉家文書』) |
また、御所の守衛を行う「関東廂番」も定められている(『建武年代記』)。これは京都における武者所と同様の役割を担ったと考えられる。「関東廂番」の第三番には「相馬小次郎高胤」が選ばれているが、彼は「高」字から推測される通り、御内人であったとみられる。
●関東廂番
一番 | 刑部大輔義季 (渋川義季) |
長井大膳権大夫広秀 (長井広秀) |
左京亮 (上杉重兼) |
仁木四郎義長 (仁木義長) |
武田孫五郎時風 (武田時風) |
河越次郎高重 (河越高重) |
丹後次郎時景 (二階堂時景) |
二番 | 兵部大輔経家 (岩松経家) |
蔵人憲顕 (上杉憲顕) |
出羽権守信重 (高坂信重) |
若狭判官時明 (三浦時明) |
丹後三郎左衛門尉盛高 (二階堂盛高) |
三河四郎左衛門尉行冬 (二階堂行冬) | |
三番 | 宮内大輔貞家 (吉良貞家) |
長井甲斐前司泰広 (長井泰広) |
那波左近大夫将監政家 (那波政家) |
讃岐権守長義 |
山城左衛門大夫高貞 (二階堂高貞) |
前隼人正致顕 (摂津致顕) |
相馬小次郎高胤 (相馬高胤) |
四番 | 右馬権助頼行 (一色頼行) |
豊前前司清忠 (佐々木清忠) |
宇佐美三河前司祐清 (宇佐美祐清) |
天野三河守貞村 (天野貞村) |
小野寺遠江権守道親 (小野寺道親) |
因幡三郎左衛門尉高憲 (二階堂高憲) |
遠江七郎左衛門尉時長 |
五番 | 丹波左近将監範家 (石塔範家) |
尾張守長藤 (二階堂長藤) |
伊東重左衛門尉祐持 (伊東祐持) |
後藤壱岐五郎左衛門尉 (後藤基家) |
美作次郎左衛門尉高衡 (二階堂高衡) |
丹後四郎政衡 (二階堂政衡) | |
六番 | 中務大輔満義 (吉良満義) |
蔵人伊豆守重能 (上杉重能) |
下野判官高元 (二階堂高元) |
高太郎左衛門尉師顕 (高師顕) |
加藤左衛門尉 |
下総四郎高家 (二階堂高宗) |
こうした中、3月9日に「本間、渋谷一族、各々打入鎌倉、於聖福寺合戦」(『将軍執権次第』)、「於関東、本間渋谷等一党叛逆」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)とあるように、御内人の本間、渋谷氏が挙兵し、鎌倉西側の聖福寺方面から攻め込む事件が起こった。本間氏・渋谷氏は中心的な御内人系御家人であり、多勢力だったのだろう。直義は支えきれずに鎌倉侵入を許したとみられ、「政所執事三河入道行諲」は逐電し、親王御所も危険にさらされ、甥の成良親王を支えていた「実廉独祗候竹園、奉警固 大王之間、候人等随而随分之軍忠」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)と、ひとり成良親王を護衛し、麾下の候人を差配して守り抜いた。直義も態勢を立て直し「鎌倉大将渋河刑部大輔義季」(『将軍執権次第』)をして、本間・渋谷氏を「或生取、或打取了」と追い払うことに成功。この合戦に敗れた残党は奥州へ逃亡し、津軽の名越時如らとの合流を企てたようで、直義からの報告を受けた顕家は3月16日、「朝敵与党人等、多以落下当国」につき、「警固路次、於有其疑之輩者、可召捕其身」を命じる国宣を発している(『会津四家合考』)。
この「本間、渋谷が謀反」が京都に注進されると、朝廷は重くみて、3月21日夜半「去年召置れし金剛山の討手の大将阿曾霜台、陸奥右馬助、長崎四郎左衛門尉、辺土にをいて誅」(『梅松論』、『蓮華寺過去帳』)した。おそらく本来の彼らの罪状による処刑ではなく、彼らを奪取して挙兵を企てることを未然に防ぐためであろう。
●『蓮華寺過去帳』
名 | 姓名 | 辞世の句 |
長崎四郎左衛門入道 | 長崎高貞 | |
佐助五郎 | ||
上総九郎入道 | 規矩高政弟か | |
儀我小五郎 | 古はとをくおもひし極楽を今は真の仏をば見る | |
上総八郎入道 | 規矩高政弟か | |
陸奥国修理亮入道 | 大仏または極楽寺系の北条氏であろう | |
儀我四郎 | ||
佐助秋野五郎 | 都にて聞たに遠き古郷を猶隔行旅の空哉 | |
島入道 | うかふへきわか身さへまて山川のふかさ浅も定なき世に | |
上野式部大夫 | 北条義政か | 都にて散花よりもあたなるは今年の春の命成けり |
島兵庫助 | ||
佐助式部大夫 | ||
佐助右馬助 | 北条貞俊か | |
陸奥国佐助入道 | 大仏高直か | |
糟屋十郎 | 古郷に帰らぬ雁の残ゐてはかなき花とゝもにちるかな |
戦後の4月10日、足利直義は成良親王家執権として「三浦介時継法師法名道海」に「武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡」「相模国河内郷渋谷遠江権守跡」の地頭職を補している(「足利直義下知状」『宇都宮文書』)。「勲功賞」とあり、渋谷遠江権守跡が補されていることから、本間・渋谷氏の叛乱に対する恩賞であろう。
●建武元(1334)年4月10日「足利直義下知状」(『宇都宮文書』)
この本間・渋谷の乱の数か月後の建武元(1334)年8月23日、今度は「江戸、葛西等、重謀叛之時」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)と、「重謀叛」が起こった。江戸氏、葛西氏が続けて挙兵したため「重」と称されたのだろう。この「江戸、葛西等、重謀叛」について、直義が鎌倉から出征した様子が見られず、鎌倉内での挙兵と思われる。「江戸、葛西等」は二階堂の成良親王御所を攻めたようで「候人等亦致処々合戦、各々被疵畢」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)といい、成良親王に近侍する三位実廉が本間・渋谷の謀叛の時と同様、候人を差配して奮戦した様子がうかがえる。
奥州及び関東での先代勢力の相次ぐ挙兵は、その挙兵以前に手が打たれており、陸奥国および鎌倉には拠点が置かれていたが、元弘3(1333)年12月の奥州津軽平賀郡の叛乱に呼応するように、元弘4(1334)年2月、筑前・豊前国で「北条英時余党、上総掃部助高政、左近大夫貞義作乱」(『求麻外史』)している。「九州人有好於北条氏者皆応之」(『松浦家世伝』)といい、北条氏と所縁の人々が応じた大規模な叛乱であった様子がうかがえる。12月3日に京都で大友家惣領の近江守貞宗が病死しており、動揺する筑前・豊前国を衝いた動きであった可能性がある。
筑豊で挙兵した「上総掃部助高政、左近大夫貞義」は、上総介実政(金沢北条氏)の孫で千葉介貞胤の又従兄弟に当たる(さらに上総掃部助高政は探題英時の猶子)。また、彼らは津軽で反乱を起こした前中務権大輔時如の義従兄弟、前城介高景の伯父という近親でもあった。「鎮西職事高政」は「帆柱砦(福岡市八幡西区)」(『歴代鎮西志』)、「鎮西奉行貞義」は「筑堀口城」(『歴代鎮西志』)に立て籠り、3月上旬には勅命を奉じた「追討使」の「大宰新少弐筑後二郎頼尚」が帆柱城を、貞宗の子「大友左近将監貞載」(『歴代鎮西志』)が堀口城を攻めている。
この「上総掃部助高政、左近大夫貞義」挙兵と同時期に「遠江掃部助三郎、同舎弟助四郎」が島津荘日向方南郷で兵を挙げ、濫妨狼藉を行った(『薩藩旧記』)。時期から彼らは筑豊挙兵と連携した挙兵であろう。「遠江掃部助三郎」の具体的な系譜は不明だが、彼らに同心した人々は「栗屋毛八郎左衛門尉守時家人」「久所十郎兵衛入道同家人」「救二郷源太守時家人」「布施四郎兄弟高家家人」「肥後兵衛次郎入道浄心同」とあり、いずれも島津庄日向方(諸県郡諸郷)の地頭北条守時や大隅方(おもに肝属郡)の地頭名越高家被官が主であった。「遠江掃部助三郎、同舎弟助四郎」は名門赤橋家、名越家の家人を従え得る家格の北条一門であったことがわかる。「遠江守」となった北条一族は多く存在するが、中でも大隅国に由緒のある名越家がとくに多い。なお、この謀叛は6月末には鎮定されたとみられ、7月3日には謀叛人交名が注進されている。
●建武元年七月三日「島津荘日向方南郷濫妨狼藉謀叛人等交名人等」(『薩藩旧記』)
遠江掃部助三郎 | 高時一族 | |
遠江掃部助四郎 | 高時一族 (掃部助三郎舎弟) | |
筒井了覚縁実 | ||
野辺孫七盛忠 |
武蔵国榛澤郡野辺郷行貞名・日向国宮崎郡櫛間院地頭職 おそらく投降後赦され、足利家に属する。 その後足利家に敵対し、建武4年10月には肝付氏らとともに 畠山直顕と合戦する。 | |
竹井六郎兵衛尉 |
日向国御家人で北条家被官(『近江国番場宿蓮華寺過去帳』) 博多での菊池武時入道との合戦で、鎮西探題赤橋英時の 被官とみられる「竹井孫七同舎弟孫八」が討死(『博多日記』) | |
竹井与一 | 竹井六郎兵衛尉の一族。 | |
竹井弥三郎 | 竹井六郎兵衛尉の一族。 | |
樋口太郎左衛門入道 一類 | ||
中野助法橋隆増 | ||
平良執行入道円意 一類 | 薩摩国甑島平良(島津庄寄郡) | |
栗屋毛八郎左衛門尉 | 守時家人 |
小屋木氏か(『近江国番場宿蓮華寺過去帳』) 北方出仕の小屋木氏は赤橋家庶流・北方仲時被官と見られ、 小屋木氏は極楽寺流北条家の根本被官か。 |
久所十郎兵衛入道 | 守時家人 | |
末次大夫房 | ||
上井治部房 | 大隅国姶良郡上井の住人 | |
宰相房 | ||
西生寺大弐房 | 日向国諸縣郡春野郷の西生寺住僧 | |
西生寺少輔竪者 | 日向国諸縣郡春野郷の西生寺住僧 | |
西生寺加賀阿闍梨 | 日向国諸縣郡春野郷の西生寺住僧 | |
布施四郎 兄弟 | 高家家人 | 大隅国肝属郡の名越家被官人 |
肥後兵衛次郎入道浄心 | 高家家人 |
大隅国肝属郡の名越家領地頭代 「尾張左近大夫代肥後次郎入道浄心」が 「仮関東威、掠多禰島見和村」という(『薩藩旧記』)。 |
津野四郎兵衛入道 父子五人 | 日向国児湯郡津野郷の御家人 | |
救二郷源太 | 守時家人 | 日向国諸縣郡救二郷(島津庄日向方)の代官か |
救二郷弁済使蔵人宗頼 一類 | (守時家人か) | 日向国諸縣郡救二郷(島津庄日向方)の弁済使 |
高木孫三郎 | 日向国諸縣郡三俣院(島津庄日向方)の有力御家人 | |
中霧島大宮司藤内兵衛尉 一類 | 日向国諸縣郡春野郷の霧島大宮司の一族か | |
角二郎入道等 一類 | 日向国児湯郡津野郷の御家人 | |
梅北孫太郎貞兼 | 梅北郷弁済使 | 日向国諸縣郡梅北(島津庄日向方)の有力在庁 |
三俣先公文次郎左衛門尉重久 兄弟 | 日向国諸縣郡三俣院(島津庄日向方)の前公文 | |
検崎次郎左衛門入道 | (高家家人か) | 大隅国肝属郡検見崎の住人 |
検崎右衛門四郎 | (高家家人か) | 大隅国肝属郡検見崎の住人 |
松崎平次郎 | ||
富山十郎義治 |
日向国の有力御家人。系譜は不明だが、文治元年に 「日向国住人富山二郎大夫義良以下鎮西之輩」が御家人に 列したとあり(『吾妻鏡』文治元年七月廿二日条)、 義治はその子孫とみられる。 | |
串良弁済使孫六 | (高家家人か) |
大隅国肝属郡串良院(島津庄大隅方)の弁済使 「肝属地頭尾張前司高家」という(『薩藩旧記』)。 |
中野左衛門四郎兼冬 | (高家家人か) | 大隅国姶良郡中野の住人 |
此外数輩 |
●挙兵した北条一族の系譜上の位置(推定)
上杉頼重――――女子
(承安門院蔵人) ∥――――+―足利尊氏
∥ |(左兵衛督)
∥ |
足利貞氏 +―足利直義
(讃岐守) (左馬頭)
∥
∥――――――足利高義
∥ (左馬頭)
+―女子
|
| 名越時如
|(中務権大輔)
| ∥
+―女子
|
| 千葉介胤宗
|(千葉介)
| ∥――――――千葉介貞胤
| ∥ (千葉介)
北条義時―+―金沢実泰――――金沢実時 +―女子
(陸奥守) |(五郎) (越後守) |
| ∥ |
| ∥―――+―金沢顕時―+―金沢貞顕
| ∥ |(越後守) |(修理権大夫)
| ∥ | |
| ∥ | +―北条時雄―――顕寶
| ∥ | (式部大夫) (大夫得業)
| ∥ |
| ∥ | 【長門探題】
| ∥ +―金沢実村―――北条時直―――某
| ∥ |(越後太郎) (上野介) (上野四郎入道)
| ∥ |
| ∥ +―金沢有時―――金沢時盛―――金沢時久
| ∥ |(駿河守) (越後守) (左近大夫将監)
| ∥ |
| ∥ +―金沢実政―――金沢政顕―+―規矩高政
| ∥ (上総介) (上総介) |(掃部助)
| ∥ |
+―北条政村――+―女子 +―絲田貞義
|(左京権大夫)| |(左近将監)
| | |
| +―女子 +―女子
| ∥ ∥
| ∥―――――安達宗顕――――――――――安達時顕―――安達高景
| ∥ (秋田城介) (秋田城介) (秋田城介)
| 安達義景――+―安達顕盛
|(秋田城介) |(左衛門尉)
| |
| +―女子
| ∥
| ∥
+―名越朝時――+―名越時兼 金沢顕時―――女子
|(遠江守) |(左近将監) (越後守) ∥
| | ∥
| +―名越光時―――江馬政俊―――江馬朝宣 ∥
| |(越後守) (遠江守) (越前守) ∥
| | ∥
| +―名越時基―――名越宗基―+―名越維基 ∥
| |(遠江守) (遠江守) |(上野介) ∥
| | | ∥
| | +―名越基明 ∥
| | (左近大夫将監)∥
| |【大隅守護】 ∥
| +―名越時章―+―名越篤時―+―名越秀時―――名越時如
| (尾張守) |(遠江守) |(美濃守) (中務権大輔)
| | |
| | +―名越公篤―――名越篤高
| | (遠江守)
| |【大隅守護】
| +―名越公時
| (尾張守)
| ∥――――+―名越時家―+―名越周時
| ∥ |(美作守) |(左近大夫)
| ∥ | |
+―極楽寺重時―+――――――――女子 | +―名越貞家―――名越高家―――名越高邦
|(陸奥守) | | (遠江守) (尾張守) (尾張次郎)
| | |
| | +―名越公時―――名越時有
| | (民部少輔) (左近大夫将監、遠江守入道)
| |
| +―塩田義政―+―塩田時治―――塩田重貞
| |(武蔵守) |(越後入道) (式部大夫)
| | |
| | +―塩田国時―+―塩田藤時
| | (陸奥守) |(左近大夫将監)
| | |
| | +―塩田俊時
| | |(右馬助)
| | |
| | +―塩田六郎
| | |
| | |
| | +―塩田八郎
| |
| |
| +―普恩寺業時――普恩寺時兼――普恩寺基時――普恩寺仲時――普恩寺友時
| |(陸奥守) (尾張守) (相模守) (越後守) (松寿丸)
| |
| +―赤橋長時―――赤橋義宗―――赤橋久時―+―赤橋守時
| (武蔵守) (駿河守) (武蔵守) |(相模守)
| |
| |【鎮西探題】
| +―赤橋英時===規矩高政
| (修理亮) (掃部助)
|
+―北条泰時――――北条時氏―+―北条時頼―――北条時宗―――北条貞時―――北条高時==阿曾治時
(左京権大夫) (修理亮) |(相模守) (相模守) (相模守) (相模守) (弾正少弼)
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|【鎮西探題】 【鎮西探題】
+―阿曾為時―+―阿曾定宗―――阿曾随時―――阿曾治時
(遠江守) |(修理亮) (遠江守) (弾正少弼)
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+―某――――+―某
(掃部助) |(遠江掃部助三郎)
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+―某
(遠江掃部助四郎)
筑豊の戦乱は「七月九日謀叛人上総掃部助高雅、同左近太夫貞義等誅伐」(『中村家古文書』)し、鎮定された。鎮定後、大宰少弐頼尚は上洛の途に就き、「建武元八十一被渡賊首、追討使太宰大弐頼尚参内、香狩襖、末濃袴、紅衣、帯弓箭、隨兵百騎」(『玉英記抄』)とある通り、8月11日、叛乱の人々の首が大路渡されたという。
こうした鎮西の叛乱を鎮定すると、朝廷は9月10日、「島津上総入道」を「鎮西警固事、於日向、薩摩両国者、致御沙汰」とする綸旨を下し、9月12日、足利尊氏が綸旨を受けた施行状を島津貞久入道へ伝えている(『島津文書』)。おそらく太宰少弐頼尚や大友左近将監貞載(父貞宗亡き後、異母弟の千代松丸を支えた)に対して肥前や筑前、豊前などのことにつき同様の綸旨が下されたであろうから、尊氏は鎮西奉行頭を通じた管領職を兼ねていたと考えられよう。そして9月14日、小除目があり尊氏は「任参議」じられた(『公卿補任』)。
●建武元年九月十四日臨時除目(『公卿補任』)
権中納言⇒権大納言 | 正二位 | 藤原公泰 | |
参議⇒権中納言 | 左近衛中将、中宮権大夫兼備前権守 | 正三位 | 藤原実尹 |
参議(任) | 左兵衛督、鎮守府将軍、武蔵守 | 正三位 | 源尊氏 |
尊氏が参議となったのは、鎮西の叛乱が鎮定され、その警固番を定めた直後であることから、鎮西鎮定の恩賞である可能性があろう。
その数日後の9月21日および22日、京都では石清水八幡宮寺行幸と護国寺供養臨幸が挙行され、天皇には「足利左兵衛督尊氏随兵」と「正成、長年以下武士、帯兵具数百人、群居于東西山路、致警固」(『護国寺供養記』)した。尊氏の率いた「随兵」は尊氏に配属された大身武家や足利家被官であり、楠木正成や名和長年以下の武士とは明確に区別されている(「対立」ではなく楠木や名和は天皇護衛の武者所の武士)。
続けて9月27日の賀茂社行幸に供奉した尊氏に「汲兵」「大概」と称される人々が随っているが、この人々が尊氏の「隨兵」であろう(護国寺供養と同じ随兵とは限らない)。「汲兵」は先兵の意であることから尊氏の前を行く先陣随兵、「大概」は重装騎兵の意と思われ、尊氏の後陣隨兵とみられる。尊氏自身は後醍醐天皇の鳳輦に騎乗で供奉したのだろう。なお「汲兵」には貞胤の従兄・千葉太郎胤貞が見える。また「帯刀」が随っており、皇太子恒良親王も同道していることがわかる。この「帯刀」の最末(統括者)に列す「細川帯刀直俊」は建武4(1337)年3月10日当時「細川兵部少輔、同帯刀先生」(『和田文書』)と見えるように東宮帯刀先生であろう。細川直俊は尊氏一門であり、尊氏は事実上、東宮恒良親王の護衛も任されるほど後醍醐天皇の信任が厚かったことがわかる。
●建武元年九月二十七日両社行幸供奉次第(「朽木文書」、『小早川文書』:『鎌倉遺文』151・152)
汲兵 | 大概 |
武田八郎次郎信明(信助) | 三浦因幡前司貞連 |
長井丹後前司宗衡 | 小笠原七郎頼氏 |
佐々木源三左衛門尉秀綱 | 二階堂信濃三郎左衛門行広 |
佐々木備中前司時綱 | 野本能登四郎朝行 |
佐々木近江前司貞継 | 土肥佐渡二郎兵衛氏平 |
千葉太郎胤貞 | 嶋津下野三吉吉師忠 (嶋津下野三郎実忠か) |
宇津宮遠江守貞泰 | 南右衛門尉宗継 |
大高左衛門尉重成 | 上杉蔵人朝定 |
右兵衛佐満義 | 高参河前司師直 |
帯刀・左 | 帯刀・右 |
佐野四郎左衛門尉資村 | 二階堂丹後三郎 |
小笠原七郎次郎頼長 | 小笠原左衛門尉頼行 |
田代豊前次郎 | 佐原平四郎 |
橘佐渡弥八公好 | 南部弥六政氏 |
小早川又四郎亮景 | 三浦秋葉平三秀重 |
小早川孫太郎 | 隠岐守兼行 |
浅利太郎家継 | 海老名彦四郎秀家 |
香河四郎五郎 | 萩原四郎基仲 |
御馬等持院殿 | 日田二郎永敏 |
萩原七郎三郎重仲 | |
富永四郎左衛門高兼 | |
左大将経通 | |
右大将通教 | |
河野新左衛門尉通増 | |
足立安芸守遠宣 | 富士名判官雅清 |
島津三郎左衛門尉助久 | 伊勢山城守元貞 |
土岐近江守貞経 | |
山名近江守兼義 | |
吉見三河守頼隆 | |
細川帯刀直俊 |
「建武元年十月、高時一族、於紀伊国飯森山構城柵、正成有殊功」(『元弘日記裏書』)といい、建武元(1334)年10月には「高時一族」が紀伊国飯森山に挙兵した。これは「又河内国ノ賊徒等、佐々目憲法僧正ト云ケルヲ取立テ、飯盛山ニ城郭ヲソ構ケル」(『太平記』)に符合し、「佐々目憲法僧正」こと東大寺西室院門主「西室顕實(顕寶)僧正」(『太平記』)が挙兵したものであった。「西室顕實(顕寶)僧正」は前執権北条貞顕の甥で「関東ノ一族ニテ、権勢ノ門主タル間、皆其威ニヤ畏タリケン」(『太平記』)という威勢を持っていたという。
そしてこの様な中で、「皇子兵部卿護良親王」の「御陰謀」(『無名記』)が露顕する。「是則主上又御謀反之所萌也」(『無名記』)という。
10月22日夜、「親王御参内の次を以、武者所に召籠奉て、翌朝に常盤井殿へ遷し奉り、武家輩警固し奉る、宮の御内の輩をは、武者の番衆兼日勅命を蒙りて、南部、工藤を初として数十人召預けられける」(『梅松論』)といい、護良親王は捕らえられて武者所に召し籠められたのち、翌朝に常磐井殿へ遷され、「宮の御内の輩」である「南部、工藤」ら十数人が予てより勅命を受けていた武者番衆に召し預けとなったという。この宮捕縛は「十一月三日、大唐宮奉召取之於鈴間辺也、結城判官、伯耆守両人承云々」(『大乗院日記目録』)ともあり、11月3日の出来事とも。そして11月15日、「兵部卿護良親王被禁囚、仰尊氏配鎌倉」(『元弘日記裏書』)と、足利尊氏の手により鎌倉へ送られた。ただし、その罪状は「伊豆国遠流云々」(『元弘日記裏書』)とされ、名目上は伊豆国(国主は尊氏で、伊豆守は従兄弟の上杉重能)への遠流であった。親王出京後の11月27日、朝廷は東大寺に対して「陰謀輩事、綸旨如此、有嫌疑之輩者、宜注進旨、同可被披露」(『東大寺文書』)を命じ、西室院門主顕寶一党の交名注進を求めている。
そしてこの頃、摂津国において大塔宮に加担する人々による大規模な叛乱が起こった。紀伊国の顕寶僧正の挙兵に呼応したものかははっきりしないが、この一報により「九日より京中以外騒動候」(「日静書状」『金剛集第六巻裏書』:『南北朝遺文』184)という状況となる。「阿賀河に朝敵充満し、山﨑よりせめいり候」ところを、「宇津宮、赤松入道賜討手、早速追返候了」し、「朝敵」は摂津国の「仁定寺に構城郭引籠」ったが、宇都宮公綱によって攻め落とされ、宇都宮は12月15日「打落頸其数令持参候」(「日静書状」『金剛集第六巻裏書』:『鎌倉遺文』31923、『南北朝遺文』184)した。「阿賀川」とは現在の高槻市安満新町から東天川一帯とみられ、「朝敵」は水無瀬、大山崎の要衝を抑えていたことがうかがえる。なお、これらの叛乱は「是大塔殿御所為に候也」とされており、護良親王の「陰謀」は相当大規模なものであったと考えられ、その後は粛清の嵐が吹き荒れることとなる。
この叛乱を受けてのものか、12月4日夜半には「工藤次郎、同次郎右衛門尉五十二歳」が「六条河原被誅」(『蓮華寺過去帳』)され、12月13日には「南部次郎殿」が「於六条河原被切候」(「日静書状」『金剛集第六巻裏書』:『南北朝遺文』184)された。彼らは「宮の御内の輩」で召し預けとなっていた「南部、工藤」(『梅松論』)であろう。「南部次郎殿」は「二品親王御遠流定披露候歟、御供奉被召籠候處日記、先途令進候間、備御覧候ぬらん」といい、護良親王陰謀に関わる人物である。この「南部次郎」は「此人々」のうち「最初に被切候」(「日静書状」『金剛集第六巻裏書』:『南北朝遺文』184)とあり、この日には複数の人々が処刑されたことがわかる。「南部次郎殿」はおそらく得宗内管領一門「長崎三郎左衛門入道思元聟」(「南部時長申状」『南北朝遺文』25)の「南部三郎次郎武行」と思われ、観応2(1351)年正月6日に「最前馳参」て尊氏から感状を遣わされた「南部次郎三郎殿」(『齋藤文書』)は彼の子・南部三郎行宗であろう。「宮の御内の輩」である工藤氏も南部氏も得宗家御内人であり、護良親王は「御敵」たる得宗家関係者を召し抱えていたのである。
●南部家略系図(「南部宗行譲状」『鎌倉遺文』31654、「南部時長申状」・「南部師行代氏綱申状案」『南北朝遺文』25・82)
南部時実―――――+―南部政行―――――+―南部時長―――南部行長
(又二郎入道実願) |(二郎入道道行) |(五郎次郎)
| ∥ |
| ∥ +―南部師行
| ∥ |(又二郎)
| ∥ |
| ∥ +―南部政長
| ∥ (六郎)
| ∥
| ∥――――――――――南部資行
| 後家 (次郎)
|(尼了心)
|
+―南部宗実―――――――南部武行
(孫三郎) (三郎二郎)
∥
∥――――――南部行宗―――南部右馬介
長崎高光―――――――女子 (三郎) (法寿丸)
(三郎左衛門入道思元)
そして、12月中には「祗候大塔宮」の「浄俊律師」も誅殺されている(『尊卑分脈』)。彼は日野権大納言資名の弟で、西園寺権大納言公宗の義叔父にあたる人物である。なお「浄俊律師」の名は『日野一流系図』では記載されておらず、謀叛加担人として省かれたものとみられる。
日野俊光―+―日野資名――+―藤原名子
(権大納言)|(権大納言) | ∥―――――――西園寺実俊
| | ∥ (右大臣)
| | ∥
+―日野資朝 | 西園寺公宗〔建武二年八月二日被誅〕
|(権中納言) |(権大納言)
| |
+―賢俊 +―日野氏光〔建武二年八月二日被誅〕
|(三宝院) (左衛門権佐)
|
+―浄俊〔大塔宮祗候人、建武元年十二月被誅〕
(律師)
「御陰謀」による捕縛は雑訴決断所四番寄人の要職にある二階堂出羽入道道蘊にも及び、12月28日に「出羽入道、山城入道、去廿八日、於六条河原被切■」(「日静書状」:「藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書」『南北朝遺文』194)とあるように、彼らもまた六条河原に誅された。この処断は「出羽入道六十二歳、子息一人、孫三人、彼是五人、同所被誅訖」(『蓮華寺過去帳』)とあり、理由は「陰謀ノ企有ヘキ」(『太平記』)という「陰謀」加担のためであった。罪は本人だけではなく、当時三十九歳(『尊卑分脈』)の「子息一人(山城守兼藤入道)」、さらには「孫三人(年齢不詳)」までも連座となる峻烈なものであった。そして正月25日には没官された「臨川寺北道蘊屋地」「甲斐国牧荘東方道蘊跡除恵林寺領」が朝廷から臨川寺へと寄附されている(『臨川寺文書』)。のちに北条時行(得宗高時遺児)の被官等が「抑尊氏が其人たる事、偏に当家優如の厚恩に依候き、然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり、其大逆無道の甚き事、世の悪む所、人の指さす所也、是を以て当家の氏族等、悉敵を他に取らず、是尊氏直義等が為に其恨を散ん事を存ず」(『太平記』)と後醍醐天皇に奏上したと伝わるように、先代勢力が怒りを抱いていたのは、もっぱら「尊氏直義等」であり、主敵を「尊氏直義等」とすることは護良親王と先代北条一族は一致しており、密かに手を結んでいたことが想定される。
大塔宮は主敵たる足利一党を討ち、さらにはそれ以上の企てもあったのかもしれない。御内人「南部、工藤(旧得宗家御内人と想定)」や祗候人「浄俊律師(日野資名弟、西園寺公宗義叔父)」、二階堂出羽入道道蘊らを通じて旧先代一門である東大寺顕寶僧正と繋がり、顕寶僧正は大塔宮が地盤とする紀伊・河内・大和の国境付近の飯森山城に挙兵した可能性があろう。そして廟堂では「浄俊律師」の甥・左衛門佐氏光(「中先代陰謀之時、依公宗卿書院宣」)、権大納言公宗(得宗高時実弟・泰家入道を匿っていたという)らがこの陰謀に加担していたのだろう。しかし「皇子兵部卿護良親王、依御陰謀事、被配関東給、是則主上又御謀反之所萌也」(『無名記』)と、旗頭であった護良親王は関東へ流罪となる。
なお、護良親王が「主敵」と定める足利家所縁の鎌倉へ敢て送られたのは、見せしめなどではなく、護良親王の身柄を先代勢力に奪取されるのを防ぐことが最大の理由であろう。先代勢力の挙兵が相次ぐ畿内西国に置くことは不可能であり、兵乱が続く奥州もまた不可であった。このような状況下において護良親王を監視し得るのは鎌倉以外に想定されないのである。そして朝廷は護良親王を鎌倉に下した直後、その「御陰謀」に加担した大塔宮被官「工藤次郎、同次郎右衛門尉」「南部殿」「浄俊律師」「出羽入道」らを12月28日までに立て続けに処刑したのである。
●護良親王「御陰謀」への加担により処刑された人々
人名 | 比定者 | 身元 | 召捕 | 処断日 | 出典 |
工藤 工藤次郎 | 工藤次郎右衛門尉貞祐? | 元得宗家御内人 | 建武元年12月4日 | 『梅松論』 『蓮華寺過去帳』 | |
工藤 工藤次郎右衛門尉 | 工藤次郎右衛門尉高景? | 元得宗家御内人 | 建武元年12月4日 | 『梅松論』 『蓮華寺過去帳』 | |
南部 南部次郎殿 | 南部三郎次郎武行 | 元得宗家御内人 | 建武元年12月13日 |
『梅松論』 『南北朝遺文 184』 | |
浄俊律師 | 浄俊律師 |
宮祗候人 西園寺公宗義叔父 | 建武元年12月 | 『尊卑分脈』 | |
出羽入道 | 二階堂出羽入道道蘊 |
雑訴決断所四番寄人 元関東政所執事 | 建武元年12月28日 |
『蓮華寺過去帳』 『南北朝遺文 194』 | |
山城入道 | 二階堂山城守兼藤入道 | 二階堂道蘊子息 | 建武元年12月28日 | 『南北朝遺文 194』 | |
孫三人 | 二階堂道蘊孫 | 建武元年12月28日 | 『南北朝遺文 194』 | ||
藤公宗 | 西園寺権大納言公宗 |
権大納言 浄俊律師義甥 | 建武2年6月22日召捕 | 建武2年8月2日 | 『公卿補任』 |
藤氏光 | 日野左衛門権佐氏光 |
左衛門権佐 浄俊律師甥 | 建武2年6月22日召捕 | 建武2年8月2日 | 『尊卑分脈』 |
文衡入道 | 三善文衡入道 | 西園寺公宗御内か | 建武2年6月22日召捕か | 建武2年8月2日か | 『太平記』 |
朝廷は11月上旬にはすでに飯森山城に軍勢を遣わしており、紀伊国の「湯浅木本新左衛門尉宗元」(『師茂記』)は少なくとも11月4日には合戦し、正月晦日まで戦っている。また、出兵した一人に南部某(南部甲斐守時長か)がいたが、「南部殿可向飯守城之由、蒙勅■、雖上表候及度々間、難叶して、去極■廿七日被向候き、三井孫三郎■■被立寄候間、中野殿共十騎まて■候はす、無勢無申計候、及ぬ其身に候へとも、いたわしところ存候けれ」(「日静書状」:「藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書」『南北朝遺文』194)とあるように、日静(尊氏母上杉氏の弟)の知己である「南部殿(護良親王に連座した南部次郎とは別人で武者所の南部甲斐守時長か)」が、出征の辞退叶わず12月27日に紀伊国飯盛山城攻めに派遣されるも無勢にてどうにもならず、さらに「小田殿、西谷殿御事は中々申におよはす候、便宜候はゝ、現当共乍恐憑由申入てと丁寧に■■、大晦早旦、自城中懸出■て、数剋合戦、互尽忠功候ける中、今度之打手中には、宗々の者少々、常陸前司蒙疵候、其外多軍兵等、或被討或負■候ける後、朝敵等成悦、又城之内ゑ引籠■■」と、小田常陸前司時知と「西谷殿」が攻めるもこれまた寡勢であり、建武元(1334)年12月晦日から建武2(1335)年元日早旦にかけての合戦で散々に打ち負かされ、時知自身負傷するという大敗を喫した上、敵勢は城中に退却して手も足も出ない状況であったという。なお、日静は「自件城上洛人語申候、愚身者、南部殿御事こそ承度候て、雖尋申、さる御名字は未承及しと申候」(「日静書状」:「藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書」『南北朝遺文』194)と、飯盛山城から上洛した人に「南部殿」の消息を聞いているが、この人は「南部」という名字の寄手の武将は聞いたことがないという。この飯盛山城は「此城以外強候間、洛中煩只此一事に候」(「日静書状」:「藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書」『南北朝遺文』194)と、洛中の不安はひとえにこの城のことであったという。そのほか、尊氏一門「大将軍足利尾張殿(足利高経)」も派遣され、建武2(1335)年正月4日に合戦している(『師茂記』)。
その後、朝廷は「為紀州飯森城凶徒追伐」に「左兵衛尉三善資連」の「亡父信連為勅使、楠木河内大夫判官正成相共発向」し、「紀伊国凶徒対治事、度々被成下綸旨」に応じた「高野山衆徒」を味方につけて合戦に及び(「寶簡集」『高野山文書』二)、攻め落としたのだろう。富部信連、楠木正成は天皇の信頼篤い武家官僚であり、手腕を買われたものであろう。その攻城時期は紀州湯浅宗元が「今年正月晦日マテ度々致合戦忠節」(『師茂記』)と述べていることから、建武2(1335)年正月29日であろう。宗元は翌2月1日、軍忠状を大将軍足利高経に進上している(『師茂記』)。
この紀伊国飯森山での合戦の最中である建武2(1335)年正月、今度は「長門国府佐加利山」(『土佐国蠧簡集残篇』)に「越後左近将監入道、上野四郎入道等」が蜂起した。この叛乱には「大宰少弐頼尚」とその父「筑後入道妙恵」が対応し、正月12日から18日まで行われた合戦により落城させている。「越後左近将監入道」は陸奥守実時の孫の越後守時盛の子・左近将監時久、「上野四郎入道」は同じく陸奥守実時の孫・長門探題「上野殿(北条時直)」の子に比定できる。いずれも金沢北条氏であり、筑豊で敗れた規矩高政・絲田貞義の敗兵が長門国で出家隠遁していた金沢北条一門の越後左近大夫将監入道、上野四郎入道を担ぎあげた挙兵ではなかろうか(両挙兵には約一年のタイムラグがあることから、連動した挙兵ではないだろう)。
【長門探題】
金沢実時―+―金沢実村―――北条時直―――某
(越後守) |(越後太郎) (上野介) (上野四郎入道)
|
+―金沢有時―――金沢時盛―――金沢時久
|(駿河守) (越後守) (左近大夫将監)
|
+―金沢実政―――金沢政顕―+―規矩高政
(上総介) (上総介) |(掃部助)
|
+―絲田貞義
(左近将監)
建武2(1335)年正月29日に紀伊国飯森山城の叛乱が鎮定されるや、今度は2月初旬に伊予国で「赤橋駿河守カ子息、駿河太郎重時ト云者有テ、立烏帽子峯ニ城ヲコシラヘ、四辺ノ荘園ヲカスメ領ス」(『太平記』)という。「赤橋駿河守」に該当する人物は探し得ないが、鎮西探題赤橋修理亮英時の近親者であろう。島津庄日向方の敗残兵が渡海して「駿河太郎重時」を担いだものか。伊予府中では「野本式部大夫貞政并河野四郎通任」が重時に呼応して挙兵しており、2月16日に忽那氏が合戦している(『忽那一族軍忠次第』)。河野通任は「中先代蜂起之時、為予州大将、楯籠白瀧城」(『予章記』)とあるが、「白瀧城(伊予郡砥部町鵜崎)」は立烏帽子城から遠く、実際は立烏帽子城南隣の「赤瀧城(西条市丹原町鞍瀬)」であろう。これら先代挙兵に対して朝廷は「為予州凶徒治罰」のために、2月22日、伊予守(または伊予守護)からの命として「通綱(得能通綱)」が国衙在庁「祝彦三郎殿并一族御中」へ「率一族可発向之由、綸旨如此、急可被進発候」ことを命じている(『三島文書』)。戦いは「祝彦三郎安親」が「四月二日、三日、馳向楠窪并鉢野、追退野臥等」、さらに「同七日、責寄赤瀧城」し、「三月至于五月」と5月にかけて合戦が行われたようである(『忽那一族軍忠次第』)。そして戦後の6月3日、「至城郭破却」った(『三島文書』)。これら文書を見ると『太平記』に云う「立烏帽子峯」は「赤瀧城」と同義ではなかろうか。
これら地方での先代蜂起はすべて鎮圧されることとなるが、諸国には依然として多くの北条家与党が雌伏していたことがうかがえる。そして、これらはほぼ同時期に発生していることからもわかるように、奥州津軽地方を発端として、全国規模で同調した挙兵であったと考えられるが、これらはすべて鎮圧された。
建武元(1334)年10月、紀伊国飯森山城での西室院門主顕寶僧正の挙兵にともなう護良親王の「御陰謀」が発覚。建武元(1334)年11月15日、護良親王は鎌倉へと配流され、陰謀に加担した宮御内人や祗候人、二階堂道蘊らが処刑された。護良親王は「細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり」(『梅松論』)とあるように、細川顕氏(当時は兵部少輔)が護衛して鎌倉に下ったようである(護良親王は兵部卿であり、顕氏はその下官にあたることから、護良親王とは旧知であった可能性がある)。
兵部卿 | 護良親王 | |
兵部大輔 | 岩松経家(足利一門) | 在鎌倉 |
兵部少輔 | 細川顕氏(足利一門) | 鎌倉へ護送 |
鎌倉についた護良親王は「二階堂の薬師堂の谷に御座有りける」(『梅松論』)とあるが、二階堂永福寺の南西に隣接する医王山東光寺(頼朝が長女の大姫の病気平癒を願って建立した新薬師堂を根本とする禅寺で、永福寺惣門北側にあった。門前から北へ延びる谷津を薬師堂谷と称する)に幽閉されている。永福寺別当坊は尊氏嫡子の義詮(千寿王)がおり、「二階堂御所山上陣屋」(「大塚員成軍忠状案」『鎌倉遺文』七三)も設けられていた。付近の「山城美作入道(故二階堂貞衡入道)」屋敷は成良親王御所となっており、護良親王はもっとも警衛力且つ監視の目が届きやすい二階堂に置かれることになったのだろう。
ところが建武2(1335)年正月中旬あたりから、信濃国の「朝敵人散在当国」に不穏な動きがみられ、朝廷は「両通綸旨」を信濃守護小笠原貞宗に下した。北信水内郡内で起こった騒乱で、貞宗は守護代「平長胤」を通じて2月5日に「市河刑部大夫殿」へ「相触庶子等、可被馳参候、若令延引者、可注進交名」という厳命を下している(『市河文書』)。当時、市河刑部大夫助房は「善光寺(長野市元善町)」付近にいたが、2月29日にまず甥の市河三郎助保を代官として守護貞宗が「御著到」の「舩山」へ派遣した。3月4日には「市河刑部大夫助房、同舎弟左衛門九郎倫房、同左衛門十郎経助、相具子息家人等」が「舩山」へ駆け付け、3月8日に「常岩北條(飯山市常盤)」で合戦して敵勢の籠る「令破却城郭畢」した。その後、「就府中騒動」のため、3月16日に守護貞宗の手勢が府中(松本市)へ発向したことに応じ、「浅間宿(松本市松岡周辺か)」に馳せ付けている(『市河文書』)。なお、「舩山」は一般には埴科郡船山郷(千曲市小船山周辺)とされているが、ここでは合戦が発生した「信濃国水内郡常岩」とはまったく地理的に合わず、実際には「常岩」の6㎞程南の千曲川西側の河岸段丘「船山」(飯山市静間字荒舟の船山古墳のある丘陵一帯)であろう。埴科郡船山は7月の合戦が起こった地である。
3月5日には鎌倉の直義が在鎌倉の「石川中務少輔殿」ほかを陸奥国石川郡の「属一族惣領之手、相催軍勢、発向野州、可抽忠勤、依戦功」(『合編白河石川文書』)と、陸奥石川の惣領石川七郎義光に付属せしめて、下野国に発向するよう命じた。これは信濃国での騒乱に呼応した旧先代勢力が下野国に蜂起したものか。ところが、この石川一族の下野国下向の隙を突いたものか、「建武二年三月」に陸奥憲良親王家の引付三番頭人を務める「結城三河守親朝」が「陸奥国石川荘河辺八幡宮神領同国白川荘成田郷伊具駿河入道後家跡」に乱入して八幡宮を焼損し、神領を「掠領」する事件が起こっている(『白河証古文書』)。白河郡と石川郡は隣接し、白河結城氏と石川氏は対立関係にあったとみられる。当時の陸奥国衙と鎌倉は対立関係にはなく、氏族同士の争いであろう。
こうした中、北条方勢力の相次ぐ挙兵を鎮めるべく行われたのが、3月1日の「参議(尊氏)」による「丹波国八田郷光福寺」に対する「日向国国富荘内石崎郷地頭職」の寄附であろう(『安国寺文書』)。尊氏は石崎郷寄附に当たり「四海之静謐、一家之長久、将亦為救相模入道高時法名崇鑑并同時所所滅亡輩之怨霊」(『安国寺文書』)を祈念しており、謀叛の静謐と高時入道らの怨念を鎮める目的に求められる。なお、光福寺は建武元(1334)年4月10日、尊氏が「関東万寿寺住持職」(『安国寺文書』)を掌らせ、同年12月27日に尊氏外戚の上杉朝定が「八田郷内能登房跡」を寄進した足利家所縁の寺院であり、ここに「一家之長久」を祈る意味合いが考えられる。また「国富荘」はもともと得宗高時入道の弟・泰家入道が地頭職を務めていた地で、故高時入道の鎮魂による叛乱の静謐を願ったのだろう。さらに、鎌倉の「於高時法師之旧居、被建圓頓宝戒之梵宇」(「足利尊氏寄進状」『相州文書』)した金龍山圓頓宝戒寺(後醍醐天皇の勅命を受けた尊氏が「執権左馬頭直義」に命じて11月22日に斧始して建立した寺院。監営総司は須賀左衛門尉公能(『宝戒寺縁起』))に対して、3月28日、「相模国金目郷(平塚市北金目、南金目周辺)」を寄進している。これは「是偏宥亡魂之恨、為救遺骸之辜也」のためであった。山号・寺名に謀叛人由緒の寺に似つかわしくない「金龍」及び「圓頓宝戒」を冠した上、「建一宇社、高時亡霊祠、徳崇権現」という高時を祀る霊祠を建立(「徳崇」とは「崇」を道号に用いる得宗家の鎮魂を意味するか)しているのも、予想以上に頻発する北条家残党の叛乱に悩まされる新政府の思いが籠っているのではなかろうか。ところがこうした思いを他所に地方の兵乱騒ぎは収まらず、京都においても再び陰謀が露顕する。
建武2(1335)年6月17日夜、「帥殿、千種宰相中将等」が「申成御幸之勅使」として「持明院殿」に「武士多馳集」めて「被奉移院於京極殿云々」(『建武二年六月記』)と、二条師基と千種忠顕が勅使となって持明院御所に兵を率いて参着し、後伏見院と花園院、光厳院の三院を京極殿に遷し奉った。そしてその五日後の6月22日、「西園寺大納言公宗卿、日野中納言入道資名卿父子三人被召置云々」(『建武二年六月記』)と、西園寺権大納言公宗と日野中納言資名入道及び日野左衛門権佐氏光のもとに「各武士相向」って召し捕らえられた。これは「蒙勅勘被召捕」(『師守記』)であった。このほか「左近衛権中将藤原朝臣俊季、文衡法師、散位中原朝臣清景等」も捕縛された(『建武二年六月記』)。さらに「於建仁寺前召捕陰謀輩了、正成、師直相向云々、於所々猶可召捕云々」といい、楠木河内守正成、高参河権守師直が建仁寺前に馳せ向かい、「陰謀」に加担した人々(氏名不詳)を召し捕らえており、陰謀加担の人々はかなりの数に及んでいたことがわかる。彼らは「奉太上天皇旨、謀危国家」(『建武二年六月記』)といい、6月26日に「陰謀輩罪名事定了」した。中納言資名入道自身は陰謀に加担していなかったものの、子息の氏光が加担していることを知りながら「不告官司」の罪を問われている。そして、翌27日に「流人宣下」され、西園寺家の「家門事」は公宗異母弟の「右兵衛督殿(公重)」が「令管領」ことが定められた(『吉田文書』)。なお、公宗は「配流并解官事、無所見候」(『師守記』)、「若誅戮以前被解官候哉、謀反罪名治定候者可致除名候、本官全候事よりと存候、然而所見不詳候、若被知食候哉」(『園太暦』)とあるように、解官や除名の記録がなかったという。その後、8月2日に公宗は「所誅之云々」(『園太暦』)されているが、これは7月初旬に信濃国に勃発した「朝敵相模次郎并信州諏方三河入道照雲、同子息安芸権守時継以下凶徒等蜂起」(『市河文書』)に拠るものである可能性があろう。
北条貞時―+―北条高時―+―北条邦時
(相模守) |(相模守) |(相模太郎)
| |
+―北条泰家 +―北条時行
(左近将監) (相模次郎)
あくまでも軍記物『太平記』の記述ではあるが、西園寺公宗は「故相模入道舎弟四郎左近大夫入道」を「田舎侍ノ始テ召仕ハルゝ躰」を装って庇護し、ゆくゆくは「故相模入道カ一族ヲ取立テ、再ヒ天下ノ権ヲ取セ、我身公家ノ執政トシテ、四海ヲ掌ニ握ヲハヤト思」い、「此四郎左近大夫入道ヲ還俗セサセ、刑部少輔時興」と名乗らせて謀反を企てたという(『太平記』)。公宗はさらに「時興ヲ京都ノ大将トシテ畿内近国ノ勢ヲ催サル、其姪相模次郎時行ヲハ関東ノ大将トシテ、甲斐、信濃、武蔵、相模ノ勢ヲ附ラル、名越太郎時兼ヲハ北国ノ大将トシテ越中、能登、加賀ノ勢ヲソ集ラレケル」という計略を立てた上、「俄ニ湯殿ヲソ作ラレケル、其上リ場ニ板ヲ一間蹈ハ落ル様ニ構ヘテ、其下ニ刀ノ茨藜ヲ植ラレタリ、是ハ主上御遊ノ為ニ、臨幸成タランスル時、華清宮ノ温泉ニ准ヘテ、浴室ノ宴ヲ勧メ申テ、君ヲ此下ヘ陥レ奉ラン為ノ企ナリ」(『太平記』)という。ところがその後、「竹林院中納言公重卿、馳参シテ申サレケルハ、西園寺大納言公宗陰謀ノ企有テ、臨幸ヲ勧申由、只今或方ヨリ告示候、是ヨリ急還幸成テ、橋本中将俊季并春衡、文衡入道ヲ召レテ、仔細ヲ御尋候ヘシ」(『太平記』)と告げたことで、後醍醐天皇は中院中将定平に結城判官親光、伯耆守長年を副えて西園寺公宗らのもとに遣わして召し捕ったという。
『太平記』の記述に見えるような後醍醐天皇暗殺計画は、その後に起こる事態が想定できることや先例なき究極の汚名を背負うことは公宗の当初の目的から見てまず考えられないため、軍記物の脚色に過ぎないだろう。西園寺公宗はともに捕らえられた日野氏光の義兄弟であるが、彼らの叔父は「祗候大塔宮」の「浄俊律師」であり、建武元(1334)年12月に大塔宮護良親王の陰謀加担により誅殺されている(『尊卑分脈』)。
日野俊光―+―日野資名――+―藤原名子
(権大納言)|(権大納言) | ∥―――――――西園寺実俊
| | ∥ (右大臣)
| | ∥
+―日野資朝 | 西園寺公宗〔建武二年八月二日被誅〕
|(権中納言) |(権大納言)
| |
+―賢俊 +―日野氏光〔建武二年八月二日被誅〕
|(三宝院) (左衛門権佐)
|
+―浄俊〔大塔宮祗候人、建武元年十二月被誅〕
(律師)
按ずるに、前述の通り西園寺公宗らはもともと大塔宮護良親王(公宗に高時入道弟の泰家入道の庇護を指示したのは護良親王その人であったのかもしれない)の「御陰謀」に浄俊を通じて加担していたが、公宗一党の加担が発覚する以前に「御陰謀」は露顕。護良親王は捕縛されて伊豆国に流刑とされ(実際は鎌倉二階堂永福寺隣接の医王山東光禅寺に幽閉)、その方人であった得宗旧臣の工藤次郎、南部次郎、二階堂道蘊一族、浄俊律師らは六条河原に処刑されることとなった。旗頭である護良親王を失った公宗らは持明院殿の三上皇を密かに奉じ、庇護していた泰家入道らを使嗾して新たな陰謀を企てたものか。それは天皇弑逆ではなく、各地の兵乱を生じさせた不徳の君として退位に追い込み、持明院統の皇統を再登壇させる企てではなかろうか。それが「奉太上天皇旨、謀危国家」(『建武二年六月記』)という罪状になったのだろう。
京都で新たな陰謀が露顕して騒動になっていた建武2(1335)年6月、信濃国に「国司御下向」があり、そこに着到した「市川刑部大夫助房、同左衛門十郎経助」の着到状を「平顕直」が国司に上程している(『市河文書』)。この下向してきた国司の名は不明ながら、建武2(1335)年7月13日、14日時点で「守護信濃守」「小笠原信濃守貞宗」(「市河助房等着到状」「市河親宗軍忠状」『市河文書』)とみえることから、国司は守護小笠原貞宗であると考えられ、小笠原貞宗は京都から「御下向」したと考えられる。『梅松論』では7月の「諏方祝并滋野一族等、依企謀反」(「市河助房等着到状」『市河文書』:『南北朝遺文』261)を受けて「守護小笠原信濃守貞宗、京都へ馳申間、御評定にいはく、凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか、しからは早々に先御勢を尾張へ差向らるへきとなり」(『梅松論』)とあるが、挙兵に際して「守護信濃守」のもとに市河一族が参じていることから、貞宗は信濃国埴科郡に在陣していたことは間違いないだろう。4月7日に信濃守資英王が信濃国司を辞していることから、『梅松論』が伝える貞宗の上洛は3月の水内郡兵乱後のことで、貞宗は乱の次第と国内の不穏な動きを上洛して伝えるとともに、4月7日の除目で信濃守となったのではなかろうか。
人物 | 官位 | 京官 | 信濃守任 | 信濃国下向 | 信濃守辞 | 出典 |
資英王 | 従三位 | 非参議 | 元弘4(1334)年3月15日 | 建武2(1335)年4月7日 | 『公卿補任』 | |
小笠原貞宗 | 不明 | なし | 建武2(1335)年4月7日か? | 建武2(1335)年6月 | 建武2(1335)年8月? | 『市河文書』 |
藤原光継 | 従二位 | 権中納言 | 建武2(1335)年8月30日 | 建武2(1335)年9月晦日 | 延元元(1336)年12月 | 『公卿補任』 |
そして7月初旬、「諏方祝并滋野一族等、依企謀反」が起こる。当初は諏方上宮祝の諏方時継(御内人)と滋野一族(小県郡の大族)の挙兵と報じられ、7月13日に「市河刑部大夫助房」らが「小笠原信濃守貞宗」の「守護御方」して馳せ参じた(「市河助房等着到状」『市河文書』:『南北朝遺文』261)。諏訪は小県郡と隣接しており、互いに語らっての挙兵であろう。なお、北信から中信の千曲川沿いに挙兵して守護勢力と戦っている勢力と諏訪祝の勢力は同じく先代勢力とみられるが、別に挙兵したもので、共闘はしていない。
翌14日には「保科弥三郎、四宮左衛門太郎」が「押寄青沼」に攻め寄せ、市河助房ら一族は「守護信濃守」に属して「舩山郷青沼合戦(千曲市小船山)」で追い落とし、さらに「八幡河合戦并篠井、四宮河原合戦、毎度馳渡千熊河懸先」るという戦いを見せ、15日には「八幡河合戦」「八幡村上河原合戦」、続けて「福井河原」に奮戦。22日には「村上人々」とともに先代勢力と戦った(『市河文書』)。埴科郡村上は叛乱勢力滋野一族が盤踞していた小県郡へ抜ける要衝であり、守護小笠原貞宗の軍勢は埴科郡から野平及び禰津・滋野・望月・佐久方面を駆逐するものだったと考えられる。
8月1日に望月城を攻め落した守護勢は「安曇、筑摩、諏訪、有坂以下凶徒等対治」に動いている。ただし、守護貞宗が信濃国に戦っている頃、これらの乱の首謀者たる「諏方祝(諏訪時継)」らはすでに信濃国にはおらず、武蔵国高麗郡(日高市)で鎌倉方を殲滅して鎌倉へ進撃していた。「諏方祝」らは諏訪から南下後、赤岳山麓を回って南佐久郡へ進み、秩父郡へ入って高麗川沿いに山を下ったと考えられる。
その後判明したのは「朝敵相模次郎并信州諏方三河入道照雲、同子息安芸権守時継以下凶徒等蜂起」(『市河文書』)とあるように、「諏方三郎入道照雲」は「相模次郎」を擁して挙兵していたという事実であった。「相模次郎」は得宗高時入道庶子で元弘3(1333)年5月の鎌倉陥落時に御内人諏方氏とともに信濃国に逃れて命を長らえた。彼はいまだ十歳に満たない幼児であったが、旧北条一門遺児や新政権に不満を持つ武士、旧御内人らが集まり、まさに先年、四歳の千寿王丸を擁して鎌倉を攻め落とした足利・新田勢の再来と感じられたのではなかろうか。なお、相模次郎を支えた「安芸権守時継」は「信濃国諏方の上の宮の祝」(『梅松論』)であったとあるが、「諏方上宮祝三河権守頼重法師」(「足利宰相関東下向宿次」『南北朝遺文』270)とも見える。
この信濃国での挙兵を受け、鎌倉の左馬頭直義は一門大将「渋川刑部、岩松兵部」(『梅松論』)を北上させた。信濃国からは「諏方祝并滋野一族等、依企謀反」以上のものが齎されたかどうか定かではないが、諏訪地方と小県地方の叛乱ということで、上州へ下りる東山道の防衛に動いたのではなかろうか(当然ながら諏訪勢が武蔵国に進出してから直義が動いたわけではない)。ただし、もとより寡勢の鎌倉であり、渋川刑部大輔義季、岩松兵部大輔経家が率いた兵はそれほど多くなかったと思われ、それぞれ本貫地の上州渋川郷、岩松郷に対し軍勢催促を行いつつの出征ではなかろうか。上州路にも相模次郎・諏方勢(中先代勢)がいた可能性があり、「新田四郎、上野国利根川に支て、是を防がんとしけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力を被砕、二百余人被討にけり」(『太平記』)ともいう。
ところが7月中旬、鎌倉街道下道を北上していた渋川・岩松勢は、高麗郡女影原において「朝敵相模次郎并信州諏方三河入道照雲、同子息安芸権守時継以下凶徒」と遭遇したと思われる。得宗遺児を擁して士気も高い諏方勢は寡勢の渋川・岩松勢を攻め立てたのだろう。「逆徒手しけくかゝりしかは、渋川刑部、岩松兵部両人自害す」(『梅松論』)と、渋川義季、岩松経家の両大将は敢え無く自刃した。渋川義季は二十三歳ながら鎌倉における足利一門筆頭として重きをなした人物であり、岩松経家は新田義貞とともに鎌倉を攻め落とした搦手大将である。さらにいずれも新政権の刑部省と兵部省の実務方トップという重鎮であり、彼らの陣没は鎌倉勢に相当な衝撃を与えたと思われる。
渋川・岩松勢を殲滅した相模次郎・諏方勢(中先代勢)は鎌倉街道を一気に南下し、武蔵国府へと迫った。一方、渋川義季・岩松経家両将からの一報を受けた直義は「重て小山下野守秀朝」を発向させたが、下野随一の小山家惣領を以てしても中先代勢を押し留めることはできず、「戦難義にをよひしほとに、同国の府中にをいて秀朝をはしめとして一族家人数百人自害す」(『梅松論』)、「藤原高朝於武蔵国府自害」(『元弘日記裏書』)という惨敗を喫する。
小山秀朝の軍勢が出立して程ない7月22日、続けて「左馬頭殿、鎌倉を立」ち、鎌倉街道を武蔵国府に向けて進んだ。直義は「雖防戦、無勢ノ間、鎌倉ヲ出テ」おり、鎌倉には守るに足る兵力が残っていなかったと思われる。鎌倉は元弘3(1333)年5月の占領以降、足利家一統が主体となって統治しており、相対的に寡勢であったが、そこから奥州兵乱鎮定のために奥州へ下向した曾我一族等のような人々もあり、直義の鎌倉下向についても、渋川義季、岩松経家ら一門の同行が主であり、鎌倉駐屯の兵力は変わらず脆弱な態勢だったのだろう。直義勢は「武蔵の井の出澤(町田市旭町)」で中先代勢と遭遇し合戦となったが(『梅松論』)、「御方の勢多く討れ」た直義は退却し、「上野親王成良、義詮」を伴って東海道を上洛の途に就いた(『梅松論』)。成良親王は「大江時古奉抱」って鎌倉を逃れたとされ(『元弘日記裏書』)、成良親王に近侍していた叔父の阿野実廉も当時の状況を「(前闕)間、云軍勢、云役人、上下諸人空奉捨、不知行方之間、実廉独申勧駕御、令扈従畢、其間次第、大王詳被知食之上者、不能費私詞、此條頗可謂抜群之大忠、争可被准尋常之奉公哉」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)と伝えており、成良親王の二階堂御所は諸役人が逃亡する有様で鎌倉のすさまじい混乱がうかがわれる。
そして7月23日、「護良親王遇弑」(『元弘日記裏書』)、「預置奉ル兵部卿親王、自元野心御座ケレハ、不及奉伴打ケル…御骸ヲタニモ取隠シ奉ル人モ無リキ、是偏ニ多クノ人ヲ失給ヒシ悪行ノ故トソ見エシ」(『保暦間記』)、「兵部卿宮、於東光寺、為直義生害」(『鎌倉大日記』)と、大塔宮護良親王は直義の手によって殺害された。直義は井出沢の合戦に敗れた後、鎌倉に戻らず東海道に逃れていることから、「上野親王成良、義詮」を鎌倉から避難させる使者と同時に護良親王殺害の使者も遣わされたとみられる。「兵部卿護良の親王、ことありて鎌倉におはしましけるをは、つれ申に及はす、失ひ申てけり、みたれの中なれと宿意をはたすにや有けん」(『神皇正統記』)と北畠親房入道は、直義が混乱に乗じて宿意を果たすべく殺害したのではないかと推測している。当然その可能性は高いが、それ以前に護良親王は得宗遺臣との繋がりが濃厚な勅勘の流人であり、この混乱の中で誰人に親王を警衛させて鎌倉から脱することは不可能との判断が働いた結果ではなかろうか。足利憎しの護良親王と中先代一党が結びついた場合の代償は相当大きなものとなる可能性が考えられ、親王殺害は直義の緻密な政治決断によるものであったろう。
一方、佐竹上総介貞義入道の手勢は武蔵国鶴見(横浜市鶴見区)方面に展開しており、直義が鶴見方面の防衛に派遣した可能性が高い。佐竹勢は7月24日に「武蔵国鶴見」で中先代勢と合戦したが、この戦いで子息の「五郎義直」(『常陸密蔵院文書』)や、「族稲木義武、真崎義景、家臣小野崎通業等」(『常陸誌料』)らが討死を遂げた。中先代勢はかつての新田・岩松勢による鎌倉攻め同様、江戸湾岸鶴見方面からも鎌倉に迫っていたことがうかがえ、鎌倉街道二道(下道、中道)を防衛する意図がわかる。この武蔵東部を進む勢力は一年前の建武元(1334)年8月23日、直義統治下の鎌倉で「江戸、葛西等、重謀叛」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)した得宗被官の江戸氏、葛西氏らの残党の可能性があろう。下道での直義勢敗退を受けた佐竹貞義入道勢は西へ走り、直義と合流している(「足利宰相関東下向宿次」『南北朝遺文』270)。
●佐竹氏系図(『耕山寺本系図』『戸村家蔵系図』)
+―稲木盛義―――――稲木義武―――――――――稲木義信
|(彦四郎) (彦次郎) (又次郎)
|
| 海上胤泰―――――女子
|(六郎左衛門尉) ∥――――――――――+―佐竹義篤
| ∥ |(左馬頭)
佐竹義重―+―佐竹長義――――佐竹義胤――+―佐竹行義 ∥ |
(常陸介) |(次郎) (常陸介) (左衛門尉) ∥ +―佐竹義直
| ∥ ∥ |(五郎)
| ∥ ∥ |
| ∥――――――――佐竹貞義 +―佐竹義冬
| ∥ (上総介入道道源) (六郎)
| 二階堂頼綱―+―女子
| (下総守) |
| | 【憲良親王家政所執事】
| +―二階堂貞綱――――二階堂行朝――――――+―二階堂行親
| |(三郎左衛門尉) (信濃入道行珍) |(左衛門尉)
| | ∥ |
| +―二階堂景綱――――女子 +―二階堂行通
| (四郎左衛門尉) |(美濃守)
| 【憲良親王家引付二番】 |
+―額田義宜―――――額田義基―――額田実義―――――額田泰義 +―女子
|(三郎) (五郎) (五郎次郎) (常陸介) ∥
| 【憲良親王家引付一番筆頭】
| 二階堂顕行
| (山城守)
|
+―岡田義澄―――――真崎義連―――真崎義久―――――真崎義忠―――――――――真崎義景
(四郎) (三郎) (蔵人) (刑部大夫) (左京亮)
7月25日、「先代余類相模守次郎時行」は「入鎌倉」という(『鎌倉大日記』)。なお、相模次郎時行が鎌倉に入ったのは28日ともされる(『保暦間記』)。「相模次郎、鎌倉へ打入、関東ノ侍并在国ノ輩ハ皆鎌倉ニ付テ、天下又打返シテ見エケル」(『保暦間記』)と、足利方から北条方へ寝返る人々も多々見られ、北条方に寝返った人々としては「時継 三浦介…法名道海」(『三浦系図伝』)や「三浦若狭判官」(「足利宰相関東下向宿次」『南北朝遺文』270)ら三浦一族、「宇津宮能登入道」、「結城摂津入道」(「陸奥国宣」『結城神社文書』)、そのほか「千葉二郎左衛門尉、大須賀四郎左衛門尉、海上筑後前司」ら千葉一族、「天野参川権守、伊東六郎左衛門尉、丸六郎、奥五郎」(「足利宰相関東下向宿次」『南北朝遺文』270)らが見える。
鎌倉を占拠した相模次郎時行ら(中先代勢)ではあったが、「鎌倉に打入輩の中に曾て扶佐する古老の仁なし、大将と号せし相模次郎も幼稚なり、大仏、極楽寺、名越の子孫共、寺々にをいて僧喝食になりて適身命を助りたる輩、俄に還俗すといへ共、それとしれたる人なけれは、烏合梟悪の類、其功をなさゝりし」(『梅松論』)であったされる。たしかに旗頭の時行はいまだ十歳に満たない幼児であり、彼を輔佐する者も城氏や長崎氏ら御内人の巨頭ではなく、一御内人の「諏方上宮祝三河権守頼重法師」(「足利宰相関東下向宿次」『南北朝遺文』270)であった。時行の叔父にあたる「先亡ノ弟左近入道恵性還俗刑部少輔時興ト名ノル」(『日向記』)も時行を補佐していた様子がうかがえるが、先代北条氏が強権を持ち得た根源の「鎌倉殿」は不在(西園寺公宗と組んでいた泰家入道(刑部少輔時興)が推戴を考えていたであろう護良親王は殺害されていた)であった。しかし、実際の中先代勢に「鎌倉殿」は必ずしも必要な存在ではなかった。中先代勢に武士が集まったのは「鎌倉殿」の存在如何ではなく、先代北条氏の遺児時行自身が求心力となっていたためである。
