継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | 推古天皇元(593)年~舒明天皇13(641)年10月9日 |
在位 | 舒明天皇元(629)年正月4日~舒明天皇13(641)年10月9日 |
父 | 忍坂日子人(彦人大兄皇子) |
母 | 糠代比売王(糠手姫皇女) |
皇后 | 宝皇女(皇極・斉明天皇) |
夫人 | 法提郎媛(蘇我嶋大臣=蘇我馬子女) |
娶 | 吉備国蚊屋采女 |
諡号 | 息長足日広額天皇 |
御陵 | 押坂内陵(『延喜式』) |
押坂日子人大兄(敏達天皇子)の子。母は糠代比売王(敏達天皇女)。諱は田村。母の糠代比売王は別名が田村王と伝わっており、舒明天皇は母の里である田村に住み、土地を諱としたのだろう。
推古天皇29(622)年2月5日夜、大王・豊御食炊屋比売(推古天皇)の日嗣的立場であった「厩戸豊聰耳皇子(厩戸王、聖徳太子)」が斑鳩宮で薨じた。摂政として外交、内政面を支え、「冠位」や「憲法十七條」を定めた当時の朝廷においては蘇我馬子大臣とならぶ最要人であった。厩戸王の薨去に伴い、その地位は不在となったまま、推古天皇36(629)年2月27日、七十五歳となった大王はついに病に臥せ、3月6日には「痛甚之不可諱」と病状は悪化してしまった。ここで天皇は甥の「田村皇子(田村王)」を呼び寄せ、
「昇天位而、経綸鴻基馭万機、以亭育黎元、本非輙言、恆之所重、故汝慎以察之、不可軽言」
と告げているが、これは皇位について軽々しく言ってはならないという訓戒である(『日本書紀』)。また、この日、厩戸王の子である山背大兄も呼び寄せると、彼には、
「汝肝稚之、若雖心望、而勿諠言、必待群言以宣従」
と、こちらも若輩者として教え諭した。
小墾田宮跡 |
山背大兄は大王の甥子であり、さらに「大兄」の敬称を持つ大王位にもっとも近いと思われた人物だった。母も蘇我馬子大臣の娘という、蘇我氏の濃い血統をも受け継いでおり、馬子大臣の弟・境部摩理勢臣を筆頭とする山背大兄を奉じる勢力があった。『日本書紀』は田村王(舒明天皇)の血統との繋がりを持つ藤原氏史観で作られたものであり、天皇から田村王への大王位継承を正当化する操作が行われた可能性も否定できないが、結果的に山背大兄は大王位に即くことなく田村王が践祚(舒明天皇)することとなる。炊屋比売(推古天皇)の遺志は曖昧であるが、「昇天位而、経綸鴻基馭万機、以亭育黎元、本非輙言、恆之所重」とある部分は、皇位継承の心構えを説いていると見受けられ、蘇我蝦夷臣はのちに群臣に諮るにこの遺志を尊重したとみてよいだろう。山背大兄を説得する際にも、この一節を田村王を皇嗣とする理由として伝えている。
翌3月7日、大王・豊御食炊屋比売(推古天皇)は崩じた。
伊勢大鹿首―――――――――――小熊子郎女 大俣王
∥ ∥
∥――――糠代比売王 ∥―――茅渟王―――宝女王 +―葛城皇子
∥ ∥ ∥ (皇極天皇)|(天智天皇)
∥ ∥ ∥ ∥ |
∥ ∥ ∥ ∥――――+―大海人皇子
息長真手王―――――比呂比売命 ∥ ∥―――――――――――――――田村皇子 (天武天皇)
∥ ∥ ∥ ∥ (舒明天皇)
∥――――――――――忍 坂 日 子 人 ∥
∥ ∥ (押坂彦人大兄皇子) ∥――――――古人大兄王
石比売命 ∥ ∥ ∥
∥―――――――――沼名倉太玉敷命――――大俣王(大派皇子) ∥
∥ (敏達天皇) ∥
∥ ∥ ∥
天国押波流岐広庭 ∥ ∥
(欽明天皇) ∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥ ∥
∥―――――――+―豊御気炊屋比売命 ∥
