継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | ???~延暦8(789)年12月 |
父 | 和史乙継(弟嗣) |
母 | 土師宿禰真姝(真妹ではない) |
子 | 桓武天皇(山部王→山部親王) 能登内親王(市原王キサキ) 早良親王(追贈崇道天皇) |
諡号 | 天高知日之姫尊 |
御陵 | 大枝山陵 |
父は和史乙継。母は土師宿禰真姝(真妹ではない)。贈正一位。桓武天皇の生母である。祖は百済国の武寧王と記されている(『続日本紀』)。光仁天皇の夫人、皇太夫人。「皇后容徳淑茂、夙著声誉」であったと記されている(『続日本紀』)。
和史新笠の出身氏族である和氏は文書作成を行う「史」姓の下級官人で、渡来系氏族であった。この和氏の一族・和史乙継の娘だった和史新笠は、光仁天皇がまだ無位無官の白壁王であったときに白壁王家に召し出され、能登女王(能登内親王)、山部王(桓武天皇)、東大寺僧(親王禅師、早良親王)の三人を産んだ。能登内親王の生誕年から見て天平6(732)年には白壁王家に入っていることがわかる。なお、和氏は「史」姓の下級官人であることから、当然、和史新笠は後宮宮人ではなく白壁王家の従婢(侍女)だろう。なお、和史新笠と同時代の和史(倭史)としては、天平20(748)年4月25日、「左京一條二坊戸主」として「倭史眞首名」が見え、その子で東大寺写書所に勤める二十二歳の「倭史人足」が出家を申し出ている(『写書所解』造寺所公文)が、彼らが新笠とどのような血縁にあったかは不明。
その後、白壁王は天平16(744)年、聖武天皇の第一皇女・井上内親王をキサキに迎え、二年後の天平18(746)年4月22日、白壁王は無位から従四位上に叙せられた。その後、白壁王が践祚すると、宝亀年中に「和史」姓から「高野朝臣」姓に改めたとされるが(『続日本紀』)、「史」という下級官人の姓から突如「朝臣」という最上位の姓を下賜された背景には、宝亀4(774)年1月2日の山部親王の皇太子冊立が挙げられよう。しかし、高野新笠は出自が低かったことから、皇太子の母であっても光仁天皇後宮宮人の最上位になることはなかった。
宝亀8(777)年正月10日、光仁天皇のキサキの一人、正四位上藤原朝臣曹子(曹司)が「従三位」に叙され、8月11日に「夫人(オオトジ)」となった。「夫人」は「後宮職員令」に拠れば「三位以上」と規定されており、令に則って行われたことがわかる。その後も光仁天皇の後宮(后宮:きさいのみや)は、夫人藤原曹子(曹司)が最上位にあり、高野新笠は「従四位下」であって、キサキとしては四番目以下の地位にあったと思われる。
宝亀8(777)年正月現在の光仁天皇後宮宮人等(『続日本紀』抜粋)
能登内親王 | 三品(光仁天皇皇女、市原王妃) |
酒人内親王 | 三品(光仁天皇皇女、桓武天皇妃) |
不破内親王 | 三品(聖武天皇皇女) |
坂合部内親王 | 四品(光仁天皇異母姉) |
弥努摩内親王 | 四品(光仁天皇甥神王妃) |
河内女王 | 正三位(高市皇子女) |
藤原朝臣曹子(曹司) | 従三位 【宝亀8(777)年8月11日 夫人。藤原永手女】 |
大野朝臣仲千 | 従三位 尚侍 |
伊福部女王 | 正四位上 |
紀朝臣宮子 | 従四位下 のち夫人 |
高野朝臣新笠 | 従四位下 のち夫人 |
爲奈眞人玉足 | 従四位下 |
平群朝臣邑刀自 | 従四位下 |
藤原朝臣産子 | 従四位下 |
藤原朝臣教貴 | 従四位下 |
藤原朝臣諸姉 | 従四位下 |
飯高宿禰諸高 | 従四位下 |
多治比眞人古奈祢 | 従四位下 |
橘朝臣眞都我 | 従四位下 |
久米連若女 | 従四位下 |
藤原朝臣蔭 | 正五位上 |
巨勢朝臣諸主 | 正五位上 |
文室眞人布止伎 | 正五位上 |
藤原朝臣人數 | 正五位上 |
巨勢朝臣巨勢野 | 正五位下 |
百濟王明信 | 正五位下 |
長柄女王 | 正五位下 |
巨勢朝臣魚女 | 従五位上 |
因幡國造淨成女 | 従五位上 |
橘宿禰御笠 | 従五位上 |
和氣朝臣廣虫 | 従五位上 |
大野朝臣姉 | 従五位上 |
藤原朝臣乙倉 | 従五位上 |
飛鳥眞人御井 | 従五位上 |
藤原朝臣今子 | 従五位上 |
縣犬養宿禰酒女 | 従五位上 |
賀陽朝臣小玉女 | 従五位下 |
桑原公嶋主 | 従五位下 |
武藏宿禰家刀自 | 従五位下 |
縣犬養宿祢道女 | 従五位下 |
草鹿酒人宿祢水女 | 従五位下 |
高嶋女王 | 従五位下 |
佐味朝臣眞宮 | 従五位下 |
縣犬養宿禰姉女 | 従五位下 |
縣犬養宿禰竃屋 | 従五位下 |
大原眞人室子 | 従五位下 |
弓削女王 | 従五位下 |
粟田朝臣廣刀自 | 従五位下 |
藤原朝臣勤子 | 従五位下 |
藤原朝臣綿手 | 従五位下 |
安曇宿禰刀自 | 従五位下 |
大鹿臣子虫 | 従五位下 |
公子乎刀自外 | 従五位下 |
足羽臣黒葛 | 従五位下 |
金刺舍人連若嶋 | 従五位下 |
水海連淨成 | 従五位下 |
神服連毛人女 | 外従五位下 |
金刺舍人若嶋 | 外従五位下 |
國栖小國栖 | 外従五位下 |