7月23日頃に鎌倉を脱した成良親王一行は、叔父の阿野実廉らに供奉されて西上を続けるが、彼らから鎌倉陥落を伝えられたであろう後醍醐天皇は、8月1日に成良親王を「為征夷大将軍」とした(『相顕抄』)。これは「上野大守成良親王令兼之給」(『職原抄』)とあるように上野太守との兼任であった。まだこの時点では護良親王の薨報は京都に届いておらず、中先代勢と流人護良親王の結託の可能性も考えられ、成良親王を征夷大将軍に補任し、鎌倉殿に相当する地位に据えて関東の鎮定を図った可能性もあろう。そして成良親王家執権たる左馬頭直義に中先代勢を凶賊として追討する大義を与えたものではなかろうか。なお、関東陥落の報を受けた尊氏もみずからを「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望」(『神皇正統記』)んだが、天皇は尊氏を「征東将軍になされて、ことゝゝくハゆるされ」(『神皇正統記』)なかった。「征夷将軍」は建長4(1252)年4月1日の宗尊親王の補任以降、実に八十余年に渡り皇族が補任される先例があり、臣下が補任されるものではなくなっていたためだろう。
後醍醐天皇は8月1日から宮中で中先代勢の調伏祈祷の五壇御修法を行い、「阿闍梨天台座主二品尊澄法親王」以下がこれを修めている。宮中で修められたのは金剛夜叉法のみで青龍院宮慈道法親王(亀山院皇子)が導師となり、ほかの不動法(座主宮尊澄法親王)、降三世法(乗伊僧正)、軍荼利法(増照僧正)、大威徳法(仲円僧正)は各導師がそれぞれの道場で修め、8月7日に結願したものの「依平時行兵勢熾」の報が届いたことから、8月8日からは「重為静謐御祈、被始行五壇法於宮中」(『続史愚抄』)と、すべて宮中で、しかも「為三七日」の二十一日間の御修法として修められた。それほどまでに鎌倉兵乱は天皇および朝廷に大きな危機感を与えていたのである。
なお、『太平記』の記述であるが、これら修法に際して、甲冑を著した武士が御所の四門を堅め、紫宸殿南庭には武士が抜刀して東西に立ち、四方を鎮めたという(『太平記』)。このとき御所の四門は結城七郎左衛門親光、楠河内守正成、塩冶判官高貞、名和伯耆守長年の四名が堅め、南庭には右に「三浦介高継」、左に「千葉大介貞胤」を定めたという(『太平記』)。彼らはこの役を了承したものの、貞胤は相手が三浦介高継であることを嫌い、対して三浦介高継は貞胤の下位(貞胤が左側で高継が右側)につくことを憤って両者ともに出仕しなかったという。かつて「承久の乱」に際し、千葉介胤綱と三浦義村が席次論争をした伝えも残すほど千葉・三浦両家は意識しあっていた。なお、三浦介高継の父は中先代勢の大将軍の一人、三浦介入道道海である。
その翌日の8月2日、「頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス處ニ、不叶シテ征夷(征東)将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存」(『保暦間記』)も参議尊氏は軍勢を率いて鎌倉へ下向した。これは「関東にをいて凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして禦き戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上ハ、いとまを給ひて合力を加へき旨」(『梅松論』)という奏聞に対する勅許が下りなかったため、「所詮私にあらず、天下の御為」(『梅松論』)と称して、独断で在京武士に呼びかけて鎌倉へ向かったとされている。ところが、北畠親房入道が「高氏ハ申うけて東国にむかひける」(『神皇正統記』)と記しているように、実際は尊氏の奏請を受けた後醍醐天皇は関東下向を聴している。このとき尊氏は前述の通り「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望みけれと、征東将軍になされて、ことゝゝくハゆるされす」(『神皇正統記』)と、「征夷将軍」とそれに付随する「諸国の総追捕使」を求めたが聴されず、代わりに「征東将軍」に補されている。ただしこれは否定的な補任ではなく、「改征東使、為征夷使」(『日本後記(逸文)』:『日本紀略』延暦十一年二月十七日条)とある通り、征東使と征夷使は同義であり、征夷大将軍成良親王自身による関東下向が鎌倉陥落により現実的に不可能となった中で、中先代勢の鎮撫を行い得るのは足利尊氏以外には考えられず、征夷大将軍の代将・征東将軍(大の字は無)として関東に下したと思われる。そして、将軍宮の執権である左馬頭直義も公的に尊氏麾下として鎮撫に加わることになったのではなかろうか。なお、「承久の変に後鳥羽上皇より十人の大将に錦御旗を賜はりて官軍の標とせられたり、これそいにしへの節刀にも准すへきにや、後醍醐帝も亦其例を追はれしとみえて、官軍の大将には必錦御旗を授けらる、これより以来、天子の御旗を呼て節度といふこといてきたり」(『武家名目抄』)とされるように、尊氏の「征東将軍」は御旗を受けた事実上の「節度使」であり、軍事的大権が与えられていたとみられる。
また、尊氏の京都出立日、朝廷は「陰謀(護良親王及び旧鎌倉勢に加担し、朝家の転覆を謀った謀反の罪か)」が露顕して「めしおかれ」(『神皇正統記』)ていた「権大納言公宗の卿」及び「氏光 左衛門権佐、號浦松」を処刑しており(『園大暦』『神皇正統記』『尊卑分脈』)、彼らが中先代の乱の加担者、つまり北条得宗家の残党と交流を持っていたことは疑いない。
8月2日に京都を進発した尊氏勢は、近江、美濃、尾張国を経て8月7日に三河国八橋(知立市)に至り、「三河の矢作」で「京都鎌倉の両大将御対面あり」(『梅松論』)と、矢作足利家領で三河足利党や鎌倉から落ち延びてきた直義と合流を果たし、尊氏・直義勢は「共下向」(『保暦間記』)した。
8月9日には遠江国橋本においてはじめて中先代軍との合戦となり、千田太郎胤貞・安保丹後権守光泰の両名が先駆けて高名を挙げる。「先代方の勢、遠江の橋本を要害に構て相支る」というように、橋本の地の利を生かして陣所を構えていたようであるが、千田太郎と安保丹後権守は「入海(浜名湖河口部)」を渡って合戦し、安保丹後権守は「敵を追ちらして、其身疵を蒙る間、御感の余に其賞として、家督安保左衛門入道道潭か跡を拝領せしむ、是をみる輩、命を捨ん事を忘れてそいさみ戦」(『梅松論』)ったという。安保左衛門入道道潭は御内人安保氏の惣領家であるが、中先代勢に加担しており、後日その惣領家督と遺領を継承している。
8月10日には池田宿から下野国那須郡の「那須下野太郎殿(実名不詳だが、後年、資宿と見える)」に「高時法師一族以下凶徒等」の追討のための軍勢催促を行ったのも尊氏が与えられた公権と考えられよう(『結城古文書写』)。
●建武2(1335)年8月10日『足利尊氏軍勢催促状写』(「結城古文書写」:『南北朝遺文』264)
高時法師一族以下凶徒等事、為追罰所令発向也、早相催一族、不日可馳参之状如件、
建武二年八月十日 源朝臣(尊氏花押)
那須下野太郎
こうした軍勢催促を受けた人々が尊氏の軍勢に次々に加わったとみられ、8月16日には「常陸国徳宿左近将監幹宗、同子息又太郎時幹等」が伊豆国府に参着して足利勢に属し、下野国の「小野寺八郎左衛門尉顕通」は19日に「武蔵国長井渡」に参着(「小野寺顕通着到状」『上野小野寺文書』:『南北朝遺文』272)。下野長沼氏は「惣領長沼大夫判官秀行、為御方楯籠」って中先代軍に抵抗するとともに、籠城に先立って尊氏のもとに「指遣代官成田五郎左衛門尉朝直以下若党」している(「長沼朝実着到状」『陸奥長沼文書』:『南北朝遺文』274)。
その後も8月12日には「小夜中山」で合戦、8月14日には駿河国府中で中先代方大将・尾張次郎を打ち破り、塩田陸奥八郎(塩田陸奥守国時の子か)らを生け捕った。清見関での戦いでは、伊東六郎左衛門尉祐持が「旧来ノ好ステ難」いと、一旦は中先代勢に属したものの「清見関ニテ尊氏卿ノ諸勢ニ馬烟ヲ立テ懸合玉フトイヘトモ、味方無勢故、郎等余多被討シ時、祐持ノ馬廻ニハ横山、宮田者共防戦ヒ、僅主従七騎ニ討ナサレテ降人ニ成玉フ」(『日向記』)と散々に討ち果たされて降伏したが、この直前に祐持はこの事を「祖父伊東ニ告知ラセ申」すべく、馬廻の井戸川四郎三郎を説得し「尊氏ノ御判ヲ持セテ伊豆ニ下シ」て、伊豆伊東に隠居していたとみられる「祖父慈證(伊東祐宗)」に事の次第を伝えるとともに、尊氏が味方に参じるよう促した御教書を渡したのだろう。伊東慈證は「不斜喜」ず、伊東を出でて祐持とともに尊氏のもとに属し、相模川合戦で軍功を挙げたという。
+―千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱―――千葉介時胤――千葉介頼胤―+―千葉宗胤―――千田胤貞
| | |(肥前守) (太郎)
| | |
| +―女子 +―千葉介胤宗――千葉介貞胤
| ∥ 【日向国縣庄】
千葉介常胤―+―女子 ∥――――――伊東祐景
∥ ∥ (九郎左衛門尉)
∥―――――――伊東祐時
∥ (大和守)
工藤祐経 ∥――――――伊東祐光
(左衛門尉) ∥ (信濃守)
∥ ∥
三浦殿―――――女子 ∥―――――――伊東祐宗―――――――――――伊東貞祐
(尼空智) ∥ (大和守) (大和守)
∥ ∥
後藤基綱―+―女子 ∥
(佐渡守) |(三川内侍) ∥――――――伊東持祐
| ∥ (六郎左衛門尉)
+―後藤基政 ∥
(壱岐守) ∥
∥―――――――後藤基頼 ∥
∥ (筑後守) ∥
葛西清重――――葛西清親―――女子 ∥――――――後藤基宗――――女子
(壱岐守) (伯耆守) ∥ (佐渡守)
∥
宇都宮頼綱――宇都宮頼業―――女子
(左衛門尉) (越中守)
8月17日の箱根合戦では中先代軍の大将「三浦若狭判官」を苦戦の末に破った。この三浦若狭守時明は鎌倉出陣の日または前日の8月15日、鶴岡八幡宮に「上総国市東郡内年貢用途伍長貫文」を「天下安穏太平、自身寿福長遠、息災康楽、子孫繁昌」を願って寄進している(『相州文書』)。
8月18日の相模川合戦、19日の辻堂片瀬原合戦でも中先代軍と激戦となり、足利方では「上野太郎殿(上野頼勝)」「仁木三郎太郎殿(仁木義照)」ら足利一門大将のもと、徳宿左近将監幹宗は「旗差弥次郎男」や「鳥栖彦太郎幹安」が討死を遂げた(『烟田文書』)。そのほか、一門大将「今川式部大夫入道(今川頼基入道省誉)」をはじめ、「小笠原七郎父子」「小笠原彦次郎父子」「佐々木壱岐五郎左衛門尉(佐々木長信)」「二階堂伯耆五郎左衛門尉(二階堂行脩)」「二階堂七郎(二階堂行登)」「松本小次郎氏貞」「三浦蘆名判官入道道円」らが討死を遂げている(「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」:『神奈川県史』史料編中世』)。「烏合梟悪の類」(『梅松論』)と目された中先代勢は実際にはかなり士気の高い集団であったことがわかる。
翌8月19日、鎌倉に攻め入った足利勢は鎌倉市中を席捲。拠点の奪還に成功する(『梅松論』、「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」:『神奈川県史』史料編中世』)。首謀者の「諏方祝父子、安保次郎左衛門入道道潭か子自害す、相残輩或降参、或責落さる」(『梅松論』)とあるが、「諏訪三河権守頼重法師、大御■(以下闕だが大御堂=勝長寿院であろう)」で自害したとあり、彼らは旧得宗邸の圓頓宝戒寺(宝戒寺)に入っていたが、足利勢の鎌倉攻勢により圓頓宝戒寺東より滑川を越えて勝長寿院に逃れた後、自害したと思われる。なお、相模次郎時行はふたたび行方をくらませている。尊氏は鎌倉に入ると「新御堂前役所(鎌倉市十二所)」を構え、同道した徳宿左近将監幹宗らがこの「新御堂前役所勤仕」(『烟田文書』)している。「新御堂前役所」は鎌倉東端の要衝である大慈寺眼前の六浦道警衛の衛所であろうか。
●『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』
日 | 宿 | 合戦 | 中先代勢 | 足利勢高名 |
8/2 | 野路(近江国栗太郡) | |||
8/3 | 四十九院(近江国犬上郡) | |||
8/4 | 垂井(美濃国不破郡) | |||
8/5 | 垂井(美濃国不破郡) | |||
8/6 | 下津(尾張国中島郡) | |||
8/7 | 八橋(三河国碧海郡) | |||
8/8 | 渡津(三河国宝飯郡) | |||
8/9 | 橋本(遠江国敷智郡) | ● | 千田太郎(千田胤貞) 安保丹後権守(安保光泰) | |
8/10 | 池田(遠江国豊田郡) | |||
8/11 | 懸河(遠江国佐野郡) | |||
8/12 | 小夜中山(遠江国佐野郡) | ● |
【討死】 大将:備前新式部大夫入道 (佐竹上総入道に討たれる) 侍大将:宇津宮能登入道 (天野氏に討たれる) | 今川式部大夫入道(今川頼基入道省誉) 佐々木佐渡判官入道(京極高氏入道道誉) 宇津宮三河権守(宇都宮時綱) 宇津宮遠江前司(宇都宮貞泰) 宇津宮兵庫助 長井治部少輔(長井時春) 佐竹上総入道(佐竹貞義入道道源) 天野一族 |
8/13 | 藤枝(駿河国志太郡) | |||
8/14 | 駿河国府(駿河国府) ⇒興津宿 | ● | 【自害】 大将:尾張次郎 【生捕】 大将:塩田陸奥八郎 諏訪次郎 | 上杉蔵人修理亮(上杉重頼) 細川阿波守(細川和氏) 高尾張権守(高師兼) 大高伊予権守(大高重成) 高豊前権守(高師久) |
8/15 | 蒲原(駿河国庵原郡) | |||
8/16 | 伊豆国府(伊豆国田方郡) | |||
8/17 | 筥根(相模国足柄下郡) ⇒小田原上山野宿 | ● | 大将:三浦若狭判官(三浦時明) |
長井左衛門蔵人 佐々木佐渡判官入道 大須賀左衛門尉 大類五郎左衛門尉 片山兵庫 |
8/18 | 相模川 ⇒十間酒屋上野宿 | ● |
【主だった味方討死】 今川式部大夫入道(今川頼基入道省誉) 小笠原七郎父子 小笠原彦次郎父子 佐々木壱岐五郎左衛門尉(佐々木長信) 二階堂伯耆五郎左衛門尉(二階堂行脩) 二階堂七郎(二階堂行登) 松本小次郎氏貞 | |
8/19 | 辻堂片瀬原⇒鎌倉下着 | ● |
【降人】 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉 海上筑後前司(海上師胤) 天野三河権守(天野貞村) 伊東六郎左衛門尉(伊東祐持) 丸六郎 奥五郎 【自害】 諏訪三河権守頼重法師 | 【主だった味方討死】 三浦蘆名判官入道道円(葦名盛員) 三浦蘆名六郎左衛門尉(葦名高盛) 土岐隠岐五郎(土岐貞頼) 土岐兵庫頭(伯耆頼貞入道存孝孫) 味原三郎 【手負人】 佐々木備中前司父子 大高伊予権守(大高重成) 味原出雲権守 ほか |
こうして、鎌倉に入った中先代勢は駆逐され、足利尊氏は二階堂の御所に入った。なお、この御所は足利義詮が住まいとしていた二階堂永福寺の別当房に設営されたと思われ、従軍していた武士がその警衛を担った。10月8日には「三浦和田白右兵衛尉茂実」が尊氏の「御方違」で「二階堂の東乃らう(東の廊)」を警固している(『三浦文書』)。そして10月15日の「御わたまし」に「南総門を警固仕」った。この「南総門」は永福寺惣門と思われ、現在の鎌倉宮域東端辺りにあったと思われる。
ところが、中先代の乱の余波は関東から奥州にかけての地方武士にも波及しており、中先代勢に応じる人々が次々と挙兵し、広範囲にわたって騒乱が起こることとなる。その武士たちは得宗家御内人はもちろん白河結城家のように当初は後醍醐天皇に従ったが、白河惣領家に反発して中先代軍に加担した庶家の人々もみられた。朝廷もこうした流れに危機感を持ち、在京の大友左近将監貞載(大友家惣領代)に「依信濃国凶徒頼重法師已下輩反逆事、所被下綸旨御事書」を下し、鎮西武士にまで「早任可被仰下之旨、可被参洛」(『宗像文書』)を命じるほどであった。大友貞載はこの綸旨を受けて8月21日に鎮西諸家に対し上洛を命じる文書を認めている。
白河結城宗広入道の従兄弟である「結城摂津入道(結城盛広入道)」の中先代勢合流も発覚し、陸奥国衙はその所領を収公して8月9日に「上野入道殿」に与える国宣を下している(『結城神社文書』)。8月13日及び15日には、陸奥国白河郡の「長倉」で合戦が起こっており『結城古文書写』)、「官軍有利」(『元弘日記裏書』)という。この乱の鎮圧には「国司(北畠顕家)」自ら出陣し(『南方紀伝』)、顕家に供奉して親王家引付三番の「伊達宮内大輔行朝(当時は左近大夫将監)」が一族の「いたてのかもんのすけ為景(伊達掃部助為景)」と「ためかけかしそくいたてのさへもんくらんとためあき(為景子息伊達左衛門蔵人為顕)」らを率いて馳せ着けている。白河郡長倉に籠城したのは「白河荘内上野民部五郎」「同七郎」「同彦三郎祐義」「同左衛門大夫広光」「同三郎泰重」「同七郎朝秀」「同弥五左衛門尉女子」ら白河宗広入道の兄弟縁者であったとみられ、とくに宗広弟の彦三郎祐義、左衛門大夫広光は宗広入道とともに鎌倉内で挙兵した功ある人々である。こうした人々が見切りをつけて旧主得宗家のもとに奔ったのは余程の理由があったと思われる。推測であるが、宗広入道が下総・白河結城家の惣領となって以降、父子で一門内の惣領権を独占するようになったのではなかろうか。こうした軋轢が強い反発を生んだ可能性も考えられよう。攻め落とされた彼らの知行地は闕所となり、10月1日の陸奥国宣により宗広入道嫡子・結城親朝に与えられている。
なお、「八月三十日」には尊氏が一門の「陸奥守家長(足利高経の子。足利尾張弥三郎家長。家長が陸奥守となったのは建武3年7月以降である(「相馬胤家代恵心申状案」『相馬岡田文書』))」を「為奥州管領、置斯波館」(『南方紀伝』)といい、家長を陸奥国斯波郡へ派遣したという。しかし、家長は足利尊氏と朝廷の対立が決定的となっていた同年12月23日当時には陸奥国白河郡の南隣、陸奥国高野郡(棚倉町)にあって「斯波家長与相馬胤平兄弟合戦」(『南方紀伝』)といい、国司顕家方の相馬六郎胤平は、12月23日当時「陸奥国高野郡内矢築宿(棚倉町八槻)」(「相馬胤平軍忠状」『相馬文書』)にあって「十二月廿三日夜、御敵数千騎押寄」たため「捨于身命令塞戦」ったという。この「御敵」は家長とみられ、家長が8月30日に陸奥国へ下向したのが事実であれば、鎌倉と奥州が密接に関係していた8月13日及び15日の白河郡の「長倉」合戦に伴う陸奥守顕家の要請による白河出陣ではなかろうか。
●結城家周辺系図(青字は中先代勢に加担した人々)
北条義時――――北条泰時
(陸奥守) (左京権大夫)
∥――――――――北条時実
∥ (次郎)
∥
+―安保実員――――女子 安達時顕――――女子
|(七郎左衛門尉) (秋田城介) ∥―――――――――二階堂高衡
| ∥ (山城守)
| 二階堂行忠―+―二階堂行宗――――二階堂行貞―+―二階堂貞衡
|(信濃守) |(丹後守) (山城守) |(美作守)
| | |
| +―女子 +―二階堂高貞
| ∥ |(丹後守)
| ∥ |
| ∥ |【憲良親王家政所執事】
| ∥ +―二階堂顕行
| ∥ (四郎左衛門尉)
| ∥ 【結城惣領家】
| ∥―――――+―結城時広―――――結城貞広――――――結城朝高
| ∥ |(七郎左衛門尉) (七郎左衛門尉) (七郎左衛門尉)
| ∥ |
| ∥ +―結城泰親
| ∥ (彦太郎)
安保実光―+―女子 ∥
(刑部丞) ∥―――――+―結城広綱――+―結城盛広―――――結城忠広
∥ |(上野介) |(摂津守)
∥ | |
∥ | +―結城重広―――――結城宗光
∥ | |(民部大輔) (小七郎)
∥ | |
∥ | +―結城宗重―――――結城時重
∥ | (弥三郎) (彦三郎)
∥ |【関】
∥ +―結城朝泰
∥ |(左衛門尉)
∥ |
∥ +―結城時広――――結城光広―――――女子
∥ |(五郎左衛門尉)(弥五郎) (弥五左衛門尉女子)
∥ |
藤原朝光―――女子 ∥ |【白河】
(伊賀守) ∥――――――結城朝広 +―結城祐広 +―結城親朝――――――結城顕朝
∥ (左衛門尉) (弥七) |(三河守) (七郎左衛門尉)
∥ ∥ |
小山政光―――結城朝光 ∥―――――+―結城宗広―――+―結城親光
(下野大介) (上野介) ∥ |(上野介) (左衛門尉)
∥ ∥ |
∥ 藤原範広――+―女子 +―結城祐義
∥ (熱田伯耆守)| |(彦三郎)
∥ | |
∥ | +―結城広光
∥ | (左衛門大夫)
∥ |
∥ +―藤原宗範――+―藤原永範
∥ |(熱田大宮司)|(熱田大宮司)
∥ | |
∥ +―藤原親昌 +―藤原昌能【南朝祗候】
∥ (熱田大宮司) (熱田大宮司)
∥
∥ 【寒河】
∥――――+―結城時光――+―結城時村――――結城光宗
∥ |(左衛門尉) |(次郎左衛門尉)(彦七左衛門尉)
∥ | | ∥――――――――結城朝秀
千葉介成胤――女子 | | ∥ (彦四郎)
(千葉介) | |【山河】 ∥
| +―結城重義――+―女子
| (下総守) |
| |
| +―女子
| ∥――――――――結城時重
| ∥ (彦三郎)
| 結城広綱――――結城宗重
| (上野介) (弥三郎)
|【山河】
+―結城重光====結城重義――――結城貞重―――――結城親重
|(左衛門尉) (下総守) (三郎左衛門尉) (三郎左衛門尉)
|
|【網戸】
+―結城朝村――――結城長広
(十郎) (下総守)
このほか「小平輩」が「与同散在凶徒、楯籠安達郡木幡山」したことから、8月28日、「上総権介(武石胤顕)」は岩城郡好島西庄の伊賀式部三郎盛光に、翌29日には一族を催して当地へ向かうよう指示している(建武二年八月廿八日「武石胤顕奉書」『飯野八幡宮所蔵文書』)。なお、胤顕は親王家引付衆であるとともに岩城郡の郡奉行であったことがわかる。そして催促状発給の翌日には伊賀盛光に出兵をするよう命じていることから、当時胤顕は好島西庄に近接する地域に役所を構えており、主に南奥州で戦乱が起こっていたとみられる。そのほか、「会津河沼郡高久村」の「伊賀弥太郎」も中先代方に呼応していたようで、10月1日に「留守次郎兵衛尉殿(留守家任)」にその跡が充行われている(『留守文書』)。
建武2(1335)年8月19日、鎌倉を占拠して中先代軍を鎌倉から放逐すると、尊氏は京都に次第を注進したとみられ、その報告を受けた朝廷は臨時除目を行い、8月30日に尊氏を従二位に陞爵した。日数から考えて、尊氏からの使者は8月27~28日辺りに京都に着き、他の人々の勘考を経てすぐさま除目が行われたということになる。
●建武二年八月三十日臨時除目(『公卿補任』)
任官 | 官職 | 官位 | 名 |
春宮大夫(西園寺公宗の替) | 大納言 | 正二位 | 源具親 |
参議、左兵衛督、武蔵守 鎮守府将軍 | 正三位⇒従二位(勲功賞) | 源尊氏 | |
信濃守 9月晦日、信濃国下向 | 前参議 | 正三位 | 藤原光継 |
一方、鎌倉を占領して八日後の8月27日、尊氏は「武蔵国佐々目郷」の領家職を「為座不冷本地供料所」として鶴岡八幡宮に寄進した(『相州文書』)。これは後嵯峨天皇第三皇子で元弘3(1332)年9月4日から「当社検校職無御下向(社務代覚伊僧正、同十二月十一日下著一心院、住赤石本坊)」(『鶴岡八幡宮社務職次第』)に就いていた「覚助二品親王号聖護院宮」(『鶴岡八幡宮社務職次第』)に伝えられたとみられ、尊氏は「二階堂御所」に供僧を召し、対馬民部を奉行として寄進状に判を下している。そしてその約一月後の9月25日より「始行座不冷」された(『鶴岡八幡宮社務職次第』)。中先代の一連の争乱の鎮撫を目的とするものであろう。鶴岡八幡宮寺「座不冷之本地供」(『鶴岡八幡宮寺供僧次第』)は「佐々目大僧正頼助代」の弘安8(1285)年3月17日に行われた元寇鎮定の修法を初めとし、鶴岡八幡宮寺の主祭神である八幡大菩薩の本地仏とされる愛染明王に対する国家鎮護ならびに「本地弓箭ノ秘印表之」(舩田淳一著『神仏と儀礼の中世』「久我長通『八幡講式』と南北朝争乱~石清水八幡の密教修法と本地説の展開~」法蔵館2011)を長日不断で祈修するもので、愛染明王を「軍神」として祀ったものである(舩田淳一著『神仏と儀礼の中世』「久我長通『八幡講式』と南北朝争乱~石清水八幡の密教修法と本地説の展開~」法蔵館2011)。なお、鶴岡八幡宮寺には「愛染堂 楼門の西にあり、像は運慶の作長三尺、即八幡の本地仏なり」(『新編相模国風土記稿』巻之七十三)とあり、この三尺愛染明王が運慶の作であるとすれば、すでに頼朝代には弓箭神としての八幡神=愛染明王の習合が唱えられていた可能性がある。
一方で尊氏は中先代の乱に勲功のあった旧御家人に対し、安堵を「勲功之賞」として積極的に行っていく。これらは本来朝廷に諮るべき恩賞事項を尊氏は越権で行ったように見える(節度使に恩賞充行権はないが、大陸においてはこうした越権行為をも既得権益として地方軍閥が形成されている)。
8月には「蒲田五郎太郎(石川兼光)」の勲功賞として「陸奥国石川荘内本知行分」領掌の袖判御教書を下している(建武二年八月「足利尊氏袖判下文」『白河文書』)。蒲田五郎太郎の本貫、蒲田村のある「石河荘」は建武元(1334)年4月6日に北畠顕家が袖判国宣で「結城上野入道道忠領知」として「当荘内鷹貫、坂地、矢澤三箇郷」とあることから(建武元年四月六日「陸奥国宣」『白川文書』)、陸奥国衙の管掌であることは間違いないが、尊氏はこれを陸奥国衙に諮ることなく「本知行分」を安堵している。その他、9月27日には「三浦介平高継」「小笠原信濃守貞宗」「吉河次郎経頼」「合屋豊後守頼重」らに知行が宛がわれているが、すべて袖判下文の形式が取られている。
●建武二年九月廿七日「足利尊氏袖判下文」(『宇都宮文書』:『南北朝遺文』290)
●建武二年九月廿七日「足利尊氏袖判下文」(『今川家文書』:『南北朝遺文』291)
●建武二年九月廿七日「足利尊氏袖判下文」(『長門佐々木文書』:『南北朝遺文』292)
●建武二年九月廿七日「足利尊氏袖判下文」(『倉持文書』:『南北朝遺文』294)
尊氏が行った「為勲功之賞所充行」は、中先代の乱で軍功ある人に対して、恩賞沙汰が越権行為であると理解しつつも、恩賞充行は行わなければならないという強い意志が感じられる。三浦介高継に対しては、中先代勢についた父・三浦介入道道海が継承していた三浦惣領家の家職及び「本領」を安堵しているものとみられる(三浦道海が建武政権となって以降の新知である武蔵国大谷郷や相模国河内郷などは含まれていない)。
尊氏が恩賞沙汰を行ったのは、軍功に対する恩賞を求める人々が、新政府の恩賞の手間や遅滞を嫌い、尊氏にそれを期待した結果ではなかろうか。鎌倉を落としたが、各地に蠢動する中先代勢の残党は依然多く、論功行賞を行わざるを得ないほどに関東の情勢は緊迫していたのだろう。尊氏は敢えて朝廷の方針に反したわけではなく、戦功ある人々への妥当で迅速な恩賞措置を以って御家人の離反阻止や士気の維持を行うことが必要不可欠であったために行った措置であると考えられよう。袖判形式については、現地最高司令官である三位征東将軍が直に行うものとしての体裁を取った下文であり、大きな意味は持たない。
恩賞宛行の遅滞は、7月中旬に武蔵国府で中先代軍と戦って討死した小山大夫判官秀朝の嫡子「小山四郎(朝郷、初名朝氏)」から軍忠について尊氏に伝え、これが京都に上奏されると、東海道を担当する恩賞方での議論を経、「大膳大夫(中御門経季)」から「下野国可被国務」(「後醍醐天皇綸旨」『小山家文書』)が下された。しかし、実際に軍忠が京都に伝わったのは、軍功の事実が発生してから一月以上のちの8月30日、議論を経て綸旨が作成され、そこから関東へ通達されるのにさらに十日以上かかると考えると、軍功発生から「小山四郎」当人に伝えられるまで、実に二か月以上もの時間を要したことになる。関東の現実は中先代勢から鎌倉を奪還したとはいえ、中先代の与党人は関東(とくに鎌倉近辺)及び奥州に点在しており、尊氏は10月3日には「三浦、長澤へ為与党人退治、侍所御代官被向候」(建武二年十月三日「三浦和田四郎兵衛尉茂実着到状」『三浦文書』)、10月9日には「相模のはんにうへ為党人退治、侍所御代官被向候」(建武二年十月九日「三浦和田四郎兵衛尉茂実着到状」『三浦文書』)とあるように、「侍所御代官」を差し向けて中先代勢の追捕を継続する戦争状態にあったのである(翌建武3(1337)年正月17日、「両侍所」の「佐々木備中守仲親、三浦因幡守貞連」が京都三条河原で御所方武士の首実検をしており(『梅松論』)、彼らが鎌倉宮家侍所として相模国内の中先代残党を追捕を担当したと思われる)。このような日々戦いの中、早急に働きに対する見返りを求める人々が続出したと考えられよう。
ところが、中先代の乱を「廿日先代」などと揶揄し、鎌倉奪還をして叛乱鎮定と考えた京都の人々は「京都よりハ人人親類を使者として、東夷誅伐を各賀し申さる」(『梅松論』)というように乱は平定されたものとみており、関東との認識の乖離が甚だしい状況にあった。当然ながら後醍醐天皇及び朝廷も中先代与党が跋扈する関東や奥州の状況を把握していなかったとみられる。このような中で、尊氏の独断での恩賞措置が京都に伝えられたことで、「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣、関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事、叡感再三也、但軍兵の賞にをいてハ、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり」(『梅松論』)と、尊氏の上洛を命じたのであった。これは9月27日に行った独断の論功行賞に対する申し開きを命じたものと考えられる。尊氏も一旦は「急き参るへきよし御申有」ったが(『梅松論』)、その後直義から「御上洛然るへからす候、其故は相模守高時滅亡して、天下一統になる事は併御武威によれり、しかれハ頻年京都に御座有し時、公家并義貞陰謀度々に及といへとも、御運によつて今に安全なり、たまゝゝ大敵の中をのかれて、関東に御座可然」(『梅松論』)と固く諫めたため、尊氏は上洛を思い止まったという。
後年、直義が南朝の北畠親房に手紙で述べているように、「建武に諏方の時継反逆の時、将軍身づから発向して誅戮踵をめぐらさず、度度の大勲、古今比類なし、なを先皇、佞臣等が讒口によりて、叡慮いさゝか異変あり、仍賊臣を退がために義兵を起さるゝ處に、叡慮猶彼等を御贔屓の故に事大変に及き」(『吉野御事書案』)という状況にあったようである。
また、別の伝では、「故兵部卿親王御方臣下ノ中ニヤ有ケン、尊氏謀反ノ志有ル由讒」(『保暦間記』)とあるように、故護良親王に加担していた廷臣が盛んに「尊氏謀反」を後醍醐天皇に吹聴(『保暦間記』)し、「何ナル明主モ讒臣ノ計申事ハ、昔モ今モ叶ヌ事」と後醍醐天皇は尊氏謀反の讒言を信じてしまったとされ、「新田右衛門佐義貞ヲ招テ、種々ノ語ヒヲナシ」て「尊氏上洛セハ、道ニテ可打由ヲ義貞」に仰せられたという(『保暦間記』)。そして後醍醐天皇は「勅使蔵人中将源具光」を関東に下して「関東勢ヲハ直義ニ付置、一身急馳参スヘシト云々」(『保暦間記』)と、関東を直義に任せて早々に帰洛すべしと命じたという。尊氏は「勅定ニ応シテ上洛」すると返答するが、「京都ヨリ内々此事ヲ告申ケル人モ有ケルニヤ、又直義モ東国ノ侍モ不審ニ思テ留メケレハ尊氏上洛セス」(『保暦間記』)という。
このように、当時の関東と京都との間には中先代の乱についての認識に埋めがたい乖離があったと考えられ、尊氏不在の京都において、一族随一の武功人新田小太郎義貞が反尊氏の人々と同調して尊氏謀反を吹聴した結果、その後の南北朝の争乱へと繋がっていく複雑な問題に発展してしまったのだろう。尊氏が新たな「幕府構想」を持っていたために後醍醐天皇に背いた、というような考え方は、のちに尊氏が後醍醐天皇と「決別(実際は尊氏が望んだものではない)」し、「幕府」を創設したという「事実」からの逆算的推測に過ぎず、当時の政治的状況を考慮して再考すべきである。
後醍醐天皇が尊氏に上洛を命じた時期は明確ではないが、尊氏が論功行賞を行ったのは9月27日であるから、京都がその事実を把握したのは、最短でも10月10日頃となろう。その場合、勅使中院具光が下向したとすれば、鎌倉着は10月20日頃となる。具光が尊氏に上洛すべしという綸旨を伝え、尊氏は一旦は応じる返答をしながらも、新田義貞をして「尊氏上洛セハ、道ニテ可打由」(『保暦間記』)の計画の風聞を知り、「御本意にあらさる」が上洛を断念した(『梅松論』)。そして11月初め頃に帰洛した勅使中院具光は尊氏の上洛を奏上するが、一向に上洛する気配のない尊氏に「故兵部卿親王御方」の廷臣が「其時、サレバコソ謀叛ノ志有ル由、重テ讒シ申」した(『保暦間記』)。これにより後醍醐天皇は11月12日、まず尊氏の鎮守府将軍を停止し、陸奥国司顕家が「十一月十二日、鎮守府将軍」(『公卿補任』)となった。
上洛を諦めた尊氏は、鎌倉の在所を二階堂永福寺別当坊の仮屋から「若宮小路の代々将軍家の旧跡に御所を造られしかハ、師直以下の諸大名、屋形軒をならへける程に、鎌倉の体を誠に目出度そ覚へし」(『梅松論』)と、若宮小路の旧将軍邸に屋敷の造営を開始し、執事家の高家以下、尊氏に従軍した人々も屋形を建立しはじめ、かつての鎌倉のまちの賑わいとなっていたようである。
そして11月2日、直義は「可被誅伐新田右衛門佐義貞」の「関東御教書」(「少弐頼尚施行状」『相良家文書』71ほか)を諸国の武士、「御家人(新政を明確に否定しているのだろう)」、守護人、地方奉行人へ一斉に発した。この御教書は左馬頭直義が主体的に発給したもので、尊氏の意向を示した執達形態の文書ではない。つまり、新田義貞に対してとくに強い敵意を抱いていたのは、尊氏ではなく弟の左馬頭直義であったと考えらえる。
直義の御教書には義貞を「誅伐」する理由は一切記されていないが、義貞が明らかに天皇側近として信任されている以上、謀反人や凶徒と記すことは不可能であった。しかし、直義は彼を「誅伐」するという上位者表現を用いており、義貞を廷臣という公的立場ではなく、惣領尊氏の殺害を企図して尊氏帰洛を不可能にさせて違勅の汚名を負わせた上、讒訴して君を惑わした足利庶家として扱い、一門惣領家が庶家義貞を「誅伐」するという意図であろう。後日、箱根竹ノ下や伊豆国府などで新田義貞勢を殲滅した尊氏は、建武2(1335)年12月27日、若狭国守護の「美作左近将監殿(本郷貞泰)」に対して「義貞已下御所方軍勢、於海道悉討落了、仍所令発向京都也」(建武三年十二月廿七日「関東御教書」『本郷家文書』)と記しており、義貞已下の京勢を殲滅できたため「仍所令発向京都」と記している。つまり尊氏の違勅は義貞による妨害のためであり、今回これを排除したことで(勅命通り)京都へ発向したのだ、ということを強調しているとみられる。なお、この主張は明らかに後付けの理由であろうが、これまでの天皇からの尊氏への信頼と尊氏の服従姿勢、天皇没後の天龍寺建立などのからみて、尊氏が自発的に反旗を翻す理由はなく、実際に尊氏の違勅は、京都での陰謀に対する措置であった可能性が高い。
直義が義貞に激しい敵意を見せた理由は明確ではないが、この尊氏殺害の策謀のほか、義貞が護良親王と結んでいたことも理由の一つであろう。護良親王は「新田右金吾義貞、正成、長年、潜にゑいりょを請て打立事度々に及」(『梅松論』)とあるように、尊氏を討つために新田義貞、楠木正成、名和長年らを語らい、尊氏と合戦を企てる風聞があった。なかでも建武元(1334)年6月7日には「兵部卿親王、大将として将軍の御所に押寄らるへき風聞しける程に、武将の御勢御所の四面を警固し奉り、余の軍勢ハ二条大路充満しける程に、事の体大義に及によつて、当日無為になりけれとも、将軍よりいきとほり申されけれハ、全くゑいりょにはあらす、護良親王の御張行の趣なり」(『梅松論』)であったという。武家官僚の重鎮である楠木正成・名和長年は、当初より尊氏排除が混乱助長に繋がることを危惧してか護良親王の要請には非協力的であったとみられるが(後年、尊氏が新田義貞の対立から謀叛人とされたのち、楠木正成は「義貞を誅伐せられて尊氏卿をめしかへされて君臣和睦候へかし、御使におひては正成仕らん」(『梅松論』)とあり、名和長年は護良親王を捕縛している)、義貞についてはその後も一貫して尊氏との対立軸となっている。
さらに、義貞は護良親王を通じて旧得宗御内人とも関わりがあった可能性があり、建武4(1337)年の北畠顕家の西上に際し、新田義貞子の新田義興と相模次郎時行がともに加わり、12月25日、鎌倉を攻めたと伝わっており(『太平記』)、故護良親王を通じた新田氏と旧得宗家の結びつきがその根本にあったものと考えられる。鎌倉攻めとほぼ重なる建武5(1338)年正月5日までの間に「於下総国登毛郡、普音寺入道孫子令蜂起」と、上総国土気郡に「普音寺入道(北条基時)」の「孫子(左馬助友時か)」が挙兵し(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)、その後、おそらく鎌倉に合流している(友時は北畠親房入道、北条時行らの伊勢からの船での奥州下向に従軍したが、途中難破して伊豆国仁科に上陸したとみられる)ことからも、顕家勢に相模次郎時行が加わり、普恩寺友時も従っていたと考えるのが妥当だろう。
直義は、中先代の乱で旧得宗勢によって渋川義季や新田岩松経家ら親類一門を討たれて上に鎌倉も落とされ、自身も追い散らされるなど、護良親王や旧御内人に対する激しい怒りがあったろう。彼らと関わりを持つ義貞に対しても憎悪の念があった可能性があろう。建武3(1336)年2月15日には、信濃国御家人の「市河十郎経助」が「先代高時一族大夫四郎并当国凶徒深志介以下之輩蜂起之間、為御追伐之大将村上源侍中信貞」に属して「於麻績、十日市場致散々合戦」し(建武三年二月廿三日「市河経助軍忠状(村上信貞一見状)」『市川文書』)、さらに「先代高時一族大夫四郎、同丹波右近大夫并当国凶徒深志介知光以下輩」と「守護代小笠原余次兼経并源蔵人信貞大将、於八幡山西麓麻続御厨、被致散々合戦」(建武三年二月廿三日「市河経助軍忠状(吉良時衡一見状)」『市川文書』)しているが、この時点で足利方は後醍醐天皇と京都で敵対しており、「大夫四郎(高時弟の大夫四郎時興)」「丹波右近大夫(佐介流丹波守盛房の子孫か)」ら中先代勢はその足利方(守護小笠原貞宗、信濃国大将村上信貞)と合戦をしていることになる。中先代勢は単に足利方への復讐である可能性もあるが、京都で足利方が敗れたタイミングであることから、中先代勢と御所方は接点を以って挙兵したのだろう。
直義が発給した11月2日の新田義貞追討の「関東御教書」はまず旧御家人個人に送達され、さらにその地方を奉行する守護らに軍勢催促状の発給を指示したとみられる。信濃国の「市河孫十郎近宗」は直義の「新田右衛門佐義貞可誅伐之由、自関東就被成下御教書」に応じて「為軍忠信州御方御手令馳参候」(「市河近宗著到状」『市河文書』)と守護の小笠原貞宗の麾下(貞宗が軍勢催促状を発給していると思われる)に参じ、貞宗が「承了」判を捺している。また、尊氏の命を受けた「散位(不明)」「尾張権守(高師泰)」は11月6日、「天野安芸七郎殿(天野経顕)」に「鎌倉中入口内稲村崎警固事、一族相共可致厳密之沙汰」を命じており(『天野文書』)、中先代勢への警戒も怠りなく務めていたことがうかがえる。
亥鼻城址の土塁(室町期) |
そしてこの頃、千葉介貞胤の居城である「下総千葉城」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)「千葉楯」(『相馬胤頼著到状』)が「相馬孫次郎親胤」「千田大隅守(胤貞)」によって攻められているが、これは千田胤貞や相馬親胤の私怨など私的な理由で攻められたものではなく、吉良貞家が挙状に「建武二年下総千葉城発向之時、親胤属当手」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)とある通り、千葉城攻めは吉良貞家が大将軍の一人だったことがわかる。千田胤貞も吉良貞家とともに大将軍として加わった鎌倉方の公的な追討軍であった。つまり、この千葉合戦は11月2日の直義による新田義貞誅伐の関東御教書以降、親胤が「至于箱根坂水呑致戦功候」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)という12月5日頃の水呑合戦までのこととなり、建武2(1336)年11月上~中旬の出来事であったということになる。「沙門等(空)」が某年9月1日に千田庄土橋の「東禅寺侍者(湛睿)」に宛てて「…少々人打せ、手おほはせて、引返候、其日諸方箭合にて候か、皆千葉方打負候、当庄為躰、天地動程事候、若今度寺までも寄付候はゞ、なにも残候はじと覚候」(「等空書状」『金沢文庫古文書』:『多古町史』通史編所収)という文書を送達しているが、「千葉方」が支配する土地での「諸方箭合」に「皆千葉方打負」てしまい、「当庄為躰、天地動程事候」という有様となり、もし敵勢が「今度寺までも寄付候はゞ、なにも残候はじと覚候」と嘆く内容である。これを建武2年の千葉合戦と捉える向きもあるが(『多古町史』)、8月の段階ではいまだ中先代の乱の余炎が燻っている状況にあり、朝廷も尊氏らを敵視していなかった時期である。このようなときに足利方の吉良貞義が千葉に攻め込むはずもなく、少なくとも『等空書状』の「皆千葉方打負」は千葉胤貞・相馬親胤らが加わった千葉合戦について記した書状ではない。もし建武2年の出来事であるとすれば、千葉に攻め入ったのは8月下旬に鎌倉から四散した中先代の敗残与党であると考えるのが妥当だろう。
●建武二年十一月二日「関東御教書」(『大日本史料』六之二)
宛名 | 差出人 (関東御教書) |
発給日 | 施行日 催促日 | 著到日 |
承了 催促人 | 文書 |
那須下野太郎 | 左馬頭 | 11月2日 | 『結城家古文書写』 | |||
諏訪部三郎(諏訪部扶重) | 左馬頭 | 11月2日 | 『三刀屋文書』 | |||
無(廣峯社別当廣峯貞長) | 左馬頭 | 11月2日 | 『廣峯文書』 | |||
無 | 左馬頭 | 11月2日 | 『小早河什書』 | |||
長田内藤次郎 | 左馬頭 | 11月2日 | 『萩藩閥謁録』五十八 | |||
田代市若(田代顕綱) | 左馬頭 | 11月2日 | 『田代文書』 | |||
渋谷新平二入道 | 左馬頭 | 11月2日 | 『薩藩旧記』前集十二 | |||
市河孫十郎近宗 | (左馬頭) | (11月2日) | 11月28日 | 小笠原貞宗 | 『市河文書』 | |
陸奥国御家人 式部伊賀左衛門三郎盛光 式部伊賀左衛門次郎貞長 式部伊賀四郎光重代 木田九郎時氏 式部次郎光俊代 小河又次郎時長 | 左馬守 | 11月2日 | 12月2日 | 12月24日 |
佐竹上総入道 (佐竹貞義) | 『飯野八幡古文書写』 |
丹波御家人 小河小太郎成春 | 御教書 | 11月2日 |
建武3年 正月4日 | 尊氏 | 『古文書類』 | |
毛利元春 | 自関東給御教書 | 12月2日 | 12月26日 |
武田兵庫助 (武田信武) | 『毛利文書』 | |
逸見四郎源有朝 | 12月2日 |
武田兵庫助 (武田信武) | 『小早川什書』 | |||
伊勢国真弓御厨地頭 波多野彦八郎景氏 | 12月3日 |
武田兵庫助 (武田信武) | 『黄薇古文書集』 | |||
宮荘地頭 周防次郎四郎親家 | 12月5日 |
武田兵庫助 (武田信武) | 『吉川家什書』 | |||
安芸国大朝本荘一分地頭 吉河三郎師平子息吉二郎経朝 | 12月7日 |
武田兵庫助 (武田信武) | 『吉川家什書』 | |||
三戸孫三郎頼顕 | 12月23日 | 不明 | 『毛利文書』 | |||
甲斐源四郎入道 | 足利殿被仰下 | 11月20日 | 源義國 | 『南路志』 | ||
(肥前)守護代 | 被仰下旨 | 12月14日 |
左近将監 (大友貞鑑) | 『深堀系図』 | ||
深堀弥五郎(深堀正綱) | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
大宰少弐 (武藤頼尚) | 『深堀系図』 | |
龍造寺孫六入道 (龍造寺家房) | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
頼尚 (武藤頼尚) | 『龍造寺文書』 | |
中村孫四郎入道 | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
太宰小弐 (武藤頼尚) | 『兒玉韞採集文書』 | |
下荒木六郎入道女子代 (下荒木家有) | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
太宰少弐 (武藤頼尚) | 『近藤文書』 | |
相良八郎 (相良定頼) | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
太宰少弐 (武藤頼尚) | 『相良文書』 | |
榊二郎入道 | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
頼尚 (武藤頼尚) | 『改正原田記附録』 | |
杉左衛門次郎入道 | 関東御教書 | 11月2日 | 12月23日 |
太宰小弐 (武藤頼尚) | 『薩藩旧記』 | |
富光九郎 (富光道貞) | 関東御教書 | 11月2日 | 12月26日 (23日歟) |
太宰小弐 (武藤頼尚) | 『薩藩旧記』 | |
大友千代松丸 | 尊氏 | 12月13日 | 『大友文書』 | |||
深堀弥五郎(深堀正綱) | 関東御教書 (尊氏か) | 12月13日 | 建武3年 正月16日 |
沙弥遍雄 (大友代官) | 『深堀系図』 | |
熊谷彦四郎 (熊谷在直) | 尊氏 | 12月27日 | なし | 『萩藩閥謁録』 |
11月9日には、「橘行貞」を奉行人として、中先代勢に加担したとみられる先代評定衆「矢野伊賀入道善久(矢野三善倫綱)」の武蔵国内の所領「小泉郷男衾郡内、須江郷比企郡内、片楊郷足立郡内、久米宿在家六間多東郡内」を、「岩松兵部大輔経家跡御代官頼圓、定順等」に打渡している(『正木文書』)。これは尊氏が知行国主、国司を務める武蔵国における中先代没官領を一族の岩松家に打渡したもので、積極的な恩賞沙汰の一環であろう。本来はこの打渡を太政官に伝えて太政官符の発給を求めるが、尊氏はこの過程は経ていないだろう。
そして、直義の御教書発給が影響したものか、尊氏も「十一月十日あまりにや、義貞を追討すへきよし、奏状を奉る」(『神皇正統記』)と、尊氏自身が新田義貞追討の綸旨を賜るべく奏上文を京都に発した。奏上文は「尊氏状到来、十一月十八日」(『元弘日記裏書』)と、11月18日に京都に到着し奏上されたが、その内容は「すなはち打てのほりけれ」(『神皇正統記』)ということが記されていたようで「京中騒動す」という。おそらく直義は奏状の使者に惣領執事家の尾張権守師泰を付けて三河国まで派遣したのであろう。朝廷及び新田義貞に対する直義からの恫喝の意図が込められているのではなかろうか。こうした鎌倉方の動きは驚きを以って朝廷に伝わり、「十一月十八日、今夜被仰警固事、上卿侍従中納言公明卿、諸衛右少将藤原行輔朝臣、一身参入」(『園太暦』)と警固を強め、早々に翌19日には「尊良親王以下東征」(『元弘日記裏書』)を宣した。「追討のために中務卿尊良親王を上将軍といひて、さるへき人々もあまたつかはさる、武家には義貞の朝臣をはしめて、おほくの兵を下され」(『神皇正統記』)、「上将ハ中務卿親王主上一宮、公卿殿上人、其外武士ニハ義貞ヲ大将軍トシテ、サルヘキ侍、在京武士、西国畿内ノ勢数万騎発向」している(『保暦間記』)。ただし、『保暦間記』の記すような「西国畿内」の武士に対する軍勢催促は肥前国「松浦小次郎入道蓮賀」への「令発向鎌倉」を命じる綸旨(「後醍醐天皇綸旨」『松浦文書』)など、中国・鎮西武士に対して11月22日に一斉に下されており、これは征東使が発せられて三日後のこととなる。つまり、征東使が率いたのは在京武士のみであったと考えられ、東海道軍の主力は在京衆の多い新田一族であった可能性が高いだろう。
また、「奥州ヨリ顕家卿後追ニ責上スヘキ由、宣下セラレケリ」(『保暦間記』)と、後醍醐天皇は陸奥守顕家にも同時期に鎌倉攻めを命じる勅使を派遣している。さらに東山道からは左衛門督実世を大将軍とする軍勢が進んでいる。その進軍速度は非常に早く、出京四日後の11月23日にはすでに「信州大井荘(佐久市岩村田周辺)」に布陣し、綸旨に応じず尊氏与党となっていた「小笠原信濃前司(小笠原貞宗)」と「当国総大将軍」(「市河経助軍忠状」『市河文書』)の「村上源蔵人(村上信貞)以下凶徒等」と合戦となっている。彼らは東山道を上州路に抜け、鎌倉街道下道を攻め下るルートであったとみられる。この東山道勢には「島津上総入道(島津貞久)」が加わっており、その指揮下に伊予の「忽那島東浦地頭次郎左衛門尉重清」や「木村三郎入道、東條図書助」らが入って奮戦している(「忽那重清軍忠状」『忽那文書』)。
●建武二年十一月東征軍
征路 | 将軍 | 名前 | 官位 | 官職 |
東海道 | 上将軍 | 尊良親王 | 一品 | 中務卿 |
東海道 | 大将軍 | 新田義貞 | 従四位上 | 右衛門佐 |
東山道 | 大将軍 | 洞院実世 | 正二位 |
尾張守 権中納言 左衛門督 |
東海道 (奥州より) | 大将軍 | 北畠顕家 | 従二位 |
陸奥守 右近衛中将 鎮守府将軍 |
なお、東海道軍の「大将軍」は新田右衛門佐義貞が任じられているが、上表に見られるように、彼は東山道の大将軍左衛門督実世や奥州の陸奥守顕家の官途に大きく見劣りしている。それを補う意味で一品尊良親王が先例なき「上将軍(かつて源頼朝の大将軍名で候補の一つとなったが先例がないと見送られ、征夷大将軍号が選ばれている)」に任じられ、義貞はその麾下の大将軍となり、官途上の不足を補ったと考えられよう。そこまでして義貞が大手軍である東海道の大将軍に選ばれたのは、彼が武家においては尊氏に次ぐ従四位上(『異本元弘日記』)の官途を持ち、彼以上の高位武家は存在しなかったことに加え、足利一門という血統、惣領尊氏・直義との対立関係、尊氏に従わず京都に残った武士は新田氏とその方人ばかりになっていたことなどからの任と思われる。つまり義貞の東海道「大将軍」補任は、彼の能力をとくに見込んで抜擢したのではなく、尊氏・直義と合戦で真向対峙が期待できる武家が義貞以外に存在しなかったためであろう。
一方、鎌倉では追討使下向の一報を受け、直義主導で様々に処置が行われたと思われる。尊氏は「先日勅使具光朝臣下向のとき帰洛有へきよし仰られし處に、御参なき条、御本意にあらさる間、此事に付て、ふかく歎き思召れて仰せられけるは、我龍顔に昵近し奉りて、勅命を請て、恩言といひ、ゑいりよといひ、いつの世、いつのときなりとも君の御芳志を忘れ奉るへきにあらされは、今度の事、条々御所存にあらすと思召ける故」(『梅松論』)として、「政務を下御所にゆつり有て、細川源蔵人頼春并近習両三輩計召具て、潜に浄光明寺に御座有」(『梅松論』)とあるように、追討の事を聞いて浄光明寺に移ってしまったためである。
直義はすでに尾張権守高師泰を大将軍とする軍勢を三河国矢作宿に派遣しており、在地の一門「足利上総五郎入道」と合流させて、征東軍を迎撃する態勢を取っていた。そして11月25日、進んできた征東軍と矢作川を挟んで合戦となり(『多田院文書』)、27日にかけて激戦となったが、戦いは足利方が敗れ壊走する。そして翌11月26日の京官除目において足利尊氏の参議、武蔵守、左兵衛督を「止職」(『公卿補任』)した。なお、尊氏の止職は『公卿補任』では11月27日とあるが、11月26日の臨時除目で西園寺右兵衛督公重が「左兵衛督」に転じ、前参議中院通冬が「尊氏辞替」として「参議」に還任していることから、11月26日が正しいと考えられる。
●建武二年十一月除目(『公卿補任』)
日にち | 名前 | 官位 | 官職 | 補任 |
11月12日 | 北畠顕家 | 従二位 |
参議 陸奥守、右近衛中将 | 鎮守府将軍 |
(足利尊氏) | 従二位 |
参議 武蔵守、左兵衛督、鎮守府将軍【辞】 | ||
11月19日 | 鷹司冬教 | 従一位 |
左大臣【辞】 治部卿 | |
近衛経忠 | 従一位 | 散位 | 左大臣 | |
葉室光顕 | 従三位⇒正三位 | 出羽守 | ||
中御門宣明 | 従四位上⇒正四位下 | |||
11月26日 (京官除目) | 九条光経 | 正二位 | 中納言 右衛門督(別当)【辞】 | 権大納言(次席) |
西園寺公重 | 従二位 |
権中納言 右兵衛督【辞】 | 【転】左兵衛督〔尊氏辞替〕 | |
四条隆資 | 従二位 | 修理大夫【辞】 | 【還】権中納言 | |
足利尊氏 | 従二位 |
参議【辞】 武蔵守【辞】、左兵衛督【辞】 | ||
正親町忠兼 (のち実寛) | 正三位 | 散位 | 修理大夫 | |
中院通冬 | 正三位 | 散位 | 【還】参議〔尊氏辞替〕 左近衛中将 | |
勧修寺経顕 | 正三位 | 太宰大弐、加賀権守 | 右衛門督(別当) | |
足利直義 | 従四位下 |
左馬頭【辞】 相模守【辞】 |
その頃鎌倉では、11月26日に直義が伊豆国の三島社に「於当社可致精誠之状」を命じている(『三島神社文書』)が、足利方は「遠江の鷺坂、駿河の今見村」においても連戦連敗し、直義は12月2日に自ら鎌倉を出陣。12月5日に駿河国手越河原に着陣し、新田義貞らの征東軍と「終日入乱て戦」った(『梅松論』)。しかし「御方利を失ひし間、武家の輩多く降参して義貞に属す」(『梅松論』)という状況に陥っている。その後、直義は「箱根山に引籠り、水のみを堀切て要害として御座」し、「仁木、細川、師直、師泰以下、不残一人当千の輩、陣を取」(『梅松論』)って迎え撃った。なお、このとき吉良貞義のもと「千葉楯」を攻めていた「(相馬)孫次郎親胤」は「至于箱根水呑致戦功候」(「吉良貞義挙状」『相馬文書』)、「親父孫次郎親胤者、去々年千田大隅守相■向于千葉楯、致合戦之處、俄将軍家京都御上洛之間御具申」(「相馬胤頼著到状」『相馬文書』)とあり、千葉から引き揚げて箱根水呑に参陣していたことがうかがえる。「千田大隅守(千田大隅守胤貞)」については記載はないが、その後、尊氏に随って京都、九州に赴いていることから、親胤とともに千葉から箱根に移ったと考えられる。
こうした足利方の「海道の合戦難義たるよし」は、鎌倉浄光明寺に蟄居していた尊氏の耳にも入り、「守殿命を落されハ、我有ても無益なり、但違勅は心中にをいて更に思召さす、是正に君の知處也、八幡大ほさつも御かこ有へし」と寺を出ると、12月8日、嘉例として「小山、結城、長沼か一族」を召して先陣とし、鎌倉を出立。「水のみ」で陣を張る直義勢に加勢はせず、「此あら手を以、箱根山を越て発向せしめ、合戦を致さハ、敵おとろきさはかむ所を、誅伐せむ」(『梅松論』)と、箱根山北端を回り(鮎沢川を廻り竹ノ下へ向かったのだろう)、12月10日夜、「竹の下道夜をこめて、天の明るをまつほとに、辰の一天に、一宮、新田、脇屋を大将として恋せはや契らしと詠せし、足柄の明神の南なる野にひかへ」(『梅松論』)、その後、「御方の先陣」である小山、結城勢は「山を下りて野山にうち上るに、坂の本にてかけ合戦しに、敵こらえすして引退所を、御方勝に乗て、三十余里攻詰て、藍沢原にをいて、爰を限と戦しに、敵数百人討取」という戦功を挙げたとあり、新田、脇屋勢を竹ノ下付近で打ち破った足利勢は、藍沢野へ逃れた新田・脇屋勢を追撃したという。尊氏は小山・結城勢のはたらきに「御かむにたへすして、武蔵の太田の荘を小山の常犬丸に充行はる、是ハ由緒の地なり、又常陸の関の郡を結城に行はる、今度戦場の御下文はしめなり、是を見聞輩、命をわすれ、死をあらそひて、勇戦む事をおもハぬ者そなかりける」(『梅松論』)という。なお、武蔵国太田庄は白河結城宗広入道の子・太田大夫判官親光の名字地であり、親光を新田義貞与党と定めて小山常犬丸の遵行を認めたという事か。
12月12日、水呑の直義勢と対峙していた征東軍の伊豆国佐野山(三島市佐野)の陣中では、大友家惣領代「大友左近将監(大友貞載)」が三百余騎を率いて「御方に参らすへきよし」を伝えて足利方に寝返った(『梅松論』)。「大友戸次左近大夫頼尊」も「於佐野山最前参御方致軍忠」(「戸次家古文書」『鎮西古文書編年録』)とあり、尊氏または直義の調略により、大友勢全体が示し合わせて佐野山陣中で寝返ったことがうかがえ、佐野山合戦の勝敗を決定づけたと思われる。この日の合戦でおそらく左中将為冬以下、多くの御所方が討たれている。二条為冬は伊豆国府に御座していた上将軍尊良親王の代将として佐野山陣に駐屯していたものか。為冬の首級は「御朋友」尊氏のもとに送達され、尊氏は為冬の首を見て「御愁傷の色深かりき」という(『梅松論』)。
翌12月13日、足利勢は伊豆国府(三島市西本町周辺)に攻め入るが、この時点で竹ノ下から藍沢原(御殿場市)に新田・脇屋勢を追撃していた尊氏勢はまだ国府には到着していなかったと思われ、国府に寄せたのは水呑布陣の直義勢であろう。足利勢は国府に駐屯していた御所方と「散々合戦」し、「大友戸次左近大夫頼尊」の活躍が伝わっている(「戸次家古文書」『鎮西古文書編年録』)。13日の伊豆国府での合戦は「官軍失利帰洛」(『元弘日記裏書』)とあり、御所方は京都目指して西へ逃れていった。
その後、伊豆国府駐屯の御所方と合流すべく、藍沢原から裾野(裾野市)の隘路を抜けて新田・脇屋勢が国府付近に馳せ戻るが、そのころすでに国府は陥落していたのだろう。新田・脇屋勢は三島社前を通過して東海道へと抜ける頃、尊氏勢は新田・脇屋に追いついて攻め懸った。この合戦で足利方は「畠山安房入道(畠山阿波式部大夫入道西蓮か)」が討死(『梅松論』)するもの「義貞残勢わつかにして、富士川渡しける」(『梅松論』)と、足利勢の勝利となった。
前日12日の大友貞載帰参にともない、13日には尊氏自ら「大友千代松丸(のち大友氏泰)」に「可被誅伐新田右衛門佐義貞也、相催一族、不日馳参、可致軍忠之状」(「関東御教書」『大友文書』)をしたためて貞載に託し、翌14日に「左近将監(貞載)」が肥前国「守護代」に対する施行状を整えて御教書とともに在京の大友千代松丸のもとに送達した。この「十二月十三日関東御教書并御施行状」を受けた千代松丸であったが、正月12日に左近将監貞載が京都東寺前での結城親光との合戦で戦傷死すると、同日に「左馬頭(直義)」が「大友千代松殿」に「新田右衛門佐義貞以下輩等討伐事、早催一族并豊後肥前国軍勢、馳向坂本」(『大友文書』)と、義貞追討のため坂本(西坂本か)への出兵を命じている。また、正月16日には「大友千代松丸」が家人「沙弥遍雄」をして肥前国の武士に上洛を命じている(『深堀系図証文録』)。なお、太宰少弐頼尚も11月2日の直義「関東御教書」に基づいて12月23日に九州各国の国人に「相催一族以下軍勢等可馳参云々」を命じているが、彼は直義が鎌倉から発した「十一月二日関東御教書」に基づく軍勢催促であり、尊氏由来の大友千代松丸の軍勢催促状とは系統の違うものである。