宗賀稲目宿禰―+―岐多斯比売 ∥ |(推古天皇) ∥
| ∥ | ∥
| ∥ +―橘之豊日命 ∥
| ∥ (用明天皇) ∥
| ∥ ∥――――――――――厩戸皇子 ∥
| ∥ ∥ (上宮宮) ∥
| ∥―+―穴穂部間人皇女 ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ +―穴穂部皇子 ∥―――――山背大兄王 ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ +―長谷部若雀 ∥ ∥
| ∥ (崇峻天皇) ∥ ∥
| ∥ ∥ ∥
+―――――小姉君 +――――――――――――刀自古郎女 ∥
| | ∥
| +――――――――――――――――――――――――――――法提郎女
| |
+―蘇我馬子――――+―蘇我蝦夷―――――――蘇我入鹿
|(大臣) (大臣)
|
+―境部摩理勢
(臣)
9月に故大王(推古天皇)の葬礼は終わったが、「嗣位未定」という状態であった。このとき大臣となった蘇我蝦夷大臣は日嗣について悩み、叔父の境部摩理勢臣に「今天皇崩無嗣、誰為天皇」と相談している。境部摩理勢臣は「挙山背大兄為天皇」と返答しているが、摩理勢臣はのちに山背大兄が述べているとおり「摩理勢、素聖皇所好」と、山背大兄の父・厩戸王鍾愛の人物であり、彼が山背大兄を日嗣に推すのは当然の成り行きであった。ところが、故大王(推古天皇)の遺詔は田村王を嗣立とするものであった。蝦夷大臣は「独欲定嗣位、顧畏群臣不従」と、一人で日嗣を定めた場合、群臣が従わないことも予想されたため、重鎮である阿倍麻呂臣(阿倍内麻呂=阿倍内倉梯麻呂)と密かに協議して群臣を招いて饗宴を開き、まさに散会とならんときに、阿倍内麻呂臣から群臣に「今天皇既崩无嗣、若急不計、畏有乱乎、今以詎王為嗣」と、早急に嗣位を決定しなければ乱を招くと述べて、故大王が病床で田村王と山背大兄の二人に諭した内容を群臣に聞かせ「則是天皇遺言焉、今誰為天皇」と問うた。
これを聞いた群臣は答えに詰まり一言もなかった。阿倍内麻呂臣がさらに問うが返答はない。さらに強く問うと、ようやく大伴鯨連が進み出て、「既従天皇遺命耳、更不可待群言」と、遺命に従うのみであり、群臣の言葉を待つことはない、と進言した。阿倍臣はこの発言について「何謂也、開其意」と問い質した。これに鯨連は「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也、不可緩、因此而言皇位既定、誰人異言」と、「天下大任也、不可緩」という故大王の遺詔から、遺志が田村王にあったことは疑いなきことであると主張した。これに采女臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の四臣が同調するが、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手頬の三人は「山背大兄王、是宜為天皇」と主張し、意見は対立したまま散会となった。
この宴会での出来事を斑鳩宮で伝聞した山背大兄は、三国王、桜井臣和慈古の両名を密かに蝦夷大臣のもとへ遣わし、「伝聞之、叔父以田村皇子欲為天皇、我聞此言、立思矣居思矣未得其理、願分明欲知叔父之意」と、叔父にあたる蝦夷大臣へ、田村王が日嗣となる理由がわからないので叔父の意図するところを聞きたいと伝えてきた。