栗原勝乙女 | 外従五位下 |
若湯坐宿禰子虫 | 外従五位下 |
紀臣眞吉 | 外従五位下 |
岡上連綱 | 外従五位下 |
中臣葛野連廣江 | 外従五位下 |
忍海倉連甑 | 外従五位下 |
豊田造信女 | 外従五位下 |
宝亀9(778)年正月29日、「高野朝臣(新笠)」は「従三位」に叙され、位階上「夫人」の条件を満たすこととなり、その後あまり時を経ずに「夫人」になったと思われる。そして、天応元(781)年4月3日に践祚した子・桓武天皇より4月15日、「皇太夫人」の称が贈られ、4月27日に「正三位」を加えられた。そして聖武天皇の実母・皇太夫人藤原宮子の先例により、中宮職が付されたと推測され、高野朝臣新笠は「中宮」と称されている。
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大枝山陵 |
同日、外戚一族の和史国守が「外従五位下」に叙せられている。国守はその後、昇進して宮廷で活躍していることから、高野新笠の弟や甥など近い血縁の人物と思われる。
延暦2(783)年正月11日、女孺「和史家吉」が無位から「外従五位下」に叙せられた。この後宮宮人も高野新笠の外戚の関係で叙位されたものだろう。
延暦8(789)年12月、高野新笠は薨じ、翌年正月、平安京の西にある乙訓郡大枝の大枝山陵に埋葬された。その翌年、桓武天皇は高野夫人に「皇太后」の尊号を追贈している。諡は天高知日之姫尊。
乙継の孫は和朝臣家麻呂といい、天平6(734)年の生まれ。新笠の甥で桓武天皇の従兄にあたる。しかし、延暦5(786)年正月7日に53歳で従七位上になるまではまったく無名の人物だった。だが、そこから異例とも言える昇進を重ねている。そして、延暦23(804)年4月27日に71歳で亡くなるまでのわずか18年の間に、従三位まで昇叙し、参議・衛門督・中納言・治部卿・相模守・中務卿を務める。8月11日、従二位大納言を贈られた。
和史乙継 +―和某――――――和家麻呂
(高野朝臣) |(和朝臣) (中納言)
∥ |
∥――――――+―高野新笠
土師宿禰真姝 (高野朝臣)
∥――――+―桓武天皇
光仁天皇 |
|
+―早良親王
|(崇道天皇)
|
+―能登内親王 +―五百井女王
(三品) |
∥ |
∥――――――+―春原五百枝
市原王 (春原朝臣)
(天智天皇玄孫)
山部親王(のちの桓武天皇)は光仁天皇の第一皇子だが、異母弟の他戸親王が光仁天皇の皇太子とされた。これは、他戸親王の母・井上内親王(聖武天皇皇女)が光仁天皇の皇后であったためで、異母兄の山部親王は庶子の扱いだったのだろう。母系に皇胤や有力氏族を持たない山部親王は他戸親王とは明らかに差が生じ、皇位に就く可能性は低かった。
和史乙継―――――――――――――――――――――高野新笠 +―能登内親王
∥ |
∥―――――+―――――――山部親王
∥ | 【桓武天皇】
∥ | ∥
∥ +―早良親王 ∥
舒明天皇―+―天智天皇――施貴親王―――――――――――――――――――――白壁王 ∥
| 【光仁天皇】 ∥
| 藤原不比等――藤原安宿姫 ∥ ∥
| (光明皇后) ∥―――――+―――――――酒人内親王
| ∥ ∥ |
| ∥―――――称徳天皇 ∥ |
| ∥ ∥ +―他戸親王
+―天武天皇――草壁皇子――文武天皇―――聖武天皇 ∥
∥ ∥
∥―――――――――――井上内親王
県犬養広刀自
しかし、藤原百川らの働きによって、井上内親王一党が排除されたため、山部親王は皇位を践ぐことができたが、生母が「史」姓という低い家格出身だったことに対するコンプレックスはぬぐえなかったのだろう。天皇は皇位にある間に生母の地位を高める運動をしている。その代表的なもののひとつに『和氏譜』の編纂がある。
『和氏譜』は母の出身氏族である和氏の系譜を和気清麻呂に命じて編纂させたものである(『続日本紀』)。ただし、『和氏譜』自体は現在は喪われており、清麻呂が薨じた延暦18(799)年2月21日条に薨伝として僅かに記載があるだけで、『和氏譜』の具体的な内容や編纂時期は不明。しかし、これを見た桓武天皇は「甚善之」とされ、唐や朝鮮半島の文化に傾倒していた天皇を満足させる渡来人の系譜、つまり『和氏譜』の内容は、和氏は「(大陸または朝鮮半島の)王裔」というものだったことが推測できる。同じく『続日本紀』の新笠薨伝に、和氏は「百済武寧王之子純陁太子」の子孫とされているが、これはおそらく『和氏譜』を踏襲したものと思われる。和気清麻呂がどのようにして和氏の史料を手に入れたかはわからないが、『日本書紀』に和氏の伝承に繋がると思しき記述が散見され、清麻呂はこうした伝記からも情報を得たのだろう。
『続日本紀』の「百済武寧王之子純陁太子」は百済の史書には登場しない人物だが、『新撰姓氏録考証』においては『日本書紀』の継体天皇18(524)年正月の「百済太子明即位」とある「明」と同一人物としている。しかし、同書内には「百済太子明」の即位よりも11年も前の継体天皇7(513)年8月、「百済太子淳陀薨」という記述もある。「純陁太子」「太子淳陀」が同一人物であるとすれば、「純陁太子=太子淳陀」は11年後に即位した「百済太子明」ではありえない。