その後、尊氏・直義両大将は西へ逃れる京勢を追って進軍する。義貞勢は引きながらも足利方の大将「畠山安房入道」を討つなど抵抗するも、「残勢わづか」となり、富士川を渡った(『梅松論』)。その頃、「去五日、手越河原の合戦の時分、御所方に属したりし輩、不二河にて降参す」(『梅松論』)と、先日の手越河原合戦で御所方として足利勢と戦った人々が参陣してきたという。その後も「足から箱根の両大将一手に成」(『梅松論』)って「府中より車返し、浮島原に至るまて陣を取すといふことなし」(『梅松論』)と攻勢を続けた。そして翌14日は浮島原に逗留して両大将は軍議を開き、「鎌倉に御帰有て、関東を御沙汰有へきか、又一議に云、縦関東を全くし給ふとも、海道京都の合戦大事なり、しかし、たゝ一手にて御立有へし」という結論のもと、翌15日浮島原を出立して「海道に向ひ給ふ」という(『梅松論』)。
尊氏は京へ退く義貞ら御所方を挟撃するべく、12月27日、若狭国守護の「美作左近将監殿(本郷貞泰)」に急使を発し、「義貞已下御所方軍勢、於海道悉討落了、仍所令発向京都也、早相催若狭国地頭御家人」(建武三年十二月廿七日「関東御教書」『本郷家文書』)して、早々に義貞を討つよう命じている。
御所方大敗の報は各地に飛んだか、越中国では12月に御所方の国司中院左中将定清が討死を遂げ(『尊卑分脈』)、越後国においても「越後国瀬波郡新荘内一分地頭秩父三郎蔵人高長」が「当国大将属佐々木加治近江権守殿御手、馳参最前御方」(「色部高長軍忠状」『色部文書』)し、12月19日には瀬波郡に攻め寄せた国司新田方の「河村弥三郎秀義一族以下」を追い落とした上、その居城を焼き払ったのを皮切りに、各地の国司方国人の居館を攻め落としている。
安芸国でも12月2日に「大朝本荘一分地頭辰熊丸(のち吉川実経)代景成」(『吉川什書』)や「安木町村地頭逸見四郎有朝」(『小早川什書』)、12月7日には「吉河三郎師平」、「大朝本荘一分地頭吉河三郎師平子息吉二郎経朝」らが、守護武田兵庫助信武のもとに参着し、12月23日から26日にかけて朝廷方の「当国矢野熊谷四郎三郎入道蓮覚城郭」を攻めて軍功を挙げている。吉川師平は26日の大手木戸の戦いで討死を遂げた(『吉川什書』)。
伊勢国でも伊勢守護の吉見二位律師円忠が国内の武士に催促をかけ、12月27日には円忠子息の吉見左近大夫将監範景に属した乙部源次郎政貫が安濃郡の久留部山で御所方・蔵人判官清藤と合戦している(『進藤文書』)。
時は戻り、建武2(1335)年11月19日の「尊良親王以下東征」(『元弘日記裏書』)に際し、「奥州ヨリ顕家卿後追ニ責上スヘキ由、宣下セラレケリ」(『保暦間記』)と、後醍醐天皇は陸奥守顕家にも同時期に鎌倉攻めを命じる勅使を派遣した。
鎌倉の左馬頭直義は朝廷の動きを察し、東海道の抑えとして三河国矢作宿に執事家の尾張権守師泰を急派しているが(11月25日には矢作川に布陣)、鎌倉追捕を命じる勅使の奥州下向の風聞を受けた陸奥守顕家を抑える措置も講じたとみられ、十五歳の「志和」尾張弥三郎家長(足利高経の子)を陸奥国府急襲に派遣したと思われる(『南方紀伝』)。ただし、家長の奥州派遣は竹ノ下、伊豆国府での合戦を勝利した12月13日以降に決定されたと思われ、陸奥国との管轄境界地である北常陸に駐屯していたとみられる(本来の任務は8月の白河郡長倉の中先代勢力追捕の援軍と思われる)家長にその大命が下されたのだろう。
陸奥国府攻めを命じられた家長は、12月23日に陸奥国白河郡に入るべく陸奥国高野郡の隘路に進駐し、「斯波家長与相馬胤平兄弟合戦」(『南方紀伝』)という。「相馬胤平(相馬六郎胤平)」は行方郡高平村(南相馬市原町区上北高平)を本領とする相馬一族で、彼らも8月中旬に白河郡長倉で中先代軍に呼応した白河結城庶流の人々を討つべく出陣し「陸奥国高野郡内矢築宿(棚倉町八槻)」(「相馬胤平軍忠状」『相馬文書』)に駐屯していたのだろう。胤平は「十二月廿三日夜、御敵数千騎押寄」たため、「捨于身命令塞戦」ったとあるが、この「御敵」は『南方紀伝』に伝えるように家長であろう。前述の通り、家長も白河長倉合戦の備えとして、8月30日に鎌倉から佐竹貞義入道の支配領域(常陸太田市から大子町辺りか)に派遣されていたと考えられる。家長勢は12月23日に「陸奥国高野郡内矢築宿」で相馬六郎胤平を破ると、陸奥国府へ向けて北上したと思われる。一方、敗れた相馬胤平は二本松方面から新田川を経由し、12月26日には所領の行方郡高平村へ戻り、弟たちと籠城している(「相馬胤平軍忠状」『相馬文書』)。胤平の退却行軍は一日45キロメートルを超えるかなりの強行軍であったことになる。
一方、鎌倉追捕を命じる勅使が陸奥国府に着いたのは12月上旬と思われるが、これを受けて陸奥守顕家は12月22日に国府を出立して南下し鎌倉に向ったという(『八戸系図』)。顕家は国府から伊達郡を経由する奥大道を南下したと考えられるが、23日に白河付近から北上した家長とは交わっておらず、家長は浜通りへルートを移して陸奥国府に進んだと思われる。奥大道は結城氏や伊達氏ら陸奥国府に忠実な氏族の所領がある上に上手が不利となる要害が点在していることから、家長はすでに鎌倉に誼を通じていた相馬氏を頼り、浜通りを選んだ可能性が高い。そして家長は国府目前の「河名宿(亘理町か)」で「為国司誅伐、志和尾張弥三郎殿府中御発向之時、松鶴祖父相馬孫五郎重胤発向于渡郡河名宿、武石上総権介胤顕■■賜、東海道打立関東馳参」(「相馬松鶴丸着到状」『相馬文書』)とあるように、相馬孫五郎重胤、相馬泉五郎胤康ら相馬一族、武石上総権介胤顕と合流した。彼らは陸奥親王家から陸奥国内の郡奉行や郡検断職に補されていた人物だが、すでに関東と通じ、相馬重胤や相馬胤治ら相馬一族は譲状を幼少の子息等に発給して戦いに臨む覚悟を示している(相馬孫五郎重胤の項)。家長勢は「府中御発向」したと思われ、陸奥国府を占拠後、家長は重胤らを伴って鎌倉へ軍勢を進めている。その途次、「常陸国」の「烟田左近将監幹宗」「同子息又次郎幹貞」が「建武三年正月日」に家長勢に加わっている(「烟田幹宗等著到状」『烟田文書』)。
また、「奥州御家人」を称して新政権へ敵対をあらわにしていた「式部伊賀左衛門三郎盛光、同伊賀左衛門次郎貞長、同伊賀四郎光重代木田九郎時氏、同式部次郎光利代小河又次郎時長」も11月2日の「左馬頭殿御教書」と12月2日の「佐竹上総入道道源催促」を受けて、12月24日に「佐竹楯」に馳せ参じている(「伊賀盛光等四人着到状」『飯野八幡社古文書』)。「伊賀左衛門次郎貞長」は憲良親王家引付二番を務めていた引付衆であったが、この時点で離反していたことがわかる。佐竹貞義入道は南下する陸奥守顕家を阻止するべく「佐竹楯(常陸太田市か)」で迎撃態勢を取っている。佐竹貞義入道は「自奥州、親王宮并国司、為追伐関東御発向之由、其聞候」につき、「奉懐取 親王宮、為被追伐国司以下凶徒等、相催当国軍勢候」と、憲良親王を奪取して陸奥守顕家を追伐するべく兵を催していたことがわかる。そこに「式部伊賀左衛門三郎殿」が参陣したことを「真実ゝゝ目出相存候」と手放しで喜ぶとともに「来月五日、為追伐国司、可罷立国候」(『飯野八幡社古文書』建武二年十二月廿八日「沙弥行円状」)につき、伊賀盛光らの「御同道候者、尤本望候」と、建武3(1336)年正月5日に佐竹貞義入道は常陸国を出立して陸奥守顕家を追撃することを表明し、伊賀盛光らの同道を望んでいることがわかる。伊賀盛光は12月2日の「佐竹上総入道道源催促」を受けて参陣していることから、「常州守護」たる佐竹貞義入道は岩城郡の軍勢催促権を持っていたともみえるが、実際は貞義入道代沙弥行円の文面からは伊賀盛光は佐竹氏の支配下にあったわけではないことがわかり、貞義入道は知己であった伊賀盛光に対して私的に誘いをかけたということであろう。なお、「伊賀四郎光重」「式部次郎光俊」が代官なのは、彼らは在京の士であり、11月2日の直義「関東御教書」を受けて、12月28日に「式部伊賀四郎、同一族并真壁三郎等相共ニ於当国犬石宿挙御旗」とある通り、丹波国犬石宿で反新田義貞の兵を挙げていたためである。彼らは「丹波国御家人小河小太郎成春」ととも挙兵して、12月30日に「追落丹波守護館、発向京都」した「後藤八郎基景」らとともに正月1日に丹後国守護館を乗っ取り、正月3日に「押寄大枝山致散々合戦、御敵捕大納言家(帥大納言師基)」という功績を挙げている。大江山の戦いは「三四両日」の合戦であった。この戦いには「式部伊賀右衛門入道、村杜孫次郎等」も加わっており、光重らの父、伊賀右衛門光貞入道も丹波にいたことがわかる。ただし、伊賀氏の所領は丹波国にはないため、足利家領での挙兵であったのだろう。
一方、憲良親王と北畠顕家は12月29日には白河へ入ったと思われ、「結城参川前司(結城親朝)」を「為侍大将、可被奉行軍忠之由事、令旨被遣之、可被存其旨之由」として「鎮守府将軍家(北畠顕家)」が下している(『結城文書』)。その後、北畠勢がどのようなルートを辿ったかは定かではないが、ともに鎌倉を攻める予定であった新田勢ら御所方は半月も前にすでに壊乱して跡形もなかった。顕家勢は建武3(1337)年正月13日には「近江国につきて、ことのよしを奏聞す」(『神皇正統記』)とあり、陸奥国府を出て二十一日、白河からわずか十四日程で近江国に参着したことを考えると、東海道経由では一日40キロメートル超の進軍速度の上に、勢いづく足利方との戦闘や三河国の足利党の抵抗などが想定されることから、東海道を上洛した可能性は限りなく低いだろう。当然、鎌倉を攻める時間的な余裕はまったくないため、顕家上洛時には鎌倉は経由していないと考えられる(『太平記』のみ「箱根ノ合戦ニハハヅレ給ヒケリ、サレトモ、幾程モナク鎌倉ニ打入給ヒタレハ、将軍ハ早箱根竹下ノ戦ニ打勝テ上洛シ給ヒヌ」とあるが、『太平記』自体の信憑性から疑問が大きい)。また、北畠勢が近江国に入るまで足利方との合戦記録も残っていないのは、彼が東海道ではなく中山道を経由して上洛したためではなかろうか。
建武2(1335)年12月13日、伊豆国府合戦で「官軍失利帰洛」(『元弘日記裏書』)し、尊氏は伊豆国府を占拠したのち、西へ逃れる御所方征東軍を追って進軍する。御所方の義貞勢は引きながらも足利方の大将「畠山安房入道」を討つなど抵抗するも、「残勢わづか」となり、富士川を渡った(『梅松論』)。「去五日、手越河原の合戦の時分、御所方に属したりし輩、不二河にて降参す」(『梅松論』)と、足利勢に次々に参陣してきたという。「足から箱根の両大将一手に成」(『梅松論』)って「府中より車返し、浮島原に至るまて陣を取すといふことなし」(『梅松論』)という。翌14日は浮島原に逗留し、尊氏・直義両大将は「鎌倉に御帰有て、関東を御沙汰有へきか、又一議に云、縦関東を全くし給ふとも、海道京都の合戦大事なり、しかし、たゝ一手にて御立有へし」となり、翌15日、「海道に向ひ給ふ」という(『梅松論』)。
尊氏は退却する義貞ら御所方を挟撃するべく、12月27日、若狭国守護の「美作左近将監殿(本郷貞泰)」に対して「義貞已下御所方軍勢、於海道悉討落了、仍所令発向京都也、早相催若狭国地頭御家人」(建武三年十二月廿七日「関東御教書」『本郷家文書』)して、早々に義貞を討つよう命じている。ここでも主敵はあくまでも新田義貞とその与党であって、「義貞已下御所方軍勢」を殲滅したため、「仍所令発向京都」としている。つまり義貞と与党という妨害を排除したため、勅命通り京都へ発向したと受け取れるのである。
「遠江国見付府中」では尊氏上洛の一報を受けた「備後国津田郷総領地頭山内首藤三郎通継」が尊氏勢に参着し、建武3(1336)年正月2日の「近江国伊岐須宮(草津市)」で軍功を挙げる。「田代豊前市若丸」も「正月二日、江州伊岐代御合戦」に加わり、「向大手、於辰巳角櫓下」で奮戦した(建武三年十一月「田代市若丸軍忠状」『田代文書』)。また、「大友戸次左近大夫頼尊」も「伊岐須城」の合戦で浜手より先駆けしたという(「戸次家古文書」『鎮西古文書編年録』)。かつては西側が琵琶湖畔に面していたとみられる。伊岐須宮は「御所方の山法師道場坊、阿闍梨宥寛、山徒千余人を相語ひて国人案内者たるにこそ、江州伊岐代宮を俄に構て引籠る、是ハ関東勢を当国にて支へて御敵の興勢を以、後詰をせさせむとの謀」というもので(『梅松論』)、尊氏は武蔵守師直を大将として建武2(1335)年12月30日に攻め寄せたという。『梅松論』では「一夜の中に攻落す」(『梅松論』)とあるが、実際は正月2日頃にも合戦が行われている。翌正月3日にも「近江国伊幾宮合戦」が行われており、「大将兵部大輔殿(仁木頼章)、山名伊豆守殿(山名時氏)」のもと「野本能登四郎朝行」は「最初押寄城辰巳角、切入城垣」(建武四年八月「野本鶴寿丸軍忠状」『熊谷家文書』)という戦功を挙げている。戦いに敗れた伊岐須宮の敗残兵は「野路の宿より西、湖の端なれハ、討もらされたる者共ハ、舟に乗て落行ける」(『梅松論』)という。
その後、足利勢は「御手分け」(『梅松論』)し、「下御所大将、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介、芋洗は吉見三河守、宇治へハ将軍御向あるへきなり」という。「御所方の勢田の大将は千種宰相中将、結城太田大夫判官親光、伯耆守長年也」であり、正月3日から「矢合」となった(『梅松論』)。鎌倉稲村ケ崎防衛を行っていた天野七郎左衛門尉経顕も足利氏に従って上洛し、「今川五郎入道殿(今川範国入道)」らとともに「勢多」で11日にかけて連日合戦警固し、橋爪の高矢蔵からも矢を射かけるなどの軍功を挙げている(『天野文書』)。正月7日には伊勢守護吉見円忠の子息、吉見左近将監範景が勢多合戦で加わっている。
同じく正月7日には「天野安芸三郎遠政」が命を受けて「大将軍」尊氏の本隊が陣取る宇治に罷り越し、7日から11日にかけて「宇治橋上、昼夜抽軍忠次第」している(『天野文書』)。天野遠政は勢多勢の天野経顕の同族であり、遠政は勢多から宇治へ遣わされたと考えられる。彼のほかにも「摂津国多田院御家人高橋彦六茂宗」も「江州勢多、宇治、京都打出」している通り(『多田院文書』)、勢田の直義から宇治への援兵に遣わされており、宇治方面の御所方兵力が増強されていた可能性があろう。宇治の御所方は「御所方宇治の討手の大将義貞、橋の中二間引て櫓掻楯を上て相支けり」といい(『梅松論』)、宇治橋を引橋して櫓を建てて防衛線としたという。また、楠木正成勢も展開しており、正月7日に「楠木焼払宇治、依余焔平等院焼失」(『略年代記抄出』)、「延元々正七、宇治平等院炎上」(『皇年代私記』)と、宇治のまちは足利勢の到来に備えて焼き払われ、その余燼により平等院も焼失している。
翌正月8日、尊氏は宇治から一勢を率いて「将軍攻入八幡」(『武家年代記』)という。ただ8日夕方には「結城の山河の家人」である「野木与一兵衛尉并中臺二人」が宇治橋の「中櫓の下」での働きを尊氏が御感の余り佩刀を直接給わったといい(『梅松論』)、尊氏勢が宇治から八幡へ移ったのは8日夜かもしれない。尊氏勢の「大友戸次左近大夫頼尊」は「追落八幡凶徒」し、9日と10日の淀の「大渡橋」で軍功を挙げている。「山内首藤三郎通継」は「大渡橋上御合戦」では尊氏から「遠矢可仕之由被仰下」たことから、遠矢を射て「払御敵了」という(『山内首藤文書』)。通継はおそらく強弓で知られた人であったのだろうが、百五十年以前の山内首藤経通の遠矢の故事を反映したものだったのかもしれない。「為御前事間、無共感隠者也」(『山内首藤文書』)であった。
一方、朝廷に「正月十日、官軍又やぶられて、朝敵すてにちかつく」(『神皇正統記』)という状況が伝えられると、天皇は「比叡山東坂本に行幸して、日吉社にそましゝゝける、内裏もすなはちやけぬ、累代の重宝もおほくうせにけり、昔よりためしなき程の乱逆なり」(『神皇正統記』)といい、「卿相雲客以下、親光、正成、長年か宿所も片時の灰燼となりしこそ浅ましけれ」(『梅松論』)と、「二条富小路皇居炎上」(『官公事抄』)のほか政権の人々の屋敷も焼失した。「正月十日、東軍入京、主上幸坂本」(『公卿補任』)し、「行幸叡山、賢所同有渡御、東夷襲来洛中之故也」(『園太暦』)と、神璽を奉じての行幸となっている。「賢所渡御有、無例」(『神皇正統記』)とされるが、平家動乱の際にも賢所は西海に遷座している。なお、天皇の日吉臨幸は「為御祈祷、臨幸日吉社」(「建武三年正月十二日」『白川文書』)といい、公的には避難ではなく祈祷のためとしていた。
翌11日午刻、「将軍都に責入給ひて、洞院殿公賢公の御所に御坐有しに、降参の輩、注するに暇あらす」(『梅松論』)というように、尊氏が入京後に入った洞院公賢邸には降参の人々が数多訪れたという。その降参の輩の一人が「結城太田大夫判官親光」であったが、彼は10日の後醍醐天皇山門行幸の際、天皇の御輿に追いつくと畏まって「今度官軍鎌倉近く責下て太平を致すへき所に、さもあらすして、天下如此成行事ハ、併大友左近将監か佐野にをいて心替りせし故也、迚も一度ハ君の御為に綸を奉るへし、御暇を給て、偽て降参して、大友と打違て、死を以て忠を致すへし」(『梅松論』)と下賀茂から引き返すと、東寺南大門に布陣していた大友左近将監貞載のもとに降参し、大友に太刀を預けて大友と対談。その後、太刀を返されるとにき「さハなくて馳並て抜打に切間、大友すきをあらせす、むすとくむて親光ハ其場にて討る」と大友貞載により討たれた。しかし、貞載も「目の上を横さまに切れたりけるか、大事の手なりけれハ鉢巻にて頭をからけ輿に乗て親光か頭を持参しける」という重傷を負いながら尊氏の陣所に親光の首をもたらし、貞載はこのときの疵がもとで、翌日亡くなっている。ただ、この騒乱は「唐橋烏丸合戦」(建武三年九月「野上資頼代平三資氏軍忠状」『野上文書』)とあり、実際は東寺を中心に九条大路を東西に発生した大友貞載と結城親光の戦闘だったのではなかろうか。この合戦では「左近将監貞載」の属将「豊後国御家人野上彦太郎清原資頼」(建武三年九月「野上資頼代平三資氏軍忠状」『野上文書』)が「打組太田判官一族益戸七郎左衛門尉」している。
こうした中で、正月12日に「臨幸日吉社」していた後醍醐天皇は「結城上野入道」の参洛について聞き及び、使者を遣わして忠節を賞している。結城宗広入道は翌13日の「陸奥守鎮守府将軍顕家、此乱を聞て、親王を先にたてまつり、陸奥、出羽の軍兵を卒して、せめのほる、同十三日、近江国につきて、ことのよしを奏聞す」に同道し、親王宮を奉じて陸奥国府からの長途を駆け抜けて近江国へ入った(『神皇正統記』)。
一方、直義は正月12日に入洛した安芸守護の武田兵庫助信武勢や出雲勢などの西国武士等を翌13日、勢多警衛のため派遣し、奥州勢への備えとしている。武田勢の波多野彦八郎景氏(建武三年二月廿五日「波多野景氏軍忠状」『黄薇古簡集』)や「安芸国宮荘地頭周防次郎四郎親家」(建武三年五月七日吉川親家軍忠状『吉川家什書』)、「辰熊丸代景成」(『吉川什書』)らは13日に勢多の供御瀬へ馳せ向かい、「出雲国大野荘内加治屋村惣領」の「三崎三郎次郎日置政高」は美作国御家人の「佐々木美作大夫判官秀貞」とともに美作国を出立して正月11日の入洛戦に参戦。13日に勢多へ向かっている(『日御崎社文書』)。同日「大将軍」尾張権守高師直も勢多に「御着到」する。またすでに「大津西浦」に「大将細河侍従殿」も駐屯しており、「田代豊前市若丸」はこの「細河侍従殿」の軍勢に加わっている(『田代文書』)。
ところが、奥州勢は勢多に足利勢駐屯を見たためか、敢えて戦いを避けて「正月十三日より三箇日の間、山田、矢橋の渡船にて、宮并北畠禅門、出羽、陸奥両国の勢とも雲霞のことく東坂本に参著」(『梅松論』)と渡船で東坂本へ渡っており、「大宮の彼岸所を皇居として、三塔の衆徒残らす随ひ奉る」(『梅松論』)とあり、日吉社大宮彼岸所の御座所に比叡山衆徒が駆け付け、「官軍大きに力を得て、山門の衆徒まても万歳をよはひき」(『神皇正統記』)だったという。
正月16日払暁には、尊氏は三井寺園城寺が御所方により「園城寺を焼払ふへきよし」の風聞により、細川卿公定禅ら細川一族を大将とする四国・中国の軍勢を派遣すると、御所方では「義貞を大将として両国の勢ハ北畠殿の子息国司顕家卿に随て、三井寺に向」(『梅松論』)かったという。園城寺周辺の足利方大将軍「細河侍従殿」率いる四国・中国勢の田代豊前市若丸、新見山戸木十郎、久下弥五郎ら(『田代文書』)は「浜面」で奮戦している。「備後国山内首藤三郎通継」も「三井寺合戦」に加わっており(建武三年正月十八日「山内首藤通継軍忠状」『山内首藤文書』)、彼も細川勢に属していたのだろう。しかし、細川勢と御所方の新田・北畠勢の大道と浜端の二手での合戦は、足利方の「三井寺の衆徒の手より破れて、則当寺焼払はれて、武家の勢悉く京中へ引返」したという(『梅松論』)。
南近江での合戦に敗れた足利勢は、武蔵権守高師直が「関山(逢坂山)」(建武三年正月「三崎政高軍忠状」『日御崎社文書』)で敵勢を抑えつつ、山科を経て東山へ退き、この足利勢を追って、北畠顕家率いる奥羽の兵と「山門大衆」がともに「正月十六日ニ京都ニ寄テ合戦」(『保暦間記』)した。御所方は拠点を西坂本(高野川東岸の修学院周辺)とし、16日に御所方の「和泉国御家人和田左近将監助康」が東坂本から「罷向西坂本」している(延元元年三月「和田助康軍忠状」『真乗院文書』)。また、「三刀屋大田荘藤巻村地頭左兵衛尉宇佐輔景」は名和伯耆守長年に付属して「令勤仕西坂本」とあることから、仮御所はすでに機能していたと考えられる(後醍醐天皇はここには行幸しておらず、あくまでも仮御所として点じた何らかの屋鋪地と思われる)。また、足利方も武田信武勢の波多野景氏が「山僧以下凶徒等令下洛間、自当所致後楯、馳出法勝寺前、至極軍忠、追登山上訖」(建武三年二月廿五日「波多野景氏軍忠状」『黄薇古簡集』)と、比叡山から下ってきた衆徒等を法勝寺前に攻めて比叡山に追い返すしたという。このときの戦場は粟田口から法勝寺周辺、南北は西坂本から三条河原にかけての鴨川東側一帯であった。
足利方と御所方は白河一帯を攻防の中心地と定めて激戦を繰り返し、尊氏、直義の両大将は「二条河原に打立給」って西坂本を窺い、その「御勢、上ハたゝすの森、下ハ七条河原まて」展開していた。そして「午の時斗に、粟田口の十禅師の前より錦の御旗に中黒の旗さし添て、義貞大将として三条河原の東の岸に魚鱗の陣を取りてひかへたり」(『梅松論』)と新田義貞の軍勢と三条河原東岸に対峙した。数に勝る足利勢は「鶴翼のかこみをなし、数千騎の軍兵、旗を虚空に翻し、鬨の声、天地をおとろかし、互に射矢ハあめのことし、剣戟を掛るにいとまあらす、入乱て戦し程に、人馬の肉むら山野ことし、河にハ紅を流し、血を以て楯をうかへし戦も是にハ過しとそ覚えし」(『梅松論』)と、新田勢を取り囲む殲滅戦を展開している。ここで「官軍ニハ千葉介、義貞一人当千の船田入道、由良左衛門尉を始として千余人討ち取らる」と、新田勢に加わっていた「千葉介」が三条河原合戦で討死を遂げている。なお、「千葉介」貞胤はその後も後醍醐天皇方として足利方と戦いを続けており、ここで討死した「千葉介」はおそらく『太平記』において園城寺合戦で細川定禅勢と渡り合って討死を遂げたとされる貞胤嫡男・千葉新介一胤(高胤)であろう。
足利方はこの三条河原合戦でかなりの死傷者を出すが、新田方も船田入道や由良左衛門尉といった義貞股肱の家子を失うほど相当な損害を出してしまっている。一旦引いた義貞勢は「結城白河上野入道」と合流して千余騎で返し合い、足利方を「白河の常住院前へ中御門河原口を懸」けたが、ここに足利方の「小山、結城一族二千余騎にて、入替て火を散して戦」ったことで御所方は潰され、新田義貞は寡勢を率いて鹿ケ谷の山へ逃れ去った(『梅松論』)。その後の新田勢は行方知れずとなるが、鹿ケ谷から園城寺へ抜けて近江国へ引退いたとする風聞があったのだろう。正月18日、左馬頭直義は「美作次郎蔵人殿(本郷泰光)」に「新田義貞同与党輩、可逃下北国間、早馳越近江国、萱津以下要害所々打塞路次、可誅伐落人等」(建武三年正月十八日「関東御教書」『本郷家文書』)と命じている。
そのほか、伊勢守護吉見円忠子息・吉見左近大夫将監範景に属した「乙部源次郎政貫」が「於京都神楽岡致合戦」(『進藤文書』)で奮闘し、「法勝寺南門合戦」では「大友戸次左近大夫頼尊」が「及散々太刀打」している(「戸次家古文書」『鎮西古文書編年録』)。また「豊前蔵人三郎直貞法師(正曇)」も「京都合戦之時、正曇父子三人、毎度懸先、自身各被疵、親類若党等、討死手負既及廿余人」(建武三年八月「大友直貞入道軍忠状」『入江文書』)とあり、大友貞載亡き後も大友一族は「法勝寺致合戦」(建武三年九月「野上資頼代平三資氏軍忠状」『野上文書』)しており、大友勢は「大友千代松殿」が12日(これまで千代松を支えて万事執り行っていた叔父貞載が前日結城親光との戦いで重傷を負い12日死去したため、十五歳の千代松に直接御教書が下されたとみられる)に受けた御教書に応じて法勝寺方面に軍勢を展開したことがうかがえる。また、武田信武勢も「打破粟田口、於法勝寺西門致合戦」しており、宮荘親家や逸見有朝、毛利元春ら安芸国人衆の活躍がみられる。逸見有朝は16日夜には白河北殿北添の中御門河原口へ移り、翌17日には西坂本の「警固」を行っており、武田勢は御所方中枢部まで入っていた様子がうかがえる。また、元鎌倉評定衆の一族「摂津右近将監殿(摂津親秀)」も足利方として参着しており、一族「成田蔵人三郎重親」は親秀のもとで16日の合戦(法勝寺合戦であろう)に奮戦している(建武三年九月「成田重親軍忠状」『池田文書』)。伊東六郎祐持も16日の「三条河原合戦」で尊氏のもと戦っている(『日向記』)。この法勝寺、粟田口での合戦により「白川殿兵火」(『宝鏡寺文書』)とある通り、法勝寺一帯は兵火に焼かれた様子がうかがえる。なお、このとき法勝寺周辺で合戦した官軍は「山僧以下凶徒等、下洛之間」(建武三年二月廿五日「波多野景氏軍忠状」『黄薇古簡集』)とみえ、『保暦間記』の伝える通り「山門大衆」との混成軍であったことがわかる。
京都合戦の初戦が終わった正月17日、三条河原では尊氏に従って上洛していた「両侍所」の「佐々木備中守仲親、三浦因幡守貞連」が御所方武士の首実検をしているが、その数は千を越えたという。なお、この「侍所」は鎌倉親王家侍所と考えられ、侍所別当および所司であったのだろう。中先代勢から鎌倉を奪還したのち、相模国内の残党を鎮圧したのは彼らが派遣した代官であろう。
正月17日と18日の両日、白河近辺を転戦していた武田信武勢は「発向西坂本」しているが、翌正月19日には「罷向八幡山」という。麾下の「安芸町四郎(逸見有朝)」(建武三年正月廿二日「武田信武警固役催促状」『小早川家文書』)は「戌亥角固役所」している。「三戸孫三郎頼顕」は「八幡山西御預役所」(建武三年五月六日「三戸頼顕軍忠状」『毛利家文書』)を警固し、「宮庄四郎次郎(宮庄親家)」は「八幡薗寺小路末」(建武三年正月廿二日「武田信武警固役催促状」『吉川家文書』)、「井野谷口」(建武三年五月七日「宮庄親家軍忠状」『吉川家文書』)を固め、「波多野彦八郎景氏」や「内藤左衛門次郎教廉」、「大朝本荘一分地頭辰熊丸(吉川実経)」らもそれぞれ「八幡城」に籠って御所方と「連日合戦」(建武三年三月「吉川辰熊丸軍忠状」『吉川家文書』)したという。当時の主戦場である白河を転戦し18日には「西坂本」へ発向している武田勢が、突如翌19日に主戦場から二十キロも南にある石清水八幡宮に「馳籠」っているのは、尊氏が戦線を洛南へ後退させる備えであった可能性が高いだろう。正月22日には尊氏が「長沼判官秀行」を「淡路国守護職」(建武三年正月廿二日「足利尊氏下文案」『下野皆川文書』)に補任するとともに、直義が秀行に「淡路国地頭御家人等」を催促して交名を注進するよう命じている(建武三年正月廿二日「足利直義軍勢催促状」『下野皆川文書』)。翌23日には「武蔵権守(高師直)」が「大山崎宝積寺」に禁制を出しており、要衝大山崎の地に足利方の軍勢が展開していたことがわかる。また同日、尊氏は「摂津国椋橋荘」を東大寺に寄進しており(建武三年正月廿三日「足利尊氏寄進状」『尊勝院文書』)、山崎、八幡の要衝を押さえようとしていることがうかがえる。
正月27日、「官軍は山上雲母坂中霊山より赤山社の前に陣を取」り、「御方は糺河原を先陣として、京白河」に展開して西坂本を窺っているが、雲母坂の御所方は鞍馬口の御所方とともに足利勢に襲いかかった。「尊氏直義為誅罰」の綸旨を受けて入洛していた「大将軍洞院左衛門督殿(洞院実世)」(『忽那家文書』)は「搦手賀茂河原、責下上北小路河原口」ており、洞院実世の猛攻に足利方は兵を二手に分けて防戦するも敗北。勢いに乗って追撃する官軍に対し、尊氏の伯父「上杉武庫禅門(上杉憲房入道)」をはじめ、「三浦因幡守(三浦貞連)」「二階堂下総入道行全」「曾我太郎左衛門入道」らが返し合わせて防ぎ、討死を遂げている(『梅松論』)。「佐々木出羽四郎義氏」も「三条河原所々合戦」(建武三年正月廿八日「佐々木義氏軍忠状」『朽木古文書』)しており、尊氏らは彼らが防いでいる間に七条河原まで南下すると、「七条を西へ桂川を越て御陣を召る」と桂方面へ向かう尊氏勢と「大宮を下りに作道を山崎へ一手にて引退く」という鳥羽方面から山崎へ向かう勢(直義勢か)の二手に分けて京都から退いた。
そのころ、細川顕氏や細川定禅らを大将とする四国勢は、中御門大路を東に駆け向かい鴨川の河原口で御所方を打ち破って西坂本の「仮内裏を焼払」うと、鴨河を下って尊氏勢と合流を試みたが、「大勢二条河原より四条辺迄さゝへたり、御方かと見る所に、義貞以下宗徒の敵扣たる」と、二条河原から四条河原を抑えていたのは、足利勢本隊を追撃していた新田勢をはじめとする御所方であった。新田勢には「新田民部大夫貞政」ら新田一門の他、「大和国野田九郎左衛門尉頼経」「齋藤上総左衛門尉佐利、同舎弟兵衛尉忠利」「田島安房左衛門次郎行春」(『能登妙源寺文書』)らの名が見え、これを知った細川勢は「おめき叫て懸りし程に、この勢も散々に散らされて粟田口・苦集滅路に趣きてぞ落ち行ける」(『梅松論』)と、新田勢を追い散らした。「於四条河原」の合戦では吉見左近将監に属していた乙部源次郎政貫が「伯耆守家人」を討ち取っているが(『進藤文書』)、名和長年勢は「自加茂河原、迄于七条河原」に展開しており、そのうちの四条河原での合戦であろう。「伯耆四郎左衛門尉并安東弥二郎入道等」や「伯耆中務丞」「左兵衛尉宇佐輔景」らが名和勢に見えるが、伯耆中務丞と左兵衛尉輔景は「一条河原并桂河以下所々」で合戦し、「迄于西山峯堂」まで発向している(建武三年二月「三刀屋輔景軍忠状」『三刀屋家文書』)。
細川勢は尊氏勢と合流すべく「いそき桂川を馳渡て、亥刻計に御陣に参て、京中の敵追払ひたるよし」を申し上げると、尊氏は夜闇の中「即打立て、七条を東へ入らせ給ひしに、同河原にて夜もあけしかは、廿八日なり」(『梅松論』)と、一夜のうちに七条河原に馳せ戻っている。この細川兄弟の活躍に尊氏は「御自筆の御書を以、錦の御直垂を兵部少輔顕氏に送給也」と報い、「見分の輩弥忠を尽し、命を軽くしけるとかや」(『梅松論』)という。また、神楽岡に布陣していた御所方と延暦寺衆徒が下り、足利勢と合戦となったが、このとき、「越前国住人白河小次郎」が「義貞」と称する「顔色こつから少も替らす、赤縅の鎧を著たりける」大将を討ちとった。「義貞重代の鎧薄金」と同毛の鎧であり、「一旦大将討取たりとて御方のよろこひけるも断也」というが、実際は「義貞にてはあらす、葛西の江判官三郎左衛門か頸」(『梅松論』)であった。この葛西氏は石巻市多福院に遺る「興国三年壬午卯月廿五日」銘「五七日辰景」の石碑(「多福院板碑銘」)に刻まれる「遠州平清明」と所縁の人物か。神楽岡下の合戦は「島津上総前司入道ゝ鑑」も足利方として参戦しており、「本田左衛門尉久兼」や「島津式部孫五郎入道ゝ慶」が奮戦し、正月28日の「多々須河原合戦」(糺の森東岸部)では島津入道道慶の手勢が「召捕直伯耆守長年若党和賀尾弥太郎并兵衛次郎」している。
正月30日には「夜半計」から「糺河原の合戦」が始まり、「於三条河原」でも吉見範景に属する乙部源次郎政貫が軍功を挙げるが(『進藤文書』)、淀大橋合戦で強弓を披露した山内首藤三郎通継が討死を遂げるなど(「山内首藤土用鶴丸代時吉申状」『山内首藤文書』)、足利方は「今日を限りと戦」ったが、前年8月の鎌倉奪還戦から実に五か月間にわたる連戦に「弓折矢つき、馬疲人気をうしなひ」という困憊の中、「御方の軍破れて、二階堂信濃判官行周討死す」(『梅松論』)と、二階堂信濃判官行親(陸奥親王宮家の評定奉行の信濃入道行珍の嫡子で、同じく親王家政所執事の山城守顕行の義兄であるが、信濃入道行珍はすでに尊氏のもとにおり、早々に離反して鎌倉に下り、尊氏とともに上洛を果たしたと考えらえる)も討死を遂げた。夕方には御所方大将軍の洞院左衛門督実世や楠木河内守正成らが足利勢を追撃して樋口河原口、次いで鴨河原内野合戦で足利勢を「責付丹州追山」(建武三年二月三日「忽那重清軍忠状」『忽那文書』)して京都から放逐。尊氏は「丹波の篠村に御陣」を移した(『梅松論』)。
この日、後醍醐天皇は「卅日終に朝敵をおいおとす、やかて其夜還幸し給」(『神皇正統記』)といい、場所は「還幸河東慈眼僧正坊」(『建武三年兵乱中記』)の「成就護国院」(『皇年代私記』)と称されるが、現在この寺院はない。前天台座主御房であることから、おそらく白河周辺とみられる。そして翌2月2日、天皇は先年の日吉行幸の際に皇居が焼失していたため、右大臣家定の「花山院亭」を仮皇居として行幸した(『園太暦』)。
2月1日、尊氏は篠村での陣中、「猶都に責入へき其沙汰有といへとも、退て功をなすは武略の道なり」として、細川顕氏や卿公定禅、和氏ら細川の人々や「赤松以下西国の輩」を案内者として「先御陣を摂津国兵庫の島にうつされて、当所の船をして兵粮等人馬の息をつかせて、諸国の御方に志を同くして同時に都に責入るへし」と指示して、篠村から篠山を経由して三草山を迂回し、「いなみ野」へ進出。東へ向かい、2月3日には「兵庫の島に御着」した(『梅松論』)。その後、「先度御教書を給る周防の守護大内豊前守(大内長弘)、長門の守護厚東入道(厚東武実入道)両人兵船五百艘当津に参じたり」(『梅松論』)と、周防長門の両守護の軍勢が参着している。尊氏は3日から10日までの8日間兵庫に逗留しているが、これは新院の院宣を待っていたと考えるのが妥当であろう(後述のように『梅松論』では瀬川合戦時に赤松入道が院宣下賜を勧めたとあるが、2月15日以前に院宣を受けていることは明らかであり、下賜までの日数と途中の戦場及び距離を考えると、尊氏が在京時に院宣を求めたと考える他ない)。なお、御所方は丹波へ逃れた後の尊氏の足取りをつかめていなかったようで、「尊氏等猶摂津国にありときこえしかは、かさねて諸将をつかはす」と、尊氏が摂津国に到着の事実をつかんで兵を派遣したのち、さらに追加派兵したことがうかがえる。
また、洛中から足利勢が姿を消すと、八幡城の武田信武率いる安芸国勢は引き時を失って孤立し、2月3日、尊氏勢は兵庫島へ布陣するが、「将軍家御下向兵庫島之間、御敵等得理天寄来、取囲彼城之間」(建武三年二月廿五日「波多野景氏軍忠状」『黄薇古簡集』)と八幡山は包囲され、武田一党は「雖欲馳参御坐当島、以不叶所存」という危機的状況に陥っており、さらに「奉捨大将、落失軍勢多之」と、逃亡する人々が多数発生していた。このような中、波多野景氏ら大将武田信武に付き随う人々は「於当所可討死仕旨存之、已被趣于自害之庭事度々也」と、死を覚悟して戦い続けたが、その後八幡城の囲みから遁れることに成功し「而不慮雖存命仕」った(建武三年二月廿五日「波多野景氏軍忠状」『黄薇古簡集』)。
ここで足利勢は京都から攻め下ってきた「楠大夫判官正成、和泉河内両国の守護として、摂津の国西宮浜に馳合」て、「追つ返しつ終日戦て、両陣相支ふる處に、夜に入て如何おもひけむ、正成没落す」と、勝敗がつかないまま夜になって楠木勢は退却したという。
翌11日、足利勢は「細川の人々大将として、周防長門の勢を相随て責上る」が、今度は「義貞は同国瀬川の河原にて懸合て、爰を限と責戦ける程に、細川阿波守和氏の舎弟源蔵人頼春は深手を負給ひけり」(『梅松論』)と、新田義貞が「摂津国瀬川の河原」に展開し、細川蔵人頼春が重傷を負ったという。なお、この「瀬川」は現在の箕面市瀬川に比定されているが、実際は2月11日には「打出山之戦場」で「豊前蔵人三郎直貞法師(大友正曇)」が「総領大友御方、同一族等相共致合戦」とあるように、足利方主力のひとつ大友勢が西宮付近で奮戦している状態にあり、また、前日夜まで西宮付近で楠木勢と合戦して勝負のつかない戦いをしている状況の中、翌日に突然十五キロも先の瀬川まで軍陣を進めることは到底不可能であり、「瀬川の河原」とは西宮付近とすることが妥当だろう。楠木勢に属して戦った和田助康は「二月十日、十一日、罷向打出豊島河原、致合戦忠節候」(「和田助康軍忠状」『真乗院文書』)とあることから、10日に西宮浜で足利勢と戦った楠木勢は、翌日も足利勢と「打出豊島河原」で合戦していることがわかり、ここからも西宮周辺での合戦であったことがわかる。現実的にもっとも可能性が高いのは、打出から東に八百メートルほどの夙川の河原(現在の香櫨園駅付近)であろう。また、「摂津国兵庫浦、顕家卿義貞朝臣等発向」(『元弘日記裏書』)と、陸奥守顕家も摂津国に兵を出していたことがわかる。
2月10日から12日にかけての摂津国合戦に明確な勝敗は見えないが、12日の夜更頃に「赤松入道円心、潜に将軍の御前に参」って、
「縦此陣を打破て都へ責入といふとも、御方疲て大功をなしかたし、しはらく御陣を西国へ移されて軍勢の気をもつかせ、馬をも休せ、弓箭干戈の用意をも致して、重て上洛有へきか、凡合戦には旗を以て本とす、官軍は錦の御旗を先立つ、御方は是に対向の旗なきゆへに朝敵に相似たり、所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれは、先代滅亡以後、定て叡慮心よくもあるへからす、急き院宣を申くたされて、錦の御旗を先立らるへき也」(『梅松論』)
と、いったん軍勢を鎮西に移して兵馬を休める事、さらに後醍醐天皇により廃された皇統「持明院殿」を奉じて、節度使たる証の錦の御旗を賜り後醍醐天皇に対抗する「官軍」となることを勧めたという。
これまで足利方は新田義貞誅伐を前面に出して戦いに臨んでいたが、現実的には「朝敵」という立場に甘んじながら合戦を続けており、これが足利方の最大の弱みであった。赤松円心の提案は、持明院統の皇統を奉じることで朝敵の汚名を回避できることになるため現実的であるが、その提案日については疑問がある。尊氏は後日2月17日までに光厳上皇の「可誅新田義貞与党院等」の院宣を受けている(建武三年二月十七日「足利尊氏軍勢催促状」『三池文書』)。受けた場所は「鞆津(福山市鞆町)」(『梅松論』)とされるが、京都から鞆津までは300キロもの距離がある上に兵庫周辺は戦闘地域であった。院宣使は海上を経由するなど迂回したことを考えると、実際に尊氏が院宣を要請したのは正月下旬の在京時であろう。なお、義貞追討の院宣より二日前の2月15日に「大友千代松殿」へ下された尊氏の書状に「新院の御気色によりて、御辺を相憑て鎮西に発向候也」(建武三年二月十五日「足利尊氏書状」『大友文書』)とあるように、尊氏の九州下向を認める院宣も下されており、新院へ奏請時には鎮西への下向が決定していたと考えられる。つまり、もし赤松円心の進言があったとすれば在京時点とある。当時の足利勢には嶋津上総入道一族、大友千代松丸一族が加わっており、太宰府には尊氏方を鮮明にする筑後入道妙恵がおり、すでに九州における強力な体制が確保されており、まず九州の新田義貞与党を平定して後顧の憂いを絶つことが鎮西下向の大きな理由と思われる。
また、続いて赤松円心は、
「先四国へは細川の一家下向あるへし、中国摂津播磨両国をは円心ふまゆへきなり、鎮西の事は太宰筑後入道妙恵(太宰少弐貞経入道)か子三郎、将監弐人今に供奉す、先達而妙恵へ御教書給間、定て忠節を致すへし、大友左近将監が去七月京都にて親光か為に討死にす、家督千代松丸は幼稚の間、一族家人数百人当陳陣に祗候す、中国四国九州の軍勢を相随て、季月の内には御帰洛何の疑ひかあらん、先摩耶城の麓に御座あるへし」(『梅松論』)
と、鎮西に移るにあたっては、諸国に警衛の大将を配置すべきことを提案し、赤松円心の拠点の一つである摩耶城の麓(神戸市灘区城ノ下通)に陣を移すよう要請している。尊氏はこの赤松入道円心の意見を容れ、夜中に瀬川陣を退いて12日早朝卯刻に兵庫に入った(『梅松論』)。しかし、左馬頭直義は摩耶山麓に戻り、「いかにも都にむかひて命を捨べき御所存」であったため、尊氏が説得してようやく兵庫島に戻ったという(『梅松論』)。ただし『梅松論』に尊氏が摩耶山麓に陣を移す時間的余裕も記録もないにもかかわらず、直義は摩耶山麓に陣を「戻」したとあり、『梅松論』の矛盾がうかがえる。察するに赤松の進言は瀬川陣以前のもので、尊氏の陣所は瀬川陣時点で摩耶山麓にあり、記事の錯綜があるのではなかろうか。
12日夜酉刻、尊氏一行は兵庫島の湊を出帆して鎮西へ向かった。このとき、「供奉仕一方の大将共の中に、七八人京都へおもむくあり、降参とそ聞えし、此輩はみな去年関東より今に至まて戦功を致す人々なり、雖然、御方敗北の間、いつしか旗を巻、冑をぬき、笠印を改めける心中共こそ哀なれ」(『梅松論』)と、鎌倉から随従し京都でも戦い続けた足利方の大将軍七八名が御所方へ降伏していったという。この具体的な名は記されていないが、そのうちの一人は長沼判官秀行であった可能性がある。長沼氏は箱根以来一族の小山、結城氏とともに足利方として奮戦し、尊氏の九州下向直前には「淡路国守護」に任じられているが、足利尊氏が九州から再上洛最中の延元元(1337)年4月の「武者所交名」(『建武年間記』)には「長沼判官秀行」が見えるのである。
翌13日寅刻、室津(たつの市御津町室津)に入津した尊氏一行は、ここに一両日逗留し、追い慕ってきた人々も合流を果たした。尊氏らはここで「御合戦の評定区々」しているが、「或人の云、京勢は定て襲来へし、四国、九州に御著あらん以前に御うしろをふせかむ為に、国々に大将をとゝめらるへきか」と申上したという。これはすでに赤松入道円心が尊氏に「潜」に進言していた(『梅松論』)ことであり、尊氏から円心に評定で述べるように要請した可能性もあるか。尊氏はこれを「尤可然」とし、恩賞充行権をも与えた大将軍を中国・四国に配置することとした。
●建武3年2月13日室ノ津評定での諸国大将軍
国 | 大将 | 麾下 | 居城 |
四国 | 細川阿波守和氏(成敗権) 細川源蔵人頼春 細川掃部助師氏 細川兵部少輔顕氏(成敗権) 卿公定禅 三位公皇海 細川帯刀先生直俊 細川大夫判官政氏 細川伊予守繁氏 | 河野一族 | |
播磨国 | 赤松入道円心 | ||
備前国 | 石橋左近将監和義(尾張親衛) | 松田一族 | 三石城 |
備後国 | 今川三郎顕氏 今川四郎貞国 | 鞆、尾道 | |
安芸国 | 桃井修理亮義盛(布河匠作) |
小早川一族 毛利一族 | |
周防国 | 新田大島兵庫頭義政 大内豊前守長弘(守護) | ||
長門国 | 尾張守高経 厚東太郎入道(守護) |
2月13日および14日の「一両日」を室津に過ごした足利勢は15日までには室津を出帆したとみられるが、15日までには鎮西下向の意向を記した院宣が到来している(建武三年二月十五日「足利尊氏書状」『大友文書』)。
2月15日、「細川兵部少輔」「細川阿波守」の両名が「漆原三郎五郎」に対して「阿波国勝浦荘公文職大栗彦太郎跡肆分壱」を勲功賞として宛行っており(建武三年二月十五日「足利尊氏下知状」『染谷文書』)、15日にはすでに各地方大将もそれぞれ行動に移っていたとみられる。また、同日尊氏は「小早川美作四郎左衛門尉殿」に「属桃井修理亮、相談一族、可致軍忠」と記しているように(建武三年二月十五日「足利尊氏軍勢催促状」『小早川文書』)、足利方の御家人層には地方の大将に属して戦う指示を出している。また、細かい指示については直義が担当していたとみられ、2月16日、直義は「阿曾沼二郎殿(阿曾沼親綱)」に「新田義貞与類、於安芸国蜂起云々、相語軍勢可令誅伐」ということと、「且云、路次往反船、且云浦々島々船、可點定之状」と、定期船のみならず浦島に存在する船をすべて確保しておくよう指示している(建武三年二月十六日「足利直義軍勢催促状」『阿曾沼文書』)。
室津を出帆して鞆津(福山市鞆町鞆)へ入津すると、ここに三宝院僧正賢俊が光厳上皇の院使として到着(『梅松論』)。「可誅伐新田義貞与党人等」の院宣が下されたという(建武三年二月十七日「足利尊氏御教書」『三池文書』)。院宣到来の日時は16日までの軍勢催促状などには院宣について記載がないが、17日には院宣が明記されており、2月17日の到来と考えてよいだろう。この院宣により「人々勇あへり、今は朝敵の義あるへからすとて錦の御旗を上へきよし、国々の大将に仰せ遣されける」と、足利方の士気も上がったという。鞆津在陣の時点で次の大きな目標拠点は赤間関と定められており、2月17日、「安芸杢助殿」に対して「相催一族、馳参赤間関」(建武三年二月十七日「足利尊氏御教書」『三池文書』)という文書が送達されている。
2月18日には前日17日の伊予国松崎城(「御所方合田弥四郎貞遠楯籠」)を攻め落とした「河野九郎左衛門尉殿(河野通盛)」に対して「伊予国河野四郎通信跡所領等」を安堵している(建武三年二月十八日「足利尊氏所領安堵状」『稲葉淀文書』)が、尾道とは海路八十キロ余りであることから、翌日の安堵が可能であったのだろう。
2月19日には「尾路泊」に「筑前御家人朝町彦太郎光世」が参着(建武三年二月廿日「朝町光世着到状」『宗像文書』)し、尾道浄土寺領の「備後国因島地頭職」を「淡路守平泰綱(椙原泰綱)」に安堵していることから(建武三年三月七日「椙原泰綱請文」『浄土寺文書』)、鞆津、尾道泊(尾道市久保)で1、2日の逗留があったものと推測される。備後国の足利勢はこの尾道と鞆津を本拠とし、大将軍今川三郎顕氏、四郎貞国が留守を任されている。
その後足利勢は数百艘の船団で西へ向かい、2月20日に長門国赤間関に入津した(『梅松論』)。2月25日、赤間関に「太宰少弐筑後入道妙恵か嫡子頼尚、兄弟一族等五百余騎にて御迎の為に参て、両御所への錦の御直垂」を調進した(『梅松論』)。足利勢は赤間関にはしばらく逗留しており、2月25日には「阿波国麻殖荘西方総領地頭飯尾隼人佑吉連、同舎弟四郎為重等」が着到(建武三年二月廿五日「飯尾吉連等着到状」『古文章』)。2月27日には「肥前国龍造寺孫六入道実善」や「安芸助太郎貞元」ら鎮西武士も参着している。また日付は不明ながら、2月中に「島津式部諸三郎忠能」も赤間関に着到しており、いずれも大友、少弐、島津の催促に応じた人々であると考えられる。
尊氏に応じた鎮西御家人が2月25日以降に赤間関へ続々と着到していることを考えると、彼らには尊氏の赤間関到着の予定期日が伝えられており、書状が御家人の手元に届いて赤間関まで一族を率いて向かう距離を考えると、遅くとも兵庫島に入った2月初旬には軍勢催促状が出されていたことになろう。尊氏が九州へ下ることは正月末には新院光厳上皇に奏せられていたと考えられることから、九州下向から再上洛までの大枠のスケジュールは、尊氏が在京時にすでに固まっていたことがうかがえる。
建武3(1336)年正月30日、御所方は鴨河原内野合戦で足利方を「責付丹州追山」(建武三年二月三日「忽那重清軍忠状」『忽那文書』)して京都から放逐。尊氏は「丹波の篠村に御陣」を移した(『梅松論』)。
足利勢の丹波追い落としとともに、後醍醐天皇は「卅日終に朝敵をおいおとす、やかて其夜還幸し給」(『神皇正統記』)した。御所となったのは「還幸河東慈眼僧正坊」(『建武三年兵乱中記』)の「成就護国院」(『皇年代私記』)と称される前天台座主の住盧であった。そして2月2日、天皇は花山院家定の「花山院亭」を仮皇居として還御した(『園太暦』)。
2月4日には除目が行われ、とくに参議経顕が検非違使別当を止め、参議顕家が新たな検非違使別当に就いているが、実戦経験もない経顕では現実的な兵乱後の治安維持は望めないとの判断から、官途実力ともに兼ね備えた顕家にその任が託されたと思われる。顕家はこの除目に先立ち、鎮守府将軍は「従五位上階為彼相当、而多当国刺史兼之、或為隣州牧宰任之」(『建武記』)と、従五位上を官位相当とする官職であることから、「而今以後、三位以上任此職日、加大字以為永格、凡因時制議者、歴代之規範也」(『建武記』)と、今後は三位以上が鎮守府将軍となった場合には「鎮守大将軍」と称するよう奏上し、認められている。なお、千葉介貞胤は2月18日時点で「修理権大夫」に補任されているが(「伊賀国眼代補任状」『香取文書』)、その補任時期は足利尊氏との戦いを経たのちであったとすれば2月4日の除目が妥当か。また、征夷大将軍号について「上野太守成良親王、令兼之給、建武三年二月被止其号畢」(『職原抄』)とあり、この除目に際して廃止された可能性があろう。また、除目四日後の2月8日時点で「左中将」(建武三年二月八日「新田義貞軍勢催促状」『近江寺文書』)となっていた新田義貞もこのときの除目で左近衛中将となった可能性が高い。
●建武三年二月四日除目(『公卿補任』)
名前 | 官位 | 官職 | 補任 |
北畠顕家 | 従二位 |
参議 右衛門督 右近衛中将【辞?】 陸奥権守 | 鎮守府将軍⇒鎮守大将軍 検非違使別当 |
藤原経顕 | 正三位 |
右兵衛督 太宰大弐 検非違使別当【辞】 | |
【推測】新田義貞? | 従四位上 | 右衛門佐【辞?】 | 左近衛中将 |
【推測】千葉介貞胤? | 不明 | 不明 | 修理権大夫 |
その後、摂津国兵庫島に陣所を築いていた足利尊氏の軍勢を攻めるべく、2月10日に和泉河内両国守護の「楠大夫判官正成」が派遣され合戦となった。さらに続けて新田義貞や別当顕家の軍勢も派遣され、2月11日にも摂津国瀬川河原で合戦し、足利勢を破った。ただし、前述の通り足利勢はすでに九州への下向を計画しており、足利勢の兵庫における八日間の無為の滞陣は、おそらく光厳上皇の院宣を待つためのものであった可能性が高い。しかし、合戦に敗れたために院宣を受けることなく鎮西への船路につき、2月15日(鎮西下向の許可)及び17日(新田義貞与党追伐)に院宣を受け取ったと思われる。
尊氏の追い落としに成功した御所方は「諸将および官軍はかつゝゝかへりまゐりし」(『神皇正統記』)と、京都へ帰還していくが、「東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にかへるべきよしおほせらる」(『神皇正統記』)と、東国の不穏な状勢を抑えるため、憲良親王(義良親王)と北畠顕家の奥州再下向が命じられ、「親王元服し給、直に三品に叙し、陸奥の太守に任じまします、彼国の太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給、勧賞によりて同母の御兄、四品成良のみこをこえ給、顕家卿はわざと賞をば申うけざりける」(『神皇正統記』)と憲良親王の元服及び四品から三品へ昇叙された上、親王任国ではない陸奥国への親王赴任のため、親王を「陸奥太守」とした。顕家は建武2(1335)年当時「陸奥権守」(『尊卑分脈』)に移っており、上洛以前にこの構想ができていたのだろう。
なお、このとき楠木正成は「義貞を誅伐せられて尊氏卿を召かへされて君臣和睦候へかし、御使においてハ正成仕らむ」と奏聞したという。これに諸卿らは「不思議の事を申たり」と嘲笑したという。しかし正成はさらに、「君の先代を亡されしハ併尊氏卿の忠功なり、義貞関東を落す事ハ子細なしといへとも、天下の諸侍悉く以て彼将に属す、其証拠ハ敗軍の武家には元より、在京の輩も扈従して遠行せしめ、君の勝軍をは捨奉る、爰を以徳のなき御事知しめさるへし、倩事の心を案するに、両将西国を打靡して、季月の中に責上り給ふへし、其時は更に禦ぐ戦術のあるへからす、上に千慮有といへとも、武略の道においてハいやしき正成か申す条たかふへからす、只今思召しあはすへし」と落涙して訴えたという(『梅松論』)。
しかし、後醍醐天皇はこれを聴かず、正成を尊氏の討手として尼崎への下向を命じた。正成はこの逗留の間に京都の知己に伝えたところでは「今度ハ君の御戦必破るへし、人の心を以其事を計るに、去元弘の初、潜に勅命を受て、俄に金剛山の城に籠りし時、私の計ひにもてなして、国中を憑みて其功をなしたりき、爰に知りぬ、皆心さしを君に通し奉りしゆへなりと、今度ハ正成、和泉河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族猶以難渋の色有如何に、況や国人土民等に於いてをや、是則天下君を背き奉る事、明らけし、然間、正成存命無益なり、最前に命を落とすべきよし」(『梅松論』)と断言したという。
この頃、在京中の千葉介貞胤は、「伊賀国眼代職」に「右衛門尉貞家」(「伊賀国眼代補任状」『香取文書』)を任じている。貞胤は当時、朝廷官途上の「伊賀守」(伊賀国守護でもあったかもしれないが)であったことがわかり、貞家を目代として在庁官人等の差配を命じている。
●建武3年2月18日「伊賀国目代補任状」(『香取文書』)
2月29日、朝廷は改元定および県召除目を行った(『中院一品記』)。なお、後醍醐天皇が強行したこの改元は評判が悪く、参議源通冬のもとを訪れた堀川大納言具親は「招光吉、暫被談話、今度改元不審、建武不吉何事哉、凶徒雖乱入京都、忽令敗北了、後漢光武時有此号、其間両三年有兵革、然至卅一年不改其号歟」(『中院一品記』)と、具親の不満と存念を「光吉」に述べたことを報告している。また、右大臣公賢も改元に反対しているが、結局改元は強行され、「延元」と改められた。
ところが、2月半ばに九州へ追い落としたはずの足利勢は、3月2日には菊池・阿蘇氏ら「新田左衛門佐義貞与党」を博多津傍の多々良浜に殲滅し、太宰府を占拠。一色右馬助頼行入道、一色式部少輔範氏入道、仁木次郎四郎義長、上野左馬助頼兼、畠山右京亮七郎直顕ら一門の大将軍ならびに嶋津上総介入道、伊東六郎左衛門尉ら有力武士を九州各地に派遣して御所方を攻め、九州御所方の動きを封じこめてしまう。そして尊氏は4月3日に博多を解纜して上洛の途に就き、5月5日には備前国尾道及び鞆津まで進んでいる。
尊氏は京都を追われてわずか3か月余りで九州の「新田右衛門佐義貞与党」を雌伏させて上洛の途についている一方で、尊氏を追捕するべく「筑紫へつかはさ」(『神皇正統記』)れたはずの新田左中将義貞は、「播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて日をおくりし程に、五月にもなりぬ」 と、尊氏が配置した中国、四国地方の各国大将軍に阻まれ、播磨・備前国で「赤松入道」及び「尾張親衛」によって完封され、空しく月日が過ぎて五月になるなど(『神皇正統記』)、まったく進展しなかった。
こうした中、京都では4月に武者所の結番が改められている(『建武年間記』)。その武者所番衆の頭人を見ると、全六番のうち一、二、三、五番の計四番が新田一族で占められており、新田氏は御所方武家の要の地位にあったことは確かである(なお、新田義貞が武者所番衆の頭人だった形跡はない)。また、人々顔ぶれを見るとその武力はかなり大きなものであったことがわかる。九州での御所方大敗と足利勢の東上に対する危機感があらわれているのではなかろうか。
本来の武者所は院御所の警衛を担う役務であったが、建武政権の武者所は、護良親王が「御参内の次を以、武者所に召籠」(『梅松論』)とあるように皇居内に置かれており「内々宿直」(『建武年間記』)、「一夜日無懈怠可令勤仕」(『建武年間記』)とあるように皇居の警衛が主任務であったとみられる。ただ、本来役務である院御所の警固として光厳上皇ら持明院統の上皇を監視した可能性もあろう。武者所番衆の人々は「五位以上可用衣冠」「六位同可為衣冠」と番方出仕日は衣冠の着用、「内々宿直之時、可用布水干葛袴」の着用が指示されるなど実戦にそぐわない服制であり、番衆は皇居内武者所に詰めて待機し、何らかの指示があれば麾下の武者が指令に基づいて実務を行う体制であったのだろう。三番衆に見える「千葉上総介胤重」は、千葉介貞胤の舎兄「胤重五郎」(『神代本千葉系図』)か。
千葉介胤宗―+―千葉胤重
(千葉介) |(五郎)
|
+―千葉介貞胤
(千葉介)
●延元元(1336)年四月武者所結番(『建武年間記』)
番方 | 番衆(赤字は窪所:問注所兼帯)、青字は新田氏、◎は頭人とみられる。 |
一番 (子・午) |
◎新田越後守義顕、新田大蔵大輔貞政、熱田摂津守昌能、長井因幡守貞泰、南部甲斐守時長、 大友式部大夫直世、 長井掃部助貞匡、長沼判官秀行、小山五郎左衛門尉政秀、 楠木帯刀正景(楠木帯刀正季)、三浦弥三郎長泰 |
二番 (丑・未) |
◎新田左馬権頭貞義、宇都宮右馬権頭泰藤、小笠原周防権守頼清、仁科左近大夫盛宗、 高梨左近大夫義繁、 讃岐権守親藤、三浦安芸二郎左衛門尉時継、小早川民部丞頼平、 三浦孫兵衛尉氏明、長江八郎左衛門尉政秀、 三尾寺十郎左衛門尉時勝 |
三番 (寅・申) |
◎新田兵部少輔行義、長井前治部少輔頼秀、千葉上総介胤重、狩野介貞長、伯耆大夫判官義高、 土岐参河権守国行、 豊後権守光顕、狩野遠江権守明光、瀧瀬下野権守宗光、和泉民部丞行持、 町野加賀三郎信栄 |
四番 (卯・酉) |
◎長井大膳権大夫広秀、長井因幡左近大夫将監高広、富部大舎人頭信連、足立安芸前司遠宣、 町野民部大夫信顕、 島津修理亮貞佐、小串下総権守秀信、梶原尾張権守景直、山田蔵人重光、 広沢安芸弾正左衛門尉高実、 庄四郎左衛門尉宗家 |
五番 (辰・戌) |
◎新田式部大夫義治、河内大夫判官正成、隼人正光貞、駿河権守時綱、三河守成藤、 中条因幡左近将監貞茂、 沼浜左衛門蔵人広譽、橘正遠、高田六郎左衛門尉知方、 布志部二郎光清、熊谷二郎兵衛尉直宗 |
六番 (巳・亥) |
◎武田大膳大夫信貞、伯耆守長年、河内左近大夫知行、宇佐美摂津前司貞祐、 武藤備中権守資時、 大見能登守家致、金持大和権守広栄、山田肥前権守俊資、 春日部瀧口左衛門尉重行、本間孫四郎左衛門尉忠秀 |
ただしこの状況に、御所方も決して手を拱いていたわけではなく、3月中旬にはすでに諸国の御所方が京都に軍勢を駐屯させており、ここから京都警衛の人々、上洛を目指す足利方に対応する摂津、丹波方面、北陸の足利勢へ対応する北陸方面、関東・奥州の足利方へ対応する陸奥守顕家の軍勢が分かれていったとみられる。
千葉介貞胤は当時御所方の侍所司であったようで、在京武士の「洛中宿人在所」を取りまとめている(延元元年三月十九日「千葉貞胤代官雅英軍勢宿所注文状断簡」『竹内文平氏所蔵文書』:『南北朝遺文』422)。この貞胤代官の「洛中宿人在所注文」は、嘉元4(1306)年6月12日の『昭慶門院所領目録』の紙背に記録されたものだが、同じく洛中の武家の宿所を記した別の文書も記されている(年月不詳「洛中宿人在所注文状断簡」『竹内文平氏所蔵文書』:『南北朝遺文』192)。
この年月不詳の断簡は建武元年のものとされるが、中に「北畠殿御手五太院縫殿子息」と、北畠顕家の手に属した宮家引付衆の五大院一族(旧得宗御内人系)が見えることから、断簡の時期は、顕家が奥州から上洛した建武2(1335)年12月から再下向する延元元(1336)年3月中旬までの3か月間となろう。ふたつの「洛中宿人在所注文」は同時期のものであると考えられる。さらにこの断簡には延元元(1336)年4月結番の武者所の人々がみられることから、年月不詳分は在京して警衛を担った人々の在所注文であろうか。なお、記載方法が異なるため、この二つは違う人物によって書かれたものである。この「洛中宿人在所注文」に見える「千葉介一族大須賀」とは、時代的に大須賀越後守宗信か?