蝦夷大臣はこの山背大兄のこの言葉に軽々しく返答せず、阿倍臣、中臣連、紀臣、河辺臣、高向臣、采女臣、大伴連、許勢臣等の群臣を招集して、山背大兄の言について議論している。蝦夷大臣にしてみれば、山背大兄は実甥であり、彼が践祚すれば蝦夷大臣の権勢も当然大きくなることは間違いなかったが、同時に山背大兄と叔父・境部摩理勢臣の深い信頼関係も熟知しており、故推古天皇の遺詔として、日嗣を田村王と決定する。また、山背大兄は故推古天皇から「汝肝稚之、若雖心望、而勿諠言、必待群言以宣従」と言われている通り、いまだ年若く未熟であり皇嗣とすることは不可能であり、蝦夷大臣は群臣にともに斑鳩宮へ詣でて、山背大兄へ告げてほしいと伝えた。
「賤臣何之独輙定嗣位、唯挙天皇之遺詔以告于群臣、群臣並言、如遺言、田村皇子自当嗣位、更詎異言、是群卿言也、特非臣心、但雖有臣私意而惶之不得伝啓、乃面日親啓焉」
蝦夷大臣の言葉を受けた群臣は、斑鳩宮へ出向いて山背大兄に仕える三国王・桜井臣に蝦夷大臣の言葉を伝えると、山背大兄は群臣に「天皇遺詔奈之何」と問いかけた。群臣は「臣等不知其深」と前置きし、大臣から聞いた推古天皇の遺詔として、田村王には「非軽輙言来之国政、是以、爾田村皇子、慎以言之、不可緩」、山背大兄には「汝肝稚、而勿諠言、必宜従群臣言」というもので、これは故大王に近侍していた諸女王や釆女も悉く知っていることであると伝えている。
これを聞いた山背大兄は、「是遺詔也、専誰人聆焉」と問い返した。推古天皇の枕辺にいたのは、諸女王や釆女、蝦夷大臣らごく一部の血縁者のみであったろう。群臣は当然その場所に居合わせておらず「臣等、不知其密」と答えるほかなかった。山背大兄はさらに、「愛之叔父、労思、非一介之使遣重臣等而教覚、是大恩也、然、今群卿所噵天皇遺命者、少々違我之所聆」と、蝦夷大臣に対する感謝の意を伝えるとともに、叔父蝦夷大臣が聞いたという遺詔と、山背大兄自身が聞いた遺詔に少々違っている部分があると伝えた。それによれば、推古天皇の病が篤いという報告を得た山背大兄は、斑鳩宮から馳せ上り大王の臥せる宮廷大殿へと入った。すでに遺詔を受けていた田村王も列していたが、このとき推古天皇は山背大兄へ、
「朕、以寡薄久労大業、今暦運将終、以病不可諱、故、汝本為朕之心腹、愛寵之情不可為比、其国家大基、是非朕世、自本務之、汝雖肝稚、慎以言」
と遺詔したのだという。山背大兄は「自本務之」という言葉から、遺詔は日嗣について語っていたことを意味する、と主張したのだった。これまで黙っていたのはただ言わなかったに過ぎないとし、「吾曾将訊叔父之病、向京而居豊浦寺」にいたとき、大王は八口采女鮪女を遣わして、「汝叔父大臣常為汝愁言、百歲之後嗣位非当汝乎、故、慎以自愛矣」と伝えてきたとも主張した。大王が自分を日嗣とする意図ならびに叔父蝦夷の反対があった証拠として述べているのだろう。そして、「唯顕聆事耳、則天神地祇共証之、是以、冀正欲知天皇之遺勅」と、遺勅を知りたいと思っていること等を叔父の蝦夷大臣へ伝えるよう依頼した。しかし、蝦夷大臣は「先日言訖、更無異矣、然、臣敢之軽誰王也重誰王也」と、中立の立場でこの問題を扱っているので、先に定まったことを変更することはないと突っぱねている。
遺詔の内容が明確ではなく、蘇我蝦夷大臣、田村王、山背大兄の捉え方もまたそれぞれが主体で考えていることから自然とニュアンスに違いが生じた結果であると思われ、蝦夷大臣から山背大兄への伝言の中で、やや遺詔の内容が変化していることも気になる部分ではあるが、おそらく推古天皇が山背大兄はまだ未熟と指摘している点、叔父の蝦夷大臣も「常為汝愁言」と常に山背大兄に注意している点などから、山背大兄には何らかの問題があった可能性が高いだろう。
一方、推古天皇は田村王に「昇天位而」という遺詔を与えていることから、田村王を日嗣に定める意思があったと考えたほうが妥当であろう。そして、蝦夷大臣はその数日後に山背大兄が再度伝えてきた「先日之事、陳聞耳、寧違叔父哉」という苦情にも「其唯不誤遺勅者也、非臣私意」とこれを突っぱねている。蝦夷大臣はあくまで遺詔を忠実に実行するために行動していたと考えられるのである。