また、遡ること二十年ほど前の武烈天皇7(505)年4月、「百済王遣期我君進調、別表曰、前進調使麻那者、非百済国主之骨族也、故謹遣斯我奉事於朝、遂有子、曰法師君、是倭君之先也」と、前年10月に百済より遣わされた「麻那君」が「百済国主之骨族」ではなかったため、あらためて「斯我君」を遣わしたという。その「斯我君」の子が「法師君」といい、「倭君之先」とする(『日本書紀』「武烈紀」)。『新撰姓氏録考証』は「乙継公は決く其後孫なるべし」と断じるが、「史」姓と「君」姓では、賜姓対象氏族の性格がまったく異なる上、和氏が「君」姓を有した記録もない。また、「君」が斯我君や法師君と同様「キシ」であれば、子孫は不釣合いに低い「史」姓を賜ったこととなり、疑問が残る。
●和氏系譜(『新撰姓氏録考証』より抜粋)
武寧王―――聖明王―――斯我君――法師君――和史某――高野朝臣乙継――高野新笠
(462-523)(???-554) (本姓和史) (???-789)
『新撰姓氏録考証』においては、武寧王の孫を「斯我君」とする。しかし、武寧王の生年と「斯我君」が遣使された武烈天皇7(505)年とを考えると、孫とするには無理があり、「斯我君」が実在の人物とすれば、武寧王の子世代と考えられる。しかし、「武烈紀」からは「斯我」はあくまで「百済国主之骨族」であることを推測させるに過ぎず、その続柄は不明である。高野新笠の祖父、つまり和乙継の父親については所伝がないが、参考として『新撰姓氏録考証』によれば「和史某」とある。つまり『新撰姓氏録考証』の編纂時、乙継の出自を明らかにすることができず、法師君と乙継を繋ぐ事ができなかったことを意味するものだろう。
このように、和氏が書役の下級宮人へ与えられた「史」姓だったことや、「純陁=淳陀」太子の死期の矛盾、「武烈紀」に見える百済からの遣使「斯我君」の系譜上の位置、その子「法師君」と「和史」との関係性の不明確さなど多くの疑問があり、和氏が『続日本紀』に見えるような「百済武寧王」の子孫であった具体的な史実は見出せない。
高野新笠の母(和史乙継妻)は土師宿禰真姝。平城京の西部一帯に広く勢力を有していた土師宿禰一族から出ている。なお「土師宿禰真姝」については『新撰姓氏録考証』によれば「土師宿禰真ノ妹」と記載されているが、原文の「姝」と「妹」では字義も訓みも全く異なるため誤りである。近年刊行の論考でも『続日本紀』に当たっていないものが多い。
当時「土師氏惣有四腹」とあるように、四つの出自から構成される党のような存在にあったようで、「土師宿禰真姝」はそのうち「毛受腹」の出身だった。「毛受」とは「モズ」と思われ、現在の藤井寺市の百舌古墳群を守っていた土師氏の流れだろう。土師氏はもともと古墳や埴輪などの造営や管理を司っており、大王の墳丘墓が築かれた河内国の百舌地方を本拠としていたと思われる。百舌系土師氏とは別の流れの土師氏は平城京近郊の菅原や秋篠などに移住している。
天応元(781)年6月25日、即位直後の桓武天皇は「遠江介従五位下土師宿禰古人、散位外従五位下土師宿禰道長等一十五人」の請いを容れて、彼らに「因居地名」んで「菅原姓」を与えた。これは「式観祖業、吉凶相半、若其諱辰掌凶、祭日預吉」だったのに、今や「専預凶儀」で「尋念祖業、意不在茲」であったことによる。土師氏が本来は吉凶両方の儀を執り行っていたが、いつしか凶儀のみを取り扱うようになったことで、おそらく穢れの考えから土師氏は敬遠されるようになってきたのだろう。土師氏を外戚とする女性から天皇が生まれたことで、いわば「家職」となってしまった葬祭からの解放を求めたのだろう。その後、この土師氏の子孫たちは学問によって立身していくこととなる。
この改姓のとき「任在遠国」だった「少内記正八位上土師宿禰安人等」は賜姓に漏れてしまっており、安人は「土師之字改為秋篠」を請い、延暦元(782)年5月21日、「安人兄弟男女六人」には「秋篠」姓が与えられた。両土師氏は菅原(奈良市菅原町)と秋篠(奈良市秋篠町)に住んでいた同族ではあるものの、深い交流はなかったのかもしれない。延暦4(785)年8月1日には、「右京人土師宿禰淡海其姉諸主等」が「秋篠宿禰」姓を賜った。
延暦9(790)年12月1日、桓武天皇は「朕君臨宇内十年、於茲追尊之道猶有闕如興言念之、深以懼焉」として、「朕外祖父高野朝臣、外祖母土師宿禰」へ正一位を追贈。さらに、外祖母の出身氏族である百舌系土師氏を「大枝朝臣」とした。これに伴い、「菅原真仲、土師菅麻呂等」は「大枝朝臣」となった。「大枝」は高野新笠を埋葬した大枝山陵(西京区大枝沓掛町)に因むものと思われ、天皇は四流ある土師氏のうち、「中宮母家者、是毛受腹也、故毛受腹者、賜大枝朝臣」と、高野新笠出自の毛受流土師氏には「大枝朝臣」を授け、ほかの三流は「秋篠朝臣」「菅原朝臣」とすると定めた。
同年12月30日、「外従五位下菅原宿禰道長、秋篠宿禰安人等」はそれぞれ「朝臣」姓に改められ、「正六位上土師宿禰諸士等」には「大枝朝臣」姓を賜った。このとき賜姓された大枝諸上の子孫が学者の家として特に繁栄し、大江音人、大江匡房、大江広元(本姓は中原)らはいずれもこの諸上の末裔である。
これら土師氏の末裔が氏神としたのが、京都の平野神社である。