●延元元(1336)年3月19日「洛中宿人在所注文」(『南北朝遺文』422)
人物 | 寄親 | 宿所 |
長南大進 | ■田美濃守手(堀口貞満) | 家主三位■■■同所東 |
笠原孫六 | ■■■■■■■同所西 | |
海東備後左衛門蔵人 | ■■殿御手 | 家主念西 正親町油小路以東 |
下総四郎 | 阿野兵衛督御手(阿野実廉) | 同所 |
太田掃部助 | ■院左衛門督家手(洞院実世) | |
奥寺左近将監 | 准后御候人(北畠親房入道) | 家主丹波房 高倉西頬 |
庄左衛門尉 | 家主三河前司 高倉以東南頬 | |
高梨源蔵人 | 洞院左衛門督家手(洞院実世) | 家主四郎次郎 正親町南京極以西 |
姫地新兵衛尉 | ■院中将家手(中院定平) | 家主蓮阿 同所 |
伊勢前十禰宜 | 家主藤次郎 土御門南北大宮以東 | |
小井与右衛門入道 | 正親町南南 猪熊 | |
西明房 卿房有賢 |
竹内僧正御房手 | 猪熊南西 |
岩間弥次郎 | ■州国司御手(北畠顕家) | 宿主八郎 |
熊木孫八 | 中院中将家手(中院定平) | 家主五郎 正親町南南油小路西 |
長滝■ | ■院殿手 | 家主紀左衛門尉 同所 |
引地修理亮 | 家主右近将監 同所東頬 | |
福地平三 | ■地修理亮一族 | 同所 |
本間三郎入道 | 家主筑前入道 西洞院西頬 | |
田辺三位房 | 岩蔵宮御手(左中将彦良か) | 家主性心房 |
横山田中左衛門太郎 | 北畠殿手(北畠顕家) | |
三村宮内卿房 | ■主宮御手 | 家主新三郎 土御門町 |
関美濃房 | 近衛殿候人(近衞経忠) | |
甲斐源左衛門尉 | 冷泉大納言家手 | 家主又五郎 土御門町東頬 |
磯谷左衛門入道 | 宮中将家手(左中将宗治か) | 家主太郎 同所 |
若狭左衛門蔵人 | ■条殿手 | 家主四郎 |
加谷掃部助 | 洞院御手(洞院実世) | |
津久毛甲斐太郎 | ■院殿手(洞院実世) | 家主藤兵衛尉 正親町烏丸東頬 |
垣谷周防彦四郎 | 同手(洞院実世) | 家主源三 同所 |
纐纈兵庫頭 | 同手(洞院実世) | |
纐纈掃部助 | 同手(洞院実世) | 土御門烏丸北頬 |
来嶋若左丸 | ■野僧正房手(熊野僧正房?) | 家主藤王 同所南頬 |
但馬権守 | 洞院殿手(洞院実世) | 家主覚阿 同所 |
■進太郎 | ■手(洞院実世) | 家主善得 土御門東洞院北頬 |
白川修理亮 | 北畠殿手(北畠顕家) | |
源田二郎兵衛尉 | ■手(北畠顕家) | 家主又次郎 正親町万里小路東 |
大和前司 | 同手(北畠顕家) | 家主阿子 |
■長谷孫次郎 | ■大納言家手 | 家主卿房 |
吉江兵庫助 | 新田右中将手(新田義貞) | 家主兵衛入道 土御門富小路東頬 |
●「洛中宿人在所注文」(『南北朝遺文』192)
人物 | 寄親 | 宿所 |
滝口左衛門尉 | 蔵人右少弁殿候人 | 一宇 |
掃部助 | 富部大舎人頭手者(富部信連) | 一宇 戒心 |
一宮孫太郎 | 千葉介手者(千葉介貞胤) | 一宇 了善 京極六角以南東頬 |
某 | 楠木判官手者(楠木正成) | 一宇 四条坊門櫛笥以東北頬 |
三河守 | 洞院殿御手人(洞院実世) | 一宇 願心 同猪熊坊門以北東頬 |
波多野彦次郎 | 輔大納言殿御手 | 一宇 同猪熊坊門以北西頬 |
土岐宮内允 | 洞院殿手(洞院実世) | 一宇 同猪熊坊門以北西頬 |
原田彦五郎 | 北畠殿御手(北畠顕家) | 一宇 同猪熊以東北頬 |
刑部左衛門尉 | 伯耆守手者(名和長年) | 一宇 同猪熊以東北頬 |
笠和彦四郎 | 一宇 浄妙 同堀河坊門以北西頬 | |
田中五郎 | 葦名手者 | 一宇 左近三郎 同油小路以東北頬 |
平井四郎 | 宇都宮手者(宇都宮公綱? 泰藤?) | 一宇 左衛門三郎 同油小路以東北頬 |
井二郎(一井二郎) | 新田殿手者(新田義貞) | 一宇 行一 同油小路以東北頬 |
五太院縫殿子息 | 北畠殿御手(北畠顕家) | 一宇 四郎 同西洞院以東北頬 |
三浦安芸二郎左衛門尉(三浦時継) | 一宇 五郎三郎 同西洞院以東北頬 | |
千葉介一族大須賀 | 千葉介(千葉介貞胤) | 一宇 石女 |
しかし、摂津方面へ向かった新田勢ら御所方は中国・四国地方に強力な防衛線を築いていた足利方の軍勢に手も足も出ないまま、尊氏の再上洛の進軍を許しており、新田義貞の征西計画は完全に失敗した。
延元元(1336)年2月29日、足利勢は「赤間の関より又御船をいたさる、内海行程一日、筑紫の筑前の国あしやの津に著給ふ」(『梅松論』)と、赤間関を発して北九州の内海(北九州市八幡西区)を経由し、翌2月30日に芦屋津(遠賀郡遠賀町)に上陸した。尊氏はここから太宰府の筑後入道妙恵と合流するため太宰府へ向かうべく、翌3月1日、太宰少弐頼尚を先陣として宗像大宮司の館を経て博多へと向かった。宗像には尊氏の擁する船団を繋留する津はないことから、尊氏・直義等は芦屋津に船を繋留したまま陸路宗像大宮司の館へ向かったということであろう。上洛のための船は、尊氏が3月12日に「武蔵権守(高師直)」を通じて大隅国の「禰寝郡司殿(禰寝郡司清成)」に「大隅国津々浦々船事、為御上洛之兵船、不謂大小、相副守護人悉點之、継夜於日、可被注申員数、次水手梶取事、厳密可被致被之用意」(『新編禰寝氏世禄正統系図』)を命じているように、諸国御家人に対して用意させたものとみられる。
尊氏の九州下向に伴い、朝廷は「義貞朝臣は筑紫へくだりし」とあるように、新田左中将義貞を九州に下向せしめ、御所方を統帥させて尊氏与党を追討するという腹積もりであったとみられるが、九州御所方の主力である菊池掃部助武敏や阿蘇大宮司惟直には、太宰府の太宰少弐武藤家の前惣領家・筑後入道妙恵一族討伐の綸旨が下されていたのだろう。菊池武敏・阿蘇惟直らは筑後原田党の一流三原一族ら九州御所方とともに、太宰府攻略のために筑後平野を北上した。これを聞いた大友一族の「詫磨七郎之親」は太宰府へ駆けつける途中、2月27日に「筑後国大田寒水(朝倉市中寒水)」で菊池勢と合戦している。この陣所には「武藤刑部房(隆恵)」が同陣しており、宰府の武藤勢も加わっていた(『詫磨文書』)。そして2月28日、29日の両日、「菊池掃部助武敏以下凶徒等、寄来宰府」したため、筑後入道妙恵ら武藤一族は合戦したが敗れ、妙恵は太宰府の館を焼き払って、東の要害「有智山(内山)」へ立て籠った(『詫磨文書』)。有智山には「詫磨七郎之親」「大友詫磨豊前太郎貞政」ら大友一族、「安垣九郎四郎殿」「中村孫四郎入道栄永」(『中村家古文書』)ら筑前武士も加わって激しく戦ったが、ついに力尽き、2月30日明方、妙恵ら「一族家人五百余人一所にて」自害した(『梅松論』)。
3月1日、尊氏等は酉刻に「宗像大宮司か宿所」に到着するが、このとき「妙恵か自害の事、聞召さためられてそ、御歎の色切にみえさせ給」うたという(『梅松論』)。妙恵より尊氏の迎えのために派遣されていた子の頼尚は、尊氏の先陣として「五十町御先に蓑尾浜といふ所に陣を取」っていたが、尊氏は夜に密かに頼尚ひとりを陣所に召して、妙恵一族の自刃を伝えたという。これに頼尚は「先度宰府の戦の事は頼尚以下御迎に参りたりし間、無勢に依て打負候といへとも、父の入道は国の案内者にて候間、一身は定而無為に候歟、明日の合戦には国人等かならす御方へ参へく候、きく地武敏計は頼尚か一力を以て誅伐せん事、案の内にて候」に(『梅松論』)事も無げに言ったという。尊氏は同日「三池木工助入道殿(三池貞鑑)」に「菊池以下凶徒為誅伐、所発向也」(建武三年三月一日「足利尊氏軍勢催促状」『三池文書』)と菊池武敏追討を指示している。
3月1日夜半には「菊池既に宰府を立て押よするよし」の注進が方々から尊氏のもとに届いており、翌3月2日朝方辰の刻、尊氏は宗像を出立して、未刻には香椎宮宝前を通過する。ここで香椎宮神人等が尊氏に香椎宮で「御宝」とされる杉の木の枝を笠印に進呈している(『梅松論』)。
その後、尊氏は香椎宮から南下した「赤坂(多々良二丁目か)」から眼下にひろがる「多々良の浜とて五十町の干潟」を望んだ。ここからは多々良浜の干潟の「南のはつれに小河(宇美川か)」を越え、筥崎八幡宮の「四方一里の松原」を背後にして北上する菊池勢「其勢六万余騎」の大軍が目視できたであろう。尊氏勢は「高越後守師泰并京都より供奉の人々、大友、島津、千葉大隅守、宇都宮弾正少弼、三百余騎にて大手にむかひて控たり、東の手崎には太宰少弐頼尚、五百余騎、皆馬よりをり立て支へたり、都合御勢千騎には過さりけり」と菊池・阿蘇らの御所方と比べるとかなりの寡勢(菊池方の「六万余騎」も相当な誇張であろうが、彼是の兵力差はかなりのものであったのだろう)であった様子がうかがえる。ここで太宰少弐頼尚は、祖先の武藤小次郎資頼が頼朝より拝領したと伝承する家宝「黄縅腹巻におなし毛のつまとりたる袖付(時代的に整合しないので、元寇時の恩賞等の可能性があろう)」を着し「冑の緒をしめて、小長刀をぬき、黒駁なる馬に乗て、只一騎、両大将の御前に参」り、「敵は大勢にて候得共、みな御方に参るへき者ともなり、菊池計は三百騎には過へからす、頼尚御前にて命を拾候ハゝ、敵は風の前の塵たるへし、急御旗を進めらるへし」(『梅松論』)と述べた。
島田景近―+―島田景重――――――近藤国澄――――近藤国平
(駿河権守)|(八郎大夫) (近藤八) (近藤七)
|
+―近藤景頼――+―――――――――――近藤能成
(近藤武者所)| (近藤太)
| ∥―――――大友能直―――大友親秀――大友頼泰――大友親時――大友貞宗
| ∥ (左近将監) (大炊助) (兵庫頭) (因幡守) (近江守)
| +―波多野経家―+―女子
| |(四郎) |
| | +―女子
| | ∥
| | 中原親能==大友能直
| | (斎院次官)(左近将監)
| |
| +―波多野義通―――波多野義常
| |(次郎) (右馬允)
| |
| | 源義朝
| |(左馬頭)
| | ∥―――――――源朝長
| | ∥ (中宮少進)
| +―女子
| ∥―――――――中原久経
| ∥ (典膳大夫)
| 中原某
|
+===武藤頼平==+―武藤資頼――武藤資能―+―武藤経資――武藤盛経――武藤貞経――武藤頼尚
(大蔵丞) |(筑前守) (太宰少弐)|(太宰少弐)(太宰少弐)(太宰少弐)(太宰少弐)
| |
藤原某―――+―藤原頼方 +―武藤景資
(監物) (監物太郎) (三郎左衛門尉)
これを受け、直義は先陣として太宰少弐頼尚や曾我上野介師資、仁木右馬助義長らを率いて多々良が浜へ進出。菊池勢に斬り込んで果敢に責め立て、筥崎八幡宮の松原を追い過ぎて「博多の須浜」まで追い落とした。直義が率いた軍勢は豊前国、豊後国、筑前国、肥前国など北九州の地頭衆が主体であったとみられ、豊前国の「宇津宮大膳殿(宇都宮経景)」(建武三年三月三日「足利尊氏軍勢催促状」『宇都宮家蔵文書』)、「漆島又五郎清幹」(建武三年三月十五日「漆島清幹着到状」『乙咩文書』)、肥前国の「石志五郎入道殿(石志入道良覚)」(建武三年三月三日「足利尊氏軍勢催促状」『石志家文書』)やその子「源三郎満」、「松浦斑島源六渟」(建武三年三月廿六日「松浦渟着到状」『斑島家文書』)、「龍造寺一方地頭左衛門次郎入道善智」(建武三年三月五日「沙弥善智着到状」『龍造寺家文書』)、「後藤五郎次郎貞明(肥前国長島荘中村一分地頭秦氏代)」(建武三年三月六日「後藤貞明着到状」『後藤家文書』)、安芸国の「平賀孫四郎共兼」(建武三年三月八日「平賀共兼着到状」『萩藩閥閲録』)、豊後国の「都甲荘半分地頭四郎惟世」(建武三年三月十日「大神惟世着到状」『都甲家文書』)、「都甲彦四郎惟元」(建武三年三月十二日「大神惟元着到状」『都甲家文書』)、筑前国の「中村孫四郎入道栄永」(建武三年三月十五日「中村入道栄永着到状」『中村家文書』)などがみえる。「大友戸次左近大夫頼尊」は「親類若党手負討死百余人、分取頭五十四」という軍忠を抽んでたという。
菊池勢に従っていただけの「国の勢ともは立も帰らす、ひた引に散り散り」になったが、追い詰められた菊池武敏は今日を限りと取って返し、先陣の直義勢を散々に責めたことで「御方難儀に覚え」て二手に分かれて一旦退き、「下御所少も御驚なくして、御旗をよくさせ」と味方を励ましつつ、後陣に控える尊氏のもとに使者を遣わして「直義は爰にて防戦て御命に替るへし、此隙を以て長門周防にも押わたつて、御身を全して御本意を達せらるへし」と、一旦周防、長門に退き告げたという。
そして菊池勢が筥崎八幡宮の松原の端から小川(須恵川か)を渡らんとするところに、尊氏陣の前方に布陣していたとみられる「千葉大隅守か旗さし只一騎、川をわたされしと打入」ったため、不意を突かれたか菊池勢はいったん防衛体制をとった。これを見た尊氏はすかさず自ら先頭に立って千葉大隅守胤貞の後方から鬨の声を挙げ、手勢を率いて菊池勢に襲いかかった。一方、直義とともに菊池勢と奮戦していた太宰少弐頼尚は、直義に「今こそ大将軍の御むかひ候へ」と尊氏の動きを伝えると、直義は「御太刀をぬき、馬の足を出さむ」と曾我上野介師資、仁木右馬助義長をはじめとする人々も攻めに転じて菊池勢に襲いかかり、さしもの菊池武敏も「菊池武敏并惟直、雖揚旗、或打取之、或没落畢」(『日向記』)と、支えきれずに落ちていった(『梅松論』)。
直義は太宰少弐頼尚らを率い、逃れる菊池勢を追撃しながら、同2日夜亥刻ごろに太宰府に入った。菊池武敏勢は多々良浜の合戦に大敗して潰走したのち、筑後平野を南下して肥後国菊池郡へ遁れるため菊池郡および阿蘇郡の玄関口となる要衝「筑後国黒木(八女市黒木町)」の城を目指したようである(『北肥戦誌』)。一方で、3月2日に「これなをのせん大くしとの」は阿蘇へ逃れる最中に「ひせんの国をきのこほりあめ山といふところにて、はらきり給ふ」(建武五年六月十八日「藤原秀広起請文」『阿蘇文書』)とあり、「阿蘇ノ大宮司ハ兄弟三人、郎従二百人、本国エ志シ、肥前国小城山ヲ越エシ處ニ、千葉大隅守カ所領ノ郷民トモ、雲霞ノ如ク集テ、落人遁サシト取籠ル、阿蘇カ兵、是ヲ防テ、山上ヨリ大石ヲ余多落シ掛、打破テ通ントス、地下人事トモセス、千鳥カケニ石ヲ除、大宮司ト相戦フ、大宮司カ者トモ皆闘ヒ労レテケレハ、百六十余人矢場ニ討レ、大将大宮司八郎惟直、同弟次郎太夫惟成、一所ニ討死ス、其弟惟澄モ二ヶ所疵ヲ蒙リシカ、当ノ敵十四人切臥セ、慕フ者ヲ追ヒ払ヒ、兄ノ死骸ヲ舁セテ、辛々肥後ヘ帰」ったとも(『北肥戦誌』)。
尊氏は多々良浜合戦の翌日、「今月三日御教書」で「新田右衛門佐義貞与党以下誅伐事、所被下院宣也」として「罷向菊池城」(『石志家文書』)を松浦石志入道に命じている。肥後攻めには「一色禅門(一色右馬助頼行入道)、仁木右馬助(仁木義長)」(『梅松論』)を両大将として派遣した(ただし仁木次郎四郎の派遣は4月下旬で、鎮定した菊池与党の蜂起への対処である)。
3月4日午刻、尊氏は太宰府へ入り、翌5日には日向・大隅国の「新田右衛門佐義貞与党」の追伐を企図し、大隅国の「小禰寝郡司一族」に対して「肝付八郎兼重」追討のために大隅国境に進駐し、「可待大将下向」(『新編禰寝氏世禄正統系図』)を命じている。さらに3月10日、「土持新兵衛殿(土持宣栄)」に「伊東藤内左衛門尉祐広并兼重、構城郭云々、令談合伊東六郎左衛門尉并島津荘総政所代、可退治」(『日向記』)と命じている。なお、この大隅国追討の「大将」が誰なのか記載がないが、肝付八郎兼重追討の軍勢催促を「佐伯山城権守殿(佐伯惟賢)」に命じる中に「差遣畠山修理亮七郎」(建武三年三月廿日「足利尊氏軍勢催促状」『鎮西古文書編年録』)、「禰寝郡司一族中」「別所女子代」への軍勢催促状に「差遣嶋津上総入道ゝ鑑」(『新編禰寝氏世禄正統系図』『薩藩旧記』)と見え、畠山修理亮七郎義顕(のち直顕)及び島津上総介入道道鑑が大将軍となる。また、尊氏は3月5日には薩摩国「揖宿一族」に対して「菊池武敏已下凶徒等誅伐事」(『揖宿文書』)を指示しており、薩摩国は肥後国追捕が割り当てられていたことがわかる。
多々良浜から逃れた菊池武敏は、3月8日に「筑後国黒木」の城に入り(『北肥戦誌』)、尊氏は武敏が黒木城に入った報を受けると、「三月十三日」(『北肥戦誌』)に「大将軍上野左馬助殿(上野左馬助頼兼)」を黒木城に派遣し、筑後国御家人「末安又三郎兼親」(『北肥戦誌』)や肥前国御家人「大島小次郎通信」「龍造寺孫六入道実善」「龍造寺左衛門次郎入道善智」らに頼兼に附属するよう命じた。上野頼兼は筑後平野を駆け下り、3月17日に黒木城を責めるが、当時の黒木城は簡易的な防衛施設だったのだろう。当日中に陥落して破却されている(建武三年三月十八日「沙弥実善軍忠状」『龍造寺家文書』)。「菊池防戦叶ヒ難ク、当城ヲ去テ豊後国ヘ引退キ、玖珠ノ城ヘ入」ったという(『北肥戦誌』)。
一方、東側から肥後国を窺う「一色禅門(一色右馬助頼行入道)、仁木右馬助(仁木義長)」(『梅松論』)の両大将は、その途次にあった御所方の「玖珠城(高勝寺之城)」(建武三年三月十三日「足利尊氏軍勢催促状」『野上文書』)を包囲して責め立てた。この城には、故大友貞宗の庶子・大友近江次郎貞順(異母弟千代松丸の惣領職に反発したとみられる)らが籠城しており、『北肥戦誌』によれば17日に筑後黒木城を遁れた菊池掃部助武敏も入っていたという。「豊後国高勝寺之城」は「太宰府大将」の「一色右馬助入道」(建武三年三月十三日「足利尊氏軍勢催促状」『野上文書』)が責め立てているが、「自去三月廿四日迄同十月十三日」の「八ケ月」に及ぶ戦いとなっている(『野上文書』)。「太将軍一色殿」は一勢を率いて肥後国に攻め入っており、3月25日に「八代郡黒鳥城」を落とした(『詫磨文書』)。頼行はその後も肥後国に駐屯して、肥後や筑後を転戦している(『詫磨文書』)。また、「仁木次郎四郎(仁木義長)」も同様に4月20日に「菊池与同凶徒等蜂起」(建武三年四月廿五日「仁木義長施行状」『詫磨文書』)のために筑前三奈木原や筑後国床河へ派兵されており、菊池武敏与党は各地で挙兵を続けるが、5月20日には「武敏以下凶徒等、楯籠菊池大林寺」(『詫磨文書』)と、大林寺に菊池武敏を包囲した様子が見える。おそらく大林寺はその後陥落したものの、菊池武敏はうまく遁れたとみられ、6月2日には「押寄菊池焼払在々所々、同懸入山浦、尋捜凶徒畢」(『詫磨文書』)と、仁木義長勢は菊池郡を占拠して武敏以下の捜索を行っている。
6日、尊氏は宰府政庁に隣接する安養院を詣でて「修妙恵性霊之追善」を行い(『歴代鎮西志』)、みずから諷誦文を認めて安養院に納めている。おそらく有智山で自害した妙恵らの遺骸はこの武藤家所縁の安養院に埋葬されていたのだろう。尊氏は「性霊之菩提料田」として「筑前州小田郷永寄安養院」した。
その後、尊氏は太宰府にしばらく駐屯して戦況を窺いつつも、3月12日には大隅国の「禰寝郡司殿(禰寝郡司清成)」に「大隅国津々浦々船事、為御上洛之兵船、不謂大小、相副守護人悉點之、継夜於日、可被注申員数、次水手梶取事、厳密可被致被之用意」(『新編禰寝氏世禄正統系図』)を命じ、3月20日には肥前武雄の「武尾大宮司殿」に「将軍家御上洛料馬鞍并弓、征矢、楯、歩武者事」が命じられており(武雄大宮司へは尊氏個人の儀仗的な兵装、徒歩の要請であり、各一の提供である)、太宰府を掌中に収めた時点で急ぎ再上洛の体制構築を始めたと考えられよう。その急ぎ方は禰寝一族に対して兵船数を至急注進するよう厳命していることからも伺うことができる。
そして3月23日には安芸国の「長田内藤次郎殿(内藤教泰)」、3月26日には豊前国の「宇都宮因幡権守(宇都宮公景)」に対して「新田右衛門佐義貞与党誅伐事、所被下院宣也、仍今月廿八日可上洛也」と、3月28日に上洛の途に就くことを伝えている。しかし、その後予定が変わり、実際に太宰府を出立したのは「来月三日」(建武三年三月卅日「足利直義軍勢催促状」『吉川家文書』)とあり、4月3日であった。尊氏は上洛するにあたり、九州各地に差し遣わした大将軍たちに各国警固についての御教書を発したと思われ、島津貞久入道には「三月廿九日将軍家御教書」で「大隅薩摩両国警固事」を指示した(建武三年四月十四日「島津貞久施行状」『薩藩旧記』)。また同日、御所方の故阿蘇惟直兄弟に代り、惟直の弟「阿蘇孫熊丸」を新たな「阿蘇社大宮司職」に補し、生還した阿蘇惟澄(惟直の義弟)に対抗させている(建武三年四月三日「高師直施行状」『阿蘇家文書』)。
なお、阿蘇惟直兄弟を討った千葉大隅守胤貞は、この太宰府出立の日に「為現世安穏太平、後生善処」のために、下総国中山の本妙寺(市川市中山の法華経寺)の「中山御本尊十羅刹女御影」に「下総国田地参拾町」を寄進している(建武三年四月三日「千葉胤貞寄進状」『中山法華経寺文書』)。胤貞はこの九か月後に急死するが、この頃から体調に異常をきたしていたのかもしれない。
尊氏が太宰府に滞陣中、播磨国から赤松入道円心が伝えたことによれば「新田金吾大将として、多勢を以て当城にむかひて陣を取、円心か一族其外京都より九州へ参する輩、馳籠間、城の中の勢満足すといへとも、兵粮無用意の間、若御帰洛延引あらは堪忍せしめかたし、御進発を急かるへし」(『梅松論』)という。実際に3月27日時点で「左中将(新田左中将義貞)」は「播磨国一宮」の宍粟郡の伊和神社(宍粟市一宮町)付近まで進出しており(延元元年三月廿七日「新田義貞禁制」『伊和神社文書』)、赤松入道円心と激しくぶつかっていたとみられる。同様に、備前国三石城の備前国大将軍「尾張親衛(石橋左近将監和義)」も「新田脇屋大将として当城にむかふ間、兵粮用意なきよし」を申上したという(『梅松論』)。
4月3日、肥後を転戦している「一色右馬助入道(一色頼行入道)」の兄「宮内少輔太郎入道(一色範氏入道)」を「所在府」(建武三年四月九日「足利直義軍勢催促状」『詫磨文書』)し、「鎮西大将軍一色少輔太郎入道殿」(暦応三年二月「宇佐宮神官大神宇貞訴状」『小山田文書』)と定める。
太宰府を出立した尊氏等は同日中に博多津を解纜し、長門国府中に入った。尊氏等はここで諸国守護や諸大将に上洛についての指示を行っており、長門国大将で一門筆頭たる足利尾張守高経との談合もあったのだろう。筑後黒木城攻めの大将軍上野頼兼も石見国の大将軍として九州から召喚されており、5月10日から11日には「石見国黒谷城山手」(建武三年五月十八日「永富季有軍忠状」『武久文書』)、5月11日には「石見国宇屋賀浜」で合戦(貞和五年正月十八日「上野頼兼注進状」『萩藩閥閲録』)している。
尊氏は長門府中にしばらく駐屯したのち出帆。津々浦々に入津しながら、5月5日、備前国尾道に入った。そして同日、「備前国浄土寺」で歌会が催され、同寺の転法輪観音菩薩へ法楽されている。その後、鞆津に着陣した(『梅松論』)。長門府中での一月近い長滞陣の理由は定かではないが、九州の戦況を窺っていた可能性もあろう。
こうした中で「諸国の御方同心に申けるは、御帰洛いそかるへき趣ともなり、仍御合戦評定まちゝゝなり」と、味方からの矢のような帰洛要請に応じ、進軍についての様々な案について評定が執り行われた。しかし、議論は紛糾し容易に決着することがなかった。そこで太宰少弐頼尚が進み出て、「両将御船にて御進発の儀、更に愚意の及さる處也、天下の是非ハ今度の御手合によるへきか、すてに敵播磨備前両城を圍むよし、其告あり、是等を退治して大半ハ落去あるへきか、然に船軍計にてハ凶徒の退治落去しかたし、幸に両将御座の上ハ、将軍ハ御船、頭殿ハ陸地を御発向有へし、頼尚陸地の先陣を承て、亡父妙恵か遺言に任て、百箇日の追善合戦して、仏事に仕へし、頼尚生前の訴訟たゝ此事なり」(『梅松論』)と述べたことから、尊氏は船での進発、直義は陸路での上洛と一決し、陣容は、尊氏には「執事師直、関東京都より供奉の宿老、両国の輩」が付随し、左馬頭直義には「高越後守師泰、関東京都の供奉の壮士等、ならびに少弐、大友、長門、周防、安芸、備前、備中の御家人等」が属すこととなった。
5月10日、鞆浦を出立した海路の尊氏勢、陸路の直義勢はそれぞれ互いに見える距離で東へ向かった。船手は「四国の細川の人々、土岐伯耆六郎(土岐頼清)、伊予の河野の一族、其外の国人等、数五百余艘、其勢五千余騎」(『梅松論』)といい、5月15日、備前国兒島に入津した。ここは佐々木加地筑前守(加地顕信)の守衛地であり、「渚近く仮御所を造り、御風呂等たて、御休息あり」と、直義の到着を待っている。その二日後の5月17日、備中河原に布陣する直義から「新田江田某大将として馳下て、近日備中の福山に楯籠るの間、今夕手合せしめ、明日払暁に追落し、火をあくへく候」との使者が伝えられ、18日、直義勢は福山を攻め落とし、さらに備前国へと進んだため、備前国三石城の「尾張親衛(石橋左近将監和義)」を包囲していた脇屋右衛門佐義助は兵を引き(『梅松論』)、赤松城の赤松円心と対峙していた左中将義貞も脇屋勢が落ち延びてきたことで、城の囲みを解いて退いた。その後、直義勢は赤松円心と合流して東ヘと進み、播磨国加古川に布陣。船手の尊氏勢も播磨国室泊に入津した(『梅松論』)。
その後、直義率いる陸路勢は進発するも海路勢は風の関係で進発ができず、尊氏は気を揉んだが、5月23日戌刻、雨交じりの西風が吹いたことで「将軍御悦有て仰られけるハ、此風ハ天のあたふる物か、はや纜を解くへし」と進発を命じるも、「海上の事、其道を得す、異見を申難し、大船共の船頭を召れて御尋有へし」(『梅松論』)という意見もあったことから、大船の船頭十余人(御座船串崎の船頭、千葉大隅守か舟をきはしの船頭、大友少弐長門周防の舟の船頭)が召されて話し合われた。彼らはいずれも順風から逆風へ変わると予想したが、「上杉伊豆守の乗船名をは今度船と号す」の船頭孫七のみは、順風が強まると予想。尊氏はこの孫七の意見を採用して出帆し、24日暮に「播磨の大蔵谷の湊」へ無事入港した。
翌5月25日、 播磨国湊川の後ろの山に布陣する「楠大夫判官正成」に対し、陸路は大手大将軍の左馬頭直義(副大将は高越後権守師泰)、山手大将軍は「尾張守殿(足利尾張守高経)」、浜手大将軍は「大宰少弐頼尚」が進行。海路は細川氏の四国船五百艘を本船として湊川、兵庫を越えて東へ走った。これは「敵の跡をふさかん為なり」(『梅松論』)とあるように、御所方の退路を断つためであった。御所方は「播磨海道の須磨口も大勢向ひてささへたり、浜の手ハ和田の御崎の小松原を後にあてゝ、中黒の旗さして一万余騎もあるらんと見えしか、汀に三切に整へたり」と、須磨口には御所方大将軍新田義貞勢一万余騎が布陣していたという。
足利方は巳刻、陸路の三手より同時に攻め寄せて新田勢に打ち懸かった。一方、船手の細川勢は船を生田の森のあたりにつけて上陸。「卿公定禅、弟帯刀先生、古山、杉田、宇佐美、大庭を先として船より馬を追い下して打乗」り、船中の兵士もこれに随って新田勢に懸かり、義貞は打ち負けて戦線を離脱して5月25日中には「新田殿以下、昨日被討漏候人々、芥河河原村輩寄合、三十余人生取」(建武三年五月廿六日「大宰少弐頼尚書状」『深堀系図証文記録』)という惨敗を喫したまま京都へ退却した。新田勢に加わっていた菊池掃部助武敏の弟、菊池七郎武吉は討死を遂げている。
この頃、直義率いる陸路大手軍は兵庫湊川付近で楠木判官正成の軍勢と交戦中であったが、すでに御所方の大将軍義貞は戦線を離脱しており、細川定禅らは逃げる義貞には目もくれず、楠木勢攻めに転じた。そして夕刻申三刻、「正成并弟七郎左衛門尉以下、一所に自害する輩五十余人、討死三百余人、総して浜の手以下、兵庫湊川にて討死する頸の数、七百余人とそ聞えし、是程の戦なれは御方にも打死手負多かりけり」(『梅松論』)という。正成らは「両陣交錯、離合十有六回、正成終入当時之無菴、而昆季列坐自殺、殉死者千人」という(「明極和尚行状」『広厳寺文書』)。この「兵庫湊川合戦」で楠木正成勢の「和泉国岸和田弥五郎治氏」は「楠木一族神宮寺新判官正房并八木弥太郎入道法達」(延元二年三月「岸和田治氏軍忠状」『和田文書』)とともに戦っている。「播磨国広峯社大別当又太郎入道昌俊」は「摂州兵庫浜合戦」で「御敵楠木弥四郎号楠木政成甥」(建武三年七月「広峯社大別当昌俊軍忠状」『広峯文書』)と斬り合い、昌俊入道は甲の左右の吹返を切られたものの弥四郎を討ち取り、左馬頭直義の御感を得ている。
この戦いの顛末は、尊氏が九州で戦う「仁木次郎四郎殿」ら大将軍や国人衆へ送った御教書や、太宰少弐頼尚が送った施行状に「備中国福山、備前三石、播磨国赤松凶徒等、去十八日没落之後、今日廿五日、於兵庫島、楠判官正成及合戦之間、誅伐了」(建武三年五月廿五日「足利尊氏御教書」『深堀系図証文記録』)と記されているが、福山に籠った新田江田氏経(新田大井田氏経)、備前三石を攻めていた脇屋右衛門佐義助、播磨国赤松を攻めていた新田左中将義貞を「凶徒等」でひとまとめに表現しているのに対し、楠木正成は「楠判官正成及合戦」と具体的な名を挙げており、尊氏にとって「兵庫島」(湊川河口付近)合戦は、御所方大将軍の新田義貞との戦いではなく、楠木正成との合戦という印象が強かったことがわかる。新田勢は戦線を離脱すると一路京都へ急行し、同日中には「新田殿以下、昨日被討漏候人々、芥河河原村輩寄合、三十余人生取」(建武三年五月廿六日「大宰少弐頼尚書状」『深堀系図証文記録』)とあり、摂津国芥川の河原村の人々が落ち武者狩りをして三十余人が生け捕られたという。
同25日、御所方は「尊氏以下凶徒、自丹波路可来襲之由有其聞、赤坂越警固事、厳密可致其沙汰」(延元元年五月廿五日「後醍醐天皇綸旨」『神護寺文書』)と、丹波路からの来襲を警戒し、神護寺門徒に対して赤坂越の警固を命じている。丹波国に駐屯していた足利方の将は「仁木兵部大輔頼章、今川駿河守頼貞」(『梅松論』)の両名であった。さらに26日には「自若狭路凶徒等可来襲之由有其聞、鞍馬寺々僧等、可致防御沙汰之由、可被相触者」(延元元年五月廿六日「後醍醐天皇綸旨」『鞍馬寺文書』)と、左中将具光より鞍馬寺の中瑠璃房法印房に若狭路の警衛すべき綸旨が下されている。
延元元(1336)年5月26日、足利勢は兵庫島を出立して西宮に陣を移した。
御所方は、新田義貞の敗軍と楠木正成一統の壊滅という「官軍利なくして都に帰参」(『神皇正統記』)したため、5月27日、後醍醐天皇は花山院御所から近江国東坂本へ行幸した。尊氏の鎌倉からの上洛以来、二度目の避難であった。「因之宮方人々月卿雲客以下、千葉、宇都宮、諸国受領、大将軍者式部卿宮、侍大将者新田左中将、被立皇帝御旗於大嶽、赤地錦以金縷、今上皇帝、自志賀辛崎、陣々非一所」と、御所方は大将軍を式部卿宮恒明親王に定め、侍大将は新田左中将義貞とし、千葉介貞胤や宇都宮公綱ほか諸国受領らがその麾下となって足利方に対抗したという(『歯長寺縁起』)。
翌5月28日にも「伊予国忽那次郎左衛門尉重清」が「吉見参河三郎殿付著到、同廿八日追落洛中」(建武三年七月「忽那重清軍忠状」『忽那文書』)とあるように足利方と御所方は洛中で戦闘しており、天皇行幸後も御所方は洛中に残って抵抗は続いていた。
5月29日、丹波国の足利方「仁木兵部大輔頼章、今川駿河守頼貞」(『梅松論』)の両将が丹波但馬の軍勢を率い、錦の御旗を先立てて入洛を果たし、「五月晦日」に直義が入京した。すでに御所方は西坂本から比叡山へ登っており、比叡山西側の尾根各所に防塁を築き、さらに「大嶽の上に陣を取」って足利方に備えていた。
入洛した直義は東坂本へ侵攻のために「赤山の社」前に布陣し、南の「今路越」には「三井寺法師」のほか、豊後の「詫磨五郎次郎殿(詫磨幸秀)」や「飯尾隼人佑吉連」ら豊後、阿波勢など九州四国勢の一部が配置され、「中大手の雲母坂ハ、細川の人々、四国勢并総軍勢」、北の「横川通り篠嶽」からは「太宰少弐頼尚、九国の輩」を配置。比叡山を押し越えて東坂本を目指し、6月5日に一斉に比叡山を攻め上った。全軍の大将は直義、その麾下には尊氏が派遣したとみられる「執事御方(高武蔵権守師直)」を筆頭に、高新左衛門尉師冬、天野安芸三郎遠政、塩谷四郎、葛山孫六、庄民部房、嶋津兵庫允、三浦佐原六郎、山内又三郎、宍戸四郎らの姿が見える(建武三年七月「天野遠政軍忠状」『天野文書』)。これに対する御所方は、「今路古路」を守衛するのは「千葉介五千余騎」、「大嶽」は「菊池、西国勢」、「新田一族」は東国の軍勢を従えて「至西塔尾張陣」を固め、「宇都宮」は「横川篠々峯」を警衛したという(『歯長寺縁起』)。
大手の雲母坂口は「細川の人々先陣として西坂本より合戦をはじめ、皆歩行にて雲母坂まてそ責付たりし」と、雲母坂を徒歩で攻め登った「細河卿阿闍梨御房(細川定禅)」ら細川兄弟が率いる四国勢は、山腹に布陣して警衛していた御所方の重鎮「千草殿(三位中将忠顕入道)」を討ち取った。四国勢は「御向無動寺越中尾」(建武三年七月「忽那重清軍忠状」『忽那文書』)であり、大手雲母坂口は「発向山門無動寺」(建武三年七月「森本為時軍忠状」『浅草文書』)と、比叡山東塔南東の無動寺攻めが目的の一つであったとみられる。総大将の高武蔵権守師直勢に加わる「平賀孫四郎共兼」は「大和六郎左衛門尉、小早川又次郎」らとともに「責上中尾」して「伯耆守長年一族杵築太郎」を討ち(建武三年七月六日「平賀共兼軍忠状」『萩藩閥閲録』)、長年の「執事内河兵衛三郎入道真信」も6月5日「山門西坂本討死」しており、名和長年勢も「中尾」の防衛に加わっていたことがわかる。
後醍醐天皇は寄手の足利方の後方攪乱のため、攻勢の始まった直後の6月7日に「鞍馬寺衆徒等中」に「凶徒退治事、発向京都可令追伐」(延元元年六月七日「後醍醐天皇綸旨」『鞍馬寺文書』)を命じており、鞍馬寺はこれに応じる旨を注進している。ところが鞍馬寺は一向に動く気配を見せなかったようで、6月19日には「凶徒退治事、度々雖被仰、緩怠之由有其聞、太以不可然」と怒りを見せ、「若猶令遅々者、定有後悔歎旨、厳密被仰下候也」(延元元年六月十九日「後醍醐天皇綸旨」『鞍馬寺文書』)と警告している。鞍馬寺側も足利方の優勢を感じ取り、どっちつかずの対応を見せているとみられる。
雲母坂から攻め上った大将の一人、高新左衛門尉師冬は武蔵国や陸奥国の手勢を率いており、「西尾」から登った奥州勢は、6月5日に「坂中地蔵堂上(修学院牛ケ額)」で御所方と合戦。「御敵返合之處、御方軍勢引退」(建武三年七月「岡本良円軍忠状」『岡本文書』)と敗色の濃い中、鎌倉以来尊氏とともに転戦した石川七郎義光が「五日、山門西坂本合戦、於地蔵堂前戦没」(『石川系図』『石川家文書』)している。この中で「岡本観勝房良円」や「白岩彦四郎、鳥羽左衛門二郎」らは「残留て捨一命防戦、追帰御敵」(建武三年七月「岡本良円軍忠状」『岡本文書』)と御所方を追い返して、6月8日から19日まで地蔵堂を死守した。師冬勢の「武蔵国小代八郎次郎重峯」は7日から20日まで「於中尾致軍忠」(建武三年七月「小代重峯軍忠状」『小代文書』)とあり、武蔵国勢は「中尾」を担当したことがわかる。
大手口の「高豊前守(高豊前権守師久)」を大将とする摂津国、石見国、周防国などの手勢も奮闘し、麾下の「御神本三郎太郎藤原兼継」は、6月8日に「小笠原野三郎、小笠原孫五郎」とともに昼夜に亘って合戦をしている(建武三年七月「御神本兼継軍忠状」『国史考』)。6月11日朝の合戦では「周防国神代彦五郎兼治」は攻め下る御所方に対して「登矢倉終日致合戦」(建武三年七月廿三日「神代兼治軍忠状」『萩藩閥閲録』)といい、足利方の陣所には矢倉が組まれていたことがわかる。その後、比叡山頂まで攻め上った雲母坂の大手軍は「大嶽の上に陣を取」っていた御所勢と合戦した。また、「尾張守殿(尾張権守師泰)」も備後勢らを率いており、大手は高一族の攻勢が中心となっていた。
また、北部の「西塔口」(建武三年八月「田原直貞法師軍忠状」『入江文書』)を経て横川方面を攻め上っていた太宰少弐頼尚率いる九州勢の「貞広号原田豊前守」は、6月5日の合戦で左顔に矢疵を負う奮戦をしている(『大友田原系図』)。6月6日には「豊前蔵人三郎直貞法師法名正曇」が子息二人とともに「馳向西塔口」って合戦。さらに6月13日には「西塔千束峯」で合戦し、18日から20日にかけて攻め上り「於西塔南中尾」で奮戦した(建武三年八月「田原直貞法師軍忠状」『入江文書』)。
南部の近江国滋賀里へ通じる今路越の三井寺法師勢は松明を持って「山門放火の為かとそ覚えし」と攻め上るが、これは味方の足利方にも不評であったようで「浅間し」と記されている(『愚管抄』)。
6月9日、直義は先だって「可馳向東坂本旨」を伝えていた「美濃尾張伊賀伊勢志摩近江国軍勢等」に対し、洛中援兵のため「相分人数、不廻時刻、可催進京都陣」と、人数を分けて京都へ派遣するよう大将の一人「岩松三郎殿(岩松三郎直国。岩松経家弟)」に命じている(建武三年六月九日「足利直義御教書」『正木文書』)。「西坂本合戦最中」のため洛中兵力の減少が懸念されたためか。「佐々木佐渡判官入道并美濃尾張軍勢参著勢多」の軍勢には舟がなく、6月14日、「園城寺衆徒」に「勢多渡舟」の用意を指示し(建武三年六月十四日「足利直義御教書」『園城寺文書』)、「早用意舟、不廻時刻、可渡彼軍勢」と厳命している。しかし、あらかじめ尊氏上洛に合わせて上洛を命じていた「東国御方人々」が「依野臥已下之煩、逗留之由有其聞」(建武三年六月廿六日「足利直義御教書」『小笠原文書』)といい、直義は小笠原貞宗のもとに「佐々木佐渡大夫判官入道所令下向」て、「暫留近江国、且相談子細、且無軍勢煩之様、廻故実之躰、企参洛」を指示している。
東坂本へはおそらく山科経由で「桃井修理亮殿(桃井義盛)、仁木孫太郎殿(仁木義有)」や今川駿河守頼貞が派遣されており、佐々木佐渡大夫判官、広峯又太郎入道昌俊、周防弥四郎、秋元新左衛門尉、目賀田五郎兵衛入道玄向、佐々木加地四郎ら播磨や近江などの軍勢が派遣されており(建武三年七月廿三日「神代兼治軍忠状」『萩藩閥閲録』)、東西から比叡山を攻め立て、後醍醐天皇を迎え奉らんとしたとみられる。尊氏は6月13日には「河野対馬入道殿」に対して「不廻時日、焼払東坂本、令追伐凶徒等」(建武三年六月十三日「足利尊氏御教書」『予章記』)と命じており、東坂本への攻勢を強めている。
しかし、6月20日に東坂本では「桃井修理亮殿、仁木孫太郎殿御陣破而、御敵既廿余町責上」と、東坂本の御所方は無動寺越を攻め上ったことから、山上無動寺付近に布陣していた周防国勢の「神代彦五郎兼治」は一族を率いて馳せ向かい、登ってくる御所方を追落し、「桃井修理亮殿本陣」に合流している(建武三年七月廿三日「神代兼治軍忠状」『萩藩閥閲録』)。しかし、20日の山上での合戦は高師久の一手であったとみられる摂津多田院地頭の多田民部少輔頼氏が「六月廿日、於山門無動寺一城戸」で討死(『多田系図』)するなど、足利方は不利な状況にあったようである。さらに、寄手大将軍の「高豊前守以下数十人、山上にして討死」(『梅松論』)するという大敗を喫し、同日には今路越でも敗れたことで、今路越、雲母坂、横川の三手はいずれも退却して西坂本へ戻った(『梅松論』)。この叡山合戦は、御所方は左中将忠顕入道を喪う大きな損失があったが、足利方の攻勢を阻止することに成功したことになる。一方で、足利方は叡山攻略を果たすことに失敗した上に大きな損害を出し、直義は「赤山の御陣無益なりとて、急御勢洛中に引退し、大将下御所は三条坊門の御所に御坐あり」と、西坂本から撤退して三条坊門邸に入った。かつての足利邸であろう。
兵庫湊川合戦後、足利尊氏は「山崎宝寺(宝積寺)」へ陣所を移し、淀川を挟んだ対岸の八幡山に武田兵庫助信武の守護の兵を派遣。6月1日には武田勢の「三戸孫三郎頼顕」が入っている。上皇及び豊仁親王御迎えの準備であろう。そして二日後の6月3日、「新院、親王、入御八幡、東軍申行之、奉囲繞」(『公卿補任』)と、光厳上皇と豊仁親王の八幡臨幸が行われた。
八幡城を警衛していた「大将武田兵庫助信武」は、6月8日、尊氏の命を受けて「逸見四郎有朝」「三戸孫三郎頼顕」「周防次郎四郎親家」ら安芸国衆を率いて「摂津国水田城(吹田市西の庄町)」に馳せ向かい、9日にかけて責め立てている(建武三年六月廿五日「逸見有朝軍忠状」『小早川家文書』ほか)。武田勢はその後、再び八幡城へ戻ったとみられ、6月14日の尊氏および光厳上皇、豊仁親王の「御上洛」に際して、「三戸孫三郎頼顕」は「長江左衛門二郎、馬越彦四郎」らとともに「為大渡赤井河原、致軍忠」している(建武三年八月十四日「三戸頼顕軍忠状」『毛利家文書』)。そして、14日中には「六条殿(長講堂)」(『皇年代略記』)に入るも、翌15日に「新院、親王入御東寺、東軍同奉仕、年号可復建武云々」(『公卿補任』)とあり、光厳上皇、豊仁親王及び尊氏は東寺へ移っている。六条殿は警衛に不利であり、東寺へと遷ったものと思われる。6月19日および6月30日には「於竹田河原、造路、六条河原等」(延元二年三月「和田治氏軍忠状」『和田文書』)、具体的には御所方の「四條中将家」が19日に「造道、桂川」、30日に「六波羅跡并汁谷以下」に攻め寄せて足利方と合戦となっており(延元元年七月「和佐千鶴丸申状」『上太子文書抄』)、造道、竹田河原には高越後権守師泰(建武三年六月廿一日「諏訪部信恵軍忠状」『三刀屋文書』)、「頼宥(岩松禅師頼宥。経家、直国の兄弟)」、「大将武田兵庫助信武」らが展開しており、西坂本、摂津方面、洛南で再び京都奪還を狙う御所方の攻勢が続いていた様子がうかがえる。
さらに左中将義貞は6月23日、「鞍馬寺衆徒」に対して「尊氏以下凶徒等追罰事、以政泰所触遣也、得其意厳密可被致其沙汰」を命じているが(延元元年六月廿三日「新田義貞書下」『鞍馬寺文書』)、義貞の厳命に応じなかったのか、または鞍馬寺の旗幟が鮮明ではなかったためか、二日後の6月25日には、「明曉為凶徒追罰、所被差遣官軍於京都也、属新中納言手、可被致軍忠者、天気如此」(延元元年六月廿五日「後醍醐天皇綸旨」『鞍馬寺文書』)と、堀川権中納言光継の手に属すよう、具体的な所属まで示した強烈な綸旨を下した。元弘以来、実に三度にわたる後醍醐天皇の叡山逃避行は、京都における御所方の威光を落とし、もともと一筋縄にはいかない鞍馬山衆徒が、侍大将に過ぎない新田義貞の軍令に易々と従う状況にはなかったのだろう。
御所方は比叡山から洛中を窺いつつ、27日に「自山門京都発向、一日合戦、及晩皆帰山」(『歯長寺縁起』)というように、不意に降りては再び山へ戻るゲリラ的戦闘も行っており、27日夜、おそらく帰山の途次に「御敵為夜討、押寄三条坊門京極、懸矢倉火」のため、直義勢の神代彦五郎兼治は「一族相共馳向彼所、打消矢倉火畢」(建武三年七月廿三日「神代兼治軍忠状」『萩藩閥閲録』)し、「小早川平三(小早川経平)」は御所方と合戦して追い返しているように(建武三年七月八日「足利直義御教書」『小早川文書』)、直義本邸の三条坊門邸にも攻め寄せている。
6月30日には洛南でも激しい合戦が起こっているが、払暁には御所方が「義貞大将として大勢内野の細川の人々の陣へ寄来」た(『梅松論』)。これは事実上の東坂本の御所方正規軍の総攻撃であった。当時、御所方の実戦型の大将軍は、二条兵部卿師基、洞院左衛門督実世、四條右衛門督隆資、堀川信濃守光継、新田左中将義貞、名和伯耆守長年程度しか残されていなかったと思われるが、御所方はこのうち新田義貞と名和長年に「数千人」(建武三年七月五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原家文書』)を与えて、足利方の拠点で新院らが御座所とする東寺攻めを敢行させたのだろう。
新田勢は細川勢を打ち破って洛中に攻め入ると、大宮、猪熊の二手(大宮大将軍は新田義貞、猪熊大将軍は名和長年)に分かれて南下し、所々に放火して回っている(『梅松論』)。同日、高尾張権守師直は法成寺河原(上京区宮垣町)に布陣し、近衛大路以北「只須河原(糺河原)」から西坂本にかけての比叡山西麓を警衛し、攻め寄せる御所方を破っている。
また「下御所、大将として三条河原に打立」って南を見ると、すでに敵勢が東寺近くの八条坊門辺まで攻め入っている煙が見えており、麾下からは「将軍御座覚束なしとて御発向あるへきよし」を主張する人々が多くいた。ただ、太宰少弐頼尚が言うには「東寺に勇士多く属し奉る間、縦敵堀鹿垣に付とも何事かあらん、御合力の為なりとも、御馬の鼻を東寺へ向られハ、北に向ふ師直の河原の合戦難義たるへし、是非に付て今日ハ御馬を一足も動かせらるへからす、先頼尚東寺へ参るへし」と、太宰少弐頼尚は一勢を率いて三条大路を西に走った。「太宰少弐頼尚か陣は綾小路大宮の官庁匡遠か宿所にてそありける、頼尚の勢は三条河原に馳集りて、何方にても将軍の命を受てむかふへきよし、兼而約束の間、彼河原に二千騎打立て」て駐屯していたが、頼尚は尊氏からの命を受けていずこなりとも行き向かう予て約定があり、三条河原の警衛に回っていたが、遊軍としての機動性を生かして東寺の救援に馳せ向かったものと思われる。
一方、「敵大宮ハ新田義貞、猪熊ハ伯耆守長年、二手にて八条坊門まて責下」ったところ、これを察した尊氏は「東寺の小門を開ひて、仁木兵部大輔頼章、上杉伊豆守重能以下打て出、責戦」い、新田・名和勢をもと来た道へ押し戻した。そこに「細川の人々、頼尚」が攻め懸り、「洛中の条里を懸きりゝゝ戦」い、「伯耆守長年、三条猪熊に於て、豊前国の住人草野左近将監か為に討取れ」た(『梅松論』)。ただし、「御神本三郎太郎藤原兼継」は「馳参坊門猪熊、対御敵伯耆守長年、致所々合戦、於押小路猪熊、討取伯耆守、三郎右衛門尉長年一族畢」(建武三年七月「御神本兼継軍忠状」『国史考』)とあるように、石見国御家人の御神本兼継が、名和伯耆守長年と一族の名和三郎右衛門を討ったとある。これは「備後国三吉孫三郎以下一族、伴合戦之間、知及之」と証人もあり、名和長年は押小路猪熊(現在の二条城東南隅櫓付近の堀)で討たれたのだろう。
新田義貞は「細川卿公定禅目を懸て、度々相近つき、已に義貞あふなく見えしかとも、一人当千の勇士共折ふさかりて、命にかはり討死」したため、義貞勢は「二三百騎に打なされて長坂に懸りて引」いた。新田義貞が逃れた経路と思われる三条大宮では「大将軍山名伊豆守殿(山名時氏)」が寄せていて、「美作国御家人大葉左近允」を生捕り、「山法師擅光坊三位竪者并同宿卿公」を討ち取って首を挙げている(建武三年七月二日「岡本観勝房良円軍忠状」『岡本文書』)。同じく今川頼貞に従軍している「伊達孫三郎義綱」(建武三年七月「伊達義綱軍忠状」『伊達文書』)も「賀茂河原」に参戦して軍功を挙げている。
また、「畿内の敵、作道より寄せ来りしを、越後守師泰、即時に追散し、大勢討取」り、さらに「宇治よりハ法成寺辺まて責入るたりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを召ぬかれて大将として菅谷辺まて合戦せしめ打散しける」という。ほか「竹田ハ今川駿河守頼貞大将として、丹後但馬の勢馳むかひて追落」した(『梅松論』)。また、八幡山付近を警衛していたと思われる武田勢は御所方を「追払桂河円明寺」と、桂川西岸域まで御所方を追捕している(建武三年八月十六日「周防親家軍忠状」『吉川家文書』)。また、「中御門烏丸」でも直義勢と御所方が合戦し、直義麾下の「岡本観勝房良円」は「池上藤内左衛門尉、結城七郎左衛門尉」らとともに御所方と奮戦している(建武三年七月「岡本良円軍忠状」『岡本文書』)。
この6月30日の大宮猪熊合戦は、足利方優勢を強く印象付ける戦いとなり、足利直義は小笠原貞宗に対し「義貞親類并長年討取了、其外凶徒大略被討罰也」(建武三年七月四日「足利直義御教書」『勝山小笠原家文書』)と述べている。また、尊氏も小笠原貞宗に対して「新田義貞以下凶徒等事、度々合戦、毎度打勝畢、就中去月晦日、寄来之間、伯耆守長年并余党数千人、或討取之、或生取間、山門之軍勢相残之分不幾之上、今朝多以没落、又為降人所参也」(建武三年七月六日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原家文書』)という報告を行っている。そして「爰如風聞者、義貞以下可令没落東国云々、自東国山道令馳参之輩、暫令居住近江国打止山徒往反及兵粮、可打取山門没落軍勢之由、可相触山道海道等勢」(建武三年七月六日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原家文書』)と、義貞以下の人々が東国落ちする風聞があるので、東国や美濃信濃から上洛中の人々については、しばらく近江国に留まり、東国へ遁れんとする御所方や延暦寺衆徒の東下を阻止するよう命じている。
近江国に展開していた小笠原貞宗入道は、7月6日夜には「野路原打捕山徒成願房」し、7月10日には「於鏡宿并伊吹太平寺両所致合戦」して御所方の東国没落を阻止。直義はこれを賞し、さらに「東国軍勢近日可参洛」のため「勢多橋以下及其沙汰、可差遣軍勢」と命じた(建武三年七月十六日「足利直義御教書」『勝山小笠原家文書』)。小笠原貞宗入道は「勢多ちかく臨むところに、山徒等橋を引間、野路辺に陣を取」ったところ、「新田、脇屋、大将として、湖水をわたして散々に合戦」した御所方を打ち破った(『梅松論』)。しかし、東近江の地には要害がないため鏡山に拠ったところ、新田勢が再び攻め寄せたため、これを追い散らしたのち、伊吹山に籠って戦いの子細を京都に注進したという。また、直義は「於近江路者、相副近江伊勢両国輩、於佐々木佐渡判官入道々誉、且対治凶徒、且可警固東近江之由被仰下」と、佐々木道誉には近江と伊勢両国の御家人を副えて東近江の御所方追捕と警衛を指示し、鎮定後は速やかに入洛するよう指示している(建武三年七月十六日「足利直義御教書」『勝山小笠原家文書』)。これに先立ち、尊氏は近江国御家人に対し「近江国静謐事、属佐渡判官入道手、早可令発向」を命じている(建武三年七月八日「足利尊氏軍勢催促状」『田代文書』)。
7月4日には摂津国多田院の足利党・森本左衛門次郎為時らが呉庭の御所方を攻め、6日には尼崎、8日には安満縄手に追捕している(建武三年七月「森本為時軍忠状」『浅草文庫本古文書』)。さらに洛南で攻勢を強めていた「侍所(高尾張権守師泰)」率いる軍勢は9日、「山崎芥河」を出立する師泰から「可罷向山手之由」の指示を直接受けた「諏訪部三郎入道信恵」は、山の上に登ると馳せ下って御所方を蹴散らしたという(建武三年九月「諏訪部入道信恵軍忠状」『三刀屋文書』)。彼らは6月30日の京都合戦で壊走し、八幡の武田兵庫助信武や洛南の高尾張権守師泰、山崎の赤松二郎左衛門尉貞範(延元元年七月「色川盛氏軍忠状」『清水文書』)に追われた御所方の人々であろう。
また、7月15日には「備後国則光西方城郭(中黒城)」に御所方の「小早河七郎、石井源内左衛門入道以下凶徒」が立て籠って挙兵し、「長弥三郎信仲」や「大田佐賀寿丸」、「山内七郎入道観西」ら当国御家人が馳せ向かい、17日夜に攻め落としている。8月晦日にも「竹内弥次郎兼幸、小早河掃部助以下凶徒」が蜂起しこれを鎮定している(建武三年十月十日「長谷部信仲軍忠状」『山内首藤家文書』)。これはかなり大規模に起こった御所方の挙兵のようで、京都の尊氏にも急報されており、7月22日、「小早川平三殿(小早川経平)」に「備後国凶徒等放棄事、可襲向隣国芸州之由有其聞」として、「早々相催在国一族」して合戦に臨むよう命じている(建武三年七月廿二日「足利尊氏御教書」『小早川文書』)。このように、地方にはいまだ御所方勢力が散在し、足利勢と合戦を繰り返していたことがわかる。
7月23日、武田信武勢は醍醐へ馳せ向かい、駐屯していた御所方と合戦して陣を焼き払って殲滅し、同日中に南下して木幡山へ布陣。8月7日には宇治の「岡屋櫃河」の城に立て籠った御所方と戦っている(建武三年八月十四日「三戸頼顕軍忠状」『毛利家文書』)。武田勢の宮荘親家は「岡屋城北木戸」を散々に攻めたのち、「帰本陣致警固」という。武田信武勢の本陣はおそらく八幡山であり、「同十一日、御上洛之時、御共仕令帰洛了」(建武三年八月十六日「宮荘親家軍忠状」『吉川家文書』)とあり、8月11日までは在陣していたと思われる。
建武3(1336)年6月30日の京都合戦の大勝により、形勢は足利方有利の状況となり、持明院統の光厳上皇及び豊仁親王を推戴し、奉戴する皇統も確実に確保し、尊氏は恩賞沙汰や寺社領安堵、寺社に対する兵士たちの禁制を行う余裕を見せ始めている。
ただし、畿内近国にはいまだ御所方勢力が根強く残っており、7月25日、尊氏は一門の「尾張式部大夫殿(足利時家)」を尊氏分国の若狭国守護として派遣。時家は小浜に入部した(『若狭国守護職次第』)。御代官は「氏家藤十郎通継」(『若狭国税所今富名領主代々次第』)。氏家家は足利尾張家の執事家であり、氏家一族は足利尾張家(斯波家、大崎家、最上家等)の執事家として各地に発展する。足利尾張式部大夫時家は「若州大将軍」と称され(建武三年八月五日「佐々木義信軍忠状」『朽木文書』)、若狭国の政務治安維持を行った。若狭国は旧得宗分国で得宗家の旧臣らも雌伏していたであろうことから、京都から丹波路を経て近江国へ進出する要衝であるとともに、御所方となり得る先代勢を封じ込めるべく、一門筆頭足利尾張家の時家を派遣して制圧し、比叡山周辺への圧力としたのであろう。
8月1日、「大塔若宮(大塔宮護良親王遺児、のちの興良親王とされる)」が比叡山から「八幡山」に移り、「和泉国岸和田弥五郎治氏」が御供して「連日令祗候」という(延元二年三月「和田治氏軍忠状」『和田文書』)。ただし、7月下旬から8月11日にかけて八幡山は武田信武勢が本陣として警固していることから、この「八幡山」は後述の通り、石清水八幡宮寺ではなく、岸和田治氏の本拠である岸和田の八幡山(春木八幡山)であろう。摂津国南部から和泉国、河内国、紀伊国にかけては御所方勢力が強く、楠木一族等も盤踞していて足利方の勢力が十分及んでいない国であり、「大塔若宮」が岸和田治氏に伴われてこの地へ下ったのも、大塔若宮と河内楠木党による元弘三年の再現を目指したものと考えられよう。
後醍醐天皇―――護良親王
(大塔宮)
∥――――――興良親王
∥ (若宮)
北畠師重――+―女子
(春宮大夫) |
|
+―北畠親房―――北畠顕家
(准后) (権中納言)
8月11日、武田兵庫助信武麾下の宮荘周防次郎四郎親家は「同十一日、御上洛之時、御共仕令帰洛了」(建武三年八月十六日「宮荘親家軍忠状」『吉川家文書』)とあり、武田勢は八幡山を発って上洛の途についている。この上洛は8月15日の豊仁親王践祚に伴うもので、東寺御所の尊氏に合流したと思われる。
後伏見天皇―+―光厳天皇
(胤仁) |(量仁)
|
+―光明天皇
(豊仁)
践祚の儀は「豊仁親王為院御猶子元服、次院宣押被行践祚、雑兵乱中雖黙止、足利前宰相尊氏申行之」(『続史愚抄』)とあるように、尊氏の奏請により行われている。8月15日、豊仁親王は「当日自東寺先幸泉殿被擬仙洞、密々御元服」とあるように、「東寺」から光厳上皇の御所に擬された「於押小路烏丸故左大臣第(権大納言良基卿押小路烏丸邸)」(『公卿補任』)の「押小路第、以泉屋」「泉殿」に移って「加冠左大臣(近衞経忠)」で御元服。その後「寝殿」に移って「践祚」した。光明天皇である。上卿は「左大臣藤原朝臣(近衞経忠)」が務めている(「洞院家記」『践祚部類抄』)。これにより、東坂本の日吉社に遁れていた後醍醐天皇は「旧主」と定められ、廃位された。
践祚後、近衞経忠は「氏長者」「依新帝詔為関白」となり、除目が行われた。この除目では尊氏や直義の還任については記載はないが、年月不明で「尊氏卿参議左兵衛督也、直義為左馬頭」(『建武三年以来記』)とあり、尊氏は参議、左兵衛督に任官し、直義も左馬頭任官が認められる。11月25日には尊氏は権大納言となって参議が停止していることから、尊氏の参議任官はこの8月15日除目が妥当か。また、御所方公卿の解官も行われておらず(辞任した人物はいた)、形式上は一連の乱はあくまでも「新田義貞以下凶徒」の叛乱であり、彼らによって連れ去られた「旧主」は戻らないことから「新主」践祚を奏請したため、旧主派の公卿についても罰する理由はないということか。
●建武三年八月十五日除目(『公卿補任』『師守記』)
名前 | 官位 | 見任 | 補任(止) |
近衞経忠 | 従一位 | 左大臣 | 関白、氏長者 |
中院通冬 | 正三位 | 左中将・美作権守 | (止)左中将・美作権守 |
日野資明 | 正三位 | 散位 | 参議(還任) |
中御門宗兼 | 従四位上 | 右近衛中将・侍従 | (止)右近衛中将・参議 |
吉田為治 | 従四位下 | 権左少弁 | 右中弁 |
その後、8月17日には「新主(光明天皇)」及び光厳上皇は押小路烏丸邸から「東寺御所」へ還御しており、いまだ西坂本付近の治安が安定していない中で、上京地区の御所洛中への行幸は憚られたか。
建武3(1336)年8月、洛中で践祚の儀が行われている最中においても「南方の敵とも、宇治八幡辺まて充満して寄来るへきよし京都の風聞毎日なり」(『梅松論』)という。この軍勢には「和泉国岸和田弥五郎治氏」が加わっていることから(延元二年三月「岸和田治氏軍忠状」『和田文書』)、摂南、和泉、河内国を根拠とする「大塔若宮」を奉じた御所方の軍勢であろう。この洛南の御所方には「八幡路大将両人鑑巌僧都、越後松寿丸」が見えるが(建武三年八月廿五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)、「鑑巌僧都」は鎌倉評定衆「摂津刑部大輔入道(摂津親鑑入道)」の子で元享2(1322)年11月4日まで鶴岡千南坊供僧であり(『鶴岡八幡宮寺供僧次第』)、「越後松寿丸」は最後の北方探題で番場で自害した越後守仲時の子「松寿後号左馬助友時」(『諸家系図纂』)の可能性が高く、「大塔若宮」の父・兵部卿護良親王と先代勢力の結びつきがいまだ強く残っていたことがうかがえる。なお「鑑巌僧都」の叔父である摂津右近大夫将監親秀は尊氏麾下の奉行人として活躍している。
尊氏は8月20日頃、この「宇治の敵はらふへし」と「細川の人々大将として、河野対馬入道、同一族二千余まて向」ったが、細川勢が敗れて引き上げた隙を突き、御所方は宇治の防衛線を突破して「木幡稲荷山を経て、今比叡の上阿弥陀がみねに陣を取」った(『梅松論』)。一方、8月23日の「賀茂糺河原」の合戦では、西坂本の新田義貞勢が洛中侵攻を企てたが、吉田河原周辺に堅陣を張る高師直勢に撃退され、延暦寺衆徒もまた多く討たれたという(『梅松論』)。
一方、阿弥陀峯の御所方と足利方の合戦は、23日の「新日吉致合戦」(「高橋茂宗軍忠状」『多田院文書』)など足利方の攻勢にも拘わらず容易に落ちる様子がなかったため、24日夜、東寺で合戦評定が行われている(『梅松論』)。この軍議では細川帯刀先生直俊の献策が採用され、侍所の高越後権守師泰らが中心となって25日、「大塔若宮」勢力の後詰である淀・竹田方面を攻めた。そして「八幡路大将両人鑑巌僧都、越後松寿丸」(建武三年八月廿五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)を打ち破って彼らを「被生捕之所被誅」という。「鑑厳法印」は6月30日合戦で名和長年とともに誅されたとあるが(『常楽記』)、実際は生存していて八幡路大将軍となっていた。また「越後松寿丸」については、暦応2(1339)年2月に「自伊豆仁科城凶徒卅七人、目代具参、此内十三人者、於龍口被切了、大将普薗寺左馬助」(『鶴岡社務記録』)とあることから、生き延びていたことがわかる(北畠親房入道の東国下向に従って難破した際に、伊豆西岸にたどり着いた可能性が高い)。そして同日、尊氏は東近江に駐屯していた「小笠原信乃守殿(貞宗入道)」に対して、「義貞已下輩没落山門之上者、急渡世田橋、可発向東坂本」と、後醍醐先帝の御座所である東坂本(日吉社)を攻め落とすことを指示している。
細川一族は宇治で敗れたものの、北上する御所方を追撃して「木幡稲荷山阿弥陀峯等、追堕数箇所之陣々」(建武三年九月「田代市若丸軍忠状」『田代文書』)するとともに「搦手山科」からも攻めたて(「高橋茂宗軍忠状」『多田院文書』)、阿弥陀峯から御所方を追い落とした(『梅松論』)。阿弥陀峯西側の「於祇園門前御敵行合、致散々戦」い(「高橋茂宗軍忠状」『多田院文書』)、山科でも「至四宮川原追懸御敵候」(建武三年九月「田代市若丸軍忠状」『田代文書』)していることから、御所方は阿弥陀峯から東西に分かれて逃れたことがわかる。この御所方の陣に加わっていた岸和田治氏は「八月廿五日、於木幡山阿弥陀峯」で足利方と合戦したのち、「九月一日」には「大塔若宮」とともに和泉国へ入ったものと思われる。