その後、蝦夷大臣は阿倍臣と中臣連を叔父・境部摩理勢臣に「誰王為天皇」と、三度目の質問を行っている。境部摩理勢臣は山背大兄を日嗣に推す勢力を率いる人物であるが、叔父であり目上の人物であった。同じ質問を三度にわたって聞いているのは、叔父への儀礼と、群臣のトップである大臣からの諮問という二つの意味を持っていたと思われるが、摩理勢臣の返答は当然の如く「先是大臣親問之日、僕啓既訖之、今何更亦伝以告耶」と、山背大兄を奉じる気持ちに変わりがないことを伝えている。
この返答を聞いた蝦夷大臣は「乃大忿而起行之」と激怒して立ち上がっていった。このとき「蘇我氏諸族悉集、為嶋大臣造墓而次于墓所」と、蘇我一族はこぞって故馬子大臣の墳墓(現在の石舞台古墳と伝わる)造営を行っており、当然ながら弟である摩理勢臣もここに造営のための廬を設置していたが、摩理勢臣はこれを破却して蘇我の地にあった「田家」へ退き、宮廷に出仕しなくなってしまった。馬子大臣の墳墓造営からの離脱は、蘇我一族と袂を分かったことを明確にすると共に、甥である蘇我蝦夷大臣への対抗を意味した。
これに怒った蝦夷大臣であったが、冷静に対応するべく、摩理勢臣のもとに身狭君勝牛、錦織首赤の両人を派遣して「吾知汝言之非、以干支之義不得害、唯他非汝是、我必忤他従汝、若他是汝非、我当乖汝従他、是以、汝遂有不従者、我与汝有瑕、則国亦乱、然乃後生言之吾二人破国也、是後葉之悪名焉、汝慎以勿起逆心」と、叔父を立てて敢えて批判することはしないが、摩理勢臣と自分の間の隙をついて国が乱れれば、我ら二人が国を滅ぼしたとして悪名が立つので、「汝慎以勿起逆心」と諭した。蝦夷大臣は摩理勢臣をこれまでも呼称を「汝」とするが、これは大臣としての公的立場からの発言であるためであろう。しかし摩理勢臣はこの蝦夷大臣の言葉も聞かず、ついに蘇我の地を去って斑鳩の泊瀬王(山背大兄の弟)の住まう宮へと移った。
これを知った蝦夷大臣はますます怒り、ついに群臣を山背大兄のもとへ遣わし、「頃者、摩理勢違臣、匿於泊瀬王宮、願得摩理勢、欲推其所由」と、泊瀬王宮からの引き渡しを求めた。山背大兄は蝦夷大臣に対して「摩理勢、素聖皇所好、而暫来耳、豈違叔父之情耶、願勿瑕」と、父の前皇嗣・厩戸皇子の鍾愛の人物であったため、斑鳩に来訪しているだけであるので、穏便に願いたいとの旨を伝えるとともに、蝦夷大臣との対立を嫌う山背大兄は摩理勢臣に対しても「願、自今以後、勿憚改意、従群而無退」と促し、群臣らも山背大兄の命に背くべからずと諭したため、自邸へと帰還することとなる。蘇我の田家であろうか。すでに恃むところもない摩理勢臣に対し、蝦夷大臣は追討の兵を遣わすこととなる。
ただし、これは公的な追討ではなく「摩理勢違臣」とある通り一族の長である蝦夷大臣への反逆に対する氏刑であろう。摩理勢臣は反抗することなく門前で追討軍を待ち、その場で処断された。
境部摩理勢臣の死により、蝦夷大臣に対抗する勢力は皆無となり、舒明天皇元(629)年正月4日、蝦夷大臣と群臣は「天皇之璽印」を田村王に献じた。ところが田村王は「宗廟重事矣、寡人不賢、何敢当乎」とこれを固辞する。そのため群臣らはさらに「大王、先朝鍾愛、幽顕属心、宜纂皇綜、光臨億兆」と、推古天皇の心に適っているので、皇綜を纂がんことを請うたことで、ようやく田村王が大王位に即いた。舒明天皇である。
舒明天皇の即位の際のいざこざは、即位に際して辞退を繰り返し、群臣らの再三の説得に応じて即位するという体裁を取る儀礼とみられるが、もともと田村王には積極的な即位の意思をみることはできず、皇嗣の有資格者が山背大兄王と田村王の両名しかおらず、さらに大兄王を推す勢力が絶えたことによる結果であろう。