京都市北区平野宮本町に鎮座する平野神社は、桓武天皇が旧都から平安京に遷座した神を祀った社で、『延喜式』によれば「山城国」の「葛野郡廿坐」のひとつに「平野祭神四社」が見え、「祭神四社」は「今木神」「久度神」「古開神」「比咩神」の四柱が記されている。
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平野神社 |
平野神社が平安京に遷座した時期は具体的には不明ながら延暦20(795)年5月14日の太政官符(『類聚三代格』)では、「平野祭」などのについて「大忌祭」を「闕怠」した場合は「中祓料」が科されることが規定されており、この頃にはすでに「平野社」が遷座されていた様子がわかる。延暦19(794)年の平安京遷都とともに遷ってきたのかもしれない。
平野神社の祭神のうち、「今木神」については、延暦元(782)年11月19日、桓武天皇が「田村後宮」(奈良市尼辻町)にあった「今木大神」を「従四位上」に叙した事が見える(『続日本紀』)。平野神社の今木神はこの「田村後宮」に祀られていた今木神が遷されたものと解される。そして、「田村後宮」を高野新笠の住まう後宮と解して、今木神を百済武寧王としたのが、江戸時代後期の国学者・伴信友である(『蕃神考』)。彼は平野神社の他の祭神である「久度神」「古開神」についても百済王のこととし、これらの神々を桓武天皇ならびに高野新笠が祀ったとする。しかし、高野新笠がこれらの神を祀ったという記録は一切なく、今木神ら四柱を渡来系氏族が祀っていたという史実も伝わらない。「今木神」を渡来系の神として新笠を通じて百済王とするのは、「今木」と「今来(新来)」が同一の意味合いを持つという解釈のみである。では、この「今木神」とはいかなる神なのか、以下は私見である。
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田村後宮のあった地の現在 |
今木神が祀られていた「田村後宮」とは、天平勝宝4(752)年4月9日、東大寺の大仏開眼供養会に行幸した孝謙天皇が「御在所」とした藤原仲麻呂の「田村第」を御所化した「田村宮」と同一のものと思われる。のち宝亀4(773)年2月27日に光仁天皇が平城宮南東部の一角に造営して移渉した「楊梅宮」があるが、仲麻呂の「田村第」はこの楊梅宮の造営される場所から七百五十メートルほど南東にあり、「太師押勝起宅於楊梅宮南、東西構楼、高臨内裏、南面之門便以為櫓、人士側目、稍有不臣之譏」と、広大な屋敷地の東西に高楼を構え、内裏(当然まだ楊梅宮はないので単に宮内を指すのだろう)を望むことができるほど(実際は見えないと思われるが、不遜とされた)の指呼の距離にあった。
天平勝宝9(757)年5月4日、皇太子大炊王(淳仁天皇)のための「改修大宮」のため、孝謙天皇は内裏を出て「田村第」へ移御し、「田村宮」と称された(『続日本紀』)。同年7月、橘奈良麻呂らの一党が藤原仲麻呂の専横を批判して仲麻呂と皇太子大炊王が住む「田村宮図」を作成し、挙兵を図るも逮捕される事件(橘奈良麻呂の乱)が起こっている。この乱後、孝謙天皇と大炊王は田村宮から平城宮へ移ったと思われ、天平宝字2(758)年4月4日の時点では「田村第」となっている。この「田村第」は天平宝字8(764)年の「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」ののち、ふたたび朝廷に収められ、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の宮(離宮のひとつ)とされたのだろう。
その後、称徳天皇崩御後は「旧宮」という存在となり、宝亀6(775)年3月26日、「田村旧宮」において光仁天皇の長寿を願う酒宴が「群臣」によって催され、翌宝亀8(777)年3月1日にも「田村旧宮」で酒宴が催されている(『続日本紀』)。この「旧宮」がすなわち称徳天皇の「田村宮」の後身であろう。そして、この「田村旧宮」を利用して「田村後宮」が成ったと推測される。そしてこの「田村後宮」に祀られていたのが「今木大神」であり、これまで通説として光仁天皇の夫人・高野新笠が信仰した神(百済武寧王)であるとされた。
しかし、これにはいくつか矛盾が生じる。まず、光仁天皇の後宮にいたのは高野新笠「だけ」なのかという点である。「後宮」は、「妃」「夫人」「嬪」という天皇の妾のほか女官たちが置かれた居宮を指し、『養老律令』の「後宮職員令」の「夫人条」では、次席の夫人の定員は「三員」で「三位以上」と規定されている。光仁天皇の「夫人」は宝亀8(777)年正月10日に正四位上から従三位に叙され8月11日に夫人となった「藤原朝臣曹子(曹司)」がおり、これに続いて宝亀9(778)年正月29日に従四位下から従三位になった「高野朝臣(高野新笠)」が見られる(『続日本紀』)。つまり、高野新笠は皇太子山部親王の母とはいえ光仁天皇後宮の最上位ではなかったことがわかる。