阿弥陀峯から和泉国に帰還した岸和田治氏は、9月1日、和泉国に駐屯していた「足利一族阿房次郎国清」と合戦して敗北し、岸和田に隣接する「八木城」へ撤退している。おそらく岸和田の八幡山(春木八幡山)に拠る「大塔若宮」とともに遁れたのであろう。なお、「八木」は治氏が湊川の戦で楠木勢の一員としてともに戦った「八木弥太郎入道法達」(延元二年三月「和田治氏軍忠状」『和田文書』)の名字地である。しかし、岸和田治氏は畠山安房次郎国清の「猛勢」により「御方軍勢各雖退散仕」と大敗を喫して「楯籠八木城、構要害」たが、9月7日には「国清已下逆類等、率大勢寄来」ると、摂南の天王寺から「中院右少将家并楠木一族橋本九郎左衛門尉正茂已下」が援兵に駆けつけて畠山勢を押し返し、畠山国清は「裔原城」まで遁れ、その後追い落とされたという(延元二年三月「和田治氏軍忠状」『和田文書』)。9月17日に国清が「新田義貞并正成与党之輩誅伐事」を和泉国の御家人「日根野左衛門入道殿」に命じているが(建武三年九月十七日「畠山国清施行状」『日根野文書』)、和泉兵乱が「大塔若宮」を奉じた楠木一党の挙兵であり、その危険性から尊氏は国清に強く追討を指示したものと考えられる。
続けて尊氏は9月26日、「天王寺凶徒等誅伐」のため、大規模な軍事行動を起こす(建武三年九月廿六日「足利直義御教書」『等持院文書』)。一門重鎮の「宮内大輔(吉良貞家)」も大将軍の一人として出兵したとみられ、そのほか細川兵部少輔顕氏ら細川一族も馳せ向かった。また、9月29日に「山城已下凶徒等退治」のために「令発向八幡路」(建武三年九月廿九日「武田信武施行状」『萩藩閥閲録』)した武田信武勢も10月2日には天王寺に向かっている。天王寺は足利方の攻勢により陥落したとみられ、武田信武勢は10月12日まで「天王寺致警固」という(建武四年四月十三日「三戸頼顕軍忠状」『毛利家文書』)。
建武3(1336)年8月25日、尊氏は近江国駐屯中の小笠原貞宗入道に、南の瀬田から東坂本攻めを命じているが、丹波国から若狭国を経由して北から侵入した佐々木入道道誉も北から東坂本を窺っており、すでにして東坂本は足利方によって包囲される形となっていた。千葉介貞胤はおそらく宇都宮公綱とともに御所方の武力の要として東坂本付近を警衛し、足利方の攻勢に備えていたと思われる。
このような状況下で、おそらく9月初旬には尊氏と後醍醐先帝による「御和談」が話し合われはじめたと思われる。東坂本の御所方は「朝敵追討事、四方官軍等不一揆、或先駆而失其利、或城守而似怠慢」(延元元年九月十八日「後醍醐天皇綸旨」『阿蘇文書略』)とあるようにすでに疲弊しており、足利方も連戦に次ぐ連戦で厭戦気分が漂っていたのではあろう。後醍醐先帝は「御和談」による事実上の「降伏」前に、後年の反攻に備えていくつかの布石を打ったが、その一つが「無品親王為征西大将軍」を九州に派遣するもの(延元元年九月十八日「後醍醐天皇綸旨」『阿蘇文書略』)であった。「無品親王(懐良親王)」には「勘解由次官(五条頼元)」が付属され、東坂本から密かに四国へ派遣されたようである。経由地は和泉河内とみられ、12月30日までに「已御下著讃州候」と讃岐国に渡り、その後は「則可有御渡海予州候、且鎮西御船付以下之事、急可被召進、故実之仁於奥州之由、征西将軍令旨所候」(延元元年十二月卅日「懐良親王令旨」『阿蘇文書』)と阿蘇大宮司(惟澄を指すか)に命じている。取り急ぎ征西将軍宮に供奉した「三条侍従殿」「三条少将家」が「薩州御大将」として薩摩国に派遣され、建武4(1337)年3月17日に「御下向」して綸旨を齎している(延元三年二月五日「揖宿入道成栄軍忠状」『揖宿文書』)。一旦は足利方が大勢を占めていた鎮西の様相は、建武4年以降、征西将軍宮のもと吉野方の勢力が息を吹き返すこととなる。なお、三条泰季は『尊卑分脈』に名の見えない人物であり、血縁については「三条少将はいかなる人にてありしにや、家系ハさたかならされとも、去年征西将軍宮の供奉して西国まて下りし人」(『征西将軍宮譜』)とあり、不明であるが、吉野方へ加わった三条家の人物は「前大納言実数」のみ見えることから(『尊卑分脈』)、三条実数の子かもしれない。懐良親王はまず「此少将を伊予あたりよりまつ肥後に差遣ハされたるなるへし、此時宮中将も此少将ともに肥後にさしつかはされ、少将ハ南郡、中将ハ北郡へとわかれて越されし」と、懐良親王に先行して肥後国へ派遣されたという。年齢は「少将ハ公家の人といひ、いまた年少なり」といい、まだ若年の人だったことがわかる。
そして10月初旬、御所方と足利方との間で和睦交渉がまとまり、後醍醐先帝は東坂本より帰洛の途に就き、「十月十日の比にや、山門より還幸、いとあさましかりし事ともなり」(『神皇正統記』)と京都に帰還し、花山院邸に入御した。『梅松論』によればこの「御和睦」と洛中還御は「建武三年十一月廿二日」とあるが、実際は10月10日の事である。なお、この前日の「十月九日、東宮并尊良親王、義貞等、趣越前国」(『元弘日記裏書』)、「猶行末をおほしめす道ありしにこそ、東宮ハ北国に行啓あり、左衛門督実世卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめとし、さるへき兵もあまたつかうまつりたり」(『神皇正統記』)とあるように、東宮恒良親王、一宮尊良親王、左衛門督実世ら公卿衆、左中将義貞らを密かに越前国へ落としている。千葉介貞胤も「新田義貞朝臣奉取春宮、率千葉以下軍勢、自叡山落北国」(『建武三年以来記』)とある通り、義貞とともに越前へと下向している。この恒良親王・尊良親王の越前行には「武家千葉介御共、長年之一党雖御共、自西坂本馬踏捨、不知行方、今者無一身置所」(『歯長寺縁起』)と、千葉介貞胤が付き従っているが、故名和長年の一党は身の置き所もなく、西坂本から忽然と姿を消してしまったという。
この「東宮(恒良親王)」については、「新田左中将義貞、賜神璽、宝剣、内子所、春宮為大将、相具数万騎軍兵、北国下向、越前金崎為内裏」(『歯長寺縁起』)とあるように、後醍醐帝から新田義貞に三種の神器が託され、越前金崎を「内裏」と定めたという。これは、後醍醐帝が恒良親王に譲位した上で越前へ下したことを意味する。11月12日の時点で「左中将(新田義貞)」は「結城上野入道館」に対し「高氏直義以下逆徒追討事、先度被下綸旨了、去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也、相催一族、不廻時刻馳参、可令誅伐彼輩、於恩賞者、可依請者、 天気如此、悉之以状」(延元元年十一月十二日「恒良親王綸旨写」『白河結城文書』)といい、恒良親王は正しく三種の神器を継承した天皇となっていたことがわかる(『源平盛衰記』にも伝わる通り神器の実見不可は凡下にまで広く知られた常識であり、当然真偽を比較する術は存在せず、尊氏に引き渡されたであろう神器を後醍醐先帝が偽物と主張すれば、尊氏がそれを否定することはできない)。「右衛門督(右衛門督隆資は翌年2月9日には吉野にいたとみられることから(延元二年二月九日「後醍醐上皇院宣」『白河文書』)、左衛門督実世だろう)」も新田義貞奉書の綸旨に同日付副状(延元元年十一月十二日「綸旨副状」『白河結城文書』)を付けていることから、同時代成立の『歯長寺縁起』に伝える事実との同一性を考えれば、後醍醐天皇は新帝に洞院左衛門督実世ら主要な公卿衆を付け、新田左中将義貞には千葉介貞胤ら大名衆を伴わせ、新帝を全面的に託して下向を命じた可能性が高いことがわかる。『太平記』では後醍醐天皇が義貞に相談なく還幸しようとし、堀口貞満が抗議した姿が描かれているが、明らかな創作であろう。
後醍醐先帝は「御和談」の条件として先代同様の両統迭立の復活(後醍醐先帝は当然皇統を返す考えはなく、尊氏もそれを承知の上での約定であろう)を称して「以先帝皇子成良親王為皇太子」(『皇年代略記』)を認めさせたのだろう。足利方は三種の神器の引き渡しが提案されたと考えられる。そして、後醍醐先帝の帰洛に従わず「没落北国」した東宮恒良親王は、先帝還御即日に東宮を廃され、同時に春宮坊及び東宮職も停止された。
●建武三年十月十日除目(『公卿補任』『東宮坊官補任』)
名前 | 官位 | 見任 | 停止 |
洞院公賢 | 従一位 | 右大臣 | (止)東宮傅 |
鷹司師平 | 正二位 | 権大納言 | (止)春宮大夫 |
西園寺公重 | 従二位 | 左兵衛督 | (止)春宮権大夫 |
中御門宣明 | 正五位上 |
蔵人 右中弁 | (止)春宮亮 |
甘露寺藤長 | 正五位下 |
蔵人 右少弁 | (止)春宮大進 |
藤原国俊 | 正五位上 | 右少弁 | (止)春宮権大進 |
また、摂南、和泉、河内、紀伊国には「大塔若宮(興良親王)」を奉じる楠木一党などが勢力を維持していたが、前述の通り密かに越前国に新帝(恒良親王)及び中務卿尊良親王(元弘の乱では九州で実戦経験を持つ皇子)を奉じる新田義貞、九州には「無品親王征西大将軍(懐良親王)」を派遣しており、後醍醐先帝は反攻の余地を密かに残した上で戦略的「御和談」を行ったのである。
二条為世―+―――――――――藤原為子 +―尊良親王【越前国】
(権大納言)| ∥ |(中務卿)
| ∥ |
| ∥――――――+―尊澄法親王
| ∥ (天台座主)
| ∥ 源資子
| ∥(三位)
| ∥ ∥――――――護良親王――――――興良親王【和泉・河内国】
| ∥ ∥ (兵部卿) (大塔若宮)
| ∥ ∥
| 後醍醐天皇 +―恒良親王【越前国】
| ∥ ∥ |(春宮)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥――――+―成良親王
| ∥ ∥ |(征夷大将軍)
| ∥ ∥ |
| ∥ 阿野廉子 +―憲良親王【陸奥国】
| ∥(内侍) (陸奥太守)
| ∥
| ∥――――――――懐良親王【九州】
| ∥ (征西将軍宮)
+―藤原為道――――藤原藤子
(左近衛中将) (三位局)
建武3(1336)年10月9日、「東宮并尊良親王、義貞等、趣越前国」(『元弘日記裏書』)、「猶行末をおほしめす道ありしにこそ、東宮ハ北国に行啓あり、左衛門督実世卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめとし、さるへき兵もあまたつかうまつりたり」(『神皇正統記』)とあるように、東宮恒良親王、中務卿尊良親王、左衛門督実世ら公卿衆、左中将義貞らを密かに越前国へ落とした。千葉介貞胤も「新田義貞朝臣奉取春宮、率千葉以下軍勢、自叡山落北国」(『建武三年以来記』)という。しかも「新田左中将義貞、賜神璽、宝剣、内子所、春宮為大将、相具数万騎軍兵、北国下向、越前金崎為内裏」(『歯長寺縁起』)とあるように、後醍醐帝から新田義貞に三種の神器が託されていたという。事実、前述の通り、越前国の恒良親王は「臨幸越前国鶴賀津」して「綸旨」を下している通り、天皇として振る舞っている。後醍醐先帝は「御和談」の条件であったとみられる三種の神器の引き渡しについて、真の神器は恒良親王への譲位の際に彼に附させて北陸へ避難させ、足利方へ引き渡す贋物を拵えて交渉事に用いたのではなかろうか(前述の通り、神器の実検は不可能であり、後醍醐先帝が真と言えば真なのである)。
京都においては11月2日、「自花山院、内侍所、剣璽、渡御東寺」(『勘例雑々』)とあり、おそらく「御和談」の条件のひとつであった三種の神器の引き渡しが行われた。これに伴い、後醍醐先帝には「被奉太上天皇尊号」(『皇年代略記』)された。これについて北畠親房入道は「御心をやすめ奉んためにや」(『神皇正統記』)と推測している。
11月7日、尊氏は『建武式目』政道十七か条を定めた。尊氏は以前から「真恵」「是円俗名道昭」の兄弟ら八名の儒者や政務官僚らに今後の政務体系についての諮問を行っており、この日、諮問に対する答申がなされている。諮問人衆はいずれも代々儒家の南家藤原藤範卿を筆頭に、雑訴決断所所衆を中心とする故事、裁判実務、人事に明るい人々が抜擢されている。
●建武三年十一月七日「建武式目」(『建武式目』)
諮問人衆 | 前民部卿(非参議藤範):南家藤原氏 是円(是円房道昭):雑所決断所二番所衆 真恵(是円房舎弟):雑所決断所五番所衆 玄恵法師(叡山上三綱):清中両家之儒、伝師説而候于侍読歟 大宰少弐(太宰少弐頼尚):太宰少弐 明石民部大夫(明石民部大夫行連):雑所決断所八番所衆 大田七郎左衛門尉(太田七郎左衛門尉顕連):問注所太田氏、美作七郎左衛門尉 布施彦三郎入道(布施彦三郎入道道乗):雑所決断所二番所衆 |
諮問 | 答申 |
鎌倉如元可為柳営歟、 可為他所否事 |
就中、鎌倉郡者、文治右幕下始構武館、承久義時朝臣并呑天下、 於武家者尤可謂吉土哉、但諸人若欲遷移者、可従衆人之情歟 |
政道事 |
先逐武家全盛之跡、尤可被施善政哉、然者、宿老評定衆公人等済々焉、 於訪故実者、可有何不足哉、古典曰、徳是政々在安民云々、 早休万人愁之儀、速可有御沙汰乎、其最要、 |
一、可被行倹約事 | |
一、可被制群飲佚遊事 | |
一、可被鎮狼藉事 | |
一、可被止私邸點定事 | |
一、京中空地、可被返本主事 | |
一、可被興行無尽銭土倉事 | |
一、諸国守護人、殊可被択政務器用事 | |
一、可被止権貴并女性禅律僧口入事 | |
一、可被誡公人緩怠并可有精撰事 | |
一、固可被止賄賂事 | |
一、殿中付内外、可被返諸方進物事 | |
一、可被選近習者事 | |
一、可専礼節事 | |
一、有廉義名誉者、殊可被優勝事 | |
一、可被聞食貧弱輩訴訟事 | |
一、寺社訴訟、依事可有用捨事 | |
一、可被定御沙汰式日時刻事 |
いずれも「武家全盛」の頃の「尤可被施善政」がその理想となり、「徳是政々在安民」を目的として十七か条が答申されている。また、尊氏は本拠となる「柳営」を元のように鎌倉とすべきか他所とすべきか問うているが、これは元弘以来尊氏が武家の最高位として存在し、そのカリスマ性と卓越した指揮能力により、事実上の「鎌倉殿」として、武家の棟梁たる地位を継承する立場となっていたことを意味しているのだろう。
そして11月14日、朝廷は「成良親王を東宮にすへ奉」った(『神皇正統記』)。成良親王はかつて直義が鎌倉に奉じ、奥州の弟宮(憲良親王)ならびに陸奥守顕家との協同で奥羽関東を鎮撫した皇子であった。中先代の乱の勃発により、叔父の阿野公廉の護衛のもと帰京して以来在京し、征夷大将軍にも任じられている。彼の立坊は「御和談」の条件であったと思われるが、「御子成良親王ハ、本ヨリ尊氏養ヒ進セタリケレハ、東宮ニ奉立ケリ」(『保暦間記』)とも見えるように、尊氏が成良親王の立坊を認めたのは事実こうした経歴が関係しているのかもしれない(当時在京の後醍醐先帝の皇子は成良親王のみであったか)。そして同日、東宮職及び春宮坊が定められた。
建武三年十一月十四日除目(『公卿補任』『東宮坊官補任』)
名前 | 官位 | 見任 | 補任(兼) | 備考 |
一条経通 | 正二位 | 内大臣 | 東宮傅 | 正室藤原綸子(洞院公賢女)は成良母の藤原廉子の養妹(廉子養父が公賢) |
冷泉公泰 | 正二位 | 権大納言 | 春宮大夫 | 洞院公賢の子。成良母の藤原廉子の養弟。 |
徳大寺公清 | 従二位 | 権中納言 | 春宮権大夫 | 正室洞院公賢女は成良母の藤原廉子の養姉妹 |
甘露寺藤長 | 従四位下 | 右中弁 | 春宮亮 | 前坊恒良親王の春宮大進 |
久我通相 | 従四位上 | 左近衛権中将 | 春宮権亮 | 太政大臣長通嫡子。のち太政大臣 |
続けて11月25日の「東寺御所被小除目」(『師守記』)で、左兵衛督尊氏は権大納言に任じられ、朝廷運営の要を握っている。その後の尊氏の立場は軍事指揮官というよりも所領や貢済関係に重点を置いた「統治者」へと移行し、、建武元年より惣領家「執事」となった高武蔵権守師直が施行であった(『武家年代記』)。一方で軍事指揮官としては弟の左馬頭直義が諸国武士や御家人を統率し、その麾下には高越後権守師泰や細川兵部少輔顕氏らがみられる。
●建武三年十一月廿五日除目(『公卿補任』)
名前 | 官位 | 見任 | 補任(止) |
足利尊氏 | 従二位 | (前参議) | 権大納言 参議 |
花山院長定 | 従二位 | 権中納言 | 兼 左兵衛督 |
四条隆蔭 | 従三位 | 非参議 | 参議 |
三条公秀 | 正二位 | (前権大納言) | 太宰権帥 |
押小路惟継 | 正二位 |
(前権中納言) 太宰権帥 文章博士 | (止)太宰権帥 |
菅原在登 | 正三位 |
非参議 勘解由長官 筑前権守 | (止)勘解由長官 |
資継王 | 正三位 |
神祇伯 非参議 | (止)神祇伯 |
ただし、尊氏は建武4(1337)年12月9日当時「将軍家政所」を開いており(建武四年十二月九日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)、「将軍家」と称されていたことがわかる。この「将軍家」はまだ補任されていない征夷大将軍ではなく「鎮守府将軍」であろう。こうした尊氏による運営政権が着実に構築されている最中、11月29日に尊氏の先陣として度々果敢な戦いを行った千葉大隅守胤貞が「住三河死、四十九」した(『松羅館本千葉系図』)。
建武3(1336)年12月10日、「自東寺行幸内大臣一條第、内侍所同渡御」(『勘例雑々』)した。後醍醐上皇の花山院邸への還御及び新田義貞の北陸没落を受けて、主上の洛中還御に舵を切ったか。ただし、洛南及び和泉、河内、紀伊方面に大きな懸念があるため、静謐となった北部へと皇居を移した可能性が高いだろう。新たに皇居となったのは「一条室町内大臣第」(『皇代略記』)であるが、ここが選ばれたのは、光厳上皇が「還幸持明院殿」(『皇代略記』)の近隣地であり、防衛のしやすさが考えられた結果だろう。
ところがこのような中、12月21日夜、花山院の後醍醐上皇が忽然と「先帝御幸他所、不知御座所」(建武三年十二月廿二日「足利直義御教書」『保田文書』)のため、発覚した翌日22日、直義は「所奉尋方々」している。「今度ハいつくの国へ御幸あらんずらんなど沙汰ありし時分、潜に花山院殿を御出有」(『梅松論』)て、「乗輿潜出洛、幸吉野」(『元弘日記裏書』)と、大和国吉野へと逐電したのであった。この出洛吉野行幸には「帝従楠一類」(『如是院年代記』)、「同十二月に忍て都を出ましまして、河内国に正成といひしか一族等をめしくして芳野にいらせ給ひぬ」(『神皇正統記』)と、楠木一族の手引きがあった様子がうかがえる。これは、上皇が「主上出御京都、幸河内東條(富田林市龍泉)」(延元二年正月一日「北畠親房入道御教書」『結城家文書』)と見えるように、楠木氏の本拠地に行幸していることからも事実と思われる。
そのほか「顕家卿舎弟顕信朝臣、伊勢ノ国ニテ義兵ヲ挙げ、内々申通スル事有テ、秘ニ先帝都ヲ出サセ給」(『保暦間記』)と北畠親房入道の動きもみられる。後醍醐上皇は「有子細出京之處、直義等令申沙汰之趣、旁本意相違、如当時者、為国家愈無其益之間、猶為達本意、出洛中移住和州吉野郡」(延元元年十二月廿五日「後醍醐天皇宸簡」『白河結城文書』)といい、何かの「子細」があって出京したところ、「直義等」が「沙汰」したが、その趣旨は自分の「本意相違」であり、まったく国家のためにならないことであるから、「為達本意」に大和国吉野へ移ったと陸奥国府の北畠顕家に述べている。再度の行幸(流刑)の噂を警戒して楠木一族や伊勢北畠亜相と連携のもと京都を脱出したのが真相であろうが、出奔せざるを得なくなった責任は直義にあると主張する。上皇は「主上出御京都、幸河内東條、即又復御吉野」(延元二年正月一日「北畠親房入道御教書」『結城家文書』)とあり、さらに「廃帝御坐河内国之間、凶徒可令内通于紀州之由、有其聞、早属畠山次郎、不日馳向、且構要、害、差塞道々、且可誅伐凶徒之状如件」(建武四年正月二日「足利直義書下状」『志富田文書』)と、楠木一党が河内国から紀伊国へ手引きしたことがわかる。ただし、もともと上皇は「新院欲有入御当山之處、衆徒依支申、無其儀之由注進」(建武四年正月四日「足利直義書状」『宝簡集』)とあるように、高野山入りを目指したものの、衆徒等の反対により入山できなかった様子が見られる。
12月25日当時、上皇は「移住和州吉野郡」(延元元年十二月廿五日「後醍醐天皇宸簡」『白河結城文書』)しており、陸奥国府の北畠顕家に「御勅使江戸修理亮忠重」を遣わして、「相催諸国、重所挙義兵也、速率官軍、可令発向京都、武蔵相模以下東国士卒、若有不応勅命者、厳密可加治罰者也、併相憑輔翼之力、雖廻権■之謀、速成干戈之功者、国家大幸、文武徳善、何事如之哉、大納言入道居住勢州、定委仰遣之歟、坂東諸国悉令帰伏之様、以仁義之道、可施徳化也、道忠以下、各可励忠節之旨、別可被仰含者也」(延元元年十二月廿五日「後醍醐天皇宸簡」『白河結城文書』)と、ただちに奥州から上洛すべきことを命じている。
上皇に近侍する北畠親房入道は、延元2(1337)年正月1日、奥州結城宗広入道の援軍を依頼する「此使節自吉野被差遣」(延元二年正月一日「北畠親房入道御教書」『結城家文書』)からの書状の中で、「為被果御願」に「可幸勢州之由被仰候」という上皇の仰せがあったため、まず「愚身於勢州廻逆徒静謐之計、可待申臨幸候」と、まず親房入道自身が伊勢国に向かい、足利方勢力を殲滅し臨幸を待つこととなった旨を伝えている。これを踏まえて正月4日、親房入道は被官「源親直(近江権守親直)」を通じて「潮田刑部左衛門尉殿(潮田幹景)」(延元二年正月四日「北畠親房御教書」『潮田氏文書』)に、正月18日には「大杉軍勢中」(延元二年正月十八日「北畠親房御教書」『津田文書』)に「為追討朝敵、一族相共可馳参」ことを命じている。当然この他の伊勢国住人に対しても軍勢催促が行われていたであろう。これは北畠親房入道が伊勢国守護と定められたが故か。当時の親房は「北畠入道一品家」と称されており、従一位(『公卿補任』では元徳二年九月十七日出家当時が正二位大納言であり、その後に叙されたもの)となっていたことがわかる。
一方で、足利方は上皇逐電の一報により「洛中の騒動申ハかりなし、此上ハ京中より御敵出へしとて、急東寺へ警固を遣されける間、諸人冑の緒をしめて、将軍の御前へはせさんした」(『梅松論』)という騒動となっていたが、尊氏は「少しも御驚き有御気色もなくして、宗徒の人々に御対面」して、「此度、君花山院に御座の故に、警固申事其期なきに依て、以の外武家の煩なり、先代の沙汰のことく遠国に遷奉らはおそれ有へき間、迷惑の處に今御出ハ太儀の中の吉事也、定て潜に畿内の中に御座有へき歟、御進退を叡慮に任せられて、自然と落居せは、しかるへき事也、運ハ天道の定むる所也、浅智の強弱によるへからす」(『梅松論』)と述べたという。
吉野には「吉野御所」(『中院一品記』)という「行宮をつくりてわたらせ給、神璽も御身にしたかへ給けり、誠に奇特の事にこそ侍り」(『神皇正統記』)というように、北畠親房入道は後醍醐上皇が持つはずのない「神璽」を身につけていたことを聞き不思議な事と述べているが、11月2日に光明天皇に引き渡された三種の神器は「自花山院、内侍所、剣璽、渡御東寺」(『勘例雑々』)とあり、三種揃っていたことが確認できる。後醍醐上皇から引き渡されたものは形式を整えた偽物であった可能性は否定できず、真物は宝剣、賢所については越前国へ伝えられ、神璽のみは後醍醐上皇が持っていた可能性があろう(『保暦間記』では「三種ノ神器ヲ奉具、吉野山ヘ入せ給ふ」とあるが、親房入道の聞書に信を置くべきか)。
また、12月中の日時不明ながら、御所方の人々の解官が行われている。除目が行われた時期は不明ながら、おそらく後醍醐上皇の花山院邸出奔に伴う解官であろう。
●建武三年十二月解官(『公卿補任』)
名前 | 官位 | 解官 | 在所 |
四条隆資 | 正二位 |
権中納言 右衛門督 | 紀伊国?(『太平記』)。ただし紀伊国での活動は見られない。 |
洞院実世 | 正二位 |
権中納言 大学頭 左衛門督 尾張守 | 越前国 |
北畠顕家 | 従二位 |
権中納言 鎮守大将軍か | 陸奥国 |
堀川光継 | 従二位 |
権中納言 信濃守 | 河内国東条(『太平記』) |
直義は吉野から「南都警固事、被差遣左衛門佐畢」といい、正月頃、奈良に南都大将軍として、一門の重鎮・石橋左衛門佐和義を派遣(建武四年二月廿五日「足利直義軍勢催促状」『朝山文書』)。正月18日には「惣領大友」ら大友一族が南都に従軍している(建武四年七月「狭間入道正供軍忠状」『大友文書』)。
吉野からは越後国への橋頭保を再構築すべく、延元2(1337)年2月、「足利尊氏并直義以下凶徒等為追伐」のために「式部卿親王家御息明光宮、御下国」させたという(延元二年二月「大炊助盛継奉書」『上杉文書』)。亀山院皇子の式部卿宮恒明親王の御子(のちの常磐井宮全仁親王カ)である。「村山一族」に「当国沼河可馳参」ることを命じている。不利な状況に追い込まれていた越前国敦賀の支援的な意味合いもあろう。
3月2日、吉野方は「河州古市郡、構要害」たが、ここに足利方の「丹下三郎入道西念已下凶徒等」が大軍を率いて攻め寄せた。岸和田弥五郎治氏は吉野方の「大将軍(当国守護代大塚掃部助惟正か)」のもと「野中寺前(羽曳野市)」に馳せ向かい、「逆徒等追籠丹下城、焼払在家畢」(延元二年三月「岸和田治氏軍忠状」『和田文書』)と、「丹下城(河内大塚山古墳)」に追い込めたという。そして3月10日には、「細川兵部少輔、同帯刀先生等為大将軍」として古市を流れる石川の「坪井河原(羽曳野市壷井)」(建武四年九月「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)に攻め寄せたため、岸和田治氏は「当国守護代大塚掃部助惟正并平石源次郎、八木弥太郎入道法達已下」とともに「野中寺東」に馳せ向かって破り、「追懸藤井寺西並岡村北面」に合戦。細川勢が二手に分かれて攻め寄せた際には「於藤井寺前大路」の合戦で「細川帯刀先生討死」と足利方大将軍の一人を討つも、合戦は敗北して「退散」している(延元二年三月「岸和田治氏軍忠状」『和田文書』)。その後も延元2(1336)年7月以降の和泉国、河内国から天王寺、八幡、山崎洞峠などでの吉野方は、和泉国守護代の大塚掃部助惟正を筆頭に、和田左兵衛尉正興、橋本九郎左衛門尉正義、佐備三郎左衛門尉正忠、上郷弥次郎俊康、上神六郎兵衛尉範秀、大塚新左衛門尉正連、八木弥太郎入道法達ら楠木一党が吉野方の主力となって足利方の大将軍細川兵部少輔顕氏や畠山上野左近大夫将監国清らと縦横に戦いを繰り広げている(延元三年十月「高木遠盛軍忠状」、延元二年十一月「和田大輔房定智軍忠状」『和田文書』)。しかし、延元3(1337)年10月18日には細川兵部少輔顕氏の手勢により楠木党の本拠である河内国東条への侵攻を許し、翌19日には「楠木赤坂」が攻め落とされている(建武四年十一月四日「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)。
建武3(1336)年10月9日、後醍醐先帝は「東宮并尊良親王、義貞等、趣越前国」(『元弘日記裏書』)、「猶行末をおほしめす道ありしにこそ、東宮ハ北国に行啓あり、左衛門督実世卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめとし、さるへき兵もあまたつかうまつりたり」(『神皇正統記』)とあるように、東宮恒良親王、中務卿尊良親王、左衛門督実世ら公卿衆、左中将義貞らを密かに東坂本から越前国へ派遣した。千葉介貞胤も「新田義貞朝臣奉取春宮、率千葉以下軍勢、自叡山落北国」(『建武三年以来記』)という。
このとき「新田左中将義貞、賜神璽、宝剣、内子所、春宮為大将、相具数万騎軍兵、北国下向、越前金崎為内裏」(『歯長寺縁起』)とあるように、後醍醐先帝は新田義貞に三種の神器を託し、東宮恒良親王を大将としたという。実際に恒良親王は「高氏直義以下逆徒追討事、先度被下綸旨了、去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也、相催一族、不廻時刻馳参、可令誅伐彼輩、於恩賞者、可依請者、 天気如此、悉之以状」(延元元年十一月十二日「恒良親王綸旨写」『白河結城文書』)と、尊氏・直義追討の「綸旨」を下し、敦賀津に「臨幸」したとあるように、正統な天皇として振舞っているのである。この根拠は「三種の神器」を継承したという事以外考えられず、先帝は恒良親王に正式に譲位し、洞院左衛門督実世(恒良義叔父)ら主要公卿、新田勢、名和勢(ただし途中で離脱)、千葉介貞胤といった東坂本の主力を事実上越前国へ移し、御所方の温存を図ったものと思われる。そしてこれは名分上は、足利方が主敵と主張し続けた「新田右衛門佐義貞等凶徒」は先帝を解放し、東宮恒良親王を連れて逃亡したということになったのではなかろうか。
洞院公賢―+―洞院実世
(太政大臣)|(左衛門督)
|
+=藤原廉子 +―恒良親王
(三位) |(東宮)
∥ |
∥――――――+―成良親王
後醍醐天皇 |(上野太守)
|
+―憲良親王(義良親王)
(陸奥太守)
恒良親王、新田義貞等が東坂本から落ちた10月9日当時、東坂本の琵琶湖沿岸には足利勢が南北に布陣しており、多くの御所勢が琵琶湖沿いに動くことは考えにくい。とくに10月9日は先帝還御前日であり、当然合戦は行われていなかったであろう。「新田足利ノ戦、堅田ニ新田殿タマラス、真野ノフケノ下ノ海道ニテ軍ナラス、今堅田ノキ、海津ヘアカリ、ツルカヘノタキマフ、足利殿、堅田船八艘ニテ、カイツヘ追懸給ニ、八艘ノ名センアシキトテ、サゝ船一ソウ、サゝノハニテツクリ、九艘ト号シテオシカケラル」(『本福寺跡書』)との史料も残るが、越前へ向かった御所方は親王二人、左衛門督実世、左近衛中将義貞、千葉介貞胤や名和義高等多くの軍勢が動いており、沿岸を進めば必ず合戦が起こることは予想され、おそらく恒良親王一行は、日吉社から横川までは叡山中を行軍して横川から堅田へ下り、夜陰に乗じて堅田から船で「海津(高島市マキノ町)」まで水行し、海津から敦賀への官道が走る「荒茅」へ向かったのではなかろうか。なお、恒良親王一行は「荒茅の中山にて大雪に逢て、軍勢とも寒の為に死す」(『梅松論』)というが、鎌倉初期と比較して平均気温が5℃程低下していた当時(石谷完二氏他「鹿児島県における感染症の流行と気候変動の影響について」『鹿児島県環境保健センター所報 第16号』所収)、旧暦十月上旬(新暦十一月上旬)でも行軍が困難になるほどの大雪が降った可能性は十分考えられる。
なお、千葉介貞胤は「木芽峠」で猛烈な吹雪に遭遇し、足利方の越前国守護職・足利尾張守高経に取り囲まれて降伏したという(『太平記』)。ところが、貞胤は実際は後醍醐上皇が吉野に入っていることが確実な12月25日頃にも吉野方として活動しており(ただし貞胤の在所は不明)、上皇が吉野に入ったことが記されている「勅書并綸旨回状」を陸奥国の北畠顕家に回送している(延元二年正月廿五日「北畠顕家書状写」『楓軒文書纂九十所収白河証古文書』)。翌延元2(1337)年正月25日、顕家は「千葉との」へ返書を認め、「当国擾乱之間、令対治彼余賊、忽可企参洛候、去比新田方申送候間、先達致用意、于今延引失本意候」と、以前「新田方」には足利方を追罰して上洛する旨を伝えてその準備をしていたものの、今において延引する結果を歎き、上洛は難しい状況を伝えている。ただし、その後の千葉介貞胤の動向は不明であり、『太平記』に見られるように、貞胤は風雪の中で進退窮まり「木芽峠」で足利方に降伏したのかもしれない。子の氏胤が建武4(1337)年に京都で生まれた(『本土寺過去帳』より逆算)とみられることから、貞胤は建武4(1337)年早々には上洛していたのだろう。「木芽峠」が敦賀と越前国府(尾張守高経はここに駐屯していたか)の中間に位置し、敦賀を逃れた義貞が駐屯したとされる「杣山城」にほど近いことから、翌建武4(1337)年3月の金崎城陥落後、杣山城へ向かう最中に、越前国府から南下してきた足利尾張守高経の軍勢に降伏したのではなかろうか。
一方、先帝後醍醐は、恒良親王や新田義貞を東坂本から越前国へ遁れさせた翌10月10日、東坂本から洛中花山院御所に還御し、おそらく「御和談」の条件であったと思われる先帝保持の「三種の神器(真物は神璽以外は越前国へ遷っていたと思われる)」御譲の準備が進められたのだろう。
尊氏は後醍醐還御から二日後の10月12日、「新田右衛門佐義貞没洛北国之間、可誅伐之由」を記した御教書を信濃国「守護代小笠原余次兼経、舎弟与三経義」に下した(守護貞宗入道は近江国出兵中)。このタイムラグは足利方が義貞等の足取りを把握するための時間であったと思われ、10月17日には足利直義が越後国御家人の「三浦和田四郎殿(和田茂実)」に「新田義貞以下凶徒等落散候處、趣北国云々、早馳向要害、可有誅伐」(建武三年十月十七日「足利直義御教書」『三浦文書』)を命じた。
足利尊氏からの御教書を受けた信濃守護代小笠原兼経・経義兄弟は、ただちに国内の武士等に軍勢催促し、11月中(11月1日頃)には「府中并仁科、千国口」に発向している(建武三年十一月「市河親宗着到状」「市河親宗軍忠状」『市河文書』)。信濃国守護代兼経はその大将軍を「信州惣大将軍村上源蔵人殿(村上信貞)」と定めて「為越後国凶徒対治」を行った。信濃国御家人の「市河孫十郎親宗」は守護代兼経のもとに着到したのち、11月3日までに「村上源蔵人殿」に属して「被追落守護目代并凶徒等」し、「村上源蔵人殿」に「同道参洛」している(建武四年三月「市河経助軍忠状」『市河文書』)。なお、村上源蔵人信貞は翌建武4(1337)年3月までの間に「村上河内守信貞」(建武四年三月「市河経助軍忠状」『市河文書』)とあるように河内守に任じられている。
そして翌建武4(1337)年正月1日、「為新田義貞誅伐」のため「高越後守殿(高越後権守師泰)」が大将軍となった大掛かりな追討軍が京都を進発した(建武四年三月「市河経助軍忠状」『市河文書』)。「信州惣大将軍村上源蔵人殿(村上信貞)」も師泰勢に属し、信濃国から従軍の「市河左衛門十郎経助」も「村上河内守発向金崎城」している。
そして、正月18日には師泰勢が金崎城に攻め寄せ、麾下の村上信貞勢や島津孫三郎左衛門尉頼久勢等が「押寄彼城大手脇堀際、終(日)合戦」(『薩藩旧記』)している。2月12日には「自城内凶徒等打出時致散々戦」い(建武四年三月「市河親宗軍忠状」『市河文書』)、2月16日には金崎城に攻め寄せるが、「新田、脇屋、苽生以下凶徒」「新田、脇屋、苽生左衛門尉等」(建武四年三月「市河経助軍忠状」『市河文書』)が金崎城の後詰として寄せ来たため、村上信貞が手勢を二手に分け、市河経助は「村上四郎蔵人房義」の手に属して「登向山上」り、「悉追返凶徒等」した(建武四年三月「市河経助軍忠状」『市河文書』)。
3月2日には「大手木戸口」で合戦が行われ、「仁木伊賀守(仁木頼章)」は「久下弥五郎殿(久下重基)」の塀際での戦功を賞した(建武四年三月五日「仁木頼章直書」『久下文書』)。翌3日夜もまた大手での戦いが行われ、5日夜には「諏訪部三郎入道信恵」が「片山孫三郎、中澤神四郎等」とともに「大手矢倉下、終夜致合戦」し「攻入城内」(建武四年三月「諏訪部入道信恵軍忠状」『三刀屋文書』)し、「島津三郎左衛門尉頼久」の手に属する「莫弥次郎太郎入道円也」らが「打入城内、致散々太刀打、切臥御敵一人畢」(『薩藩旧記』)など攻勢を続け、3月6日未明には「責入城内、令誅伐凶徒等畢」(建武四年三月「市河親宗軍忠状」『市河文書』)、「自大手責入城内、及至極合戦」して「焼払対治」(建武四年三月「小見経胤軍忠状」『市河文書』)し、村上信貞勢は占拠した金崎城の「大手一木戸口警固」(建武四年三月「市河親宗軍忠状」『市河文書』)している。
金崎城は西面を海が洗う難攻の要害であったが、足利方に取り囲まれて補給がままならず「兵粮尽て後ハ、馬を害して食とし、廿日あまり堪忍しけるとそ承る、生なから鬼類のみとなりける」(『梅松論』)という状況に置かれており、3月6日、金崎城はついに「没落」した(『梅松論』)。「新田、脇屋」らは城を出て戦っていたためか「先立って囲みを出」て遁れていたが、「子息越後守自害しけれは、一宮も御自害あり、春宮をハ、武士むかへとり奉りて洛中へ入進せけり」(『梅松論』)といい、一宮尊良親王、新田越後守義興ら主だった人々は自刃を遂げ、春宮恒良親王(新帝)は捕らわれの身となり京都へ戻された。この金崎城合戦では義貞腹心の一族「貞政一井孫三郎、従五上、民部権大輔」とその子「政家左将監、従五下」の討死が伝わるように(『尊卑分脈』)、「新田一族十余人、都合百余人被切懸云々」(『鶴岡社務記録』)と伝わる。越前国守護は足利尾張守高経であるが『太平記』以外に活躍は伝わっていないが、左馬頭直義は、6月13日に「興福寺雑掌興賀申、越前国木田庄事」につき、「当庄庄官以下百姓等」が先例に背く課役を行ったという主張が事実であれば「停止非分沙汰、可全寺用」とすべきことを「右馬頭殿(足利高経)」に命じており(建武四年六月十三日「足利直義御教書」『前田家所蔵文書』)、高経は越前国守護として検注を行う権限を得ていたことがわかる。
翌3月7日、尊氏は「島津上総入道殿」や「沙弥(一色範氏入道)」ら鎮西守護家や大将軍らに「越前国金崎城凶徒事、今月六日卯時、義貞已下、悉加誅伐、焼払城郭了」(『薩摩文書』『龍造寺文書』他)の御教書を伝え、管国の「地頭御家人等」にこの旨を伝えるよう命じている。当時、吉野方は征西将軍宮の懐良親王が大将軍として派遣され(伊予に駐屯)、肥後国には先行して南郡に「三条侍従泰季」(延文二年五月「禰寝清増軍忠状」『薩藩旧記』)、北郡に「宮中将(三位左中将宗治か)」(『征西将軍宮譜』)が遣わされ、3月17日には三条侍従泰季がおそらく肥後南郡から薩摩国に下着して綸旨を伝えているように、吉野方の鎮西方面への注力が見られる。こうした流れに対し、新田義貞没落を伝えることで鎮西足利勢の士気を上げる狙いもあったろう。なお、10月には豊前国に「新田禅師并大友式部大輔(大友貞世)」が宇佐郡に展開するなど(建武四年十月廿一日「丹波有世軍忠状」『西行雑録』)、新田一族の鎮西出現が見られる。3月の越前没落後に鎮西の新田党を頼って下向した一族かもしれない。
3月6日、越前国金崎城から落ちた義貞は「為援窮城、先出金前入杣山」(『気比宮社伝旧記』)とあり、杣山城に雌伏したのだろう。3月13日に「南保右衛門蔵人(南保重貞)」の軍功注進状を受け取り、翌14日に重貞が「佐々木十郎左衛門尉忠清」とともに「引籠城郭」して防いだことを賞し、「守護代職所宛給」た佐々木忠枝に合力するよう命じている(延元二年三月十四日「新田義貞軍勢催促状」『三浦文書』)。
このような状勢の中で、光明天皇の関白たる近衞経忠が「四月五日、出奔吉野宮」という事件が起こる(『公卿補任』)。実は経忠は建武3(1336)年冬には「被辞申御当職」(『園太暦』)するも(「不及上表歟」といい、古く九条兼実同様に上表無き辞職であったか)、「不許」(『続史愚抄』)であったという。しかし経忠は関白辞任を既成事実とし、翌建武4(1337)年正月1日の殿下拝礼を行わなかった。経忠は後醍醐天皇が血統の近い(基嗣父の近衞経平と後醍醐天皇は従兄弟)従弟・近衞基嗣ではなく、自分を右大臣、内覧に引き立て重用してくれた恩義があり、光明朝での関白宣旨には呵責があったのかもしれない。
亀山天皇―+―後宇多天皇――後醍醐天皇
|
|
+―皇女
∥――――――近衞経平―――近衞基嗣
∥ (左大臣) (関白)
近衞基平―――近衞家基
(関白) (関白)
∥
∥――――――近衞家平―――近衛経忠
鷹司兼平―――女子 (関白) (関白)
(関白)
経忠出奔を受けた京都朝廷は翌4月6日、経忠を「止関白」すると、4月16日の詔で「元前左大臣」の経忠のライバルであった近衞基嗣を関白にするとともに「氏長者」の宣旨を下し、4月23日「牛車兵仗已下宣下」された(『公卿補任』)。
4月10日には「紀州凶徒蜂起之由、依有其聞」のため、細川兵部少輔顕氏(和泉国守護か)は弟で鶴岡八幡宮寺若宮別当「三位阿闍梨皇海」(建武四年五月十二日「細川顕氏感状」『日根野文書』)を大将軍として紀州へと馳せ使わした(建武四年四月十日「細川顕氏軍勢催促状」『日根野文書』)。この細川顕氏の軍勢催促に応じた一人「日根野左衛門入道道悟(日根野盛治入道)」は一族を率いて4月26日に「奉属紀州御大将御手」し、29日に「馳向仁儀庄西光寺城郭」へ馳せ向かい合戦した。5月1日にはこの西光寺城郭を攻め落として焼き払い、「追落凶徒等」という軍功を挙げている(建武四年五月「日根野盛治入道軍忠状」『日根野文書』)。紀伊国では6月、吉野方の人物の指示を受けた「武蔵大夫将監」が「尊氏直義以下朝敵等誅伐事、被下綸旨之間、所揚義兵」し、6月15日に「淡輪助太郎殿(淡輪重氏)」に味方となるよう命じている(延元二年六月十五日「武蔵大夫将監書下」『淡輪文書』)。ただし、淡輪重氏は応じていない。彼に軍勢催促を指示した「武蔵大夫将監」はその名からおそらく先代一門の旧和泉守護右馬権頭茂時(連署)の子・武蔵左近将監貞熈と考えられ、紀伊国でも先代北条氏は吉野方と強固に結びついていた様子がみられる。
畿内近辺では主に洛南から摂津、和泉、河内、紀伊、大和国での戦闘が続いていたが、足利方の優勢が目立つ展開であった。ところがこのような中、関東に再び鎮守大将軍北畠顕家の軍勢が迫っていた。吉野の後醍醐上皇の命を奉じた、奥州からの二度目の西上であった。
延元元年(1336)年3月、陸奥守顕家は京都を離れ、奥州への帰途についた。足利尊氏の鎮西落ちによって脅威が遠のいたためであろう。
当時奥州では、顕家の家人と思われる広橋修理亮経泰が顕家の留守を預かり、白河結城一族や南部一族とともに「大将軍足利竹鶴殿(足利兼頼)」らと鎬を削っていた。前年末、陸奥国府から西上した陸奥守顕家を追って「斯波殿(足利尾張弥三郎家長)」が鎌倉へ下ったが、行方郡小高城の相馬孫五郎重胤や一族の相馬五郎胤康らも家長に同道して鎌倉に駐屯した。しかし、海道筋の吉野方に対峙する兵力の不足を懸念したか、「斯波殿御教書并親父重胤事書」の指示に従い、「惣領代子息弥次郎(相馬弥次郎光胤)」が一族を率いて3月8日に小高へ帰還した。するとたちまち国司勢が「押寄楯」したため、これを撃退する(建武三年三月三日(十三日?)「相馬光胤着到状」『相馬家文書』)。
●建武三年三月三日着到(『相馬家文書』)
名前 | 備考 |
相馬九郎胤国 | |
相馬九郎五郎胤■ | 相馬胤国の子 |
相馬与一胤房 | 相馬胤国の子か |
相馬七郎時胤 | 不明 |
相馬五郎顕胤 | 相馬七郎時胤の子 |
相馬孫次郎行胤 | 相馬余一通胤の子で、惣領重胤の従弟 |
相馬六郎長胤 | 相馬五郎胤康の弟 |
相馬七郎胤春 | 相馬五郎胤康の弟 |
相馬十郎胤俊 | 相馬五郎胤顕十男、相馬五郎胤康叔父 |
相馬五郎泰胤 | 相馬胤俊の子か |
相馬孫次郎綱胤 | 不明 |
相馬小四郎胤時 | 相馬孫次郎綱胤の子か |
相馬四郎良胤 | 相馬孫次郎綱胤の子か |
相馬小次郎胤■(胤政) | 不明 |
新田左馬亮経政 | 千倉庄代官か。新田岩松泰治の子 |
相馬五郎胤経 | 不明。相馬五郎胤顕の子に孫六胤兼がおり、その子か |
相馬又五郎胤泰 | 相馬五郎胤経の子か |
相馬弥六胤政 | 相馬五郎胤経の子か |
相馬孫六郎盛胤 | 不明 |
相馬孫九郎胤通 | 不明 |
相馬小次郎胤顕 | 不明 |
相馬孫四郎胤家 | 相馬小次郎胤顕の子か |
相馬孫次郎胤義 | 不明 |
相馬小次郎胤盛 | 相馬孫次郎胤義の子か |
相馬孫五郎長胤 | 不明 |
相馬又五郎朝胤 | 相馬孫次郎行胤の子。惣領重胤の女婿 |
相馬孫七郎胤広 | 不明 |
相馬九郎二郎胤直 | 相馬九郎胤国の子? |
相馬満丸 | 不明 |
相馬千代丸 | 不明 |
相馬小五郎永胤 | 不明 |
相馬弁房円意 | 不明 |
相馬彦二郎胤祐 | 不明 |
相馬弥次郎実胤 | 不明 |
相馬又七胤貞 | 不明 |
相馬小四郎胤継 | 不明 |
武石五郎胤通 | 武石四郎左衛門入道道倫の子息。道倫は「曰理郡坂本郷、至正和年知行」という |
伊達与一高景 | |
伊達与三光義 | 伊達与一高景の弟か |
相馬禅師房妙圓 | 不明 |
相馬道雲房胤範 | 不明 |
標葉孫三郎教隆 | |
莚田三郎光頼 | 長江与一景高女子代 |
相馬松王丸 | 不明 |
青田孫左衛門尉祐胤 | 相馬助房家人 |
3月13日には、宇多庄で「黒木入道一党、福島一党、美豆五郎入道等、引率数多人勢」が国司勢に応じたため、「惣領代(相馬弥次郎光胤)」や「相馬六郎長胤」ら相馬一族が馳せ向かい、16日に「白川上野入道家人等、宇多荘熊野堂楯築」を鎮圧する(建武三年三月十七日「相馬光胤軍忠状」『相馬家文書』)。
●建武三年三月十六日宇多庄熊野堂合戦軍忠(『相馬家文書』)
名前 | 主人 | 軍忠 | 備考 |
相馬九郎五郎胤景 | 分取二人 | ||
須江八郎 | 相馬弥次郎光胤 |
分取一人 (白川上野入道家人六郎左衛門入道) 頭二 | |
相馬小次郎胤顕 |
生捕(白川上野入道家人小山田八郎、 中間四郎三郎) | ||
木幡三郎兵衛尉 | 相馬小次郎 | 分取一人 | |
相馬彦二郎胤祐 | 分取一人 | ||
田島小四郎 | 新田左馬亮経政 | 分取一人 |
新田経政は岩松家庶流で千倉庄代官か。 参戦した「経政代」の田島小四郎は、 経政の子・小四郎経栄。 |
標葉孫三郎教隆 | 分取一人 | 標葉荘地頭標葉氏の庶家 | |
東條七郎衛門尉 | 相馬助房 | 分取一人、被疵畢 | |
木幡二郎 | 相馬弥次郎光胤 | 討死 |
得川頼有――――娘
∥
⇒相馬義胤―土用御前 ∥―――――+―岩松政経――――岩松経家―+―岩松直国==岩松満国
(五郎) ∥ ∥ |(下野太郎) (兵部大輔)|(土用王)
∥ ∥ | |
∥―――+―岩松経兼 +―とよ御前 +―岩松泰家――岩松満国
∥ |(遠江五郎) |
足利義純――岩松時兼 | |
(太郎) (遠江守) +―とち御前 +―あくり御前
|(尼真如)
| ∥
| ∥―――――――土用王御前===岩松直国
| ∥ (尼妙蓮) (土用王)
| 藤原某
|
+―岩松経国――――岩松政国――――岩松泰治―――岩松経政――田島経栄
(左馬亮) (小四郎)
さらに3月22日から24日にかけて、広橋修理亮経泰率いる国司勢が小高城に攻め寄せたため、相馬一族はこれを撃退。3月27日には国司方の「標葉荘地頭」を討つべく、「相馬九郎五郎胤景」以下の相馬一族が攻め下り、「相馬六郎長胤」「舎弟七郎胤春」が「標葉弥四郎清兼、同舎弟弥五郎仲清、同舎弟六郎清信、同舎弟七郎吉清、同小三郎清高、同余子三郎清久等」を召し取るなど、海道筋では激しい戦闘が行われていた。
こうした中で、東海道を下向してきた「奥州前司顕家卿」は鎌倉に迫り、これを受けて鎌倉を警衛していた「斯波陸奥守殿于時弥三郎殿(斯波家長)」は4月16日、手勢を率いて鎌倉西の「片瀬河」まで出征し、川を挟んで激突した(年月未詳「相馬新兵衛尉胤家代恵心申状」『相馬岡田雑文書』)。この「相模国片瀬河」の合戦には相馬孫五郎重胤、相馬五郎胤康(相馬岡田氏祖)ら相馬一族も加わり、相馬五郎胤康は片瀬川で討死を遂げた。また、相馬孫五郎重胤も「於法花堂下自害」と見えることから、片瀬川合戦に敗れたのち鎌倉へ戻り、右大将家法華堂下で自刃したとみられる(建武四年正月「相馬松鶴丸軍忠状」『相馬文書』)。また「犬懸谷坊舎」は「若御料(足利義詮)」の御座所として破壊された(「僧正隆舜申状案」『醍醐寺文書』)。斯波家長は遁れたが、北畠勢は鎌倉を占拠することなくそのまま奥州へ下向したとみられ、斯波家長は鎌倉に帰還している。
陸奥国司勢は4月24日、宇都宮城に下着し、相馬六郎胤平が「同月廿四日、御下向之由承及候之間、宇都宮馳参候」といい(延元元年八月廿六日「相馬胤平軍忠状」『相馬家文書』)、これまでの軍忠を賞されて、26日に鎮守大将軍「軍監有実」を通じ、相馬六郎胤平を「被任左衛門尉之由、可被挙申京都也、且可存其旨之由、鎮守大将軍仰所候也」とした(延元元年八月廿六日「相馬胤平軍忠状」『相馬家文書』)。惣領孫五郎重胤及び有力庶家の五郎胤康が鎌倉で落命した上、相馬一族には衛門府補任者がいない現状での胤平の左衛門尉推挙は、吉野方から胤平が新たな相馬惣領家に認められたということになろう。
陸奥国司勢はその後も国府へ向けて海道筋を北上し、5月8日には「名須城」、5月22日には「田村館」、そして5月24日には「小高城」を攻め落とし、城を守っていた「光胤并一族相馬六郎長胤、同七郎胤治、同四郎成胤、令討死訖」(暦応二年三月廿日「相馬松鶴丸軍忠状」『相馬家文書』)した。この直前には国司勢が迫る中で、惣領代弥次郎光胤は、「光胤又存命不定」と討死を覚悟して、5月20日、甥の松鶴丸(惣領親胤嫡子)を養子として所領を譲った上(建武三年五月廿日「相馬光胤譲状」『相馬家文書』)、ほとんどの一門を付けて城から落としており、後日、多くの生き残った一族とともに相馬家再興を成し遂げることができた(長胤子息の孫鶴丸、胤治子息の竹鶴丸、成胤子息の福寿丸も松鶴丸とともに遁れている)。
●建武三年五月廿四日小高城討死(『相馬家文書』)
名前 | 主人等 | 備考 |
相馬弥次郎光胤 | 相馬重胤二男 | 惣領代 |
相馬六郎長胤 | 相馬胤康舎弟 | 相馬岡田一族 |
相馬七郎胤治 | 長胤舎弟 | 相馬岡田一族 |
相馬四郎成胤 | 長胤舎弟 | 相馬岡田一族 |
相馬十郎胤俊 | 長胤叔父 | 相馬岡田一族 |
田信彦太郎 | 光胤家人 | 若党 |
吉武弥次郎 | 胤俊家人 | 若党 |
田中八郎三郎 | 長胤家人 | 若党 |
松本四郎 | 光胤家人 | 若党 |
ところが顕家が多賀国府に帰国しても、陸奥国の騒乱は止まず、延元2(1337)年正月8日、「陸奥凶徒蜂起、親王并顕家卿、入伊達郡霊山」(『元寇日記裏書』)という。「同四年ノ春、奥州ニモ尊氏ニ志有ケル者有テ、合戦ヲ始ム、顕家卿打負テ、加賀国府ヲ落、当国伊達郡ニ霊山ト云寺ニ籠リケル」(『保暦間記』)とあり、顕家らは合戦に敗れて多賀国府を退き(多賀城市)、浜通りと陸奥大道の間にそびえる霊山(伊達市霊山)の山頂に新たな臨時御所をかまえた。
この顕家の国府没落は、前年10月10日に東坂本で先帝後醍醐は事実上降伏して京都に遷され、光明天皇が皇位にある中、12月21日、後醍醐上皇は京都花山院邸を脱出して吉野へ遁れた事によって、12月中に上皇派の人々は軒並み解官され、北畠顕家も「権中納言」「陸奥(権)守」「鎮守大将軍」の官職を失った(『公卿補任』)。10月以降の上方における御所方劣勢の波は、遠く奥州にも及び、顕家の求心力にも大きな影響を与えたのではあるまいか。顕家の陸奥権守解任は御所方の奥州支配の正当性が失われたことを意味する。国府を放棄して伊達郡霊山まで御所を遷さざるを得なかったのはこうした理由があったと思われる。代わって「陸奥守」に任じられたのが、鎌倉に駐屯する足利尾張弥三郎家長であった(義良親王の陸奥太守停止は伝えられていないが、12月に同時に停止されたのではなかろうか)。
しかし、自らの行動が招いた奥州の惨状を知らない上皇は、12月25日、陸奥国府の顕家に向けて「御勅使江戸修理亮忠重」を遣わし、「相催諸国、重所挙義兵也、速率官軍、可令発向京都、武蔵相模以下東国士卒、若有不応勅命者、厳密可加治罰者也、併相憑輔翼之力、雖廻権■之謀、速成干戈之功者、国家大幸、文武徳善、何事如之哉、大納言入道居住勢州、定委仰遣之歟、坂東諸国悉令帰伏之様、以仁義之道、可施徳化也、道忠以下、各可励忠節之旨、別可被仰含者也」(延元元年十二月廿五日「後醍醐天皇宸簡」『白河結城文書』)と、ただちに奥州から上洛すべきことを命じたのだった。また、上皇に近侍の北畠親房入道もまた、延元2(1337)年正月1日、奥州結城宗広入道の援軍を依頼する「此使節自吉野被差遣」している(延元二年正月一日「北畠親房入道御教書」『結城家文書』)。
さらに上皇は越前新帝(恒良親王)のもとにも「勅書并綸旨回状」を送達しており、これをうけたうちの一人である千葉介貞胤から北畠顕家に「勅書并綸旨回状」が回送されている(延元二年正月廿五日「北畠顕家書状写」『楓軒文書纂九十所収白河証古文書』)。顕家はこの書状に対し、延元2(1337)年正月25日に「千葉との」への返書を認め、「当国擾乱之間、令対治彼余賊、忽可企参洛候、去比新田方申送候間、先達致用意、于今延引失本意候」と、以前「新田方」には足利方を追罰して上洛する旨を伝えてその準備をしていたものの、今において延引する結果を歎いている。しかし、続く「此間、親王御座霊山候処、凶徒囲城候之間、近日可遂合戦候、綸旨到来之後、諸人成勇候、毎時期上洛之時候也」は、「畏れ多くも親王を風雪激しい霊山に移した上、ここも取り囲まれて合戦しているという厳しい状況下で、どうして上洛など考えられようか」という意味にも取れ、顕家の隠された「本意」が感じられる。顕家は他所からも上洛要請の文書を受けているが「勅書并綸旨及貴札」とあって送主は不明である。この返書では明確に「下国之後、日夜廻籌策外無他候、心労可有賢察、恐鬱處披札散鬱蒙候」(延元二年正月廿五日「北畠顕家書状写」『結城古文書写』)と苦言を述べている。
なお、顕家に「勅書并綸旨回状」を送達したのちの千葉介貞胤の動向は不明であり、『太平記』に見られるように、貞胤は風雪の中で進退窮まり「木芽峠」で足利方に降伏したのかもしれない。子の氏胤が建武4(1337)年に京都で生まれた(『本土寺過去帳』より逆算)とみられることから、貞胤は建武4(1337)年早々には上洛していたのだろう。「木芽峠」が敦賀と越前国府(尾張守高経はここに駐屯していたか)の中間に位置し、敦賀を逃れた義貞が駐屯したとされる「杣山城」にほど近いことから、翌建武4(1337)年3月の金崎城陥落後、杣山城へ向かう最中に、越前国府から南下してきた足利尾張守高経の軍勢に降伏したのではなかろうか。
正月26日には、霊山へ通じる東の要衝、宇多川南岸の「宇多庄熊野堂」に、小高落城以来「隠居山林」していた「相馬松鶴丸」が攻め寄せた。熊野堂には「結城上野入道代中村六郎数万騎楯籠」っていたが、相馬松鶴丸以下の相馬一族が打ち散らした(建武四年正月「相馬松鶴丸着到状」『相馬家文書』)。この着到は「式部大夫兼頼年少之間、代官氏家十郎入道々誠、可判形候」して京都に注進された(暦応二年四月廿六日「氏家十郎入道注進状案」『相馬家文書』)。
●建武四年正月二十六日着到(『相馬家文書』)
名前 | 備考 |
相馬松鶴丸 | 相馬親胤嫡子 |
相馬九郎入道了胤 | 相馬九郎胤国か |
相馬江井御房丸 | 相馬江井氏 |
相馬小次郎胤盛 | 相馬孫次郎胤義の子か |
相馬弥五郎胤仲 | 不明 |
相馬弥次郎実胤 | 不明 |
相馬孫次郎綱胤 | 不明 |
相馬五郎顕胤 | 相馬七郎時胤入道の子 |
相馬小四郎胤時 | 相馬孫次郎綱胤の子か |
相馬五郎泰胤 | 相馬胤俊の子か |
相馬又一郎胤貞 | 不明 |
相馬小次郎胤政 | 不明 |
相馬岡田駒一丸 | 不明 |
相馬千与丸 | 不明 |
相馬岡田主一丸 | 不明 |
相馬孫六郎盛胤 | 不明 |
相馬孫次郎入道行胤 | 相馬余一通胤の子で、惣領重胤の従弟 |
相馬五郎胤経 | 不明。相馬五郎胤顕の子に孫六胤兼がおり、その子か |
武石五郎胤通 | 武石四郎左衛門入道道倫の子息。道倫は「曰理郡坂本郷、至正和年知行」という |
御所方の侍大将・宇都宮公綱の本拠である下野国宇都宮城も足利方の大将「石河孫太郎入道」「澤井小太郎」らが攻めており、2月21日、「石河孫太郎入道」は「下野国茂木郡高藤宮前」に布陣していたところ、「寄来国司方軍勢等数万騎」したため、石河孫太郎入道に属した「伊賀式部三郎盛光代南葉本寂房」が繰り出して合戦したという(建武四年二月廿二日「伊賀盛光代南葉本寂房軍忠状」『飯野八幡宮古文書』)。宇都宮合戦のその後は不明だが、国司方に属していたとみられる「岩城郡国魂太郎兵衛尉行泰」は、3月10日に「自宇都宮、霊山御楯属于当手仁令参上畢」と、霊山へ戻って留守居の唐橋修理亮経泰の手に属している(延元二年十二月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)。
宇都宮合戦と同日の2月21日、「常州関城」には足利方の「大将蔵人殿(石堂頼房か?)」の軍勢が攻め寄せており、某城を警固していた「相馬孫次郎親胤」は「若党目々澤七郎蔵人盛清」を石堂蔵人の陣に派遣。目々澤盛清は関城を囲む大宝沼を「馳渡絹河上瀬中沼渡戸」して、城将「関民部少輔宗祐」の手勢「追散数百御敵等」し、「焼払数百間在家等了」という(建武四年二月廿二日「相馬親胤軍忠状」『相馬家文書』)。翌2月22日、親胤は石塔義房入道に軍忠の証判を求めている。尊氏に従って上洛、九州陣まで従軍していた親胤は、塔蔵人とともに下野国宇都宮城から常陸国関城の方まで戻っていたことがわかる。その後、相馬親胤や「相馬又五郎朝胤(属惣領親胤手)」らは「大将蔵人殿」に従って「三箱、湯本」を転戦し、4月1日には「標葉八里浜」の合戦、翌4月2日の「標葉庄小丸城口羽尾原」の合戦を経て小高城に入城した(建武四年八月「相馬朝胤軍忠状」『大悲山家文庫』)。
こうした中で、新帝恒良や一宮尊良親王以下、新田義貞らが立てこもっていた越前国敦賀津の金崎城には足利勢が大攻勢をかけており、3月6日に陥落した。当時新田義貞以下の主だった武士は城外で足利勢と交戦・牽制しており、城を守っていた義貞嫡子の越後守義顕と一宮尊良親王は自刃を遂げて城は開かれた。その後、新田義貞は敦賀から北部の「杣山」に遁れている(『気比宮社伝旧記』)。北畠顕家は正月25日、「忽可企参洛候、去比新田方申送候間」と越前国敦賀の新田義貞に自らの上洛の事について伝えており、陸奥国の顕家と越前国の義貞の間には連携が構築されつつあったのではなかろうか(なお、3月6日の金崎城陥落により連携は不可能となったのだろう)。
4月9日、顕家麾下の大将唐橋修理亮経泰は「押寄小高楯」と、行方郡小高城の奪還に攻め寄せた(延元二年十二月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)。当時の小高城には、3月17日に「為奥州対治御発向」(建武四年三月十七日「伊賀盛光着到状」『飯野八幡宮古文書』)した陸奥守家長麾下の大将、石塔蔵人や中賀野金八郎義長が警衛しており、相馬一族はその麾下にあった。唐橋経泰は小高城に昼夜を問わず九日間にわたって攻め立てたが「相馬小四郎胤時(系譜不明)」ら城将から相当な抵抗を受けて撤退している。なお、相馬朝胤は8月、大将軍の石塔蔵人や中賀野義長ではなく惣領親胤に証判を求めており、石塔蔵人や中賀野義長は宇多庄や標葉郡に出張している最中、明日をも知れぬ戦場の中で急ぎ軍功の一見状を得るためであったのかもしれない。
4月11日、下野国「宇都宮々隠原合戦」があり、足利方では「桃井兵庫助貞直(のちの直常)」が大将軍の一人として攻め立てている。その麾下には「茂木越中弥三郎知政」らが加わっている(建武四年九月十八日「桃井貞直申状」『茂木文書』)。宇都宮は小山、結城と並んで鎌倉と奥州を結ぶ要地であり、激しい鬩ぎあいの地となっていた。
こうした中、吉野朝廷は高倉勘解由次官光房を奏者として、霊山の「結城上野入道」に「殊廻籌策、早速可対治朝敵、且陸奥国司上洛者、其間事殊可申沙汰軍忠之次第、猶以神妙、宜被加其賞者」(延元二年五月十四日「後醍醐上皇綸旨」『白河証古文書』)という綸旨を下している。結城上野入道は当時「為宮御共、参霊山城」していたことがうかがえ、5月14日の綸旨の内容から、顕家はこれ以前に結城宗広入道の霊山入りを報告し、自身の西上の時期についても具体的に記していたと思われる。西上にあたっては、一族の冷泉少将持定、北畠少将家房、春日侍従顕国のほか、唐橋修理亮経泰、結城上野入道、多田木工助入道といった主要な麾下の将を率い、多くの将兵を伴うという、奥州の兵力を減衰させても赴く決意の上洛であったと思われる。留守居の旗印となる人物は不明である。
7月に入ると顕家股肱の「春日侍従、多田木工助入道以下」が足利方の下野国小山城を取り囲んで攻め立ているが(建武四年七月九日「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)、これは顕家西上の先陣とみられる。7月4日には足利方の大将軍「桃井兵庫助殿」と「春日侍従、多田木工助入道以下」が「小山荘内乙妻真々田両郷」で合戦、7月8日にも「於常州関城」で桃井勢と春日勢が衝突している。この「陸奥前国司已下凶徒等」による小山城攻めを伝え聞いた「上椙民部大輔殿(上杉憲顕)」は在国の上野国から馳せ参じて合戦に加わっている(建武四年九月三日「足利直義御教書」『上杉古文書』)。