舒明天皇2(630)年正月14日、寶王(異父妹)を立后したとされる。しかし、当時においては蘇我蝦夷大臣の権勢が甚だ大きかったことを考えると、蝦夷大臣の妹である法提郎女を差し置いて蘇我氏の血をまったく引かない寶女王が皇后となる理由は見当たらず、本来は法提郎女が舒明天皇の正妃となるべき人物であったことは間違いないだろう。ただし、舒明天皇の跡を寶女王が践ぐことになる事実から、すでに法提郎女は薨じており、寶女王がキサキとなったのあろう。しかし、日嗣(和歌彌多弗利:ワカンドホリ)としては法提郎女との間に生まれていた大兄・古人王が定められていたとみられる。寶女王との間には葛城王(中大兄)が生まれていたが、当時五歳とあまりに幼いことから、日嗣権者としては考慮されることはなかったと思われる。山背大兄は「大兄」の尊称を有し、蝦夷大臣の実甥であるとはいえ、すでに王統は用明系から押坂大兄系へ遷っており、遠き王親であることから皇位に即くことは考えにくい状況であったろう。
+―堅塩姫 +―推古天皇
| ∥ |
| ∥ |
| ∥――――+―用明天皇
| 欽明天皇 ∥
| ∥ ∥――――――――厩戸皇子
| ∥ ∥ ∥
| ∥――――――穴穂部間人皇女 ∥―――――――山背大兄王
| ∥ ∥
+―小姉君 +――――――――――刀自古郎女
| |
| |
蘇我稲目―――+―蘇我馬子―+―蘇我蝦夷―――――蘇我入鹿
(大臣) (大臣) |(大臣) (臣)
|
+―法提郎女
∥
∥
∥――――――――古人大兄皇子
∥
+――――――――舒明天皇
| ∥――――――――葛城皇子
| ∥ (中大兄皇子)
押坂彦人皇子―+―茅渟王――――寶女王
(皇極天皇)
∥
∥――――――――漢王
用明天皇―――――■■王――――高向王
田村王(舒明天皇)は即位後、小墾田宮から10月12日に「飛鳥岡」の傍らに宮を移した(岡本宮)。大王は百済国や唐との関係強化につとめ、河内国の難波大郡と三韓の館を改修し、外交施設として整えている。なお、舒明天皇3(631)年3月1日には百済の義慈王が王子・余豊章を質として送ったとするが、当時の百済王は義慈王の父・武王であることから、この記述は年代を誤った切貼りの誤謬であろう。
舒明天皇4(632)年8月には、唐へ派遣していた使者「三田耜」が帰国し、唐皇帝・太宗の返礼使として高表仁が難波津に入った。このとき、学問僧霊雲、僧旻、勝鳥養、新羅送使もともに入っている。『旧唐書』「東夷」の条によれば唐の貞観5(631)年、遣唐使が入朝し、太宗はその遼遠の道程を矜じて歳毎の朝貢は止む旨を表し、新州刺史高表仁を返礼として派遣したとある。このとき、難波津旅館の玄関口となっていた江口に大伴連馬養が船三十二艘で迎えにきており、その後、大和川を遡上し岡本宮へ至ったと思われる。その後、半年あまり滞在したのち、翌舒明天皇5(633)年正月26日、高表仁らは帰国の途につき、「(難波吉士か)吉士雄摩呂、黒摩呂」が送使として対馬まで同行している。飛鳥の地での高表仁の動向は記されていないが、『旧唐書』によれば「与王子争礼、不宣朝命而還」とあるように、高表仁は「王子」と礼を巡って争い、結局太宗の命を伝えることなく帰還したとされ、帰国後は「表仁無綏遠之才」とさんざんな評を受けている。この「王子」が誰なのかは想像するほかないが、宣命するに当たり、山背大兄、古人大兄あたりが異議を唱えたのだろう。
その後、巨大な彗星の出現や奇妙な出来事、日食、大雨や洪水といった天変地異が続き、ついには舒明天皇8(636)年6月、岡本宮に何らかの災いが起こったため、田中宮へと遷宮した。こうした情勢の中では、群臣らも心落ち着かず、さらに宮廷までも移す必要に天変地異により天皇自身の求心力が著しく低下してしまっていたのだろう。