さらに、根本的問題として「田村後宮」は果たして「光仁天皇の後宮」だったのかという疑問点が浮かんでくる。光仁天皇が病のため譲位し、皇太子山部親王が践祚(桓武天皇)したのが天応元(781)年4月3日である。そして、桓武天皇が「田村後宮」の「今木大神」を従四位上に叙した(『続日本紀』)のは、それから一年半後の延暦元(782)年11月19日であった。
つまり、今木大神が従四位上に叙されたのは桓武天皇の治世であり、「田村後宮」は桓武天皇の初期後宮だった可能性が高いのである。では、光仁天皇の「後宮」はどこにあったのだろうか。
白壁王は神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇崩御とともに立太子し、即日践祚(光仁天皇)、11月11日に大極殿にて即位した(『続日本紀』『一代要記』)。「妃」の二品井上内親王(聖武天皇皇女)は11月6日、「皇后」と定められる(『続日本紀』)。即位に伴い、光仁天皇は称徳天皇崩御の穢れのある内裏の改修を行ったようで、宝亀3(772)年正月1日まで「内裏」という言葉は見られない(『内裏改作論』岩永省三 九州大学総合研究博物館研究報告6)。天皇即位から五か月後の宝亀2(771)年閏3月1日、「文室真人真老」が「造宮少輔」に任じられ、9月16日には「榎井朝臣子祖(小祖)」が「造宮大輔」に、「息長丹生真人大国」が「少輔」となっている(『続日本紀』)が、とくに9月16日の大輔・少輔の叙任は称徳天皇の諒闇後に行われた内裏造宮の関係であろう。
そしてこの改修により、内裏内に「皇后宮」に相当する建物群が建築されることとなったようである(平城京内裏Ⅴ期)(『内裏改作論』岩永省三 九州大学総合研究博物館研究報告6)。これが、井上内親王が住むこととなった後宮であろう。しかし、宝亀3(772)年3月2日、井上内親王は光仁天皇に対する巫蠱の罪で皇后を廃されることとなる。当然、この皇后宮も役割を停止することとなったであろう。
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東院庭園跡と宇奈多理社(後杜) |
一方、宝亀4(773)年2月23日、平城宮東の称徳天皇の離宮「東院玉殿(玉宮)」跡を利用したと思われる離宮「楊梅宮」が完成し、光仁天皇が「渉居」している(『続日本紀』)。この離宮は称徳天皇の治世より「造宮卿」として活躍した「高麗朝臣福信」が「専知造作楊梅宮」したものであった(『続日本紀』)。井上内親王居住の「皇后宮」は巫蠱の穢があるので、後宮として使われることはなかったであろうし、その後の改作が認められることから、取り壊された可能性もあろう。井上内親王の呪詛事件後、新たな「後宮」が求められ、離宮「玉宮」跡を利用した後宮の造作が開始されたのだろう。この新たな「後宮」がおそらく「楊梅宮」であろう。この宮の南東端に庭園の跡が造営されており、再現されている。
宝亀5(774)年8月22日、天皇は「新城宮」に行幸し、「別当」の「藤原朝臣諸姉」と「刑部直虫名」に叙位している(『続日本紀』)。この両者は後宮宮人であり、藤原諸姉(内大臣藤原良継娘。藤原百川妻)は「尚縫」となり(死後贈妃)、刑部虫名は「命婦」となっている(『続日本紀』)。
このように、光仁天皇の後宮は皇后宮、楊梅宮であって「田村後宮」ではなかった。そして、桓武天皇の初期後宮には、延暦元(782)年11月当時、「妃」の三品酒人内親王がおり、後宮に祀られていた「今木大神」は、この酒人内親王と所縁のある神だった可能性があろう。ただ、今木神と酒人内親王との関わりについては、はっきりしたものは遺されていない。
「今木大神」は、『延喜式』の祝詞によれば「今木与利仕奉来流皇太御神」とあることから「皇太御神=皇祖神」と考えられており、祝詞に皇祖神とよまれる神は天照大御神とこの「今木神」のみというとりわけ天皇と関わりの深い神だったことがわかる。そして、今木の地に祀られていた「皇太御神」こと「今木大神」が「田村後宮」へ遷され祀られていたと解釈できる。
桓武天皇妃・酒人内親王は、光仁天皇皇女で桓武天皇の異母妹にあたり、桓武天皇の「妃」となる以前は、宝亀3(772)年11月13日に「伊勢斎」となり「権居春日斎宮」している(『続日本紀』)。「野宮」であったと思われる。この「春日」については、二百年ほどのちの正暦2(991)年3月12日付の「大和国使牒」に見える東大寺領「春日庄」が含まれる地と考えられ、その地名は現在の春日野から古市町に当たる縦に長い一帯を差している。この「春日」に鎮座していたのが、持統天皇6(692)年12月24日条「遣大夫等、奉新羅調於五社、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」(『日本書紀』持統天皇六年十二月廿四日条)の最後に見える「菟名足(菟足)」である。