なお、この頃にはすでに顕家の父・親房入道が宗良親王(元天台座主の妙法院宮尊澄法親王)を奉じて吉野から「伊勢国一瀬(度会郡度会町脇出)」(『李花集』上 夏歌)に移っており、7月22日、足利方の「朝敵人畠山上野入道(畠山高国)」「小松次郎」が大勢を以って一瀬の玄関口である「岩出(度会郡玉城町岩出)」に進出したことから、吉野方は「(大将カ)安達掃部助入道」のもと、「加藤左衛門尉定有」らが「井尻口」まで出張って合戦し、翌23日には「玉丸城後責、馳向田辺岡」して軍忠したという(延元二年七月「加藤定有軍忠状」『南狩遺文』)。この吉野方に属した「安達掃部助入道」は先代有力御家人である安達氏末流と思われることから、北条一族は一様に後醍醐上皇方に取り立てられていたと考えられる。
そして、顕家は7月から8月にかけて義良親王を奉じて霊山を出立したとみられ、義良親王は9月に「自霊山、上方宇都宮御上」し、岩城郡の国魂太郎兵衛尉行泰が親王に供奉して宇都宮で大番を勤仕している(延元二年十二月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)。以降、数か月の間、宇都宮城が義良親王の御所として、奥州勢の本拠地となる。顕家が親王を奉じて西上の途に就いたのは、前回上洛時と同様に顕家が上洛中は国府勢の兵力が確実に減少する中で、十歳の親王を奥州に残す選択肢はないことに加え、今回は親王を奉じた陸奥国府(すでに多賀国府は陥落し霊山に移転)が王化を旗印に奥州を支配する理想が破綻していたことも大きな要因であろう。顕家西上の目的の一つは親王を吉野へ無事に連れ帰ることでもあったのだろう。
10月27日、「為奥州前国司勢春日侍従顕国大将軍、打越当国」し、「小田宮内権少輔治久以下」の吉野方と一手となって、香取海北方沿岸にあたる「南郡大枝口(小美玉市)」まで進出し、足利方の佐竹常陸介義春勢と「小河郷大塚橋」で合戦となっている(建武四年十一月「烟田時幹軍忠状」『烟田文書』)。「大枝郷栗俣村」のあたりは、すでに3月10日には「小田宮内権大輔春久并益戸乕法師等、為張本率数輩凶徒等、出向常州府中」とあり(建武四年八月「野本鶴寿丸軍忠状」『熊谷家文書』)、常陸国府一帯で激しい攻防戦が続いていたことがわかる。国府と官道の確保と思われ、8月までには「前国司勢并小田勢等、率大勢責来」(建武四年八月「野本鶴寿丸軍忠状」『熊谷家文書』)と、奥州勢の一部が小田勢とともに進出し、常陸府中近辺の情勢は奥州勢が優勢であったのだろう。10月27日、春日侍従顕国と小田治久一党は常陸国府付近の鎌倉街道下ノ道を下って鎌倉を目指したとみられる。顕家は前回の上洛時は鎌倉及び東海道を経由していないとみられるが、今回は尊氏嫡子義詮と陸奥守家長が駐在する覇府・鎌倉を壊乱させるべく、鎌倉街道上ノ道及び下ノ道の両道から鎌倉へ進軍したと思われる。両道からの進軍は足利千寿王と新田義貞や中先代の相模次郎時行の鎌倉攻めを踏襲した大規模な攻略戦である。
春日顕国が常陸国へ出立したのち、「親王并顕家卿」は「有西征之義」のため宇都宮を発して上野国へ進軍し、鎌倉街道上ノ道を一気に南下した。上ノ道を進む奥州勢は12月13日に「上野国富根河」で合戦、12月16日の「武州安保原(児玉郡神川町)」で足利方を殲滅(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)。「武州薊山(本荘市児玉町)」でも合戦し(『元弘日記裏書』)、12月23日、「国司顕家卿打入鎌倉」(『鶴岡社務記録』)した。新田義貞の行軍日数と変わらない十日あまりで鎌倉に攻め込んだことになる。
奥州勢の鋭鋒は、「武蔵上野ノ守護人防キ戦ヘトモ、凶徒大勢ナレハ引退ク」(『保暦間記』)といい、24日及び25日に「鎌倉、飯島、椙本」(『鶴岡社務記録』)、「鎌倉小壷、杉本、前浜、腰越有合戦」(『元弘日記裏書』)と鎌倉内外所々で激しい合戦が行われた。「鎌倉ニ尊氏子息并斯波陸奥守モ有ケリ、是モ小勢也ケル程ニ引退」(『保暦間記』)し、義詮は鎌倉を逃れるも、杉本城に籠城した陸奥守家長は25日、「杉本城落了」(『鎌倉社務記録』)して「斯波家長奥州已下、於杉下城数輩被打」(『常楽記』)と、陸奥守家長は討死を遂げた。
北畠顕家の鎌倉攻めに時をあわせ、建武5(1338)年正月5日までの間に「於下総国登毛郡、普音寺入道孫子令蜂起」と、上総国土気郡に「普音寺入道(北条基時)」の「孫子(左馬助友時か)」が挙兵している(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)。友時は1年半前の建武3(1336)年8月25日に洛南の御所方として足利方と合戦した「八幡路大将両人鑑巌僧都、越後松寿丸」(建武三年八月廿五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)の大将「越後松寿丸」とみられるが、敗れたのち関東へ逃れたのだろう。土気城の「普音寺入道孫子」を攻めたのは、陸奥海道筋の「大将軍中賀野八郎殿」であり、鎌倉街道下ノ道から鎌倉へ向かった春日侍従顕国を追撃していたのだろう。「普音寺入道孫子」は土気城を遁れると、北畠顕家に合流してともに西上したとみられる。傍証はないが『太平記』においては、相模次郎時行が北畠顕家とともに鎌倉に攻め入ったとあり、「普音寺入道孫子」は時行に合流して上洛の途についた可能性があろう。
この鎌倉陥落の一報は翌建武5(1338)年正月4日、飛脚により「奥州国司責入鎌倉之間、斯波以下引退由」が京都へ伝えられた(『建武三年以来記』)。また正月2日、「顕家卿出鎌倉而趣海道」し、三島を経て、正月12日には遠江国「橋本マテ責登」った(『瑠璃山年録残篇』)。正月4日に鎌倉陥落の一報を受けた足利方は驚愕しただろう。軍事を司る左馬頭直義は所々に手配し、まず高参河守師冬を東海道に派遣する。さらに正月28日には園城寺に先だって「勢多橋本警固」を命じたにも拘わらず「無其用意云々、招罪科歟、所詮可致厳密沙汰」(建武五年正月廿八日「足利直義御教書」『色々証文』)と警告し、さらに翌日にも奉行人「白井八郎左衛門尉(白井八郎左衛門尉宗明)」を遣わして「勢多橋警固事、度々被仰之處、無沙汰之由有其聞」であり、「早不廻時刻、打寄橋本、且注申事躰、且無昼夜之界、厳密可被致沙汰」と厳命しているように(建武五年正月廿九日「足利直義御教書」『園城寺文書』)、混乱の極みにあった。なお、直義が派遣した奉行人「白井八郎左衛門尉」と千葉氏流白井氏との関係は全く不明。
奥州勢の進軍は早く、正月21には尾張国に攻め入り「陸奥国司顕家勢、已責入尾張国黒田宿云々」(『建武三年以来記』)とあり、正月24日から28日にかけては「美濃国阿時河赤坂」(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)及び「美濃国青野原」(建武五年四月「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)、「美濃国洲俣河」(『建武三年以来記』)で合戦があった。正月28日の青野原合戦では、鎌倉合戦で奮戦した足利方の「茂木越中弥三郎知政」が「分取以下軍忠」し、奥州の「標葉四郎左衛門清隆」が追撃していることから(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)、関東・奥州の鎌倉方の追撃があったことがわかる。そして、尾張や美濃の合戦で「国司勢ウチマケテ伊勢国落」(『瑠璃山年録残篇』)とあり、具体的には「二月三日、自垂井宿落勢州」(『建武三年以来記』)とあるが、「二月一日、御敵伊勢路落」(建武五年三月「小佐治基氏軍忠状」『小佐治文書』)とあるように、2月1日に伊勢に落ちたようである。顕家はまず義良親王を吉野へ移すべく奈良を占拠したのち、河内和泉の楠木党等と協働での京都攻略を画策したのではなかろうか。
顕家率いる奥州勢は2月14日と16日には「伊勢国河又河口」(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)で足利方と合戦し、「標葉四郎左衛門清隆、去二月十六日、伊勢国小屋松合戦於搦手致軍忠」(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)と奥州足利勢も追撃していたことがわかる。その後、奥州勢は「伊賀を経て、大和に入、奈良の京になんつきにけり」(『神皇正統記』)とあることから、奥州勢は上洛に当たっての通常の伊勢ルートを進軍したと考えられ、鈴鹿関(亀山市関町)を経由して伊賀に入り、木津川を遡って南都の北側に布陣したと思われる。「近江国大原小佐治右衛門三郎基氏」は、2月1日に顕家らが伊勢路へ向かったことを聞き、翌2月2日には「馳向鈴鹿山、数十ケ日警固仕」ったという(建武五年三月「小佐治基氏軍忠状」『小佐治文書』)。ただ小佐治基氏は2月13日には「近江三郎殿」の手に属して近江国甲賀郡の「鮎河弥九郎已下凶徒等」を討つために鈴鹿山を離れており、奥州勢との合戦はなかった。
南都にはすでに正月6日には足利方から「南都警固」の兵が遣わされ、高武蔵権守師直、高参河権守師冬、上杉伊豆前司重能らに加え、2月5日には「上杉左近大夫将監(上杉頼成)」が大将として派遣されるなど、足利勢の警衛は万全の状態にあった。2月21日には「将軍方武士、発向于辰市合戦、宮方辰市没落」と、南都最南端に吉野方が攻め寄せ、これを南都警衛の足利方が防衛して奥州勢が敗れたという。前中納言光継が「二月日、南都合戦場客死」(『公卿補任』)とみえるが、二位中納言光継は上皇側近であることから吉野方大将軍の一人であったと推測され、2月21日に奈良南部を攻めたのは吉野から攻め寄せた二位中納言光継らの勢力であったのだろう。
続いて2月28日、顕家率いる奥州勢が奈良に攻め入り「奈良合戦」(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)となるが、ここでも関東からの「茂木越中弥三郎知政」が「南都合戦」で奮戦して「被射乗馬」れ負傷しており(建武五年四月「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)、足利方の関東勢がなおも奥州勢を追撃していたことがわかる。奥州勢は南都足利勢と関東勢に挟撃される形になっていたのだろう。
奥州勢の奈良での戦闘は「西路法華寺後」「自手搔小路責入奈良中」「東大寺天開門」「奈良坂東山」など奈良北部一帯で行われていることから、21日の南部合戦とは異なり、奥州勢は北部から奈良市中に攻め入ったことがわかる。この「奈良合戦」は結局奥州勢の敗北に終わり「追落」されているが、南北からの奈良攻めが2月21日と28日という近日であることから、本来は吉野勢と奥州勢のよる南都挟撃が想定されていたのかもしれない。奥州勢は伊勢に入ってから奈良攻めまで十日以上もかかっており、奥州勢に何らかの支障があった可能性があろう。
奈良の攻略を断念した顕家らは「奈良合戦不利、親王入御吉野、顕家卿発向河内国」(『元弘日記裏書』)とあり、旧都明日香を南下して当初の目的の一つであった義良親王の吉野帰還を果たした。その後、自身は河内へ向かっているが、そのルートは判然としない。ただ、3月8日、顕家は「河内国古市河原」(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)で足利勢と合戦していることから、関屋から生駒山地を抜けて河内国古市に入り、石川の河原である「古市河原」での合戦になったのではなかろうか。顕家は河内国の楠木一党との連携を図り、八幡、桂方面からの上洛を企図したものとみられる。
すでに3月8日の「天王寺合戦」で足利方の細川顕氏らは「被責落武士等引退京都了」(『官務記』)しており、敗残兵が入洛すると「京中動乱、不能左右、恐怖無極者也」(『官務記』)という大混乱に陥った。天王寺の陥落は渡邊津を失うことも意味し、山崎や八幡、桂、鳥羽方面への影響も甚大となる事から、左馬頭直義は翌3月9日、雨の中、自ら三条坊門邸を出立し「為発向天王寺進発、今日著東寺了」(『官務記』)した。それに伴い、光明天皇は光厳上皇とともに内侍所を奉じ、「寅終刻、有行幸於三条坊門第」(『官務記』)した。ここには同日「等持院殿令三条坊門万里小路第給」(『建武三年以来記』)とあり、足利尊氏も移っている。「件此天下為穢中」(『園太暦』)とみえるが、北畠顕家の危難が去った4月8日に土御門東洞院皇居に「御帰座」(『建武三年以来記』)とあることから、事実上の避難であろう。
顕家は3月8日当時は「河内国古市河原」にあり、楠木党の和田左兵衛尉正興らが丹下城を攻めるなど、連携して河内国の足利勢を打ち破りながら天王寺へ向かい、細川顕氏を排除した天王寺へ入っている。その数日後、顕家は「京都御上」のためさらに北上して3月12日に「男山」へ進出(建武五年閏七月「野上資頼軍忠状」『岡本文書』)。奥州勢は淀川向こうの「洞多和」にも展開して京都を窺った(暦応元年十月「朝山知長軍忠状」『祇園執行日記背書』)。
翌3月13日、奥州勢は高武蔵権守師直ら南都足利勢と男山周辺で合戦(八幡合戦)し、ここでも茂木知政は「被射乗馬等」ている(建武五年四月「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)。この合戦には八幡から摂津周辺の地理を熟知する武田信武勢が足利方の精鋭として馳せ加わっており、13日には「馳向八幡、於洞塔下致至極合戦、追散凶徒等畢」(建武五年三月廿六日「逸見有朝軍忠状」『小早川文書』)といい、八幡から対岸の山崎付近を縦横に戦っている様子がうかがえる。奥州足利勢の標葉四郎左衛門清隆は13日の「八幡合戦於搦手致忠節」(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)といい、おそらく中賀野八郎義長の手に属していたのだろう。
3月14日、奥州勢は「八幡凶徒没落」とあり、足利勢に敗れて摂津国の「渡野辺、天王寺」に退いている(延元三年三月「国魂行泰軍忠状」『大國魂神社文書』)。15日の摂津国渡辺津にある「一王子(現在の窪津王子)」の南に広がる松原周辺では激しい戦闘があり(建武五年三月「成田重親子息弥王丸軍忠状」『池田文書』)。渡邊津合戦で足利方の大将軍上杉修理亮憲藤が討死を遂げている(『上杉系図大概』)。
16日には奥州勢を追撃してきた足利方の大将軍高師直らと天王寺の南「阿倍野」で戦い、「攻入天王寺致合戦」しているが(建武五年閏七月「岡本良円軍忠状」『岡本文書』)、顕家麾下と思われる「新田西野修理亮之手者」が岡本観勝房良円に生け捕られている。顕家率いる奥州勢に上野国新田荘西野村(太田市藪塚町西野)を本貫とする新田西野氏が加わっているのは、顕家が西上途上、上野国を経由した際に加わった可能性が考えられよう。「橋本左衛門三郎入道并一族」も「田代豊前又次郎入道了賢」の手に生捕られているため(建武五年三月廿六日「田代了賢軍忠状」『田代文書』)、天王寺の合戦には河内和泉の楠木党も加わっていたことがわかる。また、足利勢の一将、茂木知政は16日の「天王寺合戦」で三度の「被射乗馬等」という不運に見舞われている(建武五年四月「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)。奥州足利勢の「標葉四郎左衛門清隆」も「天王寺合戦」で「馳向浜手懸入大勢ノ中」で軍功を挙げている(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)。
結果として、北畠顕家の奥州勢と和泉河内の楠木党ら吉野方による奈良、八幡、天王寺の要衝攻略はすべて失敗に終わり、顕家は軍勢の立て直しのために吉野へ退避したのだろう。東寺の左馬頭直義は天王寺攻略と顕家らの撤退を大きな節目と位置づけ、翌3月17日、九州で奮闘する一色範氏入道らに宛てて、「顕家卿已下凶徒、於天王寺大略被討取由」の「十七日御教書」を送っている(建武五年四月十日「一色範氏入道執達状」『武雄社文書』)。さらに3月20日には「八幡宮検校法印御房」に対し、「天王寺凶徒等」を「難波浦悉討取」ことができたのは、石清水の祈祷による神慮の至りとして直義から感謝の書状が届けられている(建武五年三月廿日「足利直義祈状」『菊大路文書』)。そして、これらの軍功によるものとみられるが、高師直は5月までに「武蔵権守」から「武蔵守」となっている。
一方、吉野方は畿内での不利な状況に対し、またもや戦況の厳しい辺地から上洛して対処させようと考えた。そのうちの一人が3月22日付の軍勢催促状を受けた「阿蘇大宮司(阿蘇惟時)」であった。この軍勢催促状では「奥州官軍、自去此於南都天王寺等、度々合戦、未決雌雄、相構此時分可被参上」(延元三年三月廿二日「軍勢催促状」『阿蘇文書』)と、すでに奥州勢が大敗を喫して退いているにも拘わらず、未だ雌雄を決せずと偽りを述べてまで上洛を命じるという形振り構わぬものだった。しかし、阿蘇大宮司惟時はこれに応じず、しびれを切らした吉野朝廷は「依度々雖被仰、于今遅参、何様事歟」と叱責し「以夜継日、可馳参」と命じる綸旨を下している(延元三年四月廿七日「後醍醐上皇綸旨」『阿蘇文書』)。こうした非常にひっ迫した状況の中、5月8日には、劣勢の奥州の要である「白川一族等」にまで「以夜継日、急可馳参」(延元三年五月八日「後醍醐上皇綸旨」『結城古文書写』)という綸旨が出されている。
こうした混乱の続く5月15日、顕家は後醍醐上皇に対して、これまで自身が各地を駆け巡り、恩讐を越えて体験してきた様々な実態や現状をもとに、後醍醐上皇が行ってきたまつりごとに対する批判と意見、対応策を忌憚なく記した諫奏文を捧呈する(「北畠顕家上奏文案」『醍醐寺文書』)。
顕家がこの上奏文をどこで記したのかは定かではないが、翌日に足利勢が和泉国堺浜へ軍勢を繰り出していることから(建武五年七月「田口重連軍忠状」『南狩遺文』)、堺の陣中で認めたものであろう。顕家は「陛下不従諫者、泰平無期、若従諫者、清粛有日者歟」とまで言い切り、「若夫先非不改、太平難致者、辞符節而逐范蠡之跡、入山林以学伯夷之行矣」という覚悟も述べている。醍醐寺に唯一遺された案文は前半の一部が失われているが、現存第一条に顕家が最も主張したかった緊急を要する案件「当時之急無先自此矣」の内容が記されていることから、前文は不明なものの現存第一条はもともとの第一条であると考えられよう。
顕家が上奏文を認めた翌5月16日、「田口孫三郎信連代子息孫次郎重連」が「発向堺浜」し(建武五年七月「田口重連軍忠状」『南狩遺文』)、「大友一族狭間大炊四郎入道正供」も「五月十六日、令発向和泉国堺津」(建武五年八月「狭間入道正供軍忠状」『大友文書』)とあるように、天王寺から高武蔵権守師直を大将軍とした足利勢が、阿倍野を南下して堺に向かっている。
そして5月22日、奥州勢や楠木勢は「於泉州堺浜」(建武五年閏七月「岡本良円軍忠状」『岡本文書』)で足利方と合戦となった。美濃や尾張、奈良、八幡、天王寺合戦という連戦と敗戦を繰り返す中、すでに顕家率いる奥州勢はかなり討ち果たされていたと思われ寡勢であったろう。「吉野ヨリ、今度ハ公卿殿上人可然武士多出タリ」とあるように(『保暦間記』)、吉野からも公家大将までも出陣する援軍が出ていたようである。この戦いは「京方打チ負テ引ケル」と、北畠顕家勢が高師直率いる足利勢を打ち破ったかに思えたが、高師直が「思切テ戦フ程ニ、顕家卿ウタレケリ」という(『保暦間記』)。顕家二十一歳であった。狭間正供入道が「新田綿内、致太刀打」とあるように、北畠勢には新田一族綿打氏も主要な将軍の一人として加わっていた。さらに昨年の新田義貞越前落の際に離脱した「名和判官(名和判官義高)」も顕家の麾下として討死を遂げた。奥州からの腹心であった南部師行も「師行亦奮闘而死伝曰家士従死者百八人」という(『八戸系図』)。
「顕家卿、於堺宿被打取了」(『鶴岡社務記録』)、「和泉国堺浦合戦、官軍敗北、顕家卿死節」(『元弘日記裏書』)により「其後ハ吉野方散々ニ成テ引退」(『保暦間記』)といい、「浜手」で合戦した足利方の田口重連は吉野方を「和泉国大島荘」に追撃している(建武五年七月「田口重連軍忠状」『南狩遺文』)。また同22日、河内国高木荘(松原市北新町)の楠木勢「高木八郎兵衛尉遠盛」は「高安(八尾市高安町)」に布陣していた足利方勢力の陣を襲って焼き払ったが、「天王寺之凶徒等寄来」たため合戦となり、追い返している(延元三年十月「高木盛遠軍忠状」『和田文書』)。これは高師直の軍勢ではなく、直接天王寺から攻め寄せた別勢だろう。
5月24日、「於摂津国堺浦、奥州先国司顕家卿、新田綿打、伯耆判官已下凶徒数輩被討取」ったことを記した御教書が九州の一色範氏入道や太宰少弐頼尚へと遣わされている。なお御教書の発給主体は不明だが、おそらく軍事を統括していた左馬頭直義であろう。
顕家の遺志を継ぎ、奥州勢を率いたのは「源持定朝臣、同家房朝臣、同顕国以下」の北畠一族であった(『中院一品記』建武五年七月五日条)。顕家を討たれた奥州勢の士気は高く「奥州軍勢不知其数」と噂されるほど畏怖された。中院権中納言通冬は「附風聞説注之、雖足信用哉、陸奥国司権中納言顕家卿源大納言親房卿息也、率数多人勢雖責上、去春於軍陣落命了」と兵力には疑問を呈すが、「相従彼卿之輩、為達余執、棄身命面々致合戦云々」と評価している。
●村上源氏略系
源通親―+―堀川通具―――堀川具実―――堀川基具―――堀川具守―――堀川具俊―――堀川具親
(内大臣)|(大納言) (内大臣) (太政大臣) (内大臣) (権中納言) (内大臣)
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+―久我通光―+―久我通忠―――久我通基―――久我通雄―――久我長通―――久我通相
|(太政大臣)|(大納言) (内大臣) (太政大臣) (太政大臣) (太政大臣)
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| +―六条通有―――六条有房―――六条有忠―+―六条有光
| (右少将) (内大臣) (権中納言)|(右中将)
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| +―千種忠顕
| (左中将)
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+―土御門定通――土御門顕定――土御門定実――土御門雅房――土御門雅長――土御門顕実
|(内大臣) (権大納言) (太政大臣) (大納言) (権大納言) (権大納言)
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+―中院通方―+―中院通成―――中院通頼―――中院通重―――中院通顕―――中院通冬
(大納言) |(内大臣) (大納言) (内大臣) (内大臣) (大納言)
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+―北畠雅家―+―北畠師親―――北畠師重―+―北畠親房―――北畠顕家
(権大納言)|(権大納言) (権大納言)|(大納言) (陸奥守)
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| +―冷泉持房―――冷泉持定
| (参議) (左少将)
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+―北畠師行―+―北畠雅行―――北畠家房
(右中将) |(右中将) (右衛門尉)
|
+―北畠具行
(権中納言)
冷泉持定や北畠家房、春日顕国ら顕家麾下の歴戦の公家大将は、奥州勢を取りまとめると、5月28日、顕家が成し得なかった八幡山を攻め落とした(『元寇日記裏書』)。顕家麾下としてその采配のもと戦い続けた彼らもまたその軍略を継承した将軍であったのだろう。さらに宇治や木幡にも繰り出して攻勢をかけ、楠木勢も呼応し、高木八郎兵衛尉遠盛は6月8日から18日にかけて淀川の対岸山崎の「洞到下(洞峠)」に布陣して戦っている(延元三年十月「高木遠盛軍忠状」『和田文書』)。また、八幡山に籠城した奥州勢の抵抗も激しく、高武蔵権守師直、武田兵庫頭信武、仁木右馬助義長、細川兵部少輔顕氏、島津大夫判官宗久、大友一族、細川刑部大輔頼春ら足利勢も苦戦しながらも各口を押さえて行った。奥州勢が八幡山から撤退したのは7月11日夜であり、足利勢は一月以上もの間、この八幡城に釘付けにされたことになる。奥州勢は密かに撤退しており「寄手軍勢不存知云々」(『中院一品記』)という。彼らの八幡山撤退は吉野からの奥州下向の打診があったための可能性があろう。その後、彼らの撤退に混乱した足利勢のなかから堂塔に放火した輩がおり、八幡山全山が激しく延焼し一切を焼き尽くしている。
冷泉持定や北畠家房、春日顕国以下の奥州勢のその後は不明だが、春日顕国はのちに親房入道とともに関東で戦っていることから、奥州勢は吉野へ戻り、親房入道に合流してともに伊勢へ下ったのだろう。
その頃、越前国杣山に拠点を置いていた新田義貞は、「たひゝゝめされしかと、のほりあへす」(『神皇正統記』)と、吉野の後醍醐上皇から度々吉野へ召す綸旨が下されていたようだが、越前国府の足利尾張守高経のために叶わずにいた。さらに京都からも越前へ出兵されており、5月11日には「土岐伯耆入道(土岐頼貞入道)」が「熊谷小四郎殿(熊谷直経)」に遣わされ、土岐頼貞入道とともに「越前国凶徒誅罰事」が命じられている(建武五年五月十一日「足利直義御教書」『萩藩閥閲録』)。
そして北畠顕家の戦死から三か月後の建武5(1338)年閏7月2日、「源高経、討源左中将義貞」(『皇代記』)、「越前大将義貞朝臣死節」(『元弘日記裏書』)と、足利尊氏・直義の宿敵であった一族新田義貞は足利高経によって「越前国於足羽郡」で討ち果たされた。義貞三十七歳。「是モ云甲斐ナク打レテ、頸ヲ都ヘ進タリケレハ、大路ヲ渡テ獄門ノ木ニ懸ラレケリ、義貞ハ尊氏カ一族也、彼命ヲ受テ不背ハ然ルヘカリケルヲ、是モ驕ル心有テ、高官高位ニシテ如此ナルコソ不思議ナレ、子息越後守モ同首ヲ被懸ケリ」(『保暦間記』)といい、尊氏・直義は惣領家に反旗を翻し、乱世の因を生じさせた庶家義貞に極刑を処したことになろう。義貞の首級は大罪人として実に百四十年ぶりの大路渡しを経て、すでに都へ送られていたであろう子息義顕の首級とともに獄門に懸けられた。新田勢の敗残兵は「敦賀金崎城」に立て籠り、若狭守護の桃井直常の弟、桃井直信が金崎城に攻め寄せたところ、城中から数百騎が駆け出し、敦賀津陣を攻め落とされた(建武五年八月二日「茂木知政軍忠状」『茂木文書』)。このとき茂木知政は桃井勢に加わり、敵陣に駆け入って新田勢を城郭に追い返す軍功を挙げている。
8月11日、除目が行われ「権大納言従二位源尊氏」は正二位に叙されて「還補征夷大将軍」、足利直義は「左兵衛督」に任じられ、同日「従四上」に叙された。尊氏の「征夷大将軍(征夷将軍)」は「還補」とあるが、彼はもともと「征東将軍」であり、征夷将軍(征夷使)と征東将軍(征東使)が同義であることから「還補」とされたのであろう。尊氏の「征夷大将軍」は公卿の「征夷将軍」たることで「大将軍」号が付されたものか。
●建武五年八月十一日夜小除目
名前 | 官位 | 見任 | 補任(兼) | 備考 |
足利尊氏 | 従二位 ⇒正二位 | 権大納言 | 征夷将軍 | 源顕家卿追討賞 |
柳原資明 | 正三位 | 左兵衛督 | (遷)右衛門督 | |
源宗明 | 無位 ⇒従四位下(直叙) | (賜源氏姓) 参議 |
光明天皇勅問⇒一条経通答申(『玉英記抄』より) 土御門入道親王(久明親王)息宗明王、四品直叙、 不可有難歟、 申云、入道親王、為新院御猶子之上者、 可被許哉 | |
足利直義 | 従四位下 ⇒従四位上 | 左馬頭 | (遷)左兵衛督 | 権大納言源朝臣、源義貞追討賞譲 |
平兼行 | 正五位下 |
左京権大夫 蔵人 | 少納言 |
8月28日、京都朝廷は改元して「建武」を「暦応」とした(ただし9月3日までは建武号を用いるとされている)。
『実夏卿記』
儒卿 | 改元号案(最終案は赤) |
文章博士藤原朝臣家倫 | 文明、嘉慶、養寿 |
文章博士藤原朝臣房範 | 天観、文安、顕応 |
正三位式部大輔菅原朝臣長員 | 天保、寛裕、斉万、応観 |
従三位藤原朝臣行氏 | 天観、長嘉、康安 |
従三位勘解由長官菅原朝臣公時 | 天貞、暦応、寛安 |
この改元につき、北畠親房入道は「旧都には戊寅の年の冬改元して暦応とそ云ける、芳野の宮にハ本の延元の号なれハ国々も思ひゝゝの年号なり」と冷静に記載するも「内侍所、神璽も芳野におはしませは、いつくか都にあらさるへき」(『神皇正統記』)と、内侍所と神璽がある吉野が正統であると述べている。なお、吉野の朝廷はその正統性の故か守護が催促する「大番役」の制があり、和泉国守護の某から執行の指示を受けた守護代の大塚掃部助惟正が「和田修理亮入道殿(和田助家入道)」に「吉野殿惣門大番役」を命じている(延元三年十一月十八日「大塚惟正大番催促状」『和田文書』)。
9月8日、尊氏は改元に伴う吉書始を行っているが、「武家吉書始」(『武家年代記』)とみえることから、征夷将軍就任に伴う吉書始を兼ねていたものか。
新田義貞亡きあと、直義(または尊氏)は「吉野発向」を計画し、諸将の上洛を呼び掛けたと思われる。近江国の佐々木道誉は高島郡の「出羽四郎兵衛尉殿(朽木佐々木頼氏)」に閏7月16日に上洛したことを報告。21日に「可立京都候」のため、経氏ら高島勢も「廿日以前令京著給候者、公私悦入候」と軍勢催促の文書を送達している(建武五年閏七月十六日「佐々木道誉軍勢催促状」『朽木文書』)。しかし、朽木頼氏はその軍令に従わず、佐々木道誉は8月16日、吉野への出陣は8月25日と決定したので、「早永田四郎相共、相催高島郡軍勢可被上洛、彼日限更不可有延引、可被存知其旨之状如件」(建武五年八月十六日「佐々木道誉軍勢催促状」『朽木文書』)と、元号を書き入れての警告文を送っている。ところが頼氏はさらにこれを無視。8月27日、佐々木道誉は「今月廿五六両日令治定之由、度々触遣之處、高島郡軍勢不参之条、何様子細哉、頗招其咎歟」と激怒して子細を追及するとともに、「所詮来月二日可令進発也、守彼日限可令京著之由、永田四郎相共、普可被相触之、若於不承引者、任法為有沙汰、載起請之詞、可被注申」と伝えた。ここまでしても頼氏の不承引はなおも続き、根尽きた佐々木道誉は9月3日、「南都発向事、来十日所令進発也、早永田四郎相共、相催高島郡軍勢、可被上洛之状如件」(建武五年九月三日「佐々木道誉軍勢催促状」『朽木文書』)と到って力ない文書を送っている。そして10月2日、左馬頭直義が「南都警固事、所被仰佐々木佐渡大夫判官入道也、不日令下向、可致其沙汰」を命じており、この時点でもまだ高島郡から出陣していなかったことがわかる(暦応元年十月二日「足利直義御教書」『朽木文書』)。結果として、吉野攻めは行われず、奈良警衛に変更されたと思われる。
延元3(1338)年閏7月、吉野では「陸奥のみこ又東へむかはしめ給へきさためあり」と、義良親王を三度奥州へ派遣することが決定し、「左少将顕信朝臣、中将に転し従三位に叙し、陸奥の介鎮守将軍をかねてつかハさる、東国の官軍ことことく彼節度にしたかふへきよしを仰らる」(『神皇正統記』)と、故顕家に代り、弟の顕信を従三位に叙し、陸奥介鎮守将軍として義良親王に附すこととなった。閏7月26日、上皇は「陸奥三位中将殿」に「天下静謐事、奉扶持宮、重挙義兵、急速可令追討尊氏直義以下党類給、坂東諸国軍勢賞罰等事、宜令計成敗給」(延元三年後七月廿六日「後醍醐上皇令旨」『結城文書』)ことが認められており、節度使としての下向であった。今回の奥州下向には義良親王、陸奥介顕信に「入道一品(親房入道)」も加わってのものであり「率東軍下向勢州」した。親王は「儲君にたたせ給へきむね申きかせ給、道の程もかたじけなかるへし」(『神皇正統記』)とあり、義良親王は立坊したことがわかる。「同母の御兄も前東宮恒良の親王、成良親王ましましに、かくさだまり給ぬるも天命なれは、かたしけなし」(『神皇正統記』)と、親房入道は実兄の恒良親王(元後醍醐東宮、北陸帝)、成良親王(元光明東宮)を差し置いての立太子を天命としている。ただし、恒良親王も成良親王も皇太子を退いた身である上に、京都で足利方に保護(監護)されているため、吉野に健在の義良親王が皇太子とされるのは自然な成り行きであった。
義良親王と宗良親王(座主宮尊澄法親王還俗)を奉じた陸奥介顕信、親房入道、唐橋修理亮経泰、結城上野入道らは「九月のはしめともつなをとかれしに」と、9月初めに伊勢国を船出した。具体的な日時は不明だが、9月3日に義良親王とみられる「宮」が顕信に対して「相催坂東諸国軍勢、急速可令追討尊氏直義以下党類給、依宮令旨上啓如件」(延元三年九月三日「義良親王?令旨」『結城文書』)という尊氏直義党の人々の追討を命じる令旨を発給しており、9月3日以降と思われる。彼らにはかつての顕家奥州下向軍のように陸路を行く兵力はなく、黒潮に乗っての東下を試みたとみられる。
ところが9月10日、「上総の地ちかくより、空のけしきおとろゝゝゝしく、海上あらくなりしかは、又伊豆の崎と云方にたゝよはれ侍りしに、いとゝ波風おひたゝしくなりて、あまたの船行かたしらす侍りける」(『神皇正統記』)と、上総沖で暴風雨に遭遇して漂流し、船団から多くの船が行方不明となったという。
流された船のうち「御子の御船ハさはりなく伊勢の海につかせ給ふ、顕信朝臣ハ本より御船に候ひけり、同じ風のまきれに東をさして常陸の国なる内の海につきたる舟はへりき、方々にたゝよひし中に、この二の舟同し風にて東西に吹わけらる、末の世にハめつらかなるためしにそ侍りき、儲の君にさたまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかかとおほえしに、皇太神のととめ申させ給けるなるへし」と、皇太子義良親王と陸奥介顕信の乗る御座船は「伊勢国篠島」(『新葉和歌集』神祇歌)に漂着し、親房入道の船は常陸国の香取海へ流れ着いたという。親房入道はこれを皇太子の京外居住を皇太神が留めて伊勢に吹き戻したと述べている。また、結城上野入道の船も伊勢へと吹き戻されている。その後、義良親王と陸奥介顕信は吉野へ戻っているが、結城上野入道はそのまま伊勢に残っている。結城上野入道はこの二か月後に病死していることから、この時点で体調は芳しくなかったのかもしれない。
船団を襲った嵐は上総国の近くであったとされるが(『神皇正統記』)、太平洋岸が現在と同様の海流の動きであれば、上総付近まで来ていた場合、伊勢まで吹き戻ることは考えにくい上に「伊豆の崎」を漂ったことが記されており、実際は遠州灘付近での難破ではなかろうか。ここで吹き返された義良親王は伊勢へ、宗良親王は遠江国に漂着。親房らは海流に乗って安房国方面へ流されたのだろう。実際に9月9日「御敵船二艘、著安房国之間、安房国軍勢馳向畢」(『鶴岡社務記録』)とあり、『神皇正統記』に言う9月10日の前日に難破船二艘が安房国に漂着しており、実際の遭難は数日前であったと考えられる。9月12日にも「船六艘著安房国了」、翌13日「船二艘被放風、而被吹寄江島之間、御敵多被生取之内、関八郎左衛門尉其中大将云々、被誅了」という。翌14日には船三艘が「吹寄神奈河」られ、17日には「於稲瀬川御敵廿一人被誅畢、此内冷泉侍従、関八郎宗之者云々」とあり、稲瀬川で討った敵の中に「冷泉侍従」「関八郎宗之者」がいたという。「冷泉侍従」は冷泉左少将持定か。その後も20日にかけて漂着し潜伏したみられる武士等が鎌倉の留守居に誅殺されている(『鶴岡社務記録』)。
そして、難破事件から四か月後の暦応2(1339)年正月初旬頃、鎌倉は伊豆国南西岸の仁科に吉野方の人々が居住している情報を掴んだとみられる。鎌倉は正月20日、「標葉彦三郎隆光」らを「伊豆国仁科城」に派遣(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)。仁科城の大手で戦い、正月23日の戦いで負傷している。「標葉彦三郎隆光」は2月20日に「民部太輔(上杉憲顕か)」から感状を受けており(「室原氏」『相馬市史料資料集特別編 衆臣家譜 六』:岡田清一「近世のなかに発見された中世 ―中世標葉氏の基礎的考察―」『東北福祉大学研究紀要 第三十四巻』)、2月中旬までに仁科城を攻め落としたとみられ、2月に「自伊豆仁科城凶徒卅七人、目代具参、此内十三人者、於龍口被切了、大将普薗寺左馬助云々」(『鶴岡社務記録』)と、伊豆国賀茂郡仁科(賀茂郡西伊豆町仁科)に拠っていた普恩寺左馬助(六波羅北方の越後守仲時息)と麾下三十人余りが、伊豆目代に伴われ、大将の普恩寺左馬助友時以下十三人が龍口で処刑されているが、彼らがわずか三十七名で地理的にも何ら利点のない伊豆南西岸に拠っていたのは、土気城での敗北後、故陸奥守顕家や相模次郎時行に従って上洛したのち、親房入道の船団に加わって東国へ下る最中、「伊豆の崎」での難破によって西海岸に漂着したためであろう。
親房らは漂流ののち香取海に入っているが、房総半島の南端から香取海に向かうには海流の関係で意図的に北上する必要があり、さらに時期的に上総東側の潮流は南下流であることから、北畠親房入道の船団は操舵のできる状況にあったことがわかる。「吉野没落朝敵人北畠源大納言入道以下凶徒等、経海路当国東條庄著岸、為誅罰之、被発向之間、時幹罷向之處、今年建武五、十、五日、押寄神宮寺城致至極合戦」(建武五年十月「烟田時幹軍忠状」『烟田文書』)とあり、香取海に入った親房らの船団は常陸国東条庄に上陸して、そのまま沿岸の薬師寺城(稲敷市薬師寺)や阿波崎城(稲敷市阿波崎)に入っている。ところが、ここに常陸守護佐竹義篤の麾下に属する烟田又太郎時幹や鹿島又次郎幹寛、宮崎又太郎幹顕、小野崎次郎左衛門尉ら常陸大掾一族勢が攻め寄せたため没落し、筑波郡小田の小田宮内権少輔治久、関民部少輔宗祐のもとへ落ちていった。
奥州においては、結城上野入道の嫡子「結城大蔵大輔殿(結城親朝)」が白河を押さえ、「高野郡」など「白河高野以下諸郡ノ検断職ニテ毎時奉行セル者」(『関城書考』)とあり、奥州南部の旗頭的な立場となっていた。そのほか、「伊達宮内大輔行朝」や「石川一族等」「五大院兵衛入道」「小山安芸権守、同長門権守等」らが奥州南部を押さえていたようである。また、多賀国府付近では「葛西清貞兄弟以下一族」が主力となって「随分致忠之由」といい、足利方に対抗していたようである。ただ、清貞は「先被対治奥州羽州次第、可有沙汰之處、大将無御下向候、難事行候」と、旗印となる大将軍の下向がないことへの不審を述べ「此事葛西殊急申候」と、国司の下向を急ぐ事を要求している(延元三年十一月十一日「北畠親房入道返報」『結城文書』)。11月10日には相馬一族で唯一国司方に属していた「相馬六郎左衛門尉殿(相馬胤平)」が足利方の大将軍石塔義房入道の勧誘を受けており(暦応元年十一月十日「沙弥書状」『相馬文書』)、足利方による切り崩しが行われていた様子がうかがえる。そしてこうした中、吉野方の重鎮、結城上野入道が「延元三年戊寅十一月廿一日、於吹上光明寺病死也」(『光明寺墓碑銘』)と、伊勢光明寺において病死した。
延元4(1339)年2月22日、親房入道は「結城大蔵権大輔殿(結城親朝)」「禅門事已送日数候、悲歎無極候、自吉野殿も度々被仰下旨候、忠節無退転者、併可為追善歟、兼又此辺事、当時重々御沙汰之最中候也」(延元四年二月廿二日「北畠親房入道消息」『結城文書』)と、結城上野入道薨去について悔みを述べ、幼少から十二歳に至るまで薫陶を受けた「吉野殿(義良親王)」も同様に悲歎に暮れている旨を伝えてる。また、奥州へ「春日中将(春日顕国か)被下向候」のことを告げ、「近日先可被対治近国候、路次無為候者、急々可有御下向之由、御有増候」と、路次の危機が去れば親王御下向となることを述べている。さらに、親朝には「故将軍御息女辺事、構被懇意候者、可為御本意之由、内々所候也」と、顕家が奥州に遺した息女を親朝に託すことも依頼している。
その後、おそらく3月4日に「左中将(春日顕国か)」は関東の何処かに「下著候」し、「此辺凶徒等急令対治候」いい、まずは那須、宇都宮周辺の平定に同心するよう結城親朝に執達状を下している。その後、「春日羽林」は下野国に発向し、かつての顕家を彷彿とさせるような速攻を見せ、3月27日には矢木岡城を攻め落として撫で斬りし、益子城も攻め落とした。さらに桃井直常の舎弟某が籠る上三川城、箕輪城もたちまち蹂躙し、宇都宮周辺の足利方を追い散らしている(延元四年三月廿日「北畠親房代越後権守秀仲書状」『結城文書』)。
また、地域の諸郡検断奉行である結城親朝も高野郡を中心に足利方と激しく合戦し、7月26日、27日の両日、「高野郡長福楯」に足利方を攻めて追落している(延元四年八月廿一日「北畠親房入道御教書」『結城古文書写』)。この使者には「御使経泰」が遣わされ、親房入道は「経泰下向之間、条々所仰含也、委可被尋聞之状如件」(延元四年八月廿一日「北畠親房入道御教書」『結城文書』)と指示を与えている。この「経泰」は、かつて顕家将軍のもと大将軍として奮迅の戦いを見せた顕家被官(家司か)の唐橋修理亮経泰であろう。顕家の西上に従い、親房の東国下向に従ったのだろう。
関東、奥州における北畠親房入道、結城親朝以下の動きが活発化する中、暦応2(1339)年4月6日、高越後権守師泰、高尾張権守師兼、高三河権守師冬らは「自京都御下向」した(暦応三年五月「矢部定藤軍忠状」『諸家文書纂』、『瑠璃山年録残篇』)。おそらく左兵衛督直義の指示であろう。師泰と師兼は遠江国の吉野方を攻め、師冬は関東下向の大将軍であったと思われる。
7月22日には井伊谷の中務卿宗良親王や井伊介を攻めるべく、「越後殿、下大平ニ向」い、「尾張殿、濱名手向」って「カモノヘ城」を攻め立てて26日に攻め落としている(『瑠璃山年録残篇』)。師泰は8月23日時点でもまだ遠江国におり、「蒲御厨惣検校清保」が着到状を提出している(暦応二年八月廿三日「源清保着到状」『蒲神社文書』)。高師冬は「遠江国ノ凶徒ヲ責、師冬ハ下総常陸両国ノ凶徒ヲ責メ、年ヲ重テ合戦アリテ、皆凶徒或ハ降参シ、或ハ討レケリ、扨東国ハ静リケリ」(『保暦間記』)という。師冬はまず9月8日、「武蔵国村岡宿(熊谷市村岡)」から親房入道の在所、常陸国小田城(つくば市小田)へ向けて進発すると、10月22日に絹川(鬼怒川)の下総国「並木渡(結城市久保田)」、23日に「折立渡」を越え「駒舘野口(下妻市黒駒)」で合戦。25日には「当城(関城)」に攻め寄せるも(暦応三年五月「矢部定藤軍忠状」『諸家文書纂』)、その守りは堅く、一翌年もこの地を攻めている。
なお、越前での降伏以降の千葉介貞胤、下総の千葉氏の動向は不思議なほど見ることができない。下総国においては下総国下河辺庄で吉野方が動いており、暦応2(1339)年7月9日の「於下河辺庄合戦」のとき「相馬孫六郎長胤後家」は代官を真っ先に派遣し「左衛門尉重兼」の証判を得ている(暦応二年七月十六日「相馬長胤後家着到状」『相馬岡田文書』)。また、翌興国元(1340)年5月16日、親房は「下総国相馬郡ニ被構新城候、依之上総下総安房等軍勢者、悉以引返候、千葉一族、自去年連々申旨候、于今雖不表其色、此城出来之後、弥無等閑之体候」(興国元年五月十六日「北畠親房入道御教書」『結城文書』)といい、相馬郡に「新城」を築いたことで房総の足利方は退き、去就を明らかにしない千葉一族もこの城ができたことでいよいよ態度を明らかにせざるを得ない様子であると述べている。ただし、これは足利方への離反の可能性を見せていた白河の「結城大蔵大輔殿(結城親朝)」への報告であり、同文書には「官途所望輩事」について、結城一族、家人を含めて希望を注進するよう記すなど、親朝の離反を食い止めるべく必死の様相を示しており、千葉一族の去就についても大げさに書いてある可能性も否定できない。ただ、下総国相馬郡内に地域の勢力バランスを変える城を築けるほど親房の勢力は下総国南部にまで広がっていたとみられる。
延元4(1339)年8月15日、「陸奥親王」こと皇太子義良親王は「ゆつりをうけて天日嗣をうけつたへおはします」と、吉野において践祚した(『神皇正統記』)。これは上皇の病がもはや命旦夕に迫る状況となり「かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をは左大臣の亭へうつし奉らえて、三種の神器を伝申さる」(『神皇正統記』)と譲位。翌8月16日に「秋霧にをかされさせ給ひて」崩じた。五十二歳。「後の号をは仰のままにて、後醍醐天皇と申」(『神皇正統記』)という。この報を遠く常陸国小田で受けた北畠親房入道は「寝るか中なる夢の世は、今にはしめぬならひとはしりぬれと、かくゝゝ目の前なる心ちして、老の泪もかきあへねハ、筆の跡さへとゝこほりぬ」(『神皇正統記』)と、その崩御に衝撃を受けている。
上皇崩御の報は、「後醍醐院号吉野新院、暦応二年八月十六日崩御事、同十八日未時、自南都馳申之、虚実猶未分明、有種々異説、終実也」(『天龍寺造営記録』)と、18日に奈良からの飛脚で判明した。
この一報に、「諸人周章、柳営武衛両将軍、哀傷恐怖甚深也、仍七々御忌慇懃也、且為報恩謝徳、且為怨霊納授也、新建立蘭若、可資彼御菩提之旨発願云々」(『天龍寺造営記録』)といい、8月26日、鎌倉にもその崩御の報が届けられた(『鶴岡社務記録』)。
8月28日「伝聞、讃岐院隠岐院之時、不被止雑訴、即可用其儀之由、為大理資明卿奉行被相触了、且又被仰武家云々、而此御事治定之後、於武家者有存之旨、止雑訴之由申之云々、依之公家被停止七ケ日云々、可謂朝議之軽忽者歟、不可説々々々、莫言々々」(『中院一品記』)とあり、崇徳院や後鳥羽院のときは雑訴は停止されなかったことで、一旦は尊氏・直義もこの例を用いるとして治定したにもかかわらず、朝議を翻して武家においては「有存之旨」って七日間雑訴を停止すると決定。結果として公家のみ政務停止となり、権中納言通冬はこれを朝議の軽視で不届き至極と批判するも、武家を恐れて口を閉ざした(『中院一品記』)。この「武家者有存之旨」とは、「凡件院、非流刑自逃去給也、雖准崇徳後鳥羽等之例、無勅問間人々閉口歟」(『玉英記抄』)と、崇徳院や後鳥羽院の例に準じるとはいえ、後醍醐院は流罪となったわけではなく自ら出京したにすぎないという考え方で、「且為報恩謝徳、且為怨霊納授也」という後醍醐院に対する強い遠慮であろう。
暦応4(1341)年10月5日、光厳上皇は「詔征夷大将軍、左武衛将軍、令鼎建天龍寺、欲資薦先皇之冥駕、請夢窓国司為之開山」(『天龍紀年考略』)と、後醍醐院の冥加を祈る禅寺の建立を命じた。その地は「亀山殿之旧基」である嵐山の地で、尊氏・直義の両将軍は「令武蔵守師直、阿波守細河和氏、対馬守後藤行重、諏訪法眼円忠等」を工事の奉行と定めた(『天龍紀年考略』)。11月、光厳上皇はこの新寺に「霊亀山暦応資聖禅寺(天龍寺)」の勅号を賜った。延暦寺、建仁寺と並ぶ元号を冠した新寺であった。
その後、関東における吉野方は、南奥州の旗頭であった結城大蔵権大輔親朝が足利方に寝返り、北畠親房入道は、鎌倉の関東管領足利義詮の執事の一人、高三河守師冬の攻勢により、興国2(1341)年8月に小田城の小田宮内権少輔治久が降伏したため、小田城から関城に逃れるも、11月に関城も陥落。親房入道は失意のうちに吉野へ帰還せざるを得なかった。
また、奥州の吉野方は「宇津峯宮」とみられる上野太守守永親王(中務卿尊良親王子(『皇親系』))を奉じた陸奥介鎮守府将軍北畠顕信が奥州足利党と激しく戦い続け、観応2(1351)年には「宇津峯宮、伊達飛騨前司、田村庄司一族以下凶徒、府中襲下」(観応三年十一月廿二日「吉良貞家注進状」『相馬文書』)し、「相馬出羽守親胤」や「結城参河守朝常」「朝常代官結城又七兵衛尉」「伊賀孫次郎光長」「石河左近大夫兼光」らが吉良右京大夫貞家に属して戦っている。
前述の通り、延元2(1337)年正月25日の故権中納言顕家の千葉介貞胤からの綸旨廻文に対する返書以来、貞胤の動向はまったく不明となる。『太平記』によれば、木ノ芽峠での戦いで暴雪の中、足利修理大夫高経に包囲されて降伏したという。その後の各所の戦いにおいても貞胤は名が見えず、どのような活動をしていたのかは全くわからない。ただ、興国元(1340)年5月16日、常陸国小田城に駐在していた北畠親房入道が、陸奥国白河の結城大蔵権大輔親朝への書状で「下総国相馬郡ニ被構新城候、依之上総下総安房等軍勢者、悉以引返候、千葉一族、自去年連々申旨候、于今雖不表其色、此城出来之後、弥無等閑之体候」(興国元年五月十六日「北畠親房入道御教書」『結城文書』)という一文が見られ、相馬郡の「新城」により、去就を明らかにしなかった千葉一族もいよいよ態度を明らかにせざるを得ない様子であると伝えており(ただし、親房入道による誇張がある可能性がある)、足利方に属しつつも、いまだ揺れ動いていた可能性も考えられる。
しかし、暦応5(1342)年時点では貞胤はすでに足利方から下総守護職に任じられており、3月13日、香取社大禰宜・大中臣実行から「年限馳せ過ぎ候といえども、いまだ仰せ出でられ候はずの間」という訴えを受けた貞胤は、鎌倉の奉行所へ宛てて香取社造営についての書状を提出している。それを受けた鎌倉は、康永4(1345)年に下総国内の地頭等に香取社造営を命じている。康永4(1345)年3月に出された『造営所役注文』によれば、貞胤は「正神殿」「若宮(吉橋郷分)」「一鳥居(印東庄役)」の造営を命じられている。そしてこれ以降、貞胤は姿を完全に消し、次に公文書で貞胤がみられるのは、観応2(1351)年正月1日の貞胤の「今日未時、千葉前介貞胤有事」(『園太暦』)という薨伝である。
貞和元(1345)年8月29日の天龍寺供養に後陣随兵として供奉した「千葉新介」は貞胤の子・千葉新介氏胤と思われ、父・貞胤が香取造営のために下総国を離れることができなかったため、在京都の氏胤が出仕したのであろう。氏胤は京都で生まれ育ち、歌の道にも通じる教養人として成長していた。この天龍寺供養には千葉一族として東中務丞(東常顕)、粟飯原下総守(粟飯原清胤)が参列している。佐々木佐渡大夫判官秀綱が門前の警固を担当し、「供奉前後随兵」が山内の南北廻廊の前に着座。「一族左京大夫満義車、修理大輔高経乗輿、其外公家武家人々多構桟敷見物」という(『結城文書』)。
●貞和元年八月廿九日天龍寺供養(『園太暦』『結城文書』)
先陣 (侍所) |
山名伊豆前司 (山名時氏) | ||||
先陣随兵 (十二騎) | 左 |
武田伊豆前司 (武田信武) |
戸次豊前太郎 (戸次頼時) | 土屋備前権守 (土屋教遠) |
佐々木佐渡四郎左衛門尉 (佐々木秀宗) |
右 | 小笠原兵庫助 (小笠原政長) |
伊東備前権守 (伊東祐熈) | 東下総中務丞 (東常顕) |
佐々木近江四郎 (佐々木高秀) | |
左 |
大平出羽守 (出羽義尚) | 上総三郎 | |||
右 |
粟飯原下総守 (粟飯原清胤) |
高刑部大輔 (高師兼) | |||
帯剣 (御車左) | 武田伊豆四郎 |
佐竹刑部丞 (佐竹師義) | 佐々木十郎四郎 |
三浦駿河次郎左衛門尉 (三浦藤村) | |
二階堂美作次郎左衛門尉 (二階堂政直) |
佐々木佐渡五郎左衛門尉 (佐々木高秀) |
海老名尾張六郎 (海老名季直) | 逸見八郎 (逸見貞有) | ||
設楽五郎兵衛尉 (設楽助定) |
寺岡兵衛五郎 (寺岡師春) | 逸見又三郎 (逸見師満) | 小笠原源蔵人 | ||
佐々木出羽四郎兵衛尉 | 富永孫四郎左衛門尉 | 清久左衛門次郎 (清久泰行) |
曾我左衛門尉 (曾我師助) | ||
帯剣 (御車右) | 小笠原七郎 | 佐々木信濃五郎 | 小笠原又三郎 (小笠原宗光) | 三浦越中次郎左衛門尉 | |
二階堂対馬次郎左衛門尉 |
佐々木佐渡四郎 (佐々木高秋) | 平賀四郎 | 小笠原太郎次郎 | ||
設楽六郎 (設楽助兼) | 寺岡次郎 | 逸見源太 (逸見清重) | 秋山新蔵人 | ||
佐々木近江次郎左衛門尉 (佐々木清氏) | 宇佐美参河三郎 | 木村長門四郎 (木村基綱) |
伊勢勘解由左衛門尉 (伊勢貞継) | ||
大納言車 (八葉車) | 足利権大納言尊氏 | ||||
左武衛車 (八葉車) | 足利左兵衛督直義 | ||||
布衣半靴 (十騎) | 左 |
南遠江守 【尊氏剣】 |
佐々木吉田源三左衛門尉 【尊氏調度】 | 播磨守 【直義剣】 |
佐々木筑前三郎左衛門尉 【直義調度】 |
右 | 長井前大膳大夫 【尊氏沓】 |
和田越前守 【尊氏笠】 | 長井前治部少輔 【直義沓】 |
千秋参河左衛門大夫 【直義笠】 | |
役人 | 武蔵守 (高師直) | 前弾正少弼 | 伊豆前司 (上杉重能) |
上杉左馬助 (上杉朝定) | |
【小侍所】 大高伊予権守 (大高重成) | |||||
後陣隨兵 (十騎) | 尾張左近大夫将監 | 二階堂美濃守 | 佐竹掃部 | 武田甲斐前司 | |
三浦遠江守 |
千葉新介 (千葉新介氏胤) | 山城三郎左衛門尉 | 佐竹和泉守 | ||
伴野出羽前司 | 土肥美濃権守 | ||||
直垂著 (左) | 土佐四郎 | 長井丹後左衛門大夫 | 城丹後権守 | 二階堂安芸守 | |
中條備前守 | 町野備前守 | 中野加賀守 | 佐々木豊前次郎右衛門尉 | ||
大内民部大夫 | 狩野下野三郎左衛門尉 | 島津下野守 | 武田八郎 | ||
土屋参川権守 | 疋田三郎左衛門尉 | 田中下総三郎 | 赤松美作権守 | ||
寺尾新蔵人 | |||||
直垂著 (右) | 長井修理亮 | 摂津右近蔵人 | 水谷刑部少輔 | 二階堂山城守 | |
薗田美作権守 | 美作守 | 結城大内三郎 | 梶原河内守 | ||
大平六郎左衛門尉 | 里見蔵人 | 武田兵庫助) | 安保肥前権守 | ||
小幡右衛門尉 | 寺岡九郎左衛門尉 | 須賀左衛門尉 | 赤松次郎左衛門尉 | ||
寺門警固 検非違使 |
佐々木佐渡大夫判官 (佐々木秀綱) | ||||
執蓋 | 二階堂丹後三郎左衛門尉 | ||||
執綱 | 島津常陸前司 | 佐々木参河禅師 | |||
公卿 | 飛鳥井新中納言 【雅孝卿】 |
大蔵卿 【雅仲卿】 | 一条二位 【実豊卿】 |
持明院三位 【家藤卿】 | |
殿上人 | 左 | 難波中将宗有 | 難波中将宗清 | 持明院少将基秀 | 二条少将雅冬 |
右 | 二条中将資持 | 紙屋川少将教季 | 姉小路侍従基賢 | 持明院前美作守盛雅 | |
諸大夫 | 左 | 千秋駿河左衛門大夫 | 佐分左近大夫 | ||
右 | 星刑部少輔 | ||||
勅使 | 日野藤中納言資明卿 | ||||
院使 | 高右衛門佐泰成 |
なお、『千葉大系図』においては、粟飯原清胤は貞胤の甥となる。清胤は鎌倉期に上総国で被官化した粟飯原氏を継承したと思われ、足利家根本被官であろう。暦応2(1339)年7月5日、「清久弾正忠他界粟飯原入道子息」(『常楽記』)とみえるが、この「粟飯原入道」とは、直義のもとで雑訴を担当する奉行人「粟飯原中務入道蓮胤」であろうか(建武四年七月三日「足利直義下文」『茂木文書』)。なお、知貞の「外祖父」は「清久小次郎胤行」であり、知貞「亡母照海」へ相伝された「私市荘公文職」が嘉暦2(1327)年7月16日に知貞に相伝されている。
茂木知盛
(心仏)
∥――――――茂木知氏
∥ (三郎左衛門尉)
某氏――――女子 ∥――――――茂木知貞====茂木知顕
(尼慈阿) ∥ (越中権守) (彦六)
∥ ∥
清久胤行―――女子 ∥―――――+―茂木知世
(小次郎) (照海) ∥ |(弥三郎)
∥ |
某氏―――――女子 +―茂木知久―――香犬丸
(又三郎)
貞和2(1346)年閏9月27日、足利直義は京都最勝光院領の遠江国原田庄内細谷郷の雑掌・定祐の訴えをうけ、同郷の一分地頭・原熊伊豆丸に年貢を納めさせることを遠江国の「守護人」千葉介貞胤に催促している(貞和二年閏九月廿七日「足利直義裁許状案」『東寺文書』)。
●貞和2(1346)年閏9月27日『左兵衛督直義裁許状案』(『東寺百合文書』:『南北朝遺文』1655)
さらに10月7日にも同じく細谷郷雑掌定祐からの訴えに基づき、「守護人千葉介貞胤」に「当郷一分地頭金子弥次郎忠継」に年貢未納の催促をすべきことを命じている(貞和二年十月七日「足利直義裁許状案」『東寺文書』「南北朝遺文1661」)。
貞和3(1347)年8月、「南方凶徒対治事」として、直義は「畠山左近大夫将監(畠山国清)」を紀伊国へ派遣し、8月9日、「河野対馬入道殿」にも一族を率いての出陣を命じた(貞和三年八月九日「足利直義軍勢催促状」『徴古雑抄』)。
8月10日、河内国に兵を挙げた楠木左衛門尉正行らが「紀州隅田城(橋本市隅田町)」に攻め寄せ、8月19日には「泉州摂州辺熊野凶徒多以覬視、為退治陸奥守顕氏朝臣以下■■等発向方々、顕氏即向天王寺、自其可発向泉州堺浦云々」(『園太暦』)と、和泉から摂津周辺に熊野道を上ってきた熊野勢力が進出したため、和泉・河内両国守護の細川陸奥守顕氏が緊急で天王寺へ派遣された。ところが、「陸奥守顕氏取陣於天王寺之處、以外無勢、凶徒載勝攻来者難治之間」と、天王寺の警衛武士を当てにしていたのか、細川勢と天王寺勢を合わせても相当に無勢であって、勝ちに乗じた敵勢を鎮圧することは難しいと判断し、8月21日に「今日泉州堺浦、急可向勢之旨」を京都に注進した(『園太暦』)。
その後、細川勢は堺浦から上町台地を横切って楠木党の本拠東條を突くべく、河内国東南部へ侵攻する。8月24日には狭山池南での「河州池尻合戦(大阪狭山市池尻)」で楠木正儀勢(楠木正行麾下)と合戦している。この合戦の勝敗は定かではないが、細川勢は敗れて、東河内の広大な新開池に浮かぶ八尾中洲(八尾市)の「八尾城」に籠ったようである。9月9日楠木勢は「同国八尾城(八尾市本町か)」(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)を攻めている。
その後、八尾城の援軍とみられる佐々木大夫判官(佐々木大夫判官氏頼)が柏原(柏原市)のあたりまで進出するも、9月17日には「藤井寺合戦(藤井寺市内)」で「佐々木大夫判官手者多打死云々」(『師守記』)と敗北を喫している。
しかしその後、顕氏勢は楠木勢を破り、八尾から玉串川を渡り、9月19日の「河州教興寺合戦(八尾市教興寺)」で生駒山麓教興寺付近まで追い込んだようである。ところが「顕氏得理之處、凶徒入夜俄襲来、官軍敗績多殞命、或又死生不分明之輩多々云々」(『園太暦』)とあり、勝利を目前に楠木勢の夜襲により潰走することとなった。
こうした南方の戦況報告を受けた直義は「南方凶徒対治事、所差遣山名伊豆前司時氏也」(貞和三年九月廿八日「足利直義軍勢催促状」『島津文書』)と、侍所司の山名伊豆前司時氏の派遣を決定。10月1日、「山名伊豆守発向東條」(『師守記』)させた。山名時氏は細川顕氏と同じく上町台地上を南下し東行するルートであったようだが、おそらく教興寺合戦に敗れ、天王寺あたりに遁れていた細川顕氏と合流したのだろう。山名・細川勢は11月26日に「自南方押来」(『師守記』)た楠木正行勢と「住吉天王寺両所合戦」(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)した。しかし、「河州凶徒来襲、天王寺并堺浦合戦、陸奥守顕氏不及幾合戦引退、伊豆守時氏、尽心力相戦、終舎弟両三人同所打死、時氏父子被疵引退、武家辺騒動云々」(『園太暦』)とあるように、細川顕氏は東河内での大敗により寡兵だったのだろう。大した戦いもしないまま退却し、伊豆守時氏は奮戦するも舎弟三人(三河守兼義ほか)を討たれ、時氏父子も負傷して引き上げた。この細川・山名の精鋭が大敗を喫し「軍勢悉引京都云々、今夕打死并被疵輩不知数云々、以外事也」(『師守記』)ということで、尊氏・直義はかなりの危機感を持ったようである。