このような中で7月1日、「大派王」が「豊浦大臣(蘇我蝦夷大臣)」へ「群卿及百寮、朝参已懈、自今以後、卯始朝之巳後退之、因以鍾為節」と指示をするが、蝦夷大臣は「不従」だった。「大派王」は『日本書紀』にみられる敏達天皇の皇子・大派皇子とみられるが、『古事記』においては「大俣王」とされ、当時においては王家の長老格であったろう。蝦夷大臣が「不従」とあることから、蝦夷大臣よりも格上の人物であったことがわかる。なお、寶女王の祖母・大俣王とは別人である。
その後も天変地異は続き、さらに蝦夷の叛乱という重大事も起こる中、天皇は体調を崩し、舒明天皇10(638)年には津国の「有間温湯宮」へ湯治に向かい、翌11(639)年正月8日、田中宮へ帰還するものの体調は優れなかった。その後も天変地異は続いており、7月、「今年、造作大宮及大寺」の詔を発布。百済川の傍らに大宮を造営することとし、川の西側の民は造宮(百済宮)を、東側の民は作寺した(12月には九重塔が建った)。
12月14日、天皇は再び湯治のため伊予温湯宮へと行幸。翌12(640)年4月16日、伊予国から帰還して厩坂宮に入るも病状は改善せず、5月5日には大設齋するも、死期について考えるようになり、恵隠僧に無量寿教を説かせている。そして10月、新たに造営した百済大宮へ遷り、翌13(641)年10月9日、一年あまりを過ごした百済大において崩じた。宝算四十九。10月18日、百済宮の北に殯宮が営まれて殯した(百済大殯)。このとき「東宮開別皇子」が誄しているが、このとき十六歳であったという。ただし、この時点で日嗣であったのは、蘇我蝦夷大臣の甥に当たる古人大兄であったのは間違いないだろう。そもそも「東宮」の称号、「開別」という尊称が当時には存在せず、『日本書紀』成立時に、藤原氏史観に基づいて記された一文である。
皇極天皇元(640)年12月21日、故天皇の棺は滑谷崗の仮陵へ埋葬され(『日本書紀』皇極天皇元年十二月廿一日条)、皇極天皇2(643)年9月6日、故天皇を「滑谷崗」陵から「押坂陵」へ遷葬する。押坂は舒明天皇の父・押坂彦人王が母方の息長氏のもと初期居宮を造営した地と思われ、舒明陵に押坂が選ばれたのはそのためであろう。舒明天皇の諡である「息長足日広額天皇」からも息長氏との由緒を強く想像させる。
舒明天皇陵 |
この本陵は押坂の地主神・生根神を祀る宮山の南に突き出た舌状台地から切り出して造営されたもので、初の「八角陵(上八角下方墳)」であり、八角は「周易」の思想に基づくものであろう。「周易」は「儒」の経の一つであるが、儒教は舒明天皇4(632)年8月に唐使・高表仁とともに帰国した僧「旻(推古朝に遣隋使の一員として渡隋していた)」や、舒明天皇12(640)年10月11日に「新羅朝貢之使」とともに帰国した「大唐学問僧清安、学生高向漢人玄理」らによって詳細が伝えられたと考えられる。彼らはいずれも推古天皇16(608)年9月11日に遣隋使の一行に加えられた人々であり、数十年にわたって唐朝に仕え、その先進の文化を身につけていた。とくに僧「旻(日文)」は周易や祥瑞の思想に詳しく、蘇我入鹿臣や中臣鎌子連ほか「群公子」がその学堂で「読周易」であったという(『藤氏家伝』)。
また、中大兄や中臣鎌子連は「自学周孔之教於南淵先生所」と、「大唐学問僧清安」こと南淵請安の塾に通っていた伝もある(『日本書紀』)。これらから、舒明朝に於いてすでに儒教思想が政治に取り入れられ、若い世代の教育として導入されていたことが窺える。舒明天皇陵の上八角下方墳は方墳と儒教の影響を強く受けた八角墳の融合墳であると考えられる。