「菟名足(菟足)」は、『延喜式神名帳』「大和国添上郡」に遺されている「宇奈太理坐高御魂神社」のことで、正暦2(991)年初め頃、興福寺が東大寺領「春日庄田肆町玖段」を「菟足社」をはじめとする社寺領と称して押領し相論となった事件があった(『平安遺文』)。このとき菟足社は「社司大中臣良実」から社務を一任されていた「藤原扶高」が取り仕切っており、その後、寛弘8(1011)年12月までに神主を自称した「藤井幹高(藤原扶高と同人)」が東大寺の「内僧規鎮」と結託し、寛弘9(1012)年3月11日、「今木御庄坪付」を認めて東大寺大僧正房雅慶に寄進し「今木御庄」の立庄を図った。この「今木御庄坪付」に見える「社敷地」等は菟足社に相当する。つまり、菟足社はかつての春日庄内で、このときの今木庄内に存在したことになる。そして、この今木の菟足社の祭神は、高天原の支配者にして天照大御神に命じて天孫降臨を主導した「高木神(高皇産霊神:タカミムスヒ)」である。この神は『古事記』神武天皇記に「天照大神、高木神、二柱神之命以」とあるように、古来より天照大御神とともに「皇祖神」として尊ばれていた大神であり、おそらく酒人内親王の「権居」した「春日斎宮」とは、天照大御神と所縁の高木神を祀る今木の「菟足社」であった可能性が高いだろう。
天照大御神―――正勝吾勝勝速日天忍穗耳命
∥
∥―――――――――――――日高日子番能邇邇藝命
∥ ∥
∥ ∥―――――――――――火遠理命
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥―――――日高日子波限建鵜草葺不合命
∥ ∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ ∥――――――――――――――神倭伊波礼琵古命
∥ ∥ ∥ ∥ 【神武天皇】
∥ 神阿多都比売 豊玉毘売 玉依毘売命
∥
∥
高木神―――+―萬幡豐秋津師比賣命
|
+―思金神―――【信之阿智祝之祖】
|
+―天忍日命――【大伴氏之祖】
|
+―布刀玉命――【忌部氏之祖】
酒人内親王は足掛け三年半程この「春日斎宮」に権居して、宝亀5(774)年9月3日、伊勢に向けて出立(『続日本紀』)。その後、宝亀9(778)年までに斎宮を退下して皇太子山部親王の「妃」となり、天応元(781)年4月3日、山部親王践祚(桓武天皇)に伴い、後宮の最高職者となった。そして翌延暦元(782)年11月19日、桓武天皇は「田村後宮」の「今木大神」に叙位する。
これらのことから、「今木大神」とは酒人内親王が野宮とした「春日斎宮」が置かれた「菟足社」の祭神にして皇祖神「高木神(タカミムスヒ)」と推測できる。菟足の「高木神(タカミムスヒ)」こと「今木大神」が「田村後宮」へ遷された時期は不明だが、内親王が斎宮を退下した可能性がある宝亀6(775)年から延暦元(782)年の7年の間であろう。
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宇奈多理社 |
この「菟足社(宇奈太理坐高御魂神社)」は、現在「今木」の地にはなく、光仁天皇後宮「楊梅宮」のあった法華寺の西に遷されている。この遷された時期も定かではないが、『日本三代実録』貞観元(859)年4月10日条に「授法華寺従三位薦枕高御産栖日神正三位」の記述があり、この時期には菟足より遷座されていた可能性がある。ただし、これから百五十年ほど後の寛弘9(1012)年3月当時、「今木御庄」の北限として「菟足社北東西行堤」が見えていることから菟足社自体はまだ今木の地に残っており、さらに法華寺脇に現存する「宇奈太理坐高御魂神社」の神社名に「宇奈太理坐」とあることから遷された当時の神社本体は菟足にあり、法華寺脇の宇奈太理社は分祀されたものと推測できる。
そして、この今木の「菟足社」から田村後宮へ遷されて祀られた皇祖神「今木神(=高木神)」は、桓武天皇によって平安京内に遷されて「平野明神」となり、広大な社地を与えられることとなる。延暦元(782)年11月19日の今木神叙位の直後、12月23日以降の光仁天皇の諒闇明けから内裏造替が始められたと思われ、酒人内親王は内裏内に新たに造営された後宮(平城京内裏Ⅵ期)に移ったと思われる。このとき「今木神」も同様に遷されたのかもしれない。そして、後宮としての役割を終えた「田村後宮」は、もとの主・藤原仲麻呂の甥・藤原是公(右大臣)へと返還されることとなる。延暦3(784)年閏9月17日、桓武天皇は「右大臣田村第」に行幸し、酒宴に興じている。
平野神社の祭神は、「今木神」「久度神」「古開神」「比咩神」の四柱であるが、「今木神」はさきに記したように田村後宮に祀られていた皇祖神が遷されたもので、おそらく「高御産巣日神」と思われるが、平安時代以降には「平野明神」ともされている。
この「平野明神」については、平安時代末期の歌人貴族・藤原清輔が平治元(1159)年ごろに著した『袋草紙』に、
平野ノ御歌
志らかへのミかとのおやのおほちこそひらのの神のこゝろなりけれ
今案スルニ、白壁ハ光仁天皇也。其ノ曾祖父ハ舒明天皇、其ノ曾祖父ハ欽明天皇也。
是レ平野ノ明神ナリト云々
という歌が紹介されている(『清輔袋草紙』貞享二年板)。これを系譜にすると、下記の通りになる。
欽明天皇――敏達天皇――押坂彦人大兄―舒明天皇―+―天智天皇――志貴親王――光仁天皇
(ひらのゝ神) (おほぢ) | (おや) (しらかべのみかど)
|
+―天武天皇――草壁皇子――文武天皇――聖武天皇――孝謙天皇