直義は11月28日、改めて諸国の武士に「東條凶徒退治事、早可令発向」を命じている(貞和三年十一月廿八日「足利直義軍勢催促状」『鹿苑寺文書』ほか)。東條は楠木惣領家の根拠で佐備城、赤坂城などの要害が残されており、元弘の乱の再来の様相が見え始めていた。さらに「大友右近将監殿」には「大和国凶徒退治」が命じられ、生駒山地西側の東條周辺だけではなく、東側からも追捕が行われたことがわかる。
11月30日、越後権守師泰は和泉国の「日根野左衛門入道殿」に対して「南方凶徒退治事、則被仰下、不日所発向也、早和泉国槌丸城警固」を命じているが、直義の「南方凶徒退治」の方針を受けての軍勢催促とみられ、細川顕氏から和泉国守護職を交代していることがわかる。師泰は和泉国のみならず河内国内にも兵粮料所の設定及び寺社への取立を行っていることから、河内国守護職も引き継いでおり、細川顕氏とそっくりそのまま河泉両国守護職が入れ替えとなっていることがわかる。ただし、この守護職交代はあくまでも細川顕氏への罰ではなく、現実的に現在の細川顕氏の力では東條楠木一党の攻勢を防ぎ鎮圧することは不可能であると認識された結果、執事舎弟の越後守師泰が東條楠木一党を鎮定するために臨時的に補任されたものである。守護職人事は恩賞に相当するものではないことが『建武式目』に明記され「諸国守護人、殊可被択政務器用事」と定められており、守護職交代は情勢に応じて変化しうるものだったのである。顕氏の守護職交代は決して「罷免」等のものではなく、士気の低下や兵力を失った顕氏に代わり、南朝方に対する強硬派であり、足利家の執事家たる越後権守師泰を泉河両州の守護に抜擢し、軍勢催促権をゆだねて立て直しを図ったものと考えられる。
執事師直及び弟の師泰はその期待に応えて、楠木正行や和田新発意ら東條楠木党の主要な人々を討ち取っている。その後、貞和五年八月政変で師泰が上洛するにあたり、師泰はこの両職をあっさりと辞したとみられ、師泰が後任として招いた紀伊国守護職畠山阿波将監国清が河内、和泉両国の守護に補任されたとみられる。
このような中、尊氏は大納言家政所の執事として「清胤十二月三日已後、粟飯原下総守」を任じた(『園太暦』)。『千葉大系図』によれば清胤は貞胤の甥であるが、粟飯原清胤が足利家に仕え続けていた一方で、千葉介貞胤は宇都宮公綱とともに一貫して後醍醐天皇方の主要武家であり、さらにその後も粟飯原清胤と千葉介貞胤の連携は全く見られない。
12月11日、足利勢は摂津国へ進発した。10月28日の「直義軍勢催促状」に応じた人々の軍勢であろう。これに対し、吉野方の和泉国守護代大塚惟正は「和田殿」へ「御かたき、昨日十一日、京をたち候て、すてにくたり候ほとに、たう国人々々をわたなへへむけ申され候、ときをおかへす御したゝめ候て、御むかひ候へく候」(正平二年十二月十四日「大塚惟正軍勢催促状」『和田文書』)と、和泉国の吉野方武士は天王寺、渡邊へ加勢するよう指示している。
12月14日夜、まず「越後守師泰発向南方云々」(『師守記』)と、師泰を大将とした軍勢が京都を出立した。「東條凶徒等為御退治」(『田代文書』)としており、師泰の目的は「東條凶徒(楠木党)」の追討であり、10月28日に出立した軍勢は先陣であろう。
そして四日後の12月18日、「武蔵守師直発向河州、舎弟師泰於淀辺相待、相伴可発向云々」(『園太暦』)とあり、足利家執事の師直が直々に出兵した。直義は諸国の武士及び守護に来年正月1日までに八幡へ馳せ参じ、執事師直に従う旨の御教書を発していたとみられ、師直・師泰は「年内ハ八幡越年云々」(『師守記』)で軍勢を待つことになったと思われる。12月28日には「執事武蔵守師直、為令進発于楠木城」といい、その勢は「一万余騎」(『醍醐地蔵院日記』)というが、実際に出立したのは翌貞和4(1348)年正月2日で、「執事立八幡、懸于河内路、進発東條城云々、但令逗留野崎辺云々」(『醍醐地蔵院日記』)という。なお、師直と師泰は二手に分かれており、師直の軍勢が野崎(大東市野崎)へ進軍し、師泰の軍勢は和泉国の警衛に回っている。
「野崎」は河内国東部に広がっていた深野池を渡った旧河内国讃良郡(大東市野崎)にあり、生駒山地西麓の街道筋である。「吉野退治御教書并守護御催促状」を受けて正月1日に八幡へ参着した「出雲国三刀屋郷惣領諏方部三郎入道信恵代子息弥三郎扶直」は、出雲守護佐々木道誉の軍勢に従って、正月2日「河内国佐良々著到」(貞和四年二月十三日「諏方部扶直軍忠状」『三刀屋文書』している。
「武蔵守師直、為攻東條、自佐々羅攻向」と、讃良郡野崎から東條へ向けて南進したところ、「東條軍勢襲来、合戦頗火出程事也」(『園太暦』)と、楠木勢が襲い掛かってきた。合戦は「四條合戦」(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)、「四條御合戦」(貞和四年二月十三日「諏方部扶直軍忠状」『三刀屋文書』)、「河内国佐良々北四條御合戦」(貞和四年三月「佐野氏綱軍忠状」『古今消息集』)とあることから、師直勢は南から四條畷を追撃されたと考えられる(ただし、「東條」が単純に「楠木党そのもの」を指しているとすれば、讃良より楠木党を討つべく出立したとなり、楠木勢はもともと四條に布陣していたとも取れる)。
しかし、この「四條合戦」は「一万余騎」(『醍醐地蔵院日記』)とされる足利方が巻き返し、「楠木帯刀正連并舎弟、和田新発等自殺、梟首、生慮少々、将来、天下呼万歳云々、当年始誠相叶祝言者歟」という。「楠木正連行字云々、討死云々、和田新発意同時被討云々」(『醍醐地蔵院日記』)、「楠木兄弟、和田已下被誅了」(『東寺文書』)とあるように楠木帯刀正行と和田新発意が当時の東條楠木勢の大将とみられていた様子がうかがえる。和田新発意は楠木正成の弟、和田正氏の子「賢快新発」(『尊卑分脈』)と見える人物で、正行の従兄弟に当たる。なお、征西将軍宮懐良親王に供奉する中院前中納言義定から「阿蘇大宮司(阿蘇惟時)」へ宛てた書状の中に「去月六日、綸旨御使皆吉彦三郎、をとゝひ十一日下著候、楠木正行兄弟、わたのしんほち、開住良円、あをやの形部是ハよしのゝ衆■、以上廿七人、正月五日殞命実正にて候」(正平三年三月十三日「中院義定書状」『阿蘇文書』)とみえることから、楠木氏に従軍していた和泉国和田氏(みぎた)とは異なり、「わだ」と称されていたことがうかがえる。
なお、『太平記』においては、四条畷合戦の際、大将軍師直手の三番手に「千葉介、宇都宮遠江入道、同参河入道」が見え、楠木勢との合戦で「千葉、宇都宮カ兵、許多討レ」たという(『太平記』)。
貞和4(1348)年正月6日、「楠木正貫以下討取、彼首入京、則被懸六條河原」(『建武三年以来騎』)と、翌6日には楠木正行らの首級は六条河原に梟首されている。また吉野でもこの敗戦を受けて相当の危機感を抱いたとみられ、「宮将軍(大塔若宮の事か)」及び「一品家(北畠親房入道)」は「就之有可被仰談之子細」のため「急可被参之由」を「和田一族中」に命じている(正平三年正月六日「宮将軍令旨」「北畠親房入道御教書」『和田文書』)。
合戦勝利の報告は例によって九州の諸将に伝えられたとみられ、正月12日、直義は「島津上総入道殿」に「今月五日、楠木帯刀、同弟次郎、和田新発、同舎弟新兵衛尉以下凶徒数百人、於河州佐良々北四條、所討留也、此上吉野退治不可有子細」(貞和四年正月十二日「足利直義書状」『薩藩旧記』)と報告している。
正月8日、堺浦に駐屯していた越後守師泰は、正月8日に堺から「東條御発向」(貞和五年八月「淡輪助重軍忠状」『淡輪文書』)して「河内国古市」に向かっている(貞和五年七月「田代了賢軍忠状」『田代文書』)。
正月12日には師泰勢は聖徳太子の御廟(南河内郡太子町の叡福寺)に至り、「河内国太子御廟武家打入、坊中在家悉令焼失了、塔堂伽藍少々残云々、御廟之内無違乱、御影堂乱入シテ御衣ハキ取了、御手足少々破損云々」(『斑鳩嘉元記』)という濫妨を働いている。これは「太子御廟又師泰懸兵粮追捕、太子御体破損歟、廟中沙金已下有之、悉捜取、言語道断事云々」(『園太暦』)とあるように、太子御廟に備蓄している年貢米を狙った濫妨で、気の立った兵士が他所にも狼藉を働いた上に火をつけたのだろう。この狼藉行為は京都にまで伝わり、洞院公賢は「言語道断」「国家安危為之如何」と扱き下ろしている(『園太暦』)。
この二日後の正月14日、師泰勢は「東條」に攻め入り、「正月十四日至二月八日、越州東條上時両度合戦」と、正月14日、2月8日の二度にわたって諸所に合戦が行われた。このときの楠木党の惣領家は楠木帯刀正行、次郎正時の弟の楠木三郎正儀であり、彼は諸所の合戦を生き延び、楠木家の血統を後世に伝えることになる。その後、師泰勢は翌貞和5(1349)年7月まで古市・石川に在陣して周辺を警衛し、「楠木左衛門尉正行住宅以下、敵陣在々所々等焼払了」という(貞和五年七月「田代了賢軍忠状」『田代文書』)。
一方、高師直勢は「四條御合戦」ののち、生駒山地を経由して正月15日には大和国平田庄(明日香村周辺)に在陣しており(『園太暦』)、しばらく宿陣している。前日14日に弟の師泰が楠木党本拠の東條を攻めており、様子を窺っていた可能性があろう。師直は20日になっても「師直未向吉野」と軍勢を進めておらず、生駒山地を挟んだ反対側での戦闘の行方を慎重に見極めつつ、しばらく諸勢の参陣を待っている。
正月25日、高師直は「平田庄罷移橘寺」(『園太暦』)しているが、同日、安芸守護の武田信武を大将軍とする一勢の参陣があり「逸見五郎次郎入道大阿代子息四郎有朝」も正月25日に橘寺に参着している(貞和四年二月「逸見有朝着到状」『小早川文書』)。そのほか、「吉川又次郎実経」「内藤左衛門五郎氏広」「山内首藤三郎時通」ら安芸、備後の国人が師直勢に参着した。そして、「及酉刻彼方焔火充満、師直先陣等所為歟、将又彼方降参所望之輩有数而致忠可参旨仰了、若彼等沙汰歟」という。橘寺から吉野方面と思われる方角で合戦があったか住居が燃やされたか、何らかの焔が上がったようである。
翌正月26日、「武州発向吉野」(『醍醐地蔵院日記』)し、「正月廿七日、廿八日」も吉野へ通じる道筋で合戦が起こっている(正平三年三月十三日「中院義定書状」『阿蘇文書』)。吉野方の最後の抵抗であろう。しかし、師直勢の勢いは止められず、正月30日に「武州、吉野河原辺構陣畢」(『醍醐地蔵院日記』)し、吉野山攻撃を命じたとみられる。攻め上った足利勢は「卅日、蔵王堂回禄、本尊蔵王権現并神輿等悉令炎上云々」と、御所付近を蹂躙し、「懸火之處、件余■移蔵王堂」(『園太暦』)して蔵王堂が炎上、「本堂并諸社等悉回禄、勝手宮無焼失云々」という惨状となった。これを聞いた洞院公賢は「冥慮尤可怖事歟」(『園太暦』)と評し、「吉野蔵王権現為師直為灰燼、国家安危為之如何」(『園太暦』)と批判している。
ところが、この放火は後村上天皇が自ら吉野を焼き払うために行ったとも伝わっている。後村上天皇は吉野に師直勢が攻め寄せる直前まで御座しており、混乱極まる奥州を戦い抜いた天皇は、おそらく撤退を拒絶していたのだろう。しかし、北畠親房入道ら吉野方の人々は天皇の玉体を全うさせるべく説得し、天皇は撤退に伴い「吉野蔵王堂、一昨日炎上、南方帝御所御没落之刻同、御自放火云々」(『建武三年以来記』)という。
「吉野帝御没落」(『醍醐地蔵院日記』)すると、「吉野帝御遷座于阿弖河入道城」とあるように、紀伊湯浅一族で楠木党と所縁の深かった阿弖川氏の城に入ったようである。これは後村上天皇近臣、左少弁正雄(蔵人左少弁藤原正雄)から九州の征西将軍宮側近の「中院前中納言殿(中院義定)」への綸旨でも「凶徒襲申吉野之間、当山要害難義非一、仍被改御座、臨幸紀州候也」(正平三年二月六日「後村上天皇綸旨」『阿蘇文書』)ということからも事実であろう。
師直率いる足利勢は「其後凶徒雖入彼山、衆徒堂衆郷人等致合戦、無程令追出畢」と、吉野山に入るも衆徒等の抵抗に遭い、撤退したという。すでに天皇は吉野から姿を消しており、師直勢は金峯山寺の衆徒等の抵抗を受け、さらに諸堂が炎に包まれる灼熱の中、撤退せざるを得なかったのではなかろうか。なお、「吉野没落之由」は「執事師直、進早馬」て直義へ報告されており、直義から尊氏へ伝えられると、尊氏は三宝院大僧正賢俊へ「法験無比類者也」として「御感状」を下し、正月27日、直義が三宝院賢俊へ報告とともに感状を渡している(『五八代記』)。後村上天皇が遁れた阿弖河城は堅固であり、さらに「河州和泉本陣無相違、宇陀、宇智、紀伊衆、勢州等御方、同以所致忠節也、近日被召聚熊野以下勢、所被始合戦也」(正平三年二月六日「後村上天皇綸旨」『阿蘇文書』)と、いまだ吉野方は健在であると報告している(これもかなり誇張があるか)。
師直勢は2月7日には「内郡」(貞和四年二月「逸見有朝着到状」『小早川文書』)、「宇智郡」(貞和四年三月「佐野氏綱軍忠状」『古今消息集』)へ出向し、翌8日には「自宇智郡」から「平田」へと戻る途次、「於風森巨勢河原」(貞和四年二月「逸見有朝着到状」『小早川文書』)で合戦となっている。曾我川と巨勢山に挟まれた狭隘地に待ち伏せていた「宮方群勢并野伏等数千騎出現」し、師直勢に襲い掛かったのだろう。勝敗は不明だが、師直勢は翌2月9日に飛鳥周辺の「平田」に着陣し、三日間駐屯して吉野方の出方を警戒したのち、2月12日に「南都」へ移り、翌13日夜に「御帰洛」した(貞和四年三月「佐野氏綱軍忠状」『古今消息集』)。師直の「軍勢不知其数、仮令一万余騎」(『醍醐地蔵院日記』)というような大軍での帰洛であった。
また、師直勢とは別道で奈良へ向かっていた佐々木佐渡判官入道道誉勢は、おそらく楠木勢の残党からの襲撃を受けたのだろう。この襲撃により「佐土判官入道之勢、多以被討留云々、則佐土判官入道并嫡子新判官等、数箇所被疵云々」(『醍醐地蔵院日記』)という被害を出した。そして負傷した嫡子の「四郎左衛門尉打死」(『常楽記』)という。嫡子四郎左衛門尉秀宗を失いながらも、佐々木道誉は2月10日、奈良へ帰った。「其勢四五百騎云々」(『醍醐地蔵院日記』)という体であったという。
一方、東河内では「東條城猶不退散間、師泰以下抑留」(『建武三年以来記』)といい、楠木帯刀正行、次郎正時、和田新発地、和田新兵衛尉行忠ら楠木党の中核を担う人々は討死を遂げたものの、東條城はいまだ降伏せず、おそらく楠木三郎正儀による抵抗が続いていた。2月6日には「春木谷合戦」(岸和田市春木本町)で和泉守護師泰の「御守護代官土田九郎」が東條楠木党と合戦し、3月18日、19日の両日には「越州東條上時、彼方佐美谷口所々合戦」(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)している。師泰は「東條城」の北口にあたる「佐美谷口」から攻め寄せたとみられる。結局、師泰はこの戦いで東條城を抜くことは叶わなかったが、師泰勢は「古市、石川」に在陣して警衛を行っている。こうした軍功によるものか、4月12日の県召除目において、「高階師泰、高階重成」が正五位下に叙されている(常和四年四月十二日『園太暦』)。4月26日、師泰は「天野二王山(河内長野市天野町の金剛寺)」に攻め上り、吉野方と合戦している(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)。その後、師泰勢は翌貞和5(1349)年7月まで古市・石川に在陣して周辺を警衛し、「楠木左衛門尉正行住宅以下、敵陣在々所々等焼払了」という(貞和五年七月「田代了賢軍忠状」『田代文書』)。
師泰による南河内の平定戦と並行し、貞和4(1348)年4月中旬、直義は光厳上皇の院宣を以て、養子の「左兵衛佐直冬」を総大将とした紀伊国平定軍の派遣を決定。4月16日に御教書を各地に下して発向を命じた(貞和四年卯月十六日「足利直義御教書」『宇野文書』)。正月30日、執事師直が吉野攻め後、紀州へ逃れた後村上天皇を追跡することなく上洛の途に就くという不自然な行動を取ったのは、直義が養子直冬を紀州攻めの大将として派遣する計画のためである可能性もあろう。当然、師直の反発は予想できるが、対立の一端とも見ることができよう。
直冬が「左兵衛佐」に任じられた正確な日時は不明だが、「紀伊国ノ宮方共蜂起テ事及難儀ケル時、将軍始テ父子ノ号ヲ被許、右兵衛佐補任シテ、此直冬ヲ討手ノ大将ニゾ被差遣ケル」(『太平記』)とあり、『太平記』の記述ではあるが、尊氏は直冬の紀伊国出陣決定に際して、ようやく直冬に父子の号を許し、「右兵衛佐(左兵衛佐の誤)」に任じたという。当時の「左兵衛督」は直義であり、その属官「左兵衛佐」への任官は直義が奏請したことによる可能性が高いだろう(任官の記録は遺されていないが、3月20日の縣召除目が直近で内訳がわからないものであり、このあたりの任官か。官位は不明だが、尊氏嫡子義詮の従四位下を超えることはあり得ず、無位からの直叙で従五位下が妥当か)。
4月22日、直冬は祇園社の少納言法印御房に対し「紀州為凶徒退治所発向也、殊祈祷可被致懇誠」を祈願している(貞和四年卯月廿二日「足利直冬祈祷状」『祇園社記続録』)。直義の軍勢催促はその後も続き、5月6日には九州の「大友参河守殿(大友宗匡)」、播磨国の「安積平次殿(安積盛兼)」へ「紀伊国凶徒退治事、就院宣所差遣左兵衛佐直冬也、早可発向」を命じている(貞和四年五月六日「足利直義御教書」『大友文書』『安積文書』)。そして5月28日、「右(左)兵衛佐直冬、為紀州大将軍発向、京門出宿東寺云々」(『園太暦』)した。
足利直冬の生い立ちについて
直冬は将軍尊氏の実子であるが、尊氏はなかなか認めず、直義がもらい受けて養子とした人物である。直冬の出生以降は杳として知られない。ただ、信憑性に乏しい『太平記』の記述だが、その一端が記載されている。それによれば、
「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給ヒタリシ越前局ト申女房ノ腹ニ出来タリシ人トテ、始メハ武蔵国東勝寺ノ喝食ナリシヲ、男ニ成シテ京へ上セ奉シ人也、此由内々申入ルゝ人有シカ共、将軍曽テ許容シ給ハザリシカハ、独清軒玄恵法印ガ許ニ所学シテ幽ナリ体ニテゾ住侘給ヒケル、器用事ガラサル体ニ見ヘ給ケレハ、玄恵法印事ノ次ヲ得テ、左兵衛督ニ角ト語リ申タリケルニ、サラハ其人是ヘ具足シテ御渡候ヘ、事ノ様能々試テ、ゲニモト思フ所アラハ、将軍ヘモ可申達ト、始テ直冬ヲ左兵衛督ノ方ヘソ被招引ケル、是ニテ一、二年過ケルマデモ、ナヲ将軍許容ノ儀無リケル」(『太平記』)
とあり、鎌倉将軍宮御所の女房と思われる「越前局」を母として生まれるも、尊氏の認知がなかったためか幼少時に北条家菩提寺の東勝寺に預けられ、喝食になったという。東勝寺の喝食となっていることから、越前局は北条家ゆかりの女性だった可能性が考えられよう。
鎌倉末期の越前守としては丹後守有義の子・越前守貞有と、武蔵守宣時の子・越前守貞房が見られるが、貞有は十三世紀末頃の任と思われ、越前局の父としてはやや年長である。一方、貞房は徳治元(1306)年7月19日に越前守に補任され、延慶元(1308)年12月に六波羅南方として上洛、延慶2(1309)年2月19日までの間に越前守を辞し(源有頼履歴『尊卑分脈』)、12月22日に三十八歳で京都で亡くなっている(『鎌倉年代記』※越前守の補任時期については、佐藤圭『鎌倉時代の越前守』を参考)。逆算すると貞房の生年は文永9(1272)年となり、尊氏の父・讃岐守貞氏の一歳年上となることから、貞房の娘がいたとすれば尊氏とほぼ同年代となろう(系譜は略系のため男子一人のみ記され、女性がいた傍証はない)。なお、越前守貞房の母(貞房は評定衆を務めるなど政務中枢に関わっており、嫡出と思われる)は越前守時広の娘であるが、時広の孫娘に当たる女性が、直義正室の渋川氏(本光院)である。
渋川義春
(次郎三郎)
∥――――――渋川貞頼―+―渋川義季
∥ (兵部大輔)|(兵部大輔)
∥ |
北条盛時―+―北条時村――北条時広―+―女子 +―女子
(越後守) |(相模次郎)(越前守) | ∥―――――足利如意王丸
| | ∥
| +―女子 足利貞氏―+―足利直義==足利直冬
| ∥ (讃岐守) |(左兵衛督)(左兵衛佐)
| ∥ | ↑
| ∥――――+―北条宗宣 +―足利尊氏 |
| ∥ |(陸奥守) (権大納言) |
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥―――――足利直冬
| ∥ | ∥ (左兵衛佐)
+―北条朝直―――――――――北条宣時 +―北条貞房―?―越前局
(遠江守) (武蔵守) (越前守)
上洛した直冬は「此由内々申入ルゝ人有」といい、直冬には実父尊氏と話を繋げることができる人物がついていた様子がうかがえる。結果として「将軍曽テ許容シ給ハザリシ」と、直冬の認知を避けている。
その後、直冬は独清軒玄恵法印のもとに参じて侘び住まいしていたが、玄恵は大僧正法印という最上位の高僧で古今に通じた学僧であり、十代半ばでしかも無名の若者を迎え入れることは通常考えにくい。ここには直冬の侘び住まいを許容するほどの理由があったと言わざるを得ない。玄恵法印に直冬の世話を依頼したのは、彼に帰依する直義だったのではなかろうか。おそらく直義はかなり以前(鎌倉赴任の時期か)から尊氏庶子の存在を知っており、内々に庇護していた可能性があろう。発覚直後からの直義の直冬に対する相当な肩入れや、直冬の直義に対する強い報恩の姿勢を考えると、かなり以前からの交流があった可能性も否定できないだろう。ただし、直冬の登用に関する由緒は『太平記』以外に存在せず、経緯を傍証するものはない。
『太平記』では、玄恵から直義に直冬の存在を伝えると、直義はその人物をはかり、確証を得れば直義から尊氏に申し述べる旨を伝えたという。結果、直義は直冬を信じて尊氏に伝えているが、尊氏は「是ニテ一、二年過ケルマデモ、ナヲ将軍許容ノ儀無リケル」と、認知しなかった。尊氏が直冬の認知をここまで避けているのは、直冬に対する個人的な感情というよりも、周辺環境を意識してのことではなかろうか。
越前局と密通して直冬が誕生した時期は、正室赤橋久時女子との間に子ができない時期、または義詮懐妊時期と重なっており、北条家所縁の女性から生まれた直冬の存在を公にできない事情があった可能性があろう。御所女房越前局はこうした事情を抱え、我が子を喝食として菩提寺東勝寺へ入れたのかもしれない(ただし、尊氏は越前局へ父子の証拠となる文書等を伝えていたのかもしれない)。そして直冬が上洛した際には、すでに尊氏は京都で天皇や上皇を動かし得る絶大な力を手に入れ、ほかに憚るものはそれほどない状況にあった。しかし、後継者としてはすでに鎌倉の義詮がおり、ほぼ同年代の異母兄弟の出現は足利家のみならず政権にとっては及ぼす影響が小さくないと考えた可能性があろう。認知を拒絶し続けたのは、突然現れた直冬という存在の政権内での位置づけと政務との関わり、派閥の形成など、様々な混乱を避けた大局的な考えの結果と考えられよう。
しかし、直義は直冬を見捨てず、我が養子として迎えた。直義が直冬を養子としたのは康永3(1344)年頃、直冬が十五、六歳の頃と思われる。このとき、「直」の偏諱を下し「直冬」の名乗りを与えたのだろう。なお、妻の渋川氏は貞和3(1347)年6月8日に直義実子・如意丸を生んでいるが、直義の直冬への期待は変わらず、直冬への支援を続けている。
6月5日、「大高伊予権守重成、蒙将軍勘気」って、評定が開かれ「所領悉収公、止出仕」した(『園太暦』)。「小侍所」の所司(頭人)も罷免されたとみられ、十代半ばと思われるが、上杉左馬助朝房がこれに替わったのだろう。さらに大高重成の若狭国守護職も「貞和四年六月改替、代官大崎八郎左衛門尉」(『若狭国守護職次第』)と、若狭国守護職も停止されている。また、同時に「相原下野守(粟飯原下総守清胤)同勘気」し、6月6日から出仕を停止された。洞院公賢は「此間武家不静、心苦」との感想を漏らす。大高重成、粟飯原清胤はいずれも尊氏、直義の信任あつい官僚武将であるが、政務の中枢を担う人々を解任するほど尊氏が激怒したとすれば、やはり尊氏にとって最も触れられたくない直冬の処遇に関する要求ではなかろうか。大高重成の後任の若狭国守護職は「山名伊豆守時氏」が6月17日に任じられている(『若狭国守護職次第』)。
6月18日、「紀州大将軍兵衛佐進発」(『醍醐地蔵院日記』)と、左兵衛佐直冬は東寺から紀州へ向けて出立した。出立に当たり、直冬は同日「宝積寺院主并寺僧中」に「紀州凶徒為退治、所発向也、可被抽祈祷懇誠」を命じている(貞和四年六月十八日「足利直冬書状」『前田家所蔵宝積寺文書』)。また、直義も6月23日に播磨国の「安積出羽権守殿(安積盛氏)」へ(貞和四年六月廿三日「足利直義御教書」『安積文書』)、7月8日には佐渡国の「本間山城六郎殿(本間有直)」(貞和四年七月八日「足利直義御教書」『木村文書』)に発向を命じ、直冬の軍勢の増強を図っている。そのほかにも諸国の御家人に発向を命じる御教書は出されていただろう。なお、このときの紀伊国守護職畠山国清がどのような役割をしていたのかは不明。二年後の観応の擾乱に際しては、失脚して京都を逃れた足利直義入道を居城の河内国石川城へ迎え入れており、直冬養父の直義とは親密な関係にあったと考えられ、直冬に協力したと考えられよう。
一方、吉野方では北畠親房入道は後村上天皇とは別の場所にいたとみられ、「和田蔵人殿(和田助氏)」の軍忠状を受けて、後村上天皇に和田助氏の軍忠を奏上しつつ、その「綸旨未到」だが、親房入道の一存で「参河国釜谷庄内兼清名地頭職」を勲功賞として下している(正平三年七月十九日「北畠親房御教書」『和田文書』)。和泉国和田氏は一貫して吉野方に忠節を尽くす武家であったが、親房が綸旨を待つことなく緊急に地頭職を充行っているのは、紀州へ下向する直冬勢の大軍が上町台地上の熊野道を南下するにあたり、和田氏の士気を高める意味合いがあったか。
8月1日、直義は「松尾神主殿」「恩徳院長老」「桂宮院長老」に「紀州凶徒退治事」のため「転読大般若経」を指示しており(『松尾社祝東家文書』『大通寺文書』『広隆寺文書』)、直冬の初陣を勝利で飾るために、軍事面、祈祷面ででき得る限りの協力を行っている。直冬の軍功を尊氏に認めてもらうことで、尊氏の直義に対する心証を改善させようという親心であったのかもしれない。しかし、尊氏の最も恐れることは、畿内で功績を挙げる直冬が、遠い鎌倉で関東および奥州を押さえる嫡子・義詮の名声をしのぎ、混乱を助長してしまう事ではなかっただろうか。尊氏と直義の直冬に対する思惑は両極にあったのかもしれない。そして、この思惑の違いが義詮を推す執事師直と、直冬の覚えを改善させようとする直義との間で強烈な軋轢を生んでしまうことになった可能性があろう。「観応の擾乱」の萌芽である。
直義が諸社寺に祈祷を命じた8月1日、直冬勢は「岩城(岩室城か)」に宿陣している(貞和四年十月「佐々友行軍忠状」『集古文所』)。そして、8月3日に山手へ向かい、翌4日、9日には「所々城郭」で合戦となっている。8月8日、9日の合戦は「両方死人不知其数」(『醍醐地蔵院日記』)というほどの激戦であった。こうした報告を受けていたのだろう。直義は9月2日、「東寺々僧御中」に「紀州凶徒対治事」の「転読大般若経五部」を命じている(『東寺文書』)。
9月4日、直冬勢は「日高郡」に侵攻。さらに吉野から行幸した後村上天皇の御座所である「紀州阿瀬河城」を攻め落とした(『鶴岡社務記録』)。この「京都一ノ早馬十三日参」(『鶴岡社務記録』)し、9月22日に鎌倉に報告が届いた(『鶴岡社務記録』)。直冬勢はしばらくこの地に駐屯しており、後村上天皇の行方を捜索していたのかもしれない。その後、9月28日に「御帰路」についているが、後村上天皇は阿弖川から逃げ遂せている。
直冬勢が御座所阿瀬河城を攻め落とした9月4日、河内国でも高師泰が吉野方と合戦しており、「長門国永富紀藤太郎忠季子息季幸」や「河越安芸権守」「青景五郎太郎」「真鍋新左衛門尉」「斎藤弥太郎」らの奮戦が確認できる(貞和四年十月「永富季幸軍忠状」『正閨史料』)。
師泰は石川沿いの「石川御陣」に布陣したまま年を越し、東條攻めを継続しているが、「(和泉)守護御代官土田九郎」を東條付近に派遣し、3月15日、東條楠木党と「河内国寺田合戦(南河内郡河南町寺田)」、3月18日の「山田合戦(南河内郡太子町山田)」、3月19日の「佐尾谷合戦(富田林市佐備)」と連日合戦している(貞和五年八月「淡輪助重軍忠状」『淡輪文書』)。4月22日「日野高岡」、4月26日に「長野庄代(河内長野市長野町)」でも合戦があった。その他でも記録に残らない合戦が各地で起こっていたと思われ、4月22日には「自河内上洛頸三十余、懸六條川原」(『師守記』)という。ただし、中原師守は「賀茂祭以前不可然歟」と、25日に行われる賀茂祭(「花園院周ゝ内之故」に省略した形で挙行された)批判している。
観応の擾乱とは北朝の内部分裂抗争で、足利尊氏と足利直義の兄弟対立に、吉野方をも巻き込んだ全日本的に及ぶ乱を指す。そのきっかけは諸説あるものの定説はない。
康永元(1341)年12月23日、「今夜亥刻、将軍并左兵衛督直義朝臣母儀、大方禅尼他界」(『師守記』)という。これにより「権大納言正二位源尊氏丗八、征夷大将軍、十二廿三服解、母」「非参議従三位源直義本名忠義、康永元年十二廿三喪母、同二四廿三復任」(『公卿補任』)といい、服解により本官を解かれている。「京都大方殿」の死去は血縁の人々、とくに東国経営に尽力する上杉家やその支配下の人々に若干の動揺が見られ、弔問せず当地の警衛に当たるよう指示が出されている。
康永2(1342)年3月4日、「故大樹母儀、康永二年三月四日贈位之時、仰詞云、故従三位藤原清子、可被贈従二位令作宣命并位記」(『園太暦』)があり、朝廷は故大方に従二位を贈位する。その三日後の3月7日には「権大納言正二位源尊氏丗五、征夷大将軍」は「不可復任之由申之」(『公卿補任』)と、権大納言への復任を辞退している(ただし、「征夷大将軍不被辞申之」であった)。これにつき朝廷も25日に「聞召之由被仰勅答」(『武家伝』)とし、尊氏は散位となった。一方、直義は4月23日に相模守ならびに左兵衛督に復任(『公卿補任』)した。
その後、5月24日には「高右衛門入道逝去俗名師継、法名道忍、改名師重」(『常楽記』)という。7月13日には「高右衛門入道執事越州等亡父」の四十九日法要が師直建立の真如寺で執り行われている(『祇園執行日記』)。
高師重――+―高師明
(右衛門尉)|(次郎兵衛尉)
|
+―高師泰
|(越後権守)
|
+―高師直
|(武蔵権守)
|
+―高師久
|(豊前権守)
|
+―高重茂
(大和権守)
この頃から「天下執権人」の足利直義と、宗家執事高武蔵権守師直との間には対立意識が芽生えていた模様である。おそらく以前より直義と師直との間には何らかの軋轢(政権運営を担う直義と、その命を受けることになる宗家執事師直との権力上の矛盾を抱えた軋轢があったか)が生じていたと思われるが、「京都大方殿」と「高右衛門入道」が生存中は表面化することはなかったのだろう。しかし、康永元(1341)年12月23日に「京都大方殿」が亡くなり、翌康永2(1342)年5月24日には「高右衛門入道」も卒した。彼らを抑え得る肉親の相次ぐ死が対立の顕在化に繋がったのかもしれない。しかし、この対立について具体的な史料はなく、些細な変化も見逃さず記される公家や寺社の日記にもとくに変わった情報は記されないため、実情は全く不明である。しかし、常陸国関城に在陣中の吉野方の北畠親房入道が「高右衛門入道」死去後一月半ほどのちの同年7月3日、結城親朝へ下した御教書には「京都凶徒作法以外聞、直義師直不和、已及相剋云々、滅亡不可有程歟」(興国三年七月三日「北畠親房御教書」『相楽家文書』)と見えるように、直義と師直の不和は常陸国にまで伝わるほどのものだったようだ(ただし、外交上の理由により実際より大げさに記すことが諸所見られることから、深刻な対立ではなかった可能性もある)。ただし、史料にはその後しばらくは直義と師直の間に表立った対立は見られず、表面上は互いに抑えながら政務が執られていたのだろう。
康永元(1341)年12月5日の天龍寺上棟の際には「大工左衛門大夫宗重」に対しての褒賞として馬三疋が下されたが、そのうちの一疋「栗毛、千葉介進、飾衣」を献じ、大工には「大草一人引之」している。
12月13日には、直義から「伊賀国名張郡凶徒事、押領東大寺領黒田已下之条、違背至極」であるから、守護たる貞胤に「早催当国地頭御家人、急速可加誅伐」を厳命している(康永元年十二月十三日「足利直義御教書案」『東大寺文書』)。
康永3(1343)年9月22日、左府洞院公賢は翌日の除目の人事案について申入のため参院し光厳上皇の竜顔を拝すと、上皇は「武家昇進事頗可有沙汰」という。具体的には「舎弟上階、今度可有沙汰、舎兄幕下事同時可有沙汰云々」といい、直義と尊氏両者の昇進が沙汰されている。「抑左武衛上階事、日来粗雖有時宜、謙譲頻固辞云々、而近来連々咫尺龍顔之間、大略為公卿礼不昇其位、被礼、中ゝ有事恐之由、人々少々諷諫、随而先日天龍寺御幸之時、夢窓有問答事之由、語経顕卿云々、就其有沙汰候歟、更不可望申、有沙汰者勿論云々、天下執権人也、頼朝実朝已来、今亜相又已登庸了、強不可有予儀事歟」(『園太暦』)という公賢の直義評があるが、直義は日頃から三位または参議への昇進を打診されていたが、ただひたすらに固辞していたという。しかし、光厳院または光明天皇の龍顔を拝する公卿格の資格を持たないままに、等閑に院に伺候していることが暗に批判を受けていたという。政権運営を軌道に乗せ、安定的に運営してきた直義を光厳院は信頼しており、直義への上階を指示するとともに直義には拒否を許さなかったのである。その結果、直義は従三位への昇進を果たし、公卿となった(『公卿補任』『園太暦』)。
その後も直義と師直に目立った対立はない。康永3(1343)年12月22日早朝、「左兵衛督三条坊門万里小路亭失火云々、執天下執権之人也、希異々々」(『園太暦』)という。火災に際し、即日尊氏は諸国の守護等に「今曉三条御所炎上畢」のことにつき、「地頭、御家人等、不可馳参之由、可被相触国中之状」を執事師直を通じて下している(康永三年十二月廿二日「高師直施行状」『島津文書』)。これは「京都大方殿(尊氏・直義の実母、藤原清子)」の卒去時の対応と同様に、吉野方との対陣を一義とするための措置と考えられ、対立によるものではない。
貞和4(1348)年9月28日、紀伊国から京都に凱旋した左兵衛佐直冬は「早人々是ヲ重ンシ奉ル儀モ出来リ」(『太平記』)ともいわれ、直冬の抽んでた功績はその名声を一気に高めたともいう(『太平記』の記述に過ぎないが、関東を治める義詮と南朝拠点を撃滅した直冬の軍功を比較すれば上方における直冬の軍功は目立ち、直冬を重んじる人々が増えたのは事実であろう)。尊氏や執事師直は、尊氏の後継者たる義詮と尊氏庶子である直冬の間には厳格な嫡庶の順がなければならず(義詮の母は北条家の名門赤橋久時女子である一方、直冬の母は鎌倉将軍宮女房の越前局〔大仏貞房女子?〕という母親の出自の差もあったであろう)、当然ながら政権内での混乱を避けることを一義とする尊氏や執事師直は秩序を最重要視しただろう。とくに直冬は政権・軍事運営の事実上のトップ「執権天下」である直義の養子(義詮も直義の養子であるが、権力上養子としている義詮と、私的事情を多分に含む養子直冬との関係を考えると、直冬の初陣に際し只管に支援や祈願を惜しまなかったことから察するに、能力面、情愛面ともに直冬への期待が勝っていたであろう)であり、二重権力の継承となる恐れも十分に考えられたであろう。そのため、尊氏は直冬を「時々、将軍ノ御方ヘモ出仕シ給ヒシカ共、猶座席ナシトハ、仁木、細川ノ人々ト等列ニテ、サマデ賞玩ハイマダ無リキ」(『太平記』)という待遇に抑えたのだろう。直冬には尊氏のもとへの出仕を許すという温情をかけつつも、仁木氏、細川氏という足利一門内では被官層に相当する地位に据え置かれたのは、尊氏や師直の危機感とともに、直冬への自覚を促す狙いがあったのではなかろうか。
●当時の足利一族の序列(推測)
惣領 | 足利義詮 (尊氏惣領) | |||
足利別家 | 足利斯波家 (四代泰氏庶子家) 初代家氏母は名越朝時女子 | |||
御一家 | 足利吉良家 (三代義氏庶子家) |
石橋家 (斯波庶子家) |
渋川家 (四代泰氏庶子家) 初代義顕母は名越朝時女子 | |
一族層 |
石塔家 (四代泰氏庶子家) | 今川家 (吉良庶家) |
一色家 (四代泰氏庶子家) | 新田家 (初代義康舎兄家) |
畠山家 (二代義兼庶子家) | ||||
被官層 |
細川家 (初代義康分家) |
仁木家 (初代義康分家) |
上野家 (四代泰氏庶子家) |
桃井家 (二代義兼庶子家) |
荒川家 (吉良庶家) |
足利直冬 (尊氏庶子家) | その他 | ||
しかし、初陣にも拘わらず絶大な軍功を挙げた直冬へのこうした扱いは、義父直義は納得ができなかったのではなかろうか。その他、足利一族や被官らにも直冬への待遇に不満を持った人々が多々いたと思われる。一方、直冬自身は不満を持ったかは分からないが、その後の直冬の行動を見るに、恩義のある義父直義を敬愛し、直義と密接に通じていたであろう。
このような中、貞和5(1349)年3月14日夜、「土御門将軍第」で火災が発生した(『園太暦』)。「彼辺武士群集」という状況で、戌刻から亥刻までの数時間燃え続けて消火されたが、「尊氏卿亭成灰燼了」という。「鎌倉前大納言尊氏卿征夷大将軍宿所、土御門東洞院焼亡、武士等多馳参云々、天神社并侍所相残云々、不及他所炎上、彼第許也、禁裏近々之間、公卿殿上人多被馳参、然而無程静謐之間、無為神妙々々」と、内裏傍の火災であったため、公卿や殿上人も多く馳せ参じたというが、幸いなことに将軍邸のみの焼失で、天神社や侍所、そのほかへの延焼はなかったという(『師守記』)。15日、尊氏は「令向執権并四條大納言宿所給、是去夜炎上禁裏近之間、為被驚申也」と、「執権(「執事」と同義で武蔵権守師直である。鎌倉前大納言二位家の家司筆頭であった北条家に相当する。ただし、当初は政務、軍事全般を直義が一手に統括していたため、執事は得宗家のように二位家政所と侍所を統べておらず、鎌倉前大納言家及び左兵衛督直義の代官的立場で施行状等を発給する立場にあった。鎌倉前大納言家の評定衆、引付衆両寄人も家司である)」と「四條大納言(四条隆蔭)」の屋敷を宿所としたようであるが(『師守記』)、最終的には「六月廿日庚辰、将軍御所上棟也、造立之間、座武蔵守師直宿所給」(『在盛卿記』)と、再建なるまで一条の師直邸での宿泊となった。
この直後、尊氏がまだ師直邸に寄宿している最中に、直冬は「備後、備中、安木、周防、長門、出雲、因幡、伯耆等成敗之料云々」(『師守記』)の西国八ヶ国を治める「中国大将軍」に任じられた。その時期は未定だが、3月末から4月頭であろう。これを推進したのはおそらく直義であるが、西国守護人への関わりが大きいことや、長門国に探題を行う政庁を置き勤務予定の「評定衆、奉行人等、多下向」(『師守記』)もみられることから、尊氏の認可も得たものであったと考えられる。
これを受けた「左兵衛佐(足利直冬)」は4月7日、備後国尾道の「浄土寺長老」へ「西国下向之間、祈祷事、可被致精誠之状如件」(貞和五年四月七日「足利直冬書状」『浄土寺文書』)の文書を送達している。そしてその四日後の4月11日、「左兵衛佐直冬、今日進発向長門国、於彼国可成敗八箇国事」(『園太暦』)の風聞があったが、これは事実で、11日早朝、「左兵衛佐直冬下向西国、暫可座備後国云々」と、直冬は西国へ出立している。ただ、しばらく備後国に駐屯することも命じられており、おそらく4月7日に書状を送達した尾道または鞆津に陣所を置くことが定められていたのだろう。これは尊氏・師直による直冬警戒によるものか。
ところが、このわずか2か月後、直義と師直の間に決定的な対立が生まれた。閏6月1日と思われるが、「直義密与重能、直宗及大高重成、粟飯原清胤、齋藤実持等、謀誅師直、清胤初以為直義、変師直、然悟其有奪嫡之志、而至是忽変約面目師直」(『続本朝通鑑』)と、直義が上杉重能、畠山直宗、大高重成、粟飯原清胤、斎藤実持らと師直の誅殺を謀ったが、粟飯原清胤はこの計画は直義が足利家を簒奪せんとする企みと察し、師直に通じたことで失敗に終わった事件があったという。
閏6月2日、「此間三条坊門武家第辺以下物騒、有用心事、近辺小屋或壊却之、或點定可居心安之輩云々、随而大高伊予権守重成并相原ゝ守之宅等點定云々、或相原逐電、重成云無其儀、岐良左京大夫宿所可居替之旨仰之云々、縦横説以外事也、所詮直義卿与師直有間就之可有兵火旨、都人士女騒動、自東自西馳走、是併天魔所為歟」(『園太暦』)と、直義邸周辺で家屋敷の破壊や収公の沙汰が取られ、大高伊予権守は屋敷を接収され、吉良左京大夫満義邸への居住が指示された。同様に「相原(粟飯原下総守清胤)」も接収されたが、こちらは計画発覚の当事者であるためか「逐電」するなど、非常に物騒な状況にあり、これは直義と師直の間での合戦の前兆として都人が右往左往しているという。
そして、「如此事、近日武衛仰信禅僧妙吉申沙汰云々」と、これらの事件は、直義が心酔する妙吉なる禅僧が直義に勧めたことという「巷間浮説」があったという。なお、洞院公賢はこれを「不信受、定知狂言綺語之輩所称歟、可慎ゝゝ」(『園太暦』)としている。どこまでを「禅僧妙吉申沙汰」とするかは明確ではないが、師直殺害計画からの沙汰と考えるのが妥当であろう。
翌3日になっても「世上浮説猶未休」といい、4日には洞院公賢は自邸を訪れた大外記師治らと「武家辺騒々事」のことを話しているが、「近来権勢僧妙吉、昨朝城外、或説参篭八幡、或説下向作州、但実者向備後国、為武衛使向兵衛佐直冬許歟」(『園太暦』)と、直義が信奉する「権勢僧妙吉」が京都を離れたことが報告されている。諸説あるが、直義の使者として備後国の直冬のもとに向かったというのが実際の所か。
これらの騒擾に対し、将軍尊氏も腰を上げ、閏6月7日、「大納言向武衛三条坊門亭、可談此間事」と、自ら直義邸に足を運んで騒擾について談じたという(『園太暦』)。このときの談話の結果、おそらく高師直の執事罷免と師直甥・師世(越後権守師泰子)の執事職が決定されたと思われる。
閏6月15日、「武蔵守師直、執事職并其外所帯被召放、可宛行於他人」(『建武年間記』)といい、師直は執事職を罷免され、20日、甥の越後将監師世が新執事となる。師泰は直義や足利高経の副将的な立場で戦場を往来することが多く、直義とは比較的良好な関係であったと思われ、その嫡子・師世を執事とすることで、将軍尊氏とも決着したのだろう。その後、直義は以前の通り政務に就いている。
8月2日、直義は前大僧正三宝院賢俊を三条亭に招き、「六字法為天下」を修法した(『五八代記』)。混乱する状勢の静謐を願ったものであろう。ところが、執事を罷免された師直は突如挙兵することになる。
貞和5(1349)年8月6日、「師泰招紀伊国守護畠山清国、守石川城、而師泰帥兵向洛」(『続本朝通鑑』)と、東條楠木勢との前線基地である河内石川城に、紀伊守護の畠山国清を置くと、師泰は京都に向けて兵を進め、「丁酉、師泰戎衣、率三千余騎歩卒七千余人、白昼入京、直入師直宅、示挑戦之勢、楠氏一族等請追撃師泰、正儀不聴」(『続本朝通鑑』)と、8月9日、師泰は大軍を率いて白昼堂々入京して師直邸に入ったという。これは「八月九日、越後守師泰参洛事」(『園太暦目録』)と一致する。ところがこの入京はなぜか事件として扱われておらず、その翌日8月10日には、尊氏は丹波篠村八幡宮に「御社参有之、先著御別当坊有御行水」(『三宝院文書』)し、翌11日には早くも帰京して「将軍新造第御移徒」(『師守記』)している。同日には光厳上皇が「依彼岸結願、上皇幸長講堂事」(『園太暦目録』)するなど、戦乱の雰囲気は感じられない。ただし、11日には「直義与師泰以下確執露顕」し、「赤松西国下向、直冬去年備後下向故也」(『大乗院記録抜書』)とあり、11日の時点で直義と師泰の間でまず確執が起こっていた様子が垣間見える。この「赤松」が誰でどちら側の人物なのかも不明だが、おそらくは師直方に属し、備後国の直冬の上洛を阻止するために播磨国へ急行した人物と思われる。しかし、翌12日には「新造御所」で「小侍所上杉左馬介(上杉朝房)」を奉行として弓場始が催されるなど(『御的日記』)、平穏な雰囲気が漂っており、赤松の下向は大きな出来事として認識はされていなかったようである。
ところが、8月13日早朝、「天下以外騒動、将軍逐電之由披露、更不信発、随而小時彼是云」との風聞が流れた(『園太暦』)。「師直相催一族、欲討右武衛将軍、此事露発、武衛馳渡大納言新亭、以使者問答師直、其間躰相叛之條勿論云々、世上騒々之間、急可参仙洞旨、仰東宮大夫、已一點参仙洞了」と、高師直が左兵衛督直義を討つべく兵を挙げ、直義は尊氏邸へ遁れ、使者を以って師直と問答している状況であるという。洞院公賢は東宮大夫実夏に急ぎ仙洞御所へこの旨を伝えよと命じ、自身もその後参院している。仙洞御所にはすでに多くの人が参院しており、勧修寺前大納言経顕が公賢に語ったところによると、経顕のもとに「武家使中条備前守倫定、今一人可尋」が参り、「師直有陰謀之企、仍可配流、其間世上物騒歟、為得御意申入云々者、聞食旨被仰歟」という。京都には「自今朝武士等騁馳、自東自西曾無間、又師直出里第、法成寺跡率其勢取陣」(『園太暦』)といい、師直は一条邸を出て、鴨川西岸の法成寺跡に本陣を構えており、「武蔵守師直前執事、宿所、一族以下武士馳群」(『師守記』)という。
そして、8月14日朝、雨が降りしきる中、「師直軍旅寄来大納言第、大略巻籠囲四方云々、其勢更無際限、天下武士千葉、宇都宮以下、大略属師直、大納言兄弟方、大略無人、不及師直勢半分、但或云、大納言与師直兼有内通事歟云々」と、師直が軍勢を動かして尊氏新亭の四方を取り囲んだ。この師直勢には千葉介貞胤、宇都宮下野守氏綱(前日13日夜の小除目で「天龍寺造営功」として下野守に任じられ、従五位下に叙された)ら「天下武士」が師直方に属し、尊氏・直義のもとに集まったのは師直勢の半分程度であったという。
千葉介頼胤―+―千葉介胤宗―+―千葉介貞胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
| |
| +―千葉胤重
| (五郎)
|
安達義景―――女子 +―千葉宗胤――+―千田胤貞
(秋田城介) ∥ (大隅守) |(大隅守)
∥ |
∥―――――――宇都宮貞綱 +―女子
∥ (下野守) ∥
∥ ∥ ∥
宇都宮景綱 ∥ ∥――――――宇都宮氏綱
(下野守) ∥ ∥ (下野守)
∥―――――――宇都宮公綱
∥ (下野守)
足利宗氏 +―女子
(尾張守) |
∥ |
∥―――――+―足利高経
長井時秀―――女子 (修理大夫)
(備前守)
尊氏は須賀左衛門尉清秀を使者として「法成寺角之辺取陣」る師直のもとに派遣、師直も尊氏に返答使を送り、その数は「問答已及十余度」んだという(『園太暦』)。師直の要求は「上椙伊豆守、畠山大蔵少輔、僧妙吉、奉行人齋藤左衛門大夫利康、ゝゝ修理進入道五人召給之、可散欝之旨申」であった。「上椙伊豆守重能、畠山大蔵少輔已下讒臣輩」(『師守記』)と彼等は師直側から「讒臣輩」と称されていたようで、「去比武蔵守召放執事籠居、此事一向上椙豆州讒申之間、武州越州等如此致沙汰云々」(『師守記』)ということであった。これを受けて尊氏は評定を開き、「上椙畠山事、早可被配流」ことが決定されるが、洞院公賢は「賜敵人事且無例歟」と評する。「是上椙并畠山等、明日可被配流治定」(『師守記』)と、上杉重能と畠山直宗は翌日配流という厳罰であった。また「妙吉ハ逐電云々、奉行人両人事可任意云々」といい、妙吉禅師はすでに逃亡(閏6月2日に備後国の直冬のもとへ下向した風聞がある)、奉行人の齋藤左衛門大夫利泰と飯尾修理進入道の引き渡しは「可任意」とある。結果として齋藤利泰と飯尾入道はその後も生存していることから、師直方に引き渡しはされなかったのだろう。
この評定に誰が加わったのかは尊氏方に参じた武士が不明(『太平記』に記載はあるが、『太平記』の交名は誤記が目立つため信用し難い)なため確認できないが、直義も当然参加したうえで決定されたものと思われる。そして「左兵衛督政道口入可被止之、関東左馬頭已成人之上者、召上可有沙汰云々」(『園太暦』)と、直義の政道からの引退ならびにすでに成人した「関東左馬頭(義詮)」を鎌倉から召し上げ、政務に携わらせることに決定した。
要求の一部とはいえ、上杉重能と畠山直宗の配流が決定されたことに「武州暫閣所存云々」(『師守記』)と納得し、「及晩頭囲将軍軍勢等退居、師直以下還住本宅、直義卿又帰三条坊門云」(『園太暦』)と、師直らは囲みを解いて退去し、本宅へ帰還。これに伴って、直義も三条坊門邸に戻った。
8月15日、「師直所訴輩、伊豆守重能、修理太夫貞家、須越前国、畠山大蔵少輔某、上椙弾正少輔弼、須信乃国等配流、於路可有事歟」(『園太暦』)と、予定通り配流の処分がなされた。ただし、修理太夫貞家(吉良貞家)、上椙弾正少輔弼(上杉朝定)の流刑は誤伝である。そして「上杉豆州被官之輩宿所、為武州計賜諸武士云々、吉侍者坊、今日壊取之、散在輩可取之由被下行云々」(『師守記』)という。
8月17日には「重能配流之間、於江州与越州之間、於黒川辺梟首之由有其聞云々」(『園太暦』)という噂も流れたが、これは20日に「今日聞、重能被殺事無其実事也」(『園太暦』)だった。
上椙重房―――+―上杉頼重―――+―上杉重顕―――+―上杉重藤――――+―上杉重氏
(式乾門院蔵人)|(承安門院蔵人)|(修理亮) |(大蔵大輔) |(右馬助)
| | | |
| | | +―上杉直藤
| | | (四郎)
| | |
| | +=上杉重能――――+―上杉顕能
| | | |(左近将監)
| | | |
| | | +―上杉重季
| | | |(修理亮)
| | | |
| | +―上杉朝定 +=上杉能憲
| | |(弾正少弼) (三郎左衛門尉)
| | |
| | +=上杉重行――――――上杉能憲
| | (左京亮) (三郎左衛門尉)
| |
| +―上杉頼成―――――上杉藤成
| |(延政門院蔵人) (宮内少輔)
| |
| +―上杉憲房―――+―上杉憲藤――――――上杉朝房
| |(永嘉門院蔵人)|(修理亮) (左馬助)
| | |
| | +―上杉憲顕――――――上杉憲将
| | |(民部大輔) (兵庫助)
| | |
| | +=上杉重能――――――上杉重季
| | |(伊豆守) (修理亮)
| | |
| | +―上杉重行――――――上杉能憲
| | |(左京亮) (三郎左衛門尉)
| | |
| | +=女子
| | ∥―――――――――高師有
| | ∥ (陸奥守)
| | +―高師行――+―高師秋
| | |(左衛門尉)|(土佐守)
| | | |
| | | +―高師冬【関東執事】
| | | (三河守)
| | |
| | +―高師重――+―高師直―――――+=高師冬
| | |(右衛門尉)|(武蔵守) |(三河守)
| | | | |
| | +―高師春 +―高師茂 +―高師友
| | (右衛門尉)|(駿河守) |(左近大夫将監)
| | | |
| | +―高師久 +―高師詮
| | |(豊前守) |(播磨守)
| | | |
| | | +―高師夏
| | | |(武蔵五郎)
| | | |
| | | +―女子
| | | ∥
| | | +―渋川義季――+―渋川直頼
| | | |(刑部権大輔)|(中務大輔)
| | | | |
| | | +―女子 +―源幸子
| | | (本光院殿) (香厳院殿)
| | | ∥ ∥
| | | ∥ ∥
| | | ∥ 足利義詮
| | | ∥ (権大納言)
| | | ∥
| | | ∥―――――――如意丸
| | | ∥
| | | 足利直義
| | | (左兵衛督)
| | |
| | +―高師泰―――――+―高師世
| | (越後守) |(左近将監)
| | ∥ |
| +――――――――――女子 +―女子
| | ∥
| | ∥
| +―女子 高師冬
| |(加賀御局) (三河守)
| | ∥――――――+―上杉重能
| | ∥ |(伊豆守)
| | ∥ |
| | 勧修寺別当 +―女子
| |(宮津入道道宏) ∥
| | 高師秋
| | (土佐守)
| |
| +――――――――――藤原清子 +―足利尊氏
| (浄如寺殿) |(権大納言)
+―女子 ∥ |
| ∥ ∥―――――――+―足利直義
| ∥――――――――足利家時―――――足利貞氏 (左兵衛督)
| ∥ (伊予守) (讃岐守)
| 足利頼氏
|(治部大輔)
|
+―女子
∥
∥――――――――山名時氏
∥ (伊豆守)
山名政氏
(蔵人)
8月19日、洞院公賢は夢窓疎石国師を召して「武士上下不快事、彼是有命旨之間、事々問答」している(『園太暦』)。夢窓国師は彼らは「悉落居、罷帰西郊旨申之、武家沙汰成敗如元、直義卿可致其沙汰、執事如元師直可申沙汰云々」という。上杉重能、畠山直宗を讒臣として配流に処すことですべてを元に戻し、直義も義詮上洛まで政務・軍事を執り、師直は将軍家執事に復帰することとなった(なお、直義の政界復帰は義詮上洛までの中継ぎ措置であるが、直義は密かに備後国の直冬を九州へ下向させるとともに太宰少弐頼尚らに直冬支援に当たらせる書状を送っている)。そして8月21日、公賢は久方ぶりに参院して光厳上皇に面会すると「世上事等粗有勅語」があったため、夢窓国師からの報告を伝え「静謐神妙事歟」(『園太暦』)と述べている。
足利家の外戚たる上杉家と執事家の高階家は重縁で結ばれる縁戚であった。尊氏・直義の母である藤原清子の姉妹が越後守師泰の正室であり、上杉家惣領の上杉兵庫入道道勲(上杉憲房)の養女が、高師秋の室となっていた。ところが、この縁戚関係も上杉家と高家の対立の要因となっていた可能性がある。
上杉家惣領だった「上杉兵庫入道憲房、京四条合戦のとき、将軍の命にかわり討死あり、甥の伊豆守重能を養子として、惣領に被立」(『鎌倉大草紙』)とみえ、伊豆守重能が上杉家惣領職を継承したのだろう。重能は上杉一門の中でも、母は尊氏等の母清子の姉妹、養父は伯父の修理亮重顕ならびに兵庫入道憲房という尊氏・直義に血縁上でももっとも近縁の存在であった。重能の実姉妹は高土佐守師秋の妻となっているが、高家嫡宗家は師秋亡父で「貞氏執権」の「太郎、左衛門尉」師行であり(『高階系図』)、師行卒去後は太郎師秋が幼少であったためか、師行弟「右衛門尉」師重が「貞氏、高氏執権」となったのだろう。そして、執事職はそのまま師重の子、師直へと継承された。
師行嫡子の師秋は、上杉家惣領・伊豆守重能の実妹を娶って上杉家との関係を深めているが、師秋実弟の師冬は師泰女子を娶った上で師直の養子となっている。本来の嫡宗師秋が上杉家との関係を強めたことで、師直らは次弟師冬を重用したものか。師冬は天賦の才を見込まれ、関東管領義詮の関東執事として関東に派遣され、関東吉野方と戦いを重ね、ついに北畠親房入道を吉野へ撤退させるという功績もあげている。その後、観応の擾乱により直義勢と尊氏勢の対立が激化し、師冬は直義方のもう一人の関東執事上杉民部大輔憲顕に鎌倉を落とされ、関東管領基氏を憲顕の手中に置かれると甲斐国に逃れ、直義方の諏訪大祝直頼により討たれた。一方で師秋はもともと師直一党とは距離を置き、妻の実家である上杉氏と連携し、観応の擾乱でも上杉方に加わっている。
8月25日には「武家物騒已後、今日行評定於三条坊門、左兵衛督行之、師直以下人数如例云々」(『園太暦』)という。この「三条坊門武衛第」で行われた「評定」は、具体的には「執事武蔵守師直参之、其外評定衆十人出仕」し「神事三ヶ条」を評定したものになっている(『師守記』)。
その後、「将軍末息九歳小童、為関東管領、左馬頭義詮朝臣上洛替下向」(『園太暦』)ということとなった。これは、先日の尊氏と師直との交渉の約定「左兵衛督政道口入可被止之、関東左馬頭已成人之上者、召上可有沙汰云々」(『園太暦』)することに伴う関東管領不在としないための措置で、尊氏の代理を務め得るのは元服前の「若公」(『鎌倉大草紙』)のみであった。洞院公賢は「不加首服下向如何」(『園太暦』)と疑問を呈するが、已む無い措置であったのだろう。そして「九九、若御前鎌倉下向」(『武家年代記』)した。「其勢不及百騎」(『園太暦』)という小勢であった。
貞和5(1349)年9月10日、「兵衛佐直冬可追討、可遣討手之旨此間有沙汰、而聞此事没落四国方、与州輩并備前阿久良以下向取之云々、又世上物騒之基歟、只無遠慮之故也」(『園太暦』)という噂が公賢の耳に入っている。
9月10日時点で直冬没落事件は現在進行形であり、備後国に駐屯していた左兵衛佐直冬は、おそらく8月13日の政変について直義からの使いを受けて(おそらく閏6月3日に直義の使いとして備後へ派遣されたとみられる「近日武衛仰信禅僧妙吉」が直冬に京都における不穏な情勢を伝えており、直冬はいち早く伊予国と備前国兒島付近の好を通じる地頭等と通じていたのだろう)、四国へ遁れたのだろう。そして、直冬逐電の一報を受けた京都では「直冬備後国治罰御教書成下也」(『大乗院記録抜書』)だったのだろう。9月早々に「非参議従三位源直義、左兵衛督、九月日、辞督」(『公卿補任』)は、養子直冬失踪の責任を公的に取った可能性があろう。
直冬は9月16日には「自京都依有被仰之旨、所令下向也」と、「京都(尊氏・直義=両殿)」の命により「下向(九州ではなく管国の中国地方を指す)」したとしており、肥前国の「志岐兵藤太郎殿(兵藤隆弘)」に参陣を求めている(貞和五年九月十六日「足利直冬書状」『志岐文書』)。9月18日には「阿蘇三社大宮司殿(宇治惟時)」に対しても同様の文書を送達している(貞和五年九月十八日「足利直冬書状」『阿蘇文書』)。なお、中国地方から九州へ渡った旨等はその後の直冬の文書には一切記されず、直冬はあくまでも中国地方への下向で文書上は行動軸を止めているのである。
この頃には直冬は肥後国阿蘇郡のあたりに滞在していたとみられ、9月20日、「阿蘇大宮司殿(宇治惟時)」が直冬のもとに参じている。そして同日、「左兵衛佐源朝臣直冬」は阿蘇社に心中所願成就円満の願書を捧げ(貞和五年九月廿日「足利直冬書状」『阿蘇文書』)、直冬に近侍していた肥後国飽田郡河尻庄の地頭「肥後守幸俊(河尻幸俊)」は、「為天下静謐、四海太平、両殿御息災延命、殊兵衛佐殿御心中所願成就円満、次幸俊所望満足、息災安穏、寿命長遠」の所願の願書を奉じている。
なお、河尻幸俊がいつから直冬に付属していたのかは不明だが、『太平記』では備後脱出時にその船に乗って肥後へ向かったとされる。幸俊は、「天下静謐、四海泰平」に続き、現実的な「両殿(尊氏・直義)息災延命」をまず願い、続けて「殊兵衛佐殿御心中所願成就円満」を願うなど、もともと在京して尊氏・直義に仕え、直冬備中下向に際して付属された人物とみられる。これを裏付けるように貞和元(1345)年3月20日の小除目で「鴨社造営功」として「肥前権守」に任じられた「源幸俊」が河尻幸俊とみられる。後年、直義は阿蘇大宮司惟時に対し「左兵衛佐下向之間、参御方致忠節候條、殊以神妙也」と賞しており(観応二年二月十九日「足利直義御教書」『阿蘇文書』)、おそらく直冬九州下向は直義の指図による可能性が高く、河尻幸俊は直義の指示を受け、知己の大宮司惟時に直冬を依頼した可能性が高い。幸俊の上記立願は直冬立願と同日であることから、直冬とともに阿蘇社へ奉じたと考えられ、直冬も幸俊の立願内容を承知していたと考えると、直冬に実父尊氏への敵意はなかったと考えられるのである。ところが、直冬はこの時点で上洛の計画はないにも拘わらず、12月6日には京都に「兵衛佐直冬於鎮西猛勢、治罰師直師泰催其勢、欲攻上之由有風聞、若依如此事欲逃脱歟、殆不足言歟」(『園太暦』)と、直冬が師直・師泰らを討つべく上洛を企てているという噂が実しやかに広まっていたのである。これらは直義と直冬をめぐる様々な憶測が恐怖を呼び、直冬は養父直義を政権から追放した師直ら執事家一族を敵視し、上洛を企てているという噂へと結びついた結果ではなかろうか。
その後、京都に阿蘇に直冬が落居しているという情報が齎されると、9月28日、尊氏は師直に「兵衛佐出家の事、おほせられて候、そのきなくハ、いつくにも候へ、あひとゝめてちうしんし候へきよし、九国の物ともにあひふれられ候へく候」(貞和五年九月廿八日「足利尊氏御教書」『阿蘇文書』)という御教書を下し、九州御家人に対して、(1)直冬出家の厳命、(2)拒めばその場で抑留し注進することを指示している。この命を請けた「武蔵守師直」は、「阿蘇大宮司」「島津上総入道」「三毛一族」らに対して「兵衛佐殿被落下九州之由、其聞候、就之自将軍家被下御自筆御書候、案文進之候、若被余手事候者、任法可有計沙汰候、且自関東近日御上洛候間、重可被仰候也」(貞和五年九月廿八日「将軍家執事状」『阿蘇文書』『薩藩旧記』『三池文書』)という執事状を発給している。尊氏の御教書案文を添付するが、より強硬的に「若被余手事候者、任法可有計沙汰候」と、手に余るようであれば「任法可有計沙汰(殺害も有り得る)」とする。
ところが、九州足利方の重鎮であった「頼尚(太宰少弐武藤頼尚)」が9月中旬、「自京都被仰下子細候之間、参佐殿御方候、御同心候者悦入候」(貞和五年九月廿八日「太宰少弐頼尚書状」『深堀記録証文』『松浦文書』)と、「京都(執政者であった直義であろう)」の指示により直冬方に参向しており、9月28日、肥前国の「深堀三郎五郎殿(深堀時明)」や「松浦鮎河六郎次郎殿(鮎河信)」らにも同様に参向を求めている。直冬は阿蘇大宮司ら肥後国人、太宰少弐頼尚ら有力人物に推戴され、足利方ながらも鎮西の奉行として派遣されていた一色宮内少輔直氏らとは別勢力となり、吉野南朝方の征西将軍宮懐良親王勢力とも敵対する第三極の勢力として成長する。
一方、京都では10月2日「大休寺殿移居錦小路堀河細河奥州宿所給、依可有宝篋院殿御上洛也」(『建武三年以来記』)と、直義は上洛する鎌倉殿義詮のために役宅的な意味合いのある三条坊門邸(中京区亀甲屋町)を空け渡し、錦小路堀河(中京区三文字町)の細川陸奥守顕氏の邸に移り住んだ。義詮は「三日被立関東」(『師守記』)とあり、義詮の鎌倉出立予定日が直義の公的な「政道口入」の停止日と定められていたのではなかろうか(実際は義詮京着までは政道の停滞を避けるため政務を行っただろう)。
この頃には直冬の具体的な在所が京都に伝わっており、10月11日、尊氏は「阿蘇大宮司殿」「豊前蔵人三郎入道殿(田原入道正曇)」、鎮西探題子息「一色宮内少輔(一色直氏)」(実際にはそのほか多くの鎮西守護、地頭等に送られたであろう)に宛てて、「兵衛佐事、可出家之由、仰遣之處、落下肥後国河尻津云々、不日打向在所、遂素懐無為令上洛者、不及子細、無其儀者、任法可致沙汰之状」(貞和五年十月十一日「足利尊氏御教書」『阿蘇文書』『大友文書』『島津文書』)と、直冬に出家の上、上洛を命じる御教書を発給する。また、一色宮内少輔直氏は奉行として「島津上総入道殿」に「可被相触大隅薩摩両国地頭御家人等」して馳せ参じるよう命じている。直冬のもとにも阿蘇大宮司惟時あたりから出家と上洛の厳命の知らせは届いていたと思われるが、直冬は無視した。
10月22日夕刻、「左馬頭源義詮朝臣将軍子息、入京、去三日被立関東」(『師守記』)した。「住三条坊門第」(『建武三年以来記』)し、「定奉行人被行政道了」(『東寺王代記』)したという。そして25日、義詮は「乗輿」し「武蔵守師直已下扈従」して「左馬頭義詮朝臣、被参左兵衛督錦小路堀川宿所」(『師守記』)している。義詮にとって直義は正しく養父であり、鎌倉からの上洛の報告ならびに政権移譲に際しての挨拶であろう。
11月9日、直冬は「吉河次郎三郎(吉川経兼)」に「為奉息両殿御意所打立也」(貞和五年十一月九日「足利直冬書状」『吉川家文書』)と、「両殿の御意を息め奉らんがため」に中国地方へ向かったことを伝え、長門守護「厚東周防権守」に同心合力すべきことを伝えている。11月の半ばには京都に「兵衛佐直冬於鎮西猛勢、治罰師直師泰催其勢、欲攻上之由有風聞」(『園太暦』)といい、直冬は師直・師泰を追討するため上洛するという噂が立っていたのである(この風聞は、直義上洛の噂に呼応して合流を企てたとみられる上杉重能、畠山直宗ら越前配流の人々が百騎ばかりで配所を抜け出して追捕されたという12月6日の報告であり、直冬上洛の風聞は11月半ばには京都にも届いていたと考えられる)。
尊氏の願いは前述の通り、義詮への権力移譲に伴う混乱の回避を第一義とするもので、それは執事師直とも共有する絶対に譲れない一条であったと思われる。そのため、養父直義を失脚させた執事師直らを敵視する直冬の備後脱出ならびに肥後国での行動は、麾下の人々の混乱を助長させることに繋がり、それは結果として吉野方を利する以外になかったのである。それでも尊氏は直冬を最後まで追討することなく、出家の上、上洛させることで済ませようとしていたようだが、上洛して師直・師泰を討つという噂が大きくなり、これらの風聞は事実と認定されて「陰謀」とされたのだろう。
そして直冬の「陰謀」につき、11月13日、尊氏は「島津上総入道殿」に対して「兵衛佐か事、いんほうすてにろけんのうへハ、一そくならひにふん国のせいをもよをして、いそきうちてまいらすへし、もし海上をへてのほる事あらハ、さい所におひかけてたいちすへし」(貞和五年十一月十三日「足利尊氏御教書」『比志島文書』)と、ついに直冬の陰謀露顕の上は、もはや容赦せず誅殺すべきことを命じるに至ったのである。鎌倉殿義詮―執事師直という足利家内の内部権限が構築されつつある中で、師直追討の上洛軍など認められるわけもなく、尊氏は体制の破壊者たる直冬を追討する方向へ舵を切ったとみられる。
一方直冬は、養父直義が政務を回していたときに任じられた「中国大将軍」の肩書を以って「為奉息両殿御意所打立也」(貞和五年十一月九日「足利直冬書状」『吉川家文書』)し、「備後、備中、安木、周防、長門、出雲、因幡、伯耆等成敗之料云々」(『師守記』)の西国八ヶ国を管領するという目標を持っていたとみられる。直冬は尊氏・直義「両殿」については敬愛し、後年、実父尊氏に追討令を出されようと、人々に遣わす書状には頑なに「為奉息両殿御意所打立也」と記し、尊氏が「暦応四年十二月廿二日」に寄進した「筑前国景福寺々院領」について「将軍家御寄附之状」に任せて安堵(貞和六年十月廿五日「足利直冬寺領安堵掾」『相良文書』)し、肥前国の「春日山高城寺領肥前国川副庄内極楽寺別当職并免田等、同庄米津旱潟荒野事」(貞和六年十一月八日「足利直冬書状」『高城寺文書』)についても、「任建武三年十二月十一日安堵状、可被領知之状」と、尊氏安堵状を追認しているように、実父尊氏を否定しないことを守り続けている。ただし、義詮・師直政権の成立は完全に否定しており、改元を始めとする現政権の決定事項を無視し、前政権の継承姿勢を明確にして九州から中国地方への進出をはかったのである。
直冬は12月3日には大隅国の足利党「多志見与次殿」に「為奉息両殿御意所打立也」につき、「於国同心之輩相共急速可致忠節」(貞和五年十二月三日「足利直冬書状」『古今消息集』)を指示している。その行動規範は「為奉息両殿御意所打立也」の「中国大将軍」の所役を原則としているにも拘わらず、九州においても軍勢催促を行うに至る。これ以前にも、11月19日には「詫磨別当太郎(詫磨宗直)」を「筑後国守護職」に補任(貞和五年十一月十九日「足利直冬下文」『詫磨文書』)し、「筑後国竹野四ケ郷地頭職、肥後国山本庄地頭職、肥前国山田庄地頭職」を「為恩賞之地所宛行」い、「託磨徳一丸」にも「筑後三潴間庄地頭職付領家職」を宛がっている。これらも直義失脚前の政権のみを認め、これを引き継いだ義弟義詮と執事師直の政権は一切拒絶したことによるもので、「両殿御意」の範囲を意図的に九州にまで広めた結果であろう。こうして直冬は独自に御方の御家人に対して地頭職を補すようになる(貞和五年十一月十九日「足利直冬下文」『詫磨文書』)。
このような中、12月6日に「上杉伊豆守重能、大蔵少輔配流之處、逐電之由飛脚到来之間、武家頗仰天歟、而不経幾程、以百騎許勢没落之處、追入同国足羽庄、不可及殊驚云々」(『園太暦』)という報告が洞院公賢のもとに齎された。8月15日に越前国へ配流されたのち、重能や直宗は三か月半にわたって危害が加えられた様子はないが、11月末頃に配所を逐電するに至った。しかも「百騎許勢」を率いての逐電であり、事実上の挙兵であろう。同時期に「兵衛佐直冬於鎮西猛勢、治罰師直師泰催其勢、欲攻上之由有風聞、若依如此事欲逃脱歟、殆不足言歟」(『園太暦』)という風聞があるように、上杉重能らは九州から師直・師泰らを討つべく上洛する噂の左兵衛佐直冬と合流を図ったのだろう。当時の越前守護は修理大夫高経であるが、高経は直義と親密であった。この挙兵が高経との関わりの中で成立したかは不明だが、結局、12月6日時点で重能らは「追入同国足羽庄」とあるように、越前国足羽庄に追い込まれ、その後降伏または囚われて出家したのだろう。「同月日、重能--(直宗)両人於越前国被誅了、出家後也、討手大将高弁房」(『東寺王代記』)という。追手の大将は高一族の高弁房とされる。なお、重能らが討たれた日は諸説あり、「廿四日、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔直宗、於配所道打之」(『大乗院記録抜書』)とも「十二月廿日、伊豆守重能入道、法名可尋之、被討」(『常楽記』)とある。ただ、いずれにしろ12月下旬に高師直の手によって殺害されたのは間違いないだろう。
上杉重能らの足羽庄追込の報告があった二日後の12月8日、京都では「非参議従三位源直義、四十四、十二月八日出家」(『公卿補任』)、「直義卿、今日遂素懐歟」(『園太暦』)と、急遽直義は出家するに至った。法名は「恵源、古山」(『尊卑分脈』)。この俄かな出家は、タイミングからして上杉重能らの挙兵騒動及び直冬の「陰謀」への責任を自ら取った形であろう。12月10日、「八日御出家也、依此事不可馳参、且同可被相触分国地頭御家人云々、早任被仰下之旨、可被存知其旨」が記された「御教書」が作成され、直冬に帰参している「筑後守(太宰少弐頼尚)」に送られている。直義はこの時点では表舞台に立つつもりはなく、彼等に馳せ参じることも禁止し、ただ直冬の行末にのみ気を配っている様子がうかがえる。出家を頼尚に伝えた発給人も直義入道自身であろう。頼尚はこれを「徳永源五殿(徳永実重)」以下管国の人々に伝えている(貞和六年正月七日「筑後守頼尚施行状」『徳永文書』)。つまり、この時点では直義は直冬に支援や連絡を取っていたわけではないと考えられる。
一方で、直義から政務を移譲された鎌倉左馬頭義詮は、12月18日に初めて「参仙洞」(『園太暦』)した。八葉車に乗車し、その装いは白襖の狩衣に萌木衣、濃薄色奴袴。扈従するのは「師直已下及数百人歟」(『園太暦』)であった。義詮の上洛以降、執事師直が義詮に扈従するようになっていることから、師直は義詮執事を務めたのだろう。ただし、師直は尊氏と行動を共にしている際には師直が尊氏の意を体した執事施行状を発給しており、師直は義詮の執事となったのちも尊氏の執事を兼務していたと考えられる。
12月27日、尊氏は改めて「島津大隅左京進入道殿(島津宗久)」「阿蘇大宮司殿(宇治惟時)」「三池掃部助殿」ら九州諸地頭に対し、「兵衛佐直冬事、陰謀露顕了、早令発向彼在所、誅伐之状」(貞和五年十二月廿七日「足利尊氏御教書」『島津文書』『阿蘇文書』『三池文書』)を下している。
翌貞和6(1350)年正月2日、関東執事として関東管領基氏の補佐に当たらせるべく「高播磨守下向関東」(『祇園執行日記』)している。2日に門出した師冬は高橋の「佐々木源三判官秀綱宿所」に逗留し、翌3日に関東へ向けて下向した。2月27日、京都の朝廷は「改元観応」(『常楽記』)した。なお、直冬はこの改元を認めず、貞和元号のまま書状の発給を続けており、貞和6(1350)年4月17日、直冬は肥前国正法寺に「祈祷事、殊可被致精緻之状」(貞和六年四月十七日「足利直冬書状」『正法寺文書』)を依頼している。直冬は頻繁に祈祷を行っており、師直らの追討と直義復帰という本願成就の祈祷であろうか。
こうした直冬の九州での行動に、「鎮西探題一色入道」(『祇園執行日記』)の子、一色宮内少輔直氏は4月3日、「為直冬誅伐」の軍勢を発向し、京都の尊氏に注進した。これを受けて尊氏も直氏に従う人々に「忠節之至、殊以神妙、弥可抽戦功之状」を下したとみられ、4月19日、「麻生一族中」に褒章の書状を送っている(観応元年四月十九日「足利尊氏御教書」『麻生文書』)。一色直氏との合戦はしばらく続き、4月21日には直冬が詫磨別当宗直、小代彦八政氏、松浦大島小次郎聞らに勲功賞の宛行が行っている。「肥前国龍造寺又四郎家平」も直冬党となっていた一人で、4月22日には肥後国「鹿子木安芸大炊助城」に向かい、5月21日には大手木戸を破却し、夜攻めも行うなど奮戦を見せている(貞和六年五月「龍造寺家平軍忠状」『龍造寺文書』)。一方、直冬は一色直氏ばかりでなく、吉野方の征西将軍宮懐良親王の勢力とも戦っており、「頼尚(太宰少弐頼尚)」は「為良氏良遠以下凶徒対治打立候」とし、「深堀新蔵人殿」や「深堀弥太郎(深堀広綱)」、「深堀五郎左衛門尉(深堀時勝)」(貞和六年五月十五日「太宰少弐頼尚書状」『深堀記録証文』等)らを誘引している。さらに直冬は常套句「為奉息両殿御意所打立也」と、尊氏直義の意向を含めて「禰寝孫次郎殿(禰寝清成)」(貞和六年五月十八日「足利直冬書状」『新編禰寝氏世禄正統系図』)を誘引している。
観応元(1350)年6月2日、逸見四郎有朝や吉川又次郎実経、周防孫八親長らは安芸守護武田兵庫助氏信のもと「吉田庄」「楯籠寺原并与谷城」に挙兵した「御敵之大将先代一族相模治部権少輔、毛利備中守親衡」や「楯籠猿喰山城」の「山形又六為継、壬生六郎三郎入道道忠」(観応元年七月廿七日「吉川実経軍忠状」『吉川文書』等)らと合戦し、攻め落としているが、5月に直冬に属して挙兵した吉川五郎次郎経盛も6月8日に安芸国寺原で「当国守護武田兵庫助(武田氏信)」と合戦するなど、安芸国内には「中国大将軍(直冬)」を奉じて石見国三隅城に下着した「桃井左京亮」に応じて義詮・師直の政権に反旗を翻している。吉川経盛も「桃井左京亮」のもと「三角入道(三隅入道)」「市村掃部助」らとともに直冬方として戦功を報告しており(貞和六年十一月「吉川経盛軍忠状」『吉川家文書』)、直冬は軍忠状に裏判して戻している(貞和六年十一月卅日「足利直冬判物」『吉川家文書』)。なお、直冬には先代一族の「相模治部権少輔」が加担していることがわかるが、彼がどの系統の北条氏なのかは不明。ただし、「相模守」に就いた人物の子孫であることから、執権または得宗家の末裔とみられる。このほか直冬は「熊谷彦八殿(熊谷直平)」(貞和六年六月廿七日「足利直冬書状」『萩藩閥閲録』)、「吉河又次郎殿(吉川実経)」(貞和六年六月廿日「足利直冬書状」『吉川家文書』)らを御方にするべく調略をかけるなど、積極的な動きを見せている。
こうした中国地方の情勢を受けて、尊氏は6月中旬、「為直冬以下凶徒退治、所差遣越後守師泰」(観応元年六月十五日「足利尊氏御教書」『小早川文書』他)することとし、「小早河左近将監殿(小早川春平)」「小早河平次殿」「小早河安芸孫四郎殿」「小早河又三郎殿」「小早河与次殿」「小早河三郎五郎殿」「小早河左衛門次郎殿(小早川直平)」「藤井六郎殿」「長井出羽前司殿(長井貞頼)」をはじめとする中国地方の地頭に対し、師泰下向を知らせている。
そして6月21日、「高越後守師泰、為討伐兵衛佐、今日丑刻先発向中国、可住淀辺、其後可下備後、随躰可発向九州云々」(『祇園執行日記』)という進軍の計画で、師泰は「申給院宣之上、錦幡用意云々」とあるように、節度使の体を為した正規の公的追討軍であった。しかし、その進軍の速度は遅く、25日に「高越州自淀今日下向備後」(『祇園執行日記』)と、数日間淀に滞在していた。7月に「高越州中国ニ下向」(『毛利文書』)し、「為三隅入道追罰、師泰発向岩見国」(『東寺王代記』)と石見国方面にも兵を派遣している。この師泰の石見派兵には、安芸守護武田氏信以下が加わっているが、7月2日に石見国の関所において「石州御敵」に大敗し、吉川又次郎実経は「引退大朝新庄」している。直冬方の石見勢は追撃するも吉川実経と「綿貫孫七」「伯母野左衛門尉」らによりに追い返された(観応元年七月廿七日「吉川実経軍忠状」『吉川家文書』)。石見国には「奉中国大将軍、所令下著于石州三隅候也」した「桃井左京亮」が勢力を維持し、「為師直師泰以下与党輩誅伐」という直冬の挙兵目的を共有している。その後も直冬は「中国大将軍」として、勲功賞による知行宛行を積極的に行っている。
九州および中国地方で直冬党による小さな兵乱が散発している最中の7月半ば、「美濃尾張凶徒」が挙兵した(『園太暦』)。これは「土岐周済房以下一族依蜂起事」(観応元年八月八日「律師則祐書状」『後藤衛藤系伝』)で、「武士多令差遣」ていたが、「若猶及大事者」のため、7月25日には「義詮朝臣、師直等可発向」(『園太暦』)が決定した。26日夜には「先佐渡判官入道発向」している(『祇園執行日記』)。27日に洞院公賢邸を訪れた「園前宰相等」が「濃州事以外之由風聞、武士等於路次押取ゝゝ有狼藉之間、凶徒已入江州之由有其説」(『園太暦』)といい、近江国に美濃土岐氏の軍勢が攻め入った情報があったため、佐々木道誉が急ぎ発遣されたのであろう。そして27日深夜丑刻、「左馬頭義詮朝臣、武蔵守師直等発向、其勢四五百騎云々」が門出し「可宿江州」という。
近江国に攻め入った「濃州御敵」の「土岐周済房以下一族」は「近江界山中宿辺」に駐屯している(『祇園執行日記』)。その後、義詮・師直率いる軍勢は美濃国へなだれ込み、「周清法師并船木入道俄逃脱、懸追手、船木入道即打取了、其後又周清同打之由、告垂井宿了」(『園太暦』)といい、8月18日、義詮・師直勢は近江国柏原に宿陣したという。実際には「周清」は生け捕られている。
8月20日、「義詮朝臣師直等戌刻京着、直向将軍亭、不及院参」(『園太暦』)といい、従う軍勢は「一二百騎歟」という。前陣は「粟飯原下総守清胤」でそのほか「先打十余騎」が続き、「頭殿次ニ命鶴殿御迎参」という。そのあとには「執事武州、其勢不知其数」が続き、「生捕大将周勢房兵庫入道道存子乗輿、佐々木六角判官江州守護、預召具上洛」(『祇園執行日記』)した。祇園執行顕詮は翌21日に「行粟飯原許、無為上洛目出之由申了」が、清胤はこのとき「風呂之間」で見参できず、「諏方神左衛門今度上洛之間、同見参」した(『祇園執行日記』)。
8月22日、臨時除目が行われた。これは「自仙洞被下御書、義詮朝臣勲功可被行間事也」(『園太暦』)という。この除目により義詮は「参議源義詮勲功賞」「左近衛権中将源義詮兼」となり「宰相中将」と称されることとなる(従四位下ま変わらず)。そのほかでは「刑部権少輔源重親」「左衛門尉平正員」「右兵衛尉秦光重」が新たに任官している。
8月28日、「土岐周清、同舎弟左衛門大夫入道、於樋口河原六波羅地蔵堂焼野、今夜戌刻被討了、奉行雑賀民部大夫也、左衛門大夫入道乍著裳無衣、切頸之條無故実之由有沙汰、預人佐々木大夫判官切之」(『祇園執行日記』)し、翌29日に「周清兄弟頸、又今日懸之」(『祇園執行日記』)という。
その頃、直冬党の挙兵は伯耆国や出雲国でも発生している。出雲国では8月12日に「出雲国小境伊藤平五郎入道元智」が「伊藤弾正左衛門尉」「佐々木六郎左衛門尉」とともに直冬方として旗揚げし、翌13日に「白潟橋終日致合戦」(貞和七年二月日「伊藤元智法師軍忠状」『萩藩閥閲録』)している。この合戦は出雲守護代の吉田肥前房厳覚以下の「諏方部彦十郎貞助」や「吉田兵衛次郎」ら師泰方の武士が応戦し、「佐々木信濃五郎左衛門尉、同六郎左衛門尉以下御敵」(観応元年八月「吉田厳覚証判軍忠状」『三刀屋文書』)と高野山あたりで合戦、翌14日にも「平浜八幡」で戦っている(観応元年八月「吉田厳覚証判軍忠状」『三刀屋文書』)。
ところがこの8月頃、備後国から肥後国に直冬を連れ、阿蘇の地に匿った「河尻肥後守幸俊」は吉野方の征西将軍宮懐良親王へ「参御方之由」の報告があり、彼が「無理押妨」していた「肥後国甲佐神宮」領の「守富庄居合田」につき、「世上騒乱以来、依為御敵領内、不及社家知行、因茲恒例祭礼、大略所令闕如也」が「幸俊参御方之由、承及之間、任先例、為奉被付彼居合田於社家、令言上也」という(正平五年八月「甲佐神宮供僧等申状」『阿蘇文書』)。その結果、8月9日に「筑後守惟澄」から申状が将軍宮の「御奉行所」へ託され、8月18日、「河尻肥後権守殿」へ将軍宮奉行の勘解由次官より押妨の停止が命じられている(正平五年八月十八日「懐良親王令旨」『阿蘇文書』)。また、阿蘇大宮司(宇治惟時)も直冬に属することなく、尊氏から賞されている(観応元年十月廿一日「足利尊氏御教書」『阿蘇文書』)。直冬がこの頃どこに在陣していたのかは定かではないが、肥前や豊後などに進出していることから、直冬の管国たる中国地方を眼前に臨む北九州方面に展開していたのかもしれない。直冬は肥前国には「今河五郎(今川貞直)所差遣也」し(貞和六年九月十六日「足利直冬書状」『深堀記録証文』)、「深堀弥五郎殿(深堀政綱)」「深堀又五郎(深堀清綱)」「深堀弥太郎(深堀広綱)」らに「属彼手急速可致忠節」を指示している。
観応元(1350)年9月29日、直冬は大規模に挙兵した(『大乗院記録抜書』)。
直冬の挙兵場所及び進軍経路等は不明だが、太宰少弐頼尚ばかりか大友氏泰までもが直冬に属し、「鎮西探題一色入道」は「肥前国草野城」に追い込まれて籠城するに至っている。
この大規模挙兵の京都における異変は10月15日夜の「鎮西大友代官」の「逐電之由風聞」(『園太暦』)であった。この「九州蜂起、直冬靡九州之勢、大友、小弐以下無不帰之、随而大友京都代官二人逐電」ということに、尊氏は愕然としただろう。鎮西の雄大友氏泰は尊氏に忠節を尽くした大友一族の惣領家であり、かつ尊氏が猶子とし「氏」の一字を与えるほど優遇した人物である。このような人物までもが直冬に靡いて「蜂起」したのである。当然ながら直冬は尊氏追討を唱えたことはなく「為師直師泰以下与党輩誅伐」(観応元年七月廿七日「吉川実経軍忠状」『吉川家文書』)を目的とする挙兵であろう。少弐頼尚や大友氏泰も尊氏ではなく師直等執事家へ対する強い反発を以って直冬に加担したと考えられる。これに対して尊氏は「大友京都代官二人逐電之間、為征罰前大納言并師直可発向」(『園太暦』)と、尊氏自ら出陣する九州征討へと舵を切ることとなる。直冬は血統上においては鎌倉殿義詮の兄、前執政の直義入道の養子、軍事面においても著しい成果を挙げるなど、カリスマ性は義詮を凌いでいたのであろう。前述の通り、秩序と規律で足利家政と政権を安定化させ、吉野方を降伏させることによって皇統・朝廷の統合ならびに戦乱の収束を図ろうとする尊氏や師直にとって、直冬叛乱は絶対に鎮定しなくてはならない案件だった。しかし、尊氏実子を討つにあたっては、一色らの一族被官層では役不足であり、尊氏自身の征西が必要だったと思われる(実戦経験が乏しく名声も直冬に及ばない義詮では意味がなかった)。尊氏は征西に当たり、戦に慣れた師直を同道するとともに「於義詮者為京都守護所進置也」(『園太暦』)と、京都守護として留守と定めた。
10月17日、洞院公賢は仙洞御所へ混乱する世上を奏上すべく「欲早参仙洞」したが、このとき屋敷に賢俊僧正が訪れて「今日一色飛脚到来、大友小弐悉与同之條勿論也、一色相憑上松浦輩并草野等、如形籠城、将軍為発向者、定無子細歟之旨申之、仍来廿五日進発必定之由、有其聞、委旨可参申」ことを報告している。公賢はこれを聞いたのち、参院して光厳院に伝えている(『園太暦』)。このときの一色状の内容はすぐに広まったようで、「鎮西兵衛佐殿直冬、被挙義兵、仍小弐大友与力之由、飛脚内々到来、小弐代官在京之處、一昨日逐電、又越中守護桃井刑部大輔(桃井直常)子息兵庫介(桃井直信)在京之處、一昨夜同逐電云々、就之来廿五日、将軍可有御発向之由、有其沙汰、鎮西探題一色入道籠于肥前国草野城云々」(『祇園執行日記』)と祇園社家の顕詮が記している。なお、桃井兵庫助直信は刑部大輔直常の弟である。
なお、直冬に関わる一連の動きは、決して直冬一人によって行われたわけではなく、引退した養父直義入道恵源が大きく関わっていた可能性が高いだろう。貞和5(1349)年12月8日の出家当時は直冬への積極的支援は行っていなかったとみられるが、それから間もなくおそらく直冬の方から師直・師泰追捕についての誘いがかかったのではなかろうか(直義出家が引金になったのかもしれない)。とくに大友氏泰の直冬方への転向は、太宰少弐頼尚が直冬方に参向した「自京都被仰下子細候之間、参佐殿御方候、御同心候者悦入候」(貞和五年九月廿八日「太宰少弐頼尚書状」『深堀記録証文』『松浦文書』)という文書に見られるように「自京都被仰下子細」があったのではなかろうか(「京都」は尊氏ではないため、直義を指すと考えられる)。直冬は在京の直義入道と密接にコンタクトを取りつつ、高一族を討つための挙兵を支えたのだろう。そしてその報告が齎される直前に、大友代官、少弐代官、そして以前から直義入道と関係の深かった桃井直常の子息が京都を脱出したのであろう。
なお、尊氏が直冬追捕の理由が、直冬書状の書き出しに用いられている「為奉息両殿御意所打立也」(貞和五年十一月九日「足利直冬書状」『吉川家文書』)は虚偽であることを示すためだった。直冬がこの文言を用いて武士を招集していることから、「直冬称御意相語士卒之由、依有其聞、為散不審所発向也」(観応元年十一月廿一日「足利尊氏御教書」『小笠原古文書』)としている。
尊氏の京都出陣に際し、周辺国でも直冬派と将軍派で戦乱が続く状況となっていた。越中国においては、10月20日「於越中国凶徒打出、同廿三日責来同国氷見湊」(「得江石王丸代長野季光軍忠状」『得江文書』)と、直冬党の人々が挙兵。11月3日には能登国で「井上布袋丸、富来彦十郎以下」が富来院に打出て花見槻に攻め寄せるなど、活発な動きが見えている。こうした直冬党に対し、将軍方の「能州守護桃井兵部大輔殿(盛義)御代官矢野余五郎」らが対抗している。能登守護「桃井兵部大輔(盛義)」は越中守護の「桃井刑部大輔(直常)」の遠縁の同族で、11月4日に「兵部大輔殿自京都当国能州御下向」している。そして11月19日、「御敵桃井兵庫助直信、率数千騎自越中令乱入能州、取陣高畠宿」と、越中国から桃井兵庫助直信が能登国に攻め入ったことがわかる。このときの越中桃井軍の大将「桃井兵庫助直信」は九州の直冬挙兵の一報が京都に届く直前または直後の10月15日中に京都を脱出しており、その足で越中国へと下ったと考えられる。
そして、尊氏出陣直前の10月27日朝、京都で大事件が発覚した。「今朝世上以外騒々、彼是云、錦小路左兵衛督入道、去夜逐電、就之武門騒々」(『園太暦』)と、直義入道自身が26日夜に錦小路邸から姿を消したのである。この逐電の情報がどこから漏洩したのかは定かではないが、この時期、直義入道は現政権から疑惑の目を向けられ、錦小路邸も警備が強化されていたと考えれば、翌朝早々に逐電が発覚した理由も頷ける。発覚した朝は「世上騒々」しく、武士等が慌ただしく行き交う姿がみられた。この逐電も、直冬挙兵に伴う少弐、大友の代官、桃井直信の京都脱出と軌を一にするものであろうが、直義入道は彼らのように直冬方に属して挙兵するものではなく、「令誅伐師直師泰」(観応元年十一月十五日「足利直義入道書状」『河野家之譜』)という目的を果たし、後述のように南朝吉野方との和平プロセス確立のために、吉野方へ参じたのであろう。
直義入道逐電の一報を受けた尊氏であったが、「但不及懸追手、明暁進発延縮、今日有評定再三沙汰」(『園太暦』)というように、直義入道に追手を差し向けることを禁じ、明日10月29日に西国に向けて出立することで決定したという。ただ、この部分はその日のうちから諸説芬々としていて、洞院公賢も「武衛禅門宿所縦横風聞、所詮実説無之歟」(『園太暦』)と記す。追手についても翌10月29日の記事で、「師直有捜不見沙汰後、可進発之由、頻雖称之、将軍不聞入発向、諸人成不審」(『園太暦』)と記している。結局は、直義入道の逐電については、尊氏は理由は不明ながら、師直からの捜索の進言を頑なに拒絶し西国へ向かっている。尊氏は直義入道が市中混乱と征西軍の士気阻喪を狙う企てと察し、出陣直前に捜索を行うことで士気の低下と混乱を避ける判断をした可能性も考えられる。なお、直義入道逐電までの間に尊氏が直義入道と連絡を取ったことは記録にない。
離京前、直義入道は吉野南朝方との仲介者を模索していたとみられ、その結果、事もあろうに宿敵である「河州東條の輩」(『吉野御事書案』)、すなわち楠木左衛門尉正儀をそれに選んだ。どのような伝手で正儀とコンタクトを取ったのかは不明だが、離京前に両者の意思の疎通はあったのだろう。そして10月26日夜、「左兵衛督入道恵源、召具石堂左馬助頼房落給、相次大和国越智伊予守」(『大乗院記録抜書』)、「居住和州田口」(『園太暦』)とあるように、錦小路邸を逐電した直義入道らは、まず大和国田口庄(高市郡高取町)へ下った。これは吉野方との連絡が容易である事と、仲介者の楠木正儀と水越峠を通じて連絡が取れるためだろう。当時の河内守護は高師泰に招かれて後任守護となった畠山阿波将監国清であったが、彼が直義入道に同調したことで直義入道は11月21日に「錦小路殿、石河御入部」(観応二年四月「田代了賢軍忠状」『田代文書』)し、至近の東條にいる楠木正儀を通じて、吉野方の北畠親房入道と交渉を開始したと思われる。正儀が親房入道の仲立ちとなったことは「典厩禅下申さるゝ旨ありとて、河州東條の輩ども申しけるは、偏に先非を改て勅命に応じ申さるべき説也」(『吉野御事書案』)と述べていることからもわかる。
なお、直義入道逐電に際して尊氏は直義入道の捜索を行わせなかったが、その理由としてはあくまでも推測であるが、これより前、直義入道は尊氏に足利政権安定のために師直・師泰の処罰を求めるとともに、その後の南朝方との和平提案を行ったのではなかろうか。直義入道は南朝方との和平を進めるうえで、まずは足利政権の害とみなしていた執事家高一族の排除を行うことを前提としただろう。しかしながら、尊氏は義詮・高師直による政体の死守する方針であり、尊氏は当然ながらこれらを一切拒否し交渉は決裂しただろう。そこで、尊氏の協力を得ることは不可能と察して「師直師泰」を公戦で放逐すべきと考え、その公戦の名分をこれから和平の推進を考えている南朝吉野方に求めたと思われる。そして直義入道は京都を逐電する。尊氏は南朝方との和平を目指す理由を理解していたため、敢えて捜索を禁じたのではなかろうか。ただし、直義入道が吉野方へ「帰参」することまでは想定になかったと思われる。直義入道は吉野南朝方に帰参しながらも、尊氏に対する敵意は見られず、11月15日、直義入道は「河野対馬入道殿(河野通盛入道)」に対し、「為天下御為将軍所思立也、参御方令誅伐師直師泰者、依其望可有忠賞」を約束している(観応元年十一月十五日「足利直義入道書状」『河野家之譜』)。吉野方への帰参は「為天下御為将軍」に思い立ったことと述べ、のちに直義入道が北畠親房入道との書状のやり取りの中でも「将軍機に乗て戦功を達せられしかば、天下響の如くに応じて都鄙不日に静謐す、又建武に諏方の時継反逆の時、将軍みづから発向して誅戮踵をめぐらさず度々の大勲今古比類なし」(『吉野御事書案』)と、直義入道は尊氏を擁護しているのである。
10月27日、「今日、将軍以道誉、付勧修寺前大納言、西国蜂起之由有其聞之間、為退治明暁罷向之旨申之、経顕卿所労之間不参、以経量朝臣申之、即以彼朝臣被下御剣、即被引下御馬之由、仰道誉、御馬北面康守将向云々」(『園太暦』)と、尊氏は佐々木道誉を以て西国下向を奏上し、節刀を賜った。そして翌10月28日早朝卯刻、「将軍進発」した(『園太暦』)。「武蔵守師直以下帯甲冑相従」い、率いる手勢は「四五百騎歟」(『園太暦』)といい、発向時は御内勢を中心とした軍勢であったとみられる。このとき「師直旗差某於東寺南門前落馬損手、仍於此所差替其仁」(『園太暦』)といい、不吉な雰囲気の中での出陣であったようである。28日中に淀に到着し、翌29日「今日将軍自淀参詣八幡宮、其勢無幾云々、即帰淀」(『園太暦』)した。また、29日には「相公羽林義詮朝臣、移住大樹第」しており、「三条坊門亭」は「千葉介以下警固」(『建武三年以来記』)したという。ただし、三条坊門邸を警衛した「千葉介」については、この二か月後に京都で身罷った「千葉前介貞胤」ではなく、すでに千葉介を継承していた千葉介氏胤とみられる。
11月5日夜、先日梟首された土岐「周清房」の「舎弟右衛門蔵人、自公方被討了」(『祇園執行日記』)という事件があった。右衛門蔵人は先日の土岐周清の乱の際に逃亡していたが、なぜか上洛していて発見され「佐渡判官入道手者討之」(『祇園執行日記』)たという。さらに侍所の手の者が「押寄土岐蜂屋宿所中御門西洞院(上京区夷川町椹木町通西洞院東入)」しているが(『祇園執行日記』)、「土岐蜂屋」は逃亡した。なお、「侍所」は「侍所奉行仁木兵部大輔頼章、佐々木判官入道道誉等沙汰」(『園太暦』)とあり、周清房の舎弟、土岐右衛門蔵人を捕縛したのも蜂屋某を襲撃したのも一連の情報を手にした侍所の手による逮捕劇であったとわかる。侍所は京中の謀叛人の検断権も持ち合わせる検非違使的な存在にあったことがわかる。なお、この襲撃で蜂屋某は取り逃がしたものの、「土岐末子一人不逃得取之、梟首」(『園太暦』)という。また、「武州師直差上勇士」(『園太暦』)といい、師直は西国発向前に土岐周清残党の入京を察していたのかもしれない。
その後も京都で夜討ちが発生するなどしたため、尊氏は11月8日、逗留していた兵庫から京都の宰相中将義詮へ使者を送り、「京都有物騒事者、行幸仙洞於一所可警固申」を指示している(『園太暦』)。この頃にはすでに仙洞御所周辺は厳しく警備網が敷かれており、留守居の一人「千葉」も御所に近い北小路里(上京区北小路室町付近)あたりに軍勢を多く寄宿させていた。その「千葉軍勢」が「北小路里辺」で「狼藉之企触耳」であったため、永福門院(伏見天皇中宮藤原鏱子)は女房たちの一人住まいを物騒に感じ、自らの御所に引き取っている(観応元年十一月八日『園太暦』)。ただし、このときの千葉介は貞胤ではなく子息の千葉介氏胤で、十五歳の若者であった。
●『園太暦』観応元年十一月八日条
こうした状況は、二か月後にも、
●『園太暦』観応二年正月十四日条
とあるように、とりわけ千葉家士による所々打入の狼藉が激しく、彼等は院御所持明院第(上京区安楽小路町)付近に木戸を構え、周辺の往来を監視していたという。氏胤は父貞胤の重病から死去後の家中混乱と足利家への忠勤を表すべく、将軍家御教書を施行する宰相中将義詮の命を厳しく遵守して篝屋を置いて家士を多数駐屯させ、院御所周辺を厳重に警衛したのではなかろうか。わずかな疑いであっても家士を派遣して捕縛や家屋の破壊を厭わず、往来も厳しく改めていたのだろう。
11月8日には、京都に「世上事、将軍慶也、自鎮西飛脚到来兵庫館、小弐以下悉可参御方之由申之」(『園太暦』)という「閭巷説」があった。ところが10日夜、「光之下人、入夜自播州平野庄上洛、其説西国輩降参不然、河野土屋等、已以到著備後国、賢俊僧正為将軍使、可遣兵衛佐直冬之旨、雖有沙汰、通路於今難義之間、不及進発、師康自石見三角城被追落、没落出雲国之由風聞云々、何是非迷鬱陶者也」(『園太暦』)といい、実際には太宰少弐らの降参はなく、尊氏が兵衛佐直冬に賢俊僧正を派遣しようとするも、「播州敵陣出来之由」(『園太暦』)と播磨国にも直冬党が出没し、さらに先の中国地方にも直冬党が勢力が大きく広げていて進発もできず取りやめとなり、石見国に派遣されていた越後守師泰も石見三隅城で直冬派遣の桃井修理亮らに敗北して出雲国に逃れたという風聞が齎されていた。中国地方における尊氏方の戦線は不利な状況だったのである。なお、石見での師泰敗戦については、11月16日に太宰少弐頼尚が阿蘇大宮司惟時に報告した「中国事、高越州、岩見被追落候て、安芸国被出候けるか、上洛之由令風聞候、為御不審令申候、如此候ヘハ、弥目出存候」(観応元年十一月十六日「少弐頼尚施行状」『阿蘇文書』)からも事実であろう。こうした中で、直冬は鎮西御家人らの要請に応じて安堵状を次々に発給しており、直冬は鎮西において大きな期待を寄せられていたことがわかる。
11月12日、「将軍明暁起兵庫被向中国事」(『園太暦目録』)と、尊氏は兵庫津を出立し、中国地方へと進発した。翌11月13日、「安保肥州」が「今日下向兵庫之由、自純阿許申之」(『祇園執行日記』)するとともに、「宮田二郎左衛門入道上洛」といい、尊氏の兵庫出立はこの宮田二郎左衛門入道が義詮への報告の使者であった可能性が高いだろう。安保肥前守はこの時点で尊氏の兵庫出立を知らされておらず、以前に命じられたままに「下向兵庫」と認識していたと思われる。なお、18日には「河野つしま入道との(河野通盛入道)」に「すてに備前国ミついしまてつきて候也」(観応元年十一月十八日「足利尊氏御教書」『与陽河野家譜』)と、備前国水島(倉敷市)まで進んでいることを告げて合力を命じている。そして翌19日、「備前国福岡ニ著給(岡山市長船町福岡)」(『大乗院記録抜書』)という。
同12日には、関東でも直冬(または直義入道)に呼応する「上杉左衛門蔵人(上杉能憲)」が「於常陸国信太庄揚旗」している。さらに15日には、九州でも直冬が「阿蘇大宮司殿(宇治惟時)」に「豊後国凶徒等退治事、急速令発向、可被致忠節」ことを命じ、同時に太宰少弐頼尚及び「大友兵部大輔殿(大友氏時)」にも「豊後国凶徒退治事」を命じるとともに、管国御家人への軍勢催促を指示したとみられる(観応元年十一月十六日「少弐頼尚施行状」『阿蘇文書』)。翌11月16日、太宰少弐頼尚は「阿蘇大宮司殿(宇治惟時)」に対して「豊後国凶徒退治事、自公方被成御教書候之間、被進候、同く者急速御発向候厳密沙汰候者、悦存候」(観応元年十一月十六日「少弐頼尚施行状」『阿蘇文書』)と遣わしている。まだ惟時はその帰趨を明確にしていないことがわかるが、頼尚はこの命を直冬(公方)の「御教書」としている。関東、九州においても直冬、直義入道に呼応する人々の動きが活発になっている。
11月16日、京都では「今日道誉為武家使向執権大納言許、彼卿依所労不参、如例以経量朝臣申入云」(『園太暦』)として、三ヶ条を要求しているが、そのひとつに「兵衛督入道有陰謀之企之由有其聞、可追討之旨可被下院宣事」(『園太暦』)があった。この「陰謀之企」とは、すなわち直義が吉野方南朝へ帰属するという情報であろう。
この院宣要請は宰相中将義詮から佐々木道誉を経て奏院されたとみられるが、洞院公賢はとくに「就中追討事、被下院宣了、真実将軍所存歟、尤不審事也」と尊氏の所存によるものか疑問を呈している。ただし、これは「十一月十九日、入道左兵衛督誅伐事、大樹以使者自路次被申間、院宣并御旗等、任申請昨日被下之」(『建武三年以来記』)と明確にあることから、尊氏主体で追討の院宣が要請されたことがわかる。また御旗についても、11月17日に「将軍申請公家御旗事、以泰尚状申之」(『園太暦目録』)とあり、直義追討要請の主体は尊氏自身であり、御旗は11月18日に下されたことがわかる。
また、16日には「顕氏被相背之間、懸追手、細川刑部少輔、阿波将監之由」(『園太暦』)という。細川陸奥守顕氏は三条邸を明け渡した直義入道に自らの錦小路邸を提供した人物であり、11月8日に直義入道が錦小路の顕氏邸から逐電したため、嫌疑を掛けられたのち逐電したのかもしれない。
そして前述の通り、11月21日に「錦小路殿、石河御入部」(観応二年四月「田代了賢軍忠状」『田代文書』)した。直義入道は吉野山麓に近い大和国田口庄(高市郡高取町)から河内国石川へ入ったが、石川城は貞和5(1349)年初頭には高越後守師泰が東條の楠木一党に対抗する前線基地として警衛していたが、貞和五年八月政変に当たり、8月6日に「師泰招紀伊国守護畠山清国、守石川城、而師泰帥兵向洛」(『続本朝通鑑』)と、石川城に紀伊守護畠山阿波将監国清を置いて上洛して以降、畠山国清がその城将となっていた。国清には8月の石川入部時から和泉国大鳥郷の地頭「田代豊前又次郎入道了賢」が属していることから、師泰は上洛に当たり河内国及び和泉国の守護職を辞して、国清が守護になったとみられる。
11月23日晩、洞院公賢のもとに親承法印が訪れ、「今日向宰相中将許、飛脚到来、兵衛督入道降参吉野、日者居住和州、越河州、畠山阿波将監合体云々」と、直義入道が吉野方に参向したことを伝えている(観応元年十一月二十三日『園太暦』)。さらに足利一門の重鎮である「吉良三郎(吉良貞氏)」も「同合体彼入道」したという。鎮西においては、「大友以下将軍通志者多之」というが、「只小弐頼尚一人合体直冬、不可有殊煩云々」という。その他「細川奥州事、猶未一定云々、或曰一昨日江州下賀、高山、小原一族揚旗、又昨日和州伊駒山石塔同揚旗、如此類所々多之」(『園太暦』)と、各地で直義入道方の挙兵が相次いでいる。12月25日にも「兵衛督入道、去廿日、越河州石川城、畠山阿波将監同心、叛逆勿論云々」(『園太暦』)が伝えられた。
11月26日には、直義入道に加担する「石塔中務少輔」が「為大将、江州高良庄辺所々放(火)、仍道誉城用意之處、当国不静謐者、可籠東寺之由今日評定、自今日構要害云々」(『園太暦』)という。同じく直義入道の党である上野直勝もまた「江州之大将」として石川から近江に進発し、11月27日、大原庄小佐治の地頭「大原小佐治兵衛三郎国氏」は「大原庄内油日城麓善応寺、被揚御旗」し、「今月四日御発向敵陣之間、令御共」して「於三上山野洲河原致戦功、追落佐々木五郎右衛門尉(佐々木信詮)已下凶徒」した。そして「同日押寄勢多渡、追散守護代伊庭六郎左衛門已下警固凶敵等、焼落橋畢」と、勢多橋を焼き落として京都からの進軍を足止めさせている。しかし、「同十日、佐々木判官為渡橋打向之間、馳向守山致合戦之時、国氏同舎弟弥三郎国広法師丸伯父、討死之條、為大将御目前合戦」というように、守護佐々木氏頼が橋を架け、琵琶湖東岸域にも戦端が拡大されていた(「小佐治法師丸軍忠状」『小佐治文書』)。
直義入道の吉野方への離反により、26日には、宰相中将義詮は比叡山の「護正院僧都御房」に対して、「就左兵衛督入道反逆事、山上阪本有野心輩之由有其聞、如然之族出来者、且尋注進交名」(観応元年十一月廿六日「足利義詮御教書」『護正院文書』)ことを命じている。
11月28日には、直義入道は和泉国大鳥郷の「田代豊前又次郎入道殿(田代基綱)」、「田代豊前三郎殿(田代顕綱)」に「師直師泰誅伐事、早可致軍忠」を指示している(観応元年十一月廿八日「足利直義御教書」『田代文書』『市村文書』)。
11月29日、洞院公賢邸に「四位大史匡遠、下総守師利、大外記師茂等来」て、世上の事につき語ったところによれば、「兵衛督入道在河州都智城、相談細川奥州可進退之由有其聞、奥州来河州歟、禅門向讃州歟、両様未決歟云々、彼入道更無別心、只師直師泰奇恠之憤許也、且可召賜両人之旨、去年約諾事、可為何様哉之由、書状遣将軍、使者律僧也、命鶴取書状披露或覧門守、或隠密覧師直、其後師直召捕彼僧、則使者遣京都、侍所仁木兵部大輔頼章、緬縛僧躰不便」(『園太暦』)という。直義入道は「河州都智城」に在城しており、讃岐国の細川顕氏が河内国に来るか、直義入道が讃岐国に渡るかの相談がなされたという。また、直義は尊氏に書状を遣わし、尊氏に対する「更無別心、只師直師泰奇恠之憤許也」といい、さらに「且可召賜両人之旨、去年約諾事、可為何様哉」と糾弾する文言もあったという。貞和5(1349)年のいつかは不明だが、尊氏は直義に師直師泰を引き渡す約諾をしているにもかかわらず、引き渡されずにこの状況になっているが、一体どうなっているのか、と尊氏の対応を詰っている。
貞和5年の直義と師直師泰の対立といえば、閏6月1日の直義による「謀誅師直」(『続本朝通鑑』)と閏6月7日の高師直の執事罷免、その二か月後の8月13日早朝の「師直相催一族、欲討右武衛将軍」(『園太暦』)と翌14日朝の「師直軍旅寄来大納言第、大略巻籠囲四方」の政変であろう。結果としてこれにより直義は失脚することになるが、これ以降、尊氏は師直を直義後任の鎌倉殿義詮の執事につけてこの政治体制を強力に進めることとなり、観応の擾乱の一因へと発展したことから、尊氏が直義に「可召賜両人之旨、去年約諾事」は、師直勢が尊氏邸を包囲したとき以外にはない。直義入道はこのときのいわば空手形を以って尊氏を責めているのだろう。ただし「或隠密覧師直」と注記があるように、密かに師直が見ることを想定して書かれた可能性も否定できない。
翌11月30日には京都に「世上事或説」として「師直可出家之旨示将軍、然者世上無為勿論之由風聞云々」(『園太暦』)という。師直出家により世の混乱も収まるかという期待が込められている(ただしこれも誤伝であるが、風聞は多くの期待の産物である)。また、洞院公賢は夜に邸を訪れた花山院宰相中将家賢の家司「仲康」から、直義与党「石塔中務少輔(石塔頼房)、已来渡部橋辺」といい、「明後日可入八幡歟」(『園太暦』)という情報が届けられた。さらに12月10日には、足利家が百年以上にわたり支配してきた三河国額田郡の足利家被官や諸地頭も惣領尊氏、義詮ではなく直義入道に応じるという事態となっていた。
●額田郡一揆人数交名注文(『前田家蔵書閲覧筆記』)
粟生藤左衛門為広 | 簗田平太資国 | 山室四郎左衛門尉俊秋 | 宮重新右衛門尉定平 | 河路左衛門三郎家兼 |
鹿島中務丞頼広 | 高宮小二郎景広 | 進左衛門太郎行重 | 進左衛門六郎行光 | 宮重左衛門三郎景信 |
高宮左衛門三郎義景 | 椙山左衛門三郎宗高 | 椙山八郎宗弘 | 椙山彦三郎宗俊 | 椙山五郎宗重 |
大庭弥平太氏景 | 土岐弥二郎行光 | 和田孫四郎道長 | 樫山十郎義胤 | 宮重六郎信春 |
宮重四郎定行 |
そして12月13日、吉野方賀名生御所の後村上天皇の側臣「左京権大夫政雄(六角宰相隆雄子息)」より「足利入道左馬頭殿」へ綸旨が届けられた。「温故知新者、明哲之所好、撥乱復正者、良将之所先也、而不忘元弘之旧功、奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞、早揚義兵、可運天下静謐之策者」(正平五年十二月十三日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)として、直義入道の帰参を認め、直ちに義兵を揚げて天下静謐を取り戻すよう命じている。これを請けた直義入道「沙弥恵源」は「綸旨畏拝見候了、任勅定可致忠節候」ことを認めた「錦小路請文」を「頭大夫殿」へ提出し、正式に吉野方に帰属することとなる。
12月21日、吉野方として石川城を出立した直義入道及び畠山阿波将監国清の軍勢は「被出天王寺云々、軍勢等并今度馳参之輩等、天王寺ニ群参云々」(『観応二年日次記』)という。その前日の12月20日頃には、「東国勢廻南方入八幡、又陸奥守顕氏打従四国、已解纜向京都云々」(『園太暦』)といい、天王寺に陣を構えた直義入道勢ならびに八幡城に入った「東国勢(直義に呼応した東国勢)」及び、四国から出帆した細川陸奥守顕氏勢がそれぞれ京都を窺うという状況となった。
こうした状況に、鎌倉殿義詮は天皇・内侍所及び光厳、光明両院、広義門院の行幸(避難)を決定。12月24日、天皇と広義門院は「仙洞(持明院殿)」に行幸、両院は「新御所」への渡御となった(『園太暦』)。ただ、天皇は5日後の29日夜、土御門東洞院御所へ内侍所を伴って「主上還御本宮」している(『敦有卿記』)。
12月25日には、関東でも尊氏・義詮にとって悲観的なことが起きており、「高播磨前司鎌倉没落」した。高播磨守師冬は関東執事の一人であるが、もう一人の執事「上杉戸部(上杉憲顕)」は12月1日に「立鎌倉、上野国下向」しており、領国で軍勢を整えたのだろう。師冬は25日に若御前(基氏)を伴って鎌倉を脱出して「同日夜半、毛利庄湯山著」している。彼らは湯山長谷寺(厚木市飯山)を宿所としたとみられ、「若御前ニハ三戸七郎、彦部次郎、屋代源蔵人、一色少輔三郎、加古修理亮、中賀野加古宮内少輔、今河左近蔵人御共、此人々五人」が供人であったが、「於湯山坊中、翌日辰時、三戸七郎ヲハ宮内少輔討之、彦部ヲ加古修理亮討之、屋代ヲハ義慶手討之、以上三人被討畢」(観応二年正月六日「石塔義房入道申状」『古文書録』)と、上杉党であったとみられる中賀野加古宮内少輔が三戸七郎を、加古修理亮が彦部次郎を、石塔義房入道(義慶)が屋代源蔵人をそれぞれ討ち、義房入道は若御前(基氏)を伴って「鎌倉入御」した。その「御共人々」は「上杉戸部以下先陣、三浦介、椙下判官後陣」であった。
なお、若御前(基氏)を奪われた「播磨前司」は「楯籠甲非国逸見城」(観応二年正月六日「石塔義房入道申状」『古文書録』)し、翌観応2(1351)年正月4日、討手として「上杉兵庫助率数千騎発向」している。また、「以加古宮内少輔三郎、上杉左衛門蔵人、自海道企上洛候」(観応二年正月六日「石塔義房入道申状」『古文書録』)という。彼等は直義入道との合流を模索したか。
12月に入ると南朝吉野方の攻勢が活発化し、直義入道らの吉野方帰参など、畿内の大きな情勢変化をきっかけに、12月30日、尊氏は征西を諦めて「自備州福岡、御入洛」(観応二年七月「足利尊氏袖判御教書」『松浦文書』)の途についた。
しかし、直義入道の与党、畠山阿波将監国清が「摂津国神崎」に向かい、観応2(1351)年正月1日、「当国守護代河江右衛門太郎入道円道」を追い落とした(「伊丹宗義軍忠状」『北河原森本文書』)。摂津守護職は赤松左衛門尉範資(故円心長子)で尊氏勢に従軍して備前福岡にあり、直義入道はその領国を封鎖して尊氏勢の帰路を阻み、その間に北陸の与党、桃井刑部大輔直常らとともに京都を攻め落とすという計画であったと思われる。
そしてこの日未刻、「千葉前介貞胤有事」(『園太暦』)という。貞胤は「兵革時分以疫病有事」(『園太暦』)といい、貞和2(1346)年10月7日以降、貞胤に対する発給文書はなくなるため、貞和2年以降に氏胤へ家督を譲って隠居し、京都で余生を送っていたのだろう。享年六十一。法名は善珍浄徳院。貞胤は死の直前、嫡男の千葉介氏胤に千葉山海隣寺に先祖の絵を奉納して一族の廟所とするよう遺言したと伝わり、貞胤以後の千葉氏は時宗を信奉した。
■千葉介貞胤没についての文書■
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◎千葉介貞胤の母親◎
千葉介貞胤の母親は、千田庄内に所領を得ていた北条一族でも名門の金沢越後守顕時(惠日)の娘で、彼女の母親は千葉介成胤の子・千葉次郎泰胤の娘である。建武4(1337)年の「千葉貞胤亡母三十五日表白」(『拾珠抄』)には系譜が併記されていて、貞胤の母についての記述には、
とあり、貞胤の母親は逆算して文永11(1274)年生まれということになる。
彼女の父・金沢顕時が安達泰盛の乱(霜月騒動)に連座して、平頼綱(内管領)によって埴生庄に流されたのは弘安8(1285)年であり、それ以前から千葉泰胤と金沢顕時の間に交流がもたれていたことがわかる。顕時は下総国埴生庄地頭職であり、すぐ隣の千田庄の領主である泰胤とは交流があった可能性がある。顕時は正応6(1293)年4月、平頼綱が執権・北条貞時によって討たれたために鎌倉に戻っており、正応6(1293)年の「香取社殿造営負担交名」に見える「埴生西条」「埴生西条富谷郷」の「地頭」に「越後守」が記されていることから、赦免と同時に顕時が埴生庄の地頭職に復職したと思われる。
顕時女は延慶元(1308)年以前に夫と別れて三十五歳で出家、翌延慶2(1309)年、三十六歳の時に夫・千葉介胤宗を喪ったという。『千葉大系図』によれば胤宗は正和元(1312)年3月28日に亡くなったとされ、三年の誤差がある。
千田庄は金沢北条氏との関わりが深く、土橋山東禅寺(香取郡多古町寺作)と金沢北条氏の菩提寺・金沢称名寺は実に密接な関わりを持っており、称名寺の本如房湛睿(のち称名寺三世長老となる)が東禅寺の長老として就任している。
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◎千田庄内の内紛◎
建武年中、千田庄内において守護方(下総千葉介)と千田千葉氏勢力が対立して争っていた。千葉新介宗胤は母・千葉泰胤娘から千田庄を継承して以降、千田千葉氏の中心的所領となった。また、肥前に移った千田千葉氏の一族(肥前千葉氏)の重臣には千田庄出身の円城寺氏・岩部氏・仁戸田氏・中村氏がいる。
宗胤の子・千葉胤貞に継承された千田庄は、建武元(1334)年12月1日、「ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分のそうりやう職、嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也」とあり、千葉胤貞の嫡男・孫太郎胤平に継承されたことがわかる。
●千田庄の継承●
⇒千葉介成胤―→千葉次郎泰胤→千葉新介宗胤→千葉大隅守胤貞→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)
千田庄内遠望 |
しかし、胤平ののち千田庄を継承したのは胤平の弟・千葉大隅守胤継であり、胤平の子と思われる「瀧楠殿」は某年8月2日付の『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)によれば、「千田孫太郎殿子息瀧楠殿、千葉介殿と一味同心、可落大島之由、依被申下候」とあり、守護方と同心して千田庄大島城を攻め落とした。
この「瀧楠」という人物は千葉氏の諸系図には記されていないが、「千田孫太郎殿」の子息であることがわかる。千田孫太郎とは千葉孫太郎胤平のことと思われ、「瀧楠」が継承するはずであった千田八幡庄が叔父の胤泰・胤継らによって押領されたことから、千葉介貞胤に同心して争ったのだろう。建武2(1335)年某月28日の湛睿文書では、千葉侍所・竹元(ササモト)三郎左衛門尉が千田庄土橋東禅寺に検断を行っていることから、このころすでに守護勢力の力が千田庄に及んでいたのだろう。
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◎千葉氏の侍所◎
土橋東禅寺境内 |
千葉氏は全国の守護ではもっとも早い時期に「守護侍所」を設置していた。とくに関東では千葉家以外に「侍所」を持っていた大名家は見られないため、特殊な例であったことがわかる。その初見は『金沢文庫文書』にみえる建武2(1335)年某月28日『湛睿文書』(『金沢文庫文書』)で、「千葉侍所」の竹元三郎左衛門尉と「奉行」羽田大弐房が、千田庄内の土橋東禅寺に赴いて僧侶の引渡しを求めた。このころ、上記のように千田庄内で下総守護・千葉介貞胤と千田千葉氏とが争っており、侍所・奉行の行為は内紛に関わりがあるのだろう。また、千田庄内において千葉介の侍所が検断職を有していることから、守護職である貞胤が事実上、支配権を持ったとも考えられる。
『年月未詳文書断簡』(『金沢文庫文書』)によると、竹元氏は岩部中務■(丞?)とともに千田千葉勢力と戦っていた際、大原城に入って国内の武士を集めた。さらに某年8月2日付『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)によれば、「千葉侍所」が7月27日に東禅寺のある土橋城を攻め落とした。竹元氏は守護侍所として千葉家直参の武士たちを統率する役割を担っていたのだろう。そして、竹元氏は千田庄東禅寺や、その本寺・金沢称名寺とも深く関わっており、称名寺の湛睿は某年11月2日付の文書を「竹元殿」に送っている。
このように竹元氏は下総守護職の官僚として軍事面・行政面で大きな影響力を持っていたと推測できる。しかしこの後、竹元氏の活躍はさほど見られなくなり、貞和2(1346)年7月23日、千葉介貞胤の代官として香取社造営に関する祭礼の沙汰について指示した「竹元五郎左衛門尉」、応永10年代(1403-1413)の『香取造営料足納帳』に「竹元六郎殿」が「竹元 田数一町二反大 卅五歩」を担当していることが見られる他は、その活躍を記した文書は残っていない。
この竹元氏の出自は不明だが、応永年中の『香取造営料足納帳』に「竹元」から「1町2反35歩」を負担していることから、在地の豪族だったのだろう。「竹元」は匝瑳郡匝瑳南条庄篠本(匝瑳郡光町篠本)に比定されており、『年月未詳親真』(『金沢文庫文書』)の発給した文書に「竹元殿」「岩部中務」とともに「サヽ下」の名が見え、竹元氏と「サヽ下」は同族とも思われる。
千葉氏は直臣に在地の豪族を取り込んでいたようで、千葉介頼胤の代には、下総国府近辺の富木氏・曽谷氏らが官僚的な地位にあって宗家を支えていた。そして、頼胤の嫡子・千葉新介宗胤も千田庄・神保郷を継承すると、在地豪族たちを被官化していったと考えられる。このとき千葉氏の直臣層となったのが岩部氏・仁戸田氏・円城寺氏・中村氏らであったと思われ、彼らは宗胤が九州へ赴いた際に従い、肥前千葉氏の重臣となっている。竹元氏もこのころ召し抱えられた豪族だったのかもしれない。
●千葉介宗胤系図●
⇒千葉介成胤―+―千葉介時胤―千葉介頼胤
| ∥
| ∥――――+―千葉新介宗胤《肥前千葉氏の祖》
| ∥ |
+―千葉二郎泰胤――女 +―千葉介胤宗 《下総千葉氏の祖》
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+―千田尼(北条時頼の後室)
●千田庄の継承●
⇒千葉介成胤―→千葉次郎泰胤―→泰胤娘――→千葉新介宗胤→千葉大隅守胤貞→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)
●神保郷の継承●
⇒千葉介成胤―→千田尼――→千葉次郎泰胤―→泰胤娘―――→千葉新介宗胤―→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)
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◎千葉氏周辺の系譜
千葉介常胤――千葉介胤正――千葉介成胤―+―千葉介胤綱
(千葉介) (千葉介) |(千葉介)
| ∥
| ∥――――――千葉介時胤――――――――――千葉介頼胤 +―千田宗胤
伊賀朝光―+―伊賀光季―+――女 (千葉介) (千葉介) |(太郎)
| || ∥ |
| |+―千田泰胤―――――――――――女 ∥―――――+―千葉介胤宗
| | (次郎) ∥ ∥ (千葉介)
| | ∥――――――女
+―伊賀方 +―伊賀光綱 ∥
∥ ∥
∥――――+―北条政村――――女 ∥
∥ |(相模守) ∥ ∥
北条時政―――北条義時 | ∥―――――――北条顕時
(遠江守) (相模守) | ∥ (越後守)
+―北条実泰 ∥ ∥
(浄仙) ∥ ∥
∥―――――――北条実時 ∥――――――北条貞顕
天野政景―――女 (宣陽門院蔵人) ∥ (修理亮)
∥
遠藤為俊――――女
●某年「洛中宿人在所注文断簡」(『竹内氏所蔵文書』:『群馬県史』史料編所収)
●暦応5(1342)年3月13日「千葉介貞胤書状」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)
●「造営所役注文」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)
●下総香取社遷宮の歴代の担当者
名前 | 被下宣旨 | 御遷宮 |
―――――― | 保安元(1120)年〔逆算〕 | 保延3(1137)年丁巳 |
―――――― | 保延元(1135)年〔逆算〕 | 久寿2(1155)年乙亥 |
葛西三郎清基 | 治承元(1177)年12月9日 | |
千葉介常胤 | 建久4(1193)年癸丑11月5日 | 建久8(1197)年2月16日 |
葛西入道定蓮 | 建保4(1216)年丙子6月7日 | 嘉禄3(1227)年丁亥12月 |
千葉介時胤 | 嘉禎2(1236)年丙申6月日 | 宝治3(1249)年己酉3月10日 |
葛西伯耆前司入道経蓮 | 弘長元(1261)年辛酉12月17日 | 文永8(1271)年12月10日 |
千葉介胤定(胤宗) | 弘安3(1280)年庚辰4月12日 | 正応6(1293)年癸巳3月2日 |
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞 | 永仁6(1298)年戌戊3月18日 | 元徳2(1330)年庚午6月24日 |
●某年8月2日付の『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)