歌と案からは、光仁天皇の祖父・舒明天皇が平野明神の「本質」である、という意味にとれるが、清輔はなぜか案として、舒明天皇の曽祖父・欽明天皇を「平野ノ明神」としている。歌の中には「曽祖父」を連想させる言葉がないにもかかわらず、なぜ唐突に舒明天皇の曽祖父・欽明天皇を持ち出したかは謎である。ただし、現存する『袋草紙』写本の中には、
平野御歌
シラカヘノミカトノオヤノオホチコソヒラノゝ神ノヒゝコナリケレ
今按スルニ、白壁ハ光仁天皇也。其ノ曾祖父ハ舒明天皇、其ノ曾祖父ハ欽明天皇也。
是レ平野ノ明神云々
とあるように、「こゝろ」が「ヒゝコ」となり、案との辻褄があうものもある。「案」との整合性から云えば、清輔が歌論書を執筆した12世紀半ばでは「ヒゝコ」だった可能性が強い。この「平野明神」(平野四坐の総称として平野神とする)が「今木神」と同一のものかはわからない。
一方で、「平野明神=今木神」を百済王とする解釈の一つととなった「志らかへのミかと」を「しらかへのみこ」とする歌(なお、現存する『袋草紙』に「みこ」とする歌は見られない)では、「しらかへのみこ」を「白壁の御子」と解釈し、「白壁(光仁天皇)」の「御子(桓武天皇)」の「おや(高野新笠)」の「おほぢ(和史某)」と、なぜか母系に繋げる手法をとっている。しかし、そもそも光仁天皇を「しらかべ」と呼び捨てるはずもなく、この時点ですでに伴信友の説は破綻している。仮に「しらかへのみこ」の歌が存在したとすれば「白壁王(しらかべのみこ)」とすべきであり、「しらかへのみかと」と歌の系譜解釈は同じとなる。
いずれにせよ、この「平野御歌」をもとに、清輔は平野明神は欽明天皇であるとの認識があったことがわかる。
しかし、それからおよそ六十年後の鎌倉時代初期には平野神社の祭神は仁徳天皇という説も存在しており、承久2(1220)年ごろ成立の『愚管抄』においては「仁徳ハ平野ノ大明神ナリ」とある。なぜ仁徳天皇が祭神とされたのかは不詳だが、「平野ノ御歌」の「志らかへのミかと」を「白髪部」を創設した「白髪天皇(清寧天皇)」とすると、曽祖父は仁徳天皇となる。
応神天皇――仁徳天皇――允恭天皇――雄略天皇――清寧天皇
(おほち) (おや) (白髪天皇)
平野神社に祀られている「今木神」以外の三神「久度神」「古開神」「比咩神」については、以下のようになっている。
「久度神」は、延暦2(783)年12月15日に「大和国平群郡久度神」を従五位下に叙して「官社」としたとあり、平群郡に祀られていた神で、それまでは官社とはされていなかった地方の神だったことがわかる。現在の奈良県北葛城郡王寺町久度に鎮座する久度神だろう。この神は平野神社においては竈(くど)、食事の神とされている。仁徳天皇の説話より誕生したともされている。
「古開(ふるあき)神」は、『延喜式』には「久度古関二所能宮」と同列で祝詞があげられるように、「久度神」とも関係が深いと思われる神だが、どのような神かは不明。しかし、祝詞では、「皇御神」として両神は重要視され、「今木神」とも所縁の深い神だったことが推測される。平野神社では斎火の神として祀られている。これも竈(くど)神と関係深い煮炊きの聖火を神格化した可能性もある。
「比咩神」は、ほかの三柱よりもあとに祀られた神で、嘉祥元(848)年7月25日、「無位合殿比咩神」に従五位下が与えられた旨の記載がある(『続日本後紀』)。この神は高野新笠または天照大御神ともされるが、「比咩神」は主祭神と所縁の深い女性神である場合が多く、「高御産巣日神(タカミムスヒ)」と同様に独神ではあるが、女性神とされた「神皇産霊神」かもしれない。
■平野神社祭神
年代 | 史料 | (大)明神 | 一神殿 | 二殿 | 三殿 | 四殿 |
延暦元(782)年 | 『続日本紀』 | 田村後宮今木大神 (従四位上) |
||||
承和3(836)年 | 『続日本後紀』 | 今木大神 (正四位上) |
久度神 (従五位上) |
古開神 (従五位上) |
||
嘉祥元(848)年 | 『続日本後紀』 | 今木大神 (従三位) |
久度神 (正五位下) |
古開神 (正五位下) |
比咩神 (従五位下) |
|
仁寿元(851)年 | 『日本文徳天皇実録』 | 今木大神 (従二位) |
久度神 (従四位下) |
古開神 (従四位下) |
比咩神 (正五位下) |
|
貞観元(859)年 | 『日本三代実録』 | 今木大神 (正二位) |
久度神 (従四位上) |
古開神 (従四位上) |
比咩神 (正五位上) |
|
貞観元(859)年 | 『日本三代実録』 | 今木大神 (従一位) |
久度神 (従三位) |
古開神 (従三位) |
比咩神 (従四位下) |
|
貞観5(863)年 | 『日本三代実録』 | 今木大神 (従一位) |
久度神 (正三位) |
古開神 (正三位) |
比咩神 (従四位上) |
|
貞観6(864)年 | 『日本三代実録』 | 今木大神 (正一位) |
久度神 (正三位) |
古開神 (正三位) |
比咩神 (従四位上) |
|
貞観13(871)年 | 『貞観式』(云) | 平野 (今案平野是総号、 非一神名可注) |
久度 | 古開 | ||
延長5(927)年 | 『延喜式』 | 今木神 | 久度神 | 古開神 | 比売神 | |
延長5(927)年 | 『延喜式』祝詞 | 今木ヨリ仕奉来ル皇大御神 | 供奉来ル皇御神 | 供奉来ル皇御神 | ||
平治元(1159)年 | 『袋草紙』 | 欽明天皇 | ||||
承久2(1220)年 | 『愚管抄』 | 仁徳天皇 | ||||
文明元(1469)年 | 『二十二社註式』 | 今木神 日本武尊 源氏神 |
久度神 仲哀天皇 平氏神 |
古開神 仁徳天皇 高階氏神 |
||
14c中期以降 | 『帝王編年記』 | 仁徳天皇 | ||||
応永29(1422)年 | 『公事根源』 | 源氏 | 平氏 | 高階氏 | 大江氏 | |
文明13(1481)年 | 『十輪院内府記』 | 源氏神以平野社為正也 | ||||
永正12(1515)年 | 『廿二社本縁』 | 仁徳天皇 若隼総別とも |
当社源氏長者管領之正統 | |||
『神祇正宗』 | 日本武尊 源氏神 |
仲哀天皇 平氏神 |
応神天皇 高階氏神 |
仁徳天皇 大江氏神 |
なお、平野神社は「凡平野祭者、桓武天皇之後王改姓為臣者亦同、及大江和等氏人、並預見参」(『延喜格』太政官式)とあるように、桓武天皇の子孫の王(賜姓後の王氏も含む)のほか、桓武天皇の外戚である大江氏、和氏らの氏人は平野祭に参列が許されている。また、祭に際しては唯一の「皇太子奉幣」という社格もこの「桓武天皇之後王」の祭神であることから起こったものと考えられ、天皇奉幣の伊勢神宮と対を為す。皇太子の祭神としての位置づけか、旧都平城宮の東宮が置かれた地区に今木の菟足社が分祀されている。
実際に平野神社を氏神として祀った氏族は、一条兼良著の『公事根源』によれば、「第一の御殿は源氏、第二は平氏、第三は高階氏、第四は大江氏、すべて八姓の祖神にてましますなるべし」とあり、他の四姓は具体的の述べられていないが、室町時代中期の『二十二社註式』の平野神社には、前記四社のほか、「天照大神子、穂日命、中原清原菅原秋篠、已上四姓氏神」と、中原、清原、菅原、秋篠氏の四氏が記されている。
高階氏と清原氏はそれぞれ天武天皇の皇子・舎人親王と高市親王の末裔であり、「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」には当てはまらないが、高階氏は桓武天皇の曾孫・在原業平の子・師尚が継いだ伝承が平安時代中期にはできていた。清原氏と中原氏はいずれも明経道を家学とし、中世以降は外記職を世襲した家柄であることから、こうした環境と何らかの関係があると思われるが、詳細は不明。
+―八嶋──身─――根麻呂──甥―――――宇庭――+―菅原古人―――清公―――――是善―――――道真―――――高視
| |
| +―菅原守人
| |
| +―菅原道長
|
+―兄国──真敷──弟麿─―─百村──――千村─――─秋篠安人
|
|【毛受腹か】
土師首―+―菟─―─土徳――富杼─+―祖麻呂―――和麻呂―――大枝諸上―――大枝本主―――大江音人―――千古―――――維時
|
+―土師真姝
∥
∥――+―某―――――和家麻呂
∥ | (中納言)
∥ |
和乙継 +―高野新笠
∥―――――桓武天皇―+――――――――伊都内親王
∥ | (無品)
∥ | ∥―――――――――――――在原業平
光仁天皇 +―平城天皇―――阿保親王 (右近衛中将)
| (贈一品) ∥
| ∥――――――――高階師尚
| +―恬子内親王
| |(伊勢斎宮)
| |
+―嵯峨天皇―+―仁明天皇―+―文徳天皇―+―清和天皇―――+―陽成天皇
| | | |
| +―源信 | +―源経基
| |(左大臣) | (武蔵介)
| | |
| +―源融 +―光孝天皇―――宇多天皇―――――醍醐天皇
| (左大臣)
|
+―葛原親王―――高見王――――平高望
(式部卿) (無位無官) (上総介)
これらから、平野神社は桓武天皇の子孫のための社であったことがわかる。「大江和等氏人」はこの神社を定めた桓武天皇の外戚氏族という立場で関わりを許されたということであって、あくまで副次的に派生したものであり、これを以て平野神社が桓武天皇の外戚神(高野新笠が祖とされる百済武寧王=今木神)を祀ったものであるとすることはできない。
その後、平野神社は「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」のうち、「源氏の長者」が管領する事になる(『二十二社本縁』)。『十輪院内府記』の文明13(1481)年3月25日「凡源氏ゝ神、以平野社為正也、於八幡宮、清和源氏義家以来事也云々、往古以八幡宮、為氏神之条、不可有所見云々、此事猶不審事也」とあり、源氏の氏神は平野社であると明言している。また、『姉言記』の文治4(1188)年6月30日条には「平氏、依為王孫、可行平野社已下事之由被懇望云々」とあり、平氏も「王孫」として平野社を氏神とする旨が記載されている。
貞観元(859)年7月14日、「正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人」が平野社へ奉幣の使者として遣わされている(『日本三代実録』)。大枝音人は桓武天皇外戚の家として平野社を氏神として祀った。